2015年3月20日 (金)

神に聞く Ⅱペテロ1:20-21 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.3.22

 神さまはどのように私たちに語られるのでしょうか?私たちはどのように神さまの声を聞くことができるのでしょうか?神さまの声を聞く方法は、聖書を読むことから始まります。つまり、聖書を読むことは、神さまの声に耳を傾けていることなのです。では、聖書に書かれていない、個人的なことや日常的なことは語って下さらないのでしょうか?もちろん、聖霊が私たちの心に語ってくださいます。でも、物事には基本というものがあります。まず、私たちは神のことばである聖書を読んで、神さまの声に耳を傾けることを体得すべきです。その後、だんだんと神さまの声を聞きわけることができるようになります。

1.聖書はだれが書いたのですか?

Ⅱペテロ120-21「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」テキスト『養育を受ける』の質問通りに進めて行きたいと思います。

第一の質問、「預言は人間の考えや意志でもたらさられたものでしょうか?」このところには「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」と書いてあります。ギリシャ語の「動かされて」は、「船が風に動かされて」という意味の航海用語であり、適確な場所へ送り込まれるという意味があります。聖霊は風にたとえられますので、そのように人をご自分の目的へと進ませるのです。

第二、「では、預言はどのようにもたらされたのでしょう?」人間が勝手に考え出したものではありません。聖霊が預言者、つまり聖書の記者に語るべき神のことばを与えたのです。

第三、「預言はどうして、文書(聖書)として書き留めらなければならなかったのでしょう?」語られたことばはすぐに消えてなくなります。また、口で言い伝えた場合、だんだんと変質していきます。そのため、文書として書き留めて、後代まで正しく残るようにしたのです。

 第四、「聖書として書き留められるとき、聖霊は人間のどのようなものを用いられたでしょうか?」神さまは人格を無視して、ロボットのように書かせたのではありません。また、「おふでさき」(自動書記)のように、神がかり的に勝手に筆が動いたわけではありません。神の霊がその人の語彙、人格(個性)、その人が集めた資料さえも用いて、神のみこころを表現したのです。聖書は1600年間もかけて、預言者、祭司、王様、学者、羊飼い、農夫、漁師、医者などが書きました。聖霊が、その人たちを用いて、神のことばを書かせました。だから、聖書の本当の著者は神さま(聖霊)ということができます。1冊の本ができあがるのに1600年もかかったということです。しかも、時代の違う人たちが打ち合わせをせずに各書物を書きました。普通でしたら、まとまりのないものになるでしょう。聖書は多様性がありますが、救いという共通のテーマで書かれています。聖書は特別で固有な書物であり、他にこのような書物はありません。

 歴史上、有名な人が聖書に関してこのように述べています。「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである(ルター)」。「いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中にはより確かな真理が存在する(ニュートン)」。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます(ゲーテ)」。「聖書の存在は、人類がかつて経験したうちで最も大きい恵みである(カント)。」「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている (リンカーン)」。「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は、聖書です(ガンジー)」。「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人にピストルを渡すようなものです(ルーズベルト)」。18世紀には啓蒙主義が興り、人々は「聖書は誤りだらけだ」と言い出しました。フランスの詩人、ボード・レールは、「あと100年もすれば、聖書など紙屑かごに捨てられる」と言いました。しかし、皮肉なことに彼が死んだ後、彼の家が聖書の印刷工場になったということです。ナポレオンは「聖書は単なる書物ではなく、それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」と言いましたが、そのとおりです。聖書は永遠のベストセラーと言われています。どうぞ、私たちは聖書のみことばに親しみ、聖書のみことばの権威を重んじ、聖書のみことばから信仰を得、聖書のみことばに従う者となりたいと思います。

2.聖書の目的は何ですか?

 
 ヨハネ2031「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」Ⅱテモテ315-17「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

 第一の質問、「聖書の第一の目的は何でしょう?」ヨハネは「イエスが神の子キリストであることを、私たちが信じるため。私たちが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と言っています。ある人たちは聖書を文学書として読んでいます。他に聖書は、歴史、哲学、法律、科学を学ぶために読むことも可能です。聖書はいろんな専門分野にも耐えることができるでしょう。しかし、聖書は人間が救われるための必要かつ十分な情報を与えて下さる、いわば救いの専門書です。聖書を通して、イエス・キリストが私のために、どのようなことをして下さったのかわかります。そして、聖霊が私たちに救われるための、知恵を下さいます。


 第二、「聖書はなぜ特別な書物なのでしょうか?」パウロは「
聖書はすべて、神の霊感によるものだ」と
言っています。霊感と聞くと、ぱっとひらめきが与えられるインスピレーションを連想するかもしれません。「神の霊感」とは、「神の息吹き」という意味です。つまり、聖霊が神さまのご意志を誤りなく著せるように聖書全体に働いたということです。聖書はヨハネ黙示録で閉じられました。ですから、聖書記者たちに働いた霊感はもうないと私たちは考えています。現在は、聖霊は聖書がどういう意味なのか分かるように、私たちに働いておられます。

第三、「聖書は救われた人にどのような有益な効果をもたらすのでしょうか?」パウロは「教えと戒めと矯正と義の訓練とのため。神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためである」と書いています。私たちは道に迷ったり、道を踏み外す時があるでしょう。そのとき、聖書が正しい道を教え、立ち返らせてくださいます。さらに、聖書は救われた人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者とするために、教えと戒めと矯正を与えてくれます。

第四、「神の人として整えられたかったなら、どういう覚悟が必要でしょうか?」それは、聖書を権威ある神のことばとして認め、心から従うということです。19世紀、自由主義神学の人たちは、「聖書は人間が書いた書物であり、誤りがたくさんある」と言い出しました。人間の理性によって「ここは正しい、ここは正しくない」と読むようになったのです。聖書は聖霊によって書かれた神のことばです。私たちは聖書の権威を認め、聖書のことばに心がから従うべきであります。そのようにした時に、はじめてみことばによって、私たちが整えられるのです。

3.魂の食物である聖書

マタイ44「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」Ⅰペテロ22「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

第一の質問、「私たちは肉の糧だけではなく、何が必要なのでしょうか?」神の口から出る一つ一つのことばが必要です。私たちは魂の糧が必要だということです。私たちは1日ごはんを食べないと「腹へって死にそうだ」と言うでしょう。しかし、魂の糧を1か月も食べていないのに、空腹を感じないとはどういうことでしょうか?それは、霊的に餓死している状態です。

第二、「神の口から出る一つ一つのことば」は、どのようにするとき与えられるのでしょうか?聖書を読んで、黙想し、実行する必要があります。それは、ごはん(パン)良く噛んで、消化させ、自分のからだの一部とすることと同じことです。クリスチャンで聖書的な知識に富んではいますが、全く実行しない人がいます。そうすると頭ばかり大きくなり、体がヒョロヒョロになり、火星人のようになるでしょう。昔、イギリスの作家がタコみたいな火星人を書きました。頭ばかり発達して、手足が退化しているようなクリスチャンは良くありません。

第三、「生まれたばかりのクリスチャンは、何が必要なのでしょう?」ペテロは「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」と言いました。救わればばかりの人というのは、霊的な赤ん坊と同じです。ですから、「救いの確信」を与えるような神のことばが必要です。成長していくと義の教えのような堅い食物が必要になってきます。

 救われたばかりの人は、混ぜ物のない、霊の乳を飲まなければなりません。ある人たちは、聖書は難しいので、とりあえず名のある神学者が書いた解説書を読もうとします。しかし、本によっては、聖書の霊感を否定し、奇跡を合理的に解釈して、味もそっけもないものにしているものがあります。聖書は神の霊で書かれたものですから、人間の理性を越えています。ですから、聖書の権威をそこねさせるような解説書は読むべきではありません。私たちは、お魚を食べるときどのように食べるでしょうか?頭から骨ごと食べる人がいるでしょうか。骨をお皿の脇にどけながら、まず柔らかい部分を最初に食べます。同じように聖書も難解なところは脇に寄せて、分かるところを読んで行けば良いのです。難解なところは、信仰生活を続けているうちに分かって来るようになります。

私は25歳のとき、座間キリスト教会で洗礼を受けました。その時はまだ日本ホーリネス教団に属していました。私は毎週語られる大川牧師の熱い説教に捕えられました。そして、テープを購入し、ノートに書き取りました。職場の先輩がGood Newsという分かりやすい英語の聖書をプレゼントしてくれたので、英語で読みました。その時は「罪」「信仰」と書いてある日本語の聖書がピンとこなかったからです。その後、副牧師が「ナビゲーターの小冊子を一緒に勉強しましょう」と時間を取ってくれました。ナビゲーターは自分で聖書を調べ、空欄にみことばを書き込むようになっていました。半年後、東京聖書学院で聖書を学ぶことができて感謝でした。その学校は聖書に対してとても保守的で良かったと思っています。基礎科で卒業して、教会で奉仕をしました。しばらくは、勉強会で教えるため、あるいは説教のために聖書を読んでいました。自分の魂の糧のために、聖書を読むようになったのは、ディボーションをしてからです。それから聖書を読むのが楽しくなりました。なんと洗礼を受けてから19年も経っていました。聖書はスルメイカのように、噛めば噛むほど味が出て来ます。神さまは聖書のみことばを通して語られ、信仰を与え、そして奇跡を起こしてくださいます。聖書のみことばは神さまの約束です。私たちは神さまの約束であり、聖書のみことばを握って、神さまに求めるべきであります。

4.みことばを求める

詩篇1199-12「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。」

第一の質問、「若い人が自分の道をきよく保つ方法とは何でしょう?」詩篇の記者は「神さまのことばに従ってそれを守ることです」と言っています。世の中にはコンプライアンスというのがあります。常識的に悪いのは知っていても、個人情報の売買や横領が後を絶ちません。特に若い人は、いろんな誘惑があります。神のみことばが「それはしてはいけない」と命じていれば素直に従うのです。そうすれば守られます。ダニエルと3人の若者はバビロンに連れていかれました。1から10まで偶像に関することでした。でも、彼らはみことばのとおりに生活したので、守られ、祝福されました。

第二、詩篇の記者は、罪を犯さないために、どのようにしているでしょうか?神さまのことばを心にたくわえると言っています。心にたくわえるとは、暗唱するということです。暗唱していると、何かあった場合、ぱっと出て来ます。

第三、詩篇の記者は、どのような態度で、みことばを求めているでしょうか?「私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています」と言っています。これは、みことばに対する真摯な態度です。神さまが何とおっしゃっているか、それは聖書に何と書いてあるかということと同じです。聖書には神さまのみこころが記されているからです。でも、聖書を占いの書物のように「神さまどうしたら良いでしょうか?示してください」と目をつぶって、適当な箇所を開けてはいけません。最初あけたページに「そして、外へ出て行って、首をつった」(マタイ275)と書いてありました。次にあけたら「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ1037)と書いてありました。そのように実行したら大変なことになります。聖書は毎日、通読して読むべきです。当教会では聖務表にディボーションの箇所があります。でも、ヨブ記をずっと読むと恵まれないかもしれません。どこを読んでも自由ですが、ちゃんと「しおり」をはさんで、順番に読むべきです。そうすると、その日にあったみことばは与えられるものです。

第四「あなたは、聖書をどのように具体的に読むべきだと思いますか?」という質問があります。これは自分で決めなければなりません。そして、習慣化すべきです。聖書を読んでいない日があれば、「何かおかしい。大切なことを忘れた」と思わなければなりません。ジョージ・ミューラーは信仰の人として有名です。彼はこのように証しています。「私が一番気を使うべきことは、私が神さまのために何をするか、何をすべきかということにあるのではなく、どういうふうにして私の魂が幸福の状態に至り、どういうふうにしたら私の内なる人が強く育てられ、成長するかということにあります。そうしなければ、すべての努力と務めは中身のない、空っぽのものに過ぎません。ですから朝起きると聖書を読み、そして黙想し始めます。毎日、聖句からどういう祝福があるかを捜します。いろいろな働きのためでもなく、メッセージを準備するためでもない、ただ私の魂の糧を捜し、その祝福を求めます。その結果はいつも同じです。何分も過ぎないうちに私の魂は告白と感謝、とりなしと願いをささげるようになり、そしてそれは深い深い祈りに導かれます。」彼は生涯において5万回もの祈りがきかれたそうです。なぜ、そんなに多くの祈りが答えられたのでしょうか?それは、みことばをよく読んで、みことばの約束に土台して求めたからです。

聖書には「恐れるな!」という言葉が365回もあります。とうことは、毎日、神さまは「恐れるな、私が共にいるから」と語っておられるということです。もし、聖書を閉じているなら恐れに支配されてしまいます。しかし、聖書をひとたび開くなら、「恐れるな!」と語ってくださいます。テレビや新聞のニュースは、親切にも、私たちにいろんな恐れや心配を与えてくれます。もし、朝からそういうのを聞いて一日をスタートしたなら、気が重いです。また、寝る前にサスペンスのドラマを見たり、ニュース・スティーションを見たならどうなるでしょう?私たちの潜在意識に「この世は不条理だらけで、希望がない」というメッセージが送り込まれるでしょう。心の中にグッドニュースを入れるべきなのに、愚かにも、この世の悪いニュースを入れています。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。アーメン。

また、聖書には約3万個の約束が満ちていると言われています。もし、聖書を閉じて読まないなら、神様があなたに与えようとしておられる約束を無駄にしていることになります。また、聖書は聖書のみことばは、問題を打ち砕くハンマーのようです(エレミヤ2329)。みことばは、時には剣の役目をし、あなたを縛っているロープを断ち切って下さいます。また、みことばは、時には大盾の役目をし、疑いの火矢を払いのけてくれます。また、聖書のみことばは人生の節目、岐路に立つとき確かな導きを与えてくださいます。私は今から28年前、1987年に当亀有教会から招聘を受けました。私の家内は来たくなかったのです。なぜなら、神学校で「日本基督教団は聖書をちゃんと信じていないし、信仰もない」と聞かされてきたからです。親しくしていた兄弟姉妹が私のために祈ってくれました。そのとき、上から聖霊がはとのように下ってくるのが見えました。同時に、イザヤ書の61章のみことばが浮かんできました。イザヤ611「神である主の霊が、わたしの上にある。はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」とあります。これは、イエス様が公生涯の始まりの時、会堂で引用したみことばです。「いや、そんな馬鹿な、畏れ多い。そんなはずはない」と退けました。しかし、このみことばが心から離れませんでした。最後に、このみことばで決断しました。イザヤ611は福音宣教と癒しと解放について記されています。今、振り返ると亀有教会に来てやっていることは、「福音宣教と癒しと解放だなー」と思いました。イザヤ612「恵みの年を告げ知らせる」はヨベルのラッパを吹くということです。私はトランペットを挫折しましたが、福音のラッパを吹くように導かれていると確信します。この教会に来て、弟子訓練やセルチャーチなど、いろいろやってきましたが、どれもイマイチでした。でも、福音のラッパを吹いて、恵みの年を告げ知らせることは継続しています。このように聖書のことばは生きていて、救いを与え、確かな人生を導いてくださいます。どうぞ、みことばに聞きましょう。みことばに耳を傾けましょう。

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2012年11月11日 (日)

主の忍耐は救いである   Ⅱペテロ3:14-18

きょうはⅡペテロの最後です。そして、きょうの箇所は、この手紙の結論とも言えるかもしれません。世の終わりに住む人たちの心構えと言っても良いでしょう。それにしても、難しくて、厳しい内容でした。やっと終わりなんですね。Ⅱペテロは終わりでも、世の終わりはこれからやってきます。ですから、学びが終っても、私たちは世の終わりが来ることを忘れてはいけません。世の終わりと重なるかもしれませんが、日本にはまもなく、大地震が起こると言われています。どうか、その時が、教会のリバイバルとなり、大勢の人たちが救われる時となることを願います。きょうは3つのポイントでメッセージさせていただきます。第一は「励む」第二は「気をつける」第三は「成長する」です。

1.励む

 世の終わりに住む私たちは、どのような心構えで生きるべきなのでしょうか?Ⅱペテロ314「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」「そういうわけで」とありますので、結論的な事柄であることが分かります。私たちは、世の終わりがどのように来るのか学びました。「世の終わり」はキリストを信じない人たちにとっては、人類の破局であります。一方、キリストを信じる人たちには、「新しい天と新しい地」に住まうことができるという希望です。私たちはいつか、神様の前に立つ日がやってきます。だから、ペテロは「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」と勧めています。「御前」とはもちろん神様の前ですが、正確にはちょっと違います。私たちと神様の間に、贖い主であるイエス・キリストがおられると信じます。Ⅰヨハネ21「もし、だれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がおられます。義なるイエス・キリストです」とあります。全く罪のない人はこの世に存在しません。私たちクリスチャンは、義であるイエス様がおられます。言い換えると、罪や汚れがイエス様の義によって覆い隠されているような状態です。宇宙飛行士が宇宙で着ている宇宙服のようなものです。すっぽり義の衣で覆われています。以前のキリスト教の教えは「あなたは今晩、死んでも、神様の前に立つことができますか?」というものでした。教会に来る度ごとに、ぶるぶる震えなければなりません。さばきが怖いので、聖い生活をするというものでした。私はそうではないと思います。私たちのことを弁護してくださるイエス様が世の終わりまでおられます。だから、単独で神様の前に立つということはないと信じます。

 ヨハネは「全き愛は恐れを締め出します」と言いました。恐れで聖い生活をするというのも1つの道です。もちろん、私たちは神様を恐れなければなりません。でも、もう一方は、私たちはキリストにあって完全に愛されているゆえに聖い生活をするのです。つまり、イエス様の恵みに対する応答であります。この世の人たちは、罰則が嫌なので法律を守ります。もし、罰則が伴わないなら、平気で法律を破るでしょう。この世は、罰則によって人を従わせる方法を取ります。それは、人間とは悪であるという前提に立っているからです。しかし、クリスチャンはどうでしょうか?イエス様を信じて義とされた存在です。神様から既に義と認められているので、それにふさわしい生き方をしようとするのです。だから、根底にある動機が違います。Ⅱペテロ314の前半を見ると、そのことが分かります。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから」とあります。手紙を受け取っている人たちは、愛する人たちです。しかも、その人たちは、世の終わりにイエス様が来ることを待ち望んでいます。再び来られるイエス様を、怖がっていません。むしろ、待ち望んでいます。だから、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励む」のです。我が家では、家内が外で働いています。私は家の隣である教会にいます。もし、雨が降ったら、洗濯物や布団を入れなければなりません。洗濯物は家内が干したのだから、家内に責任があります。でも、急に雨が降ったらそんなことは言っていられません。私は家内に怒られないように、洗濯物を入れるのでしょうか?そうじゃないですね。家内をがっかりさせたくないためです。あるときは、流しのお皿やお茶碗を洗ったりします。子どもたちは洗いません。私が進んで洗います。気持ち良いですね。でも、家内が出がけに、「雨降ったら洗濯物入れてね。それから、お茶碗も洗っておいてね。ついでにご飯も炊いておいてね。どうせ暇なんでしょうから」と言ったらどうでしょうか?むかっと来て、「なんで俺が!」と思うでしょう。しかし、何にも言わないから、進んでやったとき、気持ちが良いんですね。「イエス様がまもなくこの地上に来られる」としたらどうでしょう?あるいは、地上の命が尽きて「イエス様の前に立つ」となったらどうでしょう?やっぱり、イエス様をがっかりさせたくないですね。しみと傷で汚れたままでは、申し訳が立ちません。完全にとは言えなくても、ある程度、聖い生活をしていたいと願います。

 でも、何があるか分かりません。ポンペイのように、かっこ悪いことをしているとき、世の終わりが来るかもしれません。昔、ある教会で、ある先生がこういうメッセージをしたそうです。「今晩、イエス様が来られたら、この会衆の中の何人が天に引き上げられるだろうか?おそらく、半分もいないだろう」と言ったそうです。シーンとなって、お互いの顔を見合ったそうです。そして、みんな頭の中で「だれとだれは大丈夫だけど、あの人は無理だろう」と考えたそうです。それは福音ではありません。律法です。人を恐れさせて従わせるものです。そうではありません。「私たちには、御父の前で弁護する方がおられます。義なるイエス・キリストです」。これが福音です。世の終わり、イエス様が再び来られるのは、良い知らせなのです。なぜなら、すべてのことを報いてくださるからです。だから、私たちは恵みの中で、期待して主を待つべきであります。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここに、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」とあります。イエス様を信じる者に、例外はありません。もれなく、みんな救われるということです。「全き愛は恐れを締め出します」アーメン。

2.気をつける

 このことも何度もいわれてきました。なぜなら、世の終わりには、にせ教師がたくさん現れるからです。Ⅱペテロ315-17「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」ペテロは、同じ使徒である、パウロのことを語っています。「パウロの手紙の中には理解しにくいところもあります」と言っています。なんだか安心します。やっぱり、パウロの手紙は難解で、何回読んでも分からないのが普通なのです。でも、ペテロが言いたいのは、世の終わりについてです。当時のにせ教師たちは、「それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いている」ということです。キリスト教教理の中で、最も、意見の合わないテーマは終末論です。これを話すと教会が割れてしまいます。シュバイツアーは、医者で音楽家で、だれもが認める偉人です。しかし、彼が唱えた終末論は全くの見当違いであると言われています。キリスト教会史で、「世の終わりが来た」と急進的な異端が何度も起こりました。もう、世の中から孤立して、村まで作った人もいます。「主は○○年来る」と言って、異端になったグループもたくさんあります。そのため、「こと終末論に関しては触れない方が良いだろう」ということになりました。「羹に懲りて、なますを吹く」ということになったのです。

 でも、私たちは聖書が教えている全部のことを学ばなければなりません。だから、世の終わり、再臨についても語らなければならないのです。なぜなら、世の終わりが迫っているからです。でも、聖書を解釈するときに、忘れてはならない原則というものがあります。ペテロがいた頃、どのような人たちがいたのでしょう?「無知な、心の定まらない人たちは…それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いている」と書いてあります。「無知な」とは、「よく学んでいない」という意味です。「曲解」とは、「捻じ曲げる」という意味です。JB.フィリップスはunbalancedと訳しています。「バランスに欠いている、極端である」という意味です。Ⅱテサロニケ3章に書いてある人たちは、どうだったでしょう?まもなく、世の終わりが来ると思って、仕事もろくにせず、人のおせっかいばかりして、締りのない歩み方をしていました。昭和5年頃、ホーリネス教団にリバイバルが起こりました。大勢の人が救われ、台湾や中国にも宣教師を派遣しました。しかし、「イエス様はまもなくやってくる」と極端の方に走りました。ある人たちは白い衣を着て、屋根に上り旗を振って待っていました。学校も行かず、仕事もしないで、教会に集まってイエス様を待っていました。しかし、イエス様は来られませんでした。そのため、教団が分裂してしまいました。しかし、ペテロの時代の人たちは全く逆です。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか?父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」(Ⅱペテロ34と言いました。つまり、「世の終わりなど来ない、このまま世界は続いて行く」と言ったのです。どちらかと言うと、この世の人たちはこのように考えているかもしれません。これまでのように東から太陽が昇り、西に沈んだように歴史が永遠に流れて行くと信じています。『日はまた昇る』という文学書のとおりです。しかし、聖書は「月も太陽もなくなる日が来る」と言っています。ある人たちは月や太陽、星々を拝んでいますが、それがなくなる日が来るのです。まさしく、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。ですから、私たちは2つの焦点で時代を見なければなりません。遠近両用めがねというのがあります。1つは遠くを見る目であります。もしかしたら、世の終わりは私が生きている間、来ないかもしれない。あと、100年後かもしれない。だから、伝道をしながら、社会にも貢献するということです。極端な人たちは、「この世はどうせ終るので、クリスチャンは政治とか経済に深く関わるべきではない」と言いました。そうではありません。この国を変えるために、クリスチャンの政治家、クリスチャンのビジネスマン、クリスチャンの芸術家が必要です。私たちはあらゆる分野に、神の栄光が現れるように仕えるべきです。もう1つは近くを見る目です。本当にイエス様が間もなくやってくるかもしれない。いつでも、イエス様の前に立てるように聖い生活をするということです。そのためには、部屋や持ち物を整理し、身軽にしておく必要があります。あまりにも、この世にのめり込むなら、ロトの妻のように取り残されてしまうでしょう。つまり、信仰生活において、バランスが必要だということです。だからペテロは、「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」と命じているのです。

3.成長する

 Ⅱペテロ318「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」これは、ペテロの祝祷、最後の祈りであります。礼拝の終わりでも、祝祷をしますが、このような祈りで終っても全く構わないと思います。祝祷は、キリスト教会の習慣だったのではないかと思います。手紙でも教えでも、最後は一番、言いたかったことをもう一度言うはずです。ペテロが言いたかったことは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」ということです。驚くべきことに、イエス・キリストは救い主だけではないことが分かります。「私たちの主である」ということです。主というのは、王様とか支配者、神様という意味です。旧約聖書では、世界を創造された、イスラエルの神が「主」と呼ばれていました。しかし、イエス様が復活してから、イエス様が主になりました。新約聖書では、イエス様が主であります。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」父なる神様が、御子イエスに「主」という名をお与えになったのです。私たちがひざをかがめて「イエス・キリストは主である」と告白するとは、イエス様を礼拝するということです。しかし、それで終わりではありません。なんと、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白することによって、父なる神がほめたたえられるのです。頭ではよく分かりませんが、手前には主イエス・キリスト様がおり、その向こうには父なる神様がおられるということでしょうか。第一ポイントで話しましたが、神様の間に、弁護者で、義なるイエス・キリスト様がおられるということです。私たちがイエス様を礼拝するとき、父なる神様が栄光をお受けになるということです。ハレルヤ!ここにキリスト教会のキリスト教会たる、ゆえんがあると言っても過言ではありません。

 そして、ペテロは「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めています。伝統的な教会は、恵みは強調しますが、知識はあまり強調してきませんでした。「あんまり勉強しても、頭でっかちになるだけだから」と言われてきました。私は恵みと知識が別ものなのではなく、セットなのだと思います。恵みだけでも良くありません。また、知識だけでも良くありません。恵みと知識において成長するということです。では、恵みとセットになった知識とはどういうものなのでしょうか?詩篇136篇を見ますと、そのことが良くわかります。詩篇1361-9「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。」前半は、神様がどんなお方であり、どんなことをなされたのかが記されています。そして、後半は、その恵みがとこしえまであることを賛美しています。私たちは神様がどんな方であり、どんなことをなされたのか、聖書から知る必要があります。でも、どうやって分かるのでしょうか?それは、聖書から学んで、神様に関する知識を得なければなりません。神様に関する知識を得たならば、「ああ、神様は恵み深い」と感謝することができます。仏教のことを例にして申し訳ありませんが、仏教には2つの極端があります。1つは密教です。曼荼羅というものに絵が書いてあります。細かな教えはなく、神秘的な体験が主体であります。教えよりも、神秘的な体験であります。だから、その人たちは滝に打たれたり、何ヶ月もどこかにこもって断食するのです。もう1つは仏教哲学です。インド古来の文字を調べ、その教えを体系的に組み立てます。一生懸命、勉強しなければ悟りが開かれないという道です。日本の神学校にも2つの極端があります。1つは、聖書は良く読みますが、神学的な学びは害になるのでしません。修養生と言われる人たちは、良く祈り、良く伝道し、良く捧げます。もう1つは聖書を解体し、理性によって再び組み立てます。そこでは、聖書のイエスと歴史上のイエスは異なります。ほとんど祈らないで、教義だけを学びます。神学者であり、哲学者です。私たちは恵みと知識の両方が必要です。

 イエス様はどのように弟子たちに教えたでしょうか?イエス様は学校のようなクラスルームに集めて勉強させませんでした。どちらかと言うと少人数で、一緒に生活しながら教えました。道を歩き、いろんな出来事に遭遇したときに、教えました。1つ教え、1つ実践させました。実践して失敗したら、何故、失敗したのか考えさせました。イエス様は権威を力を与え、やがては派遣しました。弟子たちにとって、イエス様ご自身が恵みであり、イエス様ご自身が知識だったのです。私たちの時代は聖書しかありません。強いて言えば、キリスト様が立てた使徒、預言者、伝道者、牧師、教師がいます。さらに、目には見えませんが聖霊様によってイエス様がこちらにいらっしゃっています。このお方は世の終わりまで、私たちと共におられるお方です。たとえ、世の終わりが来ても、私たちをちゃんと御国まで連れて行ってくれます。ペテロは、世の終わりが来るまで、「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と言っています。もし、世の終わりが来たなら、私たちは一瞬にして栄光の姿に変えられるでしょう。こつこつ勉強しても、無駄なような気がします。そうではありません。神さまは一緒に成長する、プロセス(過程)を喜んでおられます。一瞬にして変える道よりも、子どもの成長のように少しずつ成長する方を願っておられます。成長することは喜びです。私たちは身体的にはもう大人かもしれません。しかし、霊的にあるいは、心や知性の分野で成長する余地がまだまだあります。世の終わりが来週の日曜日やって来たとしても、キリストの恵みと知識において月曜日から土曜日まで、成長していきたいと思います。

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2012年11月 4日 (日)

新しい天と新しい地    Ⅱペテロ3:10-13

きょうの箇所は、ペテロの手紙のクライマックスです。また、救済史、救いの歴史から見ても、最後の段階です。なぜなら「新しい天と新しい地」について書いてあるからです。私たちはこの世が終わりだということは、この地上が終わりなんだと思いがちです。しかし、聖書は「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう」と書いています。つまり、地球だけではなく、宇宙的な規模の終わりだということです。地上もだめ、宇宙もだめ、それだったら逃れる場所はありません。ある人にとっては全くの絶望、しかし、私たちにとっては最大の希望であります。

1.終わりの日

 終わりの日は神学的には「終末論」と呼ばれています。聖書には「主の日」とか「キリストの来臨」という名称で出てきます。万物の終わりのとき、キリストが再び現れるということです。第一のポイントでは、図式にして「終わりの日」について学びたいと思います。終わりの日というのは、正確には、いつ頃なのでしょうか?旧約聖書のダニエル書は、終わりの日について、正確に記しています。ダニエル924「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」あるときから70週たつと、永遠の御国がやってくるということです。ここで言われている1週は7年ですから、70週は490年です。490年後に、エルサレムが完全に回復され、やがては永遠の御国がやってくるという意味です。では、その70週はいつから始まったのでしょうか?ペルシャのアルタシャスタ王がネヘミヤに「エルサレムを再建せよ」と命令しました。その再建の命令が発布された年が、紀元前445年でした。いろんな説がありますが、紀元前445年ということにします。それから70週目にメシヤがエルサレムに入場します。ゼカリヤ書99-10「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」イエス様がエルサレムに入城したとき、人々は「ダビデの子にホサナ」と歓迎しました。人々はメシヤが来たら、ローマが倒され、イスラエル王国が回復すると思っていました。ところが、そういうことが起こりませんでした。ユダヤ人はイエス様を拒絶し、十字架につけて殺してしまいました。69週目に、救いの歴史が中断されてしてしまいました。

 それでどうなったのでしょうか?神様は、ユダヤ人が躓くことをあらかじめご存知でした。それで、異邦人である私たちを救おうとされたのです。マタイ21章と22章にいくつかのたとえ話があります。ぶどう園のたとえ、王子の婚宴のたとえなどは、御国が選民から取り上げられ、異

邦人に渡されるという教えです。使徒パウロはそのことをローマ911章に書いています。ローマ1111「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」とあります。神さまの深い計画により、異邦人の時が楔形に

及んだのです。つまり、69週目の終わり、あるいは70週目の初めで時間が止まったのです。そして、そこに異邦人とき、つまり教会の時代がやってきたのです。パウロが言っているように「今は恵みの日、今は救いの日」なのです。でも、それはいつまでも続きません。異邦人の数が満ちたならば、70週目が再スタートします。ローマ1125-26「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」つまり、異邦人の時が終ったなら、イスラエルが救われる時がやってくるということです。でも、それは70週目であり、患難の時でもあります。マタイ24章には世の終わりに来る患難がどのようなものか預言され

ています。マタイ2421「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」患難の時、「144千人のイスラエルが立ち上がる」と黙示録で預言されています。彼らがイスラエルの人たちに伝道するのです。で

も、大きな迫害も伴います。人々は命がけで信仰を得なければなりません。患難の終わり頃、イエス・キリストが地上に戻って来られます。これを来臨、あるいは「主の日」と呼んでいます。旧約聖書のいろんな箇所に「主の日」ということばが出てきます。それは神に敵対する者たちが滅ぼさ

れる恐ろしい日です。ヨエル210-11「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星

もその光を失う。主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」患難は前半の3年半は比較的穏やかです。しかし、後半の3年は大患難と呼ばれています。なぜなら、反キリストや獣が猛威を振るうからです。天から災いが降り注ぎますが人々は悔い改めようとしません。獣と地上の王たちは結束し、主とその軍勢に挑もうとします。いわゆる、ハルマゲドンの戦いであります。白い馬に乗った方が、神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれて勝利します。聖書にはクリスチャンが天に引き上げられる「携挙」が記されています。でもそれは、患難の前なのか、患難の後なのか、いろんな説があります。私としては、患難の前に願いたいのですが、ここでは、触れないことにします。

 主が来られ悪魔と悪者どもを一掃した後、審判と永遠がやってきます。マタイ2546「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」ここには2種類の人たちがいます。一方は神にさばかれて永遠の刑罰、つまり地獄に下る人たちです。そこで、永遠に苦しまなければなりません。また、一方は神の救いにあずかった正しい人たち、義人です。彼らは永遠の御国に住まうのです。でも、この図を見ると、永遠は単純ではありません。まず、主が再臨したとき、死んだ人の肉体が復活し天に引き上げられます。その後、千年期が訪れます。1000年の間、この地上が回復されるときを神様が与えてくださいます。イザヤ書やエゼキエル書にあるように、地上のあらゆる動植物が回復します。また、イスラエル民族の回復も同時にあるようです。実は、その後、神の審判があります。「白い御座のさばき」とも呼ばれていますが、未信者が復活して神様の前に立ちます。人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれます。果たして、自分の正しさで神さまの前に立てる人がいるでしょうか?黙示録2015「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」と書いてあります。私たちの場合はどうなるのでしょうか?イエス様を信じている人たちは、神のさばきの前に立つ必要はありません。なぜなら、キリストが私たちの代わりに十字架でさばかれたからです。

キリストにある者は、新天新地に移り住むことが許されています。黙示録211-2「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」アーメン。新天新地こそが完成形です。私たちが見ている月や太陽がありません。この地球も全く新しいものです。別な天体があるのかもしれません。あるいは別の次元で住むのかもしれません。黙示録には「都には、太陽も月もなく、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかり」であると書いてあります。永遠は空想の世界ではありません。仏教が言う極楽でもありません。極楽ではありましょうが、リアルなものです。もともとの仏教には極楽という考えがありません。中国において景教というキリスト教の亜流が栄えた時代があります。空海などの僧侶が、その影響を受け、地獄とか極楽を考えるようになったと思われます。私たちは世の終わりの出来事と御国の完成を厳粛な気持ちで受け止めなければなりません。聖書の最後にヨハネの黙示録があります。イエス様は「見よ。私はすぐに来る。私はそれぞれの仕業に応じて報いるために、私の報いを携えて来る」とおっしゃっています。報いには2種類あります。1つは永遠の命と永遠の御国です。もう1つは永遠のさばきと永遠の地獄です。願わくは、いや、ぜがひでも、私たちは地獄を避け、永遠の命と永遠の御国を選び取るべきであります。

2.終わりの日の心構え

ノアの時代は洪水によって全地が滅ぼされました。しかし、終わりの時代は、火によって滅ぼされます。しかし、それは地上だけではありません。天の万象まで及ぶんだということです。テレビ番組で、「地球に彗星が落ちる日がやってくる」と見たことがあります。あるいは、「太陽が大きく膨れ上がり、地球が焼き尽くされる」というのもやっていました。しかし、私たちはそれを見ても、「何万年後だろうから、生きているうちには来ないよ」と冷ややかに見ています。同じように、聖書に記されている世の終わりの出来事を見ても、「ずっと先のことだろう」とまともに考えようとしません。それよりも心配なのは大地震かもしれません。関東直下型、南海トラフ、大津波、富士山の噴火…この日本はどうなるのでしょうか?最近、危険な場所の地価が下がったようです。ある人たちは、もっと安全な場所へと引越しをしているようです。でも、世の終わりは地球規模、宇宙規模ですから、本当に逃れる場所はありません。かなり前に、ノアの箱舟のように、大きな宇宙船を作って、選ばれた人たちが乗るという物語がありました。天から火山弾が降り注ぎ、山という山が噴火しました。やがて、巨大な津波が襲ってくるという物語でした。いわゆる天変地異であります。黙示録8章には、「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた」あるいは「たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちてきた」と書いてあります。また、「太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれた」と書いてあります。そのため多くの人たちが死にます。もう、安全な場所などありません。「人々は死を願うが、死が彼から逃げて行くのである」とも書いてあります。

一体、私たちはどうすれば良いのでしょうか?Ⅱペテロ311「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」まず、第一は、「聖い生き方をする敬虔な人であれ」ということです。聖い生き方とは、罪からは離れ、正しい生活をしているということです。また、「敬虔な人」とは、神を恐れ敬う生活をしている人です。これは心構えです。ですから、「どれくらい聖い生活をして、どれくらい敬虔な人であるべきか」ということが言われていません。私は講壇から「お酒を飲むな」と言ったことがありません。ただし、我れを忘れるほどお酒を飲むというのは問題です。この間、ニュースで「川に落ちている車」を見ました。車はまだ浮いている状態でした。救助隊がドアを開けて、こっちに来るように促しても座ったままです。運転手は何をしたかと言うと、川の水で顔をなんべんも洗っていました。そのままでは車が沈んでしまうので、救助隊が無理やり運転手をひっぱり出しました。彼は、丘に上がっても、朦朧としています。酩酊状態で、車を運転し、ガードレールを突き破って、川に落ちたということです。そういう状態の人は、世の終わり、イエス様が来ても危ないですね。英国の聖書はこの箇所を「あなたが何に傾倒し、何に身を捧げているか、考えるべきである」と訳しています。その人は、お酒に傾倒し、お酒に身を捧げていました。お酒がすべてだったのです。私たちの周りには、神様よりも傾倒し、神様よりも身を捧げているものがあるでしょうか?昔、アウグスチヌスという人がいました。彼はマニ教に入り、自堕落な生活をしていました。今でいう同棲生活をし、私生児をもうけていました。あるとき、家の近くで子どもたちが鞠つきをしていました。「とりて読め、とりて読め」と歌っているように聞こえました。大急ぎで、聖書を取って開きました。その箇所が、ローマ131114でした。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスチヌスが回心した年は、386年です。既に、1626年もたっています。今や救いが私たちにもっと、もっと近づいています。

私たちはこの世のものに心を奪われているなら、それは霊的に眠った状態です。クリスチャンであっても、罪に陥り、霊的に眠った状態に陥っている人がいるかもしれません。その人はどうなるのでしょうか?新しい天と新しい地に入れないのでしょうか?ペテロの手紙は、世の終わりが来て、その後、新しい天と新しい地が来ると書いてあります。しかし、パウロの書簡や黙示録を見ると、世の終わりにはある程度の期間があるようです。神さまは69週目で、時間を止めました。本来なら70週目が来るはずでしたが、その間に異邦人の時、つまり教会の時を挿入されました。今、私たちが住んでいる時代は、異邦人が救われる時代です。神様はユダヤ人以外が救われるように、恵みの年を与えました。でも、異邦人のが終ると、最後の70週目がスタートします。1週は7年間です。この7年間の出来事がヨハネ黙示録に書いてある、患難の時代です。世の終わりというのは、実は7年間の出来事であります。前半の3年半はまあまあで、後半の3年半は大患難が起こります。ペテロが言う、天変地異が起こる厳しい時です。その時、クリスチャンはどうなるのかというのが問題です。私は、霊的に覚めているクリスチャンは天に引き上げられると信じます。しかし、クリスチャンであっても、罪に陥り、霊的に眠った人は取り残されると思います。おそらく大患難を通って、やっと救われるのではないかと思います。『レフト・ビハインド』という本があります。直訳すると、「取り残された」という意味です。私は読んでいませんが、黙示録に書いてあるような非常な苦しみを通る物語でしょう。救われて、クリスチャンになったけれども、世の終わりの出来事を信じない人がいます。救いを「困ったときの神だのみ」か「保険」みたいに思っている人もいます。そういう人は、火のような試練を通過しなければなりません。迫害も非常に大きくなり、命と引き換えにしてでも、信仰を得なければならないでしょう。あまりにも苦しいので、信仰を棄てる人もたくさん出てくるでしょう。できれば、そういうところを通過しないで、神様の救いを喜ぶような生活が良いのではないでしょうか?

ペテロは12節で「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」と言っています。その日が来るのをどうして早める必要があるのでしょうか?だって、世の終わりが来るわけですから、遅い方が良いに決まっているでしょう。しかし、それはそういう意味ではありません。マタイ24章にこれと似たみことばがあります。マタイ2414「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」このところから、世の終わりと、福音宣教が関係していることが分かります。福音が全世界に宣べ伝えられたら、終わりの日が来ます。また、神様は「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」お方です。神様は世の終わりの時をすこしでも遅らせて、一人でも多くの人が救われるように願っておられます。だから、終わりの時代に住んでいる私たちの使命は、この福音を宣べ伝えることであります。神様の関心が人々の救いであるなら、私たちも同じような心を持つべきであります。さきほど、英国の聖書から「あなたが何に傾倒し、何に身を捧げているか、考えるべきである」と申し上げました。それは、私たちが罪から離れ、聖い生活をするということだけではありません。私たちが魂の救いのために傾倒し、魂の救いのために身を捧げることが、世の終わりの時代に住む人の生き方ではないでしょうか?かなり前に、ナチスドイツのユダヤ人を救った『シンドラのリスト』という映画を見ました。彼は自分の全財産を売り払って、ユダヤ人を工場に雇って、虐殺から免れさせました。彼は1100人のユダヤ人をホロコーストから救いました。しかし、映画の終わり、彼は何と言ったでしょう。「もっと助ける努力をしていれば、良かった。」自分の自動車をさして、「この車ならあと2人は救えたのに」と泣き崩れました。私たちは世の終わりがきて、自分たちが救い出されるでしょう。そのとき、できれば、後悔したくないです。「ああ、あの人に福音を伝えていなかった。あの人にも福音を伝えていなかった。私が福音を伝えていたら、もっと多くの人が救われていたかもしれない」。そういう、後悔をしないように、終わりの時代、私たちが何に傾倒し、何に身を捧げているか考えなければなりません。父なる神さまが今、ひとりでも多くの人が救われるように、終わりの時間を引き延ばしています。でも、そのタイムリミットが近づいています。私たちは本当に終わりの時代に生きていることを忘れたくないと思います。世の終わりにおける、神さまのみこころは何でしょうか?Ⅱペテロ3:9「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

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2012年10月28日 (日)

主の日の到来     Ⅱペテロ3:8-10

ある人たちは「聖書の神は、さばきの神さまで恐い」という人がいますが、そうでしょうか?もし、クリスチャンであるなら、「神さまは愛ですよ」と答えるでしょう。でも、ペテロ第二の手紙を学んで分かったことですが、両面あるように思えます。つまり、恐い神さまと愛なる神さまの両面があるということです。神さまに顔が二つあるわけではありません。しかし、恐さと愛というものが全く別なものではなく、神さまのご人格には、二つのものが共存しているように思います。つまり、神さまは恐いけれど、愛なるお方なのではないでしょうか?

1.主のみこころ

当時、「主が来るのがどうして遅いのか?」「来臨の約束はどうしたのか?」という人たちがいました。それに対して、ペテロはどう答えているでしょうか?Ⅱペテロ38「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」ペテロは「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と言っています。神さまは永遠なるお方であって、私たちと時間の概念が違うということでしょう。この計算で行くと、西暦2012年だったら、まだ2日しかたっていません。西暦3000年でも、たった3日です。詩篇904「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」神さまの御目から見たら、人間の寿命がいかにはかないでしょう。神さまにとって「千年は一日のようです」というのは分かりますが「一日は千年のようである」とはどう意味でしょうか?この分脈から考えると、神さまが、私たちが立ち返るのを待っているお気持ちではないでしょうか。たとえば、ほうとう息子のお父さんは、どのような気持ちで、毎日、息子が帰るのを待っていたでしょう?「一日千秋(いちじつせんしゅう)の思い」ということわざがあります。これは、ある物事や、人が早く来てほしいと願う情が非常に強いこと、一日が千年にも長く思われる意からきているということです。神さまは永遠の神さまですが、滅びに向かっている人間が、立ち返るのを一日千秋の思いで待っておられるのでしょう。神さまは私たちの人生が非常にはかないことをご存知です。だから、「きょう帰ってくるだろうか?」「明日帰ってくるだろうか?」と待っておられるのです。しかし、当の人間は自分が永遠に生きるつもりでのんびりしています。まさしく、神さまにとっては、一日は千年のようであるのではないでしょうか?

Ⅱペテロ39「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」榎本保郎先生の『新約聖書一日一章』にこのように書いてありました。「イエスが、神が御子を遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである(ヨハネ317)と言っておられるのも同じことである。神はいつでも来られるが、いま来たら、そのキリストを信じなくて裁かれて行く人間が多いから、一人も滅びないように忍耐しておられるのだ。あなたがたの救いのために遅くされているのであって、なにも約束が反故になってしまったのではない。」アーメンです。ノアの箱舟のときは、たった8人しか救われませんでした。しかし、神さまはご自分の御国に、大勢の人たちが入るように願っておられます。2000年たっても、世の終わりが来ないということは、かなりのキャパがあるということでしょう。神さまはひとりでも滅びることを望まず、忍耐して待っておられるということです。たとえば、私が海外旅行のツアーコンダクターだとします。「○○時○○分に搭乗口から乗るように」とみなさんに伝えてあります。しかし、まだ来ないお客さんがいます。もう、ジェット機のエンジンがかかっています。時間なのに来ません。私は、係りの人に、「すみません。もう23分待ってください」とお願いするでしょう。でも、定刻になったら、ジェット機は飛び立ちます。ツアーコンダクターの気持ちはいかばかりでしょうか?「まだ来ないのか、まだ来ないのか」と、いらいら待っているでしょう。もう、時間です。ツアーコンダクターは、ジェット機に乗るしかありません。お客さんの席が空いたままです。ジェット機が離陸のために走り出しました。Its too late.ま、旅行だったら、残念だったで済まされるかもしれません。しかし、永遠の御国に入り損ねたなら、どうなるでしょう。永遠に後悔しなければなりません。だから、神さまは、深く忍耐して、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

このところに、はっきりと神さまのみこころが示されています。神様は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。宗教改革者のジョン・カルバンは神の選びということを強調しました。これは、「救われる人は、はじめから予定されている。神の選びは絶対である」という考えです。これくらいだと反対はしません。しかし、「救われない人、つまり遺棄される人もはじめから選ばれている」とまで言います。そのような『二重予定説』を唱えるなら賛成できません。神さまのみこころは、「ひとりでも滅びないで、すべての人が救われるように」ということではないでしょうか?すべての人が、救われるチャンスがあるということです。重要なことは、悔い改めに進むということです。これは、「心を換える、方向転換する」という意味です。言い換えると信じるということです。では、何を信じるのでしょうか?イエス・キリストが十字架で全人類の罪のために死なれました。三日目によみがえり、信じる者が義とされる道を設けてくださいました。神さまはキリストを信じる者を、義と認め、ご自分の国に入れてくださいます。これが福音です。これまでは、「神なんかいない。キリストも信じない」と思っていました。しかし、間違っていましたと、方向転換し、キリストを信じることです。ある教団は、自分がこれまで犯した罪を全部、悔い改めなければならないと言います。しかし、それは無理です。自分でも、思い出せないものがたくさんあります。また、交通事故で死にそうなときには、そんな時間はありません。「救い主、キリストを信じる」この一点だけです。救いの手続きをそんなに難しくしてはいけません。人は、ただ信じるだけで救われるのです。

ところで、ここに集まっているほとんどの方は、すでに救われている人たちです。私たちは、世の終わりがいつ来ようとも、御国に入っているわけですから大丈夫です。問題は、この福音を信じないために救いからもれている人たちのことです。神さまのみこころははっきりしています。ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。私たちクリスチャンは、神の子どもであり、イエス様の弟子です。私たちは「みこころがなりますように、御国が来ますように」と祈っています。でも、それだけで良いのでしょうか?神さまのみこころと同じ、こころを持つ必要があります。神さまはひとりでも滅びることなく、救われるように願っておられます。当然、私たちも神さまの熱い思いをいただくべきであります。そして、福音を伝え、御国の証をすべきではないでしょうか?そして、一人でも多くの人たちが、救われるようにお手伝いする必要があります。教会の使命とは何でしょうか?それは、神さまの願いを実行することではないでしょうか?となると、世の終わりにおいて最も重要な課題は、伝道ということになります。私は「伝道」ということばがあまり好きではありません。「宣教」の方が良いかもしれません。この際、呼び方は問題ではありません。イエス・キリストが私たちのために何をなされたのか?どうやったら罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのか?私たちの隣人に伝える必要があります。もう、私は講壇から同じことを何辺も語っています。私が救いの話や、たとえ話をすると、「もう、何辺も聞いたよ。耳たこだよ」と思うでしょう。それだったら、耳たこの内容を、話せるはずです。たとえ話も覚えているはずです。どうぞ、自分の体験も交えて、福音を伝えてください。それが、世の終わりの時代に生かされている私たちの使命です。子育てや家事、仕事も忙しいかもしれません。しかし、伝道と証しは私たちの生活の真中で、できることであります。私が直接、福音を語ることのできる人は限られています。しかし、ここに集まっている70人の人たちが、3人に伝えたら、210人になります。葛飾区と足立区では、約100万人の人たちが住んでいます。松戸市は約48万人です。亀有教会が1000名の会衆になったとしても、全然、全く、追いつきません。世の終わりは迫っています。どうか、父なる神さまの愛と情熱に押し出されて、ひとりでも多くの人が救われるように、福音を宣べ伝えましょう。

2.主の日の到来

Ⅱペテロ310「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」主の日が、盗人のようにやって来るとはどういう意味でしょう?実は盗人は、「いつ何時にあなたのところに入りますよ」とは教えてくれません。もし、分かっていれば、警察を呼ぶか、棒を持って待っているでしょう。しかし、盗人はいつ来るか分かりません。同じように、主の日、世の終わりもいつ来るか分からないのです。では、どうしたら良いのでしょうか?その対策が、Ⅰテサロニケ5章に書いてあります。Ⅰテサロニケ52-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」この世の中には大きく分けて二種類います。暗やみの者で、暗やみの中に住んでいる人たちです。言い換えると、神さまから離れ、罪の中にいる人たちです。もう一種類は、光の子どもであり、昼の子どもです。言い換えると、神さまの救いをいただき、光の中を歩んでいる人たちです。しかし、問題が1つあります。一時、光の子どもになったのに、暗やみの中に住んでいる人たちです。そういうケースはありえるでしょうか?ありえると思います。ロトとその家族は、ソドムとゴモラに住んでいました。まさしく、そこは暗やみの世界です。しかし、アブラハムのとりなしによって、御使いが遣わされました。「滅びがやってくるから逃げよ」と言っても、すぐには信じませんでした。御使いが手をひっぱって、やっと町から脱出することができました。教会から離れ、霊的に麻痺しているということはありえます。永遠のいのちは持っているけど、この世の罪の中にどっぷり浸かっている。そういう人には、主の日が盗人のようにやってきます。パウロが言っています。Ⅰテサロニケ58-9「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」アーメン。

もう1つ、後半のメッセージでお伝えしたいことがあります。それは10節後半のことばです。「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」日本語の聖書は「天の万象は焼けてくずれ去り」となっています。でも、天の万象とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では「天体の基本的な要素」となっています。英語の聖書には、elementsとなっています。天体を構成している、成分とか要素という意味になります。つまり、神さまは新しい天を造る前に、古いものを消滅させるということです。だから、その日には、天は大きな響きをたてて消えうせるのです。もう1つ地はどうでしょうか?「地のいろいろなわざは焼き尽くされる」とあります。いろいろなわざとは、いろいろな働きです。日本語では「焼き尽くされる」となっていますが、原文は「あらわにされる、発見される」という意味のことばです。つまり、火によって焼かれることにより、その働きがどういうものであったのか、あらわにされるということです。ある働きは焼き尽くされ、またある働きはちゃんと残るということです。私はこのことを考えたとき、Ⅰコリント3章のみことばを思い出しました。Ⅰコリント3:12-15「もし、だれかがこの土台(キリスト)の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

このみことばは、コリントの教会にあてられたものです。コリント教会には、「私はアポロにつく」、別の人は「私はパウロにつく」と、ねやみや争いがありました。いろんな賜物をもって、いろんな働きしていましたが、動機が不純でした。パウロが教会の土台を据えました。土台とはイエス・キリストです。その上に、教会の人たちが神の家を建てなければなりません。しかし、ここにいろんな材料が記されています。これらの材料を2つに分けることができると思います。一方は火で焼かれてなくなるもの、もう一方は火で焼かれたとしても残るものです。金、銀、宝石は、おそらく残るでしょう。私はこれら3つのものにほとんど差がないと思っていました。チョー・ヨンギ師が「365日のマナ」という本を書いていますが、このように解説していました。ここで言う、黄金とは、王権と父なる神を象徴しています。神を愛して黄金の家を建て、審判の日によくやったと称賛されるように。銀とは何でしょう?旧約聖書を見ると人々は罪の赦しを受けるときに銀を捧げて罪の赦しを受けたと書かれています。ですから「銀」は救いを意味していました。行いではなく、キリストを信じる信仰によって建てるなら、神のさばきの火を免れることができます。宝石とは何でしょう?宝石とは聖霊の9つの実と9つの賜物が宝石なのです。9つの実と9つの賜物の輝かしい宝石で整えられて、その人は神の審判の日に、大きな祝福と称賛を受けることになるのです。後半は、木、草、わらです。1つ1つ説明しませんが、これらは火でやかれると燃えてなくなります。おそらく、たやすいもので信仰生活を建てたのでしょう。

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」アーメン。木、草、わらで家を建てるとは、二流品の材料で家を建てるということです。自分の生活、自分のお金、自分の時間、自分の願いが第一です。そして、そのあまったものを神さまにささげ、家を建てるということです。クリスチャン生活も、あまりものをささげることがあるかもしれません。また、表向きには信仰的に熱心であっても、裏ではそうでないという場合もあります。牧師やリーダー役員は本当に注意をしなければなりません。その働きが、神のさばきの火によって焼き尽くされるかもしれません。この世にはたくさんのボランティア活動、NPO団体があります。そういうところに時間や労力を捧げている兄弟姉妹がおられると思います。とても、良いことだと思います。しかし気をつけなければならないことがあります。この世の価値観は、ヒューマニズム、人本主義の考えです。簡単に言うと「人間を救うのは人間である」という考えです。彼らの中には世界を支えておられる神さまがいません。だから、自分たち、人間がやらなければならないと思っています。人種差別、貧困問題、エネルギー問題、失業問題、不登校やひきこもり…本当にやるべきことがたくさんあります。もちろん、教会もNPOを取ってやっているところもあります。私もそういうことをしながら、伝道すべきだと思います。アーメンです。でも、この世界を造り、保持しておられるのは神さまです。私たちはその中にほんの1部を手伝うことしかできません。もしも、一生懸命やったのに、さばきの火によって焼き尽くされたら悲しいですね。Ⅱペテロ310「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」私たちは、このみことばから、神を恐れるというか、畏敬の念をいだかずにはおられません。聖歌に『ゆうべ雲やくる』という賛美があります。これは、再臨信仰で有名な森山諭先生が作られた歌です。あるとき、空いっぱいの真っ赤な夕焼けを見たとき、「ああ、主がやって来るのではないか」と思ったそうです。「夕べ雲焼くる空を見れば、主の来たりたもう日のしのばる。ああ神の前にわれいそしまん。わざやむる時の間近きいま」。「神の前にいそしまん」とは、神の前で、神と共に生活するということです。そして「わざやむる時の間近きいま」とあります。森山諭先生にとって、わざとは、伝道のみわざでした。『夕べ雲焼くる』という先生の自叙伝があります。朝、5時から田んぼの仕事をし、日中は伝道活動をします。やがて、用いられてくると、先生は北に南にと、伝道し、ほとんど家にいませんでした。家は農家で、奥さんが田んぼを作っていました。お米を農協に出して得たお金も全部、伝道につぎ込んだそうです。家族は、田んぼと畑で生きて行くことは可能だったようです。今の牧師や伝道者はとても真似することはできません。でも、「世の終わりが間近い、だから一人でも多くの人に伝道しなければ」と思ってやったのです。考えてみれば、世の終わりは、伝道のチャンスです。ひところはそうでもなかったかもしれませんが、今、「世の終わりが来ますよ」と言っても、否定する人は少ないでしょう。大地震とか異常気象、資源の枯渇…「ああ、世の終わりが来たのかな?」と思っています。しかし、私たちは世の終わりに絶えられる救いを持っています。永遠のいのちと、永遠の御国を持っています。罪と死に打ち勝たれた、イエス・キリストを信じるなら救われるのです。世の終わりも近づいていますが、神の国も同時に近づいています。一刻も早く、世の終わりのさばきから逃れて、神の国に入る必要があります。そんなに複雑に説明する必要はありません。世の終わりのさばきから逃れたかったなら、救い主、イエス・キリストを信じれば良いのです。キリストこそ救い、キリストこそ永遠のいのちです。この方を信じていれば、いつ世の終わりが来ても、大丈夫です。

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2012年10月14日 (日)

この世の終わり    Ⅱペテロ3:1-7

昔、The end of the worldという歌がありました。失恋の歌でした。失恋が、世の終わりという気持ちも分からない訳ではありません。しかし、「世の終わり」は歌だけではなく、いろんな宗教、いろんな預言者が語っているテーマです。かなり前にはノストラダムスの大予言がありました。最近はマヤ暦人類滅亡説というのがあり、今年がその年に当るようです。聖書も世の終わりについて、述べていますが、それは単なる終わりではありません。主イエス・キリストが再び来られ、神の国が完成する時であります。つまり、一方では「この世の終わり」でありますが、他方では「御国の完成」であります。

1.世の終わりの言及 

Ⅱペテロ31-4「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」ここに、ペテロが何のためにこの手紙を書いたのか、その目的が示されています。ペテロは、彼らの「記憶を呼びさまさせて、純真な心を奮い立たせるため」に手紙を書きました。彼らは何かを忘れていたのです。3節には「終わりの日」と書いてあります。また、4節には「キリストの来臨」とも書いてあります。来臨と言ったり、再臨と言ったりします。ということは「世の終わり、キリストが再びやって来られる」ということを思い起こさせるために、この手紙を書いたのです。彼らは日常の生活に追われて、キリストの来臨についてすっかり忘れていました。これは、ペテロが生きていた時代だけではありません。今日の教会でも言えることです。日本のキリスト教会において、聖書が言うかたちで世の終わりが来ると信じている人たちはどれくらいいるでしょうか?おそらく半分くらいでしょう。他の半分くらいは象徴的に捉えているかもしれません。世の終わりとか、キリストの来臨について話すのは、タブーになっている教会もあります。昭和5年くらいに大勢の人が救われるというリバイバルが起こりました。そのとき、熱心な人たちが「世の終わりが来た、まもなくキリストは再臨される」と言いました。ある人たちは白い衣を着て、屋根に上って旗を振って待っていたということです。しかし、主は再臨されませんでした。そのため教団が分裂し、再臨についてあまり語らなくなりました。「あつものに懲りて、なますを吹く」ということわざのとおりです。

しかし、世の終わり、主が来臨されるということは、聖書全体に書かれている大事なテーマです。ペテロはまず、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことば」と述べています。これは、旧約聖書の預言者たちのことです。多くの預言者は、世の終わりについて預言しています。特に有名なのは、イザヤ書です。あとは、ダニエルやエゼキエル書にも書いてあります。これらの書物には、世の終わりだけではなく、完成した御国がどのようなものであるかまで記されています。また、旧約聖書の最後に集められている小預言書には、「主の日が来る」というさばきの預言に満ちています。主の日は恐ろしいのです。なぜなら、悪が完全にさばかれるからです。旧約聖書の一番最後にあるマラキ書4章にこうあります。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は仰せられる──」。これを読んだら、一日も早く、神様と和解しなければならないと思うでしょう。では、新約聖書ではどうなのでしょうか?ある神学者は「新約聖書の10分の1は再臨について書かれている」と言いました。ペテロは「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるため」と言っています。使徒たちとはだれでしょうか?イエス様と直接会った人たち、もしくは使徒たちの証言をまとめた人たちであります。たとえば、マタイ、マルコ、ルカはそれぞれの福音書にイエス様がおっしゃった教えを書き留めています。たとえば、マタイ25章には再臨の主をどのように待つべきか、いくつかのたとえ話があります。花婿を待つ10人のおとめのたとえ、タラントのたとえがあります。それから、羊飼いが羊と山羊をわけるたとえがあります。片方の人たちは御国を受け継ぐけれども、もう片方はそうではないということです。こう言う箇所を見てわかりますが、世の終わり、主が再臨されたとき、白黒はっきりさせられるということです。

ペテロは「記憶を呼びさまさせ」「心を奮い立たせ」「思い起こさせる」と言っています。「記憶を呼びさまさせ」は英語で、stir upになっています。これは、「かき回す」とか「奮起させる」という意味のことばです。なぜ、こんなことをしなければならないのでしょうか?なぜなら、「世の終わり」とか「主が再び来る」というのは、いつの日なのか分からないからです。「来る」、「来る」と言って、もう2000年もたっています。だから、「そんなのは嘘なんだ。脅かしなんだ」という人も当然、現れるでしょう。ペテロの時代ですら、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」とあざける人たちが起こっていました。今日、そういう人がいても不思議ではありません。弟子たちはイエス様に「いつ終わりの日が来るのですか?」と質問しました。イエス様は世の終わりの前兆についてはいくつか話されましたが、いついつですとは言われませんでした。なぜでしょう?もし、○○年○○月に、主が再臨されると分かったならどうでしょう。それまでは来ないということになります。そうすれば、「まだ来ないのなら」と自堕落な生活をするでしょう。ある人は悪知恵を働かせて、その日まで、借金をいっぱいしておくかもしれません。借金を踏み倒して、天国に行くという人も出てくるでしょう。だから、イエス様はいついつですとは言われませんでした。多くの人たちは、「自分が生きているうちには来ないだろう」と高をくくっています。そして、今、現在の生活に埋没してしまうのです。地にべったりと足をつけ、「生きているうちが花だ」みたいな自堕落な生活をするでしょう。つまり、再臨の信仰のない人たちは、どうしても生ぬるくなるということです。だから、時々、このようなメッセージをして、かき回す必要があるのです。ところで、日本は大地震が起こるという予報に満ちています。少し前は、南関東直下地震でした。その後は東海地震、その後は南海トラフ巨大地震まで発展しました。また、日本中に活断層が走っているということで、安全な場所がありません。世の終わりも心配ですが、日本は大地震でなくなるかもしれません。そういう意味で、私たちは恐れと共に、正しい緊張感を持つ必要があります。世の終わりもそうですが、大地震も、最後のリバイバルとなります。私たちクリスチャンは、この世の人たちと同じように恐れてはいけません。もちろん、地震や災害に備える必要があります。そうなったら、日本経済はパンクするかもしれません。その時、人々の心が動揺し、確かなものを求めるでしょう。そういう時こそ、私たち一人ひとりが、聖書の神さまを証しするチャンスとなるのです。自分が生き延びるということも重要ですが、一人でも多くの人が永遠の御国に入ることができるように助ける必要があります。イエス様はルカ福音書でこのように嘆いています。ルカ188「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」これは、世の終わり、人々の信仰が覚めているだろうか?あるいは無くなっているかもしれない、ということです。私たちは世の中がどのようになろうとも、人々がどう言おうとも、聖書のみことばに信仰を置くべきです。なぜなら、聖書のみことばは、たとい世の終わりが来ても、永遠に残るからです。

2.世の終わりのありさま

ペテロの時代、世の終わりなんか来ないという人は、どのようにあざけっていたのでしょうか?Ⅱペテロ3:4-7 次のように言うでしょう。「『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」ここには、世の終わりがどのようなものか、一部、言及されています。あざける人たちは「父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と言っています。父祖たちとは、イスラエルの先祖たちのことです。旧約聖書にはノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、12部族、それから王様がたくさん出ました。ペテロの時代でも、ノアの時代から3000年くらいたっていたでしょう。それでは、創造の初めはどのくらい前なのでしょうか?中世の学者は人類の誕生が、紀元前6500年と言いましたが、定かではありません。進化論者は人類の歴史が20万年前と言いますが、そんなに古くはないと思います。では、地球ができたのはどのくらい前なのでしょうか?これも分かりません。ペテロは、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成った」と言っています。創世記1:9-10 「神は仰せられた。『天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。』そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。」創世記によりますと、地は神のことばによって、水と分けられてできました。その後、どれくらいたったか分かりませんが、ノアの時代、大洪水にみまわれました。だから「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました」と書いてあるのです。当時の世界とは、洪水前に生きていた人たちです。何千万人にいたか分かりません。また、かなり進んだ文明を持っていたでしょう。だけど、ノアの家族8人以外は、みな滅びました。この地上も、洪水前とでは、随分と変わった環境になったでしょう。しかし、大事なことがここに書かれています。それは、最初は地が洪水によっておおわれて滅ぼされたということです。創世記9章に神さまがノアと全被造物に結ばれた契約が記されています。そこでは神さまは「大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束しました。つまり、大洪水では滅びないということです。

しかし、世の終わりはそうではないと、ここに書かれています。Ⅱペテロ3:7 「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」これはどういう意味でしょう?ノアの時代、この地上は、水によって滅ぼされました。確かに神さまは、「水によっては滅ぼさない」と約束はしました。しかし、「今度は」、というか世の終わりはそうではありません。水ではなく、火によって滅ぼすと預言されています。水も恐いですが、火はもっと恐いですね。この火はさばきのためであり、同時に、この世を再生するためでもあります。さきほど、ご紹介した旧約聖書の預言書には「主の日が来る」と預言されています。そして、その時、火によってさばかれるとも書いてあります。イザヤ書6615-16「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。」これは、まさしく主が再び来られるときの預言です。イエス様が地上にいた頃のユダヤ人は、こういうメシヤを望んでいました。メシヤが来て、ローマ帝国を滅ぼし、イスラエル王国を再建させてくださると信じていました。だから、バプテスマのヨハネは「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。しかし、火のバプテスマが来ませんでした。そのため、牢獄に捕らえられていたヨハネは「来るべきお方はあなただったのですか?」と弟子たちを通して聞いたのです。メシヤであるはずのイエス様が、十字架で死んでしまいました。だから、弟子たちは失望し、みんなどこかに逃げ去ったのです。神さまの計画は、人間の考えと違っていたのです。神さまはこの地上を火で滅ぼす前に、なんとかご自分と和解してもらいたかったのです。そのため、御子イエスを和解の君として、地上に遣わしたのです。イエス様が来られてから、約2000年経ちます。どうして、世の終わりのさばきが来ないのでしょうか?その答えは、Ⅱペテロ39に書いてあります。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」ここに神さまのみこころがはっきりと示されています。神さまはさばきの神さまではありません。神さまは忍耐の神さまであり、『ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

ということは、予定されている神の国に入る人数にまだ達していないということです。神の国は私たちが考えている以上に、広いところかもしれません。この地上では人口問題、食糧問題、環境問題に頭を抱えています。人口が増えたら良いことはないと人々は考えています。だから、中国では一人っ子政策が続けられています。そのために、インドの人口が中国を抜くかもしれません。資源の枯渇、狭い国土にあふれる人口、魚も獲れない、旱魃のため穀物が取れない、「わぁどうしよう?」これが、人類が抱えている問題です。人類に未来はありません。しかし、神の国には、そういう問題が全くありません。神さまはちゃんと住むべきところを用意しておられます。イエス様が何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ1412-13「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」イエス様は地上では大工でした。一般的に、大工の仕事は家を建てることです。おそらく、イエス様は神の国の住まいを建てるために、今も働いておられることでしょう。「しかし、イエス様、2000年もたっているんですよ?どうしたんですか?」と文句を言いたくなります。でも、神の子であるイエス様が2000年もかけて建てたお家は、どれほどすばらしいものでしょうか?やっぱり、神の国の総人口を考えたら、そのくらい時間がかかるかもしれません。今も、東北では仮設住宅で住んでいる方が大勢いらっしゃいます。また、洪水で家が流されて、仮設住宅に住んでいる方もおられるでしょう?天にある、御国の家は、仮設住宅ではありません。大邸宅、マンションです。テレビで大富豪の大邸宅を見たことがあります。信じられないくらい大きな応接間があり、ベッドルームが10個くらいあります。ガレージには外車が何台もあり、中庭にはプールまでありました。「ま、そこまで贅沢でなくても良いです。書斎と3LDKがあれば十分です」と言いたくなります。

ある人々にとっては、世の終わりは「人類の破局」です。しかし、イエス様を信じて救われている人にとっては「人類の希望」です。みなさんはどちらの方に立っておられるでしょうか?「人類の破局」ですか、それとも「人類の希望」でしょうか?この教会には、ご夫婦でありながら、お一人は「人類の破局」の方に立ち、またお一人は「人類の希望」に立っているかもしれません。それだったら、非常に淋しいのではないでしょうか?行くところが同じであるならば、どんなに素晴らしいでしょうか?私たちは2つの焦点を持っためがねを持つ必要があります。昔の遠近両用のめがねは、上の方が遠くを見る近眼用です。そして、下の方にレンズがかぶさっていて、近くを見る遠視用です。1つのめがねなのに、2つの焦点があります。私たちも遠くを見る目、近くを見る目の両方が必要です。遠くというのは、自分が生きているときは、世の終わりが来ないかもしれないということです。私たちには地の塩、世の光としての使命があります。主が来られる日まで、ビジネスや政治、教育、芸術の世界にクリスチャンを送りこんで、神の栄光をもたらす必要があります。もう1つは、近くを見る目です。私たちが生きているうちに世の終わりが来る、もしかしたら今晩かもしれないと備えることです。テサロニケの教会のある人たちは、まもなく世の終わりが来ると考え、今の生活を投げ出していました。パウロは何と言っているでしょう?Ⅱテサロニケ311-12「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」これは、世の終わりを強調しすぎる極端な人たちです。「この世は終るんだから。仕事をしても仕方がない。楽しく暮らそう」。もう、地に足がついていません。フラフラ、宇宙遊泳している人です。パウロは「落ち着いた暮らしをして、主がいつ来られても良いように備えておきなさい」と命じています。これは私たちの人生においても同じです。世の終わりがいつくるか分かりませんが、同時に自分の人生もいつ終わりがくるか分かりません。だから、私たちは長期的な目標と同時に、明日、死んでも良いという悔いのない人生を送る必要があります。「身の回りを整理する」というと何か不吉な感じを与えます。でも、私たちはあんまりごちゃごちゃしていると後の人が大変です。たとえば、再臨で、あるクリスチャンが天に引き上げられたとします。地上に残された人が、その人の部屋に入ってびっくりすることのないようにしましょう。「こんな本を読んでいたの。変なDVDもいっぱいあるよ」と、言われないようにしましょう。では、どんな生活をすべきなのでしょうか?第一は、これまで生かされてきたことを感謝するということです。人々にも神さまにでもです。第二は、隠れたところで見ておられる神さまを意識して生きるということです。第三は、霊的に目をさまして、慎み深く生活しているということです。そうすれば、いつ来ても大丈夫です。この世の終わりが来ても、また、自分の人生の終わりが来ても大丈夫です。

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2012年10月 7日 (日)

背教への誘惑     Ⅱペテロ2:18-22

私が第一、第二ペテロを選んだのは、世の終わりについて書かれているからです。5年くらい前に、オーストラリアの牧師が「日本の何箇所かで大きな地震が起こる」と預言しました。今は、そういう預言を信じていない人でも、「大地震が起こる」と恐れています。地震に備えることはもちろん大切ですが、その後に、起こるリバイバルのために備えることも重要です。日本は、そういうことが起こらないと、まことの神さまを求めません。神さまは世の終わりが来る直前に、日本が救われるチャンスを与えてくださると信じます。

1.背教への誘惑 

ここ数回、「にせ教師」について学んでいます。こういうテーマが続くとイヤになるかもしれません。なぜ、こういうことが語られているかと言うと、世の終わりににせ教師が多く現れるからです。彼らは一体、何をするのでしょうか?Ⅱペテロ21「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことをする」と書いてあります。「自分たちを買い取ってくださった主」とありますので、クリスチャンになった人たちだと思います。彼らは、既に救いを得ています。しかし、その人が異端の教えを信じて、主を否定するならば滅びる可能性があるということです。先日、「新天地イエス教」という宗教団体から手紙が来ました。これは韓国の異端ですが、クリスチャンを捕らえ、やがては教会を乗っ取ろうという団体です。他の新興宗教もそうですが、なぜ、クリスチャンを自分のところに改宗させようとするのでしょう?「あるところでは、クリスチャンを改宗させると、3倍の功績になる」と聞いたことがあります。なぜかと言うと、クリスチャンがこちらに来たということは、「こっちの宗教が正しい」という証明になるからです。私たちで言うなら、良い証しになるということです。たとえば、他宗教の人が回心して、クリスチャンになったならば、良い証しになるでしょう。そのようなことを、新興宗教やキリスト教の異端が、熱心にやっているということです。エホバの証人では、「私はクリスチャンで教会に通っていますよ。だから結構です」と言っても、引き下がりません。「一緒に聖書を勉強しましょう」と家に上がりこんできます。なぜでしょう?クリスチャンを改宗させると、何倍もの功績になるからです。

 では、にせ教師たちは、どのように私たち信仰者を誘惑してくるのでしょうか?Ⅱペテロ218-19「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」まず、「むなしい大言壮語を吐いている」と書いてあります。「むなしい」とは、「空虚な、内容のない、無価値な」という意味です。「大言壮語」は、「大きすぎる、尊大な、思い上がった言葉」という意味です。大体、教祖には、そういうところがあります。ある教祖は、たくさんの本を出版しています。本には「自分に神さまから啓示が与えられ、この世に平和をもたらすために選ばれた」みたいに書いています。そこに有名人が加入すると、「本当なのかも」と思ってしまいます。さらに、多くの人たちがその団体に加入すると、それが真実のように見えてきます。彼らの話を聞くと、まさに「むなしい大言壮語」です。ところどころに、聖書のことばを引用しています。また、世界に知られている神さまの名前を並べています。共通しているのは、「自分が最高の啓示者であり、メシヤの生まれ変わりである」と大胆に明言することです。次に「誤った生き方をしている」と書いてあります。どのようにして誤った生き方が分かるのでしょうか?すぐ分かるのは金銭の用い方です。べらぼうに高い住宅に住んでいたり、高級品で身を飾っています。それから、結婚が不健全です。結婚していても、他の多くの女性と関係を持っています。ある場合は、相手が信者の奥さんであったりします。イスラムではそうではないようですが、重婚は罪であります。このように、「そういうことはおかしいだろう?」ということをやっているのです。ですから、私たちはその人の教えとその生活ぶりを、チェックする必要があります。そういう意味では、伝道者や牧師も危ないです。牧師夫妻が、仮面夫婦になっている。人前では仲良くやっていても、実はもう離婚状態ということもありえます。お寺だったら、「お墓さえ、守ってくれればそれで良い」となるかもしれません。しかし、キリスト教会は、倫理的にとても高いので、無理です。牧師は辛いですね。ぜひ、お祈りください。

 さらに、にせ教師たちはどのように誘惑するのでしょうか?「ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し」とあります。せっかく、イエス様を信じて、この世から御国に入りました。しかし、クリスチャンになっても、内側に肉があります。地上で生きている限り、完全になくなるということはありません。しかも、誘惑に負けやすい人というのは、ようやくそれをのがれようとしている人、つまり信仰的に弱い人です。もちろん、信仰のベテランでも、誘惑はあります。しかし、神様にすべてをささげて、従っていないクリスチャンは危ないです。多くのクリスチャンは、この世と神の国の間を行き来しています。日曜日、教会では「私はクリスチャンだ。ハレルヤ!アーメン」と告白するかもしれません。しかし、家に帰ると全く、別の人になります。そして、月曜日から土曜日まで、この世の価値観で生活します。聖書を一回も開かない。そして、次の日曜日、教会にやって来ます。なんとか、信仰生活を保っている状態です。そういう人に、にせ教師たちは「肉欲と好色によって誘惑する」のです。「誘惑」は、原文では「餌でおびき寄せる」という意味があります。肉欲や好色という餌で釣ろうとするのです。キリスト教会には「十戒」があります。また、山上の説教のような倫理的に高い教えがあります。しかし、「そういうものは律法主義で、古い教えだ」と言うかもしれません。「あなたは律法から解放されて自由な生き方ができます。これが本当の自由です」と言うでしょう。リビングバイブルはこのところをこう訳しています。「善人になったからって、救われるもんじゃないんだよ。それなら、いっそのこと、悪いことをした方が、ましじゃないか。やりたいことは、やればいい。それが自由というもんだ。」しかし、それは自由ではなくて、放縦であります。なぜなら、神さまが定めたきまりの中に、本当の自由があるからです。

 ペテロは「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです」と言っています。現代訳聖書は「人はだれでも何らかの奴隷になっているものである」と訳しています。にせ教師たちは、自由を与えるようなことを言いながら、最後にはその人を支配します。大体、新興宗教の場合は、いろんな恐れや呪いによって、その人を支配します。「ここを離れたら、無限地獄に落ちるぞ」とか言います。そして、教団や教祖の言いなりになります。もう、そこから抜けられません。ここに記されている「ようやくそれをのがれようとしている人々」とはクリスチャンであります。なぜなら、20節には「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」と書いてあるからです。確かに、その人たちはイエス様を信じてはいたと思います。しかし、それは「知る」というレベルではなかったかと思います。このところに使われている「知る」はギリシャ語で、エピギノスコーで「完全に知る」という意味です。すばらしいことばです。この人は知的に神さまを知っています。しかし、心は神さまにささげていません。つまり、他のものに仕え、神さまの奴隷にはなっていません。だから、誘惑に負けてしまうのです。がっちりイエス様に結ばれている人は、誘惑を跳ね返すことができます。しかし、イエス様を信じていながらも、自分の本当の価値をこの世のものに置いている人は危険です。その人は名誉や業績、持ち物、人々の評価を偶像にしています。「私は神さまに仕えています」と言いながらも、そういう副産物に仕えているならどうでしょう?私たちは頭、知性で神さまを知ることも重要ですが、心を神さまにささげることがもっと重要です。パウロは「私はキリストのしもべ、キリストの奴隷である」と言いました。いろんな名刺があります。牧師も名刺にいろんな肩書きをのせています。本当は自分一人しかいないのに「主任牧師」と書いたりします。○○団体の代表、○○博士、何行も肩書きを書きます。でも、「キリストのしもべ」にはかないません。私は「神さまの奴隷であり、神さまがしなさいと言ったこと以外はしません」。すばらしいですね。どうぞ、みなさんも、キリストのしもべ、神さまの奴隷になってください。そうしたならば、にせ教師の誘惑に簡単にはまることはありません。一番、危ないのは中途半端な信仰です。イエス様はヨハネ黙示録で「あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」とおっしゃっています。

2.背教者の行方

 「一度、救いを受けた者が滅びることがあるのか?」という神学的な問題があります。たとえば、永遠の命というのは、いわば、尽きることのない命です。イエス様を信じて、永遠の命をいただいたのだったら、これから永遠に生きられるということです。もし、何かの原因でその人が、信仰を棄てたとします。すると、その人に与えられた永遠の命がなくなるのでしょうか?永遠の命をいただいていたなら、失われることはありません。これは、改革派の神学から来た考えです。改革派は一度信じた者は、滅びることがないという神学を持っています。私も以前は、この立場に立っていました。しかし、聖書のあちこちを見ると、「いや、そうでもないなー」という考えに変わりました。その根拠になるところが、きょうの箇所です。Ⅱペテロ220-22「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」改革派の立場の人は、「イヤ、その人は始めっから救われていなかったんだ」と言うでしょう。しかし、それは無理があるように思えます。この人は、主であり救い主であるイエス・キリストを知り、世の汚れからのがれた人です。また、この人は、義の道を知って一度は神さまに従った人です。しかし、何らかの理由で、信仰を棄てた人です。こういう人を聖書では、背教者と言います。Ⅱテサロニケ23「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」と書いてあります。この箇所は、「世の終わりに、背教が起こるから気をつけよ」ということを教えています。せっかくイエス様を信じて救われたのに、その信仰を棄てるとはどういうことでしょうか?

 明治時代は開国とともに、西洋のいろんな文化が入りました。いわゆる文明開化です。そのとき、キリスト教も一緒に入りました。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治など、多くの文豪たちは聖書を読みました。彼らは頭ではキリストを知りましたが、心をキリストにささげるところまでは行きませんでした。しかし、有島武朗という文学者はキリストを信じて、洗礼も受けました。『カインの末裔』『生まれ出ずる悩み』『或る女』などを書きました。彼はあとで「私はキリスト教信仰を棄てます」とはっきり断言しました。普通は、ひっそりと教会を去るのですが、断言する人はめずらしいです。最後に彼は女性と一緒に自殺しました。彼の師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」と言明したそうです。彼のように、自らの意思で「私はキリスト教信仰を棄てます」と言うならば、その信仰が有効かどうか、ということです。イスラエルは背教の歴史です。イスラエルの民はせっかく、エジプトから救い出されたのに、神さまに従いませんでした。そのため、古い世代はみんな荒野で死にました。ヨシュアとカレブ、そして新しい世代が、約束の地カナンに入りました。しかし、カナンの地に入ってからも、神さまに従わず、偶像を礼拝しました。預言者たちは「背信の子らよ、帰れ」と言いました。やがては、メシヤであるイエス・キリストを十字架に付けたのです。神さまはどうしたでしょうか?「一度はユダヤ人を棄てたが、世の終わり、再び、チャンスを与える」と約束しています。聖書の歴史を見て分かりますが、「信仰を棄てますか、ああ、そうですか。あなたは地獄行きですね」と簡単には行かないということです。まさしく、イエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というとりなしの祈りがあると信じます。イエス様はご自分を裏切ったユダを、最後まで愛し、最後までチャンスを与えておられます。神様の愛は変わらない愛、永遠の愛であることは確かです。

 もう一度、背教ということを考えてみたいと思います。一度、信じた者が滅びる可能性はあるのかということです。ヘブル6章に、この箇所と似たみことばがあります。ヘブル64-6「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」このみことばの解釈は2つあります。改革派の信仰を持つ人は、「まさか、そういうことがあるだろうか?」と逆説的に捉えています。逆説的に、「一度救われた人が滅びるわけがないだろう?」と解釈しています。しかし、この聖句を文字通り解釈するなら、「救われた人が堕落したならばもう無理だよ」と言っているのではないかと思います。Ⅱペテロ2章に戻ると、堕落した人は、さらに悪くなると言っています。そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」中川健一先生が、ハーベストタイムというTV番組でこのように語っていました。「世界で最も聖い人たちとはだれか?それはクリスチャンです。では、世界で最も醜くて汚れている人はだれか?それもクリスチャンです。」とおっしゃっていました。昔、川上宗薫というポルノ小説家がいました。なんと彼は牧師の子どもです。長崎の原爆で、母と二人の姉妹が死にました。それで、父は棄教したということです。そのために、彼も道をそれたのでしょう。ニーチェも牧師の子どもで洗礼を受けました。しかし、大学生のとき当時の哲学に傾倒し、信仰を棄てました。そして、「神は死んだ」と言って虚無主義を主張しました。ニーチェは、最後に発狂して死にました。なぜ、一度信じた人が堕落すると普通の人より悪くなるのでしょう?未信者は「バチが当る」とか言って、神を恐れています。しかし、一度、神さまを信じて堕落した人は、神さまを恐れません。なめてかかっています。だから、さらに悪くなるのです。

 22節「彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」豚は本来、綺麗なところが好きなようです。しかし、本能的にどろの中にころがるようです。問題は、汚れた罪の状態に戻るかどうかということです。本当に救いを得ている人はどうでしょうか?汚れたら、また洗うでしょう?同じように、罪を犯しても、「これは本来の私ではない」と悔い改め、主に立ち返るでしょう。これができる人と、これができない人がいます。倒れたら倒れっぱなしの人、あるいは倒れても立ち上がる人がいます。どうして、そんな風に分かれるのでしょう?私はその人の神観に関係があると思います。あわれみ深い神さまを信じているか、あるいは愛のない厳しい神さまを信じているかです。別な言い方をすると、泥んこの中で、神さまと出会っているか、ということです。私は田舎で育ちましたが、家の近くにはどぶ川がありました。そういうところに落ちると大変です。ズボンに黒光りした泥がつき、体から臭い匂いがとれません。たまに、子どもがどぶ川にはまることがあります。そうすると、お母さんは「どこ見て歩いているの?」と大声を上げて叱ります。それで、井戸の近くで服を脱がせ、ザバザバ洗ってくれます。これが母の愛です。子どもはただ「仕方がないなー」という顔をしています。私もこういう経験をしたことがあります。もう、どうしようもない。これは、汚れた罪の状態に陥ったのと同じです。でも、あわれみに富んだ神さまは、私たちの罪を洗い流してくださいます。イザヤ1:18 「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」こういう体験を何度か積むと、「申し訳ないから、もうやめよう」と思うようになります。神さまの愛は永遠の愛です。エレミヤ313「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」とあります。神学校の先生が、「永遠の愛とは、これっきりの愛ではない愛である」と定義しました。昔、「これっきりもう、これっきりーですか?」という歌がありました。私たちの愛は、2回、あるいは3回で限度です。「ああ、この人はこういう人なんだ」と関係を断ってしまうでしょう。しかし、神さまの愛は、永遠の愛です。何度でも赦すお方、無限に赦すお方です。

イエス様の弟子でペテロとユダがいます。ペテロはイエス様を3度も知らないと裏切りました。ユダは「あれがイエスです」と祭司長たちにイエス様を売りました。どちらも大きな罪です。ペテロは「どの面下げて」と思われても、イエス様のところに戻りました。しかし、ユダは「私は罪を犯した」と後悔して、自殺しました。二人とも大きな罪を犯しましたが、どこが違うのでしょう?ペテロは「イエス様はきっと赦してくださるだろう」と思って、立ち返りました。しかし、ユダは「イエス様はきっと赦してくださらないだろう」と思って、自分で罪を清算しました。ここの違いです。イエス様は「770倍赦しなさい」と弟子たちに教えられました。なぜでしょう?自らがそういうお方だからです。無限の愛と無限の赦しを本当に受け止める人は、堕落しません。たとえ、罪を犯して倒れても立ち上がることができます。そういう、あわれみに富む神さまと出会いましょう。

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2012年9月23日 (日)

にせ教師への警告  Ⅱペテロ2:10-17

私は「世の終わりには、地震など天変地異が起こる」ということで、ペテロの手紙を選びました。しかし、それは最後のほんの少しの部分しかありません。先週からⅡペテロ2章からメッセージしていますが、にせ預言者とかにせ教師の話しばっかりです。私も準備のため、読んでいても、あまり恵まれません。しかし、「これが世の終わりの特徴なんだなー」と改めて思うようになりました。世の終わりに、にせ教師たちは「善も悪もない。天国も地獄もない。絶対的な神なんか存在しないんだ」と教えます。多くの人々は、「ああ、そうだ。そうだ」とその教えに巻き込まれるでしょう。そのように人々が神から離れたとき、世の終わりのさばきが突然のように襲うのです。私たちは、まさしく世の終わりの時代に生きています。

1.にせ教師のそしり

 10節から12節まで「そしる」ということばが3回出てきます。10節には「栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません」と書いてあります。11節は「御使いたちは、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません」と書いてあります。また、12節には「理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです」とあります。そしるとは、悪口を言う、中傷する、ののしる、あるいは神を冒瀆するという意味です。なぜ、にせ教師がそしるのでしょうか?それは、相手をそしることによって、こっちが正しいということを強調するためです。日本ではあまりやりませんが、アメリカでは競争相手の会社をけちょんけちょんにするCMが許されているようです。たとえば、コーラの会社がもう1つのコーラを悪く言います。車の会社が、日本車を潰すようなCMを流したりします。大統領選でも、相手のスキャンダルを互いに暴露したりします。日本では公にはやりません。しかし、学校では友だちの悪口を言ったり、メールで中傷するイジメがたくさんあるようです。先月、尖閣諸島に香港の活動家が上陸しました。海上保安庁に捕らえられましたが、そのとき、活動家たちがものすごい剣幕で何かを訴えていました。今では、中国全土で、デモ隊が叫んでいます。おそらく、いろんな悪口を言っているのでしょう。テレビで国会中継を見るときがたまにありますが、野次を飛ばしているシーンをよく見かけます。世の中では、そしる、悪口を言う、中傷する、ののしるなど、当たり前のように行われています。相手から罵倒されたり、そしられたとき、だまっている方が悪いように思われます。ことばで相手をそしることにより、こっちが正しいと思わせる。それは1つの方法かもしれません。

 聖書に出てくるにせ教師も、まさしくそのようにしていたのでしょう。日本語の聖書は、10節に「栄誉ある人たちをそしって」と書いてありますが、いろんな訳があります。相手は人ではありません。「目に見えない世界の栄光の者たちをそしる」「御使いたちをそしる」という訳があります。それに対して、御使いたちはどうでしょうか?11節「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。」とあります。御使いたちはしないのに、にせ教師たちは、主の御前に彼らをそしって訴えるということです。現代のにせ教師は、自分が信じていない他の神さまをそしっています。ユーチューブで、幸福の科学の大川隆法と田原総一郎の対談を見たことがあります。もう、20年前のものです。大川隆法は自分のことを釈迦の生まれ代わりだと言っていました。そして、対談の中でキリスト教だけではなく、他の宗教のことも批判していました。彼は「宗教はある年数が経つといのちがなくなる」と言っていました。そして、「『幸福の科学』こそが終わりの時代にあって、人々を救う宗教なんだ」と言っていました。そういう対談の中で、まさしく、霊的な存在そして、まことの神さまさえも、否定するようなことを発言しています。にせ教師たちは、どうしても自分の教えが唯一まことであることを主張するために、まことの神さまをそしることがあります。つまり、にせ教師は、本来、超えてはならない領域に足を踏み込んでいるということです。私も講壇の上からいろんなことを言っています。しかし、聖書の教えからは超えないように気をつけています。大川隆法は「私は人間ではない」と言っているようですが、私はそういうことは言いません。にせ教師は、神の名前を借りて何かを語ったり、あるいは権威を示そうとします。しかし、それは超えてはならない領域に足を踏み込んでいるということです。あの御使いたちですら、そういうことはしないのです。なぜでしょう?神を恐れているからです。

 にせ教師のように、神の領域を侵した人はどうなるのでしょう?12節「ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」英語の聖書では、動物は野獣となっています。おそらく、人に危害を加えるライオンやクマのことを言っているのでしょう。ライオンやクマが街中を歩いていたら、捕らえられ殺されるでしょう。なぜなら、危険だからです。にせ教師がこれ以上、間違った教えを流し続けるならどうなるでしょう。人々が汚され、まことの神さまから離れてしまいます。おそらく、神さまはだまっていないでしょう。ペテロは「それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです」とはっきりと断言しています。旧約聖書のⅡ列王記18章にこのような記事があります。ヒゼキヤがユダの王様だったとき、アッシリアが攻めてきました。そのため、大量の銀と金を渡して許してもらいました。しかし、再び、アッシリアが攻めてきました。この時は、「降参して、町全体を明け渡せ」と命じてきました。アッシリアの将軍、ラブシャケが、「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでも言うのか」となじりました。それで、ヒゼキヤは衣を裂き、「きょうは苦難と侮辱の日です」と宮で祈りました。すると神さまは1つの霊を送りました。ラブシャケは内乱のうわさを聞いて、国に引き上げました。彼はそこで剣に倒れました。三度目は、セナケリブ王が手紙をよこしました。イスラエルの神、主をなじるような手紙でした。そうすると、ヒゼキヤは主の前で「主よ、生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください」と祈りました。そうするとどうなったでしょうか?なんと、その夜、主の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、185000人を打ち殺しました。それだけではありません。アッシリアの王、セナケリブはニネベに帰りましたが、神殿で祈っているときに暗殺されました。彼らは主の名を借りて勝手なことを言いました。そして、イスラエルの神、主をそしったのです。だから、彼らは滅ぼされてしまったのです。

 旧約聖書は私たちに対する教訓です。世の終わりにも、にせ教師が出てきます。そして、まことの神をそしるでしょう。しかし、そのために理性のない動物のように滅ぼされるのです。私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?神さまだけではなく、人をそしる、悪口を言うということは大きな罪であるということです。マタイ5章には、「兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と書いてあります。なぜ、相手を悪く言ってはいけないのでしょう?その人の背後にはその人を創られた神様がおられるからです。神さまがその人にいのちを与え、その人を生かしておられるのです。さらには、イエス様がその人を贖うために、血潮を流したとなるならどうなるでしょう?その人がクリスチャンであるかないかは関係ありません。イエス様はすべての人のために代価を払ってくださいました。もしも、創造と贖いの2枚のレンズで人々を見るならばどうでしょうか?簡単に、その人をさばいたり、悪く言うということは、背後におられる神さまを冒瀆することになります。確かに日常、いろんな人と出会います。行いが変だったり、無礼なふるまいをする人がいます。私も買い物に行くと、べらべら独り事を言っている人をみかけます。「あまり近寄りたくないなー」と思います。また、テレビを見ていても、いろんな人が出てきます。女子アナやタレントを見て、さばくこともあります。また、家族に対しては、油断していますので、ひどいことばをぶつけることがあります。ということは、そしったり悪口を言うということは、なにもにせ教師たちだけではないということです。日本の教育は進化論を教えこまれていますので、能力のない人を簡単にさばきます。また日本は人と同じでないとダメであるという価値観が染み込んでいます。私たちはこういう文化の中で育ってきました。だから、聖書的な価値観に置き換える必要があります。進化論ではありません。神さまがその人を創られ、命を与えておられるのです。また、キリストがその人のために、十字架で代価を支払ったのです。だから、人をそしったり、悪口を言ってはいけないということを心に深く留めたいと思います。パウロはエペソ4章でこのように命じています。エペソ429「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」アーメン。

2.にせ教師の報い

 Ⅱペテロ213-14「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」このところには、にせ教師たちの乱れた生活ぶりが記されています。ひとことで言うなら「不義」であります。不義というのは、ギリシャ語でアディキアと言います。これは「不正」「不法」という意味があります。神が定めた律法に反しているということです。神さまはこの世界を創られたとき物理的な法則だけではなく、道徳的な法則も作られました。私たちはこの地上で、万有引力の法則に支配されています。もし、この二階から飛び降りたら怪我をするでしょう。同じように、神さまが定められた律法に反するなら、それだけの報いを受けるということです。だから、ペテロは「彼らは不義の報いとして損害を受ける」とはっきり述べています。では、にせ教師たちはどのような不義、不正をしているのでしょうか?まず、第一に昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。第二は宴席に連なるとき自分たちのだましごとを楽しんでいます。第三は淫行に満ちており、罪に対して飽くことを知らないと書いてあります。リビングバイブルはこのように訳しています。これはJBフィリップス訳と同じ内容です。「その罪に濁った視線は、どんな女性をも逃しません。しかも、彼らのみだらな行為は底なし沼で、うわついた女を誘惑するゲームに熱中しています。」この3つをまとめると、彼らは肉そのもので生きているということです。多くの若者たちは、神の道徳的な法則を全く無視して生活しています。1ヶ月前、大阪の女子高生を取材した番組がありました。気分が悪いので、4,5分しか見ませんでした。しかし、驚くべき内容でした。彼女らは携帯で売春の相手を探しています。AV女優の働き場もあります。そういうことをして、大金持ちになった友だちもいるということです。この世には、女子高生を餌にしている、悪い人たちがたくさんいます。もし、そういう人に捕まったら、「何をしても自由だ」なんて言っていられません。

 ところで、「にせ教師」ということですから、宗教的なことをしている人です。ある人は「私はキリスト教です」と言っています。だから、ペテロは「彼らは、しみや傷のようなものだ」と言っているのです。現代訳は「彼らは、不名誉な、面汚し」と訳しています。つまり、キリスト教会に汚名を与えているということです。にせ教師と言って良いのかどうか分かりませんが、アメリカでも日本でも、そういうニュースが結構あります。昔はアメリカのテレビ伝道者でしたが、日本でも最近、あちこちで聞きます。お寺とか新興宗教では「ああ、またか」ということで、あまり話題にはなりません。しかし、いざ、キリスト教会となると大スキャンダルになります。世の人に「キリスト教会は清く正しいものだ」という認識があるからでしょう。でも、実際には、にせ教師ではなくて、牧師や宣教師の場合もあります。「いや、あいつは、にせ教師だったんだ」と後から言われるかもしれません。イエス様の時代は、パリサイ人、律法学者、サドカイ人たちに、そういう人たちが多くいました。上座を好んで座ったり、やもめたちからお金をまきあげる、いわゆる偽善者でした。なぜ、そういう不義、不正をしてしまうのでしょうか?まず、人々の前に立つ人は、まことの教師であろうとにせ教師であろうと尊敬されます。有名になって、権威や権力を持ったらどうなるでしょう?信者たちを思いのままあやつることができるでしょう。また、そういう教祖と一緒になって甘い汁を吸う、幹部もいます。幹部連中は「教祖はインチキだ」と知っていても、恩恵を受けているうちは着いて行くでしょう。組織ぐるみになると、世に与える悪影響が大きくなります。悪魔もそこに加担して、マインドコントロールや霊的な束縛も与えるでしょう。この世には、そのようにして大きくなった宗教団体がたくさんあるのではないでしょうか?牧師でもクリスチャンのことを「信者」とか「信者さん」と言ったりします。なんだか、新興宗教の収入源のように聞こえます。私は決して、そういう呼び方をしません。私たちは神さまから召された、神の共同体です。パウロは3つのたとえをもって教会とはどういうものかを説明しています。第一は神の家族です。神の家族には子ども、若者、そして父や母がいます。私たちは兄弟姉妹です。第二はキリストのからだです。かしらはイエス・キリストです。そして、からだにはたくさんの器官があります。互いに結び合わされてキリストのみわざを行います。第三は神の宮です。神さまはご自分が住まう場所をさがしておられます。私たち一人ひとりは生ける石です。生ける石が設計図に従って組み合されるとき、神の神殿ができます。そこに、神さまが住んでくださいます。こういう聖書的な教会観を持っているならば、にせ教師の存在を排除することができます。また、こういう教会が、指導者がにせ教師になるのを防いでくれるでしょう。亀有教会の理念の中に「かしらはキリストである」と明言しているのは、このためです。

 不義の報酬、神のさばきは必ずあります。ペテロは旧約聖書の預言者バラムを例にあげています。Ⅱペテロ2:15-16「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。」モアブの王バラクと司たちは、預言者バラムに「どうかイスラエルを呪ってくれ」とお願いしました。なぜなら、イスラエルが神様の祝福を得て、どんどん増え広がっていたからです。バラムは「わかりました。主が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう」と言いました。神様はバラムに「その民を呪ってならない。その民は祝福されているから」とはっきりと告げました。朝になって、バラムは「やっぱり無理」と告げました。しかし、バラクと司たちは「何でも与えるので、なんとかイスラエルを呪ってくれ」と頼みました。バラムは、再び、神様に聞きました。返事は変わりませんでした。次の朝、モアブのつかさたちが迎えに来たので出かけました。途中の道で、ろばがぴったりと止まってしまいました。そして、道からそれて畑の中に入りました。バラムは「コラ!道に戻れ」と、ろばを打ちました。ろばは狭い道を進みましたが、今度は石垣にぴたっと寄りました。バラムは足が押し付けられたので、「何をやっているんだ」と、またろばを打ちました。もう少し進むと、ろばはバラムを乗せたまま、うずくまってしまいました。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打ちました。すると、主がろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言いました。「私があなたに何をしたと言うのですか。私を三度も打つとは」。そのとき、主がバラムの目を開きました。なんと、主の使いが抜き身の剣を手に持っていた道をふさいでいるのを見ました。ろばは剣を持った御使いを避けたのです。しかし、バラムは全く見えていませんでした。バラムはそこでひざまずいて、「私は引き返します」と悔い改めました。バラムは主が告げられたとおりに、イスラエルを祝福しました。しかし、その物語には続きがありました。彼は「私は金の満ちた家をくれても、主のことばにそむくことはできません。主が告げることなら、それを告げなければなりません」と言いました。しかし、他の聖書箇所を見ると、バラムはあとで堕落したことがわかります。彼はミデヤン人の娘たちをそそのかして、イスラエルを誘惑し、偶像を拝むようにさせました。だから、黙示録214「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた」と書いてあります。バラムは不義の報酬を愛した二心の預言者です。

 こういう箇所を見ると、身が縮むような思いがします。預言者とか祭司は神様に仕える特別な人たちです。新約聖書では、牧師だけではなくクリスチャンも同じような使命を負っていることがわかります。終わりの時代には、にせ教師がはびこり、人々を惑わすと預言されています。しかし、私たちもにせ教師の片棒を担いでしまうような可能性があるということです。富や権力はとても、魅力があります。私も「いつかブレイクしたい。有名になりたい」という誘惑がないわけではありません。イエス様はそういう誘惑に勝利して、メシヤとしての使命を全うされました。「キリストには変えられません」という聖歌があります。「キリストにはかえられません。世の宝もまた富も」「キリストにはかえられません。有名な人になることも」「キリストにはかえられません。いかに美しいものも」。「世の楽しみを去れ、世の誉れよ行け、キリストにはかえられません。世の何ものも」。考えてみれば、すごい内容です。「ちょっとぐらい、富があっても良いだろう。必要経費だから。ちょっとぐらい、有名になって良いだろう。働きが広くなるから」と言うかもしれません。ということは、どこかに誘惑される要因を持っているということです。にせ教師は、どこかの教祖だけではありません。自分にも同じような欲望を抱えていることを否定できません。だから、こそ私たちは常に神を恐れ、キリストにとどまる必要があります。Ⅰヨハネ317「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」

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2012年9月16日 (日)

にせ教師の特徴   Ⅱペテロ2:1-9 

イエス様はマタイ24章で「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わす」と預言されました。それでなくても、世の終わりには神さまを信じる人が少なくなるのに、どういうことでしょうか?それはサタンが自分の滅びが近いのを知り、できるだけ多くの人を巻き添えにしたいからです。世の終わりには、信仰を持つことさえも困難なのに、妨げも多いとは、どういうことでしょう。映画でも物語でもクライマックスというのがあります。どんな場合も、ラストシーンというものは、荒れるものです。ある者は死に、ある者は生き残るという壮絶な戦いがあります。ペテロは終わりの時代に住む私たちに、「目を覚まして、備えるように」とこの手紙を書き残したのだと思います。

1.にせ教師の特徴

 ここに、にせ教師の特徴がいくつか書かれています。Ⅰペテロ21「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」第一に、にせ教師は「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込む」とあります。異端とは、単に間違った教えという意味ではありません。それを信じても、決して救われないという教えです。私たちは真理か嘘か両極に分けようとします。片方が真理で、もう片方が嘘であるというふうに考えてしまいます。しかし、それは本当ではありません。真理というものは真中にあるのです。真理には、ある程度の幅がゆるされています。なぜなら、人間は真理の一部しか知らないからです。そして、真理の右と左に、極端というのがあります。極端とはどういう意味でしょうか?みなさんは農道を車で走ったことがあるでしょうか?道幅が3メートルもありません。車一台がやっと通れるような幅です。その道の両脇は水路か田んぼです。ハンドルを切り損ねると、がばっとはまってしまいます。はまったら、だれも助けにきてくれません。真理というものは、この道路と同じように真中にあるのです。私たちは信仰生活を送るとき、両脇の極端にはまってはいけません。

大体、にせ教師の教えというものは極端です。文鮮明が唱えた統一原理があります。その教えは、エバがサタンと姦淫したので人類に罪が入ってしまった。罪をきよめるためには血わけが必要だ。そこで、集団結婚式をして、教祖から正しい種をもらうのです。明らかに変な教えですが、聖書を使うので、多くの日本人が捕らえられています。どういう人が捕らえられるのでしょう?家庭に問題のある人です。家族の愛に飢えている人たちが、文鮮明という父親を求めるのです。そして、彼らは集団生活をして、きびしい奉仕に明け暮れています。「これは間違いである」と気付いても、集団生活がすばらしいので抜けようと思わないそうです。もちろん、そこにはマインドコンロールも入っています。他にもキリスト教の異端として、エホバの証人が有名です。統一教会ほど、反社会的ではありませんが、家庭が壊れます。彼らの教えは世の終わりとそのさばきを強調します。この世はまもなく終るので、エホバの神を信じて、千年王国に住まわなければならないと主張します。しかし、救われるためには信仰だけではなく、行いも必要です。だから、彼らは財と時間をささげて、組織に献身します。エホバではなく、ニューヨークの組織が彼らの神さまなのです。一軒、一軒、家庭を訪問して伝道活動をしています。彼らは人々の救いのためではなく、自分が救われるためにあのような布教活動をしているのです。動機は、愛ではなく恐れです。律法とノルマに縛られ、ハツカネズミが車輪を漕ぐような生活を強いられています。最近、韓国では新天地イエス教という異端がすごい勢いで増えています。新天地イエス教は、聖書のことばを文脈に関係なく、比喩(たとえ)で解釈するという特徴があります。最初は普通のクリスチャンとして教会に入り込み、やがて献身します。教会で一定の地位を持ってから、人々を間違った教えに導くのです。今も大きな教会に、工作員として入り込み、機会を狙っています。他に全世界に広がっているのは、ニューエイジの考えです。「宗教は1つだ。キリスト教会も1つになるべきだ」と主張します。ニューエイジの特徴は、霊媒、オカルト、超常現象です。癒し系の音楽、自己啓発セミナー、マンガ、映画、ゲームにかなり入り込んでいます。

 他にもたくさんありますが、彼らに共通する道徳的な特徴があります。Ⅱペテロ22-3「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」道徳的な特徴の第一は、好色であります。性的問題が必ず付きまとうということです。なぜでしょう?宗教的に高い立場に着くと、何でも思いどおりになります。だから教祖は、好き勝手をして、重婚問題にひっかかったり、性的な罪で訴えられます。しかし、マインドコンロールされている人たちは、それは罪ではなく、喜ばしいことであると思っているようです。本人が被害者として訴えないのですから、罪に定めるのが難しくなるのは当然です。オカルト的でスピリチャルなカウンセリングもいくつかあります。受ける人は、心のすべてを打ち明けるのですから、そこに誘惑が入り込む隙が生じるでしょう。ペテロは「そのために真理の道がそしりを受けるのです」と言っています。真理の道とは信仰であり、キリスト教会がそしりを受けるということです。「ここしか救いがない」と思ってきたのに、そうではなかった。非常に残念なことです。

第二の道徳的特長は、貪欲です。ペテロは「作り事のことばをもってあなたがたを食い物にする」と言っていますがどういう意味でしょう?この人は、知識や知恵があり、頭が良いのです。迷っている人に「神さまはこう言われます」と断言するでしょう。にせ教師の教えの特徴は、人々に選択の余地を与えません。「神はこう言われます。正しい教えはこれです。」と断言します。その教師に逆らうということは、神さまに逆らうことになります。しかし、その教師は人々をたくみにコントロールしているのです。目的は何でしょうか?貪欲です。その人が持っているものを奪い取るためです。「あなたがたを食い物にする」とはそのことです。新興宗教に共通していることは、お金や財産が目当てです。「どうして、取られるのかな?」と不思議に思いますが、作り事のことばをたくみに用いるからでしょう。「ああいえば」「こういう」。相手は頭が良いのですから、かなわないかもしれません。では、どうやって見抜くのでしょうか?貪欲です。本当のキリスト教は、奪うのではなく、与えるものです。パウロがこのように言っています。使徒の働き2035「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」キリスト教の精神は自己犠牲です。人を食い物にするというのは、とんでもないことです。しかし、牧師も人間ですから、霊的なものを蒔いたら、肉のものを期待するかもしれません。ここいらへんは、戦いがあります。キリスト教会において、しるしと奇跡のわざを行なう伝道者がいます。テレビに出たり、方々に出かけて大きな集会をするでしょう。確かに、すばらしい奇跡が起こります。癌が癒され、死んだ人が生き返ったりもします。そうすると、いっぱい感謝する人も出てくるでしょう。やっぱり1つの誘惑だと思います。だから、これは人ごとではありません。私たちは、ただで受けたのですから、ただで与えなければなりません。

ペテロは彼らに対して何と警告しているでしょうか?1節には「自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」また、3節には「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」彼らの末路は滅びであり、きびしいさばきです。にせ預言者やにせ教師はサタンと同じ火の硫黄の中に投げ込まれます。なぜでしょう?サタンの手先になって、人々を惑わしたからです。ある人たちは純粋に神さまを求めて、自分たちのところに来たのでしょう。それなのに、異端の教えで、彼らを束縛し、天国への門を閉ざしたのです。だから、ペテロは「神さまはすみやかに、怠りなくさばきが下される」と言います。でも、どうでしょうか?異端をもたらしたにせ教師、あるいは教祖は、すぐには死にません。けっこう長生きする人もいます。ですから、「すみやか」というのは当っていないような気もします。私はそこには2つの力が働いているからだと思います。1つはサタンの力です。サタンがにせ教師たちに力を与えているからだと思います。もう1つの力は神さまのあわれみです。彼らの多くは、自分を買い取ってくださった主を信じていたのです。ところが、ユダのように主を否定してしまいました。イエス様もユダに対して、最後まで悔い改めるチャンスを与えておられました。もし、神さまがサタンもにせ教師も、すべての悪も滅ぼすとおっしゃったなら、立ち尽くせる人がいるでしょうか?クリスチャンといえども罪を犯すことがあるので、神さまのあわれみを受けている存在です。私たちは聖書からこういう構造を知って、極端な教えにはまらないで、真理の内を歩むべきです。そのためには、聖書を正しく信じている教会に属し、いつもへりくだって聖書から教えられることが重要だと思います。

2.にせ教師の末路

ペテロは3節で「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」と言いながら、その後、たくさんの例をあげています。4節から9節まで、3つの例をあげています。第一は罪を犯した御使いたちに対するさばきです。Ⅱペテロ24「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」これと同じようなみことばがユダ書にもあります。ユダ6「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」御使いがいつどこで罪を犯したかは聖書にはっきりとは書かれていません。しかし、イザヤ書やエゼキエル書から、あるいはヨハネの黙示録からある程度のことは想像できます。おそらく、この世界が創られる前に、サタンと3分の1の御使いたちが、神さまに反逆したのではないかと思います。彼らは天から落とされ、あるものは悪霊になり、またあるものは暗やみの穴の中に閉じ込められてしまったのでしょう。少し前に、『タイタンの逆襲』という映画を見たことがあります。タルタロスという地の深いところに、12人のタイタンが閉じ込められていました。ギリシャ神話ですから、聖書とちょっと違います。ある御使いたちは、今もなお、ずっと穴の中に閉じ込められているのです。気の毒といえば気の毒ですが、ここで言いたいことは、神様のさばきには容赦はないということです。

二番目の例はノアの時代の不敬虔な人たちに対するさばきです。Ⅱペテロ25「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」ノアの洪水です。キリスト教会の中にもノアの洪水を信じない人たちがいます。ある学者たちは、一部分だけに洪水が起きたのであろうと言います。しかし、不思議なことに洪水物語は世界中にあります。アメリカのインディアンの中にも、洪水物語があります。地層を調べると、ぶ厚い砂層があり、全世界を呑み込むような洪水があったのではないかと推測できるそうです。中国の漢字には洪水の物語が残っています。洪水の「洪」の象形文字があります。地上が水を覆っているかたちで、その上から二本の手が伸びて、助けを求めているように見えるということです。また、船という字も不思議です。左側の舟は象形文字です。右のつくりには、八と口があります。口は人を意味するそうです。これは箱舟に8人が乗っていたということを現しているのではないでしょうか?また、穴という字があります。穴はウ冠の下に八と書きます。洪水で助かったノアの8人はしばらくの間、洞穴に住んでいたのではないかと思います。また、空という字があります。空は穴の下に工という字があります。八人が青空のもとで働いた、つまり工です。そして、今まで住んでいた穴が空っぽになった。そういう連想のもとでこの字が形成されたのではということです。なんだか、しゃれみたいですね。ノアの洪水は創世記だけはなく、いろんな書物にもあるので、これは歴史的な事実だということです。神さまは罪深い人たちをさばいたということです。

三番目の例はソドムとゴモラに対するさばきです。Ⅱペテロ26-8「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。」ソドム、ゴモラは現在の死海の南にあったのではないかと言われています。ロトは「エデンの園のように潤っているので羊に適している」と思って、低地全体を選び取りました。しかし、低地の町々には、よこしまな人たちが住んでいました。ソドムの罪は、男色、同性愛ではなかったかと言われています。ペテロは「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けた」と述べています。近年、ポンペイの遺跡が発掘されました。ポンペイはローマのリゾートタウンでにぎわっていました。ところが、79年ヴェスヴィオス火山が突然噴火しました。そこにいた人たちは、火砕流に飲み込まれました。一瞬のうちに生き埋めになって死んだのです。1740年頃、ポンペイの発掘がなされました。娼婦の館などが発掘され怪しげな壁画がたくさん残されていたそうです。考古学者たちは、火山灰の空洞に石膏を流し込みました。なんと、顔の表情までもはっきりと分かるものもありました。かなり前のことですが、伝道者の滝元明先生がポンペイを訪れたことがあるそうです。確かに、石膏で復元した遺体があったそうです。しかし、あるところに行くと、板塀で囲ったエリヤがあったそうです。そこを見てはいけないということでしょう。当時のローマがいかに堕落していたのか白日のもとにさらされたのです。

ペテロがさらに、言いたいことは何でしょうか?Ⅱペテロ29「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」主は、ノアの洪水の時は8人を救い出されました。ソドムとゴモラの時も、義人ロトを救い出されました。終わりの時代、私たちはにせ教師による異端、あるいは不敬虔な人たちの中に生きています。義人ロトのように心を痛めて暮らしています。しかし、神さまは終わりの時代、どのように働いているのでしょうか?「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出す」と約束しておられます。かつての患難のときそうであったように、終わりの時代においても、神さまは救いの御手を伸べておられるということです。そして、不義な者に対してはどうでしょう?「不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」アーメン。このように聖書には、一方には救い、他方にはさばきがあるということをどう思うでしょうか?私は本当に嬉しく思います。先月の816日、木曜日、家内が岩手に帰っているので、ゆっくり説教準備をしていました。ゆっくりという意味は、疲れるとテレビでも見るということです。ちょうど高校野球がやっていました。また、あるチャンネルでは「あばれん坊将軍」もやっていました。つい、あばれん坊将軍を見てしまいました。北町奉行の息子が盗賊の一味に入り、死罪を言い渡されました。さばいたのは北町奉行の奉行であり、息子を切り捨て、自分も死のうと思っていました。なぜ、息子がそんなことになったのか?それは10数年前、奉行が今で言う水商売の女性と恋に陥り、息子が生まれました。しかし、周りの人たちが反対し、離婚させられました。息子は、父が自分を捨てたということで、すっかりグレてしまいました。息子は悪いと知りながらも、盗賊の一味に加担してしまったのです。父が息子に問いただすと、10年前に母が亡くなったということです。それで、奉行である父は不憫なことをしたと息子に謝ります。でも、息子の死罪は免れません。そこに登場したのが、新さんこと、あばれん坊将軍です。その盗賊の背後には旗本屋敷が糸を引いていることが分かりました。結果的に、罪が1つ軽くなって、島送りになりました。「待っていますから」と婚約者が言いました。私はそれを見て、感動しました。「法は曲げられません。でも、なんとか救いの道はないのか?」聖書の福音と似ているなーと思いました。

私たちは観客席から、「こっちが悪いから神のさばきを受けて当然だ」と言うかもしれません。もし、私たちがノアの8人ではなくて、不敬虔な人たちであったらどうなるでしょうか?洪水で滅ぼされるしかありません。あるいは、もし、私たちがソドムとゴモラの町の住人たったらどうするでしょうか?火と硫黄で滅ぼされるしかありません。私たちもかつては、不敬虔な者たちの中にいました。不義な者どもとして、さばきの日まで、懲罰のもとに置かれていたのです。でも、神様のあわれみによって救われたのです。だからと言って、にせ教師や不敬虔な者を大目に見ろということではありません。神さまの義と神さまの愛は、十字架に表わされています。イエス・キリストが私たちの罪を負ってさばかれました。本来、私たちがさばかれるところを、イエス様が身代わりになってくださったのです。しかし、これによって、神の義と神の愛が立ったのです。私たちは神さまの側に立って、「あっちが悪いが、こっちは良い」とやりがちです。しかし、善悪をさばかれるのは神さまだけです。私たちは元罪人、元犯罪人だったのですから、人をさばく権利はありません。一番の違いは、神さまのあわれみを受けているということです。私たちが身代わりになったイエス様と神さまのあわれみを忘れない限り、どんな誘惑にも勝利できると信じます。自分が信じたとか、自分に正しさがあったとか言っている人は非常に危険です。世の終わり、背教が起こり、人々の愛は冷えていきます。にせ預言者、にせ教師もさらに多く現れるでしょう。そのために私たちは、聖書のことばにしっかりと留まるべきです。そして、神の義と神の愛を表しているキリストの十字架のうちに留まるべきです。アーメン。

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2012年9月 9日 (日)

ご威光の目撃者  Ⅱペテロ1:15-14  

きょうは、私たちが信じるための根拠、あるいは信仰の土台は何かということを学びたいと思います。この世にはたくさんの宗教がありますが、大体、経典とかご本尊があります。日本の神道には、教義や経典はありません。日本書紀や古事記からある程度のことを知ることができますが、神話のようなもので、歴史性はありません。新興宗教なども、教祖が神秘的な体験のもとで経典を書いたりしますが、やはり歴史性がありません。一方、キリスト教の場合は歴史性があり、作り話ではありません。近年、キリスト教会の中で、神話や民話のように自然発生したような学説を唱えた神学者がいました。しかし、それは間違いです。私たちは神さまから啓示を受けた人たちが聖書を書いたと信じています。ペテロは私たちが信じるための根拠が2つあると言っています。第一は使徒たちの証言であり、第二は預言者たちの預言です。

1.使徒たちの証言

 ペテロの時代、聖書といえば私たちが持っている旧訳聖書でした。そして、使徒たちがイエス様の教えや教会に大切な教理を書きました。それがだんだん、まとまり新約聖書になりました。使徒たちの証言とは、今で言う新約聖書です。Ⅱペテロ115-16「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」ペテロは自分がこの世を去った後も、これらのことを思い起こせるように文書を残しました。ペテロは「主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません」と言っています。ペテロは第一と第二の手紙で、「キリストの現われ」「キリストの来臨」について述べています。「現れ」とか「来臨」とは、世の終わり、再び来られる栄光のキリストのことであります。キリストが馬小屋で生まれたのを初臨、クリスマスと言います。そのとき、キリストは謙遜で、しもべの姿を取られました。しかし、世の終わり、キリストは力と栄光を帯びた「主の主」「王の王」として来られます。これを「来臨」「再臨」と呼んでいます。ペテロは「これはうまく考え出した作り話ではない」と言っています。当時、ギリシャの中に密議教というのがあって、技巧に富んだ作り話がありました。ペテロはそういう作り話ではなく、「私たちは確かに目撃したんだ」と言っています。一体、何を目撃したのでしょうか?

 Ⅱペテロ116-17「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」3つの福音書に変貌山の出来事が記されています。イエス様は、マタイ16章後半で、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです」と言われました。それから6日後、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。何故、3人を連れて行かれたのでしょう。律法によると、2人もしくは3人の証言が必要だからです。弟子たちは何を見たのでしょうか?彼らの目の前で、イエス様の御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。これはどういう意味でしょう?イエス様は再び来られる、栄光の姿にしばしの間だけなったということです。それだけではありません、天に戻ったはずのモーセとエリヤが地上に呼び戻され、イエス様と何やら話し合っているではありませんか?ペテロは「先生、私たちがここにいることはすばらしいことです。もし、よろしければ、私が3つの幕屋を作ります」と提案しました。モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表です。こんなすばらしいことはありません。ペテロはお三方と、山の上にずっと留まりたいと思ったのです。すると、光り輝く雲がその人たちを包み、そして雲の中からお声がありました。神さまの声をペテロとヤコブとヨハネが聞いたのです。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」ペテロの手紙では「彼の言うことを聞きなさい」が省かれています。これは、父なる神さまが「イエスは彼らとは別格で、私の子どもである」とおっしゃったということです。そのとき、イエス様は弟子たちに、「自分が死人の中からよみがえるときまでは、だれにも話してはならない」と口止めされました。ペテロはずっと封印していましたが、自分が死ぬ前に目撃したことをここに書いたのです。

 ペテロは何故、自分が目撃した変貌山のことをこのところに書いたのでしょうか?それは、キリストの来臨が作り話ではないということを証明したかったからです。当時のクリスチャンはいろんな苦しみや迫害の中にありました。悪いことをしていないのに、ののしられたり、打ち叩かれたりしていました。人々は「このまま地上の生活が終ったなら本当に不公平だ」と思ったでしょう。今日、多くの教会は、再び来られるキリストのことを強調しません。「え?キリストが本当に来ると信じているの?」と馬鹿にされるかもしれません。だから、信仰がなまぬるいのです。再び、キリストが来られると信じたらどうなるでしょうか?この苦しみや迫害が完全に報いられるということです。なぜなら、キリストはこの世の悪や不正をさばく王として来られるからです。簡単に言うと、本当の宗教と偽物の宗教、白黒つけるためにやって来るのです。悪がさばかれ、正義が報いられるとしたらどうでしょう?ある人にとってはすばらしいことですが、ある人にとっては最悪の時ではないでしょうか。そのためには、王なるイエス様とできるだけ早く、和解しておく必要があります。ペテロは「それはうまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちはキリストの威光の目撃者なのです」と証言しています。ペテロはキリストの何を目撃したのでしょう?それは、再臨のキリストを垣間見たのです。福音書には「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなり」と書いています。ヨハネは再臨のキリストを見ました。ヨハネ黙示録1章に「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。…口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」と書いています。ヨハネは再臨のキリストを見て、その足元に倒れ、死者のようになりました。なぜなら、変貌山の時よりも、もっと栄光に輝いていたからです。

 ペテロもヨハネもそうですが、栄光のキリストを目撃しました。その当時は、まだ新約聖書がまとめられていませんでした。ペテロもヨハネも、口で伝えたり、手紙に書いたりしていたのです。しかし、イエス様の再臨が思っていたよりも遅れました。これは文書に残す必要があるということで、新約聖書ができあがったのです。何故、遅れたのでしょうか?それは異邦人である私たちが救われるためです。神様は私たち異邦人を救うために、「異邦人の時」を設けました。異邦人の時は、教会の時でもありますが、ほぼ2000年たちました。しかし、これももう終わりが近づいています。なぜなら、福音が全世界に宣べ伝えられたからです。私たちが信じているのは、使徒たちが目撃した証言であります。新約聖書は使徒たちの証言と教えが書かれている書物です。新約聖書の目的は何でしょう?それは、私たちがキリストを信じて救いを得るためです。そして、再び来られるキリストに備えるためです。私たちはこの地上でいろんな祈りをします。日々の問題が解決するように、病気が癒されるように、商売が祝福されるように祈ります。こういう祈りも悪いことではありません。しかし、もっと重要なのは、再び来られるイエス様とお会いできるように祈ることです。あなたは、「ハレルヤ!主よ、お待ちしておりました。」と待つでしょうか?あるいはアダムとエバのように御顔を避けて、どこかに隠れるでしょうか?キリストはアルファーであり、オメガなるお方です。この地上の歴史を終結させ、御国をもたらすために、来られるのです。

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2012年9月 2日 (日)

永遠の御国に入る恵み  Ⅱペテロ1:10-15

もし、私たちが「この地上の生活がすべてではない、死後に行くべきところがある」と確信できたら何と幸いでしょうか?法事などやる必要ないですね。救われて良い所にいるのですから、供養する必要が全くありません。「死ぬまで生きれば良いや」と思うでしょう。ある人は10年、またある人は80年、この地上で生活します。しかし、永遠と比べたなら、10年も80年もほとんど変わりありません。たとえ100歳まで生きたとしても、永遠がなければさびしいです。この地上で、死に別れしたとしても、向こうで再会できたら何とすばらしいでしょう?この地上ではいろんな不条理や不公平がありますが、向こうで報われたら何とすばらしいでしょう?もし、永遠の御国が事実であるなら、この地上の生活が変わってくるのではないでしょうか?

1.永遠の御国に入る恵み

 Ⅱペテロ111「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」きょうの箇所には、私たちが行くべき場所について記されています。「クリスチャンが死んだら、どこへ行くのか」ということが明確に記されています。私たちはどこへ行くのでしょうか?このところに「永遠の御国に入る」と書いてあります。御国とは英語で、kingdomであります。kingdomkingdomainが合わさったことばです。kingは王様です。そして、domainとは領地とか領土という意味です。王様の領地であります。一体、だれが御国の王様で、だれが御国を所有しているのでしょうか?11節「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国」とあります。主というのは、領主とか王様という意味です。御国の王様は、イエス・キリストであります。みなさん、他の国に入るためには何が必要ですか?たとえば、私がデンマークにしばらく住みたいと願っているとします。デンマークは王国で、マルグレーテ2世が治めています。ヨーロッパのほとんどの国は6ヶ月くらいだったら、ビザはいらないそうです。でも、1年間住みたいと思ったなら、ビザが必要でしょう。そこに永住したいとなると、永住権が必要になります。つまり、「住んでも良い」という向こうの国の許可が必要だということです。これは日本でも同じです。外国の人が日本に住みたいと願うなら、全く同じでしょう。ときどき、強制送還される人がいます。それは、ビザを持っていないからです。昔はビザを取るためにその国の大使館に行きました。私も30年くらい前に、韓国に行きましたが、その前に韓国の大使館に行きました。けっこう横柄でした。大使館とは何でしょう?別な国の中にありながらも、本国の領土と同じ扱いを受け、本国の全権大使が駐在しています。教会は御国の大使館みたいなところです。もし、だれかが御国に永住したいなら、永住権を取得する必要があります。神さまは教会にその権威を与えているのではないでしょうか?

 では、どうやったら御国に入る永住権を取得できるのでしょうか?ここに私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国」とあります。救い主であるイエス・キリストを信じで、王なるキリストのご支配を受けなければなりません。私たちはアダムの子孫なので、罪があるために御国に入ることができません。「私は法律に触れるような悪いことは1つもしていません」という人がいます。それでもダメです。神さまは100%の正しさ、神の義を求められるので、生まれつきの人間では全く不可能です。イエス様はマタイ520で「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と言われました。当時、神の戒め(律法)をことごとく守る人たちがいました。それは、律法学者やパリサイ人でした。どんな几帳面な人でも彼らにはかないません。彼らの義よりもまさるものとは何でしょう?パウロは、ローマ3章で「神さまは別の義を用意された」と言いました。それは、キリストを信じる義であります。キリストは私たちの罪のために十字架で血を流し、なだめの供え物となられました。神さまは罪に対する怒りを取り下げ、キリストを信じる者を義と認めることにしました。ですから、神の国に入るためには、イエス・キリスト救い主として信じる必要があります。人が信じたら、OKという神の証印が押されます。ビザには必ずその国の証印が押されます。エペソ1章には「聖霊をもって証印を押された」と書いてあります。信じたら、洗礼を受けるべきですが、それ以上に聖霊の証印が必要です。洗礼イコール聖霊の証印ではありませんが、洗礼と深い関係があります。なぜなら、イエス様が洗礼を受けられたとき、聖霊が天から下りました。また、使徒238「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と約束されています。

 ですから、永遠の御国に入るためには、主であり救い主であるイエス・キリストを信じれば良いということです。難しい人たちもいます。なぜなら、地上での「しがらみ」があるからです。地方に行くと、信仰を持つということは、家族や地域の人たちと別れることだと思われています。お墓や仏壇の問題があるので、どうしても信仰をもてないという人たちがいます。特に、日本では260年間に及ぶ徳川幕府の政策がありました。キリスト教は邪宗門であり、信じたら、大変なことになると思われてきました。実際、イエス様は「父、母、妻、子を捨てよ。自分のいのちまで捨てよ」と言われました。日本では、イエス様を信じて御国に入るということは、そう易しいことではありません。どこかで必ず、「本当に永遠の御国に入りたい」という決断をしなければなりません。親しい家族や友人から「宗教にかぶれちゃって、馬鹿なことをやめなさい」と水を差されるでしょう。異教の日本においては、本当に戦いがあります。周りの人たちが反対するでしょう。でも、イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ713-14「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」多くの人は「神さまなんかいないんだ。天国も地獄もないんだ」と言うでしょう。多くの人が何と言うかは問題ではありません。神さまの真理の声に従う方が良いのです。永遠の御国は確かにあります。イエス・キリストは天から下ってこられ、十字架と復活によって、神さまへの道を設けてくださいました。一生に数回、「ああ、永遠の御国があるんじゃないかな」と御国の入口が見えるときがあります。テレビのSFではありませんが、時空のゆがみで向こうの世界がちらっと見えるときがあります。教会にくると、そういう時がありますが、そう何度もありません。御国の入口が見えたときが勝負です。「家族や他の人が何と言おうと、私は、今、信じます」と決断した人だけが、御国に入ることができるのです。

2.永遠の御国に余裕で入る

 第一のポイントはキリストを信じて、何とか御国に入るというビギナーズ・コースでした。スキーやゴルフでもビギナーズ・コースというのがあります。実はクリスチャンもそうであります。ギリギリ御国に入る人と余裕で入る人がいます。ギリギリ御国に入る人とはどういう人たちでしょうか?簡単に言うと救いの信仰しかない人です。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたものの、自分勝手な生き方をしている人です。Ⅱペテロ15-7「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」ペテロは「あらゆる努力をして信仰には徳を、徳には知識を…」と、いくつかの品性を加えています。この人は基本的な信仰があります。それでも永遠の御国は入ることができます。でも、「あらゆる努力をして信仰の上に、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛を加えなさい」と命じられています。これらの品性は救われた人が身に付ける品性であり、霊的成長の証しでもあります。でも、キリストを信じて、洗礼を受けても、「そういうものは私はいりません」という人も中にはいます。李光先生は、「怨念晴らし」ということを良く言われます。イエス様を信じても、心の中で「あの人は絶対赦せない」という人がいるものです。それが親であったり、おじさんであったり、先生や友人かもしれません。そういう恨みを抱えていると、ときどき爆発して周囲を困らせます。いわゆる怨念晴らしであります。その人は、「私を傷つけた人を絶対に赦しません」と怒りを手放すことをしません。では、そういう人は天国に行けないでしょうか?行けます。なぜなら、救いは無条件だからです。李光先生は、「怨念晴らしをしながら、天国になだれ込む人もいる」とおっしゃいます。確かに、教会には怨念晴らしをしながら、信仰生活を送っている人たちがいます。それでも、天国に入ることはできます。

 でも、ペテロは信仰の上に、徳をはじめとする様々な品性を見に付けなさいと言っています。そして、何と言っているでしょう。Ⅱペテロ19-11「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」ペテロは「これらのことを行っていれば、この先、つまずくことは決してありません」と言っています。信仰が確立し、安定するということです。では、そういう人はその先どうなるのでしょうか?「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです」と言っています。原文には「恵み」ということばはありません。「入場が豊かに供給される」「入場が豊かに提供される」「入場が豊かに与えられる」という意味のことばです。別な言い方をすると、「余裕をもって御国に入ることができる」ということです。ギリギリなんとか御国に入れてもらえる人と、余裕をもって御国に入れる人では、どちらが良いでしょうか?数年前、大津の教会に行ったついでに京都に行きました。冬の1月、夜行バスで京都に行き、早朝からお昼まで京都見学をしました。龍安寺とか金閣寺が、雪が降ってとっても良かったです。それから1日半、JCMNの会議のため教会で過ごしました。予定では3時で終わりなのに、4時過ぎまでかかりました。私は「行くところがあるので早く終って欲しい」と言ったのですが、津倉さんが「どうせ、夜行でしょう」と言いました。私はそれから奈良の手前にある平等院鳳凰堂に向かいました。もう、日が暮れてきました。着いたら、5時半くらいで、門を閉める作業をしていました。「東京から来ました。なんとか入れてください」と頼みました。600円取られました。中は貸し切り状態です。薄暗い中に、鳳凰堂がライトアップされていました。宝物倉には入れませんでしたが、「来て、見た」という達成感はありました。

 門を閉める直前、無理して、ぎりぎり入れてもらったという経験をしました。それでも、入れたから良かったです。せっかく行ったのに、ダメと言われたら、泣くしかありません。ある人がルーブル美術館に行ったけど、門が閉まるところでした。「日本から来たんです」と言ったら、係り員が一緒に案内してくれたそうです。永遠の御国、天国はどうでしょうか?韓国のハレルヤおばさんと言われた、崔子実という婦人牧師がおられました。先生はこういうことを話されたことがあります。私たちが死んで、御国に入るときイエス様が門の中におられるそうです。イエス様を信じて、洗礼を受けたけれど、ほとんど教会に行ったこともない。奉仕も伝道もしなかった人がやってきました。イエスさまは「ああ、そうですか?」と一寸、挨拶しましたが、そっけない顔でした。もう一人、別な人が入ってきました。その人は、洗礼を受けた後、神さまに従い、信仰生活を全うした人でした。イエス様はその人をハグして、「どうぞ、こちらでお茶でも一杯」と言われました。そして、「あのときは大変だったねー」と、労をねぎらってくれたそうです。どっちが良いでしょうか?ま、天国に入れただけでもすばらしいと思います。救いは恵みですから、信じただけでも入れます。行いは必要ではありません。でも、余裕をもって御国に入ることができたら何と幸いでしょうか?つまり、信仰は救われたという点ではなく、救われて成長し続けるという線でとらえるべきであります。やがて、イエスさまの前に立つんだという期待と喜びをもって地上で生活すべきです。そうしたら、「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」

3.永遠の御国に入る準備

 ペテロは自分が永遠の御国に入ることが近いと言っています。Ⅱペテロ113-15「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」ペテロは肉体の死を別の表現を用いています。「私は地上の幕屋にいる」と言っています。「私」とは自分の魂(霊と魂)であります。そして、「地上の幕屋」とは肉体のことです。つまり、私自身が肉体の中に住んでいるということです。使徒パウロもⅡコリント5章でもっと詳しく述べています。Ⅱコリント51-3「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。」幕屋とはイスラエルの民が荒野を旅したテントであります。動物の皮とか布でできていました。しかし、長い間、雨風にさらされると朽ちてしまいます。私たちの肉体も50年を越えるとどこかしこ壊れてきます。ある人は内臓が壊れたり、骨組みが壊れたりします。目や耳、歯も壊れてきます。しまいに脳までも壊れてきて、記憶力がなくなります。私たちの肉体では永遠の御国で住むことは不可能です。これは地上のからだであり、天上のからだがどうしても必要となります。使徒パウロは、幕屋のかわりに、「神の下さる建物」あるいは「永遠の家」と言っています。英語の聖書では、テントではなく、ビルディリングとなっています。これは朽ちない栄光のからだを意味しています。永遠の御国には栄光のからだが用意されているということは、なんと幸いでしょうか?

 ペテロもパウロも、死ぬということは、「幕屋を脱ぐことなんだ」と言っています。つまり、魂が肉体を脱ぐ、それが死であるということです。肉体を脱いだ魂は裸の状態です。私たちは死んだら裸の状態でパラダイス(天国)にしばらくの間います。しかし、裸の状態では、完全でありません。その後、神さまは永遠の御国に私たちを入らせてくださいます。永遠の御国では私たちの栄光のからだが用意されています。死なない栄光のからだに、死なない私たちの魂がすっぽりと入るのです。良いですね。楽しみです。かなり前にアバターという映画がありました。あの映画は、ニュー・エイジの思想があるので、ちょっと危ない映画です。肉体と霊魂が分離するという映画がたくさんあります。でも、アバターの主人公は事故で半身不随になりました。しかし、アバターのからだに魂が入ると、自由に動くことができました。最後に自分のもどるべき肉体がなくなり、死ぬしかありませでした。しかし、奇跡が起こってアバターは体で生きることができました。その映画は聖書の一部をまねて作ったのです。聖書の方がオリジナルです。ペテロは「私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです」と言いました。ペテロはイエス様から、「あなたはまもなく死にますよ」と言われていました。でも、ペテロは表現を換えて「私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている」と言いました。死だと、「そこで終わり」という断絶がどうしてもあります。しかし、「幕屋を脱ぎ捨てる」となると違ってきます。詳しく言うと、幕屋を脱ぎ捨て、裸になり、しばらく天国に留まる。その後、復活して天にある永遠の建物に住まうということです。一連の流れをご理解できたでしょうか?肉体の死は決して美しいものではありません。事故や病気、老衰、いろいろあるでしょう。魂が肉体を脱ぐ時はとても辛いそうです。三浦綾子先生は、「死という、最後にすべき仕事がある」と言われました。ジョンバニヤンの『天路歴程』という物語があります。クリスチャンが死の川を渡るとき、本当に辛い思いをしました。しかし、そのとき「希望」が傍らにいて彼を励ましてくれました。途中、やっとの思いで肉体を脱ぐと、今度は軽やかに向こう岸に着くことができました。そこは天のエルサレムでキラキラ輝いていました。

 私たちは聖書的な来世観を持つことがとても重要です。死は終わりではありません。キリストにあるなら復活があり、永遠の御国があるということです。私たちのゴールは永遠の御国に入って、主イエス・キリストとあいまみえるということです。この地上ではどうしたら良いのでしょうか?神の国、永遠の御国はすでにこの地上に来ています。目には見えませんが、私たちは霊的にはそちらで生きているのです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。天の御国、永遠の御国は2千年前から、すでにこの地上に来ているのです。そして、間もなく目に見えるかたちとしてやってきます。だから、準備をしなければなりません。死の準備も大切ですが、死ぬ前に入国できる権利を得なければなりません。そして、この地上で神さまと親しく交わり、神のみこころを行って生きます。その人は地上でありながらも、半分は永遠の御国に住んでいるのです。ですから、永遠の御国が全く新しいところということではありません。地上でいくらか味わっているからです。クリスチャンは、霊的にはすでに永遠の御国に入っています。願わくば、もっともっと、地上でも永遠の御国を味わうことができますように。そして、来るべきときがきたら、何とかギリギリではなく、余裕をもって入りたいと思います。

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