2015年10月16日 (金)

セル集会を導く Ⅰヨハネ1:3、エペソ2:16-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.10.18

 セルチャーチ・ムーブメントというのが今から20年くらい前に、ラルフ・ネイバーと言う人によって紹介されました。世界ではCCMN、日本ではJCMNという団体があります。メンバーの私が言うもの何ですが、ムーブメントは運動とか流れと言う意味ですから、いつまでも続かないと思います。今ではセルチャーチと言わないで、新約聖書的教会とか、共同体というふうに言い換えています。でも、このムーブメントは「教会の本質は何か?」ということを教えてくれました。教会の本質は建物ではなく、クリスチャンなんだということです。牧師がいることには越したことがありませんが、最低限、イエス様とクリスチャンの関係があれば良いということです。

1.交わり(分かち合い)

Ⅰヨハネ13「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」エペソ216-18「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」

第一の質問「私たちの交わりは、だれとの交わりが基礎になっていますか?」交わりはギリシャ語でコイノーニアと言いますが、「共有している」「関わる」という動詞から来ています。クリスチャンというのは神さまの愛や神さまの命を共有している関係なんだということです。でも、私たちの交わりの基礎は何でしょうか。それは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。御父と御子イエス・キリストは三位一体の完全な交わりです。本来なら、罪がある被造物がその中に入ることは決してできません。でも、キリストの血によって贖われた者が、御父と御子との交わりの中に加えてもらえるということは何と幸いでしょうか。

第二の質問「私たちの関係を妨げるものは何でしょうか?」私たちは神さまやイエス様と交わっている分には何も問題がありません。神さまの愛を独り占めできるし、神さまの愛の中に安らぐことができるでしょう。しかし、教会は聖徒の交わり、つまりクリスチャン同志の交わりでもあります。私たちが横を向くとどうなるでしょうか?民族、男女、生まれや育ちの違いによって敵意が頭をもたげて来ます。表面的には愛する兄弟姉妹ですが、一皮むくと考えや好みの違いが見えてきます。5メートルくらい離れていたときは分かりません。しかし、会話をしたり、一緒に活動すると、いろんなものが見えてきます。お互いの心の傷があばかれて、衝突し、汚したり汚されたりする危険性があります。データーを取ったわけではありませんが、気兼ねなく親しく交われる人というのは、5人に1人くらいではないでしょうか?他の人たちは神さまの愛と恵みなしでは交わることができないということです。

第三の質問。「神さまの解決は何ですか?」エペソ人への手紙2章にその解決が記されています。「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させた。敵意はキリストの十字架によって葬り去られた」と書かれています。ここで言われている両者とはユダヤ人と異邦人です。初代教会において律法を重んじるユダヤ人と合理的な異邦人の衝突がありました。今で言うならば、伝統やきまりを重んじるクリスチャンと自由でフランクなクリスチャンであります。さらに私たちの中には傷や偏見があり、ある人は好むけれど、ある人は好まないという軋轢があります。アダムが罪を犯してから、神さまとの関係が壊れ、そして人との関係も壊れてしまいました。しかし、イエス様が十字架によって敵意の壁を壊してくださったことを発見しなければなりません。

第四の質問。「セルグループの交わりにおいて、もっと分かち合うことは何でしょう?」かつて当教会ではいわゆるセルグループが10個くらいありました。しかし、現在残っているのは1,2個です。その代り、ゴスペルとかフラ、賛美チーム、CS、勉強会、お花、受付など、活動のグループとして現存しています。たとえ奉仕活動が目的であっても、必ずそこには交わりが存在します。あるときは、みことばを分かち合ったり、自分の悩みを分かち合ったりすることがあるでしょう?最低限、祈りではじまり、祈りで終わっているのではないでしょうか?名目はともかく、様々な小グループは存在しているということです。実務的な話し合いは簡単にできます。ある場合は聖書の知識や自分の考えを分かち合うこともできるでしょう。しかし、もっと必要なのは心の中にあるものです。真の交わりは、動機、心の傷、心構えを分かち合うということです。そうすると、より親密になり、互いに建て上げ合うことができるようになります。

まとめの部分をお読みいたします。どんな呼び方でも構いませんが、一番重要なことは親しく交わることによって建て上げ合うことです。偽物の共同体は開かれた関係ではありません。なぜなら、お互いの前に防御壁(拒絶の壁)が築かれているからです。私たちは自分をオープンにすることを恐れています。そうすると、聖霊が私たちの間を自由に動くことができません。私たちは線よりも上にあるもの(行動、思考、感情)しか話し合いません。笑ったり、涙するときがあっても、水面下に何かが隠されています。それらは私たちの人生を動かしているものです。隠されている3つのもの(動機、心の傷、心構え)が変わらなければ、私たちの人生も変わりません。セミナーやキャンプに行ったとしても、クリスチャンの変化は一時的です。永続的な変化を期待したいなら、私たち自身を開くべきです。

2.集会の目的と方向性

 Ⅰテサロニケ511「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。コロサイ316「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」当教会では、このような礼拝による集会が行われています。こういう場合は、説教者が一方的にお話しをして、みなさんは聞くというスタイルになっています。聖書ではこのような公の集会の他に、もっと小さな集会があったようです。「互いに」という表現が度々出て来ますが、50人だと無理でしょう?おそらく、2人以上、10人未満ではないかと思います。イエス様は12人の弟子たちと交わり、時には、その中から3人だけを選んだことがありました。初代教会の人たちは、週一度宮で礼拝を守りましたが、平日は家々で集まりを持っていたようです。これからの質問は、礼拝以外に、小さな集会があると仮定して進めたいと思います。第一の質問。「セルの集会ではどのようなことを行いますか?」とあります。パウロは、テサロニケの教会に「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」と命じています。また、コロサイの教会には「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、いろんな賛美をしなさい」と命じています。そこでは知識だけを分かち合うのではありません。もっと、心の内側を分かち合うべきです。そのことによって、互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことができるからです。こういう交わりは女性はできますが、男性はなかなかできません。男性は仕事など実務的な話はできますが、心の中を分かち合うことには慣れていません。裃(かみしも)をなかなか脱ぐことができないのです。その点、女性は問題なく、自分の内側を分かち合うことができます。

 第二の質問です。「どのように分かち合ったら、他の人の徳が高められるのでしょうか?」コロサイ3章にはキリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え」と書いてあります。導入として、食べ物やスポーツのことを話しても良いでしょう。でも、そればかりだとこの世の交わりと何ら変わらなくなります。できれば、神さまから与えられたみことばを体験的に話すと良いです。人に教えるのではなくて、自分が教えられたこと、あるいは自分が恵まれたことを話せば良いのです。私もいくつかの牧師たちの集まりに加わっています。しかし、牧師の癖と言いましょうか、教えたがる人がいっぱいいます。話し始めたら、ワンクール20分間、話さないと止まらない人もいます。私がよく司会をしますが、本当に忍耐が必要です。人の話を途中で止めるのは勇気がいりますが、傍若無人でやっています。

第三の質問。「集会の方向性はどのようになされるべきでしょうか?」勉強会などは、教える人がいっぱい話しても良いでしょう。しかし、その他の集会ではリーダーだけではなく、各メンバーからも発言がなされるべきです。リーダーは話題がそれたり、攻撃するような発言に対して交通整理する必要があります。私はこういう集会のリーダーに向いていないようです。私が話題をそらしたり、攻撃するような発言をする張本人だからです。私自身がセル集会に向いていないとしたら、根本的に問題があります。私は、やはり説教だけしていれば良いのかもしれません。

第四の質問。「集会において、守るべきこととは何でしょうか?」このことはとても大事です。もし、以下のようなきまりがないと、表面的なことしか話さなくなるでしょう。最低限、3つありあります。それは、コントロールしない、さばかない、他言しないということです。教会によっては「牧師に報告しなさい」というところもありますが、私は反対です。あるホームページには「セルチャーチはカルトだ」みたいに書かれていました。それは行き過ぎていますが、セルグループを教会成長のためにやったり、人々をコントロールするために使うのは邪道です。日本では「5人組」という制度がありましたが、互いを見張って密告する恐ろしい関係です。小グループはきわめて安全な場所でなければなりません。ですから、そこの集会で話し合われたことは、他の人には話さないと言うことが重要です。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。セル集会では、説教調ではなく、「私はこのようなことを教えられました」と自分が学んだことを分かち合うべきです。知識よりも、むしろ、自分がやってみてどうだったか、適用面を分かち合うとグループに力を与えます。集会の方向性は、だれかが一人答えるというよりも、お互いに答え合う方が、みんなが参加できます。しかし、中にはほとんど話さない無口な人もいますので、リーダーは答えやすい質問を投げかける必要があります。集会において守るべきことは、その場にいない人のことを批判したり、噂話をしないということです。日本人は批判されることが多いので、セル集会では小さなことでも励ましながら、お互いを建て上げることが重要です。

3.リーダーの心得

 ピリピ22-3「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ヤコブ119「しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」。自分はリーダーでないと思う人も是非、聞いてください。なぜなら、私たちは家庭やどこかの場所で何等かのリーダーであることは間違いありません。以下のことは、PTAやサークルのリーダーにも適用可能です。

第一の質問。「リーダーとして、どういう態度が良くないでしょうか?」ピリピ2章には「何事でも自己中心や虚栄からすることなく」と書かれています。この世においては、自己中心や虚栄心が当たり前になっています。しかし、私たちは「自己中心や虚栄」からではなく、動機がきよめられている必要があります。

第二の質問。「リーダーとして、大切な心構えとは何でしょう?」「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ということです。「へりくだり」、ことばでは5つですが、これが簡単ではありません。立場とか権威を持つとなおさらです。イエス様は最も、自らを誇ることができたお方ですが、天から降りて、私たちのしもべになってくださいました。

第三の質問。「自分が語ることよりも、もっと重要なことは何ですか?」それは「聞くこと」です。聞くということがいかに難しいことでしょうか?ある人は耳が2つで、口は1つであると言いました。テレビで何かの討論会を見るときがありますが、相手の発言を全く聞いていません。ただ、こちらの考えをぶちまけるだけであります。何か、聞く側にまわるのが、負けみたいな感じがするのでしょうか?コミュニケーションの最も重要なことは、聞くということです。あるリーダーは話したくて仕方がないかもしれません。そういう人は、こういう集会のリーダーにならないで、教師か説教者になってください。こういう集会のリーダーで最も大切な資質は、人の話を聞くということです。もし、夫婦の間で、親子の間で、相手の言うことに耳を傾けるなら多くの問題が解決することでしょう。もしかしたら、相手の言うことを聞くということは、相手を愛するという具体的な現れかもしれません。でも、同じ話を3回聞けるでしょうか?まとまりのない話を20分聞けるでしょうか?でも、愛とは聞くことです。なんてパワフルでしょうか!

第四の質問。「問題を起す人や、極端に傷を負っている人にはどう対処したら良いでしょう?」これは実際に良くある事です。これで、集会がつぶれてしまうこともあります。何か怒りを持っていて、だれかにぶちまけなければ気が済まない人がいます。以前、似たような人から傷つけられた人がその集会にいたらどうでしょうか?顔も話し方もそっくりです。そうすると、怨念晴らしをするかもしれせん。李光雨師が「怨念晴らし」ということを教えてくださいました。「教会が怨念晴らしのステージになることがあるんだ」ということを知っているのと、知らないのとでは大きな違いがあります。たとえ言っていることが正義であっても、怨念晴らしをしている場合があります。そういう場合、リーダーはその人を一時的にセル集会から離す必要があります。もし、可能ならば、リーダーはその人の傷が癒されるまで個人的に交わったら良いでしょう。聖書にバルナバという人物が出て来ます。以前のパウロは教会を迫害する危険な人物でした。回心後、弟子たちのところに行きましたが、だれも彼を信じませんでした。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行って、それまでのことを説明してあげました。そういうバルナバのような人物が必要なのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。リーダーは率先して、心を開き、自分の弱さや問題を分かちあうべきです。そうすると、他の人も安心して自分の内側のことを話すことができるでしょう。その場におられる聖霊さまが、解決を持っておられることを期待しましょう。リーダーは、会話を作為的にコントロールすべきではありませんが、グループを守ることもしなければなりません。会話を独占する人や他の人を傷つけるような発言をする人には対処しなければなりません。極端に傷を負っている人は、サポートグループなどに入れて、特別なケアーをする必要があるでしょう。リーダー自身が関係のモデルであり、また常に学び続ける姿勢が必要です。

4.互いの関係

 私は25歳のとき教会に来て、イエス様を信じて洗礼を受けました。最初は私を導いてくれた先輩とずっと一緒に来ていました。やがて青年会というところに所属しました。当時の教会は、年齢別にいろんな会があり、独身だったので自動的に青年会に加わりました。当時の私は信仰に燃えていましたが、そうでない人がたくさんいて驚きました。その後、私は亀有教会で牧師になり、「うすっぺらい関係ではなく、もっと真実な交わりができるはずだ」と考えました。1996年からすべての家庭集会や部会をやめて、全部セルグループに切り替えました。最初は機能しているように思えましたが、いわゆる「セルのいのち」というものは続きませんでした。セルというのは、生物の細胞という意味で1年もすれば倍に増殖するはずだと思っていましたが、そうではありませんでした。そのために心の癒しや解放、エリヤハウスも学びました。結論的に言って、ラルフ・ネイバーが言うセルチャーチは難しかったなーと思います。私自身が理想の関係を求めながらも、傷や恐れがありました。当教会の人たちも、心を割っていろんなことを話せるグループを求めていると思います。でも、日本の文化もあるかもしれませんが、聖書が求める兄弟姉妹の関係まで至らないところがあります。そうするときょうのメッセージは絵に描いた餅のようになります。では、どのようにしたら良いのでしょうか?いきなり理想の関係を求めるのではなく、主にある数人の友を得るところから始めたらどうでしょうか?しかし、その関係は閉鎖的ではなく、オープンで広がりのあるものが良いと思います。また、お互いの関係も、挨拶程度から心の傷を分かち合えるまで、いろんなレベルがあって良いのではないでしょうか?浅い順の1から5段階あるとしたら、せめて3から4段階の人を数人見つけたら良いと思います。心の深いところまで全部分かち合える人というのはそんなにいないと思います。聖書は「小グループを持て」とか、「小グループに所属しなさい」とは書いていません。書いてあるのは「互いに励まし」「互いに祈り」「互いに助け」「互いに愛し」「互いに赦し」「互いに教え」「互いに戒め」という「互いに」がほとんどです。「互いに」と言う意味は、共依存ではなく、相互依存の健全な関係です。つまり、コントロールしないで相手の意志を重んじながら持つ交わりです。たまに信仰年数の多い人が、来たばかりの人に何か要求する場合があると思いますが、それはよくありません。こっちは軽い気持ちで言っているのに、相手は重くうけとめてしまうからです。

 ある牧師が「ほっとする教会でありたい」と言っていました。その先生もいろんなことを試してきて「先生、また新しいことするんですか」と度々言われたそうです。結局、その牧師は、信徒の立場を考えて、「ほっとする教会で良いじゃないか!」と決意したそうです。私はそれを聞いて、妥協をしているように思えました。でも、あとから「互いの関係というのは、今日明日にできるものじゃない。根底に安心感とか信頼感が必要なんだなー」と思いました。雅歌書にこのようなことばがあります。雅歌84「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」私たちの関係も、外側から強いられてできるわけではありません。まず、自分が神さまからの愛に満たされ、そして、神さまの愛によって動かされるということが必要だと思います。このシリーズは「霊的な親」という最終的な学びです。では、霊的な親とは、どういう存在でしょうか?やはり、自分が神さまからの愛をいただいて、機会があったらその愛を隣人に分かち合う存在ではないかと思います。小グループはそのことを体験できるとても良い場であると信じます。

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2013年3月17日 (日)

~人間の原罪と現罪~    亀有教会教育牧師 毛利佐保

<Ⅰヨハネの手紙1:5-10>

1:5
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

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来週は受難週です。イエス様が私たちにしてくださった、ひとつひとつの事について思い起こし、イエス様の十字架の苦しみに思いを馳せる時です。イエス様の十字架の苦しみは、私たちが犯した罪のためです。
では、その罪とは何でしょうか。

先ほど読んだ第Ⅰヨハネには・・・

<第Ⅰヨハネ1:8 >
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
<第Ⅰヨハネ1:10 >
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と書かれています。
イエス様が十字架に架かって私たちの罪を贖ってくださったにも関わらず、私たちは今も尚、罪を犯していると聖書は言っています。これは一体どういう事でしょうか。

今日は、聖書の創世記、神様が人間を創造されたところまで遡って、私たち人間の罪について考えてみたいと思います。

<第Ⅰヨハネ1:5>には 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」と書かれています。

私たちが、神の光の中を歩み、真理を行うためにはどうすればよいかについて、共に考えてみましょう。
◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・

①消えない人間の罪の性質を知る。

私たち人間は、信仰生活、家庭生活、社会生活において、度々、自分自身の無力さや不甲斐なさに、劣等感を感じることがあります。

私が通っている大学で声楽レッスンをしてくださっているI先生は、「私は劣等感を感じたことがないんです~。」と爽やかにおっしゃるのですが、まあ、そういう方も稀にいらっしゃるかも知れませんが、大抵の人は劣等感を感じた事があると思います。

でも、その劣等感を感じて、「私って何てダメなんだろう・・・」と葛藤した末に、それらを乗り越えた時にこそ、人は大きく成長するのではないでしょうか。

ですから、私たちが、人間として、またキリスト者として、成長していくためには、自分の持つ“負”の部分、つまり罪の性質について、自覚する必要があります。

人間には消えない罪の性質がふたつあります。

それは、ひとつ目は、アダムが犯した罪=原罪(original sin)
それとふたつ目は、今も尚、犯し続けている罪=現罪(actual sin)。このふたつです。

ひとつ目の、“アダムが犯した原罪”とは、創世記2:16,17に書かれている、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という、神様との最初の契約を破ったことです。
人間はその時から、神に逆らい、神から離れ、神の目から見て的外れな生き方をするようになりました。

その原罪によって犯した非行(原非行)は、私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて救い主だと告白することによって赦されて消え去ります。

しかし、原罪によって汚染された心(原汚染)は消えずに残っているために、私たちは今もなお、現罪(actual sin)を、犯し続けるのです。心が汚染されるというのは、恐ろしいことです。罪の行為は赦されても、心の汚染は身体中を支配して、悪い思いや、悪い言葉、悪い行いとなってあちこちで暴れるのです。

この汚染された心による罪には、初代教会の信者たちも悩んでいたようで、パウロもペテロもヨハネも苦悩しています。私自身も・・・
「私はクリスチャンなのに、そんなこと思っていいの?そんなこと言っていいの?そんなことしていいの?」
と、度々頭を抱えます。みなさんはどうですか?

カトリック教会では、“告解”という制度があります。“告解”とは、洗礼を受けたあとに犯した罪を、司祭を通して神に言い表して懺悔することです。カトリック教会には、告解をする部屋があって、その部屋に入ると、壁の向こう側に司祭がいるので、信者はそっと罪を告げます。そして父と御子と聖霊の名によって、罪の赦しを受けます。司祭の顔は見えませんし、もちろん秘密は厳守されます。

また同じくカトリック教会の考えでは、召されてもすぐに御国に行けるわけではなく、“煉獄”という所に行って、この世での罪を償ったなら、御国に行けるという煉獄思想があります。

それもこれも、やはり、人には“現罪”があるからという事になるでしょう。
私たちは、キリスト者だと言いながらも、心、言葉、行いにおいて、罪を犯してしまうのです。ですからそのことを自覚する必要があります。なぜなら、罪に気付かなければ、悔い改めることもできないからです。
◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・
 
②本来の“神のかたち”とイエス様の十字架の意味を知る。

神様は人間をご自身のかたちに似せて創造される時、明確なご意思と目的をもって創造されました。
本来の“神のかたち”とは、どのようなものだったのでしょうか。

まず、創世記1:26-28を読んでみましょう。
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<創世記1:26-28>
1:26
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

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ここに書かれているように、神様は人間を“神のかたち=神の代理”としてこの地上にあるすべてのものを支配するために、特別な存在として造られました。

ですから、人は地に対して神の代理であり、神に対して地の代表でした。
更に、人間は、創造主である神に造られたのですから、本来、神なしでは生きられない、神に頼って生きる存在、つまり“他律”の存在です。しかし、人間は神との最初の契約を破って神から離れ、自らが神のようになろうとし、自分の栄光のために自分の力でどうにかして生きようとする“自律”の道へと進んでいきました。

“罪”という言葉はギリシャ語で“ハマルティア”・・・“的外れ”という意味があります。
聖書の教える“罪”とは、神様から離れて的外れな生き方をすることにあります。

ところで、皆さんは創世記のこの人間創造の記述をじっくり読んだことがありますでしょうか?
何となく読んでいたり、先入観で解釈してしまうと、アダムとエバについて勘違いしてしまいがちなことがいくつかあります。まず・・・

(1)アダムとエバは楽園で暮らしていたので、「あはは~っ!アダム~エバ~」と笑って暮らしていればよかった。

・・・っと、思っていた方はいらっしゃいませんか?
そんなことはありません!神様は人に仕事を与えました。

<創世記2:15> 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神様はアダムに、“土地を耕し、そこを守る”という仕事を与えました。
でも、それは食べるものを得るための仕事ではありません。人が食べるものは別に用意されていました。

<創世記2:9>神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
神様は園に見るからに好ましい、食べるのに良い木を生えさせたので、アダムとエバは食べるために土地を耕したのではなく、神様から与えられた、「神の仕事」をするために耕したのです。

これが、本来の人間の労働の姿です。
食べるために、またお金を得るために働くのではなく、神様から与えられた仕事をするために働くのです。
今、みなさんが携わっておられるお仕事が、神様の栄光を表す神の仕事であるならば、どんなに素晴らしいことでしょうか。

では、二つ目の勘違い・・・

(2)アダムとエバは死なないよ。永遠のいのちを持っていたからね。

・・・っと思っていた方はいらっしゃいませんか?
どうもそうではないようです。

先ほど読んだ聖書個所に「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」
と書かれていましたが、この園の中央にある“いのちの木”の実を食べたなら、アダムとエバは“永遠のいのち”を得ることができたようですが、彼らは、「食べてはいけない」と神様から言われていた“善悪の知識の木”の実の方を先に食べてしまったようです。

それは、<創世記3:22>に書かれている記述から読み取れます。

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<創世記3:22>
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
<創世記3:24>
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

*************
アダムはエデンの園から追い出されて、その後、創世記4章の始めに書かれている通り、その妻エバを知ったようです。そして、カインとアベルを生みました。

このように創世記を読むと、どうも、最初の人アダムとエバは、神様から創造されて間もなく・・・お互いを知る暇もなく・・・あっという間に・・・速攻で罪を犯したのではないか?と考えられます。

そう考えると、本当に、人間は愚かで傲慢なうえに、意志の弱い存在なんだと認めざるを得ません。

神様は、人間がこのように、いとも簡単に、あっという間に、神様の期待に反して罪を犯す事を、最初からご存知だったのでしょうか。「ああ、やっぱりな。」という感じだったのでしょうか。
だとしたら、どうせならもっと、強固な意思で神様に服従する心をもつ人間を創造していただきたかったです。

神様は神様との契約を破った人間を見て、どんなに落胆なさったことでしょうか。

このことを自分の人生に置き換えてみた場合、私は親や先生の忠告を聞かずに自我を通しては失敗し、何度も落胆させてしまったことを思い出します。

でも、自分が親になった時、気が付きました。忠告を聞かずに失敗した子どもに対して、「ああ、ほら・・・やっぱりそうなったでしょう」と、落胆はしますが、でも、どうにかして手を差し伸べて、助けてやりたいとも思うのです。

父なる神様も、きっと同じような思いで私たち人間を見て下さり、救い主イエス様を与えてくださったのではないでしょうか。イエス様の十字架は、罪深い私たち人間に対する、父なる神様からの大きな愛と憐れみなのです。


でも、その方法は、完全なる神であられるイエス様が、完全なる人となられてこの地上にお生まれになり、十字架という、もっとも残忍な方法で私たちの罪過のためのいけにえになってくださる・・・というものでした。


イエス様は私たちと同じ肉体を持たれたので、拷問や十字架刑による痛みと苦しみは、想像を絶するものだったことでしょう。それを思うと本当に心が痛みます。


では、私たちは、神様のこの愛に、イエス様の恵みに、どのように応えれば良いのでしょうか。


◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・

③勝利者キリストの血による恵みと聖霊の助けによる罪からのきよめを得る。

神様が創造された時の、本来の人間の姿に戻ることが、私たちの目指すところです。

ところが、この世、特に日本では、進化論の考えが中心になっています。


先日、上野の国立科学博物館に行ってきました。

ここでは「生物の進化」について、進化論的考えを基に展示が構成されていました。

地球の始まりと人類の誕生について、世界中の科学者たちが長い年月をかけて、わずかに残された化石や出土品、文献などを手掛かりとして研究し、このような仮説を立てています。


「地球は46億年前に太陽系の他の惑星と共に誕生し、40億年前に海中で誕生した生命が、地球環境の変遷とともに進化し、ついには人類が誕生した。」


この地上の生物は、海中の微生物が陸に上がって両生類に、両生類から哺乳類に進化していったようです。そして人類に関しては、猿人が600万年前に、どこかから偶然発生して、原人が180万年前に現れ、旧人を経て、そして新人ホモ・サピエンスが20万年前に現れたようです。


この人類は、氷河期の過酷な時代などものともせず、進化して生き残っていったようです。

博物館では、その様子が、人物復元資料などと共にドラマティックに解説されていました。視覚的なインパクトがかなり大きいので、ほとんどの来場者が疑問を感じることなく事実として受け止めている様子でした。


科学者たちの理論の中には創造主である神の存在はなく、偶然の発生と、進化と、絶滅との繰り返しです。

進化論で考えられる人間は、人を“モノ”としてしか理解していません。“モノ”である人間は、目的を持たず、この地球で偶然に発生し、偶然に進化を重ねて“ヒト”となりました。そこには神は全く介入していませんし、進化論で考えられる人間は、いずれ絶滅するし、年を重ねるごとに衰えて、滅びてしまいます。


日本の教育は進化論しか教えませんので、その影響は、日本の社会や文化に現れています。


自己を神としたり、人を神にして偶像を作り上げ、偽の神を崇めます。その根底には、自分の力でどうにかしようとする“自律”の生き方があり、彼らがこの世で生きる目的は自己の栄光のためなのです。

そして、日本の社会では、歳をとると厄介者として扱われます。

私たちクリスチャンもついつい、そのような思想に押し流されてしまいそうになります。


しかし、神が創造された人間は、偶然発生したのではなく、目的を持って創造されました。

聖書で神様が語られているように、この地は滅びますが、人間は滅びてしまうのではありません。

罪を悔い改め、イエス様を救い主だと信じて告白した者には“永遠のいのち”が与えられるのです。


そして、キリスト者は、この地上での生活を全うするために、聖書のみことばを信仰と生活の最高規範とし、神に依存して生きる“他律”の生き方をします。


詩篇の一篇を読んでみましょう。

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<詩篇1:1>
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
<詩篇1:2>
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
<詩篇1:3>
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

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神のみことばに従う人は、ここに記されているように、水路のそばに植わった(神に植えられた)木のようであり、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」のです。

人間は、年を取るごとにますます栄えるように造られています。たとえ、体力が衰えて身体が動かなくなっても、記憶が衰えてしまっても、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさみ、心が神様から離れなければ、その人は、何をしても栄えるのです。

この姿こそ本来神が創造された人間の姿なのです。

先ほども申しましたが・・・

神様が創造された時の、本来の人間の姿に戻ることが、私たちの目指すところです。

とはいえ、現実は、私たちキリスト者は、自分がその心と、言葉と、行いにおいて、なお罪を犯してしまう“現罪”に苦しんでいます。

しかし、神は光であって、私たちは神の光の中を歩む者です。罪に負ける敗北者としてではなく、将来完全に勝利する者として罪と闘わなければなりません。

“現罪”は、この地上では完全に無くなることはありませんが、キリスト者においては、勝利者キリストの血による恵みと、聖霊の助けによって聖化され、徐々にきよめられます。

そしてイエス・キリストの再臨後に栄化されて完全に無くなるのです。

来週は受難週です。イエス様の十字架の贖いに感謝し、自らの罪を言い表し、神から与えられた仕事を忠実に行って、神の光の中を歩み、真理を行い、父なる神様の大きな愛への応答をいたしましょう。

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2012年2月19日 (日)

この方こそ、まことの神    Ⅰヨハネ5:18-21

きょうで、ヨハネ第一の手紙からの講解説教はおしまいです。ですから、本日の説教はこの手紙のまとめというか、結論的なものになると思います。大体、手紙の一番最後には、全体を要約したり、あるいは「これだけは書き送りたい」という大事なことを書くものです。では、ヨハネが最後に言いたかった事というのは何なのでしょうか?ヨハネは、第一に私たちはどういう者であるか、第二は私たちが信じている方はどういう方であるか書いています。

1.私たちはどういう者か

神の御子イエスを信じている人はどういう者なのでしょうか?Ⅰヨハネ5:18-19「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」「神によって生まれた者」とは、一体、だれのことを指しているのでしょうか?私たちクリスチャンです。イエス様を信じると、私たちは霊的に新しく生まれ変わります。これを新生と言います。生まれつきの人は罪を犯すのが普通であり、罪を犯しても何とも思いません。しかし、神によって新たに生まれた人の性質は違います。「だれも罪を犯さない」と書いてあります。原文のギリシャ語は、継続を意味します。正しく訳すならば、「罪を犯し続けない」という風になります。どういうことかと言うと、罪を犯すことが普通でなくなるということです。罪を犯すと具合が悪くなり、同じ罪を犯さないように方向転換するということです。これを悔い改めと言います。なぜ、そんなことをするのでしょうか?私たちの中に神の性質、種が宿っているので、罪を犯し続けることができないのです。道徳というのは外側からいろんな圧力をかけて、規則を守るように強制します。規則には規則、きまりにはきまりというように、やがては膨大な数になるでしょう。しかし、神によって生まれると、聖霊によって性質が変わります。そして、聖霊が内側から働いてくださるのです。私たちの頑張りとか意思ではなく、聖霊の助けと導きによるものです。

では、「神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです」とはどういう意味でしょうか?「神から生まれた方」とは、神の御子、イエス様のことです。悪い者とは悪魔です。ヨハネ10章にも似たようなみことばがあります。ヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」アーメン。私たちの命はイエス様の御手の中にあります。私は洗礼準備会でこのようなたとえを用います。ここに百円玉があるとします。百円玉とはあなたの命です。これを右手でぎゅっと握りました。だれかがやって来て、手の中にある百円玉を取ろうとします。簡単に取れるでしょうか?私を打ち倒さない限り、不可能でしょう。ましてや、主イエス・キリストの御手の中に握られていたらどうでしょうか?悪魔でさえも、あなたの命を奪い取ることはできません。これが救いの確かさであります。しかし、一節に恐ろしいことが書かれています。「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」。まことに残念ですが、福音派の教会でも、このみことばの意味を知らない人たちがたくさんいます。ある人たちは、「イエス・キリストの十字架と復活で、悪魔は破れ、この世は神さまのご支配のもとにある。だから、悪魔のことは気にしなくても良い」と言います。そうではありません。主の再臨が来るまで、この世は悪魔の支配下にあります。キリストの十字架で変わったのは、この世であっても、神のご支配の中で生きることができるということです。イエス様はヨハネ17章でこのように言われました。ヨハネ17:14-15「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」このみことばからも分かるように、私たちはこの世に生きていますが、この世のものではありません。だから、この世は私たちを憎み、さらに、悪い者が私たちに攻撃を加えようとするのです。そのために、私たちは、神様から守っていただく必要があるのです。

ヨハネがこの手紙の中で一番、言いたかったテーマは何でしょうか?私たちに何があると、悪い者によって攻撃を受け、ある時は敗北してしまうのでしょうか?逆に言うと、私たちに何がないと、悪い者に常に勝利できるのでしょうか?それは「罪」です。罪の問題は、Ⅰヨハネ1章にも書いてありました。もし、私たちに罪があるならば、神さまとの交わりが絶たれてしまいます。その人はやみの中を歩んでいることになり、悪い者の標的になるでしょう。悪い者はあなたの救い、永遠のいのちは奪い取ることはできません。しかし、あなたを罪の中にとどまらせ、敗北的なクリスチャンにすることは可能です。私たちが罪から離れ、神さまとの交わりを回復する手立てとは何でしょうか?神さまの前で、罪を言い表すことです。するとどうなるのでしょうか?神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。でも、神さまが私たちを赦すのは、イエス・キリストが流された血潮のゆえであります。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのです。そして、私たちは再び、神さまと親しい交わりを持ち、光の中を歩むことが可能になります。悪い者、悪魔がなぜ、キリストの血をいやがるのでしょうか?キリストの血がその人の罪を取り除くと、訴える口実がなくなるからです。罪こそが悪魔の餌であり、私たちを訴える材料なのです。私たちに罪がなければ、悪魔はおそれるに足らずであります。だから、私たちクリスチャンは常に、キリストの血に隠れつつ、神さまの光の中を歩む必要があります。もし、自分の義で立とうとするならば、悪魔にやられてしまいます。キリストの贖いによって与えられる、神さまの義を着るのです。そうすれば、悪魔が支配しているこの世であっても、勝利し続けることができるのです。

数週間前、ある集会で、こういうことが話題になりました。私たちクリスチャンに罪があるか、ないかということです。私は「私には罪がありません。なぜなら、神さまから義と認められているからです」と答えました。すると、周りにいる人たちが怪訝そうな顔をしていました。「では、原罪があるだろう」と聞かれ、私は「肉の性質は確かにありますが、原罪はありません」と答えました。「それは、ジョンウェスレーが言う、キリスト者の完全ですか」と言われました。そこでは、神学的な話をしてもしょうがないので、そのまま帰ってきました。家内に「あなたには罪がありますか?」と聞きました。「罪はありません」という答えが返って来ました。「うぁー」さすがだなーと思いました。数日後、ある先生から、「鈴木先生が言われたことはどういう意味ですか?」という電話がありました。そこで、ローマ5章から8章までの流れを簡単に説明して答えました。私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえりました。そのことによって、私たちはもうアダムの子孫ではないのです。そのため、アダムから来る原罪は断ち切られました。あるのは肉の性質です。肉が律法によって刺激され、罪を生み出すのです。たとえ、そうであってもパウロはこう言っています。ローマ8:1-2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」アーメン。私たちは法的に義と認められており、罪がない者として見られているのです。もし、私たちが単なる「赦された罪人」であったら、罪を犯すことが当たり前になるでしょう。なぜなら、自分は罪人だと思っているからです。でも、私たちはキリストにあって義人であり、聖徒なのです。罪を犯すことが当たり前ではないのです。たとえ、罪を犯すことがあっても、義人であり聖徒なのです。ヨハネはパウロと表現の仕方が幾分違っています。法的な意味ではなく、生命的な意味で教えています。クリスチャンは神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。この世は悪い者の支配下にあります。しかし、私たちの命は、イエス様の御手の中にあります。だから、悪い者は私たちに触れることができないのです。このように、キリストにあって、自分が何者であるかを知るということは、とても重要です。聖書が私たちを何者と言っているか、そこに焦点を合わせていけば、そのように生きることができるようになるのです。

2.私たちが信じている方はどういうお方か

第二は、私たちが信じている方がどういうお方であるか、それを知ることがとても重要です。Ⅰヨハネ5:20-21「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」私たちが信じている方とはどういうお方なのでしょうか?このところに登場しているお方はお二方おられます。第一は神の御子です。御子イエス・キリストとも書かれています。第二は「真実な方」と二回書かれています。真実な方とはだれでしょうか?もちろん、真実な方とは、父なる神さまのことです。ヨハネ第一の手紙に、同じように呼ばれている箇所があるのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「神は真実で正しい方」と書かれています。「神の愛」「神は愛です」と何度も記されていますが、「真実な方」と言われているのはここだけです。なぜ、ヨハネは「愛なる方」と言わないで、「真実な方」と紹介しているのでしょうか?このところの分脈から判断しますと、「悪い者」とは悪魔のことです。ヨハネは悪魔のことを何と言っているでしょうか?ヨハネ8:44「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」そうです。悪魔のうちには真理がありません。悪魔は偽り者であり、また偽りの父です。悪魔と反対に、父なる神さまは真実なお方です。となると、悪魔との戦いはどのような戦いになるのでしょうか?それは、真理における戦いです。もし、私たちが真理とは何であり、偽りとは何であるかを知るならば、悪魔に勝利することができるのです。だから、18-20節には「知る」という言葉が、3回記されています。特に、20節前半には、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています」と書いてあります。そうです。神の御子であるイエス様が「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださった」ということです。この世の人は、悪魔をまるで神さまのようにあがめて礼拝しています。逆に、まことの神さまを悪魔のように遠ざけています。なぜでしょう?神の御子であるイエス様を通して、神様を見ていないからです。聖書以外の書物を読んだり、宗教家の教えを聞いているからです。恐ろしいことに、日本では霊能者や占い師の言うことを信じている人がたくさんいます。日本の仏教のほとんどは密教と結びついていますので、悪しき霊が影響しやすいのです。

私たちが悪しき霊、あるいは悪魔との戦いにおいて最も費やすべきことは、真理とは何かを知る作業です。では、真理とは何なのでしょうか?多くの人たちは、片方に真理があって、もう片方に偽りがあると考えています。また、片方に善があって、もう片方には悪があると考えています。しかし、それは正しくはありません。真理とか善は真中にあるのです。そして、右端と左端の方に偽りとか悪があるのです。それを狭い道にたとえることができます。道幅が2メートルくらいの農道で、両脇には溝があるとします。その道を自転車で走る場合は、道の真中を走らなければなりません。右側に寄り過ぎると溝に落ちます。反対に左側に寄り過ぎると溝に落ちます。真理というのは真中にあるのです。そして、極端なものが偽りであり、悪なのです。信仰生活は極端の溝にはまらないように進む、スリルあるものなのです。悪魔が、神さまが造られた世界にやって来ました。悪魔は造り主ではありません。悪魔ができるのは、神さまが造られたものを、良いものを悪いものに歪めていくことです。しかし、それを悪い方に変えるというのは、両脇の溝にはまらせることです。たとえば、セックスに関して、一方は不品行や乱交をするように誘惑します。もう一方には「セックスは悪いものであるから絶対それから遠ざかるべきである」と言ってきます。憎しみに関してはどうでしょう?一方は「クリスチャンは決して憎しみなんか持つべきではない。何に対しても、忍耐を持ち、我慢する。どんなことに対しても、感情を持つべきではない」と言ってきます。悪魔は自分のことを憎んで欲しくないからです。しかし、神さまは咎を憎む者を愛しておられます。悪霊に関してはどうでしょう?一方には「悪霊などいないんだ。そんなの時代遅れだ」と言います。もう一方は「すべてが悪霊のせいだ。病気も家族に争いがあるのも悪霊のせいだ」と言ってきます。このように悪魔は良いものを悪いものに歪めて変えていきます。そして、どちらかの極端に生きるように誘惑します。私も心理学やカウンセリングについて長い間学びました。しかし、キリスト教会にも両極端があります。神学を強調する人たちは、「神を信じていない心理学者の言うことを聞くな。私たちは新しく生まれ変わったのだから、過去のものは過ぎ去ったのだ」と言います。一方、心理学を強調する先生は、人間の罪のことを全く話しません。「社会のせいだ、おいたちが悪かったんだ」と言います。人間には霊もあるし、心もあります。私たちは両者をバランスよく取り扱う必要があります。

イエス・キリストの中には、神と人がバランスよく存在していました。イエス様はまことの人であり、まことの神でした。イエス様は私たちが神さまのもとでこのように暮らすべきですよ、と模範を示してくださったのです。クリスチャンになると、聖められ過ぎて、世の人たちと交わらない人がいます。しかし、イエス様は取税人や罪人たちと一緒に食事をしました。その時、律法学者やパリサイ人は何と言ったでしょうか?「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と馬鹿にしました。もし、私たちがこの世の人たちと全く交わらなかったなら、伝道することは不可能です。しかし、彼らの誘惑にはまってしまう危険性も同時にあります。また、私たちはイエス様を見ると、神さまがどんなお方か分かります。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と言われました。ある聖書学者はこのみことばを、イエス様は「真理でいのちの道である」と訳しました。イエス様は、神さまのところへ行く唯一の道なのですが、真理でいのちの道であるということです。ある人たちは、イエス様抜きで、イエス様をバイパスして、神様のところへ行こうとします。多くの場合、彼らが主張する神さまは、本当の神さまではありません。愛とか恵みばかり強調されて、義のない神さまであったりします。あるいは、全知全能であっても、人格のない神さまであったりします。ヨハネは最後に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」と言いました。ヨハネ第一の手紙の最後のことばは唐突過ぎるでしょうか?でも、このように文脈を見ながら、学ぶと、「イエス様抜きの神さまは、偶像になるんだなー」ということが分かります。偶像とは人間が自分たちの都合の良いように作った神さまです。日本の新興宗教は、先祖崇拝を絶対はずしせません。聖書の良いところを取り入れたり、ある場合はキリストも神さまの一人であると言います。でも、そこに存在しないものがあります。それは人間の罪であり、罪を贖う救い主がいないのです。復活もなければ、御国の完成もありません。魂がどこか知らないところで、フラフラ暮らすのです。当然、地上での生き方にも支障をきたしてきます。なぜなら、真理に即した生活をしていないからです。私たちはイエス・キリストを通して、神様に到達することができるのです。また、すべての真理もイエス・キリストを通して分かるのです。

最後に、20節の後半をお読みいたします。「それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」聖書では、イエス・キリストが神さまであると直接、言っているところはほとんどありません。しかし、Ⅰヨハネ5:20は、イエス・キリストが「まことの神、永遠のいのち」であると書かれています。どの英語の訳の聖書も、そうなっています。私は「キリスト教」という言い方はあまり好きではありません。しかし、「絶対にキリスト様の名前ははずせないなー」と思います。なぜなら、キリストを通して、神さまのことが分かるし、キリストを通して神さまのところに行けるからです。さらにイエス・キリストご自身が神さまでもあります。カール・バルトは20世紀の最大の神学者だと言われています。私はちょっと立場が違うのですが、カール・バルトが強調したことには賛成です。彼はキリスト論をとても強調しました。「たとえ聖書に間違いがあったとしても、キリストを証言していることにおいては正しい。キリストこそが受肉したことばであり、啓示の中心である」と言いました。私はキリストを証言している聖書も誤りのない神のことばだと信じています。でも、キリストを通して聖書を読まないと、律法主義になったり、単なる教えになることがあります。キリストを通して神さまを見るならば、愛であり義なる神さまが分かります。哲学者であり、科学者であるパスカルがクリスチャンであることはとても有名です。パスカルも妹のジャクリーヌも天才でした。宮廷において名声を得ていた彼女が、突然、修道院に入りました。姉も結婚し、パスカル一人だけが残されました。パスカルはその才智ゆえに、社交界でも人気を博していました。しかし、人々の「きらびやかな楽しみ」に付き合うのに限界を感じました。11月23日午後10時半、突然、「火」が臨みました。奇跡が、夜の12時半まで続きました。そのとき、パスカルはこのように叫びました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神。キリスト!キリスト!キリスト!」パスカルはすべてを放棄して、イエス・キリストに完全に服従することを誓いました。パスカルは、自らの証明を忘れないように、「覚え書き」を肌着に縫いつけていたようです。パスカルはキリストと出会って、神さまがわかり、真理がわかり、永遠に至る人生が分かったのです。私たちもヨハネのように告白したいと思います。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」アーメン。

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2012年2月 5日 (日)

みこころにかなう願い     Ⅰヨハネ5:13-17

私たちはいろんなことを神さまに願い求めます。しかし、あるものは答えられ、またあるものは答えられません。これまでのことを振り返って、自分が願い求めたことの何%が答えられているでしょうか?もし、「半分は答えられています」とおっしゃる人がいたなら、すばらしいと思います。私たちの祈りは、宝くじのように確立が低いものなのでしょうか?きょうは、どのように願い求めたなら、もっと与えられるのかを、聖書から学びたいと思います。

1.みこころにかなう願い

新約聖書において「求めたら与えられる」という有名な箇所はどこでしょうか?そうです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてあります。ここに「神さまに求めるなら与えられる」と約束されています。確かに、求めるということは良いことであり、求めなければ決して与えられないものがあります。現代はとても便利な時代です。「必要は発明の母」と言われるように、求めたからこそ、そうなったのだと思います。では、信仰生活においては、どうでしょうか?求めたものがすべて与えられたでしょうか?「下手な鉄砲数打てば当る式で、たくさん求めたら、その中の何%はかなえられるだろう。」祈りとはそういうものなのでしょうか?もう1箇所、「求めたら与えられる」というみことばがあります。ヨハネ16:23-24を抜粋します。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」このところには、「イエス様のお名前によって求めたなら、父なる神は、何でもお与えになる」と約束されています。マタイ7:7よりも限定されています。なぜなら、イエス様を信じて、神様と親子関係になった人たちが対象だからです。しかも、「イエス」という名前を用いたら、父なる神さまは何でも与えてくれるというのです。どうでしょう?クリスチャンの方は、イエス様のお名前によって、何十回、何百回も、求めてきたと思います。でも、正直なところ、どのくらいの確立で与えられたでしょうか?「私は、30%はかなえられた」と思う方はどの位いらっしゃるでしょうか?「私は、50%はかなえられた」と思う方?「私は、70%はかなえられた」と思う方?あまり、分からないという方は2種類あると思います。1つは祈った祈りをチェックしていない人です。昔、山崎長老さんは、「祈りのノート」を持つことを提案しました。あの時は、70%くらい答えられたように記憶しています。ちゃんとチェックしたから分かったのです。もう1つは、かなえられたかどうか分からない漠然とした祈りです。たとえば、「世界に平和が来ますように。みんなが幸せになれますように」という祈りは、答えられたかどうか判断しようがありません。

では、どのようにしたら、私たちの祈りが「下手な鉄砲数打てば当る」式でなく、100発100中の祈りへと近づくことができるのでしょうか?それがきょうの聖書箇所です。Ⅰヨハネ5:14-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」これは、マタイ7章やヨハネ16章よりも、高度な求め方ではないでしょうか?では、この祈りは他の祈りとどこが違うのでしょうか?そうです。「みこころにかなう願いをするなら」と書かれています。何事でも、みこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる。「わぁー、なんとすばらしいことだろう。やったー。これで100%祈りがかなえられる!」でも、難しいのは、「神さまのみこころは何か」ということを知ることです。「これは、自分からの願いなのか、神さまが私たちに願っていることなのか」どちらなのでしょう?おそらく、神さまのみこころというのは、神さまが私たちに願っていることだと思います。そして、もし、私たちが神さまの願っていることを求めたならば、神様は「よくぞ、求めてくれた。ようし、かなえてあげる」とおっしゃるのではないでしょうか?インドネシアの話です。あるとき、お父さんは息子に「最近、欲しいものはないか?」と聞きました。息子は「ゲーム機が欲しい」と言いました。お父さんは「ゲーム機も良いが、もっと必要なものがあるだろう?」と言いました。実は、少年の学校は家からとても離れていました。少年は毎日、学校まで1時間くらい、野を越え、山を越え、歩かなければなりませんでした。息子は少し考えた後「それじゃ、自転車が良いなー」と言いました。お父さんは「自転車と言ってもいろいろあるけど、どんな自転車が欲しいの?」と聞きました。息子は「そうだね。学校まで行くためには、マウンテンバイクが良いなー」と言いました。お父さんは「よーし。3日後に買ってあげるから待ってね」と言いました。実は、お父さんはマウンテンバイクを既に買っていたのです。それを納屋に隠してあったのです。息子が、マウンテンバイクを求めるのを待っていたのです。

もし、私たちが神のみこころにかなう願いをするなら、必ず与えられます。「下手な鉄砲数打てば当る」式の求め方ではなく、神のみこころに合う求め方をすべきです。そのためには、2つのことが必要です。第一は聖書を読むということです。聖書には神のみこころが記されています。私たちは聖書を読むことによって、神さまの価値観に基づいた考え方を持つことができます。これまでは、ただ自分の欲望のために生きて、他の人のことなど考えませんでした。また、目に見えるものがすべてであって、地上のことしか考えませんでした。しかし、聖書を読み続けていくと、何が重要なのか分かります。このように、聖書には一般的な神のみこころが示されています。第二は御霊によって祈るということです。聖書を読んでから、神さまに祈り求めます。そのとき、私たちの願いと神さまのみこころが交差します。ある場合は、神さまのみこころと私たちのおこころとに、かなりのズレがあるかもしれません。しかし、継続して祈っていくと、御霊が「いや、神さまのみこころはこうだから、ここを修正しなさい」と教えてくれます。祈り続けることによって、聖霊が私たちの自己中心的な願いを聖めてくださるのです。そして、「ああ、これが神さまのみこころなんだ」と確信をもって祈ることができます。それはまるで、ボートが岸壁に接岸するときのようです。ボートに乗った人が岸壁に近づくと、岸にいる人のところにロープを投げます。そして、岸壁のポールにロープを結わえてもらいます。ボートに乗った人はそのロープを「よいしょ、よいしょ」と手繰り寄せます。そのとき、乗っている人は、まるで岸が自分に近づいてくるように見えます。本当はボートが岸に近づいているのですが、まるで岸が自分に近づいてくるように錯覚するのです。これが、みこころにかなう祈りです。神さまのみこころに、自分の祈りが変えられていくのです。そして、だんだんと、神のみこころに近づいていくのです。そのためには、私たちは自分の心を空しくして、ただ、神のみこころがなるように願う必要があるでしょう。「どうしても、これしかない」という自己中心的な願いを一度捨てる必要があります。父なる神さまの本当の願いは、求めたものを与える以上に、私たちの人格を取り扱いたいのです。たとえば、ある女性が理想の男性と結婚したいと願っています。ハンサムで、信仰深く、経済的にも安定した男性と結婚したいと祈り求めます。そうするとどうでしょう。自分もそれにふさわしいように努力するでしょう。スタイルを良くしたり、内面も整えるでしょう。西洋では、わがままな王女が整えられるという童話がたくさんあります。神さまは理想な人と結婚させたいのですが、同時に、その人自身も良くなるように願っておられるのです。

祈りには大きく分けて、求める祈りと交わる祈りがあります。求める祈りとは、さまざまな必要を求めたり、他の人のためのとりなしがあるでしょう。また、交わる祈りとは、神さまと対話する祈りです。聖書を読んでいるときもそうですが、道を歩いているとき、仕事をしながらも、交わることができます。大きな問題を抱えているときには、断食して集中して祈ることも必要でしょう。入学、就職、結婚、家を建てるとき、あるいは神さまの奉仕を選ぶとき、神様のみこころを求める必要があります。そのとき、確信が来るまで祈らなければなりません。練馬グレースの小笠原先生は「祈り抜く」という表現をします。「これだ!」という神さまからの確信が来たら、もう、それに向かって進むのです。みことばに「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」とあります。そうです。まだ、目には見えていなくても、手で触っていなくても、すでにかなえられたと知るのです。私たちに必要なのは、信仰の目であり、信仰の手です。神さまは私たちが信仰によって歩むことを願っておられます。最初は小さなものが祈りによって与えられることを経験します。次はもっと大きなことを求めることができます。それが与えられると、さらに大きなことを求めることが可能になります。なぜでしょう?私たちの信仰が大きくなったからです。もし、私たちの求める願いと神さまが私たちに与えたいという願いを比較するならば、どちらが大きいのでしょうか?私は神さまが私たちに与えたいという願いの方がはるかに大きいと思います。天国の倉庫には、私たちに送るべき荷物がたくさん用意されているそうです。ある人が、天国の倉庫を見たそうです。すると、「受取人不在」で戻ってきた品物が山積みされていたそうです。なぜしょう?一、二度は求めたけれど、途中で祈り求めることをやめたからです。神さまが「さあ、今、与えよう」と思ったとき、その人は、もういなかったのです。どうぞ、そのようにならないように、神さまのみこころを求め、みこころにあった祈りをし続けましょう。もう一度、みことばをお読みいたします。Ⅰヨハネ5:14-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」アーメン。

2.みこころにかなうとりなし

後半は、求める祈りの1つ、とりなしの祈りについて学びたいと思います。「とりなし」とは、当人に代わって、こちらが神さまに求めることです。当人が、まだ未信者であったり、クリスチャンであっても祈れない状況にある場合です。Ⅰヨハネ5:16-17「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」このところに、二種類の人がいることが分かります。一人は死に至らない罪を犯している兄弟であり、もう一人は死に至る罪を犯している兄弟です。第一の問題はここで言われている「死」とは何かということです。どちらも兄弟と呼ばれているので、イエス様を信じている人であります。クリスチャンであるならば、永遠の死に行くことはありません。たとえ罪を犯したとしても、天国に入ることができます。私はこの死とは、肉体の死であると思います。その人が、ある罪を犯したために、さばきとして、肉体的な死を迎えるということです。Ⅰコリント5章にも、同じようなことが書いてあります。Ⅰコリント5:5「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」この聖句から分かることですが、私たちは重い罪を犯すことによって、サタンに引き渡され、肉体的に死にます。しかし、そのことによって、霊が主の日に救われるということです。肉体的な死はさばきであり、そのことによって、地上の罪が帳消しになるのかもしれません。あるいは、もうこれ以上、地上で罪を犯さないように、神さまが命をお取りになるのかもしれません。使徒の働き5章にアナニアとサッピラという夫婦のことが出ています。彼らは土地代をごまかして、聖霊を欺いたために死にました。では、この夫婦が地獄へ行ったかというとそうではありません。確かに肉体的には死にましたが、霊においては救われ、天国に入ることができたと信じます。

私たちは人々のためにとりなすとき、死に至る罪を犯している兄弟姉妹のために祈っても、聞かれないと言うことです。私たちの祈りは神さまに届いているのですが、サタンがすでにその人を支配しているので、心が頑なになり、罪を悔い改めないということでしょう。神さまがその人を直接、さばくというよりも、サタンに引渡してしまうのです。結果的に、その人は肉体的に死ぬということです。パウロの弟子かもしれませんが、信仰からはずれた人たちがいました。Ⅰテモテ1:19-20「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」ここには、背教者とは書いていませんので、はっきり分かりません。しかし、「サタンに引渡した」とありますので、あきらかに裁きです。なぜなら、サタンは最終的には、その人の命を奪うからです。私たちはこういう箇所から、神を恐れるということを学ぶ必要があります。当教会のように、福音的な教会は、主の恵みを強調します。神のさばきについてはほとんど語りません。聖書を連続して学んでいますので、どうしてもこういう厳しい箇所に当ることがあります。一般のクリスチャンは重い罪を犯したり、躓いた場合は教会に来なくなります。救いをなくしたわけではないのですが、霊的に眠っている状態です。ですから、リバイバルの可能性はいつでもあります。しかし、問題なのは教会の指導的な立場にあたっている人が重い罪を犯した場合です。間違った教えを広めたり、お金をごまかしたり、パワハラ、セクハラをやめない場合です。牧師や伝道者、役員は一般のクリスチャンよりも影響力があります。悔い改めない場合、神さまは教会を守るために、さばきを下すこともありえるということです。私は、ケネス・ヘーゲンが書いた本を10冊以上読みましたが、そういうケースが書いてありました。ある牧師に癒しと奇跡の賜物が与えられました。その人が会衆の前に立つと霊的な力で人々が押し倒されました。そして、多くの人の病が癒され、奇跡も起きました。ところが、その牧師は高慢になって、さらには聖書的でないことも語り出しました。ケネス・ヘーゲンがその牧師のためにとりなしの祈りをしました。すると、神さまが先生に言われました。「もう、彼のために祈らなくても良い。私は彼の命を取ることを決めているから」と。1ヶ月位たったら、その牧師は本当に死んでしまったのです。私たちは神を恐れなければなりません。特に人々の前に立つ牧師やリーダーたちです。ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」

もう1つ、このこところで言われていることは、とりなしの祈りです。Ⅰヨハネ5:16「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。」さきほどの例は、極端な場合であり、多くの人たちは死に至らない罪を犯している人たちです。だから、結構、長く生きているのではないでしょうか。神さまのご性質は、愛であり、恵みであり、あわれみです。私たちを喜んで赦したいのです。とりなしの祈りで最も有名な聖書箇所は、アブラハムがロトのために祈ったことです。創世記18章にその物語が書いてあります。主はソドムとゴモラの罪があまりにも重いので、滅ぼすことを決めていました。そして、そのことを神の友である、アブラハムに告げました。アブラハムはソドムとゴモラにはロトとその家族がいるので、一生懸命にとりなしました。最初に「その町に50人の正しい人がいたら、滅ぼさないでください」と願いました。でも、だんだん不安になり、45人、40人、30人、20人、10人と下げていきました。最終的に、主は「滅ぼすまい、10人のために」と約束しました。しかし、ソドムとゴモラには正しい人が10人いなかったのです。結局、その町は火と硫黄とによって滅ぼされました。でも、主はアブラハムの祈りを聞いていたので、御使いを遣わして、ロトとその家族を救い出してくださいました。残念ながら、ロトの妻は後ろを振り返ったので、塩の柱にされてしまいました。でも、何故、主はアブラハムにソドムとゴモラに対するさばきを、前もって告げたのでしょうか?それは、アブラハムがとりなすことによってロトとその家族を救い出したかったからです。神様はご自分のみこころを行なうために、とりなす人を今も求めておられます。しかし、なぜ、そんなややこしいことをしなければならないのでしょうか?イエス様は弟子たちに「みこころが地でも行われるように祈りなさい」とお命じになられました。天においてはみこころは完全になされますが、問題はこの地であります。この地は人の罪とそれを食い物にしている悪魔が支配しています。神さまは、ご自分の義を曲げて、この地に介入することはできません。しかし、誰かが、その人の罪をとりなしてくれるならば、神さまは合法的に助けられるのです。ですから、神さまは今でも、「あの人のために、祈ってくれないか」と私たちにお声をかけるのです。それは寝ている真夜中かもしれないし、道を歩いている時かもしれません。子供のために、夫や妻、あるいは兄弟姉妹のために「祈れ!」とお命じになるのです。そのとき、私たちは「ぱーっ」とその人の顔が浮かびます。そして、その場にしゃがみこんで祈るならば、どうでしょう。あとから、「こういう不思議なことがありました。恐ろしい事故から免れました。」などという証しを聞くでしょう。神様が私たちのとりなしの祈りに応え、御使いを遣わしてくださったとしか思えません。

使徒パウロはエペソ6章の後半で、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽し、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください」とお願いしています。どうぞ、兄弟姉妹のためにお祈りしましょう。そして、神さまのみことばを取り次ぐ、牧師のためにも祈ってください。日曜学校のため、ジュニアのため、そして病の中で戦っている兄弟姉妹のために祈ってください。さらに、日本の国民が危機の時代にあって、福音に耳を傾けるようにお祈りください。神さまのみこころにおいて、私たちに対する一番の願いは何でしょう?Ⅰテモテ2:4-5「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

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2012年1月29日 (日)

神のあかし      Ⅰヨハネ5:6-12

6から12節まで、「あかし」という言葉が、9回記されています。「あかし」は英語ではwitnessと言いますが、明らかに法律用語です。証言とか、証拠という意味です。しかし、ギリシャ語では殉教、殉教者という意味もあります。となると、命をかけた証言ということになります。ヨハネは自分が見たこと聞いたことを、あかししています。そして、そのあかしがどんなに真実であるか、この手紙で証言しているのです。

1.神のあかし

 Ⅰヨハネ5:6-8「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」このところに、「あかしするものが三つある」と書かれています。申命記19章に「ひとりの証言では足りない、二人または三人の証言によって立証されなければならない」と書かれています。ですから、ヨハネはイエス様が神の御子であることを、3つもので証言しています。第一は水です。イエス・キリストは水によって来られたということです。ほとんどの聖書注解は、水とはバプテスマであり、それはイエスの洗礼のことであると述べています。しかし、「水」ということをユダヤ人が見ると、それは「羊水」であるとすぐ分かるそうです。ヨハネはヨハネによる福音書3章で、「人は水から生まれただけでは神の国に入れない」と言いました。水とは母の胎であり、肉体的な誕生を意味しています。イエス・キリストはマリヤの胎から生まれました。これは肉体的な誕生、神が受肉したということを意味しています。当時、グノーシスという異端が出現していました。彼らは「肉体は悪であり、神さまが肉体を取ることなんかありえないんだ。肉体を持ったように見えたんだ」と主張しました。これを「仮現論」と言います。しかし、イエス・キリストは確かに、水によってこの地に来られ、私たちと同じ肉体を持っていたのです。ヨハネはそのことをⅠヨハネ1章でこのように証言しています。Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」ヨハネは「私はいのちのことばについて、聞いて、目でじっと見て、手でわさりましたよ」とあかしをしています。「ことばは肉体になった」ということを証言しているのです。

 第二のあかしは、血です。これはイエス・キリストが十字架で流した血のことであります。さきほどのグノーシスという異端は、「神さまは十字架にはかからなかった。あそこで死んだのはナザレのイエスという人間なんだ。キリストは十字架にかかる前に天に帰ったんだ」と言いました。十字架はどの世界でも躓きでありました。しかし、ヨハネは「イエス・キリストは確かに十字架で血を流し、罪の贖いを成し遂げられのだ」と証言しています。ヨハネによる福音書19:34-35「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。」ヨハネは「イエス様のわき腹から、血と水が出てきた。目撃した者があかしをしているんだから、真実なんだ」と述べています。どうして、イエス様のわき腹から血と水が分離して出たのでしょうか?イエス様は槍で刺されて死んだのではありません。「すべてが完了した!」と叫んだとき、心臓が破裂したのです。その場合、血と水が分離することが医学的に証明されているようです。とにかく、ヨハネはイエス様が血を流して、贖いを全うされたということを見て、それを証言しているのです。先々週、このところで関東コーチングセミナーが開かれました。現在、練馬グレースチャペルの主任牧師は、横田義弥先生です。彼はイエス様の十字架を思うと、涙が出て語れなくなると言いました。横田先生は2年くらい前、小笠原先生から主任牧師になれといわれたとき、祈るために山奥に行ったそうです。大柄な先生が、膝をかかえて祈ったそうですが確信が来ない。そこで、エディ・レオのメッセージをカセットテープで聞いたそうです。そのとき、「キリストの血が私たちを聖めて、神さまに近づくことができるんだ」とヘブル書から語っていました。「そうか、キリストの血なんだ!私の能力とかきよさではない」と確信が来たそうです。イエス・キリストが十字架で血を流し、贖いを全うされたのは物語ではなく、事実なのです。

 第三のあかしは、御霊です。御霊は神さまですから、ヨハネは「これは神のあかしである」と述べています。ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」このみことばは、イエス様がおっしゃっています。ですから、真理の御霊がわたしについてあかしするとは、キリストについてあかしするということです。これはどういう意味かと申しますと、私たちに「イエスは神の御子であり、キリストである」ということをあかしして下さるということです。どうでしょうか?私たちが何らかのかたちで、神さまを求めたときがありました。そのとき聖書を読んだかもしれないし、ゴスペルの歌だったかもしれないし、あるいはだれかが話してくれた福音かもしれません。そのとき、神の霊があなたの霊に「イエス様は救い主である。あなたは彼を受け入れるべきだ」と語りかけたのではないでしょうか?このような肉声ではなく、細き御霊の声であります。それで、あなたは納得したか、降参したか、わかりませんが、受け入れたのではないでしょうか?このように御霊は外からあなたに向かって語ってくださいます。しかし、イエス様を受け入れた瞬間から、今度は、あなたの内側からあかししてくださいます。ローマ8:16 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」アーメン。このように、神の御霊が、キリストをあかししてくださるのです。このようにキリストを証言することが、聖霊の最も重要な働きであります。

 でも、その証言を受け入れないならどうなるのでしょうか?世の中には、そんなの信じなれないという人がたくさんいます。Ⅰヨハネ5:9-10「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」御霊のあかしは、神からのあかしです。もし、ああ、それは神のあかしですと信じる者は、自分の中に同じあかしを持っています。「アーメン、イエスは神の御子であり、キリストです。イエス様は肉体ともってこの世に来られ、十字架で血を流されました。そして、私は、そのイエス様を信じていることを御霊と共に証します。」すばらしいですね。きょうは洗礼式がありますが、まさしく、そのことを洗礼によってあかしするわけです。人は、一人で神さまの前に告白するだけで救われます。でも、洗礼式の場合は公に、自分が信じていることを言い表すことです。そうすると、ああ、「この人は確かにイエス様を信じたんだ」ということを、複数の人が認め、その証人となるということです。1週間後に「あれは嘘だったんです。忘れてください」とは言えないのです。信仰を告白するということは、それだけ重みがあるということです。しかし、この聖書の証言、あかしを信じない人もいます。神の御霊がそう証言しているのに、「私は信じない」と言ったらどうなるのでしょうか?ヨハネは「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです」と言っています。神さまの証言を信じないということは、「神さまは偽り者であり、嘘つきだ」と言う人です。すごいですね。私たちは御霊の証言、つまり、福音の前に立つとき、信じるか信じないか、2つに1つしかありません。もし、信じないと言うなら、神さまが嘘を言っているから信じないということになるのです。イエス様は肉体をもってこの地に来られ、十字架につき血を流して、贖いを全うされました。このお方を救い主として信じるときに、人は救われるのです。

これは、これは神の霊、御霊も私たちに語っています。どうでしょうか?神さまは嘘を言われるお方でしょうか?「神の子イエスなんていなかったんだ。十字架で人が救われるなんて嘘だ。天国も地獄もないんだ。人は死んだら無になるんだ。聖書も作り話で嘘っぱちさ。」そうでしょうか?ヨハネの証言、聖書の証言、神の御霊の証言をアーメンと受け入れる人は幸いです。その人が救われるか、救われないかは、その証言を受け入れるか受け入れないかにかかっているからです。イエス様が十字架で血を流したのですから、私たちも命をかけて信じるしかありません。

2.救いのあかし

後半は、「イエス様を信じたらこういうことになりますよ」というあかしです。これは聖書が「救われている人はこうですよ」という、私たちに向けての証言であります。Ⅰヨハネ5:11-12「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」ここに「いのち」と書かれていますが、これはヨハネ独特の表現です。普通、「いのち」と言ったらギリシャ語ではプシュケーです。これは「魂」とか「生命」という意味です。しかし、ヨハネはゾーエーというギリシャ語で「いのち」と言っています。ゾーエーの命は、自然のいのちではありません。神のいのちであり、永遠のいのちという意味があります。ですから、この世の多くの人たち、イエス様を信じていない人は、プシュケーの命は持っているかもしれないが、ゾーエーの命は持っていないということになります。ゾーエーの命は永遠のいのちですから、「救い」と同じ意味であります。ただ今から、この聖句から、1つ1つ一緒に学びたいと思います。最初の質問は「だれが、永遠のいのちを与えてくださるのでしょうか?」11節のはじめに、「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ」と書いてあります。ですから、神さまです。神さまが私たちに永遠のいのちを与えてくださるということです。アーメン。

第二の質問は「永遠のいのち、救いはだれが持っているのでしょうか?」これは、持っているというよりも、永遠のいのちを与える手段と言っても良いかもしれません。「そしてこのいのちが御子のうちにあるということです」。はい、御子イエス様のうちにあるということです。イギリスの聖書は「神さまが私たちに永遠のいのちを与えてくださった。そして、そのいのちが御子のうちにあることを見出した」と訳しています。神さまが永遠のいのちを与えてくださったらそれで良さそうなものです。しかし、そのいのちはイエス様のうちにあるということです。これをたとえるとこうなると思います。私たちのところに、郵便小包、あるいは宅配便が来ます。私たちはそれを受け取るとき、「はい、確かに受け取りました」とハンコかサインをします。もし、私たちがそこにいない場合は、彼らはそれを持ち帰って、再び配達してくれます。私たちは受け取ったら箱を開けて、中味を取り出します。そこで、品物が自分のものになるのです。神さまは救いの入った箱を送ってくださいます。が、それを受け取って、開ける作業が残っています。また、パソコンをなさる方はよくご存知だと思いますが、ダウンロードという作業があります。マイクロソフトでもダウンロードセンターがあり、アップデートをするために必要です。私たちはマイクロソフトからクリックして、ダウンロードします。すると、自分のパソコンまであるデーターが運ばれてきます。それだけではダメなんです。「開く」というところをクリックします。すると、「同意しません」と「同意します」のチェックがあります。わざわざ、「同意します」というところをクリックしないと、自分のパソコンにインストールされません。もう、パソコンにデーターが、来ているんですが、それを開いて、同意しないとダメなのです。何か救いの関係と似てはいませんか?神様からの救いは私たち一人ひとりに届けられています。そして、救いはイエス・キリストという箱の中にあるということです。イエス・キリストを開いて、「受け取ります」と同意すれば良いのです。いや、同意しなければなりません。

第三は、では、だれが永遠のいのちを持っているのでしょうか?これは、どういう人が永遠のいのちを持っているかという質問になります。どういう人でしょうか?「御子を持つ者はいのちを持っており」と書いてあります。「持つ」とはギリシャ語で「持つ」という意味ですが、「悪霊に憑かれている」という場合も、同じことばを使います。「キリストに憑かれている?」というのも変ですね。簡単に言うと、人格的で霊的だということです。悪霊も心を開いて、こちらからお願いしない限りは簡単には入って来れません。私たちがイエス様に心を開いて、「受け入れます」と願うならば、イエス様が聖霊によってお入りくださるのです。だから、クリスチャンというのは、聖霊によって、イエス様が内側に住んでおられるということです。イエス様は霊ですから、イエス様を信じても体重は変わりありません。クリスチャンになったら、500グラムくらい増えるとわかりやすいのですが、そういうことはありません。でも、はっきりしていることは、イエス様を心の中に有している人は、永遠のいのちも同時に有しているということです。

第四、最後の質問ですが、どういう人が永遠の命を持っていないのでしょうか?「神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。そうです。神の御子である、イエス様を持っていない人は、永遠のいのちも持っていないということです。持つとは、信じると同じ意味です。しかし、ヨハネはなぜ、持つとか持たないとか、そういう言い方をしたのでしょうか?ヨハネは、いつもは、信じるとか信じないという言い方をするのに何故でしょうか?信じるというのは、漠然として分からないところがあります。頭で知的に信じるという信じ方もあれば、全面的に信頼して信じるという信じ方もあります。その人が、どの程度、信じているのか客観的に見定めるのは不可能です。でも、持っているか持っていないかとなるとどうでしょうか?持つというのは、非常に物質的で、非常に分かり易い表現です。「あなたは、今、1万円持っていますか?」と聞かれたらどうでしょうか?「それは頭で知的にという意味でしょうか?」「それとも全面的に信頼してという意味でしょうか?」そのように聞く人はまずいません。持っているか、持っていないかすぐわかります。しかし、中には、お財布の中にいくらお金が入っているか分からない人がたまにいます。金持ちなのかズボラなのか、分かりません。でも、そういう人であったとしても、ちょっとお財布を調べると分かります。持っていたら、「持っている」。持っていなかったら、「持っていない」と答えるでしょう。でも、どうなのでしょうか?問題は、イエス様を持っていないことが、1万円をもってないことと同じくらい明白かどうかということです。これは、「自分がクリスチャンか、それともクリスチャンでないか」ということが分かると同じです。表現を変えるなら、「自分は救われて永遠のいのちがあるか、あるいは自分には救いも永遠のいのちもないか」です。

 こういうことを聞いて不安になる人がおられるでしょうか?「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。この言葉を聞いて、「あれー、私には救いも永遠のいのちもないみたいだ。その確信がない」という人はおられるでしょうか?それとも、「ああ、私はイエス様を持っているので、やっぱり救われているんだ。永遠のいのちもあるし、天国にも行ける!」と改めて確信を持たれたでしょうか?みなさんに、ここで挙手を願うわけにはいかないでしょう。どうぞ、確信がない場合は、後日、私のところに電話をしてください。そして、再び、私が福音を伝え、信仰告白へと導かせていただきます。でも、イエス様を信じることが、物を持つことと同じくらい、確かなことなのでしょうか?いのちの問題を何か論理で証明することは難しいと思います。たとえば、私が5歳のこどもに、「○○ちゃんは生きている」と聞いたとします。その子はどう答えるでしょうか?私の心臓は鼓動して、脈もあります。考えることもできるし、手足を自由に動かすこともできます。息もしているし、瞳孔も開いていません。このように答える子どもはまずいないでしょう。おそらく、「ほら、生きているよ」と答えるでしょう。生きていることは、本人が一番良く知っています。それを客観的に表現することはできないかもしれませんが、本人は分かるのです。同じように自分がイエス様を持っていて、永遠のいのちがあるということを知っているのは本人です。同時に、自分はイエス様を持っていないし、永遠のいのちもないということを知っているのも本人です。私はこれまで150人近くの方々に洗礼を授けてきました。でも、その中には、「人間的にお世話になっているので、仕方なく」という人もいたかもしれません。実際に、洗礼を受けて、次の週から全く来なくなった人もいます。きょう、この後、洗礼式があるのに、恐ろしいことを言っています。言いたいことは、本当に信じているかどうか分かっているのは、本人自身だということです。もし、イエス様を信じているなら、本当に救いの確信があり、永遠のいのちがあるという確信があります。でも、人間は生き物ですので、時には救いの確信がなくなったりすることもあるでしょう。鬱病になったり、悪霊にやられた場合、そういうことがあるようです。その時はどうしたら良いのでしょうか?それは「聖書にそう書いてあるから」と答えるのが一番です。私はイエス・キリストを持っています。だったら、救いも永遠のいのちもあるのです。「私はイエス様を失いたくありません。イエス様は私の救い主、私のいのちです。」もし、そのように告白しておられるなら、確実に、救いと永遠のいのちはその人にあります。世の中では、最後に気持ちだとか、気力だとか言います。アスリートの人の人たちは「最後は気持ちの勝負だ」と良く言います。でも、クリスチャンはそうではありません。「最後は神のみことばです。みことばが何と言っているか」であります。子どもの讃美歌に「主われを愛す」という曲があります。しかし、英語の歌詞を直訳するとこうなります。「イエス様は私を愛しています。私はこのことを知っています。なぜなら聖書がそのように私に言っているからです。彼に属する小さい者達は弱くとも、彼(イエス様)は強いのです。」聖書のみことばに立つとき、救いの確信はゆるぐことはありません。

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2012年1月22日 (日)

世に勝つ者      Ⅰヨハネ5:1-5

どの国民であれ、「いつ、どこで、だれから生まれたか」ということを重要視されるのではないでしょうか?旧約聖書を見ると、「だれの子どもなのか」というが重要なアイディンテティでした。父親で身分が決まってしまうようなところもありました。しかし、クリスチャンはイエス・キリストを信じると新たに生まれることができます。私たちの霊的な父親は天地を造られた神様です。なんとすばらしいことでしょうか。ヨハネは私たちのことを「神によって生まれた者」と呼んでいます。そして、Ⅰヨハネ5章のはじめで、神によって生まれた者には2つの特徴があると教えています。

1.兄弟を愛する者

 神によって生まれた者の第一の特徴は、兄弟姉妹を愛するということです。Ⅰヨハネ5:1-2「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。」使徒ヨハネは、「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」と言っています。知らない人は「イエス・キリスト」と聞くと、イエスがファーストネームで、キリストがファミリーネームみたいに思ってしまうでしょう。イエスは確かに名前ですが、キリストは職名であります。キリストは、元来、「油注がれた者」ですが、救い主とかメシヤという意味になります。当時、イエスという名前はかなり付けられていたようです。しかし、キリストはだれにでも付けられる称号ではありません。キリストはギリシャ語ではキューリオスですが、当時、ローマ皇帝がキューリオスとして崇められ、皇帝礼拝がなされていました。ですから、その当時「イエスがキューリオスです」と告白したら、コーマ皇帝を否定することになります。その人は、捕らえられ、死刑になるでしょう。私たちが「イエスはキリストです」と告白するのは、「私はイエス様を救い主として信じます」という告白と同じなのです。

 「イエスはキリストです」と心から告白するとどうなるのでしょうか?ヨハネは、「その人は神によって生まれたのです」と言っています。ヨハネ3章には、ココデモの物語が記されています。彼はユダヤ人の指導者でしたから、身分、知識、経験、宗教心、すべてを備えていました。しかし、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われました。いくら立派でも生身では神の国に入れないということです。新しく生まれるとは、「上から生まれる」という意味です。私たちが「神のひとり子、イエス様を信じます」と告白すると、神さまが私たちを新たに生まれ変わらせてくださるのです。信じるのは私たちがすべきことですが、新生させてくださるのは神であり、神の霊です。本当のクリスチャンであるなら、霊的に新しく生まれ変わった存在です。これを英語ではボーンアゲィン・クリスチャンと言います。しかし、アメリカやヨーロッパに行きますと、名ばかりのクリスチャンが大勢います。イエスはキリストであることを頭で知っていますが、霊的に生まれ変わっていないのです。聖書も読んでいるし、教会にも通っている。しかし、心からイエス様をキリストとして信じていません。だから、同然、霊的にも生まれ変わっていないのです。日本にはたくさんのミッションスクールがありますが、ほとんどの学生はボーンアゲィンしていません。教養として聖書を学び、知識としてイエス・キリストを知っているだけだからです。ヨハネは「もし、本当にイエスがキリストであることを信じたならば、神から生まれた存在である」と言っています。そして、「神から生まれたなら、このようなことが普通になりますよ」と言っています。それはどんなことでしょうか?

 第一は生んでくださった方を愛するということです。生んでくださった方とは父なる神さまのことです。神さまは単なる神さまではなく、「お父さん」です。新生した人の特徴は神さまを「お父さん」と呼べるということです。あひるなどは、卵からかえったとき、最初に見たものが自分のお母さんだと思うそうです。あひるが最初に猫を見たら、猫がお母さんになります。人間を見たら、人間がお母さんになります。ある人たちは祈るとき、「愛する天のお父様」と祈ります。これは信仰がなければとても言えないでしょう。主の祈りも「天にいます我らの父よ」と祈り出すので、信じていない人には苦痛ではないでしょうか?だけど、神さまを信じると、聖霊の助けによって、「アバ父よ」「お父さん」と呼ぶことができるようになるのです。それでは、第二の特徴は何でしょうか?神さまを愛する人は「その方によって生まれた者をも愛します」。「その方」とは神さまですから、神によって生まれた他の人たちをも愛するということです。イエス様を信じて神の子どもになったのは自分一人だけではありません。他にもイエス様を信じて神のこどもになった人がいます。いわば、兄弟姉妹です。イエス様を信じて、本当に霊的に生まれ変わった人は、他の兄弟姉妹を愛するようになるのです。もし、「私は教会の人を、だれ一人愛することはできません。みんな私のライバル、私の敵です」と言ったら、その人の救いは怪しいものとなります。J.BフィリップスはⅠヨハネ5:1,2をこのように訳しています。「イエスをキリストであると本当に信じている人はだれでも、神さまの家族の一員です。父を愛しているその人は、父の息子たちを愛さずにはおられません」。なぜでしょう?自分の中に神の愛があるからです。それまでは、愛することが至難の業でした。しかし、クリスチャンになると神の種が宿るので、愛することが自然になるのです。昔、We are the Worldという歌がありました。アメリカの選りすぐりの歌手が歌っていました。その歌詞の中に、We are all a part of God’s great big family, you know love is all we need.「私たちはみんな神の偉大な家族の一人だから、すべての人に愛が必要なんだよ」と歌っていました。歌やスポーツはそういう力があります。しかし、私たちは神によって生まれ変わることによって、そのことが可能になるのです。

 さらにヨハネはこう言っています。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」神の命令とは何でしょうか?Ⅰヨハネ4:21です。現代の聖書は章とか節がありますが、原文の聖書にはありません。だから、本来はくっついているのです。Ⅰヨハネ4:21「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」そうです。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきであり、それは神さま命令です。ヨハネは「その命令は重荷とはなりません」と述べています。重荷とは、詳訳聖書によると「飽き飽きすること」「過酷なこと」「耐え難いこと」とも言い換えられることばです。みなさん、人を愛するということは、結構、大変なことではないでしょうか?相手にされなかったり、拒絶されるかもしれません。自分の方だって、嫌な人から近づいて来られたら、「どうしよう」と構えるんじゃないでしょうか?現代は、通話料がただであったり、いろんな人とメールをやりとりできます。私のところにも「通話料がタダだから…」と言って、電話をかけてくる人がいます。「あなたの通話料がただでも、私の時間はただじゃないんだ。用件だけにしてくれ」と言いたくなります。メールが来ても、「返事を出したくないなー」という場合もあるでしょう。私たちは意識はしていないかもしれませんが、人によってランク付けをしているのではないでしょうか?「この人だったら、1時間くらい話しても良い」。「この人だったら、早く切りたい」とか。

たまに、ユニクロに買い物に行くときがあります。カウンターで会計をしている人は、とても輝いて見えます。営業の顔、営業の声なんでしょうが、「よくやるなー」と感心します。おそらく、そういう人は一日の仕事を終えたら、「ぶすー」っとなって、もう口も利きたくないという感じになるでしょう。私たちも営業で兄弟姉妹を愛することは可能かもしれません。しかし、近いうちにメッキがはがれます。「よして!なれなれしい」とか言われ、興ざめするかもしれません。教会だから、兄弟姉妹だからといって、互いに愛し合うということは簡単ではありません。お互いの距離を計ったり、「この程度は良いだろうかな?」みたいな探索が必要です。でも、いつでも忘れてはいけないことがあります。私たちは、かつては罪人でした。キリストによって贖われ、神の子どもとされたのです。今も、不完全で、罪の性質や弱さがあります。でも、自分たちの父は神さまで、神の愛が注がれています。だから、愛することをチャレンジするのです。ちょっとやそっと傷ついても愛することをやめてはいけません。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」永遠に続くものは愛です。だから、私たちは小さなことで、「傷ついた」とか「躓いた」と甘ったれたことを言ってはいけません。なぜなら、同じ、天の父を持つ兄弟姉妹だからです。本当の兄弟姉妹は良く喧嘩するものです。喧嘩をしながら、仲良くなり、愛を学ぶのです。本当の愛は、傷つき、汚れながら学ぶのです。でも、そこには確かに、神の愛が流れています。これは神の命令ですから、私たちは、愛することをやめてはいけないのです。大川牧師が「愛には卒業はない。一生、愛の課題に立ち続けるしかない」と言ったことを思い出します。私たちは、神の子どもとして、愛の課題に立ち続けるしかないのです。でも、それは重荷にはなりません。イエス様が十字架でお互いの罪を負い、聖霊様が愛を注いでおられるからです。

2.世に勝つ者

神によって生まれた者の第二の特徴は何でしょうか。Ⅰヨハネ5:4-5「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」ここに「なぜなら」と書いてありますので、前のことと何か関係しているようです。第一のポイントでは神から生まれた者は神を愛し、神から生まれた者たちをも愛するということでした。つまり、兄弟姉妹を愛するという命令は重荷にはならないということです。それでは、世とは何でしょうか?ヨハネによる福音書にも、たびたび「この世」とか「世」という名称が出てきましたが、どういう意味でしょうか?実は「世」というのは、神に敵対している人たちのことを言うのです。そして、世の背後には、この世の神であるサタンが支配しているというのがヨハネの考えです。と言っても、キリスト教会の中には、「この世界は神様が造られたので、神様が支配しているんだ。サタンが支配しているなんてとんでもない」と言う人たちが半分くらいいるでしょう。20,30年くらい前に、霊的戦いということがクローズアップされました。アルゼンチンから来られた、アナコンディアという伝道者が、「サタンよ、よく聞け。お前の汚い手を離せ!お前を縛る」と天に向かって叫びました。それから、癒しや奇跡を行ったのですが、ものすごく、強烈でした。つまり、空中の権威を持っているサタンを縛ってから、ミニストリーをするというものでした。日本の教会は、外国と比べてサタンや悪霊の働きは顕著でありません。どちらかと言うと、隠れて働いています。なぜなら、キリスト教会の中でも、そういうものを認めていない教会が多いからです。ある教会は「悪魔はいない」というヒューマニズム、またある教会は「そういう時代は終わったんだ」という神学を持っているからです。

でも、新約聖書を見ると「世」「この世」というのは、神を認めず、神に敵対している人たちのことです。それは、アダムとエバが神に敵対してから始まったことです。神さまはこの世を救おうとアブラハムを選びました。そして、アブラハムの子孫、イスラエルの民が世界の祭司となることを願いました。しかし、旧訳聖書を見るとわかりますが、イスラエルは不信仰と不従順の歴史です。そのため、神さまは、御子イエスをこの世に送りました。イエス様は30歳で公生涯を始められます。開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。これはどういう意味でしょうか?神の国がイエス様と一緒にやってきたということです。アダム以来、この世は神に反逆して生きてきました。そこへ、神の国が「どーん」と、楔形のように突入してきたのです。イエス様は神の国はどういうものなのか、教えました。山上の説教は、いわば神の国の律法です。そして、多くの人たちの病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえよみがえらせました。神の国とはこういうものであると、デモンストレーションしたのです。デモンストレーションは、企業が新商品などの説明のための実演を行うことです。テレビを見ますと、商品を実演している番組があります。司会者が説明し、もう一人の人が商品を実際に使ってみせます。拭き掃除するクロスとか、台所用品、健康器具、いろいろあります。それを、テレビカメラの前で実演します。すると、どこからか「わぁー」と、感動の声が聞こえます。ある場合は、20人くらいの人が後ろに座って、「すごい!」とか言ったりします。おそらく、サクラでしょう。でも、実際に、商品がすごいことを見ると買いたくなります。「さあ、30分以内に申し込まれるとこの特別価格で提供します。」テレビの画面に「商品が少なくなっています」「注文が殺到しています」とか出ると、「早く注文しなくちゃ」と焦ります。同じように、神の国を口で説明するたけでは、不十分です。それで、イエス様は人々に癒しと解放を与え、神の国を体験させたのです。これは、パウロがいう「みことばに伴うしるし」であります。特にユダヤ人はしるしを求めたので、イエス様はこれに答えたのです。最大のしるしは、イエス様ご自身が死んで3日目によみがえったことです。でも、そんなしるしを間近に見ても、ユダヤ人たちは信じませんでした。なぜでしょう?なぜ、人は、神の国がすばらしいと分かっても入ろうとしないのでしょう?

 神の国のギリシャ語は、バシレイアーでありまして、支配、統治、王国という意味です。英語ではkingdomです。王様が治める国であります。つまり、人が神の国に入りたいと願うなら、神さまに頭を下げなければならないということです。だって、神さまが王様なのですから、その支配下に服するのが当然ではないでしょうか。でも、生まれつきの人間は、そんなことはしたくありません。神さまじゃなくて、自分が王でありたいのです。これが罪人の本心です。ユダヤ人の指導者は、イエス様が神の子であり、メシヤであることを目の前で見たのです。でも、信じませんでした。もし、信じたら、頭を下げなければならないからです。そうしたら、これまで自分が持っていた宗教的立場や地位をなくすかもしれません。だから、イエス様を殺したのです。信じるとは、決断です。決断は英語でdecisionと言います。decisionのもともとの意味は、一方を殺し、一方を生かすという意味があるそうです。たとえばここに、コカコーラとオレンジジュースがあるとします。もし、私はコカコーラを飲むと決断したら、オレンジジュースは捨てなければなりません。「いや、私は両方飲む」と言って、コカコーラとオレンジジュースを混ぜたらどうなるでしょうか?気持ち悪くて飲めません。同じように、私たちが神の国に入ることを決断したなら、この世のものは捨てなければならないのです。主イエス・キリストを信じるなら、釈迦やもろもろの神を捨てなければならないのです。結婚も同じです。もし、私がだれかと結婚したいならば、他の女性を全部捨てなければなりません。「いや、二人と結婚します」となると、重婚罪になります。結婚後、他の女性と密かに付き合っていたら、不倫であり、姦淫です。日本は多神教が土台にあるので、霊的な純潔ということが良くわからない人がいます。

 ヨハネがなぜ、「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と言ったのでしょう?もし、私たちは「イエス・キリストの神を信じます」と決断したなら、どういうことになるでしょうか?それは、私は「この世に属しません。神の国に属します。イエス・キリストの神が私の神です」ということなのです。するとどうなるでしょうか?この世があなたに歯向かってくるでしょう。この世はあなたを敵とみなすでしょう?なぜなら、この世の背後には、神の敵であるサタンがいるからです。サタンにとって、あなたが自分の国から、キリストを信じて神の国に入るということは大打撃です。自分の大切な持ち物を失ったのですから、これほど悔しいことはありません。サタンは、被害を最小限に食い止めるために、何とかしなければなりません。だから、あなたの親しい人を使って、やめさせるか、迫害を加え、あなたの思いをくじこうとするのです。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ10:34-36「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」アーメン。信仰には確かに戦いが伴います。悪魔はそれでも諦めません。私たちをなんとか敗北的なクリスチャンにしよう、影響力のないクリスチャンにしようと誘惑してきます。悪魔は肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をぶらさげて、この世にとどまるようにさせるのです。私たちが神さまと兄弟姉妹を愛するのではなく、この世のものを愛し、この世のものにエネルギーと力を向けさせるのです。でも、「世と世の欲は滅び去ります」。私たちは神の国に一度、入ったなら、王である神のみこころに焦点を合わせて生きるしかありません。もし、私たちが王である神さまの支配のもとで暮らすならどうでしょう?父なる神さまは守りと平安とすべての必要を与えて、保障してくださるでしょう。今の日本政府は社会保障をなんとかしようと考えています。消費税も10%になるかもしれません。でも、外国の工場で製品を作るので雇用問題が解決しません。円高、ドル安・ユーロ安で輸出が成り立ちません。若者は国民年金も納めていない人が大勢います。確かに、この世においては問題があります。しかし、私たちは神の国に属していることをお忘れなく。神さまが私たちの王様であり、王なる神さまが私たちの必要を面倒見てくださるのです。この世はますます希望をなくし、悪くなるでしょう。欲望、憎しみ、人殺し、嘘、偽りが支配するでしょう。治療できない病気もたくさん出ています。世に勝つのは、こういう罪や誘惑に勝利するということです。神さまは私たちに信仰の大盾を与えてくださいました。イエス・キリストを信じる信仰こそが、悪い者が放つ、火矢を消すことができるのです。イエス・キリストが死と悪魔に勝利しました。私たちも主イエス・キリストに従っていくなら、その勝利を得ることができるのです。

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2011年12月 4日 (日)

神は愛です       Ⅰヨハネ4:12-21

聖書を読むと、そこには鍵となることば、キーワードがあります。キーワードをつかまえると、文章全体の構造が見えてきます。きょうの聖書箇所のキーワードは、「全うされる」「完全なものとなる」という言葉です。ギリシャ語ではテレオゥですが、英語ではperfectです。perfectを動詞で使うと「…を完全にする」「…を完成する」という意味になります。しかし、聖書では、これが受身の完了形になっています。has been perfected「完成される」「全うされる」となります。では、どのようにして、「神の愛が完成される」のでしょうか?このことばが、12節から21節まで3回出てきますので、3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.互いに愛し合うことによって

 私たちが互いに愛し合うことによって、神の愛が完成されるということです。私たちは神の愛を受けています。果たして、神の愛を受けていないクリスチャンがおられるでしょうか?復習になりますが、神の愛はどこに示されたのでしょうか?神さまが私たちにいのちを与えるために、御子イエスを遣わされました。御子イエスはなだめの供えものとして、十字架にかかって死んでくださいました。私たちはイエス様を信じたことにより、罪赦され、永遠のいのちをいただくことができました。このように、私たちがさばかれないでいのちを得たのは、神さまの愛のゆえであります。クリスチャンであるならば、もれなく、神さまの愛を受けています。私たちは、神さまの子どもとして、目に見えるものから、目に見えないものまでたくさんのものをいただいています。この地上でも、経済的な祝福、健康、心の平安、守りをいただいています。家族や友人、兄弟姉妹、仕事、奉仕も神さまからいただいたものです。今、お座りになっている周りの人をごらんください。あなたが教会に来て、クリスチャンにならなければ、決して出会うことのなかった兄弟姉妹がいるのではないでしょうか?私たちは新しいコミュニティ、共同体の中に生きています。やがて、この地上の生活が終ると、御国に永遠の住まいがご用意されています。すべてが、神さまの愛、神さまの恵みであります。

 でも、ヨハネは神の愛を受けているだけでは不十分であると言っています。Ⅰヨハネ4:12「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」とあります。そうです、互いに愛し合うことなしには、神の愛は私たちのうちに完成されないのです。面白いことに20-21節は、12節と同じ内容を語っています。ヨハネ4:20-21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」神さまは霊ですから、目には見えません。では、どうしたら、目に見えない神さまを愛していることが分かるのでしょうか?それは、目に見える兄弟姉妹を愛しているかどうかで分かります。ヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言っています。みなさんは、神の愛をいただき、同時に神さまをも愛しておられると思います。でも、本当に神さまを愛しているのでしょうか?もし、兄弟姉妹を憎んでいるとしたら、偽り者、つまり本物のクリスチャンではありません。本物のクリスチャンとは、神さまを愛し、また兄弟姉妹を愛している人であります。神さまを愛してはいるけど、相変わらず兄弟姉妹を憎んでいるならば偽物であります。さきほどのperfect「完成する」を使うならば、神の愛が完成されていない人であります。本当のクリスチャンは、神さまを愛し、そして兄弟姉妹を愛する人であります。もし、神さまは愛するけれど、ある兄弟、ある姉妹を相変わらず憎んでいるとしたら、完成していない人であります。

 言い換えると、神さまを愛することと、兄弟姉妹を愛することはセットなのであります。日本語では一対と言いますが、英語ではそれをpairと言います。日本語では「1足の靴」と言いますが、英語では、a pair of shoesと言います。shoesと複数形になっています。2つの靴があって1足なのです。靴下もa pair of socksです。2つの靴下があって1足なのです。調べてみましたら、ハサミもズボンも手袋もめがねも、複数形になっています。当たり前のことですが、靴は右と左あって1足の靴なんです。どうでしょう?左足だけ靴をはいて、右足が素足の人を見たことがあるでしょうか?片足だけ靴を履いて歩いたら、どうなるでしょう?ペタンコ、ペタンコとなって、すっごく歩きづらいですよね。「両方履くか、両方素足か、どちらかにしてくれ」と言いたくなるでしょう。しかし、クリスチャンは、こと愛に関しては、このようにやっている恐れがあります。とても信仰熱心で、神さまを愛しています。「天のお父様!イエス様!」と愛しています。奉仕も熱心にしているかもしれません。でも、兄弟姉妹を愛せないで、憎んでいる。教会では「ハレルヤ!イエス様、あなたを愛します」。しかし、家に帰ると妻を「ビジュ、ビジュ」叩いている。その人は、片方の足に靴を履いていますが、片方には靴を履いていない状態です。それでクリスチャンの歩みをしたなら、どうなるでしょう?とてもぎこちないですね。ヨハネは「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」と言っています。神さまを愛します。そして、兄弟姉妹を愛するならば、その愛は完成されるのです。神さまを愛することと、兄弟姉妹を愛することは、2つで1つ、分けることができません。目に見える兄弟姉妹を愛するならば、目に見えない神さまを愛していることになるのです。どうぞ、神さまの恵みによって、愛を完成させていただきましょう。

2.救いを受けることによって

 私たちは救いを受けることによって、神の愛が完成されるということです。Ⅰヨハネ4:17前半「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。」「このことによって」とありますから、前の事柄があって、神の愛が完成させられるということです。文脈を見ると、その内容は、13-16節だと思われます。13節に「神は私たちに御霊を与えてくださった」と書いてあります。14節には「御父が御子を世の救い主として遣わされた」とあります。15節には「イエスを神の御子を告白するなら」とあります。16節には「神の愛を知り、信じるなら」とあります。これらを全部1つにまとめるとどうなるのでしょうか?「救いを受ける」ということではないでしょうか?イエス様を信じて、救いを受けるとはどういう意味なのでしょうか?第一に、神の御霊をうちにいただくということです。神の御霊をいただくと、どうなるのでしょうか?13節後半「それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」とあります。そうです。イエス様を信じたら、私たちの中に神の御霊が宿ります。ということは、私たちの内に神さまがおられるということです。同時に、私たちは神の霊の中にも住んでいます。神さまは霊であり、どこにでもおられる、つまり偏在しておられます。ということは、私たちは神さまの中にいるということです。第二に、救いを受けるとは、御父が遣わした御子イエスを、神の子です」と告白することです。新共同訳は「公に言い表す」と訳しています。救いを受けると、公にイエス様は神の子であると告白する。それは洗礼を意味しています。そうすると、どうなるのでしょうか?15節後半「神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」とあります。第三に、救いを受けるとは、「神の愛を知り、神の愛を信じる」ということです。そうすると、どうなるのでしょうか?16節後半「神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」とあります。ヨハネの書物は本当に繰り返しが多いというか、くどい書物です。私は家内から、たまに「くどい」といわれます。しかし、ヨハネは私以上です。でも、ヨハネの書物は、よーく見ると、統一性、ハーモニーがあります。

 これら3つの中の1つだけを取り上げたいと思います。それは16節です。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」。本日のメッセージのテーマになっている「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにいる」とはどういう意味でしょうか?私たちが神のうちにいるとは、愛のうちにいることと同じです。なぜなら、神は愛だからです。うちにいるとは、ギリシャ語や英語で言うと、「住む」「とどまる」「ずっといる」という意味です。もし、私たちは愛なる神さまの中で住むならば、どうなるでしょうか?それはまるでエデンの園のようであります。神様は、人間が必要なすべてのものをエデンの園に備えました。食べもの、安全、健康、仕事、伴侶、お家…全部ありました。アダムは堕落以前、仕事をしていたと思います。畑を耕したり、動物の名前をつけました。本当に豊かな生活をしていました。しかし、人類に問題が起きたのは、罪を犯して、エデンの園を追い出されたときからです。食べ物も、安全も、健康も、仕事も、伴侶も、お家も、すべて自分で得なければならなくなりました。日本では「自分を信じる」ということが、美徳とされています。一方、日本人ほど保険に入っている国民はいないそうです。生命保険、がん保険、火災保険…今は、地震保険があります。アメリカの保険会社は日本をターゲットにしています。なぜなら、日本人は恐れやすく、心配しやすい国民だからです。そこへ行くと南米の人たちは楽天的です。一日分をかせいだら、仕事を途中でやめて家に帰るそうです。彼らは、明日のことは心配しないで生きています。日本人は、明日の分、来月の分、来年の分も心配しています。なぜでしょう?神さまの愛の中に生きていないからです。

 もう1つは、「神もその人のうちにおられます」です。愛なる神さまが私たちの中に住んでおられるということです。なぜ、こんな表現をするのでしょうか?それは、私たちはこの世に生きているからです。この世とは、神に敵対している人たちのことを表します。イエス様は「世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)と言われました。また、パウロは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(Ⅱコリント4:8)と言いました。私たちはクリスチャンであっても、この世に住んでいます。裏切り、そねみ、迫害、試練、批判、告発…いろいろあります。仲間もいますが、どうしても衝突や仲たがいが起こることがあります。そういうときに、自分の内側に愛なる神さまが住んでおられるという信仰が重要です。愛なる神さまは私たちに何とおっしゃっているでしょうか?「私があなたの味方、あなたを見捨てない。私は世の終わりまで共にいるよ。だから、勇気を出しなさい。」と励ましや慰めをくれます。神さまは、私たちのよりどころ、力の源です。この世にあって私たちを内側から助けてくださるのです。イエス様がどうして、地上でも満たされて暮らすことができたのでしょう?イエス様は「私が父におり、父がわたしにおられる」と言われました。神学的には難しいですが、私たちもそれに近いのではないかと思います。だから、17節後半に「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです」と書いてあります。私たちが救いを受けるということは、イエス様のような状態になるということです。私たちが愛なる神さまの中にいて、私たちの中に愛なる神さまがおられるということです。神の愛が完成されるとは、神さまの愛の中にどっぷりつかっているということです。

3.恐れを締め出すことによって

 恐れを締め出すことによって、神の愛が完成されているということです。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」この箇所には、「完全」ということばが2回出てきます。1つは形容詞で、「完全な愛は恐れを閉め出す」となっています。もう1つは、受身の完了形です。ここでは「愛が完全なものとなっていない」と否定形になっています。恐れは不信仰と同じように、私たちが持ってはならないものです。ここでは愛と恐れが対立的なものとして表現されています。神さまの愛は完全な愛です。私たちは神さまの完全な愛の中で、過ごすことができます。そして、完全な愛は恐れを閉め出します。もし、恐れるならば、刑罰が伴うと書かれています。これはどういう意味でしょうか?神さまが「コラ、恐れるな」と、バシッと私たちに刑罰を加えるのでしょうか?愛なる神さまがそのようなことはしないと思います。私はこのように解釈しています。神さまはこの世界を秩序あるものとして作りました。そこには自然科学の法則があります。また、道徳的な法則もあります。もし、私たちはその法則に逆らうなら、当然、その報いを受けるはずです。私が2階から飛び降りたら、万有引力のゆえに地面に打ち付けられ、大怪我をするでしょう。打ち所が悪ければ、死ぬかもしれません。これは私が自然界の法則に反するようなことをしたからです。このことと神さまが愛であることとは別問題であります。

同じように、私たちが神さまの愛を信頼しないで、恐れるとどうなるでしょう?神さまが罰をくださるのではなく、道徳的な法則によって私たちに刑罰が下るということです。このことを水の上に浮いている船にたとえることができます。重たい鉄の船がどうして、水の上に浮いていられるのでしょうか?それは、船が水を締め出しているからです。これを理科では浮力と言います。船は鋼鉄でできており、1滴の水も入らないように溶接されています。しかし、何かの理由で、船底に穴があいたらどうなるでしょうか?タイタニック号ではありませんが、どんどん水が入ってきます。船にはハッチがあって、それ以上、浸水しないように工夫されています。浸水を止めて、ポンプで水を外へ吐き出せば、沈没しないで浮いていられます。恐れとは何でしょう?恐れとは船底か船体に穴が空いている状態のことです。恐れを自分の中に入れているとしたら、それはとても危険です。ヨブ記はとても複雑な書物で、一言で語ることができません。でも、ヨブが大きな災難を受けてしまった原因があります。それは恐れです。ヨブ3:25「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」ヨブを直接的に打ったのはサタンです。「もしかしたら、こんなことが起こりはしないだろうか?」と恐れたのです。そこから、サタンが災いをもたらしたのです。しかし、よく見ると神さまはヨブをサタンから守っていたのです。ヨブ1:10「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」これは、サタンの証言ですから、何ともいえませんが、神さまがヨブと、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしていたとあります。この垣こそ、完全な愛とは言えないでしょうか?でも、神さまはヨブを試すために、その垣を一時的に取っ払ったのです。

今は新約聖書の時代です。ヨブは確かに試されましたが、愛なる神さまはそういうことはしないと思います。なぜなら、主イエス・キリストが私たちの代表として試みに会われ勝利されたからです。でも、私たちはこの世に生きています。私たちはこの世という海に浮いている船であります。私たちと海水の間には、神さまの完全な愛があります。それは鋼鉄に匹敵するほど丈夫なものです。私たちは船として、この世のものを排除しながら、浮いています。でも、この世はなんとか船に侵入しようと圧力をかけてきます。水圧と同じです。恐れというものは、鋼鉄の船体に穴を開けるほどの破壊力があります。ある人が聖書に「恐れるな!」と何回書いてあるか調べたそうです。なんと、365回もあるそうです。365は何かの数字と同じです。つまり、神さまは365日、毎日、「恐れるな」「恐れるな」とおっしゃっているということです。主は恐れおののく人と共にいることができません。子どもに自転車の乗り方を教えたことがあるでしょうか?子どもがハンドルを握り、後ろからお父さんが荷台をしっかり押さえています。スピードが出てくると、子どもは「怖い」とか言って、ハンドルを放します。すると、いくら後ろで押さえていても、ハンドルが「くにゃっ」と曲がって、前には進めません。子どもがハンドルを握ってさえいれば、お父さんがどこまでも押して行けるのです。人生のハンドルを握るのはあなたです。神さまが後ろから支えて、あなたの人生を押してくれます。だから、何かを恐れてハンドルを放してはいけません。

3つものが私たちの愛を完成させてくれます。第一は互いに愛し合うことによって神の愛が完成されます。第二は救いを受けることによって神の愛が完成されます。第三は恐れを締め出すことによって神の愛が完成されます。このメッセージを準備して思ったのですが、神さまが最初にくださった愛は不完全だったかということです。私たちがイエス様を信じて救われたとき、霊的に新しく生まれました。その時の愛は不完全だったのでしょうか?私は神さまの愛は、完全な愛だったと思います。しかし、神さまは、その完全な愛が、私たちの内に完成されるというプロセスを歩むように計画されました。たとえば、ここに5歳の子どもと、30歳の大人がいるとします。5歳の子どもは人間として不完全でしょうか?たとえ、子どもであっても、目もあるし、手もあるし、歩けるし、自分で考えることができます。人間としては完全です。しかし、いろんなところが成長していません。私たちも信仰の年数がどうであれ、神さまの完全な愛をいただいていることは確かです。問題は、私たちの中で、神の愛を成長させる、完全なものとさせていただくということです。何べんも言いましたが、これは受身の完了形です。私たちが成長させ、私たちが完全なものにするのではありません。神さまの恵みによって、神の愛が私たちの中で完全なものとなるのです。どういう訳か、神さまは、一度で全部、完成させようとは考えておられません。天国に行くまで、共に歩みながら序々に、完全なものとなるようにしたいのです。まるでお菓子のバームクーヘンです。バームクーヘンは焼いては巻いて、焼いては巻いて、手間暇かけて作るお菓子じゃないでしょうか?世の中、何でもインスタントですが、私たちの内に神の愛が完成されるまでには時間がかかります。「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。…愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」

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2011年11月27日 (日)

互いに愛し合う     Ⅰヨハネ4:7-11

1つの書物に頂点があるように、きょうの箇所は、ヨハネ第一の手紙の頂点、クライマックスと言えます。7-11節までの間に、愛ということばがなんと13回も出てきます。きょうの箇所を一言でまとめますとこうなります。「神は愛であり、神の愛を知っている者は、互いに愛し合うべきである」ということです。では、神の愛はどこに示されたのでしょう?ヨハネは「ここに愛があるのです」と言っていますが、神の愛の極致はどこにあるのでしょうか?きょうの聖書の箇所は有名なグレート・テキストの1つですので、語る方が負けてしまいます。でも、負けて良いのです。なぜなら、聖書のことばそのものを読んだだけで、満たされるからです。

1.神の愛を知る

 私たちが互いに愛し合う愛とはどのようなものなのでしょうか?世の中では愛が歌われています。教会ではこのように愛が説かれています。私たちは一般的にどういうものを愛するでしょうか?美しいもの、価値あるもの、自分を愛してくれる人を愛するには努力はいりません。男性だったら美人でしょうか?女性だったら宝石でしょうか?子どもたったら自分を可愛がってくれる人でしょうか?でも、それらと反対のものを愛することができるでしょうか?醜いもの、価値のないもの、自分に敵対する人を愛することができるでしょうか?たとえばゴキブリを愛することができるでしょうか?ゴキブリは醜いし、価値がないし、バイ菌を運び込む敵であります。か弱そうな女性でも、新聞紙を丸めて「えぃ!」と叩くのではないでしょうか?もし、人間が罪の中に生まれ、醜くて、神さまに敵対して歩んでいるとしたらどうでしょう?聖くて、義なる神さまは一体どうするでしょうか?「えぃ!」とやられても文句が言えないかもしれません。しかし、神さまのご性質の中には、愛があります。その愛は私たち、人間の愛とは全く違います。美しくなくても、価値がなくても、自分を愛してくれなくても愛する愛です。ギリシャ語ではアガペーの愛と言います。言い換えるならば、無条件の愛です。残念ですが、無条件の愛は、人間は持っていません。無条件の愛は神さまにしかありません。

 ヨハネは何と言っているのでしょうか?Ⅰヨハネ4:7,8「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」このところには、「愛のある者は神を知っている。愛のない者に神はわかりません」と書いてあります。このところにある「知る」はギノスコーで、体験的に知るということばではなく、「分かった」「知るに至った」ということばです。たとえば、1+1は、2です。1+1=2はギノスコーで「分かった」という分野です。これはだんだん分かったのではなく、あるときに分かったのです。そして、1+1=2という知識は増えもしないし、減りもしません。でも、この世には、1+1が必ずしも2にならないことがあります。私たちは「理屈どおりにならないことがある」ということを知ります。これは体験的に知るという方であり、ギリシャ語ではオイダという言葉です。それでは、「イエス・キリストは救い主である」ということを知るのはギノスコーでしょうか?それとも「体験的に知る」のオイダでしょうか?これは、ギノスコーという「知る」です。「イエス・キリストは救い主である」という知識は完全であり、減ることも増えることもありません。しかし、「イエス・キリストが私の人生のあらゆる面においても救い主だなー」と知るのは体験的に知るオイダです。 

実は、ヨハネが言っている「神を知る」という「知る」は、ギノスコーという「知る」です。神を知るのは、神からの霊、つまり啓示によって分かるのです。私たちがいくら研究しても、神さまを知ることはできません。神さまの方から、「私はこういう者だよ」と教えられて、「ああ、あなたが神さまですか!」と初めて分かるのです。その直後、私たちは神から生まれます。神から霊的に生まれると神さまがますます分かります。神さまと日々、交わると「ああ、本当に神さまは愛なんだなー」と体験的に分かるようになります。私たちは信仰生活において、ギノスコーの分野もオイダの分野もどんどん広がっていきます。でも、最初はギノスコーの「知る」が必要です。神の愛も同じです。9節と10節に、「ここに神の愛が示された」「ここに愛がある」と書いてあります。ここってどこでしょう?Ⅰヨハネ4:9,10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」ここに示されている神の愛というのは、父がひとり子を世に遣わしたことです。つまり、父が罪のためになだめの供え物として御子を遣わしたことです。言い換えると、父なる神さまが私たちの罪を贖うために、御子を与えたことです。どこに与えたのでしょう?それは十字架です。十字架で死なせるために、御子イエス様をこの世に遣わしたということです。だけど、これがどうして神さまの愛なのでしょう?また、それゆえに、互いに愛し合うべきなのでしょう?これは私たちの方から理解しようとしてもできないことです。神さまの方から、教えていただかなければなりません。そして、あるとき、「ああ、神さまは愛なんだ。だから、互いに愛し合うべきなんだ」と分かるのです。

2.なだめの供え物

9節と10節に、「ここに神の愛が示された」「ここに愛がある」と書いてあります。その中心的なものがこれです。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」どこに神の愛があるのでしょうか?それは、父なる神さまが、なだめの供え物として御子を遣わされたことにあるのです。ですから、私たちは「なだめの供え物」とは何なのか知る必要があります。「なだめの供え物」という言葉が新約聖書の3つの書物にあります。第一はローマ人への手紙3章です。ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」なだめの供え物に神ご自身の義が現れていると書いてあります。神さまは義なるお方です。1つの罪もそのままにしておくことはできません。罪であるならば、必ず、さばかなければなりません。もし、「どんな罪でも赦すよ」と言ったならば、そのときから神さまは神でなくなります。人間はアダムの子孫であり、生まれたときから罪を持っています。そして、成長して大きくなるにしたがって様々な罪を犯します。アダムの罪、先祖が犯した罪、そして自分が犯した3つの罪のためにさばかれるべき存在です。では、どうしたら神さまは犯した罪を赦すことができるのでしょうか?それは血を流すことが必要です。血というのはいのちであります。いのちと引き換えに、罪が赦されるのです。罪はいのちである血でしか贖うことができません。それで、御子イエスはご自身の血を流して、神が義であることを証明されたのです。私たちは十字架を見るとき、「ああ、神さまは義なるお方で、罪はさばかなければならない。だから、御子イエスを十字架でさばいたんだ。私たちの罪のためにイエス・キリストはさばかれたんだ。」と知るべきです。万引きをどうしてもやめられない子どもがいました。お父さんはそれまで、何度か、お尻や手を叩きました。しかし、それでも子どもの万引きは止みませんでした。そのとき、お父さんは竹刀を取り出し、息子を叩きました。大きな音がしましたが、息子は痛くありませんでした。「どうしてだろう?」と薄目を開けると、なんとお父さんは息子の上においていた自分の腕を叩いていたのです。息子は「お父さんやめて!」と叫びました。お父さんは「いや、お前は盗みが罪であることをわかっていない!」と、なおも自分の腕を叩きました。腕から血が飛び散りました。息子は「わかったよ、わかった。お父さんもうやめて!」と叫びました。それから、その息子は万引きをしなくなったそうです。なぜなら、お父さんの心を痛めていたことを知ったからです。

「なだめの供え物」が記されている第二番目の箇所は、ヘブル人への手紙です。ヘブル9:5「また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。」ヘブル人への手紙の「贖罪蓋」はギリシャ語で「ヒラスティーリオン」ですが、「なだめの供え物」と同じことばです。契約の蓋を贖罪蓋と言い、贖罪の日に、大祭司が至聖所に入り、その蓋に清い動物の血を注ぎました。大祭司がイスラエル全体の罪を贖うために、年に一度だけ、清い動物の血をたずさえて、至聖所に入りました。ふだんは、至聖所には決して入ることができません。その日だけです。そこに、契約の箱が安置されており、契約の箱の上には、金でできた蓋があります。蓋の両側から中央に向かって、天使ケルビムをあしらった像が翼を広げています。その真中に、血が注がれるのです。しかし、動物の血では限界があります。毎年、毎年、それを繰り返さなければなりません。そこで、イエス様はまことの大祭司として来られ、ご自身の尊い血をささげました。ヘブル9:11-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」キリストの血よって、一度で永遠の贖いを成し遂げられたのです。福音書においては、イエス・キリストの十字架の死として歴史的な事実として記されています。しかし、ヘブル人への手紙においては、それは贖いの完成であると記されています。

そして、Ⅰヨハネ2:2「なだめの供え物」とあります。また、Ⅰヨハネ4:10「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子」とあります。神さまは義であると同時に愛なるお方です。神のかたちに似せて造られた子どもを、さばいて、滅ぼしたくはありません。しかし、そのまま赦すならば義が立ちません。どうしたのでしょうか?これは私の想像です。聖書に書いてありません。父なる神さまにはひとり子がおられました。永遠の神さまが、永遠の昔に生んだ、ひとり息子です。父なる神さまは息子に「私は人類の罪を赦して、救ってあげたい。人類がこのまま滅びに行くのは忍びない」と言いました。息子は「良いでしょう、お父さん。私を地上に送ってください。そして、私の上に全人類の罪をおのせください」。父なる神さまは「愛する息子よ。そうすればお前は、罪となってさばかれ、地獄に行くことになるんだよ」と言いました。息子は「お父さん。それでも構いません。私を地上に送ってください」と言いました。ヨハネ3:16には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。私たちは本来、罪ある者として、滅びるべき存在でした。しかし、御子イエス様が私たちの代わりにさばかれることによって、私たちは生きる者となったのです。ここに神の愛があるのです。厳密に言うならば、父の愛は罪のさばきのために、御子をなだめの供え物として遣わすことでした。また、御子の愛とは、だまって、なだめの供え物となったということです。ここに神の愛があるのです。

3.互いに愛し合いなさい

 日本人は、よく「お互い様」と言います。それは、「両方とも同じ立場や状態に置かれている」という意味です。英語では両者とも同じ状況下にある場合、in the same boatと言います。「私たちは同じ船に乗っている」という意味です。「同じ穴のムジナ」とも訳されています。一見、無関係でも、同じ仲間、同じ運命のもとにあるということです。クリスチャンとは、どんな立場、どんな運命のもとにあるのでしょうか?Ⅰヨハネ4:11「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」私たちは互いに愛し合う前に、自分たちが、どれほど神さまから愛されているかを知るべきです。どれほど愛されているかというと、私たちはこのままではさばかれ、永遠の死を迎える存在でした。しかし、神さまが御子イエスをなだめの供え物として遣わしてくださいました。御子イエスは私たちの罪を負って、さばかれ死なれました。それゆえに、私たちの罪は取り除かれ、信じるだけで永遠の命が与えられました。ハレルヤ!私たちが救われるためには、神さまの大いなる犠牲があったということです。「ああ、神の愛の背後には犠牲があったんですねー、感謝します。」となります。すると、どうなるでしょうか?私たちが互いに愛し合うとき、自分は神さまから多大な恩義を受けています。図式に表したいと思います。ここにAさんがいます。「お互い様」と言っても、目の前のBさんからはお中元もお歳暮もいただいていません。でも、その前に、イエス様の贖いという大きな贈り物を神さまからいただいています。神さまは「私に返さなくて良いから、それを目の前のBさんにあげなさい」と命じておられます。「ああ、そうですか」とAさんはBさんを愛します。では、Bさんの立場から言うとどうなるでしょうか?「お互い様」と言っても、目の前のAさんからはお中元もお歳暮もいただいていません。でも、その前に、イエス様の贖いという大きな贈り物を神さまからいただいています。神さまは「私に返さなくて良いから、それを目の前のAさんにあげなさい」と命じておられます。「ああ、そうですか」とBさんはAさんを愛します。これが、互いに愛し合うということです。

 日本人は「お互い様」と言う場合、人間同士のことです。巡り巡って、いつか自分のところに返ってくるからという気持ちがこめられています。人間同士だと貸し借りがあるない、あるいは世話になっているかいないか、考えてしまいます。私たちはそれぞれ心の中に通帳を持っています。この人にはこれまであのこと、このこと、いろいろお世話になっている。だから、ちょっとした失礼があっても、「良いですよ」と赦します。また、その人が困っているなら、「いざ鎌倉」とばかり、喜んでお助けするでしょう。しかし、別の人はこれまであのこと、このこと、イヤな思いをさせられてきました。お世話になっているどころか、いろんなお世話しても返してもらったことは一度もありません。だから、心の通帳はゼロかマイナスになっています。そのとき、相手からいやなことを言われました。少々、損失をこうむったかもしれません。そのとき、「もう、赦さない」「もう、助けてあげない」と思うのではないでしょうか。だって、そうでもしないと収入と支出のバランスシートが合わないからです。これが、人間同士の愛の限界です。私たちの心の通帳を見ますと、神さまから無限大の赦しと無限大の愛がどっかーんと振り込まれています。だれかに支払っても、支払っても、心の通帳はプラスのまんまです。相手を見ると、「んー、損するなー、痛いなー」と思うかもしれません。しかし、神さまを見ると、「んー、いっぱいもらっているからなー」となります。みなさん、これが互いに愛し合うということなんです。互いにと言っても、二人の間に、多大な愛と犠牲を与えてくださった神様がおられるのです。私たちは愛なる神さまを介して、互いに愛し合うことが可能なのです。私たちは時々、「愛せないなー、赦せないなー」と思うときがあるかもしれません。そのときは、自分がどれだけの愛をいただいているか、Ⅰヨハネ4章の7節から11節から考える必要があります。

 「ここに愛がある」とヨハネが言っています。私たちは神の愛をみことばから啓示を受けて、知る必要があります。まず、「神さまは愛なんだ」と、ギノスコーで知る必要があります。その後に、神の愛を体験して知る必要があります。あとから、「ああ、神さまは本当に愛なんだ。アーメン」と、オイダという体験的な知識がやってきます。その次に、互いに愛することを実行します。すると、「ああ、神さまが私たちを赦して、愛するって、大変なことだったんだ」と分かります。これは、ギノスコーであり、オイダでもあります。区別するのが難しいです。別に区別しなくても良いかもしれません。どっちだって良いのです。昔、本田弘慈先生から、『ここに愛がある』という伝道メッセージを何度か聞いたことがあります。先生は、最後に「さっちゃん」のことを良く話されました。そのとき、「ああ、前にも聞いたなー」と思うのですが、聞いて、また感動するお話なんです。小学生のさっちゃんには、お母さんがいました。お母さんはひどいやけどで、醜い顔をしていました。さっちゃんは、授業参観日には、「お母さん、絶対に来ちゃだめよ」と断りました。さっちゃんは、滅多に友だちを家に呼びません。なぜなら、「さっちゃんのお母さんはお化けみたいだ」と言われるのがイヤだからです。あるとき、さっちゃんの誕生会をどうしても自分の家でやることになりました。なぜなら、友だちの誕生会に招かれて、こんどは自分の番になったからです。お母さんがごちそうを準備してくれて、誕生会が開かれました。友だちは「さっちゃんのお母さんはいないの?」と言いました。さっちゃんはとっさに「さっちゃんにはお母さんはいないの。あの人は家のお手伝いさんなの」と言いました。友だちが帰ってから、お母さんはさっちゃんに「お話があるの」と言いました。あなたも、大きくなったから話すわ。さっちゃんが2歳くらいのことだったわ。私が買い物に戻って来ると、お家が火事だったの。人々が止めたけど、私は燃える火の中に飛び込んで、あなたを助けたのよ。後から分かったんだけど、さっちゃんが、マッチで遊んでいたらしく、その火が何かに燃え移ったらしいの。お母さんの顔は、その時のやけどなのよ。でも、さっちゃんが無事で大きくなって、お母さんとっても嬉しいわ」と言いました。さっちゃんは「お母さん、ごめんなさい。お手伝いさんなんて言って」と謝りました。それから、さっちゃんは胸をはって、友人にさっちゃんのお母さんは日本一のお母さんと自慢して言ったそうです。

なだめの供え物とは、イエス様の十字架です。十字架とは、当時、最も醜悪で、残酷な死刑の道具であり、「ローマ市民は手を触れてはいけない。呪われるから」と、避けられていました。その十字架にイエス様がかかり、私たちの罪を負われ、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」と叫ばれました。ある人たちは「どうせ、復活するから良いだろう」と言います。しかし、Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書いてあります。イエス様は全く罪のないお方だったのに、罪そのものとなり、神さまから捨てられました。これまで、一瞬たりとも、御父から離れたことがないのに、捨てられたのです。この痛みと苦しみはイエス様しか分かりません。ここに愛があるのです。醜い十字架こそが、神さまと御子イエスの愛の現れなのです。この愛を知るとき、私たちは互いに愛し合うことが可能になってくるのです。

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2011年10月30日 (日)

神から生まれた者   Ⅰヨハネ3:8-12

この世には2種類の人しかいません。第一は悪魔から出た者、悪魔の子どもです。第二は神から生まれた者、神の子どもであります。人は悪魔の子どもか、神様の子どもか、どちらかであって、中間はありません。私がこういうことを言うと、「人は神さまから造られたものであり、みんな神さまの子どもではないか」と反発する人がいるかもしれません。確かに人は神さまから造られた存在です。しかし、アダムが罪を犯してから、すべての人が悪魔の支配下にあり、悪魔の所有物になっているのです。これが聖書的な考えです。もし、すべての人が神さまの子どもであるなら、救われる必要もありません。キリストが来られたのは、悪魔のしわざを打ちこわし、その中にいた私たちを救い出すために来られたのです。

1.悪魔から出た者

悪魔から出た者の特徴は何でしょうか?Ⅰヨハネ3:8「罪を犯している者」と書いてあります。しかし、ギリシャ語の現在形は、継続を意味しますので「罪を犯し続けている者」と訳すことができます。一方、神から生まれた者の特徴は何でしょうか?Ⅰヨハネ3:9「だれでも、神から生まれた者は、罪を犯しません」と書いてあります。これも正しく訳すと「罪を犯し続けません」となります。ヨハネは10節で「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします」と言っています。聖書を良く見ると、「悪魔から出た者」と書いてありますが「悪魔から生まれた者」とは書いてありません。厳密に言いますと、人はすべて神さまから生まれ、神さまの子どもであったのです。ところが、初めに悪魔が罪を犯しました。おそらく、天使長の一人が「神になりたい」と高慢になって、天から落とされたのだと思います。その後、神さまはアダムとエバを創造し、エデンの園に住まわせました。そこに、悪魔がやってきて、「これを食べたら、神のように善悪を判断する者となる」と誘惑しました。二人がそれを食べたということは、神の主権を犯したということです。そのため二人は堕落し、全人類に罪が入りました。それだけではありません。エペソ2章にあるように、人々は自分の罪過と罪との中に死んだ者となりました。そして、空中の権威を持つ支配者、悪魔のもとで生きるようになりました。ですから、悪魔の支配で生きる人は、神に逆らい、肉と心の望むままを行います。つまり、罪を犯し続けるのがライフ・スタイルだということです。

神さまはそれでも、私たちに良心を与えました。だから、できるだけ悪いことをしないように努力します。悪いことをすると良心が咎め、「ああ、悪いことをしたなー」と後悔します。でも、中には良心が麻痺して、悪いことを平気で行う人もいます。Ⅰヨハネ3:10「義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」とあります。そして、12節には兄弟を殺したカインについて言及しています。12節「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました」と書いてあります。世の中には、カインのように人を殺す人、犯罪人がいます。最近は人を殺して、首と同体を離して、どこかに埋める事件が多くあります。カインがアベルを殺して、土の中に埋めましたが、全く同じです。私たちはテレビや新聞を見ながら「ああ、ひどいなー、なんて悪い人なんだ。世の中にこんな人がいるとは」と嘆くかもしれません。確かにこの世には、善良な人、罪を犯さないように努力して歩んでいる人がいます。では、「彼らに全く罪がないか」というとそうではありません。人を実際に殺すようなことはしていないかもしれませんが、人を憎んだり、「馬鹿者」と言ったり、「あいつがこの世からいなければ良いのに」と思っているかもしれません。それは、実際に人を殺したか、心の中で殺しているかの違いです。神さまの目から見たら、50歩、100歩であります。私たちも殺人者の予備軍です。私たちも姦淫の予備軍です。私たちも窃盗の予備軍です。私たちも詐欺師の予備軍です。違いは摘発されて、法的に裁かれたかどうかです。しかし、神さまの前の裁判では、みんな黒、有罪です。なぜでしょう?すべての人が悪魔の支配のもとにあって、罪を犯す罪の奴隷だからです。私たちはすべて悪魔の持ち物だったのです。このまま悪魔と一緒に、火と硫黄の燃える地獄に投げ込まれる運命だったのです。パウロはエペソ2章で「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と述べています。つまり、神のさばきを受ける子どもであったということです。

クリスチャンはひょっとすると、罪を犯す人たちを、別人のように思っているかもしれません。「私はあんなひどい人たちとは違う!」と言うかもしれません。「ビフォー、アフター」というテレビ番組があります。古いどうしようもない家が、匠のわざによって、全く新しい家になります。一番最後に、音楽がかかり、「ビフォー」の家の各部分と、「アフター」の家の各部分と対比されます。先月、井上先生が牧会している、明石の清水ベテル教会におじゃましました。その教会は一般の家を教会堂にリフォームした教会でした。普通の家が本当に、教会堂らしくなっていました。井上先生もあの番組の音楽を入れながら、「ビフォー」と「アフター」が交互になるようにDVDを作っていました。私たちも長年クリスチャンをやっていると、罪の中にいた「ビフォー」を忘れてしまうかもしれません。そして、世の中の人たちを「ああ、とんでもない人たちだ」と眉をひそめるかもしれません。しかし、かつては、私たちは悪魔のもとで、罪の奴隷だったということを忘れてはいけません。そういう自覚がないと、世の人たちに伝道できません。また、神さまの恵みがどれほどすばらしかったのか感激が失せてしまうでしょう。私たちは毎週のこの礼拝において「ビフォー、アフター」を確認すべきです。かつては、アメージンググレースのように、「卑劣な罪を犯し、盲目で、失われていた」存在でした。しかし、今は、驚くばかりの恵みで、罪赦され、眼が開けられ、神の子どもとなったのです。アーメン。

2.キリストのみわざ

Ⅰヨハネ3:8「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです」。神の子とは、イエス・キリストであり、悪魔のしわざを打ち壊すためにこの世に来られたということです。では、「悪魔のしわざ」とは何でしょう?「悪魔を滅ぼす」ということでしょうか?そうではありません。悪魔が滅ぼされるのは、黙示録にあるように、千年王国の後であります。「打ち壊す」というギリシャ語は「廃棄する」「無効にする」「拘束力のないものとする」という意味です。つまり、キリストは悪魔が持っている力を取り除き、活動できなくするために来られたということです。しかし、悪魔は今も忙しく活動しています。それなのに、力を取り除くとはどういう意味でしょうか?イエス・キリストは私たちを救うために2つのことをしてくださいました。私たちの側から言うと救いは2つの要素があるということです。第一は、イエス様は十字架において、私たちのすべての罪を贖ってくださいました。悪魔のしわざは、私たちの罪であります。私たちが罪を持っているなら、合法的に、罪と死の中に捕らえておくことができたのです。アダム以来、すべての人類は罪のもとにあり、また、自分も罪を犯したので、悪魔はそれを訴えることができます。でも、イエス様は十字架で血潮を流し、私たちを訴える律法を満たしてくださいました。キリストが律法を全うされたので、悪魔はキリストの内にある人を「罪あり」と訴えることができません。第二は、悪魔が罪ある人たちを、自分の国の持ち物としていたということです。生まれつきの人間は神から離れ、失われていただけではありません。なんと、悪魔の持ち物、奴隷となっていたのです。イエス様はご自分が復活するとき、ご自分の領土を造りました。そして、イエス様を信じる者は全て、ご自分の領土の中に移されることになったのです。イエス様は私たちの罪を贖いましたが、同時に、悪魔の支配から私たちを贖ってくださったのです。

これはエジプトにいたイスラエルの民が贖われたことと同じです。エジプトの王様、パロはイスラエルを所有し、自分の町を建てるために奴隷として使っていました。彼らは神によって造られ、神の名前がついていたのに、パロ王のもとで奴隷として暮らしていました。しかし、主はモーセを指導者としてイスラエルを解放しようとしました。そのときに、主は2つのことをしました。第一は1歳の羊を殺して、血を流し、それをかもいと柱に塗らせました。その血が塗ってある家の住民は神の怒りが過ぎこしたのです。その中には良い人も悪いひともいたでしょう。でも、血が塗ってある家にとどまっている限りはさばかれることはありません。第二は、主はモーセを通して10の災いをエジプトに下しました。10番目の災いこそが、血が塗られていない家の長子を殺すということです。エジプト人はそのことをしなかったので、王様の長子から奴隷、家畜まで長子が神によって打たれて死にました。それでパロはどうしたでしょう?「お前ら、出て行け!」と解放しました。エジプトから出て行かせたのです。しかし、途中で気が変わり、パロたちは戦車に乗って追いかけました。目の前は紅海、後ろはエジプトの軍勢が追いかけてきます。しかし、モーセが杖を上げると海が別れ、イスラエルの民は海の底を歩いて渡りました。その後、エジプト軍が追いかけてきましたが、モーセが杖を降ろすと、海が元通りになりました。エジプト軍は戦車もろとも、海の底に沈んでしまいました。エジプトからの脱出は、私たちクリスチャンの救いと同じであります。小羊の血によって神の怒りから贖われました。もう1つはモーセによってパロの支配から解放されたということです。私たちもイエス様を信じたときに、悪魔が支配しているこの世から救い出されて、御子の支配に移されたのです。コロサイ1:13-14「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」アーメン。この箇所にも、罪の赦しと、悪魔からの解放ということが書かれています。

「私たちはどこにいるのか?」ということを知らなければ、悪魔にやられてしまいます。確かに私たちは罪の世の中に生きています。テレビや新聞のニュースを聞いて、「本当にひどいなー」と思うでしょう。そして、「世の中には、悪い人たちがいるから気をつけなければ」と思うでしょう。それは間違ってはいません。用心すべきです。でも、もっと大切なのは、私たちは霊的にどこに住んでいるかです。かつては悪魔の支配にいましたが、今は御子の支配に移された存在であるということです。悪魔、悪霊は勝手に私たちに危害を加えることはできません。なぜなら、私たちは神の国の住民であり、神の子だからです。何か悪さでもしようものなら、「イエスの御名によって退け!」と命じれば良いのです。悪魔は私たちを恐れてはいませんが、私たちの背後にある御子の権威を恐れているのです。ですから、キリストのみわざ、イエス様がどんなにすばらしいことをしてくださったのか、忘れてはいけません。

3.神から生まれた者

やっと本論まで来ました。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」ここにある、「罪を犯しません」とは、罪を習慣的に犯さないという意味です。つまり、神から生まれる前は罪を犯すことが普通であり、当たり前のことでした。しかし、神から生まれたら、罪を犯すことが普通でなくなったということです。その人の何かが変わったのです。さきほど、救いとは罪が赦され、悪魔の支配から解放されることであると申し上げました。しかし、それではまだ不十分なのです。なぜなら、私たち自身が変わらなければ、また罪を犯してしまうでしょう。イスラエルの人たちも、エジプトから解放されましたが、やっぱりエジプトが恋しいとつぶやきました。その後、律法を与え、約束の地に彼らを住まわせました。しかし、イスラエルは律法を破り、偶像礼拝を行って堕落してしまいました。神さまは「これではいけない、彼らに新しい心を与えなければならない」とお考えになられました。すばらしいことに、新約時代にそのことが成就されました。人はイエス様を救い主として信じると、霊的に生まれ変わり、神の子どもとされます。神の子という身分だけではなく、神の子という性質が与えられます。これを新生とか、新創造と呼んでいます。ヨハネは、「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」と言いました。これは聖霊によって生まれた者に、神の種、神の命が与えられているので、罪を犯し続けないということです。すばらしいことではないでしょうか?

道徳というのは、外側からその人を矯正し、押さえつけることです。「…してはいけませんよ。こういうことになるから」と教えます。私たち自身も自分に対して、「…してはいけない」と言い聞かせます。でも、どうでしょうか?人が見ていないとき、あるいは刑罰が伴わないものであれば、平気でそれを破ります。この間、テレビで見ました。はまぐりを取ってはいけないところで、人々がはまぐりを取っています。そこは漁師さんたちがはまぐりを養殖しているので、勝手に取ってはいけないのです。人々は看板を見て、十分、分かっているはずなのですが、監視員がいないと獲ってしまいます。そして、海岸の道路は「漁師さんが通るので、駐車をしてはいけません」と町で看板を立てています。でも、公安委員会が立てたものでないため、交通違反にはなりません。それで、潮干狩りをする人たちの車が止まっています。監視員につかまると、人々は取ったはまぐりを海に返します。人は罰則がないと、きまりを守らないというところがあります。だから、この世においては、やってはいけない罪に対しては、罰則を設けます。では、教会も犯してはいけない罪とそれに伴う罰則を提示すべきなのでしょうか?実際、ジョンカルバンは、ジュネーブにおいて、教会規則を設定し、罰則も与えました。そのため、再洗礼派の人たちは死刑にされました。

確かに、旧約時代は、人々に律法を守らせ、守らない者には罰を与えました。しかし、新約の時代はそうではありません。神さまは私たちがイエス様を信じたときに、聖霊によって新しく生まれ変わらせ、そこに神の種を与えてくださったのです。神の種とは神さまの命であり、神の性質であります。私たちが罪を犯したいという誘惑に駆られたとき、神さまの命が働き、罪に打ち勝つことができるのです。それは自分の意志や努力ではありません。私たちの内側に与えられている命の法則が働くのです。ですから、私たちがすべきことは道徳を守るように意志力を増すことではありません。自分の意志に頼るのではなく、むしろ神さまの命の法則に落ちるのです。パウロはローマ8:2で「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」と言いました。私たちの肉は「ああ、罪を犯したいなー」という罪の法則の力を受けています。しかし、私たちの内側にある神のいのち、御霊の法則が「そうではない、あなたはこっちの方に行くんだ!」と守ってくれます。では、私たちの意志をどこに向けるべきなのでしょうか?「この罪を犯してはいけない」「あの罪も犯してはいけない」と罪のリストを1つ1つあげて、それを避けるべきなのでしょうか?そういうことをわざわざしてはいけません。そうではなく、私たちの意志を罪から解放してくださるイエス様に向けるのです。罪が来たら「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」と礼拝します。イエス様に向くと、いのちの御霊が自動的に働くのです。イエス様と聖霊は連動しています。私たちが「イエス様!」と呼ぶと、聖霊様が私たちの内側で働くのです。イエスの御名は、罪と悪魔に勝利させます。また、イエスの御名は、聖霊様を発動させ、そこに救いをもたらしてくださるのです。

まとめて言うとこうなります。救いとは、私たちが罪赦され、悪魔の支配から御子の支配に移されたことです。しかし、それだけではありません。私たちが神の子としてふさわしい生き方ができるように、神さまは新しい命を与えてくださいました。それは神さまの性質であり、罪に打ち勝つ力でもあります。神の種、神の命があるので、私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。これを神学的には新生から聖化へと向かうと言います。新生とはイエス様を信じて新しく生まれた状態です。これを私たちは「救われた」と言います。しかし、新しく生まれたら成長していくのが本当です。赤ちゃんもこの世に誕生したときは大きな喜びがあります。でも、その赤ちゃんがずっと赤ちゃんのままであったら、親は悲しむでしょう。赤ちゃんが成長して、やがては一人前の大人になることがゴールです。私たちも神の子どもとして、霊的に生まれました。その後は、神の息子、神の娘として立派に成長していくのが本当です。私たちが霊的に成長する1つのしるしがあります。それは、幼い時に犯した罪をだんだん犯さなくなるということです。赤ちゃんのときはちょっとした段差でころんで、泣いたでしょう。しかし、大きくなると石ころがあってもころばなくなります。足もひざも強くなり、義の道を進むことができるようになります。ですから、人間の成長と霊的な成長は似ているところがあります。人間は成長すると親の気持ちがだんだん分かるようになります。同じように、霊的な子どもも、父なる神様の気持ちがだんだん分かるようになります。時々、私たちは神さまを悲しませるようなことをするかもしれません。でも、すぐ悔い改めて、正しい道に戻ります。御子イエス様はこの地上で、父なる神さまといつも交わり、みこころの内を歩まれました。イエス様は私たちが地上でどのように生きるべきか、模範をも示されました。「罪を犯さない」というのは悪い表現ではありません。でも、もっと積極的なのは「みこころの内を歩む」ということです。では、みこころの内を歩むとは具体的なはどういうことなのでしょうか?ヨハネはⅠヨハネ3:11でこのように教えています。「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。」兄弟を愛すること、姉妹を愛することが、神の子どもの大事な特徴の1つです。ヨハネは「互いに愛し合うべきであるということは」神の教え、神のみこころであるとはっきり示しています。神から生まれた者として、また、大人へと成長しつつある者として、「互いに愛し合う」ことに力を向けていきたいと思います。

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2011年10月 2日 (日)

反キリスト     Ⅰヨハネ2:18-23

中東問題は、世の終わりの目印と言っても過言ではありません。今、パレスチナ自治区が国として認めて欲しいと、国連に求めているようです。アラブ諸国はイスラエルを共通の敵とみなして、パレスチナを後押ししています。おそらく、アメリカはパレスチナの国連加盟に対して、拒否権を行使するでしょう。そうしないと、イスラエルを強硬姿勢に追いやることになるからです。しかし、結果的に、オバマ大統領はアラブ諸国に対して、信用をなくし、大変苦しい立場になります。聖書は、イスラエルが孤立した後、大規模な戦争になると預言しています。その後、一人の人物が現れ、中東の紛争を終らせます。世界中から英雄としてもてはやされたその人物こそが、反キリストのかしらであります。私たちは今後のニュースに注目すべきであります。

1.反キリスト

ヨハネは終わりの時に、反キリストが出現すると言っています。マタイ24章にも同じことが書かれています。反キリストとは何でしょう?まず「私がキリストである」と人々を惑わす人です。人々を偽キリストの方に誘って、本当の信仰を与えないようにします。さらには、本当にキリストを信じる者に対して、迫害を加え、根絶やしにしようとします。ヨハネは紀元後100年近くまで生きていました。その当時、グノーシスという異端が力を増し加えていました。グノーシスとは元来、知識という意味ですが、神秘的なことをして深い知識を求めます。彼らにとってキリストも深い知識を求める1つの方法でありました。しかし、いろんな神々や天使、諸霊を混合させた怪しげな宗教でした。彼らは、聖書よりも、神秘的な体験で得られる悟りを求めていたので、だんだん本質からずれて行きました。最初はキリスト教会の中にいたと思われますが、そこから出て行き、別の群を作ったものと思われます。しかし、ヨハネは「彼らはもともと、私たちの仲間ではなかったのです」と厳しく言っています。

この世の多くの宗教は、いろんな神々、諸霊を合体させています。日本にはインドの神さま、中国の神さま、日本古来の神さまを寄せ集めて、ご本尊にしているものもあります。彼らは1つよりも、大勢いた方が、御利益があると思っています。近くに、柴又の帝釈天があります。帝釈天というのは、密教の守護神で、インドから来た神さまです。毘沙門天もインドや中国から来た、戦いの神さまです。仏教でも密教というのがありますが、大乗仏教と違い、非常に神秘的です。修行を積んだり、呪文を唱えたり、癒しや奇跡も行ないます。新興宗教にも、そのような共通したところがあるようです。しかし、現代において最も驚異的なのがニューエイジの出現です。ヨーロッパのキリスト教会は非常に低迷しています。スペインなどでは若者たちは教会に行かないで、東洋の禅とか、霊的な体験を求めているそうです。ニューエイジはオカルト、チャネリング(死者と語る交霊術)、呪文が含まれます。彼らもキリストを認め、自分も神さまの子どもであるとまで言います。しかし、彼らの神さまは私たちのような人格を持っていません。彼らの救いは、宇宙の大霊なる神と一体化することです。自分が神の一部になり、神が自分になる汎神論的なものです。ニューエイジは音楽や科学、マンガ、ゲームにどんどん入り込んでいます。ヒーリングの音楽の半分以上はニューエイジです。筑波大学の村上和雄という人は『人は何のために祈るのか』『生命の暗号』などの本を書いていますが、完全なニューエイジです。また、子供たちのマンガやゲームもニューエイジの影響を受けています。「セーラー・ムーン」「遊戯王」「ジョジョの奇妙な冒険」というマンガがありました。彼らの特徴は自分ともう1人の自分がいることが特徴です。もう一人の自分は霊であって、特別な力を備えています。自分が戦うというよりも、自分の分身である霊(スピリット)が戦うというような構造です。映画ですと「マトリックス」「インセプション」もその部類です。サタンは仮想の現実を作らせ、そこがまるで現実であるかのように思わせます。ホーム・ページを見ますと、「自分は天使の一人だ」と完全に行っている人もいます。

 では、なぜ、本当の信仰から離れ、異端の方に走ってしまうのでしょうか?1つは教理の1箇所だけを極端に強調し、他の教理を捨ててしまうことです。エホバの証人というキリスト教の異端がありますが、彼らは地獄のさばきを否定しました。その代わり、14万4000人の中に入って、千年王国を受け継ぐことが彼らの救いです。キリストも神さまではありますが、エホバである神様から造られた低い存在とみなされています。彼らは神さまを「エホバ」と呼びますが、それは不可能です。エホバはイスラエル民族が呼んだ神さまの名前であり、私たち異邦人は無理です。私たちはイエス・キリストという贖い主がいてこそ、神さまに近づくことができるのです。そして、私たちは神さまをエホバではなく、「天の父」「お父さん」と呼びます。また、異端の特徴は霊的な体験、預言、さまざまな奇跡を強調します。私は奇跡や預言も信じています。しかし、聖書が土台であり、聖書の方が勝っていることを疑いません。マルコ16章には「みことばに伴うしるし」と書いてありますから、みことばが第一で、しるしや奇跡はそれを証明するものです。しるしや奇跡はおまけであり、あれば良いけれど、なくても良いのです。今、預言喫茶というのがとても流行っているようです。コーヒーを一杯注文したら、預言をしてくれるクリスチャンがやっている喫茶店があるようです。私は預言を否定しません。神さまは今も、預言を通して語られるでしょう。でも、クリスチャンが基本的にしなければならないことは、毎日、聖書を読んで、そこから神の御声を聞くことです。自分でちっとも聖書を読まないで、「預言してください」とあちらこちらに行くのはとても危険です。その人は、占いの霊にはまってしまうでしょう。多くの預言は、私たちが既に神さまから語られていることの確認であります。「ああ、やっぱり神さまはわかっていてくださったんだ」というものがほとんどです。

 世の中はますます終わりに向かっています。そうしますと、隠れていたものがだんだん表面化し、反キリスト的なものがどんどん出てきます。これまでは、密かに騙していましたが、仲間が多くなると、信仰を持っているクリスチャンを真っ向から攻撃してくるでしょう。そこで、私たちは自分が持っている信仰が本物なのか、偽物なのか試されるでしょう。多くの教会がそう言うから本当だろうと考えないでください。日本の半分以上の教会は「聖書は誤りなき神さまのことばである」と信じていません。かろうじてキリストの十字架の贖いを信じているかもしれません。しかし、アダムとエバの歴史性、処女降誕、数々の奇跡、終末論は信じていません。聖書のある部分は理性が受け付けないので信じないのです。私たちは理性を尺度にしてはいけません。それは啓蒙思想が唱えたことです。私たちは聖書がそう言うなら、「アーメン」と信じるしかありません。私は宗教ということばはあまり使いたくありません。しかし、あえて言うなら、キリスト教は聖書の宗教、永遠に変わらないみことばに土台した宗教です。そして、聖書の中心は、私たちのために十字架にかかり、3日目によみがえられた、イエス・キリストです。ですから、私たちは聖書を土台とした教会にちゃんと留まるべきです。虫のように、甘い水を求めて、さまよっているとパクっと食べられてしまいます。自分が洗礼を受けて、属している教会を母教会と言います。他の教会から来られて、客員として留まっておられる。そういう方を決して拒みません、歓迎します。でも、教会員として、メンバーシップがあるなら、相互責任があります。ある場合は、指導や訓戒を受けるかもしれません。でも、お客さんには決してそういうことはしません。「縛られるのが嫌だ、自由にさせて」という人は構いません。でも、世の終わり、ますます誘惑が強まり、反キリストが横行してくるでしょう。イエス様はヨハネ10章で「私の羊は私の声を聞き分けます。また私は彼らを知っています。そして彼らは私について来ます」と言われました。

2.偽り者

 Ⅰヨハネ2:23「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」私たちは神さまのところへどのようにして行くことができるのでしょう。イエス様はヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。なぜ、イエス様以外には、神さまのところへ行けないのでしょうか?このことはとても重要です。旧訳聖書において、イスラエルの民は神さまから特別に選ばれていました。彼らは律法と儀式という古い契約によって、神様に近づくことができました。しかし、私たちは異邦人であり、イスラエルの民ではありません。では、イスラエルの民だったら大丈夫なのでしょうか?いえ、彼らも律法を全うできなかったので、やはり、イエス・キリストが必要です。すべての人類は罪の中にあるので、キリストの贖いがなければ、神さまのもとへ行くことができないのです。では、その人が本当に信じて、救われているのか、どうやって分かるのでしょうか?

 聖書は、「御子イエスを告白するか、それとも否認するか」が決め手であると言っています。では、御子イエスを告白するって何でしょう?Ⅰコリント12:3「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」とあります。主というのはギリシャ語でキュリオスと言いますが、当時、ローマ皇帝がキュリオス、主であり、神的存在でした。ヨハネの頃は、ものすごく迫害が強くなりました。もし、人が「イエスは主である」と言うならば、ローマ皇帝は主ではないということになります。もし、それを公に告白するならば、捕らえられて火あぶりの刑にされるかもしれません。ですから、その時代、「イエスは主」と言うことは命がけだったのです。でも、キリスト教が国教になって平和な時代がやってきたらどうでしょうか?「イエスは主です」「私はイエスを信じます」と告白しても、本当にそうなのか分かりません。口で告白しても心ではそうでないかもしれません。また、信じると言っても、どの程度、信じているのでしょうか?ある曲芸師が、ナイアガラの滝の両側にロープを張って、その上を渡ったそうです。その後、大勢の人たちに向かって「私は一人の人を背負って、向こう側に渡ることができるでしょうか」と言ったそうです。人々は「ああ、きっとできるでしょう」と賛成しました。曲芸師は「できる」と言った人に、「では、私の背中におぶさってください。あなたを背負って行きましょう」と言いました。すると、その人は「無理」と断ったそうです。曲芸師は他の人にも呼びかけましたが、一人もいませんでした。最後に、曲芸師の息子が彼に背負われて、向こう側まで無事渡ったということです。信じるというのは、頭で信じるのではありません。「ひょっとしたら死んでしまうかもしれない」と自分の存在をかけて信じるのが本当の信仰です。でも、イエス様は私たちを決して裏切るようなお方ではありません。私たちは真実でなくても、彼は常に真実だからです。

 では、偽り者とはどういう人でしょうか?ヨーロッパやアメリカでは、洗礼を受けていても、クリスチャンである人がとても少ないと言われています。日本の仏教と同じで、「うちはキリスト教だよ。幼児洗礼も受けたよ」と言います。でも、個人的にキリストを救い主として受け入れていません。聖書は1つの物語であり、良くても哲学か思想です。彼らにはキリスト教の文化や思想があります。「神はおられる。隣人を自分のごとく愛せよ。」くらいは信じています。でも、頭の中は、この世の考えでいっぱいです。合理主義、ヒューマニズム、功利主義に満ちています。この世で成功をおさめ、お金持ちになることが第一です。教会でも毎週、そういうことを話しています。特にアメリカの大教会ではそうです。しかし、偽り者とは、もうちょっと高度だと思います。自分はクリスチャンであると名乗りながら、実はそうではないということです。彼は自分だけが偽り者ではなく、裏で、偽り者を増やすことをしています。聖書では、「毒麦」「ヤギ」「パン種」などとも言われています。私は今の時代、霊を見分ける賜物が本当に必要だと思います。いろんな癒しや奇跡を行い、預言や異言を話したとしても、それが本当に神の霊から来たものなのか?あるいは、悪魔から来たものなのか見極めることが必要です。反キリストの組織は、偽り者を正統的な教会にもぐりこませ、内部から分裂させていくということも聞いたことがあります。表面から見たら、熱心なクリスチャンかもしれません。でも、内部はそうではない。そういうこともありえるのです。

 では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?Ⅰヨハネ2:24「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」ヨハネは初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい」と言いました。逆に言うと、「新しい教え」は危険であるということです。私もそうですが、牧師や教師が教えている教えは、新しい教えではありません。聖書にはじめから語られていた教えを、再発見し、それを、洋服を変えて語っているに過ぎません。伝道者の書1:9-10「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。」アーメン。16世紀、ルターは信仰義認を唱えましたが、ちゃんとパウロが語っていたことです。18世紀、ジョン・ウェスレーが聖化(きよめ)ということを唱えましたが、聖書が教えていたことです。20世紀、ペンテコステ運動が起こりましたが、やはり聖書で言われていたことです。今は、セルチャーチとかハウスチャーチなどと言われていますが、そういう教会論は新約聖書にあったことです。私たちは「むしろ、聖書に立ち返ろう」と教えています。内容は古くて同じものですが、伝え方とか、方法論が新しいだけです。でも、本質的なものは全く変わりません。

松戸に岡野先生という牧師がおられます。私たちの常磐セルの仲間から、「仙人」と呼ばれています。ほとんど現在のキリスト教会の神学とかには興味がなく、ただ、聖書を信じて、それを行うことに徹しています。私は1996年から「教会は共同体だとか、人間関係だ」とか言ってきました。しかし、岡野先生ははじめから、関係中心の伝道をしていました。地方に行くと歌っている賛美も古くて、話している内容も古いなーという教会もあるでしょう。確かに、方法や手段は古いかもしれません。でも、教えている内容はほとんど同じです。私は都内に住んでいるので、毎月のように、聖会やセミナーに出掛けることができました。そのこと自体はとても感謝なことなのですが、頭の中で統制がとれなくなってしまいます。いろんな知識やいろんな情報が交錯し、焦点が絞れなくなります。ある教会は、毎年、新しい方法を取り入れています。「昨年はあのプログラムだったけど、今年はこのプログラムを入れよう」とやっています。まさしく、プログラム教会です。人間はいつか飽きますので、いつも新しいプログラムを導入しなければなりません。大切なのは本質です。本質は何なのか、その本質に留まる必要があります。その次には聖霊に導かれ、時代を見ながら、方法を変えていくべきでしょう。本質は変えないけど、方法は変えて良いということです。それは、伝道でも、賛美でも、教え方でも共通しています。

ヨハネは、偽り者にならないで、御子および御父のうちに留まることを教えています。ところで、当教会が単立になって数ヶ月になりますが、たとえて言えば船の進路を変えたということです。今、進路を変えて新しい航路を進み始めたところです。最近、私自身の中に「伝道をしなければ、弟子訓練をして後継者を育てなければ」というあせりがありました。私は教会のビジョンを立てるとどうしても、5年後は何名、10年後は何名と右肩上がりのグラフを書いてしまいます。なぜなら、韓国のチョーヨンギ師の影響を受け、大きな信仰を持って求めるなら必ずそうなると信じてきたからです。しかし、ウィットネス・リーがある本の中で「献身」とはどういう意味なのか教えくれました。その中の2つだけお分かちしたいと思います。これは御子および御父のうちに留まることと同じことだからです。第一はこういうものです。「献身の意義は供え物となる事ですから、ささげられたものは全く神のためのものです。ですから献身の目的は神に用いられ、神のために働くことです。しかし神のために働くには、先に神に働いてもらわなければなりません。神に働いてもらった人だけが、神のために働ことができるのです。神のためにどれだけ働けるかは、神にどれだけ働いてもらったかによります。」アーメン。そうです。神さまに働いてもらわなければ、私は何もできないんだということです。神さまに働いてもらわないで、自分が先にやろうとしてきたところが多々あります。自分が勝手に描いたビジョンを神さまに押し付けてやってきました。イエス様はヨハネ5章で「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行なうことができません」と言われました。父なる神さまが働いておられるなら、はじめて、私たちも働くことができるのです。第二はこうです。「牛が供え物としてささげられ、火で焼かれたならば灰と化し、何もなくなります。すべてが終ってしまうのです。同じように献身の結果とは、前途を絶つことです。ある兄弟姉妹は、献身した後も、まだ自分の理想を追っています。それはその人の前途がまだ断ち切られていなことを証明しています。」私は「10年後、カウンセリングとかコーチングして生活できるだろうか?どこに住もうか?でも、家を持つことができるだろうか?」と心配していました。しかし、その本には、「わたしたちの前途も全く一握りの灰と化し、神以外の一切の出口が断たれ、神だけがわたしたちの前途であり、わたしたちの道です。」とありました。「うぁー、私は半分しか焼かれていない、生焼けのはん祭だったなー」と思いました。だから、自分の老後のことを心配していたのです。神さまにささげたなら、私の前途は絶たれますが、神さまが責任を取ってくださいます。神さまを差し置いて、自分で「ああしたい、こうしたい」というのはおかしな話です。御子および御父のうちに留まるとは、神さまに献身することと同じです。「主よ、あなたが働いてくださるなら、私はあなたのために働くことができます。」ただ、業績を上げるために、がんばるというのはクリスチャンの生き方ではありません。まず、神さまに徹底的に働いてもらって、それから神さまのために働くことができるのです。また、将来のことを思い煩う必要もありません。なぜなら、私たちは神さまから買われた者であり、主権はみな神さまの手中にあるからです。どうぞ、永遠に変わらないみことばと御子および御父のうちにとどまりましょう。

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