2007年4月 1日 (日)

拒絶されたイエス      マルコ15:33-39

来週は復活祭、イースターです。しかし、復活の前には、十字架があることを忘れてはいけません。きょうは、マルコ15章から、十字架のメッセージをお伝えしたいと思います。イエス・キリストはご自身がこの地上に来られた目的をご存知でした。それは、ご自分の命を捨てることによって、人類をあがなうためであります。福音書には少なくとも、3回、「人の子は、人々の手に渡され、殺され、三日目によみがえる」と予告しています。イエス様は十字架で罪のあがないとなることを十二分に知っていたはずです。でも、イエス様の十字架の叫びは、まことに不可解です。15:34「そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。きょうは、この聖句を中心に3つのポイントで学びたいと思います。

1.罪の悲惨さ

 まず、イエス様の叫びは、罪の悲惨さを表わしています。イエス様は全人類の罪を負ったために、神様から捨てられたのであります。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」と書いてあります。イエス様は完全に正しい方であり、罪とは縁もゆかりもないお方でした。しかし、イエス様は私たちの罪をかぶり、罪そのものとなられました。ある人は、「イエス様は三日後に復活するんだから、平気じゃないの?」と言います。でも、みなさん、その前に、イエス様は罪そのものとなられたのです。この間、テレビで冤罪のゆえに2年間、刑務所に入っていた人のことが報道されていました。後から、真犯人が現れて、その人には罪がなかったということが分かったのです。その人は「無罪が証明されたので、良かった、良かった」と手放しで喜べるでしょうか?彼は一度、殺人犯としての汚名を着せられました。刑に服したため、仕事も人生も棒に振りました。無罪が証明されても、これから社会復帰できるでしょうか?イエス様は、今でも、「十字架にかかるほど、悪いことをした」と思われています。ほとんどの人は、自分の罪が、イエス様を十字架につけたとは理解していません。残念ならが、罪はあまり重大な問題とされていません。それよりも、政府は経済的な問題をどう解決すべきか協議しています。ある人は知識が足りないんだと教育の問題を取り上げるでしょう。また、ある人はさまざまな環境の問題を取り上げるでしょう。また、ある人は、人間の道徳性を取り上げ、精神が未発達だと言うかも知れません。経済、知識、環境、道徳・・・もちろんそれらの問題も大切です。でも、聖書は人類の根本的な問題は罪であると言います。ですから、本来ならば、私たちの罪をどうすべきか考えなければならないのです。

 でも、その当時の人たちも、罪のあがないに関しては全く無関心でした。いや、むしろ、イエス様が罪のあがないをなされることを妨害し、ののしり、あざけりました。だれ一人、「私たちの罪をあがなってくださり、ありがとうございます」と感謝していません。30節「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」、31節「他人は救ったが、自分は救えない」、32節「たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」。これらの、一見、何の意味ないあざけりの言葉は、イエス様のあがないを完全に排除する言葉であります。イエス様にとって、どんなに大きな誘惑であったでしょうか?もし、イエス様が十字架から降りて、自分を救うならば、どうなるでしょうか?人類のあがないは、なされないことになります。彼らは「罪のあがないなんか必要ない!」と言っているようなものです。十字架のまわりにいた人々は、だれ一人、「イエス様、十字架のあがないをありがとうございます」などと言っておりません。反対に、「十字架から降りて自分を救え、そうしたら信じるから」とあがないを否定する言葉であります。こういうあざけりとののしりの中で、イエス様は十字架にご自身をお付けになっていたのです。イエス様を十字架につけていたのは、釘ではありません。イエス様が全人類をあがなうために、ご自身を十字架につけておられたのです。

 私たちは実のところ、罪がどれほど大きいのか分かりません。罪はイエス様を十字架につけるほど大きいということが分かりません。自分の行ないで償えるとでも思っているのでしょうか?「いや、あの人の罪はもっと重い。私のはまだ小さい方だ」と言うかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、罪というものがあまりよくわかりません。洗礼で自動的に許されたように感じます。まるで、自動車の洗車みたいに、機械がせっけん水とブラシで洗ってくれます。あとでワックスをかけられ、風で乾燥してくれます。ああ、きれいさっぱり罪が許された。オーハッピイディ。確かにそのときは、そう思います。でも、クリスチャン生活を送って行くにつれて、結構、自分は罪深い存在だなーと気づきます。心の中には、赦せない心、自己義認、ねたみ、うらみ、高慢さ、疑い、怒り、復讐心、好色、貪欲、分派心があります。ふだんは底に沈んでいますが、何かが起こると、ぱーっと、舞い上がってきます。まるで三日も取り替えていないお風呂の水のようであります。上は透き通っていますが、一旦、体を入れますと、ぱーっと、舞い上がってきます。もちろん、クリスチャンになりますと、汚れたものが量的に減るかもしれません。でも、センサーが強力なので、よくわかるんです。使徒パウロはこう言いました。Ⅰテモテ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。パウロは罪人のかしらならば、私は罪人の帝王かもしれません。私たちはイエス様を思うと、他の人ではない、自分のあの醜い罪のために十字架にかかられたんだと思わなければなりません。イエス様の罪のあがないは、私たちの信仰のはじめであり、終わりなのです。私たちは毎週、礼拝において、イエス様のあがないを思い、イエス様のあがないを感謝し、イエス様のあがないの中にとどまることを願うのであります。

2.地獄の恐ろしさ

 15:34「そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。イエス様はこのとき、神様から捨てられ、地獄を体験したのであります。本来ならば、私たちが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と地獄の底から叫ばなければならなかったのです。では、地獄とはどういうところでしょうか?福音書では、「ゲヘナ」として度々、出てきます。ゲヘナとは、焼却炉という意味であり、永遠の火によって魂を焼き滅ぼすところであります。本来は、悪魔とその手下どものために作られたものですが、救い主を拒んだ人たちが投げ込まれる火の池でもあります。黙示録21:8「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」とあります。ある人たちは、「愛なる神様が地獄を作るわけがない。生前キリストを信じなかった人たちも、神様のあわれみによって救われるに違いない」と言います。しかし、それは聖書の福音ではありません。第一に、イエス様が何としても地獄を避けるように語られました。第二は、黙示録や他の書物にも記されています。第三は、神様は愛であると同時に、義なるお方です。第四は、救いは地獄(滅び)から救われることも含まれているからです。私たちはぜ、「私は救われた」喜び感謝するのでしょうか?もし、だれでも天国に行けるのであれば、伝道や宣教も不要であります。第五は旧約聖書の中で神のさばきが度々あったことです。ソドムとゴモラ、そしてノアの洪水、アッシリヤやバビロンへのさばきがありました。ノアのときは、「洪水によって決して滅ぼさない」と約束しました。しかし、終わりの日、神様は不敬虔な者どもを火で滅ぼすと聖書に書いてあります。

 地獄はあるのです。私たちはぜがひでも、何がなんでも、どのような犠牲を払ってでも、地獄に入らないようにしなければなりません。もちろん、救いは地獄からの救いだけではありません。他にたくさんの意味があり、救いの目的は、地獄を避けることだけではありません。でも、みなさん、地獄が本当にあるとしたら、信じない者が永遠の火に投げ込まれるとしたら、これはやっぱり、ただごとではないでしょう。アメリカの大伝道者D.L.ムーディは、「その人に地獄を1度でも見せることができたなら、火の玉のようになって伝道するであろう」と言いました。ムーディが伝道者のなりたての頃のことです、大勢の人に福音を話しましたが、「決断の時」を持たないで終わりました。ところがその晩、シカゴに大火事があり、300人もの人が死にました。そのとき、ムーディは「あの中に、決断をしないまま滅びに行った人がいる。私はどうして招きをしなかったのだろう!」と泣いて悔やみました。それ以来、ムーディは集会の後には、必ず、招きをするようになりました。日本人はよく、こういう言い方をします。「お父さんやお母さんがイエス様を信じないで地獄へ行ったならば、私も同じところに行きたい」と言います。つまり、私だけ天国には行けないということでしょう。これは、日本人は肉親の情が強いので、こういうことを言いがちです。でも、親子関係があるのは、この地上だけであります。人が一旦、地獄に行ったならば、もうそこには肉親の情などかけらもありません。ききんのときは、死んだ子どもの肉を食べるということがあったそうです。今、地上で親子の情があるのは、神様の一般恩寵、恵みであります。でも、地獄にはこのような恵みはないので、もう、親でもない、子でもない、自分のことが第一なのです。ルカ16章に、ハデス(陰府)に落とされた金持ちのことが書いてあります。ハデスは地獄の待合室のようなところですが、彼は父アブラハムこう願っています。「私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください」。これが、先に亡くなってまった人たちの願いです。彼らは、せめて、子どもや兄弟が救われてほしいと願っているのです。

 イエス様が神から捨てられ、地獄を体験されました。だから、イエス様を信じる人は、もうこの叫びをしなくても良いのです。この間、老人ホームにおられる五藤姉妹のお見舞いに行きました。実際、行ってみると彼女一人ではなく、他に4人のお友達が待っておられました。いくらなんでも、私がその場で説教するのは無理であります。でも、五藤姉妹は積極的に、自分がイエス様を信じるきっかけ、信じてどうなったか証しをされました。「私はイエス様を信じてから、いつ死んでも大丈夫、天国に行ける確信が与えられました。私はもう死がちっとも怖くありません。ドアのすぐ向こうに天国があるのよ」と証しされ、すごいなーと思いました。本当に姉妹の顔は輝いていました。残念ながら、他の4人の方にはそのような輝きはありませんでした。みなさん、これが救いであります。イエス様が地獄を体験されたので、私たちはもう死の恐れから解放されているのです。反対に、死後の世界、天国に行けることが楽しみでしょうがないのです。世の人は年を取れば取るほど、希望がなくなります。しかし、私たちクリスチャンは、年を取れば取るほど、天国に入れる希望が増してくるのです。ですから、死ぬときには、「ハレルヤ!お待ちしておりました!」と言いましょう。

3.拒絶の苦しみ

 イエス様は、福音書を見る限り、一度も御父を「わが神」と呼んだことはありません。いつも、「父よ」であります。神様を「神様」と呼ぶのは、罪人の私たちであります。でも、イエス様は、十字架上で罪そのものとなったために、もはや御父と呼べず、「わが神」と呼ぶしかなかったのです。もちろん、イエス様のこの叫びは、詩篇22篇の引用であり、イエス様がそらんじておられたみことばをこの時、語られたんだという考えもあります。たしかに、詩篇22:1に同じ、みことばがあります。でも、イエス様は聖書のヘブル語ではなく、当時、使われていたアラム語で叫ばれたのです。マルコによる福音書の記者は、イエス様の胸中をダイレクトに伝えたかったのでしょう。だから、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と書いてあります。これはイエス様の生の叫びでありますが、御父から捨てられたという拒絶の苦しみが伝わってきます。残念ながら、私たち罪人はイエス様の拒絶の苦しみがどれほどだったのか、わかる由もありません。なぜなら、神様から離れて生きてきたからです。でも、イエス様の場合は、永遠の昔から、御父と一緒でした。一度たりとも離れたことがないのです。地上に来られたときも、「父よ!」と祈れば、すぐそこにおられました。ところが、十字架にかかられたときはそうでありませんでした「さて12時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いたと書いてあります。その日は、過ぎこし祭りであり、満月であって、日食になることは絶対ありません。地球の前に太陽があるなら、月は地球の真裏にあることになります。曇りぐらいでは、真っ暗になりません。昼間なのに、真っ暗になるなんて、科学的にはありえないことです。しかし、これは御父が御顔を隠されたということを暗示しています。神様が「さらし者になっている、御子を見ておられない」ということもあるでしょう。でも、もっと正しい意味は、神様が御子を捨てたということであります。なぜなら、罪は、神様との断絶を作るからです。イエス様はご自分の罪ではなく、私たちの罪を負ったがゆえに、神様から断絶され、捨てられたのであります。これは、御子イエス様しか、わからない、拒絶の苦しみの境地であります。

 でも、イエス様が御父から拒絶を受けられたことは、私たちの癒しになります。私たちは生まれてこの方、拒絶を経験されたことのない人は一人もいないと思います。お腹の中にいたときに、母親から拒絶された人がいるでしょう。「本当は生みたくなかったけど、できちゃったので、生むしかなかった」。これは良くありがちな話です。また、生まれてから、父親から拒絶された人もいるでしょう。父親からだっこされたり、親しく話しかけられたことがない。特に、父親は仕事が忙しくて、家にほとんどいません。学校へ行くと、さらに、さまざまな拒絶を経験します。友達からあるいは、先生から拒絶されるでしょう。「拒絶」ということばは、一般的であります。具体的には、「あんたなんかきらいよ、あっちに行って」とか、「お前はいないほうが良いんだ」とか、「死んでしまえ」、「一緒に遊ばないよ」。大きくなれば、「役立たず」「無能」なども、拒絶のことばであります。異性からも「あなたんか嫌い」「気持ち悪い」「さわらないで」などと、拒絶されることもあります。先週、英国から来たノバの教師が殺害されました。悲しいことですが、若い女性が男性によって殺されるということはよくあります。いろいろな原因があると思いますが、男性として考えられることは、やはり、拒絶ではないかと思います。特に外国の方は、はっきり「ノー」と答えます。帰国子女も、そうであります。日本人は、「予定がある」とか「都合が悪い」とか、遠まわしに断ります。でも、いきなり「ノー」と言われると、グサッときます。また、心に傷のある男性が、女性から「あなたなんか興味ないわ」とか「サイテー」なんて言われると、逆上して、暴力を振るケースもあるでしょう。そのとき、親や友達、先生、これまで積もり積もった怨念を、晴らそうとするわけです。もし、その人が心の傷もなく、セルフイメージが高いならば、少しくらいの拒絶は、笑って済ますことができます。でも、傷が膿んでいる人は、ささいなことも、過剰に反応してしまいます。

 拒絶の苦しみを受けたことのない人はひとりもいないでしょう。ですから、だれでも拒絶を受けられたイエス様の癒しが必要なのです。イザヤ書53章はイエス・キリストの預言です。イザヤ53:3、4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」。イエス様は人々からさげすまれ、のけ者にされました。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれもイエス様を尊びませんでした。そして、御父からも捨てられ、拒絶されました。歴史上、神様から完全に捨てられた人はひとりもいません。イエス様が最初だったのです。それは私たちのそむきの罪のゆえでありました。でも、それだけではなく、イエス様は拒絶の苦しみ、悲しみ、恥を担ってくださったのです。イエス様だけが、拒絶された人を完全に癒すことができるのです。残念ですが、あなたの過去を変えることはできません。しかし、イエス様はあなたが過去において、拒絶を受けたときに、そこにおられたのです。イエス様は涙を流しながら、「私も残念に思うよ。でも、私はあなたを完全に受け入れるよ。私はあなたを決して捨てない」とおっしゃるでしょう。そして、傷ついたあなたを抱きしめてくれるでしょう。

 イエス様は神様から捨てられました。その理由は、あなたが犯した罪をあがなうためです。イエス様はあなたの罪を背負い、身代わりに罰を受けたのです。だから、あなたはもうそのことで自分を責める必要はありません。しかし、もう1つ十字架の意味があります。イエス様は被害者であるあなたを、癒すために苦しまれたのです。あなたが受けた拒絶、悲しみ、恥を担ってくださったのです。だから、あなたは神様の御目には高価で尊い、愛されるべき存在なのです。何ができるとか、できないではなく、あなたの存在そのものを神様は受け入れ、価値あるものとみなされているのです。では、罪の赦しと傷の癒しを受けた人はどうなるでしょうか?あの弟子たちのように、変えられるのです。使徒5:41、42「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」。今までは、自分のために泣いていました。でも、癒されると、キリストのためにはずかしめを受けることを喜ぶのです。本当に癒しを受けた人は、馬鹿にされると、「ああ、イエス様に似る者とされた!これで私も一人前だ!」と喜ぶのです。かつては、不当な扱いを受けると逆上していたのに、「イエス様と同じ経験をさせていただいている。感謝だなー、アーメン」と、喜ぶことができる。そうなったら良いなーと思いませんか。

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