2014年9月14日 (日)

エステルの信仰     エステル4:12-16

 エステルは「星」という意味ですが、ユダヤ人名は「ハサダ」です。その当時、エルサレムでは帰還した人たちによって神殿が再建されていました。しかし、自国に帰らないで、ペルシャとその諸州に留まっているユダヤ人たちが大勢いました。アハシュエロス、別名、クセルクセス1世はダリヨス1世の後のペルシャの王です。エステルはユダヤ人が撲滅される危機から救った女性として有名です。


1.エステルへの好意

 ペルシャのアハシュエロスは毎日のように宴会を開いていました。ある時、王は王妃ワシュティに、王冠をかぶって、酒の席に出てくるように命じました。彼女は容姿が美しかったので、みんなに自慢したかったのでしょう。しかし、彼女はプライドが高かったので「そんな席には出ません」と断りました。「王様の命令を断るとは何事でしょう?」王に仕えるたちは恐れて、進言しました。「王様、こういうことを許すなら、国中の女たちが、自分の夫を軽く見るようになりますよ。彼女を王妃の位から降ろし、別の婦人に授けてください。」それで、なんとか、王の憤りは収まりました。王に仕える者たちは、「王のために容姿の美しい未婚の娘たちを探しましょう。そして、王のお心にかなうおとめを王妃にしてください」と進言しました。王は「良きにはからえ」と満足して答えました。今でいうミス・ユニバースがペルシャのシュシャンで開かれました。王国すべての州から容姿の美しいおとめたちが集められました。ミス・ユニバースでも、そうですが、大会に出る前に訓練期間があるようです。このときも同じで、彼女らに化粧に必要な品々を与え、一人一人を準備させました。ところで、シュシャンの城にモルデカイという一人のユダヤ人がいました。この人の祖父はバビロンのネブカデネザルによってエルサレムから捕らえ移された民の一人でした。モルデカイには、おじの娘エステルがいました。エステル2:7「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである。」

アハシュエロスが出した命令によって、エステルもシュシャンの城に連れて行かれました。そこには、ヘガイという監督官がおりました。エステル2:9「このおとめは、ヘガイの心にかない、彼の好意を得た。そこで、彼は急いで化粧に必要な品々とごちそうを彼女に与え、また王宮から選ばれた七人の侍女を彼女にあてがった。そして、ヘガイは彼女とその侍女たちを、婦人部屋の最も良い所に移した。」このところに、エステルは「彼の好意を得た」と書いてあります。好意は英語の聖書ではfavorであります。favorは日本語では、好意とか、愛顧、恵みという意味です。聖書の中には、神様がご自分の選ばれた人に対して、ある人がfavorを与えるように仕向けている箇所が多数あります。たとえば、ヨセフが主人の妻のことで嫌疑がかけられ、牢獄に入れられたことがあります。創世記39:21「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」とあります。英語の聖書は、「主は監獄の長にヨセフに対するfavorを与えた」となっています。ルツ記においては、ボアズがモアブの娘に対して、favor好意を持ったことが記されています。また、サウル王がダビデを召し抱えようとエッサイに人を送りました(Ⅰサムエル16:22)。そのとき、使いの者に「私の気に入ったから」と言わせました。「気に入った」はfavorです。ダニエルはどうだったでしょうか?ダニエル1:9「神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた」とあります。「いくつしむ心は」favorです。

ある人は「神様は公平なお方だから、みんなを平等に愛しておられる」と言うでしょう。しかし、聖書の神様はだれに対しても平等というわけではありません。パウロはそのことをローマ9章で語っています。ローマ9:12-16「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」私たちの神様は、父なる神様です。あなたがイエス様を信じているなら、神の息子、神の娘です。父なる神様は私たち一人ひとりにご計画をもっていらっしゃいます。そのご計画を果たすために、favor(好意、愛顧、恵み)を与えると考えるのは当然ではないでしょうか?だれでも、父や母なら、自分の子どもには、良いものを与えたいと願うでしょう。このfavorは、人生の大きな事柄だけではなく、仕事や日常のことにもあります。スーパーやデパートの買い物にも起こります。こっちの列に並んでいると、隣のレジが新たに開かれ「どうぞ」と言われたりします。混んでいる高速道路に乗ろうとするとき、パッと入れたりします。しかし、神様のfavorを当たり前のように考えてはいけません。これは、「私はあなたと共にいますよ」という、神様の励ましであると考えるべきです。ある時、ジョエル・オスティーンが空港で並んでいるとき、一人の係員がつかつかと近づいてきました。「こちらへどうぞ」とファーストクラスに乗せてくれました。ファーストクラスが空いていたので、パソコンでランダムに選ばれたそうです。その次、空港で長い列に並んでいました。また、「良いことが起こらないかな?」と期待して、そわそわしていました。そのとき、一人の係員がつかつかと近づいてきました。「列からはみ出さないでください」と注意されたそうです。神様のfavorはいつでもあるわけではありません。

 エステルは監督官の好意を得ました。アハシュエロスからもfavorを得ました。エステル2:17「王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた。こうして、王はついに王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。」アーメン。しかし、神様にはエステルに対して、深い計画がありました。そのために、監督官や王の心に、エステルに対するfavor好意を与えたのです。


2.エステルの信仰

 エステル記3章から、ハマンという悪魔的な人物が登場します。ハマンはアハシュエロス王から重んじられ、すべての首長たちの上に置かれました。王様の家来たちは、だれでもハマンに対してひざをかがめて、ひれ伏しました。ところが、モルデカイだけはひざをかがめず、ひれ伏そうともしませんでした。そんな反抗的な態度を見て、ハマンは憤りに満たされました。彼はモルデカイひとりに手を下すことだけで満足しませんでした。モルデカイの民族、つまり、王国中のすべてのユダヤ人を根絶やしにしようと考えました。エステル3:8-9「ハマンはアハシュエロス王に言った。『あなたの王国のすべての州にいる諸民族の間に、散らされて離れ離れになっている一つの民族がいます。彼らの法令は、どの民族のものとも違っていて、彼らは王の法令を守っていません。それで、彼らをそのままにさせておくことは、王のためになりません。もしも王さま、よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀一万タラントを量って渡します。そうして、それを王の金庫に納めさせましょう。』」ハマンは王様から、指輪を預かり、ユダヤ人撲滅の書簡を諸州に向けて送りました。そこには、「アダルの月の13日に、若い者も年寄りも、子供も女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財を奪え」と書いてありました。ちょうど、11ケ月後に実行されることになります。この法令はシュシャンの城でも発布され、町は混乱に陥りました。モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でわめき叫びました。これは、親しい人が亡くなった時の深い悲しみの表現です。王の命令とその法令が届いたどの州においても、モルデカイのように嘆き悲しみ、荒布を着て灰の上にすわりました。

 エステルは、「何が起きているのか」人を遣わしてモルデカイに聞きました。モルデカイはシュシャンで発布された法令の文書の写しを使いに渡し、自分の民族のために王にあわれみを求めるように頼みました。しかし、王の家臣であっても、召されていないのに内庭に入って王のところに行く者は死刑に処せられるという法令がありました。王妃エステルでさえも、呼ばれていないのに勝手に行くことはできません。エステルが人を遣わしてそのことを伝えると、モルデカイからこのような返事が送られてきました。エステル4:13「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」そうです。モルデカイは「エステルがこの王国に来たのは、神様の計画だった」と諭しました。第一のポイントでは、エステルは監督官の好意を得ただけではなく、王様からもfavorを得て王妃になったと申し上げました。しかし、神様はエステルに対して、深い計画がありました。旧約聖書には同じようなことがいくつか記されています。たとえば、ヨセフは兄弟たちのねたみを買って、エジプトに奴隷として売られました。ところが、13年後、彼はエジプトの総理大臣になりました。世界中に飢饉が襲い、父の家族が穀物を買いに来ました。ヨセフは「家族を救うために、神様が前もって私を遣わしたんだ」と悟りました。また、モーセは赤ん坊の時、ナイル川に捨てられました。ちょうど水浴に来ていた、王女がその子を拾い上げました。モーセは王子として、40歳になるまで、エジプトの教育を受けました。それは、やがてモーセがイスラエルの民を救うためでした。そのため、神様はあらかじめモーセをエジプトに送っていたのです。

 エステルもペルシャの王妃になったのは、ユダヤ人を救うための神様の計画であったということです。しかし、自動的に神様の計画はなりません。本人がその計画に身を投じなければなりません。エステルはモルデカイにどのような返事を送ったのでしょうか?エステル4:16「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」「死ななければならないのでしたら、死にます」は、エステルの有名なことばです。でも、エステルが自分の生活を第一に考えるなら、そのまま黙って、王妃として過ごすこともできます。でも、彼女は「自分の命をかけて、王様にお目にかかろう」と信仰に立ちました。三日目に、つまり、断食して祈った後、王妃の衣装を着て王室に向かいました。そのとき、王は玉座に座っていました。エステルを見たとき、彼女は王の好意を受けたので、手に持っていた金の笏をエステルにさし延ばしました。きっと、エステルの顔がやつれていたのかもしれません。王のfavor(好意、愛顧、恵み)が湧きあがってきました。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」これは、よくある王様のことばです。絶対、王国の半分なんか上げません。でも、「何でも聞くよ」という好意の表れです。エステルは全部を告げませんでした。ただ、私が設ける宴会にハマンと一緒にお越しくださいとだけお願いしただけです。エステルは神様の計画の全貌は知らされていませんでした。この先、どうなるか分かりません。でも、信仰によって一歩踏み出しました。

 私たちは神様に「計画を全部見せてくれたら、従いますよ」と言うかもしれません。もし、違っていたら、命を落とすかもしれないからです。エステルは「死ななければならないのでしたら、死にます」と、信仰によって一歩踏み出しました。すると、神様は王様に好意を与えてくださり、金の笏がエステルにさし延ばされました。エステルはハマンの悪巧みをストレートに告げて、法令を撤回してもらいたかったかもしれません。しかし、そうはしませんでした。なぜなら、エステルは「神様に一歩、一歩、導いていただくべきである」と考えていたからです。私たちは限界がありますので、神様の計画の全貌を見ることはできません。また、神様も全部を見せてくれません。私はこの点でよく失敗します。神様のタイミングを待つことができず、一機に進もうとします。私たちは神様のタイミングを見ながら、信仰によって一歩ずつ進むしかありません。箴言3:5-6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

3.エステルの勝利

 神様が不思議なことをしてくださいました。エステル6:1「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。その中に、入口を守っていた王のふたりの宦官ビグタナとテレシュが、アハシュエロス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれてあるのが見つかった。そこで王は尋ねた。『このために、栄誉とか昇進とか、何かモルデカイにしたか。』王に仕える若い者たちは答えた。『彼には何もしていません。』」王様はある晩、眠れませんでした。眠れない時に、難しい本を読めば良いことがあります。ある人は聖書を読むとすぐ眠くなるので良いという人がいますが、それは良くないです。王は、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。このことはエステル2章にありますが、二人の宦官が王様を殺そうとしていた時、モルデカイによって未然に防がれたことがありました。王様は「モルデカイに栄誉とか昇進とか与えたのか?」と聞きました。従者たちは「いいえ、彼には何もしていません」と答えました。ちょうど近くに、ハマンが来ていました。王はハマンに「王が栄誉を与えたいと思う者にはどうしたらよかろうか」と聞きました。ハマンは「それは自分のことだろう?」と勘違いして、このように進言しました。エステル6:8「王が着ておられた王服を持って来させ、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いて来させてください。その王服と馬を、貴族である王の首長のひとりの手に渡し、王が栄誉を与えたいと思われる人に王服を着させ、その人を馬に乗せて、町の広場に導かせ、その前で『王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである』と、ふれさせてください。」すると、王様は「門のところにいるモルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを1つもたがえてはならない」と命じました。ハマンは「自分のことじゃなかったのか」とがっかりしました。

王様が眠れなかったのは果たして偶然でしょうか?偶然ではなく、神様がそうさせたのです。そして、モルデカイがしたことがそのとき取り上げられました。ハマンはモルデカイを柱にかける許可を得るために来ていたのに、モルデカイに栄誉を与える助言をしてしまいました。これは神様のやり方です。エシプトのパロもある夜、夢を見ました。それはヨセフが献酌官長に「私のことを王様に告げてくれ」と頼んだ2年後でした。パロの夢をだれも解き明かすことのできる者はいませんでした。そのとき、献酌官長がヨセフのことを思い出しました。神様がちゃんとタイム・スケジュールを立てておられるのです。エステル7章から9章には、逆転勝利が記されています。王妃エステルが王様とハマンを招いて宴会を催しました。初日は何も言いませんでした。二日目になりました。王はエステルに「何を願っているのか。王国の半分でも、それをかなえてやろうと」言いました。その時、はじめてエステルは自分の民族が根絶やしにされ、殺害され、滅ぼされる計画があることを告げました。王様は「そんなことをたくらんでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか」と尋ねました。エステルは「その迫害する者、その敵は、この悪いハマンです」と答えました。王が憤って酒宴の席を立ちました。王がいないのを見計らって、ハマンはエステルに命乞いしました。王が広間に戻ってきたとき、ハマンがエステルに乱暴しているように見えました。即座に、ハマンは捕えられ、モルデカイのために用意していた柱にかけられました。そして、王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、それをモルデカイに与えました。

それからどうなったでしょう?エステルは王様に「ハマンが出した書簡を取り消すように、詔書を出してください」とお願いしました。エステル8:10-11「モルデカイはアハシュエロス王の名で書き、王の指輪でそれに印を押し、その手紙を、速く走る御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。」今度は逆に、ユダヤ人が自分たちの敵に復讐する権利が与えられました。その結果、王の命令とその法令が届いたどの州、どの町でも、ユダヤ人は喜び、楽しみ、祝宴を張って、祝日としました。第十二の月(アダルの月)、かつてユダヤ人が撲滅される日、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することになりました。モルデカイが王宮での勢力が増し加わったので、すべての人たちがユダヤ人を助けました。その結果、ユダヤ人を滅ぼそうとたくらんでいた人たちは、みな滅ぼされました。ユダヤア人は第十二の月(アダルの月)の14日と15日を祝宴と喜びの日に定めました。これがいわゆる、プリムの日であり、今日もユダヤ人の間で祝われています。

もし、この物語を霊的に解釈するならば、どうなるでしょう?ハマンとは悪魔の象徴であり、神の子らを滅ぼそうと計画していた者です。イエス様が十字架につけられて死んだとき、悪魔は「これで世界は自分たちのものだ」と喜んだでしょう。しかし、その喜びもつかの間、3日目の朝、イエス様は死からよみがえらされました。イエス様は主の名をいただき、すべての支配者となりました。今度は、悪魔に捕らえられていた人たちを主の御名によって解放し、その持ち物を奪い取ることが可能になったのです。福音はギリシャ語でユーアンゲリオンと言います。これは、「自分たちは戦争に勝ったぞ!」という「良い知らせ」です。昔、ペルシャとギリシャと「マラトンの戦い」がありました。結果を知らせるために、伝令が戦地から休まずに走ってきました。町の人たちは、もし戦争に負けたなら、町を捨てて一目散に逃げなければなりません。なぜなら、殺されるか捕虜になるからです。もし、戦争に勝ったならば、分捕りものが自分たちのものになります。伝令者が「勝ったぞ!」と言って、その場で息絶えました。これが、マラソン競技の始まりです。2000年前の日曜日の朝、イエス・キリストが死を打ち破って、よみがえりました。これほどの「良い知らせ」はありません。ユダヤ人がプリムの祭りを祝うならば、私たちクリスチャンは復活祭(イースター)を祝わなければなりません。ハレルヤ!私たちは、かつて悪魔のもとで捕えられ、自分の死を恐れていました。しかし、イエス・キリストによって私たちは死から命へ、暗闇から光へと移されたのです。


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