2014年7月27日 (日)

エレミヤの哀歌    エレミヤ9:1-3

 エレミヤはエルサレムがバビロンによって滅ぼされるのを預言しただけではなく、実際に目撃した人です。そのことを嘆いて書いた書物が哀歌です。伝統的に、哀歌はエレミヤの作と言われています。私たちは旧約聖書の人物から学んでいますので、聖書の哀歌を参考にしながら、預言者エレミヤのことを学びたいと思います。前回のメッセージはエレミヤ書全体を網羅しましたが、本日は、哀しみの歌のところにポイントを当てたいと思います。


1.エレミヤ書の哀歌     

 エレミヤは女性的で涙の預言者と呼ばれています。しかし、もし自分がその時に召されたなら、同じようになるでしょう。前回も申し上げましたが、主はバビロンによって南ユダを滅ぼすことを決定していました。それまで預言者を遣わして何度も警告しましたが、偶像礼拝をはじめとする多くの罪を悔い改めませんでした。神様の怒りがなだめられるのは、彼らがだまってバビロンに降伏し、捕らえられて行くことでした。唯一の希望は、70年後、バビロンから戻ってくることができるということでした。エレミヤは神からの啓示と幻をストレートに伝えました。予想通り、王と民たちは主のことばに反逆し、エレミヤを監禁しました。エレミヤは、さばきがどれくらい悲惨なのか、前もって知ることができました。だから、このように嘆いています。エレミヤ9:1「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。」エレミヤは「ああ」と嘆いていますが、エレミヤが書いたと言われる哀歌も「ああ」ではじまっています。ですから、ヘブル語訳の哀歌は「ああ」(エーカー)という呼び名になっています。哀歌の内容は後から取り上げますが、エルサレムの破壊と人々の無残な姿に対する嘆きの歌です。

エレミヤ9章に「哀歌」ということばが2回出てきます。このところからも哀歌がエレミヤの作ではないかと考えられます。エレミヤ9:10「私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧草地のために哀歌を唱える。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。」エレミヤ9:20-21「女たちよ。【主】のことばを聞き、あなたがたの耳は、主の言われることばを受けとめよ。あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ。死が、私たちの窓によじのぼり、私たちの高殿に入って来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。」エレミヤは主から示された啓示と幻を民たちに告げました。しかし、聞いた人たちは、あざ笑い、その預言を退けました。その当時、ビデオは発明されていませでした。しかし、エレミヤはまだ起きていない出来事を映像で見ることができました。エルサレムの町が焼かれ、人々が切り殺される様子を見ました。だから、私の頭が水であったなら昼も夜も泣けると言っています。いや、自分一人では泣ききれないので、「泣き女を呼んで来させ、私たちのために嘆きの声をあげさせ、私たちの目に涙をしたたらせよ」(エレミヤ9:17-18)とも言っています。当時はお葬式のとき、哀しみを増し加えるために、泣き女を雇いました。エレミヤは「あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ」と命じました。ユダヤ人の会堂では、7月の中ごろ(アビブの月)に哀歌を朗読するそうです。彼らは紀元前586年のバビロン捕囚、そして紀元後70年のローマによるエルサレムの崩壊を忘れないためです。

日本人は泣いたり、嘆くということをあまりしません。しかし、お隣の韓国は、悲しみをあらわにする国民だと思います。去る4月韓国船フェリー、セオル号が沈没しました。200人以上の人たちが亡くなりました。日本中も「なぜあんなひどいことが起きたんだろう」と驚いたと思います。やがて10以上の事故原因が浮かび上がりました。しかし、高校生を亡くした親御さんたちの悲しみと嘆きは、いかばかりだったでしょう。私も無責任な人たちに対する怒りと苦々しい思いに満たされました。しかし、被害者たちの悲しみと怒りは、船長や船員たちが裁かれても収まらないでしょう。「なんで、あの事故を防げなかったんだろう」「うちの子供はどんなに苦しんで死んだのか」「この先、希望の人生があったのに」「どうして、あんな船に乗ったんだろう」。このような悲しみと怒りをぶちまけたのではないかと思います。エレミやの哀歌は、これと似ています。私たちは嘆き悲しむことが必要です。よく、事件や事故の後、「これから二度とこういうことが起きないように願います」と言います。しかし、そういう早急な解決は間違っています。「これから」ではなく、今十分に悲しまないと次のステップは見えてきません。イスラエルの人たちは、モーセが死んだとき、30日間、泣き悲しみました。嘆き悲しむ喪の期間が終わってから、出発しました。日本の仏教では、初七日、四九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌とあります。その目的は、故人の冥福を祈り、その霊を慰めるためでしょう。しかし、遺族の悲しみが癒されるように、あえて、そういう期間が設けられているのかもしれません。人間の知恵がそこにあるような気がします。私たちクリスチャンは、「神様がすべてのことを益にして下さいますよ」と慰めがちです。当人がそのように悟る分には構いませんが、失ったものを泣いたり、嘆く期間が必要です。悲しみや嘆きがない方が良いに決まっています。しかし、この世においてはそういう悲惨な出来事は何度か起こります。しかし、悲しみや嘆きを神様の前に注ぎ出すとき、次のステップが開かれるのではないかと思います。マタイ5:4「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」です。


2.エレミヤの哀歌 

こんどは、エレミヤ書の次の書物、「哀歌」を少し取り上げたいと思います。昔の文語訳は「エレミヤ哀歌」と言いました。英国の聖書も、The Lamentations of Jeremiahとなっています。しかし、いずれも改訂してから、「哀歌」だけになりました。前のポイントでも申し上げましたが、伝統的にはエレミヤが書いたのではないかと言われています。ユダヤ人の70人訳の表題には「イスラエルが捕えられたのちにエレミヤが泣きながら歌い、エルサレムのために嘆いた書」と書いてあります。哀歌の特徴は、エルサレムを「シオンの娘」と女性にたとえていることです。哀歌2:1「ああ、主はシオンの娘を御怒りで曇らせ、イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし、御怒りの日に、ご自分の足台を思い出されなかった。主は、ヤコブのすべての住まいを、容赦なく滅ぼし、ユダの娘の要塞を、憤って打ちこわし、王国とその首長たちを、地に打ちつけて汚された。」バビロンによって徹底的にエルサレムの城壁、町、神殿が破壊され、汚されました。年寄りも若者も剣で切り殺されました。では、幼子たちはどうなったのでしょう?哀歌2:19「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」この聖句は日曜学校の教師研修会で引用されることがあります。幼子たちが食べるものがなく、飢えのため弱り果てています。しかし、それだけではありません。哀歌2:20「【主】よ。ご覧ください。顧みてください。あなたはだれにこのようなしうちをされたでしょうか。女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を食べてよいでしょうか。主の聖所で、祭司や預言者が虐殺されてよいでしょうか。」読むに耐えないようなことも書かれています。

しかし、哀歌の中にも希望のみことばがあります。ある者たちは捕らえられバビロンに引かれていきました。しかし、それが主のみこころでした。彼らはだまって捕らえられたので、命を分捕り物として得ることができました。前回も言いましたが、エレミヤが言う「平和を与える計画」とは、だまってバビロンに捕らえられることです。そして、70年の満ちるとき、主の顧みによって帰ることできるということです。おそらく、この箇所がそのことと関連があると思います。哀歌3:22-33「私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。【主】はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。【主】の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」その当時の人たちは、バビロンに捕らえられることは敗北であり、恥であると思いました。そのために、必死に抵抗しましたが、剣で殺されることになりました。そうではなく、「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ」というのが正しいのです。その上で、主を待ち望むように命じられています。

 戦時中はそうだったかもしれませんが、私たちはエレミヤの時代ほど、苦しい状況にある人はいないと思います。しかし、自分が神様のあわれみによって、滅びうせなかったことは主の恵みであり、あわれみではないでしょうか?救われる前は、いろんな権利を主張したかもしれません。怒りや復讐心を生きるバネにしていかもしれません。しかし、キリストを信じて救われてからどう変わったでしょうか?「ああ、本来なら自分が犯した罪でさばかれて当然だった。しかし、主のあわれみによって生かされている。」と思ったのではないでしょうか?では、救われてから全く試練がないかというとそうでもありません。不当な扱いや不条理を経験したとき、「神様、なんで私が苦しまなければならないのですか?」と文句を言ってしまいます。救いを得て、新生したはずなのに、神様を呪うような気持ちがまだどこかにあったなんて信じられません。そうです。神様は金や銀を精錬するように、火の中を通します。ヘブル人への手紙12章には、「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えるからである」と書いてあります。つまり、懲らしめを受けるのは、私たちが私生児ではなく、本当の子だからです。ユダの残りの民も、バビロンという溶鉱炉の中を通らされる運命にあったのです。70年たてば、彼らの罪咎が打ち消され、再び戻ってくることができます。哀歌には、「人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。」と書かれています。でも、「若い」って、どれくらいの年齢なのでしょうか?おそらく、40歳でも若いと思います。一番、自信がつく頃だからです。40歳で砕かれると、60歳まで大丈夫です。また、60歳で砕かれると今度は80歳まで大丈夫です。80歳で砕かれると100歳まで大丈夫かもしれません。「神様、なんでそのような苦しみを与えるのですか」と文句を言いたくなります。でも、それは次のステップに上がるために、必要な試練なのかもしれません。哀歌には、「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」と書かれているからです。

 みなさんの中には長い間、病気で苦しんでおられる人もいるでしょう。聖書では「神様は病気を与えない」といっているのに、なぜ、こんなに長引くのでしょう。また、伴侶や子供たちのことで、悩みや問題を抱えている人もいるでしょう。いっそのこと、家庭を捨てて、一人で暮らした方が気楽だと思っているかもしれません。また、仕事や夢を追い求めてがんばっているのに、なかなかブレイクがやってこない。現状維持か、あるいは先細りの道を歩んでいる。信仰とかビジョンの話しなど、もう聞きたくないと思っているかもれません。でも、「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる」とあります。まさに、今が耐える時であり、主を待ち望む時です。主は必ず、私たちを顧みて、引き上げてくださいます。時が満ちると言いますが、器の水はいつ溢れるかご存知でしょうか?器の淵まであと1センチなんですが、外から見たら全く変わりません。5ミリでもダメです。プラスマイナスゼロでもダメです。表面張力の分を超えたら、ザーッと溢れ流れてきます。今が耐える時であり、主を待ち望む時です。もうすぐ、神様がみわざをなしてくださいます。神様のワンタッチで、すべてが変わります。私たちも待っていますが、神様ご自身も、そのときを待っておられます。


3.イエス様の哀歌

 福音書を見るとわかりますが、イエス・キリストはエレミヤの再来ではないかと思われています。マタイ16:13-14「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は人の子をだれだと言っていますか。』彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』」人々がそういうのは、イエス様がエレミヤとどこか似ているからでしょう?ある本に「エレミヤは苦難の預言者として、苦難のしもべイエスに最も似た人物であった」と解説していました。中間時代の人たちはメシヤが来臨する前に、エレミヤが戻ってきて、ネボ山の洞窟に隠されていた契約の箱と香をたく祭壇を取り出してくれると信じていたようです。それよりも、イエス様がエレミヤと似ている箇所があります。それは、エルサレムに入城する直前のことです。ルカ19:41-44エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」旧約のエレミヤはバビロンによってエルサレムが滅ぼされることを嘆きました。そして、新約のイエス様はローマによってエルサレムが滅ぼされることを嘆きました。残念なことに、エルサレムは同じことを繰り返してしまいました。

 イスラエルは神様によって選ばれた民でした。選ばれた民であったからこそ、責任もありました。ところが、イスラエルはその特権に甘んじて、罪を犯し続けました。神様は預言者たちを何人も遣わし、立ち返るように求めました。しかし、イスラエルは心を頑なにするばかりでした。最後に神様はご自分の御子を遣わしました。「わが子ならきっと敬ってくれるだろう」と思ったからです。ところが、彼らは御子イエスを捕まえて、殺そうと企みました。イエス様が丘の上からエルサレムが見えたとき、このように嘆きました。ルカ13:34「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」イエス様はエレミヤのよう涙を流して嘆きました。神様が一番悲しまれるのは、ご自分の愛が受け入れられない時です。私たちはイスラエルのように心頑なになって、主の愛を退ける者となりませんように。主は一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つように願っておられます。

 私は先週から坐骨神経痛のために歩くことも、座ることも、寝ることもできませんでした。おしりの下からふくらはぎまで、鈍痛が走ります。家で「痛い!」と叫ぶと家内が「病院に行きもしないで」と叱ります。そのため、私は牧師室で「痛い!」「痛い!」と泣き叫んでいました。仕方がないので、横にねそべりながら本を読むことにしました。途中までの読みかけの本がたくさんありましたが、穐近裕(あきちかゆたか)師の『土方のおやじ』を読み終えました。先生は子供のとき、アメリカに移住し、そこで信仰を持ちました。日本とアメリカが戦争している時も、特別に許可されアメリカで伝道しました。戦後はマッカーサー元帥によって、アメリカから日本に宣教師として遣わされた特異な人です。先生は日本に来て、多くの人たちを導き、やがてそれがイエス福音教団になりました。私が一番感動したのは、日本に宣教師として来るとき、息子と娘をアメリカに置き去りにするしかなかったことです。そのとき日本は焦土と化していたので、子連れで日本に来ることが許されませんでした。出発するとき、肉の兄弟姉妹たちからは「お前が日本に行くなんて気違いだ」とののしられました。そのとき、聖書の約束を思い出しました。マルコ10:29-30「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」先生は、「そうだこの二人も捨てよう。いや、イエス様の御手にお献げしよう。お任せしよう」と決心しました。13歳の息子と別れるとき「父は日本に行って死ぬんだ。お前はおじいさんのところへ帰れ」と言いました。そのとき、ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」というみことばを思い出しました。「父なる神様は、自分のひとり子をこの世に送り出されたんだ。ヨハネ3章16節を単なる聖句として、口先だけで、神の愛を論じたってダメだ。イエス様のために命を懸けなければならない」と決意しました。このメッセージが先生の生涯をずっと貫きました。当時の日本人は、「すべてを捨てる」とか「命がけ」というメッセージに胸元をぐっと掴まれました。その結果、日本の土を踏んで35年間に、20の教会ができ、1000名以上の信者がイエス福音教団に加えられました。天に召された田中政雄牧師がミスター穐近のことをこう述べています。「ミスターは特別、聖人だとは思いません。凡人で、人間的な人だなあと思うんです。なぜなら、しょっ中泣いているんです。証を聞いては涙ぐみ、説教を聞いては涙を流している。私はミスターの涙を数えられないほど見てまいりました。」涙を流すということは恥ではありません。中には悔しい涙もありでしょう。しかし、エレミヤやイエス様、そして穐近牧師の涙は、神の愛からほとばしる涙です。涙を流して、言わなければわからない人がたくさんいます。これまでさんざん裏切られ、悲哀をなめてきたからでしょう。でも、神様の愛から来る真実な涙もあります。「父の涙」という歌がありますが、神様はひとり子を十字架につけてでも、私たちを救いたいと願っておられます。父の涙を無駄にしてはいけないと思います。また、父の涙に感動しつつ、命がけで福音を宣べ伝える者となりたいと思います。

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2014年7月13日 (日)

涙の預言者    エレミヤ1:1-10 

 もし、神様に仕える時代を選ぶとしたらどのような時代が良いでしょうか?エレミヤの時代は、最も避けたい時代であります。なぜなら、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされるという末路をたどったからです。その時は、だれ一人、エレミヤの預言を聞こうとせず、迫害し、監禁しました。エレミヤが特殊なのは、彼は救いのメッセージではなく、滅びを預言したからです。一人も救われないような中で、ひたすら神からの預言を語りました。


1.エレミヤの召命

エレミヤは祭司でしたが、南ユダのヨシヤの治世13年に、預言者として召されました。さらに、エホヤキムやゼデキヤの時代を経て、エルサレム陥落後まで活動しました。ある聖書学者は「エレミヤ書はこれまで記された最も悲劇的な国家の記録である。エレミヤは列王記の中で最も悲劇的な最後の部分を生きた預言者である」と言っています。彼が預言者として召された時は、20歳にも満たなかったので、苦難にくじけやすい未熟な点もあったと思われます。エレミヤがきわめて涙もろい女性的な人であったと言われますが、バビロンに滅ぼされるまで、だれ一人、耳を傾けようとしなかったからでしょう。主はどのようにエレミヤを召したのでしょうか?エレミヤ1:5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」使徒パウロも、「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった」(ガラテヤ1:15)と自分を紹介しています。エレミヤは何と答えたでしょうか?1:6-8そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、【主】は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】の御告げ──」若ければ、当然、人々からも舐められるでしょう。未熟なので、自分でもどう対処したら良い分からなくなるでしょう。しかし、主は「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ」と約束しています。もうすぐ後に、エゼキエルについて学びますが、彼は神様から「あなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。…彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな」(エゼキエル3:9)と言われました。それほど、預言者は風当たりが強いということです。

では、主がエレミヤに与えた預言者としての使命はどのようなものだったのでしょうか?エレミヤ1:9そのとき、【主】は御手を伸ばして、私の口に触れ、【主】は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」私たちが使っている聖書は預言者を、未来を予知する予言ではなく、「預金」の「預」を使っています。預言者とは、「神様のことばを預かる者なのだ」という意味を持たせているのです。このところでは、主がエレミヤの口に触れ、「今、わたしのことばをあなたの口に授けた」と言っています。エレミヤ自身の中には、語るべきことばも、内容もありません。しかし、語るべきことばを主が授けてくださいます。では、預言者の使命とは何でしょう?主が語られたことばを、民の前に出て、そのまま告げるということです。「神様、あなたが直接、語ったら良いではないでしょうか?なんで、面倒くさいことをやらせるのですか?」と文句を言いたくなります。たとえば、大会社の社長が現場で働いている一社員に「何をやっちょるのか、君は!」と注意したらどうなるでしょうか?その社員は即クビにさせられるかもしれません。社長にはそういう権威があります。同じように、宇宙と全世界を造られた聖なるお方が、ユダの国の罪を一喝したらどうなるでしょう?ユダの国は一瞬にして地上から消されてしまうかもしれません。もちろん主は、ご自分の力や感情をコントロールできるお方ですから、そうはしないでしょう。主は忍耐と慈愛に満ちたお方であり、「預言者を遣わして、何とか言い聞かせて、さばきを与えないようにしたい」と願っておられるのです。そのために、旧約の時代には、ご自分のしもべである預言者を何人も遣わしています。でも、残念ながらうまくいきませんでした。ほとんどの預言者は無視され、拒絶され、打ち叩かれ、殺されています。エレミヤも同じような運命を背負っていました。

しかし、エレミヤの預言者としての務めは、他の預言者と異なる点があります。それは何でしょうか?エレミヤ1:10-13見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」次のような【主】のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると【主】は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」再び、私に次のような【主】のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」預言者の語ることばが、天地の創造者のことばであるなら、それは必ず実現するはずです。ですから、相手が大国であろうと、「引き抜き」「引き倒し」「滅ぼし」「こわし」「建てる」「受ける」という力があります。語る人がどんなに若くても関係ありません。神のことば自体に力があるからです。また、エレミヤが他の預言者と違う点はこれです。エレミヤは救いではなく、滅亡のみを警告したからです。主はユダ王国を滅ぼすことを既に決定していました。エレミヤは煮え立っているかまが、北のほうからこちらに傾いているのが見えました。その意味は、北からバビロンがまもなく襲って来るということです。ユダ王国は病気の末期で回復する見込みが全くありません。エレミヤ13:23「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。」肌が黒いクシュ人、つまりエチオピア人の皮膚を白くすることはできません。また、ひょうの斑点をなくすことができません。それくらい不可能だということです。エレミヤ15:1【主】は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」もう、さばきは決まっており、だれがとりなしても無駄だということです。エレミヤは必ずやってくる主のさばきを、まっすぐ、そのまま語る預言者として召されたのです。新約の私たちは救いの福音を伝えられるということは、どんなにか光栄であり、幸いでしょうか。エレミヤと比べたら、決して「それは困難です」などとは言えません。

エレミヤはユダがまことの神を捨て、他の神々に行ったことを責めました。エレミヤ2:13「私の民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水のためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」。ユダは湧き水である生けるまことの神を捨てました。そして、水のためることのできない偶像礼拝を行いました。それは霊的姦淫であり背信です。2つ目は、神様から離れた結果、さまざまな悪を行いました。主は、「だれか公義を行い、真実を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」と言いました。しかし、彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようとしませんでした。「うなじのこわいもの」という表現が何度も出てきます。もともと、牛や馬が御する人の言うことをきかないという意味でした。これが、だんだんと「強情」「頑固」「手に負えない」様子を表すようになりました。イスラエルの民は、エジプトの地を出た日から、最後までうなじのこわい民でした。エレミヤがはっきりと主のさばきを預言したので、二人の王、エホヤキムとゼデキヤはエレミヤを監禁しました。エレミヤは足かせにつながれたり、水のない井戸に落とされたりしました。エレミヤはこのように告白しています。エレミヤ20:7-9「私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。…私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」エレミヤは「もう主の名によって語るのをやめよう」と思いました。しかし、それをとどめることができませんでした。骨の中から燃えさかる火のようにあふれてくるからです。これこそ、預言者の宿命です。「やめろ」と言われても、語らざるを得ないのです。主のことばをしまっておくことなど苦しくてできません。

エレミヤは若くして預言者として召されました。しかも、最も困難な時代の中で、主のことばをまっすぐ語らなければなりません。人々は耳をふさいで、「もうやめろ!」と叫びました。そして、活動きできないように彼を監禁しました。エレミヤは「もう主の名によって語るのをやめよう」と思いました。しかし、それができないのです。主のことばが骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、しまっておくことができません。どうしても、語らざるをえません。使徒パウロは、「ローマにいるあなたがたも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。」(ローマ1:15-16)と言いました。私たちはエレミヤよりもすばらしい福音を知らされています。福音は「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」です。人から、「やめろ」と言われても、主の愛が私にせまっているので、どうしても伝えなければなりません。エレミヤやパウロのような「燃えさかる火」を、その情熱をいただきたいと思います。


2.エレミヤのメッセージ

エレミヤ書で最も有名な聖句はこれでしょう。よく、色紙や本の裏表紙に書かれたりするからです。エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」これを見たら、だれでも「ああ、神様の計画はわざわいではなく、平安なんだ。将来と希望を与えるものなんだ。」と喜ぶでしょう。しかし、エレミヤ書は52章もあります。他のところをぜんぜん読まないで、29章の11節を「わー、すばらしいみことばだ」と言ってはいけません。聖書は文脈から解釈しなければなりません。1節だけではなく、その前後も一緒に読んでみないと本当の意味がわかりません。では、エレミヤが言う神の計画とは何なのでしょうか?それは第一に人々から「わざわいだ」と思われていることです。エレミヤは「バビロンに捕らえられよ」と言いました。なぜなら、ユダ王国の罪は限界に達しており、さばきがなされなければ、主の怒りがおさまらないからです。バビロンを用いて罪のさばきを与えることが主のみこころでした。その後、「ユダの民を回復しよう。バビロンから連れ戻そう」というのが主の計画でした。しかし、それはユダの民には我慢できないことでした。「神さまから選ばれた民が、バビロンにやられるわけがない。主が守ってくださるに違いない」と考えていました。ちょうどその頃、偽預言者たちが王様のもとに群がっていました。彼らは主のさばきに言及せず、平安と希望だけを伝えました。エレミヤ6:13-14「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」これはまるで、癌になっている人に対して、軟膏を塗って「きっと、直りますよ」と言っているようなものです。その人は、癌細胞を体から取り除かなければなおりません。同じように、ユダ王国から罪を取り除かなければ、真の平和はやってこないのです。

このことはイエス・キリストが十字架に付けられて死んだことと同じです。この世の宗教には罪の贖いというものがありません。どの宗教も罪の問題を扱わないで、「信じれば救われます」みたいなことを言います。しかし、そこには救われる根拠がありません。イエス様はなぜ、十字架で死ぬ必要があったのでしょう。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言いました。神様はどのようにして人々から罪を取り除こうとされたのでしょうか?それは、御子イエスの上に全人類の罪を負わせ、御子をさばくということです。そして、この御子を信じた人はさばかれないで、永遠のいのちを持つというものでした。神様は聖なる方なので、1つの罪を赦すことができません。罪に対しては必ずさばきを下さなければなりません。もし、イエスキリストがその人の罪を負って、刑罰を受けて死なれたならどうでしょう?神様の怒りがなだめられ、罪をさばかないで赦すことができます。イエス・キリストは私たちの身代わりになって十字架で死なれました。だからこそ、私たちに平安と将来と希望が訪れるようになったのです。十字架抜きの救いはありえません。エレミヤのメッセージも同じです。なぜ、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのでしょう?それは、南ユダの罪をバビロンによって滅ぼし、彼らを捕囚として国外に連れ去るということです。そして、70年のときが満ちたら、神の怒りがなだめられ、彼らは元の国に帰ることができるのです。7は聖書で完全数ですが、70年は、その10倍です。ですから、神様のみこころは、だまってバビロンに降参して、捕囚となることなのです。それこそが、わざわいではなくて、平安を与える計画なのです。エレミヤ29:4「イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。』」神様はバビロンに引かれていく人々を守ってくださいます。逆に、エルサレムにとどまり、バビロンと戦いを交える民はどうなるのでしょうか?エレミヤ29:17-19「万軍の【主】はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らの中に、剣とききんと疫病を送り、彼らを悪くて食べられない割れたいちじくのようにする。わたしは剣とききんと疫病で彼らを追い、彼らを、地のすべての王国のおののきとし、わたしが彼らを追い散らしたすべての国の間で、のろいとし、恐怖とし、あざけりとし、そしりとする。彼らがわたしのことばを聞かなかったからだ。」

しかし、当時の王たちはエレミヤに与えられた神のことばを聞こうとしませんでした。エホヤキムはエレミヤが書いた巻物を、読まれた後から、小刀で裂いて、暖炉の火に投げ入れました。結局、暖炉の火で巻物全部を焼き尽くしました。彼のすべての家来たちは、恐れようとも、衣を裂こうともしませんでした。主はユダの王エホヤキムのしかばねが捨てられ、昼は暑さに、夜は寒さにさらされると言われました。最後の王、ゼデキヤはどうしたでしょう?エレミヤ37:2「彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。」やがて、バビロンの王、ネブカゼレザルが全軍勢を率いてエルサレムに責めてきました。町は包囲され、破られました。ゼデキヤ王とすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、城壁の間の門を通って、アラバへの道に出ました。しかり、カルデアの軍勢は彼らに追いつき捕らえて虐殺しました。ゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせにつないで、バビロンに連れていきました。そして、降伏した投降者たちと残されていた民をバビロンに捕らえ移しました。そのように、エレミヤのことばのとおり成就しました。エレミヤは最後どうなったのでしょう?残された少数の民は、バビロンが任命した総督を殺しました。そして、行ってはいけないといわれていたエジプトに下りました。その中にエレミヤもいました。まもなく、バビロンがエジプトを襲ったので、エジプトに下った人たちは殺されました。恐らく、エレミヤもエジプトで死んだものと思われます。

こうなると、「エレミヤの人生とはどういうものなのか?預言者とはそんなに辛くて、報いられないものなのか?」と思ってしまうでしょう。確かに、エレミヤは結婚をして家庭を持つことも許されず、天涯孤独でした。では、エレミヤの預言は、エレミヤと一緒に死んでしまったのでしょうか?そうではありません。エレミヤの希望のメッセージは捕囚の地で活躍した、エゼキエルとダニエルに受け継がれました。それだけではありません。主がエレミヤの預言を覚えておられました。Ⅱ歴代誌36:19-23「彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。これは、エレミヤにより告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」クロスは囚われていたユダの民を主の宮を建てるために解放しました。エレミヤが預言した70年が満ちたので、天の神、主がクロス王に働きかけたのです。

『聖書人物伝』を書いた、沢村五郎師はエレミヤのことをこう述べています。「エレミヤの受けるべき報いと栄えとは、この世で受けるにはあまりにも大きすぎた。主はその褒賞の一片をさえ、この世ではお与えにならず、ことごとく次の世にたくわえておいてくださった。彼の受けた苦しみが大きかっただけ、彼の栄光もまた大きいであろう。「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにする」(ローマ8:17)。主と苦しみをともにする機会は、ただこの地上の生涯だけである。苦しみを味わわないことは大きな損失である。私たちもエレミヤにならい、主のお苦しみの分担者になりたいものである。」苦しみを避けないで、主の栄光のために、まっこうから受けるとはなんと大胆でしょうか。本当は、苦しみ災いの向こうに、将来や希望があるのではないでしょうか?私たちはとかく近道をして、そういうものを得ようとします。イエス様は十字架を忍ばれましたが、ただ、我慢したのではありません。ヘブル12:2「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。喜びのゆえに、十字架を忍ばれました。No cross no crown、十字架なくして冠なしということばがあります。苦しみや災いは、全部が全部悪いものではありません。なぜなら、それを通して、本当の将来や希望が見えてくるからです。


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