2014年6月 1日 (日)

改革者ミカ         ミカ6:6-8

 ミカは3つの時代を預言しています。このことはイザヤをはじめ、多くの預言者に共通していることです。3つの時代とは、預言者がいた頃の情勢、新約におけるメシヤ到来、世の終わりの出来事です。預言というのは、神のことばを預かると書きますので、必ずしも未来のことだけではありません。神さまは永遠なるお方なので、過去、現在、未来を同時に見ることができます。だから、預言者には時間的な感覚がなく、主から示されたことをその都度語ります。そのため、私たちは、一体どの時代のことを言っているのか、考えながら読む必要があります。


1.ミカの時代

 ミカ自身のことは聖書に書かれていません。ですから、聖書人物伝からすると例外です。ただし、どの時代の預言者なのかは分かります。ミカ1:1「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。」その時代、北イスラエルと南ユダは、経済的には豊かさの頂点にいました。その反面、霊的には最も退廃して危機的状況にありました。金持ちは我が物顔に振る舞い、貧しい者を踏み台にして富をほしいままにしていました。北南両国はカナンの宗教を取り入れ、偶像礼拝をしていました。ミカはミカヤフーの短縮形であり、「誰が主(ヤーウェ)のようであろうか」という意味です。出身地のモレシェは、エルサレムの南西30-40キロほどのところにある、小さな農村です。ミカは同時代のイザヤにまさるとも劣らない文才の持ち主であり、主の改革者です。少し後に活躍したエレミヤがミカの預言を引用しています。エレミヤ26:18,19「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。『万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。』そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」エレミヤが引用したことばは、ミカ3:12と全く同じ内容です。ミカはエルサレムの滅亡を預言しましたが、時の王、ヒゼキヤは罪を悔い改めました。

 それでは、ミカ書の中心的なテーマは何でしょうか?ミカ6:6-8「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」当時の人々は宗教的にとても熱心でした。神殿に全焼のいけにえや、最も高価な一歳の子牛のいけにえをささげました。雄羊や上等なオリーブ油もささげました。しかし、彼らの生活は罪に満ちていました。そのことは、ミカ2章と3章に詳しく記されています。ミカは金持ちや指導者、偽預言者、先見者たちの罪、強欲、偽善について糾弾しています。土地は本来主のものであるのに、富める者は貧しい者から搾取していました。欲望のままに行動し、むさぼり、かすめていました。また、ミカは、偽預言者の説教の浅薄さを明らかにし、偽預言者のパトロンとなっている金持ちのあくどいやり方を暴き出しています。指導者たちは公義を曲げて忌み嫌い、悪を行なっていました。ミカは北イスラエルと南ユダと両者に対して預言しています。彼が活躍した時代が、南ユダのヨタムからヒゼキヤ王の時代でした。その間に、北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。ミカ1章で「主がサマリヤを廃墟にする」と預言しましたが、そのことがAD722年に成就しました。続いて、ミカは南ユダのさばきも預言しています。ミカは「イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちにも見つけられたからだ」(ミカ1:13)と言っています。そのとき、ヒゼキヤ王が悔い改めたので、滅亡からまぬがれました。

 ミカ書のテーマは「真の宗教には正しい生活が伴うはずだ」ということです。裏返して言うなら、「正しい生活がなされていない宗教は偽物であり、神さまはどんな礼拝も喜ばない。たとえ、最愛の子どもをいけにえにささげても、無駄である」ということです。当時は、神さまの好意を得られるならば、最上の子牛だけではなく、子どもまでささげるほど宗教的に熱心でした。異教の人たちはそういうことをしました。しかし、主は何とおしゃっているのでしょうか?「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」主が求めるものは、高価な生贄ではなく、正しい生活であると言っています。出エジプト記などの、モーセの律法をみますと2つのことが書かれています。第一は十戒を中心とする、倫理的な生活です。第二は生贄をささげて神さまを礼拝することです。ミカの時代の北イスラエルと南ユダは、生贄をささげて神さまを熱心に礼拝していました。しかし、家に帰ると罪に満ちた生活をしていました。中世の教会がまさしくそうでした。彼らは日曜日、ミサを上げ、1週間犯した罪を懺悔します。しかし、月曜日から土曜日は罪に満ちた生活をします。そして、次の日曜日にミサを上げ、犯した罪を懺悔します。今の時代も、神さまはそんな礼拝を受け入れません。日曜日だけではなく、日々の生活において神さまを礼拝することが重要なのです。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここに記されている「礼拝」は、ひれ伏して礼拝をささげるという言葉ではありません。行いによって礼拝をささげるという意味のことばです。新約の時代は死んだからだではなく、生きた供え物としてささげるように求められています。生きた供え物とは、私たちの生活であります。宗教臭い生活をするのではなく、神さまのみこころを行うために、日々、キリストと共に歩むことなのです。キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるキリストと共に歩むことです。


2.新約の時代

 ミカ書は新約の時代、特にイエス・キリストのことを預言している有名な書物です。クリスマスの時、よく引用されます。ミカ5:2、4「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。…彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」このみことばは、マタイによる福音書2章に出てきます。それにしても、当時の宗教的指導者たちが、「メシヤがユダヤのベツレヘムに生まれる」とよく分かったものです。北イスラエルは紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされました。北イスラエル、つまり10部族はどこに行ったか分からなくなりました。また、南ユダは紀元前586年にバビロンによって滅ぼされました。しかし、70年後に捕囚から戻ってきて国を再建しました。しかし、紀元前63年からローマによって支配されました。それから60年後、イスラエルの支配者なる者が出る。つまり、「ベツレヘムでメシヤが生まれる」とミカは預言しています。ミカは700年も前から、キリストの誕生を預言していました。昨年のクリスマスでもお話ししましたが、紀元前4年くらいに、皇帝アウグストから「全世界の住民登録をせよ」と勅令が出ました。総督クレニオが「わかりました」とユダヤの人たちに、「それぞれ出身地に戻って登録せよ」と命令しました。ヨセフとマリヤはガリラヤの町ナザレに住んでいました。マリヤは月が満ちていましたが、自分の町まで行かなければなりませんでした。そして、ベツレヘムの馬小屋で子どもを産みました。天使が「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と羊飼いたちに伝えました。皇帝アウグストが、ローマの権力でキリストを動かしたように思えますが、そうではありません。神さまが、キリストがベツレヘムで生まれるように、皇帝アウグストを動かしたのです。それはミカの預言が成就するためです。

 こう考えますと、「救いの道が偶然に与えられたのではない」ということがわかります。ミカは「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」と預言しています。ということは、紀元前700年よりも、さらに昔であったということです。「永遠の昔」とはいつなのでしょうか?アダムが罪を犯した時でしょうか?そうかもしれませんが、わかりません。とにかく、神さまは、人間が堕落して神さまから離れた時から、救いの道を計画していたのでしょう。ミカは「彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」このことは、おそらく新約時代をさしているのではないかと思います。では、新約時代とはいつなのか?私は「教会の時代」ではないかと思います。イエス様は「私は良い牧者です。私は羊のために命を捨てる」と言われました。最初はイスラエルの民が神さまの羊でした。しかし、イエス様は「私にはまた、この囲いに属さない他の羊があります。私はそれをも導かなければなりません」と言われました。「この囲いに属さない他の羊」とは、まさしく異邦人である私たちを指していると思われます。ゴールは「彼の威力が地の果てまで及ぶ」ことです。現在、地の果てまで及んでいるでしょうか?まだ、及んでいません。及びつつあります。もし、自分の人生が、神さまの救いの計画の一部であったと知るならば、なんと幸いなことでしょう。私たちは現在、ここで一緒に集っていますが、採れたところはみんな違います。「私は野菜や果物じゃありませんよ」と文句が出るかもしれません。でも、自分が生まれ育ったところに誇りをもっていらっしゃるでしょうか?おそらく、半分くらいは「そんな由緒ある家柄ではありませんでした」と答えるのではないでしょうか?先月、ディボーションでHope Bibleヨハネ1章を読んで大変恵まれました。ヨハネ1:12-13を直訳するとこう書いてありました。「しかし、彼は、彼を信じて受け入れた人すべてに、神の子どもとなる権利を与えた。彼らは再び生まれた。すなわち、人間のパッションや計画から起因する肉体的な誕生ではなく、神によってもたらされた誕生である」。ちょうどその前に、私はインターネットで、自分の生まれた村を検索していました。「秋田市上北手」を押すと、どんな画像が出て来るかプラプラ見ていました。小学校がありました。中学校は保育園になっていました。初恋の人の村の地図がありました。自分の部落があり、裏山がありました。昔、リヤカーに母をのせた道もありました。懐かしいというよりも、とても空しくなりました。もう、私が帰るべき故郷がないからです。その直後、Hope Bibleのディボーションをして、ヨハネ1章をじっくり読みました。そのとき、12-13節を見て、「ああ、私は確かにあそこで生まれたけど、私は再び生まれた存在なんだ。人間のパッションや計画から起因する肉体的な誕生ではなく、神によってもたらされた誕生なんだ」と分かったとき、感動しました。なぜ、感動したのでしょう?人間のパッションや計画ではなく、神さまのパッションと計画だったことが分かったからです。

 イエス様がユダヤのベツレヘムで、しかも馬小屋で生まれました。しかし、それは仕方なく、ベツレヘムで生まれたのではなく、昔から、永遠の昔からの定めでした。あなたも、仕方なく、あの町やあの村で生まれたのではありません。イエス様と同じように、昔から、永遠の昔からの定めだったのではないでしょうか?私が嘘を言っているのでしょうか?そうではありません。エペソ1:4-5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」アーメン。使徒パウロは、世界が創造される前から、キリストにあって選んでおられたと言っています。神さまは、み旨とみこころのままに、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。ハレルヤ!ということは、私たちがキリストによって救われ、このところに集まっているのは偶然ではありません。私たちは大牧者なるキリストのもとに集められた、羊なのです。もっと言うと、キリストの血によって贖い取られた、神の教会の一員なのです。生まれや育ちは違いますが、行くところは一緒です。隣の人に、「行くところは一緒です」と言いましょう。


3.終わりの時代

 ミカ4:1-3「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」ヨエルは、世の終わりについても預言しました。預言書では「終わりの日」以外に、「その日」「主の日」「主の大いなる恐ろしい日」という呼び方で出てきます。ミカは「終わりの日」はどのようになるのか預言しています。1節に「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立つ」とあります。聖書で「山」は、権威や権力を象徴しています。世界の国々は、それぞれ権威や権力を持っています。日本はアメリカと協力してなんとか中国に対抗しようとしています。EUとロシアがウクライナのことでもめています。今も世界中のどこかで、戦争や紛争が起きています。世の終わりはどうなるのでしょうか?「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち」とあります。やがて、主の御国の権威や権力がどの世界の国々よりも堅く立つようになるということです。主が世界を治めるようになり、恒久的な平和がやってくるということです。今は、世の終わりにますまず近づいています。とすると、教会はどうなるのでしょうか?日本においては、教会は少数派で全く影響力がないように思われています。世の終わり、私たちは生き残りをかけて頑張るしかないのでしょうか?しかし、そうではありません。

 ミカ4:2「多くの異邦の民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。」世の終わりになると、人々の生き方が両極端になります。悪い人たちはますます悪いことを行おうとします。一方、良い人たちはますます良い道を歩もうとします。ある人たちは、この世が与える物質や享楽的な生き方に興味をもたなくなります。聞く音楽や見るものさえも違ってきます。義に飢え渇いた人たちは、主の山、神の家に上ってきます。主のことばが自分たちを本当に生かすということを知るでしょう。しかし、ある人たちは大バビロンが与える物質や享楽的なものを求めます。このように、白黒、善悪がはっきりつくのが、世の終わりの特徴です。ある人たちは、主のことばが開かれる時、主にささげる賛美を聞くとき、「ここに本当のものがあった」と感動します。そして、自分をささげて行きます。ですから、世の終わりにおける教会は、人を無理やり連れてこなくても良いのです。ちょっとだけ、主のことばの味わいを与えるだけで、「おー」と飛びついてきます。なぜでしょう?この世には、自分の魂を満たしてくれるものがないからです。リモコンを持って、テレビのチャンネルを変えても見たい番組がありません。スマホーをペラペラめくっても、心が燃えるものがありません。いろんなゲームをやっても空しさがこみあげてきます。「多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」と主の教会にやってきます。

 サンデー・アデラジャというナイジェリア出身の牧師がいます。ヨーロッパ最大の福音的な教会を牧会しつつ、「オレンジ革命」という政治的な活動をしました。しかし、数年前、ひっくり返されて投獄されました。現在は解放されたかもしれません。ウクライナはミカの時代と全く同じでした。ウクライナの人々は貧困にあえぎながら、権力を握っていたごく少数の人たちの利益のために働いていました。国の社会問題はストリートチルドレン、麻薬中毒、アルコール中毒、犯罪、売春、エイズ等の重大な問題に至っていました。彼は『国家的変革の先頭に立つ』という本の中でこのように語っています。「教会は、皆に希望を与えるために神が国で立て上げたい神の選民です。どんな国でも、クリスチャンは国の希望です。…政府も大統領も国家と社会を変えてより良くすることはできません。神を知る人たちだけが、それをすることができます。ですから、教会の意識を変え、クリスチャン一人ひとりの意識を変える時が来ました。クリスチャンが社会で積極的な役割を果たすべき時が来ています。行動し、門をたたき、結果を見る時です。私たちの良い行いを通して、世の人々に神を現し、彼らが神に従い始める時なのです。…私たちは国の正義のために仲介者として立たなくてはなりません。人々に影響し、多くの政治家たちが知らない真理を知っているのですから、社会にこの真理を確立していかなくてはなりません。私たちの任務は、光となり、彼らの目を開いていくことです。神はこの世代に、国の未来を建て上げる任務を託されました。すべての世代は、不敬虔な過去から未来へと橋渡しをする特別な時代を生きているのです。」

ミカの時代、一部の人たちが経済的に富み、権力を振るっていました。宗教はありましたが、公義を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩む人たちは小数でした。信仰を個人的なものとして、世の中に合わせて行く生き方もあります。しかし、神さまにとって、政府や大統領ではなく、教会(クリスチャン)こそが国の希望であるとは何とすばらしいことでしょう。ということは、「御国が来るように」と祈りつつ、世の光となって、人々の目を開いていく活動も必要です。個人の信仰生活だけではなく、この国がキリストの弟子になるように、祈り求めましょう。なぜなら、神さまの御目は、私たちの個人の信仰生活だけではなく、日本という国にも向けられているからです。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。


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