2014年5月25日 (日)

愛の預言者ホセア   ホセア1:1-7

 ホセアは冒頭にありますように、南ユダでは4代の王、北イスラエルではヤロブアム二世の頃ですから、おそらく50年間くらい、預言者として活躍したと思われます。名前がホセアですが、決して細いわけではありません。同時代、北イスラエルにおいて、アモスとホセアの二人が預言しました。アモスは神の義を強調しましたが、ホセアは神の愛を強調しました。ホセア書の特徴は、イスラエルの状態が、彼の結婚生活に比較されているということです。つまり、ホセアと妻との関係が、主なる神さまとイスラエルの関係になぞらえているということです。


1.イスラエルの現状

イスラエルというのは、北イスラエルのことであり、その頃は、ヤロブアム二世が治めていました。アモスのときも言いましたが、宿敵、アッシリヤが他国との戦争のために弱くなっていました。それで、肥沃な領土を勝ち取り、農業や牧畜も祝されました。また、北と南を結ぶ地域だったので通行税を得ることができました。人間は物質的に豊かになると、いろんな面で堕落していきます。イスラエルは金の子牛を勝手に作り、拝んでいました。さらにはカナンの豊穣神、バアルに仕えていました。彼らは主なる神様から離れ、快楽を求めて生きていました。そこへ、ホセアが預言者として遣わされました。ホセアは他の預言者と違って、自分の生活を通して預言した人です。ホセア1:2-3「主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。」このところに、ゴメルという女性が登場します。彼女は「姦淫の女」と言われていますが、「いつからそうなったのか?」という疑問が残ります。ホセアは神殿娼婦であった女性と結婚したのか、あるいは、結婚後、他の男性のところへ行ったのか、諸説あります。ホセヤはゴメルと結婚し、三人の子どもを得ました。しかし、下の二人は自分の子どもであるか、疑わしかったようです。なぜなら、ロ・ルハマ(愛さない者)とロ・アミ(わが民でない者)と名付けているからです。つまり、ゴメルは結婚後、夫と一人の息子を捨てて、一介の遊女となり、浮世の快楽を追って家を去ったと思われます。預言者の妻が、このようであるならば、ホセアの立場はどうなるでしょう?しかし、このことは主から出たことでした。

主はホセアとゴメルの関係を、ご自分とイスラエルにたとえておられます。かつて、イスラエルの民は430年間、エジプトにいました。後半はパロの奴隷となり、苦役にあえいでいました。ホセア12:13「主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた。」とあります。「ひとりの預言者」とは、モーセです。彼らはエジプト脱出後、カナンの地に移り住むことができました。しかし、その地の神、バアルを拝むようになりました。ホセア書は、イスラエルと言わないで「エフライム」と至るところで呼んでいます。なぜなら、エフライムのベテルには金の子牛を祀っている神殿があったからです。そこでは偶像崇拝と神殿娼婦の忌むべき行為がなされていました。酒と性的な陶酔によって、宗教的な法悦を味わっていました。それをホセアは「姦通」とか「姦淫」と呼んでいます。つまり、夫である主なる神を捨てて、バアルのもとに行ったからであります。ホセア書には「姦淫の霊」と言うことばが度々出てきます。おそらく、エジプトを脱出したイスラエルも、また結婚前のゴメルも、最初は問題がなかったと思われます。しかし、彼らの内側には「姦淫の霊」が初めから宿っていたのです。それが、カナンに来てから、あるいは結婚してから、現れてきたのでしょう。ホセア5:3-4「わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。」とあります。みなさんは、「姦淫」などと聞くと、びっくりするかもしれません。イエス様は不信仰な人たちに向かって、こう言われました。マタイ12:39「しかし、イエスは答えて言われた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」つまり、聖書は、霊的な姦淫のことを言っています。これは、まことの神さまではなく、他の神々を慕い求めている状態を指しているのです。それは、自分の子どもが、見知らぬおじさんのところへ行って「お父さん」と言うようなものです。

それでは、ホセアはその後、どうしたのでしょうか?ホセア3:1-3「【主】は私に仰せられた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を【主】が愛しておられるように。』そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』」ホセアは、神さまに命じられ、ゴメルを買戻しに行きました。おそらく、ゴメルは遊女か神殿娼婦になり下がっていたのでしょう。出エジプト記によると、イスラエルの人たちが支払う人頭税は、半シェケルとされていました。15シェケルは、30人分の人頭税に当たります。ホセアは元妻を救い出すために、多くの出費をしたことになります。ホセアはこの結婚生活を通して、神さまのイスラエルに対する愛と苦しみを体験させられることになります。ところで、新約聖書では、イエス・キリストが、私たちを滅びから買い取ってくださいました。イエス様はご自身の肉を裂き、血を流して、代価を払ってくださいました。イエス様が十字架で「完了した」と言われました。ギリシャ語では「完済した。すべてを支払った」という意味です。キリスト教は「信じるだけで救われる」恵みの宗教だと言われています。しかし、その背後には、大きな犠牲があったことを忘れてはいけません。私たちは宝石など、大金を払ったものを大切にします。もし、自分は「キリストの命によって、買い取られた」と分かったならどうでしょう?与えられた命を大事にしたい、日々の人生を無駄にしたくないと思うでしょう。


2.イスラエルに対するさばき

 ホセアが最も強く戒めた民の罪は、偶像礼拝でした。なぜなら、本来、主なる神さまに捧げるべき信頼と愛を、他のものに与えたからです。それは、霊的姦淫であり、主の愛に対する裏切りです。主はそういうイスラエルの罪をさばかずにはおれませんでした。ホセア9:1-3「イスラエルよ。国々の民のように喜び楽しむな。あなたは自分の神にそむいて姦淫をし、すべての麦打ち場で受ける姦淫の報酬を愛したからだ。麦打ち場も酒ぶねも彼らを養わない。新しいぶどう酒も欺く。彼らは主の地にとどまらず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れた物を食べよう。」「エジプトに帰り」とは、エジプトのような隷属と苦難を異国で味わうことになるという比喩です。また、アッシリヤという名前が出てきましたが、これからあと50年もたたないうちに、捕囚になるということです。歴史的には紀元前722年にアッシリヤがイスラエルの首都サマリヤを滅ぼし、人々を国外に連れて行きました。そういう比喩的な表現がそこかしこにあります。ホセア9:13「今や、エフライムはその子らを、ほふり場に連れて行かなければならない。」、ホセア10:6-7「その子牛はアッシリヤに持ち去られ、大王への贈り物となる。エフライムは恥を受け取り、イスラエルは自分のはかりごとで恥を見る」。ホセア11:5「彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。」これだけ、はきりと国名まで記されている預言もありません。当時の王さまや高官たちは、ホセアの預言を聞いてどう思ったのでしょうか?ホセア7:8-10「エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子となる。他国人が彼の力を食い尽くすが、彼はそれに気づかない。しらがが生えても、彼はそれに気づかない。イスラエルの高慢はその顔に現れ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。」「生焼けのパン菓子」とは、裏返しにして焼かない菓子です。小麦粉で作った煎餅のようなものですが、半焼けでは当然、食べられません。片面だけに火が通り、他の片面に火が通っていません。これは、片方は宗教的で片方は世俗的だということです。神さまを信じながらも、世を慕う、肉的な生活を表しています。彼らはアッシリヤが来襲するそのときまで、主に立ち返らず、主を尋ね求めませんでした。

 しかし、主は何とか、イスラエルが自分のところに帰ってくるように呼び求めています。それは、ホセアがゴメルを探し求めた愛と同じです。ホセア書には「立ち返れ」ということばが何度も出てきます。ヘブル語で「立ち返れ」は「シューブ」ですが、これは「悔い改め」のもとの意味です。ホセア6章のはじめは、歌にもなっています。ホセア6:1-3「さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」今から、30年くらい前、このみことばの歌が教会ではやりました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求め、主は暁の光のように、確かに現わる。大雨のように、私たちのところに来て、後の雨のように地を潤される。」私が当教会に赴任して、まもなく、1989年頃だったと思います。私の上の、上の兄が仕事で屋根から落ちて、脳挫傷で危篤状態になりました。金曜日、秋田に向かいました。新幹線に乗っていたとき、このホセア書6章の賛美が浮かんできました。そこには、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」と書いてありました。私は、このみことばは、兄に対して語られている約束だと一方的に信じました。だから、病院にいる兄の奥さんや子どもたちの前で「兄は絶対助かる!」と宣言しました。しかし、土曜日の午前2時過ぎ、帰らぬ人となりました。私はみんなに嘘をついたことになります。私は病院の通路に座り、「あのみことばは何だったんだろう?」と疑いました。今でも、このみことばを読むとき、心が痛みます。「若気の至り」と言えばそれまでですが、神さまが与えてくれたレーマ(生けることば)だと確信していました。私はICUで一生懸命伝道しましたが、兄の返事を聞くことができませんでした。看護師さんたちから、「やめてください」と言われました。そのときの信仰に関する疑問は、今だに解決されていません。

今、分かることは、聖書は文脈から解釈しなければならないということです。1つの聖句だけ取り上げて、「これは神さまの約束です」というのは、早合点かもしれません。この聖句を改めて、学ぶということに痛みがあります。でも、このところで言わんとしていることは何でしょう?まず、ホセアが言っている神さまは、さばきの神さまではなく、愛なる神さまです。しかし、愛なる神さまがどうして、死や苦しみを与えるのでしょうか?旧約聖書の愛「ヘセド」は、契約に基づいた愛です。ホセアがゴメルに対して、結婚の契約を交わしました。同じように、夫である主は、おとめイスラエルと契約を交わしたのです。ホセア2:19「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは【主】を知ろう。」旧約聖書の愛「ヘセド」は、契約に基づいた愛です。一方、可哀そうだという愛「ラハム」は、「弱者や子どもに対するいとしい心、慈悲、愛」を表わすことばです。つまり、愛を言う場合、神さまとの契約関係にあるかが、問題になります。亡くなった兄のことを考えるとき、「本当に神さまが約束してくださったか?」ということです。もしかしたら、私が一方的に求めたことなのかもしれません。日本人というか、私がそうですが、「可哀そうだ」という慈悲の愛を求めがちです。そういう愛よりも、契約に基づいた愛「ヘセド」を求めるべきではないかと思います。

 主なる神さまは罪を犯したイスラエルを裁くつもりでした。しかし、なんとか彼らが「立ち返る」ように願っていました。なぜなら、主なる神さまが、イスラエルを選んだからです。つまり、夫と妻のような契約を交わしていたのです。新約聖書のイエス様は、どうでしょうか?イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられました。そして、「私を信じる者は滅びないで永遠の命を得る。私は世の終わりまで共にいる」と約束されました。


3.イスラエルの回復

 ホセアはイスラエルの民が、世の終わりに回復されることを預言しています。どこにそのようなことばがあるのでしょうか?ホセア14:4-7「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。」歴史的に、イスラエルはアッシリヤに連れ去られ、5つの異民族が代わりに入れられました。これこそ、アッシリヤが民族を根絶やしにする、最も残酷なやり方です。新約聖書の時代、北イスラエルはサマリヤと呼ばれるようになりました。ヨハネ4章には、イエス様がサマリヤの井戸の傍らで、一人の女性と出会ったことが記されています。当時、ユダヤ人はサマリヤ人を非常に嫌っていました。なぜなら、彼らは純粋なイスラエルではなく、5つの異民族と雑婚していた民の子孫だったからです。不思議なことに、サマリヤの女性の素性は、このことと一致しています。彼女には夫がありませんでした。イエス様は「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではありません」と言われました。このことは、まさしく北イスラエルの霊的姦淫のことを象徴しています。彼女は「私たちの先祖たちはこの山で礼拝しました」と言いました。「この山」とは、金の子牛を拝んでいた先祖たちのことです。

 もちろん、イエス様はサマリヤの女性を救いに導きました。しかし、イエス様は呪われたサマリヤの人たちを救いたいと願っていました。実際、サマリヤにリバイバルが来るのは、使徒8章のピリポの伝道のときです。しかし、イエス様はその前に、彼らを救いたいと願っておられたのです。ヨハネ4:35「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」「刈り入れ時」とは、ペンテコステ直後のピリポの宣教です。しかし、イエス様はその日が来る前に、一人でも救いたいと願っていたのです。イエス様はこの女性を得るために、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。他にも10名のらい病人が癒され、一人のサマリヤ人が感謝しにイエス様のところに戻って来たという話があります。また、良きサマリヤ人のたとえでは、ユダヤ人ではなく、サマリヤ人が強盗に襲われた旅人を助けました。このように、イエス様はあえてサマリヤ人のことを言及しました。それはなぜでしょう?ホセア書にあった預言を成就するためです。もちろん、ホセア書の預言は、世の終わりの出来事です。しかし、イエス様はその前に、この預言のいくらかでも成就すべく、サマリヤを訪れました。私はイエス様の愛は、旧約聖書の契約に基づいた愛(ヘセド)と、「可哀そうだ」という慈悲の愛(ラハム)の両方があると信じます。なぜなら、マタイ9:36「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあるからです。「かわいそうに」は、もともと「いけにえの内臓を食べる」という意味がありました。ユダヤ人は、かわいそうという思いは、心臓や肝臓、腎臓などで感じると考えていたようです。それが英語の訳になると、compassion 「共に苦しむ」という意味になります。

 神さまはさばきで終わらない、「いつしか回復が訪れる」とは何という慰めでしょうか。このように、旧約聖書から学び、そして新約聖書を見るとどうなるでしょうか?回復は自分の代で成就する場合もありますが、時間をかけて、長いスパンでそれがなされるということが多いようです。神さまは永遠の視野から物事をご覧になっています。ところが、私たちの人生は本当に短いので、神さまのみこころ全部を理解することはできません。ホセアはその後、どうなったでしょう?姦淫の霊を持っている女性と結婚しました。案の定、一人目を産んだ後、罪の世界に戻りました。しかし、主の命を受けて、ゴメルを買い戻しました。まさしく、そのことは霊的姦淫を犯しているイスラエルに対する神の愛でした。預言者としてのホセアは自分の結婚生活で、かなりの支障を受けたはずです。「お前は、どういう結婚をしているのだ」と証にならなかったでしょう。しかし、ホセヤの悲しみと痛みは、回復しました。「主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」と言うことばは、そのことから来ているのかもしれません。ホセアは結婚の契約が有効であることを、身を持って知りました。だから、神さまが「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。…わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ」ということを理解できたのです。ホセアは自らの結婚によって、神様の断腸の思いと、神さまの契約による愛を体験しました。そして、今度は、イスラエルの民の前に、自信をもって出ていくことができたのです。彼が50年間も神の愛を伝える預言者として活躍できたのは、そのことからかもしれません。イエス様は新約聖書において、一度捨てられた、イスラエルの民、サマリヤ人を見出しました。何という永大な計画、何という愛でしょう。私たちの人生は短くて、神さまの計画のほんの一部しか知り得ません。ヨハネは何と言っているでしょうか?ヨハネ17:3「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあります。私たちの地上のいのちは限りがあり、ほんの一瞬です。しかし、短い人生においてイエス様を信じるなら、永遠のいのちを得ることができます。イエス様は永遠の世界から、地上の私たちを救うために来られました。イエス様こそ、永遠のいのちと関わることができる接点なのです。イエス様は契約の愛と慈愛の愛を両方持ち合わせておられます。短い人生において、イエス様と出会い、永遠のいのちをいただくことができたなら本当に幸いです。



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