2014年5月18日 (日)

テコアの牧者アモス    アモス7:10-15

 アモスは紀元前760年くらいに活躍した預言者です。でも、本来は預言者ではなく、テコアで羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。ところが、神さまから「北イスラエルに行って預言せよ」と言われました。しかし、北イスラエルのアマツヤという祭司から「ユダの地へ逃げて行け!」と言われました。アモス書は北イスラエルのさばきを預言している書物です。歴史的には、40年後にアッシリヤによって滅ぼされました。私たちには関係のない、異国の物語のように思われますが、終末の時代に住む私たちにも少しばかり関係があります。


1.アモスの時代

 アモスはどのような時代の人なのでしょうか?アモス1:1「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。」テコアというところは、死海の西北に面した荒野です。主がかつて、ソドムとゴモラを滅ぼした場所のすぐ近くにあり、そこはすさまじい荒地でした。彼はそこで、羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。彼は農夫ですが、ただの農夫ではありません。なぜなら、当時の世界情勢を知り、またこういう文章を残すことができたからです。南ユダでは、ウジヤが王様でした。北イスラエルでは、ヨアシュの子、ヤロブアムが王様でした。彼はヤロブアム二世とも呼ばれています。大きな地震があったようですが、考古学者によると、紀元前760年頃と言われています。この頃は、アッシリヤの勢力が弱っていました。その分、北イスラエルはヤロブアム二世のもとで、領土を拡張し経済的に発展していました。2章後半から、北イスラエルがどれくらい贅沢な生活をしていたかが記されています。富が増し加わると、神を忘れてしまって、どうしても罪がはびこります。アモスは南ユダの人でしたが、神さまから呼び出され、北イスラエルに預言者として遣わされました。今風で言うなら、アモスは農村から、都会へと単身赴任したわけであります。

アモスはいきなり、北イスラエルの罪を告発しませんでした。遠い、周辺国から預言しはじめました。1章3節、「主はこう仰せられる。ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」最初は北方のダマスコです。ダマスコはシリアの首都で、アラムが住んでいました。現在、シリアはものすごい内乱状態です。イエス様が終わりの時代「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と預言されたとおりです。その次は、ガザです。ガザはペリシテが住んでいました。同じように、「ガザの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。その次は、ツロです。ツロは海洋貿易で栄えた町です。同じように、「ツロの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。その次は、エドムです。「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。さらにその次は、アモン人です。「三つ、四つの罪」とあります。その次は、モアブです。「三つ、四つの罪」とあります。その次は、ユダです。ユダは南ユダ王国です。「三つ、四つの罪」とあります。そして、最後、2章6節「主はこう仰せられる。イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」。これまでものをまとめますと、ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アモン、モアブ、ユダ、そしてイスラエルとなっています。全部で8箇所ありました。また、「三つ、四つの罪」と繰り返し出てきました。これは、「三つの罪までは赦されるが、四つ目の罪は極悪なもので赦されず、必ず罰せられる」という意味です。原文には「その刑罰」ということばはなく、「それを撤回しない」となっています。イスラエルの人たちは、ダマスコ、ガザ、ツロの裁きを聞いて、「そうだ」「そうだ」と聞いていたでしょう。しかし、最後に「イスラエルの犯した罪」と聞いたとき、ぐさっと胸を刺されたように感じました。

榎本保郎先生が書かれた『旧約聖書一日一章』にこのように書いてありました。「私たちはしばしば『あの人もやっているじゃないか』と言う。そしてこの思いは自分の罪に対する恐れを忘れさせる。ここに現代人の罪に対する無関心さが生まれてきているのだと思う。みんながやっているということは、決して私もやったことの弁明にはならない。おそらく、イスラエルの人々は外国のありさまを見て、自分たちの罪に対する恐れがいつの間にか薄らぎ、なくなっていたのであろう。そういう彼らに罪意識をもたらすために、主は他国人の罪も1つとしてそのさばきから免れることのないことを示しつつ、彼らの罪とがをあげつらねたのである。」私が聖書学院で学んでいた頃、風紀を乱すようなことをしました。よく覚えていませんが、何人かが掲示板に落書きをしました。上級生から私が叱られました。そのとき、「私も悪かったです」と謝りました。上級生から「私も」ではなく、「私が悪かったでしょうと言うべきでしょう」と注意されました。確かに、私一人ではなく、他の人たちが落書きをしたのです。でも、そのとき「上級生の言っていることは正しいなー」と思いました。それ以来、「私も悪かったです」と言わないようにしています。私も牧師になってから、「それは違うでしょう」と度々言われました。とくに、役員会や総会は私にとって鬼門であります。私は、人から注意されたり、罪をさばかれたりするとものすごくダメージを受けるタイプです。なぜなら、子どものときから、家でも学校でも、ずっとずっと叱られてきたからです。おかげさまで、今はだいぶ癒され、注意や警告も感謝して受け止められるようになりました。しかし、今は一歩、進んで、「注意したり、警告をする人も大変だろうなー、イヤだろうなー」と思えるようになりました。だって、その人から嫌われるかもしれないし、逆ギレされるかもしれないからです。

イスラエルに対する警告は後半、学びますが、それを預言したアモスはどう思われたのでしょうか?そのことが、アモス7章10節以降に記されています。北イスラエルにはアマツヤという祭司がいました。アマツヤは王によって任命された祭司でした。アマツヤは、ヤロブアム二世に、「アモスは謀反を起こしています。彼のすべてのことばを受け入れることはできません」と告げました。そして、アモスに会ってこう言いました。「先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。」アマツヤは「余計なお世話だ。とっとと自分の国に帰れ!」と言ったのであります。彼のことばの中には、威嚇と嘲笑がこめられています。イスラエルの王さまも、宗教的な指導者も、アモスの預言に対して全く耳を傾けませんでした。なぜでしょう?国が栄え、天下泰平だったからです。ところが、イスラエルは40年後、アッシリヤに滅ぼされてしまいます。アモス4:2「その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く」と、書かれています。これは捕え移される、捕囚になるということです。しかし、なぜ、こんな嫌な預言をしなければならないのでしょうか?アモスは南ユダで羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。ところが、主はアモスに「行って、私の民イスラエルに預言せよ」と命じました。なのに、アマツヤは「イスラエルに向かって預言するな」と言いました。そういうアマツヤと家族に対して、神からのさばきが告げられています。

エレミヤもそうですが、預言者は主が語られるなら、預言せずにはおられません。アモス3:7-8「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」アモスはテコアで羊を飼っていました。旧約時代、ヨルダン渓谷や山地には、多くの野獣がいたようです。ライオンがほえるのは、獲物を捕らえたしるしです。もし、それが自分の群れの羊でなければ、羊飼いは安心します。しかし、近くにライオンがいるなら、恐れなければなりません。主も罪に怒って民を裁こうとします。しかし、主は、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないで何事もなさりません。本当は、警告を与えることによって、民たちが悔い改めることを願っているのです。アモスはテコアで平和に暮らしていました。「イスラエルに行って、預言せよ」と呼び出されました。本当は「嫌です」と断わりたいところでしょう。しかし、預言者は主から召され、信頼され、全権を託されました存在です。ライオンの声を聞く人が震えるように、主のことばを受けた預言者は語らずにはおられません。預言者は見張り台に立つ、見張り人のような存在です。敵が来ているのに、知らせないなら、自分も民も滅ぼされてしまいます。アモスも主からの警告を聞いたからには、民に告げる責任がありました。現在は、会社から命令されたならば、どこへでも単身赴任先に行かなければなりません。不景気なので、断ったら死活問題になるからです。しかし、会社よりも偉大な神さまから命じられたならば、どうするでしょうか?アモスは一介の牧者であり農夫でした。しかし、「イスラエルに行って、預言せよ」という使命を与えられました。現代は「使命」ということばはほとんど使われないかもしれません。人々は、自分の生活をエンジョイすれば良いと思っています。アモスは、自分の生活よりも、神さまの使命を優先させました。あなたはどうでしょう。自分の生活よりも、神さまの使命を優先させているでしょうか?


2.アモスの預言

 後半は、イスラエルに対するアモスの預言の内容について学びたいと思います。アモス書の主題をひとことで語るなら「神の公義」です。アモス5:24「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」「公義」とは、社会的な正義という意味です。当時、イスラエルはヤロブアム二世が治めていました。アッシリヤの勢力が弱かったので、北はダマスコまで領土を拡大していました。また、穀物地帯であるバシャンとハウランを征服したので、牧畜や農耕が祝されました。また、フェニキヤとの交易、イスラエルとアラビヤを横切る隊商に課した通行税などで、王国の繁栄は頂点を極めていました。彼らがどれくらい富んでいたか、アモス6章に記されています。アモス6:4-6「象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている。彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩まない。」当時の人々は土間に座して食事をしていました。一方、上流階級の人たちは、象牙の飾りのあるベンチに身を横たえて宴会をしていました。食卓には、小羊や子牛の肉が並べられ、音楽がにぎやかに演奏されていました。彼らは鉢のような大きな器から酒を飲み、最上の香油を身に塗っていました。上流階級の人々は、日夜このような宴会を行って浪費しており、イスラエルに近づいている滅亡など気にも留めないでいました。

 「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪」とありますが、どのような罪だったのでしょうか?第一は、負債を返済できない者を奴隷に売っていました。アモス2:6「彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。」法的には正しいのに、わずか一足の靴のために売られるのです。取るに足らぬ負債のために貧しい者が売られるという社会は、イスラエルの兄弟愛に反しています。第二は、貧しい者を抑圧する罪です。アモス2:7「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ」とあります。「弱い者」とは、イザヤ書では「寄るべのない者」と訳されています。アモスの時代、裁判官は金次第で法を曲げていました。だから、貧しい者は不正な裁判の犠牲になっていました。第三は、若い娘に対する不当な扱いの罪です。アモス2:7後半「父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。」「女」と訳されている語は、若い娘のことです。これを父と息子が共有するという乱れたことが行われていました。これはレビ記で、性的な罪として禁じられていました。第四は、負債の搾取の罪です。アモス2:8「彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。」律法では、上着を質に取っても、日没までには返すように命じられています。なぜなら、夜は寒いので、上着が必要だからです。ところが、彼らは質に取った上着に横たわり、ぶどう酒を飲んでいました。しかも、そのようなことが神の宮でも行われていたということです。

アモス3章から6章まで、今、取り上げた4つの罪が詳細に記されています。しかし、それらの中に、どのようなさばきが来るのか、少しずつ書かれています。アッシリヤという国名は記されていませんが、町が滅ぼされ、捕われ人として引かれて行くと預言されています。ところで、アモスの主題は「神の公義」であると述べました。社会的な正義が全くなされていなかったということです。しかし、イスラエルの国にも宗教がありました。彼らも神さまを賛美し、いけにえをささげていました。神さまは、いわゆる宗教に対してどのように思われているのでしょうか?アモス5:21-24「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」イスラエルは、公義と正義を踏みにじっていました。それなのに、いろんな祭りやきよめの集会を持っていました。また、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえなど、基本的な祭りを全部やっていました。しかし、神さまは義の伴わない、祭りやいけにえは受け入れられない。「かぎたくない」「喜ばない」「目もくれない」「聞きたくない」と言っています。イスラエルにとってこれほど悲しいことはありません。では、神さまは何を望んでいらっしゃるのでしょうか?供え物や歌よりも、公義と正義を行うことでした。

月1回、常磐牧師セルがあり私もそのメンバーです。そこでは、牧師ならではの話題がたくさん出てきます。先日、ある牧師が「総会の時、教会員全員に誓約書に署名してもらう」と言っていました。誓約書は、このような内容でした。毎週の聖日礼拝や祈祷会を守ること。什一献金をささげ教会を支えること。毎日聖書を読み、神さまを第一とした生活を送ること。はっきりとは覚えていませんが、聞いているうちに腹が立ってきました。実は、私も20年位前に、「洗礼を受けたらこういう生活をしなさい」と掲げました。そこには、「聖日礼拝を守り、献金を捧げ、聖書読んでいれば良いクリスチャンなんだ」というイメージがあります。私も前はそれで良いと思っていました。しかし、日曜日は良いクリスチャンでも、月曜日から土曜日まではどうなんでしょうか?つまり、家庭や会社や学校、地域社会でどういう生活をすべきかが問われていません。牧師はこの世の中でどうあるかということよりも、教会の中でどうあるかを求めがちであります。しかし、アモス書は供え物や歌よりも、公義と正義を行うことを求めました。もっと言うと、公義と正義を行っていない人の、礼拝は受けたくないとおっしゃっているのです。家で喧嘩していて教会で「神さま、あなたを愛します」と言えます。会社や学校で、悪いことをして教会で「神さま、あなたに従います」と言えます。それだと、イスラエルの人たちと同じです。パウロは、ローマ12:1「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言いました。この礼拝というのは、「ひざをかがめる」という言葉ではなく、「働く」「仕える」という意味のことばです。つまり、「私たちのからだを生きた供え物としてささげて、仕えることが礼拝なのだ」ということです。日曜日の聖日礼拝では、「ひざをかがめる」ような礼拝です。しかし、「月曜日から土曜日までは、日々の生活の中で神さまをあがめる生き方をせよ」ということです。職場や家庭で仕え、正しいことを行うことも神への礼拝であるということです。

最後に、アモス書は世の終わりの時代の私たちにも預言しています。アモス書で有名な聖句はこのことばです。アモス8:11「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。」現代は食べ物で困っている人はあまりいません。グルメを求めて歩いています。また、テレビやインターネット、スマートフォンによる情報化の時代です。しかし、主のみことばを聞いている人は、どのくらいいるでしょうか?人との会話や買い物やレジャーなどの情報が占めていると思います。アモス書のように、私たちが住んでいる時代は、「パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききん」です。人を本当に生かすのは、主のことば以外にありません。食べ物で肉体が、情報で思いが満たされるでしょう。しかし、霊と魂の部分は忘れ去られています。私たちの深いところで、飢え渇いています。私たちは造り主である神さまと交わる必要があります。なぜなら、神は霊であり、私たちも霊的な存在だからです。イエス様はマタイ4:4「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」と言われました。この世の食べ物や物質では、満たされないのです。私たちクリスチャンはイエス様を信じて、永遠のいのちが与えられています。「だから聖書を読まなくて良いか」というとそうではありません。旧約の人たちが日々、天からのマナを求めたように、私たちも神のことばである聖書を霊の糧としていただかなければなりません。ご飯は毎日食べます。3日間も食べないと「死ぬ」と言いだすでしょう。しかし、霊的な食物は、「1週間食べなくても平気です」というのはおかしいです。日本は特に、霊的な食物ききんの国です。ギデオン協会がたくさん配っているので、読もうと思えば聖書はあります。しかし、聖書が近くにあっても読もうとしません。ヨエル8:13「その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。」まさしく、現代はお年を召した方よりも、若者が衰え果てている時代です。年配者は元気でも、若い人たちの方が衰え果てています。人々は、表面上は「問題ありません。満たされています」と言うかもしれません。しかし、聖書のみことばを読んでいないなら、まちがいなく霊的に衰え果てているのです。どうぞ、私たちクリスチャンが率先して、聖書のみことばを読んで、霊的な命を満たしていきましょう。同時に、ききんであえいでいる人たちに、霊の糧を配っていきましょう。


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