2017年12月30日 (土)

~アモスが見た幻~    亀有教会副牧師 毛利佐保

◆聖書箇所: アモス書8章1-3

 

8:1

神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。

8:2

主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。

8:3

その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。──神である主の御告げ──多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」

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2017年12月31日、1年の締めくくりの日にメッセージを語らせていただける恵みを心から感謝いたします。

今年はヨハネの福音書からと、「ルツ記」と「ホセア書」「ヨエル書」の一書全体を取り上げる一書説教をさせていただきました。本日は「ヨエル書」の次の「アモス書」を取り上げていきたいと思います。

 

「アモス書とか、読んだことないし!」とか、「読んだけど解らないし!」とか思ってらっしゃる方!

今日は良い機会です!頑張りましょう!

 

私は神学校時代に、ヘブライ語の授業でアモス書を学び、さっぱり解らなかった想い出があります。

ヘブライ語を教えてくれたのは、アメリカ人の旧約学者の教授だったんですが、アモス書は日本語訳の聖書でも解りづらい預言書なのに、ヘブライ語の授業のテキストに選ぶとは、ずいぶんマニアックだなーと思っていました。

 

あとで判明したのですが、その先生は「アモス書大好き♡ アモス書ラブ♡」の人だったようです。

先生はひとりでハイテンションになってエスカレートし、「あ~みなさん。私良いことを思いつきました!朝のチャペルの礼拝説教をアモス書から順番に語ろうではありませんか。」と提案。

アモス書は半強制的に先生と学生とで割りふられ、私は6章を担当することになりました。

 

先日久しぶりにその原稿を読み返してみましたが、もう「ひっどい!」のひと言でした。

今となっては良い想い出ですが、今回はその反省を生かして、取り組みたいと思わされた次第です。

 

さて、私たちがこのアモス書から受け取る神様からのメッセージは何でしょうか。

 

アモス書は全体で9章からなる小預言書で、聖書に出てくる預言書の中では初めて預言者の名前で記された「記述預言書」だと考えられています。預言者はアモス以前にもモーセやエリヤなどたくさんいましたが、モーセ書とかエリヤ書などはありません。

 

アモスが活躍した時代は、アモス1章1節の記述によると、南ユダ王国ではウジヤ王の時代(前792―740年)、北イスラエル王国ではヤロブアム2世の時代(前793―753年)のようです。

アモスが預言した時期は、前760―750年頃ではないかと言われています。

 

アモスは南ユダの人でしたが、神様から突然、北イスラエルに行って北イスラエルの滅亡について預言するように言われました。

北イスラエルの王ヤロブアム2世はソロモン王に匹敵するほど領土を広げ、北イスラエルの全盛期を築いた王です。繁栄の最中にアモスが滅亡を預言しても聞き入れるわけがありません。しかし、アモスの預言からわずか30-40年後の紀元前720年に北イスラエルはアモスの予言通り滅亡しました。

 

◆①アモスのように重荷を負う者となる。

 

アモス書には、「公義=〈ヘ〉ミシュパート」と「正義=〈ヘ〉ツェダーカ」という言葉が何箇所かに出てきます。アモスの神観は、「愛なる神」よりも、「義なる神」の方が強く、アモス書全体が神の公義と正義が基盤となっています。預言書のパターンとしては、畏れ多い神のさばきの宣告の後に、愛なる神の救いの祝福が語られるのですが、アモス書は祝福の部分は他の預言書に比べてとても少ないのが特徴です。

 

アモス個人について解ることは、1章1節と、7章14-15節のことばからの情報しかありません。

まとめると、アモスはこのような人です。

 

1. ベツレヘムの南東にある小さな町テコア出身(南ユダ出身)だった。

2. 牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。

3. もともと預言者ではなかった。

(他の預言書に出てくる「預言者のともがら」という職業的な預言者集団には属していなかった。)

4. 系図については不明である。

5. 神から突然召命を受けた。

 

加えて、「アモス」という名前は、「重荷」「重荷を負う者」という意味があるそうです。その名前の通り、アモスは突然預言者として召されて、神様から大変な使命を授かり、「重荷を負う者」となりました。

 

しかしアモスが預言者として立ったのは、名誉や野心のためではありませんでした。おそらく、牧者としては裕福で充実した生活をしていたことと思われます。平和な南ユダのテコアで幸せに生きていたアモスに、神はその働きの場から預言者として北イスラエルに行くように命じました。

 

もし、私たちにそのような神の召命があったならみなさんはどうしますか。

今の平穏な生活を捨てて神の召しに従うことができるでしょうか。

 

アモスが繁栄の最中にある北イスラエルに行って、「この国は滅亡する。」という預言を語ることは、簡単なことではありません。反逆罪となって捕えられてしまうかもしれません。自分のいのちと引き換えになることも覚悟のうえでのぞまなければなりません。

 

それでもアモスが神の命令に従ったのは、神への畏敬と信仰があったことはもちろんですが、アモス自身の目から見ても、北イスラエルが間違った方向に歩んでいることが解ったからではないでしょうか。

 

アモスはテコアの牧者としてユダの荒野の近くに住み、都会の喧騒とは離れた所で暮らしていました。

いつも自然の中で、神との時間を持っていたので、神の御心が理解できたのではないでしょうか。

 

そのせいか、アモス書は他の預言書と違って自然とか、動物、音のイメージがつまった書物となっています。

1章の預言のはじまり方もユニークです。ここは新共同訳で読んだ方が臨場感があります。

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1:2

彼は言った。主はシオンからほえたけり/エルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は乾き/

カルメルの頂は枯れる。

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いきなり、「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる。」です。

けっして静かな始まりではありません。ずいぶんファンキーなはじまりです。独創的です。

 

しかしアモスはけっして単純で無知な人ではなく、アモス書の文体は詩文として書かれており、情緒があります。またアモスは、語り方に長けており、豊かな想像力で様々なイメージを作って預言しています。

その視野は広く、北イスラエルや南ユダに限らず、ダマスコ、ペリシテ、ツロ、エドム、アモン、モアブなどの近隣諸国から、エジプト、メソポタミヤに至るまで、犯した罪とさばきの預言を語っています。

 

それでは北イスラエルが犯した罪とは具体的になんなのでしょうか。

2章7-8節にはこう書かれています。

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2:7

彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。

2:8

彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。

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ここには、「弱者や貧しいものに対する暴力や搾取」、「道徳的な堕落」、「偶像崇拝」、「間違った礼拝」の様子が記されています。

 

アモスはこれらを厳しく非難し、アッシリヤの侵略による北イスラエルの破壊と捕囚が起こるという神のさばきが避けられないことを警告しました。そして、悔い改めて主に立ち返って公義と正義を行うように勧めました。

 

しかし北イスラエルの民は聞き入れませんでした。

結果として、アモスのミッションは失敗だったのかもしれませんが、神はそのことも含めてすべてご存知でした。アモスはもしかしたら失意のどん底に陥って故郷の南ユダに帰ったのかもしれませんが、神がアモスに望んでおられたことは、アモスが北イスラエルに行って神のことばを伝える事、その事のみでした。

 

その神のことばは現実のものとなりました。

アモスの預言から30-40年後に、北イスラエルがついにアッシリアに制圧され陥落しました。

その時アモスがまだ生きていたかどうかは解りませんが、アモスは確かに主の命令に聞き従い、重荷を負う者となって命がけで北イスラエルに出向き、神のことばを伝え、使命を果たしたのです。

 

私たちはどうでしょうか。アモスのように重荷を負う者となれるでしょうか。

もしかしたらそれ以前に、日々の生活に追われ、神の声を聞き逃し、北イスラエルの民のようになってしまっているかもしれません。

 

アモスのように、いつ主の語りかけや召命があったとしても、その御声に応えることができるように、賢く世界を見渡しながら、静まって神様との交わりの時を持つように心がけましょう。

 

◆②アモスが見た幻から神のご本質を知る。

 

アモスは、7章~8章では、4つの幻を見たことを語っています。

それぞれの幻は、神とアモスとのやり取りです。

神様は時には慈悲深く、しかし厳しく、時にはユーモラスに深い愛を示されます。

このアモスが見た幻は、是非注目していただきたいところです。

●第1の幻は、「いなごの幻」<7章1‐3節>です。

7:1に「二番草が生え始めたころ」と書かれていますが、これは春を表し、この季節にいなごの災害が起こると、来るべき収穫への絶望と飢饉の脅威を意味することになります。

 

そのいなごの幻を見たアモスは、「ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」と神に訴えて、

とりなしました。神はアモスの嘆願を聞き入れて、その考えを変えていなごの災害を取り消されました。

 

●第2の幻は、「火の幻」<7章4‐6節>です。

アモスは、神が地上に燃える火を呼び寄せておられるのを見ました。

7:4の「大淵」というのは、珍しい言い方ですが、水の源、水源となるところです。この水源が干上がってしまうと、当然すべての作物は枯れてしまいます。

 

その幻を見たアモスは、いなごの時と同じように、神に訴えてとりなしました。

神は再びアモスの嘆願を聞き入れて、火の災害を取り消されました。

 

第1、第2の幻では、神は慈悲深さを示されました。

 

●第3の幻は、「重りなわの幻」<7章7‐9節>です。

「重りなわ」とは、建築などで使う「下げ振り」のことです。この計りで神は何を計るのでしょうか。

それはイスラエルの義です。イスラエルの民たちが神の目にかなった行いをしているかどうかをこの「重りなわ」で計ると神は言われたのです。

 

ここではもはやアモスのとりなしもなく、神の忍耐は尽き、イスラエルの滅びは避けられない状況です。

第3の幻では、神は厳しさを示されました。

 

続く7章の後半は、幻から現実の出来事へと一時話は展開します。

 

北イスラエルのベテルの祭司アマツヤと、アモスとのやり取りが挟まれています。

アマツヤはヤロブアム2世に、アモスが謀反を企てていると報告し、アモスに南ユダに帰るように言いました。

アモスは祭司アマツヤについて、このように預言しました。

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7:17

それゆえ、【主】はこう仰せられる。『『あなたの妻は町で遊女となり、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ、あなたの土地は測りなわで分割される。あなたは汚れた地で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行く。』

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これは恐ろしいですね。容赦ないですね。

主のことばを語る預言者を受け入れない人には、このような恐ろしいさばきが待っているのです。

 

そして、次の幻です。

●第4の幻は「ひとかごの夏のくだものの幻」です。本日の聖書箇所です。

 

<8章1-3節>

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8:1

神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。

 

8:2

主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。

8:3

その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。──神である主の御告げ──多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」

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この幻は、大きな災いによってイスラエルに終りが来ることを象徴しています。

ここの神のことばにはヘブライ語の語呂合わせがあります。

「夏のくだもの」は、<ヘ>カイツ と言います。「終わり」は、<へ>ケーツという言います。

神はアモスに「夏のくだもの=カイツ」の幻を見せ、 わたしの民イスラエルに、「終わり=ケーツ」が来たと語っておられます。

 

この語呂合わせは神様のジョークなのでしょうか。この差し迫った状況の幻を見せながら、「カイツとケーツ」といったオヤジギャクのような駄洒落を言われても、アモスはぜんぜん笑えなかっただろうとは思います。

「義なる神」を強調するアモスには、むしろ余計に恐ろしく感じたかもしれません。

 

このような神様の語呂合わせは、エレミヤ書の1章11-12節にも出てきます。

エレミヤはアモスより後の時代の預言者ですが、神はエレミヤを召される時に幻を見せ、アモスの時と同様、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」と問いかけました。エレミヤは、「アーモンドの枝を見ています。」と答えました。それに対して神様は、「私は見張っている。」と言われました。

 

これは、「アーモンド」は<へ>シャーケード、「見張っている」は<へ>ショーケード、の語呂合わせです。

加えてアーモンドはもともと他の草花に先立って1月か2月ごろに白い花を咲かせることから、「見張り」の象徴的意味を持つ木だと言われています。それとエレミヤの出身地アナトテはアーモンドの名産地ということで、神様は、神の召しになかなか良い返事をしないエレミヤにいろいろ含めたユーモアで語りかけています。

 

こういった神様の語呂合わせのユーモアには、アイロニー(皮肉・反語・逆説)が込められています。しかし神が使うアイロニーは人間が使うアイロニーとは全く違う逆説的なアイロニーです。

 

人間のアイロニーは、時には愛情からくるものもあるかもしれませんが、しばしば人を鋭く刺すような嘲笑的なものだったり、自己を正当化して相手を貶(おとし)めるような闘争的なものが多いです。

 

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、ひとつの教育法として逆説的なアイロニーを使いました。わざと皮肉めいた問答を繰り返して相手を自己矛盾に陥らせ、自らの無知を思い知らせて知識を深める教育法です。

 

しかし神のアイロニーはそういった教育とも異なっています。

神のアイロニーは、人間の知識を深めるようなものではなく、もっと人間の根源的な部分に響くものです。

神の霊と、人間の霊が触れ合うような感覚です。

 

「夏のくだもの」<ヘ>カイツ と、「終わり」<へ>ケーツの語呂合わせも、「アーモンド」<へ>シャーケード、「見張っている」<へ>ショーケードの語呂合わせも、「こんなにも私はあなた方を愛しているのに、なぜ聞き入れようとしないのか?」という、神様の悲しみやジレンマから来る愛のアイロニーを含んでいます。

 

幻を見せて語られる神のご本質は、アモスやエレミヤとのやりとりを通して深く知ることができます。

神様は、本当はこんなやりとりをしなくても、駄洒落のような語呂合わせなどを言わなくても、あっという間に私たちを滅ぼし尽してしまうことが出来る御方です。

それなのに幾度となく猶予をくださるその御姿を思うと、「ああ主よ愛しています!」とひれ伏したくなります。

 

神は忍耐強くイスラエルの民を愛してくださり、滅びの道に行くことがないようにと導いてくださっています。

私たち異邦人にもその愛を示してくださいました。その証として、ひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださったのです。これが福音です。良き知らせです。アモスが見た幻から神様の深いご本質を知りましょう。

 

◆③一瞬の時の中にも神の恵みがある。

 

アモスが預言者として活動した期間は、他の預言者と比べてとても短かったと考えられます。

しかし、それは私たちの時間の感覚であって、アモスの預言者としての活動は短くても、後に続く数々の預言者たちに「重荷を負う者」としての姿勢を見せ、影響を与え、預言者として主に従う姿をつないで行ったという点では、彼の活動期間は私たちが思っているよりはるかに長かったのかもしれません。

 

さて、みなさんはこの一年間、どのような歩みをなさったでしょうか。

あっと言う間に過ぎ去った一年だった方もいるでしょう。長ーく長ーく感じた一年だった方もいるでしょう。

よくメッセージの中で「時間」について語る時に使われる言葉があります。

 

ギリシャ語の「クロノス(χρόνος)」と「カイロス(καιρός)」の二つです。

クロノスは、「絶対的な時間」つまり、日常私たちが過ごしている一日24時間の物理的な時間です。

カイロスは、「相対的な時間」つまり、一年が百年のように感じたり、ほんの数分のように感じたりする「主観的な時間」です。このカイロスは神様が介入される時とも言えます。

 

私たちはこのカイロスという時間を意識して、どの瞬間にも神様の豊かな介入が確かにあるということを認識していたいと思います。人生の荒波にもまれている時も、苦難の時も、神様との豊かな時間があります。

私たちがイエス様を呼び求める時、イエス様は時空を超えて、私たちに恵みを与えてくださいます。

 

「永遠」に比べれば、私たちのこの世の人生はほんの一瞬だとよく言われますが、その一瞬の中にも神の恵みは豊かに満ち溢れています。

 

先日、学生時代の友人の結婚式に参列したのですが、その時の新郎側の友人代表の祝辞がなかなか面白かったのでご紹介したいと思います。

 

友人代表の男性が新郎に対して、「Y君。神の永遠が、例えばこのくらい(両手を広げたくらいの幅)だとしたら、この世の人生はどのくらいだと思う?」と聞いたら、Y君はおもむろにテレフォンカードを出してきてそれを縦にして、「これくらい。」と言ったそうです。

 

そのエピソードを受けて友人代表の彼は、「まずY君が今どきテレフォンカードを持っていることに驚きました。でも今は、スイカやパスモもあるのでチャージできます。テレフォンカードほど薄いこの世の人生だとしても、チャージしながら結婚生活を充実させていってください。」と、エールを送っていました。

 

チャージ。それは、神様との時間から得るものです。

私たちは聖書からのメッセージを紙に書かれた歴史のように思わないで、今も生きておられる神様をリアルに感じながら受け取りたいものです。そして神の恵みを存分にチャージしましょう。

 

2018年を迎えるにあたり・・・。

アモスのように重荷を負う者となるために、神様のご本質を深く知るために、一瞬の時の中にも神様の恵みを感じられるようになるために、神様との静まりの時間をしっかり持って、チャージして、気持ちを新たにして、豊かな一年を歩んで行きましょう。

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2014年5月18日 (日)

テコアの牧者アモス    アモス7:10-15

 アモスは紀元前760年くらいに活躍した預言者です。でも、本来は預言者ではなく、テコアで羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。ところが、神さまから「北イスラエルに行って預言せよ」と言われました。しかし、北イスラエルのアマツヤという祭司から「ユダの地へ逃げて行け!」と言われました。アモス書は北イスラエルのさばきを預言している書物です。歴史的には、40年後にアッシリヤによって滅ぼされました。私たちには関係のない、異国の物語のように思われますが、終末の時代に住む私たちにも少しばかり関係があります。


1.アモスの時代

 アモスはどのような時代の人なのでしょうか?アモス1:1「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。」テコアというところは、死海の西北に面した荒野です。主がかつて、ソドムとゴモラを滅ぼした場所のすぐ近くにあり、そこはすさまじい荒地でした。彼はそこで、羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。彼は農夫ですが、ただの農夫ではありません。なぜなら、当時の世界情勢を知り、またこういう文章を残すことができたからです。南ユダでは、ウジヤが王様でした。北イスラエルでは、ヨアシュの子、ヤロブアムが王様でした。彼はヤロブアム二世とも呼ばれています。大きな地震があったようですが、考古学者によると、紀元前760年頃と言われています。この頃は、アッシリヤの勢力が弱っていました。その分、北イスラエルはヤロブアム二世のもとで、領土を拡張し経済的に発展していました。2章後半から、北イスラエルがどれくらい贅沢な生活をしていたかが記されています。富が増し加わると、神を忘れてしまって、どうしても罪がはびこります。アモスは南ユダの人でしたが、神さまから呼び出され、北イスラエルに預言者として遣わされました。今風で言うなら、アモスは農村から、都会へと単身赴任したわけであります。

アモスはいきなり、北イスラエルの罪を告発しませんでした。遠い、周辺国から預言しはじめました。1章3節、「主はこう仰せられる。ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」最初は北方のダマスコです。ダマスコはシリアの首都で、アラムが住んでいました。現在、シリアはものすごい内乱状態です。イエス様が終わりの時代「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と預言されたとおりです。その次は、ガザです。ガザはペリシテが住んでいました。同じように、「ガザの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。その次は、ツロです。ツロは海洋貿易で栄えた町です。同じように、「ツロの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。その次は、エドムです。「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。さらにその次は、アモン人です。「三つ、四つの罪」とあります。その次は、モアブです。「三つ、四つの罪」とあります。その次は、ユダです。ユダは南ユダ王国です。「三つ、四つの罪」とあります。そして、最後、2章6節「主はこう仰せられる。イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」。これまでものをまとめますと、ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アモン、モアブ、ユダ、そしてイスラエルとなっています。全部で8箇所ありました。また、「三つ、四つの罪」と繰り返し出てきました。これは、「三つの罪までは赦されるが、四つ目の罪は極悪なもので赦されず、必ず罰せられる」という意味です。原文には「その刑罰」ということばはなく、「それを撤回しない」となっています。イスラエルの人たちは、ダマスコ、ガザ、ツロの裁きを聞いて、「そうだ」「そうだ」と聞いていたでしょう。しかし、最後に「イスラエルの犯した罪」と聞いたとき、ぐさっと胸を刺されたように感じました。

榎本保郎先生が書かれた『旧約聖書一日一章』にこのように書いてありました。「私たちはしばしば『あの人もやっているじゃないか』と言う。そしてこの思いは自分の罪に対する恐れを忘れさせる。ここに現代人の罪に対する無関心さが生まれてきているのだと思う。みんながやっているということは、決して私もやったことの弁明にはならない。おそらく、イスラエルの人々は外国のありさまを見て、自分たちの罪に対する恐れがいつの間にか薄らぎ、なくなっていたのであろう。そういう彼らに罪意識をもたらすために、主は他国人の罪も1つとしてそのさばきから免れることのないことを示しつつ、彼らの罪とがをあげつらねたのである。」私が聖書学院で学んでいた頃、風紀を乱すようなことをしました。よく覚えていませんが、何人かが掲示板に落書きをしました。上級生から私が叱られました。そのとき、「私も悪かったです」と謝りました。上級生から「私も」ではなく、「私が悪かったでしょうと言うべきでしょう」と注意されました。確かに、私一人ではなく、他の人たちが落書きをしたのです。でも、そのとき「上級生の言っていることは正しいなー」と思いました。それ以来、「私も悪かったです」と言わないようにしています。私も牧師になってから、「それは違うでしょう」と度々言われました。とくに、役員会や総会は私にとって鬼門であります。私は、人から注意されたり、罪をさばかれたりするとものすごくダメージを受けるタイプです。なぜなら、子どものときから、家でも学校でも、ずっとずっと叱られてきたからです。おかげさまで、今はだいぶ癒され、注意や警告も感謝して受け止められるようになりました。しかし、今は一歩、進んで、「注意したり、警告をする人も大変だろうなー、イヤだろうなー」と思えるようになりました。だって、その人から嫌われるかもしれないし、逆ギレされるかもしれないからです。

イスラエルに対する警告は後半、学びますが、それを預言したアモスはどう思われたのでしょうか?そのことが、アモス7章10節以降に記されています。北イスラエルにはアマツヤという祭司がいました。アマツヤは王によって任命された祭司でした。アマツヤは、ヤロブアム二世に、「アモスは謀反を起こしています。彼のすべてのことばを受け入れることはできません」と告げました。そして、アモスに会ってこう言いました。「先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。」アマツヤは「余計なお世話だ。とっとと自分の国に帰れ!」と言ったのであります。彼のことばの中には、威嚇と嘲笑がこめられています。イスラエルの王さまも、宗教的な指導者も、アモスの預言に対して全く耳を傾けませんでした。なぜでしょう?国が栄え、天下泰平だったからです。ところが、イスラエルは40年後、アッシリヤに滅ぼされてしまいます。アモス4:2「その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く」と、書かれています。これは捕え移される、捕囚になるということです。しかし、なぜ、こんな嫌な預言をしなければならないのでしょうか?アモスは南ユダで羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。ところが、主はアモスに「行って、私の民イスラエルに預言せよ」と命じました。なのに、アマツヤは「イスラエルに向かって預言するな」と言いました。そういうアマツヤと家族に対して、神からのさばきが告げられています。

エレミヤもそうですが、預言者は主が語られるなら、預言せずにはおられません。アモス3:7-8「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」アモスはテコアで羊を飼っていました。旧約時代、ヨルダン渓谷や山地には、多くの野獣がいたようです。ライオンがほえるのは、獲物を捕らえたしるしです。もし、それが自分の群れの羊でなければ、羊飼いは安心します。しかし、近くにライオンがいるなら、恐れなければなりません。主も罪に怒って民を裁こうとします。しかし、主は、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないで何事もなさりません。本当は、警告を与えることによって、民たちが悔い改めることを願っているのです。アモスはテコアで平和に暮らしていました。「イスラエルに行って、預言せよ」と呼び出されました。本当は「嫌です」と断わりたいところでしょう。しかし、預言者は主から召され、信頼され、全権を託されました存在です。ライオンの声を聞く人が震えるように、主のことばを受けた預言者は語らずにはおられません。預言者は見張り台に立つ、見張り人のような存在です。敵が来ているのに、知らせないなら、自分も民も滅ぼされてしまいます。アモスも主からの警告を聞いたからには、民に告げる責任がありました。現在は、会社から命令されたならば、どこへでも単身赴任先に行かなければなりません。不景気なので、断ったら死活問題になるからです。しかし、会社よりも偉大な神さまから命じられたならば、どうするでしょうか?アモスは一介の牧者であり農夫でした。しかし、「イスラエルに行って、預言せよ」という使命を与えられました。現代は「使命」ということばはほとんど使われないかもしれません。人々は、自分の生活をエンジョイすれば良いと思っています。アモスは、自分の生活よりも、神さまの使命を優先させました。あなたはどうでしょう。自分の生活よりも、神さまの使命を優先させているでしょうか?


2.アモスの預言

 後半は、イスラエルに対するアモスの預言の内容について学びたいと思います。アモス書の主題をひとことで語るなら「神の公義」です。アモス5:24「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」「公義」とは、社会的な正義という意味です。当時、イスラエルはヤロブアム二世が治めていました。アッシリヤの勢力が弱かったので、北はダマスコまで領土を拡大していました。また、穀物地帯であるバシャンとハウランを征服したので、牧畜や農耕が祝されました。また、フェニキヤとの交易、イスラエルとアラビヤを横切る隊商に課した通行税などで、王国の繁栄は頂点を極めていました。彼らがどれくらい富んでいたか、アモス6章に記されています。アモス6:4-6「象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている。彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩まない。」当時の人々は土間に座して食事をしていました。一方、上流階級の人たちは、象牙の飾りのあるベンチに身を横たえて宴会をしていました。食卓には、小羊や子牛の肉が並べられ、音楽がにぎやかに演奏されていました。彼らは鉢のような大きな器から酒を飲み、最上の香油を身に塗っていました。上流階級の人々は、日夜このような宴会を行って浪費しており、イスラエルに近づいている滅亡など気にも留めないでいました。

 「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪」とありますが、どのような罪だったのでしょうか?第一は、負債を返済できない者を奴隷に売っていました。アモス2:6「彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。」法的には正しいのに、わずか一足の靴のために売られるのです。取るに足らぬ負債のために貧しい者が売られるという社会は、イスラエルの兄弟愛に反しています。第二は、貧しい者を抑圧する罪です。アモス2:7「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ」とあります。「弱い者」とは、イザヤ書では「寄るべのない者」と訳されています。アモスの時代、裁判官は金次第で法を曲げていました。だから、貧しい者は不正な裁判の犠牲になっていました。第三は、若い娘に対する不当な扱いの罪です。アモス2:7後半「父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。」「女」と訳されている語は、若い娘のことです。これを父と息子が共有するという乱れたことが行われていました。これはレビ記で、性的な罪として禁じられていました。第四は、負債の搾取の罪です。アモス2:8「彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。」律法では、上着を質に取っても、日没までには返すように命じられています。なぜなら、夜は寒いので、上着が必要だからです。ところが、彼らは質に取った上着に横たわり、ぶどう酒を飲んでいました。しかも、そのようなことが神の宮でも行われていたということです。

アモス3章から6章まで、今、取り上げた4つの罪が詳細に記されています。しかし、それらの中に、どのようなさばきが来るのか、少しずつ書かれています。アッシリヤという国名は記されていませんが、町が滅ぼされ、捕われ人として引かれて行くと預言されています。ところで、アモスの主題は「神の公義」であると述べました。社会的な正義が全くなされていなかったということです。しかし、イスラエルの国にも宗教がありました。彼らも神さまを賛美し、いけにえをささげていました。神さまは、いわゆる宗教に対してどのように思われているのでしょうか?アモス5:21-24「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」イスラエルは、公義と正義を踏みにじっていました。それなのに、いろんな祭りやきよめの集会を持っていました。また、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえなど、基本的な祭りを全部やっていました。しかし、神さまは義の伴わない、祭りやいけにえは受け入れられない。「かぎたくない」「喜ばない」「目もくれない」「聞きたくない」と言っています。イスラエルにとってこれほど悲しいことはありません。では、神さまは何を望んでいらっしゃるのでしょうか?供え物や歌よりも、公義と正義を行うことでした。

月1回、常磐牧師セルがあり私もそのメンバーです。そこでは、牧師ならではの話題がたくさん出てきます。先日、ある牧師が「総会の時、教会員全員に誓約書に署名してもらう」と言っていました。誓約書は、このような内容でした。毎週の聖日礼拝や祈祷会を守ること。什一献金をささげ教会を支えること。毎日聖書を読み、神さまを第一とした生活を送ること。はっきりとは覚えていませんが、聞いているうちに腹が立ってきました。実は、私も20年位前に、「洗礼を受けたらこういう生活をしなさい」と掲げました。そこには、「聖日礼拝を守り、献金を捧げ、聖書読んでいれば良いクリスチャンなんだ」というイメージがあります。私も前はそれで良いと思っていました。しかし、日曜日は良いクリスチャンでも、月曜日から土曜日まではどうなんでしょうか?つまり、家庭や会社や学校、地域社会でどういう生活をすべきかが問われていません。牧師はこの世の中でどうあるかということよりも、教会の中でどうあるかを求めがちであります。しかし、アモス書は供え物や歌よりも、公義と正義を行うことを求めました。もっと言うと、公義と正義を行っていない人の、礼拝は受けたくないとおっしゃっているのです。家で喧嘩していて教会で「神さま、あなたを愛します」と言えます。会社や学校で、悪いことをして教会で「神さま、あなたに従います」と言えます。それだと、イスラエルの人たちと同じです。パウロは、ローマ12:1「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言いました。この礼拝というのは、「ひざをかがめる」という言葉ではなく、「働く」「仕える」という意味のことばです。つまり、「私たちのからだを生きた供え物としてささげて、仕えることが礼拝なのだ」ということです。日曜日の聖日礼拝では、「ひざをかがめる」ような礼拝です。しかし、「月曜日から土曜日までは、日々の生活の中で神さまをあがめる生き方をせよ」ということです。職場や家庭で仕え、正しいことを行うことも神への礼拝であるということです。

最後に、アモス書は世の終わりの時代の私たちにも預言しています。アモス書で有名な聖句はこのことばです。アモス8:11「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。」現代は食べ物で困っている人はあまりいません。グルメを求めて歩いています。また、テレビやインターネット、スマートフォンによる情報化の時代です。しかし、主のみことばを聞いている人は、どのくらいいるでしょうか?人との会話や買い物やレジャーなどの情報が占めていると思います。アモス書のように、私たちが住んでいる時代は、「パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききん」です。人を本当に生かすのは、主のことば以外にありません。食べ物で肉体が、情報で思いが満たされるでしょう。しかし、霊と魂の部分は忘れ去られています。私たちの深いところで、飢え渇いています。私たちは造り主である神さまと交わる必要があります。なぜなら、神は霊であり、私たちも霊的な存在だからです。イエス様はマタイ4:4「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」と言われました。この世の食べ物や物質では、満たされないのです。私たちクリスチャンはイエス様を信じて、永遠のいのちが与えられています。「だから聖書を読まなくて良いか」というとそうではありません。旧約の人たちが日々、天からのマナを求めたように、私たちも神のことばである聖書を霊の糧としていただかなければなりません。ご飯は毎日食べます。3日間も食べないと「死ぬ」と言いだすでしょう。しかし、霊的な食物は、「1週間食べなくても平気です」というのはおかしいです。日本は特に、霊的な食物ききんの国です。ギデオン協会がたくさん配っているので、読もうと思えば聖書はあります。しかし、聖書が近くにあっても読もうとしません。ヨエル8:13「その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。」まさしく、現代はお年を召した方よりも、若者が衰え果てている時代です。年配者は元気でも、若い人たちの方が衰え果てています。人々は、表面上は「問題ありません。満たされています」と言うかもしれません。しかし、聖書のみことばを読んでいないなら、まちがいなく霊的に衰え果てているのです。どうぞ、私たちクリスチャンが率先して、聖書のみことばを読んで、霊的な命を満たしていきましょう。同時に、ききんであえいでいる人たちに、霊の糧を配っていきましょう。


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