2014年5月11日 (日)

駄々っ子ヨナ      ヨナ1:1-5  

 ヨナが大魚に飲み込まれた話は日曜学校では、ダビデとゴリアテとの戦いと同じくらい有名です。昔、ジョーズという映画がありました。おそらくサメやクジラではなくて、大きな魚だったと思います。ところで、私たちは旧約聖書の人物から学んでいますが、果たしてヨナから学ぶことがあるのでしょうか?ヨナは「鳩」という意味ですが、名前とは真逆な感じがします。「預言者として、また性格的にも、どうなんだろう」という疑問も出てきます。しかし、神さまはご自分の使命を全うするためには、ヨナのような人物をも用いるということです。前半は、ヨナという人物に焦点を当て、後半はそのヨナを用いた神さまに焦点を当てたいと思います。


1.駄々っ子ヨナ

 ヨナがアッシリヤのニネベに行きたくなかった理由がいくつかあります。Ⅱ列王記14章にも、ヨナの名前が登場します。当時、北イスラエルの王は、ヤロブアム二世でした。彼は主の目の前に悪を行っていたにも関わらず、国が栄えました。Ⅱ列王記14:25「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。」つまり、ヨナが預言したとおり、イスラエルの領土が回復し、国が栄えたのです。ということは、ヨナは自国の人たちから歓迎され、また優遇されていたと思われます。人々からちやほやされ、地位も安定し、これからは左うちわで暮らせます。ところが、神さまから「アッシリヤのニネベに行け」と言われました。大戦中だと、シベリヤに行けと言われているようなものです。また、アッシリヤはイスラエルにとっては敵国です。「なぜ、敵国にみことばを伝えに行かなければならないのでしょう?あんな国は1日も早く滅びて欲しい」というのが、ヨナの本心だったでしょう。だから、口では「はい」と言ったものの、足は全く別方向に向かいました。渡りに船と申しましょうか、タルシシュ(今のスペイン)に行く商船に乗り込みました。「主の御顔を避けて」ということばが、2度出てきます。北のアッシリヤではなく、地中海の向こうに行けば、だれも追ってこないと思いました。「これで安心だ」と思って、ヨナは船底に降りて、横になり、ぐっすり寝込みました。

 しかし、主はヨナがどこにいるかちゃんと分かっていました。詩篇139:8-10 「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」アーメン。現代は宇宙に衛星が張り巡らされ、2メートル四方まで良く見えるそうです。また、町のいたるところに監視カメラがあります。人間もそれくらいできます。しかし、神さまは霊でありますから、どこにでも偏在できるので、隠れることは不可能です。「ああ、ヨナがあの船の荷物に隠れて、タヌキ寝入りしているな」とはっきり分かりました。だから、大嵐を起こして、船をガンガン揺らしました。船長は、「災いがふりかかったのは、だれかが罪を犯したせいだ」とくじを引かせました。船底に寝ていたヨナが起こされ、くじを引いたらヨナに当たりました。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています。これこれ、こういう訳で、この船に乗りました」と言いました。未信者の船長から「何でそんなことをしたのか?」と叱られました。ヨナは「自分を海に投げ込め」と言いました。自分で飛び込めば良いのに、人の手を借りようとしました。嵐が一向におさまらないので、船長たちは、「ごめんよ。うらまないでよ」と、ヨナを荒れた海に投げ込みました。そうすると、嵐はおさまりました。ヨナは「これで一巻の言わりだ」と観念しましたが、大魚に飲み込まれていました。中が真っ暗なので、陰府の底にいると思いました。そして、ヨナは祈りました。ヨナ2:6「私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」さすが、預言者です。まだ救われていないのに、そうなったという完了形で祈っています。

 そして、大魚はヨナを陸地に吐き出しました。しょうがないとばかり、ヨナはニネベに行って、主のことばを伝えました。でも、私たちが伝えるような福音ではありません。福音はgood news「良い知らせ」です。しかし、ヨナの知らせは悪い知らせであり、神さまの愛に1つも触れていません。ヨナは、何と伝えたのでしょうか?「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫んで回りました。ただ、主のさばきを伝えただけです。すると、予想だにしないことが起こりました。身分の高い者から低い者まで、荒布を着て、悔改めました。なんと、王様から家畜まで、断食してひたすら神さまにお願いしました。するとどうでしょう?ヨナ3:10「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」ヨナは喜ぶところか、がっかりしました。「やっぱり、思い直されたのですか?だから、私はあの時、断ったのです」言いました。そして、神さまに「私は生きているより死んだほうがましです。命を取ってください」と願いました。それでも、諦めきれず、高台に仮小屋を作って、町が滅びるかどうか見ていました。案の定、町は平穏無事のままです。ヨナは再び、「私は生きているより死んだほうがましだ」と願いました。私たちは、「ヨナは何とひどい人間なんだろう」と思うかもしれません。しかし、ヨナは熱狂的な愛国者でした。だから、「自国の敵であるアッシリヤなんか滅びてしまえば良いんだ」と思っていたのです。

 第一のポイントから私たちは何を学ぶべきでしょうか?ヨナは愛国者でしたが、偏狭な愛国者でした。自分の国さえよければ良いと考えていたからです。でも、神さまはニネベの12万以上の人たちと家畜のことを気にかけていました。彼らを悔い改めさせるために、ヨナを遣わしたのです。でも、ヨナのメッセージは福音というよりも、さばきでした。「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と言っただけです。心の底では、「信じないで滅びてしまえば良い」と思っていたでしょう。だから、彼らが悔い改めて、神さまが下すと言っておられた災いを思い直したことが気に入らなかったのです。現代の教会は、とてもスマートに伝道しようと心がけています。コンサート、ランチョン、バザー、特別集会などで、何とか福音を伝えようとします。メッセージも愛と希望しか語りません。「信じない者は、さばかれるぞ」などと、絶対に言いません。戦後、日本に宣教師が入ってきて伝道しました。そのとき、いろんなトラクトも作りました。ちなみにトラクトというのは、キリスト教の小冊子やパンフレットです。農機具のトラクターのように人々をひっぱって来るという意味があるようです。私もいくつかトラクトを見たことがあります。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と書いてあります。怖いと言うか、恵みがありません。しかし、みことばのすぐ後には「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」と福音が書いてあります。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と書いてあります。人はみな罪人だということです。しかし、みことばのすぐ後には「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」と福音が書いてあります。それらのトラクトには前半のさばきしか書かれていません。後半にはちゃんと、福音が書いてあるのです。恵みの部分をはぶいています。しかし、戦後の日本、そういうさばきのメッセージでも多くの人たちが救われ、教会がいっぱいになりました。

 ヨナは、さばきのメッセージをストレートに伝えました。ヨナの心には愛などなく、「人々が信じなければ、信じない方が良いんだ」という気持ちで伝えました。なのに、王様をはじめ、身分の高い者から低い者まで、荒布を着て、悔い改めました。私たちはどうでしょうか?神のさばきは言わないで、耳ざわりが良いように伝えようとしています。そうではなく、たとえストレートに伝えても、信じる人は信じるということです。もっと言うと、良いことばかりではなく、良くないことも同時に伝えて良いということです。たとえば、大宣教命令はどうでしょうか?マルコ16:15-16「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」信じてバプテスマを受ける者は救われます。アーメンです。信じない者はどうなのでしょう?躓きになるので、言わなくて良いのでしょうか?そうではありません。「しかし、信じない者は罪に定められます」ということも言うべきです。そうでないと、本当の福音ではありません。私たちはジャムパンのジャムだけを食べさせようとしてきました。ジャムの甘いところだけを取って、福音と言ってきました。そうではなく、私たちはジャム付きのパンを提供すべきです。つまり、信じなければどうなるか、というさばきの面も伝えるべきなのです。ヨナはさばきの面だけを伝えたにも関わらず、ニネベの人たちはみんな悔い改めて、信じました。良い面も伝えたなら、もっと効果があるはずです。これは、私たちが大好きなみことばです。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、その後のみことばがあります。ヨハネ3:18 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」私たちはジャムだけではなく、ジャム付きのパンを提供すべきです。伝えるのは私たちです。救うのは神さまです。私たちもヨナかr学んで、率直に福音を伝えたいと思います。


2.主の備え

 主は偏狭な愛国心の持ち主であるヨナをニネベに遣わしました。しかし、ヨナは従おうとしませんでした。そして、タルシシュ行きの船で逃れようとしました。大魚から救い出された後、主のことばを伝えました。しかし、心の中では、ニネベが滅びてしまえば良いんだと思っていました。彼らが悔い改めたので、主が思い直しました。ヨナは怒って、「死んだほうがましだ」とさえ言いました。主は、このような駄々っ子ヨナが使命を果たせるように、多くのものを備えました。まず、タルシシュ行きの船を止めるために、主は何をなされたのでしょうか?ヨナ1:4「さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった」。だれが、嵐を起こしたのでしょうか?主なる神さまです。ヨナは、自分のせいで、激しい暴風が襲ったことを知っていました。ヨナが嵐の海に投げ込まれました。ヨナはどうなったでしょうか?ヨナ1:17「【主】は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」何というタイミングでしょうか?「せーの」と船員たちが、ヨナをかかえて海に投げ込みました。すると、ちょうどその真下に、大きな魚が口を開けて待っていました。魚は餌だと思って、飲み込んだのかもしれません。普通、飲み込むと胃液が出て、消化されてしまいます。どういう訳か、胃液に溶かされないで、3日間、魚の中にいました。しかし、それだけではありません。主は魚を動かして、ニネベに一番近い、海岸までヨナを運ばせました。人間が潜水艦を発明する前に、神さまは大魚的潜水艦を作りました。「ピノッキオの冒険」というのがありますが、大きな魚に飲み込まれます。これは、ヨナ書をモチーフにしたと言われています。福音書を見ますと、ヨナが三日三晩、魚の中にいたという奇跡をイエス様が引用しています。ですから、これは作り話ではなく、実際にあったということです。ニネベの人たちが、比較的、簡単に罪を悔い改めました。それは、ヨナが「本当は、ここに来たくなくて逃げたんだ。しかし、主なる神が大きな魚に私を飲み込ませ、三日三晩、魚の腹の中にいたんだ」と言ったでしょう。そのとき、ニネベの人たちは、「ああ、これは本当に違いない」と、神さまを恐れ、耳を傾けたのだと思います。

 第二番目の「備え」はとうごまという植物です。4:6「神である【主】は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。」なぜ、主はとうごまを備えたのでしょうか?そヨナは高台からニネベの町がどうなるか見ていました。しかし、主が悔い改めたニネベの人たちを、滅ぼすような気配がありませんでした。「生きているより死んだ方がましです」と駄々をこねているヨナの不機嫌を直そうと、とうごまをはえさせ、日蔭を作ってやったのです。とうごまは植物ですが、種から「ひましゆ」という油が取られるそうです。中近東ではいたるところにとうごまが生えており、灌木のようにたちまち大きくなるそうです。ヨナは「わぁー、涼しくなった」と、そのとうごまを非常に喜びました。ところが、どうでしょう。第三番目の「備え」が出てきます。ヨナ4:7「しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。」とうごまは、たった1日で枯れてしまいました。とうごまは元来が草であるため、虫がつくとたちまち枯れるそうです。「なんてこった!」であります。第四目の「備え」が出てきます。ヨナ4:8「太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』」神さまは、太陽が上ったとき、焼けつくような東風を備えられました。ヨナにとっては、熱風とかんかん照りの、ダブルパンチであります。ヨナの怒りが爆発しました。「私は生きているより死んだほうがましだ。」と叫びました。主は、とうごま、虫、東風を備えて、ヨナに何かを教えたかったのです。

 そのことがヨナ4:9以降に記されています。ヨナ4:9すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」【主】は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」ヨナは一夜で滅びたとうごまを惜しみました。ヨナが、とうごまを植えたり育てわけではありません。それなのに、「なんで、とうごまを枯らしたんだ」と嘆きました。ヨナは12万人以上の人たちは滅びて良いと思っていました。そして、1本のとうごまが滅びたことを嘆きました。神さまは、「それは間違っているだろう?」とヨナを諭したかったのです。ヨナは極端な愛国主義を持っていました。「イスラエルの敵は滅びて当然だ」と思っていたのです。しかし、ここに神さまのみこころがはっきりと示されています。「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」彼らは、神さまを全く信じていませんでした。しかし、ヨナの宣教で、罪を悔い改めました。神さまは彼らが悔い改めたので、滅ぼさないと決めたのではありません。神さまは彼らがそのまま滅びることがないように、ヨナを遣わしたのです。私たちはこのことを知らなければなりません。多くの人たちは、神さまのことを誤解しています。血も涙もない、裁判官のように、「罪を悔い改めないヤツは滅ぼす」というお方ではありません。ヨナは神さまのことを、こう言っています。「私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」アーメン。神さまはさばきの神さまではなく、情け深くあわれみ深い神さまです。怒るのに遅く、恵み豊かであり、わざわいを思い直されるお方です。

 私たちは「旧約聖書の神さまは厳しくて、1つでも罪があったら罰して、滅ぼす」みたいに考えてはいないでしょうか?神さまは私たちが滅びることを「ざまぁ、見ろ」と喜ぶようなお方ではありません。そうではなく、「なんとか滅びないで、救われる道はないだろうか?」といろいろなものを備えてくださるお方です。ニネベの人たちにとっては、ヨナが備えでした。また、ヨナにとっては、大魚、とうごま、虫、東風がそうでした。神さまはニネベの人たちも救いたいと願っていましたが、駄々っ子ヨナも救いたいと願っていました。なぜなら、ヨナは「生きているより死んだ方がましだ」と告白していたからです。おそらく、嵐の海に投げ込まれたとき、ニネベに行くよりは、おぼれ死んだ方が良いと思っていたのではないでしょうか?自殺だと問題があるので、船員たちに自分を投げ込ませたのではないでしょうか?そういう死を願う、ヨナをも、神さまは救おうとされたのです。今、世の中に、「生きているより死んだ方がましだ」と言っている人がどのくらいいるでしょうか?日本で自殺者の数は年間、38,000人くらいだそうです。しかし、それは成し遂げた人の数です。でも、「生きているより死んだ方がましだ」と願っている人は、その何十倍もいるのではないでしょうか?そういう人たちも含め、神さまが人類に備えてくださった最大のものは何でしょうか?アブラハムがイサクをささげた時「主の山に備えあり」と言いました。イサクの代わりに、雄羊が備えられていたのです。終わりの時代は、父なる神さまが、ゴルゴタの丘に、御子イエスをささげられました。私たちの罪を御子に負わせることによって、人類を救うという計画です。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。父なる神さまがニネベの人たち以上に、私たちがひとりとして滅びることのないように、御子イエス様を与えてくださったのです。御子イエス様は死んで、罪の贖いをなしとげてから、3日目によみがえられました。ヨナが三日三大魚の腹の中にいました。同様に、イエス様も三日三晩、地の中にいました。イエス様こそ、ヨナよりもまさったお方です。ニネベの人たちは、ヨナの説教で悔い改めました。しかし、私たちには、ヨナよりもまさったお方がいるのです。イエス様は死んで三日後に復活し、全人類に対する、救いの道を開かれたからです。父なる神さまは御子イエスにあって、私たちを救いたいと願っておられます。ニネベの時と同じように、滅ぼしたいとは願っておられません。まだ、イエス様を信じておられない方は、神さまの恵みをいただきましょう。また、すでにイエス様を信じておられる方は、ヨナのように狭い考えではなく、私たちの周りの人たち、日本全国の人たちが救われるように願い求めましょう。ヨナのような宣教でも人々が信じたのですから、恵みの福音であれば、もっと信じると確信します。


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