2014年5月 4日 (日)

苦難を受けたヨブ     ヨブ42:1-6 

 ヨブ記は長くて、難しいので読む(ヨブ)気がしないかもしれません。なぜなら、散文的に書かれているからです。族長時代に書かれたと思いますが、おそらく文学的には最高の書物であろうと思います。また、古来、「ヨブ記のテーマは何か?」ということが問われてきました。「義人がなぜ苦しみに会わなければならないのか?」というのが中心的なテーマでしょう。ヨブ自身もその答えを求めていますが、結局は分からずじまいでした。でも、ヨブは悩みと苦しみの中で神さまの取り扱いを受けました。


1.義人ヨブ

 あとで友人たちが、「ヨブには罪があったから、あのような苦しみにあったのだ」と言いましたがそれはあたっていません。1節には「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と書かれています。また、ヨブは息子たちが「もしかしたら罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思って代わりにいけにえをささげました。サタンが神さまの前に出たとき、神さまは「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりもいない」と言われました。神さまご自身がヨブは潔白で正しいと太鼓判を押しています。悲しいことにヨブはサタンによって、すべてのものを奪われました。7人の息子と3人の娘が殺されるか災害によって死にました。家畜などすべての財産が奪われました。そのとき、ヨブは何と言ったでしょう。1:21-22「『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」ヨブは神さまを呪いませんでした。2章にはいりますと、今度は、サタンが「彼の肉体を打てば、あなたをのろいますよ」と主に言いました。そうすると、サタンは、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打ちました。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、灰の中にすわりました。ヨブの妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか?神をのろって死になさい」と言いました。ふんだり蹴ったりであります。ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしませんでした。つまり、ヨブが何か悪いことをしたので、罪があったので、子どもが死んだり、災いにあったり、病気になったということではありません。「義人がなぜ苦しみに会うのか?」という答えがまだ出てきていません。

 ある人は、「ヨブが恐れたので、あのような災いが降りかかったのだ」という人もいます。ヨブ記3:25「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」とあります。確かに、そのように考えられる根拠があります。しかし、「ヨブが恐れによって失敗したのだ。恐れがテーマなんだ」と言うなら、42章にも渡るヨブ記は無駄になります。また、ある人は「サタンが悪いんだ。サタンがヨブを苦しめたんだ。私たちはサタンと戦うべきだ」と言う人がいます。確かにサタンは主の前に出てこう言いました。1:9-10「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」確かに、主は世ヨブの持ち物とその周りに、垣をめぐらしていました。私たちは生垣やフェンスを良く見ますが、あのような境界線です。垣は人や動物が勝手にはいらないように防御します。神さまが私たちの持ち物や健康に対して、垣を巡らせているということは幸いなことです。しかし、神さまは深い考えをもって、ヨブの垣の一部を取り外しました。すると、そこからサタンが入り込み、ヨブの持ち物や子どもたちを打ち滅ぼしました。最後には、ヨブの健康も奪われてしまいました。では、主はサタンによって誘惑されたのでしょうか?そうではありません。ヤコブ1:13「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。主はヨブに対して、ある計画をもっていました。それはヨブ自身のためであり、またヨブのように理由も分からないで苦しむ人たちの解決のためであります。神さまは善なるお方であり、私たちをわざと災いに会わせられるようなお方ではありません。しかし、神さまは私たちを整えるために、サタンの活動を許されるようです。しかし、それは全部ではなく、「このくらいにしなさい」という制限付きであります。その証拠に、神さまはサタンに「では、彼をお前の手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな」(ヨブ2:6)と言いました。

 第一のポイントで学ぶことは、「ヨブのような義人でも苦しみや災難に遭うことがあるんだ」ということです。私たちは浅薄に、「ああ、あの人は何か悪いことをしたから、罪を犯したから、あのような災いを受けたんだ」と言ってはならないということです。たとえ、私たちの恐れやサタンがそうさせたとしても、神さまが設けた限界内なんだということです。Ⅰコリント10:13「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」アーメン。試練の中でも、「神さまは真実な方である」ということを忘れない人は幸いです。神さまはその人に、耐える力と脱出の道を備えてくださるでしょう。


2.按排を受けたヨブ

 塩梅の意味は塩と梅酢でほどよく味をつけるということです。この按排は「程よく並べること、適当な具合に処分すること」という意味です。ヨブは、財産、子どもたちすべてを奪われた直後、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と信仰ではそう告白しました。しかし、その後、ものすごい悩みと苦しみがやってきました。それは頭では理解できない、内部からこみ上げてくる怒りと悲しみとも言えるでしょう。ヨブ記3:1「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」とあります。「ああ、自分は生まれてこなければよかった」と言いました。身内の者を亡くした時、葬儀の際は気丈にふるまっても、後から深い悲しみが襲ってくるようです。テレビで見ましたが、東北の震災と津波から3年以上たちますが、被災者たちが重い精神疾患に悩まされています。ヨブのもとに、3人の友が慰めに来ました。しかし、ヨブを見ていて、だんだんイライラしてきたようです。エリファズは「さあ思い出せ。だれが罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか」と言いました。つまり、ヨブに「何らかの罪があるから、あのようなことが起きたんだ」と遠回しに言いました。他の二人も、「神さまの前に正しい人はだれもいない」とヨブを責めした。これまでは、じっと耐えていたヨブですが、内側から「いや、そうじゃない」という思いが湧き上って来ました。器の底に沈んでいた泥が、かきまぜられると上がってくるように、いろんな考えが噴出してきました。3章からヨブと3人のやり取りがずっと続きます。最後までヨブが「自分は正しい」と言い張るので3人は諦めました。そして、4人目のエリフが満を持して登場しました。彼はみんなよりも年が若かったので、ずっと待っていました。しかし、エリフは他の3人と違って、神さまに結び付ける働きをしました。

 ウィットネス・リーが書いた『命の経験』という本に、ヨブのことが書いてありました。聖書全体で最も多く語った人はヨブです。神は彼を環境によって苦しめ、また4人の友人を按排することによって彼の内にあるすべての言葉を引き出されました。彼には彼の環境や主張があって、他の人の見解には従おうしません。彼は「自分は何も間違ったことをしていない、罪やこの世や、あるいは良心を対処する必要などない」と感じていました。ですから、彼は自分の胸をたたいて義なる方と論じたいと願ったのです。確かにヨブの問題は、罪や、この世や、良心ではありませんでした。真の彼の問題は彼自身です。彼の砕かれていない己れが、神を知ることを妨げている、それが彼の問題です。ちなみに「己れ」は「自我」と置き換えても良いかもしれません。教会の中でも多くの人がヨブのようです。ヨブのようなタイプの人たちは、罪に染まった様子もないし、この世を愛してもいません。彼らは、いつも自分が正しいと思っています。そればかりか、教会に関して、また神のことに関して、多くの意見や考えを持っています。ですから一日じゅう彼らは、あれこれと語り、知らないことまでも語ります。このような人たちは、助けられたり導かれたりするものが最も難しいのです。己れで満ちている人はいつも教会に多くの困難をもたらします。今日、キリスト教の中でこんなに多く分裂している分裂の原因は、人の罪やこの世的なことだけではありません。それ以上に、人の己れによります。多くの人たちが兄弟姉妹を助けることによって主に奉仕しています。しかし、本当のことを言えば、彼らは自分の考えや意見や見解や方法に、他の人が従って来ることを願っているのです。ルターは「私の内には、ローマ法王より偉大な法王がいる。それは私の己れだ」と言いました。教会の中で、己れが砕かれていないなら、一人びとりが法王となり、一人びとりが1つの宗派となるでしょう。

 新約聖書では、ペテロも己れに満ちている人でした。そして、多くの機会に自分の意見を述べています。最後の晩餐の時、イエス様が「あなたがたは、今夜、私のゆえにつまずきます。『私が羊かいを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです」と言われました。これを聞いたとき、ペテロの己れがすぐ引き出され、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまづきません」と言いました。その結果、ペテロは主を三度も否み、大きな失敗をしました。新約聖書ではマルタも己れを代表する人物です。ラザロが死んだとき「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。イエス様が「石を取りのけなさい」と命じたとき、マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」と言いました。このところからも分かりますように、マルタはとても多くの意見を持っていました。それは彼女の己れが非常に強いことを示しています。神さまは、私たちの肉だけではなく、己れを取扱いたいと願っておられます。己れとは、考えや意見に現わされた魂の命です。また、サタンが人の思いの中に働くとき、それは意見となり己れとなります。イエス様が「エルサレムで苦しみを受け、三日目によみがえらなければならない」と言われました。ペテロがすかさず「そんなことが、あなたに起こるはずがはずはありません」と言いました。するとイエス様は「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」とペテロを叱りました。これは、サタンが人の思いの中に働くという典型的な例です。

 神さまはヨブの罪や肉ではなく、己れを取り扱うために妻や友人たちを遣わしたのです。友人たちも自分の考えや意見をヨブにぶつけました。サタンが友人たちの思いに働いたのでしょう。すると、ヨブの中にあった己れがむくむくと顔を出して、自分の考えや意見によって対決せざるを得なくなりました。これこそが聖霊の按排、聖霊の管理です。箴言27:17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」アーメン。私たちが直面するすべての環境は、聖霊の単なる一時的な偶然な按排ではなく、神の永遠の計画の中にあります。神さまは両親、夫や妻、子どもたち、教会や同労者を按排しておられます。事故や病気は一時的な聖霊の管理かもしれません。しかし、妻は夫にとっての生涯の管理となり、また同様に夫は妻にとっての生涯の管理となります。子どもも、教会の兄弟姉妹もそして同労者も聖霊の管理の中にあります。そのようにして、私たちの己れが取り扱われるのです。ヨブと友人たちの絶え間ない議論が続いたあとに、主ご自身が語られました。ヨブ38:1-2「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」神さまがいろんな質問をしますが、ヨブは答えられませんでした。最後にヨブは何と言ったでしょう?ヨブ42:3-6「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。…私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」ヨブは、自分の考えや意見こそが、主の摂理を覆い隠していることを知りました。ヨブは自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いました。それは、ヨブ自身がヨブの己れ(自我)を嫌ったということです。新約聖書で言うなら、己れ(自我)を十字架に付けるということです。私たちは自分の考えや意見に支配されます。だから、日々、十字架を負って主に従う必要があるのです。


3.二倍の祝福を受けたヨブ

 ヨブ記のほとんどが人々の考えと意見です。つまり、ヨブと4人の友の考えと意見が入り乱れています。彼らのことばの中に、神さまの真理があるのか疑わしい限りです。しかし、全部間違いであるとは言えません。真理のかけらが、あちこちに散らばっていることは確かです。なぜなら、ヨブ記全体も神の霊感によって、書かれているからです。ひとくちに「聖書は神のことばである」と言っても、サタンが発したことば、人々が発したことばが記されています。しかし、ヨブ記38章になってはじめて、主ご自身が語られました。ヨブ38:1-3「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。」主はヨブが発した質問については1つも答えていません。また、義人がなぜ苦しまなければならなのか、ということも答えていません。主はヨブに対して「宇宙の成り立ちや自然界の営みについて知っているか?」と1つ1つ尋ねています。38:22「あなたは雪の倉に入ったことがあるか?雹の倉を見たことがあるか?」。39:1「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」41:1「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押さえつけることができるか。」ヨブにとっては、ちんぷんかんぷんのことばかりでした。ヨブは主の前で圧倒されました。それで何と答えたでしょうか?42:1-2ヨブは【主】に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」42:5-6「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」

果たしてヨブは何を悟ったのでしょうか?「自分は何も知らない。神さまの計画と摂理に関しては全くそうだ。私は愚かだった。」ということでしょう。そして、自分は知らなくても神さまが全部ご存知であるということが分かったのではないでしょうか?私たちはヨブほどではなくても、苦難や災難に遭います。そして、「なぜ、こんなことが私に起きたのですか?」と、神さまに聞くでしょう。神さまが答えてくださる場合もありますが、多くの場合は答えてくれません。ですから、私たちは「なぜ、あんなことが起きたのか?」の代わりに、「何のためだったのでしょう?」と聞くべきです。おそらく、しばらくたってから「ああ、あのことのためだったのか?」と悟るときが来るでしょう。イエス様はペテロに「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)と言われたとおりです。でも、天国に行ってからでないと分からないこともあるかもしれません。しかし、それでも良いのではないでしょうか?「神さまが全部ご存知であり、神さまには神さまの摂理があるんだ」と神さまに委ねることであります。キリスト教会では「委ねる」と良く言いますが、英語ではyieldです。Yieldの元の意味は、当然の力や権利に対して、「明け渡す。譲渡する。譲る」という意味です。私たちには己れ、つまり、私たちの考えや意見があります。「神さまこうしていただかないと困りますよ。絶対にこうしたいです」と要求することがあります。しかし、神さまは私たちの将来と計画、つまり摂理を持っていらっしゃいます。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(エレミヤ29:11)です。10メートル先も見えない漆黒の海の上を航海している一艘の船がありました。向こうから一筋の明かりが見えました。その船の艦長は「10度右に進路を変えるように」と、無線で伝えました。すると向こうから「あなたの船こそ、10度右に進路を変えて下さい」と無線で返ってきました。艦長は「私は大佐だ。お前の身分は?」と聞きました。「私は二等兵ですが、それが何か?」という返事でした。艦長は怒って、「この船は軍艦だぞ。早く、10度右に進路を変えなさい」と言いました。すると「私は灯台です。あとは勝手にどうぞ!」と返事が返ってきました。みなさん、神さまと戦って勝てるでしょうか?どんな計画も成し遂げられる神さまに明け渡すのが一番ではないでしょうか?

ヨブの結末はどのようになったでしょうか?42:10 「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。」42:12-17 「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ「六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。」苦難を受けたヨブは、最後に二倍の祝福にあずかることができました。ヨブはどうして自分が苦しまなければならないのか最後まで知らされませんでした。霊的には、ヨブの己れ(自我)が砕かれ、神さまをその目で見ることができたことです。しかし、神さまのそれだけではありません。二倍の物質的な祝福と長寿を得ることができました。なぜ、二倍なのでしょうか?二倍には、弁償するという意味があります。イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」ハレルヤ!神さまはヨブを通して、私たちの人生にはたとえ罪がなくても、苦しむことがあることを教えました。しかし、もし、神を愛し、神に愛される者が、そのような目に遭うならば、神さまは放ってはおきません。ちゃんと二倍のものを与えて、弁償してくださいます。神さまはあなたの苦しみを、あなたの恥を償って下さる神さまです。このお方を信頼して従っていきましょう。


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