2014年4月27日 (日)

ヤベツの祈り       Ⅰ歴代誌4:9-10  

 ヤベツという人物はこのところにしか出て来ません。しかも、カタカナの系図の中に突然、ポツンと出てきます。分かることころはここだけですので、想像しなければならないところも出てきます。歴代誌はユダ部族こそが神さまが選ばれた民と考え、南王国ユダの歴史を書いています。ヤベツはダビデの直系ではなく、その他のユダの子孫です。しかし、歴代誌の記者はどうしてもヤベツのことを書き残したかったようです。きょうは、ヤベツ自身とヤベツの祈りについて学びたいと思います。


1.ヤベツという人

 Ⅰ歴代誌4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。「名は体を表す」と言いますが、なぜ、こんな名前を付けられたのでしょう?新改訳聖書は「悲しみ」と訳していますが、ヘブル語からは、「苦しみ」「痛み」が近いかもしれません。産んだ時、ひどい陣痛だったかもしれません。昔は難産のため、母親が死ぬときがありました。ラケルがベニヤミンを産んだときがそうでした。また、普通は父親が名前を付けるものですが、母親が名前を付けています。ということは、父親が戦死したか、病死したのかもしれません。母親がそのような心痛のさなかに生んだことも想像できます。生まれた時から、「この子をちゃんと育てられるだろうか?」「ちゃんと育つだろうか?」と悩んだかもしれません。だから、その子に「ヤベツ(苦しみ・痛み」という名をつけましたのでしょう。しかし、親や人々から「苦しみちゃん」「痛みちゃん」と呼ばれたらたまったものじゃないですね。彼が大きくなったらどうなったのでしょう?「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた」と書いてあります。いのちのことば社の注解書には「『重んじられた』とは栄誉を受けたとも訳せる。富や勢力において抜きん出ていたと思われる彼は、敬虔の面でも優れていた。叫ぶように祈っている姿の中に、それがうかがえる」と書いてありました。また、平野耕一先生は『ヤベツの祈り』という本の中で、「『重んじられた』とは、部族の長になったという意味です。つまり彼はリーダーになったのです」と解説しています。ヤベツは生まれた環境や状況、自分の名前に逆らって、偉大な人になったということはすばらしいことではないでしょうか?

 Ⅰ歴代誌4:10「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。』英語の聖書には、ヤベツの祈りの中に、「私を」「私の」という言葉が、5回も出てきます。しかも、最初から「私を大いに祝福してください」と祈っています。ヤベツは「利己的な祈りをしているので、問題ではないか?」「こういう祈りを真似て良いのか?」と良く言われます。もちろん、ヤベツの祈りはヤベツのための祈りで、魔法のように唱えれば良いというものではありません。それに比べて「主の祈り」は、イエス様が教えてくれた、私たちのための祈りです。だから、「主の祈り」はだれしもが祈るべき祈りであります。しかし、ヤベツの祈りは本当に自己中心的な祈りであって、私たちが学ぶべき要素は全くないのでしょうか?私は祈る必要があると思います。なぜなら、歴代誌の記者がそうしたからです。歴代誌を読みますと、1章1節がアダム、セツ、エノシュではじまります。アブラハムやイサクが出てきます。2章1節からイスラエルの子らの名前が出てきます。3章1節はダビデの子たちの名前が出てきます。4章1節はユダの子孫の名前が出てきます。そのような系図が5章、6章、7章、8章、9章まで続きます。しかし、歴代誌の記者は「待てよ。ヤベツのことを書くべきだろう。彼はユダの子孫の直系ではないけど、やっぱり書き残さなくてはいけない」と思ったのです。だから、今日の私たちもこのところから、学ぶ価値があるということです。


2.地境を広げてください

 ヤベツの祈りの中心的なものはどれでしょうか?一度読みます。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」私は「私の地境を広げてくださいますように」がこの祈りの中心ではないかと思います。このことが大いに祝福されることです。そして、地境が広げられるとき、「御手が共にある」ことや「わざわいから遠ざけていただく」ことが必要になるのではないかと思います。では、「地境」とは何でしょうか?ヘブル語のギブールには「末端、国境、縁、境界線、領土」というような意味があります。そのため新共同訳は「私の領土を広げ」と訳しています。なぜ、ヤベツなこのような祈り方をしたのでしょうか?『ヤベツの祈り』を書いて一躍有名になったブルース・ウィルキンソン師はこう解説しています。「ヤベツが生きていた当時のイスラエルは、ヨシュアがカナンを征服し、約束の地がそれぞれの部族に分割されたばかりでした。ヤベツが神に向かって『私の地境を広げてください』と叫んだとき、彼は自分の現状を見て、『私はもっと広い地を受けるにふさわしいはずだ!』という思いを持っていました。」時代は違いますが、アメリカの西部開拓のような光景を想像することができます。その時代は、「自分の土地はこの範囲だ」と杭を打ったら、自分のものになったからです。

 私たちにとって「地境を広げてください」は、どういう意味になるでしょうか?ビジネスマンだったら、「お得意さんが増えて売上が伸びますように。そして、給与も増して昇給しますように」でしょうか?ピアノ教室を開いている人でしたら、「生徒さんが増えて、何ケ所でも教えられるように」でしょうか?教会でしたら、「救われる人がどんどん与えられて、枝教会ができるように」というふうになります。常磐牧師セルというが毎月、開かれ、私もそのメンバーです。牛久の大喜多先生は、「隣の450坪の農地が売りに出ていて、坪単価2万円にならないかと交渉しています」と言っていました。また、松戸の岡野先生が牧会している教会では隣の250坪を4000万円で既に購入しました。「その土地に芝生を植えて、学校から帰っても遊び場のない子どもたちのために使いたい」と言っていました。「みんな景気が良いなー」と思いました。実は今から60年くらい前、「この教会の南の土地を買おうか?」という話が上ったそうです。この隣はその時、150坪位のねぎ畑だったそうです。あるとき、役員さん数名が賀川豊彦先生にお願いに行きました。賀川豊彦と言えば、「神の国運動」を全国的に展開した有名な伝道者です。いろんな社会事業をしながら、教会をいくつも建てた人です。役員さんが先生に「隣地を購入したいので、ご寄付をお願いできませんでしょうか」と頼みました。すると、「1割は出すけど、9割はあなたがたが出しなさい」と言われたそうです。そのことばを聞いて、がっかりし、隣地購入の話はおじゃんになりました。やがて、現在の持ち主がその土地を購入し、今に至っています。「なぜ、あのとき、信仰をもって買わなかったんだろう」と思います。しかし、どの時代であっても、隣地を買うというのはたやすいことではありません。

 ヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈りました。ヤベツにとって大いなる祝福は、自分の地境が広げられることから始まりました。ですから、この祈りは、ヤベツに倣って、私たちがチャレンジとして受け止めるべき祈りではないでしょうか?多くの人たちは「現状維持」とか「冒険的なことはせず無難に」「食べて行ければ良い」と思っています。しかし、それが祝福と言えるでしょうか?「私を大いに祝福し、私の地境が今よりも小さくなりませんように」という祈りは矛盾しています。ヤベツのすごいところは、「イスラエルの神さまだったらできる」という信仰があったことです。当時、カナンというところは、周りは敵ばかりでした。なぜなら、イスラエルの民がヨルダン川を渡って、カナン人が住んでいるところに割り込んで来たからです。主はヨシュアに「私は彼らを既にあなたの手に渡しているから、彼らを追い出して占領しなさい」と命じられました。「約束の地カナンは乳と蜜の流れるところ」と言えば、聞こえは良いです。しかし、原住民をその地から追い出して、領土を広げるということはたやすいことではありません。だからこそ、ヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈る必要があったのです。皆さん、私たちたちも毎週、似たような祈りをしています。主の祈りで「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈ります。この祈りも全く同じです。主の祈りの前提は「この地が神さまのものではなく、神さまのみこころもなされていない」ということです。つまり、「私の地境を広げてください」と「御国が来ますように。みこころがこの地でも行われますように」と共通しているところがあるということです。

 みなさんにとって、「地境を広げてください」とは何でしょうか?あるとき、ブルース・ウィルキンソン師が「地境を広げてください」と祈るように大学生たちにチャレンジしました。あるチームがトニニダード島に飛んで、夏の間、宣教活動をしようと言い出しました。結果的に126人の学生と教員が参加し、ジェット機を借り上げることになりました。演劇や建設、夏季聖書学校、音楽や家庭訪問などで奉仕をする各チームが「ヤベツ作戦」に加わりました。一夏で、その島の数千人の人生にインパクトを与えることができたそうです。ブルース・ウィルキンソン師自身が、「地境を広げてください」と祈ったら、悩みを持った人たちが近づいて来て、彼らに聖書から解決を与えることができたそうです。平野耕一牧師は「地境を広げてください」と30年以上祈って来たそうです。そのため、アメリカ留学にでき、20年間アメリカで用いられました。帰国後は教会を開拓し、何冊も本を出版することができたそうです。しかし、平野先生は「地境を広げてくださと祈るのは、ストレッチ運動と同じで、痛みが伴います」とおっしゃっています。つまり、ふだん使っていない筋肉を伸ばすように、今まで使っていない能力を引き伸ばすからです。ストレッチ運動には痛みが伴いますが、それは心地良さを伴う痛みです。今までの地境の内にとどまっている方が安心です。しかし、地境の一歩外はもう危険地帯です。惨めに失敗する確率がぐーんと増えてきます。しかし、地境が広がっていくことが与える充実感と達成感は、努力や痛みを補ってあまりある喜びを提供するでしょう。また、「地境を広げてください」と祈っていると、チャンスが到来したとき、それをつかむタイミングがわかります。どうぞ、「地境を広げてください」と信仰のストレッチをしようではありませんか。


3.御手が私とともにあるように

 「地境を広げてください」と祈るとどうなるでしょうか?テリトリーが広くなるのは良いのですが、問題も起こってきます。仕事や奉仕でも同じです。手を広げると、いろんな人と出会うし、いろんなことが起こります。これまでの地境の中だったら、慣れた仕事で、気の合った人たちばかりでした。でも、「地境を広げてください」と祈ったら、神さまが地境を広げてくださいました。しかし、同時にやることが増え、問題も起こりました。果たして、どっちが良いのでしょうか?これまでのような、無難な生き方が良いでしょうか?現代は「等身大の自分で良い」と言う人たちがたくさんいます。それは裏を返せば、「ビジョンがない」「希望がない」「信仰がない」ということです。いや、神さまがそれで良いと言えば、それで良いでしょう。しかし、神さまが願っていること以下の人生だったらどうでしょうか?神さまが「もっと私に求めなさい」とおっしゃっているのに、「これが身の丈です」と言っているなら、天国に行ったとき後悔するでしょう。ある人が天国に行きました。ペテロさんが天国を案内してくれました。ある所に行くと大きな倉庫がありました。その人はペテロさんに、「ぜひ、倉庫の中を覗かせてください」とお願いしました。ペテロさんは「やめた方が良いですよ」と暗い顔をしました。「いや、どうしても見たいです」と言ったら、ペテロさんは倉庫の扉をあけてくれました。するとそこに、大きな箱がたくさん積み上げられていました。「これらの箱は何ですか?」と聞いたら、「これは神さまが与えようとしたものですが、返品されたものです」とペテロが答えました。その人は、自分の名前が書いた箱がたくさん積み重ねてあるところに来ました。1つの大きな箱を開けたら、「ああ、あの時、求めていたものだった」と分かりました。そんなことのないようにしたいものです。

 つまり、地境を広げてくださいと祈ったなら、神さまが答えて下さり地境が広げられます。しかし、広くなったら、自分の知恵や力では治めることができません。だからこそ、「御手が私と共にあるように」祈らなければなりません。なぜなら、そこは危険地帯だからです。先住民を追い出し、領土を広げる必要があるからです。そのためにはどうしても戦わなければなりません。当亀有教会で、このヤベツの祈りを学んだ頃があります。平野先生もこの教会を会場にして、「ヤベツの祈り」セミナーを開いてくださいました。また、新松戸教会の津村先生も「ヤベツの祈り」のメッセージをしてくださいました。その頃は聖霊刷新に属していましたので、月1回、日曜日の夜に祈祷会がありました。あの時は、「ヤベツの祈りの歌」とその振付までありました。このところで、みんなで賛美し踊りました。最後のアーメンは、空中に風穴を開ける動作だったと思います。あの頃は、ゴスペルからたくさん救われる人たちが出て、まさしく神さまが地境を広げてくださいました。でも、同時に、いろんな問題も起こった時でもありました。3年ぐらいやったのでしょうか?その後、聖霊刷新の祈祷会を閉じました。教会は落ち着きましたが、救われる人も少なくなりました。やはり、あの時、「御手が私と共にあるように」という祈りをしていれば、もっと突き進むことができたのかもしれません。

 過去を振り返っても仕方がありません。問題はこれからです。「地境を広げてください」という祈りは危険だということが分かりました。もし、安定した生活を送りたかったなら、下手に祈らない方が良いかもしれません。しかし、神さまが「そうじゃない。あなたが取るべき領地はまだある」とおっしゃたらどうでしょうか?ヨシュア記13:1「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。』」と言われました。ヨシュアはこれまで戦ってきました。領土も広がりました。もう年です。老人になりました。でも、主は「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」とチャレンジしました。と言うことは、天国に行くまで、「これで良い、十分だ」ということはないということです。カレブという人は、85歳になったのに「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」と巨人が住んでいる、城壁の町々をあえて求めました。不可能を可能にさせるのは、主の御手が共になければできません。この間の1月、常磐牧師セルで万座温泉に行きました。2日目、私一人だけがスキーをすべりました。中学生の息子に教えるために、ちょっとでも慣れておこうと思ったからです。しかし、41年ぶりにすべりましたが、全く、ダメでした。10回以上、ひどい転び方をしました。なぜでしょう?スピードについて行けなくて、ひっぴり腰になっていたからです。「こわい!」と思って、重心を後ろにかけると、後は転ぶしかありません。「地境を広げてください」と祈るとスピードが増します。そのとき、「だめだ」と恐れると倒れるしかありません。でも、「御手が共にありますように」と祈ると、前に重心が行きます。ですから、新しい地境では、主の御手が共にあることが重要なのです。地境が広げられると、これまでの地境では経験できなかったことを経験できます。主の御手が共にあることがどんなにワクワクすることなのか経験できます。あなたの信仰生活、ワクワクするようなことを経験していますか?もし、ないならば、安全地帯に留まっている証拠です。


4.わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないように

 地境が広げられて、新しい領地に踏み込んでいくとき、だれの縄張りに侵入しているのでしょう?また、地境が広げられて、すばらしい成功をおさめたとします。どんなことが一番、危険なのでしょうか?そうです。その人は、悪魔が一番、いやなことをしているのです。また、その人は「うまくいった」「成功した」と有頂天になっているかもしれません。多くの人たちが、このところで、誘惑に負けてしまいやすいのです。ブルース・ウィルキンソン師が「ヤベツの祈り」の本にこう書いてありました。「成功は失敗のもとであると言っても、まず間違いありません。罪にはまり、ミニストリーから脱落してしまったクリスチャンの指導者たちが良い例です。その結果どれだけ多くの人が衝撃を受け、失望し、傷ついてしまったことでしょうか。祝福をいただいている状態は『神により頼んでいるという鋭い感覚が鈍り、図々しくなりやすい』ので一番危険であると、言った人がいましたが、その通りです。」と書いていました。人が「うまくいった」「成功した」という地点に行くと、自分と家族は、それまで以上に攻撃を受けることになります。邪魔、反対、抑圧にはじまり、招かれざる敵の棘にしょっちゅう遭遇することになります。「いやー、実際、そこまで行っていません。そういうものを全く経験していません」というのは、低迷したままということです。それもまた、問題であります。でも、ダビデが一番良く行っているときに、失敗したように、私たちも気をつけなければなりません。成功に大小は関係ありません。「悪魔は私のような者を相手にはしていないだろう」とたかをくくってはいけません。なぜなら、主の祈りの中で、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るように命じられているからです。

 最後に「ヤベツの神さまはどういうお方なのか」ということを話して終えたいと思います。もう一度、聖書をお読みいたします。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。ヤベツが祈ったら、「そこで神は彼の願ったことをかなえられた」とあります。私たちは、最初「ヤベツの祈りが自己中心的すぎるのではないか」と悩みました。「私を大いに祝福してくれとは問題ではないだろうか?」と思いました。しかし、そういうヤベツの祈りを神さまはかなえて下さいました。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」とあります。ヤコブ4:2「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」とあります。神さまはどういうお方でしょう?「ヤベツの祈り」から学べる共通点があります。神さまは「求めたらかなえてくださる神さまだ」ということです。ヤベツのように神さまに呼ばわり、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださるように」求めていきましょう。


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