2013年10月20日 (日)

神のしもべモーセ      出エジプト32:30-35 

 イスラエルの民は、エジプトから奇跡的に脱出することができました。その後、主なる神さまは彼らをシナイ山のふもとに導きました。ここで主なる神さまはイスラエルの民と契約を結びます。また、同時に、十戒をはじめとする律法を与えました。ここには、旧約といわれる中心的な思想があります。旧約の場合は、律法を守ってこそ、契約が成り立ちました。一方、新約の場合は、律法をイエス・キリストが全うしたので、信じるだけで救われるということです。新約ばかりを読んでいると、信仰がイチゴ・ジャムのように甘くなるでしょう。たまには、旧約から、「恵みがないならば本当に大変なんだなー」ということを知ることはとても重要です。きょうは「神のしもべ」と題して、モーセの後半の人生から学びたいと思います。


1.モーセと律法

イスラエルの民は無事、エジプトから脱出することができました。その後、主である神さまは、イスラエルと契約を交わしました。主はシナ山からモーセを呼んで、以下のことをイスラエルの人々に告げよと言われました。出エジプト19:4「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」これは、シナイ契約と言って、聖書の中でも超有名な箇所です。この契約の特色は、第一に、神さまから一方的に与えられたものです。第二は、「契約を守るならば」という条件付きでした。その条件とは十戒を中心とする律法を守ることであります。契約と律法がくっついています。売買契約でも生命保険でも、契約条項というものがあります。「甲か乙が、これを破ったら、契約は成り立ちませんよ」というものです。大体、小さな文字で書かれているので、契約を交わすときはあまり見ません。あとから、「こういうことが書いてあったのか!」と驚くことがよくあります。モーセが山から降りて、民の長老たちに、先ほどの内容を述べました。出エジプト19:8「すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは【主】が仰せられたことを、みな行います。』それでモーセは民のことばを【主】に持って帰った。」ちょっと軽い感じがしますが、「みな行います」と口をそろえて誓いました。

モーセは契約の条件である律法を受けるために、再びシナイ山に登りました。シナイ山は全山が煙っていました。なぜなら、主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからです。その煙は、かまどのように立ち上り、全山が激しく震えました。山の上に雷と稲妻と密雲があり、角笛の音が非常に高く響いていたので、イスラエルの民はみな震え上がりました。「主はモーセに告げて仰せられました」という語り出しで、律法が語られています。律法の主な内容は、十戒、民事法、刑事法、道徳法、宗教法、宗教暦などです。その中で一番、有名なのは十戒でしょう。出エジプト記20章に記されています。第一は「私の他に他の神々があってはならない」です。原文は「私の顔の前に他の神々があってはならない」となっています。たとえば、神さまと私の間に、他の神々があったらどうなるでしょうか?まことの神さまが見えなくなります。第二は「自分のために偶像を造ってはならない」です。「私を憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」となっています。このように偶像礼拝は大きな罪です。第三は「主の御名をみだりに唱えてはならない」です。主を「ヤーウェ」などと呼んだりしますが、ヘブライ語では子音ばかりなので、読めないようになっています。ユダヤ人は「神」と呼ぶ代わりに「天」と言い換えました。第四は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」です。これはイスラエルに交わされた契約であると考えられ、教会では日曜日を聖日としています。第五は「あなたの父と母を敬え」です。一戒から四戒までは神さまに関することです。第五から第十は人との関係です。父と母を敬うことが、人との関係で一番大事だということです。第六は「殺してはならない」です。殺人事件が毎日のように起こる現代社会に最も重要なことではないでしょうか?第七は「姦淫してはならない」です。イエス様は福音書で「今は悪い姦淫の時代である」と言われました。第八は「盗んではならない」です。第九は「隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」です。第十は「隣人の家を欲しがってはならない」です。いわゆるむさぼりの罪です。昔、赤羽教会におられた深谷先生が、十戒の数え歌を教えてくださいました。「一つ一人の神を拝せよ、二つ再び偶像を拝むな、三つみだりに御名を唱えるな、四つ喜び安息日守れ、五ついつも父母を敬え、六つむごい殺人を犯すな、七つ汝姦淫するなかれ、八つやましい盗みをするな、九つこんりんざい嘘を言うな、十に隣をむさぼるな」です。

主から、イスラエルの長老70人とアロンと二人の息子が、シナイ山に登るように言われました。そして、モーセは彼らのところに来て、主のことばと定めをことごとく民に告げました。すると、民はみな声を1つにして「主の仰せられたことは、みな行います」と答えました。その後、山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの12部族に従って、12の石の柱を建てました。それから全焼のいけにえと和解のいけにえを主にささげました。モーセは契約の書を取り、民に呼んできませました。すると、彼らは「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と誓いました。そこで、モーセはいけにえの血を取って、民に注ぎかけて言いました。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたと結ばれる契約の血である」と。そのとき、イスラエルの長老たちは、神さまを仰ぎ見ました。その後、主が「教えと命令の石の板を授ける」ということで、モーセは再び山に登りました。主の栄光が山の頂で燃えるように見えました。モーセは雲の中に入って行き、四十日四十夜、山にいました。山の上で律法の後半の部分を神さまからいただきました。そして、神さまご自身の指で、十戒を記した石の板二枚を授かりました。ところが、山の下ではどうでしょう?モーセの帰りがあまりにも遅いので、民たちはアロンに「私たちに先立つ神さまを造ってください」とお願いしました。アロンは彼らが持て来た大量の金の耳輪を受け取り、鋳物の子牛にしました。民たちは子牛の前に全焼のいけにえをささげ、飲み食いして、戯れました。主はモーセに、「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らを絶ち滅ぼし、モーセを大いなる国民にしよう」と言いました。モーセは「どうか怒りを納めてください、あなたの民へのわざわいを思い直してください」と懇願しました。

山から降りてみると、民たちは子牛のまわりで踊っていました。モーセは怒って、主から授かった十戒の板を投げ捨てて、粉々に砕いてしまいました。そして、アロンに、「あなたが彼らにこんな大きな罪を犯せたのか」と言いました。アロンは「民たちがどうしても神さまを作ってくれと言ったので、金を取って、火に投げ込んだら、この子牛が出てきたのです」と苦しい言い訳をしました。出エジプト記32:27「そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」レビ族が立ち上がり、偶像礼拝をした者たちを剣で殺しました。そのことによってレビ族は祝福されました。神さまはイスラエルの民に「私にとって祭司の国、聖なる国民となる」と契約を結ばれました。民たちは「主の仰せられたられたことを、みな行います」と答えました。ところが、たった40日後、偶像礼拝をして契約を破ってしまいました。本来なら、イスラエルの民、全員が滅ぼされるべきでしたが、直接、罪を犯した3000人だけが裁かれました。そのさばきのために、神さまの側についたのがレビ族でした。その後、レビ族はイスラエルの祭司として選ばれました。本来、イスラエルの民が、全世界に対して祭司の国となるべきでした。しかし、罪を犯したため、縮小され、レビ族がイスラエルの民の祭司になったのです。一種の堕落です。

その翌日、モーセは主のところに行って、民のためにとりなしました。そのことが、出エジプト記33:31以降に書かれています。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」その当時、すでに「いのちの書物」という概念があったというのは驚きです。モーセは神さまと取り引きをしました。民の罪を赦してもらうかわりに、自分の名前を消し去っても良いと言ったのです。つまり、自分がさばかれ、永遠の滅びを受けても構わないということです。これに対して、主は「罪を犯した者はさばく」と言っただけで、答えていません。この世では、自分の罪を秘書や部下になすりつけて、自分の身を守ろうとします。しかし、モーセのすばらしいところは、自分の身を犠牲にしてでも、民たちを守ろうとしたところです。モーセが神さまと民との間に入って、とりなした姿は、主イエス・キリストの型、予型であります。


2.モーセと荒野

イスラエルの民は主の山を出て、三日の道のりを進みました。しかし、民たちは荒野で「水がない」「食べ物がない」とつぶやきました。そのことが、民数記に記されています。民数記11:1-11。さて、民はひどく不平を鳴らして【主】につぶやいた。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが【主】に祈ると、その火は消えた。【主】の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。【主】の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。モーセは【主】に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。主は荒野で天からマナを降られました。フワフワして、人々はそれを集めて、パン菓子のように加工して食べました。最初は、おいしいクリームのような味でした。しかし、同じものを何日も食べるとだれでも飽きてくるでしょう。それでイスラエルの民は、「エジプトにいたときは、肉も魚も食べていた。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも食べていた。しかし、今は何もなくて、このマナを見るだけだ」と不平をもらしました。エジプトの辛い奴隷時代のことを棚に上げて、「マナしかないのか!」とつぶやきました。このことに対して、主が怒り、モーセも腹立たしく思いました。そして、「なぜ、あなたはしもべを苦しめるのでしょう。このすべての民の重荷を私に負わせるのでしょう」と文句を言いました。

民たちは「私たちに肉を食べさせてくれ」とモーセに泣き叫びました。モーセは「どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか」と主に申し上げました。さらに、モーセは「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに合わせないで下さい」と言いました。モーセは「私にはもう面倒みきれません。どうか私を殺してください」と言ったのです。モーセはすばらしいリーダーでありましたが、民たちの不平不満には耐えられませんでした。ダビデもそうですが、モーセがありのままを神さまに申しあげているところは、私たちが学ぶ点であります。私たちは祈るとき、言葉を選んで、「この祈りを御前におささげします」みたいに祈ります。悪くはありません。しかし、ある場合は、悩みの真ん中で、「これは私には負いきれません。無理です。」と申し上げても良いということです。私たちは主イエス・キリストにあって、それくらい何でも言える者になったのです。そうやって、ありのままをさらけ出して祈ると、主は、あとから静かな声で語ってくださいます。主はモーセに何と仰せられたでしょうか?主は一日や二日や五日や十日ではなく、1か月も、鼻から出るくらいに肉を与えると言われました。モーセは「男性だけでも60万人いるのです。彼らのため羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか?」と言いました。主はモーセに「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と言われました。主は風を起こして、海の向こうからうずらを運んで、宿営の上に落としました。宿営のこちら側に約1日の道のり、あちら側にも約1日の道のり、地上に約90センチの高さになりました。民たちは出て行ってうずらを集めました。少ない人でも、230リットルくらい集めました。彼らは欲望に駆られて、食いまくりました。そのとき、主の怒りが民に向かって燃え上がりました。むさぼりがひどかったからです。

また、水がないときもつぶやきました。民はモーセに「私たちをこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか?なぜ、エジプトから上らせて、この悪いところに引き入れたのか」と言いました。さすがの柔和なモーセも怒りました。民数記20:10-12そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」主はモーセに「岩から水が出るように命じよ」とおっしゃっていました。それなのに、モーセは怒りに任せて、岩を二度打ちました。確かに水は出ましたが、それが主を怒らせました。その理由は、主を信じないばかりか、主をイスラエルの人々の前に聖なる者としなかったということです。私たちから見るならば、小さな罪のように思えます。新約聖書的に考えるなら、岩はイエス・キリストを現わしています。杖で岩を打つとは、イエス様を打つということになるのかもしれません。旧約時代はとても厳しいです。特に神さまに仕える者に対してはそうです。神のしもべモーセはこの罪のために、約束の地カナンに入ることができませんでした。120歳になったとき、ピスガの頂から、アブラハム、イサク、ヤコブに「あなたの子孫に与えよう」と言った約束の地を見ました。見るだけで、そこへ渡っていくことはできませんでした。

また、エジプトから解放されたイスラエルの民も約束の地に入ることができませんでした。このことは、民数記13、14章に記されています。ツインの荒野からカナンの地を探るために、12人の偵察隊を遣わしました。40日後、その地の産物をたずさえ「まことにそこは乳と蜜が流れています」と言いました。ところが、その中の10人は「その町々は城壁が高く、巨人が住んでいます。私たちは自分がいなごのように見えましたし、彼らにもそう見えただろう」と言いました。民たちは、否定的な偵察隊の言うことを聞いて、「ひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と泣き叫びました。モーセは全会衆の前にひれ伏して、何も言えませんでした。ただ、ヨシュアとカレブだけが、「その地を恐れてはならない。攻め上ろう」と言いました。しかし、全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出しました。そのとき、主がモーセに仰せられました。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」すると、モーセは願いました。「あなたがこの民を滅ぼしたら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。『主はこの民を、彼らに誓った地に導きいれることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ』どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。主は怒るのにおそく、恵み豊かであると約束されたではありませんか。どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」。主は「私はあなたのことばどおりに赦そう」と仰せられました。その結果、ヨシュアとカレブの二人、そして彼らの子孫が約束の地に入ることができました。

このように、モーセは何度、主の前に出て「どうかイスラエルの民を赦してください。あなたは、怒るに遅く恵み深い方でしょう」と進言したでしょうか。イスラエルの民は本当に不従順でした。いつも不平不満をもらし、モーセにつぶやきました。しかし、それはモーセにつぶやいたのではなく、主に対してつぶやいたことになるのです。私たちはこのところから2つの教訓を得ることができます。第一に、モーセはしもべとして神の家全体のために忠実でした。しかし、キリストは御子として、神の家を忠実に治められるのです。モーセはイエス・キリストを現わした神のしもべでした。第二は、モーセのとりなしの祈りです。モーセは身を呈して、何度も主の前に出て、民たちのたちの赦しを請い願いました。イエス・キリストは十字架の上で、自分を差し出して、こう祈られました。ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」イエス様は本当に、自分の命と交換に、人類の罪の赦しを求めました。これまで、私たちは何度つぶやいたでしょう?何度、不従順の罪を犯して来たことでしょう?旧約時代に生きていたなら、命がいくつあっても足りないでしょう。今、このように生かされ、救われているのは主の恵みです。私たちにはモーセよりもすばらしい、主イエス・キリストがおられます。イエス様は私たちを罪の世界から救い出し、約束の地、天のエルサレムに連れて行ってくださる救い主です。律法を全うし、契約の仲介者であるイエス・キリストに従ってまいりましょう。


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2013年10月13日 (日)

王子モーセ   出エジプト2:10-15 ヘブル11:23-27

 ヤコブ、つまりイスラエルの子どもたちは、ヨセフのいるエジプトに移り住むことになりました。なぜなら、カナンを含めて全世界にききんが及んだからです。イスラエルの子どもたちは、エジプトで暮らし、増え広がりました。ところが、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こりました。王さまは「イスラエルの民は、われわれよりも、多く、また強い。戦争が起こったとき、敵側について、この地から出ていくといけないから、かしこく取り扱おう」と言いました。それで、彼らに町の建設や畑のあらゆる労働など、過酷な労働を課しました。それでも、イスラエルの民が増えるので、王様は「男の子が生まれたら、ナイルに投げ込め」と命じました。


1.王子モーセ

レビの家系である一人の女性が、かわいい男の子を生みました。3か月間、お家に隠しておきましたが、隠しきれなくなりました。それで、防水を施したかごに、その赤ちゃんを入れて、ナイル川に流しました。ちょうどそこに、パロの娘が水浴びをするためにナイルに降りて来ていました。彼女は赤ちゃんの泣き声を聞いて、あわれに思い、自分の子として育てました。モーセの名前の由来は、「水の中から引き出した」ことから来ています。不思議なことに、モーセのうばは、実の母親でした。ですから、モーセはヘブル人として育てられながら、同時に、エジプトの王子として育てられたのです。その当時、エジプトは世界で最も栄えていました。モーセは王子して、帝王学など、最高の学問を教えられました。モーセが40歳になったころ、イスラエルの民が苦役を強いられているのを見て、同情心が湧いてきました。ある時、同胞の一人が、エジプト人に虐待されていました。モーセはそのエジプト人を打ち殺し、砂の中に隠しました。翌日、兄弟たちが争っているのを見て仲裁に入りました。ところが、隣人を傷つけていた者が、「だれが、あなたを私たちの支配者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か」と言いました。パロはこの事件を耳にして、モーセを殺そうと捜し求めました。モーセはそれを恐れて、ミデヤンの地に逃れました。モーセは良かれと思って、エジプト人を打って、同胞を救いました。しかし、理解してもらえませんでした。今度は、パロから命を狙われる身となりました。

ヘブル人への手紙は、この事に対して、どのような見方をしているでしょうか?ヘブル11:24-27「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」新約聖書はモーセのことをとても良く書いています。私たちも天国に行ったら、「命の書」から自分の生涯を読み上げられるでしょう。犯した罪や失敗は少しも語られず、良いことだけが並べられるかもしれません。なぜなら、イエス様が間に立って弁護してくださるからです。モーセは仕方なく、ミデヤンの荒野に逃れたのではありません。はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去ったのです。彼はそののち羊飼いになりました。エジプトの王子から、一転して、羊飼いです。それまでは政治や都市建設、交易に携わりました。しかし、今は朝から晩まで、羊の世話です。朝になると羊を柵から出し、草のあるところに導きます。水を飲ませたり、野獣から羊を守ります。夕方になると、羊を従えて家まで戻ります。それをモーセはどれくらいやったのでしょう。40年間です。かつては黒々とした髪の毛がありました。だが、今は額が後退し、残った髪の毛も真っ白になりました。もう、80歳です。エジプトでの暮らしを完全に忘れていまいました。人々からも忘れ去られ、自分がだれかもわからなくなりました。革命は若い者がすることです。しかし、今は、40歳のときの気力も体力もありません。モーセはリーダーとして失敗したという痛みを抱えていました。モーセは自分のことをこのように書いています。詩篇90:9-10「まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」モーセの人生観はまさしく「虚無」でありました。

しかし、私たちは聖書からモーセの生涯がこれで終わりではないことを知っています。モーセはイスラエルの民を脱出させた最も偉大な指導者です。では、モーセのこれまでの人生は無駄だったのでしょうか?そうではありません。『王家の者として生きる』という本にこのように書いてありました。「モーセはイスラエルの民を奴隷制度から解放するために生まれて来たのだ。モーセはパロの宮殿で育てられることによって、奴隷の考え方ではなく、王子としての生き方を学ぶ必要があったのだ。自分が奴隷の考え方であるリーダーに、実際に奴隷制度に捕われている民を解放する力はないのだ。モーセの人生の初めの40年間は、後の荒野で過ごす40年間と同様に重要だったのだ」。そうです。もし、私たちが、自分が取るに足りない者として育てられたらどうなるでしょう?彼は成長の過程で「私には価値がない。私の意見はだれからも尊重されないだろう?」と学ぶでしょう。もし、そういう人が指導者になったらどうなるでしょう?彼は自分の発言にも注意を払わないでしょう。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうでしょう。私が全くその人でした。人々に辛口のジョークを言って、関係を壊してきました。人から「先生、先生」と言われても、「口先だけだろう」と思っていました。自分の生まれ育った環境はたしかにひどいものでした。8人兄弟の7番目、取るに足りない存在として育てられました。神の子クリスチャンになっても、心の奥底で、自分は粗末な存在であると思っていました。しかし、『王家の者として生きる』という本を読んだとき、原因が分かりました。また、ヨセフの生涯を学んだとき、ヨセフが自分のように思えました。今は、本当に自分が神さまから召された存在であることを確信しています。

では、モーセの荒野の40年間は重要だったのでしょうか?とても重要でした。彼は私がエジプトの民を救うんだという自負心がありました。悪いことばで言うと自信過剰です。「若気のいたり」というものはだれでもあります。若くてエネルギーにあふれている時代というのは、良いものです。しかし、車で事故を起こすのは、若い人たちです。なぜなら、無謀な運転をするからです。モーセは、仲間を助けましたが、その代わりエジプト人を打ち殺しました。同胞から「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか?」と言われたとき、返すことばがありませんでした。なぜなら、モーセは神さまの意志ではなく、自分の意志でやろうとしていたからです。そう言われたとき、急に恐れが出てきて、エジプトから逃げました。神さまは人を用いる前に、古い自我を砕かれます。これは神の人に共通しているレッスンです。これまで学びましたがアブラハムは75歳から100歳まで、25年間、子供が与えられませんでした。ヤコブはラバンの家で、20年間、ただ働きをさせられました。ヨセフは13年間、エジプトで奴隷として過ごしました。そして、神さまはモーセを用いるために40年間、荒野で過ごさせたのです。彼は80歳になり、すっかり砕かれました。神さまから「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と言われたとき何と答えたでしょう?モーセは神さまに申し上げました。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」。もう、すっかり、砕かれていました。

神さまはモーセのように、あなたを用いたいと願っておられます。第一はあなたが生まれた良いもの、良い環境を用いられます。モーセはエジプトで王子として育てられ、40年間、最高の学問を学びました。みなさんの中には、親の力で良い学校をださせてもらった人もいるでしょう。小さいころからピアノやバイオリンを習わされた。両親から可愛がられ、大事に育てられた。すばらしいことです。私のように心の傷が少ないならば、本当に幸いです。また、努力して身に着けたもの、生まれつきの才能もたくさんあるでしょう。神さまは私たちがクリスチャンになる前からも、良いものをたくさん与えてくださったのです。第二は、神さまはあなたを取扱いたいと願っておられます。自分の能力や知恵ではなく、神さまに頼る者にしたいのです。そのため、辛い環境の中を通されるかもしれません。神さまはあなたを病気にしたり、苦しみを与えるお方ではありません。この世の悪魔が、ターミネーターのようにあなたが神さまに用いられる前に滅ぼそうとするのです。しかし、神さまはそれらを逆手にとって、あなたの悪いものを取り除き、純金のように精錬してくださるのです。あとから振り返ると、「ああ、あのことがあって今の私があるんだ」と感謝できるようになるのです。神さまがモーセを準備したように、あなたも準備したいと願っておられます。あなたは神さまのレッスンを合格したでしょうか?やがて、時が満ちるならば、神さまはモーセのように、あなたにお声をかけてくださるでしょう。そして、荒野の40年も無駄ではなくなるでしょう。


2.解放者モーセ

では、モーセを立ち上がらせたものは何でしょうか?「燃える柴の経験」として知られています。乾燥した荒野では柴や灌木が燃えることがよくありました。しかし、その柴は火で燃えていたのに、焼け尽きませんでした。いつまでも、柴は燃え続けていました。モーセは「なぜ、なんだろう」と近づきました。すると火の中から声がありました。出エジプト3:6「『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。【主】は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。』」モーセは「私はいったい何者でしょう?」と答えました。神さまは「わたしはあなたと共にいる」と一本の杖をモーセに与えました。モーセがその杖を地に投げつけると、ヘビになりました。ヘビの尾をつかむと、元の杖になりました。杖とは神さまの権威を現わしています。主なる神さまは「私が共にいるから、パロの前に立て」と言いました。しかし、モーセはいろいろ言い訳をしました。出エジプト4:10「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」「重い」と言っても、舌が10キロもあったわけではないでしょう。そうではなく、モーセは私は口下手なので、「だれか他の人を遣わしてください」と言いました。主は怒りつつ、「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。私は彼がよく話すことを知っている」と仰せられました。つまり、神さまがモーセに話すべきことを教え、モーセがアロンに語り、アロンが人々に語るということです。その後、モーセは手に神の杖を取り、エジプトの地に帰りました。

神の指導者として最も重要なことは、神からの召命であります。モーセが燃える柴の中で、主の御声を聞きました。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。…今、行け。私はあなたをパロのもとに遣わそう。私の民、イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」という命令を聞きました。モーセはいろいろ言い訳をし、躊躇しました。80歳になり、気力も体力も衰えていました。「私は口下手です。エジプトはあまりにも強大です。現役を去った私を誰も認めてくれないでしょう」と言いました。それに対して、神さまはいろいろ励まして、神の杖を持たせました。やっとのことで、モーセは立ち上がり、エジプトに向かいました。モーセは神からも人からも忘れ去られ、一生、羊飼いであると思っていました。しかし、神さまには計画がありました。モーセを通して、イスラエルの民をエジプトから解放させるということです。みなさん、一人ひとりにも、神さまの計画があります。あなたに成してもらいたい、天命、聖なる神の運命があります。それを知らないでいると、せっかく救われているにも関わらず、宙ぶらりんな生活をしてしまいます。この世の人たちと同じように、惰性で過ごしたり、暇をもてあますということになります。そのためには、アブラハム、ヤコブ、そしてモーセのように神さまに出会う必要があります。どういう出会いかと言うと、「私はこのためにあなたを召したよ」というお言葉をいただくことです。モーセは柴のように自分の人生がはかなく消え去ると思っていました。しかし、燃えても、燃えても、燃え尽きない柴を見たのです。モーセは、燃え尽きない柴を見たとき、神さまが与える燃え尽きない人生を見たのです。

モーセはパロの前に立ちました。案の定、相手にされませんでした。モーセは第一、第二、第三と神からのしるしを見せました。パロは、一時は、「わかった、去らせよう」と言います。しかし、災いが止むと、「だめだ」と言って、さらに苦役を増しくわえました。モーセはイスラエル人から「わらなしでどうして煉瓦が作れるんだ」と文句を言われました。さらに、モーセは第四、第五、第六、第七、第八、第九とパロとエジプトに対して、災いをもたらしました。パロはますまず強情になりました。聖書を見るとパウロの心を頑なにしているのは、主であることがわかります。もし、私がモーセの立場であったら、「なぜ、無駄なことをさせているのですか?」と文句を言うでしょう。でも、神さまの考えは、パロと家臣たちを徹底的に苦しめ、第十番目の災いに導くためでした。十番目の災いとは何でしょう?出エジプト12:12-13「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは【主】である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」家の門柱とかもいに羊の血を塗った家は、主の怒りが通り過ぎるということです。イスラエルの民たちは、それを守りました。しかし、パロの初子から家畜の初子まで打たれて死にました。パロは「私の民の中から出て行け。羊の群れも牛の群れも連れて出て行け」と追い出しました。

イスラエルの民は、おそらく100万人以上はいたと思われます。イスラエルは編隊を組み、エジプトの国から離れました。ところが、神さまは、あえて葦の海に沿う荒野の道に回らせました。彼らが海辺で宿営しているという知らせを聞いて、パロは考えを変えました。「われわれは何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは」。パロは戦車を整え、軍勢を引いてイスラエルを追跡しました。イスラエル人はパロの軍勢が近づいてきたとき、「私たちを連れ出して、この荒野で死なせるのか」と不平を言いました。そのとき、モーセは何と言ったでしょう。出エジプト14:13「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」モーセは、神さまから命じられたように、杖を上げ、手を海の上に伸ばしました。すると、海が右と左に分かれ、海底にかわいた地が見えました。100万人以上のイスラエルの民が渡るには、どうしても時間がかかります。イスラエルとパロの軍勢の間に、真っ黒な雲がたちこめました。また、神の使いが戦車の車輪をはずして、進むのを困難にさせました。パロの騎兵たちはあせりました。イスラエルの民が渡り終えた後、モーセが手を海の上に差し伸べました。するとどうでしょう?左右の水の壁がくずれ落ち、パロの戦車も軍勢も海の中にのみこまれました。これが、映画『十戒』の最も、有名なシーンです。この奇跡こそが、イスラエルの歴史に語り継がれた、偉大な神のみわざです。

出エジプトの出来事は、旧約聖書において最も偉大な救いの出来事です。モーセはその奇跡を体験することができました。おそらく、モーセの神概念は全く変わったのではないかと思います。「神さまがこんなことができるのか、主であられる神はなんと偉大なのだろう!」と思ったでしょう?それでどうなったでしょう?伝統的には創世記はモーセが書いたと言われています。しかし、天地創造の出来事を、見てもいないのに、どうして書くことができたでしょう。だから、自由主義神学の人たちは、「後代の人がバビロン捕囚をモチーフにして書いたんだ」と言います。しかし、私はモーセが書いたと信じます。おそらく、モーセは神さまから、天地創造の啓示を受けたでしょう。「光があれ」と言ったら光があった。「乾いたところが現れよ」と言ったら、そのようになった。「植物が地の上に芽生えよ」と言ったら、そのようになった。モーセは紅海が分かれるという奇跡を体験しました。だから、神さまから天地創造の啓示をうけたとき、「あの神さまだったらできる」と啓示を受け止めることができたのです。出エジプトの出来事とは、私たちにとっては救いの出来事です。かつて、私たちはエジプトならぬサタンの支配のもとで奴隷でした。何の目的も持たず、ただ生き延びている人生でした。たとえ夢や希望があったとしても、やがて来る死によって全部、飲み込まれました。私たちを罪と死から、解放させた力は何でしょう?それは、イエス・キリストの血です。過ぎ越しの羊の血を塗ることによって、怒りが通り過ぎました。私たちも十字架のイエス・キリストを信じるならば、神の怒りが過ぎ越し、神さまと和解できるのです。私たちはもはや奴隷ではなく、神の子どもであり、御国の世継ぎです。神さまが王様であるならば、私たちは王子であり、王女なのです。後を追いかけてきた、エジプト軍は海に飲み込まれました。同じように、サタンは私たちを訴えることはできないのです。ハレルヤ!旧約聖書で最も偉大な出来事は出エジプトです。そして、新約聖書で最も偉大な出来事は、キリストの十字架の死と復活です。私たちは新約の時代に生かされています。救いの招きは、すべての人に向けられています。まだ、イエス様を信じていない人は、救い主、人生の主として信じましょう。また、すでにクリスチャンになっている人は、自分が奴隷ではなく、神の息子、娘であることを腹の底から自覚しましょう。ただ生き延びるだけの奴隷根性を捨てて、神の王子、王女として生活しましょう。


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2011年9月18日 (日)

 「父と母を敬うとは?」  出エジプト 20:12、エペソ6:1-4  [ 伝道師 毛利佐保 ]

聖書の中には、家族、家庭、社会生活、教会のあり方について語られている箇所がたくさんあります。

本日の聖書個所は「イスラエルの民をエジプトから導いたモーセが、シナイ山で神からいただいた「十のことば」、十の戒め「十戒」の中のひとつです。

十戒は皆さんご存知の通り、1.ほかの神々があってはならない、2.偶像を造ったり拝んだりしてはならない。3.みだりに主の御名を唱えてはならない、4.安息日を守りなさい、5.父と母を敬いなさい、6.殺してはならない、7.姦淫してはならない、8.盗んではならない、9.隣人に対し偽りの証言をしてはならない、隣人のものを欲しがってはならないという十の戒めがあります。今日のメッセージでは、この第5番目の戒め、

<出エジプト記 20:12>

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

というみことばを新約聖書のエペソ書でパウロが引用して訓戒している箇所がありますので、そのみことばと照らし合わせながら「父と母を敬う」とはどういう事なのかを考えていきたいと思います。

*********************

聖書を読みましょう。

<エペソ6:1-4>

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

※「父と母を敬うとは?」

第一番目のポイントは、

1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。

・・・ということです。

時代はどんどん変化していきます。

聖書の中でも、旧約時代~新約時代と親の権威は移り変わっていきました。

では、どのように親の権威が移り変わっていったかということを、旧約時代~現代まで見ていきましょう。

Ⅰ.旧約聖書の時代

旧約聖書においての両親の位置づけは、「両親は子どもに対して神の権威を代表する者」 でした。

従って家庭における宗教の教育は、両親に課せられた重大な責任でした。両親は子どもを生んで、ただ育てるだけで親としての責務を果たしているわけではなく、神の戒めを正しく教え、信仰によって養育する必要がありました。そうすることによって、地上における神の代行者としての親の責任を果たすことになりました。

そういうわけで、両親に服従することは神に服従することと同様に考えられていました。

この十戒が与えられた部族時代は、父親の権威は驚くべきものでした。家長であったばかりか、統治の長、軍事的指導者、裁判官でもありました。剣を使っても、法律を使っても、呪いを使っても、子どもを生かしたり、殺したりすることができましたし、子どもに対する権力は絶対的でした。

当時はイスラエルの民たちが自分の所属する部族の一員であると認識することが重要であって、自分自身が何者であるかとか、個人というものは二の次でした。ですから、部族社会では、人はその人自身である以前に父の息子という立場でした。

またこの時代は、子どもの数というのは富と力のしるしでした。

ヨブ記には、家の繁栄のしるしとして、大家族であったことが、羊や牛の群れと同様に書かれています。

そういうわけで、たとえ利己的な父親でも、自分の家族を守るためにそれなりに面倒をみることは当然でした。だから文句のない忠誠と服従とで親を尊敬するように子どもを教育することが可能でした。

Ⅱ.新約聖書の時代

しかし、パウロの時代には大きく変わってきたようです。

そのころの地中海流域は人口が増加し過ぎたようで、必死で子どもを産まないようにする方法が盛んだったそうです。家族生活は崩壊し始めていました。

ですから、パウロはエペソの6章でこの第五戒を引用したときにこのような言葉を付け加えました。

<エペソ6:4>

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

「子どもをおこらせてはいけません。」・・・とパウロは付け加えたのです。

子どもは親に対しておこっても良い時代になったんですね~~。

旧約時代では、無条件に完全に支配できたはずの自分の子どもでしたが、ここでは、親の方にも戒めの言葉があります。親という立場を乱用することがないようにして、しっかり子どもを育てなさいと書かれています。

旧約の時代とはかなり違っていますね。旧約時代は親に対して子どもが意見するなどということは考えられなかったはずですが、パウロの時代には子どもが親に対して、自分の考えを言えるようになってきたということでしょうか。

Ⅲ.近世~近代(モダニズムの時代)

                   

では次に、啓蒙思想などが出てきた中世は割愛して、もう少し新しい時代18世紀~20世紀あたりの近世~近代では親の権威はどのようになっていったかを見て行きましょう。

19世紀の文学者グリム兄弟の作品のひとつに「としよりのおじいさんと孫」という話があります。

このお話はこの時代の様子をうまく表していると思いますのでご紹介します。

************** 「 としよりのおじいさんと孫」 *****************

昔、小柄な老人がいた。

目はしょぼしょぼ、手は震え、ものを食べるときはカタカタ食器を鳴らして不愉快な音をたて、うまくスプーンで食べ物を口に入れることができないので、食べ物をテーブルクロスによくこぼした。

他に住む所もなかったので、所帯をもった息子と一緒に住んでいた。

嫁は現代的な女で、家庭の中で年寄りの舅に耐えるべきではないと思った。

「もう我慢ができないわ!私の幸せがダメになるわ。」と嫁が言った。

そこで嫁と息子は老人の腕を優しく、だがしっかりと掴んで、台所の隅に連れて行った。

小さな椅子に座らせ、僅かな食べ物を粗末なボールに入れて渡した。

それから老人は、食卓の方を悲しそうにしょぼしょぼと見ながら、いつも隅で食事をした。

ある日、老人はいつにもまして手が震え、食器を落として割ってしまった。

「豚のように食べるのなら、飼い葉桶で食べなさい。」と嫁は言った。

そこで小さな木の飼葉桶を作り、老人はそれで食べるようになった。

この夫婦には4歳になる息子がいて、二人はこの子をとてもかわいがっていた。

ある日、夫はその子が木切れで熱心に何かを作っているのを見て、「坊や、何を作っているんだい?」

と、尋ねてみた。

「お父さん、ボク、飼葉桶を作ってるの~」

・・・とほめられることを期待して、親の顔をニコニコと見ながら子どもは答えた。

「ボクが大きくなったら、お父さんとお母さんに食べ物をあげるときに使うんだ~ 」

夫婦はしばらく何も言わずに顔を見合わせていた。

・・・それからちょっぴり泣いた。

それから、隅に行くと、小さな老人の腕をとり、食卓に連れ戻した。気持ちの良い椅子に掛けさせ、お皿に食べ物をとってあげ、それからは、音を立てたりこぼしたり物を割ったりしても、文句を言う人はなかった。

*******************

グリム童話は、残酷な結末が結構多いのですが、この話はわりと爽やかな結末ですね。この小話が語っているのは、「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」という戒めのようですね。

この時代は、「モダニズム(近代主義)の時代」と言われています。

モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動を指しますが、思想や体系としては、権威主義的なものから啓蒙主義を経て人間理性中心へと変わって行った時代です。人間中心、進歩主義、産業中心、画一化といわれるこの時代は、良くも悪くも人々は団結し、みんなが信じる共通の真理がありました。また、一つの目標に向かってみんなで進むことができた時代でした。科学なども発達しました。

ですから、親の権威に関してもこのグリム童話のように、

「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」

と言われると「ああ、やっぱり親は大事にしなきゃね。」「そうだね。」とみんなが思うことができました。

親の権威に関しても、かろうじて「あった」と言えます。

Ⅳ.現代(ポストモダンの時代)

では現代、21世紀はどうでしょうか。現代は近代の後の時代、「ポストモダンの時代」と言われています。

ポストモダンは、みんなで共通の真理を持つことがなく、中心になるものもありません。個々が自由に動き、自分の価値観を大切にする時代です。おのおの大切にするものが違いますから、先ほどの小話のように、両親を大事にしている姿を自分の子どもにばっちり見せて育てたとしても、将来思ったように自分を大事にしてくれるかどうかは怪しいですよね・・・。

「親の権威は地に落ちた」と言った感もありますが、正しく言えば画一化されていた近代の“親の権威”という言葉に対する認識が、現代は変わってしまったということかもしれません。

ですから、「親の敬い方もそれぞれでいいじゃないか。田中さん家や鈴木さん家がこうでも、うちはこれでいいじゃないか。」と考えるのです。

しかしここで大切なのは“聖書は何と語っているか”ということです。

聖書は

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

「両親に従う」ということは「正しいこと」だとパウロは言っています。

「正しいことだからです。」とはっきり言われると、何にも言えなくなりますね。

しかもここでは、「両親の面倒をみなさい。愛しなさい。」とか言っているのではなく、「従いなさい」なのです。

ポストモダンの時代は曖昧な時代でもあります。

「みんな違ってみんないい」という言葉や、「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉をよく聞きますが、“互いの価値を認め合う” という点ではとても聖書的で素敵だと思いますが、注意する必要もあります。

例えば、「いろんな考えがあるからパパは君の考えを尊重するよ。パパはパパ。君は君。もし君がパパに従いたいと思ったら従えばいいよ。」と言ってあげたいけれど、そうなると聖書のみことばの本来の意味からずれてしまいます。聖書は旧約の時代から一貫して「あなたの父と母を敬いなさい」と語っています。

ですから、「いやぁーん、もう!イエス様の言う事もパウロの言う事もこの時代にマッチしてないし、ちょっと変えてみてもいいんじゃない?“あなたの父と母を敬いたかったら敬いなさい”とかに・・・。」

などと言いたくなっても、聖書のみことばは永遠で、「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めは、変更不能の戒めなのです。

ですから、父と母を敬うとはどういうことなのかを、世の風潮に惑わされないで聖書のみことばを読み返し、神様に祈って聞いて実行する必要があるのではないでしょうか。

※「父と母を敬うとは?」 第一番目のポイント

1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。

・・・ということでした。

しかし今までの話は、理屈や頭では理解できても、実際に両親を敬い従うことを実行に移せるのかというと、いろいろと難しい問題があります。

例えば、両親の仲が良い円満な家庭に育てば、子どもたちも自然と、両親を敬い、従えるものですが、とてもじゃないけれど、両親のどこをどう見たら敬うことができるのだろうか?という家庭に育った人には、このような主の命令は苦痛でしかありませんね。

また、天涯孤独に育った人、敬いたくても両親はもうすでに亡くなってしまった人もいます。

「この聖句は自分には全く当てはまらない」と感じておられる方は、どう受け取れば良いのでしょうか。

※「父と母を敬うとは?」

第二番目のポイントは、

2.みことばの本質を知り幸せになりましょう

実はこの聖書の「父と母」とは自分の両親のことを指しているだけではないのです。

ウエストミンスター大教理問答という、改革派の教理問答がありますが、そこにはこう書かれています。

**********************

<ウエストミンスター大教理問答 問124>

問124 第五戒の父や母とは、だれのことであるか。
答 第五戒の父や母とは、本来の両親ばかりでなく(1)、すべて年齢(2)や賜物(3)での上の人、特に家庭(4)・教会(5)・または国家社会(6)のいずれであれ、神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指すのである。


(1) 箴言23:22,25、エペソ6:1、2  (2) Ⅰテモテ5:1,2  (3) 創世4:20,21,22、45:8
(4) 列王下5:13  (5) 列王下2:12、13:14、ガラテヤ4:19  (6) イザヤ49:23

***********************

第五戒の父と母とは、「神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指す」

と、広い意味ではこのように考えられています。

ということは、とんでもない上司にも、大嫌いなあの人にも、従わなければならないのか?!

・・・ということになりますね。

ではなぜ、神様はそこまで、権威に従い敬いなさいと言われるのでしょうか。

聖書の次のみことばを見て行きましょう。

<エペソ6:2-3>

6:2

「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

6:3

「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

・・・権威に従い敬いなさいと主が言われるのは、私たちがしあわせになるためなのです。

出エジプトに書かれているモーセの十戒では、「あなたの齢が長くなるためである。」とだけ記されていますが、申命記5:16に書かれている十戒には、「それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」と、「しあわせ」という言葉が加えられています。

この「しあわせ」とは、どのような状態になることを言っているのでしょうか?

世の人々がうらやむような生活の事をいっているのでしょうか?財産や地位や名誉を得ることでしょうか?

それも祝福ですが、「本当の幸せ」とは、「神様とともに歩む」ということではないでしょうか。

イエス様を信じて、クリスチャンになっても、私たちの人生には辛いことがたくさんふりかかってきます。でも、

そんな時でも不思議と心に平安があったり、立ち上がる力が湧いたりするのは、私たちの創造主、完全で、真実で、永遠なるお方、主がともにおられるからです。イエス様が私たちのくびきを負ってくださるからです。

権威上私たちの上にある人は、神様が権威を与えた人なのです。また、神様は私たちにとって最高の権威者です。神様は私たちの父と母でもあるということです。「あなたの両親に従いなさい、父と母を敬いなさい。」というみことばは、神の戒めに従いなさいということです。神様からの戒めを守ることによって、私たちは神とともに歩む幸せと、神からの大いなる祝福を得るのです。また、その幸せは、愛の連鎖となって、私たちの周りの人をも幸せにしていきます。

そしてその幸せは教会にも広がっていきます。

先ほど現代はポストモダンの時代だという話をしました。現代は個人主義の時代ではありますが、「誰かと何かを共有したい。どこかで繋がっていたい。」と思うのもポストモダンの特徴です。ですから、FacebookやMixiなどのソーシャルネットワークなどが盛んになるのです。私たちは何か共有するものを見つける時、無意識に良いものを選びとろうとします。教会は、主に在って人と人とがリアルに繋がることが出来る場所です。

教会を知らない人たちが、この亀有教会に繋がっていたいと思うような場所にして行けるといいですね。

そのためにも、主の戒めに従うことが大切です。神様は私たちに素晴らしい命令をくださっています。

聖書に書かれている神のご命令は、時には厳しく耳が痛いこともありますし、理解しにくい箇所もあります。でも、すべての命令が、私たち人間が幸せになり、豊かになるようになるためのものばかりなのです。

2番目のポイントは、

2.みことばの本質を知り幸せになりましょう

でした。

最後に三つ目のポイントです。

3.親の務めを果たしましょう

もうひとつ、大切な事をパウロは語っています。

<エペソ6:4 >

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

聖書は、子どもに対して父と母を敬いなさいという戒めを与えるとともに、父や母なる立場である人々、権威上、上の立場となる人々にも、訓戒を与えています。

「子どもをおこらせず、主の教育と訓戒によって育てなさい」

「子どもを育てる」ということは、愛と忍耐がなければできないことです。子どもは何度でも失敗をします。

その失敗を大きな愛で赦し、慈しみ、導かなければなりません。また子どもはまったく私たちの思い通りにはなりません。私も一人ばかり子どもがおりますが、何かあるたびに親として責任を感じてしまうような時も多々あります。また、会社で言えば、手塩にかけて育てた部下が恩を仇で返すような形であっさりと辞めてしまったり、裏切られたりということもあります。

親の立場に立つ人たちはいろんな葛藤を覚えながらも、イエス様を模範として子どもたちを導いていかなければなりません。

イエス様は弟子たちをどのように育てましたか?

イエス様は、当時地位の低かった女性や子どもたち、疎んじられていた病人たちや、奴隷たちにどのように接して育ててくださいましたか?

このポストモダンの時代に、権威が失墜しつつある状況の中で私たちは子どもを、部下を、自分より弱い人や守らなければならない人たちをどう育てていけばいいのでしょうか?

エペソの6章でパウロはこのあと、奴隷と主人に対して訓戒し、このみ言葉が記されています。

<エペソ6:18>

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

主のみことばに聞き従い、父と母を敬っていきましょう。そして、幸せになりましょう!!

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2010年4月11日 (日)

霊的束縛からの解放  出エジプト19:1-6、エペソ4:26-27

クリスチャンが、悪霊によって束縛されることはありえるでしょうか?悪魔は、私たちの救い、つまり永遠のいのちを奪い取ることは決してできません。しかし、私たちの罪や傷が解決されていない場合、私たちのある一部が悪霊によって束縛されることは十分ありえます。エペソ4:27「悪魔に機会を与えないようにしなさい」と書いてあります。機会とは、ギリシャ語ではトポスと言います。トポスとは「場所」あるいは、「駐屯地」とも訳せることばです。ローマ時代、軍隊が敵地に乗り込むとき、作戦行動の拠点となるところをトポスと言いました。霊的な意味では、悪魔が人々を支配するために設ける、足場、足がかりとも言うことができます。「わぁー、そんなものがあるのですか?」と驚くかもしれませんが、実際にあるのです。私たちにはどのようなトポス(足場)があるのでしょうか?3つの分野からお話したいと思います。

1.霊的な罪

霊的な罪とは、偶像礼拝からくるものです。悪魔(サタン)はかつて、自分は神のようになりたいと高慢になって、堕落しました。だから、悪魔は自分も神様のように礼拝を受けたいと願っています。たとえば、アニミズムでは大木を拝みます。神木というかもしれませんが、木自体は悪魔と何の関係もありません。しかし、人が木を拝み続けるなら悪魔がそこにやってきます。なぜなら、悪魔は自分が礼拝されることを求めているからです。そして、悪霊は、木を拝んでいる人の一部をつかまえるでしょう。また、仏壇は物ですから、本来は悪魔と何の関係もありません。しかし、人が仏壇に向かって毎日、お焼香して祈るならどうでしょうか?悪魔は「ああ、私も拝まれたい」と思ってそこにやってきます。そして、悪霊がその人の一部をつかまえるでしょう。聖書には悪霊につかれたゲラサ(ガダラ)人のことが記されています。イエス様が「お前の名は何か」と尋ねました。彼は「私の名はレギオンです」と答えました。おそらく、イエス様は、その人物に名を尋ねたのでしょう。でも、彼の内側にいた悪霊が「レギオンです」と答えました。つまり、彼は人格まで完全に支配されていたのです。しかし、こういう人はめったにいません。ほとんどの場合は、一部分が捕まれて、そのためにコントロールされるのです。たとえば、耳でも捕まれたらどうでしょうか?痛いので、そちらに、顔を向けてしまうでしょう。小指だって捕まれたら、体全体がそちらに持っていかれます。私たちがまことの神様を礼拝するなら、神様の愛と恵みのもとで、自由と喜びにあふれた生活をすることができます。しかし、偶像礼拝をするならば、心や体、霊的な面において何らかの束縛を受けることになるでしょう。

では、偶像礼拝にはどのようなものがあるのでしょうか?第一はアニミズム、神道、仏教に関するものです。日本で行なわれる年中行事はみなそれらの偶像と関係しています。また。ほとんどのお葬式は仏教であり、家には仏壇や神棚があるでしょう。天皇家は天照大神であり、いわば太陽神です。第二は、オカルト関係です。占い、風水、霊能者、超能力などがそうです。昔、「こっくりさん」とか「キューピットちゃん」というのがありました。第三はキリスト教の異端、および異教からくるものです。統一教会は今でも存在しています。また、明治以降、日本にはたくさんの新興宗教が生まれました。あるところは政党まで持っています。外国からニューエイジ・ムーブメントも入ってきています。一部の啓発セミナーやヒーリングミュージックはニューエイジと関係があると言われています。こういうものと関係するとどうなるのでしょうか?悪魔の策略は、まことの神様から人間を限りなく離すことです。そのためには良いものも与えます。病気の癒し、商売繁盛、能力アップ、災いから守ってくれるかもしれません。悪魔がイエス様をどのように誘惑したでしょうか?マタイ48,9「悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言いました。悪魔は良いものを与えるかもしれませが、その代わり、その人の魂(いのち)をもらうのです。そのため、救いを得ることができず、悪魔と同じ永遠の滅びに行くしかありません。クリスチャンも悪魔や悪霊に束縛されることがあります。それは、信仰を持つ前に、あなたの親もしくは、あなた自身が偶像と関係を持ったからです。主は、偶像崇拝をした「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」と言われました。では、そういう人はどんな害を受けるのでしょうか?家系を渡ってくる呪いがあります。金銭トラブル、暴力、離婚、自殺、ガン、精神病、偏頭痛、事故死などです。聖書を読んでも、祈っても集中できません。神様を信じてはいるのですが、混乱や恐れがあります。「自分は何をしてもうまくいかない。どうせまた失敗するんだ」という思いが離れない。神様の約束を信じ切れないというか、深いところに疑いがあります。金縛りにあったり、恐い夢を見ます。変な声が頭の中に聞こえたりする。これは悪霊に対して開かれたドアがあり、そこから暗闇の力があなたに襲いかかっているからです。

どうしたら良いでしょうか?まず、偶像礼拝のチェックリストから、自分が拝んだものや、霊能者から拝まれたことがあるかを調べる必要があります。特に問題なのは、親か自分が偶像の神様と祈願をして契約を結んだ場合です。契約ですから、たとえクリスチャンになっても有効になっているときがあります。ですから、イエス・キリストの御名によって先ず、悔い改めましょう。その後、イエスの御名と血しおによって、それらの契約を破棄するのです。つまり、関係を断ち切って、後ろのドアを閉じる必要があります。その後、主イエス・キリストと父なる神さまに自分自身を捧げる祈りをすべきです。悪霊に離れることを命じてから、霊と魂、身体、すべての部分を主が支配してくださるように願うのです。一度で全部、できないときもありますから、過去の偶像礼拝を思い出したとき、同じようにすれば良いのです。結構、重い場合は、スポンサーから断ち切りの祈りをしてもらった方が良いでしょう。なぜなら、自分で自分自身のロープを切れない場合もあるからです。イエス様は「信じる者は、私の名によって悪霊を追い出すことができる」と約束しておられます。もちろん、偶像礼拝と関係のあるものは全部、処分することが肝心です。

2.魂の傷や罪

前回、「十字架による心の癒し」というメッセージをしました。きょうの場合は、魂の傷や罪から悪霊が入った場合です。全部が全部ではありませんが、そこを足場にして、悪霊が攻撃している場合もあります。エペソ4:26-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」これはどういう意味でしょうか?怒りは必ずしも罪ではありません。イエス様も神殿が汚されているのを見たとき、怒りました。しかし、人が怒ったままでいるならば、そこに悪魔が足場を設けることがあるということです。つまり、人が怒りをコントロールしないならば、「悪魔がそこから入り込みますよ」ということです。この世では、ある人たちは、怒りを治めることができず、殺人を犯してしまいます。ほとんどの人たちは、罪を犯してから、「ああ、自分はなんてことをしたんだろう?」と反省するでしょう。でも、後の祭りです。悪魔は、最初は「さあ、殺っちまえ!」とけしかけます。しかし、罪を犯したあと、一変して、「ああ、お前はなんてことをしたんだ。神様もお前を赦さないぞ」と言います。怒りと似ていますが、人を赦さない罪も、悪魔に場所を与えます。マタイ18章には、1万タラントを王様から赦されたしもべのたとえが記されています。1タラントは6000日分の賃金に相当しますが、その1万倍ですから、とほうもない金額です。しかし、そのしもべは、100デナリ借りのある仲間を赦すことができませんでした。仲間は「もう少し待ってくれ」と頼みましたが、承知せず、借金を返すまで牢に投げ入れました。主人はそれを聞いて「私がお前をあわれんでやったように、お前も仲間をあわれんでやるべきではないか」言いました。「主人は怒って、借金を全部返すまで彼を獄吏に引き渡した」と書いてあります。私は、この獄吏にあたるのが、悪霊ではないかと思います。ある人を絶対に赦さないという人がおられますが、心や肉体の病気になるというデーターがあるようです。

もう1つ悪霊が私たちを支配する場所は思い(マインド)であります。悪魔はいつも私たちのマインドに働きかけようとします。もし、悪魔によって思いの中に足場(拠点)が設けられるとどうなるのでしょうか?それはコンピューターのプログラムのように働き、考えや行動パターンが自分の意思ではどうすることもできなくなります。1つの習慣みたいになります。私たちの思いがどうして、悪魔の足場となるのでしょうか?第一は、家族をはじめ、人生で出会う人たちから来るものです。たとえば、「そんなこともできないのか?お前は、何をやってもダメだなー」と親や先生から言われたとします。すると自分の中に劣等感ができてしまいます。その人は、人から認められるために一生懸命頑張ろうと、パフォーマンスに走るでしょう。あるいは「あんたは汚い」あるいは「あんたは醜い、可愛くない」と拒絶されたとします。すると自分の中に怒りと拒絶の悲しみが残り、人を心から愛せなくなります。なぜなら、自分には愛される価値がないと思っているからです。ある牧師が三歳のときこのようなことがあったそうです。お姉ちゃんがノートを買ってくれと言ったら、お母さんは「消しゴムで消したら、もう一度仕えるだろう」と言ったそうです。その当時、ノートは10円でしたが、三歳の子どもは「うちは貧乏なんだ。贅沢はできないんだ」と思ったそうです。大人になっても、中古の車、借家で甘んじていました。解放されるまで、父なる神様に自分の欲しい物を願うことができなかったそうです。第二の足場はトラウマ体験から来るものです。アルコール中毒の父親があばれて、とっても恐くて押入れに隠れました。その人は大人になっても、臆病さが消えません。学校のいじめも子どもにとっては大きなトラウマになります。どの子供も自分がいじめられないように、小学校、中学校でどうやって関門を抜けるかと言うことを考えているようです。いかにいじめに会わないか、ということを考え、勉強どころではありません。両親の離婚もトラウマになりますが、一番ひどいのは虐待や性的虐待です。親は世界で最も信頼できる人なのに、その親から虐待を受ける。虐待を受けた子どもは「自分には愛される価値がないんだ」と石の心を持つでしょう。石の心を持った人を、どんなに愛しても、全部、外に流れてしまいます。その人が愛と信頼感を回復するためには、子供のときの何百倍もの愛を受けなければ、差引勘定が合わないのです。

では、どのようにして癒しと解放を受けることができるのでしょうか?これは前回「十字架による心の癒し」の続編でもあります。違うところは、罪や傷の部分に悪霊がくっついているということです。どうしたら悪霊が離れさるのでしょうか?それは生ゴミを出さなければなりません。生ゴミがあると、カラスやねずみがやってきます。多くの場合、カラスやねずみをおっぱらうだけです。でも、また戻ってくるでしょう。そうではなく、原因となる生ゴミを処分したら、もうカラスやねずみはやってきません。同じように、私たちも解放のミニストリーをすべきであります。まず、心を開いて、愛なる神さまに打ち明けることです。オープンにしない限り、癒しと解放もありません。まるで、下水道のドブさらいみたいかもしれません。腐ったものや空き缶、ドロドロしたものが出てきます。そして、あなたに被害を与えた人たちを赦しましょう。赦すということは、復讐したいという権利を放棄することです。加害者はともかく、あなたがそのことによって自由になることがもっと重要です。赦すということは忘れることではありません。また感情でもありません。赦す感情は永遠にやってきません。大事なのは、「赦します」という意志なのです。その後、イエス様の血しおと聖霊によって傷口を洗い聖めてもらいましょう。最後に、得られなかったもの、失ったものを父なる神様から満たしていただきましょう。父なる神様は救い主イエス様を与えたように、すべての良きものを与えてくださいます。また、思い(マインド)の中にある間違ったものを、イエス・キリストの御名によって、打ち砕きましょう。アンインストールです。そして、正しい神のみことばと入れ替えるのです。聖書は何と言っているでしょうか?あなたには価値がある。あなたはありのままで受け入れられている。あなたは王の子どもであり、御国の世継ぎです。あなたは最良のものを受けることができるのです。アーメン。

3.身体的な罪

身体的な罪とは、悪習慣です。悪習慣とは、救われる前から持っていたものであり、救われた後のものではありません。例えば、クリスチャンになってからタバコの悪習慣を身につけるようになった人がいるでしょうか?また、クリスチャンになってから、麻薬を始めた人はいるでしょうか?そんな人はまずいません。そうです。いつでもクリスチャンの成長を妨げるのは、救われる以前からの罪であり、悪習慣です。悪霊は霊的な存在であり、住む家をさがしています。なぜなら、悪霊は肉体を持っていないからです。彼らの性質を発揮するためには、彼らが住むべき家が必要なのです。だから、聖書には「彼らは地を歩き回って。だれかの体をさがす」と書いてあります。悪霊は絶えず同じ性質を持った住み良い家を探しています。あなたは家を買うときに、あなたの好みに合った家を探すでしょう。同じように、悪霊も自分に合った家を探しています。つまり、悪霊と同じ性格をもった人を探して、そこに住みたいと願っているのです。では、悪霊にそのような場所を与えてしまうのは、どういうプロセスによってでしょうか。悪霊が心の中に入って、その人がそういう性質になるというのではありません。実際は逆です。それは人が心の中に、悪霊にふさわしい性格を育ててしまうからです。たとえば、ある人が心に情欲を育てたとします。いつも「おお、おお」と、ポルノ雑誌やビデオを見ています。女の人を見たら、「おお、おお」となります。そのように長い時間をかけて、情欲の性質ができてしまいます。そのとき悪霊がやって来て、「おお、良い家を見つけたぜ!この家は私と同じ性質だ!」と喜んで入ります。すると、その人の情欲はもっとひどくなり、性的中毒、さらには性的犯罪にまでエスカレートするでしょう。

身体的な罪、つまり悪習慣には、他にどんなものがあるのでしょうか?いま上げた性的罪のほかに、ことばの罪があります。悪口、ゴシップ、嘘、不平不満です。私の口には悪口と不平不満があふれていました。家が貧しかったので、母には不平不満をいつも言っていました。父はとても批判的な人でした。兄や姉たちは自分たちのことを自慢し、私を見下げました。だから、私は学校で自己主張し、他の人の悪口を言いました。結婚してから分かりました。家内が私に「あなた、テレビに向かって、馬鹿、馬鹿と言っているわよ!」と。私は人から批判されると、その何倍も返して、戦ってきました。口に悪霊がいたかどうか分かりませんが、私の性格の一部になっていたことは確かです。神様がくちびるの汚れた者を、贖い取って、ご自分の栄光のために用いるとは一体どういうことでしょうか?神様のあわれみにただ感謝するばかりです。他に、盗み、ギャンブル、ストーカー、食べ物、薬物、ゲームがあります。最近は依存症と言いますが、昔は中毒と言いました。仕事も中毒になります。もちろん、アルコールも中毒になります。そういう悪習慣の背後に、悪霊がひっついているならどうなるでしょうか?やめたくてもやめられない。自分ではどうしようもなくなります。ますます、下降線をくだり、最後は死です。しかし、渦中にある人たちはどうでしょうか?助けを求めるなら希望があります。多くの場合、それらを否認して、「自分はたいしたことない。いつでもやめられる!」と言うのです。そういう罪を光の中に出さなければ、決して解放されることはありません。

こういう身体的な罪から解放されるためには3つのことが必要です。第一は自分の罪を言い表すということです。エペソ5:11-14 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」第二番目は、悪霊を追い出します。「この宮は、キリストによって贖い取られた聖なる宮である。イエスの御名によって出て行け!」と命じます。しかし、それだけだとまた悪霊がやってきます。7人の友達と一緒に「この家にもう一度、入ろう」とやって来ます。第三番目の悔い改め、つまり人格的な変化が必要です。悔い改めはギリシャ語で、メタノイアと言います。メタノイアとは方向を変えるということです。イエス様の時代に、ローマ兵士は行進をしました。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。これがメタノイアです。メタノイアとは、反対に方向転換するということです。では、情欲の逆は何でしょう。きよい愛です。だから、情欲からきよい愛へと変えることです。盗みをしている人はどうすべきでしょうか?盗むのをやめるだけでは、まだメタノイアしてはいません。「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働く」ことです。反対のことを行なうために方向転換をすることがメタノイアです。「盗み、盗み、盗み、メタノイア」(方向を変える)。「与える、与える、与える」です。悪口、ゴシップはどうしたら良いでしょう?「ゴシップ、ゴシップ、ゴシップ、メタノイア」(方向を変える)。「建て上げる、建て上げる、建て上げる」です。アルコール中毒の人はどうしたら良いでしょうか?アルコールをやめるだけではなく、メタノイアして、こんどはみことばの中毒になることです。依存症(中毒)の場合は、サポートグループに入って、互いに励まし合うことが必要です。

イエス・キリストはルカ4章でこのように言われました。「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」アーメン。主は今も生きておられ、霊と心と体が縛られている人たちを自由にしてくださいます。ヨベルの年、つまり悪魔の奴隷状態から、私たちを解放してくださるのです。

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2007年1月 1日 (月)

あなたは何を想うか       出エジプト20:1-6 

 新年明けましておめでとうございます。「一年の計は元旦にあり」といいますが、一年を礼拝から始められることはすばらしい特権であります。礼拝とは神様との交わりであります。きょうは、「あなたは何を想うか」と題して、神様との交わりについて学びたいと思います。

神様はあなたの生活において、他の神を持つことを望んでおられません。神様はあなたと親しい関係を持ちたいのです。十戒の第一番目の戒めは何でしょうか。出エジプト20:3に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。日本語の聖書ではよくわかりませんが、原文を直訳しますと「私の顔の前に、ほかの神々があってはならない」となっています。「顔の後ろ」とか、「顔の横」でもなく、なぜ、「顔の前」なのでしょうか。神様は、あなたと向き合っている親しい状態を望んでいるからです。もし、神様とあなたの間に、他のものが入ってきたらどうなるでしょうか。それが妨げになって、神様はあなたが見えません。同時に、あなたも神様を見ることができません。神様とあなたの間を妨げるもの、これが偶像なのであります。でも、あなたは「私は仏像とかお稲荷さんを拝んでいませんよ」とおっしゃるかもしれません。では、十戒の第二番目の戒めはなんでしょうか。20:4「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」と書いてあります。「どんな形をも造ってはならない」は、原文では、「どんなイメージも造ってはならない」です。だから、単に彫られたものだけを意味しません。それは、あなたの想像力ということです。あなたの想像力から、偶像礼拝が始まることがあるのです。本日の説教は、「あなたは何を想うか」という題ですが、これは「あなたは何を想像するか」ということです。人が何を想っているのか、外からは分かりません。でも、神様はご存知です。

旧約聖書のエゼキエルは、幻のうちに、神様からエルサレムの神殿に連れていかれました。神様は「1つの穴から入って、その神殿の中に何があるかを見なさい」と言われました。エゼキエルは霊によって、神殿の中に入りました。エゼキエル8:10-12「私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、・・・その手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。・・・あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている」。エゼキエルはびっくりしました。外側から神殿を見ると、立派ですばらしいものでした。ところが、神殿の壁を通り抜けて、中に入ってみると様々な像が壁一面に彫られていました。エルサレムの長老たちが、壁に描いた絵や彫られた偶像を拝んでいたのです。しかも、彼らは「主は私たちを見ておられない」とうそぶいていました。では、新約聖書で神殿とは何でしょう。使徒パウロは、Ⅰコリント6章で「私たちの体は神の宮、神殿である」と言いました。外側からは立派なクリスチャンに見えるかもしれません。でも、神殿の内側、暗い所の部屋はどうでしょうか。すべての人は、自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは何か。このプライベートな部屋こそが私たちの想像です。だれも、他の人は見ることが出来ません。そのプライベートな部屋の中に、多くの石像があります。想像の中のスクリーンに様々なものが映されています。私たちは「主はご存じない」と言っているかもしれません。でも、神様は神殿の中に偶像があることを好まれません。

なぜ、人間は罪と汚れに満ちているのでしょうか。それは、十戒の1番目と2番目を守らなかったからです。使徒パウロは、ローマ1章で「すべての罪と汚れは、偶像礼拝からである」と言っています。ローマ1:21-24「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」。「その思いはむなしくなり」は、英語の聖書では「彼らのイマジネーションがむなしくなり」となっています。つまり、神様を神様としてあがめず、感謝もしないために、想像力がむなしくなった。さらに、様々な偶像と取替えたために、神様はその心の欲望のままに汚れに渡されたということです。日本人の多くは、元旦から三が日にかけて初詣に出かけます。これは立派な偶像礼拝です。昨年は子供のいじめや自殺、政治家や企業の不正が目立ちました。学校の教師や警察官も信用できなくなりました。警察官がストーカー行為をしていました。世の中の評論家がどう言おうと、私は聖書からはっきり申し上げることができます。日本人はまことの神をあがめず、感謝もせず、かえってそのイマジネーションがむなしくなっています。実際、心の中で何を想像しようが、警察は取り締まることができません。いくら、刑罰を厳しくしても駄目なんであります。臭いものは元から絶たなければ駄目なんであります。私たちクリスチャンも、何を想うか、何を想像するかということが、とても重要であります。

イエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。マタイ6:22-23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。イエス様は6:22で「からだのあかりは目です」と語られました。この目とは何でしょうか。エディ・レオ師が昨年の6月に当教会に来られましたが、「目とは想像力である」と教えてくださいました。ですから、もしあなたの目(想像力)が健全ならば、あなたの全身が明るくなります。しかし、あなたの目(想像力)が悪ければ、あなたの全身が暗くなるでしょう。つまり、あなたの想像力が、あなたの人生を決定していくということです。想像力はとっても力があります。1つ想像してみましょう。私がレモンを取り出し、ナイフで二つに切って、片方をあなたに渡します。あなたはそれを口に入れて絞りますよー。「ああー、すっぱい」。もう、想像しただけで、顔がゆがみますね。では、あなたを傷つけたことのある人の名前を、私が言ったらどうなるでしょう。とたんに、悲しみや怒りが湧き上がってくるでしょう。過去に受けた恥や失敗、拒絶がトラウマになり、その想いから離れられない人もいます。ぬぐっても、ぬぐっても、その想いがやってくる。もし、そういう否定的なことをいつも想っているならば、あなたの人生は間違いなく、暗くなるでしょう。また、男性にとっては、性的なことに対する想像が、けっこうヤバイ分野になります。雑誌とかビデオ、インターネットで見た映像が離れないということがあります。一方、女性は持ち物とか着る物です。だから、ショッピングが好きです。また、ロマンチックな映画を見て、その中のヒロインになることを想像するでしょう。おばさんたちの、韓流ブームはそういうとこから来ているかもしれません。一見、こういう想像は悪いようには思えません。しかし、それがいつの間にか、神様と自分との間に入り込む偶像になってしまいます。つまり、過去のトラウマ、欲望、映画スターも偶像になるのです。偶像をアイドルと言いますが、何らかの関係があるようです

私たちの思い(thinking)と、想い(imagination)は、たえず悪魔の攻撃にさらされています。私たちの想いを空っぽにすることは不可能です。よく、「座禅で無になるように」と言われます。でも、煩悩を消すことは不可能です。ある心理学者が統計を取りました。男たちが、セックスのことを考えるのはどのくらいの頻度だろうか。もし、男性が仕事をしないでくつろいでいる時、セックスについてどれだけ考えるだろうか。1日に240回。睡眠時間8時間を引くと、4分に1回の割合。男性はたくさん、こういう誘惑を受けます。朝、目が覚めて、カレンダーを見る。「ああ、奇麗な女性がいる」。トワェーン、第一のイメージ。そして、ジョギングをする。ああ、奇麗な娘が通りかかった。トワェーン、第二のイメージが生み出される。木を見でも、「ああ、何とこの木はセクシーなんだろう」と思う。第三のイメージ。マルチン・ルターはこのように言いました。「誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものである。頭の上を鳥が通り過ぎることを妨げることはできない。それは鳥の権利であり、防いでもだめである。しかし、鳥があなたの頭の上に巣を作ることは避けることができる」。性的な誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものです。では、誘惑がやって来たときどうすれば良いでしょうか。誘惑は追い出しても、またやってきます。汚れた想いと戦っても、勝利することは不可能です。そうではなく、汚れた想いがやってきたとき、イエス様を礼拝するときに交換すれば良いのです。トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。4分後、トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。こう考えると、男性は1日に主を240回も礼拝するチャンスが与えられているということです。男性の方は、自分が男性に生まれてきことを感謝しましょう。女性はこのような機会がありません。ハレルヤ!私たちは誘惑が来る、来ないに関わらず、積極的に神様と親しく交わる必要があります。

 私は新年には、必ずと言って良いほど、みことばを瞑想すると言うことを申し上げています。詩篇1:2、3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあるからです。この「口ずさむは」、思うとか瞑想するという意味があります。イメージするという言葉ととても似ています。でも、日本語は「口ずさむ」と訳されていますので、これも興味深いなーと思います。私は毎朝、散歩をすることにしています。これまでは、朝、散歩してから、ゆっくり聖書を読んで瞑想していました。ところが、朝、すぐ起きて散歩をしますと、自分の過去のことや、今、悩んでいることが頭の中をぐるぐる回っています。大体、自分自身と語り合っています。でも、よく考えてみると、否定的なことや悲観的なことが多いんですね。それではいけないと思い、聖書を少し読んでから、歩くことにしました。朝は人が少ないので、結構、口ずさんでも平気です。聖書のみことばという材料があらかじめ入っていますので、考えることが自然と神様に向かいます。毎日、忙しい人が多いと思いますが、少し工夫するだけでずいぶん違います。電車に乗る前に、聖書を1章でも、2章でも読んでいると、電車に乗っている間、瞑想できます。車の中では、だれもいないと口ずさむことができます。単純な仕事のときも、前もってみことばが入っていると、瞑想しながらできます。ある人は、みことばのカードを作って、チラっと見て、瞑想しています。静まってディボーションすることはもちろん大切ですが、それだけで終わってはいけません。ディボーションが終わってからの時間もイエス様と交わるならば、なんと幸いでしょうか。

エディ・レオ師はタッチングヘブン(天国に触れる)というテキストでこのように教えておられます。もし、私たちが私たちの先生のようになりたかったなら、できるだけ多くの時間をかけて、先生から学ぶ必要があります。医者や技師、弁護士などの専門職になるためには、教師と顔と顔を合わせて勉強するために、たくさんの時間(一日に最低でも4時間から8時間)を費やすことが必要です。やがては、その人は教師のようになれるのです。そのことは私たちにも同じです。キリストのイメージに作られるために(キリストと同じような霊的資質を持つために)、私たちはイエス様と「顔と顔」を合わせて、会う必要があります。10分間、キリストとディボーションを持ったくらいでは、キリストのようになることは不可能です。ディボーションは大切ですが、その後の主との時間、私たちは主と継続的な会話を持つ必要があるのです。私たちは仕事を変える必要もなく、続けて忙しく働き、勉強やビジネスや他のことができます。しかし、私たちは間断なく、継続的に主と会話するように自分たちを訓練することができます。どのように始めることができるでしょうか?それは単純です。今、経験している問題や誘惑から始めましょう。否定的な想像を祈りに切り替え、感謝し、喜びに向けるために神のみことばを瞑想するのです。もし、あなたがこれを実行するなら、たゆまなく、主と交わることになるでしょう。アーメンです。

この世の喜びには飽きがやってきます。どんな美しい風景も飽きがやってくるでしょう。しかし、主との交わりにはそうことがありません。私たちはおいしいものを食べたり、新しい物を買ったり、新しいことを経験すると感激します。でも、毎日の生活にそういうものを期待することは不可能です。しかし、霊的で内側の生活は環境には関係ありません。私はインナートリップとか、ニューエイジの霊的な世界を言っているのではありません。まことの唯一の神様、私たちを愛しておられる天の父と交わるのです。常に、イエス様の御顔を求めるのです。そうするなら、天国の息吹と喜びが湧き上がってくるでしょう。テレビのチャンネルを次から次へと変えても、インターネットのサーフィンをしても、満たされません。お酒やタバコや快楽、この世のものは、すべて中毒になります。でも、イエス様だったら大丈夫です。どうせなら、みことばとイエス様に中毒になりましょう。聖霊による、天国の甘いぶどう酒で酔いましょう。私たちが慕うべきものはイエス様のうちにしかないということを肝に命じましょう。第一のものを第一とすれば、買い物も楽しいし、結婚生活も楽しい。レジャーも、趣味も仕事も価値あるものとなるのです。すべての源は、父なる神様から来るのです。2007年も、源なる神様と親密な関係を持ちましょう。

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