2016年12月30日 (金)

自分の道を走る 箴言22:6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.1

 新年あけましておめでとうございます。きょうは、「自分の道を走る」と題して、箴言226からメッセージをお届けします。新改訳は「若者」となっていますが、口語訳を引用したいと思います。箴言226「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることはない。」きょうは、もう1つAmplified Bible英語の詳訳聖書からも引用したいと思います。Train up a child in the way he should go and in keeping with his individual gift or bent.箴言226の前半のみことばを3つに分解してお話しさせていただきます。

1.自分の価値を知る

英語の詳訳聖書はヘブル語の聖書を重んじんて「with his individual gift or bent」とあり、個人的なgift or bentをキープしながら指導しなさいと書かれています。これは個人的なgift or bentが生まれる前から備えられているというニュアンスがあります。では、giftとは何でしょうか?辞書には「贈り物、天賦の才能、適正、タレント」とあります。私はgiftを「賜物」と訳したいと思います。また、bentとは何でしょうか?本来bentは、「曲り」という意味です。しかし、「好み、性癖、適正」という意味もあります。私はbentをあえてスタイルと訳したいと思います。スタイルは日本語にもなっていますが、「やり方、流儀、格好、たち」という意味です。では、個人的な賜物とスタイルは一体だれが与えたのでしょうか?もちろん、祖父母や両親からの遺伝もあるでしょう?でも、創造主なる神さまがその子に与えたということが真実ではないでしょうか?詩篇13913「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と書いてあります。「組み立てた」は英語の聖書ではknit「編む」と書いてあります。神さまは母の胎内で、私たちの神経や細胞組織を編んでくれたのであります。そして、そこに賜物とスタイルをしこんでくれたと考えるべきではないでしょうか?この世の教育者は「子どもは白紙の状態で、親や教師が教えなければならない」と考えています。確かに知的にはそうかもしれませんが、その子に賜物とスタイルがはじめから備わっているのであります。

 私たちは神の作品です。エペソ210「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。この作品という本当の意味は「製品ではなく、手作りである」ということです。手作りですから、ひとり一人違うように創られていることは当然です。私たちの指紋も、声門も、そして目の虹彩も同じ人はいません、唯一無二(ただ一つだけあって二つとない)のであります。それなのにこの世の教育はどうでしょうか?特に日本の場合は「横並びと言われ、個性と潰す」と言われます。人と違うことをしたり、言ったりすると「和を乱すな」と注意されます。発明王のエジソンが小学校に入学したときのことです。先生が生徒に「I have a粘土、I have a粘土、足すといくつになりますか?」と聞きました。エジソンは「ウン、1だ」と答えました。「なぜ?」と先生が聞くと、エジソンは「1つの粘土と1つの粘土を合わせると1つの粘土になるでしょう」と言い張りました。先生は「腐れ脳ミソ」と彼を罵倒したそうです。エジソンは入学からわずか3か月で学校を追い出され、お母さんが個人教授したそうです。入学試験では5教科が重要視されますが、それはなぜでしょうか?ケン・ロビンソンという人がある放送番組で語りました。「今の教育制度は19世紀、産業主義社会のニーズから生まれた。すぐ工場で働けるような人を育てたのだ。砂遊びでは会社で雇ってもらえない。音楽なんてダメだ!音楽家になるわけじゃないんだから。アートなんてするな。アーティストになんてならないんだから。心優しいアドバイス。でもまったくもって間違っている。学校教育は創造性を殺してしまっている」と言いました。

 神さまが生まれた時から賜物とスタイルを備えて下さっていると知ったらどうでしょう。人と比べて生きる必要はありません。私はテレビの『何でも鑑定団』が大好きで、毎回、録画をしています。あるとき、ご婦人が茶碗を持って来ました。おばあちゃんのもので、屋根裏から出したときは新聞紙にくるんであったそうです。真っ黒で1か月間、煮込んでは汚れを落としたそうです。その茶碗の鑑定はいくらだったでしょうか?なんと1千万円でした。秀吉の頃のものだったそうです。イザヤ書に「主は陶器師である」と書かれています。私たちは粘土です。主が私たちを御手でこしらえてくださったのです。ゆがんでいるかもしれません。少し黒ずんでいるかもしれません。でも、そこには手作りの不思議な趣があり、価値があるのではないでしょうか?私は子どものころ、色が黒くてよく「ベトコン」と言われました。当時ベトナム戦争がありました。また、とっても落ち着きがなくて、学校で一番、叱られました。今でも学校の時の夢を見ます。上履きの片方ないとか、体育着を忘れたとか。かばんを開けて、「きょう何曜日だろう。時間割がないなー。もう、8時半だ、遅刻しちゃう」と目がさめるときがあります。「ああ、良かった。もう学校へ行かなくて良いんだ」とホッとします。先月、大和カルバリーで「リーダーズ・サミット」が開催されました。講師の一人「べてるの家」の向谷地生良(むかいやちいくよし)さんがこのように話していました。私は中学の時、とにかく先生から殴られている生徒でした。私の人生のキーワードはひとことで言うと「殴られる」なんです。うちの長男が、小学校3年くらいのとき朝、担任の先生から電話が来ました。「息子さん、忘れ物多いですね。お父さん、ちゃんと指導してください。前の日に、ちゃんと見てください。お願いしますよ」。よっぽどだったじゃないですか、先生から電話がかかってくるというのは。みなさんだったら、そういう子どもさんに何と声をかけますか?私は息子に、「もう、あきらめろ」と言いました。先生の言ったことを真に受けて、忘れないように努力するなんて、そんな無駄な人生をずっと送っていてはダメです。それを聞いて、私は腹の底から笑いました。神さまがあなたに固有な賜物とスタイルを与えて下さったのです。そこには欠点や性格も含まれています。あなたは神さまの手作り、傑作品です。なぜなら、イザヤ434「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とおっしゃっているからです。神さまがあなたをそのように鑑定しておられるのですから、額面通り受け止めましょう。

2.自分を育てる

 口語訳は「子をその行くべき道に従って教えよ」となっていますが、英語の詳訳聖書はTrain up「訓練せよ」となっています。ヘブル語はもともと「ささげる、聖別する」ですが、「教える、伝授する」という意味もあります。ですから、親の意のままではなく、神さまから預かった子どもとして、教えるというニュアンスがあります。前のポイントで述べましたが、生まれた子どもの中には、個人的な賜物とスタイルが備わっています。ですから、親はそれらがうまく開花するように育てる必要があるということでしょう。「教育education」は、外側から何か知識を与えて、子どもを何かのかたちにするという意味ではありません。ラテン語では、「連れ出す、導き出す」という意味があるそうです。神さまは子どもに賜物とスタイルの種を与えておられます。子育ては、種から芽が出て、幹が伸び、花が咲いて実がなるのと似ています。パウロがコリント3章でこのように言っています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」親は、「成長させて下さるのは神なんだ」というへりくだった態度が必要です。

永遠のロゴスなる方がおとめマリヤから聖霊によってお生まれになられました。赤ん坊から人生をスタートし、イエスという名前をつけられました。お医者さんであったルカは「イエス様は全き人として成長した」と福音書に書いています。ルカ252「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」日本語の聖書ではよく分かりませんが、イエス様は3つの分野で成長したことがわかります。第一は知恵、メンタルな成長です。第二は身体的な成長です。第三は神と人から愛される霊的で社会的な成長です。第三番目において興味深いのは、愛がfavorとなっていることです。Favorは「好意、愛顧、ひいき、偏愛」という意味があります。聖書にはfavorが数多く出てきますが、ほとんど愛に訳されているのは残念です。ダビデなども、神さまからたくさんのfavorを受けた人です。イエス様も成長の過程で、「好意や愛顧」を受けなければならなかったというのは驚きではないでしょうか?おそらくイエス様も小さいときから律法を学び、みことばを暗証したと思います。なぜなら、申命記6章には「子どもたちによく教え込みなさい。」と命じられているからです。両親の子どもの養育に対する責任は少々違っていると思います。母親は受け入れ、養育するという面が強いと思います。一方、父親は子どもを励ましたり認めてあげる、つまり是認してあげる責任があると思います。そうすれば、子どもは自信をもって世の中に出て行けるからです。そして、ユダヤではある程度の年齢になるとラビに教育を任せました。ラビは父親の代わりに、聖書だけではなく人生全般に関することを教えました。ですから、親はわが子をどのラビに付かせるか、慎重に考えたと思います。

 現代は子どもをすぐ学校に行かせて、教育も人生全般も任せてしまっているのではないでしょうか?学校の先生は知的なことは教えることはできるかもしれません。でも、何のために勉強するのか、何のために仕事をするのか、何のために結婚するのか、人生の意味や目的を教えることはできません。ユダヤ人がなぜ優秀なのか?それは小さい時からみことばに親しみ、人生の良き指導者ラビから学ぶからではないでしょうか?現在、教会付属の学校があり、大和カルバリーもなさっておられるのですばらしいと思います。進化論ではなく、神さまが私たちを創られたということを知ったなら、人生のスタートが全く違ってくると思います。箴言には「主を恐れることは、知識の初めである」と書かれています。残念ながら、私をはじめこの世の学校教育から、無神論から、クリスチャンになった方々が大勢いるのではないでしょうか?そして、ちゃんと親からFavor(好意、愛顧)を受け、母からの養育、父からの是認を受けて育てられた人がどれくらいいるでしょうか?私はエリヤハウスというところで数年学びましたが、「多くの人が本当の父親をさがしている」と教えられました。エリヤハウス・ミニストリーの中心的なみことばは、マラキ4章「父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」です。本当の父がいなかったために、不安や恐れ、怒りに満ちているということです。でも、クリスチャンになってから、霊的な父を持つことができます。

 私は8人兄弟の7番目で生まれ、Favor(好意、愛顧)を受けないで育ちました。通信簿で52つとっても、長男や長女に比べられ、決してほめてもらったことがありません。だから、学校では何とか認めて欲しいと目立つようなことをしていたのだと思います。でも、それは全く受け入れられず、うるさくて授業を妨害するやっかい者として叱られました。どういう訳か、私が一番、叱られました。小、中、高と続きました。ある時、エリヤハウスの宣教師が私の説明が長いと注意しました。他の人は7,8分も話しているのに、私はまだ3分しか話していませんでした。後から「どうして私だけを注意するのですか?」と聞きました。女性の宣教師は「あなたには私を叱ってほしいという苦い期待がある」と言っていました。その時は「俺のせいか?」とムカッときましたが、「確かにそうだなー」と思いました。私は19792月、25歳のとき座間キリスト教会の礼拝に出席しました。その時、大川牧師は30代でしたが、そのお話しに捕えられ、4か月後洗礼を受けました。その年の12月「イエスさまの弟子になりたい」と献身を表明しました。大川先生は私を志願兵として受け入れてくださり、翌年3月から神学校の基礎科に入学しました。送り出して下さった時、ヤコブ3章から「温順」というみことばをいただきました。「温順にはteachable parsonという意味があり、だれからも教えられる心を持つように」と言われました。それ以来、私はずっと学んできました。最初は大川先生の毎週の説教をテープから書き起こしました。分厚い2冊のファイルになりました。その次はチョーヨンギ師のテープから学びました。亀有に赴任してからも、弟子訓練や教会形成、心の癒しについても学びました。でも、家内と私は大川先生が霊的な父であることを感謝しております。私は携帯を持っていますが、めったに携帯に電話がかかってきません。ところが、大川先生からたまにかかってきます。昨年12月、広尾の21世紀教会で説教のピンチヒッターを頼まれました。その時は直立不動になり、自分が何を言っているのはわからなくなります。その時のご奉仕も、直立不動でお受け致しました。

私たちはこの世に生まれた以上、養いを受けて、神さまから与えられた賜物とスタイルを開花させていただく必要があります。もし、自分の両親や学校の教師がそうでなかったなら、霊的な父、ラビをさがしましょう。それでもダメだったら、いろんなところへ出かけて自らを養いましょう。現代は本もCDもあります。インターネットでメッセージも聞けます。みことばや信仰書から自分を励ましましょう。信仰的な友人や指導者とコンタクトを取りましょう。あなたの賜物とスタイルに賛同し、協力してくれる人を神さまが必ず与えてくださいます。

3.自分の道を走る

箴言226「子をその行くべき道に従って教えよ」と書かれています。行くべき道とは何でしょうか?文脈から考えると、神が定めた律法のうちを歩むということかもしれません。なぜなら、後半に「そうすれば年老いても、それを離れることはない。」と言われているからです。イスラエルにおいては、十戒を守ること、心を尽くして主を愛することはとても重要なことでした。私は「律法は道路で言うなら、ガードレールあるいはセンターラインではないか」と思います。「それを飛び越えたり、はみだしたりすると危険ですよ」いうことを示しています。子どものうちから、飛び越えてはいけない限界を知らされるということはとても良いことです。昨今、とても多くの殺人事件や自殺が起きています。もし、小さい時から「殺してはならない」と教えられていたなら、ずいぶんと件数が減るのではないかとおもいます。しかし、「子をその行くべき道」とはもっと積極的な意味もあるのではないかと思います。なぜなら、神さまがそこ子に、個人的な賜物とスタイルを与えているとしたらどうでしょう?それらを開花させて、神さまのご栄光のために用いることを願っておられるのではないでしょうか?私は神さまがその人に達成してもらいたい使命や目的をdivine destinyと呼ぶべきだと思います。Destinyは日本語で運命とか定めですから、あまり良いイメージはありません。しかし、divine、神の運命というものが一人一人に与えられていると信じます。辞書をみたら、神意(神の意志)ということばがありました。つまり、The way he should go「行くべき道」とは、神意ではないかと思います。もし、その人が自分のdivine destiny神意を発見し、それが達成できるように生きるならなんと幸いでしょう。その人は、暇をもてあそぶとか、時間をつぶすとか、ぶらぶらするということがなくなります。

 ルカ福音書1章には、御使いガブリエルが二人の人物に出会って、神意を告げています。最初はザカリヤです。御使いは「不妊の女エリザベツが子どもを生む、その名をヨハネと名付けなさい」と命じました。そればかりか、その子はイスラエルの多くの子らを神に立ち帰らせるであろうと言いました。名前ばかりか、果たすべき神意まで告げています。次に御使いはマリヤに現れました。「あなたはみごもって男の子生むでしょう。その子をイエスと名付けなさい」と命じました。そればかりか、その子は大いなる者となり、ヤコブの家を支配し、その支配(その国)は限りなく続くでしょう」と言いました。名前ばかりか、果たすべき神意まで告げています。もし、このようなことが私たちにもあてはまると考えるならどうでしょう?名前は両親が付けるかもしれません。でも、神さまは「その子をその行くべき道」をちゃんと計画しておられるのではないでしょうか?つまりそれが、divine destiny神意であります。使徒パウロはダマスコの途上で、復活の主と出会いました。とのとき彼は、地に打倒され主の声を聞きました。パウロはアナニヤを通してdivine destiny神意を示されました。異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らに主の名を伝える器として選んだこと、また主の名のために苦しむことでした。一言でいうと異邦人伝道が彼の使命でした。パウロはいつも自分のゴールを見定め走っていました。ピリピ313-14「後ろのものを忘れ、前に向かって…目標を目指して、一心に走る」と言っています。

私たちも自分の与えられた道、レースを走るべきではないでしょうか?ある人は親のレースを走っているかもしれません。また、ある人は他の人たちが良いと勧めるレースを走っているかもしれません。その人たちは決して悪い人たちでないかもしれません。かえって、親切におっしゃっているのかもしれません。でも、あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。それは、人ではなく、神さまが定めたdivine destiny神意であります。ローマ122「あなたがたはこの世と妥協してはならない」と書かれています。JB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。あなたのdivine destiny神意は何でしょうか?ピリピ213「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」と書かれています。「願い」は英語の聖書ではdesireです。ビル・ジョンソンがdeは「上から下る」、sireは「父の」という意味があると言っていました。つまり自分の願望だけではなく、父なる神さまから来る願いもあるんだということです。クリスチャンになると霊的に目覚め、パウロがそうであったように「私はこのために生きるんだ」という願いが起こると信じます。あなたはそれを「無理だ。できない」と、とっくの昔に土に埋めたのではないでしょうか?この際、掘り起こしたらどうでしょうか? 神さまはあなたに願いを与えて、divine destiny神意を完成させたいと願っておられるのではないでしょうか?あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。

 車にはナビゲーターがついています。行く先を設定すると、ナビが導いてくれます。うっかり曲がるべきところを曲がらないときがあります。するとナビガールは新しい道を示してくれます。何度間違えても、彼女に逆らっても、「いい加減にしろ。もうお前の運転にはあきあきした」などとは言いません。父なる神さまも同じです。あなたに成し遂げてもらいたいdivine destiny神意を与えておられます。そのために一切の必要を与えようとしておられます。でも、私たちは時々、道を踏みはずしたり、間違えたり、迷うことがあるでしょう。でも大丈夫です。コースAがだめだったら、コースBを示してくれます。コースBがだめだったら、コースCを示してくれます。父なる神さまは「お前には失望した」とは決しておっしゃいません。世の終わりまであなたと共にいて聖霊を内側に与えて励まして助けてくださいます。自分の価値を知り、自分を育て、自分の道を走りましょう。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様の祝福がありますように。

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2015年12月30日 (水)

信仰の完成 ピリピ1:6、ヘブル12:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.1.1

 新年あけましておめでとうございます。今年また新たに年齢を重ねることになりますので、あまりおめでたくない方もおられるかもしれません。ある人が、「年を取るということは、実は年を使い果たしたということなんだ」と言いました。たとえば、砂時計を考えてみましょう。上の方の砂は神さまが定めた寿命です。60年間分下に落ちてたまりました。つまり、60年使い果たしたということです。「上の方にあとどのくらい残っているか?」です。しかし、クリスチャンには永遠の命が与えられていますので、そうがっかりする必要はありません。Ⅱコリント416「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」とあるからです。きょうは信仰の完成と題して、元旦礼拝のメッセージをさせていただきます。

1.信仰の完成とは

 果たして「信仰の完成」というのはありえるのでしょうか。ピリピ16を見ると、「神さまがキリスト・イエスの日が来るまでに、それを完成させてくださる」と書いてあります。「それ」とは何でしょうか?「救い」ともいえるかもしれません。なぜなら、私たちは霊的には救われていますが、魂や肉体はまだ不完全です。病気にもなりますし、罪も犯してしまうからです。ピリピ2章にも同じようなことが書かれています。ピリピ212「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」。この意味は、私たちがなすべきところがあるということです。もちろんキリストの贖いの面では、何もすることがありません。私たちはイエス様を救い主として信じただけで救われたはずです。しかし、救いということを点ではなく、イエス様とお会いする日までの線にしたならどうでしょうか?あるときイエス様を信じて霊的に生まれ変わりました。それから「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」(Ⅱコリント318)。つまり、信仰は救われたという点もありますが、なお救われ、完成を目指しているという継続でもあるということです。

 これを神学的には「聖化」(きよく変えられる)と言ったりします。私が最初、属していたホーリネス教団は「聖化」ということをとても強調していました。聖書のどこを開いても、「聖化」を語っていました。私は正直、「きよさ」とか「きよめ」と強調する神学は好きではありません。なぜなら、私はきよくないところから救われ、神学校で「きよめられなさい」とよく言われたからです。律法的に言われると、「いやだよ」と反抗したくなります。しかし、よく聖書を読むと、自分がきよくなるのでありません。「それを完成させてくださる」は受身形です。また、「姿を変えられていきます」も受身形です。ただし、ピリピ212「自分の救いの達成に努めなさい」には、自分のやる分もあるということは分かります。とにかく、救いが恵みであるように、「聖化」(きよく変えられる)ことも恵みだということです。「聖化」という表現の他に、霊的成長、内面の成長、あるいは霊性の成熟と言う言い方もあるでしょう。どれも好きじゃないですね。霊だけが大切で、他はいらないという感じがするからです。私たちは肉体も魂も持っているからです。

 私はそれよりも「自分の世界の成長」こそが「信仰の成長」ではないかと思っています。ここでも何度も申し上げたことがあります。「私たちの生まれつきのコア世界観は脆弱で直してもしょうがない、新しいコア世界観に取り換えるしかないんだ」と言いました。「脆弱」なんていうと、日曜学校の子どもには全く分からないですね。分かりやすく言うと、私たちの生き方を決める、信念というものが心の奥底にあります。考えや価値観の塊みたいなものです。桃とか梅を考えると、やわらかい果肉は「考え」「ものの見方」「世界観」です。しかし、それを生み出しているものがあります。それが固い種(コア世界観)です。ある人は頑固で決して変わろうとしません。またある人は硬いけれどもガラスのように壊れやすいかもしれません。またある人はフヤフヤして人や環境に支配されているかもしれません。どれもこれも、神さまから与えられた自分の人生を生きていない人であります。つまり、固い種(コア世界観)の部分を新しい別なものに取り換えること、これがローマ12章の「心の一新によって自分を変える」ということです。

 私は今から6年くらい前に、李光雨師からカウンセリングを受けて、新しいコア世界観に取り換えました。古いコア世界観がAだとすると、今はコア世界観Bで生きています。こういう話を聞くと、私は賛成できないという人もいます。そうでしたら、エペソ4章で説明しても結構です。まずパウロは「心の霊において新しくされなさい」と言っています。これは、イエス様を信じて霊的に生まれ変わるということです。その次に、情欲など罪に染まっている「古い人を脱ぎ捨てよ」と言われています。その後、「義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人を身に着けなさい」と言われています。「新しい人」こそ、新しい考え、私が言う「コア世界観B」です。私は25歳で霊的に生まれ変わりましたけど、心の核が脆弱だったために、不安と恐れに支配されていました。だから、いくら信仰的な考え、積極的な考えを身に着けても全部はじき返してしまいます。たとえ、聖会や修養会、○○キャンプに行っても、もって3日です。1週間たつと元の木阿弥です。もちろん、いくらかは成長していると思います。でも、一番奥底にあるコア世界観が弱いままでした。しかし、いろんな苦しみや試練を受けたど真ん中で、「ああ、古いコア世界観はどうしようもない、新しいコア世界観に取り換えよう」と決心しました。それから、聖書のみことばや積極的考えがどんどん身に付き、私の世界観が丈夫に太ってきました。別な言い方をすると「内なる人」が健康で丈夫になったということです。内面のことなので、いろんな表現や体験はあるかもしれません。しかし、共通して言えることは、恵みによって「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくんだ」ということです。

2.どのように完成されるか

 私たちの内なる人、つまり霊的な成長がどのようになされるか?言い換えると、神さまはどのような方法で、どのようなもので、私たちの内なる人をきよめ、作り変えて、そして完成させてくださるのでしょうか?私たちはイエス様を信じて霊的に救われ、永遠の命が与えられました。しかし、神さまはこの地上において、私たちがなすべきことを2つ用意しておられます。1つはこの地上においてあなたに成してもらいたい事があるということです。英語ではミッション、日本語では使命と言います。使命とは「命を使う」と書きます。あなたは何を成し遂げるために自分の命を使っているでしょうか?それが神さまのご目的、神さまの御心にあったものだったら幸いです。2つ目は私たちの内なる人の成長、霊的にイエス様と似たものになる、聖化されるということです。でも、私の表現で言うならば、自分の世界を完成させるということです。コア世界観Bが健康で成長し、神さまがお与えになった自分の世界を完成させるということです。何度も言いますが、表現は自分にあったもので結構です。私が言う世界観で躓いたら、別の言い方にしてください。信仰的な成長、霊的成長なんでも良いです。

 私が自分の霊的成長を一番妨げているものは何でしょう?他のだれでもない、自分の魂なんです。自分の魂こそが、神と敵対し、使命を全うさせないばかりか、栄光から栄光へと変えることを妨げているのです。私が言う魂というのは、アダムが罪を犯したあと肥大化してしまった心のことを言います。創世記3章にありますが、食べてはならないと言われていた「善悪を知る木」からアダムとエバが実を取って食べました。創世記37「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」と書いてあります。「目が開かれた」なら良さそうなものではないでしょうか?そうではありません。これは霊的に死んで、魂が異常に太ったということです。これまではアダムは、霊的に神さまと親しく交わり、善悪の判断はすべて神さまに聞き従ってきました。ところが、善悪を知る木の実を食べるということは、神さまではなく、私が善悪の判断をするということです。これは自分が神さまになるということですから、まさしく神さまへの反逆行為です。実はアダム以来の人類は、魂が異常に発達し、神さまなしで生きられるという性質があります。この世の人は、霊的に死んでおり、神さまなしで自分の考えや願いで生きています。しかし、クリスチャンになると霊的に生まれるので、神さまとの交わりが回復します。しかし、同時に自分の霊と自分の魂との戦いが始まります。このことはパウロがローマ7章、ガラテヤ5章に書いてあります。ガラテヤ517「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」

 クリスチャンの場合は、確かにアダム以来の古い人は十字架に着けられて死にました。しかし、「アダムから力を得たい」「アダムのように神なしで生きたい」という性質がまだ残っているのです。ウィットネス・リーはこの性質を3つに分けています。1つは「肉」です。言い換えると「腐敗したからだ」です。ガラテヤ5章には不品行、汚れ、好色などがあげられています。しかし、良い肉もあって、神を礼拝したり、神に仕えたりします。でも肉でやっては神さまには喜ばれません。なぜなら、肉は自分を誇るからです。2つ目は「己れ」です。これは、自分の思想や主張です。「わたし」とも言い換えることができます。聖書ではペテロ、マルタ、ヨブが「わたし」の多い人でした。3つ目は「天然」です。天然というと別な意味を思い浮かべるかもしれません。これは、生まれつきの才能や能力や賢さです。聖書では旧約聖書のヤコブがそうでした。彼は有能で策略にたけ、計画に富み、非常に才能があり、大の手腕家でした。彼はエサウから長子の権をだまし取り、父から長子の祝福を獲得しました。叔父のラバンからは策略と手腕によって、多くの群れ、はしため、らくだ、ロバを得ることができました。別にウィットネス・リーのように3つに分けなくても良いです。とにかく、私たちの魂は神さまの言うことを聞かず、頼らず、罪を犯す性質があるということです。このため、神さまは聖霊によって、私たちをきよめてくださいます。また、環境や人々を通して、私たちを砕いてくださいます。私たちのでっぱったところにノミを当て、さらにはやすりで擦ってくださるのであります。ペテロはイエス様の一番弟子でしたが、荒っぽい性格の持ち主でした。すぐかっとなるし、おっちょこちょいでした。最後にはイエス様を3度も知らないと裏切ってしまいました。でも、彼は砕かれ、擦られ、最後には大使徒として用いられました。ペテロの本名はシモン、葦という意味です。しかし、イエス様は彼の中に良いものを見出し、「お前はペテロ、岩だ」と言いました。イエス様は彼の弱さや失敗を知った上で弟子とし、また、弟子して完成させてくださったのです。ですから、神さまは、私たちを砕いてくれる出来事も許すんだということです。また、私たちをこすってくれる隣人を側においてくださいます。あなたの夫、妻、子供、同労者がそうです。他人だったら、距離をおいて会わなくてすむかもしれません。しかし、あなたの夫、妻、子供、同労者はそうはいきません。聖霊様はあなたを整えるために按排してくださるのです。つまり、私たちが神の似姿になるように、ほどよく処理をしてくださるということです。

3.何を目指して生きるか

前のポイントでは、私たちは救われていても、内側に肉という、罪を犯す傾向性があるということを申し上げました。もう1つ私たちの魂が不完全なのは、生まれた時から、いろんな傷を受けてきたからです。あるいは生まれる前から父方、母方から、不幸をもたらす咎を受け継いでいるかもしれません。自分のせいでなくて、受けたものがあるからです。自分の生い立ちが幸せでとても良かったという人は少ないと思います。イエス様を信じるとかなりの部分がいやされます。また、赦せない人を赦すことによって、心の中にいすわっていた苦い根が消え去ります。しかし、私たちには記憶があり、またトラウマの傷が残っています。だから、時々、フラッシュバックしたり、悪い思い出がぶりかえすときがあります。どういう訳か、私たちの周りに悪いものを引き出してくれる人物や環境が絶えることがありません。学校や職場を換えても、教会を換えても、あるいは伴侶を換えたとしても絶えることがありません。逆に言いますと、私たちは天国に行くまでは完全にきよめられ、完全に癒されることはないということです。でも、すばらしい希望は、たとえそういうものがあったとしても聖霊によって勝利できるということです。英語ではオーバーカムと言いますが、他にゲットオーバーと言ったりもします。つまり、ヤシの木のように嵐が来ても、たわんで乗り越えられるということです。すばらしいことにヤシの木は嵐を乗り越えるたびに、地中に根を深く張り強くなります。第一のポイントで世界観のお話しをしましたが、私たちの世界観が完成する過程にあるんだということです。神さまはこの地上において課題を与えておられるようです。それは、私たちが神さまの恵みによって、これまでの傷や痛みが癒され、栄光から栄光へと変えられていくという課題です。できればバイパスして、すぐ天国での完成を得たいところですが、あえて地上での信仰生活を残しておられるんだということです。

 そこで、重要なのが、私たちがどこを見ていくか、だれに目を注いで生きるかということです。 ヘブル121-2「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」アーメン。イエス様が肉体をもって地上にこられたのは、もちろん私たちの罪を贖い、救いの道を設けるためでした。しかし、それだけではありません。イエス様は肉体を持ちながらも、御父を見上げて、信仰を全うしたということです。イエス様は私たちと同じ肉体を持っていましたが、罪は犯しませんでした。もちろん、私たちは罪を犯しますが、それでも贖いを受けつつ、信仰を全うすることができるんだということです。イエス様は信仰の創設者、英語の聖書ではオーサー、著者と言う意味です。また、イエス様は信仰の完成者となってくださいました。この意味は、イエス様が「私ががんばったんだから、お前らも私を見習ってがんばれよ」という意味ではありません。これはイエス様が聖霊によって世の終わりまで共におられて、私たちを力つけ、導き、助けてくださるということです。これが、「神さまが救いを完成させてくださる」という意味であります。

 では、私たちは何をしたら良いのか?信仰の創始者であり、また完成者であるイエスから目を離さないということです。ヘブルの記者はこれをレースにたとえています。私たちのなすべきことは何でしょうか?第一は、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる」ということです。走っている人はできるだけ身軽に走ります。何か足に重荷をつけてひきずって走る人はいません。第二は、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続ける」ということです。私たちには神さまから与えられた自分のレースがあります。ある人は親から押し付けられたレースを走っているかもしれません。また、ある人は自分があこがれる人、理想の人のレースを走っているかもしれません。それではだめです。神さまはあなたに固有のレースを用意しておられます。あなたはイエス様とあなた自身のレースを走るのです。そして、自分の信仰、自分の世界を生きて、それを完成させるのです。今年も完成をめざしてあなた自身のレースをイエス様と共に走りましょう。

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2013年1月 1日 (火)

救いの完結   イザヤ66:18-24 

昨年度は、ペテロ第一と第二の手紙から、終りの時代について学びました。終わりの時代とは、主が再び来られて、御国を完成してくださるということです。このことは、旧約聖書のいたるところにも預言されています。きょうは、イザヤ書の一番最後から、「救いの完成」というテーマでご一緒に学びたいと思います。昨年末は、マヤ歴から「2012年でこの世は終わるかもしれない」という噂が飛び交いました。中国では宗教団体が騒動を巻き起こし、政府も鎮圧のために動いたということです。「世の終わり」ということを話すと、「ああ、またか」と人々は笑い飛ばすかもしれません。まるで、「オオカミ少年」のようであります。私たちは聖書から、世の終わりは単なる人類の滅亡ではなく、御国の完成、つまり救いの完結であると捉えるべきであります。イザヤ書によると、救いの完成に至るために、3つの出来事があることがわかります。


1.人々を集める

 イザヤ66:18-19「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」終わりの日、つまり御国が完成する時、主は「すべての国々と種族とを集めに来る」と言うことです。原文では、「すべての国民と舌」と書いてあります。舌は、いろいろな言語を話す種族であります。ウィクリフ聖書翻訳協会では、2,075の聖書翻訳を目指しています。タルシシュは地中海北部の国々であろうと思います。プロとルデは北アフリカの国々です。トバルとヤワンは小アジアの国々です。さらに、「遠い島々」とあります。遠い島々にかかる形容詞は、何となっているでしょう?「これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない」となっています。ですから、地中海沿岸の国々よりもはるかに遠い島々です。インドネシヤとかフィリピン、そして日本です。日本は古くからジパングと呼ばれてきました。マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、「ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。人々は偶像崇拝者で外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある。」とあります。日本は、西洋から見たら、あこがれの国であったわけです。なぜ、人肉か分かりませんが、台湾の原住民であったらその可能性はあります。しかし、主のうわさを聞いたこともない遠い島々からも救われる人たちが集められるとは、すばらしいことです。でも、周りの国々と比べると、かなり少ないような感じがします。

 イエスさまはヨハネ14章で何と約束されたでしょうか?ヨハネ14:3「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」準備ができ次第、戻って来られるということです。しかし、「だれでも」というわけではありません。19節に「わたしは彼らの中にしるしを置く」と書いてあります。「しるし」とは何でしょう?イエスさまを信じて、救われている人に何かの「しるし」があるのでしょうか?エペソ1章にそのようなことが書いてあります。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」アーメン。聖霊自体が証印なのか、それとも聖霊が「この人はキリストのものである」と何らかのしるしをつけるということでしょうか?このしるしは普通の人には見えません。かなり前に、稲毛浜海浜プールにCSの子どもたちを連れて行ったことがあります。普通はプールで泳ぐのですが、近くの砂浜にも行きたい人がいます。すると出入口のゲートに係り員が立って、手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬、ひやっとしますが、何も見えません。もう一度、砂浜から帰って、プールに入る時、そのゲートを通過しなければなりません。係り員が大きな虫メガネみたいなものを手にかざします。すると、見えなかったはずの、「しるし」が浮き上がってきます。おそらく、蛍光塗料の一種なのかもしれません。通常では見えませんが、ある機材を通すと見えるのです。この世においては、クリスチャンなのかどうかは外見では分かりません。世の終わり、御使いがやってきて、聖霊によって証印を押されている人たちを見つけ出します。そのとき、麦と毒麦、羊と山羊を分けるように、分けられるのです。

 私たちは世の終わりの終わりに生きています。競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。きょうは初日の出を見に多くの人たちが、海や山に行っているでしょう。夜明けになると、東の空が、赤みがかってきます。そして、明けの明星が輝いています。そのようなみことばが聖書にあります。Ⅱペテロ2:19「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」私たちは一年、一年、御国の完成の時に近づいています。御使いたちが、人々を集めるために、いつ来るのかわかりません。しかし、確かに言えることは、また一年、その日に近づいたということです。さらに、ゴールに近づいたということです。だから、いつ来ても良いように、準備をしていたいと思います。罪の中に埋没していると、御使いが取り残してしまうかもしれません。聖霊によって押された証印を、消すことのないように保っていきたいと思います。


2.礼拝に来る

 イザヤ66:23「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る、と主は仰せられる。」このみことばは、御国が完成した時の様子です。つまり、礼拝は新しい天と新しい地においても行われる、永遠のものであるということです。私たちはこの地上で、礼拝をしています。きょうは元旦礼拝です。この間、12月30日も礼拝をしました。たった2日前です。その前は、24日のイブ礼拝、23日のクリスマス礼拝をささげました。何が面白くて、クリスチャンは礼拝をささげるのでしょうか?元旦早々、教会に来るとは、なんてまじめなんでしょう?世の多くの人たちは、元旦には初詣に出かけます。ある人たちは夜明け前から、遠くの神社に出かけるかもしれません。でも、彼らは私たちのように、毎週は行かないでしょう。困った時や何か特別な行事がある時ぐらいでしょう。その点、クリスチャンはまじめです。もしろん、たまにしか来ない人もいますが…。でも、どうして礼拝をささげなければならないのでしょうか?「ささげなければならない」となると、義務的になりますが、そうではありません。礼拝をささげるというのは、特権であり、喜びなのです。なぜなら、私たちは神さまから造られ、そして神さまから贖われた存在だからです。神さまから、大きな借りがあるんです。「借り」というのも変ですが、多くのものを神さまから与えられています。この命も、家も財産も、家族も、さまざまな能力も、です。中には、「そのわりにはひどかった」という人もいないわけではありません。生まれた時から病気がちだったり、両親が離婚したり、いたのに虐待されたり、いろいろあったかもしれません。また、学校や職場では、どちらかと言うと「負け組」に入っていたかもしれません。でも、みなさん私たちが神さまから救われたということは、すべてのことが益になるのです。今まで、無目的で生きてきたのに、1つ1つに意味が与えられます。あのことがあったから、イエスさまに出会えたのかもしれません。幸せな家庭で生まれ、なんでもうまくいっていたなら、福音には目もくれなかったでしょう。人生がひどければひどいほど、救われた喜びが大きいのではないでしょうか?

 礼拝とは神さまから何かをもらう行為ではなく、ささげるものです。なぜなら、もう既に多くのものを受けているからです。目に見えないものから、目に見えるものまで、多くのものを得ています。だから、私たちは神さまに礼拝をささげるのです。聖書が書かれた時代の文脈からですが、人々がいろんなものを主の宮に携えてくることがわかります。イザヤ66:20「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」当時は、今のように車や貨車がなかったので、馬や騾馬、らくだの上に乗せて運びました。ソロモンの時代は、金や銀、宝石、さまざまな特産物でした。しかし、この箇所を良く見ると、そういうことを書いているのではありません。なんと、「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである」と書かれています。つまり、「ささげ物」はたとえであり、本当のものは別だということです。では、本当の贈り物とは何なのでしょうか?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて」書いてあります。乗せるのは物ではなく、救われた人たちであるということです。すべての国々から人々が集められます。その人たちを今度は、聖なる山、エルサレムに運んでくるということです。つまり、主への贈り物とは、金や銀ではなく、救われた人々だということです。神さまはすべてのものを持っておられる豊かなる神さまです。でも、欲しいものがあります。それは魂です。死んだ動物ではなく、生きている人々です。

 パウロはローマ12章でこのように教えています。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」このみことばからも分かるように、私たちこそが、もっとも価値ある贈り物なのです。私たちが救われたからだを、このように神さまのところに運んでくる、これが礼拝なのです。でも、神さまは何とおっしゃっているでしょう?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として」とあります。神さまはどこかの国だけではなく、すべての国々から来るように願っておられます。そして、「あなたがたの同胞をみな」とあります。ということは、ここに集まっている人たちだけではなく、私たちの同胞がみな、主の前に来ることを願っておられるということです。私にはまだ救われていない肉の兄弟がたくさんいます。私も今年で60年になりますが、兄や姉もけっこうな年になっています。私も何度かアプローチしてきましたが、興味を持ってくれません。牧師として恥ずかしい思いがします。でも、この新しい年、もう一度、奮起して肉の兄弟にもアプローチしていきたいと思います。どうぞ、私たちが住んでいる地域の人たちも、そのターゲットに当てたいと思います。コリントの町はとても汚れた町でした。でも、神さまは何とおっしゃったでしょう?使徒18:10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。…この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われました。ですから、日本のこの町にも、神さまの救いを受けるべき民がたくさんいるということです。


3.さばきがある

 ここに、救いと滅びとの明暗があることが分かります。イザヤ66:24「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」イザヤ書の一番最後が、さばきで終わっています。一方は、御国において、永遠のいのちをいただいています。しかし、もう一方は地獄において、永遠のさばきを受けるのです。私が赴任して、まもない頃です。役員会の中で、地獄があるかないか、議論されました。議論というよりも、自分の信仰を分かち合うときがありました。2人の方が、「地獄はないと思う」とはっきりおっしゃいました。「どうしてですか?」と聞くと、「愛なる神さまが地獄を作るわけがない。最後にはみんな救われるんだ」と言われました。私は「どう答えようか」と少々熱くなりかけていました。そこに、役員ではありませんが、オブザーバーとして山崎長老さんが同席していました。山崎さんは「聖書に書いてあるから地獄はある」とはっきりおっしゃいました。私は「さすがだなー」と感心しました。このイザヤ書66章と同じことばをイエスさまが福音書で語っておられます。マルコ9章から少し長いですが引用させていただきます。マルコ9:43-48「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」イエスさまはこのところで、「片手や片足を切り捨ててでも、地獄を避けて、御国に入りなさい」と教えています。ゲヘナとは地獄のことです。ゲヘナの火は消えることがありません。不思議なことに、そこには肉体を食べるうじもいるということです。しかばねのままで、永遠に生きるということです。イエスさまは、地獄があることをはっきりおっしゃっています。だから、あるのです。

 昨年末から、「救い」に関して学んでいます。救いにはいろんな意味があることを学びます。でも、みなさん、窮極的な救いとはどういうものでしょうか?罪が赦される、肉体が癒される、心が解放される。それらもすばらしいことだと思います。でも、窮極的な救いとは、永遠の滅び、地獄からの救いではないでしょうか?本来は滅びて当然だったのに、救われて永遠の御国に入る。何とすばらしいことでしょう。そう考えると、地上で不公平を味わったとか、病気で早く死んだというのは関係ないですね。たとえ、この世で、若くして死んでも、向こうには永遠があります。ジョエル・オースチンの本に書いてありました。5歳の娘が不治の病にかかりました。ご両親はどうしようもできず、本当に心が痛みました。いよいよ、娘さんはこん睡状態に入りました。ご両親は、「ああ、もうダメだな」と愕然としました。すると、娘さんは目をぱっちり開けて、こう言いました。「『イエスさまがね、こっちへ来て良いよ』と言ってくれたよ」。その直後、息を引き取りました。その一言で、ご両親は、本当に励まされたそうです。永遠の滅びから永遠の命こそが究極の救いであります。私たちには死後、さばかれないで、住むべき永遠の御国があるのです。たとえ全世界を得たとしても、永遠をなくしたなら、何の儲けがあるのでしょう。

 元旦そうそう天国と地獄の話もないかもしれません。もっと、希望を与える爽やかなメッセージを期待して来られた方もおられるでしょう。私はあまりDVDは見ませんが、年末年始は、DVDをたんまり借りてきて、おうちで映画を見る方もおられるのではないでしょうか?大体、DVDの映画というのは、映画館かテレビで一度見たものです。007にしても、ミッション・インポッシブルにしても結末を知っています。この人は死なない、ハッピーエンドで終わるのが分かっています。それでも、また見ます。一番最初に見た時よりも、はらはらドキドキ感はないです。でも、楽しむことはできます。今日、学んだ箇所は、「救いの完結」という一番最後の部分です。「ああ、自分の人生は、最終的にはこっちなんだなー」と分かるとどうでしょうか?「この先、病気や事故、いのちの危険にさらされることがあっても、まぁ、いいか?」となるでしょう。だって、最後は永遠の御国、ハッピーエンドなんですから。正しい歴史観は、結末の部分から時間をまきもどすことです。何年か何百年かわかりません。DVDを戻すように、2013年まで戻すんです。おそらく今は、競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。私たちはそういう時代に生かされているのです。ということを知りながら、この新しい年も生きるのです。みなさんは何歳になるのか分かりませんが、この地上の命はそんなに長くありません。でも、短いからと言って、粗末にしてはいけません。永遠と比べたなら本当に一瞬です。まばたきの瞬間くらいです。本当に短いんです。だったらみなさん、不平不満を言っている暇はありません。自分の境遇や環境を呪う暇もありません。リストラされたとか、人間関係がうまくいかないとか、借金で首がまわらないとか、確かに大変です。この世では勝ち組と負け組があるようです。ひょっとしたら、自分はこの世では負け組に入っているかもしれません。でも、イエスさまを信じて、永遠の御国をいただいていたら、どんな人でも勝ち組の中に入ります。地獄ではなく、永遠の御国をいただいている人は、勝ち組に入っているのです。この世でどんなに成功して、どんなに幸福であっても、最後は滅びであったら、負け組です。クリスチャンはこの世でどんな生活であったとしても、主にあって勝ち組に入っているのです。人生をそこから始めましょう。マイナスから始めるのではなく、プラスから始めるのです。私たちは、何をしても、どんな小さなことでも、プラスになるのです。ある人が数学の話をしました。ここに、マイナスの人生を歩んでいる人がいたとします。すごいマイナスです。でも、この数字をかっこでくくり、その前にマイナスをつけるとどうなるでしょうか?マイナス、かっこ、マイナス○○です。なんと、マイナスがひっくり返ってプラスになります。私たちクリスチャンはこの地上でマイナスの時があても、神さまが常にプラスになるように働いてくださるのです。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」


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2011年1月 1日 (土)

2011元旦礼拝 「心を新たに」 ローマ12:1,2

クリスチャンとは霊的に新しく生まれた人です。つまり、神さまとの関係が回復し、罪から離れ、新しい道を歩む存在です。しかし、パウロはクリスチャンに対して、「心を新たにせよ」と命じています。ギリシャ語では、心はヌースになっています。直訳するなら、「考え、思い、マインド」です。イエス様を信じて救われたはずなのに、考え方が昔のまんまだたりします。私たちは日常生活においていろんな出来事に遭遇します。自分の思うとおりに進むこともありますが、あるときには、思いがけないことが起こったり、不当な扱いを受けたりします。そのとき、通常よりも激しい感情が噴出してきます。怒り、憎しみ、悲しみ、恐れ、無力感に支配され、しばらくは、自分の意思ではどうすることもできません。これを過剰反応と言います。心の中に、地雷みたいなものが埋まっており、だれかが、そこを踏むとドカンと爆発します。そのため、周囲の人たちも少なからず被害を受けます。みなさんが、こういうので縛られてはいませんでしょうか?これを束縛されたライフ・スタイルと言います。せっかく、新年を迎えたのですから、新しい年、解放された道を歩みたいですよね。

1.コア世界観を特定する

 理不尽な出来事が起こったとします。それを私たちは自分の「考え」で捉えます。その後、感情が起こるのです。さらに、身体反応、行動が続きます。多くの人は、出来事が起こったら、感情が直ちに起こると考えています。そして、その感情をなんとかしようとします。「怒ってはいけない、嘆いてはいけない、恐れてはいけない、落ち込んじゃいけない。」しかし、それは無理です。感情というのは中立的な存在で、車のメーターみたいなものです。車には速度計、回転計、温度計などいろんな計器がついています。温度計が高いのを見て、針を手で下げても無駄なことです。たぶんラジエターに水がないので、エンジンが熱くなっているのでしょう。同じように、「怒ってはいけない」「恐れてはいけない」と自分の意思でメーターの針を下げようとしても無理なのです。そういう感情が生まれるのは、ある考えや思いがあるからです。もし、その考えや思いを変えるならば、感情も変わるはずです。ある出来事に対して、一瞬何かを考え、その後、感情が起こるのです。症状が重くなると、身体が震えたり、夜眠れなくなります。しまいには、外に出られなくなったりします。そうなったら、○○症候群とか、何らかの病名がつけられるでしょう。現代人の多くの人が、様々な心身症に悩んでいます。お薬で症状を緩和することも可能ですが、根本的な解決策は、考えを変えることです。考えを変えたら、感情が変わり、身体反応や行動も変わってくるのです。これを世の中では認知行動療法と呼んでいます。

 そこで、もう1つ新しいことばを用いなければなりません。それは世界観ということばです。その人のものの見方、考え方を世界観と呼びます。世界観とはめがねレンズのようなものです。出来事をゆがめたり、色をつけたり、フィルターをかけてしまいます。同じ出来事でも、人によって捉え方が全く異なってしまうのはそのためです。つまり、世界観がものすごくゆがんでいるため、束縛されたライフ・スタイルを強いられてしまっているのです。多くの場合、まわりの人々や状況をコントロールしようと躍起になります。挙句の果、うつになるか、燃え尽きます。そうではなく、あなた自身の、ものの考え方、世界観を変えるべきなのです。これが、パウロのいう「心を一新せよ」ということなのです。でも、ものには順番があります。私たちのものの考え方、世界観はそう単純ではありません。いくつかの要素が組み合わされています。カウンセラーはその人の話を聞きながら、どれが一番、支配的なものかさぐっていきます。つまり、世界観の核(コア)になっているものは何かを探すということを優先します。では、そのコア世界観はどのようにして知ることができるのでしょうか?「その人が何に困っているのか?」30分くらい耳を傾けていますと、あるきまったフレーズが出てきます。本人は気付いていないかもしれませんが、一定のことばが連発して出てきます。たとえば、「妹がこう言って馬鹿にした」「教会のみんながこう言って馬鹿にした」「牧師も私にこうしなさいと一方的に言った」。私たちはその人の心の叫びを聞くことができます。その人の心の叫びは「私を馬鹿にするな。自分を認めてくれ!」ということです。この人は人々から馬鹿にされ、認められていないので、怒りと復讐心に満ちています。もし、この人に何か欠点を指摘したなら、「どっかん!」と反発を食らうでしょう。では、この人のコア世界観は何でしょうか?この人はセルフイメージの問題を抱えています。この人のコア世界観をひとことで言うなら「私のセルフイメージは深く傷ついている」ということです。

 心の叫びとコア世界観は密接につながっています。あなたは自分の世界が壊れそうな出来事に遭遇するときがあるでしょう。「自分の世界が壊れる」あるいは「自分の魂が壊れる」でも、良いかもしれません。数ヶ月間、振り返って、自分の世界が壊れかかった時はないでしょうか?ある人があなたにこう言った。ある人があなたにあることをした。ある人があなたになすべき責任を果たさなかった。ある人があなたの権利を奪った。ある人があなたの大事なものを奪った。そのとき、あなたの心の中から「ばぁー」と心の叫びと共に、ある考えが湧きあがって来ます。私たちは無意識で、そうやって生きて来たのです。もう、何十年も繰り返してきたので、1つのパターンになっています。だから、私もあなたも、自動的に反応するのです。分からない人は、1週間の心のダイヤリーを付けたら良いでしょう。特定の出来事、浮かび上がった考え、何らかの感情、身体反応…。1ヶ月くらいやると、自分でも分かってきます。私たちは無意識で何かを口ずさみ、無意識で何かを叫んでいます。それをつかまえて、自分のコア世界観が何かを特定します。コア世界観は大体ワンフレーズ、ひとつの短い文章でまとめることができます。たとえば、「果たすべき人が責任を果たさないと私は壊れる。」「拒絶されると私は壊れる」「不当な扱いを受けると私は壊れる」「思い通りに事が進まないと私は壊れる」「低く見られると私は壊れる」。すると、「ああー、自分が抱えているテーマはこれなんだなー」と特定することがとても重要です。

2.埋め合わせ対処行動

 本来なら、自分の世界を知り、心の叫びを完了させるべきです。そうすれば癒されることができるのですが、そうしないで、その代わり何をするのでしょうか?埋め合わせ対処行動を取ります。「失敗したので、次はもっと頑張ろう」「怒ってしまったので、その変わり優しくしよう」「もう、あの人には近づかないようにしよう」「これからは、人に頼らないで自分でやろう」。そういう風に、決断したり行動したりします。また、私たちは時々、「貢ぎ」と呼ばれる行為をします。このことばは李光雨師がつけた言い方ですが。他の用語も、ほとんど李光雨師のものを拝借していますが。貢ぎというのは、「私の世界をこれ以上、壊さないでね」と自分自身あるいは物などと、ささげる行為です。たとえば、自分のことをいつも悪く言う上司がいるとします。上司に、「私のことを悪く言うな!正しく評価しろ!」とは言えません。その代わり何をするでしょうか?礼儀作法を正しくしたり、上司から頼まれたことは一生懸命やろうと努力します。とにかく、上司から気にいられるように頑張る。これを貢ぎと呼びます。自分よりも立場の弱い人には、そうではありません。でも、自分の世界を脅かすような人物には近づかないか、あるいは貢いで「私の世界をこれ以上、壊さないでね」と自分を差し出す。これはどちらも、埋め合わせ対処行動です。これは、あくまでも埋め合わせなので、本当の解決にはなりません。

また、私たちは自分を支えてくれる資源を求めます。現実があまりにも辛いので、そこを乗り越えさせてくれるサポート資源です。ノンクリスチャンであるなら、カラオケに行ったり、ぱーと飲んだり、しばらく楽しいことに没頭する。もし、クリスチャンであるならどうするでしょうか?牧師先生に相談する。そして、祈ってもらったり、励ましてもらう。教会によっては、牧師や牧師夫人がサポート資源として消費されている場合があります。あるいは、クリスチャンだったら神さまや聖書に求めるでしょう。「主よ、私の心の傷を癒してください」「主よ、どのような試練に会っても乗り越せさせてください」「主よ、人ではなくあなたに信頼しますので助けてください」「私は赦しますが、神様、どうかあの人を裁いてください」「今後はみことばに従いますので、私を支えてください」。そうすると、どかんと爆発していた感情がおさまります。やっていることはとても正しく見えます。でも、悪循環パターンは解決していません。火山は一度、噴火すると、しばらくはおさまります。でも、どうでしょう?地下でマグマがだんだん溜まってきます。いままではこらえてきたかもしれません。でも、ある日、突然、どっかーんと爆発してしまいます。何が原因なのでしょう?元になる考えや世界観を変えていないからです。嫌いな人から逃げたり、貢物を納めていても、いつしか限界がやってきます。なぜなら、世の中は自分が望むように回ってくれないからです。いつしか「なんで私が責められるの」「どうして私がこんな目に?」「俺のせいじゃないよ」…必ず、その日がやってきます。それを繰り返しながら、天国に行く方法もありますが、それを解決して残りの人生を気持ちよく生きる方法もあります。

3.心の叫びの完了

 この次は癒しの段階です。どうすれば、あなたのコア世界観が癒されるのでしょうか?それはあなたの心の叫びを完了させることです。しかし、多くの人はそれをしないで、埋め合わせ対処行動をして、しばらくはおさまり、また、しばらくすると爆発するかひどい落ち込みを経験します。牧師や神さまを消耗品に利用しないで、あなたのコア世界観を癒さなければなりません。第二のポイントで心の叫びがあるということを申し上げました。その心の叫びを一番、最初に叫んだのはいつのときでしょうか?あるいは、あなたが一番、最初に自分の世界が壊れそうになった時はいつごろでしょうか?そのときのエピソードを思い浮かべましょう。多くの場合、それが起きたエピソードは、あなたが幼い時に遡ります。なぜ、あなたはそんなに怒っているのでしょう?なぜ、あなたはそんなに深く傷ついたのでしょうか?たとえば、お父さんとあなたの関係です。お父さんは家庭を正しく治める責任があります。しかし、そのお父さんが家庭や自分を顧みなかったので、自分はひどい目にあった。そういう人は「いい加減にしないで、ちゃんと責任を取ってくれよ!」という心の叫びがあります。また、あなたのお母さんは「良い子じゃなければ、うちの子じゃない。勉強ができなきゃ、うちの子じゃない」とあなたを拒絶したかもしれません。そういう人は「私をありのままで受け入れてほしい」という心の叫びがあります。また、だれかがあなたの大事なものをあなたから奪い取ったとします。そういう人は「元通りに弁償してくれ。ちゃんと謝ってよ」という心の叫びがあります。あなたはこれまで、当人もしくは、第三者に同じようなことを求めてきました。立場の似ている人、あるいは伴侶、あるいは親しい人に。しかし、それは不可能です。あなたの心の叫びを完了してくれる方は、主イエス・キリストしかいません。イエス・キリストはきのうも、きょうもとこしえに変わらないお方です。イエス様はあなたの過去のいまわしい出来事に訪れてくださり、心の叫びを受け止めてくれるお方です。

 では、聖霊様の助けを借りて、あなたの世界が壊れた状況を思い起こしましょう。できたら、目を閉じて、何があったのかそのエピソードを思い出してみましょう。では、お祈りの中で、イエス様をその場面にお招きしましょう。ずっと、今の年齢から遡ってみましょう。あなたが小学校の頃はどうでしたでしょう?どんなことがあったでしょう?もう少し遡って、小学校に入る前後はどうだったでしょう?記憶がほとんどない、2,3歳の場合もあるかもしれません。あなたの世界を壊すような出来事はなかったでしょうか?お父さんはあなたに何をしたのでしょう?何かあなたに強い口調で言ったでしょうか?あるいは、お父さんはすべきことをしなかったのでしょうか?お母さんはあなたに何をしたのでしょうか?何かあなたにうるさく言ったのでしょうか?あるいは、お母さんはあなたが求めることをしてくれなかったのでしょうか?あなたの兄弟はどうでしょうか?お兄さん、お姉さん、弟、妹はどうだったでしょうか?あなたの人権を攻撃したでしょうか?学校の先生はどうでしょう?自分が悪いことをしていないのに、罰せられたかもしれません。何かひどいことを言われて、自尊心を傷つけられたでしょうか?友だちはどうでしょうか?自分をいじめた憎たらしい人はいないでしょうか?自分を馬鹿にした人もいたかもしれません。あなたはどんな表情をしているでしょうか?泣いていますか?握りこぶしを握って怒っているでしょうか?恐くて隠れているでしょうか?もう、心を閉ざして、だれも信じないと誓ったかもしれません。もう、生きる希望を捨てて、あきらめたかもしれません。そのところに、イエス様をお招きしましょう。イエス様にとって、過去も現在もありません。あなたのところに行って、あなたと出会ってくださいます。どうそ、「イエス様、あなたはどこにいらっしゃるのですか?」呼んでください。かならず、どこかにいらっしゃいます。イエス様は「私も気の毒に思うよ。私も残念に思うよ」と言ってくださるでしょう。あるいはイエス様は「私が弁償してあげるから、大丈夫」と言われるかもしれません。どうぞ、イエス様のお声を聞きましょう。イエス様はあなたの心の空洞を埋めてくださいます。あなたの心の叫びを完了してくださいます。アーメン。こういうのを自分の部屋でもやっても結構です。また、信頼のおける人から祈ってもらっても良いでしょう。

4.Bコースで生きる。

Bコースで生きるとは、新しい世界観で生きるということです。心の叫びが満たされたら、こんどは、新しい世界観を持たなければ、逆戻りしてしまいます。あなたのこれまでのコア世界観をAとします。「自分は○○をされると壊れる」という世界観です。こういう思いが深いところにあると、似たような状況が起きた時、自動的に反応してしまいます。そうではなく、コア世界観を別のものにしましょう。新しい世界観、Bに取り替えるのです。これをBコースとします。あなたはこれからAコースでなく、Bコースを生きるのです。血液型ではありません。これまでの古いコア世界観Aから、新しいコア世界観B、Bコースを生きるのです。Bコースって何でしょう。Aの反対です。あなたは以前、「果たすべき人が責任を果たさないと私は壊れる」という世界観を持っていたとします。Bコースは「果たすべき人が責任を果たさなくても私は壊れない。なぜなら、神さまが責任を取ってくれるから」。「拒絶されると私は壊れる」という世界観を持っていた人はどうでしょう?「私は拒絶されても壊れない。なぜなら、神さまが私を完全に受け入れていてくださるから」です。「不当な扱いを受けると私は壊れる」という世界観を持っていた人はどうでしょう?「私はたとい不当な扱いを受けても壊れない。なぜなら、神さまが正しく扱ってくださる、報いてくださるから」です。「思い通りに事が進まないと私は壊れる」という世界観を持っている人はどうでしょう?「思い通りに事が運ばなくても私は壊れない。なぜなら、神さまが真の支配者で、もっと良い方向へ導いてくださる」からです。「低く見られると私は壊れる」の人はどうでしょう。「私は低く見られても壊れない。なぜなら、私は主にあって高価で尊い存在だから。人から評価されなくても、神さまが私を正しく評価してくださる」アーメン。

これは世の心理学者やカウンセラーにはできないことです。なぜなら、彼らは神さまを信じていないからです。私たちの場合は、主にあって、新しい世界観を持てる根拠があります。ある人は、被害者意識、自己憐憫で支配されていたかもしれません。傷が膿んでいて、ちょっとでも触っただけで跳ね上がるような痛みを感じていたかもしれません。でも、主にあってあなたはもう壊れないのです。被害者意識と自己憐憫というAコースを捨てて、Bコースを選択するのです。どんなコースでしょうか?人生は障害物競走である。私はしなやかに障害物を乗り越えることができる。英語ではovercomeです。私はかしこく障害物を通り抜けることができる。昨年のゴスペルコンサートで、スペシャルギフトを賛美しました。その中に、He was brought me through、「主は私を通り抜けさせてくださった」とありました。みなさん、障害物競走で走ったことがありますか?網もありますよ。平均台もあるし、跳び箱もあります。オリンピックでは水たまりもあります。かつてのAコースだと、「どうしてこんなことが私だけに起こるの?」と嘆いていたかもしれません。新しいBコースだと、「障害が起こっても私は壊れない。障害があるから人生は楽しい。主が乗り越えさせてくださるから」となります。実際、何もないよりも、傷害を克服して成功した方が何倍も楽しいでしょう。それだけではありません。障害を乗り越えたことによって、私たちの技術が向上します。そして、私たちの品性も向上します。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」(ローマ5:4)とあります。みなさん、私たちがBコースを歩んだとしても、これまでの状況や環境は変わりません。同じように不当な扱い、厳しい批判、とんでもないことに巻き込まれるかもしれません。私たちは環境は人々を変えることができるでしょうか?これは変えられません。変えられるのは私たちの世界観、心構えです。

コア世界観のAコースとBコースがあります。これは途中から変えることはできません。出来事が進んだら、もう進路を変更できません。なぜなら、これはコンピューターのOSみたいなものだからです。OSとは、すべてのソフトを動かす基本的なソフトです。たとえば、私はWindows XPで立ち上げたら、XPで行くしかありません。でも、Windows7で立ち上げたら、Windows7で他のソフトもみんな動きます。同じパソコンなのに、全く別ものになるのです。一度立ち上げたら、途中から切り替え不可能です。どうでしょう?従来のAコースで行きますか?そのOSはとても脆弱で、バグがあり、時々、フリーズ(止まってしまいます)。本当に欠陥品です。どうぞ、新しいBコースと取り替えましょう。これはより高度で、いろんな作業もできます。もし、あなたが新しいコア世界観を持つなら、今度は、より積極的な思考や能力をそこに加えていくことができます。多くの人は外側ばかり変えようと失敗して、もとの木阿弥になりました。もっても3日です。でも、新しいコア世界観を持てば、いろんなものを吸収して成長していくことができます。主の恵みによって心を一新させていだだきましょう。そして、新しい年もイエス様と共に恵みの中を歩みましょう。

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2007年1月 1日 (月)

あなたは何を想うか       出エジプト20:1-6 

 新年明けましておめでとうございます。「一年の計は元旦にあり」といいますが、一年を礼拝から始められることはすばらしい特権であります。礼拝とは神様との交わりであります。きょうは、「あなたは何を想うか」と題して、神様との交わりについて学びたいと思います。

神様はあなたの生活において、他の神を持つことを望んでおられません。神様はあなたと親しい関係を持ちたいのです。十戒の第一番目の戒めは何でしょうか。出エジプト20:3に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。日本語の聖書ではよくわかりませんが、原文を直訳しますと「私の顔の前に、ほかの神々があってはならない」となっています。「顔の後ろ」とか、「顔の横」でもなく、なぜ、「顔の前」なのでしょうか。神様は、あなたと向き合っている親しい状態を望んでいるからです。もし、神様とあなたの間に、他のものが入ってきたらどうなるでしょうか。それが妨げになって、神様はあなたが見えません。同時に、あなたも神様を見ることができません。神様とあなたの間を妨げるもの、これが偶像なのであります。でも、あなたは「私は仏像とかお稲荷さんを拝んでいませんよ」とおっしゃるかもしれません。では、十戒の第二番目の戒めはなんでしょうか。20:4「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」と書いてあります。「どんな形をも造ってはならない」は、原文では、「どんなイメージも造ってはならない」です。だから、単に彫られたものだけを意味しません。それは、あなたの想像力ということです。あなたの想像力から、偶像礼拝が始まることがあるのです。本日の説教は、「あなたは何を想うか」という題ですが、これは「あなたは何を想像するか」ということです。人が何を想っているのか、外からは分かりません。でも、神様はご存知です。

旧約聖書のエゼキエルは、幻のうちに、神様からエルサレムの神殿に連れていかれました。神様は「1つの穴から入って、その神殿の中に何があるかを見なさい」と言われました。エゼキエルは霊によって、神殿の中に入りました。エゼキエル8:10-12「私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、・・・その手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。・・・あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている」。エゼキエルはびっくりしました。外側から神殿を見ると、立派ですばらしいものでした。ところが、神殿の壁を通り抜けて、中に入ってみると様々な像が壁一面に彫られていました。エルサレムの長老たちが、壁に描いた絵や彫られた偶像を拝んでいたのです。しかも、彼らは「主は私たちを見ておられない」とうそぶいていました。では、新約聖書で神殿とは何でしょう。使徒パウロは、Ⅰコリント6章で「私たちの体は神の宮、神殿である」と言いました。外側からは立派なクリスチャンに見えるかもしれません。でも、神殿の内側、暗い所の部屋はどうでしょうか。すべての人は、自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは何か。このプライベートな部屋こそが私たちの想像です。だれも、他の人は見ることが出来ません。そのプライベートな部屋の中に、多くの石像があります。想像の中のスクリーンに様々なものが映されています。私たちは「主はご存じない」と言っているかもしれません。でも、神様は神殿の中に偶像があることを好まれません。

なぜ、人間は罪と汚れに満ちているのでしょうか。それは、十戒の1番目と2番目を守らなかったからです。使徒パウロは、ローマ1章で「すべての罪と汚れは、偶像礼拝からである」と言っています。ローマ1:21-24「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」。「その思いはむなしくなり」は、英語の聖書では「彼らのイマジネーションがむなしくなり」となっています。つまり、神様を神様としてあがめず、感謝もしないために、想像力がむなしくなった。さらに、様々な偶像と取替えたために、神様はその心の欲望のままに汚れに渡されたということです。日本人の多くは、元旦から三が日にかけて初詣に出かけます。これは立派な偶像礼拝です。昨年は子供のいじめや自殺、政治家や企業の不正が目立ちました。学校の教師や警察官も信用できなくなりました。警察官がストーカー行為をしていました。世の中の評論家がどう言おうと、私は聖書からはっきり申し上げることができます。日本人はまことの神をあがめず、感謝もせず、かえってそのイマジネーションがむなしくなっています。実際、心の中で何を想像しようが、警察は取り締まることができません。いくら、刑罰を厳しくしても駄目なんであります。臭いものは元から絶たなければ駄目なんであります。私たちクリスチャンも、何を想うか、何を想像するかということが、とても重要であります。

イエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。マタイ6:22-23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。イエス様は6:22で「からだのあかりは目です」と語られました。この目とは何でしょうか。エディ・レオ師が昨年の6月に当教会に来られましたが、「目とは想像力である」と教えてくださいました。ですから、もしあなたの目(想像力)が健全ならば、あなたの全身が明るくなります。しかし、あなたの目(想像力)が悪ければ、あなたの全身が暗くなるでしょう。つまり、あなたの想像力が、あなたの人生を決定していくということです。想像力はとっても力があります。1つ想像してみましょう。私がレモンを取り出し、ナイフで二つに切って、片方をあなたに渡します。あなたはそれを口に入れて絞りますよー。「ああー、すっぱい」。もう、想像しただけで、顔がゆがみますね。では、あなたを傷つけたことのある人の名前を、私が言ったらどうなるでしょう。とたんに、悲しみや怒りが湧き上がってくるでしょう。過去に受けた恥や失敗、拒絶がトラウマになり、その想いから離れられない人もいます。ぬぐっても、ぬぐっても、その想いがやってくる。もし、そういう否定的なことをいつも想っているならば、あなたの人生は間違いなく、暗くなるでしょう。また、男性にとっては、性的なことに対する想像が、けっこうヤバイ分野になります。雑誌とかビデオ、インターネットで見た映像が離れないということがあります。一方、女性は持ち物とか着る物です。だから、ショッピングが好きです。また、ロマンチックな映画を見て、その中のヒロインになることを想像するでしょう。おばさんたちの、韓流ブームはそういうとこから来ているかもしれません。一見、こういう想像は悪いようには思えません。しかし、それがいつの間にか、神様と自分との間に入り込む偶像になってしまいます。つまり、過去のトラウマ、欲望、映画スターも偶像になるのです。偶像をアイドルと言いますが、何らかの関係があるようです

私たちの思い(thinking)と、想い(imagination)は、たえず悪魔の攻撃にさらされています。私たちの想いを空っぽにすることは不可能です。よく、「座禅で無になるように」と言われます。でも、煩悩を消すことは不可能です。ある心理学者が統計を取りました。男たちが、セックスのことを考えるのはどのくらいの頻度だろうか。もし、男性が仕事をしないでくつろいでいる時、セックスについてどれだけ考えるだろうか。1日に240回。睡眠時間8時間を引くと、4分に1回の割合。男性はたくさん、こういう誘惑を受けます。朝、目が覚めて、カレンダーを見る。「ああ、奇麗な女性がいる」。トワェーン、第一のイメージ。そして、ジョギングをする。ああ、奇麗な娘が通りかかった。トワェーン、第二のイメージが生み出される。木を見でも、「ああ、何とこの木はセクシーなんだろう」と思う。第三のイメージ。マルチン・ルターはこのように言いました。「誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものである。頭の上を鳥が通り過ぎることを妨げることはできない。それは鳥の権利であり、防いでもだめである。しかし、鳥があなたの頭の上に巣を作ることは避けることができる」。性的な誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものです。では、誘惑がやって来たときどうすれば良いでしょうか。誘惑は追い出しても、またやってきます。汚れた想いと戦っても、勝利することは不可能です。そうではなく、汚れた想いがやってきたとき、イエス様を礼拝するときに交換すれば良いのです。トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。4分後、トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。こう考えると、男性は1日に主を240回も礼拝するチャンスが与えられているということです。男性の方は、自分が男性に生まれてきことを感謝しましょう。女性はこのような機会がありません。ハレルヤ!私たちは誘惑が来る、来ないに関わらず、積極的に神様と親しく交わる必要があります。

 私は新年には、必ずと言って良いほど、みことばを瞑想すると言うことを申し上げています。詩篇1:2、3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあるからです。この「口ずさむは」、思うとか瞑想するという意味があります。イメージするという言葉ととても似ています。でも、日本語は「口ずさむ」と訳されていますので、これも興味深いなーと思います。私は毎朝、散歩をすることにしています。これまでは、朝、散歩してから、ゆっくり聖書を読んで瞑想していました。ところが、朝、すぐ起きて散歩をしますと、自分の過去のことや、今、悩んでいることが頭の中をぐるぐる回っています。大体、自分自身と語り合っています。でも、よく考えてみると、否定的なことや悲観的なことが多いんですね。それではいけないと思い、聖書を少し読んでから、歩くことにしました。朝は人が少ないので、結構、口ずさんでも平気です。聖書のみことばという材料があらかじめ入っていますので、考えることが自然と神様に向かいます。毎日、忙しい人が多いと思いますが、少し工夫するだけでずいぶん違います。電車に乗る前に、聖書を1章でも、2章でも読んでいると、電車に乗っている間、瞑想できます。車の中では、だれもいないと口ずさむことができます。単純な仕事のときも、前もってみことばが入っていると、瞑想しながらできます。ある人は、みことばのカードを作って、チラっと見て、瞑想しています。静まってディボーションすることはもちろん大切ですが、それだけで終わってはいけません。ディボーションが終わってからの時間もイエス様と交わるならば、なんと幸いでしょうか。

エディ・レオ師はタッチングヘブン(天国に触れる)というテキストでこのように教えておられます。もし、私たちが私たちの先生のようになりたかったなら、できるだけ多くの時間をかけて、先生から学ぶ必要があります。医者や技師、弁護士などの専門職になるためには、教師と顔と顔を合わせて勉強するために、たくさんの時間(一日に最低でも4時間から8時間)を費やすことが必要です。やがては、その人は教師のようになれるのです。そのことは私たちにも同じです。キリストのイメージに作られるために(キリストと同じような霊的資質を持つために)、私たちはイエス様と「顔と顔」を合わせて、会う必要があります。10分間、キリストとディボーションを持ったくらいでは、キリストのようになることは不可能です。ディボーションは大切ですが、その後の主との時間、私たちは主と継続的な会話を持つ必要があるのです。私たちは仕事を変える必要もなく、続けて忙しく働き、勉強やビジネスや他のことができます。しかし、私たちは間断なく、継続的に主と会話するように自分たちを訓練することができます。どのように始めることができるでしょうか?それは単純です。今、経験している問題や誘惑から始めましょう。否定的な想像を祈りに切り替え、感謝し、喜びに向けるために神のみことばを瞑想するのです。もし、あなたがこれを実行するなら、たゆまなく、主と交わることになるでしょう。アーメンです。

この世の喜びには飽きがやってきます。どんな美しい風景も飽きがやってくるでしょう。しかし、主との交わりにはそうことがありません。私たちはおいしいものを食べたり、新しい物を買ったり、新しいことを経験すると感激します。でも、毎日の生活にそういうものを期待することは不可能です。しかし、霊的で内側の生活は環境には関係ありません。私はインナートリップとか、ニューエイジの霊的な世界を言っているのではありません。まことの唯一の神様、私たちを愛しておられる天の父と交わるのです。常に、イエス様の御顔を求めるのです。そうするなら、天国の息吹と喜びが湧き上がってくるでしょう。テレビのチャンネルを次から次へと変えても、インターネットのサーフィンをしても、満たされません。お酒やタバコや快楽、この世のものは、すべて中毒になります。でも、イエス様だったら大丈夫です。どうせなら、みことばとイエス様に中毒になりましょう。聖霊による、天国の甘いぶどう酒で酔いましょう。私たちが慕うべきものはイエス様のうちにしかないということを肝に命じましょう。第一のものを第一とすれば、買い物も楽しいし、結婚生活も楽しい。レジャーも、趣味も仕事も価値あるものとなるのです。すべての源は、父なる神様から来るのです。2007年も、源なる神様と親密な関係を持ちましょう。

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