2013年11月24日 (日)

あなたの神は私の神       ルツ記1:15-22

 昔、本田路津子という歌手がいました。また、ルース・ベネデクトという女性が『菊と刀』という日本文化についての本を書きました。私が存じ上げている福澤満雄先生や田原米子さんのお嬢さんも「ルツさん」です。アメリカでもとても多い名前だと聞いています。なぜ、ルツという名前が好まれるのでしょう?きょうは、ルツ記から共に学びたいと思います。この書の背景は「さばきつかさが治めていたころ」と冒頭にあります。数回、士師記から学びましたが、イスラエルがまだ安定しなかった暗い時代です。そのような暗い時代に、美しい物語がありました。


1.ルツの信仰

 ユダのベツレヘムに、エリメレクの一家が住んでいました。クリスマスでも良く歌われる、「ダビデの町」であり、またキリストが生まれた町でもあります。図で書くととてもわかりやすいのですが、エリメレクの妻はナオミであり、マフロンとキルヨンの二人の息子がいました。その地方にききんがあったので、エリメレクの家族は、モアブに移り住み、そこで10年間暮らしました。その間に、エリメレクが死にました。また、二人の息子はモアブの女性を妻に迎えました。しかし、二人の息子が死んで、ルツとオルパの嫁が残りました。ユダの地からききんが去ったことを知り、ナオミは二人の嫁を連れて、モアブから帰ろうとしました。しかし、道の途中で、ナオミは「私と一緒に来るよりは、モアブで平和に暮らすように」と言いました。二人とも「いいえ。私たちは一緒に帰ります」と言いましたが、ナオミが強く勧めるので、オルパは泣きながら戻りました。しかし、ルツは諦めませんでした。先ほど読んだ、ルツ1:16-17はルツのすばらしい信仰告白です。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

 何がルツをそのようにさせたのでしょうか?おそらく、ルツは夫や姑のナオミと一緒に暮らして、イスラエルの神が、まことの神さまであることを知ったのではないかと思います。しかし、この世の御利益しか考えない人だったら、どう思うでしょうか?義父が死んで、夫もその弟も立て続けに死んでしまいました。姑のナオミは「全能者が私を辛い目に会わせた」とまで言っています。ルツは、何人もの死者を出した家族を見て、どうして「あなたの神は私の神です」と言えたのでしょうか?モアブの神は、ケモシュと言って、軍神としてあがめられました。神々への犠牲は最上の雄羊や雄牛がささげられましたが、人身犠牲も行われました。ユダの人たちは、「忌むべきケモシュ」と言いました。ルツはそういう偶像崇拝の家で育ちました。もし、彼女の信仰が、利益信仰であったならば、決して、ヤーウェの神を信じなかったでしょう。では、聖書の神さまはどのような神さまなのでしょうか?ルツ記全体に流れている思想は、「神の摂理」であります。摂理というのは、万物の創造主なる神が、主権的にすべてのものを支配しているという意味です。自然界も、動物も、国々も、そして人間も、神さまは支配しています。しかし、聖書の神さまは非人格的で、恐ろしい運命や宿命でもって、容赦なく人々を押し流すようなお方ではありません。慈愛に満ち、すべてのことを働かせて益にしてくださる全能の神です。この世においては、確かに理解できないような不幸な出来事に見舞われることがあります。しかし、主なる神はご自身を愛する者たちに、すばらしい計画をもって、報いてくださいます。ルツは断片的だったかもしれませんが、目の前の不幸を乗り越える、神の大いなる力を信じていたのだと思います。

 ナオミとルツが大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着きました。ルツは自分の不幸をなめて、暮らす人ではありませんでした。ルツはナオミに「どうぞ、畑に行かせてください。落穂を拾い集めたいのです」と言いました。当時は、モーセの律法のとおり、みなしごや在留異国人のために、落ちた穂をそのままにしておきました。ルツ2:3「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。」ここに、「はからずも」とあります。この「はからずも」こそが、神の摂理をあらわしている言葉です。はからずもは、「思いがけなくも」「予想もしなかったのに」という意味です。つまり、ルツは意図していなかったのに、ボアズの畑に入って、落穂を拾ったということです。なぜ、ボアズの畑で良かったのか?あとから出てきますが、ボアズは義父エリメレクの一族に属する人で、買戻しの権利を持っている親戚のひとりでした。また、ボアズは髪の毛が薄かったかどうかはわかりませんが、独身で年をとっていたようです。それに、ボアズは清廉潔白で、憐れみに満ちた人でした。もし、ルツが他の畑に行ったならば、異邦人の女として、いじめられていたでしょう。しかし、「はからずも」ボアズの畑に入ったのは、偶然ではなく、神さまの摂理、神さまの導きでありました。私たちの人生にも、「はからずも」ということがあるのではないでしょうか?ある人は「この亀有教会の鈴木先生でなければ、私は救われませんでした」と嬉しいことをおっしゃします。しかし、私は牧師らしくないので、ある人は躓いて、二度とこない人もいるでしょう。私のような人が牧師だから、「教会に来ても安心だ」という人がいるということは神さまの憐れみであります。

 このところには、「はからずも」という神さまの摂理があります。つまり、自分の生まれや意志に関係なく、神さまの主権的な選びがあるということです。しかし、神さまの摂理が全うされるために、人間の側には3つの条件があります。ルツは3つの条件を全うしました。第一は信仰です。ルツはモアブで生まれ育ちましたが、ヤーウェの神に出会って信じました。つまり、まことの神さまと和解して、つながったということです。つながったということは、神さまの御手が共にあるということです。第二は忠実さです。忠実さとは自分ができることを精一杯行うとうことです。ルツは自分の不幸を嘆いて、「主よ、あわれんでください」と座り込むこともできました。しかし、落穂を拾うために畑に出かけ、刈る者たちの間に入って、朝から晩まで拾い集めました。なんとか、姑のナオミに食べさせてあげたいと思い、できる限りのことをしたのです。第三は従順さです。これは、自分の願いや考えを一旦、わきに置いて、主のみこころに従うということです。まず、ルツは姑のナオミに従順でした。普通、嫁と姑というのは、確執があって、仲良く暮らすことができません。ナオミがルツに「晴れ着をまとって、打ち場に行きなさい。ボアズの足のところをまくって、そこに寝なさい」と言いました。ルツは「そんな破廉恥なことはできません」と断りませんでした。ルツ3:5「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします。』こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。」アーメン。また、ルツは畑の主人ボアズに対しても従順でした。ルツ2:8「ボアズはルツに言った。『娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。』」と言いました。普通の女性だったら、「私をコントロールしないで」と拒否するかもしれません。しかし、彼女はどのように応答したでしょうか? ルツ2:10「彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。『私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。』」ルツは、何と謙遜でしょうか?ボアズの心から好意と憐れみが湧き上がってきました。ボアズは若者たちに命じました。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。それだけではなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女を叱ってはいけない」と言いました。ルツが夕方まで集めると、大麦が1エパ(23リットル)ほどありました。ボアズの姿と慈愛に満ちた神さまが、二重写しで見えます。神さまは、私たちの行く先々に、たくさんの恵みを用意しておられます。私たちはそれを次から次へと拾えば良いようになっているのです。ルツは、「あ、ここにもあった。あ、ここにもあった。こんなにたくさん、集められた」と喜んだでしょう。なぜでしょう?ボアズが、そうさせていたからです。私たちの神さまも、私たちにそのような恵みを先々に与えておられるのです。

 ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。このことばは、ヨセフのときにも引用しました。しかし、ルツの人生においても、このことばがあてはまります。ということは、あなたにもあてはまるということです。なぜなら、ここに来られているあなたも、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」だからです。このみことばは世の中の人、全部にあてはまることばではありません。なぜなら、不幸のまま、人生を終えてしまう人もいるからです。しかし、神さまが、ヨセフやルツに対してしたように、あなたにも、「すべてのことを働かせて益としたい」と願っておられます。そのためには、私たちを豊かに導いて下さる、神さまに期待し、信頼すべきであります。


2.ルツの買い戻し

 ルツ記の3章と4章には「買い戻しの権利のある親類」あるいは「買い戻す」ということばが、12回ほど出てきます。「買い戻しの権利のある親類」はヘブル語で「ゴエール」であります。また、「ゴエール」は、「ガーアル」という「買い戻す」「贖う」ことばから来ています。ですから、ヘブル語の聖書を読むと、「ゴエール」「ガーアル」「ゴエール」「ガーアル」「ゴエール」「ガーアル」と、まるで、ウシガエルの泣き声のように聞こえることでしょう。では、簡単に「買い戻し」とは何なのでしょうか?旧約聖書のレビ記にそのことが書いてあります。たとえば、兄弟の一人が貧しくなって、土地を売ったとします。おそらく、ナオミの夫、エリメレクは土地を売って、モアブの地に移ったと思われます。10年後、妻のナオミが帰ってきましたが、後継ぎの息子たちも亡くなっていたので、「買い戻しの権利のある親戚」が来なければ、失った土地を買い戻すことができませんでした。ルツは「はからずも」エリメレクの一族に属するボアズの畑に入って、落穂を拾いました。なんと、ボアズは「買い戻しの権利のある親類」の一人でした。ナオミはそのことを知って、驚いてこう言いました。ルツ2:20「ナオミは嫁に言った。『生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない【主】が、その方を祝福されますように。』それから、ナオミは彼女に言った。『その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。』」かつて、ナオミは「全能者が私をひどい苦しみに合せた。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰らされました」と言いました。しかし、ナオミは「死んだ者にも、恵みを惜しまれない主である」と言いました。

 ボアズは確かに「買い戻しの権利のある親類」の一人でした。しかし、順番があって、最も近い親類の人が他に一人いて、ボアズは二番目でした。ルツ記4章に記されていますが、だれがナオミの畑を買い戻すかを協議しました。当時は、町の門に集まり、民の長老たちの前で、行われました。一番、近い親類の人は「私が買い戻しましょう」と言いました。ボアズはその人にこう言いました。ルツ4:5「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」と。つまり、死んだ者の名をその相続地に残すためには、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければならないということです。最も近い親類の人は、「私自身の相続地を損なうことになるといけませんから、あなたが代わって買い戻してください。私は買い戻すことはできませんから」と言いました。つまり、こういうことです。異邦人のモアブ人と結婚しなければならない。それに買った土地も自分のものにならない。彼は、「私はできないので、あなたに譲ります」と辞退したのです。イスラエルでは、買い戻しの権利を譲渡する場合、一方がはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣がありました。彼は「あなたがお買いなさい」と言って、自分のはきものを脱ぎました。日本では、「下駄を預ける」と言いますが、少し似ているかもしれません。その後、ボアズは長老たちの前で、「私は、死んだ者の名をその相続地に起こすために、マフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、妻としました」と宣言しました。長老たちは「私たちは証人です。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい」と祝福しました。

 それで、結局、ナオミとルツはどうなったのでしょうか?ヘブル13:7「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」とあります。ナオミとルツの最初の人生はどうだったでしょう?人々から「神さまを信じたって、ちっとも良いことがないじゃないか」と言われるかもしれません。しかし、聖書の神さまは摂理の神さまであり、慈愛に満ち、すべてのことを働かせて益にしてくださる全能の神です。では、彼女らの結末はどうなったのでしょうか?ルツ4:13「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、【主】は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。」そして、人々は「その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから」と祝福しました。ルツ4:16「以降近所の女たちは、『ナオミに男の子が生まれた』と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン(遊女タマルの夫)、サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。」ルツは異邦の女性でしたが、ボアズによってその土地とともに買い戻されました。そればかりか、ルツとボアズからオベデが生まれました。オベデからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれました。さらには、救い主キリストが生まれました。ルツは救い主キリストの先祖となる家系に連なる祝福を許されたのです。すばらしい神さまの計画、すばらしい結末ではないでしょうか。ハレルヤ!

また、ルツ記には「買い戻し」ということが記されていました。失った土地を取り戻すためには、「買い戻しの権利のある親類」でなければなりませんでした。ヘブル人への手紙には、イエス・キリストが私たちの「買い戻しの権利のある親類」になったことが記されています。ヘブル2:11「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」、さらにヘブル2:17「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」とあります。イエス様が私たちの罪を贖うために、つまり買い戻すために、私たちの親類になる必要がありました。主は、兄弟と呼ぶことを恥としないで、すべての点で兄弟たちと同じようになりました。それは民の罪をあがなうためでした。私が子どものころ、村に罪を犯して刑に服した人がいました。村では「あの家は前科者を出した家だ」とひそかに言っていました。その人には、弟も妹もいました。弟や妹はまったく悪くありません。しかし、村の人は「前科者の弟だ、前科者の妹だ」と口には出さないけど、思っていたでしょう。だから、その人の弟や妹も、さぞ恥ずかしい思いをしたことでしょう。イエス様は人間と同じになられただけではありません。罪は犯しませんでしたが、罪人として数えられました。洗礼、バプテスマは罪人が受けるものです。また、人々はイエス様を「食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(ルカ7:34)と馬鹿にしました。最後に十字架にかかるときは、両脇に犯罪人が共につけられました。イエス様が真ん中だったので、一番、悪い人に思われたのではないでしょうか?イザヤ53:12「そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」と書いてあります。

ルツ記の場合は、失った土地の買い戻しでした。しかし、新約のイエス・キリストは罪からの買し戻し、つまり、罪の贖いを成し遂げてくださいました。ルツは異邦人でありましたが、ボアズによってイスラエルの民に加えられ、メシヤの系図に加えられました。私たちも信仰によって、神の子どもとされ、その系図の中に加えられます。ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。まったく縁もゆかりもなかった人が、キリストの名を信じるだけで、神の子どもとされるのです。私が子どもの頃、古い家の壁に二人の女性が腰をかがめて何かしている絵がかかっていました。私は「何か農作業をしているのかな?それにしても、さえない絵だなー」と思いました。しかし、学校の図工でミレーが書いた「落穂拾い」であることが分かりました。「ミレーという画家は、牧歌的な絵を描く人なんだなー」と思いました。しかし、それだけです。やがて、大人になりクリスチャンなってから、「ああ、あれはルツ記のことなんだー」と初めて分かりました。私の家族にはクリスチャンはいません。おそらく、有名なので、その絵の模写を飾っていたのだと思います。そんな、キリスト教と全く縁のないような者が、「ルツ記のテーマは神の摂理です」とか「買い戻しです」と良く言えたもんだなーと思います。やっぱり、神の摂理があったからこそ、こんな私でも救われたのではないでしょうか?「人生は出会いで決まる」とユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーが言いました。ルツは信仰者ナオミと出会いました。夫が死んでからもナオミから離れず、故郷を捨ててユダに来ました。ナオミのために落穂を拾いに行ったら、「はからずも」ボアズの畑でした。ルツはボアズと出会って、土地を買い戻してもらいました。なんと、そのことにより、ダビデの先祖になり、メシヤの系図にまで入れられました。これって、すごいんじゃないでしょうか?偶然ではありません。すばらしい神さまの御手があります。みなさんにも、それぞれ固有なストーリーがあるのではないでしょうか。どうぞ、そこに神さまの御手があったことを覚えて、主の御名をあがめましょう。そして、まだ、聖書の神さまとイエス様を知らない人に「これが私の証です。This is my story」と証をしようではありませんか。



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