2013年11月17日 (日)

怪力サムソン      士師16:18-22

 イスラエルが王国になる前は、とても乱れていましたが、士師と呼ばれる指導者たちが活躍した時代でもあります。士師の中には女性もいましたし、ヤクザみたいな人もいました。きょうはその中の一人、サムソンについて学びたいと思います。サムソンは怪力で有名なので、スーツケースに、「サムソナイト」というメーカーがあります。「とても頑丈で壊れない」という意味でネーミングされたのだと思います。昔、「サムソンとデリラ」という映画がありましたが、聖書の物語だとは知りませんでした。サムソンについては、士師記13章から16章まで、4章にわたって記されています。これをたった30分間で語りたいと思います。


1.怪力サムソン

イスラエルが主の目の前に悪を行っていたので、主は40年間、彼らをペリシテ人の手に渡されました。ある時、主の使いが不妊の女性に現れ、こう言いました。「あなたはみごもり、男の子を産む。今、気を付けなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテの手から救い始める」。ナジル人というのは、「神に聖別された者」という意味でした。ナジル人は、ぶどう酒や強い酒を飲まず、頭にかみそりを当てることもしませんでした。人々は、長髪の人を見るとき、神から選ばれた特別な人であることを確認することができました。サムソンの他に、サムエルもナジル人でした。新約聖書では、バプテスマのヨハネ、そしてイエス・キリストもそうでありました。古代の人たちは、髪は力といのちの源であると考えたのかもしれません。アメリカの話です。息子がお父さんに、「友達と旅行に行きたいので新車を貸してくれ」とお願いしました。お父さんは「3つの条件を満たしたら、車を貸してあげるよ」と言いました。「第一は学校の成績がアップすること。第二は日曜礼拝に毎週、出ること。第三はその長い髪の毛を切ること」と言いました。1か月後、息子がお父さんに「学校の成績もアップしたよ。毎週、日曜日の礼拝にも出ているから、車を貸してよ」と言いました。お父さんは「その長い髪はどうしたんだ。短くしなけりゃ貸してやらないよ」と言いました。息子は「お父さん。聖書を見ると、モーセも髪の毛が長かったよ。サムソンやイエス様だって、髪の毛が長かった。だから、切らなくて良いでしょう。車、貸してよ」と言いました。お父さんは「わかった。でも、彼らは、車に乗らないで、歩いていたよ」と答えました。

サムソンの特別な能力は怪力でした。あるとき、若いライオンがほえたけりながら、彼に向かってきました。そのとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼はまるで子やぎを引き裂くように、ライオンを引き裂きました。素手で、ライオンを倒すほどの怪力でした。また、サムソンは、女性から騙されて、綱でしばられたことがありました。ペリシテ人が大声を上げて、彼に襲い掛かりました。すると、主の霊が激しく彼の上に下り、しばっていた綱は火のついた亜麻糸のように、手から溶け落ちました。度々、「主の霊が激しく彼の上に下る」という表現が出てきます。つまり、サムソンの怪力は、主の霊によるものでした。サムソンはペリシテ人を倒すように、神さまから立てられた士師でした。サムソンのやり方は、ペリシテ人に言いがかりをつけて、悶着を起こして、倒すというものでした。しかし、聖書に何と書いてあるでしょう。士師記14:4「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである」とあります。神さまが、そうなるように導いていたということです。良く見ると、サムソンの戦術はとても単純で、子供じみていました。ある時は、ジャッカルを300匹捕え、尾と尾をつなぎ合わせ。その間にたいまつを取りつけました。彼はそのたいまつに火をつけ、そのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放しました。そして、たばねて積んである麦から、立穂、オリーブ畑に至るまで燃やしました。また、ある時は、ろばのあごの骨で、ペリシテ人と戦いました。相手は鉄の剣ですが、こっちの武器はなま新しいろばのあご骨です。サムソンは、それを手に取って、1000人を打ち殺しました。

30年くらい前から、「どのようにしたら教会が成長するだろうか」という教会成長学が強調されました。「日本教会成長研修所」というのも開設され、多くの牧師たちが学びました。しかし、「教会成長」という名前が良くないということで、今は、JCGIと英語で読んでいます。私はある理由で、学びそこねた者なので、イヤミにならないようにしたいと思います。結論的に申しますと、いろんな戦略を立てても、思ったとおり成長しないということです。神さまはいろんな方法を用います。海外で成功した牧師たちが、「私と同じようにやれば成長します」と言いました。私もいくつか真似ましたが、うまくいきませんでした。牧師の賜物、教会の体質、その国のカルチャーというものがみな違います。だから、「これをやればうまくいく」というものはありません。もちろん、最大公約数的な原則というものはあるでしょう。しかし、「戦略とか方法論は、どうでも良い」とは申しませんが、「いろいろあって良い」ということです。前回はギデオンの戦い方を学びました。ギデオンは空の壺にたいまつを入れて、ラッパを吹き鳴らすという戦術でした。サムソンの場合は、たいまつを結んだジャッカルを野に放つというものでした。ろばのあごの骨を振り回すというのも、とても原始的です。ですから、チャーチ・コンサルタントが勧める方策は、あてにならないということです。それよりも、自分の賜物を発見し、地域教会に合わせていくべきだと思います。サムソンの場合は、「主の霊が激しく彼の上に下って」と何度も書いてあります。ですから、一番必要なことは「聖霊に満たされること」であります。聖霊が導き、聖霊が知恵を与え、聖霊が人を救うということではないでしょうか。ローマ12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」というみことばがあります。ナジル人は、ぶどう酒や強い酒を飲まないということですが、それは勤勉さを象徴しています。バプテスマのヨハネもそうでしたが、世の人たちから、変わり者と呼ばれても構わないということです。しかし、内側に神の聖さと不思議な力に満ちています。そうであれば、人々は何か困ったときに、「祈ってください」と求めてくるのではないでしょうか?「あの人には、神さまが共におられる」という、何かかもし出すような、霊的力を持っていたいと思います。


2.女性に弱いサムソン

 サムソンは女性にとても弱い人でした。男性はみなそういうところがありますが、サムソンは典型的な人物でした。サムソンは、ペリシテ人の娘に一目惚れしました。両親は「異教の娘を妻に迎えてはいけない」と反対しました。しかし、サムソンは「あの女をもらってください。あの女が私の気に入ったのですから」(士師14:3)と主張しました。非常に直情的であり、何も考えていません。結局、彼女とはうまくいきませんでした。士師記16章には、「ガザへ行ったとき、ひとりの遊女を見つけて、彼女のところに入った」と書いてあります。その後、サムソンは「デリラ」という女性を愛しました。ペリシテ人の領主たちが彼女のところへやってきてこう言いました。士師16:5-7「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。私たちはひとりひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。そこで、デリラはサムソンに言った。「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう。どうか私に教えてください。」サムソンは彼女に言った。「もし彼らが、まだ干されていない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」こういうくだりを読んでいると、「サムソンは自分を売るような女と、どうして、一緒にいるんだろう」とイヤになります。私は「火曜サスペンス」とか、「○○事件簿」などと言うのはほとんど見ません。私の家内は良く見ますが…。物語の中に、人を騙したり、陥れたりする人が必ず出てきます。私は胸がドキドキして見ることができません。「必殺仕置き人」みたいに、白黒はっきりついているのは、安心して見ることができます。しかし、サスペンスものは、だれが犯人なのか良く分かりません。「なんで、この人はだまされるんだろう」「なんでそんなところへ一人で行くんだろう!」とイライラしてくるからです。

 サムソンもそうです。デリラはそれが失敗に終わると、「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。さあ、今度は、どうしたらあなたを縛れるか、教えてください」と言いました。サムソンは、「新しい綱で私を縛れ」とか、「機(はた)の立糸と一緒に髪の毛七ふさを織り込みなさい」と答えます。そのたびに、敵が来たとき、しばっている綱を簡単に断ち切りました。デリラは「あなたの強い力はどこにあるのか教えてください」と、毎日、同じことを言って、しきりに責め立てました。ついにサムソンは、「自分はナジル人だから、髪の毛がそり落されたら、力がなくなり、普通の人のようになる」と告げてしまいました。本当に馬鹿です。デリラは、ペリシテ人の領主たちに「今度は上ってきてください」と呼んで、報酬としての銀を受け取りました。そして、サムソンを眠らせて、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせました。士師16:20彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。「だから、いわんこっちゃないでしょう」言いたくなります。ここで悲劇なのは、髪の毛を切られたサムソンが「主が自分から去られたことを知らなかった」ということです。サムソンは「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言いました。しかし、力が全く出ませんでした。なぜなら、主が彼から去っていたからです。

 「慢心」ということばがあります。サムソンは自分に怪力があることを良いことに、誘惑の中に身を置いていました。彼は、危険な道を歩いているのに気付いていませんでした。「いざとなれば、これがある!」と自分の力を過信していたのです。しかし、それはサムソン自身が持っているものではありませんでした。主の霊が下ってきて、初めて、できたことであります。頭の良い人、能力のある人ほど、慢心になる恐れがあります。榎本保郎先生が『旧約聖書一日一章』というディボーションの本を書いています。その本に、このようなことが書かれています。「キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。主イエスのような崇高な愛に生きようと努める者でもない。キリスト者とはキリストの生命に生かされる者である。キリストの内にあって生きる者である。その意味において、サムソンは神の力によって生き、大力を持っていた。ところが、サムソンはその力に対して、慎重でなかったように、私たちも自分の力について慎重を欠くことがある。なんだかそれが自分の中にあるかのごとくに思いあがることがある。そして、どこまでもへりくだってそれを求める熱心さを失いやすい。主が彼を去られたとき、彼は全くのただ人である。教会のあらゆることをわきまえ知っている牧師であるとか、役員であるといったことが私たちを強くしているのではない。ただ日ごとに新しく力を注がれ、聖霊によって満たされることによってはじめて私たちはキリスト者として生きることができるのである。」アーメンであります。

 詩篇1:1-2「 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」慢心の罪に陥らずに、日々、みことばと、聖霊に満たされることを求めていきたいと思います。


3.悔い改めたサムソン

 サムソンは捕えられた後、どうなったのでしょうか?士師記16:21「そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。」映画のシーンを思い出します。サムソンは、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられました。そして、数頭の牛たちと一緒に地下牢で臼をひいていました。サムソンは、臼をひきながら、自分の行ないを悔いたことだろうと思います。それでは、全く希望がないのでしょうか?士師記16:22「しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。」何と言う励ましでしょうか?悔い改めることによって、神さまから受け入れられている様を想像することができます。神さまはサムソンに、もう一度、チャンスを与えようとしておられます。どのように物語は進展していくのでしょうか?士師記16:23-24さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」ペリシテ人が拝んでいる神さまは、ダゴンでした。彼らは、「ダゴンの神さまが、敵サムソンを手に渡してくださった」と感謝して、盛大ないけにえをささげました。それからどうしたでしょう?士師記16:25-27「彼らは、心が陽気になったとき、『サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう』と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。」祭りもクライマックスになり、みんなの見世物にしようと、サムソンを地下牢から引っ張ってきました。サムソンにとっては何という屈辱でしょうか?おそらく、その建物は石でできた神殿であり、アリーナ席だけではなく、屋上の席にも人々がごったがえししていました。酒に酔った人々は、「サムソン何か面白い演技をしろ!」とわめいていました。

 サムソンは目が見えなかったので、若い牢番に、「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ」と願いました。神殿の中央に、建物全体を支えている、二本の大きな柱がありました。サムソンはその間に立ちました。人々は「何か面白いことをするんだろうなー」。士師記16:28 「サムソンは主に呼ばわって言った。『神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。』そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、『ペリシテ人といっしょに死のう』と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。」

 サムソンが主に呼ばわると、神の霊に満たされ、怪力が戻ってきました。二本の中柱の一本は右手で押し、一本は左手で抱えて寄りかかりました。サムソンはペリシテ人もろとも死のうと、柱を引いて、倒しました。すると、神殿が屋上の席と一緒に崩れ、アリーナ席に全部、落ちました。なんと、サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かったということです。人間的には悲しい最期ですが、サムソンは復讐を果たし、イスラエルの敵、ペリシテ人を倒すことができました。神さまは、ナジル人サムソンのことを覚えておられました。普通でしたら、盲人のまま地下牢で死ぬか、人々の見世物になって死ぬかの人生でした。しかし、自分の命とひきかえに、何千人ものペリシテ人を倒すことができました。サムソンにとっては本望だと思います。使徒パウロは、ローマ11:29「神の賜物と召命とは変わることがありません」と言いました。確かに私たちの不従順や罪によって、力をなくすことがあるでしょう。しかし、神さまが選んだ人を神さまは、簡単には見捨てません。サムソンはナジル人、神さまに聖別された人でした。確かに彼は肉的誘惑に弱い人物でした。聖書を読んだ人は、「あんな人を、神さまが用いるのか?」と不満に思うかもしれません。では、どれだけ私たちの人格がきよめられたら、神さまに用いられる、ふさわしい器になるのでしょうか?一生、努力しても、無理でしょう。なぜなら、私たちには救われて、聖霊に満たされたとしても、肉が宿っています。肉、イコール罪という訳ではありませんが、罪を犯す可能性があるということです。ですから、究極的には、神さまの選びであり、神さまのあわれみです。だから、使徒パウロは、「神の賜物と召命とは変わることがない」と言ったのです。と言うことは、私たちの正しさとか信仰ではなく、神さまの真実、神さまの信仰であります。ですから、私たちは自分の弱さや罪を悔い改めることも重要ですが、自分を選んでくださった神さまを仰ぐべきなのです。偉大な神さまを仰ぐとき、自分の弱さや罪をしのぐ、すばらしい聖霊の力に満たされるのです。

 もう1つ、サムソンの人生からわかることは、神さまはセカンドチャンスをくださるということです。いや、生きている限り、何度もチャンスをくださいます。私たちは、「もうこれで私の人生はおしまい、二度と日の目を見ることはないだろう」と思うかもしれません。確かに、野球とかサッカーなどのスポーツの世界ではそういうことがあるかもしれません。有名な選手が「肉体の限界です」と引退します。しかし、信仰生活に引退はありません。天国に行くまでは現役です。生かされている限りは、何らかの使命があると信じます。当教会に山崎政彦長老がおられました。彼は会社をゼロから立ち上げ、引退後は、会長になりました。会社が暇なので、もっぱら教会の伝道に励みました。献金も出すし、口も出しました。また、「新会堂を建てて、自分が最初にお葬式をするんだ」と言いました。私が赴任した時は資金が450万円でしたが、6年後に新会堂が建ちあがりました。備品も入れて、全部で1億4000万円かかりました。山崎長老は「借金なしで建てるんだ!」と主張していましたが、その通りになりました。それから7年後位に天に召されました。最後に、新会堂という、大事業を終えました。もう、20年たったので、新会堂とは言えないかもしれません。でも、私はこの会堂を見るたびに、山崎長老さんの信仰を思い出します。私たちもサムソンのように弱さがあるかもしれません。しかし、神の霊が下るときに、偉大なことができると信じます。「神の賜物と召命とは変わることがありません」。




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2013年11月10日 (日)

勇者ギデオン      士師記6:11-16 

 イスラエルの民は、カナンを占領した後、12の部族に領土を分けました。しかし、ヨシュアの死後、各部族は妥協し始めました。本来なら先住民を、全部、追い出すべきなのに、そうしませんでした。やがて、彼らがイスラエルの中に住み、結婚する人もいました。イスラエルは彼らの神々を拝み、主の目の前に悪を行いました。すると、主が敵対する民族を立ち上がらせ、領土を侵略させました。イスラエルは「私たちは罪を犯しました」と主に叫び求めます。すると、主は一人の解放者、つまり士師を起こして、イスラエルを救います。でも、また平和になると、イスラエルの民は罪を犯します。すると、敵が領土を侵略します。主に叫び求めます。士師を起こして救われます。こういうことが繰り返し起こるのが士師記です。きょうは、その中でも最も有名な士師の一人、ギデオンについて学びます。


1.勇士よ

イスラエル人たちが、主の前に悪を行ったので、主は7年の間、彼らをミデヤン人の手に渡しました。イスラエル人は、ミデヤン人を恐れ、山々にある洞窟や、ほら穴、要害に隠れました。収穫の時になると、ミデヤン人とアマレク人が地の産物を何もかも奪い去って行き、家畜の餌さえも残さないほどでした。民が自分たちの罪を悔い改め、主に叫び求めました。すると、主は一人の解放者をお立てになられました。あるとき、主の使いがギデオンの前に現れました。しかし、彼はミデヤン人からのがれて、酒船の中で小麦を打っていました。音を立てずに、こっそりと食糧を確保していました。主の使いが彼の前に現れ、「勇士よ。主があなたと一緒におられる」と言いました。ギデオンは「まさか、私のことではないでしょう」と思いました。主の使いは「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人かの手から救え。私があなたを遣わす」と言いました。ギデオンは何と言い訳したでしょう?「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」主がギデオンに「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう」と言われました。すると、ギデオンは「どうかしるしを、私に見せてください」と願いました。最初は、「羊の毛の上だけに露が降りて、土全体がかわいたなら受け入れます」と言いました。主はその願いに答えられました。次は、「羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください」と願いました。すると、主はそのようにしてくださいました。

ギデオンは臆病者で、とても疑い深い人でした。神さまがこういう人を勇者として用いるなら、だれでも用いられるとは思いませんでしょうか?神さまは、まず、ギデオンのセルフ・イメージを変える必要がありました。ギデオンは自分ことをどう思っていたでしょうか?彼は「ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです」と言いました。「ご存知のように」とは、自分だけではなく、他の人たちも十分に認めているということです。イスラエルの12部族の中にマナセがいました。これは、ヨセフから生まれた部族です。彼の分団、つまり氏族は最も弱いということです。そして、ギデオンは父の家で一番下の子どもでした。おそらく、ギデオンの氏族は「俺たちはマナセうちで最も弱い」と言っていたのでしょう。だから、ギデオンもそう思っていました。さらに、父や兄たちは「ギデオンは小さくて、一人前じゃない」と言っていたのでしょう。だから、ギデオンもそう思っていました。主の御使いは、彼に何と言ったでしょうか?「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」と言いました。神さまは人を見る目がないのでしょうか?臆病でセルフ・イメージの低いギデオンを「勇士よ」と言われました。口語訳の聖書は「大勇士よ」となっています。ある英語の聖書は、O valiant warrior「勇敢な戦士よ」という意味です。世の中の多くの若者は、ゲームにはまっています。「モンスター・ハンター」という怪獣を剣1本で倒す勇敢な戦士がいます。しかし、彼らは仮想の世界では勇士かもしれませんが、自分のことを本当に勇士だとは思っていないでしょう。私たちは人からではなく、神さまご自身が私を何と見ているか、何と評価しておられるかということを知らなければなりません。

ギデオンはこのままだと、「最も弱い氏族の、最も年若い」臆病者で終わります。しかし、突然、主の御使いがギデオンの前に現れ「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」と言いました。ここで、「いやいや、私はそんな者ではありません。私がイスラエルをミデヤン人から救いことなどできません。人違いです」と言い続けたならどうでしょう?主は他の人をお立てになられるでしょう?でも、ギデオンはしるしを求めながらも、主のおことばを信じました。ギデオンの信仰よりも、神さまの信仰の方が大きかったのです。神さまが「ギデオンは臆病者ではなく、本当は勇士なんだ。私はギデオンと共にいてイスラエルを救おう」とお決めになったのです。しかし、ギデオン自身も「自分は臆病者ではなく、勇士なんだ」と思う必要がありました。この後、主は「あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシェラ像を切り倒せ」と命じました。ギデオンは一人ではできないので、しもべの中から10人集めました。また、昼間はできないので、夜それを行いました。翌朝、町の人たちは、「だれがこんなことをしたのだ」と怒りました。彼らは、ギデオンの父のところに行って「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい」と言いました。父は彼らに「バアルが神であるなら、自分で争えば良いのだ」と言いました。ギデオンは町の人たちから「エルバアル」と呼ばれました。エルバアルとは「バアルと争う者」という意味です。日本で言うなら、家の大きな仏壇を壊すか、あるいは町の祠を壊すということです。ギデオンは父から「親不孝者」と呼ばれることも、町の人々から「厄介者」と呼ばれることも恐れませんでした。ギデオンは「私は、本当は勇士なんだ」という、信仰が目覚めてきました。

私たちは親からどのように言われて育ったでしょうか?兄弟たちから、どのように言われて育ってきたでしょうか?学校に入ってから、先生からどのように言われたでしょうか?友人と呼べない人たちからどのように言われたでしょうか?会社に入って上司からどのように言われたでしょうか?また、自分がこれまで失敗したこと、挫折した経験によって、自分はどのような人であると思っているでしょうか?おそらく、10人中9人は、「自分は弱くて小さな者である」と思っているのではないでしょうか?「私は三流で、とても一流にはなれない」と思っているのではないでしょうか?私も高校生のとき、ボクシングの試合で敗れてからひどい挫折感に襲われました。たった1回の試合が私に大きなダメージを与えました。インドネシアの解放のキャンプに行ったとき、驚きました。その集会は「チャンピオン・ギャザリング」という名前でした。チャンピオンたちが集まる集会です。「ああ、ほど遠いなー」と思いました。また、最近はジョエル・オースチンのビデオを見ていますが、その始まりで「チャンピオンのための説教です」と歌っています。「ええ、まさか」と思いました。私はどこかで「自分は負け犬であり、どう頑張ってもチャンピオンになんかなれない」と思っていました。しかし、そうではありません。私たちは聖書から、神さまが私たちをどう評価しておられるのか聞かなければなりません。ヨエル3:10「弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ」とあります。私は弱い、人々も私を弱いと思っているだろう。しかし、神さまは弱い者に「『私は勇士だ』と言わせよ」と命じておられます。これは、自分が自分をどう思っているかということではありません。また、「どうか私を強くしてください」と、祈りなさいということでもありません。「もう、あなたは勇士なんだから、『私は勇士だ』と言え」ということです。「あなたはチャンピオンなのだから、『私はチャンピオンだ』と言いなさい」ということです。「あなたは一流でエクセレントなのだから、『私は一流でエクセレントだ』と言いなさい」ということです。思うだけではありません。祈るのでもありません。主がおっしゃるとおり宣言せよということです。主のことばどおり宣言するなら、思いが変えられ、感情や、行動が変えられるのです。

箴言18:21「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」とあります。親が言うように、先生が言うように、人々が言うように「私は弱い、みじめな存在である」と言うならどうなるでしょう?本当に弱くてみじめな存在になります。多くの人は、サタンが人々を通して言ったことばをそのまま信じて、口に出しています。だから、その人の人生がそうなります。まさしく、「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」のです。では、どうしたら良いでしょう?詩篇27:1「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」アーメン。ヘブル13:6「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」アーメン。弱い人は「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言うべきです。また病の人は「キリストの打ち傷のゆえに、癒されました」と言うべきです。必要を覚えている人は「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と言うべきです。主は「あなたの言ったとおりになるように」とおっしゃいます。


2.攻め下れ

いよいよミデヤン人と戦うことになりました。敵のミデヤン人には13万5000人の兵士がいました。一方、イスラエルには3万2000人しかいません。主はギデオンに「あなたと一緒にいる民は多すぎるから、私はミデヤン人を渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に誇るといけないから」と言いました。ギデオンは主から言われたように、「恐れ、おののく者はみな帰りなさい」と言いました。すると、民のうちから2万2000人が帰って行き、1万人が残りました。すると、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。私はそこで、あなたのために彼らをためそう」と言われました。そこで、ギデオンは民を連れて、水のところに下って行きました。民たちは、言われたとおり、水辺で水を飲みました。ある者は、犬がなめるように、舌で水をなめました。つまり、口に手をあてて水をなめました。また、ある者は、ひざをついて水を飲みました。主は「手で水をなめた300人で、私はあなたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ」と言われました。どういう意味でしょうか?ひざをついて水を飲むとは、顔を下に向けて水を飲むということです。一方、口に手をあてて水をなめるとは、前方を向いているということです。つまり、敵がいつ責めてきても良いように臨戦態勢を取っているということです。そうやって、水を犬のようになめた人はたったの300人でした。なんと、9700人の人たちは、家に帰らされました。うあー、たった300人だけが残されました。これが、「ギデオンの300人」と言われる勇士たちです。

その夜、主はギデオンに「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから」と仰せられました。そこで、ギデオンともう一人が、陣営に偵察に行きました。そこには、ミデヤン人や、アマレク人、東の人々がみな、いなごのように大勢、谷に伏していました。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれないほどでした。ギデオンがそこに行ってみると、一人の者が仲間に夢の話をしていました。「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが1つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった」。すると仲間は「それはギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全体を渡されたのだ」と言いました。ギデオンがその夢と夢の解き明かしを聞いて、確信を持ちました。ギデオンは300人を三隊に分け、全員に角笛とからの壺とを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れされました。まことに、変な戦い方であります。彼らは、からの壺にたいまつを灯して、こっそりと陣営の端と端を取り囲みました。ちょうど、夜中の番兵が交代したばかりでした。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕きました。それから、左手でたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫びました。陣営の者たちは、みな走りだし、大声を上げて逃げました。300人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされました。なんと、彼らは暗闇の中、パニックになり、同士打ちをしました。そして、恐れて逃げました。ギデオンはイスラエルの部族に使者を送り、ミデヤン人を追撃させました。中には協力しない人たちもいました。しかし、ギデオンと彼に従う300人は追撃の手をゆるめませんでした。ギデオンたちはミデヤン人の王たちを捕えました。そして、ギデオンたちのおかげで、イスラエルが勝利しました。

戦い方は非常に幼稚なように思えます。しかし、どんな方法でも良いのです。一番重要なことは、「主が敵をギデオンに渡された」ということです。ギデオンと300人も戦いましたが、一番、戦ったのは主ご自身であります。主が彼らに恐れを与え、彼らが同志打ちするようにされました。数で言うなら、敵の方が圧倒的にまさっています。13万5000人というのが本当であるならば、2万2000人ではかないません。主は「それでも多い。恐れおののく者は家に帰らせよ」と言われました。なんと1万2000人が帰り、1万人だけが残りました。もし、私がギデオンだったならば、「えー?」と頭を抱えていたでしょう。しかし、主はそれでも多いということで、水辺で試験させ、たったの300人だけが残りました。13万5000人対300人です。神さまにはお考えがありました。イスラエルの民が「自分の手で自分を救った」と言って、神さまに誇るといけないからということです。もし、300人で勝利したのであれば、完全に人間の力ではできません。ということは、「神さまご自身が戦う、神さまが救ったのだ」ということを知らしめるためであったということです。私たちはどうでしょうか?日本のクリスチャン人口は1%に達しません。30年くらい前にこういう戦略が言われました。ファックスでも自分ひとりでは、ダメで、相手がいなければならない。5%、いや10%普及したなら、どんどん増えると言いました。「同じように、クリスチャン人口が10%に達したら、なだれ減少が起こり、日本人はみなクリスチャンになります。だから、1000万人の救霊を目指すべきです」とある人が言いました。なぜなら、日本人の多くは、横の人たちを見て決めるからです。「あれ、あなたまだ、クリスチャンでないの、流行におくれるよ」と言われたら、「ああ、そうですか。私もクリスチャンになります」。確かにお隣の韓国は25%、中国も台湾も10%前後でしょう。しかし、日本だけが取り残されてしまいました。

キリスト教会の多くは、「2000年まではリバイバルが来る」と本当に信じていました。しかし、今年は2013年です。日本のキリスト教会全体に失望落胆の空気がたちこめています。「何をやってもダメだった」という気持ちです。今は神学校に行く人たちが本当に減っています。牧師になる人がいません。また、地方では牧師の高齢化が進み、3つか4つの教会が合併せざるを得ません。私自身も弟子訓練をしても、セルチャーチをしても、うまくいかなかったので、次の手が出ないというところです。しかし、今では、神さまのリバイバルは突然、やってくると信じています。詩篇126篇にこのようなみことばがあります。詩篇126:4 「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」砂漠を流れる川は、ワジと言って、ふだんは水が流れていません。しかし、雨が降ると、突然、激流のように流れます。この夏、日本でも各地で豪雨が降り、川が氾濫したことが何度もありました。全く、望みのないようなところに、突然、主のみわざが起こるということです。きょうは、数ではないということを学びました。まず、神さまは一人の男性、ギデオンを選びました。彼は元来、臆病者であり、自分でも「最も若くて、小さい者だ」と思っていました。ところが、主の使いが

ギデオンに現れ「勇士よ。主があなたと一緒におられる」と言いました。主は、あえて、弱そうなギデオンを選ばれたのです。さらに13万5000人もいるミデヤンに対して、どのくらいの数で戦わせたでしょうか?1万人でも少ないのに、たったの300人です。パーセンテージで言うと、なんと0.22%です。日本の人口にたとえたなら、280万人くらいのクリスチャンで良いということです。いくら少なくても、それくらいはいると思います。イエス様は世界を変えるために、たった12人の弟子を選ばれました。ペンテコステの火、聖霊を受けた人たちは120人でした。彼らは迫害を恐れずに福音を宣べ伝えました。やがて、アンテオケ教会から異邦人に向けて宣教師が派遣されました。使徒パウロたちによって、ヨーロッパまで福音が伝えられました。本当に、最初はからし種のような存在でしたが、やがてヨーロッパをひっくり返しました。

では、重要なことは何なのでしょうか?クリスチャンがちゃんとしたキリストの弟子になるということです。ギデオンの300人とは、新約聖書的に言うなら、キリストに命をささげたキリストの弟子たちのことであります。今は「弟子」ということばは、あまり使われません。弟子とは十字架を負ってキリストに従う者であります。何をするにしても、どこへ行くにしても、「キリスト」「キリスト」と言っている人です。現代の私たちは、命を懸けるものがほとんどありません。「命がけ」ということばも、あまり使われません。そういうことばを使わなくても、良いと思いますが、キリストを中心として生きる人が、キリストの弟子だと思います。数も重要ですが、まず、私たちがギデオンの300人になる必要があると思います。イエス様は「あなたがたは世の塩である」と言われました。塩はそんなに多くなくても良いのです。ただ、塩気のない塩は困ります。昔は岩塩と言って、石ころのような塩を紐でつるしておきました。それを鍋の中に、ちょぼ、ちょぼ浸しました。すると、岩塩が溶けて、塩味がつくのです。しかし、しばらくすると塩気のしない単なる石ころになります。そうすると、主婦は道端にそれをポイと捨てます。人々はそれを他の石と一緒に踏みつけるのです。おお、自分が塩気のあるクリスチャンかどうか、吟味する必要があります。福音を自分の中にだけしまっておいたならば、塩気のないクリスチャンです。私たちはギデオンのように、勇士であり、主が共におられる存在です。ですから、自分でも、「私は勇士であり、キリストの弟子である」と告白する必要があります。ハレルヤ!主は小さない者を用いて、大きなことをなされます。主は少ない人数を用いて、大勢を救われます。一人ももれることなく、ギデオンの300人、キリストの弟子になりましょう。


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