2013年10月27日 (日)

新時代のリーダー    ヨシュア1:1-9 

 エジプトから解放された一世代の人たちは、約束の地に入ることはできませんでした。彼らは40年間荒野をさまよって死んでしまいました。約束の地に入れたのは、彼らの子どもたちと、ヨシュアとカレブだけでした。新時代のリーダーとして召されたのは、モーセに仕えていたヨシュアでした。かつて、ヨシュアはシナイ山のふもとで40日間、モーセを待っていました。また、ヨシュアはアマレクとの戦いで勝利をおさめました。今度は、イスラエルの民の先頭に立ち、約束の地を得なければなりません。ヨシュアは、主なる神さまから、約束と守るべき命令が与えられました。


1.信仰に立て

主はヨシュアに何と約束されたでしょうか?ヨシュア1:2-5「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」これはどういう意味でしょう?「主がすでに与えているから、信仰によってそれを得なさい」ということです。これは信仰とは何かということを最もよく説明しています。当時、約束の地カナンには、カナン人やペリシテ人などの先住民が住んでいました。神さまがその地をすでに与えていると言っても、彼らと戦い、彼らを追い出して、それらの土地を手に入れなければなりません。ある人たちは、「ヨルダンの向こうの地、カナンは天国を象徴している」と言いますが、それは当たっていません。天国には戦いはありません。しかし、約束の地カナンには戦いがあります。戦って、それらを勝ち取らなければなりません。私たちはエジプトならぬ罪の世から救われました。せっかく救われたのに、荒野でさまよっている人もいます。しかし、私たちはヨルダン川を越えて、神さまが用意されているものを得る必要があります。この世では戦いがあります。つまり、信仰生活は決して、バラ色の生活ではないということです。でも、神さまはこの世においても、御国の喜び、御国の健康、御国の豊かさを与えようとされています。しかし、それらを得るためには、信仰が必要だということです。

ヨシュアが信仰的に試された出来事は2つあります。第一はヨルダン川を渡るときです。主は「民の先頭に、祭司に契約の箱をかつがせて、川を渡らせろ」と命じました。ヨルダン川は、ヘルモンの雪溶けの水で、岸いっぱいまであふれていました。ヨシュアは、少し前、紅海が2つに分かれてできた海の底を渡った経験がありました。しかし、川は上流からどんどん流れてきますので、海とは違います。水が引いて、陸地ができたら渡ることができます。しかし、今回はそうではありません。契約の箱をかついだ祭司たちが、水が流れている川の中に入りました。足を踏み入れた瞬間、川がせきとめられました。そのため、上からの水がだんだんと、うずたかくなりました。民が渡り終えるまで、契約の箱をかついだ祭司たちは、民たちが渡り終えるまで川の真ん中に立っていました。あふれた水は、はるかかなたの町まで洪水をもたらしました。考古学者は「大きな地震があって、山が崩れ川がせき止められたんだ」と言います。彼らが何と言おうとも、それは神の奇跡です。そのニュースを知った先住民は、何と思ったでしょうか?ヨシュア5:1「ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、【主】がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。」彼らは「これは、えらいことになった」と戦意喪失しました。川の水が引いた後なら、だれでも渡ることができます。しかし、信仰とは、川の水が流れているところに足を踏み入れるということです。もしかしたら、激流に飲み込まれるかもしれません。大恥をかいて、イスラエルの民が戦意喪失に陥るかもしれません。しかし、ヨシュアは主のおことばに従ったのであります。新約聖書では、ペテロが嵐の海の上を歩きました。ペテロはイエス様のおことばを信じて、船から降りたのです。多くの人たちは、「ペテロはおぼれた。おぼれた」と言います。確かにおぼれましたが、その前に、3,4歩は水の上を歩いたのです。ヨシュアもペテロも、まだそうなっていないのに、信仰によって踏み出しました。ハレルヤ!

信仰的に試された2番目の出来事はエリコの城を攻めた時です。ヨルダン川を渡った後は、弱い敵から戦わせてくれたら励ましになります。しかし、主のお考えはそうではありませんでした。難攻不落のエリコの城を攻め落とすところから始まりました。かつて、モーセが12人の偵察隊を派遣したことがありました。そのとき、彼らは何と報告したでしょうか?「その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫、巨人を見ました」と言いました。一世代前の人たちは、恐れをなして断念しました。今度は、逃げられません。ヨシュアとしては責任重大です。しかし、主から示された戦略は、全く意外でした。ヨシュア6:2【主】はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」主は「エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」と言われました。でも、みんなで城壁を打ち破るのではなく、ただぐるぐる回るだけです。これも、ある意味では、信仰であります。武装した者たちが先頭を歩き、その後には角笛を持った7人の祭司、最後には契約の箱をかついだ祭司たちが行進します。一日目、武装した者たちは口からことばを出さず、角笛だけを吹き鳴らして、町を一周しました。二日目も、武装した者たちは口からことばを出さず、角笛だけを吹き鳴らして、町を一周しました。三日、四日、五日、六日と同じことを行いました。城壁の中にいるエリコの人たちは、「何だろうなー?」と頭をかしげたでしょう。そして、七日目だけは、同じしかたで、町を七度回りました。その直後、ヨシュアは「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ」と命じました。民がときの声をあげるいなや、城壁が崩れ落ちました。そこで、民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取りました。考古学者は、「その城壁は上から崩れたのではなく、下から一挙に崩れた」と言っています。

「主がすでに与えているので、信仰によって、勝ち取りなさい」。これが、ヨシュア記が教えている信仰のあり方です。別な表現をすると、「主が敵を打ち負かすので、あなたがたは勝利を自分のものにしなさい」ということです。しかし、このところで不思議なのは、第一日目から、六日目、いや、七日目のときの声をあげる直前まで、「口からことばを出してはいけない」という命令でした。祭司だけが角笛を吹きましたが、民たちは、6日間、だまって町を1周して帰ってきたのです。もし、民たちが口を開くことを許されたら、どんなことを言うでしょうか?「こんなに高い城壁、どうやって乗り越えるんだろう」「こんなに堅固な城壁、とっても歯が立たないよ」「なんで、俺たちはこんな馬鹿なことしているんだ?」ぞろぞろ、歩きながら否定的なことばを並べたでしょう。主があえて、「口からことばを出してはいけない」と命じたのは、そのためです。おそらく、民たちは心の中で「無理だよ、できないよ」と思ったでしょう。しかし、そのことを口に出してはならなかったのです。ここにすばらしい、信仰の法則があります。私たちの思いは、いわば戦場であります。思いの中に、いろんな否定的なものが浮かんできます。特にサタンは私たちの思いを攻撃して、破壊的な思いを投げ込んできます。そのとき、私たちの口が、否定的な思いを口に出して言うならどうなるでしょう?そのようになってしまいます。口に出した瞬間、神さまが与えてくれた約束が反故になるのです。だから、私たちは積極的な信仰告白をするなら良いのですが、間違っても、否定的で破壊的なことを口から出してはいけないのです。エリコの城壁は、7日間の信仰が積み重なって、ときの声とともに崩れ去ったのです。

イエス様が同じエリコで、盲人の物乞い、バルテマイに出会いました。彼は「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と叫びました。人々は彼をだまらせようとしました。しかし、ますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びたてました。イエス様は彼を呼んでくるように言いました。イエス様は彼に「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。「盲人は、先生。目が見えるようになることです」と言いました。イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。すると、すぐさま彼は見えるようになりました。私たちが神さまに対して、何を言うかがとても重要です。神さまはすでに、私たちに良きものを与えようと願っておられます。問題は私たちです。私たちが信仰によって「これをください」と手を差し出すなら、私たちのものになるのです。目に見えてから、手を差し出すのはだれでもできます。目に見えてない前に、一歩進み、手を差し出すのです。


2.守るべき命令

ヨシュアは新時代のリーダーとして召されました。これから、約束の地に攻め上り、主が与えた地を勝ち取らなければなりません。しかし、そのためにヨシュアが守るべき命令がありました。ヨシュア1:6-9「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」守るべきこととは、第一は恐れないこと、第二はモーセの律法を守るということでした。9節「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」とあります。おそらく、モーセが死ぬ前にも、このことばを主から聞いていたのではないかと思います。

ヨシュアは主なる神さまから「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」と言われました。その保障となるものは何でしょう?主がどこにおいても、共におられるからです。もし、ヨシュアがちぢこまって、戦うのをやめたらどうなるでしょう?主が戦えなくなってしまうからです。一般に子どもが自転車に乗れるようになるために、父親は手助けをするでしょう。私は4人の子どもに自転車乗りを教えました。子どもが自転車のハンドルを握ります。私が荷台を押さえながら、後ろから押します。子どもはふらふらしながらも、前に進んで行きます。ペダルを踏んでも踏まなくても、私が押しているので大丈夫です。しかし、子どもが「怖い!」と言って、ハンドルから手を放すとどうなるでしょう?ハンドルが「くにゃっ」と曲がり、前に進むことができません。いくら、私が力いっぱい押しても、前に進むことができません。つまり、子どもは恐れないで、ハンドルをただ握っていれば良いのです。あとは、私がなんとかやります。そのうち、バランスが身につき、自分で乗れるようになります。神さまも同じで、私たちが恐れないで立ち向かうなら、神さまが後ろから支えてくれます。神さまは恐れる者とは共にいることができません。ヨシュアがエリコを責める前に、ひとりの御使いと出会いました。彼は抜き身の剣を手にもって、ヨシュアの前に立ちはだかりました。ヨシュアは「あなたは、私たちの味方ですか、それとも私たちの敵なのですか?」と聞きました。御使いは「いや、私は主の軍の将として、今、来たのだ」と言いました。つまり、「主が共にいるけれど、ヨシュア、お前は主と共にいるのか?」ということです。ヨシュアが恐れないで主と共にいるならば、主ご自身が戦ってくださるということです。

もう1つヨシュアが守るべきことは、モーセの律法です。主は「わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」と言われました。モーセの律法の中心は十戒であります。特に、一戒と二戒が重要です。主なる神以外を神としないこと。また、他の神々にひれ伏さないことであります。なぜ、これが重要のでしょうか?これから攻め上るカナンの地は、偶像に満ちていたからです。ヨシュアは主が命じられたとおり、先住民を聖絶しました。ひとりも残さなかったということです。やがて、イスラエルの民たちは、部族に従って、割り当て地をいただきました。地図上では、自分たちのものです。しかし、まだ、先住民があちらこちらに住んでいます。ところが、どうでしょう?イスラエル部族は、戦うことは戦いましたが、その人たちを追い払いませんでした。その結果、カナン人が彼らの中に住むようになりました。そういう妥協が起こり、彼らと結婚し、やがては彼らの神を拝むようになったのです。これがイスラエルの堕落です。しかし、モーセは申命記において、「彼らを追い出しなさい。彼らと契約を結んではならない。彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない」と口が酸っぱくなるほど、警告していました。イスラエルがその戒めを破ってから、主は彼らから去り、共に戦ってくれなくなったのです。逆に、敵の方がイスラエルを侵略し始めるようになったのです。

私たちはモーセがヨシュアに与えた、律法を大事にしなければなりません。新約聖書的に律法を解釈すると、それは神のみことばであり、主の戒めであります。イエス様は数ある律法をたった2つにまとめられました。主を心から愛すること、そして隣人を自分のように愛することです。この2つこそが律法の中心です。同時に私たちは、周辺的な戒め、つまり神のことばを自分のものとする必要があります。ある人は、聖書を「これは神のことばだけれど、これは神のことばではないから守る必要はない」と言います。食べ物で言うと、子どもが人参やピーマンを皿から取りのけるようなものです。神のみことばの偏食はよくありません。旧約聖書も読み、そして新約聖書も読みます。柔らかい食物もいただきますが、堅い食物もいただきます。柔らかい食物とは、愛と恵みに満ちた神のみことばです。「あなたは、神さまからありのままで愛されていますよ」と言われると悪い気はしません。では、堅い食物とは何でしょう?それは義の教えです。神さまに従うこと、隣人の罪を赦すこと、神さまから与えられた使命を果たすことなのです。神さまは、あるとき、「あなたのこういう所を変えるべきです」と言われるでしょう?「え?ありのままで良いと言ったのに?」と言ったでしょう。「ありのままで良い」とは言っていません。「愛されている」と言ったのです。でも、本当の愛は、子どもが神さまの似姿に成長することです。そのために、試練や訓練を受けることがあります。後から振り返ると、辛い出来事も「あのことがあったから、今があるんだ」と喜ぶことができるでしょう。

モーセがヨシュアに与えた命令で、新約の私たちが守るべきことは何でしょう?第一に、それは、神のことばを守り行うこと、右にも左にもそれないということです。つまり、聖書の言葉、全部を「神のことばとして守り行います。ありがとうございます」と受け取ることです。これも信仰です。「聖書全部が自分が守り行うべき律法であり、神さまのことばなんだ。アーメン」と信じて受け入れると、聖書が慕わしくなります。神のみことばが、神のみことばとして響いてきます。第二は、それを守り行うために、口から離さず、昼も夜もそれを口ずさむということです。「口ずさむ」とは英語の聖書では、meditate瞑想する、深く思うという意味の言葉です。ある人たちは、このことをディボーションとか静思の時(Q.T)などと呼びます。呼び方はどうでも良いのですが、みことばをいつも読んで、その意味を考え、適用していくということです。あなたはどのくらいの時間を聖書を読むことに使っているでしょうか?朝一番に新聞を読むでしょうか?夕食を食べ終わった後、テレビの前に寝そべると2時間があっという間に過ぎます。きょうは一日疲れたので、そのまま寝て、朝、すぐ仕事にでかける。本当に聖書を読む時間をどこかに入れないと、日曜礼拝だけになってしまいます。今は、毎日読めるディボーションの本もあります。いろんな工夫をして、聖書のみことばと親しみましょう。そうすると、私たちの考えが変わり、感情が変わり、行動も変わっていきます。

その結果、どうなるのでしょうか?「それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」繁栄し、栄えることができると約束しています。これは、最初、モーセがヨシュアに語ったことです。その次に、主ご自身がヨシュアに語りました。そして、今は、聖書を通して、神さまが私たちに語ってくださっています。これは、必ずそうなるという神さまの約束です。ある人たちは、クリスチャンが繁栄するとか、栄えることを否定する人がいます。それは「ご利益信仰だ、繁栄の神学だ」と言います。実際、そう主張している教会ほど、貧しくて、病気の人が多いようです。繁栄し、栄えることは、神さまのことばを守り行ったことの結果です。目的は、神さまのことばを瞑想し、守り行うことです。しかし、神さまはそういう人に繁栄と栄えを恵みとして与えてくださるのです。この地はカナンの地のようです。この地は天国ではありません。神さまはヨシュアのように、私があなたに与えているから、信仰によって勝ち取りなさいと今もおっしゃっています。この地は本来は神さまのものでした。しかし、アダムが罪を犯してから、サタンが横取りしてしまったのです。だから、私たちは主の御名によって戦って、自分のものとすることができるのです。主の御名によって、繁栄と健康と幸いを自分のものとしましょう。

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