2008年4月27日 (日)

聖霊の導き    ヨハネ14:16-20

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ 」の第4週目です。このテキストには「異言で祈りましょう 」と度々書いてあります。アバラブ教会は聖霊の賜物を強調するグル ープですから、そういう傾向があります。私は、異言はあった方が良 いと思いますが、「異言は必須である」とか、「絶対必要である 」と言ったことはありません。それよりも、聖霊という神様を賜物や 力ではなく、まず、人格的なお方として知る方が大切だと思います 。きょうは、「聖霊の導き」と題して、3つのポイントでお話したい と思います。

1.聖霊とはだれか?

 イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは 、あなたがたのところに戻って来るのです」(ヨハネ14:18)とおっしゃいました。これは復活のことを語っているのではありませ ん。イエス様が聖霊というお姿で、再びやってこられるということで す。肉体を取って来られたイエス様には、物理的な限界がありました 。イエス様はエルサレムに行けば、ガリラヤにいることができません でした。また、ガリラヤに行けば、エルサレムにいることができませ んでした。やがて、イエス様は十字架の死を遂げ、3日目に復活しま した。40日間お姿を現したのち、天にお帰りになられました 。ヨハネ14章は、十字架にかかる前ですから、弟子たちに約束を与 えているわけです。どんな約束でしょうか?イエス様は、 「今度は聖霊によってあなたがたのところにやって来るよ 」とおっしゃったのです。弟子たちにとって「助け主」とは 、イエス・キリストです。そして、このところでは父が 「もうひとりの助け主」を与えるとおっしゃっています。 「もうひとりの助け主」はギリシヤ語では、「アロス ・パラクレートス」です。「アロス」とは、全く同じかたちで 、別のものという意味です。「イエス様と人格的にも能力的にも全く そっくりだけど、別の人格を持った助け主」という意味です。

聖書には三位一体という言葉はありません。でも、ヨハネ14:9 -11は、イエス様と父なる神さまが一体であると書いてあります 。また、ヨハネ14:16-20は、やがて来る聖霊はイエス様と同 じであると言われています。つまり、イエス様と父なる神様とは同じ であり、聖霊とイエス様は同じだということです。数学でもA=B 、C=Aであるならば、B=Cという式が成り立ちます 。つまり聖霊は神さまだということです。ここに3本のビデオ ・テープがあります(神は唯一、しかし人格は3つ 。全く同じ形のビデオ・テープで説明)。旧約聖書では 、おもに父なる神様と聖霊が出てきます。しかし、新約聖書になると イエス様がお出になり、教会時代には聖霊がおもに出てこられます 。聖霊は、イエスの御霊であり、同時に神の霊なのです。ですから 、聖霊を受けるならばヨハネ14:20の「その日には、わたしが父におり 、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが 、あなたがたにわかります」ということが実現するのです。つまり、イエス様の内に父なる神様が ともにおられたように、クリスチャンの中にイエス様がともにおられ るということです。イエス様は弟子たちに「私は世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 (マタイ28:20)と約束されました。そのことは私たちにとっても同じであります 。イエス様は「聖霊様」というお姿で、世の終わりまで、いつも 、私たちとともにおられるのです。ハレルヤ!聖霊によって来られた イエス様には、物理的な限界がありません。聖霊は 、私の中にもおられますけれど、みなさん一人ひとりにともにいるこ とができるのです。

Ⅰコリント3章と6章に、「クリスチャンは聖霊の宮 」であると書かれています。かつて神さまはエデンの園におられまし た。それから、神さまはモーセが作った幕屋に降りてこられました 。その後、ソロモンが建てた、神殿に臨在されました。しかし 、その神殿はバビロンによって破壊されてしまいました。そして 、2000年前イエス・キリスト様のうちに神さまが共におられまし た。しかし、イエス様は十字架であがないのわざを終えられてから天 にお帰りになられました。それからどうなったのでしょう ?神さまは地上にいなくなったのでしょうか?そうではありません 。ペンテコステの日、イエス様が昇天してから10日後 、聖霊が降りました。ペンテコステ以来、イエス様を信じる人々の心 の中に、聖霊なる神様が内住するようになったのです。みなさん 、イエス様を信じているなら、もれなく神さまが共に 、あなたの内におられるということです。すばらしいではありません か。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない」とおっしゃいました。世の中で一番かわいそうなのは 、親のない子供です。現代は、たとえ親がいても、親のいないような 子供がたくさんいます。でも、大丈夫です。父なる神様が 、イエス様があなたと共におられるのです。日本語で「助け主 」と訳されていますが、「パラクレートス」は、他には「慰め主」 「助言者(カウンセラー)」「弁護者」とも訳すことができるのです 。あなたを慰め、助言を与え、弁護してくださる聖霊様がいらっしゃ るということです。何とすばらしい恵みでしょうか。韓国のチョー ・ヨンギ牧師はいつもおっしゃっていました。「父なる神さま 、そしてイエス様は、聖霊様によって、ここにいらっしゃっています 。あなたが神さまの住所なのです。聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し 、聖霊様に従いましょう」。アーメン。

2.聖霊の役割

 聖霊の役割はたくさんありますので、とてもひと言では言えません 。しかし、テキストではいくつか重要なことを取り上げています 。ヨハネ14章では、聖霊はどのようなことを私たちのためにしてく ださると書いてあるでしょうか?ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしにな る聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また 、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださ います」。このみことばは、直接的には弟子たちに語られたものです 。弟子たちはイエス様から3年半、教えを受けました。しかし 、弟子たちは、イエス様が十字架にかかることや復活することに関し てはちんぷんかんぷんでした。また、神の国はこの地上にやってくる と考え、だれがイエス様の右に座るんだと争っていました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロが聖霊を受けて、大説教をしました 。十字架と復活の意味、そしてやがて来る神の国のことをはっきりと 語りました。長老や学者たちは、「ペテロとヨハネが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)と書いてあります。「普通の」とは、「専門に律法を学んだことがな い」という意味です。いくら聖書を学問的に学んでも 、聖霊様にはかなわないということです。なぜでしょう ?聖書は神の霊、聖霊が書いたのです。わからなければ 、原著者である聖霊に聞くのが一番ではないでしょうか?「聖霊様 、ここはどういう意味でしょうか?」「ああ、私はこういうつもりで 書いたのですよ?」わぁー、すげー。皮肉なことに 、人は学問をすればするほど、聖霊様から離れます。聖霊は「すべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださる」のです。アーメン。だから、聖霊様に聞きましょう。

 また、ヨハネ16章にも、聖霊の働きが書いてありますが 、このテキストを見るまでは誤解していました。ヨハネ16:8 -11の内容が、未信者のもののためであるとは知りませんでした。ヨハネ16:8-11「その方が来ると、罪について、義について 、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてという のは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは 、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる からです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたか らです。」未信者のために聖霊は3つのことをなされます。第一は 、福音を拒絶し、イエス様を信じないことは罪であることを示します 。第二は、イエス・キリストご自身が義であり、真理であることを示 します。第三は、この世の君、サタンがさばかれたということです 。これまで、サタンが人々を告発し、さばいてきました 。神さまではなく、サタンがあなたの耳もとでさばいてきたのです 。でも、サタンは正しいキリストを処罰したことによって逆にさばか れました。聖霊はクリスチャンを懲らしめることはありますが 、罪を告発したりはしません。罪を告発するのはサタンです。でも 、キリストの十字架によって、サタンはさばかれ追放されました 。聖霊は、キリストによってすべての罪が赦されているゆえに 、私たちを訴えないのです。むしろ、私たちを弁護し 、私たちを正しい道へと導いてくださるのです。神さまはもう 、あなたを訴えません。キリストのあがないによってあなたを赦し 、聖霊様によって弁護してくださるのです。

 では、クリスチャンに対する聖霊の働きとは何でしょうか ?ヨハネ16:13-15にあります。ヨハネ16:13-15「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来 ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語 るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしているこ とをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします 。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです 。父が持っておられるものはみな、わたしのものです 。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて 、あなたがたに知らせると言ったのです。」クリスチャンに対しては、第一に、聖霊はすべての真理に導き入れま す。第二に、聖霊は父もしくはイエス様が言われたことを話します 。第三に、聖霊はやがて起ころうとしていることを示してくださいま す。多くのクリスチャンは、聖霊様に聞かないで、預言者とかカウン セラーのところを訪問しています。有名なクリスチャンのある先生に カウンセリングを受けるのは、2ヶ月か3ヶ月待ちだそうです 。また、「預言カフェ」というのがあって、多くの人たちが預言を受 けるため並んでいるそうです。未信者だったら「それも良いでしょう 」と言えるかもしれません。そうじゃないんです。なんと 、クリスチャンがカウンセリングや預言を求めて、あちこちらこちら 訪れているのです。解決は遠くにあるのではありません 。あなたの内におられる聖霊にあるのです。聖霊はすべての真理に導 き入れ、神さまがおっしゃることを話し、やがて起ころうとすること を示してくださるのです。昔、ディスカバー・ジャパンというのがあ りました。私は、ディスカバー・ホーリースピリットと申し上げたい です。

 テキストにはすばらしいたとえ話が書いてありますので 、引用したいと思います。どのように私たちは聖霊の導きを知るので しょうか?ある日、神様は1つの絵を与えてくれました 。私があなたに私の家の住所を知らせたとします。その住所は正しい けれども、あなたは私の家を発見することが難しいのです。もし 、あなたが注意深くないならば、あなたは間違った情報によって 、誤った道に導かれるでしょう。それでは、あなたが私の家に到着で きる最も良い方法とは何でしょうか?それは簡単です 。もしあなたが、私を車に乗せてくださるなら、あなたは迷うことは ないでしょう。それゆえ、あなたは神様の声を聞いて、 「これは効果的である」と考えた方法で始めないでください 。そうではなく、あなたの「人生の地図」を、あなたの人生の車にお られるイエス様のところに持ってきなさい。もし、私たちがキリスト に焦点をあて、キリストと親しい交わりを持つなら 、私たちは私たちの定められたところに到着できるでしょう 。あなたはだれと人生を共に歩みますか?あなたの車の助手席にキリ ストの霊であられる、聖霊様をお乗せしましょう。あなたの 「人生の地図」を、あなたの人生の車におられる聖霊様にお見せしま しょう。必ずあなたを正しい道へと導いてくださいます 。牧師のところに来たら、聖霊の知恵をいただいて 、ある程度のアドバイスはできるでしょう(たまに相談に来ると嬉し い)。でも、牧師の役割はそうではありません。牧師の真の役割とは 、「今もあなたと共におられる、聖霊様に聞きなさい 」と勧めることであります。

3.聖霊による啓示

 聖霊は私たちをどのように導かれるのでしょうか?テキストには 「霊によって伝達する」と書いてあります。神さまは霊ですから 、私たちが新生したならば、私たちの霊は神さまと伝達しあうことが できるのです。新生とは、霊的に生まれ変わるということです 。生まれつきの人間は、霊的に死んでいますから、神さまのことがわ かりませんし、神さまと語り合うこともできません。しかし 、イエス様を信じると、私たちの心の奥底にある霊が 、目覚めるのです。すると、「神さまはいらっしゃる 。私は天国も行けるし、私は神のこどもである」という確信が与えら れます。さらに、聖書のことばが「本当だ、すごい 」と分かるようになります。賛美やメッセージもより恵まれます 。なぜなら、あなたの霊が生き返ったからです。そして 、あなたの霊に聖霊が、何かを伝達してくださるのです 。聖霊は神さまとのコミュニケーションの霊です。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのない もの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの 。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは 、みなそうである。」これは、肉眼では見たことのないもの、肉声では聞いたことのないも の、心の中に浮かんだことのないものを聖霊が新たに与えるというこ とです。エディ・レオは3つの感覚があるとテキストで述べておりま す。

①霊的な耳を通して。これは「耳が聞いたことのないもの」です 。一般的に、神様は肉体の耳ではなく、霊的な耳によって伝達してく ださいます。神様は普通、1つか2つのことば、多くても3つのこと ばを私たちの霊に与えるということです。あるときエディ ・レオ師の奥さんが、美容室に行きました。鏡を眺めながら 、自分の髪の毛を整えている女の子を見ていました。奥さんは 「主よ、私を通して彼女を祝福してください」と心の中で祈りました 。突然、神様から「拒絶」という、たった1つの言葉を与えられまし た。彼女を見ると、とてもニコニコして幸せそうでした。 「すみません、ちょっと話をしても良いですか。あなたは人生におい ていくつかの拒絶を味わったことがありませんか」。奥さんが 「拒絶」という言った瞬間に、「12歳」という言葉が出てきました 。「あなたは12歳のとき、あなたのお父さんは亡くなりました 。それから、あなたは非常に孤独を感じていましたね 。多くの男性たちから拒絶されました。あなたは人間関係においてい ろいろな失敗があります。あなたは何度も結婚したいと思いながらう まくいかなかったですね。彼女は泣きながら、「はい 」と言いました。そして、その日、彼女はイエス様を受け入れました 。このように、神様は霊的な耳に1つか、2つの言葉を与えて 、伝達してくださいます。

②霊的な目を通して。「目が見たことのないもの」 。神様は私たちの霊に、絵(ピクチャー)もしくは象徴的な言語を与 えます。私は木曜の集会で、葛葉姉に預言のミニストリーをしたこと があります。キラキラ光っている水面が見えました 。後から聞きましたが、葛葉姉はこのように答えました。 「私は川辺に座って祈ったりすることが多いんです。そこが 、気持ちがとってもやすらぐんです。水面がキラキラ光っている川を 見ることが多いんです」。ある女性の牧師のために 、祈ったことがあります。花壇にすずらんが咲いている絵でした 。その方は、まもなくロシア語を学ぶために北海道に行きますと答え ました。このように、パッと浮かぶことを口に出すと 、次のものが見えたりします。

③霊的な感覚(印象)。「人の心に思い浮かんだことのないもの 」です。神様は印象もしくは、霊的な感覚(フィーリング )を与えます。その人の近くに寄ると、けっこう分かります 。もちろん、表情を見て、元気そうだなーとか、悩んでいるなーとい うのは分かります。でも、もっと奥底にあるものを神さまは示してく れます。野澤兄弟(ザチン)は、けっこう鋭くて、隣に座っただけで 「ああ、怒っているのがわかる」なんて言います。私もよくスーパー で買い物をしますが、すれ違うときに、「ああ、この人にはこういう 傷があるなー」と分かるときがあります。レジを打っている人を見る と、「この人はセルフイメージがとても健康だ」とか分かります 。しかし、みなさんいつも霊的アンテナを伸ばしていると疲れます 。ある人は、霊的にとても敏感で、人ごみの中から 、色んな嫌なものを拾う人がいますので気をつけましょう 。必要でないときは、どうぞアンテナをひっこましてください 。最も大切な動機は、「その人を祝福したい、励ましを与えたい 」ということです。私たちがキリストの心をもって 、他者を祝福したいという動機を持っているなら、聖霊は私たちに隠 されているすばらしいことを示してくださいます。

先週は、香港からコーチングのために、ベン・ウォン先生が来られま した。帰り際にこんな話をしてくれました。人を助けるとき 、私たちアジア人はその人の弱さ、悪いところを直そうと考える 。しかし、その人の長所を伸ばすということがより大事である 。その人の弱さや悪いところでなく、良いところに目を向ける 。ポール・ポット(劣等感の塊のような男性がすばらしいオペラを歌 って優勝)のように、その人のうちにダイヤがある。人を育てる 、発展させるというのは1つの芸術である。コーチとしてどのように して人々を発展させていくか、その芸術をマスターしていく 。英語の本で『人々の内にある最善なものを引き出す 』という本がある。中国人はそういう考え方ができない 。子供をしつけるときも「なぜ、おまえはこれをしないんだ 」と子供の悪いところだけを見る。その本には、「その人の中にある 最善なものを引き出すにはどうしたら良いか」が書いてある 。私はこの本を読んで、人を育てるということについて革命的な変化 がもたらされた。多くの人の場合、問題や欠点はその人に一生ついて 回る。私たちは変わってほしいと願うが、おそらく全部は変わらない だろう。私たちは否定的なところを見て、良いところを伸ばそうとし ない。しかし、良い方を高めてあげれば、悪い方もそんなにひどくは ならない。私たちは人を助けようとする余り、悪いところを叱る 。すると、その人の良いところを消してしまう。アジア人は欠点をな おすことに長けている。そうしないように努めても 、ついついそうなる。だから、バランスをとるためには 、できるだけ良い方を見るようにすれば、ちょうど良い 。人を育てるとき、できるたけ良いところを認め、それを引き伸ばし てあげることが大切である。そんなふうに教えてくださいました。

聖霊様はイエス様のような助け主です。イエス様の傍にいた弟子たち は本当にのびのびしていました。聖霊は私たちと共にいて 、私たちを励まし、弁護し、助言を与えてくださいます 。聖霊様が私たちのベスト・カウンセラーであり、ベスト ・コーチであることを覚えましょう。

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2006年12月24日 (日)

ことばは人となって     ヨハネ1:14-18

 「ことば」はギリシヤ語ではロゴスです。ギリシヤの哲人たちは、「世界はロゴスからできた。ロゴスとは宇宙理性であり原理だ」と言いました。しかし、聖書ではロゴスとは受肉前のキリストであり、ちゃんと人格(ペルソナ)をもったお方であると言っています。でも、この14節は非常な躓きをあたえました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。原文では、「ことばは肉体となった」となっています。ギリシヤ人は、「肉体は悪であり、魂は肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていました。それなのに、「ロゴスなる神が、肉体に宿るなんて、なんてひどい教えなんだ!」と思ったわけです。しかし、ヨハネはこの福音書においても、ヨハネの手紙においても、「イエス・キリストは、人として来られた」ことを強調しています。それでは、きょうは何故、ロゴスなる神が肉体をとってこの世に来られたのか、2つのポイントで学びたいと思います。

1.恵みに満ちておられた

 もう一度、14節をお読みいたします。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。恵みとはキリストの贖いととても深い関係の言葉です。恵みとは、人の行いや功績に関係なく一方的に与えられる賜物です。簡単に言うと、「にもかかわらず」与えられるものです。悪いことをしたにもかかわらず、一定の基準に達していないにもかかわらず、与える価値がないにもかかわらず…与えられる賜物です。一方、世の中の価値基準は、そうではありません。ある一定の基準に達したので…、良いことをしたので・・・、一生懸命働いたので…良い成績を収めたので与えます。たとえばそれは、賃金、ボーナス、学位、メダル、タイトルであります。入学も成績や内申書が一定の基準に達していないとダメであります。この世にあるほとんどのものは、自分の手で勝ち取るものばかりです。しかし、子供のときは、何でもただでもらいますので、「恵み」を簡単に受けられます。だから、神様も容易に信じることができます。ところが、大人になって行くにつれ、「ただ」でもらえるものには価値がないと思うようになるのです。そのため、信じるだけで救われるというキリスト教の「恵み」を受けるのが難しくなります。「ただより高いものはない、きっと眉唾だろう」と疑うわけです。しかし、キリストの贖いは、恵みであって、行いによって得られるものではありません。キリストの贖いは、あまりにも高価なので、私たちはただでいただくしかないのです。

ヨハネ3:16に、キリストの贖いを示す良い知らせのかたまりがあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神様はひとり子を与えたと言いますが、どこに与えたのでしょうか?「十字架に」であります。冒頭で、なぜ、ロゴスなる神が肉体を取ったのかと申し上げました。ロゴスなる神が人間となったのは、人間の身代わりとなるためです。イエス様は人間として生まれましたが、全く罪がありませんでした。まさしく、罪のない神の小羊として十字架につけられたのです。つまり、イエス様が全人類の罪を背負い、私たちの代わりに裁かれたのです。そのために、義なる神様は満足し、罪に対する怒りをひっこめられました。そして、神様が始めから用意していた永遠の命と永遠の御国を与えると約束されました。ただし、1つだけ条件があります。それは「御子を信じる者が」という条件付きであります。信じない者は、このすばらしい特典にあずかることはできないばかりか、さばきがその人の上にとどまります。神様は私たちが犯した個々の罪ではなく、キリストによる恵みを受けなかったことをさばかれるのです。しかし、信じた者には、考えられないような恵みが与えられます。信じるということは行いではありません。「神からの恵みを受け取る」ということであります。さきほども申し上げましたが、大人になればなるほど、これができないのであります。だから、イエスは、「だれでも幼子のようにならければ、神の国に入ることはできない」と言われたのであります。人間には生まれつきプライドがありますから、本当に困らないとこの恵みを受け取ろうとしません。だから、イエス様は山上の説教でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタイ5:3,4)。「貧しい」とは、乞食をしなければならないほどの極度な貧しさです。また「悲しむ」とは、身内のだれかが亡くなったときの深い悲しみです。水野源三さんと言う人は、子供のとき脳小児麻痺になりました。それ以来、手も足も動かず、しゃべることもできませんでした。彼は「あいうえお」の表をだれかから指差してもらい、一字一字、瞬きで意思を伝えるしかできませんでした。水野源三さんは、「悲しみよ、悲しみよ、本当にありがとう。お前が、主イエス様のもとに連れて来てくれたのだ」という詩を書きました。

 イエス様がこの地上に来られたとき、一番先に神の国に入った人たちはだれでしょう。その当時、一番見下げられていた遊女や取税人、罪人たちでした。罪人とは、律法を守ることのできない人たちです。彼らはアムハーレツ、「地の民」と呼ばれました。では、反対に神の国に入れなかった人はだれでしょう?皮肉なことに、パリサイ人や律法学者など、まじめで宗教的な人たちでした。どういうわけか、彼らはイエス様を憎み、信じようとしませんでした。彼らは律法を守り行うという道を選び、恵みによる救いを選ばなかったのであります。これは今の時代にもあるんじゃないかと思います。この世では、クリスチャンになる人は、元来、真面目な人だと思われています。私は日本のクリスチャンの人口が少ない理由の1つは、教会が真面目な人しか歓迎しないからだと思います。教会がいつの間にか、パリサイ人や律法学者のようになり、世の人を罪人呼ばわりするからではないかと思います。イエス様のところに来た真面目な人というのは、ニコデモくらいです。他の人たちは、病気を治してもらいたいとか、腹が減ったとか、偉くなりたいという動機でイエス様のところにやって来ました。イエス様は罪ある人々をありのままで歓迎しました。私は英語をただで教えてくれるというので、東林間の教会に行きました。そこは、座間キャンプが近いのでたくさんのアメリカ人が来ていました。そこに通っている日本人はみんな変でした。私のような日本人と口をきかないで、アメリカ人とばかりしゃべっていました。私を導いてくれた職場の先輩は、「彼らは偽善者だ」と言いました。次に座間キリスト教会に行きました。その教会はホーリネス教団でとっても律法的で、信徒が牧師をさばき、牧師が信徒をさばき、信徒どうしがさばきあう教会だったそうです。ところが大川牧師は、私が行く少し前に、「聖霊様が好まれる、さばきあわない教会を作る」と方針を変えたばかりだったのです。だから、教会の雰囲気がとてもやわらかくて、罪のかたまりのような私も居心地が良かったのです。そこ頃、タモリのギャグがはやっていました。あるとき教会で、私が得意げにタモリのギャクを披露しました。「クリスチャンは、時計を持たなくても時間がわかりまーす。あー、十時か」。大川先生がそれを近くで見ていたのです。でも、私がまだ求道者だったせいか、叱られませんでした。十字架は神聖なものであり、ダジャレの材料なんかにはしてはならないものであります。とんでもないことです。でも、その教会には赦しと恵みがあったんです。もし、律法的で厳しい教会だったら、「二度と来るな!」と追い出されていたでしょう。私は「あの教会でなければ救われなかっただろうなー」と今でも思います。もし、亀有教会に、赦しと恵みの雰囲気があるならば、私は本当にうれしいでーす。イエス様自身も恵みにあふれていました。だから、遊女や取税人、罪人たちが緊張しないで、一緒にいることができたのだと思います。たまに、そばにいると緊張を与える牧師やクリスチャンがいますが、「恵み」をもっと味わうべきであります。

1:16に何と書いてあるでしょうか。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」。リビングバイブルでは、「この方の恵みは尽きるところを知りません。私たちはみな、次から次へと、あふれるばかりに恵みをいただきました」となっています。つまり、イエス様のうちには恵みがいっぱい詰まっているということです。「クリスマスにはプレゼントがつきものです。プレゼントをあげたり、プレゼントをもらったりします。でも、最大のプレゼントは何でしょうか?それは、父なる神様が私たちに御子イエスを与えてくださったことです。イエス様ご自身の中には、すべての恵みが詰まっています。罪の赦し、永遠の命、永遠の御国、豊かさ、解放、癒し、知恵、喜び、希望、愛、聖霊の力などが詰まっています。どうぞ、尽きない恵みを、次から次へとあふれるばかりにいただきましょう。たとえ、クリスマスに、だれからもプレゼントをいただかなくても問題ありません。なぜなら、イエス・キリストこそが最高のプレゼントだからであります。

2.まことに満ちておられた

 14節後半、「この方は恵みとまことに満ちておられた」。「まこと」というギリシヤ語はアレーセイヤですが、日本語では、真理、真実、誠実というふうにも訳されています。第一のポイントで恵みが必要だということをお伝えしました。しかし、恵みだけですと信仰生活はうすっぺらいものになります。神様はこの世界を創造したときに、きっちとした法則を与えました。そこには、自然科学の法則もありますし、道徳的な法則もあります。この世界に真理や真実があるのは、もともと神様が創造されたからです。そして、この真実や真理に逆らうと抵抗を受けて失敗します。あるときは、滅びを刈り取るときさえあります。「愛なる神様がなんでひどいことを許されたのですか?」と文句を言う人がたまにいます。でも、それは自分が無知であったため、神の法則に違反したからであります。もちろん、神の恵みによって何とかなるときもありますが、時には大きな代償を支払わなければならないときもあります。たとえば、酒やタバコは体に害を及ぼすことが医学的にも証明されています。ある人は、「クリスチャンは何をやっても恵みによって許されるんだ」と言うかもしれません。しかし、それは健康の法則に反する行為なので、やがては病気という刈り取りをすることになります。そういう意味でも、私たちは真理を知らないとエライことになります。使徒パウロは、コリント13:8で「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできる」と言いました。そこで神様は「真理とは何なのか」ということを教えるために、地上にイエス・キリストを送られました。イエス様は真理とは何かということを教えられだけではなく、自ら真理に生きたお方であります。私たちは「ああ、イエス様は神様だからできたんだ!」と言います。確かにイエス様は神様でありました。でも、この地上において、イエス様はご自身の神の力で生きたのではありません。いつも、父なる神様から聞き、父なる神様のまねをして、父なる神様の力で人生を全うされました。それは、イエス様が私たち人間の模範となるためです。プロテスタント教会は、イエス様の贖いをものすごく強調します。「人は信じるだけで救われる。行いは必要ではない。信仰義認だ」と言います。もちろん、それは間違いではありません。でも、イエス様は「神の子として救われた人がどのように生きるべきか」という模範を示されたことも忘れてはいけません。

 インドネシアのエディ・レオ師はこのように言われました。「キリストの品性を真似るのはとても困難である。私たちはイエス様のように7の70倍も赦すことはできない。だが、キリストのライフスタイルを真似ることはできる。キリスト様の生き方を真似ていくならば、いつしかキリストの似姿に近づくことができる」。イエス様は、私たちが人生において遭遇する様々な試練を自らもお受けになられました。イエス様は洗礼を受け、聖霊に満たされて、「さあー、公に活動をするぞ!」と言ったわけではありません。なんと、イエス様は御霊によって荒野に導かれました。マルコによる福音書には「荒野に追いやられた」と書いてあります。イエス様は40日40夜断食した後、悪魔の試みを受けられました。悪魔は「あなたが神の子なら、この石をパンに変えなさい」と言いました。イエス様は神の子でしょうか。もちろん、神様です。ですから、石をどんなパンにも変えることができたでしょう。やろうと思えば、山崎パンにも、ポンパドールにも、マクドナルドにも変えることができたでしょう。しかし、しませんでした。次には、「あなたが神の子なら、神殿の頂から飛び降りてごらん」と言われました。人々は「メシヤは神殿の頂から突然現われる」と信じていました。イエス様は神様ですから、3回転2回ひねりでも飛び降りることができました。しかし、しませんでした。イエス様は、「世にあるものを全部あげる」という、3つ目の誘惑も退けました。イエス様はアダムとエバが負けてしまった誘惑に全部勝利されました。でも、それはご自身の神の力でやったわけではありません。もし、イエス様がご自身の神の力で誘惑に勝利したのであれば、私たちには何の望みもありません。また、イエス様は人間でもありました。もちろん、人間の力で誘惑に勝利したのでもありません。イエス様は人間として、聖霊の力によって、また神のみことばに従うことによって誘惑に勝利されたのです。ということは、私たちにもイエス様のように勝利できるということです。私たちに毎日、何度も、誘惑や問題がやってきます。何も問題のない日はないと言って良いほどです。でも、その問題や誘惑は、「ハレルヤ!イエス様―」と、イエス様を礼拝するチャンスとなるのです。イエス様を見上げると、不思議に信仰が湧いてきて、問題や誘惑に勝利できるのです。

もう1つ私たちがイエス様から学ぶべきことは、イエス様がなされたミニストリーであります。イエス様はたくさんの癒しや奇跡を行いました。私たちは「ああ、あれはイエス様だからできたんだ」と言います。でも、イエス様はヨハネ5:19でこのように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」。このところで、イエス様は「子は、自分からは何事も行なうことができません」とおっしゃいました。もちろん、イエス様は神様でしたから、ご自分の力で何でもすることができたでしょう。もし、イエス様がご自身の神様の力でやったら、私たちには何の望みもありません。でも、イエス様は「自分からは何事も行なうことができない」と言われました。この意味は、どんなミニストリーも、父なる神様に聞いて、父なる神様の力で行ったという意味です。ということは、私たちもイエス様と同じことができるんだという望みがあります。だから、イエス様はヨハネ14:12でこのように言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」ここでも、「まことに、まことに」と2回たたみかけています。「これは嘘じゃないよ、本当だよ」という意味です。私たちもイエス様と同じミニストリーができるのです。でも、1つだけ条件があります。イエス様のように、父なる神様に聞き、父なる神様の力で行うということです。私は今年の9月インドネシアに行きました。最後は、1万人くらいはいる会場で癒しの大会がありました。私はエディ師が6月に日本に来たとき、「半身不随の人のために祈ったシルビーさん」「一度、死んだけど生き返った赤ちゃん」「靴をなくした坊や」の話を聞きました。インドネシアに行った時、その人たちがステージに上って、証をしてくれました。いやー、とっても力強かったですね。以前の私は「手当たり次第」手を置いて祈っていました。でも、イエス様のように、父なる神様に聞いて行うことがとても重要だということがわかりました。

最後に、大学生のシルビーさんに起きたことをお話して終えたいと思います。ある日、彼女は、学校の中を歩いていました。彼女は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか。私に何をしてもらいたいですか?」と聞きました。お父さんがこのように言われました。「友達のために祈りなさい。あなたの友達は、右半身が不随になっています。何年も前からです。彼女のために祈りなさい」。彼女は祈り始めました。何が起きたでしょうか。彼女は5分、10分、そして15分間祈りました。15分祈った後、何が起きたでしょうか。何も起きませんでした。これが問題です。15分間、祈って何も起きなかったら、普通、何をするでしょうか。私たちは祈りをやめるでしょう。そして相手の人に「信仰がないからです」と、問題をなすりつけます。そして、去ってしまうでしょう。だが、このシルビィーさんは祈り続けました。どのくらい祈ったでしょうか。2時間くらい祈り続けていたら、突然、右手が動き始めました。「おおー、ちょっとだけど動く」。なんと、2時間半祈った後、その人は普通に歩き始めました。家に帰って、お父さんとお母さんは「ああー、娘が癒された」と涙を流しました。シルビーさんは、このような病人のために祈ったのは初めてでした。そして、癒されました。これは単純ですが、簡単ではありません。ただ、実践するだけです。私たちは彼女のように、父なる神様に聞くことが必要です。第一は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか」。「父なる神様は今も休まずに働いておられる」と聖書に書いてあります。第二は「私に何をしてもらいたいですか?」と聞くことです。そのとき、父なる神様が「やりなさい!」と言われたらやれば良いのです。逆に「やりなさい!」と言われなければ、やらなくても良いということです。「人間的にかわいそうだから、なんとかしてあげたい」とミニストリーをし続けていると、燃え尽きるかもしれません。だから、父なる神様が「やりなさい」と言われたらやれば良いのです。イエス様も常にそのようになさられたと信じます。

 最後に「救いの御子の降誕を」という水野源三さんの詩を読んで終えたいと思います。

     一度も高らかにクリスマスを喜ぶ讃美歌を歌ったことがない。

     一度も声を出してクリスマスを祝うあいさつをしたことがない。

     一度もカードにメリークリスマスと書いたことがない。

     だけど、だけど、雪と風がたたく部屋で、心の中で歌い。

     自分自身にあいさつをし、

     まぶたのうらに書き、

     救いの御子の誕生を御神に感謝し喜び祝う。

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