2015年7月17日 (金)

キリストから任命された者 ヨハネ15:16、17:18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.19

 弟子とはだれでしょう?三回目のきょうは「弟子とはキリストから任命された者」というテーマで学びたいと思います。ある人たちは「イエス様を信じてクリスチャンになると、死んだあとは、天国に行ける」と思っています。間違いではありませんが、救いは天国に行くためだけにあるものではありません。神さまは私たちが地上から天国に行くまでの間も救いたいと願っておられます。この「救い」は人生に意味と意義を与えるという意味の救いです。それはどういう意味でしょう?イエス様はあなたを救いに導かれましたが、同時に、あなたにこの地上でやってもらいたいことも用意しておられます。私たちはイエス様から何かの目的のために任命されているという自覚がなければ、この地上の人生を無駄に使ってしまうでしょう。あなたはせっかく救われたのですから、神からの使命に目覚めなければなりません。

1.任命された目的

ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ1718「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」『本当の弟子』のテキストに記されている質問によって進めたいと思います。「私たちが弟子として選ばれ、任命されたのは何のためでしょう?」 それは、「行って実を結び、その実が残るため」です。任命というギリシャ語は、ティセミですが、「立てる」「任命する」「叙品する(ordain)」という意味があります。この世において、任命ということばは、どういう時に使われるでしょうか?多くの場合、任命は公務員などの官職や役職に就くときに用いられます。警察官、消防員、学校の教師、区役所…いろいろあります。彼らは試験を通過して認められたので、特定の身分があり、成すべき役目があります。もちろん、給与や厚生面も保証されています。しかし、一般の人と違って賄賂をもらったり、犯罪をやらかすとテレビのニュースに流れます。教会では、牧師だけではなく、クリスチャンもキリストの弟子として任命された存在です。「いや、私は気楽に生きたいので、そういうものはいりません」と断ることもできます。しかし、イエス様からお声がかかったなら、断ってはいけません。なぜなら、イエス様はあなたが弟子になれると見込んでいるからです。「いや、私があなたを弟子にしてあげよう」とおっしゃっているのです。

「キリストの弟子として結ぶべき実とはどんなものでしょう?」弟子として結ぶべき実が3つありますが、これは第二、第三、第四のポイントでお話ししたいと思います。短く紹介しますと、生涯を通して結ばれる聖化の実、失われた魂を勝ち取る実、生涯を通して主に奉仕する実の3つです。

「どのような実が永遠に残るのでしょうか?」Ⅰコリント312-14「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。」土台とはイエス・キリスト様です。その上に、建物を建てるのですが、どんな材料を用いるかが問題です。火というのは世の終わりのさばきであり、私たちが「キリストのさばき」の前に立った時であります。木、草、わらはたやすく手に入ります。それは私たちの肉の行ないによって建てたものです。ある人は怨念晴らしによって、建て上げる人もいます。しかし、それらは火によって焼かれてなくなってしまいます。では、その人は救われないで、滅びに行くかというとそうではありません。Ⅰコリント3:15「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」とあります。わざや働きがなくなったとしても、神さまからいただいた永遠のいのちはなくすことがありません。私たちはこの世ではなく、永遠に残るような実を結ぶような働きをしたいものです。

「イエス様はあなたが実を結ぶことができるように、どのような約束を与えたのでしょう?」ヨハネ1516後半「主の名によって父に求めるものは何でも、父が私たちにお与えになる」と書いてあります。1516の前半には「私が実を結ぶために任命した」と書かれています。1516の後半には「求めたら与える」と書いてあります。私たちは後半のみことばだけを見がちです。しかし、イエス様はご自分の目的が果たされるために、「求めたら与える」と約束されたのです。つまり、「あなたは弟子として任命されたんですよ」という前提があっての約束です。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。牧師や一部の献身者だけが神から任命されたのではありません。ルターが「万人祭司」を唱えたように、すべてのクリスチャンが祭司として任命されたのです。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ29)。もし、クリスチャンが「任命された」という自覚がないならば、「地上で好きなことをして、天国に行ければ、ラッキー」となるでしょう。ただ今から3つの実を取り上たいと思います。

2.聖化の実

第一は聖化の実です。エペソ413「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」Ⅰヨハネ26「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」「私たちの成長における、最終的な目標は何でしょう?」完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することです。イエス様は「天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。私たちは「完全」と聞くと、おじけづいてしまいます。完全はギリシャ語では、テレイオウですが完璧という意味ではありません。仕上げるとか、完成する、完了させるという意味があります。このところには「私たちがキリストに似た者となるまで成長する」というニュアンスがあります。特に人格的な成長であります。私の口から「人格的な成長」というと、とても不似合のような感じがします。キリスト教会に来たら、「ありのままで良いんですよ」と言われます。でも、洗礼後は「ありままじゃダメなんです」ということなのでしょうか?もし、洗礼を受けたとき霊的な赤ん坊であるなら、赤ん坊のままで良いわけはありません。肉体もそうですが、霊的にも成長していく必要があります。イエス様が私たちのゴールです。Ⅱコリント318「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあります。このことを私たちは聖化と言いますが、これも主の恵みです。なぜなら、「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と書いてあるからです。

では、「イエス様のように成長するためには、私たちは何をすべきなのでしょうか?」キリストが歩まれたように歩むということです。つまり、イエス様のようになるということは、イエス様のライフ・スタイルをまねるということです。私たちはイエスさまと同じようにはなれません。もし、私が「イエス様のような愛と寛容な人になるんだ」と決断したとします。ある人がつかつかとやってきてピシャッと頬を打ちました。「ああ、愛と寛容だ」と赦してあげます。しばらくたって、同じ人がピシャッと頬を打ちました。「ああ、愛と寛容だ」と赦してあげました。また、しばらくたって、同じ人がピシャッと頬を打ちました。三度目です。「わざとやっているだろう!」と怒って三倍にして返すのでないでしょうか?私たちはイエス様の人格を真似ることはできません。なぜなら、真似ようとやっているのが自分の意志だからです。私たちが真似られるのはイエス様のライフ・スタイルです。

では、イエス様ご自身はどう歩まれたのでしょうか?御父と親しく交わりながら、御父に従いました。ヨハネ519「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」イエス様も神さまですから、自分の力で奇跡を行なうことがきました。イエス様も神さまですから、自分の知恵で教えることができました。しかし、イエス様はあえてそうはしませんでした。いつでも、父なる神と交わり、父なる神の力で行いました。また、いつでも父なる神と交わり、父なる神から聞いて教えました。イエス様は人間になられましたが、そのとき完全に私たちの模範になられたのです。イエス様の力の源は父なる神さまでした。もし、そうであるなら、私たち自身はどのように歩むべきなのでしょうか?そうです。キリストが御父を見て行動したように、私たちもキリストを見習って行動するということです。言い換えるなら、 自分の意志で真似るのではなく、キリストのいのち、御霊にゆだねながら生きるということです。頭ではわかりますが、これが難しいのです。ある人が肺の機能を一時的に失って、人工肺に切り替えてもらったそうです。いつものように自分で息を吸い込もうとするとうまくいきません。息ができなくて、とっても苦しくなったそうです。今度は、力を抜いて気管を開けるようにしたら自然に空気が入ってきたそうです。クリスチャン生活も同じです。最初の頃は、肉の力と御霊の力の組み合わせがうまくいきません。肉の力でやろうとすると、御霊は「ああ、そうですか」とご自身を消されます。真面目な人ほど、肉の力でやろうとします。そのため、聖書の律法主義者のようになります。人をさばきまくって生きています。それではイエスさまからますます離れてしまいます。肉の力をあきらめ、御霊にお願いすると、御霊がぐっと現れてくださいます。

テキストの最後の部分をお読みいたします。キリストに似た者に変革されるためには、どうしたら良いでしょうか?私たちはイエス様の品性を真似すべきなのでしょうか?あなたは、イエス様のように人々の罪を無限に赦すことができるでしょうか?不可能です!そうではなく、私たちはイエス様のライフ・スタイルを真似るべきなのです。そうすれば、最終的にイエス様のような品性が生み出されていきます。イエス様は毎日、父を見て、父の御声を聞いて、父と親しく交わっていました。私たちも天の父と親密な関係を持つならば、天の父の愛で隣人を愛し、天の父の働きをなすことが可能になるのではないでしょうか?第一はイエス様にとどまること、第二はイエス様のライフ・スタイル(生き方)を真似していくことです。そうすれば、私たちはイエス様の品性を身につけることができるのです。

3.魂の実

第二は魂の実です。マルコ1615-16「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」マタイ2819-20「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

「イエス様が弟子たちに(教会に)与えた最大の使命とは何でしょう?」全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えることです。「福音は人々の何を握っているのでしょうか?」それは、その人が救いを得るか、あるいは罪に定められて滅びるかという永遠の運命です。すごい!福音にはそういう力があるのですか?使徒パウロはローマ1章でこう言いました。ローマ116「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」みなさんは、福音を恥と思ってはいませんか?信じたころは一生懸命、神さまのことを伝えました。「あいつはキリスト教にかぶれた。頭がおかしくなったんだ」と言われたかもしれません。それでも、めげずに伝えました。ところがどうでしょう?あんまり信じてくれません。反対に、嫌なことをたくさん言われます。「ああ、いやだなー」でも、自分の信仰を捨てる気持ちはありません。気がつくと信じたころの熱が冷めていたことはないでしょうか?でも、聖書、特にマタイ28章とマルコ16章を見ると、福音を伝えることは絶対的な使命であると書かれています。最初に、弟子として任命された目的とは何かと言いました。公務員と同じように、任命されたからには、特定の身分があり、成すべき役目があります。では、クリスチャンの特定の身分とは何なのでしょうか?Ⅱコリント5章には「私たちはキリストの使節なのです」と書かれています。使節とは、ambassador大使という意味です。もっと言うなら、私たちはキリストを代表している神の国の大使であります。どういうことでしょう?私たちに福音という、神の国の鍵がゆだねられているということです。たとえば、私たちがひとりの人に、福音を提示したとします。その人は福音を聞いて、「私はイエス様を救い主、人生の主として信じます」と告白しました。あなたはどういうことをしたのでしょう?あなたは神の国の大使として、その人を神の国に入れてあげることができたのです。ハレルヤ!もちろん、信じない人もいます。日本では、信じない人の方が多いかもしれません。福音を伝えるのは私たちの役目であり、信じる、信じないはその人と神さまの問題です。私たちが救おうとするから大変になるのです。福音を伝えるのは私たちの役目ですが、救うのは神さまです。ハレルヤ!

「マタイ28章は、福音宣教だけではなく、さらに何が必要だと教えているでしょう?」主が命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えて主の弟子とすることです。救われた人を弟子とすることによって福音宣教のスピードが倍加されていきます。テキストには「弟子を作るための順番を説明してください」とあります。「行く、福音を宣べ伝える、バプテスマを授ける、守るまで教える」ということです。大宣教命令は、大弟子作り命令でもあります。これまでの教会は、洗礼(回心)がゴールでした。そうではなく、イエス様が教えられたことを守らせるまでがゴールです。命令の中には、マタイ28章の新たに弟子を作るということも含まれています。そうしないと、弟子作りのサイクルが回っていきません。また、過保護になりすぎると、宣教がおろそかになることも確かです。魂が新たに救われることは、キリストのからだに新しい血が注ぎ込まれることと同じです。救霊への情熱を保ちながら、弟子作りに励むことが重要です。

4.奉仕(働き)の実

第三は奉仕(働き)の実です。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざ(works)を行い、またそれよりもさらに大きなわざ(works)を行います。わたしが父のもとに行くからです。」エペソ123「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」「イエス・キリストが地上においてなされた3つの大きなわざ(働き)は何だったでしょう?」第一は福音宣教、第二は教え、第三は癒しと悪霊を追い出すことです。イエス様はこの地上で、3の働き、ミニストリーを行なわれました。マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」アーメン。

「イエス・キリストは弟子たちにどのようなわざ(働き)をすることを願っておられるでしょう?」福音宣教、教え、癒しと悪霊を追い出すミニストリーです。福音書を見ると、これら3つのことをしなさいと何度も伝道旅行に遣わしました。つまり、ご自分が弟子たちに見本を示し、そして、弟子たちにもそれを行なわれました。

「現在、イエス様のわざ(働き)を代わりにするところはどこでしょう?」キリストのからだなる教会、私たちです。イエス様はすでに天にお帰りになられました。その後どうなったのでしょう?聖書を見ると、「イエス様は教会のかしらになられた」と記されています。イエス様が教会のかしらです。そして、教会はキリストのからだであります。私たちのからだは、かしら、頭から命令を受けて動きます。頭だけでは、何もできません。頭の願いを反映させるのが、からだです。同じように、かしらであられるイエス様は、ご自分の願いを反映させるからだが必要なのです。そのからだとは私たち一人ひとりです。もっと言うなら私たちの集合体がキリストのからだです。私たちは何するのでしょうか?イエスさまが2000前に行っていたことを行なうのです。イエス様はどんなわざ、ミニストリーをしておられたでしょうか?福音宣教、教え、癒しと悪霊を追い出すミニストリーです。ハレルヤ!もちろん私たちには会社の仕事、勉強、家事、この世での務めがあります。税金も払わなければなりませんし、この世の法律も守らなければなりません。でも、私たちは神の国の大使です。キリストの弟子として召されています。ですから、それらを行ないながら、イエス様の3つのミニストリーを行なうのです。テキストのまとめの部分をお読みします。「奉仕」と言うと、教会の建物で椅子を並べたり、賛美をすることであると想像しがちです。もちろん、それらも大切ですが、本当の奉仕(働き)は自分が派遣されている場所で行うべきことです。会社での仕事はサラリーを得るためだけのものではなく、奉仕(働き)の場でもあるのです。主婦も家事や育児の中にも奉仕(働き)があるのです。学生も学校の中にも奉仕(働き)があるのです。働きは英語でミニストリーと言いますが、聖職者だけのものではありません。神さまから召されたところで働くことが奉仕なのです。キリストのからだは、現在、教会そのものです。教会こそがイエス様の働きを継続し、この世に拡大していく神さまが備えられた器なのです。

 きょうはキリストから任命された者として、3つの実を結ぶ必要があると申し上げました。第一は聖化の実、第二は宣教の実、第三は奉仕の実です。これら3つの実を結ぶために必要なものがあります。資源、源、リソースであります。なかなか、日本語的に難しいです。自分の力だけでやろうとするとうまくいきません。資源、源、リソースとは何なのでしょうか?それは聖霊です。3つの実はすべて聖霊によってもたらされるものです。だから、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降ったのです。ペンテコステの日、聖霊を受けてから弟子たちができたのです。ですから私たちも聖霊をいただいて、聖霊主導によって3つの実をむすばせていただきたいと思います。難しく考えてはいけません。秘訣はイエス様にとどまり、イエス様と一緒に歩むことであります。

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2015年2月27日 (金)

キリストはだれか ヨハネ1:1-3,14 亀有教会 鈴木靖尋

 

 「キリストはだれか」ということが、何故そんなに重要なのでしょうか?この世の中には宗教が数えきれないほど多くあり、それぞれの神さまがおられます。また、救いの方法もまちましです。たとえば、イスラム教徒は私たちとおなじ神さまを信じているはずです。しかし、マホメットもしくはコーランを通して神さまを見ています。そうすると、全く別の神さまになり、全く別な救いを求めるようになります。私たちはキリストを通して、本当の神さまがどんなお方かわかります。また、私たちはキリストを通して、本当の救いをいただくことができると信じます。きょうは「キリストがだれか」4つのポイントで学びたいと思います。

1.受肉者キリスト

この世では人が神になって、拝む対象にまで高められていきます。私たちが他の宗教と異なる点は、神が人となられたということです。多くの人は、クリスマスがキリストの誕生だということは知っているかもしれません。しかし、キリストが、この地上に来られる前、どこにおられたかは知らないのではないでしょうか。ヨハネ11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」キリストは「ことば」(ギリシャ語ではロゴス)というお方として初めからおられました。神とともにおられ、すべてのものはこの方によって造られました。なんと、キリストが世界を創造されたということです。コロサイ116-17「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」このみことばによると、御子であるキリストは万物より先に存在しておられました。そして、見えるものも見えないものもすべて御子によって造られたと書いてあります。聖書全体から考えると、父なる神様は、キリストを通して世界を創造されました。つまり、キリストも世界の創造に参与されていたということです。

世界を造られたお方が、私たちと同じようになられたとは、屈辱的なことではないでしょうか?ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。「人となって」とは、肉体を持たれて、私たちの間に住まわれたということです。当時のギリシャ世界では、肉体は悪と考えられていました。聖なる神が肉体を持つということはナンセンス、無意味でありました。しかし、肉体を持っている私たちを救うために、キリストは肉体を取られたのです。では、この地上に来られたキリストはどのように証言されているのでしょうか?ひとり子としての栄光があり、恵みとまことに満ちておられました。ある人たちは、恵みとまことは相対するものであり、共存できないと言います。なぜなら、恵みは「まあ、良いか」という甘い響きがあります。一方、まことは「真理以外は受け入れない」という厳しさがあります。しかし、イエス様には恵みとまことの両方があったということです。

少し、神学的になりますが、神の御子であるキリストが、人間を救うために、自ら人間イエスとなられたことを「受肉」と言います。受肉の目的は、人間と同化することによって、贖いをまっとうするためでした。もし、人間が蟻を救いたいなら、蟻になるしかありません。しかし、私たち人間がすすんで蟻になりたいでしょうか?正直、イヤですよね。キリストはそれ以上のことを覚悟して人間になられたのであります。イエス様は私たちと同じ肉体を持ちましたが、罪だけは別でした。神の御子は処女マリヤの胎内に聖霊によってみごもられることによって、人間となられました。自然の誕生であるなら、アダムの原罪を受け継ぎ、身代わりになることができません。そのために、御子は聖霊によって罪から守られ、アダムの子孫として誕生したのです。イエス・キリストは肉体を持った私たちを救うために、天から降りて、人間として来られたのです。

2啓示者キリスト

「神さまを見せてくれたら信じるよ」という人がたくさんいるのではないでしょうか?弟子たちも神さまを見せてほしいと願いました。ヨハネ148-10ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

父とは父なる神さまのことです。では、だれを見た者は、神さまを見たのでしょうか?そうです、キリストを見た者であります。イエス様は「私を見た者は、父を見たのです」と言われました。それでは、イエス・キリストはイコール神さまなのでしょうか?それとも、両者はうり二つなのでしょうか?イエス様は神さまがどこにおられると言われたでしょうか?「私が父におり、父が私におられる」と言われました。では、神さまとキリストはどういう関係なのでしょうか?これは、数学の問題になるかもしれません。第一は、キリストの中に神さまがいるということです。第二は神さまの中にキリストがいるということです。両者は一見矛盾しているように思えます。では、この二つを満たす答えは何なのでしょうか?ここにキリストの円があったとします。もう一方に神さまの円があったとします。この二つ円が全く同じ大きさであるならどうでしょう?両者が重なっているとき、キリストの中に神さまがおり、神さまの中にキリストがいるという式がなりたちます。では、父さまとキリストとはどういう関係なのでしょう?そうです。お互いの人格(位格)は違いますが、神という属性においては全く同じだということです。

では、どのようにすれば、父なる神をもっと知ることができるのでしょうか?ヨハネ14 11「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様は2つの道を教えられました。1つはイエス様のことばです。イエス様は「私は自分から話しているのではなく、内におられる父なる神です」と言われました。たとえば、マタイの山上の説教を聞いたとき、人々はどう思ったでしょうか?マタイ728-29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」イエス様のことばに権威があったのは、イエス様は父なる神さまによって語ったからではないでしょうか?もう1つはイエス様の行ない、わざであります。イエス様は数多くの奇跡を行ないました。しかし、イエス様は「私のうちにおられる父なる神が、ご自分のわざをおこなわれたのだ」と言われました。決定的な証言がヨハネ5章にも記されています。ヨハネ519「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」イエス様ご自身も神さまですから、自分で意志して、自分で奇跡を行なうことができました。でも、あえてそれらを封印して、父なる神さまが言われるように語り、父なる神の力によってわざを行ったのは何故でしょう?それは、イエス様はご自分を通して、父なる神さまを啓示するためでありました。ご自分が父なる神様の代わりとして地上に派遣されていることを表わしたかったのです。ですから、私たちはイエス・キリストのことばとわざを見るとき、「ああ、神さまはこういうお方なのか?」と知ることができるのです。

 ヘブル11-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」自然界を見て、ある程度神さまのことが分かります。預言者たちが書いた聖書を見るとさらに分かるでしょう。それらに比べ、御子イエスは最も完全な神の啓示です。ヨハネ14章では、御父と御子が完全に一体であることを述べられています。私たちは御子イエスを見ることによって、御父を見ることができるのです。なぜなら、御子イエスこそ、最高の神の啓示だからです。

3.贖罪者キリスト

 贖罪というのは、罪を贖うとか、罪を取り除くという意味です。これはバプテスマのヨハネのイエス様に対する証言です。ヨハネ129-30その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。

 もう1箇所、ヘブル人への手紙も引用します。ヘブル914「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」では、一緒に考えたいと思います。旧約時代はどのようにして、人間の罪を取り除いたでしょうか?まず、自分が引いて来た羊や牛の上に手を置いて、自分が犯した罪を告白します。その次に、祭司が代わりにそれらの動物を殺します。つまり血を流すことによって、その人の罪が取り除かれました。手を置くということは、「この動物は私の身代わりです」という意味です。本来なら自分が罪のために死ななければならないところを動物が代わり殺されました。なぜ、祭司は祭壇に動物の血を注いだのでしょうか?レビ1711「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。…いのちとして贖いをするのは血である。」と書いてあります。つまり、いのちである血でしか罪の贖いを成し遂げることできないからです。旧約時代は何百万、何千万の羊や牛が殺されました。それは、罪はただでは赦されない、代価が伴うということを教えています。罪を犯した人たちは、自分の代わりに動物が血を流して死んでいく様を見てどう思ったでしょうか?「ああ、もうあのような罪を犯すのはやめよう」と心に誓ったことでしょう。でも、動物の血では限界がありました。なぜなら、心が変わらなかったからです。エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあります。

では、キリストはどのようなお方として来られたのでしょうか?バプテスマのヨハネは「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。なぜ、イエス様が神の小羊なのでしょうか?イスラエルの民はエジプトに奴隷として捕えられていました。モーセが何度もパロに交渉に行きましたがダメでした。脱出の決め手になったのは何でしょう?主は「1歳の羊を殺して、その血を家々の二本の門柱とかもいにつけなさい」と命じました。血が塗られている家は主の怒りが通り過ぎるということでした。もちろん、パロやエジプトの人たちはそれをしませんでした。だから、彼らの長子という長子が主の使いによって殺されてしまいました。それで、パロはイスラエルの民を手放したのです。エジプトはこの世、パロはサタンを象徴しています。そして、羊の血とは、十字架で流されたイエス様の血潮です。父なる神さまはイエス様が流された血をごらんになって、人類の罪を裁かないということをお決めになられたのです。赦しの条件はキリストによってなされた十字架の贖いを自分のものとして受け取るということです。クリスチャンとはキリストの血が塗られた人であります。その人からは、罪のさばきが通り過ぎるということです。

では、キリストの贖いを受けた人には、どのような変化が訪れるのでしょうか?ヘブル914「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」良心がきよめられ、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者となるということです。「良心が一体どこにあるのか?」これは永遠の謎かもしれません。ウィットネス・リーという人は、良心は霊の一部であると言っています。イエス様を信じると死んでいた霊が生き返ります。そのとき、良心も再生して正しく機能するようになるということです。この世の人たちは良心が麻痺している状態です。いくら道徳や厳しい罰則によって外側から正そうとしても無理です。ですから、まず第一に良心を目覚めさせる必要があります。良心が生まれかわり、罪責感が取り除かれるとどうなるでしょうか?ヘブル101922「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。…そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」キリストの血が私たちの良心をきよめてくださいます。そして、私たちはキリストの血を通して、大胆に神のみもとに近づくことができるのです。キリストは贖罪者です。

4.仲介者キリスト

 聖書には新約聖書と旧約聖書があります。英語で新約聖書は、New testament新しい契約という意味です。また、旧約聖書は、Old testament古い契約という意味です。キリスト教は契約の宗教と言っても間違いありません。日本人は農耕民族なので、あまり契約という概念がありません。なぜなら、人間的に親しく、明日も同じところに住んでいるからです。しかし、大陸の人たちは、契約ということがとても重要でした。なぜなら、彼らは今日会っても、明日は会えないかもしれないからです。人間関係よりも、契約の方が重んじられていました。では、初めの契約、アダムと神との契約はどうなりましたか?神さまは「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と言われました。ところが、アダムは善悪の知識の木から取って食べました。それは契約違反したことになります。そのため、アダムは死ぬことになり、エデンから追放され、地が呪われてしまいました。パウロは「ひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」(ローマ518)と言っています。他にも旧約聖書にはたくさんの契約があります。ノアの契約もあります。主は「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水で断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはしない」(創世記911)と約束されました。その次はアブラハム契約があります。主はアブラハムに「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」と言われました。さらにその次は、シナイ契約があります。主はイスラエルの民に「もし、あなたがたが、まことに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ195-6)と言われました。その後には、主はダビデやソロモンとも契約を結ばれました。

初めの契約と新しい契約の違いは何でしょうか?ヘブル915-18「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」 初めの契約はすべて人間と神さまの間でなされたものです。しかし、新しい契約は仲介者なるキリストを通してなされました。人類が神さまと結んだ契約はすべて失敗に終わりました。旧約時代の人々で、神様に100%従った人は一人もいませんでした。しかし、新しい契約は神様と人間が直接かわしたものではありません。人となられたイエス様が、仲介者として来られ、父なる神と契約を結ばれました。人は失敗することがあるかもしれませんが、イエス様は失敗しません。イエス様はご自身の命を犠牲にして父なる神と契約を結ばれました。そして、三日目に復活しました。さて、イエス様が神さまと契約を結ばれたとき、あなたはどこにいたことになるでしょうか?そうです、あなたはイエス様を信じたとき、バプテスマを受けました。バプテスマとは時間を超えて、キリストと一体になることです。ですから、イエス様が父なる神さまと契約を結ばれたとき、あなたはイエス様のからだの中にいたのです。イエス様がかしらになり、イエス様を信じる者がイエス様のからだになりました。新しい契約は神さまと人間が直接交わしたのではなく、イエス様がなされたのです。私たちはそのとき、イエス様のからだの中にいたのです。では、キリストは新しい契約を成立させるために何をなされたでしょうか?ヘブル人への手紙によると「初めの契約のときの違反を贖うために死なれた」とあります。つまり、古い契約の違反をご自分の死によって償いました。もう、古い契約の時代は終わったのです。それだけではありません。イエス様はご自身が血を流して新しい契約を結ばれました。

では、新しい契約とは何でしょう?クリスチャンになっても、そのことが分からない人がいます。実は、契約という意味のtestamentは遺言という意味があります。ヘブル917「遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。」新約聖書はイエス様の遺言と言うこともできます。いつこの遺言が効力を発するのでしょうか?そうです。イエス様が死んだときに初めて有効になるのです。では、契約あるいは遺言の内容とは何でしょう?ヘブル人への手紙によると、その人は罪を取り除かれ、永遠の資産の約束を受けることができると書いてあります。ひとことで言うなら、「救い」を受けるということです。救いを受けた私たちはどこに向かっているのでしょうか?ヘブル1222-24「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。私たちはみことばとキリストにとどまり、契約の内を歩み続けたいと思います。神の都、天にあるエルサレムを目指して歩みましょう。

 

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2015年1月16日 (金)

罪の赦し ヨハネ8:1-6 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.1.18

 「赦し」は、「許し」と違います。前者は簡単には赦されないものであり、後者は条件がそろえば許されるという軽いものです。赦しの背後には、犠牲が伴います。神の小羊であるイエス・キリストが尊い血潮を流し、命を捨ててくださったので私たちは赦されるのです。ところが、世の中には、この赦しを知らないために、罪責感に囚われ、負い目の中で暮らしている人がいます。仏教は「罪の重荷を負いながら生きよ」と言うかもしれません。しかし、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ1128と言われます。


1.姦淫の場で捕らえられた女


 

イエス様は祈るためにオリーブ山に行かれたと思われます。翌朝早く、イエス様はもう一度、エルサレムの宮に入られました。民衆はみな、主のみもとに集まって来ました。イエス様はいつものように、座って彼らに教え始められました。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女性を連れて来てきました。人々の真ん中に彼女を置いてから、イエス様に言いました。ヨハネ84-6「『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」「朝早く」しかも、姦淫の現場でつかまえたのですから、生々しいというか残酷であります。おそらくはイエス様を訴えるために、普段から目をつけていたのかもしれません。本来なら男と女を捕えるべきですが、あえて、女性だけを捕えてひっぱってきました。イエス様を罠にはめるために、有効だったからでしょう。もし、イエス様が「彼女の罪を赦す」と言ったならどうなるでしょう?彼らはどう出てくるでしょう。おそらく、「モーセの律法を破るように教えて良いのですか?もし、そうなら神からの教師とは言えません」と訴えたでしょう。逆に、イエス様が「モーセの律法のとおり、石打ちにすべきだ」と答えたならどうなるでしょう?彼らは「あなたには愛がないですね」と言うでしょう。そうすると、愛を説いてきたイエス様の評判が落ちて、だれも言うことをきかなくなるでしょう。どちらを選んでも、不利な立場に立たされます。本当に彼らはうまく考えたものです。

 しかし、イエス様は身をかがめて、指で地面に何かを書き始めました。イエス様が書かれた文書があれば良いのですが、1つも残されていません。唯一、地面に何かを書かれたという記事がここにあるだけです。一体、イエス様は何を書いておられたのでしょう?ある人は十戒であると言います。あるいは、訴えている人たちの隠された罪を1つ1つあばかれたという説もあります。ある1枚の宗教画を見たことがあります。地面に書いた文字を一人の女性が、別の男性に「これあなたのことでしょう?」と言わんばかり、指をさしています。その男性も隠れて同じような罪を犯していたのです。そうなると、もう修羅場になってしまいます。宗教改革者ジョン・カルヴァンは、「身をかがめて字を書くことによって、あえて無視する態度をとられたのだ」と言っています。大和カルバリーの大川牧師は「それは視線の肩代わりであり、男たちのいやらしい目を、他の方に向けさせたのです」とメッセージしておられました。不思議なことに、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた後も、再び、身をかがめて地面に何かを書かれていました。時間かせぎなのか、あるいは考える時間を人々に与えたのかもしれません。pauseポーズということばがあります。写真を撮るときのポーズではありません。このポーズは「小休止する」という意味のことばです。しかし、ポーズには他に「立ち止まる、思案する」という意味もあります。私は勢いで何かをしゃべったり、勢いで何かをやったりします。しかし、あとから「一呼吸おいて、少し考えてからやるべきだったなー」と後悔するときが良くあります。子どものときから「ヤス落ち着け」と言われてきました。仕事でもそうですが、根を詰めてやっていると行き詰まることがたまにあります。ちょっと、小休止して、一息つくと、良いアイディアが浮かぶときがあります。イエス様は彼らの勢いを止めて、「あなたも、ちょっと考えてみなさいよ!」と、時間を与えたのだと思います。

姦淫は夫あるいは妻以外の者を愛するということです。それでは、神によって造られた私たちは、神以外のものを恋慕ってはいないでしょうか?霊的な意味から言うと、この世の人はだれでも、神の前で姦淫の罪を犯しているということにはならないでしょうか?イエス様は福音書で「悪い、姦淫の時代だ」(マタイ1239164)と何度かおっしゃっています。時代というのは、ギリシャ語でゲネァーです。ゲネァーは「子孫、種族、世代」という意味で、時間とは関係ありません。生まれつきの私たちはアダムの子孫であり、罪の家系で育ちました。だから、十戒で言われているようなことを全部犯しています。イエス様は実際に行わなくても、「人を憎んだり、情欲を抱いただけでも罪である」と言われました。そうだとしたら、殺人や姦淫、盗みをだれもが行っているということではないでしょうか?つまり、「誰一人として正しい人はいない。みんな罪を犯している罪人だ」ということです。このことが分からないと、この記事を「ああ、汚れた女性もいるものだ!」と第三者的に見てしまいます。私たちがその場にいたら、彼らと同じように、石を取って、それを女性に投げつけるだろうということです。本当は、この女性は私たちの代表であり、いつの日か、私たちの罪も神の前で白日のもとにさらされるということです。だから、ちょっと小休止して、「このことは何なのだろう」と考える時間が必要だということです。

 2.罪のない者が石を投げよ

 

ヨハネ87-9「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」彼ら、つまり律法学者とパリサイ人たちは、自分たちのことをどう思っていたのでしょう?彼女のような罪は犯していない、自分たちは正しいと思っていたのです。ところが、イエス様が「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。そして、イエス様がもう一度身をかがめて、地面に何かを書かれました。ポーズ、小休止です。その間、神の霊が彼ら一人一人の心を行き巡りました。まるで、コンピューターのハードディスクに欠陥がないか調べるように、神の指が彼らの心をなぞったのです。神の霊にさぐられ、自分にも同じような罪があることに気がつきました。するとどうでしょう?石がボトン、ボトンと地面に落ちる音が聞こえました。そして、年長者から先に去って行きました。なぜでしょう?長い人生経験を踏まえ、自分は律法を守っていない罪人であることが分かったからです。同じ罪人が、他の人の罪をさばくことができないと悟りました。鈍い若い人たちも、まもなく石を捨てて、去っていきました。

 キリスト教会では「認罪」ということばがあります。このことばは広辞苑にはありません。ルターは「罪の自覚の深まるところには恵みもまた深まる」と言いました。しかし、「罪」という概念そのものが日本語にはありません。一般に私たちは「何か悪いことをした」ということで罪を意識します。極端に言うと、悪いことをしていなければ罪はないということになります。ある人たちは「人に迷惑をかけていないから良いんだ」と言います。あるいは、「社会的に悪いことをし、法律を犯したら罪なんだ」と言うかもしれません。これらはすべて、人間対人間、人間対社会であります。相対的に「私の方があなたより正しい。人と比べて自分はそんなに悪くはない」となります。しかし、認罪というのは聖なる神、絶対者なる神の前に立ったとき、覚えるものです。私がクリスチャンになる前、職場の先輩がこんなたとえ話をしてくれました。あるところに「私が洗ったシーツはどのお家よりも、真っ白だ」と自慢している主婦がいました。12月に入ったある日、いつものように縁側の物干し竿にシーツを干していました。お昼時、居間でうとうとして眠ってしまいました。ぶるぶるっと震えて、目をあけると、庭先に一面に初雪が積もっていました。物干し竿の方を見たら、何やら灰色の物体があるではありませんか。何だ、薄汚いと思ったら、自分が洗った自慢のシーツでした。何と言うことでしょう?今しがた降った初雪とくらべたために、シーツが灰色に見えたのです。これが認罪であります。

 神さまは私たちに罪があるということが分かるように、聖書のことば、律法を与えました。律法に照らされると「ああ、自分には罪がある」と分かります。それでも罪が分からない人がいます。そのために、神の霊である聖霊がその人の心に触れてくださいます。イザヤという人は、神殿で主を見たとき、「ああ、私はもうだめだ(もう滅びるばかりだ)」と言いました。潔白で正しいと言われたヨブも主を見たとき「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」と言いました。何か悪いことをしたということも罪ですが、自分の存在そのものが罪深いと分かったのです。確かに私たちは神さまの目から見たら高価で尊い存在です。しかし、同時に私たちは、神さまの恵みとあわれみがなければ、生きていけない存在なんだということも知らなければなりません。それでも、多くの人たちは「そんなのいらない。私は私のやり方で生きて行く」と言うでしょう。でも、私たちが救いを得るためには、自分には罪がある、このままでは神さまの前には立てない存在だという「認罪」が必要です。イエス様はパリサイ人や律法学者にこのように言われました。マタイ913「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」ということは、自分は正しいと思っている人には、キリストの救いは不要だということです。「私には罪がある、私は罪人です」と心から理解している人が、神さまから救いをいただくことができるのです。では、救いとは何でしょう?ここにおられた、山崎長老さんは「救いとは罪の赦しである」と言いました。私は若かったので、いや、「他にも意味があるよ」と思いました。でも、信仰生活を送るにつれて、「ああ、救いとは罪の赦しだなー」と心から思えるようになりました。使徒パウロは晩年、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。…私はその罪人のかしらです」と告白しました。ハレルヤ、「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」。

 3.あなたを罪に定めない


 ヨハネ810-11「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『主よ、だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」原文には「主よ」という言葉が入っていますので、入れて読みました。イエス様は彼女が犯した罪を見過ごしたのでしょうか?あるいは軽く扱ったのでしょうか?そうではありません。彼女が罪を犯したことは事実であり、少しも軽く扱っていません。だから、「今からは決して罪を犯してはなりません」と言ったのです。では、この女性はいつ罪を認め、いつ罪を悔い改めたのでしょうか?律法学者やパリサイ人はイエス様を「先生」と呼びました。「先生」とは、「ラビ」のことであり、律法の教師という意味です。でも、この女性は「主よ」と呼びました。明らかに、信仰から来たことばです。彼女は自分が犯した罪を知っていました。同時に、イエス様は自分の罪を赦してくださる主(救い主)であることを信じていたのではないかと思います。「いつ信じたのか?」と言われるとそれも困りますが、ポーズ、沈黙の間だと思います。回りの人たちは、自分を見下し、自分を刺すような視線を向けていました。でも、目の前のイエス様は自分を咎めて、見下すような目ではありませんでした。むしろ、彼らの視線を別のところに向けてくださいました。人は罪を責められ、咎められたからと言って悔い改めません。そうではなく、赦しが備えられているので、罪を悔い改められるのです。

イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されました。そのことばの根底には、どのようなものがあるのでしょうか?「わたしも」ですから、まず、他の人たちは彼女を責めることをせず、石を置いて、一人残らず去っていきました。イエス様だけが、そこにおられたのは、イエス様だけが、彼女の罪をさばくことができるということです。その最後のお方であるイエス様が「わたしもあなたを罪にさだめない」とおっしゃったのです。ということは、どんな人たちも、そして、神さまも彼女を罪にさだめないということです。しかし、ただでそんなことが可能なのでしょうか?人の罪をただで赦せるイエス・キリストとは何者なのでしょうか?イエス様は福音書において自分が何のために来られたのかおっしゃっています。マタイ2028「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」つまり、イエス様は「この女性の罪を贖うためにも、私は十字架で死ぬよ」ということを決意しておられたのではないでしょうか?この世では、「前払い」とか「前倒し」ということばを使います。イエス様が彼女をただで赦したのは、「私が彼女の分まで、代価を払いますよ」ということなのだと思います。


イエス様が彼女の罪を赦すことができたのはもう1つ理由があります。これはとても大事なことです。イエス・キリストはどのようなお方でしょうか?神の子イエスだけが、人の罪を赦す権威を持っておられるということです。「え?何様?」と言いたくなるかもしれません。あるとき、イエス様のところに中風で歩けない人をかついでやってきた4人の友達がいました。人々が戸口まであふれているので、彼らは友人をかかえて屋根の上に登りました。そして、人の家の屋根をはがして、彼を寝かせたままその床をつり降ろしました。その時、イエス様は何とおっしゃったでしょう?中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。彼は病気を治してもらうために来たのです。その場にいた律法学者たちは「神を汚しているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と心の中でつぶやきました。イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるために」と言われて、中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」言われました。そうすると、彼は起き上がり、すぐに床をたたんで、みんなの見ている前を出て行きました。目には見えませんでしたが、罪の赦しを宣言したとき、彼の罪は赦されていたのです。病の癒しは罪の赦しがあったことのしるしでした。このように、イエス様は人の罪を赦す権威をもっておられる神さまであるということです。ハレルヤ!神であられるイエス様が「あなたを罪に定めない」とおっしゃるなら、そうなるのです。神さまが赦されたのなら、もうだれも文句を言うことはできません。

 4.罪が赦される根拠

 

 ヘブル926-28「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」イエス・キリストは私たちの罪を取り除くために、どんなことをされたのでしょうか? ご自身をいけにえとして(多くの人の罪を負うために)、ご自身をささげられました。私たちの罪を負って、私たちの代わりに罰を受けて死なれたということです。キリストが多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、「多くの人」の中にあなたが含まれていることを信じるでしょうか?私たちは信仰によって、罪の赦しをいただく必要があります。十字架の贖いはもう完成された出来事です。もう、あなたの罪の代価は十字架で支払われているのです。唯一必要なのは、信仰の手を伸ばして、「私もあなたから罪の赦しをいただきたいです」と願うことです。

 最後に私たちは神さまが赦してくださったのですから、自分自身を赦す必要があります。詩篇1038-12「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」あわれみ深い主は、私たちの罪に対して、どのように扱われるのでしょうか?私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもありません。キリストの贖いのゆえに、私たちの罪に対して怒っておられません。では、主はどれくらい私たちの罪を遠く離してくださるのでしょうか?東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離されます。この意味は、神さまは二度と私たちの罪を思い出さない。完全に忘れてくださるということです。

 あるご婦人が「私の罪は大きすぎて、神様も赦してくださらないでしょう」と言いました。牧師先生は彼女に「今から、目をつぶって想像してみてください。深い湖へ、ボートに乗ってでかけましょう」と言いました。「今からボートに乗りますが、その前に、大きな石と小さな石を1個ずつ持ってください。持ちましたか?…今、ボートを漕いで、湖の真中辺に来ました。さあ、最初に小さな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、チャポンと音がして、小さな波紋が立ちました」。「小さな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。「次に、大きな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ザブンと音がして、大きな水しぶきが立ちました」。「大きな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。牧師先生が言いました。「小さな罪は小さな被害を、大きな罪は大きな被害を与えました。しかし、神さまはどちらの罪も赦してくださいます。神様の前では、大きな罪も小さな罪も関係ありません。」

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2014年11月23日 (日)

「心の渇きをいやす」 ヨハネ4:14-17  (2014.11.23)

 この世の人たちは自分の内側を満たすために、いろんなところを走り回っています。美味しいものを食べたり飲んだりして食欲を満たします。あるいは、宝石やブランド品を身につけて自分を飾ろうとします。男性だと、アウディみたいな高級車を乗り回したいと思うでしょう。他にも楽しいことがたくさんあります。ショッピング、旅行、レジャー、スポーツ、ゲーム、ギャンブルなどがあります。きょうの物語のように、結婚して心の内側を満たそうとする人もいるでしょう。しかし、日本の離婚率はアメリカや韓国を追いかけ、約40%に達しています。 

1.サマリヤの女

ヨハネ43-8「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時(正午)ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。」

地図を見るとわかりますがユダヤは南にあり、ガリラヤは北にあります。最短距離はサマリヤを通過する道です。しかし、ユダヤ人たちはサマリヤ人を嫌っていたので、遠回りして、東のヨルダン川沿いの道を通りました。私たちは旧約聖書の人物から一年間学びました。ソロモン王のあと、イスラエルは北と南に分裂しました。北イスラエルはサマリヤに金の子牛を作り、偶像礼拝に走りました。紀元前723年アッシリヤが攻めて来て、北イスラエルを滅ぼしました。そして、ほとんどの人たちを国外に連れ去りました。その代り、二度とその国が復興できないように、5つの異民族をサマリヤに連れきました。イエス様の時代はローマによってサマリヤとユダヤという名前で支配されていました。ユダヤ人は宗教的にも人種的にも混合しているサマリヤ人を心底嫌っていました。イエス様はエルサレムからガリラヤに行く途中、あえてサマリヤの真中を通られました。時はちょうどお昼頃、弟子たちは食物を買いに町に出かけていました。イエス様はお一人、疲れを覚えてヤコブの井戸の傍らに座っておられました。

 そのとき、水がめを肩にかけた一人の女性が、水を汲みにやってきました。普通、水をくむのは涼しい朝か夕方です。なぜ、この女性は日がのぼって暑い真昼に水を汲みに来たのでしょう?彼女は慣れた手つきで、つるべに手をかけて水を汲もうとしていました。すると、イエス様は「私に水を飲ませてください」と彼女に声をかけました。イエス様がラビのような服装をしていたのかもしれません。彼女は驚いて「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と答えました。聖書には、「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」と説明文が加えられています。良く見たら、鼻筋がピンと通って、とても魅力的な女性でした。「もしかしてだけど、もしかしてだけど、それって私をさそっているんじゃないの?」聖書にはそんなふうには書かれていません。昼の暑いとき水を汲みに来たというのは、なぜでしょう?それは、人目をさけるためではないでしょうか?なぜなら、この女性はスキャンダラスなことをして、噂の的となっていたからです。だから、彼女は人がいそうもいない、時刻を選んで水汲みに来たのです。イエス様は超自然的にこの女性の素性を言い当てました。

ヨハネ4:18「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 現代訳聖書はこのように訳しています。「あなたが正式に結婚した夫はないですね。でも、あなたは五人も夫を替えている。今、一緒にいる男も、確かに夫ではない」。なぜ、こんなプライバシーな話になったのでしょうか?興味深いことに、この女性の過去と、サマリヤの歴史が二重写しになっているということです。さきほど申し上げましたが、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされた後、5つの異民族が入れられました。その後、ローマがその地方を支配しました。5つの異民族は5つの宗教を持っていました。ローマもローマの神々を信じていました。このことは、サマリヤの女性と霊的に同じであります。

 あとでこの女性はどの場所で、どの神さまを礼拝したら良いかイエス様に質問をしています。

ヨハネ4:20-21「『私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」

彼女が言っている山とはゲリジム山のことです。バビロンから帰還したユダヤ人たちは神殿を建て直しました。その後、ユダヤ人たちは周りの人たちと雑婚しました。そのとき、エズラとネヘミヤは、民族の血を守るために、妻や子どもを追い出させました。サマリヤ人と完全に決別した状態になりました。それで、サマリヤ人たちはゲリジム山に神殿を建てました。紀元前4-5世紀の頃です。イエス様は

「父なる神を礼拝するのはこの山でもなく、エルサレムでもない時が来ます。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」

と言われました。イエス様は霊的な姦淫や混合宗教を超越した時代が来るとおっしゃっています。それは救い主によって、民族の壁が取り壊され、霊とまことによって父を礼拝する時が来るということです。この女性は一見ふしだらな女性ですが、心の中ではまことの神を求め、そういう神さまがいたら礼拝したいと願っていました。日本も多神教の中にありますが、唯一まことの神を求める一握りの人たちがいるのです。

2.ヤコブの井戸

 イエス様は彼女に「水を飲ませてください」と言いながら、生ける水について話題を替えられました。彼女は驚いて、「その生ける水をどこから手にお入れになるのですか?あなたは、私たちの父ヤコブよりもえらいのでしょうか?」と質問しました。サマリヤの中央にあった、ヤコブの井戸は彼らの誇りでした。ヤコブからイスラエルの12部族がうまれたからです。ヤコブはおじのラバンのもとで20年間働きました。大変豊かになった後、12人の子どもたちを連れて、この地にやってきました。そして、このところで井戸を掘ったのです。ヤコブの井戸はサマリヤ人にとっては宝物でした。ところで、みなさんは「マイム・マイム」というフォークダンスをご存じでしょうか?この歌はイザヤ123のみことばから造られたと言われています。

イザヤ123「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」

マイムとはヘブル語で「水」であります。おそらく、開拓地で井戸を掘って水が出た時、喜んで歌ったのではないかと思います。でも、「救いの泉」ですから、ただの水ではないことを暗示しています。

 サマリヤの女性は「生ける水」に興味を持ち始めました。その前に、イエス様は「あなたは2つの事に対して無知です」と言われました。

ヨハネ4:10 「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」

1つは神の賜物であり、2つ目は水を飲ませてくれと言うものがだれかを知ることです。井戸というものは、深いところまでつるべを落として、ロープを引っ張り上げます。その後、水がめに入れます。そのことを何度かくりかえして、やっと水かめは満たされます。ですから、井戸水は人間の努力を象徴します。では、神の賜物とはどういう意味でしょうか?私たちの努力や行いではなく、神さまから一方的に与えられるものです。そんなのあるのですか?後からイエス様は

「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちがわき出ます」

と言われました。井戸水よりも、自然に湧き出る泉が良いのではないでしょうか?だから、この女性は「私がここまで汲みに来なくても良いように、その水を私に下さい」と求めています。もう1つは、「生ける水を与える方がだれか?」ということです。サマリヤの女性は、父ヤコブが偉い人だと思っていました。イスラエル部族の父ですから、確かに偉いかもしれません。でも、それは人間的な偉さです。しかし、彼女の目の前におられる方は、人となられた神さまです。まさしく、救いの泉を与えることのできるお方です。

この世の人たちも2つのことで無知です。神さまからの賜物を知らないので、一生懸命、自分の努力や行いによって生活しています。この間、テレビで「働かざる者、食うべからず」と言って、母親が子どもたちを家庭内で働かせていました。「マッサージ5分間で100円」とか、言っていました。とても倹約家で水道の水も無駄に使わないで生活していました。しかし、親が子どもたちに一番教えなければならないことは、すべてを造られ、私たちにすべてを供給してくださる神さまの存在ではないでしょうか?聖書には「働かざる者、食うべからず」とは書いていません。パウロは

「働きたくない者は食べるな」(Ⅱテサロニケ310

と命じました。つまり、働きたくても働けない人は除外しています。これは、何の仕事をせず、おせっかいばかりしている、締りのない歩み方をしている人に対してのことばです。一生懸命がんばって、自分の努力や行いで、あるところまでは行きます。しかし、失敗や病気や怪我で、そうできなくなったとき立ち上がることができません。私たちを養ってくださる創造者がおられることを知るべきです。私たちを愛しておられる父なる神様が必要なものを供給してくださるのです。良いものは神さまから与えられます。たとえば、日のひかり、水、空気、地下資源、私たちの命、自然の法則や真理、みんな神さまが無代価で私たちに与えてくださいました。また、良いものは、そういう一般恩寵だけではありません。父なる神さまは罪のゆるし、永遠のいのち、永遠の御国、聖霊の力など、この世にはないものまでも与えてくださるのです。私たちは神さまからの賜物に無知であってはなりません。神さまからの賜物に無知なゆえに、神さまに求めないで、自分で頑張ってかせごうとするのです。もう1つは救い主に対して無知であるということです。神の賜物をいただくためには、救い主が必要だということです。一般的な恩寵はだれにでも与えられます。でも、救い主の御名を通してでなければ与えられないものがあります。それが、罪のゆるし、永遠のいのち、永遠の御国、聖霊の力、神の知恵であります。これらはこの世に隠されている奥の手であります。水の出る井戸は探せばあるかもしれません。しかし、生ける水が湧きあがる泉は、救い主を通してでなければ与えられない神の賜物です。イエス・キリストはイスラエルの父であるヤコブよりも偉いお方です。なぜなら、私たちの努力や行いでは得られない、神からの救いを与えてくださるからです。

3.イエス様が与える水

イエス様が与える「生ける水」とはどのようなものなのでしょうか?

ヨハネ413-15「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」

この水(井戸の水)」とイエス様が与える水との違いは何でしょうか?この水はすぐなくなります。また、飲んでも渇きます。では、イエス様が与える水はどうでしょうか?イエス様が与える水は、決して渇くことがありません。さらに、イエス様が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。この水とは何をたとえているのでしょうか?それは、この世が与える喜びや楽しみです。世の人たちは自分の渇きをいやすために、いろんなものを求めています。おいしいグルメを食べ、おいしい酒を求めます。デズニーランド、ユニバーサルジャパンなど、楽しければ並んでも入ります。あとは良いものを持ちたい、身に付けたいという欲望があります。御殿場や軽井沢のアウトレットが有名です。私も時々、ジェーソンに行きます。そこには作っても売れなかったものが半額以下で売られています。私は「アウトレットってジェーソンを大きくしたものかな?」と思っています。今はインターネットで何でも買うことができます。私もアマゾンが大好きです。旅行や菜園などは健康的です。でも、ギャンブルやドラッグなど中毒性のものもあります。不思議なことに、そのようなこの世の水は飲んでも、また渇きます。サマリヤの女性は男性を5人も換え、今6人目と一緒に住んでいます。なぜでしょう?心の渇きを癒そうとしたのです。でも、だめだったのです。ますます渇くばかりで、決して心が満たされませんでした。

しかし、イエス様が与える水はどうでしょうか?イエス様が与える水は、その人の内側で泉となるので渇くことがないと言っています。そんな魔法のような水があるのでしょうか?昔話に養老乃瀧というのがあって、滝がお酒に変わったという話があります。また、打ち手の小づちみたいに、いくらでもお金がでてくるものがあります。この世には、そのような悪魔が作ったような作り話がたくさんあります。イエス様が与える水は魔法の水ではありません。なぜ、こんなことを言うかと言うと、英国やフランス、スペインなどの国はキリスト教を捨てて、オカルトや魔法に走っているからです。イエス様はリアルで真実なお方です。幻想やイリュージョンではありません。私たちは肉体と心だけではなく、霊でてきています。霊は私たちの最も奥深くにあります。この霊が渇いているのです。まことの神さまを求め、真理を求め、永遠を求めているのです。この霊が神さまと結ばれ、神さまのいのちが霊に与えられるならどうでしょう?この世の喜びはあってもなくても良いものになります。もちろん私たちは肉体と魂を持っていますので、いろんな欲望があります。物質欲、性欲、食欲、出世欲、達成欲…でも、それらに支配されることはありません。アウグスチヌスは私たちには神さましか埋めることのできない空洞があると言いました。アウグスチヌスの母は熱心なキリスト教徒で、父は異教徒でした。彼は家を出て、自堕落な生活をし、マニ教に走り、私生児を設けました。苦しみは増大し、肉の欲と真理との間で苦しみました。そして泣きながら「主よ、私はいつまでこんな苦しい状態にいなければならないのでしょうか?私をゆるし救ってくださるのは、いつですか?」と祈ったと言われています。あるとき「取りて読め、取りて読め」と子供たちが毬を付きながら歌っていました。そのとき、母からもらっていた聖書を取り出して読みました。するとそこには「宴楽と 泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みとを捨てよ。主イエス・キリストを見よ。肉欲をみたすことに 心を向けるな」とありました。アウグスチヌスは32歳で回心し、ピッポの監督、そして素晴らしい神学者になりました。イエス・キリストだけが内なる渇きを留め、生けるいのちの水を与えてくださるのです。

4.イエス様に願いましょう

この女性は、自分が渇いていたことを認めました。あなたは、この世のもので満たされているでしょうか?それとも、この女性のように心の奥底が渇いているでしょうか?ウィットネスリーという中国の伝道者はある本の中でこのように述べています。「彼女は先祖が与えた井戸を大事にしていました。しかしながら、神の賜物とキリストについては知りませんでした。この生ける水の泉は先祖伝来のものではなく、神さまが授けてくださるものです。中国人は孔子がキリストよりも偉い、ギリシャ人はソクラテスがキリストよりも偉いとみています。回教の人はマホメットがキリストよりも偉い、仏教の人は釈迦がキリストよりも偉いとみています。人は自分の聖人を誇り、先祖が伝えたものを尊んでいます。ところが、彼らが誇っている聖人たちとその残したものは、人の中のかわきを解決できず、人のかわきを永遠に止めることはできないのです。彼らが残した教え、道理、学説はこの女性の先祖が残した井戸と同じように、人生の空しさを解決できず、人に真実で永遠なる満足を与えることはできません。また地上の物ごととこの世の楽しみは、人の中のかわきを止めることができないばかりか、かえって人の中のかわきを増し加えます。そればかりでなく、この世の物ごとと楽しみとは、正当に扱わなければ皆、毒を持っていますから人を害します。この女性は『私にもください』と願いました。願うというのは了解ではなく、欲することです。頭で研究するとか理解するということではなくて、心で受け入れるのです。」

イエス様はこの女性に罪の生活から逃れるようにとは要求しませんでした。その代わり、「生ける水」である神のいのちを与えようとしました。彼女に神のいのちが入ったあと、どうなったでしょうか?彼女は自分の水がめを置いて町へ行き、人々に告げました。

「来て、見て下さい。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか?」。

本来なら、隠したい内容を、「全部を私に言った人がいます」と告げました。彼女は恥も外聞も関係なく、救われた喜びを伝えたかったのです。その直後、町の人たちはイエス様のところに来て、みことばを聞きました。そして、「この方は本当の救い主である」と信じました。なんということでしょう。本来なら、サマリヤの救いはペンテコステ後、ピリポによってもたらされるべきものでした(使徒8章)。しかし、イエス様は弟子たちに

「刈り入れ時までに、まだ4か月あると言っていませんか?目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりとなっています」

と言いました。イエス様も渇いていました。この女性を得たいために、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。そればかりか、ユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人まで救われました。もう一度言います。イエス様はこの女性に罪の生活から逃れるようにとは要求しませんでした。その代わり、「生ける水」である神のいのちを与えようとしました。私たちもこの女性のように、渇いている自分を知り、生ける水をイエス様に願い求めましょう。そして、このように祈りましょう。「イエス様、私はこの世のものでは満たされません。イエス様、どうか私に生ける水を与えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」神さまのさらなる願いは、あなたが泉にととまらず川になることです。心の泉は自分ひとりしか潤すことができませんが、川は多くの人に行き渡ることができます

ヨハネ737-38「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

でも、段階があります。まずは、救い主イエス様を信じて生ける水が湧き出る泉を求めましょう。その後、神さまは、生ける水が、心の奥底から川のように流れ出るようにしてくださいます。

 

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2014年11月16日 (日)

新しく生まれる  ヨハネ3:1-9

 日本に自殺者が多い一つの理由は、「死んで生まれ変わりたい」という輪廻の思想が根底にあるからかもしれません?それは悪魔の偽りであり、聖書は「あなたは固有な存在であり、人生は一度きりである」と教えています。真実は死んでから天国(神の国)に入るのではなく、生きているうちに生まれ変わり、生きているうちに天国(神の国)に入らなければならないのです。

1.夜の訪問者
ヨハネ3:1-2a「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」

 ニコデモという人物はどんな人でしょうか?「パリサイ人」とありますので、律法(聖書の戒め)を厳格に守るユダヤ教徒でした。ほとんどのパリサイ人はイエス様に敵対していましたが、ニコデモは真理に対して飢渇きを持っていた真面目な人物です。聖書でこのような人物を発見することは難しいです。多くの人たちは、病の癒しや問題をかかえてイエスさまのところへやってきたからです。さらに、ニコデモはユダヤ人の指導者でした。彼はサンヒドリン議員の一人で、今でいうなら国会議員のような立場の人です。後で、彼はイエス様から「イスラエルの教師」と言われています。おそらく、人々を指導するラビのような人だったのでしょう。ヨハネ19章に書いてありますが、イエス様の葬りのとき、大量の没薬と香料を持ってきたので金持ちだったと思われます。ユダヤ人の間で、彼のような年配者は尊敬されていました。なぜなら、豊かな人生経験を持っていたからです。ですから、イスラエルにおいては、こういう人こそが、神の国に入る理想的な人物であると思われていました。天国に入ることのできる申し分のない人がなぜ、年若いイエスのもとを訪ねてきたのでしょう。夜やってきたのですから、人目をはばかって来たのでしょう。

 30年くらい前に、大川牧師が尾山令仁師の牧会していた、高田馬場聖書教会で伝集説教をしたことがあります。今はありませんが、神田川の脇に建っていた大教会です。昔、「神田川」という歌がありました。第一日目はこのヨハネ3章から『夜の訪問者』でした。二日目はヨハネ4章から『男を手玉に取った女』でした。夜の7時くらいから伝道集会が行われるわけですから、高田馬場近辺の人たちは、「一体なんだろう?」と興味をそそられて足を運んできたと思われます。大川牧師がこのように話していました。「赤ん坊が夜泣きをするのは何故か?ピーター・バーガーという心理学者は、赤ん坊はこれから遭遇する人生の様々な出来事を察知して泣いているんだと言いました。学校のいじめ、交通戦争、受験戦争、病と死との戦い。お母さんがいるから大丈夫?お父さんがいるから大丈夫?本当にそうでしょうか?人はだれでも罪と死の夜という人生の夜を持っています。この夜は、どんなに多くの白いペンキを塗っても明るくできない夜です。この夜は、どんなにネオンの明かりで照らしても明るくできない夜です。ニコデモは罪と死の夜をぶらさげて、イエス様のもとにやってきたのです。」このメッセージから「土の器」という歌が作られたようです。ニコデモは人がうらやむものを全部持っていました。道徳的な人格、地位、お金、教育も、豊かな人生経験。この人こそ、神の国に入ることのできる最もふさわしい人物です。では、イエス様にあって、ニコデモになかったものは何だったのでしょう?

2.外側の行いではなく、いのち
ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 ニコデモはイエス様を「先生」と呼んでいます。彼は人を教え導くためには、良い先生が必要であると思っています。特に教育者は、「人が良くなる道は、教えられて、よくよく修養することである」と考えます。では、人は教育を受けるなら、良い行いができるのでしょうか?学校では、多くの学問的知識の他に、やっていいことと。やってはいけないことを教えます。彼らは頭では「これは良くないことだ」と分かっています。私たちは立派な議員が汚職や詐欺まがいのことで逮捕されるのを新聞やニュースで知ります。学校の教師や警察官、医師も、ワイセツな罪を犯して職を失っています。スーパーや本屋さんでは、万引きのためにものすごい被害をこうむっています。そういう人たちは、外から見たなら良識もあり、まともな人物です。つまり、頭の知識と、行いとは別なんだということです。しかし、学校や教会さえでも「人は正しいことを教えれば、正しい生活をする」と考えています。そうではありません。心が変わらなければ、かしこい悪魔を作るだけです。どうしたらばれないだろうか?どうしたら法の網をくぐって悪いことができるだろうかとその知識を用いるのです。重要なのは知性の問題ではなく命の問題です。
ある家で綺麗な声でなくカナリヤを飼っていました。カナリヤは何と鳴くんでしょうか?「ぴぃ、ぴぃひょろろろろろ」(ファクスみたいですね)。家族のみんなも、「このカナリヤは家族の一人だ」と言ってとても愛していました。さて、夕食の時になりました。家族と言いながらも、人間たちは自分たちで食卓を囲んでいました。本当の家族なら、カナリヤも餌ではなくて、同じテーブルでいただくべきではないでしょうか?どうして、カナリヤと人間は本当の家族になれないのでしょうか?そうです。命が違うのです。片や鳥類であり、片や人間だからです。もう1つ問題を出します。ある人が、ひよこの群とあひる子の群を小川のそばに連れていきました。川辺についた時、あひるの子は水に入ってとても楽しそうでした。しかし、ひよこは水を恐れ、驚いて遠くへ去っていきました。ひよことあひるの子と何が違うのでしょうか?同じ鳥類であっても、命が違うのです。生物学的に「命」という言い方では、雑過ぎて文句が出るかもしれません。でも、こういうことです。イエス様にあって、ニコデモになかったもの?それは神のいのちです。ニコデモには人間の命、肉体的な命はありました。しかし、それだけでは神の国の住民になることはできません。神の国に入るためには、神の命が必要だからです。


3.新しく生まれる

 ヨハネ3:3-4「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』

イエス様は何をしなければ神の国を見ることができないと言われたのでしょうか?イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。英語の聖書では、born again、「再び生まれる」となっています。これに対して、ニコデモは「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と答えました。おそらく、ニコデモは老年になっていたのでしょう?たとい老年になっていなくても、若くても、もう一度、母の胎に入って生まれ直すことができるでしょうか?ニコデモは「ムーリー、ありえないでしょ?」と言いました。さらに、イエス様は続けて言われました。

ヨハネ3:5-7「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。』」

イエス様は私たちは二度生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われたのです。それが、この「水と御霊によって生まれる」ということの意味です。これまで、キリスト教会では「水」とは水のバプテスマであると解釈してきました。しかし、ユダヤ人がこの箇所を見ると、「水」とは「羊水」のことを指すとすぐ分かるそうです。水から生まれるとは、お母さんのおなかから生まれるということです。私たちはまず、この世に肉体的に誕生する必要があります。ここにおられる方は、もれなく、お母さんから生まれたので、肉体をもってこの地上で生きています。ハレルヤ!しかし、この肉体の命だけでは、神の国に入ることができません。もう1回、生まれる必要があります。それは、御霊によって生まれるということです。人は御霊によって、生まれると霊的な命、すなわち神の命があたえられます。神の命が与えられるなら、神の国の住民になることができます。
 イエス様はそこのこと

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

と言われました。風は目には見えません。しかし、木の葉が揺れているとき、「ああ、風が吹いているなー」と分かります。同じように、その人に聖霊が臨んで、新しい誕生を与えたなら、何らかの変化があるということです。ギリシャ語の聖書では「風」は「霊」と訳せるプニューマが使われています。その霊が、思いのまま吹いて、人を新たに生まれ変わらせるのです。キリスト教会では、人がキリストを信じて生まれ変わることを「新生」と言います。しかし、それは人間のわざではありません。私はこれまで牧師として、個人伝道をして、「信じるように」説得したことがあります。ある場合は、「はい、信じます」と言う人がいます。でも、新生していな場合もあります。つまり、その人は心からイエス様を信じていないし、聖霊さまも働いていないということです。無理に伝道して何度失敗したことでしょう?人が信じて救われる出来事は、全く、聖霊さま次第であるということです。もちろん、私たちは福音を伝えます。「今、信じなければ、チャンスはきませんよ」と説得じみたことを言うかもしれません。でも、神を恐れなければなりません。福音を伝えるのは私たちですが、人を救うのは神さまであるということです。だから、風(聖霊)は思いのまま吹くということです。とにかく、ここで言われていることは、私たちはこのままでは神の国に入ることはできないということです。どんなに道徳的な人であっても、どんなに教育があっても、新しく生まれなければ神の国に入ることはできないのです。私はあえて「天国」とは言わないで、神の国と言っています。日本では天国が大安売りされています。テレビで芸能人が亡くなったとき「○○さんは天国に旅立った」と言います。私はテレビに向かって「嘘を言うな!」と叫ぶことがあります。日本では天国は死んだ人がいくところと考えられています。しかし、そうではありません。正確には天国とはイエス様を信じて死んだ人たちがいく、いわばパラダイスです。死んだ魂がパラダイスで、世の終わり神の国が完成するのを待っているのです。「神の国」の本当の意味は、「神の支配」です。「神の国」は2000年前キリストと共に「神の支配」という形でこの世に入り込んできました。今、イエス様を信じたなら、神の国に入ることができるのです。死んでから神の国に入るのではなく、生きているうちに入るのです。

4.どうしたら新しく生まれることができるのか?
ヨハネ3:13-15「『だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』

イエス様は、人はどうしたら新しく生まれ、神の国に入るか教えられました。天から下ってきたお方は、イエス様だけです。イエス様は神さまでしたが、人となってこの地上に降りてこられました。では、イエス様は何のためにこの地上に来られたのでしょうか?イエス様は「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」と言われました。この話は、旧約聖書の民数記21章に記されています。イスラエルの民が荒野で「パンもない、水もない。私たちをここで死なせる気か」とモーセにつぶやきました。すると、主は民の中に燃える蛇を送られました。蛇は民にかみついたので多くのイスラエル人が死にました。「燃える蛇」というのは毒蛇の色が赤いのか、噛まれたら火のように体が熱くなって死ぬかどちらかの意味です。イエスラエルの民は「私たちは罪を犯しました」と悔い改めました。すると、主はモーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上に付けよ。すべて噛まれた者は、それを見れば生きる」と言われました。モーセは青銅の蛇を作り、旗竿の上につけました。当時、イスラエルの民に中には、善人も悪人もいたかもしれません。でも、そこいら中、蛇が這い回り、善人も悪人も関係なく噛みました。善人だからと言って、そのままで救われるわけではありません。では、どうしたら毒から解放され癒されるのでしょう?旗竿の上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見たら癒されたのです。善人も悪人も関係ありません。青銅の蛇を仰ぎ見たら生きたのです。
イエス様は十字架につけられ呪われた存在になりました。

ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」

つまり、旗竿とは十字架であり、青銅の蛇はイエス様ということになります。十字架も蛇も聖書では呪われた存在です。これはどういう意味でしょう?イエス様は人類の罪を背負って罪そのものとなりました。そして、私たちの代わりに神のさばきを受けるために十字架に上げられました。イエス様は私たちの身代わりになって、神のさばきを受けて死なれました。そうすると、今、私たちの罪はどこにあるのでしょうか?そうです。十字架のイエス様の上にあります。それだけではありません。イエス様はあなたの罪を負って、代わりに、死んでくださいました。それでは、どうしたら、罪の赦しと永遠のいのちがあなたのものになるでしょうか?

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

アーメン。ここに「御子を信じる者が、滅びないで永遠のいのちを持つ」と書いてあります。では、信じるとはどういう意味でしょうか?それはさきほどの、旗竿の青銅の蛇と同じです。現在、私たちは死の毒にやられています。このままでは、遅かれ早かれ肉体の死と永遠の滅びに行く運命です。善人だからと言って、死の毒に打ち勝つことはできません。ニコデモのような人でも無理です。善人、悪人は関係ありません、みんな死の毒にやられています。仰ぐということは、信じるということです。その点、日本語の「信仰」は良くできています。「信じて仰ぐ」と書きます。私のために十字架で死なれたキリストを救い主として信じるなら、滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。神の側から言うと、聖霊が私たちに神の命を与え、新しく生まれ変わらせてくださるのです。
 チャールズ・スポルジョンと言えば、有名な英国の説教家です。彼は毎週、1万人を数える聴衆に説教しました。彼が救いの確信を持っていない若い頃、日曜日の礼拝に向かいました。ところが、大吹雪でいつもの教会に行けませんでした。それでやむおえなく、メソジストの小さなチャペルに飛び込みました。そこには、14,15人の人しかいなく、信徒の一人が講壇に立っていました。その聖書の御言葉は、

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。(イザヤ45:22)」

でした。その人は無学な人で、単語の発音も正しくなく、単純なことばを何度も繰り返しているだけでした。彼は「見ることには大学へ行く必要はない。小さなこどもでも見ることができる。みことばは『私を見る』と言っている。これが聖書の言わんとするところです」と言いました。10分くらいたったとき、ついに話の種が尽きてしまいました。そのとき、会衆の席のスポルジョンを見て講壇の上から「お若いの。君は非常に辛そうに見える」と言いました。確かにその通りではありましが、スポルジョンは、かつて、講壇から自分の風貌について、そのように語りかけられたことはありませんでした。しかし、それは強烈な一撃でした。彼は続けました。「もし、君がこの御言葉に従わないなら、これからもずっと惨めであろう。そのいのちにおいても惨め、その死においても惨め。しかし、今、君が従うなら、その瞬間に君は救われるのだ」。そして、彼は初期メソジストだけができるやり方で叫びました。「若者よ。イエス・キリストを見よ!」スポルジョンは、まさにその時、見たのです。その時、そこで雲は晴れ、暗黒は消え去りました。その時、スポルジョンは太陽を見ました。その時、スポルジョンは立ち上がって、非常に熱狂的な人々と共に、キリストの素晴らしい血潮と、彼のみを見上げる単純な信仰を歌うことができました。あの無名の人物が、つい先ほど、スポルジョンに語った通りでした。「キリストを信ぜよ。さらば救われん。」現在でも、その小さな教会は、「スポルジョンが回心した教会」として残っているそうです。
信じるとは、私のために十字架にかかられたイエス・キリストを仰ぐということです。そうすれば、死の毒から解放され、新しく生まれ変わることができます。また、信じるとは、心の扉を開けて、イエス様を救い主として受け入れることです。この方を受け入れるなら、聖霊があなたの中にはいり、あなたに神の命を得させるのです。あなたは、神の命、永遠の命を得たいとは思いませんか?ご一緒に祈りましょう。「神さま、私は自分の力では自分を変えることができません。イエス様、あなたを救い主として、心にお迎えいたします。どうか私に神の命、永遠の命をお与えくだい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」霊的に新しく生まれた結果、少なくとも4つのことがやってきます。第一は、あなたは神の国に入りました。この世にいながらも、神の国に入っているのです。第二は、あなたに霊的に生まれたので、霊的なことがわかります。聖書もだんだん面白くなります。そして、目に見えない神さまに祈ることができます。第三は、神さまの甘い実を結ぶことができます。神さまは、幸い、健康、祝福、豊かな人生を与えてくださいます。そして、人格的に愛、平安、寛容、柔和、親切、自制などの御霊の実を結びます。第四は、あなたには神の命、永遠の命が与えられました。たとえ、この肉体が滅びても、やがては復活のからだが与えられ、永遠の御国で住まうことができます。

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2014年8月17日 (日)

~「声」として生きたバプテスマのヨハネ~  亀有教会副牧師 毛利佐保

<ヨハネの福音書1章14節~23節>

1:14

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:15

ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

1:16

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

1:17

というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

1:18

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

1:19

ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。

1:20

彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。

1:21

また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」

1:22

そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

1:23

彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」


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「声」というと音の世界を連想しますが、音にはいろいろな音があり、人間に聞こえる音と聞こえない音などもあります。みなさんは若者だけに聞こえる「モスキート音」というのをご存知でしょうか?

モスキート(蚊)音とは17キロヘルツ前後の高周波音のことです。蚊の羽音のような不快な音なのでこう呼ばれているようです。人間は年を取るに従って高い周波数の音を聞き取りにくくなるため、20代前半までの若者にはよく聞こえますが、それ以上の年代の人には聞こえにくいと言われているのがこのモスキート音です。


このモスキート音、インターネットのサイトなどで聞こえるかどうか実験することができるのですが、個人差があるというので、私も試してみました。私は、ある程度音楽に携わって生きてきたので、耳は悪い方ではないんじゃないかな~と思っていたのですが・・・。


やはり・・・寄る年波には勝てず、私には全くもってモスキート音は聞こえませんでした。聞こえないので気付かずにずっとパソコンから鳴らしていたら、20代の息子に「お母さんうるさい!」と言われて二重にしょんぼりしてしまいました。


さて、「音」という漢字がつく言葉で連想するのは、「音楽、音色、雑音、騒音、・・・」などいろいろありますが、「福音」も音という漢字が使われています。ローマ書10:17に、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と書かれていますが、「聞く」ためには、みことばを語る人がいなければなりません。バプテスマのヨハネは、「主の道をまっすぐに整えるため」に、「声」となって語り、自らの生涯を捧げ、献身した預言者でした。


新キリスト教辞典によると、「献身」とは、「神の召命に応えて、神の御旨のままに生きるべく、自らの意志を明け渡して、その身を捧げること」です。狭義では、「ある人が、持っていた職業、立場、身分を捨ててそこを離れ、神の家、みことばへの奉仕にその生涯を捧げる」いわゆる聖職者のことを言いますが、広義では、「神の民はすべて、神の御心に生きるべく、その身を捧げる」ことが求められています。


つまり、すべてのキリスト者は献身者であるべきなのです。


聖書では、聖職者以外の信徒が大きな活躍をしている姿が記されています。旧約であれば、ペルシャ王妃となったエステルは、命懸けで仲間のユダヤ人たちのためにとりなしました。ダニエルの3人の仲間たちも命をかけて主に従いました。新約であれば、アクラとプリスキラの夫婦などは、聖職者ではありませんでしたが、パウロやアポロを助けながら、神の教会に仕えました。


本日は、バプテスマのヨハネの、己の果たすべき役割をわきまえ、主のために潔く生きたその姿を通して、私たち自身の献身について考えてみたいと思います。


◆バプテスマのヨハネの献身

①彼は預言者としての己の使命を熟知していました。


ヨハネは<ギ>VIwa,nnhj (ヨーアンネース)は「主は恵み深い」という意味があり、聖書にはよく出てくる名前です。「バプテスマのヨハネ」は、「洗礼者ヨハネ」、また「先駆者ヨハネ」とも呼ばれ、聖書に登場する他のヨハネと区別されています。


彼の誕生から宣教活動を終えるまでの聖書の記述を追ってみましょう。

バプテスマのヨハネは、ルカの福音書の1章に記されているように、年老いた祭司ザカリヤと妻エリサベツの間に生まれました。ヨハネは聖書の預言が成就されるためにこの地に遣わされた預言者でした。

御使いガブリエルは、祭司ザカリヤが主の神殿で香をたいているときに、彼の前に現れてこう言いました。

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<ルカの福音書1:13-17>

1:13

御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

1:14

その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

1:15

彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、

1:16

そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。

1:17

彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

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祭司ザカリヤと妻エリサベツは老年でしたが、御使いの言葉通り、エリサベツは身ごもりました。しばらく経って御使いガブリエルはマリヤに現れ、マリヤが聖霊によって身ごもることを告げました。マリヤとエリサベツは親類でした。その後身ごもったマリヤは、エリサベツが住むユダの町まで行ってエリサベツを訪問しました。

ですから、イエス様とバプテスマのヨハネは親類ということになります。


バプテスマのヨハネは、このように恵まれた祭司の家庭に生まれましたが、祭司職は継ぎませんでした。

もしかしたら、父親のザカリヤから自分の使命について幼い頃から聞かされていたのかもしれませんが、イスラエルの民の前に公に宣教活動を始めるまで、彼はユダの荒野で暮らしました。


ルカの1:80に「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」と書かれている通りです。


そして、紀元26年頃でしょうか、いよいよヨハネに主のことばが下り、宣教活動が始まりました。

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<ルカ3:2-3>

3:2

アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。

3:3

そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。

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バプテスマのヨハネが悔い改めを迫る説教を始めると、彼の説教を聞くために続々と群衆が押しかけました。そして、自分の罪を告白して悔い改め、ヨルダン川でヨハネから水によるバプテスマを受けました。

ヨハネはらくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べて暮らすという、禁欲生活を送りながら、旧約聖書の預言、(イザヤ書40:3-5)と(マラキ書4:5-6)が成就するために活動しました。

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<イザヤ書40:3-5>

40:3

荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

40:4

すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に険しい地は平野となる。

40:5

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」


<マラキ書4:5-6>

4:5

見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

4:6

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

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そして、ヨハネは、マルコ1:7、8でイエス様についてこう語りました。

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1:7

「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。

1:8

私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

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ヨハネから洗礼を授かろうとなさったイエス様にヨハネは、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言って、固辞しようとしました。しかし、イエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言われ、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。


そして、使命を果たしたヨハネは、まもなく、ガリラヤとペレヤの領主だったヘロデ・アンテパスの婚姻の罪を糾弾したために牢に入れられ、ヘロデ王の宴会の見世物のような形で処刑されてしまいました。


このように、バプテスマのヨハネは、預言者としての己の使命を熟知した上で献身し、与えられた使命に忠実に従った生涯を送ったのでした。


◆バプテスマのヨハネの献身

②彼は「荒野で叫んでいる者の声」として生きました。


彼は、エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司とレビ人から、「あなたはどなたですか。」と尋ねられました。ヨハネは、「私は『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えました。

祭司やレビ人たちは、彼こそ、「メシヤ(キリスト・油注がれたもの)」ではないか、彼こそイスラエルの民を立ち帰らせる「エリヤ」に違いない、と思っていました。


それに対してヨハネは「私は声です。」と答えたのです。

なんと潔いことばでしょうか。彼は、私は何者でもない、ただ私の後から来られる、イエス・キリストという素晴らしい御方について伝える「声」に過ぎません。と答えたのです。


彼は当時、絶大な影響力を持っていました。先ほど出てきたヘロデ・アンテパスの、いわゆる不倫問題についてヨハネが糾弾した時も、ヘロデは腹を立ててヨハネを捕らえて牢に入れたものの、民衆たちの反発を恐れて、しばらくの間そのままにしておいたぐらいです。


ヨハネは後にイエス様から、マタイの11章や、ルカの7章で、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれたものは出ませんでした。」と言われ、「この人こそ来るべきエリヤなのです。」と言われたぐらい、特別な人でした。


ですから、少しぐらい自分をアピールしても良さそうなものですが、彼はひたすら、人々の目がイエス様に向くように、「見よ!神の小羊だ!」「イエス・キリストを見よ!」と言い続けたのです。


16世紀のドイツの画家に、「マティアス・グリューネヴァルト」という人がいますが、彼が描いたイーゼンハイムの修道院の施設の礼拝堂にあった「イーゼンハイム祭壇画 第1面 」にバプテスマのヨハネが描かれています。ヨハネが十字架のイエス様を指差しているのですが、彼の右手の人差し指はものすごく大きく描かれて強調されています。このヨハネは、「見よ!神の小羊だ!」と言っているようにも見えます。そして、この肥大化された指が彼自身の証と献身であり、彼の声であることを差しているようにも見えます。


ヨハネのこの力強い使命感、献身の根拠は、ヨハネのこの言葉から計り知ることができます。

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<ヨハネ3:27>

ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」

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神様が、ヨハネに必要な力をお与えになり、お立てになったのです。

バプテスマのヨハネは、「天から与えられた」使命として、「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声」となり、何者をも恐れず使命を忠実に果たしました。


ヨハネのもとには、当時権力のあったパリサイ人やサドカイ人が、大勢ヨハネからバプテスマを受けるためにやってきました。しかしヨハネは、彼らの「我々はアブラハムの子孫で、選ばれた民だ」という選民意識を見抜き、権力を恐れず、「まむしのすえたち!」と叱りつけました。


人々は、ヨハネがメシヤではないか、エリヤではないかと言いましたが、彼はそれを否定して、3:30 で、「あの方(イエス様)は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言いました。そして、3:31では、「天から来る方は、すべてのものの上におられる。」と言って、人々の目をイエス様に向け、イエス様にすべての栄光が帰されるようにして、生きました。


私たちはこんな風に生きられるでしょうか。


私たち人間は、自分が生きていることについての意義や自分の価値を見出す「自己実現」のために生きていると言っても過言ではないと思います。

悲しいかな、結局は、自分のために生きて、自分のために死ぬのです。

私たちは、この世で誰かに必要とされることを望み、自分の居場所を探し求める旅人のようなものです。


しかし、バプテスマのヨハネの「自己実現」は、私たちのそれとは視点や身の置き所が違いました。


彼は、キリストのために生き、キリストのために死にました。

彼は、誰かに必要とされることを望んだわけではありませんが、たくさんの人から必要とされました。

彼は、旅人のように自らの居場所を探し求めるのではなく、自らの意志を明け渡し、一切を切り捨てて、「先駆者として主の道をまっすぐに整える」ことに献身しました。


私たちがこのバプテスマのヨハネの様に、明確な神様からの使命を持って生きていくことができたなら、どんなに素晴らしいでしょうか。私たちの「声」、つまり与えられた使命、献身とはなんでしょうか。


ここで注目していただきたいのは、ヨハネの献身の生涯は、けっして苦しいものではなかったということです。

ヨハネはこう言いました。

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<ヨハネ3:29>

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

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ヨハネは「花婿」であるイエス様の声を聞いて大いに喜び、自らが花婿の道を整える「声」となることで、喜びに満たされていたのです。彼は神の栄光を表すという、人間が味わい知る「最大の喜び」を知ったのです。


本日の冒頭の聖句を思い出してください。

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1:14

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:15

ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

1:16

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

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私たちは、イエス様の十字架の贖いを知っているではないですか。

私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受けた」のです。大いに喜びましょう!

私たちの献身は、自分が召された分野で、喜んでキリストの証人として生きることなのです。


その証の方法はそれぞれです。

17世紀、自らの使命をしっかりと理解して喜んで「声」となった人に、「音楽の父」と称される「バッハ」がいます。彼は、音楽という自分が召された分野で、神の栄光を現すことを生涯の目的とし、最大の喜びと考えました。バッハは敬虔なクリスチャンでした。


バッハの作品の中でも、マタイ受難曲は、バッハの最高傑作と言われ、西洋音楽史を代表する、感動的な大作です。この曲はバッハの死後に有名になった曲ですが、マタイの福音書の26章~27章にかけてのイエス様の十字架の苦難を歌っています。全曲聴くと3時間ほどかかります。


私もカール・リヒター指揮の1958年ミュンヘン録音のCDを持っていて、昔から愛聴していますが、このCDに添付されている解説文には、こんな解釈が書かれていました。

「バッハはこの曲の中に、ある暗号を置いている。」というのです。

この暗号は「14」という数字で、ご存知の方も多いかと思いますが、「14」はバッハの名前をアルファベット順に足していった数です。イエス様の埋葬の場面で、バッハは、「イエス様を埋葬させていただくのはこの私です!」と言わんばかりに、「自ら」という歌詞のところにフレーズの14番目の音を当てたり、「墓となりて」という歌詞を14小節目に当てていたりします。


バッハの時代、17世紀は、数字の比喩的な意味が重要視されていたようです。

それは、聖書には意味のある数字がたくさん出てくるからです。


「3」は父・御子・御霊の三位一体の神を示します。

「7」は聖書における神聖な数の中でも特別な完全数。完成、成就、完結、安息日を意味します。

「12」は聖なる数。神の選びの目的と関連があり、神の民にとっての特別な完全数。1年は12か月に分けられ、ヤコブは神の民イスラエルの12部族の祖となり、キリストは12人の使徒を選ばれました。


他にもたくさん、意味のある数字はありますが、これらの数の象徴は、ルターの宗教改革とともに、音楽を通して福音を比喩的に語る手段として大きな役割をもっていました。


いろいろ調べると面白いのですが、バッハの宗教曲では、聖書の詩篇のナンバーと曲の小節数や歌詞を一致させてみたり、音の数を三位一体の神の数にしたり、拍子や、調、調の頭文字、小節数など、ありとあらゆるところに神への愛と献身をちりばめています。


ここまでくると、もう、バッハは自分の曲にメッセージを織り込むことを、めちゃめちゃ楽しんでやっているように思えますね。バッハは最高の音楽を最上の神様に捧げました。自分の分野で「声」となってイエス様への献身を表しながら、喜びに満ち溢れていたのではないでしょうか。


私たちが、主に仕えるというのは、本来このように喜びが伴うものではないでしょうか。

献身とは、全てを捨てて従うという、とても重苦しく、人生を束縛されるもののように思えますが、本来は、自由に喜んで自らイエス様のために生き、イエス様の栄光を表すことなのです。

喜びましょう!喜んで献身してバプテスマのヨハネのように「声」になりましょう!

私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、恵みの上にさらに恵みを受けているのですから!


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2014年4月20日 (日)

見て、信じた       ヨハネ20:19-31  

 復活の朝、ペテロとヨハネが墓にかけつけました。墓の中を覗くと、イエス様のからだがありません。ただ、からだを巻いていた亜麻布が置いてありました。そして、イエス様の頭に巻かれていた布切れは、離れた所に巻かれたままになっていました。そのとき、ペテロとヨハネは「見て、信じた」とあります。何を見て信じたのでしょうか?普通、頭に巻かれた布切れをほどいたなら、布きれが広がります。しかし、巻かれたままになっていたとは、まるで、指の包帯がすっぽり抜けたような状態だったのです。指だったら可能ですが、首から頭に巻いた場合はあごが邪魔になりますので、抜けません。だから、二人は、イエス様がよみがえられたことを「見て、信じた」のです。しかし、20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」とあります。きょうは、イエス様が日曜日の夕方、なぜ、弟子たちの前に現れたのか、その理由をお話ししたいと思います。


1.平安を与えるため

 ヨハネ20:19-20その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエス様は早朝、姉妹たちに姿を現しました。姉妹たちは、弟子たちにそのことを話しました。しかし、「そんなの嘘だろう。ありえない」と信じませんでした。マルコ福音書に、本日の箇所が短くまとめられています。マルコ16:14「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」11人とありますので、長い話を1つにするためにトマスを加えています。弟子たちは、「捕えられたら、きっと殺される」と恐れて、部屋の戸を内側からかぎをかけていました。そこへ、イエス様が来られたのです?どうやって?「すっーと」壁をすり抜けて入ってこられたのです。よみがえられたイエス様には肉体はありましたが、物質に左右されない、栄光のからだでした。イエス様は彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちにの恐れと疑いと不信仰が一瞬にして消えました。そして、喜びがあふれてきました。「私たちの主は本当によみがえられたのだ」と分かったからです。

 イエス様は、このように言われたことがありました。ヨハネ14:47「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」弟子たちは、イエス様が与えた平安を失っていました。なぜなら、イエス様が死んで、墓の中に葬られたからです。弟子たちは、「私たちはこのお方にかけていたのに、もう、おしまいだ。父のみもとに行ける唯一の道だと思っていたのに」と思っていたでしょう。多くの人たちは、ここのように考えています。「人間、だれしも、死には打ち勝てない。死んだら終わり。すべてを諦めるしかない。」と。そして、ある人たちは宗教にすがり、生まれ変わりや、極楽浄土を信じています。しかし、それらが本当にあるかどうか、実のところ分からないのです。「キリスト教も宗教じゃないか」とおっしゃるかもしれません。「宗教」には、弱い人たちが、「神さまがいたら何と良いだろう」と思って考え出した信仰であるというニュアンスがあります。つまり、「それが真実だとか作り話だとかと究明するのではなく、心の中で思っていれば良い」というものです。ですから、宗教とは主観的なものであり、人それぞれ信じる対象が異なっても良いということになります。しかし、イエス・キリストが他のと違うのは、死からよみがえられたことです。キリスト教は「あったら良いなー」とか「信じたら幸せだ」という、精神的なものではありません。「キリスト教」という言い方もイヤなのですが、他にないので仕方がありません。とにかく、私たちの信仰は、イエス様が死んで、三日目に、よみがえられたという事実に立っているということです。イエス様は、死なない栄光のからだになりました。私たちもやがてイエス様と同じからだが与えられます。そうすれば、永遠の御国に住まうことができます。イエスさまの復活は、信仰の証明と同時に、私たちの保証になったのです。

 使徒パウロも同じことを言っています。Ⅰコリント15:13-14「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」私たちの信仰は、キリストの復活の上に立っていると言っても過言ではありません。J.B.フィリップスが『あなたの神は小さ過ぎる』という本の中でこのように言っています。「普通、復活として知られていることの歴史における重要性は、もちろん、いくら声を大にしても過ぎることはありません。キリストは生前、いろんなことを主張し、約束なさいましたが、もし、彼が亡くなってから、単なる香り高い思い出として生き残ったに過ぎないとすると、キリストは、徹底して善人だがひどく誤解された人として尊敬されるにとどまったでしょう。『私は神である』『私こそ、他ならない生命の原理である』というキリストの主要は、単なる自己欺瞞となってしまったでしょう。神・人間・生命についてのイエスの権威ある宣言は、すぐに怪しまれたでしょう。ですから、クリスチャンも、キリスト教に反対する人びとも、復活が本当にあったかどうかという問題を、キリスト教の根本的問題と見なしています。人間だれもが味わわねばならない死に、キリストが打ち勝つことができるか否かという問題に対する、完全な、満足のいく解答を、やはり、身をもってお示しになりました。」アーメン。

つまり、キリストが与える平安が世の与える平安と異なるのは、この点であります。キリストが与える平安は、人間だれもが味わわねばならない死に打ち勝つ平安だからです。弟子たちは一時、そのことを忘れ、部屋の戸を閉じて隠れていました。しかし、よみがえられえた主ご自身が、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。教えによる証明もすばらしいですが、事実にまさる証明はありません。多くの人たちは、このように問うでしょう。また、弟子たちも同じような疑問を持っていました。「キリストが本当に神なのか?」「キリストが教えたことは真実なのか?」「死んだ後に希望はあるのか?」その答えは、キリストがよみがえられて、弟子たちの前に立ったことです。弟子たちの疑問は一瞬にして消え去りました。残念ながら、私たちはその場にいませんでした。だから、弟子たちの証言を信じるしかありません。弟子ヨハネは目撃者の一人として、聖書を書きました。彼がこのように述べています。ヨハネ20:30-31「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメン。イエス様は、ご自身が神の子キリストであることを、多くのしるしを持って、証明されました。すべてのしるしをヨハネ福音書に書ききれませんでした。しかし、ヨハネの願いはこれです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメン。私たちはその場にいたわけではありません。しかし、そのことを目撃したヨハネが、「しるしは他にもたくさんあります。でも、最後は、あなたが信じるしかありません。あなたが信じたなら、いのちを得ることができます」と言っているのです。

私がイエス様を信じたのは、1979年4月15日のイースターでした。日曜日、イースターのメッセージを聞いたはずなのですが、どんな内容だったか全く覚えていません。礼拝の中では、信じていませんでした。礼拝後、職場のクリスチャンの先輩が私のアパートに押しかけてきました。お昼の12時半から、夜の9時半まで、9時間、話し合いが続きました。いわゆる、個人伝道を受けたのです。私が建設会社を辞めた後に厚木の貿易会社に入れたのも、その先輩のおかげでした。それまで、11か月間もいろんな話を聞かされてきました。「神さまがいるなら見せてくれ。見たら信じる」とまで言いました。そういう考え方だったので、いくら言われても、「そうは言うけど」と反抗していました。しかし、あまりにも話し合いが長く続きました。彼はヨハネ黙示録の3:20のたとえ話をしてくれました。イエス様が心のドアをノックしているよ。「鈴木君、あけておくれ」。外側にはノブがないので、内側から開けるしかないんだ。イエス様は紳士なので、ドアを蹴破って入って来ないよ。信じても失うものがないんじゃないか。あとから、『嘘だった』と言っても良い。どうだろう。心のドアを開けて、イエス様を迎えてみないかい?」私は根負けして、「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩は「え?本当?今から大川牧師のところへ行こう」と言いました。私は「夜も遅いし、もう信じたから良いよ」と、先輩をお家に返しました。しかし、次の朝、起きたら全く変わっていました。すべてが輝いて見えました。神さまからの喜びと平安が心の中からあふれてきました。聖書の証言を体験することができたのです。私はイエス様の復活を実際は見ませんでしたが、聖書のみことばから信じることができました。


2.聖霊を与えるため

ヨハネ20:22-23そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」イエス様は彼らに息を吹きかけました。このところから何を連想することができるでしょうか?そうです。神さまがアダムを造られた時とそっくりです。創世記2:7「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」アーメン。息はヘブル語で「ルアッフ」であり、霊と同じ言葉です。ですから、神さまが人間に霊を鼻から吹き入れたという意味になります。人間と動物が違うのは、人間には霊が宿っているということです。動物は肉体や魂はありますが、私たちのような霊はありません。しかし、どうでしょう?アダムが罪を犯してから、私たちの霊が活動停止状態になり、その代わり魂が肥大化しました。人は霊によってではなく、自分の魂で善悪を判断して生きるようになりました。イエス様が弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたのは深い意味がありそうです。でも、このようなことが書かれているのは、ヨハネ福音書だけです。「弟子たちが聖霊を受けたのは、ペンテコステの日だ」と言うのが定説です。ペンテコステの日は、復活の後、50日目です。なのに、このところで、イエス様が彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのは何故でしょう?神学的にもいろんな説があります。神学校では、「弟子たちがペンテコステの日まで、聖霊を待ち望むことができるように、少しだけ与えられたものだ」と教えられました。でも、それまで、力が与えられるように「ちょっとだけ、あげますよ」というもの。スーパーの試食コーナーみたいな感じがします。私は、これまでこのところを、あまり重要視してきませんでした。イエス様が「聖霊を受けなさい」と言われたのは、ペンテコステの日のことを指しているのだと思ってきました。なぜなら、ルカによる福音書とその続編の使徒の働きには、「弟子たちが前もって聖霊を受けた」という記録がないからです。

今年、ウィットネス・リーが書いた『命の経験』の後編を読みました。ウィットネス・リーはウォッチマン・ニーの弟子です。この本に、本日の出来事を説明していました。「旧約時代は、神の霊は外側から人の上にしばらく臨むだけで、人の内に入り込むことがなかったと書いてあります。また、旧約時代は神の霊は人にとって偉大な動力になりましたが、人の性質を変えつつ、内側に住むということはありませんでした。聖霊を内側に宿した最初の人は、イエス・キリストでした。ナザレのイエスは聖霊の内住を最初に経験されたのです。彼が30歳になって、神のために働こうとされたとき、ヨルダン川で、聖霊がはとのように下り、聖霊に満たされました。彼のこのような経験は、旧約の人たちの聖霊の経験と全く同じです。主イエスの次に、使徒たちが聖霊の経験をした最初のグループです。ヨハネよる福音書14章などで、主は弟子たちに約束して父に別の助け主、真理の霊を彼らの内に住まわせるために送って下さるように願うと言われました。復活の夜、弟子たちが集まっていたとき、主は彼らの間に入って来られ、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と仰せになりました。このようにして主は早くから約束していた約束を、彼らの内に聖霊を宿らせ、彼らの命とさせることによって成就しました。主が息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたとき、弟子たちは救われ、神の永遠の命を得ました。イエス様を信じるとき、聖霊が内に宿りますが、これを聖霊の内住と言います。しかし、ペンテコステの日、弟子たちは聖霊の働きの別の面を経験しました。使徒2章には「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」と書いてあります。彼らが経験したのは、力として自分たちの上にある外側の聖霊です。この時から、弟子たちは偉大な力によって福音を宣べ伝え、何千何万という人たちに救いをもたらしています。」このように書いてありました。

前にも申し上げましたが、イエス様を信じるときは、聖霊が内(in)に宿ります。そして、神さまは力を与えるために、聖霊を外側からも与えます。聖霊が上から(upon)臨むわけです。ペンテコステの日には、120人の弟子たちが集まっていました。復活の夜、集まっていた弟子たちは、内側の聖霊を経験をしていました。しかし、ほとんどの弟子たちは、内側の聖霊の経験と、外側の聖霊の経験を同時にしたのです。ペンテコステ以来、内側と外側の経験を同時にできるようになりました。そのことは、コルネリオの家で見られました。ペテロがコルネリオの家で福音を宣べ伝えている間に、聞いていた人たちに聖霊が下りました。彼らはただ、命としての聖霊の内住だけではなく、外側から彼らに下った力としての聖霊を受けたのです。ですから、ペンテコステの日以来、聖霊の働きを内側と外側で同時に経験することが可能になりました。しかし、各時代を通して多くの人たちは救われたときに、内側の命としての聖霊を経験するだけです。そして、しばらくたってから外側の力としての聖霊を経験しています。そればかりか、力としての外側の経験を全くしない人たちもいます。そこには順番があります。イエス様を信じて、聖霊を内に宿す、内側の命の経験をしなければ、外側の力としての聖霊を経験することはできません。こいう話をしていると、イースター(復活)ではなく、ペンテコステ(聖霊降臨)の話をしているのではないかと思われます。とにかく、イエス様は部屋に隠れている弟子たちに、息を吹きかけながら、聖霊の命を内側に与えたのです。今日の私たちも十字架に死なれ、三日目によみがえられたイエス様を救い主として受け入れるなら、神の永遠のいのちをいただくことができます。言い換えるなら、聖霊を内側に宿すことができるのです。

さて、本日のイースターのメッセージから、2つの適用をあげることができます。イエス様は死からよみがえられ、弟子たちの前に現れました。第一に「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちは自分たちも捕えられて殺されるのではないかと恐れていました。しかし、死に打ち勝たれたイエス様が目の前に現れてくださいました。弟子たちは、「たとえ死ぬようなことがあったとしても、イエス様のようによみがえることができるんだ」と分かったでしょう。そうしたら、それまでの恐れと不安がいっぺんで吹き飛びました。イエス様はかつて、弟子たちに「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)と言われました。私たちにとって、死より恐ろしいものはありません。一番いやなのは、死にたくないのに、無理やり殺されることです。世の人たちは力で殺し、言葉で殺し、環境で殺してくるかもしれません。しかし、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)。彼らが最大限にできることは肉体の殺すことだけです。私たちのたましいを殺すことはできません。たとえ、肉体が殺されたとしても、父なる神さまがイエス様をよみがえらせたように、私たちをもよみがえらせてくださいます。だれでも、よみがえりのイエス様と出会うなら、死の恐れは消え去ります。その代わり、神の平安が私たちの心を支配するでしょう。イエス様のくださる平安はこの世のものとは違います。単なる平安ではなく、死に打ち勝つことのできる平安だからです。第二は「聖霊を受けよ」と言うことです。アダムが罪を犯してから、私たちの霊は休業停止状態でした。使徒パウロは「霊的に死んでいた」と言っています。私たちが肉体よりも先によみがえるべきものは、内なる霊でありました。よみがえられたイエス様は、弟子たちに神のいのちを与える必要がありました。内側に聖霊を受けるなら、霊が生き返り、次には外側から力をも得ることができます。だれでも、よみがえりのイエス様を信じるならば、心の中に聖霊が宿ってくださいます。この聖霊はイエスの御霊とも言われ、イエス様ご自身があなたの中にずっと住まうということです。あなたに神の命を与え、あなたに神の性質を与えてくださいます。イエス様は聖霊によって、あなたと世の終わりまでも、共にいてくださいます。ですから、私たちは死からよみがえられたイエス様を信じる必要があります。そうすれば、霊が生きて、永遠の命が与えられます。

ある人たちは、十字架につけられたままのイエス様を信じています。私たちのために、罪を贖われたイエス様を強調しても強調しすぎることがありません。でも、それは得られても、罪の赦しまでです。しかし、イエス様は死んで三日目によみがえられました。よみがえられたイエス様を信じるとどうなるのでしょう?あなたは新しい生まれ変わりを体験することができます。イエス様と同じ復活の命があなたの中に入るからです。あなたの霊が生まれ変わり、神の前に義と認められます。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」アーメン。十字架の死によって私たちの罪が赦されました。それは、プラスマイナス・ゼロです。さらにイエス様はよみがえられました。何のためでしょう?それは、私たちが神さまの前に義と認められるためです。言い換えるなら、プラス・プラスです。私たちはよみがえられたイエス様によって、プラス・プラスの中に生かされていることを感謝しましょう。私たちは罪赦されているだけではなく、義とされているのです。新しい命をいただいて、義とされている者らしく生きましょう。


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2014年4月13日 (日)

十字架上のイエス      ヨハネ19:1-7

 今週は「受難週」と言いまして、イエス様が十字架にかかられたことを覚える週です。金曜日は、受難日、イエス様が十字架にかかられた日です。アメリカでは、受難日をGood Friday、聖金曜日と呼ぶようです。そして、来週の日曜日が「イースター、復活祭」です。一般的に、十字架のことを語るとき、「私たちにどんなにすばらしいものか」とメリットについて語ります。しかし、きょうは、イエス様と父なる神さまから見た十字架について、共に考えたいと思います。


1.拒絶されたイエス

 ヨハネ福音書自体が、受難週の一週間の出来事に集中しています。ヨハネ18章では、イエス様が捕えられ、真夜中に裁判を受けたことが記されています。ヨハネ19章では、イエス様がローマに渡され、死刑を受ける場面になっています。当時、ユダヤはローマに支配されており、勝手に、死刑にすることができませんでした。ローマ総督ピラトはイエス様を何とか救いたいと思いました。しかし、人々はイエス様ではなく、バラバを釈放するように要求しました。ヨハネ19:1「そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。」とあります。ユダヤではその人が死なないように、39回でやめていました。しかし、ローマの場合は限界がありませんでした。ムチの先端が3つに分かれ、動物の骨や金属が編み込まれていました。屈強なローマ兵士が交代、交代で、背中や腹に力いっぱいムチを振り下ろしました。刑を受ける者が簡単に死ねるようにという勝手な温情です。その後、イエス様はローマ兵によって辱めを受けました。当時、「王様ごっこ」というローマ兵の楽しみがあったようです。願い出た人は一日だけ王様になれて、その日は何でもかなえられます。しかし、その日の終わり、殺されるという残酷なゲームです。ローマ兵たちは、ユダヤ人を普段から憎んでいました。なぜなら、どの地方よりも、難しい人たちが住んでいたからです。ユダヤ人の王さまなら、なおさら、いじめがいがあります。だれかが、いばらを摘んできて、それを王冠にしました。笏の代わりに葦の棒、マントの代わりに兵隊のマントを用意しました。おそらく、古いマントは、裏側が紫色に変色してちょうど良かったからでしょう。みんなでイエス様を取り囲み「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とからかいました。しまいには、葦の棒を取り上げて、額の上のいばらの冠を突っつきました。つばをかける人、平手でたたく人、さんざんなありさまでした。ゲームに飽きてから、ピラトに渡しました。

 ヨハネ19章4節から16節まで、ピラトとユダヤ人たちとの問答が記されています。ピラトは「私はこの人には罪を認めない」と言いました。しかし、ユダヤ人、特に、祭司長や長老たちは気が狂ったように「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。正気の沙汰とは思えません。しまいには、「カイザルの他には、私たちには王はありません」とまで、言いました。普段は、「主なる神こそが王であり、カイザルなどには仕えるものか」とローマを憎んでいました。ところが、イエス様を十字架で殺せるなら、真実や信仰までもドブに捨てて良いと考えていたのです。教会では日曜日、「使徒信条」を唱えるところがあります。使徒信条には、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と書いてあります。これだと、ポンテオ・ピラトが気の毒です。ユダヤ人たちが十字架につけたのです。むしろ、ポンテオ・ピラトは、罪のないイエス様をなんとか救いたいと願っていました。イエス様はイスラエルの民を救うために、来られたのに、逆に殺されてしまいました。ヨハネ1:11 「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」イエス様は選民イスラエルから、捨てられてしまったのです。しかし、イエス様は、これまで何度もたとえ話で、そのことを彼らに教えました。ぶどう園のたとえでは、「しもべたちを袋だたきにし、最後にあと取りの息子を殺した」と言われました。そして、「家を建てる者たちが、見捨てた石が、礎の石になった」(マタイ21:42)と教えました。つまり、神の国がユダヤ人から取り上げられ、異邦人に与えられるということです。

 イエス様は、こういう状態を、どう思われたでしょうか?イエス様はある時から、ご自分のことを預言しておられました。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」まさしく、エルサレムでユダヤ人たちから多くの苦しみを受け、殺されようとしていました。私だったら、エルサレムではなく、自分を受け入れてくれる他の国に行きたいです。実は、そういう誘惑がイエス様にも来たことがあります。ヨハネ12章に書いてありますが、幾人かのギリシャ人が「先生に、お目にかかりたい」とピリポとアンデレにお願いしました。きっと、ギリシャにお出でくださるよう、お願いに来たのかもしれません。しかし、イエス様は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びます」とおっしゃいました。つまり、イエス様はユダヤ人たちに捨てられ、エルサレムで死ぬことが分かっていたのです。父なる神さまの計画であり、それ以外の選択肢はないと分かっていたのです。しかし、イエス様は私たちと同じような肉体と心を持っていました。ムチで打たれれば痛いでしょう。また、人々から馬鹿にされたら悔しいでしょう。ましてや、ご自分の民から拒絶されたならばどうでしょうか?悲しみだけではなく、怒りや憤りがあったのではないでしょうか?みなさんの中にも、親から拒絶されたり、友人から裏切られたという経験はないでしょうか?福音書には淡々と書いてありますが、イエス様の肉体とイエス様の魂は、無感覚だったとは思えません。

 イザヤ書53章は「苦難のしもべ」として、イエス様のことを預言している書物として有名です。イザヤ書53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」イエス様は生身の人間として、辱めや拒絶、ムチの痛みを体験されました。イエス様は私たちの代わりに精神的にも肉体的にも苦しまれました。私たちの救いの背後に、イエス様の痛みと苦しみがあったことを忘れてはいけないと思います。


2.十字架上のイエス

 ヨハネ19章を見ますと、「十字架」ということばが、16回書かれています。私は「そんなに多いのか」とびっくりしました。「十字架」という名詞よりも、「十字架につける」という動詞の方が多く出てきます。ギリシャ語や英語も「十字」を現すことばはありません。むしろ、「木にはりつけにする」「磔刑に処する」という意味があります。ところで、聖書には十字架がどんなに残酷なのかという説明は一切ありません。それは何故でしょう?当時の人たちは「十字架」と聞くだけで、それが何なのか分かっていたからです。キケロという政治家は、「ローマ市民には十字架を触れさせるな!」と言ったそうです。それほど、十字架は醜悪なものでした。死刑の道具なら、他にもあるでしょう。ギロチンとか、絞首刑もあります。しかし、なぜ、十字架なのでしょうか?十字架は苦しみながら、じわじわと死ぬように発明されました。イエス様は二本の釘が両手に打たれ、1本の釘が重ねた足首に打たれました。それだと、3本の釘に全体重がかかり、横隔膜が上に引っ張られます。だから、呼吸するためには、からだを持ち上げなければなりません。そのとき、釘の部分にものすごい痛みが走ります。普通、十字架は腰のところに木片があり、体を支えられるようになっています。ある人は苦しみながら、3日間くらい生きています。カラスがやってきて、目や頭を突っつくでしょう。最後は発狂して死んで行く者もいたそうです。当然、裸にされ、さらし者にされるのですから、人間の尊厳のかけらもありません。しかし、イエス様がこのような目に遭われたのは、何故だったのでしょうか?もっと、楽な死に方もあったはずです。イエス様は、最も残酷で醜悪であった十字架に付けられたのは理由があります。

イエス様は、もともと人間ではなく、神さまであり、神の子でした。神の御座を捨てて、人間になることも大変なことです。パウロはイエス様の十字架のことをこのように記しています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」この箇所を見ますと、イエス様は受け身的になっていません。「ご自分を無にして、自分を卑しくして、十字架の死にまで従われた」とあるからです。つまり、イエス様は無理やり、嫌々、十字架につけられたのではなく、ご自分から十字架にかかられたという方が妥当であります。このところから、イエス様が死ぬことの価値、あるいは対価の大きさというものを考えることができます。イエス様の死は殉教の死ではありません。歴史上、イエス様よりも残酷で、ひどい死に方をした人がいるでしょう。しかし、「神の子が地上に降りてきて、人間となって、最もひどい死に方をした」となるとどうなるでしょうか?それは、他の人たちの死とは全く違います。もちろん、死の上下とか、死の価値ということを言っているのではありません。別な言い方をすると、「人類を救うためには、神の子が地上に降りてきて、人間となって、最もひどい死に方をしなければならなかった」ということです。最も残酷で醜悪であった十字架がイエス様の死の価値を決めたのです。

この時、父なる神さまはどう思われていたのでしょうか?御子が、ローマ兵によって、ムチを打たれて血だらけになりました。その後、ローマ兵から王様のかっこうをさせられ、馬鹿にされました。ユダヤ人たちが、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫びました。ピラトはイエス様に「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか?」と言いました。それに対してイエス様は「もし、それが上から与えられているのでなかったなら、あなたには私に対して何の権威もありません」と答えました。「上から」とは、まさしく父なる神さまからであります。ピラトよりも、父なる神さまが上であり、父なる神さまが、人々が十字架に渡したことを許可されたということです。その後、イエス様は十字架につけられました。最も残酷で醜悪な十字架です。マタイ27:45「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」「全地が暗くなった」というところから、父なる神さまが、目をそむけているような感じがします。また、イエス様が「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、父なる神さまは、耳をふさいで、実際に見捨てたのだと思います。なぜなら、イエス様が全人類の罪を負ったために、御子を裁くしかなかったからです。本当に、御子イエスは、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。そのとき、神さまの義が満たされたのではないかと思います。御子が罪の罰を受けることによって、人類を救うことができる道が開かれたのです。それにしても、支払われた代価は大きいものでした。ユダヤの祭司長や長老たちが「十字架につけろ」と叫びました。これが、ご自分が選んだ、アブラハムの子孫です。ローマ兵たちがイエス様に数限りないムチを浴びせました。さらには、いばらの冠をかぶせて愚弄しました。十字架を負わされた後、「どくろの地」という場所で、十字架につけられました。父なる神さまは、1つ1つのシーンを上からご覧になられて、胸が引き裂かれる思いだったでしょう。しかし、それらが、イエス様の死の価値を高めたのではないでしょうか?御子イエスが人類の代表になって、そこまで従われた。残酷で醜悪な十字架を忍ばれて、御子が支払った代価はどれほど大きなものだったでしょうか。最後に、全人類の罪を背負い、杯をお飲みになりました。父なる神さまは、「この御子に免じて、全人類の罪に対する怒りを引っ込めよう。これで人類の罪を赦そう」と決意されたのだと思います。


3.完了したイエス

 ヨハネ19:28-30「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」ここに、「完了した」という言葉が、2回書いてあることに驚きました。2つの「完了」は、どういう意味でしょうか?第一番目の「すべてのことが完了したのを知って」というのは、ご自分が地上で成し遂げたかったことが完了したという意味です。英語の聖書はall things were accomplished、「すべてのことが成し遂げられた」と受け身になっています。他の訳ではall things have been finishedと、「すべてのことが終えられた」と、やはり受け身になっています。自分で成し遂げたというよりも、だれかによって成し遂げられたという意味がこめられています。なぜ、受け身なのでしょうか?イエス様がご自分で成し遂げたのではないでしょうか?第二番目の、イエス様の十字架で叫ばれた「完了した」はどうでしょうか?これも、it has been finished「終えられた」という受身形です。ご自分が終えたというよりは、「終えられた」ということです。実は、私はここまで研究したことがありません。しかし、新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、こちらから考える方が妥当です。ギリシャ語ではどちらも、テテレスタイとなっています。やはり、このことばも「完成される」「完全なものにされる」という意味です。しかし、当時、テテレスタイという言葉は、商業用語で「完済した」という意味で使われていました。やはり、これも受身形なので、「完済された、支払われた」というふうになります。

 なぜ、イエス様は受け身で言われたのでしょうか?実は、このようなことを調べたことを少々後悔しました。「なぜ、解けない謎を自分で出したのだろう。そっと、触らないでおいた方が良かったなー」と思いました。しかし、こういうことではないかと思います。確かに、罪の代価を支払ったのはイエス様です。イエス様が命である血を流したことによって、神さまの義が満足されたからです。神さまは私たちが犯した罪については、もう裁きません。なぜなら、御子イエスが十字架で贖ったからです。この一連のことを言うとき、「完了した」「完済した」よりも、受け身で言う方がより、効果的ではないかと思います。なぜなら、聖書は人々に向けて語られ、イエス様も人々に向けて語っておられるからです。つまり、イエス様は十字架の上から私たちに「あなたの罪は完済された。支払われたよ」とおっしゃっているのです。だれによって?もちろん、イエス様によってです。受け身にする方が、よりリアルに聞こえるのではないでしょうか?昔、私が貿易会社に勤めていたころ、クリスチャンの先輩がこのようなたとえ話をしてくれました。鈴木君、僕が君に百科事典をプレゼントすることしたとします。僕が1週間前に、本屋さんに行って代金を支払っておきました。あとは、鈴木君が、その本屋さんに行って、「私が鈴木です。品物を受け取りに来ました」と言えば、百科事典は鈴木君のものになります。でも、「先輩がそんなに気前が良いわけがないだろう。嘘に決まっている」と思って、本屋さんに行かなければどうなるでしょう?鈴木君のものにはならないでしょう。もし、本屋さんに行って中を覗いたらどうでしょうか?あるコーナーに百科事典があり、そこに札が貼ってあります。「売約済、鈴木様」と。正確に言うならば、「完済されたもの、支払われたもの」という受け身になるのではないでしょうか?誰が、支払ったかというと先輩が私のために支払ったのです。そういう時、「支払われている」と受け身で言うでしょう。同じように、イエス様は私たちに対して、「罪の代価は支払われている」とおっしゃっているのではないでしょうか?

 人間の側から見たなら、イエス様はユダヤ人によってローマに引き渡され、十字架にかけられて死んだことになります。ピラトは「ああ、罪のない人が、ユダヤ人から妬みをかって殺されたんだな」と思ったでしょう。多くのユダヤ人も「神を冒瀆したから死刑になったんだ」と思ったでしょう。しかし、神さまの側から見たならばどうでしょう?それは、昔から聖書に預言されていたことであります。アダムの罪によって、罪と死の中に投げ落とされた人類をどうやったら救い出すことができるだろうか?神さまはアブラハムを選び、イスラエルを祭司の国にして、世界を救おうとされました。預言者たちを何人も送りましたが、うまくいきませんでした。最後に御子イエスを送りましたが、逆に殺されてしまいました。しかし、神さまは御子イエスの死を贖いの死に替えてくださったのです。御子は殺されたのではなく、人類の罪を贖うために、十字架の死に渡されたのです。イエス様もそのことをご承知で、地上に人間として来られたのです。イエス様は罪のない生活を送り、神の小羊としてご自身をいけにえとしてささげました。ヘブル書が言うようにご自身の血で、一回で永遠の贖いを成し遂げられました。父なる神さまは、御子イエスの血をご覧になって、満足したのです。「これで、罪ある人間を赦すことができる。御子を信じる者に永遠のいのちを与え、私の御国に住まわせよう」とお決めになったのです。ハレルヤ!もし、イエス様の十字架の死を社会科で習うなら、「ローマに謀反を起こして殺された、ナザレのイエス」です。教会では「私たちの罪のために十字架にかかられ、身代わりに死なれたイエスさま。ありがとうございます」と言うでしょう。しかし、イエス様の立場から、そして神さまの立場から十字架について考えたことがあるでしょうか?イエス様はご自分の民を救いに来たのに、拒絶され、十字架に渡されました。ユダヤ人もローマ兵もさんざん馬鹿にしました。肉体を持ったイエス様はいばらの冠の棘とローマ兵のムチ打ちは、全身に激痛が走ったでしょう。なぜ、人類を救いに来たのに、最も残酷で醜悪であった十字架に付けられなければならないのか?「もう、天国に帰りたい」と思ったかもしれません。父なる神さま、御子がさんざんな目に遭い、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時、気が狂わんばかりだったでしょう。でも、そのことによって、父なる神さまは人類の罪をもう責めないと誓ったのです。なぜなら、御子イエスが全人類の罪を負い、代わりに裁きを受けてくれたからです。イエス様ご自身も、十字架の上で「これで成し遂げられた。罪の代価が支払われた」と叫ばれました。ハレルヤ!私たちは今、恵みの時代に生かされています。なぜなら、すべての罪が支払われたことを「ありがとうございます」と受け取れば良いからです。どうぞ、イエス様と父なる神さまが成し遂げられた、救いを受け取ってください。


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2014年3月30日 (日)

~ペテロの裏切りと回復~  亀有教会副牧師 毛利佐保

<ヨハネの福音書21章15節~19節>

21:15

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16

イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

21:18

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

21:19

これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」


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ヨハネの21章は、ヨハネの20章の終りが

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20:30

この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。

20:31

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

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と、あたかもここで話が終わったかのように締めくくられているので、21章は後から書き加えられた付け足しの章ではないかと良く言われます。しかし、先ほど読んでいただいたイエス様とペテロのこの箇所は、イエス様の深い深い御愛を知ることのできるところであり、大変多くの方たちの慰めや励ましになっている箇所ですので、付け足しなどとは考えたくはないですね。


現に私たちが手にとって読んでいる、新旧両訳聖書66巻が正典として認められるときには、聖書の細部まで十分に吟味されているはずです。ですから、21章に書かれているエピソードはすべて本当にあったことだと信じます。


テベリヤの湖畔で漁をしていた弟子たちの前に復活されたイエス様が現れて、魚がたくさん獲れたのも、ペテロが岸辺に立たれている方がイエス様だとわかって喜び勇んで船から湖に飛び込んだのも、イエス様が弟子たちと食事をなさったのも、そしてペテロに特別に語りかけられたのも、すべて真実であると信じて心を開いて聖書を読むならば、聖霊なる神様が私たちに特別に語ってくださり、イエス様がどのような御方なのかをさらに深く知ることができます。


<ギ> avgapw/n アガパオーは、新約聖書以前には親愛の情を示す程度の意味でしたが、新約聖書で用いられるようになってからは、神的、自己犠牲的、他者中心的な愛という意味を持つようになりました。


<ギ> filw/n フィレオーは、兄弟愛、両親への愛、友情、好みなどを示します。この二つの動詞は本来あまり大きく意味は違わないものでしたが、ヨハネの福音書では意図的に区別して使われているようです。


イエス様はペテロに3度、「わたしを愛しますか。」と問われました。それに対してペテロも3度、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えました。


イエス様は、1回目と2回目には、「愛する」という動詞を「アガパオー」、つまり、神的な一方的な愛で、「わたしを愛しますか?」とペテロに問われました。それに対してペテロは「フィレオー」、つまり兄弟愛、友情の愛をもって「愛します」と答えました。


そして3回目にイエス様は、「アガパオー」ではなく、「フィレオー」をお使いになり、「わたしを愛しますか?」と問われました。それに対してペテロは心を痛めつつ、「フィレオー」で「愛します」と答えました。


1回目: イエス様=あなたは私を「アガパオー」しますか?  

      ペテロ=はい。主よ。私があなたを「フィレオー」することはあなたがご存じです。

2回目: イエス様=あなたは私を「アガパオー」しますか?

      ペテロ=はい。主よ。私があなたを「フィレオー」することはあなたがご存じです。

3回目: イエス様=あなたは私を「フィレオー」しますか?

      ペテロ=はい。主よ。私があなたを「フィレオー」することはあなたがご存じです。


この「アガパオー」と「フィレオー」の言葉の違いについて、ある人は、「イエス様はアラム語かヘブル語を話していたはずだから、ギリシャ語の違いをあれこれ考えるのはおかしい。そもそもアガパオーとフィレオーは同義語だから、特に意味はないだろう。」と言います。


しかし、新約聖書がギリシャ語で書かれている意味や、ヨハネの福音書においては意図的に「アガパオー」と「フィレオー」を区別しているように考えられることなどから、一概に意味はないとは言えないと思います。


◆なぜペテロは、フィレオーにこだわったのでしょうか。

なぜイエス様は、3度目にはフィレオーと言われたのでしょうか。

共に考えてみましょう。


①ペテロにとってのアガパオーの愛


アガパオーは、友のために本当にいのちを捨ててくださったイエス様ご自身の愛し方であり、イエス様を裏切ったペテロにはとても使えない言葉でした。ヨハネの福音書においては、イエス様が語られた「愛する」という言葉は、ほとんどがアガパオーです。


このストーリーはヨハネの13章から始まっています。

13章はイエス様が弟子たちの足をお洗いになった箇所です。そこでイエス様はこう言われました。


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13:34

わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

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ここで、イエス様が語られた「わたしがあなたがたを愛したように」の「愛した」も、「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」の「愛し」もアガパオーです。


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14:21

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

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ここでの「愛す」もすべてアガパオーです。次の15章はぶどうの木の箇所です。


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15:9

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きなはだれも持っていません。

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ここでも同じように、すべてアガパオーで語られています。

ペテロはヨハネの福音書13:37で「主よ。あなたのためにはいのちも捨てます。」とまで言いました。このことは他の福音書にも記されています。しかし、ペテロはイエス様が捕らえられた時に、自分も捕らえられる事を恐れて、「そんな人は知らない」といって逃げてしまいました。


ペテロにとって、アガパオーという言葉は、イエス様にしか使えない言葉であり、イエス様しか実行することが出来ない愛だと痛感したのではないでしょうか。


②ペテロにとってのフィレオーの愛


「あなたのためにはいのちも捨てます」(ヨハネ13:37)と誓いながらイエス様を裏切ってしまったペテロは、まず自分は「フィレオー」からやり直したいと願ったのではないでしょうか。イエス様は3度目にはペテロに合わせてくださり、「フィレオー」で愛するかと聞いてくださいました。


ところで、なぜイエス様は3回もペテロに「愛するか」と聞かれたのでしょうか。

それはイエス様が捕らえられたとき、ペテロは3回も「こんな人知らない」とイエス様を否んだので、イエス様は「わたしを愛するか」とあえて3度聞かれて、ペテロが3度否んだことを赦されたのではないかと言われています。


確かにそうなのかもしれません。ペテロは友だと言ってくださったイエス様を裏切りました。

1度ではなく、3度も知らないと言ったのです。

以前ぶどうの木のたとえの箇所からメッセージをした時にもお話しましたが、「友のためにいのちを捨てる」という友情論は紀元前400年~300年の古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスたちが、すでに語っていた事柄でした。


アリストテレスは、友情についての解答のひとつとして、このように語っています。


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『素晴らしい人間は、友人たちのために働き、国家のために働く。そして必要とあらば、それらのために死を辞さない。』

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ヨーロッパでは、この「友のためにいのちを捨てる」という友情論を理想として語られていました。

そして、特に法廷がその友情を示す場所だったと言われています。法廷で裁判にかけられている人を弁明することが、真の友情だと考えられていました。


ペテロは、イエス様が裁判にかけられていた最中に「そんな人は知りません」と言いました。しかも、ヨハネの福音書18:18と18:25には、ペテロは「そんな人は知りません」と言いながら、炭火で「暖まっていた」様子が

1度目の否定と、2度目の否定の後に2度も書かれています。


ヨハネはペテロが無関心を装って「暖まっていた」ことを強調し、大切な法廷の場面で、ペテロがいかに友であるイエス様に対してひどい裏切り行為を行っていたかということを記しています。


ルカの福音書22:60-62にはこう書かれています。


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22:60

しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

22:61

主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。

22:62

彼は、外に出て、激しく泣いた。

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イエス様が言われた通り、鶏が鳴くまでに3度イエス様を知らないと言った瞬間、イエス様はペテロを見つめられました。ペテロは激しく泣きました。


しかし激しく泣いたというのに、彼はイエス様が十字架に架かられたときには、逃げてしまっていませんでした。

もう、「イエス様に会わせる顔などない。」とペテロは思っていたことでしょう。


だからこそ、復活されたイエス様は、ペテロを立ち直らせるために、3度「わたしを愛しますか」とお聞きになったのかもしれません。このイエス様の回復の方法は、イエス様の深い愛なのですが、私がペテロならとても辛くて恥ずかしい方法だったと思います。


なぜなら、他の弟子たちがいる前でのことだったからです。他の弟子たちもイエス様を裏切ったことはペテロとは大差ありませんが、ペテロは他の弟子たちの前で「主よ。あなたのためにはいのちも捨てます。」と大見栄を張ったのですから、なんとも情けない姿だったことでしょう。


ペテロは、「アガパオー」でわたしを愛するかとイエス様から聞かれ、「フィレオー」と答えました。とても「アガパオー」とは言えなかったこともあると思いますが、ペテロはイエス様との友情関係をまず取り戻したかったのではないでしょうか。あの法廷の場面で、炭火で暖まりながら、「そんな人は知りません」と言ってしまったところから、回復したかったのではないでしょうか。ペテロはリベンジしたかったのです。


イエス様はペテロのその心に応えてくださいました。

3度目には「フィレオー」でわたしを愛するかと聞いて下さいました。


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21:17

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」

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ここでなぜペテロは心を痛めたのかは定かではありませんが、「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。」とペテロは答えました。


私はここで考えるのですが、もし、ペテロがはじめから「アガパオー」と答えていたらイエス様の質問は1回で終わったのではないでしょうか。イエス様はもしかしたら、ペテロならきっと「アガパオー」で愛することができると期待して、「アガパオー」と言われたのかもしれません。だとしたら、イエス様の期待に応えることが出来なかったペテロは、それで心を痛めたのかもしれません。


私たちも、神様からいろいろなチャレンジを受けます。

期待をされているのに、神様を裏切ってしまうことがあるかもしれません。

情けなくて、ペテロのように激しく泣いてしまうことがあるかもしれません。

絶対に無理だと思うような問いかけをイエス様からされることがあるかもしれません。

そんなとき、イエス様にどう答えますか?


◆イエス様がペテロに与えた特別な使命について


③ペテロの回復~「私の羊を飼いなさい」「わたしに従いなさい」


イエス様は、「羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11,15)と言われ、その通りになさいました。そしてイエス様を裏切ったペテロに対して、「私の羊を飼いなさい」「わたしに従いなさい」とイエス様に倣うことを教えられ、回復をお与えになりました。


「私の羊を飼いなさい」と言ってくださったということは、イエス様はペテロに、「羊のためにいのちを捨てます」という、まことの羊飼いとなることをお任せになられたのです。そうだとすると、これは本当に光栄なことではないでしょうか。


やはり、ペテロはマタイ16:19でイエス様から「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。」と言っていただいた特別な弟子です。


イエス様は復活されて40日間弟子たちの前に姿を現され、昇天されました。その後、聖霊が降臨しました。聖霊を受けたペテロが、その後人が変わったかのような力強い宣教の働きをしたことは、みなさんもご存知の所です。


「わたしに従いなさい」というイエス様の召しに応えたペテロは、決して完璧な人ではなく、失敗も多く、人間臭くて親しみがあります。


ペテロはテベリヤの湖畔で、「フィレオー」と答えましたが、やはり最初にイエス様が期待されたとおり、「アガパオー」でイエス様を愛することができたのではないでしょうか。


イエス様は私たちひとりひとりにも語りかけておられます。

「あなたはわたしを愛し(アガパオー)ますか?」

「はい。愛し(アガパオー)ます」と答えたいですね。



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2013年9月22日 (日)

~友なるイエス様にとどまる~  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ヨハネの福音書15章1節~5節、12節-17節>


15:1

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

15:4

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。


――――――――――――――――――――――

15:12

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

15:17

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


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本日は、「友なるイエス様にとどまる」と題して、「主はまことのぶどうの木」の有名な聖書箇所からお話しをしたいと思います。


クリスチャングッズなどを売っているお店では「ぶどう」がモチーフにされたアクセサリーや壁掛けなどをよく見かけますが、それはここの聖書箇所からイメージされたものです。

このヨハネの15章は、イエス様が十字架にかかられる前の、最期の晩餐の席でイエス様が話された、たとえ話です。少し前の13章でイエス様は弟子たちの足を洗ってくださり、仕えるリーダーとしての模範を示してくださり、互いに愛し合うことを教えてくださいました。

先ほど読んだぶどうの木の箇所は、15章1節~17節まで話が続いています。


実はその中の、1節-8節までと、9節-17節は並行記事になっていて、同じようなことを繰り返しイエス様は語られています。1-8節は弟子たちに対して、「まことのぶどうの木であるイエス様にとどまりなさい」という、「信仰」についての要求がなされています。また、9節-17節は、「イエス様の愛のうちにとどまりなさい」という、「愛」の命令がなされています。


そういう訳で、ここでは前半は「信仰」、後半は「愛」という二つのテーマが対をなし、一体となっています。

しかし、ここで大切なのは、まことのぶどうの木であるイエス様にとどまり、イエス様の愛のうちにとどまる事だけではなく、8節や16節に書かれている、「行って実を結ぶ」ことであり、「実が残る」ことです。


では、私たちが豊かな実を結ぶためには、どのような人生を歩んでいけばよいのでしょうか。

共に聖書を見て行きましょう。


では前半の15:1-5節です。


◆私たちが豊かな実を結ぶために・・・


①イエス様にとどまり、父なる神様の刈り込みを受けましょう。


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15:1

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

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ここでは、天の父なる神様は「農夫」、イエス様は「ぶどうの木」、私たちは「枝」としてたとえられています。

イエス様にとどまっていない枝を、父なる神様は取り除かれます。そして、イエス様にとどまっている枝であっても、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをなさいます。


この「刈り込み」とは、どういう意味でしょうか。この「刈り込み」という言葉は、新約聖書の原語であるギリシャ語では、<ギ>カイサローと書かれています。この「カイサロー」は「きよくする」という意味があります。


ですから、15:2の「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」というイエス様の言葉を現代の私たちに置きかえるなら、「イエス様にとどまっていない者は父なる神様が取り除き、イエス様にとどまっている者は、もっと多く実を結ぶために、神様が刈り込み=きよくしてくださる」ということになります。


ですが、その神様の刈り込みは痛みを伴うものかもしれません。


例えば、自分が本当に立派に育った枝だったとして、見るからに麗しく、人から褒め称えられていたとします。自分自身でもその枝っぷりは、そん所そこらのものとは比べ物にならないくらい立派だと自覚していて、誇りに思っていたとします。でも、その枝は、実を結ぶための養分まで全部吸い取ってしまうものなのです。

豊かな実を結ぶには邪魔な枝なのです。


私たち人間には、もともと罪の性質があります。人を羨んだり、妬んだり、傲慢な心や、くだらないプライドにとらわれます。そんな私たちを神様は、戒め、訓練されて、きよいものとしてくださいます。

自分では気がつかないからこそ、その枝がよいものかどうかの判断ができないからこそ、私たちには神様の「刈り込み」が必要なのです。


「農夫」である父なる神様の「刈り込み」を喜んで受けましょう。


イエス様は15:3 で「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」と言われました。イエス様の話してくださったことばに聞き従いましょう。


また次の15:4 でイエス様はこのように語られました。


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15:4

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

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「とどまりなさい」ということばがたくさん出てきますが、15:4、9 の「とどまりなさい」は新約聖書の原語であるギリシャ語では命令形です。「とどまる」の原形 me,nw (メノウ)ということばを、命令形 mei,nate (メイネーテ)「とどまりなさい」に変えて使われていますので、「~しなければならない」という意味になります。

ですから「とどまりなさい」は優しく言われているように感じますが、イエス様は、mei,nate evn evmoi,, (メイネーテエンエモイ)」「わたしにとどまりなさい!」と強く“命令”されておられるのです。


なぜなら、ぶどうの木であるイエスさまに枝である私たちが繋がり、とどまることにより、私たちが豊かな実を結ぶことができるからです。枝だけでは実を結ぶことはできません。


聖書には、ぶどうやぶどうの木、ぶどう園などを戒めの比喩として良く使っています。旧約聖書では、なかなか実を結ばないイスラエルの民たちの比喩として、よく使われています。それは民たちが神様の律法にとどまらず、神様から離れてしまっていたからです。


「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とイエス様が言われたように、私たちは、まことのぶどうの木であるイエス様に、枝としてしっかりとどまっていなければ、豊かな実を結ぶことはできません。


しかし、イエス様はとどまるように命令はされていますが、私たちはイエス様が命令されたから、仕方なく従うのではありません。


昔、アウグスティヌスという偉大な教父がいましたが、イエス様に対するキリスト者の服従ということをこのような譬で表現していました。


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『イエスに服従すると言うのは、犬が鎖に繋がれて、飼い主のあとにしぶしぶついて行くようなものではなく、鎖から離された犬が、喜んで飼い主のあとについて行くようなものだ』

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その通りですね。イエス様も父なる神様に従われました。ですから私たちも、鎖から離された犬のように、解放された自由な気持ちで喜んでイエス様について行って従いましょう。そして、父なる神様の刈り込みを受けてきよめられ、豊かな実を結んでいきましょう。


では、後半の12-17節を見て行きましょう。もう一度聖書をお読みします。

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15:12

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

15:17

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

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◆私たちが豊かな実を結ぶために・・・


②まことの友となってくださったイエス様の心を心としましょう。


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15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

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この聖句は、大変有名です。「まことの友となってくださったイエス様」については、賛美でもよく歌われます。代表的な賛美は、讃美歌312番「いつくしみ深き」ではないでしょうか。「いつくしみ深き」は、♪いつくしみ深き友なるイエスは~♪という歌詞ではじまります。


しかしここでイエス様が語られた「友」というのは、単なる仲良しの「お友達関係」ではなく、「友のためにいのちを捨てる」という究極の「友」でした。


弟子たちはこの時、この言葉の持つ本当の意味が解っていませんでした。

それは、まだこの時はイエス様が十字架にかかられていなかったからです。

弟子たちは「友情」の概念的、理想論的には解っていたかもしれません。


それは、「友のためにいのちを捨てる」という友情論は紀元前400年~300年の古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスたちが、すでに語っていた事柄だったからです。

アリストテレスは、友情についての解答のひとつとして、このように語っています。


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『素晴らしい人間は、友人たちのために働き、国家のために働く。そして必要とあらば、それらのために死を辞さない。』

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ヨーロッパでは、この「友のためにいのちを捨てる」という友情論を理想として語られていました。

旧約聖書にも、Ⅰサムエル20章に「ダビデとヨナタンの友情物語」などが記されています。

イスラエルの最初の王だったサウル王は、民衆に人気があり、神の油注ぎをいただいているダビデに嫉妬して、ダビデの命を奪おうとしました。しかしサウル王の息子ヨナタンとダビデは固い友情で結ばれていました。ヨナタンは、ダビデを殺そうとしていた父サウル王の手から、命をかけてダビデを逃がしたというシーンが描かれています。


ですから弟子たちは、イエスさまの「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ということばについて、古代ギリシャ哲学とか旧約聖書から概念的には、「その通りだ」と思っていたかもしれません。


特にイエス様の一番弟子と言われたペテロは、ヨハネの福音書13:37で「主よ。あなたのためにはいのちも捨てます。」とまで言いました。このことは他の福音書にも記されています。しかし、ペテロはイエス様が捕らえられた時に、自分も捕らえられる事を恐れて、「そんな人は知らない」といって逃げてしまいました。


ペテロをはじめとする弟子たちはイエス様がこの時語られた「まことの友」について、理想論的に軽く考えていたのでしょう。しかしイエス様は理想論ではなく、本当にその言葉を実行なさったのです。


ですから、「これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とイエス様は言われたのです。


そして、15:14 で

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わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

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と言われました。そのイエス様が命じたこととは、15:17の

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あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

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ということでした。

この繰り返し語られる「互いに愛し合う」ということは、先ほどの友情論を考えるとそんなに簡単なことではありません。イエス様の友情は理想論だけの安っぽい友情ではなかったのです。


弟子たちは、イエス様が十字架に架かられたあと、このイエス様の言葉を思い出し、目が覚めたと思います。「主は本当に私たちのためにいのちを捨てられた・・・。」

その時弟子たちは、すっかり自信を失くしてしまったのではないでしょうか。

「私には、主がなさったようには友を愛せない。そんなことはとてもできない。」


私たちもこの時の弟子たちと同じです。私たちはイエス様のように、友のためにいのちを捨てることができるでしょうか。またイエス様のように敵を愛することができるでしょうか。


私たちの愛とは、本当に小さなものです。職場でも、学校でも、ちょっと気に食わない人がいたら、愛せませんし、友とは呼べませんし、いのちを捨てるなんてとんでもないと思ってしまいます。

でも、心を落ち着けて、愛せない!敵だ!と思った人をよく見てみるならば、「イエス様はこの人にも等しく愛を注いでくださっている」ということがわかります。


だからこそ余計に葛藤を覚えます。クリスチャンは、どんなに許せない相手にも忍耐して愛さなければならないのかと苦悩します。イエス様はこんな弱い私たちだからこそ、15:16で励ましを与えてくださっています。


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15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

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私たちはイエス様から選ばれて、イエス様から任命されているのです。

こんな小さな私にも目を留めてくださり、選んで、任命してくださる。これほど嬉しいことはありません。

イエス様のご愛に応えたい。・・・そう思いませんか?


そして、「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と言ってくださいました。私たちは取るに足りない小さな人間ですが、イエス様の御名によって天の父なる神様に求めるならば、何でも天の神様が与えてくださると約束してくださっています。


私たちの欲しいもの、父に求めるものとは何でしょうか。「何でも求めなさい。何でもお与えになる。」と書かれています。ただし条件があります。


今日はお読みしていませんが、5:16節の並行記事にあたる、5:7にはこう書かれています。


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あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

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「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」と書かれています。

つまり私たちが、「イエス様にとどまり、イエス様のことばが私たちにとどまるなら・・・

何でも求めなさい。何でもお与えになる。」と言われているのです。


私たちがイエス様の愛にとどまるなら、自ずと私たちが神様に求めるものも決まってくるのではないでしょうか。それは、私利私欲から来る求めではなく、15:8 に書かれているように「天の父が栄光をお受けになる」ための求めとなるのではないでしょうか。


イエス様の戒め「互いに愛し合う」ことは、私たちの一生の課題です。

ぶどうの木であるイエス様の愛の中にとどまり、まことの友となってくださったイエス様の心を心とし、イエス様が愛されたように、私たちも互いに愛し合っていきましょう。

そうするならば、私たち自身の人生に、思いがけない方法で豊かな実が結ばれて残っていくことでしょう。



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