2007年12月23日 (日)

イエス様は貧困であられたか   Ⅱコリント8:9

 「メリー・クリスマス!」。クリスマスおめでとうございます。今から20年前、私たち家族は座間からこちらに引っ越してきました。亀有に招かれたというか、赴任してきたわけです。その当時は、教会堂も古く、来られている方も少人数でした。クリスマスは私が飾り付けをし、出し物では、私が2歳の娘とダンスしました。また、イブ礼拝ではオー・ホーリーナイトを独唱しました。しかし、今は若い方々が増えて、教会堂の内外にデコレーションを施し、クリスマスの祝い方もパワーアップしました。唯一私がやるのは、メッセージとビンゴゲームぐらいです。また昨日は盛大なゴスペルコンサートが開かれ、もう、年中行事になっています。大変にぎやかなクリスマスを迎えられることを感謝します。きょうは、クリスマスではあまり語られないと思いますが、お金と繁栄について聖書から共に学びたいと思います。多くは、ケネス・ヘーゲン著の『クリスチャンの繁栄』を参考にしました。いわゆるパクリかもしれませんが、良いものは分かち合いたいと思います。

1.イエス様は貧困であられたか

 私たちは、お金や繁栄に対してバランスを取ることが必要です。これを道路にたとえて考えてみたいと思います。道の両側には溝があり、極端な考えの人たちはその溝にはまっています。私たちは極端にならないで、道の真ん中を進まなければなりません。では、道の片方の溝に陥っている人たちはどうでしょうか。「イエス様はとても貧しい生活をされたので、私たちも貧しくあるべきだ」「お金は悪いものだ」「繁栄とは物質的なものではなく、もっと霊的なものだ」という考えです。長い間、日本のキリスト教会は「清貧に甘んずる」という考え方が主流でした。そのため、牧師は「清貧に甘んずる」という模範を示さなければならなかったようです。大川牧師がご自分の子どもの頃を証ししておられました。当時は卵が贅沢品でした。ですから、お家で卵を食べた後は、見られないように、殻を新聞紙でくるんで捨てたそうです。また、教会員が「これ使ってださい」と使い古したものや欠けた茶碗を献品したそうです。少年であった大川先生は、「教会は偽善者の集まりだ。こんな教会、火を付けてやろうと」真剣に思ったそうです。大川先生が座間教会に赴任して15年くらいたった頃でしょうか。教会堂が入りきれなくなって、オープンしたばかりの厚木のホテルで、合同クリスマス礼拝を持つことにしました。そのとき、大川先生が「ホテルでのクリスマスですから、ちょっぴりめかしこんで来てください」とアナウンスしました。すると、古くからいた信徒数名と元牧師をなさっていた方が反対しました。「ホテルに行けない貧しい人たちもいる。だいたい、教会がクリスマスを華美に祝うのはおかしい」そのように言っていました。このような人たちは、キリスト教会は清貧に甘んじるべきだという考えなのでしょう。

 では、もう一方の極端とはどういうものでしょうか?それは、「富を獲得することが信仰の中心である」「神様の大きな関心ごとは、あなたが物質的に豊かになることである」「豊かさこそ、その人の祝福を量る真のはかりだ」という考えです。今から3,40年前、アメリカから「繁栄の神学」が入ってきました。「旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブなどの族長はみんな豊かだった。私たちもアブラハムの祝福を得るべきだ」ということです。韓国の教会もその路線を走り、「牧師先生は神様の使いだから、豊かでなければならない」と言いました。牧師たちは新車や住まいが与えられ、ものすごい待遇を受けます。繁栄の神学は、「貧しさや病気や苦しみは敵である。私たちは神様に、祝福を大胆に求めるべきだ。貧しいのは信仰が足りないからだ。健康で、経済的に祝福を受けているのは、神様から愛されている証拠である」と言います。教会堂が古くてみすぼらしかったり、牧師が軽自動車に乗っていたら、神様から祝されていないということになります。だから、できるだけ大きくて立派な会堂を建てようとします。繁栄の神学は、神様の祝福を目的にします。献金をささげるのも、神様からその幾倍もの祝福を受けるためです。貧しさや病気や苦しみは悪ですから、なんとしてでもそこから脱出しなくてはなりません。しかし、これも極端です。なぜなら、祝福は目的ではなく、神様からのボーナスだからです。また、お金や物質だけが祝福のはかりになるものではありません。私たちはどちらの極端にも陥らず、道の真ん中を進むべきであります。

それでも、日本の教会は、「牧師やクリスチャンは清貧に甘んずるべきだ」という考えが多いと思います。物質的な繁栄に反対する人々が使う議論の1つは、「イエス様は地上で生活された時は貧しかったはずだ」というものです。確かに、イエス様は馬小屋にお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされました。また、イエス様は奉仕の期間は家を持たず、「人の子は枕するところがない」と言いました。そして十字架に死なれた後は、人から借りた墓に葬られました。イエス様が貧しかったという考えは何度も繰り返し語られ、長い間、受け継がれてきました。ですから、ほとんどの人はそのことを疑問に思うこともなく、聖書的に正しいことであるかのように理解しています。確かに、イエス様がお生まれになったとき、ヨセフとマリヤは馬小屋にかくまわなければなりませんでした。彼らはイエス様を産着でくるみ、飼い葉桶の中に寝かせました。しかし、「彼らは部屋を借りるお金が足りなかったから馬小屋に泊まった」とは、聖書に書いてありません。あの時は、カイザルの勅令で住民登録するために、ベツレヘムの小さな町に人々がごったがえしたのです。そのために、宿屋には彼らの部屋がなかったのです。このことは決して貧しさを意味してはいません。また、ヘロデ王が幼な子の命を狙っていたので、ヨセフとマリヤはただちにエジプトに逃れました。博士たちが捧げた宝物が、彼らの旅費や滞在費のために、役に立ったことは十分に考えられることであります。

 次に、イエス様の公生涯を見てみたいと思います。イエス様は、ルカ9:53で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。この箇所は、「イエス様はとても貧しい生活をされたので、彼は一度もご自分の家を所有されたことがなく、地上の伝道生涯を始められてからは寝泊りする場所もなかった」という意味にしばしば解釈されています。イエス様はホームレスだったのでしょうか?聖フランチェスコのように裸足で歩き、托鉢して生活しておられたのでしょうか?しかし、福音書を見るとそうではありません。イエス様はご奉仕を開始すると同時に12人の弟子たちを召されました。3年半、イエス様とその小さな一団は、パレスチナ全土、ガリラヤ地方全体、さらにヨルダン川からユダヤの丘々、そしてエルサレムまで旅をしました。多くの人たちを同行させるにはかなりの出費がかかったはずです。食料とか衣類、旅行の出費のための資金を十分確保することが求められたはずです。そのお金はどこから来たのでしょうか?ルカ8:2,3「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」とあります。おそらく、イエス様にはご自分の生活の維持を助けてくれる、奉仕のパートナーがいたことでしょう。また、マルコ2:1,2「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった」とあります。イエス様には確かに家があったことをみことばが示しています。また、イエス様は貧しい人々に対して援助をしておられたようです。ユダが最後の晩餐の時、どこかへ行きました。ヨハネ13:29「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、『祭りのために入用の物を買え』と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた」とあります。ここから、定期的に貧しい人たちに施しをするという習慣があったことが想像できます。ユダは金庫番をしていました。しかし、彼はその中からいつもお金を盗んでいました。イエス様と弟子たちが十分な額を持っていたので、ユダが時々盗んでも気付かれなかったのです。

 また、イエス様ご自身は、自分のことを「貧しい人」とは呼ばれませんでした。ある時、イエス様に対して、一人の女性が一年分の給料に値する、高価な香油を注ぎました。そのとき、イエス様は少しも当惑せず、受け入れました。弟子たちは「ああ、もったいない。300デナリで売って、貧しい人々に与えられるのに」と言いました。それに対して、イエス様は「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです」(ヨハネ12:7,8)と言われました。富を所有することに不慣れな貧しい人なら、300デナリに相当するものが、自分の足にそそがれることに対し、くつろいだ態度ではいられなかったはずです。でも、イエス様はマリヤのご自分に用いた香料の価値を認めてあげました。イエス様は本来どのようなお方なのでしょうか。コロサイ1:16「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」。ハレルヤ!イエス様は今も昔も、世界の創造者であられます。イエス様は父なる神様とご一緒に天と地を造られました。また、黙示録にあるように、黄金と宝石のエルサレムをデザインされるお方です。詩篇24:1「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」。このような表現が、旧約聖書には何箇所もあります。

 イエス様は地上の奉仕で、物に不足したことがあったでしょうか?ルカ22:35「それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」アーメン。イエス様の地上の生活での終りの時期に、弟子たちは自分たちが何かに不足したことは一度もなかったと証言しました。私たちは「弟子たちは、十分な供給を受けていたはずだ」と考えることができます。しかも、イエス様は立派な服を着ていたことが福音書から分かります。イエス様が十字架につけられた時、彼の衣は、兵士たちが自分たちの間で分け合いました。なぜなら、その上着はくじ引きにするほどまでに立派なものだったからです。ローマの兵士たちが、ぼろぼろに破れた服や、着古した服のために、くじ引きをするでしょうか。もちろん、そんなことはしないでしょう。これまで、イエス様の赤ん坊の時から、奉仕の期間、十字架に付けられるまで見てきました。これらのみことばは、イエス様が貧しい方ではなかったという証拠であると思います。でも、イエス様は浪費的あるいは、ぜいたくな生活をされたと言っているわけではありません。しかし、イエス様は地上での生涯でご自分の様々な必要が満たされたことは事実です。それゆえに、イエス様は父なる神様がご自分にお求めになったことを行うことができたのです。

 では、最初にお読みしましたⅡコリント8:9はどうなるのでしょうか?Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。まず、考えられることは神様が人となって、この地上に降りてこられた。このこと自体がすでに貧しいことであります。ピリピ2章にありますように、イエス様は神のあり方を捨てて、ご自分を無にして、人間と同じ姿になられました。そのこと自体が貧しいのです。でも、イエス様が人間として貧しい生活をしていたかというとそうではありません。むしろイエス様がなされたことは、十字架で貧しさを担われたということです。イザヤ書53章にありますように、イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担われました。キリストは木につけられ、私たちのために、呪われたものとなってくださったのです。でも、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」とガラテヤ3章に書いてあります。つまり、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちに豊かな恵みをもたらすためだったのです。イエス様がそうされたのは、私たちが健康と義と祝福と繁栄を受けることができるためでした。ですから、父なる神様は、私たち神の子供に対して、豊かに供給してくださるのです。サンタクロースのようにクリスマスの日だけではありません。日々、生ける限り、天国に行くまでであります。ハレルヤ!

2.繁栄の目的

 前半では、イエス様が繁栄しておられたことを、たくさんの聖書箇所を引用して、述べさせていただきました。イエス様の生活様式は、浪費的でも贅沢でもありませんでした。当時はローマが強大な権力によってイスラエルの民を支配し、搾取していました。しかし、イエス様の様々な個人的必要は満たされたのです。イエス様には、父なる神様の働きをしながら、その国を自由に移動する余裕がありました。また、一緒に旅する12人の弟子たちをサポートすることもできたのです。なぜ、イエス様にはそのような比較的豊かな資力をもっておられたのでしょうか。それは、父なる神様のみこころを行うためであります。イエス様は会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病の人たちを癒してあげました。イエス様は、自分の富を神様の働きと福音宣教のために用いたのであります。では、クリスチャンの繁栄の目的は何でしょうか?大邸宅を構え、高級車に乗り、高価な衣服をまとい、ごちそうを食べ、ぜいたくな娯楽を楽しむためでしょうか。そうではありません。私たちもイエス様がなさったことを、すべきであります。クリスチャンの繁栄の目的も、父なる神様の働きとみこころを行うためであります。神様が一番関心をもっておられるのは、失われた人が救われることです。マルコ16章でイエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさいと命じられました。私たちはこの大命令をどうやって成就させるのでしょうか?それは、十分の一の献げ物によってであります。十分の一の献げ物とは、とは、収穫物あるいは、受け取った利益分の10%のことです。大宣教命令と神様の働きは、神の民の十分の一の献げ物によって成就されるのです。

 ある人たちは、「10分の1も献げたら生活できないよ」と嘆くかもれません。しかし、それは逆です。10分の1を献げていないがゆえに、貧して不足してしまうのです。マラキ3:10-12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――」このみことばから、十分の一献金することとは繁栄と結びついていることが分かります。神様は、十分の一の献げ物をする人を、神様が2つの仕方で祝福してくださいます。1つ目は作物が豊かになること。これは商売やビジネスが祝されるということでもあります。2つ目はその作物がダメになってしまわないように守ることです。主は「あなたがたのために、いなご(喰い荒らす者)を叱る」とおっしゃっています。現代的に言いますと、事故や悪者から守られるということです。

ケネス・ヘーゲン先生は、具体的に教えておられますので、少し長いですが本から引用します。あなたが十分の一献金をするなら、私はあなたに地上の物資的祝福を与えましょう。「技術者であるあなたには、私はすぐれた技能を与えましょう。私は雇用者たちがあなたに目を留めるようにしましょう。あなたが最高額の賃金を受けるようにしましょう。ストライキがあっても、あなたに悪影響を及ぼすことはありません。私はあなたと共におり、あなたに必要なものが備えられるようにします」。「ビジネスマンであるあなたを、私は繁栄させましょう。私はあなたの取引がうまくいくようにしましょう。私は購入者たちをあなたの周囲に送りましょう。私を信じないあなたの隣人が破産するようになっても、その呪いはあなたに触れることがないようにしましょう。私はあなたの支払いが期限内にできるように取り計らいましょう。私はあなたの銀行口座にたくさんのお金が入るようにしましょう。一言で言えば、私はあなたのパートナーなのですから、あなたのビジネスの様々な関心ごとについて取り計らいましょう。「知的仕事に携わっている人、すなわち自分の頭脳で生計を立てているあなたに対しては、私はあなたの思考力を明晰にしてあげましょう。私はあなたの産み出すものが人々の心を感動させるものとなるようにしましょう。私はあなたの作品が人々から求められるようにしましょう。私は、人々があなたの心と頭脳から産み出されたものを購入するようにしましょう。ただ私にあなたの十分の一を支払いなさい。そうすれば、私はあなたが面倒をみてもらえるようにしましょう。「農夫よ、私はあなたが必ず収穫の時を迎えるようにしましょう。私はあなたの穀物を祝福しましょう。私はあなたの蓄えをふやしましょう。あなたの農場では、枯れることも、かびがはえることもないにようにしましょう。覚えておきなさい。私はアブラハム、イサク、ヤコブの神なのです。私が彼らに対して行ったように、私はあなたにも行いましょう。彼らもしたように、ただ私を覚えていなさい。「私はあなたがたすべての者に健康を与えましょう。あなたの幼い子供たちが死によって奪われることはないようにしましょう。彼らが長寿を迎えるまで生きるようにしましょう。私は天の窓を開いて、あなたがたに祝福を注ぎ、それを受け入れる十分な余地がないまでにしましょう。」

献金も仕事も、仕方なく、いやいやながらするのでは祝福は与えられません。イザヤ1:19「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」(英語の直訳)と書いてあります。このところで、食べるとは物質的な繁栄と考えることができます。もし、あなたがこの国の良い物を食べていないとしたら、その理由は何でしょうか。それは、その条件を満たしていないからです。条件とは「喜んで行う」ということです。献金も仕事も、喜んで行うことが大切なのです。私は確かに十分の一献金をしました。この1年間、郵便局のアルバイトもしました。でも、私は発見しました。私は決して喜んでやっていませんでした。「ああー」とか、ため息をついてやっていましたので、条件を満たしていなかったのです。でも「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」のです。アーメン。

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2007年12月16日 (日)

イエスの意味      マタイ1:18-25

 「メリー・クリスマス」と日本中で祝っています。イエス様を知ろうと知るまいと、お祝いをしていること自体はすばらしいと思います。でも、クリスマスということばの中に、キリストという名前が入っているということを知っている人がどのくらいいるんでしょうか?世の中の人は、それでも喜び、はしゃいでいます。キリスト教会の方が「俺たちは本当の意味を知っているぞ」と言いながらも、暗いかもしれません。私たちはクリスマスの本来の意味を知っているんですから、彼らの10倍、いや100倍は、喜ぶべきであります。メガと言うことばが、マクドナルドで使われているようですが、メガは本来ギリシヤ語から来たものです。ルカ2章の「すばらしい喜び」と訳されていることばは、メガ、「大きな」であります。本日も、聖書を学びながら、神様から大きな喜びをいただきたいと思います。

1.イエスの意味

 「名は体を現わす」と言いますが、聖書の人物は不思議なほど、その人と一致しています。「アダム」という名前の意味は、「土」であり、アダムが土からできたことを表しています。ダビデを呪った「ナバル」という人物がいますが、その意味は「愚か」という意味です。だれも、「ナバル」なんて付けたくないですね。シモン・ペテロの「シモン」は葦であり、「ペテロ」は岩という意味です。彼は葦の不安定さと、岩の強固さの両面の性質を持つ人物でした。では、「イエス」とはどういう意味でしょうか?私たち日本人は、「イエス・キリスト」と言うと、イエスが名前でキリストが苗字みたい思ってしまいます。キリストは職務を表すことばであり、「油注がれた者」、つまり「メシア」という意味です。また「イエス」とは、旧約聖書のヨシュアのギリシヤ語化したものです。ヘブル語では「イェーシューア」であり、これをギリシヤ語にすると「イエースース」であります。カトリックで、イエズスと呼んでいるのはそのためです。そして、その意味は「主は救い」という意味です。イエス様のご自身の意味が、「救い」ですから、そのまんまであります。では、何から救う方なのでしょうか?主の使いがその意味を教えていますマタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」御使いは、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」と言っています。このことばからいくつかのことが連想できます。「ご自分の民」とは、ユダヤ人だけでしょうか?そうではなくて異邦人の私たちも含まれているでしょう。でも、世界のすべての人という意味でしょうか?「あらかじめ、神様がご自分の民と選んでおいた人々」とも受け取ることができます。ジョン・カルヴァンは、救いのための選びということを強調しました。また「その罪」とは、「彼らの罪」という意味です。つまり、イエス様がこの地上に来られた目的は、人々を罪から救うためであります。

 この世では様々な問題があります。戦争、貧困、自然災害、犯罪、殺人、死、苦しみ、不条理があります。今年ももうすぐ終わろうとしていますが、そういうことに満ちていました。でも、聖書は「それらはすべて罪の結果である」と言います。つまり、罪の結果、死、病、貧困、争い、苦難、呪い、そして永遠の死がやって来たのです。この罪をなんとかしなければ、人類は根本的に救いを得ることはできないのです。また、罪の問題は政府では、どうすることもできません。政府は、法律を定めたり、経済問題を解決したり、福祉を進めればなんとかなると思っています。でも、法律をたくさん作っても、犯罪はちっとも減りません。また、教育でも、医学でも、人を罪から救うことはできません。だいたい、この世は「罪」ということ自体、受け入れようとしません。罪と言えば、それは犯罪のことであり、私は刑務所に入るほど悪くはないと言います。聖書で言う、罪は神様から離れ、神様に反逆するということです。ローマ1章にありますように、神様を神様としてあがめず、自分勝手に生きているので、様々な悪が起こってくるのであります。しかも、罪は外側に現れる前に、まず心の中で犯すものです。悪意、争い、殺意、欺き、ねたみ、高ぶり…みんな心の中から始まります。法律では心の中で起きていることを裁くことはできません。法律は、実際、起こった結果をさばくだけです。それでは、人間を変えることはできません。だから、罪は、まず心の中から始まるので、私たちの心を直さなくてはならないのです。そのため、イエス・キリストは人間の中の罪を解決するために、この世に来られたのです。では、どうしたら、罪を解決することができるのでしょうか?

 罪のそもそもの始まりは、源なる神様と人間が断絶していることです。テレビや冷蔵庫、パソコンですらも、電源とつながっていなければ、ただの箱であります。人間も、源なる神様と離れているので、霊的に死んだ状態です。霊が死んで、己の魂だけで、思うままに生きているのが、生まれつきの人間であります。源なる神様は聖く、正しく、愛であり、善なるお方です。このお方と私たちが結ばれるならば、神様からの聖さや正しさ、愛、善なるものが流れてくるのではないでしょうか?宗教はreligionと言いますが、もとになったラテン語の意味は「神と人とのきずなを結び直す」という意味です。宗教というと人間が作り出した神様に思えますが、元来はそうではありません。源なる神様と私たちが再び結ばれることであります。でも、この罪をなんとかしなければなりません。この罪がある限り、私たちは神様に背き、様々な罪を犯し、最後には永遠のさばきを受けるしかありません。しかし、クリスマスとは、私たちの罪を解決するために、神様が御子イエスをこの世に遣わした日であります。神は、人間の罪を赦すために、御子を人間として生まれさせました。そして、御子イエスに人類のすべての罪を負わせ、その罪をさばき、その罪を取り除こうとされたのです。これを「贖い」と言いますが、人間が考えたのでも、人間から神に願ったのでもありません。神様の方から、一方的になされた、救いの手立てです。人間的にはとっても愚かに見えますが、これは神の知恵でした。

 私は元来、キリスト教には無知な存在でした。私は23歳で建設会社を辞めて、小田急線の町田に住んでいました。英語事務の仕事がしたくて、町田のタイピングスクールに通っていました。ほとんどが女性で、男性は一人か二人でした。しかも、私は無職だったので、クラスの中でとても肩身の狭い思いをしていました。あるとき、町田の通りで二人の外人が声をかけてきました。イエス・キリストがどうのこうのと言うのだけが分かりました。そのとき私は、「I don’t like キリスト」と答えました。むちゃくちゃな英語でした。今、思えば、彼らはモルモン教徒じゃなかったかなーと思います。断って良かったと思うのですが、「キリストは嫌いだ」と言ったことは確かです。「イエスの反対はノー」とか言って、私は平均的な日本人ではなかったかと思います。そんなのが、高いところにたって、罪がどうのこうのと言っているんですから、大したもんです。なぜ、あんな無知と偏見の塊のような私が、クリスチャンになり、しかも牧師になったのでしょうか?それは、私と同じ立場に立って、私に伝えてくれた人がいたからです。職場の先輩はクリスチャンでした。信じるまで、1年半かかりました。それまで、先輩の個人伝道が、会社や彼のお家で、毎日のように続きました。先輩は「罪」について、私にこう教えてくれました。「罪は英語で、sinと言うんだ。Sはsouth(南)。Nは、north(北)、つまり地球のことを言うんだ。その中心にIがある。神様は宇宙の外に追いやっている状態。自己が世界の中心になっていることを罪と言うんだ」。私はなるほどーと思いました。1年半後、洗礼を受けて、その年の12月に青年会のクリスマス会に参加しました。私も青年のときがあったのです。プログラムはタイプライターで私が作りました。そして、その年に洗礼を受けた、人たちがローソクに点火しました。なんだかおごそかな感じがしました。そして、そこに集まっている人たちがみんな聖い人たちのように思えました。もう1つ記憶に残る出来事があります。クリスチャンになって、祈祷会の司会をしたことがあります。司会者の特権として、自分が好きな聖歌をリクエストできます。そのとき、聖歌402番「丘にたてる荒削りの」を選びました。3節「あけにそみし荒削りの、十字架はうるわし、赦し与え、きよくするはただ主の血あるのみ。十字架にイエスきみ、我を贖いたもう。十字架の悩みは我が罪のためなり」。全く、そのとおりだなーと思いました。祈祷会の後、オルガニストの姉妹が、私にこう言いました。「私もあの曲、大好きなんです。涙が流れて、譜面がよく見えなかったわ」。「わー、教会に来ている人たちって、本当に聖い人たちなんだなー」と思いました。

 罪が解決されて、神と和解した人たちには、平安があります。religion、イエス様は、神と人とのきずなを結び直すために来られたのです。イエス様は、ご自身の民を罪から救ってくださるお方です。人類が負っている罪の問題は、イエス・キリストしか解決できないのです。

2.インマヌエルの意味

 23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)インマヌエルはイザヤ7:14の引用です。クリスマスの日、神が肉体を取って、その民の中のうちに住まわれるという預言が成就しました。つまり、このことはイエス様がはじめてだったのです。もちろん、それまで神様が民の中に臨在することはありました。確かに、主は幕屋や神殿に臨在しました。でも、イエス・キリストにあって、はじめて人間の肉体の中に、神がともに住むということが実現したのです。イエス様こそ、最初に神がともにおられたお方なのです。みなさん、一番、近くにいる状態はどこでしょうか?真上、脇、側も良いですが、一番近いのは、中じゃないでしょうか?中に神様を持っているならば、落としたり、なくしたりすることはありません。お守りだって、肌身離さずというわけにはいかないでしょう。お風呂に入るとき、お守りをぶらさげて入るでしょうか?私たちの神様は「お守り」みたいな、携帯用の小さな神様ではありません。全宇宙を想像された方が、私たちの内にいてくださるのです。そのことを一番最初になさったお方が、イエス・キリストであります。ヨハネ14章で、イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と言われました。また、ニコデモというユダヤ人の指導者が、イエス様に対してこのように告白しました。ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」ニコデモは、サンヒドリンの議員であり、パリサイ人の指導者でした。お金も名誉もあるすばらしい人でした。でも、たった1つ自分にないものがありました。神がともにいるということです。彼は、「イエスには神がともにおられる。だから、あのような奇跡やしるしができたのだ」と考えたのです。つまり、神がともにいるということは、普通にはありえないこと。もし、その人と神がともにおられたら、もう何もいらないくらい素晴らしいことだということです。どのくらい素晴らしいかは、後にして、どうしたら神がともにおられるのでしょうか?

 イザヤ書にはもう1箇所、インマヌエルのことを預言しているところがあります。イザヤ57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。まず、このところに神様がどういうお方かが書かれています。神様は、聖ととなえられる方であり、高く聖なる所に住んでおられます。もともと、「聖」とは、道徳的清さではなく、「かけ離れた」という意味です。神様は私たちとはかけ離れた存在です。でも、そういういと高き方が、地上に降りて来られ、ともに住む人がいます。どんな人でしょうか?「へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」と書いてあります。神様は高く聖なる所にお住みになるのに、同時に、地上に降りて来て、へりくだった人とともに住まわれる。この文脈から、へり下った人とは、「自分の罪を知る人」「砕かれた人」と言うことが分かります。人は、「自分には罪があるなー」と、神の前に砕かれなければ、キリストを信じることはありえません。最初のメッセージで「罪とは自分が世界の中心にいて、神様を宇宙に除外することだ」と言いました。すべての人間は、自分が王様であって、何者にも束縛されたくありません。人は、何も持っていないようでも、自我だけは持っています。キリストは救い主であり、王です。このまんまでは、人は絶対、キリストを内に受け入れ、王座を明け渡すことはしません。何が必要でしょうか?そうです。砕かれることが必要なんです。砕かれるとは、簡単に言いますと「自分には罪があって、このままではダメだ」ということです。イザヤ自身は神様の栄光を見たとき「ああ、私はもうダメだ。私は滅びるばかりだ」と言いました。個々の罪の自覚も必要ですが、私の存在ものものが罪であって、聖なる神の前には立てないことを自覚しなければなりません。

 心理学は「あなたには価値がある。あなたはすばらしい」と言います。そして、心理学は自我に目覚めることを目標とするでしょう。私も心理学的なアプローチを説教でよくしますので、心理学を全部悪いと言っているわけではありません。でも、私たちの救いは、自我に目覚め、自分の気持ちに正直に生きることがゴールではありません。聖書が言うゴールは、自我に死に、キリストに王座を明け渡し、キリストにあって生きることです。ガラテヤ2:20にこう書いてあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。アーメン。自分がますます小さくなり、キリストがますます大きくなります。そうすると、神がともにおられることを体験することができるのです。神がともにおられることを、一番邪魔しているのは、私たち自身です。悪魔や悪霊でもありません。一番問題なのは、私たち自我なんです。つまり、私たちが神様にサレンダー、降参することがへり下ることなのです。自分が小さくなり、神が大きくなる。そうなるなら、悪魔も悪霊も怖くなりなります。使徒パウロは神がともにいるということを、別の表現を用いています。パウロは、ローマ8:31で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言いました。「神様が私たちの味方なら、死も、迫害も、悪魔も、権威ある者も、どんな被造物も問題ない」と言っています。キリストを信じる前は、私たちは神様の敵でした。しかし、キリストによって和解を受けた今は、神様が私たちの味方になってくださったのです。ハレルヤ!もう、こわいものなんかありません。だから、神様がともにおられるということがすばらしいのです。

 マタイ福音書は、神がともにおられるということを1章だけではなく、18章と28章でも言っています。つまり、マタイ福音書の始めと真ん中と終りです。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」これは、一人の中にキリストがともにいるだけではなく、人と人との間にいるということです。このことは、コロサイ1:27にも書いてあります。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」教会とは、まさしく、神がともにおられるところです。それは建物ではなく、キリストの名によって集まっている人々の中です。キリストにあって集まっている人々こそが教会であります。そして、最後のマタイ28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」この意味は世の終り、この世が消えてなくなるまで、永遠にという意味です。神がともにいることと私たちの死とはどんな関係にあるのでしょうか?私たちが死ぬときも、神さまがともにいて、向こうまで行くときも神がともにいるということです。人が死ぬとき、どんなに愛していても、死の向こうまでともに行くことはできません。たとえ、心中したとしても、死ぬときはバラバラであります。でも、イエス様は一緒に死の川なみを渡ってくださいます。ジョン・バニヤンの『天路歴程』には、クリスチャンが死の川を渡るシーンがあります。そのとき、「希望」という人が彼を励ましてくれます。希望とは、聖霊のことであります。イエス様は聖霊によって、私たちとともにいて、死の川なみを越えさせてくださるのです。ハレルヤ!どうぞ、このクリスマス、神が人となって、私たちの中にいてくださることになったことを喜びましょう。私たちは孤独ではありません。神様がともにいらっしゃるし、神様が味方なのです。また、キリストを信じる人たちの間にも、神様がともにいらして、私たちの祈りを聞いてくださいます。世の中には、あまり希望がありません。しかし、私たちには世の終りが来ようとも、希望があります。インマヌエル、神が私たちとともにおられるからです。

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2007年12月 9日 (日)

処女降誕の理由    ルカ1:30-38

 教会の建物が、クリスマス一色という感じです。私はノータッチで、すべて兄弟姉妹たちがやっています。だから、これほどまでできるんだなーと思います。当教会は、セルチャーチであり、ほとんどの活動は、兄弟姉妹が自主的になさっています。でも、ある牧師が「信頼して任せるとの、丸投げとは違う」と言いました。私の場合は、「丸投げみたいな所があるかなー」と少し反省させられました。ベン・ウォン先生が、私たちはプログラム活動ではなく、関係作りにもっと時間をかけるべきであると言いました。私もこれからは冗談を飛ばすだけでなく、リーダーたちと個人的にコーチングの時を持つべきだと思います。コーチングの一番の基礎は、友達関係になることだと教えられました。プログラム活動を否定するわけではありませんが、共に時間を共有する時を持ちたいと思います。きょうから、クリスマスに関するメッセージを聖書からお届けしたいと思います

1.処女降誕の理由

 神の御子は人間を救うために、自ら人間イエスとなられました。これを神学的には、「受肉」と言います。それよりも、「クリスマス」と言う方が、私たちには分かりやすいでしょうか。でも、なぜ、神様が人間にならなければならないのでしょう?それは、私たち人類の身代わりになるためです。このことは、ギリシャ人にとっては、大きな躓きでした。なぜなら、彼らは「魂は善であるけれども、肉体は悪である。神様が肉体を取るなんて、そんなのありえない」と考えました。ある宣教師が、山で自給自足しながら修行しているヒンズー教の青年に伝道しました。彼もやはり「神が人になるなんて信じられない」と拒絶しました。ある時、彼が農作業をしている時、桑で蟻塚を掘り返してしまいました。蟻たちはパニックを起して、小川の方に行進しました。彼は「そっちは危ない」と、桑で止めようとしましたが、それを乗り越えて川に入って行きました。彼はそのとき「私が蟻になって、蟻のことばを話さなければダメだなー」と思いました。と、そのとき、神が人になった理由が分かったそうです。ジム・アーウィンと言えば、アポロ15号で月面に降りて、貴重な石を持ち帰った人です。その石は、月の年代を知る手がかりとなったので、創世記の岩「ジェネシス・ロック」と名付けられました。宇宙飛行士の多くは、地球に帰ってくると、人生が全く変ります。ジム・アーウィンの場合は、伝道者になりました。彼は「これまで何人もの人たちが月の上を歩いたが、歴史は変らなかった。ところが、2000年前、神が人となって、この地球を歩いた時から歴史が変った」と言ったそうです。

 でも、多くの人たちは「処女降誕」とか「聖霊によって身ごもった」と聞くと、非科学的だと言って躓きます。ある神学者たちは「それはその当時の神話の影響を受けて書かれたものだ。処女降誕は信じなくても良いから、イエスの十字架の贖いだけを信じれば救われる」とさえ、言います。しかし、私はそうは思いません。救い主の資格はアダムの子孫でありながら罪のないことでもありました。もし、一般的な受胎であるならば、アダムの原罪が転嫁されることになります。そこで、救い主は、聖霊によって処女マリヤから生まれる必要がありました。35節以降で御使いはこのように言っています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」つまり、これは、神の奇跡と言うことができます。聖書で言う奇跡とは、自然の法則を破壊したり、停止させるものではありません。それは、自然の法則を超えた、超自然であります。カトリック教会は「マリヤに罪はなかった」といいますが、私はそうは思いません。処女マリヤとて、罪がある存在でした。でも、聖霊の力が臨み、イエス様は罪のないお方としてこの世にお生まれになったのです。私たちは、「聖霊があなたの上に臨み」ということばから、創世記1章の世界の創造、あるいは使徒の働き1章の人間の新創造を連想することができます。クリスチャンは、自分が聖霊によって新しく生まれたという奇跡を体験していますので、処女降誕も別に不可能だとは思わないのであります。

また、旧約聖書には救い主が、女の末から生まれると何度も預言しています。一番、古いのは創世記3章です。3章15節には、「女の子孫がサタンの頭を踏み砕く」と書かれています。また、イザヤは、イエス様が地上に来られる、600年も前にこのように預言していました。イザヤ7:14

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。また、イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とあります。さらに、イザヤ11:1,2「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。これでもか、これでもかと言うほど、預言者たちは御子の誕生を預言しています。つまり、イエス様がこの地上に来られることは、神のご計画であり、偶然ではなかったということです。うれしいですね。神様は人類が罪を犯した直後から、救い主をちゃんと計画していたということです。しかも、「女の末」であります。一番最初に罪を犯したのは、アダムではなく、エバでありました。アダムはエバの頭だったので、責任を負わされたのです。でも、神様はエバ、女性の汚名をすすぐかのように、あえて、「女の末」を用いたのであります。ハレルヤ!ですから、ゴマをするわけではありませんが、クリスマスは女性の回復のシーズンでもあります。

 でも、サタンは子供を生むことのできる女性を妬み様々な攻撃してきました。女性差別や蔑視、女性に対する性的暴力はその最たるものであります。少し前に、ある大臣が「女性は子供を産む機械である」と発言して大変な問題になりました。また、最近は川口で、最悪の事件が起こりました。なんとか未然に防げなかったものかと、憤りを感じます。本当に、あそこまでやるかなーと思います。本当に、女性はある意味で、サタンの攻撃の対象になっています。イエス様が処女マリヤからわざわざ生まれた。女性の力を借りたというのは深い意味があるのは確かなことです。先月の終り、エディ・レオ師ご夫妻が日本に来られました。今回は、JIGI、元日本教会成長研修所主催で招かれました。全国から120人以上もの牧師たちが、エディ先生のメッセージを聞けたわけですから、私は大変嬉しく思いました。その中で、男性と女性とが別々になって、3回程ですが集会を持ちました。私は女性の方はわかりませんが、男性も女性もそれぞれ、神様から与えられた特徴と使命があるということを教えていただきました。また、男性特有の罪や弱さ、女性特有の罪や弱さが話されました。私たちの敵であるサタンは、男女の関係を壊し、神の栄光を現わせないようにしています。しかし、神様は御子イエスがこの地上に来るとき、一人の男性と一人の女性を用いました。マタイによる福音書では、クリスマスにおいて、ヨセフのことが中心に書かれています。また、ルカによる福音書では、マリヤのことが中心に書かれています。どちらも、神の御使いが間をとりもっています。処女降誕は神の奇跡ではありますが、神様は、おとめマリヤとその婚約者のヨセフも必要だったのであります。というわけで、クリスマスは女性だけではなく、男性の回復でもあります。

2.マリヤの信仰

 マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう」と質問しました。少し躊躇したかもしれませんが、御使いのことばを聞いて信じました。そして、また、信じることの中には従順が含まれていることが分かります。マリヤは言いました。ルカ1:38「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。原文では、「見よ(ご覧下さい)、私は主のはしためです」とあります。マリヤの信仰を伺い知ることができます。マリヤは両親にはもちろん、婚約者にも相談せずに従いました。当時、婚約は結婚と同じ重さがあり、その期間に他の人の子供をみごもることは姦淫罪として石打ちにされました。当時も今も、処女降誕などを信じる人は、そうはいないでしょう。それなのに、マリヤはだれとも相談せずに、短時間で決断をしています。だいたい、男性は左脳で考え、女性は右脳で考えると言われています。男性は知っていることを並べたて、それらを検討して結論を出します。一方、女性での場合は直感で、判断するところがあります。もし、マリヤがヨセフと相談したらどうなったでしょう。もし、マリヤが両親やラビたちと相談したらどうなったでしょう。また、議会や委員会にかけたらどうなったでしょう。おそらく、反対されたに違いありません。助言を聞くことや相談が悪いと言っているわけではありません。決断したり、結論を出すときには、神様との間でやるべきです。マリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いました。これは、現代的に言いますと、みことばに信頼するということです。だれかが、「ああ言ったから」とかではありません。私たちの信仰は彼女のように、神のことばの上に、信仰を置くべきであります。

 マリヤはこの後、ただちに、親類のエリザベツのもとに行きました。御使いから、不妊のエリザベツが、しかも高齢で子供を宿したことを知ったからであります。マリヤが信じた1つの理由は、神様がエリザベツにも奇跡を行ったからであります。56節をみますと、3ヵ月ほど、エリザベツと暮したと書いてあります。体がある程度安定するまで、もしくはヨセフと距離をおくためだったかもしれません。マリヤはだれとも相談せず、一人で決断しましたが、エリザベツとだけは、3ヶ月間、共にいました。エリザベツだけが、マリヤのことを理解していたからでしょう。42節以降をお読みいたします。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」エリザベツのことばは、むしろ預言の歌と言えます。エリザベツの胎内にいた子供は、バプテスマのヨハネですから、生まれる前から、イエス様と交流があったことになります。とにかく、マリヤとエリザベツは、神様の奇跡的な懐妊を共に喜び、ともに賛美しています。46節からマリヤが歌いますので、まるでミュージカルのようであります。二人は、まるで、詩篇133篇の記事のようであります。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」アーメンであります。私たちは信仰を分かち合う友が必要であります。互いに愛し合うところに、神様が住んでくださり、すばらしい祝福を与えてくださいます。

当教会でも、姉妹たちが夜遅くまで、交わっています。日曜日、月曜日、金曜日、土曜日、戸締りが大変です。私なんかは「何をそんなに話すことがあるのだろうか?」と不思議に思います。でも、当人たちはそうじゃないようです。半年くらい前、香港からベン・ウォン師が来られました。そのときは、台湾からテモテさんも一緒に来られました。牧師館の1階で泊まってもらいましたが、夜中の2時頃まで話していました。話していたというよりも、笑い合っていました。何か1こと言うと、げらげらげら、また何か1こと言うと、げらげらげら。帰りに空港まで送りましたが、そのときも車の中で「話しては笑い、笑っては話す」という状態でした。ついこの間、ベン・ウォン師が練馬に来られました。私たちは8時くらいになると、もう遅いので帰ります。ベン・ウォン師は、さらに、青年たちと交わるためにマクドナルドに行きました。11時くらいまで話していたそうです。1日ご用したあとで、さらに、外に出かけるのですから、たいしたもんです。今回も話しておられましたが、関係作りのため時間をいとわない。これがコーチングのコツのようです。私たちは業績志向から解放される必要があります。日本人は、ただ話しているだけというのは、非生産的だと考えるでしょう。しかし、神の国の雰囲気というものがあります。それは、共に分かち合い、共に励まし、共に笑う。麗しい共同体の中に主が住んでくださり、みわざをなしてくださるのです。マリヤとエリザベツは3ケ月の間、楽しく共に暮していました。胎児のために、とってもよかったのではないかと思います。

 47節以降の、マリヤの歌を見ますと、誤解や犠牲をも省みず、自分が救い主を宿す者になったことを喜んでいます。普通なら、「ああ、どうしよう。石打ちにされかもしれない?私生児を産んだとも言われるかもしれない」と心配するはずです。でも、彼女はメシヤの母になることをこの上もない特権であると思いました。神様の前に、いろんな奉仕がありますが、自分の胎をメシヤのために捧げるというのは、マリヤしかできなかったことであります。46節以降をお読みいたします。マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」この歌詞で、たくさんの讃美歌が作られていることでしょう。マリヤは、「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と歌いましたが、これも1つの預言であります。実際、マリヤほど高められた女性も世界ではいません。ローマカトリックでは、マリヤを神様と同じ高さまで、高めてしまいました。赤ん坊を抱いたマリヤ像が最も知られています。あれだど、救い主が赤ん坊のために、マリヤの方が偉大に見えてしまいます。ほめ殺しという言葉がありますが、行き過ぎはやはり問題です。今、「マリア」という映画が上演されています。ウェブサイトを見ましたが、「あなたはまだ、本当のクリスマスを知らない」とありました。また、マリヤがヨセフに対して、believe me!と言っていました。パッションと同じように、史実に基づいて、作られた映画だと思います。

私たちはマリヤの信仰を学ぶべきであります。ヨセフもそうでありますが、小さな自分たちの幸せを守るくらいの信仰ならば、決して、救い主誕生のために献身できなかったでしょう。マリヤは、婚約解消、石打の刑、世間の誤解を恐れませんでした。また、100キロ先のベツレヘムの洞窟で子供を産みました。宿屋がなかったためです。ある先生は、親戚の人が一緒にいたはずなのにどうしてなんだろう。「マリヤは私生児を宿した」と噂され、冷たくされていたのではないだろうかと言っておりました。また、赤ん坊が誕生してまもなく、ヘロデ大王が命を狙って、追っ手を差し向けました。二人は真夜中、エジプトに逃れます。逃亡者として、何年間か暮らすわけです。救い主の母になるということは、決してロマンチックなことではありません。ですから、信仰とは継続的なものであり、一時、信じれば良いというものではありません。途中に、山坂があるんですね。私たちの場合も同じです。「神様、あなたのためにやっているのに、何故ですか?」と文句を言いたくなるでしょう。でも、様々な困難を通過することによって、私たちの信仰がますます強くなり、神様との関係も深くなるのではないでしょうか。神様はこの世における問題やサタンの攻撃すらも、信仰の成長のために用いてくださるのです。主に用いられるということは、必ずしもかっこいいものでないことかもしれません。クリスマス・ページェントではいろんな役があります。ヨセフとマリヤは主人公ですから、とても良いかもしれません。しかし、2人だけです。東の博士もおれば、らくだや、羊の役も必要です。さらには、星の役も必要です。幕の後ろから、星を動かすのですから、セリフもありません。でも、星も大切であります。私たちもこの人生において、どんな役を賜わるかわかりません。私たちの信仰がどんなものであるか神様が一番ご存知です。ふだんの生活における信仰は、とても地味なものでしょう。でも、神様からチャレンジを受けたときは、大胆に従いましょう。そのときは、人から誤解されることも恐れず、マリヤのように喜んで従いましょう。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」

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2006年12月24日 (日)

ことばは人となって     ヨハネ1:14-18

 「ことば」はギリシヤ語ではロゴスです。ギリシヤの哲人たちは、「世界はロゴスからできた。ロゴスとは宇宙理性であり原理だ」と言いました。しかし、聖書ではロゴスとは受肉前のキリストであり、ちゃんと人格(ペルソナ)をもったお方であると言っています。でも、この14節は非常な躓きをあたえました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。原文では、「ことばは肉体となった」となっています。ギリシヤ人は、「肉体は悪であり、魂は肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていました。それなのに、「ロゴスなる神が、肉体に宿るなんて、なんてひどい教えなんだ!」と思ったわけです。しかし、ヨハネはこの福音書においても、ヨハネの手紙においても、「イエス・キリストは、人として来られた」ことを強調しています。それでは、きょうは何故、ロゴスなる神が肉体をとってこの世に来られたのか、2つのポイントで学びたいと思います。

1.恵みに満ちておられた

 もう一度、14節をお読みいたします。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。恵みとはキリストの贖いととても深い関係の言葉です。恵みとは、人の行いや功績に関係なく一方的に与えられる賜物です。簡単に言うと、「にもかかわらず」与えられるものです。悪いことをしたにもかかわらず、一定の基準に達していないにもかかわらず、与える価値がないにもかかわらず…与えられる賜物です。一方、世の中の価値基準は、そうではありません。ある一定の基準に達したので…、良いことをしたので・・・、一生懸命働いたので…良い成績を収めたので与えます。たとえばそれは、賃金、ボーナス、学位、メダル、タイトルであります。入学も成績や内申書が一定の基準に達していないとダメであります。この世にあるほとんどのものは、自分の手で勝ち取るものばかりです。しかし、子供のときは、何でもただでもらいますので、「恵み」を簡単に受けられます。だから、神様も容易に信じることができます。ところが、大人になって行くにつれ、「ただ」でもらえるものには価値がないと思うようになるのです。そのため、信じるだけで救われるというキリスト教の「恵み」を受けるのが難しくなります。「ただより高いものはない、きっと眉唾だろう」と疑うわけです。しかし、キリストの贖いは、恵みであって、行いによって得られるものではありません。キリストの贖いは、あまりにも高価なので、私たちはただでいただくしかないのです。

ヨハネ3:16に、キリストの贖いを示す良い知らせのかたまりがあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神様はひとり子を与えたと言いますが、どこに与えたのでしょうか?「十字架に」であります。冒頭で、なぜ、ロゴスなる神が肉体を取ったのかと申し上げました。ロゴスなる神が人間となったのは、人間の身代わりとなるためです。イエス様は人間として生まれましたが、全く罪がありませんでした。まさしく、罪のない神の小羊として十字架につけられたのです。つまり、イエス様が全人類の罪を背負い、私たちの代わりに裁かれたのです。そのために、義なる神様は満足し、罪に対する怒りをひっこめられました。そして、神様が始めから用意していた永遠の命と永遠の御国を与えると約束されました。ただし、1つだけ条件があります。それは「御子を信じる者が」という条件付きであります。信じない者は、このすばらしい特典にあずかることはできないばかりか、さばきがその人の上にとどまります。神様は私たちが犯した個々の罪ではなく、キリストによる恵みを受けなかったことをさばかれるのです。しかし、信じた者には、考えられないような恵みが与えられます。信じるということは行いではありません。「神からの恵みを受け取る」ということであります。さきほども申し上げましたが、大人になればなるほど、これができないのであります。だから、イエスは、「だれでも幼子のようにならければ、神の国に入ることはできない」と言われたのであります。人間には生まれつきプライドがありますから、本当に困らないとこの恵みを受け取ろうとしません。だから、イエス様は山上の説教でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタイ5:3,4)。「貧しい」とは、乞食をしなければならないほどの極度な貧しさです。また「悲しむ」とは、身内のだれかが亡くなったときの深い悲しみです。水野源三さんと言う人は、子供のとき脳小児麻痺になりました。それ以来、手も足も動かず、しゃべることもできませんでした。彼は「あいうえお」の表をだれかから指差してもらい、一字一字、瞬きで意思を伝えるしかできませんでした。水野源三さんは、「悲しみよ、悲しみよ、本当にありがとう。お前が、主イエス様のもとに連れて来てくれたのだ」という詩を書きました。

 イエス様がこの地上に来られたとき、一番先に神の国に入った人たちはだれでしょう。その当時、一番見下げられていた遊女や取税人、罪人たちでした。罪人とは、律法を守ることのできない人たちです。彼らはアムハーレツ、「地の民」と呼ばれました。では、反対に神の国に入れなかった人はだれでしょう?皮肉なことに、パリサイ人や律法学者など、まじめで宗教的な人たちでした。どういうわけか、彼らはイエス様を憎み、信じようとしませんでした。彼らは律法を守り行うという道を選び、恵みによる救いを選ばなかったのであります。これは今の時代にもあるんじゃないかと思います。この世では、クリスチャンになる人は、元来、真面目な人だと思われています。私は日本のクリスチャンの人口が少ない理由の1つは、教会が真面目な人しか歓迎しないからだと思います。教会がいつの間にか、パリサイ人や律法学者のようになり、世の人を罪人呼ばわりするからではないかと思います。イエス様のところに来た真面目な人というのは、ニコデモくらいです。他の人たちは、病気を治してもらいたいとか、腹が減ったとか、偉くなりたいという動機でイエス様のところにやって来ました。イエス様は罪ある人々をありのままで歓迎しました。私は英語をただで教えてくれるというので、東林間の教会に行きました。そこは、座間キャンプが近いのでたくさんのアメリカ人が来ていました。そこに通っている日本人はみんな変でした。私のような日本人と口をきかないで、アメリカ人とばかりしゃべっていました。私を導いてくれた職場の先輩は、「彼らは偽善者だ」と言いました。次に座間キリスト教会に行きました。その教会はホーリネス教団でとっても律法的で、信徒が牧師をさばき、牧師が信徒をさばき、信徒どうしがさばきあう教会だったそうです。ところが大川牧師は、私が行く少し前に、「聖霊様が好まれる、さばきあわない教会を作る」と方針を変えたばかりだったのです。だから、教会の雰囲気がとてもやわらかくて、罪のかたまりのような私も居心地が良かったのです。そこ頃、タモリのギャグがはやっていました。あるとき教会で、私が得意げにタモリのギャクを披露しました。「クリスチャンは、時計を持たなくても時間がわかりまーす。あー、十時か」。大川先生がそれを近くで見ていたのです。でも、私がまだ求道者だったせいか、叱られませんでした。十字架は神聖なものであり、ダジャレの材料なんかにはしてはならないものであります。とんでもないことです。でも、その教会には赦しと恵みがあったんです。もし、律法的で厳しい教会だったら、「二度と来るな!」と追い出されていたでしょう。私は「あの教会でなければ救われなかっただろうなー」と今でも思います。もし、亀有教会に、赦しと恵みの雰囲気があるならば、私は本当にうれしいでーす。イエス様自身も恵みにあふれていました。だから、遊女や取税人、罪人たちが緊張しないで、一緒にいることができたのだと思います。たまに、そばにいると緊張を与える牧師やクリスチャンがいますが、「恵み」をもっと味わうべきであります。

1:16に何と書いてあるでしょうか。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」。リビングバイブルでは、「この方の恵みは尽きるところを知りません。私たちはみな、次から次へと、あふれるばかりに恵みをいただきました」となっています。つまり、イエス様のうちには恵みがいっぱい詰まっているということです。「クリスマスにはプレゼントがつきものです。プレゼントをあげたり、プレゼントをもらったりします。でも、最大のプレゼントは何でしょうか?それは、父なる神様が私たちに御子イエスを与えてくださったことです。イエス様ご自身の中には、すべての恵みが詰まっています。罪の赦し、永遠の命、永遠の御国、豊かさ、解放、癒し、知恵、喜び、希望、愛、聖霊の力などが詰まっています。どうぞ、尽きない恵みを、次から次へとあふれるばかりにいただきましょう。たとえ、クリスマスに、だれからもプレゼントをいただかなくても問題ありません。なぜなら、イエス・キリストこそが最高のプレゼントだからであります。

2.まことに満ちておられた

 14節後半、「この方は恵みとまことに満ちておられた」。「まこと」というギリシヤ語はアレーセイヤですが、日本語では、真理、真実、誠実というふうにも訳されています。第一のポイントで恵みが必要だということをお伝えしました。しかし、恵みだけですと信仰生活はうすっぺらいものになります。神様はこの世界を創造したときに、きっちとした法則を与えました。そこには、自然科学の法則もありますし、道徳的な法則もあります。この世界に真理や真実があるのは、もともと神様が創造されたからです。そして、この真実や真理に逆らうと抵抗を受けて失敗します。あるときは、滅びを刈り取るときさえあります。「愛なる神様がなんでひどいことを許されたのですか?」と文句を言う人がたまにいます。でも、それは自分が無知であったため、神の法則に違反したからであります。もちろん、神の恵みによって何とかなるときもありますが、時には大きな代償を支払わなければならないときもあります。たとえば、酒やタバコは体に害を及ぼすことが医学的にも証明されています。ある人は、「クリスチャンは何をやっても恵みによって許されるんだ」と言うかもしれません。しかし、それは健康の法則に反する行為なので、やがては病気という刈り取りをすることになります。そういう意味でも、私たちは真理を知らないとエライことになります。使徒パウロは、コリント13:8で「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできる」と言いました。そこで神様は「真理とは何なのか」ということを教えるために、地上にイエス・キリストを送られました。イエス様は真理とは何かということを教えられだけではなく、自ら真理に生きたお方であります。私たちは「ああ、イエス様は神様だからできたんだ!」と言います。確かにイエス様は神様でありました。でも、この地上において、イエス様はご自身の神の力で生きたのではありません。いつも、父なる神様から聞き、父なる神様のまねをして、父なる神様の力で人生を全うされました。それは、イエス様が私たち人間の模範となるためです。プロテスタント教会は、イエス様の贖いをものすごく強調します。「人は信じるだけで救われる。行いは必要ではない。信仰義認だ」と言います。もちろん、それは間違いではありません。でも、イエス様は「神の子として救われた人がどのように生きるべきか」という模範を示されたことも忘れてはいけません。

 インドネシアのエディ・レオ師はこのように言われました。「キリストの品性を真似るのはとても困難である。私たちはイエス様のように7の70倍も赦すことはできない。だが、キリストのライフスタイルを真似ることはできる。キリスト様の生き方を真似ていくならば、いつしかキリストの似姿に近づくことができる」。イエス様は、私たちが人生において遭遇する様々な試練を自らもお受けになられました。イエス様は洗礼を受け、聖霊に満たされて、「さあー、公に活動をするぞ!」と言ったわけではありません。なんと、イエス様は御霊によって荒野に導かれました。マルコによる福音書には「荒野に追いやられた」と書いてあります。イエス様は40日40夜断食した後、悪魔の試みを受けられました。悪魔は「あなたが神の子なら、この石をパンに変えなさい」と言いました。イエス様は神の子でしょうか。もちろん、神様です。ですから、石をどんなパンにも変えることができたでしょう。やろうと思えば、山崎パンにも、ポンパドールにも、マクドナルドにも変えることができたでしょう。しかし、しませんでした。次には、「あなたが神の子なら、神殿の頂から飛び降りてごらん」と言われました。人々は「メシヤは神殿の頂から突然現われる」と信じていました。イエス様は神様ですから、3回転2回ひねりでも飛び降りることができました。しかし、しませんでした。イエス様は、「世にあるものを全部あげる」という、3つ目の誘惑も退けました。イエス様はアダムとエバが負けてしまった誘惑に全部勝利されました。でも、それはご自身の神の力でやったわけではありません。もし、イエス様がご自身の神の力で誘惑に勝利したのであれば、私たちには何の望みもありません。また、イエス様は人間でもありました。もちろん、人間の力で誘惑に勝利したのでもありません。イエス様は人間として、聖霊の力によって、また神のみことばに従うことによって誘惑に勝利されたのです。ということは、私たちにもイエス様のように勝利できるということです。私たちに毎日、何度も、誘惑や問題がやってきます。何も問題のない日はないと言って良いほどです。でも、その問題や誘惑は、「ハレルヤ!イエス様―」と、イエス様を礼拝するチャンスとなるのです。イエス様を見上げると、不思議に信仰が湧いてきて、問題や誘惑に勝利できるのです。

もう1つ私たちがイエス様から学ぶべきことは、イエス様がなされたミニストリーであります。イエス様はたくさんの癒しや奇跡を行いました。私たちは「ああ、あれはイエス様だからできたんだ」と言います。でも、イエス様はヨハネ5:19でこのように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」。このところで、イエス様は「子は、自分からは何事も行なうことができません」とおっしゃいました。もちろん、イエス様は神様でしたから、ご自分の力で何でもすることができたでしょう。もし、イエス様がご自身の神様の力でやったら、私たちには何の望みもありません。でも、イエス様は「自分からは何事も行なうことができない」と言われました。この意味は、どんなミニストリーも、父なる神様に聞いて、父なる神様の力で行ったという意味です。ということは、私たちもイエス様と同じことができるんだという望みがあります。だから、イエス様はヨハネ14:12でこのように言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」ここでも、「まことに、まことに」と2回たたみかけています。「これは嘘じゃないよ、本当だよ」という意味です。私たちもイエス様と同じミニストリーができるのです。でも、1つだけ条件があります。イエス様のように、父なる神様に聞き、父なる神様の力で行うということです。私は今年の9月インドネシアに行きました。最後は、1万人くらいはいる会場で癒しの大会がありました。私はエディ師が6月に日本に来たとき、「半身不随の人のために祈ったシルビーさん」「一度、死んだけど生き返った赤ちゃん」「靴をなくした坊や」の話を聞きました。インドネシアに行った時、その人たちがステージに上って、証をしてくれました。いやー、とっても力強かったですね。以前の私は「手当たり次第」手を置いて祈っていました。でも、イエス様のように、父なる神様に聞いて行うことがとても重要だということがわかりました。

最後に、大学生のシルビーさんに起きたことをお話して終えたいと思います。ある日、彼女は、学校の中を歩いていました。彼女は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか。私に何をしてもらいたいですか?」と聞きました。お父さんがこのように言われました。「友達のために祈りなさい。あなたの友達は、右半身が不随になっています。何年も前からです。彼女のために祈りなさい」。彼女は祈り始めました。何が起きたでしょうか。彼女は5分、10分、そして15分間祈りました。15分祈った後、何が起きたでしょうか。何も起きませんでした。これが問題です。15分間、祈って何も起きなかったら、普通、何をするでしょうか。私たちは祈りをやめるでしょう。そして相手の人に「信仰がないからです」と、問題をなすりつけます。そして、去ってしまうでしょう。だが、このシルビィーさんは祈り続けました。どのくらい祈ったでしょうか。2時間くらい祈り続けていたら、突然、右手が動き始めました。「おおー、ちょっとだけど動く」。なんと、2時間半祈った後、その人は普通に歩き始めました。家に帰って、お父さんとお母さんは「ああー、娘が癒された」と涙を流しました。シルビーさんは、このような病人のために祈ったのは初めてでした。そして、癒されました。これは単純ですが、簡単ではありません。ただ、実践するだけです。私たちは彼女のように、父なる神様に聞くことが必要です。第一は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか」。「父なる神様は今も休まずに働いておられる」と聖書に書いてあります。第二は「私に何をしてもらいたいですか?」と聞くことです。そのとき、父なる神様が「やりなさい!」と言われたらやれば良いのです。逆に「やりなさい!」と言われなければ、やらなくても良いということです。「人間的にかわいそうだから、なんとかしてあげたい」とミニストリーをし続けていると、燃え尽きるかもしれません。だから、父なる神様が「やりなさい」と言われたらやれば良いのです。イエス様も常にそのようになさられたと信じます。

 最後に「救いの御子の降誕を」という水野源三さんの詩を読んで終えたいと思います。

     一度も高らかにクリスマスを喜ぶ讃美歌を歌ったことがない。

     一度も声を出してクリスマスを祝うあいさつをしたことがない。

     一度もカードにメリークリスマスと書いたことがない。

     だけど、だけど、雪と風がたたく部屋で、心の中で歌い。

     自分自身にあいさつをし、

     まぶたのうらに書き、

     救いの御子の誕生を御神に感謝し喜び祝う。

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2006年12月17日 (日)

イエスの国         ルカ1:26-33

 先週に引き続き、クリスマスのメッセージをお届けします。クリスマスは牧師泣かせでもあります。なぜなら、話す箇所が決まっているので、「ああ、またか」という人たちが多いからです。でも、不思議なことは、同じような話でも、神様が示してくださるポイントが毎年違うということです。ポイント、つまり強調点が違うと、同じようなメッセージでも新鮮に感じます。この世の中は、たくさんのデコレーションでクリスマスの飾りつけをします。ライトアップも、発光ダイオドーを使っているせいでしょうか?とっても鮮やかです。クリスマスソングも奏でられています。でも、残念ながらメッセージがありません。そこにメッセージがなければ、ただの風景であります。クリスマスは風景ではありません。神からのメッセージがそこにあるべきです。

1.おめでとう

 御使いが突然、マリヤに現われて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言いました。このシーンは、受胎告知として知られ、絵にもなっています。でも、何が「おめでとう」なのでしょうか?まず、マリヤにとっておめでたいことは何かということを見ていきたいと思います。マリヤはナザレの町の一処女でした。おそらく、十代後半かと思われます。そのマリヤがメシヤを生む母として選ばれたのです。イザヤ書には、乙女からメシヤが生まれるという預言があります。しかし、その当時の人たちは、どれほどその預言を信じていたか分かりません。でも、イスラエルの女性たちの間では、メシヤの母になれることは最も光栄なことであるという、言い伝えはあったと思われます。その証拠に、ひとりの女性が、マリヤをほめている箇所があります。ルカ11:27、ひとりの女が声を張り上げて「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」と言いました。また、マリヤ自身も、喜んで賛美しています。ルカ1:47-48「「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。