2018年12月24日 (月)

貧しくなられたキリスト Ⅱコリント8:9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.24

 クリスマスのイヴ礼拝で最も引用される箇所は、マタイ2章の「東方の博士」か、ルカ2章の羊飼いの話でしょう。イエス様がお生まれになった夜を「聖夜」と言うようであります。Holy night ということばが、讃美歌やクリスマス・キャロルによく出てきます。なんとなく、ロマンチックな気持ちになり、恋人たちが愛を告白する日として利用しているようであります。昔は、イヴ礼拝を止めたときもありました。なぜなら、準備に忙しいわりには人が来ないからです。その日の夜、隣の亀有福音教会に行きました。その教会にとってイヴ礼拝は大伝道集会であり、聖歌隊が降誕劇・オペレッタをやっていました。その後、高木牧師が甲高い声で50分も説教し、最後に「今晩イエス様を信じる人」と招きまでしました。暗いところで、2時間もいたので、拷問のように感じました。私の良い所は、説教が短いことです。また、信仰を無理強いしません。

 

今晩のメッセージは「貧しくなられたキリスト」ですが、キリストはどのように貧しかったのでしょうか?これからキリストと言ったり、御子イエスといったり、イエス様と言ったりしますが、みな同じ人物です。まず、誕生の時のことを考えたいと思います。マタイによる福音書とルカによる福音書にはキリストの誕生のことが記されています。まず、キリストはマリヤの胎をお借りしてこの地上に生まれることになりました。23日の説教では「神の御子が私たちと同じ肉体を持たれた」と言うことを学びました。マリヤはどこで御子イエスを生んだのでしょうか?なんと、家畜小屋です。岩をくりぬいた横穴にスダレをかけたような寒いところでした。マリヤとヨセフが人口調査のために、ベツレヘムを訪れました。ところが、宿屋には部屋がなかったので、二人はその家畜小屋を案内されたのです。そこで、マリヤは男の子を産みました。助産婦さんもいないでどうやって生んだのでしょうか?神の御子がそんな不衛生なところで生まれたのです。しかも、寝かされたのは「かいば桶」でした。馬や牛がたべるエサ箱です。今日ではダンボールがすぐ見つかるかもしれません。御子イエスは王なるキリストになるお方です。人間の考えでは、エルサレム宮殿で生まれるべきでしょう。だから、東方の博士たちは、ヘロデの宮殿に向かいました。「ユダヤ人の王だったら、そこに違いない」と思ったからです。でも、そうではありませんでした。

 

 アフリカのモザンビークは最も貧しい国の1つと聞いています。親から捨てられ、ゴミの山で暮らす子供たちがたくさんいます。大都市のスラム街では、生まれたばかりの赤ん坊が捨てられる場合もあるでしょう。そういう意味では、イエス様も彼らと同じだったと言えば、それまでです。しかし、ピリピ2章には私たち人間と異なるところからやって来たことが書かれています。ピリピ26-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」御子イエス様は単に貧しくなられたのではありません。本来、神であられるお方が、神のあり方を捨てて、無になり、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくされました。つまり、神が人間となるということ自体が、卑しいことなんだということです。父なる神と一緒に全宇宙を創られたお方が、地球という小さな惑星の、滅びゆく小さな人間として生まれました。これよりも卑しくて、貧しいことはありません。ある神学者は「神が人間になるのは、人間がうじむしになることと同じだ」と言いました。これはイエス・キリストにとって、想像もできないくらい厳しいことです。神の御子は「イエス」と言う名前で生まれましたが、この地上では、あえて貧しい姿で生まれました。生活もそんなに豊かでなかったようです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(マタイ820と言われました。それでも、イエス様は、衣食住は満たされていたと思います。なぜなら、多くの女性たちがイエス様と弟子たちに仕えていたからです。イエス様は罪人や取税人と食べたり飲んだりしていました。本来は、すべての所有者でありながら、人々のお世話になりました。そして、最後には、極悪人がかかる十字架にかかって死にました。墓がなかったので、アリマタヤのヨセフの墓を借りました。でも、丸三日で不要になりました。なぜなら、よみがえられたからです。

 

 しかし、パウロは神の子、イエス様が貧しくなられた理由をこう述べています。Ⅱコリント89「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」使徒パウロは、キリストが貧しくなられたのは、私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためだったとはっきり言っています。なのに、キリスト教会のある教派では、清貧が美徳であると思われています。カトリック教会では、聖フランチェスコはすべてを捨てて献身しました。修道士たちは、従順・清貧・貞潔に生きました。イギリスの国教会を批判した、ピューリタンは清貧を美徳にしました。戦中戦後、ピューリタン的な信仰が、アメリカを経て日本に入って来ました。きよめ派の教会は彼らにならって清貧を美徳としました。私の恩師の大川牧師も少年時代はとても貧しくて、修学旅行にも行けなかったと聞いています。一般の信徒ならともかく、牧師や伝道者は清貧の模範を示さなければなりません。牧師が、自分の家も持つことなどありえません。イエス様が枕するところがなかったのですら。服装から食べ物までチェックが入ります。大川牧師は中学生のとき、教会に火をつけてあげたいと思ったそうです。なぜなら、教会は偽善者の集まりと考えていたからです。しかし、今から40,50年くらいまえ韓国で大リバイバルが起こりました。戦後の韓国はとても貧しかったのですが、キリスト教会のお蔭で国がとても豊かになりました。その当時、韓国で最も大きなヨイド教会のチョー・ヨンギ師が日本のリバイバルのために来られました。チョー師はⅢヨハネ2から、魂が恵まれ、すべてのことに恵まれ、健康であるようにという「三拍子の祝福」を説きました。チョー師が病の癒しや繁栄を説くので、日本の教会はこぞって、「それはご利益宗教だ」と拒絶しました。ところが、大川牧師はそのことに共感し、チョー師と交わりを持つようになりました。そのことが原因で、某教団から去って、単立教会になりました。

 

 今晩はそういう恨み辛みを言うために講壇に立っているのではありません。キリスト教会の中で、長い間、清貧は美徳とされてきたということを言いたいのです。ところが、教会は教会運営のため、宣教のために、会堂を建てるために献金してくださいとお願いします。でも、クリスチャンが貧しかったら、教会に献金できるわけがありません。明らかに矛盾しています。もし、貧しくて病気がちなクリスチャンが、「イエス様を信じたら私のようになります」と言っても、だれも見向きもしないでしょう。旧約聖書を読んだらが、父祖たちであるアブラハム、イサク、ヤコブはみんな富んでいました。申命記28章を読むと、あなたの神、主の御声に従うなら、このように祝福されるという項目が列挙されています。申命記283-6「あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」さらに、このようなことも約束されています。「それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。」何と、その祝福は日常の細かなところまで及びます。病気にもなりません。アーメン。しかし、主の声に聞き従わないなら、どうでしょう?地の産物はのろわれ、さまざまな病気にもなります。すべてのものが敵に奪われるとも書いてあります。これは、主に従わないことからやってくる呪いです。貧しさと病は呪いであるとはっきり書いてあります。聖書を正しく読むならば、清貧が良いことであるとは書かれていません。貧しさは呪いであるとはっきり書かれています。

 

 私がこういうメッセージをするとそれは「ご利益信仰だ」とか「繁栄の神学だ」と言われます。そういうことを言う人たちは、清貧を美徳とるすピューリタンの信仰を受けた人たちです。少し開きなおりますが、繁栄のどこが悪いのでしょうか?ヨシュア記1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」これは主の律法を守った人に与えられる祝福です。しかし、生まれつきの人間は神の律法を守り通すことができません。だから、申命記28章の祝福ではなく、後半の呪いを受ける運命にあるのです。病や貧困や敗北は律法を守れない人にやってくる呪であります。その呪を打ち破るために、イエス様がこられたのです。ガラテヤ3章にどうしたらアブラハムの祝福がやってくるのか書かれています。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。このところから分かることは、イエス様が十字架にかけられることによって、律法の呪いとなってくださったということです。律法は1つでも従いきれなかったなら違反しているとみなされます。99点でもダメです。ということはすべての人間が律法の呪いを受けること間違いありません。しかし、イエス・キリストはまことの人間になり、律法を全うしてくださいました。全く罪のないお方が私たちの身代わりになられ、刑罰を受けてくださいました。このイエス・キリストを信じるなら、すべての罪が赦され、神の義がその人に与えられます。そうすると、申命記28章に記されている祝福がその人のものになります。クリスチャンは誰でも、アブラハムの祝福を受けるにふさわしい人物となります。

 

ところが、問題が1つあります。それは、「貧しいことは良いことだ。富むことは罪だ」という間違った考えがある場合です。イエス様は受けるより与える方が幸いであると言われました。人に与えるためにはまず持っていなければなりません。イスラエルに行くと2つの湖があります。1つはガリラヤ湖です。もう1つは死海です。ガリラヤ湖はヘルモン山から水を受け、ヨルダン川に流します。だから、いつも新鮮です。ところが、死海は受ける一方です。湖面から水が蒸発し、生物が住めない塩の湖です。クリスチャンは神さまから得て、それを人々に、あるいは御国のために与えるのです。そうすれば、神からの祝福は止むことがありません。でも、それを自分のためだけに使うなら、たちまち祝福は止んでしまいます。本日のメッセージに戻ります。Ⅱコリント89「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私は8人兄弟の7番目に生まれました。父はあまり働かなかったために、家にはあまりお金がありませんでした。クリスマスの日、母は「うちは苦しみますだよ」と言いました。それでも姉や兄が、クリスマス・ケーキを買って来てくれました。しかし、父は酒を飲んでくだをまいていました。とても暗いクリスマスでした。秋田の片田舎ではクリスマスは遠い外国の話でした。「どこかにサタンタ・クロースがいたら良いなー」くらいの知識でした。しかし、神の御子が栄光の座を捨てて、この世に来てくださいました。しかも、だれよりも貧しい姿でお生まれになられました。しかし、それは、希望がない人たち、暗くて貧しい人たちのために救いを届けにやってこられたのです。その救いは精神的なものだけではなく、全人格的な豊かさを与えるためです。

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2018年12月21日 (金)

受肉した神のことば Ⅰヨハネ1:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.23

 この世では人間が神になったりしますが、それは本当の神さまではありません。聖書には「神が人間になられた」と書いてあります。そのことを神学的には「受肉」と言います。しかし、そのことは当時の世界では、全く受け入れがたいことでした。なぜなら、霊魂は聖いけれど、肉体は悪であると考えられていたからです。きょうはクリスマス礼拝として、「受肉した神のことば」と題して、聖書から共に学びたいと思います。

1.聞いて、見て、さわったもの

 Ⅰヨハネ11「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」。ギリシャの世界では肉体は悪であると考えられていました。プラトンがそういうことを強調しました。プラトニック・ラブという言い方はそこから来ています。しかし、聖書的は、肉体は神さまが創られたものであり、それ自体、悪いわけではありません。ただし、アダムが堕落してから、肉体に罪が入ったことは確かです。しかし、当時はギリシャ哲学の影響を受けていたので、肉体が悪であると考えられていました。そして、神さまがその肉体を取るなんて、全くナンセンスであるとキリスト教を非難しました。そのことに対する論争は、紀元後300年くらいまで続きます。でも、ヨハネがこの手紙を書いていた頃、すでにそういう兆候がありました。それは、グノーシス主義という異端であります。グノーシスとは「霊知」と言う意味です。簡単に言うと、神秘主義であり、霊的な満し(プレローマ)を求めました。宗教によくある恍惚状態(エクスタシー)であります。彼らの神観は多神教であり、創造主である神も信じていましたが、肉体と物質を創ったので下層の神であると考えていました。その代り、最もランクの高い神、至高神の存在を信じていました。他にも天使崇拝、神話も取り入れていました。一般的に、宗教にはそういう不思議な体験というものがあります。世界には教祖なる者がいますが、みんなそのような神秘的な体験をしています。マホメット、仏陀、モルモン教の教祖、新興宗教の教祖たちです。考えてみれば、パウロ自身も「ダマスコの途上でまばゆい光の中で復活のイエスによって地に打ち倒された。第三の天にまで引き上げられた」と言っています。だから、他の宗教の人たちから言えば、「同じだろう」と言われるかもしれません。とにかく、キリスト教の根幹をゆるがすようなグノーシスの神秘主義的な異端が出現してきました。そのため、ヨハネはそのことに警戒するように、この手紙を書いています。

 11節を見ますと、神のことばが、肉体をとってこの地上に来られたことが書かれています。「初めからあったもの」とはどういう意味でしょう?これはヨハネが書いた、ヨハネ福音書の書き出しを暗示しています。ヨハネ11,2「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」つまり、ヨハネが言う「初めからあったもの」とは、「ことば」です。ギリシャ語ではロゴスであり、その当時はとても意味深なことばでした。古代のギリシャ哲学では、「初め(アルケー)にあったのか?この世界は何でできているのか?」ということをものすごく探究しました。「ロゴスなるものが世界を創ったのではないだろうか」という考えが支配的になりました。ロゴスは強いて訳すと、「宇宙理性」と言えるかもしれません。でも、そこには人格的なものは含まれません。神であるとも言っていません。しかし、ヨハネはあえて「初め(アルケー)にロゴスがあった」と書いたのです。当時の世界はこれを読んでびっくりしたことでしょう?しかも、その続きがあります。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」「なんと?ロゴスは神とともにおられ、神とともにこの世界を創造したのか?しかも、いのちまであるとは?」とびっくり仰天したでしょう。なぜなら、ロゴスは単なる宇宙理性ではなく、神であり、人格があり、いのちがあると言うからです。現在は、グノーシスに似た、ニューエイジが世界中にはびこっています。彼らは宇宙に満ちる神と一体になることを勧めています。彼らの神は人格などありません。ただ漠然とした宇宙の大霊です。

 ヨハネはそのことばが、肉体をとられたことをこの手紙で書いています。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」肉体とは書かれていせんが、肉体の持つ性質は書かれています。それは「見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わう」です。ヨハネは「私たちが聞いたもの」と言っています。それは、ヨハネが神の子イエスが語ることばを聞いたということです。「目で見たもの」とは、イエス様をその目で見ました。しかも、じっと見ました。3年半、寝食を共にしました。ペテロとヤコブとヨハネの三人は特別でした。彼らはヤイロの娘のよみがえり、変貌の山、そしてゲツセマネの園の奥まで一緒でした。「また手でさわったもの」とは、ヨハネがイエス様にさわったということです。最後の晩餐のとき、イエス様が「この中のだれかが私を裏切る」と言われました。ペテロは「それはだれなのか」、イエス様に聞くようにヨハネに促しました。おそらく、ヨハネはイエス様の胸元に寄り添って、「主よ。それはだれですか」とささやいたに違いありません。そういう意味で、「手でさわったもの」と言えるのは、ヨハネがもっとも相応しいでしょう。つまり、イエス様は仮に現れていた霊的な存在ではないということです。ちゃんと私たちと同じ肉体を持っておられたということです。なぜでしょう?肉体を持っている私たちを救うためです。ヘブル2:1415「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アダム以来の人間は、死ぬ運命にあります。そういう私たちを死から救うために、神の御子は私たちと同じ人間となって下さったのです。蟻を救うためには蟻にならなければなりません。ある神学者が言いました。「神が人間になるとは、人間が蛆虫になるのに等しい」と。イエス様は神としてのご栄光を捨ててくださって、天から下って、人間としてお生まれくださったことを感謝します。これがクリスマスです。

2.永遠のいのち

 Ⅰヨハネ12.「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──ヨハネは「いのちが現れた」と言っています。いのちとは、イエス・キリストのご自身のことです。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。このいのちは、ギリシャ語ではゾーエーであり、単なる「いのち」ではありません。人間のいのちは、プシュケーであり、「地上の生命」あるいは「肉体のいのち」です。ヨハネが言うゾーエーは、神のいのちであり、永遠のいのちです。これは人間にはないものです。ヨハネは私たちが救いを得るとは、神のいのち、永遠のいのちをいただくことであると定義しています。パウロは救いとは罪が赦され、義とされることであると法的に定義しています。一方、ヨハネは「神のいのち、永遠のいのちを得ることなんだ」と生命的に定義しています。最も有名な箇所はヨハネ316節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」でも、どうして御子イエスを信じるなら、永遠のいのちを持つことができるのでしょうか?それは、創世記まで遡らなければなりません。エデンの園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。アダムは園のどの木からでも思いのままに食べて良かったのです。ただし、善悪の知識の木から取って食べてはいけませんでした。主なる神は、はっきりと「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言明されました。それだけはっきりと禁じられていたのに、ヘビに化けたサタンにそそのかされて食べました。それで、人間は堕落し、死ぬようになりました。ただちに霊が死に、後から肉体が死にました。主なる神は、アダムが手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように、園から追放しました。しかも、ケルビムという天使が回る炎の剣を持って、いのちの木の実を阻止しています。

 おそらく、園の中央にあった「いのちの木の実」はイエス・キリストの予型でありましょう。ところで、人間はみんな死の毒にやられています。誰でも、この地上に生まれたなら必ず死ぬ運命にあります。あなたも、私も死に向かって生きています。だれが死のからだから、私たちを救ってくれるのでしょう?ヨハネ316節の有名なみことばの直前に、イエス様がこのようなことを言われました。ヨハネ313-15「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」この物語は民数記21章からの引用です。イスラエルの民が荒野で「パンもない、水もない。ここで俺たちを殺すつもりか」とつぶやきました。すると主は、民の中に燃える蛇、毒蛇を送られました。蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人たちが死にました。民たちは主とモーセに「罪を犯しました。どうか蛇を私たちから取り去ってください」とお願いしました。その時、モーセは主から示されて、青銅の蛇を作り、それを旗竿の上につけました。主は「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。毒が体に回って死にかかっていた人も、青銅の蛇を仰ぎ見ると生きました。何故、ヨハネはそのことを引用しているのでしょうか?人の子であるイエス様は天から降りてきて、十字架にかかりました。十字架は神の刑罰であり、へびのように呪いの象徴です。信じるとは、十字架のイエスを仰ぎ見ることです。すると、死にかかっている人が、生きるのです。地上のすべての人は、死の毒にやられています。しかし、十字架のイエスを仰ぎ見るなら、つまり信じるなら滅びないで永遠の命を持つことができるのです。ここに逆説的な真理があります。細かい理由は分からなくても、父なる神が人類を死から救うために、御子イエスを与えました。どこに?十字架の上に贖いの供えものとして与えました。イエス・キリストは私たちの罪の代わりに罰せられました。父なる神は御子イエスを信じるなら、滅びることなく、永遠のいのちを与えると約束されたのです。

 イエス・キリストはゾーエーといういのちです。ゾーエーといういのちは、死に打ち勝ついのちであり、復活のいのちでもあります。ヨハネは「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」と証をしています。証というのは、目撃者の証言であります。裁判の席で立つ「証人」という意味でもあります。彼らが偽りを証言したなら罪になります。しかし、ヨハネは「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし」と言っていますが、何のことなのでしょうか?それはイエス様がよみがえった日の夕方のことではないかと思います。ユダヤ人を恐れて戸が閉じてあったのに、イエス様が来られ、弟子たちの中に立たれました。「平安があるように」とその手と脇腹を彼らに示されました。弟子たちは、主を見て喜びました。どんな喜びでしょう?イエス様が死に打ち勝たれたと言う喜びです。ヨハネは「このことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ2031と言っています。いのちとは、永遠のいのち、神のいのちです。どうすれば滅びないで永遠のいのちが与えられるのでしょうか?私たち人間にはプシュケーという肉体のいのちしかありません。これは年老いて、やがて死ぬ運命にあります。なぜなら、アダムが犯した罪の毒の影響を受けているからです。この肉体のいのちには全く希望がありません。いろんなサプリメントを飲んで、アンチ・エージングを心がけても不可能です。唯一、まことの方法は、いのちであられるイエス・キリストを信じることです。信じるとは、神が与えたイエス・キリストを信じるということです。そうするなら、あなたの中に神のいのち、ゾーエーが付与されるでしょう。クリスチャンは2つのいのちを持っている存在です。1つは、プシュケーという肉体のいのちです。そして、もう1つはゾーエーという永遠のいのちです。いつか、肉体のいのちは消えてなくなるでしょう。でも、私たちはもう1つのいのちを持っています。このいのちは肉体の死とは関係ありません。

3.神との交わり

 Ⅰヨハネ13「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」このことは、クリスチャンになってからのことが書かれています。救われた私たちは、神さまと親しい交わりを持つことができるのです。交わりはギリシャ語でコイノーニアと言います。コイノーニアは、交わり、交際、親密な結合という意味で、英語ではfellowshipです。でも、他に、共有、分け前に与かるという意味もあります。つまり、持っているものや、喜び、いのちをやり取りするということです。では、ヨハネが言っている、私たちが持つべき交わりとは何なのでしょうか?それは「御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。これはどえらいことです。御父と御子は永遠から親しい交わりを持っておられます。神が愛であるということは、ひとりでは不可能です。神はお一人であられますが、ご自身の中に父、子、聖霊という三つのペルソナ(位格)を持っておられます。つまり、父、子、聖霊が互いに愛し合っているということです。このところには、御父と御子の二つのペルソナ(位格)しか書かれていません。聖霊はどうなったのでしょう?実は、この聖霊なる神が、私たちを御父と御子の交わりの中に加えてくださるのです。毎週、礼拝の最後に祝祷をいたします。そのとき、「聖霊の交わりがあるように」と祈ります。そうです。聖霊こそが、私たちをして神さまとの交わりを可能にしてくださる霊なのです。ヨハネ4章にまことの礼拝について記されています。ヨハネ424「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」イエス様は「神は霊である」と言われました。そして、礼拝者は「霊とまことによって」礼拝しなければならないと言われています。ここで言われている「霊とまこと」とは、私たちの霊であり、まことです。しかし、私たちの「霊とまこと」では限界があります。そこで、私たちの霊の内に住んでいる聖霊が霊なる神との交わりを可能にしてくださるのです。だから、「聖霊の交わりがあるように」と祈るのです。聖霊によって、御父および御子イエス・キリストとの交わりが可能になったのです。

 でも、その後に、神との交わりを邪魔するものが書かれています。それは何でしょう?それは罪です。ヨハネは「やみの中を歩む」とか「偽りを言っている」とも言っています。でも、7節以降にははっきりと、神との交わりを邪魔するものは「罪である」と言っています。Ⅰヨハネ17-10「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」福音的な教会でありながら、この箇所を未信者がイエス様を信じるときのことばにしている教会があります。特に19節がバイブル・キャンプなどでは、救いのみことばとして取り上げられています。子どもたちは、何か犯した罪を悔い改めて、そしてイエス・キリストを救い主として信じる祈りをします。ただ、信じるだけではダメなのです。自分が犯した具体的な罪を告白する必要があるのです。しかし、それは行為義認であり、本当の福音ではありません。救いは行いによらないというのが、福音の本質です。なぜ、そんな間違いを犯してしまうのでしょう?それは、ヨハネ第一の手紙が未信者向けではなく、すでにイエス様を信じた神の子に宛てられていることを忘れているからです。その証拠として、Ⅰヨハネ21「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは…」と書かれています。Ⅰヨハネ513「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」このように、既にイエス様を信じて、神の子となっている人たちにヨハネは手紙を書いているのです。何のためでしょう?第一は既に、神のいのちがあること。第二は既に、神との交わりがあることです。そして、第三は、交わりを妨げる罪を取り除くことです。ですから、Ⅰヨハネ17節から10節までは、すでに神との交わりを持っている、神の子どもたちに書かれているのです。

 では、救われて神の子どもになったら、罪を二度と犯さなくなるのでしょうか?Ⅰヨハネ39「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません」と書かれています。これは、「継続的に、常習的に罪を犯さない」ということであり、「二度と罪を犯さない」という意味ではありません。神の子どもでも、再び罪を犯す可能性があるので、ヨハネはこの手紙を書いているのです。もし、私たちが罪を犯したならどうすべきでしょう?19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。「言い表す」はギリシャ語でホモロゲオウ、「同じことばを言う」という意味です。つまり、「私はこれこれのことをしました」と神さまの前で告白するということです。「ごめんなさい」と言うかどうかは、強制されていません。むしろ、ありのままを認めることの方が重要です。よく、お母さんが子どもに「ごめんなさいと言いなさい」と強要します。子どもの方は、悔しくて絶対口を開こうとはしません。それは逆効果です。では、私たちが罪を告白して、どうして赦されるのでしょう?第一は、イエス・キリストの血です。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」と書いてあります。Ⅰヨハネ2章には「罪のためのなだめの供え物」と書いてあります。第二は、神さまが真実だからです。「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と書いてあります。でも、なぜ、「神が真実で正しい」と関係があるのでしょう?それは、神さまが御子イエスの血を通して、あなたが犯した罪を見るからです。真実で正しい神さまは、矛盾することなく、いつでもあなたの罪を赦して、きよめるということです。第三は、「御子イエスが御父の前で弁護してくださる」とⅠヨハネ21節にあります。このクリスマス、肉体を持っている私たちを救うために、神の御子が人となってこの世に来てくださったことを感謝しましょう。

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2018年12月14日 (金)

へんぴな所から マタイ4:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.16

 イエス様は果たしてどんなところから宣教活動をされたのでしょうか?もし、現代のようにリサーチやマーケティング、あるいは戦略的に宣教を考えるならどうするでしょう?おそらく、都のあるエルサレムから始めるべきでしょう。なぜなら、そこは宗教の中心地であり、有力な人たちが大勢いるからです。エルサレムをキリスト教化したら、イスラエル全体にすばやく影響を及ぼすことができるからです。しかし、イエス様は私たちが考えるような道を取られませんでした。イエス様はへんぴな所から始め、名もない人たちを弟子に召し、底辺の人達を救われました。

1.へんぴな所から

マタイ4:1516 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」このみことばは、イザヤ書9章からの引用であり、イエス・キリストの預言が記されています。イザヤ96「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」本来なら、このところからクリスマスのメッセージをお届けすべきなのですが、あえて周辺的な事柄を取り上げたいと思います。イエス様が宣教を開始されたゼブルンの地とナフタリの地はどういうところだったのでしょうか?イザヤ91「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」この後に、マタイ415節に引用されたみことばが続きます。ゼブルンの地とナフタリの地はイスラエルの北部にあります。ヨシュアたちがカナンの地を占領した後、どの地に定住するか12部族がくじを引きました。そして、この2部族がガリラヤ湖の西側に住むことになりました。ところが、紀元前783年アッシリヤによって北の10部族が滅ぼされました。なんと、住んでいた人たちのほとんどが国外に連れ去られ、5つの外国の部族が代わりに入れられました。このように民族を根絶やしにするのがアッシリヤの戦法でした。イザヤ書の「さきにはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けた」とはこのことであります。イエス様の時代はサマリヤと同じで混血で混合宗教でありました。だから、ユダヤ人は「ナザレから何の良いものがでるだろう」と馬鹿にしていました。いわゆる吹き溜まりのような場所だったのです。しかし、イエス様はこのような場所から宣教を開始しました。だから、イザヤは「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」と預言しているのです。

私は秋田の出身です。ちなみに家内は岩手です。両方とも東北の田舎の出です。「秋田から何のよいものが出るだろう」と言ったら、秋田出身の人たちから叱られるでしょう。岩手もそうですが、かつては蝦夷地でした。中学校のとき国語の先生から教えられました。秋田は京都の人たちが流れて来たらしくて、京都弁がなまって、秋田の方言になったということです。性格もとてもよく似ていて、表向きは愛想が良いのですが、決して本心はあかさないそうです。そのため、秋田はうつ病と自殺率が全国のトップになっています。もっとも、裏日本で雨が多く、日光が照らないせいもあります。もし、私が秋田に住んでいたなら決してクリスチャンにはならなかっただろうと思います。家内も同じようなことを言っています。なぜなら、教会が近所に全くないからです。私は4男なので、家には住めないので、関東にやってきました。昔は「集団就職」というのがありました。私の人生観は「夢を追って、楽しいことをやって生きることでした。」しかし、クリスチャンになって振り返ると、「生き延びるために生きていたなー」と思います。このような者が、講壇に立って、みなさんに説教を垂れるなんて、ありえないことです。まさしく、「はずかしめを受けたが、後には…光栄を受けた。」であります。私のことはともかく、みなさんはいかがでしょうか?もちろん、「私はあなたと比べて生まれも育ちも良いですよ。そんなに下品じゃないですよ」とおっしゃるかもしれません。でも、このところに、マタイ4章に「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」と書いてあります。これは、私だけではなく、みなさんのことではないかと思います。私たちは生まれたときから、死の地と死の陰にすわっていたといっても過言ではありません。パウロはエペソ2章でこのように言っています。21,2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」私たちはかつて、霊的には死んでいた状態でした。しかし、神の大きな愛のゆえに、恵みによって救われたのです。「あの時は確かに死んでいたなー」と、救われてから分かるのです。

 イエス様は最も困難なところから始めました。カペナウムは自分が生まれ育った場所です。イエス様が最も大きな奇跡を行ったのはカペナウムです。でも、彼らはイエス様を信じようとしませんでした。なぜなら、ナザレのイエスとその家族を良く知っていたからです。イエス様はこのように嘆いておられます。マタイ1123「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」はっきり言って、イエス様の宣教は失敗だったかもしれません。なぜなら、多くの人が躓いたからです。滋賀県に止揚学園という知能に重い障がいを持つ人たちの支援施設があります。その場所に施設を作るとき「馬鹿が移る」と大反対されたそうです。その施設の福井達雨先生の座右の銘は「負け戦に賭ける」だそうです。キリスト教会も大勢救われるようなところで伝道して、大きな教会を建てたいと思うかもしれません。しかし、目先の人数を追い求めて、神様が召しておられる場所を軽視するところがあります。私も亀有31年もいます。日本中の牧師が共通して言うことがあります。「私のところが一番、伝道が難しい」。暗い場所こそ、最も、福音の光が輝くところだと信じます。

2.名もない人たち

 イエス様は福音宣教を開始した直後、弟子たちを集めました。その目的は、ご自分のわざを継承させ、拡大させるためです。天にお帰りになる直前、弟子たちにこう命じられました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」よく見ると、ここには「教会を成長させなさい」とか、「教会を数多く建てなさい」とは書かれていません。「キリストの弟子を作りなさい」と命じているだけです。なのに、私は30年以上、的外れな奉仕をしてきました。日本の福音派の教会がこぞって「教会成長」「教会開拓」をスローガンに掲げてきました。現在も、そのようなセミナーや牧師の養成コースがあります。私も大川牧師から「どうして100名ならないの?」とか「1,2つ教会を開拓しないと」と良く言われます。来年の7月、当教会の70周年創立記念礼拝にメッセンジャーとして既にお願いしています。もし、「教会は人数じゃないよ」と言ったなら、「大きくなってから言えよ」と言われるでしょう。とても言えませんけど…。また、日本の教会で牧師同士が挨拶するとき、必ず尋ねることばがあります。「お宅の教会は礼拝、何名来ているの?」であります。自分よりもずっと大きいと、へりくだらざるをえません。でも、「お宅の教会にキリストの弟子は何人いるの?」とは聞きません。純粋に、聖書を見ると、教会を建てるのは私たちではありません。マタイ1618「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と書いてあるからです。英語の聖書もI will build My church,となっています。これまで、教会の組織とか、運営方法、たくさん学んできましたが、よけいなことをしてきたのではないかと反省しています。

 でも、聖書を読めば、読むほど、「イエス様の命令、イエス様のやり方とは違うことをやっているなー」と気づかされます。イエス様が召した12人の弟子たちというのは一体どういう人たちだったでしょう?ほとんどがガリラヤの漁師です。ギリシャ語は理解できたかもしれませんが、書くことはできなかったでしょう。他に取税人、政治結社の一員、ご自分を裏切るであろう人物も加わっていました。一般の企業がプロジェクト・チームを立ち上げるとしたらどうするでしょう?イスラエル大学で専門に聖書を勉強した人たちの中から選ぶでしょう。学位を持っているか、だれに師事したのか、弁論術はすぐれているだろうか?ローマの市民権は持っているだろうか?人格的にはどうだろうか?過去にスキャンダルを起こしたことはないだろうか?しかし、イエス様の場合は、そういう資格試験は全くありませんでした。いきなり、「私に従って来なさい」と言っただけです。当てずっぽうと言って良いくらい、その場で決めたような感じがします。人格的にもみんな問題があります。ペテロはおしゃべりでいい加減、ヨハネとヤコブは激しやすいタイプ、トマスは懐疑論者です。イスカリオテのユダは会計をごまかしていました。イエス様が十字架に捕らえられたとき、ヨハネを除いて、みんな逃げました。リーダー格のペテロはイエス様を「知らない」と三度も言いました。何かの間違いではないでしょうか?しかし、イエス様はヨハネ15章でのこのようにおっしゃっています。ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」イエス様は、たまたまではなく、ちゃんとお考えがあって、あの弟子たちを選び、任命したのです。ちゃんと、前もってご計画があったということです。イエス様は「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(マタイ39と言われたことがあります。有能な人を起用するなら、だれでもできます。しかし、イエス様は全く役に立ちそうもない普通の人を選びました。だからこそ、そこに栄光が現れるのです。パウロもこう言っています。Ⅰコリント127-29「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

 既に天に召されましたが、韓国のS教会にO牧師がおられました。1990年代、弟子訓練で、日本から多くの牧師たちが研修に出かけました。日本にも先生を何度もお招きしました。O先生は、アメリカの大学で学ばれた有能な牧師を後継者におたてになられました。その先生によって早天祈祷会は毎朝、1万人集まっていました。しかし、まもなく、その先生は学歴詐称で訴えられ失墜しました。S教会で長老をしておられた方がこう言っていたそうです。「O牧師は、優秀な大学生に高い信仰書をプレゼントしていたけど、私には何もくれなかった。しかし、かつての優秀な大学生は一人も教会に残っていない。O牧師は人を見る目がない」と。こういう話題は、礼拝では不謹慎だったかもしれません。私は大川牧師の弟子ですが、高校出で全く優秀でありませんでした。私よりも学歴があり優秀な人たちはたくさんいました。でも、あの頃、座間キリスト教会で献身して、残っている牧師は私だけです。私が言いたいのは、神様の選びは人間とは違うということです。神様はあえて、この世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しいものを選ばれるのです。旧約聖書からも、ヨセフも、ダビデも、ギデオンも取るに足りない人が選ばれたことがわかります。もし、「自分が取るに足りない者」だと思ったなら、キリストの弟子になる資格が十分にあります。でも、私を含め、教会の指導者が心からそう思っているか?であります。やっぱり、学歴、素養、賜物、能力…を見てしまうでしょう。何度か失敗してみて、「ああ、やっぱりそうなのか?」と学ぶのです。本当にそのことを悟るまでは40年くらいかかるかもしれません。イエス様は「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ117と言われました。英語の聖書は"Follow Me, and I will make you become fishers of men."です。イエス様が私たちを弟子にしてくださるのです。私たちに必要なのは、イエス様についていく、イエス様に従って行くことです。アーメン。

3.底辺の人たち

マタイ416「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」当時、イスラエルには、アム・ハーレツと呼ばれる、「地の民」がいました。パリサイ人たちが、律法を知らない人たちを軽蔑して言ったことばです。聖書では「群衆」ということば出てきます。パリサイ人や律法学者もイエス様のところに来ましたが、学識が邪魔してイエス様を信じようとしませんでした。なんと、一番、先に神の国に入ったのは、当時、見下げられていた、取税人や罪びと、遊女たちだったのです。イエス様が当時の宗教的指導者にこう言っておられます。マタイ2131-32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」彼らは聖書をだれよりもよく勉強し、律法を守り行おうとしていた人たちです。しかし、彼らが神の国に入らないで、いわゆる律法を守れない「地の民」のほうが神の国に入ったのです。何という皮肉でしょう。私たちも道徳的で立派な人が救いを受けるのではないかと思います。しかし、そういう人に限って、高慢であり、神様に頼ろうとしません。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ913と言われました。

しかし、教会はどうでしょう?町の有力者や金持ち、あるいは芸能人が救われたら、後から大勢の人が救われるだろうと思っています。よく、伝道のときに引用される聖書箇所があります。それは「平安の子」です。ルカ106,7「もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。」「平安の子」というのはキーパースンです。「平安の子」が救われたら、芋ずる式に他の人たちが救われるという宣教の戦略です。確かに、聖書にはそういう人がいます。パウロがピリピに伝道に行ったとき、紫商人のルデアという一人の婦人がいました。使徒16章に「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」と書いてあります。そのあと、どうなったでしょう?彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実なものとお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊りください」と言って頼み、しいてそうさせました。神様はピリピにルデアとその家族を初穂として備えてくださいました。確かに、主が備えてくださっている魂というのがおられます。でも、それは人間的に考えた戦略ではありません。多くの場合、私たちの考えとは違う方法で導かれます。つまり、多くの場合、「平安の子」キーパースンは、私たちが考えもよらない人であるということです。

松戸の岡野牧師夫妻が「生活伝道」について話されたことがあります。開拓当時はチラシ配布をして、伝道集会や音楽集会も開きました。他に、英会話伝道、映画伝道、何でもやりました。そのせいもあってか、数年で30名くらい集まりました。しかし、伝道に疲れ果てて教会にだれもいなくなりました。岡野牧師は「私は教会をつぶしました」とよく証しておられました。しかし、あるとき、牧師夫人がイザヤ書58章から知らされたそうです。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」(イザヤ586,7)。二人は悔い改め、これまでの人を集める伝道をやめました。子どもが幼稚園に行っていましたが、そのとき、あるお母さんを助けてあげました。雨の日に子どもを一緒に送ってあげたり、子どもを預かってあげました。そのお母さんはイエス様を信じませんでしたが、それを見ていた他のお母さんが興味を持ち始めました。「なぜ、あんな親子を世話するんだろう?」とびっくりしたからです。つまり、世話した困っている人ではなく、他の人が「平安の子」だったのです。神さまは私たちの動機を見ておられます。「あなたが教会に来るなら愛します」では本当の愛ではありません。

ハイディ・ベーカー夫妻は最も貧しい国、アフリカのモザンビークに片道切符で伝道に行きました。今では、1万以上の教会が生み出され、1万人の子どもたちが集まり、まさしく火のようなリバイバルが起こっています。しかし、最初は何もないところからスタートしました。2日後にお金が尽きてしまいました。道路の脇に座りながら、何をしたら良いか考えていました。神さまが語りかけました。「私があなたをここに送った。あなたはここでリバイバルを見るだろう。私があなたに望むすべてのことは、あなたが一人のために立ち止まってすることだ」。私は2000何年まで、どのようにこの都市で伝道すべきか、という戦略的な計画を持ちませんでした。私が知っていたすべてのことは、神さまが一人のために立ち止まるということだけでした。私は、貧しくて小さな子どもを愛するために一緒に座ることから始めました。ある日、私はギトーという男の子を拾いました。小さくて痩せ細ったその子は、打ちたたかれ、レイプされ、道端で死にかかっていました。私はハエがたかって死にかかっているその子を腕に抱き愛しました。彼はエイズにかかっていました。私は彼を抱えながら「ギトー、私と一緒に家に行こう」と言いました。彼がリバイバルの顔だったのです。そこには快適な計画も、滑らかなパンフレットもありません。まもなく、神さまはギトーのエイズを完全に癒して下さいました。イエス様は「最も小さい者にしたことは私にしたことだ」と言われました。私は道端の子どもたちの顔にイエス様の顔を見ました。ギトーのような一人に神の愛を注ぎ、養子になるように伝えました。多くの人たちが、血を流し、絶望して死にかかっていました。しかし、今はドレスを着て、銀行や会社で働いたり、大学に通っています。彼女のように、富んでいる人や有力な人ではなく、底辺の人たちに仕える事が、伝道の鍵なのです。教会はこの世の方法ではなく、イエス様の方法を学ぶべきだと思います。

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2017年12月23日 (土)

世界的なメシヤ ルカ2:1-14 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.24

 ヨハネによる福音書はキリストの出生を宇宙的に描いています。「はじめにことばがあった。すべてのものはこの方によってできた。ことばが人になった」となっています。一方、ルカによる福音書はどうでしょうか?ルカ21「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」となっています。ルカは、キリストの出生を世界的なものとして描いています。イエス・キリストは架空の人物ではなく、歴史の中で誕生したということです。 

1.世界的なメシヤ

 キリストが地上にお生まれになったとき、ローマがその世界を支配していました。皇帝アウグストが「全世界の住民登録をせよ」と勅令を出しました。おそらく、税金の徴収のためでありましょう。日本では秀吉が年貢を徴収するために、太閤検地というのをやりました。ローマは人頭税というものを取るために、人々を生まれ故郷に一度帰らせ、そこで登録させました。このところにヨセフとマリヤが登場しますが、イエス様の両親になる人たちです。人々は、マリヤがだれかによって懐妊したと思っていました。ヨセフは天使から御告げを受けて、聖霊によるものだと信じていたことでしょう。問題は、マリヤが臨月なのにナザレからベツレヘムに旅することでした。直線距離でも110キロくらいあります。ベツレヘムは山地でありますから、結構きつかったと思われます。聖画などを見ますと、マリヤはロバに乗っていました。亀有から北ですと、水戸までが約100キロ、南だと小田原までの距離です。ロバだと3日以上かかったのではないでしょうか?聖書を見ると、キリストがローマ皇帝やシリヤの総督に振り回されている感じがします。彼らがイエス・キリストよりも権威と力があるみたいです。でも、ルカはあえて、その当時の皇帝や総督の名前を書きました。その理由は、キリストが歴史の中でちゃんとおられたということです。ローマやギリシャの神々は出生がはっきりしていません。それは、神話だからです。他の神さまも「永遠からいた」と言うかもしれません。しかし、歴史の中にいたかは不明です。

 アポロ11号が人類史上初の月面着陸を成し遂げました。それは、センセーショナルな出来事でした。アポロ15号に乗ったジェームズ・アーウィンも月面着陸を果たしました。その時、持ち帰って来た石は「創世記の石」と名付けられました。彼はビー玉のような青い地球を見て、ヨハネ316節の言葉が浮かんだそうです。「神はひとり子を与えるほど、地球を愛された。地球に住む私たち人類を、神の御子イエス・キリストは命がけで愛してくださった。」彼は、月で出会ったイエスさまとその愛を、地球に住む人々に伝えなければならないと思いました。そして、NASAを離れて伝道者となりました。彼は日本にも来たことがありますが、インタビューでこのように答えたそうです。「人が月を歩いたという事実は偉大です。しかし、それよりもはるかに大切なことは、神の御子イエス・キリストが地球上を歩かれたという事実なのです」。アーメン。私がこれに加えさせていただきたいと思います。「人が月に降りたちましたが、人類の歴史は変わりませんでした。しかし、神が人となって地球に降りたちました。その時から人類の歴史が変わりました」。アーメン、アーメン(二回言いました)。

 一見、キリストが当時のローマ皇帝や総督にふりまわされているように思えます。なぜなら、これから生まれるというのにナザレからベツレヘムまで110キロも移動させられたからです。命の危険を冒すような旅でした。でも、これにはわけがありました。なぜなら、メシヤはベツレヘムで生まれなければならなかったからです。マタイ2章にそのことが書かれています。東から訪ねてきた博士たちが、エルサレムでこう尋ねています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」民の祭司長や長老たちがこう答えました。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」(マタイ26)。これは、ミカ書の引用ですが、紀元前700年前後に発せられた預言です。イエス様がお生まれになる700年も前から、「メシヤはユダヤのベツレヘムから出る」と預言されていました。つまり、神さまはイエス様をベツレヘムで生まれさせるために、ローマ皇帝や総督を用いたということではないでしょうか?ローマ皇帝が「全世界の住民登録をせよという」と勅令を発したので、ヨセフとマリヤはユダヤのベツレヘムに旅立ったのです。ハレルヤ!そして、イエス様はベツレヘムでお生まれになられたのです。でも、ベツレヘムにはそんなに長く滞在していませんでした。8日目、エルサレムで割礼を受けた後、まもなくエジプトに逃れました。なぜなら、ヘロデ王が命を狙っていたからです。しかし、ヘロデ王が死んだ後、ナザレに戻って、そこで30歳までおられました。そのため、イエス様はナザレ人と呼ばれました。ナタナエルはピリポがメシヤと出会ったと言うと「ナザレから何の良いものが出るだろう」と答えました。ほとんどの人は、イエス様がベツレヘムでお生まれになったという事実を知らなかったと思います。だから、マタイとルカはイエス様がベツレヘムで生まれたことを書きたかったのでしょう。

 その人がどこで生まれたのか、だれの子として生まれたのか、とても気になります。この世では、出生が人生を決めてしまうところがあります。だいたい、「どこの出身です」と言うと、「ああ、あなたはこういう人ですね」みたいに枠の中に入れられます。「ああ、秋田の田舎ですか?秋田から何の良いものが出るだろう」。多くの人たちは、出生に対して、何等かの劣等感を持っているかもしれません。ここからは適用ですが、あの神の子、イエス様ですら、一人間として生まれる必要がありました。本来なら世界的なメシヤなのに、ローマ皇帝と総督に動かされて、ベツレヘムで生まれました。その後、ナザレで育ちました。イエス様は、30歳まで全く無名でした。私も、あなたも、あそこで、あの親で生まれる必要があったのです。エペソ14-5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」私たちの誕生も神のご計画でした。

2.家畜小屋のメシヤ

 イエス・キリストは神の子なのに、ちゃんとしたところでお生まれになりませんでした。ルカ26-7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」なぜ、マリヤとヨセフは馬小屋で子どもを産み、飼葉おけに寝かせたのでしょうか?その前に、本当に「馬小屋だったのか」ということです。あるホームページを見たら「イエスは馬小屋で生まれたのではない」と書いてありました。英語ではstable、「家畜小屋」となっています。文語訳聖書が「飼葉おけ」を「馬槽(うまぶね)」と訳したことから「馬小屋」と解釈したのかもしれません。とにかく、ちゃんとした宿屋ではなく、離れにあるむさくるしい家畜小屋だったのでしょう。先週までテレビで黒柳徹子さんのドラマ「トットちゃん」が放映されていました。お母さんと青森に疎開したとき、家ではなく、畑の中に立っていた小屋に移り住みました。まるでそれは掘立小屋でした。本題に戻りますが、なぜ、「マリヤとヨセフは家畜小屋だったのか?」ということです。人口調査のために生まれ故郷に帰るのですから、親戚が多かったと思います。親戚同士は助け合うものです。なのに、マリヤとヨセフには部屋がありませんでした。おそらく、マリヤは私生児を懐妊していると思われていたのでしょう?もし姦淫であるならば「石打ちの刑」ですが、ちゃんとした証拠がなかったのかもしれません。しかし、親戚中に噂は広がっていたと思います。第二は、宿屋が本当にごったがえしていたからです。宿屋の主人は、もし、マリヤとヨセフを入れるなら、他の客を追い出さなければなりません。しかも、その妻が産気づいているなら、めんどうです。だから、彼らは締め出しを喰らったのかもしれません。

 皆さんの中にベッドが飼い葉おけであったという人がいるでしょうか?伝説によると、聖徳太子は馬小屋で生まれたそうです。だから、「厩(うまや)戸の皇子」と名乗ったと言うことです。しかし、聖徳太子のブレーンであった秦河勝が渡来系であり、景教(ネストリウス派)の教えを持ち込んだのではとも言われています。それはともかく、神の御子が、飼い葉おけに寝かされていたというのは、すばらしい福音ではないかと思います。もし、イエス様が宮殿に生まれたのであれば、普通の人は会いに行くことはできません。もし、衛生的で最新設備の病院だったらどうでしょう?ガラス張りで仕切られ、羊飼いや東の博士たちも無理だったかもしれません。ばい菌いっぱいで、ほこりまみれの人たちは無理です。飼い葉おけだったら、人間も動物も面会できます。聖画を見ると、羊飼いの少年が小羊を抱いて訪れている場面もあります。当時、羊飼いは安息日を守れないので、汚れた人たちの中に入りました。なのに、一番先に訪れたのは、野宿で夜番をしていた羊飼いでした。主の使いが彼らにメシヤの誕生を知らせたというのは、すばらしいことだと思います。大手の新聞やテレビ会社ではありません。そんなに影響力もなさそうな、羊飼いたちであります。でも、彼らは伝道しました。ルカ217-18「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。」でも、あまり知れ渡ると、ヘロデ王から命を狙われるので、それくらいが限界だったのでしょう。

 家畜小屋、飼葉おけ、羊飼いの訪問…みんな謙遜であります。この世の王子誕生なら、宮殿、衛生設備、偉い人の訪問が相応しいでしょう。しかし、神の子イエスは、とても謙遜なお姿でお生まれになられました。そもそもの原因は、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とルカが記しています。英語の聖書はno roomです。no roomは他にも使います。たとえば、だれかに呼ばれてごちそうをいただいたとします。招いてくれた人が、もっとお食べくださいとお替りを出したとします。食後のデザートかもしれません。そのとき、食べられなければ、no roomと答えるそうです。Roomは部屋のほかに、場所、空間、余地という意味があります。ある人たちは、イエス様を信じる「心の余地」がありません。もし、イエス様を心にお迎えするならば、今あるものを捨てるか、追い出す必要があります。自分の考え、自分の夢、自分のライフスタイルかもしれません。だから、「このままで良いです。結構です、大丈夫です。」とイエス様を迎え入れないのです。私も25歳のとき、苦労しましたが、一番の問題は自我でした。「もし、イエス様を信じたら、自分はどうなるんだ?俺には俺の人生がある。そんなことできない」でした。高校生の頃、友達が加藤諦三の『俺には俺の生き方がある』(大和書房1966)という本を貸してくれました。その当時、ニッポン放送のテレフォン人生相談で活躍していた早稲田大学の教授でした。彼は今、思うと聖書のことばを結構引用していました。数えてみたらこれまで230冊くらい本を書いているようです。日本人が陥りやすい問題を取り扱っているように思います。

その当時、「私はやっと人と比べない、自分の生き方ができるんだ」と自負していました。でも、心の中は混乱と劣等感で満ちていいました。ところが415日のイースター、職場の先輩から9時間も伝道されて、降参しました。お勧めくらいじゃ絶対信じなかったでしょう。夜の9時半頃、根負けして「じゃ、信じるよ」と言っただけです。その時、先輩が話してくれたのが、今思うとヨハネ黙示録320でした。イエス様が私の名を呼んで心のドアをたたいているというのです。外側には取っ手がなく、内側にしかないというのです。イエス様は紳士なので、ドアを蹴飛ばして入らない。「鈴木君がドアのノブを回してドアを開けるしかない」と言われました。私の心の中は町田のアパートのような6畳一間で、半畳のキッチンでした。カーテンに閉ざされた薄暗い部屋でした。先輩は片付けてからでなく、ありのままjust way you areで良いと言いました。「ああ、そうなのか?」と降参して、イエス様を心の中にお迎えしました。そうすると、狭い天井が取り去られ、光が入ってきたような感じがしました。次の朝、部屋のカーテンを開けると、生垣の葉っぱ一枚、一枚が輝いていました。イエス様がむさくるしい家畜小屋でお生まれになられました。悪臭漂う、不衛生な場所です。私たちの心も罪と汚れに満ちています。でも、イエス様はありのままの私たちを受け入れ、私たちが心のドアを開くなら、入ってくださいます。イエス様はあなたの名前を呼んで「一緒に食事をしよう」と招いておられます。開けるしかないでしょう。

3.あなたのメシヤ

 ルカ29-11「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』」このところに、「恐れ」と「喜び」ということばが出てきます。羊飼いたちは主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。何故、恐れたのでしょう?創世記3章に恐れの起源があります。創世記3:8-10「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」最初、アダムとエバは神さまを恐れたことがありませんでした。造り主であり、親のような神さまと親しく交わっていました。なぜ、神さまの顔を避けなければならなかったのでしょう?それは、食べてはいけない木の実から取って食べたからです。その木の実に毒があったのではありません。「自ら神のようになって善悪を判断したい」と神さまから離れたからです。表現を替えると、神さまと二人の間に、罪が入ったので、彼らは恐れたのです。恐れは罪の結果です。私たちもだれから教えられなくても、悪いことをすると恐れがやってきます。不思議です。だれが見ていなくても、神さまが見ているような感じがするからです。それは本能かもしれないし、神さまが与えた良心かもしれません。でも、その良心も悪い事をしていると、麻痺して何とも思わなくなります。恐れがなくなったならば、それは最悪の状態です。

 羊飼いたちは、主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。自分たちの罪があらわにされたからでしょう。また、神を見ると滅びるというモーセの教えを信じていたからかもしれません。ある人たちは、「恐れ」と「畏れ(畏敬)」は違うと言います。でも、聖書にはこの2つには区別がありません。畏敬の意味での「畏れ」は宗教臭いような感じがします。よく日本人は、神的なものと遭遇すると、「畏れ多い」と言うからです。これは、自分が汚れているという前提があるからでしょう。日本人は罪ではなく、汚れがあると言います。聖書では汚れも罪の1つですが、罪は汚れ以上に悪く本質的なものです。それは、神さまから離れていることを表しているからです。聖い神さまから離れ、自分勝手な道を歩んでいる。あるいは、いのちの神さまから離れ、霊的に死んでいる状態です。だから、生まれつきの罪人は、「畏れ(畏敬)」ではなく、「恐れ」であります。でも、恐れは罪の結果であり、クリスチャンになるなら、恐れなくて良いのです。Ⅰヨハネ418「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」アーメン。その証拠に、神の御子イエスさまは、父なる神さまをちっとも恐れていませんでした。イエス様が全き愛を持っておられたからです。私たちもイエス様のように、全き愛を持ったならば、神さまを恐れなくても良いし、またこの世の何ものをも恐れなくても良くなります。使徒パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ831と言いました。

 恐れと対局にあるものが喜びであると思います。なぜなら、御使いが「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と言ったからです。「すばらしい喜び」は原文ですと、「メガレーンの喜び」となっています。ギリシャ語のメガスは、英語のmegaになったと言われています。Megaは「巨大な、特別大きい、最大級の」という意味です。マクドナルドではmegaマックがあります。なんと、ビーフパティが4枚も入っています。また、メガは106乗、100万倍という単位でもあります。よく、メガヘルツとか、メガトンなどと言われます。直訳するなら、「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」となります。でも、私が不満足なのは「この民全体のための」という訳です。「この民全体の」になるなら、イスラエルかユダヤ人です。そうなると、異邦人である私たちは「蚊帳の外」となります。しかし、ギリシャの聖書や英語の聖書にはそういう表現はありません。“I bring you good tidings of great joy, which shall be to all people. For unto you is born this day ”となっています。一番重要なのは、I bring youfor unto youであります。「あなたに、あなたのために」であります。他のだれのためでもない、「あなたのために」です。これを大多数のだれか分からない人たちのためだと思ってはなりません。イエス様はあなたのためにお生まれになったのです。御使いは「あなたのためにメガトン級の喜びを知らせに来たのです」アーメン。私は8人兄弟の7番目に生まれたので、自分の分がありませんでした。お盆とお正月は座る席がありませんでした。なぜなら、結婚した兄や姉の伴侶がお客さんだからです。私の妹はお客さんがくると隠れていました。英語で一人分のことをportionといいます。portionは「分け前」という意味です。しかし、神さまはイザヤ61章でこうおっしゃっています。「あなたがたは恥に変えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に変えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる」(イザヤ617)。イザヤ書には「二倍の分け前double portion」と「とこしえの喜びeverlasting joy」と書かれています。これが他のだれかではなく、「あなたに与えられる」のです。みんなではありません。「あなたです」。

 日本人は「他の人のことを考えなさい。他の人に迷惑をかけてはいけません。みんなで分け合いなさい。みんな仲良くしなさい」と教えられてきました。日本人は「自分がない、みんな」です。だから、不安で恐れがあるのです。自分に自信がなく、自分が満たされていません。そういう人が、他の人を考えて分け合うことができるのでしょうか?できません。できたとしても喜びがありません。なんとなく悲壮感があります。私たちはいっぱい神さまから愛され、いっぱい与えられ、いっぱいいただいているのです。だから、他の人にも与えることができるのです。御使いは、あなたのために、私のために「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」。アーメン。

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2017年12月15日 (金)

ヘブル書のクリスマス ヘブル8:6-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.12.17

 紀元前を表すB.CBefore Christ 「キリスト以前」という意味です。また、紀元後を表すA.Dはラテン語から来ており「主の年において」という意味です。歴史が2つに分けられたと同じように、キリストを境にして、聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれています。聖書の「約」は契約の「約」です。キリストは、古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てるために来られたのです。そのため、古い契約を終わりにするため、キリストは死ぬ必要がありました。クリスマス、神が人となってこの地上に生まれたのは、死ぬためでありました。

1.古い契約

 ヘブル人への手紙はキリストが来られた理由を独特な表現で述べています。キリストは古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てられました。そのため、大祭司・キリストは十字架で血を流し、一回で永遠の贖いを成し遂げられました。今や律法の行ないや犠牲や儀式は不要だということです。私たちはキリストの血を通して、いつでも神さまに近づくことができるようになりました。私たちは異邦人ですので、古い契約における様々な人間の要求については知りません。ところが、古い契約の中で生きて来た人たちは、納得がいきませんでした。律法の行ないや犠牲や儀式を無視したり、軽んじることは罪だと思っていたからです。そのため、ある人たちはせっかく恵みによって救われたのに、古い契約に戻ろうとしました。なぜなら、ユダヤ教から救われた人たちが、「律法の行ないや犠牲や儀式も必要だ」と言い出したからです。一方、私たち異邦人は、あまりにも簡単に救いが得られるので、恵みに慣れっこになってしまう危険性があります。英語で、easy come, easy goということ諺があります。直訳すると「得やすいものは失いやすい」です。でも他に「あぶく銭は身につかない」という訳もあります。せっかく、キリストがご自身の尊い血潮によって買い取られたのに、粗末にしてしまったら申し訳ありません。私たちは恵みの背後にどのような犠牲があったのか、また、私たちが置かれている立場がどんなにすばらしいのかを知る必要があります。そうすれば、easy come, easy goにはならないと思います。

 まず、第一に私たちは古い契約とは何なのかということを学びたいと思います。古い契約とは主である神さまがイスラエルと結んだ契約です。出エジプト記19章にそのことが書かれています。エジプトを脱出したイスラエル人はシナイ山のふもとに集まりました。だからシナイ契約とも呼ばれています。でも、この契約は律法を守るという条件付きでした。出エジプト記20章から23章まで、十戒をはじめとするたくさんの律法が記されています。それを聞いたイスラエルの民は何と答えたでしょうか?「主の仰せられたことは、みな行います」と答えました。ところが、モーセがなかなか帰ってこないので、人々はアロンに「私たちのために神を造って下さい」とお願いしました。モーセが山から下りてくると、人々が金の子牛に全焼のいけにえをささげ、飲み食いし、踊っているではありませんか。モーセは怒って、主からいただいた石の板を投げ捨てて砕いてしまいました。旧約聖書はこの先、ずっと続きますが、イスラエルはモーセの律法を守ることができませんでした。そればかりか、主なる神さまを忘れて、カナンの偶像を拝んでしまいました。旧約聖書はイスラエルの神への背きの歴史と言っても過言ではありません。北イスラエルが滅,び、さらには、南ユダも滅ぼされようとしたとき、主は預言者エレミヤとエゼキエルに語られました。そのことばが、ヘブル8章にあります。ヘブル87-9「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。」ヘブル書は、古い契約に欠けがあったとはっきり言っています。イエスラエルも悪かったのですが、古い契約にも欠けがあったというのです。そもそも、イスラエルに律法が与えられたのは何故でしょうか?

 律法の必要性は人類の先祖、アダムとエバが神さまに背いたところまで遡ります。最初、アダムとエバは主なる神さまと親しく交わりを持っていました。親しい交わりのもとで、何をしたら良いのか、何をしたら悪いのか判断していました。ところが、二人は知識の木から実を取って食べました。それは神さまに聞かないで、自分たちで善悪を決めるということを選んだということです。それ以来、人類は神さまから独立し、自分で考え、自分で行動し、自分の力で生きるようになりました。しかし、それでも人間は自分の行いで神さまの正しさに到達できると自負していました。残念ながら、それは不可能でした。神さまはイスラエルを選び、祭司の国にしようと考えました。イスラエルを通して、世界の国々を救おうとされたのです(出エジプト195)。彼らと契約を結ぶとき、律法を与えました。民たちは「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と何度も答えました。しかし、イスラエルの民は律法を守らず、偶像の神に仕えました。しかし、この律法はイスラエルだけではなく、自分の行いによって神に受け入れてもらおうとするすべての人に与えられたものです。パウロはこのように述べています。ローマ3:20 「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」だれでも自分は正しいと思っています。多くの場合、それは自分よりも悪い人と比べています。どのくらいで良いのかという絶対的な基準はありません。ところが、神の律法をその人にあてるとどうでしょう?みんな罪人です。だれひとり神の前に義と認められないのです。つまり、肉で生まれた者はだれひとり、神の前に立って義とされるがなく、さばかれるのです。律法を行うことよって得られる救いの道はゼロであり、すべての人が神にさばれ、御国には入れないということです。しかしパウロは律法とは別の道が与えられると書いてあります。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

2.新しい契約

 第一のポイントの結論のところで、イエス・キリストのお名前が出て来ました。行いによる神の義ではなく、信仰による神の義があるということでした。これはイスラエルだけではなく、すべての人に与えられる約束です。もう一度、ヘブル人への手紙に戻りたいと思います。ヘブル810-12「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」かつて、律法は石の板に記されていました。律法自体は完璧であり間違いはありません。それを行なえない人間に問題がありました。神さまは、不完全な人間と契約を結んでしまいました。だから、主ご自身「初めの契約には欠けがあった」(ヘブル88と認めているのです。そのため神さまは契約の結び方を新たに変える必要がありました。第一は、石の板によって外から与える律法ではダメだったということです。第二はモーセなどのような人間ではなく、もっと完全な仲介者が必要であったということです。まず、第一の方から取り上げたいと思います。神さまは石の板ではなく、心の板に律法を書きつけることを考えました。もし、心が新たに変えられるなら、他の人から「主を知れ」と言われなくても、分かるということです。同時に、律法を守る力も内側に与えられるということです。つまり、外からの律法では人間はダメで、内側が変えられることによって律法を守ることができるということです。ローマ82-3「いのちの御霊の原理が罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」とあります。人は聖霊によって生まれ変わることによって、自然に律法を守れるようになるのです。

 第二は仲介者の問題です。旧約聖書には「契約」と言われるものがたくさんあります。聖書は契約に満ちています。アダム契約、ノア契約、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約などです。シナイ契約の時は、モーセが仲介者となりました。このとき、イスラエルに守るべき律法が与えられたのです。一方、新しい契約は、キリストが仲介者になりました。キリストは神の子であり、1つの罪も犯しませんでした。そして、キリストが大祭司となり、ご自身をいけにえとしてささげられました。両者が契約を交わすときは必ず、きよい動物を2つに分けて、血を流す必要がありました。神の子であるキリストは、一回で永遠の贖い成し遂げられたのです。キリスト以降は、動物のいけにえは不要となったのです。ヘブル912「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」アーメン。私たち人間が仲介者として契約を結ぶなら、完全に守るという保証はありません。アダムも、ノアも、アブラハムも、モーセも、ダビデもみんな不完全でした。だから、完全な仲介者になることができませんでした。しかし、罪のない、まことの大祭司であるキリストが仲介者になってくださったのです。イエス・キリストは真実なるお方です。父なる神さまもそのことをお認めになっておられます。つまり、新しい契約は不完全な人間ではなく、完全なるキリストが仲介者になって結んでくださったのです。その時、私たちはどこにいたのでしょう?「教会はキリストのからだである」とパウロが言いました。私たちがイエス様を信じると、キリストのからだに組み入れられます。キリストが神さまと契約を結んだ時、私たちはキリストのからだの中にいたのです。神さまは永遠なるお方なので、2000年間の隔ては問題でありません。キリストが私たちの代わりに、私たちの代表となって、神さまと契約を結んでくださったのです。私たちは不真実であっても、キリストはどこまでも、いつまでも真実なお方です。私たちは「イエス様を信じることによって救われる」と言います。しかし、私たちの信仰はいい加減です。本当は、イエス様の信仰、イエス様の真実が私たちを救ってくださるのです。だから、「自分の信仰がどの程度純粋なのだろうか?この信仰で救われるだろうか?」と内省しないでください。それよりも、「私たちが信じているイエス様の真実が私たちを救ってくれている」と考えてください。自分の信仰ではなく、イエス様の信仰を見上げて下さい。そうすれば、信仰が後からやってきます。聖書が啓示している契約の事実をそのまま受け止めるとき、信仰がやってくるのです。

 残念ながら、キリスト教会においてモーセの律法をキリストの恵み抜きに読んで、自分を苦しめています。安息日をどう守るべきだろうか?汚れた動物、たとえば「うなぎ」を食べて良いのか?身体に障害のある者や女性が神さまの前で奉仕ができるだろうか?死んだ人にさわったら、夕方まで汚れるのだろうか?ある教団は、異端ではないにしても、土曜日を安息日として公の礼拝をささげています。しかし、「何を食べて良いのか、何を食べたら悪いのか」旧約聖書のような規定があります。では、福音派の教会はどうなのかと言うと、やはり、恵みよりも律法が強調されている教会があります。その証拠に説教の最後が「〇〇しましょう」「〇〇してはいけません」「〇〇を守りましょう」などと、行ないの勧めで終わります。つまり、「今のままでは神に受け入れられていないので、もっと正しく生きなさい」ということなのです。そうすると人々に律法の呪いがかけられ、束縛された信仰生活を送るようになるのです。第二ポイントの結論として、Ⅱコリントから二か所引用させていただきます。Ⅱコリント3:6 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント314-17「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。

3.旧約から新約へ

ヘブル813「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」ヘブル人への手紙は、「新しい契約が来たからには、古い契約は消えて行くべきである」と言っています。では、いつから新しい契約が履行されるようになったのでしょうか?ある人たちは、「キリストが来られた時からだ」と言っています。またある人は、「福音書が書かれている新約聖書からだ」と言います。イエス様は地上に来られ、神の国を宣べ伝え、さまざまな奇跡を行ないました。また、山上の説教など実行不可能と思われる教えを説かれました。よく見ると、モーセの律法よりも実行不可能なレベルになっています。人を憎んだだけで殺人だとか、情欲を抱いて異性を見たら姦淫だと言われています。これを生身の人間が守り行おうとしたなら、全く不可能です。しかし、ある事が起こると、イエス様の教えを実行できるようになるのです。その証拠が、全く変わってしまったイエス様の弟子たちです。彼らは最後の晩餐の時まで、だれが一番偉いか、競い合っていました。しかし、エルサレムで聖霊を待ち望んでいた彼らは、「みな心を合わせ、祈りに専念していました」(使徒114)。あの臆病な弟子たちが、死も恐れず「イエスはキリストである」と告白しました。いつから、新しい契約が履行されたのでしょうか?そのヒントとなるみことばが、ヘブル9章にあります。ヘブル915-18 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」

なぜ、このみことばがそんなに重要なのでしょうか?ここには、古い契約が終わり、新しい契約が履行されるターニング・ポイントが書かれているからです。厳密に言うと、イエス様がこの地上に来られた時から、新しい契約が始まったのではありません。私たちが福音書を読むとき、山上の説教を読んで躓くのはそのためです。イエス様が教えた教えは、新しい契約のもとで、新しいいのちを受けて、初めて実行可能になるからです。一番重要なのは、イエス様の死であります。この死が古い契約を終らせ、新しい契約を発動させる要となったのです。私たちは旧約聖書の神さまは恐ろしい神さまだと思っています。なぜなら、律法を破ったイスラエルの民は殺され、滅ぼされました。もし、私たちが旧約時代に生きていたならいのちがいくつあっても足りないでしょう。ところが、新約聖書になると神さまのイメージがぐっと変わります。放蕩息子のお父さんに象徴される、無条件で愛してくださる父なる神さまです。イエス様も神さまは善なる神さまであるとおっしゃっています。でも、旧約聖書の神さまは恐ろしくて、新約聖書の神さまは優しいとしたなら、神さまは精神が分裂しているとしか思えません。「神さまにそんなことを言うなんて!」と叱られそうですが、旧約と新約の矛盾を克服しておられるでしょうか?しかし、私が名誉を挽回しなくても、神さまは一貫した神さまであり、精神が分裂しているわけではありません。まず、父なる神さまとイエス様がしなければならなかったことは、旧約のけじめをつけるということでした。ヘブル書には「初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受ける…初めの契約も血なしに成立したのではありません。」と書いてありました。このみことばから分かるように、イエス様が死なれたのは、人類の律法の違反を贖うためでした。イエス様がまことの仲介者として、十字架で罪を負って死なれたのです。Ⅱコリント531「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」アーメン。父なる神さまは古い契約を終わらせるために、御子イエスを罰する必要があったのです。それで、父なる神さまの人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。その結果、神さまはご自身に対する人間の立場を変えられたのです。これを「和解」と呼んでいます。和解はギリシャ語でカタラッソ―と言いますが、もともとの意味は「変える、取り換える」です。神さまは永遠に義なるお方です。罪に対しては必ずさばかなければなりません。でも、キリストの十字架の死によって、罪の代価が支払われたので、変わったのです。どう変わったかと言うと、キリストを信じる者に、ご自身の義を与えることにしたのです。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」アーメン。

最後に、いつから新しい契約が発動(履行)されたのでしょうか?キリストが死んでからです。「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって…」と書かれているとおりです。新約聖書を英語で、New Testament と呼びます。Testamentは「遺言書」という意味です。それが、「契約」とも呼ばれているのです。新約聖書は、「キリストによる新しい遺言」とも言えるのです。なぜなら、キリストが古い契約をご自身の死によって終わらせ、ご自身の血によって新しい契約を結んでくださったからです。ハレルヤ!神さまは変わりません。旧約時代も神さまは愛であり、善であったのです。でも、人間が自分の行いによって神さまに近づこうとしたので、律法の呪いを受けてさばかれたのです。しかし、私たちは新約時代に生まれました。もし、自分の行いで神さまに近づこうとしたなら、同じように律法の呪いを受けるでしょう。もう律法はキリストによって成就され、その要求が満たされたのです。私たちはキリストを信じることによって神の義が与えられました。神に受け入られるための良い行いは一切、不要なのです。良い行いは、信じた後にちゃんと与えられます。なぜなら、聖霊によって生まれ変わったなら、その人に神の種が宿るからです。その人は罪を犯すのが不自然になり、良いことをすることが自然になるのです。しかも、父なる神さまはその人に良い行いを備えてくださっています。なぜなら、その人は神の息子、娘だからです。あなたは律法の流れの中にはいません。すでに、恵みの中にいるのです。恵みを味わいつつ、神さまに従っていけるのです。

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2017年12月 8日 (金)

メシヤの御国 ルカ1:26-38 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.10

 イエス様は「御国が来ますように祈れ」とおっしゃいました。また、イエス様の教えの中心は御国でした。御国kingdomというとき、3つのものが必要です。第一は王権(王様)です。第二は治めるべき領土(領域)です。第三は領民(国民)です。父なる神さまは私たちが御国に移り住むことができるように、備えてくださいました。それがクリスマスです。きょうは、聖書の記述の順番ではなく、逆からメッセージをしたいと思います。 

1.御国とは

 ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」33節に「その国」とありますが、ギリシャ語ではバシレイアーであります。バシレイアーは、王権、支配、統治という意味です。そこには、領土とか国土という意味は含まれていません。しかし、冒頭でも申し上げましたが、王国は王様ひとりだけではダメで、領土と領民が必要です。イエス様は「父のみもとにはたくさんの住まいがある。…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」(ヨハネ142と言われました。よく見ると、まだ住むべき場所はできていないようです。父なる神さまの御国のもたらし方は、私たちが考える順番とは違うようです。第一は御国の王様を立て、第二は人々を集め、第三は住むべき領域を作るというものです。私たちは「御国はどこにあるのですか?見せてください。そうしたら信じますよ」と言いたくなります。でも、肉眼で見えたならば、信仰は必要ありません。神さまは「まだ準備はできていません。でも、きっと来るので入国の手続きを済ませてください」とおっしゃるでしょう。でも、ここに「その国」とありますので、だれかが王として治める国なのであります。英語の聖書ではhis kingdom、「彼の国」となっています。彼とはだれなのでしょうか?そのヒントが32-33節に記されています。

 このところに、日本人にはなじみのない名前が出てきます。それは、ダビデとヤコブであります。つまり、彼がおさめる国は、ダビデの王位であり、ヤコブの家のようなものだということです。御使いは「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」と言いました。イエス様が公に姿を現したとき、人々は「ダビデの子、イエスよ」と言いました。おそらく、「ダビデの子孫」という意味でしょう。実際、メシヤはダビデの子孫から生まれる予定でした。でも、イエス様はダビデの子ではありません。霊的には永遠からおられた神の子であったからです。でも、イエス様はダビデのような王様であるということは確かです。実は、主なる神はダビデに約束をしていました。どんな約束でしょうか?Ⅰ歴代誌1714「わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」これは、ダビデ契約と言われています。ここで言う「彼は」はソロモンであり、その王国とはユダとイスラエル王国でした。歴史をみますと、ソロモンの死後、国は分裂し、アッシリアとバビロンによって滅ぼされました。地上的にはこの契約は実現しませんでした。もう一度、御使いがこれを引用したということは「彼は」ソロモンではなく、イエス・キリストにおいて実現すると言ったのです。ダビデはイスラエルの王様の中では最も忠実な王でした。神さまから最も愛され、王様の模範でした。そのところが、イエス・キリストと似ているということです。

 もう1つは、「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」です。ヤコブというのは別名、イスラエルです。彼には12人の息子がいました。その息子たちが、イスラエル12部族になりました。神さまはイスラエルを選んだのには訳がありました。イスラエルを祭司の国として立て、その後、全世界の人たちを導くということです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たすことができなくなりました。それでイエス様が12弟子を選び、新しいイスラエルにしました。でも、神さまはイスラエルを捨てないで、世の終わりもう一度、集めると言われました。つまり、御国は私たち異邦人のものであると同時に、イスラエルのものでもあるということです。イエス様はペテロたちにこう約束されました。マタイ1928「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」御国は失われたイスラエルのためにもあるのです。聖書は「イスラエルの子らが集められ、神さまの選びは変わることがない」と預言しています。本来はイスラエルが祭司になって、全国民に伝道するはずでした。しかし、私たちクリスチャンが王的な祭司として選ばれたのです(参考:Ⅰペテロ29)。私たちは考え方を大きくしなければなりません。どのくらい?世界規模です。今は、ユダヤ人であるイスラエルはイエス・キリストを受け入れていません。2000年前に来られたイエス様を拒絶しています。その代り、世の終わりに来られるメシヤを待ち望んでいます。しかし、そのメシヤこそが再臨のキリストであります。

 御国は永遠です。「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と書いてあるからです。地上の国々は栄枯盛衰、「建っては滅びる」の繰り返しでした。でも、イエス様が王として治める御国は、永遠であり終わることがありません。天文学者たちは、「地球も太陽も永遠でない」と言うでしょう。私たちのことを「非科学的で幼稚な人たちだ」と馬鹿にするかもしれません。ヨハネ黙示録21章と22章には御国の完成図が書かれています。御国というよりも「新しい天と新しい地」であります。黙示録211「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」、黙示録225「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」完成された御国は、現在の地球とか太陽ではないようです。私たちは全く、新しい世界に移り住むということです。どこかの星に移住するようなSF映画がありますが、そのようなことが実現するということです。神さまが造られた宇宙は広いです。銀河系が数えきれないくらいあるのですから、私たちが永遠に住むことができる御国を用意しておられます。アーメン。

2.イエスとは

 ルカ131「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」もう一箇所、引用いたします。マタイ121「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」多くの人たちは、イエス・キリストは普通の名前だと思っているかもしれません。「イエス」は名前ですが、キリストは「油注がれた者、メシヤ」という意味です。その当時、イエスは普通につけられた名前でした。もともとは旧約聖書のヨシュアから来たものです。ヨシュアは「主は救い」という意味です。神さまはあえてその子を「イエス」と名づけるように言われました。マタイはその意味を書いています。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」何から救うか?というと、罪から救うということです。そうです。キリスト教で、「救い」というとき、一番の意味は「罪からの救い」です。この罪が解決することが最も重要なことだからです。第一のポイントで、御国とは何かということを説明しました。父なる神さまは御国に私たちを住まわせたいのです。でも、入国を妨げるものがあります。成田空港に行くと、入国審査があります。パスポートを提出するとき、いくつかの質問を受けます。「どのくらい滞在しますか?」「滞在目的は何ですか?」「どこに泊まりますか?」「帰りのチケットは持っていますか?」「この国に来たのは初めてですか?」その後、門をくぐらなければなりません。「ビー」となったらダメです。もちろん、私たちは御国は初めてであり、帰りのチケットは不要です。でも、パスポートが必要です。罪があると「ビー」と鳴ります。これはたとえですから、全部あてはまらないかもしれません。でも、言えることは、生身のままでは御国に入れないということです。罪の赦しと、「良いよ」という証明が必要です。日本では死んだらみんな天国に行けるようなことを言いますが、そうではありません。

 父なる神さまは罪ある人間が、御国に入れるようにあることをしてくださいました。それは、御子イエスを与えたということです。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、神さまは大人としてのイエス様を地上に与えたのではありません。なんと、神の子をひとりの人間として誕生させました。あがないのためには、罪を犯さない完全な人が必要だったのです。「あがない」とは、正しい人に、悪い人の罪を負わせて、代わりに赦すと言う意味です。イエス様は全き神、全き人であり、私たち全人類の罪を負って下さったのです。Ⅰペテロ22224「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。…そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」アーメン。そうです。十字架の死は私たちの罪の身代わりでした。この方を信じる時、私たちの罪が赦され、神さまから義と認められるのです。神さまから義と認められた者だけが、神の御国に入ることができるのです。これは狭き門であります。イエス様こそ、救いにいたる門であります。十字架による罪のあがないがなければ、だれひとり、御国に入ることはできません。私たちはだれでも成田空港に行くことはできます。展望デッキからジェット機の離発着を見ることができます。でも、入国審査を通過しなければ、ジェット機に乗ることは不可能です。

 
イエスと言う意味は何だったでしょう?「この方こそ、ご自分の民をその罪から
救ってくださる方です。」英語の聖書には、he shall save his people from their sins.となっています。直訳すると「彼の人々を彼らの罪から救って下さる」という意味なります。これを見ると、もともとはイエス様のものであったことがわかります。あるいは選ばれていたという意味かもしれません。つまり、もともとは、神さまのこどもであったのに、罪の中で失われていたということです。「あがなう」とは「買い戻す」という意味ですから、罪の代価を払って、もう一度、神のこどもにするということです。こういうことを言うと異端と言われるでしょうか?ルカ15章には「ほうとう息子のたとえ」が記されています。弟息子は父のもとを離れ、身を持ち崩して、豚飼いになっていました。では、そのとき弟息子は父の子どもではなかったのでしょうか?息子でした。お父さんは帰ってきた息子を無条件に迎え入れました。でも、何と言ったでしょうか?お父さんはただの気の良いお父さんではありません。ルカ1524「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言いました。父なる神のもとを離れた人間は、死んでいるのと同様だということです。ルカ19章には取税人ザアカイの物語が記されています。イエス様は木の上で隠れているザアカイの名前を呼びました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは急いで降りてきて、大喜びでイエス様を迎えました。イエス様は何とおっしゃったでしょう?ルカ199-10「「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」このところから、わかることは、ザアカイは信じる前からイエス様のものであったということです。でも、イエス様の招きに応じたときに、ザアカイは救われたのです。ザアカイはイエス様を信じる前から、見出されていたのです。

 私たちは偶然に、たまたまイエス様を信じて救われたのではありません。イエス様は確かに全人類ために十字架で死なれました。でも、罪のあがないが成立するためには、信じて、受け取らなければなりません。キリストを信じた人がはじめて「主イエスは私の罪のために死なれました」と告白できるのです。この告白こそが、御国にはいるパスポートです。告白が正しければ、「ビー」とも鳴りません。ある人たちは天国は死んでから入るものだと思っています。そうではありません。私は天国ということばはまぎらわしくて使いたくありません。神の御国は生きている内に、イエス様を救い主として信じなければなりません。生命保険が生きているうちに入るのと同じように、信仰告白も生きている内にしなければなりません。イエス様は私とあなたを私たちの罪から救うために来られた救い主です。アーメン。

3.おとめマリヤ

 ルカ128-32「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」マリヤはヨセフと婚約していました。なのに、一方的に「みごもって子を産みます」と言われました。処女降誕はキリスト教の躓きの1つです。「処女からは子どもは生まれない」と言います。そのためキリスト教会は、「処女降誕が信じられなくても、キリストの贖いを信じていれば救われる」と言うところもあります。でも、それは1つの妥協です。もちろん、絶対的なものではないかもしれませんが、キリストが罪を負わないで誕生するためには必要なことでした。もし、ヨセフとの関係で自然にイエス様が誕生したなら、アダムの罪が転化されます。だから、マリヤ一人でなければなりません。でも、マリヤには罪がないのでしょうか?ローマ・カトリックは否定するかもしれませんが、マリヤにも罪があります。では、どうやって神さまは罪のないお体として御子イエスを誕生させたのでしょうか?そのことは、マリヤにとっても理解できないことでした。

 ルカ134-35「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」マリヤにも常識がありました。でも、御使いが答えています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言いました。私はこのみことばを見たとき、2つのことを思い出しました。1つは創世記第1章、もう1つは使徒の働き第1章です。創世記11-2「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」神の霊、聖霊が「水の上を動いていた」と書かれています。しかし、ヘブル語の意味は、「動いていた」ではありません。回復訳聖書には「覆い抱いていた」と書いてあります。チョーヨンギ師は「めんどりが卵を孵化させようと翼をばたばたさせている様子と同じだ」と言いました。つまり、聖霊は、父なる神のおことばが発せられるならば、無から有を生み出すということです。聖霊が全宇宙を父なる神さまと創造したのだったら、処女マリヤの胎を用いて、ひとり子イエスを誕生させることも可能であります。神さまの全能の力をみくびってはいけません。御使いもこのように言いました。「神にとって不可能なことは一つもありません。」それに対してマリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」アーメン。マリヤは救い主の誕生のために、自分をささげたのです。結婚や姦淫の汚名、人々からの誤解や嘲笑よりも、主のみこころに従ったのです。ハレルヤ!

 もう1つは使徒の働き1章です。使徒18 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」これもルカ1章と同じことばです。ルカ135「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」なぜ、同じなのでしょう?ルカ福音書も使徒の働きも、同じルカが書いたからです。ルカは弟子たちが新しく造り変えられるときと、マリヤの受胎を重ね合わせたのではないでしょうか?聖霊だったら可能だ、聖霊にはできると思ったのです。私たちはイエス様を信じるとき、霊的に新しく生まれます。私たちが神の国に入るためには、神のいのちをいただかなければなりません。イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネ36,7と言われました。つまり、私たちはこのままでは、御国に入ることはできません。聖霊によって新しく生まれる必要があります。マリヤは聖霊によってイエス様をみごもることができました。私たちは聖霊によって神のいのちをいただくことができるのです。これを「新生」と呼びます。この新生の体験がある人は、「ああ、聖霊によってマリヤが懐妊したこともありえることだ」と信じられるのです。だって、自分が新しく生まれ変わったのですから。奇跡を体験したのですから、わかるはずです。このように考えると、クリスマスも遠い昔のことでないことが分かります。あのとき聖霊がマリヤの上に臨み、弟子たちの上に臨みました。同じように、私たちの上にも聖霊が臨んでくださるということです。

ある人たちは、死ぬ前にイエス様を信じて、御国に入れば良いと思っている人がいます。ということは、それまで古い自分のままで生きているということです。なんともったいないことでしょうか?聖霊によって新しく生まれて、この地上でも神さまのいのちをいただきながら生きた方がはるかにすばらしいはずです。昔、仮面ライダーの「変身」というのが流行りました。変身していると超人的な能力があります。でも、普通の姿だと、ダメです。だったら、ずっと変身していた方が良いのではないでしょうか?そこへ行くと、クリスチャンは信じて新生したはずですが、外見はほとんど変わりありません。背中に羽がはえたら良さそうなものです。イエス様は「あなたがたは地の塩です。また、世の光です」と言われました。共通している概念は、この世の中に出てみて、違いがわかるようです。いや、私たちはこの世に出て行くと、違いをもたらすことができるのです。人々に御国はどこか案内するだけではありません。なんと、人々のところに御国をもたらすものとして用いられるということです。御国は将来、はっきりと目に見えるかたちとしてやってきます。でも、今は目に見えませんが、御国は私たちと共にあります。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ1721と言われました。まだ、不完全かもしれませんが、神の支配として、御国が私たちの所に来ているのです。クリスマスは遠い昔のおとぎ話ではありません。クリスマスはデパートのセールのためにあるものでもありません。クリスマスはイエス様が聖霊によって乙女マリヤに宿り、人間として生まれたことです。イエス様が十字架で代わりに死なれたので、私たちが罪赦され、御国に入れるようになりました。今も、聖霊が働いておられ、キリストを信じた人が御国に入れるようにしてくださいます。

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2016年12月23日 (金)

ヘブルのクリスマス ヘブル4:14-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.25

 世界には、有名な宗教の開祖がいます。孔子、釈迦、マホメットが良く知られています。では、イエス・キリストは宗教の開祖なのでしょうか?ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです。大祭司というのは、神さまと人間との間をとりなす仲介者です。旧約の時代は事あるごとに、きよい動物をいけにえとしてささげました。しかし、世の終わりにはイエス・キリストご自身がいけにえとなって、贖いを全うしてくださいました。ですから、私たちはこのイエス・キリストを通して、神さまのところに行けるのです。イエス・キリストはどんな大祭司なのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.もろもろの天を通られた大祭司

 ヘブル414「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ヘブルの人たちは、天は3つあると考えられていました。第三の天は神さまがおられる天上であります。「天の御座」とも呼ばれています。16節には「恵みの御座」と書かれています。第二の天は私たちが住んでいる地上です。物質でできており、自然科学で証明できる世界です。第一の天は地下とか陰府と呼ばれています。死者の霊たちがいるところです。サタンは悪霊がどこにいるのかというと、第三の天と第二の天の間です。エペソ2章には「空中」と書かれています。神に対して不従順な人たちは、「空中の権威を持つ支配者」から圧迫を受けていると言う構図になります。さて、聖書には「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス」と書かれています。これはイエス様が3つの天をすべて通られたという意味であります。冒頭で、孔子、釈迦、マホメットの名前をあげました。イエス様だけが、3つの天を通られた大祭司であります。歴史上、イエス様の他にこのような人物は見当たりません。では、イエス様がどのようにしてもろもろの天を通られたのか順を追って学びたいと思います。

 まず、イエス様はロゴスという存在で、神と共におられました。ロゴスなるイエス様は神と共に第三の天におられたのです。しかも、天の御座に父なる神さまとおられました。ヘブル1章にはどう書いてあるでしょうか?ヘブル12-3「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」御子イエスを通して、この世界が造られました。そして、御子イエスが「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」ということは、神さまと全く同じ、あるいは同等であるということです。クリスマスは地上に来られたイエス様のことを御祝する日であります。私たちは「貧しい姿で馬小屋に生まれた」と賛美するでしょう。しかし、その前は第三の天で父なる神と同等の神であったことを忘れてはいけません。使徒パウロはⅡコリント12章で「第三の天にまで引き上げられ、すばらしい啓示を受けた」と書いています。ですから、私たちは神さまがおられる第三の天、神の御座の存在をはっきりと認めるべきです。

 次に第二の天、地上のことを申し上げたいと思います。私たちは地上、つまり物質の世界に住んでいます。西洋の教育を受けた人たちは、天国も陰府も認めません。そして、地上に偶然に生まれて、何十年か生きて、死んだらなくなると考えています。しかし、「多くの人たちは、人生それで終わったら空しいではないか、死後の世界はあるのでは?」と考えています。世界のあらゆる宗教は、死後の世界を認めています。でも、西洋の教育を受けた人たちは、「そんなのありえない」と否定します。日本人は頭では西洋の教育を受けていますが、心は東洋のアニミズムの世界観を持っています。どこかに霊の存在を信じているので、お盆のときに死者を迎えたり、送ったりしているのではないでしょうか?さて、イエス様はロゴスなるお方でありましたが、2000前、肉体を取ってこの地上にお生まれになられました。このことは先週学びました。神の御子が人間となられたのは何故か?それは第二のポイントで学びます。簡単に言うと、父なる神さまのことを直接、知らせるためです。私たちはイエス様を見ると、神さまがどんなお方か知ることができます。もう1つは、私たちのために身代わりに死んで、救いの道を設けるためです。イエス様は天からロープを垂らして「これに掴まれ」とおっしゃったのではありません。私たちの住むところに下ってこられ、自ら犠牲となり神さまのところに行く「道」を作られたのです。

 最後に第一の天です。これは陰府と言われているところです。旧約聖書には死んだ人が「陰府に行った」と書かれています。イエス様も十字架に死んだのち、陰府にくだられました。エペソ49「彼がまず地の低い所にくだられた」とあります。また、Ⅰペテロ319「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」イエス様が何のために陰府にくだられたのかいろんな説があります。でも、決定的なことは義人たちが住んでいた、陰府の一部をひきあげるためです。その場所が復活したときに、パラダイス(天国)になったのです。ですから、クリスチャンは死んだら陰府にいくのではなく、パラダイスに行くのです。「もろもろの天を通られた」というのは、天から地上、陰府に下ったと言う意味でありません。イエス・キリストは復活しました。陰府から引き揚げられました。その先があります。Ⅰペテロ322「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」アーメン。イエス様はもとおられた天の御座に戻られましたが、それだけだったのでしょうか?イエス様には御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えるだけの権威が与えられました。そして、名前まで変わったのです。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」旧い契約でイスラエルの人たちは神さまのことを「主」と呼びました。しかし、新しい契約では、イエス・キリストが「主」と呼ばれるようになったのです。「イエス・キリストは主である」とは信仰の告白です。だから、ヘブル書は「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」と勧めているのです。

2.私たちの大祭司

 ヘブル415「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」私たちの大祭司というととても身近な感じがします。でも、それはヘブルの手紙の受取人だけではなく、「私たちすべての」という意味でもあります。なぜ、そのように言えるのでしょうか?このところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」と書かれています。もし、大祭司なるイエス様が罪を犯したなら、私たちの身代わりになることはできません。そのためイエス様は、おとめマリヤから聖霊によってお生まれになられました。イエス様はアダムの罪を受け継いでいません。また、生きている間も、父なる神さまと共に歩み、罪を犯しませんでした。でも、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。私たちが生まれてからどのような試みに会うでしょうか?イエス様は赤ん坊から生まれたので、嬰児、幼児、少年、青年、成人の気持ちが分かります。両親に育てられ、30歳まで大工の仕事をしました。小さい時から律法を学び、宮もうでをし、宗教的な義務も果たしていたことでしょう。残念ながら、30歳までの記録がほとんどありません。福音書をみますと、肉体を持ったイエス様は時には飢えを、時には渇きと、ときには疲れを覚えられました。男性にとって女性が誘惑ですが、イエス様を慕っていた女性たちは何人かいました。マグダラのマリヤ、マルタとマリヤ、他にもいたかもしれません。でも、イエス様は結婚をして家庭を持つということはありませんでした。おそらく、イエス様が花婿であり、教会が花嫁という考えからかもしれません。

 福音書を読む限り、第一の誘惑は荒野で悪魔から誘惑を受けたことでしょう。肉欲、目の欲、持ち物の欲に打ち勝たれました。第二はゲツセマネの園において、十字架を意味する苦い杯を飲めるかという誘惑でした。自分は何も悪いことをしていないのに、人の罪をかぶって死ぬということは困難なことでした。人々から捨てられ、弟子たちからも裏切られました。十字架刑で捕えられ、嘲笑され、殴られ、あざけられ、数えきれないほどのローマの鞭を体中に受けました。イエス様にとって最も大きな試みは、罪を負ったために、神から捨てられることでした。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」この叫びは、私たちが体験できない、神から拒絶された叫びです。イエス様は「できれば、この杯を通り過ぎさせてください」と願いましたが、十字架で罪を負い、その杯を飲み干してくださいました。私たちは家庭や仕事、果たすべき使命というものがあります。誘惑は「それらから逃げたい」ということではないでしょうか?昔は「蒸発」ということばが流行りましたが、今は何でしょう?自殺者の数は減っていません。生きること自体が辛いと考えている人がいっぱいいます。現代はうつ病をはじめとする、さまざまな精神疾患をわずらっています。10人に一人はそういう問題と戦っていると聞いたことがあります。ですから、心療内科や精神科、カウンセリングのニーズが高まっています。

 このところで、イエス様は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」と書かれています。さきほど申し上げましたが、大祭司というのは神さまと人間の間に立ちとりなす働きをする人です。でも、祭司と大祭司の違いは何でしょう?大祭司の場合は、一般の祭司が行けない、至聖所まで行くことができます。それも年にたった1度だけであります。何か落ち度があると、打たれて死ぬことがあります。大祭司は個人の罪というよりは、もっと大きな罪、民全体の罪を取り扱っていたのだと思います。イエス様は小さいものから大きなものまでをとりなしてくださる「私たちの大祭司」です。一度、人間になってさまざまな苦しみを体験されたので、私たちの弱さに同情することができます。私たちもある程度の苦しみにあいました。もし人のことを思いやることができる分野があるとすれば、自分が経験したことです。ある部分の弱さは専門家かもしれません。しかし、イエス様は神の子が人となられたので、あらゆる問題の解決が可能です。でも、私たちが最も大変な問題は死ということではないでしょうか?死に対しては誰一人、勝利したことがありません。みんな、この死に対しては敗北してしまいます。でも、イエス様が死んで復活してからは、死の意味が変わりました。乗り越えられない問題でなくなりました。

 ヘブル214-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アーメン。「子たち」というのは、私たちのことです。血と肉というのは、人間のことであり、弱さや病を象徴しています。また、敵である悪魔は私たちを誘惑し、死の力を持っている最大の敵です。私たちは、死の恐怖につながれている存在ではないでしょうか?なぜ、死が怖いのでしょうか?そこには肉体の死だけではなく、霊的な死、永遠の死という暗黒が隠されているからではないでしょうか?あるいは肉体の死ぐらいだったら、恐れなくて良いかもしれません。しかし、火炎で焼かれる永遠の死は無理であります。そこで、イエス様は血と肉を備え、一度死んで下さいました。そして、陰府にくだり、三日目によみがえられました。ヘブル書は、「イエス様の死と復活が、死の力を持つ悪魔を滅ぼしたんだ」と解釈しています。このところには書かれていませんが、悪魔は神さまのところに行って人の罪を訴え、「この人には永遠の死が妥当だろう」と言うのではないかと思います。義なる神さまは1片の罪をもそのままにしておくことはできず、必ずさばかなければなりません。「罪の支払う報酬は死である」と聖書に書かれています。でも、イエス様が私たちのすべての罪を負い、変わりに裁かれました。そのとき、神さまの義が満たされ、罪ある人間を裁かないことにお決めになられました。大祭司なるイエス様が「私に免じてこの人を赦してやってください」と願うなら、父なる神さまは聞いて下さいます。その結果、その人はたとえ死でも死の中に留まることはありません。イエス様のようによみがえさせられます。そのため、私たちにとって死は恐ろしい死ではなく、天の御国に入る時となりました。そして、終わりの日に滅びた肉体が栄光のからだに復活するのです。だから、主にあって死は終わりでなくなりました。

3.罪を取り除く大祭司

 ヘブル416「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」「恵みの御座」というのは、まさしく神さまがおられるところ、神の御座であります。罪ある私たちがどうして、神さまのところに行けるのでしょうか?同時に私たちの中には罪責感もあり、向こうが良いと言っても、私はその価値がないと辞退してしまうでしょう。私たちは二重の問題があって、神さまのところには行けないと思うのであります。ところがここに、「私たちはあわれみを受け、また恵みをいただいて」と書いてあります。文章を読むと、あわれみと恵みは同等のもので、意味も似ています。罪と過ちによって、受ける価値のないものが、神さまの一方的なご厚意を受けるということです。問題は「いただく」という意味です。ギリシャ語の意味は「くじで得る」というのが第一の意味です。イスラエルは「くじ」は神性なもので、そこに神さまの導きがあると考えられていました。そこで「くじで得る」とは、「運命や神意によって得る、手に入れる、受ける」という意味になります。簡単に言うと選ばれた人が、得られる特別なものだということです。ですから、あわれみと恵みは、だれでもないキリストを通して与えられるものだということです。

 では、ヘブル人への手紙が言う、あわれみと恵みとは何なのでしょうか?私たちにそれらが与えられる根拠となるものは何なのでしょうか?冒頭で、「ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです」と述べました。それを証明する決定的な事柄がこのことです。ヘブル911-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」イエス様は神が人となられた大祭司です。このお方が、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。このことは十字架の贖い死のことですが、ヘブルの記者は、まことの聖所でなされたことなんだと解釈しています。つまり、大祭司であるイエス様が、ご自身の血をささげることにより、永遠の贖いを成し遂げたということです。そのことにより、もう動物のいけにえは不要であるということです。これまで、毎年、民の罪を赦すために大祭司が年に一度、至聖所に入りました。ところが、ヘブルの記者は「ただ一度で、永遠の贖いを成し遂げた」と繰り返し述べています。そのことにより、私たちはどうなったでしょう?イエス・キリストの贖いによって罪赦され、あわれみと恵みを得ることができるということです。旧約聖書では「私の罪を赦し、私をあわれんでください」と動物のいけにえをささげました。でも、私たちは「私をあわれんでください」と祈る必要はありません。父なる神さまは「あわれみは十字架上で、すでに成し遂げられた。乞い願わなくても、あなたにあげる。あわれみと恵みはあなたのものだ」とおっしゃるのです。

 もう1つは、神さまが「あなたを赦すよ」とおっしゃっても、私たち自身が自分を赦さないということがあります。いわゆる罪責感であります。ある人たちは、「私が犯した罪は簡単には赦されない、一生かけて償わなければならない」と思っています。ローマ・カトリック教会には、「懺悔」とか「償い」という言葉があるようです。自分が犠牲を払うことによって、何か赦された気持ちになるのかもしれません。しかし、それは聖書が言う真理と反しています。さきほどの続きになります。ヘブル1113-14「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」このところに、動物の血ではなく、キリストの血について記されています。キリストの血こそが、「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とする」ということです。私たちの良心は完全ではありません。育った環境や親の教えによってゆがめられています。特に、罪に関しては「ただでは赦されない」と教えられています。このところに、「死んだ行いから離れさせ」とありますが、これは良心から罪責感を取り除く、懺悔や償いの行為です。これは死んだ行いであって、神さまのところには届かない、宗教的な行為です。人間の肉はこのような宗教的行為を好むのです。そうではありません。私たちはキリストの血を良心に受けるべきであります。そうすると良心から罪責感が取り除かれ、そして新生した霊と一緒に活動するようになります。私たちは礼拝するとき、神さまの前に出るとき、キリストの血を意識すべきであります。そうすれば、罪責感が取り除かれ、いつでも神さまの御座に近づくことができるのです。

 結論です。ヘブル416後半「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。私たちは霊的には神さまの御座のとなりにいます。しかし、肉体はこの地上にあります。簡単に言うと、霊的には第三の天にいますが、肉体的には第二の天にいます。問題は、第三の天と第二の天の間、空中に悪しき者たちがいるということです。悪しき者たちとは、サタンとその手下である悪霊どもです。彼らが私たちを攻撃し、あるときは圧迫してきます。キリストを信じていない人たちは、既に彼らのものですから、適当に彼らをあしらっています。ところが、キリストを信じている私たちは、彼らの敵であります。彼らは神さまを攻撃できませんが、神の子どもである私たちを攻撃してくるのです。いろんな悩みや困難、病気やわずらい、トラブルを与えようとするでしょう。だから私たちは、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく必要があるのです。「おりにかなった助け」とはちょうど良いタイミングで主が助けてくださるということです。神さまは第三の天から御使いを遣わし、さらには聖霊によって私たちを助けてくださるのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

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2016年12月16日 (金)

いのちの光 ヨハネ1:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.18

 初めは、このタイトルを「やみvs.光」としましたが、ゲームみたいな感じがしてやめました。なぜなら、やみと光が対等なイメージがあるからです。聖書は「やみはこれに打ち方なかった」とはっきり言っています。これはゲームとか空想でなく、現実であるということです。ところで、クリスマスは、イエス様がこの地上で誕生したことをお祝する日であります。ところが、ヨハネ1章では、イエス様がこの地上に来られる前は、どんなお方で、何をされていたかを記しています。「降誕」は、「降りて誕生する」と書きますが、イエス様はその前にどこにおられたのでしょうか?

1.いのちの光

 ヨハネの書き出しにはイエス・キリストがこの地上に来られる以前のことが記されています。11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この地上に来られる前、イエス様は何と呼ばれていたのでしょうか?「ことば」と呼ばれました。新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、「ロゴス」と呼ばれています。直接的には、「初めにロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった」となります。さらに、この方、ロゴスによってすべてのものが造られたと書いてあります。このところには神さましか持つことのできない特性が2つ記されています。第一は初めからおられた方、永遠性あるいは先在性です。第二はすべてのものを造られた創造主であるということです。はっきりヨハネは「ことばは神であった」と書いています。14節に何と書いてあるでしょうか?「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」アーメン。ことばが人になったお方は、神のひとり子であり、イエス・キリストであります。聖書をそのまま読むならば、イエス・キリストは永遠から神と共におられて、すべてのものを造られた神さまであると言うことが分かります。キリスト教の異端の人たちが、何と言おうと、「ことばは神であった」と書かれています。ただし、この神は、人となられた神の子イエス・キリストだということです。

 さらにヨハネはロゴスなるイエス・キリストがどのようなことをされたのか明記しています。ヨハネ14「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」このところに、「いのち」ということばが2回出てきます。いったいどのようないのちなのでしょうか?英国のイングリッシュ・バイブルというのがあります。All that came to be was alive with his life, and that life was the light of men.直訳しますと、「すべてのものが彼のいのちによって生かされた。そして、そのいのちは人間の光であった」ということです。このところに「世」ということばが何度も出てきます。ヨハネ3章に「神さまは世を愛された」と書かれています。私たちは勘違いしていますが、この世に生きているのは人間だけではありません。創世記9章には、洪水の後、神さまとノアが契約を結んだことが記されています。「わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出す」(創世記915とありますように、神さまは人間とだけではなく、すべて肉なる生き物と契約を結ばれました。つまり、聖書で「世」と言ったとき、人間だけではなく、海や空、陸の動物も含まれているということです。創世記1を見て分かりますが、動植物はことばによって造られ、いのちが与えられました。そして、人間は神さまの手で造られ、そして鼻から息を入れられました。人間には動物と違って、肉体的な命だけではなく、霊的な命が与えられています。

 さらに9-10節を見てみましょう。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」英国のイングリッシュ・バイブルをもう一度、引用させていただきます。He was in the world; but the world, though it owed its being to him, did not recognize him.直訳すると「世は彼に存在を負っているのに、彼を知らなかった」と書いています。さきほど、すべての生き物にいのちを与ええたのはいのちであるロゴスであると申し上げました。言い換えるといのちであられるキリストが人間に命を与えたのです。そういう意味では、人間の命はキリストに負っているということです。言い換えると、世話になっている、恩恵を被っているということです。ところがこの世の人たちの多くは進化論を信じています。彼らは生物は自然に発生したんだと言います。何十億年も前に原始のスープからアミノ酸が偶然に絡まって、生物が誕生したと言います。それがだんだん進化して動物が誕生し、さらに人間になったと言うのです。彼らは神さまの創造ではなく、偶然に生物が誕生し、偶然にそれが人間に進化したのだと言います。でも、ヨハネは、イエス・キリストはすべての生物にいのちを与える、いのちそのものだと言っています。そして、「そのいのちは人間の光であった」と述べています。どうでしょう?あなたは、神がいなくて、偶然に自然にできた人間として信じているでしょうか?それとも神さまが手造りし、キリストを通して命を与えた人間として信じているでしょうか?人間はいくらがんばっても生命を作り出すことはできません。生命を作られたのは創造主なる神さまです。さらに、神の被造物の冠である人間には霊が与えられ、その人間を照らすまことの光はイエス・キリストであります。私たちはまことの光であるキリストによって照らされてはじめて、自分がだれであるのか本当の自分が分かるのです。

イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光、いのちの光です」。讃美歌にありますが、「低きも高きも」です。上流の人も下流の人もです。生まれつき不遇な人も、生まれつき恵まれた人もです。確かにこの世は平等ではありません。しかし、神さまはどんな人にも救いを与える、まことの光、いのちの光です。不遇でどん底のような人生の人こそ、高く引き上げられ、豊かな恵みを受けられるのです。そういう意味で神さまは平等です。この世で報われない人には、御国の報いをもって飽かせて下さるお方です。



2.
やみの支配

 ヨハネ15「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」光はロゴスですが、「やみ」とはだれのことなのでしょうか?また、5節の出来事はいつのことなのでしょうか?このところは「ことばが人となる」前のことです。おそらく、このことは私たち人間が造られる前のことではないかと思います。ところで、ヨハネ11節の書き出しは「初めに、ことばがあった」でした。「初めに」In the beginningどこかと似ていないでしょうか?創世記11節「初めに、神が天と地を創造した。」同じ書き出しです。しかし、その後の創世記12節が問題です。少し前の訳ですが、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と書いてあります。地というのは地球のことであります。神さまが1節で、天と地を創造したのに、2節では「やみが大いなる水の上にあり」と書いてあります。1節と2節の間に何かあったのではないでしょうか?これは1つの説であり、決定的ではありません。ある人たちは、1節と2節の間に膨大な時間があり、この間にサタンが堕落したのではないかと言います。『失楽園』を書いたジョン・ミルトンは、アダムとエバが造られる前に、サタンがどのように堕落したのか書いています。聖書にはそのことを示唆する文章が少なくとも2箇所あります。イザヤ書14章とエゼキエル書28章です。サタンは天使長の一人で美の極みであったと記されています。彼は高ぶって神のようになりたいと思いました。そのとき天使の3分の一を味方にして、神と戦いました。ところが神に敗れて、天から突き落とされました。その出来事が、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ということではないかと思うのです。敗れたサタンはどこへ行ったのかというと、この地上にやってきました。その証拠に、サタンは蛇に化けて、エバを誘惑しました。つまり、人間の創造以前に、サタンは地上にいたということです。

 アダムとエバはヘビの誘惑に負けて、食べてはいけない木から食べてしまいました。そして、エデンの園から追い出され、やがては死ぬようになりました。聖書で、「この世」あるいは「世」というのは神から離れた人たちのことを指しています。しかし、それだけではありません。「この世の君」、「この世の神」という存在がいます。どういうことかと言うと、本来、神さまが人間にこの世のすべてを管理するように、人間にその支配権を与えました。ところが人間が堕落したために、その支配権はどうなったのでしょう?サタンが横取りして、この世と人間までも支配するようになったのです。その証拠に、サタンはルカ46「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言っています。私たち人間は「神もサタンも認めない。私は自由だ、自由だ」と言っているかもしれません。しかし、私たちは罪と死とサタンに支配され、やがては永遠の滅びに行く存在であります。このところで言う「やみ」とは、サタンのことです。この世の人たちはサタンに支配されやみの世界を歩いているのです。ヨハネが第一の手紙でこのように言っています。Ⅰヨハネ519「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」私たちは好むと好まざるにかかわらず、この霊的事実を知らなければなりません。そうしないと、救いという概念が狭くなるからです。救いというのは単に罪赦され、永遠の命が与えられるだけではありません。何から救われるか、どこから救われ、どこに行くのかということがということを知らなければなりません。

 そのことを使徒パウロが使徒26章とコロサイ1章で明確に語っています。使徒26:17-18「 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」パウロは「救い出す」ということを18節で説明しています。このところにはいくつかの段階があります。第一は彼らの目を開くということです。パウロが福音を語ると、そこに聖霊が働いて、霊的に目が開かれると言うことです。第二は「暗やみから光に」とあります。これはまさしく、ヨハネ1章が言っている事柄です。でも、暗やみとは何で光とは何なのでしょうか?続いて、「サタンの支配から神に立ち返らせ」とあります。暗やみとはサタンの支配であり、光とは神の支配という意味であります。「支配」ということばが嫌いでしょうか?支配とはギリシャ語でバシレイアであり、王国という意味です。言い換えるとサタンの王国から神の王国へと移されるということです。同じことがコロサイ1章でも言われています。コロサイ113「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン。」原文のギリシャ語を直訳すると、「神は暗やみの権威から解放し(delivered)、御子の王国に移してくれた(transferred)」ということです。まとめて言うと、「救われる以前は、私たちは暗やみであるサタンの支配の中にありました。ところが、神さまは私たちを解放し、キリストの王国に移してくださった」ということです。つまり、クリスチャンは住んでいる世界が違うということです。この世ではなく、キリストの王国の中に住んでいるということです。

 でも、解放されキリストの王国に移されるためには、私たちがなすべき事があります。第三は「わたし(キリスト)を信じる信仰よって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされ、御国を受け継がせる」ということです。キリストを信じることが必要だということです。キリストを信じることにより、罪赦され、聖なるものとされ(義とされ)、御国を受け継ぐことができるんだということです。アダムとエバが堕落したのは自由意思でした。神である主が「食べてはならない」と言ったのに、二人は食べたのです。神さまは人間に最高のものを与えました。それは自ら決断して選ぶという自由意思です。二人は神に従うべきだという自由意思を間違って使用しました。だから、堕落しました。でも、神さまはもう一度、チャンスを与えました。キリストを信じる者を救われると約束しておられます。救われるというのは罪赦され、聖なるものとなるということです。でも、そればかりではありません。暗やみであるサタンの支配から解放され、キリストの王国に移されるということなのです。やみから光に移されることが救いなのです。

3.やみから光へ


 前のポイントで、やみから光に移されることが救いだと申し上げました。私たちはキリストを信じるだけで救われるのでありますが、今度は神さまの方から救いのことを考えたいと思います。言い換えるなら、「神さまはどのように私たち人間を救おうとされたのか?」ということです。神さまはアダムとエバが罪を犯してしまったとき、「ああ、もうだめだ」と困って頭を抱えたでしょうか?そうではありません。三位一体の神は永遠の昔から人間を救う計画を持っておられました。旧約聖書でアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルによって全世界を救おうとされました。ところがそれが失敗に終わりました。最後にどうしたでしょうか?神の御子をこの世に遣わしたのであります。これがクリスマスです。クリスマスとは神の御子が馬小屋に生まれるだけではありません。私たちは、もっと全体な視野でそのことを考えてみたいと思います。ヨハネ19「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」とあります。でも、その前後に、光についてあかしする人が神から遣わされると書いてあります。そればバプテスマのヨハネのことであり、光についてあかしをするために生まれました。彼はイエス様より先だって活動し、メシヤの到来に備えるように荒野で叫びました。その後、ごロスなる方はご自分の国であるユダヤ(イスラエル)に生まれました。ところが、どうでしょう?ヨハネ111「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。王様はもちろん、宗教家たちも、一般の民衆もイエス様を受け入れなかったのであります。最初、人々から「この人がメシヤだと」思われたこともありましたが、十字架に捕えられたとき、みんな躓いてしまいました。それどころか、「十字架につけろ」とまで叫んだのであります。ヨハネ112「しかし、この方を受け入れた人々」とありますが、ここには明らかにユダヤ人以外の人にも救いがあることを暗示しています。言い換えると、「しかし、だれであっても、この方を受け入れた人々は」となります。

 では、ヨハネが言うクリスマスとは何でしょう?ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」これがヨハネのクリスマスです。ちなみに、来週は「ヘブルのクリスマス」という題になっています。今年はクリスマス礼拝を18日にしたら良いのか、25日にしたら良いのか世界中の教会が迷っているのではないでしょうか?「ことばが人になって、私たちの間に住まわれた」これがクリスマスです。ことばとは、ロゴスであり世が造られる永遠の昔から、父なる神さまと共におられた方です。しかも、ロゴスによってすべてのものが造られ、すべて肉なるものにいのちの光が与えられたということです。人間をはじめ、息をするすべての肉なるものがロゴスなる方にいのちを負っているということです。なんと、そのロゴスなる方が、人となり、私たちの間に住まわれたということです。「人となる」はギリシャ語で、「天幕を張る」「天幕に住む」という意味のことばになっています。パウロはこの肉体を天幕にたとえています(Ⅱコリント51)。そして、神学的には神が人となることを「受肉」incarnationと言います。英語でcarnalは「肉体の」「肉欲の」という意味があります。ギリシャ人は肉体は悪と考えていましたので、「神が肉体を取るなんてありえない」と躓いたのであります。しかし、あえてロゴスなる神は、私たちと同じような朽ち果てる肉体を取って生まれたのであります。なぜでしょう?簡単に言うと、ロゴスなる神は「人間を救うために人間になってこの地上にやって来られた」ということです。本来なら、天から長いロープを垂らして、「これにつかまったら救ってやるぞ」と言ってもよさそうなものです。そうすれば、犠牲を払うこともないし、痛みもありません。でも、ロゴスなる神が肉体を取り、人間になるというのは大変なことであります。ある人は「それは人間がうじ虫になるようなものだ」と言いました。私はうじ虫にはなりたくありません。ロゴスなるイエス様もそう思っていたに違いありません。

 さらに続いて、ヨハネがこう述べています。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「私たち」というのは、ヨハネをはじめイエス様を実際に見た人たちであります。もっと言うとイエス様の十字架と復活を見た人たち、目撃者であります。ヨハネは「この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言っています。ヨハネはイエス様と3年半地上で一緒に過ごしました。だから、Ⅰヨハネ11「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書いています。おそらく、父なる神とそっくりだけれど、ひとり子としての神の栄光も備えておられたのでしょう。そして、その特徴は何なのでしょうか?「この方は恵みとまことに満ちておられた」とあります。この短いことばの中に、イエス様の人格とイエス様がなされたことが凝縮されています。パウロは使徒26章で「キリストを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ」と言っています。私たちはキリストの何を信じて救われるのでしょうか?私たちはキリストの人格となされたみわざを信じるということです。二つをまとめるとキリストの御名を信じるということです。ヨハネが言う「恵みとまこと」とは何なのでしょうか?これは、どの教会であっても一致しています。恵みとはイエス・キリストの生涯、特に死と復活を通して示された神の愛を言い表す言葉です。恵みとはキリストの死と復活を通して示された神の愛であります。私たちは神の愛である恵みがキリストによって目の前に提示されているのです。それでは「まこと」とは何でしょうか?ある人たちは「まこととは律法であって、とても厳しく、峻厳なものである」と言います。そうではありません。恵みとまことは、双子の兄弟であります。まことはギリシャ語でアレーセイヤですが、「真理」という意味です。辞書には「義、聖など、神の御旨の実行となって現されるその実践的側面」となっていました。つまり、見せかけではなく、真実にということです。私たちは不真実であり、信仰も曖昧です。でも、私たちの信仰の対象であられるお方が、真実なお方なら大丈夫なのではないでしょうか?私たちがこの救いを得られるのは、キリストの恵みでありまことであるということです。やみの中にいた私たちを救うために、光なるキリストが人になって来られたのです。

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2016年12月 9日 (金)

ありえないこと ルカ1:5-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.11

 きょうは二人の人物が登場します。最初はザカリヤです。彼はバプテスマのヨハネの父です。バプテスマのヨハネは奇蹟的に誕生しました。なぜなら、ザカリヤの妻は不妊の女性であり、しかも高齢だったからです。もう一人はマリヤです。彼女はイエス様の母です。イエス様も奇蹟的に誕生しました。なぜなら、マリヤは処女であり結婚したことがなかったからです。両者ともクリスマスに関係がある人物ですが、一人は信仰がなくて、もう一人は信仰がありました。神さまは私たちにありえないこと、つまり奇跡を起こそうとしておられます。

1.ザカリヤの不信仰

 バプテスマのヨハネの誕生は奇跡的でありました。ルカ1:5-7「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」このところに、「ザカリヤの妻エリザベツは不妊の女だった」と書かれています。しかも、二人ともかなり年をとっていたようであります。イスラエルでは「不妊の女性は神さまの祝福がないからだ」と考えられていました。ところが、聖書では不妊の女性からすばらしい人物が誕生したという記述はたくさんあります。たとえば、イサクを生んだサラもそうでした。ヨセフを生んだリベカもそうでした。サムソンを生んだハンナもそうでした。どれもこれも、神さまが奇跡を起こしてくださった結果であります。エリザベツは不妊であり、さらに高齢でありました。ある時、ザカリヤは一人で神殿の中に入り奉仕をしていました。真っ暗な神殿であかりを灯し、香をたいていました。その時です。主の使い、天使が彼の前に突然現れました。

 ルカ113-17「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」驚くべきことに、天使は不妊の妻エリサベツが男の子を産むと告げました。そればかりではありません。名前がヨハネと決まっており、どういう一生を過ごすか、どのような神さまの計画があるかまで告げました。神さまの計画を一番良く言い表すことばはdivine destinyです。神さまの運命、神意であります。きょう来られている方々ひとり一人にも、divine destiny神意があることを覚えていただきたいと思います。バプテスマのヨハネのdivine destinyはイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせること。また、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するということでした。

 そのようなすばらしい預言をザカリヤは天使から聞きました。彼はどうしたでしょう?ルカ1:18 「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』」ザカリヤは簡単に言うと「そんなのありえない」と疑ったのです。そのため、神さまのさばきが下りました。ルカ119-20「御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」』ザカリヤはバプテスマのヨハネが生まれるまで、差別用語で申し訳ありませんが、おし(唖)になりました。ザカリヤは疑いましたが、それでもバプテスマのヨハネが二人を通して生まれるという約束は変わりませんでした。残念ながら、ザカリヤは10か月ものが言えず、話せなくなりました。もし彼が、口がきけたなら、天使から言われたことを吹聴して、それこそバプテスマのヨハネが誕生しなくなる恐れも出てきます。不信仰に対するさばきではありましたが、一定の期間だったということです。

 私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?ありえないことが起こるようなとき、私たちもザカリヤのように疑うのではないでしょうか?ザカリヤは2つの理由で、天使の預言を否定しました。第一は妻エリザベツが不妊の女だったということです。彼女も「私は不妊だ」と言うし、お医者さんも不妊だと言うし、周りの人々もそうだと言ったのかもしれません。彼女は「私は不妊で一生過ごすのです」というレッテルを貼っていました。それも1つの信仰であります。第二は両者とも高齢であったということです。ザカリヤは「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と断言しています。アブラハムとサラのことを忘れたのでしょうか?それよりも、知識と経験から「年なので子どもは無理」という考えが固まっていたのでしょう。それも1つの信仰であります。ここで注目すべきことは、天使のことばです。天使は「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と言いました。このところから分かることは、ザカリヤは子どもが生まれるように祈っていたということです。何年か何十年間か分かりませんが、「主よ、どうか子どもが与えられますように」と祈っていたのです。ですから、ザカリヤは全く不信仰だったという訳ではありません。ある時まで、信じていたのですが、「妻は不妊であり、自分たちももう年だ」と分かった時から、祈りをずっとやめていたということです。神さまはザカリヤの祈りをちゃんと受け止めていました。神さまは「今がそのときだ」と天使を遣わしたのに、肝心のザカリヤはその願いを捨てていたのです。

 このところから私たちは2つのことを理解しなければなりません。第一は、私たちの祈りはどんな祈りであっても神さまのところに届いているということです。第二は、神さまの時があり、そのときも信じて祈っているかということです。たとえて言うと、品物をくださいと注文しました。ところが長い間、待っていても来ません。ある時、宅配人が品物を届けにきました。でも、不在だったので、持って帰って行きました。ザカリヤもそういう状態でした。神さまは真実なお方なのですが、私たちの方が不真実だということです。そこにはいろんな理由があるかもしれません。でも、せっかく祈っていたのに、途中でやめていたという事実がそこにはあります。ありえないことが起こるかもしれません。しかし、それはかなり前ではありますが、自分が祈っていたことなのです。私たちの方はとっくに諦めて祈りをやめていました。でも、神さまの方は覚えておられ、時が満ちた時、叶えてあげようとされます。イエス様はルカ18章で、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われました。

2.マリヤの信仰

 ザカリヤへの告知の6か月後、御使いガブリエルは処女マリヤに現れました。ルカ128-33御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」天使はザカリヤと同じようなことをマリヤに告げています。まず、生まれる子どもの名前がイエスと決まっていました。では、その子どものdivine destiny神意は何でしょう?その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」バプテスマのヨハネの神意は、イスラエルの子らを主に立ち返らせることでした。そして、イエス様の神意は、彼が王となり、その国を永遠に治めるということでした。いと高き子と呼ばれるという意味は、「神の子」でありメシヤであるということです。天使の告知から、イエス様は人間として生まれるけれども、本当はいと高き神の子であり、やがて永遠の御国を治める王になることが分かります。

 この天使のことばに対してマリヤはどう答えたでしょうか?ルカ1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」一見、ザカリヤと似ていますが、マリヤは違います。ザカリヤは「エリザベツが不妊の女で、自分たちも年なので不可能です」と疑いました。しかし、マリヤはその理由が知りたくて、単純に天使からさらなる情報を求めているのです。マリヤは「自分はまだ結婚していないのに、どうしてそのようなことになりえましょう」と聞いています。マリヤの質問に対して、天使がこのように答えました。ルカ135-37「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」天使は聖霊によってその子は生まれるのであり、それは神の超自然的な力であると言いました。さらに、不妊の女と言われていたエリザベツも「あの年になって男の子を宿しています」と告げました。天使はマリヤに信仰を持たせるために、エリザベツの奇蹟的な懐妊を知らせました。そして天使はザカリヤの時のように、怒ってさばいていません。ただ、理由を補足しただけです。それに対して、マリヤはどのように応答したのでしょうか?

 ルカ138マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」すごい、もう十分ですとばかり、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と自分を明け渡しました。ザカリヤは「そんなことありえないでしょう」と疑いました。しかし、マリヤは「たとえありえないことでも、この身になりますように」と信じました。私たちは一言で「信じる」と言いますが、その背後にはもっと深い要素が含まれています。まず、マリヤはザカリヤのように前から「メシヤを生むことのできる母にしてください」とは祈っていませんでした。それよりも、「婚約中のヨセフと早く結ばれたい」と願っていたことでしょう。ところが、婚約中に妊娠したならどうなるでしょう?ヨセフが「ああ、聖霊によって身ごもったのですね」と言うでしょうか?また、ユダヤでは婚約中に他の男性の子どもを産むということは姦淫であり、石打ちの刑で殺されました。現代では、そういうことがあるかもしれませんが、当時は十戒を破った罪で処罰されました。マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。しかし、頭の中ではいろんなことがよぎったのではないかと思います。でも、そのようなものを全部、捨てて、自分を主のためにささげたのです。つまり、信仰はことばだけではなく、全生活、全人生がかかっているということです。そして、ある時は多大な犠牲、支払うべき代価も伴うんだとういことです。でも、マリヤはそのようなマイナス要素を全部蹴飛ばして、メシヤの母になることを選びました。

 マリヤは、メシヤの母になることがどんなにすばらしいことか自ら歌っています。ルカ146-48「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」マリヤは自分をどのように見ていたのでしょうか?自らを「卑しいはしため」と呼んでいます。また、御使いガブリエルに対しても「私は主のはしためです」と言いました。「はしため」とは何でしょう?ある辞書には「召使いの女、はした者、下女」とありました。しかし、当時は、女性が自分をへりくだって言う時に使っていたようです。はしための男性版は、「しもべ」です。モーセやパウロも自らを主のしもべと言いました。ですから、これを差別用語と片付けるのではなく、神さまの前に自分を差し出す時の心の態度だということでしょう。もちろん、私たちは神の友であり、王子であり、王女です。でも、神さまから何か使命を賜ったとき、「私は主のしもべです」「私は主のはしためです」という態度が重要なのではないかと思います。そこに主である神さまへの全幅の信頼と、献身と、信仰があるからです。現代は、献身ということばも死語になりつつあります。献身的などというと、とっても暗いイメージがあります。でも、神さまへの献身は、特権であり、報いがあり、とても喜ばしいことです。だから、マリヤは「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と歌ったのです。ローマ・カトリックはマリヤを礼拝の対象にまで高め過ぎました。そういう極端は間違っていますが、私たちはマリヤの献身と信仰を学ぶべきではないかと思います。

3.ありえないこと

 ありえないこととは、私たちの常識や経験、科学や神学を越えることがらであります。聖書にはこのようにたくさんのありえないこと、奇跡が記されています。ところが、現代の教会やクリスチャンがそれらの奇跡を信じているかというとそうではないということを気づかなければなりません。まず、第一に現代の教会やクリスチャンは天使の存在を信じてはいますが、当時のように活躍はしていないと思っています。キューピトのように可愛らしくて、おとぎ話に出てくるような存在だと思っている人もいます。しかし、このテキストに出てくる御使いガブリエルは天使長の一人で、聖書では大事な知らせを伝えるときに出てきます。天使のギリシャ語はアンゲロスですが、「知らせを持っている」「知らせる」という言葉から来ています。現代においても、天使が私たちに何かを知らせて導いてくれる時があるかもしれません。第二は、両者とも奇跡的な誕生です。バプテスマのヨハネは、不妊の女性と高齢の男性から生まれました。イエス様は処女マリヤから生まれました。ザカリヤは「ありえないこと」と疑いました。一方、マリヤは説明を求めた後、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。マリヤの態度ことが、ありえない奇跡を受け止める姿であり、信仰です。神さまは私たちに理性とか常識を与えて、これを用いるように願っています。しかし、自然を越える超自然的な出来事に対しても心を開くように求めておられるのではないでしょうか?第三は、divine destiny、神意です。神さまは両者が生まれる前から、名前を決めており、さらにどのように一生を過ごすべきか、何をやり遂げるべきかまで計画しておられます。計画というよりは神さまが定めたdivine destiny神意であります。私たちの場合は、名前は両親が決めますが、その生き方はどうでしょう?両親の願いや本人の願いもあるでしょう。でも、その根底に神さまが定めたdivine destiny神意があるとしたらどうでしょう?やはり、私たちは心を開いて、神さまに求めるべきではないでしょうか?

 最後に私たちはマリヤのようなありえないことに対する心の態度が必要です。ルカ129「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」さらに、ルカ219「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」さらに、ルカ251「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」これらに共通することばは、「じっくり考える」「よく考える」ということです。マリヤはありえないことに対して、何も考えないで飛び込んだわけではありません。それは本当なのか、信じるに値するものなのか、じっくり考えた結果だったということです。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える。」という格言があるようです。人によって慎重な人と、とにかくやってみる人がいるかもしれません。でも、神さまの奇蹟、ありえないことを期待することも必要です。ザカリヤのように私たちの祈った祈りは、神さまの前に届いているのです。ところが、現実の様々な問題や障害によって、「無理だな」と取り下げてしまっているかもしれません。神さまはありえないことを起こしてくださる力ある神さまではないでしょうか?結果は、願っていたものとは違うものであるかもしれません。でも、父なる神さまは、最善なものを子どもである私たちに与えたいと願っているのではないでしょうか?イザヤ559-11「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」アーメン。

 ジョエル・オスティーンの妹のリサさんは、何年間も辛い不妊治療を受けました。結婚前、教会の事務所で働いていたとき、牧師である父宛ての小包が届きました。開けた瞬間、爆発し大きな怪我を負いました。その事件はテキサスのヒューストン中に知れ渡りました。その時、腹部を痛めたことがありました。お医者さんは、その時の怪我が原因ではないかと言いました。もう、子どもを授かるのを諦めていたとき、見本のベビー・オムツが送られてきました。ご主人が開けると可愛いオムツが2つ入っているではありませんか。ご主人はパッケージに「私たちの双子のために1217日」と書きました。それまで、二人は養子についても祈っていました。数か月後、リサさんの友人から突然、電話がありました。その人はある講演で一緒に話したことのある姉妹で、マーシー(あわれみ)のミニストリーをしていました。彼女は「普通はこういうことはしないけど、ぜひあなたに知らせなくては」と思って電話したそうです。17歳の女性が双子の赤ちゃんを宿しているけど、自分では育てられないということでした。養子先を願っているけれど、1つだけ条件があり、身内に双子がいるこことでした。なんとリサさんのご主人は双子だったそうです。二人は、この間の2つのオムツと言い、身内に双子という条件と言い、これは神さまからの贈り物に違いないと思ったそうです。早速、かわいい女の子の双子が与えられました。自分たちの祈りとは違ったけれど、祈りが答えられました。私たちは祈りをやめるべきではありません。神さまが聞いていて下さるからです。神さまからのありえないことを受け取りましょう。

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2015年12月24日 (木)

ひれ伏して拝んだ マタイ2:9-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.12.24

 私たちはどれくらいイエス・キリストについて分かったなら、信じるのでしょうか?東方の博士たちは伝説と星を頼りにユダヤにやってきました。それも幾多の困難や危険を冒して、遠路はるばるやってきました。その距離は2000キロ以上あったことでしょう。ベツレヘムの家で幼子を発見し、ひれ伏して拝みました。そして、宝物の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげたのであります。考えてみると、博士たちはイエス様の奇蹟も見てないし、崇高な教えも受けていません。まだ十字架の贖いも成し遂げていないイエス様をメシヤとして礼拝したのであります。きょうは、「にもかかわらず信じた博士の信仰」について学びたいと思います。 

1.何も受けていないのに…

 博士たちは、イエス様から何もいただいていません。病気が癒されたわけでもなく、商売繁盛とか、ご利益を受けていません。祝福の祈りも、ありがたい教えもいただいていません。だって、相手は幼子であり、何もできません。しかし、博士たちは幼子を礼拝し、宝物をささげたのであります。博士たちはこの先、人生において何かメリットがあったのでしょうか?おそらく、博士たちが得たのは「自分たちの星占いは当たっていた。自分たちは古くから預言されていたユダヤ人の王に出会った」という喜びだけでした。この世の人たちは、対象の神さまに何かご利益がないと拝みません。受験、安産、商売繁盛、けがや病気、事故や災難から守られること。そのために対象の神さまを拝みます。自分に何もしてくれない、拝んでも何の効果もない神さまを拝みません。ましてや宝物をささげるということはまずありません。

 ところが博士たちは母マリヤとともにおられる幼子を見てひれ伏して拝みました。博士たちがイエス様を拝んだ理由はただ1つです。それはイエス様が世界的な王であり、神さまだからです。何かしてもらったとか、何かご利益があるとか関係ありません。目の前のイエス様が神さまだったから礼拝したのです。このことは私たちも学ぶ必要があります。でも、相手が神さまというだけで、どうして礼拝しなければならないのでしょうか?聖書が言う神さまは創造主であり、世界とその万物を創られたお方です。もちろん私たち人間も創られました。聖書の創世記によると私たち人間のために、月星太陽、地球、海、植物、動物たちが創られたと書いてあります。私たちが吸っている空気、洗濯物を乾かしてくれる太陽、飲んでいる水、みんな神さまからいただいたものです。さまざま地下資源、またそれらを加工できる知恵や技術ももとは神さまからものです。神さまが宇宙に法則や真理をあらかじめ備えて下さったから、私たち人間がそれらを発見することができるのです。もし、宇宙や世界が偶然の産物で、でたらめであったなら、法則や真理も発見できないでしょう。最後に、私たちの命、からだの機能もすべて、神さまが与えてくださったものです。私たちは、もうすでに受けているのです。だから、私たちは創造主なる神さまを礼拝するのです。

2.何も見てない、聞いていないのに…

 私たちが信じるためには、資料とか何らかの証拠が必要です。特にイエスがキリスト(メシヤ)であるならば何らかのしるしが必要です。パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を要求します」と言いました。ある先生は、日本人はご利益を要求すると言いました。これは先ほど、お話ししました。しるしというのは、メシヤであることの証拠であります。多くの場合、それは奇蹟とかメシヤとしての預言の成就ということでありましょう。福音書を見るとわかりますが、イエス様は嵐の海を沈めたり、5つのパンで5000人を養ったり、病気を癒し、死人さえよみがえらせました。ヨハネは福音書の終わりで「イエスが行われたことは、他にもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい」と私は思うと言いました。私はカシオの電子辞書持っていますが、そこには英語の辞典はもちろん、広辞苑、ブリタニカ百科事典、文学書、家庭の医学、国家資格…なんでも入っています。ヨハネはこういう文明の利器を知らなかったのでしょうか?そういう意味ではありません。ヨハネ福音書には7つの大きなしるしが書かれていますが、それはイエスがメシヤであることのしるしは十分であるという意味です。しかし、ユダヤ人たちは「もっとしるしを見せてほしい」と願いました。それに対して、イエスさまは「ヨナのしるし以外は与えられていない」と言いました。これはイエス様が三日目に死人の中からよみがえるという奇蹟であります。もし、復活を信じないのであれば、もう無理だということです。つまり、ユダヤ人は信じたくなかったので、信じなかったのです。

 もう1つメシヤのしるしは、その崇高な教えです。山上の説教を聞いた人々は、その権威ある教えに驚きました。律法学者もイエス様と議論して、その知恵におどろきました。でも、彼らが信じたとは書かれていません。むしろ信じたのは、罪びとや遊女、取税人たちです。その当時、罪びとというのは、律法を知らないし、律法を守れない人を言ったのであります。つまり、聖書の教えを良く知っている人が信じるかというと必ずしもそうではないということです。信じるというのは頭ではなく、心で信じるものだからです。博士たちがひれ伏して幼子を拝みました。これは「私の理性ではわかりませんが、あなたは神さまです」と頭をさげたということです。博士たちは神学的な教理を学んだこともないし、聖書の釈義を学んだこともありません。もちろん、イエス様から教えもいただいていません。なぜなら、イエス様はまだ幼子で口がきけません。でも、何が博士たちをそのようにさせたのでしょうか?それは霊であり、神からの啓示です。パウロはエペソ人への手紙でこう祈っています。エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」アーメン。東方の博士たちは、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられていたので、目の前の幼子がメシヤであることを信じることができたのです。神学校では教理とか釈義を学びますが、神を知るための知恵と啓示の御霊の方が重要なのです。

3.何もないのに…

 クリスマスといえば華やかなデコレーションでしょう。数年前ですが散歩の途中、中川大橋を渡って、神社を過ぎたところで左折しました。突然、ものすごいイルミネーションが飾ってありました。小さな道が電飾のアーケードになっており、家の壁から屋根までが光っていました。まるで、ディズニーランドに迷い込んだような気がしました。面白いことに、すぐ先が神社だったんですね。おそらく、行き止まりなので、そういうことができたのでしょう。また、クリスマスといえば歌とかパーティでしょうか?ホテルではディナー付きのクリスマスもあります。FENというラジオ局をまわせば、一日中、クリスマス・キャロルがかかっています。とにかく、クリスマスというのは賑やかで、きらびやかで、楽しいというのが定説であります。ところが、ベツレヘムのイエス様がおられた家はどうでしょう?おそらくイエス様はエルサレムで割礼を受け、シメオンなどから祝福を受けた後でしょう。そこは馬小屋ではなく、宿屋だったと思います。なぜなら、マリヤは産後のために1か月くらいは休む必要があったからです。でも、そこにはきらびやかな電飾もなければ、生バンドやサウンドシステム、舞台を盛り上げる会衆もいなかったでしょう。

 私たちはとかく外見で判断します。中身よりもプレゼントのラッピングを気にします。もし、世界的な王が誕生したのだったら、立派な施設で大勢の人たちが仕えているはずです。ところが、生まれたのは馬小屋、産後しばらくは小さな家にいました。あるいは宿屋かもしれません。教会も立派な建物だったらクリスマスにふさわしいのでしょうか?私は24歳のころ、アメリカ人が来る東林間の教会に英会話を学ぶために通っていました。その教会でイヴ礼拝があるというので出かけました。ちょっと遅れて到着したので、分厚いドアが閉まっていました。鍵はかかっていなかったかもしれません。しかし、場違いな感じがしてそのまま帰ってきました。それから1年後、座間キリスト教会で洗礼を受けました。その教会の建物はとても古くて、八百屋さんと床屋さんの狭い路地を入った奥にありました。私は洗礼を受けて半年後でしたが、青年会のクリスマスのプログラムを任されました。手作りのクリスマスで素朴でとっても楽しかったです。私のために救い主がお生まれになったという喜びがありました。それから、36年間、お祝いしていますが、本質的なものが分かると、華美なものは必要ないと思うようになりました。

 いろんなクリスマスの逸話がありますが、その中で私が感動したものを紹介したいと思います。この出来事は、カナダの「シャインツマン」という新聞に載った実話です。クリスマスの夜のことでした。ひとりの女の子が、冷たい北風が吹きぬける暗い道を歩いています。どこまでも続く、高いレンガのへいのそばの道を、女の子は小さなプレゼントを胸にいだいて、ブルブル震えながら歩いていました。実は、そのレンガの塀の内側は刑務所で、その子のお父さんが、殺人犯でつかまえられていたのです。やがて刑務所の門のところまできた女の子は、守衛のおじさんに言いました。「おじさん。お父さんに会わせてください」「ダメだ。もうとっくに面会時間は過ぎている。明日来なさい。」「あのー、お父さんにクリスマスプレゼントを渡すだけなんです。ちょっとだけなんです。入れてください。」「ダメダメ。刑務所の規則は厳しいんだ。明日来なさい。」「明日はもうクリスマスが終わってしまいます。お願いです。ちょっとだけ、お父さんに会わせてください」「ダメだと言ったらダメなんだ。今日はダメなんだ」。とうとう、女の子は泣き出しました。ちょうどそこへ、刑務所長が通りかかりました。かわいそうに思った所長は、やさしく声をかけました。「おじさんが、そのプレゼントを、お父さんに渡してあげよう。今、すぐ渡してあげるから、泣かないで帰りなさい。明日、お父さんに会いにいらっしゃい」。実は、その女の子のお父さんは、手のつけられない囚人でした。乱暴で、凶暴で、刑務所の規則など、何も守らない囚人でした。独房の中で、所長からプレゼントを受け取ったその男は、リボンをほどきました。中に一枚の紙切れがありました。「大好きなお父さんへ。お父さんが殺人犯だということが恥ずかしいと言って、お母さんは家を出てしまいました。クリスマスに、お父さんにプレゼットを贈りたいと思いましたが、お金がありません。そこで、お父さんが優しくなでてくれた、私の赤い巻き毛の髪を切りました。これを、今年のプレゼントにします。お父さん、私はどんなに辛くても、さびしくても、お父さんが帰って来るまでがんばります。お父さんもがんばってください。刑務所は寒いと思います。お父さん、風邪をひかないで…」

 読んでいく男の目に、どっと涙があふれました。男は、箱の中から、赤い巻き毛をつかみだすと、その中に顔をうずめて泣きました。肩を震わせて泣きました。その次の日、男は、まるで別人のようになっていました。大きな刑務所の中で、最も模範的な囚人に生まれ変わったのでした。愛ほど、私たちを変えるものはありません。聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書いてあります。イエス様と出会うとき、神さまの愛を知ることができます。イエス様は私たちを救うために、天の御座を捨て、地上に人間として生まれてくださったのです。私たちの罪を負って身代わりに死ぬために来られたのです。このイエス様を信じるとき、罪赦され、永遠の命が与えられます。刑務所のお父さんが娘の愛に触れて変えられたように、私たちも神さまの愛に触れると変えられます。古きは過ぎ去り、すべてが新しくなります。

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