2017年12月23日 (土)

世界的なメシヤ ルカ2:1-14 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.24

 ヨハネによる福音書はキリストの出生を宇宙的に描いています。「はじめにことばがあった。すべてのものはこの方によってできた。ことばが人になった」となっています。一方、ルカによる福音書はどうでしょうか?ルカ21「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」となっています。ルカは、キリストの出生を世界的なものとして描いています。イエス・キリストは架空の人物ではなく、歴史の中で誕生したということです。 

1.世界的なメシヤ

 キリストが地上にお生まれになったとき、ローマがその世界を支配していました。皇帝アウグストが「全世界の住民登録をせよ」と勅令を出しました。おそらく、税金の徴収のためでありましょう。日本では秀吉が年貢を徴収するために、太閤検地というのをやりました。ローマは人頭税というものを取るために、人々を生まれ故郷に一度帰らせ、そこで登録させました。このところにヨセフとマリヤが登場しますが、イエス様の両親になる人たちです。人々は、マリヤがだれかによって懐妊したと思っていました。ヨセフは天使から御告げを受けて、聖霊によるものだと信じていたことでしょう。問題は、マリヤが臨月なのにナザレからベツレヘムに旅することでした。直線距離でも110キロくらいあります。ベツレヘムは山地でありますから、結構きつかったと思われます。聖画などを見ますと、マリヤはロバに乗っていました。亀有から北ですと、水戸までが約100キロ、南だと小田原までの距離です。ロバだと3日以上かかったのではないでしょうか?聖書を見ると、キリストがローマ皇帝やシリヤの総督に振り回されている感じがします。彼らがイエス・キリストよりも権威と力があるみたいです。でも、ルカはあえて、その当時の皇帝や総督の名前を書きました。その理由は、キリストが歴史の中でちゃんとおられたということです。ローマやギリシャの神々は出生がはっきりしていません。それは、神話だからです。他の神さまも「永遠からいた」と言うかもしれません。しかし、歴史の中にいたかは不明です。

 アポロ11号が人類史上初の月面着陸を成し遂げました。それは、センセーショナルな出来事でした。アポロ15号に乗ったジェームズ・アーウィンも月面着陸を果たしました。その時、持ち帰って来た石は「創世記の石」と名付けられました。彼はビー玉のような青い地球を見て、ヨハネ316節の言葉が浮かんだそうです。「神はひとり子を与えるほど、地球を愛された。地球に住む私たち人類を、神の御子イエス・キリストは命がけで愛してくださった。」彼は、月で出会ったイエスさまとその愛を、地球に住む人々に伝えなければならないと思いました。そして、NASAを離れて伝道者となりました。彼は日本にも来たことがありますが、インタビューでこのように答えたそうです。「人が月を歩いたという事実は偉大です。しかし、それよりもはるかに大切なことは、神の御子イエス・キリストが地球上を歩かれたという事実なのです」。アーメン。私がこれに加えさせていただきたいと思います。「人が月に降りたちましたが、人類の歴史は変わりませんでした。しかし、神が人となって地球に降りたちました。その時から人類の歴史が変わりました」。アーメン、アーメン(二回言いました)。

 一見、キリストが当時のローマ皇帝や総督にふりまわされているように思えます。なぜなら、これから生まれるというのにナザレからベツレヘムまで110キロも移動させられたからです。命の危険を冒すような旅でした。でも、これにはわけがありました。なぜなら、メシヤはベツレヘムで生まれなければならなかったからです。マタイ2章にそのことが書かれています。東から訪ねてきた博士たちが、エルサレムでこう尋ねています。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」民の祭司長や長老たちがこう答えました。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」(マタイ26)。これは、ミカ書の引用ですが、紀元前700年前後に発せられた預言です。イエス様がお生まれになる700年も前から、「メシヤはユダヤのベツレヘムから出る」と預言されていました。つまり、神さまはイエス様をベツレヘムで生まれさせるために、ローマ皇帝や総督を用いたということではないでしょうか?ローマ皇帝が「全世界の住民登録をせよという」と勅令を発したので、ヨセフとマリヤはユダヤのベツレヘムに旅立ったのです。ハレルヤ!そして、イエス様はベツレヘムでお生まれになられたのです。でも、ベツレヘムにはそんなに長く滞在していませんでした。8日目、エルサレムで割礼を受けた後、まもなくエジプトに逃れました。なぜなら、ヘロデ王が命を狙っていたからです。しかし、ヘロデ王が死んだ後、ナザレに戻って、そこで30歳までおられました。そのため、イエス様はナザレ人と呼ばれました。ナタナエルはピリポがメシヤと出会ったと言うと「ナザレから何の良いものが出るだろう」と答えました。ほとんどの人は、イエス様がベツレヘムでお生まれになったという事実を知らなかったと思います。だから、マタイとルカはイエス様がベツレヘムで生まれたことを書きたかったのでしょう。

 その人がどこで生まれたのか、だれの子として生まれたのか、とても気になります。この世では、出生が人生を決めてしまうところがあります。だいたい、「どこの出身です」と言うと、「ああ、あなたはこういう人ですね」みたいに枠の中に入れられます。「ああ、秋田の田舎ですか?秋田から何の良いものが出るだろう」。多くの人たちは、出生に対して、何等かの劣等感を持っているかもしれません。ここからは適用ですが、あの神の子、イエス様ですら、一人間として生まれる必要がありました。本来なら世界的なメシヤなのに、ローマ皇帝と総督に動かされて、ベツレヘムで生まれました。その後、ナザレで育ちました。イエス様は、30歳まで全く無名でした。私も、あなたも、あそこで、あの親で生まれる必要があったのです。エペソ14-5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」私たちの誕生も神のご計画でした。

2.家畜小屋のメシヤ

 イエス・キリストは神の子なのに、ちゃんとしたところでお生まれになりませんでした。ルカ26-7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」なぜ、マリヤとヨセフは馬小屋で子どもを産み、飼葉おけに寝かせたのでしょうか?その前に、本当に「馬小屋だったのか」ということです。あるホームページを見たら「イエスは馬小屋で生まれたのではない」と書いてありました。英語ではstable、「家畜小屋」となっています。文語訳聖書が「飼葉おけ」を「馬槽(うまぶね)」と訳したことから「馬小屋」と解釈したのかもしれません。とにかく、ちゃんとした宿屋ではなく、離れにあるむさくるしい家畜小屋だったのでしょう。先週までテレビで黒柳徹子さんのドラマ「トットちゃん」が放映されていました。お母さんと青森に疎開したとき、家ではなく、畑の中に立っていた小屋に移り住みました。まるでそれは掘立小屋でした。本題に戻りますが、なぜ、「マリヤとヨセフは家畜小屋だったのか?」ということです。人口調査のために生まれ故郷に帰るのですから、親戚が多かったと思います。親戚同士は助け合うものです。なのに、マリヤとヨセフには部屋がありませんでした。おそらく、マリヤは私生児を懐妊していると思われていたのでしょう?もし姦淫であるならば「石打ちの刑」ですが、ちゃんとした証拠がなかったのかもしれません。しかし、親戚中に噂は広がっていたと思います。第二は、宿屋が本当にごったがえしていたからです。宿屋の主人は、もし、マリヤとヨセフを入れるなら、他の客を追い出さなければなりません。しかも、その妻が産気づいているなら、めんどうです。だから、彼らは締め出しを喰らったのかもしれません。

 皆さんの中にベッドが飼い葉おけであったという人がいるでしょうか?伝説によると、聖徳太子は馬小屋で生まれたそうです。だから、「厩(うまや)戸の皇子」と名乗ったと言うことです。しかし、聖徳太子のブレーンであった秦河勝が渡来系であり、景教(ネストリウス派)の教えを持ち込んだのではとも言われています。それはともかく、神の御子が、飼い葉おけに寝かされていたというのは、すばらしい福音ではないかと思います。もし、イエス様が宮殿に生まれたのであれば、普通の人は会いに行くことはできません。もし、衛生的で最新設備の病院だったらどうでしょう?ガラス張りで仕切られ、羊飼いや東の博士たちも無理だったかもしれません。ばい菌いっぱいで、ほこりまみれの人たちは無理です。飼い葉おけだったら、人間も動物も面会できます。聖画を見ると、羊飼いの少年が小羊を抱いて訪れている場面もあります。当時、羊飼いは安息日を守れないので、汚れた人たちの中に入りました。なのに、一番先に訪れたのは、野宿で夜番をしていた羊飼いでした。主の使いが彼らにメシヤの誕生を知らせたというのは、すばらしいことだと思います。大手の新聞やテレビ会社ではありません。そんなに影響力もなさそうな、羊飼いたちであります。でも、彼らは伝道しました。ルカ217-18「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。」でも、あまり知れ渡ると、ヘロデ王から命を狙われるので、それくらいが限界だったのでしょう。

 家畜小屋、飼葉おけ、羊飼いの訪問…みんな謙遜であります。この世の王子誕生なら、宮殿、衛生設備、偉い人の訪問が相応しいでしょう。しかし、神の子イエスは、とても謙遜なお姿でお生まれになられました。そもそもの原因は、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とルカが記しています。英語の聖書はno roomです。no roomは他にも使います。たとえば、だれかに呼ばれてごちそうをいただいたとします。招いてくれた人が、もっとお食べくださいとお替りを出したとします。食後のデザートかもしれません。そのとき、食べられなければ、no roomと答えるそうです。Roomは部屋のほかに、場所、空間、余地という意味があります。ある人たちは、イエス様を信じる「心の余地」がありません。もし、イエス様を心にお迎えするならば、今あるものを捨てるか、追い出す必要があります。自分の考え、自分の夢、自分のライフスタイルかもしれません。だから、「このままで良いです。結構です、大丈夫です。」とイエス様を迎え入れないのです。私も25歳のとき、苦労しましたが、一番の問題は自我でした。「もし、イエス様を信じたら、自分はどうなるんだ?俺には俺の人生がある。そんなことできない」でした。高校生の頃、友達が加藤諦三の『俺には俺の生き方がある』(大和書房1966)という本を貸してくれました。その当時、ニッポン放送のテレフォン人生相談で活躍していた早稲田大学の教授でした。彼は今、思うと聖書のことばを結構引用していました。数えてみたらこれまで230冊くらい本を書いているようです。日本人が陥りやすい問題を取り扱っているように思います。

その当時、「私はやっと人と比べない、自分の生き方ができるんだ」と自負していました。でも、心の中は混乱と劣等感で満ちていいました。ところが415日のイースター、職場の先輩から9時間も伝道されて、降参しました。お勧めくらいじゃ絶対信じなかったでしょう。夜の9時半頃、根負けして「じゃ、信じるよ」と言っただけです。その時、先輩が話してくれたのが、今思うとヨハネ黙示録320でした。イエス様が私の名を呼んで心のドアをたたいているというのです。外側には取っ手がなく、内側にしかないというのです。イエス様は紳士なので、ドアを蹴飛ばして入らない。「鈴木君がドアのノブを回してドアを開けるしかない」と言われました。私の心の中は町田のアパートのような6畳一間で、半畳のキッチンでした。カーテンに閉ざされた薄暗い部屋でした。先輩は片付けてからでなく、ありのままjust way you areで良いと言いました。「ああ、そうなのか?」と降参して、イエス様を心の中にお迎えしました。そうすると、狭い天井が取り去られ、光が入ってきたような感じがしました。次の朝、部屋のカーテンを開けると、生垣の葉っぱ一枚、一枚が輝いていました。イエス様がむさくるしい家畜小屋でお生まれになられました。悪臭漂う、不衛生な場所です。私たちの心も罪と汚れに満ちています。でも、イエス様はありのままの私たちを受け入れ、私たちが心のドアを開くなら、入ってくださいます。イエス様はあなたの名前を呼んで「一緒に食事をしよう」と招いておられます。開けるしかないでしょう。

3.あなたのメシヤ

 ルカ29-11「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』」このところに、「恐れ」と「喜び」ということばが出てきます。羊飼いたちは主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。何故、恐れたのでしょう?創世記3章に恐れの起源があります。創世記3:8-10「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」最初、アダムとエバは神さまを恐れたことがありませんでした。造り主であり、親のような神さまと親しく交わっていました。なぜ、神さまの顔を避けなければならなかったのでしょう?それは、食べてはいけない木の実から取って食べたからです。その木の実に毒があったのではありません。「自ら神のようになって善悪を判断したい」と神さまから離れたからです。表現を替えると、神さまと二人の間に、罪が入ったので、彼らは恐れたのです。恐れは罪の結果です。私たちもだれから教えられなくても、悪いことをすると恐れがやってきます。不思議です。だれが見ていなくても、神さまが見ているような感じがするからです。それは本能かもしれないし、神さまが与えた良心かもしれません。でも、その良心も悪い事をしていると、麻痺して何とも思わなくなります。恐れがなくなったならば、それは最悪の状態です。

 羊飼いたちは、主の栄光が照らしたので、ひどく恐れました。自分たちの罪があらわにされたからでしょう。また、神を見ると滅びるというモーセの教えを信じていたからかもしれません。ある人たちは、「恐れ」と「畏れ(畏敬)」は違うと言います。でも、聖書にはこの2つには区別がありません。畏敬の意味での「畏れ」は宗教臭いような感じがします。よく日本人は、神的なものと遭遇すると、「畏れ多い」と言うからです。これは、自分が汚れているという前提があるからでしょう。日本人は罪ではなく、汚れがあると言います。聖書では汚れも罪の1つですが、罪は汚れ以上に悪く本質的なものです。それは、神さまから離れていることを表しているからです。聖い神さまから離れ、自分勝手な道を歩んでいる。あるいは、いのちの神さまから離れ、霊的に死んでいる状態です。だから、生まれつきの罪人は、「畏れ(畏敬)」ではなく、「恐れ」であります。でも、恐れは罪の結果であり、クリスチャンになるなら、恐れなくて良いのです。Ⅰヨハネ418「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」アーメン。その証拠に、神の御子イエスさまは、父なる神さまをちっとも恐れていませんでした。イエス様が全き愛を持っておられたからです。私たちもイエス様のように、全き愛を持ったならば、神さまを恐れなくても良いし、またこの世の何ものをも恐れなくても良くなります。使徒パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ831と言いました。

 恐れと対局にあるものが喜びであると思います。なぜなら、御使いが「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と言ったからです。「すばらしい喜び」は原文ですと、「メガレーンの喜び」となっています。ギリシャ語のメガスは、英語のmegaになったと言われています。Megaは「巨大な、特別大きい、最大級の」という意味です。マクドナルドではmegaマックがあります。なんと、ビーフパティが4枚も入っています。また、メガは106乗、100万倍という単位でもあります。よく、メガヘルツとか、メガトンなどと言われます。直訳するなら、「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」となります。でも、私が不満足なのは「この民全体のための」という訳です。「この民全体の」になるなら、イスラエルかユダヤ人です。そうなると、異邦人である私たちは「蚊帳の外」となります。しかし、ギリシャの聖書や英語の聖書にはそういう表現はありません。“I bring you good tidings of great joy, which shall be to all people. For unto you is born this day ”となっています。一番重要なのは、I bring youfor unto youであります。「あなたに、あなたのために」であります。他のだれのためでもない、「あなたのために」です。これを大多数のだれか分からない人たちのためだと思ってはなりません。イエス様はあなたのためにお生まれになったのです。御使いは「あなたのためにメガトン級の喜びを知らせに来たのです」アーメン。私は8人兄弟の7番目に生まれたので、自分の分がありませんでした。お盆とお正月は座る席がありませんでした。なぜなら、結婚した兄や姉の伴侶がお客さんだからです。私の妹はお客さんがくると隠れていました。英語で一人分のことをportionといいます。portionは「分け前」という意味です。しかし、神さまはイザヤ61章でこうおっしゃっています。「あなたがたは恥に変えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に変えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる」(イザヤ617)。イザヤ書には「二倍の分け前double portion」と「とこしえの喜びeverlasting joy」と書かれています。これが他のだれかではなく、「あなたに与えられる」のです。みんなではありません。「あなたです」。

 日本人は「他の人のことを考えなさい。他の人に迷惑をかけてはいけません。みんなで分け合いなさい。みんな仲良くしなさい」と教えられてきました。日本人は「自分がない、みんな」です。だから、不安で恐れがあるのです。自分に自信がなく、自分が満たされていません。そういう人が、他の人を考えて分け合うことができるのでしょうか?できません。できたとしても喜びがありません。なんとなく悲壮感があります。私たちはいっぱい神さまから愛され、いっぱい与えられ、いっぱいいただいているのです。だから、他の人にも与えることができるのです。御使いは、あなたのために、私のために「メガトン級の喜びを知らせに来たのです」。アーメン。

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2017年12月15日 (金)

ヘブル書のクリスマス ヘブル8:6-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.12.17

 紀元前を表すB.CBefore Christ 「キリスト以前」という意味です。また、紀元後を表すA.Dはラテン語から来ており「主の年において」という意味です。歴史が2つに分けられたと同じように、キリストを境にして、聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれています。聖書の「約」は契約の「約」です。キリストは、古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てるために来られたのです。そのため、古い契約を終わりにするため、キリストは死ぬ必要がありました。クリスマス、神が人となってこの地上に生まれたのは、死ぬためでありました。

1.古い契約

 ヘブル人への手紙はキリストが来られた理由を独特な表現で述べています。キリストは古い契約を終わりにして、新しい契約を打ち立てられました。そのため、大祭司・キリストは十字架で血を流し、一回で永遠の贖いを成し遂げられました。今や律法の行ないや犠牲や儀式は不要だということです。私たちはキリストの血を通して、いつでも神さまに近づくことができるようになりました。私たちは異邦人ですので、古い契約における様々な人間の要求については知りません。ところが、古い契約の中で生きて来た人たちは、納得がいきませんでした。律法の行ないや犠牲や儀式を無視したり、軽んじることは罪だと思っていたからです。そのため、ある人たちはせっかく恵みによって救われたのに、古い契約に戻ろうとしました。なぜなら、ユダヤ教から救われた人たちが、「律法の行ないや犠牲や儀式も必要だ」と言い出したからです。一方、私たち異邦人は、あまりにも簡単に救いが得られるので、恵みに慣れっこになってしまう危険性があります。英語で、easy come, easy goということ諺があります。直訳すると「得やすいものは失いやすい」です。でも他に「あぶく銭は身につかない」という訳もあります。せっかく、キリストがご自身の尊い血潮によって買い取られたのに、粗末にしてしまったら申し訳ありません。私たちは恵みの背後にどのような犠牲があったのか、また、私たちが置かれている立場がどんなにすばらしいのかを知る必要があります。そうすれば、easy come, easy goにはならないと思います。

 まず、第一に私たちは古い契約とは何なのかということを学びたいと思います。古い契約とは主である神さまがイスラエルと結んだ契約です。出エジプト記19章にそのことが書かれています。エジプトを脱出したイスラエル人はシナイ山のふもとに集まりました。だからシナイ契約とも呼ばれています。でも、この契約は律法を守るという条件付きでした。出エジプト記20章から23章まで、十戒をはじめとするたくさんの律法が記されています。それを聞いたイスラエルの民は何と答えたでしょうか?「主の仰せられたことは、みな行います」と答えました。ところが、モーセがなかなか帰ってこないので、人々はアロンに「私たちのために神を造って下さい」とお願いしました。モーセが山から下りてくると、人々が金の子牛に全焼のいけにえをささげ、飲み食いし、踊っているではありませんか。モーセは怒って、主からいただいた石の板を投げ捨てて砕いてしまいました。旧約聖書はこの先、ずっと続きますが、イスラエルはモーセの律法を守ることができませんでした。そればかりか、主なる神さまを忘れて、カナンの偶像を拝んでしまいました。旧約聖書はイスラエルの神への背きの歴史と言っても過言ではありません。北イスラエルが滅,び、さらには、南ユダも滅ぼされようとしたとき、主は預言者エレミヤとエゼキエルに語られました。そのことばが、ヘブル8章にあります。ヘブル87-9「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。」ヘブル書は、古い契約に欠けがあったとはっきり言っています。イエスラエルも悪かったのですが、古い契約にも欠けがあったというのです。そもそも、イスラエルに律法が与えられたのは何故でしょうか?

 律法の必要性は人類の先祖、アダムとエバが神さまに背いたところまで遡ります。最初、アダムとエバは主なる神さまと親しく交わりを持っていました。親しい交わりのもとで、何をしたら良いのか、何をしたら悪いのか判断していました。ところが、二人は知識の木から実を取って食べました。それは神さまに聞かないで、自分たちで善悪を決めるということを選んだということです。それ以来、人類は神さまから独立し、自分で考え、自分で行動し、自分の力で生きるようになりました。しかし、それでも人間は自分の行いで神さまの正しさに到達できると自負していました。残念ながら、それは不可能でした。神さまはイスラエルを選び、祭司の国にしようと考えました。イスラエルを通して、世界の国々を救おうとされたのです(出エジプト195)。彼らと契約を結ぶとき、律法を与えました。民たちは「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と何度も答えました。しかし、イスラエルの民は律法を守らず、偶像の神に仕えました。しかし、この律法はイスラエルだけではなく、自分の行いによって神に受け入れてもらおうとするすべての人に与えられたものです。パウロはこのように述べています。ローマ3:20 「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」だれでも自分は正しいと思っています。多くの場合、それは自分よりも悪い人と比べています。どのくらいで良いのかという絶対的な基準はありません。ところが、神の律法をその人にあてるとどうでしょう?みんな罪人です。だれひとり神の前に義と認められないのです。つまり、肉で生まれた者はだれひとり、神の前に立って義とされるがなく、さばかれるのです。律法を行うことよって得られる救いの道はゼロであり、すべての人が神にさばれ、御国には入れないということです。しかしパウロは律法とは別の道が与えられると書いてあります。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

2.新しい契約

 第一のポイントの結論のところで、イエス・キリストのお名前が出て来ました。行いによる神の義ではなく、信仰による神の義があるということでした。これはイスラエルだけではなく、すべての人に与えられる約束です。もう一度、ヘブル人への手紙に戻りたいと思います。ヘブル810-12「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」かつて、律法は石の板に記されていました。律法自体は完璧であり間違いはありません。それを行なえない人間に問題がありました。神さまは、不完全な人間と契約を結んでしまいました。だから、主ご自身「初めの契約には欠けがあった」(ヘブル88と認めているのです。そのため神さまは契約の結び方を新たに変える必要がありました。第一は、石の板によって外から与える律法ではダメだったということです。第二はモーセなどのような人間ではなく、もっと完全な仲介者が必要であったということです。まず、第一の方から取り上げたいと思います。神さまは石の板ではなく、心の板に律法を書きつけることを考えました。もし、心が新たに変えられるなら、他の人から「主を知れ」と言われなくても、分かるということです。同時に、律法を守る力も内側に与えられるということです。つまり、外からの律法では人間はダメで、内側が変えられることによって律法を守ることができるということです。ローマ82-3「いのちの御霊の原理が罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」とあります。人は聖霊によって生まれ変わることによって、自然に律法を守れるようになるのです。

 第二は仲介者の問題です。旧約聖書には「契約」と言われるものがたくさんあります。聖書は契約に満ちています。アダム契約、ノア契約、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約などです。シナイ契約の時は、モーセが仲介者となりました。このとき、イスラエルに守るべき律法が与えられたのです。一方、新しい契約は、キリストが仲介者になりました。キリストは神の子であり、1つの罪も犯しませんでした。そして、キリストが大祭司となり、ご自身をいけにえとしてささげられました。両者が契約を交わすときは必ず、きよい動物を2つに分けて、血を流す必要がありました。神の子であるキリストは、一回で永遠の贖い成し遂げられたのです。キリスト以降は、動物のいけにえは不要となったのです。ヘブル912「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」アーメン。私たち人間が仲介者として契約を結ぶなら、完全に守るという保証はありません。アダムも、ノアも、アブラハムも、モーセも、ダビデもみんな不完全でした。だから、完全な仲介者になることができませんでした。しかし、罪のない、まことの大祭司であるキリストが仲介者になってくださったのです。イエス・キリストは真実なるお方です。父なる神さまもそのことをお認めになっておられます。つまり、新しい契約は不完全な人間ではなく、完全なるキリストが仲介者になって結んでくださったのです。その時、私たちはどこにいたのでしょう?「教会はキリストのからだである」とパウロが言いました。私たちがイエス様を信じると、キリストのからだに組み入れられます。キリストが神さまと契約を結んだ時、私たちはキリストのからだの中にいたのです。神さまは永遠なるお方なので、2000年間の隔ては問題でありません。キリストが私たちの代わりに、私たちの代表となって、神さまと契約を結んでくださったのです。私たちは不真実であっても、キリストはどこまでも、いつまでも真実なお方です。私たちは「イエス様を信じることによって救われる」と言います。しかし、私たちの信仰はいい加減です。本当は、イエス様の信仰、イエス様の真実が私たちを救ってくださるのです。だから、「自分の信仰がどの程度純粋なのだろうか?この信仰で救われるだろうか?」と内省しないでください。それよりも、「私たちが信じているイエス様の真実が私たちを救ってくれている」と考えてください。自分の信仰ではなく、イエス様の信仰を見上げて下さい。そうすれば、信仰が後からやってきます。聖書が啓示している契約の事実をそのまま受け止めるとき、信仰がやってくるのです。

 残念ながら、キリスト教会においてモーセの律法をキリストの恵み抜きに読んで、自分を苦しめています。安息日をどう守るべきだろうか?汚れた動物、たとえば「うなぎ」を食べて良いのか?身体に障害のある者や女性が神さまの前で奉仕ができるだろうか?死んだ人にさわったら、夕方まで汚れるのだろうか?ある教団は、異端ではないにしても、土曜日を安息日として公の礼拝をささげています。しかし、「何を食べて良いのか、何を食べたら悪いのか」旧約聖書のような規定があります。では、福音派の教会はどうなのかと言うと、やはり、恵みよりも律法が強調されている教会があります。その証拠に説教の最後が「〇〇しましょう」「〇〇してはいけません」「〇〇を守りましょう」などと、行ないの勧めで終わります。つまり、「今のままでは神に受け入れられていないので、もっと正しく生きなさい」ということなのです。そうすると人々に律法の呪いがかけられ、束縛された信仰生活を送るようになるのです。第二ポイントの結論として、Ⅱコリントから二か所引用させていただきます。Ⅱコリント3:6 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント314-17「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。

3.旧約から新約へ

ヘブル813「神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。」ヘブル人への手紙は、「新しい契約が来たからには、古い契約は消えて行くべきである」と言っています。では、いつから新しい契約が履行されるようになったのでしょうか?ある人たちは、「キリストが来られた時からだ」と言っています。またある人は、「福音書が書かれている新約聖書からだ」と言います。イエス様は地上に来られ、神の国を宣べ伝え、さまざまな奇跡を行ないました。また、山上の説教など実行不可能と思われる教えを説かれました。よく見ると、モーセの律法よりも実行不可能なレベルになっています。人を憎んだだけで殺人だとか、情欲を抱いて異性を見たら姦淫だと言われています。これを生身の人間が守り行おうとしたなら、全く不可能です。しかし、ある事が起こると、イエス様の教えを実行できるようになるのです。その証拠が、全く変わってしまったイエス様の弟子たちです。彼らは最後の晩餐の時まで、だれが一番偉いか、競い合っていました。しかし、エルサレムで聖霊を待ち望んでいた彼らは、「みな心を合わせ、祈りに専念していました」(使徒114)。あの臆病な弟子たちが、死も恐れず「イエスはキリストである」と告白しました。いつから、新しい契約が履行されたのでしょうか?そのヒントとなるみことばが、ヘブル9章にあります。ヘブル915-18 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」

なぜ、このみことばがそんなに重要なのでしょうか?ここには、古い契約が終わり、新しい契約が履行されるターニング・ポイントが書かれているからです。厳密に言うと、イエス様がこの地上に来られた時から、新しい契約が始まったのではありません。私たちが福音書を読むとき、山上の説教を読んで躓くのはそのためです。イエス様が教えた教えは、新しい契約のもとで、新しいいのちを受けて、初めて実行可能になるからです。一番重要なのは、イエス様の死であります。この死が古い契約を終らせ、新しい契約を発動させる要となったのです。私たちは旧約聖書の神さまは恐ろしい神さまだと思っています。なぜなら、律法を破ったイスラエルの民は殺され、滅ぼされました。もし、私たちが旧約時代に生きていたならいのちがいくつあっても足りないでしょう。ところが、新約聖書になると神さまのイメージがぐっと変わります。放蕩息子のお父さんに象徴される、無条件で愛してくださる父なる神さまです。イエス様も神さまは善なる神さまであるとおっしゃっています。でも、旧約聖書の神さまは恐ろしくて、新約聖書の神さまは優しいとしたなら、神さまは精神が分裂しているとしか思えません。「神さまにそんなことを言うなんて!」と叱られそうですが、旧約と新約の矛盾を克服しておられるでしょうか?しかし、私が名誉を挽回しなくても、神さまは一貫した神さまであり、精神が分裂しているわけではありません。まず、父なる神さまとイエス様がしなければならなかったことは、旧約のけじめをつけるということでした。ヘブル書には「初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受ける…初めの契約も血なしに成立したのではありません。」と書いてありました。このみことばから分かるように、イエス様が死なれたのは、人類の律法の違反を贖うためでした。イエス様がまことの仲介者として、十字架で罪を負って死なれたのです。Ⅱコリント531「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」アーメン。父なる神さまは古い契約を終わらせるために、御子イエスを罰する必要があったのです。それで、父なる神さまの人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。その結果、神さまはご自身に対する人間の立場を変えられたのです。これを「和解」と呼んでいます。和解はギリシャ語でカタラッソ―と言いますが、もともとの意味は「変える、取り換える」です。神さまは永遠に義なるお方です。罪に対しては必ずさばかなければなりません。でも、キリストの十字架の死によって、罪の代価が支払われたので、変わったのです。どう変わったかと言うと、キリストを信じる者に、ご自身の義を与えることにしたのです。ローマ321-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」アーメン。

最後に、いつから新しい契約が発動(履行)されたのでしょうか?キリストが死んでからです。「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって…」と書かれているとおりです。新約聖書を英語で、New Testament と呼びます。Testamentは「遺言書」という意味です。それが、「契約」とも呼ばれているのです。新約聖書は、「キリストによる新しい遺言」とも言えるのです。なぜなら、キリストが古い契約をご自身の死によって終わらせ、ご自身の血によって新しい契約を結んでくださったからです。ハレルヤ!神さまは変わりません。旧約時代も神さまは愛であり、善であったのです。でも、人間が自分の行いによって神さまに近づこうとしたので、律法の呪いを受けてさばかれたのです。しかし、私たちは新約時代に生まれました。もし、自分の行いで神さまに近づこうとしたなら、同じように律法の呪いを受けるでしょう。もう律法はキリストによって成就され、その要求が満たされたのです。私たちはキリストを信じることによって神の義が与えられました。神に受け入られるための良い行いは一切、不要なのです。良い行いは、信じた後にちゃんと与えられます。なぜなら、聖霊によって生まれ変わったなら、その人に神の種が宿るからです。その人は罪を犯すのが不自然になり、良いことをすることが自然になるのです。しかも、父なる神さまはその人に良い行いを備えてくださっています。なぜなら、その人は神の息子、娘だからです。あなたは律法の流れの中にはいません。すでに、恵みの中にいるのです。恵みを味わいつつ、神さまに従っていけるのです。

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2017年12月 8日 (金)

メシヤの御国 ルカ1:26-38 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.12.10

 イエス様は「御国が来ますように祈れ」とおっしゃいました。また、イエス様の教えの中心は御国でした。御国kingdomというとき、3つのものが必要です。第一は王権(王様)です。第二は治めるべき領土(領域)です。第三は領民(国民)です。父なる神さまは私たちが御国に移り住むことができるように、備えてくださいました。それがクリスマスです。きょうは、聖書の記述の順番ではなく、逆からメッセージをしたいと思います。 

1.御国とは

 ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」33節に「その国」とありますが、ギリシャ語ではバシレイアーであります。バシレイアーは、王権、支配、統治という意味です。そこには、領土とか国土という意味は含まれていません。しかし、冒頭でも申し上げましたが、王国は王様ひとりだけではダメで、領土と領民が必要です。イエス様は「父のみもとにはたくさんの住まいがある。…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」(ヨハネ142と言われました。よく見ると、まだ住むべき場所はできていないようです。父なる神さまの御国のもたらし方は、私たちが考える順番とは違うようです。第一は御国の王様を立て、第二は人々を集め、第三は住むべき領域を作るというものです。私たちは「御国はどこにあるのですか?見せてください。そうしたら信じますよ」と言いたくなります。でも、肉眼で見えたならば、信仰は必要ありません。神さまは「まだ準備はできていません。でも、きっと来るので入国の手続きを済ませてください」とおっしゃるでしょう。でも、ここに「その国」とありますので、だれかが王として治める国なのであります。英語の聖書ではhis kingdom、「彼の国」となっています。彼とはだれなのでしょうか?そのヒントが32-33節に記されています。

 このところに、日本人にはなじみのない名前が出てきます。それは、ダビデとヤコブであります。つまり、彼がおさめる国は、ダビデの王位であり、ヤコブの家のようなものだということです。御使いは「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」と言いました。イエス様が公に姿を現したとき、人々は「ダビデの子、イエスよ」と言いました。おそらく、「ダビデの子孫」という意味でしょう。実際、メシヤはダビデの子孫から生まれる予定でした。でも、イエス様はダビデの子ではありません。霊的には永遠からおられた神の子であったからです。でも、イエス様はダビデのような王様であるということは確かです。実は、主なる神はダビデに約束をしていました。どんな約束でしょうか?Ⅰ歴代誌1714「わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」これは、ダビデ契約と言われています。ここで言う「彼は」はソロモンであり、その王国とはユダとイスラエル王国でした。歴史をみますと、ソロモンの死後、国は分裂し、アッシリアとバビロンによって滅ぼされました。地上的にはこの契約は実現しませんでした。もう一度、御使いがこれを引用したということは「彼は」ソロモンではなく、イエス・キリストにおいて実現すると言ったのです。ダビデはイスラエルの王様の中では最も忠実な王でした。神さまから最も愛され、王様の模範でした。そのところが、イエス・キリストと似ているということです。

 もう1つは、「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」です。ヤコブというのは別名、イスラエルです。彼には12人の息子がいました。その息子たちが、イスラエル12部族になりました。神さまはイスラエルを選んだのには訳がありました。イスラエルを祭司の国として立て、その後、全世界の人たちを導くということです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たすことができなくなりました。それでイエス様が12弟子を選び、新しいイスラエルにしました。でも、神さまはイスラエルを捨てないで、世の終わりもう一度、集めると言われました。つまり、御国は私たち異邦人のものであると同時に、イスラエルのものでもあるということです。イエス様はペテロたちにこう約束されました。マタイ1928「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」御国は失われたイスラエルのためにもあるのです。聖書は「イスラエルの子らが集められ、神さまの選びは変わることがない」と預言しています。本来はイスラエルが祭司になって、全国民に伝道するはずでした。しかし、私たちクリスチャンが王的な祭司として選ばれたのです(参考:Ⅰペテロ29)。私たちは考え方を大きくしなければなりません。どのくらい?世界規模です。今は、ユダヤ人であるイスラエルはイエス・キリストを受け入れていません。2000年前に来られたイエス様を拒絶しています。その代り、世の終わりに来られるメシヤを待ち望んでいます。しかし、そのメシヤこそが再臨のキリストであります。

 御国は永遠です。「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と書いてあるからです。地上の国々は栄枯盛衰、「建っては滅びる」の繰り返しでした。でも、イエス様が王として治める御国は、永遠であり終わることがありません。天文学者たちは、「地球も太陽も永遠でない」と言うでしょう。私たちのことを「非科学的で幼稚な人たちだ」と馬鹿にするかもしれません。ヨハネ黙示録21章と22章には御国の完成図が書かれています。御国というよりも「新しい天と新しい地」であります。黙示録211「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」、黙示録225「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」完成された御国は、現在の地球とか太陽ではないようです。私たちは全く、新しい世界に移り住むということです。どこかの星に移住するようなSF映画がありますが、そのようなことが実現するということです。神さまが造られた宇宙は広いです。銀河系が数えきれないくらいあるのですから、私たちが永遠に住むことができる御国を用意しておられます。アーメン。

2.イエスとは

 ルカ131「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」もう一箇所、引用いたします。マタイ121「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」多くの人たちは、イエス・キリストは普通の名前だと思っているかもしれません。「イエス」は名前ですが、キリストは「油注がれた者、メシヤ」という意味です。その当時、イエスは普通につけられた名前でした。もともとは旧約聖書のヨシュアから来たものです。ヨシュアは「主は救い」という意味です。神さまはあえてその子を「イエス」と名づけるように言われました。マタイはその意味を書いています。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」何から救うか?というと、罪から救うということです。そうです。キリスト教で、「救い」というとき、一番の意味は「罪からの救い」です。この罪が解決することが最も重要なことだからです。第一のポイントで、御国とは何かということを説明しました。父なる神さまは御国に私たちを住まわせたいのです。でも、入国を妨げるものがあります。成田空港に行くと、入国審査があります。パスポートを提出するとき、いくつかの質問を受けます。「どのくらい滞在しますか?」「滞在目的は何ですか?」「どこに泊まりますか?」「帰りのチケットは持っていますか?」「この国に来たのは初めてですか?」その後、門をくぐらなければなりません。「ビー」となったらダメです。もちろん、私たちは御国は初めてであり、帰りのチケットは不要です。でも、パスポートが必要です。罪があると「ビー」と鳴ります。これはたとえですから、全部あてはまらないかもしれません。でも、言えることは、生身のままでは御国に入れないということです。罪の赦しと、「良いよ」という証明が必要です。日本では死んだらみんな天国に行けるようなことを言いますが、そうではありません。

 父なる神さまは罪ある人間が、御国に入れるようにあることをしてくださいました。それは、御子イエスを与えたということです。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、神さまは大人としてのイエス様を地上に与えたのではありません。なんと、神の子をひとりの人間として誕生させました。あがないのためには、罪を犯さない完全な人が必要だったのです。「あがない」とは、正しい人に、悪い人の罪を負わせて、代わりに赦すと言う意味です。イエス様は全き神、全き人であり、私たち全人類の罪を負って下さったのです。Ⅰペテロ22224「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。…そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」アーメン。そうです。十字架の死は私たちの罪の身代わりでした。この方を信じる時、私たちの罪が赦され、神さまから義と認められるのです。神さまから義と認められた者だけが、神の御国に入ることができるのです。これは狭き門であります。イエス様こそ、救いにいたる門であります。十字架による罪のあがないがなければ、だれひとり、御国に入ることはできません。私たちはだれでも成田空港に行くことはできます。展望デッキからジェット機の離発着を見ることができます。でも、入国審査を通過しなければ、ジェット機に乗ることは不可能です。

 
イエスと言う意味は何だったでしょう?「この方こそ、ご自分の民をその罪から
救ってくださる方です。」英語の聖書には、he shall save his people from their sins.となっています。直訳すると「彼の人々を彼らの罪から救って下さる」という意味なります。これを見ると、もともとはイエス様のものであったことがわかります。あるいは選ばれていたという意味かもしれません。つまり、もともとは、神さまのこどもであったのに、罪の中で失われていたということです。「あがなう」とは「買い戻す」という意味ですから、罪の代価を払って、もう一度、神のこどもにするということです。こういうことを言うと異端と言われるでしょうか?ルカ15章には「ほうとう息子のたとえ」が記されています。弟息子は父のもとを離れ、身を持ち崩して、豚飼いになっていました。では、そのとき弟息子は父の子どもではなかったのでしょうか?息子でした。お父さんは帰ってきた息子を無条件に迎え入れました。でも、何と言ったでしょうか?お父さんはただの気の良いお父さんではありません。ルカ1524「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」と言いました。父なる神のもとを離れた人間は、死んでいるのと同様だということです。ルカ19章には取税人ザアカイの物語が記されています。イエス様は木の上で隠れているザアカイの名前を呼びました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは急いで降りてきて、大喜びでイエス様を迎えました。イエス様は何とおっしゃったでしょう?ルカ199-10「「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」このところから、わかることは、ザアカイは信じる前からイエス様のものであったということです。でも、イエス様の招きに応じたときに、ザアカイは救われたのです。ザアカイはイエス様を信じる前から、見出されていたのです。

 私たちは偶然に、たまたまイエス様を信じて救われたのではありません。イエス様は確かに全人類ために十字架で死なれました。でも、罪のあがないが成立するためには、信じて、受け取らなければなりません。キリストを信じた人がはじめて「主イエスは私の罪のために死なれました」と告白できるのです。この告白こそが、御国にはいるパスポートです。告白が正しければ、「ビー」とも鳴りません。ある人たちは天国は死んでから入るものだと思っています。そうではありません。私は天国ということばはまぎらわしくて使いたくありません。神の御国は生きている内に、イエス様を救い主として信じなければなりません。生命保険が生きているうちに入るのと同じように、信仰告白も生きている内にしなければなりません。イエス様は私とあなたを私たちの罪から救うために来られた救い主です。アーメン。

3.おとめマリヤ

 ルカ128-32「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」マリヤはヨセフと婚約していました。なのに、一方的に「みごもって子を産みます」と言われました。処女降誕はキリスト教の躓きの1つです。「処女からは子どもは生まれない」と言います。そのためキリスト教会は、「処女降誕が信じられなくても、キリストの贖いを信じていれば救われる」と言うところもあります。でも、それは1つの妥協です。もちろん、絶対的なものではないかもしれませんが、キリストが罪を負わないで誕生するためには必要なことでした。もし、ヨセフとの関係で自然にイエス様が誕生したなら、アダムの罪が転化されます。だから、マリヤ一人でなければなりません。でも、マリヤには罪がないのでしょうか?ローマ・カトリックは否定するかもしれませんが、マリヤにも罪があります。では、どうやって神さまは罪のないお体として御子イエスを誕生させたのでしょうか?そのことは、マリヤにとっても理解できないことでした。

 ルカ134-35「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」マリヤにも常識がありました。でも、御使いが答えています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言いました。私はこのみことばを見たとき、2つのことを思い出しました。1つは創世記第1章、もう1つは使徒の働き第1章です。創世記11-2「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」神の霊、聖霊が「水の上を動いていた」と書かれています。しかし、ヘブル語の意味は、「動いていた」ではありません。回復訳聖書には「覆い抱いていた」と書いてあります。チョーヨンギ師は「めんどりが卵を孵化させようと翼をばたばたさせている様子と同じだ」と言いました。つまり、聖霊は、父なる神のおことばが発せられるならば、無から有を生み出すということです。聖霊が全宇宙を父なる神さまと創造したのだったら、処女マリヤの胎を用いて、ひとり子イエスを誕生させることも可能であります。神さまの全能の力をみくびってはいけません。御使いもこのように言いました。「神にとって不可能なことは一つもありません。」それに対してマリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」アーメン。マリヤは救い主の誕生のために、自分をささげたのです。結婚や姦淫の汚名、人々からの誤解や嘲笑よりも、主のみこころに従ったのです。ハレルヤ!

 もう1つは使徒の働き1章です。使徒18 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」これもルカ1章と同じことばです。ルカ135「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」なぜ、同じなのでしょう?ルカ福音書も使徒の働きも、同じルカが書いたからです。ルカは弟子たちが新しく造り変えられるときと、マリヤの受胎を重ね合わせたのではないでしょうか?聖霊だったら可能だ、聖霊にはできると思ったのです。私たちはイエス様を信じるとき、霊的に新しく生まれます。私たちが神の国に入るためには、神のいのちをいただかなければなりません。イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネ36,7と言われました。つまり、私たちはこのままでは、御国に入ることはできません。聖霊によって新しく生まれる必要があります。マリヤは聖霊によってイエス様をみごもることができました。私たちは聖霊によって神のいのちをいただくことができるのです。これを「新生」と呼びます。この新生の体験がある人は、「ああ、聖霊によってマリヤが懐妊したこともありえることだ」と信じられるのです。だって、自分が新しく生まれ変わったのですから。奇跡を体験したのですから、わかるはずです。このように考えると、クリスマスも遠い昔のことでないことが分かります。あのとき聖霊がマリヤの上に臨み、弟子たちの上に臨みました。同じように、私たちの上にも聖霊が臨んでくださるということです。

ある人たちは、死ぬ前にイエス様を信じて、御国に入れば良いと思っている人がいます。ということは、それまで古い自分のままで生きているということです。なんともったいないことでしょうか?聖霊によって新しく生まれて、この地上でも神さまのいのちをいただきながら生きた方がはるかにすばらしいはずです。昔、仮面ライダーの「変身」というのが流行りました。変身していると超人的な能力があります。でも、普通の姿だと、ダメです。だったら、ずっと変身していた方が良いのではないでしょうか?そこへ行くと、クリスチャンは信じて新生したはずですが、外見はほとんど変わりありません。背中に羽がはえたら良さそうなものです。イエス様は「あなたがたは地の塩です。また、世の光です」と言われました。共通している概念は、この世の中に出てみて、違いがわかるようです。いや、私たちはこの世に出て行くと、違いをもたらすことができるのです。人々に御国はどこか案内するだけではありません。なんと、人々のところに御国をもたらすものとして用いられるということです。御国は将来、はっきりと目に見えるかたちとしてやってきます。でも、今は目に見えませんが、御国は私たちと共にあります。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ1721と言われました。まだ、不完全かもしれませんが、神の支配として、御国が私たちの所に来ているのです。クリスマスは遠い昔のおとぎ話ではありません。クリスマスはデパートのセールのためにあるものでもありません。クリスマスはイエス様が聖霊によって乙女マリヤに宿り、人間として生まれたことです。イエス様が十字架で代わりに死なれたので、私たちが罪赦され、御国に入れるようになりました。今も、聖霊が働いておられ、キリストを信じた人が御国に入れるようにしてくださいます。

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2016年12月23日 (金)

ヘブルのクリスマス ヘブル4:14-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.25

 世界には、有名な宗教の開祖がいます。孔子、釈迦、マホメットが良く知られています。では、イエス・キリストは宗教の開祖なのでしょうか?ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです。大祭司というのは、神さまと人間との間をとりなす仲介者です。旧約の時代は事あるごとに、きよい動物をいけにえとしてささげました。しかし、世の終わりにはイエス・キリストご自身がいけにえとなって、贖いを全うしてくださいました。ですから、私たちはこのイエス・キリストを通して、神さまのところに行けるのです。イエス・キリストはどんな大祭司なのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.もろもろの天を通られた大祭司

 ヘブル414「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ヘブルの人たちは、天は3つあると考えられていました。第三の天は神さまがおられる天上であります。「天の御座」とも呼ばれています。16節には「恵みの御座」と書かれています。第二の天は私たちが住んでいる地上です。物質でできており、自然科学で証明できる世界です。第一の天は地下とか陰府と呼ばれています。死者の霊たちがいるところです。サタンは悪霊がどこにいるのかというと、第三の天と第二の天の間です。エペソ2章には「空中」と書かれています。神に対して不従順な人たちは、「空中の権威を持つ支配者」から圧迫を受けていると言う構図になります。さて、聖書には「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス」と書かれています。これはイエス様が3つの天をすべて通られたという意味であります。冒頭で、孔子、釈迦、マホメットの名前をあげました。イエス様だけが、3つの天を通られた大祭司であります。歴史上、イエス様の他にこのような人物は見当たりません。では、イエス様がどのようにしてもろもろの天を通られたのか順を追って学びたいと思います。

 まず、イエス様はロゴスという存在で、神と共におられました。ロゴスなるイエス様は神と共に第三の天におられたのです。しかも、天の御座に父なる神さまとおられました。ヘブル1章にはどう書いてあるでしょうか?ヘブル12-3「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」御子イエスを通して、この世界が造られました。そして、御子イエスが「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」ということは、神さまと全く同じ、あるいは同等であるということです。クリスマスは地上に来られたイエス様のことを御祝する日であります。私たちは「貧しい姿で馬小屋に生まれた」と賛美するでしょう。しかし、その前は第三の天で父なる神と同等の神であったことを忘れてはいけません。使徒パウロはⅡコリント12章で「第三の天にまで引き上げられ、すばらしい啓示を受けた」と書いています。ですから、私たちは神さまがおられる第三の天、神の御座の存在をはっきりと認めるべきです。

 次に第二の天、地上のことを申し上げたいと思います。私たちは地上、つまり物質の世界に住んでいます。西洋の教育を受けた人たちは、天国も陰府も認めません。そして、地上に偶然に生まれて、何十年か生きて、死んだらなくなると考えています。しかし、「多くの人たちは、人生それで終わったら空しいではないか、死後の世界はあるのでは?」と考えています。世界のあらゆる宗教は、死後の世界を認めています。でも、西洋の教育を受けた人たちは、「そんなのありえない」と否定します。日本人は頭では西洋の教育を受けていますが、心は東洋のアニミズムの世界観を持っています。どこかに霊の存在を信じているので、お盆のときに死者を迎えたり、送ったりしているのではないでしょうか?さて、イエス様はロゴスなるお方でありましたが、2000前、肉体を取ってこの地上にお生まれになられました。このことは先週学びました。神の御子が人間となられたのは何故か?それは第二のポイントで学びます。簡単に言うと、父なる神さまのことを直接、知らせるためです。私たちはイエス様を見ると、神さまがどんなお方か知ることができます。もう1つは、私たちのために身代わりに死んで、救いの道を設けるためです。イエス様は天からロープを垂らして「これに掴まれ」とおっしゃったのではありません。私たちの住むところに下ってこられ、自ら犠牲となり神さまのところに行く「道」を作られたのです。

 最後に第一の天です。これは陰府と言われているところです。旧約聖書には死んだ人が「陰府に行った」と書かれています。イエス様も十字架に死んだのち、陰府にくだられました。エペソ49「彼がまず地の低い所にくだられた」とあります。また、Ⅰペテロ319「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」イエス様が何のために陰府にくだられたのかいろんな説があります。でも、決定的なことは義人たちが住んでいた、陰府の一部をひきあげるためです。その場所が復活したときに、パラダイス(天国)になったのです。ですから、クリスチャンは死んだら陰府にいくのではなく、パラダイスに行くのです。「もろもろの天を通られた」というのは、天から地上、陰府に下ったと言う意味でありません。イエス・キリストは復活しました。陰府から引き揚げられました。その先があります。Ⅰペテロ322「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」アーメン。イエス様はもとおられた天の御座に戻られましたが、それだけだったのでしょうか?イエス様には御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えるだけの権威が与えられました。そして、名前まで変わったのです。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」旧い契約でイスラエルの人たちは神さまのことを「主」と呼びました。しかし、新しい契約では、イエス・キリストが「主」と呼ばれるようになったのです。「イエス・キリストは主である」とは信仰の告白です。だから、ヘブル書は「私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」と勧めているのです。

2.私たちの大祭司

 ヘブル415「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」私たちの大祭司というととても身近な感じがします。でも、それはヘブルの手紙の受取人だけではなく、「私たちすべての」という意味でもあります。なぜ、そのように言えるのでしょうか?このところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」と書かれています。もし、大祭司なるイエス様が罪を犯したなら、私たちの身代わりになることはできません。そのためイエス様は、おとめマリヤから聖霊によってお生まれになられました。イエス様はアダムの罪を受け継いでいません。また、生きている間も、父なる神さまと共に歩み、罪を犯しませんでした。でも、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。私たちが生まれてからどのような試みに会うでしょうか?イエス様は赤ん坊から生まれたので、嬰児、幼児、少年、青年、成人の気持ちが分かります。両親に育てられ、30歳まで大工の仕事をしました。小さい時から律法を学び、宮もうでをし、宗教的な義務も果たしていたことでしょう。残念ながら、30歳までの記録がほとんどありません。福音書をみますと、肉体を持ったイエス様は時には飢えを、時には渇きと、ときには疲れを覚えられました。男性にとって女性が誘惑ですが、イエス様を慕っていた女性たちは何人かいました。マグダラのマリヤ、マルタとマリヤ、他にもいたかもしれません。でも、イエス様は結婚をして家庭を持つということはありませんでした。おそらく、イエス様が花婿であり、教会が花嫁という考えからかもしれません。

 福音書を読む限り、第一の誘惑は荒野で悪魔から誘惑を受けたことでしょう。肉欲、目の欲、持ち物の欲に打ち勝たれました。第二はゲツセマネの園において、十字架を意味する苦い杯を飲めるかという誘惑でした。自分は何も悪いことをしていないのに、人の罪をかぶって死ぬということは困難なことでした。人々から捨てられ、弟子たちからも裏切られました。十字架刑で捕えられ、嘲笑され、殴られ、あざけられ、数えきれないほどのローマの鞭を体中に受けました。イエス様にとって最も大きな試みは、罪を負ったために、神から捨てられることでした。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」この叫びは、私たちが体験できない、神から拒絶された叫びです。イエス様は「できれば、この杯を通り過ぎさせてください」と願いましたが、十字架で罪を負い、その杯を飲み干してくださいました。私たちは家庭や仕事、果たすべき使命というものがあります。誘惑は「それらから逃げたい」ということではないでしょうか?昔は「蒸発」ということばが流行りましたが、今は何でしょう?自殺者の数は減っていません。生きること自体が辛いと考えている人がいっぱいいます。現代はうつ病をはじめとする、さまざまな精神疾患をわずらっています。10人に一人はそういう問題と戦っていると聞いたことがあります。ですから、心療内科や精神科、カウンセリングのニーズが高まっています。

 このところで、イエス様は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」と書かれています。さきほど申し上げましたが、大祭司というのは神さまと人間の間に立ちとりなす働きをする人です。でも、祭司と大祭司の違いは何でしょう?大祭司の場合は、一般の祭司が行けない、至聖所まで行くことができます。それも年にたった1度だけであります。何か落ち度があると、打たれて死ぬことがあります。大祭司は個人の罪というよりは、もっと大きな罪、民全体の罪を取り扱っていたのだと思います。イエス様は小さいものから大きなものまでをとりなしてくださる「私たちの大祭司」です。一度、人間になってさまざまな苦しみを体験されたので、私たちの弱さに同情することができます。私たちもある程度の苦しみにあいました。もし人のことを思いやることができる分野があるとすれば、自分が経験したことです。ある部分の弱さは専門家かもしれません。しかし、イエス様は神の子が人となられたので、あらゆる問題の解決が可能です。でも、私たちが最も大変な問題は死ということではないでしょうか?死に対しては誰一人、勝利したことがありません。みんな、この死に対しては敗北してしまいます。でも、イエス様が死んで復活してからは、死の意味が変わりました。乗り越えられない問題でなくなりました。

 ヘブル214-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アーメン。「子たち」というのは、私たちのことです。血と肉というのは、人間のことであり、弱さや病を象徴しています。また、敵である悪魔は私たちを誘惑し、死の力を持っている最大の敵です。私たちは、死の恐怖につながれている存在ではないでしょうか?なぜ、死が怖いのでしょうか?そこには肉体の死だけではなく、霊的な死、永遠の死という暗黒が隠されているからではないでしょうか?あるいは肉体の死ぐらいだったら、恐れなくて良いかもしれません。しかし、火炎で焼かれる永遠の死は無理であります。そこで、イエス様は血と肉を備え、一度死んで下さいました。そして、陰府にくだり、三日目によみがえられました。ヘブル書は、「イエス様の死と復活が、死の力を持つ悪魔を滅ぼしたんだ」と解釈しています。このところには書かれていませんが、悪魔は神さまのところに行って人の罪を訴え、「この人には永遠の死が妥当だろう」と言うのではないかと思います。義なる神さまは1片の罪をもそのままにしておくことはできず、必ずさばかなければなりません。「罪の支払う報酬は死である」と聖書に書かれています。でも、イエス様が私たちのすべての罪を負い、変わりに裁かれました。そのとき、神さまの義が満たされ、罪ある人間を裁かないことにお決めになられました。大祭司なるイエス様が「私に免じてこの人を赦してやってください」と願うなら、父なる神さまは聞いて下さいます。その結果、その人はたとえ死でも死の中に留まることはありません。イエス様のようによみがえさせられます。そのため、私たちにとって死は恐ろしい死ではなく、天の御国に入る時となりました。そして、終わりの日に滅びた肉体が栄光のからだに復活するのです。だから、主にあって死は終わりでなくなりました。

3.罪を取り除く大祭司

 ヘブル416「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」「恵みの御座」というのは、まさしく神さまがおられるところ、神の御座であります。罪ある私たちがどうして、神さまのところに行けるのでしょうか?同時に私たちの中には罪責感もあり、向こうが良いと言っても、私はその価値がないと辞退してしまうでしょう。私たちは二重の問題があって、神さまのところには行けないと思うのであります。ところがここに、「私たちはあわれみを受け、また恵みをいただいて」と書いてあります。文章を読むと、あわれみと恵みは同等のもので、意味も似ています。罪と過ちによって、受ける価値のないものが、神さまの一方的なご厚意を受けるということです。問題は「いただく」という意味です。ギリシャ語の意味は「くじで得る」というのが第一の意味です。イスラエルは「くじ」は神性なもので、そこに神さまの導きがあると考えられていました。そこで「くじで得る」とは、「運命や神意によって得る、手に入れる、受ける」という意味になります。簡単に言うと選ばれた人が、得られる特別なものだということです。ですから、あわれみと恵みは、だれでもないキリストを通して与えられるものだということです。

 では、ヘブル人への手紙が言う、あわれみと恵みとは何なのでしょうか?私たちにそれらが与えられる根拠となるものは何なのでしょうか?冒頭で、「ヘブル人への手紙の中心的なテーマは、イエス・キリストが唯一無二の大祭司であるということです」と述べました。それを証明する決定的な事柄がこのことです。ヘブル911-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」イエス様は神が人となられた大祭司です。このお方が、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。このことは十字架の贖い死のことですが、ヘブルの記者は、まことの聖所でなされたことなんだと解釈しています。つまり、大祭司であるイエス様が、ご自身の血をささげることにより、永遠の贖いを成し遂げたということです。そのことにより、もう動物のいけにえは不要であるということです。これまで、毎年、民の罪を赦すために大祭司が年に一度、至聖所に入りました。ところが、ヘブルの記者は「ただ一度で、永遠の贖いを成し遂げた」と繰り返し述べています。そのことにより、私たちはどうなったでしょう?イエス・キリストの贖いによって罪赦され、あわれみと恵みを得ることができるということです。旧約聖書では「私の罪を赦し、私をあわれんでください」と動物のいけにえをささげました。でも、私たちは「私をあわれんでください」と祈る必要はありません。父なる神さまは「あわれみは十字架上で、すでに成し遂げられた。乞い願わなくても、あなたにあげる。あわれみと恵みはあなたのものだ」とおっしゃるのです。

 もう1つは、神さまが「あなたを赦すよ」とおっしゃっても、私たち自身が自分を赦さないということがあります。いわゆる罪責感であります。ある人たちは、「私が犯した罪は簡単には赦されない、一生かけて償わなければならない」と思っています。ローマ・カトリック教会には、「懺悔」とか「償い」という言葉があるようです。自分が犠牲を払うことによって、何か赦された気持ちになるのかもしれません。しかし、それは聖書が言う真理と反しています。さきほどの続きになります。ヘブル1113-14「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」このところに、動物の血ではなく、キリストの血について記されています。キリストの血こそが、「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とする」ということです。私たちの良心は完全ではありません。育った環境や親の教えによってゆがめられています。特に、罪に関しては「ただでは赦されない」と教えられています。このところに、「死んだ行いから離れさせ」とありますが、これは良心から罪責感を取り除く、懺悔や償いの行為です。これは死んだ行いであって、神さまのところには届かない、宗教的な行為です。人間の肉はこのような宗教的行為を好むのです。そうではありません。私たちはキリストの血を良心に受けるべきであります。そうすると良心から罪責感が取り除かれ、そして新生した霊と一緒に活動するようになります。私たちは礼拝するとき、神さまの前に出るとき、キリストの血を意識すべきであります。そうすれば、罪責感が取り除かれ、いつでも神さまの御座に近づくことができるのです。

 結論です。ヘブル416後半「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。私たちは霊的には神さまの御座のとなりにいます。しかし、肉体はこの地上にあります。簡単に言うと、霊的には第三の天にいますが、肉体的には第二の天にいます。問題は、第三の天と第二の天の間、空中に悪しき者たちがいるということです。悪しき者たちとは、サタンとその手下である悪霊どもです。彼らが私たちを攻撃し、あるときは圧迫してきます。キリストを信じていない人たちは、既に彼らのものですから、適当に彼らをあしらっています。ところが、キリストを信じている私たちは、彼らの敵であります。彼らは神さまを攻撃できませんが、神の子どもである私たちを攻撃してくるのです。いろんな悩みや困難、病気やわずらい、トラブルを与えようとするでしょう。だから私たちは、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく必要があるのです。「おりにかなった助け」とはちょうど良いタイミングで主が助けてくださるということです。神さまは第三の天から御使いを遣わし、さらには聖霊によって私たちを助けてくださるのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

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2016年12月16日 (金)

いのちの光 ヨハネ1:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.18

 初めは、このタイトルを「やみvs.光」としましたが、ゲームみたいな感じがしてやめました。なぜなら、やみと光が対等なイメージがあるからです。聖書は「やみはこれに打ち方なかった」とはっきり言っています。これはゲームとか空想でなく、現実であるということです。ところで、クリスマスは、イエス様がこの地上で誕生したことをお祝する日であります。ところが、ヨハネ1章では、イエス様がこの地上に来られる前は、どんなお方で、何をされていたかを記しています。「降誕」は、「降りて誕生する」と書きますが、イエス様はその前にどこにおられたのでしょうか?

1.いのちの光

 ヨハネの書き出しにはイエス・キリストがこの地上に来られる以前のことが記されています。11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この地上に来られる前、イエス様は何と呼ばれていたのでしょうか?「ことば」と呼ばれました。新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、「ロゴス」と呼ばれています。直接的には、「初めにロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった」となります。さらに、この方、ロゴスによってすべてのものが造られたと書いてあります。このところには神さましか持つことのできない特性が2つ記されています。第一は初めからおられた方、永遠性あるいは先在性です。第二はすべてのものを造られた創造主であるということです。はっきりヨハネは「ことばは神であった」と書いています。14節に何と書いてあるでしょうか?「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」アーメン。ことばが人になったお方は、神のひとり子であり、イエス・キリストであります。聖書をそのまま読むならば、イエス・キリストは永遠から神と共におられて、すべてのものを造られた神さまであると言うことが分かります。キリスト教の異端の人たちが、何と言おうと、「ことばは神であった」と書かれています。ただし、この神は、人となられた神の子イエス・キリストだということです。

 さらにヨハネはロゴスなるイエス・キリストがどのようなことをされたのか明記しています。ヨハネ14「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」このところに、「いのち」ということばが2回出てきます。いったいどのようないのちなのでしょうか?英国のイングリッシュ・バイブルというのがあります。All that came to be was alive with his life, and that life was the light of men.直訳しますと、「すべてのものが彼のいのちによって生かされた。そして、そのいのちは人間の光であった」ということです。このところに「世」ということばが何度も出てきます。ヨハネ3章に「神さまは世を愛された」と書かれています。私たちは勘違いしていますが、この世に生きているのは人間だけではありません。創世記9章には、洪水の後、神さまとノアが契約を結んだことが記されています。「わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出す」(創世記915とありますように、神さまは人間とだけではなく、すべて肉なる生き物と契約を結ばれました。つまり、聖書で「世」と言ったとき、人間だけではなく、海や空、陸の動物も含まれているということです。創世記1を見て分かりますが、動植物はことばによって造られ、いのちが与えられました。そして、人間は神さまの手で造られ、そして鼻から息を入れられました。人間には動物と違って、肉体的な命だけではなく、霊的な命が与えられています。

 さらに9-10節を見てみましょう。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」英国のイングリッシュ・バイブルをもう一度、引用させていただきます。He was in the world; but the world, though it owed its being to him, did not recognize him.直訳すると「世は彼に存在を負っているのに、彼を知らなかった」と書いています。さきほど、すべての生き物にいのちを与ええたのはいのちであるロゴスであると申し上げました。言い換えるといのちであられるキリストが人間に命を与えたのです。そういう意味では、人間の命はキリストに負っているということです。言い換えると、世話になっている、恩恵を被っているということです。ところがこの世の人たちの多くは進化論を信じています。彼らは生物は自然に発生したんだと言います。何十億年も前に原始のスープからアミノ酸が偶然に絡まって、生物が誕生したと言います。それがだんだん進化して動物が誕生し、さらに人間になったと言うのです。彼らは神さまの創造ではなく、偶然に生物が誕生し、偶然にそれが人間に進化したのだと言います。でも、ヨハネは、イエス・キリストはすべての生物にいのちを与える、いのちそのものだと言っています。そして、「そのいのちは人間の光であった」と述べています。どうでしょう?あなたは、神がいなくて、偶然に自然にできた人間として信じているでしょうか?それとも神さまが手造りし、キリストを通して命を与えた人間として信じているでしょうか?人間はいくらがんばっても生命を作り出すことはできません。生命を作られたのは創造主なる神さまです。さらに、神の被造物の冠である人間には霊が与えられ、その人間を照らすまことの光はイエス・キリストであります。私たちはまことの光であるキリストによって照らされてはじめて、自分がだれであるのか本当の自分が分かるのです。

イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光、いのちの光です」。讃美歌にありますが、「低きも高きも」です。上流の人も下流の人もです。生まれつき不遇な人も、生まれつき恵まれた人もです。確かにこの世は平等ではありません。しかし、神さまはどんな人にも救いを与える、まことの光、いのちの光です。不遇でどん底のような人生の人こそ、高く引き上げられ、豊かな恵みを受けられるのです。そういう意味で神さまは平等です。この世で報われない人には、御国の報いをもって飽かせて下さるお方です。



2.
やみの支配

 ヨハネ15「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」光はロゴスですが、「やみ」とはだれのことなのでしょうか?また、5節の出来事はいつのことなのでしょうか?このところは「ことばが人となる」前のことです。おそらく、このことは私たち人間が造られる前のことではないかと思います。ところで、ヨハネ11節の書き出しは「初めに、ことばがあった」でした。「初めに」In the beginningどこかと似ていないでしょうか?創世記11節「初めに、神が天と地を創造した。」同じ書き出しです。しかし、その後の創世記12節が問題です。少し前の訳ですが、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と書いてあります。地というのは地球のことであります。神さまが1節で、天と地を創造したのに、2節では「やみが大いなる水の上にあり」と書いてあります。1節と2節の間に何かあったのではないでしょうか?これは1つの説であり、決定的ではありません。ある人たちは、1節と2節の間に膨大な時間があり、この間にサタンが堕落したのではないかと言います。『失楽園』を書いたジョン・ミルトンは、アダムとエバが造られる前に、サタンがどのように堕落したのか書いています。聖書にはそのことを示唆する文章が少なくとも2箇所あります。イザヤ書14章とエゼキエル書28章です。サタンは天使長の一人で美の極みであったと記されています。彼は高ぶって神のようになりたいと思いました。そのとき天使の3分の一を味方にして、神と戦いました。ところが神に敗れて、天から突き落とされました。その出来事が、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ということではないかと思うのです。敗れたサタンはどこへ行ったのかというと、この地上にやってきました。その証拠に、サタンは蛇に化けて、エバを誘惑しました。つまり、人間の創造以前に、サタンは地上にいたということです。

 アダムとエバはヘビの誘惑に負けて、食べてはいけない木から食べてしまいました。そして、エデンの園から追い出され、やがては死ぬようになりました。聖書で、「この世」あるいは「世」というのは神から離れた人たちのことを指しています。しかし、それだけではありません。「この世の君」、「この世の神」という存在がいます。どういうことかと言うと、本来、神さまが人間にこの世のすべてを管理するように、人間にその支配権を与えました。ところが人間が堕落したために、その支配権はどうなったのでしょう?サタンが横取りして、この世と人間までも支配するようになったのです。その証拠に、サタンはルカ46「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言っています。私たち人間は「神もサタンも認めない。私は自由だ、自由だ」と言っているかもしれません。しかし、私たちは罪と死とサタンに支配され、やがては永遠の滅びに行く存在であります。このところで言う「やみ」とは、サタンのことです。この世の人たちはサタンに支配されやみの世界を歩いているのです。ヨハネが第一の手紙でこのように言っています。Ⅰヨハネ519「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」私たちは好むと好まざるにかかわらず、この霊的事実を知らなければなりません。そうしないと、救いという概念が狭くなるからです。救いというのは単に罪赦され、永遠の命が与えられるだけではありません。何から救われるか、どこから救われ、どこに行くのかということがということを知らなければなりません。

 そのことを使徒パウロが使徒26章とコロサイ1章で明確に語っています。使徒26:17-18「 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」パウロは「救い出す」ということを18節で説明しています。このところにはいくつかの段階があります。第一は彼らの目を開くということです。パウロが福音を語ると、そこに聖霊が働いて、霊的に目が開かれると言うことです。第二は「暗やみから光に」とあります。これはまさしく、ヨハネ1章が言っている事柄です。でも、暗やみとは何で光とは何なのでしょうか?続いて、「サタンの支配から神に立ち返らせ」とあります。暗やみとはサタンの支配であり、光とは神の支配という意味であります。「支配」ということばが嫌いでしょうか?支配とはギリシャ語でバシレイアであり、王国という意味です。言い換えるとサタンの王国から神の王国へと移されるということです。同じことがコロサイ1章でも言われています。コロサイ113「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン。」原文のギリシャ語を直訳すると、「神は暗やみの権威から解放し(delivered)、御子の王国に移してくれた(transferred)」ということです。まとめて言うと、「救われる以前は、私たちは暗やみであるサタンの支配の中にありました。ところが、神さまは私たちを解放し、キリストの王国に移してくださった」ということです。つまり、クリスチャンは住んでいる世界が違うということです。この世ではなく、キリストの王国の中に住んでいるということです。

 でも、解放されキリストの王国に移されるためには、私たちがなすべき事があります。第三は「わたし(キリスト)を信じる信仰よって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされ、御国を受け継がせる」ということです。キリストを信じることが必要だということです。キリストを信じることにより、罪赦され、聖なるものとされ(義とされ)、御国を受け継ぐことができるんだということです。アダムとエバが堕落したのは自由意思でした。神である主が「食べてはならない」と言ったのに、二人は食べたのです。神さまは人間に最高のものを与えました。それは自ら決断して選ぶという自由意思です。二人は神に従うべきだという自由意思を間違って使用しました。だから、堕落しました。でも、神さまはもう一度、チャンスを与えました。キリストを信じる者を救われると約束しておられます。救われるというのは罪赦され、聖なるものとなるということです。でも、そればかりではありません。暗やみであるサタンの支配から解放され、キリストの王国に移されるということなのです。やみから光に移されることが救いなのです。

3.やみから光へ


 前のポイントで、やみから光に移されることが救いだと申し上げました。私たちはキリストを信じるだけで救われるのでありますが、今度は神さまの方から救いのことを考えたいと思います。言い換えるなら、「神さまはどのように私たち人間を救おうとされたのか?」ということです。神さまはアダムとエバが罪を犯してしまったとき、「ああ、もうだめだ」と困って頭を抱えたでしょうか?そうではありません。三位一体の神は永遠の昔から人間を救う計画を持っておられました。旧約聖書でアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルによって全世界を救おうとされました。ところがそれが失敗に終わりました。最後にどうしたでしょうか?神の御子をこの世に遣わしたのであります。これがクリスマスです。クリスマスとは神の御子が馬小屋に生まれるだけではありません。私たちは、もっと全体な視野でそのことを考えてみたいと思います。ヨハネ19「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」とあります。でも、その前後に、光についてあかしする人が神から遣わされると書いてあります。そればバプテスマのヨハネのことであり、光についてあかしをするために生まれました。彼はイエス様より先だって活動し、メシヤの到来に備えるように荒野で叫びました。その後、ごロスなる方はご自分の国であるユダヤ(イスラエル)に生まれました。ところが、どうでしょう?ヨハネ111「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。王様はもちろん、宗教家たちも、一般の民衆もイエス様を受け入れなかったのであります。最初、人々から「この人がメシヤだと」思われたこともありましたが、十字架に捕えられたとき、みんな躓いてしまいました。それどころか、「十字架につけろ」とまで叫んだのであります。ヨハネ112「しかし、この方を受け入れた人々」とありますが、ここには明らかにユダヤ人以外の人にも救いがあることを暗示しています。言い換えると、「しかし、だれであっても、この方を受け入れた人々は」となります。

 では、ヨハネが言うクリスマスとは何でしょう?ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」これがヨハネのクリスマスです。ちなみに、来週は「ヘブルのクリスマス」という題になっています。今年はクリスマス礼拝を18日にしたら良いのか、25日にしたら良いのか世界中の教会が迷っているのではないでしょうか?「ことばが人になって、私たちの間に住まわれた」これがクリスマスです。ことばとは、ロゴスであり世が造られる永遠の昔から、父なる神さまと共におられた方です。しかも、ロゴスによってすべてのものが造られ、すべて肉なるものにいのちの光が与えられたということです。人間をはじめ、息をするすべての肉なるものがロゴスなる方にいのちを負っているということです。なんと、そのロゴスなる方が、人となり、私たちの間に住まわれたということです。「人となる」はギリシャ語で、「天幕を張る」「天幕に住む」という意味のことばになっています。パウロはこの肉体を天幕にたとえています(Ⅱコリント51)。そして、神学的には神が人となることを「受肉」incarnationと言います。英語でcarnalは「肉体の」「肉欲の」という意味があります。ギリシャ人は肉体は悪と考えていましたので、「神が肉体を取るなんてありえない」と躓いたのであります。しかし、あえてロゴスなる神は、私たちと同じような朽ち果てる肉体を取って生まれたのであります。なぜでしょう?簡単に言うと、ロゴスなる神は「人間を救うために人間になってこの地上にやって来られた」ということです。本来なら、天から長いロープを垂らして、「これにつかまったら救ってやるぞ」と言ってもよさそうなものです。そうすれば、犠牲を払うこともないし、痛みもありません。でも、ロゴスなる神が肉体を取り、人間になるというのは大変なことであります。ある人は「それは人間がうじ虫になるようなものだ」と言いました。私はうじ虫にはなりたくありません。ロゴスなるイエス様もそう思っていたに違いありません。

 さらに続いて、ヨハネがこう述べています。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「私たち」というのは、ヨハネをはじめイエス様を実際に見た人たちであります。もっと言うとイエス様の十字架と復活を見た人たち、目撃者であります。ヨハネは「この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言っています。ヨハネはイエス様と3年半地上で一緒に過ごしました。だから、Ⅰヨハネ11「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書いています。おそらく、父なる神とそっくりだけれど、ひとり子としての神の栄光も備えておられたのでしょう。そして、その特徴は何なのでしょうか?「この方は恵みとまことに満ちておられた」とあります。この短いことばの中に、イエス様の人格とイエス様がなされたことが凝縮されています。パウロは使徒26章で「キリストを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ」と言っています。私たちはキリストの何を信じて救われるのでしょうか?私たちはキリストの人格となされたみわざを信じるということです。二つをまとめるとキリストの御名を信じるということです。ヨハネが言う「恵みとまこと」とは何なのでしょうか?これは、どの教会であっても一致しています。恵みとはイエス・キリストの生涯、特に死と復活を通して示された神の愛を言い表す言葉です。恵みとはキリストの死と復活を通して示された神の愛であります。私たちは神の愛である恵みがキリストによって目の前に提示されているのです。それでは「まこと」とは何でしょうか?ある人たちは「まこととは律法であって、とても厳しく、峻厳なものである」と言います。そうではありません。恵みとまことは、双子の兄弟であります。まことはギリシャ語でアレーセイヤですが、「真理」という意味です。辞書には「義、聖など、神の御旨の実行となって現されるその実践的側面」となっていました。つまり、見せかけではなく、真実にということです。私たちは不真実であり、信仰も曖昧です。でも、私たちの信仰の対象であられるお方が、真実なお方なら大丈夫なのではないでしょうか?私たちがこの救いを得られるのは、キリストの恵みでありまことであるということです。やみの中にいた私たちを救うために、光なるキリストが人になって来られたのです。

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2016年12月 9日 (金)

ありえないこと ルカ1:5-13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.12.11

 きょうは二人の人物が登場します。最初はザカリヤです。彼はバプテスマのヨハネの父です。バプテスマのヨハネは奇蹟的に誕生しました。なぜなら、ザカリヤの妻は不妊の女性であり、しかも高齢だったからです。もう一人はマリヤです。彼女はイエス様の母です。イエス様も奇蹟的に誕生しました。なぜなら、マリヤは処女であり結婚したことがなかったからです。両者ともクリスマスに関係がある人物ですが、一人は信仰がなくて、もう一人は信仰がありました。神さまは私たちにありえないこと、つまり奇跡を起こそうとしておられます。

1.ザカリヤの不信仰

 バプテスマのヨハネの誕生は奇跡的でありました。ルカ1:5-7「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」このところに、「ザカリヤの妻エリザベツは不妊の女だった」と書かれています。しかも、二人ともかなり年をとっていたようであります。イスラエルでは「不妊の女性は神さまの祝福がないからだ」と考えられていました。ところが、聖書では不妊の女性からすばらしい人物が誕生したという記述はたくさんあります。たとえば、イサクを生んだサラもそうでした。ヨセフを生んだリベカもそうでした。サムソンを生んだハンナもそうでした。どれもこれも、神さまが奇跡を起こしてくださった結果であります。エリザベツは不妊であり、さらに高齢でありました。ある時、ザカリヤは一人で神殿の中に入り奉仕をしていました。真っ暗な神殿であかりを灯し、香をたいていました。その時です。主の使い、天使が彼の前に突然現れました。

 ルカ113-17「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」驚くべきことに、天使は不妊の妻エリサベツが男の子を産むと告げました。そればかりではありません。名前がヨハネと決まっており、どういう一生を過ごすか、どのような神さまの計画があるかまで告げました。神さまの計画を一番良く言い表すことばはdivine destinyです。神さまの運命、神意であります。きょう来られている方々ひとり一人にも、divine destiny神意があることを覚えていただきたいと思います。バプテスマのヨハネのdivine destinyはイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせること。また、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するということでした。

 そのようなすばらしい預言をザカリヤは天使から聞きました。彼はどうしたでしょう?ルカ1:18 「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』」ザカリヤは簡単に言うと「そんなのありえない」と疑ったのです。そのため、神さまのさばきが下りました。ルカ119-20「御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」』ザカリヤはバプテスマのヨハネが生まれるまで、差別用語で申し訳ありませんが、おし(唖)になりました。ザカリヤは疑いましたが、それでもバプテスマのヨハネが二人を通して生まれるという約束は変わりませんでした。残念ながら、ザカリヤは10か月ものが言えず、話せなくなりました。もし彼が、口がきけたなら、天使から言われたことを吹聴して、それこそバプテスマのヨハネが誕生しなくなる恐れも出てきます。不信仰に対するさばきではありましたが、一定の期間だったということです。

 私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?ありえないことが起こるようなとき、私たちもザカリヤのように疑うのではないでしょうか?ザカリヤは2つの理由で、天使の預言を否定しました。第一は妻エリザベツが不妊の女だったということです。彼女も「私は不妊だ」と言うし、お医者さんも不妊だと言うし、周りの人々もそうだと言ったのかもしれません。彼女は「私は不妊で一生過ごすのです」というレッテルを貼っていました。それも1つの信仰であります。第二は両者とも高齢であったということです。ザカリヤは「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と断言しています。アブラハムとサラのことを忘れたのでしょうか?それよりも、知識と経験から「年なので子どもは無理」という考えが固まっていたのでしょう。それも1つの信仰であります。ここで注目すべきことは、天使のことばです。天使は「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と言いました。このところから分かることは、ザカリヤは子どもが生まれるように祈っていたということです。何年か何十年間か分かりませんが、「主よ、どうか子どもが与えられますように」と祈っていたのです。ですから、ザカリヤは全く不信仰だったという訳ではありません。ある時まで、信じていたのですが、「妻は不妊であり、自分たちももう年だ」と分かった時から、祈りをずっとやめていたということです。神さまはザカリヤの祈りをちゃんと受け止めていました。神さまは「今がそのときだ」と天使を遣わしたのに、肝心のザカリヤはその願いを捨てていたのです。

 このところから私たちは2つのことを理解しなければなりません。第一は、私たちの祈りはどんな祈りであっても神さまのところに届いているということです。第二は、神さまの時があり、そのときも信じて祈っているかということです。たとえて言うと、品物をくださいと注文しました。ところが長い間、待っていても来ません。ある時、宅配人が品物を届けにきました。でも、不在だったので、持って帰って行きました。ザカリヤもそういう状態でした。神さまは真実なお方なのですが、私たちの方が不真実だということです。そこにはいろんな理由があるかもしれません。でも、せっかく祈っていたのに、途中でやめていたという事実がそこにはあります。ありえないことが起こるかもしれません。しかし、それはかなり前ではありますが、自分が祈っていたことなのです。私たちの方はとっくに諦めて祈りをやめていました。でも、神さまの方は覚えておられ、時が満ちた時、叶えてあげようとされます。イエス様はルカ18章で、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われました。

2.マリヤの信仰

 ザカリヤへの告知の6か月後、御使いガブリエルは処女マリヤに現れました。ルカ128-33御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」天使はザカリヤと同じようなことをマリヤに告げています。まず、生まれる子どもの名前がイエスと決まっていました。では、その子どものdivine destiny神意は何でしょう?その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」バプテスマのヨハネの神意は、イスラエルの子らを主に立ち返らせることでした。そして、イエス様の神意は、彼が王となり、その国を永遠に治めるということでした。いと高き子と呼ばれるという意味は、「神の子」でありメシヤであるということです。天使の告知から、イエス様は人間として生まれるけれども、本当はいと高き神の子であり、やがて永遠の御国を治める王になることが分かります。

 この天使のことばに対してマリヤはどう答えたでしょうか?ルカ1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」一見、ザカリヤと似ていますが、マリヤは違います。ザカリヤは「エリザベツが不妊の女で、自分たちも年なので不可能です」と疑いました。しかし、マリヤはその理由が知りたくて、単純に天使からさらなる情報を求めているのです。マリヤは「自分はまだ結婚していないのに、どうしてそのようなことになりえましょう」と聞いています。マリヤの質問に対して、天使がこのように答えました。ルカ135-37「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」天使は聖霊によってその子は生まれるのであり、それは神の超自然的な力であると言いました。さらに、不妊の女と言われていたエリザベツも「あの年になって男の子を宿しています」と告げました。天使はマリヤに信仰を持たせるために、エリザベツの奇蹟的な懐妊を知らせました。そして天使はザカリヤの時のように、怒ってさばいていません。ただ、理由を補足しただけです。それに対して、マリヤはどのように応答したのでしょうか?

 ルカ138マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」すごい、もう十分ですとばかり、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と自分を明け渡しました。ザカリヤは「そんなことありえないでしょう」と疑いました。しかし、マリヤは「たとえありえないことでも、この身になりますように」と信じました。私たちは一言で「信じる」と言いますが、その背後にはもっと深い要素が含まれています。まず、マリヤはザカリヤのように前から「メシヤを生むことのできる母にしてください」とは祈っていませんでした。それよりも、「婚約中のヨセフと早く結ばれたい」と願っていたことでしょう。ところが、婚約中に妊娠したならどうなるでしょう?ヨセフが「ああ、聖霊によって身ごもったのですね」と言うでしょうか?また、ユダヤでは婚約中に他の男性の子どもを産むということは姦淫であり、石打ちの刑で殺されました。現代では、そういうことがあるかもしれませんが、当時は十戒を破った罪で処罰されました。マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。しかし、頭の中ではいろんなことがよぎったのではないかと思います。でも、そのようなものを全部、捨てて、自分を主のためにささげたのです。つまり、信仰はことばだけではなく、全生活、全人生がかかっているということです。そして、ある時は多大な犠牲、支払うべき代価も伴うんだとういことです。でも、マリヤはそのようなマイナス要素を全部蹴飛ばして、メシヤの母になることを選びました。

 マリヤは、メシヤの母になることがどんなにすばらしいことか自ら歌っています。ルカ146-48「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」マリヤは自分をどのように見ていたのでしょうか?自らを「卑しいはしため」と呼んでいます。また、御使いガブリエルに対しても「私は主のはしためです」と言いました。「はしため」とは何でしょう?ある辞書には「召使いの女、はした者、下女」とありました。しかし、当時は、女性が自分をへりくだって言う時に使っていたようです。はしための男性版は、「しもべ」です。モーセやパウロも自らを主のしもべと言いました。ですから、これを差別用語と片付けるのではなく、神さまの前に自分を差し出す時の心の態度だということでしょう。もちろん、私たちは神の友であり、王子であり、王女です。でも、神さまから何か使命を賜ったとき、「私は主のしもべです」「私は主のはしためです」という態度が重要なのではないかと思います。そこに主である神さまへの全幅の信頼と、献身と、信仰があるからです。現代は、献身ということばも死語になりつつあります。献身的などというと、とっても暗いイメージがあります。でも、神さまへの献身は、特権であり、報いがあり、とても喜ばしいことです。だから、マリヤは「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と歌ったのです。ローマ・カトリックはマリヤを礼拝の対象にまで高め過ぎました。そういう極端は間違っていますが、私たちはマリヤの献身と信仰を学ぶべきではないかと思います。

3.ありえないこと

 ありえないこととは、私たちの常識や経験、科学や神学を越えることがらであります。聖書にはこのようにたくさんのありえないこと、奇跡が記されています。ところが、現代の教会やクリスチャンがそれらの奇跡を信じているかというとそうではないということを気づかなければなりません。まず、第一に現代の教会やクリスチャンは天使の存在を信じてはいますが、当時のように活躍はしていないと思っています。キューピトのように可愛らしくて、おとぎ話に出てくるような存在だと思っている人もいます。しかし、このテキストに出てくる御使いガブリエルは天使長の一人で、聖書では大事な知らせを伝えるときに出てきます。天使のギリシャ語はアンゲロスですが、「知らせを持っている」「知らせる」という言葉から来ています。現代においても、天使が私たちに何かを知らせて導いてくれる時があるかもしれません。第二は、両者とも奇跡的な誕生です。バプテスマのヨハネは、不妊の女性と高齢の男性から生まれました。イエス様は処女マリヤから生まれました。ザカリヤは「ありえないこと」と疑いました。一方、マリヤは説明を求めた後、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と願いました。マリヤの態度ことが、ありえない奇跡を受け止める姿であり、信仰です。神さまは私たちに理性とか常識を与えて、これを用いるように願っています。しかし、自然を越える超自然的な出来事に対しても心を開くように求めておられるのではないでしょうか?第三は、divine destiny、神意です。神さまは両者が生まれる前から、名前を決めており、さらにどのように一生を過ごすべきか、何をやり遂げるべきかまで計画しておられます。計画というよりは神さまが定めたdivine destiny神意であります。私たちの場合は、名前は両親が決めますが、その生き方はどうでしょう?両親の願いや本人の願いもあるでしょう。でも、その根底に神さまが定めたdivine destiny神意があるとしたらどうでしょう?やはり、私たちは心を開いて、神さまに求めるべきではないでしょうか?

 最後に私たちはマリヤのようなありえないことに対する心の態度が必要です。ルカ129「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」さらに、ルカ219「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」さらに、ルカ251「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」これらに共通することばは、「じっくり考える」「よく考える」ということです。マリヤはありえないことに対して、何も考えないで飛び込んだわけではありません。それは本当なのか、信じるに値するものなのか、じっくり考えた結果だったということです。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える。」という格言があるようです。人によって慎重な人と、とにかくやってみる人がいるかもしれません。でも、神さまの奇蹟、ありえないことを期待することも必要です。ザカリヤのように私たちの祈った祈りは、神さまの前に届いているのです。ところが、現実の様々な問題や障害によって、「無理だな」と取り下げてしまっているかもしれません。神さまはありえないことを起こしてくださる力ある神さまではないでしょうか?結果は、願っていたものとは違うものであるかもしれません。でも、父なる神さまは、最善なものを子どもである私たちに与えたいと願っているのではないでしょうか?イザヤ559-11「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」アーメン。

 ジョエル・オスティーンの妹のリサさんは、何年間も辛い不妊治療を受けました。結婚前、教会の事務所で働いていたとき、牧師である父宛ての小包が届きました。開けた瞬間、爆発し大きな怪我を負いました。その事件はテキサスのヒューストン中に知れ渡りました。その時、腹部を痛めたことがありました。お医者さんは、その時の怪我が原因ではないかと言いました。もう、子どもを授かるのを諦めていたとき、見本のベビー・オムツが送られてきました。ご主人が開けると可愛いオムツが2つ入っているではありませんか。ご主人はパッケージに「私たちの双子のために1217日」と書きました。それまで、二人は養子についても祈っていました。数か月後、リサさんの友人から突然、電話がありました。その人はある講演で一緒に話したことのある姉妹で、マーシー(あわれみ)のミニストリーをしていました。彼女は「普通はこういうことはしないけど、ぜひあなたに知らせなくては」と思って電話したそうです。17歳の女性が双子の赤ちゃんを宿しているけど、自分では育てられないということでした。養子先を願っているけれど、1つだけ条件があり、身内に双子がいるこことでした。なんとリサさんのご主人は双子だったそうです。二人は、この間の2つのオムツと言い、身内に双子という条件と言い、これは神さまからの贈り物に違いないと思ったそうです。早速、かわいい女の子の双子が与えられました。自分たちの祈りとは違ったけれど、祈りが答えられました。私たちは祈りをやめるべきではありません。神さまが聞いていて下さるからです。神さまからのありえないことを受け取りましょう。

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2015年12月24日 (木)

ひれ伏して拝んだ マタイ2:9-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.12.24

 私たちはどれくらいイエス・キリストについて分かったなら、信じるのでしょうか?東方の博士たちは伝説と星を頼りにユダヤにやってきました。それも幾多の困難や危険を冒して、遠路はるばるやってきました。その距離は2000キロ以上あったことでしょう。ベツレヘムの家で幼子を発見し、ひれ伏して拝みました。そして、宝物の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげたのであります。考えてみると、博士たちはイエス様の奇蹟も見てないし、崇高な教えも受けていません。まだ十字架の贖いも成し遂げていないイエス様をメシヤとして礼拝したのであります。きょうは、「にもかかわらず信じた博士の信仰」について学びたいと思います。 

1.何も受けていないのに…

 博士たちは、イエス様から何もいただいていません。病気が癒されたわけでもなく、商売繁盛とか、ご利益を受けていません。祝福の祈りも、ありがたい教えもいただいていません。だって、相手は幼子であり、何もできません。しかし、博士たちは幼子を礼拝し、宝物をささげたのであります。博士たちはこの先、人生において何かメリットがあったのでしょうか?おそらく、博士たちが得たのは「自分たちの星占いは当たっていた。自分たちは古くから預言されていたユダヤ人の王に出会った」という喜びだけでした。この世の人たちは、対象の神さまに何かご利益がないと拝みません。受験、安産、商売繁盛、けがや病気、事故や災難から守られること。そのために対象の神さまを拝みます。自分に何もしてくれない、拝んでも何の効果もない神さまを拝みません。ましてや宝物をささげるということはまずありません。

 ところが博士たちは母マリヤとともにおられる幼子を見てひれ伏して拝みました。博士たちがイエス様を拝んだ理由はただ1つです。それはイエス様が世界的な王であり、神さまだからです。何かしてもらったとか、何かご利益があるとか関係ありません。目の前のイエス様が神さまだったから礼拝したのです。このことは私たちも学ぶ必要があります。でも、相手が神さまというだけで、どうして礼拝しなければならないのでしょうか?聖書が言う神さまは創造主であり、世界とその万物を創られたお方です。もちろん私たち人間も創られました。聖書の創世記によると私たち人間のために、月星太陽、地球、海、植物、動物たちが創られたと書いてあります。私たちが吸っている空気、洗濯物を乾かしてくれる太陽、飲んでいる水、みんな神さまからいただいたものです。さまざま地下資源、またそれらを加工できる知恵や技術ももとは神さまからものです。神さまが宇宙に法則や真理をあらかじめ備えて下さったから、私たち人間がそれらを発見することができるのです。もし、宇宙や世界が偶然の産物で、でたらめであったなら、法則や真理も発見できないでしょう。最後に、私たちの命、からだの機能もすべて、神さまが与えてくださったものです。私たちは、もうすでに受けているのです。だから、私たちは創造主なる神さまを礼拝するのです。

2.何も見てない、聞いていないのに…

 私たちが信じるためには、資料とか何らかの証拠が必要です。特にイエスがキリスト(メシヤ)であるならば何らかのしるしが必要です。パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を要求します」と言いました。ある先生は、日本人はご利益を要求すると言いました。これは先ほど、お話ししました。しるしというのは、メシヤであることの証拠であります。多くの場合、それは奇蹟とかメシヤとしての預言の成就ということでありましょう。福音書を見るとわかりますが、イエス様は嵐の海を沈めたり、5つのパンで5000人を養ったり、病気を癒し、死人さえよみがえらせました。ヨハネは福音書の終わりで「イエスが行われたことは、他にもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい」と私は思うと言いました。私はカシオの電子辞書持っていますが、そこには英語の辞典はもちろん、広辞苑、ブリタニカ百科事典、文学書、家庭の医学、国家資格…なんでも入っています。ヨハネはこういう文明の利器を知らなかったのでしょうか?そういう意味ではありません。ヨハネ福音書には7つの大きなしるしが書かれていますが、それはイエスがメシヤであることのしるしは十分であるという意味です。しかし、ユダヤ人たちは「もっとしるしを見せてほしい」と願いました。それに対して、イエスさまは「ヨナのしるし以外は与えられていない」と言いました。これはイエス様が三日目に死人の中からよみがえるという奇蹟であります。もし、復活を信じないのであれば、もう無理だということです。つまり、ユダヤ人は信じたくなかったので、信じなかったのです。

 もう1つメシヤのしるしは、その崇高な教えです。山上の説教を聞いた人々は、その権威ある教えに驚きました。律法学者もイエス様と議論して、その知恵におどろきました。でも、彼らが信じたとは書かれていません。むしろ信じたのは、罪びとや遊女、取税人たちです。その当時、罪びとというのは、律法を知らないし、律法を守れない人を言ったのであります。つまり、聖書の教えを良く知っている人が信じるかというと必ずしもそうではないということです。信じるというのは頭ではなく、心で信じるものだからです。博士たちがひれ伏して幼子を拝みました。これは「私の理性ではわかりませんが、あなたは神さまです」と頭をさげたということです。博士たちは神学的な教理を学んだこともないし、聖書の釈義を学んだこともありません。もちろん、イエス様から教えもいただいていません。なぜなら、イエス様はまだ幼子で口がきけません。でも、何が博士たちをそのようにさせたのでしょうか?それは霊であり、神からの啓示です。パウロはエペソ人への手紙でこう祈っています。エペソ117「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」アーメン。東方の博士たちは、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられていたので、目の前の幼子がメシヤであることを信じることができたのです。神学校では教理とか釈義を学びますが、神を知るための知恵と啓示の御霊の方が重要なのです。

3.何もないのに…

 クリスマスといえば華やかなデコレーションでしょう。数年前ですが散歩の途中、中川大橋を渡って、神社を過ぎたところで左折しました。突然、ものすごいイルミネーションが飾ってありました。小さな道が電飾のアーケードになっており、家の壁から屋根までが光っていました。まるで、ディズニーランドに迷い込んだような気がしました。面白いことに、すぐ先が神社だったんですね。おそらく、行き止まりなので、そういうことができたのでしょう。また、クリスマスといえば歌とかパーティでしょうか?ホテルではディナー付きのクリスマスもあります。FENというラジオ局をまわせば、一日中、クリスマス・キャロルがかかっています。とにかく、クリスマスというのは賑やかで、きらびやかで、楽しいというのが定説であります。ところが、ベツレヘムのイエス様がおられた家はどうでしょう?おそらくイエス様はエルサレムで割礼を受け、シメオンなどから祝福を受けた後でしょう。そこは馬小屋ではなく、宿屋だったと思います。なぜなら、マリヤは産後のために1か月くらいは休む必要があったからです。でも、そこにはきらびやかな電飾もなければ、生バンドやサウンドシステム、舞台を盛り上げる会衆もいなかったでしょう。

 私たちはとかく外見で判断します。中身よりもプレゼントのラッピングを気にします。もし、世界的な王が誕生したのだったら、立派な施設で大勢の人たちが仕えているはずです。ところが、生まれたのは馬小屋、産後しばらくは小さな家にいました。あるいは宿屋かもしれません。教会も立派な建物だったらクリスマスにふさわしいのでしょうか?私は24歳のころ、アメリカ人が来る東林間の教会に英会話を学ぶために通っていました。その教会でイヴ礼拝があるというので出かけました。ちょっと遅れて到着したので、分厚いドアが閉まっていました。鍵はかかっていなかったかもしれません。しかし、場違いな感じがしてそのまま帰ってきました。それから1年後、座間キリスト教会で洗礼を受けました。その教会の建物はとても古くて、八百屋さんと床屋さんの狭い路地を入った奥にありました。私は洗礼を受けて半年後でしたが、青年会のクリスマスのプログラムを任されました。手作りのクリスマスで素朴でとっても楽しかったです。私のために救い主がお生まれになったという喜びがありました。それから、36年間、お祝いしていますが、本質的なものが分かると、華美なものは必要ないと思うようになりました。

 いろんなクリスマスの逸話がありますが、その中で私が感動したものを紹介したいと思います。この出来事は、カナダの「シャインツマン」という新聞に載った実話です。クリスマスの夜のことでした。ひとりの女の子が、冷たい北風が吹きぬける暗い道を歩いています。どこまでも続く、高いレンガのへいのそばの道を、女の子は小さなプレゼントを胸にいだいて、ブルブル震えながら歩いていました。実は、そのレンガの塀の内側は刑務所で、その子のお父さんが、殺人犯でつかまえられていたのです。やがて刑務所の門のところまできた女の子は、守衛のおじさんに言いました。「おじさん。お父さんに会わせてください」「ダメだ。もうとっくに面会時間は過ぎている。明日来なさい。」「あのー、お父さんにクリスマスプレゼントを渡すだけなんです。ちょっとだけなんです。入れてください。」「ダメダメ。刑務所の規則は厳しいんだ。明日来なさい。」「明日はもうクリスマスが終わってしまいます。お願いです。ちょっとだけ、お父さんに会わせてください」「ダメだと言ったらダメなんだ。今日はダメなんだ」。とうとう、女の子は泣き出しました。ちょうどそこへ、刑務所長が通りかかりました。かわいそうに思った所長は、やさしく声をかけました。「おじさんが、そのプレゼントを、お父さんに渡してあげよう。今、すぐ渡してあげるから、泣かないで帰りなさい。明日、お父さんに会いにいらっしゃい」。実は、その女の子のお父さんは、手のつけられない囚人でした。乱暴で、凶暴で、刑務所の規則など、何も守らない囚人でした。独房の中で、所長からプレゼントを受け取ったその男は、リボンをほどきました。中に一枚の紙切れがありました。「大好きなお父さんへ。お父さんが殺人犯だということが恥ずかしいと言って、お母さんは家を出てしまいました。クリスマスに、お父さんにプレゼットを贈りたいと思いましたが、お金がありません。そこで、お父さんが優しくなでてくれた、私の赤い巻き毛の髪を切りました。これを、今年のプレゼントにします。お父さん、私はどんなに辛くても、さびしくても、お父さんが帰って来るまでがんばります。お父さんもがんばってください。刑務所は寒いと思います。お父さん、風邪をひかないで…」

 読んでいく男の目に、どっと涙があふれました。男は、箱の中から、赤い巻き毛をつかみだすと、その中に顔をうずめて泣きました。肩を震わせて泣きました。その次の日、男は、まるで別人のようになっていました。大きな刑務所の中で、最も模範的な囚人に生まれ変わったのでした。愛ほど、私たちを変えるものはありません。聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書いてあります。イエス様と出会うとき、神さまの愛を知ることができます。イエス様は私たちを救うために、天の御座を捨て、地上に人間として生まれてくださったのです。私たちの罪を負って身代わりに死ぬために来られたのです。このイエス様を信じるとき、罪赦され、永遠の命が与えられます。刑務所のお父さんが娘の愛に触れて変えられたように、私たちも神さまの愛に触れると変えられます。古きは過ぎ去り、すべてが新しくなります。

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2014年12月24日 (水)

ひれふして拝んだ イブ礼拝 マタイ2:7-15 鈴木靖尋  2014.12.24

 クリスマスおめでとうございます。イブ礼拝は独特な雰囲気です。亀有教会にはない厳かな感じがします。おそらく、カトリック教会ではミサを夜通しあげるのではないかと思います。私たちも、しばし静かな思いで、聖書のみことばに共に耳を傾けたいと思います。マタイ210-11「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」

 このところに「ひれ伏して拝んだ」とありますが、東からの博士たちは、幼子イエスを礼拝したということです。礼拝するは英語でworshipであります。英語学的には価値を意味するworthに、状態や身分を意味するshipがくっついたものです。直訳するとworshipは「その価値をたたえる」あるいは「その価値を拝む」ということになります。ある人が言いました。「人間だけが神さまを礼拝するのであり、動物は神さまを礼拝しない。文明国の人たちであろうと、未開発な人たちであろうと、何らかの神さまを拝んでいる」と言いました。確かにそうかもしれません。私も動物が神さまを拝んでいる姿を見たことがありません。アフリカにミーキャットという可愛い動物がいます。彼らは一列に並んで、太陽を拝んでいるように見えます。実際はそうではなく、朝、体を暖めるため日光浴をしているのです。例外なく、私たち人間は何かを礼拝して生きています。つまり、何かを自分の命以上のものとして拝んでいるということです。

ある人は「いや、私は無神論者です。どんな神さまも礼拝していませんよ!」とおっしゃるかもしれません。でも、その人にも自分の命以上ものとして拝んでいるものがあるのではないでしょうか?たとえば、最近のメンバーはよく分かりませんがAKB48というのがあります。AKBを応援している人たちは、彼女らを礼拝しているのではないでしょうか?なぜなら、すべての時間とお金と労力をそこに注ぎこんでいるからです。昨年末、Jリーグの決勝がありましたが、サポーターが熱心に応援していました。おそらく、彼らもサッカーを礼拝しているのではないでしょうか?なぜなら、すべての時間とお金と労力をそこに注ぎこんでいるからです。他にも自分のすべてを注ぎ込んでいる神さまのようなものがあるのではないでしょうか?私は「笑点」の次に、「何でも鑑定団」が好きです。そこに出て来る人たちは、骨董にすべての財産を注ぎ込んでいる人たちです。ある人は、戦国時代の火縄銃を何丁も持っていて命よりも大事にしていました。その人は火縄銃を礼拝しているのです。

 みなさん、この世のもの、つまり、まことの神さま以外のものを礼拝する(偶像礼拝する)と大変なことになります。どうなるでしょう?お金を時間と労力を偶像に吸い取られます。「これで十分」ということがありません。礼拝の対象となっている偶像は「まだ足りない。もっと貢ぎなさい。もっと仕えなさい」と言うでしょう。しまいに、縛られ、エネルギーを吸い取られ、それ以外の生き方ができなくなります。たとえば、ホストを神さまのように礼拝している女性がいます。すべての給料を貢いでいます。何とか自分ひとりのものにしようとさらに貢ぎます。でも、お金がなくなると「はい、さようなら」です。だから、捨てられないために一生懸命、貢ぎ続けます。使徒パウロはローマ6章でこのように述べています。ローマ616,17(リビングバイブル)「だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたを受け入れて主人となり、あなたがたはその奴隷となるのです。…今やあなたがたは、罪という古い主人から解放されて、正しさという新しい主人の奴隷になっているのです。」パウロは「奴隷となっている」と言いますが、現代的に言うなら「中毒になっている」ということです。この世のものつまり、まことの神さま以外のものを礼拝すると、そのものの奴隷になり、中毒になるということです。ゲームをこよなく愛している人は、ゲームの奴隷であり中毒です。昔は「仕事中毒」「アルコール中毒」「買い物中毒」と言いました。英語では同じことばですが、今は、中毒よりも依存症と柔らかく言っているようです。性的依存症、ギャンブル依存症、携帯・スマホ依存症があります。一時も携帯・スマホを離せない。トイレやお風呂場にも持っていきます。また、人間依存症と言われる共依存があります。どんな表現を用いたとしても、そのものの奴隷であることには変わりありません。抜け出したくても抜け出せない状態です。お金も時間もエネルギーも全部吸い取られている状態です。そして、いつも不安と恐れがつきまといます。

  1つだけそういう中毒性のものから自由になり、真の価値ある生活ができる道があります。それは、偶像ではなくまことの神さまを礼拝するということです。まことの神さまとは、天と地を造り、私たちをも造られた創造主なる神さまです。この方は唯一で絶対的な神さまです。そして、イエス・キリストが神さまに至る唯一の道です。イエス・キリストを信じて、まことの神さまの子どもになるのです。そして、この方を最高の価値あるお方として礼拝するのです。このお方は命よりも勝るお方です。なぜなら、私たちを命をかけて愛しておられるからです。どうして分かるのでしょう?それは、ひとり子イエスを私たちを罪から救うために地上に送ってくださったからです。それがクリスマスです。イエス様は人間となり、私たちの罪を負って、十字架に身代わりに死なれました。全世界に、私たちのために死んでくださった神さまはいません。そして、三日目に死からよみがえり、天に昇り、王の王、主の主になられました。歴史上、死からみがえられた神さまはいません。

  東の博士たちは、人間になられたばかりの幼子イエスを礼拝しました。まだ、罪の贖いをしていないのに、何も世話になっていないのに、すばらしい信仰です。私たちは私たちのために贖いを成し遂げられた、王の王、主の主なるお方を礼拝します。私たちクリスチャンは、父なる神さまと、イエス・キリストを礼拝しています。つまり、まことの神さまを自分たちの第一の価値に据えています。するとどうなるでしょう?当然、他のものは第二番目になるしかありません。しかし、それが良いのです。第一のものを第一にすると、他のものが「すーっと」秩序立てられます。つまりこの世のものに対して、奴隷でなくなるということです。さまざまな中毒、依存症からも解放されていきます。私たちクリスチャンは妻や夫よりも、神さまを愛しています。自分の子どもたちよりも神さまを愛しています。もちろん、仕事や趣味、自分自身の命よりも神さまを愛しています。そうするとあらゆる執着から解放されます。私は昔、土木の現場監督をしていました。高速道路や浄水場、下水や宅地造成の仕事に携わりました。私が一番にすべきことは、設計図を見ながら測量をし、そこに「丁張り」を建てることです。どういうものかと言いますと、杭を打ち、そこに板を打ち付け、工事をする人が高さとか位置が分かるようになっています。材料を手配しておけば、自分たちでやるので、あとは昼寝していても良いのです。測量で一番大切なのは、センターを決めるということです。センターが決まれば、そこから左右に振り分けることができます。センターを間違えると道路も橋もヒューム管、すべての構造物がダメになります。私は人生のセンター(中心線)があると信じます。それは神さまを人生の第一番目とすることです。言い換えると、神さまに最大の価値を置き、他のものを礼拝しないということです。そうすると、それに付随するすべての生活が整えられて行きます。この世の中に、生活が定まらない人たちがたくさんいます。流行や人の意見に流されています。彼らには人生のセンター(中心線)がないからです。彼らは「私はどの神さまも信じない。何ものも礼拝しない。何ものにも縛られない」と言うかもしれません。しかし、彼らは間違いなく、この世のものに縛られ、奴隷になっています。ものでなくても、過去の失敗に縛られ、怒りに縛られ、運命に縛られているかもしれません。

 イエス様が来られた目的がイザヤ書61章に記されています。このみ言葉を持って終えたいと思います。イザヤ611-3神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。」神さまを第一とすることにより、すべての必要と主にある自由をもたらしてくださるイエス様に感謝します。

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2014年12月19日 (金)

「東方の博士たち」  マタイ2:1-6 亀有教会 鈴木靖尋牧師  2014.12.21

 この1年は旧約聖書の人物伝から学びましたので、クリスマスはそれと関係のある内容にしました。ユダヤから「東方」というとどこまで言うのでしょうか。東方の最果てはアジア、そして日本です。東の果てにある日本がクリスマスをお祝いするというのは、向こうから見れば驚くべきことではないでしょうか?北イスラエルは紀元前723年にアッシリヤによって滅ぼされました。その10部族はアジアにも散らされ、日本にも来たようであります。もしかしたら、私たちの血にもイスラエルの血が流れているかもしれません。遠い昔の出来事が、単なるロマンではなく、今日の私たちにも影響していることを感謝します。 

 

 

 

1.探究者

 

 

 東方の博士たちはどこから来たのでしょうか?ユダヤの東方といえば、昔、バビロンやペルシャがあったところです。なぜ、彼らが異国のユダ人の王と会いたいと思ったのでしょうか?歴史をたどりますと、ユダの民がバビロンに連れて来られ70年間、捕えられていたことがありました。その時、バビロンのネブカデネザルは王族と貴族の若者を数人選び、宮廷で仕えさせました。その中にダニエルと3人の若者がいました。彼らは多くの迫害にもめげず、天地を造られたまことの神を証しました。とうとうバビロンやペルシャの王たちは、彼らの神がまことの神であると知りました。彼らは捕虜でしたが、異国の国で高い地位が与えられました。その後、ペルシャのクロス王が彼らにエルサレムに帰って神殿を築くことを命じました。数万人のユダヤ人が資金をいただいて、第二神殿を建てました。その後、ネヘミヤが王の助けを借りて城壁を建て直しました。エズラという学者は捕囚の地から、律法を携えてきて霊的な意味でユダを再興しました。また、エルサレムに帰らないユダヤ人の中に、エステルやモルデカイがいました。彼らも優遇され、ペルシャ王の次の位をいただきました。一連の出来事から、バビロンやペルシャにイスラエルの神、主の名が知れ渡っていたと思われます。また、それらの国には呪法師、呪文師、呪術者が大勢いました。彼らも魔術や不思議な力を持っていましたが、ダニエルの知恵にはかないませんでした。

 

 おそらく、バビロンやペルシャに占星術者たちもいたのではないかと思います。ここからは、サイトで調べたものを引用します。今日の占星術のもとは、紀元前2000年より前には、すでに星を神々の意志を知るためのオーメン(予兆)としてみなす、ごく初歩的な形の占いが行われていたようです。紀元前7世紀頃から、オーメンに関する文献と暦を作成するための天文学的データーと結びついて、占星術の母体となるものができました。バビロニアの天文学では、12星座のもとが作られ、やがてはそれがホロスコープになりました。紀元前3世紀からは、惑星の出現の状況によるオーメンを記した、いわば占星術の理論的なテキストとも言うべきものが見つかっています。そこでは、木星が現れるとき「金持ちになり、長生き」し、土星が現れるとき「病気となり、不自由」となるといったような現代の占星術の惑星の意味とほぼ重なるような解釈も見られます。ウェブからの引用は以上です。時代は、ペルシャ、ギリシャ、ローマになっても、占星術はすたれることがなかったようです。聖書では「博士」は、マゴイですから、あきらかに占星術師であります。でも、彼らはダニエル書や他の預言書から、イスラエルに救い主が誕生することを知っていたに違いありません。どのようにして、それが星の運行と関係したかは定かではありません。でも、彼らは星の運行からその地にメシヤが現われ、新しい時代がやってくることを突き止めたのではないかと思います。

 

 

 一番問題なのは、なぜ、マタイは東方の博士たちのことを冒頭に載せたかということです。当時、イエスラエルはユダヤという名前でローマの支配下にありました。ヘロデ王は本当の王様ではなく、ローマに雇われていた王様でした。ユダヤ人は偏屈で治めにくいため、総督の下に、王様を置いたのであります。ヘロデはユダの直系ではなく、イドマヤ人でエサウの子孫でした。彼は猜疑心がとても強く、妻や息子たちまでも殺しました。彼は博士たちに「場所がわかったなら教えてくれ、私も行って拝むから」と言いました。しかし、それは真っ赤なウソで、自分以外の王様の存在を許すことができませんでした。博士たちが戻ってこなかったので、ベツレヘム近辺の2歳以下の男の子たちをひとり残らず殺させました。また、当時の宗教指導者たちは救い主の誕生に対してどのように思っていたでしょうか?祭司長や学者たちはキリストがベツレヘムで生まれることを預言書から言い当てました。しかし、彼らが救い主に会いに行ったという記録はありません。彼らは救い主が来たら、自分たちの仕事がなくなるので恐れていたのです。現に、それから30年後、イエス様をねたんで殺そうとしました。また、エルサレム中の人も王と同様に救い主の誕生を恐れました。なぜなら、ヘロデがまた怒りだして、とばっちりを受けのがイヤだったからです。

 

 

 イスラエルの王様、宗教家たち、町の人たちは救い主の誕生に無関心であるか、あるいは悪い事が起こりはしないかと恐れていました。皮肉なことに、救い主の誕生を祝いに来たのは東方の博士たちだけでした。彼らは異邦人であり、占星術という聖書的には危ない人たちでした。そういう人たちが、遠路はるばる星を頼りにやってきたのです。もし、ペルシャのあたりだとすると千キロ以上ありました。教会で「3人の博士」と呼ばれているのは、黄金、没薬、乳香と3つの宝物が記されているからです。実際はキャラバン隊を組んで、宝物を小さなものに換えてやって来たと思われます。山賊や盗賊が出没する時代だったので、大勢の警護がついていたと思われます。それにしても、会えるかどうか分からないのに、なぜ、ユダヤ人の王の誕生に駆けつけなければならないのでしょうか?おそらく、神さまから霊的な飢え渇きがあたえられたのでしょう。マタイ福音書でだれでも知っているみことばがあります。マタイ77-8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」東方の博士たちは、何百年前も前の預言が成就することを自分たちの目で確かめたいと思ったのです。その方の誕生が天体を巻き込むような、全世界的なことであることを知ってわくわくしました。東方の博士たちはまさしく探究者であり、求道者でした。星を調べて、救い主の誕生を知って、喜んで身支度したことでしょう。そして、すべての犠牲を払い、危険を恐れずに、はるばるやって来たのです。

 

 

 東方の博士は今のような聖書もなく、キリスト教会もありませんでした。昔からの言い伝えや、星の運行によって将来を知ることであり、博士というよりは占星術者でした。しかし、星が彼らを導いたのであります。天に輝く大きな星がありました。東の博士たちは、求めたのです。捜したのです。たたいたのです。彼らは、エルサレムの王宮にいるはずだと思いましたが、そうではありませんでした。すると、星が彼らを家まで先導しました。私はその星は天使であると思います。もし、宇宙のかなたにある星ならば、移動して家の上にとどまることは不可能です。つまり、彼らが必死に求めたので、神さまが天使を遣わして案内してくださったのです。私たちも救い主イエス様と出会うまで、紆余曲折というか、色んなことがあったのではないでしょうか?子どもの頃、日曜学校に行ったことがある。しかし、それから450年も行っていなかった人もいるでしょう。一度は異端にはまったけれど、やっと本当の教会に来ることができたという人もいるでしょう。中には、「もうやめた」と洗礼を受ける前に、教会を去ってしまった人たちも大勢いるでしょう。しかし、よくぞ躓かないで求め続け、捜し続け、たたき続けたと思います。私などは、キリスト教とは縁もゆかりもないところで育ちました。ところが、貿易会社に入って、その上司がクリスチャンでした。私の家内は看護学校に行っている時、上級生から家庭集会に誘われたそうです。力関係があって、ノーと言えなかったのかもしれません。きっかけはいろいろあるかもしれませんが、最後は自分で求めたのであります。

 

 救い主はあなたと出会ってくださいます。でも、あなたも幾分か求めなければなりません。東方の博士のように魔術的なものかもしれません。また、東方の博士のようにいろんな犠牲を払い、危険を冒す必要があったでしょう。神さまは夜空に輝く星を備えておられます。星はどういうときに一番見えるでしょうか?そうです。真っ暗な夜ほど、星が良く見えるのです。人生における夜において、神さまが送られた星が見えるのです。永遠の真理と命を求めて来た人に、イエス様はこのようにおっしゃってくださいます。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」アーメン。求道者と探究者の生活が終わり、神の子どもとしての生活がはじまります。あなたは帰るべき家に着いたのです。パウロはこのように言っています。エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」アーメン。「お帰りなさい。よく帰って来たね。わが子よ」と父なる神さまはあなたを迎えてくださいます。

 

 

2.礼拝者

 

 

マタイ210-11「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」私たちは東方の博士たちから、礼拝者として必要な4つの資質を見ることができます。第一は喜びです。彼らは救い主と会えることをとても喜んでいました。なぜなら、犠牲を払って、遠くからはるばるやって来て、やっと見つけたからです。私は礼拝に遅刻をすることを表立って注意したことは一度もありません。私は小、中、高と先生から注意ばかり受けて来ました。良く叱られましたが、どういうわけか私だけが叱られたこともありました。ですから、私は人から注意を受けたり裁かれたりするのが大嫌いです。同じように、みなさんにも「聖日礼拝を守るように」とか「礼拝に遅刻しないように」とは言いません。と、言いながら、言ってしまいましたが…。東方の博士たちは救い主に出会えることを期待して、とても喜んでいました。もし、その人に日曜日の礼拝で神さまと出会える期待と喜びがあるなら、遅刻などするわけがありません。「いや、私は毎日、神さまと出会い、共に歩んでいますよ。なぜ、日曜礼拝が特別なのですか?」と答えるかもしれません。最もなことであります。私も礼拝は宗教的なお参りではないと思っています。ただし、旧約聖書や新約聖書では神の民が集まるとき、主が臨在し、特別なことが起こるということは事実です。モーセの幕屋、ソロモンの神殿、そしてイエス様がおられた家で神さまの栄光が現われました。神さまの栄光を拝することができるのは、こういう礼拝の場ではないかと思います。私は聖書からメッセージを取り次いでいますが、私自身が一番恵まれます。私は「会衆者に教えを垂れる」というような考えは全く持っていません。そうではなく、私も賛美をし、祈りをささげ、聖書からメッセージを受けたいのです。私も礼拝者の一人として主の前に出ているつもりです。私も神さまから祝福を受けたいからです。主は私たちが期待と喜びをもって礼拝をささげるときに、栄光を伴った出会い方をなされます。

 

 

第二は礼拝の姿(態度)です。彼らは幼子をひれ伏して拝みました。良く考えてみると東方の博士たちは幼子イエス様から何もいただいていません。でも、彼らは全身全霊をもって幼子をひれ伏して拝みました。なぜなら、その幼子は神の子キリストだったからです。「ひれ伏して拝む」は、ギリシャ語でプロスキュネオーと言います。これは、ペルシャ人が王の前に、ギリシャ人が神々の前に平伏して床や地、足または衣服の裾に接吻した事からきています。つまり、跪いて(平伏して)崇拝する、礼拝する、うやうやしく挨拶するという意味です。プロテスタント教会は、どこで礼拝しているのでしょうか?インドネシアのエディ・レオ師はこう言いました。「ちょっとだけ賛美して、ちょっとだけ立って、ちょっとだけ聖書を読み、ちょっとだけ寝て、ちょっとだけ献金し、ちょっとだけ祈る」と。私たちはどこでプロスキュネオーしているのでしょうか?中にはしかめっ面をして、腕組みをしている人もいるかもしれません。そこへ行くとイスラム教徒はすごいです。一日に3回以上、カーペットの上に平伏します。タクシーの運転手もその時間になると車を止めて平伏します。彼らが全部正しいとは言いませんが、神さまに栄光と賛美を捧げるという態度は大切だと思います。たとえ椅子に座っていても、心でひれ伏すことは可能だと思います。

 

 

第三はささげ物です。東方の博士たちはその当時の宝物をささげました。教会では1つ1つに意味があると言われています。強いて言うならば、黄金は王様、乳香は祭司あるいは神さまを表わしているようです。しかし、没薬は何でしょうか?これも、当時の宝物の1つでした。しかし、これは葬りの時に用いられたので、メシヤの贖いの死を予告しているのかもしれません。とにかく、彼らはその当時の宝物をささげました。どうして、王様や神さまを礼拝するとき、宝物をささげるのでしょうか?シバの女王もソロモン王のところへ来たとき、たくさんの宝物を携えてきました。旧約聖書のレビ記を見ると、人々は動物や穀物を携えてやってきました。一番古いのは、カインとアベルが主の前にささげ物を持ってきた記事です。なぜ、礼拝時に宝物を携えてやってくるのでしょうか?日本人は偉い人や世話になっている人のところへ来るとき、手土産や菓子折りを持っていきます。それと同じでしょうか?私はそれとはちょっと違うと思います。私たちが礼拝でささげるべきものは、私たち自身だと思います。私たちの命、私たちの体、私の魂を捧げるべきだと思います。つまり、「私のすべてものはあなたに属し、あなたからいただいているものです」という意味です。宝物はいわば、私たちの分身であります。新約の私たちの場合は、旧約と違います。御子イエス様が神の小羊として1回で永遠の贖いを成し遂げられました。イエス様が流された血潮によって神さまへの道が開かれました。ですから、私たちが神さまの前に携えて行くのは賛美であり感謝です。私たちが日曜日、このところで何となく賛美しているかもしれませんが、これは神さまへのささげ物なのであります。ですから、礼拝時の祈りはお願いであってはなりません。まず、神さまを礼拝できるという特権を感謝しなければなりません。また、キリストによって罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられていることを感謝すべきです。また、神さまから生かされ、この命も家庭も仕事も与えられていることを感謝すべきです。これらの感謝をささげると、日常の問題や悩みや体の病気など小さく見えてきます。偉大なるキリストの神さまが私を愛しておられることを知るからです。ささげものは、私たちの神さまの愛に対する応答であり、献身の現れであります。もし、それが余りものであるなら、神さまに対する信仰も余りものということになります。信仰がなければ1円でももったいないと思うでしょう。東方の博士たちは、その当時、最も価値があった黄金、乳香、没薬をささげたのです。ささげものに、彼らの信仰が反映されていると思って間違いありません。

 

 

第四は彼らの生き方です。彼らはイエス様に出会った後、生き方が新たにされました。マタイ212「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」イエス様を礼拝した後、別な道から自分の国に帰って行ったというのは暗示的であります。私たちも神さまと出会い、イエス様を礼拝した後、以前と同じであってはなりません。ある場合は考えや生き方を変える必要があるでしょう。「悔い改め」というと罪を悔い改めることだと思っておられるかもしれません。もちろんそれも大事ですが、元の意味は「考えを変える」ということです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ121は礼拝とは何かということが書かれており、この2節は「心の一新によって自分を変えなさい」と言われています。「心」というのは、英語ではmindであり、「思い」とか「考え」であります。クリスチャンは霊的には新しくされています。しかし、思いが新たになっていない人が大勢います。ある部分は変わっても、ある部分は全くの手つかずという部分があるのです。クリスチャンになる前の、この世の考えが支配しているかもしれません。ですから、礼拝説教で語られるみことばを心に受け入れる必要があります。そして、自分の生活に適用して初めて自分のものになるのです。多くの人たちは悪魔や悪霊につかれていないと思っているでしょう。もちろん、福音書のゲラサ人は、狂人的で最悪な状態でした。しかし、悪魔が最も私たちを攻撃するのは、私たちの思いなのであります。私たちの思いが悪魔によって欺かれているかもしれません。ずーっと偽りを信じ込まされている場合だってあります。だから、私たちは思いを一新する必要があるのです。聖書の価値観、神さまの考えと取り替える必要があるのです。これが、「別の道から自分の国へ帰る」ということなのです。

 

 

きょうは「東方の博士たち」と題してメッセージさせていただきました。冒頭でも語りましたが、東方はアジアも入ります。私たちが住んでいるこの日本は東の果てであります。極東の私たちのところまで福音が運ばれてきたのです。ある人たちは「キリスト教は外国の宗教だ。日本には日本の宗教がある」と言います。しかし、仏教もインドから中国、朝鮮半島を経て伝わってきたものです。もし、日本古来のものが良ければ、ちょんまげをして、はおり袴で、下駄をはくべきです。ところが男性は髪を短くし、ズボンをはき、靴を履いています。女性も洋服を着て、ハイヒールを履いているではありませんか。問題は西洋とか東洋とかではありません。それが良いものであれば身に着けるのです。キリストの福音は西アジアで産声を上げ、ヨーロッパ、アメリカを経由して日本に伝わってきました。キリストの福音が日本に来たときは西洋の衣を着ていました。理神論や合理主義の影響も受け、聖書本来の姿とは少し違っていたのです。現代はいろんな情報が飛び交い、啓示の光が星のように小さく見えます。しかし、世の中はますます暗くなり、混迷し、希望がありません。だから、東方の博士たちのように求めなければならないのです。マタイ77-8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」それと同時に、星が求める人を先導して、救い主と出会わせてくださいます。私たちも救い主の誕生を、東方の博士たちのように、この上もなく喜びたいと思います。

 

 

 

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2014年12月12日 (金)

「キリストの系図」マタイ1:1-11 亀有教会 鈴木靖尋牧師 2014.12.14

 私たちは昨年、旧約聖書の人物伝を50回かけて学びました。最後はマラキ書でしたが、キリストを待ち望むところで終わっています。ところが、キリストはすぐには来ませんでした。何と、400年を経てから、新約聖書の時代になるのです。旧約と新約聖書の間は数ページしかありませんが、中間時代と言われる預言のない長い時があったのです。マルコ1章には「時が満ちて」とありますが、救い主を待望していたことが分かります。マタイによる福音書はユダヤ人のために書かれた福音書だと言われています。ユダヤ人は系図をとても大切にします。だから、マタイは一番最初に系図を書くことによって、旧約聖書と新約聖書をつなぎ合わせているのです。

 

 

1.キリストの系図

 

  旧約聖書には多くの箇所に系図が記されています。なぜ、系図が記されているのでしょう?これから新しいことを書き記すときに、過去のことを系図でまとめるという法則があります。たとえば、ノアの洪水が起こる前に、アダムからノアまでの系図が記されています。ご存じのように、人類が洪水によって滅び、ノアから再び人類が栄えるからです。また、神さまはアブラハムから大いなる国民を起こすと約束されました。ですから、その前にノアからアブラハムまでの系図が記されています。また、歴代誌には、長い系図が載せられています。これからバビロンから帰還したユダヤ人を中心とした第二神殿の時代が始まるからです。だから、その前にアダムからユダヤ人に至るまでの系図が記されているのです。ユダヤ人たちは、国を復興してくださるメシヤが来ると信じていました。しかし、ペルシャの後、ギリシャが支配しました。マカベアのとき一時的に独立しました。その後、新たに興ったローマによって支配されてしまいました。マラキの時から400年もたっていました。「もう、メシヤは来ないのではないか」と多くの人たちはあきらめていた頃でした。

  マタイはイエス・キリストによる新しい時代が来る前に、系図を書く必要を覚えました。過去のことを系図でまとめているのは、キリストの出現へとつなげるためであります。ユダヤ人にとって、尊敬すべき人が少なくとも二人いました。それはアブラハムとダビデであります。1節に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とありますが、一目見ただけで興味をそそられるのであります。それに比べ、日本人が聖書を読む時とてもがっかりします。昔の聖書はアブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らを生み、ユダ、タマルによりてパレスとザラを生み、パレス、エスロンを生み、エスロン、アラムを生み……」と生み疲れてしまいます。もし、日本人向けに聖書を書くのでしたら、マタイによる福音書を最初にしないでしょう。全く知らないカタカナ名の羅列で躓いてしまうからです。でも、これも神さまの計画で、求める人には与えられ、求めない人には与えられないようになっているのかもしれません。カタカナ名を乗り越えると、甘い実が待っています。でも、まもなく処女降誕が記されているので、やっぱりまた躓くかもしれません。いっそのこと、躓いたままで聖書を読み続けるべきであります。つまり、自分の考えや経験をわきにおいて、虚心坦懐に読む必要があります。

  でも、この系図は福音であります。ユダヤ人は普通、女性の名前を載せませんでした。また良く見ると異邦人や罪を犯した人たちも含まれています。また、新約聖書の良いところは、こういう人たちが入っているのだから、自分の名前も載せてもらえるという希望があることです。ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」「血」というのは、家系とか血統という意味です。中世のヨーロッパでは、家系や血統が大変重んじられていました。貴族で生まれたら貴族、平民で生まれたなら平民でした。イスラエルにおいても、祭司になるためにはちゃんとした系図が必要でした。私たちはいわば、他国人であり寄留者であり、救いから漏れていた人たちでした。しかし、キリストを信じるなら、神の子どもとされ、神の民の一員として系図に加えられることができるのです。神さまを「お父様」と呼んで良いのです。たとえば、私が道を歩いているとします。知らない子どもが近寄ってきて、「お父さん、アイスクリーム買って」と言われたならどうするでしょう?2つのことを言いたくなるでしょう。第一は、私はあなたの父親ではありません。第二は自分の子どもでもないのに、どうしてアイスクリームを買ってあげなければならないのでしょう、と言うでしょう。私たちもキリストの救いがなければ、神さまを「お父様」と呼ぶことができません。また、いくらお祈りをしても、向こうは聞く理由がありません。しかし、キリストを信じると、養子に迎えられ、実子であるイエス様と同じような扱いを受けるのです。

 私たちはこの系図を見る時、自分のルーツが神さまにあることを知ることができます。キリストを信じると霊的に新しく生まれ神のこどもになります。神の子どもには神さまの命、神さまのDNAが流れています。親と子どもが似ているように、父なる神さまの性質や能力も受け継ぐのです。たとえば、サラブレッドは勝利した馬同士を掛け合わせた競走馬です。生まれたてのサラブレッドは、足も細くて弱々しく見えるでしょう。しかし、馬主は全く不安ではありません。なぜなら、子馬の中に、勝利した父母のDNAが流れているからです。私たちも自然に生まれた家系を見るならば、たいしたことがないかもしれません。しかし、キリストを信じて新しく生まれ変わる時、新しい命と新しいDNAが与えられます。同時に、父なる神様が用意していたご計画(divine destiny)が動き出すのです。「ああ、私はこのために生まれてきたんだ。ああ、私はこのために救われたんだ」ということが分かります。それまでは、自分のルーツも分からないし、自分の行先も分からない人生でした。しかし、救われたなら、自分のルーツと自分の行先が分かってきます。そうしますと、ヒマをもてあますということがなくなります。あなたは、自分のルーツを知っておられるでしょうか?

自分のルーツが全宇宙を創られた神さまであることを知ったならどんなに幸いでしょうか。神さまの子どもであるなら、神さまが持っているすべてのものを相続できます。そうなると、自分の生まれや育った環境は問題でなくなります。卒業した学校も持っている資格も問題ではありません。全宇宙を造られた神さまの子どもであるなら、どれだけの相続遺産を受け継ぐことができるでしょうか?神さまは私たちが死んでからではなく、生きているうちに与えたいと願っておられます。今年の元旦、「神の倉」というお話をしました。神さまは愛する息子、娘のために良きものを備えておられます。「私のものです。天の窓を開いて私にお送りください」と求めたら良いのです。父なる神さまは私たちに願いを与えて、実現させて下さるお方です。ビルジョンソンという牧師がdesireの意味を語っていました。Desireは一般に、「欲望」と訳されます。しかし、sireは父、雄親という意味があります。Deは「から落ちる」という意味があります。二つ合わせると「父から落ちる」という意味です。パウロは、ピリピ213(口語訳)「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それはよしとされるところだからである」と言われました。そうすると、Desireとは、神さまが私たちに働きかけた神の願いであります。

イエス様はマルコ1124「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と言われました。父なる神様は「あなたはこれを求めなさい」という願いを私たちに与えてくださいます。そうすると、私たちの中にdesireが起こり、「神さま、これを求めます」となるのです。しかし、私たちの中に妨げるものがあります。それは「本当にみこころなのか?」という疑いです。真面目なクリスチャンほど、「やっぱり、みこころじゃないのでは」と諦めます。それは、宗教であり、父と子の関係ではありません。私たちはキリスト様によって、神さまの子どもなのです。大胆に求めて良いのです。自分の子どもが「お父さん、みこころならばゲーム買ってくれるでしょうか?」と願うでしょうか?言わないです。「パパ、ゲーム欲しいよ。ゲーム買ってくれよ!」と願うでしょう。するとお父さんは「一個あるじゃないか」と言います。子どもは「新しいのが出たんだよ」と言います。するとお父さんは「来月になったら買ってあげるよ。でも、勉強をちゃんとしろよ!」と言うでしょう。結婚相手でも、仕事でも、家でも、車でも、良い奉仕でも、霊的賜物でも…父なる神さまはあなたに、一番良いものをあげたいと願っています。むしろ、あなたがストレートに願わないので歯がゆいのです。神さまの子どもは乞うようなbeggingはしません。成熟した神さまの子どもは聖書から約束をつかまえて、「あなたが聖書でこういわれたでしょう」と求めます。全宇宙を創られた神さまは、ご自分の愛する子どもに良きものを与えたいと願っておられます。私たちは聖書を読みながら、父なる神様と親しく交わりましょう。もし、神さまからdesireが与えられたら大胆に求めましょう。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」

 

2.キリストの誕生

 

 16「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」とあります。系図の一番最後が、女性のマリヤであります。なぜ、キリストはマリヤから生まれなければならなかったのでしょうか?それは、創世記3章「女の子孫」とあるからです。女の子孫であるキリストが、蛇であるサタンの頭を踏み砕くのです。これはどうしても成就しなければならない預言でした。また、なぜキリストがマリヤとヨセフとの間に自然な関係で生まれなかったのでしょうか?また、マリヤは「聖霊によって身重になった」と書かれています。ヨセフは「彼女をさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」とあります。当時は、結婚前に、他のだれかによって子どもを宿したなら、姦淫罪として石で打ち殺されました。あとから、主の使いがヨセフに「その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と告げました。「聖霊によって」「聖霊によって」と2度も書かれています。もし、ヨセフと自然な関係で生まれたなら、アダムの罪を受け継ぐことになります。でも、肉の系図ではアダムやアブラハム、ダビデの系図です。しかし、アダムから罪を受け継いだなら救い主になることはできません。それで、キリストはヨセフではなく、聖霊によって生まれる必要があったのです。多くの人たちは「処女降誕なんて信じない」と言うかもしれません。しかし、聖霊は神であり、無から有を生み出すことのできるお方です。創世記1:2-3を見ると分かりますが、聖霊は神さまがお声を発するのを待っていました。「光あれ」と言ったら光がありました。その光を造られたのは、聖霊であります。聖霊はヨセフの力を借りなくても、マリヤに子どもを宿すことのできるお方です。聖霊はアダムからの罪を受け継がせないで、肉体を持ったイエス様を誕生させたのです。

  イエス様がこの世に来られた一番の目的とは何でしょうか?マタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」キリスト教の中心は「罪からの救い」です。この概念は他の宗教にはありません。なぜ、罪からの救いなのでしょうか?罪こそが諸悪の根源だからです。アダムが罪を犯し、私たちの先祖が罪を犯し、また私たち自身も罪を犯しました。私たちは3つの罪の中であえいで生きています。経済の問題よりも、この罪をなんとかしなければなりません。この罪があるために、死、呪い、貧困、病気、障害、孤独、天災、戦争、差別、犯罪が訪れるようになったのです。罪とは何でしょう?それは造り主である神さまを離れ、勝手な生き方をしていることです。私たち人類はアダム以来、神さまに背を向け、何もかも自分で判断し、自分の力や考えで生きています。神さま抜きの生活、これが罪であります。罪はギリシャ語でハマルティアと言い、「的が外れている」という意味です。ですから、罪人と言うよりも「ずれ人」と言った方が良いのです。神さまの標準からずれているので、様々な罪や悪いことが起こるのです。イエス様は自分の民をその罪から救ってくださるためにこの地上にやって来られました。これこそ、本当のクリスマスです。

  しかし、この世のクリスマスは、完全に的が外れています。クリスマスは華やかなイルミネーションやデコレーションで飾り付けをし、おいしい御馳走とケーキを食べ、プレゼントを交換し、恋人たちが告白する日でしょうか?それらはみんな脇役です。あってもなくても良いものです。一番中心的なことは、私たちの罪から救い出すために、キリストが来られたということです。だから、嬉しいので賛美してお祝いをしたくなるのです。もし、一番中心的なことが分かれば、他のものがなくたって平気なのです。水野源三さんがこのような詩を書いています。彼は子どものとき赤痢にかかり、高熱のため脳性小児麻痺になりました。手足を自由に動かせず、口もきけず、まばたきのみでお母さんに伝えました。彼の詩です。「一度も高らかにクリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない。一度も声を出してクリスマスを祝うあいさつをしたことがない。一度もカードにメリークリスマスと書いたことがない。だけど、だけど、雪と風がたたく部屋で心の中で歌い、自分自身にあいさつをし、まぶたのうらに書き、救いの御子の降誕を御神に感謝し喜び祝う」。私は秋田の出身ですが、クリスマスになると新聞にサンタクロースの大きな塗り絵があり、応募できるようになっていました。小学生のとき何度か送りましたが全然ダメでした。我が家ではクリスマスは遠い外国のお祭りであり、ケーキがあれば良い方でした。すべてが、サンタクロースみたいに架空のものかと思っていました。ところが、私たちの罪から救うために天から、降りて来られたとは何と言う幸いでしょう?西暦がキリストの降誕から始まているのがその証拠です。

 

 3.インマヌエルのキリスト

 

日本では25日が終わると、さっさと年末年始のおかざりを出します。26日にクリスマスソングをかけているデパートはありません。しかし、外国は年末年始の休暇をクリスマス休暇にしています。でも、クリスマスは年に一遍訪れるお祭りなのでしょうか?確かにサンタクロースは年に一遍かもしれません。しかし、イエス様はずっとずっと、私たちの共におられるお方です。マタイ123見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルはヘブル語で、神が私たちと共におられるという意味です。しかし、旧約時代、神が人と共におられるということがありませんでした。もちろん、「主はヨセフと共におられた」などという表現はあります。旧約聖書は英語でいうとby、そばに共におられました。新約聖書では、イエス様は12弟子とby、そばに共におられました。みなさん、絶対離れないような共にいるためにはどうすれば良いのでしょう。in、内にです。インマヌエルとは私たちの内側にいて、共にいるということなのです。by、そばでもありがたいですが、in、内の方がもっと親密であります。ところで「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」とありますが、これは、イザヤ714の預言です。預言ですから、どこかで成就するはずです。では、一番最初に、「神が共におられる」というインマヌエルの預言が成就したのはだれでしょうか?イエス様です。イエス様はヨハネ14章で「私が父におり、父が私におられる」と言われました。父なる神様はイエス様の内に共におられたのです。ハレルヤ

 その後、イエス様は弟子たちにこう言われました。ヨハネ1417-18「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」あまり詳しくは述べられませんが、イエス様が弟子たちと世の終わりまで共にいる方法がここに記されています。それは、天に一度帰られた後、聖霊によって弟子たちの中に住むという方法です。聖霊がキリストの御霊と呼ばれているのはそのためです。イエス様が肉体を持っていたなら、by、そばに共にいることしかできません。しかし、御霊によって来るなら、in、内にいて共にいることができます。パウロはそのことは奥義であると言っています。コロサイ127「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」異邦人とは救いから漏れていた外国人と言う意味です。私たち日本人はキリストと縁もゆかりもない異邦人です。私たちもクリスマスを遠い外国のお祭りくらいにしか思っていませんでした。でも、歴史的にキリストは肉体を持ってこの地上に生まれたのです。しかし、それだけではないのです。キリストは十字架の贖いを成し遂げられてから、天に昇りました。でも、その後、聖霊によってこの地に再びやって来られたのです。そうです。イエス様を救い主として信じた瞬間、あなたの中に宿ってくださるのです。そして、世の終わりまであなたと共にいてくださるのです。世の終わりとは、実際、この世が終わる時であります。また、同時に、私たちのこの地上の命が終わる時であります。正確には、終わりの時を一緒に乗り越えて、御国まで共にいるということです。いくら親しい人でも、死の川浪を一緒に渡っていくことはできません。死は一人で死ぬのでしょうか?そうではありません、インマヌエルなるイエス様が一緒に死を乗り越え、御国まで連れて行ってくれるのです。

 ですから、クリスマスは決して年末の一時、祝うだけの年中行事ではありません。クリスマスのシーズンが終わっても、イエス様は私たちの内に一緒に住んで、一緒に生活してくださるのです。宗教とは神々を祀り上げることです。そして、困ったときだけ会いに行きます。その神さまがいつもいると困ります。なぜなら、神さまから見られて困ることもあるからです。キリスト教も宗教になりえます。日曜日だけ、綺麗な恰好をして礼拝に来ます。言葉使いも上品で、決して怒ったり、さわいだりしません。家に帰ると、「やれやれ、ああ疲れた」と本当の自分に帰ります。もしそうなら、それは宗教です。キリスト教は教えではなく、キリスト様と共に生活することです。どんな場所でも、どんな時でも、どんな状況でもです。なぜなら、イエス様は私たちの中に聖霊として共におられるからです。霊の中にいるので、もう、離れようがありません。しかし、悲しませたり、無視することはできます。そうではなく、私たちは聖霊によって内に住んでおられるイエス様を歓迎し、認め、そして従いましょう。そうするなら、たとえ死の谷を渡るようなことがあっても、大丈夫です。私はわざわいを恐れません。主が共におられますから。

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