2017年9月22日 (金)

パスカルが出会った神 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.24

 来世、つまり死後の世界というのは、どの宗教にもあるようです。日本は仏教の思想を受けていますので、地獄と極楽、輪廻(生まれ変わり)の存在を信じています。唯物論の影響を受けた人たちは、人間は死んだら消えてなくなると考えています。テレビで芸能人の死が報道されるとき、「天国に旅立った」と言います。クリスチャンでも信仰を精神的なもの、主観的なものとして捉えている方がおられます。きょうは聖書から正しい来世観について学びたいと思います。

1.思い違い

 サドカイ人というのは、神殿に仕える祭司たちで構成されていました。ある人たちは議員であり、ユダヤ人の指導者でもありました。彼らは妬みのゆえに、イエス様を十字架に付けた一派でもあります。当時のことを記しているヨセファスという歴史家がこのように証言しています。「彼らは肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を拒否していることが明らかである。サドカイ派はパリサイ人と違って、モーセ五書に中心をおき、五書に記された律法にのみ最終権威を認めたので、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定したと思われる」とありました。イエス様はマタイ16章で「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と言われたことがあります。サドカイ人たちの教えは世俗的であり、この世のことしか考えません。もし、彼らの教えを受け入れるなら、「死後の世界はないので、地上で幸せに暮らせればそれで良い」ということになります。イエス様は29節で「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われました。「思い違い」のギリシャ語はプラナウであり「迷う、惑わされる、考え違いをする」という意味です。JB.フィリップスはYou are very wide of the mark、「大きく的からはずれている」「見当違いをしている」と訳しています。そもそもの原因は、彼らが聖書も神の力も知らないからです。神さまを礼拝して、宗教的な生活を送っているかもしれません。しかし、「聖書も神の力も知らない」なら、見当違いをしていることになります。ひょっとしたら、ミッションスクールや今日の教会にも当てはまるかもしれません。

世俗主義のパン種は知らぬ間に、私たちの中に入って、信仰を腐らせてしまいます。彼らの一番の見当違いは、復活を信じていなかったということです。「え?復活を信じていない信仰者がいるのですか?」とおっしゃるかもしれません。おります。彼らはギリシャ人のように霊魂の永世は信じています。しかし、この肉体が復活するとは信じていないのです。では、復活がないと考えている人は、地上でどのように暮らすのでしょうか?使徒パウロはⅠコリント15章でこのように述べています。Ⅰコリント1532「死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」ここで言われている「友だち」というのは、復活を信じない人たちで、「生きているうちが花だから、好き勝手に生きようぜ」という悪い友だちです。コリントの教会ではこの世よりもひどい罪や放縦に満ちていました。彼らにはキリスト信仰があったのですが、肉体の復活を信じていませんでした。なぜなら、ギリシャ哲学の影響を受けていたからです。「肉体がしている悪は、魂の救いには影響しない」と考えていたからです。でも、それは見当違いであり、世俗的なパン種でした。パウロは「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」と注意しました。イエス様が言われた「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と同じであります。私は19年前にも同じ個所から説教し、このような証を述べていました。私もかつてはそうでした。車を乗り回し、格好をつけ、綺麗な女性を追い掛けまわしていました。「今が楽しければ良い、死んだらおしまいさ」と考えていました。仕事はメシの種で、他の時間は自分の好きなことを一生懸命やれば良いという人生哲学でした。しかし、「永遠というのがあるなら、そこに命をかけられるのになー」と心のどこかで追い求めていました。「宗教は弱い人間が勝手に造ったものだ」と言っていた、この私が25才に回心しました。するとどうでしょう。時間がもったいなくなりました。クリスチャンになって、永遠の命が与えられたのだったら、「ああ、やったー」と寝そべっていれば良さそうなものです。ところが「確かに、永遠の命は与えられけたけれど、この地上の人生は意外と短いぞ」と思うようになったのです。気がつくと、パチンコ、ギャンブル、マージャンをやめていました。それらが時間とお金の無駄使いと気付いたからです。お酒もやめました。お酒を飲むとボーっとなって、その夜は何も考えられなくなるからです。それで「この限られた時間をもっと有効に使わなければ」となりました。つまり、それまでは「好きなことを楽しく」という無目的な人生でしたが、救われてから目的ができてしまったのです。私が洗礼を受けて全く変わってしまったので、一緒に遊んでいた友だちも付き合っていた彼女も私から離れていきました。世俗的な友だちが去って行ったということです。

 復活を信じないということは、死後のさばきを信じないということです。当然、神を恐れず、堕落した生き方になるでしょう。ヘブル927,28「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」この短い文章に3つのことが記されています。第一は死後、神の前に立ち、さばきを受けるということです。第二はキリストが私たちの罪を負ってさばかれたということです。第三はキリストが再び来られるとき、キリストを待ち望んでいる人たちが復活するということです。多くの人たちは「ヘブル9章は救いのためのみことばである」と考えています。確かにそうですが、それ以上のことも語っています。本当の救いとは死後さばきに会うことがないばかりか、キリストが再臨したとき栄光のからだに復活するということです。つまり、救いの完成は、まだ来ていないということです。しかし、神の前でのさばきと栄光の復活があるので、地上の生活もおのずと変わってきます。世俗主義のパン種に感化されてはいけません。彼らのような思い違いをしないで、聖書と神の力を知ることに全力を傾けていきましょう。

2.復活の時

 もう一度、彼らがイエス様にした質問を調べたいと思います。マタイ2224「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」彼らはモーセの律法からこのような質問を考え出しました。家系を絶やさないために、確かにこのような律法がありました。創世記38章にこのような記事があります。ユダが自分の長男をタマルという女性に与えました。しかし、主を怒らせていたので彼は死にました。弟オナンは「兄嫁のために義弟の務めを果たしなさい」と父から言われました。しかし、弟は兄のために子孫を残そうとしませんでした。そのため、主を怒らせて彼も死にました。ユダは三番目の息子をタマルに与えませんでした。兄たちのように死ぬといけないと思ったからです。そのためタマルは遊女に化けて、舅のユダと関係を持って身ごもりました。やがて、その子はダビデの先祖になります。サドカイ人たちが言うような話は確かにありますが、7人というのは残酷な感じがします。7は完全数なので、この質問を完璧なものにしたかったのでしょう。彼らは「復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです」と尋ねました。この質問の背後には、「1人の女性をめぐって7人が取り合うだろう」という皮肉がこめられています。

 では、イエス様はどのように答えられたでしょうか?マタイ2229,30「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」第二のポイントでは「復活の時」のことを考えたいと思います。この世において、なぜ、人はめとったり、とついだりするのでしょうか?それは死ぬからです。アダムとエバが罪を犯してから、この肉体は死ぬようになりました。それでも「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令は残っています。地上の生命には限りがあるので、結婚して子孫を残していくしかないのです。しかし、復活の時はどうでしょう?栄光のからだによみがえり、しかも永遠のいのちが与えられています。「天の御使いたちのように」とは、彼らのように永遠に生きるということです。つまり、死ぬことがないので、子孫を残す必要もなくなるということです。ところが、サドカイ人たちはこの地上のことが、天上でもずっと続くかのように思い違いをしていたのです。残念ながら、復活後は結婚することはありません。男も女もない、中性になるということではないと思いますが、肉体関係がないということです。みな、兄弟姉妹になるのです。それだったら、寂しいでしょうか?天国に行ったら、ロマンスもなくなるのでしょうか?でも、男女の関係は罪の元にもなります。また、この地上では結婚という枠組みがあります。結婚外の関係であるならば不倫と呼ばれます。ガラテヤ6章には肉の働きが記されていますが、その3分の1が性的な罪です。でも、復活の時には、そういう罪がきよめられます。しかも、結婚とか子孫を増やすということがありません。罪のない栄光のからだが与えられ、兄弟姉妹として、だれとでも親しく交わることができるのです。私も行ったことがないので、分かりません。おそらく、一瞬にして相手の心が分かるでしょう。なぜなら、霊が100%作動しているからです。そのため、嘘や偽りのない真実な交わりが可能になるでしょう。

 私たちは復活の時のことを聖書から正しく知るべきです。結婚はないかもしれませんが、それ以上の楽しみや喜び、そして自由があるということです。とにかく、天上の生活は地上の延長ではありません。ギャンブル好きで家にお金を入れない夫、酒乱で暴力をふるう夫など、苦労をさせられた姉妹方がおられます。天国に行っても、その夫に仕えなければならないとしたら大変であります。福沢満男先生のお父さんはかなりの酒乱で、先生が子どものとき、地獄のような生活を強いられたようです。しかし、そのお父さんは病気で亡くなる少し前にイエス様を信じました。お母さんが「お父さんは天国に行ったのかい」と聞きました。福澤先生は、「そうだよ、悔い改めてイエス様を信じたんだから天国へ行けたんだよ」と喜んで答えました。すると、「ああ、そうかえ、それなら母さん信じないよ」と言いました。先生のお母さんが信仰を持つのに、それから10年以上かかったそうです。お母さんは「天国に行ってからも夫のために苦労するんじゃ行きたくない」と思ったのでしょう。そうではありません。天国に行ったら、みな兄弟姉妹です。 

韓国教会の長老の方が、死後、数時間で生き返ったという証を聞いたことがあります。その方は、いわゆる臨死体験をしたわけです。アブラハムから天国を案内されました。そこで、何年か前に亡くなった奥様とお会いしたそうです。はじめは、その人がだれかわかりませんでした。なぜなら、奥様は地上では大変太っていて、顔も美しくなかったからです。ところが、目の前の美しい貴婦人は、どこか妻の面影がありました。彼女は、自分に向かって「○○兄弟」と親しく声をかけるのです。「なんだ、お前か。それにしてもどうしてこんなに美しいんだ」「いえ、私はあなたの妻ではなく、姉妹です」と答えたそうです。とにかく天国の奥様は別人のようだったというのです。あいにく、彼の天国の邸宅の屋根が未完成だったので、地上に戻って来たそうです。90歳で天国に召されて、90歳のままで永遠に生きるのだったら何の喜びがあるでしょう。ある聖書学者は「復活時は、男性は30歳前後、女性は20歳前後であろう」と述べています。最近、エターナル出版から、「私は天国に行った」とか「地獄に行った」という証の本がいっぱい出ています。私はそれらを信じないわけではありません。でも、聖書が述べていないことを、詮索して、それを事実であるかのように言うのは避けたいと思います。ただ分かっていることは、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」ということです。天の御使いは、とても美しく、完璧な姿です。美しい人をたとえるとき、よく「天使のようだ」と言うからです。この世では「年には勝てない」と言います。しかし、私たちは復活の時には天の御使いのように麗しい姿になるのです。あこがれをもって復活の時を待ち望みましょう。

3.パルカルが出会った神

 マタイ2231-33 「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」クリスチャンになって数年間は、どういう意味なのかさっぱり分かりませんでした。群衆はこれを聞いて、理解して、驚いたのですからよっぽどです。サドカイ人たちは、預言書を信じていませんでした。預言書には死人の復活や千年王国のことがたくさん書かれています。サドカイ人たちはモーセ五書しか信じていなかったので、イエス様はあえて、モーセ五書から復活について語ったのです。でも、このことが復活について語っているのでしょうか?日本語は時制についてはあいまいなところがあります。しかし、インド・ヨーロッパ語族はそうではありません。英語の詳訳聖書を引用させていただきます。I am the God of Abraham, and the God of Isaac, and the God of Jacob? He is not the God of the dead but of the living.となっています。このところには、I wasとなっていません。I amとなっています。I wasであれば、彼らの神であったということになります。I amであれば、今も彼らの神であり、今も彼らは神の前で生きているということになります。イエス様は主がモーセに語られたことばを引用しました。これは出エジプト36にあり、ユダヤ人には「柴の篇」という名称で知られていました。彼ら3人はイスラエルの族長であり、アブラハムとヤコブとは200年も離れていました。それなのに、彼らは神さまと共に生きているということです。

 イエス様は「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」と言われました。ここのことばは日本人に対する挑戦でもあります。日本人のほとんどは仏教か神道です。それらから出た新興宗教も含めて、死者あるいは先祖崇拝をしています。日本人が信じている神あるいは仏は、死んだ者の神であります。生きている人が死んだ人のため供養しています。同時に、死んだ人が生きている人を守ってくれるように願っています。助けているのか、助けられているのか分かりません。でも、何の疑いもなく、「自分たちもやがては先祖たちがいるところに行くんだ」と信じています。信じているというのではなく、他の選択肢がないので「そうに、決まっている」と考えています。もし、そこにキリスト教が入るとどうなるでしょう?「彼らは陰府にいる存在であり、いつかはさばかれ地獄に行くのです」と言ったらどうなるでしょう。そして、自分がクリスチャンになるならば、ご先祖様に申し訳がたたない。「裏切り者」という烙印が押されるでしょう。日本の法事、お祭りのほとんどが、「死の文化」と言っても過言ではありません。もう、それが当たり前のように思っているのは何故でしょう?エペソ人への手紙6章に、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち」とあります。「主権」はギリシャ語ではもともと「アルケー(始まり)」という意味です。それは私たちが受けてきた「生来の教え」であり、生まれた時から信じ込まされているものです。この天上の悪霊は私たちの思いをくらまして、福音の栄光を見えないようにしているのです。「主権」が日本人に、仏教の教えや進化論を信じ込ませているのです。そのため、キリストの福音を信じて、永遠のいのちを得るというのは、たやすいことではありません。

 ところでパスカルと言えば、数学者でパスカルの原理をはじめ、たくさんの数式を発見した人です。また、パルカルは哲学者でもあり『パンセ』でも知られています。「人間は考える葦である」と言った人です。彼はカトリックが支配しているフランスの出身ですが、聖書をそのまま信じている少数のグループに属していました。パスカルの同時代、デカルトをはじめとする「近代合理主義」が栄えていました。人間の理性で理解し得るものだけが真実だと考えられていました。パスカルは若気の至りで、上流社会の様々な楽しみを求めました。しかし、彼の心の空隙は満たされず、ますます絶望な気持ちになりました。そして、16541123日の夜、パスカルは回心しました。彼は夜中にこう叫んだのです。「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信、確信。万感の思い。喜び、平安。イエス・キリストの神。あなたは私の神です。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト。」当時の教会ではスコラ哲学が流行っていました。形而上的で観念的な宗教だったのです。しかし、パスカルは「聖書こそ、そこに記録されている事実において間違いのない神のことば」であると信じていました。教会は公会議とかで権威ある意見を出していましたが、パスカルは聖書から意味を引き出さない者は、聖書の敵であると言いました。パスカルは数学者であり、いろんな定理を知っていました。私は高校生のとき、物理と数学に出会って、頭が全く混乱し、落ちこぼれてしまいました。そこでは、定理とか、公式ということばは良く用いられました。定理や公式を覚えていると、問題が解けるということです。パスカルにとって人生の問題を解決する、定理と公式はキリストだったのです。キリストを心の空隙にあてはめたとき、全部解決したのではないかと思います。

 イエス・キリストは罪と死の中で囚われている私たちを救い出してくださいました。イエス様はそのために天から下り、人となられました。私たち人類の罪咎を引き受け、代わりにさばかれました。父なる神はご自身の罪に対する怒りをひっこめ、その代り、キリストを信じる者にご自身の義を与えることを約束されました。私たちがキリストを救い主として信じ、受け入れるとき、永遠のいのちがあたえられます。そのとき、パスカルのように「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と叫ぶことができるのです。ある人たちは信仰は天国に入るためのものであると言うでしょう。それだった仏教徒と同じ、死んだ者の神さまです。そうではなく、キリストは生きている者の神さまです。なぜなら、永遠のいのちは死んでからいただくものではなく、この地上から始まっているからです。私たちはすでに永遠のいのちを持ちながら、この地上で暮らしているのです。だから、生きる目的や意味が地上のことがらではなく、やがて来るべき来世のことを念頭においているのです。この地上はやがて過ぎ去りますが、移り住む来世こそが永遠です。私たちは世俗主義ではなく、永遠の目的のために生きるのです。

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2017年9月15日 (金)

カイザルのものはカイザルに マタイ22:15-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.17

 パリサイ人たちは、神政イスラエルを願っていますので、ローマへの貢には大反対であり、屈辱的でした。一方、ヘロデ党の人たちは、ローマにへつらって甘い汁を吸っていたので、ローマへの貢は大賛成でした。普段は仲の悪い2つのグループですが、イエス様をことばの罠にかけるために結託しました。彼らはイエス様を思いっきりほめそやしていますが、それは言い逃れができないためです。

1.カイザルのものはカイザルに

 ここで言われている「納め金」というのは、いわゆる貢であります。他の聖書は「税金」と訳していますので、「税金」で通したいと思います。当時、ローマが世界を支配していましたので、そのような税金が課せられていました。他にローマは強制的に食物、宿舎、馬、助力を提供させることができました。しかし、宗教的にはある程度の自由を与えていました。カイザルというのは、ローマの皇帝であり、シーザーとも言います。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなくて良い」と言うならどうでしょう?ヘロデ党の人たちは「イエスはローマに敵対する者であり、謀反を企てる危険な輩」として訴えるでしょう。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなければならない」と言うならどうでしょう?パリサイ人は「イエスは神政(神が統治する国家)イスラエルを否定するものである」と70人議会に訴えるでしょう。そうなったらメシヤとしての評判はガタ落ちになります。どう答えても不利になります。これは、イエス様を陥れるため、周到に用意されたことばの罠でした。マタイ2218-22 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

 彼らは「これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った」とありますから、よっぽどの理解力です。私たちの中には「え、何のことなの?」と理解できない人もいるでしょう。そのために説教者がおります。「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とはどういう意味でしょう。イエス様は「ローマに納めるデナリ銀貨を私に見せなさい」と言いました。デナリ銀貨にはカイザルの肖像と銘が刻印されていました。当時の銀貨を見ると、皇帝の横顔とカイザル〇〇という名前が刻まれていました。刻印によって、だれがこの貨幣の価値を保証しているか分かります。10円硬貨を見ると「日本国」と刻まれており、日本政府が保証しているということです。イエス様はローマに治めるデナリ銀貨を提示させて、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言いました。それは、ローマのカイザルに負っているものがあるから、それを負担しろという意味です。当時は「パックス・ローマナ」と言って、武力に基づいた平和でした。民主的ではありませんでしたが、ローマのもとで平和が保たれていました。山賊や盗賊が一掃され、ローマの街道も整備され、どこへでも旅することができました。使徒たちが安全に、世界中に福音を宣べ伝えに行くことができたのは、そのおかげであります。紀元前は、戦争に負けたら奴隷になるしかありませんでした。しかし、ローマは比較的な自由を与え、ある国を同盟国にまでしました。ですから、当時のイスラエルは植民地よりもかなりましな方でした。でも、ユダヤ人はとても頑固で反抗的で、ローマ総督の頭痛の種でした。だから、ヘロデ王という王様を置いて、やんわりと支配しようとしたのです。そういう意味で、ローマへの貢は当時では、当然の義務になっていました。

 私たちがもし、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われたらどう適用できるでしょうか?日本は民主国家であり、国民の主権が憲法でうたわれています。そして、納税の義務、法律を守る義務が日本の一国民として課せられています。私たちが治める税金はおもに所得税と住民税ですが、他に固定資産税や業務税があります。クリスチャンであっても、これらの税金を納めなければなりません。また、クリスチャンであっても、日本に住んでいる限りは刑法、民法、様々な条例を守らなければなりません。たとえば、秋葉原では通りでたばこを吸っていると2,000円の罰金が科せられるようです。私も車を運転しますが、違反切符を切られると反則金を支払う羽目になります。私たちは天国の国民でありますが、同時にこの地上の国の国民であります。ですから、納税や法律を守るという義務を負わされているのです。でも、時代によってとても判断が難しいこともあります。戦争への徴兵はどうでしょう?アメリカの教会のある宗派は徴兵制度に反対したために、ものすごく迫害されました。日本でも、第二次世界大戦中は、政府によって神社参拝や天皇礼拝が強制させられました。そういう意味で、はっきり結論が出せないときがあります。極端になりますが、正義に立つ完璧な国家や政府はこの地上にはありえません。しかし、無政府状態よりは増しだと言えます。私たちはテレビ等で、中東やアフリカの内戦の国を見ることがあります。人命が軽視され、何百万人もの難民があふれています。ですから、悪魔的な国家にならない限りは、政府があって法律があるということは良いことなのです。ベストは望めないかもしれませんが、ベターになるように私たちはクリスチャンとして政治に参加する必要があります。選挙に行かないクリスチャンもいますが、尊い一票という義務を果たすべきです。そうしないと、どこかの宗教団体に全部、持っていかれてしまいます。

 イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われました。私たちクリスチャンは天国民ではありますが、日本という国で暮らしています。神さまは日本という国を造られ、私たちを日本人として誕生させました。そういう意味では、この日本を愛し、一市民としての義務を喜んで果たすべきなのです。内村鑑三は「私は2つのJを愛する」と言いました。1つはJesus Christ、もう1つはJapanです。私たちは神さまの一般恩寵として、平和な国が与えられていることを感謝したいと思います。

2.神のものは神に

 第一の「カイザルのものはカイザルに」は、中学の社会科でも理解できる内容でした。しかし、第二の「神のものは神に」は、まことの神を信じていない日本人には理解できない内容でしょう。当時のパリサイ人やヘロデ党は、イエス様の答えに驚嘆しました。でも、私たち日本人、特に教会に来ていない人は首をかしげてしまう内容です。「何か、神さまに負うべきものがあるのでしょうか?神さまにはお世話になっていませんよ」と答えるでしょう。実は第一と第二が合わさっているから、名言になっているのです。イエス様はカイザルのものと神のものをパラレルにして、大切な真理を教えようとしたからです。では、なぜ、イエス様の答えで人々は驚嘆したのでしょうか?ローマのデナリ銀貨には、カイザルの肖像、カイザルの銘が刻まれていました。だから、たとえユダヤ人であってもカイザルに負うべきものがあるということでした。次にデナリ銀貨と比べられるのが私たち人間であります。創世記には人間の創造について記されています。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。英語の聖書には、So God created man in His own image.となっています。肖像も英語ではimageであり、かたちもimageであります。つまり人間には神さまのイメージが刻まれているということです。昔、『十戒』という映画がありました。イスラエルの民がエジプトで奴隷生活を強いられていました。イスラエルの民の一人が、過労のためにレンガ造りの沼地で倒れました。すかさず、エジプトの監督から鞭が当てられました。鞭打たれた老人が「オレたちは奴隷ではない、神のイメージに造られた存在だ」と言い返しました。一人ひとり神の刻印が押されています。ですから、私たちの所有者は神さまであり、神さまが一人ひとりの価値を保証しているということです。

 自覚しているかどうかわかりませんが、少なくとも私たちは2つの面で神さまに負っています。1つは神さまに造っていただいた、この世に誕生させていただいたということです。「いや、私は両親から生まれたんだ」と言うかもしれません。でも、ダビデは詩篇139篇で「主が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と言っています。学校では「人間はアメーバーからだんだん進化したんだ」と教えています。しかし、「人間は神さまによって創造された」と聖書から教えたらどうでしょう?だれにでも、生きる目的があり、だれにでも生きる価値があるということが分かるでしょう。道徳の時間で「いのちの尊さ」を改めて教える必要はありません。聖書の神さまは全能であり永遠で、月、星、太陽、地球を造りました。大地と海を分け、海には魚を泳がせ、陸には植物を生えさせ、動物を作りました。すべての環境が整ってから、人間を創って住まわせました。神さまは人間がこの地を治めるように命じましたが、堕落してしまいました。そのため、罪と死が人間を支配し、天災や災害が起こるようになりました。それでも神さまが造られたこの世界は一般恩寵に満ちています。空気、水、太陽の光、地下資源、自然界の動植物は神さまが私たちに与えたものです。それぞれ命が与えられ、男であること、あるいは女であること、本来はすばらしいことなのです。うまくいかないのは、創造主なる神から離れているからです。もし、キリストを信じて神さまと和解したなら、人生を享受し、寿命を全うできるでしょう。

 もう1つはクリスチャンであるならば、当然知っていることです。それはキリストの贖いよる救いということです。元来、キリストは信じていない人のためにも十字架で死なれました。キリストは罪のための代価を払ってくださいました。クリスチャンとは「それは私のためでした」と救いを受け取った人のことであります。何か良いことをしたとか、功績を積んだということでは全くありません。神さまがキリストにあって用意された救いをいただいたに過ぎないからです。でも、すばらしい特権が与えられました。すべての罪が赦され、神の前で義とされました。永遠のいのちが与えられ、御国に住まうことができるようになりました。私たちは神の子であり、王子、王女です。父なる神さまのすべてのものを相続することができます。「神のものは神に」というとき、私たちクリスチャンは滅びから救いに入れられたという特別恩寵が基盤にあります。神さまに対して、負うべきものがあるということです。しかし、ここで問題が生じます。教会という概念が入ると、神さまに対する義務みたいになります。税金とは言いませんが、十分の一献金をはじめ様々な捧げものがあります。法律ではありませんが、聖書を読み、礼拝をささげ、奉仕をし、伝道をすること。神と隣人を愛し、神さまの戒めを守ること。これらは信仰者としての義務なのでしょうか?キリスト教はヨーロッパで栄えました。ある国は国教会であり、宗教税が課せられています。しかし、そこから自由教会が生まれました。信じた人たちによって、教会を作るということです。そうなるとどうでしょう?私たちの献金で教会と牧師を支えるという考えになります。献金は神さまにささげると言いながら、教会の運営のためささげるのです。そして教会は、「十分の一献金は教会員としての義務である」と洗礼を受けた人に教育するでしょう。

 しかし、「神のものは神に」という意味はそうではありません。私たちは教会にささげるのではなく、神さまにささげるのです。なぜなら、神さまがすべての根源者だからです。神さまが私たちを祝福してくださるので、教会の運営や牧師給が払えるのです。正しくは私たちの教会ではなく、神さまの教会であり、キリストご自身がお建てになるのです。くれぐれも献金を、教会をささえる会費のように考えないでください。十分の一献金のことは旧約聖書のマラキ書に書かれています。新約の恵みを忘れると律法や義務になりますが、旧約であっても真理が語られています。マラキ310「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」とあります。宝物倉は神さまを礼拝している神殿の隣にあります。そして、ささげたら、「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」と約束しています。教会がささげた人に注ぐのではありません。報いとして神さまご自身が注ぐのです。イエス様は「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ64と約束されました。私たちの献金は神さまに対してものであり、神の国への投資です。「献金は義務ではなく、恵みであり特権だ」ということを覚えたいと思います。

3.終末におけるクリスチャン

 適用として、世の終わりに住む私たちには2つの課題があります。第一はカイザルよりも神のものが大切だということです。イエス様が教えた頃のローマは宗教的な自由を与えていました。ところが、使徒パウロの時代になるとだんだん皇帝礼拝が盛んになりました。ヤコブはヘロデによって殺されましたが、ヨハネを除く使徒たちは殉教しました。ヨハネの黙示録はローマが悪魔化したときに書かれたものです。世の終わりにも、反キリストや偽預言者が起こり、迫害が増すでしょう。私たちは世の終わりに住んでいます。終末論にはいろんな解釈があって、単純ではありません。端的に述べるならば、今後、7年間の患難期に突入することになります。前半の3年半は比較的穏やかですが、後半の3年半は反キリストが猛威を振るい、大患難のときとなります。人々は命がけで信じなければなりません。でも、迫害がものすごく強いので、背教者も増えるでしょう。パウロは穏やかなとき、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…彼は無意味に剣を帯びてはいない。彼は神のしもべである」(ローマ131-5と言っています。ところが、黙示録13章になると、政府が悪魔化し、獣を拝むことを強要します。私たちは反キリストに従ってはいけません。命をかけて抵抗しなければなりません。問題は私たち教会がそのとき存在しているかどうかです。20世紀、アメリカで福音派が起こりました。聖書の福音に立ち返るすばらしいリバイバルでした。ところが、彼らは「教会は患難が来る直前に天に引き挙げられる」と教えました。つまり、苦難や迫害を恐れなくて良いという便利な教えです。Ⅰテサロニケ5章には「眠っていないで、目をさましていなさい」と書かれています。ですから、「自分は洗礼を受けているから自動的に天に引き上げられる」と思わないでください。カイザルが神のものを要求するときが来たら、要注意です。私たちは命がけで信仰を守る必要があるということです。

黙示録210「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。私の家内(京子さん)が洗礼を受けたとき、本をプレゼントされたそうです。その裏表紙に「受洗おめでとう。死に至るまで忠実でありなさい。大川従道」と書いてあったそうです。きょう洗礼を受けた人に、「死に至るまで忠実でありなさい」というのはキツイのではないでしょうか?でも、京子さんは「ああ、そうなんだ。そうします」とそのみことばを受け止めたそうです。洗礼を受けても半分は教会を去ってしまいます。その人たちの全部が信仰を捨てたとは思いませんが、「いのちの冠」はいただけないと思います。世の終わり、カイザルと神との緊張関係が高まるでしょう。私たちはカイザルよりも、神のものをより大事にしていく必要があるということです。

もう1つの課題は、積極的にカイザルのものに関与していくということです。先ほど、20世紀、アメリカで起った福音派の終末論についてお話ししました。教会には世の終わりになるとこの世が乱れてくるので、できるだけこの世とは接しないという考えが生まれます。そして、やがて来る御国、千年王国にすべての希望を置こうとします。そうすると、この世の人生はおまけになり、修道院のような厭世的な生活を送るようになります。確かに、世の終わりは人々の愛が冷え、悪いことが起こります。しかし、クリスチャンが「カイザルのもの」を放棄し、神さまのものだけに固執しようとするのは神さまのみこころではありません。イエス様は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように祈れ」とお命じになられました。「主の祈り」はイエス様の祈りではなく、イエス様に従う弟子たちに対するものです。「主の御名をあがめるように」とはこの世の人たちがイエス様を信じて、神さまと和解するようにということです。これは世の終わりに対する伝道のことを指しています。その次の「御国が来ますように」とは、この地に神のご支配が来るようにということです。ビルジョンソンという人は、「イエス様の時から、神の国がこの世にinvade侵入している」と言いました。つまり、政治、ビジネス、芸術、教育、医療、あらゆる世界に神の支配が来るようにということです。これは祈るだけではなく、それぞれの場所にクリスチャンとして遣わされるということです。イエス様は「あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光です」と言われました。塩はこの世の腐敗を留めるという働きがあります。光は神さまの真理といのちを現わしていくということです。この世はますます暗くなるので、たとえ小さな光であっても良く目立つことでしょう。「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とは、神の義とあわれみがなされるようにということです。

イスラエルの民がモーセとアロンに逆らいました、そうすると、主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がはじまりました。このことは民数記16章に記されています。人々がどんどん死んでいきました。アロンはモーセが命じたように、香をたいた火皿を取って集会の真ん中に走って行きました。民数記1648「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」とあります。つまり、香をたいているアロンが立ったところから、死罰が止まったということです。アロンは香をたいて、民たちの贖いをしたからです。私たちも、罪と死が支配するカイザルの世界に遣わされています。私たちは手ぶらではなく、神のものを持っているのです。私たちがそこで祈り、福音を語るならば、神の国がもたらされます。確かに言えることは、私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされています。ですから、世の終わりの時代に住むクリスチャンは、「この世は汚れているから離れて生きる」と言うのはみこころではありません。もちろん、一緒にできない事柄もあります。しかし、私たちは神の国を背負っている大使です。私たちの背後には、神の国というものすごいバックがついています。教会は御国の大使館であり、私たちひとり一人は大使です。日本にもいろんな国の大使館があります。アメリカ大使館のように超一等地に豪華な建物もあります。しかし、あまり知られていない国の小さな大使館もあります。問題は大使館の大きさや豪華さにはよりません。その国を代表しているということが重要なのです。私たちの教会もそんなに大きくなくても、御国の大使館です。あなたも、あなたも、御国の大使です。私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされていることをお忘れなく。

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2017年9月 8日 (金)

婚宴のたとえ マタイ22:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.10

 イエス様はエルサレムにおいて立て続けにたとえ話を語られました。その対象は、祭司長、民の長老たち、そしてパリサイ人たちでした。彼らはユダヤ教の指導者であり、イエス様に反感をいだいていました。そのため、イエス様は遠回しで彼らに教えるために、たとえで話されたのです。このたとえの、王は神さまであり、王子はイエス様、招待を受けていた人たちというのはイスラエルです。その当時はユダヤ人と呼ばれていました。

1.拒絶したイスラエル

 イエス様は「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます」と語り出しました。披露宴は英語の聖書ではwedding banquetとなっています。4節には「宴会」となっていますので、ごちそうが並べられた大宴会でありました。王様はあらかじめ招待状を出していました。日時が迫ってきたので、確認のために、しもべたちを遣わしました。しかし、彼らは来たがりませんでした。J.Bフィリップスは「来るのを拒んだ」と訳しています。知っていたのに行こうとしなかったのです。王様は、直前になって、別のしもべたちを遣わしました。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」と申し伝えました。合計3度、招いたということです。でも、彼らはどうしたでしょう?5-6節「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」何ということでしょう。いつでもできるような畑仕事や商売にでかけました。ルカ福音書にも似たような話があります。「牛を買ったので見なければならない」とか「結婚したので行くことができない」と言い訳をしています。王子の婚宴に行くことは、優先順位の中に入っていませんでした。急用があった訳ではなく故意に行かなかったのです。イエスさまがメシヤとして来られ、御国の福音を宣べ伝えました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは、神の国の招きを受け入れることをしませんでした。なぜでしょう?自分たちの立場を失うからです。あるいは、自分たちの方法とは違うと思ったのかもしれません。なぜなら、律法と伝統を軽んじているように思えたからです。

 ここで言われている「しもべたち」というのは預言者たちでしょう。旧約聖書からイエス様の時まで多くの預言者が遣わされました。でも、彼らは神さまに立ち返ろうとしませんでした。それだけではありません、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまいました。最後の預言者と呼ばれたバプテスマのヨハネも殺されました。王様はどうするでしょう?7節「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」このことは、紀元70年に起りました。ローマによってエルサレムが滅ぼされました。神殿が完全に破壊され、ユダヤ人たちは殺害され、生き残ったユダヤ人は国外に逃げました。たとえに「兵隊」とありますが、神さまがローマの軍隊を用いたというように解釈できます。前のぶどう園のたとえでも、同じことが言われていました。イエス様がエルサレムに乗り込んで、このようなことをおっしゃったら反感を買うのは必至です。でも、ご自分が彼らによって殺されるのをご存じだったので、覚悟の上であったと思います。

 使徒パウロはローマ11章でイスラエルは「不信仰によって切り落とされた」と言っています。不信仰というのは、「あえて信じない」という含みがあります。イスラエルは神によって選ばれた民でありました。だから、それが高慢になったのです。また、律法が与えられ、神さまに対する知識においては格別でした。イエス様の頃、パリサイ人や律法学者たちは、この律法を学び、厳格に守っていました。でも、イエス様が宣べ伝える福音は、行ないではなく恵みでありました。しかも、「ナザレの田舎から急に出てきた、大工のせがれが何を言うんだ。こっちが正統だ」という自負もあったのでしょう。彼らは律法による義を求めたゆえに躓いてしまったのです。このたとえでも言われていますが、御国に入る条件は何でしょう?王さまが王子の婚宴を開きました。救われるための条件は「はい、行きます」と行けば良かったのです。王さまは「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っただけです。言い換えると「救いを得るために、神さまが全部、整えたので、信じるだけで良い」ということです。その根拠となるみことばがⅠヨハネ410です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」「なだめの供え物」は英語の聖書では、propitiation「なだめ、和解、贖い」と訳されています。つまり、「キリストが罪のためにささげられたので、神さまが罪に対する怒りをひっこめられた」ということです。このたとえの中で、王さまはどのような準備をしているでしょう?「雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っています。王さまは婚宴のために、雄牛や太った家畜をほふりました。まさしくそれは、イエス・キリストの「なだめの供え物」を象徴しています。そして、ただ来るだけで良いようにしたのです。だけど、それが彼らには気に入らなかったのです。

 パウロはローマ10章で「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ103,4と言っています。神の義というのは、キリストの贖いを信じることによって与えられるものです。一方、自分自身の義を立てるというのは、モーセの律法を行うことによって得ようとする義です。しかし、その義は守っていない人をさばいて排除します。実際、パリサイ人や律法学者は律法を守れない人たちを軽蔑し、排除していました。取税人や遊女たちが神の国に入るのを見て腹をたて、イエス様にねたみを燃やしました。なぜなら、安価な救いを宣べ伝えているように思えたからです。この世の宗教は人間の行いを必要とします。しかし、キリストが宣べ伝える福音は、「神さまが全部準備したので、ただ来るだけで良い」というものです。イエス様は「私がなだめの供え物となりました。何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と招いておられます。行いではなく、恵みによって救いが得られるのです。

2.異邦人への招き

 イスラエルが躓いたので、異邦人に救いがやって来たというのが新約聖書の考えです。さきほど引用したローマ9章から11章にもそのことが記されています。また、1つ前のたとえでも「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」とイエス様がおっしゃいました。では、このたとえではどのように語られているのでしょうか?マタイ228-10「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」このところから分かるのは、招待しておいた人たちとはイスラエルです。「大通りに行って出会った者」というのは全世界の人たち、異邦人と言えます。また、「良い人でも悪い人でも」というのは、救いの招きは善人とか悪人は関係ないということです。使徒の働きを見ますと、福音がサマリヤ、小アジア、ギリシャ、ローマに伝えられていくのが分かります。西暦4世紀になると、ゲルマン民族がローマに入ってきました。ローマの人たちは彼らを「蛮族」savage tribe「未開の部族」「野蛮な部族」と呼んだのです。でも、その数があまりにも多くて、ヨーロッパ中が支配されてしまいました。ところが、彼らはとても単純で従順であり、キリスト教を受け入れました。マリヤ崇拝とか異教の教えが入ってしまいましたが、それでもキリスト教化されたと言っても過言ではありません。もちろん、その後、暗黒の中世がありますが、それでも福音はヨーロッパに行きわたりました。その後、南北のアメリカ大陸、アジアへと福音が宣べ伝えられました。現在では22億人(総人口の33%)がいると言われています。でも、彼らは本当に救われているのでしょうか?

 このたとえに不可解なことが書かれています。マタイ2211「ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」婚礼に来た人たちの中に、礼服を着ていない者がいました。王様は「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と聞きました。この人たちは、通りを歩いていたとき、突然、声をかけられて、入って来ました。あらかじめ招かれていたなら、礼服を着て来るかもしれません。「通りで呼ばれて、やってきたのに、それは酷じゃないですか?」と文句が出そうです。しかし、当時の風習では、一般の人が王様のところに出るとき、失礼のないように衣服が用意されていたようです。また、このような婚礼のときは、入口で礼服が用意されていました。でも、この人はそれを拒否して、そのまま入って席についていました。彼は理由を聞かれても答えませんでした。おそらく彼は、「俺の流儀で何が悪い。せっかく来てやったんだ」という反抗心があったのではないでしょうか?婚宴の招待はだれにも向けられています。しかし、礼服が必要です。では、この礼服とは何なのでしょうか?この礼服は私たちの罪を覆い隠すものです。王なる神さまのもとに出てもさばかれない服です。ローマ3章には「キリストを信じることによって義と認められる」と書いてあります。言い換えると、信仰による「神の義」がその人を覆っているということです。神の義は、キリストを信じるとき、神さまからプレゼントされるものです。ある人たちは、「キリストを着ている」と言います。厳密に言うと、キリストを着ることはできません。「いや、新約聖書に書いてあるでしょう?」と言うかもしれません。エペソ4章とコロサイ3章には「新しい人を着る」と書いてありますが、「キリストを着る」とは書いていません。正しいのは、キリストを信じることによって与えられる「神の義」を私たちは着ているということです。「神の義」を着ているなら、神の前に立ってもさばかれることはありません。これは宇宙服みたいなもので、宇宙のような大気圏外でも生きていられるのです。ハレルヤ!

 私たちは異邦人です。異邦人とは外国人という意味であり、イスラエル以外の人たちのことを言いました。これは約束がなくて救いから漏れているということです。本来、神さまの計画はイスラエルを神の国の祭司として立てて、すべての国民を救うことでした。ところが、ダメになり、イエス様は新しいイスラエル、12弟子を招集したのです。イエス様は彼らを通して、救おうとされたのです。その福音が日本にまで届いて、人数こそ少ないですが、私たちも御国に籍を置く者たちです。だれから福音を聞いて、「はい、それでは行きます」と信じたのです。でも、なかなかすんなりとは信じられなかったのではないでしょうか?ある人は無理やり連れて来られ、またある人は騙されて来たという人もいるでしょう。郡山の斎藤牧師は大学生のとき友人から教会に誘われたそうです。友人はクリスチャンでなくて、「中華街の教会なので、おいしい昼ごはんが食べられるよ」と誘いました。「僕はそれほど飢えていないよ」と断りました。さらに友人は「若くてきれいな女子もいるよ」と言いました。「僕はそんなの興味ないよ」と断りました。でも、次の週、横浜の華僑教会に行っていました。名目は「中国語が勉強できるから」ということでした。彼は大学の中国語学科だったのに、ほとんど話せなかったからです。でも、そのままその教会に通い続け、クリスチャンになったそうです。きっかけは、おいしい昼ごはんなのか、女の子なのか、中国語なのかご本人に確かめないと分かりません。

このところに、「王子の結婚の披露宴」「宴会」と書いてあります。そして、その食事はとても豪華そうであります。しかも、ただであります。なんと、招かれていた人たちが来なくなったのです。昔、ポスターを見たことがあります。白いクロスの上に、お皿とフォークやナイフが並べられています。そのテーブルは前から奥まで先が見えない位長いのです。英語でこのように書いてありました。“Come and dine”この英語の聖歌の直訳です。「あなたはいつでも、イエス様のテーブルでごちそうが食べられるのですよ。大勢を養い、水をぶどう酒に変えた方が、お腹を空かした人に『来て、食せよ』と招いていますよ。」王子の披露宴の招きに応じた人は幸いです。

3.宴会の教会

箴言1515「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」このところに宴会と書いてあります。クリスチャンは心に楽しみがある人なので、毎日が宴会であるべきです。昔、大川牧師が「楽しくなければ教会でない」とおっしゃって、この箴言1515からメッセージしたことがあります。宴会はだれでも好きじゃないでしょうか?昔、クリスチャンになる前でしたけど、「世の中にこんなに楽しいものがあるのか?」と思いました。でも、25歳でクリスチャンになってから酒を飲むような宴会に出たことがありません。そういえば、北澤姉の結婚式のとき、アリオのレストランを貸し切ってやったことがありました。驚いたのが、教会の姉妹方がビールを何倍もお代わりしている姿を見たことです。私は教会で「酒を飲んではいけない」と言っていません。「酒に酔わないで、むしろ御霊に満たされなさい」とは言っています。ですから、「私は酔っていませんよ。うぃー」と自らおっしゃっているのなら構いません。言いたいことは、教会は宴会のように楽しいところであるべきだということです。なぜなら、罪赦され、救いを得ているからです。また、王子の披露宴の招きに応じて、ご馳走が並んだテーブルに座っているからです。私たちは天国の喜びと豊かさをいつでも味わっているのが標準ではないでしょうか?でも、日本の伝統的な教会はそうではありませんでした。大川牧師は「日本の教会は、暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会だ」とよくおっしゃいました。先生は中学生の頃、「偽善者ばかりで、教会に火をつけてあげたい」と本気で考えたそうです。みなさんのイメージは、「暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会」でしょうか?おそらく、亀有教会に属している愛兄弟姉妹は、くれぐれもそのようなことはおっしゃらないでしょう。

私はたまたま大川牧師が牧会しておられる座間キリスト教会で救われたので、他の教会のことがあまり分かりませんでした。でも、昔のことや他の人の話を聞くと、「えー?」と驚くようなことが良くありました。日本はピューリタンの信仰が入って来たので、清貧に甘んずることが美徳とされました。日曜日の礼拝の服装も正装して行きます。ジーパンとかサンダルは絶対だめです。日曜日は旅行もだめ、部活もだめ、洗濯もだめという時代もあったそうです。旧約聖書の安息日はそのような規定がありました。しかし、キリストが復活して以来、毎日が安息日、毎年が安息年になりました。昔の人は、「日曜日は主の日なので、昼だけでなく、夜の礼拝(夕礼拝)も守るんだ」と一日教会にいたそうです。未信者の夫や子どもたちは、主婦不在の家庭だったわけです。私は最初、聖め派の神学校に行ったので、私だけが浮いた存在でした。毎週月曜日夜7時から修養生の祈祷会がありました。その学校は神学生とは言わず、修養生でした。ある学生が「なぜ、修養性と呼ぶのか?それは主よ、主よと叫ぶからです」と私よりも勝る冗談をいう先輩がいました。私は月曜日夜の祈祷会が大嫌いで、できるだけ用事を作って行かないようにしました。ある日、舎監の牧師がⅡコリント9章から「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」というメッセージをされました。「自分自身が失格者にならないように、自分のからだを打ちたたいて従わせる」とはまさしく「修養」の世界でした。その教団主催の聖会に出ると、「まだ罪はないのか、悔い改めろ」と暗い部屋でたたかれている感じがしました。まるでモグラたたきであります。平日は暗い神学校での学びですが、日曜日は座間キリスト教会で太陽のもとで恵みを受けます。私はその学校では基礎科で終えて、改めて別の神学校に行きました。その学校は聖めとか全く説きませんでしたが、先生方がとても聖められていました。前の神学校は聖めを説くわりには、みんな癖があり、他の教団を裁いていました。あるとき、Ⅱコリント9章の本当の意味を知りました。パウロは熱心なパリサイ人だったので、すぐ律法主義に戻ってしまいます。真面目なので、自分の力でやろうとするのです。でも、パウロは「それは違うんだ、恵みで生きるんだ。恵みで生きるんだ」と自分のからだを打ちたたいて従わせたんだと教えられました。アーメンです。

もし、教会が「暗い、堅い、つまらない」であるなら、世の人たちが教会に来るでしょうか?聖書のしもべたちは「王子の披露宴、盛大な宴会があるから来るように」と人々を招いたのです。人々は「宴会?それもタダ!」と聞いて、集まってきたのです。礼服もちゃんと備えてあるので、普段着で良いのです。そこには山海の珍味が山盛りにテーブルに並べられています。もし、教会が、私たちクリスチャンが、「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」というような生き方をしているなら自然に人々が惹きつけられて来るのではないでしょうか?それなのに宗教的な顔をして、「ありのままではいけない」とか、「冗談を言っちゃいけない。静粛に」と言っていたなら、だれも来ません。来ても、暗い人しか集まりません。「私はことばで伝道できません」という人がいるかもしれません。でも、あなたが毎日、喜んでいたなら、人々が「どうしてなんですか?何か良いことでもあったんですか?」と聞くでしょう。そのとき、「イエス様が私を愛しているから」と答えれば良いのです。どうぞ、明るいクリスチャンになりましょう。この間、就任30周年のお祝いをしてくださりありがとうございました。でも、「軽い牧師」というセリフが何度出たでしょうか?正確には「軽い」ではなく、「aかるい牧師」です。英語と同じように、冠詞のaが入ることをお忘れなく。私たちはこの世で生きているので、がっかりしたり失望させられたりすることはあります。でも、すべての罪が赦されて、片足は天国に入って入るのです。神の国が私のところに来て、その豊かさが与えられているのです。パウロがピリピ書でこう命じています。ピリピ44「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」この時、パウロは狭い牢獄の中に閉じ込められていました。決して喜べる状況ではありませんでした。喜べる環境が来たならだれでも喜ぶことができます。でも、そうでないときも喜ぶのです。そうすると、不思議に喜びが湧き上がってくるのです。感情に従わないで、信仰によって喜ぶならば、喜びが湧いてくるのです。ハレルヤ!私たちはいずれ、イエス様と一緒に婚宴の席に着きます。でも、その時はただの列席者ではありません。イエス様の花嫁として、イエス様の隣に座るのです。イエス様と私たちが主役の席に座るのです。そのことを覚えるなら、いつでも喜びが湧いてきます。

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2017年9月 1日 (金)

見捨てられた石 マタイ21:33-46 亀有教会牧師鈴木靖尋

 イエス様は彼らにたとえで話しました。たとえにはいろんな効果があります。その1つは敵対している人たちにたとえで話すことによって、自ら悟らせることができます。二つ目のたとえも、悔い改めようとしない祭司長と民の長老に向けて語られたものです。イエス様はかつて「エルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺される」と予告しました。彼らはこのたとえが自分たちをさして話していることを気づいて、イエス様を捕えようとしました。でも、群衆を恐れて、それを実行できませんでした。

1.イスラエルの失敗

 33節から39節までは、家の主人が農夫たちにぶどう園を貸して旅にでかけるたとえになっています。家の主人はぶどう園を造り、垣を巡らし、その中の酒ぶねを掘り、やぐらを建てました。全部造った後で、農夫たちに貸しました。所有者は家の主人で、農夫たちは雇われている存在です。ですから、収穫の何割かを主人に差し上げるのが当然です。収穫の時が近づいたので、主人が自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わしました。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえ、ひとりは袋ただきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打ちました。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしましたが、やはり同じような扱いをしました。ぶどう園のたとえは、イスラエルの歴史を表しています。主は彼らをエジプトから救い出し、約束のカナンの地を与えました。イスラエルはその地に増え広がりました。しもべたちというのは、神さまから遣わされた預言者です。「収穫の分け前」とは何でしょう?その当時は、収穫の初なり、あるいは何分の一かを神殿に携えてきました。神さまはご自分で食べるのではなく、ささげものをもって、感謝と礼拝をささげることを願っておられます。ところが、イスラエルはカナンの土着の神さまを礼拝し、信仰がおかしくなりました。当然、生活も乱れ、神の戒めも守らなくなりました。神さまはエリヤ、エリシャ、アモス、イザヤ、エレミヤなどの預言者を遣わしました。でも、彼らをことごとく迫害しました。イザヤはのこぎりで引かれたと言われています。やがてイスラエルはアッシリヤとバビロンに滅ぼされました。ユダとベニヤミンという民だけが、バビロンから帰還し、神殿を再建しました。彼らを私たちはユダヤ人と呼んでいますが、イエス様の頃は律法(タルムード)と伝承を中心とした宗教になっていました。エルサレムには神殿があり、特別な行事のとき人々が集まり、犠牲をささげました。エルサレムには祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人がおり、いわばユダヤ教の中心でした。

 突然、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、まもなくメシヤがやって来ると預言しました。彼らは荒野に出て行きましたが、ヨハネの言うことを信じませんでした。預言書のとおりナザレからイエス様が現れ、福音を宣べ伝え始めました。病を癒し、奇跡を行ったので、人々は、「この方がメシヤだろう」と信じ始めました。宣教開始から3年程たち、いよいよエルサレムに乗り込んできました。面白くないのは、祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人たちです。せっかく、待ちに待っていたメシヤが現れたのですから、喜ぶべきでしょう?ところが、自分たちの立場や特権が奪われることを恐れ、イエス様を受け入れませんでした。預言の成就、権威ある教え、癒しと奇跡などから生身の人間でないことは確かです。なのに、イエス様を受けないとはどういうことでしょう?初代教会のステパノがペンテコステの後、彼らに向かってこのような説教をしました。使徒751-52「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」ステパノがこのような説教をしたので、彼らによって石で打ち殺されてしまいました。イエス様がたとえ話で、このように予告しています。マタイ21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。」まさに、このようになったのです。このたとえからも、「財産を自分たちのものにしよう。神さまには返さない」という悪い考えがあります。恐ろしいことに、神の息子、イエス・キリストをエルサレムの外で殺すことになります。

 イエス様はたとえ話を話した直後、彼らに質問しました。マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはこのたとえが自分たちに向けて語られていることを知りましたが、悔い改めようとしませんでした。むしろ、怒りを燃やして、イエス様を捕えようとしたのです。頭では分かっているのに、イエス様を信じなかったのです。先週もお話ししましたが、頭で信じるのではなく、心で信じるものです。頭と心は35センチくらい離れていますが、一致できません。頭では分かっているけど、心では神さまには従わないということがあるかもしれません。なぜなら、人間は知性では動いていないからです。人間が知性では動いていたなら、とっくに犯罪はこの世からなくなっています。人は覚せい剤が悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。盗みは悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。スピード・オーバーは悪いことは、100も承知なんです。でも、出しちゃうのです。ユダヤの宗教家たちは、頭ではイエスがメシヤだと分かっていたのです。でも、心で信じようとしませんでした。なぜなら、信じると従わなければならなくなるからです。そうしたら、自分の生活を変えなければなりません。地位や特権がなくなるし、おまんまも食えなくなるかもしれません。宗教が生活の手段になると問題であります。これは私も注意しなければなりません。アーメンです。

 ところで、私は葬儀を伝道集会だと思っています。「人が亡くなったのに、伝道のためにするのか」と非難されるかもしれません。もちろん、故人を偲び、天国での再会を語ります。でも、なんとかこの際、人間の死ということを考えて、解決であるイエス様を信じてもらいたいと福音を語ります。教会にあれだけ求道者が来ることはありません。毎週の礼拝でも新来者はあまり来ません。ところが、葬儀の場合は何十人も、ある場合は100人くらいになります。死はだれにでも来るのですから、「死後はどうなるんだろう」と考えることがあるでしょう。仏教の葬儀では何を言っているか分かりません。でも、教会の場合ははっきり、日本語で語っていますので、内容は分かるはずです。でも、決断するかしないかは全く別です。ある人は頭では分かっているかもしれません。でも、心で信じるということがないのです。お葬式当日は考えるかもしれませんが、次の日になると、日常生活に逆戻りです。そうやって、月日が過ぎ去り、自分の番がやってくるのです。去る74,5日と故板橋松枝姉のご葬儀がありました。会葬者の中に「約30年ぶりだね」という人たちがいました。古い会堂のとき来たことがあるけど、新しくなって初めてだという人もいました。交番で聞いて、別の教会2つも紹介され、やっとたどり着いたという人もいました。10年、20年はあっという間です。体もポンコツになり、「元気?」「大丈夫?」という会話が飛び交います。葬儀は単なるセレモニーではありません。死に打ち勝たれたイエス様を信じるすばらしい機会となります。

 当時の宗教家たちは目の前でイエス様を見ました。お話しを聞きました。ある人はイエス様が病を癒し、奇跡を行うのを目撃したでしょう。イエス様の顔は輝いており、声にも力があったと思います。直接、イエス様とお会いできたのに、なぜ信じることができなかったのでしょう。ステパノは「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち」と言いました。パウロが「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ローマ229と言っています。割礼とはイスラエル人になるためのしるしであり、肉体の一部を切り捨てることです。それが心の割礼となると、どういう意味でしょうか?肉体の一部ではなく、いのちのすべてを切り捨て、全面的に信じるということです。心で信じるとは、自分のいのちをかけるということです。頭の場合は、「そういう時もあるけど、これは違うかな」と理性に頼ります。心で信じるというのは、「頭で理解できない時があっても、全面的に神さまに従う」ということです。当時のユダヤ人たちは、心で信じて、イエス様に自分たちをゆだねることをしなかったのです。そのため、さらに心が頑なになり、信じることができなくなったのです。これは一種の呪いです。チャンスが来たとき信じようとしないなら、さらに心が頑なになり、最期の時も信じられないのです。イザヤ書にすばらしことばがあります。イザヤ556-7「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」いつでも信じられると思ったら大間違いです。神さまが招き、聖霊様が教えてくれて、はじめて分かるのです。

2.異邦人の特権

 マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはそのたとえが自分たちをさして語られたことに気づきました。それで、怒りを燃やしました。このたとえの農夫とはイスラエルの人たちです。やがては、神さまから裁きを受け、殺されるということです。このことは、紀元後70年に成就します。ローマ軍が神殿を破壊しユダヤ人を虐殺しました。ユダヤ人は国がなくなり、世界中に離散してしまいました。イエス様は「そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われました。別の農夫とは、私たち異邦人です。キリスト教会とも言えます。異邦人である私たちが救われる教会の時代がやってきたのです。アメリカにヴィンヤード・チャーチというのがありますが、まさしくぶどう園の教会です。「きちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われていますが、きちんと収穫を納めているでしょうか?教会では10分の1献金ということが言われますが、ある教会は「それは献金ではなく返金だ、10分の1返金だ」と言っています。私は献金だけだとは思いません。時間や奉仕、礼拝や感謝の心もそうだと思います。きょうこのように私たちが礼拝のために体と時間をささげています。これも「きちんと収穫を納める」行為ではないかと思います。私たちは義務ではなく、特権として受け止めたいと思います。なぜなら、神さまは豊かに報いてくださる、generouslyな神さまだからです。Generouslyというのは、「気前の良い」「物惜しみしない」という意味です。女の子がデザートのいちごを食べていました。仕事から帰ってきたお父さんが「パパにもちょうだい」と言いました。お皿にはあと3個しか残っていませんでした。女の子はパパに2個あげました。パパはどうしたでしょう?後日、いちごを1パック買って来て、彼女にあげたそうです。2個を投資したら、1パック戻ってきました。ハレルヤ!私たちの神さまも同じで、とてもgenerousなお方、気前の良いお方です。

 きょうのメッセージのテーマは「見捨てられた石」です。ぶどう園のたとえが、「見捨てられた石」という話だったからです。マタイ2142イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』まず、私たちは家とは何か、また、どのような家なのかということを考えなければなりません。さばきの預言である44節を見てみたいと思います。「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」これは、エルサレム神殿が紀元後70年に破壊されることの預言です。イエス様はマタイ24章でも、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」と預言しました。これはエルサレム神殿が跡形もなく、崩されるということです。でも、イエス様は「この神殿をこわしてみなさい。私は三日でそれを建てよう」(ヨハネ219とおっしゃったことがあり、敵たちもそのことを知っていました。一連のことから考えると、家というのは神殿です。石が積まれたまま残ることのないほどくずされるというのは、エルサレム神殿のことです。ところで神殿を建てるときに最も重要なのは「礎の石」です。口語訳聖書では「隅のかしら石」となっています。英語の聖書ではCornerstoneと書いてあります。ウェブを見たら「建物の2つの辺の角にあって、2つの辺を結び付け、確定させるので、建物の中で、最も重要な位置にあります。建物全体を支える石のことです」と書いてありました。イエス様が引用したのは詩篇11822,23です。似ていますが、イザヤ書2816「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」イザヤ書28章のこのみことばは、使徒の働き411、ローマ933、エペソ220、Ⅰペテロ26などに引用されています。

 どういうことでしょう?イエス様の時代にあったエルサレム神殿はさばきのゆえ崩壊しました。イエス様は壊された神殿を3日で建てると言われましたが、それは教会のことです。教会とは私たちのことで聖霊の宮、神殿であります。イエス様はエルサレムの神殿には全く興味がありませんでした。それよりも、ご自身が礎石となって建てる神の教会が重要でした。エペソ2章後半には、「キリスト・イエスご自身がその礎石です。主にある聖なる宮となるのであり、神の御住まいとなるのです」と書かれています。つまり、私たちの中に神さまが住んでくださるのです。でも、その礎石はイスラエルの人たちに捨てられた石でした。イエス様は彼らのところにやってきました。ところが、彼らはイエス様に躓き、妬みのゆえに殺してしまいました。ぶどう園のたとえのように、あと取りである息子を殺して、財産を手に入れようとしました。「ぶどう園の外に追い出して殺してしまった」とありますが、イエス様はエルサレムの外、ゴルゴタの丘で十字架に付けられました。イエス様は、神に選ばれた約束の民によって、捨てられたのです。ところがどうでしょう?父なる神は、捨てられたつまずきの石を教会の礎石にしたのです。私たちは異邦人であり、選びから漏れていた民でした。イスラエルが躓いたので、救いが私たちのところにやってきたのです。そして、イエス様は私たちの救い主になってくださいました。なんとありがたいことでしょう。新約聖書ばかり読むとありがたみが分かりません。創世記のアブラハムが信仰の父と呼ばれていますが、遠い昔の人です。私は一番最初、東林間のバプテスト教会に行きました。英語がただで勉強できると言われたので、職場の先輩に誘われて行きました。教師がアブラハムを知っているかと英語で聞きました。私は「ああ、アブラハム・リンカーンですね」と答えました。でも、どうして大統領の名前が聖書に書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。ある人が「イエス・キリストってアメリカ人だろう」と言いました。なぜなら、横文字だからということです。日本人の多くは、キリスト教がアメリカの宗教であると思っています。そして、日本には日本の宗教、仏教があるだろうと言います。ちなみに仏教はインドで、キリスト教はイスラエルが発祥の地です。

 私たち日本人は躓く前に、全く無知であります。聖書もほとんど読んだことがない日本人がどうやってイエス・キリストに出会うのでしょうか?普通に生きていたら、絶対、クリスチャンにはならないでしょう?どうして、西アジアの端っこの小さいイスラエルの国で始まった宗教を信じなければならないのでしょうか?かなり前になりますが、テレビで京都の歴史のことが紹介されていました。京都では祇園祭りで有名です。鋒の前に美しい錦絵があります。ある絵はリベカがラクダに水を飲ませている絵であり、「イサクの嫁取り」でした。他にイラクのバクダット宮殿、ピラミッドの絵もあります。祇園祭りのルーツは、古代イスラエルのシオン祭りであり、日程も重なっています。聖書の物語がシルクロードをはるばるやってきました。ユダヤ人は躓きましたが、形を変えて日本にやってきたのです。伝道のため聖書はもちろん必要ですが、キリスト教の文化がたくさん入って入ることを伝えて興味を起こさせたら良いです。「目からうろこ」「豚に真珠」「目には目、歯には歯」「スケープゴート」「のど仏(Adams apple)」があります。前にも話しましたが、ある漢字は聖書の物語から来ています。船(ノアの8人)、裸(果実を食べた結果)、義(羊に我)、犠牲(牛と羊を戈で殺してささげる)。でも、私が一番、効果があると思うのは、病の癒しや奇跡です。人はこれを体験すると、福音に対して心が開かれます。これはイエス様と弟子たちが行った最も古い伝道法です。また、聖日礼拝に連れてくると、神さまを体験することができます。この礼拝では、神さまを体験することができます。ハレルヤ!

 普通、宗教と言えば、私たちが神さまのところへ行かなければなりません。きよくなるための行い、お布施、作法、めんどうなことがたくさんあります。「あなたは汚れていて相応しくない。もっと修養が必要だ」と言われるかもしれません。でも、イエス様は神の御座から下界に降りてきてくださいました。人々の病を癒し、たくさん良いことをしたのに、裸にされて十字架で殺されました。本当に人々から捨てられたんです。それだけではなく、神さまからも捨てられました。しかし、それは私たちの罪を贖うためでした。イエス様は選民イスラエルのところに来たけれど、捨てられました。でも、神さまは不思議なことをなさってくださいました。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」のです。本来、私たちが神さまから見捨てられていた存在でした。私たち異邦人は、救いから漏れていたのです。なんと、見捨てられていた私たちのところに、見捨てられた石としてイエス様が来られたのです。本来、神であり王の王であるお方が、へりくだって私たちのところに来てくださいました。もちろん、私たちもイエス様を神としてあがめ、うやまいます。でも、私たちのために、どん底まで降りてきて下さったイエス様をあがめるのは当然であります。だれでも、イエス様にあるなら人生の大逆転があります。なぜなら、イエス様ほどん底まで降りた方は歴史上一人もいません。でも、イエス様は陰府の底からよみがえってくださいました。エペソ4章には「高い所に上られたとき、人々に賜物を分け与えられた」と書いてあります。賜物とは霊的賜物であり、私たちがやがて行くパラダイスのことです。主にあって見捨てられた人など一人もいません。イエス様はあなたを救うために来られたからです。

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2017年8月25日 (金)

悔い改めた人たち マタイ21:28-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.27

 みなさんは一度決断したら、前に向かって進むというタイプでしょうか?それとも、間違ったと分かったら、戻る方でしょうか?もちろん、対象によると思いますが、頑固一徹というのも問題です。神の国に入った人は、方向を転換した人たちと言って良いでしょう。なぜなら、この世の多くの人たちは神さまに背を向けて歩いているのに、クリスチャンは悔い改めて、信じることができたからです。ちなみに「悔い改める」は、change of mind考えを変えるという意味です。

1.悔い改めない人たち

 悔い改めない人たちというのは、当時の宗教家たちです。祭司長と民の長老たちがイエス様に文句をつけました。なぜなら、イエス様が神殿にやって来て、売り買いしている者たちを追い出したり、両替の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒したからです。彼らは「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか」と聞きました。権威の出所を聞いたわけです。もし、イエス様が「神からだ」と答えるなら、冒涜罪として訴えるつもりでした。しかし、イエス様は直接答えるのではなく、逆に質問で答えました。マタイ2124「私もひとことあなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、私も何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」彼らは面食らいながら、互いに論じ合いました。25節途中からお読みします。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。このところには、イエス様の広くて深い知恵が現れています。直接、答える代わりに、質問したのはなぜでしょう?箴言264-5「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。」

 バプテスマのヨハネはイエス様を「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。それだけではありません。直接、イエス様をご覧になったとき、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と宣言しました。当時の宗教家たちもバプテスマのヨハネが言ったことを聞いたことがあるでしょう。彼らは群衆を恐れて、はっきりと返事ができませんでした。だれでも、イエス・キリストに出会うなら、信じるか信じないか、2つに1つしか選択できません。彼らは「わかりません」と言いました。わからないはずはありません。彼らは聖書に精通し、イエス様がなされた多くのしるしを見ました。まさしく、来るべきメシヤ、キリストであることがわかっていました。わかっていたのに、信じなかったのです。これを何と言うでしょうか?神への反逆であり、不従順です。私たちは「わかったら、信じるのが筋というものでしょう」と言うかもしれません。分かるというのは多くの場合、知的に分かるということです。しかし、人間は知性で動いていません。心の深いところで、決断しています。ある人たちは、たばこや酒が体に悪い事は百も承知ですが、それをやめられません。犯罪も悪いと百も承知ですが、それをしてしまうのは何故でしょう?人間は知性だけでは生きていないということです。私たちは知的な勉強だけではなく、心の深い部分も開拓する必要があります。心の深い部分は、聖書を学び、まことの神を礼拝することによって開拓されると信じます。当時の宗教家たちは聖書を学び、まことの神を礼拝していたのですが表面的でした。そして、目の前におられるキリストを信じませんでした。なぜでしょう?信じたら、自分の生活を変える必要があるからです。彼らは宗教的な立場やプライドを捨てることができませんでした。死活問題ということばがありますが、宗教で食べていたので、あえて拒絶したのです。

 私が座間キリスト教会で奉仕していた頃、自宅にエホバの証人の方が来ました。あんまりしつこいので、一緒に聖書を突き合わせて学びました。彼らはイエス様を神として認めていません。キリストの十字架の贖いも不十分であると思っています。だから、救いを得るために、奉仕をしたり宣教活動をします。最終的に、「あなたもイエス様を信じたらどうですか?信仰は行いではなく、恵みですよ」と迫りました。するとその方は、「30年もやっているので、今更、変えられない」と言いました。その方は人を指導する立場の人でした。それっきり、その人は来なくなりました。イエス様を信じるということは、私たちの生き方や価値観、全部変えなければいけません。でも、一番、抵抗するのは私たちの自我ではないでしょうか?イエス様を信じるということは、人生の主人、王として受け入れることです。王様はふたり存在できません。自分の王座をイエス様に明け渡し、自分が主のひざもとで暮らすことになります。だれでも、この葛藤を乗り越えなければなりません。だから、キリスト教では信じることを「回心」と呼びます。回心は英語でconversionと言いますが、「転換、転化、転向」という意味があります。テレビのビフォー・アフターという番組が打ち切りになったようです。私の家内が大好きな番組でした。リフォームの場合は、土台や柱をそのまま生かして、壁や内装を変えます。匠が、以前、住んでいた家の一部を記念にして設置していました。ある意味では感動する番組です。しかし、conversionは全部壊して、土台も柱も新しくするようなものです。私はリフォームよりも建て替えの方が好きです。なぜなら、とても聖書的だからです。その根拠となるみことばがこれです。Ⅱコリント517 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」どうでしょう?古い人生に未練があるでしょうか?古い人間関係、古い価値観、古い楽しみ、古い知識を捨てましょう。継ぎ足しやリフォームではなく、conversion全部壊して、土台も柱も新しくさせていただきましょう。

2.悔い改めた息子

 イエス様は彼らにたとえで話しました。たとえはいろんな効果があります。その1つは敵対している人たちにたとえで話すことによって、自ら悟らせることができます。このたとえは、悔い改めようとしない祭司長と民の長老に向けて語られたものです。「ある人にふたりの息子がいた」というくだりではじまります。私が一番おどろいたのは兄と弟の順番です。日本語の聖書は、兄が「行きます」と言って、あとで行きません。そして、弟が「行きたくない」と断って、あとで行くというたとえ話になっています。ところがギリシャ語や英語の聖書、新共同訳は、順番が全く逆です。それに、両者ともsonなので、兄なのか弟なのか分かりません。最初の息子は「行かないよ」と断りましたが、悔い改めて、ぶどう園に行きました。Repent「悔い改める」ということばがはっきり書かれています。第二の息子は「行きます」と言いましたが、行きませんでした。イエス様は彼らに「二人のうちどちらが、父の願ったとおりにしましたか?」と聞きました。彼らは「最初の息子です」と答えました。新改訳聖書は最初の兄が悪くて、次の弟が良いように書かれていますが、ほとんどの聖書は逆なのに、なぜ、そうなったのか分かりません。新改訳聖書は、「あとの者です」という答えを言わせるためだったのではと思います。なぜなら、さきの者はユダヤ人で、あとの者というのは異邦人だからです。でも、ほとんどの聖書は全く逆です。聖書ではお兄さんが悪者で、弟は良いように書かれています。みなさんにとってはどうでも良い話題たったかもしれません。しかし、たくさんの聖書を床に並べて、爽快でした。「時々、こういうところからメッセージができるだろうか?」という時がありますが、きょうがその箇所でした。でも、すばらしい発見ができて目が覚めるような思いでした。

 イエス様がおっしゃりたいことはこのことです。31節後半「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」彼らは最初「行かない」と言ったのに、悔い改めて、ぶどう園に行った息子のことです。一方、祭司長や民の長老は「行く」と言ったのに、行かなかった息子のことです。イスラエルは神に選ばれた人たちでした。ところが旧約聖書の歴史は神に背いた歴史です。イエス様の前に、バプテスマのヨハネが荒野に現れました。彼は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫びました。彼が来た目的は、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにするためでした。荒野にパリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けるためにやってきました。彼らは祭司長や民の長老の仲間であり、彼らの一部がバプテスマを受けていたかもしれません。その後、ヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と紹介したイエス様がやってきました。ヨハネが預言した本人がやってきたのです。イエス様は、福音を宣べ伝え、会堂で教え、メシヤとしての奇跡をたくさん行いました。ところが彼らの中に嫉妬心が生まれました。本来なら、メシヤに場所を譲るべきでしたが、それができませんでした。なぜなら、自分たちの立場や名誉を失いたくなかったからです。自分たちこそ律法と神殿を管理している権威者だと自負していたからです。長い間メシヤを待ち望んでいたのに、実際に来たら、拒絶してしまうとはどういうことなのでしょう。

 一方、最初は「行かない」と言ったのに、悔い改めて、行った人たちとはだれでしょう?31節後半「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」取税人や遊女たちこそが、悔い改めた息子の方です。元来、ギリシャ語の「悔い改める」は方向転換であり、罪を懺悔するという意味がありません。でも、たとえ話では「あとから悪かったと思って」と書いてありました。おそらく取税人や遊女たちも「悪かったと思って」信じたのかもしれません。つまり、「悔い改める」には、「悪かった」という気持ちがあっても良いし、なくても良いということだと思います。取税人や遊女たちの場合は、「ああ、本来の生き方をしていなかったので、父なる神さまに逆らって悪かったなー」と思ったかもしれません。何を言いたいかと言うと、悔い改めて、霊的に生まれ変わると何が悪いか良いか分かるようになるということです。それまでは霊的に無感覚であったからです。ですから、罪を懺悔することを救いの条件にするのではなく、救われる一歩手前の出来事ではないかと思います。もっと正確に言うなら、聖霊様に触れられているからではないかと思います。その根拠となるみことばがあります。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」これは、聖霊がまだイエス様を信じていない人にどのように働くかを教えているみことばです。聖霊がその人に触れてはじめて、罪について分かるからです。でも、罪が何か分かったから救われるわけではありません。「悪かった」という後悔では人は救われません。悔い改め、つまり方向転換する必要があります。取税人や遊女たちは悔い改めて、神の国に入った人たちです。本当に皮肉なもので、聖書を良く知っていて、神を礼拝している人が救われたのではありません。聖書のこともよく分からないし、神さまを礼拝していない人が救われました。どこが問題だったのでしょうか?彼らは立場やプライド、自我に執着がなかったのです。宗教家たちと比べ、失うものもなかったので、信じやすかったのかもしれません。外見は罪人で汚れていたかもしれません。しかし、心の中には飢え渇きがありました。聖霊様に触れられて、「アーメン」と答えられる人は幸いです。マタイ53「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」アーメン。みなさんも、心が貧しかったので救われたのではないでしょうか?心が貧しくさせられることがあった。それで救われた人もいるかもしれません。悔い改めて、神の国に入った人たちは幸いです。

3.神の国に入る

第三は「最初に神の国に入った人たちはだれなのか?また、彼らは何を信じて救われたのか」ということを考えたいと思います。マタイ2132「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」キリスト教会では十字架で罪を贖い、三日目によみがえられたイエス様を信じることで救われると言います。しかし、取税人や遊女たちはだれを信じたのでしょうか?義の道を持って来たバプテスマのヨハネを信じて救われました。このところで、私たちは救われるとはどういう意味なのか考えてみたいと思います。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ32と宣教を開始しました。その後、イエス様も「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ417と宣教しました。時間的にはバプテスマのヨハネが早かったのです。で、人はいつから神の国に入ったのでしょうか?もう一度、イエス様のことばを見てみましょう。マタイ2131以降まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」このところで分かるのは、取税人や遊女たちがバプテスマのヨハネのメッセージを聞いて信じたときに、神の国に入りました。言い換えると、救われたということです。どのようなメッセージでしょうか?「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」です。マルコ福音書には天の御国は、神の国となっています。ユダヤ人は神と言うべきところを「天」と置き換えました。十戒の主の御名をみだりに唱えないためです。では、神の国とは何なのでしょうか?どうして、人は救われるために、悔い改めて、神の国に入る必要があるのでしょうか?

ジョージ・E・ラッドという聖書学者が『神の国の福音』という本を書いています。神の国は神の王国であり、ギリシャ語でバシレイアと言います。彼の本から少し引用します。「王国とは、何よりもまず第一に、支配する権威であり、王の統治権である。それが行使される領土を意味するものではない。われわれが受け入れるべきものは、神の支配なのである。未来の神の国という領域に入るためには、人はいまこの世において、完全な信頼をもって神の支配に自分をゆだねなくてはならない。」そうです。バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。祭司長と民の長老たちは受け入れませんでしたが、取税人や遊女たちはヨハネの言うことを信じたのです。言い換えると、完全な信頼をもって神の支配に自分たちをゆだねたのです。福音とは何でしょう?私たちは「イエス・キリストの十字架と復活を信じることによって救われること」と定義するかもしれません。しかし、厳密に言うならば、福音とは神の国の福音であり、神の支配を受け入れることによって人は救われるという良い知らせです。その良い知らせを持ってきた最初の人物がバプテスマのヨハネだったのです。そして、イエス・キリストの十字架と復活は、神の国が力強く、この世に臨んだことの保証であります。でも、十字架と復活の前にも人は神の国に入り、救われていたのです。確かに見つけにくかったかもしれませんが、飢え渇く人にはその入口が見えました。イエス様がこのようにおっしゃっています。マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」その当時は、激しく攻め、奪い取るような信仰がなければ神の国に入ることができなかったのです。「激しく攻める者たち」というのは、こじあけてでも入ろうとする取税人や遊女たちのことであります。その頃は、神の国の門は完全に開かれてなかったのです。ちょっとだけ開いていて、人ひとりが入るのがやっとでした。だから、彼らは体当たりしたり、こじ開けたりして、無理やり入ろうとしたのです。でも、神さまはそういう人たちをむしろ歓迎し、喜びました。なぜなら、不完全な福音でも神の国に入ろうとしたからです。

 私たちの時代はどうでしょう?聖書は完成し、神の国の福音が聖霊によって力強く臨んでいる時代に生きています。中には聖書は信じているけど、聖霊の力は信じないという教会もあります。それでも、神の国の福音を聞いて、信じたら人は救われます。紀元後386年、アウグスチヌスが回心しました。ミラノの自宅で隣家のこどもたちが「とって読め、とって読め」と歌っていました。そのとき、開いた聖書箇所がこれです。ローマ1313-14「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスチヌスは取税人や遊女たちに劣らぬ堕落した生活をしていました。そのとき、このみことばによって、悔い改めて信じました。彼は劇的に回心して、修道士になり、やがてはピッポの監督になりました。パウロの時代が、「夜はふけて、昼が近づいた」のであれば今はどうでしょう?アウグスチヌスが回心したのが紀元後386年です。今は、紀元後2017年ですから、再臨間近といっても過言ではありません。もうすぐ神の国の門は閉ざされるでしょう。イエス様から天の御国の鍵をゆだねられた使徒ペテロは何と言っているでしょう?Ⅱペテロ38-9「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 まもなく天の御国の門が閉まろうとしています。御国のガードマンが腕時計をにらんでいます。受付の御使いは、予定されていた日本人の数がとても少ないのでがっかりしています。使徒ペテロも何で来ないんだとイライラしています。イエス・キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださいました。マタイ2414「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」このみことばは、全世界の人が信じたら終わりが来るとは書いていません。「全世界に御国の福音が宣べ伝えられたら」と書いてあります。福音はイスラエルからはじまり、ヨーロッパに渡り、南北のアメリカに渡り、アジア、アフリカに渡りました。もう、西アジアであるイスラエルに到達しています。使徒ペテロは天の御国の門に片足だけでなく、体をはって閉門を阻止する構えです。ペテロは「まだ、救われる人がいるはずだ。もっと、救われてほしい」と願っています。どうぞ、私たちの家族、友人知人、日本の国民が救われるように祈り、そして働きかけましょう。御国の福音を宣べ伝えましょう。 

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2017年8月18日 (金)

枯れたいちじく マタイ21:18-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.20

 空腹時はだれでもイライラするものです。イエス様はお腹が減っていました。いちじくの木に実が1つもなっていないので、八つ当たりしたように思えます。さらに、弟子たちに、いちじくの木になされたこと以上のことができると教えられました。イエス様のことばには確かに力があります。でも、それを破壊的に用いられるというのはどうなんでしょうか。きょうの箇所は解釈的に難しい箇所ですが、根気良く学びたいと思います。

 

1.枯れたいちじく

 いちじくの木はイスラエルを象徴していました。ホセヤ910「わたしはイスラエルを・・・いちじくの木の初なりの実のように見ていた。」とあります。ミカ710「ああ、悲しいことだ。・・・私の好きな初なりのいちじくの実もない。」とあります。ナタナエルがいちじくの木の下で祈っていましたが、それはイスラエルの回復のためでなかったかと思います(ヨハネ148-50)。イスラエルではぶどう園の外側にいちじくの木を植えていたので、大切な果物であったのでしょう。まず、私たちは、きょう登場しますいちじくの木は他のいちじくとちょっと違っていたということを認める必要があります。なぜでしょう?マルコ11章に書いてありますが、葉っぱが異常に生い茂っていたということです。イエス様は「こんなに葉が生い茂っていたら、きっと実もあるに違いない」と期待しました。マタイ2119近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。イエス様は実のないいちじくの木を呪いました。そうするといちじくの木は枯れました。何というイエス様の力でしょう。でも、ちょっと破壊的な感じがします。「何も呪わなくても良いのでは」と思います。マルコ11章を見るとさらに驚きます。マルコ1113後半「葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである」と書いてあります。いちじくのなる季節でないのに、実がないと言って呪うのですか?もう、むちゃくちゃという感じがします。

 この箇所はとても難解ですが、生物学的な面から考えたいと思います。いちじくは夏と秋に二回なるそうです。イエス様がこの場所を訪れたのは春先でした。いちじくは春先に小枝の先端に小さな実をつけます。それをタクシュと言うそうです(聖書学院の松木師)。そのタクシュが一個もないなら、夏にも一個もならないということです。つまり、その木ははじめから実を結ばない木であったということです。でも、ここでイエス様が葉だけが異常に茂っていたいちじくを呪ったことには訳があります。なぜなら、イエス様は今、エルサレムを訪れていたからです。最初の日、エルサレムに入られて、怒って宮をきよめました。中庭で売り買いをして、まるで「強盗の巣」のようでした。それだけではありません。マタイ21章から当時の宗教家たちとの論争がはじまります。エルサレムには神殿がありましたが、形式的で実がなかったということです。儀式や制度、式文、礼拝の仕方がとても宗教的でした。ところが彼らの心は貪欲と汚れで満ちていました。まったくの偽善であり、誠実さもいのちもなくイエス様はそれに我慢できませんでした。つまり、そのいちじくの葉が茂っていたのは、形式的で偽善にあふれた当時のユダヤ教を象徴していたのです。イエス様が呪ったのは、彼らの宗教であります。実際、エルサレム神殿は起源70年にローマによってことごとく破壊され、ユダヤ教徒は世界中に散らされることになります。まさしく、イエス様が預言したごとくになりました。

 私たちはこの出来事を大切な教訓として受け止める必要があります。なぜなら、キリスト教会の歴史において華々しく栄えたけれど、全く実がなかった時代があったからです。東ローマのビザンチン、中世のカトリック教会、そしてロシア正教は本当にきらびやかでした。しかし、当時のユダヤ教とそっくりでいのちがありませんでした。学校で世界史を学ぶと本当に躓きます。では、プロテスタント教会はどうだったでしょうか?政治と結びついたり、大教会になったりすると腐敗しました。タイで最も大きな教会の牧師が政権に出馬するためにお金を使ったことがあります。そこで一生懸命奉仕をしていた日本の牧師が躓きました。韓国の最も大きな教会の牧師が癌になり、治療のため多額のお金を日本に持ち出すとき、外為法で捕まりました。アメリカではテレビの伝道者たちが何人も罪を犯しました。中国も大きな教会がたくさんありますが、国家と裏で通じています。共産主義と妥協した骨抜きの福音を語っています。シンガポールの大教会もお金にからんだスキャンダルがあります。では、実がなくても、小さくて貧しい教会が良いのでしょうか?でも、「実とは何なのか?」ということも考えなければなりません。ピューリタン的な教会は富や繁栄を非常に嫌います。大教会のジョエル・オスティーン師を「繁栄の神学である」と批判する人がいます。私は経済的な祝福も実の1つであると信じます。なぜなら、アブラハム、イサク、ヤコブはみんな富んでいたからです。同時に私たちの生活が神さまを敬うことからくる、きよさ、正義、謙遜、愛、平和などの霊的な実が伴うはずです。ヤコブ書には「真の宗教は、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」と書かれています。

 生い茂ったいちじくの葉は、偽善と虚栄に満ちた宗教です。そこにはすばらしい儀式、式文、賛美、祈りがあるかもしれません。でも、心がなおざりになっていました。牧師は人数が集まると嬉しいものです。しかし、ひとり一人が神さまと出会って、イエス様を心からあがめているかということが重要です。私が目指している教会は、キリストにあってありのままで神さまの前に出られるという教会です。だれからもさばかれることはありません。なぜなら、みんなキリストの血潮によって赦されているからです。語られる聖書のことばも御霊がなければ、人を殺す律法になります。みことばを御霊によって語るなら、恵みがあふれ、人を生かし、自由がもたらされるでしょう。私たちの心から恐れが取り除かれ、主を慕い求める愛が生まれます。私たちはイエス様の十字架の贖いと聖霊によって、神のみ前に出て、親しい交わりを持つことができます。そうするなら、いやおうなしに実が結ばれていくと信じます。ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」アーメン。私は信仰によってもたらされる実は3つの目的があると思います。第一は自分が食べる実です。自分が食べておいしい、自分が食べて養われる必要があります。そうしたら他の人にも勧めることができます。第二は家族や隣人が私たちの結ぶ実を食べて喜びます。キリストにある結実は自分だけのものではなく、必ず他の人にまで及ぶほど豊かになります。第三は神さまが喜ばれます。神さまは私たちが結ぶ実をいただきます。私たちは感謝と賛美と献身と栄光をささげることができます。ローマ121「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」アーメン。私たち自身を聖い、生きた供え物としてささげることが結実の目的であります。神さまは私たちの献身を喜んで受け入れてくださいます。そうすると、結果的に神さまは私たちを祝福して、私たちは豊かな人生を送ることができるのです。詩篇23篇の言うとおりの人生です。詩篇236「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

2.山をも動かす信仰

 マタイ2121-22イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」いちじくの木になされたことは破壊的なものでありました。なぜなら、イエス様が発したことばによって、木が枯れたからです。しかし、イエス様は困難を象徴する山に向かって「動いて、海に入れ」と言っても、そのとおりになりますと言われました。私たちはこの世に生きているので、様々な困難の山に遭遇します。病気、離婚、子どもの問題、会社の倒産や失業、裏切り、死別、事故、災害などがあります。私たちはその時、神さまから与えられた信仰を持って、それらの山に命じたら、山が動くということであります。ですから、私たちはこのところから「山をも動かす信仰」ということを理解し、さらにはその信仰を生活の真ん中で用いるということが重要です。まず、私たちは信仰とは何かということを知らなればなりません。信仰には大きく分けて二種類あります。第一はイエス様を信じることによって、罪赦され、永遠のいのちが与えられるということです。これは救いの信仰であり、クリスチャンであるならだれでも持っています。この信仰さえあれば、いつ死んでも天国に行くことができます。しかし、もう1つの信仰は用いるための信仰、機能的な信仰です。パウロはⅡコリント5章で「私たちは見ゆるところによってではなく、信仰によって歩んでいます」と述べています。実際、目に見えて、手にしているものに対しては、信仰は必要ありません。まだ目に見えていないものには信仰が必要なのです。クリスチャンであっても、この信仰を用いないで生きているために、神さまからのものを受けることができません。あるクリスチャンの信仰は、天国に行くためだけのつつましいものになっています。ヘブル人11章には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と書いてあります。では、信仰とは何なのでしょうか?ヘブル111のキングジェームス版がとても良く説明しています。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. Substanceということばがとても良いです。Substanceは実質、本質、実体と言う意味です。ウォッチマンニーはこの箇所を「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と訳しています。

イエス様はどのようにこの信仰を具体的に用いて、山を動かすのか教えておられます。第一に、「あなたがたが信仰を持ち」と書かれています。まず、私たちは信仰を持つ必要があります。マルコ11章には、Have the faith of God「神の信仰を持て」と書かれています。山をも動かす信仰は私たちのものではなく、神さまがある時、ある人に与えてくださる特別な信仰です。神さまはその人に信仰を与えて、その信仰を用いて、大いなるわざをしたいのです。長血をわずらった女性がイエス様に近づきました。彼女は「お着物にもさわることができれば、きっと直る」と言いながら近づきました。それでイエスさまの着物にさわったら、癒されました。イエス様は「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。つまり、彼女はイエス様にさわる前から、「さわったらきっと直る」と信じていたのです。また、バルテマイという盲人は大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫びました。人々が「うるさい、だまれ」と言っても、ますます大きな声で叫びました。イエス様が彼を呼べと言われた時、彼は上着を捨てて、近づきました。彼が着ていた上着はどこでも物乞いができるという政府が許可したものでした。それを捨てたと言うことは、後ろの橋を焼き捨てたということです。イエス様が「私に何をしてほしいのか」と聞かれました。彼は「目が見えるようになることです」とはっきり言いました。イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。二人に共通して言えることは、彼らは癒される前から、信仰によって癒しをいただいていたということです。

第二番目は「疑うことなく」ということです。私たちは信じて求めた後、「やっぱり無理かな」「難しいよね」と疑うことがあります。それはどういうことでしょう?今、注文したものをキャンセルするということです。私もアマゾンでものを頼むことがあります。でも、「やっぱりやめよう」と思ってキャンセルするときもあります。私たちは目をつぶって神さまに一心不乱に求めます。しかし、目を開けると理性と五感が芽生えてきて、「やっぱりできないよ」「無理だよ」と疑ってしまうことがあります。それでは、キャンセルしたことになり、得られるものが得られなくなります。イエス様は真っ暗な嵐の湖の上を歩いてこられました。弟子たちは最初、幽霊ではないかと恐れました。ペテロはイエス様だと知ると「私に水の上を歩いてここまで来い」とお命じなってくださいと願いました。イエス様は「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様のほうに行きました。ところが風を見て、こわくなり沈みかけました。「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエス様が手を伸ばして、つかんで引き上げてくれました。イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言われました。ペテロはイエス様から「来なさい」と言われたとき、神からの信仰をいただきました。確かに何歩か水の上を歩きました。すばらしいことです。でも、風が吹いていたので、波しぶきが顔にかかりました。とたんに彼の理性と五感が芽生えてきて、「人が水の上を歩けるはずがない」と疑ってしまったのです。ですから約束のものを得るまでは、信じ続ける必要があります。そのためには、疑いを何としてでも排除しなければなりません。あなたがインターネットで頼んだとき、アマゾンの大きな倉庫を作業員が原票を手にして走ったのです。棚から製品を見つけ出し、荷造りするために箱に入れました。でも、あなたからキャンセルが行きました。彼はイヤホーンから、その知らせを聞いたので、ピタっと作業をやめました。彼は「ちっ」と舌打ちした後、その製品をもとの棚に戻しました。創世記28章に書いてありますが、ヤコブは天から地に向けられているはしごを見ました。神の使いがそのはしごを上り下りしているではありませんか。同じように、神の使いが、あなたが神さまに頼んだものを天の倉から運んでいます。ところが、あなたは「やっぱりできないよ」「無理だよ」と疑ってしまいました。神の使いにキャンセルの知らせが届きました。天使は舌打ちはしないかもしれませんが、その製品をもとの天の倉に戻しました。だから、求めたものは途中で疑ってはならないのです。

第三はオプションです。ある時は、このようにせよということです。この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えということです。これは神さまに言うのではありません。正確に言うと、これは祈りではありません。私たちはこの世において、様々な問題の山に遭遇します。もちろん、私たちは神さまに信仰によって求めます。しかし、山に対しては命じる必要があります。神さまに対しては祈りますが、山に対しては命じるのです。イエス様はいちじくの木に対して「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われました。イエス様は、「いちじくの木になされたことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります」と言われました。ここで重要なのは、「言う」あるいは「命じる」ということです。イエス様は病や障害の癒しの場合、父なる神さまに願っていません。「立って歩け」「伸ばせ」「見えるようになれ」「開け」と命じておられます。死んでいたラザロには「ラザロよ。出て来なさい」と命じました。そうすると、死んでいた人が、手と足を長い布でまかれたまま出てきました。周りの人々は、卒倒したと思います。悪霊に対しても、「出て行け」とひとこと言っただけです。また、嵐のガリラヤ湖にも「黙れ、静まれ」としかりつけました。私たちはこれらの箇所から、求める祈りではなく、山に向かって言う(命じる)ということを知るべきであります。

 私は信仰のメッセージをするとき心がうきうきします。でも、会衆の皆様はそのときは励まされるけど、家に帰ったら「なんだかなー」と霊的に冷めたならば残念です。つまり、神さまがおっしゃる信仰と私が持っている信仰に高低差があると思っているからです。ある人たちは、神さまが信仰を与えるときは、肉声で聞こえたり、幻がはっきりと現れるものだと考えているかもしれません。もちろん、聖書にはそのような記事がたくさんあります。でも、さきほど引用した、長血を患った女性、盲人のバルテマイ、水の上を歩いたペテロなどはそうでもないと思います。彼らは自分が願ったのです。それがイエス様から信仰として認められました。きょうの箇所に何と書いてあるでしょう?マタイ2122「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」と書いてあります。原文を見ると、「ask in prayer祈って求める」が最初で、次に来るのが「believing信じる」です。そして最後に「shall receive受ける」と書かれています。神さまは私たちが何を求めるのか私たちに任せています。その次に信仰がやってきます。最後に与えられるということです。求め、信仰、受けるです。最初に来るのが「求める、願う、望む」ということです。ヘブル111「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と学びました。何よりも先に「望む」ということがなければなりません。多くの人たちは、この最初の地点で諦めています。「求めない、願わない、望まない」ということです。そうしたら、信仰も湧いてこないし、受けることもありません。なぜなら、神さまは求めない者には与えない方だからです。もちろん、求めなくても与えられるものはあります。でも、信仰を持って求めるなら、神さまは喜んで与えて下さいます。長血を患った女性、盲人のバルテマイも願いがかなっただけではなく、イエス様から賞賛を受けました。

 私たちは「どうせ願っても与えられない」「高望みはしないほうが良い。後でがっかりするから」と最初の地点で諦めていないでしょうか?私は8人兄弟の7番目で育ちました。長女とは17歳違っており、親代わりにいろんなものを買ってくれました。セーターとか靴とか、それからヤクルトを飲ませてくれました。長女と結婚している叔父は、私たちの家族が貧しいことを知っていました。その人は、悪気はなかったと思いますが、「〇〇買ってあげる」と家族に口約束をしました。ところが、ほとんど実現されることがなく、家族は「ばしこく(嘘をつく)人だ」と思っていました。それでも、家がとても貧しかったので、その時は期待してしまうのです。後から、ぎゃふんとなります。私はそういう環境で育ったので、大きなものを求めても仕方がないという諦めがありました。J.Bフィリップスが『あなたの神は小さすぎる』という本を書いています。その本には「あなたの父親像が神さまを投影している」と書いてありました。もし、あなたが小さなものしか求めていないとしたなら、あなたの神は小さすぎるかもしれません。日本の教会は、ささやかな信仰を美徳とするところがあります。しかし、イエス様は「たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」とおっしゃいました。もし、私たちの神さまが大きい方だと信じている人であるなら、大きいことを願い、大きいことを求めるのではないでしょうか?

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2017年8月11日 (金)

宮きよめ マタイ21:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.13

 その当時はシナゴーグと呼ばれる会堂で安息日礼拝を守っていましたが、何か特別な場合は神殿で礼拝をささげていました。このときは過ぎ越しの祭りが始まるところだったので、地方からたくさんの人たちがエルサレムに集まっていました。しかし、本来、礼拝の場所であった神殿が、取引や商売のために利用されていたのです。イエス様がエルサレムに入城して、最初に行ったことは、この神殿をきよめることでした。

1.宮きよめ

 エルサレムの神殿には中庭と外庭がありました。きょうの出来事は、神殿の外庭であろうと思われます。日本でも神社の境内には、屋台やおみやげ屋さんが並んでいます。もっと近づくと、おみくじとかお守りが売られています。エルサレムの場合は、宗教的な理由がありました。両替人はお金をユダヤ人の貨幣に替えて手数料を取っていました。たとえば、ローマのデナリ銀貨はカイザルの肖像が刻まれていたので、神に捧げるのに相応しくなかったからです。また、鳩を売っていたと書いてありますが、牛、羊、やぎも売られていました。なぜかと言うと、人々がそれらの動物を遠くから運んでくるのは手間がかかります。また、傷のない完全な生贄でなければなりません。もしも、神殿の側で売られているなら打って付けであります。一見、親切な行為のように思えますが、売り買いすることによって、神殿を管理する人たちが経済的に潤っていたのです。マルチン・ルターの頃は、教会で免罪符が売られていました。人々は罪を軽減してもらうために、その証明書を購入しました。宗教が金儲けの手段になるというのは、どの時代でもあるようです。神の御子であるイエス様は、そういうことがエルサレムでなされていることに聖なる憤りを覚えられました。売り買いする者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒されました。ヨハネ福音書2章には「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出した」と書かれています。ちょっと過激な感じがしますが、細なわのむちであるなら、怪我をさせることはありません。イエス様が怒られたというのは、聖書の中にそんなにありません。強いていうなら、小さな子どもたちが祝福を求めて近づいてきたとき、大人たちが邪魔したからです。また、ラザロが死んだとき、墓の前で涙を流しました。しかし、同時に「憤りを覚えられた」と書いてあります。おそらく、死が人間を支配していたからでしょう。今回の場合は、神殿が正しい目的のためにではなく、金儲けの手段になっていたからです。

 では、本来の神殿の目的とは何なのでしょうか?マタイ2113そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」イエス様がおっしゃったのは旧約聖書からの引用です。まず、イザヤ567をお読みいたします。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」このみことばは、紀元前700年頃のことでした。当時は、宗教はありましたが、人々は正しい行いをしていませんでした。イザヤは「『公正を守り、正義を行うように』と主が仰せられる」と人々に告げました。しかし、この預言は世の終わり、御国が完成するときのものであります。なぜなら、外国人も宦官も聖なる山に集うことができるからです。だから、イザヤ書には「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と「すべての民」と書かれています。ハレルヤ、私たち異邦人である、日本人も「すべての民」の中に加えられているのです。なぜ、イスラエルなのでしょう?神さまが世界の人たちに仕えるようにイスラエルを祭司の国として選んだからです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たせなくなりました。世の終わり、神殿を建てなおすために、御子イエス様が来られたのです。その前に、あまりにも神殿が世俗化していたので、少々手荒いことをして、きよめられたのです。もう1つの引用は、エレミヤ711です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。主の御告げ」日本語の聖書には「強盗の巣」とありますが、den「ほら穴」「洞穴」というのが正しい訳です。子どもの頃、『アリババと70人の盗賊』という物語を読んだことがあると思います。盗賊たちが洞穴に金銀財宝を隠していました。まさしく、エルサレム神殿が、強盗の洞窟になっていたということです。ちなみに現代の神殿の洞窟をご存じでしょうか?ローマのバチカンこそが、ヨハネ黙示録に記されている大バビロンです。バチカンには世の中の富と財宝が集まっています。宗教というものは、間違った方向に行くと、とても恐ろしい存在であることを歴史が物語っています。

 でも、私たちは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、現在のキリスト教会にどのように適用すべきでしょう。イエス様が復活してからは、私たち自身が神殿であると聖書に書いてあります。なぜなら、私たちの中に、神の霊、聖霊が住んでおられるからです。そして、このように複数のクリスチャンが集まるところに、神さまが親しく臨在し、私たちの礼拝と賛美を受け入れてくださいます。教会は建物ではなく、私たち自身が教会であるということを第一に理解すべきです。でも、教会は建物とか組織、あるいは人々という意味もあります。世の中では、キリスト教会を「宗教法人の1つ」として捉えています。ですから、宗教法人法によって、活動が規定されています。第一の項目に、「教会の目的とは何か」ということが記されています。それは「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教えるためにある」ということです。しかし、教会では幼稚園を経営したり、何らかの営業をするところもあります。本来は営利を追求するところではありませんが、福祉的に世の中に仕えるという面もあります。明治時代の頃は、福祉や社会制度、医療や教育制度が整っていませんでした。そのため、キリスト教会が率先して社会活動をしてきました。義務教育、赤線廃止、労働組合、女性の選挙権、禁酒運動…これらはみんなキリスト教国がもたらしたことであることを忘れてはいけません。しかし、近年は国や地方地自体がそういうことを専門にするようになり、「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教える」ということに集中するようになりました。しかし、良い面もあれば、悪い面も出て来ました。つまり、本来は聖書の考えが根底にありました。それら、すべてのものは聖書の価値観から生まれたのです。でも、日本人はうわべの良いものだけを抽出し、根底にある価値観を捨ててしまいました。だから、何のため仕事をするのか、何のために勉強をするのか、何のため結婚するのか分かりません。

 でも、ここでは世の中の活動は取り上げないで、教会という建物に集まって、なすべき第一のことは何かということを学びと思います。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、教会はどのように適用すべきでしょうか?私の家とは神殿のことですが、これを教会の集まりと解釈しても良いでしょう。私たちはここに集まり、何をしているのでしょうか?当時、人々は神殿に集まり、献金や生贄をささげていました。もちろん、祈りもささげていました。私たちが特に日曜日ここに集まっているのは、何のためでしょう?イエス・キリストが生贄となったことを覚えなければなりません。ヘブル書に書いてありますように、イエス様は一回で永遠の贖いを全うされました。私たちは、イエス様によって罪が贖われているので、大胆に神さまのみ前に近づくことができます。現代の私たちの生贄は、私たちの献身と感謝と賛美であります。では、神のことばをなぜ聞くのでしょうか?さきほどイザヤ書を引用しましたが、当時の人々は、宗教はありましたが、生活が神さまから離れていました。本来、祭司たちが聖書から教えていたのですが、その祭司たちが堕落していました。その代り、預言者が口をすっぱくして神さまに立ち返るように教えました。ですから、この礼拝において説教者は2つのことを聖書から語ります。第一は神さまがなされたみわざを語り、私たちが心から礼拝ささげるように勧めます。第二は神さまのみこころを知り、みこころに沿った生き方ができるように励まします。教会での集まりのゴールは神さまを礼拝し、祈りをささげるということです。その次に、互いに励まし、信仰を高める聖徒の交わりがあります。神殿礼拝と違うのは、犠牲に伴う祭儀がないということです。カトリック教会のようなミサでもないので、シンプルかもしれません。

私は式文を使わないで、できるだけ宗教ぽくしないように努力しています。なぜでしょう?この聖日礼拝は私たちの生活の一部だからです。一部というよりも、私たちの生活の頂点であります。日常性とかけ離れたところが宗教的で良いという考えもあるでしょう。しかし、それだと聖日礼拝での顔と、日常生活の顔が2つ生まれる可能性があります。祭司長や律法学者たちはイエス様から偽善者と呼ばれていますが、2つの顔を使い分けていたからです。私たちはいつでも、イエス様を仰いで、イエス様と一緒に生活します。日曜日の礼拝の時だけイエス様を意識するのではありません。家庭や職場、通勤通学、どの場所、どの時間でも、イエス様を意識します。また、日曜日の礼拝の時だけではなく、いつでも主を賛美し、祈ります。賛美や祈りは声を上げなくてもできます。主は私たちと共に歩まれ、必要を与え、守りを与えてくださいます。キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるイエス様と一緒に生活することだからです。

2.腹を立てた宗教家たち

 エルサレムには長老、祭司長、律法学者、パリサイ人、サドカイ人など、たくさんの宗教家たちがいました。すべてユダヤ教徒なのですが、大きく分けると神殿に仕える人と律法に仕える人に分けられます。一部はサンヒドリンの70人議会に属していました。また、一部は信徒であっても、熱心なユダヤ教徒でした。群衆が登場しますが、エルサレムの住民、ガリラヤから上って来た人たち、過ぎ越しの祭りのために遠くから来た人たちがいたと思われます。これから、イエス様と彼らとの論争が始まります。イエス様は前もって「エルサレムで彼らから苦しみを受け、殺される」と予告していました。イエス様がエルサレムでは、こういうことが起こると知っておられたので、覚悟ができていたと思います。マタイ2114「また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」とあります。イエス様は売り買いしている人たちを追い出して、神殿をきよめただけではありません。神殿の中にいた人たちを癒してあげました。彼らは癒しを求めて神さまのところに来ていたというよりも、物乞いをしていた人たちかもしれません。なぜなら、多くの人たちが神殿にやってくるので、物乞いには良いチャンスだったからです。イエス様は彼らが物乞いをしなくても良いように根本的な解決を与えられました。使徒の働き3章でも、ペテロが生まれつきの足なえを歩かせてあげたことが記されています。ですから、今日の教会も人々に仕える仕え方も、同じではないかと思います。「神の国はことばではなく、力です」とパウロが言ったとおりです。

 盲人や足なえが癒されるというのは、ものすごく嬉しい事であり、神さまをほめたたえるべきことです。ところが当時の宗教家たちは違いました。マタイ2115-16ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」祭司長、律法学者たちは2つのことで腹を立てました。第一は、イエスのなさった驚くべきことを見たからです。イエス様が盲人や足なえが癒されたからです。何故、喜べないのでしょう?それは妬みです。もし、ナザレのイエスがメシヤであるなら、みんな彼のところに行くでしょう。そうしたら、自分たちの教えを誰も聞かなくなり、失業してしまいます。盲人が見え、足なえが歩くというのは、来るべきメシヤのしるしです。本来なら、イエス様の前にひれ伏して、礼拝をささげるべきであります。ところがどういうことでしょう?目の前にメシヤがいるのにも関わらず、妬みを燃やし、腹を立てるとは何ごとでしょう?私は、イエス様の栄光が、彼らの目に隠されていたからだと思います。イエス様は、マタイ1125「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とおっしゃったことがありました。彼らは心が頑なだったので、そのことが分からなかったのです。リバイバルが起こると、このような奇跡や癒しが起こります。同時に、混乱をもたらすような不思議な現象が起こります。しかし、教会のある人たちが「それは危険だとか、感情的過ぎる」と反対します。そこに、神さまのすばらしいわざが起こっているのに、喜べない人たちが出てきます。彼らがリバイバルの火を消すのです。同じ信仰者の中からそういう人たちが出るとは何という皮肉でしょう。たとい、自分たちの神学に会わなくても、神の霊がなさっておられるのなら、一緒に主をあがめるべきであります。宗教というのは、生ける神さまの働きを妨げることを覚えておきたいと思います。

 もう1つは、宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てたことです。おそらく、子どもたちは、エルサレムに入城したときの様子を見ていたのでしょう。大人たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたので、真似していたのかもしれません。でも、神さまを賛美している子どもたちに腹を立てるとは何ごとでしょう?何故、彼らが腹を立てかというと、イエス様を全く歓迎する気持ちがなかったからでしょう。何が「ダビデの子にホサナだ。そういう者が来ちゃ困るんだよ」というのが本音であります。彼らは文句を言っていましたが、イエス様は何と言われたでしょうか?「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」これは、詩篇82からの引用です。詩篇82「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」イエス様は詩篇82の前半しか引用しませんでした。しかし、後半は、恐ろしいことが書かれています。つまり、何故、「神さまが幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意されたか?」であります。「それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした」とあります。ということは、子どもたちの賛美が、イエス様に敵対する者たちへの防護壁になっているということです。旧約聖書の「力を打ち建てられた」は英国聖書ではrebuked「譴責する、阻止する」と訳しています。子どもたちは意識していた訳ではないでしょう。でも、神さまが敵対する者をしずめるために、子どもたちの賛美を用いられたということです。ハレルヤ!ということは、私たちは子どもたちの賛美を軽く扱ってはならないということです。リバイバルが起こっている時は特にそうです。

 最近、子どもたちが見た超自然的な夢を賛美にしていると聞いたことがあります。信じるか信じないか別として、彼らは天に引き上げられ、天国での様子を歌にしています。歌詞とか曲は非常にシンプルなのですが、実際に行った者でないと書けない内容になっています。また、ある子どもは世の終わりの救いとさばきについても、克明に記しています。これは日本だけではなく、韓国やその他の国でもあるようです。終わりの時代、神さまは子どもたちの賛美や預言を用いようとされています。「そんなことが聖書的なのか?」という人たちに対して、使徒217があります。ペテロが「あなたがたの息子や娘は預言する」とヨエル書から引用しました。大人の方が常識とか神学に凝り固まっていて、神さまが語っておられるのが聞こえないことがありうるでしょう。目があるのに見えない、耳があるのに聞こえないとは残念なことです。当時の、祭司長、律法学者たちは、イエス様のなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てました。教会は、彼らのようになってはいけないということです。

 イエス様はその日、エルサレムには留まりませんでした。神殿は父の家のはずです。でも、神殿のあるエルサレムから立ち去りとこへ行ったのでしょう?マタイ2117「イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。」ベタニヤにはラザロと、マルタとマリヤのきょうだいたちがいました。ラザロは「あなたの愛しておられる者」と紹介されています。ラザロは一度死にましたが、イエス様によってよみがえらされました。マリヤはイエス様に高価な香油を塗ったことがあります。マルタは一品でも多く料理を作ってイエス様を喜ばそうとした女性です。彼らの家にイエス様は泊まりに行ったのです。エルサレム神殿ではダメです。ベタニヤこそが身も心も休まる家homeです。これまでイエス様は何度もベタニヤの家を訪問しています。最後の5日間はベタニヤの家とマルコの家に寝泊まりしていたと思われます。もし、イエス様が自分たちの家に休むために来るとしたら何と嬉しいことでしょう。イエス様は彼らの家だと全く気を使う必要がなかったでしょう。心休まるところだったと思います。私たちはイエス様のことをそんなに考えていません。自分たちの心が休めるような住まいになるように求めています。椅子やテーブル、調度品、テレビ、オーデォ、自分の書斎…でも、そこにイエス様を歓迎しているでしょうか?私の場合は半分教会で暮らしていますので、礼拝堂がすぐそばにあります。牧師室もあるので、そこが大好きです。でも、イエス様が私と一緒にいて、心騒がしくしていたら嫌ですね。でも、私が一番、嬉しいのはイエス様が隠れたところで頑張っている私を認めていらっしゃるということです。小さな会社の社長は、朝から晩まで何かをしています。仕事と休みと境界線がありません。私も毎日が仕事で、毎日が休みのようです。「牧師は月曜日から土曜日まで何しているんだ?」と裁く人もいるでしょう?昔はそう言われると、心が動揺しました。しかし、今はそうではありません。神さまから重要な啓示を受けているからです。ヨセフのような指揮者として、大事な役割があると思っています。人はどう思おうと、イエス様がよくご存じです。私も皆さんのことはよく分かりません。鈴木牧師はあまり世話をしてくれません。訪問もしてくれません。声もかけてくれません。でも、私は牧師として申し上げることがあります。イエス様があなたと一緒です。イエス様はあなたの心とあなたの家を身も心も休まる家homeにしたいと願っておられます。イエス様がおられるなら夫婦喧嘩をしなくなるでしょう。イエス様がおられるなら変なビデオやインターネットも見なくなります。イエス様がおられるなら聖書を読んだり、学んだりすることが楽しくなります。天国に行ってからイエス様とお会いするのではありません。この地上にあっても、可能です。肉眼では見えず、肉声で声も聞こえませんが、霊において見え、霊において聞こえます。イエス様の声がわかるように霊的なラジオを持ちましょう。イエス様のことが見えるように霊的なテレビを持ちましょう。

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2017年8月 4日 (金)

エルサレム入城 マタイ21:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.6

 イエス様は癒された人たちに、ご自分がだれであるかを言わないように命じていました。なぜなら、当時のメシヤは非常に政治的で、誤解を招くからです。しかし、この時は公にご自分を現し、人々から凱旋将軍のような歓迎を受けました。なぜでしょう?それはこのエルサレムが最終的なゴールだったからです。もう逃げも隠れもせず、ご自分がだれであるかを表明されました。イエス様がエルサレムに入城したのが日曜日であり、金曜日には十字架につけられます。福音書はこの6日間に多くの紙面を割いています。

1.ろばの子に乗って

 イエス様はエルサレムに入るために、ろばの子を必要としていました。しかし、ろばの子を手に入れる方法がまことに奇跡的でした。イエス様はまだ、町には入っていません。オリーブ山のふもとベテパゲにいます。エルサレムは高台にあるので、登り坂の途中であったと思われます。弟子たちは「エリコからずっと登って来られたので、イエス様は疲れを覚えておられるのでは?」と思ったのでしょう。イエス様は超自然的に、向こうの村に、雌ろばとろばの子がつながれているのが見えました。弟子たちがそこへ行って、ろばを連れてくるように命じられました。すると持ち主が「なぜ、ろばを解くのか?どこへ連れていくのだ?」と言うでしょう。そのとき、「主がお入り用なのです」と言うなら、すぐに渡してくれるというのです。持ち主に対して、長々と説明する必要がありません。「主がお入り用なのです」というイエス様のことばは、生きたことばであり、持ち主は、召使のように従うのです。このところに「知識のことば」という奇跡が働いていたのです。私が洗礼を受けて3か月くらいたった頃です。「新宿の中央教会というところで、青年大会があるので来ないか」と聖書学院生からお誘いを受けました。「文化祭みたいなものだから、気軽に」と言われたのですが、なんと献身者を募る青年向けの聖会でした。隣の教会の高木牧師が講壇から甲高い声で「主がお入り用なのです」とメッセージしました。最後に「前に出て来なさい」と招きました。「私はモノじゃないぞ」と反発しましたが、神さまから呼ばれたような気がして前に出て、祈ってもらいました。そして、翌年3月に東京聖書学院に入学しました。その時の修養生というのが家内の同級生の姉妹(湯田民子姉、救われた方のユダ)です。「文化祭だ」と嘘を言われたのです。その時、私は電車の網棚にだれかが忘れていた少年マガジンを手に持って会場に行きました。聖歌も聖書も持っていないので、受付の人はびっくりしたでしょう。私もろばのように、「主がお入り用なのです」とイエス様の声でひっぱって行かれたような気がします。

 なぜ、イエス様はろば、それもろばの子に乗る必要があったのでしょうか?それはイエス様が疲れていたせいではありません。ご自分はだれかということを示したかったからです。旧約聖書では、これを「行動預言」と言います。人々は分かりませんでしたが、イエス様はゼカリヤ書の預言を成就したかったのです。ゼカリヤ99「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」マタイ福音書は70人訳からの引用なので、旧約聖書とはちょっと違っています。でも、ゼカリヤ書ではっきりしていることは、「雌ろばの子の子ろばに」と書いてあることです。マタイによる福音書だけが、雌ろばとろばの子の二頭を連れて来たと書いてあります。マルコやルカは、ろばの子だけを連れてきたように書かれています。しかし、マタイは「これは、旧約聖書の成就なんだ」ということを強調したいがため、あえて「ろばと、ろばの子」と書いています。おそらく、イエス様が実際に乗られたのは、ろばの子であり、雌ろばは伴って歩いていたのではないかと思います。マルコ11章には「まだだれも乗ったことない、ろばの子」と書かれています。ろばの子にとっては、初めての大仕事です。だから、「ふたりでも三人でも」と強調するマタイは、子ろばを見守る母ろばの存在をあえて書いたのではないかと思います。しかし、イエス様をヨタヨタ乗せている、ろばの子が人々の目にどのように映ったのでしょうか?その光景こそが、イエス様がどのようなメシヤかを象徴しているのです。クリスチャンの矢内原忠雄という元東大総長がこのような聖書講義をしています。軍馬ではなくてろばです。戦争ではなくて平和です。傲慢ではなくて柔和です。イエスがろばに乗って都に入られたのは、御自身が国民待望のメシヤであられること、その方法は平和、その性格は柔和であられることを、言葉でなく行動によって宣言されたのです。それ自身が深い詩であります。「私はイスラエルの王である、真の救主である。私にふさわしい柔和な心、砕けたたましいをもって私を迎えよ。シオンの娘よ、これがお前たちの最後の機会である。信じて救われよ!」口にするには、あまりにも感慨無量だったのでしょう。イエスは、ろばに乗られた御自分の姿によって、これを民衆に告げられたのであります。アーメン。

 

ゼカリヤ書9章は、メシヤ預言であることは間違いありませんが、「それはいつ頃、来られるメシヤなのか」ということです。当時のユダヤ人はローマを倒し、イスラエル王国を復興してくださる政治的なメシヤを待ち望んでいました。確かに、預言書には厳しいさばきをもたらすメシヤが来ることが書かれています。でもゼカリヤ書には「この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる」と書かれています。マタイ福音書にもmeek「柔和」となっています。本来、王様が来られるときは、着飾った軍馬が似合っています。しかし、イエス様はあえて、ろばの子でありました。まさしくそれは、柔和を象徴しています。当時の人たちの目には閉ざされていましたが、メシヤは二度に分けて来られるということです。ゼカリヤ書9章の預言は、初臨であります。たとえば、初臨の預言は、「ユダヤの地、ベツレヘムで支配者が生まれる」というものです。イエス様がこの地上に来られたのは、さばくためではなく、和解をもたらすためでした。そのために、ご自分が死んで罪を贖うということが絶対的な目的でした。マタイ1219-20「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」とあります。では、再臨のメシヤはどのような姿で来られるのでしょうか?黙示録19章にはハルマゲドンの戦いに終止符を打たれる方が描かれています。黙示録1911-13「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。」アーメン、誰が見ても、「ああ、このお方はイエス様だな」と分かります。再臨時は、白い馬に乗ってこられ、そのお顔といでたちは、恐ろしいほど凛としています。

 使徒パウロは「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント62と言いました。イエス様が地上に来られてから、A.D、恵みの支配が始まりました。今は、イエス・キリストを信じるだけで救われる恵みの時代であります。しかし、それがいつまで続くかというと、世の終わり、イエス様が再び来られる時までです。あれから時代が進み、2017年ですから、まもなくシャッターが閉まる時刻が迫っています。恵みのシャッターが閉まると反キリストが猛威を振るい、自分の命と交換しなければ救いを得られなくなります。迫害があまりにもひどくなるので、反キリストを信じた方が楽になるからです。イエス様は「その日は、ちょうどノアの日のようだ」と言われました。人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。イエス様が世の終わりやってくるのもそれと同じです。

再臨に備えるため、私たちは最低限、2つのことをしなければなりません。第一は一人でも多くの人が神との和解をもたらしてくださった、イエス・キリストを信じるように働きかけなければなりません。もちろん、仕事をしながら、家事をしながら、学生ですと勉強しながらです。日本にはクリスチャンが1%も満たないので、人々が福音を聞くチャンスはあまりないでしょう。そうであれば、少なくとも、私たちが毎日、顔を合わせる人たちに責任があると思います。再臨に備えるための第二は、私たち自身の信仰生活です。今度お会いするイエス様は「王の王、主の主」なるお方です。黙示録には「御顔は太陽のように照り輝き、その目は燃える炎であり、口からは鋭い剣が出ている」と書いてあります。柔和さなど一遍もありません。もちろん、イエス様は優しいお方であることは間違いありません。でも、やがて来られるイエス様がそのようなお方であるなら、神さまをなめてかかってはいけません。できるだけ罪と汚れから離れ、聖霊に満たされ、義なる生活をしていることが必要です。今日の箇所には「オリーブ山」が出てきます。弟子たちが天にお帰りになるイエス様を見上げていた時、御使いがこのように言いました。使徒111「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」ハレルヤ!再び来られるという聖書の預言を信じて、いつでも主とお会いできるように生活していきたいと思います。

2.群衆の歓迎

 マタイ218-9すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」ヨハネによる福音書には「しゅろの葉をとって出迎えた」と書いてあります。ですから、日曜日、イエス様が入城した日をPalm Sundayと呼んでいます。おそらく過ぎ越しの祭りのために、エルサレムの人口は普段の倍くらい膨れ上がっていたと思われます。群衆はどのように叫んだのでしょうか?「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」これは、詩篇11825-26の引用です。「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。群衆はイエス様をダビデの子、預言されていたメシヤだと考えていました。何度も言いますが、人々はローマを倒して、イスラエル王国を復興してくださる政治的メシヤを求めていました。高官などの要人を歓迎するための、レッドカーペットというのがありますが、これと似ています。布の代わりにしゅろの葉と自分たちの上着を道に敷いたのですから、よっぽどの歓迎ぶりだったのではないでしょうか?さながら、凱旋将軍のようであります。

 数日後、同じ群衆がイエス様を「十字架につけろ」と暴徒に化すということが信じられるでしょうか?私は群衆の中には二種類いたのではないかと思います。ガリラヤからイエス様と一緒に着いてきた群衆と、エルサレムにいた群衆です。ちょうど過ぎ越しの祭りが重なる時期なので、地方から来ていた人たちもたくさんいたと思われます。その証拠が、1011節のことばです。マタイ211011「こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、『この方は、どういう方なのか』と言った。群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ』と言った。」よく見ると、エルサレムにいた人たちは、「この方は、どういう方なのか」と聞いています。おそらく、ガリラヤから着いて来た人たちが「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と他の群衆に教えたのではないかと思います。ガリラヤから着いて来た人たちの中には教えに感動した人たち、病を癒していただいたり、パンの奇跡に預かった人たちも含まれていたことでしょう。親身になってイエス様や弟子たちの身のお世話をする婦人たちも同行していたでしょう。しかし、危険なのはイエス様のことをあまり知らない群衆たちです。でも、彼らは一様に「ダビデの子イエス」のフアンでした。フアンというのは、うわべだけの信仰であり、キリストと個人的な関係のない人たちです。だから、数日後、イエス様が捕えられた時、扇動されたのです。マタイ2720「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。」マタイ2720「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」あの群衆がこんなにも変わるものかと驚くばかりです。

 J.C.ライルがこのように解説しています。「これが人間の性質を忠実に現している絵である。神をたたえることよりも、人間をたたえる愚かな考えが、ここに証明されている。人気ほど、気まぐれで不確かなものはない。きょうはここにいるが、明日は去ってしまう。砂の上に建てられた家が、倒れてしまうのと同じである。きのうもきょうも同じである方のfavorを求めよう。彼の愛とfavorは尽きることなく永遠に続くからである。」favorというのは、日本語に訳しづらい、ことばです。私は日本のリバイバルのため用いられたいと熱く願っています。何故かと言うと、私のために特別に祈ってくれた方々がいたからです。天に召された申賢均牧師、インドネシアのエディ・レオ師、そしてこの間、日本に来てくれたダニエル・コレンダ師です。これらの先生方から、按手して祈ってもらい、favorをいただいたからです。Favorというのは、「好意、親切、世話、愛顧、ひいき、支持」であります。簡単に言うと、「あなたはリバイバルのためきっと用いられるよ」と祈ってくれたのです。しかし、それが人間のfavorにとどまらず、イエス様に支えられていると信じています。イエス・キリストは昨日もきょうも永遠に変わらないお方だからです。このお方に目をとめていくとき、私たちの信仰は岩の上に建てられた家のように倒れることがありません。私たちは群集心理、日和見主義的な信仰であってはなりません。そのためには「キリスト・ファン」ではなく、「キリストいのち」として生きるべきです。「私はキリストなしでは生きてゆけない」ということです。

 1990年から、弟子訓練が韓国から入ってきました。もちろん、その前からナビゲーターやキャンパス・クルセードでその考えはありました。韓国から入ってきた弟子訓練は、ある意味では独特のものでした。なぜなら、徴兵制度のような訓練だったからです。サラン教会の姜ミョンという弟子訓練のスペシャリストがいました。彼女の弟子訓練に「休んではいけないが、死んでもいけない」というスローガンがありました。2年間は休んではいけないので、ある人は点滴を吊るしながら出席したそうです。私はその団体に10年間、属していましたが、最後には「これは違うのでは」と思って辞めました。その弟子訓練の根底に流れている考えはこれです。「教会には群衆と弟子の二種類がいる。群衆クリスチャンは何かあると教会を去って行く。絶対離れない、弟子クリスチャンを作らなければならない」という前提がありました。そうしますと、日曜日、会衆を見ると、「この人は群衆で、この人は弟子だろうか」という色メガネで見るようになります。また、その弟子訓練では「あなたは変わらなければならない」という言い方がよくされました。つまり、そのままではダメだというメッセージがいつもあるのです。韓国のクリスチャンは叩かれると、「なにクソ!」ともっとがんばります。でも、日本のクリスチャンは、「ヘニョ」となってもう来なくなります。「聖書は何と言っているのだろうか」改めて考えました。使徒241「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」ペンテコステの日、ペテロの説教を聞いて、バプテスマを受けた人たち3000人が「弟子」と呼ばれています。彼らはまだ弟子訓練のクラスを1つも受けていません。また、パウロは一番問題のあったコリントの教会の人たちを「聖徒」と呼んでいます。聖書的な考えは、イエス様を信じたらキリストの弟子であり、聖徒なんだということです。それで良いかというとそうではありません。本当の弟子、本当の聖徒になるために訓練を受けるということです。スタートが律法ではなく、恵みだということです。

 教会では「ホサナ」という賛美をよく歌います。「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。彼らはイエス様を「ダビデの子にホサナ」と叫びました。また、人々は「預言者イエスだ」とも言いました。しかし、それは間違っています。イエス様はダビデの子でもなく、預言者でもありません。イエス様は生ける神の子、キリストです。この間、東京ファイヤーカンファレンスでガーナでの奇跡が放映されていました。首都アクラで100万人規模の集会が開かれていました。ある男性が親戚の家に来たのですが、帰りの列車に乗り遅れました。彼は集会の端っこのベンチで寝ていました。すると、耳が突然聞こえるようになり、集会の音が入ってきました。彼は石工でしたが2年前から全く耳が聞こえなかったのです。彼は驚いて、集会のプラットホームに走っていきました。「耳が聞こえた。聞こえた」と大声で伝えました。講師のコレンダ師が集会に出ていない人が癒されたことを知って驚いて人々に紹介しました。彼はイスラム教徒で、自分の名前や住所が知られると危険なのですが、恐れないで証をしました。彼は「イエスは預言者です。コーランにも書かれています」と言いました。コレンダ師は、「預言者じゃなくて神の子、救い主だよ」と訂正しました。彼は「私の耳を聞こえるようにできたのは神さましかいない。イエスは神の子、救い主だ」と告白しました。彼はあとのインタビューで「私は牧師になって、イエスのことをみんなに知らせたい」と答えていました。聖霊様が集会にも出ず、ベンチの端っこで寝ている男性に触れてくださったのです。最後には、「イエス様が神の子、救い主だ」と告白しました。それも、聖霊様の働きです。人間の考えから出たことではありません。

 私たちはイエス様を信じて、クリスチャンになったことをまず感謝しなければなりません。私たちは聖霊によって生まれ変わり、キリストの弟子、聖徒になったのです。私たちはキリストを信じたという1点で、神さまから受け入れられ、ありのままで愛されているのです。これが基本にないと、誤った弟子訓練になります。誤った弟子訓練とは、神さまに受け入れられるために、がんばるということです。神さまの愛を得るためにがんばる必要はありません。すでに、ひとり子を与えるほどに愛されているからです。どうぞ、無条件の愛をいただいているということを信仰のベースにしましょう。この私が一番良い模範です。あのときは、「主がお入り用なのです」と言われて、深く考えもしないで前に出ました。まだ何も勉強もせず、訓練も受けていないのに、主のみ声に従いました。まだだれも乗せたことのない、ろばの子もイエス様に用いられました。あなたは既にキリストの弟子であり、聖徒なのです。どうぞ、恵みからスタートしましょう。

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2017年7月28日 (金)

何をしてほしいのか マタイ20:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.30

 この盲人の癒しの記事はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されています。マタイによる福音書はイエス様の教えに多くを割いていますが、奇跡についてはそうではありません。そのため、きょうの記事を学ぶとき、他の福音書も参考にしたいと思います。この記事はイエス様による奇跡でありますが、当人もその奇跡の一端を担っています。この人物はどのようにイエス様に求めたのでしょうか?

1.切なる求め

 マタイによる福音書には「ふたりの盲人」と記されていますので、特別な意味があるのかもしれません。マタイ18章に「あなたがたの二人がどんな事でも心を一つにして祈るなら、天の父がそれをかなえてくださる」と書いてあるからです。一方、マルコによる福音書には、この人物は「バルテマイという盲人の物乞い」と名前が記されています。エリコの町はエルサレムに上るときの要所だったので、物乞いとしては良い場所だったのかもしれません。もしあなたが盲人で道ばたに座っているなら、何ができるでしょうか?まず、耳が聞こえます。そして、声を出すことができるでしょう。でも、自分が行きたいところには行くことができません。なぜなら目が見えないからです。その日は、盲人の物乞いの前を大勢の人たちが通りました。二人は「きょうはふだんよりも稼ぎが多いぞ」とワクワクしていました。しかし、人々の話し声に耳を傾けると、ナザレのイエスがこの町を通るようです。彼らは前から、イエス様が盲人の目を開けたり、足のなえの人を歩かせることができるという噂を聞いていました。「まさか、噂のイエス様がエリコを通過するとは?」とびっくりしたことでしょう。彼らはこの時とばかり叫びました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と二人で声を合わせて叫びました。ひとりよりも二人ですから、あたりに響き渡ったのではないかと思います。するとどうでしょう。マタイ2031そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。

 イエス様の取り巻きは「うるさい、黙れ」とたしなめました。なぜなら、人々は「イエス様はエルサレムに行く途中なので、物乞いなどに時間を割く暇はない」と思ったのでしょう。でも、黙るなら、イエス様が行ってしまいます。二人は、もっと大きな声を出しました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てました。もう、騒音です。32節「するとイエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた」。マルコ福音書にはもっと詳しく書かれています。マルコ1049-50すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。すばらしいです。親切な人がいて、盲人たちをイエス様のところに連れて行ってくれました。マルコ福音書には「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」とあります。パウロ・チョーヨンギ師は「この上着は公道で物乞いができるという政府の許可証みたいなものであった。これを脱ぎ捨てるということは、もう物乞いをしないという信仰の現れである」と解説していました。その大切な上着を脱ぎ捨てたとはどういう意味でしょう?彼らは後ろの橋を焼き捨てて、イエス様のところに行ったということです。絶対、癒されると思ったのでしょう。このところから私たちは盲人たちの信仰を学ぶ必要があります。それは切なる求めであります。イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。しかし、原文は「求め続けなさい。捜し続けなさい。たたき続けなさい」と継続形に書かれています。

 イエス様は変貌山でモーセとエリヤを呼んでサミット会議を持たれました。三人は「エルサレムで遂げようとするエキサダス(出エジプト)」について話していました。イエス様は弟子たちに「エルサレムに行って、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがなければならない」と告げました。イエス様はその時から、まっすぐエルサレムに御顔を向けて歩まれました。この時は、エリコの町を通過して、エルサレムに入る直前でした。マタイ21章にはエルサレム入城のことが記されています。ということは、イエス様は二度とエリコには戻らないということです。二人の盲人の物乞いは、知ってか知らずか、そのチャンスを逃しませんでした。しかし、彼らは目が見えないのでイエス様のところに行けません。できることは、大声を上げて呼び止めるしかありません。彼らは「うるさい、黙れ」と言われても、ますます「主よ、私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫びたてました。イザヤ書にとてもふさわしいみことばがあります。イザヤ556「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」そして、聖歌にもあります。聖歌540「主よ、わがそばをば、過ぎ行かず、汝が目をばわれに、向けたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ、切に呼びまつる、わが声に」この歌はファニー・クロスビーが作りました。彼女は医者の間違いで幼くして失明しました。生涯に6000以上の賛美歌を書いたということです。原曲はPass me not, O gentle saviorですが、Hear my humble cry「卑しい叫びをお聞き下さい」と歌っています。おそらくファニー・クロスビーは、盲人の物乞いの気持ちを知っていたことでしょう。残念ながら、彼女の肉体の目は癒されませんでしたが、霊の目は開かれました。ルカによる福音書にはこのように書かれています。ルカ1843「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」彼らは目が見えるようになった後、イエス様について行きました。これを見た民たちは神さまを賛美しました。彼らは今日明日のお金を恵んでもらったのではありません。根本的な問題が解決され、自らの足でイエス様について行ったのです。

 私たちはこのところから「切なる求め」ということを学ぶべきです。この盲人の物乞いは恥も外聞も捨てて、大声で叫びました。人々から「うるさい、黙れ」と言われてもやめませんでした。かえって大きな声で叫び、イエス様の足を止めることができました。しかし、おかしいです。イエス様はそれまで二人の声が聞こえなかったのでしょうか?それとも、そのまま通り過ぎようとされていたのでしょうか?イエス様が通り過ぎるというシーンはもう一箇所あります。イエス様が5,000人の人たちを奇跡的に養った後、弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に舟で向かいました。マルコ648「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」なんとイエス様は薄情なのでしょうか?弟子たちが必死に漕いでいる舟の脇を通り過ぎようとされました。この2つの箇所から、何か共通することがあります。イザヤ書には「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」とありました。奇跡というのは、いつでも起こるわけではないということです。神さまが介入してくださる時を逃してはいけません。でも、こちら側は「イエス様にご迷惑をかけてはいけない。お手すきのときで結構です」と辞退するかもしれません。私たちも偉い方にお願いするときは、そのようになります。でも、せっぱ詰まっている場合はそうではありません。何をやってもダメで、どん底であえいでいる時がそうです。私はリバイバルのため聖霊の油注ぎを求めた先生方の本を何冊も読みました。それらの本にはdesperateという言葉が記されていました。 Desperateというのは、「自暴自棄の、必死の」という意味ですが、「…が欲しくてたまらない、何としても必要で」という意味があります。本の先生方は「私は聖霊の油注ぎがなければやっていけません」と切に求めました。そうするとある日、突然、聖霊が上から臨み、電気に打たれたように打ち倒されました。そして、「死にそうです。もう結構です。いや、もっと下さい」と叫びました。その後、先生方のミニストリーが全く変わり、しるしと奇跡の伴う宣教ができたということです。私もこれにあこがれています。問題は、それだけの飢え渇き、切なる求めがあるかどうかということです。

 私たちはこの世のものである程度満たされています。「霊的なものがなくても良いかな?」と思ってしまいます。テレビやスマホ、人々との会話、悪いわけではありません。ショッピングやおいしい食事、観光、悪いわけではありません。でも、ある程度満たされていますと、霊的な飢え渇きがありません。祈りも静かに上品になります。「みこころならば与えてください。みこころでなければ結構です」みたいな祈りをします。イエス様にご迷惑をかけたくないからです。ということは、そこまで行き詰っていない、desperateまで達していないということです。それはある意味では不幸と言えるかもしれません。なぜなら、ベター(より良いもの)で満足しているからです。「ベターはベスト(最上)の敵である」と聞いたことがあります。「この世」の特徴は何でしょう?この世のものは、イコール、罪ではありません。この世のものは、私たちを神さまから引き離し、さらに私たちを占有します。いつの間にか私たちの関心が、神さまよりもこの世のものに捕らわれている、それが占有です。そうなると、イエス様が近くにおられるのが分かりません。いつまでも続くベストなものは神さまが持っておられます。この盲人たちのように、叫んで求めましょう。チャンスを逃してはいけません。主はあなたの求めが本当なのかご覧になっておられます。主があなたに答えようとしているその時、イエス様に求めましょう。

2.明確な求め

 マタイ20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。イエス様は超自然的に人の心を読み取ることができます。ですから、この時も盲人たちが何を求めて来たのかご存じだったと思います。でも、あえて「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれたのは何故でしょう?もし、この記事を客観的に見るならばどうでしょう?この人たちは毎日、「私たちをあわれんでください」と道行く人たちにほどこしを乞うていたと思います。ということは、このことばは彼らの常套句、決まり文句だったわけです。彼らはそうやって毎日、いくらかの施しをいただいて生活してきました。今回は、ただ「ダビデの子よ」と呼び方を変えただけに過ぎないように思えます。人々は、イエス様に金銭の施しを求めているのだろうと思ったかもしれません。だから、「うるさい、だまれ」とたしなめたのでしょう。マルコによる福音書を見ると、イエス様はこのように言われました。マルコ1052するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」イエス様は彼の信仰をほめています。マルコ福音書はひとりですが、マタイはふたりの盲人になっています。どちらにしても、彼らには信仰がありました。では、どのような信仰なのでしょうか?二人はイエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」このようなことを普通の人には願うことができません。盲人の目を開けるなんてことは、普通の人にはできません。そんなに大きなことを願うということは、信仰がなければできません。二人の盲人は、イエス様のことを「ダビデの子よ」と叫びました。このところでは「主よ」と呼びかけています。明らかに「イエスは主である」という信仰があります。「このお方だったら、自分たちの目を開けることができる」と信じていたのでしょう。だから「主よ。この目をあけていただきたいのです」と願ったのです。イエス様の中に、あわれみが生じ、彼らの目にさわってあげました。すぐさま彼らは見えるようになりました。彼らの信仰のごとくに癒されました。彼らは物乞いを卒業し、イエス様について行きました。人々はその光景を見て、神さまを賛美しました。

 私たちはこのところから何を学ぶべきでしょう?CSルイスという人は、「奇跡自体は主のメッセージである」と言いました。つまり、ここでは「ただ目の見えない人が、見えるようになった」という意味ではないということです。イエス様はこの奇跡を通して私たちに何かを教えておられるということです。最初のポイントでは「切なる求め」ということを学びました。本当に飢え渇きをもって求めているかということです。二人は「目が開けられるなら自分たちの人生は変わる」と必死に求めました。この時を絶対逃したくないので、だまれと言われても叫び求めたのです。第二は「明確な求めです」。イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と問われました。この時、「もう物乞いをしなくても良いように、一生分のお金をください」と願っても良かったはずです。でも、二人は「主よ。この目をあけていただきたいのです」と願いました。イエス様は超自然的に彼らの願いは分かっていました。でも、あえて彼らの口からそのことばを聞きたかったのです。なぜなら、彼らの信仰にご自分の信仰をプラスしたかったのです。イエス様は少し前に、「からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」(マタイ1720)と言われたことがあります。この二人にはからし種以上の生きた信仰がありました。二人ははっきりと「この目をあけていただきたいのです」と告白しました。イエス様は彼らの信仰にご自分の偉大な信仰をプラスしたのです。まるで、コンセントのプラグに差し込まれる時のように、癒しの力が二人に注がれたのであります。すぐさま彼らの目は見えるようになりました。このようにイエス様は私たちが求めるとき、明確に、具体的に求めることを願っておられます。明確に口で言うというのは、私たちに信仰がなければできません。このとき、「みこころでしたら」「もし、おできになるのでしたら」みたいな、言い方は不信仰であり、失礼です。ダイレクトに「〇〇していただきたいのです」と言えば良いのです。イエス様は「よく私に大きなことを求めたものだ。すばらしい信仰だ」と、むしろ喜んでくださいます。イエス様に小さなことしか求めない人はイエス様の力をみくびっている人です。でも、イエス様に大きなことを求める人は、イエス様はそれができる偉大な神さまであると信じている証拠であります。

 西洋周りのキリスト教は非常に上品なところがあります。彼らのように大声で叫んだりはしません。教会は上流階級の人たちが来るところであり、物乞いの盲人など来るところではありません。現代は医学が発達し、経済的にも満たされているので、このような奇跡は不要です。むしろ、私たちの霊性が高められ、神さまと聖い交わりを喜ぶべきです。日本の教会は西洋周りのキリスト教の影響を多分に受けています。そのため、きょうのような記事は飛ばして、すぐ21章に行くかもしれません。あるいは「目を開けて下さい」というのは、「心の目であって、それは霊的なものです」と解釈するかもしれません。そうではありません。物乞いの盲人たちが、イエス様によって肉体の目が開けられて、自分たちの足で歩いて生活できるようになったのです。これは奇跡であり、イエス様が肉体を含め、生活全部のことに関心をもっておられるという証拠です。私たちはイエス様が根本的な救いを与えたことを理解しなければなりません。教会は弱い人たちを助けるためボランティア活動など、世の中を明るくするようなことを進んでします。それらは良いことです。でも、盲人の人生を根本的に変えるためには、盲人の目を開けなければなりません。少しの施しや、生活のお世話だけでは、彼らの人生を根本的に変えことができません。イエス様はヨハネ14章でこのようにおっしゃいました。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」アーメン。私たちもイエス様と同じようなことをすべきであります。目の前に盲人の人がいたら、目が開けられるように祈るべきであります。こういうことを言うと、私にもプレッシャーがかかります。でも、私たちはこの世にいるすべての盲人の目を開くようにとは命じられていないと信じます。イエス様もご自分から盲人たちを探し回って、盲人を片っ端から癒したとは思いません。イエス様はご自分のところに、癒しを求めてきた人たちを癒されました。きょうのところから、「切なる求め」「明確な求め」が必要なんだということを学びました。もちろん、神さまはどんなことでもおできになられます。でも、奇跡が起こるためには、受ける側の信仰と与える側の信仰がマッチする必要があると思います。たとえ受ける側の信仰がからし種のような大きさでも、神さまご自身が臨まれるなら、癒されると信じます。一番重要なのは、私たちができるか、できないかではなく、癒しの器として私たちを差し出すということです。聖霊様が「今、この人が癒されるので宣言しなさい」とおっしゃれば、「今、この人が癒されました」と言えば良いのです。主は、このような「知識のことば」で人々をお癒しになることもあります。ある時は手を置いても良いし、ある時は唾で泥を作って目に塗ることもあるでしょう。主が導かれたら、どんなことでもする覚悟で臨まなければ、癒しの器になることはできません。

 きょうのメッセージのまとめをいたします。イエス様はふたりの盲人の目を開けてあげました。でも、この二人は一生懸命できることをしました。自分から行けないので、大声を上げて叫びました。今、この時を逃してはならないと必死に求めました。そして、イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。私たちも祈っている最中、イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれることがあるでしょう。たとえ、そのような声が聞こえなくても、イエス様「このようになることです。このようなことを叶えていただきたいのです」と明確に求める必要があります。ある人たちは、イザヤ書55章のみことばを引用し「私たちの思いと神さまとの思いとは違うんだ」と言うかもしれません。でも、私たちはイエス様によって父と子どもの関係になりました。子どもは父親に遠慮しません。遠回りにも言いません。はっきりと「これ欲しい」「こうしてくれ」と言います。お願いではなく、要求に近い求め方です。それだけ親子関係は親しいということです。もちろん、父なる神さまに対してある程度の礼儀は必要です。でも、イエス様にだったらもっとダイレクトに願っても大丈夫です。だから私たちは「イエス様のお名前によってお祈りします」と言うのです。たとい無礼講で一方的でわがままな祈りであっても、イエス様のお名前を通すなら、ちゃんと調整していだたけるという約束であります。もし、みこころと違うならば、内におられる聖霊(神の霊)が「こういうふうに修正しなさい」と教えてくださいます。また、祈っているうちに自己中心的な願いが聖霊の火によって聖められ、神さまの御座に届く祈りに変えられます。最初から綺麗で整えられた祈りにする必要は全くありません。重要なのは、「神さまにはできる」「イエス様にはできる」という信仰です。父なる神さまが、イエス様が叶えて下さると信じるので、切に求め、明確に求めるのです。詩篇374「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」アーメン。

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2017年7月14日 (金)

偉くなりたいと思うなら マタイ20:17-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.16

 イエス様はご自分がエルサレムで苦しみにあって死ぬことを度々、予告しています。きょうの箇所は3度目であり「十字架につけられる」と明言しています。ところが弟子たちはイエス様がエルサレムに上ったら、イスラエルの王様になるんだと信じていました。ですから、イエス様がエルサレムで死ぬと言われたことに、耳を傾けようとしませんでした。

1.偉くなりたいという願い

 マタイ2020-21そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」「そのとき」というのは、イエス様がご自分の死を予告した直後であります。お母さんが息子たちを連れてイエス様のところにやってきました。「ゼベダイの子らの母」とありますが、ヤコブとヨハネのお母さんです。イエス様に「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」とお願いしました。これはどういう意味でしょう?イエス様はマタイ19章においてペテロが「何もかもすてて、あなたに従ってまいりましたので何がいただけるでしょうか?」と質問しました。するとイエス様は、ご自分が栄光の座に着くとき、弟子たちが12の座について、イスラエルの12の部族をさばくと約束されました。それだけでも、すごいことなのに、このお母さんは「自分の息子のひとりは右に、ひとりは左に座れるようにおことばをください」とお願いしました。言い換えると「息子たちを右大臣と左大臣にしてください」ということです。何と身勝手でずうずうしい願いでしょうか?親馬鹿では済まされません。では、イエス様は「そんな馬鹿なことを言うな!」と一喝されたのでしょうか?そうではありません。

 マタイ20:22-24 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。イエス様が「私が飲もうとしている杯を飲むことができるか?」とおっしゃたら、「できます」とそばにいた息子たちが答えました。杯というのは、ゲッセマネの園でイエス様が苦しみもだえた後「飲む」と決断された杯です。それは人類の罪を負って、神さまから捨てられ、殺されるということです。もし、イエス様に従って来るなら、同じような杯を飲むことになるということです。マルコ10章では「なるほどあなたがたは、私の飲む杯を飲み、私のバプテスマを受けはします」と預言しておられます。この預言のごとく、ヤコブはヘロデ王によって切り殺されました(使徒122)。一方、ヨハネは殉教こそ免れましたが、パトモス島に流されます。彼らはイエス様の右と左にすわることの代償を考えていませんでした。でも、ここで学ぶことは、イエス様が右と左にすわる、つまり偉くなることを否定していないということです。26節では「あなたがたの間で偉くなりたいなら」とおっしゃっています。また、27節では「あなたがたの間で人の先に立ちたいなら」ともおっしゃっています。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定してはいません。ただし、「このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです」とおっしゃっておられることも忘れてはいけません。パウロは「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられたものです」(ローマ131「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなすように」(Ⅰテモテ21勧めています。聖書はこの世に高い地位の人たちがいることは、神の許しであると言っています。

 少し角度を変えて考えたいと思います。私たち人間には様々な欲望があります。マズローという心理学者は人間には五段階の欲求があると言っています。一番目から三番目が食べて寝て、仲間や家族と安全に暮らすということです。そして、四番目が「尊厳欲求」で、五番目が「自己実現欲求」です。これら2つは高い次元のものです。私たちは人から認められ、尊敬されたい、自分の能力を発揮したいという願いがあります。これらは私たちを動かすモティベーョンであることが一般的に認められています。だから企業は目の前に人参(褒美)をぶらさげて、働かせようとするのです。イエス様も私たちの生まれつきの願いを否定してはいません。でも、偉くなったり、指導者になると、良くないことも出てきます。大きな決断を迫られたり、責任を取らされたりします。良いときは尊敬されますが、悪いときは「お前のせいだ」と言われて詰腹を切らされます。そのため現代の若者たちは、偉くなったり、指導者になるということを願わなくなりました。昔は小学生にアンケートをとると総理大臣とか会社の社長になりたいという夢が圧倒的でした。しかし、今は、男子はサッカーの選手、女子は保育士とかパテシエになりたいと言う風に変化しています。どうしても人の上に立つと、責任も大きくなります。それよりは契約社員で、休みたい時は休み、嫌な仕事だったら変わるという生き方が多くなりました。1つの原因は理想的な指導者があまりいなくなり、幻滅しているせいかもしれません。テレビや新聞で、大統領や首相、大会社の社長のニュースを見たり聞いたりしますが、あまり良いものではありません。ヒーローがいるのは、スポーツか芸能界です。私たちの中にある願いや欲望がすべて悪いものとは限りません。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定していないということです。もし、私たちの前に正しい理想的な指導者がいたなら、そのようになりたいと願うのは自然なことなのです。なぜなら、そのことに神さまが関与し、上に立つことを許しているからです。善良で神さまのみこころを行う指導者が、随所に立てられたらすばらしいのではないでしょうか?

2.偉くなりたいなら

 偉くなりたかったらこうしなさいと、イエス様はこの世と全く逆の言い方をしておられます。マタイ2025-27 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。異邦人の支配者、つまりこの世の支配者はどうなのでしょう?「その民を治め」とありますが、ギリシャ語は「圧政する」「支配する」という意味です。また「権力をふるう」とは、「職権をほしいままにする」という意味もあります。当時はローマ帝国が世界を支配していましたが、まさしく力と権力による支配でありました。これから先のヨーロッパ世界は、力と権力の闘争であったことは歴史が証明しています。現代は民主主義と言われていますが、会社や官僚の世界はやはりピラミッド型であり、上のものが下のものを支配する構造になっています。共産主義は「資本主義を壊して富を平等に分配する」と言いましたが、ひどい独裁者たちを生み出しました。イエス様のこの世の支配者の見立ては、決して的外れではありません。しかし、イエス様はとても奇妙なことを言われました。「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」何と言うことでしょう?そんなことをしたら、支配者や権力者の思う壺ではないでしょうか?「そんなことはできるはずがない」とだれもが言うでしょう。

近年、「サーバントリーダーシップ」というものが脚光を浴びています。ロバート・グリーンリーフは「リーダーである人は、まず相手に奉仕し、その相手を導くものである」というリーダーシップの哲学を提唱しました。君臨型のリーダーシップは一番上に立っています。そして、一方的な指示や命令を与え、管理をします。下の人たちは彼に服従し、忠誠心を持ち、依存していきます。一方、サーバントリーダーシップの人は一番下で組織を支えています。ビジョンを共有し、権限を委譲します。下の人たちは、実際は彼よりも上にいるのですが、情報、提案、成果をサーバントリーダーに与えます。図を見ると分かるのですが、逆三角形になり、リーダーが一番下で、顧客が一番上にいます。現代このシステムを起用している企業がたくさんあります。たとえばスターバックス・コーヒーがあります。ある人が社長に「ここまでの成功を収めた秘訣は何ですか?」と聞きました。「多くの人から毎回その質問を受けるが、もし秘訣があるとすれば、それは戦略や戦術ではない。サーバントリーダーシップである。人に奉仕をする。人を大切にする。コーヒーを提供しながら、人を喜ばせる。改善に改善を重ね、世界企業になった」と答えたそうです。サウスウエスト航空は38年連続黒字でクレームも最低、フォーチュン誌の「働きがいのある企業」ランキング1位にも選ばれたそうです(5年前の情報)。社長は「顧客に最高の満足を提供するためには、先に従業員の満足度を高めることが必要で、だから会社として従業員に「奉仕」するというサーバントリーダーシップの考え方に基いているのです」と答えたそうです。他にはテキサス州コペル市警察、アメリカ空軍も取り入れています。日本ではサンクゼールというジャムの会社も取り入れています。久世社長はものすごいワンマン社長で、ジャム作りに成功し全国の百貨店にも商品が置かれました。しかし、直営店で失敗し、状況はどんどん悪化し自殺まで考えたそうです。社長は社員を集めて「借金が膨れ上がり、この会社はつぶれてしまうかもしれない。自分ひとりで突っ走ってしまったことを『申し訳ない』」と謝まりました。社員は愛想を尽かして皆辞めていくだろうと思っていました。ところが、結果は逆でした。「社長、何言ってるんですか。こんな状況だからこそ、皆で力を合わせて頑張りましょうよ」「社長が本音を話してくれてうれしかったです」と言われました。そこから、社長はサーバントリーダーシップを心がけるようになりました。ある雑誌のインタビューで、「社長はどんなリーダーですか?」という質問に、サンクゼールの社員はこう答えたそうです。①夢を語っている。方向性を示してくれる②話を聴いてくれる。個人的な相談に乗ってくれる。ちなみに久世社長は敬虔なクリスチャンです。亀有のアリオにも出店しています。日本でも『サーバントリーダーシップ』という本がベストセラーになりました。その本の訳者がこう言っています。「サーバントリーダーシップの歴史を振り返ってみますと、二千年前のキリストの考え方、生き方に由来します。サーバントリーダーシップというのは、古くて新しいリーダーシップの考え方なのです。

 しかし、これを方法論で捉えてしまうなら、ほころびが出るでしょう?「なんで私が頭を下げなけりゃならないんだ。私は指導者だ。下からやっとのし上がったんだ。威張って当然だろう」と心の中で思っていたならどうでしょう?私たちは心の中に持っている価値観で行動するものです。ですから、心の価値観が変わっていないのに、言葉や行いだけを変えても無理です。イエス様が言われたことは、「こうすれば良くなる」という処世術や方法論ではありません。神の国の価値観です。多くの場合、イエス様が言われるものは、この世と真逆のものが多いのです。たとえば、山上の説教では「心の貧しい人は幸いです。右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。受けるより与える方が幸い」と言われました。また、マタイ18章では「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」と言われました。きょうのところでは「偉くなりたいと思う者は、仕える人となりなさい」と言われています。ある人たちは「キリスト教は道徳的ですばらしい」と言うかもしれません。しかし、道徳ではなく、神の国から来たものです。私たちは神の国の価値観を私たちの心の中心に据えなければなりません。英語ではcore value、「中核価値観」と呼んでいます。私たちは意識はしていませんが、このcore valueによって、何かを愛し、何かを求め、何かを決断しています。core valueは強いて言うなら、「あなたの中の原則、基準、美徳」と言えます。あなたの中にあるcore valueが、神の国の価値観と一致しているかどうかが鍵であります。「偉くなりたいので仕える、かしらになりたいのでしもべになる」という方法論で捉えたなら行き詰まるでしょう。あなたの「中核価値観」になる必要があります。

3.イエスの模範

 仕えることが偉くなるための方法ではなく、あなたの「中核価値観」になるためにはどうしたら良いのでしょう?それはイエス様にならうということが重要です。さらに、ならうだけではなく、イエス様があなたの中に住んでくださるなら、自然と実行できるようになるでしょう。イエス様はどのようなお方なのでしょうか?マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」これはイエス様のことばであり、イエス様が実際になさったことです。何と言うことでしょう?イエス様こそ人々から仕えられるべき王であり、神さまでした。もし、イエス様がこの世の王であるなら、すべての人がイエス様に仕え、服従すべきであります。しかし、イエス様はこの世と全く逆のことを言われました。「人の子」というのは、イエス様がご自分を呼ぶときに用いた表現です。これは完全な人間であり、神さまに完全に服従した人間の代表という意味が含まれています。本来、イエス様は神であり、神と共におられたのですが、この地上に人間として来られ、人々に仕えました。典型的なことがヨハネ13章に書かれていますが、最後の晩餐のときに弟子たちの足を洗われました。外から家に入ってきたとき、召使が人々の足を洗ってくれます。しかし、弟子たちは「だれが一番偉いだろうか」と競っていたので、人の足を洗ってあげるなんて考えていませんでした。弟子たちは知らんぷりして、席についたのです。ところが、イエス様がたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手ぬぐいで拭いてあげました。最後にイエス様はこう言われました。ヨハネ1314-15「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」ここでもおっしゃっておられるように、イエス様は模範となられました。方法論ではなく、「私のように人々に仕えるように」と、弟子たちに体験的に教えられたのです。

 私たちはその場にいませんでした。その場にいた弟子たちだったら、「ああ、そうかイエス様が私に仕えたように、私も人々に仕えます」と言えたでしょう。でも、私たちにイエス様から仕えられた経験がないなら、単なる教えになって、「中核価値観」にまでには至りません。私たちのcore valueが、神の国の価値観と一致するためには、イエス様を体験しなければなりません。つまり、イエス様が私に仕えてくださったということを実際に体験するということです。でも、そのようなことが可能なのでしょうか? もう一度お読みいたします。マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」そうです。イエス様が究極的に人々に仕えた出来事とは何でしょう?それは多くの人のために、贖いの代価として、自分のいのちを与えたことです。ご自分の命を十字架上で捧げたことが、神のしもべとして来られた目的でありました。イザヤ書53章は、罪のために死ぬという苦難のしもべの預言です。イエス様が私に仕えてくださったというのは、イエス様が私のために命を捨てて贖ってくださったということです。簡単に言うとイエス様にお世話になったということです。イエス様がペテロの足を洗おうとしたとき、「決して私の足をお洗いにならないでください」と断りました。するとイエス様は「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」と言われました。これはどういう意味でしょう?足を洗うとは、罪を赦すということです。つまり、イエス様から罪を赦していただいたことがないなら、イエス様と何の関係もないということです。クリスチャンであるなら、もれなくイエス様から仕えていただいたことがあるのです。イエス様はあなたの罪を贖うことによって、仕えてくださったからです。イエス様は仕えることの、私たちの模範となられました。同時にまた、イエス様は仕えるなら結果的にどうなるか保証にもなられました。

 ピリピ2章にそのことが書かれています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」このところに、イエス様が仕える者として来られ、罪を贖ってくださったということが記されています。だけどそれだけではありません。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」なんと、イエス様は父なる神さまによって、高く上げられ、すべての名にまさる名が与えられました。どん底から、天の高くまで引き上げられました。これはどういう意味でしょう?みなに仕えるなら、神さまがあなたを引き上げ、偉い者として下さるということです。また、しもべになるなら、神さまがあなたを引き上げ、先に立つ者として下さるということです。Ⅰペテロ56「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。私たちは自ら偉くなろうと努力する必要はありません。むしろ自らを低くして仕える者となるように努力するのです。そうすれば結果的に、神さまが高めてくださるのです。神さまは神の国の価値観をもった指導者をお立てになりたいのです。そして、ご自分の思いをこの地に満たしたいのです。神さまは人を必要としています。かつてはイエス様をこの地に遣わしました。現在はイエス様に贖われた人たちを用いたいと願っておられます。もし神さまから与えられた権威と力を正しく用いるならば、下の者たちは恵まれて暮らすことができます。この世の人たちは権威と力を誤用するので、下の者たちが苦しむことになるのです。神さまもこの世も、正しい指導者を必要としています。権威と力の大小はあるかもしれません。遣わされているところも様々です。家庭、職場、地域社会、国家がその領域です。政治、ビジネス、芸術、学業、医療、スポーツがその領域です。あなたが仕える場所はたくさんあります。ビル・ジョンソンのことばです。「しもべのように支配し、王のように仕えましょう。」

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