2017年5月26日 (金)

兄弟が罪を犯したなら マタイ18:15-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.28

 マタイによる福音書には「教会」ということばが16章に1回、そして18章に2回記されています。厳密には、イエス様の頃はまだ「教会」は存在していませんでした。しかし、やがて誕生するであろう「教会」のことを見越して、こういうことを守りなさいと教えているのだと思います。きょうのテーマは「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」です。ここで言われている「罪」というのは、「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味です。教会でおもに問題にされる罪は、ゴシップ、分裂分派、性的な罪です。刑事罰を受けるような犯罪でなく、共同体を破壊する罪が問題にされています。Ⅰヨハネ3章には「神から生まれた者は罪を犯しません。…罪を犯すことができないのです」と書かれています。ここで言われているのは、この世の人たちのことではなく、霊的に新しく生まれた人たちを対象にしています。もし、誤って罪を犯した場合、教会においてどのようなことが大切なのか教えられています。でも、このマタイ18章全体には「小さい者につまずきを与えない」というテーマが一貫して流れていることを忘れてはいけません。

1.愛と尊敬

 15節から17節まで、「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、3つのステップを踏んで対処しなさい」と教えられています。なぜなら、3つのステップの根底には「愛と尊敬」があるからです。第一のステップとは何でしょう?「行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」と書かれています。すごいですね。被害を受けた人、あるいは傷を受けた人が、加害者のところに行くのです。そして、当人同士、二人でお話しをするということです。「責める」というギリシャ語は「納得させる、説得する、誤りを認めさせる」が第一の意味になっています。英語の詳訳聖書には「もし、あなたの兄弟があなたに悪いことをしたなら、行って、彼にその誤りを示しなさい。彼とプライベートに」と書かれています。日本人はいきなり第三者か公に訴えるところがあります。そうしますと、その人をひどく傷つけることになり、関係が壊れてしまいます。もし、プライベートであるならば、相手も身構えないで、言うことを聞いてくれるだろうということです。私は土木の現場監督をしていたので、ことばでたくさんの罪を犯しました。教会の姉妹方から「あなたのことばで傷つきました」と言われたことが沢山あります。その時はショックを受けましたが、おかげさまで大分、良くなったのではないかと思います。学校に行っていた頃はよく職員室に呼ばれたので「お話しがあります」と呼ばれると怖いです。でも、ここでは「来い」ではなく「行って」と書かれています。

 第二のステップは「ひとりかふたりを連れて行く」ということです。マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」「二人の証人、三人の証人」というのは、申命記19章に記されている律法です。なぜ、さらに「ひとりかふたり」なのでしょう?それは確認されるためです。英語の詳訳聖書には「確認し、支持するため」と書かれています。つまり、本人だけではなく、「ひとりかふたり」が「やっぱりそれは良くないことですよ」と一緒に言ってあげるということです。そうすると罪を犯した人は、「客観的にそうなのか?」と考えるようになります。それでも、「ひとりかふたり」が当人を責めているというニュアンスはありません。兄弟になんとかわかって欲しいという願いがあります。日本人はだれかその人よりも偉い人を連れて行く場合があります。その人は、恩があるので頭が上がらないために仕方なく聞くかもしれません。しかし、それだと力が加わりますので、できるだけ利害関係のない人が良いと思います。少し前に、森友学園のことが報じられていましたが、こじれにこじれていました。あそこまで行くと収集がつかなくなります。私たちは問題がこじれないように、第一と第二のステップを踏む必要があります。

 そして、第三のステップは教会に告げるということです。教会のだれなのか?現代は牧師と役員会、さらには会衆全体ということになります。噂話とかゴシップにならないように、公にすることが必要になります。マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」最終的には「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と書かれています。しかし、このところに罰を与えるとか、除名するというような表現はありません。「異邦人か取税人」というのは、神さまを信じていない未信者のように扱えということです。ところが、ローマ・カトリックは教会の権威をふりかざして、「破門」や「宗教裁判」を発動してきました。カルヴァンの時もそうでしたが、国家権力と結びつくと神さまの領域を犯していることになります。そうなるとこの世の人に対して、良い証になりません。J.Cライルの本に、「破門こそは、その人が犯した罪よりももっと恐ろしい罪である」と書かれていました。また、教会では「戒規」と言って、陪餐停止処分を与えるところもあります。これは、しばらくは聖餐式に加わることができないということです。これに対しても、J.Cライルは「その人が悪くても、不敬虔であっても、主の食卓に来ることを禁じるべきではない」と書いていました。

 ダニー・シルクの『尊敬の文化』という本にこのようなことが書かれていました。神学生の二人が夏休み中、関係を持って女性が妊娠してしまいました。学校で教えている牧師は「二人を退学させるべきだろう」と考えていました。ダニー・シルク牧師は「とにかく二人に会って話し合いましょう」と提案しました。二人は執務室に入ってきても、目を合わせよとせず、うつむいたままでした。自分たちが仕出かした行為を恥じていることは明らかです。二人は処罰を受ける覚悟をしていました。シルク牧師は彼らと初めて会ったので、まず男子生徒からいきさつを説明してもらいました。最後に「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう」と言いました。男子生徒は「わかりません」と言いました。シルク牧師は「悔い改めたの?」と尋ねました。彼は「ええ、もちろん悔い改めました」と即答しました。「では、何を悔い改めたのかな」。しばらく沈黙が続いた後「わかりません」と言いました。「そうだよね。問題がそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」。彼は「はい、おっしゃるとおりです」と答えました。シルク牧師は自分の考えを言うのではなく、何を考えるべきだとも言うつもりはありませんでした。ただ彼に尋ねることによって、この若者に栄光と知恵と能力を見出すように導いていたのです。なぜなら、自分の失敗に対する恥のせいで、彼が本来の自己像を見失っていたからです。彼は蹴飛ばされて唾をかけられて当然の人間だと思っていました。指導者は彼に規則を守らせるための存在だと思っていました。しかし質問をしたことを通して、聖霊の助けのもと、彼は自分の生涯を一変させることになる解決方法を見出しました。物語は続きますが、彼と彼女は処罰とその恐れから自由になり、正しい悔い改めをし、結実に至りました。つまり、処罰を与えないで解決する方法があるということです。愛と尊敬は、その人から自己防衛を取り除き、真の悔い改めに導くことができます。Ⅱコリント710「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

2.霊的権威

   

 マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」同じようなことがマタイ16章にも書かれていました。「つなぐ」というのは、「禁じる」という意味です。また、「解く」というのは、「許す」という意味です。これは、イエス様が教会に対して、神さまの名代としてそのような権利を与えたということです。この18節のことばは、「もし、兄弟が罪を犯したなら」という文脈で考えるべきです。前のポイントを振り返りますと、当人同士で「わかった、ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。でも、もし聞き入れないならひとりか二人を一緒に連れて行きます。そのとき、「ああ、そうだったんですね。ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げます。そのとき、聞き入れたならば、それでOKです。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、異邦人か取税人のように扱います。第一から第三までのステップの中で、「禁じる」とか「許す」という権威が行使されているということです。このように教会にはイエス様から霊的権威が与えられているのです。教会のかしらはイエス・キリストです。この方が最終的な権威者です。でも、イエス様は問題が愛と尊敬によって解決するように、私たちに権威を委譲しておられます。私たち自身に権威があるのではなく、イエス様からいただいているということです。私たちはこの霊的権威を軽んじてはいけません。

 霊的権威を軽んじてしまった教会の見本はコリント教会です。コリント教会は、教会内の罪をこの世の裁判所に訴えました。パウロはこう述べています。Ⅰコリント61-4「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。」さらにパウロは「教会内の罪はあなたがたが解決しなさい。そもそも、互いに訴え合うことが、すでに敗北です」と言っています。残念ながら、教会の現状はこうではありません。教会内部の問題を全国の教会にばらまいたり、裁判所に訴えるということがたまにあります。また、教会のスキャンダルを集めて、ホームページに載せている牧師もいます。教会や牧師を訴えるというのは、まさにサタンの片棒をかついでいるようなものです。もちろん、教会が罪に直面せず、なかったことのようにするのは良くありません。ある場合は、刑事裁判になることもあるでしょう。でも、イエス様が教会に対して、禁じたり、許したりする権威を与えておられることを忘れてはいけません。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます」(ルカ1117でおっしゃいました。どちらが正しいとか間違いだとか、分からないことがあるでしょう。そのときは、パウロが言うように「むしろ不正を甘んじて受け、むしろだまされる方が良い」(Ⅰコリント67のです。なぜなら、最終的にさばくのはイエス様だからです。

 ジャン・バルジャンは司教の好意を裏切って、銀の食器を盗みました。その後、警察に捕えられ、神父のもとに連れてこられました。警察官は「この銀の食器はあなたのものでしょう?」と袋から出して言いました。すると司教は、「これは彼に差し上げたものです。燭台もあげたのにどうして持っていかなかったのか」と強い口調で言いました。ジャン・バルジャンの人生は、そのことによって変わりました。ジャン・バルジャンの心がなぜすさんでしまったのでしょう?彼は腹をすかせた甥と姪のために、パンを盗んで逮捕され5年もの刑を宣告されました。犯した罪に比べて罰の重すぎることから、社会に疑念を抱き社会を憎むようになったのです。何度か脱獄を試みましたが、そのたびに失敗し刑期が数年ずつ伸び、その結果19年も刑務所で過ごすことになってしまいました。警察官が去った後、司教は「どうか真人間になるためにその銀の品々を使ってください」と言いました。ジャン・バルジャンは、この出来事の後、マドレーヌと名乗るようになり、市長となります。でも、この物語はさらに続きます。実はジャン・バルジャンは燭台だけは売らないで死ぬまで取っておきました。私は「レ・ミゼラブル」のような可哀そうな物語とか映画はとても苦手です。自分の過去のみじめな人生とシンクロするからです。でも、言えることは人間は変わるということです。『愛、赦し、受け入れ』という本をだれかが書きました。人の罪をあばいてさばくことは検察官がやることです。それを教会でやるなら、イエス様がどれほど悲しむでしょうか?教会は時として悪魔の片棒を担いで、兄弟を告発することがあります。教会はイエス様から与えられた権威を、人を生かすために用いるべきです。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

3.主の介入 

  

 マタイ1819-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」19節と20節のみことばはとても有名でよく引用される箇所でもあります。でも、私たちは文脈からこのみことばを理解しなければなりません。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」と書いてありました。そして3つのステップを踏んでその兄弟を諭すことが語られていました。18節には教会には禁じたり赦したりする霊的権威が与えられていると書いてありました。その後に、心を合わせた祈りの必要性とその効果が記されています。つまり、罪を犯してしまった兄弟のためにとりなしている祈りと考えられます。当人で行って諭したけどダメだった。他の人を連れて諭したけどダメだった。最後に教会に告げ出んだけどダメだった。彼は異邦人か取税人のように扱われてしまう。こういう一連の出来事の背後で「正しいさばきがなされるように、また聖霊によってその人が悔い改めるように」と心を合わせて祈っているのです。そこにイエス様が臨在されて、その問題を解決してくださるということです。このようなことは教会の外ではなされません。また、この世の人たちは、祈りの力ということを信じていないでしょう。でも、心を合わせた祈りは最も力あるわざなのです。説得もある場合は効果があるかもしれません。人は人を変えることはでません。やはり神の霊がその人に臨んで、変えて下さるように祈るのが一番なのです。ですから一見、力がなさそうでも、心を合わせた祈りは最も大きな効力を発するのです。

 私たちはこの箇所から心を合わせた祈りがどんなに効果があるか、もう一度知る必要があります。私たちは大勢の人たちが集まって祈れば、もっと効果が現れるだろうと思ってしまいます。しかし、このところでは、「ふたりでも三人でも良いのだ」と書かれています。イエス様は弟子たちを伝道旅行に派遣したことが何度かあります。その時、彼らを二人一組で遣わしました。二人というのはとても良いと伝道者の書に書かれています。一人が倒れたら、もう一人が助け起こすことができるからです。また、二人が良いのは共に祈ることができるからです。これは夫婦の祈りでも言えますし、兄弟姉妹の祈りでもそうです。19節には「まことに告げます。…もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と約束されています。「どんな事でも」と言われています。ですから、どんなことでも父なる神がかなえてくださるのです。「まことに」と言われていますので、私たちは額面通り受け止めるべきです。そもそも、この二人とは一体だれなのでしょうか?私は、罪を犯した兄弟とその人のところに行った兄弟(姉妹)だと思います。ふたりだけのところで責めたわけですが、そのとき、二人が心を合わせて祈ったら、すばらしい和解が生まれるでしょう。でも、うまくいかないときがあります。それで、他にひとりかふたりをいっしょに連れて行きました。そこには、罪を犯した兄弟の他に二人か三人います。すべての事実が確認されました。そのときのことが20節ではないでしょうか?「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」なぜなら、ふたりから急に三人になっているからです。一緒に祈っているところにイエスさまが来られ、悔い改めとすばらしい和解をもたらしてくれたら何と幸いでしょう。

 教会では何かをするとき必ず祈ります。最後も祈る場合もあります。祈って初め、祈って終わる、すばらしい習慣だと思います。私の経験によると、会議など長引く場合は、途中、神さまの導きを求めてみんなで祈ったらもっと良いと思います。私は関東のセルチャーチネットワークに、15年くらい携わってきました。次の集会で何をするのか、56人集まって協議します。1時間くらいやっても、なかなか決まりません。そのとき、「では一緒に祈りましょう」と勧めます。3分くらい祈ります。すると、何かが降りてくるというのは、変な言い方ですが、パーッとテーマが浮かんできます。もう、10分もかからないですべてのプログラムが完成します。これは奇跡です。関東のセルではこのことを何度も体験しました。流山に三浦先生というとてもまじめな牧師がいらっしゃいます。彼は、平日アルバイトをしていますので、仕事を休んで打ち合わせに来ます。私は彼のことをねぎらって、「仕事を休んで打ち合わせ会に来るのは割に合わないでしょう」と言ったことがあります。そうすると三浦先生は、「いや、これが一番、勉強になります。私は先生方から色んな事を教えられてきました。とても感謝です」という言葉が返ってきました。そうなんですね。日本の教会が置かれている厳しい状態から始めますので、どうしても否定的です。あれもやったけどダメだった、これもやったけどダメだった。何をしようか?でも、目をつぶって一緒に祈ると、天が開けて何かがパーッと降りてきます。では、私たちが祈る前に天がふさがれていたのでしょうか?そうではありません。天は開いていたのですが、私たちの心が閉じていたのです。

 最後に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とはどういう意味でしょう?これは主がそこに臨在されるということです。神さまは霊ですから、どこにもおられます。これを偏在といいます。では偏在と臨在はどこが違うのでしょうか?臨在とは神さまがそこにおられるだけではありません。神さまが臨在されるところには、奇跡や癒し、救いのみわざが起こるということです。問題の解決、特別な啓示、聖霊の力が与えられるということです。教会は人数の多さではありません。もちろん多いことに越したことはありません。教会の真骨頂は、ふたりでも三人でも、主の名において集まり、心を合わせて祈ることです。二人でも地上で心を合わせて祈るなら、どんなことでも天の父がかなえて下さるからです。

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2017年5月19日 (金)

天国で一番偉い人 マタイ18:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.21

 マタイ181節には、「そのとき」と書いてあります。「そのとき」とはいつなのでしょうか?マタイは省略していますが、背後には二つの出来事があることがわかります。第一はマルコ9章に書いてありますが、弟子たちが、カペナウムに行くまで、道々、だれが一番偉いか論じ合っていた時です。第二はマルコ10章に書いてありますが、人々が子どもたちを連れて、イエス様のところにやって来た時です。

1.子どもから学ぶ

 弟子たちはイエス様が十字架にかかる直前まで、だれが一番偉いか論じ合っていました。彼らはイエスさまがイスラエルを建国したとき王様になると信じていました。そのときだれが、イエス様の右に座るか、だれが左に座るか論じていたのです。彼らの思いは地上にありましたが、イエス様は天の御国ではどうなのかということを教えられました。そして、小さなこどもを呼び寄せ、弟子たち真ん中に立たせてこのように言われました。マタイ183「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」これは、だれが偉いかということではありません。「どのようにならなければ天の御国に入れないのか」という救いの問題を扱っています。イエス様は小さな子どもを立たせ、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。「悔い改める」とは必ずしも罪を悔い改めるという意味ではありません。ギリシャ語では「変える」「向きを変える」という意味のことばです。大人である弟子たちに、「子どもの身になって考えよ」と言うことです。でも、「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れない」とはどういうことでしょう?子どもは大人よりも何かがすぐれているということでしょうか?子どもの特性、子どもの状態、子どもの態度、いろいろ考えられます。子どものときは持っていて、だんだん大人になると失うものは何でしょう?まるで、なぞなぞみたいです。

 子どもは疑うことをしません。「あげるよ」と言ったら、すぐ手を出します。しかし、大人は「あげるよ」と言われても疑ったり、プライドが邪魔したりして簡単に受け取りません。もし、天国が無代価のプレゼントだとしたどうでしょう?大人は「私にも何かやらせてくれ。良い行いでも、修養でも何でもするから」と言うかもしれません。こちらも何かすれば、救われる気がするからです。救われるために、何もしないというのは、かえって怪しいと思うでしょう。その点、子どもは良い行いはできないし、修養も無理です。子どもの特性は、単純に信頼するということです。でも、その子どもが大きくなるにつれて、裏切られたり、だまされたりするのです。大人になるとすっかり疑い深くなり、「簡単にはだまされないぞ!」みたいになります。そういう意味で、大人が子どものようになるというのは大変なことです。これらのことから考えますと、天の御国に入るということは、単純に信頼するということではないでしょうか?だからイエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」とおっしゃったのです。

キリスト教では信じて救われることを「回心」と言います。英語ではconvictionと言いますが、存在をかけるような決心であります。これまでの古い考えや疑いを捨てて、子どものようになって、信じるのですから、大変な作業だと思います。日本では「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言いますが、それに似たものがあります。だから、神さまを信じるのは大人になってからではなく、子どものときが一番良いのです。アメリカでは3歳のとき信じたという人がザラにいます。日本では中学卒業してからとか言いますが、反抗期になってチャンスを失ってしまいます。10代から30までは遊びで忙しいです。30代から50までは子育てや仕事が忙しいです。50代以降は自分の考えが固まって無理であります。80歳になって少々ぼけて子どものようになれば再びチャンスが来るでしょう。このように大人が子どものように単純に信じるというのは大変です。だから、イエス様は山上の説教で、心の貧しい者や悲しむ者が幸いだと言われたのです。人生に何か危機的なことが起らないと、神さまを求めるようにならないからです。イエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。アーメンです。子どものように神さまを信頼する心を持ちたいと思います。

 もう1つの子どもから学ぶべきことは謙遜さです。マタイ184-5「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」弟子たちはこの世の価値観で頭がいっぱいでした。この世では、権威や権力がものを言います。学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、こういうものがあれば偉くなれると思っていたでしょう。それに比べると、小さな子どもにはそういうものが何一つありません。小さな子どもには学歴や資格、財産やお金、何の立場も影響力もありません。でも、小さな子どもが持っているものがあります。それは謙遜さです。子どもは謙遜でありたいと別に思っていません。存在、そのものが謙遜なのです。聖書の「自分を低くする」とは、原文では「低くなる、卑しくする、へりくだる」で、英語ではhumbleであります。大人になるといろんなものを身に着けるので、高く、そして大きくなります。何もなくてもプライドだけは大きいという人もいます。この世の中では、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、みなすばらしいものです。でも、それらを持っていることが天の御国で偉い人なのかというとそうではないということです。天の御国はこの世と全く逆であり、何も持っていないような子どもの方が一番偉いんだということです。

 でも、聖書は、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性を不要であるとは言っていません。ただ、天の御国では、邪魔になるということです。なぜなら、神さまではなく、自分を誇るからです。その人は「これらはみんな私が努力して獲得したものなんだ」と思っています。でも、イエス様は「この子どものように、自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です」と言われました。子どもは自分の意思で自分を低くしているようには思えません。なぜなら、初めから持っていないので自分を誇ることはできません。でも、大人になって、いろんな物を持てば持つほど、自分を誇るようになります。だから、意思をもって自分を低くする必要があります。ここでも、「悔い改めて子どもたちのように」ならなければなりません。しかし、それはどういうことでしょう?どうやったら子どものように謙遜になれるのでしょうか?もし、自分が持っているすべてのものを、たとえそれが努力して勝ちえたものであっても、神さまの恵みであると考えたらどうでしょう?健康な体も、頭脳明晰も、リーダーシップや能力も、お金や財産も、地位や名誉もすべて神さまが与えてくださったのではないでしょうか?つまり、所有者は神さまで、私はそれを預かって管理しているのに過ぎないと言うことです。ルカ12章に「ある金持ち」のたとえ話が記されています。彼の畑が豊作でさらに倉を建てて、穀物や財産をみなしまっておこうと思いました。そして自分のたましいに「何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。しかし、神さまは彼に言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜、お前から取り去られる。そうしたなら、お前が用意したものは一体だれのものになるのか」(ルカ1216-20)。このたとえから分かるように、私たちが持っているすべてのもの神さまから任せられたものだということです。その証拠として、神さまが取り上げられたら一瞬にして何もかもなくなります。健康な体も、頭脳明晰さも、お金や財産も、地位も名誉も一瞬にしてなくなります。

 ですから、この世でどんな大きな者であったとしても、謙遜さを忘れてはいけません。自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人なのです。イエス様はその最大の模範です。ピリピ2章にありますが、神であることを固守しないで、ご自分を無にして、人間と同じようになられました。自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死までも従われました。それゆえ神は、イエス様を高くあげて、すべてにまさる名をお与えになりました。天の御国はこの地上とは全く逆であります。自らを低くする者が、天では高い者とされるのです。ヤコブ46「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」と書かれています。私たちは高ぶるためには努力がいりません。肉は高ぶるものであり、自然に「これは私がやったんだ」と誇りたがります。でも、へりくだるためには努力が必要です。人に受け入れられるための、見せかけでは長続きしません。この世では謙遜さを装って生きるのが処世術になっています。しかし、神さまは私たちの心を見ておられます。まず、神さまの前に謙遜であるということです。そのためには、何がすばらしいことをしたとしても、すべての栄光を主にお返ししましょう。3日間くらい、自分がやったんだと温めておきたい気持ちはわかります。でも、高められることがあったら即座に、主に栄光をお返ししましょう。そうするならば、神さまは私たちを引き上げ、次回も私たちを用いてくださるでしょう。天の御国で高められるように、子どものように、自分を低くする者でありたいと思います。

2.つまずきを与えない

 マタイ186-7「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」文脈から考えますと、「この小さい者」というのは、「小さい子ども」のことであります。第一のポイントでは子どもの特徴をいくつかあげました。子どもは大人と違って、何も持っていません。お金も、地位も、能力もありません。もちろん、内部には神さまの種がやどっており、いろんな可能性があります。でも、小さな子どもを見たなら、現時点では何もありません。当然、大人の目から見たらなら、無価値で何もできないと思われ、卑下されるでしょう。イエス様の時代はローマが支配していました。ローマでは子どもの存在は全く認められていませんでした。女の子は兵士になれないので、特にそうでした。一方、ヘブルの世界では、子どもは神さまからの賜物であるという考え(詩篇1273)がありましたので、ある程度の存在価値は認められていたと思います。では、なぜ小さい者たち、小さな子どもたちにつまずきを与えてはいけないのでしょうか?ここで言う「つまずかせる」は、英語の聖書ではoffendとなっています。これは、「人の感情を害する、立腹させる、傷つける、そこなう」という意味があります。第一のポンとでは子どもは単純に信頼する特性があると申し上げました。これは、子どもは神さまを信じやすいということでもあります。だから、イエス様は「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」とおっしゃったのであります。

 でも、そういう純粋な子どもをつまずかせるというのは、どういうことなんでしょう。裏返しに言うなら、「簡単に信頼してはいけない」あるいは「人は何かを身に着けなければ価値がないんだ」とことばや行いによって教えるということです。直接的には、子どもを虐待したり、嘘をついたり、裏切って悲しい思いをさせるということです。そういう子どもが大人になったらどうなるでしょう?簡単に神さまを信じることができません。もう何べんも裏切られていますから、神さまにゆだねることは不可能です。もし、その子が無条件に愛されていなかったならどうでしょう?「良い子にならなければ」「学校の成績が良くなければ」「親の言うことを聞かなければ」そうなると、無条件の愛ということが分かりません。たとえイエス様を信じることができたとしても、パフォーマンスで生きるでしょう。神さまの愛を得るために、一生懸命がんばって奉仕する信仰生活になるでしょう。使徒パウロは子どもに「あなたの父と母を敬え」と教えています。しかし、「父たちよ。あなたがたも、子どもたちをおこらせてはいけません」とも教えています。「おこらせる」ということばは、もともと「刺激する」ということばから来ています。英語の聖書ではprovokeとなっていますが、「挑発する、誘発する」という意味もあります。動物園に行くと、子どもたちが、わざとお猿さんをおこらせたりします。お猿さんは「キー」とか言って、向かってきます。子どもも同じで、親や大人が、おこらせてしまうことがあるということです。しつけのために、叱ったり、訓戒することは確かに必要ですが、子どもの存在とか尊厳を傷つけたら致命傷になるということです。たとえば子どもが嘘をついたとします。すると親は「お前は噓つきだ、もう信用できない」と言ったらどうでしょう。嘘はだれでもつきますが、「噓つき」はその人自体の呼び名になっています。たとえば子どもに汚いと言うなら、それは服か体が汚れているのです。しかし、「お前は汚い」と言うなら、子どもは自分自身が汚いんだと誤解してしまうでしょう。

 私はスーパーによく買い物に行きます。お母さんとコミュニケーションを取りながら、仲良く買い物をしている子どもを見るとほっとします。「これ良いね、これにする」と相談しながら、買っています。やっぱり子どもなので、何か欲しい時があるでしょう。お母さんはこどもの要求を聞きながら、検討しています。時には、「自分で棚に戻しなさいね」と教えています。「はーい」とか言って、喜んで聞いています。ところが、頭ごなしに叱っている母親がいます。ときには、父親もいます。子どもは大きな声えで叫び何かを主張しています。親はさらにきつく言うか、あるいはまったく無視します。店の中だけでなく、店を出てからもやっています。そういう光景を見ると、とっても心が痛みます。なぜかと言うと、私がそうだったからです。子どもがなきじゃくっていると、「ああ、私もそうだったなー」と思い出します。おそらく、パニック障害的になり呼吸困難になるでしょう。そこまで泣いたら、けっこう傷になります。現代はいろんなパーソナリティ障害がありますが、多くの場合、親から愛されず、極度の虐待を受けたことが原因だと思います。もう、感情が一度噴き出ると、とまらなくなるのです。まるで、手足を切ったところから血が止まらないのと同じです。血には血小板があるので、空気中に触れると凝固して血が止まります。でも、怒りや悲しみの感情が噴き出て、もう止まらないのです。親は、罪や悪いことと、子ども自身を分ける必要があります。叱ったり、正すことは悪くはありませんが、あとでぎゅっと抱きしめる必要があります。「罪は別だけど、あなたのことは愛しているよ」と具体的に現して教えるべきです。日本人は思っていても、口や行動に出さないので、子どもに通じていないことがあります。それが親から子へ世代間連鎖して、子どもも親になったら同じことをするのです。私たちは自分がクリスチャンになったら、負の連鎖を断ち切る必要があります。自分の後からは、神さまの無条件の愛によって生かされる子どもや孫になるんだと信じましょう。

 最後におそろしいことばがあります。マタイ188-9「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」クリスチャンでも「地獄はないと思う」という人がたまにおられます。しかし、このところには「永遠の火」とか「燃えるゲヘナ」とはっきり書いてあります。これは黙示録20章にある「火の池」のことであり、まさしく地獄であります。永遠の滅び、地獄はあるのです。イエス様は「そこになんとか行くことのないように」と教えておられるのです。少し前は、子どもをつまずかせるなという教えでした。しかし、8節と9節は、自分自身をつまずかせるなということです。本来なら、自分の手や足、あるいは目というのは自分と一体なわけですから、「あなたをつまずかせるなら」というのは理屈に合いません。もし、私たちが霊と魂と肉体でできていると考えたならどうでしょう?イエス様は「両手両足そろって」とか「両目そろって」地獄に行くよりも、とおっしゃっています。ということは、この肉体はたとえ片手片足、あるいは片目であっても天の御国では関係ないということです。つまりは霊と魂が天の御国に入れば、あとから栄光のからだがちゃんと与えられるということです。片手片足あるいは片目を惜しんだために、永遠の御国を失ったらもったいない。片手片足あるいは片目を失っても、かけがえのない永遠の御国に入るようにという教えであります。

 この教会の創設者の役員の一人に鳥海力兄弟がおられました。5年くらい前に天に召され、土浦の神立というところに葬儀にでかけました。その時、牧師が兄弟のお話しをされました。鳥海兄は高校を卒業して亀有の日立工場に入社しました。19歳のとき機械に右腕が挟まれて、その腕を失ってしまいました。そういう中で、近くの当亀有教会を訪れたわけです。おそらく、若い時なので片腕がないというのはものすごく大きな悲しみだったでしょう。鳥海兄はイエス様を信じて救われました。そして、忠実に信仰生活を送り、なおかつ当亀有教会の創設や会堂の建設にも尊い働きをされました。葬儀で鳥海兄の証が紹介されました。「僕は19歳で右腕を失いました。聖書の『あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろって永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです』ということばは私のためだと思いました。もしも、私に両腕があったなら、若い私は誘惑に負けて、教会に来てイエス様を信じなかったと思います。右腕を失っても、永遠のいのちを得られたことを感謝します」という強烈な証でした。私たちはイエスさまのところに来るために、ひょっとしたら何かを失ったかもしれません。自分のからだ、自分の夢、自分の結婚、自分の職業、自分の持ち物、そのときはかけがえのないもの、これを失ったら生きていけないと思ったかもしれません。しかし、あとから振り返ると、「ああ、あれで良かったんだ」と思うことが良くあります。「天の御国に入り、永遠のいのちがいただけたんだから元を取っているなー」と喜びが湧き上がってきます。でも、それだけではありません。「この地上でも、十分いただいているな、報われているなー」と思うのではないでしょうか?確かに自分の願うものではなかったけど、もっと良いものであったということはないでしょうか?詩篇1033-5「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる」はキリストによって与えられる新しいいのちであり、天の御国における永遠のいのちであると思います。

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2017年5月12日 (金)

イエス様のご配慮 マタイ17:22-27 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.14

 本日のテキストには、イエス様の二度目の十字架の死と復活の告知が記されています。イエス様はエルサレムに顔を向けて歩まれていましたので、とても緊張しておられたのではないでしょうか?そのような状況で、些細な問題が生じた場合、無視するか、「私には関係ないことだ」と一喝することもありえます。しかし、イエス様は役人たちを躓かせないため、不思議な方法で税金を納めました。きょうの箇所は飛ばしても良さそうな些細な内容かもしれませんが、「イエス様のご配慮」と題して学びたいと思います。 

1.イエス様のご配慮  

  

カペナウム、そこはペテロの家があったであろうと思います。そこに宮(神殿)の納入金を集める人たちがやってきました。出エジプト記30章には、「成人男性は、聖所のため半シェケルを奉納物として納めるように」と書かれています。当時もそのような宗教的な税金がローマの税金とは別に課せられていました。ペテロはお役人に「納めます」と即座に答えました。「あなたがたの先生は納めないのですか?」と聞かれたのに、ペテロはイエス様に相談もせずに答えてしまいました。イエス様はその会話を超自然的に聞かれ、イエス様の方からペテロにこう言い出されました。「シモン。どう思いますか?世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか」。ペテロは「ほかの人たちからです」と答えました。すると、イエス様は「では、子どもたちにはその義務がないのです」と言われました。今はそうではありませんが、昔はペルシヤやギリシャ、ローマなどの王国がありました。王様は国々を支配し、人々から税や貢を取り立てていました。また、王様にはロイヤルファミリーと言いましょうか、子どもたちがいました。イエス様はペテロに「世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか」と聞かれました。当然、子どもたちである王子や王女はその義務はありません。王様から支配されている領民が納めるべきであります。

では、イエス様がこのところでおっしゃっている意味は何なのでしょうか?イエス様は御国の王様です。でも、今のところナザレのイエスとしてこの地上に住んでいます。本来は、ご自分と父なる神は、すべての支配者であり王であります。ですから、当然、宮(神殿)の納入金を納める必要はありません。でも、このところで学ぶべきことがあります。イエス様はスタテル銀貨によって、二人分の税金を納めました。スタテルはシェケルのギリシャ語の呼び方です。ですから、1スタテルは、1シェケルです。つまり、イエス様とペテロの二人分になるわけです。イエス様はどうして、ご自分の分とペテロの分を払うように言われたのでしょうか?その前に、イエス様は「では、子どもたちはその義務はないのです」とおっしゃっていました。イエス様は神であり、王ですから、もちろんその義務はありません。では、「子どもたち」とはだれなのでしょう?ペテロがその一人であります。ペテロも王子であり、ロイヤルファミリーの一人です。だから、イエス様は彼らをつまずかせないために二人分を納めるように命じたのです。すばらしいではないでしょうか?イエス様はペテロを王様の子どもとしてお認めになっておられたということです。

 イエス様は「私は神の子であり、王であるから納める必要はない」と真正面から断ることができました。「しかし、彼らにつまずきを与えないために」と言われ、二人分の税を納めました。「つまずき」と訳されていることばは、「不快にさせる、怒らせる、傷つける」という意味であります。おそらく、宮の税金を集める役人たちは、イエス様がだれであるか分からなかったでしょう?また、イエス様がご自分の身分を証しても信じないでしょう。彼らがやっていることは善なることでした。ですから、イエス様はご自分の権利を主張せず、彼らに譲歩されたのです。使徒パウロもⅠコリント9章で「私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか」とコリントの教会に言っています。使徒たちは福音を伝え、教会を設立しているのですから、教会が使徒たちをささえるのが当然です。しかし、コリント教会の人たちは、パウロの使徒性を認めませんでした。そのため、パウロは「自分の権利を十分に用いない」(Ⅰコリント918と決めました。パウロはさらにこのように言いました。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」(Ⅰコリント919-20
パウロは福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで、そういう人々に対して配慮されたのです。私たちはイエス様やパウロからいくつか学ぶことがあります。

 私たちは霊的には神の子どもであり、王子、王女です。でも、外見はこの地上では一般人と何ら変わりありません。税金も納めるし、この世の法律にも従わなければなりません。今の教会の車がまだ買って間もない頃のことです。家内からグレープジュースを頼まれて、生協に寄ろうとしました。左側にアパートの工事車両が止まっていました。さらに、目の前を年配の婦人が歩いていました。私は右側ぎりぎりを通りながら、生協の駐車場に入るために右折しました。するとバリバリバリとものすごい音がしました。なんと、右側に駐車場の黄色い鉄柱があるのが見えなかったのです。それが車の側面全部に当たったのです。私は駐車場に頭をかかえしゃがみ込みました。まもなく、生協の店長が出てきて、私の車ではなく黄色い鉄柱を見ているんです。そして、塗料がはがれた鉄柱を弁償してくれと言いました。私は「何であんなところに鉄柱が立っているんだ。鉄柱ではなく、車をぶっつけて困っている私のことを心配すべきだろう」と憤慨しました。あとから、電話で鉄柱の塗装代3万円の請求がきました。私は店長に、「それは高すぎる。私だって自分の車の修理が何十万円もかかるんだ。私が塗装業者に外注して元通りするから」と言いました。すると、店長は生協の規約でそれはできないと言いました。かっと来た私は「生協はキリスト教の賀川豊彦師が作ったんだ。私は教会の牧師だ。私が責任を取ると言っているんだ。」と言いました。それから私は夜な夜な出かけ、鉄柱を磨いて黄色いスプレーで塗装しました。数日後、店長と業者が立ち会って、「これなら良いでしょう」と言ってくれました。後から、その鉄柱はトラックがひっかけたのか、根本からグニャっと曲がっていました。その後、生協側は鉄柱を根元取り去りました。悔しいですが、私が的はずれだったのかもしれません。創設者の賀川豊彦先生のこと、私が教会の牧師であることを言っても、全く効果がありませんでした。

 私たちクリスチャンは王子であり王女です。イエス様が王であり、私たちはロイヤルファミリーです。しかし、日常生活の中で「それが何なんなんだ」と思わされることがあります。世の人たちと同じものを食べ、同じように通勤通学し、同じように医者にかかったりします。その中で、福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで生きているのでしょうか?教会に色んなセールスの電話がかかっています。また、セールスマンも訪ねて来ます。昔は丁寧に相手をして、電話会社、電気、印刷機、コピー機、その度に変えました。今は、はっきり断るようにしています。「あれでも牧師か、教会か?」と、かなりの人たちをつまずかせているんじゃないかと思います。みなさんの中にも聖書を読んで祈っているときは良いけど、いざ、職場に行くと別人になっているということはないでしょうか?「なめられちゃいけない」と、強気に出ることはないでしょうか?この世では「営業スマイル」とか「営業トーク」というのがあります。私たちクリスチャンは、「信仰スマイル」とか「信仰トーク」をしてはいけません。訪問伝道している異端の人たちは、物越しが柔らかくて、何を言っても怒りません。表面を繕っているのは間違いないのですが、私たちは内側から柔和でありたいです。そして、イエス様のような配慮をもって接したらどんなにすばらしいでしょうか?パウロは「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント922そのようになるためには、よっぽど自分の中にしっかりとした信仰がなければならないと思います。どうしたら、信仰的なゆとりが生まれるのでしょうか?やはり王なるイエス様と一緒に生活しているという信仰が必要です。ペテロは深く考えずに「納めます」と言いました。でも、お金を出してくれたのは、イエス様でした。しかも、釣った魚にあった銀貨からでした。イエス様は何もないところから、出してくれるお方でした。イエス様は全世界の支配者であり、大きなことから小さなことまで、ちゃんと配慮してくださいます。そういうお方とどんなときも一緒なんだという意識と信仰が大事だと思います。日曜学校の賛美に「祈ってごらんよ」という歌があります。「小川のほとりでも、人ごみの中でも、広い世界のどこにいても、ほんとの神さまは、今も生きておられお祈りに答えてくださる」のです。アーメン。

2.イエス様の不思議な力

 何気ないような物語ですが、このところにイエス様の超自然的な力が2つ現されています。まず、第一にイエス様はその場にいなかったのに、ペテロと役人たちの会話を知っていました。マタイ1725家に入ると、先にイエスの方からこう言いだされた。「シモン、どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか」と書いてあります。おそらく、ペテロと役人たちは家の外にいて、イエス様は家の中にいたのでしょう?イエス様のような超自然的な能力を聖書では「知識」の賜物と呼んでいます。たとえば、ヨハネ4章にはサマリヤの女性の記事があります。イエス様は彼女から何の情報も得ていないのに、「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」と言いました。それで彼女は「先生。あなたは預言者だと思います」と信じました。また、マルコ2章に、一人の中風の人を四人の友人が運んできた記事あります。イエス様が「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。その場にいた律法学者たちが、心の中で「この人は神を汚している。神しか赦すことができない」と思いました。マルコ28彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか」。これも知識であります。預言者エリシャもこの賜物があったのでアラム王は彼を非常に恐れました。Ⅱ列王記612すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」そのため、アラムの王は、預言者エリシャ一人を倒すべく、馬と戦車と大軍を送りました。

 私は神学校でヨハネ4章から個人伝道について学んだことがあります。教師は「イエス様は日常的な井戸水を話題にして伝道を始められた」と教えてくれました。しかし、イエス様が知識の賜物を使って彼女の過去を言い当てたとは習いませんでした。イエス様はずるいです。超自然的な知識の賜物を用いて伝道したのですから。しかし、逆に言えば、神学校で習う個人伝道が間違っていたのかもしれません。なぜなら、御霊の賜物を使わないで伝道しているからです。もし、預言や知識、知恵、さらに他の賜物を用いたならば、効果的な伝道ができるのではないでしょうか?私たちの伝道があまりにも人間的で地上的なので結果がかんばしくありません。ヨハネ1章にありますが、ナタナエルは「ナザレから何の良い者が出るだろう」とピリポの言うことを信じませんでした。ところが、イエス様が「私は、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と言いました。すると、ナタナエルは「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白しました。時間的には数分、10分かかっていないと思います。私たちが数か月かかるところをイエス様は数分でやってしまいました。何故でしょう?イエス様は知識という御霊の賜物を使ったからであります。おそらく、イエス様は超自然的に、ナタナエルが毎日、いちじくの木の下で、イスラエルのために祈っている姿を見ていたのでしょう。いちじくの木はイスラエルでは特別な木であり、その木の下で瞑想することが良くあるからです。私たちもイエス様のような御霊の賜物を使って伝道することが可能なのではないかと思います。

 第二は、イエス様の宮の納入金の納め方です。一見、ユーモアがありますが、神の超自然的な力なくしては決してできないことです。マタイ17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」イエス様が税を納入した方法は、大変ユーモアがありました。つまずきを与えないために税金を納めたのですが、そのやり方が、宮の役人への皮肉にもなっています。だいたい、魚釣りに行って、一番最初に釣った魚の中に、1スタテルの銀貨がある。それが、ちょうど2人分の納税額にあたると信じられるでしょうか。聖地旅行で、ガリラヤ湖に行きますと、Peter´s fish ペテロの魚という魚がいて、それを焼いて食べさせてくれるそうです。淡水魚で日本人だったら、お醤油を垂らすと美味しくいただけるそうです。このPeter´s fishは、雑食性で光るものならなんでも食べるそうです。実際に指輪とかコインが入っている場合があると聞いたことがあります。この物語の場合、イエス様が魚に命じてくわえさせたのか、それとも、銀貨をくわえている魚を知っていて、ペテロに釣らせさせたのか分かりません。偶然と考えたら、気が遠くなる確率です。とにかく、イエス様は自分が神の子であって、神殿の税金を納めなくてよいのですが、超自然的な力で税を納めたわけです。Ⅰコリント12章には「奇跡を行なう力」という名称で出ています。

 テレビとかインターネットを見ますと、マジックがあります。素手で水を凍らせたり、あっためたりします。また、500円玉をボトルに通過させたりできます。トランプも変幻自在に操り、前もってその人が何を選ぶか分かっています。一番驚いたのは、絵に描いてあるハンバーグから、本当のハンバーグを食べたことです。一口食べて、絵の中に戻したら、食べかけのハンバーグになっていました。もちろん中にはトリックがあるのもあるでしょう。しかし、最近はトリックではなく、本当の魔術によってなされるわざが多く出現するようになりました。人々がそのことによってあっと驚きます。しかし、それだけではありません。私は彼らがやがて人々の心を操るのではないかと恐れています。黙示録13章には「獣」が出てきます。黙示録1313-14「また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」聖書では「しるしを行う悪霊ども」(黙示録1614と書いてありますが、反キリストである獣と、その手下が大きなしるしを行うことは確実です。それは人々を惑わせ、その獣を拝ませるためあります。私たちは力あるわざに対して、気をつけるべきです。それが、神からのものなのか、悪魔から来たものなのか見分ける必要があります。現代の人たちは科学を信じ、聖書の神さまを信じていません。その代り、不思議やしるしを見せられると、コロッとひっくり返り、偽りの神さまを信じてしまいます。

 私はリバイバルが起こると「しるしと不思議、癒しや奇跡」が起こると信じます。でも、同時に悪魔の力も働きます。それは混乱を与えるためです。モーセがエジプトに乗り込んだとき、呪法者たちも秘術を使って同じようなことをしました。もちろん高度なわざは魔術にはできませんでした。でも、彼らもある程度のことはできます。私たちは霊を見分ける力と同時に、神の霊によって「しるしと不思議、癒しや奇跡」を行うべきであります。それは私たち自身の力ではなく、全能の神さまが私たちを用いて、まことの神さまがおられることを未信者に示すためであります。その時、彼らは心を開いて、福音を聞くようになります。現在、イスラム教徒やインドのヒンズー教徒にイエス様が超自然的に現れてくださり、それによってキリスト教に回心する人たちが大勢出ています。パウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(Ⅰコリント420と言いました。また、イエス様はサドカイ人たちに「聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ2219と言いました。現代の教会は聖書のことばばかり強調して、神の力のことを語りもしないし、行ないもしません。だから、世の人たちは不思議なことを行う魔術やオカルトの方に行ってしまうのです。ヨーロッパのスペインやポルトガル等のカトリックの国は東洋の宗教やニューエージにはまっているようです。世の終わり、神さまの力も激しく臨みますが、同時に悪魔も人々を惑わすために力強く働くのです。世の終わりの教会は、力の戦いを避けて通ることはできません。なぜなら、世の人たちは「どちらが本当の神なのか、証拠を見せてくれ」と言うからです。

エリヤの時代、ほとんどのイスラエルはバアルの神を拝んでいました。エリヤはたった一人でバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦いました。山頂で2つの祭壇が作られました。1つはバアルとアシェラたちの祭壇、もう1つはエリヤの祭壇です。エリヤは「火をもって答える神、その方がまことの神である」と言いました(Ⅰ列王記1824)。まず、バアルとアシェラたちがやりました。彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から晩までバアルの名を呼びました。それでもダメなので、踊ったり、大きな声で叫び、最後には自分の体を剣や槍で傷つけました。でも、答える者はいませんでした。エリヤはたきぎの上に裂いた一頭の雄牛を乗せました。さらに水をたきぎの上に注いで、祭壇の周りも水を満たしました。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であることを知るようにさせてください」と祈りました。すると、主の火が降ってきて、全焼のいけにえと、たきぎと、石とちりと焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしました。民はこれを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。終わりの時代もこのようなことが起こります。これまで100年かかってきたことが、1年で起るかもしれません。日本は世界でもまれな、伝道の難しい国でした。でも、しるしと不思議のともなう福音宣教によって日本は変えられます。はっきり言って、それしか望みがないと信じます。どうかそのとき、冷やかな者になりませんように。歴史的に、世界中のあちこちでリバイバルが起きましたが、全部の教会がその恩恵にあずかったわけではありません。となりの教会にリバイバルが起きているのに、こっちは冷たくて死んでいたという教会もあると聞いています。どうか同じ、神の火によって燃やされましょう。きょうのメッセージの前半は「イエス様のご配慮」であり、後半は「イエス様の不思議な力」でした。ですから、私たちは力あるわざを求めますが、熱狂過ぎて人をつまずかせてはいけません。心は熱く燃えていても、頭はクールであるというバランスが必要です。模範はイエス様です。イエス様は力があって、クールでした。

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2017年5月 5日 (金)

山を動かす信仰 マタイ17:14-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.7

3人の弟子たちは高い山で特別な経験をしました。ところが、山を降りると下では問題が起こっていました。何やら人々が集まり、苦しんでいる子どもを取り囲んでいました。その子の父親が弟子たちに癒しと解放を求めましたが、それができないでいたようです。ちょうどそこへ、3人の弟子たちとイエス様がやって来ました。ペテロは聖なる山でずっと過ごしていたいと望んでいましたが、下界では大変なことが起こっていました。こういうことは良くあることです。きょうは、2つのポイントでこの問題をどう解決していくのか学びたいと思います。

1.不信仰な曲がった今の世

 イエス様は「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と嘆いています。イエス様は弟子たちの不信仰を嘆いているようですが、それだけではないようです。日本語の聖書には「曲がった今の世」と訳されていますが、もっと良い訳はないのでしょうか?ギリシャ語で「世」はゲネアーであり、「世代」「時代」「子孫」という意味があります。英語の聖書ではgenerationとなっており、「同時代の人々」という意味です。つまり、「神の国が来る前の状態の人々の生活ぶり」ということです。もちろん、そこには弟子たちも含まれており、その影響や考え方を受けているということです。私たちも不信仰な曲がった時代で生まれました。彼らと違うのは、それと平行して神の国が力強く臨んでいるということです。その当時は、まだイエス様だけが神の国を代表していたので、弟子たちもその影響を受けていませんでした。このところには、イエス様のいらだちが現れています。「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう」。イエス様らしくない、不寛容さが現れています。なぜでしょうか?それは、変貌の山で、ご自分はエルサレムで遂げるべきことを確認しました。そして御顔をまっすぐエルサレムに向けて進もうとされていました。つまり、イエス様には「地上にいる時間はあまり残されていない」という緊張感があったのではないかと思います。だから、ふがいない弟子たちに、そのようなことばを発したのではないかと思います。

 では、もう少し、山の下にいた弟子たちの状況を調べたいと思います。マルコ福音書には「律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた」(マルコ914)と書いてあります。イエス様は群衆に「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれました。すると群衆のひとりが、「先生、口をきけなくする霊につかれた私の息子を連れて…霊を追い出すように願ったのですが、できませんでした」と答えました。おそらく、弟子たちは「なぜ、この病気が治らないのか?この病気の原因はどこから来たのか?」議論していたのではないかと思います。だから、イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆いているのです。つまり、弟子たちは悪霊を追い出すのではなく、議論を交わしてしていたのです。「中国の教会は祈る教会、台湾は賛美する教会、日本は議論する教会」と聞いたことがあります。日本の教会は議論好きであります。神学的なのは良いのですが、小さな違いを議論することが好きです。でも、力がありません。力のなさを頭脳でごまかしているところがあります。イエス様は議論を不信仰の現れみたいにおっしゃっています。議論するよりもむしろ祈る、議論するよりもむしろ賛美したほうが、神さまのみわざが現れるのではないかと思います。いくら私たちの頭が良くても、全部理解することはできません。ちなみに、この少年の病は3つの福音書で全部違います。マタイは「てんかん」と言っています。マルコは「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」と言っています。ルカは「汚れた霊」と言っています。父親の報告によると、その子は何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりするということでした。イエス様はその子の中の悪霊を追い出すことによって、病を癒してあげました。症状や病名がまちまちですが、その原因は悪霊であったということです。もし、このような子どもが現代の病院に運びこまれたら、どのように診断されるでしょうか?おそらく、まちまちな病名がつけられ、治療法も定まらないかもしれません。なぜなら、現代の医学は悪霊を認めていないからです。この子の問題は何なのか、議論している弟子たちを馬鹿にすることはできません。イエス様は同じように、「ああ、不信仰な世だ」と嘆くに違いありません。

 もう1つは父親の信仰であります。もっと詳しく書かれているマルコによる福音書を少し引用したいと思います。マルコ922-24 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マタイによる福音書には、弟子たちの不信仰のことしか述べられていませんが、なんと父親も不信仰でありました。この父親は「もし、おできになるものなら」とイエス様に願っています。おそらく、弟子たちにできなかったのですから、イエス様も「できないのでは?」と疑いが含まれています。それに対してイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」半分、イエス様は叱っているように思えます。これでは癒そうと思っても、なんだか力が発揮できません。イエス様でも、やる気をなくしてしまいます。するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」アーメン。父親は不信仰を悔い改めて「信じます」と言いました。でも、父親の言い方は今一歩煮え切れない感じがします。なぜなら、「信じます」と言いながらも、「不信仰な私」と自分のことを言っているからです。しかし、英語の詳訳聖書は「私の信仰の弱さを助けてください」と弱いのは私ではなく、信仰にかかっています。また、英国の聖書は「信仰が不足している私を助けてください」となっています。JB.フィリップスは「もっと信じられるように私を助けてください」と訳しています。ということはどうでしょうか?「不信仰な私」と定義すると、救いようがありません。父親にもいくらかの信仰があるんです。ただ、それが弱いか足りないかです。でも、その弱いか足りないかの信仰をイエス様がその分満たしてくれたなら、大丈夫ではないでしょうか?イエス様は父親の信仰にご自身の豊かな信仰をプラスして、その子を悪霊から解放し、癒してあげたのだと思います。

 もし、私たちが完全な信仰がなければ癒されないとしたら、ちょっと無理なような気がします。でも、いくらかあって、足りない部分をイエス様が満たしてくれたならどうでしょう?イエス様はあとでこのようにおっしゃっています。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ1720からし種というのはユダヤでは小さいものをたとえるたとえでした。からし種はけしの種よりは大きくて、ゴマよりも小さい、吹けば飛ぶような種です。イエス様が「からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃられたら、「それくらいは持っているよ」と言いたくなるでしょう。つまり、イエス様がおっしゃりたいのは信仰が大きいとか小さいではありません。たとい、からし種のように小さくても、生きているかどうかが問題なのです。もし、小さくても生きているなら、イエス様はご自分の信仰を足して、大きなみわざをなさってくれるのです。イエス様は「私のくびきは負いやすい」と言われましたが、ベテラン牛のイエス様が重い方をかつぎ、新米牛の私たちが軽い方を担いでいるのです。自分がやったと本人が思うかもしれませんが、イエス様がほとんどなさっておられるのです。ハレルヤ!

その当時、イエス様は「不信仰な曲がった今の世だ」と嘆きました。でも、イエス様が昇天してから、弟子たちは力を得ました。同時にそれは、神の国が力強く、この世に侵入してきたという証でもあります。イエス様は弟子たちに「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49と約束されました。そして、ペンテコステの朝、聖霊が彼らの上に降りました。それから弟子たちは一変し、福音を力強く宣べ伝え、そして癒しや奇跡を行ないました。ペテロもパウロもイエス様と同じようなことをしました。それが今の私たちに続いています。私たちクリスチャンの肉体的は「不信仰な曲がった今の世」に住んでいます。しかし、本体は「神の国に籍を置き、神の国を背負って生きているのです」。私たちは神の国の権威を背負っている、全権大使であります。私たちの身分を証したらな、悪霊どもは声を出して逃げ去るのです。なぜなら、私たちには最強のバックがついているからです。私たちは警官に喧嘩を売ったりしません。婦人警官であっても、同じです。なぜなら、彼らの背後には国家権力が付いているからです。では、私たちクリスチャンはどうなのでしょうか?イエス様はマタイ28章で「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って…」と言われました。このみことばにあるように、すべての権威が私たちに与えられているのです。この約束は当時の弟子たちだけではなく、信じるすべての人にたいする約束です。まだいただいていないような気がする人は、改めて受け取ってください。警察官はバッチと手帳を持っています。私たちには聖霊と御名の権威が与えられています。足りないと思っている人はぜひ、信仰によって聖霊の油注ぎを受けてください。そうすれば、上から権威が着せられます。

2.山を動かす信仰

マタイ1717:19-21 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」この文脈における「山」はその子の中にいた悪霊を追い出すことでした。しかし、イエス様はそれだけにとどまらずあらゆる問題や困難という山も信仰によって解決できると言われました。信仰には大きく分けて2種類あります。第一はイエス様を救い主と信じることにより、義とされ永遠のいのちをいただくことができます。これは「救いの信仰」です。この信仰に対して、反対する教会はほとんどないと思います。しかし、イエス様はもう1つの信仰についても教えておられます。第二は信仰を用いて生きるということです。言い換えると「信仰の機能」「信仰の働き」であります。イエス様を信じるならだれでも天国に行くことができます。なぜなら、救いを得ているからです。でも、イエス様は天国に行くまで、信仰を用いて生きるように教えておられます。イエス様が「あなたがたの信仰が薄いからです」と弟子たちに言われたのは、天国に行くための救いの信仰ではなく、「信仰の機能」「信仰の働き」のことをおっしゃっているのです。この信仰は神さまがクリスチャンであるならば、もれなく与えてくださる神さまの賜物であります。しかし、パウロはひとり一人与えられている信仰の量が違うと言っています。ローマ123「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」また、パウロは人々の信仰を補いたいと言っています。Ⅰテサロニケ310「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

 イエス様はこのところで、「もし、からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃっています。これは、「からし種くらいの信仰しかない人がいる」という前提であります。ユダヤでは、からし種は小さいものをたとえる時のたとえであると前のポイントで申しあげました。日本人ならゴマ粒くらいの信仰と言った方が分かりやすいかもしれません。ある人はコーヒ豆くらいの信仰、またある人はリンゴくらいの信仰、またある人はドラム缶くらいの信仰と言えるかもしれません。でも、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができるのでしょうか?確かに地球ができたころ、神さまの力によって山が動かされました。ヨブは「神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。」(ヨブ95,6)詩篇には造山運動のことが記されています。「山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。」(詩篇1048まず、私たちは、神さまは山を動かすことができるということを信じなければなりません。でも、このところでは、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができると言っているのではありません。一人ひとり、信仰の量は違います。でも、そこに無限大の神さまの信仰がプラスされたらどうなるでしょうか?1プラス無限大は無限大です。100プラス無限大は無限大です。1000プラス無限大も無限大です。つまり、その人がたとえからし種だろうと、ゴマ粒くらいの信仰だろうと問題はないということです。簡単にいうと山を動かす信仰は、私たちの信仰の大小にはよらないということです。その根拠になるみことばがマルコ11章にあります。マルコ11 22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。マルコ11章は、マタイ17章と同じようなことが言われています。違うのは、山がどこかに移るか、海に入るかの違いです。重要なのは、マルコ1122「神を信じなさい。」ということばです。これは原文では、「神の信仰を持ちなさい」です。ある時、ある状況において、神さまがあなたに無限大の神の信仰を下さるときがあるのです。その時のあなたの信仰の大きさの大小は問題でありません。重要なのはそれを受け取る信仰です。たとえからし種ほどの信仰でも、「私はそれをいただきます。アーメン」と願えば、それで十分なのです。でも、「私はそんなものいりません」と言えば、いくら神さまでも無限大の神の信仰を与えることができません。なぜなら、あなたが信仰の手を差し出していないからです。神さまの信仰が、するっと滑り落ちてしまいます。

 私は4人の子どもに自転車乗りを教えました。正確には記憶していませんが、おそらくお手伝いはしたと思います。お父さんは後ろから荷台をしっかり押さえます。子どもがやることはハンドルをにぎることです。べつにペダルを踏んでも、踏まなくても前に進みます。なぜなら、私がちゃんと押さえて、押しているからです。でも、子どもが「こわい!」と言って、手を放したらどうでしょう?ハンドルが「くにゃっ」と曲がり、そこで止まってしまいます。子どもがすべき一番重要ことは、ハンドルを放さないことです。あとは、こっちがなんとかやります。ハンドルを握るということは、私たちが自分に与えられた信仰を用いるということです。足りない分は神さまの力、神さまの信仰が助けます。しかし、人よりもかなり大きな信仰が与えられる人がいます。Ⅰコリント12章では「信仰の賜物」と言われています。また、Ⅰコリント13章では「山を動かす信仰」と言われています。この賜物を持っている人は、他の人よりも大きなことを信じることができます。神さまはその人の「信仰の賜物」を用いて偉大なことをなさることがよくあります。歴史的にはジョージ・ミュラーが有名です。彼は孤児院を5つ運営しましたが、生涯5万回祈りがきかれたそうです。このような逸話があります。暴雨で荒れた次の日の朝、孤児院には食べる物は何も残っていませんでした。400人の孤児たちと一緒に空の食卓に囲んですわって、ミュラーは手を取り合って食前の祈りを捧げました。彼の祈りが終わった時、一台の馬車が孤児院の門をたたきました。その馬車には、朝にちょうど焼いたパンと新鮮な牛乳が一杯ありました。近隣の工場で従業員たちのためのピクニックに使うために注文したけれど、暴雨でキャンセルされ、孤児たちに送られたのだそうです。

 韓国のチョー・ヨンギ牧師が牧会していたヨイド教会は70万人の教会員数でした。多くの牧師たちが「チョー先生のような大教会になることを信じます。1000名教会になることを信じます」と信仰をもって宣言しました。私もその一人ですが、そうなりませんでした。「チョー先生は『夢と信仰をもって宣言すればそうなる』と言っていたのに、何故なんだろう」と思いました。後で分かったのですが、チョー・ヨンギ牧師には信仰の賜物があったのですね。だから、あのような大会堂を献堂し、多くの癒しが起こり、大勢の人たちが救われたんだと思います。チョー・ヨンギ牧師はどうして何十万人の人たちを牧会できたのでしょうか?区域礼拝とか断食祈祷とかいろいろ言われています。でも、私が思うには、チョー・ヨンギ牧師はいつも信仰のメッセージをします。病の癒しや奇跡、物質的な繁栄、幸いな生活、問題解決…それを聞いた会衆が信仰の口を大きく開けて、「私のものです」と信じます。そうすると、会衆に信じたようなことが起こるのです。チョー・ヨンギ牧師は信仰の種を花坂爺さんのようにばらまくのです。それを受け取った会衆がその信仰を育てるのです。彼らが信じて祈っていくとまもなく現実のものとなるのです。私も講壇の上から信仰のことばを発しています。ある人は「それは私のものです」と信じます。すると、神さまがその人の信仰を用いて下さり、山が動くような奇跡が起こるのです。信仰は目には見えません。しかし、信仰を用いていくなら後から形が現れてきます。実際に見えるものは信仰はいりません。まだ見えていないものを得たかのように信じるのが信仰なのです。

ヘブル111はこの信仰の最も有名なことばです。日本語訳よりも、キングジェームス訳の方が的を得ています。直訳するとこうなります。ヘブル111「信仰とは望んでいる事柄のsubstance実体化であり、見ていない事柄のevidence証拠です」。あなたが望んでいることを実体化してみましょう。神さまはそれを用いて、大きなことをしてくださるのです。どんなことを望んでも罰せられたり、罰金を取られたりしません。神さまも「そんな馬鹿なことを望むな」とは簡単におっしゃらないでしょう。多少の修正や変更はあるかもしれませんが、全否定なさる神さまではありません。イエス様は「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」とおっしゃいました。話半分でもすごいじゃないですか?イエス様は嘘つきではありません。あなたが今かかえている問題の山に向かって、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。イエス様は「ここからあそこに移るようにしてください」と祈りなさいとはおっしゃっていません。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」とおっしゃったのです。「山に言え」と命じられています。ゴスペルにspeak to the mountainという賛美があります。speak to the mountain, speak with authority, and mountain must move.山に向かって言いなさい。権威をもって言いなさい。そうすれば山は動かなければならない(動くに違いない)。小さな信仰でも大丈夫です。なぜなら、神さまが大きな信仰を持っておられるからです。

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2017年4月29日 (土)

変貌の山 マタイ17:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.30

 ペテロがピリポ・カイザリヤで「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白しました。それから6日たって、イエス様は3人の弟子たちを連れて、高い山(おそらくヘルモン山)に登られました。イスラエルでは証人の数は2人かそれ以上と定まっていました。この3人は目撃者だったわけです。イエス様は彼らに「いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられましたが、どのような幻を見たのでしょうか?きょうは、彼らが見た幻について3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.イエスの変貌

 マタイ172「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」「御姿が変わり」の「変わり」はギリシャ語でメタモルフォーです。「変容する」「変貌する」という意味です。英語の聖書ではtransfigure で、「神々しい姿に変えられる」という意味があります。さなぎが蝶に変化することを変態と言いますが、同じことばです。つまり「全く別の姿に変わる」ということです。イエス様の顔が太陽のように輝いたとありますが、これはヨハネ黙示録1章のイエス様の栄光の姿と同じです。そればかりか、着ておられた衣も光のような白くなったと書いてあります。これはどういうことなのでしょうか?子どもの頃、豆電球に紙袋をかぶせて、スイッチを入れたことがあります。すると、ボーっと白く輝きます。ということは、イエス様は内部から光ったということです。そのため、顔も衣も照り輝いたのではないかと思います。ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まれた」とあります。これは直訳すると「ことばは肉となって、天幕を張られた」であります。イエス様は肉体を持っておられましたが、内側の霊魂は神そのものでありました。だから、このときイエス様の霊魂が栄光の光を放ち、肉体や衣にまで現れて来たと考えるべきであります。それは、「御姿が変わり」ではなく、「本来の御姿に戻った」という方が妥当なのであります。弟子たちはイエス様の本当の姿を垣間見ることができました。それを目撃したヨハネは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(ヨハネ114と福音書で証言しています。

 では、何のためにそのような姿になられたのでしょうか?それは、6日前にペテロが「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白したことに端を発しています。イエス様はそのとき、「あなたは幸いだ」とペテロをほめました。なぜなら、それが当たっていたからです。そして、この高い山に3人の弟子たちを連れて、御姿が変わったということは、ご自分がそういう者であるということを証明するためだったのです。ヤコブは殉教しましたが、ペテロとヨハネは、ご栄光の姿を後から証言しています。ペテロは「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」(Ⅱペテロ116と言っています。ヨハネはその時だけではなく、パトモス島にいた時も見ました。これは、弟子たちだけではなく、教会の私たちに「イエス様が神の子、キリストである」ことを伝えるためだったと思います。それは聖書のことばが作り話ではなく、真実だということです。

 使徒パウロもダマスコの途上で栄光のイエス様と出会いました。その光があまりにも強かったのか、パウロは3日間も目が見えなくなりました。パウロ自身「その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、一緒にいた者たちに手を引かれてダマスコに入りました」(使徒2211と証言しています。パウロはペテロやヨハネのように、具体的に栄光のイエス様を描写していません。でも、パウロは私たちも、主の栄光の姿を見ることができると言っています。Ⅱコリント318「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。パウロは私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」と言っています。「姿を変えられて行く」というギリシャ語は、イエス様と同じ「メタモルフォー」です。つまりどういうことかと言うと、イエス様の栄光の姿が遠い存在ではなく、私たち自身にもその栄光が反映されていくということです。ある人たちは、「私は救いを受けていますが、罪人のかしらで、罪に汚れています」とおっしゃるかもしれません。謙遜かもしれませんが、その人に主の栄光が全く反映されていないとしたら救いを疑わなければなりません。なぜなら、聖霊によって「主と同じかたちに姿を変えられて行く」のが標準のクリスチャンだからです。これはものすごいことであります。ペテロやヨハネの証言は間違いないと思いますが、私たちも主の栄光にあずかり、キリストの証人になりえるということです。「私を見たら、キリスト様がわかります」と言えたら最高であります。

 パウロは「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。また、イエス様は「私は世の光です」(ヨハネ812と言われました。つまり、私たちの中に栄光のイエス様が住んでおられるなら、内から外へと栄光の輝きが現れてくるのは当然であります。去る1月、ニュージーランドからクリス・ゴアという先生が来られました。先生が子どものとき行っていた教会で、“Little my light shine”「私の中にある小さな光」という賛美を歌っていたそうです。先生はおっしゃいました。「しかし、それは間違いです。私たちは棚に隠すことのできないほどの光を持っています。私たちの中に住んでおられるお方は大きな方です。私たちは世の中を照らす大きな光です。イエス様は私たちを世の光です、とおっしゃいました。今こそ私たちの光を外に向かって照らす時です。」アーメン。私たちは聖書から主の栄光を想像するだけではなく、私たち自身もその栄光を見ることができるのです。なぜなら、私たちの中に栄光の主が住んでおられるからです。私たちを通して、主の栄光が現されることを信じます。

2.サミット会議

 マタイ173「しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。」良く見ると、イエスさまだけではありません。なんと、モーセとエリヤが現れてイエス様と話し合っているではありませんか?でも、どうしてあの人がモーセで、どうしてあの人がエリヤだと分かったのでしょう?だって、ペテロたちは見たことも会ったこともないはずです。二人とも死に方が普通ではありませんでした。モーセはピスガの頂で死にましたが、墓がどこにあるか分かりません。申命記346「主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」とにかく、モーセの魂は陰府の上の階に行ったと思います。では、エリヤはどうでしょうか?Ⅱ列王記211「なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」エリヤはエノクのように、死を見ないで天に引き上げられました。この二人はよっぽど神さまから愛されていた預言者ではなかったかと思います。でも、イエス様が死んだモーセとエリヤをもう一度呼び戻したのはなぜでしょう?

 ちょうどイエス様とモーセとエリヤがいるところは、ヘルモン山の上でした。まさしく、サミット、頂上会議であります。モーセは律法の代表者として呼ばれました。また、エリヤは預言者の代表として呼ばれたのではないかと思います。弟子たちでは相談相手にはならないので、この二人を呼び戻して会議を開いたのではないかと思います。では、いったい何を話し合っていたのでしょうか?マタイには書いていませんが、そのことはルカが記しています。ルカ9:31「栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」日本語の聖書では、「ご最期」つまり「死ぬとき」と訳しています。しかし、ギリシャ語聖書は「エキサダスについて話していた」と書いてあります。エキサダスというのはユダヤ人ならだれでも分かりますが、70人訳の出エジプト記の名称であります。エキサダスには、主がモーセによってイスラエルの民をエジプトから解放した出来事が記されています。つまり、ルカは「エキサダスとはキリストが悪魔から人類を解放する出来事なんだ」と解釈しているのです。そのことをイエス様がエルサレムで遂げようとしているということです。それは、モーセの律法の完成であり、エリヤに代表される預言の成就だということです。つまり、どうしてもエルサレムで十字架にかかって、贖いを成し遂げなければならないということです。それは、少し前に、イエスさまがペテロに「私は殺されて、三日目によみがえる」と告げたのと同じ内容です。

 ペテロが信仰告白した後、変貌したイエス様が、モーセとエリヤを呼んで会議しました。その場所はおそらくイスラエルの北、ヘルモン山であると言われています。イエス様はこのあとまっすぐエルサレムに向かわれます。つまり、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。ルカ福音書にそのことが書かれています。ルカ951「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」と書いてあります。ルカ福音書のモチーフは、北のヘルモン山から、南のエルサレムに向かうように書かれています。イエス様の御顔は厳しいお顔だったのではないかと思います。つまり、エルサレムで遂げようとしておられるエキサダス(解放)のため集中しておられたのです。エルサレムに行くことを「上る」と言います。日本も東京に向かって、道路や鉄道が走っています。ですから、東京に向かうのを「上り」と言って、東京から遠ざかるのを「下り」と言います。でも、私が思うのですが、ヘルモン山で、イエス様は栄光の神の御姿になられました。そして、モーセとエリヤを呼んで頂上会議をしました。もし、イエス様がただの人間であるならば、死にたくありません。その時は一番天国に近い状態でしたので、そのまま天国に帰ることができたかもしれません。なのに、エルサレムで多くの苦しみを受けて殺されるなんてイヤなことです。ということは、ヘルモン山が栄光の頂上でしたら、エルサレムはどん底であります。つまり、イエス様のこれからの人生は、下り坂であります。栄光ということを考えたら、どんどん下って行くことになります。繰り返しになりますが、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。

 私たちの人生のおいてもターニングポイントがあるのではないでしょうか?「あの時が人生で一番良かった、最高の時だった」ということはないでしょうか?もう年を取ったので、下り坂でしょうか?ある人が言いました。「人間、昔のことを懐かしむようになったら年なんだ」と。もし、私たちの人生のどん底が老いであり、死であるとしたらまことに残念です。しかし、良く考えるとイエス様はエルサレムで死ぬだけではありません。イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言っています。死が終わりではなく、三日目によみがえりがあるということです。これは人生の大逆転です。つまり、エルサレムで成し遂げるエキサダスの向こうには、復活があるということです。復活にはいろんな意味があります。1つは死を打ち破るということです。イエス様は私たちの代表として、死んで、三日目によみがえられました。それは、死が終わりではなく復活があるという保証であります。ということは私たちイエス様を信じる者も、どん底の死で終わるのではなく、最後に復活があって完了するということです。ハレルヤ!少し前に俳優の松形弘樹さんがお亡くなりになりました。親友の梅宮辰夫さんが何と言ったでしょう。「人間、死んだらおしまい」と涙ぐんでいました。その続きがブログに載っていました。「遺品も花もない。骨だけがバラバラになって出て来たんです。悲しかった。人間ってこんな簡単なのかとつくづく思った」。これが正直な人間観だと思います。イエス様は確かに栄光の山から十字架へと下られました。本当に死んで陰府に降られました。でも、死を打ち破って三日目によみがえられました。と言うことは、私たちも死が終わりではなく、イエス様と同じ栄光の姿によみがえるということです。イエス様はエルサレムでどん底までくだられましたが、三日目によみがえり、天に昇られました。矢印で言うと、ヘルモン山からエルサレムに降りました。しかし、グーンとそこから急上昇して天にまで昇られたのです。ハレルヤ!主にあって私たちにも希望があります。人生は下降するだけではなく、やがて急上昇にあずかるのです。人間、死んだらおしまいではありません。なぜなら、栄光の復活があるからです。

3.天からの御声

 マタイ174すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ここでもペテロがしゃしゃり出ています。ペテロはずっとその山に留まりたいと願いました。だから、三つの幕屋を造りたいと申し出ました。英語の聖書ではテントとなっていますが、詳訳聖書はbooth(小室)となっていました。ペテロの間違いは何でしょうか?イエス様と他二人を同じ立場に考えていたということです。イエス様のテント、モーセのテント、エリヤのテントを三つ並べたかったのです。そして、ヘルモン山の上で聖会を開きたかったのです。私は座間キリスト教会にいた頃、よく聖会に行きました。大体、聖会というのは山の上で開かれます。箱根、修善寺、あるいは韓国の祈祷山にも行きました。聖書では山は聖なるところなので、聖会がよく開かれるわけです。外界を離れて、みことばに聞き入るすばらしいひとときです。しかし、山を下ると悪いことが待っています。サタンが恵みを奪おうと待っています。ちょうど、マタイ17章の後半は「てんかんの子ども」のことが記されています。それはともかく、ペテロはずっと変貌山にとどまっていたいと願っていたのです。

 ところがその時です。マタイ175-6彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。「雲」というのは栄光のしるしで、そこに神さまの臨在が濃厚に現れたということです。たちまちあたりがみえなくなり、雲の中から声がしました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。これは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたときと同じことばです。あの時は、公生涯のはじまりで、メシヤの就任式のおことばでした。ところが今回は、これからエルサレムで遂げるエキサダスの頂上会議の時でした。父なる神の、そのことに対する是認であり、確認ともとれます。しかし、同時にそれはペテロの間違いを訂正するためでもありました。なぜなら、「彼の言うことを聞きなさい」とおっしゃっているからです。その証拠として、弟子たちが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであったからです。これはどういう意味でしょう?

 確かにモーセは律法の代表として呼ばれました。エリヤは預言者の代表でしょう。でも、彼らは神さまのしもべであり、人間です。でも、イエス様は違います。イエス様は神の子であり、しもべではありません。父なる神さま自らが「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言われました。つまり、イエス様は別格で、神の子であり、父なる神の代わりだということです。イエス様はヨハネ福音書で「私が父におり、父が私におられる」と言いました。ですから、代わりというよりも同格であり、一体だということです。最後の最後に、神の御子が地上に人として下られ、エルサレムで贖いのわざを成し遂げるということです。このようなことを私たちが知るならば、「キリストの十字架って大変だったんだなー。ありがたいなー」と思うのではないでしょうか?今は何でもインスタントな時代です。自動販売機で何でも買えます。アメリカに行くと車が自動販売機で買えるそうです。「救いもイエス様を信じたら、救われる。パラパラと水をかけてもらって」みたいになるなら大変なことです。信仰義認は確かにすばらしい教理です。でも、背後に神さまがどんな犠牲を払ってくださったか忘れているかもしれません。もし、そうであるならば、何か困難なことがやってくると、ポイと信仰を捨ててしまうでしょう。父なる神さまがこのところで、もう一度、お声をかけてくれました。それは、これからどんどん下って行き、エルサレムでどん底に降ることを知っておられたからです。

 弟子たちはそのとき恐れて、顔をふせました。旧約聖書では神を見るということは死だったからです。ペテロとヤコブとヨハネは、その時、打たれて死ぬと思ったかもしれません。でも、どうでしょう?マタイ177-8すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。ありがたいです。父なる神さまは恐れ多い感じがしますが、イエス様はそうではありません。確かにご威光をまとったイエスさまは近寄り難ったかもしれません。でもここでは、手を触れて起こして下さる優しいイエス様であります。イエス様の栄光は、私たちを遠ざけるのではなく、何か親しい、愛と慈しみに富んだ栄光であります。だから、そのことを目撃したヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ114と証言しているのです。私たちは近寄り難いイエス様ではなく、恵みとまことに満ちておられるイエス様を想像すべきであります。ペテロはイエス様が捕えられたとき、中庭でイエス様を三度も知らないと否認しました。ルカ福音書には「主が振り向いてペテロを見つめられた。…主のおことばを思い出した」(ルカ2261)と書いてあります。おそらく、イエス様の顔は怒りや蔑みの顔でなく、恵みとまことに満ちておられたのではないかと思います。私たちの信仰がおかしくなり、もしかしたらイエス様から離れる場合があるかもしれません。でも、その時、手を触れて起こして下さる、優しいイエス様を思い出すべきであります。

変貌の山はイエス様ご自身が神の子であり、最高の啓示であることを示している箇所です。その時3人の弟子たちが証人として選ばれました。私たちは現在、証人たちが書き残した聖書を持っています。私たちは聖書からただ信じるしかないのでしょうか。ところが、パウロは「御霊なる主の働きによって栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と言っています。私たちはキリストを信じたとき霊的に生まれ変わりました。でも、神さまはもっと高みへと私たちを導いておられます。それは天国に行ってからではありません。今、この地上にあっても、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント416そして、どんな状況、どんな環境の中にあっても、主の栄光が私たちの内側から外に向かって放たれていくことを信じます。

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2017年4月 1日 (土)

自分を捨て マタイ16:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.2

 イエス様は「いのちを失う者はいのちを得る」とおっしゃいました。私たちはこの地上でこのいのちで、ずっと生きたいと願っています。でも、この地上のいのちはやがて終わりが来ます。その前に、私たちはこのいのちではなく、神さまがくださるまことのいのちをいただくべきではないでしょうか?弟子たちはイエス様と一緒にイスラエル王国を治めたいと願っていました。このお方に従っていけば豊かな報いがあると信じて、何もかも捨てて従って生きていたのです。でも、イエス様はそういう地上のことではなく、もっと大切なものがあると教えてくださいました。

1.人のことを思う

 弟子のペテロは「あなたは、生ける神の御子、キリストです」と告白し、イエス様から「良く言った!」と褒められました。ところが、このところでは「下がれ、サタン」と叱られ、天から地獄に落とされた思いでした。なぜ、ペテロはあんな立派な答えをしたのに、こんどはこてんぱんに叱られたのでしょうか?ペテロの信仰告白が間違っていたのでしょうか?それとも、何かこの世の不純物が混じっていたのでしょうか?ヒントは本日の聖書箇所の少し前にあります。マタイ1620「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」もし、イエスがキリスト(メシヤ)であったなら、そのことをみんなに知らせるべきであります。しかし、イエス様はペテロが告白したようなことをだれにも言ってはならないと禁じました。なぜでしょう?当時のメシヤ観は聖書が言うメシヤとちょっと違っていました。ペテロもそうでありましたが、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、メシヤがローマを倒して、この地上にイスラエル王国を建てて下さることを望んでいました。その暁には、ペテロをはじめ弟子たちは、「御国の大臣になってキリストと一緒に治めるんだ。だから自分たちは何もかも捨ててしたがって来たのだ」と思っていたのです。この思いはずっと消えることなく、キリストの復活後まで続きます(参考.使徒16)。その当時、イスラエルを政治的に支配していたのはローマです。しかし、彼らには宗教的な自由が与えられていました。その指導者たちというのが、エルサレムにいる長老、祭司長、律法学者たちだったのです。イエス様は、21節からご自分がエルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始めました。

 ところがまだイエス様が全部話し終えていないのに、ペテロが邪魔をしました。マタイ1622するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」なんと、弟子のペテロがイエス様に「ちょっとこっちに来て」と脇に呼んで、個人的に叱責したのです。何と言ったかというと原文を直訳すると「神が慈悲をもって、そんなことを起こらしめ給わないように」ということです。慇懃無礼とはこのことであります。今で言うと、上から目線で「とんでもない」と叱責したのです。おそらく、さきほど「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と褒められたので、調子に乗っていたのかもしれません。その直後、イエス様から、逆に恐ろしいことばが返ってきました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはとても難解な箇所です。イエス様がペテロに「サタン」と言ったのか、それともペテロにくっついているサタンに言ったのか、ということです。「下がれ」は英語では、get behind me 「私の後ろに下がれ」という意味になっています。「あなたはわたしの邪魔をするものだ」はサタンに言っているのであり、後半の「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」は、ペテロに言っているのではないかと思います。つまり、ペテロが間違った思いを抱いていたので、そこにサタンが乗じて、イエス様を誘惑したのではないかと思います。どんな誘惑かというと十字架を通らないで、近道を提案したということです。簡単に言うと、サタンがペテロに乗り移って、十字架の贖いを邪魔しようとしたということです。「えー、本当?」と疑う人もいるかもしれません。ルカ413「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」これは、悪魔のイエス様に対する試みの後のことです。悪魔はしばらくの間イエスから離れていましたが、次の機会を狙っていたというのが正しい理解です。ですから、悪魔は間違った思いを持っていたペテロを用いて、イエス様の十字架の贖いを邪魔させたのです。イエス様はサタンに「あなたは、わたしの邪魔をするものだ」と言っていますが、「邪魔」は最も、相応しい日本語訳です。邪という意味は「正しくないこと、道に外れている」と言う意味です。また、「魔」は、悪魔の魔です。ですから、JB.フィリップ訳はOut of my way, Satan! You stand right my pathと書いています。簡単に訳すと、「私の道からどけ、サタン。お前はまさしく、私の道に立っている」という風になります。つまり、イエス様はご自分の死によって、人類を贖うという道を進んでいました。ところが、サタンはペテロを用いて、脇道へ逸らそうと誘惑したのです。イエス様がサタンに命じたので、その瞬間、サタンはペテロから離れました。

 その後、イエス様はペテロに言いました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはどういう意味でしょう?さきほども申しましたように、ペテロや他の弟子たちは、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、イエス様が死んだら、元も子もないということです。なぜなら自分たちはやがて来るイスラエル王国の大臣になるんだと考えていたからです。イエス様がこれから先、2回もご自分が死んで、三日目によみがえることを予告されますが、ぜんぜん聞く耳をもっていませんでした。「イエス様が死ぬなんてことはあってはならない」とハナから否定していたのです。この思いは最後の晩餐まで続きました。イエス様が捕えられたとき、ペテロは怖くなり、イエス様を三度も知らないと言いました。それは、地上にイスラエル王国がもたらされる希望がなくなったからです。ですから、さきほど、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した内容は、半分合っていて、半分は的外れだったのです。それでも、イエス様はその告白を父なる神からのもとであると喜ばれました。つまり、ペテロのキリスト観は十字架と復活を通過していないキリストだったのです。本来は、十字架と復活を通過したキリストを主であると告白するなら救われるのです。その当時は、まだそれがなされていなかったので、イエス様はそれでも受け入れて下さったのです。私たちの場合は、もう完成されていますから、「あなたは神の子、キリストです」と告白して救われます。

 でも、ここで問題にされていることは、イエス様がペテロにおっしゃったことばです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」このことばは、現代の私たちにも語られていることばです。「人のことを思っている」とはどういう意味でしょうか?そして、「神のことを思う」とはどういう意味でしょうか?まず、「人のことを思う」とはペテロや他の弟子たちが思っていた内容です。彼らはこの地上で長生きして、地上でイスラエル王国を支配しようと思いました。そして、「イエス様がイスラエルの王様になり、いつまでも生きながらえて、あのダビデのようになってください」と願っていました。「人のこと」というのは、言い換えると「この世的、人間的」という意味です。この地上の生活、この地上の生き方という意味です。つまり、人生のスパン(長さ)が今から死ぬまでの間ということです。生きているうちに自分の夢が叶えられ、幸福を手にいれたいということです。そのためには、神さまをも利用するということになります。神中心ではなくて、人間中心の信仰です。ヒューマニズム(人本主義)と言いますが、イエス様を信じていても、ヒューマニズム(人本主義)のクリスチャンがいるのです。しかし、それは生焼けのパン菓子であり、神中心の信仰でなければなりません。どうすれば、神中心の信仰になるのか、それは後半の24節以降記されています。でも、前半のポイントでは、「神のことを思う」ということをしっかりゲットしたいと思います。「神のこと」とは地上のことではなく、天上のことです。言い換えると、地上のイスラエル王国ではなく、神が下さる新しいイスラエル、天の御国であります。イエス様はこの世の王ではなく、天の御国の王だったのです。そして、イエス様を信じる者は、この地上ではなく、天の御国でイエス様と一緒に治めるのです。ハレルヤ!

 使徒パウロはコロサイ3章でこのように命じています。コロサイ31-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。地上のものは消えてなくなります。しかし、天にあるものは永遠に続きます。私たちが所持している地上の家、土地、車、お金、肉体、地位、すべての持ち物、みんな一時的で、みんな借り物です。しかし、やがて与えられる天上の家、土地、栄光の体、地位、持ち物はすべて永遠でありいつまでも自分のものなのです。もちろん地上の生活を粗末にしてはいけません。でも、天上の生活が私たちのゴールであり、そこを目指すべきなのです。

2.自分を捨て

 イエス様はご自分の受難と死とよみがえりを弟子たちに予告しました。その直後、このようなことを弟子たちに告げました。マタイ1624-26 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」同じようなことが、マタイ10章でも語られました。その時は、伝道旅行に遣わされる直前でした。今回は、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した後であります。つまり、イエス様はご自分をだれか明らかにした直後です。でも、自分たちが信じていたキリスト、メシヤとは少し違っていました。なぜならエルサレムに行って、苦しみを受け、殺され、三日目によみがえると言ったからです。弟子たちは「そんなことは聞きたくない、ありえないことだ」と耳をふさいで理解しようとしなかったのです。なぜなら、イエス様が死んだら、イスラエル王国の復興もなりたたないからです。もし、そんなことになったら、自分たちが職業も家も捨てて従ってきた意味がありません。故郷に帰ったら、きっと馬鹿にされるでしょう。イエス様は彼らの思いを知っていました。彼らはこの世のこと、地上のイスラエル王国にしか興味がありませんでした。この地上で、王であるイエス様の右か左に座って、豊かな報いを受けたかったのです。まさしく、その思いは人間的であり、この世的でありました。だから、イエス様はこのようなことをおっしゃったのです。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」一番注目すべきことは、「自分の十字架を負う」ということです。多くの人たちは十字架を負うとは、「身内や親しい人の不幸な運命を背負う」みたいに捉えていますが、そうではありません。また、クリスチャンでなくても、十字架のネックレスを首にかけてお守りみたいにしていますが、それも間違っています。ローマの時代、十字架というのは極刑の道具でした。ローマの哲学者キケロは「最も残酷で嫌悪感を起こさせる処刑である。ローマ市民には十字架を触れさせてはならない」と言ったそうです。イエス様もそうでしたが、犯罪人は刑場まで自分の十字架を背負って行かされました。当然、周囲の人たちから馬鹿にされたり、石を投げたられたりしたでしょう。そのように人々から辱めを受けた後、十字架かけられるのです。このところで、イエス様が「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。と言うことは、自分が死ぬための十字架を負って、イエス様について行く、これがキリストの弟子だということです。十字架はだれか人のためではなく、自分が死ぬためのものだということを忘れてはいけません。当然、イエス様に従っていくものは、イエス様が受けた辱めや迫害も受けることがありえるということです。でも、最後は死ぬのです。このようなメッセージを教会では近年語らなくなったかもしれません。なぜなら、次の週から人が来なくなるからです。人々は慰めや励ましや希望をいただいて教会に来ます。なのに、牧師が講壇から「十字架を負って、最後に死ね」と言われたら、「お前こそ死ね!」と怒って帰ってしまうでしょう。十字架のメッセージは不人気です。でも、パウロはこう言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント118)。もちろん、この十字架はイエス様の贖いの十字架です。贖いの十字架はイエス様だけで、十分であり、私たちが参与する部分は全くありません。でも、キリストに従う者として、自分の十字架を負って従うということは、天国に行くまでずっと続く命令なのです。なぜ、十字架を負うことがそんなに重要なのでしょうか?クリスチャンは解放されて、自由な生き方ができるのではないでしょうか?多くの人は、イエス様がおっしゃる逆説の意味を理解しようとしません。

 マタイ1625-26「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」このところに二種類のいのちがあるとイエス様はおっしゃっています。それは、いのちとまことのいのちです。いのちはギリシャ語でプシュケーであり、「生命の息」という意味があります。人間や動物にはそのようないのちがあります。プシュケーは魂とも言われ、知性、感情、意志の面があります。プシュケーは「地上のいのち」という意味合いが強く、その代り、聖書にはゾーエーという「永遠のいのち」のことも言われています。イエス様はご自分のことを「いのちだ」と言われましたが、そのときにはすべてゾーエー「永遠のいのち」ということばを使っています。でも、マタイによる福音書はどちらもプシュケーであり、しいて言えば、いのちとまことのいのちです。では、前者のいのちとは何なのでしょうか?それは地上のいのちであり、自分だけが生きたいという本能です。私たちは死にたくないのです。だれよりも自分が生きたいのです。これがプシュケーの特徴です。この世の中には「人のために生きたい」「人のために役に立ちたい」という立派な人がいます。目的は立派かもしれませんが、根底にはプシュケーがあり、自我や欲望と戦っています。ペテロや弟子たちはこの世の王様を求めました。地上で幸せにいつまでも暮らしたかったのです。でも、それはプシュケーであり、この世のいのちから来るものでした。でも、残念ながら、プシュケーでは神の国を受け継ぐことはできません。イエス様は地上のイスラエル王国ではなく、神の王国、永遠の御国を与えようとされました。ですから、このいのちに死んで、まことのいのちをいただかなければなりません。私たちは自分で死ぬことはできません。なぜなら、プシュケーは自己保存、自己絶対、自分がだれよりもかわいいからです。そのために十字架を負うのです。十字架はあなたのいのちを殺し、まことのいのちを与える道具だからです。

 そのことはイエス様が証明し、イエス様が保障してくださいました。イエス様は「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえなければならない」とおっしゃいました。つまり、十字架の死で終わるのではなく、その後に復活があると告げられました。そうです。私たちが自分の生まれつきのいのちを十字架に渡すと、今度は、復活のいのちをいただくことができるのです。復活のいのちが、まことのいのちであり、永遠のいのちなのです。このいのちこそが、神の王国、永遠の御国で生きることのできるいのちなのです。だから、イエス様は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と言われました。言い換えると、「全世界を手に入れても、永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょう。永遠のいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう?」となります。私たち人間には、永遠のいのちを買い戻すための何物も持っていません。永遠のいのちを買い戻してくださるお方は私たちのために十字架について三日目によみがえられたイエス・キリストだけです。このお方が代価を払ってくださったので、私たちは死んでも生きるのです。パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント411と言いました。これこそ、聖書が言う逆転勝利であります。この世のいのちは「自分は生きたい、自分は出世したい、自分は偉くなりたい」と望むのです。ペテロや他の弟子たちもそう思っていました。でも、私たちは自分の十字架を負って、イエス様に従うのです。するとそういう自分が死んで、イエス様中心の新しい自分が与えられます。生まれつきの自分こそ曲者はいません。その自分を十字架の死に渡すと、本当の自分が生まれるのです。だから、「まことのいのち」を英国の聖書は、his true self、「本当の自分」と訳しています。

 私が言いたい事はこのことです。生まれつきのいのちと神さまがくださる永遠のいのちをそのまま継ぎ足すことは無理です。言い換えると生まれつきの自分と神さまがくださる本当の自分をそのまま継ぎ足すことは不可能です。十字架はそれらの二つを一回、断ち切って下さる神の道具です。かつてはローマの死刑の道具でしたが、キリストにあってあなたに死とよみがえりを与える神の道具になったのです。十字架なくして復活はありません。あなたはこの世のいのちに死んで、神からの新しいいのちをいただく必要があります。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストにあるなら」とは原文は、engraft「接ぎ木されるなら」であります。つまり、生まれつきのいのち、生まれつきの自分が一度断ち切られ、こんどはキリストという木に接ぎ木されるということです。それまではアダムから来た古いいのちでこの世のものを求めて生きていました。いや、生き延びてきました。でも、十字架で切られて死んで、こんどは生まれ変わり、キリストに接ぎ木されました。こんどはキリスト様からいのちと力をいただくのです。あなたはこの世でありながらも、神の国のいのちで生かされて歩むのです。16章の最後に「報い」ということばはありますが、すべてを失ってもイエス・キリストが報いてくださるのです。

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2017年3月24日 (金)

この岩の上に マタイ16:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.26

 きょうの箇所はマタイによる福音書の1つの山場です。とても有名な箇所でありますが、同時に様々な解釈がほどこされており、歴史的に話題になった箇所でもあります。これらのことばは、直接的にはペテロに言われたことばでありますが、同時に私たちにも言われたことばであると信じます。なぜなら、教会は使徒的な教えの上に立っているからです。イエス様が弟子たちに命じられたことばは、私たちにも命じられたと取るべきであります。それでないと、聖書を読んでいる意味がありません。かつては弟子たちに語られましたが、今日は聖霊よって私たちひとり一人に語られていると信じます。

1.イエスはキリスト

 イエス様は弟子たちを連れて、ピリポ・カイザリヤと言うところに来ました。地図を見ると、ヘルモン山の近くでイスラエルの北に位置しています。ヘロデ・ピリポは自分自身とローマのカイザルをたたえて、この町を築いて二人の名前を付けました。また、この地は異邦人の地であり、人々はパーンという牧畜の神さまを礼拝していました。一方は政治的な支配、他方は偶像礼拝の地で、イエス様は弟子たちに1つの質問をしました。「人々は人の子をだれだと言っていますか」と、遠くの方から質問しました。マタイ16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」当時の人たちは、イエス様を有名な預言者の再来だと思っていたのでしょう?次に、イエス様は「では、あなたがたは、私はだれと言いますか」とダイレクトに質問しました。そのとき、弟子のリーダー格であったペテロが即座に答えました。マタイ16:16「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ペテロは目立ちたがり屋で、ある時は余計なことを言いますが、今回は冴えていました。イエス様から「あなたは幸いです」と山上の説教と同じ、祝福のことばをいただきました。マルコによる福音書は「あなたはキリストです」(マルコ829の一言だけですが、マタイによる福音書の方が詳しく書かれています。

 このところで重要なのは、ペテロのイエス様に対する告白であります。一番重要なのは、「イエスがキリストである」ということです。なぜなら、原文も英語の聖書も「あなたはキリスト、生ける神の子です」という順番になっているからです。キリストといのはメシヤであり、救い主だということです。でも、この告白は単なる告白ではなく、私たちが救いを受けるための信仰告白です。ローマ109「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」それだけではなく、イエス様の御名は最も権威があると書かれています。ピリピ210-11「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ペテロはどの程度知っていたか分かりませんが、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。それに対して、イエス様はとても感激され、ペテロを賞賛しています。でも、そのことを告白させたのはだれでしょう?「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とイエス様が言われました。「明らかに示す」ということばは、「啓示する」ということばが使われていますが、人間の知恵や考えでは及ばないということです。父なる神さまが、開示して下さったということです。私たちもあるとき決心して、イエス様が救い主、キリストであると信じて告白します。この告白なしではクリスチャンになることはできません。でも、この告白は簡単にはできません。パウロは「聖霊によるのでなければ、だれでも、『イエスは主です」と言うことはできません』(Ⅰコリント123と言いました。神の霊である聖霊がその人に臨んで、はじめて分かることだからです。

 洗礼式では、確認のために公に告白してもらいます。もちろん、神さまと一対一で十分なのですが、教会の群れに加えられるとき、答えてもらいます。そうすると兄弟姉妹は「ああ、本当にイエス様を信じたんだなー、救われて良かったですね」とお祝いします。でも、中には口先だけの人もいるかもしれません。もちろん、私は牧師として信仰告白が真実なものとして洗礼を授けます。でも、便宜上とか、仕方なくという場合もあるかもしれません。結婚するため、ミッションスクールに入るため、あるいはお世話になったので断ることができなかったとか…。外からは分かりません。しかし、私たちはどういう状況で、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したのか知らなければなりません。最初に申しあげましたが、その場所はピリポ・カイザリヤというところで、皇帝礼拝がなされているところでした。これからますますローマ皇帝の力が強くなり起源100年頃は大迫害が起りました。その当時は、カイザルが主(キュリオス)でありました。そういう中で、イエスが主(キュリオス)と告白するなら、投獄され命が奪われました。ペテロもパウロもその告白を捨てなかったので、殉教しました。もう1つは、ピリポ・カイザリヤの人たちはギリシャとローマの偶像、パーンを拝んでいました。日本も多神教の国であります。宗教に関してはとても寛容でありますが、「キリストの神が唯一だ」というと排斥され、時には迫害されます。都会ではそうでもありませんが、地方では「村八分」のようになります。そういう中で、「イエスは主です。他に神はいません」と告白できるかということです。

 でも、イエス様を信じて、さらに聖霊に満たされると、告白せずにはおれなくなるのです。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234と言われました。びくびくして、「イエスは主です」と言うのではありません。救われたのがうれしくて、喜びのゆえに、「イエスは主です。アーメン」と言いたくなるのです。神の霊が臨んで、あのエレミヤのようにしまっておくことができなくなるならば本物です(参考.エレミヤ209)。アーメン。

 

2.この岩の上に

 イエス様はペテロにこう言われました。マタイ16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」「この岩」とはだれなのか、歴史的に物議をかもしているテーマです。ローマ・カトリックは「岩とはペテロである」と主張します。なぜなら、ペテロは「岩」という意味があるからです。そのためペテロがキリストの最初の代行者であり、歴代の教皇がそれを受け継いでいるという考えです。しかし、16世紀に宗教改革が起りました。ルターは「生けるキリストご自身である」と言いました。また、カルヴァンは「『イエスは主である』というペテロの信仰告白である」と解釈しました。現在はどのように落ち着いているのでしょう。「この岩の上に」というのは「ペテロの信仰の上に」ということです。しかし、実質的には「キリスト自身である」ということです。旧約聖書には「主は岩である」という表現がたくさん出てきます。パウロは「モーセが打った岩はキリストである」(Ⅰコリント10:)と解釈しています。もしも、ペテロが告白した「イエスは主である」という信仰告白が教会の土台だとするならどうでしょう?もちろん、「イエスは主である」という信仰告白は重要です。これはプロテスタント教会が寄って立つところだからです。でも、そのように告白したペテロがその直後、どうなったでしょうか?彼は「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ1623としこたま叱られました。さっきまで、天国に上げられていたのに、よけいなことを言ったために、今度は地獄に落とされました。また、ペテロはイエス様が十字架にとらえられた時、「イエスを知らない」と三度も否定しました。ですから、人間の信仰告白だけでは、教会の土台にはなれないということです。

 でも、告白を受けられる「岩であるキリスト」ならどうでしょう?パウロは「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ213と言いました。つまり、私たちだけの信仰ではなくて、イエス様の真実があるから救われるのです。ときには私たちの信仰がおかしくなることもあるでしょう。ところが、信じているお方が常に真実であるなら大丈夫です。この世の宗教は私たち人間の信心が強調され、信仰の対象はどの神様でも良いみたいに思われています。そうではありません。私たちの信仰も重要ですが、信仰の対象がまことの神さまであるなら安心であります。そういう意味で、「この岩とは、生けるキリストご自身である」と言うことも可能なのです。英語の詳訳聖書には「ギリシャ語のペトラは、ジブラルタルのような巨大な岩である」と書かれていました。スペインの南部に「ジブラルタルの岩、ザ・ロック」というのがあります。ザ・ロックは岬をなす一枚岩であり、高さが426メートルあります。歴史的に、ジブラルタルの岩は堅固な要塞になっていたそうです。ペテロは「大きな岩の一部」という意味です。でも、イエス様はジブラルタルのような巨大な岩、要塞なのです。ハレルヤ!私たちは岩なるイエス様の上に、信仰を築いているのです。イエス様は「岩の上に建てられた家は、雨が降って洪水が押し寄せても倒れなかった」(マタイ725)と言いました。アーメン。あなたの信仰を自分の信念や知識に置いてはいないでしょうか?教会の伝統や信条、あるいはだれかの神学の上に置いている人もいるかもしれません。聖書に啓示されている、生ける神の子キリストに置くべきであります。そうすれば、世の終わりが来ても、年老いて自分がだれか分からなくなっても、その人の信仰は揺るがされることはありません。

 私は教会形成にとても興味があり、弟子訓練やセルチャーチに約30年間携わってきました。しかし、どれもこれもうまくいきませんでした。弟子訓練は人々をキリストの弟子に作り変えるということです。これを聞いた人々は、「え?今のままではダメなの?私を訓練するの、怖い?」というイメージを持ちます。セルチャーチはどうでしょう?これは小グループを作り、聖書のことばを分かち合って、建て上げ合います。さらに人々をグループに招き入れて救いに導き、増殖するというゴールがあります。10年前、香港からベンウォン師が来られ「教会の7つの本質」について教えてくれました。その中で最も重要なのは「関係」であると言われました。私は、以前は気づいていませんでしたが、人間関係が苦手なんだと分かりました。私だけではなく、日本人が人間関係で苦労しています。それなのに、教会で「関係が大事だ」と言われるとよけいプレッシャーを与えてしまいます。教会形成のためにいろんな勉強をし、努力を重ねてきました。しかし、最後に分かったことはこのことです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」だれが、教会を建てるのでしょうか?「キリストご自身が、キリストの教会を建てる」ということです。それなのに、人為的に手を加えて教会を形成するということ自体が無理なのです。教会がキリストのからだであるなら、かしらはキリストです。それぞれがかしらなるキリストから命令を聞けば良いのです。そして、同じ賜物、同じ使命を持つ者どうしが連携し合えば良いのです。重要なのは互いに愛し合い、コミュニケーションを持つということです。ハレルヤ!このように単純に考えるとうまくいくのではないかと確信しました。大和キリスト教会に行くと壁に私はこの岩の上に私の教会を建てよう」という横断幕が張られています。最初に書いたのは私なんです。私が座間キリスト教会にいたころ大川師の命令によって、大きな横断幕を書いたのです。それなのに、38年もたって、振出しに戻るとはどういうことでしょうか?聖書にちゃんと書いてあったんです。キリスト様がおっしゃいました。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」このお方をかしらとして仰ぎ、従っていく時、教会が建てられていくのです。アーメン。

 

3.天の御国のかぎ

 マタイ1619 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」天の御国のかぎとは何なのでしょうか?まただれにこのかぎが与えられたのでしょうか?古くから現代のようなかぎがあったと思われます。イエス様がペテロにかぎを手渡している宗教画はたくさんあります。しかし、「つなぐ」とか「解く」ということばが後にありますので、原文から調べる必要があります。「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」で、「縛る」とか「禁じる」という意味があります。英語の詳訳聖書には「不適当で不法であると宣言する」となっています。また、「解く」はギリシャ語で「リュオウ」ですが、「解く」とか「許す」という意味があります。英語の詳訳聖書には「合法であると宣言する」となっています。両方ともユダヤ教のラビたちがよく用いた表現のようです。簡単に言いますと、「つなぐ」は「禁じる」であり、「解く」は「許す」ということです。イエス様は「地上で禁じるなら、天においても禁じられる。地上で許すなら、天においても許される」とおっしゃったのです。ですから、「天の御国のかぎ」というのは、神さまの代わりに「禁じたり」「許す」権威なんだと捉えるべきです。でも、その権威が一体、だれに与えられたのでしょうか?この文章を見る限り、ペテロに与えられていることがわかります。なぜなら、イエス様が「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とペテロに言っているからです。ローマ・カトリックはこのところから、やっぱり「ペテロが最初の首長なんだ」と主張するのであります(ダシャレです)。J.Cライルという人の本を読むと、そのことが書かれていました。ペンテコステの日、だれが説教したでしょうか?ペテロがエルサレムでキリストの復活と聖霊降臨のメッセージをしました。それで、3000人の人たちが救われました。また、ユダヤ教の指導者たちから捕えられたとき、彼は「天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は与えられていません」と大胆に答えました。それから、異邦人の教会ができていたとき、ペテロがそのことを許可しています。そういう意味で、初代教会のリーダーはペテロであったということは否むことはできません。

 しかし、それで終わりではありません。イエス様は復活された後、弟子たちに現れてこのように言われました。ヨハネ2020-21「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」このところから、ユダを除いた11人の使徒たちに、その権威が与えられたことがわかります。イエス様は使徒たち全員に、天の御国のかぎを与えたのです。さらに、マタイ28章を見るとどうでしょう?マタイ2818-19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…」とあります。この命令は弟子たちばかりではなく、キリストを信じる教会に与えられていると信じます。私たちは教会で洗礼式を行います。その人の信仰告白を確認したとき、祈りをささげます。そのとき、私は「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ25とイエス様のことばを宣言します。そのシーンを見ていて、「え、そんな権威があなたにあるの?あなた何様なの?偉そうに!」と反感を抱く人もいるかもしれません。だけど、それはイエス様がくださった権威を用いているのであって、牧師自身に特別な権威があるわけではありません。つまり、天の御国のかぎを用いているということです。でも、このかぎは、牧師だけのものではありません。ルターは「万人祭司説」を唱えました。今日の教会では按手礼を受けた牧師でなければ、洗礼や聖餐式をできないと決めています。もし、私がこれに異議を唱えるなら、免職になる恐れがあります。でも、「それが聖書のどこに書いてあるのですか?」と聞かれて、「ここにあります」と答えられる先生がおられるでしょうか?マタイ28章は使徒たちがキリストの弟子を作り、その弟子となった者が「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」ように命じられているのです。聖書を見ると、使徒パウロが洗礼を授けたのは数名であり、弟子たちがバプテスマを授けています。そのことを考えると、もっと信徒に権威を委譲していくべきではないかと思います。でも、私はブラザレンのように牧師の権威を全くなくすというのは反対です。聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」(エペソ411と書かれています。でも、それは仕えるための権威であって、人を支配するためのものではありません。とにかく、クリスチャン一人ひとりが、天国のかぎをぶら下げて歩き、いつどんな時でも、用いることができたら幸いです。出会った人に福音を語り、信じた人には、天国に行く許可を与えたら良いと思います。日本の教会には、牧師しかそのかぎを使えないという伝統がありますが、それならば御国は広がっていきません。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とイエス様はあなたに語られたのです。

 イエス様はハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。ハデスとは陰府であり、死者がいるところです。その後、イエス様は「天の御国のかぎを上げます」と言われました。ハデスと天の御国は真逆です。もし、地上の私たちが「禁じたり、許したり」する権威を持っており、それが天にもちゃんと連携していると教えられました。でも、それは天だけではなくて、ハデスにも連携していると考えたらどうでしょう。ハデスには門があります。しかし、私たちがもっている天の御国のかぎの方がもっと権威があるということです。つまり、私たちが「あなたは救われました」と言うなら、ハデスの門は決して開くことはないということです。つまり、その人は死んでも、ハデスに行くことはないということです。エターナル・ミニストリーズという出版社があり、天国に行った人々の証や地獄に行った人々の証がたくさん本になっています。ある女性がイエス様と一緒に地獄に下りました。ある女性が半分腐った体で、燃える火の中で苦しんでいました。その女性がイエス様に「どうか助けてください」とすがりつこうとしました。イエス様は悲しい顔をされ「遅すぎます」とひとこと言いました。するとその女性は般若のような顔に変わり、きたない言葉をイエス様にいっぱい浴びせました。つまり、ハデスの門は堅く閉じられており、そこではイエス様でも無理であったということです。イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と言われました。現在、天国の門も陰府の門も両方とも開かれています。どうか一人でも多くの人たちが「イエスは主である」と告白して御国に入れますように。そのためにすべてのクリスチャンが「天の御国のかぎ」を用いられますように。

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2017年3月17日 (金)

まだわからないのですか マタイ16:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.19

 マタイ16章のはじめは、15章の続きだと思ってください。15章の終わりには、7つのパンで男性だけでも4000人を養った奇跡が記されていました。その後、イエス様は群衆を解散させて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かれました。弟子たちは、最初は5000人の給食、そして4000人の給食という奇跡を体験しました。しかし、ここでは「パンがない。パンを持ってこなかった」と悩んでいます。イエス様は「まだわからないのですか?」と弟子たちにおっしゃっていますが、弟子たちは何が分からなかったのでしょうか?きょうは3つの問題について考えたいと思います。

1.しるしの問題

 マタイ161 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」「しるし」とは、「あなたが本当にメシヤなのか奇跡をもって証明してください」ということです。同じことが、マタイの12章にも書かれていました。使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」(Ⅰコリント122と言いましたが、度々、イエス様にしるしを求めました。このところでは「天からのしるし」と書かれています。「天」というのは、空という意味と、神という意味があります。ですから、イエス様は最初、空の話、つまり天候の話をされました。人々は「もし夕焼けだと明日は晴れるということであり、朝焼けだとまもなく荒れ模様になる」ということを知っていました。イエス様は「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」と言われました。おそらく、空模様の見分け方とイエスさまによる「時のしるしの見分け方」が共通しているということでしょう。「しるしの問題」は、なかなか難しい問題です。先ほど、天には「神」という意味もあると申し上げました。イエス様がなさっておられたことは「神からのしるし」だったのです。言い換えると、自然界のしるしがあるように、神からの霊的なしるしがあるということです。 

 イエス様はあるところで「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と言われたことがあります。マタイ12章では神の御霊によって悪霊どもが追い出された時でした。また、福音書を見ますと、「神の国を宣べ伝え、病気を直すため」とか「福音を宣べ伝え、病気を直した」という言い方がところどころに発見できます。これらの意味は、イエス様と一緒に神の国がやってきたということです。その証拠として、悪霊が追い出されたり、病が癒されたり、死人がよみがえらされたのです。それは明らかに「時のしるし」を意味しています。アダム以来、この世はサタンが支配し、人々は罪と病と死の中で苦しんでいました。しかし、神の子イエスがこの世にやってきました。手ぶらではなく、神の国を引っ下げて、やって来たのです。言い換えると、イエス様と一緒に、この世に神の国が侵入して来たのです。そのため悪霊が追い出され、病が癒され、死人がよみがえらされたのです。本来なら、それらはこの世が終わって御国に属することです。しかし、この世がまだ終わっていないのに、イエス様が神の国をもたらすためにやって来られたのです。これが「時のしるし」であり、真摯に求めようとすれば分かる真理なのです。

 ところがどうでしょう?マタイ164「『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求める」と言われました。「時代」というギリシャ語は、ゲネアーで「子孫、血族、種族」という意味です。英語の聖書はgenerationとなっていますので、「同時代の人々、世代」とも訳すことができます。つまり、「その時代の人々」という意味です。それは、当時のユダヤ人をさしているものと思われます。なぜなら、神の子イエスご自身とイエス様がなさるみわざを直視しながら、「もっとしるしを見せて下さい」と願ったからです。これは不信仰の現れ、悪い心の現れと言えます。「ヨナのしるし」とは、イエス様が死後、三日目によみがえるというしるしです。キリスト教の最大のしるしは、イエス様が死んで三日後に復活されたという奇跡です。それ以上のしるしはありません。だから、使徒パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(Ⅰコリント1514と言いました。今日の時代も、キリストの復活を信じない人たちがいますが、言い換えると悪い、姦淫の子孫だということなのです。人々は自分の罪を捨てたくないので、大いなるキリストのしるしを見ても信じないのです。

 私たちはどの子孫になりたいでしょうか?たとい、悪い姦淫の時代の中にあっても、神の子イエスを信じる人々がいるのではないでしょうか?そういう人たちこそ、「神の種が宿っている人たち」(Ⅰヨハネ39なのではないでしょうか?私たちは悪い姦淫の時代の中にあっても、キリストを信じたゆえに、新しい御子の子孫(種族)に加えられていることを感謝しましょう。ジョエル・オスティーンが言いました。「あなたのgene遺伝子には宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。サラブレッドが血統で決まるように、あなたも神の血統なのです」。私たちは自分の生まれた血統しか見ていません。「自分の生まれがこうだから」「自分の育った環境がこうだから」と低いレベルを生きているかもしれません。そうではなく、クリスチャンは再び生まれた存在です。だから、宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。だから神さまを「天のお父様」と呼ぶのです。私たちは天の父の子ども、遺伝子が組み込まれています。この事実を受け止めると、この先、希望が湧いてきます。それは単なる希望ではなく、神さまの確かな約束なのですから、そのまま信じて受け止めるべきであります。

2.パン種の問題

 マタイ165-6「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」そのことを言われたとき、弟子たちは食べるパンのことを考えていました。イエス様は続けておっしゃいました。マタイ1611-12「『わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。』彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」奇跡のことは次のポイントでお話ししますが、パン種(イースト菌)のことをまずお話ししたいと思います。聖書でパン種というのは腐敗を象徴しました。なぜなら、パン種を入れると長く保存できないからです。少し前の13章で「天の御国はパン種のようなものです」というたとえがありました。しかし、それは例外で、腐敗ではなく、知らない間に膨らむというたとえです。その意味は、天の御国が地上において、知らない間に拡大していくということです。しかし、イエス様がここで言われている「パン種」は悪い意味で、偽善を表しています。膨らむことはふくらむのですが、真実ではなく、偽善だということです。イエス様は弟子たちに5つのパンで5000人を養ったこと、7つのパンで4000人を養ったことをお話しされました。それぞれ、パンが余ったのでかごに入れました。パンが余ったということは、実際にパンが増えたという証拠です。一方、偽善による膨らませ方は実質のないものであり、無益だということです。

 イエス様はパリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけるように言われました。イエス様が来られる200年前頃、ユダヤがギリシャから独立したときがありました。そのとき、パリサイ人やサドカイ人たちが生まれたようであります。パリサイ人というのは、一般の仕事についていながら、律法を厳格に守るユダヤ教徒です。パリサイの元の意味は、「分ける」とか「きよい」から来ているようであります。つまり、「自分たちは律法を守っているのできよいんだ。あなたがたとは違う」と他の人たちをさばいていたのです。しかし、律法を完全に守ることは不可能です。そのため彼らは言い逃れの律法解説書を作って、ごまかしていたのです。だから、イエス様は彼らを偽善者だと言ったのです。なぜなら外側ばかり清くして、内側は汚れと貪欲に満ちていたからです。一方、サドカイ人とはだれでしょう?彼らは祭司をしている特権階級の人たちです。彼らにはお金と権威がありました。でも、信仰は中途半端で復活とか霊的なことは信じませんでした。ヘロデ党と同じように、とても世俗的でした。彼らもイエス・キリストを否定しました。なぜなら、キリストを信じると、自分たちの教えや立場がなくなって、飯が食えなくなるからです。パリサイ人やサドカイ人たちというのは、言い換えると宗教であります。宗教にはきまりがあり、儀式があります。いろんな階級があり、一般の人たちはそれに預かることはできません。現代、私たちはローマ・カトリックやロシア正教を見ることができますが、とてもきらびやかで、宗教的な儀式がいっぱいあります。宗教改革以降、プロテスタント教会はそういう宗教的、形式的なものをできるだけ排除するように勤めてきました。

 なぜ、イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたのでしょうか? 12節で弟子たちは「パン種のことではなく、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであると悟った」と書いてあります。そうです。彼らの教えであります。JB.フィリップス訳には、the influence of the teaching of the Pharisees and Sadducees. 「パリサイ人やサドカイ人たちの教えの影響」と訳されています。Influenceというのは、感化とか悪影響のことであります。つまり、彼らの教えの中には、本当の信仰を腐らしてしまう悪いものがあるということです。「もし、彼らと交わるならば、何か悪いものが移ってしまうよ」ということなのです。箴言にはそういう戒めが何度も書かれています。「くちびるを開く者とは交わるな」(2019)、「おこりっぽい者と交わるな」(2224)、「そむく者たちと交わってはならない」(2421)、「放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる」(287)、「遊女と交わる者は、財産を滅ぼす」(283)。新約聖書にもいくつかありますが、Ⅱヨハネのことばは強烈です。「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」(Ⅱヨハネ10-11)。ヨハネの場合は、キリストを否定する異端の人たちと交わるなと警告しています。私たちは伝道のために、ある程度、危険を犯してでも、近づかなければならないところがあります。でも「交わり」というのは、共有するという意味ですから、この世の人たちと接することがあったとしても、共有できない分野があるということを知るべきです。たとえば、疑い、恐れ、汚れ、不平不満、不信感は伝染します。ですから、そういう話題からはできるだけ、避けるべきであります。テレビやインターネットも鵜呑みにしてはいけません。ニュースやドラマは世の中の不条理が強調されています。ずっと見ていると、神さまの存在が薄くなり、問題や悩みが拡大していきます。

 私たちは主と交わり、正しい信仰者と交わるべきであります。第一は神さまとの交わりです。Ⅰヨハネ13「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」第二は主にある兄弟姉妹との交わりです。Ⅰヨハネ47「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」パリサイ人たちのように律法的な偽善を避けて、恵みの中を歩みましょう。サドカイ人たちのような形式的な偽善を避けて、真実な交わりを築き上げていきましょう。交わりの秘訣は何でしょう。キリストの血が互いの罪を取り除いてくださいます。そして、互いの中にあるキリストの御霊が真実な交わりを可能にしてくださるのです。

3.信仰の問題

 イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われましたが、実はもう1つ信仰についても教えておられます。もう一度、マタイ16章のみことばを読んでいきたいと思います。マタイ16:5 「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。」そして、マタイ167-8「すると、彼らは、『これは私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、議論を始めた。イエスはそれに気づいて言われた。『あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。』」パリサイ人やサドカイ人たちのパンの増え方は偽物でした。なぜなら、偽善や虚栄、形式によって膨らませていたからです。宗教はなんとなく心を満たすかもしれません。でも、それは本物ではありません。イエス様はご自身がいのちのパンとして、わずかなパンをもとにして5000人と4000人を養いました。その奇跡が本当に起こった証拠に、それぞれ12かごと7かごのパンの余りが生じました。人々は精神的に満たされたのではなく、実際に肉体的に満たされたのです。イエス様は「パリサイ人やサドカイのパン種に注意しなさい」という戒めと同時に、彼らの不信仰を嘆いています。弟子たちはあのときのパンを持ってくるのを忘れました。そしてイエス様は「私たちがパンを持ってこなかったから何かおっしゃっているんだ」と議論していました。それに対して、イエス様は「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」と言われました。英語の詳訳聖書は「どうして私を信頼していないのか?信仰の薄い者たち」と訳しています。つまり、信仰が薄いとは、イエス様をそんなに信頼していないということであります。

彼らは「パンがない」と騒いでいました。でも、それがそんなに重要な問題なのでしょうか?彼らはもう2度もパンが奇跡的に与えられたことを体験しています。「イエス様がそばにいれば、パンのことで悩む必要はない」と心から考えるべきでした。第二回目のレッスンのときは、イエス様が「群衆が三日間も食べていないので、どうしましょうか?」と提案しました。そのときは、「こんなへんぴなところで、こんなに大勢の人にどうやって食べさせるのですか?」と答えました。彼らは第一回目の5000人の給食を忘れていました。イエス様は「やれやれ」と思ったかもしれませんが、7つのパンで4000人の人たちを奇跡的に養われました。すばらしい体験を2回もしたにもかかわらず、「パンがない」と悩んでいました。おかしな話です。パンの問題は目の前のイエス様によって解決したし、これからも解決すると考えるべきであります。だから、イエス様は「信仰の薄い人たち」と嘆いておられるのです。弟子たちの何が悪かったのでしょうか?考え方が変わっていなかったのです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」みことばに「心の一新によって自分を変えなさい」とありますが、日本語としては不自然な言い方です。「心の一新」で十分なはずなのに、さらに「自分を変えなさい」と書いてあるからです。これはどういう意味でしょう?多くの人たちは自分を変えるためにどのような努力をしているでしょうか?体重を減らしたりして体形を変えることによって自分を変えようとするでしょう。2か月で痩せられる「ライザップ」というのがあるようです。あるいは、服装や髪形、お化粧を変えることによって自分を変えようとするでしょう。英語の詳訳聖書は、「外側を変えたり適応させたりする表面的な習慣ではなく、変革させられなさい。新たにされたマインドによって」と訳しています。簡単に言うと、マインド、考え方を変えることによって、自分を変えるんだということです。その人のマインド、考え方を変えたら、その人が変わるということです。



 たとえば、カルト宗教はよくマインドコントロール」すると言われています。マインドコントロールされた人は全く別人になってしまいます。周りの人が何を言ってもききません。逆に言うと、マインドにはそれだけ力があるということです。クリスチャンは霊的に救われ、霊が新しく生きています。しかし、人間の生き方を司っているのは、精神でありマインドなのです。これが私たちの人生を決定していく司令官なのです。いくら内におられる御霊が「ああしろ、こうしろ」と言っても、マインドがガンとして動かない場合があります。だから、生まれつきのマインドが一度砕かれて、全く新しいものに造り変えられる、これがトランスフォーメーション「変革」なのであります。弟子たちは奇跡を何度も体験しましたけれど、マインドが相変わらず古いものだったので、「イエス様がこれからも何度もパンを与えて下さる」と信じられなかったのです。私たちは「奇跡とは滅多に起こらないものである」と考えてはいけません。確かにこの世では「奇跡とは滅多に起こらないから奇跡なんだ」と言うでしょう。なぜなら、この世の人たちは神さまが遠くの別の世界にいると考えているからです。その神さまは滅多に、この世界に介入しないんだ。この世を支配しているのは自然科学であり、人間なんだと考えているからです。そうではありません。弟子たちはイエス様と一緒にいて奇跡を何度も体験しました。そうであるなら、今日の私たちともイエス様は共におられます。しかも、私たちの内に住んでおられます。パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。多くのクリスチャンはイエス様を私たちのマインドの中に閉じ込めています。「現代は、奇跡がないんだ。パンの問題は私たちがやるので、霊的なことだけをお願いします」と言っているのです。マインドの殻、不信仰の殻があまりにも堅いので、イエス様が出て来られないのです。私たちは弟子たちを笑うことはできません。私たちは過去に体験した奇跡は、今後、再び起こらないと諦めています。イエスさまが2度もわずかなパンで大勢の人たちを養いました。それだったら、3度目、4度目も期待して良いはずです。どうぞ、私たちのマインド、考え方を変えましょう。

神さまは今も生きておられ、私たちが難しいと思っている問題を解決してくださいます。私たちは難しいと考えているかもしれませんが、神さまはそうでないかもしれません。イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ183と言われました。大人はマインドでいろいろ理屈をこねます。頭で理解できなければ受け入れません。しかし、子どもはそうではありません。「悔い改めて子どもたちのようになる」とは、「マインドを変えて子どもたちのようになる」という意味です。どうぞ、生まれつきのマインドを捨てましょう。新しいマインドを神さまからいただいて、神さまにとって奇跡は当たり前、日常茶飯事に起るんだと信じましょう。パンの問題で悩んでいる人がいるならば、イエス様はきょうも明日も与えてくださると信じましょう。

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2017年3月10日 (金)

四千人の給食 マタイ15:29-39 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.12

 マタイ14章には、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人を養われた奇跡が記されていました。しかし、このマタイ15章にも似たような奇跡が記されています。今度の場合は、7つのパンと小さい魚で4000人であります。どちらも、女性と子どもたちを除いた数でありますから、実際は倍の数になっていたことでしょう。これは差別ではなく、戦争に参加できる成人の男性を数とした当時の風習から来ています。きょうは、5000人の時と、4000人の時との違いを調べたいと思います。また、なぜ2回も同じような奇蹟を行ったのかということも考えたいと思います。

1.異なる点 

 最初は前回の5000人の給食と異なる点を調べて行きたいと思います。第一は「三日間も食べていなかった」ということです。イエス様は「この群衆はもう三日間も私と一緒にいて、食べる物を持っていないのです…空腹のため途中で動けなくなる」と言われました。三日間も何をしていたのでしょうか?もちろん、イエス様から福音や聖書の教えを聞いていたのでしょう。でも、そればかりではありません。彼らの多くはイエス様がおられるところを探し当て、病人や障害のある人たちを連れて来ました。マタイ1529-31「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。」おそらく、イエス様は半分以上の時間とエネルギーをミニストリーに費やされたのではないかと思います。当時は車や電車がありません。馬やロバを持っている人たちは裕福な人たちです。彼らの多くは徒歩で、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、他に障害のある人や病気の人たちを連れてきたのではないかと思います。家族や友人、隣近所が誘い合って、助け合って来ていたのではないでしょうか?その数があまりにも多かったので、三日も過ぎてしまったのではないかと思います。他の箇所ですが、「大勢の人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった」(マルコ320と書かれています。決して大げさではなく、求めて来る人があまりにも多かったので、三日間ろくに食事をすることができなかったということでしょう。ある人が「リバイバルが来ると忙しくなる」と言いました。大勢の人たちが「どうしたら救われるんですか?」と詰めかけて来たらどうしますか?あなたは手短に福音を語って、救いに導けるでしょうか?また、「病院じゃ治らないと言われたのですが、どうか祈ってください」と来たらどうしますか?他の人に頼まないで、自分で祈れるでしょうか?どうぞ、リバイバルに備えてください。

 第二は4000人の給食の場合はイエス様が先に言い出したということです。前回の5000人の給食のときは、弟子たちの方から「ここは寂しいところですし、群衆を解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」(マタイ1415とイエス様に提案しました。しかし、今回はどうでしょう?マタイ1532イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」あきらかに違います。イエス様の方から弟子たちに「彼らを空腹のままで帰らせたくありません」と提案しています。弟子たちはどう答えたでしょうか?マタイ1533そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」このような答え方は、全回の時と全く同じです。前も、「ここは寂しい所ですし」言っています。おかしいと思わないでしょうか?弟子たちは、少し前に5000人の給食の奇蹟をまのあたりに見たはずです。それなのにコロっと忘れています。マタイ1534すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」このあと、イエス様は七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられました。奇跡的にパンと魚が増えて、男性だけでも4000人の人たちが食べて満腹しました。違うのはパン切れの余りが今回は7つのかごいっぱいであったということです。前回は12のかごいっぱいでしたが、かご自体の大きさが違いますので、正確な量は分かりません。パン切れの余りがあったということは、実際にパンが増えていたという証拠です。これは奇跡であり、精神論や合理主義で解釈できないということの証拠であります。とにかく、今回の奇跡はイエス様の方から提案したということです。しかしながら、弟子たちは前回のことを忘れ、奇跡が再び起こるということを全く期待していなかったようです。

 第三は増えたパンがどのように群衆に配られたか明確に記されていることです。5000人の時はどうだったでしょうか?マタイ1419-20抜粋「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」とあります。なんとなく、「増えたパンを弟子たちが群衆に配ったんだろうなー」ということが推測できます。では、今回の場合はどうでしょうか?マタイ1536-37抜粋「それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」このところには、順番がはっきり記されています。パンを増やしたのはイエス様ご自身です。そして、弟子たちはそのパンをイエス様から受け取り、そして弟子たちが群衆に配ったということです。パンの供給者はだれでしょう?イエス様です。そして、イエス様から受け取って、人々に配る人は弟子たちです。弟子たちに「パンを増やしなさい」と言われても、無理なことです。でも、イエス様にパンを増やしていただいて、それを人々に配ることは可能です。これは癒しや奇跡のわざも同じことです。人を癒したり直したりするのは、イエス様です。私たちがイエスの御名によって祈ったり、命じたりするとき、キリストの御霊である聖霊様が働いてくださるのです。祈るのは私たちで、癒すのは神さまです。もう1つ加えますと、福音を語るのは私たちです。そして、救ってくださるのは神さまです。私たちは人を救うことはできません。つまり、神さまと自分の責任を分担するということです。どうして、私たちはいらいらしたり、思いわずらったりするのでしょう?それは、神さまの分までやろうとしているからです。人を変えるのは私たちではなく、神さまです。私たちがやろうとするので、関係が壊れたり、共依存的になるのです。神さまがなさる分を尊重し、できないことはゆだねましょう。そうすれば、神さまが豊かに働いて、みわざを行ってくださいます。私たちは神さまの管です。管という英語は、channelです。海峡という意味もありますが、水管とか導管という意味もあります。液体が流れる管状のものをチャンネルというわけです。神さまが供給者で私たちが管です。どのような管が一番良く流れるでしょうか?太くてスムーズな管です。それは神さまに対する信仰と言い換えることができます。私たち「神さま私をあなたの恵みを運ぶ器にしてください」と祈るべきであります。

2.二回繰り返された理由

 ある学者たちは「1つの出来事を2つに分けたんだ」と言います。しかし、そんなことはありません。なぜなら、次のマタイ16章でイエス様が二つの記事として取り上げているからです。マタイ169-10「まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」このことは次週詳しく学びますが、イエス様は2つの奇跡から弟子たちに何かを悟ってもらいたかったのです。しかし、彼らがあまりにも鈍かったので、イエス様がイライラしているようにも思えます。では、なぜ、同じような奇跡が繰り返されたのでしょうか?一般に「同じことを繰り返す」ということは、大事なことを教えるためです。一回で分からなかったので、もう一回、言ったりやらせたりします。その理由は、その人の固定観念や行動を変えるためです。イエス様が16章で「まだわからないのですか、覚えていないのですか」とおっしゃっていますので、この時点では弟子たちは分かっていません。

同じ奇跡が繰り返された第一の理由は、イエス様自身のご人格を示すためでした。私たちは、二つの奇跡からイエス様がどういうお方であるかということを見ることができます。前の14章でははっきり書かれていません。ただし、直前に「彼らを深くあわれんで、彼らの病気を癒された」(マタイ1414ということばは書いてあります。弟子たちは「解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」とイエス様に提案しています。「私たちは食事までめんどうできないよ。めいめいで食事を買うようにしたら良い」というのはとても合理的で事務的です。それに場所がへんぴだし、大勢の人たちだという理由も分かります。でも、そこで、イエス様はたった5つのパンの2匹の魚で大勢の人たちを食べさせました。今回はどうでしょう?マタイ1532「かわいそうに、…彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから」とはっきりおっしゃっています。「かわいそうに」は、「あわれむ」と同じことばです。もともとは、「生贄の内臓を食べる」ということばから来ています。これは単なる同情ではありません。ある英語の聖書にはcompassion「共に苦しむ」がイコール「あわれみ」となっています。イエス様が奇跡を起こされるどの動機はいつもあわれみであり、愛であったということです。イエス様は決して、自分がメシヤであるということを誇示するために奇跡を行なったのではありません。結果的には人々が「イスラエルの神をあがめた」(マタイ1531かもしれませんが、それ自体が目的ではありませんでした。イエス様は前のポイントでも申し上げましたが、供給者です。ゴスペルではproviderと賛美します。まさしく、divine providerです。

私たちは生まれた時から、神さまから独立して生きています。アダムの子孫ですから、神さまの存在も認めないし、頼ろうともしません。しかし、その人がある時に、イエス様を信じて救われました。では、考え方が全く変わったでしょうか?クリスチャンでも、「霊的なものは神さまに頼り、物質的なものは自分の力でやるしかない」と思っている人たちがたくさんいます。イエス様はみことばという霊的な糧を人々に与えました。でも、人々は三日間もろくに食べていませんでした。そのため、イエス様は肉の糧も与えたいと願ったのです。この記事を読むとまるで、詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」を連想させます。なぜなら、35節に「すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。」とあるからです。「すわる」はギリシャ語で「食事の席に横になる、席に着く」という意味があります。また、英語の聖書にはrecline「横になる、もたれる」という単語が使われています。実際、ユダヤでは食事をするとき、左半身を横たえて、右手で食べたのです。多くの群衆はイエス様に言われる前から、野原に座っていたことでしょう。でも、ここで食事をするために、横になったと考えるべきです。一見、粗末で、たいしたことのない食事のように思えます。でも、イエス様は「横になって食事の席に着くように」と言われたのです。「人々はみな、食べて満腹した」と書かれていますので、本当に満足したのではないかと思います。まさしく、詩篇23篇の「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」であります。ある男性が、この記事を読んで、「イエス様の許にいれば、食いっぱぐれがないんだな一」と心引かれ、信仰を持ったそうです。アーメンです。

 同じ奇跡が繰り返された第二の理由は弟子たちの固定観念を変えるためです。少し前に、イエス様は5つのパンと2匹の魚で男性だけでも5000人を養われました。弟子たちは奇跡を目の当たりに見たのに、すっかり忘れています。忘れているというよりも、「奇跡はめったに起こらないものなんだ」という固定観念がありました。今回はイエス様の方から「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」と提案しています。この時、弟子たちはどうすれば良いか気づくべきでした。ところが、前回と同じように「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」と答えました。ちっとも学んでいません。仕方なく、イエス様は「どれくらいパンがありますか」と弟子たちに聞かれたのです。弟子たちは「七つです。それに、小さい魚が少しあります」と答えています。その後、イエス様はパンと魚を奇跡的に増やして、男性だけでも4000人を養われました。果たして、弟子たちの考え方は変わったのでしょうか?全く、変わっていません。その証拠に、次のマタイ16章に何と書いてあるでしょうか?マタイ16:8-10イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」詳しくは来週学びますが、明らかに何かを悟っていません。それは、イエス様が奇跡を行なわれるお方だということです。言い換えると、以前一度奇跡を行なったら、二度目も奇跡を行なわれるということです。弟子たちの頭には、「奇跡というのはめったに起こらないもの、今回はたまたま、だったけど、次回はないのだ」という考えがあったのです。だから、今回、「こんなへんぴな所で、こんなに大勢の人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう」と言ったのです。目の前に、パンの供給者である「いのちのパン」なるお方がいたのです。つい、ちょっと前、男性だけでも5000人もの人たちが奇跡的に食べたのです。パン切れの余りを12のかごにいっぱい集めたことがあったのに、です。これが人間です。

 では、現代の教会が、クリスチャンが、このような奇跡がまた起こると信じているでしょうか?聖書を文字通り信じていると自負している、福音派の教会はあまり信じていません。「聖書が完成したので、そのような目を見張る奇跡は不要になった」という理由からです。冒頭で、イエス様によって「口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになった」と学びました。しかし、彼らは「奇跡はイエス様ご自身のメシヤとしての証明だったので、私たちがそれを行うということではない」と言います。人間は「奇跡は起こらないし、起る必要もない」という神学を打ち出しました。本当は、人間が考えだした神学によって、信仰がないのを正当化したのです。「聖書が完成したので、奇跡は必要ない。病の癒しも終わった」と言ったら、本当に楽です。「そういうことは専門家であるお医者さんと科学者にゆだねれば良い。素人が精神や心の癒しに関わるのは危険だ」と言うでしょう。でも、専門家が本当に病気を治すことができるのでしょうか?もちろん、私たちは医療や科学も神さまの一般恩寵として捉えるべきであり、祈って用いるべきです。でも、神さまは今日も食物を奇跡的に与え、障害や病も治してくださいます。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」と書かれています。まり、イエス・キリストが2000年前、食物を奇跡的に与え、病をいやし、足萎えを歩かせ、盲人の目を開きました。今も同じことをなさるということです。イエス様は弟子たちにあなたがた、信仰の薄い人たち。…まだわからないのですか、覚えていないのですか。」と言われました。その答えは、奇跡は一度あったら二度目もあるということです。二度目があったら、三度目もあるということです。問題は私たちの頭の中です。私たちはめったに起こらないのが奇跡だと考えています。しかし、全能の神さまにはsupernatural natural「超自然と自然」の区別がないのです。ある人が「神さまにとっては癌も風邪と変わりない」と言いました。私たちは「癌」と聞くと、一生懸命、力をこめて何度も祈らなければならないと深刻に考えます。でも、「神さまにとって癌も風邪と変わりない」と考えるなら、そんなに力まなくても良いです。静かに、しかし権威をこめて「癌よ、消え去れ!」と命じれば良いのです。昔、癒しをなさるハンターご夫妻が日本に何度か来られたことがあります。何度がセミナーに行ったことがありますが、最初にこう言いなさいと教えられました。お祈りをする前に、「それは簡単です」と言いなさいと教えられました。いやー、勇気がいりますね。ほら吹きだと言われたくないですからね。でも、「それは簡単です。イエス様にとっては」であるなら、本当です。その宣言によって信仰が与えられます。

 先日、テレビで昔の学校給食という番組がありました。昭和30年代の頃、コッペパンがごちそうで、ある子どもたちはそれを紙にくるんで家に持って帰りました。家族のだれかに食べさせてあげたいと思ったのかもしれません。私も田植えをしたとき、お昼はジャムパンを食べました。その時は、「世の中にこんなおいしいものがあるのか?」と思いました。今はジャムパンを買うこともありません。なぜなら、口が肥えてしまったからです。きょうの4000人の給食の奇跡は飽食の時代には色あせて見えるのでしょうか?しかし、世界の多くの人たちは飢えていて、きょう食べるパンもないと言うことです。でも、日本でもかなり貧しい人がいることは確かです。「食べていけるか」というのはどの人にでも最低限の課題です。もし、「イエス様がすべての供給者で、わずかな物でも増やしてくださる」と知るなら何と幸いでしょう。父なる神さまは私たちが貧しくて病気がちで、なんとか生き延びるという人生を望んではいません。イエス様は私たちをあわれんでくださる救い主です。詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」と書いてあります。イエス様の恵みはどんな物でも、身を横たえて食べられるということです。そこには高価なもの、安価なものの区別はありません。たとえ、お金をかけていなくても、豊かだからです。私たちはすべての供給者であられるイエス様が共にいるので、安らかに暮らすことができるのです。私たちの頭の中から、「奇跡はめったに起こらないものだ」という考えと取り除きましょう。そうではなく「奇跡は神さまにとって日常的なこと。私は奇跡の中で暮らしている」と考えましょう。どんな病や障害でも、イエス様にとっては簡単なことであると考えましょう。たとえ、大きな病気になったとしても、あまり深刻にならないようにしましょう。クリスチャンは死んだら天国です。でも、神さまは私に癒しと回復を豊かに与えてくださる神さまです。小さなことから、大きなことまで、神さまのみわざを信じましょう。もう一度みことばをお読みします。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス・キリストは今も生きておられ、奇跡を当たり前のように行うお方です。奇跡は神さまにとって日常的なことです。アーメン。

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2017年3月 3日 (金)

立派な信仰 マタイ15:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.5

 イエス様は失われたご自分の民、イスラエルのために来られました。ご自身の計画は、イスラエルの後で全世界を救うということでした。イエス様は狭いパレスチナを出たことがありません。それでも、何回か異邦人の地を訪れたことがありました。マルコ福音書には「隠れるため」と書いてありますので、退去して休むためであったと思われます。ところが、どこから嗅ぎ付けたのか、異邦人の女性がイエス様のところにやってきました。後から、この女性はイエス様から「ああ、あなたの信仰は立派です」と褒められています。それまで彼女はどのような障害を乗り越えてイエス様から恵みをいただいたのでしょうか? 

1.生まれ

 彼女は「生まれ(血統)」という障害を乗り越えました。これは、自分の運命に対する誘惑です。彼女はどのような生まれだったのでしょうか?イエス様と弟子たちが訪れたところは、「ツロとシドンの地方」でした。マルコ福音書には「ツロ・フェニキヤ」と書かれています。英語の聖書には海岸とありますので、フェニキヤの海辺だったと思います。また、「その地方のカナン人の女」と書かれています。ヨシュアがカナンに攻め上り、先住民を追い払い、占領していきました。その当時、最も強い先住民はペリシテ人でした。彼らは鉄器を持っていましたので、青銅ではかないませんでした。ペリシテはもともと海賊でしたが、ツロに定住してから、海上貿易で栄えました。しかし、イエス様の時代はイザヤ書の預言のとおり、全くすたれ漁村になっていました。ペリシテは言い換えるとフェニキヤになります。カナン人は呪われた民であり、イスラエルに制服される運命にありました。カナン人の女の娘が、「ひどく悪霊につかれている」と言うことですが、そういうことも原因しているかもしれません。たまたま、カナン人が住む場所に、イエス様と弟子たちが足を踏み入れたのです。するとどこからか、その情報を得た一人のカナン人が叫びながら、イエス様に近づいてきました。マタイ1522すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 この女性は異邦人でありながら、イエス様を「主よ。ダビデの子よ」と呼んでいます。だれが、彼女にイエス様がそのような方であることを教えたのでしょうか?本当に信仰があるのでしょうか?ただ、娘を助けたいがためのご利益信仰なのでしょうか?イエス様は退去するために、そこを訪れたのです。マルコ7章には「だれにも知られたくないと思われた」と書いてあります。なのに、発見されてしまいました。イエス様としては迷惑な話です。なぜなら、このところにミニストリーをするために来なかったからです。ここに来たのは、人々を避けて休むためでした。しかし、この女性はイエス様を探し出してやってきたのです。イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ77-8と教えたことがあります。この女性は「だれであれ」の中に入ります。つまり、カナン人であれ、異邦人であれ「求める者は受け、捜す者は見つけ出す」ということです。彼女は運命論的なハンディを負っていました。生まれたのがツロ・フェニキヤでした。そして、カナン人であり、イスラエルによって征服されるべき先住民です。自分だけではなく、娘も呪われており、悪霊によって苦しめられていました。悪霊は理由なくして人間には入りません。マルコ福音書には「汚れた霊」と書かれています。ですから、この親子は希望が全くない、異邦人の女性でした。

 私はこの物語を読んだとき、自分のことを考えました。私は裏日本の秋田で生まれました。家は禅宗で「死んだらあのお寺にお世話になるんだ」と思っていました。8人兄弟の7番目だったので、高校卒業後、東京に出てきました。人生のテーマは「好きなことをして生きる」でありました。「面白おかしく暮らして、死ねば、それでおしまい。」と思っていました。ところが25歳でイエス様を信じてから、永遠のいのちが与えられ、全く人生が変えられました。私はキリスト教とは全く縁のない人間であり、最も救われにくい人物であったと思います。私の過去を知っている人たち全員、そう言うでしょう。興味深いことに、ツロ・フェニキヤはイスラエルの北に位置していました。イエス様は休むために、たまたま寄ったのです。どころが、そこに一人の女性がいたのです。彼女はカナン人であり、生まれ(血統)にハンディを持っていました。でも、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」とやって来たのです。彼女がイエス様を求めたのは、娘のためです。娘が健康で問題がなかったなら、来なかったかもしれません。でも、娘がカナン人の呪いのせいなのか、悪霊に苦しめられています。その娘を助けたい一心で、彼女はイエス様のところにやって来たのです。

 彼女は「生まれ(血統)」に問題がありました。これは、自分の運命に対する誘惑です。でも、運命を乗り越えるようなことが起こりました。イエス様が異邦人の地、ツロ・フェニキヤにやって来たからです。本来はイエス様と出会うことがありませんでしたが、娘がひどく悪霊につかれ苦しんでいました。彼女はイエス様が病を癒したり、悪霊を追い出した情報を得ていたのでしょう。もしかしたら彼がメシヤではないかという噂まで聞いていました。彼女は、一心不乱でと申しましょうか?生まれとか血統のことを脇において、イエス様に近づいてきたのです。中世ヨーロッパでは生まれや血統がすべてでした。生まれによって、その人の運命が決まったといっても過言ではありません。日本も江戸時代にそういうことがあったでしょう。今日でもそういうことがある程度あります。では、そういう人は神さまの恵みを受けるチャンスがないのでしょうか?あります。あります。ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。「血によってではなく」とは、生まれは関係ないとうことです。イエス様は私たちの運命を変えてくださるお方です。

2.無視

 次に彼女は「無視」という障害を乗り越えました。これは自分の存在に対する誘惑です。イエス様は彼女にどのように応対されたでしょうか?全く応対していません。23節しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った」何かの間違いじゃないでしょうか?イエス様はマタイ7章で「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出す」とおっしゃったではありませんか?それでは、矛盾しているではありませんか?イエス様は差別をつけるのでしょうか?24節しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。このところに、彼女が無視された理由が記されています。イエス様が来られたのは、イスラエルの家の失われた羊のためでした。「それ以外のところには遣われていない」と言われました。彼女は諦めたでしょうか?「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った」とあります。

 無視されても引き下がらなかった彼女のことばに2つの特徴があります。第一は「私をお助けください」と願っていることです。正確には「私の娘を助けてください」と言うべきでしょう?その前にも「私をあわれんでください」と叫んでいました。どうして「娘」ではなく、「私」なのでしょうか?母親だからでしょうか?このところには母と娘の深い絆を見ることができます。第二は「イエスの前にひれ伏した」と書かれています。これはイエス様を礼拝したということです。カナン人にはありえないことです。最初は「主よ。ダビデの子よ」と呼びかけていました。今度は「主よ。私をお助け下さい」とひれ伏しています。この時、イエス様の心が動かされたのではないでしょうか?ところで、今年の箱根駅伝ですが、青山学院が3年連続優勝しました。そのためもあり、原監督がテレビにひっぱりだこです。16日のミヤネ屋という番組に出ていました。どういう選手に原監督が目をつけるかという質問がありました。「チャライ人、明るい人、おしゃべりな人が良い」と3つの特徴をあげていました。そして、「こころ根の悪い人は実力があってもダメ」と言っていました。「どうしておしゃべりな人が良いの?」とさらに聞かれたら、「しゃべることは頭の回転が良いということ。選手自身が自分で考えて決断することが大事。暗くて、心根の悪い人は私の言うこともきかないし、指導できない」と答えていました。私は結構しゃべる方なので、「良かったなー」と思いました。でも、「心根って何だろう?」と思いました。インターネットには「意地が悪い」とか「ひねくれている」という意味だと書かれていました。カナンの女性はイエス様から無視されましたけど、自分のことよりも娘を思って、イエス様の前にひれ伏しました。そういう意味では、心根の良い女性だったのかもしれません。

 福音書には選民イスラエルよりも、信仰が篤い異邦人のことが良く書かれています。たとえば、ローマの百人隊長は、「私のしもべを癒してください」とイエスに願いました。イエス様が「行って、直してあげよう」と言ったら、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。ただ、おことばを下さい。私のしもべはなおります」と答えました。イエスさまは「イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがない」と言われました。百人隊長は使い捨ての時代であっても、自分のしもべのためにイエス様のところに頭を下げてやって来たのです。一方、パリサイ人や律法学者たちはどうでしょうか?イエス様は彼らの心の思いを知って「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と言われたことが度々あります。ということは、イエス様は人の心の中がご存じだということです。私たちはいくら祈っても答えが得られない時はないでしょうか?神さまは私のことを覚えていらっしゃらない。無視しているのではないだろうか?しかし、そんなことはありません。その求めが本当に心の底から出ているのか、ご覧になっておられるのではないでしょうか?カナンの女性に対しても、しばらくイエス様は無視していましたが、そうではありません。そのことば、その態度から、彼女の心根を調べておられたに違いありません。ついに、彼女は無視という障害を乗り越えることができました。私たちも諦めずに、イエス様に迫って行くべきではないでしょうか?ダビデはこのように叫んでいます。詩篇3912「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。」

3.犬呼ばわり

 イエス様がさらに、口を開いて答えてくださいました。マタイ1526すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。第三は「犬呼ばわり」という障害、これは自分のプライドに対する誘惑です。その当時、ユダヤ人は異邦人に対して犬と呼び、さげすんでいたそうです。その場合の犬は、野良犬のことでした。イエス様はこのところで「小犬」とおっしゃっていますが、家庭でペットとして飼われている小犬です。一方、「子どもたち」というのは、イスラエル、ユダヤ人のことであります。イエス様は子どもたちにパン(救い)を与えるために、来られたのです。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」とは至極当然です。でも、そのことばを聞いたカナンの女性はどう答えたでしょうか?犬呼ばわれされたのですから、プライドが傷つくでしょう。「馬鹿にしないでよ」と怒って、帰ることもできたでしょう。彼女にとって、ものすごい誘惑だったのではないでしょうか?しかし、何と答えたのでしょうか?マタイ15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」彼女は「そのとおりです」と自分が小犬であることを認めました。その次に「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えました。なんと機知に富んだ答えなのでしょう?イエス様も「小犬」と少々ひっかけましたが、彼女はすばらしい機知の持ち主でした。確かに、飼われていた小犬は食卓から落ちるパンを食べることができました。つまり、「私はおこぼれで構いません。ユダヤ人のおこぼれでも良いですから、私にください」と願ったのです。これに対してイエス様はどう答えたでしょう?マタイ15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 明らかにイエス様は感動しておられます。いや、彼女を賞賛しているのかもしれません。なぜなら、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と答えておられるからです。イエス様は「ツロ・フェニキヤにこのような信仰の持ち主がいたのか」と驚いたのではないでしょうか?本来なら人々を避けて休むためにこの地を訪れたのに、どういうことでしょう。もう疲れがいっぺんに吹き飛んだのではないでしょうか。機知を英語でwitとも言いますが、witにはいろんな意味があります。頓知、気転、才覚、分別という意味もあります。旧約聖書でwitに富んだ女性がおります。それはアビガイルという女性です。彼女の夫はナバルでした。Ⅰサムエル253「彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。」と紹介されています。ダビデはサウル王から身を隠していました。ある時、ダビデはナバルの羊たちを守ってやったことがありました。でも、そのとき食べ物が不足しており「手もとにある物を分けてください」と使いをやりました。しかし、ナバルは「ダビデとはいったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。この肉をどこから来たのかわからない者どもに、くれてやらなければならないのか」と悪口を言いました。ダビデはそれを聞いてかんかんに怒って、剣を持った四百人と一緒に下って行きました。そのとき、アビガイルがダビデの足もとにひれ伏して、「ナバルはその名のとおり愚か者です。気にかけないでください」とお願いしました。アビガイルの気転によって、ダビデは復讐しないで済みました。その後、ナバルは主に打たれて死に、アビガイルはダビデの妻になりました。他にもラハブ、ヤエル、エステルなど聖書には機知に富んだ女性が出てきます。ツロ・フェニキヤのカナンの女性もその一人であると思います。その時、この女性の娘は悪霊から解放されました。マルコ730「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」と書いてあります。

 カナンの女性の信仰がどうして立派だったのかまとめてみたいと思います。イエス様は一回で彼女の願いを聞いてあげませんでした。愛と恵みに満ちたお方としては意外なことのように思えます。しかし、イエス様は彼女の信仰が本物であるかどうか試す必要がありました。女性は「主よ。ダビデの子よ」と呼んで近づいて来ました。彼女はカナン人です。ただ名前を呼ぶだけのご利益信仰かもしれません。だから、イエス様はひとことも口をきかず、無視しました。彼女は自分の存在を否定されたのですから、怒って去っていくこともできました。イエス様は「イスラエルの家の失われた羊以外には遣わされていない」と断りました。するとこの女性は、「主よ。私をお助けください」とひれ伏して願いました。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない」と頓智のめいたことを言われました。彼女は犬呼ばわりされたと同然です。「プライドを傷つけられた」と怒って、去っていくこともできました。ところが「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と頓智で返しました。それは「イスラエルのおこぼれでも良い」という意味です。イエス様は感動して「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と願いをお聞きくださいました。彼女は「カナン人という生まれ」、「無視」、「犬よばわり」と3つの障害を乗り越え、その信仰が本物であると認められました。その結果、娘の救いを得たのであります。一見、イエス様が意地悪されたかのように思えるかもしれません。でも、これは私たちへの教訓ではないかと思います。彼女は何度も憤慨して、その場を去ることもできました。しかし、娘の救いのために執拗に食い下がりました。

どうでしょう?私たちはすぐ躓いて教会を去ったり、信仰を捨て去るのではないでしょうか?私はクリスチャンになって38年、牧師になって30年になりますが、多くの人たちがいとも簡単に教会から去ってしまうことを目撃しました。牧師として一番悲しいのはそのことです。「躓いた」という表現は教会で良く用いられる表現かもしれません。世の中では「自分の過失やあやまち」として捉えられていますが、教会では別の意味があるようです。信仰に躓くというのは、どこかに「自分は正しくて、他は間違っている」というニュアンスがあります。教会に来ることは仕事や学校と違います。本人の自由であり、義務ではありません。「来たくなければ来なくて良い」のです。でも、どこか甘えがあるような気がします。信仰というのはそんなに薄っぺらいのでしょうか?私たちはもっと大きなものに捕えられていることを自覚すべきだと思います。そうしたら、簡単には躓かないと思います。もっと大きなものとは私たちの救いのために、神さまがひとり子イエス様を十字架に与えたということです。私たちの救いのためにはイエス様のいのちがかかっています。このお方を救い主、人生の主として信じることは口先だけのことではありません。私たちの存在がかかっており、神さまもそのように受け止めてくださいます。

 このツロ・フェニキヤの女性はカナン人でした。異邦人であり救いから漏れていた人でした。しかし、生まれがどうであれ、無視されても、犬呼ばわりされても、イエス様に求めました。なぜなら、娘の解放を何よりも願っていたからです。その信仰がイエス様に立派だとほめられました。私たちの信仰はもしかしたら淡泊で、「ああ、それなら結構です」とセールスを断るような口調かもしれません。イエス様との関係は十字架の血潮による契約です。イエス様がご自身の血で私たちを買い取ってくださったのが教会です。一度、キリストを信じたら、死んでも離してはいけません。なぜなら、永遠がかかっているからです。もちろん、信仰は私たちの側だけではなく、イエス様の真実があって成り立つものです。でも、私たちには私たちの責任もあるはずです。神さまはイエスさまと聖霊を与えて、ご自身の責任を果たしておられます。そうであるなら、私たちも自分の信仰告白を堅く保って、やがてイエス様のもとに立つときを待ち望みたいと思います。ツロ・フェニキヤの女性のように、イエス様の前にひれ伏して礼拝しましょう。その時、主は「ああ、あなたの信仰は立派です」とおっしゃってくださると信じます。

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