2018年1月13日 (土)

羊と山羊のたとえ マタイ25:31-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.14

 マタイは、世の終わりの出来事について、24章と25章でまとめています。きょうは、その最後ですが、永遠の刑罰と永遠のいのちについて書かれています。まさしく、「最後の審判」が記されています。一番の問題は、これが行いによってさばかれているということです。マルチン・ルターは「信仰義認」ということをローマ書とガラテヤ書から発見しました。信仰義認は、私たちプロテスタント教会の神学的な土台です。しかし、きょうの箇所はその土台が揺るがされるような内容になっています。聖書に矛盾はないと信じますが、一体どうなっているのでしょうか?

1.証拠となる行い

 マタイ2531-34「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」これは「羊と山羊のたとえ」と言われていますが、単なるたとえではありません。なぜなら、「世の終わりの審判」について記しているからです。人の子であるイエス・キリストご自身が王であり裁判官です。ソロモンもそうでしたが王様が裁判官になるということは、旧約聖書時代よくありました。マタイ16章にも「世の終わりに、イエス様ご自身が御国の王となって、おのおのの行いによってさばく」と書かれていました。さらにマタイ19章には「弟子たちもイエス様と一緒にさばきの座につく」と書かれています。ミケランジェロがダンテの神曲からインスピレーションを得て『最後の審判』という壁画を描きました。イエス様の周りには、使徒パウロが加えられた弟子たちが描かれています。詩人ゲーテがその壁画の前で「一人の人間の成しうる偉業の大きさを知りたいと思う者は、この絵の前に立つがいい。と言ったそうです。この壁画はイエス様から見て右側が天国へ昇る人々、左側が神に背いて呪われた人たちが地獄に落ちる様子が描かれています。聖書のたとえでも、羊を右側に、山羊を左側に分けられています。

 裁判のときに最も重要なものは、証拠であります。では、どのような証拠が永遠の刑罰と永遠のいのちの根拠となるのでしょうか?信仰を告白していたことでしょうか?どこかの地上の教会に属していたことでしょうか?あるいは、尊い奉仕をしていたことでしょうか?マタイ25:35-36「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』ここには、空腹な人に食べ物を与え、渇いた人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねるという6つの良い行いが書かれています。重要なことは、「わたし」というのが、王であるイエス・キリストだということです。最後にイエス様は「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ2540と言われました。ということは、彼らがしたことが、「イコール、イエス様」ではなく、「イエス様にしたことと同じだ」ということでしょう。ところが、マザーテレサは「道端に倒れている人の中にイエスを見る」「いや、小さなイエスだ」とまで言いました。比喩ととらないで、イエス様そのものと捉えているようです。でも、彼女がなさった愛のわざに対して、プロテスタント教会は脱帽するでしょう。なぜなら、プロテスタントは「愛のわざよりも、信仰告白に導くことが重要だ」と言ってしまうからです。でも、このマタイ25章の記事を読むなら、信仰告白がすべてではないと思わされます。プロテスタント教会は、

できたら、このたとえ話を聖書から切り取りたいと願うでしょう。なぜなら、信仰義認に真っ向から反対しているように思えるからです。

 裁判で最も重要なのは、証拠であります。私は法律の専門家ではありませんが、証拠というのは実際にどういうことをしたということでしょう。その人が「信仰告白をしていた」ということよりも、「自分の信仰告白のとおり生きていた」ことが裁判の証拠になるのではないでしょうか?つまり、「空腹な人に食べ物を与え、渇いた人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねる」ということが、信仰を持っている証拠だということです。「いやいや、私は日曜日、神さまを礼拝していましたよ。献金をささげ、奉仕もしていましたよ」と反論するかもしれません。イザヤ書58章には、宗教行事よりも重要なことが記されています。リビングバイブルから引用します。イザヤ586-7「私の喜ぶ断食とは、労働者をいじめることをやめ、公平な扱いをし、彼らの給料をピンはねしないことではないか。空腹の物には食べ物を分け与え、身寄りのない者、暮しに困っている者を家へ迎えること、それがおまえに望むことだ。寒さに震えている者には着物をきせ、親族が助けを求めているのに姿をくらましてはならない」とあります。イザヤ書58章は「神殿に来て、いかにも神さまを敬っているように振舞っているけど、日々の生活はどうなんだ」と問うています。日曜日、神さまを礼拝し、献金をして、奉仕をすることはもちろん良いことです。でも、それは牧師から見た良いことかもしれません。神さまは、日曜日だけではなく、日々の生活の行いをご覧になっておられるのではないでしょうか?つまり、本当に神さまを愛して礼拝している人は、自分の兄弟たち、しかも最も小さい者たちを行いによって愛するということです。

 この世の中には「有言実行」「不言実行」というのがあります。どちらが良いとは申しませんが、プロテスタント教会は信仰告白をとても重要視します。ヤコブ書には「舌は全身を支配する小さな器官である」と書かれています。端的に言うと、口で告白するならば、そのような行いが出てくるということです。私たちは神さまを賛美し礼拝します。同時に、日々の生活の中で隣人を愛し、祝福するものでありたいと思います。証拠としての良い行いが出るとは、私たちが心から神さまを礼拝し、愛している結果であります。良い行いは上からやってくるのです。

2.実である行い

 マタイ2537-39「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』このところで注目したいのは、本人たちは自分がしていることを自覚していなかったということです。言い換えると、兄弟たちや小さい者たちにしたことが、イエス様にしたのだとは思っていなかったということです。一方、左側の人たちは、「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか」と文句を言っています。つまり、「イエス様、あなたのためにやりましたよ」ということです。右側の人たちには自覚がなく、左側の人たちは自覚があったということです。ところで、「パフォーマンス」ということばがあります。Performanceは一般的に演奏、演技という意味で使われます。しかし、元来は、実行、動作、善行という意味です。良い行いが人から歓心を買うためのみせかけということもありえるのです。パリサイ人や律法学者たちがそうでした。だから、イエス様は人前での、施しや祈り、断食などを注意しています。善行は、人前ではなく、隠れたところで行いなさいと言われました。おそらく、右側の人たちは、人からの報いを期待せず、隠れたところで行っていたと思われます。でも、隠れた所におられる神さまは良くご存じでした。

 一方、左側の人たちは、「良いことをしなけばならない」とがんばっていたのではないと思います。「一日一善」ということを聞いたことがあります。それだと、「きょうは善いことを1つしたから、もうやらなくても良い」となります。「一日何善」でも良いし、あるときは「一日ゼロ善」の日があっても良いのではないかと思います。左側の人たちは、「永遠のいのちに入るため、善いことをしなければならない」と考えていたのではないでしょうか。もし、そういう動機だったら、良い行いは汚れていることになります。新約聖書の考えは、私は神さまの恵みによって救われているので、良いことをするのです。良い行いは多大な罪の負債に対する償いではありません。何故、私たちは良い行いをするのでしょうか?それは良い行いをするように新たに作り変えられたからです。もっと言うと、救われたので良い行いが実として生じてくるのです。英語ではproduceです。ヨハネ15章にぶどうの木のたとえがあります。ヨハネ15:5,8「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。… あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」アーメン。良い行いは私たちががんばって行うということよりも、イエス様からくる愛とエネルギーによって生産されるということです。良い行いの源はイエス様で、私たちはその管(チャンネル)です。私たちを通して、イエス様の良いわざが現れるというのが本当です。そうなると、「がんばって良い行いをしなければ!」とはなりません。私たちは、良い行いをしなくても神さまから既に愛されているのです。私たちは「しなければならない」という律法から解放されています。むしろ、「恵みによってそうさせていただきます」となるのです。非常に能動的であり、そこには気負いや緊張感はありません。

 もし、良い行いが信仰の実であるとしたなら、信仰義認と矛盾することはありません。信仰義認を強調した、当時のマルチン・ルターはヤコブ書を「藁の書である」と卑下しました。しかし、信仰義認はもしかしたら、口先だけかもしれません。ことばでは信仰を告白しても、その行いで否定するかもしれません。ヤコブの手紙には、「もし信仰があるなら、良い行いを見せてくれ」とチャレンジしています。ヤコブ2:15-17 「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」ヤコブはイエス様の肉の兄弟ですから、イエス様の教えを理解していました。ですから、マタイによる福音書と矛盾していません。むしろ、良く似ています。マルチン・ルターは信仰義認という救われることの重要さを説きましたが、ヤコブはその後のことを書いているのです。つまり、本当にイエス様を信じているなら、このような良い行いも生じてくるということです。

 私は1987年に当亀有教会に赴任しました。その頃は、古い会堂で本当に庶民的でした。ある朝、酔っ払いが会堂で寝ていた時もりました。また、脳梗塞で倒れていた男性を1か月くらい泊めてあげたこともありました。救急車で運ばれて子どもを生んだ女性と家内が産院で知り合いになりました。その身元不明の親子を教会で面倒見たこともあります。その当時は、困っている人がよく訪ねてきました。お金を貸しても帰ってきませんでした。私も若かったので、体当たりで世話をしました。でも、私はイエス様にしたとは思っていません。その時、1つだけ発見したことがあります。古い会堂のときはいろんな人たちがやってきました。28名の礼拝から、たちまち56名くらいになりました。でも、良い普通の人もやってきましたが、訳ありの人もやってきました。こちらとしては、良い普通の人だけ来てほしいのですが、神さまのみこころはそうでもなかったようです。私たちは自分の目で「この人は救われる人」、「この人は救われないのではないか」と外見で判断しがちです。このたとえ話には、羊と山羊が登場します。当時の牧畜は、羊と山羊を両方飼っていたようです。言い換えると、両者が混じっていたということです。私たちの時代も、両者が混じっています。ですから、さばきは王なるイエス様にゆだねて、ただ良い行いをすべきだと思います。良い行いは神さまが愛してくださった感謝と、救われたことによる実であります。イエス様は私たちを通して、ご自身の愛を表わしたいと願っておられます。ですから、しぶしぶではなく、喜んで愛の器となるように自分たちをささげたいと思います。

3.永遠の報い

 マタイ25:45-46「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」私たちは「報い」と聞くと悪い方に捉えがちですが、そうではありません。聖書には、報いには良い報いと悪い報いが記されています。一方は永遠の刑罰に入り、もう一方は永遠のいのちに入ります。私たちは、ここに中間がないということを注意しなければなりません。こういう、どちらかのさばきがあると他のところにも書かれています。ヨハネ527-29「また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」しかし、ここでも問題になるのが、さばきの基準です。マタイ25章においても、ヨハネ5章においても、行ないが基準になっています。でも、どのくらい善をおこなった者がよみがえっていのちを受けるのでしょう?また、どのくらい悪を行った者がよみがえってさばきを受けるのでしょう?人間の一生はそんなに単純ではありません。良いことをしたときもあれば、悪いことをしたこともあります。それらを足し引きしてみて、良いとか悪いと決めるのでしょうか?

 話はぜんぜん違いますが、ルカ福音書23章にふたりの犯罪者が登場します。一人はイエス様の右に一人はイエス様の左に十字架に付けられました。両者とも最初はイエス様に悪口を言っていました。ところが、犯罪者のひとりは「われわれは、自分のことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。彼はイエス様の「父よ。彼らをお赦しください」という祈りを隣で聞きました。続けて、隣におられるイエス様に言いました。「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と。彼はイエス様がいつか御国の位に着いてさばきを下される王であることを信じていました。彼は犯罪者ですから、死刑になるような悪いことをしたのでしょう。ですから、「自分が犯した罪を赦してください」とは願わず、「ああ、隣にいたヤツだなーと、私を思い出してください」と願っただけです。彼は、信仰義認によって救われるプロテスタント教会の基準には達していません。教会に行ったこともないし、罪を悔い改めて洗礼も受けていません。むしろ、マタイ25章やヨハネ5章に言われている、悪を行った者の典型です。彼が、旅人に宿を貸したとか、飢えている者に食べさせたなんてことはしなかったでしょう。逆に、人のものを奪って、弱い人たちを虐待してきたのではないでしょうか?しかし、彼は自分がしてきた悪を認めていました。だから、「救って下さい」とか、「赦してください」と口はばったくて、言えなかったのです。でも、彼にイエス様は何とおっしゃったでしょう。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます。」永遠の御国に入る善、そして永遠のさばきを受ける悪の基準が分かりません。

 報いということを考えると、ものすごく救われる人の範囲が広くなります。マタイ10章には12弟子を派遣する記事が書かれています。その最後に何と書かれているでしょう。マタイ1042「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」ここに記されている良い行いは「水一杯」です。イエス様の弟子ということで、水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れることはないと言われています。「まことに、あなたがたに告げます」ですから、間違いない、本当にということです。私たちは「水一杯」くらいはだれかに差し上げたのではないでしょうか?私が教会でお昼を食べるとき、「コーヒー、一杯」を差し上げて下さる姉妹がおられます。「その人は決して報いに漏れることはありません」アーメン。「そんなに御国に入る基準を下げて良いのですか?」と文句が出そうです。聖書を見ると、良い行いをして堂々と御国に入ったという人は少ないです。ザアカイは取税人で人々から嫌われていました。ザアカイは木の上に登り、イエス様を待ち伏せしている小賢しい人でした。でも、イエス様は「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。ザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えました。人々はそれを見て、「あの方は罪人のところに行って客となった」とつぶやきました。ザアカイは取税人ですから、良いことよりも、悪いことをたくさんしていたでしょう。彼は、後から「私がだましとった物は、4倍にして返します」と言っているからです。でも、それは彼が救われたので、良い行いが出てきたのです。

 「良いと悪い」の基準は何でしょうか?もちろん、私たちの行いも重要です。神さまは私たちが行ったすべてのことを書物に書いていると信じます。でも、「良い行い」の最高のものは何でしょう。それは、イエス様を信じて、心にお迎えすることではないでしょうか?なぜなら、イエス様を信じるとすべての悪が帳消しにされ、神の義がその人に与えられるからです。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪を帳消しにするためです。もう、ご自身の血によって、前払いされたのですから、私たちに罪はありません。神さまは私たちを悪い行いによってさばきません。神さまがさばく最も悪い事とは何でしょう?「悪い行い」の最高のものは何でしょう?それは、人類の救いとして与えた御子イエスを信じなかったことです。「御子イエスによって、あなたの罪を贖い、義とする」という神からの最大の贈り物を拒絶することです。神からの愛を拒絶すること、これこそが最大の罪であり、悪です。神さまの目から見たなら、不信仰こそ最も悪いことなのです。その他のさまざまな悪い行いは、不信仰と比べたら微々たるものです。あなたはだれかにプレゼントをあげたことがあるでしょうか?それはあなたの純粋な気持ちからあげたものです。しかし、「こんなものはいらない」とつっかえされたら、どんな気持ちになるでしょうか?心で思うのは勝手だけど、せめて受け取ってほしいと思うでしょう。父なる神さまも同じです。私たちの悪い行いは御子イエスの十字架ですべて帳消しになりました。すべてイエス様の贖いを受け取る人は、義なる人であり、父なる神さまからの報いを受けることができるのです。

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2018年1月 5日 (金)

タラントのたとえ マタイ25:14-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.1.7

日本では「タレント」というと、歌手や俳優などの芸能人のことを言います。もともとは「タラント」と言って、重さや貨幣の単位でした。ところが、だんだん「才能、技量、才能のある人」という意味に変化していったようです。世の終わり、キリストが来られるとき、預けられていたタラントに忠実であったかどうか問われています。広い意味でタラントは、地上での人生、お金、財産、能力、チャンス、神からの賜物ということができるでしょう。

1.良い忠実なしもべ

 その当時は主人が自分の財産をしもべたちに任せて運用させていました。彼らは単なる奴隷ではなく、家令とか執事と呼ばれていたようです。「主人が自分の財産をしもべたちに預けて、旅に出て行く」と書かれていますが、王権をいただいて戻ってくるキリストをたとえています。しもべたちとはこの世の人たちのことではなく、信仰者、つまりクリスチャンです。15節「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」このところに「タラント」がお金の単位として出てきます。1タラントは6,000日分の給与ですから、今ですと6,000万円です。5タラントだと3億円、2タラントだと12,000万円です。1タラント預けられたしもべでも、6,000万円ですから、決して少額ではありません。このところで注目する表現は「おのおのその能力に応じて」であります。ある人は不公平だと思うかもしれませんが、おのおのその能力に応じて分配されています。ある人には5タラント、ある人には2タラント、そしてある人には1タラントです。これは人と比べる必要はありません。なぜなら、神さまはこの人はどれくらいのタラントを運用できるか、その能力を良くご存じだからです。5タラント預けられた人をうらやんではいけません。なぜなら、神さまから多く任された人は、それなりの大きな責任が伴うからです。私は1万人の教会を任されても無理です。でも、450人ぐらいだったら牧会できるような気はします。大和カルバリーで説教したことがありますが、あの半分位だったら大丈夫なような信仰はあります。

 「良い忠実なしもべだ」と主人からほめられた人たちには共通点があります。16,17節「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。」「同様に」とありますので、確かに共通点があったということです。良い忠実なしもべの特徴とは何なのでしょうか?それは、「すぐに行って、それで商売をして…もうけた」ということです。原文にもエウスースが最初にきています。これは「すぐ、即座に、早速」という意味です。このことばはマルコによる福音書に多く出てきます。マルコ福音書ではイエス様がすぐに行動したことが強調されています。「すぐに、イエスがお呼びになった」「そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた」「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて」。このように行動する神のしもべとしてのイエス様が描かれています。「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をした」とあります。「時は金なり」という諺のごとく、彼は時間を無駄にしませんでした。「商売をする」は、英語でtradeです。Tradeというのは、「商う、売買する、取引する、貿易をする」という意味があります。つまり、持っているお金で何かを仕入れて、それを他の人に売るのであります。商社の人たちは、どこかの国から大量に何かを買って、地方の会社に分配して儲けているようです。でも、tradeは一種の投資ですから、相場が変動して損するときもあるでしょう。海上貿易などでは、船が難破した場合、全部失う恐れがあります。日本では紀伊国屋文左衛門という人が有名ですが、ミカンとか塩鮭を江戸に運んだ商人です。商売は一種の賭けですから、うまくいかないときもあるでしょう。交易で国を栄えさせたソロモンがこのように言っています。伝道者の書1146「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。…朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」商売をするというのは、一種の賭けであります。だから、大損するときもあるでしょう。でも、この主人はそのことも覚悟の上で、しもべたちにタラントを預けたのです。5タラントと2タラント預けられたしもべたちは主人の信頼に応えようと励んだのであります。

 二人は「良い忠実なしもべ」だとあとからほめられています。忠実というのは、ただ、タラントを保管しておくのではありません。それを元手にして商売をする、運用をするということです。私たちも神さまから様々なものが与えられています。体力のある人、計算ができる人、発明する人、何かを作る人、ものを書く人、歌ったり踊ったり人、私のようにしゃべったりする人がいます。また、クリスチャンになって霊的な賜物が開花するかもしれません。癒しとか奇跡、預言、教えることもタラントです。私たちは人と比べないで自分が与えられたものに忠実であるべきです。1タラントの人は、他の人たちと比べて「自分のは、少ない」と思ったかもしれません。それでも、現代のお金で6,000万円ですから、結構な額です。エペソ47「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」「恵み」は「カリス」であり、霊的な賜物です。だれが、それぞれに与える量を決めるのでしょう。教会のかしらであるイエス・キリストです。同じ伝道でも、大講堂で話す人もおれば、個人の伝道もあります。未来を預言する預言者もいれば、励ましを与える程度の預言もあります。同じ賜物でも、キリストの賜物の量りによって違います。2タラントは2タラント分やれば良いのです。5タラントの人が2タラントしかもうけなかったなら、怠けていると言われるかもしれません。1タラントの人は5タラントやらなくても良いのです。それぞれ与えられたタラントの量に忠実であれば良いのです。どうか他の人と比べてうらやんだりしませんように。ペテロはヨハネを見て、「主よ。この人はどうですか」と聞きました。イエス様は「それがあなたと何のかかわりがありますか?あなたは私に従いなさい」と言われました。ですから、私たちは自分に与えられたレースを走れば良いのです。どうぞ、自分に与えられたタラントを発見し、それを神さまの栄光のために忠実に用いましょう。

2.悪いなまけもののしもべ

 1タラント預けられていたしもべは、主人から「悪いなまけ者のしもべだ」と叱られましたがどうしてでしょうか?まず、彼は預けられた1タラントをどうしたでしょうか?マタイ25:18 「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」他の二人は、すぐに行って、それで商売をしました。しかし、彼は出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。当時は、地面に穴を掘って、お金や宝ものを隠したようです。彼は主人のお金を運用する気は全くありません。さっさと、地面に埋めてしまいました。これは、神さまから与えられたタラントを全く用いないクリスチャンのことであります。冒頭でタラントとは、地上での人生、お金、財産、能力、チャンス、神からの賜物と申し上げました。いや、彼はそれらを使ったと思います。でも、神さまのためではなく、全く自分自身のためでした。J.Cライルという人が1タラントのしもべのことをこのように解説しています。「タラントを隠したということは、神さまの栄光を現す機会を放棄したということである。聖書には祈りを怠る人、安息日を破る人、快楽を求める人、地上のことに心を配る人、金を愛する人、よくばり、怠け者、彼らはみな、主のお金を地面に埋めるような人である。」私たちは神さまからいろんなタラントを任されているという自覚が必要であります。自分の健康、人生の時間、親から譲り受けた財産、さまざまな能力、神さまからの賜物、そしてチャンスであります。伝道者の書には、「すべての営みには時がある」(伝道31とありますので、好機も神さまが与えたタラントと言えるでしょう。さきほどの、5タラントと2タラント預けられたしもべたちは、好機を逃さなかったということが想像できます。だから、それだけ儲けることができたのでしょう。箴言には「怠け者は手を皿に入れても、それを口に持っていこうとしない」(箴言1924と書いてあります。

 一番の問題は、1タラントのしもべの主人に対する見方であります。これは信仰者の神さまがどういうお方かという神概念と共通しています。1タラントのしもべは主人をどのように見ていたのでしょう?彼はぬけぬけと、主人の前でこのように告白しています。マタイ2524,25『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』これはどういう意味でしょう?彼は、主人は自分でちっとも働かないで、しもべたちを働かせていると考えていました。彼はタラントを預けられたとは考えず、無理やり押し付けられたと考えていました。もし、それを失ったら、ひどい目に合うので、地面を掘って隠しておいて、そのまま戻そうと考えたのです。なんと、彼は「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」と断言しています。それでも彼は1タラント、今ですと6,000万円も任されていたのですから、決して少ない額ではありません。ラーメン屋さんとか弁当屋さんくらいはできたのではないでしょうか?彼は「神さまはケチで、冷たい方、エジプトの主人のようだ」と考えていたのです。それは、自分が奴隷であるということであり、家令とか執事では全くないということです。主人のお金を預かるなんて、全く迷惑なことだと思っていたのです。だから、責任逃れをするために地面を掘って隠したのです。彼は元金をそのまま返せば良いだろうと思っていました。ところが、主人は何と言ったでしょう?

 マタイ25:2627 「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。』」当時、今のような銀行があったかどうかは分かりません。原文には、両替人と書かれています。ギリシャ人は海上貿易のために保険組合を作っていました。おそらく、お金をだれかから預かって、それを運用するシステムもあったのかもしれません。もし、そうであれば元金に対してそれなりの利息がつきます。だから、この主人は「私をそんなにひどい人物だと思ったなら、「銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ」と言ったのです。1タラントのしもべは、そのまま返せば、責任を果たせると思いました。でも、そうではありませんでした。彼は主人のお金を日々、浪費していたのです。当時も、今のような物価指数というのがあったと思います。10年前の1万円と今の1万円では全く、価値が違います。6,000万円を10年後に、6,000万円返してもらったなら、損していることになります。だから、せめて、銀行に預けておいたなら、なんとか言い逃れができたでしょう。でも、このしもべは、全くやる気がなかったのです。なぜなら、主人を「ひどい方だ」と恨んでいたからです。「主人のために骨を折って、危険を犯して、働くなんてまっぴらごめんだ」と考えていたのです。

 もし、これがクリスチャンの神さまに対する考え方だとしたらどうでしょうか?私たちの神さまはエジプトの王様であり、私たちはその奴隷なのでしょうか?ある人が祈りをささげますが、「天の神さま」とは呼べても、「天のお父様」と呼べない人がいます。みんながそうだとは申しませんが、自分を愛してくれる気前の良いお父さんだという体験がないからです。地上のお父さんがケチで、愛がなく、独裁者みたいだったらどうでしょう?天の神さまもそのように思えるかもしれません。あるいは「他の人にはたくさんあげて、自分にはたった1タラントしかくれない」と妬みやひがみがあるのかもしれません。「何で、私が神さまのために仕えなければなららないんだ。私は私の人生を楽しんで何が悪い」。そういうクリスチャンもあるいはおられるかもしれません。神さまにささげるお金、時間、奉仕が、まるでどぶに捨てるようなものだと考えるならとても悲しいことです。その人は「神さまはひどい方だ」と思っているからです。私たちは神さまに対する見方を変えなければなりません。心のメガネが曇っているか、ゆがんでいるのです。神さまは愛なるお方です。なぜなら、御子イエス・キリストを私たちに与えてくださったからです。ローマ832「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

3.神さまの報い

 私たちはいずれキリストの前に立って、清算をする時が来ます。一方は良い報いが、他方は悪い報いが与えられます。パウロがこう述べています。Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」このさばきは、黙示録で言われている「神の白いさばき」とは異なります。キリストのさばきとは、キリスト信者が生前行って来たことに対する報いであります。これでさばかれたからと言って、地獄に落ちるわけではありません。なぜなら、どんな人でもキリストを信じるだけで救われるからです。信仰義認、恵みによる救いは失われることがありません。ただし、この地上の後に訪れる千年王国(御国)において、報いがなされるということです。千年王国は名のとおり、1000年ですから、長いでしょうか?短いでしょうか?その後に、新天新地がおとずれ、このところにはキリストを信じている人ならば、だれでも入ることができます。千年王国においては不平等があるかもしれませんが、新天新地においてはみなが平等です。なぜなら、救いは行いではなく、恵みだからです。私は救いは二段階で来ると信じます。なぜなら、旧約聖書の預言書には千年王国(御国)の存在が、数多く記されているからです。そこでは、イスラエルの回復、自然の回復、障害者の回復、そして忠実に生き方における報いがあります。ある者は命の冠、朽ちない冠、義の冠が与えられるでしょう。また、ある者は10の町を治め、またあるものは5つの町を治めるでしょう(ルカ1917,18)。しかし、その祝福に預かれない人もいます。それが、きょう描かれている1タラントのしもべの末路です。彼は地獄に落とされたわけではありません。御国における報いがなかったということです。当然、彼も信仰者なら新天新地に行くことができると信じます。

 人間すべては、神さまの前に立つことを覚悟しなければなりません。伝道者の書119「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」ヘブル927「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。しかし、今日、申し上げるのは、「キリストのさばき」ですから、これは信者のためものもです。テキストはどうなっているのでしょうか?マタイ25:19「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」とあります。これは、キリストの再臨が思ったよりも遅くなることを暗示しています。でも、キリストが来られたとき、各自が清算をするということです。5タラントもうけたしもべに対する報いとは何でしょう?マタイ25:21「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」あきらかに2つの報いがあります。第一は、御国においてたくさんの物が任されるということです。なぜなら、地上でこの人は忠実であったことが認められたからです。第二は、主人の喜びを一緒に喜ぶということです。これは、キリスト様との豊かな交わりや祝会ではないかと思います。「ねぎらい」と言っても良いかもしれません。韓国のハレルヤおばさんという伝道者がこのようなことを言いました。一人は洗礼を受けても、ほとんど教会に行かなかったクリスチャン、もう一人は汗水流して、神と人々に仕えたクリスチャンがイエス様のところに行きました。前者の人が来たとき、イエス様は「あっそ」とそっけない顔でした。後者の忠実なクリスチャンには「まま、こっちに座って、お茶でも飲みましょう。地上での苦労話しを伺いたいです」とイエス様がおっしゃったそうです。それはどうか分かりませんが、2タラントもうけたしもべも同様に報いを受けました。ところが、1タラントを地面の中に隠しておいたしもべに対してはどうでしょう?マタイ25:28 「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」やはり、2つの報いがあります。第一は持っているタラントが取り上げられてしまいました。もともと主人のものだったからです。そして、忠実にもうけた十タラントの人にやりました。第二は外の暗やみに追い出され、そこで泣いて歯ぎしりすることになります。これは、1つ手前の5人の愚かな娘、2つ手前の不忠実なしもべたちに対する処遇と似ています。つまり、良い報いもあれば、悪い報いもあるということです。これが、千年王国(御国)においてなされるということです。もし、どんな人でも天国に入って、平等で暮らすというなら、それこそ不平等です。死後、ちゃんと報いがあるのです。

 ですから、私たちはこの地上の生活とやがて来る千年王国(御国)とつながっているということを自覚すべきであります。この地上で神さまから預けられたタラントに対して、いかに忠実であるかが、御国の生活を決定するのです。この地上では5タラント預けられた者、2タラント預けられた者、そして1タラントしか預けられない者と確かに不平等のような感じがします。はっきり言ってこの地上は不平等であり、アンフェアです。生まれた時から財産があって金持ちもいれば、生まれた時から貧しい人がいます。生まれた時から頭も良く、才能豊かな人がいます。でも、生まれた時から体が不自由で日常の生活もままならない人もいます。また、クリスチャンになって豊かな賜物が与えられ、大きく用いられる人がいます。牧師でも山奥に遣わされ、一生に一人しか導けなかったという人もいます。でも、だれにでもチャンスがあります。それは与えられたものに対して、いかに忠実であるかということです。神さまからたくさん任された人は、それなりの責任があります。わずかなものしか任されない人は1タラントのしもべのように腐ってはいけません。なぜなら、神さまは「能力に応じて」それぞれにタラントを渡しておられるからです。一番重要なことは、神さまから預けられたものに対して、忠実であることです。忠実とはどこか棚にしまっておくのではありません。リスクを犯してでも、それを用いるということです。あなたが忠実に、神さまの栄光と御国の拡大のため用いるなら豊かな報いがあるでしょう。

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2017年12月31日 (日)

油を絶やすな マタイ25:1-13 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2018.1.1

 「待つ」というのは大変な作業です。会衆の中には、私を含め、待つことが苦手だという方がおられるのではないでしょうか。本日の物語は、再び来られるキリストを備えて待つことを教えている譬え話です。当時の結婚式と披露宴は花婿と花嫁の両家で行なわれ、時としては1週間も続きました。この物語は、花婿の家で結婚式が行なわれ、花嫁の家で披露宴がなされようとしています。そして、習慣にならって、花嫁の友人である乙女たちがともしびを持って花婿を出迎えるというシーンです。

1.世の終わりの教会

 マタイ25:5「花婿が来るのが遅れたので」と書いていますが、キリストが来られるが、思ったよりも遅くなることが暗示されます。10人の娘は教会をたとえており、花婿であるキリストがあまり遅いもので、うとうと眠りはじめました。世の終りの教会も、信仰的にそうなりがちだということです。さて、最初にこの譬え話しの間違った解釈を1つあげたいと思います。「油を持っていなかった5人の娘は、クリスチャンであったが、準備をしていなかったために、天国から締め出しを食らった」と解釈してしまうと福音の中心からはずれてしまいます。昔こういうことがあったそうです。礼拝のときに、再臨について先生が説教し、突然こう言われました。「実は昨日、台湾から来た牧師に会いました。その有名な先生がおっしゃるのに、その先生の教会員の中で、終末にイエス・キリストが再臨された時、天にそのまま引上げられる教会員は半分いないだろう。そして、私も思うに、今日、450人の皆さんが集まっておられますが、今日、主の再臨があったとして、この中から即座に天に引上げられる人は14,5人ぐらいだろうと私は思います」とお話ししました。そのとたん、何とも言えない不安な雰囲気が、会場全体を支配したそうです。「14,5人と言えば、3人に1人。こうやって礼拝を一生懸命守っていても、3分の2は救われないのか。それでは誰が救われて、誰が油のないクリスチャンだろう。」そして互いの裁き合いが心の内側で一瞬にして始まったそうです。本当に笑えない怖いお話しです。イエス様は、そのようなことを譬え話しで教えようとされたのではありません。福音の中心は、イエス様の十字架を信じるだけで罪赦され、天国に行けるということです。信仰のみによって救われ、一度でもイエス様を受け入れた者は滅びることはありません。そうしますと、この譬え話しは、再臨を待つ信仰者の姿を教えるために語られたものと考えられます。 

 

 愚かな娘たちも賢い娘たちも、花婿を待っていたのですが、あまりに遅いので、うとうと眠り始めました。ですから、両者とも信仰があるのですが、弱さも見受けられます。しかし、決定的な違いは何でしょうか。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意していなかったということです。そして、賢い娘たちは油を入れた器を持っていました。私はある絵を見たことがありますが、5人は右手にはともしび、左手には入れ物をちゃんと持っていました。両者とも、ともしびを持っているんですから、「私はイエス様を信じます」と告白し、洗礼を受けたに違いありません。しかし、一方は再臨に備える信仰を持ち、他方はそうではなかったということです。イエス様が今から2,000 年前、この地上に初めて来られたときはどうだったでしょうか。旧約聖書の最後の預言者マラキから400年間、預言が絶えていました。その間、ギリシヤとローマによって国土が占領されました。その頃、イスラエルではキリストが来る備えをしている人はごくわずかでした。東方から博士たちが星に導かれ、ヘロデの宮殿に来ました。律法学者や祭司たちは聖書から、どこで産まれるかを知ることができました。しかし、彼らは会いに行こうとはしませんでした。むしろ「別の王が来るなんて、これはやっかいなことになるぞ」と恐れました。彼らはキリストが自分たちの所に来ても、拒絶してしまったのです。喜んで歓迎したのはほんの一握りの人たちでした。同じように、世の終り、キリストが再び来られるというとき、そのような信仰があるだろうかということです。

 世の終わり、キリストが再び来られるときどのようでしょうか。都市では、人々が政治やビジネスに励んでいます。地方では田畑を耕し、売り買いをしています。ある人は快楽を求め、ある人たちは世の注目を集めようとやっきになっています。イエス・キリストが戻ってくるとき、生きた信仰を持っている人がどれほどいるでしょうか。金持ちはぜいたくに暮らし、貧しい人たちは不平や不満でいっぱいです。教会はささいな神学の違いで論争し、分裂分派を繰り返して弱体化しています。そういうところに、イエス様が突然来られるのです。世の終りの時こそ、再び来られるイエス・キリストを迎える信仰を持たなければなりません。私たちは、イスラエルの民からも、初代教会からも、そして歴史の数々の教会からもたくさんの教訓を得ました。そこには法則があります。最初は信仰的に燃えていますが。安定期に入り、しばらくたつと眠って堕落してしまいます。神の民は罪深い世の中に何の力も発揮できないのです。そのとき、悔い改めて信仰的に燃えるのです。それを私たちはリバイバルと呼んでいます。燃えたり、消えたり、燃えたり、消えたり、そういう繰り返しを通りながら、終末がやってくるのです。

 しかし、この5人の愚かな娘と5人の賢い娘は、教会全体というよりも、一人一人の信仰者を象徴しているようです。教会が霊的に燃えている時代の信仰者は良いですが、信仰の火が消えかかっている時代の信仰者は大変です。それでも、5人の賢い娘たちのように、信仰を持続するために油を絶やしてはいけません。この物語を読んでいて、油が切れたとき、どうして、賢い娘たちが分けてあげなかったのでしょうか。賢い娘たちは少し意地悪じゃないかと思いました。おそらく他者にあげる分はなかったのでしょう。愚かな娘たちが、お店に買いに行っている間に花婿が来てしまったのです。なんだか気の毒になってしまいます。この所から考えますと、油は簡単には人には分けてあげられないもののようです。たとえば、信仰は基本的には個人的なものです。奥様が信仰を持っていたとしても、ご主人がそれで救われるわけではありません。両親が非常に熱心だからといっても、子どもたちがそのまま救われるわけではありません。もちろん、1人のクリスチャンがお家にいるだけで、ともしびがともり、祝福が家族に注がれることは確かです。しかし、人は個人的にイエス様を心にお迎えしなければ救われません。ですから、人をあてにしないで、一人一人自立した信仰を持つべきであります。そのために、神様としっかりとベルトを結ぶべきです。「たとえ、全世界の人が私を見捨てても、イエス様は私を見捨てません。イエス様は私の救い主、王の王です。」こういう信仰を持ちましょう。

 また、ここでは時があることを教えています。愚かな5人の娘たちは、昼の間、お店にでかけて油を用意する時間はいくらでもあったと思います。真夜中ですと、今と違ってお店は開いていないのでしょう。今では、セブンイレブンとかローソンにさっと行って、ちょっとした足りないものはすぐ購入できます。私は自分の子供が小さかった頃、夜中に、パンパースを買いに行かされたことがあります。紙おむつにも何種類かあって、赤ちゃんの肌に合うのと合わないのがあります。いろんなお店に行って、「あったー!」と喜び、少々高くても買うわけです。パンパースが宝物のように見えたりしました。当時は、真夜中、お店なんか開いていないので、ドンドンドンとお店の人を起こしてから売ってもらうので、手間取ってしまったのでしょう。その間に花婿が来てしまいました。ですから、イエス様を信じるのも光のある間に信じるべきなのです。今は恵みのとき、今は救いの日です。世の終りは、暗闇が覆い、惑わしの霊や迫害が強くなるので、信じたくても信じられなくなってしまいます。また、信仰を維持するために日頃から、聖書を読み祈っているべきです。この世のことに、お金やエネルギーを使い過ぎてはいけません。信仰書を読んだり、学びや訓練の場に身を置くことも必要です。信仰も体の筋肉と同じで用いないと退化してしまいます。

 ます、教会につながって信仰の火を絶やさないでいるのが一番です。よく、キャンプやクリスマスでキャンドルサービスをしますが、たまに自分のろうそくの火が消えてしまうときがあります。しかし、隣の人からすぐ貰えるから安心です。しかし、それが、人里離れた山小屋で、1本しかいないときは大変です。イエス・キリストを信じるのは確かに個人的であります。人の信仰を頼ってはいけません。イエス様と個人的に救い主としてお迎えするしかありません。毎日、神様と深い交わりを持つべきです。また、信仰を維持していくためには、信仰の火元である教会につながっているということです。一方の手にともしび、もう一方の手に油を入れた器を持ちましょう。暗い時代にあって、ともしびを燃やし続けましょう。

2.油の補充

 ともしびの油とは、聖霊を指すのではないかと思います。しかし、聖霊は神様ですから、厳密には減ったり増えたりするものではありません。ですから、私たちの信仰を燃やすところの、「聖霊の油」と言った方が良いと思います。世の終りに、必ずリバイバルが起こります。教会が信仰的に眠って、世の中が堕落していきますと、あるところからリバイバル運動が叫ばれます。リバイバルというのは霊的目覚め、覚醒であります。そのときに、初代教会のように聖霊の火を求める祈りがなされます。「主よ、火を与えて下さい」、「油を注いで下さい」と祈るわけです。「火に油を注いだら、危ないだろう!」と思うくらい過激になります。私たちの信仰はまるで生き物のようです。昨日までは、非常に燃えて生き生きしていました。ところが、今日は、失望落胆と疑いの沼地にはまっています。はまり込んでいるときは、「現実は難しい、信じていても変わらない」となるのです。先週はものすごく、燃えて信仰に満たされていた。しかし、今週は気が重くて、ビジョンも見えない。大きな失敗や罪を犯したわけでもないのに、気が滅入ってしまう。みなさんもそういうときはありませんか。なぜ、こんな風になってしまうのでしょうか。確かに私たちの中の肉の弱さもあります。それ以上に、私たちは不信仰な人々に囲まれ、悪霊がはびこっているこの世で生きているからです。この世の中に住んでいる限り、ひとりでに、信仰が冷えてしまうのです。 

   

信仰はともしびのように、たえず燃えていないとダメなんであります。10年前の信仰や昨日の信仰ではなく、今、現在の信仰が必要です。ですから、たえず、聖霊の油を補充しなければなりません。そのために、毎日、聖書を読み祈るべきです。これが一番の充電です。大きなものが一度にドーンと来るわけではありませんが、継続は力です。毎日コツコツと霊の糧を得ることに勝るものはありません。そして、その次に重要なのは、やはり礼拝出席だと思います。礼拝を1週間休んでもあまり、変わりないかもしれません。しかし、2,3ケ月休みますと、霊的な力がすっかり失せてしまいます。ピアノやバイオリンのプロは毎日、4時間から8時間練習するそうです。一日しないとまず自分がわかるそうです。三日しないとまわりの人がわかります。一週間さぼると聴衆がわかるそうです。私も講壇で毎週、説教していますが、油注ぎがないかあるかは会衆がすぐ分かるでしょう。ですから、毎週、備えて説教しています。礼拝はお参りではありませんが、神様と公に交わるときで、大変重要です。私たちは全身全霊で神を礼拝し、あるときは方向転換し生活の衿を正していただきます。礼拝に臨在しておられる神様は特別です。私たちはその中にいるだけで、神様の力をまとい、祝福をいただいているのです。そのために、礼拝はできるだけ休まない。そして遅刻をしないと良いです。遅刻をすると、だれも責めていないのに、何だか後ろめたい気持ちがして、すぐ恵みの中に飛び込むことができません。礼拝のために備えてきますと、200 %恵まれます。恵まれないのは必ずしも牧師の説教のせいではありません。礼拝をささげる会衆一人一人にも責任があるのです。アーメン。

 また、私のように奉仕する者は、時々、聖会に行って恵みをいただく必要があります。1時間も叫んで賛美してから、みことばをいただき、時間をかけて祈ります。そしてメッセージのあと按手してもらったりすると本当に良いです。最近の聖会は、「油注ぎの受けたい方(インパーティーション)のために祈ります」とはっきりおっしゃいます。私は恵みの座に行き、個人的に手を当てて祈ってもらうと霊的に満たされます。ですから、どこへ行っても招きがあれば、祈ってもらうことにしています。10数年前、兵庫県の高砂教会の水曜祈祷会に出たときがあります。一斉にお祈りしている間に、だれかが頭をスッと触って行きました。だれかな!と思って目をあげると、手束先生が一人一人、頭に按手して祈っておられました。私はそのとき、温かいものを感じました。韓国の祈祷会や聖会も、先生が按手してくれないと、信徒は寂しいと感ずるようです。ある焼き肉やのおかみさんは、先生をお店に招いて、お肉が焼ける前に、先生「チョットチョット」と言って、隅っこで按手してもらうそうです。不思議なことに、「牧師が祈ると牧師の分がなくなるか」というとそうではありません。また、新たな油が上から補充されるでしょう。エリヤのやもめの物語と同じです。空の器に注いでも、注いでも次から次とあふれてくるのです。しかし、例外もあります。注ぎ過ぎると枯渇するときがあります。昔、兵庫県の井上牧師のところに招かれ、日曜日、かなりの人たちを預言し按手して祈りました。すると月曜日、体が重たくて起きられませんでした。霊的に重たい人に、按手して霊力を注いだので、こちらが枯れてしいました。私たちは聖霊の管でありますから、私たちを通して注がれるように願いたいと思います。

按手をするのは聖書的なのだろうかという方に対して、みことばを1箇所お開きします。パウロがテモテにあてた手紙、Ⅱテモテ15-7「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい。神が私たちに与えて下さったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」テモテは信仰がなかったわけではなく、純粋な信仰がちゃんとありました。彼は神様から、群れを任せられていました。しかし、テモテは度重なる激務によって、おそらく胃潰瘍になり、少量のぶどう酒を飲むのも良いとも勧められていました。そして、この所でパウロは、おくびょうになりがちなテモテに注意をしています。パウロは神の賜物、力と愛と慎みの霊が再び燃え立たせるように按手してあげたいと言っているのです。  

 テモテの神の賜物が具体的に何であるのかわかりません。しかし、それが奉仕の源であることは確かです。奉仕する者には、この「油注ぎ」が本当に必要なのです。私はペンテコステ派がこのことを早くから理解し、聖会のミニストリーでよく行われていることを感謝しています。これまで、申賢均師、チョーヨンギ師、ベニー・ヒン、カルロス・アナコンディア、エディ・レオ、メル・ボンドなど、よく日本に来ては奉仕して下さいました。私は、この「油注ぎ」が来るときに、悪霊を追い出し、病を癒す権威が上から与えられると信じます。大和カルバリーの大川牧師は、神の器がいるところには、アルゼンチンであろうと、トロント、ペンサコーラ、レディングどこでも行かれるようです。そして、「油注ぎ」をいただいてから、ご自分のところで、ミニストリーをするわけです。私も昔は、シンガポールやインドネシアの教会研修に行きました。5000人とか1万人の集会にいると、天国にいるみたいです。ヘブル11章には「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と書いてあります。霊的に燃えている場所にいくと、やはり燃やされて帰ってきます。

 それでは、そういう聖会や集会にいかなければダメかというと必ずしもそうとはいえません。当教会に来られたことのある松岡欣也先生は少し考え方が違います。「何でも外国人の世話になって、リバイバルも外国の先生を呼んできてやってもらおうとしている。日本人はどこまで甘えたら気がすむんじゃ。そういう聖会をめぐっている人がいるけど、1,2ケ月たったら冷めて、また新しい講師を呼んで祈ってもらう。同じことの繰り返しだ」と言います。確かに当たっていないわけではありません。松岡先生がおっしゃりたいことは、「イエス様がどこにいるか知らなければならない。聖霊、聖霊と言うが、その方はイエス・キリスト様のことである。私たちの内側にすでに、イエス様がおられる、これを再発見すべきだ」ということでしょう。パウロもテモテに純粋な信仰があるのを認めています。パウロは別の信仰を与えようとしておられるのではなく、再び燃え立たせるようにとおっしゃっているのです。つまり、内側をかき回していただき、「聖霊の炎に満たされよ」ということなのです。ですから、いろんな集会に行くもの良い方法ですが、だれでもできるのは、祈って賛美することです。祈りと賛美は、ソーラー発電みたいに、神様の光をエネルギーに変えることができるのです。マーリン・キャロザーズも言っていますが、賛美には力があります。ある人は異言だと言いますが、賛美は、聖霊と信仰に満たされていく最もすぐれた方法です。賛美したあと、何か肩の荷が軽くなったということを良く経験します。みなさん、クリスチャンの内側にはすでに、イエス様がおられるのです。私たちの内におられるキリストが栄光の望みであることを信じましょう。

 また、イエス様は一人の中にもおられますが、23人イエスの名によって集まるところにも臨在されます。ですから、共に集まり、賛美し祈っているところにも、すばらしいみわざが現わされるのです。ヘブル10:25 「ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近付いているのを見て、ますますそうしようではありませんか」、と書いています。「かの日が近付いている」とは世の終り、キリストが再び来られる日が近付いているから、という意味です。ですから、世の終り、共に集って励まし合う小グループが必要だということです。ある外国の講師が預言をされました。「日本には確かに暗闇が覆っている。しかし、よーく見ると、小さなあかりが点々と見える。非常にかぼそくて消えそうだけど、しかし、消えない。やがて、そのあかりの数が増してきて、日本のあちこちに大きな光となります。」アーメン。使徒の働き1章では、おのおの上に舌のような火がとどまった、と書いていますから、一人一人がともし火になったのです。世の終り、私たちもともし火となり、再び来られるイエス様を待ちましょう。そして油があるかどうか点検しましょう。信仰的に枯れていたら、祈って賛美して、イエス様から聖霊の油注ぎを受けましょう。イエス様は飢え渇く人々に、豊かに油を注いで下さいます。日本中の教会、クリスチャンに油注ぎが与えられますように。そして、当教会の兄弟姉妹に注がれますように。

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2017年12月 1日 (金)

携挙のとき マタイ24:37-51 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.12.3

 世の終わりにおける、患難時代は7年間あります。7年間なので、時代というよりも「期間」と言う方が良いかもしれません。しかし、この期間に「携挙」と言われるものが起こります。「携挙」はラテン語のrapere「つかむ」から来ており、これから「移す」という意味になりました。患難期にキリストが来られ、信仰者を天に引き上げるということです。昔、『レフト・ビハインド』という本が出ましたが、その本は地上に残された者たちの物語です。きょうは、世の終わりの出来事の1つ、「携挙」について学びたいと思います。

1.しもべのたとえ

 本来なら37節から「携挙」についてお話ししたいのですが、話のクライマックスからすると、「しもべのたとえ」を第一のポイントにした方が良いと思いました。なぜなら、これを最後に話すと盛り下がるからです。やっぱりメッセージは盛り上がるところ、クライマックスが必要です。マタイ2446節から25章全部が「再臨の備え」について記されています。ほとんどが「たとえ話」のように書かれています。元来、聖書には「章」とか「節」はないので、連続したものと捉える必要があります。「しもべのたとえ」は、主人としもべ長としもべたちがいます。しもべ長は、主人の留守中に家を任されている管理人と言えるでしょう。昔は、主人の代わりに財産や仕事を管理しているしもべ長がいました。たとえば、旧約聖書のヨセフは、奴隷でありながらもポテファルの家を管理していました。このたとえによると、しもべ長の下に、何人ものしもべたちがおり、彼は仕事の管理だけではなく、しもべたちの生活も任されていたようです。英語の聖書はHouseholdとなっており、「雇い人等を含めて家族の者たち、家事全般」という意味です。主人は、しもべ長に家事全般を任せたしばらく旅に出て、また帰ってきます。でも、いつ帰ってくるのか分からない、思いがけない時に来るということです。それで、このしもべ長はどうしたのでしょうか?48-51節「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」彼は家事全般を忠実に果たすどころか、しもべたちを打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりしていました。つまり、食事時にしもべたちに食事を与えないで、我がもの顔に暮らしていたということです。

 これを新約聖書的に考えると、主人はイエス・キリストであり、教会の創設者であり所有者です。しもべ長というのは、教役者たちであり、「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」のことです。でも、一般的に教会の牧師とか、教団の理事と考えることができます。そして、しもべたちとは教会に属している信徒、クリスチャンのことです。私は「信徒」ということばはあまり好きではありません。宗教法人法には代表役員が「住職」で信徒は「檀家」と書かれています。キリスト教会の所有者は神さまで、教役者たちは「しもべ長」ということができます。つまり、世の終わりまで、教役者たちがちゃんと教会員の世話をしているかということです。そこへ行くとプロテスタント教会は至って真面目です。羊を食べているような羊飼いはほとんどいないでしょう。でも、イエス様の時代は、ユダヤ教の指導者はちゃんとしていなかったようです。ヨハネ10章には彼らは雇われ人であって、おおかみが来ると羊を置き去りにして逃げて行きますと書かれています。教会の歴史を見ますと、中世の教会はそうではありませんでした。教皇がキリストの代行をし、一部の教役者たちが教会を所有していました。一般の信徒たちは教会の外におり、貢を納めていました。聖書はラテン語だったので、勝手に読むことができず、迷信に走っていました。霊的にも物質的にも神さまからの祝福を得ていませんでした。現代の私たちは、聖書から正しい福音を取り次ぐ必要があります。パウロはテモテにこのように命じています。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」(Ⅱテモテ215)。私は牧師また説教者として召されていますが、真理のみことばである聖書をまっすぐに説き明かすように努めています。教会によっては新聞の記事やだれかの本から語る牧師がいますが、私はそのようなことはしません。受けが良かろうと悪かろうと聖書全般から、偏ることのないようにしています。

 初代教会は牧師の他に長老や執事も教会員の世話をしていました。聖書を教えるだけではなく、彼らのために仕え、そして祈っていました。ペテロは長老たちにこのように勧めています。Ⅰペテロ52-4「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」ペテロは、再臨のキリストである「大牧者が現れるとき、しぼむことのない栄光の冠を受ける」と励ましています。イエス様もこのたとえの中で、「忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」と教えておられます。つまり、大事なのは主がいつでも来ても良いように、忠実に働いているということです。悪いしもべは「主人はまだまだ帰るまい」と思って、自分勝手なことをしていました。これは私たちの生活全般にも言えることで、私たちが神さまから任されているものに忠実であるということです。家庭でいうと親が子どもを養育するということです。また、職場でも部下たちをちゃんと面倒見るということです。自分の出世のために部下をコマのように使うのは間違っています。また、政治家とかこの世の指導者も神さまから問われるでしょう。多く任された者は、多く責任があります。私たちは再び来られるキリスト様のことを覚え、与えられた任務を忠実に果たして行きたいと思います。

2.ノアの日のように

 マタイ2439「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」イエス様はご自分のことを「人の子」と呼んでいます。ところが、旧約のダニエル書においては、再来するメシヤのことを指しています(参考.ダニエル713)。世の終わりにイエス・キリストが再び来られますが、それはいつなのでしょうか? 1つ前の38節には「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と書いてありました。でも、これまでマタイ24章から「世の終わりの前兆」そして「患難時代」について語ってきました。だから、全く分からないということではありません。私たちはある程度のことを学びました。ただ、ここで言われているのは「人の子が来る」、つまりキリストの再臨のことであります。キリストが再臨されるとき反キリストと信じない者へのさばきがなされます。しかし、同時に、キリストを信じている人たちを天に引き上げる「携挙」も起るということです。

 イエス様はご自分が来るのは「ちょうど、ノアの日のようだ」と言われました。創世記にはノアの洪水について記されています。主は、地上に人の悪が増大しているのをご覧になり、地の面から、すべての生き物を消し去ろうとしました。そして、ノアに箱舟を作るようにお命じになりました。ノアは神さまから示され図面通りに、タンカーのような三階建ての巨大な箱舟を作りました。ペテロ第一の手紙によると、ノアは仕事の合間に人々に大洪水が来ることを知らせていたことがわかります。ところが、だれ一人その警告に耳を貸そうとしませんでした。それから突然、大雨が4040夜、地の上に降りました。ノアとその家族と動物たちが入った後、「主は、彼のうしろの戸を閉ざされました」(創世記716)。ノアが閉じたのではなく、主ご自身が閉ざしたのです。それから大洪水が覆って、地のすべての生き物を地から消し去りました。ノアの時代には何百万人もの人たちが住んでいたと思われます。彼らはやがて来る大洪水にどうして備えなかったのでしょう?イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」と、おっしゃいました。飲んだり食べたりすることは、別に悪いことではありません。めとったり、とついだりすることも生活上大切なことです。でも、肝心なことを忘れていました。「洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかった」のです。この世でも道徳的な生活をしている人たちがたくさんおられるでしょう。でも、ノアの時代のように、この世が終わることを知って備えている人たちがどれくらいいるでしょうか?ピリピ3章でパウロはこう述べています。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ319

 聖書で「救い」と言うとき、いろんな意味があります。罪とさばきからの救い、そして永遠のいのちをいただくことです。また、病の癒しや問題解決も救いと言えるでしょう。しかし、世の終わりのさばきから救われることも忘れてはいけません。特に、終わりの時代に住んでいる私たちはそうであります。だから、イエス様は「用心していなさい」「目をさましていなさい」と命じているのであります。地上のことは大切です。私たちは食べ物、飲み物、着る物や住むところが必要です。家庭や仕事、趣味や楽しみ、結婚や子育て、社会的な活動もあるでしょう。それらは決して悪くはありません。でも、私たちは地上のことだけを思って暮らしてはいけません。イエス様は「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ2435とおっしゃったからです。ノアの時代の人たちは洪水に対して全く備えていませんでした。また、ノアの警告にも耳を貸そうとしませんでした。ただただ、地上のことがらに心を奪われ、日々、暮らしていたのです。私たちは終末の時代に生きていますが、やはり地上のことがらに100%向けている人たちがたくさんおられます。テレビのニュースを見ていますと、政治やスキャンダル、食べ物や着る物、趣味や楽しみ、お化粧品やサプリメント…この地上のことのみです。初代教会でも世の終わりなんか来ないと言っている人たちがいました。Ⅱペテロ34「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」これに対してペテロは、「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」と言いました。

私たちは永遠に地上で暮らすことはできません。1つは肉体的な寿命があります。私たちは必ず死にます。もう1つは、この天地は滅び去るので、滅びから免れどこかに移り住むことが必要だということです。聖書は肉体の死と世の終わりの滅びから救われる道をはっきり示しています。それは神への道であるイエス・キリストを救い主として信じるということです。イエス様はヨハネ14章でこのようにおっしゃいました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ141-3)。私たちにとって、イエス様が再び来られるとは、「ああ、住むべき場所が完成したんだなー」と分かることであります。イエス様は私たちを迎えるために、来られるのです。ハレルヤ!世の終わりは恐ろしいという見方もありますが、同時に、イエス様が天から迎えに来られるすばらしい時でもあるのです。そのためには、世の人々のように、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすること」だけに専念してはいけません。キリストを信じて神さまと和解し、やがて来られるイエス様に目を向ける必要があります。この天地は滅び去ります。しかし、イエス様のことばは決して滅びることがありません。アーメン。

3.携挙のとき

 マタイ2440-42「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」「取られる」のギリシヤ語は「連れて行く、連れ去る」という意味があります。ラテン語でrapereと言いますが、ここから英語のrapture「携挙」という言葉が生まれました。イエス様は当時のライフスタイルで説明していますので、ちょっと古いかもしれません。「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」とありますが、おそらく二人が畑仕事をしていたのでしょう?すると急に、1人は天に引き上げられ、1人は残されるということです。それは、あっという間の出来事であり、一人は地上から消えたということです。次には「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」とあります。さっきは屋外でしたが、今度は室内にいて働いている人たちです。急に、1人は天に引き上げられ、1人は残されるということです。一人は一瞬に栄光のからだに変えられるので、建物とか屋根には左右されません。復活のイエス様が閉じられていた部屋に入ったときと同じです。確率的には二分の一ですが、クリスチャンのうち二人に一人なのでしょうか?それとも一人は未信者で一人はキリスト信者だったのでしょうか?

 他にも携挙について記している箇所があります。使徒パウロがⅠテサロニケ4章とⅠコリント15章でこのことを詳しく述べています。Ⅰテサロニケ416-17「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」Ⅰコリント1552「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」この二つの箇所からはっきり分かることは、主が来られたときキリストにある死者が最初によみがえります。「キリストにある死者」とは、キリストの神さまを信じて、その魂がパラダイスにある人です。キリスト教は肉体の復活をもって、救いの完成としています。おそらく、復活したからだと先に天に行っていた魂が合体するのだと思います。その次に、生きている人たちが一瞬に変えられて、天に引き上げられるということです。つまり、その人は肉体の死を経ないで、栄光のからだに変えられるということです。初代教会の人たちは、ぜひ、この祝福に預かりたいと望んでいました。

 問題とされるのは、携挙がいつ起こるかということです。20世紀根本主義が台頭し、時代区分説(ディスペーションナリズム)の考えが出回るようになりました。彼らは、患難期の前に「教会」が天に引き上げられると主張しました。冒頭で引用した『レフト・ビハインド』はこの説に基づいて書かれたものです。それを唱える有名な人は、根本主義のハル・リンゼル師、日本では福音派の高木慶太師です。久保有政師はこの考えに異論を唱えています。「キリストの再臨は、患難時代末期、あるいは終わり頃に起きます。空中と地上再臨との間に7年もの歳月は経過しません。両者は短期間のうちに、ほぼ連続的に行われるでしょう」と言っています。私は奥山実師の考えが妥当であると信じます。奥山先生は元インドネシアの宣教師ですが、現在では宣教師訓練センターの所長です。世界で起きているリバイバルを日本に紹介している使徒的な存在の先生です。『世の終わりが来る!』という先生の本から少し引用いたします。もし教会がすべて携挙されるのなら、大患難時代に苦難を味わう僅かの残されたクリスチャンについて、聖書がこんなに長く説明する必要はないでしょう。しかし、実際には、携挙の時には残される人が多いのです。世界には20億のクリスチャンがいると言われていますが、その中には携挙を否定したり、携挙さえも知らない人もいます。ヘブル115をもう一度よく読んでください。「信仰によってエノクは死を見ることのないように移されました」とあるように、携挙は信仰なのです。携挙されるという信仰がないと携挙されないのです。患難時代前に教会が全部携挙されるわけではなく、携挙の信仰のあるものだけが携挙されるのです。

マタイ福音書に「ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とありますが、これは両者ともクリスチャンであると思います。何が違うのでしょう?一人は、いつでもキリストが来られても良いように霊的に目覚めている人です。言い換えると、「携挙」の信仰がある人です。もう一人は、信仰があるのですが「世の終わりとか、再臨なんてないんだ」と地上にべったり腰を降ろして生活している人です。この人は「携挙」の信仰がない人です。つまり、こういう人が残されて、患難時代に信仰を試されて、ある者は天に引き上げられ、あるものは背教者になるということです。つまり、教会(クリスチャン全部)が携挙されるのではなく、携挙の信仰のある人が天に引き上げられるということです。もう一度、奥山師のメッセージを引用します。「残されるクリスチャンとは、洗礼を受けただけの名ばかりのクリスチャン。洗礼を受けたあとに信仰を離れ、神はいない、罪はないと言う人たちがいる。そのようなクリスチャンは皆残される。再臨の日に天に挙げられるという信仰を持たなければならない。携挙は信仰!ホンモノのクリスチャンは三分の一、携挙される人は少なく残される人が多い!教会全体が挙げられるわけではない!今のままだと危険!みなさん備えましょう」。昭和5年頃、きよめ派の教会にリバイバルが起こり、携挙をとても強調しました。しかし、その時はイエス様が来ませんでした。そのため分裂し、今ではほとんど携挙のことを語りません。「羹に懲りて膾を吹く」とありますが、再臨を説きません。初代教会はなぜ信仰が生き生きしていたのでしょうか、それは「イエス様がまもなく来られ、そのとき私たちは変えられる」という信仰があったからです。イエス様は「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」とおっしゃいました。私たちは霊的に目をさまし、イエス様がいつでも来ても良いように備えましょう。

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2017年11月24日 (金)

天変地異 マタイ24:29-36 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.11.26

 ある人たちは「聖書は崇高な道徳倫理について書かれている」と称賛するかもしれません。そして、「クリスチャンというのは正直で真面目な人たちだ」と言うでしょう。だから、ミッションスクールに入れたがる親御さんたちが多いのです。でも、聖書には、世の終わりが来ることとキリストが再び来られることが書かれています。そのことをミッションスクールでちゃんと教えているでしょうか?キリスト教は危険で非常識な宗教と思われているのではないでしょうか?

1.天変地異

 マタイ2429「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」「これらの日の苦難」とは、反キリストによる迫害です。宗教が1つにまとめられ、獣を拝まない者は買うことも売ることもできなくなります。そういう中で信仰を守るというのは命がけであります。おそらく殉教さえも覚悟しなければならないでしょう。黙示録1412-13「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」アーメン。殉教した人たちには、白い衣が与えられ、直通で小羊の婚宴の席に招かれるでしょう。私たちはその前に天に引き上げられていることを願いますが、どうなんでしょうか?「教会は大患難を受けないんだ」という神学がありますが、あまり楽観的に捉えない方が良いと思います。なぜなら、イエス様は「いつの日なのか分からないので、目をさましていなさい」(マタイ2442とおっしゃっているからです。私たちはこの地上の生活がいつまでも続くと考えてはいけません。世の中の地質学者や天体物理学者が何と言おうと「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」とイエス様がおっしゃったからです。

 世の終わりの順番ですが、患難の時代は7年間続きます。前半は比較的おだやかですが、後半は反キリストの現れと共に激しい苦難が起こります。苦難に続いてすぐに天変地異が起こるのです。イエス様は「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」とおっしゃいました。ヨハネ黙示録と突き合わせるとどうなるのでしょうか?黙示録8章には7つのラッパ」について記されていますが、ラッパを吹く度に、地上にいろんな災害がもたらされます。ヨハネ黙示録811「大きな星が天から落ちて来て、川の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ」。ある人たちは、これは核爆発ではないかと解釈します。「苦よもぎ」はロシア語で「チェルノブイリ」と言いますが、放射能による川の汚染が今も続いているようです。今日の箇所と同じようなみことばが黙示録812に記されています。「第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。」しかし、時間的には、反キリストがその正体を現す前であります。マタイのみことばは、キリストが再臨される直前のように書かれています。さらに調べていくと、黙示録15章から17章には「最後の7つの災害」と書いてあります。これらは、反キリストと獣の刻印を受けている人たちに対する災害です。海や川の生き物が死に絶え、太陽の火で人々が焼かれます。獣の国は暗くなり、大地震が起き、重さ35キロの雹が空から落ちてきます。ルカ福音書にはこのように書かれています。ルカ21:25-26「そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」そのとき、この地上には、安全に住むべき場所がありません。これまで、何十本もの「世の終わり」に関する映画が作られましたが、それが現実となるということです。かなり前に『アルマゲドン』という映画を見ましたが、主人公はロケットで隕石の上に軟着陸し、それを破壊しました。しかし、隕石のかけらが地球に降って来て大災害が起こりました。昔、『幻魔大戦』という石ノ森章太郎の漫画を見たことがあります。最後は、月が血の色に染まっている絵でした。世の終わりは、SFの世界ではなく、そういうことが現実に起るということです。聖書は世の終わりについてはっきり預言しています。私たちの科学や常識では、全くついて行けません。クリスチャンというのは、個人の罪からの救いを得ているだけではありません。人生の終わりだけではなく、この世の終わりを乗り越えられるというのですから、ロマンの極みではないでしょうか?でも、ロマンではなく隠されていたことが露わにされる、黙示録の世界です。

ジョン・バニヤンが『天路歴程』をという本を書きました。基督者が一冊の書物を読んでいました。するとそこに「この都は天からの火で焼かれる。その恐ろしい破滅では、逃げ道が分からない限り、みじめな最後を遂げる」と書いてありました。この都が滅びると告げても、妻や子どもたちから「頭が狂った」と思われて相手にされませんでした。それで、彼ひとり「救われるためにはどうしたら良いか」と旅に出るのです。彼はいろんな試練を乗り越えて、天のエルサレムに到達します。そのジョン・バニヤンが『天路歴程』の続編も書いています。基督者の妻が、ある時、「救われるためにはどうしたらよかろう」という夫の叫びが耳に響いてきました。そして、息子たちに言いました。「私はお父さんに罪を犯しました。みんな一緒に行こうと言ったけど、私自身が行こうとしませんでした。その上、お前たちの命を得るのも妨げました」。それを聞くと息子たちは皆泣き出して、父の後に着いて行くと叫びました。妻は悔い改めて、4人の息子たちと旅立つのです。2つの本に共通しているのは、「世の滅びから救われるためにどうしたら良いか?」ということでした。しかし、彼らの旅を支えるものは、天のエルサレムにたどり着きたいという信仰と憧れでした。確かに聖書は「世の終わりが来る」と告げています。でも、それ以上に、「自分がどこから来て、どこへ行くのか」、救いへの道が知りたいのではないでしょうか?イエス・キリストこそが、道であり、真理であり、いのちなのです。

2.キリストの再臨

 マタイ2430「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」マタイによる福音書は、短いけれどもキリストの再臨について語っています。「キリストが患難時代の終わりに現れる」というのはどの神学者も一致しています。「再臨」とは「再び臨む」と書きますが、初臨はキリストが肉体をとってこられたクリスマスです。キリストは「平和の君」として地上に来られ、最後に十字架にかかって贖いのわざを成し遂げられました。そして、3日目に復活し、40日間、地上におられた後、天に昇られました。そのとき、天使が弟子たちにこう告げました。使徒111「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」パウロもそうですが、初代教会の人たちは、「イエス様はすぐ戻って来る」と期待していました。パウロなどは、「時が縮まっているので、結婚しないで、そのままでいるのが良い」(Ⅰコリント726-29と勧めています。ところが、すぐに来ませんでした復活の目撃者たちも、死んで天に帰っていきました。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」(Ⅱペテロ34と言う人たちも出て来ました。後の人のため、文書に残す必要があります。イエス様が天にお帰りになってから、25年後に3つの福音書、パウロや使徒たちの書簡、最後にヨハネ福音書と黙示録が書かれました。それらが、今日、私たちが持っている新約聖書です。あれから約2,000年たちました。イエス様は「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰がみられるでしょうか」(ルカ188と語ったことがあります。

 キリストが世の終わり、それも患難時代の終わりに来られます。キリストが世の終わり来られますが、教会ではいろんな表現を用いています。現れ、顕現、啓示、来臨、その日、イエス・キリストの日、主イエスの日、主の日、そして再臨です。再臨は英語でsecond comingと言いますが、今日ではこの表現が最も多く用いられています。キリストが再臨されるとき何が起こるのでしょうか?また、何の目的でキリストが再臨されるのでしょうか?このことを話し出したら、時間が足りません。でも、2つだけ取り上げたいと思います。第一は選ばれた者たちが集められます。マタイ24:31「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」そのときキリストにあって死んだ者はよみがえり、主のみものとに引き上げられるでしょう。パウロは「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント1552と書いています。第二は反キリストと不信仰な者たちを滅ぼすためです。黙示録1911「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる」。黙示録1915「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」おそらく、選民を集めるのが先で、その後、反キリストと獣を拝んでキリストを信じない者がさばかれるのではないかと思います。不信仰な者たちは、「何故、キリストが来たんだ」と嘆くのであります。マタイ2430「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」私たちは「主よ、来てください」(黙示録2217と喜んで待つ者となりたいと思います。

 昭和のはじめ、中田重治監督のもとで、ホーリネスの教会にリバイバルが起きました。ところが、再臨信仰がものすごく加熱し、イスラエルの救いのために祈るようになりました。来る日も来る日も、教会で熱く祈り、大声で賛美して、主が来られるのを待っていました。ある人たちは、白い衣を着て屋根に上って旗を振りました。ところが来ませんでした。そのため、ホーリネス系の教会は3つもしくは4つに分裂しました。ホーリネス系の教会には信仰の特色が4つありました。「新生、聖化、神癒、再臨」です。新生はキリストを信じて新たに生まれることであり、回心の経験を強調しました。聖化は罪から離れ、聖い生活をすることです。神癒は癒しですが、あまり強調しなくなりました。そして、再臨はもっと強調しなくなりました。なぜなら、一度、しくじったからです。頭では再臨信仰は大切だと思っていますが、二の足を踏むと言いましょうか、弱くなりました。聖教団の小笠原牧師は「自分たちの団体は中田重治監督の直系です」と自負しており、再臨信仰とイスラエルの救いを強調しています。現在、中川健一先生が、この2つを強調するセミナーを独自で開いています。9月の半ば、真っ赤な夕焼けを見ました。ちょうど、生協に買い物に行く途中でしたが、涙がどっと出て来ました。思わず「夕べ雲やくる」という聖歌を口ずさんでいました。「夕べ雲やくる空を見れば、主のきたりたもう日のしのばる。ああ、神の前に我いそしまん。わざやむる時のまぢかきいま。」

 初代教会はなぜ力があったのでしょうか?それはイエス様の十字架と復活を目撃した人たちがまだたくさんいたからです。もう1つは、イエス様がまもなく戻って来られるという再臨信仰があったからでした。ところが、20年たち、30年たって目撃した人たちが、だんだん召されてしまいました。そして、すぐ来ると言われていたイエス様も来ません。「どうしたんだろう?」という疑いも出て来ました。教会の歴史をたどりますと、「世の終わりが来た」という急進的な信仰者が度々現れました。カルト的な教会は「世の終わり」を過度に強調します。恐れによって人を支配しようとします。不信者たちにとって世の終わりにキリストが来ることは、良い知らせではありません。ノストラダムスが「空から恐怖の大王が来る」と預言しましたが、彼にとっては恐ろしい存在でした。しかし、私たちはそうではありません。花嫁なる教会は、花婿なるイエス様を心待ちにしている存在です。ヨハネ黙示録の最後を見ると分かりますが、御霊と花嫁が「来てください」を主に呼びかけています。私たちは主が再び来られることを、喜びと期待と憧れをもって待つ存在でありたいと思います。

3.再臨の兆候

 マタイ2432-36「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」世の終わりの前兆については、すでにお話ししました。しかし、マタイはもう一度、キリストの再臨がいつなのか述べています。いちじくは、昔からイスラエルを象徴する木です。イエス様は「枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります」と言われました。これはたとえなので、歴史的な事柄にあてはめる必要があります。終末論を学ぶと、いちじくの木の枝が柔らかくなって芽が出るのは「あの時のことだ」と分かります。ご存じのとおり、西暦70年、ローマ軍によってエルサレムが攻撃を受け、神殿が跡形もなく破壊されました。何千人ものユダヤ人が殺され、残った人たちは国外へと逃亡しました。それ以来、ユダヤ人は世界中に散らばって、ユダヤ商法によってしぶとく生きています。『ベニスの商人』には、悪名高いユダヤ人の金貸しが出てきます。しかし、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによって大迫害が起こりました。ユダヤ人は強制収容所に入れられ、約600万人が殺されました。「ホロコースト」というのは「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉です。その時、教会は見て見ぬふりをしました。なぜなら、彼らがイエス様を十字架につけたとき「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかっても良い」(マタイ2725と言ったからです。

 しかし、1948514日、イスラエルが建国しました。そのいきさつはひとことでは言えませんが、ある資料から引用いたします。第二次大戦でのユダヤ人資金の協力及びそれまでのナチス始めとするヨーロッパでのユダヤ人虐殺の罪悪感により、連合国側は1947年に国連による決議でパレスチナ分割案(ユダヤ人に有利)を示しましたが、アラブ側はこれを拒否。1948年イスラエル建国宣言と同時に、アラブ各国のイスラエル侵攻による第一次中東戦争が勃発しました。終戦後にパレスチナはイスラエル、エジプトのガザ地区、ヨルダン(ヨルダン川西岸)の三者によって分割され、パレスチナ人の土地は一切無くなってしまいました、これがパレスチナ難民の発生原因です。195610月第二次中東戦争勃発、19675月第三次中東戦争勃発、197310月第四次中東戦争勃発…今も不安定であります。シオニズムというのがありますが、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教の文化の復興運動を興そうとするユダヤ人の近代的運動のことです。世界に散らばっていたユダ人がイスラエルに帰還しました。しかし、シオニズム運動はすべてのユダヤ人に歓迎されているわけではありません。ユダヤ人に共通しているのは、世の終わりメシヤが来てイスラエルを建て直すということです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストというメシヤはすでに来たと信じています。しかし、彼らはキリストの初臨を認めないで、キリストの再臨だけを待っているのです。

 とにかく、イスラエルが1900年以来、建国したということは奇蹟であります。イエス様が「枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります」とおっしゃいました。夏というのは、キリストの再臨でありましょう。世の終わりの前兆については、前に学びましたが、もう1つはイスラエル情勢であります。今後、多くの国がイスラエルを囲み、混乱をきたすでしょう。しかし、一人の人物が立ち上がり平和をもたらします。エルサレムに神殿が建てられると、その人物は豹変し、自分こそ神であると言うでしょう。彼こそが「荒らす憎むべき者」であり、大患難が始まります。きびしい迫害と苦難の中で信仰を守るのは大変です。天変地異が起こり、キリストがやってくるのです。その第一の目的は、選びの民を四方から集めることです。第二は反キリストと不信仰の者たちを滅ぼすためです。旧約聖書で何度も「主の日」と預言されているのは、その日のことです。イエス様はいつ来られるのでしょう?マタイ2436「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」これはイエス様が地上におられたときのことばでした。その時は、完全に父なる神さまにゆだねていました。しかし、現在、イエス様は神の右の座に座っておられます。つまり、その時がいつであるか知っておられるということです。父なる神さまとイエス様はちゃんとその日を決めておられます。その日が近づいたなら聖霊によって教えてくださるでしょう。

キリストの再臨に関して私たちはバランスが必要です。再臨信仰だけを強調すると、この世に対する使命がないがしろにされます。なぜなら、私たちは神の大使として、御国の福音を宣べ伝え、あらゆるところに神の国をもたらす使命があるからです。私たちは神の支配による祝福が、家庭、政治、経済、教育、医療、芸術、あらゆる所にもたらされるように遣われています。もし、この世がまもなく終わるならば、家を建て直したあとすぐ壊すような愚かな行為です。しかし、矛盾するようでありますが、イエス様は「この時代は過ぎ去る。この天地は滅び去ります」とはっきりおっしゃっています。神さまのタイムテーブルと私たちのタイムテーブルは必ずしも一致しません。ひょっとしたら、今晩もしくは明日にでも、イエス様が再臨なさるかもしれません。そういう意味で、この世の中で活動しつつ、霊的には目覚めていなければなりません。深酒をあおったり、遊興や好色にふけっていてはいけません。主の再臨は今晩かもしれないし、30年後かもしれません。でも、はっきり言っておきますが、100年ということはありません。なぜなら、世の終わりに関する多くのことが既に成就されているからです。主はまもなく来られます。でも、私たちは締りのある歩み方を続けたいと思います。もしこれを私たちの信仰にたとえるならどうでしょう?短期と長期の遠近両用のメガネが必要です。一方は、キリストはまもなく来られるという再臨信仰です。もう一方は、キリストの来臨は少々遅れるらしいので、この地に御国が来るように働きかけるということです。主が再び来られることを待ち望みつつ生活したいと思います。

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2017年11月17日 (金)

苦難のとき マタイ24:15-28 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.11.19

 マタイ24章は世の終わりの出来事を預言している箇所です。「小黙示録」とも言われ、マルコ福音書13章、ルカ福音書21章にも記されています。私たちは世の終わりの時代に生きていますが、ある時を境に、大きな苦難がやってきます。しかし、いつからその時がスタートするのでしょう?それは「荒らす憎むべき者」が聖なるところに立った時からです。 

1.苦難のとき

 マタイ2421「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」マルコ1319「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。」キリスト教神学には「終末論」というテーマがあります。他の多くのテーマは、議論し尽くされてきましたが、この「終末論」だけは未解決です。聖書の預言は、過去に起きたようなことが、将来も再び起るというのが定説です。歴史を見ますと、ユダヤ人が神殿を再建した後、ギリシャによって支配されました。最初は平和でしたが、紀元前167年にアンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿を汚しました。なんと、豚を捧げさせ、自分の像を置いて礼拝させようとしました。そのことがユダヤ人の反発を買い、独立戦争が100年間続きました。その後、ユダヤはローマに支配され、紀元70年にエルサレム神殿が破壊されてしまいました。その時に成就されたのが、14-18節の内容です。ヨセファスは、エルサレムが陥落したとき、飢えて死んだ人の死体が2,000以上あったと伝えています。イエス様は「屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません」と言われました。クリスチャンはイエスさまの預言を知っていたので、エルサレムから逃げました。マタイは14節で「読者はよく読み取るように」と言っていますが、同じようなことが、世の終わりにも起こることを示唆しています。

 では、「苦難のとき」とはいつなのでしょうか?「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったようなひどい苦難の日」と言われています。これはまさしく、「世の終わりの患難の時代」と言うことができます。神さまはダニエルを通して苦難の長さが70週であると啓示しました。69週目でメシヤが断たれ(十字架に処せられ)、歴史が中断しました。なぜなら、教会の時代が割り込んできたからです。そして、残りの1週、つまり7年間が、ある時からスタートするということです。聖書学者たちは、最後の7年間を「患難時代」と呼んでいます。そして、後半の3年半が特にひどい苦難の時代であることから、「大患難時代」と呼んでいます。ヨハネの黙示録11章には「聖なる都が42か月の間踏みにじられる」と書かれています。また同じ黙示録13章には「獣に42か月活動する権威が与えられた」と書かれています。42か月というのは、3年半であります。後半は反キリストが猛威をふるい、迫害がひどくなり信仰を持つのが命がけになります。

 「このとき、クリスチャンはいるのか?」「教会も大患難を通過するのか?」という議論がキリスト教会にあります。20世紀にアメリカに福音派のリバイバルが起こり、患難前に教会が携挙されるということを主張しました。携挙というのは、キリストが来られたとき、信者が空中に携え上げられるということです。これは、マタイ2540節、41節に書かれています。また、Ⅰテサロニケ4章でもパウロが言及しています。でも、本当にクリスチャン全員が、大患難を経験しないで、天に引き上げられるのでしょうか?虫が良すぎるような感じがします。私はクリスチャンであっても再臨に備えていない人は残され、患難の中で信仰を保てるかテストされると思います。つまり、自動的に教会が天に携えあげられるのではないということです。携挙については、クリスマスが終わった後でお話しいたします。7年の患難の時は、選民イスラエル、ユダヤ人が救われる最後のチャンスです。そのため、144千人が祭司として特別に選ばれ、彼らが宣教活動をします(黙示録7章)。パウロは「イスラエルの一分がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ1125-26と言っています。この7年の患難、つまり最後の1週は、イスラエルの回復が目的であると確信します。だから、マタイは2422「もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです」と言っているのです。神さまは約束を守るお方であり、一度選んだ、イスラエルの民をお捨てにならないのです。

 では、「苦難の時」がいつから始まるのでしょうか?マタイ2415「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように)同じような事が、過去においてもありました。紀元前167年と紀元後70年に「荒らす憎むべき者」によって神殿が汚され、踏みにじられました。世の終わりにポイントとなるのが、エルサレムであり、その神殿です。現在、聖地に行きますと神殿の跡地にイスラム教徒の黄金のドームが立っています。神殿の壁だけが残されており、ユダヤ教徒たちはその壁に向かって一生懸命祈っています。やがて、ドームが壊され、神殿が再建されたならば、もう時間はありません。イスラエルが攻撃される最中、世界平和をもたらすような指導者が現れるでしょう。しかし、間もなく彼は「荒らす憎むべき者」に豹変するのです。彼が神殿に立ったならば、要注意であります。しかし、前半の3年半は比較的平和なので、一般の人々にはわかりません。今は、「ワン・ワールド、世界は1つになるべきだ」という考えが航空会社から生まれました。やがては「宗教も1つになるべきだ」という考えが起こるでしょう。まもなく、それは「世界統一政府」というワン・ワールドになるのです。その指導者こそが、反キリスト、「荒らす憎むべき者」なのです。私たちは世の終わりの終わりに住んでいる者であり、まもなく7年間の「患難時代」が来ることを覚悟しなければなりません。もちろん、私たちは世の光、地の塩として伝道と証の生活をすべきであります。しかし、同時に世の終わりがいつか来ることを知っておくことが重要です。

2.荒らす憎むべき者

 マタイ2415「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)」まず、旧約聖書のダニエル書を調べてみたいと思います。ダニエル927「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」ここで言われている「1週の間」というのは、7年間です。7年間は「患難時代」と一致しています。彼が現れたら、患難時代がスタートするということです。そして、半週、つまり3年半後にその正体を現すということです。さらに、ダニエル書11章には彼のことが詳しく述べられています。ダニエル1131「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」37-38「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。」彼は傲慢な指導者であり、まことの神を否定し、別の神をあがめさせます。ヨハネ黙示録13章にはもっと詳しく書かれています。彼は「反キリスト」と呼ばれ、人々に
「獣」を無理やり拝ませます。そして、その獣を拝まない者をみな殺させると預言されています。

 使徒パウロもⅡテサロニケ2章で彼のことを言及しています。Ⅱテサロニケ23-4「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」パウロは彼のことを「不法の人、すなわち滅びの子」と呼んでいます。やはり、彼が出現することによって、患難時代がスタートすることが分かります。彼は神殿に座を設け、自分こそ神であると宣言します。しかし、神さまは彼の出現をちゃんと定めています。今は引き止める者がいますが、ある時になると急に現れます。Ⅱテサロニケ29「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」患難時代は、救われるための愛を受けなかった人にとっては災いです。なぜなら、サタンの働きがものすごく強くなり、偽りと惑わしに敗けてしまうからです。現在は、主の恵みと聖霊の働きによって、信じるのがとても楽なのです。でも、患難時代は、サタンによる偽りと惑わしの力があまりにも強いので、偽りの方を信じてしまうのです。

 高木啓太師が『これからの世界情勢と聖書の預言』という本を書きました。彼は「荒らす憎むべき者」を「世界総督」と呼んでいます。少し彼の本を引用させていただきます。預言によるとこの指導者は、患難時代の中ごろに、突然イスラエル政府および世界人民との平和条約を一方的に破棄し、自分こそ世界の総督であると宣言して、国々を支配下に入れる。ユダヤ教の礼拝をはじめ、世界のあらゆる宗教を禁止させ、エルサレム神殿に座を設けて、自分は神であると宣言する。そのときから彼は、「不法の人」としての本性を現し、その絶対的支配権を世界に拡張し、世界の総督になる。大患難時代には、全世界に厳しい経済統制がしかれ、世界総督に従わず、彼を礼拝しない者は、だれ一人として食糧を買うことができないような措置がとられる。右の手か額かに受ける刻印、おそらく目に見えない刻印が押される。世界総督が絶大な権力を手中に収める1つの手段は、世界の宗教を統合して、その宗教の力を利用することである。統合された宗教がヨハネ黙示録では「大淫婦」「大バビロン」と呼ばれています。やがて、キリストが天から現れ、ハルマゲドンの戦いが起こります。つまり、患難時代の最後にキリストが再臨するということです。

 私たちの教会では「ヨハネ黙示録」から礼拝のメッセージを取り次いでいません。そのため、世の終わりについて話すと、ちんぷんかんぷんの兄弟姉妹もいるかもしれません。あんまり極端な終末論は問題ですが、聖書によって時代を見分けることが重要です。いつまでも、この時代は続かないということです。次の時代が来る前、イエス様がおっしゃったような「生みの苦しみ」があるということです。いろんな宗教が世の終わりのことについて言います。聖書を知らないと、惑わされてしまいます。でも、患難時代に突入すると、反キリストが猛威を振るうので、信じるのが困難になるというのは事実です。日本は現在、「信教の自由」がうたわれていますが、いつまでも続かないということです。特に他の宗教に排他的なキリスト教信仰は迫害の的になるでしょう。日本は文化国なのに、世界で稀に見るほど、伝道が難しい国です。9月の秋祭りのときは、多くの人たちが神社の氏子になって参加します。子どもから大人まで神輿を担いて、練り歩きます。私は夜中に神輿を担ぐ掛け声が、まるで地獄からの悲鳴のように聞こえます。昔、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉がはやりました。しかし、地獄はそうではありません。滅びは何としてでも避けなければなりません。患難時代がやってくると、みんなが信じないばかりか、迫害が強いので、全く信じられなくなるのです。イエス様はヨハネ12章でこのようにおしゃいました。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネ1235,36)。

3.山へ逃げなさい

 マタイ2416-20「そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」まず、ここで言われていることは、ユダヤに住んでいる人たちのための預言であるということです。このことは紀元70年にエルサレムが滅亡した時に成就しました。ローマ軍が聖なる都を囲んだとき、エルサレムにいたキリスト者がペレヤ地方に避難したそうです。しかし、イエス様が預言されたのは、エルサレム滅亡についてだけではありません。いのちのことば社の注解書にこのように書かれていました。「『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つような事態を見たなら、その聖なる所にしがみついていることはせず、さっさと逃げなさい。福音は全世界に宣べ伝えられているので、必ずほかにあかしする場所が備えられている」と書いてありました。「逃げる」というのが良いですね。「屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」とあります。20113月に「東日本大震災」がありました。90%の人たちが、津波に巻き込まれたことによる水死であったそうです。「津波てんでんこ」という教えがあるそうです。これは「津波はあっという間にやってくるから、周囲の者をかまうよりも、各自てんでんばらばらに逃げなさい」という意味だそうです。マタイ24章のこの記事は、津波が来たときの際、守ったら良い内容だと思います。なぜなら、大事なものを取るため家に戻ったために命を失った人が多いからです。預金通帳も大事ですが、命よりも大事なものはありません。

 イエス様は「山へ逃げなさい」と言いましたが、山は最も良い隠れ場であったからでしょう。しかし、これを新約時代の私たちが「何かあったら山へ逃げるべきだ」と解釈するのは早計です。ただし、「命を粗末にしないで、逃げることも必要である」と適用することも可能です。「災害時の危機管理が必要である」とよく言われています。よくテレビに出てくる山村武彦さんという防災システムの研究所所長さんがいます。彼は「正常性バイアス」ということを言います。人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)を指します。何か起こるたびに反応していると精神的に疲れてしまうので、人間にはそのようなストレスを回避するために自然と「脳」が働き、「心」の平安を守る作用が備わっています。これが働くと、「大丈夫だろう」「もう落ち着いだだろう」と迅速な避難行動が取れなくなるということです。東日本大震災では、「大地震の混乱もあり、すぐに避難できなかった。まさかここまで津波が来るとは」と思った人がたくさんいたそうです。非常事態の際に「正常性バイアス」に脳を支配されないよう、本当に危険なのか、何をしたらいいかを見極める判断力を養っておくべだということです。

 また、正常性バイアスに似た、「集団同調性バイアス」というのもあります。あるウェブでこのように解説されていました。人間の心理とは不思議なもので、想像が付かない出来事が目の前で起こると、「頭の中が空っぽ」になったり、「頭が混乱してしまい、何を第一にやれば良いのか?」判断できなくなるケースがあるようです。すると、周りにいる人と同じ行動をとってしまう心理が働くのです。2003年に韓国で地下鉄放火事件が発生しました。この事件で約200人の尊い人命が奪われてしまいました。公表された写真の中に、焼ける前の地下鉄内で乗客が出火後の状況を写した写真がありました。煙が充満しつつある車内に乗客(10人くらい)が座席で押し黙って座っているという不思議な写真でした。「なぜ逃げようとしないのだろうか?」これが、「集団同調性バイアス」です。マタイ2437-39「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」本来なら、大洪水に備え、ノアの箱舟に非難すべきだったのです。

 デモス・シャカリアンという実業家の証を紹介します。彼の祖父はアルメニア人で、カラカラで生活していました。その地方に住む「エフィム」が11歳の時、幻を見ました。彼は読み書きができませんでしたが、7日間かかって、幻で見た文字の形や図を苦心して写しました。それを村で字の読める人のところへ持って来ました。この文盲の子どもがロシア文字で一連の教えや警告を書き上げていることがわかりました。将来カラカラのクリスチャンはみな、恐ろしい危険に出会うようになる、と少年は書いていました。その時には、幾千万の老若男女が虐殺されるので、その地方の人々はみな逃げ出さなければならないときが来ると警告されていました。少年は脱出するクリスチャンたちが行くべき所をはっきり示した地図を書きました。そこには黒海やカスピ海ではなく、大西洋の向こうアメリカの東海岸、ゴールの西海岸まで明確に記されていました。カラカラの多くの人々は、この少年の空想物語を笑って聞いていました。1900年代に入った頃、エフィムは50年前に書いた預言の言葉が成就するときが近づいていると発表しました。「アメリカに逃げなければならない。ここに残る者はみな滅ぼされるだろう」と言いました。エフィムとその家族、そしてペンテコステ派の家族たちは荷作りをし、ずっと昔からの先祖の財産を残しました。ところが、残留した人々はあざ笑いました。懐疑的で、不信仰な人々は(多くのクリスチャンたちも含めて)神は現代においても、現代の人々に詳細で、的確な指示を与えることを信じようとしなかったのです。しかし、その指示の正しいことが証明されました。1914年、想像を絶する恐怖の時期がアルメニアを襲ったのです。トルコ人は、なさけ容赦のない強引さで、住民の三分の二をメソポタミヤの砂漠に追い出す血なまぐさい仕事に取り掛かったのです。カラカラの全住民を含めて百万人以上もの老若男女が死の行進の最中で死んでいきました。他の50万人は自分たちの村で虐殺されました。預言者の警告を受け入れて、アメリカに非難した人々は、非常なショックをもってこの知らせを聞きました。聖書は世の終わり、反キリストによる苦難がやってくるとはっきり預言しています。どうぞ、みんなが信じないから、私も信じないという集団同調性バイアスにはまらないようにしましょう。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ713,14と言われました。

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2017年11月 3日 (金)

世の終わりの前兆 マタイ24:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.11.5

 聖書は「世の終りが来る」とはっきり預言しています。しかし、それは必ずしも人類の破局ということではありません。イエス・キリスト様が再び来られ、神の国が完成されるときでもあります。悪が一掃され、キリストのご支配がやってくるのです。ですから、世の終りの一連の出来事は、神の国が完成する産みの苦しみでもあります。世の終り、キリストが来られる時、どのような前兆があるのでしょう? 6つのポイントで学びたいと思います。

1.にせキリスト

 マタイ24:4-5 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」キリストとは、メシヤ、救い主という意味です。たとえ、そのように言わなくても、「私は神である」とか「神と等しい」と言うのも「にせキリスト」であります。釈迦やマホメット、教祖的存在もにせキリストです。現在、教祖的な人といえば、文鮮明の統一教会があります。今は「世界平和統一家庭連合」と名称を変えています。韓国よりも、聖書を知らない日本人の方がカモにされています。また、非常に反社会的なオウム真理教があり、今も存在しています。終末思想と超能力が入口になり、インテリ層も洗脳されました。大川隆法の「幸福の科学」があります。これは仏教とキリスト教徒と哲学の混合であり、金儲けのために造られた宗教です。世界大戦後、アメリカで生まれた新興宗教「エホバの証人」があります。日本でもご婦人方が訪問していますが、真面目な人ほど惑われやすいのです。いわゆる教祖はいませんが、ニューヨークの本部が「にせキリスト」になっています。キリスト教会でも、奇跡やしるしを行う場合、自分が神的な存在であると思う誘惑があるでしょう。目覚ましい奇跡を行なうベニー・ヒンはぎりぎりのところにいるかもしれません。サタンは「あなたがたが神のようになる」(創世記35と誘惑しました。私たちはたとえ大きなことを成し遂げたとしても、神さまのしもべであり、すべての栄光は主に帰すべきです。

 イエス様は「人に惑わされないように気をつけなさい」とおっしゃられました。偽モノが多くあるからと言って、本物がないという理由にはなりません。たとえば、ニセ札を例にとって考えたいと思います。千円札のニセ物ではコスト高になります。かといって、10万円札を造ってもすぐニセ物とバレてしまうでしょう。だから、偽札造り屋は1万円の偽札を造るのです。もし、世に偽1万円札が出回っているとしたら、人々は1万円札を使わないでしょうか。本物があることをちゃんと知っているので、1万円札を使います。同じように、この世にニセモノがあるから、宗教はみなおかしいと考えるのは早計です。キリスト教のニセ物が多いのは、本物にまねようとしているからではないでしょうか。銀行員はどのように偽札がわかるのでしょうか。彼らは偽札にどのようなものがあるのか研究しません。いつも、本物のお札を見て触っているので、偽札がすぐわかるそうです。私たちもいつも本物に触れていたら、だまされることはありません。

2.戦争と戦争のうわさ

 マタイ246-7「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」。歴史は戦争の歴史ですが、これは世界をまきこむ世界大の戦争です。20世紀は第一、第二次世界大戦がありました。近年「核拡散防止条約は先進国の我がまま」ということで、インドやパキスタン、北朝鮮も核を持ちました。イスラエルは核を持っているのではないかと噂されています。国同士、核弾頭を世界の主要都市に狙いを定めセットされています。現在のものは広島の何百倍もの威力のある原爆で、そういうのが4つか5つ落ちたら地球が自体なくなるといわれています。そういう、第三次世界大戦がいつ起こるとも限りません。最近、北朝鮮のミサイルが日本海に何発も落ちています。いざという時のため、アメリカ軍の空母やイージス艦が何隻も備えています。まさしく、戦争のうわさに満ちています。

 また、7節には「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」と書かれています。これは単なる戦争ではなく、民族同士の紛争や戦争のことです。第二次世界大戦後、多くの国が独立して平和になったように思えました。ところが、国の中で民族どうしが争うようになりました。たとえば、黒海とカスピ海の間のカフカス地方、アルメニアとかアゼルバイジャンなどです。そして、旧ユーゴ、スラビヤなどの東ヨーロッパでも紛争がありました。東南アジアではカンボジアやミャンマーの内戦がありました。アフリカの場合、植民地時代は安定したように見えていました。しかし、独立した後、民族間の紛争が勃発しました。ケニア、ブルンジ、ルワンダなど部族同士の恐ろしい殺戮がありました。現在のアフリカは、私が小学校で習った地図よりも、はるかに多い国々があります。また、中東のパレスチナの紛争は、世の終りのハルマゲドンの舞台となると言われています。今、この時も世界中の10数か所で紛争が起こっています。  

      

だれしもが平和を望んではいますが、人間には罪があるので戦争をしてしまうのです。恒久的平和は、イエス様が再び来られて、この世を統べ治めるときです。イザヤ24「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と書かれています。本当の平和は神の国の完成時にやってきます。それでは、今は無理なのでしょうか。私たちは何よりも先に、神との平和を持つことが必要です。その次に、隣人どうし愛し合うのです。社会や世の中を変える前に、まず、隣人、夫婦、家庭の平和から始めるべきです。そして変えられた人たちが、はじめて平和な社会を作ることができるのです。私たちクリスチャンは平和を作り出す者として召されています。

3.ききんと地震 

 

 マタイ247「方々にききんと地震が起こります」。ききんというのは、自然災害(干ばつ、津波、火山噴火)や、紛争などによって、突発的に起こる食糧不足のことです。ききんが長期間続くと飢餓状態になります。近年は、熱帯雨林の伐採や焼き畑によって砂漠化が進んでいます。化石燃料を燃やすので、CO2が多くなり地球温暖化が進み、海面温度が上昇しています。そのため世界のあちこちに異常気象が起こっています。あるところでは全く雨が降らず、また、あるところでは大洪水になっています。台風が発生する頻度やその大きさも桁外れです。日本は山地なので、九州沖縄、北海道まで安全なところがないくらいです。

世界ではききんがますます深刻化しています。さらに度重なる内戦が食料不足に追い討ちをかけています。国連WFPなどが発表した報告書によると、世界で約8億人もの人々が飢えに苦しんでいると言われています。これはすごい数字です。全世界の9人に1人が飢えているという計算になります。その中の約2億以上が5才未満の子供達だそうです。10数年前、カンボジアから渡辺宣教師が報告のため当教会を訪れたことがあります。日本は不景気と言われながら、とっても豊かな国です。日本人は1年に数百万人も海外に旅行しているようですが、東南アジアに行かれたら、人生観が変わるのではないかと思います。ゴミをあさっているストリートチルドレン、一杯のミルクをもらうために半日も並んでいる人たちがいます。当教会のCSでも参加していますがチャイルド・スポンサーがあります。毎月4,500 円を送れば、1人の子供が食べて学校に行けるそうです。また、キリスト教の国際飢餓対策機構もあります。ハンガーゼロを目指しています。今、アフリカのモザンビークで宣教しておられるヒンディ・ベイカーの本を読んでいます。世界で最も貧しい国であり、親から見捨てられた子どもたちが道路で倒れています。ベイカーご夫妻はあえて、極貧の国へ行って、ゼロから開拓しました。彼らにパンを与えるだけではなく、自分の子どもとして迎え、ハグして、自分がだれかを教えてあげました。瞬く間に6000の教会ができ、100万人が救われました。

世の終わりには、大きな地震がたくさん発生します。インターネットで『全世界のマグニチュード6以上の地震の発生数と推移』という記事を見ました。マグニチュード6以上の地震は、1890年から1960年にかけて、1年で1件以下のペースでした。ところが、1970年からは1年間で5件位になりました。ところが、2000年以降は突然、大きな地震が増加しました。1年間に35から45件発生しています。日本でも2011年、東日本大震災がありました。マグニチュード9で、日本周辺における観測史上最大の地震でありました。津波被害と原発事故のため、今も苦しんでいます。近々、関東や東海沖の地震もあるかもしれません。昔、葛飾区役所からお電話がありました。「大震災のとき、教会ではどのくらいの方を安置できるでしょうか。お寺さんにも同じような通知をしているのですが」という問い合わせがありました。その時は役員会で相談してからと申し上げ、後でお断りしました。「教会は亡くなった人よりも、生きている人を助けるようにすべきかなー」と考えたからです。

 今から35数年前、韓国の申賢均牧師が幻を見たそうです。ある日の早天祈祷会の後、体を伸ばしてウトウトしていました。すると、目の前に高層ビルが見えました。突然、ビルに亀裂が入り、「ガラガラ、ドスーン」とものすごい地響きで崩れたそうです。申賢均先生は、ガバット跳ね起き「主よ、これは何ごとですか」とお聞きしました。すると、主が「これは日本の東京だ。日本が悔い改めなければこのようになる」とおっしゃったそうです。それから、申先生は毎年に45回、リバイバルの火を付けるため日本に来られました。聖会で何度もお会いしましたが「愛なる神は、あのニネベの町のように、さばきではなく、救いを与えようとしておられる。それでも、日本が偶像崇拝と淫乱の罪を悔い改めなければあのようになる」と、おっしゃっていました。申先生は既に、天にお帰りになられましたので、私がその遺志を継ぎたいと思っています。神様は地を揺り動かして、霊的なききんを与えようとしておられます。その時は、大勢の人々が教会にやって来るでしょう。そのため、ちゃんとした受け皿を教会は持たなければなりません。まさしく、産みの苦しみのはじまりが来ようとしています。

4.迫害、背教、にせ預言者

 リバイバルと迫害は密接な関係があります。現在、リバイバルが起こっている中国の地下教会やインドネシアにも迫害があります。トルコやパキスタンでは、自分がクリスチャンであると言うと危険です。アフリカの国々の教会もイスラムからの迫害があるようです。これから、日本にも本格的なリバイバルが来ることを信じます。その時に、聖書に書かれているような迫害も起こるでしょう。迫害で本当の信仰があるかどうか試され、救われる人も多いのですが、つまずく人や背教者も多く出てきます。ある人々は「神様はそれぞれの国の文化に、様々なかたちで現れたのだ。だから、どの宗教でも救われる。特定な宗教だけの救いを言うのは偏狭だ」と言うでしょう。しかしそれは間違っています。使徒4章でペテロが言いました。「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」アーメンです。皆さんは、お薬屋さんに行って、風邪をひいているのに、水虫の薬を出されたら、あぶないと思うでしょう。罪にきく薬は新約と旧約に示されるイエス・キリストだけです。

 

11節「にせ預言者が多くの人々を惑わす」と書かれています。最後の大患難の時には「獣と反キリストとにせ預言者」が現れます。しかし、世の終わりにも数多く現れるということです。特に問題とされるのは、「世の終わり」についての預言です。これまでも、世の終わりが来ると何度も預言されていました。ノストラダムスの大預言というのがありました。しかし、最近は聖書がはっきり述べていないことを断定的に言うものがあります。あるブログには「バチカン、イエズス会、イルミナティ、ロスチャイルドなどの陰謀論は極端すぎる」と書いてありました。「世間の裏情報」にはまりすぎるのは「にせ預言者」の思う壺ではないかと思います。また、世界的に有名な伝道者や大教会の牧師を「にせ預言者」と詮索するのも反対です。それでも、私はマイクロ・チップ国民総ナンバー制には、反キリストが準備をしているのではないかと思います。ヨハネの黙示録の書き出しは「イエス・キリストの黙示」と書いてあります。世の終わりは、サタンや反キリストではなく、イエス・キリストが現れるということなのです。世の終わりの教会は、なまぬるいラオデキヤの教会になります。ラオデキヤの教会への勧めです。黙示録318「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」私たちは霊的に目覚め、にせ預言者に翻弄させられることがないようにすべきです。そのためには聖書の正しい解釈とキリストの御霊に導かれる必要があります。

5.不法がはびこる

 マタイ24:12-13「 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」世の終わりには「不法がはびこり、愛が冷える」と預言されています。一昔前までは、「罪とは人間は進歩の途上のことである。教育を施せば人間は罪を犯さなくなる」と言われていました。ところがどうでしょう。人間は教えられた知識を使って、もっと巧妙に罪を犯すようになったのです。昔は、「よしのぶちゃん誘拐事件」がものすごいショックでした。しかし、今は、殺人事件は日常茶飯事であり、「またか」と心が麻痺しています。まず、刑事もののドラマが良くないと思います。犯罪の仕方を教えています。また、最近のドラマでは一人ではなく、4,5人殺されています。若者たちは戦争のゲームにはまっています。彼らはバーチャルと現実の境目がなくなるのではないでしょうか?「愛は冷たくなり」とありますが、犯罪だけではありません。離婚率が高まり、崩壊している家庭が多くあります。親がいるのに、養護施設に入らざるを得ない子どもたちがいるとは何と悲しいことでしょう。

 パウロが世の終わりに人々がどのようになるか私たちに警告しています。Ⅱテモテ31-5「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」聖書は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じています。終わりの時代は「こういう人々を避けなさい」と言われています。神の武具で身をまとい、御霊の知恵をいただきながら、人を愛することが必要でしょう。

6.福音宣教

マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」奥山実先生もおっしゃっていましたが、これこそ、再臨の最も画期的なしるしです。この意味は、世界のすべての人が信じたらキリストが来るというのではなく、「世界のすべての人が福音を聞いたら」であります。福音はエルサレムから始まり、ヨーロッパ全土に広がりました。やがて海を渡りアメリカ大陸に伝わりました。そして、20世紀はアジア、アフリカの時代です。韓国、インドネシア、中国がリバイバルされました。アフリカでもウガンダ、タンザニア、ザイール、ナイジェリア、南アフリカなど大半がクリスチャンだそうです。でも、イスラム教徒からの迫害もあります。ラインハルト・ボンケ宣教師が、アフリカの各地で伝道しました。1回の集会に多いとき50万人も集まったときがありました。彼は年間800 万人の人々にメッセージを語り、200 万人の人々が救いを受けたそうです。現在、Cfanという団体が、宣教活動を受け継いでいますが、2015年で7500万人以上の魂が救われたそうです。残されているのは、イラン、イラク、トルコ、サウジアラビアなどのイスラム圏です。そして、最後にはユダヤ人に戻るのです。最近はユダヤ教徒からクリスチャンになる人がだんだん起こされています。福音は地球をまもなく1周することでしょう。聖書もすべての国民部族が読めるように、1千以上の民族の言葉に翻訳されています。また、ラジオ、テレビ、衛生放送で、世界のどの場所にも福音が伝えられるようになりました。つまり、福音が全世界に宣べ伝えられつつあるのです。そして、終りがきます。

こう考えますと、日本の教会、クリスチャンというのは、やはり島国的な信仰だなーと思います。目先の自分の所のことしか考えていません。世界のことより、自分の教会が少しでも成長しないかなーと思っています。青年たちは、時々、短期宣教に行きます。インドやフィリッピンなどで、伝道すると不思議なくらいに多くの人が救われるそうです。青年たちは本当に変えられて帰ってくるそうです。伝道は簡単だと思うわけでしょう。日本の電化製品はあらゆるところまで行っています。日本人が宣教に出かけたら、現地の人は「優秀な日本人がわざわざやってきた」と歓迎するようです。日本の教会は黙示録のラオデキヤのように、なまぬるいかもしれません。やはり、世の終りが来るという、再臨信仰がボンヤリすると、信仰もボンヤリしてしまいます。ただいま、6つのポイントで申しあげましたが、イエス様は世の終りの前兆を示しながら、いくつかの注意点を与えておられます。第一は「人に惑わされないように」です。偽キリストや戦争のうわさに気をつけて慌てないようにするということです。ききんや地震があっても、それらは「産みの苦しみのはじめなんだ」というのです。今は聖書の他にたくさんの本が世の終りのことを書いています。どうぞ、だまされないようにしましょう。聖書が言う「希望の終末論」を持ちましょう。第二は「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と書かれています。これは、大勢の人がつまずいても、迫害が起こっても、信仰を捨てないということです。キリストは花婿であり、教会はキリストの花嫁です。神さまのみこころは、世の中がどうであっても、花嫁がきよく美しい状態になるということです。私たちは、キリストを待つ花嫁なる教会です。

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2017年10月20日 (金)

内側をきよめよ マタイ23:23-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.22

 きょうの箇所はあまり読みたくないところです。私は宗教をやっているとは思っていませんが、宗教が陥りやすいポイントを教えてくれます。逆を言いますと、「宗教的にならないように、こうしなさい」と教えてくれてくれる箇所だと思います。きょうは3つのポイントで、偽善者にならないための教訓をいただきたいと思います。 

1.細則よりも精神を

 マタイ2323-24 「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」律法学者、パリサイ人は規則を作るのが大好きでした。律法自体は悪くありません、むしろ良いものです。しかし、彼らは律法を解釈して適用するときに、細かい規則を作りました。大切なのは、律法の精神を捉え、聖霊に導かれて生きれば良いのです。それを「こういう場合はどうする」「あのような場合はどうする」と決めるので、律法の精神からずれてしまうのです。今日も学校や会社でたくさんの「細則」がありますが、人間の自由と尊厳を奪っているように思います。当教会でも「亀有教会理念」の中に「細則」を設けています。しかし、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ514を一番最初に記しています。もし隣人を自分自身のように愛したなら、罪を犯すことがなくなるからです。世の中に数えきれないほどの「きまり」があるのに、教会に来てまで「きまり」を作ったならどうなるでしょう?パウロは「律法は私たちの肉を刺激して、罪を犯させようとする」と言いました。「するな」と言われればしたくなるし、「せよ」と言われれば、したくなくなるのです。規則を作って、寝ている子を起こす必要はありません。

 ところが、偽善の律法学者、パリサイ人は、10分の1のささげものを細かいものまで決めました。自分たちも「はっか、いのんど、クミンなどの十分の一」を納めていました。これらすべては香料のための種子とか葉っぱでした。そういう収穫物まで、10分の1を適用していたのです。でも、彼らはもっと重要なことを無視していました。イエス様は、「律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われました。「はるかに重要」とは、原文では、「より重いもの」と書かれています。なぜなら、「はっか、いのんど、クミン」は軽い種子か葉っぱだったからです。彼らは「10分の1」はささげていたかもしれません。でも、もっと重要な正義とあわれみと誠実を、おろそかにしていました。つまり、生活の中でそういうものが見られなかったということです。規則一辺倒で、律法の精神がなかったということです。宗教に、正義とあわれみと誠実が重要だなんてだれが思うでしょうか?仏教では「あわれみ(慈悲)」というのは言うかもしれません。しかし、そこに正義とか誠実が同居できるかということです。聖書の神さまは、あわれみだけではなく、正義と誠実を要求されます。なぜなら、神さまご自身が、義であり、あわれみであり、誠実(good faith)なるお方だからです。極端に言いますと、細かい律法を守るよりも、正義とあわれみと誠実を求めて生きれば良いということです。それをコンプライアンス遵守とか言うので、いやになるのです。あるテレビ番組で公務員を辞めた人が、田舎で野菜作りをしていました。彼は「ここではコンプライアンスもないし、体重も減って健康になりました」と言っていました。コンプライアンスと体重は関係ないと思いますが、かなりのストレスになると思います。人間は見張られて生きるよりも、自由と尊重の中で生きたら、正しいことをしたくなるのです。だから、イエス様は細かい規則を作って人を縛るのではなく、正義とあわれみと誠実を重んじるように言われたのです。

 23節にの最後に「十分の一もおろそかにしてはいけません」と書かれています。しかし、これは聖書に書かれていません。正しくは「他のものもおろそかにしてはいけません」です。おそらく、新改訳聖書を作った人が、教会に「10分の1献金」を勧めるために書いたのでしょう。でも、「10分の1献金」は聖書的なことは間違いありません。しかし、彼らがしたように、これを律法化して教会員に強要するなら、逆効果になります。ある教会は、「10分の1献金は教会を支えるための大切な資源となりますのでお捧げください」と勧めています。そして、洗礼を受けるとき、教会員の義務として、誓約をさせられます。しかし、献金は教会を支えるために捧げるではありません。それだったら、どこかの団体と変わりありません。献金は会費や活動費ではありません。これは神さまに捧げるものです。神さまがすべてのものを与えて下さっているので、そのことを感謝してささげるのです。神さまご自身は富んでいますので、ご自分は必要でありません。神さまは、私たちがささげた献金を宣教や教会活動のために戻してくださるのです。さらには、捧げた分の30倍、60倍、100倍にして、兄弟姉妹に報いてくださるのです。喜んで捧げる人には、神さまは喜んで報いてくださいます。どうぞ、教会に献金をささげると思わないでください。献金は、神さまご自身に捧げるものであり、神さまご自身が捧げた一人ひとりに報いてくださるのです。もし、「10分の1献金」を律法にするなら、どうなるでしょう?「私は10分の1をささげているから立派なクリスチャンなんだ」と自分を誇るでしょう。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょう?「あなたは律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われるでしょう。正義とあわれみと誠実は量ることができません。献金のように、数字に出ないのでわかりません。でも、私たちが正義とあわれみと誠実を追い求めていくとき、神さまは喜んでくださいます。なぜなら、神さまは規則を守っているかよりも、私たちの生活自体に興味があるからです。律法の細則よりも重要なのは、律法の精神です。正義とあわれみと誠実は父なる神さまのもとからやってきます。正義とあわれみと誠実に富んでおられる神さまをあがめましょう。その結果として私たちは神さまの祝福を受け、恵みによって細かい律法も守ることができます。

2.外側よりも内側を

マタイ2325-26「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」「杯や皿の外側はきよめる」とはどういう意味でしょう?彼らは儀式に用いる杯や皿の外側を磨いてきよめました。確かに、レビ記には、聖別された器を流れる水で洗うシーンがあります。イエス様がおっしゃりたいのは、外なる人のことではなく、内なる人のことであります。外なる人というのは私たちの外側です。容姿や着ているもの、言葉使いや態度です。人は外側を見ます。お化粧に長い時間をかけるのはそのためです。サプリメントやエステサロンでスタイルをキープします。外側が良く見えると、なんとなく内側も良さそうに見えるのが人間であります。私たちの目は外側で90%ぐらい判断してしまうところがあります。つまり、見てくれで決めてしまうところがあります。でも、その人と会話すると、内なる人がばーっと出てきます。その人がどういう人なのか分かるのに30分かからないでしょう。教会にセールスの方がやって来ます。ことば使いが上品であっても、「怪しいな?」と思うときがあります。でも、私は騙されやすい方なので、大きなことは言えません。私たちは内なる人にどれくらいウェートを置いているでしょうか?それは教養だけのことではありません。ガラテヤ人の手紙には「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊が結ぶ人格的な実が上げられています。創造力、知恵、勤勉さ、安定感、高潔さも内なる人の魅力です。

偽善とは「演技をする」「仮面をかぶる」というところから来ています。律法学者、パリサイ人たちは外側をきよく見せるにはプロだったのでしょう。お祈り、作法、断食、施し、聖書研究、何をしてもすばらしくて「聖人」に見えたのではないでしょうか?でも、イエス様は彼らの内側を見ることができました。Ⅰサムエル167「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。彼らの動機や願い、隠れた所での行いを見ることができました。イエス様は、「その中は、強奪と放縦でいっぱいです」と言われました。強奪というのは、「引ったくる」「奪い取る」という、泥棒みたいなことです。放縦は、「不節制」「自制力のない」という意味です。なんと、「外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいだった」ということです。「欲しくてたまらない。隙あらば、いただいちゃおう」「飲んで、食べて、楽しみたい」というのが本音でした。仮面の下から、ギラギラした目が見え、口元からよだれが垂れていたのです。まるで、中世の貴族たちが催した仮面舞踏会のようです。宗教もそのように、なってしまう傾向があるということです。「統一教会」というのが今も名前を変えてあるようです。彼らは人の相談を良く受けます。しかし、その人の家族構成や財産を調べています。その自身に価値がなければ、実家の土地財産に手を伸ばします。教団のために、30年くらい働かせて、年取ったらポイです。世の中にいろんな占いやカウンセラーやいますが、新興宗教と結びついているものがたくさんあります。外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいです。

では、「私たちキリスト教会は大丈夫か?」というと、そうでもありません。もちろん、律法学者、パリサイ人、新興宗教の人たちとはレベル的には違うでしょう。でも、外側よりも内側に気を配る必要があるということです。昔は、それがあまりにも強調され過ぎていました。お化粧しない、服装も粗末で、贅沢は敵だという考えがありました。矛盾しているようですが、ある程度は、外側に気を配る必要はあると思います。私も生協に買い物に行きますが、「ああー、この人髪を染めたら、若く見えるのになー」と思うことがあります。「私自身が頭ボサボサで行ってるのに、人のこと言えないなー」と思いますが。話は戻りますが、教会が陥りやすい罪は、偽善です。外側を霊的に見せるということです。アメリカの教会のように、Sunday clothingに身を固め、しゃなりしゃなりと座席に着きます。教会の礼拝も伝統的でとても整然としています。手を上げて歌ったり、通路から出て、踊ったりはしません。途中で「アーメン」みたいな合図地も打ちません。礼拝が終わっても、大口を空けて笑ったりはしません。「感謝します」と軽く挨拶して、家に帰ります。そして、教会でかぶっていた仮面を脱ぎます。「ああー、やれやれ。ワーシップの歌、長かった―。鈴木牧師の話、つまらなかったー。」とか言います。横になって煎餅をかじって、録画していた韓国ドラマを見ます。平日はこの世の人と全く変わりありません。日曜日の朝になると、教会用の仮面をつけて行きます。「感謝します。恵まれました」と挨拶して、帰ってきます。そして、仮面を脱いで「ああー、やれやれ。鈴木牧師の話、ちょっとはマシだった」と言います。

 申し上げますが、礼拝は鈴木牧師の話を聞きに行くのではありません。当教会で自慢できることがあるとするなら、偽善者がほとんどいないということです。いや、全くいないということです。ハレルヤ!アーメン。なぜでしょう?牧師がありのままで生きているからです。少しは牧師らしくしてもらいたいのですが、みんな諦めています。最近、日本の教会では「霊性」ということがとても強調されています。おそらく、カトリックのヘンリ・ナーウェンの影響かと思われます。霊的な生活をとても強調して、日本人に好まれています。でも、あまりにも内省が多いように思います。内省とは自分に罪がないか、傷ついたところがないか見つめることです。しかし、バランス的には後ろ向きな感じがします。私は前からディボーションを強調しています。でも、自分も見つめること以上に、私をご覧になっておられるイエス様を見ます。イエス様から見た自分は、結構、慰められ、希望が与えられます。エリヤハウスも福音派に根付いて来て大変結構だと思います。でも、お互いの傷とか罪にポイントが行って、どうしても後ろ向きです。過去の根をほじくりすぎるところがあります。エリヤハウスはサンフォード師の預言者学校から生まれたものです。そして、預言とはその人の罪をあばくのではなく、泥の中に埋まっている宝を発見するものです。私は、本当の霊性はイエスさまを仰ぐことであり、主の臨在と共に生きることだと思います。旧約時代は杯や皿の外側に油を塗って聖別しました。今日的には、外側に聖霊の油注ぎを受ける必要があります。聖霊によって内側をきよめていただき、同時に、外側に聖霊の油注ぎanointing を受けましょう。

3.かたちよりも命を

マタイ2327-28「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」当時のお墓は、石灰で白くしていました。なぜなら、そこに触れると汚れるからです。イエス様は彼らを「白く塗った墓のようなものです」と言われました。考えるのもぞっとしますが、外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。マタイ23章は「ああ、わざわいだ」と偽善者たちを糾弾している箇所です。「白く塗った墓」のたとえは、23章の頂点と言えるかも知れません。それほど、表現が強烈だからです。バプテスマのヨハネもきつかったですが、イエス様も結構きついですね。これはどういうたとえかと言うと、彼らの生活が外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだということです。英語の聖書は、「外側は本当に美しく見える」と書いてあります。彼らは見せかけと虚偽のプロでした。この世にたくさんの詐欺師がいますが、彼らは宗教的な詐欺師でした。でも、それが何のメリットがあるのでしょう?人々から「先生」とか「父よ」と呼ばれるのがそんなに嬉しいのでしょうか?あるいは、宗教的な権威が与えられ、人々の上に立つことがそんなに名誉なことなのでしょうか?私も大教会の牧師になって、「先生」と呼ばれたら気持ちが良いかもしれません。60人くらいの会衆では、「ちょっと」という感じがします。つまり、自分に本質的なものがないなら、虚栄心を張りたくなるのかもしれません。虚栄心、自分を大きく見せたい。これは、人間の欲望であり、宗教はそれを満たすことができるのかもしれません。

でも、問題は中身です。外側は本当に美しく見えるかもしれません。では、内側はどうなのでしょうか?死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。考えるだけでもぞっとしますが、これこそが宗教が到達するところです。白く塗られた墓の下には、死があるということです。旧約聖書に、当時のイスラエルに対することばがあります。エレミヤ213「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」「湧き水である泉」とは、生ける真の神です。泉はたえず流れるので、いつも新鮮です。一方、水ためはどうでしょうか?流れないので、腐って虫が湧きます。当時、イスラエルは、まことの神ヤーウェから離れ、バアルの神さまを礼拝しました。バアルは偶像礼拝であり、人間的な宗教です。しかし、命がないので、罪と腐敗が生じてきます。人は真の神を捨てるとき、中立になるのではなく、直ちにまがいものの神を求め始めます。日本人がその典型です。日本人は「私は神なんか信じない」と言う人がたくさんいます。しかし、困ったときなどは、偶像の神さまに願います。いろんなジンクスを恐れて生きています。私たちキリスト教会はどうでしょうか?もちろん、イスラエルのような偶像礼拝はしません。しかし、命であられる真の神さまと交わっているかどうかです。教会でもイースターやクリスマスの年間行事、礼拝プログラム、毎月の役員会、年度総会、悪いわけではありません。しかし、聖霊様が介入する余地がないとするなら、人間的な宗教になってしまいます。もちろん、神さまは秩序の神さまですから、何か変わったことをすべきだということではありません。重要なのは、神さまの恵みはたえず流れているということです。人間の行事や時間の枠に留めることはできません。ある時、ランディ・クラーク師がトロント空港の近くの教会に招かれました。すると聖霊が降ってきて、40日間ぶっ続けで集会を持ったそうです。多くの癒しや奇跡が起こったので、そのニュースを聞いた人たちが国を超えて集まってきました。そこから、トロント・ブレッシングというリバイバルの流れが起こりました。でも、人々がそこで笑い出し、動物の声で鳴く人たちも現れました。本部のヴィンヤード教会は、「あそこは危ない」とヴィンヤードの群れから追い出したそうです。なぜなら、自分たちの理解の枠を超えていたからです。リバイバルは神さまの働きですが、カオス(混沌)も一緒に現れます。だからと言って、聖霊の流れを止めてはいけないと思います。

私たちはかたちよりも命を求めるべきです。外側の美しさ、見栄えも良いかもしれません。ヨーロッパに行くと、荘厳なカセードラル(寺院)がいっぱいあります。しかし、そこには命がなく、観光地になっています。なんと、イスラムの人たちが教会堂を購入しています。建物や伝統があっても、いのちがありません。聖霊様がそこにいないということです。聖霊様がいない教会はないと言うかもしれません。しかし、聖書には「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサ519)とあります。そうです。キリスト教会と言いながらも、聖霊が眠っておられる教会はたくさんあると思います。彼らは「奇跡とか預言は困ります。もうないのですから」と神さまを枠の中に入れています。彼らの神学や伝統が聖霊の自由な働きを締め出しているのです。まさしくそれは、こわれた水ためです。私は、日本の教団はそういう危機にあると思います。近年は、教団教派に縛られない教会が成長しています。なぜなら、聖霊の働きをいち早くキャッチして、その波に乗れるからです。ある人が言いました。「私たち人間は波を起こすことができません。波を起こすのは神の霊です。リバイバルとは、神さまが起こしてくれた波に乗ることです」と言いました。私たちはサーフィンの人たちから学ぶ必要があります。彼らは地味にパトリングをしながら波を待っています。波が来たなら、パッと乗ります。そして、できるだけ長くその波に乗ります。でも、その波は消えます。そうすると、彼らは次の波に乗り替えます。波は次から次とやってきます。重要なのは、その波をとらえて乗り続けることです。そして、その波が過ぎ去ったら、次の新しい波に乗り替えることです。ある人たちは昔のリバイバル、昔の成功に固執して、同じようなことを求めています。でも、神さまは全く、新しいことをするかもしれません。私たちの内側には、キリストのいのち、復活のいのちがあります。死に打ち勝つのは復活のいのちです。ヨハネ738 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」聖霊の川が私たちの中から、この世に向かって流れて出ていきますように。

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2017年10月13日 (金)

偽善者になるな マタイ23:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.15

 みなさんは、テレビや映画で好きな俳優はおられるでしょうか?「偽善者」は、もともとは、俳優がある役を演ずることから来ています。簡単に言うと、偽善者とは、信仰深いようなふりをしているということです。イエスさまは「わざわいだ」と律法学者やパリサイ人たちを糾弾しています。私も世の中からみると「宗教家」になりますので、耳が痛い箇所であります。でも、牧師は「教役者」と呼ばれますので、「役者」にならないように気を付けたいと思います。

1.間違った熱心 

 偽善者は、外見は熱心なので信仰深く見えます。新興宗教をしていられるほとんどの人は熱心です。人々は彼らの熱心さゆえに信じてしまうかもしれません。律法学者やパリサイ人たちは何故わざわいなのでしょうか?13節には「人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません」と書いてあります。つまり、人々が救われないように熱心に妨害しているということです。最初、バプテスマのヨハネが荒野で福音を語りました。そのとき、ヨハネは彼らに向かって「まむしのすえたち、…悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と警告しました。彼らは反対に、「ヨハネは悪霊につかれている」と悪く言いました。次にイエス様が福音を語りました。すると彼らは「イエスは食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と批判しました。イエス様は「取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入って入るのです」(マタイ2131と告げました。彼らは自分たちが拒絶しただけではなく、他の人が信じるのを妨げました。まるでそれは、天の御国の入口を塞いでいるようなものでした。福音書を見るとそのことが良くわかります。大勢の人たちがイエス様の教えを聞きに集まって来ました。そのとき、イエス様の周りに律法学者やパリサイ人たちが座りました。イエス様を睨みながら、あら捜しをしました。そして、色んな難問をふっかけ、イエス様を陥れようとしました。もし、私が礼拝メッセージ中、前の席の人から「そんなのウソだ。神なんかいない」と言われたらへこみますね。亀有教会の人たちは「アーメン。アーメン」と熱心に聞いておられます。演技をしていないことを信じます。

 14節には「やもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしている」と書いてあります。彼らは、弱くて頼る人もいないやもめに対して、長い祈りをしてあげました。いくらかでも、お布施をいただきたかったからです。「食いつぶし」というのは、「食い物にする」という意味です。新興宗教の人たちは病気の人や身寄りのない人たちの世話を良くします。一見親切そうに見えますが、票を獲得するためであったりします。私もある人のため癒しの祈りをしようとしました。すると「キリスト教も祈るのですか?」と言われました。おそらく「人の弱みに付け込んでいる」と警戒したのでしょう。今は、お年寄りの人に親切にすると、かえって怪しまれます。預金や財産目当てだと思われるからです。浦和に便利屋さんをしている牧師がおられます。ふすま貼りやクロス貼ります。いただいた代金はすべて教会に回して、自分は定まった給与を教会からいただいているそうです。ご用向きで行くと「え?牧師さんなの」とおどろかれるそうです。休憩の合間に、人生相談を受けるので伝道にもなるということです。イエス様は偽善の律法学者、パリサイ人に「おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます」と言われました。「罰を受ける」というのは「永遠の断罪を受ける」ということです。それだけ、弱い人たちを食い物にするというのは罪が重いということです。なぜなら、父なる神さまがそういう人たちを最も心配しているからです。イザヤ書58章に、神が好む断食について記されています。それは「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」(イザヤ587と書いてあります。初代教会では、教会あげてやもめたちの世話をしていました。しかし、配給のことで問題が起りました。そのとき、どうでも良い人たちが世話をしたのではありません。教会は、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選んで、その仕事に当たらせました(使徒63)。それらは、とても重要であったということです。

 15節には、彼らは改宗者を得るためにとても熱心でありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」「改宗者」というのは、ユダヤ教に改宗するという意味です。彼らの先祖は、バビロン捕囚のため国外に散らされました。そのとき、方々に会堂を建てて信仰を守っていました。イエス様の頃は、小アジヤやギリシャにも会堂があり、あちこちにユダヤ教徒がいました。それだけ伝道熱心であったということです。でも、その熱心は間違った熱心でありました。パウロがまだサウロであったとき、キリスト者を撲滅するために、とても熱心でした。しかし、復活の主に出会ったとき、キリストご自身を迫害していることであると悟りました。回心したパウロは、キリストを熱心に宣べ伝える人になりました。そして、今度はユダヤ教徒から命を狙われるようになりました。やがてパウロは小アジヤ、ギリシャ、ローマまで福音を伝えに行きました。しかし、強烈に迫害したのはユダヤ教徒たちでした。イエス様は彼らの弟子訓練を「自分より倍も悪いゲヘナの子にする」とおっしゃっています。最近はイスラムの過激派のことが報道されます。しかし、どうやって自爆テロにするのか不思議であります。若者たちに、間違った熱心を植え付けています。

 日本人は「まじめさ」とか、「熱心さ」をとても重んじる国です。しかし、その対象が真実で永続的なものであるかがより重要ではないでしょうか。なぜなら、悪魔だってまじめです。まじめに人々を誘惑し、悪い事をしているからです。また、「熱心さ」でもあぶない熱心があります。アイドルを自分だけのものにしたくて、何でもします。自己中心的な愛であり、相手のことを考えていません。若者たちが野外コンサートでずーっと立って、踊っているのをテレビで見るときがあります。あのエネルギーはどこから来るのだろうと不思議に思います。もっと、正しい使い道があるのではと「おじさん」は心配するのであります。パウロが律法主義のユダヤ教徒にこう述べています。ガラテヤ417「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」パウロの時も、一人の改宗者を得るために熱心であったということです。彼らの熱心は肉による熱心であり、聖霊から来たものではありまさせん。本当の熱心は神さまから来るものです。正しい福音理解と聖霊による恵みこそが、真の熱心であると信じます。パウロは「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ1211と言われました。異端の人たちは私たちよりも熱心なところがあります。それは一人でも多く改宗者を得るためです。私たちは教会や教団のためではなく、純粋な救霊愛を持ちたいと思います。肉の熱心さもある程度のところまでは行きます。しかし、私たちは聖霊による熱心さ、みことばに基づいた熱心さを持ちたいと思います。

2.間違った誓い方

 聖書の中に「誓い」が時々、出てきます。約束でもっと重要なものが「誓い」と言っても良いかもしれません。当時のユダヤ人、特に宗教家たちはいろんな誓いをしていたようです。でも、誓ったことは必ず守らなければなりません。律法学者やパリサイ人はどのような誓いをしていたのでしょうか?イエス様が彼らの誓い方を具体的に取り上げています。第一は神殿に関するものです。マタイ2316,17「『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。」これはどういう意味でしょう?彼らは神殿をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「神殿の黄金をさして誓ったなら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は黄金を聖いものにするのは神殿であり、神殿の方が大切なんだと言いました。つまり、神殿をさして誓ったなら、その誓いも果たさなければならないということです。さらにイエス様は21節で「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです」とおっしゃいました。神殿の背後には神さまがおられるのであり、それは神さまに誓っているのと同じだということです。つまり、律法学者やパリサイ人は何とか言い逃れができるように、へりくつを考えたのです。

 第二は祭壇に関するものです。マタイ23:18-19「 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。彼らは祭壇をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は供え物を聖いものにするのは祭壇であり、祭壇方が大切なんだと言いました。そして、20節で、「祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」と言われました。私たちの頭ではちょっと理解できません。ユダヤ人は神の名を使うことを非常に恐れていました。こういうみことばが聖書にあります。レビ記1912「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」つまり、彼らは主の名によって誓うことはしませんでした。その代り、神殿とか祭壇に取り換えました。はたまた、黄金とか供え物をさして誓ったりしました。何をさして誓うかが問題とされました。しかし、イエス様は何に対してであっても、誓いは誓いなんだと言われました。

 第三は天を指して誓う誓いです。22節「天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」このことは、マタイ5章にも書かれています。「すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。」(マタイ534,35)と言われました。彼らは神以外のもので誓ったなら、果たさなくても良いと言い逃れを考えたのです。でも、天には神の御座があるので、神さまに誓っていることなのです。

イエス様は、すべての誓いが神にかかわっており、実行する責任があると教えました。しかし、もっと言うと、できそうもないことは誓わない方が良いということです。マタイ5章でイエス様はこうもおっしゃっています。マタイ537「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」それ以上のこととは、何かを指して誓うということです。「はい、…します」と言ったことをそのまま実行すれば、誓う必要はありません。「いいえ、…しません」と言ったことをまま守れば、誓う必要はありません。不誠実な人ほどよく誓います。「いのちをかけて誓います」「名誉にかけて誓います」「神かけて誓います」。まるでシェークスピアかヘミングウェイであります。つまり、演技をしているように思えます。演じている自分に酔っているのかもしれません。私は「きっと〇〇します」「絶対○○します」みたいなことは言わないように気を付けています。なぜなら、そうできなかった場合、信用を失うからです。でも、自分が言ったことばを実行しようとは務めています。詩篇にすばらしいみことばがあります。詩篇154「損になっても、立てた誓いは変えない。」とあります。私が23歳の頃、小さな貿易会社で働いていました。先輩の部長はクリスチャンで私を導いてくれた人です。あの頃は、インドやバングラディッシュ、アフガニスタンに中古衣料を輸出していました。ワイシャツや毛布が大変重宝され、梱包して横浜や神戸から送りました。最初は向こうのバイヤーと契約を交わします。その後、L.Cが送られてきたら出荷します。たとえば1キロ1ドルでワイシャツを取引きしたとします。ところが別のお客さんが1キロ1ドル30セントで買うと申し込んできました。ところが社長が口を挟み、前のお客さんには「もうない」と言え、新しいお客さんに売れというのです。先輩は最初、社長に従いました。でも、お客さんが長続きしません。なぜなら、信用を失っているからです。最後に先輩は「クリスチャンとして約束を破ることができません」と言いました。社長は「これが商売なんだ」と、かんかんに怒りました。社長が言うことを聞いてくれないので、先輩と私は会社を辞めることにしました。今、思えば、「せっかくあこがれの英語事務の仕事ができたのにもったいない」。でも、クリスチャンになってもっと大切なものがあると気付いたんですね。そのとき、先輩が教えてくれたみことばが詩篇154でした。「損になっても、立てた誓いは変えない。」のみことばで、あの時のことを思い出します。

 私は結婚式の司式のときも「誓いますか?」とは言いません。「約束しますか?」と少し柔らかめにします。でも、どうして「努力しますか?」ではダメなんでしょう。「努力します」の方が人間的で良いと思います。なぜなら、日本ではカップルの30%が離婚しているからです。教会で洗礼を受けた人も半分近くは、やがて教会に来なくなります。果たして、誓いや約束は重要なのでしょうか?聖書を見ると、神さまが私たちに向かって、誓いや約束を良くしていることがわかります。神さまはご自分の名前によって誓います。なぜなら、他に誓うべき対象がないからです。神さまがなされた誓いや約束は必ずなると信じます。でも、私たちはなぜ、誓ったり約束をするのでしょう?それは自分を制限するためです。自分はそれを必ず果たすんだという心構えができます。そうすると横道にそれたり、誘惑に負けることなく、ひたすら努力することができます。でも、人間は不完全なので、遂行、履行、遵守ということができないことがあります。ことばで誓う時はとても気持ちが良いです。でも、それを実行して行くには、地味でたゆまない努力が必要です。「言うは易し、行なうは難し」であります。箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」とあります。私も信仰によって大きなことを宣言することが多々あります。神さまから来たものでなければ、自分で自分を苦しめてしまいます。そういう意味で、信仰の宣言はもろ刃の剣かもしれません。神さまはご自分の誓いや約束を守るお方です。私たちも神のかたちに似せて造られたので、そういうところがあるのかもしれません。でも、主の恵みによって「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言うことを努めたいと思います。できるだけ言い逃れをせず、真実な道を歩みたいと思います。

3.目の見えぬ者たち

 16節には「目の見えぬ手引きども」17節には「目の見えぬ者たち」19「目の見えぬ者たち」2426節にもあります。なぜ、イエス様は律法学者やパリサイ人にそのようにおっしゃったのでしょうか?イエス様が「目が見える」というとき、ものの見方や考え方を言います。簡単に言うと、目が見えるというのは、物事の真実が分かるということです。英語でI seeは見えるだけではなく、understand「わかる」という意味もあります。では、なぜ律法学者やパリサイ人たちは見えなかったのでしょうか?その一つは、彼らは神さまではなく、人から良く見られたいという虚栄心がありました。内側はどうでもよくて、外側を信仰深く、霊的に見せようとしました。そのため、心が頑なになり、真実を見ようとする力がなくなったのです。彼らはこれまで何度もイエス様の教えを聞きました。また、何度もイエス様のメシヤとしてのしるしを見て来ました。なのに、嫉妬やプライドが邪魔して、イエス様を救い主として受け入れなかったのです。そのため、霊の目がふさがれ、ますます見えなくなったのです。それは、1つの呪いと言えます。本当に不思議です。彼らはいわば、聖書の専門家でした。聖書を研究し、聖書を良く覚えていました。聖書を知的には理解できたかもしれませんが、イエス様を認めなかったので、あるところでストップしてしまいました。聖書を理解するための鍵は、みことばご自身であるイエス・キリストが必要です。イエス・キリストを信じると霊の目が開かれ、聖書が分かります。聖書が分かるだけではなく、それを実行できる力も与えられます。ところが、肝心のイエス様を信じなかったので、真実も力もなく、外面だけを飾って生きる偽善者になるしかなかったのです。イエス様は種まきの譬えで、最後にこう言われました。マタイ1311-12「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」パウロは、エペソ人への手紙1章で、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになるように」「あなたがたが知ることができますように」と祈っています。

 私たちは神さまの奥義を知りたいと思います。もっと、真実が分かるようになりたいと思います。そのことに対して旧約聖書に2つのみことばがあります。申命記2929「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」もう1つは、箴言252「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」2つのみことばに、共通していることは、神さまは何かを隠しておられるということです。それは神さまのものであり、神さまの栄光です。アダムとエバは「知識の木」から実を取って食べたので、ふたりの目が開かれました。理性的な目は開かれたかもしれませんが、霊的な目が塞がれてしまったということです。それ以来、私たちは何でも頭で理解するようになり、頭で理解できないものは存在しないもののように遠ざけてきました。でも、神さまは多くのものを隠しておられます。人は一生懸命、法則や真理を発見してきましたが、まだ多くのものが隠されています。私たちが知らないことはたくさんあります。隠されていることは神さまのものであり、隠すのは神の栄光です。でも、神さまは父なる神さまであり、王子や王女に見つけてもらいたいのです。父なる神さまは隠すのが目的ではなく、私たちのために見つけ出してもらいたいと願っているのです。律法学者やパリサイ人のような虚栄心ではその目が曇ってしまうでしょう。イエス様とパウロに共通しているのは、神の霊による理解です。頭の理解をこえた、聖霊がくださる理解力が必要です。そのためには、まず神さまと純粋で正直な関係が必要です。なぜなら、父なる神さまは親しい交わりの中で、ご自身の隠されたことを教えてくださるからです。父なる神さまはわが子に、隠されたことを教えてあげたいのです。いや、見つけ出してもらいたいのです。そして、共に喜びたいのです。うわべを飾る偽善者ではなく、子どものように素直で純真な心が必要です。イエス様のことばです。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ1125

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2017年10月 6日 (金)

最も偉大な者 マタイ23:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.8

 イエス様はユダヤ教の指導者たちのことを、群衆と弟子たちに向けて語っておられます。現代の私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?強いて言うならば、教会の指導者に対する警告でありましょう。「先生と呼ばれてはならない」とも書いてありますので、ここから説教するには気が重いです。私は別に「先生」と呼ばれたくもありません。私たちは、マタイによる福音書から順番に学んでいますので、飛ばすわけにはいきません。きっとすばらしい恵みが隠されていることを信じます。 

1.彼らのふるまい

 イエス様は「彼らは言うことは言うが、実行しない」と言われました。彼らとは律法学者、パリサイ人たちのことでした。バビロン捕囚から帰った民は、ユダヤ人と呼ばれ、礼拝のスタイルが変わりました。これまでの神殿礼拝よりも、会堂(シナゴーグ)で律法を朗読し、その教えを守ることが中心になりました。やがて、律法を教える人たちが重んじられるようになりました。イエス様の頃は、律法学者やパリサイ人たちが、モーセの律法を解説して教えていました。そればかりか、モーセの律法にないような言い伝えや細則までも強要するようになりました。「重い荷をくくって、人の肩に載せる」とはそのことを意味しています。イエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人を休ませてあげます」(マタイ1128と言われましたが、それは言い伝えや細則からの解放について語っておられるのです。イエス様は「彼らの言うことは、守り行ないなさい」と言われました。モーセの律法であるならば守らなければなりません。でも、「彼らの行いをまねてはいけません」と言われました。なぜなら、彼らは言うことは言うが、実行しないからです。つまり、言っていることとやっていることが一致していなかったということです。本来、律法は守るために与えられたものではなく、人間の罪を示し、救い主に出会う養育係りでした。彼らは律法をこと細かく、教えることはできました。しかし、律法を守る力がありませんでした。生身の人間は、聖霊の助けなくして、律法を守ることは不可能です。かえって、苦しくなり、偽善者たちを生み出すことになります。自分が教えていることを自分が実行できないというのは、命を持っていないということの証拠であります。

 彼らは真実を隠すために、表面を飾りました。自分たちが、いかに信仰深いか人に見せようとしました。「経札の幅を広くする」とは、律法の入った小箱を大きくするということです。申命記6章に「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい」と書かれています。彼らは目立つように、大き目の小箱を額や左腕に結びつけていました。現代で言うなら、大きな十字架を首からぶらさげるようなものです。また「衣のふさを長くする」とは、自分が神さまのことをいつも忘れないというしるしであります。旧約聖書で大祭司は、衣のふさに「ざくろ」のような鈴をつけていました。現代で言うなら、祭服とかガウンであります。ローマ・カトリックやロシア正教の祭服はとてもきらびやかです。それだけではありません。人々から重んじられ、敬意を受けることを大変好みました。だから、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きでした。ここで言われている「先生」とはrabbiラビです。ラビは「ユダヤ教指導者として知識と訓練があり、その職を任された者」でありました。復活の朝、マグダラのマリヤはイエス様を当時のことばで、「ラボニ」と呼んでいます。そういう意味でイエス様もラビのひとりでした。ラビは「尊敬すべき先生」という意味であります。しかし、だんだんと称号、タイトルのようになっていきました。現代の教会でも、按手礼を受けた牧師をreverend と呼びます。Reverendは、聖職者に対する尊称です。ある牧師たちは、Rev.〇〇と名刺に書いています。私も人から重んじられたら、悪い気はしないですね。でも、神さまの栄光を盗む一歩手前まで行くことになります。

 イエス様はヨハネ5章でこのように述べておられます。ヨハネ544「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」イエス様は「人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めなさい」と言われました。ところが、当時の宗教家たちの関心は人でした。「人にみせるため」、「人から先生と呼ばれ」、「人から重んじられる」ことでした。神さまではなくて、人だったのです。旧約聖書には2人の典型的な人物がいます。一人はイスラエルの最初の王様、サウル王です。彼はアマレク人とその家畜を聖絶しなさいと主から命令を受けていました。ところが、牛と羊を取っておきました。サムエルからその罪を責められ、その罪を認めました。しかし、「私の民の長老とイスラエルの前で私の面目を立ててください」とサムエルに頼みました。サウル王は主がどう見るかではなく、人がどう見るか考えていました。一方、二代目のダビデ王はどうでしょうか?彼は大きな罪を犯しました。しかし、「私は主の御前で罪を犯しました」と告白しました。ダビデは主の前に正直に生きた王様です。だから、神さまからとても愛され、王様の模範になりました。先日、イエス様をお乗せしたロバの子についてお話ししました。人々は「ダビデの子にホサナ。祝福あれ」と歓迎しました。ロバの子は、「あれ?私に向かって言っているのかな?」と勘違いして有頂天になるかもしれません。本当は私ではなく、自分がお乗せしているイエス様がすばらしいのです。三浦綾子さんが『ちいろば先生物語』という本を書きました。書評がすばらしかったのでご紹介します。虚飾のない、血のかよった人間味溢れる「ちいろば先生」こと榎本保郎牧師の姿を描く、伝記小説。貧しい家庭に育ち、家の手伝いをしながらも、中学に合格し、積極的な活動をしていた榎本保郎。しかし満州から復員してから、虚無に陥り、生きる目的を失ってしまう。苦労して同志社大学神学部の聴講生になったものの、自殺騒動を起こしてしまうのだ。徐々に落ち着きを取り戻し、神学部にも復学し、神への献身を決意するのだが。自らをイエスの乗り物、小さいロバに擬し、生涯を伝道に捧げた榎本保郎牧師の壮絶な生と死を綴った伝記小説。…私も神さまの前に正直に生きる信仰者でありたいと思います。人がどう見るかではありません。神さまがどうご覧になっているかです。ダビデやパウロのように、主を愛し、主から愛される者になりたいと思います。

2.彼らの敬称

 マタイ23:8-10「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」このところには、彼らが好んで用いた敬称が出てきます。敬称というよりも、タイトルと言った方が良いかもしれません。先生と言うのは、さきほど申しましたがラビです。ラビは「尊敬すべき先生」という意味があります。律法の教師、また人生の教師です。ユダヤでは父親が子どもを教えましたが、ある年齢に達すると、ラビに子どもを託しました。どのラビから学ぶかによって、人生が変わります。ちなみに使徒パウロはガマリエルから学びました。また、「父」という呼び名もありました。預言者エリシャは、エリヤに向かって「わが父。わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」(Ⅱ列王記212と叫びました。つまり、肉親の意味で、あるいは霊的な意味でも用いられたようです。また、師というのは、ギリシャ語で案内者とか教師という意味です。英語の聖書にはmasterあるいはdoctorと書かれています。どちらにしても、そう呼ばれたら悪い気はしないですね。先生、父、師というのは、敬称ということでは問題ないと思うのですが、どうでしょうか?イエス様はなぜ、極端なことをおっしゃるのでしょうか?

 教会でも牧師は「先生」と呼ばれます。しかし、このところでは「先生と呼ばれてはいけない」とイエス様が命じておられます。ですから、ブラザレン系の教会では先生と呼ばず、〇〇兄弟と呼びます。ウォッチマンはウォッチマン兄弟と呼ばれていました。町田のある牧師が著名な伝道者を「〇〇さん」と呼んでいました。私は「それはできないなー」と思いました。自分が言われる分には良いけど、年上の牧師や伝道者を「〇〇さん」は無理です。なぜでしょう?キリスト教会は堕落したのでしょうか?1つはローマ・カトリックの「聖職者」という考えから来たものです。彼らは「神父」、父なる神の代理者みたいに呼んでいます。もう1つは儒教から来たもので、目上の人や何かを教えてくれる人を「先生」と呼びます。お花の先生、ピアノの先生、そろばんの先生がいます。また、議員に対しても「先生」と呼びます。大川牧師から「教会では牧師に対して、先生と呼んでも良いけど、大学教授や代議士には「〇〇兄弟」と呼ぶべきだ」と聞いたことがあります。教会で「先生!」と呼んだら、4人が「はい」と言ったら、混乱を招くでしょう。でも、きょう来られている兄弟姉妹の中も、学校の先生、保育園の先生、歌の先生、そば打ちの先生がいらっしゃるのではないでしょうか?そういう意味で、日本ではちょっとした敬称になっているということです。私は「鈴木先生」と呼ばれると、「え?だれのこと?」と未だに、なじめません。なぜなら、学校でものすごく、傷を受けて来たからです。でも、私が本来の「先生」という名称を正しい意味で回復させるのも良いかもしれません。

 新聖書注解にはこのように書かれていました。このように人からの栄誉を求めるパリサイ主義に対して、イエスは弟子たちに、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたは地上のだれかをわれらの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません」と言われる。その理由は、「あなたがたはみな兄弟だから」である。教会の中で、牧師は「先生」と呼ばれる。しかし、牧師も一般の信徒も、同じ父なる神から生まれ、同じ教師のキリストに導かれている兄弟姉妹である、という事実を忘れてはならない。…とありました。アーメンです。人からの栄誉を求めたいという動機が問題なのです。私は敬称というよりも、機能というように理解しています。エペソ4章に教会における5人の職務が記されています。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。この人たちは偉いのではなく、キリスト様からこのような職務を果たしなさいと召されているのです。教会員の中には、「牧師も一人の人間だから」と見下げる意味で言う方がたまにおられます。権威に対して何か、歯向かいたい気持ちは分かります。でも、Ⅰテサロニケ513「その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」とあります。イエス様は「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます」(マタイ1041と言われました。つまり、私が講壇からこのように話していますが、大きく分けて2種類あると思います。「普通のおじさんのお話で、自分でも実行できないことを講壇から話しているんだ」と思っている人。あるいは「いや、講壇からのメッセージは神さまから来ているんだ。講壇から降りたら普通のおじさんだけど…」と思っている人です。「牧師を牧師だというので受け入れる者は、牧師の受ける報いを受けます」アーメン。

 私たちはどんなすばらしい指導者であっても、偶像化してはいけません。キリスト教会でも牧師を教祖みたいに高めたりします。でも、それは行き過ぎです。だから、イエス様は「あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」と念を押すように言われたのです。牧師の最大の務めは、人を自分に向けさせるのではなく、父なる神、そしてイエス・キリストに向けさせることだと思います。だれでも、人から頼られるとうれしいものです。ある牧師は信徒の世話を良くします。そして、自分に相談しないで、勝手なことをすると怒る牧師もいるようです。自分に依存させて、満足するというのは問題です。やはり、ひとり一人聖書を読んで、神さまから聞くべきです。牧師の助言も良いですが、イエス様の導きに頼るべきでありますそれと関連したすばらしい聖書箇所をご紹介いたします。箴言31-6「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

3.最も偉大な者

 マタイ2311-12「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」文脈から解釈すると、パリサイ人や律法学者たちは、自分を高くする者たちでした。彼らは宴会の上座や会堂の上席が大好きでした。また、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが大好きでした。英語の聖書には、「あいさつされる」は、with honor「尊ばれる」となっています。この世では名誉職というのがありますが、彼らは宗教的な名誉職についていたので、人々から尊ばれることが大好きだったのです。確かに神さまに仕えていると、そういう扱いを受けがちです。本来、神さまだけが尊ばれるべきなのですが、分け前をいただいてしまうのです。だから、イエス様は「先生、父、師と呼ばれてはいけない。先生はただひとり、父はただひとり、師はただひとりだ」と注意されたのです。どうしても、敬称がつけられると、その人自身がそういう人物になってしまうのです。私たちは正しいプライド、自尊心は持つべきであります。でも、神さまに仕えるときは、それらの敬称は借り物であり、自分自身のものではないということを忘れてはいけません。牧師職も引退するときがあります。だれも、信徒がいないなら牧師ではありません。牧師も確かに名誉でありますが、クリスチャンはもっと基本的ですばらしいものです。「自分は罪赦され、神の子となった。」これほどすばらしいものはありません。

 このみことばは、教職者だけではなく、すべての人たちに適用することが可能です。もう一度お読みいたします。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」アーメン。たとえば、家庭でだれが一番偉いのでしょうか?父であり、母でしょうか?確かに、聖書では「あなたの父と母を敬え」と書いてあります。でも、そこに赤ん坊がいたならば、父と母はその赤ちゃんに仕えます。食べ物、睡眠、健康、安全を赤ん坊に与えるために、父と母が仕えているのです。この世では多くの人を仕えさせている人が一番偉い人のように思われています。しかし、聖書では仕える人が一番偉大なんだということです。英語の聖書ではservantとなっています。少し前に、サーバント・リーダーシップということをお話ししたことがあります。イエス様が私たちの贖いのために、ご自分の命を与えることによって仕えてくださいました。その結果、父なる神さまはイエス様を引き上げ、主の主、王の王にしてくださいました。ですから、この世においても人に仕えるような仕事であっても卑屈になってはいけないということです。この世では自分に部下が何人いるかによって、自分の偉大さを決めるところがあります。しかし、本当はその逆で、自分は何人の人に仕えているかが重要なのです。また、この世では、いつか上になるために、とりあえず我慢して仕える人になるという考えがあります。それも間違いであって、結果的に高められたら良いのです。高められることを前提に、仕えるというのは間違っています。ひょっとしたらこの地上では仕えっぱなしで、御国に行ってからやっと高められるかもしれません。この地上ではなく、あちらの方で報われることもあるでしょう。ですから、結果は神さまにゆだねて、今のポジションを忠実に果たすということが重要だと信じます。

 ダビデは自分が羊飼いであることを忘れませんでした。だから、詩篇23篇には羊飼いのことと、司令官として戦っていたときのことが両方記されています。しかし、ダビデが戦いにでかけなくても、なんとかやっていけるようになりました。その時、彼は罪を犯してしまいました。自分が一介の羊飼いから一国の王様に引き上げられたことを忘れていたのです。そのため、どん底まで落とされたのです。でも、その先、ダビデはへりくだりました。そして、また引き上げられ、イスラエルの模範的な王様になりました。ここに注目すべきことは「自分を高くする者は低くされ」「自分を低くする者は高くされ」と書いてあることです。自分の意思や気持ちで自分を高くしたり、低くするということです。一方、「その人を高くしたり、低くするのはだれか?」ということです。文章には主語がありません。人々かもしれないし、神さまかもしれません。もし、人々がそうするんだと考えるなら、パリサイ人や律法学者のように偽善的になるでしょう。つまり、人からの報いを期待してやっているからです。もし、心底、神さまがそうしてくださるんだと考えるならどうでしょう?マタイ6章では「隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます」と書かれています。そうです、高めてくださるのは父なる神さまであります。ということはどんな仕事でも、どんな奉仕でも、人ではなく父なる神さまの御目のもとでやれば良いということです。私は小学生のころはとても目立ちたがり屋でした。何でも分かったふりをして手をあげました。それは人から認めてもらいたかったからです。なぜかというと8人兄弟の7番目で全く無視されていたからです。父母は長男や長女はほめましたが、下の方の兄弟は粕のような存在でした。だから、その反動として、学校ではそうなったんだと思います。でも、今、クリスチャンになり、父なる神さまが隠れた所で見ておられると知って、ほっとしました。パフォーマンス指向から解放されました。でも、今、牧師になって講壇に立ち、パフォーマンスをするときもあります。しかし、それは何とか父なる神さまのすばらしさを語りたいからです。報いを得るためにがんばっているのではなく、こんな私を支持しておられる父なる神さまを誇りたいのです。

 きょうは人々から栄誉を得るために表面を飾っていたパリサイ人、律法学者のことを学びました。彼らの振る舞い、彼らの敬称は人からの報いを得るためでした。神さまの名を借りて、自分を高めていたわけです。私たちはそうではなく、イエス様の贖いを受けているので、神さまを誇りたくなるのです。たとえ自分が低くされ、仕えるようなことをしていても感謝なのです。なぜなら、その前に、イエス様が私たちのために低くされ、仕えてくださったからです。イエス様は結果的に神さまから高められました。私たちは高められることを目的にしてはいけません。むしろ、自分を低くする方に意識を向けたいと思います。高められるのはその結果であるからです。ひょっとしたら高められないで、低いままかもしれません。それでも良いのです。なぜなら、そういうところにこそ、低くなられたイエス様が最も近くにおられるからです。

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