2017年6月23日 (金)

永遠の報い マタイ19:23-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.25

 一人の青年が「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょう?」とイエス様に質問しました。イエス様は、彼が行いによって救いを得ようとしたので、律法の道を提示しました。彼は「そのようなことはみな、守っております。何が欠けているのでしょうか?」と返しました。イエス様は「完全になりたかったら、財産を売って貧しい人に施しなさい」と言われました。彼はそのことばを聞くと悲しんで去って行きました。なぜなら、多くの財産を持っていたからです。きょうはその続編であります。

 

1.神にはできる

マタイ1923-25 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」当時のユダヤ人は、「神さまの祝福を受けて金持ちになったんだ。金持ちこそが天国に入ることができる」と考えていました。考えてみると、金持ちは簡単になることができません。お金を儲けるための知恵や才能、努力、そして倹約精神が必要です。浪費家は金持ちになることができません。もし、親からの遺産であるなら、それはそれで祝福であります。さらにユダヤ人は、金持ちは貧しい人たちに施しをするために神さまが祝福していると考えました。だから、施しを受ける人は、そんなに卑屈にならなかったのです。イエス様のもとを去った青年のことを考えてみましょう。彼は若くして役人であり、多くの財産を持っていました。子どものときから律法を守り、悪いことをしていません。それなのに、イエス様は「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われました。マルコ福音書には「みな売り払って」、ルカ福音書には「全部」と書いてあります。なんと酷なことでしょう。彼が悲しみながら立ち去ったあと、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とおっしいました。だから、弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と言ったのです。「たいへん驚く」はギリシャ語では「驚愕する、びっくりたまげる」という意味です。イエス様が、ユダヤ人の常識とかけはなれたことをおっしゃったからです。それほど、弟子たちの価値観はこの世的であり、神の国の真理とはかけ離れていたということです。

なぜ、金持ちが天国に入るのがそれほど難しいのでしょうか?イエス様に近づいた青年は多くの財産を持っていました。先週も説明しましたが、その財産が偶像になっていたのです。「もし、財産を失ったなら、どうやって生きていくんだ」と思ったのでしょう。その結果、永遠のいのちはどうでも良くなったのです。ルカ16章に「金持ちと貧乏人ラザロの物語」が記されています。金持ちはいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。神さまとか永遠のいのちには全く興味がありませんでした。一方、貧乏人ラザロは神さまを礼拝していました。なぜなら、「ラザロ」という彼の名が覚えられていたからです。パウロは「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる。…金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出た」(Ⅰテモテ69-10と警告しています。では、お金は一切不要なのでしょうか?ピューリタン的な信仰を持った人たちは、清く貧しくあることを誇ります。しかし、会堂建設や宣教師を送るためにはお金が必要です。「お金は汚れている」と説教しながら、人々に献金を募るとしたら、それは矛盾していることになります。「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」という格言があります。もし、あなたがお金をよく管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべとなります。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人となるでしょう。

イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われました。これは不可能だということを言うときのユダヤ人の格言かもしれません。大川牧師は、ある時、これには別の意味があると教えてくださいました。当時の町は城壁に囲まれており、日没と同時に正門を閉じるそうです。しかし、旅先から後れて到着する人がいます。そのため、正門の脇に「針の門」という小さな門があるそうです。もし、商人がそこから入ろうとするなら、らくだから荷物を全部降ろします。その後、らくだが膝を曲げて、ハイハイすれば、針の門をくぐることができます。つまり、「持ち物を全部、神さまにゆだねて謙遜にならないと神の国に入れない」という解釈です。山上の説教でも、イエス様が「狭い門から入りなさい」と言われました。イエス様は、お金持ちは神の国にはいることができないとおっしゃったのではありません。「むずかしい」とおっしゃったのです。さらに続けてこう言われました。マタイ19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」これは、ヒル・ソングの歌にもなっています。All things are possible, all things are possible.つまり、金持ちも神の力によって救われる、不可能はないということです。

聖書に金持ち、つまり富める人が良い信仰者であったという例はたくさん書かれています。父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブも富んでいました。彼らは神さまから祝福されてそうなったのです。ヨブは東の人々の中で一番の富豪でした。サタンは「主が垣をめぐらしたので、そうなったのだ」と言いました。ダビデもソロモンも富んでいました。ソロモンは箴言で「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」(箴言224と言いました。新約聖書ではどうでしょう?ルカ83「自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。」また、マルコの母マリヤも裕福でした。イエス様と弟子たちに最後の晩餐のため席を用意しました。ニコデモとアリマタヤのヨセフが金持ちであったと書かれています。この二人はイエス様の埋葬のために多くのお金を使いました。現代ではどうでしょう?クリスチャンの実業家がたくさんいます。たとえば、ロックフェラーがいます。彼の人生の前半は守銭奴でしたが、後半は多くの慈善事業を行いました。貧しい家庭の中で平凡に生まれたロックフェラーは、信仰深い母から神にいつも感謝の心を持つようにと、幼い時から次の3つの約束を守るように教えられていました。①十分の一献金をささげること(子どもの頃から小遣いの十分の一をささげていた)。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。三番目がすばらしい!

ロックフェラーに次ぐ、史上2番目の富豪とされるのがアンドリュー・カーネギーです。彼は鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称されました。カーネギーはまた、「富は決して自分のもの」なのではなく、自分に「預けられた」ものに過ぎない、という明確な認識に立っていました。彼にはもう一つの口癖がありました。それは、「富を持ったまま死ぬのは恥である」ということでした。カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をしました。音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせています。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していましたが、1925年に彼の未亡人が売却しました。現在もそのままの名前が使用されています。日本ではどうでしょう?森永製菓、ライオン油脂、山崎製パン、白洋舍、ニッカウヰスキーなど創設者はみなクリスチャンです。聖書にタラントのたとえがありますが、「預けられたもので商売してもうけた」と書いてあります。5タラントと2タラントのしもべは赤字ではなく、黒字にしてご主人に返しました。富は確かに誘惑もありますが、神を恐れて、運用するならば「よくやった、忠実なしもべ」と主から喜ばれます。イエス様は「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」と言われました。神さまは人を変えることができます。それはどんな金持ちでも例外ではありません。確かに難しいかもしれませんが、不可能ではありません。多くの金持ちの人は使い道が分かりません。だから、儲け話にひっかかったり、遺産相続で子孫を破壊するのです。正しい使い道があります。イエス様は「天に宝を積みなさい」と若者に言われました。山上の説教でも言われています。マタイ619-21「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」私たちも富を正しく用いて、自らも喜び、必要なところにささげて、天に宝を積む者となりたいと思います。天国への投資は失敗することがありません。

2.永遠の報い

 マタイ19:27-28そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」ペテロは報酬を求めました。もし、イエス様が意地悪だったらどのように返すでしょうか?「ペテロよ、お前が捨てた物とは何か?たかが、小さな舟と網じゃないか。家も妻もそのまま持っているだろう。『何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました?私たちは何がいただけるでしょうか?』なんてお前は、意地汚いんだ。無心にならなけりゃダメだ」とはおっしゃいませんでした。イエス様はちらっとそのようなことは思ったかもしれません。でも、「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」と言われました。「まことに」とは「アーメン、真実に」という意味です。「世が改まって」はギリシャ語では「再生」という意味ですが、メシヤが到来したときに霊的再生が起こるという意味です。つまり、イエス様が再臨して御国の王座についたときです。そのとき、弟子たちが、12の座について、イスラエルの12部族をさばくのです。弟子たちは最後まで、だれがイエス様の右と左に座るのか議論していました(マタイ2020-24)。イエス様は来るべき御国の王であります。やがて、イスラエルが回復され、異邦人の王たちも集まります。でも、王の王は、イエス・キリストであります。そのとき、12弟子がイスラエルの12の部族をさばくとはなんと光栄なことでしょう。

 さらに続けてイエス様がおっしゃいました。マタイ1929-30「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」これは信仰を持っているゆえに迫害に会うということです。そのとき、御名のために失うものがあります。まず家です。使徒8章には「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。…散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」と書いてあります。本来なら仕事や住む家をさがすところですが、彼らは福音を宣べ伝えることを第一にしました。彼らの労苦によって、異邦人の基地、アンテオケ教会ができました。姉妹、父、母、子というのは、家族から迫害されるということです。信仰を守るために、親しい家族を捨てなければなりません。聖書の下に注釈が書いてあります。ルカ福音書もそうですが、「妻」と書いてある聖書もあるということです。穐近祐(あきちかゆたか)牧師は戦後、アメリカから日本に渡って来た逆輸入の宣教師です。そのとき、ルカ福音書は「妻」と書いてあるので、このマタイによる福音書を引用したそうです。穐近牧師はまさしくご長男を捨てて、妻と二人で日本に渡って来ました。当時の日本は敗戦で混乱しており、食べるものもありませんでした。そういう意味でも、ご長男をアメリカに残してきたのだと思います。でも、聖書のみことばをそのまま実行して、本気モードで伝道なさった先生には敬服します。遠藤周作氏は『沈黙』の中で、家族を守るために、信仰を捨てた人の味方になっています。「自分一人の信仰を守るために、残された家族が殺されても良いのか?」と問われるならば、やっぱり厳しいと思います。でも、当時は命を捨てて、信仰を守った人たちが何十万人もいたということを忘れてはいけません。ころんだ人ではなく、命を捨てた人たちを見なくてはなりません。なぜなら、報いがあるからです。

 では、いつ報われるのでしょうか?マタイ19章には「あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と書かれています。聖書の下に注釈が書いてありますが、100倍と書いてある異本もあるようです。いつ報われるのか分かりません。再臨後、御国においては確かなのですが、この地上ではどうなのでしょうか?しかし、マルコ福音書とルカ福音書はもっと詳しく書かれています。マルコ1030-31「…畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」マルコ福音書には、今受ける分と将来受ける分が合わさっているように思えます。合せて百倍なのかもしれません。ルカ福音書はどうでしょう?ルカ1830「この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」ルカ福音書の方が、現実味があります。たとえば、ヨブは10人の子どもたちと全財産を失いました。ところが、最後には所有物が2倍に増されました。子ども新たに10人与えられ、その子の子たちを四代目まで見ることができました。イザヤ書61章にはこのように書かれています。「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」(イザヤ617)。出エジプト記22章には「盗まれたものは2倍にして償わなければならない」と書かれています。では、なぜ「100倍」などと書いてある聖書があるのでしょうか?ヨハネ12章でイエス様がこのようなことを語られました。ヨハネ1224「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様が「まことに、まことに」と2回もおっしゃっているところはそんなにありません。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びます。おそらく100倍から200倍になるのではないでしょうか?ですから、100倍はおおげさな数ではないということになります。

 昔、座間キリスト教会で奉仕していたころ、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。ご主人からものすごく迫害され、「教会に引っ越してきて、大川牧師の娘になりたい」言っていました。ある時、お風呂で倒れ、そのままお亡くなりになりました。教会で葬儀を行うことになり、ご遺体が運ばれてきました。そのとき、ご主人が来られこう言うのです。「聖書に、妻を自分のからだのように愛せ、と書いてあるのに、わしゃ愛さなかった」と悔い改めました。その後、ご主人が洗礼を受けました。また、その後、ご長男ご夫妻、さらにお譲さんたちが洗礼を受けました。「こういうこともあるんだなー」と驚きました。現代では信仰を持つことによる迫害は少ないかもしれません。ところが、戦時中、中国や朝鮮半島では日本兵による大迫害がありました。神社参拝をしないため、多くの教会が焼かれました。なぜ、韓国の教会がリバイバルしたのでしょうか?それは彼らが血を流して抵抗したからだと言われています。一方、戦時中の日本の教会は政府によって1つの教会にされました。教会を守るために神社参拝し、戦争の勝利と天皇のために祈ったのであります。教会は残ったかもしれませんが、信仰が骨抜きになり、リバイバルは起こりませんでした。それが今も引きずっています。「信仰は命がけ」と口では言えますが、いざ迫害が起こったなら、どうなるか分かりません。マタイ福音書には「家とか畑」と書いていますが、それはすべての財産を意味しています。家族も財産も失うということです。江戸時代もそうでしたが、人本主義(ヒューマニズム)が私たちの根底にあります。「絆が大事だ」とよく言われますが、もしこれが生まれつきの人間関係だとしたらヒューマニズムに陥ってしまいます。イエス様は「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ1426と言われました。私はクリスチャンになるとき、父も母も亡くなっていました。直接献身しても、末っ子なので、兄弟に全く気兼ねをすることはありませんでした。しかし、今度、家庭を持って、妻、子を捨てる番になったらどうでしょう?やっぱり、信仰が必要です。自分が得たのではなく、神さまが与えてくださったことをちゃんと理解しなければなりません。ヨブのように「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と言えるでしょうか?

 私たちは永遠の報いということを考えなくてはいけません。この世だけのことを考えるなら、「損した」「全部失った」「神さまなんかいない」「神さまはひどい」とつぶやくかもしれません。しかし、信仰者はこの世だけの人生ではありません。やがてこの世は終わり、新しい時代が来るのです。御国(千年王国)ではイエス様が王であり、私たちもイエス様と一緒に治めるのです。ミナのたとえには、忠実さによって10の町、5つの町を治める(ルカ1917-19)と書いてあります。人からの報いを受けるのを期待することは間違っています。しかし、私たちは神からの報いを期待して良いのです。神からの報いは意地汚いものではありません。聖書に「報い」「贖い」「弁償」「償い」ということばがあふれているからです。本日の箇所でも、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と約束されています。イエス様は「まことに」ということばを冒頭に添えていますので、確かであると信じます。永遠のいのちは「報い」ではありません。これは賜物です。イエス様を信じる人にはもれなく与えられるものです。しかし、御国は二段階でやってくることを理解しなければなりません。最初の御国、つまり千年王国においては報いがあります。この地上でいかに忠実に生きたかによって相続するものが違うのです。しかし、その後にやってくる新天新地においてはみな平等です。なぜなら、永遠のいのちは「報い」ではなく、信仰による賜物だからです。今、この時代が終わると、御国(千年王国)がやってきます。私たちは御国における報いを期待しながら、与えられているレースを終わりまで走る必要があります。ぜひ、いのちの冠、朽ちない冠、義の冠を得たいものです。ローマ818「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」

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2017年6月16日 (金)

永遠のいのちを得るには マタイ19:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.18

 クリスチャンであるなら、永遠のいのちを得るには、イエス様を信じれば良いということをご存じだと思います。4月の受難週のときヨハネ316節から「信じるだけで救われる」ということをメッセージしました。しかし、今日の箇所を見ると、聖書が言う福音と異なることをイエス様がおっしゃっているような感じがします。もし、救われるために良い行いが必要だとするなら、使徒パウロが言う信仰義認と矛盾することになります。イエス様はこの青年にどうしてそのようなことを求めたのでしょうか?3つのポイントでお話しさせていただきます。

1.行いの道

 この青年は、ルカ福音書には「役人」と書かれています。彼はユダヤ教の役人であり、幼い頃から宗教的な教育を受けていました。さらに彼は多くの財産を持っていました。あとで、イエス様が「金持ちが天の御国に入るのが難しい」と言われました。すると、ペテロは驚いて「それでは、だれが救われることができるでしょう」と反論しました。当時、金持ちは神さまから特別に祝福を受けた人物であると考えられていました。彼は律法を守り、正しい行いをしていたので、だれが見ても、天の御国にふさわしい人物でした。この青年はユダヤ教徒のエリートであり、「天の御国に入る人はこういう人だ」と思われていたのでしょう。私などはこういう人を見ると、少し心が穏やかでなくなります。同じ牧師でも東大卒であったり、外国の神学校を卒業していたりするとそういうことがあります。使徒パウロはⅠコリントで「神はこの世の愚かな者を、無に等しい者を選ばれた」と言っています。でも、富も地位も良い行いも、神さまからの賜物であり、それはそれで良いのではないかと思います。私も今はそのように考えるようにしています。ですから、この記事を「ざまぁ見ろ」とひねた気持ちで読むのではなく、穏やかで純粋な心で読むべきであります。

 ボタンのかけ違いはどこから生じたのでしょうか?青年が「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と質問したところにあります。彼はイエス様を「主」ではなく、「先生」と呼んでいます。おそらく彼はイエス様が何を言うか予想していたでしょう。彼は悩んで質問したのではなく、「あなたは永遠のいのちを得るのにふさわしい」という認証を得たかったのでしょう。イエス様は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と言われました。イエス様は彼が行いによる救いの道を求めたので、その道を提示しました。青年は「どの戒めですか」と高飛車に答えました。イエス様は「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。それらの律法は十戒の後半の部分でした。彼は何と答えたでしょう?「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」彼は律法を突きつけられてもひるむ様子はありません。マルコ福音書には「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と書いてあります。彼は律法の意味をよく分かっていませんでした。山上の説教には「人を憎んでも殺人、情欲を抱いても姦淫である」と書かれています。確かに彼は表面的には律法を守っているかもしれませんが、動機とか思いの部分はどうなんでしょうか?それでイエス様は決定的なことを言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという律法を行なえるか?」というチャレンジです。神の律法はそこまで要求するのであります。

 彼はどうしたでしょう?「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」イエス様に出会って、悲しんで去って行った人物はそんなにいません。イエス様は「あなたが完全になりたかったら」と青年にチャレンジしたのであります。完全とは何でしょう?それは神さまの義、100%の正しさに達するということです。パウロは「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ320と言いました。彼は悲しんで去って行きましたが、それは「自分は完全ではない、罪がある。神の標準には達していない」と悟ったからです。でも、そこで去ってはいけなかったのです。イエス様は「そのうえで、わたしについて来なさい」と言われたからです。イエス様は彼を突き放してはいません。マルコ福音書にはJesus loved himいつくしんで言われた」と書いてあります。彼の罪が律法によって暴露されました。彼が頼りにしていたものは自分の行い、そして自分の財産であったのです。神さまよりも自分の行いや富を愛することを何と言うでしょう?偶像崇拝と言います。イエス様は最初、十戒の後半は提示しましたが、十戒の前半は提示しませんでした。「この人は多くの財産を持っていたからである」とありますが、財産という偶像を拝んでいたのです。また、イエス様に従えなかったのも、神さまを第一に愛していない証拠です。私たちはこの物語を厳粛な思いで見なければなりません。良い行いによる救いの道はとても険しく、実行不可能だということです。くれぐれも行いによる救いを選ぶことのないように。律法は守るために与えられたのではなく、「あなたには罪があり、不完全ですよ。救い主が必要ですよ」いうことを教えるためにあるからです。

2.信仰の道

 行いの道と対照的にあるのが、信仰の道です。プロテスタント教会はこれをとても強調しています。でも、頭ではわかっていても、本当に魂の底まで分かっているかということです。そのことを教えてくれるのが、13節からの内容です。マタイ1913-14「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」おそらくお母さんたちが、子どもを祝福してもらうために、イエス様のところに連れて来たのでしょう。どの時代であっても、子どもというのはうるさくて、じっとしていません。もし、イエス様が説教の最中であるなら、妨害することになります。弟子たちはイエス様のガードマンのように守っていたのかもしれません。弟子たちは子どもたちの前に立ちはだかり、親御さんたちに「めんどうをかけないでくれ」と叱りました。ところが、マルコ福音書には「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた」と書いてあります。イエス様は弟子たちの子どもたちに対する態度に怒られたのです。当時、子どもたちはそんなに大事にされていませんでした。ローマ時代は特にそうであり、半人前に扱われていました。さきほどの若者と比べれば、子どもは良い行いができません。財産もない、身分もない、知識もない、能力もない、体力もない、人格的に不安定な存在です。おそらく、日本人の私たちも子どもたちを半人前のように見るかもしれません。

 イエス様は何とおっしゃったでしょうか?「天の御国はこのような者たちの国なのです。」マルコ福音書には「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ1015と付け加えられています。イエス様は子どもを前に出して、天の御国に入る道を教えました。「子ども」はギリシャ語で、パイディアであり、「little child幼いこども」であります。おそらくハイハイするくらいの幼児から、就学前の子どもではないかと思います。何と、その子どもたちは大人たちが学ぶべきものを持っているということです。なぜなら、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われたからです。さきほどの青年はどのようにイエス様に近づいたでしょうか?「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と聞きました。一方、子どもはそのようにイエス様のところに近づきません。マルコ福音書には「尊い先生」という敬語を使っています。一方、子どもはおべんちゃらを言いません。青年は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」と言いました。一方、子どもは律法を守っているのかいないのか、欠けているのかいないのか自覚がありません。たとえ律法をつきつけられても、「ああ、そうなの?ローラ、わかんない?」と答えるでしょう。でも、子どもは大人にはないものを持っています。幼い子どもは特にそうです。それは信頼する心です。言い換えると「疑わないで神の国を受け入れる」ということです。イエス様は「天の御国はこのような者たちの国なのです。」と言われました。J.Bフィリップスは、「Heaven belongs to little children天の御国はこのような小さな子どもたちがいるべきところ(ふさわしいところです)」と訳しています。どういう意味でしょう?天の御国は小さな子どもたちのような謙遜なところだということです。

 大人は神の前に「私は何ができる」「私は何を持っている」「私は何という立場である」と自分を誇るかもしれません。しかし、幼い子どもは誇りたくても誇るものがありません。何もできなし、何も持っていないし、役職も持っていません。この青年はいつしか、幼い子どもが持っていた良いものを忘れていました。自分の良い行ない、自分の財産、自分の立場、そういうもので自分を飾っていたのです。そして、イエス様の前に「尊い先生、何をしたらよいでしょう」とやってきたのです。全く傲慢で鼻持ちなりません。イエス様は不完全さを気づかせるために、十戒を提示しましたが、全く効果がありませんでした。しかし、最後に「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われたときに、崩れてしまいました。悲しい顔をして去って行きましたが、イエス様は彼を追いかけませんでした。ペテロは「金持ちが救われなかったら、だれが救われるのですか」と驚きました。私だったら彼を追いかけて、「全部でなくて、10分の1からささげたらどうでしょうか?」と提案したかもしれません。しかし、イエス様は彼を追いかけませんでした。イエス様は、この先も彼は子どものように神さまを信頼しないことを知っていたからです。私たちは子どものようになって、天の御国を求めましょう。子どものようになって父なる神さまを信頼しましょう。そうすれば、信仰が与えられ、ますます天の御国にふさわしい者になります。私たちはある部分は成熟して大人になるべきです。しかし、子どものように純粋に神さまを信頼していきたいと思います。

3.行いと信仰

 イエス様が良い行いを要求したのは、彼が行いによる救いを求めたからです。イエス様はだれにでも「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」とは要求しません。ところが、ある人たちはこの箇所を読んだとき「天国に入るためには、全財産を捨てなければならないんだ」と考えるかもしれません。歴史的に有名なのは、聖フランチェスコでした。彼は裕福な家庭に生まれました。あるとき、彼はこの物語を読みました。そして、父からもらった財産をすべて父に返しました。着ていた衣服までも脱いで父に返したのです。そして、極度に貧しい生活をして神さまと人々に仕えました。フランチェスコは修道士になりましたが、彼の生き方に追従する人たちが次々に起りました。アッシジの貴族で大変裕福だったベルナルドは、出家の決心を固めると、自分の資産を処分してそれを貧しい人に分け与えました。その上でフランチェスコと共に生活を始めました。アッシジの貴族の娘クララは、フランチェスコの考えに共鳴して、もう一人の女性を伴って家を出ました。やがてフランシスコ会やドミニコ会などの修道会ができました。彼らは清貧の生活をしつつ神と人々に仕えました。聖フランチェスコを悪く言う人はいないでしょう。しかし、修道会は教皇下にある教会の反動として生まれたのだと思います。富は確かに誘惑にはなります。でも、富を捨てなければ神の国に入れないわけではありません。問題は富に頼るのではなく、神さまに頼るという信仰が必要なのです。

 では、良い行いは不必要なのでしょうか?また、十戒をはじめとする律法は不要なのでしょうか?私たちはここからは、成熟した大人になる必要があります。ヤコブはこのように言っています。ヤコブ224「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」ヤコブの考えはパウロの信仰義認と真向から反対するものと思われていました。宗教改革者ルターはヤコブ書を「藁の書」と卑下したくらいです。でも、ヤコブが主張する「行い」は信じた人の後のことを言っているのです。言い換えると、本当にイエス様を信じて救われた人は、行ないが現れてくるということです。もし、行ないが伴わないならば、その信仰は疑わしいものであると言っているのです。イエス様はヨハネ15章で「私はぶどうの木であなたがたは枝です。私につながっているなら、豊かな実を結ぶようになる」と言われました。良い行いは、信仰の実であります。私たちのがんばりではなく、イエス様が私たちに結ばせてくださるのです。しかし、教会はこのことを正しく捉えていません。「救いは行いではありません。信じるだけで救われます」と言います。しかし、一旦、イエス様を信じて、洗礼を受けた人にどのように指導するでしょう?「これからは聖日礼拝を守り、十分の一献金をささげ、聖書を読み、クリスチャンとして証の立つ生活をしなければなりません」と言います。ある教会では教会員になるために誓約書みたいなものを書かせられるそうです。これはどういうことを意味するのでしょうか?「救いは恵みだけけど、信仰生活は恵みだけではなく行いも必要だ」ということです。これは立派な詐欺であります。教会の指導者は「良かれ」とやっています。でも、信じたばかりの人は、それらを律法とか義務に捉えてしまい、そうできない自分に失望して教会を去って行く可能性が出てきます。真実は、信じる前も恵みですが、信仰生活も恵みだということです。

 それをささえるみことばがこれです。エペソ2:8-9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」このみことばはアーメンであり、だれも反対する人はいないでしょう。信じた後はどうなのでしょうか?エペソ2:10 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」「キリスト・イエスにあって造られた」という表現は、Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と同じ意味です。では、「キリストにあって造られる」というのはどういう意味でしょう?それは悪い行いではなく、良い行いが自然に出てくるようになるということです。なぜなら、神さまがそのような者として私たちを造られたからです。しかし、それだけではありません。神さまは「私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」とも書いてあります。「備えてくださった」は英語の聖書でordainであり、「運命的に定める、予定する」という意味があります。つまり、神さまが良い行いをこれから先、ところどころに用意してくださるということです。マラソンのコースに設けてある給水所とかバナナみたいなものでしょうか?いや、それ以上のものです。だから、クリスチャンは洗礼を受けた後でも、神さまの恵みによって生きるべきなのです。なぜなら、神さまが必要な恵みをところどころに備えていてくださるからです。

 一番してはいけないことは、律法主義による信仰生活です。律法は神さまからの命令であり、規定です。クリスチャンであってもこれは守らなければなりません。しかし、救われた後の律法は罰則のためではありません。道路のガードレールやセンターラインのようなものです。「あなたは主にあって自由です。でも、これを超えると事故に遭うか、大怪我をしますよ」という警告を与えてくれます。しかし、律法主義は違います。「律法を守らなければ神さまに受け入れられない。良い行いをしなければ神さまの愛をいただくことができない」と、恐れの動機で行うパフォーマンス指向であります。いわゆる教会の献身者が一番陥りやすいものが律法主義です。その人たちは、一生懸命奉仕をしていても顔に緊張感があります。そして、やっていない人たちを心の中でさばいています。「どうして私だけがこんなに頑張らなければならないの」と怒っています。ここに良い知らせがあります。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません。」言い換えると、肉によって神さまを喜ばせる必要はないということです。神さまはイエス様がなされたことによってもう満足しています。何かをしなくても私たちがイエス様を信じているので義と認めてくださっているからです。いわば私たちは1万タラント(6,000億円を)赦されたしもべです。なのに、「あなたに100万円お返ししますので、どうか喜んでください」と言っているようなものです。あなたが100万円償ったところで、6,000億円には遠く及びません。償いで救われようなんて、何という厚顔で、失礼なしもべなのでしょう。私たちは無限大に赦された者たちです。私たちが良い行いをするのはお返しとか、償いではありません。私たちが神の作品になったことと、神さまご自身が良い行いを備えてくださっているからです。あるいは、神さまが私たちの内に良い行いをproduce生産させてくださるのです。だから、私たちはどこまでも自分を誇ることはできません。たとい良いことができたとしても、誇るべきお方は主のみです。ハレルヤ!

 多くの人たちはクリスチャンになっても、神さまに対する神観がゆがんでいます。あなたの神さまは「まだ足りないぞ。何をしているんだ」と怒っている神さまでしょうか?あるいは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛してくださる天の父でしょうか?私たちは救われるためには、幼い子どものように神さまを信頼する必要があります。しかし、救われて成長していくと、どうなるのでしょう?神さまの息子、神さまの娘になります。ギリシャ語には同じ子どもでも、フィオスということばがあります。息子、娘は、お父さんを喜ばせるために、緊張したりはしません。ときには、「これこうして」「これをくれ」とぶしつけに要求することもあります。でも、だんだん父の気持ちが分かってくると、どうなるでしょう?やがて、父の心を持つ人になります。これまでは後輩に対してライバル心丸出しで「100年早い」と言ってきたかもしれません。しかし、父の心を持っている人は自分のことのように喜びます。そして、「私を超えてあなたも立派な父になるのですよ。必要なものは何でも与えますよ」と励ますでしょう。私たちは神さまの手作りとして神の作品になりました。手作りですから、ひとり一人違います。でも、共通していることは神さまのご栄光を喜ぶために生かされているということです。

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2017年6月 9日 (金)

結婚の奥義 マタイ19:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.11

 世界で一番離婚率の高い国はロシアです。「100組のカップルのうち、80組が離婚に至る」という衝撃的な数値を記録しているとウェブに載っていました。アメリカや韓国も非常に高くて、クリスチャンであるかどうかは全く関係ないようです。日本も3組に1組くらい離婚していると言われています。きょうは、結婚の本来の意味を聖書から学び、信仰と希望と愛をいただきたいと思います。

1.結婚を重んじる

発端は「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか?」というパリサイ人たちからの質問でした。これはまじめな質問ではなく、イエス様を試すための質問でした。もし、「律法にかなっている」と言ったら女性の権利を踏みにじることになります。群集の半分が女性ですから、怒って帰ってしまうでしょう。イエス様が結婚の奥義について話しましたが、彼らはこう反論しました。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」これに対して、イエス様は「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」(マタイ197-8と答えました。イエス様は申命記の24章から引用しましたが、これは仕方なく与えた律法であったということです。なぜなら、男性が些細なことで一方的に妻を離別させていたからです。モーセは女性の立場を守るために、「正式な理由を書いた離婚状」を渡すように定めたのです。でも、イエス様は「あなたがたの心がかたくななので」便宜上そうしたのだとおっしゃいました。イエス様はさらに「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」と言われました。1つだけ例外があるとすれば、妻が不貞をはたらいた時であるとしました。これは十戒の「姦淫してはならない」という律法と合致しています。聖書の中には「そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです」と書いてあるものもあります。また、結婚に関する律法は、イスラエルが血統を重んじること関係しています。

これに対して弟子たちはどう答えたでしょうか?10節「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」弟子たちの頭も、その当時の考えや風潮に犯されていました。彼らも「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっている」と考えていたのです。気に入らないとか、些細な理由でも妻を離別することができるという男性優位の立場を取っていました。日本でも歴史的に考えますと、政略結婚とか家と家との結婚が一般的でした。ある政治家が「女は子どもを産む機械」という問題発言をしました。しかし、明治時代まで女性の立場はものすごく低かったことは確かです。当時のユダヤ人のように些細な理由で離縁されていました。こういう話を聞くと、女性たちは憤慨するのではないかと思います。今は逆で、女性の方から「離縁状」を出すケースもあるようです。流行の先端を行っていた明治の女流作家、与謝野晶子が離婚について書いています。「離婚という事を一概に罪悪のように考える人のあるのはどうでしょうか。離婚をして双方幸福の生涯に入った人も少なくないと存じます。そういう場合には社会はその人たちの離婚を賀しても宜しいでしょう。また夫婦という者はあながち幸福ばかりを打算して一緒になっておられるものでなく、そういう打算や道徳や義理や、聖人の教えや、ないし神様のことばなどを十分知り抜いて、しかもそれを超越した処に、どうしても双方の気分が食い違って面白くないという場合もあるのですから、そのところに至っては合議の上で離婚するのが正当の処置であろうと存じます。」しかし、与謝野夫婦は聖書の教えから越脱していることは確かです。

聖書は男性からの一方的な離婚についてどのように教えているのでしょうか?マラキ216「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。」とあります。祭司たちまでも、若い女性を好んで、年老いた妻を離縁しようとしていたのです。それは妻に対する裏切りだけではなく、神さまに対する裏切りでした。イスラエルの民はどうしてそのようになってしまったのでしょうか?それは、ヤーウェ(主)なる神を捨てて、カナンの神々を拝むようになったからです。エゼキエル書には神殿内の幻がしるされています。なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていました。(エゼキエル810)。彼らの霊的姦淫が、結婚生活にまで害を及ぼすようになったのです。まず、私たちは結婚が人と人との契約ではなく、神さまと人との契約であることを覚えなければなりません。人のとの契約contractは取り消すことが可能かもしれません。しかし、神との契約covenantは、取り消すことはできません。まさしく、「死が二人を分かつまで」であります。二人が、一度結ばれてしまったなら、霊においても1つになり、引き離すことは困難です。無理やり引き離すならば、双方の霊に害を及ぼすことになるでしょう。芸能人たちは離婚して再婚していますが、彼らの霊はぼろぼろになっています。私たちは、結婚が神聖であることを知って、これを重んじるべきであります。

2.結婚の召命

弟子たちは「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言いました。イエス様は彼らに、別の方向から答えられました。マタイ1911-12「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」結婚はだれでもできるものではなく、神からの召命です。また、独身者となる者がいますが、そこには3種類のケースがあることがわかります。しかし、これは男性の立場から言われていることであり、女性はその適用として捉えるべきです。なぜなら、「独身者」というのは宦官eunuchとなっているからです。宦官は去勢された男性であり、宮廷や貴族に仕えた男性を指しました。しかし、私たちはもっと広い意味で、男性と女性の「独身者」として捉えたいと思います。その前にひとこと申し上げますが、この世では独身者は半人前だと思われています。会社でも独身者だと、高い地位につけないということを聞いたことがあります。では、独身者が半人前なのでしょうか?イエス様は創世記1章を引用しながら「創造者は、初めから人を男と女に造られた」と言われました。これはどういう意味でしょう?男は結婚していなくても、男として完成しているということです。また、女は結婚していなくても、女として完成しているということです。そして、男も男として成熟し、女も女として成熟したものとなるということです。では、結婚とは何でしょう?成熟した一人の男性と成熟した一人の女性がするものなのです。よく「私が50%で彼女が50%で、合わせて100%になるんだ」と言いますが、それは嘘です。100%の男性と100%の女性が結婚して、200%になるのが結婚なのです。ハレルヤ!寂しい人と寂しい人が結婚したなら、二人の寂しい人たちが生まれるだけなのです。極端なことを言うと、相手がいなくても生きて行けるのが結婚の標準なのです。私もここで立派なことを言っていますが、家内がお義母さんの世話のため実家に帰るときがあります。2,3日はとても寂しいです。でも、4日もすると慣れてきます。なんとかなっていくんですね。でも、帰ってくると嬉しいです。機能不全の家庭で育った私が、結婚という召命に答えることができたのは、主のあわれみです。

ところで、独身者には3種類あることがわかります。第一は、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。聖書では預言者のエレミヤがその人です。バビロン捕囚前の彼の人生は波乱に満ちていました。同胞の民から苦しめられ、最後はエジプトで行方知れずになりました。だから、1人で良かったのです。第二は、また、人から独身者にさせられた者もいます。これは家族の問題や、戦争など外的な問題です。日本では第二次世界大戦中、そのような不幸な人たちがたくさんいました。兵士もそうですが、戦争未亡人の人たちもたくさんいました。聖書ではダニエルです。ダニエルと3人の若者はバビロンに連れていかれました。そして王様に仕える高官に抜擢されました。おそらく彼らは宦官として仕えたのではないでしょうか。だから、自由に結婚することは許されなかったと思います。でも、そういう制限された生活の中で主が共におられ、主の栄光を現すことができました。現代は身分が保証されていますので、「人から独身者にさせられた者」はそんなにいないかもしれません。しかし、子どもの時の虐待やいじめによって、結婚観がゆがめられてしまって結婚できない人もいるでしょう。育った環境や受けた心の傷によって、そうならざるを得ないケースもあると思います。

第三は天の御国のために、自分から独身者になった者もいます。しいていうならば、ナイチンゲール、エリザベス一世、マザーテレサかもしれません。おそらく、使徒パウロは天の御国のために、自分から独身者になったのではないかと思います。パウロはこう述べています。Ⅰコリント732-34「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」独身は神からの召命であり、賜物です。ローマ・カトリックのように強制されてなるものではありません。使徒パウロは独身として主に仕え、主のご栄光を現すことができました。しかし、すべての人がパウロのように独身者になれるわけではありません。現代では、イギリスから来られた宣教師、マーガレット・バーネット師がおられます。彼女は羽鳥明師を導いた人として有名です。彼女は独身者として神さまの栄光を現した立派な人だと思います。

 弟子たちが「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言ったのは、ゆがんだ考えからでした。彼らは男性優位の社会に影響されていたのだと思います。イエス様は結婚は神からの召命であると教え、その中に独身者もいるのだと教えました。世間体を保つために結婚して、不幸になるくらいなら独身で通す方が良いかもしれません。結論としてパウロのことばを引用したいと思います。Ⅰコリント7:8 -9「次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」神さまは私たちに自由意思を与えておられます。私たちをコントロールしようとは思っておられません。でも、大事なことは、結婚は神からの召命であり、それに答えることです。それに答えたならば責任を果たす必要があります。尚、結婚は幸せになるためにするのではなく、神からの召命に答えていくとき幸せがついてくるのではないかと思います。

3.結婚の奥義

 最後に聖書が言う結婚とはどういうものなのか共に学びたいと思います。マタイ19:4-6 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」この世の中では、結婚のための教育ということはほとんどないと思います。「みんな結婚するから私も結婚する。」「好きになったので結婚する。」「愛のゴールが結婚だから」…ほとんどのカップルは結婚式の準備はするかもしれませんが、結婚生活についてはぶっつけ本番ではないでしょうか?結婚式はたったの1日ですが、結婚生活はそれからずっと長く続く、山あり谷ありの生活です。「え?こんなはずではなかった」というカップルが多いのは結婚の本当の意味が分かっていないからだと思います。私は人に立派なことを言えませんが、On the Job Trainingであります。結婚しながら学んだと言うタイプです。なぜなら両親から正しい結婚生活を見習ったこともないばかりか、結婚カウンセリングも受けたことがなかったからです。結婚後、1か月で「ああ、男と女がこんなに違うものなのか」とびっくり驚きました。「性格の不一致」が離婚の第一な理由なようですが、当たり前すぎて、理由にならないと思います。これからの人も、その渦中にいる人も、昔の出来事の人も、あまり関心のない人も、一応は聖書から学ぶべきだと思います。

 第一は、結婚は神が創造し、神が定めたものです。人が便利だから作った社会的な制度ではありません。「創造者は、初めから人を男と女に造って」とありますが、もともとは創世記1章からのことばです。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」「かたち」とは何か神学者たちによって議論されてきました。カール・バルトという神学者は「男と女の関係、つまり愛の関係こそが神のかたちである」と言いました。神さまは父、子、聖霊なる神が1つになっている愛の共同体です。その愛の共同体にならって、人を男と女とに創造されたというのはすばらしい考えです。言い換えると、家庭の核は夫と妻であり、それが社会の基盤となるのです。その後に「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令が続きます。そのような神のかたちを増殖することを示唆しています。

第二は、「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ」とあります。これは結婚する前に、男と女が両親から独立するということです。言い換えると、経済的にも精神的にも、一人前になっているということです。残念ながら、日本では結婚してからも、両親とくっついている場合があります。何か問題が起こると伴侶に相談するのではなく、実家に行くというのは問題です。親子の絆が強すぎて、独立した家庭を築く妨げになっています。残酷かもしれませんが、結婚するためには、親子の縁を一度断ち切る必要があるのです。「渡る世間に鬼ばかり」というテレビ番組があります。世間と言っても岡倉家と小島家です。後から田島家と田口家が加わる小さな世間です。まさしく、共依存の物語であり、きわめて日本人的です。余計なことに口出しして、混乱することを楽しんでいる人たちです。人は父と母を離れ、その妻と結ばれることが重要なのです。私たちは互いに境界線を引くことを勉強すべきであります。

第三は「ふたりは一体となる」です。一体になるは、原語では「1つの肉」になるです。つまり、一度、結ばれてしまったなら引き離せない。「無理に引き離したら、肉は引き裂かれ、血が流れ、命をなくしてしまう」というニュアンスがあります。マラキ書2章には、「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と二度も書いてあります。結婚とは肉体だけではなく、霊がやり取りされるところまで一体になるということです。エリヤハウスでは、まさしくそのことを言っています。ある人と肉体的な関係を持つと、相手の一部の霊がこっちにくっつき、自分の霊の一部が相手にくっつく。そういう人と別れた場合は、相手の霊の一部をこっちにもらい、自分の霊の一部を相手に返すような作業が必要だということです。一度くっついたら、御霊のつるぎでないと切れないということです。ある大学生が複数の女性と関係を持ったために、自分の中に混乱が起きたそうです。彼が正常になるために、御霊のつるぎでそぎ落とし、さらには行ってしまった自分の霊を取り戻すという大変な作業があったようです。現代は男女間の関係が非常に乱れています。イエス様は「姦淫の時代」と言いました。だから、霊的に混乱をきたしている人がたくさんいるということです。エディ・レオ師が「結婚とは一体化を味わすことです。その夫婦が一体化するために3つのことが必要です」と言われました。第一は1つの霊となる。互いに祈り合うことです。家族の祭壇とも言えます。旧約聖書ではアブラハム、イサク、ヤコブが祭壇を築いています。互いに祈り合うとき、お互いの霊が行き来して深い所で一致することができます。第二は1つの心となる。正直で何でも話し合える会話が必要です。男性は結婚する前はとてもよくしゃべります。しかし、結婚したとたんしゃべらなくなります。あるデーターによると、女性は男性の5倍の言語を発しないとフラストレーションがたまるそうです。第三は1つの体となる。肉体の交わり、セックスです。これはだれからも教えられる必要はないでしょうか?しかし、日本人の中年の多くはセックス・レスだそうです。基本的にはこの3つですが、あと2つオプション的にあります。1つのビジョンを持つ。たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということです。1つの会計にする。お金を夫婦で別々にしないということです。イエス様は「宝のあるところに心がある」と言われました。もし、宝が別々のところにあれば、そこから分裂が始まる可能性が出てきます。

 生まれも育ちも、性格も考え方も違う二人が、一体になるというのは現実的にはありえません。婚約中は「私たちみんな同じね」と言っていますが、それは互いに遠慮しているからです。しかし、1つ屋根の下で暮らすと、だんだん本音が出てきます。二人がクリスチャンであってもそうです。「なぜ、こんなに違うのか?」と驚くばかりです。しかし、それは神さまが与えた「驚くばかりの恵み」なのです。あとで「違うから良いんだ!」「違うから補い合うことができるんだ!」と感謝するようになるでしょう。でも、最初は角を突き合わせ、相手を変えようと頑張ります。そうするとだんだん二人の関係は悪化します。結婚したら、ぜひ諦めてください。相手を変えようとせず、相手を理解することにエネルギーを使いましょう。大川牧師が結婚式でよくおっしゃっています。「愛は寛容です」というⅠコリント13章のみことばがあります。しかし、ある英語の聖書にはLove is understandと書いてあるそうです。Understandは相手の下に立つという意味にもなります。ちょっと相手の下に立って考えてみると、「なるほどこういう家庭で育ったから、こういうふうに考えるんだろうな」と思いやりがうまれます。クリスチャンは新しく生まれた存在ですが、古い過去を背負っている場合があります。だから、understand理解が必要なのです。イエス様が最初になさった奇跡は何でしょう。結婚式で最も重要なぶどう酒が尽きてしまいました。そのときイエス様は何の変哲もない水をぶどう酒に変えました。料理頭は「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と言いました。イエス様は良いぶどう酒を取っておかれています。

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2017年6月 2日 (金)

無限大の赦し マタイ18:21-35 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.4

 マタイ18章全体を貫いている考えは、小さい者を躓かせないということです。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」ということが問われていました。いきなり公にするのではなく、当人同士から始めることを学びました。そして、最終的には教会が赦したりさばいたりする権威が与えられているということでした。今日のテキストでは、「では、何度まで赦すべきか」ということが問われています。私たちは人の罪を何度まで赦せるでしょうか?赦しの問題は健全な信仰生活を送る上でとても重要なテーマです。

1.兄弟姉妹間の罪

  

 なぜ「兄弟姉妹間の罪」なのでしょう?New International Versionには、my brother or sisterと書かれています。この聖書にはペテロは「兄弟姉妹が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきか」と書かれています。当時のユダヤ教では「三度までは赦しなさい」と言われていました。ペテロは思い切って「七度まででしょうか?」と聞きました。すると、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と言われました。7は完全数ですが、770倍は490回ではなく、無限大と言う意味です。つまり、無限大の赦しを与えなさいということです。これにはペテロも驚いたことでしょう。イエス様はその後に、1万タラントを赦されたしもべのたとえを話されました。私たちはまず、ここで言われている罪がどのようなものなのかということを考える必要があります。少し前の15節で「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」という罪は、英語の聖書ではtrespass「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味でした。そして、21節の罪は、英語の聖書ではsinです。これは犯罪というよりも、宗教上、道徳上の罪です。たとえばコリント教会において問題にされていた罪は、性的な罪、分裂・分派、高慢でした。エペソ人への手紙4章には「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意」という罪のリストがあります。ですから、この世では罪にならなくても、教会の中では罪になるものがあるということです。J.Cライルの本には、「injuryの赦しが重要である」と書かれていました。Injuryというのは危害とか傷害です。さらには、感情・評判などを傷つけること、無礼、侮辱、悪口という意味があります。まさしく、教会で問われている一番の罪は、人間関係における罪であります。つまり、異教徒や未信者の罪ではなく、兄弟姉妹間の罪が問題にされているのです。

 この世では嫌な人や、気の合わない人がいたら離れれば良いでしょう。職場では「お金のためだから」と我慢するかもしれません。処世術と申しましょうか、場所や相手に合わせて、いくつかの仮面をかぶるかもしれません。しかし、神の教会、神の家族ではそうはいきません。私たちは神さまから多大な罪を赦され、聖霊によって生まれ変わった存在です。この人たちとは死んだ後も、天において永遠の交わりが続きます。聖書では「あなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。「主の祈り」では「私たちの罪をお赦ください。私たちが彼らの罪を赦したように」と祈ります。教会では愛と赦しがとても強調されています。教会に続けて来られている人は、本当にこのことを守っている人か、あるいは仮面をかぶってごまかしている人です。まともな人であるなら、良心が咎められて、教会に集うことは不可能です。教会に来なくなる人がいますが、「もう愛せない、もう赦せない」という人が多いのではないでしょうか。それだけ、兄弟姉妹間における罪は、無視できないテーマだということです。

 確かにこの世では罪に定められないものが教会内では罪になりえます。でも、そのことを避けていたならば、私たちの心は癒されないばかりか、栄光の姿に変えられることもありません。この世では仮面をかぶりごまかして生きてきました。しかし、教会ではありのままで生きることを求められます。最初は「ありのままで良いんだ」と素顔で兄弟姉妹と接しようとします。しかし、相手もありのままなので、どうしても衝突してしまいます。教会は神の家族と言われますが、まさしく一般の家族と変わらないところがあります。一般の家族では本音を出し合うので、良く衝突します。でも、運命共同体なので、なんとか折り合いをつけることを学びます。教会は新しい神の家族です。私たちは罪を赦され、聖霊によって新しく生まれ変わりましたが、魂が完全に変わっていません。傷ついた部分もあれば、ゆがんでいるところもあります。では、どうやってそれを発見し、癒され、聖化されていくのでしょうか?神の家族です。神の家族がそうしてくれるのです。神の家族において嫌なことや傷つくことがあるでしょう?でも、私たちがそこで矯正され、訓練され、癒されていくのです。ですから、神の家族を離れて、クリスチャンとして成長することは不可能なのです。私たちの兄弟姉妹が私たちを聖化させてくださるのです。これは結婚における夫婦の関係と同じであります。箴言2717鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。どうぞ、私を研いでくれるご親切な兄弟姉妹に、ご親切な夫や妻に感謝をしましょう。

2. 1万タラントのたとえ

   

 イエス様は無限大の赦しの必要性を教えるために1つのたとえ話をされました。クリスチャンであるなら、このたとえ話をよく知っておられると思います。問題は「1万タラントを赦されたのは自分なんだ」という自覚が足りないことであります。多くの場合「自分が100デナリで、危害を加えたあいつが1万タラントなんだ」と逆に捉えてしまいます。これこそが私たちの肉であり、生まれつきの罪です。私たちは自分を被害者、相手を加害者にしてしまう構図から抜け出すことができません。ですから、私たちはこのたとえを上の空で聞くのではなく、心の深いところに留める必要があります。まず、1万タラントがどのくらいのお金なのか調べてみたいと思います。タラントは元来、金などの重さの単位でしたが、貨幣の額になりました。1タラントは6,000デナリ、6,000日分の賃金です。現在ですと6,000万円です。1万タラントだとそれに1万をかけるのですから、60,000,000万円(6千億円)です。昔は小さな国の国家予算に匹敵すると言われていました。11デナリを稼ぐとすると、16万4384年かかります。このしもべは、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします」と言いましたが、それは不可能です。ロト・セブン6億円を1000回当てなければなりません。自分も妻子も持ち物を売って返済し、一生働いたとしても全く不可能です。マタイ1827「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」これは、父なる神さまのご性質を表しています。あとで説明しますが、神さまはあわれみに富むお方です。私たちがとうてい支払うことのできない罪の負債を気前良く免除してくださるお方なのです。

 そのしもべはどうしたでしょう? 100デナリ自分から借りていたしもべを赦すことができませんでした。彼の首を絞めて「借金を返せ」と言いました。彼はひれ伏して、「もう少しまってくれ。そうしたら返すから」と懇願しました。以前、自分が主人の前に言った同じことばを、しもべ仲間が言ったのです。普通だったら、自分のケースを思い出すはずです。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。100デナリというのは、100日分の賃金ですから、今で言うと100万円です。さっきの60,000,000万円(6千億円)と比べたら、微々たるものです。それを「待ってくれ」と言われて、返すまで牢に投げ入れました。それを主人が聞きました。彼に何と言ったでしょう。「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」この主人とは、まさしく神さまのことです。神さまが私とあなたの負債、60,000,000万円(6千億円)を赦してくれたのです。ところが、兄弟姉妹の100万円を赦せないのです。神さまはどうおっしゃっているでしょうか?「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」この命令は、異教徒や未信者に与えられているのではありません。なぜなら、彼らは神さまの多大な赦しを得ていると思っていないからです。この命令は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じている、私たちクリスチャンに語られている命令なのです。もし、このことを軽く捉えているなら、自分がどれくらい多大な罪を赦されているのか分からない人かもしれません。

 確かにそうです。イエス様を信じたとたん、罪の赦しを同時に受け取ることができます。救われるために今まで犯した1つ1つの罪を告白する必要はありません。自分が罪人であることを自覚して、神さまに赦しと救いを求めるだけで人は救われます。なぜなら、イエス・キリストが私たちの罪の負債をすべて支払ってくださったからです。でも、私たちがどれくらい多大な罪を赦されているのか知らされる時があります。それは自分が人の罪を赦すときであります。特に、赦されざる罪をその人が自分に犯した時です。しかも、一言も謝りません。罪も告白していません。「あんなにひどいことをして、私は決して赦せない」と憤慨します。その時、自分が多大な罪を赦された者であることをすっかり忘れています。自分は被害者であり、あいつは加害者、私に危害を加えた憎むべき敵であると考えます。でも、自分が救われたとき、神さまに謝ったでしょうか?謝っていないのに、神さまは私を赦してくださいました。今度は、私があの人の罪を決して赦せないと言っています。この時、人の罪を赦すということがいかに大変なことか分かります。人の罪を赦すと言うのは、こちら側が負債を負うということです。父なる神さまがイエス・キリストにあって負債を負ったのです。だから、私たちはただで赦されたのです。今度、私たちが人と罪を赦すときは、自分がその負債を負うしかありません。それが、100デナリを赦すということなのです。確かに1万タラントと比べたら微々たるものでしょう。でも、自分にとって100デナリは大きな負担であります。人を赦すときに一番重要なことは、1万タラントを赦されたしもべとして自分を見るかどうかということです。頭では分かるかもしれません。天秤の両脇に2つの皿があります。1つは1万タラント、自分が神さまから赦された量です。もう1つは100デナリ、相手が自分に犯した罪の量です。「…分かりました。赦します。喜んで赦します」と信仰によって言うのです。そうすると鈍い感情が、あとから「赦します」と言うのです。感情が来るまで待ってはいけません。「主のご命令だから赦します」と言うとき、感情があとからついてくるのです。感情には傷があり、痛みがあり、恥があり、怒りがあり、悔しさがあるでしょう。でも、信仰によって「赦します」と言うと、それらの傷が癒されていくのです。主のご命令に従うしか、心の癒しはやってきません。この世ではたくさんのカウンセリングがあります。多くの場合、相談する人は被害者になり、相手が加害者になります。カウンセラーはあなたの味方になって、被害者的な部分を癒してくれるかもしれません。でも、あなたが加害者を赦さない限り、完全に癒されることはありません。一番の問題は、主のご命令に対して、従順になるか、不従順になるかどちらかであります。自分の意思によって、赦すことを選び取るなら、本当の癒しと解放がやってくるでしょう。コロサイ3:13「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

3.霊的な法則 

 もし、赦さないならどのようなことになるのでしょうか?このたとえには、霊的な法則が記されています。マタイ1834「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」獄吏ということばは、日本人はピンとこないかもしれません。ギリシャ語では、「拷問役の奴隷」です。つまり、神さまご自身が苦しみに合わせるのではなく、拷問役に引き渡すということです。それは天使かもしれないし、悪霊かもしれません。その結果、肉体的あるいは精神的な病気になるかもしれません。J.Cライルは、「霊的な暗闇が魂を支配する」と書いています。そんなことが、いつまで続くのでしょうか?「借金を全部返すまで」です。11デナリだとすると、16万4384年かかります。その人はクリスチャンですから、永遠のいのちが与えられています。いつかは新しい天と新しい地に住むことができます。でも、16万4384年後です。先日、トルコに住むイスラム教の証を聞いたことがあります。彼らは5,000万年、地獄の責め苦を受けた後、やっと天国に行けると教えられているそうです。仏教では272獄を通過し、人間界の時間で16653億年を経たないと転生できないという教えがあるそうです。聖書によると、死後のさばきには2種類あって、白い御座のさばきという永遠のさばき、そして御国において闇に捨てられ、歯ぎりするというさばきがあります。前者には終わりがなく、後者には終わりがあります。簡単に言うと、聖書のことばをなめてかかってはいけないということです。「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡す」ということは、真実でありそのまま受け止める必要があります。

チョー・ヨンギ師が書かれた『第四次元』という本から引用致します。あるとき、学校の教師が私に面会を求めたことがあります。彼女は校長という要職にありました。この婦人は、実は関節炎をわずらっていました。彼女は、病院と名のつくところはすべて渡り歩いて治療を受けましたが、その甲斐もなく病は直りませんでした。私は彼女の上に手を置くと、祈り、命じ、叫びました。渾身の力をこめてあれこれ手を尽くしましたが、神の御手は触れられませんでした。教会には、いやされた人が大勢いると言うのに、どうしたわけか彼女は癒しの恵みにあずかることができなかったのです。とうとう私も、彼女は癒されないものと半ばあきらめてしまっていました。そんなある日、聖霊が私に示してくださいました。「叫んだり、祈ったり、命じたりしてはならない。私は彼女の中に力を現わすことはできないでいる。癒しのいのちを流れ出すことができないでいる。その理由は、彼女が前夫を憎んでいるからだ。」私は、彼女が10年ほど前に離婚しているということを知っていました。そこで私は、座って祈りを待っていた彼女に、「姉妹よ、ご主人と別れなさい。」と言いました。彼女は、びっくりしたような顔で私を見つめていましたが、それから「牧師さま、どういう意味でしょうか。主人と別れる、ですって?わたくし、主人とは10年前に離婚しております。」「いいや、しておりません。」と、私ははっきりと答えました。「そんなこと、とんでもありません。主人と正式に離婚しております。」彼女が言い張りました。「ええ、それは、離婚をするには、したでしょうね。」私は念を押しました。「確かに、離婚されました、法律的にはね。でも、精神的には、どうでしょうか?心の中では、あなたは彼と決して離婚しておられないのです。あなたは来る日も来る日も夫を呪い、夫を憎んできました。心の中で、想いの中で、あなたはご主人と別れていないのです。心の中では、あなたは今でも、ご主人と一緒に暮らしておられます。そして、あなたが抱いているご主人に対する炎のような憎しみが、あなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです。この憎しみが邪魔をして、関節炎を治らせないようにしています。」少し長いので割愛しますが、彼女は反発しました。「結婚したのはいいけれど、仕事は何1つしないで、お金を湯水のように使い、自分を捨てて他の女と駆け落ちした、そんな人間をどうして愛せましょう」と言いました。激しい葛藤の中で涙しながら、ご主人を赦しました。そして最後に、ご主人を祝福しました。それからおよそ3か月後、この婦人の関節炎は完全に癒されたそうです。

 父なる神さまはどのようなお方でしょうか?マタイ18:27「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」と書いてあります。主人とはまさしく、父なる神さまのことであります。父なる神さまは「かわいそうに思って、彼を赦しました」。父なる神さまは、愛と赦しと憐みに富めるお方です。もし、私たちが救われて神の子となったならば、当然、父なる神さまのご性質を受け継いでいるはずです。これは「あなたも赦してあげなさい」という命令ではありません。自分の中に父なる神さまのご性質が宿っているならば、赦さないではおれなくなります。パウロはローマ5章で「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っています」と言いました。さらに続けて、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と言われました。私たちの中には傷つけられた怨念の炎が燃えているかもしれません。しかし、そこに聖霊によって、神の愛が注がれたらどうなるのでしょう?自分の中に激しい葛藤、激しい嵐が生じるでしょう?どうしたら、神の愛の方が勝利するのでしょう。それは、私たちが聖霊に明け渡したときです。聖霊様が赦しという奇跡を起こしてくださいます。

コーリテン・ブームというホロコーストの生存者がいます。ユダヤ人をかくまった罪で一家十人が逮捕され、強制収容所に入れられました。他の人はみんな亡くなって、彼女だけが奇跡的に生き残りました。終戦後、彼女はオランダに戻り、リハビリ―センターを設立しました。1947年ミューヘンの教会に招かれました。彼女は「私たちが罪を告白するとき、神が深い海にそれらの罪を永遠に投げ入れます」とメッセージしました。人々は沈黙の中で立ち上がり、静かに部屋を去りました。しかし、罪を悔い改めて、講壇の前に来る人たちもいました。すると、忘れもしない男性が目の前に立ちました。この男は姉と彼女が裸で歩くのを見ていた強制収容所の看守でした。彼は手を差し出しながら、「すばらしいメッセージでした。あなたが言うように、私たちのすべての罪は海の底にあります」と言いました。赦しを話していた彼女の手は凍りついたように動きませんでした。彼は「私を赦して下さいますか」と聞きました。イエス様の声が聞こえました。「もしあなたが人の罪を赦さないならば、あなたの父も、あなたの罪を赦さないでしょう」。彼がそこに立っていた時間は数秒でしたが、最も困難なことに取り組んでいたので、数時間のようでした。赦しは感情ではなく、意志であることを知っていました。彼女は心の中で「助けて、私は手をあげることができます。あなたに感情をささげます」と祈りました。そして、木製のような手を機械のように差し出しました。すると、信じられないことが起こりました。肩から腕、腕から手に力が流れていきました。そして、癒しの暖かさが彼女の全身に溢れました。彼女は涙を流しがら、「兄弟、あなたを赦します」と言いました。長い間、元看守と元捕虜が握手をしていました。彼女は神の愛をこれ以上に知ったことがなかったそうです。神の愛が最も現されているのは赦しです。同時に、私たちが人の罪を赦すのも、愛がなければできません。でも、その愛は私たちが神の命令に従うときに、赦しという形で流れてくるのです。

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2017年5月26日 (金)

兄弟が罪を犯したなら マタイ18:15-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.28

 マタイによる福音書には「教会」ということばが16章に1回、そして18章に2回記されています。厳密には、イエス様の頃はまだ「教会」は存在していませんでした。しかし、やがて誕生するであろう「教会」のことを見越して、こういうことを守りなさいと教えているのだと思います。きょうのテーマは「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」です。ここで言われている「罪」というのは、「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味です。教会でおもに問題にされる罪は、ゴシップ、分裂分派、性的な罪です。刑事罰を受けるような犯罪でなく、共同体を破壊する罪が問題にされています。Ⅰヨハネ3章には「神から生まれた者は罪を犯しません。…罪を犯すことができないのです」と書かれています。ここで言われているのは、この世の人たちのことではなく、霊的に新しく生まれた人たちを対象にしています。もし、誤って罪を犯した場合、教会においてどのようなことが大切なのか教えられています。でも、このマタイ18章全体には「小さい者につまずきを与えない」というテーマが一貫して流れていることを忘れてはいけません。

1.愛と尊敬

 15節から17節まで、「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、3つのステップを踏んで対処しなさい」と教えられています。なぜなら、3つのステップの根底には「愛と尊敬」があるからです。第一のステップとは何でしょう?「行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」と書かれています。すごいですね。被害を受けた人、あるいは傷を受けた人が、加害者のところに行くのです。そして、当人同士、二人でお話しをするということです。「責める」というギリシャ語は「納得させる、説得する、誤りを認めさせる」が第一の意味になっています。英語の詳訳聖書には「もし、あなたの兄弟があなたに悪いことをしたなら、行って、彼にその誤りを示しなさい。彼とプライベートに」と書かれています。日本人はいきなり第三者か公に訴えるところがあります。そうしますと、その人をひどく傷つけることになり、関係が壊れてしまいます。もし、プライベートであるならば、相手も身構えないで、言うことを聞いてくれるだろうということです。私は土木の現場監督をしていたので、ことばでたくさんの罪を犯しました。教会の姉妹方から「あなたのことばで傷つきました」と言われたことが沢山あります。その時はショックを受けましたが、おかげさまで大分、良くなったのではないかと思います。学校に行っていた頃はよく職員室に呼ばれたので「お話しがあります」と呼ばれると怖いです。でも、ここでは「来い」ではなく「行って」と書かれています。

 第二のステップは「ひとりかふたりを連れて行く」ということです。マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」「二人の証人、三人の証人」というのは、申命記19章に記されている律法です。なぜ、さらに「ひとりかふたり」なのでしょう?それは確認されるためです。英語の詳訳聖書には「確認し、支持するため」と書かれています。つまり、本人だけではなく、「ひとりかふたり」が「やっぱりそれは良くないことですよ」と一緒に言ってあげるということです。そうすると罪を犯した人は、「客観的にそうなのか?」と考えるようになります。それでも、「ひとりかふたり」が当人を責めているというニュアンスはありません。兄弟になんとかわかって欲しいという願いがあります。日本人はだれかその人よりも偉い人を連れて行く場合があります。その人は、恩があるので頭が上がらないために仕方なく聞くかもしれません。しかし、それだと力が加わりますので、できるだけ利害関係のない人が良いと思います。少し前に、森友学園のことが報じられていましたが、こじれにこじれていました。あそこまで行くと収集がつかなくなります。私たちは問題がこじれないように、第一と第二のステップを踏む必要があります。

 そして、第三のステップは教会に告げるということです。教会のだれなのか?現代は牧師と役員会、さらには会衆全体ということになります。噂話とかゴシップにならないように、公にすることが必要になります。マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」最終的には「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と書かれています。しかし、このところに罰を与えるとか、除名するというような表現はありません。「異邦人か取税人」というのは、神さまを信じていない未信者のように扱えということです。ところが、ローマ・カトリックは教会の権威をふりかざして、「破門」や「宗教裁判」を発動してきました。カルヴァンの時もそうでしたが、国家権力と結びつくと神さまの領域を犯していることになります。そうなるとこの世の人に対して、良い証になりません。J.Cライルの本に、「破門こそは、その人が犯した罪よりももっと恐ろしい罪である」と書かれていました。また、教会では「戒規」と言って、陪餐停止処分を与えるところもあります。これは、しばらくは聖餐式に加わることができないということです。これに対しても、J.Cライルは「その人が悪くても、不敬虔であっても、主の食卓に来ることを禁じるべきではない」と書いていました。

 ダニー・シルクの『尊敬の文化』という本にこのようなことが書かれていました。神学生の二人が夏休み中、関係を持って女性が妊娠してしまいました。学校で教えている牧師は「二人を退学させるべきだろう」と考えていました。ダニー・シルク牧師は「とにかく二人に会って話し合いましょう」と提案しました。二人は執務室に入ってきても、目を合わせよとせず、うつむいたままでした。自分たちが仕出かした行為を恥じていることは明らかです。二人は処罰を受ける覚悟をしていました。シルク牧師は彼らと初めて会ったので、まず男子生徒からいきさつを説明してもらいました。最後に「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう」と言いました。男子生徒は「わかりません」と言いました。シルク牧師は「悔い改めたの?」と尋ねました。彼は「ええ、もちろん悔い改めました」と即答しました。「では、何を悔い改めたのかな」。しばらく沈黙が続いた後「わかりません」と言いました。「そうだよね。問題がそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」。彼は「はい、おっしゃるとおりです」と答えました。シルク牧師は自分の考えを言うのではなく、何を考えるべきだとも言うつもりはありませんでした。ただ彼に尋ねることによって、この若者に栄光と知恵と能力を見出すように導いていたのです。なぜなら、自分の失敗に対する恥のせいで、彼が本来の自己像を見失っていたからです。彼は蹴飛ばされて唾をかけられて当然の人間だと思っていました。指導者は彼に規則を守らせるための存在だと思っていました。しかし質問をしたことを通して、聖霊の助けのもと、彼は自分の生涯を一変させることになる解決方法を見出しました。物語は続きますが、彼と彼女は処罰とその恐れから自由になり、正しい悔い改めをし、結実に至りました。つまり、処罰を与えないで解決する方法があるということです。愛と尊敬は、その人から自己防衛を取り除き、真の悔い改めに導くことができます。Ⅱコリント710「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

2.霊的権威

   

 マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」同じようなことがマタイ16章にも書かれていました。「つなぐ」というのは、「禁じる」という意味です。また、「解く」というのは、「許す」という意味です。これは、イエス様が教会に対して、神さまの名代としてそのような権利を与えたということです。この18節のことばは、「もし、兄弟が罪を犯したなら」という文脈で考えるべきです。前のポイントを振り返りますと、当人同士で「わかった、ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。でも、もし聞き入れないならひとりか二人を一緒に連れて行きます。そのとき、「ああ、そうだったんですね。ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げます。そのとき、聞き入れたならば、それでOKです。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、異邦人か取税人のように扱います。第一から第三までのステップの中で、「禁じる」とか「許す」という権威が行使されているということです。このように教会にはイエス様から霊的権威が与えられているのです。教会のかしらはイエス・キリストです。この方が最終的な権威者です。でも、イエス様は問題が愛と尊敬によって解決するように、私たちに権威を委譲しておられます。私たち自身に権威があるのではなく、イエス様からいただいているということです。私たちはこの霊的権威を軽んじてはいけません。

 霊的権威を軽んじてしまった教会の見本はコリント教会です。コリント教会は、教会内の罪をこの世の裁判所に訴えました。パウロはこう述べています。Ⅰコリント61-4「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。」さらにパウロは「教会内の罪はあなたがたが解決しなさい。そもそも、互いに訴え合うことが、すでに敗北です」と言っています。残念ながら、教会の現状はこうではありません。教会内部の問題を全国の教会にばらまいたり、裁判所に訴えるということがたまにあります。また、教会のスキャンダルを集めて、ホームページに載せている牧師もいます。教会や牧師を訴えるというのは、まさにサタンの片棒をかついでいるようなものです。もちろん、教会が罪に直面せず、なかったことのようにするのは良くありません。ある場合は、刑事裁判になることもあるでしょう。でも、イエス様が教会に対して、禁じたり、許したりする権威を与えておられることを忘れてはいけません。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます」(ルカ1117でおっしゃいました。どちらが正しいとか間違いだとか、分からないことがあるでしょう。そのときは、パウロが言うように「むしろ不正を甘んじて受け、むしろだまされる方が良い」(Ⅰコリント67のです。なぜなら、最終的にさばくのはイエス様だからです。

 ジャン・バルジャンは司教の好意を裏切って、銀の食器を盗みました。その後、警察に捕えられ、神父のもとに連れてこられました。警察官は「この銀の食器はあなたのものでしょう?」と袋から出して言いました。すると司教は、「これは彼に差し上げたものです。燭台もあげたのにどうして持っていかなかったのか」と強い口調で言いました。ジャン・バルジャンの人生は、そのことによって変わりました。ジャン・バルジャンの心がなぜすさんでしまったのでしょう?彼は腹をすかせた甥と姪のために、パンを盗んで逮捕され5年もの刑を宣告されました。犯した罪に比べて罰の重すぎることから、社会に疑念を抱き社会を憎むようになったのです。何度か脱獄を試みましたが、そのたびに失敗し刑期が数年ずつ伸び、その結果19年も刑務所で過ごすことになってしまいました。警察官が去った後、司教は「どうか真人間になるためにその銀の品々を使ってください」と言いました。ジャン・バルジャンは、この出来事の後、マドレーヌと名乗るようになり、市長となります。でも、この物語はさらに続きます。実はジャン・バルジャンは燭台だけは売らないで死ぬまで取っておきました。私は「レ・ミゼラブル」のような可哀そうな物語とか映画はとても苦手です。自分の過去のみじめな人生とシンクロするからです。でも、言えることは人間は変わるということです。『愛、赦し、受け入れ』という本をだれかが書きました。人の罪をあばいてさばくことは検察官がやることです。それを教会でやるなら、イエス様がどれほど悲しむでしょうか?教会は時として悪魔の片棒を担いで、兄弟を告発することがあります。教会はイエス様から与えられた権威を、人を生かすために用いるべきです。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

3.主の介入 

  

 マタイ1819-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」19節と20節のみことばはとても有名でよく引用される箇所でもあります。でも、私たちは文脈からこのみことばを理解しなければなりません。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」と書いてありました。そして3つのステップを踏んでその兄弟を諭すことが語られていました。18節には教会には禁じたり赦したりする霊的権威が与えられていると書いてありました。その後に、心を合わせた祈りの必要性とその効果が記されています。つまり、罪を犯してしまった兄弟のためにとりなしている祈りと考えられます。当人で行って諭したけどダメだった。他の人を連れて諭したけどダメだった。最後に教会に告げ出んだけどダメだった。彼は異邦人か取税人のように扱われてしまう。こういう一連の出来事の背後で「正しいさばきがなされるように、また聖霊によってその人が悔い改めるように」と心を合わせて祈っているのです。そこにイエス様が臨在されて、その問題を解決してくださるということです。このようなことは教会の外ではなされません。また、この世の人たちは、祈りの力ということを信じていないでしょう。でも、心を合わせた祈りは最も力あるわざなのです。説得もある場合は効果があるかもしれません。人は人を変えることはでません。やはり神の霊がその人に臨んで、変えて下さるように祈るのが一番なのです。ですから一見、力がなさそうでも、心を合わせた祈りは最も大きな効力を発するのです。

 私たちはこの箇所から心を合わせた祈りがどんなに効果があるか、もう一度知る必要があります。私たちは大勢の人たちが集まって祈れば、もっと効果が現れるだろうと思ってしまいます。しかし、このところでは、「ふたりでも三人でも良いのだ」と書かれています。イエス様は弟子たちを伝道旅行に派遣したことが何度かあります。その時、彼らを二人一組で遣わしました。二人というのはとても良いと伝道者の書に書かれています。一人が倒れたら、もう一人が助け起こすことができるからです。また、二人が良いのは共に祈ることができるからです。これは夫婦の祈りでも言えますし、兄弟姉妹の祈りでもそうです。19節には「まことに告げます。…もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と約束されています。「どんな事でも」と言われています。ですから、どんなことでも父なる神がかなえてくださるのです。「まことに」と言われていますので、私たちは額面通り受け止めるべきです。そもそも、この二人とは一体だれなのでしょうか?私は、罪を犯した兄弟とその人のところに行った兄弟(姉妹)だと思います。ふたりだけのところで責めたわけですが、そのとき、二人が心を合わせて祈ったら、すばらしい和解が生まれるでしょう。でも、うまくいかないときがあります。それで、他にひとりかふたりをいっしょに連れて行きました。そこには、罪を犯した兄弟の他に二人か三人います。すべての事実が確認されました。そのときのことが20節ではないでしょうか?「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」なぜなら、ふたりから急に三人になっているからです。一緒に祈っているところにイエスさまが来られ、悔い改めとすばらしい和解をもたらしてくれたら何と幸いでしょう。

 教会では何かをするとき必ず祈ります。最後も祈る場合もあります。祈って初め、祈って終わる、すばらしい習慣だと思います。私の経験によると、会議など長引く場合は、途中、神さまの導きを求めてみんなで祈ったらもっと良いと思います。私は関東のセルチャーチネットワークに、15年くらい携わってきました。次の集会で何をするのか、56人集まって協議します。1時間くらいやっても、なかなか決まりません。そのとき、「では一緒に祈りましょう」と勧めます。3分くらい祈ります。すると、何かが降りてくるというのは、変な言い方ですが、パーッとテーマが浮かんできます。もう、10分もかからないですべてのプログラムが完成します。これは奇跡です。関東のセルではこのことを何度も体験しました。流山に三浦先生というとてもまじめな牧師がいらっしゃいます。彼は、平日アルバイトをしていますので、仕事を休んで打ち合わせに来ます。私は彼のことをねぎらって、「仕事を休んで打ち合わせ会に来るのは割に合わないでしょう」と言ったことがあります。そうすると三浦先生は、「いや、これが一番、勉強になります。私は先生方から色んな事を教えられてきました。とても感謝です」という言葉が返ってきました。そうなんですね。日本の教会が置かれている厳しい状態から始めますので、どうしても否定的です。あれもやったけどダメだった、これもやったけどダメだった。何をしようか?でも、目をつぶって一緒に祈ると、天が開けて何かがパーッと降りてきます。では、私たちが祈る前に天がふさがれていたのでしょうか?そうではありません。天は開いていたのですが、私たちの心が閉じていたのです。

 最後に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とはどういう意味でしょう?これは主がそこに臨在されるということです。神さまは霊ですから、どこにもおられます。これを偏在といいます。では偏在と臨在はどこが違うのでしょうか?臨在とは神さまがそこにおられるだけではありません。神さまが臨在されるところには、奇跡や癒し、救いのみわざが起こるということです。問題の解決、特別な啓示、聖霊の力が与えられるということです。教会は人数の多さではありません。もちろん多いことに越したことはありません。教会の真骨頂は、ふたりでも三人でも、主の名において集まり、心を合わせて祈ることです。二人でも地上で心を合わせて祈るなら、どんなことでも天の父がかなえて下さるからです。

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2017年5月19日 (金)

天国で一番偉い人 マタイ18:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.21

 マタイ181節には、「そのとき」と書いてあります。「そのとき」とはいつなのでしょうか?マタイは省略していますが、背後には二つの出来事があることがわかります。第一はマルコ9章に書いてありますが、弟子たちが、カペナウムに行くまで、道々、だれが一番偉いか論じ合っていた時です。第二はマルコ10章に書いてありますが、人々が子どもたちを連れて、イエス様のところにやって来た時です。

1.子どもから学ぶ

 弟子たちはイエス様が十字架にかかる直前まで、だれが一番偉いか論じ合っていました。彼らはイエスさまがイスラエルを建国したとき王様になると信じていました。そのときだれが、イエス様の右に座るか、だれが左に座るか論じていたのです。彼らの思いは地上にありましたが、イエス様は天の御国ではどうなのかということを教えられました。そして、小さなこどもを呼び寄せ、弟子たち真ん中に立たせてこのように言われました。マタイ183「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」これは、だれが偉いかということではありません。「どのようにならなければ天の御国に入れないのか」という救いの問題を扱っています。イエス様は小さな子どもを立たせ、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。「悔い改める」とは必ずしも罪を悔い改めるという意味ではありません。ギリシャ語では「変える」「向きを変える」という意味のことばです。大人である弟子たちに、「子どもの身になって考えよ」と言うことです。でも、「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れない」とはどういうことでしょう?子どもは大人よりも何かがすぐれているということでしょうか?子どもの特性、子どもの状態、子どもの態度、いろいろ考えられます。子どものときは持っていて、だんだん大人になると失うものは何でしょう?まるで、なぞなぞみたいです。

 子どもは疑うことをしません。「あげるよ」と言ったら、すぐ手を出します。しかし、大人は「あげるよ」と言われても疑ったり、プライドが邪魔したりして簡単に受け取りません。もし、天国が無代価のプレゼントだとしたどうでしょう?大人は「私にも何かやらせてくれ。良い行いでも、修養でも何でもするから」と言うかもしれません。こちらも何かすれば、救われる気がするからです。救われるために、何もしないというのは、かえって怪しいと思うでしょう。その点、子どもは良い行いはできないし、修養も無理です。子どもの特性は、単純に信頼するということです。でも、その子どもが大きくなるにつれて、裏切られたり、だまされたりするのです。大人になるとすっかり疑い深くなり、「簡単にはだまされないぞ!」みたいになります。そういう意味で、大人が子どものようになるというのは大変なことです。これらのことから考えますと、天の御国に入るということは、単純に信頼するということではないでしょうか?だからイエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」とおっしゃったのです。

キリスト教では信じて救われることを「回心」と言います。英語ではconvictionと言いますが、存在をかけるような決心であります。これまでの古い考えや疑いを捨てて、子どものようになって、信じるのですから、大変な作業だと思います。日本では「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言いますが、それに似たものがあります。だから、神さまを信じるのは大人になってからではなく、子どものときが一番良いのです。アメリカでは3歳のとき信じたという人がザラにいます。日本では中学卒業してからとか言いますが、反抗期になってチャンスを失ってしまいます。10代から30までは遊びで忙しいです。30代から50までは子育てや仕事が忙しいです。50代以降は自分の考えが固まって無理であります。80歳になって少々ぼけて子どものようになれば再びチャンスが来るでしょう。このように大人が子どものように単純に信じるというのは大変です。だから、イエス様は山上の説教で、心の貧しい者や悲しむ者が幸いだと言われたのです。人生に何か危機的なことが起らないと、神さまを求めるようにならないからです。イエス様は「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と言われました。アーメンです。子どものように神さまを信頼する心を持ちたいと思います。

 もう1つの子どもから学ぶべきことは謙遜さです。マタイ184-5「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」弟子たちはこの世の価値観で頭がいっぱいでした。この世では、権威や権力がものを言います。学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、こういうものがあれば偉くなれると思っていたでしょう。それに比べると、小さな子どもにはそういうものが何一つありません。小さな子どもには学歴や資格、財産やお金、何の立場も影響力もありません。でも、小さな子どもが持っているものがあります。それは謙遜さです。子どもは謙遜でありたいと別に思っていません。存在、そのものが謙遜なのです。聖書の「自分を低くする」とは、原文では「低くなる、卑しくする、へりくだる」で、英語ではhumbleであります。大人になるといろんなものを身に着けるので、高く、そして大きくなります。何もなくてもプライドだけは大きいという人もいます。この世の中では、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性、みなすばらしいものです。でも、それらを持っていることが天の御国で偉い人なのかというとそうではないということです。天の御国はこの世と全く逆であり、何も持っていないような子どもの方が一番偉いんだということです。

 でも、聖書は、権威や権力、学歴や資格、職業やスティタス、財産やお金、リーダーシップやカリスマ性を不要であるとは言っていません。ただ、天の御国では、邪魔になるということです。なぜなら、神さまではなく、自分を誇るからです。その人は「これらはみんな私が努力して獲得したものなんだ」と思っています。でも、イエス様は「この子どものように、自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です」と言われました。子どもは自分の意思で自分を低くしているようには思えません。なぜなら、初めから持っていないので自分を誇ることはできません。でも、大人になって、いろんな物を持てば持つほど、自分を誇るようになります。だから、意思をもって自分を低くする必要があります。ここでも、「悔い改めて子どもたちのように」ならなければなりません。しかし、それはどういうことでしょう?どうやったら子どものように謙遜になれるのでしょうか?もし、自分が持っているすべてのものを、たとえそれが努力して勝ちえたものであっても、神さまの恵みであると考えたらどうでしょう?健康な体も、頭脳明晰も、リーダーシップや能力も、お金や財産も、地位や名誉もすべて神さまが与えてくださったのではないでしょうか?つまり、所有者は神さまで、私はそれを預かって管理しているのに過ぎないと言うことです。ルカ12章に「ある金持ち」のたとえ話が記されています。彼の畑が豊作でさらに倉を建てて、穀物や財産をみなしまっておこうと思いました。そして自分のたましいに「何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。しかし、神さまは彼に言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜、お前から取り去られる。そうしたなら、お前が用意したものは一体だれのものになるのか」(ルカ1216-20)。このたとえから分かるように、私たちが持っているすべてのもの神さまから任せられたものだということです。その証拠として、神さまが取り上げられたら一瞬にして何もかもなくなります。健康な体も、頭脳明晰さも、お金や財産も、地位も名誉も一瞬にしてなくなります。

 ですから、この世でどんな大きな者であったとしても、謙遜さを忘れてはいけません。自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人なのです。イエス様はその最大の模範です。ピリピ2章にありますが、神であることを固守しないで、ご自分を無にして、人間と同じようになられました。自分を卑しくし、死にまで従い、十字架の死までも従われました。それゆえ神は、イエス様を高くあげて、すべてにまさる名をお与えになりました。天の御国はこの地上とは全く逆であります。自らを低くする者が、天では高い者とされるのです。ヤコブ46「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」と書かれています。私たちは高ぶるためには努力がいりません。肉は高ぶるものであり、自然に「これは私がやったんだ」と誇りたがります。でも、へりくだるためには努力が必要です。人に受け入れられるための、見せかけでは長続きしません。この世では謙遜さを装って生きるのが処世術になっています。しかし、神さまは私たちの心を見ておられます。まず、神さまの前に謙遜であるということです。そのためには、何がすばらしいことをしたとしても、すべての栄光を主にお返ししましょう。3日間くらい、自分がやったんだと温めておきたい気持ちはわかります。でも、高められることがあったら即座に、主に栄光をお返ししましょう。そうするならば、神さまは私たちを引き上げ、次回も私たちを用いてくださるでしょう。天の御国で高められるように、子どものように、自分を低くする者でありたいと思います。

2.つまずきを与えない

 マタイ186-7「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」文脈から考えますと、「この小さい者」というのは、「小さい子ども」のことであります。第一のポイントでは子どもの特徴をいくつかあげました。子どもは大人と違って、何も持っていません。お金も、地位も、能力もありません。もちろん、内部には神さまの種がやどっており、いろんな可能性があります。でも、小さな子どもを見たなら、現時点では何もありません。当然、大人の目から見たらなら、無価値で何もできないと思われ、卑下されるでしょう。イエス様の時代はローマが支配していました。ローマでは子どもの存在は全く認められていませんでした。女の子は兵士になれないので、特にそうでした。一方、ヘブルの世界では、子どもは神さまからの賜物であるという考え(詩篇1273)がありましたので、ある程度の存在価値は認められていたと思います。では、なぜ小さい者たち、小さな子どもたちにつまずきを与えてはいけないのでしょうか?ここで言う「つまずかせる」は、英語の聖書ではoffendとなっています。これは、「人の感情を害する、立腹させる、傷つける、そこなう」という意味があります。第一のポンとでは子どもは単純に信頼する特性があると申し上げました。これは、子どもは神さまを信じやすいということでもあります。だから、イエス様は「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」とおっしゃったのであります。

 でも、そういう純粋な子どもをつまずかせるというのは、どういうことなんでしょう。裏返しに言うなら、「簡単に信頼してはいけない」あるいは「人は何かを身に着けなければ価値がないんだ」とことばや行いによって教えるということです。直接的には、子どもを虐待したり、嘘をついたり、裏切って悲しい思いをさせるということです。そういう子どもが大人になったらどうなるでしょう?簡単に神さまを信じることができません。もう何べんも裏切られていますから、神さまにゆだねることは不可能です。もし、その子が無条件に愛されていなかったならどうでしょう?「良い子にならなければ」「学校の成績が良くなければ」「親の言うことを聞かなければ」そうなると、無条件の愛ということが分かりません。たとえイエス様を信じることができたとしても、パフォーマンスで生きるでしょう。神さまの愛を得るために、一生懸命がんばって奉仕する信仰生活になるでしょう。使徒パウロは子どもに「あなたの父と母を敬え」と教えています。しかし、「父たちよ。あなたがたも、子どもたちをおこらせてはいけません」とも教えています。「おこらせる」ということばは、もともと「刺激する」ということばから来ています。英語の聖書ではprovokeとなっていますが、「挑発する、誘発する」という意味もあります。動物園に行くと、子どもたちが、わざとお猿さんをおこらせたりします。お猿さんは「キー」とか言って、向かってきます。子どもも同じで、親や大人が、おこらせてしまうことがあるということです。しつけのために、叱ったり、訓戒することは確かに必要ですが、子どもの存在とか尊厳を傷つけたら致命傷になるということです。たとえば子どもが嘘をついたとします。すると親は「お前は噓つきだ、もう信用できない」と言ったらどうでしょう。嘘はだれでもつきますが、「噓つき」はその人自体の呼び名になっています。たとえば子どもに汚いと言うなら、それは服か体が汚れているのです。しかし、「お前は汚い」と言うなら、子どもは自分自身が汚いんだと誤解してしまうでしょう。

 私はスーパーによく買い物に行きます。お母さんとコミュニケーションを取りながら、仲良く買い物をしている子どもを見るとほっとします。「これ良いね、これにする」と相談しながら、買っています。やっぱり子どもなので、何か欲しい時があるでしょう。お母さんはこどもの要求を聞きながら、検討しています。時には、「自分で棚に戻しなさいね」と教えています。「はーい」とか言って、喜んで聞いています。ところが、頭ごなしに叱っている母親がいます。ときには、父親もいます。子どもは大きな声えで叫び何かを主張しています。親はさらにきつく言うか、あるいはまったく無視します。店の中だけでなく、店を出てからもやっています。そういう光景を見ると、とっても心が痛みます。なぜかと言うと、私がそうだったからです。子どもがなきじゃくっていると、「ああ、私もそうだったなー」と思い出します。おそらく、パニック障害的になり呼吸困難になるでしょう。そこまで泣いたら、けっこう傷になります。現代はいろんなパーソナリティ障害がありますが、多くの場合、親から愛されず、極度の虐待を受けたことが原因だと思います。もう、感情が一度噴き出ると、とまらなくなるのです。まるで、手足を切ったところから血が止まらないのと同じです。血には血小板があるので、空気中に触れると凝固して血が止まります。でも、怒りや悲しみの感情が噴き出て、もう止まらないのです。親は、罪や悪いことと、子ども自身を分ける必要があります。叱ったり、正すことは悪くはありませんが、あとでぎゅっと抱きしめる必要があります。「罪は別だけど、あなたのことは愛しているよ」と具体的に現して教えるべきです。日本人は思っていても、口や行動に出さないので、子どもに通じていないことがあります。それが親から子へ世代間連鎖して、子どもも親になったら同じことをするのです。私たちは自分がクリスチャンになったら、負の連鎖を断ち切る必要があります。自分の後からは、神さまの無条件の愛によって生かされる子どもや孫になるんだと信じましょう。

 最後におそろしいことばがあります。マタイ188-9「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」クリスチャンでも「地獄はないと思う」という人がたまにおられます。しかし、このところには「永遠の火」とか「燃えるゲヘナ」とはっきり書いてあります。これは黙示録20章にある「火の池」のことであり、まさしく地獄であります。永遠の滅び、地獄はあるのです。イエス様は「そこになんとか行くことのないように」と教えておられるのです。少し前は、子どもをつまずかせるなという教えでした。しかし、8節と9節は、自分自身をつまずかせるなということです。本来なら、自分の手や足、あるいは目というのは自分と一体なわけですから、「あなたをつまずかせるなら」というのは理屈に合いません。もし、私たちが霊と魂と肉体でできていると考えたならどうでしょう?イエス様は「両手両足そろって」とか「両目そろって」地獄に行くよりも、とおっしゃっています。ということは、この肉体はたとえ片手片足、あるいは片目であっても天の御国では関係ないということです。つまりは霊と魂が天の御国に入れば、あとから栄光のからだがちゃんと与えられるということです。片手片足あるいは片目を惜しんだために、永遠の御国を失ったらもったいない。片手片足あるいは片目を失っても、かけがえのない永遠の御国に入るようにという教えであります。

 この教会の創設者の役員の一人に鳥海力兄弟がおられました。5年くらい前に天に召され、土浦の神立というところに葬儀にでかけました。その時、牧師が兄弟のお話しをされました。鳥海兄は高校を卒業して亀有の日立工場に入社しました。19歳のとき機械に右腕が挟まれて、その腕を失ってしまいました。そういう中で、近くの当亀有教会を訪れたわけです。おそらく、若い時なので片腕がないというのはものすごく大きな悲しみだったでしょう。鳥海兄はイエス様を信じて救われました。そして、忠実に信仰生活を送り、なおかつ当亀有教会の創設や会堂の建設にも尊い働きをされました。葬儀で鳥海兄の証が紹介されました。「僕は19歳で右腕を失いました。聖書の『あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろって永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです』ということばは私のためだと思いました。もしも、私に両腕があったなら、若い私は誘惑に負けて、教会に来てイエス様を信じなかったと思います。右腕を失っても、永遠のいのちを得られたことを感謝します」という強烈な証でした。私たちはイエスさまのところに来るために、ひょっとしたら何かを失ったかもしれません。自分のからだ、自分の夢、自分の結婚、自分の職業、自分の持ち物、そのときはかけがえのないもの、これを失ったら生きていけないと思ったかもしれません。しかし、あとから振り返ると、「ああ、あれで良かったんだ」と思うことが良くあります。「天の御国に入り、永遠のいのちがいただけたんだから元を取っているなー」と喜びが湧き上がってきます。でも、それだけではありません。「この地上でも、十分いただいているな、報われているなー」と思うのではないでしょうか?確かに自分の願うものではなかったけど、もっと良いものであったということはないでしょうか?詩篇1033-5「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる」はキリストによって与えられる新しいいのちであり、天の御国における永遠のいのちであると思います。

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2017年5月12日 (金)

イエス様のご配慮 マタイ17:22-27 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.14

 本日のテキストには、イエス様の二度目の十字架の死と復活の告知が記されています。イエス様はエルサレムに顔を向けて歩まれていましたので、とても緊張しておられたのではないでしょうか?そのような状況で、些細な問題が生じた場合、無視するか、「私には関係ないことだ」と一喝することもありえます。しかし、イエス様は役人たちを躓かせないため、不思議な方法で税金を納めました。きょうの箇所は飛ばしても良さそうな些細な内容かもしれませんが、「イエス様のご配慮」と題して学びたいと思います。 

1.イエス様のご配慮  

  

カペナウム、そこはペテロの家があったであろうと思います。そこに宮(神殿)の納入金を集める人たちがやってきました。出エジプト記30章には、「成人男性は、聖所のため半シェケルを奉納物として納めるように」と書かれています。当時もそのような宗教的な税金がローマの税金とは別に課せられていました。ペテロはお役人に「納めます」と即座に答えました。「あなたがたの先生は納めないのですか?」と聞かれたのに、ペテロはイエス様に相談もせずに答えてしまいました。イエス様はその会話を超自然的に聞かれ、イエス様の方からペテロにこう言い出されました。「シモン。どう思いますか?世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか」。ペテロは「ほかの人たちからです」と答えました。すると、イエス様は「では、子どもたちにはその義務がないのです」と言われました。今はそうではありませんが、昔はペルシヤやギリシャ、ローマなどの王国がありました。王様は国々を支配し、人々から税や貢を取り立てていました。また、王様にはロイヤルファミリーと言いましょうか、子どもたちがいました。イエス様はペテロに「世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか」と聞かれました。当然、子どもたちである王子や王女はその義務はありません。王様から支配されている領民が納めるべきであります。

では、イエス様がこのところでおっしゃっている意味は何なのでしょうか?イエス様は御国の王様です。でも、今のところナザレのイエスとしてこの地上に住んでいます。本来は、ご自分と父なる神は、すべての支配者であり王であります。ですから、当然、宮(神殿)の納入金を納める必要はありません。でも、このところで学ぶべきことがあります。イエス様はスタテル銀貨によって、二人分の税金を納めました。スタテルはシェケルのギリシャ語の呼び方です。ですから、1スタテルは、1シェケルです。つまり、イエス様とペテロの二人分になるわけです。イエス様はどうして、ご自分の分とペテロの分を払うように言われたのでしょうか?その前に、イエス様は「では、子どもたちはその義務はないのです」とおっしゃっていました。イエス様は神であり、王ですから、もちろんその義務はありません。では、「子どもたち」とはだれなのでしょう?ペテロがその一人であります。ペテロも王子であり、ロイヤルファミリーの一人です。だから、イエス様は彼らをつまずかせないために二人分を納めるように命じたのです。すばらしいではないでしょうか?イエス様はペテロを王様の子どもとしてお認めになっておられたということです。

 イエス様は「私は神の子であり、王であるから納める必要はない」と真正面から断ることができました。「しかし、彼らにつまずきを与えないために」と言われ、二人分の税を納めました。「つまずき」と訳されていることばは、「不快にさせる、怒らせる、傷つける」という意味であります。おそらく、宮の税金を集める役人たちは、イエス様がだれであるか分からなかったでしょう?また、イエス様がご自分の身分を証しても信じないでしょう。彼らがやっていることは善なることでした。ですから、イエス様はご自分の権利を主張せず、彼らに譲歩されたのです。使徒パウロもⅠコリント9章で「私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか」とコリントの教会に言っています。使徒たちは福音を伝え、教会を設立しているのですから、教会が使徒たちをささえるのが当然です。しかし、コリント教会の人たちは、パウロの使徒性を認めませんでした。そのため、パウロは「自分の権利を十分に用いない」(Ⅰコリント918と決めました。パウロはさらにこのように言いました。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」(Ⅰコリント919-20
パウロは福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで、そういう人々に対して配慮されたのです。私たちはイエス様やパウロからいくつか学ぶことがあります。

 私たちは霊的には神の子どもであり、王子、王女です。でも、外見はこの地上では一般人と何ら変わりありません。税金も納めるし、この世の法律にも従わなければなりません。今の教会の車がまだ買って間もない頃のことです。家内からグレープジュースを頼まれて、生協に寄ろうとしました。左側にアパートの工事車両が止まっていました。さらに、目の前を年配の婦人が歩いていました。私は右側ぎりぎりを通りながら、生協の駐車場に入るために右折しました。するとバリバリバリとものすごい音がしました。なんと、右側に駐車場の黄色い鉄柱があるのが見えなかったのです。それが車の側面全部に当たったのです。私は駐車場に頭をかかえしゃがみ込みました。まもなく、生協の店長が出てきて、私の車ではなく黄色い鉄柱を見ているんです。そして、塗料がはがれた鉄柱を弁償してくれと言いました。私は「何であんなところに鉄柱が立っているんだ。鉄柱ではなく、車をぶっつけて困っている私のことを心配すべきだろう」と憤慨しました。あとから、電話で鉄柱の塗装代3万円の請求がきました。私は店長に、「それは高すぎる。私だって自分の車の修理が何十万円もかかるんだ。私が塗装業者に外注して元通りするから」と言いました。すると、店長は生協の規約でそれはできないと言いました。かっと来た私は「生協はキリスト教の賀川豊彦師が作ったんだ。私は教会の牧師だ。私が責任を取ると言っているんだ。」と言いました。それから私は夜な夜な出かけ、鉄柱を磨いて黄色いスプレーで塗装しました。数日後、店長と業者が立ち会って、「これなら良いでしょう」と言ってくれました。後から、その鉄柱はトラックがひっかけたのか、根本からグニャっと曲がっていました。その後、生協側は鉄柱を根元取り去りました。悔しいですが、私が的はずれだったのかもしれません。創設者の賀川豊彦先生のこと、私が教会の牧師であることを言っても、全く効果がありませんでした。

 私たちクリスチャンは王子であり王女です。イエス様が王であり、私たちはロイヤルファミリーです。しかし、日常生活の中で「それが何なんなんだ」と思わされることがあります。世の人たちと同じものを食べ、同じように通勤通学し、同じように医者にかかったりします。その中で、福音につまずく人が起こらないように、自分の権利を主張しないで生きているのでしょうか?教会に色んなセールスの電話がかかっています。また、セールスマンも訪ねて来ます。昔は丁寧に相手をして、電話会社、電気、印刷機、コピー機、その度に変えました。今は、はっきり断るようにしています。「あれでも牧師か、教会か?」と、かなりの人たちをつまずかせているんじゃないかと思います。みなさんの中にも聖書を読んで祈っているときは良いけど、いざ、職場に行くと別人になっているということはないでしょうか?「なめられちゃいけない」と、強気に出ることはないでしょうか?この世では「営業スマイル」とか「営業トーク」というのがあります。私たちクリスチャンは、「信仰スマイル」とか「信仰トーク」をしてはいけません。訪問伝道している異端の人たちは、物越しが柔らかくて、何を言っても怒りません。表面を繕っているのは間違いないのですが、私たちは内側から柔和でありたいです。そして、イエス様のような配慮をもって接したらどんなにすばらしいでしょうか?パウロは「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント922そのようになるためには、よっぽど自分の中にしっかりとした信仰がなければならないと思います。どうしたら、信仰的なゆとりが生まれるのでしょうか?やはり王なるイエス様と一緒に生活しているという信仰が必要です。ペテロは深く考えずに「納めます」と言いました。でも、お金を出してくれたのは、イエス様でした。しかも、釣った魚にあった銀貨からでした。イエス様は何もないところから、出してくれるお方でした。イエス様は全世界の支配者であり、大きなことから小さなことまで、ちゃんと配慮してくださいます。そういうお方とどんなときも一緒なんだという意識と信仰が大事だと思います。日曜学校の賛美に「祈ってごらんよ」という歌があります。「小川のほとりでも、人ごみの中でも、広い世界のどこにいても、ほんとの神さまは、今も生きておられお祈りに答えてくださる」のです。アーメン。

2.イエス様の不思議な力

 何気ないような物語ですが、このところにイエス様の超自然的な力が2つ現されています。まず、第一にイエス様はその場にいなかったのに、ペテロと役人たちの会話を知っていました。マタイ1725家に入ると、先にイエスの方からこう言いだされた。「シモン、どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか」と書いてあります。おそらく、ペテロと役人たちは家の外にいて、イエス様は家の中にいたのでしょう?イエス様のような超自然的な能力を聖書では「知識」の賜物と呼んでいます。たとえば、ヨハネ4章にはサマリヤの女性の記事があります。イエス様は彼女から何の情報も得ていないのに、「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」と言いました。それで彼女は「先生。あなたは預言者だと思います」と信じました。また、マルコ2章に、一人の中風の人を四人の友人が運んできた記事あります。イエス様が「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。その場にいた律法学者たちが、心の中で「この人は神を汚している。神しか赦すことができない」と思いました。マルコ28彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか」。これも知識であります。預言者エリシャもこの賜物があったのでアラム王は彼を非常に恐れました。Ⅱ列王記612すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」そのため、アラムの王は、預言者エリシャ一人を倒すべく、馬と戦車と大軍を送りました。

 私は神学校でヨハネ4章から個人伝道について学んだことがあります。教師は「イエス様は日常的な井戸水を話題にして伝道を始められた」と教えてくれました。しかし、イエス様が知識の賜物を使って彼女の過去を言い当てたとは習いませんでした。イエス様はずるいです。超自然的な知識の賜物を用いて伝道したのですから。しかし、逆に言えば、神学校で習う個人伝道が間違っていたのかもしれません。なぜなら、御霊の賜物を使わないで伝道しているからです。もし、預言や知識、知恵、さらに他の賜物を用いたならば、効果的な伝道ができるのではないでしょうか?私たちの伝道があまりにも人間的で地上的なので結果がかんばしくありません。ヨハネ1章にありますが、ナタナエルは「ナザレから何の良い者が出るだろう」とピリポの言うことを信じませんでした。ところが、イエス様が「私は、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と言いました。すると、ナタナエルは「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白しました。時間的には数分、10分かかっていないと思います。私たちが数か月かかるところをイエス様は数分でやってしまいました。何故でしょう?イエス様は知識という御霊の賜物を使ったからであります。おそらく、イエス様は超自然的に、ナタナエルが毎日、いちじくの木の下で、イスラエルのために祈っている姿を見ていたのでしょう。いちじくの木はイスラエルでは特別な木であり、その木の下で瞑想することが良くあるからです。私たちもイエス様のような御霊の賜物を使って伝道することが可能なのではないかと思います。

 第二は、イエス様の宮の納入金の納め方です。一見、ユーモアがありますが、神の超自然的な力なくしては決してできないことです。マタイ17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」イエス様が税を納入した方法は、大変ユーモアがありました。つまずきを与えないために税金を納めたのですが、そのやり方が、宮の役人への皮肉にもなっています。だいたい、魚釣りに行って、一番最初に釣った魚の中に、1スタテルの銀貨がある。それが、ちょうど2人分の納税額にあたると信じられるでしょうか。聖地旅行で、ガリラヤ湖に行きますと、Peter´s fish ペテロの魚という魚がいて、それを焼いて食べさせてくれるそうです。淡水魚で日本人だったら、お醤油を垂らすと美味しくいただけるそうです。このPeter´s fishは、雑食性で光るものならなんでも食べるそうです。実際に指輪とかコインが入っている場合があると聞いたことがあります。この物語の場合、イエス様が魚に命じてくわえさせたのか、それとも、銀貨をくわえている魚を知っていて、ペテロに釣らせさせたのか分かりません。偶然と考えたら、気が遠くなる確率です。とにかく、イエス様は自分が神の子であって、神殿の税金を納めなくてよいのですが、超自然的な力で税を納めたわけです。Ⅰコリント12章には「奇跡を行なう力」という名称で出ています。

 テレビとかインターネットを見ますと、マジックがあります。素手で水を凍らせたり、あっためたりします。また、500円玉をボトルに通過させたりできます。トランプも変幻自在に操り、前もってその人が何を選ぶか分かっています。一番驚いたのは、絵に描いてあるハンバーグから、本当のハンバーグを食べたことです。一口食べて、絵の中に戻したら、食べかけのハンバーグになっていました。もちろん中にはトリックがあるのもあるでしょう。しかし、最近はトリックではなく、本当の魔術によってなされるわざが多く出現するようになりました。人々がそのことによってあっと驚きます。しかし、それだけではありません。私は彼らがやがて人々の心を操るのではないかと恐れています。黙示録13章には「獣」が出てきます。黙示録1313-14「また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。」聖書では「しるしを行う悪霊ども」(黙示録1614と書いてありますが、反キリストである獣と、その手下が大きなしるしを行うことは確実です。それは人々を惑わせ、その獣を拝ませるためあります。私たちは力あるわざに対して、気をつけるべきです。それが、神からのものなのか、悪魔から来たものなのか見分ける必要があります。現代の人たちは科学を信じ、聖書の神さまを信じていません。その代り、不思議やしるしを見せられると、コロッとひっくり返り、偽りの神さまを信じてしまいます。

 私はリバイバルが起こると「しるしと不思議、癒しや奇跡」が起こると信じます。でも、同時に悪魔の力も働きます。それは混乱を与えるためです。モーセがエジプトに乗り込んだとき、呪法者たちも秘術を使って同じようなことをしました。もちろん高度なわざは魔術にはできませんでした。でも、彼らもある程度のことはできます。私たちは霊を見分ける力と同時に、神の霊によって「しるしと不思議、癒しや奇跡」を行うべきであります。それは私たち自身の力ではなく、全能の神さまが私たちを用いて、まことの神さまがおられることを未信者に示すためであります。その時、彼らは心を開いて、福音を聞くようになります。現在、イスラム教徒やインドのヒンズー教徒にイエス様が超自然的に現れてくださり、それによってキリスト教に回心する人たちが大勢出ています。パウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(Ⅰコリント420と言いました。また、イエス様はサドカイ人たちに「聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ2219と言いました。現代の教会は聖書のことばばかり強調して、神の力のことを語りもしないし、行ないもしません。だから、世の人たちは不思議なことを行う魔術やオカルトの方に行ってしまうのです。ヨーロッパのスペインやポルトガル等のカトリックの国は東洋の宗教やニューエージにはまっているようです。世の終わり、神さまの力も激しく臨みますが、同時に悪魔も人々を惑わすために力強く働くのです。世の終わりの教会は、力の戦いを避けて通ることはできません。なぜなら、世の人たちは「どちらが本当の神なのか、証拠を見せてくれ」と言うからです。

エリヤの時代、ほとんどのイスラエルはバアルの神を拝んでいました。エリヤはたった一人でバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦いました。山頂で2つの祭壇が作られました。1つはバアルとアシェラたちの祭壇、もう1つはエリヤの祭壇です。エリヤは「火をもって答える神、その方がまことの神である」と言いました(Ⅰ列王記1824)。まず、バアルとアシェラたちがやりました。彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から晩までバアルの名を呼びました。それでもダメなので、踊ったり、大きな声で叫び、最後には自分の体を剣や槍で傷つけました。でも、答える者はいませんでした。エリヤはたきぎの上に裂いた一頭の雄牛を乗せました。さらに水をたきぎの上に注いで、祭壇の周りも水を満たしました。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であることを知るようにさせてください」と祈りました。すると、主の火が降ってきて、全焼のいけにえと、たきぎと、石とちりと焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしました。民はこれを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。終わりの時代もこのようなことが起こります。これまで100年かかってきたことが、1年で起るかもしれません。日本は世界でもまれな、伝道の難しい国でした。でも、しるしと不思議のともなう福音宣教によって日本は変えられます。はっきり言って、それしか望みがないと信じます。どうかそのとき、冷やかな者になりませんように。歴史的に、世界中のあちこちでリバイバルが起きましたが、全部の教会がその恩恵にあずかったわけではありません。となりの教会にリバイバルが起きているのに、こっちは冷たくて死んでいたという教会もあると聞いています。どうか同じ、神の火によって燃やされましょう。きょうのメッセージの前半は「イエス様のご配慮」であり、後半は「イエス様の不思議な力」でした。ですから、私たちは力あるわざを求めますが、熱狂過ぎて人をつまずかせてはいけません。心は熱く燃えていても、頭はクールであるというバランスが必要です。模範はイエス様です。イエス様は力があって、クールでした。

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2017年5月 5日 (金)

山を動かす信仰 マタイ17:14-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.7

3人の弟子たちは高い山で特別な経験をしました。ところが、山を降りると下では問題が起こっていました。何やら人々が集まり、苦しんでいる子どもを取り囲んでいました。その子の父親が弟子たちに癒しと解放を求めましたが、それができないでいたようです。ちょうどそこへ、3人の弟子たちとイエス様がやって来ました。ペテロは聖なる山でずっと過ごしていたいと望んでいましたが、下界では大変なことが起こっていました。こういうことは良くあることです。きょうは、2つのポイントでこの問題をどう解決していくのか学びたいと思います。

1.不信仰な曲がった今の世

 イエス様は「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と嘆いています。イエス様は弟子たちの不信仰を嘆いているようですが、それだけではないようです。日本語の聖書には「曲がった今の世」と訳されていますが、もっと良い訳はないのでしょうか?ギリシャ語で「世」はゲネアーであり、「世代」「時代」「子孫」という意味があります。英語の聖書ではgenerationとなっており、「同時代の人々」という意味です。つまり、「神の国が来る前の状態の人々の生活ぶり」ということです。もちろん、そこには弟子たちも含まれており、その影響や考え方を受けているということです。私たちも不信仰な曲がった時代で生まれました。彼らと違うのは、それと平行して神の国が力強く臨んでいるということです。その当時は、まだイエス様だけが神の国を代表していたので、弟子たちもその影響を受けていませんでした。このところには、イエス様のいらだちが現れています。「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう」。イエス様らしくない、不寛容さが現れています。なぜでしょうか?それは、変貌の山で、ご自分はエルサレムで遂げるべきことを確認しました。そして御顔をまっすぐエルサレムに向けて進もうとされていました。つまり、イエス様には「地上にいる時間はあまり残されていない」という緊張感があったのではないかと思います。だから、ふがいない弟子たちに、そのようなことばを発したのではないかと思います。

 では、もう少し、山の下にいた弟子たちの状況を調べたいと思います。マルコ福音書には「律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた」(マルコ914)と書いてあります。イエス様は群衆に「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれました。すると群衆のひとりが、「先生、口をきけなくする霊につかれた私の息子を連れて…霊を追い出すように願ったのですが、できませんでした」と答えました。おそらく、弟子たちは「なぜ、この病気が治らないのか?この病気の原因はどこから来たのか?」議論していたのではないかと思います。だから、イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆いているのです。つまり、弟子たちは悪霊を追い出すのではなく、議論を交わしてしていたのです。「中国の教会は祈る教会、台湾は賛美する教会、日本は議論する教会」と聞いたことがあります。日本の教会は議論好きであります。神学的なのは良いのですが、小さな違いを議論することが好きです。でも、力がありません。力のなさを頭脳でごまかしているところがあります。イエス様は議論を不信仰の現れみたいにおっしゃっています。議論するよりもむしろ祈る、議論するよりもむしろ賛美したほうが、神さまのみわざが現れるのではないかと思います。いくら私たちの頭が良くても、全部理解することはできません。ちなみに、この少年の病は3つの福音書で全部違います。マタイは「てんかん」と言っています。マルコは「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」と言っています。ルカは「汚れた霊」と言っています。父親の報告によると、その子は何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりするということでした。イエス様はその子の中の悪霊を追い出すことによって、病を癒してあげました。症状や病名がまちまちですが、その原因は悪霊であったということです。もし、このような子どもが現代の病院に運びこまれたら、どのように診断されるでしょうか?おそらく、まちまちな病名がつけられ、治療法も定まらないかもしれません。なぜなら、現代の医学は悪霊を認めていないからです。この子の問題は何なのか、議論している弟子たちを馬鹿にすることはできません。イエス様は同じように、「ああ、不信仰な世だ」と嘆くに違いありません。

 もう1つは父親の信仰であります。もっと詳しく書かれているマルコによる福音書を少し引用したいと思います。マルコ922-24 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マタイによる福音書には、弟子たちの不信仰のことしか述べられていませんが、なんと父親も不信仰でありました。この父親は「もし、おできになるものなら」とイエス様に願っています。おそらく、弟子たちにできなかったのですから、イエス様も「できないのでは?」と疑いが含まれています。それに対してイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」半分、イエス様は叱っているように思えます。これでは癒そうと思っても、なんだか力が発揮できません。イエス様でも、やる気をなくしてしまいます。するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」アーメン。父親は不信仰を悔い改めて「信じます」と言いました。でも、父親の言い方は今一歩煮え切れない感じがします。なぜなら、「信じます」と言いながらも、「不信仰な私」と自分のことを言っているからです。しかし、英語の詳訳聖書は「私の信仰の弱さを助けてください」と弱いのは私ではなく、信仰にかかっています。また、英国の聖書は「信仰が不足している私を助けてください」となっています。JB.フィリップスは「もっと信じられるように私を助けてください」と訳しています。ということはどうでしょうか?「不信仰な私」と定義すると、救いようがありません。父親にもいくらかの信仰があるんです。ただ、それが弱いか足りないかです。でも、その弱いか足りないかの信仰をイエス様がその分満たしてくれたなら、大丈夫ではないでしょうか?イエス様は父親の信仰にご自身の豊かな信仰をプラスして、その子を悪霊から解放し、癒してあげたのだと思います。

 もし、私たちが完全な信仰がなければ癒されないとしたら、ちょっと無理なような気がします。でも、いくらかあって、足りない部分をイエス様が満たしてくれたならどうでしょう?イエス様はあとでこのようにおっしゃっています。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ1720からし種というのはユダヤでは小さいものをたとえるたとえでした。からし種はけしの種よりは大きくて、ゴマよりも小さい、吹けば飛ぶような種です。イエス様が「からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃられたら、「それくらいは持っているよ」と言いたくなるでしょう。つまり、イエス様がおっしゃりたいのは信仰が大きいとか小さいではありません。たとい、からし種のように小さくても、生きているかどうかが問題なのです。もし、小さくても生きているなら、イエス様はご自分の信仰を足して、大きなみわざをなさってくれるのです。イエス様は「私のくびきは負いやすい」と言われましたが、ベテラン牛のイエス様が重い方をかつぎ、新米牛の私たちが軽い方を担いでいるのです。自分がやったと本人が思うかもしれませんが、イエス様がほとんどなさっておられるのです。ハレルヤ!

その当時、イエス様は「不信仰な曲がった今の世だ」と嘆きました。でも、イエス様が昇天してから、弟子たちは力を得ました。同時にそれは、神の国が力強く、この世に侵入してきたという証でもあります。イエス様は弟子たちに「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49と約束されました。そして、ペンテコステの朝、聖霊が彼らの上に降りました。それから弟子たちは一変し、福音を力強く宣べ伝え、そして癒しや奇跡を行ないました。ペテロもパウロもイエス様と同じようなことをしました。それが今の私たちに続いています。私たちクリスチャンの肉体的は「不信仰な曲がった今の世」に住んでいます。しかし、本体は「神の国に籍を置き、神の国を背負って生きているのです」。私たちは神の国の権威を背負っている、全権大使であります。私たちの身分を証したらな、悪霊どもは声を出して逃げ去るのです。なぜなら、私たちには最強のバックがついているからです。私たちは警官に喧嘩を売ったりしません。婦人警官であっても、同じです。なぜなら、彼らの背後には国家権力が付いているからです。では、私たちクリスチャンはどうなのでしょうか?イエス様はマタイ28章で「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って…」と言われました。このみことばにあるように、すべての権威が私たちに与えられているのです。この約束は当時の弟子たちだけではなく、信じるすべての人にたいする約束です。まだいただいていないような気がする人は、改めて受け取ってください。警察官はバッチと手帳を持っています。私たちには聖霊と御名の権威が与えられています。足りないと思っている人はぜひ、信仰によって聖霊の油注ぎを受けてください。そうすれば、上から権威が着せられます。

2.山を動かす信仰

マタイ1717:19-21 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」この文脈における「山」はその子の中にいた悪霊を追い出すことでした。しかし、イエス様はそれだけにとどまらずあらゆる問題や困難という山も信仰によって解決できると言われました。信仰には大きく分けて2種類あります。第一はイエス様を救い主と信じることにより、義とされ永遠のいのちをいただくことができます。これは「救いの信仰」です。この信仰に対して、反対する教会はほとんどないと思います。しかし、イエス様はもう1つの信仰についても教えておられます。第二は信仰を用いて生きるということです。言い換えると「信仰の機能」「信仰の働き」であります。イエス様を信じるならだれでも天国に行くことができます。なぜなら、救いを得ているからです。でも、イエス様は天国に行くまで、信仰を用いて生きるように教えておられます。イエス様が「あなたがたの信仰が薄いからです」と弟子たちに言われたのは、天国に行くための救いの信仰ではなく、「信仰の機能」「信仰の働き」のことをおっしゃっているのです。この信仰は神さまがクリスチャンであるならば、もれなく与えてくださる神さまの賜物であります。しかし、パウロはひとり一人与えられている信仰の量が違うと言っています。ローマ123「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」また、パウロは人々の信仰を補いたいと言っています。Ⅰテサロニケ310「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

 イエス様はこのところで、「もし、からし種ほどの信仰があったら」とおっしゃっています。これは、「からし種くらいの信仰しかない人がいる」という前提であります。ユダヤでは、からし種は小さいものをたとえる時のたとえであると前のポイントで申しあげました。日本人ならゴマ粒くらいの信仰と言った方が分かりやすいかもしれません。ある人はコーヒ豆くらいの信仰、またある人はリンゴくらいの信仰、またある人はドラム缶くらいの信仰と言えるかもしれません。でも、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができるのでしょうか?確かに地球ができたころ、神さまの力によって山が動かされました。ヨブは「神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。」(ヨブ95,6)詩篇には造山運動のことが記されています。「山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。」(詩篇1048まず、私たちは、神さまは山を動かすことができるということを信じなければなりません。でも、このところでは、ドラム缶くらいの信仰があれば、「山よ、動け」と言えば、山を動かすことができると言っているのではありません。一人ひとり、信仰の量は違います。でも、そこに無限大の神さまの信仰がプラスされたらどうなるでしょうか?1プラス無限大は無限大です。100プラス無限大は無限大です。1000プラス無限大も無限大です。つまり、その人がたとえからし種だろうと、ゴマ粒くらいの信仰だろうと問題はないということです。簡単にいうと山を動かす信仰は、私たちの信仰の大小にはよらないということです。その根拠になるみことばがマルコ11章にあります。マルコ11 22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。マルコ11章は、マタイ17章と同じようなことが言われています。違うのは、山がどこかに移るか、海に入るかの違いです。重要なのは、マルコ1122「神を信じなさい。」ということばです。これは原文では、「神の信仰を持ちなさい」です。ある時、ある状況において、神さまがあなたに無限大の神の信仰を下さるときがあるのです。その時のあなたの信仰の大きさの大小は問題でありません。重要なのはそれを受け取る信仰です。たとえからし種ほどの信仰でも、「私はそれをいただきます。アーメン」と願えば、それで十分なのです。でも、「私はそんなものいりません」と言えば、いくら神さまでも無限大の神の信仰を与えることができません。なぜなら、あなたが信仰の手を差し出していないからです。神さまの信仰が、するっと滑り落ちてしまいます。

 私は4人の子どもに自転車乗りを教えました。正確には記憶していませんが、おそらくお手伝いはしたと思います。お父さんは後ろから荷台をしっかり押さえます。子どもがやることはハンドルをにぎることです。べつにペダルを踏んでも、踏まなくても前に進みます。なぜなら、私がちゃんと押さえて、押しているからです。でも、子どもが「こわい!」と言って、手を放したらどうでしょう?ハンドルが「くにゃっ」と曲がり、そこで止まってしまいます。子どもがすべき一番重要ことは、ハンドルを放さないことです。あとは、こっちがなんとかやります。ハンドルを握るということは、私たちが自分に与えられた信仰を用いるということです。足りない分は神さまの力、神さまの信仰が助けます。しかし、人よりもかなり大きな信仰が与えられる人がいます。Ⅰコリント12章では「信仰の賜物」と言われています。また、Ⅰコリント13章では「山を動かす信仰」と言われています。この賜物を持っている人は、他の人よりも大きなことを信じることができます。神さまはその人の「信仰の賜物」を用いて偉大なことをなさることがよくあります。歴史的にはジョージ・ミュラーが有名です。彼は孤児院を5つ運営しましたが、生涯5万回祈りがきかれたそうです。このような逸話があります。暴雨で荒れた次の日の朝、孤児院には食べる物は何も残っていませんでした。400人の孤児たちと一緒に空の食卓に囲んですわって、ミュラーは手を取り合って食前の祈りを捧げました。彼の祈りが終わった時、一台の馬車が孤児院の門をたたきました。その馬車には、朝にちょうど焼いたパンと新鮮な牛乳が一杯ありました。近隣の工場で従業員たちのためのピクニックに使うために注文したけれど、暴雨でキャンセルされ、孤児たちに送られたのだそうです。

 韓国のチョー・ヨンギ牧師が牧会していたヨイド教会は70万人の教会員数でした。多くの牧師たちが「チョー先生のような大教会になることを信じます。1000名教会になることを信じます」と信仰をもって宣言しました。私もその一人ですが、そうなりませんでした。「チョー先生は『夢と信仰をもって宣言すればそうなる』と言っていたのに、何故なんだろう」と思いました。後で分かったのですが、チョー・ヨンギ牧師には信仰の賜物があったのですね。だから、あのような大会堂を献堂し、多くの癒しが起こり、大勢の人たちが救われたんだと思います。チョー・ヨンギ牧師はどうして何十万人の人たちを牧会できたのでしょうか?区域礼拝とか断食祈祷とかいろいろ言われています。でも、私が思うには、チョー・ヨンギ牧師はいつも信仰のメッセージをします。病の癒しや奇跡、物質的な繁栄、幸いな生活、問題解決…それを聞いた会衆が信仰の口を大きく開けて、「私のものです」と信じます。そうすると、会衆に信じたようなことが起こるのです。チョー・ヨンギ牧師は信仰の種を花坂爺さんのようにばらまくのです。それを受け取った会衆がその信仰を育てるのです。彼らが信じて祈っていくとまもなく現実のものとなるのです。私も講壇の上から信仰のことばを発しています。ある人は「それは私のものです」と信じます。すると、神さまがその人の信仰を用いて下さり、山が動くような奇跡が起こるのです。信仰は目には見えません。しかし、信仰を用いていくなら後から形が現れてきます。実際に見えるものは信仰はいりません。まだ見えていないものを得たかのように信じるのが信仰なのです。

ヘブル111はこの信仰の最も有名なことばです。日本語訳よりも、キングジェームス訳の方が的を得ています。直訳するとこうなります。ヘブル111「信仰とは望んでいる事柄のsubstance実体化であり、見ていない事柄のevidence証拠です」。あなたが望んでいることを実体化してみましょう。神さまはそれを用いて、大きなことをしてくださるのです。どんなことを望んでも罰せられたり、罰金を取られたりしません。神さまも「そんな馬鹿なことを望むな」とは簡単におっしゃらないでしょう。多少の修正や変更はあるかもしれませんが、全否定なさる神さまではありません。イエス様は「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」とおっしゃいました。話半分でもすごいじゃないですか?イエス様は嘘つきではありません。あなたが今かかえている問題の山に向かって、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。イエス様は「ここからあそこに移るようにしてください」と祈りなさいとはおっしゃっていません。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」とおっしゃったのです。「山に言え」と命じられています。ゴスペルにspeak to the mountainという賛美があります。speak to the mountain, speak with authority, and mountain must move.山に向かって言いなさい。権威をもって言いなさい。そうすれば山は動かなければならない(動くに違いない)。小さな信仰でも大丈夫です。なぜなら、神さまが大きな信仰を持っておられるからです。

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2017年4月29日 (土)

変貌の山 マタイ17:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.30

 ペテロがピリポ・カイザリヤで「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白しました。それから6日たって、イエス様は3人の弟子たちを連れて、高い山(おそらくヘルモン山)に登られました。イスラエルでは証人の数は2人かそれ以上と定まっていました。この3人は目撃者だったわけです。イエス様は彼らに「いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられましたが、どのような幻を見たのでしょうか?きょうは、彼らが見た幻について3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.イエスの変貌

 マタイ172「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」「御姿が変わり」の「変わり」はギリシャ語でメタモルフォーです。「変容する」「変貌する」という意味です。英語の聖書ではtransfigure で、「神々しい姿に変えられる」という意味があります。さなぎが蝶に変化することを変態と言いますが、同じことばです。つまり「全く別の姿に変わる」ということです。イエス様の顔が太陽のように輝いたとありますが、これはヨハネ黙示録1章のイエス様の栄光の姿と同じです。そればかりか、着ておられた衣も光のような白くなったと書いてあります。これはどういうことなのでしょうか?子どもの頃、豆電球に紙袋をかぶせて、スイッチを入れたことがあります。すると、ボーっと白く輝きます。ということは、イエス様は内部から光ったということです。そのため、顔も衣も照り輝いたのではないかと思います。ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まれた」とあります。これは直訳すると「ことばは肉となって、天幕を張られた」であります。イエス様は肉体を持っておられましたが、内側の霊魂は神そのものでありました。だから、このときイエス様の霊魂が栄光の光を放ち、肉体や衣にまで現れて来たと考えるべきであります。それは、「御姿が変わり」ではなく、「本来の御姿に戻った」という方が妥当なのであります。弟子たちはイエス様の本当の姿を垣間見ることができました。それを目撃したヨハネは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(ヨハネ114と福音書で証言しています。

 では、何のためにそのような姿になられたのでしょうか?それは、6日前にペテロが「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白したことに端を発しています。イエス様はそのとき、「あなたは幸いだ」とペテロをほめました。なぜなら、それが当たっていたからです。そして、この高い山に3人の弟子たちを連れて、御姿が変わったということは、ご自分がそういう者であるということを証明するためだったのです。ヤコブは殉教しましたが、ペテロとヨハネは、ご栄光の姿を後から証言しています。ペテロは「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」(Ⅱペテロ116と言っています。ヨハネはその時だけではなく、パトモス島にいた時も見ました。これは、弟子たちだけではなく、教会の私たちに「イエス様が神の子、キリストである」ことを伝えるためだったと思います。それは聖書のことばが作り話ではなく、真実だということです。

 使徒パウロもダマスコの途上で栄光のイエス様と出会いました。その光があまりにも強かったのか、パウロは3日間も目が見えなくなりました。パウロ自身「その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、一緒にいた者たちに手を引かれてダマスコに入りました」(使徒2211と証言しています。パウロはペテロやヨハネのように、具体的に栄光のイエス様を描写していません。でも、パウロは私たちも、主の栄光の姿を見ることができると言っています。Ⅱコリント318「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。パウロは私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」と言っています。「姿を変えられて行く」というギリシャ語は、イエス様と同じ「メタモルフォー」です。つまりどういうことかと言うと、イエス様の栄光の姿が遠い存在ではなく、私たち自身にもその栄光が反映されていくということです。ある人たちは、「私は救いを受けていますが、罪人のかしらで、罪に汚れています」とおっしゃるかもしれません。謙遜かもしれませんが、その人に主の栄光が全く反映されていないとしたら救いを疑わなければなりません。なぜなら、聖霊によって「主と同じかたちに姿を変えられて行く」のが標準のクリスチャンだからです。これはものすごいことであります。ペテロやヨハネの証言は間違いないと思いますが、私たちも主の栄光にあずかり、キリストの証人になりえるということです。「私を見たら、キリスト様がわかります」と言えたら最高であります。

 パウロは「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。また、イエス様は「私は世の光です」(ヨハネ812と言われました。つまり、私たちの中に栄光のイエス様が住んでおられるなら、内から外へと栄光の輝きが現れてくるのは当然であります。去る1月、ニュージーランドからクリス・ゴアという先生が来られました。先生が子どものとき行っていた教会で、“Little my light shine”「私の中にある小さな光」という賛美を歌っていたそうです。先生はおっしゃいました。「しかし、それは間違いです。私たちは棚に隠すことのできないほどの光を持っています。私たちの中に住んでおられるお方は大きな方です。私たちは世の中を照らす大きな光です。イエス様は私たちを世の光です、とおっしゃいました。今こそ私たちの光を外に向かって照らす時です。」アーメン。私たちは聖書から主の栄光を想像するだけではなく、私たち自身もその栄光を見ることができるのです。なぜなら、私たちの中に栄光の主が住んでおられるからです。私たちを通して、主の栄光が現されることを信じます。

2.サミット会議

 マタイ173「しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。」良く見ると、イエスさまだけではありません。なんと、モーセとエリヤが現れてイエス様と話し合っているではありませんか?でも、どうしてあの人がモーセで、どうしてあの人がエリヤだと分かったのでしょう?だって、ペテロたちは見たことも会ったこともないはずです。二人とも死に方が普通ではありませんでした。モーセはピスガの頂で死にましたが、墓がどこにあるか分かりません。申命記346「主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」とにかく、モーセの魂は陰府の上の階に行ったと思います。では、エリヤはどうでしょうか?Ⅱ列王記211「なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」エリヤはエノクのように、死を見ないで天に引き上げられました。この二人はよっぽど神さまから愛されていた預言者ではなかったかと思います。でも、イエス様が死んだモーセとエリヤをもう一度呼び戻したのはなぜでしょう?

 ちょうどイエス様とモーセとエリヤがいるところは、ヘルモン山の上でした。まさしく、サミット、頂上会議であります。モーセは律法の代表者として呼ばれました。また、エリヤは預言者の代表として呼ばれたのではないかと思います。弟子たちでは相談相手にはならないので、この二人を呼び戻して会議を開いたのではないかと思います。では、いったい何を話し合っていたのでしょうか?マタイには書いていませんが、そのことはルカが記しています。ルカ9:31「栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」日本語の聖書では、「ご最期」つまり「死ぬとき」と訳しています。しかし、ギリシャ語聖書は「エキサダスについて話していた」と書いてあります。エキサダスというのはユダヤ人ならだれでも分かりますが、70人訳の出エジプト記の名称であります。エキサダスには、主がモーセによってイスラエルの民をエジプトから解放した出来事が記されています。つまり、ルカは「エキサダスとはキリストが悪魔から人類を解放する出来事なんだ」と解釈しているのです。そのことをイエス様がエルサレムで遂げようとしているということです。それは、モーセの律法の完成であり、エリヤに代表される預言の成就だということです。つまり、どうしてもエルサレムで十字架にかかって、贖いを成し遂げなければならないということです。それは、少し前に、イエスさまがペテロに「私は殺されて、三日目によみがえる」と告げたのと同じ内容です。

 ペテロが信仰告白した後、変貌したイエス様が、モーセとエリヤを呼んで会議しました。その場所はおそらくイスラエルの北、ヘルモン山であると言われています。イエス様はこのあとまっすぐエルサレムに向かわれます。つまり、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。ルカ福音書にそのことが書かれています。ルカ951「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」と書いてあります。ルカ福音書のモチーフは、北のヘルモン山から、南のエルサレムに向かうように書かれています。イエス様の御顔は厳しいお顔だったのではないかと思います。つまり、エルサレムで遂げようとしておられるエキサダス(解放)のため集中しておられたのです。エルサレムに行くことを「上る」と言います。日本も東京に向かって、道路や鉄道が走っています。ですから、東京に向かうのを「上り」と言って、東京から遠ざかるのを「下り」と言います。でも、私が思うのですが、ヘルモン山で、イエス様は栄光の神の御姿になられました。そして、モーセとエリヤを呼んで頂上会議をしました。もし、イエス様がただの人間であるならば、死にたくありません。その時は一番天国に近い状態でしたので、そのまま天国に帰ることができたかもしれません。なのに、エルサレムで多くの苦しみを受けて殺されるなんてイヤなことです。ということは、ヘルモン山が栄光の頂上でしたら、エルサレムはどん底であります。つまり、イエス様のこれからの人生は、下り坂であります。栄光ということを考えたら、どんどん下って行くことになります。繰り返しになりますが、イエス様の公生涯のターニングポイントは変貌の山だったということです。

 私たちの人生のおいてもターニングポイントがあるのではないでしょうか?「あの時が人生で一番良かった、最高の時だった」ということはないでしょうか?もう年を取ったので、下り坂でしょうか?ある人が言いました。「人間、昔のことを懐かしむようになったら年なんだ」と。もし、私たちの人生のどん底が老いであり、死であるとしたらまことに残念です。しかし、良く考えるとイエス様はエルサレムで死ぬだけではありません。イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言っています。死が終わりではなく、三日目によみがえりがあるということです。これは人生の大逆転です。つまり、エルサレムで成し遂げるエキサダスの向こうには、復活があるということです。復活にはいろんな意味があります。1つは死を打ち破るということです。イエス様は私たちの代表として、死んで、三日目によみがえられました。それは、死が終わりではなく復活があるという保証であります。ということは私たちイエス様を信じる者も、どん底の死で終わるのではなく、最後に復活があって完了するということです。ハレルヤ!少し前に俳優の松形弘樹さんがお亡くなりになりました。親友の梅宮辰夫さんが何と言ったでしょう。「人間、死んだらおしまい」と涙ぐんでいました。その続きがブログに載っていました。「遺品も花もない。骨だけがバラバラになって出て来たんです。悲しかった。人間ってこんな簡単なのかとつくづく思った」。これが正直な人間観だと思います。イエス様は確かに栄光の山から十字架へと下られました。本当に死んで陰府に降られました。でも、死を打ち破って三日目によみがえられました。と言うことは、私たちも死が終わりではなく、イエス様と同じ栄光の姿によみがえるということです。イエス様はエルサレムでどん底までくだられましたが、三日目によみがえり、天に昇られました。矢印で言うと、ヘルモン山からエルサレムに降りました。しかし、グーンとそこから急上昇して天にまで昇られたのです。ハレルヤ!主にあって私たちにも希望があります。人生は下降するだけではなく、やがて急上昇にあずかるのです。人間、死んだらおしまいではありません。なぜなら、栄光の復活があるからです。

3.天からの御声

 マタイ174すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ここでもペテロがしゃしゃり出ています。ペテロはずっとその山に留まりたいと願いました。だから、三つの幕屋を造りたいと申し出ました。英語の聖書ではテントとなっていますが、詳訳聖書はbooth(小室)となっていました。ペテロの間違いは何でしょうか?イエス様と他二人を同じ立場に考えていたということです。イエス様のテント、モーセのテント、エリヤのテントを三つ並べたかったのです。そして、ヘルモン山の上で聖会を開きたかったのです。私は座間キリスト教会にいた頃、よく聖会に行きました。大体、聖会というのは山の上で開かれます。箱根、修善寺、あるいは韓国の祈祷山にも行きました。聖書では山は聖なるところなので、聖会がよく開かれるわけです。外界を離れて、みことばに聞き入るすばらしいひとときです。しかし、山を下ると悪いことが待っています。サタンが恵みを奪おうと待っています。ちょうど、マタイ17章の後半は「てんかんの子ども」のことが記されています。それはともかく、ペテロはずっと変貌山にとどまっていたいと願っていたのです。

 ところがその時です。マタイ175-6彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。「雲」というのは栄光のしるしで、そこに神さまの臨在が濃厚に現れたということです。たちまちあたりがみえなくなり、雲の中から声がしました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。これは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたときと同じことばです。あの時は、公生涯のはじまりで、メシヤの就任式のおことばでした。ところが今回は、これからエルサレムで遂げるエキサダスの頂上会議の時でした。父なる神の、そのことに対する是認であり、確認ともとれます。しかし、同時にそれはペテロの間違いを訂正するためでもありました。なぜなら、「彼の言うことを聞きなさい」とおっしゃっているからです。その証拠として、弟子たちが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであったからです。これはどういう意味でしょう?

 確かにモーセは律法の代表として呼ばれました。エリヤは預言者の代表でしょう。でも、彼らは神さまのしもべであり、人間です。でも、イエス様は違います。イエス様は神の子であり、しもべではありません。父なる神さま自らが「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言われました。つまり、イエス様は別格で、神の子であり、父なる神の代わりだということです。イエス様はヨハネ福音書で「私が父におり、父が私におられる」と言いました。ですから、代わりというよりも同格であり、一体だということです。最後の最後に、神の御子が地上に人として下られ、エルサレムで贖いのわざを成し遂げるということです。このようなことを私たちが知るならば、「キリストの十字架って大変だったんだなー。ありがたいなー」と思うのではないでしょうか?今は何でもインスタントな時代です。自動販売機で何でも買えます。アメリカに行くと車が自動販売機で買えるそうです。「救いもイエス様を信じたら、救われる。パラパラと水をかけてもらって」みたいになるなら大変なことです。信仰義認は確かにすばらしい教理です。でも、背後に神さまがどんな犠牲を払ってくださったか忘れているかもしれません。もし、そうであるならば、何か困難なことがやってくると、ポイと信仰を捨ててしまうでしょう。父なる神さまがこのところで、もう一度、お声をかけてくれました。それは、これからどんどん下って行き、エルサレムでどん底に降ることを知っておられたからです。

 弟子たちはそのとき恐れて、顔をふせました。旧約聖書では神を見るということは死だったからです。ペテロとヤコブとヨハネは、その時、打たれて死ぬと思ったかもしれません。でも、どうでしょう?マタイ177-8すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。ありがたいです。父なる神さまは恐れ多い感じがしますが、イエス様はそうではありません。確かにご威光をまとったイエスさまは近寄り難ったかもしれません。でもここでは、手を触れて起こして下さる優しいイエス様であります。イエス様の栄光は、私たちを遠ざけるのではなく、何か親しい、愛と慈しみに富んだ栄光であります。だから、そのことを目撃したヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ114と証言しているのです。私たちは近寄り難いイエス様ではなく、恵みとまことに満ちておられるイエス様を想像すべきであります。ペテロはイエス様が捕えられたとき、中庭でイエス様を三度も知らないと否認しました。ルカ福音書には「主が振り向いてペテロを見つめられた。…主のおことばを思い出した」(ルカ2261)と書いてあります。おそらく、イエス様の顔は怒りや蔑みの顔でなく、恵みとまことに満ちておられたのではないかと思います。私たちの信仰がおかしくなり、もしかしたらイエス様から離れる場合があるかもしれません。でも、その時、手を触れて起こして下さる、優しいイエス様を思い出すべきであります。

変貌の山はイエス様ご自身が神の子であり、最高の啓示であることを示している箇所です。その時3人の弟子たちが証人として選ばれました。私たちは現在、証人たちが書き残した聖書を持っています。私たちは聖書からただ信じるしかないのでしょうか。ところが、パウロは「御霊なる主の働きによって栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と言っています。私たちはキリストを信じたとき霊的に生まれ変わりました。でも、神さまはもっと高みへと私たちを導いておられます。それは天国に行ってからではありません。今、この地上にあっても、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント416そして、どんな状況、どんな環境の中にあっても、主の栄光が私たちの内側から外に向かって放たれていくことを信じます。

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2017年4月 1日 (土)

自分を捨て マタイ16:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.2

 イエス様は「いのちを失う者はいのちを得る」とおっしゃいました。私たちはこの地上でこのいのちで、ずっと生きたいと願っています。でも、この地上のいのちはやがて終わりが来ます。その前に、私たちはこのいのちではなく、神さまがくださるまことのいのちをいただくべきではないでしょうか?弟子たちはイエス様と一緒にイスラエル王国を治めたいと願っていました。このお方に従っていけば豊かな報いがあると信じて、何もかも捨てて従って生きていたのです。でも、イエス様はそういう地上のことではなく、もっと大切なものがあると教えてくださいました。

1.人のことを思う

 弟子のペテロは「あなたは、生ける神の御子、キリストです」と告白し、イエス様から「良く言った!」と褒められました。ところが、このところでは「下がれ、サタン」と叱られ、天から地獄に落とされた思いでした。なぜ、ペテロはあんな立派な答えをしたのに、こんどはこてんぱんに叱られたのでしょうか?ペテロの信仰告白が間違っていたのでしょうか?それとも、何かこの世の不純物が混じっていたのでしょうか?ヒントは本日の聖書箇所の少し前にあります。マタイ1620「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」もし、イエスがキリスト(メシヤ)であったなら、そのことをみんなに知らせるべきであります。しかし、イエス様はペテロが告白したようなことをだれにも言ってはならないと禁じました。なぜでしょう?当時のメシヤ観は聖書が言うメシヤとちょっと違っていました。ペテロもそうでありましたが、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、メシヤがローマを倒して、この地上にイスラエル王国を建てて下さることを望んでいました。その暁には、ペテロをはじめ弟子たちは、「御国の大臣になってキリストと一緒に治めるんだ。だから自分たちは何もかも捨ててしたがって来たのだ」と思っていたのです。この思いはずっと消えることなく、キリストの復活後まで続きます(参考.使徒16)。その当時、イスラエルを政治的に支配していたのはローマです。しかし、彼らには宗教的な自由が与えられていました。その指導者たちというのが、エルサレムにいる長老、祭司長、律法学者たちだったのです。イエス様は、21節からご自分がエルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始めました。

 ところがまだイエス様が全部話し終えていないのに、ペテロが邪魔をしました。マタイ1622するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」なんと、弟子のペテロがイエス様に「ちょっとこっちに来て」と脇に呼んで、個人的に叱責したのです。何と言ったかというと原文を直訳すると「神が慈悲をもって、そんなことを起こらしめ給わないように」ということです。慇懃無礼とはこのことであります。今で言うと、上から目線で「とんでもない」と叱責したのです。おそらく、さきほど「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と褒められたので、調子に乗っていたのかもしれません。その直後、イエス様から、逆に恐ろしいことばが返ってきました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはとても難解な箇所です。イエス様がペテロに「サタン」と言ったのか、それともペテロにくっついているサタンに言ったのか、ということです。「下がれ」は英語では、get behind me 「私の後ろに下がれ」という意味になっています。「あなたはわたしの邪魔をするものだ」はサタンに言っているのであり、後半の「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」は、ペテロに言っているのではないかと思います。つまり、ペテロが間違った思いを抱いていたので、そこにサタンが乗じて、イエス様を誘惑したのではないかと思います。どんな誘惑かというと十字架を通らないで、近道を提案したということです。簡単に言うと、サタンがペテロに乗り移って、十字架の贖いを邪魔しようとしたということです。「えー、本当?」と疑う人もいるかもしれません。ルカ413「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」これは、悪魔のイエス様に対する試みの後のことです。悪魔はしばらくの間イエスから離れていましたが、次の機会を狙っていたというのが正しい理解です。ですから、悪魔は間違った思いを持っていたペテロを用いて、イエス様の十字架の贖いを邪魔させたのです。イエス様はサタンに「あなたは、わたしの邪魔をするものだ」と言っていますが、「邪魔」は最も、相応しい日本語訳です。邪という意味は「正しくないこと、道に外れている」と言う意味です。また、「魔」は、悪魔の魔です。ですから、JB.フィリップ訳はOut of my way, Satan! You stand right my pathと書いています。簡単に訳すと、「私の道からどけ、サタン。お前はまさしく、私の道に立っている」という風になります。つまり、イエス様はご自分の死によって、人類を贖うという道を進んでいました。ところが、サタンはペテロを用いて、脇道へ逸らそうと誘惑したのです。イエス様がサタンに命じたので、その瞬間、サタンはペテロから離れました。

 その後、イエス様はペテロに言いました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはどういう意味でしょう?さきほども申しましたように、ペテロや他の弟子たちは、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、イエス様が死んだら、元も子もないということです。なぜなら自分たちはやがて来るイスラエル王国の大臣になるんだと考えていたからです。イエス様がこれから先、2回もご自分が死んで、三日目によみがえることを予告されますが、ぜんぜん聞く耳をもっていませんでした。「イエス様が死ぬなんてことはあってはならない」とハナから否定していたのです。この思いは最後の晩餐まで続きました。イエス様が捕えられたとき、ペテロは怖くなり、イエス様を三度も知らないと言いました。それは、地上にイスラエル王国がもたらされる希望がなくなったからです。ですから、さきほど、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した内容は、半分合っていて、半分は的外れだったのです。それでも、イエス様はその告白を父なる神からのもとであると喜ばれました。つまり、ペテロのキリスト観は十字架と復活を通過していないキリストだったのです。本来は、十字架と復活を通過したキリストを主であると告白するなら救われるのです。その当時は、まだそれがなされていなかったので、イエス様はそれでも受け入れて下さったのです。私たちの場合は、もう完成されていますから、「あなたは神の子、キリストです」と告白して救われます。

 でも、ここで問題にされていることは、イエス様がペテロにおっしゃったことばです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」このことばは、現代の私たちにも語られていることばです。「人のことを思っている」とはどういう意味でしょうか?そして、「神のことを思う」とはどういう意味でしょうか?まず、「人のことを思う」とはペテロや他の弟子たちが思っていた内容です。彼らはこの地上で長生きして、地上でイスラエル王国を支配しようと思いました。そして、「イエス様がイスラエルの王様になり、いつまでも生きながらえて、あのダビデのようになってください」と願っていました。「人のこと」というのは、言い換えると「この世的、人間的」という意味です。この地上の生活、この地上の生き方という意味です。つまり、人生のスパン(長さ)が今から死ぬまでの間ということです。生きているうちに自分の夢が叶えられ、幸福を手にいれたいということです。そのためには、神さまをも利用するということになります。神中心ではなくて、人間中心の信仰です。ヒューマニズム(人本主義)と言いますが、イエス様を信じていても、ヒューマニズム(人本主義)のクリスチャンがいるのです。しかし、それは生焼けのパン菓子であり、神中心の信仰でなければなりません。どうすれば、神中心の信仰になるのか、それは後半の24節以降記されています。でも、前半のポイントでは、「神のことを思う」ということをしっかりゲットしたいと思います。「神のこと」とは地上のことではなく、天上のことです。言い換えると、地上のイスラエル王国ではなく、神が下さる新しいイスラエル、天の御国であります。イエス様はこの世の王ではなく、天の御国の王だったのです。そして、イエス様を信じる者は、この地上ではなく、天の御国でイエス様と一緒に治めるのです。ハレルヤ!

 使徒パウロはコロサイ3章でこのように命じています。コロサイ31-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。地上のものは消えてなくなります。しかし、天にあるものは永遠に続きます。私たちが所持している地上の家、土地、車、お金、肉体、地位、すべての持ち物、みんな一時的で、みんな借り物です。しかし、やがて与えられる天上の家、土地、栄光の体、地位、持ち物はすべて永遠でありいつまでも自分のものなのです。もちろん地上の生活を粗末にしてはいけません。でも、天上の生活が私たちのゴールであり、そこを目指すべきなのです。

2.自分を捨て

 イエス様はご自分の受難と死とよみがえりを弟子たちに予告しました。その直後、このようなことを弟子たちに告げました。マタイ1624-26 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」同じようなことが、マタイ10章でも語られました。その時は、伝道旅行に遣わされる直前でした。今回は、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した後であります。つまり、イエス様はご自分をだれか明らかにした直後です。でも、自分たちが信じていたキリスト、メシヤとは少し違っていました。なぜならエルサレムに行って、苦しみを受け、殺され、三日目によみがえると言ったからです。弟子たちは「そんなことは聞きたくない、ありえないことだ」と耳をふさいで理解しようとしなかったのです。なぜなら、イエス様が死んだら、イスラエル王国の復興もなりたたないからです。もし、そんなことになったら、自分たちが職業も家も捨てて従ってきた意味がありません。故郷に帰ったら、きっと馬鹿にされるでしょう。イエス様は彼らの思いを知っていました。彼らはこの世のこと、地上のイスラエル王国にしか興味がありませんでした。この地上で、王であるイエス様の右か左に座って、豊かな報いを受けたかったのです。まさしく、その思いは人間的であり、この世的でありました。だから、イエス様はこのようなことをおっしゃったのです。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」一番注目すべきことは、「自分の十字架を負う」ということです。多くの人たちは十字架を負うとは、「身内や親しい人の不幸な運命を背負う」みたいに捉えていますが、そうではありません。また、クリスチャンでなくても、十字架のネックレスを首にかけてお守りみたいにしていますが、それも間違っています。ローマの時代、十字架というのは極刑の道具でした。ローマの哲学者キケロは「最も残酷で嫌悪感を起こさせる処刑である。ローマ市民には十字架を触れさせてはならない」と言ったそうです。イエス様もそうでしたが、犯罪人は刑場まで自分の十字架を背負って行かされました。当然、周囲の人たちから馬鹿にされたり、石を投げたられたりしたでしょう。そのように人々から辱めを受けた後、十字架かけられるのです。このところで、イエス様が「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。と言うことは、自分が死ぬための十字架を負って、イエス様について行く、これがキリストの弟子だということです。十字架はだれか人のためではなく、自分が死ぬためのものだということを忘れてはいけません。当然、イエス様に従っていくものは、イエス様が受けた辱めや迫害も受けることがありえるということです。でも、最後は死ぬのです。このようなメッセージを教会では近年語らなくなったかもしれません。なぜなら、次の週から人が来なくなるからです。人々は慰めや励ましや希望をいただいて教会に来ます。なのに、牧師が講壇から「十字架を負って、最後に死ね」と言われたら、「お前こそ死ね!」と怒って帰ってしまうでしょう。十字架のメッセージは不人気です。でも、パウロはこう言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント118)。もちろん、この十字架はイエス様の贖いの十字架です。贖いの十字架はイエス様だけで、十分であり、私たちが参与する部分は全くありません。でも、キリストに従う者として、自分の十字架を負って従うということは、天国に行くまでずっと続く命令なのです。なぜ、十字架を負うことがそんなに重要なのでしょうか?クリスチャンは解放されて、自由な生き方ができるのではないでしょうか?多くの人は、イエス様がおっしゃる逆説の意味を理解しようとしません。

 マタイ1625-26「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」このところに二種類のいのちがあるとイエス様はおっしゃっています。それは、いのちとまことのいのちです。いのちはギリシャ語でプシュケーであり、「生命の息」という意味があります。人間や動物にはそのようないのちがあります。プシュケーは魂とも言われ、知性、感情、意志の面があります。プシュケーは「地上のいのち」という意味合いが強く、その代り、聖書にはゾーエーという「永遠のいのち」のことも言われています。イエス様はご自分のことを「いのちだ」と言われましたが、そのときにはすべてゾーエー「永遠のいのち」ということばを使っています。でも、マタイによる福音書はどちらもプシュケーであり、しいて言えば、いのちとまことのいのちです。では、前者のいのちとは何なのでしょうか?それは地上のいのちであり、自分だけが生きたいという本能です。私たちは死にたくないのです。だれよりも自分が生きたいのです。これがプシュケーの特徴です。この世の中には「人のために生きたい」「人のために役に立ちたい」という立派な人がいます。目的は立派かもしれませんが、根底にはプシュケーがあり、自我や欲望と戦っています。ペテロや弟子たちはこの世の王様を求めました。地上で幸せにいつまでも暮らしたかったのです。でも、それはプシュケーであり、この世のいのちから来るものでした。でも、残念ながら、プシュケーでは神の国を受け継ぐことはできません。イエス様は地上のイスラエル王国ではなく、神の王国、永遠の御国を与えようとされました。ですから、このいのちに死んで、まことのいのちをいただかなければなりません。私たちは自分で死ぬことはできません。なぜなら、プシュケーは自己保存、自己絶対、自分がだれよりもかわいいからです。そのために十字架を負うのです。十字架はあなたのいのちを殺し、まことのいのちを与える道具だからです。

 そのことはイエス様が証明し、イエス様が保障してくださいました。イエス様は「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえなければならない」とおっしゃいました。つまり、十字架の死で終わるのではなく、その後に復活があると告げられました。そうです。私たちが自分の生まれつきのいのちを十字架に渡すと、今度は、復活のいのちをいただくことができるのです。復活のいのちが、まことのいのちであり、永遠のいのちなのです。このいのちこそが、神の王国、永遠の御国で生きることのできるいのちなのです。だから、イエス様は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と言われました。言い換えると、「全世界を手に入れても、永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょう。永遠のいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう?」となります。私たち人間には、永遠のいのちを買い戻すための何物も持っていません。永遠のいのちを買い戻してくださるお方は私たちのために十字架について三日目によみがえられたイエス・キリストだけです。このお方が代価を払ってくださったので、私たちは死んでも生きるのです。パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント411と言いました。これこそ、聖書が言う逆転勝利であります。この世のいのちは「自分は生きたい、自分は出世したい、自分は偉くなりたい」と望むのです。ペテロや他の弟子たちもそう思っていました。でも、私たちは自分の十字架を負って、イエス様に従うのです。するとそういう自分が死んで、イエス様中心の新しい自分が与えられます。生まれつきの自分こそ曲者はいません。その自分を十字架の死に渡すと、本当の自分が生まれるのです。だから、「まことのいのち」を英国の聖書は、his true self、「本当の自分」と訳しています。

 私が言いたい事はこのことです。生まれつきのいのちと神さまがくださる永遠のいのちをそのまま継ぎ足すことは無理です。言い換えると生まれつきの自分と神さまがくださる本当の自分をそのまま継ぎ足すことは不可能です。十字架はそれらの二つを一回、断ち切って下さる神の道具です。かつてはローマの死刑の道具でしたが、キリストにあってあなたに死とよみがえりを与える神の道具になったのです。十字架なくして復活はありません。あなたはこの世のいのちに死んで、神からの新しいいのちをいただく必要があります。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストにあるなら」とは原文は、engraft「接ぎ木されるなら」であります。つまり、生まれつきのいのち、生まれつきの自分が一度断ち切られ、こんどはキリストという木に接ぎ木されるということです。それまではアダムから来た古いいのちでこの世のものを求めて生きていました。いや、生き延びてきました。でも、十字架で切られて死んで、こんどは生まれ変わり、キリストに接ぎ木されました。こんどはキリスト様からいのちと力をいただくのです。あなたはこの世でありながらも、神の国のいのちで生かされて歩むのです。16章の最後に「報い」ということばはありますが、すべてを失ってもイエス・キリストが報いてくださるのです。

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