2017年8月11日 (金)

宮きよめ マタイ21:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.13

 その当時はシナゴーグと呼ばれる会堂で安息日礼拝を守っていましたが、何か特別な場合は神殿で礼拝をささげていました。このときは過ぎ越しの祭りが始まるところだったので、地方からたくさんの人たちがエルサレムに集まっていました。しかし、本来、礼拝の場所であった神殿が、取引や商売のために利用されていたのです。イエス様がエルサレムに入城して、最初に行ったことは、この神殿をきよめることでした。

1.宮きよめ

 エルサレムの神殿には中庭と外庭がありました。きょうの出来事は、神殿の外庭であろうと思われます。日本でも神社の境内には、屋台やおみやげ屋さんが並んでいます。もっと近づくと、おみくじとかお守りが売られています。エルサレムの場合は、宗教的な理由がありました。両替人はお金をユダヤ人の貨幣に替えて手数料を取っていました。たとえば、ローマのデナリ銀貨はカイザルの肖像が刻まれていたので、神に捧げるのに相応しくなかったからです。また、鳩を売っていたと書いてありますが、牛、羊、やぎも売られていました。なぜかと言うと、人々がそれらの動物を遠くから運んでくるのは手間がかかります。また、傷のない完全な生贄でなければなりません。もしも、神殿の側で売られているなら打って付けであります。一見、親切な行為のように思えますが、売り買いすることによって、神殿を管理する人たちが経済的に潤っていたのです。マルチン・ルターの頃は、教会で免罪符が売られていました。人々は罪を軽減してもらうために、その証明書を購入しました。宗教が金儲けの手段になるというのは、どの時代でもあるようです。神の御子であるイエス様は、そういうことがエルサレムでなされていることに聖なる憤りを覚えられました。売り買いする者たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒されました。ヨハネ福音書2章には「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出した」と書かれています。ちょっと過激な感じがしますが、細なわのむちであるなら、怪我をさせることはありません。イエス様が怒られたというのは、聖書の中にそんなにありません。強いていうなら、小さな子どもたちが祝福を求めて近づいてきたとき、大人たちが邪魔したからです。また、ラザロが死んだとき、墓の前で涙を流しました。しかし、同時に「憤りを覚えられた」と書いてあります。おそらく、死が人間を支配していたからでしょう。今回の場合は、神殿が正しい目的のためにではなく、金儲けの手段になっていたからです。

 では、本来の神殿の目的とは何なのでしょうか?マタイ2113そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」イエス様がおっしゃったのは旧約聖書からの引用です。まず、イザヤ567をお読みいたします。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」このみことばは、紀元前700年頃のことでした。当時は、宗教はありましたが、人々は正しい行いをしていませんでした。イザヤは「『公正を守り、正義を行うように』と主が仰せられる」と人々に告げました。しかし、この預言は世の終わり、御国が完成するときのものであります。なぜなら、外国人も宦官も聖なる山に集うことができるからです。だから、イザヤ書には「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」と「すべての民」と書かれています。ハレルヤ、私たち異邦人である、日本人も「すべての民」の中に加えられているのです。なぜ、イスラエルなのでしょう?神さまが世界の人たちに仕えるようにイスラエルを祭司の国として選んだからです。でも、イスラエルは堕落し、その務めを果たせなくなりました。世の終わり、神殿を建てなおすために、御子イエス様が来られたのです。その前に、あまりにも神殿が世俗化していたので、少々手荒いことをして、きよめられたのです。もう1つの引用は、エレミヤ711です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。主の御告げ」日本語の聖書には「強盗の巣」とありますが、den「ほら穴」「洞穴」というのが正しい訳です。子どもの頃、『アリババと70人の盗賊』という物語を読んだことがあると思います。盗賊たちが洞穴に金銀財宝を隠していました。まさしく、エルサレム神殿が、強盗の洞窟になっていたということです。ちなみに現代の神殿の洞窟をご存じでしょうか?ローマのバチカンこそが、ヨハネ黙示録に記されている大バビロンです。バチカンには世の中の富と財宝が集まっています。宗教というものは、間違った方向に行くと、とても恐ろしい存在であることを歴史が物語っています。

 でも、私たちは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、現在のキリスト教会にどのように適用すべきでしょう。イエス様が復活してからは、私たち自身が神殿であると聖書に書いてあります。なぜなら、私たちの中に、神の霊、聖霊が住んでおられるからです。そして、このように複数のクリスチャンが集まるところに、神さまが親しく臨在し、私たちの礼拝と賛美を受け入れてくださいます。教会は建物ではなく、私たち自身が教会であるということを第一に理解すべきです。でも、教会は建物とか組織、あるいは人々という意味もあります。世の中では、キリスト教会を「宗教法人の1つ」として捉えています。ですから、宗教法人法によって、活動が規定されています。第一の項目に、「教会の目的とは何か」ということが記されています。それは「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教えるためにある」ということです。しかし、教会では幼稚園を経営したり、何らかの営業をするところもあります。本来は営利を追求するところではありませんが、福祉的に世の中に仕えるという面もあります。明治時代の頃は、福祉や社会制度、医療や教育制度が整っていませんでした。そのため、キリスト教会が率先して社会活動をしてきました。義務教育、赤線廃止、労働組合、女性の選挙権、禁酒運動…これらはみんなキリスト教国がもたらしたことであることを忘れてはいけません。しかし、近年は国や地方地自体がそういうことを専門にするようになり、「教会は神の福音を宣べ伝え、信徒を教える」ということに集中するようになりました。しかし、良い面もあれば、悪い面も出て来ました。つまり、本来は聖書の考えが根底にありました。それら、すべてのものは聖書の価値観から生まれたのです。でも、日本人はうわべの良いものだけを抽出し、根底にある価値観を捨ててしまいました。だから、何のため仕事をするのか、何のために勉強をするのか、何のため結婚するのか分かりません。

 でも、ここでは世の中の活動は取り上げないで、教会という建物に集まって、なすべき第一のことは何かということを学びと思います。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみことばを、教会はどのように適用すべきでしょうか?私の家とは神殿のことですが、これを教会の集まりと解釈しても良いでしょう。私たちはここに集まり、何をしているのでしょうか?当時、人々は神殿に集まり、献金や生贄をささげていました。もちろん、祈りもささげていました。私たちが特に日曜日ここに集まっているのは、何のためでしょう?イエス・キリストが生贄となったことを覚えなければなりません。ヘブル書に書いてありますように、イエス様は一回で永遠の贖いを全うされました。私たちは、イエス様によって罪が贖われているので、大胆に神さまのみ前に近づくことができます。現代の私たちの生贄は、私たちの献身と感謝と賛美であります。では、神のことばをなぜ聞くのでしょうか?さきほどイザヤ書を引用しましたが、当時の人々は、宗教はありましたが、生活が神さまから離れていました。本来、祭司たちが聖書から教えていたのですが、その祭司たちが堕落していました。その代り、預言者が口をすっぱくして神さまに立ち返るように教えました。ですから、この礼拝において説教者は2つのことを聖書から語ります。第一は神さまがなされたみわざを語り、私たちが心から礼拝ささげるように勧めます。第二は神さまのみこころを知り、みこころに沿った生き方ができるように励まします。教会での集まりのゴールは神さまを礼拝し、祈りをささげるということです。その次に、互いに励まし、信仰を高める聖徒の交わりがあります。神殿礼拝と違うのは、犠牲に伴う祭儀がないということです。カトリック教会のようなミサでもないので、シンプルかもしれません。

私は式文を使わないで、できるだけ宗教ぽくしないように努力しています。なぜでしょう?この聖日礼拝は私たちの生活の一部だからです。一部というよりも、私たちの生活の頂点であります。日常性とかけ離れたところが宗教的で良いという考えもあるでしょう。しかし、それだと聖日礼拝での顔と、日常生活の顔が2つ生まれる可能性があります。祭司長や律法学者たちはイエス様から偽善者と呼ばれていますが、2つの顔を使い分けていたからです。私たちはいつでも、イエス様を仰いで、イエス様と一緒に生活します。日曜日の礼拝の時だけイエス様を意識するのではありません。家庭や職場、通勤通学、どの場所、どの時間でも、イエス様を意識します。また、日曜日の礼拝の時だけではなく、いつでも主を賛美し、祈ります。賛美や祈りは声を上げなくてもできます。主は私たちと共に歩まれ、必要を与え、守りを与えてくださいます。キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるイエス様と一緒に生活することだからです。

2.腹を立てた宗教家たち

 エルサレムには長老、祭司長、律法学者、パリサイ人、サドカイ人など、たくさんの宗教家たちがいました。すべてユダヤ教徒なのですが、大きく分けると神殿に仕える人と律法に仕える人に分けられます。一部はサンヒドリンの70人議会に属していました。また、一部は信徒であっても、熱心なユダヤ教徒でした。群衆が登場しますが、エルサレムの住民、ガリラヤから上って来た人たち、過ぎ越しの祭りのために遠くから来た人たちがいたと思われます。これから、イエス様と彼らとの論争が始まります。イエス様は前もって「エルサレムで彼らから苦しみを受け、殺される」と予告していました。イエス様がエルサレムでは、こういうことが起こると知っておられたので、覚悟ができていたと思います。マタイ2114「また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」とあります。イエス様は売り買いしている人たちを追い出して、神殿をきよめただけではありません。神殿の中にいた人たちを癒してあげました。彼らは癒しを求めて神さまのところに来ていたというよりも、物乞いをしていた人たちかもしれません。なぜなら、多くの人たちが神殿にやってくるので、物乞いには良いチャンスだったからです。イエス様は彼らが物乞いをしなくても良いように根本的な解決を与えられました。使徒の働き3章でも、ペテロが生まれつきの足なえを歩かせてあげたことが記されています。ですから、今日の教会も人々に仕える仕え方も、同じではないかと思います。「神の国はことばではなく、力です」とパウロが言ったとおりです。

 盲人や足なえが癒されるというのは、ものすごく嬉しい事であり、神さまをほめたたえるべきことです。ところが当時の宗教家たちは違いました。マタイ2115-16ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」祭司長、律法学者たちは2つのことで腹を立てました。第一は、イエスのなさった驚くべきことを見たからです。イエス様が盲人や足なえが癒されたからです。何故、喜べないのでしょう?それは妬みです。もし、ナザレのイエスがメシヤであるなら、みんな彼のところに行くでしょう。そうしたら、自分たちの教えを誰も聞かなくなり、失業してしまいます。盲人が見え、足なえが歩くというのは、来るべきメシヤのしるしです。本来なら、イエス様の前にひれ伏して、礼拝をささげるべきであります。ところがどういうことでしょう?目の前にメシヤがいるのにも関わらず、妬みを燃やし、腹を立てるとは何ごとでしょう?私は、イエス様の栄光が、彼らの目に隠されていたからだと思います。イエス様は、マタイ1125「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」とおっしゃったことがありました。彼らは心が頑なだったので、そのことが分からなかったのです。リバイバルが起こると、このような奇跡や癒しが起こります。同時に、混乱をもたらすような不思議な現象が起こります。しかし、教会のある人たちが「それは危険だとか、感情的過ぎる」と反対します。そこに、神さまのすばらしいわざが起こっているのに、喜べない人たちが出てきます。彼らがリバイバルの火を消すのです。同じ信仰者の中からそういう人たちが出るとは何という皮肉でしょう。たとい、自分たちの神学に会わなくても、神の霊がなさっておられるのなら、一緒に主をあがめるべきであります。宗教というのは、生ける神さまの働きを妨げることを覚えておきたいと思います。

 もう1つは、宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てたことです。おそらく、子どもたちは、エルサレムに入城したときの様子を見ていたのでしょう。大人たちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたので、真似していたのかもしれません。でも、神さまを賛美している子どもたちに腹を立てるとは何ごとでしょう?何故、彼らが腹を立てかというと、イエス様を全く歓迎する気持ちがなかったからでしょう。何が「ダビデの子にホサナだ。そういう者が来ちゃ困るんだよ」というのが本音であります。彼らは文句を言っていましたが、イエス様は何と言われたでしょうか?「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」これは、詩篇82からの引用です。詩篇82「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」イエス様は詩篇82の前半しか引用しませんでした。しかし、後半は、恐ろしいことが書かれています。つまり、何故、「神さまが幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意されたか?」であります。「それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした」とあります。ということは、子どもたちの賛美が、イエス様に敵対する者たちへの防護壁になっているということです。旧約聖書の「力を打ち建てられた」は英国聖書ではrebuked「譴責する、阻止する」と訳しています。子どもたちは意識していた訳ではないでしょう。でも、神さまが敵対する者をしずめるために、子どもたちの賛美を用いられたということです。ハレルヤ!ということは、私たちは子どもたちの賛美を軽く扱ってはならないということです。リバイバルが起こっている時は特にそうです。

 最近、子どもたちが見た超自然的な夢を賛美にしていると聞いたことがあります。信じるか信じないか別として、彼らは天に引き上げられ、天国での様子を歌にしています。歌詞とか曲は非常にシンプルなのですが、実際に行った者でないと書けない内容になっています。また、ある子どもは世の終わりの救いとさばきについても、克明に記しています。これは日本だけではなく、韓国やその他の国でもあるようです。終わりの時代、神さまは子どもたちの賛美や預言を用いようとされています。「そんなことが聖書的なのか?」という人たちに対して、使徒217があります。ペテロが「あなたがたの息子や娘は預言する」とヨエル書から引用しました。大人の方が常識とか神学に凝り固まっていて、神さまが語っておられるのが聞こえないことがありうるでしょう。目があるのに見えない、耳があるのに聞こえないとは残念なことです。当時の、祭司長、律法学者たちは、イエス様のなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てました。教会は、彼らのようになってはいけないということです。

 イエス様はその日、エルサレムには留まりませんでした。神殿は父の家のはずです。でも、神殿のあるエルサレムから立ち去りとこへ行ったのでしょう?マタイ2117「イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。」ベタニヤにはラザロと、マルタとマリヤのきょうだいたちがいました。ラザロは「あなたの愛しておられる者」と紹介されています。ラザロは一度死にましたが、イエス様によってよみがえらされました。マリヤはイエス様に高価な香油を塗ったことがあります。マルタは一品でも多く料理を作ってイエス様を喜ばそうとした女性です。彼らの家にイエス様は泊まりに行ったのです。エルサレム神殿ではダメです。ベタニヤこそが身も心も休まる家homeです。これまでイエス様は何度もベタニヤの家を訪問しています。最後の5日間はベタニヤの家とマルコの家に寝泊まりしていたと思われます。もし、イエス様が自分たちの家に休むために来るとしたら何と嬉しいことでしょう。イエス様は彼らの家だと全く気を使う必要がなかったでしょう。心休まるところだったと思います。私たちはイエス様のことをそんなに考えていません。自分たちの心が休めるような住まいになるように求めています。椅子やテーブル、調度品、テレビ、オーデォ、自分の書斎…でも、そこにイエス様を歓迎しているでしょうか?私の場合は半分教会で暮らしていますので、礼拝堂がすぐそばにあります。牧師室もあるので、そこが大好きです。でも、イエス様が私と一緒にいて、心騒がしくしていたら嫌ですね。でも、私が一番、嬉しいのはイエス様が隠れたところで頑張っている私を認めていらっしゃるということです。小さな会社の社長は、朝から晩まで何かをしています。仕事と休みと境界線がありません。私も毎日が仕事で、毎日が休みのようです。「牧師は月曜日から土曜日まで何しているんだ?」と裁く人もいるでしょう?昔はそう言われると、心が動揺しました。しかし、今はそうではありません。神さまから重要な啓示を受けているからです。ヨセフのような指揮者として、大事な役割があると思っています。人はどう思おうと、イエス様がよくご存じです。私も皆さんのことはよく分かりません。鈴木牧師はあまり世話をしてくれません。訪問もしてくれません。声もかけてくれません。でも、私は牧師として申し上げることがあります。イエス様があなたと一緒です。イエス様はあなたの心とあなたの家を身も心も休まる家homeにしたいと願っておられます。イエス様がおられるなら夫婦喧嘩をしなくなるでしょう。イエス様がおられるなら変なビデオやインターネットも見なくなります。イエス様がおられるなら聖書を読んだり、学んだりすることが楽しくなります。天国に行ってからイエス様とお会いするのではありません。この地上にあっても、可能です。肉眼では見えず、肉声で声も聞こえませんが、霊において見え、霊において聞こえます。イエス様の声がわかるように霊的なラジオを持ちましょう。イエス様のことが見えるように霊的なテレビを持ちましょう。

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2017年8月 4日 (金)

エルサレム入城 マタイ21:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.8.6

 イエス様は癒された人たちに、ご自分がだれであるかを言わないように命じていました。なぜなら、当時のメシヤは非常に政治的で、誤解を招くからです。しかし、この時は公にご自分を現し、人々から凱旋将軍のような歓迎を受けました。なぜでしょう?それはこのエルサレムが最終的なゴールだったからです。もう逃げも隠れもせず、ご自分がだれであるかを表明されました。イエス様がエルサレムに入城したのが日曜日であり、金曜日には十字架につけられます。福音書はこの6日間に多くの紙面を割いています。

1.ろばの子に乗って

 イエス様はエルサレムに入るために、ろばの子を必要としていました。しかし、ろばの子を手に入れる方法がまことに奇跡的でした。イエス様はまだ、町には入っていません。オリーブ山のふもとベテパゲにいます。エルサレムは高台にあるので、登り坂の途中であったと思われます。弟子たちは「エリコからずっと登って来られたので、イエス様は疲れを覚えておられるのでは?」と思ったのでしょう。イエス様は超自然的に、向こうの村に、雌ろばとろばの子がつながれているのが見えました。弟子たちがそこへ行って、ろばを連れてくるように命じられました。すると持ち主が「なぜ、ろばを解くのか?どこへ連れていくのだ?」と言うでしょう。そのとき、「主がお入り用なのです」と言うなら、すぐに渡してくれるというのです。持ち主に対して、長々と説明する必要がありません。「主がお入り用なのです」というイエス様のことばは、生きたことばであり、持ち主は、召使のように従うのです。このところに「知識のことば」という奇跡が働いていたのです。私が洗礼を受けて3か月くらいたった頃です。「新宿の中央教会というところで、青年大会があるので来ないか」と聖書学院生からお誘いを受けました。「文化祭みたいなものだから、気軽に」と言われたのですが、なんと献身者を募る青年向けの聖会でした。隣の教会の高木牧師が講壇から甲高い声で「主がお入り用なのです」とメッセージしました。最後に「前に出て来なさい」と招きました。「私はモノじゃないぞ」と反発しましたが、神さまから呼ばれたような気がして前に出て、祈ってもらいました。そして、翌年3月に東京聖書学院に入学しました。その時の修養生というのが家内の同級生の姉妹(湯田民子姉、救われた方のユダ)です。「文化祭だ」と嘘を言われたのです。その時、私は電車の網棚にだれかが忘れていた少年マガジンを手に持って会場に行きました。聖歌も聖書も持っていないので、受付の人はびっくりしたでしょう。私もろばのように、「主がお入り用なのです」とイエス様の声でひっぱって行かれたような気がします。

 なぜ、イエス様はろば、それもろばの子に乗る必要があったのでしょうか?それはイエス様が疲れていたせいではありません。ご自分はだれかということを示したかったからです。旧約聖書では、これを「行動預言」と言います。人々は分かりませんでしたが、イエス様はゼカリヤ書の預言を成就したかったのです。ゼカリヤ99「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」マタイ福音書は70人訳からの引用なので、旧約聖書とはちょっと違っています。でも、ゼカリヤ書ではっきりしていることは、「雌ろばの子の子ろばに」と書いてあることです。マタイによる福音書だけが、雌ろばとろばの子の二頭を連れて来たと書いてあります。マルコやルカは、ろばの子だけを連れてきたように書かれています。しかし、マタイは「これは、旧約聖書の成就なんだ」ということを強調したいがため、あえて「ろばと、ろばの子」と書いています。おそらく、イエス様が実際に乗られたのは、ろばの子であり、雌ろばは伴って歩いていたのではないかと思います。マルコ11章には「まだだれも乗ったことない、ろばの子」と書かれています。ろばの子にとっては、初めての大仕事です。だから、「ふたりでも三人でも」と強調するマタイは、子ろばを見守る母ろばの存在をあえて書いたのではないかと思います。しかし、イエス様をヨタヨタ乗せている、ろばの子が人々の目にどのように映ったのでしょうか?その光景こそが、イエス様がどのようなメシヤかを象徴しているのです。クリスチャンの矢内原忠雄という元東大総長がこのような聖書講義をしています。軍馬ではなくてろばです。戦争ではなくて平和です。傲慢ではなくて柔和です。イエスがろばに乗って都に入られたのは、御自身が国民待望のメシヤであられること、その方法は平和、その性格は柔和であられることを、言葉でなく行動によって宣言されたのです。それ自身が深い詩であります。「私はイスラエルの王である、真の救主である。私にふさわしい柔和な心、砕けたたましいをもって私を迎えよ。シオンの娘よ、これがお前たちの最後の機会である。信じて救われよ!」口にするには、あまりにも感慨無量だったのでしょう。イエスは、ろばに乗られた御自分の姿によって、これを民衆に告げられたのであります。アーメン。

 

ゼカリヤ書9章は、メシヤ預言であることは間違いありませんが、「それはいつ頃、来られるメシヤなのか」ということです。当時のユダヤ人はローマを倒し、イスラエル王国を復興してくださる政治的なメシヤを待ち望んでいました。確かに、預言書には厳しいさばきをもたらすメシヤが来ることが書かれています。でもゼカリヤ書には「この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる」と書かれています。マタイ福音書にもmeek「柔和」となっています。本来、王様が来られるときは、着飾った軍馬が似合っています。しかし、イエス様はあえて、ろばの子でありました。まさしくそれは、柔和を象徴しています。当時の人たちの目には閉ざされていましたが、メシヤは二度に分けて来られるということです。ゼカリヤ書9章の預言は、初臨であります。たとえば、初臨の預言は、「ユダヤの地、ベツレヘムで支配者が生まれる」というものです。イエス様がこの地上に来られたのは、さばくためではなく、和解をもたらすためでした。そのために、ご自分が死んで罪を贖うということが絶対的な目的でした。マタイ1219-20「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」とあります。では、再臨のメシヤはどのような姿で来られるのでしょうか?黙示録19章にはハルマゲドンの戦いに終止符を打たれる方が描かれています。黙示録1911-13「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。」アーメン、誰が見ても、「ああ、このお方はイエス様だな」と分かります。再臨時は、白い馬に乗ってこられ、そのお顔といでたちは、恐ろしいほど凛としています。

 使徒パウロは「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント62と言いました。イエス様が地上に来られてから、A.D、恵みの支配が始まりました。今は、イエス・キリストを信じるだけで救われる恵みの時代であります。しかし、それがいつまで続くかというと、世の終わり、イエス様が再び来られる時までです。あれから時代が進み、2017年ですから、まもなくシャッターが閉まる時刻が迫っています。恵みのシャッターが閉まると反キリストが猛威を振るい、自分の命と交換しなければ救いを得られなくなります。迫害があまりにもひどくなるので、反キリストを信じた方が楽になるからです。イエス様は「その日は、ちょうどノアの日のようだ」と言われました。人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。イエス様が世の終わりやってくるのもそれと同じです。

再臨に備えるため、私たちは最低限、2つのことをしなければなりません。第一は一人でも多くの人が神との和解をもたらしてくださった、イエス・キリストを信じるように働きかけなければなりません。もちろん、仕事をしながら、家事をしながら、学生ですと勉強しながらです。日本にはクリスチャンが1%も満たないので、人々が福音を聞くチャンスはあまりないでしょう。そうであれば、少なくとも、私たちが毎日、顔を合わせる人たちに責任があると思います。再臨に備えるための第二は、私たち自身の信仰生活です。今度お会いするイエス様は「王の王、主の主」なるお方です。黙示録には「御顔は太陽のように照り輝き、その目は燃える炎であり、口からは鋭い剣が出ている」と書いてあります。柔和さなど一遍もありません。もちろん、イエス様は優しいお方であることは間違いありません。でも、やがて来られるイエス様がそのようなお方であるなら、神さまをなめてかかってはいけません。できるだけ罪と汚れから離れ、聖霊に満たされ、義なる生活をしていることが必要です。今日の箇所には「オリーブ山」が出てきます。弟子たちが天にお帰りになるイエス様を見上げていた時、御使いがこのように言いました。使徒111「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」ハレルヤ!再び来られるという聖書の預言を信じて、いつでも主とお会いできるように生活していきたいと思います。

2.群衆の歓迎

 マタイ218-9すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」ヨハネによる福音書には「しゅろの葉をとって出迎えた」と書いてあります。ですから、日曜日、イエス様が入城した日をPalm Sundayと呼んでいます。おそらく過ぎ越しの祭りのために、エルサレムの人口は普段の倍くらい膨れ上がっていたと思われます。群衆はどのように叫んだのでしょうか?「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」これは、詩篇11825-26の引用です。「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。群衆はイエス様をダビデの子、預言されていたメシヤだと考えていました。何度も言いますが、人々はローマを倒して、イスラエル王国を復興してくださる政治的メシヤを求めていました。高官などの要人を歓迎するための、レッドカーペットというのがありますが、これと似ています。布の代わりにしゅろの葉と自分たちの上着を道に敷いたのですから、よっぽどの歓迎ぶりだったのではないでしょうか?さながら、凱旋将軍のようであります。

 数日後、同じ群衆がイエス様を「十字架につけろ」と暴徒に化すということが信じられるでしょうか?私は群衆の中には二種類いたのではないかと思います。ガリラヤからイエス様と一緒に着いてきた群衆と、エルサレムにいた群衆です。ちょうど過ぎ越しの祭りが重なる時期なので、地方から来ていた人たちもたくさんいたと思われます。その証拠が、1011節のことばです。マタイ211011「こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、『この方は、どういう方なのか』と言った。群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ』と言った。」よく見ると、エルサレムにいた人たちは、「この方は、どういう方なのか」と聞いています。おそらく、ガリラヤから着いて来た人たちが「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と他の群衆に教えたのではないかと思います。ガリラヤから着いて来た人たちの中には教えに感動した人たち、病を癒していただいたり、パンの奇跡に預かった人たちも含まれていたことでしょう。親身になってイエス様や弟子たちの身のお世話をする婦人たちも同行していたでしょう。しかし、危険なのはイエス様のことをあまり知らない群衆たちです。でも、彼らは一様に「ダビデの子イエス」のフアンでした。フアンというのは、うわべだけの信仰であり、キリストと個人的な関係のない人たちです。だから、数日後、イエス様が捕えられた時、扇動されたのです。マタイ2720「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。」マタイ2720「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」あの群衆がこんなにも変わるものかと驚くばかりです。

 J.C.ライルがこのように解説しています。「これが人間の性質を忠実に現している絵である。神をたたえることよりも、人間をたたえる愚かな考えが、ここに証明されている。人気ほど、気まぐれで不確かなものはない。きょうはここにいるが、明日は去ってしまう。砂の上に建てられた家が、倒れてしまうのと同じである。きのうもきょうも同じである方のfavorを求めよう。彼の愛とfavorは尽きることなく永遠に続くからである。」favorというのは、日本語に訳しづらい、ことばです。私は日本のリバイバルのため用いられたいと熱く願っています。何故かと言うと、私のために特別に祈ってくれた方々がいたからです。天に召された申賢均牧師、インドネシアのエディ・レオ師、そしてこの間、日本に来てくれたダニエル・コレンダ師です。これらの先生方から、按手して祈ってもらい、favorをいただいたからです。Favorというのは、「好意、親切、世話、愛顧、ひいき、支持」であります。簡単に言うと、「あなたはリバイバルのためきっと用いられるよ」と祈ってくれたのです。しかし、それが人間のfavorにとどまらず、イエス様に支えられていると信じています。イエス・キリストは昨日もきょうも永遠に変わらないお方だからです。このお方に目をとめていくとき、私たちの信仰は岩の上に建てられた家のように倒れることがありません。私たちは群集心理、日和見主義的な信仰であってはなりません。そのためには「キリスト・ファン」ではなく、「キリストいのち」として生きるべきです。「私はキリストなしでは生きてゆけない」ということです。

 1990年から、弟子訓練が韓国から入ってきました。もちろん、その前からナビゲーターやキャンパス・クルセードでその考えはありました。韓国から入ってきた弟子訓練は、ある意味では独特のものでした。なぜなら、徴兵制度のような訓練だったからです。サラン教会の姜ミョンという弟子訓練のスペシャリストがいました。彼女の弟子訓練に「休んではいけないが、死んでもいけない」というスローガンがありました。2年間は休んではいけないので、ある人は点滴を吊るしながら出席したそうです。私はその団体に10年間、属していましたが、最後には「これは違うのでは」と思って辞めました。その弟子訓練の根底に流れている考えはこれです。「教会には群衆と弟子の二種類がいる。群衆クリスチャンは何かあると教会を去って行く。絶対離れない、弟子クリスチャンを作らなければならない」という前提がありました。そうしますと、日曜日、会衆を見ると、「この人は群衆で、この人は弟子だろうか」という色メガネで見るようになります。また、その弟子訓練では「あなたは変わらなければならない」という言い方がよくされました。つまり、そのままではダメだというメッセージがいつもあるのです。韓国のクリスチャンは叩かれると、「なにクソ!」ともっとがんばります。でも、日本のクリスチャンは、「ヘニョ」となってもう来なくなります。「聖書は何と言っているのだろうか」改めて考えました。使徒241「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」ペンテコステの日、ペテロの説教を聞いて、バプテスマを受けた人たち3000人が「弟子」と呼ばれています。彼らはまだ弟子訓練のクラスを1つも受けていません。また、パウロは一番問題のあったコリントの教会の人たちを「聖徒」と呼んでいます。聖書的な考えは、イエス様を信じたらキリストの弟子であり、聖徒なんだということです。それで良いかというとそうではありません。本当の弟子、本当の聖徒になるために訓練を受けるということです。スタートが律法ではなく、恵みだということです。

 教会では「ホサナ」という賛美をよく歌います。「主よ。どうぞ救ってください」のヘブル語読みが「ホサナ」であります。彼らはイエス様を「ダビデの子にホサナ」と叫びました。また、人々は「預言者イエスだ」とも言いました。しかし、それは間違っています。イエス様はダビデの子でもなく、預言者でもありません。イエス様は生ける神の子、キリストです。この間、東京ファイヤーカンファレンスでガーナでの奇跡が放映されていました。首都アクラで100万人規模の集会が開かれていました。ある男性が親戚の家に来たのですが、帰りの列車に乗り遅れました。彼は集会の端っこのベンチで寝ていました。すると、耳が突然聞こえるようになり、集会の音が入ってきました。彼は石工でしたが2年前から全く耳が聞こえなかったのです。彼は驚いて、集会のプラットホームに走っていきました。「耳が聞こえた。聞こえた」と大声で伝えました。講師のコレンダ師が集会に出ていない人が癒されたことを知って驚いて人々に紹介しました。彼はイスラム教徒で、自分の名前や住所が知られると危険なのですが、恐れないで証をしました。彼は「イエスは預言者です。コーランにも書かれています」と言いました。コレンダ師は、「預言者じゃなくて神の子、救い主だよ」と訂正しました。彼は「私の耳を聞こえるようにできたのは神さましかいない。イエスは神の子、救い主だ」と告白しました。彼はあとのインタビューで「私は牧師になって、イエスのことをみんなに知らせたい」と答えていました。聖霊様が集会にも出ず、ベンチの端っこで寝ている男性に触れてくださったのです。最後には、「イエス様が神の子、救い主だ」と告白しました。それも、聖霊様の働きです。人間の考えから出たことではありません。

 私たちはイエス様を信じて、クリスチャンになったことをまず感謝しなければなりません。私たちは聖霊によって生まれ変わり、キリストの弟子、聖徒になったのです。私たちはキリストを信じたという1点で、神さまから受け入れられ、ありのままで愛されているのです。これが基本にないと、誤った弟子訓練になります。誤った弟子訓練とは、神さまに受け入れられるために、がんばるということです。神さまの愛を得るためにがんばる必要はありません。すでに、ひとり子を与えるほどに愛されているからです。どうぞ、無条件の愛をいただいているということを信仰のベースにしましょう。この私が一番良い模範です。あのときは、「主がお入り用なのです」と言われて、深く考えもしないで前に出ました。まだ何も勉強もせず、訓練も受けていないのに、主のみ声に従いました。まだだれも乗せたことのない、ろばの子もイエス様に用いられました。あなたは既にキリストの弟子であり、聖徒なのです。どうぞ、恵みからスタートしましょう。

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2017年7月28日 (金)

何をしてほしいのか マタイ20:29-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.30

 この盲人の癒しの記事はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されています。マタイによる福音書はイエス様の教えに多くを割いていますが、奇跡についてはそうではありません。そのため、きょうの記事を学ぶとき、他の福音書も参考にしたいと思います。この記事はイエス様による奇跡でありますが、当人もその奇跡の一端を担っています。この人物はどのようにイエス様に求めたのでしょうか?

1.切なる求め

 マタイによる福音書には「ふたりの盲人」と記されていますので、特別な意味があるのかもしれません。マタイ18章に「あなたがたの二人がどんな事でも心を一つにして祈るなら、天の父がそれをかなえてくださる」と書いてあるからです。一方、マルコによる福音書には、この人物は「バルテマイという盲人の物乞い」と名前が記されています。エリコの町はエルサレムに上るときの要所だったので、物乞いとしては良い場所だったのかもしれません。もしあなたが盲人で道ばたに座っているなら、何ができるでしょうか?まず、耳が聞こえます。そして、声を出すことができるでしょう。でも、自分が行きたいところには行くことができません。なぜなら目が見えないからです。その日は、盲人の物乞いの前を大勢の人たちが通りました。二人は「きょうはふだんよりも稼ぎが多いぞ」とワクワクしていました。しかし、人々の話し声に耳を傾けると、ナザレのイエスがこの町を通るようです。彼らは前から、イエス様が盲人の目を開けたり、足のなえの人を歩かせることができるという噂を聞いていました。「まさか、噂のイエス様がエリコを通過するとは?」とびっくりしたことでしょう。彼らはこの時とばかり叫びました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と二人で声を合わせて叫びました。ひとりよりも二人ですから、あたりに響き渡ったのではないかと思います。するとどうでしょう。マタイ2031そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。

 イエス様の取り巻きは「うるさい、黙れ」とたしなめました。なぜなら、人々は「イエス様はエルサレムに行く途中なので、物乞いなどに時間を割く暇はない」と思ったのでしょう。でも、黙るなら、イエス様が行ってしまいます。二人は、もっと大きな声を出しました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てました。もう、騒音です。32節「するとイエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた」。マルコ福音書にはもっと詳しく書かれています。マルコ1049-50すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。すばらしいです。親切な人がいて、盲人たちをイエス様のところに連れて行ってくれました。マルコ福音書には「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」とあります。パウロ・チョーヨンギ師は「この上着は公道で物乞いができるという政府の許可証みたいなものであった。これを脱ぎ捨てるということは、もう物乞いをしないという信仰の現れである」と解説していました。その大切な上着を脱ぎ捨てたとはどういう意味でしょう?彼らは後ろの橋を焼き捨てて、イエス様のところに行ったということです。絶対、癒されると思ったのでしょう。このところから私たちは盲人たちの信仰を学ぶ必要があります。それは切なる求めであります。イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されました。しかし、原文は「求め続けなさい。捜し続けなさい。たたき続けなさい」と継続形に書かれています。

 イエス様は変貌山でモーセとエリヤを呼んでサミット会議を持たれました。三人は「エルサレムで遂げようとするエキサダス(出エジプト)」について話していました。イエス様は弟子たちに「エルサレムに行って、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがなければならない」と告げました。イエス様はその時から、まっすぐエルサレムに御顔を向けて歩まれました。この時は、エリコの町を通過して、エルサレムに入る直前でした。マタイ21章にはエルサレム入城のことが記されています。ということは、イエス様は二度とエリコには戻らないということです。二人の盲人の物乞いは、知ってか知らずか、そのチャンスを逃しませんでした。しかし、彼らは目が見えないのでイエス様のところに行けません。できることは、大声を上げて呼び止めるしかありません。彼らは「うるさい、黙れ」と言われても、ますます「主よ、私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫びたてました。イザヤ書にとてもふさわしいみことばがあります。イザヤ556「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」そして、聖歌にもあります。聖歌540「主よ、わがそばをば、過ぎ行かず、汝が目をばわれに、向けたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ、切に呼びまつる、わが声に」この歌はファニー・クロスビーが作りました。彼女は医者の間違いで幼くして失明しました。生涯に6000以上の賛美歌を書いたということです。原曲はPass me not, O gentle saviorですが、Hear my humble cry「卑しい叫びをお聞き下さい」と歌っています。おそらくファニー・クロスビーは、盲人の物乞いの気持ちを知っていたことでしょう。残念ながら、彼女の肉体の目は癒されませんでしたが、霊の目は開かれました。ルカによる福音書にはこのように書かれています。ルカ1843「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」彼らは目が見えるようになった後、イエス様について行きました。これを見た民たちは神さまを賛美しました。彼らは今日明日のお金を恵んでもらったのではありません。根本的な問題が解決され、自らの足でイエス様について行ったのです。

 私たちはこのところから「切なる求め」ということを学ぶべきです。この盲人の物乞いは恥も外聞も捨てて、大声で叫びました。人々から「うるさい、黙れ」と言われてもやめませんでした。かえって大きな声で叫び、イエス様の足を止めることができました。しかし、おかしいです。イエス様はそれまで二人の声が聞こえなかったのでしょうか?それとも、そのまま通り過ぎようとされていたのでしょうか?イエス様が通り過ぎるというシーンはもう一箇所あります。イエス様が5,000人の人たちを奇跡的に養った後、弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に舟で向かいました。マルコ648「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」なんとイエス様は薄情なのでしょうか?弟子たちが必死に漕いでいる舟の脇を通り過ぎようとされました。この2つの箇所から、何か共通することがあります。イザヤ書には「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」とありました。奇跡というのは、いつでも起こるわけではないということです。神さまが介入してくださる時を逃してはいけません。でも、こちら側は「イエス様にご迷惑をかけてはいけない。お手すきのときで結構です」と辞退するかもしれません。私たちも偉い方にお願いするときは、そのようになります。でも、せっぱ詰まっている場合はそうではありません。何をやってもダメで、どん底であえいでいる時がそうです。私はリバイバルのため聖霊の油注ぎを求めた先生方の本を何冊も読みました。それらの本にはdesperateという言葉が記されていました。 Desperateというのは、「自暴自棄の、必死の」という意味ですが、「…が欲しくてたまらない、何としても必要で」という意味があります。本の先生方は「私は聖霊の油注ぎがなければやっていけません」と切に求めました。そうするとある日、突然、聖霊が上から臨み、電気に打たれたように打ち倒されました。そして、「死にそうです。もう結構です。いや、もっと下さい」と叫びました。その後、先生方のミニストリーが全く変わり、しるしと奇跡の伴う宣教ができたということです。私もこれにあこがれています。問題は、それだけの飢え渇き、切なる求めがあるかどうかということです。

 私たちはこの世のものである程度満たされています。「霊的なものがなくても良いかな?」と思ってしまいます。テレビやスマホ、人々との会話、悪いわけではありません。ショッピングやおいしい食事、観光、悪いわけではありません。でも、ある程度満たされていますと、霊的な飢え渇きがありません。祈りも静かに上品になります。「みこころならば与えてください。みこころでなければ結構です」みたいな祈りをします。イエス様にご迷惑をかけたくないからです。ということは、そこまで行き詰っていない、desperateまで達していないということです。それはある意味では不幸と言えるかもしれません。なぜなら、ベター(より良いもの)で満足しているからです。「ベターはベスト(最上)の敵である」と聞いたことがあります。「この世」の特徴は何でしょう?この世のものは、イコール、罪ではありません。この世のものは、私たちを神さまから引き離し、さらに私たちを占有します。いつの間にか私たちの関心が、神さまよりもこの世のものに捕らわれている、それが占有です。そうなると、イエス様が近くにおられるのが分かりません。いつまでも続くベストなものは神さまが持っておられます。この盲人たちのように、叫んで求めましょう。チャンスを逃してはいけません。主はあなたの求めが本当なのかご覧になっておられます。主があなたに答えようとしているその時、イエス様に求めましょう。

2.明確な求め

 マタイ20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。イエス様は超自然的に人の心を読み取ることができます。ですから、この時も盲人たちが何を求めて来たのかご存じだったと思います。でも、あえて「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれたのは何故でしょう?もし、この記事を客観的に見るならばどうでしょう?この人たちは毎日、「私たちをあわれんでください」と道行く人たちにほどこしを乞うていたと思います。ということは、このことばは彼らの常套句、決まり文句だったわけです。彼らはそうやって毎日、いくらかの施しをいただいて生活してきました。今回は、ただ「ダビデの子よ」と呼び方を変えただけに過ぎないように思えます。人々は、イエス様に金銭の施しを求めているのだろうと思ったかもしれません。だから、「うるさい、だまれ」とたしなめたのでしょう。マルコによる福音書を見ると、イエス様はこのように言われました。マルコ1052するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」イエス様は彼の信仰をほめています。マルコ福音書はひとりですが、マタイはふたりの盲人になっています。どちらにしても、彼らには信仰がありました。では、どのような信仰なのでしょうか?二人はイエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」このようなことを普通の人には願うことができません。盲人の目を開けるなんてことは、普通の人にはできません。そんなに大きなことを願うということは、信仰がなければできません。二人の盲人は、イエス様のことを「ダビデの子よ」と叫びました。このところでは「主よ」と呼びかけています。明らかに「イエスは主である」という信仰があります。「このお方だったら、自分たちの目を開けることができる」と信じていたのでしょう。だから「主よ。この目をあけていただきたいのです」と願ったのです。イエス様の中に、あわれみが生じ、彼らの目にさわってあげました。すぐさま彼らは見えるようになりました。彼らの信仰のごとくに癒されました。彼らは物乞いを卒業し、イエス様について行きました。人々はその光景を見て、神さまを賛美しました。

 私たちはこのところから何を学ぶべきでしょう?CSルイスという人は、「奇跡自体は主のメッセージである」と言いました。つまり、ここでは「ただ目の見えない人が、見えるようになった」という意味ではないということです。イエス様はこの奇跡を通して私たちに何かを教えておられるということです。最初のポイントでは「切なる求め」ということを学びました。本当に飢え渇きをもって求めているかということです。二人は「目が開けられるなら自分たちの人生は変わる」と必死に求めました。この時を絶対逃したくないので、だまれと言われても叫び求めたのです。第二は「明確な求めです」。イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と問われました。この時、「もう物乞いをしなくても良いように、一生分のお金をください」と願っても良かったはずです。でも、二人は「主よ。この目をあけていただきたいのです」と願いました。イエス様は超自然的に彼らの願いは分かっていました。でも、あえて彼らの口からそのことばを聞きたかったのです。なぜなら、彼らの信仰にご自分の信仰をプラスしたかったのです。イエス様は少し前に、「からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」(マタイ1720)と言われたことがあります。この二人にはからし種以上の生きた信仰がありました。二人ははっきりと「この目をあけていただきたいのです」と告白しました。イエス様は彼らの信仰にご自分の偉大な信仰をプラスしたのです。まるで、コンセントのプラグに差し込まれる時のように、癒しの力が二人に注がれたのであります。すぐさま彼らの目は見えるようになりました。このようにイエス様は私たちが求めるとき、明確に、具体的に求めることを願っておられます。明確に口で言うというのは、私たちに信仰がなければできません。このとき、「みこころでしたら」「もし、おできになるのでしたら」みたいな、言い方は不信仰であり、失礼です。ダイレクトに「〇〇していただきたいのです」と言えば良いのです。イエス様は「よく私に大きなことを求めたものだ。すばらしい信仰だ」と、むしろ喜んでくださいます。イエス様に小さなことしか求めない人はイエス様の力をみくびっている人です。でも、イエス様に大きなことを求める人は、イエス様はそれができる偉大な神さまであると信じている証拠であります。

 西洋周りのキリスト教は非常に上品なところがあります。彼らのように大声で叫んだりはしません。教会は上流階級の人たちが来るところであり、物乞いの盲人など来るところではありません。現代は医学が発達し、経済的にも満たされているので、このような奇跡は不要です。むしろ、私たちの霊性が高められ、神さまと聖い交わりを喜ぶべきです。日本の教会は西洋周りのキリスト教の影響を多分に受けています。そのため、きょうのような記事は飛ばして、すぐ21章に行くかもしれません。あるいは「目を開けて下さい」というのは、「心の目であって、それは霊的なものです」と解釈するかもしれません。そうではありません。物乞いの盲人たちが、イエス様によって肉体の目が開けられて、自分たちの足で歩いて生活できるようになったのです。これは奇跡であり、イエス様が肉体を含め、生活全部のことに関心をもっておられるという証拠です。私たちはイエス様が根本的な救いを与えたことを理解しなければなりません。教会は弱い人たちを助けるためボランティア活動など、世の中を明るくするようなことを進んでします。それらは良いことです。でも、盲人の人生を根本的に変えるためには、盲人の目を開けなければなりません。少しの施しや、生活のお世話だけでは、彼らの人生を根本的に変えことができません。イエス様はヨハネ14章でこのようにおっしゃいました。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」アーメン。私たちもイエス様と同じようなことをすべきであります。目の前に盲人の人がいたら、目が開けられるように祈るべきであります。こういうことを言うと、私にもプレッシャーがかかります。でも、私たちはこの世にいるすべての盲人の目を開くようにとは命じられていないと信じます。イエス様もご自分から盲人たちを探し回って、盲人を片っ端から癒したとは思いません。イエス様はご自分のところに、癒しを求めてきた人たちを癒されました。きょうのところから、「切なる求め」「明確な求め」が必要なんだということを学びました。もちろん、神さまはどんなことでもおできになられます。でも、奇跡が起こるためには、受ける側の信仰と与える側の信仰がマッチする必要があると思います。たとえ受ける側の信仰がからし種のような大きさでも、神さまご自身が臨まれるなら、癒されると信じます。一番重要なのは、私たちができるか、できないかではなく、癒しの器として私たちを差し出すということです。聖霊様が「今、この人が癒されるので宣言しなさい」とおっしゃれば、「今、この人が癒されました」と言えば良いのです。主は、このような「知識のことば」で人々をお癒しになることもあります。ある時は手を置いても良いし、ある時は唾で泥を作って目に塗ることもあるでしょう。主が導かれたら、どんなことでもする覚悟で臨まなければ、癒しの器になることはできません。

 きょうのメッセージのまとめをいたします。イエス様はふたりの盲人の目を開けてあげました。でも、この二人は一生懸命できることをしました。自分から行けないので、大声を上げて叫びました。今、この時を逃してはならないと必死に求めました。そして、イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。私たちも祈っている最中、イエス様から「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれることがあるでしょう。たとえ、そのような声が聞こえなくても、イエス様「このようになることです。このようなことを叶えていただきたいのです」と明確に求める必要があります。ある人たちは、イザヤ書55章のみことばを引用し「私たちの思いと神さまとの思いとは違うんだ」と言うかもしれません。でも、私たちはイエス様によって父と子どもの関係になりました。子どもは父親に遠慮しません。遠回りにも言いません。はっきりと「これ欲しい」「こうしてくれ」と言います。お願いではなく、要求に近い求め方です。それだけ親子関係は親しいということです。もちろん、父なる神さまに対してある程度の礼儀は必要です。でも、イエス様にだったらもっとダイレクトに願っても大丈夫です。だから私たちは「イエス様のお名前によってお祈りします」と言うのです。たとい無礼講で一方的でわがままな祈りであっても、イエス様のお名前を通すなら、ちゃんと調整していだたけるという約束であります。もし、みこころと違うならば、内におられる聖霊(神の霊)が「こういうふうに修正しなさい」と教えてくださいます。また、祈っているうちに自己中心的な願いが聖霊の火によって聖められ、神さまの御座に届く祈りに変えられます。最初から綺麗で整えられた祈りにする必要は全くありません。重要なのは、「神さまにはできる」「イエス様にはできる」という信仰です。父なる神さまが、イエス様が叶えて下さると信じるので、切に求め、明確に求めるのです。詩篇374「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」アーメン。

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2017年7月14日 (金)

偉くなりたいと思うなら マタイ20:17-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.16

 イエス様はご自分がエルサレムで苦しみにあって死ぬことを度々、予告しています。きょうの箇所は3度目であり「十字架につけられる」と明言しています。ところが弟子たちはイエス様がエルサレムに上ったら、イスラエルの王様になるんだと信じていました。ですから、イエス様がエルサレムで死ぬと言われたことに、耳を傾けようとしませんでした。

1.偉くなりたいという願い

 マタイ2020-21そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」「そのとき」というのは、イエス様がご自分の死を予告した直後であります。お母さんが息子たちを連れてイエス様のところにやってきました。「ゼベダイの子らの母」とありますが、ヤコブとヨハネのお母さんです。イエス様に「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」とお願いしました。これはどういう意味でしょう?イエス様はマタイ19章においてペテロが「何もかもすてて、あなたに従ってまいりましたので何がいただけるでしょうか?」と質問しました。するとイエス様は、ご自分が栄光の座に着くとき、弟子たちが12の座について、イスラエルの12の部族をさばくと約束されました。それだけでも、すごいことなのに、このお母さんは「自分の息子のひとりは右に、ひとりは左に座れるようにおことばをください」とお願いしました。言い換えると「息子たちを右大臣と左大臣にしてください」ということです。何と身勝手でずうずうしい願いでしょうか?親馬鹿では済まされません。では、イエス様は「そんな馬鹿なことを言うな!」と一喝されたのでしょうか?そうではありません。

 マタイ20:22-24 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。イエス様が「私が飲もうとしている杯を飲むことができるか?」とおっしゃたら、「できます」とそばにいた息子たちが答えました。杯というのは、ゲッセマネの園でイエス様が苦しみもだえた後「飲む」と決断された杯です。それは人類の罪を負って、神さまから捨てられ、殺されるということです。もし、イエス様に従って来るなら、同じような杯を飲むことになるということです。マルコ10章では「なるほどあなたがたは、私の飲む杯を飲み、私のバプテスマを受けはします」と預言しておられます。この預言のごとく、ヤコブはヘロデ王によって切り殺されました(使徒122)。一方、ヨハネは殉教こそ免れましたが、パトモス島に流されます。彼らはイエス様の右と左にすわることの代償を考えていませんでした。でも、ここで学ぶことは、イエス様が右と左にすわる、つまり偉くなることを否定していないということです。26節では「あなたがたの間で偉くなりたいなら」とおっしゃっています。また、27節では「あなたがたの間で人の先に立ちたいなら」ともおっしゃっています。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定してはいません。ただし、「このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです」とおっしゃっておられることも忘れてはいけません。パウロは「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられたものです」(ローマ131「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなすように」(Ⅰテモテ21勧めています。聖書はこの世に高い地位の人たちがいることは、神の許しであると言っています。

 少し角度を変えて考えたいと思います。私たち人間には様々な欲望があります。マズローという心理学者は人間には五段階の欲求があると言っています。一番目から三番目が食べて寝て、仲間や家族と安全に暮らすということです。そして、四番目が「尊厳欲求」で、五番目が「自己実現欲求」です。これら2つは高い次元のものです。私たちは人から認められ、尊敬されたい、自分の能力を発揮したいという願いがあります。これらは私たちを動かすモティベーョンであることが一般的に認められています。だから企業は目の前に人参(褒美)をぶらさげて、働かせようとするのです。イエス様も私たちの生まれつきの願いを否定してはいません。でも、偉くなったり、指導者になると、良くないことも出てきます。大きな決断を迫られたり、責任を取らされたりします。良いときは尊敬されますが、悪いときは「お前のせいだ」と言われて詰腹を切らされます。そのため現代の若者たちは、偉くなったり、指導者になるということを願わなくなりました。昔は小学生にアンケートをとると総理大臣とか会社の社長になりたいという夢が圧倒的でした。しかし、今は、男子はサッカーの選手、女子は保育士とかパテシエになりたいと言う風に変化しています。どうしても人の上に立つと、責任も大きくなります。それよりは契約社員で、休みたい時は休み、嫌な仕事だったら変わるという生き方が多くなりました。1つの原因は理想的な指導者があまりいなくなり、幻滅しているせいかもしれません。テレビや新聞で、大統領や首相、大会社の社長のニュースを見たり聞いたりしますが、あまり良いものではありません。ヒーローがいるのは、スポーツか芸能界です。私たちの中にある願いや欲望がすべて悪いものとは限りません。イエス様は偉くなりたいとか、指導者になりたいという願い自体は否定していないということです。もし、私たちの前に正しい理想的な指導者がいたなら、そのようになりたいと願うのは自然なことなのです。なぜなら、そのことに神さまが関与し、上に立つことを許しているからです。善良で神さまのみこころを行う指導者が、随所に立てられたらすばらしいのではないでしょうか?

2.偉くなりたいなら

 偉くなりたかったらこうしなさいと、イエス様はこの世と全く逆の言い方をしておられます。マタイ2025-27 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。異邦人の支配者、つまりこの世の支配者はどうなのでしょう?「その民を治め」とありますが、ギリシャ語は「圧政する」「支配する」という意味です。また「権力をふるう」とは、「職権をほしいままにする」という意味もあります。当時はローマ帝国が世界を支配していましたが、まさしく力と権力による支配でありました。これから先のヨーロッパ世界は、力と権力の闘争であったことは歴史が証明しています。現代は民主主義と言われていますが、会社や官僚の世界はやはりピラミッド型であり、上のものが下のものを支配する構造になっています。共産主義は「資本主義を壊して富を平等に分配する」と言いましたが、ひどい独裁者たちを生み出しました。イエス様のこの世の支配者の見立ては、決して的外れではありません。しかし、イエス様はとても奇妙なことを言われました。「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。」何と言うことでしょう?そんなことをしたら、支配者や権力者の思う壺ではないでしょうか?「そんなことはできるはずがない」とだれもが言うでしょう。

近年、「サーバントリーダーシップ」というものが脚光を浴びています。ロバート・グリーンリーフは「リーダーである人は、まず相手に奉仕し、その相手を導くものである」というリーダーシップの哲学を提唱しました。君臨型のリーダーシップは一番上に立っています。そして、一方的な指示や命令を与え、管理をします。下の人たちは彼に服従し、忠誠心を持ち、依存していきます。一方、サーバントリーダーシップの人は一番下で組織を支えています。ビジョンを共有し、権限を委譲します。下の人たちは、実際は彼よりも上にいるのですが、情報、提案、成果をサーバントリーダーに与えます。図を見ると分かるのですが、逆三角形になり、リーダーが一番下で、顧客が一番上にいます。現代このシステムを起用している企業がたくさんあります。たとえばスターバックス・コーヒーがあります。ある人が社長に「ここまでの成功を収めた秘訣は何ですか?」と聞きました。「多くの人から毎回その質問を受けるが、もし秘訣があるとすれば、それは戦略や戦術ではない。サーバントリーダーシップである。人に奉仕をする。人を大切にする。コーヒーを提供しながら、人を喜ばせる。改善に改善を重ね、世界企業になった」と答えたそうです。サウスウエスト航空は38年連続黒字でクレームも最低、フォーチュン誌の「働きがいのある企業」ランキング1位にも選ばれたそうです(5年前の情報)。社長は「顧客に最高の満足を提供するためには、先に従業員の満足度を高めることが必要で、だから会社として従業員に「奉仕」するというサーバントリーダーシップの考え方に基いているのです」と答えたそうです。他にはテキサス州コペル市警察、アメリカ空軍も取り入れています。日本ではサンクゼールというジャムの会社も取り入れています。久世社長はものすごいワンマン社長で、ジャム作りに成功し全国の百貨店にも商品が置かれました。しかし、直営店で失敗し、状況はどんどん悪化し自殺まで考えたそうです。社長は社員を集めて「借金が膨れ上がり、この会社はつぶれてしまうかもしれない。自分ひとりで突っ走ってしまったことを『申し訳ない』」と謝まりました。社員は愛想を尽かして皆辞めていくだろうと思っていました。ところが、結果は逆でした。「社長、何言ってるんですか。こんな状況だからこそ、皆で力を合わせて頑張りましょうよ」「社長が本音を話してくれてうれしかったです」と言われました。そこから、社長はサーバントリーダーシップを心がけるようになりました。ある雑誌のインタビューで、「社長はどんなリーダーですか?」という質問に、サンクゼールの社員はこう答えたそうです。①夢を語っている。方向性を示してくれる②話を聴いてくれる。個人的な相談に乗ってくれる。ちなみに久世社長は敬虔なクリスチャンです。亀有のアリオにも出店しています。日本でも『サーバントリーダーシップ』という本がベストセラーになりました。その本の訳者がこう言っています。「サーバントリーダーシップの歴史を振り返ってみますと、二千年前のキリストの考え方、生き方に由来します。サーバントリーダーシップというのは、古くて新しいリーダーシップの考え方なのです。

 しかし、これを方法論で捉えてしまうなら、ほころびが出るでしょう?「なんで私が頭を下げなけりゃならないんだ。私は指導者だ。下からやっとのし上がったんだ。威張って当然だろう」と心の中で思っていたならどうでしょう?私たちは心の中に持っている価値観で行動するものです。ですから、心の価値観が変わっていないのに、言葉や行いだけを変えても無理です。イエス様が言われたことは、「こうすれば良くなる」という処世術や方法論ではありません。神の国の価値観です。多くの場合、イエス様が言われるものは、この世と真逆のものが多いのです。たとえば、山上の説教では「心の貧しい人は幸いです。右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。受けるより与える方が幸い」と言われました。また、マタイ18章では「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」と言われました。きょうのところでは「偉くなりたいと思う者は、仕える人となりなさい」と言われています。ある人たちは「キリスト教は道徳的ですばらしい」と言うかもしれません。しかし、道徳ではなく、神の国から来たものです。私たちは神の国の価値観を私たちの心の中心に据えなければなりません。英語ではcore value、「中核価値観」と呼んでいます。私たちは意識はしていませんが、このcore valueによって、何かを愛し、何かを求め、何かを決断しています。core valueは強いて言うなら、「あなたの中の原則、基準、美徳」と言えます。あなたの中にあるcore valueが、神の国の価値観と一致しているかどうかが鍵であります。「偉くなりたいので仕える、かしらになりたいのでしもべになる」という方法論で捉えたなら行き詰まるでしょう。あなたの「中核価値観」になる必要があります。

3.イエスの模範

 仕えることが偉くなるための方法ではなく、あなたの「中核価値観」になるためにはどうしたら良いのでしょう?それはイエス様にならうということが重要です。さらに、ならうだけではなく、イエス様があなたの中に住んでくださるなら、自然と実行できるようになるでしょう。イエス様はどのようなお方なのでしょうか?マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」これはイエス様のことばであり、イエス様が実際になさったことです。何と言うことでしょう?イエス様こそ人々から仕えられるべき王であり、神さまでした。もし、イエス様がこの世の王であるなら、すべての人がイエス様に仕え、服従すべきであります。しかし、イエス様はこの世と全く逆のことを言われました。「人の子」というのは、イエス様がご自分を呼ぶときに用いた表現です。これは完全な人間であり、神さまに完全に服従した人間の代表という意味が含まれています。本来、イエス様は神であり、神と共におられたのですが、この地上に人間として来られ、人々に仕えました。典型的なことがヨハネ13章に書かれていますが、最後の晩餐のときに弟子たちの足を洗われました。外から家に入ってきたとき、召使が人々の足を洗ってくれます。しかし、弟子たちは「だれが一番偉いだろうか」と競っていたので、人の足を洗ってあげるなんて考えていませんでした。弟子たちは知らんぷりして、席についたのです。ところが、イエス様がたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手ぬぐいで拭いてあげました。最後にイエス様はこう言われました。ヨハネ1314-15「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」ここでもおっしゃっておられるように、イエス様は模範となられました。方法論ではなく、「私のように人々に仕えるように」と、弟子たちに体験的に教えられたのです。

 私たちはその場にいませんでした。その場にいた弟子たちだったら、「ああ、そうかイエス様が私に仕えたように、私も人々に仕えます」と言えたでしょう。でも、私たちにイエス様から仕えられた経験がないなら、単なる教えになって、「中核価値観」にまでには至りません。私たちのcore valueが、神の国の価値観と一致するためには、イエス様を体験しなければなりません。つまり、イエス様が私に仕えてくださったということを実際に体験するということです。でも、そのようなことが可能なのでしょうか? もう一度お読みいたします。マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」そうです。イエス様が究極的に人々に仕えた出来事とは何でしょう?それは多くの人のために、贖いの代価として、自分のいのちを与えたことです。ご自分の命を十字架上で捧げたことが、神のしもべとして来られた目的でありました。イザヤ書53章は、罪のために死ぬという苦難のしもべの預言です。イエス様が私に仕えてくださったというのは、イエス様が私のために命を捨てて贖ってくださったということです。簡単に言うとイエス様にお世話になったということです。イエス様がペテロの足を洗おうとしたとき、「決して私の足をお洗いにならないでください」と断りました。するとイエス様は「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」と言われました。これはどういう意味でしょう?足を洗うとは、罪を赦すということです。つまり、イエス様から罪を赦していただいたことがないなら、イエス様と何の関係もないということです。クリスチャンであるなら、もれなくイエス様から仕えていただいたことがあるのです。イエス様はあなたの罪を贖うことによって、仕えてくださったからです。イエス様は仕えることの、私たちの模範となられました。同時にまた、イエス様は仕えるなら結果的にどうなるか保証にもなられました。

 ピリピ2章にそのことが書かれています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」このところに、イエス様が仕える者として来られ、罪を贖ってくださったということが記されています。だけどそれだけではありません。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」なんと、イエス様は父なる神さまによって、高く上げられ、すべての名にまさる名が与えられました。どん底から、天の高くまで引き上げられました。これはどういう意味でしょう?みなに仕えるなら、神さまがあなたを引き上げ、偉い者として下さるということです。また、しもべになるなら、神さまがあなたを引き上げ、先に立つ者として下さるということです。Ⅰペテロ56「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。私たちは自ら偉くなろうと努力する必要はありません。むしろ自らを低くして仕える者となるように努力するのです。そうすれば結果的に、神さまが高めてくださるのです。神さまは神の国の価値観をもった指導者をお立てになりたいのです。そして、ご自分の思いをこの地に満たしたいのです。神さまは人を必要としています。かつてはイエス様をこの地に遣わしました。現在はイエス様に贖われた人たちを用いたいと願っておられます。もし神さまから与えられた権威と力を正しく用いるならば、下の者たちは恵まれて暮らすことができます。この世の人たちは権威と力を誤用するので、下の者たちが苦しむことになるのです。神さまもこの世も、正しい指導者を必要としています。権威と力の大小はあるかもしれません。遣わされているところも様々です。家庭、職場、地域社会、国家がその領域です。政治、ビジネス、芸術、学業、医療、スポーツがその領域です。あなたが仕える場所はたくさんあります。ビル・ジョンソンのことばです。「しもべのように支配し、王のように仕えましょう。」

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2017年7月 7日 (金)

ぶどう園のたとえ マタイ20:1-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.9

 ぶどうの収穫できる期間はそんなに長くありません。熟したらすぐ刈り取る必要があります。「猫の手も借りたい」ほどの忙しさなので、オーナーは大勢の労働者を雇わなければなりません。たとえの中では、夕方の5時に雇われて1時間しか働かないのに1日分の賃金を与えています。現実にありそうもない出来事かもしれませんが、たとえ話ではありえることなのです。朝6時から12時間働いた人と、たった1時間しか働かなかった人を対比するための興味深い設定になっています。

1.たとえの背景

 「たとえとは、天的な意味を持った地上の物語である」と言われています。イエス様は冒頭で「天の御国は…のようなものです」と言われました。イエス様は天国のある出来事を教えるために、地上のぶどう園の話をしたのです。これを天国のたとえではなく、この地上の出来事であると読むならば、とても腹が立つのではないでしょうか?「なんで、1時間しか働かない人に1日分の賃金を与えるのか?朝早くから働いた人たちが可哀そうじゃないか?こんなひどい話はない」と言うでしょう?そもそも「たとえ」とは何なのでしょうか?たとえはギリシャ語でパラボーレであり、「そばに投げる」「そばに置く」という意味があります。比較し易いように、1つのものを他のもののかたわらに置くということです。この箇所ではぶどう園の収穫をする労務者の話がなされています。しかし、それは同時に天国の何かを教えているということです。イエス様は天国に関する多くのことをたとえで話されました。なぜでしょう?天国は見えないからです。一方、地上のものはよく見えます。地上のものが分かった後、「ああ、天国はこうなんだ」と理解させるためにイエス様はたとえを用いて話されたのです。

 たとえ話の意味をさぐるため重要なポイントがあります。それはたとえ話がだれに向けて語られているのか背景を知るということです。いきなり、たとえ話に飛び込みむと、迷ってしまいます。この解釈はキリスト教会によく知られている間違いです。朝早くぶどう園に雇われた人とは、子どものときから教会に行っている人です。特にクリスチャンホームの子どもは「あーしてはいけない、こうしてはいけない」と窮屈な生活を強いられてきました。朝9時とは10代か20代に救われた人、大学の聖研とかで救われた人です。12時の人とは30代か40代です。午後3時の人とは50代か60代です。夕方5時とは70代か80代です。そういえば、最近、当亀有教会では潮田兄姉の両方のお母さん、柏姉のお父さんとお母さんが洗礼を受けられました。私の妻の京子さんのお母さんもそうです。みなさん80代から90代です。人生の黄昏時、イエス様を信じて洗礼を受けられるなんてすばらしいですね。でも、このたとえをそのまま読むとどうでしょう?「CSの時から教会に来た人はたくさん奉仕をして、罪を犯さないで真面目に生きて来ました。なのに、80代の人たちはさんざん好きなことをして、死ぬ前に『イエス様信じます』と洗礼を受ける。ずるい、何の苦労もしていないのに!」と言わないでしょうか?私は柏姉の実のお父様のご葬儀のとき「この方はずるい」と言いました。さんざん好きなことをして、さんざん家族に迷惑をかけて、亡くなる直前に天国に入ったからです。これは私の見解ではなく、奥様や柏兄姉の情報を得たゆえのものです。でも、火葬場から帰って、故人のご兄弟の話を聞いたら、「確かにそうだな」と納得しました。詳細は故人の名誉のために割愛させていただきます(きょうは納骨式です)。

 でも、このたとえの意味はそうではありません。私たちは、いきなりたとえ話に飛び込んではいけません。「このたとえ話の背景は何か?」「だれに向けて語られたのか?」を調べなければなりません。聖書は便宜上、何章・何節と書かれていますが、原文はそのような分け方はしてありません。だから20章に縛られないで、19章も見る必要があります。19章後半には青年役員が永遠のいのちを得るために何をしたら良いか、イエス様を訪ねました。イエス様は、律法を守っていると自負する若者に、「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言いました。それは「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を守って完全になるためです。でも、彼は多くの財産を持っていたので、それができず、悲しんで去って行きました。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と言われました。弟子たちが、「それでは、だれが救われるのでしょう」と驚いて言いました。その後、ペテロが「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」(マタイ1927と言いました。これです。ペテロのことのことばが「ぶどう園のたとえ」の背景になっているのです。

 イエス様は「世が改まって、人の子が栄光の座に着く時、弟子たちが12の座について、イスラエルの12部族をさばく」と言われました。さらには、「ご自分のために家、兄弟、姉妹、父、母、子を受け、また永遠の命を受け継ぎます」と約束されました。なんと、ペテロたちは、イエス様が御国の王になった暁には、12部族をさばく大臣になるというのです。なんというすばらしい報いでしょうか?でも、弟子たちはそれで満足できませんでした。それではだれがイエス様の右に、だれが左に座るかを争っていました。最後の晩餐の時も「だれが一番偉いだろうか」と論じていました(参考.ルカ2224)。イエス様は弟子たちがそうなることを予測してこのたとえ話をされたのです。最後に、イエス様は「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」(マタイ1930)と謎めいたことをおっしゃいました。同じことばが、このたとえ話の最後にも言われています。マタイ2016「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」。つまり、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」とペテロが言ったことばが背景になっているのです。イエス様は、まだ、何かを欲しいと要求する弟子たち、特にペテロのためにこのたとえを語られたのです。

2.たとえの意味

 たとえの意味を考える前に、たとえの内容を簡単に見たいと思います。まず、ぶどう園に、一番最初に招かれた人たちの特徴とは何でしょう?聖書に「朝早く」と書かれていますが、英語の詳訳聖書には「夜明け」と書かれていますので、おそらく午前6時頃だと思います。彼らは午後6時まで12時間働きました。どのくらい大変だったか、彼ら自身が述べています。「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ2012。原文には、「暑い中で、一日中、重荷を運んだ」と書かれています。おそらく、ぶどうを摘み取り、それを籠に入れて運び、牛車に積んだのでしょう。日中はものすごく暑くて、汗だくで、奴隷のように働きました。それに比べて、午後5時に雇われた人は、夕方の涼しい時刻で、しかも1時間です。なのに、1日分の賃金を与えられました。この極端さが、このたとえの醍醐味というか痛快さになっています。このたとえは、端的に言うと2つのグループに分けることができます。第一のグループは、朝6時に雇われ、一日中ぶどう園で働いた人たちです。第二のグループは、朝9時、お昼12時、午後3時、そして午後5時に雇われた人たちです。この2つのグループの決定的な違いは何でしょうか?それは第一のグループは、一日1デナリの約束をしているということです。当時、ローマが発行したデナリ銀貨がありました。その頃の労働者の1日の賃金の目安はデナリ1枚 でした。現在では1万円くらいかもしれません。第二のグループは主人が、いくらあげると約束していません。「相当のものをあげるから」と言っただけです。このことばは、午後5時に雇われた人にも言われました。英語の詳訳聖書には「あなたは正当でフェアーなものが得られるだろう」と書かれています。つまり、第二のグループは主人のことばを信用して、働きに出かけたということです。いくらもらえるとは聞かされなかったけど、「きっと労働に見合った賃金がいただけるだろう」と信じて働いたのです。

 午後6時になり、支払の時が来ました。どういう訳かご主人は午後5時に雇われた人たちから先に払いました。その人たちはびっくりしました。「え?1時間しか働かなかったのに、1デナリもらうとは!」。ものすごく喜んだでしょう。午後3時の人も、お昼12時の人も、そして午前9時の人も、1日分の賃金をもらって喜んだと思います。しかし、喜べないグループがいました。それは朝早くから働いていた第一のグループの人たちです。彼らは午後5時の人が1デナリをもらったとき驚いたでしょう。「え?1時間しか働かなかったのに、1デナリもらうとは!」。同じ驚きでも、疑いと不満の驚きです。午後3時の人も、お昼12時の人も、そして午前9時の人も、1日分の賃金をもらうのを見ました。彼らは心の中で考えたでしょう?「俺たちは朝早くから、一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのだから、3デナリくらいもらっても良いだろうなー」。ところが、驚いたことに彼らが受け取った賃金は、1デナリでした。そのため、彼らは主人に文句を言いました。労働者の立場から考えたら、当然と言えば当然です。しかし、雇人はどう答えたでしょう。マタイ2013-14しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。』そうです。第一のグループの人たちとは「一日1デナリ」と約束していました。だから、主人は不当なことはしていません。

さて、「文句を言ったひとり」とはだれのことを指しているのでしょうか?それは「私たちは何がいただけるでしょうか?」と言った弟子のペテロです。ペテロと他11人の弟子たちは、当初からイエス様に従いました。文字通り、すべてを捨てて従ったのです。それはペテロだけではありません。マタイだって取税人という職業を捨てました。3年間、イエス様と同行しました。しかし、これから先、弟子たちはイエス様を失い、どん底に落とされました。もう一度、昔の仕事に戻ろうかと思ったくらいです。でも、私たちはその先のことを知っています。ペンテコステの日、聖霊が注がれてからどうでしょう?ペテロが大説教して、一日に3000人も救われました。数日後、足なえの人を歩かせ5000人にも膨れ上がりました。ところが宗教的な指導者たちから捕えられ、議会に引き渡されました。でも、天使に救い出され、迫害を恐れず、なおも宣教しました。ペテロは初代教会の指導者になりました。最初に召された弟子たちは、十字架と復活を経てからものすごく用いられました。彼らこそぶどう園に最初に招かれた人たちです。でも、イエス様は謎めいたことをおしゃいました。マタイ20:16「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」このことばは、マタイ19:30にも書かれていました。ぶどう園の賃金が支払われるのが、逆になるということです。後から雇われた者が賃金を先にいただいて、最初に招かれた人たちが最後になることがあるということです。これはいつ実現したのでしょうか?一番最初に成就したのは、使徒パウロのことです。使徒パウロはイエス様から召されていません。十字架も目撃していません。むしろ彼は初代教会の人たちを迫害したやっかい者でした。ところが彼は復活の主と出会ってから用いられました。使徒の働き12章まではペテロのことです。しかし、使徒の働き13章から28章まではパウロのことです。パウロは小アジア、ギリシャ、ローマへと宣教に出かけました。そればかりではありません。新約聖書の半分、13の手紙を書きました。パウロによって教会の神学的な土台が打ち立てられました。ペテロではなく、パウロです。これにはペテロをはじめ他の使徒たちはむかついたと思います。まさしく、あとの者が先になったのです。

 ペテロは昔から目立ちがり屋で、一番になりたい人でした。よく他の弟子たちと比べていました。ヨハネ21章にはペテロとイエス様の会話が記されています。ヨハネ21:21-22 ペテロは彼(ヨハネ)を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」このペテロへのことばは、私たちのことばでもあります。私たちも人とくらべて生きているかもしれません。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」私たちは人と比較しないで、イエス様だけを見て従えば良いのです。「相当のものをあげる」とおっしゃるイエス様を信じて。アーメン。

3.たとえの適用

 私たちはたとえの背景、たとえの意味を知りました。そこにはイエス様のメッセージがかくされていました。ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」と言いました。ところが、イエス様はぶどう園のたとえによって、召して下さった方を信頼することを教えてくださいました。私たちは12弟子ではありませんから、「相当のものをあげる」とおっしゃるイエス様を信じて従うべきなのです。これが天国のたとえの真の意味であります。でも、ここから一歩踏み込んで、私たちの生活にどう適用するかを考えなければなりません。このたとえで私たちが学ぶべきこととは何でしょう?それは、奉仕の心構えであります。私たちはそれぞれ種類や程度は違いますが、神さまに仕えています。直接、教会の奉仕をしておられる兄弟姉妹もおられます。私もその一人です。でも、奉仕は教会内のことだけではありません。伝統的な教会は、4つの壁に囲まれた建物で活動することが奉仕だと定義していました。世の中の仕事は世俗的で、教会内の奉仕は聖いと言ってきました。しかし、そうではありません。マタイ25章には、「最も小さい者たちのひとりにしたのは私にしたのです」と書かれています。また、エペソ5章には「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」と書かれています。さらに、エペソ6章には「キリストに従うように、地上の主人に従いなさい。…人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。…それぞれの報いを主から受けることをあなたがたは知っています」と書かれています。私たちの奉仕は教会という建物の中にとどまらず、この世においての仕事や活動にも奉仕の部分があるということを忘れてはいけません。私たちは賃金を得るためだけに働いているのではありません。ある部分は、主イエス・キリストの御名のゆえに奉仕しているのです。ちなみに奉仕は英語でサービスとも言います。サービスはこの世で誤解されています。本来の意味は、勤め、奉職、公的な勤務です。雇われるという意味だけではなく、積極的な意味もあることを忘れてはいけません。つまり、この世の賃金以上にやったことは、主イエス様にしたことだと思って良いのです。

 もう1つ考えられることは、ペテロや他の弟子たちは、教会を最初から支えて来た兄弟姉妹にたとえることができます。教会の開拓は大変です。会堂建築もそうです。ある人たちは給与のほとんどささげ、仕事以外の時間をすべてささげて奉仕します。牧師先生を支え、教会がある程度、自立してきました。新会堂の返済もやっと終わりました。ハレルヤ!でも、面白くないことが起こりました。最近、救われた人たちが、我がもの顔のように会堂を使っています。「この設備が悪いとか、ここが足りない、あそこが足りない」と文句を言います。先輩クリスチャンは、「新しい人が救われて感謝だなー」と最初は思っていました。ところが、「私たちは当初から犠牲を払って仕えて来たのに、何だか疎んじられている。あんたらどのくらい土地と会堂にささげたんだ。」と文句が出るかもしれません。当教会ではそういうことを言う人はいなかったかもしれません。でも、ゴスペルで若い人たちが救われた直後、寂しい思いをした先輩クリスチャンがいたかもしれません。私も2002年に礼拝形式を全く変えて、讃美歌からワーシップソングに変えてしまいました。さらには日本基督教団から離脱し、単立教会になりました。「これまでずっと日本基督教団でやって来たのに!」と反感を覚えた兄弟姉妹もいたかもしれません。まさしく、先輩クリスチャンはペテロのような気持ちになりえます。「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」(マタイ2012。牧師は教会が大きくなることを願います。多くの人が救われ、人数が増えて、にぎやかになることを願います。ところが、家庭的であった教会が今度は、デパートみたいになります。名前も顔も知らない人たちが教会を出入りしています。そうすると、もう自分の教会でないような気がするかもしれません。そのときこそ、このぶどう園のたとえを思い出さなければなりません。一番重要なのは、奉仕の心構えであります。一体だれが、報いて下さるのでしょうか?それは人ではありません。イエス様です。私たちは人からも認められたいと思っています。もちろん、そういうことがあったら幸いですが、そうでないときもあります。

 私は救われて1年後に献身を表明して神学校に入りました。そうすると大川牧師の態度が全く変わりました。それまではお客さんのように丁寧に扱ってくださいました。ところが、献身を表明してから、「私はもうあなたに気を使わないから!」と冷たく言われました。それだけではありません。奉仕をしてもあまり感謝をされません。聖書の「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカ1710口語訳)のようです。どうでしょう?いつまでも気を使われたら、それはお客さんです。もちろん感謝はあって良いと思いますが、なければなくても良いのです。なぜなら、それは同労者扱いだからです。使徒パウロにはテモテをはじめ、たくさんの同労者がしました。イエス様はペテロたちには厳しかったかもしれません。でも、イエス様は彼らを使徒、いや同労者として扱ったからであります。ヨハネ15章には「しもべではなく友と呼ぶ」とまで書かれています。大川牧師は私を冗談半分で「一番弟子」と呼んでくれます。おそらく、他の人にもおっしゃっているのだと思います。でも、イエスさまから「お前は私の弟子だよ」と言われたら嬉しいですね。弟子とはイエス様の真似をしながら、イエス様の奉仕をする人です。イエス様がなすべきことを、私たちが代わりに地上で行うとしたら、これほど光栄なことはありません。かしらなるイエス様は現在、天上におられます。私たちがイエス様の手であり、足であり、口であるとしたらどうでしょう。ペテロのように「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか?」と言うべきでしょうか?そうではなく、私のようなものにお声かけてくださりありがとうございます。私は午後3時の人間ですけど、よろしくお願いします。私は午後5時の人ですけど、よろしくお願いします。あと1時間しか働けないんですけど良いですか?聖書を見るとこの人は「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」と答えています。「だれも使ってくれないのでぶらぶらしていました。」でも、主人は「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言われました。なぜなら、ぶどうの収穫時は、「猫の手も借りたい」ほどの忙しさだからです。魂の収穫時、リバイバルが起ったら、そうなります。

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2017年6月23日 (金)

永遠の報い マタイ19:23-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.25

 一人の青年が「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょう?」とイエス様に質問しました。イエス様は、彼が行いによって救いを得ようとしたので、律法の道を提示しました。彼は「そのようなことはみな、守っております。何が欠けているのでしょうか?」と返しました。イエス様は「完全になりたかったら、財産を売って貧しい人に施しなさい」と言われました。彼はそのことばを聞くと悲しんで去って行きました。なぜなら、多くの財産を持っていたからです。きょうはその続編であります。

 

1.神にはできる

マタイ1923-25 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」当時のユダヤ人は、「神さまの祝福を受けて金持ちになったんだ。金持ちこそが天国に入ることができる」と考えていました。考えてみると、金持ちは簡単になることができません。お金を儲けるための知恵や才能、努力、そして倹約精神が必要です。浪費家は金持ちになることができません。もし、親からの遺産であるなら、それはそれで祝福であります。さらにユダヤ人は、金持ちは貧しい人たちに施しをするために神さまが祝福していると考えました。だから、施しを受ける人は、そんなに卑屈にならなかったのです。イエス様のもとを去った青年のことを考えてみましょう。彼は若くして役人であり、多くの財産を持っていました。子どものときから律法を守り、悪いことをしていません。それなのに、イエス様は「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われました。マルコ福音書には「みな売り払って」、ルカ福音書には「全部」と書いてあります。なんと酷なことでしょう。彼が悲しみながら立ち去ったあと、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とおっしいました。だから、弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と言ったのです。「たいへん驚く」はギリシャ語では「驚愕する、びっくりたまげる」という意味です。イエス様が、ユダヤ人の常識とかけはなれたことをおっしゃったからです。それほど、弟子たちの価値観はこの世的であり、神の国の真理とはかけ離れていたということです。

なぜ、金持ちが天国に入るのがそれほど難しいのでしょうか?イエス様に近づいた青年は多くの財産を持っていました。先週も説明しましたが、その財産が偶像になっていたのです。「もし、財産を失ったなら、どうやって生きていくんだ」と思ったのでしょう。その結果、永遠のいのちはどうでも良くなったのです。ルカ16章に「金持ちと貧乏人ラザロの物語」が記されています。金持ちはいつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。神さまとか永遠のいのちには全く興味がありませんでした。一方、貧乏人ラザロは神さまを礼拝していました。なぜなら、「ラザロ」という彼の名が覚えられていたからです。パウロは「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる。…金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出た」(Ⅰテモテ69-10と警告しています。では、お金は一切不要なのでしょうか?ピューリタン的な信仰を持った人たちは、清く貧しくあることを誇ります。しかし、会堂建設や宣教師を送るためにはお金が必要です。「お金は汚れている」と説教しながら、人々に献金を募るとしたら、それは矛盾していることになります。「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」という格言があります。もし、あなたがお金をよく管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべとなります。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人となるでしょう。

イエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と言われました。これは不可能だということを言うときのユダヤ人の格言かもしれません。大川牧師は、ある時、これには別の意味があると教えてくださいました。当時の町は城壁に囲まれており、日没と同時に正門を閉じるそうです。しかし、旅先から後れて到着する人がいます。そのため、正門の脇に「針の門」という小さな門があるそうです。もし、商人がそこから入ろうとするなら、らくだから荷物を全部降ろします。その後、らくだが膝を曲げて、ハイハイすれば、針の門をくぐることができます。つまり、「持ち物を全部、神さまにゆだねて謙遜にならないと神の国に入れない」という解釈です。山上の説教でも、イエス様が「狭い門から入りなさい」と言われました。イエス様は、お金持ちは神の国にはいることができないとおっしゃったのではありません。「むずかしい」とおっしゃったのです。さらに続けてこう言われました。マタイ19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」これは、ヒル・ソングの歌にもなっています。All things are possible, all things are possible.つまり、金持ちも神の力によって救われる、不可能はないということです。

聖書に金持ち、つまり富める人が良い信仰者であったという例はたくさん書かれています。父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブも富んでいました。彼らは神さまから祝福されてそうなったのです。ヨブは東の人々の中で一番の富豪でした。サタンは「主が垣をめぐらしたので、そうなったのだ」と言いました。ダビデもソロモンも富んでいました。ソロモンは箴言で「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」(箴言224と言いました。新約聖書ではどうでしょう?ルカ83「自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。」また、マルコの母マリヤも裕福でした。イエス様と弟子たちに最後の晩餐のため席を用意しました。ニコデモとアリマタヤのヨセフが金持ちであったと書かれています。この二人はイエス様の埋葬のために多くのお金を使いました。現代ではどうでしょう?クリスチャンの実業家がたくさんいます。たとえば、ロックフェラーがいます。彼の人生の前半は守銭奴でしたが、後半は多くの慈善事業を行いました。貧しい家庭の中で平凡に生まれたロックフェラーは、信仰深い母から神にいつも感謝の心を持つようにと、幼い時から次の3つの約束を守るように教えられていました。①十分の一献金をささげること(子どもの頃から小遣いの十分の一をささげていた)。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。三番目がすばらしい!

ロックフェラーに次ぐ、史上2番目の富豪とされるのがアンドリュー・カーネギーです。彼は鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称されました。カーネギーはまた、「富は決して自分のもの」なのではなく、自分に「預けられた」ものに過ぎない、という明確な認識に立っていました。彼にはもう一つの口癖がありました。それは、「富を持ったまま死ぬのは恥である」ということでした。カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をしました。音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせています。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していましたが、1925年に彼の未亡人が売却しました。現在もそのままの名前が使用されています。日本ではどうでしょう?森永製菓、ライオン油脂、山崎製パン、白洋舍、ニッカウヰスキーなど創設者はみなクリスチャンです。聖書にタラントのたとえがありますが、「預けられたもので商売してもうけた」と書いてあります。5タラントと2タラントのしもべは赤字ではなく、黒字にしてご主人に返しました。富は確かに誘惑もありますが、神を恐れて、運用するならば「よくやった、忠実なしもべ」と主から喜ばれます。イエス様は「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」と言われました。神さまは人を変えることができます。それはどんな金持ちでも例外ではありません。確かに難しいかもしれませんが、不可能ではありません。多くの金持ちの人は使い道が分かりません。だから、儲け話にひっかかったり、遺産相続で子孫を破壊するのです。正しい使い道があります。イエス様は「天に宝を積みなさい」と若者に言われました。山上の説教でも言われています。マタイ619-21「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」私たちも富を正しく用いて、自らも喜び、必要なところにささげて、天に宝を積む者となりたいと思います。天国への投資は失敗することがありません。

2.永遠の報い

 マタイ19:27-28そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」ペテロは報酬を求めました。もし、イエス様が意地悪だったらどのように返すでしょうか?「ペテロよ、お前が捨てた物とは何か?たかが、小さな舟と網じゃないか。家も妻もそのまま持っているだろう。『何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました?私たちは何がいただけるでしょうか?』なんてお前は、意地汚いんだ。無心にならなけりゃダメだ」とはおっしゃいませんでした。イエス様はちらっとそのようなことは思ったかもしれません。でも、「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」と言われました。「まことに」とは「アーメン、真実に」という意味です。「世が改まって」はギリシャ語では「再生」という意味ですが、メシヤが到来したときに霊的再生が起こるという意味です。つまり、イエス様が再臨して御国の王座についたときです。そのとき、弟子たちが、12の座について、イスラエルの12部族をさばくのです。弟子たちは最後まで、だれがイエス様の右と左に座るのか議論していました(マタイ2020-24)。イエス様は来るべき御国の王であります。やがて、イスラエルが回復され、異邦人の王たちも集まります。でも、王の王は、イエス・キリストであります。そのとき、12弟子がイスラエルの12の部族をさばくとはなんと光栄なことでしょう。

 さらに続けてイエス様がおっしゃいました。マタイ1929-30「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」これは信仰を持っているゆえに迫害に会うということです。そのとき、御名のために失うものがあります。まず家です。使徒8章には「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。…散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」と書いてあります。本来なら仕事や住む家をさがすところですが、彼らは福音を宣べ伝えることを第一にしました。彼らの労苦によって、異邦人の基地、アンテオケ教会ができました。姉妹、父、母、子というのは、家族から迫害されるということです。信仰を守るために、親しい家族を捨てなければなりません。聖書の下に注釈が書いてあります。ルカ福音書もそうですが、「妻」と書いてある聖書もあるということです。穐近祐(あきちかゆたか)牧師は戦後、アメリカから日本に渡って来た逆輸入の宣教師です。そのとき、ルカ福音書は「妻」と書いてあるので、このマタイによる福音書を引用したそうです。穐近牧師はまさしくご長男を捨てて、妻と二人で日本に渡って来ました。当時の日本は敗戦で混乱しており、食べるものもありませんでした。そういう意味でも、ご長男をアメリカに残してきたのだと思います。でも、聖書のみことばをそのまま実行して、本気モードで伝道なさった先生には敬服します。遠藤周作氏は『沈黙』の中で、家族を守るために、信仰を捨てた人の味方になっています。「自分一人の信仰を守るために、残された家族が殺されても良いのか?」と問われるならば、やっぱり厳しいと思います。でも、当時は命を捨てて、信仰を守った人たちが何十万人もいたということを忘れてはいけません。ころんだ人ではなく、命を捨てた人たちを見なくてはなりません。なぜなら、報いがあるからです。

 では、いつ報われるのでしょうか?マタイ19章には「あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と書かれています。聖書の下に注釈が書いてありますが、100倍と書いてある異本もあるようです。いつ報われるのか分かりません。再臨後、御国においては確かなのですが、この地上ではどうなのでしょうか?しかし、マルコ福音書とルカ福音書はもっと詳しく書かれています。マルコ1030-31「…畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」マルコ福音書には、今受ける分と将来受ける分が合わさっているように思えます。合せて百倍なのかもしれません。ルカ福音書はどうでしょう?ルカ1830「この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」ルカ福音書の方が、現実味があります。たとえば、ヨブは10人の子どもたちと全財産を失いました。ところが、最後には所有物が2倍に増されました。子ども新たに10人与えられ、その子の子たちを四代目まで見ることができました。イザヤ書61章にはこのように書かれています。「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」(イザヤ617)。出エジプト記22章には「盗まれたものは2倍にして償わなければならない」と書かれています。では、なぜ「100倍」などと書いてある聖書があるのでしょうか?ヨハネ12章でイエス様がこのようなことを語られました。ヨハネ1224「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」イエス様が「まことに、まことに」と2回もおっしゃっているところはそんなにありません。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びます。おそらく100倍から200倍になるのではないでしょうか?ですから、100倍はおおげさな数ではないということになります。

 昔、座間キリスト教会で奉仕していたころ、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。ご主人からものすごく迫害され、「教会に引っ越してきて、大川牧師の娘になりたい」言っていました。ある時、お風呂で倒れ、そのままお亡くなりになりました。教会で葬儀を行うことになり、ご遺体が運ばれてきました。そのとき、ご主人が来られこう言うのです。「聖書に、妻を自分のからだのように愛せ、と書いてあるのに、わしゃ愛さなかった」と悔い改めました。その後、ご主人が洗礼を受けました。また、その後、ご長男ご夫妻、さらにお譲さんたちが洗礼を受けました。「こういうこともあるんだなー」と驚きました。現代では信仰を持つことによる迫害は少ないかもしれません。ところが、戦時中、中国や朝鮮半島では日本兵による大迫害がありました。神社参拝をしないため、多くの教会が焼かれました。なぜ、韓国の教会がリバイバルしたのでしょうか?それは彼らが血を流して抵抗したからだと言われています。一方、戦時中の日本の教会は政府によって1つの教会にされました。教会を守るために神社参拝し、戦争の勝利と天皇のために祈ったのであります。教会は残ったかもしれませんが、信仰が骨抜きになり、リバイバルは起こりませんでした。それが今も引きずっています。「信仰は命がけ」と口では言えますが、いざ迫害が起こったなら、どうなるか分かりません。マタイ福音書には「家とか畑」と書いていますが、それはすべての財産を意味しています。家族も財産も失うということです。江戸時代もそうでしたが、人本主義(ヒューマニズム)が私たちの根底にあります。「絆が大事だ」とよく言われますが、もしこれが生まれつきの人間関係だとしたらヒューマニズムに陥ってしまいます。イエス様は「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ1426と言われました。私はクリスチャンになるとき、父も母も亡くなっていました。直接献身しても、末っ子なので、兄弟に全く気兼ねをすることはありませんでした。しかし、今度、家庭を持って、妻、子を捨てる番になったらどうでしょう?やっぱり、信仰が必要です。自分が得たのではなく、神さまが与えてくださったことをちゃんと理解しなければなりません。ヨブのように「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と言えるでしょうか?

 私たちは永遠の報いということを考えなくてはいけません。この世だけのことを考えるなら、「損した」「全部失った」「神さまなんかいない」「神さまはひどい」とつぶやくかもしれません。しかし、信仰者はこの世だけの人生ではありません。やがてこの世は終わり、新しい時代が来るのです。御国(千年王国)ではイエス様が王であり、私たちもイエス様と一緒に治めるのです。ミナのたとえには、忠実さによって10の町、5つの町を治める(ルカ1917-19)と書いてあります。人からの報いを受けるのを期待することは間違っています。しかし、私たちは神からの報いを期待して良いのです。神からの報いは意地汚いものではありません。聖書に「報い」「贖い」「弁償」「償い」ということばがあふれているからです。本日の箇所でも、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と約束されています。イエス様は「まことに」ということばを冒頭に添えていますので、確かであると信じます。永遠のいのちは「報い」ではありません。これは賜物です。イエス様を信じる人にはもれなく与えられるものです。しかし、御国は二段階でやってくることを理解しなければなりません。最初の御国、つまり千年王国においては報いがあります。この地上でいかに忠実に生きたかによって相続するものが違うのです。しかし、その後にやってくる新天新地においてはみな平等です。なぜなら、永遠のいのちは「報い」ではなく、信仰による賜物だからです。今、この時代が終わると、御国(千年王国)がやってきます。私たちは御国における報いを期待しながら、与えられているレースを終わりまで走る必要があります。ぜひ、いのちの冠、朽ちない冠、義の冠を得たいものです。ローマ818「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」

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2017年6月16日 (金)

永遠のいのちを得るには マタイ19:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.18

 クリスチャンであるなら、永遠のいのちを得るには、イエス様を信じれば良いということをご存じだと思います。4月の受難週のときヨハネ316節から「信じるだけで救われる」ということをメッセージしました。しかし、今日の箇所を見ると、聖書が言う福音と異なることをイエス様がおっしゃっているような感じがします。もし、救われるために良い行いが必要だとするなら、使徒パウロが言う信仰義認と矛盾することになります。イエス様はこの青年にどうしてそのようなことを求めたのでしょうか?3つのポイントでお話しさせていただきます。

1.行いの道

 この青年は、ルカ福音書には「役人」と書かれています。彼はユダヤ教の役人であり、幼い頃から宗教的な教育を受けていました。さらに彼は多くの財産を持っていました。あとで、イエス様が「金持ちが天の御国に入るのが難しい」と言われました。すると、ペテロは驚いて「それでは、だれが救われることができるでしょう」と反論しました。当時、金持ちは神さまから特別に祝福を受けた人物であると考えられていました。彼は律法を守り、正しい行いをしていたので、だれが見ても、天の御国にふさわしい人物でした。この青年はユダヤ教徒のエリートであり、「天の御国に入る人はこういう人だ」と思われていたのでしょう。私などはこういう人を見ると、少し心が穏やかでなくなります。同じ牧師でも東大卒であったり、外国の神学校を卒業していたりするとそういうことがあります。使徒パウロはⅠコリントで「神はこの世の愚かな者を、無に等しい者を選ばれた」と言っています。でも、富も地位も良い行いも、神さまからの賜物であり、それはそれで良いのではないかと思います。私も今はそのように考えるようにしています。ですから、この記事を「ざまぁ見ろ」とひねた気持ちで読むのではなく、穏やかで純粋な心で読むべきであります。

 ボタンのかけ違いはどこから生じたのでしょうか?青年が「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と質問したところにあります。彼はイエス様を「主」ではなく、「先生」と呼んでいます。おそらく彼はイエス様が何を言うか予想していたでしょう。彼は悩んで質問したのではなく、「あなたは永遠のいのちを得るのにふさわしい」という認証を得たかったのでしょう。イエス様は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と言われました。イエス様は彼が行いによる救いの道を求めたので、その道を提示しました。青年は「どの戒めですか」と高飛車に答えました。イエス様は「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。それらの律法は十戒の後半の部分でした。彼は何と答えたでしょう?「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」彼は律法を突きつけられてもひるむ様子はありません。マルコ福音書には「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と書いてあります。彼は律法の意味をよく分かっていませんでした。山上の説教には「人を憎んでも殺人、情欲を抱いても姦淫である」と書かれています。確かに彼は表面的には律法を守っているかもしれませんが、動機とか思いの部分はどうなんでしょうか?それでイエス様は決定的なことを言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」これは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという律法を行なえるか?」というチャレンジです。神の律法はそこまで要求するのであります。

 彼はどうしたでしょう?「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」イエス様に出会って、悲しんで去って行った人物はそんなにいません。イエス様は「あなたが完全になりたかったら」と青年にチャレンジしたのであります。完全とは何でしょう?それは神さまの義、100%の正しさに達するということです。パウロは「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ320と言いました。彼は悲しんで去って行きましたが、それは「自分は完全ではない、罪がある。神の標準には達していない」と悟ったからです。でも、そこで去ってはいけなかったのです。イエス様は「そのうえで、わたしについて来なさい」と言われたからです。イエス様は彼を突き放してはいません。マルコ福音書にはJesus loved himいつくしんで言われた」と書いてあります。彼の罪が律法によって暴露されました。彼が頼りにしていたものは自分の行い、そして自分の財産であったのです。神さまよりも自分の行いや富を愛することを何と言うでしょう?偶像崇拝と言います。イエス様は最初、十戒の後半は提示しましたが、十戒の前半は提示しませんでした。「この人は多くの財産を持っていたからである」とありますが、財産という偶像を拝んでいたのです。また、イエス様に従えなかったのも、神さまを第一に愛していない証拠です。私たちはこの物語を厳粛な思いで見なければなりません。良い行いによる救いの道はとても険しく、実行不可能だということです。くれぐれも行いによる救いを選ぶことのないように。律法は守るために与えられたのではなく、「あなたには罪があり、不完全ですよ。救い主が必要ですよ」いうことを教えるためにあるからです。

2.信仰の道

 行いの道と対照的にあるのが、信仰の道です。プロテスタント教会はこれをとても強調しています。でも、頭ではわかっていても、本当に魂の底まで分かっているかということです。そのことを教えてくれるのが、13節からの内容です。マタイ1913-14「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」おそらくお母さんたちが、子どもを祝福してもらうために、イエス様のところに連れて来たのでしょう。どの時代であっても、子どもというのはうるさくて、じっとしていません。もし、イエス様が説教の最中であるなら、妨害することになります。弟子たちはイエス様のガードマンのように守っていたのかもしれません。弟子たちは子どもたちの前に立ちはだかり、親御さんたちに「めんどうをかけないでくれ」と叱りました。ところが、マルコ福音書には「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた」と書いてあります。イエス様は弟子たちの子どもたちに対する態度に怒られたのです。当時、子どもたちはそんなに大事にされていませんでした。ローマ時代は特にそうであり、半人前に扱われていました。さきほどの若者と比べれば、子どもは良い行いができません。財産もない、身分もない、知識もない、能力もない、体力もない、人格的に不安定な存在です。おそらく、日本人の私たちも子どもたちを半人前のように見るかもしれません。

 イエス様は何とおっしゃったでしょうか?「天の御国はこのような者たちの国なのです。」マルコ福音書には「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(マルコ1015と付け加えられています。イエス様は子どもを前に出して、天の御国に入る道を教えました。「子ども」はギリシャ語で、パイディアであり、「little child幼いこども」であります。おそらくハイハイするくらいの幼児から、就学前の子どもではないかと思います。何と、その子どもたちは大人たちが学ぶべきものを持っているということです。なぜなら、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われたからです。さきほどの青年はどのようにイエス様に近づいたでしょうか?「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と聞きました。一方、子どもはそのようにイエス様のところに近づきません。マルコ福音書には「尊い先生」という敬語を使っています。一方、子どもはおべんちゃらを言いません。青年は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」と言いました。一方、子どもは律法を守っているのかいないのか、欠けているのかいないのか自覚がありません。たとえ律法をつきつけられても、「ああ、そうなの?ローラ、わかんない?」と答えるでしょう。でも、子どもは大人にはないものを持っています。幼い子どもは特にそうです。それは信頼する心です。言い換えると「疑わないで神の国を受け入れる」ということです。イエス様は「天の御国はこのような者たちの国なのです。」と言われました。J.Bフィリップスは、「Heaven belongs to little children天の御国はこのような小さな子どもたちがいるべきところ(ふさわしいところです)」と訳しています。どういう意味でしょう?天の御国は小さな子どもたちのような謙遜なところだということです。

 大人は神の前に「私は何ができる」「私は何を持っている」「私は何という立場である」と自分を誇るかもしれません。しかし、幼い子どもは誇りたくても誇るものがありません。何もできなし、何も持っていないし、役職も持っていません。この青年はいつしか、幼い子どもが持っていた良いものを忘れていました。自分の良い行ない、自分の財産、自分の立場、そういうもので自分を飾っていたのです。そして、イエス様の前に「尊い先生、何をしたらよいでしょう」とやってきたのです。全く傲慢で鼻持ちなりません。イエス様は不完全さを気づかせるために、十戒を提示しましたが、全く効果がありませんでした。しかし、最後に「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言われたときに、崩れてしまいました。悲しい顔をして去って行きましたが、イエス様は彼を追いかけませんでした。ペテロは「金持ちが救われなかったら、だれが救われるのですか」と驚きました。私だったら彼を追いかけて、「全部でなくて、10分の1からささげたらどうでしょうか?」と提案したかもしれません。しかし、イエス様は彼を追いかけませんでした。イエス様は、この先も彼は子どものように神さまを信頼しないことを知っていたからです。私たちは子どものようになって、天の御国を求めましょう。子どものようになって父なる神さまを信頼しましょう。そうすれば、信仰が与えられ、ますます天の御国にふさわしい者になります。私たちはある部分は成熟して大人になるべきです。しかし、子どものように純粋に神さまを信頼していきたいと思います。

3.行いと信仰

 イエス様が良い行いを要求したのは、彼が行いによる救いを求めたからです。イエス様はだれにでも「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」とは要求しません。ところが、ある人たちはこの箇所を読んだとき「天国に入るためには、全財産を捨てなければならないんだ」と考えるかもしれません。歴史的に有名なのは、聖フランチェスコでした。彼は裕福な家庭に生まれました。あるとき、彼はこの物語を読みました。そして、父からもらった財産をすべて父に返しました。着ていた衣服までも脱いで父に返したのです。そして、極度に貧しい生活をして神さまと人々に仕えました。フランチェスコは修道士になりましたが、彼の生き方に追従する人たちが次々に起りました。アッシジの貴族で大変裕福だったベルナルドは、出家の決心を固めると、自分の資産を処分してそれを貧しい人に分け与えました。その上でフランチェスコと共に生活を始めました。アッシジの貴族の娘クララは、フランチェスコの考えに共鳴して、もう一人の女性を伴って家を出ました。やがてフランシスコ会やドミニコ会などの修道会ができました。彼らは清貧の生活をしつつ神と人々に仕えました。聖フランチェスコを悪く言う人はいないでしょう。しかし、修道会は教皇下にある教会の反動として生まれたのだと思います。富は確かに誘惑にはなります。でも、富を捨てなければ神の国に入れないわけではありません。問題は富に頼るのではなく、神さまに頼るという信仰が必要なのです。

 では、良い行いは不必要なのでしょうか?また、十戒をはじめとする律法は不要なのでしょうか?私たちはここからは、成熟した大人になる必要があります。ヤコブはこのように言っています。ヤコブ224「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」ヤコブの考えはパウロの信仰義認と真向から反対するものと思われていました。宗教改革者ルターはヤコブ書を「藁の書」と卑下したくらいです。でも、ヤコブが主張する「行い」は信じた人の後のことを言っているのです。言い換えると、本当にイエス様を信じて救われた人は、行ないが現れてくるということです。もし、行ないが伴わないならば、その信仰は疑わしいものであると言っているのです。イエス様はヨハネ15章で「私はぶどうの木であなたがたは枝です。私につながっているなら、豊かな実を結ぶようになる」と言われました。良い行いは、信仰の実であります。私たちのがんばりではなく、イエス様が私たちに結ばせてくださるのです。しかし、教会はこのことを正しく捉えていません。「救いは行いではありません。信じるだけで救われます」と言います。しかし、一旦、イエス様を信じて、洗礼を受けた人にどのように指導するでしょう?「これからは聖日礼拝を守り、十分の一献金をささげ、聖書を読み、クリスチャンとして証の立つ生活をしなければなりません」と言います。ある教会では教会員になるために誓約書みたいなものを書かせられるそうです。これはどういうことを意味するのでしょうか?「救いは恵みだけけど、信仰生活は恵みだけではなく行いも必要だ」ということです。これは立派な詐欺であります。教会の指導者は「良かれ」とやっています。でも、信じたばかりの人は、それらを律法とか義務に捉えてしまい、そうできない自分に失望して教会を去って行く可能性が出てきます。真実は、信じる前も恵みですが、信仰生活も恵みだということです。

 それをささえるみことばがこれです。エペソ2:8-9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」このみことばはアーメンであり、だれも反対する人はいないでしょう。信じた後はどうなのでしょうか?エペソ2:10 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」「キリスト・イエスにあって造られた」という表現は、Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と同じ意味です。では、「キリストにあって造られる」というのはどういう意味でしょう?それは悪い行いではなく、良い行いが自然に出てくるようになるということです。なぜなら、神さまがそのような者として私たちを造られたからです。しかし、それだけではありません。神さまは「私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」とも書いてあります。「備えてくださった」は英語の聖書でordainであり、「運命的に定める、予定する」という意味があります。つまり、神さまが良い行いをこれから先、ところどころに用意してくださるということです。マラソンのコースに設けてある給水所とかバナナみたいなものでしょうか?いや、それ以上のものです。だから、クリスチャンは洗礼を受けた後でも、神さまの恵みによって生きるべきなのです。なぜなら、神さまが必要な恵みをところどころに備えていてくださるからです。

 一番してはいけないことは、律法主義による信仰生活です。律法は神さまからの命令であり、規定です。クリスチャンであってもこれは守らなければなりません。しかし、救われた後の律法は罰則のためではありません。道路のガードレールやセンターラインのようなものです。「あなたは主にあって自由です。でも、これを超えると事故に遭うか、大怪我をしますよ」という警告を与えてくれます。しかし、律法主義は違います。「律法を守らなければ神さまに受け入れられない。良い行いをしなければ神さまの愛をいただくことができない」と、恐れの動機で行うパフォーマンス指向であります。いわゆる教会の献身者が一番陥りやすいものが律法主義です。その人たちは、一生懸命奉仕をしていても顔に緊張感があります。そして、やっていない人たちを心の中でさばいています。「どうして私だけがこんなに頑張らなければならないの」と怒っています。ここに良い知らせがあります。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません。」言い換えると、肉によって神さまを喜ばせる必要はないということです。神さまはイエス様がなされたことによってもう満足しています。何かをしなくても私たちがイエス様を信じているので義と認めてくださっているからです。いわば私たちは1万タラント(6,000億円を)赦されたしもべです。なのに、「あなたに100万円お返ししますので、どうか喜んでください」と言っているようなものです。あなたが100万円償ったところで、6,000億円には遠く及びません。償いで救われようなんて、何という厚顔で、失礼なしもべなのでしょう。私たちは無限大に赦された者たちです。私たちが良い行いをするのはお返しとか、償いではありません。私たちが神の作品になったことと、神さまご自身が良い行いを備えてくださっているからです。あるいは、神さまが私たちの内に良い行いをproduce生産させてくださるのです。だから、私たちはどこまでも自分を誇ることはできません。たとい良いことができたとしても、誇るべきお方は主のみです。ハレルヤ!

 多くの人たちはクリスチャンになっても、神さまに対する神観がゆがんでいます。あなたの神さまは「まだ足りないぞ。何をしているんだ」と怒っている神さまでしょうか?あるいは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛してくださる天の父でしょうか?私たちは救われるためには、幼い子どものように神さまを信頼する必要があります。しかし、救われて成長していくと、どうなるのでしょう?神さまの息子、神さまの娘になります。ギリシャ語には同じ子どもでも、フィオスということばがあります。息子、娘は、お父さんを喜ばせるために、緊張したりはしません。ときには、「これこうして」「これをくれ」とぶしつけに要求することもあります。でも、だんだん父の気持ちが分かってくると、どうなるでしょう?やがて、父の心を持つ人になります。これまでは後輩に対してライバル心丸出しで「100年早い」と言ってきたかもしれません。しかし、父の心を持っている人は自分のことのように喜びます。そして、「私を超えてあなたも立派な父になるのですよ。必要なものは何でも与えますよ」と励ますでしょう。私たちは神さまの手作りとして神の作品になりました。手作りですから、ひとり一人違います。でも、共通していることは神さまのご栄光を喜ぶために生かされているということです。

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2017年6月 9日 (金)

結婚の奥義 マタイ19:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.11

 世界で一番離婚率の高い国はロシアです。「100組のカップルのうち、80組が離婚に至る」という衝撃的な数値を記録しているとウェブに載っていました。アメリカや韓国も非常に高くて、クリスチャンであるかどうかは全く関係ないようです。日本も3組に1組くらい離婚していると言われています。きょうは、結婚の本来の意味を聖書から学び、信仰と希望と愛をいただきたいと思います。

1.結婚を重んじる

発端は「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか?」というパリサイ人たちからの質問でした。これはまじめな質問ではなく、イエス様を試すための質問でした。もし、「律法にかなっている」と言ったら女性の権利を踏みにじることになります。群集の半分が女性ですから、怒って帰ってしまうでしょう。イエス様が結婚の奥義について話しましたが、彼らはこう反論しました。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」これに対して、イエス様は「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」(マタイ197-8と答えました。イエス様は申命記の24章から引用しましたが、これは仕方なく与えた律法であったということです。なぜなら、男性が些細なことで一方的に妻を離別させていたからです。モーセは女性の立場を守るために、「正式な理由を書いた離婚状」を渡すように定めたのです。でも、イエス様は「あなたがたの心がかたくななので」便宜上そうしたのだとおっしゃいました。イエス様はさらに「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」と言われました。1つだけ例外があるとすれば、妻が不貞をはたらいた時であるとしました。これは十戒の「姦淫してはならない」という律法と合致しています。聖書の中には「そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです」と書いてあるものもあります。また、結婚に関する律法は、イスラエルが血統を重んじること関係しています。

これに対して弟子たちはどう答えたでしょうか?10節「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」弟子たちの頭も、その当時の考えや風潮に犯されていました。彼らも「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっている」と考えていたのです。気に入らないとか、些細な理由でも妻を離別することができるという男性優位の立場を取っていました。日本でも歴史的に考えますと、政略結婚とか家と家との結婚が一般的でした。ある政治家が「女は子どもを産む機械」という問題発言をしました。しかし、明治時代まで女性の立場はものすごく低かったことは確かです。当時のユダヤ人のように些細な理由で離縁されていました。こういう話を聞くと、女性たちは憤慨するのではないかと思います。今は逆で、女性の方から「離縁状」を出すケースもあるようです。流行の先端を行っていた明治の女流作家、与謝野晶子が離婚について書いています。「離婚という事を一概に罪悪のように考える人のあるのはどうでしょうか。離婚をして双方幸福の生涯に入った人も少なくないと存じます。そういう場合には社会はその人たちの離婚を賀しても宜しいでしょう。また夫婦という者はあながち幸福ばかりを打算して一緒になっておられるものでなく、そういう打算や道徳や義理や、聖人の教えや、ないし神様のことばなどを十分知り抜いて、しかもそれを超越した処に、どうしても双方の気分が食い違って面白くないという場合もあるのですから、そのところに至っては合議の上で離婚するのが正当の処置であろうと存じます。」しかし、与謝野夫婦は聖書の教えから越脱していることは確かです。

聖書は男性からの一方的な離婚についてどのように教えているのでしょうか?マラキ216「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。「わたしは、暴力でその着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない。」とあります。祭司たちまでも、若い女性を好んで、年老いた妻を離縁しようとしていたのです。それは妻に対する裏切りだけではなく、神さまに対する裏切りでした。イスラエルの民はどうしてそのようになってしまったのでしょうか?それは、ヤーウェ(主)なる神を捨てて、カナンの神々を拝むようになったからです。エゼキエル書には神殿内の幻がしるされています。なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていました。(エゼキエル810)。彼らの霊的姦淫が、結婚生活にまで害を及ぼすようになったのです。まず、私たちは結婚が人と人との契約ではなく、神さまと人との契約であることを覚えなければなりません。人のとの契約contractは取り消すことが可能かもしれません。しかし、神との契約covenantは、取り消すことはできません。まさしく、「死が二人を分かつまで」であります。二人が、一度結ばれてしまったなら、霊においても1つになり、引き離すことは困難です。無理やり引き離すならば、双方の霊に害を及ぼすことになるでしょう。芸能人たちは離婚して再婚していますが、彼らの霊はぼろぼろになっています。私たちは、結婚が神聖であることを知って、これを重んじるべきであります。

2.結婚の召命

弟子たちは「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言いました。イエス様は彼らに、別の方向から答えられました。マタイ1911-12「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」結婚はだれでもできるものではなく、神からの召命です。また、独身者となる者がいますが、そこには3種類のケースがあることがわかります。しかし、これは男性の立場から言われていることであり、女性はその適用として捉えるべきです。なぜなら、「独身者」というのは宦官eunuchとなっているからです。宦官は去勢された男性であり、宮廷や貴族に仕えた男性を指しました。しかし、私たちはもっと広い意味で、男性と女性の「独身者」として捉えたいと思います。その前にひとこと申し上げますが、この世では独身者は半人前だと思われています。会社でも独身者だと、高い地位につけないということを聞いたことがあります。では、独身者が半人前なのでしょうか?イエス様は創世記1章を引用しながら「創造者は、初めから人を男と女に造られた」と言われました。これはどういう意味でしょう?男は結婚していなくても、男として完成しているということです。また、女は結婚していなくても、女として完成しているということです。そして、男も男として成熟し、女も女として成熟したものとなるということです。では、結婚とは何でしょう?成熟した一人の男性と成熟した一人の女性がするものなのです。よく「私が50%で彼女が50%で、合わせて100%になるんだ」と言いますが、それは嘘です。100%の男性と100%の女性が結婚して、200%になるのが結婚なのです。ハレルヤ!寂しい人と寂しい人が結婚したなら、二人の寂しい人たちが生まれるだけなのです。極端なことを言うと、相手がいなくても生きて行けるのが結婚の標準なのです。私もここで立派なことを言っていますが、家内がお義母さんの世話のため実家に帰るときがあります。2,3日はとても寂しいです。でも、4日もすると慣れてきます。なんとかなっていくんですね。でも、帰ってくると嬉しいです。機能不全の家庭で育った私が、結婚という召命に答えることができたのは、主のあわれみです。

ところで、独身者には3種類あることがわかります。第一は、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。聖書では預言者のエレミヤがその人です。バビロン捕囚前の彼の人生は波乱に満ちていました。同胞の民から苦しめられ、最後はエジプトで行方知れずになりました。だから、1人で良かったのです。第二は、また、人から独身者にさせられた者もいます。これは家族の問題や、戦争など外的な問題です。日本では第二次世界大戦中、そのような不幸な人たちがたくさんいました。兵士もそうですが、戦争未亡人の人たちもたくさんいました。聖書ではダニエルです。ダニエルと3人の若者はバビロンに連れていかれました。そして王様に仕える高官に抜擢されました。おそらく彼らは宦官として仕えたのではないでしょうか。だから、自由に結婚することは許されなかったと思います。でも、そういう制限された生活の中で主が共におられ、主の栄光を現すことができました。現代は身分が保証されていますので、「人から独身者にさせられた者」はそんなにいないかもしれません。しかし、子どもの時の虐待やいじめによって、結婚観がゆがめられてしまって結婚できない人もいるでしょう。育った環境や受けた心の傷によって、そうならざるを得ないケースもあると思います。

第三は天の御国のために、自分から独身者になった者もいます。しいていうならば、ナイチンゲール、エリザベス一世、マザーテレサかもしれません。おそらく、使徒パウロは天の御国のために、自分から独身者になったのではないかと思います。パウロはこう述べています。Ⅰコリント732-34「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」独身は神からの召命であり、賜物です。ローマ・カトリックのように強制されてなるものではありません。使徒パウロは独身として主に仕え、主のご栄光を現すことができました。しかし、すべての人がパウロのように独身者になれるわけではありません。現代では、イギリスから来られた宣教師、マーガレット・バーネット師がおられます。彼女は羽鳥明師を導いた人として有名です。彼女は独身者として神さまの栄光を現した立派な人だと思います。

 弟子たちが「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」と言ったのは、ゆがんだ考えからでした。彼らは男性優位の社会に影響されていたのだと思います。イエス様は結婚は神からの召命であると教え、その中に独身者もいるのだと教えました。世間体を保つために結婚して、不幸になるくらいなら独身で通す方が良いかもしれません。結論としてパウロのことばを引用したいと思います。Ⅰコリント7:8 -9「次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」神さまは私たちに自由意思を与えておられます。私たちをコントロールしようとは思っておられません。でも、大事なことは、結婚は神からの召命であり、それに答えることです。それに答えたならば責任を果たす必要があります。尚、結婚は幸せになるためにするのではなく、神からの召命に答えていくとき幸せがついてくるのではないかと思います。

3.結婚の奥義

 最後に聖書が言う結婚とはどういうものなのか共に学びたいと思います。マタイ19:4-6 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」この世の中では、結婚のための教育ということはほとんどないと思います。「みんな結婚するから私も結婚する。」「好きになったので結婚する。」「愛のゴールが結婚だから」…ほとんどのカップルは結婚式の準備はするかもしれませんが、結婚生活についてはぶっつけ本番ではないでしょうか?結婚式はたったの1日ですが、結婚生活はそれからずっと長く続く、山あり谷ありの生活です。「え?こんなはずではなかった」というカップルが多いのは結婚の本当の意味が分かっていないからだと思います。私は人に立派なことを言えませんが、On the Job Trainingであります。結婚しながら学んだと言うタイプです。なぜなら両親から正しい結婚生活を見習ったこともないばかりか、結婚カウンセリングも受けたことがなかったからです。結婚後、1か月で「ああ、男と女がこんなに違うものなのか」とびっくり驚きました。「性格の不一致」が離婚の第一な理由なようですが、当たり前すぎて、理由にならないと思います。これからの人も、その渦中にいる人も、昔の出来事の人も、あまり関心のない人も、一応は聖書から学ぶべきだと思います。

 第一は、結婚は神が創造し、神が定めたものです。人が便利だから作った社会的な制度ではありません。「創造者は、初めから人を男と女に造って」とありますが、もともとは創世記1章からのことばです。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」「かたち」とは何か神学者たちによって議論されてきました。カール・バルトという神学者は「男と女の関係、つまり愛の関係こそが神のかたちである」と言いました。神さまは父、子、聖霊なる神が1つになっている愛の共同体です。その愛の共同体にならって、人を男と女とに創造されたというのはすばらしい考えです。言い換えると、家庭の核は夫と妻であり、それが社会の基盤となるのです。その後に「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令が続きます。そのような神のかたちを増殖することを示唆しています。

第二は、「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ」とあります。これは結婚する前に、男と女が両親から独立するということです。言い換えると、経済的にも精神的にも、一人前になっているということです。残念ながら、日本では結婚してからも、両親とくっついている場合があります。何か問題が起こると伴侶に相談するのではなく、実家に行くというのは問題です。親子の絆が強すぎて、独立した家庭を築く妨げになっています。残酷かもしれませんが、結婚するためには、親子の縁を一度断ち切る必要があるのです。「渡る世間に鬼ばかり」というテレビ番組があります。世間と言っても岡倉家と小島家です。後から田島家と田口家が加わる小さな世間です。まさしく、共依存の物語であり、きわめて日本人的です。余計なことに口出しして、混乱することを楽しんでいる人たちです。人は父と母を離れ、その妻と結ばれることが重要なのです。私たちは互いに境界線を引くことを勉強すべきであります。

第三は「ふたりは一体となる」です。一体になるは、原語では「1つの肉」になるです。つまり、一度、結ばれてしまったなら引き離せない。「無理に引き離したら、肉は引き裂かれ、血が流れ、命をなくしてしまう」というニュアンスがあります。マラキ書2章には、「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と二度も書いてあります。結婚とは肉体だけではなく、霊がやり取りされるところまで一体になるということです。エリヤハウスでは、まさしくそのことを言っています。ある人と肉体的な関係を持つと、相手の一部の霊がこっちにくっつき、自分の霊の一部が相手にくっつく。そういう人と別れた場合は、相手の霊の一部をこっちにもらい、自分の霊の一部を相手に返すような作業が必要だということです。一度くっついたら、御霊のつるぎでないと切れないということです。ある大学生が複数の女性と関係を持ったために、自分の中に混乱が起きたそうです。彼が正常になるために、御霊のつるぎでそぎ落とし、さらには行ってしまった自分の霊を取り戻すという大変な作業があったようです。現代は男女間の関係が非常に乱れています。イエス様は「姦淫の時代」と言いました。だから、霊的に混乱をきたしている人がたくさんいるということです。エディ・レオ師が「結婚とは一体化を味わすことです。その夫婦が一体化するために3つのことが必要です」と言われました。第一は1つの霊となる。互いに祈り合うことです。家族の祭壇とも言えます。旧約聖書ではアブラハム、イサク、ヤコブが祭壇を築いています。互いに祈り合うとき、お互いの霊が行き来して深い所で一致することができます。第二は1つの心となる。正直で何でも話し合える会話が必要です。男性は結婚する前はとてもよくしゃべります。しかし、結婚したとたんしゃべらなくなります。あるデーターによると、女性は男性の5倍の言語を発しないとフラストレーションがたまるそうです。第三は1つの体となる。肉体の交わり、セックスです。これはだれからも教えられる必要はないでしょうか?しかし、日本人の中年の多くはセックス・レスだそうです。基本的にはこの3つですが、あと2つオプション的にあります。1つのビジョンを持つ。たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということです。1つの会計にする。お金を夫婦で別々にしないということです。イエス様は「宝のあるところに心がある」と言われました。もし、宝が別々のところにあれば、そこから分裂が始まる可能性が出てきます。

 生まれも育ちも、性格も考え方も違う二人が、一体になるというのは現実的にはありえません。婚約中は「私たちみんな同じね」と言っていますが、それは互いに遠慮しているからです。しかし、1つ屋根の下で暮らすと、だんだん本音が出てきます。二人がクリスチャンであってもそうです。「なぜ、こんなに違うのか?」と驚くばかりです。しかし、それは神さまが与えた「驚くばかりの恵み」なのです。あとで「違うから良いんだ!」「違うから補い合うことができるんだ!」と感謝するようになるでしょう。でも、最初は角を突き合わせ、相手を変えようと頑張ります。そうするとだんだん二人の関係は悪化します。結婚したら、ぜひ諦めてください。相手を変えようとせず、相手を理解することにエネルギーを使いましょう。大川牧師が結婚式でよくおっしゃっています。「愛は寛容です」というⅠコリント13章のみことばがあります。しかし、ある英語の聖書にはLove is understandと書いてあるそうです。Understandは相手の下に立つという意味にもなります。ちょっと相手の下に立って考えてみると、「なるほどこういう家庭で育ったから、こういうふうに考えるんだろうな」と思いやりがうまれます。クリスチャンは新しく生まれた存在ですが、古い過去を背負っている場合があります。だから、understand理解が必要なのです。イエス様が最初になさった奇跡は何でしょう。結婚式で最も重要なぶどう酒が尽きてしまいました。そのときイエス様は何の変哲もない水をぶどう酒に変えました。料理頭は「あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と言いました。イエス様は良いぶどう酒を取っておかれています。

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2017年6月 2日 (金)

無限大の赦し マタイ18:21-35 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.6.4

 マタイ18章全体を貫いている考えは、小さい者を躓かせないということです。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」ということが問われていました。いきなり公にするのではなく、当人同士から始めることを学びました。そして、最終的には教会が赦したりさばいたりする権威が与えられているということでした。今日のテキストでは、「では、何度まで赦すべきか」ということが問われています。私たちは人の罪を何度まで赦せるでしょうか?赦しの問題は健全な信仰生活を送る上でとても重要なテーマです。

1.兄弟姉妹間の罪

  

 なぜ「兄弟姉妹間の罪」なのでしょう?New International Versionには、my brother or sisterと書かれています。この聖書にはペテロは「兄弟姉妹が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきか」と書かれています。当時のユダヤ教では「三度までは赦しなさい」と言われていました。ペテロは思い切って「七度まででしょうか?」と聞きました。すると、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と言われました。7は完全数ですが、770倍は490回ではなく、無限大と言う意味です。つまり、無限大の赦しを与えなさいということです。これにはペテロも驚いたことでしょう。イエス様はその後に、1万タラントを赦されたしもべのたとえを話されました。私たちはまず、ここで言われている罪がどのようなものなのかということを考える必要があります。少し前の15節で「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」という罪は、英語の聖書ではtrespass「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味でした。そして、21節の罪は、英語の聖書ではsinです。これは犯罪というよりも、宗教上、道徳上の罪です。たとえばコリント教会において問題にされていた罪は、性的な罪、分裂・分派、高慢でした。エペソ人への手紙4章には「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意」という罪のリストがあります。ですから、この世では罪にならなくても、教会の中では罪になるものがあるということです。J.Cライルの本には、「injuryの赦しが重要である」と書かれていました。Injuryというのは危害とか傷害です。さらには、感情・評判などを傷つけること、無礼、侮辱、悪口という意味があります。まさしく、教会で問われている一番の罪は、人間関係における罪であります。つまり、異教徒や未信者の罪ではなく、兄弟姉妹間の罪が問題にされているのです。

 この世では嫌な人や、気の合わない人がいたら離れれば良いでしょう。職場では「お金のためだから」と我慢するかもしれません。処世術と申しましょうか、場所や相手に合わせて、いくつかの仮面をかぶるかもしれません。しかし、神の教会、神の家族ではそうはいきません。私たちは神さまから多大な罪を赦され、聖霊によって生まれ変わった存在です。この人たちとは死んだ後も、天において永遠の交わりが続きます。聖書では「あなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。「主の祈り」では「私たちの罪をお赦ください。私たちが彼らの罪を赦したように」と祈ります。教会では愛と赦しがとても強調されています。教会に続けて来られている人は、本当にこのことを守っている人か、あるいは仮面をかぶってごまかしている人です。まともな人であるなら、良心が咎められて、教会に集うことは不可能です。教会に来なくなる人がいますが、「もう愛せない、もう赦せない」という人が多いのではないでしょうか。それだけ、兄弟姉妹間における罪は、無視できないテーマだということです。

 確かにこの世では罪に定められないものが教会内では罪になりえます。でも、そのことを避けていたならば、私たちの心は癒されないばかりか、栄光の姿に変えられることもありません。この世では仮面をかぶりごまかして生きてきました。しかし、教会ではありのままで生きることを求められます。最初は「ありのままで良いんだ」と素顔で兄弟姉妹と接しようとします。しかし、相手もありのままなので、どうしても衝突してしまいます。教会は神の家族と言われますが、まさしく一般の家族と変わらないところがあります。一般の家族では本音を出し合うので、良く衝突します。でも、運命共同体なので、なんとか折り合いをつけることを学びます。教会は新しい神の家族です。私たちは罪を赦され、聖霊によって新しく生まれ変わりましたが、魂が完全に変わっていません。傷ついた部分もあれば、ゆがんでいるところもあります。では、どうやってそれを発見し、癒され、聖化されていくのでしょうか?神の家族です。神の家族がそうしてくれるのです。神の家族において嫌なことや傷つくことがあるでしょう?でも、私たちがそこで矯正され、訓練され、癒されていくのです。ですから、神の家族を離れて、クリスチャンとして成長することは不可能なのです。私たちの兄弟姉妹が私たちを聖化させてくださるのです。これは結婚における夫婦の関係と同じであります。箴言2717鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。どうぞ、私を研いでくれるご親切な兄弟姉妹に、ご親切な夫や妻に感謝をしましょう。

2. 1万タラントのたとえ

   

 イエス様は無限大の赦しの必要性を教えるために1つのたとえ話をされました。クリスチャンであるなら、このたとえ話をよく知っておられると思います。問題は「1万タラントを赦されたのは自分なんだ」という自覚が足りないことであります。多くの場合「自分が100デナリで、危害を加えたあいつが1万タラントなんだ」と逆に捉えてしまいます。これこそが私たちの肉であり、生まれつきの罪です。私たちは自分を被害者、相手を加害者にしてしまう構図から抜け出すことができません。ですから、私たちはこのたとえを上の空で聞くのではなく、心の深いところに留める必要があります。まず、1万タラントがどのくらいのお金なのか調べてみたいと思います。タラントは元来、金などの重さの単位でしたが、貨幣の額になりました。1タラントは6,000デナリ、6,000日分の賃金です。現在ですと6,000万円です。1万タラントだとそれに1万をかけるのですから、60,000,000万円(6千億円)です。昔は小さな国の国家予算に匹敵すると言われていました。11デナリを稼ぐとすると、16万4384年かかります。このしもべは、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします」と言いましたが、それは不可能です。ロト・セブン6億円を1000回当てなければなりません。自分も妻子も持ち物を売って返済し、一生働いたとしても全く不可能です。マタイ1827「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」これは、父なる神さまのご性質を表しています。あとで説明しますが、神さまはあわれみに富むお方です。私たちがとうてい支払うことのできない罪の負債を気前良く免除してくださるお方なのです。

 そのしもべはどうしたでしょう? 100デナリ自分から借りていたしもべを赦すことができませんでした。彼の首を絞めて「借金を返せ」と言いました。彼はひれ伏して、「もう少しまってくれ。そうしたら返すから」と懇願しました。以前、自分が主人の前に言った同じことばを、しもべ仲間が言ったのです。普通だったら、自分のケースを思い出すはずです。しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。100デナリというのは、100日分の賃金ですから、今で言うと100万円です。さっきの60,000,000万円(6千億円)と比べたら、微々たるものです。それを「待ってくれ」と言われて、返すまで牢に投げ入れました。それを主人が聞きました。彼に何と言ったでしょう。「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」この主人とは、まさしく神さまのことです。神さまが私とあなたの負債、60,000,000万円(6千億円)を赦してくれたのです。ところが、兄弟姉妹の100万円を赦せないのです。神さまはどうおっしゃっているでしょうか?「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」この命令は、異教徒や未信者に与えられているのではありません。なぜなら、彼らは神さまの多大な赦しを得ていると思っていないからです。この命令は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じている、私たちクリスチャンに語られている命令なのです。もし、このことを軽く捉えているなら、自分がどれくらい多大な罪を赦されているのか分からない人かもしれません。

 確かにそうです。イエス様を信じたとたん、罪の赦しを同時に受け取ることができます。救われるために今まで犯した1つ1つの罪を告白する必要はありません。自分が罪人であることを自覚して、神さまに赦しと救いを求めるだけで人は救われます。なぜなら、イエス・キリストが私たちの罪の負債をすべて支払ってくださったからです。でも、私たちがどれくらい多大な罪を赦されているのか知らされる時があります。それは自分が人の罪を赦すときであります。特に、赦されざる罪をその人が自分に犯した時です。しかも、一言も謝りません。罪も告白していません。「あんなにひどいことをして、私は決して赦せない」と憤慨します。その時、自分が多大な罪を赦された者であることをすっかり忘れています。自分は被害者であり、あいつは加害者、私に危害を加えた憎むべき敵であると考えます。でも、自分が救われたとき、神さまに謝ったでしょうか?謝っていないのに、神さまは私を赦してくださいました。今度は、私があの人の罪を決して赦せないと言っています。この時、人の罪を赦すということがいかに大変なことか分かります。人の罪を赦すと言うのは、こちら側が負債を負うということです。父なる神さまがイエス・キリストにあって負債を負ったのです。だから、私たちはただで赦されたのです。今度、私たちが人と罪を赦すときは、自分がその負債を負うしかありません。それが、100デナリを赦すということなのです。確かに1万タラントと比べたら微々たるものでしょう。でも、自分にとって100デナリは大きな負担であります。人を赦すときに一番重要なことは、1万タラントを赦されたしもべとして自分を見るかどうかということです。頭では分かるかもしれません。天秤の両脇に2つの皿があります。1つは1万タラント、自分が神さまから赦された量です。もう1つは100デナリ、相手が自分に犯した罪の量です。「…分かりました。赦します。喜んで赦します」と信仰によって言うのです。そうすると鈍い感情が、あとから「赦します」と言うのです。感情が来るまで待ってはいけません。「主のご命令だから赦します」と言うとき、感情があとからついてくるのです。感情には傷があり、痛みがあり、恥があり、怒りがあり、悔しさがあるでしょう。でも、信仰によって「赦します」と言うと、それらの傷が癒されていくのです。主のご命令に従うしか、心の癒しはやってきません。この世ではたくさんのカウンセリングがあります。多くの場合、相談する人は被害者になり、相手が加害者になります。カウンセラーはあなたの味方になって、被害者的な部分を癒してくれるかもしれません。でも、あなたが加害者を赦さない限り、完全に癒されることはありません。一番の問題は、主のご命令に対して、従順になるか、不従順になるかどちらかであります。自分の意思によって、赦すことを選び取るなら、本当の癒しと解放がやってくるでしょう。コロサイ3:13「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

3.霊的な法則 

 もし、赦さないならどのようなことになるのでしょうか?このたとえには、霊的な法則が記されています。マタイ1834「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」獄吏ということばは、日本人はピンとこないかもしれません。ギリシャ語では、「拷問役の奴隷」です。つまり、神さまご自身が苦しみに合わせるのではなく、拷問役に引き渡すということです。それは天使かもしれないし、悪霊かもしれません。その結果、肉体的あるいは精神的な病気になるかもしれません。J.Cライルは、「霊的な暗闇が魂を支配する」と書いています。そんなことが、いつまで続くのでしょうか?「借金を全部返すまで」です。11デナリだとすると、16万4384年かかります。その人はクリスチャンですから、永遠のいのちが与えられています。いつかは新しい天と新しい地に住むことができます。でも、16万4384年後です。先日、トルコに住むイスラム教の証を聞いたことがあります。彼らは5,000万年、地獄の責め苦を受けた後、やっと天国に行けると教えられているそうです。仏教では272獄を通過し、人間界の時間で16653億年を経たないと転生できないという教えがあるそうです。聖書によると、死後のさばきには2種類あって、白い御座のさばきという永遠のさばき、そして御国において闇に捨てられ、歯ぎりするというさばきがあります。前者には終わりがなく、後者には終わりがあります。簡単に言うと、聖書のことばをなめてかかってはいけないということです。「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡す」ということは、真実でありそのまま受け止める必要があります。

チョー・ヨンギ師が書かれた『第四次元』という本から引用致します。あるとき、学校の教師が私に面会を求めたことがあります。彼女は校長という要職にありました。この婦人は、実は関節炎をわずらっていました。彼女は、病院と名のつくところはすべて渡り歩いて治療を受けましたが、その甲斐もなく病は直りませんでした。私は彼女の上に手を置くと、祈り、命じ、叫びました。渾身の力をこめてあれこれ手を尽くしましたが、神の御手は触れられませんでした。教会には、いやされた人が大勢いると言うのに、どうしたわけか彼女は癒しの恵みにあずかることができなかったのです。とうとう私も、彼女は癒されないものと半ばあきらめてしまっていました。そんなある日、聖霊が私に示してくださいました。「叫んだり、祈ったり、命じたりしてはならない。私は彼女の中に力を現わすことはできないでいる。癒しのいのちを流れ出すことができないでいる。その理由は、彼女が前夫を憎んでいるからだ。」私は、彼女が10年ほど前に離婚しているということを知っていました。そこで私は、座って祈りを待っていた彼女に、「姉妹よ、ご主人と別れなさい。」と言いました。彼女は、びっくりしたような顔で私を見つめていましたが、それから「牧師さま、どういう意味でしょうか。主人と別れる、ですって?わたくし、主人とは10年前に離婚しております。」「いいや、しておりません。」と、私ははっきりと答えました。「そんなこと、とんでもありません。主人と正式に離婚しております。」彼女が言い張りました。「ええ、それは、離婚をするには、したでしょうね。」私は念を押しました。「確かに、離婚されました、法律的にはね。でも、精神的には、どうでしょうか?心の中では、あなたは彼と決して離婚しておられないのです。あなたは来る日も来る日も夫を呪い、夫を憎んできました。心の中で、想いの中で、あなたはご主人と別れていないのです。心の中では、あなたは今でも、ご主人と一緒に暮らしておられます。そして、あなたが抱いているご主人に対する炎のような憎しみが、あなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです。この憎しみが邪魔をして、関節炎を治らせないようにしています。」少し長いので割愛しますが、彼女は反発しました。「結婚したのはいいけれど、仕事は何1つしないで、お金を湯水のように使い、自分を捨てて他の女と駆け落ちした、そんな人間をどうして愛せましょう」と言いました。激しい葛藤の中で涙しながら、ご主人を赦しました。そして最後に、ご主人を祝福しました。それからおよそ3か月後、この婦人の関節炎は完全に癒されたそうです。

 父なる神さまはどのようなお方でしょうか?マタイ18:27「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」と書いてあります。主人とはまさしく、父なる神さまのことであります。父なる神さまは「かわいそうに思って、彼を赦しました」。父なる神さまは、愛と赦しと憐みに富めるお方です。もし、私たちが救われて神の子となったならば、当然、父なる神さまのご性質を受け継いでいるはずです。これは「あなたも赦してあげなさい」という命令ではありません。自分の中に父なる神さまのご性質が宿っているならば、赦さないではおれなくなります。パウロはローマ5章で「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神との平和を持っています」と言いました。さらに続けて、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と言われました。私たちの中には傷つけられた怨念の炎が燃えているかもしれません。しかし、そこに聖霊によって、神の愛が注がれたらどうなるのでしょう?自分の中に激しい葛藤、激しい嵐が生じるでしょう?どうしたら、神の愛の方が勝利するのでしょう。それは、私たちが聖霊に明け渡したときです。聖霊様が赦しという奇跡を起こしてくださいます。

コーリテン・ブームというホロコーストの生存者がいます。ユダヤ人をかくまった罪で一家十人が逮捕され、強制収容所に入れられました。他の人はみんな亡くなって、彼女だけが奇跡的に生き残りました。終戦後、彼女はオランダに戻り、リハビリ―センターを設立しました。1947年ミューヘンの教会に招かれました。彼女は「私たちが罪を告白するとき、神が深い海にそれらの罪を永遠に投げ入れます」とメッセージしました。人々は沈黙の中で立ち上がり、静かに部屋を去りました。しかし、罪を悔い改めて、講壇の前に来る人たちもいました。すると、忘れもしない男性が目の前に立ちました。この男は姉と彼女が裸で歩くのを見ていた強制収容所の看守でした。彼は手を差し出しながら、「すばらしいメッセージでした。あなたが言うように、私たちのすべての罪は海の底にあります」と言いました。赦しを話していた彼女の手は凍りついたように動きませんでした。彼は「私を赦して下さいますか」と聞きました。イエス様の声が聞こえました。「もしあなたが人の罪を赦さないならば、あなたの父も、あなたの罪を赦さないでしょう」。彼がそこに立っていた時間は数秒でしたが、最も困難なことに取り組んでいたので、数時間のようでした。赦しは感情ではなく、意志であることを知っていました。彼女は心の中で「助けて、私は手をあげることができます。あなたに感情をささげます」と祈りました。そして、木製のような手を機械のように差し出しました。すると、信じられないことが起こりました。肩から腕、腕から手に力が流れていきました。そして、癒しの暖かさが彼女の全身に溢れました。彼女は涙を流しがら、「兄弟、あなたを赦します」と言いました。長い間、元看守と元捕虜が握手をしていました。彼女は神の愛をこれ以上に知ったことがなかったそうです。神の愛が最も現されているのは赦しです。同時に、私たちが人の罪を赦すのも、愛がなければできません。でも、その愛は私たちが神の命令に従うときに、赦しという形で流れてくるのです。

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2017年5月26日 (金)

兄弟が罪を犯したなら マタイ18:15-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.5.28

 マタイによる福音書には「教会」ということばが16章に1回、そして18章に2回記されています。厳密には、イエス様の頃はまだ「教会」は存在していませんでした。しかし、やがて誕生するであろう「教会」のことを見越して、こういうことを守りなさいと教えているのだと思います。きょうのテーマは「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」です。ここで言われている「罪」というのは、「道を踏み外す」とか「誤りを犯す」という意味です。教会でおもに問題にされる罪は、ゴシップ、分裂分派、性的な罪です。刑事罰を受けるような犯罪でなく、共同体を破壊する罪が問題にされています。Ⅰヨハネ3章には「神から生まれた者は罪を犯しません。…罪を犯すことができないのです」と書かれています。ここで言われているのは、この世の人たちのことではなく、霊的に新しく生まれた人たちを対象にしています。もし、誤って罪を犯した場合、教会においてどのようなことが大切なのか教えられています。でも、このマタイ18章全体には「小さい者につまずきを与えない」というテーマが一貫して流れていることを忘れてはいけません。

1.愛と尊敬

 15節から17節まで、「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、3つのステップを踏んで対処しなさい」と教えられています。なぜなら、3つのステップの根底には「愛と尊敬」があるからです。第一のステップとは何でしょう?「行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」と書かれています。すごいですね。被害を受けた人、あるいは傷を受けた人が、加害者のところに行くのです。そして、当人同士、二人でお話しをするということです。「責める」というギリシャ語は「納得させる、説得する、誤りを認めさせる」が第一の意味になっています。英語の詳訳聖書には「もし、あなたの兄弟があなたに悪いことをしたなら、行って、彼にその誤りを示しなさい。彼とプライベートに」と書かれています。日本人はいきなり第三者か公に訴えるところがあります。そうしますと、その人をひどく傷つけることになり、関係が壊れてしまいます。もし、プライベートであるならば、相手も身構えないで、言うことを聞いてくれるだろうということです。私は土木の現場監督をしていたので、ことばでたくさんの罪を犯しました。教会の姉妹方から「あなたのことばで傷つきました」と言われたことが沢山あります。その時はショックを受けましたが、おかげさまで大分、良くなったのではないかと思います。学校に行っていた頃はよく職員室に呼ばれたので「お話しがあります」と呼ばれると怖いです。でも、ここでは「来い」ではなく「行って」と書かれています。

 第二のステップは「ひとりかふたりを連れて行く」ということです。マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」「二人の証人、三人の証人」というのは、申命記19章に記されている律法です。なぜ、さらに「ひとりかふたり」なのでしょう?それは確認されるためです。英語の詳訳聖書には「確認し、支持するため」と書かれています。つまり、本人だけではなく、「ひとりかふたり」が「やっぱりそれは良くないことですよ」と一緒に言ってあげるということです。そうすると罪を犯した人は、「客観的にそうなのか?」と考えるようになります。それでも、「ひとりかふたり」が当人を責めているというニュアンスはありません。兄弟になんとかわかって欲しいという願いがあります。日本人はだれかその人よりも偉い人を連れて行く場合があります。その人は、恩があるので頭が上がらないために仕方なく聞くかもしれません。しかし、それだと力が加わりますので、できるだけ利害関係のない人が良いと思います。少し前に、森友学園のことが報じられていましたが、こじれにこじれていました。あそこまで行くと収集がつかなくなります。私たちは問題がこじれないように、第一と第二のステップを踏む必要があります。

 そして、第三のステップは教会に告げるということです。教会のだれなのか?現代は牧師と役員会、さらには会衆全体ということになります。噂話とかゴシップにならないように、公にすることが必要になります。マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」最終的には「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と書かれています。しかし、このところに罰を与えるとか、除名するというような表現はありません。「異邦人か取税人」というのは、神さまを信じていない未信者のように扱えということです。ところが、ローマ・カトリックは教会の権威をふりかざして、「破門」や「宗教裁判」を発動してきました。カルヴァンの時もそうでしたが、国家権力と結びつくと神さまの領域を犯していることになります。そうなるとこの世の人に対して、良い証になりません。J.Cライルの本に、「破門こそは、その人が犯した罪よりももっと恐ろしい罪である」と書かれていました。また、教会では「戒規」と言って、陪餐停止処分を与えるところもあります。これは、しばらくは聖餐式に加わることができないということです。これに対しても、J.Cライルは「その人が悪くても、不敬虔であっても、主の食卓に来ることを禁じるべきではない」と書いていました。

 ダニー・シルクの『尊敬の文化』という本にこのようなことが書かれていました。神学生の二人が夏休み中、関係を持って女性が妊娠してしまいました。学校で教えている牧師は「二人を退学させるべきだろう」と考えていました。ダニー・シルク牧師は「とにかく二人に会って話し合いましょう」と提案しました。二人は執務室に入ってきても、目を合わせよとせず、うつむいたままでした。自分たちが仕出かした行為を恥じていることは明らかです。二人は処罰を受ける覚悟をしていました。シルク牧師は彼らと初めて会ったので、まず男子生徒からいきさつを説明してもらいました。最後に「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう」と言いました。男子生徒は「わかりません」と言いました。シルク牧師は「悔い改めたの?」と尋ねました。彼は「ええ、もちろん悔い改めました」と即答しました。「では、何を悔い改めたのかな」。しばらく沈黙が続いた後「わかりません」と言いました。「そうだよね。問題がそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」。彼は「はい、おっしゃるとおりです」と答えました。シルク牧師は自分の考えを言うのではなく、何を考えるべきだとも言うつもりはありませんでした。ただ彼に尋ねることによって、この若者に栄光と知恵と能力を見出すように導いていたのです。なぜなら、自分の失敗に対する恥のせいで、彼が本来の自己像を見失っていたからです。彼は蹴飛ばされて唾をかけられて当然の人間だと思っていました。指導者は彼に規則を守らせるための存在だと思っていました。しかし質問をしたことを通して、聖霊の助けのもと、彼は自分の生涯を一変させることになる解決方法を見出しました。物語は続きますが、彼と彼女は処罰とその恐れから自由になり、正しい悔い改めをし、結実に至りました。つまり、処罰を与えないで解決する方法があるということです。愛と尊敬は、その人から自己防衛を取り除き、真の悔い改めに導くことができます。Ⅱコリント710「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

2.霊的権威

   

 マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」同じようなことがマタイ16章にも書かれていました。「つなぐ」というのは、「禁じる」という意味です。また、「解く」というのは、「許す」という意味です。これは、イエス様が教会に対して、神さまの名代としてそのような権利を与えたということです。この18節のことばは、「もし、兄弟が罪を犯したなら」という文脈で考えるべきです。前のポイントを振り返りますと、当人同士で「わかった、ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。でも、もし聞き入れないならひとりか二人を一緒に連れて行きます。そのとき、「ああ、そうだったんですね。ごめんなさい」と聞き入れたならば、それでOKです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げます。そのとき、聞き入れたならば、それでOKです。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、異邦人か取税人のように扱います。第一から第三までのステップの中で、「禁じる」とか「許す」という権威が行使されているということです。このように教会にはイエス様から霊的権威が与えられているのです。教会のかしらはイエス・キリストです。この方が最終的な権威者です。でも、イエス様は問題が愛と尊敬によって解決するように、私たちに権威を委譲しておられます。私たち自身に権威があるのではなく、イエス様からいただいているということです。私たちはこの霊的権威を軽んじてはいけません。

 霊的権威を軽んじてしまった教会の見本はコリント教会です。コリント教会は、教会内の罪をこの世の裁判所に訴えました。パウロはこう述べています。Ⅰコリント61-4「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。」さらにパウロは「教会内の罪はあなたがたが解決しなさい。そもそも、互いに訴え合うことが、すでに敗北です」と言っています。残念ながら、教会の現状はこうではありません。教会内部の問題を全国の教会にばらまいたり、裁判所に訴えるということがたまにあります。また、教会のスキャンダルを集めて、ホームページに載せている牧師もいます。教会や牧師を訴えるというのは、まさにサタンの片棒をかついでいるようなものです。もちろん、教会が罪に直面せず、なかったことのようにするのは良くありません。ある場合は、刑事裁判になることもあるでしょう。でも、イエス様が教会に対して、禁じたり、許したりする権威を与えておられることを忘れてはいけません。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます」(ルカ1117でおっしゃいました。どちらが正しいとか間違いだとか、分からないことがあるでしょう。そのときは、パウロが言うように「むしろ不正を甘んじて受け、むしろだまされる方が良い」(Ⅰコリント67のです。なぜなら、最終的にさばくのはイエス様だからです。

 ジャン・バルジャンは司教の好意を裏切って、銀の食器を盗みました。その後、警察に捕えられ、神父のもとに連れてこられました。警察官は「この銀の食器はあなたのものでしょう?」と袋から出して言いました。すると司教は、「これは彼に差し上げたものです。燭台もあげたのにどうして持っていかなかったのか」と強い口調で言いました。ジャン・バルジャンの人生は、そのことによって変わりました。ジャン・バルジャンの心がなぜすさんでしまったのでしょう?彼は腹をすかせた甥と姪のために、パンを盗んで逮捕され5年もの刑を宣告されました。犯した罪に比べて罰の重すぎることから、社会に疑念を抱き社会を憎むようになったのです。何度か脱獄を試みましたが、そのたびに失敗し刑期が数年ずつ伸び、その結果19年も刑務所で過ごすことになってしまいました。警察官が去った後、司教は「どうか真人間になるためにその銀の品々を使ってください」と言いました。ジャン・バルジャンは、この出来事の後、マドレーヌと名乗るようになり、市長となります。でも、この物語はさらに続きます。実はジャン・バルジャンは燭台だけは売らないで死ぬまで取っておきました。私は「レ・ミゼラブル」のような可哀そうな物語とか映画はとても苦手です。自分の過去のみじめな人生とシンクロするからです。でも、言えることは人間は変わるということです。『愛、赦し、受け入れ』という本をだれかが書きました。人の罪をあばいてさばくことは検察官がやることです。それを教会でやるなら、イエス様がどれほど悲しむでしょうか?教会は時として悪魔の片棒を担いで、兄弟を告発することがあります。教会はイエス様から与えられた権威を、人を生かすために用いるべきです。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

3.主の介入 

  

 マタイ1819-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」19節と20節のみことばはとても有名でよく引用される箇所でもあります。でも、私たちは文脈からこのみことばを理解しなければなりません。15節には「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら」と書いてありました。そして3つのステップを踏んでその兄弟を諭すことが語られていました。18節には教会には禁じたり赦したりする霊的権威が与えられていると書いてありました。その後に、心を合わせた祈りの必要性とその効果が記されています。つまり、罪を犯してしまった兄弟のためにとりなしている祈りと考えられます。当人で行って諭したけどダメだった。他の人を連れて諭したけどダメだった。最後に教会に告げ出んだけどダメだった。彼は異邦人か取税人のように扱われてしまう。こういう一連の出来事の背後で「正しいさばきがなされるように、また聖霊によってその人が悔い改めるように」と心を合わせて祈っているのです。そこにイエス様が臨在されて、その問題を解決してくださるということです。このようなことは教会の外ではなされません。また、この世の人たちは、祈りの力ということを信じていないでしょう。でも、心を合わせた祈りは最も力あるわざなのです。説得もある場合は効果があるかもしれません。人は人を変えることはでません。やはり神の霊がその人に臨んで、変えて下さるように祈るのが一番なのです。ですから一見、力がなさそうでも、心を合わせた祈りは最も大きな効力を発するのです。

 私たちはこの箇所から心を合わせた祈りがどんなに効果があるか、もう一度知る必要があります。私たちは大勢の人たちが集まって祈れば、もっと効果が現れるだろうと思ってしまいます。しかし、このところでは、「ふたりでも三人でも良いのだ」と書かれています。イエス様は弟子たちを伝道旅行に派遣したことが何度かあります。その時、彼らを二人一組で遣わしました。二人というのはとても良いと伝道者の書に書かれています。一人が倒れたら、もう一人が助け起こすことができるからです。また、二人が良いのは共に祈ることができるからです。これは夫婦の祈りでも言えますし、兄弟姉妹の祈りでもそうです。19節には「まことに告げます。…もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と約束されています。「どんな事でも」と言われています。ですから、どんなことでも父なる神がかなえてくださるのです。「まことに」と言われていますので、私たちは額面通り受け止めるべきです。そもそも、この二人とは一体だれなのでしょうか?私は、罪を犯した兄弟とその人のところに行った兄弟(姉妹)だと思います。ふたりだけのところで責めたわけですが、そのとき、二人が心を合わせて祈ったら、すばらしい和解が生まれるでしょう。でも、うまくいかないときがあります。それで、他にひとりかふたりをいっしょに連れて行きました。そこには、罪を犯した兄弟の他に二人か三人います。すべての事実が確認されました。そのときのことが20節ではないでしょうか?「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」なぜなら、ふたりから急に三人になっているからです。一緒に祈っているところにイエスさまが来られ、悔い改めとすばらしい和解をもたらしてくれたら何と幸いでしょう。

 教会では何かをするとき必ず祈ります。最後も祈る場合もあります。祈って初め、祈って終わる、すばらしい習慣だと思います。私の経験によると、会議など長引く場合は、途中、神さまの導きを求めてみんなで祈ったらもっと良いと思います。私は関東のセルチャーチネットワークに、15年くらい携わってきました。次の集会で何をするのか、56人集まって協議します。1時間くらいやっても、なかなか決まりません。そのとき、「では一緒に祈りましょう」と勧めます。3分くらい祈ります。すると、何かが降りてくるというのは、変な言い方ですが、パーッとテーマが浮かんできます。もう、10分もかからないですべてのプログラムが完成します。これは奇跡です。関東のセルではこのことを何度も体験しました。流山に三浦先生というとてもまじめな牧師がいらっしゃいます。彼は、平日アルバイトをしていますので、仕事を休んで打ち合わせに来ます。私は彼のことをねぎらって、「仕事を休んで打ち合わせ会に来るのは割に合わないでしょう」と言ったことがあります。そうすると三浦先生は、「いや、これが一番、勉強になります。私は先生方から色んな事を教えられてきました。とても感謝です」という言葉が返ってきました。そうなんですね。日本の教会が置かれている厳しい状態から始めますので、どうしても否定的です。あれもやったけどダメだった、これもやったけどダメだった。何をしようか?でも、目をつぶって一緒に祈ると、天が開けて何かがパーッと降りてきます。では、私たちが祈る前に天がふさがれていたのでしょうか?そうではありません。天は開いていたのですが、私たちの心が閉じていたのです。

 最後に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とはどういう意味でしょう?これは主がそこに臨在されるということです。神さまは霊ですから、どこにもおられます。これを偏在といいます。では偏在と臨在はどこが違うのでしょうか?臨在とは神さまがそこにおられるだけではありません。神さまが臨在されるところには、奇跡や癒し、救いのみわざが起こるということです。問題の解決、特別な啓示、聖霊の力が与えられるということです。教会は人数の多さではありません。もちろん多いことに越したことはありません。教会の真骨頂は、ふたりでも三人でも、主の名において集まり、心を合わせて祈ることです。二人でも地上で心を合わせて祈るなら、どんなことでも天の父がかなえて下さるからです。

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