2017年4月 1日 (土)

自分を捨て マタイ16:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.2

 イエス様は「いのちを失う者はいのちを得る」とおっしゃいました。私たちはこの地上でこのいのちで、ずっと生きたいと願っています。でも、この地上のいのちはやがて終わりが来ます。その前に、私たちはこのいのちではなく、神さまがくださるまことのいのちをいただくべきではないでしょうか?弟子たちはイエス様と一緒にイスラエル王国を治めたいと願っていました。このお方に従っていけば豊かな報いがあると信じて、何もかも捨てて従って生きていたのです。でも、イエス様はそういう地上のことではなく、もっと大切なものがあると教えてくださいました。

1.人のことを思う

 弟子のペテロは「あなたは、生ける神の御子、キリストです」と告白し、イエス様から「良く言った!」と褒められました。ところが、このところでは「下がれ、サタン」と叱られ、天から地獄に落とされた思いでした。なぜ、ペテロはあんな立派な答えをしたのに、こんどはこてんぱんに叱られたのでしょうか?ペテロの信仰告白が間違っていたのでしょうか?それとも、何かこの世の不純物が混じっていたのでしょうか?ヒントは本日の聖書箇所の少し前にあります。マタイ1620「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」もし、イエスがキリスト(メシヤ)であったなら、そのことをみんなに知らせるべきであります。しかし、イエス様はペテロが告白したようなことをだれにも言ってはならないと禁じました。なぜでしょう?当時のメシヤ観は聖書が言うメシヤとちょっと違っていました。ペテロもそうでありましたが、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、メシヤがローマを倒して、この地上にイスラエル王国を建てて下さることを望んでいました。その暁には、ペテロをはじめ弟子たちは、「御国の大臣になってキリストと一緒に治めるんだ。だから自分たちは何もかも捨ててしたがって来たのだ」と思っていたのです。この思いはずっと消えることなく、キリストの復活後まで続きます(参考.使徒16)。その当時、イスラエルを政治的に支配していたのはローマです。しかし、彼らには宗教的な自由が与えられていました。その指導者たちというのが、エルサレムにいる長老、祭司長、律法学者たちだったのです。イエス様は、21節からご自分がエルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始めました。

 ところがまだイエス様が全部話し終えていないのに、ペテロが邪魔をしました。マタイ1622するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」なんと、弟子のペテロがイエス様に「ちょっとこっちに来て」と脇に呼んで、個人的に叱責したのです。何と言ったかというと原文を直訳すると「神が慈悲をもって、そんなことを起こらしめ給わないように」ということです。慇懃無礼とはこのことであります。今で言うと、上から目線で「とんでもない」と叱責したのです。おそらく、さきほど「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と褒められたので、調子に乗っていたのかもしれません。その直後、イエス様から、逆に恐ろしいことばが返ってきました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはとても難解な箇所です。イエス様がペテロに「サタン」と言ったのか、それともペテロにくっついているサタンに言ったのか、ということです。「下がれ」は英語では、get behind me 「私の後ろに下がれ」という意味になっています。「あなたはわたしの邪魔をするものだ」はサタンに言っているのであり、後半の「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」は、ペテロに言っているのではないかと思います。つまり、ペテロが間違った思いを抱いていたので、そこにサタンが乗じて、イエス様を誘惑したのではないかと思います。どんな誘惑かというと十字架を通らないで、近道を提案したということです。簡単に言うと、サタンがペテロに乗り移って、十字架の贖いを邪魔しようとしたということです。「えー、本当?」と疑う人もいるかもしれません。ルカ413「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」これは、悪魔のイエス様に対する試みの後のことです。悪魔はしばらくの間イエスから離れていましたが、次の機会を狙っていたというのが正しい理解です。ですから、悪魔は間違った思いを持っていたペテロを用いて、イエス様の十字架の贖いを邪魔させたのです。イエス様はサタンに「あなたは、わたしの邪魔をするものだ」と言っていますが、「邪魔」は最も、相応しい日本語訳です。邪という意味は「正しくないこと、道に外れている」と言う意味です。また、「魔」は、悪魔の魔です。ですから、JB.フィリップ訳はOut of my way, Satan! You stand right my pathと書いています。簡単に訳すと、「私の道からどけ、サタン。お前はまさしく、私の道に立っている」という風になります。つまり、イエス様はご自分の死によって、人類を贖うという道を進んでいました。ところが、サタンはペテロを用いて、脇道へ逸らそうと誘惑したのです。イエス様がサタンに命じたので、その瞬間、サタンはペテロから離れました。

 その後、イエス様はペテロに言いました。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」これはどういう意味でしょう?さきほども申しましたように、ペテロや他の弟子たちは、「メシヤはイスラエル王国を復興させてくださる私たちの王様だ」と考えていました。つまり、イエス様が死んだら、元も子もないということです。なぜなら自分たちはやがて来るイスラエル王国の大臣になるんだと考えていたからです。イエス様がこれから先、2回もご自分が死んで、三日目によみがえることを予告されますが、ぜんぜん聞く耳をもっていませんでした。「イエス様が死ぬなんてことはあってはならない」とハナから否定していたのです。この思いは最後の晩餐まで続きました。イエス様が捕えられたとき、ペテロは怖くなり、イエス様を三度も知らないと言いました。それは、地上にイスラエル王国がもたらされる希望がなくなったからです。ですから、さきほど、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した内容は、半分合っていて、半分は的外れだったのです。それでも、イエス様はその告白を父なる神からのもとであると喜ばれました。つまり、ペテロのキリスト観は十字架と復活を通過していないキリストだったのです。本来は、十字架と復活を通過したキリストを主であると告白するなら救われるのです。その当時は、まだそれがなされていなかったので、イエス様はそれでも受け入れて下さったのです。私たちの場合は、もう完成されていますから、「あなたは神の子、キリストです」と告白して救われます。

 でも、ここで問題にされていることは、イエス様がペテロにおっしゃったことばです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」このことばは、現代の私たちにも語られていることばです。「人のことを思っている」とはどういう意味でしょうか?そして、「神のことを思う」とはどういう意味でしょうか?まず、「人のことを思う」とはペテロや他の弟子たちが思っていた内容です。彼らはこの地上で長生きして、地上でイスラエル王国を支配しようと思いました。そして、「イエス様がイスラエルの王様になり、いつまでも生きながらえて、あのダビデのようになってください」と願っていました。「人のこと」というのは、言い換えると「この世的、人間的」という意味です。この地上の生活、この地上の生き方という意味です。つまり、人生のスパン(長さ)が今から死ぬまでの間ということです。生きているうちに自分の夢が叶えられ、幸福を手にいれたいということです。そのためには、神さまをも利用するということになります。神中心ではなくて、人間中心の信仰です。ヒューマニズム(人本主義)と言いますが、イエス様を信じていても、ヒューマニズム(人本主義)のクリスチャンがいるのです。しかし、それは生焼けのパン菓子であり、神中心の信仰でなければなりません。どうすれば、神中心の信仰になるのか、それは後半の24節以降記されています。でも、前半のポイントでは、「神のことを思う」ということをしっかりゲットしたいと思います。「神のこと」とは地上のことではなく、天上のことです。言い換えると、地上のイスラエル王国ではなく、神が下さる新しいイスラエル、天の御国であります。イエス様はこの世の王ではなく、天の御国の王だったのです。そして、イエス様を信じる者は、この地上ではなく、天の御国でイエス様と一緒に治めるのです。ハレルヤ!

 使徒パウロはコロサイ3章でこのように命じています。コロサイ31-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。地上のものは消えてなくなります。しかし、天にあるものは永遠に続きます。私たちが所持している地上の家、土地、車、お金、肉体、地位、すべての持ち物、みんな一時的で、みんな借り物です。しかし、やがて与えられる天上の家、土地、栄光の体、地位、持ち物はすべて永遠でありいつまでも自分のものなのです。もちろん地上の生活を粗末にしてはいけません。でも、天上の生活が私たちのゴールであり、そこを目指すべきなのです。

2.自分を捨て

 イエス様はご自分の受難と死とよみがえりを弟子たちに予告しました。その直後、このようなことを弟子たちに告げました。マタイ1624-26 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」同じようなことが、マタイ10章でも語られました。その時は、伝道旅行に遣わされる直前でした。今回は、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白した後であります。つまり、イエス様はご自分をだれか明らかにした直後です。でも、自分たちが信じていたキリスト、メシヤとは少し違っていました。なぜならエルサレムに行って、苦しみを受け、殺され、三日目によみがえると言ったからです。弟子たちは「そんなことは聞きたくない、ありえないことだ」と耳をふさいで理解しようとしなかったのです。なぜなら、イエス様が死んだら、イスラエル王国の復興もなりたたないからです。もし、そんなことになったら、自分たちが職業も家も捨てて従ってきた意味がありません。故郷に帰ったら、きっと馬鹿にされるでしょう。イエス様は彼らの思いを知っていました。彼らはこの世のこと、地上のイスラエル王国にしか興味がありませんでした。この地上で、王であるイエス様の右か左に座って、豊かな報いを受けたかったのです。まさしく、その思いは人間的であり、この世的でありました。だから、イエス様はこのようなことをおっしゃったのです。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」一番注目すべきことは、「自分の十字架を負う」ということです。多くの人たちは十字架を負うとは、「身内や親しい人の不幸な運命を背負う」みたいに捉えていますが、そうではありません。また、クリスチャンでなくても、十字架のネックレスを首にかけてお守りみたいにしていますが、それも間違っています。ローマの時代、十字架というのは極刑の道具でした。ローマの哲学者キケロは「最も残酷で嫌悪感を起こさせる処刑である。ローマ市民には十字架を触れさせてはならない」と言ったそうです。イエス様もそうでしたが、犯罪人は刑場まで自分の十字架を背負って行かされました。当然、周囲の人たちから馬鹿にされたり、石を投げたられたりしたでしょう。そのように人々から辱めを受けた後、十字架かけられるのです。このところで、イエス様が「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。と言うことは、自分が死ぬための十字架を負って、イエス様について行く、これがキリストの弟子だということです。十字架はだれか人のためではなく、自分が死ぬためのものだということを忘れてはいけません。当然、イエス様に従っていくものは、イエス様が受けた辱めや迫害も受けることがありえるということです。でも、最後は死ぬのです。このようなメッセージを教会では近年語らなくなったかもしれません。なぜなら、次の週から人が来なくなるからです。人々は慰めや励ましや希望をいただいて教会に来ます。なのに、牧師が講壇から「十字架を負って、最後に死ね」と言われたら、「お前こそ死ね!」と怒って帰ってしまうでしょう。十字架のメッセージは不人気です。でも、パウロはこう言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント118)。もちろん、この十字架はイエス様の贖いの十字架です。贖いの十字架はイエス様だけで、十分であり、私たちが参与する部分は全くありません。でも、キリストに従う者として、自分の十字架を負って従うということは、天国に行くまでずっと続く命令なのです。なぜ、十字架を負うことがそんなに重要なのでしょうか?クリスチャンは解放されて、自由な生き方ができるのではないでしょうか?多くの人は、イエス様がおっしゃる逆説の意味を理解しようとしません。

 マタイ1625-26「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」このところに二種類のいのちがあるとイエス様はおっしゃっています。それは、いのちとまことのいのちです。いのちはギリシャ語でプシュケーであり、「生命の息」という意味があります。人間や動物にはそのようないのちがあります。プシュケーは魂とも言われ、知性、感情、意志の面があります。プシュケーは「地上のいのち」という意味合いが強く、その代り、聖書にはゾーエーという「永遠のいのち」のことも言われています。イエス様はご自分のことを「いのちだ」と言われましたが、そのときにはすべてゾーエー「永遠のいのち」ということばを使っています。でも、マタイによる福音書はどちらもプシュケーであり、しいて言えば、いのちとまことのいのちです。では、前者のいのちとは何なのでしょうか?それは地上のいのちであり、自分だけが生きたいという本能です。私たちは死にたくないのです。だれよりも自分が生きたいのです。これがプシュケーの特徴です。この世の中には「人のために生きたい」「人のために役に立ちたい」という立派な人がいます。目的は立派かもしれませんが、根底にはプシュケーがあり、自我や欲望と戦っています。ペテロや弟子たちはこの世の王様を求めました。地上で幸せにいつまでも暮らしたかったのです。でも、それはプシュケーであり、この世のいのちから来るものでした。でも、残念ながら、プシュケーでは神の国を受け継ぐことはできません。イエス様は地上のイスラエル王国ではなく、神の王国、永遠の御国を与えようとされました。ですから、このいのちに死んで、まことのいのちをいただかなければなりません。私たちは自分で死ぬことはできません。なぜなら、プシュケーは自己保存、自己絶対、自分がだれよりもかわいいからです。そのために十字架を負うのです。十字架はあなたのいのちを殺し、まことのいのちを与える道具だからです。

 そのことはイエス様が証明し、イエス様が保障してくださいました。イエス様は「エルサレムで多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえなければならない」とおっしゃいました。つまり、十字架の死で終わるのではなく、その後に復活があると告げられました。そうです。私たちが自分の生まれつきのいのちを十字架に渡すと、今度は、復活のいのちをいただくことができるのです。復活のいのちが、まことのいのちであり、永遠のいのちなのです。このいのちこそが、神の王国、永遠の御国で生きることのできるいのちなのです。だから、イエス様は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と言われました。言い換えると、「全世界を手に入れても、永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょう。永遠のいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう?」となります。私たち人間には、永遠のいのちを買い戻すための何物も持っていません。永遠のいのちを買い戻してくださるお方は私たちのために十字架について三日目によみがえられたイエス・キリストだけです。このお方が代価を払ってくださったので、私たちは死んでも生きるのです。パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント411と言いました。これこそ、聖書が言う逆転勝利であります。この世のいのちは「自分は生きたい、自分は出世したい、自分は偉くなりたい」と望むのです。ペテロや他の弟子たちもそう思っていました。でも、私たちは自分の十字架を負って、イエス様に従うのです。するとそういう自分が死んで、イエス様中心の新しい自分が与えられます。生まれつきの自分こそ曲者はいません。その自分を十字架の死に渡すと、本当の自分が生まれるのです。だから、「まことのいのち」を英国の聖書は、his true self、「本当の自分」と訳しています。

 私が言いたい事はこのことです。生まれつきのいのちと神さまがくださる永遠のいのちをそのまま継ぎ足すことは無理です。言い換えると生まれつきの自分と神さまがくださる本当の自分をそのまま継ぎ足すことは不可能です。十字架はそれらの二つを一回、断ち切って下さる神の道具です。かつてはローマの死刑の道具でしたが、キリストにあってあなたに死とよみがえりを与える神の道具になったのです。十字架なくして復活はありません。あなたはこの世のいのちに死んで、神からの新しいいのちをいただく必要があります。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「キリストにあるなら」とは原文は、engraft「接ぎ木されるなら」であります。つまり、生まれつきのいのち、生まれつきの自分が一度断ち切られ、こんどはキリストという木に接ぎ木されるということです。それまではアダムから来た古いいのちでこの世のものを求めて生きていました。いや、生き延びてきました。でも、十字架で切られて死んで、こんどは生まれ変わり、キリストに接ぎ木されました。こんどはキリスト様からいのちと力をいただくのです。あなたはこの世でありながらも、神の国のいのちで生かされて歩むのです。16章の最後に「報い」ということばはありますが、すべてを失ってもイエス・キリストが報いてくださるのです。

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2017年3月24日 (金)

この岩の上に マタイ16:13-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.26

 きょうの箇所はマタイによる福音書の1つの山場です。とても有名な箇所でありますが、同時に様々な解釈がほどこされており、歴史的に話題になった箇所でもあります。これらのことばは、直接的にはペテロに言われたことばでありますが、同時に私たちにも言われたことばであると信じます。なぜなら、教会は使徒的な教えの上に立っているからです。イエス様が弟子たちに命じられたことばは、私たちにも命じられたと取るべきであります。それでないと、聖書を読んでいる意味がありません。かつては弟子たちに語られましたが、今日は聖霊よって私たちひとり一人に語られていると信じます。

1.イエスはキリスト

 イエス様は弟子たちを連れて、ピリポ・カイザリヤと言うところに来ました。地図を見ると、ヘルモン山の近くでイスラエルの北に位置しています。ヘロデ・ピリポは自分自身とローマのカイザルをたたえて、この町を築いて二人の名前を付けました。また、この地は異邦人の地であり、人々はパーンという牧畜の神さまを礼拝していました。一方は政治的な支配、他方は偶像礼拝の地で、イエス様は弟子たちに1つの質問をしました。「人々は人の子をだれだと言っていますか」と、遠くの方から質問しました。マタイ16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」当時の人たちは、イエス様を有名な預言者の再来だと思っていたのでしょう?次に、イエス様は「では、あなたがたは、私はだれと言いますか」とダイレクトに質問しました。そのとき、弟子のリーダー格であったペテロが即座に答えました。マタイ16:16「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ペテロは目立ちたがり屋で、ある時は余計なことを言いますが、今回は冴えていました。イエス様から「あなたは幸いです」と山上の説教と同じ、祝福のことばをいただきました。マルコによる福音書は「あなたはキリストです」(マルコ829の一言だけですが、マタイによる福音書の方が詳しく書かれています。

 このところで重要なのは、ペテロのイエス様に対する告白であります。一番重要なのは、「イエスがキリストである」ということです。なぜなら、原文も英語の聖書も「あなたはキリスト、生ける神の子です」という順番になっているからです。キリストといのはメシヤであり、救い主だということです。でも、この告白は単なる告白ではなく、私たちが救いを受けるための信仰告白です。ローマ109「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」それだけではなく、イエス様の御名は最も権威があると書かれています。ピリピ210-11「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ペテロはどの程度知っていたか分かりませんが、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。それに対して、イエス様はとても感激され、ペテロを賞賛しています。でも、そのことを告白させたのはだれでしょう?「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とイエス様が言われました。「明らかに示す」ということばは、「啓示する」ということばが使われていますが、人間の知恵や考えでは及ばないということです。父なる神さまが、開示して下さったということです。私たちもあるとき決心して、イエス様が救い主、キリストであると信じて告白します。この告白なしではクリスチャンになることはできません。でも、この告白は簡単にはできません。パウロは「聖霊によるのでなければ、だれでも、『イエスは主です」と言うことはできません』(Ⅰコリント123と言いました。神の霊である聖霊がその人に臨んで、はじめて分かることだからです。

 洗礼式では、確認のために公に告白してもらいます。もちろん、神さまと一対一で十分なのですが、教会の群れに加えられるとき、答えてもらいます。そうすると兄弟姉妹は「ああ、本当にイエス様を信じたんだなー、救われて良かったですね」とお祝いします。でも、中には口先だけの人もいるかもしれません。もちろん、私は牧師として信仰告白が真実なものとして洗礼を授けます。でも、便宜上とか、仕方なくという場合もあるかもしれません。結婚するため、ミッションスクールに入るため、あるいはお世話になったので断ることができなかったとか…。外からは分かりません。しかし、私たちはどういう状況で、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したのか知らなければなりません。最初に申しあげましたが、その場所はピリポ・カイザリヤというところで、皇帝礼拝がなされているところでした。これからますますローマ皇帝の力が強くなり起源100年頃は大迫害が起りました。その当時は、カイザルが主(キュリオス)でありました。そういう中で、イエスが主(キュリオス)と告白するなら、投獄され命が奪われました。ペテロもパウロもその告白を捨てなかったので、殉教しました。もう1つは、ピリポ・カイザリヤの人たちはギリシャとローマの偶像、パーンを拝んでいました。日本も多神教の国であります。宗教に関してはとても寛容でありますが、「キリストの神が唯一だ」というと排斥され、時には迫害されます。都会ではそうでもありませんが、地方では「村八分」のようになります。そういう中で、「イエスは主です。他に神はいません」と告白できるかということです。

 でも、イエス様を信じて、さらに聖霊に満たされると、告白せずにはおれなくなるのです。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234と言われました。びくびくして、「イエスは主です」と言うのではありません。救われたのがうれしくて、喜びのゆえに、「イエスは主です。アーメン」と言いたくなるのです。神の霊が臨んで、あのエレミヤのようにしまっておくことができなくなるならば本物です(参考.エレミヤ209)。アーメン。

 

2.この岩の上に

 イエス様はペテロにこう言われました。マタイ16:18 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」「この岩」とはだれなのか、歴史的に物議をかもしているテーマです。ローマ・カトリックは「岩とはペテロである」と主張します。なぜなら、ペテロは「岩」という意味があるからです。そのためペテロがキリストの最初の代行者であり、歴代の教皇がそれを受け継いでいるという考えです。しかし、16世紀に宗教改革が起りました。ルターは「生けるキリストご自身である」と言いました。また、カルヴァンは「『イエスは主である』というペテロの信仰告白である」と解釈しました。現在はどのように落ち着いているのでしょう。「この岩の上に」というのは「ペテロの信仰の上に」ということです。しかし、実質的には「キリスト自身である」ということです。旧約聖書には「主は岩である」という表現がたくさん出てきます。パウロは「モーセが打った岩はキリストである」(Ⅰコリント10:)と解釈しています。もしも、ペテロが告白した「イエスは主である」という信仰告白が教会の土台だとするならどうでしょう?もちろん、「イエスは主である」という信仰告白は重要です。これはプロテスタント教会が寄って立つところだからです。でも、そのように告白したペテロがその直後、どうなったでしょうか?彼は「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ1623としこたま叱られました。さっきまで、天国に上げられていたのに、よけいなことを言ったために、今度は地獄に落とされました。また、ペテロはイエス様が十字架にとらえられた時、「イエスを知らない」と三度も否定しました。ですから、人間の信仰告白だけでは、教会の土台にはなれないということです。

 でも、告白を受けられる「岩であるキリスト」ならどうでしょう?パウロは「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ213と言いました。つまり、私たちだけの信仰ではなくて、イエス様の真実があるから救われるのです。ときには私たちの信仰がおかしくなることもあるでしょう。ところが、信じているお方が常に真実であるなら大丈夫です。この世の宗教は私たち人間の信心が強調され、信仰の対象はどの神様でも良いみたいに思われています。そうではありません。私たちの信仰も重要ですが、信仰の対象がまことの神さまであるなら安心であります。そういう意味で、「この岩とは、生けるキリストご自身である」と言うことも可能なのです。英語の詳訳聖書には「ギリシャ語のペトラは、ジブラルタルのような巨大な岩である」と書かれていました。スペインの南部に「ジブラルタルの岩、ザ・ロック」というのがあります。ザ・ロックは岬をなす一枚岩であり、高さが426メートルあります。歴史的に、ジブラルタルの岩は堅固な要塞になっていたそうです。ペテロは「大きな岩の一部」という意味です。でも、イエス様はジブラルタルのような巨大な岩、要塞なのです。ハレルヤ!私たちは岩なるイエス様の上に、信仰を築いているのです。イエス様は「岩の上に建てられた家は、雨が降って洪水が押し寄せても倒れなかった」(マタイ725)と言いました。アーメン。あなたの信仰を自分の信念や知識に置いてはいないでしょうか?教会の伝統や信条、あるいはだれかの神学の上に置いている人もいるかもしれません。聖書に啓示されている、生ける神の子キリストに置くべきであります。そうすれば、世の終わりが来ても、年老いて自分がだれか分からなくなっても、その人の信仰は揺るがされることはありません。

 私は教会形成にとても興味があり、弟子訓練やセルチャーチに約30年間携わってきました。しかし、どれもこれもうまくいきませんでした。弟子訓練は人々をキリストの弟子に作り変えるということです。これを聞いた人々は、「え?今のままではダメなの?私を訓練するの、怖い?」というイメージを持ちます。セルチャーチはどうでしょう?これは小グループを作り、聖書のことばを分かち合って、建て上げ合います。さらに人々をグループに招き入れて救いに導き、増殖するというゴールがあります。10年前、香港からベンウォン師が来られ「教会の7つの本質」について教えてくれました。その中で最も重要なのは「関係」であると言われました。私は、以前は気づいていませんでしたが、人間関係が苦手なんだと分かりました。私だけではなく、日本人が人間関係で苦労しています。それなのに、教会で「関係が大事だ」と言われるとよけいプレッシャーを与えてしまいます。教会形成のためにいろんな勉強をし、努力を重ねてきました。しかし、最後に分かったことはこのことです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」だれが、教会を建てるのでしょうか?「キリストご自身が、キリストの教会を建てる」ということです。それなのに、人為的に手を加えて教会を形成するということ自体が無理なのです。教会がキリストのからだであるなら、かしらはキリストです。それぞれがかしらなるキリストから命令を聞けば良いのです。そして、同じ賜物、同じ使命を持つ者どうしが連携し合えば良いのです。重要なのは互いに愛し合い、コミュニケーションを持つということです。ハレルヤ!このように単純に考えるとうまくいくのではないかと確信しました。大和キリスト教会に行くと壁に私はこの岩の上に私の教会を建てよう」という横断幕が張られています。最初に書いたのは私なんです。私が座間キリスト教会にいたころ大川師の命令によって、大きな横断幕を書いたのです。それなのに、38年もたって、振出しに戻るとはどういうことでしょうか?聖書にちゃんと書いてあったんです。キリスト様がおっしゃいました。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」このお方をかしらとして仰ぎ、従っていく時、教会が建てられていくのです。アーメン。

 

3.天の御国のかぎ

 マタイ1619 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」天の御国のかぎとは何なのでしょうか?まただれにこのかぎが与えられたのでしょうか?古くから現代のようなかぎがあったと思われます。イエス様がペテロにかぎを手渡している宗教画はたくさんあります。しかし、「つなぐ」とか「解く」ということばが後にありますので、原文から調べる必要があります。「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」で、「縛る」とか「禁じる」という意味があります。英語の詳訳聖書には「不適当で不法であると宣言する」となっています。また、「解く」はギリシャ語で「リュオウ」ですが、「解く」とか「許す」という意味があります。英語の詳訳聖書には「合法であると宣言する」となっています。両方ともユダヤ教のラビたちがよく用いた表現のようです。簡単に言いますと、「つなぐ」は「禁じる」であり、「解く」は「許す」ということです。イエス様は「地上で禁じるなら、天においても禁じられる。地上で許すなら、天においても許される」とおっしゃったのです。ですから、「天の御国のかぎ」というのは、神さまの代わりに「禁じたり」「許す」権威なんだと捉えるべきです。でも、その権威が一体、だれに与えられたのでしょうか?この文章を見る限り、ペテロに与えられていることがわかります。なぜなら、イエス様が「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とペテロに言っているからです。ローマ・カトリックはこのところから、やっぱり「ペテロが最初の首長なんだ」と主張するのであります(ダシャレです)。J.Cライルという人の本を読むと、そのことが書かれていました。ペンテコステの日、だれが説教したでしょうか?ペテロがエルサレムでキリストの復活と聖霊降臨のメッセージをしました。それで、3000人の人たちが救われました。また、ユダヤ教の指導者たちから捕えられたとき、彼は「天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は与えられていません」と大胆に答えました。それから、異邦人の教会ができていたとき、ペテロがそのことを許可しています。そういう意味で、初代教会のリーダーはペテロであったということは否むことはできません。

 しかし、それで終わりではありません。イエス様は復活された後、弟子たちに現れてこのように言われました。ヨハネ2020-21「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」このところから、ユダを除いた11人の使徒たちに、その権威が与えられたことがわかります。イエス様は使徒たち全員に、天の御国のかぎを与えたのです。さらに、マタイ28章を見るとどうでしょう?マタイ2818-19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け…」とあります。この命令は弟子たちばかりではなく、キリストを信じる教会に与えられていると信じます。私たちは教会で洗礼式を行います。その人の信仰告白を確認したとき、祈りをささげます。そのとき、私は「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ25とイエス様のことばを宣言します。そのシーンを見ていて、「え、そんな権威があなたにあるの?あなた何様なの?偉そうに!」と反感を抱く人もいるかもしれません。だけど、それはイエス様がくださった権威を用いているのであって、牧師自身に特別な権威があるわけではありません。つまり、天の御国のかぎを用いているということです。でも、このかぎは、牧師だけのものではありません。ルターは「万人祭司説」を唱えました。今日の教会では按手礼を受けた牧師でなければ、洗礼や聖餐式をできないと決めています。もし、私がこれに異議を唱えるなら、免職になる恐れがあります。でも、「それが聖書のどこに書いてあるのですか?」と聞かれて、「ここにあります」と答えられる先生がおられるでしょうか?マタイ28章は使徒たちがキリストの弟子を作り、その弟子となった者が「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」ように命じられているのです。聖書を見ると、使徒パウロが洗礼を授けたのは数名であり、弟子たちがバプテスマを授けています。そのことを考えると、もっと信徒に権威を委譲していくべきではないかと思います。でも、私はブラザレンのように牧師の権威を全くなくすというのは反対です。聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」(エペソ411と書かれています。でも、それは仕えるための権威であって、人を支配するためのものではありません。とにかく、クリスチャン一人ひとりが、天国のかぎをぶら下げて歩き、いつどんな時でも、用いることができたら幸いです。出会った人に福音を語り、信じた人には、天国に行く許可を与えたら良いと思います。日本の教会には、牧師しかそのかぎを使えないという伝統がありますが、それならば御国は広がっていきません。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」とイエス様はあなたに語られたのです。

 イエス様はハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。ハデスとは陰府であり、死者がいるところです。その後、イエス様は「天の御国のかぎを上げます」と言われました。ハデスと天の御国は真逆です。もし、地上の私たちが「禁じたり、許したり」する権威を持っており、それが天にもちゃんと連携していると教えられました。でも、それは天だけではなくて、ハデスにも連携していると考えたらどうでしょう。ハデスには門があります。しかし、私たちがもっている天の御国のかぎの方がもっと権威があるということです。つまり、私たちが「あなたは救われました」と言うなら、ハデスの門は決して開くことはないということです。つまり、その人は死んでも、ハデスに行くことはないということです。エターナル・ミニストリーズという出版社があり、天国に行った人々の証や地獄に行った人々の証がたくさん本になっています。ある女性がイエス様と一緒に地獄に下りました。ある女性が半分腐った体で、燃える火の中で苦しんでいました。その女性がイエス様に「どうか助けてください」とすがりつこうとしました。イエス様は悲しい顔をされ「遅すぎます」とひとこと言いました。するとその女性は般若のような顔に変わり、きたない言葉をイエス様にいっぱい浴びせました。つまり、ハデスの門は堅く閉じられており、そこではイエス様でも無理であったということです。イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と言われました。現在、天国の門も陰府の門も両方とも開かれています。どうか一人でも多くの人たちが「イエスは主である」と告白して御国に入れますように。そのためにすべてのクリスチャンが「天の御国のかぎ」を用いられますように。

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2017年3月17日 (金)

まだわからないのですか マタイ16:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.19

 マタイ16章のはじめは、15章の続きだと思ってください。15章の終わりには、7つのパンで男性だけでも4000人を養った奇跡が記されていました。その後、イエス様は群衆を解散させて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かれました。弟子たちは、最初は5000人の給食、そして4000人の給食という奇跡を体験しました。しかし、ここでは「パンがない。パンを持ってこなかった」と悩んでいます。イエス様は「まだわからないのですか?」と弟子たちにおっしゃっていますが、弟子たちは何が分からなかったのでしょうか?きょうは3つの問題について考えたいと思います。

1.しるしの問題

 マタイ161 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。」「しるし」とは、「あなたが本当にメシヤなのか奇跡をもって証明してください」ということです。同じことが、マタイの12章にも書かれていました。使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します」(Ⅰコリント122と言いましたが、度々、イエス様にしるしを求めました。このところでは「天からのしるし」と書かれています。「天」というのは、空という意味と、神という意味があります。ですから、イエス様は最初、空の話、つまり天候の話をされました。人々は「もし夕焼けだと明日は晴れるということであり、朝焼けだとまもなく荒れ模様になる」ということを知っていました。イエス様は「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。」と言われました。おそらく、空模様の見分け方とイエスさまによる「時のしるしの見分け方」が共通しているということでしょう。「しるしの問題」は、なかなか難しい問題です。先ほど、天には「神」という意味もあると申し上げました。イエス様がなさっておられたことは「神からのしるし」だったのです。言い換えると、自然界のしるしがあるように、神からの霊的なしるしがあるということです。 

 イエス様はあるところで「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と言われたことがあります。マタイ12章では神の御霊によって悪霊どもが追い出された時でした。また、福音書を見ますと、「神の国を宣べ伝え、病気を直すため」とか「福音を宣べ伝え、病気を直した」という言い方がところどころに発見できます。これらの意味は、イエス様と一緒に神の国がやってきたということです。その証拠として、悪霊が追い出されたり、病が癒されたり、死人がよみがえらされたのです。それは明らかに「時のしるし」を意味しています。アダム以来、この世はサタンが支配し、人々は罪と病と死の中で苦しんでいました。しかし、神の子イエスがこの世にやってきました。手ぶらではなく、神の国を引っ下げて、やって来たのです。言い換えると、イエス様と一緒に、この世に神の国が侵入して来たのです。そのため悪霊が追い出され、病が癒され、死人がよみがえらされたのです。本来なら、それらはこの世が終わって御国に属することです。しかし、この世がまだ終わっていないのに、イエス様が神の国をもたらすためにやって来られたのです。これが「時のしるし」であり、真摯に求めようとすれば分かる真理なのです。

 ところがどうでしょう?マタイ164「『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求める」と言われました。「時代」というギリシャ語は、ゲネアーで「子孫、血族、種族」という意味です。英語の聖書はgenerationとなっていますので、「同時代の人々、世代」とも訳すことができます。つまり、「その時代の人々」という意味です。それは、当時のユダヤ人をさしているものと思われます。なぜなら、神の子イエスご自身とイエス様がなさるみわざを直視しながら、「もっとしるしを見せて下さい」と願ったからです。これは不信仰の現れ、悪い心の現れと言えます。「ヨナのしるし」とは、イエス様が死後、三日目によみがえるというしるしです。キリスト教の最大のしるしは、イエス様が死んで三日後に復活されたという奇跡です。それ以上のしるしはありません。だから、使徒パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(Ⅰコリント1514と言いました。今日の時代も、キリストの復活を信じない人たちがいますが、言い換えると悪い、姦淫の子孫だということなのです。人々は自分の罪を捨てたくないので、大いなるキリストのしるしを見ても信じないのです。

 私たちはどの子孫になりたいでしょうか?たとい、悪い姦淫の時代の中にあっても、神の子イエスを信じる人々がいるのではないでしょうか?そういう人たちこそ、「神の種が宿っている人たち」(Ⅰヨハネ39なのではないでしょうか?私たちは悪い姦淫の時代の中にあっても、キリストを信じたゆえに、新しい御子の子孫(種族)に加えられていることを感謝しましょう。ジョエル・オスティーンが言いました。「あなたのgene遺伝子には宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。サラブレッドが血統で決まるように、あなたも神の血統なのです」。私たちは自分の生まれた血統しか見ていません。「自分の生まれがこうだから」「自分の育った環境がこうだから」と低いレベルを生きているかもしれません。そうではなく、クリスチャンは再び生まれた存在です。だから、宇宙を創られた最も高い神さまの遺伝子が組み込まれているのです。だから神さまを「天のお父様」と呼ぶのです。私たちは天の父の子ども、遺伝子が組み込まれています。この事実を受け止めると、この先、希望が湧いてきます。それは単なる希望ではなく、神さまの確かな約束なのですから、そのまま信じて受け止めるべきであります。

2.パン種の問題

 マタイ165-6「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」そのことを言われたとき、弟子たちは食べるパンのことを考えていました。イエス様は続けておっしゃいました。マタイ1611-12「『わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。』彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」奇跡のことは次のポイントでお話ししますが、パン種(イースト菌)のことをまずお話ししたいと思います。聖書でパン種というのは腐敗を象徴しました。なぜなら、パン種を入れると長く保存できないからです。少し前の13章で「天の御国はパン種のようなものです」というたとえがありました。しかし、それは例外で、腐敗ではなく、知らない間に膨らむというたとえです。その意味は、天の御国が地上において、知らない間に拡大していくということです。しかし、イエス様がここで言われている「パン種」は悪い意味で、偽善を表しています。膨らむことはふくらむのですが、真実ではなく、偽善だということです。イエス様は弟子たちに5つのパンで5000人を養ったこと、7つのパンで4000人を養ったことをお話しされました。それぞれ、パンが余ったのでかごに入れました。パンが余ったということは、実際にパンが増えたという証拠です。一方、偽善による膨らませ方は実質のないものであり、無益だということです。

 イエス様はパリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけるように言われました。イエス様が来られる200年前頃、ユダヤがギリシャから独立したときがありました。そのとき、パリサイ人やサドカイ人たちが生まれたようであります。パリサイ人というのは、一般の仕事についていながら、律法を厳格に守るユダヤ教徒です。パリサイの元の意味は、「分ける」とか「きよい」から来ているようであります。つまり、「自分たちは律法を守っているのできよいんだ。あなたがたとは違う」と他の人たちをさばいていたのです。しかし、律法を完全に守ることは不可能です。そのため彼らは言い逃れの律法解説書を作って、ごまかしていたのです。だから、イエス様は彼らを偽善者だと言ったのです。なぜなら外側ばかり清くして、内側は汚れと貪欲に満ちていたからです。一方、サドカイ人とはだれでしょう?彼らは祭司をしている特権階級の人たちです。彼らにはお金と権威がありました。でも、信仰は中途半端で復活とか霊的なことは信じませんでした。ヘロデ党と同じように、とても世俗的でした。彼らもイエス・キリストを否定しました。なぜなら、キリストを信じると、自分たちの教えや立場がなくなって、飯が食えなくなるからです。パリサイ人やサドカイ人たちというのは、言い換えると宗教であります。宗教にはきまりがあり、儀式があります。いろんな階級があり、一般の人たちはそれに預かることはできません。現代、私たちはローマ・カトリックやロシア正教を見ることができますが、とてもきらびやかで、宗教的な儀式がいっぱいあります。宗教改革以降、プロテスタント教会はそういう宗教的、形式的なものをできるだけ排除するように勤めてきました。

 なぜ、イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたのでしょうか? 12節で弟子たちは「パン種のことではなく、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであると悟った」と書いてあります。そうです。彼らの教えであります。JB.フィリップス訳には、the influence of the teaching of the Pharisees and Sadducees. 「パリサイ人やサドカイ人たちの教えの影響」と訳されています。Influenceというのは、感化とか悪影響のことであります。つまり、彼らの教えの中には、本当の信仰を腐らしてしまう悪いものがあるということです。「もし、彼らと交わるならば、何か悪いものが移ってしまうよ」ということなのです。箴言にはそういう戒めが何度も書かれています。「くちびるを開く者とは交わるな」(2019)、「おこりっぽい者と交わるな」(2224)、「そむく者たちと交わってはならない」(2421)、「放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる」(287)、「遊女と交わる者は、財産を滅ぼす」(283)。新約聖書にもいくつかありますが、Ⅱヨハネのことばは強烈です。「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」(Ⅱヨハネ10-11)。ヨハネの場合は、キリストを否定する異端の人たちと交わるなと警告しています。私たちは伝道のために、ある程度、危険を犯してでも、近づかなければならないところがあります。でも「交わり」というのは、共有するという意味ですから、この世の人たちと接することがあったとしても、共有できない分野があるということを知るべきです。たとえば、疑い、恐れ、汚れ、不平不満、不信感は伝染します。ですから、そういう話題からはできるだけ、避けるべきであります。テレビやインターネットも鵜呑みにしてはいけません。ニュースやドラマは世の中の不条理が強調されています。ずっと見ていると、神さまの存在が薄くなり、問題や悩みが拡大していきます。

 私たちは主と交わり、正しい信仰者と交わるべきであります。第一は神さまとの交わりです。Ⅰヨハネ13「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」第二は主にある兄弟姉妹との交わりです。Ⅰヨハネ47「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」パリサイ人たちのように律法的な偽善を避けて、恵みの中を歩みましょう。サドカイ人たちのような形式的な偽善を避けて、真実な交わりを築き上げていきましょう。交わりの秘訣は何でしょう。キリストの血が互いの罪を取り除いてくださいます。そして、互いの中にあるキリストの御霊が真実な交わりを可能にしてくださるのです。

3.信仰の問題

 イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われましたが、実はもう1つ信仰についても教えておられます。もう一度、マタイ16章のみことばを読んでいきたいと思います。マタイ16:5 「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。」そして、マタイ167-8「すると、彼らは、『これは私たちがパンを持って来なかったからだ』と言って、議論を始めた。イエスはそれに気づいて言われた。『あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。』」パリサイ人やサドカイ人たちのパンの増え方は偽物でした。なぜなら、偽善や虚栄、形式によって膨らませていたからです。宗教はなんとなく心を満たすかもしれません。でも、それは本物ではありません。イエス様はご自身がいのちのパンとして、わずかなパンをもとにして5000人と4000人を養いました。その奇跡が本当に起こった証拠に、それぞれ12かごと7かごのパンの余りが生じました。人々は精神的に満たされたのではなく、実際に肉体的に満たされたのです。イエス様は「パリサイ人やサドカイのパン種に注意しなさい」という戒めと同時に、彼らの不信仰を嘆いています。弟子たちはあのときのパンを持ってくるのを忘れました。そしてイエス様は「私たちがパンを持ってこなかったから何かおっしゃっているんだ」と議論していました。それに対して、イエス様は「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」と言われました。英語の詳訳聖書は「どうして私を信頼していないのか?信仰の薄い者たち」と訳しています。つまり、信仰が薄いとは、イエス様をそんなに信頼していないということであります。

彼らは「パンがない」と騒いでいました。でも、それがそんなに重要な問題なのでしょうか?彼らはもう2度もパンが奇跡的に与えられたことを体験しています。「イエス様がそばにいれば、パンのことで悩む必要はない」と心から考えるべきでした。第二回目のレッスンのときは、イエス様が「群衆が三日間も食べていないので、どうしましょうか?」と提案しました。そのときは、「こんなへんぴなところで、こんなに大勢の人にどうやって食べさせるのですか?」と答えました。彼らは第一回目の5000人の給食を忘れていました。イエス様は「やれやれ」と思ったかもしれませんが、7つのパンで4000人の人たちを奇跡的に養われました。すばらしい体験を2回もしたにもかかわらず、「パンがない」と悩んでいました。おかしな話です。パンの問題は目の前のイエス様によって解決したし、これからも解決すると考えるべきであります。だから、イエス様は「信仰の薄い人たち」と嘆いておられるのです。弟子たちの何が悪かったのでしょうか?考え方が変わっていなかったのです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」みことばに「心の一新によって自分を変えなさい」とありますが、日本語としては不自然な言い方です。「心の一新」で十分なはずなのに、さらに「自分を変えなさい」と書いてあるからです。これはどういう意味でしょう?多くの人たちは自分を変えるためにどのような努力をしているでしょうか?体重を減らしたりして体形を変えることによって自分を変えようとするでしょう。2か月で痩せられる「ライザップ」というのがあるようです。あるいは、服装や髪形、お化粧を変えることによって自分を変えようとするでしょう。英語の詳訳聖書は、「外側を変えたり適応させたりする表面的な習慣ではなく、変革させられなさい。新たにされたマインドによって」と訳しています。簡単に言うと、マインド、考え方を変えることによって、自分を変えるんだということです。その人のマインド、考え方を変えたら、その人が変わるということです。



 たとえば、カルト宗教はよくマインドコントロール」すると言われています。マインドコントロールされた人は全く別人になってしまいます。周りの人が何を言ってもききません。逆に言うと、マインドにはそれだけ力があるということです。クリスチャンは霊的に救われ、霊が新しく生きています。しかし、人間の生き方を司っているのは、精神でありマインドなのです。これが私たちの人生を決定していく司令官なのです。いくら内におられる御霊が「ああしろ、こうしろ」と言っても、マインドがガンとして動かない場合があります。だから、生まれつきのマインドが一度砕かれて、全く新しいものに造り変えられる、これがトランスフォーメーション「変革」なのであります。弟子たちは奇跡を何度も体験しましたけれど、マインドが相変わらず古いものだったので、「イエス様がこれからも何度もパンを与えて下さる」と信じられなかったのです。私たちは「奇跡とは滅多に起こらないものである」と考えてはいけません。確かにこの世では「奇跡とは滅多に起こらないから奇跡なんだ」と言うでしょう。なぜなら、この世の人たちは神さまが遠くの別の世界にいると考えているからです。その神さまは滅多に、この世界に介入しないんだ。この世を支配しているのは自然科学であり、人間なんだと考えているからです。そうではありません。弟子たちはイエス様と一緒にいて奇跡を何度も体験しました。そうであるなら、今日の私たちともイエス様は共におられます。しかも、私たちの内に住んでおられます。パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。多くのクリスチャンはイエス様を私たちのマインドの中に閉じ込めています。「現代は、奇跡がないんだ。パンの問題は私たちがやるので、霊的なことだけをお願いします」と言っているのです。マインドの殻、不信仰の殻があまりにも堅いので、イエス様が出て来られないのです。私たちは弟子たちを笑うことはできません。私たちは過去に体験した奇跡は、今後、再び起こらないと諦めています。イエスさまが2度もわずかなパンで大勢の人たちを養いました。それだったら、3度目、4度目も期待して良いはずです。どうぞ、私たちのマインド、考え方を変えましょう。

神さまは今も生きておられ、私たちが難しいと思っている問題を解決してくださいます。私たちは難しいと考えているかもしれませんが、神さまはそうでないかもしれません。イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ183と言われました。大人はマインドでいろいろ理屈をこねます。頭で理解できなければ受け入れません。しかし、子どもはそうではありません。「悔い改めて子どもたちのようになる」とは、「マインドを変えて子どもたちのようになる」という意味です。どうぞ、生まれつきのマインドを捨てましょう。新しいマインドを神さまからいただいて、神さまにとって奇跡は当たり前、日常茶飯事に起るんだと信じましょう。パンの問題で悩んでいる人がいるならば、イエス様はきょうも明日も与えてくださると信じましょう。

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2017年3月10日 (金)

四千人の給食 マタイ15:29-39 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.12

 マタイ14章には、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人を養われた奇跡が記されていました。しかし、このマタイ15章にも似たような奇跡が記されています。今度の場合は、7つのパンと小さい魚で4000人であります。どちらも、女性と子どもたちを除いた数でありますから、実際は倍の数になっていたことでしょう。これは差別ではなく、戦争に参加できる成人の男性を数とした当時の風習から来ています。きょうは、5000人の時と、4000人の時との違いを調べたいと思います。また、なぜ2回も同じような奇蹟を行ったのかということも考えたいと思います。

1.異なる点 

 最初は前回の5000人の給食と異なる点を調べて行きたいと思います。第一は「三日間も食べていなかった」ということです。イエス様は「この群衆はもう三日間も私と一緒にいて、食べる物を持っていないのです…空腹のため途中で動けなくなる」と言われました。三日間も何をしていたのでしょうか?もちろん、イエス様から福音や聖書の教えを聞いていたのでしょう。でも、そればかりではありません。彼らの多くはイエス様がおられるところを探し当て、病人や障害のある人たちを連れて来ました。マタイ1529-31「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。」おそらく、イエス様は半分以上の時間とエネルギーをミニストリーに費やされたのではないかと思います。当時は車や電車がありません。馬やロバを持っている人たちは裕福な人たちです。彼らの多くは徒歩で、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、他に障害のある人や病気の人たちを連れてきたのではないかと思います。家族や友人、隣近所が誘い合って、助け合って来ていたのではないでしょうか?その数があまりにも多かったので、三日も過ぎてしまったのではないかと思います。他の箇所ですが、「大勢の人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった」(マルコ320と書かれています。決して大げさではなく、求めて来る人があまりにも多かったので、三日間ろくに食事をすることができなかったということでしょう。ある人が「リバイバルが来ると忙しくなる」と言いました。大勢の人たちが「どうしたら救われるんですか?」と詰めかけて来たらどうしますか?あなたは手短に福音を語って、救いに導けるでしょうか?また、「病院じゃ治らないと言われたのですが、どうか祈ってください」と来たらどうしますか?他の人に頼まないで、自分で祈れるでしょうか?どうぞ、リバイバルに備えてください。

 第二は4000人の給食の場合はイエス様が先に言い出したということです。前回の5000人の給食のときは、弟子たちの方から「ここは寂しいところですし、群衆を解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」(マタイ1415とイエス様に提案しました。しかし、今回はどうでしょう?マタイ1532イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」あきらかに違います。イエス様の方から弟子たちに「彼らを空腹のままで帰らせたくありません」と提案しています。弟子たちはどう答えたでしょうか?マタイ1533そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」このような答え方は、全回の時と全く同じです。前も、「ここは寂しい所ですし」言っています。おかしいと思わないでしょうか?弟子たちは、少し前に5000人の給食の奇蹟をまのあたりに見たはずです。それなのにコロっと忘れています。マタイ1534すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」このあと、イエス様は七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられました。奇跡的にパンと魚が増えて、男性だけでも4000人の人たちが食べて満腹しました。違うのはパン切れの余りが今回は7つのかごいっぱいであったということです。前回は12のかごいっぱいでしたが、かご自体の大きさが違いますので、正確な量は分かりません。パン切れの余りがあったということは、実際にパンが増えていたという証拠です。これは奇跡であり、精神論や合理主義で解釈できないということの証拠であります。とにかく、今回の奇跡はイエス様の方から提案したということです。しかしながら、弟子たちは前回のことを忘れ、奇跡が再び起こるということを全く期待していなかったようです。

 第三は増えたパンがどのように群衆に配られたか明確に記されていることです。5000人の時はどうだったでしょうか?マタイ1419-20抜粋「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」とあります。なんとなく、「増えたパンを弟子たちが群衆に配ったんだろうなー」ということが推測できます。では、今回の場合はどうでしょうか?マタイ1536-37抜粋「それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。」このところには、順番がはっきり記されています。パンを増やしたのはイエス様ご自身です。そして、弟子たちはそのパンをイエス様から受け取り、そして弟子たちが群衆に配ったということです。パンの供給者はだれでしょう?イエス様です。そして、イエス様から受け取って、人々に配る人は弟子たちです。弟子たちに「パンを増やしなさい」と言われても、無理なことです。でも、イエス様にパンを増やしていただいて、それを人々に配ることは可能です。これは癒しや奇跡のわざも同じことです。人を癒したり直したりするのは、イエス様です。私たちがイエスの御名によって祈ったり、命じたりするとき、キリストの御霊である聖霊様が働いてくださるのです。祈るのは私たちで、癒すのは神さまです。もう1つ加えますと、福音を語るのは私たちです。そして、救ってくださるのは神さまです。私たちは人を救うことはできません。つまり、神さまと自分の責任を分担するということです。どうして、私たちはいらいらしたり、思いわずらったりするのでしょう?それは、神さまの分までやろうとしているからです。人を変えるのは私たちではなく、神さまです。私たちがやろうとするので、関係が壊れたり、共依存的になるのです。神さまがなさる分を尊重し、できないことはゆだねましょう。そうすれば、神さまが豊かに働いて、みわざを行ってくださいます。私たちは神さまの管です。管という英語は、channelです。海峡という意味もありますが、水管とか導管という意味もあります。液体が流れる管状のものをチャンネルというわけです。神さまが供給者で私たちが管です。どのような管が一番良く流れるでしょうか?太くてスムーズな管です。それは神さまに対する信仰と言い換えることができます。私たち「神さま私をあなたの恵みを運ぶ器にしてください」と祈るべきであります。

2.二回繰り返された理由

 ある学者たちは「1つの出来事を2つに分けたんだ」と言います。しかし、そんなことはありません。なぜなら、次のマタイ16章でイエス様が二つの記事として取り上げているからです。マタイ169-10「まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」このことは次週詳しく学びますが、イエス様は2つの奇跡から弟子たちに何かを悟ってもらいたかったのです。しかし、彼らがあまりにも鈍かったので、イエス様がイライラしているようにも思えます。では、なぜ、同じような奇跡が繰り返されたのでしょうか?一般に「同じことを繰り返す」ということは、大事なことを教えるためです。一回で分からなかったので、もう一回、言ったりやらせたりします。その理由は、その人の固定観念や行動を変えるためです。イエス様が16章で「まだわからないのですか、覚えていないのですか」とおっしゃっていますので、この時点では弟子たちは分かっていません。

同じ奇跡が繰り返された第一の理由は、イエス様自身のご人格を示すためでした。私たちは、二つの奇跡からイエス様がどういうお方であるかということを見ることができます。前の14章でははっきり書かれていません。ただし、直前に「彼らを深くあわれんで、彼らの病気を癒された」(マタイ1414ということばは書いてあります。弟子たちは「解散させて、めいめいで食事を買うようにさせてください」とイエス様に提案しています。「私たちは食事までめんどうできないよ。めいめいで食事を買うようにしたら良い」というのはとても合理的で事務的です。それに場所がへんぴだし、大勢の人たちだという理由も分かります。でも、そこで、イエス様はたった5つのパンの2匹の魚で大勢の人たちを食べさせました。今回はどうでしょう?マタイ1532「かわいそうに、…彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから」とはっきりおっしゃっています。「かわいそうに」は、「あわれむ」と同じことばです。もともとは、「生贄の内臓を食べる」ということばから来ています。これは単なる同情ではありません。ある英語の聖書にはcompassion「共に苦しむ」がイコール「あわれみ」となっています。イエス様が奇跡を起こされるどの動機はいつもあわれみであり、愛であったということです。イエス様は決して、自分がメシヤであるということを誇示するために奇跡を行なったのではありません。結果的には人々が「イスラエルの神をあがめた」(マタイ1531かもしれませんが、それ自体が目的ではありませんでした。イエス様は前のポイントでも申し上げましたが、供給者です。ゴスペルではproviderと賛美します。まさしく、divine providerです。

私たちは生まれた時から、神さまから独立して生きています。アダムの子孫ですから、神さまの存在も認めないし、頼ろうともしません。しかし、その人がある時に、イエス様を信じて救われました。では、考え方が全く変わったでしょうか?クリスチャンでも、「霊的なものは神さまに頼り、物質的なものは自分の力でやるしかない」と思っている人たちがたくさんいます。イエス様はみことばという霊的な糧を人々に与えました。でも、人々は三日間もろくに食べていませんでした。そのため、イエス様は肉の糧も与えたいと願ったのです。この記事を読むとまるで、詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」を連想させます。なぜなら、35節に「すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。」とあるからです。「すわる」はギリシャ語で「食事の席に横になる、席に着く」という意味があります。また、英語の聖書にはrecline「横になる、もたれる」という単語が使われています。実際、ユダヤでは食事をするとき、左半身を横たえて、右手で食べたのです。多くの群衆はイエス様に言われる前から、野原に座っていたことでしょう。でも、ここで食事をするために、横になったと考えるべきです。一見、粗末で、たいしたことのない食事のように思えます。でも、イエス様は「横になって食事の席に着くように」と言われたのです。「人々はみな、食べて満腹した」と書かれていますので、本当に満足したのではないかと思います。まさしく、詩篇23篇の「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」であります。ある男性が、この記事を読んで、「イエス様の許にいれば、食いっぱぐれがないんだな一」と心引かれ、信仰を持ったそうです。アーメンです。

 同じ奇跡が繰り返された第二の理由は弟子たちの固定観念を変えるためです。少し前に、イエス様は5つのパンと2匹の魚で男性だけでも5000人を養われました。弟子たちは奇跡を目の当たりに見たのに、すっかり忘れています。忘れているというよりも、「奇跡はめったに起こらないものなんだ」という固定観念がありました。今回はイエス様の方から「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」と提案しています。この時、弟子たちはどうすれば良いか気づくべきでした。ところが、前回と同じように「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」と答えました。ちっとも学んでいません。仕方なく、イエス様は「どれくらいパンがありますか」と弟子たちに聞かれたのです。弟子たちは「七つです。それに、小さい魚が少しあります」と答えています。その後、イエス様はパンと魚を奇跡的に増やして、男性だけでも4000人を養われました。果たして、弟子たちの考え方は変わったのでしょうか?全く、変わっていません。その証拠に、次のマタイ16章に何と書いてあるでしょうか?マタイ16:8-10イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。」詳しくは来週学びますが、明らかに何かを悟っていません。それは、イエス様が奇跡を行なわれるお方だということです。言い換えると、以前一度奇跡を行なったら、二度目も奇跡を行なわれるということです。弟子たちの頭には、「奇跡というのはめったに起こらないもの、今回はたまたま、だったけど、次回はないのだ」という考えがあったのです。だから、今回、「こんなへんぴな所で、こんなに大勢の人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう」と言ったのです。目の前に、パンの供給者である「いのちのパン」なるお方がいたのです。つい、ちょっと前、男性だけでも5000人もの人たちが奇跡的に食べたのです。パン切れの余りを12のかごにいっぱい集めたことがあったのに、です。これが人間です。

 では、現代の教会が、クリスチャンが、このような奇跡がまた起こると信じているでしょうか?聖書を文字通り信じていると自負している、福音派の教会はあまり信じていません。「聖書が完成したので、そのような目を見張る奇跡は不要になった」という理由からです。冒頭で、イエス様によって「口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになった」と学びました。しかし、彼らは「奇跡はイエス様ご自身のメシヤとしての証明だったので、私たちがそれを行うということではない」と言います。人間は「奇跡は起こらないし、起る必要もない」という神学を打ち出しました。本当は、人間が考えだした神学によって、信仰がないのを正当化したのです。「聖書が完成したので、奇跡は必要ない。病の癒しも終わった」と言ったら、本当に楽です。「そういうことは専門家であるお医者さんと科学者にゆだねれば良い。素人が精神や心の癒しに関わるのは危険だ」と言うでしょう。でも、専門家が本当に病気を治すことができるのでしょうか?もちろん、私たちは医療や科学も神さまの一般恩寵として捉えるべきであり、祈って用いるべきです。でも、神さまは今日も食物を奇跡的に与え、障害や病も治してくださいます。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」と書かれています。まり、イエス・キリストが2000年前、食物を奇跡的に与え、病をいやし、足萎えを歩かせ、盲人の目を開きました。今も同じことをなさるということです。イエス様は弟子たちにあなたがた、信仰の薄い人たち。…まだわからないのですか、覚えていないのですか。」と言われました。その答えは、奇跡は一度あったら二度目もあるということです。二度目があったら、三度目もあるということです。問題は私たちの頭の中です。私たちはめったに起こらないのが奇跡だと考えています。しかし、全能の神さまにはsupernatural natural「超自然と自然」の区別がないのです。ある人が「神さまにとっては癌も風邪と変わりない」と言いました。私たちは「癌」と聞くと、一生懸命、力をこめて何度も祈らなければならないと深刻に考えます。でも、「神さまにとって癌も風邪と変わりない」と考えるなら、そんなに力まなくても良いです。静かに、しかし権威をこめて「癌よ、消え去れ!」と命じれば良いのです。昔、癒しをなさるハンターご夫妻が日本に何度か来られたことがあります。何度がセミナーに行ったことがありますが、最初にこう言いなさいと教えられました。お祈りをする前に、「それは簡単です」と言いなさいと教えられました。いやー、勇気がいりますね。ほら吹きだと言われたくないですからね。でも、「それは簡単です。イエス様にとっては」であるなら、本当です。その宣言によって信仰が与えられます。

 先日、テレビで昔の学校給食という番組がありました。昭和30年代の頃、コッペパンがごちそうで、ある子どもたちはそれを紙にくるんで家に持って帰りました。家族のだれかに食べさせてあげたいと思ったのかもしれません。私も田植えをしたとき、お昼はジャムパンを食べました。その時は、「世の中にこんなおいしいものがあるのか?」と思いました。今はジャムパンを買うこともありません。なぜなら、口が肥えてしまったからです。きょうの4000人の給食の奇跡は飽食の時代には色あせて見えるのでしょうか?しかし、世界の多くの人たちは飢えていて、きょう食べるパンもないと言うことです。でも、日本でもかなり貧しい人がいることは確かです。「食べていけるか」というのはどの人にでも最低限の課題です。もし、「イエス様がすべての供給者で、わずかな物でも増やしてくださる」と知るなら何と幸いでしょう。父なる神さまは私たちが貧しくて病気がちで、なんとか生き延びるという人生を望んではいません。イエス様は私たちをあわれんでくださる救い主です。詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」と書いてあります。イエス様の恵みはどんな物でも、身を横たえて食べられるということです。そこには高価なもの、安価なものの区別はありません。たとえ、お金をかけていなくても、豊かだからです。私たちはすべての供給者であられるイエス様が共にいるので、安らかに暮らすことができるのです。私たちの頭の中から、「奇跡はめったに起こらないものだ」という考えと取り除きましょう。そうではなく「奇跡は神さまにとって日常的なこと。私は奇跡の中で暮らしている」と考えましょう。どんな病や障害でも、イエス様にとっては簡単なことであると考えましょう。たとえ、大きな病気になったとしても、あまり深刻にならないようにしましょう。クリスチャンは死んだら天国です。でも、神さまは私に癒しと回復を豊かに与えてくださる神さまです。小さなことから、大きなことまで、神さまのみわざを信じましょう。もう一度みことばをお読みします。へブル138「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス・キリストは今も生きておられ、奇跡を当たり前のように行うお方です。奇跡は神さまにとって日常的なことです。アーメン。

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2017年3月 3日 (金)

立派な信仰 マタイ15:21-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.3.5

 イエス様は失われたご自分の民、イスラエルのために来られました。ご自身の計画は、イスラエルの後で全世界を救うということでした。イエス様は狭いパレスチナを出たことがありません。それでも、何回か異邦人の地を訪れたことがありました。マルコ福音書には「隠れるため」と書いてありますので、退去して休むためであったと思われます。ところが、どこから嗅ぎ付けたのか、異邦人の女性がイエス様のところにやってきました。後から、この女性はイエス様から「ああ、あなたの信仰は立派です」と褒められています。それまで彼女はどのような障害を乗り越えてイエス様から恵みをいただいたのでしょうか? 

1.生まれ

 彼女は「生まれ(血統)」という障害を乗り越えました。これは、自分の運命に対する誘惑です。彼女はどのような生まれだったのでしょうか?イエス様と弟子たちが訪れたところは、「ツロとシドンの地方」でした。マルコ福音書には「ツロ・フェニキヤ」と書かれています。英語の聖書には海岸とありますので、フェニキヤの海辺だったと思います。また、「その地方のカナン人の女」と書かれています。ヨシュアがカナンに攻め上り、先住民を追い払い、占領していきました。その当時、最も強い先住民はペリシテ人でした。彼らは鉄器を持っていましたので、青銅ではかないませんでした。ペリシテはもともと海賊でしたが、ツロに定住してから、海上貿易で栄えました。しかし、イエス様の時代はイザヤ書の預言のとおり、全くすたれ漁村になっていました。ペリシテは言い換えるとフェニキヤになります。カナン人は呪われた民であり、イスラエルに制服される運命にありました。カナン人の女の娘が、「ひどく悪霊につかれている」と言うことですが、そういうことも原因しているかもしれません。たまたま、カナン人が住む場所に、イエス様と弟子たちが足を踏み入れたのです。するとどこからか、その情報を得た一人のカナン人が叫びながら、イエス様に近づいてきました。マタイ1522すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 この女性は異邦人でありながら、イエス様を「主よ。ダビデの子よ」と呼んでいます。だれが、彼女にイエス様がそのような方であることを教えたのでしょうか?本当に信仰があるのでしょうか?ただ、娘を助けたいがためのご利益信仰なのでしょうか?イエス様は退去するために、そこを訪れたのです。マルコ7章には「だれにも知られたくないと思われた」と書いてあります。なのに、発見されてしまいました。イエス様としては迷惑な話です。なぜなら、このところにミニストリーをするために来なかったからです。ここに来たのは、人々を避けて休むためでした。しかし、この女性はイエス様を探し出してやってきたのです。イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ77-8と教えたことがあります。この女性は「だれであれ」の中に入ります。つまり、カナン人であれ、異邦人であれ「求める者は受け、捜す者は見つけ出す」ということです。彼女は運命論的なハンディを負っていました。生まれたのがツロ・フェニキヤでした。そして、カナン人であり、イスラエルによって征服されるべき先住民です。自分だけではなく、娘も呪われており、悪霊によって苦しめられていました。悪霊は理由なくして人間には入りません。マルコ福音書には「汚れた霊」と書かれています。ですから、この親子は希望が全くない、異邦人の女性でした。

 私はこの物語を読んだとき、自分のことを考えました。私は裏日本の秋田で生まれました。家は禅宗で「死んだらあのお寺にお世話になるんだ」と思っていました。8人兄弟の7番目だったので、高校卒業後、東京に出てきました。人生のテーマは「好きなことをして生きる」でありました。「面白おかしく暮らして、死ねば、それでおしまい。」と思っていました。ところが25歳でイエス様を信じてから、永遠のいのちが与えられ、全く人生が変えられました。私はキリスト教とは全く縁のない人間であり、最も救われにくい人物であったと思います。私の過去を知っている人たち全員、そう言うでしょう。興味深いことに、ツロ・フェニキヤはイスラエルの北に位置していました。イエス様は休むために、たまたま寄ったのです。どころが、そこに一人の女性がいたのです。彼女はカナン人であり、生まれ(血統)にハンディを持っていました。でも、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」とやって来たのです。彼女がイエス様を求めたのは、娘のためです。娘が健康で問題がなかったなら、来なかったかもしれません。でも、娘がカナン人の呪いのせいなのか、悪霊に苦しめられています。その娘を助けたい一心で、彼女はイエス様のところにやって来たのです。

 彼女は「生まれ(血統)」に問題がありました。これは、自分の運命に対する誘惑です。でも、運命を乗り越えるようなことが起こりました。イエス様が異邦人の地、ツロ・フェニキヤにやって来たからです。本来はイエス様と出会うことがありませんでしたが、娘がひどく悪霊につかれ苦しんでいました。彼女はイエス様が病を癒したり、悪霊を追い出した情報を得ていたのでしょう。もしかしたら彼がメシヤではないかという噂まで聞いていました。彼女は、一心不乱でと申しましょうか?生まれとか血統のことを脇において、イエス様に近づいてきたのです。中世ヨーロッパでは生まれや血統がすべてでした。生まれによって、その人の運命が決まったといっても過言ではありません。日本も江戸時代にそういうことがあったでしょう。今日でもそういうことがある程度あります。では、そういう人は神さまの恵みを受けるチャンスがないのでしょうか?あります。あります。ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。「血によってではなく」とは、生まれは関係ないとうことです。イエス様は私たちの運命を変えてくださるお方です。

2.無視

 次に彼女は「無視」という障害を乗り越えました。これは自分の存在に対する誘惑です。イエス様は彼女にどのように応対されたでしょうか?全く応対していません。23節しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った」何かの間違いじゃないでしょうか?イエス様はマタイ7章で「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出す」とおっしゃったではありませんか?それでは、矛盾しているではありませんか?イエス様は差別をつけるのでしょうか?24節しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。このところに、彼女が無視された理由が記されています。イエス様が来られたのは、イスラエルの家の失われた羊のためでした。「それ以外のところには遣われていない」と言われました。彼女は諦めたでしょうか?「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った」とあります。

 無視されても引き下がらなかった彼女のことばに2つの特徴があります。第一は「私をお助けください」と願っていることです。正確には「私の娘を助けてください」と言うべきでしょう?その前にも「私をあわれんでください」と叫んでいました。どうして「娘」ではなく、「私」なのでしょうか?母親だからでしょうか?このところには母と娘の深い絆を見ることができます。第二は「イエスの前にひれ伏した」と書かれています。これはイエス様を礼拝したということです。カナン人にはありえないことです。最初は「主よ。ダビデの子よ」と呼びかけていました。今度は「主よ。私をお助け下さい」とひれ伏しています。この時、イエス様の心が動かされたのではないでしょうか?ところで、今年の箱根駅伝ですが、青山学院が3年連続優勝しました。そのためもあり、原監督がテレビにひっぱりだこです。16日のミヤネ屋という番組に出ていました。どういう選手に原監督が目をつけるかという質問がありました。「チャライ人、明るい人、おしゃべりな人が良い」と3つの特徴をあげていました。そして、「こころ根の悪い人は実力があってもダメ」と言っていました。「どうしておしゃべりな人が良いの?」とさらに聞かれたら、「しゃべることは頭の回転が良いということ。選手自身が自分で考えて決断することが大事。暗くて、心根の悪い人は私の言うこともきかないし、指導できない」と答えていました。私は結構しゃべる方なので、「良かったなー」と思いました。でも、「心根って何だろう?」と思いました。インターネットには「意地が悪い」とか「ひねくれている」という意味だと書かれていました。カナンの女性はイエス様から無視されましたけど、自分のことよりも娘を思って、イエス様の前にひれ伏しました。そういう意味では、心根の良い女性だったのかもしれません。

 福音書には選民イスラエルよりも、信仰が篤い異邦人のことが良く書かれています。たとえば、ローマの百人隊長は、「私のしもべを癒してください」とイエスに願いました。イエス様が「行って、直してあげよう」と言ったら、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。ただ、おことばを下さい。私のしもべはなおります」と答えました。イエスさまは「イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがない」と言われました。百人隊長は使い捨ての時代であっても、自分のしもべのためにイエス様のところに頭を下げてやって来たのです。一方、パリサイ人や律法学者たちはどうでしょうか?イエス様は彼らの心の思いを知って「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と言われたことが度々あります。ということは、イエス様は人の心の中がご存じだということです。私たちはいくら祈っても答えが得られない時はないでしょうか?神さまは私のことを覚えていらっしゃらない。無視しているのではないだろうか?しかし、そんなことはありません。その求めが本当に心の底から出ているのか、ご覧になっておられるのではないでしょうか?カナンの女性に対しても、しばらくイエス様は無視していましたが、そうではありません。そのことば、その態度から、彼女の心根を調べておられたに違いありません。ついに、彼女は無視という障害を乗り越えることができました。私たちも諦めずに、イエス様に迫って行くべきではないでしょうか?ダビデはこのように叫んでいます。詩篇3912「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。」

3.犬呼ばわり

 イエス様がさらに、口を開いて答えてくださいました。マタイ1526すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。第三は「犬呼ばわり」という障害、これは自分のプライドに対する誘惑です。その当時、ユダヤ人は異邦人に対して犬と呼び、さげすんでいたそうです。その場合の犬は、野良犬のことでした。イエス様はこのところで「小犬」とおっしゃっていますが、家庭でペットとして飼われている小犬です。一方、「子どもたち」というのは、イスラエル、ユダヤ人のことであります。イエス様は子どもたちにパン(救い)を与えるために、来られたのです。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」とは至極当然です。でも、そのことばを聞いたカナンの女性はどう答えたでしょうか?犬呼ばわれされたのですから、プライドが傷つくでしょう。「馬鹿にしないでよ」と怒って、帰ることもできたでしょう。彼女にとって、ものすごい誘惑だったのではないでしょうか?しかし、何と答えたのでしょうか?マタイ15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」彼女は「そのとおりです」と自分が小犬であることを認めました。その次に「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と答えました。なんと機知に富んだ答えなのでしょう?イエス様も「小犬」と少々ひっかけましたが、彼女はすばらしい機知の持ち主でした。確かに、飼われていた小犬は食卓から落ちるパンを食べることができました。つまり、「私はおこぼれで構いません。ユダヤ人のおこぼれでも良いですから、私にください」と願ったのです。これに対してイエス様はどう答えたでしょう?マタイ15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 明らかにイエス様は感動しておられます。いや、彼女を賞賛しているのかもしれません。なぜなら、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と答えておられるからです。イエス様は「ツロ・フェニキヤにこのような信仰の持ち主がいたのか」と驚いたのではないでしょうか?本来なら人々を避けて休むためにこの地を訪れたのに、どういうことでしょう。もう疲れがいっぺんに吹き飛んだのではないでしょうか。機知を英語でwitとも言いますが、witにはいろんな意味があります。頓知、気転、才覚、分別という意味もあります。旧約聖書でwitに富んだ女性がおります。それはアビガイルという女性です。彼女の夫はナバルでした。Ⅰサムエル253「彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。」と紹介されています。ダビデはサウル王から身を隠していました。ある時、ダビデはナバルの羊たちを守ってやったことがありました。でも、そのとき食べ物が不足しており「手もとにある物を分けてください」と使いをやりました。しかし、ナバルは「ダビデとはいったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。この肉をどこから来たのかわからない者どもに、くれてやらなければならないのか」と悪口を言いました。ダビデはそれを聞いてかんかんに怒って、剣を持った四百人と一緒に下って行きました。そのとき、アビガイルがダビデの足もとにひれ伏して、「ナバルはその名のとおり愚か者です。気にかけないでください」とお願いしました。アビガイルの気転によって、ダビデは復讐しないで済みました。その後、ナバルは主に打たれて死に、アビガイルはダビデの妻になりました。他にもラハブ、ヤエル、エステルなど聖書には機知に富んだ女性が出てきます。ツロ・フェニキヤのカナンの女性もその一人であると思います。その時、この女性の娘は悪霊から解放されました。マルコ730「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」と書いてあります。

 カナンの女性の信仰がどうして立派だったのかまとめてみたいと思います。イエス様は一回で彼女の願いを聞いてあげませんでした。愛と恵みに満ちたお方としては意外なことのように思えます。しかし、イエス様は彼女の信仰が本物であるかどうか試す必要がありました。女性は「主よ。ダビデの子よ」と呼んで近づいて来ました。彼女はカナン人です。ただ名前を呼ぶだけのご利益信仰かもしれません。だから、イエス様はひとことも口をきかず、無視しました。彼女は自分の存在を否定されたのですから、怒って去っていくこともできました。イエス様は「イスラエルの家の失われた羊以外には遣わされていない」と断りました。するとこの女性は、「主よ。私をお助けください」とひれ伏して願いました。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くない」と頓智のめいたことを言われました。彼女は犬呼ばわりされたと同然です。「プライドを傷つけられた」と怒って、去っていくこともできました。ところが「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と頓智で返しました。それは「イスラエルのおこぼれでも良い」という意味です。イエス様は感動して「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と願いをお聞きくださいました。彼女は「カナン人という生まれ」、「無視」、「犬よばわり」と3つの障害を乗り越え、その信仰が本物であると認められました。その結果、娘の救いを得たのであります。一見、イエス様が意地悪されたかのように思えるかもしれません。でも、これは私たちへの教訓ではないかと思います。彼女は何度も憤慨して、その場を去ることもできました。しかし、娘の救いのために執拗に食い下がりました。

どうでしょう?私たちはすぐ躓いて教会を去ったり、信仰を捨て去るのではないでしょうか?私はクリスチャンになって38年、牧師になって30年になりますが、多くの人たちがいとも簡単に教会から去ってしまうことを目撃しました。牧師として一番悲しいのはそのことです。「躓いた」という表現は教会で良く用いられる表現かもしれません。世の中では「自分の過失やあやまち」として捉えられていますが、教会では別の意味があるようです。信仰に躓くというのは、どこかに「自分は正しくて、他は間違っている」というニュアンスがあります。教会に来ることは仕事や学校と違います。本人の自由であり、義務ではありません。「来たくなければ来なくて良い」のです。でも、どこか甘えがあるような気がします。信仰というのはそんなに薄っぺらいのでしょうか?私たちはもっと大きなものに捕えられていることを自覚すべきだと思います。そうしたら、簡単には躓かないと思います。もっと大きなものとは私たちの救いのために、神さまがひとり子イエス様を十字架に与えたということです。私たちの救いのためにはイエス様のいのちがかかっています。このお方を救い主、人生の主として信じることは口先だけのことではありません。私たちの存在がかかっており、神さまもそのように受け止めてくださいます。

 このツロ・フェニキヤの女性はカナン人でした。異邦人であり救いから漏れていた人でした。しかし、生まれがどうであれ、無視されても、犬呼ばわりされても、イエス様に求めました。なぜなら、娘の解放を何よりも願っていたからです。その信仰がイエス様に立派だとほめられました。私たちの信仰はもしかしたら淡泊で、「ああ、それなら結構です」とセールスを断るような口調かもしれません。イエス様との関係は十字架の血潮による契約です。イエス様がご自身の血で私たちを買い取ってくださったのが教会です。一度、キリストを信じたら、死んでも離してはいけません。なぜなら、永遠がかかっているからです。もちろん、信仰は私たちの側だけではなく、イエス様の真実があって成り立つものです。でも、私たちには私たちの責任もあるはずです。神さまはイエスさまと聖霊を与えて、ご自身の責任を果たしておられます。そうであるなら、私たちも自分の信仰告白を堅く保って、やがてイエス様のもとに立つときを待ち望みたいと思います。ツロ・フェニキヤの女性のように、イエス様の前にひれ伏して礼拝しましょう。その時、主は「ああ、あなたの信仰は立派です」とおっしゃってくださると信じます。

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2017年2月24日 (金)

口から出るもの マタイ15:10-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.26

 当時の宗教家たちは「弟子たちは手を洗って食べていない」とイエス様を批判しました。それはいわゆる手を洗うということではなく、儀式にのっとっていないということです。これに対してイエス様は「あなた方は言い伝えを重んじて、律法を無にしている。口から入るものが体を汚すのではなく、口から出るものが人を汚すのである」と答えました。では、どのようなものが私たちの心から出てくるのでしょうか?19節に「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」と合計7つあります。一番、悪いものが心です。なぜなら、心にあるものが口から出るからです。次に悪いのが口です。そこで止めておけば良いのに、ことばとして放出してしまうので問題が出てくるのです。きょうは、心と口の2つの面から考えたいと思います。

1.心から口へ

 イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234と言われました。私たちが悪いことばを発するのは、心が悪いからです。マルコ7章はさらに、5つを加え、13個も挙げています。マルコ7:21-23「 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」人によっては、比較的軽いというか、ひどくない人たちもいます。育った家庭環境が良くて、大事に育てられた人は、乱暴なことばを発しないでしょう。それに比べ、劣悪な家庭環境で、野良犬のように育った人はどうでしょうか?「ウゥー」とすぐ噛みつくでしょう。そして粗雑でぞんざいなボキャボラリーしかありません。私は亀有2丁目の郵便局を利用しますが、若い目のクリクリした女性がカウンターにいます。おばあちゃんが押した印鑑が違っているようでした。局の女性は「この印鑑は違いますよ。もっと小さなヤツはないでしょうか?」と言いました。そばにいた私は、吹き出してしまいました。ある時、エア・メールを出しに行って、サインをするように求められました。そのとき、スラスラと英語でサインしたら、彼女は「うぁー、英語できるんですね」と褒めてくれました。制服とことばがアンバランスなので、「さすが亀有」という感じがしました。私もいろんなセールスの電話がかかってきますが、即座に「結構です」とぶっきらぼうに答えてしまいます。「教会に対するイメージを悪くしているだろうな?」とちょっとだけ反省しています。私の場合は、育った環境は悪いし、土木現場で働いていたこともあるし、もう体に染みついています。大川牧師からも「がさつだ」と注意されましたが直らず、亀有で良かったです。

 聖書の人間観はとても悲観的です。どんなに育ちが良くうわべは上品でも、例外はありません。そういう人たちに限って、陰湿で高慢で意地悪な人が多いからです。エレミヤは生まれつきの人間を何と言っているでしょうか?エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」私は口語訳の方が、インパクトがあると思います。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」「よろず」というのは、100010倍、万ですから、驚きです。もう一度繰り返します。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。」テレビ時代は顔のキレイな人がもてはやされます。テレビのCMには、そういう人たちが何本も出て荒稼ぎをしています。顔のキレイなのも神さまの一般恩寵だと思いますが、だからと言って、心がキレイなわけではありません。顔がキレイだと心もキレイなんじゃないかと錯覚します。だからエレミヤは「だれが、それを知ることができよう」と言っているんですね。でも、だれが知っているでしょうか?神さまがご存じです。神さまだけがご存じなのです。Ⅰサムエル167「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」アーメン。ですから、私たちは「人にどう接するか」、「人にどのように話すのか」学ぶ前にやるべきことがあります。それは心を変えなければならないということです。接客術やことば使いの前に、心を直さなければなりません。でも、聖書は「それは直らない、改善不可能だ」とはっきり言っています。ぼろ雑巾を洗濯して、アイロンをかけても、やっぱりぼろ雑巾です。森の石松は「馬鹿は死ななきゃ直らない」と言いましたが、まさしくその通りです。キリスト教は生まれ変わりの宗教です。改善とか修養の世界ではありません。一度、古い人に死んで、そして新しく生まれ変わるのです。

 ローマ人への手紙、ガラテヤ、エペソ、コロサイも心やことばの問題を扱っています。いわゆるそれは「倫理、実践面」のことであります。しかし、その前に必ず教理的なことが書かれています。それはイエス様が私たちのために十字架で死んで、罪の代価を払ってくれたことです。私たちがキリストを信じると、罪赦され、新しく生まれ変わります。これは霊的に新しく生まれ変わるということであり、心や体が含まれていないというのが一般的な考えです。もちろん私たちはイエス様を信じると霊が新生し、心や体に神さまのいのちと力を与えてくれます。実は、それだけではありません。ローマ6章、ガラテヤ2章に書いてありますが、私たちの古い人はイエス様と一緒に十字架につけられて死んだのです。ローマ66-7「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」パウロは「古い人」と言って、あとで「罪のからだ」と言い換えています。当然、からだの中には、心も体も全部含まれています。古いからだはキリストと一緒に十字架につけられて死んだのです。そうすると、「罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」ということです。ウォッチマン・ニーがこのように言っていま。「私たちがキリストを信じたとき、罪を生産する工場が破壊されたのです。それは酒を蒸留する工場が破壊されたのと同じです。でも、その前に造られた酒瓶や樽が縁の下や車のトランクに隠されています。それが肉です」と言っています。イエス様があげた罪のリスト「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」は、まさに肉であり、罪の残り粕です。酒瓶が心や体のどこかに隠されているのです。私たちは天国に行くまで、これらを処分しつつ、「栄光から栄光へと主と同じかたちに帰られていく」(Ⅱコリント318のです。アーメン。この世の道徳は、心を新たにすることなく、外側から「ああしろ、こうしろ」と矯正します。でも、それは肉が罪を犯すことを助長しているのに過ぎません。私たちの肉は「しろ」と命じられれば、したくなるし、「するな」と命じられれば、してしまうのです。この世の法律や宗教、あるいは道徳や倫理は人を外側から律することはできるかもしれません。しかし、それは変えているのではなく、補正し、改善し、修養しているのに過ぎません。だから酒に酔った時や、遠くに行ってだれも見てないときに罪を犯すのです。真の解決は一度、古い人に死んで、新しく生まれ変わるしかありません。そのためには、エレミヤのように一度、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と諦める必要があります。その次に、パウロが言う「キリストともに十字架につけられて、罪から解放される」という救いの道があるのです。

 当時の宗教家たちは、儀式や律法を守っていました。それは器の外側だけをきれいにするようなものでした。なぜ彼らが偽善的で力がなかったのでしょうか?それは、心を取り扱おうとせず、外側の行いやことばだけを清く見せようとしたからです。一方、イエス様と弟子たちは、堂々と生活していました。なぜなら、心の深いところで神さまと交わっていたからです。言い換えると人々の前ではなく、神さまの前にきよくあろうと生活していたからです。ある人たちは洗礼を受けてクリスチャンになるといろんなことに縛られ窮屈になると考えています。そのため、深入りしないで、周りをぐるぐる歩いています。一度取り込まれると、抜けられないと考えています。そうではありません。実は神さまの中に本当の自由があるのです。もちろん神さまは義なる方、聖なる方です。罪がお嫌いで、罪をさばくお方です。でも、イエス様を信じると罪赦されるばかりか、義とされます。私たちは神さまの目から見たら、清くて正しい存在なのです。でも、クリスチャンなって心が全くきよめられたかというとそうではありません。最初は、「あれでもクリスチャン?」と、人に躓き、自分に躓いて、教会を去りたくなるかもしれません。でも、そこが勝負の分かれ目です。どろどろした本音の部分をイエス様に打ち明け、イエス様を歓迎するのです。すると、心が本当に作り変えられます。どのようにでしょうか?イエス様はこんな醜い私を愛して、受け入れ、弁護していてくださる。そうすると、他のクリスチャンをも愛せるようになるのです。あるとき、エジプトを脱出した人たちが荒野に来て、泉の水を飲もうとしました。しかし、その水は苦くて飲むことができませんでした。モーセが主から言われて、一本の木を水に投げ入れました。すると、その水は甘くなったと書かれています(出エジプト1525)。一本の木とは何でしょう?それはイエス様の十字架です。私たちの心に十字架を投げ入れると、敵意や苦々しさ、さばきや怒りが消えるのです。そして、心は甘い泉に変えられ、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制をかもしだす心になるのです。肉は確かに存在しています。しかし、御霊がそれに打ち勝って、御霊の実が現れてくるのです。

2.口からことばへ

 今度は口の問題を取り扱いたいと思います。心臓から口までの距離や約30センチです。もちろん、心臓イコール、心ではありません。おそらく、心は別のところにあるでしょう。でも、私たちは喉のところでやめておけば良いのに、言ってはいけないことを言ってしまいます。詩篇の記者はこのように言っています。詩篇391「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。」、詩篇1413「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」「口輪をはめる」とか「見張りを置く」と書かれていますが、それだけ口を守るのは難しいということでしょう。ヤコブは「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ32)と言っています。政治家が言ってはいけないことを「ぽろっと」口に出すことがあります。そして、重要な立場を失うことがよくあります。最近はビデオにちゃんと撮られていますので、言い逃れができません。テレビ・ニュースでその場面が何ども繰り返され、大変なことになります。もちろん、失言ではあるかもしれませんが、「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ1234)。でも、クリスチャンになって、霊的に生まれ変わり、心と体が一度、十字架につけられて、罪から解放されたはずです。苦い思いも傷も癒され、甘い水である御霊の実が現れてくるはずです。でも、ここで私たちは油断してはいけません。どうしても、私たちの中には肉の性質、酒瓶や樽がとこかに隠されています。肉と言うのは、クリスチャンになる前の記憶であり性質です。これがどこかに宿っていますので、状況が整うと、自動的に口から出てくるのであります。相手が横柄な態度を取り乱暴なことばを吐くなら、条件反射的に悪いことばが出てくるのです。

 私たちはこの地上で生活しています。地上というのはこの世の神であるサタンが支配しているところです。もちろん、私たちは神の子であり、救いを受け、霊的には神の国に生きています。しかし、心と体がこの世にあります。すると当然、この世の神であるサタンが人や物事を通して、けしかけてきます。それをキリスト教では「躓き」と言います。イエス様は「躓きが起こるのは避けられない」(ルカ171と言いました。「躓き」のギリシャ語は、「罠の餌をつける棒」という意味です。昔は鳥とか動物を捕えるときに、棒の先に餌をつけました。サタンも私たちの前に、「餌」をまいておびきよせ、餌に食らいつくように誘惑してきます。英語ではbiteであり、「餌に食らいつく」「誘いに乗る」という意味です。サタンが直接、誘惑するというよりも、背後で人や機会をあやつるのです。私たちは不当な扱いを受けたり、ひどいことを言われたりすることがあるでしょう。その時に、私たちの肉が反応し、口から悪い言葉が出ることが良くあります。昔、車(チャ)先生のメッセージを聞いたことがあります。彼女は日本をとても愛している韓国の宣教師です。彼女も人間ですから、何かのことで夫婦喧嘩になることがあります。心が、まるで火にかけたヤカンのように沸騰してきます。その時、サタンが隣で「さあ、怒りなさい。相手をぎゃふんと言わせなさい」とけしかけるそうです。その時、車(チャ)先生は、ぐっとこらえます。そして言います。「サタンよ。お前の誘惑には乗らない。退け!」そうすると、嘘のように怒りが収まり、「まぁ、いいか」という気持ちになるそうです。私は育った環境が悪いのと、土木現場で働いていたせいで、ことばが粗野です。自分としては「ワイルドだろう!」と思っているのですが、家内には通じません。だから、ことばのことでよく衝突します。しかし、家内はほとんど乗ってきません。私は説教という賜物が与えられていると信じていますが、これはもろ刃の剣であり、人を切り刻んでしまう恐れがあります。パウロはエペソ人への手紙で「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ429と言いました。アーメンです。

 神さまはことばによってこの世界を創造させました。ですから、ことばが一旦、発せられると、この世界に対して何かをもたらすということです。信仰的なことばを発すると、そこに神さまのみわざが起こるでしょう。逆に、破壊的で否定的なことばを発すると、神さまのみわざが妨げられるばかりか、そのような悪いことが起こるでしょう。ジョエル・オスティーンが「言葉の力」ということをある本で書いています。ホセ・リマは、1990年代後半にヒューストン・アストロズで数年間ピッチャーを務めた選手です。社交的で、エネルギッシュで、人好きのする彼は、ふだんは何事にも前向きな姿勢で臨んでいました。しかし、アストロズが新球場ミニッツ・メイド・パークを建築したとき、ホセは腹をたてました。レフトスタンドのフェンスが、アストロドームのそれよりずっと近かったからです。実際のところ、ミニッツ・メイド・パークのホームベースからレフトスタンドのフェンスまでの距離は、大リーグのどの球場よりも短かったのです。バッターにとっては嬉しいことでしたが、ピッチャーにとってはトンでもない事でした。特に、相手が右打ちのバッターの場合、レフトに打たれるとお手上げなのです。初めて新しいグラウンドに入ったとき、マウンドに立って外野方向を見渡したホセは、すぐにレフトスタンドが近いことに気づきました。「ここでは投げたくないな」と彼は言いました。次のシーズン、新球場での試合は盛り上がりましたが、ホセは自己最低の成績でシーズンを終えました。1シーズンで、20勝投手から、あっという間に16敗投手に落ち込んだのです。ここまで急激に成績を落とした選手は、球団始まって以来初めてでした。ホセは言葉にしたことが現実になったのです。人は、自分の言葉を「預言」に変えることができます。マイナス思考に負けて後ろ向きの言葉を口にすれば、行動もそれに追従します。だからこそ、私たちは自分の考えや言葉に細心の注意を払わなくてはいけないのです。言葉にはとてつもないパワーがあります。本人の望むと望まざるとにかかわらず、人は自分の言葉に命を吹き込むのです。悲しいことに、たくさんの人が自らの言葉のせいで鬱々とした人生を送っています。彼らはよくこんなことを言います。

―私にはいいことなんて起こるはずがない。

 ―私は絶対に成功できない。

 ―私はそんな器ではない。

 ―私は一生この泥沼から抜け出せない。

 中には自分を罵倒する人すらいます。「お前はなんて馬鹿なんだ!何一つまともにできないクズだ!」本人は気づいていませんが、彼らは自らのことばで失敗へと続く道を切り開いているのです。言葉は種のようなものです。声に出して言うことで、言葉は潜在意識にまかれ、独自に成長していきます。根を張り、果実を実らせます。前向きな言葉を発すれば、人生はその方向に向かっていきます。同様に、後ろ向きの言葉はさえない人生へとつながります。勝利をつかみたいなら、敗北を口にしてはいけません。人は自らまいた種を収穫するのです。

 さらに、ジョエル・オスティーンの本に「口にジップをしなさい」というコラムがありました。ジップというのは、「チャックする」ということです。エレミヤが神さまから召されたとき、「私はまだ若くて、どう語ったら良いか分かりません」と答えました。すると主は彼に「まだ若い、と言うな」と言われました。主はエレミヤの否定的なことばを阻止しました。なぜでしょう?もし、エレミヤが「私は若いので、そんな資格がありません」と言うなら、エレミヤが言った通りなるからです。だから、主は「まだ若いと言うな」と口をふさがせたのです。私たちも否定的なことばが心によぎる時があります。「この病気はなおらない」「この借金は返せない」「この結婚はうまくいかない」「この仕事は失敗するだろう」。この世で生きているのですから、思いがよぎることはあるでしょう。でも、口を開いてことばに出すなら、そのようになります。だから、口にジップをしてぐっと留めるのです。そうすると、悪い思いは生まれないで、死んだままです。どうぞ、否定的なことばを吐いて、悪いことを誕生させないでください。なぜなら、ことばは種だからです。むしろ私たちは神さまの約束のことば、信仰のことばを口から出しましょう。そうするなら、神さまがその通りのものを生み出してくださいます。

ヨシュアたちがヨルダン川を渡って、最初の戦いはエリコを攻めることでした。エリコの城は頑丈で難攻不落に見えました。主はヨシュアに命じました。「あなたがた戦士たちはすべて町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七日目には七度回り、角笛をならさなければならない。その時まで、口からことばを出してはいけない」と命じました。もし、戦士たちが自由に口を開くなら、「ああ、なんと高い城壁なんだろう。絶対、無理だよな!」とつぶやくでしょう。そういうことばを吐くなら、神さまのみわざは起きません。そのため主は口を閉ざしたまま、だまって町を行進するように命じられたのです。沈黙は金です。金のときもあります。7日目の7週目、祭司たちが角笛を吹きました。兵士たちがときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちました。私たちが発することばには力があります。どうぞ否定的で破壊的なことばを発しませんように。私は若い、健康だ、長生きする。病は癒される。夢は叶う。ブレイクが起こると言いましょう。ことばは種です。悪いものを蒔かないで、良いものを蒔きましょう。神さまは私たちのことばを用いて、すばらしいことを成してくださいます。

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2017年2月17日 (金)

宗教からの解放 マタイ15:1-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.19

 世の中では、私たちのことも宗教と捉えているかもしれません。本日は、「どのような意味で、私たちの信仰は宗教でないのか」ということをお話ししたいと思います。弟子たちはイエス様とご一緒しながら、とても自由でありました。しかし、律法学者やパリサイ人が断食のこととか洗いの儀式でなんくせをつけています。イエス様は当時のユダヤ教に対して、とても批判的でした。では、いわゆる「宗教」にはどのような要素があるのでしょうか?そして、私たちは宗教にならないように、どのようなことに気をつけなければならないのでしょうか?宗教には3つの特徴(特色)があります。第一は儀式、第二は階級、第三は規則(きまりごと)です。

1.儀式

 宗教には必ず儀式というものがあります。マタイ152「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」私たちは、食事の前に手を洗いますが(洗わないときもありますが)、これはそういう意味ではありません。あるホームページにこのように書かれていました。それは儀式として、宗教上のいわゆる「お浄(きよ)め」であって、ユダヤ人の習慣でした。食事前の清めの洗いと言っても、きちんと石鹸で洗う訳ではありません。水をかけるだけでした。全くの儀式でした。当時は手をどのように洗うか決められていました。両手を上むきにして、指先から水を注ぎます。それが終わると今度は手を裏返しにして、手の甲を上にして指を下にして、そこに水を注ぎます。そこから片方の手をげんこつにして反対の手の水を拭います。指を使うとけがれるので、指を折ってげんこつにしました。以上ですが、日本人には「清めの塩」というものがあります。仏教式のお葬式に行きますと、お焼香の後、小さな袋が手渡されます。よく見ると、塩です。人の死に接する葬儀に出たので、塩で清めて下さいということです。昔からの宗教的しきたりです。不運を払い去ったり、幸運を呼び込むことは塩には出来ません。ですからクリスチャンはそのような儀式はしません。ユダヤ教の「食前の清めの洗い」も信仰とは相容れないもので、人間の作った教えでした。

 これに対して、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マタイ511「口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」イエス様は私たちの心から出るものが、人を汚すのだとおっしゃっています。イエス様は常に本質的なことは何かを教えておられます。人間の肉は宗教、儀式的なものを求めます。たとえば神道などでは、「神事」といって、こまかい決まり事があるようです。内容がないものに限って、かたちにこだわります。結婚式や葬儀もそういう傾向があります。私は式文をできるだけ使わないようにしています。聖霊様が導くことば、聖霊様が導く祈りになるように心がけています。なぜなら、神さまは生きておられるので、「今、何を私たちに語ろうとしておられるのか」耳を傾ける必要があるからです。いくら文章が美しくても、神さまから出たものでなければいのちがありません。ローマ・カトリック教会や聖公会にはたくさんの儀式があり、宗教ぽくなっています。「それが良いんだ」という人たちもいるのですから、むやみに批判はできないと思います。私たちプロテスタント教会は聖餐式と洗礼式があります。やはり教団教派によってやり方が多少異なります。みんながそれぞれ「これが正統なんだ」と主張するかもしれません。でも、イエス様がなぜ、「そのようなことを行いなさいとおっしゃったのか」、その主旨にいつも帰る必要があります。かたちよりも精神であります。儀式的なものをできるだけ取り除いて、精神、心を大切にしたいと思います。

 では、なぜ宗教的な儀式が生まれたのでしょうか?また、すべての儀式は不要であり、罪なのでしょうか?旧約聖書の出エジプト記25章から31章まで、幕屋に関する規定が記されています。その中にはいけにえの捧げ方、祭司の任職やきよめについても書かれています。レビ記になりますともっと詳しく書かれています。でも、それらはすべてイエス・キリストの贖いについての予型です。不思議なことに幕屋をはじめいけにえに至るまで、すべてイエス・キリストのことを指示しています。そして、イエス・キリストがそれらすべてを成就したのです。旧約聖書においては聖なる神さまに近づくためにたくさんの規定がありました。しかし、キリストが贖いを成し遂げられてからは、信仰によって大胆に恵みの御座に近づくことができるようになりました。ただし、イエス様は「霊とまことによって父を礼拝する時が来る」(ヨハネ423)と言いました。霊というのは聖霊とも言えますし、新生した私たちの霊ともとれます。まこととは、私たちのまごころでありますが、キリストの真実ともとれます。私たちはいくら自分をきよめたとしても限界があります。救われた後も思いや行いによって罪を犯します。ですから、神に近づくためにはキリストの血による贖いがすべてであります。賛美を通してではありません。キリストの血であります。賛美や感謝はそのとき、たずさえていくものです。私たちはこのことを意識していくとき、すべての宗教的な儀式から解放されます。父なる神さまはキリストを通して、私たちを見てくださいます。だから、私たちはキリストにあって義であり、聖なのです。嘘やごまかしがあるとどうしても儀式にたよる傾向があります。私たちはたえず、キリストの血を仰ぎ、「霊とまことによって」父なる神さまを礼拝するのです。

2.階級

 マタイ151-2「そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。」このところに三種類の人たちが出てきます。パリサイ人、律法学者、そして長老たちです。彼らは全部、ユダヤ教徒なのですが、中にはサンヒドリン議員のメンバーもいました。特に「長老」という呼び名は旧約聖書の時からありました。長老という呼び名は、年齢よりも身分の高い指導者に使われます。長老は民の上に権力を行使し、日常の民事上、宗教上の事件を処理していたようです。新約のキリスト教会では、監督とならび、群れを指導しました。現在は、長老を置いている教会もありますが、そうでない教会もあります。イエス様の時代の長老たちは宗教的な権威をふりかざしていました。マタイ23章には彼らの偽善ぶりがしるされています。どの世界でもそうかもしれませんが、人は一度、権威や権力が与えられると堕落する傾向があります。就任した当初は民のため、人のためと自分を無にして励みます。ところが、いろんな利権によって惑わされます。最後には自分の懐を肥やすために、職権を乱用するようになります。当時の祭司長、律法学者、長老たちはイエス様がめざわりで大嫌いでした。なぜなら、自分たちの権威や権力が侵害される恐れがあるからです。パッションという映画を見たことがありますが、頭の上から足元まで特別な装いをしていました。彼らの顔はいかつくて、イエス様を十字架に渡すときは特にそうでした。

 キリスト教会の階級は、西暦313年、キリスト教が国教になってからだと思います。それまでは職務と呼ばれ、別に上下的な意味はありませんでした。聖職者の支配構造を「ヒエラルキー」と呼んだりします。ローマ・カトリック教会では教皇が一番上で、法王とも呼ばれています。その下には、枢機卿という教皇選挙に参加できる人たちがいます。さらにその下には司教、司祭、助祭と続くようです。いわゆる神父というのは、司祭です。プロテスタント教会では「牧師」にあたると言われますが、イコールではないと思います。なぜなら、牧師は神さまと仲介する者ではなく、イエス様に結びつかせるという働きがあるからです。マルチン・ルターは「万人祭司制」を唱え、「神さまの前には信徒も聖職者もない」と言いました。ですから、私は牧師は聖職者ではなく、教職者と言うようにしています。牧師や教師は身分というよりも、働きだからです。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」と書かれています。これらは五職と呼ばれていますが、「階級」ではなく、職務であります。イエス様がご自身の教会を建てるために、召した人たちです。ですから、そこには神さまからの召命と賜物があります。ペテロはご自分の手紙でこのように言っています。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(Ⅰペテロ52-3)。

 イエスさまのもとにいた弟子たちはだれが一番偉いか争っていました。イエス様は彼らを呼び寄せてこのように言われました。マタイ2025-27「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」イエス様は指導者になること自体を否定しませんでした。しかし、それはこの世のやり方ではなく、まったく逆のやり方でした。みなに仕える者になること、しもべになることが、その道でした。1990年頃から、「教会成長」という考えがアメリカや韓国から入ってきました。日本でも「教会成長研究所」なるものが設置され、多くの牧師たちがそこで研修をうけました。私にも2000年頃、招待状が来ていましたが、クリスマスのどさくさで分からなくなり、気づいた時は締切が過ぎていました。チャンスを逸してからは、受けるのをやめました。でも、高砂教会の手束先生をお呼びして、「教会成長」について学んだことがありました。また、サラン教会やオンヌリ教会などから弟子訓練を通しての教会成長について学びました。そのとき、「日本の牧師には権威がないので、教会は成長しないんだ」という意見がよく飛び交いました。手束先生はある本の中で、「雑用は信徒に任せて牧師は祈りとみことばに専念すべきだ」とおっしゃっていました。その頃、私は会堂掃除をしたり、車で送り迎えをしていました。旧会堂の時から、植木の刈込み、看板、ペンキ塗り、印刷、音響、なんでもやっていました。ある時、礼拝堂で一人掃除機をかけているとき、「なんで牧師がこんなことを」と思ったとき、みじめな気持になりました。いわゆる雑用をしているとき、心に平安がありませんでした。しかし、ある時、イエス様の教えはこの世と逆なんだ、むしろ「教会成長の牧師像が間違っているんだ」と思いました。ちょうどそのころ、『サーバント・リーダーシップ』という本がベストセラーみたいになりました。私の賜物は説教だけではなく、体を動かすことも含まれていると悟ってから、ぜんぜん苦にならなくなりました。そして、「奉仕には雑用などというものはないんだ。キリストのからだなる教会においてはみんな尊いんだ」と悟りました。ひとり一人、神さまから与えれた賜物と召命に生きれば良いのです。かしらはイエス・キリストです。私たち一人ひとりはキリストのからだの器官です。みんなかしらに聞いて動けば良いのです。このように、からだなる教会を理解するとき、宗教的な階級意識から解放されます。

3.規則(きまりごと)

イエス様は3節でこのように言われました。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」(マタイ153ユダヤ人たちは、律法の他にたくさんの言い伝えを守っていました。そして、人々にもそれらを守らせました。マタイ23章でイエス様なこのように言われました。「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしません」と言いました。「重い荷」というのは、ユダヤ教のさまざまな「きまりごと」ではないかと思います。イエス様は神の律法(トーラー)に対してはアーメンでした。でも、彼らの言い伝えには反対しました。当時の「言い伝え」というのは、ラビたちの律法の解釈や教えでした。ゲマラとミシュナを合わせたものをタルムードと言いますが、彼らはそれを神の律法と同じくらいの権威を与えていまさした。しかし、人間の教えですから、かたちばかりで精神を欠いたものになっていたことは確かです。福音書でたくさんの論争の記事がありますが、断食とか安息日、きよめの儀式のことが良く出てきます。その時、イエス様はいつも律法の精神(本質)を説いて、弟子たちや人々を解放しています。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われました。重荷とは、ユダヤ教のたくさんのきまりごとでもあるのです。

 この世にはたくさんのきまりごとがあります。学校に行けば「廊下を走ってはいけない」とか、この世にはないきまりがたくさんあります。学校はある意味では特殊な社会なのかもしれません。しかし、最近は警察が入り込むようになりました。なぜでしょう?きまりの背後には陰湿ないじめがあるからです。人間はきまりを多くすればするほど、きまりに逆らいたくなるのです。パウロはそれを肉の働きと言っています。キリスト教会もきまりごとが好きです。求道者の時は何も言われなかったのに、洗礼を受けてからいろんな義務やきまりが与えられます。「信じるまでは恵みで、信じた後はそうではないのでしょうか?」それだったら詐欺であります。当教会では単立になったとき「亀有教会理念」を作りました。後半に「教会細則」というきまりみたいなことが書かれています。しかし、その中心は共同体という教会を守るための最低限度のきまりです。私はあえてきまりを多くしませんでした。なぜなら、肉を刺激して罪を助長してしまうからです。理念の最後にこのような文章を載せています。「この細則は、当教会の組織が円滑に運営されるために作られました。規則に縛られるのではなく、御霊の導きを求め、互いに関係を大切にしながら、問題を解決するように努めましょう。」マタイ18章には小さい者(弱い人)が罪を犯したときどのように対処すべきか記されています。「これは律法だ、これはきまりだ」と罪をさばいてはいけません。まず、二人だけのところで話し、その次はふたりか三人で、最後に教会に告げるという順番になっています。この世はいきなり、警察とか権力者に訴えます。アメリカは本来、聖書に根差したキリスト教の国家でした。しかし、今は互いに告訴し合っています。そして、銃を所持して自分を守ろうとしています。これは「殺してはならない」という戒めに反しています。

 イエス様はいつでも人を生かそうと努めました。姦淫の場で捕えられた女性をさばきませんでした。本来なら律法で石打ちの刑であります。彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ811と言われました。」イエス様は彼女のしたことを罪であるとはっきり認めておられます。でも、ご自分が持っている権威をあわれみによって、彼女を赦してあげました。さまざまなきまりから解放される道とは何でしょう?それは赦しです。さばこうと思ったら、どんなことでもさばくことができます。ヤコブは「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」(ヤコブ213と言いました。なぜでしょう?人はさばかれると心に苦味を持ちます。たとえ自分が悪いことをしたと分かっても、です。頭ごなしにさばかれてしまうと怒りと憎しみが残ります。刑務所に囚われた犯罪者は、刑期を終えた後、再び罪を犯す確率が高いそうです。なぜでしょう?刑務所では人間扱いどころか、悔しい思いをたくさんさせられるからです。アメリカのある州で、再犯がぐっと減った刑務所があったそうです。それは神さまにある自分の価値を知り、小グループで互いに愛し合い、支え合うことを学んだからです。「一寸の虫にも五分の魂」というたとえがありますが、いくら罪を犯しても、その人の尊厳を奪ってはいけません。「罪を憎んで人を憎まず」ということを言っている割には、殺風景な世の中です。教会は神の国のモデル・ルームです。教会は十字架をかかげていますが、それはどういう意味でしょうか?イエス様が私たちの罪を負って、代わりに死んでくださったということです。そこには神の愛と赦しがアピールされています。自分の多大な罪が赦されているのに、すっかり忘れて、相手の小さな罪を赦せないのです。私たちは愛の赦しのメガネをかけて生活すべきであります。私などは車の運転をしていると、そのことを忘れて、横断歩道をのろのろ歩いている歩行者をなじったりしています。頭では分かっているつもりでも、まだまだ全身に行き渡っていないんだなーと思います。使徒パウロがガラテヤ書でこのように言っています。ガラテヤ31「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」キリストの十字架は救われるためだけではなく、救われた後も必要なんだと言うことが分かります。

 昨年末、大川牧師のピンチヒッターで説教したことがあります。広尾の21世紀教会です。30分位前に行って、場所を確かめ、その後コーヒー店で待とうと思いました。教会の近くまで行くと、向こうから大川牧師と奥様と運転の方が歩いてくるではありませんか?とにかく入ろうということで、教会の個室で大川先生とスタバーのコーヒーを飲みました。そのとき、昔の座間キリスト教会の頃の話題がでました。私が洗礼を受けた頃は最初のリバイバルだったそうです。看護学校からも多くの人たちが救われました。戦後、教会から離れていたおじいちゃんやおばあちゃんも転入会しました。私が洗礼を受けた1979年は52名の受洗者がいました。大川先生は「なぜ、人が増えたんだと思うのか」私に尋ねました。私は即座に、「教会に入るとさばかれているような気がしない。受け入れられているような気がするから」と答えました。まるでペテロが「あなたこそキリストです」と告白し、おほめのことばをいただいた時のようでした。「良く言った」とは言いませんでしたが、「そうだよなー」とニコニコして答えてくれました。あの当時、大川先生は聖霊の体験をなされヨハネ2章から「聖霊はおのが好むところを吹く」ということばを説教の中でよく語っておられました。「牧師は信徒をさばかない、信徒も牧師をさばかない、信徒同士もさばかない。聖霊は人格があるので、自分の好みがあるんだ。聖霊に好まれる教会を作ったなら、おのずと教会は成長する」とおっしゃっていました。私は1987年、当亀有教会から招聘を受けて来させていただきました。その時、私をスカウトした中心的長老さんがいました。山崎長老さんですが、「最初の説教でぜひ言ってもらいたいことがある」とお願いされました。それは大川牧師の「牧師は信徒をさばかない、信徒も牧師をさばかない、信徒同士もさばかない」でした。あとから気づいたのですが、山崎長老さんはだれよりも多く教会員をさばく人でした。でも、なぜ、山崎長老さんが何故、私にそのことを言わせたのでしょう?それは、頭では分かっているつもりでも、まだまだ全身に行き渡っていないと思っていたからでしょう。アーメンです。どうぞ、儀式や階級、きまりによって宗教的にならないようにしましょう。生けるキリストと共に歩み、互いに愛し、互い赦し合いましょう。

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2017年2月11日 (土)

嵐を静めたイエス マタイ14:22-33 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.2.12

 英語で奇跡をmiracle、あるいはsupernaturalと言ったりします。Supernaturalは超自然という意味であり、「自然を越えている」ということです。CSルイスは、「奇跡は自然法則の違反ではなく、高い法則による低い法則の一時的中断にほかならない」と言いました。イエス様は水の上を歩かれましたが、自然に反するものではなく、ご自身の法則によって、自然を越えたということです。昨年は野球で「神っている」という言葉がはやりました。きょうは、イエス様は私たちが持っている自然法則を超えた、神そのものであることを学びたいと思います。

1.権威あるイエス

 イエス様は教えに対して権威があるだけではありません。病や悪霊、そして自然界に対しても権威あるお方です。そのことは、マタイ8章、9章で既に学びました。一度、イエス様はガリラヤ湖の嵐を静めたことがありました。その時は、弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう」(マタイ827と驚きました。しかし、きょうのところでは弟子たちはイエス様を拝んで「確かにあなたは神の子です」と言いました。では、いったい前の奇蹟と今回とではどこが違うのでしょうか?まず、この奇跡の前に、何があったかと言うと、5つのパンと2匹の魚で男性だけでも5000人を養われました。人々は、「この方こそ来るべきメシヤではないか」と思いました。弟子たちも増えたパンと魚を配りながら、手が震えたと思います。この時は、まだ興奮も冷めやらぬ状態でありました。マタイ1422-23「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」イエス様は弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸へ行かせるために舟に乗せました。そして、群衆を解散させて、ご自分は山に登られ、そこで祈っておられました。なぜなら、イエス様も弟子たちも休む間もなく働いていたからです。イエス様は、肉体をお持ちでしたので、疲れを覚えていたことでしょう。そして何よりも、父なる神さまと親しく交わる必要がありました。そうすることによって、霊的な力に満たされ、父なる神のみこころを知ることができたのだと思います。おそらく、イエス様は4時間位そういう時を持っていたことでしょう。でも、祈っているうちに、弟子たちの困難を超自然的に知ることができました。ご自身は山の上にいましたが、真っ暗な湖の真ん中で弟子たちが漕ぎ悩んでいる様子が見えました。

 マタイ1424-26「しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」ガリラヤ湖は楕円形ですが、この時のコースは9キロくらいであり、おそらく弟子たちは岸から45キロ、ちょうど真ん中くらいだったと思います。出発したのが夜10時だと過程すると、今が夜中の3時ですから5時間も湖の上にいたということになります。帆船ですから強風にあおられ、もう体力的にも限界でした。そのとき、湖の上にうっすらと人影が見えました。何と、嵐の湖を人が歩いて、こちらに近づいて来るではありませんか。弟子たちは恐れ、「あれは幽霊だ」と叫び声を上げました。その当時、幽霊を見たなら、溺れ死ぬというジンクスがあったのでしょう。しかし、イエス様は彼らに「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」と言われました。「私だ」と訳されている日本語は、ギリシャ語では「エゴゥ・エミー」となっています。これは、ご自分が神であると宣言している暗示的な表現です。この後、ペテロが水の上を何歩か歩いて、風を見ておぼれかけました。イエス様がペテロを助け上げました。イエス様とペテロが彼らの舟に乗り込むと風はやみました。マタイ1433「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。この一連の出来事で、弟子たちのイエス様に対する見方が変わりました。イエス様は、前も嵐を静めてくださいましたが、今回は何が違うのでしょうか?何が弟子たちをして、イエス様を「あなたは神の子です」と礼拝させたのでしょうか?

 その第一は、イエス様が真っ暗な湖の上を道路でも歩くかのように、近づいて来られたということです。彼らのほとんどは漁師だったので、嵐の湖の怖さを知っていました。そして、人間は常識的に水の上を歩けないし、沈んで溺れると分かっていました。学校で理科を勉強しなくても、それくらいのことは分かっていました。ところが、このお方は液体の上を、道路の上を歩くように、湖の真ん中辺まで歩いて来られたのです。第二は、イエス様が嵐の中で難儀していた自分たちを遠くから知って、救うために来られたからです。ヨハネ621「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」あれだけ苦労したのに、嵐が静まり、舟はほどなく目的地に着きました。この安堵はいかばかりだったでしょうか?聖歌472「人生の海の嵐にもまれきしこの身も、不思議なる神の手により、命びろいしぬ。いと静けき港に着き、我は今やすろう。救い主イエスの手にある身はいともやすし」であります。イエス様の場合は単なる奇跡ではなく、人を救うための超自然でありました。冒頭で申しあげた「超自然」であります。なぜ、イエス様は湖の上を歩き、そして嵐を静めることができたのでしょうか?それはご自分がこの世界を創造したからです。コロサイ116「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。…万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」アーメン。ご自分が造ったのですから、造られた物をいかようにもすることができるはずです。でも、神さまは秩序、つまり自然界の法則も同時に造られました。ですから、イエス様の奇蹟は、自然界の法則を壊さないで、それを越えるようなものでありました。おそらく、液体の分子をぎゅっと詰めて、固体にしたのだと思います。理性的に説明すると、かえっておかしくなります。

このところから、イエス様が自然界に対して権威がある神であることが分かります。その証拠に、弟子たちはイエス様を拝んで「確かにあなたは神の子です」と言いました。イエス様はそれを拒絶しませんでした。一連の出来事から、この奇跡はイエス様が神であることのしるし以外の何物でもないということです。もし、この聖書の記述が本当であったなら、私たちも弟子たちのように、イエス様を神として信じなければなりません。私たちの多くは、以前、イエス様を幽霊みたいな存在に思っていたのではないでしょうか?宗教とは「神がいれば良いなー」と思った人たちが勝手にこしらえたものである。イエス・キリストほど、世界の人々をだましたペテン師はいない。彼は宗教の天才であると思っていた人もいるでしょう。でも、どうやって救い主であり、神さまであるイエス・キリストを信じることができるのでしょうか?日本の場合はキリスト教の歴史も浅いし、聖書的な知識もありません。本当に無知と偏見の塊のような国民です。この日本でイエス様を信じて礼拝しているそのことが奇跡ではないでしょうか?では、イエス様はこの日本におられないのでしょうか?イエス様は全世界を作られたとき、この日本も造られ、同時に日本人も造られたと信じます。もちろん日本人は大陸やいろんな島から渡って来たと言われています。神の霊、聖霊は全世界を行き巡っておられます。日本に1億人以上住んでいますが、神さまは全部の人たちを見渡しておられます。黙示録にはいのちの書と他の書物があり、一人一人のことが記されていると書いてあります。

 2000年前、イエス様がガリラヤ湖の上を歩いて渡って、弟子たちを助けました。日本は四方海に囲まれています。しかし、復活し、キリストの御霊となられたイエス様は日本にも渡って来ておられると信じます。あなたが試しに「イエス様あなたが本当に神さまなら私を救ってください」と祈ったら分かります。そのため教会に来るのが一番ですが、教会に来なくても求めるならば近づいてこられます。幽霊ではありません。今も生きておられるイエス様があなたを救うために近づいてこられます。この間でクリスマスは終わりました。残念ながら、サンタクロースは実在していません。しかし、イエス様は今も生きておられ、最高のプレゼント、永遠のいのちを与えてくださいます。日本は偶像崇拝の国で、八百万の神がいると言われています。しかし、私は使徒ペテロのことばを信じます。使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」「天の下で」でありますから、日本もアメリカも中国も関係ありません。偉大な神さまから見たら、地球は「りんご」くらいの大きさではないかと思います。そこに日本の小さな島があるんです。「ふっ」と滅ぼすこともできれば、「ふっ」と救うこともできます。でも、神さまはキリストの十字架の贖いを信じる者だけを救おうと決意なされました。キリストの血以外に、私たちの罪を消し去ることができません。キリストの血は日本人すべての人のためにも流されました。日本人すべてが救いの候補者なのです。使徒パウロは「宣べ伝えない人がいないとどうして信じることができようか」と言いました。イエス・キリストは神であり、救い主です。このお方を信じる人が罪赦され、救われるのです。

2.権威を委譲されるイエス

 後半はペテロが湖の上を歩いたという奇跡について学びたいと思います。マタイ14 28-31「すると、ペテロが答えて言った。『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」驚くべことに、イエス様だけが水の上を歩いたのではありません。弟子のペテロも何歩かですが、水の上を歩きました。多くの人たちは、「ペテロは沈んだ、ペテロはおぼれた」と言いますが、ペテロは確かに水の上を歩いたのです。忍者は別として、ペテロの他に水の上を歩いた人はいないのではないかと思います。このところに、奇跡を与える信仰が記されています。だれもがイエス様のように水の上を歩けるわけではありません。しかし、どうしてペテロは水の上を歩くことができたのでしょうか?まず、ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願いました。ペテロはイエス様が「来い」と命じてくれるなら、自分はそこまで行けると信じていました。マタイ8章に百人隊長のしもべの癒しが記されています。百人隊長は「ことばの権威」ということを体験的に知っていました。だから、彼は「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と言ったのです。この時は、イエス様がわざわざ行かなくても、いやされました。イエス様がおことばを発したからです。この時も、イエス様はペテロに「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行ったのです。

 どうしてこのような奇跡が起こるのでしょうか?この学説に反対する人もいますが、あえて申し上げます。神のことばには、ロゴスとレーマがあります。ギリシャ語ではほとんど違いがありません。でも、イエス様はマタイ4章で「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」と言いました。この「神の口から出ることば」こそが、レーマであります。聖書のことばはロゴスです。聖書にはロゴスという神さまの一般的なみこころが記されています。しかし、私たちがこの聖書を読むとき、今の自分に神さまが語りかける時があります。それが神の口から出ることば、レーマであります。このレーマこそが、奇跡を生み出すのです。だから、私たちは神のみこころである聖書を読み、そこから生ける神のことばをいただく必要があるのです。このところでペテロはイエス様から「来い」というレーマを求めたのです。そこで、イエス様は「来なさい」というレーマをペテロに与えました。そのときペテロが水の上を歩きましたが、言い換えるとペテロはレーマの上を歩いたのです。ペテロは生ける神のことばを信じて水の上を歩きました。これが信仰です。このレーマがなければ、人は水の上を歩くことができません。韓国で実際あった話ですが、3人の少女が、氾濫した川の前まで来ました。対岸には青年大会の会場がありました。彼女らは「私たちが水の上を歩けない話ってあるかしら?だって、ペテロは水の上を歩いたし、ペテロの神さまは、私たちの神さま。ペテロのイエス様は私たちのイエス様。ペテロの信仰は私たちの信仰じゃないかしら?あのペテロだって信じたのだから、私たちも、もっと信じましょう。さあ、この川を渡りましょう!」水はあふれ、流れは激しかったのです。しかし、少女たちにひるむ様子はありません。三人は、まず共にひざまずくと、たがいの手をしっかり握りしめ、ペテロによる水上歩行の聖句を唱え始めました。そして、異口同音に、「あたしたち、信じます。ペテロのように信じます」と大声でわめき立てながら、川の中にジャブジャブ足を踏み入れたのです。ひとたまりもありません。激流の中に踏み入れるや、あっという間に足をさらわれ、三人もろとも川に飲み込まれてしまいました。翌日の新聞に、「何ゆえ神は、少女たちの信仰の祈りに答えてくれなかったのか」と書かれていたそうです。

 チョー・ヨンギ師が書かれた『第四次元』にこのように書かれています。若者たちは、事実、信じたのです。彼女らは、神のみことばに立って行動したのです。しかし、神は、彼らの信仰を擁護すべき理由を一つだに持ち合わせておられません。ペテロは、一般的神の知識を与えるロゴスのゆえに、水上を歩行したのではありません。ペテロは、特定のことばが与えられるようにと、キリストに願い求めているのです。「来なさい」と、キリストが与えたペテロに与えたことばは、ロゴスではなく、レーマでした。主は、特定のおことば「来なさい」を、特定の人「ペテロ」に、特定の状況「嵐の湖上」でお与えになられたのです。レーマは信仰を生み出します。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのレーマによるのですペテロの水上歩行の奇跡は、神についての基本的な知識によりたのんだのではありません。ペテロはキリストのレーマを受けたのです。アーメン。ですから、私たちは神のことばである聖書を読んで、今、私に語っておられる神のことば、レーマを求めなければなりません。このレーマが与えられたら、神さまは確かに働いてくださるのです。こういうことを言うと、「チョー先生は韓国のペンテコステだから」と批判する人がいます。私は最初、日本ホーリネス教団の神学校で学びました。反カリスマで、そこは保守的な教団です。そこでは「みことば信仰」ということが盛んに言われていました。「何か重大な決断をする時はいつでも神さまからみことばをいたただかなければいけない」と教えられました。私は彼らが言う「みことば」こそが、チョー先生がおっしゃる「レーマ」なのではないかと思います。再臨が近い今の時代は、教団教派の教義の違いを言っている暇はありません。

 ペテロは水の上を数歩進みました。ところが途中で水の中に沈んでしまいました。なぜでしょう?マタイ14:30-31「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」風は見えませんので、水しぶきを見て、イエス様から目をそらしたのかもしれません。ペテロは最初、イエス様のレーマの上を歩いていました。ところが、彼の理性が叫びだしたのです。風と波しぶきが顔に吹き付けました。そのとき、彼は「こんなことはありえない。人間が水の上を歩けるはずがない。これは何かの間違いだ」と疑いました。そのとき、ずぶずぶと体が水の中に沈みました。ペテロは「主よ。助けてください」と叫びました。イエス様はすぐに手を伸ばして、ペテロをつかみました。まるでイエス様は陸の上から、おぼれているペテロを助け上げたのです。イエス様は「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言いました。そうです。ペテロは途中、疑ったのです。日本語には「信仰の薄い」と書いてありますが、原文は「信仰が少ない」という意味です。英語の聖書では、little faithとなっています。このところから1つの法則、つまり信仰の法則を発見することができます。第一に物質の目に見える五感の世界があり、レーマという目に見えない霊の世界があります。第二は自然の法則と超自然があります。第三は理性と信仰があります。理性は神さまが私たちに与えてくれたすばらしい恩寵(恵み)です。動物と違うのは理性があるからだと学校で習いました。理性は18世紀、啓蒙主義思想とともに復活しました。この思想は、キリスト教的世界観や封建的思想を批判し、人間性の解放を目ざす思想であります。欠点は人間の理性で認められないものをすべて排除するというものです。科学的で合理的なものだけを受け入れましたが、霊的存在や神の超自然的な働きを受け入れませんでした。

私たちクリスチャンは理性も必要ですが、同時に目に見えないところで神さまが働いてくださるということを信じなければなりません。ペテロは五感と理性によって、レーマを疑いました。同時に、イエス様から目をそらし、信仰が破たんしました。それで沈んだのです。では、どうしたら湖に沈まない信仰を持つことができるのでしょうか?これは私たちの信仰というよりは、神さまからいただいた信仰であります。なぜなら、レーマは生ける神さまから今の私にかたられたことばだからです。私たちはそのみことば、レーマを握って離さないことが重要です。そして信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないということです。五感と理性が「現実的に不可能だ」と叫んでも、耳を傾けないことです。世の人々だけではなく、クリスチャンも「現実的に不可能だ」と言うかもしれません。でも、その時は、人の声に耳を傾けてはいけません。「信じ続ける」ということは、ある時は人から笑われ、馬鹿にされることもあるからです。アブラハムが100歳でサラが90歳のとき、イサクが生まれました。人々は頭がおかしくなったと笑ったでしょう?実際、サラ自身も笑いました。でも、神さまの信仰の方が大きかったのです。イエス様が自然を支配し、水の上を歩けることは、クリスチャンであるならだれも疑わないでしょう。しかし、イエス様はペテロに水を歩けるように権威を委譲されました。委譲ということばは、empoweringで「…に権能(権限)を与える」「…に能力(資格)を与える」という意味です。つまり、イエス様は今日の私たちに、ご自分がなされたようなことをするように権威を委譲するということです。これが神からの信仰です。私たちはペテロのように大胆な信仰を持つべきです。たとえ、途中で疑って沈むような時があっても、イエス様が手を差し伸べて引き揚げて下さいます。ペテロのように大胆な信仰を持ちましょう。イエスさまにレーマ、おことばを求めましょう。

 

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2017年2月 4日 (土)

5つのパンと2匹の魚 マタイ14:13-21 亀有教会牧師鈴木靖尋

 5000人の給食の奇跡は4つの福音書全部に載っています。ということは、これこそが、人々が最も驚いた奇蹟だということです。なぜなら、今日の私たちと同じように、当時の人たちも経済的な問題をかかえていたからです。人々は経済の問題を解決してくれるメシヤを待っていたので、よっぽど感激したのでしょう。しかし、この奇跡の中にはいくつかの大切なメッセージが込められていることを忘れてはいけません。

1.奇跡の動機

 イエス様は公生涯の直前、悪魔から3つの試みを受けました。その筆頭が「もし、あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」でした。イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる、と書いてある」と答えて誘惑を退けました。つまり、人は肉体的なパンも必要だけど、その前に神のことば、霊的食物が必要だということです。悪魔は経済的な救いを与えるメシヤを提示しました。なぜなら、当時のイスラエルはローマとの戦争に敗れ、税金を負わされていたからです。では、なぜ、ここでイエス様はわずかなパンで多くの人たちを奇跡的に養われたのでしょう?きょうの箇所に、イエス様の奇跡の動機が記されています。マタイ1414「イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。」「深くあわれむ」は、もともと、いけにえの内臓を食べるということばから来ています。それが、「可哀そうに思う」「あわれむ」という意味に変化しました。マタイ15章には4000人の給食が記されていますが、その時、イエス様は弟子たちにこのように言われました。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」(マタイ1532)。おそらく、このときも、人々は食べることを忘れるくらいイエス様のお話しに聞き入っていたのでしょう?「かわいそうに」という思いでパンを増やしました。もし、私の説教が、お昼の12時過ぎるならどうなるでしょう?親切な人たちが「もう時間ですよ」と腕時計を指さすのではないでしょうか?もし、リバイバルが来るなら、礼拝中に、病の癒しも続々起こり、定時を過ぎるかもしれません。その時は、聖霊様のご指示に従ってください。

 イエス様の心はあわれみに満ちていましたが、弟子たちはどうだったでしょうか?「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」(マタイ1415「寂しい所」は、砂漠ということばで、人々が全く住んでいない荒野であります。イエス様と反対に弟子たちはとても事務的です。「もう時間なので集会は終わりにします。どうぞお帰りになって、食事をご自分で済ませて下さい。では、さようなら」。つまり、「霊的な食物は与えるけれど、肉体の食物までは面倒みられません。自分のことは自分で」ということです。もっともな理由です。これに対して、イエス様は「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われました。他の福音書では、弟子たちが「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」(マルコ637と答えています。男性だけで5,000人、女性や子どもを入れたら、おそらく10,000人はいたのではないかと思います。1デナリが現在で1万円だとすると、200デナリは200万円です。人数で割ると、一人当たり200円分のパンになります。アンパン2つしか買えないので、満腹にはなりません。弟子たちはとても理性的であり、正確に計算しました。しかし、イエス様はそういうことを弟子たちに願われたのではありません。「あなたがたの手によって、人々に食べ物を与えなさい」ということなのです。おそらく、弟子たちはイエス様のおっしゃることが分からなかったと思います。弟子たちは人々に呼びかけた後、「ここにはパンが5つと魚が2匹より他はありません」と答えました。ヨハネ6章には「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と書いてあります。私たちは弟子たちのことをとやかく言える立場ではありません。月末の給料日前、同じようなことをつぶやいているかもしれません。家族4人、1,000円で何が買えるのでしょう?私はそう思いたくないので、クレジットで買い物をしています。でも、1か月先にドカンとまとめて支払が来ます。

 弟子たちの考えはとても現実的で理性的です。10,000人以上の人たちにどうして、食事を与えなければならないのだろう?自分たちのことは自分たちでやれば良いのではないだろうか?そのように考えるのは当然かもしれません。もし、今日の教会で同じことを言われた場合はどうするでしょうか?ある教会では「炊き出し」と言って、ホームレスの人たちに食事を差し上げています。それも尊い奉仕だと思いますが、どの教会も同じ重荷があるわけではありません。もしこれを、必要を覚えている人たちの生活の面倒を見るということになるともっと適用可能になるかもしれません。イエス様がおっしゃっていることはどういう意味なのでしょうか?困っている人たちを助けることは良いことだと思います。でも、「やってあげている」とか「恵んでやっている」みたいな姿勢だとどうなるでしょうか?外側から見れば、尊い奉仕かもしれませんが、上から目線で、受ける人たちは卑屈になるかもしれせん。病の癒しや必要を覚えている人たちへの施しに最も重要な動機とは何でしょうか?それは、イエス様が持っておられた「深いあわれみ、同情心」ではないでしょうか?同情心は英語でcompassion 「共に苦しむ」という意味があります。もちろん、私たちは現実的で理性的な面も必要です。お金、人数、自分ができることとできないこと、その人がやるべき責任などをないがしろにはできません。でも、奉仕や施しをしている人の精神が問題であります。頭はクールであっても、心はホットでなければなりません。パウロはローマ12章でこのように言いました。「慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」まず、私たちはイエス様からはじめにあわれみをいただいた存在であることを忘れてはならないと思います。

2.奇跡の順番

 弟子たちはどのようにして10,000人の人たちを養ったのでしょうか?確かに、イエス様が「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたことが実行できました。このところに、私たちが人々に仕え、また与えるための正しい順番が記されています。マタイ14:18-19 「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」だれが、最初に奇跡を行ったのでしょうか?イエス様です。イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福しました。そして、そのパンを裂きました。イエス様は5つのパンをまとめて、裂いたのでしょうか?同時に5つは不可能ですから、1個ずつかもしれません。どのように増えたのかその状況をビデオがあったら、ぜひ、見たいものであります。あれよ、あれよという間に50,000万個くらいになったのではないでしょうか?なぜなら、5つのパンは少年一人分の弁当だったからです。2匹の魚はおそらく干物であり、これも1万人が食べられるくらいに増えたので、20,000匹位でしょうか?でも、どのように増えたのかが分かりません。私が映画で見たそのときのシーンは、イエス様がお祈りしたときにいくつかに増えました。弟子たちがイエス様からそれを受け取り、人々に渡す時も増えたという記憶があります。つまり、祈って増えたパンを12弟子それぞれに渡しました。それを持った弟子たちが人々に渡す時、また増えたということです。簡単に言うと2段階で増えたということです。イエス様が増やし、さらに弟子たちがそれを増やしたということです。そうでないと、50,000個のパンにはなりません。

 マルコ福音書には、イエス様が弟子たちに命じたので、「百人、五十人と固まって席に着いた」と書いてあります。ですから、混乱なく、群衆に配ることができたのではないかと思います。私は百人、五十人が1教会の会衆の数のように思えてなりません。聖書にコリント教会が出てきますが、それはコリント1教会のことではなく、コリントという町にあるいくつかの教会をさしています。エペソ教会といっても、エペソの町にそれくらいのサイズの教会が、たくさんあったと思います。もちろん、アメリカにあるような1万人教会でも構いませんが、百人とか五十人の、会衆の塊は必要ではないかと思います。そうでないと、牧会が行き届きません。それはともかく、ここで言わんとしていることは、イエス様が奇跡の最初であります。イエス様が奇跡を起こしてくださる神さまだということです。では、弟子たちの役目とは何なのでしょうか?イエス様から受けた奇蹟を人々に届ける役目があります。いわば、奇蹟の管、チャンネルであります。聖歌に「私を通り良き管として用いてください」という賛美があります。でも、それだけではありません。弟子たちもイエス様と同じ奇跡を行なったということです。そうでないと、この奇跡の意味がありません。なぜなら、イエス様は最初に「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたからです。イエス様はヨハネ14章で「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。私たちはこのことばを額面通りとるべきであります。つまり、イエス様のような奇跡を行なうことができるということです。でも、どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?イエス様が父のもとに行ったから可能になったのです。イエス様が父のみもとから、聖霊をお与えになりました。ペンテコステの日、そのことが実現し、それ以来、イエス様を信じるすべての人の内側に聖霊がお住みになっておられます。この聖霊は以前、イエス様の中におられた、同じ聖霊です。だから、聖霊をキリストの御霊とも呼んでいます。結論的に言うと、私たちの中におられる聖霊がイエス様と同じことをなさるということです。アーメン、ハレルヤ!パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。

 奇跡だけではなく、これは私たちが行う奉仕すべてのことに共通していることです。私の中にいらっしゃる聖霊が現れてくださるように期待するということです。言い換えると、私たちが聖霊の器として、神さまに差し出すことが重要だということです。そのとき、私たちが何もしないで、良いということではありません。私たちの賛美、私たちのことば、私たちの手のわざ、私たちの知性…それらを通して、聖霊が働いてくださるということです。そこに聖霊が参与され、神さまにしかできないわざをしてくださるということです。その結果、人々が感動したり、喜んだり、神さまをあがめたりするということです。たとえば、私は子どもの時から、落ち着きがなくて学校の先生からよく叱られました。先生の話をじっとして聞くことができず、私語というかおしゃべりをするからです。今、名前を付けると、「多動多言多感症候群」であります。多動多言は分かるにしても、多感とは泣いたり怒ったり感情的になるということです。でも、神さまは私を牧師に召し、説教者にしてくださいました。説教者ですから、しゃべることが商売です。賛美をする人はぜひ、「私の歌を通してキリストが現れるように」と聖霊に期待してください。保育園の先生も「私を通して神の愛が現れるように」と聖霊に願ってください。ビジネスをしている人は「私を通してキリストの知恵と豊かさが現れるように」と聖霊に願ってください。神さまも聖霊様も霊です。霊は肉体がありませんので、私たちの声、私たちの手足が必要なのです。聖霊様は私たちの中に住んでおられ、神さまの力と愛と恵みを現してくださいます。

 私たちはこのところから奇跡の順番を覚えなければなりません。まずパンを奇跡的に増やすお方はイエス様です。イエス様はご自分を「いのちのパンです」とヨハネ6章でおっしゃいました。では、そのいのちのパンを配るのはだれでしょうか?それは弟子である私たちです。でも、パンを配る時にも奇跡的に増えるということを信じる必要があります。それは、今もイエス様が私たちを通して奇跡を起こしうるお方だということです。なぜなら、イエス様が聖霊として私たちの中に住んでおられるからです。私たちは人を生かすことのできる、いのちのパンが宿っているのです。いのちのパンは私たちを通して、増えていくのです。

3.奇跡の種

 イエス様は神さまですから無から有を生み出すこともできました。ところがイエス様はあえて、5つのパンと2匹の魚を増やして、10,000人の人たちを奇跡的に養いました。イエス様の奇蹟は単なる奇跡ではなく、そこにはメッセージが隠されています。どんなメッセージでしょうか?ヨハネ6章を少し引用したいと思います。ヨハネ69「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」これはアンデレが言ったことばです。おそらくアンデレが群衆の中から、少年が持っているお弁当を見つけたのでしょう。イエス様はどう答えたでしょうか?「最もだなー、こんな少量じゃどうにもならないよなー」と同情したでしょうか?確かに、目の前には10,000人の群衆がいます。イエス様は現実を否定しませんでしたが、現実を超える信仰を持っていました。マタイ1418-19「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」なんと、イエス様はパンが増える前に、混乱が起きないように百人、五十人と固まって座らせました」(マルコ640)。「そこで座って待っているように」ということです。その後、イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福しました。天を見上げるとは、父なる神さまを見上げるということです。それらを祝福したら、パンと魚が奇跡的に増えたのです。でも、イエス様は子どもが持っていた、5つのパンと2匹の魚を元手にしたのです。子どもが「いやだよ。僕のものだよ」と断ったら、この奇跡は起こらなかったかもしれせん。奇跡の種とは何でしょうか?それは子どもがささげた5つのパンと2匹の魚です。本当にわずかなものです。

 私たちは、目の前の物を見て、弟子たちのように「こんなものが果たして何になるでしょう」と言いがちではないでしょうか。そして、「5つのパンと2匹の魚しかない」と否定的になってしまうのです。悪いところだけ、足りない所だけが良く見えるのです。しかし、「5つのパンと2匹の魚がある」いや、「パンが5つ、魚が2もある」と肯定的に考えることができたならなんと幸いでしょうか。もう天に召されましたが田原米子さんは、高校生とき、生きることの意味がわからなくなりました。五体満足でも生きる気がしなかったのに、自殺後に残ったのは、右手に3本しか指が残っていませんでした。両足も左腕もありません。彼女は、今度こそ、死のうと睡眠薬をためました。そのとき、宣教師が尋ねて来られ、福音を聞いて、だまされたつもりで「神様信じます」と言ったのです。そして次の朝、目がさめて、聖書を自分で開いてみました。何げなくめくって、一番先に目に飛び込んできた箇所が、Ⅱコリント5:17です。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」そして、いままで見るのもイヤだった右手の包帯をとりました。そのとき、思ったそうです。「私には指が3本もある。まだ、3本も残っている」と。それまでは、失った物ばかり数えて「あれがない」「…しかない」の人生でしたが、キリストに出会ってから「…がある、…もある」という肯定的人生に変えられたのです。

第三のポイントは、「主がわずかなものを、とるに足りないものを用いられる」ということです。さきほども申しあげましたが、神様は無から有を生じさせることもできるのですが、あえて「5つのパンと2匹の魚」を用いられました。それは、私たちが神様に差し出すものが、たとえ、わずかであっても、主はそれを幾倍にも祝福して用いるということです。私たちが差し出す献げもの、奉仕、あるいは証しこれが主の手に握り締められるなら、大きなわざを成すことができます。問題は、主の手に握りしめられること、そして、パンが裂かれたように、主のなすままになるということです。持っているものを差し出すのも信仰がいります。しかし、捧げたにも関わらず、自分のやり方でなければイヤだと注文つける人がいます。これだと、ささげた量のわりには、実が残りません。イザヤ書では主は陶器師で、私たちは粘土にたとえられています。粘土は練られて、形を整えられます。あるものは聖いものに、またある物は俗的なことに用いられます。同じ粘土でも片や何十万円もするような茶器に、しかし、一方は啖壺とか便器になったりするかもしれません。「主よ、そういうのはイヤです。せっかく捧げたのに、それでは、私のプライドが許しません」。主は「ああそうですか、それでは仕方がありませんね」とそれを砕いて壊してしまいます。私たちは文句は言えません。ただ願うことは主の栄光が現われることです。そのような神様の主権を認めて、一生懸命ささげたものであるならば、たとえわずかなものであっても、豊かな祝福の基となるのです。5つのパンと2匹の魚は、少年が差し出した弁当でした。パンと言っても大麦のパン、魚と言ってもホッケの紐のだったかもしれません。たいしたことないものです。そのような粗末なものも主は握りしめて用いて下さるのです。その少年がこれは私のものだとしまっておいたら、自分一人分だけの弁当になります。それは少年の権利ですから、だれからも文句は言われないでしょう。でも、この少年は大切な5つのパンと2匹の魚をイエス様のためにささげました。弟子たちは「こんなものが果たして何になるでしょう」と思ったかもしれません。しかし、イエス様はそうではありません。5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられました。なんと、5つのパンと2匹の魚が10,000人もの人たちを養えるくらい増えたのであります。おそらく、この少年は自分が差し出した以上のパンと魚を食べられたことでしょう。自分も満腹し、他の人たちからも喜ばれました。少年は家に帰ってお母さんに自慢して、この奇跡を報告したのではないでしょうか。お母さんは「私があげた5つのパンと2匹の魚がそんなふうに用いられるなんて」とまた感激したのではないでしょうか。普通、捧げたり与えると無くなるものですが、イエス様の場合はそうでありません。イエス様が手をとって祝福すると、自分も満足し、身近な人も満足し、また多くの人たちも満足させることができる奇跡となるのです。どうぞ、イエス様の奇跡を何度も何度も体験する信仰生活を送りたいと思います。  

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2017年1月20日 (金)

良心の声 マタイ14:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.1.22

 きょうは前半が「良心の声」であり、後半が「寂しい所で」という2つのメッセージになっています。前半は良心の声を聞くことをお話したいと思います。また、後半は寂しい所で主の御声を聞くということをお話ししたいと思います。共通していることは「聞く」ということです。この世はたくさんの情報が飛び交っており、なかなか、この2つの声を聞くことができないのではないでしょうか?どうか、この世に押し流されず、主が願っている生き方をしたいものです。そのためには、この2つの声を聞くということがとても重要です。

1.良心の声

歴史において、最も残酷非道な出来事が聖書に記されています。ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤの地方を治める国主(領主)でありました。ローマから任命されて、その地方を治めていたのですが、王様のような暮らしをし、人々も彼を王と呼んでいました。彼は一人の妻と結婚をしていましたが、弟であるピリポの妻ヘロデヤと恋に陥り、ピリポから彼女を奪って自分の妻としたのです。バプテスマのヨハネはそのようなことは、神の律法に反していると、権力者を恐れずはっきり指摘しました。しかし、ヘロデはヨハネを沈黙させるために、投獄してしまいました。聖書には、二人の殺意が記されています。その一人がヘロデです。マタイ14:5「ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである」と書いています。マルコ6章を見ると、ヘロデヤにもそれがあったことが分かります。マルコ619「妻ヘロデヤがヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それは、ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。」と書いています。しかし、女の執念というのは恐ろしいものです。ヘロデヤはヘロデに対して、朝となく夜となく、「ヨハネを殺してしまいなさい」と勧めていたのでしょう。そして、その機会を狙っていました。恐ろしい事件がとうとうやってきました。ヘロデの誕生祝いのとき、ヘロデヤの娘(連れ子)がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせました。娘の名はサロメだと言われていますが、彼女の踊りはきわめて淫らなものであったと言われています。ヘロデは来客の前で気前のいい所と権力を見せびらかせようとして、王様のような約束をしました。そこで、母ヘロデヤは好機到来とばかり、娘に「ヨハネの首を盆に載せて持って来て欲しい」と言わせました。ヘロデは誓いと列席の人々の手前もあって、首を与えるように命じました。やがて、ヨハネの生首が盆に載せられて運ばれ、少女から母親へと渡されるのです。まことに残酷で胸が悪くなるような話しであります。

             

 前半のメッセージはヘロデとヘロデヤのようなコンビにならないように教訓を得るということです。それは良心の声に従えるかどうかであります。ヘロデは国主でありましたが小心者でした。バプテスマのヨハネの声は自分の良心の声でした。彼は良心の声に従わないで、民衆を恐れ、またヘロデヤの声に従ったのです。私たちは良心を牢に閉じ込めて生きるような中途半端な生き方をしてはいけません。そういう人は、やがて人々を恐れ、迷信に陥ってしまいます。マタイ14:1,2「国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、…あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」ヘロデ王は、イエス様の噂を家来から聞きました。その時、「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言いました。ヘロデは自分の良心に従わず、聖なるヨハネに邪悪なことをしたことを思い出しました。彼の心は「お前は神の助言を軽んじて、忌まわしい殺人を犯してしまった」と言いました。ヘロデはバプテスマのヨハネを殺しましたが、それは自分の良心を殺したのです。では、それでうまくいったかというとそうではありませんでした。イエス様の噂を聞いたとき、「ヨハネが死人の中からよみがえった」と言いました。今度、彼の心は恐れと迷信に犯されていました。ヘロデは王様でしたが、本当の王様でありません。ローマのカイザルから、「ガリラヤとペレヤの地方を治めるように」と命じられていた「領主」でありました。なぜなら、偏屈なユダヤ人を治めるのが困難だったからです。

しかし、ヘロデは王様でもないのに、王のようにふるまい虚勢をはって生きていました。それでいて内側は小心者で人々を恐れ、妻を恐れていました。一般的に男性は外側を見栄やプライドで覆って、内側の良心を牢獄に閉じ込めています。男性が贈収賄の罪に弱いのは、こういう所があるかもしれません。「よしゃ、よっしゃ」でやってしまうのです。そういう人に限って、信仰を持つのは「女々しいとか弱い」とか馬鹿にしますが、自分の本当の姿に直面していないのです。人生の半ば不幸にも、何かに躓いて、いやがおうにも「自分の人生」を見つめるようになります。ある人は病気、ある人は仕事の失敗や失業、またある人は家庭の崩壊です。テレビでも昨日までは、会長とか社長をしていた人物が、逮捕され実刑を受けたりするニュースがよく報道されています。学歴、社会的な立場、持ち物、いろんな虚勢の着物を来ていますが、中身が問題です。残念ながら、これは学校でも会社でも教えてくれません。神様が、聖書を通して、また試練を通して教えて下さいます。それは、神の良心に従えということです。人を恐れず、神のみを恐れる人には平安があります。たとえ、一切の物を失ったとしても、キリストにある信仰がその人を立ち上がらせて下さるのです。信仰を馬鹿にしないで下さい。信仰faithful と言う言葉は真実とか忠実から来ています。真実で忠実な人こそ、揺るぎない人生を送ることができるのです。アーメン。

 もう一方は、女性であります。ある人が言いました。「世界を動かすのは男であるが、その男を動かすのは女性である」と。このストリーからも、良きにつけ悪しきにつけ、夫に与える妻の影響が大きいことを覚えざるを得ません。聖書の中には夫をそそのかして悪いことをした妻の例が案外多いのです。エバも夫アダムにすすめて禁断の木の実を食べました。「事件の背後に女あり」であります。信仰の父と言われるアブラハムも妻サラの勧めを受け、はしためハガルとの間に子供をもうけるという失敗をしました。また、イスラエルの王アハブも、その妃イゼベルにそそのかされて、バアル礼拝をイスラエルに大々的に輸入しました。そして、まことの神を信じる預言者エリヤのいのちを狙いました。この旧約時代におけるイゼベルに匹敵する人物は、新約時代におけるヘロデヤです。イゼベルがエリヤの命を求めたように、ヘロデヤはエリヤの再来である預言者ヨハネの命を求めたのです。それでは、ヘロデヤの良心はどうなっていたのでしょうか?完全に麻痺していました。彼女の心は神から離れていただけではなく、自分が神になっていたのです。夫をコントロールし、また娘をコントロールしていました。大体、ヘロデ王が「願う物は何でも必ず上げる」と言った時、娘はどうしたでしょうか?マルコ624-25そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」娘は何がほしいか自分で決めることができませんでした。そして、母親のところに行って「何を願いましょうか」と聞いたのです。それで母親が「バプテスマのヨハネの首」と言いました。普通の娘だったら、「お母さん、やめて」と断るはずです。でも、大急ぎで王様の前に行って「ヨハネの首をお盆に」と頼みました。これはありえないことです。この母親と娘の関係を「共依存関係」と言うのです。娘は良い年になっても、自分で決断できませんでした。娘の良心も母親に操られ、麻痺していました。

 私たちはヘロデ、ヘロデヤ、あるいは娘のようになってはいけません。答えは、神を恐れ、良心の声に耳を傾けるということです。しかし、罪の中で生まれた人間の良心が、正しく機能できるのでしょうか?でも、一体、良心はどこにあるのでしょうか?ウィットネス・リーが書いた『神の永遠のご計画』という本にそのことが書かれていました。魂の内側に霊があります。霊は良心、交わり、直覚の三つ部分から成っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。でも、生まれつきの人は霊が死んでいるか、眠っている状態なので、正しく機能していません。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは、主イエス・キリストを信じると霊的に新しく生まれます。そのとき、良心も霊の中で目覚めるのです。目覚めた良心は魂の「思い」という部分に働きかけます。創世記65「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」と書いてあります。このところから計る「思い」の中に、悪い「良心」があることがわかります。でも、この良心が目覚めるならば、私たちの思いに「善悪とは何か」について教えてくれます。聖霊に満たされれば満たされるほど、良心が私たちの思いを支配するようになります。こうやって人は、神を恐れ、正しい生活をすることができるようになるのです。使徒パウロは何度か裁判にかけられましたが、人々の前でこのように言いました。使徒23:1「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」使徒2416「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」私たちも全くきよい良心、責められることのない良心を持つことが可能なのです。この良心を持つならば、何ものも恐れずに、神と共に、正しい道を歩むことができます。あなたの魂の内側にある良心を大事にし、良心の声に耳を傾けましょう。

2.寂しい所で

 マタイ14:13「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。」「このこと」とは何でしょうか。マルコやルカ福音を見ますと、12弟子が伝道旅行から帰ってきたことをさしています。しかし、マタイは時間的な流れを無視して、イエス様が寂しい所に行かれたのを、ヘロデのことと関連させています。ヘロデとヘロデヤによって、預言者ヨハネが無残に殺されてしまいました。そして、ヘロデがイエス様の噂を聞いたとき、「イエスには死んだヨハネのよみがえりの力が働いているんだ」と恐れました。やがて、ヘロデはパリサイ人らと組んでイエスを捕らえようとします。そういうことを知って、イエス様は自分だけで寂しい所に行かれたと取ることができます。まったくひどい政治がなされています。この世的には告訴をしたり、社会運動を展開した方が良さそうなものです。また、メシヤであるなら神の力を行使してでも正すべきだという意見もあるでしょう。しかし、イエス様はそういうことはしませんでした。その場所を去って、自分だけで寂しい所に行かれました。何のためでしょう?それは御父と祈るためであります。イエス様は悪に満ちたこの世を政治的な力で変えるようなことはなさいませんでした。そうではなく、一人で祈られたのです。おそらく、バプテスマのヨハネに対する悲しい出来事を御父の前に訴えたでしょう。これまで何人の預言者が殺されたでしょうか?ヨハネは旧約の最後の預言者でした。そして、イエス様は神の御子として、最後の切り札として来られたのです。いつまで、悪が支配して良いのでしょう。イエス様は裁きをゆだねつつ、御国が来るように祈られたことでしょう。これは、聖書には書いていませんが、まもなくヘロデは勢力争いに負け、領地が没収され、ヘロデヤと共にガリヤに流刑にされ、そこで死んだと言われています。

 

私たちにとって「寂しい所」とは、祈りの場であります。この世では悲しい知らせや、いやな出来事が満ちていますので、不安と恐れがやってきます。知らないうちに私たちの心は、やるせない思いや憎しみ、いらだちや不信仰に支配されています。そういう時こそ、人々から離れて祈るのです。10分、20分も祈ると、自分を縛っていた鎖が壊されていくのがわかります。祈らないで、肉の力や考えで行動すると、ますます問題が複雑になります。そういう時こそ、寂しい所に退くべきです。キリスト教会のある団体では、「退修会」という名の修養会があります。何日間か、山の施設で瞑想のときを持つのです。テレビも見ない、新聞も読まない。人ともしゃべらないで、ただ聖書を読み、神様と交わるのです。そうしますと、めまぐるしく動いていたとき、見えなかった重要なことが見えてくるのです。もう、年が明けてしまいました。このまま私たちは歩き始めるのでしょうか?今からでも遅くありません。静かに瞑想して、神様から新しいビジョンをいただいたら良いと思います。

また、「このこと」とは時間的に、弟子たちが伝道旅行から帰って来た直後であります。ルカ910「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」弟子たちは、病の癒しや、悪霊が追い出されたことなどを意気揚々と報告したことでしょう。イエス様は弟子たちに、「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました。弟子たちは伝道旅行の成果に有頂天になっていたのかもしれません。私たちは物事が順調に進み、成功を重ねているうちに、自分が燃え尽きてしまっていることを忘れてしまいます。私たち原子力潜水艦のようにずっと動き続けることはできません。一生懸命走った後は、休まなければなません。休むことを惜しんで働く人は、燃え尽きてしまい、後からとんでもない長さの休養を取らざるを得なくなるでしょう。旧約聖書にエリヤというものすごい力のある預言者が記されています。エリヤはカルメル山上で、バアルの預言者450 人とたった1人で戦いました。結果は、エリヤが祈ると主の火が降り、エリヤの大勝利に終わりました。また、エリヤが一生懸命、祈ると三年間降っていなかった雨が降りました。そのとき、妃のイゼベルがものすごく怒り、エリヤの命を取ると脅しました。エリヤはたった一人の女性を恐れて、立ち去りました。そして、神様に自分を殺してくださいと願いました。まさしく、エリヤは燃え尽きてしまったのです。主は彼を荒野に導き、休息の時を与えました。燃え尽きは、働き盛りの40-50 代に一番多いと言われています。1つの大きなプロジェクトを成し遂げた後、チームの中から1人や2人が必ず燃え尽きてしまう人が出て、自殺する場合もあるそうです。宣教師も日本に来ていますが、言葉、食べ物、習慣が違います。長くいると燃え尽きて、祈ることさえできなくなるそうです。そのため、宣教師は安息年をとって、母国に一度帰ります。ある宣教師は「日本の牧師も7年か10年ごとに安息年を取って、聖書の戒めに従うべきだ」と言いました。私の場合は仕事と休みの境目がありません。毎日が仕事で、毎日がお休みみたいです。そのため、まとまった休みを取るということがまずありません。2年前の正月、スキーに行くため3日間の休みを取りました。ところが、葬儀が入って、3日目の朝、戻ってきました。不思議なことに、3日間くらい教会と家を離れると、頭がクリヤーになります。同じことの繰り返して、麻痺しているのではないかと思います。ですから、みなさんもまとめて休みを取るということを計画なさったら良いと思います。

 「寂しい所」とは原文では「荒野」(エレモスdesert)という言葉が使われています。エレミヤ書31:2「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」既に天に召されましたが、榎本保郎牧師は、「荒野で恵みを得た」という言葉が大好きだったそうです。先生の『旧約聖書一日一章』の中から引用させていただきます。「荒野という所は恵みの無い所、石がゴロゴロしていて、水も湧かず草も生えない所である。しかし、そういう所で恵みを得たというのである。イスラエルの民は、荒野で40年の生活をし、私たちの想像もできない苦しい生活であったと思われる。しかし、きょうの生活を楽しみ、あすの生活を楽しんでいたら、彼らは生ける主の手にふれることはできなかったであろう。あるいはマナを集め、岩から水をくむ荒野の経験をすることはなかったであろう。荒野とは、実に神と出会う所なのである。イスラエルの民が、神のみ言葉に従っていくとき、それはこの世の常識やしきたりをこえたものであるから、そこは荒野であった。しかし、彼らはそこで恵みを得たのである。」当教会にも「寂しい所、荒野」を通らされている兄姉がいらっしゃると思います。病気のため、不景気のために、あるいは人間関係のもつれもあるかもしれません。しかし、荒野は神と出会う所であり、荒野でしかいただけない主の恵みがあるということです。病気療養中の方は、1日1日、主によって命が与えられ、生かされていることを知るでしょう。健康な人でも、明日のことはわかりません。1日1日、無駄に使ってはいけません。また、不景気な中で大変な方々もいらっしゃると思います。こういう時こと、クリスチャンは天からマナが降り、岩が裂けて水が湧くことを期待していくべきです。

かつてのクリスチャン新聞の福音版に鐘紡専務取締役を退任した後、カネボウ薬品の会長を務めた三谷さんの証が載っていました。会社に入って10年目、クリスチャンになってから、妥協したり、上司にへつらうことをしなかったために、左遷と降格の憂き目にあいました。1965年薬品部門に移ったのですが、そこは赤字で、実質的には左遷でした。就任した4月、老化防止のための漢方薬の販売を任されました。すでにライバル会社が10社以上もひしめいています。毎月の売り上げが低迷すれば、たちまち責任を問われます。三谷さんは、目標を掲げながら毎朝祈り、賛美のテープを聴きながら出勤しました。この漢方薬は老化防止に効力を発揮し、全国の顧客から礼状が届きました。三谷さんはバブル経済絶頂期に高利金利を招く新工場建設中止を進言しました。すでに実施決定済みだったため、四面楚歌になり、それでも祈って神様から平安をいただきました。いち早くコスト削減策に着手し、バブル崩壊関係なく、業績は安定・向上していったそうです。第二の人生は妻と共に伝道したいとのことです。特に、不況下で先行き不安に陥りがちなビジネスマンに私の信仰を、体験を伝えたいというのが夢だそうです。三谷さんは左遷と降格という荒野を通りましたが、そこで、祈りました。聖書の言葉によって、自信がわいてきたそうです。三谷さんはこうもおっしゃっていました。国際化時代に入り規制緩和が進む中、日本の企業は集団追随型人間ではなく、自分の判断基準を持ち自己責任のとれる人間を必要としています。その意味からも聖書と祈りを強調されています。

このように考えると「寂しい所、荒野」もまんざら捨てたものではありません。神様と出会って、特別な恵みをいただける所であります。不幸を嘆いたり、自己憐憫に陥らず、むしろ「主よ、どんな恵みをご用意されておられるのでしょうか」と期待していくべきです。柱になる木というのは、南国の木ではなく、寒い山の頂きで少しずつ、少しずつ年輪を加えた木だそうです。その木は南国の木のようにヤワではなく、年輪が細かいので堅いのであります。クリスチャンもぬるま湯ばっかりつかっていますとダメです。少しは荒野を通過して、信仰的に鍛えられるときも必要です。荒野は人の住めない所ではありますが、主が一番近く感じるところでもあります。荒野はできれば通りたくないものですが、荒野を通過せざるを得ない時もあります。しかし、荒野、寂しい所で特別な主の恵み得る者となりたいと思います。アーメン。 

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