2007年12月16日 (日)

イエスの意味      マタイ1:18-25

 「メリー・クリスマス」と日本中で祝っています。イエス様を知ろうと知るまいと、お祝いをしていること自体はすばらしいと思います。でも、クリスマスということばの中に、キリストという名前が入っているということを知っている人がどのくらいいるんでしょうか?世の中の人は、それでも喜び、はしゃいでいます。キリスト教会の方が「俺たちは本当の意味を知っているぞ」と言いながらも、暗いかもしれません。私たちはクリスマスの本来の意味を知っているんですから、彼らの10倍、いや100倍は、喜ぶべきであります。メガと言うことばが、マクドナルドで使われているようですが、メガは本来ギリシヤ語から来たものです。ルカ2章の「すばらしい喜び」と訳されていることばは、メガ、「大きな」であります。本日も、聖書を学びながら、神様から大きな喜びをいただきたいと思います。

1.イエスの意味

 「名は体を現わす」と言いますが、聖書の人物は不思議なほど、その人と一致しています。「アダム」という名前の意味は、「土」であり、アダムが土からできたことを表しています。ダビデを呪った「ナバル」という人物がいますが、その意味は「愚か」という意味です。だれも、「ナバル」なんて付けたくないですね。シモン・ペテロの「シモン」は葦であり、「ペテロ」は岩という意味です。彼は葦の不安定さと、岩の強固さの両面の性質を持つ人物でした。では、「イエス」とはどういう意味でしょうか?私たち日本人は、「イエス・キリスト」と言うと、イエスが名前でキリストが苗字みたい思ってしまいます。キリストは職務を表すことばであり、「油注がれた者」、つまり「メシア」という意味です。また「イエス」とは、旧約聖書のヨシュアのギリシヤ語化したものです。ヘブル語では「イェーシューア」であり、これをギリシヤ語にすると「イエースース」であります。カトリックで、イエズスと呼んでいるのはそのためです。そして、その意味は「主は救い」という意味です。イエス様のご自身の意味が、「救い」ですから、そのまんまであります。では、何から救う方なのでしょうか?主の使いがその意味を教えていますマタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」御使いは、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」と言っています。このことばからいくつかのことが連想できます。「ご自分の民」とは、ユダヤ人だけでしょうか?そうではなくて異邦人の私たちも含まれているでしょう。でも、世界のすべての人という意味でしょうか?「あらかじめ、神様がご自分の民と選んでおいた人々」とも受け取ることができます。ジョン・カルヴァンは、救いのための選びということを強調しました。また「その罪」とは、「彼らの罪」という意味です。つまり、イエス様がこの地上に来られた目的は、人々を罪から救うためであります。

 この世では様々な問題があります。戦争、貧困、自然災害、犯罪、殺人、死、苦しみ、不条理があります。今年ももうすぐ終わろうとしていますが、そういうことに満ちていました。でも、聖書は「それらはすべて罪の結果である」と言います。つまり、罪の結果、死、病、貧困、争い、苦難、呪い、そして永遠の死がやって来たのです。この罪をなんとかしなければ、人類は根本的に救いを得ることはできないのです。また、罪の問題は政府では、どうすることもできません。政府は、法律を定めたり、経済問題を解決したり、福祉を進めればなんとかなると思っています。でも、法律をたくさん作っても、犯罪はちっとも減りません。また、教育でも、医学でも、人を罪から救うことはできません。だいたい、この世は「罪」ということ自体、受け入れようとしません。罪と言えば、それは犯罪のことであり、私は刑務所に入るほど悪くはないと言います。聖書で言う、罪は神様から離れ、神様に反逆するということです。ローマ1章にありますように、神様を神様としてあがめず、自分勝手に生きているので、様々な悪が起こってくるのであります。しかも、罪は外側に現れる前に、まず心の中で犯すものです。悪意、争い、殺意、欺き、ねたみ、高ぶり…みんな心の中から始まります。法律では心の中で起きていることを裁くことはできません。法律は、実際、起こった結果をさばくだけです。それでは、人間を変えることはできません。だから、罪は、まず心の中から始まるので、私たちの心を直さなくてはならないのです。そのため、イエス・キリストは人間の中の罪を解決するために、この世に来られたのです。では、どうしたら、罪を解決することができるのでしょうか?

 罪のそもそもの始まりは、源なる神様と人間が断絶していることです。テレビや冷蔵庫、パソコンですらも、電源とつながっていなければ、ただの箱であります。人間も、源なる神様と離れているので、霊的に死んだ状態です。霊が死んで、己の魂だけで、思うままに生きているのが、生まれつきの人間であります。源なる神様は聖く、正しく、愛であり、善なるお方です。このお方と私たちが結ばれるならば、神様からの聖さや正しさ、愛、善なるものが流れてくるのではないでしょうか?宗教はreligionと言いますが、もとになったラテン語の意味は「神と人とのきずなを結び直す」という意味です。宗教というと人間が作り出した神様に思えますが、元来はそうではありません。源なる神様と私たちが再び結ばれることであります。でも、この罪をなんとかしなければなりません。この罪がある限り、私たちは神様に背き、様々な罪を犯し、最後には永遠のさばきを受けるしかありません。しかし、クリスマスとは、私たちの罪を解決するために、神様が御子イエスをこの世に遣わした日であります。神は、人間の罪を赦すために、御子を人間として生まれさせました。そして、御子イエスに人類のすべての罪を負わせ、その罪をさばき、その罪を取り除こうとされたのです。これを「贖い」と言いますが、人間が考えたのでも、人間から神に願ったのでもありません。神様の方から、一方的になされた、救いの手立てです。人間的にはとっても愚かに見えますが、これは神の知恵でした。

 私は元来、キリスト教には無知な存在でした。私は23歳で建設会社を辞めて、小田急線の町田に住んでいました。英語事務の仕事がしたくて、町田のタイピングスクールに通っていました。ほとんどが女性で、男性は一人か二人でした。しかも、私は無職だったので、クラスの中でとても肩身の狭い思いをしていました。あるとき、町田の通りで二人の外人が声をかけてきました。イエス・キリストがどうのこうのと言うのだけが分かりました。そのとき私は、「I don’t like キリスト」と答えました。むちゃくちゃな英語でした。今、思えば、彼らはモルモン教徒じゃなかったかなーと思います。断って良かったと思うのですが、「キリストは嫌いだ」と言ったことは確かです。「イエスの反対はノー」とか言って、私は平均的な日本人ではなかったかと思います。そんなのが、高いところにたって、罪がどうのこうのと言っているんですから、大したもんです。なぜ、あんな無知と偏見の塊のような私が、クリスチャンになり、しかも牧師になったのでしょうか?それは、私と同じ立場に立って、私に伝えてくれた人がいたからです。職場の先輩はクリスチャンでした。信じるまで、1年半かかりました。それまで、先輩の個人伝道が、会社や彼のお家で、毎日のように続きました。先輩は「罪」について、私にこう教えてくれました。「罪は英語で、sinと言うんだ。Sはsouth(南)。Nは、north(北)、つまり地球のことを言うんだ。その中心にIがある。神様は宇宙の外に追いやっている状態。自己が世界の中心になっていることを罪と言うんだ」。私はなるほどーと思いました。1年半後、洗礼を受けて、その年の12月に青年会のクリスマス会に参加しました。私も青年のときがあったのです。プログラムはタイプライターで私が作りました。そして、その年に洗礼を受けた、人たちがローソクに点火しました。なんだかおごそかな感じがしました。そして、そこに集まっている人たちがみんな聖い人たちのように思えました。もう1つ記憶に残る出来事があります。クリスチャンになって、祈祷会の司会をしたことがあります。司会者の特権として、自分が好きな聖歌をリクエストできます。そのとき、聖歌402番「丘にたてる荒削りの」を選びました。3節「あけにそみし荒削りの、十字架はうるわし、赦し与え、きよくするはただ主の血あるのみ。十字架にイエスきみ、我を贖いたもう。十字架の悩みは我が罪のためなり」。全く、そのとおりだなーと思いました。祈祷会の後、オルガニストの姉妹が、私にこう言いました。「私もあの曲、大好きなんです。涙が流れて、譜面がよく見えなかったわ」。「わー、教会に来ている人たちって、本当に聖い人たちなんだなー」と思いました。

 罪が解決されて、神と和解した人たちには、平安があります。religion、イエス様は、神と人とのきずなを結び直すために来られたのです。イエス様は、ご自身の民を罪から救ってくださるお方です。人類が負っている罪の問題は、イエス・キリストしか解決できないのです。

2.インマヌエルの意味

 23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)インマヌエルはイザヤ7:14の引用です。クリスマスの日、神が肉体を取って、その民の中のうちに住まわれるという預言が成就しました。つまり、このことはイエス様がはじめてだったのです。もちろん、それまで神様が民の中に臨在することはありました。確かに、主は幕屋や神殿に臨在しました。でも、イエス・キリストにあって、はじめて人間の肉体の中に、神がともに住むということが実現したのです。イエス様こそ、最初に神がともにおられたお方なのです。みなさん、一番、近くにいる状態はどこでしょうか?真上、脇、側も良いですが、一番近いのは、中じゃないでしょうか?中に神様を持っているならば、落としたり、なくしたりすることはありません。お守りだって、肌身離さずというわけにはいかないでしょう。お風呂に入るとき、お守りをぶらさげて入るでしょうか?私たちの神様は「お守り」みたいな、携帯用の小さな神様ではありません。全宇宙を想像された方が、私たちの内にいてくださるのです。そのことを一番最初になさったお方が、イエス・キリストであります。ヨハネ14章で、イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と言われました。また、ニコデモというユダヤ人の指導者が、イエス様に対してこのように告白しました。ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」ニコデモは、サンヒドリンの議員であり、パリサイ人の指導者でした。お金も名誉もあるすばらしい人でした。でも、たった1つ自分にないものがありました。神がともにいるということです。彼は、「イエスには神がともにおられる。だから、あのような奇跡やしるしができたのだ」と考えたのです。つまり、神がともにいるということは、普通にはありえないこと。もし、その人と神がともにおられたら、もう何もいらないくらい素晴らしいことだということです。どのくらい素晴らしいかは、後にして、どうしたら神がともにおられるのでしょうか?

 イザヤ書にはもう1箇所、インマヌエルのことを預言しているところがあります。イザヤ57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。まず、このところに神様がどういうお方かが書かれています。神様は、聖ととなえられる方であり、高く聖なる所に住んでおられます。もともと、「聖」とは、道徳的清さではなく、「かけ離れた」という意味です。神様は私たちとはかけ離れた存在です。でも、そういういと高き方が、地上に降りて来られ、ともに住む人がいます。どんな人でしょうか?「へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」と書いてあります。神様は高く聖なる所にお住みになるのに、同時に、地上に降りて来て、へりくだった人とともに住まわれる。この文脈から、へり下った人とは、「自分の罪を知る人」「砕かれた人」と言うことが分かります。人は、「自分には罪があるなー」と、神の前に砕かれなければ、キリストを信じることはありえません。最初のメッセージで「罪とは自分が世界の中心にいて、神様を宇宙に除外することだ」と言いました。すべての人間は、自分が王様であって、何者にも束縛されたくありません。人は、何も持っていないようでも、自我だけは持っています。キリストは救い主であり、王です。このまんまでは、人は絶対、キリストを内に受け入れ、王座を明け渡すことはしません。何が必要でしょうか?そうです。砕かれることが必要なんです。砕かれるとは、簡単に言いますと「自分には罪があって、このままではダメだ」ということです。イザヤ自身は神様の栄光を見たとき「ああ、私はもうダメだ。私は滅びるばかりだ」と言いました。個々の罪の自覚も必要ですが、私の存在ものものが罪であって、聖なる神の前には立てないことを自覚しなければなりません。

 心理学は「あなたには価値がある。あなたはすばらしい」と言います。そして、心理学は自我に目覚めることを目標とするでしょう。私も心理学的なアプローチを説教でよくしますので、心理学を全部悪いと言っているわけではありません。でも、私たちの救いは、自我に目覚め、自分の気持ちに正直に生きることがゴールではありません。聖書が言うゴールは、自我に死に、キリストに王座を明け渡し、キリストにあって生きることです。ガラテヤ2:20にこう書いてあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。アーメン。自分がますます小さくなり、キリストがますます大きくなります。そうすると、神がともにおられることを体験することができるのです。神がともにおられることを、一番邪魔しているのは、私たち自身です。悪魔や悪霊でもありません。一番問題なのは、私たち自我なんです。つまり、私たちが神様にサレンダー、降参することがへり下ることなのです。自分が小さくなり、神が大きくなる。そうなるなら、悪魔も悪霊も怖くなりなります。使徒パウロは神がともにいるということを、別の表現を用いています。パウロは、ローマ8:31で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言いました。「神様が私たちの味方なら、死も、迫害も、悪魔も、権威ある者も、どんな被造物も問題ない」と言っています。キリストを信じる前は、私たちは神様の敵でした。しかし、キリストによって和解を受けた今は、神様が私たちの味方になってくださったのです。ハレルヤ!もう、こわいものなんかありません。だから、神様がともにおられるということがすばらしいのです。

 マタイ福音書は、神がともにおられるということを1章だけではなく、18章と28章でも言っています。つまり、マタイ福音書の始めと真ん中と終りです。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」これは、一人の中にキリストがともにいるだけではなく、人と人との間にいるということです。このことは、コロサイ1:27にも書いてあります。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」教会とは、まさしく、神がともにおられるところです。それは建物ではなく、キリストの名によって集まっている人々の中です。キリストにあって集まっている人々こそが教会であります。そして、最後のマタイ28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」この意味は世の終り、この世が消えてなくなるまで、永遠にという意味です。神がともにいることと私たちの死とはどんな関係にあるのでしょうか?私たちが死ぬときも、神さまがともにいて、向こうまで行くときも神がともにいるということです。人が死ぬとき、どんなに愛していても、死の向こうまでともに行くことはできません。たとえ、心中したとしても、死ぬときはバラバラであります。でも、イエス様は一緒に死の川なみを渡ってくださいます。ジョン・バニヤンの『天路歴程』には、クリスチャンが死の川を渡るシーンがあります。そのとき、「希望」という人が彼を励ましてくれます。希望とは、聖霊のことであります。イエス様は聖霊によって、私たちとともにいて、死の川なみを越えさせてくださるのです。ハレルヤ!どうぞ、このクリスマス、神が人となって、私たちの中にいてくださることになったことを喜びましょう。私たちは孤独ではありません。神様がともにいらっしゃるし、神様が味方なのです。また、キリストを信じる人たちの間にも、神様がともにいらして、私たちの祈りを聞いてくださいます。世の中には、あまり希望がありません。しかし、私たちには世の終りが来ようとも、希望があります。インマヌエル、神が私たちとともにおられるからです。

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2007年4月15日 (日)

伝道牧会のビジョン(4つのM)   マタイ6:9-10 

聖務表によりますと、本日のメッセージは「信じようとしなかった」でありますが、先週そのことも話してしまいました。ですから、本日は、予定を変えまして総会資料に基づいたお話をします。教会員でない方は資料がないので、まことに淋しい気がするかもしれません。でも、どういう教会を作りたいかというビジョンに関しては、来られている方みんなに理解してもらいたいと思います。総会資料の中身をそのまま週報に書いてありますので大丈夫です。一番上に「伝道牧会のビジョン、4つのM」とテーマがあります。英語の嫌いな方には大変申し訳ありませんが、頭文字Mでみんな統一しています。むりやりに当てはめたという見方もありますが、自分では大変気に入っています。なぜなら、神様が与えてくれたような気がするからです。いわゆる「導き」であります。牧師は何でも「導き」にしてしまうので危ない気もしますが、一緒に学びながら、主を礼拝したいと思います。

1.Meditation

第一はMeditationです。Meditation とは、上なる神様との関係です。主の祈りのように、「御名があがめられ、私自身に御国が来るように」ということです。このMeditationは、神様との交わりであり、礼拝をコンパクトにしたものです。ところでMeditationとは、「みことばを瞑想する、黙想する」という意味です。教会では、ディボーションとか、QT(静思の時)などと言います。東洋の蝉やヨガでも瞑想をします。しかし、彼らの場合は、人格のない神様であります。私たちの場合は、この世界を創造し、私たちを愛しておられるキリストの神様と交わるのです。神様との交わりのときに欠かせないのが聖書であります。神様のラブレターである聖書を、自分に語られた神のみことばとして瞑想しながら読むわけです。でも、従来はこういうやり方をしませんでした。だれかが書いたディボーションの本を読んで、ディボーションしたわけです。榎本保郎先生の『旧約聖書一日一章』とか、スポルジョン、FBマイヤー、カウマン夫人などの本がたくさんあります。でも、それらは人が作った料理であり、レトルト食品です。でも、自分で聖書を聖霊の助けを借りながら読むと、「こんなことが書いてあるのか!」と新しいことを発見します。また、その日に必要なみことばの糧、あるいは神様の励ましや約束をいただくことができます。

私は前の教会から早天祈祷会に出席し、亀有教会に赴任してからもしばらく早天をやっていました。しかし、ディボーションと出会ってから早天祈祷会をやめました。今までは、人に教えるため、人に語るために聖書を読んでいました。でも、ディボーションは神様とのデートみたいで非常に楽しいです。マイペースで読めるし、何を祈っても良いんです。神様との交わりは、スウィート、甘い楽しいひとときです。多くの孤児を育てた、信仰の父ジョージミューラーという人がこのように言いました。「以前は、朝起きてすぐ祈りました。はじめの30分以上は、いろいろな心の騒ぎや雑念に悩まされました。でも、聖書を黙想してから祈ると、する実際的な交わりに入ることができます。私が気を一番使うことは、私が神様のために何をするか、何をすべきかということにあるのではなく、自分の魂が幸福の状態に至ることです。自分の魂が幸せにならないで、人を教えたり、苦しんでいる人を助けても、それは中身のない空っぽのものに過ぎません」。アーメンです。

でも、みなさん、私はインドネシアのエディ・レオ師に会ってから、朝のディボーションだけではダメだということが分かりました。17世紀にブラザー・ローレンスという人がいました。彼は神学者ではなく普通のクリスチャンでした。彼は、コックであり、修道院の厨房で料理を作っていました。しかし、彼は「コランデォー」と言う、神の臨在の前に生きるということを実践した最初の人物です。彼は父なる神と24時間、親しい関係を持つということをしました。彼は父といつもどのように語るかを学び、「神の臨在を実践する」と言う本を書きました。その本は、400年にわたるベストセラーであり、ほとんどの有名な牧師が影響を受けたそうです。彼がしたことは、とても単純でした。料理を作っているときに、神様と話しました。「お父さん、感謝します」と、毎日、話しました。彼の人生に何が起きたでしょうか。福音を宣べ伝える必要がありませんでした。食事を持ってきてくると、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。彼の本から学んだ人にチャールズ・フィニーがいます。彼がある工場に行きました。工場では人々が機械のそばで働いていました。チャールズ・フィニーは説教しないで、ただ、この工場を歩いて過ぎ去るだけでした。人々が彼の顔を見たら、「ああー」と倒れた。みんなその床に倒れました。チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜなら。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。私たちも「コランデォー」、主の御目のもとで生きる、主の臨在と共に生きるということです。お仕事中も、家事をしているときも、学校で勉強しているときも、道を歩いているときも、主の御目のもとで、主とともに生活する。これはものすごく力があります。

2.Mentoring

Mentoringは内である兄弟姉妹との関係です。 Mentoringというのは、ギリシャの叙事詩からきたもので、戦争に出かけた父の代わりに、子どもを育てる人です。父代わりですから、それだけ信頼の篤い人だったわけです。現代では、Mentoringと同じような意味で、コーチング、ファーザリングなどがあります。私はファーザリングが好きなのですが、「女性にはどうかな?」と思って、Mentoringにしました。では、聖書のどこそのような考えがあるのでしょうか?Ⅰヨハネ2章には教会には3種類の人がいると書いてあります。第一は子どもたちです。神様と出会って罪の赦しを経験した人です。第二は若者たちです。悪い者である悪魔に打ち勝ち、神のみことばに留まった人です。第三は父たちです。この人は父なる神様の心を持った人です。また同時に、霊的な子どもを育てている人です。一般の世の中でも、成人になればみな父になれるわけではありません。子供を生み、育てている人が父であります。同じように、クリスチャンも時間がたったら父になれるわけではありません。自分のことばかりではなく、霊的な子供を養育する人が父であります。総会資料の表紙には、カタツムリのようなイラストがあります。子ども、若者、父となっています。でも、父と子どもが接するところがあり、「養育」と矢印がついています。で、カタツムリはどこを見ているかというと、イエス様の似姿になることです。どこに進んでいるかというと、マタイ28章の大宣教命令であります。亀有ですから、亀のイラストに直しても良いと思います。

それはともかく、私は当教会においてセルチャーチを目指してきました。昔は神様と私の関係で良いと思いました。祈祷会で「隣に座っている人と一緒に祈りましょう」なとど言われるとぞっとしました。皆さんの中でも、「さあ、席から立ってお互いに挨拶しましょう」と言われると「イヤだなー」と思う人がおられるでしょう。それと同じです。でも、聖書には「互いに」ということばが、たくさん出てきます。「互い」にというのは、だれか他の人がいないとできないことです。人間は人間関係、つまり共同体で生きる生き物です。人間関係がうまくいくと幸せであり、人間関係がうまくいかないと不幸せなように造られているのです。今まで、人間関係で嫌な思いをし、たくさん傷ついたかもしれません。でも、教会は新たな人間関係によって、その傷を癒す場であります。父や母に似た人がいます。兄や姉に似た人がいます。あるいは私を傷つけた人物に似た人がいるかもしれません。人間関係で得たこのトラウマをどのように癒すのでしょうか。神の国の人間関係であります。主にある兄弟姉妹の交わり、「互いに」によって、心の傷が癒されるのです。だから、聖書には「互いに愛し合いなさい」「互いに励ましあいなさい」「互いに赦しあいなさい」「互いに祈り」「互いに慰め」「互いに戒め」「互いに重荷を負いあいなさい」と書いてあるのです。でも、私たちは自然のままだとこういうことができません。だから、小グループ、セルを作ることにしたのです。教会によっては、壮年会、婦人会、青年会があります。でも、そういう不特定多数の会衆では深い内容を話すことができません。秘密を守り、お互いに責任を負い合えるセルグループが必要です。そこに参加した人は、すばらしいことを体験します。イエス・キリストは個人の中にいるだけではなく、私たちの間にいらっしゃることを。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と書いてあります。

でも、その中のリーダー(メンター)はとても重要です。セル(細胞)には核があり、核はDNAを持っています。セルグループの核にあたる人がセルリーダーです。セルリーダーに何が一番必要なのでしょうか?それは「父の心」です。私たちの神様は天の父ですが、天の父と同じ心が必要です。日本人の「リーダー」は、石原慎太郎のように強い人をイメージするかもしれません。でも、聖書のリーダーは、メンター、父の心を持った人であります。現代は父が必要です。日本人には父がいません。人々は父をさがしています。それは天の父であり、父の心を持った人です。もちろん、メンターは女性でも可能なのです。お互い、父の心を持つ者になりましょう。

3.Mission

3つ目のMはMissionです。Missionは外であるこの世との関係です。もともと、Missionは「使命をおびて派遣される」という意味があります。クリスチャンはこの世に派遣されている存在です。でも、何のためでしょうか?神の国の福音を伝えるためであります。そういう意味では、クリスチャンはすべて伝道する義務があるんです。でも、「伝道」と言われると、急に緊張して何も言えなくなります。私は伝道という言葉はあまり好きじゃありません。マタイ24章にすばらしいみことばがあります。マタイ24章は世の終わりについて預言している箇所です。イエス様は「世の終わりには偽キリスト、戦争、地震やききんが起こりますよ」と言われました。もう1つの兆候は、マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから世の終わりが来ます」とあります。私は福音が宣べ伝えられるというところにしか目が行きませんでした。しかし、みことばには「この御国の福音は、すべての国民にあかしされ」とも書いてあります。これはどういう意味でしょうか?それは御国の福音を体験した人が証をするのです。そしてそれが国レベルに達するということです。だれか伝道者がメッセージするたけではなく、クリスチャン一人ひとりが、派遣されたところで、御国の福音を証するということです。「私にそんな大それたことができるでしょうか?」と言われるかもしれません。イエス様はマタイ5:14「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」と言われました。クリスチャンが世の光だということはだれでも聞いたことがあるでしょう。でも、後半の「山の上にある町は隠れる事ができません」とはどういう意味でしょうか?夜、山を見ますと、そこに家々があると灯りが点在しています。熱海なんか行くと、山中が灯りです。みなさん、クリスチャンがどこにおいても、イエス様と共に生きていますと、世の人が「あなたはどこか違うなー」と認めるということです。「柔和だし、謙遜だし、従順だし、愛があるし、誠実だし、やっぱり世の人とは違う」と、バレてしまうとうことです。イエス様は「世の光になれ!」とは言っていません。もう、あなたはすでに性質が変わり、世の光になっているんですね。だから、バレてしまうということです。

私も「伝道」というと、ストレスを感じてイヤになります。かつてした、宇都宮の路傍伝道はしたくありません。でも、職場の人や地域の人と友人になって、その人を愛して、その人に仕えて行く。その人をクリスチャンにするという駆け引きではありません。その人がクリスチャンになるならないは関係なく、福音の愛で愛する。つまり、人間関係を作りながら、福音を伝えるということです。チャンスが来れば、自分の救いの証をすることもできるでしょう。総会資料の「新年度の目標」に、「この1年、3人以上の未信者と友人になり、福音を証する」と書いてあります。みなさん、これやってみましょう。私もやりたいと思います。牧師は人に「やれ」「やれ」と言って、自分でやらない人が多いですね。でも、セルチャーチの牧師は、模範も示さなければなりません。私も世の中に出て行って、未信者の友達を作ります。その人が救われる、救われないは神様の問題です。でも、福音を宣べ伝え、福音を証するのは私たちの義務であり、特権です。香港のベン・ウォン師は、私たちにものすごいチャレンジを与えています。セル集会をどうして、教会という建物の中でやるんだ。なまじっか教会があるからダメなんだ。教会が焼けてしまえば良いとまで言います。うゎー、過激ですね。日本人の家の多くはうさぎ小屋ですから、10人も一緒に集まれる部屋がありません。だから、うちみたいに教会堂という建物があるのは、とても良いことです。でも、私たちはこの教会堂でなんでもかんでも行なおうとします。そのため、未信者がなんでもかんでも、亀有教会に連れて来なければ始まらないという考えを持ってしまいます。ベン・ウォン師が言っていますが、教会とは建物ではなく、私たち一人ひとりです。私たちが遣わされたところが教会なんです。海にはヤドカリがいます。みんなお家を背負っています。私たちも教会を背負って、歩き回っている存在です。伝統的な教会は牧師が人々に洗礼を授け、聖餐式を行ないます。でも、本当のセルチャーチは、信徒が自分の導いた人に洗礼を授け、セル集会で聖餐式を行ないます。だから、伝統的な教会から、「秩序が乱れる」と、危険視されているところがあります。でも、初代教会はそうでした。もちろん、教会堂でセルの集まりを持っても構いません。でも、いつも忘れないことは、セルが外向きになるということです。新しい未信者を加え、増殖するというゴールを持つということです。人間の細胞もたえず増殖しています。古い細胞が死んで、新しく生まれ変わっているのです。セルも同じ人で2年も3年もやらないでください。増殖して、新しいセルを作るのであります。あなたが、新しいセルのリーダー(メンター)になるのです。「世の中に出て行って福音を証し、新しい人を加え増殖する」これがセル教会Missionです。

4.Ministry

4つ目のMはMinistryです。Ministry はキリストのからだ(教会)との関係です。ministerは大臣とか聖職者という意味があります。でも、もともとは「仕える、奉仕する」という意味があります。神様は私たちが奉仕できるように、御霊の賜物を与えておられます。Ⅰコリント12章には、知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など、9つの賜物が記されています。ローマ12章やエペソ4章やⅠペテロにも記されています。Ⅰペテロ4:10-11「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」。ここには、「それぞれが既に賜物を受けている」と書かれています。私は人がイエス様を信じたときに、一緒に、聖霊の賜物も与えられると信じます。神様は「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と言われています。教会はキリストのからだにたとえられていますが、1つ1つの器官は、霊的賜物であります。種類や働きがそれぞれ違いますが、キリストのからだにつながっています。個人プレーではなく、それらがしっかりと組み合わされる必要があります。私はイエス様を信じてから、まもなく、「ああ、キリスト教信仰を分かりやすく教えたい」という篤い思いが与えられました。それはローマ12章の「勧める」賜物と一致していました。ある人は捧げる賜物の人がいます。先週、イースターの昼食愛餐会がありました。そのとき、お赤飯を大量に持ってこられた方がいました。私は「ああ、その方は捧げる賜物のある人だなー」と思いました。韓国の申賢均先生は「私は食べる賜物がある」と言われました。伝道のほかに、食べる賜物があったということでしょうか?他にもたくさん神様が与えた賜物があるはずです。使命感だけで奉仕すると長続きしません。でも、賜物でやりますと、喜びがあるし、あまり疲れません。

 総会資料に「何か奉仕を1つ見つけてそれを行なう」と書いてあります。もちろん、この奉仕とは教会内だけのことではありません。自分が遣わされている場所も含まれます。世の中の人は損得、利害関係で生きています。でも、クリスチャンは隣人を愛します。会社に行けばイヤな上司がいるでしょう。その人はあなたをコントロールしようとするでしょう。もしかしたら、その人はあなたの奥さんかご主人かもしれません。でも、マタイ5:41,42「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める人には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」とあります。一見、共依存のように思えますが、いやいやながらではなく、自分の意思で従っているので、結局は相手に勝利しているのです。イエス様は元来、王の王なのに弟子たちの足を洗ってあげました。世の中の人は、下手に出たら何をされるかと戦々恐々と生きています。でも、私たちはイエス様のように人々に仕えるのです。おそらく、世の人は、「今どきこんな人がいるのか?」と驚くでしょう。しかし、それも義務感からではなく、「神様がそうしなさい」と言われたらするのです。すべての人に仕えることは不可能です。神様に「私の隣人とはだれでしょうか?」とお聞きするのです。そして、そのように示されたら、仕えれば良いのです。神様はきっと、その力と能力を与えてくださるでしょう。アーメン。

きょうは、「伝道牧会のビジョン、4つのM」ということでメッセージさせていただきました。一般にビジョンと言うとすぐ数字をあげがちです。私もこれまでそうしてきました。でも、いずれも失敗しました。そうではなく、今度は、姿勢というか、動機を強調しました。これら4つのMはイエス様がなされたことです。私たちはイエス様の品性に似るとともに、イエス様がなされたわざも行いたいと思います。これら4つのMの源になるものは自分の力やがんばりではなく聖霊であります。聖霊様に満たされ、御霊によって歩むなら可能であります。ルカ4:18、19 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」アーメン。

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2007年2月25日 (日)

健やかでいなさい    マルコ5:25-34 

 本日の物語は、ヤイロの娘のよみがえりの物語にサンドイッチのようなかたちで入っています。つまり、12年間長血を患っていた女性が、途中から割り込んで来たという構造です。ヤイロの娘のお話は次週にまわして、今朝は、長血を患っていた女性に焦点をあてて学びたいと思います。他の福音書に比べ、マルコによる福音書がこの物語に、一番多くの字数をあてています。それは、この福音書の記者が、教えよりも、イエス様の力あるわざを強調したいからであります。みなさんの中にも、「こ難しい教え」よりも、実際的な事に興味がある方がおられると思います。

1.信仰によるコンタクト(接触)

 この女性は一種の婦人病であったと思われます。出血が止まらず、なんとそれが12年間も及んでいました。彼女はさまざまな苦しみを身に負っていました。男性には生理不順というものは分かりませんが、身体的にひどい痛みがいつも伴っていたと思われます。もちろん、医者や薬にも頼ってみました。しかし、26節を見るとどうでしょう。「この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」と書かれています。げー、なんと気の毒な!当時の医者の中には怪しげな祈祷師もいたでしょう。では、「医学の発達した今日だったら直せるのか?」というと必ずしもそうではありません。現代でも、治療できない難病が山ほどあります。無免許の医者もいますし、高額の医療費をふっかける病院もたくさんあります。彼女は「多くの医者からひどい目に会わされて…かえって悪くなる一方」でありました。持ち物をみな使い果たし経済的にも破綻状態、親や親戚からも「ごくつぶし、厄介者」とまで思われていたでしょう。そればかりではありません。イスラエルでは、長血を患うという病気は、宗教的に汚れているとみなされました。レビ記15章によりますと、そういう女性がさわったものは物でも人でも汚れると書いてあります。おそらく会堂に入ることも許されなかったでしょう。つまり、彼女は肉体的な苦しみばかりか、経済的、精神的、霊的にも苦しんでいたということです。彼女は、体力がなくて仕事もできず、結婚もできない。これが12年間も続いたということは、想像を絶する、苦しみでありました。この女性はイエス様から、「娘よ」と呼ばれていますので、あまり年を取っていないと思われます。仮に18歳から発病したとすると、今は30歳であり、青春時代も何もあったものではありません。まさしく、生き地獄と申しましょうか、呪われた人生であります。

 でも、彼女にも良い知らせが届きました。イエス様がガリラヤに戻られたというニュースを聞きました。27-28節「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。まず、群集ですが、一体どれほどいたと思われるでしょう?100人、200人ではありません。おそらく、一千人はいたのではないかと思います。もう、黒山の人だかりです。彼女は弱い体を鞭打って、人々を押し分け、掻き分けて群集の中に入って行きました。なんたって、力がないんですから、這うように必死に近づいて行きました。彼女は「…きっと直る」と考えていたからであるとあります。この「考えていた」は、原文では、「ぶつぶつ言っていた」「口ずさんでいた」であります。彼女は、「イエス様のお着物にさわることでもできれば、きっと直る」「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直る、きっと直るんだ。」と口ずさみながら、イエス様に近づいて行ったのです。私が建設会社に勤めていた頃、学生時代に山登りをしたという同僚がいました。日大の山岳部であります。山登りは、頂上に近づくと、体力も限界になり、苦しくなります。そのとき、彼はあることを口ずさみながら登ったというのです。彼はマージャンをしていました。だから、「メンタンピンドライチ、メンタンピンドライチ、メンタンピンドライチ」と言いながら登ったということです。彼女の場合は、心の中にあるものが、口からあふれていました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直るんだ」という信仰が口からあふれていたのです。ハレルヤ!彼女は群集に紛れ込み、うしろからイエス様の着物にさわったのには訳があります。自分が触ったことで、イエス様を汚してしまうという恐れがあったからでしょう。しかし、どうでしょう。自分の汚れがイエス様に行ったのではなく、逆にイエス様の方から力が流れてきました。29節「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことをからだに感じました」。イエス様があとから、「だれか私の着物にさたった」と言っています。でも、弟子たちは、「群集があなたに押し迫っているのに、だれなのかどうして解るでしょう」と答えています。つまりこういうことです。大勢の人たちが、イエス様に触ったのです。中にはミーハーがいて、スポーツ選手か芸能人に触るようにペタペタさわったでしょう。でも、信仰をもって触ったのは、この女性の他には一人もいなかったのです。彼女は信仰をもって触りました。イエス様のからだではなく、着物の一部分です。でもそこが接点となり、感電したように、イエス様の力が自分のからだの中に流れて癒されたのです。すげぇー。

 イエス様はあとで、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と、彼女の信仰をほめておられます。それでは、彼女のどのような信仰がすばらしいのでしょうか。福音書を見ますと、いろんな人が癒しを求めてイエス様に近づきました。差別用語ですが申し訳ありませんが、あるらい病患者は、「おこころ1つできよめていただけるのですが」と、イエス様のまん前にひれ伏しました。盲人のバルテマイは、「ダビデの子、イエスよ。私をあわれんでください」と大声を上げて、イエス様の足を止めようとしました。百人隊長は友人を遣わして「おことば1つでしもべの病気はいやされます」と言いました。どれもすばらしい信仰です。でも、彼女の場合は、イエス様の背後からこっそり近づいて、衣に触りました。決して大胆ではありません。彼女は自分が汚れている存在であると思っていたのと、イエス様を足止めしてはいけないという遠慮があったからでしょう。でも、「イエス様のお着物にさわれば直る」というのは、異教的でしょうか?昔はイエス様の聖骸布や、使徒パウロやペテロの聖遺物を探し求めた人たちがいました。彼らは、そういうものに触れると病気が直ると信じていました。現代では、カルロス・アナコンデアとか、ベニー・ヒンに触れてもらうと病気が直ると信じている人が大勢います。しかし、本当の信仰はそういうものではないと思います。彼女は信仰をもって、イエス様の着物にさわりました。癒しの源は、生きておられるイエス・キリストご自身であり、着物ではありません。彼女は直接、イエス様に触らなくても、着物の端っこだけで充分、自分は癒されると信じていたのです。ハレルヤ!

ところで、ルカ福音書8章にも同じ記事があります。そこには、「イエス様の着物のふさにさわった」(ルカ8:44)と書いてあります。この記事はユダヤ人が見ると良くわかるそうです。着物のふさとは、単なる端っこではなく、権威を象徴しているということです。旧約聖書を見てわかりますが、大祭司の服の裾はふさ状になっており、ざくろの形をした鈴が付けられています。やはり、着物のふさとは、権威を現しています。ということは、この女性は、病に打ち勝つところのイエス様の権威にすがったということです。今は、イエス様は目に見えるお姿ではおられませんので、どのように適用できるでしょうか。これは今日的には、信仰によって主に近づき、主の臨在に触れるということではないでしょうか。イザヤ書6章には、預言者イザヤが神殿で見たまぼろしが書かれています。イザヤ6:1「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた」と書かれてあります。主の着物のすそが満ちていることと、主の臨在と関係があるようです。私たちの目には見えませんが、この礼拝のまん前に、白い衣を着たイエス様がおられるということです。この女性がイエス様に近づいて、お着物のふさ、あるいはすそをつかんだように、私たちもそうすべきであります。主の臨在がここにあるのです。信仰をもって、イエス様に近づき、イエス様の臨在に触れましょう。だれか神の人が直接、手を触れなくても、主ご自身が癒してくださることを信じましょう。癒しと言ったら、キャサリーン・クルマン、ベニー・ヒン、チョーヨンギ師、ラインハルト・ボンケ師が有名です。でも、彼らが直接、手で触るよりも、その会場にいただけで、聖霊様に触れられて癒される数の方が圧倒的に多いのです。主は今も生きておられ、信仰によってご自身に近づく者たちを超自然的に癒してくださいます。「この礼拝に出席して、賛美をしている間に、メッセージ中に、あるいは祈っている間に癒された!」そういうすばらしい癒しが起こることを期待いたしましょう。主はここにおられます。王座に座した主のこころものすそがここまで伸びています。ハレルヤ!

2.健やかでいなさい

この女性は、癒された後、そのままこっそり帰るつもりでした。しかし、イエス様がそれを許しませんでした。恵みのドロボーと言いたいのでしょうか?イエス様は振り向いて「だれが私の着物にさわったのですか」と、群集に問いました。弟子たちは、「群集があなたに押し迫っているのに、だれか分かる訳がないでしょう」と言わんばかりです。イエス様は、触った人がだれか知ろうと見回しました。33、34節「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様は本当に、だれが触ったのか分からなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。全知全能であられる主は、だれが触ったか、その女の一部始終を知っておられました。しかし、あえて名乗り出るように時間を与えたのです。「ああ、イエス様も人が悪い。女性の病気なのに、さらしものにする気ですか?そのまま、帰せば良いじゃないですか」と言うかもしれません。そうではありません。イエス様は彼女を祝福したかったのです。もし、彼女がそのまま名乗らずに帰っても、肉体の癒しはいただけたかもしれません。しかし、それだけでは、十分ではありません。彼女の精神的面、そして霊的な分野、今後の将来のこともあるでしょう。12年間の心身の苦しみと経済的な損失、神から呪われたような生活などの心のトラウマがまだ癒されていません。イエス様はそれらの問題を解決するため、荒療治かもしれませんが、みんなの前で告白するように仕向けました。彼女は、イエス様の前に出てひれ伏し、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。これが大切なのです。エペソ5:13,14「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」。彼女がありのままを告白したことによって、彼女の心が癒されたのです。彼女のやみの部分に光が差し込み、癒しと解放が起こったのです

そればかりではありません。イエス様は何とおっしゃったでしょうかマルコ5:34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様は彼女の信仰を賞賛されました。「安心して帰りなさい」とは、「これからの人生が平安であるように」という祝福の言葉です。また、「病気にかからず」は、原文をそのまま訳すとこうなります。「癒されていよいよ、達者になって、もうその病気にかかるな!」という意味です。つまり、イエス様は「二度とこういう病気にならないように」と封印されたのであります。一時的には良くなっても、また、病気が再発するかもしれません。そうならないように、イエス様は後ろのドアを閉じたのです。だから、もう、病の霊は入ってきません。でも、もっとすばらしいのは、「すこやかでいなさい」というイエス様のおことばです。これは、英語では、be wholeとなっています。Wholeはホーリスティックという、「包括的な」という言葉と関係があります。ですから、be wholeは「生活全体に欠けがないように」とか、「全人格的に健全であるように」という意味になります。では、以前の彼女の生活はどうだったでしょうか?出血が止まらず肉体的な痛みを持っていました。多くの医者からひどい目に会わされました。自分の持ち物をみな使い果たしてしまいました。経済的には破産状態です。親や親戚からも「ごくつぶし、厄介者」とまで思われていました。宗教的に汚れているとみなされていました。その体では、結婚もできなかったでしょう。でも、be wholeは、これらを全部帳消しにするということです。二度と病気にならない健康な体、ひどい目に合わされたトラウマからの解放、働くことができて経済的にも祝される、霊的にも祝される、結婚をして良い家庭を持つことができる。これが、be whole「すこやかでいなさい」であります。もし、彼女がそのままこっそり去って行ったなら、肉体の癒しだけでした。でも、勇気を出して、名乗ったゆえに、包括的な癒しと祝福が与えられたのです。ハレルヤ!

 ここで私たちが学びたいことは、告白すること、あるいは証しすることの大切さです。マタイ

24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」。マタイ24章は、世の終わりの兆候を示した箇所で有名です。世の終わりには、いろんな起こりますが、その1つがこれだということです。私はこのところから、福音が全世界に宣べ伝えられたら終わりがくると思っていました。しかし、それだけではありません。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。御国の福音が宣べ伝えられるだけではなく、「すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。つまり、御国の福音を証しする必要があるということです。彼女がしたことは、まさしくこれであります。少し前の記事では、レギオンを宿した人が癒されました。彼はイエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広めました。証しをしたのです。すると、「人々はみな驚いた」とあります。ヨハネ4章では、サマリヤの女性が、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」「そこで、サマリヤの人たちは町を出て、イエスのほうへやって来た」と書いてあります。これが御国の福音の証しの力強さです。自分ばかりではなく、その地方にまで影響を及ぼすということです。私は昨年の秋、インドネシアに行きました。アバラブ教会が、1万人が入る会場を借り切って、癒しの集会を持ちました。そのとき、病を癒された人たちがステージに立って証しをしたのです。死んで生き返った赤ん坊を抱いた婦人とその家族も立ちました。ものすごく力強かったですね。その集会は、ブレシング・インドネシア「インドネシアを祝福する」という名前でした。インドネシアはイスラム圏なので、宣教という言葉が使えません。でも、「インドネシアを祝福する」なら、だれも嫌な人はいません。そこでは、人々が御国の証しをしながら、エディ・レオが御国の福音を宣べ伝えました。

 私たちも恐れないで御国の証しをすべきであります。しかし、礼拝のときに証しをする場合は、時間に気をつけてください。5分から7分、長くても10分以内です。時々、15分位に及ぶ方がいらっしゃいます。本人は気付いていないかもしれませんが、説教者にとって非常には困ります。韓国のヨイド教会では、一日、6回も礼拝があります。1つの礼拝が1時間で、説教時間は25分です。一回ごとに、長老さんが礼拝の祈りをします。祈りは3分以内で決められていますが、中には5分を超えるときもあります。そのとき、チョーヨンギ牧師は、イライラして来て、長老を後ろから蹴飛ばしたくなるそうです。公の場合は、いくら良い祈りや証しでも、長すぎると問題です。そういう点で、証しは、セル集会や人々の間でするのが一番です。そのとき、イエス様がどのようなことをして下さったかを語るのです。伝道とか、証しは、普段からしていないと、なかなか出てきません。伝道や証しは習慣化しなければなりません。「キリスト気狂い」で結構ではないでしょうか。焦点は、イエス・キリストであり、自分自身ではありません。きょうの物語は、イエス様が意図していなかったのに、婦人が後ろから近づいて、癒しをいただきました。イエス様から癒しの力が流れてきて、患部が癒されたのです。でも、それだけではありません。イエス様のみこころは、肉体的な癒しだけではなく、ホーリスティックな癒しです。経済的にも、家庭においても、霊的において祝福されることです。皆さん、忘れてならないことがあります。神様の愛は無条件です。でも、神様の祝福には条件が伴います。ある人たちは逆に考えています。神様の愛は条件付きで、祝福は無条件だと。そうではありません。神様の愛は無条件ですが、神様の祝福は条件付きです。その条件とは何でしょうか?それは信仰をもって近づくということです。千人近くの群集がイエス様にひしめき、押し合い、へし合いしていました。でも、信仰をもって近づいたのはこの女性一人だったのです。信仰はイエス様から力と祝福を得る管(パイプ)であります。管は太ければ太いほどが良いですね。でも、本日は、大きな励ましをいただきました。この女性は、イエス様のお着物にさわることでもできれば、きっと直ると考えていました。衣のすそ、はしっこでも大丈夫なのです。一箇所でも、つながっていれば、力が流れてきます。それくらいの信仰だったら持てそうであります。私は建設会社で働いていたころ、道路の上に送電線が走っていました。関東電力の方が「どうか、工事にはくれぐれもご注意ください」と度々、お願いに来られました。その送電線は何千ボルトもあるので、クレーン車のブームが触れなくても、数メートルまで近づいただけで感電するそうです。「誘導ナントカ」とか言っていました。この間、新越谷へゴスペルを賛美に行きました。私は途中で帰ってきましたが、この間の集会もそれに似たことがあったようです。預言の先生が、手を振っただけで、人々がバタバタ倒れたそうです。ちょっと危ない感じがしますが、そういうこともあります。みなさん、父なる神様が発電所だとすれば、イエス様は送電線です。おそらく、聖霊様は個人個人への引き込み線ではないかと思います。送電線から直接では死んでしまいます。でも、トランスがあるので、電圧を調整してくれます。聖霊様は、私たちが必要なだけの恵みを送って下さいます。でも、聖霊様をあなどってはいけません。聖霊様は神の霊であられますから、必要であるならばドでかい力を送って下さいます。ハレルヤ!信仰によってイエス様といつもつながっていましょう。必要な力は、源なる神様からやってきます。

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2007年2月18日 (日)

キリストの証   マタイ28章16~20

本日は、尾山謙仁牧師を招いての特別礼拝の為に、原稿が用意できませんでした。

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2006年12月10日 (日)

新しい王様         マタイ2:1-12

 4つの福音書にはイエス・キリストに対するイメージがそれぞれ異なっています。それは、イエス様がこの地上に誕生したとき、すでに、福音書の主張が入っています。マタイによる福音書は、「王なるイエス」として描きたかったようであります。日本は王国ではありませんが、王様が代わると、国そのものまで変わってしまいます。国民の生活は、王様次第というところがあります。ユダヤに新しい王様が誕生したという知らせを聞いて、人々はどのように反応したのでしょうか。もし、そこに既に王様がいたとしたら、新しい王様と交代しなければなりません。恐らく、今いる王様にとっては、脅威に感じたことでしょう。

1.恐れた人々

 ヘロデは政治的な手腕に富んだ人で、人々から「ヘロデ大王」と呼ばれました。ユダヤの地方は、政治が不安定で支配者がよく変わりました。ヘロデ王は、それをうまく見越して、新しい支配者と仲良くなり、その地位を保ちました。しかし、晩年、彼は猜疑心の塊になり、自分の妻や王子を次々と殺していきます。人々は、「ヘロデの息子になるよりは、ヘロデの豚になった方がましだ」とまで言いました。東方の博士たちが、ヘロデ王を訪ね、こう言いました。2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3節「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」。ヘロデ王は、恐れ惑いました。何故でしょう?新しい王が登場したら、自分の王位を譲らなければなりません。危ない、危ない。自分の保身を第一に考えてきた王様にとっては、「寝耳に水」のような知らせです。ヘロデは「私も行って拝むから」なんて言っていますが、本当は見つけ出して殺すつもりだったのです。後で博士たちが帰って来ないので、ベツレヘム近辺に住む、2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。なんという残忍さでしょう。ヘロデは、新しい王を抹殺しようとしたのです。また、「エルサレム中の人も王と同様であった」と書かれています。エルサレムの住民は、「ヘロデ王がまた何かやらかして、とばっちりを受けるんじゃないだろうか。新しい王も良いけど、安定した生活を奪われたくない」と思ったことでしょう。では、彼らの生活が本当に満たされていたのでしょうか?そうではありません。ユダヤは度重なる独立戦争で、疲れきっていました。その頃は、一番上の支配者がローマのカイザルで、ユダヤの地方はヘロデ王が治めていました。昔で言うとヘロデは代官、今風で言うと知事であります。ユダヤでは一般の税金の他に、宗教税もありました。人々は、「新しい王様が来て、さらにめんどうなことが起こるかもしれない。それなら、今のままで良いや」と思っていました。彼らは今の生活に満足はしていませんでしたが、新しい王が来ることによる、変化を恐れたのであります。

 それでは新しい王とはどんなお方なのでしょうか。マタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」飛んで、1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)新しい王とは、イエス・キリストでありますが、ローマやヘロデの支配から救う方とは言われていません。「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であると言われています。つまり、人間を一番、苦しめているのは罪です。この罪から救うために、イエス・キリストがやって来られるということです。でも、彼は王様です。王様ですから、自らの国を持ち、何らかの支配をするはずであります。そうすると、私たちの中にヘロデ王やイスラエルの民のような恐れがやってきます。第一は、自分が王様をやめて、新しい王に王権を譲らなければならないということです。みなさんだれしも、自我という王様が自分を支配しているのではないでしょうか?自分の生き方、自分の好み、自分の持ち物、自分の主義主張…これを簡単に新しい王様に明け渡すことが果たして可能でしょうか?善良で、私には何も問題ありませんと言う人ほど、頑固なんであります。いかがでしょうか?第二は、何か他に義務が発生するんじゃないかという恐れです。キリスト教に入ったら、やらなければならないことが増える。献金、日曜日礼拝、奉仕をやらされる。そして、好きなことができなくなる。だから、宗教はいやなんだと思うでしょう。でも、みなさん私たちは、生まれながらいろんなものに支配されているのです。まず、重力です。地球にいる限りは重力から自由になることはできません。また、空気がなければなりません。魚のように水の中には住めません。また、日本国民ということで、義務教育、納税の義務があり、さまざまな法律を守らなければなりません。学校に入れば入ったで、会社に入れば入ったで、いろんな決まりがあります。さらに、人々の目、世間体というプレッシャーもあります。しかし、そればかりではありません。私たちは罪と死によって支配されています。過去の罪、現在の罪に縛られ、やがて来る死の恐れによって支配されています。生まれながらの人で、罪と死から自由な人は一人もいません。

 では、新しい王による支配とはどういうものなのでしょうか?これは、救いとはどうものなのかという意味と一致しています。まず、使徒26章に使徒パウロが言った言葉があります。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」。まず、「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」とあります。これはどういうことかと言いますと、生まれながらの人は暗やみとサタンの支配下にあるということです。「えー?」と、驚きませんか?「とんでもない、私は自由です。何も問題ありません」と言っている人も、実は暗やみとサタンの支配下にあるのです。一番問題なのは、霊的に盲目で、それに気づいていないということです。イスラエルの民はエジプトに430年間も住んでいました。彼らは本来、カナンの地に住むことになっていましたが、飢饉のためにエジプトに一時的に逃れていたのです。でも、気づいたらパロの奴隷になっていました。解放者モーセがやって来て、パロと交渉します。すると、パロはイスラエル人を厳しく取り扱い、レンガを作るための藁を与えませんでした。民たちはレンガを作るために、切り株を捜し歩きました。そして、モーセに「お前が来たために、前の同じ量のレンガを作れないじゃないか!」と文句を言いました。イスラエル人は、エジプトから脱出することよりも、パロのもとでレンガを作ることの方が大事だったのです。なんだか、滑稽な感じがしますが、私たちもかつてはサタンの支配のもとで同じことをしていたんじゃないでしょうか?教会に行ったら、好きなことができなくなる。キリストを信じたら、今の生活を変えなければならなくなる。でも、彼らの王様は暗やみの王、サタンであります。サタンはパロ王のように、そう簡単に、自分の持ち物を手放さないでしょう。救いとはいろいろな表現がありますが、「サタンの支配から神の支配に移される」ことであります。

もう1つの救いの意味は、「わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」ということですこれは、イエス様を信じた人は、「罪の赦しを受け、聖なる者とされ、御国を受け継ぐことができる」ということです。つまり、「神の王国の住民となる」ということです。ヨハネ黙示録には、その完成図が記されています。黙示録21:3-4「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」神様が共に住んでくださるとは、マタイ1章の「その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)と同じであります。また、完成した神の国にはないものが4つあります。死、悲しみ、叫び、苦しみがありません。そこには、贖いの完成があります。生まれつきの私たちは、「人は死んだらおしまいさ」と思って生きてきました。しかし、本当は、そうじゃなかったのです。永遠の御国が、神の民に用意されているのです。イエス様がこの地上にこられたのは、私たちを御国へ招待するためだったのであります。人々が御国に入ることができるように、イエス様はご自分の命を贖いの供え物として捧げられました。十字架の血しおこそが、私たちの罪がきよめられ、サタンの支配から神の支配に移される根拠となったのです。問題は、私たちがイエス様の招きに応ずるかどうかであります。新しい王様を迎えるかどうかであります。人間は意外と頑固です。それが正しいと分かっていても、信じないのです。なぜなら、自分の生活を変えなければならないからです。日本人はお墓とか家とか、たくさんのしがらみがあって、キリスト教は良いものと知っていても、信仰を持つことができません。でも、みなさん、救いとは自分の力で行うことではありません。自分でできないからこそ、救いが必要なのです。全身が縛られている人が、自分で綱を切ることができるでしょうか。また、底なし沼に沈みつつある自分を、自分で引き上げることができるでしょうか。やはり、だれかから救ってもらうしかありません。綱を切ってもらって、底なし沼から引き上げられてもらってから、新しい生活が可能になるのです。変えられるのは、救われてから後のことなのです。すべてが神様の恵みによって可能であります。恐れないで、新しい王であるイエス様を、あなたの人生の王として、お迎えいたしましょう。

2.求めてきた人々

 新しい王様を求めてやって来た人たちは、皮肉にも異邦人でした。ここには博士たちと書いてありますが、原文では「マギ」であります。マギとは、ペルシャやバビロニヤの占星術師たちです。星占いですから、聖書的にはかなり危ない人たちです。でも、何故、彼らがそんな遠くからやってきたのでしょうか。南ユダは紀元前580頃、バビロンに捕囚となりました。そこで、70年ほど暮らしていました。ダニエルなどは、バビロンで高い地位にありました。預言者エゼキエルもいましたので、メシアに関する預言がバビロンやペルシャにも伝わったのではないかと思います。マギたちは、そういう情報と自分たちの星占いを合わせて、ユダヤ人の王の誕生を突き止めたのではないかと思います。一般に3人の博士がやって来たと言われていますが、3人とはどこにも書かれていません。ただ、宝の箱が3つだったということだけです。また、馬小屋のイエス様を見つけたとも書いていません。2:11には、「その家にはいって」と書かれています。おそらく、ヨセフとマリヤは、イエス様を生んでから、しばらくベツレヘムに留まっていたのではないかと思います。産後の肥立ち、3×5=15日くらいは、ゆっくりしていないと体に悪いんじゃないでしょうか。それはともかく、マギたちは偉いと思います。水のない砂漠や、盗賊や山賊が跋扈する山地越えて、はるばるやってきたのです。恐らく、彼らは隊商を組んでと申しましょうか、大勢のお供を従えてやって来たのではないかと思います。長旅ですから、当時の宝物を非常にコンパクトにして持ってきました。彼らの唯一の間違いは、王宮にやって来たということです。「ユダヤ人の王様だったら、きっと王宮に生まれるだろうなー」と、ヘロデ王のもとを訪ねました。そのため、罪のない大勢の子供たちが犠牲になりました。でも、そのことはエレミヤ書で、あらかじめ預言されていました。

 私たちが博士たちから学ぶべきことは、すばらしい求道心です。求道者を英語では、seekers「捜す人」と言います。マタイ7章に、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と、約束されています。「だれであれ」であります。「星占い?ちょっと危ないなー」という人たちにも、主は現われてくださいます。大切なのは、諦めないで、求め、捜し、叩く人であります。私たちも宮殿を訪ねた博士たちのように、建物の立派な教会、大勢集まっている教会が一流だと思ってやって来ます。お寺では建物を伽藍というそうですが、教会も伽藍が大切ということで、○○カセドラルに行ったりします。伽藍が立派でも、イエス様がいなかったりします。伽藍が、ガランとしていたわけです。また、牧師になるためには、○○大学付属の神学部とか、○○神学大学に行けば一流になれるだろうと思って行きます。残念ながら、そういうところは聖書が言うことを信じていません。当時の祭司長や学者たちは、聖書をだれよりも良く知っていました。でも、イエス様に会いに行こうとは思いませんでした。彼らは聖書の学者でありますが、生けるキリストと出会っていません。頭だけの観念的な信仰であります。イエス様はどこにおられたのでしょうか?イエス様は不衛生な馬小屋に生まれ、普通の家にいたのであります。家と言っても仮住まいであります。世の人が「そんなところに救い主がいるだろうか」と疑うようなところに、イエス様がおられるのです。

博士たちも、「宮殿にいなければどこにいるの?」と思ったでしょう。でも、星が彼らを導いてくれました。でも、その星は普通の星ではありません。9節「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」。「えー?星が動いたり、止まったりするの?」私は、星とは御使いではないかと思います。ヨハネ黙示録9章や12章には「星」が登場しますが、御使いのようであります。よく分かりませんが、御使いが光を灯して、博士たちを導いたのではないかと思います。神様は、救いを求める人seekersには、どんな手段を講じてでも、イエス様に出会わそうとしてくださいます。時には御使いを遣わして、その場所を明るく照らしてくださるのです。この亀有教会に来た人たちも、「ああ、ここかなー?ここに救いがあるのかな?」と導かれたのではないでしょうか。「いやー、ここじゃなかった!」とがっかりして去った人たちもおられるかもしれません。そういう人たちには、お役に立てなくて、本当に気の毒です。もっと、私が頭のてっぺんをピカーッと光らせると良いかもしれませんね。でも、聖書は「求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい」と継続的な意味で言っています。1回や2回じゃなくて、何度もということです。救いの宝は、そう簡単には見つからないものです。この世には、邪魔する者もいます。まがい物を与えるものすらいます。「もう、何度もまがい物をつかまされた。もう、宗教なんか嫌だ、こりごりだ!」。そういう人は、あきらめずに、もう1回、イエス様を訪ねたら良いのではないでしょうか。きっと、見つかります、きっと出会います。

博士たちは星を見ただけで、まだ会ってもいないのに、この上もなく喜びました。それから、何をしたでしょう。2:11「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」。彼らはイエス様に出会って、最初にしたことは礼拝であります。彼らはひれ伏して拝み、宝物をささげました。しかし、相手はまだ乳飲み子であります。乳飲み子でありますから、これまで博士たちは、何もお世話になったことがありません。ひょっとしたら、これからも何もしてくれないかもしれません。でも、彼らは乳飲み子のイエス様を礼拝しました。何故でしょう。彼らは礼拝とは何かということを私たちに教えてくれています。彼らがなぜ、乳飲み子のイエス様を礼拝したか。それは、イエス様が神様だったからです。「神様が私たちに何かしてくれた。ご利益がある。だから、拝む。何もしてくれない場合は、拝まない」。そういう理論が私たちの中にあります。それは、偶像礼拝です。ご利益がなければ拝まない。これが私たちの宗教心です。でも、本当の礼拝とは何でしょうか。神様が私たちに何かをしてくれたとか、してくれないとは関係なく、神様だから、それだけで礼拝を捧げるということです。神様だからです。でも、神様はご自身を礼拝した者たちを手ぶらでお帰しになるのでしょうか。そうではありません。私は博士たちがイエス様を礼拝している、中世に描かれた絵を見たことがあります。博士たちは、一国の王様のような服装をしていました。また、イエス様はマリヤに抱かれてはいましたが、なんと片手に杓を持っていました。王様が持つ杓であります。博士たちは深々と頭をさげて礼拝しています。なんと、イエス様のもう一方の手は、博士たちに向けられ、祝福を与えていました。いや、博士の頭に按手していたかもしれません。「まあ、なんとこまっしゃくれた赤ん坊なんだろう!」と思いました。でも、その絵は、何かを暗示しています。神様が礼拝者たちに祝福を与えるということです。決して、手ぶらではお帰えしにはならないということです。ハレルヤ!シバの女王はソロモン王を訪れました。そのとき、シバの女王はたくさんの宝物をささげました。でも、帰るときは、ソロモン王はシバの女王にたくさんの贈り物を上げました。博士たちも、おそらく、豊かな祝福を得て帰途に着いたと思います

マタイ2:12「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」。「別の道」とは、私たちにとって、「新しい道」と解釈できます。彼らは新しい道を歩み始めたのです。私たちもイエス様と出会い、神様を礼拝したならば、もう古い道には戻れないのです。神様に従う、新しい道を歩まなければなりません。その道は敗北の道ではなく、希望に満ちた勝利の道です。私たちも毎週、神様を礼拝していますが、この礼拝が終わったなら、「ああ、終わった。さあ家に帰ろう!」と言うことではありません。神様の祝福があなたの上に留まります。そして、罪の重荷を置いて新たにされ、今度は神様の道を歩むのです。これがこの世におけるクリスチャンの生き方です。イエス様と出会ったはずなのに、相変わらず古い道を歩んでいる。李光雨師が「はず、ふり、つもりは通用しない」と言ったことがあります。「イエス様に出会ったはず、イエス様に出会ったふり、イエス様に出会ったつもり」ではまずいです。本当に、イエス様に出会ったなら、新しい生き方を始めます。これまでの古い価値観を捨て、神様の新しい価値観に生きようとするのです。私たちは救われたからと言って、何からも自由になるわけではありません。神様のご支配のもとに生きるときに、この世のものから解放されます。イエス様のうちに留まるときに、本当の自由と喜びが与えられるのです。

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