2017年11月17日 (金)

苦難のとき マタイ24:15-28 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2017.11.19

 マタイ24章は世の終わりの出来事を預言している箇所です。「小黙示録」とも言われ、マルコ福音書13章、ルカ福音書21章にも記されています。私たちは世の終わりの時代に生きていますが、ある時を境に、大きな苦難がやってきます。しかし、いつからその時がスタートするのでしょう?それは「荒らす憎むべき者」が聖なるところに立った時からです。 

1.苦難のとき

 マタイ2421「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」マルコ1319「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。」キリスト教神学には「終末論」というテーマがあります。他の多くのテーマは、議論し尽くされてきましたが、この「終末論」だけは未解決です。聖書の預言は、過去に起きたようなことが、将来も再び起るというのが定説です。歴史を見ますと、ユダヤ人が神殿を再建した後、ギリシャによって支配されました。最初は平和でしたが、紀元前167年にアンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿を汚しました。なんと、豚を捧げさせ、自分の像を置いて礼拝させようとしました。そのことがユダヤ人の反発を買い、独立戦争が100年間続きました。その後、ユダヤはローマに支配され、紀元70年にエルサレム神殿が破壊されてしまいました。その時に成就されたのが、14-18節の内容です。ヨセファスは、エルサレムが陥落したとき、飢えて死んだ人の死体が2,000以上あったと伝えています。イエス様は「屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません」と言われました。クリスチャンはイエスさまの預言を知っていたので、エルサレムから逃げました。マタイは14節で「読者はよく読み取るように」と言っていますが、同じようなことが、世の終わりにも起こることを示唆しています。

 では、「苦難のとき」とはいつなのでしょうか?「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったようなひどい苦難の日」と言われています。これはまさしく、「世の終わりの患難の時代」と言うことができます。神さまはダニエルを通して苦難の長さが70週であると啓示しました。69週目でメシヤが断たれ(十字架に処せられ)、歴史が中断しました。なぜなら、教会の時代が割り込んできたからです。そして、残りの1週、つまり7年間が、ある時からスタートするということです。聖書学者たちは、最後の7年間を「患難時代」と呼んでいます。そして、後半の3年半が特にひどい苦難の時代であることから、「大患難時代」と呼んでいます。ヨハネの黙示録11章には「聖なる都が42か月の間踏みにじられる」と書かれています。また同じ黙示録13章には「獣に42か月活動する権威が与えられた」と書かれています。42か月というのは、3年半であります。後半は反キリストが猛威をふるい、迫害がひどくなり信仰を持つのが命がけになります。

 「このとき、クリスチャンはいるのか?」「教会も大患難を通過するのか?」という議論がキリスト教会にあります。20世紀にアメリカに福音派のリバイバルが起こり、患難前に教会が携挙されるということを主張しました。携挙というのは、キリストが来られたとき、信者が空中に携え上げられるということです。これは、マタイ2540節、41節に書かれています。また、Ⅰテサロニケ4章でもパウロが言及しています。でも、本当にクリスチャン全員が、大患難を経験しないで、天に引き上げられるのでしょうか?虫が良すぎるような感じがします。私はクリスチャンであっても再臨に備えていない人は残され、患難の中で信仰を保てるかテストされると思います。つまり、自動的に教会が天に携えあげられるのではないということです。携挙については、クリスマスが終わった後でお話しいたします。7年の患難の時は、選民イスラエル、ユダヤ人が救われる最後のチャンスです。そのため、144千人が祭司として特別に選ばれ、彼らが宣教活動をします(黙示録7章)。パウロは「イスラエルの一分がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ1125-26と言っています。この7年の患難、つまり最後の1週は、イスラエルの回復が目的であると確信します。だから、マタイは2422「もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです」と言っているのです。神さまは約束を守るお方であり、一度選んだ、イスラエルの民をお捨てにならないのです。

 では、「苦難の時」がいつから始まるのでしょうか?マタイ2415「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように)同じような事が、過去においてもありました。紀元前167年と紀元後70年に「荒らす憎むべき者」によって神殿が汚され、踏みにじられました。世の終わりにポイントとなるのが、エルサレムであり、その神殿です。現在、聖地に行きますと神殿の跡地にイスラム教徒の黄金のドームが立っています。神殿の壁だけが残されており、ユダヤ教徒たちはその壁に向かって一生懸命祈っています。やがて、ドームが壊され、神殿が再建されたならば、もう時間はありません。イスラエルが攻撃される最中、世界平和をもたらすような指導者が現れるでしょう。しかし、間もなく彼は「荒らす憎むべき者」に豹変するのです。彼が神殿に立ったならば、要注意であります。しかし、前半の3年半は比較的平和なので、一般の人々にはわかりません。今は、「ワン・ワールド、世界は1つになるべきだ」という考えが航空会社から生まれました。やがては「宗教も1つになるべきだ」という考えが起こるでしょう。まもなく、それは「世界統一政府」というワン・ワールドになるのです。その指導者こそが、反キリスト、「荒らす憎むべき者」なのです。私たちは世の終わりの終わりに住んでいる者であり、まもなく7年間の「患難時代」が来ることを覚悟しなければなりません。もちろん、私たちは世の光、地の塩として伝道と証の生活をすべきであります。しかし、同時に世の終わりがいつか来ることを知っておくことが重要です。

2.荒らす憎むべき者

 マタイ2415「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)」まず、旧約聖書のダニエル書を調べてみたいと思います。ダニエル927「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」ここで言われている「1週の間」というのは、7年間です。7年間は「患難時代」と一致しています。彼が現れたら、患難時代がスタートするということです。そして、半週、つまり3年半後にその正体を現すということです。さらに、ダニエル書11章には彼のことが詳しく述べられています。ダニエル1131「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」37-38「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。」彼は傲慢な指導者であり、まことの神を否定し、別の神をあがめさせます。ヨハネ黙示録13章にはもっと詳しく書かれています。彼は「反キリスト」と呼ばれ、人々に
「獣」を無理やり拝ませます。そして、その獣を拝まない者をみな殺させると預言されています。

 使徒パウロもⅡテサロニケ2章で彼のことを言及しています。Ⅱテサロニケ23-4「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」パウロは彼のことを「不法の人、すなわち滅びの子」と呼んでいます。やはり、彼が出現することによって、患難時代がスタートすることが分かります。彼は神殿に座を設け、自分こそ神であると宣言します。しかし、神さまは彼の出現をちゃんと定めています。今は引き止める者がいますが、ある時になると急に現れます。Ⅱテサロニケ29「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」患難時代は、救われるための愛を受けなかった人にとっては災いです。なぜなら、サタンの働きがものすごく強くなり、偽りと惑わしに敗けてしまうからです。現在は、主の恵みと聖霊の働きによって、信じるのがとても楽なのです。でも、患難時代は、サタンによる偽りと惑わしの力があまりにも強いので、偽りの方を信じてしまうのです。

 高木啓太師が『これからの世界情勢と聖書の預言』という本を書きました。彼は「荒らす憎むべき者」を「世界総督」と呼んでいます。少し彼の本を引用させていただきます。預言によるとこの指導者は、患難時代の中ごろに、突然イスラエル政府および世界人民との平和条約を一方的に破棄し、自分こそ世界の総督であると宣言して、国々を支配下に入れる。ユダヤ教の礼拝をはじめ、世界のあらゆる宗教を禁止させ、エルサレム神殿に座を設けて、自分は神であると宣言する。そのときから彼は、「不法の人」としての本性を現し、その絶対的支配権を世界に拡張し、世界の総督になる。大患難時代には、全世界に厳しい経済統制がしかれ、世界総督に従わず、彼を礼拝しない者は、だれ一人として食糧を買うことができないような措置がとられる。右の手か額かに受ける刻印、おそらく目に見えない刻印が押される。世界総督が絶大な権力を手中に収める1つの手段は、世界の宗教を統合して、その宗教の力を利用することである。統合された宗教がヨハネ黙示録では「大淫婦」「大バビロン」と呼ばれています。やがて、キリストが天から現れ、ハルマゲドンの戦いが起こります。つまり、患難時代の最後にキリストが再臨するということです。

 私たちの教会では「ヨハネ黙示録」から礼拝のメッセージを取り次いでいません。そのため、世の終わりについて話すと、ちんぷんかんぷんの兄弟姉妹もいるかもしれません。あんまり極端な終末論は問題ですが、聖書によって時代を見分けることが重要です。いつまでも、この時代は続かないということです。次の時代が来る前、イエス様がおっしゃったような「生みの苦しみ」があるということです。いろんな宗教が世の終わりのことについて言います。聖書を知らないと、惑わされてしまいます。でも、患難時代に突入すると、反キリストが猛威を振るうので、信じるのが困難になるというのは事実です。日本は現在、「信教の自由」がうたわれていますが、いつまでも続かないということです。特に他の宗教に排他的なキリスト教信仰は迫害の的になるでしょう。日本は文化国なのに、世界で稀に見るほど、伝道が難しい国です。9月の秋祭りのときは、多くの人たちが神社の氏子になって参加します。子どもから大人まで神輿を担いて、練り歩きます。私は夜中に神輿を担ぐ掛け声が、まるで地獄からの悲鳴のように聞こえます。昔、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉がはやりました。しかし、地獄はそうではありません。滅びは何としてでも避けなければなりません。患難時代がやってくると、みんなが信じないばかりか、迫害が強いので、全く信じられなくなるのです。イエス様はヨハネ12章でこのようにおしゃいました。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネ1235,36)。

3.山へ逃げなさい

 マタイ2416-20「そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」まず、ここで言われていることは、ユダヤに住んでいる人たちのための預言であるということです。このことは紀元70年にエルサレムが滅亡した時に成就しました。ローマ軍が聖なる都を囲んだとき、エルサレムにいたキリスト者がペレヤ地方に避難したそうです。しかし、イエス様が預言されたのは、エルサレム滅亡についてだけではありません。いのちのことば社の注解書にこのように書かれていました。「『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つような事態を見たなら、その聖なる所にしがみついていることはせず、さっさと逃げなさい。福音は全世界に宣べ伝えられているので、必ずほかにあかしする場所が備えられている」と書いてありました。「逃げる」というのが良いですね。「屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」とあります。20113月に「東日本大震災」がありました。90%の人たちが、津波に巻き込まれたことによる水死であったそうです。「津波てんでんこ」という教えがあるそうです。これは「津波はあっという間にやってくるから、周囲の者をかまうよりも、各自てんでんばらばらに逃げなさい」という意味だそうです。マタイ24章のこの記事は、津波が来たときの際、守ったら良い内容だと思います。なぜなら、大事なものを取るため家に戻ったために命を失った人が多いからです。預金通帳も大事ですが、命よりも大事なものはありません。

 イエス様は「山へ逃げなさい」と言いましたが、山は最も良い隠れ場であったからでしょう。しかし、これを新約時代の私たちが「何かあったら山へ逃げるべきだ」と解釈するのは早計です。ただし、「命を粗末にしないで、逃げることも必要である」と適用することも可能です。「災害時の危機管理が必要である」とよく言われています。よくテレビに出てくる山村武彦さんという防災システムの研究所所長さんがいます。彼は「正常性バイアス」ということを言います。人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)を指します。何か起こるたびに反応していると精神的に疲れてしまうので、人間にはそのようなストレスを回避するために自然と「脳」が働き、「心」の平安を守る作用が備わっています。これが働くと、「大丈夫だろう」「もう落ち着いだだろう」と迅速な避難行動が取れなくなるということです。東日本大震災では、「大地震の混乱もあり、すぐに避難できなかった。まさかここまで津波が来るとは」と思った人がたくさんいたそうです。非常事態の際に「正常性バイアス」に脳を支配されないよう、本当に危険なのか、何をしたらいいかを見極める判断力を養っておくべだということです。

 また、正常性バイアスに似た、「集団同調性バイアス」というのもあります。あるウェブでこのように解説されていました。人間の心理とは不思議なもので、想像が付かない出来事が目の前で起こると、「頭の中が空っぽ」になったり、「頭が混乱してしまい、何を第一にやれば良いのか?」判断できなくなるケースがあるようです。すると、周りにいる人と同じ行動をとってしまう心理が働くのです。2003年に韓国で地下鉄放火事件が発生しました。この事件で約200人の尊い人命が奪われてしまいました。公表された写真の中に、焼ける前の地下鉄内で乗客が出火後の状況を写した写真がありました。煙が充満しつつある車内に乗客(10人くらい)が座席で押し黙って座っているという不思議な写真でした。「なぜ逃げようとしないのだろうか?」これが、「集団同調性バイアス」です。マタイ2437-39「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」本来なら、大洪水に備え、ノアの箱舟に非難すべきだったのです。

 デモス・シャカリアンという実業家の証を紹介します。彼の祖父はアルメニア人で、カラカラで生活していました。その地方に住む「エフィム」が11歳の時、幻を見ました。彼は読み書きができませんでしたが、7日間かかって、幻で見た文字の形や図を苦心して写しました。それを村で字の読める人のところへ持って来ました。この文盲の子どもがロシア文字で一連の教えや警告を書き上げていることがわかりました。将来カラカラのクリスチャンはみな、恐ろしい危険に出会うようになる、と少年は書いていました。その時には、幾千万の老若男女が虐殺されるので、その地方の人々はみな逃げ出さなければならないときが来ると警告されていました。少年は脱出するクリスチャンたちが行くべき所をはっきり示した地図を書きました。そこには黒海やカスピ海ではなく、大西洋の向こうアメリカの東海岸、ゴールの西海岸まで明確に記されていました。カラカラの多くの人々は、この少年の空想物語を笑って聞いていました。1900年代に入った頃、エフィムは50年前に書いた預言の言葉が成就するときが近づいていると発表しました。「アメリカに逃げなければならない。ここに残る者はみな滅ぼされるだろう」と言いました。エフィムとその家族、そしてペンテコステ派の家族たちは荷作りをし、ずっと昔からの先祖の財産を残しました。ところが、残留した人々はあざ笑いました。懐疑的で、不信仰な人々は(多くのクリスチャンたちも含めて)神は現代においても、現代の人々に詳細で、的確な指示を与えることを信じようとしなかったのです。しかし、その指示の正しいことが証明されました。1914年、想像を絶する恐怖の時期がアルメニアを襲ったのです。トルコ人は、なさけ容赦のない強引さで、住民の三分の二をメソポタミヤの砂漠に追い出す血なまぐさい仕事に取り掛かったのです。カラカラの全住民を含めて百万人以上もの老若男女が死の行進の最中で死んでいきました。他の50万人は自分たちの村で虐殺されました。預言者の警告を受け入れて、アメリカに非難した人々は、非常なショックをもってこの知らせを聞きました。聖書は世の終わり、反キリストによる苦難がやってくるとはっきり預言しています。どうぞ、みんなが信じないから、私も信じないという集団同調性バイアスにはまらないようにしましょう。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ713,14と言われました。

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2017年11月 3日 (金)

世の終わりの前兆 マタイ24:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.11.5

 聖書は「世の終りが来る」とはっきり預言しています。しかし、それは必ずしも人類の破局ということではありません。イエス・キリスト様が再び来られ、神の国が完成されるときでもあります。悪が一掃され、キリストのご支配がやってくるのです。ですから、世の終りの一連の出来事は、神の国が完成する産みの苦しみでもあります。世の終り、キリストが来られる時、どのような前兆があるのでしょう? 6つのポイントで学びたいと思います。

1.にせキリスト

 マタイ24:4-5 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」キリストとは、メシヤ、救い主という意味です。たとえ、そのように言わなくても、「私は神である」とか「神と等しい」と言うのも「にせキリスト」であります。釈迦やマホメット、教祖的存在もにせキリストです。現在、教祖的な人といえば、文鮮明の統一教会があります。今は「世界平和統一家庭連合」と名称を変えています。韓国よりも、聖書を知らない日本人の方がカモにされています。また、非常に反社会的なオウム真理教があり、今も存在しています。終末思想と超能力が入口になり、インテリ層も洗脳されました。大川隆法の「幸福の科学」があります。これは仏教とキリスト教徒と哲学の混合であり、金儲けのために造られた宗教です。世界大戦後、アメリカで生まれた新興宗教「エホバの証人」があります。日本でもご婦人方が訪問していますが、真面目な人ほど惑われやすいのです。いわゆる教祖はいませんが、ニューヨークの本部が「にせキリスト」になっています。キリスト教会でも、奇跡やしるしを行う場合、自分が神的な存在であると思う誘惑があるでしょう。目覚ましい奇跡を行なうベニー・ヒンはぎりぎりのところにいるかもしれません。サタンは「あなたがたが神のようになる」(創世記35と誘惑しました。私たちはたとえ大きなことを成し遂げたとしても、神さまのしもべであり、すべての栄光は主に帰すべきです。

 イエス様は「人に惑わされないように気をつけなさい」とおっしゃられました。偽モノが多くあるからと言って、本物がないという理由にはなりません。たとえば、ニセ札を例にとって考えたいと思います。千円札のニセ物ではコスト高になります。かといって、10万円札を造ってもすぐニセ物とバレてしまうでしょう。だから、偽札造り屋は1万円の偽札を造るのです。もし、世に偽1万円札が出回っているとしたら、人々は1万円札を使わないでしょうか。本物があることをちゃんと知っているので、1万円札を使います。同じように、この世にニセモノがあるから、宗教はみなおかしいと考えるのは早計です。キリスト教のニセ物が多いのは、本物にまねようとしているからではないでしょうか。銀行員はどのように偽札がわかるのでしょうか。彼らは偽札にどのようなものがあるのか研究しません。いつも、本物のお札を見て触っているので、偽札がすぐわかるそうです。私たちもいつも本物に触れていたら、だまされることはありません。

2.戦争と戦争のうわさ

 マタイ246-7「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」。歴史は戦争の歴史ですが、これは世界をまきこむ世界大の戦争です。20世紀は第一、第二次世界大戦がありました。近年「核拡散防止条約は先進国の我がまま」ということで、インドやパキスタン、北朝鮮も核を持ちました。イスラエルは核を持っているのではないかと噂されています。国同士、核弾頭を世界の主要都市に狙いを定めセットされています。現在のものは広島の何百倍もの威力のある原爆で、そういうのが4つか5つ落ちたら地球が自体なくなるといわれています。そういう、第三次世界大戦がいつ起こるとも限りません。最近、北朝鮮のミサイルが日本海に何発も落ちています。いざという時のため、アメリカ軍の空母やイージス艦が何隻も備えています。まさしく、戦争のうわさに満ちています。

 また、7節には「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」と書かれています。これは単なる戦争ではなく、民族同士の紛争や戦争のことです。第二次世界大戦後、多くの国が独立して平和になったように思えました。ところが、国の中で民族どうしが争うようになりました。たとえば、黒海とカスピ海の間のカフカス地方、アルメニアとかアゼルバイジャンなどです。そして、旧ユーゴ、スラビヤなどの東ヨーロッパでも紛争がありました。東南アジアではカンボジアやミャンマーの内戦がありました。アフリカの場合、植民地時代は安定したように見えていました。しかし、独立した後、民族間の紛争が勃発しました。ケニア、ブルンジ、ルワンダなど部族同士の恐ろしい殺戮がありました。現在のアフリカは、私が小学校で習った地図よりも、はるかに多い国々があります。また、中東のパレスチナの紛争は、世の終りのハルマゲドンの舞台となると言われています。今、この時も世界中の10数か所で紛争が起こっています。  

      

だれしもが平和を望んではいますが、人間には罪があるので戦争をしてしまうのです。恒久的平和は、イエス様が再び来られて、この世を統べ治めるときです。イザヤ24「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と書かれています。本当の平和は神の国の完成時にやってきます。それでは、今は無理なのでしょうか。私たちは何よりも先に、神との平和を持つことが必要です。その次に、隣人どうし愛し合うのです。社会や世の中を変える前に、まず、隣人、夫婦、家庭の平和から始めるべきです。そして変えられた人たちが、はじめて平和な社会を作ることができるのです。私たちクリスチャンは平和を作り出す者として召されています。

3.ききんと地震 

 

 マタイ247「方々にききんと地震が起こります」。ききんというのは、自然災害(干ばつ、津波、火山噴火)や、紛争などによって、突発的に起こる食糧不足のことです。ききんが長期間続くと飢餓状態になります。近年は、熱帯雨林の伐採や焼き畑によって砂漠化が進んでいます。化石燃料を燃やすので、CO2が多くなり地球温暖化が進み、海面温度が上昇しています。そのため世界のあちこちに異常気象が起こっています。あるところでは全く雨が降らず、また、あるところでは大洪水になっています。台風が発生する頻度やその大きさも桁外れです。日本は山地なので、九州沖縄、北海道まで安全なところがないくらいです。

世界ではききんがますます深刻化しています。さらに度重なる内戦が食料不足に追い討ちをかけています。国連WFPなどが発表した報告書によると、世界で約8億人もの人々が飢えに苦しんでいると言われています。これはすごい数字です。全世界の9人に1人が飢えているという計算になります。その中の約2億以上が5才未満の子供達だそうです。10数年前、カンボジアから渡辺宣教師が報告のため当教会を訪れたことがあります。日本は不景気と言われながら、とっても豊かな国です。日本人は1年に数百万人も海外に旅行しているようですが、東南アジアに行かれたら、人生観が変わるのではないかと思います。ゴミをあさっているストリートチルドレン、一杯のミルクをもらうために半日も並んでいる人たちがいます。当教会のCSでも参加していますがチャイルド・スポンサーがあります。毎月4,500 円を送れば、1人の子供が食べて学校に行けるそうです。また、キリスト教の国際飢餓対策機構もあります。ハンガーゼロを目指しています。今、アフリカのモザンビークで宣教しておられるヒンディ・ベイカーの本を読んでいます。世界で最も貧しい国であり、親から見捨てられた子どもたちが道路で倒れています。ベイカーご夫妻はあえて、極貧の国へ行って、ゼロから開拓しました。彼らにパンを与えるだけではなく、自分の子どもとして迎え、ハグして、自分がだれかを教えてあげました。瞬く間に6000の教会ができ、100万人が救われました。

世の終わりには、大きな地震がたくさん発生します。インターネットで『全世界のマグニチュード6以上の地震の発生数と推移』という記事を見ました。マグニチュード6以上の地震は、1890年から1960年にかけて、1年で1件以下のペースでした。ところが、1970年からは1年間で5件位になりました。ところが、2000年以降は突然、大きな地震が増加しました。1年間に35から45件発生しています。日本でも2011年、東日本大震災がありました。マグニチュード9で、日本周辺における観測史上最大の地震でありました。津波被害と原発事故のため、今も苦しんでいます。近々、関東や東海沖の地震もあるかもしれません。昔、葛飾区役所からお電話がありました。「大震災のとき、教会ではどのくらいの方を安置できるでしょうか。お寺さんにも同じような通知をしているのですが」という問い合わせがありました。その時は役員会で相談してからと申し上げ、後でお断りしました。「教会は亡くなった人よりも、生きている人を助けるようにすべきかなー」と考えたからです。

 今から35数年前、韓国の申賢均牧師が幻を見たそうです。ある日の早天祈祷会の後、体を伸ばしてウトウトしていました。すると、目の前に高層ビルが見えました。突然、ビルに亀裂が入り、「ガラガラ、ドスーン」とものすごい地響きで崩れたそうです。申賢均先生は、ガバット跳ね起き「主よ、これは何ごとですか」とお聞きしました。すると、主が「これは日本の東京だ。日本が悔い改めなければこのようになる」とおっしゃったそうです。それから、申先生は毎年に45回、リバイバルの火を付けるため日本に来られました。聖会で何度もお会いしましたが「愛なる神は、あのニネベの町のように、さばきではなく、救いを与えようとしておられる。それでも、日本が偶像崇拝と淫乱の罪を悔い改めなければあのようになる」と、おっしゃっていました。申先生は既に、天にお帰りになられましたので、私がその遺志を継ぎたいと思っています。神様は地を揺り動かして、霊的なききんを与えようとしておられます。その時は、大勢の人々が教会にやって来るでしょう。そのため、ちゃんとした受け皿を教会は持たなければなりません。まさしく、産みの苦しみのはじまりが来ようとしています。

4.迫害、背教、にせ預言者

 リバイバルと迫害は密接な関係があります。現在、リバイバルが起こっている中国の地下教会やインドネシアにも迫害があります。トルコやパキスタンでは、自分がクリスチャンであると言うと危険です。アフリカの国々の教会もイスラムからの迫害があるようです。これから、日本にも本格的なリバイバルが来ることを信じます。その時に、聖書に書かれているような迫害も起こるでしょう。迫害で本当の信仰があるかどうか試され、救われる人も多いのですが、つまずく人や背教者も多く出てきます。ある人々は「神様はそれぞれの国の文化に、様々なかたちで現れたのだ。だから、どの宗教でも救われる。特定な宗教だけの救いを言うのは偏狭だ」と言うでしょう。しかしそれは間違っています。使徒4章でペテロが言いました。「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」アーメンです。皆さんは、お薬屋さんに行って、風邪をひいているのに、水虫の薬を出されたら、あぶないと思うでしょう。罪にきく薬は新約と旧約に示されるイエス・キリストだけです。

 

11節「にせ預言者が多くの人々を惑わす」と書かれています。最後の大患難の時には「獣と反キリストとにせ預言者」が現れます。しかし、世の終わりにも数多く現れるということです。特に問題とされるのは、「世の終わり」についての預言です。これまでも、世の終わりが来ると何度も預言されていました。ノストラダムスの大預言というのがありました。しかし、最近は聖書がはっきり述べていないことを断定的に言うものがあります。あるブログには「バチカン、イエズス会、イルミナティ、ロスチャイルドなどの陰謀論は極端すぎる」と書いてありました。「世間の裏情報」にはまりすぎるのは「にせ預言者」の思う壺ではないかと思います。また、世界的に有名な伝道者や大教会の牧師を「にせ預言者」と詮索するのも反対です。それでも、私はマイクロ・チップ国民総ナンバー制には、反キリストが準備をしているのではないかと思います。ヨハネの黙示録の書き出しは「イエス・キリストの黙示」と書いてあります。世の終わりは、サタンや反キリストではなく、イエス・キリストが現れるということなのです。世の終わりの教会は、なまぬるいラオデキヤの教会になります。ラオデキヤの教会への勧めです。黙示録318「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」私たちは霊的に目覚め、にせ預言者に翻弄させられることがないようにすべきです。そのためには聖書の正しい解釈とキリストの御霊に導かれる必要があります。

5.不法がはびこる

 マタイ24:12-13「 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」世の終わりには「不法がはびこり、愛が冷える」と預言されています。一昔前までは、「罪とは人間は進歩の途上のことである。教育を施せば人間は罪を犯さなくなる」と言われていました。ところがどうでしょう。人間は教えられた知識を使って、もっと巧妙に罪を犯すようになったのです。昔は、「よしのぶちゃん誘拐事件」がものすごいショックでした。しかし、今は、殺人事件は日常茶飯事であり、「またか」と心が麻痺しています。まず、刑事もののドラマが良くないと思います。犯罪の仕方を教えています。また、最近のドラマでは一人ではなく、4,5人殺されています。若者たちは戦争のゲームにはまっています。彼らはバーチャルと現実の境目がなくなるのではないでしょうか?「愛は冷たくなり」とありますが、犯罪だけではありません。離婚率が高まり、崩壊している家庭が多くあります。親がいるのに、養護施設に入らざるを得ない子どもたちがいるとは何と悲しいことでしょう。

 パウロが世の終わりに人々がどのようになるか私たちに警告しています。Ⅱテモテ31-5「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」聖書は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じています。終わりの時代は「こういう人々を避けなさい」と言われています。神の武具で身をまとい、御霊の知恵をいただきながら、人を愛することが必要でしょう。

6.福音宣教

マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」奥山実先生もおっしゃっていましたが、これこそ、再臨の最も画期的なしるしです。この意味は、世界のすべての人が信じたらキリストが来るというのではなく、「世界のすべての人が福音を聞いたら」であります。福音はエルサレムから始まり、ヨーロッパ全土に広がりました。やがて海を渡りアメリカ大陸に伝わりました。そして、20世紀はアジア、アフリカの時代です。韓国、インドネシア、中国がリバイバルされました。アフリカでもウガンダ、タンザニア、ザイール、ナイジェリア、南アフリカなど大半がクリスチャンだそうです。でも、イスラム教徒からの迫害もあります。ラインハルト・ボンケ宣教師が、アフリカの各地で伝道しました。1回の集会に多いとき50万人も集まったときがありました。彼は年間800 万人の人々にメッセージを語り、200 万人の人々が救いを受けたそうです。現在、Cfanという団体が、宣教活動を受け継いでいますが、2015年で7500万人以上の魂が救われたそうです。残されているのは、イラン、イラク、トルコ、サウジアラビアなどのイスラム圏です。そして、最後にはユダヤ人に戻るのです。最近はユダヤ教徒からクリスチャンになる人がだんだん起こされています。福音は地球をまもなく1周することでしょう。聖書もすべての国民部族が読めるように、1千以上の民族の言葉に翻訳されています。また、ラジオ、テレビ、衛生放送で、世界のどの場所にも福音が伝えられるようになりました。つまり、福音が全世界に宣べ伝えられつつあるのです。そして、終りがきます。

こう考えますと、日本の教会、クリスチャンというのは、やはり島国的な信仰だなーと思います。目先の自分の所のことしか考えていません。世界のことより、自分の教会が少しでも成長しないかなーと思っています。青年たちは、時々、短期宣教に行きます。インドやフィリッピンなどで、伝道すると不思議なくらいに多くの人が救われるそうです。青年たちは本当に変えられて帰ってくるそうです。伝道は簡単だと思うわけでしょう。日本の電化製品はあらゆるところまで行っています。日本人が宣教に出かけたら、現地の人は「優秀な日本人がわざわざやってきた」と歓迎するようです。日本の教会は黙示録のラオデキヤのように、なまぬるいかもしれません。やはり、世の終りが来るという、再臨信仰がボンヤリすると、信仰もボンヤリしてしまいます。ただいま、6つのポイントで申しあげましたが、イエス様は世の終りの前兆を示しながら、いくつかの注意点を与えておられます。第一は「人に惑わされないように」です。偽キリストや戦争のうわさに気をつけて慌てないようにするということです。ききんや地震があっても、それらは「産みの苦しみのはじめなんだ」というのです。今は聖書の他にたくさんの本が世の終りのことを書いています。どうぞ、だまされないようにしましょう。聖書が言う「希望の終末論」を持ちましょう。第二は「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と書かれています。これは、大勢の人がつまずいても、迫害が起こっても、信仰を捨てないということです。キリストは花婿であり、教会はキリストの花嫁です。神さまのみこころは、世の中がどうであっても、花嫁がきよく美しい状態になるということです。私たちは、キリストを待つ花嫁なる教会です。

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2017年10月20日 (金)

内側をきよめよ マタイ23:23-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.22

 きょうの箇所はあまり読みたくないところです。私は宗教をやっているとは思っていませんが、宗教が陥りやすいポイントを教えてくれます。逆を言いますと、「宗教的にならないように、こうしなさい」と教えてくれてくれる箇所だと思います。きょうは3つのポイントで、偽善者にならないための教訓をいただきたいと思います。 

1.細則よりも精神を

 マタイ2323-24 「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。」律法学者、パリサイ人は規則を作るのが大好きでした。律法自体は悪くありません、むしろ良いものです。しかし、彼らは律法を解釈して適用するときに、細かい規則を作りました。大切なのは、律法の精神を捉え、聖霊に導かれて生きれば良いのです。それを「こういう場合はどうする」「あのような場合はどうする」と決めるので、律法の精神からずれてしまうのです。今日も学校や会社でたくさんの「細則」がありますが、人間の自由と尊厳を奪っているように思います。当教会でも「亀有教会理念」の中に「細則」を設けています。しかし、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ514を一番最初に記しています。もし隣人を自分自身のように愛したなら、罪を犯すことがなくなるからです。世の中に数えきれないほどの「きまり」があるのに、教会に来てまで「きまり」を作ったならどうなるでしょう?パウロは「律法は私たちの肉を刺激して、罪を犯させようとする」と言いました。「するな」と言われればしたくなるし、「せよ」と言われれば、したくなくなるのです。規則を作って、寝ている子を起こす必要はありません。

 ところが、偽善の律法学者、パリサイ人は、10分の1のささげものを細かいものまで決めました。自分たちも「はっか、いのんど、クミンなどの十分の一」を納めていました。これらすべては香料のための種子とか葉っぱでした。そういう収穫物まで、10分の1を適用していたのです。でも、彼らはもっと重要なことを無視していました。イエス様は、「律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われました。「はるかに重要」とは、原文では、「より重いもの」と書かれています。なぜなら、「はっか、いのんど、クミン」は軽い種子か葉っぱだったからです。彼らは「10分の1」はささげていたかもしれません。でも、もっと重要な正義とあわれみと誠実を、おろそかにしていました。つまり、生活の中でそういうものが見られなかったということです。規則一辺倒で、律法の精神がなかったということです。宗教に、正義とあわれみと誠実が重要だなんてだれが思うでしょうか?仏教では「あわれみ(慈悲)」というのは言うかもしれません。しかし、そこに正義とか誠実が同居できるかということです。聖書の神さまは、あわれみだけではなく、正義と誠実を要求されます。なぜなら、神さまご自身が、義であり、あわれみであり、誠実(good faith)なるお方だからです。極端に言いますと、細かい律法を守るよりも、正義とあわれみと誠実を求めて生きれば良いということです。それをコンプライアンス遵守とか言うので、いやになるのです。あるテレビ番組で公務員を辞めた人が、田舎で野菜作りをしていました。彼は「ここではコンプライアンスもないし、体重も減って健康になりました」と言っていました。コンプライアンスと体重は関係ないと思いますが、かなりのストレスになると思います。人間は見張られて生きるよりも、自由と尊重の中で生きたら、正しいことをしたくなるのです。だから、イエス様は細かい規則を作って人を縛るのではなく、正義とあわれみと誠実を重んじるように言われたのです。

 23節にの最後に「十分の一もおろそかにしてはいけません」と書かれています。しかし、これは聖書に書かれていません。正しくは「他のものもおろそかにしてはいけません」です。おそらく、新改訳聖書を作った人が、教会に「10分の1献金」を勧めるために書いたのでしょう。でも、「10分の1献金」は聖書的なことは間違いありません。しかし、彼らがしたように、これを律法化して教会員に強要するなら、逆効果になります。ある教会は、「10分の1献金は教会を支えるための大切な資源となりますのでお捧げください」と勧めています。そして、洗礼を受けるとき、教会員の義務として、誓約をさせられます。しかし、献金は教会を支えるために捧げるではありません。それだったら、どこかの団体と変わりありません。献金は会費や活動費ではありません。これは神さまに捧げるものです。神さまがすべてのものを与えて下さっているので、そのことを感謝してささげるのです。神さまご自身は富んでいますので、ご自分は必要でありません。神さまは、私たちがささげた献金を宣教や教会活動のために戻してくださるのです。さらには、捧げた分の30倍、60倍、100倍にして、兄弟姉妹に報いてくださるのです。喜んで捧げる人には、神さまは喜んで報いてくださいます。どうぞ、教会に献金をささげると思わないでください。献金は、神さまご自身に捧げるものであり、神さまご自身が捧げた一人ひとりに報いてくださるのです。もし、「10分の1献金」を律法にするなら、どうなるでしょう?「私は10分の1をささげているから立派なクリスチャンなんだ」と自分を誇るでしょう。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょう?「あなたは律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と言われるでしょう。正義とあわれみと誠実は量ることができません。献金のように、数字に出ないのでわかりません。でも、私たちが正義とあわれみと誠実を追い求めていくとき、神さまは喜んでくださいます。なぜなら、神さまは規則を守っているかよりも、私たちの生活自体に興味があるからです。律法の細則よりも重要なのは、律法の精神です。正義とあわれみと誠実は父なる神さまのもとからやってきます。正義とあわれみと誠実に富んでおられる神さまをあがめましょう。その結果として私たちは神さまの祝福を受け、恵みによって細かい律法も守ることができます。

2.外側よりも内側を

マタイ2325-26「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」「杯や皿の外側はきよめる」とはどういう意味でしょう?彼らは儀式に用いる杯や皿の外側を磨いてきよめました。確かに、レビ記には、聖別された器を流れる水で洗うシーンがあります。イエス様がおっしゃりたいのは、外なる人のことではなく、内なる人のことであります。外なる人というのは私たちの外側です。容姿や着ているもの、言葉使いや態度です。人は外側を見ます。お化粧に長い時間をかけるのはそのためです。サプリメントやエステサロンでスタイルをキープします。外側が良く見えると、なんとなく内側も良さそうに見えるのが人間であります。私たちの目は外側で90%ぐらい判断してしまうところがあります。つまり、見てくれで決めてしまうところがあります。でも、その人と会話すると、内なる人がばーっと出てきます。その人がどういう人なのか分かるのに30分かからないでしょう。教会にセールスの方がやって来ます。ことば使いが上品であっても、「怪しいな?」と思うときがあります。でも、私は騙されやすい方なので、大きなことは言えません。私たちは内なる人にどれくらいウェートを置いているでしょうか?それは教養だけのことではありません。ガラテヤ人の手紙には「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊が結ぶ人格的な実が上げられています。創造力、知恵、勤勉さ、安定感、高潔さも内なる人の魅力です。

偽善とは「演技をする」「仮面をかぶる」というところから来ています。律法学者、パリサイ人たちは外側をきよく見せるにはプロだったのでしょう。お祈り、作法、断食、施し、聖書研究、何をしてもすばらしくて「聖人」に見えたのではないでしょうか?でも、イエス様は彼らの内側を見ることができました。Ⅰサムエル167「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。彼らの動機や願い、隠れた所での行いを見ることができました。イエス様は、「その中は、強奪と放縦でいっぱいです」と言われました。強奪というのは、「引ったくる」「奪い取る」という、泥棒みたいなことです。放縦は、「不節制」「自制力のない」という意味です。なんと、「外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいだった」ということです。「欲しくてたまらない。隙あらば、いただいちゃおう」「飲んで、食べて、楽しみたい」というのが本音でした。仮面の下から、ギラギラした目が見え、口元からよだれが垂れていたのです。まるで、中世の貴族たちが催した仮面舞踏会のようです。宗教もそのように、なってしまう傾向があるということです。「統一教会」というのが今も名前を変えてあるようです。彼らは人の相談を良く受けます。しかし、その人の家族構成や財産を調べています。その自身に価値がなければ、実家の土地財産に手を伸ばします。教団のために、30年くらい働かせて、年取ったらポイです。世の中にいろんな占いやカウンセラーやいますが、新興宗教と結びついているものがたくさんあります。外側はきよくて正しく見えても、内側は強奪と放縦でいっぱいです。

では、「私たちキリスト教会は大丈夫か?」というと、そうでもありません。もちろん、律法学者、パリサイ人、新興宗教の人たちとはレベル的には違うでしょう。でも、外側よりも内側に気を配る必要があるということです。昔は、それがあまりにも強調され過ぎていました。お化粧しない、服装も粗末で、贅沢は敵だという考えがありました。矛盾しているようですが、ある程度は、外側に気を配る必要はあると思います。私も生協に買い物に行きますが、「ああー、この人髪を染めたら、若く見えるのになー」と思うことがあります。「私自身が頭ボサボサで行ってるのに、人のこと言えないなー」と思いますが。話は戻りますが、教会が陥りやすい罪は、偽善です。外側を霊的に見せるということです。アメリカの教会のように、Sunday clothingに身を固め、しゃなりしゃなりと座席に着きます。教会の礼拝も伝統的でとても整然としています。手を上げて歌ったり、通路から出て、踊ったりはしません。途中で「アーメン」みたいな合図地も打ちません。礼拝が終わっても、大口を空けて笑ったりはしません。「感謝します」と軽く挨拶して、家に帰ります。そして、教会でかぶっていた仮面を脱ぎます。「ああー、やれやれ。ワーシップの歌、長かった―。鈴木牧師の話、つまらなかったー。」とか言います。横になって煎餅をかじって、録画していた韓国ドラマを見ます。平日はこの世の人と全く変わりありません。日曜日の朝になると、教会用の仮面をつけて行きます。「感謝します。恵まれました」と挨拶して、帰ってきます。そして、仮面を脱いで「ああー、やれやれ。鈴木牧師の話、ちょっとはマシだった」と言います。

 申し上げますが、礼拝は鈴木牧師の話を聞きに行くのではありません。当教会で自慢できることがあるとするなら、偽善者がほとんどいないということです。いや、全くいないということです。ハレルヤ!アーメン。なぜでしょう?牧師がありのままで生きているからです。少しは牧師らしくしてもらいたいのですが、みんな諦めています。最近、日本の教会では「霊性」ということがとても強調されています。おそらく、カトリックのヘンリ・ナーウェンの影響かと思われます。霊的な生活をとても強調して、日本人に好まれています。でも、あまりにも内省が多いように思います。内省とは自分に罪がないか、傷ついたところがないか見つめることです。しかし、バランス的には後ろ向きな感じがします。私は前からディボーションを強調しています。でも、自分も見つめること以上に、私をご覧になっておられるイエス様を見ます。イエス様から見た自分は、結構、慰められ、希望が与えられます。エリヤハウスも福音派に根付いて来て大変結構だと思います。でも、お互いの傷とか罪にポイントが行って、どうしても後ろ向きです。過去の根をほじくりすぎるところがあります。エリヤハウスはサンフォード師の預言者学校から生まれたものです。そして、預言とはその人の罪をあばくのではなく、泥の中に埋まっている宝を発見するものです。私は、本当の霊性はイエスさまを仰ぐことであり、主の臨在と共に生きることだと思います。旧約時代は杯や皿の外側に油を塗って聖別しました。今日的には、外側に聖霊の油注ぎを受ける必要があります。聖霊によって内側をきよめていただき、同時に、外側に聖霊の油注ぎanointing を受けましょう。

3.かたちよりも命を

マタイ2327-28「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」当時のお墓は、石灰で白くしていました。なぜなら、そこに触れると汚れるからです。イエス様は彼らを「白く塗った墓のようなものです」と言われました。考えるのもぞっとしますが、外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。マタイ23章は「ああ、わざわいだ」と偽善者たちを糾弾している箇所です。「白く塗った墓」のたとえは、23章の頂点と言えるかも知れません。それほど、表現が強烈だからです。バプテスマのヨハネもきつかったですが、イエス様も結構きついですね。これはどういうたとえかと言うと、彼らの生活が外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだということです。英語の聖書は、「外側は本当に美しく見える」と書いてあります。彼らは見せかけと虚偽のプロでした。この世にたくさんの詐欺師がいますが、彼らは宗教的な詐欺師でした。でも、それが何のメリットがあるのでしょう?人々から「先生」とか「父よ」と呼ばれるのがそんなに嬉しいのでしょうか?あるいは、宗教的な権威が与えられ、人々の上に立つことがそんなに名誉なことなのでしょうか?私も大教会の牧師になって、「先生」と呼ばれたら気持ちが良いかもしれません。60人くらいの会衆では、「ちょっと」という感じがします。つまり、自分に本質的なものがないなら、虚栄心を張りたくなるのかもしれません。虚栄心、自分を大きく見せたい。これは、人間の欲望であり、宗教はそれを満たすことができるのかもしれません。

でも、問題は中身です。外側は本当に美しく見えるかもしれません。では、内側はどうなのでしょうか?死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。考えるだけでもぞっとしますが、これこそが宗教が到達するところです。白く塗られた墓の下には、死があるということです。旧約聖書に、当時のイスラエルに対することばがあります。エレミヤ213「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」「湧き水である泉」とは、生ける真の神です。泉はたえず流れるので、いつも新鮮です。一方、水ためはどうでしょうか?流れないので、腐って虫が湧きます。当時、イスラエルは、まことの神ヤーウェから離れ、バアルの神さまを礼拝しました。バアルは偶像礼拝であり、人間的な宗教です。しかし、命がないので、罪と腐敗が生じてきます。人は真の神を捨てるとき、中立になるのではなく、直ちにまがいものの神を求め始めます。日本人がその典型です。日本人は「私は神なんか信じない」と言う人がたくさんいます。しかし、困ったときなどは、偶像の神さまに願います。いろんなジンクスを恐れて生きています。私たちキリスト教会はどうでしょうか?もちろん、イスラエルのような偶像礼拝はしません。しかし、命であられる真の神さまと交わっているかどうかです。教会でもイースターやクリスマスの年間行事、礼拝プログラム、毎月の役員会、年度総会、悪いわけではありません。しかし、聖霊様が介入する余地がないとするなら、人間的な宗教になってしまいます。もちろん、神さまは秩序の神さまですから、何か変わったことをすべきだということではありません。重要なのは、神さまの恵みはたえず流れているということです。人間の行事や時間の枠に留めることはできません。ある時、ランディ・クラーク師がトロント空港の近くの教会に招かれました。すると聖霊が降ってきて、40日間ぶっ続けで集会を持ったそうです。多くの癒しや奇跡が起こったので、そのニュースを聞いた人たちが国を超えて集まってきました。そこから、トロント・ブレッシングというリバイバルの流れが起こりました。でも、人々がそこで笑い出し、動物の声で鳴く人たちも現れました。本部のヴィンヤード教会は、「あそこは危ない」とヴィンヤードの群れから追い出したそうです。なぜなら、自分たちの理解の枠を超えていたからです。リバイバルは神さまの働きですが、カオス(混沌)も一緒に現れます。だからと言って、聖霊の流れを止めてはいけないと思います。

私たちはかたちよりも命を求めるべきです。外側の美しさ、見栄えも良いかもしれません。ヨーロッパに行くと、荘厳なカセードラル(寺院)がいっぱいあります。しかし、そこには命がなく、観光地になっています。なんと、イスラムの人たちが教会堂を購入しています。建物や伝統があっても、いのちがありません。聖霊様がそこにいないということです。聖霊様がいない教会はないと言うかもしれません。しかし、聖書には「御霊を消してはなりません」(Ⅰテサ519)とあります。そうです。キリスト教会と言いながらも、聖霊が眠っておられる教会はたくさんあると思います。彼らは「奇跡とか預言は困ります。もうないのですから」と神さまを枠の中に入れています。彼らの神学や伝統が聖霊の自由な働きを締め出しているのです。まさしくそれは、こわれた水ためです。私は、日本の教団はそういう危機にあると思います。近年は、教団教派に縛られない教会が成長しています。なぜなら、聖霊の働きをいち早くキャッチして、その波に乗れるからです。ある人が言いました。「私たち人間は波を起こすことができません。波を起こすのは神の霊です。リバイバルとは、神さまが起こしてくれた波に乗ることです」と言いました。私たちはサーフィンの人たちから学ぶ必要があります。彼らは地味にパトリングをしながら波を待っています。波が来たなら、パッと乗ります。そして、できるだけ長くその波に乗ります。でも、その波は消えます。そうすると、彼らは次の波に乗り替えます。波は次から次とやってきます。重要なのは、その波をとらえて乗り続けることです。そして、その波が過ぎ去ったら、次の新しい波に乗り替えることです。ある人たちは昔のリバイバル、昔の成功に固執して、同じようなことを求めています。でも、神さまは全く、新しいことをするかもしれません。私たちの内側には、キリストのいのち、復活のいのちがあります。死に打ち勝つのは復活のいのちです。ヨハネ738 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」聖霊の川が私たちの中から、この世に向かって流れて出ていきますように。

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2017年10月13日 (金)

偽善者になるな マタイ23:13-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.15

 みなさんは、テレビや映画で好きな俳優はおられるでしょうか?「偽善者」は、もともとは、俳優がある役を演ずることから来ています。簡単に言うと、偽善者とは、信仰深いようなふりをしているということです。イエスさまは「わざわいだ」と律法学者やパリサイ人たちを糾弾しています。私も世の中からみると「宗教家」になりますので、耳が痛い箇所であります。でも、牧師は「教役者」と呼ばれますので、「役者」にならないように気を付けたいと思います。

1.間違った熱心 

 偽善者は、外見は熱心なので信仰深く見えます。新興宗教をしていられるほとんどの人は熱心です。人々は彼らの熱心さゆえに信じてしまうかもしれません。律法学者やパリサイ人たちは何故わざわいなのでしょうか?13節には「人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません」と書いてあります。つまり、人々が救われないように熱心に妨害しているということです。最初、バプテスマのヨハネが荒野で福音を語りました。そのとき、ヨハネは彼らに向かって「まむしのすえたち、…悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と警告しました。彼らは反対に、「ヨハネは悪霊につかれている」と悪く言いました。次にイエス様が福音を語りました。すると彼らは「イエスは食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と批判しました。イエス様は「取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入って入るのです」(マタイ2131と告げました。彼らは自分たちが拒絶しただけではなく、他の人が信じるのを妨げました。まるでそれは、天の御国の入口を塞いでいるようなものでした。福音書を見るとそのことが良くわかります。大勢の人たちがイエス様の教えを聞きに集まって来ました。そのとき、イエス様の周りに律法学者やパリサイ人たちが座りました。イエス様を睨みながら、あら捜しをしました。そして、色んな難問をふっかけ、イエス様を陥れようとしました。もし、私が礼拝メッセージ中、前の席の人から「そんなのウソだ。神なんかいない」と言われたらへこみますね。亀有教会の人たちは「アーメン。アーメン」と熱心に聞いておられます。演技をしていないことを信じます。

 14節には「やもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしている」と書いてあります。彼らは、弱くて頼る人もいないやもめに対して、長い祈りをしてあげました。いくらかでも、お布施をいただきたかったからです。「食いつぶし」というのは、「食い物にする」という意味です。新興宗教の人たちは病気の人や身寄りのない人たちの世話を良くします。一見親切そうに見えますが、票を獲得するためであったりします。私もある人のため癒しの祈りをしようとしました。すると「キリスト教も祈るのですか?」と言われました。おそらく「人の弱みに付け込んでいる」と警戒したのでしょう。今は、お年寄りの人に親切にすると、かえって怪しまれます。預金や財産目当てだと思われるからです。浦和に便利屋さんをしている牧師がおられます。ふすま貼りやクロス貼ります。いただいた代金はすべて教会に回して、自分は定まった給与を教会からいただいているそうです。ご用向きで行くと「え?牧師さんなの」とおどろかれるそうです。休憩の合間に、人生相談を受けるので伝道にもなるということです。イエス様は偽善の律法学者、パリサイ人に「おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます」と言われました。「罰を受ける」というのは「永遠の断罪を受ける」ということです。それだけ、弱い人たちを食い物にするというのは罪が重いということです。なぜなら、父なる神さまがそういう人たちを最も心配しているからです。イザヤ書58章に、神が好む断食について記されています。それは「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」(イザヤ587と書いてあります。初代教会では、教会あげてやもめたちの世話をしていました。しかし、配給のことで問題が起りました。そのとき、どうでも良い人たちが世話をしたのではありません。教会は、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選んで、その仕事に当たらせました(使徒63)。それらは、とても重要であったということです。

 15節には、彼らは改宗者を得るためにとても熱心でありました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。」「改宗者」というのは、ユダヤ教に改宗するという意味です。彼らの先祖は、バビロン捕囚のため国外に散らされました。そのとき、方々に会堂を建てて信仰を守っていました。イエス様の頃は、小アジヤやギリシャにも会堂があり、あちこちにユダヤ教徒がいました。それだけ伝道熱心であったということです。でも、その熱心は間違った熱心でありました。パウロがまだサウロであったとき、キリスト者を撲滅するために、とても熱心でした。しかし、復活の主に出会ったとき、キリストご自身を迫害していることであると悟りました。回心したパウロは、キリストを熱心に宣べ伝える人になりました。そして、今度はユダヤ教徒から命を狙われるようになりました。やがてパウロは小アジヤ、ギリシャ、ローマまで福音を伝えに行きました。しかし、強烈に迫害したのはユダヤ教徒たちでした。イエス様は彼らの弟子訓練を「自分より倍も悪いゲヘナの子にする」とおっしゃっています。最近はイスラムの過激派のことが報道されます。しかし、どうやって自爆テロにするのか不思議であります。若者たちに、間違った熱心を植え付けています。

 日本人は「まじめさ」とか、「熱心さ」をとても重んじる国です。しかし、その対象が真実で永続的なものであるかがより重要ではないでしょうか。なぜなら、悪魔だってまじめです。まじめに人々を誘惑し、悪い事をしているからです。また、「熱心さ」でもあぶない熱心があります。アイドルを自分だけのものにしたくて、何でもします。自己中心的な愛であり、相手のことを考えていません。若者たちが野外コンサートでずーっと立って、踊っているのをテレビで見るときがあります。あのエネルギーはどこから来るのだろうと不思議に思います。もっと、正しい使い道があるのではと「おじさん」は心配するのであります。パウロが律法主義のユダヤ教徒にこう述べています。ガラテヤ417「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」パウロの時も、一人の改宗者を得るために熱心であったということです。彼らの熱心は肉による熱心であり、聖霊から来たものではありまさせん。本当の熱心は神さまから来るものです。正しい福音理解と聖霊による恵みこそが、真の熱心であると信じます。パウロは「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ1211と言われました。異端の人たちは私たちよりも熱心なところがあります。それは一人でも多く改宗者を得るためです。私たちは教会や教団のためではなく、純粋な救霊愛を持ちたいと思います。肉の熱心さもある程度のところまでは行きます。しかし、私たちは聖霊による熱心さ、みことばに基づいた熱心さを持ちたいと思います。

2.間違った誓い方

 聖書の中に「誓い」が時々、出てきます。約束でもっと重要なものが「誓い」と言っても良いかもしれません。当時のユダヤ人、特に宗教家たちはいろんな誓いをしていたようです。でも、誓ったことは必ず守らなければなりません。律法学者やパリサイ人はどのような誓いをしていたのでしょうか?イエス様が彼らの誓い方を具体的に取り上げています。第一は神殿に関するものです。マタイ2316,17「『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。」これはどういう意味でしょう?彼らは神殿をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「神殿の黄金をさして誓ったなら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は黄金を聖いものにするのは神殿であり、神殿の方が大切なんだと言いました。つまり、神殿をさして誓ったなら、その誓いも果たさなければならないということです。さらにイエス様は21節で「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです」とおっしゃいました。神殿の背後には神さまがおられるのであり、それは神さまに誓っているのと同じだということです。つまり、律法学者やパリサイ人は何とか言い逃れができるように、へりくつを考えたのです。

 第二は祭壇に関するものです。マタイ23:18-19「 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。彼らは祭壇をさして誓ったものは、果たす必要がないと言っているのです。しかし、「祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない」と言いました。イエス様は供え物を聖いものにするのは祭壇であり、祭壇方が大切なんだと言いました。そして、20節で、「祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」と言われました。私たちの頭ではちょっと理解できません。ユダヤ人は神の名を使うことを非常に恐れていました。こういうみことばが聖書にあります。レビ記1912「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」つまり、彼らは主の名によって誓うことはしませんでした。その代り、神殿とか祭壇に取り換えました。はたまた、黄金とか供え物をさして誓ったりしました。何をさして誓うかが問題とされました。しかし、イエス様は何に対してであっても、誓いは誓いなんだと言われました。

 第三は天を指して誓う誓いです。22節「天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」このことは、マタイ5章にも書かれています。「すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。」(マタイ534,35)と言われました。彼らは神以外のもので誓ったなら、果たさなくても良いと言い逃れを考えたのです。でも、天には神の御座があるので、神さまに誓っていることなのです。

イエス様は、すべての誓いが神にかかわっており、実行する責任があると教えました。しかし、もっと言うと、できそうもないことは誓わない方が良いということです。マタイ5章でイエス様はこうもおっしゃっています。マタイ537「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」それ以上のこととは、何かを指して誓うということです。「はい、…します」と言ったことをそのまま実行すれば、誓う必要はありません。「いいえ、…しません」と言ったことをまま守れば、誓う必要はありません。不誠実な人ほどよく誓います。「いのちをかけて誓います」「名誉にかけて誓います」「神かけて誓います」。まるでシェークスピアかヘミングウェイであります。つまり、演技をしているように思えます。演じている自分に酔っているのかもしれません。私は「きっと〇〇します」「絶対○○します」みたいなことは言わないように気を付けています。なぜなら、そうできなかった場合、信用を失うからです。でも、自分が言ったことばを実行しようとは務めています。詩篇にすばらしいみことばがあります。詩篇154「損になっても、立てた誓いは変えない。」とあります。私が23歳の頃、小さな貿易会社で働いていました。先輩の部長はクリスチャンで私を導いてくれた人です。あの頃は、インドやバングラディッシュ、アフガニスタンに中古衣料を輸出していました。ワイシャツや毛布が大変重宝され、梱包して横浜や神戸から送りました。最初は向こうのバイヤーと契約を交わします。その後、L.Cが送られてきたら出荷します。たとえば1キロ1ドルでワイシャツを取引きしたとします。ところが別のお客さんが1キロ1ドル30セントで買うと申し込んできました。ところが社長が口を挟み、前のお客さんには「もうない」と言え、新しいお客さんに売れというのです。先輩は最初、社長に従いました。でも、お客さんが長続きしません。なぜなら、信用を失っているからです。最後に先輩は「クリスチャンとして約束を破ることができません」と言いました。社長は「これが商売なんだ」と、かんかんに怒りました。社長が言うことを聞いてくれないので、先輩と私は会社を辞めることにしました。今、思えば、「せっかくあこがれの英語事務の仕事ができたのにもったいない」。でも、クリスチャンになってもっと大切なものがあると気付いたんですね。そのとき、先輩が教えてくれたみことばが詩篇154でした。「損になっても、立てた誓いは変えない。」のみことばで、あの時のことを思い出します。

 私は結婚式の司式のときも「誓いますか?」とは言いません。「約束しますか?」と少し柔らかめにします。でも、どうして「努力しますか?」ではダメなんでしょう。「努力します」の方が人間的で良いと思います。なぜなら、日本ではカップルの30%が離婚しているからです。教会で洗礼を受けた人も半分近くは、やがて教会に来なくなります。果たして、誓いや約束は重要なのでしょうか?聖書を見ると、神さまが私たちに向かって、誓いや約束を良くしていることがわかります。神さまはご自分の名前によって誓います。なぜなら、他に誓うべき対象がないからです。神さまがなされた誓いや約束は必ずなると信じます。でも、私たちはなぜ、誓ったり約束をするのでしょう?それは自分を制限するためです。自分はそれを必ず果たすんだという心構えができます。そうすると横道にそれたり、誘惑に負けることなく、ひたすら努力することができます。でも、人間は不完全なので、遂行、履行、遵守ということができないことがあります。ことばで誓う時はとても気持ちが良いです。でも、それを実行して行くには、地味でたゆまない努力が必要です。「言うは易し、行なうは難し」であります。箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」とあります。私も信仰によって大きなことを宣言することが多々あります。神さまから来たものでなければ、自分で自分を苦しめてしまいます。そういう意味で、信仰の宣言はもろ刃の剣かもしれません。神さまはご自分の誓いや約束を守るお方です。私たちも神のかたちに似せて造られたので、そういうところがあるのかもしれません。でも、主の恵みによって「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言うことを努めたいと思います。できるだけ言い逃れをせず、真実な道を歩みたいと思います。

3.目の見えぬ者たち

 16節には「目の見えぬ手引きども」17節には「目の見えぬ者たち」19「目の見えぬ者たち」2426節にもあります。なぜ、イエス様は律法学者やパリサイ人にそのようにおっしゃったのでしょうか?イエス様が「目が見える」というとき、ものの見方や考え方を言います。簡単に言うと、目が見えるというのは、物事の真実が分かるということです。英語でI seeは見えるだけではなく、understand「わかる」という意味もあります。では、なぜ律法学者やパリサイ人たちは見えなかったのでしょうか?その一つは、彼らは神さまではなく、人から良く見られたいという虚栄心がありました。内側はどうでもよくて、外側を信仰深く、霊的に見せようとしました。そのため、心が頑なになり、真実を見ようとする力がなくなったのです。彼らはこれまで何度もイエス様の教えを聞きました。また、何度もイエス様のメシヤとしてのしるしを見て来ました。なのに、嫉妬やプライドが邪魔して、イエス様を救い主として受け入れなかったのです。そのため、霊の目がふさがれ、ますます見えなくなったのです。それは、1つの呪いと言えます。本当に不思議です。彼らはいわば、聖書の専門家でした。聖書を研究し、聖書を良く覚えていました。聖書を知的には理解できたかもしれませんが、イエス様を認めなかったので、あるところでストップしてしまいました。聖書を理解するための鍵は、みことばご自身であるイエス・キリストが必要です。イエス・キリストを信じると霊の目が開かれ、聖書が分かります。聖書が分かるだけではなく、それを実行できる力も与えられます。ところが、肝心のイエス様を信じなかったので、真実も力もなく、外面だけを飾って生きる偽善者になるしかなかったのです。イエス様は種まきの譬えで、最後にこう言われました。マタイ1311-12「イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」パウロは、エペソ人への手紙1章で、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになるように」「あなたがたが知ることができますように」と祈っています。

 私たちは神さまの奥義を知りたいと思います。もっと、真実が分かるようになりたいと思います。そのことに対して旧約聖書に2つのみことばがあります。申命記2929「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」もう1つは、箴言252「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」2つのみことばに、共通していることは、神さまは何かを隠しておられるということです。それは神さまのものであり、神さまの栄光です。アダムとエバは「知識の木」から実を取って食べたので、ふたりの目が開かれました。理性的な目は開かれたかもしれませんが、霊的な目が塞がれてしまったということです。それ以来、私たちは何でも頭で理解するようになり、頭で理解できないものは存在しないもののように遠ざけてきました。でも、神さまは多くのものを隠しておられます。人は一生懸命、法則や真理を発見してきましたが、まだ多くのものが隠されています。私たちが知らないことはたくさんあります。隠されていることは神さまのものであり、隠すのは神の栄光です。でも、神さまは父なる神さまであり、王子や王女に見つけてもらいたいのです。父なる神さまは隠すのが目的ではなく、私たちのために見つけ出してもらいたいと願っているのです。律法学者やパリサイ人のような虚栄心ではその目が曇ってしまうでしょう。イエス様とパウロに共通しているのは、神の霊による理解です。頭の理解をこえた、聖霊がくださる理解力が必要です。そのためには、まず神さまと純粋で正直な関係が必要です。なぜなら、父なる神さまは親しい交わりの中で、ご自身の隠されたことを教えてくださるからです。父なる神さまはわが子に、隠されたことを教えてあげたいのです。いや、見つけ出してもらいたいのです。そして、共に喜びたいのです。うわべを飾る偽善者ではなく、子どものように素直で純真な心が必要です。イエス様のことばです。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ1125

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2017年10月 6日 (金)

最も偉大な者 マタイ23:1-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.8

 イエス様はユダヤ教の指導者たちのことを、群衆と弟子たちに向けて語っておられます。現代の私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?強いて言うならば、教会の指導者に対する警告でありましょう。「先生と呼ばれてはならない」とも書いてありますので、ここから説教するには気が重いです。私は別に「先生」と呼ばれたくもありません。私たちは、マタイによる福音書から順番に学んでいますので、飛ばすわけにはいきません。きっとすばらしい恵みが隠されていることを信じます。 

1.彼らのふるまい

 イエス様は「彼らは言うことは言うが、実行しない」と言われました。彼らとは律法学者、パリサイ人たちのことでした。バビロン捕囚から帰った民は、ユダヤ人と呼ばれ、礼拝のスタイルが変わりました。これまでの神殿礼拝よりも、会堂(シナゴーグ)で律法を朗読し、その教えを守ることが中心になりました。やがて、律法を教える人たちが重んじられるようになりました。イエス様の頃は、律法学者やパリサイ人たちが、モーセの律法を解説して教えていました。そればかりか、モーセの律法にないような言い伝えや細則までも強要するようになりました。「重い荷をくくって、人の肩に載せる」とはそのことを意味しています。イエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人を休ませてあげます」(マタイ1128と言われましたが、それは言い伝えや細則からの解放について語っておられるのです。イエス様は「彼らの言うことは、守り行ないなさい」と言われました。モーセの律法であるならば守らなければなりません。でも、「彼らの行いをまねてはいけません」と言われました。なぜなら、彼らは言うことは言うが、実行しないからです。つまり、言っていることとやっていることが一致していなかったということです。本来、律法は守るために与えられたものではなく、人間の罪を示し、救い主に出会う養育係りでした。彼らは律法をこと細かく、教えることはできました。しかし、律法を守る力がありませんでした。生身の人間は、聖霊の助けなくして、律法を守ることは不可能です。かえって、苦しくなり、偽善者たちを生み出すことになります。自分が教えていることを自分が実行できないというのは、命を持っていないということの証拠であります。

 彼らは真実を隠すために、表面を飾りました。自分たちが、いかに信仰深いか人に見せようとしました。「経札の幅を広くする」とは、律法の入った小箱を大きくするということです。申命記6章に「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい」と書かれています。彼らは目立つように、大き目の小箱を額や左腕に結びつけていました。現代で言うなら、大きな十字架を首からぶらさげるようなものです。また「衣のふさを長くする」とは、自分が神さまのことをいつも忘れないというしるしであります。旧約聖書で大祭司は、衣のふさに「ざくろ」のような鈴をつけていました。現代で言うなら、祭服とかガウンであります。ローマ・カトリックやロシア正教の祭服はとてもきらびやかです。それだけではありません。人々から重んじられ、敬意を受けることを大変好みました。だから、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きでした。ここで言われている「先生」とはrabbiラビです。ラビは「ユダヤ教指導者として知識と訓練があり、その職を任された者」でありました。復活の朝、マグダラのマリヤはイエス様を当時のことばで、「ラボニ」と呼んでいます。そういう意味でイエス様もラビのひとりでした。ラビは「尊敬すべき先生」という意味であります。しかし、だんだんと称号、タイトルのようになっていきました。現代の教会でも、按手礼を受けた牧師をreverend と呼びます。Reverendは、聖職者に対する尊称です。ある牧師たちは、Rev.〇〇と名刺に書いています。私も人から重んじられたら、悪い気はしないですね。でも、神さまの栄光を盗む一歩手前まで行くことになります。

 イエス様はヨハネ5章でこのように述べておられます。ヨハネ544「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」イエス様は「人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めなさい」と言われました。ところが、当時の宗教家たちの関心は人でした。「人にみせるため」、「人から先生と呼ばれ」、「人から重んじられる」ことでした。神さまではなくて、人だったのです。旧約聖書には2人の典型的な人物がいます。一人はイスラエルの最初の王様、サウル王です。彼はアマレク人とその家畜を聖絶しなさいと主から命令を受けていました。ところが、牛と羊を取っておきました。サムエルからその罪を責められ、その罪を認めました。しかし、「私の民の長老とイスラエルの前で私の面目を立ててください」とサムエルに頼みました。サウル王は主がどう見るかではなく、人がどう見るか考えていました。一方、二代目のダビデ王はどうでしょうか?彼は大きな罪を犯しました。しかし、「私は主の御前で罪を犯しました」と告白しました。ダビデは主の前に正直に生きた王様です。だから、神さまからとても愛され、王様の模範になりました。先日、イエス様をお乗せしたロバの子についてお話ししました。人々は「ダビデの子にホサナ。祝福あれ」と歓迎しました。ロバの子は、「あれ?私に向かって言っているのかな?」と勘違いして有頂天になるかもしれません。本当は私ではなく、自分がお乗せしているイエス様がすばらしいのです。三浦綾子さんが『ちいろば先生物語』という本を書きました。書評がすばらしかったのでご紹介します。虚飾のない、血のかよった人間味溢れる「ちいろば先生」こと榎本保郎牧師の姿を描く、伝記小説。貧しい家庭に育ち、家の手伝いをしながらも、中学に合格し、積極的な活動をしていた榎本保郎。しかし満州から復員してから、虚無に陥り、生きる目的を失ってしまう。苦労して同志社大学神学部の聴講生になったものの、自殺騒動を起こしてしまうのだ。徐々に落ち着きを取り戻し、神学部にも復学し、神への献身を決意するのだが。自らをイエスの乗り物、小さいロバに擬し、生涯を伝道に捧げた榎本保郎牧師の壮絶な生と死を綴った伝記小説。…私も神さまの前に正直に生きる信仰者でありたいと思います。人がどう見るかではありません。神さまがどうご覧になっているかです。ダビデやパウロのように、主を愛し、主から愛される者になりたいと思います。

2.彼らの敬称

 マタイ23:8-10「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」このところには、彼らが好んで用いた敬称が出てきます。敬称というよりも、タイトルと言った方が良いかもしれません。先生と言うのは、さきほど申しましたがラビです。ラビは「尊敬すべき先生」という意味があります。律法の教師、また人生の教師です。ユダヤでは父親が子どもを教えましたが、ある年齢に達すると、ラビに子どもを託しました。どのラビから学ぶかによって、人生が変わります。ちなみに使徒パウロはガマリエルから学びました。また、「父」という呼び名もありました。預言者エリシャは、エリヤに向かって「わが父。わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」(Ⅱ列王記212と叫びました。つまり、肉親の意味で、あるいは霊的な意味でも用いられたようです。また、師というのは、ギリシャ語で案内者とか教師という意味です。英語の聖書にはmasterあるいはdoctorと書かれています。どちらにしても、そう呼ばれたら悪い気はしないですね。先生、父、師というのは、敬称ということでは問題ないと思うのですが、どうでしょうか?イエス様はなぜ、極端なことをおっしゃるのでしょうか?

 教会でも牧師は「先生」と呼ばれます。しかし、このところでは「先生と呼ばれてはいけない」とイエス様が命じておられます。ですから、ブラザレン系の教会では先生と呼ばず、〇〇兄弟と呼びます。ウォッチマンはウォッチマン兄弟と呼ばれていました。町田のある牧師が著名な伝道者を「〇〇さん」と呼んでいました。私は「それはできないなー」と思いました。自分が言われる分には良いけど、年上の牧師や伝道者を「〇〇さん」は無理です。なぜでしょう?キリスト教会は堕落したのでしょうか?1つはローマ・カトリックの「聖職者」という考えから来たものです。彼らは「神父」、父なる神の代理者みたいに呼んでいます。もう1つは儒教から来たもので、目上の人や何かを教えてくれる人を「先生」と呼びます。お花の先生、ピアノの先生、そろばんの先生がいます。また、議員に対しても「先生」と呼びます。大川牧師から「教会では牧師に対して、先生と呼んでも良いけど、大学教授や代議士には「〇〇兄弟」と呼ぶべきだ」と聞いたことがあります。教会で「先生!」と呼んだら、4人が「はい」と言ったら、混乱を招くでしょう。でも、きょう来られている兄弟姉妹の中も、学校の先生、保育園の先生、歌の先生、そば打ちの先生がいらっしゃるのではないでしょうか?そういう意味で、日本ではちょっとした敬称になっているということです。私は「鈴木先生」と呼ばれると、「え?だれのこと?」と未だに、なじめません。なぜなら、学校でものすごく、傷を受けて来たからです。でも、私が本来の「先生」という名称を正しい意味で回復させるのも良いかもしれません。

 新聖書注解にはこのように書かれていました。このように人からの栄誉を求めるパリサイ主義に対して、イエスは弟子たちに、「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたは地上のだれかをわれらの父と呼んではいけません。また、師と呼ばれてはいけません」と言われる。その理由は、「あなたがたはみな兄弟だから」である。教会の中で、牧師は「先生」と呼ばれる。しかし、牧師も一般の信徒も、同じ父なる神から生まれ、同じ教師のキリストに導かれている兄弟姉妹である、という事実を忘れてはならない。…とありました。アーメンです。人からの栄誉を求めたいという動機が問題なのです。私は敬称というよりも、機能というように理解しています。エペソ4章に教会における5人の職務が記されています。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。この人たちは偉いのではなく、キリスト様からこのような職務を果たしなさいと召されているのです。教会員の中には、「牧師も一人の人間だから」と見下げる意味で言う方がたまにおられます。権威に対して何か、歯向かいたい気持ちは分かります。でも、Ⅰテサロニケ513「その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」とあります。イエス様は「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます」(マタイ1041と言われました。つまり、私が講壇からこのように話していますが、大きく分けて2種類あると思います。「普通のおじさんのお話で、自分でも実行できないことを講壇から話しているんだ」と思っている人。あるいは「いや、講壇からのメッセージは神さまから来ているんだ。講壇から降りたら普通のおじさんだけど…」と思っている人です。「牧師を牧師だというので受け入れる者は、牧師の受ける報いを受けます」アーメン。

 私たちはどんなすばらしい指導者であっても、偶像化してはいけません。キリスト教会でも牧師を教祖みたいに高めたりします。でも、それは行き過ぎです。だから、イエス様は「あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」と念を押すように言われたのです。牧師の最大の務めは、人を自分に向けさせるのではなく、父なる神、そしてイエス・キリストに向けさせることだと思います。だれでも、人から頼られるとうれしいものです。ある牧師は信徒の世話を良くします。そして、自分に相談しないで、勝手なことをすると怒る牧師もいるようです。自分に依存させて、満足するというのは問題です。やはり、ひとり一人聖書を読んで、神さまから聞くべきです。牧師の助言も良いですが、イエス様の導きに頼るべきでありますそれと関連したすばらしい聖書箇所をご紹介いたします。箴言31-6「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

3.最も偉大な者

 マタイ2311-12「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」文脈から解釈すると、パリサイ人や律法学者たちは、自分を高くする者たちでした。彼らは宴会の上座や会堂の上席が大好きでした。また、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが大好きでした。英語の聖書には、「あいさつされる」は、with honor「尊ばれる」となっています。この世では名誉職というのがありますが、彼らは宗教的な名誉職についていたので、人々から尊ばれることが大好きだったのです。確かに神さまに仕えていると、そういう扱いを受けがちです。本来、神さまだけが尊ばれるべきなのですが、分け前をいただいてしまうのです。だから、イエス様は「先生、父、師と呼ばれてはいけない。先生はただひとり、父はただひとり、師はただひとりだ」と注意されたのです。どうしても、敬称がつけられると、その人自身がそういう人物になってしまうのです。私たちは正しいプライド、自尊心は持つべきであります。でも、神さまに仕えるときは、それらの敬称は借り物であり、自分自身のものではないということを忘れてはいけません。牧師職も引退するときがあります。だれも、信徒がいないなら牧師ではありません。牧師も確かに名誉でありますが、クリスチャンはもっと基本的ですばらしいものです。「自分は罪赦され、神の子となった。」これほどすばらしいものはありません。

 このみことばは、教職者だけではなく、すべての人たちに適用することが可能です。もう一度お読みいたします。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」アーメン。たとえば、家庭でだれが一番偉いのでしょうか?父であり、母でしょうか?確かに、聖書では「あなたの父と母を敬え」と書いてあります。でも、そこに赤ん坊がいたならば、父と母はその赤ちゃんに仕えます。食べ物、睡眠、健康、安全を赤ん坊に与えるために、父と母が仕えているのです。この世では多くの人を仕えさせている人が一番偉い人のように思われています。しかし、聖書では仕える人が一番偉大なんだということです。英語の聖書ではservantとなっています。少し前に、サーバント・リーダーシップということをお話ししたことがあります。イエス様が私たちの贖いのために、ご自分の命を与えることによって仕えてくださいました。その結果、父なる神さまはイエス様を引き上げ、主の主、王の王にしてくださいました。ですから、この世においても人に仕えるような仕事であっても卑屈になってはいけないということです。この世では自分に部下が何人いるかによって、自分の偉大さを決めるところがあります。しかし、本当はその逆で、自分は何人の人に仕えているかが重要なのです。また、この世では、いつか上になるために、とりあえず我慢して仕える人になるという考えがあります。それも間違いであって、結果的に高められたら良いのです。高められることを前提に、仕えるというのは間違っています。ひょっとしたらこの地上では仕えっぱなしで、御国に行ってからやっと高められるかもしれません。この地上ではなく、あちらの方で報われることもあるでしょう。ですから、結果は神さまにゆだねて、今のポジションを忠実に果たすということが重要だと信じます。

 ダビデは自分が羊飼いであることを忘れませんでした。だから、詩篇23篇には羊飼いのことと、司令官として戦っていたときのことが両方記されています。しかし、ダビデが戦いにでかけなくても、なんとかやっていけるようになりました。その時、彼は罪を犯してしまいました。自分が一介の羊飼いから一国の王様に引き上げられたことを忘れていたのです。そのため、どん底まで落とされたのです。でも、その先、ダビデはへりくだりました。そして、また引き上げられ、イスラエルの模範的な王様になりました。ここに注目すべきことは「自分を高くする者は低くされ」「自分を低くする者は高くされ」と書いてあることです。自分の意思や気持ちで自分を高くしたり、低くするということです。一方、「その人を高くしたり、低くするのはだれか?」ということです。文章には主語がありません。人々かもしれないし、神さまかもしれません。もし、人々がそうするんだと考えるなら、パリサイ人や律法学者のように偽善的になるでしょう。つまり、人からの報いを期待してやっているからです。もし、心底、神さまがそうしてくださるんだと考えるならどうでしょう?マタイ6章では「隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます」と書かれています。そうです、高めてくださるのは父なる神さまであります。ということはどんな仕事でも、どんな奉仕でも、人ではなく父なる神さまの御目のもとでやれば良いということです。私は小学生のころはとても目立ちたがり屋でした。何でも分かったふりをして手をあげました。それは人から認めてもらいたかったからです。なぜかというと8人兄弟の7番目で全く無視されていたからです。父母は長男や長女はほめましたが、下の方の兄弟は粕のような存在でした。だから、その反動として、学校ではそうなったんだと思います。でも、今、クリスチャンになり、父なる神さまが隠れた所で見ておられると知って、ほっとしました。パフォーマンス指向から解放されました。でも、今、牧師になって講壇に立ち、パフォーマンスをするときもあります。しかし、それは何とか父なる神さまのすばらしさを語りたいからです。報いを得るためにがんばっているのではなく、こんな私を支持しておられる父なる神さまを誇りたいのです。

 きょうは人々から栄誉を得るために表面を飾っていたパリサイ人、律法学者のことを学びました。彼らの振る舞い、彼らの敬称は人からの報いを得るためでした。神さまの名を借りて、自分を高めていたわけです。私たちはそうではなく、イエス様の贖いを受けているので、神さまを誇りたくなるのです。たとえ自分が低くされ、仕えるようなことをしていても感謝なのです。なぜなら、その前に、イエス様が私たちのために低くされ、仕えてくださったからです。イエス様は結果的に神さまから高められました。私たちは高められることを目的にしてはいけません。むしろ、自分を低くする方に意識を向けたいと思います。高められるのはその結果であるからです。ひょっとしたら高められないで、低いままかもしれません。それでも良いのです。なぜなら、そういうところにこそ、低くなられたイエス様が最も近くにおられるからです。

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2017年9月29日 (金)

第一の戒め マタイ22:34-46 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.10.1

 パリサイ人とは律法を厳格に守るユダヤ教徒たちでした。また、律法学者は彼らの教師のような存在で律法については何でも知っていました。いわゆる律法のエキスパートであります。彼らのうちの一人がイエス様に「律法の中で、大切な戒めはどれですか」と質問しました。あえて、イエス様を試したわけです。ところが、イエス様は何百もある律法をたった2つにまとめられました。そのすばらしい答えに彼らは返すことばもありませんでした。

1.神を愛すること

 イエス様は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。」と言われました。このことばは、申命記6章からの引用です。イスラエルの人たちは小さいときから、このみことばを暗誦していました。新約聖書はギリシャ語の70人訳ですから、ヘブル語の申命記とは微妙に違っています。パウロは人間を「霊、たましい、からだ」と三つに分けています(Ⅰテサロニケ522)。しかし、ヘブルの世界では、人間をはっきりと分けていませんでした。だから、1つ1つを分析するのは簡単ではありません。でも、あえて分けるならば心はheart感情面であります。思いは、原文はプシュケーなので、精神あるいは魂と言えるでしょう。そして、知力というのは知能、理解、考えという意味です。英語の聖書はmindあるいはintellectになっています。さらに、マルコによる福音書は「力を尽くして」と書いてありますので、身体的なものも含まれています。申命記6章にも「力を尽くして」と書いてあります。合計3つなのか、4つなのか分かりません。とにかく言えることは、心も考えも霊も体もということでしょう。つまり、全身全霊で主なる神を愛せよということなのです。

 でも、神さまが私たちに「愛せよ」とは不思議ではないでしょうか?神さまは私たちに愛されることを望んでおられるということです。いや、「ご自分を愛せよ」と命じておられるのです。愛を私たちたちから受けたい神さまは世界中探してもおられないのではないでしょうか?なぜ、主なる神は私たちの愛を受けたいと願い、そして命じておられるのでしょうか?そのヒントは創世記1章にあります。創世記126-27「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」ここで言われているのは「神のかたち」であります。神さまは三位一体の神さまです。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合う存在です。「神が愛である」というとき、神さまが愛する対象をお持ちであるという前提があります。永遠の昔から、神さまは、父、子、聖霊として互いに愛し合っておられたのです。そのかたちとして人間を造るとはどういう意味でしょう。それは神さまが人間を愛し、人間もその神さまを愛するということです。さらには、人間同士も互いに愛する共同体として造られたということです。イスラム教はアッラーの神しか認めていませんので、「神は愛」ということがありません。神がお一人だからです。他の宗教の神も「愛」と言うかもしれませんが、人間的な愛であったり、慈悲とか可哀そうという愛です。新約聖書が言う愛はアガペーの愛であり、一方的に与える愛、無条件の愛です。

 神さまは人間を造るときロボットには造りませんでした。ちゃんと自由意思を与えました。ロボットから「カミサマ、アナタヲアイシマス」と言われても嬉しくありません。人間には、「神さま、あなたを愛したくありません」という選択肢も与えられているということです。実際、イスラエルは主なる神さまを愛しませんでした。数か月前、ホセヤ書からも学んだと思いますが、イスラエルは霊的姦淫を犯し続けました。彼らは異教の神、バアルを慕いました。ところが、異邦人の私たちは、神さまの存在すら知りません。学校では「人間は自然に発生し、サルから進化した」と教えています。それは、父親を知らない孤児のような存在です。でも、聖書から神さまからの第一の戒めが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」であります。神さまは私たちの愛を求めておられるというのはとても新鮮ではないでしょうか?問題は、どれくらい私たちが神さまを愛しているかであります。でも、その前に、神さまの愛を知り、神さまの愛を受ける必要があります。クリスチャンであるならば、このみことばをご存じでしょう。Ⅰヨハネ49-10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」まず最初に、神さまが私たちを滅びの中から救ってくださいました。それは、ご自身の御子イエスを私たちの罪のために罰したことにあるのです。神の愛はあがないの愛であり、私たちの罪を赦し、私たちを神の子どもにしてくださるということです。

 私たちは神さまからの無条件の愛を受けているので、その応答として神さまを愛するのです。でも、ここでは「愛しなさい」と命令されているのはなぜでしょう?私たちは気まぐれなので、命令されないと愛することができないからでしょう。だから、「思いを尽くして、知力を尽くして」と言われているのです。私たちの愛が一番現れるところは、神さまを礼拝するということです。礼拝は私たち自身をささげ、神さまをあがめる行為だからです。しかし、私たちは全身全霊で神さまを礼拝しているでしょうか?たとえば、このような公の礼拝では、感情を抑えます。そして、身体を用いるということはまずありません。ダビデが勧めている礼拝が詩篇にあります。詩篇471「手をたたけ、喜びの声をあげて神にさけべ」、詩篇134:2「手を上げ、主をほめたたえよ」、詩篇1493「踊りをもって御名を賛美せよ」…せめて、私たちは個人の礼拝では、涙を流したり、叫んだり、踊ったりすべきであります。アフリカの教会では公の礼拝でも、手を打ちならし、踊っています。西洋周りのキリスト教はあまりにも儀式的で、宗教的です。最近はインターネットの礼拝もあるようです。彼らの心は良いとしても、体は教会の集いに来ていません。コーヒーカップを置いて、神の民の集いに行くという犠牲も必要ではないでしょうか?「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」は、全身全霊を持って神さまを愛せよということです。なぜなら、神さまは私たちの全身全霊を買い戻してくださったからです。

2.隣人を愛すること

 マタ2239「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」このみことばは、レビ記からの引用です。本来なら、出エジプト記20章の十戒を語るべきであります。でも、イエス様は十戒の5,6,7,8,9,10をひとまとめにしました。もし、隣人をあなた自身のように愛したなら、盗んだり、嘘ついたり、殺したりしないからです。ローマ書でパウロがこう述べています。ローマ139-10「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」アーメン。そのように愛は律法を全うするのです。しかし、ここに「あなたの隣人」とあります。私たちは遠い世界の人たちを愛せても、隣のオヤジは憎いのです。会社の同僚、家族、教会の兄弟姉妹を愛しにくいのは何故でしょう?深く関わると、衝突することもあるからです。遠い世界の人たちとは交わることがありませんが、隣人はそうではありません。考えや意見、性格や好みも違います。互いに批判したり、争ったりすることが出てきます。イエス様の近くにいた12弟子も全くそのとおりでした。彼らは最初から最後まで、「だれが一番偉いか」争っていたからです。十字架と復活を目撃したヨハネは何と言っているでしょうか?Ⅰヨハネ27「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。」古くて新しい命令とは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1512という命令です。

 でも、この戒めをみると、隣人を愛する前に、1つ解決しておくべき課題があります。イエス様は「隣人をあなた自身のように愛せよ」とおっしゃいました。つまり、自分を正しく愛していない人は、隣人を愛することはできないということになります。ですから、この戒めは2つもありますが、3つでもあるということです。隠れている戒めは「自分を愛する」ということです。こういうことを言うと、「キリスト教は自己否定の宗教であり、イエスさまも自分のいのちを憎め」とおっしゃったではないか」と反論するかもしれません。もちろん、私たちは神さまよりも自分を愛してはいけません。間違った自己愛というものは確かにあります。でも、イエス様は「自分を愛するように、隣人を愛するように」とおっしゃっています。自分を粗末にし、自分を見下げている人が、果たして、隣人を大切にし、尊敬できるでしょうか?それは無理です。なぜなら、正しい愛し方を知らないからです。私も8人兄弟の7番目で育ちましたので、自分の存在価値がものすごく低かったです。そのため周りの人たちをぞんざいに扱いました。ルカ18章に「人を人とも思わない裁判官」がいましたが、まさしく私のことです。やがて、私は牧師になりましたが、態度もことば使いも粗野でした。箴言3021-22「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となり…」とあります。クリス・バロトン師がこう神さまから言われたそうです。「奴隷は、生まれた時から取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分にも大した価値がない事、また自分の意見は尊重されない事を成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大な者となったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることができないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ。私の息子よ。お前こそがその王となった奴隷なのだ。」(『王家の者として生きる』より)。つまり、彼は、自分のアイディンティテイに問題があったということです。自分が愛され、大事にされた存在ならば、そのように他者を扱うでしょう。だから、私たちは隣人を愛する前に、神の愛を受け、神の王子、王女としての歩みをする必要があります。近年は教会でインナーヒーリングやアイディンティテイの回復ということが言われています。愛欠乏症の人は、マイナスの地点から始めなければなりません。そのような人たちには、愛と赦しと受け入れが最も必要です。心の癒しを受けて、隣人をだんだん愛せるようになるということです。

 でも、この地上では完全に癒されることがありません。自分の癒しばかりに気をとめていますと、前を見ないで走っている車と同じです。クリスチャンになったら、愛の運転免許証をいただいたのと同じです。きのうきょう免許をいただいた人も、30年のベテランであっても、道路に出たならば同じです。だれでも愛という戒めを守る必要があります。大川牧師は「愛には卒業はない。一生、愛の課題に立ち続けるしかない」と言われました。私たちの隣人とはだれのことでしょう?第一にそれは家族です。使徒パウロがこう述べています。Ⅰテモテ58「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」その次には、主にある兄弟姉妹です。教会は天国ではありません。むしろ、天国に行くための「愛の道場」みたいなものです。教会で愛を学び、愛する訓練をするのです。ですから、当然、教会では傷をうけたり、傷を与えたりすることがあるのです。そうやって、どういうのが愛で、どうしたら愛でないのか体験的に分かってくるのです。私も教会でそのことを学びました。今も学んでいます。最後には私たちがこの世において接する人たちです。会社の同僚、学友、地域社会の人たちがいます。そういう人たちもキリストの愛で接する必要があります。最近は、フェイスブックとかラインで隣人の枠組みがぼやけてきました。ある人は1000人も友人がいます。でも、本当に自分の悩みを打ち明けられる友人はゼロだったりします。数が多ければ良いというものではありません。イエス様には70人、そして12人の弟子たちがいました。特に3人とは親しくしていました。最も親しい人はヨハネでした。あなたも伴侶の他に、コアにあたる数名の親しい人が必要ではないでしょうか。自分を守り、励ましてくれる人、時には辛口の忠告を与えてくれる人が必要です。愛には卒業はありません。愛は生涯守るべき神さまからの戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

3.律法の限界

 神さまを愛すること、隣人を愛することは、戒めであり律法です。多くのクリスチャンは、「愛する」ということが律法であることを忘れています。律法の意味と目的をご存じでしょうか?律法は守るために与えられたのではありません。律法は「私には罪がある。そのためにキリストが必要だ」ということを教えてくれるのです。パウロはローマ719「私は自分でしたいと思う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行っています。」これを言い換えるならどうなるでしょう。「私はしたいと思う愛を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。私は愛したいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう。」今から10年以上前になりますが、本郷台キリスト教会で「愛の関係を持つ」というテーマでセミナーがありました。講師は香港のベン・ウォン師で私が司会を担当しました。午前中のセミナーが終わり、私がお祈りしました。「主よ、私たちには隣人を愛する愛はありませんが、どうか愛せるように助けてください」とお祈りしました。その直後、ベン・ウォン師が講壇に上ってこう言いました。「『私は愛せませんので、どうか愛させてください』という祈りを、神さまがお聞きくださるだろうか。もう、自分は愛せないと言っている人を神さまがその人を造り変えて、愛せる人にすることができるだろうか?それは答えられない祈りだ」とケチをつけました。そして「午後はそのことについて学ぼう」ということになりました。「いや、エライことになったなー」と身が縮む思いでした。今、現在、午後のセミナーで何をおっしゃったのか思い出せません。恐らく、こちらが「愛させて下さい。愛します」と願うなら、神さまが必要な愛を下さるということだったと思います。

 でも、おことばではありますが、日本人はそのような祈りをするのではないでしょうか?昔、榎本保郎師の『旧約聖書一日一章』に以下のことが書いてあったと記憶します。「自分に愛がないということは悲しい発見であるが、本当の愛を見出す偉大な一歩である」と書いてありました。さきほど引用したパウロのローマ書は、まさしく「自分には愛することができない」ということを発見することだと思います。でも、それで終わりではありません。パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ725と告白しました。ローマ8章には、いのちの御霊の法則について書かれています。「肉によって無力になったため、律法にできなくなっていることを、神はしてくださいました。」とあります。それは、私たちの内におられる、キリストの御霊がそうしてくださるということです。肉では神さまも、隣人も愛せないけれど、キリストの御霊が愛させてくださるということです。おことばですが、肉で愛せる人はいます。美しいもの、価値あるもの、自分を愛してくれる人は愛せます。しかし、聖書が求める愛は、無条件で一方的な愛、アガペーの愛であります。生まれつきの人間は、そのような愛は持ち合わせていません。だから、「自分にはその愛はありませんが、愛せるように助けてください」という祈りは、アリではないでしょうか?なんだか、説教を言い訳の時にしているような感じがします。でも、私の言わんとしていることは理解していただけるのではないでしょうか?

 ローマ5章に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ55とあります。ここにははっきりと「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と書かれています。つまり、その愛で、神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛していけるのではないかと思います。神さまは命令だけを与えて、「あとは自分の力でやりなさい」というお方ではありません。命令を与えた限りは、その資源も同時に与えてくださいます。愛は聖霊による実であります。キリストにとどまっていると、結ばれてくるのです。なぜなら、ガラテヤ書5章に「御霊の実は、愛、喜び、平安」とあるからです。奥山実先生はとてもセルフイメージが高い先生です。「僕は愛があるよ。愛のかたまりみたいだね。僕ほど愛のある人はそんなにいないよ」という、説教を聞いたことがあります。さきほどの「私には隣人を愛する愛はありませんが」と決めてかかると、「愛がなくて当然」という気になります。さきほどの内容を飛ばしてしまいますが、信仰によって「主にあって愛します」と願うなら、愛せるようになるということです。ベン・ウォン師はそのことをおっしゃりたかったのでないかと思います。でも、香港や台湾の人たちは、カラッとしています。底抜けに明るいところがあります。でも、日本人はジトーっとしています。湿り気があるというか、暗さがあります。大体、「愛します」という言葉も発しません。「むすーっ」として言わないです。ある牧師はアメリカ女性と結婚していますが、1日に10回「愛しているよ」と言わないと満足してくれないそうです。もちろん、愛はことばだけではありませんが、キリスト教は愛することが最大のテーマなんだということを忘れてはいけません。

 プロテスタント教会はこれまで愛することよりも、神学の違いに重点を置いてきました。その点、ローマ・カトリックは神学よりも、人々を愛することを実行してきたように思えます。私たちはどちらかと言うと「愛とは何か」「どのように愛するべきなのか」と愛について考えてきました。しかし、本来の愛は「愛する」という動詞であり、説教や教えの研究課題ではないということです。私たちは頭で愛することを追求してきました。でも、心や体も必要なんだということを学びました。聖書は、「思いを尽くして愛せよ」ですが、本来は「魂を尽くして愛せよ」ということなのです。魂は精神とも言いますが、もっと深いものです。魂は霊を含んだ内なる人そのものです。ある人が「魂いっぱい愛します」と祈りました。その人は、手島郁郎師の「キリストの幕屋」の出身でした。でも、とても新鮮な感じがしました。「主よ、あなたを魂いっぱい愛します」。「私の隣人を魂いっぱい愛します」。少し危ない気もしますが、聖書からは外れていません。私たちは左脳を用いて観念的になります。愛もそうなりがちです。本当の愛は、感情的であり、創造的であり、魂の底から湧いてくるものではないでしょうか?魂の底には、キリストの御霊がおられます。聖霊によって神の愛が注がれているので、神さまと隣人を愛することができるのです。

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2017年9月22日 (金)

パスカルが出会った神 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.24

 来世、つまり死後の世界というのは、どの宗教にもあるようです。日本は仏教の思想を受けていますので、地獄と極楽、輪廻(生まれ変わり)の存在を信じています。唯物論の影響を受けた人たちは、人間は死んだら消えてなくなると考えています。テレビで芸能人の死が報道されるとき、「天国に旅立った」と言います。クリスチャンでも信仰を精神的なもの、主観的なものとして捉えている方がおられます。きょうは聖書から正しい来世観について学びたいと思います。

1.思い違い

 サドカイ人というのは、神殿に仕える祭司たちで構成されていました。ある人たちは議員であり、ユダヤ人の指導者でもありました。彼らは妬みのゆえに、イエス様を十字架に付けた一派でもあります。当時のことを記しているヨセファスという歴史家がこのように証言しています。「彼らは肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を拒否していることが明らかである。サドカイ派はパリサイ人と違って、モーセ五書に中心をおき、五書に記された律法にのみ最終権威を認めたので、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定したと思われる」とありました。イエス様はマタイ16章で「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と言われたことがあります。サドカイ人たちの教えは世俗的であり、この世のことしか考えません。もし、彼らの教えを受け入れるなら、「死後の世界はないので、地上で幸せに暮らせればそれで良い」ということになります。イエス様は29節で「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われました。「思い違い」のギリシャ語はプラナウであり「迷う、惑わされる、考え違いをする」という意味です。JB.フィリップスはYou are very wide of the mark、「大きく的からはずれている」「見当違いをしている」と訳しています。そもそもの原因は、彼らが聖書も神の力も知らないからです。神さまを礼拝して、宗教的な生活を送っているかもしれません。しかし、「聖書も神の力も知らない」なら、見当違いをしていることになります。ひょっとしたら、ミッションスクールや今日の教会にも当てはまるかもしれません。

世俗主義のパン種は知らぬ間に、私たちの中に入って、信仰を腐らせてしまいます。彼らの一番の見当違いは、復活を信じていなかったということです。「え?復活を信じていない信仰者がいるのですか?」とおっしゃるかもしれません。おります。彼らはギリシャ人のように霊魂の永世は信じています。しかし、この肉体が復活するとは信じていないのです。では、復活がないと考えている人は、地上でどのように暮らすのでしょうか?使徒パウロはⅠコリント15章でこのように述べています。Ⅰコリント1532「死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」ここで言われている「友だち」というのは、復活を信じない人たちで、「生きているうちが花だから、好き勝手に生きようぜ」という悪い友だちです。コリントの教会ではこの世よりもひどい罪や放縦に満ちていました。彼らにはキリスト信仰があったのですが、肉体の復活を信じていませんでした。なぜなら、ギリシャ哲学の影響を受けていたからです。「肉体がしている悪は、魂の救いには影響しない」と考えていたからです。でも、それは見当違いであり、世俗的なパン種でした。パウロは「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」と注意しました。イエス様が言われた「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と同じであります。私は19年前にも同じ個所から説教し、このような証を述べていました。私もかつてはそうでした。車を乗り回し、格好をつけ、綺麗な女性を追い掛けまわしていました。「今が楽しければ良い、死んだらおしまいさ」と考えていました。仕事はメシの種で、他の時間は自分の好きなことを一生懸命やれば良いという人生哲学でした。しかし、「永遠というのがあるなら、そこに命をかけられるのになー」と心のどこかで追い求めていました。「宗教は弱い人間が勝手に造ったものだ」と言っていた、この私が25才に回心しました。するとどうでしょう。時間がもったいなくなりました。クリスチャンになって、永遠の命が与えられたのだったら、「ああ、やったー」と寝そべっていれば良さそうなものです。ところが「確かに、永遠の命は与えられけたけれど、この地上の人生は意外と短いぞ」と思うようになったのです。気がつくと、パチンコ、ギャンブル、マージャンをやめていました。それらが時間とお金の無駄使いと気付いたからです。お酒もやめました。お酒を飲むとボーっとなって、その夜は何も考えられなくなるからです。それで「この限られた時間をもっと有効に使わなければ」となりました。つまり、それまでは「好きなことを楽しく」という無目的な人生でしたが、救われてから目的ができてしまったのです。私が洗礼を受けて全く変わってしまったので、一緒に遊んでいた友だちも付き合っていた彼女も私から離れていきました。世俗的な友だちが去って行ったということです。

 復活を信じないということは、死後のさばきを信じないということです。当然、神を恐れず、堕落した生き方になるでしょう。ヘブル927,28「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」この短い文章に3つのことが記されています。第一は死後、神の前に立ち、さばきを受けるということです。第二はキリストが私たちの罪を負ってさばかれたということです。第三はキリストが再び来られるとき、キリストを待ち望んでいる人たちが復活するということです。多くの人たちは「ヘブル9章は救いのためのみことばである」と考えています。確かにそうですが、それ以上のことも語っています。本当の救いとは死後さばきに会うことがないばかりか、キリストが再臨したとき栄光のからだに復活するということです。つまり、救いの完成は、まだ来ていないということです。しかし、神の前でのさばきと栄光の復活があるので、地上の生活もおのずと変わってきます。世俗主義のパン種に感化されてはいけません。彼らのような思い違いをしないで、聖書と神の力を知ることに全力を傾けていきましょう。

2.復活の時

 もう一度、彼らがイエス様にした質問を調べたいと思います。マタイ2224「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」彼らはモーセの律法からこのような質問を考え出しました。家系を絶やさないために、確かにこのような律法がありました。創世記38章にこのような記事があります。ユダが自分の長男をタマルという女性に与えました。しかし、主を怒らせていたので彼は死にました。弟オナンは「兄嫁のために義弟の務めを果たしなさい」と父から言われました。しかし、弟は兄のために子孫を残そうとしませんでした。そのため、主を怒らせて彼も死にました。ユダは三番目の息子をタマルに与えませんでした。兄たちのように死ぬといけないと思ったからです。そのためタマルは遊女に化けて、舅のユダと関係を持って身ごもりました。やがて、その子はダビデの先祖になります。サドカイ人たちが言うような話は確かにありますが、7人というのは残酷な感じがします。7は完全数なので、この質問を完璧なものにしたかったのでしょう。彼らは「復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです」と尋ねました。この質問の背後には、「1人の女性をめぐって7人が取り合うだろう」という皮肉がこめられています。

 では、イエス様はどのように答えられたでしょうか?マタイ2229,30「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」第二のポイントでは「復活の時」のことを考えたいと思います。この世において、なぜ、人はめとったり、とついだりするのでしょうか?それは死ぬからです。アダムとエバが罪を犯してから、この肉体は死ぬようになりました。それでも「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記128という命令は残っています。地上の生命には限りがあるので、結婚して子孫を残していくしかないのです。しかし、復活の時はどうでしょう?栄光のからだによみがえり、しかも永遠のいのちが与えられています。「天の御使いたちのように」とは、彼らのように永遠に生きるということです。つまり、死ぬことがないので、子孫を残す必要もなくなるということです。ところが、サドカイ人たちはこの地上のことが、天上でもずっと続くかのように思い違いをしていたのです。残念ながら、復活後は結婚することはありません。男も女もない、中性になるということではないと思いますが、肉体関係がないということです。みな、兄弟姉妹になるのです。それだったら、寂しいでしょうか?天国に行ったら、ロマンスもなくなるのでしょうか?でも、男女の関係は罪の元にもなります。また、この地上では結婚という枠組みがあります。結婚外の関係であるならば不倫と呼ばれます。ガラテヤ6章には肉の働きが記されていますが、その3分の1が性的な罪です。でも、復活の時には、そういう罪がきよめられます。しかも、結婚とか子孫を増やすということがありません。罪のない栄光のからだが与えられ、兄弟姉妹として、だれとでも親しく交わることができるのです。私も行ったことがないので、分かりません。おそらく、一瞬にして相手の心が分かるでしょう。なぜなら、霊が100%作動しているからです。そのため、嘘や偽りのない真実な交わりが可能になるでしょう。

 私たちは復活の時のことを聖書から正しく知るべきです。結婚はないかもしれませんが、それ以上の楽しみや喜び、そして自由があるということです。とにかく、天上の生活は地上の延長ではありません。ギャンブル好きで家にお金を入れない夫、酒乱で暴力をふるう夫など、苦労をさせられた姉妹方がおられます。天国に行っても、その夫に仕えなければならないとしたら大変であります。福沢満男先生のお父さんはかなりの酒乱で、先生が子どものとき、地獄のような生活を強いられたようです。しかし、そのお父さんは病気で亡くなる少し前にイエス様を信じました。お母さんが「お父さんは天国に行ったのかい」と聞きました。福澤先生は、「そうだよ、悔い改めてイエス様を信じたんだから天国へ行けたんだよ」と喜んで答えました。すると、「ああ、そうかえ、それなら母さん信じないよ」と言いました。先生のお母さんが信仰を持つのに、それから10年以上かかったそうです。お母さんは「天国に行ってからも夫のために苦労するんじゃ行きたくない」と思ったのでしょう。そうではありません。天国に行ったら、みな兄弟姉妹です。 

韓国教会の長老の方が、死後、数時間で生き返ったという証を聞いたことがあります。その方は、いわゆる臨死体験をしたわけです。アブラハムから天国を案内されました。そこで、何年か前に亡くなった奥様とお会いしたそうです。はじめは、その人がだれかわかりませんでした。なぜなら、奥様は地上では大変太っていて、顔も美しくなかったからです。ところが、目の前の美しい貴婦人は、どこか妻の面影がありました。彼女は、自分に向かって「○○兄弟」と親しく声をかけるのです。「なんだ、お前か。それにしてもどうしてこんなに美しいんだ」「いえ、私はあなたの妻ではなく、姉妹です」と答えたそうです。とにかく天国の奥様は別人のようだったというのです。あいにく、彼の天国の邸宅の屋根が未完成だったので、地上に戻って来たそうです。90歳で天国に召されて、90歳のままで永遠に生きるのだったら何の喜びがあるでしょう。ある聖書学者は「復活時は、男性は30歳前後、女性は20歳前後であろう」と述べています。最近、エターナル出版から、「私は天国に行った」とか「地獄に行った」という証の本がいっぱい出ています。私はそれらを信じないわけではありません。でも、聖書が述べていないことを、詮索して、それを事実であるかのように言うのは避けたいと思います。ただ分かっていることは、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」ということです。天の御使いは、とても美しく、完璧な姿です。美しい人をたとえるとき、よく「天使のようだ」と言うからです。この世では「年には勝てない」と言います。しかし、私たちは復活の時には天の御使いのように麗しい姿になるのです。あこがれをもって復活の時を待ち望みましょう。

3.パルカルが出会った神

 マタイ2231-33 「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」クリスチャンになって数年間は、どういう意味なのかさっぱり分かりませんでした。群衆はこれを聞いて、理解して、驚いたのですからよっぽどです。サドカイ人たちは、預言書を信じていませんでした。預言書には死人の復活や千年王国のことがたくさん書かれています。サドカイ人たちはモーセ五書しか信じていなかったので、イエス様はあえて、モーセ五書から復活について語ったのです。でも、このことが復活について語っているのでしょうか?日本語は時制についてはあいまいなところがあります。しかし、インド・ヨーロッパ語族はそうではありません。英語の詳訳聖書を引用させていただきます。I am the God of Abraham, and the God of Isaac, and the God of Jacob? He is not the God of the dead but of the living.となっています。このところには、I wasとなっていません。I amとなっています。I wasであれば、彼らの神であったということになります。I amであれば、今も彼らの神であり、今も彼らは神の前で生きているということになります。イエス様は主がモーセに語られたことばを引用しました。これは出エジプト36にあり、ユダヤ人には「柴の篇」という名称で知られていました。彼ら3人はイスラエルの族長であり、アブラハムとヤコブとは200年も離れていました。それなのに、彼らは神さまと共に生きているということです。

 イエス様は「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」と言われました。ここのことばは日本人に対する挑戦でもあります。日本人のほとんどは仏教か神道です。それらから出た新興宗教も含めて、死者あるいは先祖崇拝をしています。日本人が信じている神あるいは仏は、死んだ者の神であります。生きている人が死んだ人のため供養しています。同時に、死んだ人が生きている人を守ってくれるように願っています。助けているのか、助けられているのか分かりません。でも、何の疑いもなく、「自分たちもやがては先祖たちがいるところに行くんだ」と信じています。信じているというのではなく、他の選択肢がないので「そうに、決まっている」と考えています。もし、そこにキリスト教が入るとどうなるでしょう?「彼らは陰府にいる存在であり、いつかはさばかれ地獄に行くのです」と言ったらどうなるでしょう。そして、自分がクリスチャンになるならば、ご先祖様に申し訳がたたない。「裏切り者」という烙印が押されるでしょう。日本の法事、お祭りのほとんどが、「死の文化」と言っても過言ではありません。もう、それが当たり前のように思っているのは何故でしょう?エペソ人への手紙6章に、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち」とあります。「主権」はギリシャ語ではもともと「アルケー(始まり)」という意味です。それは私たちが受けてきた「生来の教え」であり、生まれた時から信じ込まされているものです。この天上の悪霊は私たちの思いをくらまして、福音の栄光を見えないようにしているのです。「主権」が日本人に、仏教の教えや進化論を信じ込ませているのです。そのため、キリストの福音を信じて、永遠のいのちを得るというのは、たやすいことではありません。

 ところでパスカルと言えば、数学者でパスカルの原理をはじめ、たくさんの数式を発見した人です。また、パルカルは哲学者でもあり『パンセ』でも知られています。「人間は考える葦である」と言った人です。彼はカトリックが支配しているフランスの出身ですが、聖書をそのまま信じている少数のグループに属していました。パスカルの同時代、デカルトをはじめとする「近代合理主義」が栄えていました。人間の理性で理解し得るものだけが真実だと考えられていました。パスカルは若気の至りで、上流社会の様々な楽しみを求めました。しかし、彼の心の空隙は満たされず、ますます絶望な気持ちになりました。そして、16541123日の夜、パスカルは回心しました。彼は夜中にこう叫んだのです。「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信、確信。万感の思い。喜び、平安。イエス・キリストの神。あなたは私の神です。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト。」当時の教会ではスコラ哲学が流行っていました。形而上的で観念的な宗教だったのです。しかし、パスカルは「聖書こそ、そこに記録されている事実において間違いのない神のことば」であると信じていました。教会は公会議とかで権威ある意見を出していましたが、パスカルは聖書から意味を引き出さない者は、聖書の敵であると言いました。パスカルは数学者であり、いろんな定理を知っていました。私は高校生のとき、物理と数学に出会って、頭が全く混乱し、落ちこぼれてしまいました。そこでは、定理とか、公式ということばは良く用いられました。定理や公式を覚えていると、問題が解けるということです。パスカルにとって人生の問題を解決する、定理と公式はキリストだったのです。キリストを心の空隙にあてはめたとき、全部解決したのではないかと思います。

 イエス・キリストは罪と死の中で囚われている私たちを救い出してくださいました。イエス様はそのために天から下り、人となられました。私たち人類の罪咎を引き受け、代わりにさばかれました。父なる神はご自身の罪に対する怒りをひっこめ、その代り、キリストを信じる者にご自身の義を与えることを約束されました。私たちがキリストを救い主として信じ、受け入れるとき、永遠のいのちがあたえられます。そのとき、パスカルのように「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と叫ぶことができるのです。ある人たちは信仰は天国に入るためのものであると言うでしょう。それだった仏教徒と同じ、死んだ者の神さまです。そうではなく、キリストは生きている者の神さまです。なぜなら、永遠のいのちは死んでからいただくものではなく、この地上から始まっているからです。私たちはすでに永遠のいのちを持ちながら、この地上で暮らしているのです。だから、生きる目的や意味が地上のことがらではなく、やがて来るべき来世のことを念頭においているのです。この地上はやがて過ぎ去りますが、移り住む来世こそが永遠です。私たちは世俗主義ではなく、永遠の目的のために生きるのです。

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2017年9月15日 (金)

カイザルのものはカイザルに マタイ22:15-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.17

 パリサイ人たちは、神政イスラエルを願っていますので、ローマへの貢には大反対であり、屈辱的でした。一方、ヘロデ党の人たちは、ローマにへつらって甘い汁を吸っていたので、ローマへの貢は大賛成でした。普段は仲の悪い2つのグループですが、イエス様をことばの罠にかけるために結託しました。彼らはイエス様を思いっきりほめそやしていますが、それは言い逃れができないためです。

1.カイザルのものはカイザルに

 ここで言われている「納め金」というのは、いわゆる貢であります。他の聖書は「税金」と訳していますので、「税金」で通したいと思います。当時、ローマが世界を支配していましたので、そのような税金が課せられていました。他にローマは強制的に食物、宿舎、馬、助力を提供させることができました。しかし、宗教的にはある程度の自由を与えていました。カイザルというのは、ローマの皇帝であり、シーザーとも言います。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなくて良い」と言うならどうでしょう?ヘロデ党の人たちは「イエスはローマに敵対する者であり、謀反を企てる危険な輩」として訴えるでしょう。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めなければならない」と言うならどうでしょう?パリサイ人は「イエスは神政(神が統治する国家)イスラエルを否定するものである」と70人議会に訴えるでしょう。そうなったらメシヤとしての評判はガタ落ちになります。どう答えても不利になります。これは、イエス様を陥れるため、周到に用意されたことばの罠でした。マタイ2218-22 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

 彼らは「これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った」とありますから、よっぽどの理解力です。私たちの中には「え、何のことなの?」と理解できない人もいるでしょう。そのために説教者がおります。「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とはどういう意味でしょう。イエス様は「ローマに納めるデナリ銀貨を私に見せなさい」と言いました。デナリ銀貨にはカイザルの肖像と銘が刻印されていました。当時の銀貨を見ると、皇帝の横顔とカイザル〇〇という名前が刻まれていました。刻印によって、だれがこの貨幣の価値を保証しているか分かります。10円硬貨を見ると「日本国」と刻まれており、日本政府が保証しているということです。イエス様はローマに治めるデナリ銀貨を提示させて、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言いました。それは、ローマのカイザルに負っているものがあるから、それを負担しろという意味です。当時は「パックス・ローマナ」と言って、武力に基づいた平和でした。民主的ではありませんでしたが、ローマのもとで平和が保たれていました。山賊や盗賊が一掃され、ローマの街道も整備され、どこへでも旅することができました。使徒たちが安全に、世界中に福音を宣べ伝えに行くことができたのは、そのおかげであります。紀元前は、戦争に負けたら奴隷になるしかありませんでした。しかし、ローマは比較的な自由を与え、ある国を同盟国にまでしました。ですから、当時のイスラエルは植民地よりもかなりましな方でした。でも、ユダヤ人はとても頑固で反抗的で、ローマ総督の頭痛の種でした。だから、ヘロデ王という王様を置いて、やんわりと支配しようとしたのです。そういう意味で、ローマへの貢は当時では、当然の義務になっていました。

 私たちがもし、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われたらどう適用できるでしょうか?日本は民主国家であり、国民の主権が憲法でうたわれています。そして、納税の義務、法律を守る義務が日本の一国民として課せられています。私たちが治める税金はおもに所得税と住民税ですが、他に固定資産税や業務税があります。クリスチャンであっても、これらの税金を納めなければなりません。また、クリスチャンであっても、日本に住んでいる限りは刑法、民法、様々な条例を守らなければなりません。たとえば、秋葉原では通りでたばこを吸っていると2,000円の罰金が科せられるようです。私も車を運転しますが、違反切符を切られると反則金を支払う羽目になります。私たちは天国の国民でありますが、同時にこの地上の国の国民であります。ですから、納税や法律を守るという義務を負わされているのです。でも、時代によってとても判断が難しいこともあります。戦争への徴兵はどうでしょう?アメリカの教会のある宗派は徴兵制度に反対したために、ものすごく迫害されました。日本でも、第二次世界大戦中は、政府によって神社参拝や天皇礼拝が強制させられました。そういう意味で、はっきり結論が出せないときがあります。極端になりますが、正義に立つ完璧な国家や政府はこの地上にはありえません。しかし、無政府状態よりは増しだと言えます。私たちはテレビ等で、中東やアフリカの内戦の国を見ることがあります。人命が軽視され、何百万人もの難民があふれています。ですから、悪魔的な国家にならない限りは、政府があって法律があるということは良いことなのです。ベストは望めないかもしれませんが、ベターになるように私たちはクリスチャンとして政治に参加する必要があります。選挙に行かないクリスチャンもいますが、尊い一票という義務を果たすべきです。そうしないと、どこかの宗教団体に全部、持っていかれてしまいます。

 イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われました。私たちクリスチャンは天国民ではありますが、日本という国で暮らしています。神さまは日本という国を造られ、私たちを日本人として誕生させました。そういう意味では、この日本を愛し、一市民としての義務を喜んで果たすべきなのです。内村鑑三は「私は2つのJを愛する」と言いました。1つはJesus Christ、もう1つはJapanです。私たちは神さまの一般恩寵として、平和な国が与えられていることを感謝したいと思います。

2.神のものは神に

 第一の「カイザルのものはカイザルに」は、中学の社会科でも理解できる内容でした。しかし、第二の「神のものは神に」は、まことの神を信じていない日本人には理解できない内容でしょう。当時のパリサイ人やヘロデ党は、イエス様の答えに驚嘆しました。でも、私たち日本人、特に教会に来ていない人は首をかしげてしまう内容です。「何か、神さまに負うべきものがあるのでしょうか?神さまにはお世話になっていませんよ」と答えるでしょう。実は第一と第二が合わさっているから、名言になっているのです。イエス様はカイザルのものと神のものをパラレルにして、大切な真理を教えようとしたからです。では、なぜ、イエス様の答えで人々は驚嘆したのでしょうか?ローマのデナリ銀貨には、カイザルの肖像、カイザルの銘が刻まれていました。だから、たとえユダヤ人であってもカイザルに負うべきものがあるということでした。次にデナリ銀貨と比べられるのが私たち人間であります。創世記には人間の創造について記されています。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。英語の聖書には、So God created man in His own image.となっています。肖像も英語ではimageであり、かたちもimageであります。つまり人間には神さまのイメージが刻まれているということです。昔、『十戒』という映画がありました。イスラエルの民がエジプトで奴隷生活を強いられていました。イスラエルの民の一人が、過労のためにレンガ造りの沼地で倒れました。すかさず、エジプトの監督から鞭が当てられました。鞭打たれた老人が「オレたちは奴隷ではない、神のイメージに造られた存在だ」と言い返しました。一人ひとり神の刻印が押されています。ですから、私たちの所有者は神さまであり、神さまが一人ひとりの価値を保証しているということです。

 自覚しているかどうかわかりませんが、少なくとも私たちは2つの面で神さまに負っています。1つは神さまに造っていただいた、この世に誕生させていただいたということです。「いや、私は両親から生まれたんだ」と言うかもしれません。でも、ダビデは詩篇139篇で「主が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と言っています。学校では「人間はアメーバーからだんだん進化したんだ」と教えています。しかし、「人間は神さまによって創造された」と聖書から教えたらどうでしょう?だれにでも、生きる目的があり、だれにでも生きる価値があるということが分かるでしょう。道徳の時間で「いのちの尊さ」を改めて教える必要はありません。聖書の神さまは全能であり永遠で、月、星、太陽、地球を造りました。大地と海を分け、海には魚を泳がせ、陸には植物を生えさせ、動物を作りました。すべての環境が整ってから、人間を創って住まわせました。神さまは人間がこの地を治めるように命じましたが、堕落してしまいました。そのため、罪と死が人間を支配し、天災や災害が起こるようになりました。それでも神さまが造られたこの世界は一般恩寵に満ちています。空気、水、太陽の光、地下資源、自然界の動植物は神さまが私たちに与えたものです。それぞれ命が与えられ、男であること、あるいは女であること、本来はすばらしいことなのです。うまくいかないのは、創造主なる神から離れているからです。もし、キリストを信じて神さまと和解したなら、人生を享受し、寿命を全うできるでしょう。

 もう1つはクリスチャンであるならば、当然知っていることです。それはキリストの贖いよる救いということです。元来、キリストは信じていない人のためにも十字架で死なれました。キリストは罪のための代価を払ってくださいました。クリスチャンとは「それは私のためでした」と救いを受け取った人のことであります。何か良いことをしたとか、功績を積んだということでは全くありません。神さまがキリストにあって用意された救いをいただいたに過ぎないからです。でも、すばらしい特権が与えられました。すべての罪が赦され、神の前で義とされました。永遠のいのちが与えられ、御国に住まうことができるようになりました。私たちは神の子であり、王子、王女です。父なる神さまのすべてのものを相続することができます。「神のものは神に」というとき、私たちクリスチャンは滅びから救いに入れられたという特別恩寵が基盤にあります。神さまに対して、負うべきものがあるということです。しかし、ここで問題が生じます。教会という概念が入ると、神さまに対する義務みたいになります。税金とは言いませんが、十分の一献金をはじめ様々な捧げものがあります。法律ではありませんが、聖書を読み、礼拝をささげ、奉仕をし、伝道をすること。神と隣人を愛し、神さまの戒めを守ること。これらは信仰者としての義務なのでしょうか?キリスト教はヨーロッパで栄えました。ある国は国教会であり、宗教税が課せられています。しかし、そこから自由教会が生まれました。信じた人たちによって、教会を作るということです。そうなるとどうでしょう?私たちの献金で教会と牧師を支えるという考えになります。献金は神さまにささげると言いながら、教会の運営のためささげるのです。そして教会は、「十分の一献金は教会員としての義務である」と洗礼を受けた人に教育するでしょう。

 しかし、「神のものは神に」という意味はそうではありません。私たちは教会にささげるのではなく、神さまにささげるのです。なぜなら、神さまがすべての根源者だからです。神さまが私たちを祝福してくださるので、教会の運営や牧師給が払えるのです。正しくは私たちの教会ではなく、神さまの教会であり、キリストご自身がお建てになるのです。くれぐれも献金を、教会をささえる会費のように考えないでください。十分の一献金のことは旧約聖書のマラキ書に書かれています。新約の恵みを忘れると律法や義務になりますが、旧約であっても真理が語られています。マラキ310「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」とあります。宝物倉は神さまを礼拝している神殿の隣にあります。そして、ささげたら、「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」と約束しています。教会がささげた人に注ぐのではありません。報いとして神さまご自身が注ぐのです。イエス様は「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ64と約束されました。私たちの献金は神さまに対してものであり、神の国への投資です。「献金は義務ではなく、恵みであり特権だ」ということを覚えたいと思います。

3.終末におけるクリスチャン

 適用として、世の終わりに住む私たちには2つの課題があります。第一はカイザルよりも神のものが大切だということです。イエス様が教えた頃のローマは宗教的な自由を与えていました。ところが、使徒パウロの時代になるとだんだん皇帝礼拝が盛んになりました。ヤコブはヘロデによって殺されましたが、ヨハネを除く使徒たちは殉教しました。ヨハネの黙示録はローマが悪魔化したときに書かれたものです。世の終わりにも、反キリストや偽預言者が起こり、迫害が増すでしょう。私たちは世の終わりに住んでいます。終末論にはいろんな解釈があって、単純ではありません。端的に述べるならば、今後、7年間の患難期に突入することになります。前半の3年半は比較的穏やかですが、後半の3年半は反キリストが猛威を振るい、大患難のときとなります。人々は命がけで信じなければなりません。でも、迫害がものすごく強いので、背教者も増えるでしょう。パウロは穏やかなとき、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…彼は無意味に剣を帯びてはいない。彼は神のしもべである」(ローマ131-5と言っています。ところが、黙示録13章になると、政府が悪魔化し、獣を拝むことを強要します。私たちは反キリストに従ってはいけません。命をかけて抵抗しなければなりません。問題は私たち教会がそのとき存在しているかどうかです。20世紀、アメリカで福音派が起こりました。聖書の福音に立ち返るすばらしいリバイバルでした。ところが、彼らは「教会は患難が来る直前に天に引き挙げられる」と教えました。つまり、苦難や迫害を恐れなくて良いという便利な教えです。Ⅰテサロニケ5章には「眠っていないで、目をさましていなさい」と書かれています。ですから、「自分は洗礼を受けているから自動的に天に引き上げられる」と思わないでください。カイザルが神のものを要求するときが来たら、要注意です。私たちは命がけで信仰を守る必要があるということです。

黙示録210「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。私の家内(京子さん)が洗礼を受けたとき、本をプレゼントされたそうです。その裏表紙に「受洗おめでとう。死に至るまで忠実でありなさい。大川従道」と書いてあったそうです。きょう洗礼を受けた人に、「死に至るまで忠実でありなさい」というのはキツイのではないでしょうか?でも、京子さんは「ああ、そうなんだ。そうします」とそのみことばを受け止めたそうです。洗礼を受けても半分は教会を去ってしまいます。その人たちの全部が信仰を捨てたとは思いませんが、「いのちの冠」はいただけないと思います。世の終わり、カイザルと神との緊張関係が高まるでしょう。私たちはカイザルよりも、神のものをより大事にしていく必要があるということです。

もう1つの課題は、積極的にカイザルのものに関与していくということです。先ほど、20世紀、アメリカで起った福音派の終末論についてお話ししました。教会には世の終わりになるとこの世が乱れてくるので、できるだけこの世とは接しないという考えが生まれます。そして、やがて来る御国、千年王国にすべての希望を置こうとします。そうすると、この世の人生はおまけになり、修道院のような厭世的な生活を送るようになります。確かに、世の終わりは人々の愛が冷え、悪いことが起こります。しかし、クリスチャンが「カイザルのもの」を放棄し、神さまのものだけに固執しようとするのは神さまのみこころではありません。イエス様は「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように祈れ」とお命じになられました。「主の祈り」はイエス様の祈りではなく、イエス様に従う弟子たちに対するものです。「主の御名をあがめるように」とはこの世の人たちがイエス様を信じて、神さまと和解するようにということです。これは世の終わりに対する伝道のことを指しています。その次の「御国が来ますように」とは、この地に神のご支配が来るようにということです。ビルジョンソンという人は、「イエス様の時から、神の国がこの世にinvade侵入している」と言いました。つまり、政治、ビジネス、芸術、教育、医療、あらゆる世界に神の支配が来るようにということです。これは祈るだけではなく、それぞれの場所にクリスチャンとして遣わされるということです。イエス様は「あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光です」と言われました。塩はこの世の腐敗を留めるという働きがあります。光は神さまの真理といのちを現わしていくということです。この世はますます暗くなるので、たとえ小さな光であっても良く目立つことでしょう。「みこころが天で行われるように地でも行われますように」とは、神の義とあわれみがなされるようにということです。

イスラエルの民がモーセとアロンに逆らいました、そうすると、主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がはじまりました。このことは民数記16章に記されています。人々がどんどん死んでいきました。アロンはモーセが命じたように、香をたいた火皿を取って集会の真ん中に走って行きました。民数記1648「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」とあります。つまり、香をたいているアロンが立ったところから、死罰が止まったということです。アロンは香をたいて、民たちの贖いをしたからです。私たちも、罪と死が支配するカイザルの世界に遣わされています。私たちは手ぶらではなく、神のものを持っているのです。私たちがそこで祈り、福音を語るならば、神の国がもたらされます。確かに言えることは、私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされています。ですから、世の終わりの時代に住むクリスチャンは、「この世は汚れているから離れて生きる」と言うのはみこころではありません。もちろん、一緒にできない事柄もあります。しかし、私たちは神の国を背負っている大使です。私たちの背後には、神の国というものすごいバックがついています。教会は御国の大使館であり、私たちひとり一人は大使です。日本にもいろんな国の大使館があります。アメリカ大使館のように超一等地に豪華な建物もあります。しかし、あまり知られていない国の小さな大使館もあります。問題は大使館の大きさや豪華さにはよりません。その国を代表しているということが重要なのです。私たちの教会もそんなに大きくなくても、御国の大使館です。あなたも、あなたも、御国の大使です。私たちはこの世に違いをもたらす者として遣わされていることをお忘れなく。

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2017年9月 8日 (金)

婚宴のたとえ マタイ22:1-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.9.10

 イエス様はエルサレムにおいて立て続けにたとえ話を語られました。その対象は、祭司長、民の長老たち、そしてパリサイ人たちでした。彼らはユダヤ教の指導者であり、イエス様に反感をいだいていました。そのため、イエス様は遠回しで彼らに教えるために、たとえで話されたのです。このたとえの、王は神さまであり、王子はイエス様、招待を受けていた人たちというのはイスラエルです。その当時はユダヤ人と呼ばれていました。

1.拒絶したイスラエル

 イエス様は「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます」と語り出しました。披露宴は英語の聖書ではwedding banquetとなっています。4節には「宴会」となっていますので、ごちそうが並べられた大宴会でありました。王様はあらかじめ招待状を出していました。日時が迫ってきたので、確認のために、しもべたちを遣わしました。しかし、彼らは来たがりませんでした。J.Bフィリップスは「来るのを拒んだ」と訳しています。知っていたのに行こうとしなかったのです。王様は、直前になって、別のしもべたちを遣わしました。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」と申し伝えました。合計3度、招いたということです。でも、彼らはどうしたでしょう?5-6節「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」何ということでしょう。いつでもできるような畑仕事や商売にでかけました。ルカ福音書にも似たような話があります。「牛を買ったので見なければならない」とか「結婚したので行くことができない」と言い訳をしています。王子の婚宴に行くことは、優先順位の中に入っていませんでした。急用があった訳ではなく故意に行かなかったのです。イエスさまがメシヤとして来られ、御国の福音を宣べ伝えました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは、神の国の招きを受け入れることをしませんでした。なぜでしょう?自分たちの立場を失うからです。あるいは、自分たちの方法とは違うと思ったのかもしれません。なぜなら、律法と伝統を軽んじているように思えたからです。

 ここで言われている「しもべたち」というのは預言者たちでしょう。旧約聖書からイエス様の時まで多くの預言者が遣わされました。でも、彼らは神さまに立ち返ろうとしませんでした。それだけではありません、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまいました。最後の預言者と呼ばれたバプテスマのヨハネも殺されました。王様はどうするでしょう?7節「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」このことは、紀元70年に起りました。ローマによってエルサレムが滅ぼされました。神殿が完全に破壊され、ユダヤ人たちは殺害され、生き残ったユダヤ人は国外に逃げました。たとえに「兵隊」とありますが、神さまがローマの軍隊を用いたというように解釈できます。前のぶどう園のたとえでも、同じことが言われていました。イエス様がエルサレムに乗り込んで、このようなことをおっしゃったら反感を買うのは必至です。でも、ご自分が彼らによって殺されるのをご存じだったので、覚悟の上であったと思います。

 使徒パウロはローマ11章でイスラエルは「不信仰によって切り落とされた」と言っています。不信仰というのは、「あえて信じない」という含みがあります。イスラエルは神によって選ばれた民でありました。だから、それが高慢になったのです。また、律法が与えられ、神さまに対する知識においては格別でした。イエス様の頃、パリサイ人や律法学者たちは、この律法を学び、厳格に守っていました。でも、イエス様が宣べ伝える福音は、行ないではなく恵みでありました。しかも、「ナザレの田舎から急に出てきた、大工のせがれが何を言うんだ。こっちが正統だ」という自負もあったのでしょう。彼らは律法による義を求めたゆえに躓いてしまったのです。このたとえでも言われていますが、御国に入る条件は何でしょう?王さまが王子の婚宴を開きました。救われるための条件は「はい、行きます」と行けば良かったのです。王さまは「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っただけです。言い換えると「救いを得るために、神さまが全部、整えたので、信じるだけで良い」ということです。その根拠となるみことばがⅠヨハネ410です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」「なだめの供え物」は英語の聖書では、propitiation「なだめ、和解、贖い」と訳されています。つまり、「キリストが罪のためにささげられたので、神さまが罪に対する怒りをひっこめられた」ということです。このたとえの中で、王さまはどのような準備をしているでしょう?「雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と言っています。王さまは婚宴のために、雄牛や太った家畜をほふりました。まさしくそれは、イエス・キリストの「なだめの供え物」を象徴しています。そして、ただ来るだけで良いようにしたのです。だけど、それが彼らには気に入らなかったのです。

 パウロはローマ10章で「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ103,4と言っています。神の義というのは、キリストの贖いを信じることによって与えられるものです。一方、自分自身の義を立てるというのは、モーセの律法を行うことによって得ようとする義です。しかし、その義は守っていない人をさばいて排除します。実際、パリサイ人や律法学者は律法を守れない人たちを軽蔑し、排除していました。取税人や遊女たちが神の国に入るのを見て腹をたて、イエス様にねたみを燃やしました。なぜなら、安価な救いを宣べ伝えているように思えたからです。この世の宗教は人間の行いを必要とします。しかし、キリストが宣べ伝える福音は、「神さまが全部準備したので、ただ来るだけで良い」というものです。イエス様は「私がなだめの供え物となりました。何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」と招いておられます。行いではなく、恵みによって救いが得られるのです。

2.異邦人への招き

 イスラエルが躓いたので、異邦人に救いがやって来たというのが新約聖書の考えです。さきほど引用したローマ9章から11章にもそのことが記されています。また、1つ前のたとえでも「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」とイエス様がおっしゃいました。では、このたとえではどのように語られているのでしょうか?マタイ228-10「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」このところから分かるのは、招待しておいた人たちとはイスラエルです。「大通りに行って出会った者」というのは全世界の人たち、異邦人と言えます。また、「良い人でも悪い人でも」というのは、救いの招きは善人とか悪人は関係ないということです。使徒の働きを見ますと、福音がサマリヤ、小アジア、ギリシャ、ローマに伝えられていくのが分かります。西暦4世紀になると、ゲルマン民族がローマに入ってきました。ローマの人たちは彼らを「蛮族」savage tribe「未開の部族」「野蛮な部族」と呼んだのです。でも、その数があまりにも多くて、ヨーロッパ中が支配されてしまいました。ところが、彼らはとても単純で従順であり、キリスト教を受け入れました。マリヤ崇拝とか異教の教えが入ってしまいましたが、それでもキリスト教化されたと言っても過言ではありません。もちろん、その後、暗黒の中世がありますが、それでも福音はヨーロッパに行きわたりました。その後、南北のアメリカ大陸、アジアへと福音が宣べ伝えられました。現在では22億人(総人口の33%)がいると言われています。でも、彼らは本当に救われているのでしょうか?

 このたとえに不可解なことが書かれています。マタイ2211「ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」婚礼に来た人たちの中に、礼服を着ていない者がいました。王様は「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と聞きました。この人たちは、通りを歩いていたとき、突然、声をかけられて、入って来ました。あらかじめ招かれていたなら、礼服を着て来るかもしれません。「通りで呼ばれて、やってきたのに、それは酷じゃないですか?」と文句が出そうです。しかし、当時の風習では、一般の人が王様のところに出るとき、失礼のないように衣服が用意されていたようです。また、このような婚礼のときは、入口で礼服が用意されていました。でも、この人はそれを拒否して、そのまま入って席についていました。彼は理由を聞かれても答えませんでした。おそらく彼は、「俺の流儀で何が悪い。せっかく来てやったんだ」という反抗心があったのではないでしょうか?婚宴の招待はだれにも向けられています。しかし、礼服が必要です。では、この礼服とは何なのでしょうか?この礼服は私たちの罪を覆い隠すものです。王なる神さまのもとに出てもさばかれない服です。ローマ3章には「キリストを信じることによって義と認められる」と書いてあります。言い換えると、信仰による「神の義」がその人を覆っているということです。神の義は、キリストを信じるとき、神さまからプレゼントされるものです。ある人たちは、「キリストを着ている」と言います。厳密に言うと、キリストを着ることはできません。「いや、新約聖書に書いてあるでしょう?」と言うかもしれません。エペソ4章とコロサイ3章には「新しい人を着る」と書いてありますが、「キリストを着る」とは書いていません。正しいのは、キリストを信じることによって与えられる「神の義」を私たちは着ているということです。「神の義」を着ているなら、神の前に立ってもさばかれることはありません。これは宇宙服みたいなもので、宇宙のような大気圏外でも生きていられるのです。ハレルヤ!

 私たちは異邦人です。異邦人とは外国人という意味であり、イスラエル以外の人たちのことを言いました。これは約束がなくて救いから漏れているということです。本来、神さまの計画はイスラエルを神の国の祭司として立てて、すべての国民を救うことでした。ところが、ダメになり、イエス様は新しいイスラエル、12弟子を招集したのです。イエス様は彼らを通して、救おうとされたのです。その福音が日本にまで届いて、人数こそ少ないですが、私たちも御国に籍を置く者たちです。だれから福音を聞いて、「はい、それでは行きます」と信じたのです。でも、なかなかすんなりとは信じられなかったのではないでしょうか?ある人は無理やり連れて来られ、またある人は騙されて来たという人もいるでしょう。郡山の斎藤牧師は大学生のとき友人から教会に誘われたそうです。友人はクリスチャンでなくて、「中華街の教会なので、おいしい昼ごはんが食べられるよ」と誘いました。「僕はそれほど飢えていないよ」と断りました。さらに友人は「若くてきれいな女子もいるよ」と言いました。「僕はそんなの興味ないよ」と断りました。でも、次の週、横浜の華僑教会に行っていました。名目は「中国語が勉強できるから」ということでした。彼は大学の中国語学科だったのに、ほとんど話せなかったからです。でも、そのままその教会に通い続け、クリスチャンになったそうです。きっかけは、おいしい昼ごはんなのか、女の子なのか、中国語なのかご本人に確かめないと分かりません。

このところに、「王子の結婚の披露宴」「宴会」と書いてあります。そして、その食事はとても豪華そうであります。しかも、ただであります。なんと、招かれていた人たちが来なくなったのです。昔、ポスターを見たことがあります。白いクロスの上に、お皿とフォークやナイフが並べられています。そのテーブルは前から奥まで先が見えない位長いのです。英語でこのように書いてありました。“Come and dine”この英語の聖歌の直訳です。「あなたはいつでも、イエス様のテーブルでごちそうが食べられるのですよ。大勢を養い、水をぶどう酒に変えた方が、お腹を空かした人に『来て、食せよ』と招いていますよ。」王子の披露宴の招きに応じた人は幸いです。

3.宴会の教会

箴言1515「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」このところに宴会と書いてあります。クリスチャンは心に楽しみがある人なので、毎日が宴会であるべきです。昔、大川牧師が「楽しくなければ教会でない」とおっしゃって、この箴言1515からメッセージしたことがあります。宴会はだれでも好きじゃないでしょうか?昔、クリスチャンになる前でしたけど、「世の中にこんなに楽しいものがあるのか?」と思いました。でも、25歳でクリスチャンになってから酒を飲むような宴会に出たことがありません。そういえば、北澤姉の結婚式のとき、アリオのレストランを貸し切ってやったことがありました。驚いたのが、教会の姉妹方がビールを何倍もお代わりしている姿を見たことです。私は教会で「酒を飲んではいけない」と言っていません。「酒に酔わないで、むしろ御霊に満たされなさい」とは言っています。ですから、「私は酔っていませんよ。うぃー」と自らおっしゃっているのなら構いません。言いたいことは、教会は宴会のように楽しいところであるべきだということです。なぜなら、罪赦され、救いを得ているからです。また、王子の披露宴の招きに応じて、ご馳走が並んだテーブルに座っているからです。私たちは天国の喜びと豊かさをいつでも味わっているのが標準ではないでしょうか?でも、日本の伝統的な教会はそうではありませんでした。大川牧師は「日本の教会は、暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会だ」とよくおっしゃいました。先生は中学生の頃、「偽善者ばかりで、教会に火をつけてあげたい」と本気で考えたそうです。みなさんのイメージは、「暗い、堅い、つまらないの三拍子そろった教会」でしょうか?おそらく、亀有教会に属している愛兄弟姉妹は、くれぐれもそのようなことはおっしゃらないでしょう。

私はたまたま大川牧師が牧会しておられる座間キリスト教会で救われたので、他の教会のことがあまり分かりませんでした。でも、昔のことや他の人の話を聞くと、「えー?」と驚くようなことが良くありました。日本はピューリタンの信仰が入って来たので、清貧に甘んずることが美徳とされました。日曜日の礼拝の服装も正装して行きます。ジーパンとかサンダルは絶対だめです。日曜日は旅行もだめ、部活もだめ、洗濯もだめという時代もあったそうです。旧約聖書の安息日はそのような規定がありました。しかし、キリストが復活して以来、毎日が安息日、毎年が安息年になりました。昔の人は、「日曜日は主の日なので、昼だけでなく、夜の礼拝(夕礼拝)も守るんだ」と一日教会にいたそうです。未信者の夫や子どもたちは、主婦不在の家庭だったわけです。私は最初、聖め派の神学校に行ったので、私だけが浮いた存在でした。毎週月曜日夜7時から修養生の祈祷会がありました。その学校は神学生とは言わず、修養生でした。ある学生が「なぜ、修養性と呼ぶのか?それは主よ、主よと叫ぶからです」と私よりも勝る冗談をいう先輩がいました。私は月曜日夜の祈祷会が大嫌いで、できるだけ用事を作って行かないようにしました。ある日、舎監の牧師がⅡコリント9章から「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」というメッセージをされました。「自分自身が失格者にならないように、自分のからだを打ちたたいて従わせる」とはまさしく「修養」の世界でした。その教団主催の聖会に出ると、「まだ罪はないのか、悔い改めろ」と暗い部屋でたたかれている感じがしました。まるでモグラたたきであります。平日は暗い神学校での学びですが、日曜日は座間キリスト教会で太陽のもとで恵みを受けます。私はその学校では基礎科で終えて、改めて別の神学校に行きました。その学校は聖めとか全く説きませんでしたが、先生方がとても聖められていました。前の神学校は聖めを説くわりには、みんな癖があり、他の教団を裁いていました。あるとき、Ⅱコリント9章の本当の意味を知りました。パウロは熱心なパリサイ人だったので、すぐ律法主義に戻ってしまいます。真面目なので、自分の力でやろうとするのです。でも、パウロは「それは違うんだ、恵みで生きるんだ。恵みで生きるんだ」と自分のからだを打ちたたいて従わせたんだと教えられました。アーメンです。

もし、教会が「暗い、堅い、つまらない」であるなら、世の人たちが教会に来るでしょうか?聖書のしもべたちは「王子の披露宴、盛大な宴会があるから来るように」と人々を招いたのです。人々は「宴会?それもタダ!」と聞いて、集まってきたのです。礼服もちゃんと備えてあるので、普段着で良いのです。そこには山海の珍味が山盛りにテーブルに並べられています。もし、教会が、私たちクリスチャンが、「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」というような生き方をしているなら自然に人々が惹きつけられて来るのではないでしょうか?それなのに宗教的な顔をして、「ありのままではいけない」とか、「冗談を言っちゃいけない。静粛に」と言っていたなら、だれも来ません。来ても、暗い人しか集まりません。「私はことばで伝道できません」という人がいるかもしれません。でも、あなたが毎日、喜んでいたなら、人々が「どうしてなんですか?何か良いことでもあったんですか?」と聞くでしょう。そのとき、「イエス様が私を愛しているから」と答えれば良いのです。どうぞ、明るいクリスチャンになりましょう。この間、就任30周年のお祝いをしてくださりありがとうございました。でも、「軽い牧師」というセリフが何度出たでしょうか?正確には「軽い」ではなく、「aかるい牧師」です。英語と同じように、冠詞のaが入ることをお忘れなく。私たちはこの世で生きているので、がっかりしたり失望させられたりすることはあります。でも、すべての罪が赦されて、片足は天国に入って入るのです。神の国が私のところに来て、その豊かさが与えられているのです。パウロがピリピ書でこう命じています。ピリピ44「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」この時、パウロは狭い牢獄の中に閉じ込められていました。決して喜べる状況ではありませんでした。喜べる環境が来たならだれでも喜ぶことができます。でも、そうでないときも喜ぶのです。そうすると、不思議に喜びが湧き上がってくるのです。感情に従わないで、信仰によって喜ぶならば、喜びが湧いてくるのです。ハレルヤ!私たちはいずれ、イエス様と一緒に婚宴の席に着きます。でも、その時はただの列席者ではありません。イエス様の花嫁として、イエス様の隣に座るのです。イエス様と私たちが主役の席に座るのです。そのことを覚えるなら、いつでも喜びが湧いてきます。

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2017年9月 1日 (金)

見捨てられた石 マタイ21:33-46 亀有教会牧師鈴木靖尋

 イエス様は彼らにたとえで話しました。たとえにはいろんな効果があります。その1つは敵対している人たちにたとえで話すことによって、自ら悟らせることができます。二つ目のたとえも、悔い改めようとしない祭司長と民の長老に向けて語られたものです。イエス様はかつて「エルサレムに行って、彼らから多くの苦しみを受け、殺される」と予告しました。彼らはこのたとえが自分たちをさして話していることを気づいて、イエス様を捕えようとしました。でも、群衆を恐れて、それを実行できませんでした。

1.イスラエルの失敗

 33節から39節までは、家の主人が農夫たちにぶどう園を貸して旅にでかけるたとえになっています。家の主人はぶどう園を造り、垣を巡らし、その中の酒ぶねを掘り、やぐらを建てました。全部造った後で、農夫たちに貸しました。所有者は家の主人で、農夫たちは雇われている存在です。ですから、収穫の何割かを主人に差し上げるのが当然です。収穫の時が近づいたので、主人が自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わしました。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえ、ひとりは袋ただきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打ちました。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしましたが、やはり同じような扱いをしました。ぶどう園のたとえは、イスラエルの歴史を表しています。主は彼らをエジプトから救い出し、約束のカナンの地を与えました。イスラエルはその地に増え広がりました。しもべたちというのは、神さまから遣わされた預言者です。「収穫の分け前」とは何でしょう?その当時は、収穫の初なり、あるいは何分の一かを神殿に携えてきました。神さまはご自分で食べるのではなく、ささげものをもって、感謝と礼拝をささげることを願っておられます。ところが、イスラエルはカナンの土着の神さまを礼拝し、信仰がおかしくなりました。当然、生活も乱れ、神の戒めも守らなくなりました。神さまはエリヤ、エリシャ、アモス、イザヤ、エレミヤなどの預言者を遣わしました。でも、彼らをことごとく迫害しました。イザヤはのこぎりで引かれたと言われています。やがてイスラエルはアッシリヤとバビロンに滅ぼされました。ユダとベニヤミンという民だけが、バビロンから帰還し、神殿を再建しました。彼らを私たちはユダヤ人と呼んでいますが、イエス様の頃は律法(タルムード)と伝承を中心とした宗教になっていました。エルサレムには神殿があり、特別な行事のとき人々が集まり、犠牲をささげました。エルサレムには祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人がおり、いわばユダヤ教の中心でした。

 突然、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、まもなくメシヤがやって来ると預言しました。彼らは荒野に出て行きましたが、ヨハネの言うことを信じませんでした。預言書のとおりナザレからイエス様が現れ、福音を宣べ伝え始めました。病を癒し、奇跡を行ったので、人々は、「この方がメシヤだろう」と信じ始めました。宣教開始から3年程たち、いよいよエルサレムに乗り込んできました。面白くないのは、祭司長、長老、パリサイ人、サドカイ人たちです。せっかく、待ちに待っていたメシヤが現れたのですから、喜ぶべきでしょう?ところが、自分たちの立場や特権が奪われることを恐れ、イエス様を受け入れませんでした。預言の成就、権威ある教え、癒しと奇跡などから生身の人間でないことは確かです。なのに、イエス様を受けないとはどういうことでしょう?初代教会のステパノがペンテコステの後、彼らに向かってこのような説教をしました。使徒751-52「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」ステパノがこのような説教をしたので、彼らによって石で打ち殺されてしまいました。イエス様がたとえ話で、このように予告しています。マタイ21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。」まさに、このようになったのです。このたとえからも、「財産を自分たちのものにしよう。神さまには返さない」という悪い考えがあります。恐ろしいことに、神の息子、イエス・キリストをエルサレムの外で殺すことになります。

 イエス様はたとえ話を話した直後、彼らに質問しました。マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはこのたとえが自分たちに向けて語られていることを知りましたが、悔い改めようとしませんでした。むしろ、怒りを燃やして、イエス様を捕えようとしたのです。頭では分かっているのに、イエス様を信じなかったのです。先週もお話ししましたが、頭で信じるのではなく、心で信じるものです。頭と心は35センチくらい離れていますが、一致できません。頭では分かっているけど、心では神さまには従わないということがあるかもしれません。なぜなら、人間は知性では動いていないからです。人間が知性では動いていたなら、とっくに犯罪はこの世からなくなっています。人は覚せい剤が悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。盗みは悪いことは、100も承知なんです。でも、やっちゃうのです。スピード・オーバーは悪いことは、100も承知なんです。でも、出しちゃうのです。ユダヤの宗教家たちは、頭ではイエスがメシヤだと分かっていたのです。でも、心で信じようとしませんでした。なぜなら、信じると従わなければならなくなるからです。そうしたら、自分の生活を変えなければなりません。地位や特権がなくなるし、おまんまも食えなくなるかもしれません。宗教が生活の手段になると問題であります。これは私も注意しなければなりません。アーメンです。

 ところで、私は葬儀を伝道集会だと思っています。「人が亡くなったのに、伝道のためにするのか」と非難されるかもしれません。もちろん、故人を偲び、天国での再会を語ります。でも、なんとかこの際、人間の死ということを考えて、解決であるイエス様を信じてもらいたいと福音を語ります。教会にあれだけ求道者が来ることはありません。毎週の礼拝でも新来者はあまり来ません。ところが、葬儀の場合は何十人も、ある場合は100人くらいになります。死はだれにでも来るのですから、「死後はどうなるんだろう」と考えることがあるでしょう。仏教の葬儀では何を言っているか分かりません。でも、教会の場合ははっきり、日本語で語っていますので、内容は分かるはずです。でも、決断するかしないかは全く別です。ある人は頭では分かっているかもしれません。でも、心で信じるということがないのです。お葬式当日は考えるかもしれませんが、次の日になると、日常生活に逆戻りです。そうやって、月日が過ぎ去り、自分の番がやってくるのです。去る74,5日と故板橋松枝姉のご葬儀がありました。会葬者の中に「約30年ぶりだね」という人たちがいました。古い会堂のとき来たことがあるけど、新しくなって初めてだという人もいました。交番で聞いて、別の教会2つも紹介され、やっとたどり着いたという人もいました。10年、20年はあっという間です。体もポンコツになり、「元気?」「大丈夫?」という会話が飛び交います。葬儀は単なるセレモニーではありません。死に打ち勝たれたイエス様を信じるすばらしい機会となります。

 当時の宗教家たちは目の前でイエス様を見ました。お話しを聞きました。ある人はイエス様が病を癒し、奇跡を行うのを目撃したでしょう。イエス様の顔は輝いており、声にも力があったと思います。直接、イエス様とお会いできたのに、なぜ信じることができなかったのでしょう。ステパノは「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち」と言いました。パウロが「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」(ローマ229と言っています。割礼とはイスラエル人になるためのしるしであり、肉体の一部を切り捨てることです。それが心の割礼となると、どういう意味でしょうか?肉体の一部ではなく、いのちのすべてを切り捨て、全面的に信じるということです。心で信じるとは、自分のいのちをかけるということです。頭の場合は、「そういう時もあるけど、これは違うかな」と理性に頼ります。心で信じるというのは、「頭で理解できない時があっても、全面的に神さまに従う」ということです。当時のユダヤ人たちは、心で信じて、イエス様に自分たちをゆだねることをしなかったのです。そのため、さらに心が頑なになり、信じることができなくなったのです。これは一種の呪いです。チャンスが来たとき信じようとしないなら、さらに心が頑なになり、最期の時も信じられないのです。イザヤ書にすばらしことばがあります。イザヤ556-7「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」いつでも信じられると思ったら大間違いです。神さまが招き、聖霊様が教えてくれて、はじめて分かるのです。

2.異邦人の特権

 マタイ2140-41「この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」彼らはそのたとえが自分たちをさして語られたことに気づきました。それで、怒りを燃やしました。このたとえの農夫とはイスラエルの人たちです。やがては、神さまから裁きを受け、殺されるということです。このことは、紀元後70年に成就します。ローマ軍が神殿を破壊しユダヤ人を虐殺しました。ユダヤ人は国がなくなり、世界中に離散してしまいました。イエス様は「そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われました。別の農夫とは、私たち異邦人です。キリスト教会とも言えます。異邦人である私たちが救われる教会の時代がやってきたのです。アメリカにヴィンヤード・チャーチというのがありますが、まさしくぶどう園の教会です。「きちんと収穫を納める別の農夫たちに貸す」と言われていますが、きちんと収穫を納めているでしょうか?教会では10分の1献金ということが言われますが、ある教会は「それは献金ではなく返金だ、10分の1返金だ」と言っています。私は献金だけだとは思いません。時間や奉仕、礼拝や感謝の心もそうだと思います。きょうこのように私たちが礼拝のために体と時間をささげています。これも「きちんと収穫を納める」行為ではないかと思います。私たちは義務ではなく、特権として受け止めたいと思います。なぜなら、神さまは豊かに報いてくださる、generouslyな神さまだからです。Generouslyというのは、「気前の良い」「物惜しみしない」という意味です。女の子がデザートのいちごを食べていました。仕事から帰ってきたお父さんが「パパにもちょうだい」と言いました。お皿にはあと3個しか残っていませんでした。女の子はパパに2個あげました。パパはどうしたでしょう?後日、いちごを1パック買って来て、彼女にあげたそうです。2個を投資したら、1パック戻ってきました。ハレルヤ!私たちの神さまも同じで、とてもgenerousなお方、気前の良いお方です。

 きょうのメッセージのテーマは「見捨てられた石」です。ぶどう園のたとえが、「見捨てられた石」という話だったからです。マタイ2142イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』まず、私たちは家とは何か、また、どのような家なのかということを考えなければなりません。さばきの預言である44節を見てみたいと思います。「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」これは、エルサレム神殿が紀元後70年に破壊されることの預言です。イエス様はマタイ24章でも、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」と預言しました。これはエルサレム神殿が跡形もなく、崩されるということです。でも、イエス様は「この神殿をこわしてみなさい。私は三日でそれを建てよう」(ヨハネ219とおっしゃったことがあり、敵たちもそのことを知っていました。一連のことから考えると、家というのは神殿です。石が積まれたまま残ることのないほどくずされるというのは、エルサレム神殿のことです。ところで神殿を建てるときに最も重要なのは「礎の石」です。口語訳聖書では「隅のかしら石」となっています。英語の聖書ではCornerstoneと書いてあります。ウェブを見たら「建物の2つの辺の角にあって、2つの辺を結び付け、確定させるので、建物の中で、最も重要な位置にあります。建物全体を支える石のことです」と書いてありました。イエス様が引用したのは詩篇11822,23です。似ていますが、イザヤ書2816「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」イザヤ書28章のこのみことばは、使徒の働き411、ローマ933、エペソ220、Ⅰペテロ26などに引用されています。

 どういうことでしょう?イエス様の時代にあったエルサレム神殿はさばきのゆえ崩壊しました。イエス様は壊された神殿を3日で建てると言われましたが、それは教会のことです。教会とは私たちのことで聖霊の宮、神殿であります。イエス様はエルサレムの神殿には全く興味がありませんでした。それよりも、ご自身が礎石となって建てる神の教会が重要でした。エペソ2章後半には、「キリスト・イエスご自身がその礎石です。主にある聖なる宮となるのであり、神の御住まいとなるのです」と書かれています。つまり、私たちの中に神さまが住んでくださるのです。でも、その礎石はイスラエルの人たちに捨てられた石でした。イエス様は彼らのところにやってきました。ところが、彼らはイエス様に躓き、妬みのゆえに殺してしまいました。ぶどう園のたとえのように、あと取りである息子を殺して、財産を手に入れようとしました。「ぶどう園の外に追い出して殺してしまった」とありますが、イエス様はエルサレムの外、ゴルゴタの丘で十字架に付けられました。イエス様は、神に選ばれた約束の民によって、捨てられたのです。ところがどうでしょう?父なる神は、捨てられたつまずきの石を教会の礎石にしたのです。私たちは異邦人であり、選びから漏れていた民でした。イスラエルが躓いたので、救いが私たちのところにやってきたのです。そして、イエス様は私たちの救い主になってくださいました。なんとありがたいことでしょう。新約聖書ばかり読むとありがたみが分かりません。創世記のアブラハムが信仰の父と呼ばれていますが、遠い昔の人です。私は一番最初、東林間のバプテスト教会に行きました。英語がただで勉強できると言われたので、職場の先輩に誘われて行きました。教師がアブラハムを知っているかと英語で聞きました。私は「ああ、アブラハム・リンカーンですね」と答えました。でも、どうして大統領の名前が聖書に書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。ある人が「イエス・キリストってアメリカ人だろう」と言いました。なぜなら、横文字だからということです。日本人の多くは、キリスト教がアメリカの宗教であると思っています。そして、日本には日本の宗教、仏教があるだろうと言います。ちなみに仏教はインドで、キリスト教はイスラエルが発祥の地です。

 私たち日本人は躓く前に、全く無知であります。聖書もほとんど読んだことがない日本人がどうやってイエス・キリストに出会うのでしょうか?普通に生きていたら、絶対、クリスチャンにはならないでしょう?どうして、西アジアの端っこの小さいイスラエルの国で始まった宗教を信じなければならないのでしょうか?かなり前になりますが、テレビで京都の歴史のことが紹介されていました。京都では祇園祭りで有名です。鋒の前に美しい錦絵があります。ある絵はリベカがラクダに水を飲ませている絵であり、「イサクの嫁取り」でした。他にイラクのバクダット宮殿、ピラミッドの絵もあります。祇園祭りのルーツは、古代イスラエルのシオン祭りであり、日程も重なっています。聖書の物語がシルクロードをはるばるやってきました。ユダヤ人は躓きましたが、形を変えて日本にやってきたのです。伝道のため聖書はもちろん必要ですが、キリスト教の文化がたくさん入って入ることを伝えて興味を起こさせたら良いです。「目からうろこ」「豚に真珠」「目には目、歯には歯」「スケープゴート」「のど仏(Adams apple)」があります。前にも話しましたが、ある漢字は聖書の物語から来ています。船(ノアの8人)、裸(果実を食べた結果)、義(羊に我)、犠牲(牛と羊を戈で殺してささげる)。でも、私が一番、効果があると思うのは、病の癒しや奇跡です。人はこれを体験すると、福音に対して心が開かれます。これはイエス様と弟子たちが行った最も古い伝道法です。また、聖日礼拝に連れてくると、神さまを体験することができます。この礼拝では、神さまを体験することができます。ハレルヤ!

 普通、宗教と言えば、私たちが神さまのところへ行かなければなりません。きよくなるための行い、お布施、作法、めんどうなことがたくさんあります。「あなたは汚れていて相応しくない。もっと修養が必要だ」と言われるかもしれません。でも、イエス様は神の御座から下界に降りてきてくださいました。人々の病を癒し、たくさん良いことをしたのに、裸にされて十字架で殺されました。本当に人々から捨てられたんです。それだけではなく、神さまからも捨てられました。しかし、それは私たちの罪を贖うためでした。イエス様は選民イスラエルのところに来たけれど、捨てられました。でも、神さまは不思議なことをなさってくださいました。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」のです。本来、私たちが神さまから見捨てられていた存在でした。私たち異邦人は、救いから漏れていたのです。なんと、見捨てられていた私たちのところに、見捨てられた石としてイエス様が来られたのです。本来、神であり王の王であるお方が、へりくだって私たちのところに来てくださいました。もちろん、私たちもイエス様を神としてあがめ、うやまいます。でも、私たちのために、どん底まで降りてきて下さったイエス様をあがめるのは当然であります。だれでも、イエス様にあるなら人生の大逆転があります。なぜなら、イエス様ほどん底まで降りた方は歴史上一人もいません。でも、イエス様は陰府の底からよみがえってくださいました。エペソ4章には「高い所に上られたとき、人々に賜物を分け与えられた」と書いてあります。賜物とは霊的賜物であり、私たちがやがて行くパラダイスのことです。主にあって見捨てられた人など一人もいません。イエス様はあなたを救うために来られたからです。

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