2014年6月 8日 (日)

ヨエルの叫び    ヨエル2:28-32

 きょうはペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは、ギリシャ語の50から来ています。旧約聖書では過ぎ越しから50日目が小麦の収穫をお祝いする日でした。新約聖書では、イエス様が十字架で死なれてから、50日目に聖霊が降りました。その日、ペテロが説教すると、3000人の人たちが救われました。霊的な大収穫ということができます。教会では「リバイバル」と言う言葉をよく使いますが、「ペンテコステのような大収穫が再び来るように」という願いからです。使徒ペテロは、ペンテコステの朝、ヨエル書を引用して、説教しました。私たちは旧約聖書から続けて学んでいますので、まず、ヨエル書から学びたいと思います。


1.ヨエルの説教

ヨエルという名前は、「主は神なり」という意味です。しかし、どの時代に活躍した預言者なのか定かではありません。ヨエルが生きていた時代、いなごが度々、来襲し、山野や畑を荒廃させました。ヨエル書を見ますと、異なった種類のいなごが、4回に渡って来襲しているのが分かります。「かみつくいなご」「いなご」「ばった」「食い荒らすいなご」の来襲によって、地は荒廃させられました。徹底した被害によって、あらゆる層の人たちがどん底に落とされました。ぶどうの木がいなごにやられると、ぶどう酒ができません。だから「酔っ払いよ。目をさまして、泣け」(1:5)と言われています。また、小麦と大麦がやられると、パンも作れません。「農夫たちよ恥を見よ」(1:11)と言われています。草もなくなり、ささげる羊もいなくなります。だから、「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ」(1:13)」と言われています。いなごは、まるで軍隊のように彼らに襲い掛かります。ヨエル2:4「その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。」一匹はとても小さいのですが、集団になるとまるで軍隊です。投げ槍を放っても、止まりません。城壁があってもよじ登って来ます。

 いなごの来襲は何を意味しているのでしょうか?だれが、何のためにいなごを遣わしたのか?ヨエル書にはたびたび「主の日」という言葉が出てきます。ヨエル1:15「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」主が民たちをさばくためいなごを遣わしているのです。南北のイスラエルは経済的には豊かでしたが、神さまのことを完全に忘れていました。無関心の罪です。神さまはいなごの大軍を4回に渡って、イスラエルの地に送りました。そのため、地は荒廃し、人々から喜びが消え失せてしまいました。「主の日」とはさばきであり、世の終わりにやってくる主のさばきを預言しています。ヨエルは「主の日が来るので、悔い改めろ」と叫んでいるのです。ヨエル2:1-3「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」いなごやばったによって空が真っ暗になりました。そして、いなごやばったが過ぎ去った後は、火が焼き尽くされたように、荒れ果てた荒野になりました。しかし、「主の日」とは、世の終わりにくるさばきのことであります。今度は、本物の火によって、地球そのものが焼き尽くされるということです。ですから、ヨエルの叫びはその時代の民たちだけではありません。終わりの時代に住む人たちにも向けられたことばです。

しかし、同時に「主の日」は回復の時であります。ヨエル2:23-26「シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」これは、世の終わり、終末の預言です。そのとき、主がイスラエルを回復してくださいます。イスラエルでは雨が二度降ります。「初めの雨」というのは、秋の10月頃から降る雨です。この雨は、作物の種を蒔いたあと芽が出るのに大切な働きをします。その後、しばらく雨が降りません。パラパラぐらいの程度です。「後の雨」というのは、春先の2月、3月に降る雨です。この雨は植物が生長して花を咲かせ、実を実らすのに必要な雨です。「後の雨」の収穫によって、いなごやばったで食い尽くされたものを、償われるということです。だれが、そうなさるのでしょうか?主なる神さまです。旧約聖書の神さまは、さばきを与える恐ろしい神さまだと思われています。しかし、そうではありません。確かに罪に対してはさばかれますが、悔い改めるならば、必ず赦してくださいます。そして、そのとき、失ったものを償って下さるお方です。ヨエルは「あなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」と言いました。この預言はイスラエルに対する預言です。イスラエルの民が本当に回復するのは、世の終わりの時です。やがて、イスラエルの民が主に立ち返り、神、主の名をほめたたえるようになるのです。つまり、神さまは真実なお方であり、一度、選んだ民を捨てないということです。ハレルヤ!


2.ペテロの説教

 イエス様が天にお帰りになられてから、10日間、120人の弟子たちが祈り待ち望んでいました。五旬節の日、つまりペンテコステの日、約束の聖霊が弟子たちの上に降りました。このことを「聖霊降臨」と呼びます。現代は子どもたちのゲームでも「降臨」などという言葉を平気で使います。本来は、聖なることばなので、簡単に使ってはいけないと思います。聖霊が力として、外からやってきました。復活の夜は、イエス様が弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言われました。そのときは、聖霊が新しい命として、弟子たちの内に住んでくださいました。しかし、聖霊を上から受ける必要がありました。その日、聖霊は力を象徴するかのように、激しい風のように、炎のように下りました。すると弟子たちは、聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました。そのとき、世界中からユダヤ人が集まっていましたが、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話していました。それで、「ガリラヤの人たちが、めいめいの国の国語で話しているんだろう?」と驚き怪しみました。パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジア、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビア、ローマ、クレテとアラビヤなど、いろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞きました。ところが、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているんだ」とあざける者もいました。「甘い」とは「安い」という意味です。つまり、「悪酔いしているんだ」ということです。聖霊に満たされることと、酒に酔うことが似ているということがここでも分かります。酒に酔うと、多弁になったり、歌ったり、踊ったりします。120人がそのようにしたら、かなり賑やかです。

 そのときに、ペテロが11人とともに立って、声を張り上げ、人々に言ったのです。説教というよりも、ヨエルのような叫びかもしれません。「今は朝の9時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです」とペテロはヨエル書から語りました。使徒2:17-18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」旧約のヨエル書とどこか違うところがあります。ヨエル書では「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言われました。しかし、ペテロは「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。もちろん、ペテロはヨエル書から引用したのですが、あえて「終わりの日」と言いました。これはどういう意味でしょう?ペンテコステの日から、世の終わりの時代が始まったということです。いつ来るかというと、世の終わりの時代の、終わりです。しかし、きょう注目したいことは、世の終わりの初めに、聖霊が地上に注がれ、新しい時代が始まったということです。かつて、聖霊は特別な人にしか注がれませんでした。サムソン、ダビデ、エリヤ、エリシャ、エレミヤ、ダニエルなどです。しかも、彼らに一時的にしか聖霊は留まっていませんでした。しかし、世の終わりには「息子や娘は預言し、…しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とあります。ペンテコステの日、聖霊が注がれた人たちは、ただの人たちでした。ですから、民の指導者や長老たちは「ペテロとヨハネが無学な、普通の人であるのを知って驚いたのです」(使徒4:13)。その日、以来、イエス・キリストを信じるなら、だれにでも聖霊が与えらるようになりました。

 そして、ペテロはヨエルのように叫びました。使徒2:38「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」そこに集まっていたユダヤ人は、「十字架につけろ」と叫んでいた人たちでした。彼らは胸を打って、罪を悔い改めました。しかし、祭りのためにエルサレムに出て来ていた人たちもいました。使徒2:40-42「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」3000人の人たちが、どんなふうにバプテスマを受けたか分かりません。とにかく、彼らはイエス様を信じ、同時に、聖霊を内にいただいたに違いありません。彼らこそ、最初の霊的な収穫、初穂です。ペンテコステは、最初に収穫した小麦をささげる日でした。そして、その日、目に見えるかたちで教会が誕生したのです。教会の原型(プロトタイプ)はイエス様のまわりにいた12の弟子たちでした。しかし、それは、まだ教会とは言えませんでした。ペンテコステの日、120人の弟子たちに聖霊が降り、ペテロの説教で、3000人が救われました。彼らが初代教会の人たちです。それから、毎日、主が救われる人々を仲間に加えてくださいました。そして、だんだん、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、アンテオケ、エペソ、ピリピ、ローマにも教会ができました。ですから、ペンテコステから始まった初代教会の頃を「初めの雨」と呼ぶことができます。そのとき、霊的な大収穫がありました。

奥山実先生は「雨は二度降る」とメッセージしたことがあります。ペンテコステの日に降った恵みの雨は、「初めの雨」でした。そして、世の終わりに、「後の雨」が降るということです。世の終わりにも、霊的な大収穫が起こるということです。同時に、失われたものに対する回復が与えられます。ペンテコステの日、大きな収穫があり、教会が誕生しました。それから2000年間、雨はパラパラとしか降りませんでした。降っても、「お湿り」程度です。では、歴史的にパラパラ降ったのはいつごろだったのでしょうか?世界において、リバイバルと呼ばれているのがいくつかありました。日本語では「大覚醒」と訳されており、眠っていた人たちが目覚めるということです。まず、16世紀のルターやカルバンによる宗教改革でしょう。また、その後、18世紀、英国においては、ジョンウェスレーのリバイバルがありした。また、ウェールズでリバイバルがありました。同じ18世紀、アメリカのニューイングランドでは、ジョナサン・エドワーズのリバイバルがありました。ジョージ・ホイットフィールドという人も活躍しました。しかし、近代批評学が始まり、「聖書は本当に神のことばなのか?」と疑問を抱く人たちが大勢おこりました。そういう困難な中においても、19世紀、アメリカでムーディによるリバイバルがありました。二つの大戦を経てから、20世紀、ビリー・グラハムによるリバイバルがはじまりました。まだ、教会は「聖書は信じるに値する書物なのか?」迷っていました。そのとき、ビリー・グラハムは聖書を高々と上げて、But The Bible said (にも関わらず、聖書は言います)と説教しました。彼が招きをすると数えきれない人たちが講壇の前に押し寄せました。近年は、アルゼンチン、中国、韓国、アフリカの各地にリバイバルが起こっています。ある人たちは、「これらが後の雨ではないか」と言っています。しかし、私たちは「いや、終わりの時代はもっとすごい後の雨が降る」と信じています。なぜなら、ヨエル書には「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう」と言っているからです。なぜなら、まだ、ヨエル書が言うような、回復が訪れていないからです。


3.終わりの時代の説教

 説教には神のことばを宣言する(プロクラメーション)という意味が含まれています。ヨエルも神のことばを宣言しました。ペテロも神のことばを宣言しました。私たちは終わりの時代に生かされています。つまり、ペンテコステと主が再び来られる日の間に生かされています。これまで、世界各地にリバイバルの雨が降りました。しかし、日本にはそのようなリバイバルがまだ来ていません。日本の牧師たちの中は、リバイバル・シンドロームというものがあるように思います。どういうものかと言うと、「リバイバルが来なければ何もできない。奇跡も起こらないし、人々も救われない」という考え方です。もちろん、リバイバルは人間で起こせるものではなく、神さまから一方的に来るものです。たとえば、冬が過ぎ去り、春がやってきました。今は、もう初夏です。今から50年前、韓国にリバイバルが来たとき、金ジュゴン牧師は「リバイバルの季節がやって来た」と言いました。リバイバルはそういうものです。全く、神さまのみわざであり、私たち人間がどうすることもできません。それでは、リバイバルが来なければ、何もできないのでしょうか?私たちはイエス様の十字架と復活、そして、ペンテコステ以降に生かされています。今、あるものを数えるならば、すでにすばらしい恵みにあずかっています。イエス様の十字架と復活によって、だれでも救いを得られるようになりました。また、イエス様を信じると内側に聖霊が住み、神がともにいてくださいます。

 そればかりではありません。ペンテコステ以降、聖霊が内側にいるだけではなく、上からも注がれ、力に満たされます。つまり、だれでも、個人的なリバイバルを体験できるということです。私たちは大勢のリバイバルを望む前に、一人ひとりリバイバルを体験する必要があります。ヨハネ福音書には聖霊における体験が2種類あります。第一はヨハネ4章です。ヨハネ4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」これは、救われた人が経験する「いのちの泉」の経験です。救いの喜びとも言えるでしょう。永遠のいのちが内側から泉のように湧き上ってきます。しかし、湧いてくる水の量には限りがあります。どのくらいの人たちに分かち与えることができるでしょうか?第二はヨハネ7章です。ヨハネ7:38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これはイエス様がおっしゃられたことばです。原文は、川は単数ではなく、riversと複数形になっています。そのまま訳すと、「その人の心の奥底から、生ける水が川々となって流れ出る」となります。川は泉よりも、もっと多くの水が流れ出ます。では、これはいつから可能になったのでしょうか?ヨハネ7:39「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」このみことばは、イエス様のことばではなく、おそらくヨハネの解説でしょう。どうしたら、生ける水が川々となって流れ出るのでしょうか?ヨハネの解説によると、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のこと」とあります。そのまま読むと、「イエス様を信じる者が後になって受ける御霊があるのだ」ということです。しかも、イエスさまが栄光を受けた後に、御霊が注がれるということです。イエス様は復活後、昇天し、右の座に座られました。そして、父のみもとから聖霊を送られました。つまり、これは、ペンテコステのことです。ハレルヤ!私たちはペンテコステ以降に生きていますので、ヨハネ7章の生ける水が川々となって流れ出る経験を持てるということです。つまり、個人的なリバイバルを体験できるということです。アーメン。他の大勢の人たちのことは、ともかく、自分が聖霊を受けて、満たされ、あふれることができるということです。クリスチャンであれば、だれでも内側に聖霊がいらっしゃいます。次は、上から聖霊を受けて、満たされ、そして、あふれ流れるばかりだということです。

どうか、むずかしく考えないでください。聖書の標準は、泉の経験にとどまらず、川々の経験も与えられるということです。どうぞ、満たされましょう。あふれ流れましょう。そういう人たちが10人集まったらどうでしょうか?そういう人たちが100人集まったらどうでしょうか?結構な量になるのではないでしょうか?昨年、常磐牧師セルで利根の上流に行ってきました。いくついかのダムがありました。実際、利根川の源流に行ったわけではありませんが、その川の水量はわずかです。だんだん、支流から水が流れこんで、大川になっていきます。でも、はじまりはわずかな水量です。私たちも最初はわずかでも、集まれば大川になります。エゼキエル書47章にも同じような幻があります。神殿の敷居の下から水が湧き出ています。500メートル行くと足首まで、さらに500メートル行くと水はひざに達しました。さらに、500メートル行くと水は腰に達しました。さらに500メートル行くと、水かさは増し泳げるほどの水となり、渡ることのできない川になりました。この川が行く所では、すべてのものが生きるのです。ペンテコステより始まっている、リバイバルの川に身を浸しましょう。


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2013年5月12日 (日)

恥からの解放      ヨエル2:25-28

 ルース・ベネディクトという人が『菊と刀』という本を書きました。彼女は、欧米は「罪の文化」であることに比べ、日本は「恥の文化」であると言いました。その本を読んでいないので何ともいえませんが、わかるような気がします。西洋は絶対者なる神様との関係を意識して暮らしています。だから、罪という概念が良くわかるのでしょう。一方、日本人は「人がどう見ているか」によって判断します。そして、子供のときから、「恥ずかしくないように」とか「人に笑われないように」と育てられます。そのために、恥意識が強められるのかもしれません。きょうのメッセージは聖書的でない恥意識を払しょくし、「神の子供らしく、胸を張って生きられるように」というのがゴールになっています。


1.恥意識を持つ原因

 私たちの心になぜ、恥意識が生まれたのでしょうか?最初に遡るとアダムとエバが罪を犯したことが原因しています。彼らが食べてはならない木から取って食べたらどうなったのでしょうか?創世記3:7「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」とあります。神様から「あなたはどこにいるのか」と聞かれたとき、アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。ここに最初の恥が記されています。これは、「私はありのままではいけない。私は恥ずかしい存在である」という意味がこめられています。赤ちゃんは生まれたときは、素っ裸です。私たちは死ぬときも、地位も持ち物も全部はぎとられ、裸になるでしょう。2つに共通しているのは「自意識がない」ということです。赤ちゃんも死んだ人も、意識がありません。しかし、意識を持っている人は、どうしても恥という思いや感情から自由になることができません。考えてみると良い恥もあります。私たちは神様の道を外れたことをしているとき恥意識が生じます。今は同性愛者が堂々とテレビに出る時代です。しかし、「おねえ」とか「ゲイ」だとか、いくら呼び方を替えても、彼らの深いところには恥意識があるでしょう。盗みをしていたり、何か不正をしている人は、心の中に恥意識があります。でも、それは「正しい道に帰るように」という神様が与えた良心からくる恥です。そういう意味では、できるだけ、恥ずかしくない公明正大ない生き方をすべきでしょう。

 でも、きょう、私が取り上げたい恥は、私たちが持ってはいけない恥です。私たちが恥を受け、苦しむとどうなるでしょう?そこに悪霊がやってきて、住み着くので、さらにみじめな生活を送ることになります。私たちは生きていく上でいろんな傷を受けます。拒絶、裏切り、非難、虐待、性的暴力、喪失、敗北、悪いことばを受けます。その時、私たちの心の中には、怒りや憎しみ、悲しみが起こります。でも、すべての心の傷には、恥が伴います。恥はどの傷にもくっついてしまう厄介な存在です。拒絶されても恥を受けるし、裏切られても恥を受けるし、非難されても恥を受けるし、性的暴力を受けても恥を受けます。なぜ、恥がくっつくのでしょう?それは、「自分がそのようにされるのは自分に非があったからだ。自分が弱いから、自分が醜いから、自分に価値がないからだ」と自分のせいにしてしまいます。だから、恥が生まれるのです。なんと、胎児であっても恥を受けるということです。受精して2週間くらいすると心臓がちゃんと動き出します。2か月くらい経つと外部で何が起きているかもキャッチできるようになるそうです。たとえば、結婚外に与えられた赤ちゃんだと母親はどう思うでしょうか?「生むべきだろうか?堕胎すべきだろうか?」という不安と恐れを持ちます。母親の感情をキャッチした赤ちゃんは「私は生まれてはいけない存在なんだ」という思いから恥が生まれます。また、自分が子供のときに、両親が何かの理由で離婚したとします。すると子供は「両親が離婚したのは、私が悪かったからだ。私のせいなんだ」と思います。そして、恥意識を持つそうです。たとえば、両親が離婚しないで普通の家庭で育ったとします。でも、子供が育つときは、いろいろなことが起こります。他のきょうだいと比べられて、「歩くのが遅いとか、しゃべるのが遅いとか、排泄を一人でできない、頭が悪い」とかいろいろ言われます。親は叱咤激励のつもりで言っているかもしれませんが、子供は「自分は劣っているんだ」という恥を受けます。しかし、最も大変なのは幼稚園、小学校、中学校に行ったときです。そのとき、身体的な違いが、からかいのネタになります。耳が大きい、鼻が上を向いている、目が大きい、口が大きい、背が高い、背が低い、白い、黒い、痩せている、太っているなど、人と違っているだけで、馬鹿にされます。その時、付けられるあだ名は、身体的なものからくるものです。それも、良い意味ではなく、自尊心を傷つけるようなあだ名です。私は子供のときによく、鼻をたらしました。親からも「鼻たらし」とか言われました。少し毛が薄いとハゲと言われたり、歯が少し出ているだけで、「出っ歯」とか、「サンマ」なんて言われるでしょう。これがもし、身体的あるいは精神的に欠陥がある場合は、差別用語が使われるでしょう。昔は「びっこ」「かたわ」「めくら」「やっこ(乞食)」「気違い」などと言いましたが、今では禁じられています。小学校のとき、親が後妻をめとり、その連れ子がクラスに入ってきました。私たちはみんなで彼をいじめて、恥を加えました。

 また、思春期も恥の嵐が吹き荒れます。若い人に自殺が多いのはこのためです。男の子も女の子も第二次成長期を迎えるといろんなところに変化がやってきます。人と比べて遅い人もいれば、早い人もいます。早ければ早いで馬鹿にされます。自分が男であることが恥ずかしかったり、あるいは自分が女であることが恥ずかしかったりします。また、精神面で、とても不安定です。「自分はだれなのか?」というアイディンテティに悩みます。尊敬できない親である場合は、特に不安定になります。もう、自分がこの世にいるだけで恥ずかしいというふうになります。その次は学校とか職場です。どの学校に入るかで、自分の価値がきまります。自分は何をしたいかではなく、どのレベルの学校に入れるかで、決るような気がします。もし、あるレベルの学校を落ちた場合は、大きな恥を受けます。会社に入るのもそうです。特に男性の場合は自分の職業がスティタスです。自分が二流の三流の会社であるならば、名刺を出すのも恥ずかしいでしょう。また、女性の場合は、どういう人と結婚できるかで自分の価値が決まるようです。身分も経済もちゃんとしている男性だったら良いですが、そうでない場合は恥ずかしい思いをするでしょう。勝ち組とか負け組があり、どこかで、「セレブになれたらなあ」と願っています。また、自分が持っている車や家でも、ある人たちは恥と戦っています。借家だと、何か一人前でないような気がするかもしれません。なぜ、人々はがんばって勉強して良い学校に入るのでしょう。なぜ、人々はがんばって働いて良い会社の地位に就こうとするのでしょう?なぜ、人々はがんばって家やマンションを持ちたがるのでしょう?それはアダムとエバから始まった恥を隠すためです。私たちが覆っている多くの物は、いちじくの葉っぱに等しいものです。それは弱くて一時的です。もし、病気にでもなったら、会社の地位もふっとんでしまいます。何かスキャンダルにでも巻き込まれたなら、これまでの名誉や名声はふっとんでしまうでしょう。

 エリヤハウスの講師、ロバートのお父さんはアルコール中毒で、お母さんは精神的な病を患っていました。ですから、彼は友人を家に連れてくることができませんでした。もしも、友人たちを連れて来た時、家で何が起こるか分からないからです。そのため、彼は「私の家庭は異常だ」ということを、いつも「隠そう、隠そう」としていました。彼の心は悲しみ、痛んでいましたが、いつもそれを隠して、明るく振舞っていました。罪悪感は、「私は間違ったことをした」と考えさせます。それに対し、恥意識は「自分の存在自体が間違いである」と考えさせます。さらに、恥意識は隠れようという思いを生じさせます。そのため、恥は心に壁を築くことになり、神さまからも、他の人からも、自分をシャットアウトさせます。時に私たちは、自分はうまく隠れていると思うことがあります。でも、神さまから隠れることはできません。私たちは多くの場合、他の人たちをうまくごまかしていると思っています。しかし、自分が気付いている以上に、他の人たちは私たちに気付いています。神さまはどんなお方でしょうか?ヘブル4:13以降「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。・・・私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」私たちは、本当は神さまから隠れることはできません。そして、私たちは神さまに弁明をしなければなりません。でも、神様は、私たちが大胆さをもって御前に近づくことができるようになることを願っておられます。「大胆な心をもって」です。しかし、恥という重荷を持っていては、そのことはできません。後半は、どのようにして恥意識を払しょくし、恥から解放されるかについて学びたいと思います。


2.恥からの解放

 まず、考えたいことは、「恥からくる実というものは何か」ということです。つまり、「その人に恥意識があるとどんなまずいことが起こるか」ということです。恥意識があると、完全な癒しを受けることができません。なぜなら、重要な問題を隠しているからです。また、人との信頼関係が持ちづらくて、どうしても表面的になります。「また、捨てられるんじゃないだろうか?また裏切られるんじゃないだろうか」という恐れがあるからです。さらに、神様や人からもらえるのに、「私はふさわしくないので、受けられません」と遠慮してしまいます。神様の祝福、昇進の機会、すばらしい人との結婚、奉仕の場さえも拒んでしまいます。なぜ、こんなことが起こるのでしょう?実は恥は、力強い要塞の1つです。要塞は英語でstrongholdと言います。Strongholdというのは軍隊用語で「砦」「根拠地」「城」という意味があり、敵を攻撃したり、あるいは敵から身を守るための基地でもあります。要塞を作るときは、城壁をはりめぐらし、その周りに水路を掘ります。水路の上には橋があり、城壁の門には大きなかんぬきがあって簡単には入れません。要塞の中には水、食料、石投げ機などの武器、石、油がたくわえられています。いったん、その人に恥という要塞が作られると、どうなるでしょう?その人の中に簡単に入ることができません。また、その人自身も、外に出てくることができません。恥という要塞を破るためにはどうしたら良いでしょうか?まず、数えきれない愛の火矢を城の中に放ちます。大きなこじ開け棒を持ってきて、城壁を開けるでしょう。さらに聖霊の油によって要塞の中を燃やします。やがて水も食糧も付き、白旗を上げるでしょう。それからやっとカウンセリングが始まります。 

恥の背後にはサタン、悪魔がいます。悪魔は日本の文化の中に働いています。また、悪魔は家系を通して、1つの世代から次の世代へと恥の意識を流していきます。そして、悪魔は人々を通して、あなたを欺いてきました。第一のポイントでも言いましたが、両親、きょうだい、友人、身近な人が言ったことば、あるいは虐待から来たものです。それが、頭や体、そして心にまで、トラウマになって染み込んでいます。「お前は間違って生まれてしまった」「お前は醜いし、汚れている」「お前には愛される価値がない」「お前はみじめな存在だ、一生日陰で暮らせ」「お前は幸せなんかなれない」「お前はどうしようもない欠陥人間だ、失敗品だ。」「お前は赦しを受ける価値がない」「お前はどうしようもない人間なので、そういう生活が似合っているんだ」。「馬鹿、死ね、カス」…どうしてこんな間違った恥意識が植え付けられたのでしょうか?悪魔は、人々が語ったことばをメガホンで拡大し、事実を捻じ曲げ、あなたを欺いてきました。あなたの恥の背後には、解放されることを妨げている悪魔がいるのです。あなたはずっと、要塞の中にひとりぼっちでいたいでしょうか?それとも、神様の愛を信じて、恥から解放されたいでしょうか?イエス様はあなたを恥から解放するために、この地上にやって来られました。イエス様が誕生したとき、恥が伴っていました。ヨセフはマリヤが妊娠したことを聞いたとき、密かに彼女を去らせようとしました。その当時の文化であれば、マリヤは石打ちにあって殺されなければなりませんでした。しかし、天使が現れ、ヨセフのところに来て「この子どもは神さまが授けた子どもです。彼女を去らせてはなりません」と告げました。ヨセフとマリヤが人口登録のため、ベツレヘムに上りました。その当時は親戚同士がゆずりあって宿屋に泊るものでした。ところが、二人のためにだれも部屋を開けてくれませんでした。彼らは仕方なく、馬小屋に泊るしかありませんでした。イエス様が大きくなったとき、人々から「マリヤの子だ」と言われました。イエス様ご自身は、恥を持っていなかったと思います。しかし、私生児として生まれたという事実をいつも背負って生きていなければならなかったことは事実です。イエス様の預言として有名なイザヤ53章は何と預言しているでしょうか?イザヤ53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」ここに恥とは書かれていませんが、イエス様が恥をしのばれ、恥を背負ってくださったことは確かです。なぜなら、イエス様は素っ裸で十字架につけられたからです。聖画などでは、腰布を付けていますが、本当はそうではありません。なぜなら、十字架刑は人をさらしものにし、苦しみと恥辱を与えて殺すための道具だったからです。そのイエス様が私たちの恥を理解できないとは思えません。ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」アーメン。

解放のための5つのステップがあります。第一は認識です。最初にしなければならないことは、「私のうちには恥という問題があリます」と認めることです。たとえば、「父から、お前は何もできない。馬鹿だなーと言われたとき、本当に傷つきました」と認めることです。ある人は母から「あなたは生まれてこなければよかった。間違って生まれたのよ」と言われた人もいるかもしれません。こういう親から受ける恥はとても深刻です。ある人は友達が言った言葉で、とっても傷つき、それがずっと残っているという場合があります。私の家はお金がなかったので、村に水道が来たとき、自分のところに入れられませんでした。井戸があるので普段は大丈夫ですが、夏になると水が濁ってしまいます。お茶を飲むために、私はたびたび、隣に水をもらいに行かせられました。やかんをもって「水こけれー」ともらいに行きます。隣には私と同級生の友達がおり、喧嘩をしたとき、「水こけれー」と口調を真似されました。本当に、恥ずかしい思いをしました。学校でもみんなの前で叱られて、立たせられると恥を受けます。女性は性的な恥を男性よりも多く受けるでしょう。そのため、結婚してからも支障をきたしている人がたくさいます。私たちは大人になるまで、一体どれくらいの恥の衣を重ねて着ているのでしょうか。ボロで、汚い衣です。着物と本体は違うはずなのですが、本体まで汚れているように錯覚しています。神様は恥を恥で終わらせない、恵み深いお方です。イザヤ書61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」私たちは豊かな報いをくださる神様に心を開く必要があります。第一に心を開かなければ何も起こりません。心を開けば、開いた分だけ光が差し込みます。光が差し込めば、闇は追い出されます。

第二は告白をすることです。詩篇を見ると、ダビデは自分の気持ちを素直に告白しています。悲しかった、苦しかった、さびしかった。「敵を呪ってください」とまで言っています。そして、自分の罪と恥をぬぐい去ってくださいと願うのです。詩篇51:1-2「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」自分が恥を受けたのは、過失だったからかもしれません。あるいは先祖から下ってきた咎がそうさせたのかもしれません。とにかく、いろんな状況が悪く働いて、恥と痛みを受けました。そのことを神様に告白し、その傷と恥をきよめてくださいと祈るのです。すると、聖霊様がきよい水をもって、恥を受けたところを洗い流してくださいます。聖霊様はあなたを再生し、聖くしてくださる神様です。身も心も、そして魂もきよめてくださいます。神様が一旦、聖めたならば、だれもきよくないなどとは言えません。

第三は赦すべき人を赦すということです。自分を馬鹿呼ばわりした父親、生まれてこなければよかったんだと言った母親、あるいは自分を傷つけた友人、先生、そういう加害者たちです。恥の影にはどうしても、恨み、憎しみ、怒りが隠されています。「決して赦さない」と憎しみを持っているその場所に、悪魔が要塞を作るのです。エペソ4章に「悪魔に機会(場所)を与えてはならない」と書いてあるのはそのためです。怒りと復讐心を神様にゆだね、赦すことを選びとるのです。そうするなら、神様の解放が後の雨のようにあなたに訪れるでしょう。

第四は十字架につけます。イエス様が私たちの恥を背負って、代わりに十字架にかかってくださいました。私たちがしなければならないことは、今まで恥意識を負って来た古い人を十字架につけるということです。イエス様を招いて、私たちの中で築き上げられた恥の構造を十字架に付けていただくということです。

第五はそこに新しい命をいただくということです。神様は恥の衣にかえて、賛美の外套を着せてくださいます。あなたは神さまにとって、瞳のような大切な存在です。それだけではありません。神様はあなたが、これまでそこなったものを豊かに償ってくださるお方です。ヨエル2:25-26「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」神様ご自身があなたに価値を与え、生きる希望を与えて下さいます。これから先、あなたを害するものは一人もいません。神様ご自身があなたの城壁となるので、あなたは永遠に恥を見ることはないのです。


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