2013年4月21日 (日)

トラウマからの解放    ヨハネ黙示録3:20-22 

「トラウマ」は、もともとはフロイトが精神分析のときに用いた言葉だったようです。トラウマは「心的外傷」とも言いますが、「心理的に大きな打撃を受けて、その影響が長く残るような体験」をさします。たとえば、私たちは事故にあったり、ひどいことをされた時に、「トラウマになった」と言います。そして、そのショックが心の中に傷として残り、次から「またそういうことが起こるんじゃないか」と恐れるようになります。私も自動車事故を起こした時などは。その時のことがしばらく忘れられません。トラウマになって、「またぶつかるんじゃないかな」と恐れます。ま、私の場合は、少し恐れた方が良いのかもしれません。これから、夏に向って暑くなるので、車を運転する方は要注意です。


1.いろいろなトラウマ

 解放の前に、「どのようなことで私たちはトラウマを受けるのか」ということを学びたいと思います。これは、エリヤハウスから学んだ内容をいくつか分かち合いたいと思います。第一は「恐れに基づいたトラウマ」です。事故の現場を見たとか、自分がその事故に巻き込まれたときにトラウマになります。また、虐待とかいじめなど、そのような犠牲者になったことによって体験することもあります。10年くらい前、地下鉄サリン事件がありました。あの事故に巻き込まれた人は、しばらく地下鉄に乗れない人がいたようです。しかし、全員がそうではありません。心のバリヤーが生まれつき薄い、あるいは弱い人がそのようになる傾向があるようです。また、間接的に、自分の兄弟が虐待されているのを見て、あるいはお父さんがお母さんを打ちたたいているところを見て、トラウマを受けることがあります。私は、そういう家庭で育ったので、ホームドラマを見るのが嫌いです。ドラマの中に無慈悲で意地悪な人が登場すると胸が圧迫されます。それよりも、水戸黄門とか東山の金さん、ランボーのような、勧善懲悪のものを好んで見ます。なぜなら、悪がきっちりさばかれるので、安心して見られるからです。

 第二は裏切りによっておこされるトラウマがあります。私たちが自然に信頼している人たちが、自分を虐待した場合です。その中には、両親とか近い親戚、先生や牧師がいます。もちろん虐待を受けたことによって、トラウマが起こります。が、それと同時に、自分を虐待から守ってくれる人たちが、自分を守ってくれなかったということで、トラウマの原因になることもあります。お父さんが子供に暴力をふるって、虐待をしているときに、止めるべき母親がそこにいたのに、止めてくれなかった場合です。また、配偶者が不倫をしたために起こるトラウマがあります。ある人が信頼を裏切って、自分のことを他の人に秘密をばらした。裏切るという偽りを信じてしまうと、トラウマを受けます。この世では、元カレとか元カノ、あるいはバツ1とかバツ2などと軽く言います。でも、それは受けたトラウマをはぐらかすような言い方です。人はそんなに強くはありません。人から裏切られると、深いトラウマになります。

第三は身体的なトラウマです。突然、怪我をしたり、傷害を受けた場合に起こります。また手術も私たちの脳の記憶に深い傷を負わせます。臓器移植とか、輸血などが体にトラウマとして残ります。もちろん、レイプも肉体的にトラウマとなります。また、心臓発作も身体的にトラウマを残します。私は骨折とか打ち傷のため祈るときがあります。表面がうっ血して、筋肉や骨がショックを受けています。ですから、細胞や組織からトラウマが取り除かれるように祈ります。心だけではなく、体自体がトラウマを受けているということを忘れてはいけません。「痛いの、痛いの、飛んで行け」と言ったりしますが、まんざら間違ってはいません。私たちが祈ることによって、神様が身体的なトラウマを取り去ってくださってくださいます。

 第四は喪失によるラウマです。あるものが突然なくなることによって起こります。仕事を突然失うとか、人間関係を失うとか、家が突然なくなるということです。2年前の東北大震災の津波で、家族も家も仕事もなくしたという人が大勢いらっしゃいました。亡くなった人も気の毒ですが、命だけが助かり避難所生活で暮らすの人も大変です。福島の原発事故で、ふるさとを失った人たちも大ぜいいます。喪失によるトラウマは、その悲しみが強く、また長期間続いてしまいます。テレビで見ることがありますが、子どもを事故や犯罪、自殺で失った親は、10年たっても抜け出せないということです。聖書で、ヨブはすべてを失ったときに、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白しました。すばらしい信仰です。でも、その後、ジワジワと痛みと疑いと悲しみがやってきたことも事実です。

 第五は性的なトラウマです。性的なトラウマというのは、性的ないたずらや不適切なタッチによって起こるものです。あるいはレイプされた、あるいは暴力的な行為をされた場合です。そして、このトラウマは肉体だけではなく、核の部分にまで達して影響を及ぼしてしまいます。アメリカの統計によると、女の子のうちの三人に一人、男の子は四人に一人が性的虐待や、性的ないたずらを受けているそうです。このタイプのトラウマは、私たちの魂だけではなくて、霊的にも傷を受けます。なぜかと言うと、このタイプのトラウマは、自分がだれであるかという、神様から与えられた栄光のかたちを傷つけ、それが恥であるとその人が思ってしまうからです。

第六は感情的なトラウマです。感情的に傷つけられたということによって起こるトラウマは、傷とか身体的な証拠がないために取り扱うのが難しいケースです。感情的に傷ついたトラウマというのは、魂だけではなく、やはり霊にも影響を及ぼすのでとても深刻です。また、ことばによっても、トラウマを受けます。ことばには力があります。「石は私たちの骨を傷つけることができるが、ことばは私たちを傷つけることはできない」ということわざがありますが、これは本当ではありません。ことばは私たちを傷つけます。『水からの伝言』という本があります。水にいろんなことばをかけたあと、水の結晶を顕微鏡で見ます。科学的に、祝福のことばと呪いの言葉ことばは、水の結晶に影響を及ぼすということが分かっています。子どもは、90%が水で出来ており、大人になると70%に減ります。私たちが語ることばには力があります。ことばは人を傷つけ、あるいは人を祝福します。

第七は放置によって起こるトラウマです。私たち人間には基本的な必要があります。愛情あふれる触れ合いとか、自分には価値があると認められることです。自分のことを知ってもらえる、わかってもらえるということが必要です。ですから、人間はどんな人であっても、自分が受け入れられて、愛されるという基本的な必要なのです。ですから、成長していく段階でこのような必要が満たされないと、そこで潰されて、歪んだかたちで成長していくことになります。

第八は家系からくるトラウマです。私たちは先祖から代々、命を受け継いでいます。だから、私たちの前の親やその前のDNAを受け継いでいます。ですから、前の先祖が体験した未解決のトラウマ、あるいは痛みや悲しみが私たちに影響を及ぼします。エリヤハウスの講師のテア先生の先祖はアイルランドの血をひいています。アイルランド人というのは、あまり感情を表さないそうです。感情に対してからかったり、あるいは飲んでまぎらわします。講師の家系の中では、泣くということがあまり受け入れられませんでした。誰かが泣くと、みんなかがからかいました。しかし、神様は「泣いていないあなたの家系の悲しみを、あなたが泣きなさい」と言われたそうです。講師は、泣くことによって不思議に力が与えられたと感じたそうです。日本人も感情をあまり外に出さない民族です。内側にためこむために、鬱になるか、あるときドカンと爆発するか2つに1つではないでしょうか?

 第九は霊的な虐待によるトラウマです。霊的な権威にある人たちが、自分のために、自分の名前や欲のために、権威をあやまって使うということによって起こるトラウマのことです。以前、私のところに何件か電話がありました。牧師から「あなたは二度と教会の敷居をまたぐな」と言われたそうです。「理由を教えてください」と言われても、「来たら、警察を呼ぶ」と言われたそうです。ある人は「あなたにはサタンが付いている」とか、「十分の一献金していない人は、泥棒だ」と言われて、トラウマを受けた人もいます。牧師の権威はわからない訳ではありませんが、霊的な虐待になる危険性がいつでもあります。

 9種類のトラウマをあげました。これだけたくさん言うと、「ああ、これがあるかな?」と思い当たるふしがあるのではないでしょうか?あるいは、「いいえ、私はトラウマなんかありませんよ」と言う人がいるかもしれません。でも、ときどき、何の前触れもなく、「イヤーなこと」を思い出すでしょう。思い出したときに同じような感情、つまり、失望、悲しみ、憤り、悔しさ、恐怖感が起こります。それがトラウマです。私たちはそれらと向き合って、神様から一度、癒していただく必要があります。そうすると、二度目からはそんなショックでなくなります。三度目、四度目とだんだん感じなくなります。


2.トラウマからの解放

 Dutch Sheets(ダッチ・シーツ)と言う人がTell Your Heart to Beat Again『心臓が再び動き出すように告げよ』という本を書きました。その本を引用しながら、エリヤハウスのテア先生がこのように説明してくださいました。トラウマに会うと心臓が止まってしまったような状態になります。そのときに、だれかが来て、そこにもう一度、命を吹き込んであげなければなりません。ダッチ・シーツの本の中にこのような話がありました。心臓を開ける手術のときに、私の兄弟のティムがそこに立ち会うことができました。患者の心臓は、鼓動をやめていました。もう一度、心臓を動かすために、医療スタッフがいろいろ手を尽しましたが、心臓を動かすことができませんでした。患者は意識のない状態でしたが、一人の外科医が、患者の耳の中に向けてこのようにささやきました。「あなたの助けが必要です。あなたの心臓を私たちは動かすことができません。自分の心臓にもう一度、動くように言ってください。」驚くようなことですが、そのとき、患者の心臓が動き始めました。トラウマの癒しというのは、心臓がもう一度、動き始めるようなものです。私たちの心臓をもう一度、動かしてもらわなければなりません。しかし、私たちは人を信頼することはとても難しい。また、希望を持つこともとても難しい。未解決なトラウマの部分に、イエス様をお招きするということはとても難しいことです。しかし、イエス様御自身をそのトラウマが起こった場所にお招きし、そのトラウマをイエス様が私たちの内側から取り除いてくださるようにお願いしなければなりません。黙示録3章で、「見よ、私は戸の外に立ってたたく」と言われています。イエス様は、私たちがイエス様をそこに招くことを願っておられます。神様は、私たちが心の扉を開けることによって、その痛みを取り除きたいと願っておられます。イエス様は、十字架でその痛みをすでに負ってくださいました。問題は、私たちが心の扉を開けて、イエス様がもう一度、私たちに息を吹き込んでくださることを許すかどうかということです。イエス様は鞭打たれて、十字架にかけられて、ひどい目にあったときに、弟子たちは希望を失いました。しかし、その後、イエス様は弟子たちに希望を取り戻してくださっただけではなく、新しい命令を与えてくださいました。そのように、イエス様は私たちにも、同じようにしなさいと言われます。つまり、トラウマの解放のカギは、イエス様を最も痛んだ心の中にお迎えすることです。イエスさまは「よくなりたいか」と問うておられます。私たちは、イエス様のお声を聞いて、自己憐憫という床を取り上げて立ち上がるべきです。

 ジョエル・オステーンの本に「心のチャンネルを替えよ」という文章がありました。リモコンで、テレビのチャンネルを替える方法はだれでも知っています。もし、それがつまらない番組であれば、すぐにチャンネルを替えるでしょう。同様に、過去の嫌な体験が予期せずに映し出されることがあります。でも、ある人たちは映画観賞でもするかのように、椅子を持ち出し、ポップコーンを片手に見てしまう人がいます。チャンネルを替えるどころか、自ら進んで過去の痛みを再現させます。そのため、失望といらだちと苦痛が起きてくるのは当然なことです。チャンネルを替えることを学びましょう。あなたの思いや心を絶望に浸らせてはいけません。その代わり、神様があなたの人生に与えてくれた良き出来事を考えるのです。あなたの周りに自己憐憫に浸っている人がいるかもしれません。彼らはそうすることによって、他人の関心を集めるのが楽しいのです。あまりにも長い間、そのように生きてきたので、彼らのアイディンテティの一部になっています。もちろん、トラウマになるような体験をした人は、元気を取り戻すまで、思いやりをもった扱いを受けるべきです。しかし、中には元気を取り戻したくない人もいます。彼らは注目されるのが好きなのです。15年前、フィルとジュディは一人息子を事故で亡くしました。それは慰めることばもないほどの悲惨な事故でした。家族や友人は何か月間も、この夫婦と痛みを共感し、励まし、なんとか元の生活に戻らせようとしました。彼らの心遣いにもかかわらず、フィルとジュディは悲しみを手放すことを拒否しました。息子の名前が出るたびに、二人は涙ぐみ、延々と嘆き悲しむのです。だんだんと、家族や友人たちの足が遠のき、電話をかけてくる人もなくなりました。それでも果敢に二人を元気付けようとする人が現れました。しかし、フィルは決まって「一人息子を失うのがどんなに辛いか、君にはわからないんだ」と答えるのです。

 ヨハネ福音書5章に、38年もの間、病気で伏せっている男性のことが記されています。彼はベテスダの池のそばで毎日過ごし、奇跡が起こるのを待っていました。イエス様はその人に近付き「良くなりたいか」と聞かれました。彼は「天使が来て、池の水をかき回したとき、真っ先に入った者がいやされます。でも、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです」と答えました。彼は「なおりたい」と言えず、ブツブツ言い訳をしました。ある人たちは、受けたトラウマによって長い間、伏せっています。過去の悲惨なことに捕らえられ、一歩も前に進むことができません。じっと横たわって、すべてを好転させる大事件が起こるのを待ち続けています。イエス様はこの男性に単純に、「良くなりたいか?」と聞いています。男性は、「私は一人ぼっちです。だれも助けてくれません。私にはチャンスがないんです」と答えました。イエスさまは「ああ、それは大変だったですね。同情しますよ」とは言いませんでした。「床を取り上げて歩きなさい」と言われました。今も、トラウマで座り込んでいる人に何と言われるでしょう。「あなたがそうなるのも無理はありません。なんとお気の毒な」とは言いません。そうではなく「良くなりたいか?人生を取り戻したいと真剣に思うなら、起きて床を取り上げ、そして歩きなさい」と言われるでしょう。

 多くの人たちは、「どうしてあんな病気になったのか?」と悩んでいます。「あんなことが起きなければ良かったのに」と訴えます。「どうして私ばかりがこんな目にあうんだ」と思っています。それらが、自己憐憫に溺れる言い訳になっています。しかし、そんな思いは捨てて、立ち上がって歩くのです。人生には、たくさんの「どうして」「なぜなの」という問が残されています。あるものは、原因がはっきりしています。しかし、理屈で割り切れないものがたくさんあります。一方的に被害を受けたり、ひどいことをされた場合は特にそうです。ジョエル・オステーンは「理解できない」ファイルを持つべきであると言っています。パソコンをやっている人はわかると思いますが、いろんなファイル(箱)があります。私たちの心にも、「理解できない」というカテゴリーのファイルを持つべきです。理屈では説明できない事態が起こったなら、無理やりそれを解明しようとせず、そのファイルに入れてしまえば良いのです。「どうして、あんなことになったのか?」と悩んで時間を無駄にするよりは、そこから何か自分のためになるものを探せば良いのです。イエス様は「今はわからないがあとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)と言われました。「理解できない」ファイルに入れるとは、イエス様にゆだねるということです。他人に裏切られたり、ひどい扱いを受けたこともあるでしょう。祈りが聞かれなかったり、徒労に終わったこともあるでしょう。「どうしてあんなことを言われたのか?」「どうしてあんなことが起きたのだろうか?」今となっては、過去を変えることはできません。また、浮かんできた映像の前に、座って、ポップコーンを食べながら、辛い思い出に浸り続けるのでしょうか?それとも未来を信じて生きるべきでしょうか?イエス様は「良くなりたいか?」とあなたに告げています。

 もし、「私は、良くなりたいです」と答えた人は一番先に何をすべきでしょうか?それは自分を傷つけた人を赦すということです。私にひどいことを言ったり、ひどいことをした人を赦すことです。ある人は、「神様は一体何をしていたんだ」と神様を責めています。神様をも赦すべきです。もし、赦さないでおくならば毒が体中に回ります。恨み、憤り、憎しみは骨をも蝕みます。相手は、すっかり忘れて、なんとも思っていません。ただ、被害者であるあなたが、恨んで、毒を飲んでいるだけです。どうぞ、過去の恨みと傷を捨て去りましょう。床と取り上げて、歩きましょう。そうするなら、神様はあなたに新しい恵みを用意してくださいます。心の傷がいやされるだけではなく、新しい喜びが与えられます。これまでのマイナスが、大きなプラスになります。そして、いつの日か、「あのことがあって良かったんだ」と思えるようになります。「あのことがあって、今の私があるんだ」と喜べる日がきっとやってきます。それこそ、神様が用意しておられる逆転勝利の道です。被害者を英語でビクティムと言います。そして、勝利者をビクターと言います。両者はとても良く似ています。英語ではWe are not victim but victorという言い方があります。日本語では、「私たちは被害者ではなく、勝利者です」となります。語呂あわせ的にはうまくいきませんが、「私たちは被害者ではなく、勝利者です」は、とても良い表現です。「私たちは主にあって、被害者ではなく、勝利者です」ハレルヤ!アーメン。






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2013年4月 7日 (日)

ほふられた小羊に    ヨハネ黙示録5:6-14 

 先週はイースター、復活祭でした。カトリック教会に行くとイエスさまが十字架に磔になったままです。その御姿を見て、来た人々は罪を懺悔します。しかし、プロテスタント教会に来ると、十字架はありますが、イエスさまが付いていません。イエスさまはどこで、何をしていらっしゃるのでしょうか?聖書を見ると、イエスさまは復活したのち、40日間、弟子たちの前に現れました。その後、弟子たちの前で天に引き上げられました。そのとき、「また戻ってくる」と約束されました。ヨハネ黙示録はイエスさまが戻ってくるときの有様について書かれています。世の終わり、この地上では悲惨なことが起こりますが、天上ではそうではありません。今、天上ではどのようなことがなされているのか、ヨハネ黙示録から学びたいと思います。黙示録の初めに何と書いてあるでしょう。黙示録1:3「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」


1.ほふられた小羊に

 世の終わり、神のさばきが下されようとしているとき、封印された巻き物がありました。巻き物はギリシャ語ではビブロスであり、本のもとになったことばです。巻き物には七つの封印がしてあって、だれも開くことができませんでした。ひとりの強い御使いが大声で「巻き物を開くのにふさわしい者はだれか」と問いました。天にも、地にも、だれひとりその巻き物を開くことのできるものがいませんでした。ヨハネはふさわしい者がだれも見つからないので激しく泣いていました。黙示録5:5すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」長老が言っているダビデの根が勝利を得た方とはイエス・キリストのことです。イエスさまは死に勝利されたお方です。だから、その巻き物の封印を解くことができるのです。しかし、黙示録を見ると、イエス・キリストではなく、別の呼び方がなされています。6節には「ほふられたと見える小羊」と書かれています。しばらく読んでも、「小羊」という呼び名しか出て来ません。なぜ、このような意味ありげな呼び方をしているのでしょうか?ヨハネ黙示録は、迫害の中で書かれた書物だからです。ですから、敵にわからないように幻やたとえで書かれているのです。でも、私たちは「ほふられた小羊」と聞くとぴーんときます。私たちの罪のためにいけにえとなって死んでくださったイエスさまのことです。旧約聖書ではいけにえを殺すとき、「ほふる」と言いました。イエスさまは私たちの身代わりに十字架で死なれました。バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く、神の小羊」と預言したとおりです。

 私たちクリスチャンは、ほふられた小羊の下にある存在です。それはどういう意味でしょうか?世の中には二種類の人がいます。ほふられた小羊の下にいない人と、ほふられた小羊の下にいる人です。世の終わりは、神のさばきがどの時代よりも、はっきりと臨む時です。ほふられた小羊の下にいない人は、神のさばきをもろに受ける人たちです。小羊なるイエスさまが巻き物の封印を解くとどうなるのでしょうか?黙示録を見て分かりますが、封印を解く度に、いろんな災いがこの地に下されます。黙示録6章には見ると、第一の封印、第二、第三、第四、第五、第六と解かれていくことが分かります。その度に、厳しいさばきが起こり、多くの人たちが死にます。「では、クリスチャンは大丈夫なのだろうか?」という疑問が起こります。このところは神学的に議論が分かれるところです。クリスチャンは天上に引き上げられているという考えと、いや、みんなと同じような試練を受けるという考えです。ここにはクリスチャンという呼び方はありませんが、信仰者がいます。信仰者もいろんな迫害にあって、殺されるというふうに書かれています。では、何が違うのでしょうか?ほふられた小羊の下にいない人は、自分の命を守るために、簡単に獣や反キリストに頭を下げます。彼らはひどい目に合うと、まことの神さまを憎むようになります。一方、ほふられた小羊の下にある人はどうなのでしょうか?全く、災難や試練に合わないか、というとそうでもないようです。信仰者も天変地異の影響を受けます。守られることは確かですが、中には命を落とす人も出て来るでしょう?彼らには白い衣が与えられ、肉体の命はなくしても、永遠の命と御住まいは保障されています。つまり、世の終わりの裁きの中でも救いがあるということです。

 私たちは雨の日に外出するとき、どうするでしょうか?傘をさします。傘をさすと、雨がまともに当たりません。でも、雨が強い場合は、肩や足元が濡れます。しかし、傘を全くささないよりはましです。雨の中で、傘をさしていないならば、ずぶ濡れになるでしょう。中学生とか高校生が傘なしで、通学しているのを見るときがあります。「いやー、若いなー」と感心します。もし、世の終わりのさばきに対して、何の守りもないならばどうでしょう?これは、ひどい状況になることは間違いありません。ほふられた小羊の下にあるとは、神さまの守りがあるということです。なぜでしょう?イエス・キリストは十字架ですべての人の罪のために死なれました。つまり、罪のいけにえとしてほふられたということです。イエスさまは全人類のために、そうされたのです。では、クリスチャンとはどういう人たちでしょうか?イエスさまの贖いをいただいた人のことです。神さまから、イエスさまの贖いを受けた人はどう見えるでしょうか?「ああ、この人には罪がない。義とされている存在である。この人は裁きの対象ではない」と見えるでしょう。なぜなら、イエスさまの贖いという衣を頭からすっぽり着ているからです。あとで、天使の守りについてもお話ししますが、天使がその人たちを守ってくれます。ここ数カ月、救いということを学んでいますが、窮極的な救いとは何でしょうか?窮極的な救いとは、世の終わりが来ても、さばかれないということです。なぜなら、御子イエスが神にさばかれた、つまり、ほふられたので、私は罪赦されている存在だということです。聖歌476で、世の終わりについて歌っています。「見よ、わが罪は十字架に釘付けされたり、このやすき、この喜び、だれもそこないえじ。すべてやすし、み神ともにませば。よしあめつち崩れ去り、ラッパの音と共に、御子イエスあらわるるとも、などておそるべしや。すべてやすし、み神ともにませば。」


2.賛美と誉れと栄光が

 黙示録を読んでいくとわかりますが、地上にいろいろな災いが臨んでいきます。しかし、天上はそうではありません。ほふられた小羊と神さまを礼拝しています。地上は火や災いが臨んで阿鼻叫喚の様ですが、天上はいたって平安です。黙示録5:7以降、特記すべきことを3つだけ取り上げたいと思います。第一は、小羊が礼拝を受けているということです。8節を見ると、「四つの生き物と二十四人の長老たちが、小羊の前にひれ伏した」と書いてあります。12節には「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と賛美されています。13節では「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」とすべての被造物から賛美を受けています。とういことは、小羊であられるイエスさまは神さまだということです。なぜなら、十戒にあるように、神さま以外に、礼拝をささげてはいけないからです。キリスト教の異端であるエホバの証人は「イエスは神ではない」と言います。彼らはエホバなる神さましか礼拝しません。イエスさまも聖霊も神ではないと言います。しかし、黙示録には「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と書かれています。つまり、神さまと小羊であるイエスさまが同等に扱われているということです。

私たちの団体が、キリスト教と言われているゆえんがここにあります。旧約聖書を学ぶことはとても重要です。そこにはキリスト教の基盤が書かれているからです。でも、私たちはイエス・キリストを通して旧約聖書を見なければなりません。なぜでしょう?私たちはイスラエルの民ではありません。イスラエルの人たちは、神さまに近づくために律法や儀式が必要でした。私たちは異邦人です。何が違うのでしょうか?律法や儀式ではなく、イエス・キリストの贖いを通して、神さまに近づくのです。律法や儀式はイエス・キリストの影であり、型です。本体が現れたならば影は退くしかありません。私たちは律法や儀式ではなく、キリストの血しおによって神さまに近づくのです。ことばを換えるなら、行いではなく恵みです。セブンスディという土曜日を安息日としているキリスト教の団体があります。彼らは旧約聖書のレビ記に記されている汚れた食物は食べません。いろんな自然食を独自に作っているようです。どういう訳か、コーヒーも飲まないようです。他にもいろんなところが、旧約聖書的で自由がありません。なぜでしょう?教えはあるかもしれませんが、キリストの恵みが強調されていないからです。使徒パウロが、Ⅱコリントでこのように教えています。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:15-17「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」私たちはキリストの恵みによって救われた、新しい契約に仕える者なのです。

 第二は、このところに、おびただしい数の天使がいるということです。黙示録5:11「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。」「万の幾万倍」を計算してみると、数億から数十億になります。英語のある聖書には、myriadsと訳しています。これは「無数の」という意味です。つまり、天使は、星の数ほど無数にいるということです。なぜ、天使が無数にいる必要があるのでしょうか?天使もいくつかの階級に分かれているようです。最も高いのは天使長、アーク・エンジェルです。ミカエル、ガブリエルなどが有名です。サタンも堕落前は天使長の一人だと言われています。それから、天の軍勢、ホストがいます。彼らは天と地上の間で戦っている天使たちです。さらに、クリスチャンに仕え、クリスチャンを守っている天使がいます。ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」聖書の至るところに、天使が神の人を助けているシーンを見ることができます。ペテロが牢獄に捕えられ、明日には処刑されるところでした。なんと、ペテロはぐっすりと寝込んでいました。主の御使いが脇腹をたたいて彼を起こしました。彼は半分ねぼけていました。いつの間にか、手から鎖が落ち、第一、第二衛所を通り、最後に鉄の門もひとりでに空きました。朝方、マルコの母、マリヤの家に行くとどうでしょう?ロダという女中が、人々に「ペテロが門の外に立っている」と告げました。人々は「それは彼の御使いだろう」と信じようとしませんでした。このところに、主の御使いの助けがあります。また、初代教会の頃は、御使いが一人ひとりに付いていると思われていたということです。なぜ、無数の天使が存在しているのでしょうか?それは、何億もいるクリスチャン一人一人を守るためです。

現代も、天使に守られたという証をたくさん聞くことができます。真夜中、ある若い女性が駐車場にとめてある車のところに行こうと思いました。すると、男3人が10メートルくらい向こうの車の陰からぬっと、現れました。彼女は恐れによって体が硬直しました。しかし、その時、天を仰いで神さまに助けを求めて祈りました。どういう訳でしょう?3人の男はぎょっとした顔をして、その場に立ち止まりました。それから、数歩、後ずさりして、向きを換えて走って逃げました。後から、3人の男が別の事件で警察に捕まりました。彼らが警察にある夜、起きたことを告げたそうです。女性の間に、3メートルくらいの男が、両刃の剣を持って立っていたということです。天使を見て、3人は顔色を変えて逃げたのです。でも、天使に願わないようにしてください。父なる神さまに願うのです。そうすると、父なる神さまから私たちのもとに、天使が送られてくるからです。この世にはいろんな悲惨な事件があります。歩道を歩いていても、危ない時代です。父なる神さまは、天使を送って神の子たちを特別に守ってくださいます。

第三は、ここには礼拝の重要さが記されています。礼拝はこの地上のことだけではなく、天上でも行われている、永遠の出来事だということです。しかも、礼拝をささげる者は人間だけではないということです。黙示録5:13-14「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」アーメン。私たちは個人で礼拝をささげ、また日曜日は公で礼拝をささげます。なぜでしょう?先週の日曜日に、「金曜日で終わりではなく、復活の日曜日が来る」と申しあげました。イエスさまは金曜日、十字架につけられましたが、日曜日の朝、復活しました。だから、私たちも復活するということです。私たちがこのように、日曜日、公の礼拝を守っているのには訳があります。私たちは「イエスさまが日曜日に復活したんだ」ということを記念するために、ここに集まっているのです。しかし、記念というと言うならば、過去のことを覚えるという意味なので、十分ではありません。きょうは黙示録から学びましたが、なんとイエスさまは世の終わり、天上において礼拝を受けています。あらゆる生き物、4つの生き物、長老たち、数えきれない御使いたちが「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と礼拝しています。と言うことは、礼拝が記念ではなく、将来の先取りであるということです。私たちは天国に行ったら、御座に座る方と小羊を礼拝することになっています。礼拝は義務ではなく、尊い宿命であります。とすれば、私たちがこの地上で、このように天に向かって礼拝をささげているとき、神さまは何と思われるでしょうか?「偉い!なんと信仰のある信仰者たちなんだろう」と感心するでしょう。まだ、神さまを見ていないのに、礼拝をささげているのですから、すごいのではないでしょうか。

ところで、礼拝を英語で、worshipと言います。Worshipは、worth価値から来たことばであると聞いたことがあります。つまり、神さまを礼拝するということは、神さまに価値があることを認めているということです。不思議なことに、私たちが神さまの価値を認めると、私たちにも価値が与えられるということです。人はその人が何を一番大事にしているかで、価値が量られます。子どものときは牛乳瓶のふたとか、瓶の王冠を集めていたかもしれません。大人になると「なんで、あんなものを集めていたんだろう」とおかしく思います。ある人はお金を大事にして、お金に頭を下げています。ある人は美貌を大事にして、美貌に頭を下げています。また、ある人は趣味を大事にして、趣味に頭を下げています。あなたは何に頭を下げているでしょう。あなたが一番、お金と時間とエネルギーを費やしているものが、あなたの神なのです。多くの人たちは偶像を拝んで、偶像に支配されています。あなたは本当の神さまを礼拝しているでしょうか?御座に座る方と小羊は、私たちにとこしえの命を与え、喜びを与え、自由を与えてくださるお方です。私たちが礼拝をすればするほど、私たちの本当の価値がわかってくるのです。そして、こう叫ばずにはおらなくなります。「賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。アーメン。」


3.聖日礼拝を中心とした生活

 前のポイントで礼拝の重要さについてお話しました。この日曜日に公の礼拝をささげるのは、復活の記念だけではなく、将来の先取りであるということです。今、天上でも礼拝がなされております。そして、私たちもいずれはそこに加えられるということです。ということは、神様を礼拝することは一時的なことではなく、永遠に続くことがらであります。今日は4月7日で、今年度、最初の聖日礼拝です。先週、総会資料を作っていましたが、そこに現住倍餐会員の名簿があります。一番下に「現住倍餐会員礼拝に出席し、月定献金をささげている教会員をさす」という説明書きがあります。現在、111名の兄弟姉妹が名を連ねています。しかし、「しばらく来ていないなー」という名前がけっこう並んでいます。「ああ、どうしたんだろう?」と思います。「何かあったんでしょうか?」と電話をしたり、訪問すれば良いのですが、私はほとんどしません。その人の自由意思に任せているからです。でも、考えてみると「兄弟姉妹とか、神の家族」と言いながらも、関係が薄いなーと思います。私の家内は「カーブス」という「健康体操教室」に通っています。「きょうは行く気がしない」と休むときがあります。また、体重測定の日は行きたくないらしいんです。しばらく行かないと「どうされたんですか?」と電話が来ます。それで、励まされてまた行きます。私は「会員制」は堅苦しいのであまり使ってきませんでした。「誰でも、礼拝に来て良いですよ」というスタイルでやってきました。でも、「いやだったら、いつでも去って良いですよ」という意味もなりたちます。入口も広いですが、出口も広いということです。

 この世では、「信仰する」とか「○○に入る」と言います。一度入ったら、抜けられない宗教団体がたくさんあります。それに比べてキリスト教会はとても淡泊です。「最近、見てないなー」で終わってしまいます。「聖日礼拝厳守」とか、律法的な表現はしたくありません。でも、聖日礼拝を守ることは信仰のバロメーターであることは確かです。心を尽くして神様を愛するということは、神様に礼拝をささげることでもあります。「いや、私はインターネットで礼拝を守っています」という人がいます。でも、聖書には「力を尽くして神様を愛しなさい」と書かれています。力とは身体を表すことばです。つまり、体をそこまで運んで、犠牲を払う必要があるということです。私は聖日、日曜日を1週間の頂点に生活することをお勧めいたします。日曜日、休めるように普段から準備し、努力しておくということです。デートも教会でしたら良いでしょう。1週間に1日休むという安息日の律法があります。新約聖書的にも、休むことが必要ですが、その体を別のことに積極的に使うということです。そうすると、かえって疲れが取れるということです。午前中まで寝て、横になってテレビを見るのも良いですが、礼拝に来て力いっぱい賛美をささげるとかえって疲れが取れるということです。礼拝に来られた人たちを、神さまは手ぶらで帰らせません。新しい力と信仰と祝福を与えてくださいます。どうぞ、神様中心の生活をして、平安と祝福の中を歩みたいと思います。


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