2015年10月 9日 (金)

父の心 ルカ15:28-32 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.10.4

 Ⅰヨハネ2章によると、教会には3種類の人がいると記されています。小さい者たち、若者たち、そして父たちです。小さい者たちとは、イエス様を信じたばかりの人です。彼らは自分の罪が赦されていることを必要があります。若者たちはみことばにとどまり誘惑に打ち勝つ必要があります。父たちとはどういう人たちでしょうか?父たちとは、はじめからおられる方を知った人たちです。はじめからおられる方とは、もちろん神さまのことであります。彼らは神さまの計画と神さまご自身の愛を体験的に知っている人たちです。教会で長い間、信仰生活を送っていても、神さまの心、父の心を持っていない人がいます。聖書には「成熟を目指しなさい」と書いてありますが、それは父なる神様のような愛を持った人ではないかと思います。

1.兄と父

ルカ1528-32「すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

第一の質問です。「帰ってきた息子を迎え入れた父に対して、兄はどのような態度を取っているでしょうか?」「兄は、あまりにも寛容な父に対して腹を立てています。」彼は、とても偏狭な人です。弟が遊女におぼれたのかどうかは分かりません。ところが、彼は、「きっとそうだったんだ」と断定しています。そんな弟を家に迎える必要はないと考えました。

第二の質問です。「兄は豊かな父のもとでどのように生活していたのでしょう?」「とてもまじめでしたが、喜びのない窮屈な生活をしていたようです。」彼は放蕩して帰ってきた弟に、肥えた子牛を与え、自分には子山羊一匹下さったことがないと言っています。「子山羊くらい食えよ!」と言いたくなりますが、兄は当時のパリサイ人や律法学者を象徴しています。彼らは神さまに真面目に仕えていましたが、喜びからではなく、奴隷根性で仕えていたのです。「神さまは何もくれない、ひどいケチな方だ」と思っていたのかもしれません。

第三の質問。「父は死んでいた息子が生き返って来たことをどのくらい喜んでいるでしょうか?」「父は大宴会を催して、みんなで喜んで楽しみました」。では、父は何も考えない、ノー天気の人だったのでしょうか?そうではありません。父は息子が「死んでいた」とはっきり認めていました。

第四の質問。「放蕩息子に対する、父の心とはどういうものでしょうか?」「罪や失敗をとがめない慈愛に満ちた心の持ち主です。」神さまは無条件の愛を持っておられます。これが父なる神様であり、私たちが持つべき心です。

 この物語で、兄とは当時のパリサイ人や律法学者です。彼らは取税人や罪人たちが主に立ちかえるのを見ても、ちっとも喜びませんでした。むしろ、「自分たちはこれだけ真面目に神さまに仕えているのに何もくれない」という妬みさえありました。父の心とは無条件の愛であり、あわれみの心です。兄には父の心がなく、その代わり、ライバル心や利己心に満ちていました。もし、あなたが後輩の成功を喜ばないで、妬んでいたなら、兄と同じです。父の心を持った人は、後輩が自分を乗り越えて行くことを我が子のように喜ぶはずです。なぜなら、後輩の成功は、自分の成功だからです。先輩クリスチャンはもしかしたら、妬みがあるかもしれません。後輩の成功を妬み、後輩の失敗をあげつらうなら、この世と変わりありません。クリスチャンは父の心が必要です。父の心とは、無条件の愛であり、あわれみの心です。このような父の心を持った人がいるなら、教会はぎくしゃくしないで仲良くできるでしょう。

2.母のように、父のように

Ⅰテサロニケ27-8「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」Ⅰテサロニケ211-12「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」

第一の質問。「パウロは使徒としての権威を主張する代わりに、彼らにどのようにふるまったのでしょうか?」「パウロは、母がその子どもたちを養い育てるように優しくふるまいました。」救われたばかりの人を養育するときは、母のような心がとても重要です。ある程度、大きくなったなら、父のように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じることが必要となるでしょう。父が慰めを与えるというのは意外でしょうか?日本の家庭では父親が子どもの養育にタッチしない傾向があります。ですから、自分が父親になったとき、どうすれば良いのか分かりません。これは霊的なことにもいえます。自分がだれかから育ててもらったことがなければ、後輩のクリスチャンを育てることが難しいでしょう。

第二の質問。「パウロはテサロニケの人たちをどのくらい愛したでしょうか?」「パウロは自分自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思いました。」私たちは口先ではどうにも言えますが、実際の行ないではどうでしょうか?普通だったら福音を伝えて、その人が信じたら大丈夫なはずです。でも、人間の赤ちゃんも「おぎゃー」と生まれたら、喜んでばかりもいられません。24時間、いろいろ世話をしなければなりません。食べ物ばかりではなく、排せつ、お風呂、健康管理があります。ハイハイから立ち上がるのもうれしいですが、良く見ていなければなりません。ことばをかけたり、いろいろ教えたり、しつけをしたりで、心も体力も必要です。これが、いのちを与えるということです。霊的なこともこれと同じだということです。

第三の質問。「一般的に言って、女性が母になったり、男性が父になるのはどんな理由からでしょうか?」「子どもが生まれたら、あるいは与えられたら初めて、その人は母になり、父になります。」つまり、長年、信仰生活を送っていれば霊的な母になり、父になるというわけではないということです。霊的な子どもが生まれて、はじめて霊的な母になり、父になるということです。そのためにはだれかを救いに導くか、救いにタッチする必要があるということです。子どもを育てると苦労がわかります。そして、自分自身も成長させられます。

第四の質問。「教会における父の役割とはどのようなものでしょうか?」「霊的な子どもたちを父の心で愛して、彼らを育てる」ということです。この場合、父の中には、母も含まれています。 教会には父が必要です。また、世の人たちも本当の父を探しています。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。神さまは天の父と呼ばれていますが、神さまのご人格には、父性と母性の両方が含まれています。使徒パウロは霊的に生まれたばかりの人たちを、母のように優しく養育しました。また、ある程度、成長すると、父の心をもって彼らを訓練しました。当時は今のような学校はなく、子どもを教えるのは父親かラビでした。彼らが人生のあらゆることを教え、また訓練したのです。教会においても、霊的な子どもを守り、育成する母の心が必要です。そして、子どもが神さまの栄光を現すことができるように、訓練し、整えていく父の心も必要です。日本は学校に任せっぱなしのところがあります。知識の面では学校は良いかもしれません。しかし、信仰や人格形成は私たちに責任があります。教会において、だれかがイエス様を信じて救われたならば、みんなで喜びたいと思います。でも、それで終わってはいけません。その人が信仰的に、霊的に成長するように助けて行く必要があります。ぜひ、母のように、父のようになってこの重荷を担っていきましょう。私は25歳のときにイエス様を信じて洗礼を受けました。私を増田さんご夫妻が救われる前から、計3年間お世話してくれました。霊的な成長のためには、牧師や副牧師にお世話になりました。神学校も良かったですが、やはり顔と顔を合わせた養育や訓練が身についたように思います。人間も同じで、幼稚園や学校ばかりにまかせてはいけません。個人的なふれあいとか、温かい会話が必要です。

3.とりなしの祈り

出エジプト3231-32「そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。『ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。』」出エジプト348-9「モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。『ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。』」

 第一の質問です。「モーセは金の子牛を礼拝した民のためにどのような祈りをささげているでしょうか?」「もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」と祈っています。

第二の質問。「書物から、私の名を消し去ってください」とはどういう意味でしょうか?」「神から離されて、永遠の滅びに行ってもかまわない」ということです。モーセは罪を犯したイスラエルが滅ぼされないように、破れ口に立って祈りました。こういうことは人間的には決してできないことです。なぜなら、自分は悪くないのに、悪い人のために身代わりになるからです。使徒パウロもユダヤ人のためにこのようにとりなしています。ローマ93「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」使徒パウロはローマ8章で「どんな被造物も、主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことができない」と言っています。ところが、ローマ9章では「キリストから引き離されても」と祈っています。一見、矛盾しているように思われますが、これこそが霊的父が持つべき愛の姿です。

第三の質問。「モーセから学ぶ、リーダーが負うべき役割とは何でしょう?」「自分を犠牲にしてでも、群れを守ること。とりなしの心」です。何度も言いますが、これは生まれつき人間が持っているものではありません。私たちの肉は、自己保身、自己義認、自己絶対に満ちています。人のために犠牲になって死ぬということはありません。でも、一体、何がそうさせるのでしょうか?私は主の贖いの体験から来るのではないかと思います。モーセは出エジプト記やレビ記に動物による贖いということを詳しく書いています。また、使徒パウロも神からの啓示によって、キリストの贖いがどういうものかをローマ書に書いています。彼らは主の贖いを体験し、主の命に生かされていたのでそういうことができたのではないかと思います。

第四の質問。「イエス様は十字架でどのような祈りをささげたでしょうか?」イエス様は十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。まさしく、自らを犠牲にして、全人類をとりなす大祭司の祈りであります。イエス様は時代を越えて、私たちのためにもとりなしてくださったのです。本来、私たちが裁かれて、滅ぼされるのが当然でした。しかし、イエス様が命を投げ出し、私たちの代わりに裁かれたので、私たちのところに救いがやってきたのです。何と言う恵みでしょうか。「私がイエス様を信じてやったんだ」という思いは決して出て来ません。私たちはあわれみのゆえに救われたのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。モーセはどれくらい、主の前に出て、罪を犯し続けるイスラエルのためにとりなしたのでしょうか?「書物から、私の名を消し去ってください」とは、ヨハネ黙示録にある「いのちの書」です。つまり、自分が滅びても良いから、そのかわりイスラエルの民を救ってくださいということです。私たちは自己保身という本能を持っていますので、肉では決してできることではありません。本当の指導者とは、自分を投げ出してでも、群を守るという献身と愛が必要です。でも、この献身と愛は自分から生まれるのではなく、十字架で私たちのためにとりなしてくださった、イエス様から来るものではないでしょうか?

4.テモテに対するパウロ

Ⅱテモテ13-6「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」

第一の質問です。「パウロは、霊的な子どもであるテモテをどれくらい愛しているでしょうか?」パウロは「私は、夜昼、祈りの中で絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝している」と言っています。一か月に一度でもありません。一週間に一度でもありません。なんと、夜昼、祈りの中で絶えず思い起しているということです。少なくとも12回ですが、そういう意味ではないと思います。いつも、絶えず思い起こしているということです。私は父親なので、そういうことが少ないのですが、母親は子どものことをいつも考えているようです。家内は、有悟の学校の宿題とか持ち物とかいろいろチェックしてあげています。高校に入ってから、6時過ぎに起きて弁当まで作っています。今まで、そんな姿は見たことがありませんでした。ちなみにごはんは私が焚いています。忘れたときは「さとうのごはん」のようなパックです。とにかく、母親が子どもを思うように、私たちは霊的な子どものことを絶えず思い起こすべきです。霊的にも、産みっぱなしはないということです。

第二の質問。「パウロのテモテへの確信(信頼)というものはどのようなものでしょうか?」テモテには祖母ロイスと母ユニケとから伝えられてきた純粋な信仰がありました。Ⅱテモテ315「幼いころから聖書に親しんで来た」と書いてあります。親が子どもに与えることのできる最も偉大な遺産は信仰であります。教育を受けさせることも良いでしょう。また、お金や土地を残すことも良いかもしれません。しかし、信仰は永遠のものであり、教育やお金や土地よりも勝るものであります。ある親は信仰を持つか、持たないかは子どもの自由だと言います。しかし、「永遠の滅びに行くのも永遠の御国に行くのも子どもの自由だ」と、親だったら言えないはずです。

第三の質問。「パウロがテモテにどのようなことを注意したかったのでしょうか?」Ⅱテモテ16-7「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」

第四の質問。「パウロはそのためにテモテにどうしたいと願っているでしょうか?」「按手をもってテモテのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせたい」と願っています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。パウロは自分が霊的に生んだテモテを本当に愛しています。この世の師弟関係は、「俺の言うことを聞けよ。もし聞かなかったらポイだからな」というところがあります。コントロールしなくても大丈夫な師弟関係があるのでしょうか?おそらく、パウロはバルナバからこの愛を受けたのではないでしょうか?バルナバが自分を面倒見てくれたので、その愛をもって、テモテやテトスなどを育てたのだと思います。神の国の師弟関係には、上下関係はありません。あるのは、主にある同労者という関係です。同労者であるなら、緊張することはありません。師のところへ行っても緊張しないという関係はすばらしいと思います。そういう先生をメンターとして持つことができたら幸いです。みなさんの中に、「この人は私を生んでくれた霊的な親です」という人はいるでしょうか?あるいは、「私を育ててくれた霊的な親です」と言える人はいるでしょうか?にわとりと人間の違いはどうでしょうか?にわとりを育てるときは、時間になると餌をばらまきます。自分で食べなければ死にます。おそらく強いものが生き残るでしょう。でも、意外とにわとりはたくまして生き残ります。神さまがそのように造られたからでしょう。でも、人間はどうでしょうか?授乳から始まり、本当に手間がかかります。食べ物だけ与えれば良いというものではありません。ことばをかけ、いたわり、触れて、いろんな関係を持つことが必要です。また年齢によって必要なものが違ってきます。いつまでも、「可愛い、可愛い」と言うわけにはいきません。独り立ちできるように教育や訓練が必要です。霊的な子育ての場合は、結構、放任主義のところがあると思います。ですから、洗礼を受けてもいつの間にか教会に来なくなります。牧師のいたらなさがあります。自然に生まれ、自然に育つというところがあります。まことに恥ずかしい次第です。でも、牧師だけの責任ではありません。「羊飼いが羊を生むのではなく、羊が羊を生むんだ」ということを聞いたことがあります。もちろん、それはたとえであって、全部を語ってはいません。言いたいのは、牧師だけではなく、霊的な父、霊的な母が必要だということです。だから、ヨハネは「父たち」と言ったのです。たとえ、肉体的な子どもを生んだことのない人であったとしても、神さまは父の心を与えてくださいます。なぜなら、父の心は、キリストの贖いの愛からやってくるからです。キリストの贖いを深く経験すればするほど、父の愛があふれてきます。私たちの愛は限界があります。でも、聖霊によって神の愛が注がれています。この愛をもって、魂の救い、魂の養育に励んでいきたいと思います。

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2015年8月14日 (金)

敵に対する勝利 ルカ11:17-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.8.16

 Ⅰヨハネ2章に、教会には子どもたち、若者たち、父たちと3種類の人たちがいると記されています。では、若者たちが乗り越えるべき課題とは何でしょうか?それは、みことばにとどまり、悪い者に打ち勝つことです。若者たちというのはこのテキストの「本当の弟子」にあたります。ですから、当然、一人前のクリスチャンになるためには、敵を知り、敵に対して勝利する必要があるということです。ところが西洋回りのキリスト教は、そういう霊的存在をほとんど認めません。ですから、日本の教会で、悪魔は戦わずして勝利しています。私たちは目から覆いを取り除いていただいて、敵の存在を知って、敵に対する勝利を得たいと思います。

1.サタンの組織

ルカ1117-22を抜粋してお読みいたします。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。…強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」エペソ612「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

第一の質問です。「サタンの組織とはどういうものですか?」イエス様はサタンには国があると言っています。国とはkingdom、王国であります。サタンの国は、おそらくピラミッド的な組織だと思われます。どういうわけか、この世の組織はピラミッド的な組織になっています。トップダウン的であり、上の人の命令を聞かないと左遷されます。

第二の質問です。「強い人の武装を解除して、分捕り品を分け与えた方はだれですか?」これはたと話のようでありますが、サタンとイエス様のことを語っているのです。強い人とはサタンのことです。そして、持ち物とはサタンに捕らわれている罪人、人間であります。あとで出て来る「もっと強い者」とはイエス様のことであります。イエス様がサタンの武装を解除して、虜である私たちを自由にしてくださるのです。

第三の質問です。「サタンの組織階級を思わせる用語にはどのようなものがありますか?」エペソ人への手紙には「これは悪霊の階級のことではないか」と思われる箇所が1章、3章、そして6章に書いてあります。エペソ6章には、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊」と書いてあります。

 第四の質問です。「私たちの戦いはだれとの戦いではなく、本当はだれとの戦いなのですか?」血肉つまり、肉体をもった人間に対するものではなく、悪しき霊との戦いだということです。もちろん私たちの前には考えや性格の違いからくる争いというものがあります。何でも霊的な戦いと考えてはいけません。でも、その人の背後に悪霊がいて、その人を支配している場合もあります。そういう時は、その人自身と戦うのではなく、背後にいる悪霊を縛り、悪霊を追い出す必要があります。このようなことは、実践してみないと分からない分野です。おそらく、いろんな失敗を重ねながら体得していくものだと思います。時には極端になることもあるでしょう。でも、経験を重ねていくうちに、「ああ、これが中道かな?」と分かるのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。主イエスは福音書において、サタンには国があることを示唆しています。サタンは神様のように遍在できないので、力ある組織階級が必要です。彼らはピラミッド型の組織階級をもって、全世界を支配していると考えられます。支配や主権は、国々や州を支配する悪霊の名前と考えられます。権威や力は、ある一定の地域とか県を支配する霊ではないでしょうか。闇の世の主権者は人々の思いを支配する霊です。もろもろの悪霊は、個人個人の罪や心の傷を餌にして取り付く悪霊です。しかし、これは1つの考えであり、絶対的なものではありません。でも、確実に言えることはこのことです。生まれつきの人間はサタンの持ち物でしたが、イエス・キリストが強い人(サタン)の武装を解除して取り戻してくださいました。私たちの戦いの相手は血肉(人間)ではなく、その背後で働いている悪しき霊どもです。ケネス・へーゲンは『真の霊的闘い』という本の中でこのように述べています。「クリスチャンは悪魔と格闘する必要がある」と新約聖書は教えているでしょうか?格闘とは、戦いではなく、奮闘して努力することを意味しています。つまり、確かに私たちには人生で対処すべき悪魔がいます。しかし、「イエス様が私たちのためにサタンを打ち負かしてくださり、私たちをサタンの支配から贖ってくださった」という神のことばの教え全体の文脈の中で、そのみことばを読んでください。私たちが行う「格闘」は、悪魔と戦うことではなく、神のことばへの信仰にしっかりととどまるための「戦い」なのです。アーメンです。

 

2.サタン(悪魔)の策略

Ⅱコリント43-4「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」創世記31「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」

第一の質問です。「サタンは私たちのどこを攻撃するのでしょうか?」私たちの思い(mind)です。悪魔は私たちの思いの中に、汚れた思いや疑いを入れようとやっきになっています。ですから、私たちの思いは戦場と言えるでしょう。

第二の質問です。「サタンの人間に対する目的は何ですか?」不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにすることです。

第三の質問です。「サタンが私たちに疑いを入れるために、最も用いる方法とは何ですか?」それは、神のことばに対する疑いです。彼はエデンの園で、「神は本当に言われたのですか?」とエバに聞きました。サタンは今日も、神のことばに疑いをかけて、人々を迷わせています。

第四の質問です。「あなたは思いにおける戦いに勝利する道を知っていますか?」Ⅱコリント104-5「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ。」ここで言われている要塞は、都市や国々を支配する霊的支配のことではありません。文脈から理解すると「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」こそが打ち砕くべき要塞なのです。私たちの思いの中に、非聖書的な議論や理論や理屈があるかもしれません。霊的に新生したクリスチャンであっても、全く手つかずの場所、ブラック・ボックスがあるのです。「それとこれとは別だ!」というこの世の理論があります。サタンはその要塞を足場にして私たちを攻撃するのです。もし、自分の中に要塞を発見したなら、ただちにそれを虜にして、主の御名によって打ち壊さなければなりません。そうしないと、いつまでもサタンはあなたをある分野において支配することが可能になるでしょう。

テキストのまとめの部分を引用します。悪魔とその諸勢力の目標は、神に敵対することです。悪魔の抱く野望は、神のみわざを打ち砕き、混沌を生み出すという一事に尽きます。また、最大の野心は人間を神から引き離し、その力の及ぶ限り、人間が神を礼拝し、神に従い、神の栄光を現わす生活を妨げることです。悪魔には限界はありますが火や嵐を起こすことができます。また、悪魔は人間に与えられた最高の賜物、知性(思い)を攻撃します。人間の体そのものにも作用し、病の中には、悪魔(悪霊)からくるものもあります。悪魔は「もし…なら」と神のことば、聖書の主張に疑いを挟ませます。周到な戦略と巧みな罠により、サタンは私たちの思考の中に「要塞」を築こうとします。そのときは、ただちに「すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従」させるのです。私たちはふだんから思いの中に汚れたものを入れないで、良いもの(神のみことば)を入れるべきです。

3.悪霊が働く場所(足場)

 エペソ426-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ヤコブ47「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

このテーマは、「霊的解放」のところですでに学んでいまので復習になります。場所とはギリシャ語で、トポスですが、悪魔が働く場所を指しています。第一の質問です。「以下に悪魔に機会を与えるものがありますが、あなたはどうですか?」

□偶像礼拝、占い、オカルト

□悪しき思い、マインドコントロール

□悪い習慣(盗み、ポルノ、ギャンブル、薬物)

□心の傷(赦さない心、怒り、憎しみ、トラウマ)

□家系の罪、咎

第二の質問です。「悪魔に立ち向かう権威を得るためには、何が必要ですか?」罪があるなら悔い改め、そして神に従うことです。ヤコブ47「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

第三の質問です。「解放を受けるためにはどのような手順が必要ですか?」まず、悪魔の足場になっている罪を悔い改めます。悪霊が離れ去るように自分で祈ります。あるいは祈ってもらうと良いです。昔は、「悪霊を出て行け!」とすぐさま命じました。しかし、なかなか出て行きません。たとえ、出て行ってもまた戻ってきます。なぜでしょう?その人に悪霊が取りつくことのできる罪があるからです。その罪を告白し、悔い改めるとその後は、簡単に離れ去ります。最後に、聖霊に満たされるように祈ります。つまり、イエス様を主人として迎え、心を守ってもらう必要があります。

テキストのまとめの部分を引用します。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をします。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちとの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできる限り取り外す必要があります(『解放のミニストリー』石原良人著)。

4.神の武具

 エペソ613-18「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

今年のはじめ、クリス・バトロン著の『スピリット・ウォーズ』という本が出ました。テキストの解説もありますが、今回は彼の書物を引用して解説に充てたいと思います。

◆真理の帯。この箇所の「真理」という言葉は聖書を意味しているのではわけではありません。多くの人は見せかけのものの背後に隠れ、他人に真実を知られまいとします。彼らは薄っぺらな人柄によって、一部の人たちを騙すことはできるかもしれませんが、激しい戦闘の中では、その薄っぺらな本性が雨露にさらされてしまいます。それゆえパウロは、正直でありなさい。誠実に生きなさい、神と人との前に真実でありなさいと促しているのです。

◆正義(是認)の胸当て。胸当ては兵士の心臓や他の大切な臓器を守りました。心はたましいの座席であり、霊の土台です。キリストを信じたとき、私たちは心臓手術を受けたのです。イエス・キリストこそ、喜んで心臓を提供してくれたドナーです。人は義を生み出すことはできません。ただ、守るだけです。義はクリスチャンの新しい性質の1つですが、贈り物としてもらったものです。悪魔は偽りによって責めているだけです。神の義はすべてのクリスチャンにとって命を守る胸当てなのです。

◆平和の靴。ローマ兵の履物は、現代のスポーツ選手が履くスパイクのように、底の部分にくさび形の金属片が着いていました。このくさびのおかげで、接近戦における安定性が確保されたのです。私はこの金属片を「平和のくさび」と呼んでいます。この平和のくさびは、愛を理解するための接近戦、また愛を土台とした接近戦において役に立ちます。

◆信仰の大盾。ローマの盾は木製の本体を皮で覆ったものでした。皮は防火のために水に浸すことがしばしばありました。敵の放った火矢を消すためです。霊の戦いの真の戦場は、つまるところ信仰です。そして単純にして深遠なポイントは、だれを信仰するかということです。敵の罪責の声を信じるか、目の前の状況を信じるか、善意の友人の言葉を信じるか、神の言うことを信じるかです。

◆救いのかぶと。敵は私たちの確信を揺るがし、巧妙に神との関係を悪化させるためなら、どんなことでも厭いません。しかし、救いのかぶとをかぶっていれば、神の国の水辺のほとりで憩うような気分でいることができます。救いは私たちの努力ではなく、神の働きによるものであることを忘れるなら、霊の戦いの中ですぐ平安を失ってしまいます。救いが自分の努力によって獲得したものだとしたら、救いを保つための闘いも自分次第ということになってしまいます。しかし私たちは、救いの「ために」戦っているのではありません。救いの「ゆえに」戦っているのです。

◆御霊の剣である神のことば。この箇所で「神のことば」と言われている御霊の剣は、聖書のことではありません。「神のことば」にあたるギリシャ語はレーマと言い、神が息を吹きかけたことばという意味に解釈しています。思いや意図を判別するために使う神のことばは、悪霊の攻撃から自分を守るために使うことばとは別のものだと思います。聖霊の語りかけに耳を傾け、聖霊が語ることを預言的に宣言することが、攻撃のための唯一の武器です。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。私たちはイエス・キリストのあがないだけではなく、悪魔にも勝利したことを信じなければなりません。その次に、私たちは罪を悔い改め、主イエスの血しおを受けます。そして、神の武具を身につけ、御霊の剣を用います。主が共におられるから大丈夫と思っても、悪霊は自然には退きません。私たちは信仰によって悪魔に立ち向かい、主イエスの御名によって悪霊を追い出さなければなりません。私たちには主の御名を用いる権威が与えられているのです。御霊によるとりなしの祈りは、誘導ミサイルのように、敵地を破壊する力があります。

 私たちはいろんな祈りをします。神さまに求める祈りやだれかのためにとりなす祈りがあるでしょう。一方、病や悪霊に対して祈るのは、正確には祈りではありません。もちろん、私たちは神さまに「病を癒してください」とか「悪霊から解放してください」と祈ることもあります。でも、ある場合、神さまは「私に向かって祈らないで、自分でやりなさい」とおっしゃるときがあると思います。モーセが紅海の前に立っていたとき、モーセは神さまに叫んで祈ったことでしょう。でも主は、何とおっしゃったでしょうか?「なぜあなたは私に向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」(出エジプト1416)。主はモーセに「私に願うのではなく、手を海の上に伸ばして、海に命令せよ」とおっしゃったのです。それは悪霊や病気に対しても同じです。イエス様は一度も、悪霊や病気のことを父にお願いしたことはありません。イエス様は直接、ことばを発して命じたのです。そうしたらそうなったのです。ラザロのよみがえりのときもそうでした。イエス様は「父よ。あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを感謝します」と言われました。その後、「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。そうしたら、ラザロが墓の穴から出てきたのです。おそらく、私たちはイエス様と同じ権威はないと思います。しかし、私たちは救われて神の子どもになりました。その後、イエス様は「私の名前を使って同じことをしなさい」と権威をくださったのです。

マタイ2818-16「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ」とおっしゃいました。マルコ16章でも「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語る」と約束されました。つまり私たちには「イエスの御名の権威」が与えられているのです。水戸黄門では「この紋所が目に入らぬか!」と言います。私たち自身に権威や力があるのではありません。私たちのきよさや正しさでもありません。イエスの御名の権威こそが重要なのです。5歳の子どもでも御名の権威を用いることができます。昔、夜中、金縛りにあったとき、イエス様ではなく不覚にも「ママさーん」と家内に助けを呼びました。つまり、潜在意識までイエス様の御名の権威が浸透していないことがバレたのです。ペテロは「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と警告しています。だからこそ、私たちは霊的に目を覚まし、神の武具で身を固め、主イエス様にいつもより頼みましょう。

 

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2015年1月11日 (日)

死後どこへ行くのか ルカ16:19-26 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.1.11

 どの民族、どの国においても宗教があります。それは、人々が死後の世界を求めているからではないでしょうか?ギリシャの哲人は霊魂の不滅を唱えました。釈迦は解脱を説きましたが、死後の世界については解明していません。唯物論者は「死とは無になることだ」と言って、虚無の中で生きています。「生きているうちが花」と言っても、死後のことが分からないなら、毎日を楽しむことはできないでしょう。聖書は死後の世界のことだけではなく、「永遠をどこで過ごすべきか」ということも、私たちに啓示しています。


1.
金持ちとラザロ


 ルカ1619-23
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」聖書をざっと見て行きたいと思います。ある金持ちの生活ぶりはどのようなものだったでしょう?高価な着物を着て、働かないで、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。そして、目の前に貧しい人がいてもまったく顧みなかったようです。では、ラザロという貧しい人は、どのような生活をしていたでしょう?金持ちの玄関先で寝ていました。栄養失調のためか、全身おできができていました。彼は金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていましたが、かないませんでした。ラザロは死んでどうなったでしょう?御使いたちによって、アブラハムのふところに連れていかれました。「御使いたち」とありますので、両脇を抱えられてアブラハムのふところに連れていかれたのでしょう。金持ちはどうなったでしょう。金持ちも死にました。きっと盛大な葬儀であったと思われます。しかし、たったひとこと「金持ちも死んで葬られた」としか書かれていません。なぜか、金持ちの名前が記されていません。


 この後、死んだのちのことが描かれています。これはイエス様が作ったおとぎ話なのでしょうか?それとも、実話なのでしょうか?おそらく、イエス様はいろんな世界を見てきたので、実名はともかく、本当にあったことなのではないかと思います。つまり、イエス様は生きている世界と死後の世界が密接に関係していることを教えておられるのです。なぜ、二人の行先が違ってしまったのでしょうか?アブラハムは「金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていた」と言っています。これだけだと、金持ちが悪いような感じがします。確かに、この地上でのことが死後、報われるという考えはわかります。でも、それだけではないと思います。問題は、「ラザロ」という名前が記され、金持ちの名前が記されていないことです。このところには金持ちが「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と書いてあります。毎日ですから、神さまと和解して、神さまを礼拝する時を持っていなかったのではないでしょうか?そして、神さまからいただいた富を貧しい人たちに施すべきだったのに、それもしませんでした。「これは私の富だから、私個人のために使って良い」と考えたのだと思います。彼は神さまを無視した生活を送っていました。その証拠に、金持ちは陰府の底から、「兄弟五人のところに、だれかを遣わして下さい。悔い改めるようにさせてください」とお願いしています。今の時代も、「私は神を信じない。いや神なんか弱い人間が勝手に作った妄想だ」と言っている人たちがいます。無神論者は「神を信じない」と言っているのですから、これも1つの信仰だと思います。一方、ラザロは貧しい身でありながら、神さまと和解し、神さまを礼拝していたのでしょう。だから、神さまから名前を覚えられていたのです。金持ちは生前、神さまを無視した生活をしていたので、神さまから覚えられていなかったのでしょう。そして、死後、神さまがいないところに行ったのであります。ある人が「地獄とは、神さまのいないところであり、神さまから見放されている所だ」と言いました。神さまを信じない人は、神さまが嫌いなのですから、そちらに行くのが合っているのかもしれせん。でも、死後の世界は、一方では豊かな報いがあり、他方では厳しいさばきがあることも教えています。


2.陰府の世界

ルカ1624-28彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」人は死んだら無になるのでしょうか?陰府にくだった金持ちの感覚、記憶はどのようなものでしょう?このところでいつくか分かることがあります。まず、肉体は死んでも、魂は生きているということです。また、熱いとか渇きなどの感覚もあります。そして、生前の記憶もあります。ということは、生物学者や無神論者が言うような、死後は存在がなくなるとか無になるという考えはあてはまらなくなります。確かに、聖書が言うように、死んだ肉体は土に帰ります。でも、人間は肉体だけでできているのではありません。他に霊と魂があります。「霊魂」とまとめて言う場合もあります。しかし、霊魂という言葉を使うと、エジプトやアンデス、東南アジアの島々の宗教と同じようになってしまいます。彼らは、肉体は死でも、霊魂はどこかで生きていると考えているからです。『千の風になって』という歌がありますが、死んだ魂がどこかであなたを見守っているよという歌詞です。死んだら無になるんだと本気で思っている人は、そんなに多くないのではないでしょうか。

 しかし、聖書はもっと死後の世界を詳しく教えています。人は死んだらどこへ行くのでしょうか?旧約聖書を見ると、アブラハムのことが記されています。創世記258「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」と書いてあります。なんとなく、死んだ世界に自分たちの民がいるような感じがします。「陰府」ということばが最初に出て来るのが、創世記37章のヤコブのことばです。創世記3735「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。ヤコブはヨセフがいる陰府に、自分も下って行きたいと願っています。旧約聖書では、「良い者も悪い者も死後は陰府に行く」と書いてあります。しかし、聖書学者は「陰府は二階建てになっており、義人が行くところと、悪人が行くところに分かれている」と言います。たしかに、「陰府の淵」とか「陰府の穴」という陰府よりももっと深いところがあるように記されています。ルカ16章は、陰府の構造がかなり明確になっています。上の方には信仰の父アブラハムがいました。「アブラハムのふところ」とは、慰めと報いがあることを教えています。そして、はるか下には金持ちがいました。そこは、「ハデス」と書かれています。ハデスは陰府のギリシャ語で、死者の行くところです。しかし、ここは懲罰の場所でもあります。なぜなら、火炎が立ち上り、金持ちが「こんな苦しみの場所に来ないように」と願っているからです。よく誤解されますが、ハデスは地獄ではありません。地獄が来るのは、この世が終わって、人々が神の前に立って裁かれた後です。でも、ハデスはそこまで火が来ているので地獄の待合室であります。アブラハムがいるところと、金持ちがいるハデスの両者には大きな淵があり、そちらに渡ることも、そちらから越えて来ることもできませんでした。


 陰府にくだった金持ちの願いはどのようなものだったでしょうか?兄弟や親せきが自分と同じところに来ないことを願っています。また、だれかの助けによって救われてほしいと願っています。日本で伝道しますと、ある人たちはこう言います。「父も母もイエス様を信じないで死んだので陰府にいるのでしょうか?だったら、私だけ天国に行くのは申し訳ないので、父と母のところに行きます」と。現在、死んだ人がみんな陰府にいるとは限りませんが、この金持ちは、
彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と願っています。ということは、陰府にいる人は「子供たちや子孫が、救われてほしい」と願っているのではないでしょうか?一方、ラザロがいるアブラハムのふところとは、どういうところなのでしょうか?そこは、同じ陰府でも、義人たちがいる天国の待合室みたいなところです。イエス様は死んで陰府に下りました。エペソ48「高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ」と書いてあります。イエス様が復活したとき、陰府の二階にいた人たちを引き連れ、パラダイスを造られたのでないかという説があります。ですから、主にあって死んだ人は、陰府ではなく、パラダイスにいるのではないかということです。パラダイスというのは、私たちがよく聞く、天国のことであります。ですから、クリスチャンが死んだら、陰府ではなく、パラダイスに行っていると考えるべきです。パラダイスと聞くと、キャバクラの名前みたいですが、そうではありません。私は現実にあると信じています。よく臨死体験をなさる人、つまり一度、死の向こうに行って、戻って来た人たちの体験談があります。未信者の人は真っ暗なところに行ったと言います。しかし、クリスチャンの場合は、「光の世界に入って、ペテロや肉親にあった」と言います。パウロは「私は第三の天、パラダイスに引き上げられたことがある」とⅡコリント12章で証言しています。パラダイスとは、まさしく御国の待合室です。死後の世界のことを科学的に証明することはできません。自然科学は目に見えて、量れるもの、実験可能なものです。しかし、霊は目に見えないし、量ることもできません。また、陰府やパラダイスにテレビカメラを持ち込んで、レポートすることもできません。だから、私たちは聖書のみことばから信じるしかないのです。イエス様やパウロ、ヨハネが証言しているのですから、信じて良いのではないでしょうか!


3.
パラダイスに入った犯罪人

イエス様が「パラダイス」のことを証言している聖書箇所があります。同じルカ福音書の23章です。おそらく、この人はパラダイスに入った人の中で第一号ではないかと思います。言い換えれば、オープンしたばかりのパラダイスに入った最初の信仰者です。ルカ2339-43「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」片方の犯罪人はイエス様に悪口を言いましたが、もう片方の犯罪人は自分をどのように見ているでしょうか?彼は「自分が犯した罪の報いを受けることが当然だと思っています。つまり、罪を悔いていることが分かります。そればかりではありません。イエス様は悪いことは何もしなかったと言っています。どうして、そんなことが分かったのでしょうか?十字架にかかるような悪人は、罵詈雑言を吐き、神や人々を呪うでしょう。しかし、この人は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というイエス様の祈りを隣りで聞きました。その時から、この方は神の子、キリストに違いないと分かったのです。


 悔い改めた犯罪人は、イエス様に対してどのように願ったでしょうか?「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。彼は口はばったくて、「救ってください」とは言えませんでした。ただ、「私を思い出してください」と願っただけです。でも、彼はイエス様の復活と昇天、御国の王であるという信仰を持っていました。これまでさんざん悪いことをしてきたので、その時には「私を思い出してください」としか言えなかったのです。イエス様は彼に何と答えられたでしょうか?「今さら、何を言うのか?虫が良過ぎはしないか」とは言っておりません。「聖書読んで、教会に行って、良いことをして罪を償った後に来なさい」とも言っておりません。もうすぐ死ぬのですから、良い行ないなどできません。イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。「まことに」は、アーメンであります。イエス様は明日ではなく、「きょう、私とともにパラダイスにいます」と言われました。何と言う恵みでしょうか。ここに、福音のエッセンスがあります。人が救われるためには、良い行ないが必要なのでしょうか?人が救われるためには、これまで犯した罪を全部告白し、償わなければならないのでしょうか?答えはノーです。この人は十字架にかかって手足を動かすことができません。時間もなく、死を待つばかりの状態です。福音の力とはどういうものでしょう。救いを得るために良い行いは必要ではなく、イエス様を信じるだけで救われるということです。


4.
キリスト教来世観


 ある人たちは、「死んでから永遠のいのちをいただくのだ」と考えています。また、ある人たちは死んだら、魂になって、天国というところで永遠に暮らすのだと考えています。また、ある人たちは「もう天国行きが決まっているんだから、死ぬまで好きに暮らそうじゃないか?」と救いを生命保険みたいに考えています。そうではありません。私たちは、聖書から正しい来世観をもたなければなりません。Ⅰヨハネ511,12「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」質問をいたします。どのような人が永遠のいのちを持っているのでしょうか?そうです。「御子を持つ者が永遠のいのちを持っています。」日本語ではわかりませんが、この「いのち」はギリシャ語で「ゾーエ」であり、神のいのち、永遠のいのちを意味していることばです。御子を持つとは、イエス様を心の中にお迎えしている、信じているということです。では、どのような人が永遠のいのちを持っていないのでしょうか?御子を持たない者、つまりイエス様を信じていない人です。ここで両者が分かれます。キリスト教は万人救済、すべての人が救われて天国に行けるとは言っていません。現代は、天国が安売りされています。テレビで芸能人の葬儀が行われているのを見るときがあります。だれかが弔辞で「天国でも歌を歌ってね」とあいさつします。私はそのとき、「天国じゃなくて、陰府だよ」とテレビに向かって言うときがあります。だれでもみんな天国に行ったら、天国はこの地上と同じになり、何の魅力もありません。そうではありません。本日の聖書箇所にあるように、死んだ魂は、陰府かパラダイスに行くのです。


 でも、それだけではありません。ヘブル927「そして、人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。その後、神さまの前に立たなければなりません。では、イエス様を信じた人も、神のさばきを受けるのでしょうか?私たちはキリストが代わりにさばかれたので、神さまの前に立つ必要はありません。しかし、Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」イエス様を信じている人は地獄には行きませんが、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けるのです。パウロは「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」(ピリピ314)と言っています。神さまの前には、義の冠、命の冠、あるいは朽ちない冠が用意されているようです。つまり、この地上でどう生きたか、御国に行った先に、大いに関係があるということです。イエス様の隣りにいた犯罪人はパラダイスに入りましが、報いや冠は得ることはできなかったでしょう。それでも、すべりこみセームで、永遠のいのちを得たのですから感謝なことです。


 この教会に赴任したばかりの時、役員会で「あなたは救われていますか?天国に行けますか?」と聞いたときがあります。ある人は「私は分かりません」と正直に答えました。その人は、キリスト教だけではなくて、仏教も信じているとおっしゃっていました。家には仏壇があり、亡くなられたお父さんやお母さんの位牌がありました。「ああ、この人は確信がないんだなー」と思いました。4,5歳の子どもに「あなたは生きていますか?」と聞くとどう答えるでしょう?「うん、生きているよ!」と胸を張って答えるでしょう。理屈では説明できないけど、本人は生きていることがわかります。クリスチャンも同じです。「あなたに永遠のいのちがありますか?」と聞かれたら、「はい、あります」と答えることができます。もし、はっきりしないなら救われていないと思います。救われていたなら、あなたの霊と内におられる聖霊があなたに教えてくれるからです。もし、それでもはっきりしないなら、「イエス様を信じたら救われると聖書に書いてあるので、私は救われています。」と告白してください。そうすれば、確信がやってきます。救いを得ることは、そんなに難しいことではありません。救われるための手立てはイエス様が十字架上で全部やってくださいました。私たちがすべきことは、イエス様を救い主として信じることです。お祈りいたしましょう。
「イエス様、私は永遠のいのちをいただきたいです。ラザロのように、また十字架で悔い改めた犯罪人のように、イエス様、あなたを救い主として信じます。あなたが私をパラダイスに入れてくださることを信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

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2014年12月27日 (土)

劣等感からの解放 ルカ19:1-10 鈴木靖尋 2014.12.28

 東大を卒業した人でも劣等感を持っているということが信じられるでしょうか?劣等意識は神さまとの関係ではなく、人との比較の中で生きているゆえに生じます。「人から認められたい」「人から重要な人物と思われたい」という願いがかなわず、かえって人々から見下げられ、馬鹿にされ、心の傷がうずいているのです。劣等感を持っている人は、同時に優越感をも持っていることは不思議ではありません。なぜなら、人との比較の中で「勝った、負けた」と生きているからです。あなたの心の深いところに「なに、くそ!」という劣等感コンプレックスはないでしょうか?

 

1.ザアカイ

 

ルカ191-4「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」当時のユダヤは、ローマによって支配されていました。ローマ帝国は、租税の集金や関税の査定を取税人に請け負わせていました。彼らはそれを良いことに、何倍もふっかけたり、税金を払えない人には高い利子で貸したりして私服を肥やしていました。取税人はユダヤ人たちから売国奴と呼ばれ、遊女や罪人と同じように人々から嫌われていました。ザアカイはその取税人のかしらで、金持ちでした。ある時、メシヤと噂されていたイエス様がエリコの町を通りました。ザアカイは、イエス様がどんな人か見ようと好奇心がわきました。ところが、ものすごい人だかりで近づくことができませんでした。それに、彼は背が低かったので、見ることができません。おそらく、町の人たちはザアカイを嫌っていたので、道をあけてくれなかったのでしょう。ザアカイは先回りして、いちじく桑の木に登りました。大の大人が木に登るというのは、少し滑稽かもしれません。しかし、彼は手段を選ばないかしこい人でした。どんなときでも、ザアカイは人の上前を撥ねるようなしたたかな生き方をしていました。 

 

ところで、このところに「ザアカイは背が低かった」と書いてあります。背が低いというのは自分の意志や努力ではどうにもなりません。生まれつきと言いましょうか?私たちの手の及ばないところであります。もし、自分が標準よりも、20センチ低かったならどういう思いをするでしょうか?私は小学校6年生のとき、クラスで一番背が低かったです。朝礼のときなどは、椅子を持って体育館に集まります。そのとき、一番前に座るというのは屈辱でした。小学校高学年は、ホルモンの代謝がものすごく変化するときです。ある子どもはぐーんと背が高くなります。私が片思いしていた子は私より10センチ以上も背が高かったのです。不思議なことに、小学校で背の高い人というのは、高校生のときにあまり伸びません。私は高校生後半のとき、ぐーんと背が伸びました。でも、背が低すぎるのも劣等感になりますが、背が高すぎるのも劣等感になります。バレーボールの大林素子という人は、小学生時代、あまりの高身長のため交通機関を利用するとき母子手帳を携帯していたそうです。みなさんは容姿の他に、能力や生まれ、気質のゆえに劣等感はないでしょうか?しかし、この劣等感というのは生きるバネにもなります。ザアカイは背が人よりも低いという劣等感を克服するために、金持ちになろうと思ったのかもしれません。より多くのお金を得るために、取税人という、人がいやがる仕事を選びました。彼はその業界で成功し、今では「取税人のかしら」になっていました。ザアカイに借金をしている人たちは、頭を下げ、懇願さえしていました。そしてザアカイの楽しみは寝る前に、お金を数えることでした。時々、「俺を見下したやつらを見返してやるぞ!」とつぶやいていました。しかし、心の中では何とも言えない寂しさがありました。近頃は「自分の孤独と空しさをわかってくれる神さまがいたらなー」とさえ思っていました。そんなとき、噂になっているイエスというお方がエリコの町を通るというニュースをキャッチしたのです。彼の中にはお金では埋められない空洞があったのかもしれません。

 

2.人間の生まれつきの状態

 

「背が低い」ということばに注目したいと思います。「低い」は、ギリシャ語でミクロスですが、「小さい」「取るに足らない」という馬鹿にした意味もあります。実は、ローマ3章にこれと似たようなことばはあります。ローマ323「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」は、英語の聖書では、for all have sinned and fall short of the glory of God. となっています。つまり、私たちは罪を犯したので、神さまの栄光には達しない「短い」という意味です。神さまの栄光がこのくらい高いとすれば、どんなに正しい人であっても、低いということです。多くの場合、劣等感というのは人との関係から生じるものです。他の人たちと比べ、優れているとか劣っているなどと言っています。この間、「今でしょう!」の林修先生の弟子たちがテレビに出ていました。三人とも東大生でしたが、一人の女性は偏差値が93.4とか言っていました。「どんな頭をしているんだろう?」と思いました。中には内村航平君のように運動能力抜群の人もいます。また、高収入で豪邸に住んでいる人もいます。しかし、しょせんそれはどんぐりの背比べです。私たちは人よりも、神さまと比べて「小さいなー」と気づかなければなりません。日本人には絶対者なる神概念がありません。だから、人との比較の中で「高い、低い」「多い、少ない」で生きているのです。旧約聖書にヨブという人物がいます。彼は東の国で最も裕福でした。行いにおいても潔白で正しく、悪から遠ざかっていました。彼自身、自分は大したものだと思っていたかもしれません。しかし、神さまと出会ったとき、自分は無に等しいと悟ったのです。

 

聖書は、生まれながらの人間をどのように言っているでしょう。罪があるので、「そのままでは神からの栄誉を受けることができない」と言っています。「罪」という日本語訳は誤解を招くことばかもしれません。神さまは完全無欠のお方です。聖書ではこれを100%の正しさ、「義」と呼んでいます。あなたは神さまのように完全無欠でしょうか?人間は、神の被造物であり、アダムから受けた罪を背負っています。また、個人で犯した罪や過失があるでしょう。たとえ人間の中に「非の打ちどころのない正しい人だ」という人もいるかもしれません。しかし、神さまの義と比べたなら、太陽の明るさと月の明るさみたいなものです。さきほど言いましたが、「栄誉を受けることができず」は「栄誉に達しない」と言うことです。つまり、私たちの正しさや行ないでは、救いを得ることができないということです。「救いの架け橋」という例証(イラストレーション)があります。片方に人間が立っています。そのままですと、死、さばき、滅びが待っています。そして、その向こう側には義なる神様がおられます。神さまのもとには永遠の命、天国があります。しかし、両者の間には、罪という深い淵があって渡ることができません。それでも人間は「救いを得よう、神さまのところに到達しよう」と様ざまな努力をしてきました。道徳、宗教、哲学という橋をかけようとしました。ところが、人間は不完全なので、義という100%の正しさには達することができません。さきほど、偏差値93.4の女性の話をしました。残念ながら93.4でも足りないのです。あと、6.6不足しています。毎回100点取れないように、私たちは行ないや動機においても100点は取れないのです。イエス様は兄弟に向かって「馬鹿者」と言ったら地獄に投げ込まれると言われました。憎むだけでも人殺しになるし、情欲をいだいて女性を見てもアウトです。だれ一人、神さまの基準に達する人はいません。

 

ここに良いニュースがあります。神さまの方から救いの手が差し伸べられたのです。ローマ324ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」キリスト・イエスによる贖いとはどういう意味でしょうか?「贖い」のもとの意味は「身代金を払う」「代価を払う」という意味です。罪のないイエス様が十字架で、私たちの罪を負って死んでくださいました。表現を変えると、イエス様が流された血が罪を帳消しにしたということです。イエス様は私たちの身代わりに死なれただけではなく、3日目によみがえられました。これは、私たちが神の前に義とされるためです。信じた者に神の義をプレゼントするという保証となられたということです。実力で100点とれなかったなら、不足分をもらえば良いのです。神さまの前では、30点の人も90点の人も全く同じです。価なしに義と認められるということはそういうことです。イエス様は、十字架の死と復活によって、罪のギャップに橋をかけてくださいました。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ146と言われました。橋がかかっているなら、どうすれば良いのでしょうか?難しく考える必要はありません。目の前の橋を渡れば良いのです。

 

信仰というのは、この橋を渡っていけば神さまのところに行けると考えることです。だから、イエス様の橋を渡って行きましょう。アーメン。これで、あなたは神さまのところへ行って、神の義と天国と永遠のいのちをいただくことができるのです。クリスチャンという人種は、イエス様という橋を渡って、神さまの側にいる人たちです。

 

3.失われた人を捜していたイエス様

 

ルカ195-7イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。さらに、ルカ1910「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」質問があります。どちらが先に会うことを決めていたのでしょう?ザアカイでしょうか、それともイエス様でしょうか?この記事を順番に読むと、ザアカイが先回りして、木の上からイエス様を待ち構えていました。しかし、イエス様はザアカイがどこにいるかを知っていました。イエス様はいちじく桑の木のところでぴったり止まりました。そして、上を見上げ「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。イエス様は「ザアカイ」という名前を知っていました。それだけではありません。イエス様はエリコに来る前から、ザアカイの家に泊まることにしていたのです。ということは、ザアカイよりもイエス様の方が先だったということです。ザアカイは「イエス様がどんな奴だろうか?」木の上から見下ろすような高慢さがあったのではないでしょうか?あるいは、木陰から、こっそり眺めて「どんな奴かな?」と評価するつもりだったのかもしれません。ところが、木の下から「ザアカイ!」と呼ばれました。よく、驚いて木の上から落ちなかったものです。

 

イエス様は、彼の居場所ばかりか、名前まで知っていました。それに、彼の家に泊まることにしているとは!ザアカイはイエス様の招きにどう応えたのでしょうか?ザアカイはスケジュール表を出して、「きょうは予定が詰まっています」とは、言いませんでした。あるいは、「急にお客を連れてくると家内が嫌な顔をするので、相談してから」とも言いませんでした。ザアカイの迎え方を私たちも学ばなければなりません。ザアカイは自分の都合を後まわしにして、イエス様を迎えました。もし、ザアカイが「きょうは都合が悪いので、今度の木曜日」と断っていたならどうなったでしょう?イエス様はエルサレムに向かっていますので、もう、エリコには戻って来ません。もし、このチャンスを逃したら、ザアカイは救いを得ることはなかったでしょう。ザアカイはスルスルと降りて、イエス様を自分の家に迎えました。それだけではありません。自分の部下や仕事仲間を招待しました。みんなで、イエス様を囲んで、食べて飲んで、親しく交わりました。それを見て、喜ばない人たちがいました。当時の宗教的指導たちです。ルカ197「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。」とあります。イエス様は彼らに対して、何と答えでしょうか?ルカ1910「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです」。アーメン。

 

 「失われた」とはどういう意味でしょうか?初めは自分のものであったのに、失くしてしまったという意味です。神さまのせいで人間は失われた者になったのでしょうか?そうではありません。最初の人間アダムが、「自分の考えと力で生きる」と神さまに反逆しました。その結果、はエデンの園から追い出され、サタンが支配するこの世で生きるようになりました。パウロは失われた人たちをこのように表現しています。エペソ21-2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」そうです。私たちは罪過と罪との中に死んでいました。霊的に死んでいるので自分から神さまに立ち返ることができません。そのため、神さまのもとから、御子イエス様がこの地上に遣わされたのです。罪の中に失われていた私たちを探して救うために来られたのです。クリスチャンになりたての頃は、自分の意志で教会にやって来たとか、自分の意志でイエス様を信じたと思っています。しかし、信仰生活を送っていくと、「ああ、イエス様は前から私の名を呼んでいたんだ。私が鈍かったんだ」と気づきます。「私が暗いところで一人ぼっちで泣いていたとき、イエス様がそばにいたんだ」と気づきます。イエス様はザアカイという名の人が、エリコの町に住み、今、木の陰に隠れているのを知っていました。そればかりか、ザアカイの家を訪問して一緒に食事をすることも予定していました。同じように、あなたも救いのリストに入っていたのです。イエス様は失われていたあなたを、私を救うためにこの地上に来られたのです。そして、今も聖霊によって、この地上に来られ、戸の外に立ち「一緒に食事をしよう」と心のドアをたたいておられます。

 

4.ザアカイの変化

 

ルカ198-9ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」イエス様が命じてもいないのに、どうして、財産の半分を貧しい人たちに施すとか、だまし取った物を四倍にして返すと言ったのでしょうか?ここには重要な福音の真理が隠されています。ザアカイは救われるために良いことをしたのではありません。イエス様を心に受け入れて、霊的に生まれ変わり、救いの喜びがあふれてきたのでそうしたくなったのです。この世には数えきれないほどの宗教があります。そのほとんどが、正しいことをしなければならないとか一生懸命拝まなければならないと要求してきます。人間の肉は、何か自分がやるべきことがあると安心するものです。ザアカイはお家にイエス様をお迎えしただけではなく、心の中にイエス様をお迎えしたのです。さきほどの、救いの架け橋で言いますと、イエス様という橋を渡って、神さまの側に行ったのです。神さまのところには、永遠のいのち、天国、そして豊かなる報いがあります。ザアカイは救いの喜びに満たされたので、良いことをしたくなったのです。彼は救われるために良いことをしたのではなく、救われた結果、良いことをしたくなったのです。これこそ、肉ではなく、御霊によって生きるということです。

 

イエス様はザアカイの変化を見て、何と言われたでしょうか?ルカ19:9イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」アーメン。イエス様は、はっきりとザアカイが救われたことを証言したのです。ここに「きょう」とあります。イエス様は「死んでから、ザアカイが天国に行って救われる」とはおっしゃっていません。ここに大切な真理があります。人は天国へ行ってから救われるのではく、この地上で救いを得なければならないといことです。少し前に、ニコデモの話をしました。イエス様は「新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われました。新しく生まれるのも、死んでからではありません。今、この地上でイエス様を信じたら新しく生まれ変わることができるのです。同じように、「きょう」イエス様を信じるとき、あなたは救われ、天国、すなわち神の国に入るのです。そうすると、ザアカイのように変わることができるのです。また、イエス様はザアカイを「アブラハムの子」と呼ばれました。アブラハムは信仰の父であり、アブラハムからイスラエル部族が生まれました。ですから、取税人のかしらであったザアカイも、立派なアブラハム子孫であるということです。

 

本日は「劣等感からの解放」という題で学びましたが、劣等感も救いを得る1つのきっかけになるということです。劣等感は正確には、「劣等感コンプレックス」と言うそうです。コンプレックスは、無意識の中に抑圧されて固まった観念です。人間にはいろんな種類のコンプレックスがありますが、劣等感はその1つです。心理学でも様ざまな治療法があるでしょう。しかし、私たちは絶対者なる神さまと出会い、救い主イエス・キリストを受け入れるときに癒しと解放が得られます。救いを受けるとどのようなことを悟ることができるのでしょうか。第一は神さまからありのままで受け入れられています。第二は神さまから完全に是認されています。もう、人から認められようと努力する必要はないということです。第三は神さまからユニークな存在として造られました。身長も顔かたちも、性格すらも神さまのわざです。第四は神さまから特別に愛されています。神さまはあなたがどうすれば愛されていることが分かるかご存知です。期待してください、あなたに愛が分かるようにしてくださいます。第五、神さまはマイナスもプラスに変えてくださいます。あなたの弱みは強さとなるのです。神さまは失敗も心の傷も益にしてくださいます。第六、あなたは神の子、アブラハムの子孫です。生まれや育ちで劣等感を持っている人がいます。そんなの関係ありません。自分が神さまから固有な存在として造られたことを認め、神さまの無条件の愛を腹いっぱいにいただきましょう。人の評価や評判ではなく、神さまの御目のもとで生きましょう。「愛する天のお父様、あなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたことを感謝します。私は造り主を忘れ、ザアカイのように失われた存在でした。しかし、イエス様、あなたが私を見出し、私の名前を呼んでくださり、ありがとうございます。私はここにおります。どうか、私を罪から救いだし、新しいいのちと新しい身分をお与えください。また、私をすべての劣等感から解放してください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

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2013年12月22日 (日)

No room for Christ    ルカ2:1-7 

 クリスマスおめでとうございます。「なぜ、説教題を英語にしたのか?」とおっしゃられるかもしれません。今どきの歌はほとんど英語の題名がつけられています。しかも、その中によく分からない英語の歌詞が流れるのは何故でしょう?フィーリング的にかっこいいからかもしれません。私があえて、英語の題名にしたのは、英語しか表現できない微妙なニュアンスがあるからです。きょうはNo room for Christと題して、クリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。

 

1.動かされたキリスト

キリストが生まれたのは、ベツレヘムの小さな町でした。しかし、ルカ福音書は、世界的な見地からそのことを述べています。その当時、ローマが世界を支配していました。ローマ皇帝アウグストが「全世界の住民登録をせよ」と勅令を出しました。一番の目的は徴税のためであります。日本でも豊臣秀吉が年貢を取るために太閤検地を行いました。アウグストの勅令は、シリヤの総督クレニオを通して、ユダヤの地方でも実施されました。面倒なことに、自分の出身地に戻って、登録しなければなりません。そのためヨセフはナザレから、ユダヤのベツレヘムまで行かなければなりませんでした。その距離は約100キロあり、ここから北ですと水戸ぐらいまでです。でも、ベツレヘムへの道は平坦ではなく、半分は山地です。「マリヤは月が満ちていた」とありますので、ロバに乗ったとしても過酷な旅だったでしょう。大体、臨月に入ったら、長旅などしてはいけません。二人は生まれ故郷のベツレヘムまで、どうにかたどり着くことができました。しかし、泊まれる宿屋がありませんでした。それで、イエス様は馬小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされることになりました。この短いストーリの中に、いくつか考えさせられることがあります。

このところを見ると、「ああ、イエス・キリストはローマ皇帝によって動かされたんだなー」と思うでしょう。なぜなら、ヨセフとマリヤがナザレからベツレヘムまで、100キロもの道を歩かされたからです。どんな理由があるにせよ、ローマ皇帝の勅令に逆らうことなどできません。だから、二人は生まれ故郷のベツレヘムに行くしかありませんでした。そして、イエス様はベツレヘムの馬小屋で生まれることになりました。ここだけを見ると、「ローマ皇帝は世界を動かすほど力があったんだなー。イエス様をも動かすことができた。」と思うでしょう。ところが、そうではありません。イエス様はユダヤのベツレヘムで生まれる必要がありました。マタイ2章に東方の博士たちが宮殿に行って、「キリストはどこで生まれますか」と尋ねました。祭司長や学者たちは預言書を開いて「ユダヤのベツレヘムです」と答えました。ミカ書に「ユダの地、ベツレヘムに、イスラエルの支配者になる者が出る」と預言されています。ということは、キリストは絶対にベツレヘムで生まれなければならなかったのです。神さまはこの預言を成就させるために、ローマ皇帝に勅令を出させたと考える方が妥当ではないでしょうか?実はそうなんです。確かに、ヨセフとマリヤにとって、総督クレニオも力がありました。また、皇帝アウグストがその当時の世界を支配していました。「生まれ故郷に行って、登録せよ」と言われたら従うしかありません。マリヤは旅先のベツレヘムでお産をすることになりました。でも、これは仕方のないことでも、偶然でもありません。神さまの計画、神さまのシナリオの一部だったのです。でも、「世の中の歴史や政治経済などに、神さまが関知していないのでは?」と思っているのではないでしょうか。神さまがローマ皇帝の上にいるって、なんとすばらしいことではないでしょうか?神さまがローマ皇帝に勅令を出させて、ヨセフとマリヤを動かし、ベツレヘムでキリストが生まれるように仕組んだのであります。ハレルヤ!

詩篇756-7「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」とあります。私たちは、栄枯盛衰の中に、神さまの御支配があることを多少なりとも知ることができます。たとえば、ダニエル書には、何人かの王様が登場します。バビロンのネブカデレザル王様が高慢になって、自らが神さまになろうとしました。王がさばかれ、7年間も理性を失い、野の獣のように暮らしました。ベルツァツァル王は神の宮の本堂にあった金の器で酒を飲みました。彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。そうすると、神の前から手が送られ、壁に文字が書かれました。まもなく、ベルツァツァル王は暗殺され、他の人が王になりました。バビロンが倒れ、ペルシャが支配しました。それまで、ユダの民が70年間も囚われていました。しかし、ペルシャのクロス王がエルサレムに帰還して宮を建てるように命じました。だれが、そのようにさせたのでしょうか?エズラ11「主はペルシャの王クロスの霊を奮いたたせたので、王は王国中におふれを出した」と書いてあります。また、ダニエル書には、「ペルシャのあとギリシャが起こり、ギリシャのあとローマが起こる

と預言されています。つまり、ローマ皇帝さえも、神さまの御手の中にあったということです。神さまが歴史を導いておられるとしたら、私たち個人の人生はどうなのでしょうか?

私たちはどうしても近視眼的になり、長いスパンで物事を見ることができません。何でもかんでも、自分が生きている間に実現したいと願っています。でも、自分は歴史の1コマのある部分しか演じていない場合もあるでしょう。テレビでペルシャ絨毯を見たことがあります。昔は全部手織りでした。大勢の人が、何年もかけて、1枚の絨毯を織り上げました。ある人は地味な部分、またある人は金色や朱色の部分かもしれません。でも、「自分のは、地味だなー」と思っていた人が遠くから見たら、「ああ、重要な部分だったんだ」と気付くことがあるでしょう。イエス様の降誕で有名なのはマリヤです。カトリックでは「聖母マリヤ」としてあがめています。でも、ヨセフはどうでしょうか?自分の子でない子どものために動かされています。マリヤをいたわりながらナザレからベツレヘムへ、100キロの旅をします。エルサレムの神殿に立ち寄った後、夢を見ました。御使いが「立って、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げなさい。ヘロデ王がこの幼子を捜し出して殺そうとしています」と告げました。マタイ214「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ち退いた」と書いてあります。それは、預言が成就するためでした。ヘロデの死後、主の使いが夢で現れ「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ行きなさい」と言われ、ナザレという町に住みました。これも、預言が成就するためでした。このように、ヨセフの人生は神さまによって振り回された人生でした。でも、ヨセフがいたからこそ、イエス様の降誕が成り立つのであります。

あなたの人生も、私の人生も、神さまによって振り回された人生であってほしいと思います。私は秋田で生まれ町田に住み、座間キリスト教会に集いました。家内の京子さんは岩手で生まれ相模原に住み、座間キリスト教会に集いました。どういう訳か結婚し、その後、亀有教会から招聘を受けました。私たちは「日本基督教団に来ると信仰がなくなるのでイヤだ」と最初は断りました。でも、祈ったらみことばが与えられ、来ることになりました。記憶に残るのは、最初のクリスマスです。座間キリスト教会にいた頃は、私が座間の裏山からヒバの枝を切って、大きなリースを2つ作りました。「亀有でも裏山があるかなー」と思ったら、全くありません。軽乗用車に息子を乗せて、野田の方に向かいました。橋のたもとで5歳の息子がおしっこをしたいと言いました。しょうがないなーと車を脇に止めました。するとそこに、杉の木を伐採した枝がたくさん捨てられていました。さっそく、それを車に積んで、帰って来てから大きなツリーを壁に作りました。クリスマスイブは私がオー・ホーリナイトを歌いました。クリスマスパーティでは2歳の娘と仮想してダンスを踊りました。あれから、26年たってどうなったでしょう?121日はクリスマスの飾りつけがありました。ツリーやリース、モールの飾りつけ、クリペの人形、電飾、全部、兄弟姉妹がやりました。また、2000年から、クリスマス・ゴスペルコンサートが始まりました。大勢いの人が集まり、とっても賑やかです。イブ礼拝も私は、メッセージはしますが、後半のアトラクションはみんながやります。もう、私がオー・ホーリナイトを歌う必要はありません。私がするのはクリスマス祝会のビンゴゲームくらいです。私の小さな経験からも、「ああ、神さまが私の人生を導いておられるんだなー」と思うことができます。

みなさんの人生も同じではないでしょうか?過去を振り返って、全部が良かったとは言えないかもしれません。思い出したくないようなトラウマ的な出来事もあったでしょう?顔を赤らめるような失敗もしたかもしれません。でも、そこにも神さまの御手があったことは確かではないでしょうか。哀321-22「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」アーメン。今まで、滅び失せなかったのは主の恵みであり、尽きない主のあわれみだったのです。ハレルヤ!クリスマスの日、主と出会い、主によって贖い出されたことを感謝しましょう。

 

2. No room for Christ

ルカ27「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」なぜ、ヨセフとマリヤに宿屋がなかったのでしょう。そして、なぜ、イエス様は馬小屋で生まれなければならなかったのでしょう?「なぜ」という問いの答えになるかどうかわかりませんが、いくつか考えられます。当時は親戚同士で生まれ故郷に帰りました。当然、ヨセフとマリヤにも親戚があったと思われます。でも、どうして身重のマリヤを助けなかったのでしょうか?後から福音書にも出てきますが、イエス様は「マリヤの子」と私生児のように呼ばれました。昔も今も、「聖霊によってみごもった

とだれが信じるでしょうか?婚約中のヨセフは「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めていました」(マタイ119)。しかし、主の使いが夢で告げてくれたので信じました。しかし、町の人たちは「マリヤは父親がだれかも分からない子どもを宿している」と噂していたことでしょう。だから、ヨセフとマリヤに、宿屋を分けてもらえなかったという考えです。もう1つは、実際に宿屋がいっぱいであったということです。普段は閑散とした村なのに、人口調査のために、にわかに人々が集まったからです。もし、あなたが宿屋の主人だったらどう考えるでしょうか?「身重の夫婦を一組、宿屋に入れるとしたら大変だ。すでに泊まっている客を出さなければならない。また、宿屋で産気づいたら面倒だ。

最終的に、別の宿屋の主人が「馬小屋ならあるよ」と貸してくれたのだと思います。一般に、イエス様の馬小屋を「クリペ」と言います。しかし、当時の馬小屋は横穴をくり抜いた洞窟で、入口にゴザのようなものが掛かっているだけでした。当然、隙間風がビュンビュン入る状態だったでしょう。当教会のロビーに人形が飾られています。博士や羊飼い、御使いもいて、賑やかです。実際は、野原で夜番をしていた羊飼いだけが、駆けつけたのだと思います。博士たちが到着したのは、数日後、家に泊まっていた時です。でも、どうして羊飼いが「みどり子イエス」を発見することできたのでしょうか?御使いは「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどり子を見つけます。これが、あなたがのためのしるしです」と告げました。彼らは、馬小屋だけを捜しました。飼葉おけに寝ている赤ちゃんなんて滅多にいません。彼らは、馬小屋だったのでイエス様を見つけられたのだと思います。

きょうのメッセージはNo room for Christ「キリストに部屋がなかった」という意味です。英語の聖書でルカ27は、because there was no room for them in the inn.「宿屋には、彼らの場所がなかったから」と訳すことができます。「彼ら」とは、ヨセフとマリヤですが、マリヤのお腹のなかにキリストがおられました。no roomとは、「空き場所がない」「満員だ」「余地がない」という意味です。たとえば、だれかから夕ご飯をごちそうになったとします。そのとき女主人が「おかわりいかがですか?」と言ったとします。そのとき、お腹がいっぱいのときは、no roomと答えます。「では、デザートはどうですか」と聞かれたら、any roomと答えるでしょう。昔、題名は定かでありませんが、『心の部屋』という映画がありました。二人の若い夫婦がアメリカの開拓地で暮らしていました。彼女の夫が一人の酔っ払いによって、銃で撃たれて死にました。町の人たちはその男を縛り首にしました。しかし、残された妻一人でどうやって生きていくでしょうか?彼女は綿花畑を始めますが、問屋はカスの種を売りつけました。そこに黒人がやってきて、「私を雇ってくれたら、綿花畑をやりますよ」と言いました。私は途中までしか見ませんでしたので、全体がわかりません。彼女があるとき夢を見ました。彼女は教会の礼拝に出ていました。そこには町の人々がいました。またそこには、死んだはずの夫がいました。また、夫を銃で撃った男もいました。私は「それは天国の夢なのかな?」と思いました。そうではなく、彼女の心の部屋だったのです。映画の主題はわかりませんが、一人ひとり、心の中に部屋を持っているということです。あなたの心の中に部屋があるでしょうか?いくつ部屋があるでしょうか?そして、部屋の中にはどのような人たちが住んでいるでしょうか?亡くなった父や母、あるいは子どもでしょうか?あるいは別れた昔の恋人でしょうか?あるいは世話になった恩人でしょうか?

でも、私たちの部屋に一番、招かなければならないのは主イエス・キリストであります。ヨハネ黙示録320「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」イスラエルでは、食事は楽しい交わりを意味します。イエス様は取税人のマタイやザアカイと食事をしたことがあります。また、ベタニヤのマルタとマリヤの家でも食事を共にしました。イエス様はあなたと一緒に食事をしたいのです。しかも、一時的なゲストではなく、ずっと一緒に住みたいと願っておられます。ヨハネ15章にはぶどうの木のたとえがあります。日本語の聖書では「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」と書いてあります。しかし、英語の聖書はAbide in Me, and I in you.「私の中に住みなさい。私もあなたの中に住みます」となります。ウイリアム・ハントという画家が『世の光』という絵を描いています。イエス様が左手でランプを持ち、右手でドアをノックしています。そのドアはもう何年も開かれたことがないのか、草ぼうぼうで、ツタの枝が垂れ下がっています。良く見ると、そのドアにはノブがありません。ということは、その人自身が内側からドアを開けるしかないのです。これは、私たちがイエス様の招きに答え、自ら心を開けるときの状態であります。「いや、今散らかっていますので、あとで」「いや、私の部屋は暗いので、明るくしてから」と言い訳をするかもしれません。そんなことをしていたら、死ぬまでチャンスが来ないでしょう。イエス様はむさくるしい馬小屋で生まれました。だから、汚いままで良いのです。もし、救い主イエス様を入れるならば、部屋はきれいになり、また明るくなるでしょう。イエス様は世の光であり、心の中の暗闇を追い出してくださいます。Abideという意味は、一時的ではなく、ずっと住むという意味があります。イエス様があなたの部屋にずっと住むなら、平安と守りと喜びが訪れるでしょう。

しかし、イエス様を入れるためには、今あるものを出さなければならない場合もあります。宿屋の主人はヨセフとマリヤを入れることができませんでした。なぜなら、他の客を出さなければならないからです。あるいは、いろんな面倒になるかもしれません。だから、「宿屋には彼らのいる場所がなかった。

No room for Christとなります。この世には様々な宗教があります。一番難しいのは既に、他の信仰を持っている人たちかもしれません。先月、私が駐車場にいたとき、一人のおばあちゃんが「亀有教会はどこですか?」と尋ねました。私は「ここですよ」と答えました。しかし、話が通じません。「カトリック教会でしょうか?」と聞きました。「そうじゃない」と答えます。よく聞くと、金光教の亀有教会だということでした。「ああ、それだったらここを右に曲がって、300メートル位行くと左側にありますよ」と教えてあげました。その後、何とも言えない空しさを覚えました。若い頃は、他の宗教の方でも頑張って伝道しました。しかし、今は「難しい人だな」と思って諦めてしまいます。ある人たちは、キリストよりも、この世に関心があります。福音書には「いばらの地にまかれた種

のことが記されています。心がいばらの地の人は「みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」とあります。その人は、イエス様を受け入れると、世の中の楽しみや喜びを諦めなければならないと思っています。確かに、そういうところはあります。イエス様と同居できないものもあります。しかし、世の中の楽しみや喜びは中毒性があり、最終的にはそれらの奴隷になってしまいます。イエス様はそういうことがありません。ある人たちは、イエス様を受け入れると「自分のしたいことができない」「自分らしくなくなる」と思っています。本当の自由はどこにあるのでしょう?何でもやっても良いのが自由ではありません。ある幼稚園で実験をしました。柵を全部取り払い、子どもたちを遊ばせました。すると、子どもたちはグラウンドの真ん中に固まって遊びました。なぜなら、柵がないので、怖いからです。今度は、四方にちゃんとした柵をめぐらしました。すると子どもたちは、グラウンドいっぱい広がって遊びました。柵とは神さまの律法であり、きまりです。一見、不自由に思えるかもしれません。でも、越えてはいけない限界を示しています。それと同じで、神さまが定めたきまりの中で生きるなら、本当の自由があるのです。真理はあなたを自由にします。真理であるイエス様と一緒に暮らすならどうでしょうか?イエス様が「これが道だ、これを歩め」と教えてくれます。だれも認めてくれない、だれも評価してくれなくても、イエス様が「あなたは良くやりました」と認めてくださいます。人生、失敗したり、過ちを犯すことがあります。そのとき、イエス様が弁護し、償ってくださいます。英語でVindicatorは「弁護する人」「擁護する人」という意味です。イエス様はまさしく、Vindicatorです。自分のまわりがみんな敵であったとしても、イエス様は味方であり、あなたのために正当性を立証して下さいます。イエス様はあなたを見捨てたりはしません。世の終わりまであなたと共にいてくださいます。あなたが死ぬまでではなく、死の向こうまでも一緒に行ってくださいます。主の主、王の王であるお方があなたの友になってくださいます。イエス様を心にお迎えしましょう。すでにクリスチャンの方は、イエス様を心の王座に迎え、すべての部屋を明け渡しましょう。生活のどの分野においても、王様になっていただきましょう。キリストが共におられる部屋ほどすばらしいことはありません。

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2013年12月15日 (日)

ダビデの子イエス      ルカ1:28-33

 福音書では、イエス様はたびたび「ダビデの子」と呼ばれています。たとえば、盲人のバルテマイは「ダビデの子イエスよ。私をあわれんでください」と叫びました。イエス様は、ご自分のことをそのように呼んだことはありません。しかし、当時の人たちは、「メシヤはダビデの子孫から出る」と信じていました。ただ今、旧約聖書の人物から学んでいますので、イエス様がなぜ「ダビデの子」と呼ばれたのかを知る良いチャンスでもあります。


1.イエス様と御国の関係

 まず、御使いがマリヤに言った受胎告知の一部を取り上げたいと思います。ルカ1:32-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」つまり、生まれる子どもは王位を受け、ヤコブの家(イスラエル)を、永遠にその国を支配するということです。では、この預言の出どころはどこでしょうか?Ⅱサムエル7章に主がダビデにこのように言われたことが記されています。Ⅱサムエル7:11-13「主はあなたのために一つの家を造る。あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この預言は「ダビデ契約」として知られています。直接的にはダビデの子、ソロモンのためであります。しかし、同時に、やがて来るべきメシヤの預言でもあります。主がダビデの王国を確立させ、その王国の王座がとこしえまでも堅く立てられるということです。しかし、みなさんもご存知のとおり、ソロモン以降、イスラエル王国は北と南に分裂しました。その後、アッシリアとバビロンに滅ぼされました。南のユダだけが戻されて、国を復興しました。しかし、その後、ギリシヤによって支配されました。イエス様がお生まれになった頃は、今度はローマによって支配されていました。ですから、人々の心の中に、「一刻も早くメシヤが来られて、ローマを倒してイスラエル王国を復興させて欲しい」という願いがありました。ですから、「ダビデの子イエス」という呼び名には、明らかに政治的な意味がこめられていました。イエス様の弟子たちも、そのようなメシヤを期待していました。

新約聖書全体から言うと、イエス・キリストは御国の王であります。しかし、ただちに御国が立てられるかというと、そうではなく、2段階でやって来るということです。2000前イエス様がこの地上に来られたのは何のためでしょうか?それは、御国の基礎を作ることと、御国の民を集めるためでありました。この世はアダムとエバが罪を犯してから、もう御国ではなくなりました。罪とサタンが支配する暗闇の王国になってしまったのです。そこに生まれる子どもたちは、暗闇の支配を受け、生きる意味も、真理も命も分からないまま死んでいきます。イエス様は神さまのところからこの世に送り込まれた神のひとり子であります。イエス様は「私はこの世のものではなく、父から遣わされた者である」(ヨハネ17章)とおっしゃられました。イエス様はこの世に来て、「御国とは何か?御国に入るためにはどうすべきなのか?」ということを教える必要がありました。マタイによる福音書には御国の律法として山上の説教が記されています。また、イエス様はたとえを用いて、天国に入ることが何にもまして重要なことを教えられました。では、どのようにして御国に入ることができるのでしょう?イエス様は「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」と言われました。また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました。歴史上、偉大な教師が数多く現れました。ソクラテス、釈迦、孔子、マホメットもそうでしょう。それらの人たちは「道とは何か、真理とは何か、いのちとは何か」ということを教えました。しかし、イエス・キリストだけが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。人はイエス・キリストと出会うなら、それらを追及する旅が終わって、それらを享受する生活が始まるのです。クリスチャンは道を探求する者ではなく、道を渡って御国(神さまがおられるところ)に入った人たちのことです。この世にいながらも、御国の自由、御国の喜び、御国の命を味わうことができるのです。

私たちはイエス・キリストを信じるだけで、御国に入ることができます。しかし、そのためには、イエス様はこの世において、すべきことがありました。ある人たちは、「信じるだけで救われるなんて、虫が良すぎる。何か裏があるんだろう」と言います。裏というか、根拠があります。それは十字架の贖いです。イエス様は霊だけではなく、肉体を持って、この地上に来られました。当時のギリシヤ人はそれが躓きでした。彼らは「肉体は悪であり、神さまが肉体を持つということは汚らわしいことである」と言いました。また、ユダヤ人は「木に吊るされた者は呪われるべき存在であり、メシヤが十字架にかかることはありえない」と思っていました。今日でも、ある宗教の人たちは「私たちの教祖は堂々と死んでいったけど、あんたところの教祖は『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?』と見苦しく死んでいった。なんでそれが教祖になれるのか」と言います。しかし、それはとても浅はかな考えです。私たちは罪があったままでは、神の国に入ることができません。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、私たちの罪のためです。イエス様が全人類の罪を背負って、身代わりに死なれ、その罰を受けてくださいました。また、父なる神さまは御子イエスに罪がなかったことを証明するために、三日目によみがえらせました。そして、御子イエスを信じる者を義と認め、御国に入れてくださることをお決めになられたのです。だから、私たちは御子イエス様を通して、神さまのところに大胆に行くことができるのです。しかし、それだけではありません。マルコ16:19-20 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」アーメン。御子イエス様は今も生きておられ、主であり、御国の王です。そして、今も聖霊によって、私たちのところにお出でになり、共にいて助けてくださいます。

では、御国、神の国はどこにあるのでしょうか?イエス様がガリラヤで宣教を始めた頃、「神の国は近くなった」(マルコ1:15)とおっしゃいました。また、ルカ福音書で「神の国はあなたがたのただ中にある」とも言われました。また、世の終わりにいろいろなことが起こりますが、「それらのことが起こったなら神の国は近いと知りなさい」(ルカ21:31)とも言われました。つまり、神の国は現在ここに来ているけれど、まだ、完成していないと考えるべきであります。それってどういう意味でしょうか?そのためには、私たちは御国、あるいは神の国という意味を知らなければなりません。神の国は、英語ではkingdom of God、神の王国であります。私たちは王国というと、領土、王様、民たちと3つなければならないと考えます。しかし、聖書のギリシヤ語で神の国はバシレイアーと言って、神の支配という意味であります。つまり、「神の国が近づいた」とか、「神の国はただ中にある」と言った場合、「神の支配が来ている」ということであります。イエス様が復活した後、天に引き上げられ王になりました。しかし、ないのは領土と民たちであります。神さまが求めておられるのは、御国に入る民たちです。もちろん、領土というか土地も準備しておられます。イエス様は「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3)とおっしゃいました。でも、神さまの一番の関心は、そこに入る人々です。もともと神さまはエデンの園に人間を造り、親しい交わりを持たれていました。ところが、罪が入って、それがダメになりました。しかし、こんどは神の国を作って、そこに贖われた人たちを迎えたいと願っておられるのです。つまり、イエス様を信じて、義とされた人たちがご自分の国に入ることを願っておられるのです。

それでは今はどういう時代でしょうか?そうです。神の国に入る人たちを募集している時代です。神さまは最初、イスラエルの人たちを招きました。しかし、彼らは招きを断り、メシヤを殺しました。イエス様はそのことを盛大な宴会にたとえておられます。招かれていた人たちは、「畑を買ったので行くことができません」「牛を買ったので」「結婚したので行くことができません」と断わりました。それでどうしたでしょう?ルカ14:21-23「しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。』」御国への招きは、私たち異邦人に向けられています。神さまは「ああ、もったいない」と思って、「この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」と言われました。この家とは、ダビデに預言されていた御国であり、神の国です。すでにイエス・キリストが十字架に付き、代価を支払われました。使徒パウロは懇願しています。「神の恵みをむだに受けないようにしてください。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」と。


2.教会と御国の関係

 神の国ということは分かりました。では、教会というのは何なのでしょうか?アウグスチヌスと言う神学者は、教会と神の国を同一視しました。確かに教会は神の国の一部を表していますが、神の国ではありません。「神の子ども」「聖徒」と言いながらも、罪を犯すことがあります。「神の愛」と「隣人愛」を説きながらも、しばしば争ってしまいます。多くの人たちが躓くのは、教会と神の国を同一視しているからです。しかし「教会は全く、神の国ではなく、救われた罪人たちの集まりです」と言うとどうでしょうか?これだと、救いを受けていても何の効果もないということになります。頭に毛の生えていない人は「毛生え薬」を売ることはできません。また、泥棒が「互いに助け合いましょう」と正義を語ることはできません。イエス様を信じて神の国の民となっているならば、何らかのしるしがなければなりません。パウロはそれを「聖霊の証印」と言いましたが、なかなか、これも見ることができません。クリスチャンになったら、額のところに、十字架が浮かんで来たら良さそうですが、そういうことはありません。カトリックでは、「洗礼証明書」を発行しているようですが、プロテスタント教会はそういうものはありません。では、何か違いはあるのでしょうか?Ⅱコリント2:15「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」とあります。イエス様を信じている人からは、かぐわしいキリストのかおりがしてくるということです。かおりは目には見えません。でも、その人と交わった人には分かります。「ああ、この人の中にはキリスト様がいるなー」となったら、すばらしいですね。今は、洗剤の中にいろんな香料を入れているようですが、どうなんでしょうか?キリストのかおりとは、強いて言うならば、「命のかおり」「愛のかおり」「誠実さのかおり」というものではないでしょうか?そのときは分からなくても、後から「ああ、あの人の中にはキリスト様がおられるなー」と知られたなら、すばらしいですね。

また、教会の歴史をたどると何度か極端なこともありました。ジョン・カルバンはルターと並ぶ宗教改革者です。彼は神学者でありますが、同時に教会政治に対して厳格な考えを持ちました。そして、スイスのジュネーブに理想的な国家を作ろうとしました。それはどういうものかと言うと、教会と国家が一体となった「神政政治」です。でも、教会が司法権や警察権を持ったらどうなるでしょうか?洗礼を受けることが義務付けられ、宗教的な罪であっても罰せられます。実際、アナバプテストの人たちが死刑に処せられました。免許のない人が勝手に教えたり、説教することができません。ちゃんと説教できる免状をもらわなければなりません。教会の政治も厳格な長老制で、議会政治と全く同じです。牧師は国家公務員であり、宗教税もあります。人々は国家の法律だけではなく、教会の法律も守らなければなりません。最初はうまく機能していました。ところが、人々はやがて嫌になり「もう、やめてくれ!」となりました。ルターは恵みを強調しましたが、カルバンは律法を強調しました。使徒パウロが言っているように、人は律法を突き付けられると、逆に罪を犯してしまう天邪鬼になります。きまりを多くするということは、クリスチャンを聖徒として見ていないということです。むしろ、罪を赦されただけの罪人として見ているということです。教会によっては、教会員となるためには日曜礼拝と祈祷会の出席、十分の一献金などを守るという誓約書にサインする必要があるようです。この世では罪を犯させないように、法律をたくさん作り、破った者の刑罰を重くします。しかし、犯罪率は低くなるどころか、むしろ凶悪事件が増えています。教会も同じで、決まりを多くすれば多くするほど、命がなくなり、偽善者が増えてきます。イエス様は数えきれない律法を、神さまを愛することと、隣人を自分のように愛することの2つにまとめました。しかし、使徒たちは「隣人を自分のように愛するだけで良い」としました。だから、私は「クリスチャンとは聖徒であり、神の子どもである」ことを強調して、できるだけ律法的なことは言わないことにしています。アメリカのある地方で、1つの実験をしました。1つの高校で、無差別に3人の先生と90人の生徒を選びました。そして、その先生方には「あなたがたはこの地域で最も優秀な先生として選ばれました」と告げました。また、90人の生徒には「あなたがたはこの地域で優秀な生徒として選ばれました」と告げました。1年後、彼らの成績は他の高校よりも30%もアップしていたそうです。実際は、先生も生徒もごく普通のレベルだったのです。と言うことは、人々は期待されたならば、実力以上のものを発揮するということです。つまり、教会員を愛と恵みのメガネをかけてみるならば、そのように成長していくということなのです。

また、教会にはもう1つの極端があります。「教会は聖くて、この世は悪である」という考えです。教会は聖書を学び、祈りをささげ、神さまを賛美する聖いところです。しかし、この世の政治や学問、ビジネス、芸術はみな世俗的であるという考えです。政教分離は良いのですが、教会が政治に全く関知しないようになりました。ナチス・ドイツのもとで、「教会は政治に一切、口出ししない」と誓約までさせられました。それで、あの恐ろしいユダヤ人の大虐殺がなされました。そのとき、勇敢にもボン・フェッファーという一人の牧師が立ちあがり、「キリストが主ではない領域は存在しない」と主張しました。そのため、彼は殺されました。日本の教会も第二次世界大戦中、妥協してしまいました。平和な時代では、平和運動をすることができます。しかし、いざ国家が悪魔化している中で、平和運動することは大変であります。「少年H」という映画があったようですが、戦争に反対した勇気ある人たちもいたようです。「教会は聖くて、この世は悪である」という二元論は間違っています。そうではなく、この世の中に、教会が置かれているということです。では、神の国のことを考えたならば、この世における教会の存在理由とは何なのでしょうか?何のために、教会が存在しているのでしょうか?インドネシアのエディ・レオ牧師が日本に度々来られています。あるときこのようなことをお話しされました。エペソ3:19「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」とあります。神さまはご自身の良きもので、この世を満たしたいと願っておられます。政治の世界も、ビジネス界も、芸術界も、教育や医療においてもそうです。しかし、神さまの良いものを運ぶ器が必要です。たとえば、ここに水があるとします。このままでは運ぶことができません。もし、ここに器があれば、これに水を入れて運ぶことができます。教会は、そしてみなさん一人ひとりは器です。この中に、神さまの良きものを入れて、この世のいたるところに満たしていくのです。私たちは、政治、ビジネス、芸術、教育、医療の世界に、神さまの良きものを運んでいくことができます。ここで言う教会は建物ではなく、私たち自身であります。

でも、教会しか運べない神さまのものとは何でしょうか?それは福音です。もっと言うと、御国の福音です。当時は、福音は「戦争に勝利した」という意味でした。一般にも福音は、「良い知らせ」ということで知られています。しかし、イエス様は「御国の福音」を宣べ伝えました。それは、単なる良い知らせではありません。「ここに神の国が来ています。あなたも、無償で入ることができますよ」ということです。人々が「神の国って何ですか?」と聞かれたら、御国の味わいを少し提供しなければなりません。イエスさまはそのために、人々の病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせました。イエス様は弟子たちにそうせよとお命じになられました。イエス様も弟子たちも、御国には病も死もないということをデモンストレーションしました。それが、今、教会にも求められているということです。私たちは御国の福音を宣べ伝えつつ、そして主が行われたようなミニストリーを行うべきだということです。私たちは何があるでしょう?2つのものがあります。1つはイエスの御名を用いて祈ることができます。2つは聖霊様がそれぞれの人にそれぞれの賜物を与えておられます。かしらはイエス・キリストです。そして、からだの各器官は私たち一人ひとりであります。からだにはさまざまな器官、さまざまな機能があります。私たちはかしらなるキリストに聞いて、協力しながら、命じられたことを行えば良いのです。何をすれば分からない人は、ぜひ、かしらなるイエス様に聞いてください。ある森でクリスマスの劇をすることになりなりました。馬やロバたちはすぐ役が決まりました。ところが、ハリネズミだけには役が回ってきませんでした。本番前に、ハリネズミは悟りました。立派なモミの木の頂上に登り、からだを丸くさせました。動物たちにはそれが星に見えました。からだの中に不要な器官がないように、神さまの前に、誰一人として不要な人はいません。キリストが復活してから、御国は力強くこの世に臨んでいます。私たちは地上でいながら、御国の喜び、御国の豊かさを味わうことができます。そして、まもなくキリストが戻って来られ、完成した御国に私たちを迎えてくださいます。主イエス・キリストこそ御国の王です。私たちはその民であります。ハレルヤ、アーメン。


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2013年7月21日 (日)

~イエス様が教えた隣人愛~  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ルカの福音書10章25節~37節>


10:25

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

10:30

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31

たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」


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この「善きサマリヤ人」のたとえは、ルカの福音書にしか記述されていません。ルカは他にもルカの福音書にしか書かれていないイエス様が語られた「たとえ話」を多く記しています。ルカはこれらの「たとえ話」を福音書の冒頭1:3に書いているように「すべてのことを初めから綿密に調べて、順序立てて」書いていきました。


その「たとえ」の解釈については、アウグスチヌスなど教父の時代から様々な解釈が行われてきていますが、この「善きサマリヤ人」の解釈については、伝統的には寓喩的、比喩的に解釈してきました。


例えば、強盗に襲われた旅人=アダム、エルサレム=天、エリコ=この世、強盗たち=悪魔とその手先たち、祭司=律法、レビ人=預言者、善きサマリヤ人=イエス・キリスト、家畜=堕落したアダムを背負うキリストのからだ、宿屋=教会、デナリ二つ=父なる神と御子、サマリヤ人が帰りに再び来ると言ったのはキリストの再臨を表していると考えていました。


16世紀の宗教改革をきっかけとして、プロテスタント教会ではここまで寓喩的には考えなくなりましたが、現在でも、強盗に襲われた旅人を自分自身と考え、善きサマリヤ人をイエス様だと解釈する人は多くいます。


しかし福音派では聖書を寓喩的ではなく字義通り解釈します。どういうことかというと、イエス様が語られた時の時代背景とか、その時の状況とを照らし合わせて、イエス様が語られた時に、直接聞いていた弟子たちや群衆が受け取ったであろうメッセージについて考えるということです。


ですから、この「善きサマリヤ人」のたとえ話は、イエス様がユダヤ人たちに「真の隣人愛」について教えるためのものだったと解釈します。当時のユダヤ人たちは、隣人愛についてどのように考えていたのでしょうか。また、それに対してイエス様はどのような隣人愛の教えをくださったのでしょうか。


●では、スライドを見ながら考えてみましょう。


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10:25

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

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◆イエス様が教えた隣人愛とは?


①誤った伝統的な思想を打ち砕く教え


10:27に書かれている二つの大切な戒め、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』について、イエス様はマタイ、マルコ、ルカの各福音書でもっとも大切な戒めであると語られています。


イエス様を試そうとした律法の専門家も、この二つの戒めを熟知していたのでスラスラと答えました。その心の内は「私は当然この二つの戒めを守っている!」と、さぞ自信満々だったことでしょう。


一つ目の戒め、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』というこの教えは、旧約聖書では、申命記の6:4,5をはじめ、申命記の随所に記されています。この旧約聖書に記されている「神」のことをイスラエルの民たちは「ヤーウェーの神(アドナイ)」と呼んでいました。申命記6:4では、「心を尽くし~」の前に、「聞きなさい。イスラエル。」という言葉から始まって書かれています。「聞きなさい。イスラエル。」という言葉はヘブル語聖書では「シェマー。イスラエル。」という言葉で書かれていることから、ユダヤ教徒の間では一つ目の戒めのことを「シェマー(聞きなさい)」と呼んでいます。ユダヤ教徒はこのシェマーを礼拝だけでなく、毎日一日に2度唱えます。子どもたちは物心がつくと、このシェマーを一番最初に覚えるそうです。また、そのシェマーのみことばを羊皮紙に書いたものを「ヒラクティリー」と呼ばれる小箱に入れ、ひもで額や左腕にその箱をつけている人もいます。今でもそうです。以前イスラエルに行った時、そういう人をたくさん見かけました。


そのくらい、この一つ目の戒めについては徹底して守り、ユダヤ人たちは全身全霊でヤーウェーの神を愛しています。イエス様に質問をした律法の専門家も自信があったことでしょう。では、二つ目の隣人愛についてはどうでしょうか。


●スライドの続きを見てみましょう。


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10:30

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31

たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

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当時、ユダヤ人たちにとっての「隣人」とは、「律法を遵守するユダヤ人の同胞」のことでした。この強盗に襲われた人は、おそらくユダヤ人だったのではないかと思われます。ではなぜ、祭司もレビ人も、隣人であるユダヤ人の同胞が倒れているのに、見て見ぬふりをしたのでしょうか。


この祭司とレビ人は、神殿に仕える人たちです。このたとえ話の状況だと、エルサレムで神殿業務を終えて、彼らの住まいがあったエリコまで25-30キロほどの距離を下っているところだったようです。高地であったエルサレムから下る山道では当時盗賊が多く出没したようです。


そこでなぜ、祭司やレビ人が瀕死の旅人を見て見ぬふりをして反対側を通ったかと言うと、2つの理由が考えられます。ひとつは「自分も盗賊に襲われるかもしれない」という保身から来る行動だったということ。もうひとつは、遠くから半殺しになって倒れている人を見れば、当然死んでいる可能性もあり、モーセの律法の民数記19:11の規定によれば、「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。」と書いてあるので避けたということです。律法を守ったという点では、この祭司とレビ人は正しいのですが、なんだか釈然としませんね。


●スライドの続きを見てみましょう。


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10:33

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

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このスライドでは、サマリヤ人と聞いただけで、群衆が嫌な顔をしていました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は敵対していたからです。その対立の歴史をさっと振り返ってみましょう。


イエス様がお生まれになる千年ほど前、イスラエルはソロモン王の治世が終わり、サマリヤを首都とする北王国と、エルサレムを首都とする南王国に分裂しました。北王国の王は人々が南王国のエルサレムに巡礼に行くことを禁じ、エルサレム神殿に代わる神殿を北王国の中に造りました。そのうち北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、北王国の主要な人々は捕囚として連れ去られ、その代わりに異国の人々をサマリヤに移住させました。それと同時に外国の偶像がサマリヤに持ちこまれ、その上、サマリヤに残っていたイスラエルの人々と雑婚し、宗教的にも、民族的にも、純粋なイスラエル人とは呼べなくなってきました。南王国の人たちは、そういうサマリヤの人たちを軽蔑して、「サマリヤ人」と呼ぶようになりました。


しばらくして南王国もバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに連れ去られましたが、70年後ペルシャのクロス王によって解放され、再びエルサレムに戻って来ました。そのころから南王国の人々は「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。さっそく彼らはエルサレムの神殿再建にとりかかりました。その時サマリヤ人が協力を申し出ましたが、ユダヤ人はそれを拒絶しました。そこでサマリヤ人はこれに対抗してモーセが祝福をこの山に置くと言った「ゲリジム山」に自分たちの神殿を造り、独自のサマリヤ教団を形成しました。こうして、ユダヤ人とサマリヤ人の間には憎悪と敵対心が生まれていき、お互い交際もせず、口もきかなかったと言われています。


ですから、イエス様は敢えてここで、サマリヤ人を登場させたのだと考えられます。隣人である祭司やレビ人が同胞を助けず、忌み嫌われていたサマリヤ人がユダヤ人を助け、隣人となったのです。

10:36 でイエス様が「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と尋ねたときに、この律法の専門家は「その人にあわれみをかけてやった人です。」と言いました。彼は「サマリヤ人です」とは言いたくなかったようです。それほど、この時代のユダヤ人たちは、「自分たちは神に選ばれた特別な民族である」という「選民意識」を強く持っていたことが伺えます。


しかしイスラエルという国は、本来エジプトの支配や周辺国からの抑圧から逃れて自覚的に形成された、自由・平等な社会でした。その社会が外部からの影響によって破壊されることを防ぐために、「ヤーウェーの神以外のものを拝してはならない」という信仰が形成されたのです。そしてイスラエル民族の根源的な思想である、「選びの民」思想が生まれました。しかし次第にその思想は、民族や国家の自己絶対化と、他民族に対する差別を生むというものに変化していきました。


このようなユダヤ人たちの誤った「選民意識」は、神の御心を知る心を曇らせました。イエス様は、ユダヤ人たちの長年に渡る誤りについて気付かせ、正そうとされたのです。


このユダヤ人たちの誤りに似たような状況が、みなさんの身の回りにもあるかもしれません。私たちの日常で当然のように考えられていること、当然のように行われていることが、本当に神様の御心であるのか、神様の真理であるのかどうかを今一度見直し、見極めるということをするべきではないでしょうか。


◆イエス様が教えた隣人愛とは?


②人格的で個人的な関わりを重視する教え


では、ヤーウェーの神は、ユダヤ人以外の、在留異国人や、奴隷たち、また、女性や子どもを隣人とはお考えにならなかったのでしょうか。だとすれば、イエス様の教えと食い違っていることになります。当然そんなことはありません。なぜならヤーウェーの神は、御自身が創られた人間たちと、人格的に関わろうとしてくださる神だからです。



すべては人間側に問題があります。人間創造のとき、神様はアダムとエバに対して人格的に関わろうとされましたが、アダムとエバは背きました。その時、彼らは隣人に対する人格的な応答関係をも失ってしまったのです。それでも神様は、背いたアダムとエバに呼びかけ、ご自身に対する素直な応答を求められましたが、アダムとエバはお互いに責任転嫁をして神様を悲しませました。


神様は、応答の自由を人間にお与えになり、人間が隣人に人格的に応答することを期待されましたが、愚かな人間は、神様とも隣人とも人格的な応答をしませんでした。そして、人間は、隣人を愛さず、支配しようとしたのです。それでもヤーウェーの神は、モーセを通してイスラエルの民に律法をお与えになり、アブラハムとの契約を思い起こされ、イスラエルの民を選び、エジプトからお救いになりました。やはりイスラエルの民は確かに選ばれたのです。


それでは、ヤーウェーの神が「選びの民」に期待された事とは何なのでしょうか。それは、「モーセの第二の律法」、申命記10:15-20から読み取ることができます。申命記10:15には、『主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。』と、アブラハムをはじめとする、彼らの先祖たちとの契約の故に、神がイスラエルの民を選ばれたことについて記されています。


そして、申命記10:17-19には、『あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。』と、神がかたよって愛することがない神であり、みなしご、やもめ、在留異国人にも愛を注がれる御方であることが記されています。


神様が「選びの民」に期待された事は、イスラエルの民が主を恐れ、主に仕え、主にすがり、彼らから、神の愛が注ぎ出され、在留異国人に、全世界の人々に、その祝福が与えられるようにということなのです。


ヤーウェーの神と、イエス様の隣人愛の教えに違いなどはありません。主は旧約、新約を通して一貫して全世界に神の救いと祝福が与えられることを望まれています。創造主なる神様は私たちの存在そのものを無条件に愛してくださっています。そしてイエス様は今も生きておられ、ヨハネ4章でサマリヤの女に語られたように、私たちと個人的に関わってくださる神様であることを思い起こしましょう。


善きサマリヤ人は、旅人に近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。また次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言いました。デナリ二つとは、2日分の労働賃金に値する金額です。


私たちは、神様が無条件に私たちの存在そのものを愛してくださったように、隣人の存在そのものを愛していきましょう。また、イエス様が私たちに聖書を通して個人的に語りかけてくださるように、隣人と個人的な関わりを持つようにしましょう。


◆イエス様が教えた隣人愛とは?


③能動的に自ら進んで隣人となっていく教え


●スライドの続きを見てみましょう。

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10:36

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

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イエス様は、「 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と質問なさいました。サマリヤ人は、瀕死の旅人から「助けて」と言われた訳ではありません。また、誰かに「助けてあげてほしい」と頼まれたわけでもありません。


サマリヤ人は、相手が常日頃から敵対しあっているユダヤ人だということなど全く関係なく、彼は自ら進んで、半ば本能的に旅人を助けました。イエス様が教えた隣人愛とは、他者の幸せと最良の利益を願う心を持ち、能動的に自ら進んで隣人となっていく愛です。


それなのに私たちは、「私の本当の隣人は誰だろう」と周りを見回し、「あの人とは考え方が違うから隣人にはなれないな」とか、「あの人には別に相応しい隣人がいるだろう」などと考えて、隣人を限定してはいないでしょうか。ついつい消極的になってはいないでしょうか。

しかし、イエス様は自ら進んで隣人となることを教えられています。


アフリカ系アメリカ人の公民権運動で知られるマルチン・ルーサー・キング牧師は、この「善きサマリヤ人」のたとえでこのような説教をしています。

「祭司とレビ人は、この人を助けたら“自分”がどうなるかと考えた。しかしサマリヤ人は、この人を助けなかったら“この人”はどうなるのかと考えた。それが両者を分けたのだ。」


“自分”のことを忘れて、“相手”のことを考える。

・・・なかなか出来ることではありません。

でも、イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と律法の専門家に言われました。

「あなたも行って同じようにしなさい。」・・・これは、イエス様が私たちにも語られている言葉です。


神様からの大切な二つの戒めは、私たち人間が罪の性質をもっているが故に、守ることが最も困難な戒めであると言えます。私たちキリスト者は、神の国とその義を第一としたいのですが、様々な誘惑に負けてしまいます。自尊心、嫉妬、傲慢な心から、隣人を愛することがなかなかできません。このような葛藤の中で喘ぎながら、日々歩んでいます。


しかし神様の律法は、本来私たちが幸せになるためのものなのです。神様の御前でへりくだり、主を全身全霊で愛し、しもべとなって主に仕え、イエス様を模範として、自ら進んで周囲の人々の隣人となっていけるような者となりたいものです。


◆イエス様が教えてくださった隣人愛とは?

①誤った伝統的な思想を打ち砕く教え

②人格的で個人的な関わりを重視する教え

③能動的に自ら進んで隣人となっていく教え


私たちの周りで当然のように考えられて行われていることが、本当に神様の御心であるのか、神様の真理であるのかどうかを見極めましょう。たとえ主義主張の違う人であっても、自分を愛してくれていない人であっても、自ら進んで隣人となり、その人の存在そのものを愛し、その人の幸せと最良の利益を願って生きようとするならば、そこに聖霊なる神様が働いてくださって、自然と愛が満ち溢れてくるのではないでしょうか。


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2013年2月10日 (日)

病の霊からの解放    ルカ13:10-17 

 「病の霊」と言うと西洋的な見地からすると、まったくナンセンスに聞こえるかもしれません。しかし、東洋では実際、厄払いをしたり、祈祷師から拝んでもらうということがあります。なぜでしょう?「その病気が、霊的なものから来ているかもしれない」という恐れがあるからです。たとえば、家族に同じ病気や障害をもっている人がいるとか、病院に行っても原因が分からないものがあるからです。でも、すべての病気が悪霊から来るというのは極端な考えです。マタイ8章に、「みことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた」とあります。イエスさまは、悪霊の追い出しと病気の癒しを別々に取り扱いました。ですから、すべての病気が悪霊から来るものではなく、ある種の病気や障害は悪霊から来るものがあるということです。

1.病の霊とは

ルカ13:10-11「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。」ひとりの女性が病の霊に取りつかれ、18年間も腰が曲がったままでした。そこは、会堂であって、神さまを礼拝している特別な場所でした。悪霊が会堂にいても、全く平気だったということは残念なことです。イエスさまがこの女性から悪霊を追い出し、癒してあげました。しかし、人々の反応はどうだったでしょうか?喜ぶどころか、「安息日に人を癒すのは何事か。他の日にできないのか」と憤りました。イエスさまは、「安息日でも牛やろばが水を飲むために解放されるように、安息日だからと言って束縛を解いてはいけないのか」と答えました。彼らにとって、人が癒されるよりも、安息日を守ることが大切だったのです。イエスさまは本当の安息を与えるために、18年間も悪霊に縛られていた女性を解放しました。明日まで待たないで、その日、解放してあげました。イエスさまが、あえて安息日にこだわったのか、あるいは一日でも早く解放して差し上げたいと思われたのか、どちらかでしょう。その両方かもしれません。今日の教会ではどうでしょうか?もし、私が他の教会に招かれて、説教のあとに、病の霊を追い出したら、どう思われるでしょうか?「ありがとうございました」と言われるでしょうか?あるいは、「今は病の霊など存在しません。混乱を与えるようなことはやめてください」と反対されるかもしれません。

10年くらい前になりますが、台湾に伝道旅行に行った際、新松戸の津村先生とある教会で奉仕をしました。説教が終わった後、津村先生がミニストリーをしました。すると青白い女性が、お母さんと一緒に祈りを求めて前に来ました。良く見ると、さっきまでオルガンを弾いていた若い女性です。津村先生がいきなり「病の霊よ、去れ!」と命じました。その女性はその場にパタリと仰向けに倒れました。近くにいた人たちが一斉に離れました。私は隣にいたのですが、その女性は紙おむつのようなものを履いていました。「ああ、この女性は何かの病気なんだなー」と思いました。台湾のその教会では、「病の癒しや悪霊の追い出しはやったことがない」と言っていました。病や障害をもたらす霊がいることは、聖書のいたるところに記されています。マルコ9章には、古い訳ですが「おしの霊」が出て来ます。その子は「てんかん」の症状と良く似ていました。なんと、その悪霊は何度も、その子を火の中や水の中に投げ込んで殺そうとしていたのです。また、マタイ12章には、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人がイエスさまのもとに連れてこられました。人々は、「ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」とイエスさまを批判しました。しかし、イエスさまは「神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです」とおっしゃいました。また、スロ・フェニキアの女性の娘が、病名はわかりませんが、悪霊によって苦しんでいました。旧約聖書には、ヨブの記事があります。ヨブが重い皮膚病になったのは、神さまが許可されたからでした。しかし、直接、ヨブを皮膚病にしたのはサタンでした。

では、なぜ私たちは病の霊によって病気になることがあるのでしょうか?その原因が2つあります。第一はアダムが罪を犯してから、私たち人間に神の権威がなくなったということです。簡単に言うと、神の守りがなくなったということです。第二は私たちが神に背いて、罪や咎を犯すことがあります。また、過労やストレスで免疫力が下がるときがあります。たまたま通りかかった病の霊が、その人に入りこむことがあるということです。なぜなら、悪霊は自分が入るべき肉体を探し求めているからです。一度は出ても、部屋が空っぽであったなら、他の仲間を連れて入りこみ、前よりももっと悪くなります。つまり、悪霊は二次的なもので、直接の原因は私たち人間にあるということです。逆に言うなら、私たちが神さまに立ち返り、罪咎を悔い改めたならば、悪霊は容易に出て行くということです。マルコ2章に、4人の友人に運ばれてきた中風の人が書いてあります。イエスさまは最初に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。そのあとで、「起きて、床をたたんで歩け」と命じられました。ここには悪霊とは書かれていませんが、罪と病が関係していることが暗示されています。また、出エジプト記20章には、「偶像を拝む者には、父の咎を子に報い、三代、四代まで及ぼす」と書いてあります。つまり、だれか先祖が犯した咎により、病や障害が子孫に入りこむ可能性があるということです。そのドアを閉じないかぎりは、悪霊が呪いを持ち込むかもしれないということです。

 すべての病気を悪霊やサタンのせいにしてはいけません。自然治癒か医療の助けによって治る病気がほとんどだと思います。しかし、いろいろな治療を施しても、治らない場合は、悪霊の可能性もあるということです。そういう場合は、罪や咎を悔い改め、祈っていただく必要があります。ヤコブ5:14-15「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」

2.病の霊の解放
 第二は、こちらが病の霊を追い出す場合です。「自分もしくは、病の霊を持っている人を癒す祈りをどうするか」であります。病もそうですが、病の霊の場合は、正しくは「祈る」のではありません。「出て行け」と命じるのです。ルカ13:12-13「イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」ここでは、イエスさまは命令していません。どちらかというと、宣言して、手を置かれました。もちろん、信仰が来たなら、そのように宣言しても良いと思います。しかし、多くの場合は、イエスの御名によって、命じると病の霊は去っていきます。なぜなら、私たちはイエスさまの御名の権威を用いることができるからです。イエスさまは弟子たちに「そのようにせよ」と命じましたし、私たちにも同じことを命じておられます。マルコ16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」これは、牧師だけに語られているのではありません。「信じる人々」、すべてであります。アダムが罪を犯したために、私たちから神の権威が取り去られました。しかし、イエス・キリストが十字架で罪を贖ってくださいました。その次には、神の権威を信仰によっていただくべきです。私たちが「イエスの御名」の権威を用いるならば、悪霊は言うことと聞かなければなりません。悪霊は私たちを恐れているのではなく、私たちの背後におられる、御子の権威を恐れているのです。私たちには、悪霊は見えません。しかし、悪霊の方が、「あいつにはイエスさまがついているなー」と恐れているのです。
 現代は肉体的な病気だけではなく、精神的な病気がたくさんあります。すべての病気が、悪霊ということはありませんが、悪霊から来るものもあります。たとえば、うつ病があります。脳の機能障害から来るうつ病もありますが、悪霊から来るうつ病もあります。チョーヨンギ牧師が、あるとき原因不明のうつになりました。何もやる気が起こりません。失望落胆が心を支配して、生きる気力さえ失せてしまいました。なぜだろうと思いました。何か罪を犯したからだろうかとも考えましたが、心当たりがありません。「これはひょっとしたら」と思って、牧師室でこのように祈りました。「私はイエス・キリストによって贖われた存在である。悪霊とは何の関係もない。失望落胆をもたらしている悪霊よ、イエスの御名によって出て行け。二度と入ってくるな!」と命じました。すると、耳元で「きゅー」という声がして、出て行ったそうです。そうすると、さきほどのうつが嘘のようになくなり、気分爽快になったそうです。私もそういうときがたまにあります。自分に対して、イエスの御名によって、病の霊が出て行くように命じるのです。すると、「あれ?何だったんだろう」ということがあります。ケネス・へーゲンの本にこのように書いてありました。「悪霊は人間を抑圧しようとして、ある程度の影響を及ぼすことがあります。たといクリスチャンであっても、悪霊に許してしまうなら、悪霊は人々の体やたましいの内側からでも外側からでも、だれでも抑圧することができます。気分が悪くなって、何が大きな黒い雲がおおかぶさるようなこともあります。それはサタンによる抑圧です。けれども、私たちがイエスの御名によってその抑圧を叱りつけ、それに対抗して立ち、それに抵抗すると、悪魔は私たちから逃げ去ります。クリスチャンは敵の抑圧の下で生活する必要はありません。また、人が抑圧から解放される時、自分の両肩から重荷が取さられたように感じることもあります。」
 私たちはお互いに祈り合う必要があります。自分で自分の病の癒しをしても、あまりききません。なぜでしょう?たとえば、私が後ろ手でつながれて、椅子に座らされているとします。束縛された状態です。なんとかふんばって、手からロープをはずそうとします。時間をかければできるかもしれません。でも、一番楽なのは、他のだれかからロープを切ってもらうことです。聖書に「互いに祈り合いなさい」と書かれています。ですから、自分が病の霊にやられているかもしれないと思ったなら、信仰のある人から祈ってもらうべきです。私の家内は看護師なので、医学的な知識があります。「こうなれば、こうなると」先のことを知っています。だから、彼女は「早く医者に行って診てもらいなさい」と言います。私は「祈ってくれ」と頼んでいるのに、「医者へ行けとは何だ」と言います。だから、病気に関しては、よく喧嘩して一致がないときがあります。神さまは本当に不思議だなーと思います。超自然的な働きを信じる人と、医学的な働きに従事している人をよくくっつけたものだと思います。時には、私も譲歩するときがあります。でも、一番良いのは、祈ってから医療を受けるということです。神は医療を用いて癒してくださるように願うべきです。霊的な分野と自然科学の分野を見分ける知恵とバランスも必要かと思われます。

3.病の霊の予防
 病の霊に対して、もっともしてはらないことは、「恐れ」です。この世ではニュースやいろんなテレビ番組が、「病気や事故、災いに陥る恐れがあるから注意するように」と警告します。『本当は怖い家庭の医学』という番組があります。あの女の人の声を聞くだけでも、恐ろしいですね。あの番組は、病気の恐れを振りまいています。そういう病気があることは、否定しません。しかし、その病気が発病する確率は一体どれくらいなのでしょうか?おそらく、数万人か数十万人に一人の割合ではないでしょうか?ある人は「今年はインフルエンザが流行するから」と予防接種を受けます。予防接種が悪いとは言いません。でも、「もしも、自分がインフルエンザにかかったならどうしよう」という恐れは禁物です。また、三人に一人は癌になると言われると、がん保険に入ろうかと心配します。どうして、自分が三人の二人の方に入るとは思わないのでしょうか?そういうことを言うと、「先生は医学の知識がないから」と言うかもしれません。確かに、医学の専門家はありません。でも、人があることを恐れて準備をするならば、病の霊に対してドアを開くことになります。つまり、病気になった場合の準備をするということです。外出時は必ずマスクをして、帰ったら良く手を洗っている人を見かけます。マスクや手洗い、うがいの習慣は良いと思います。でも、それ以上に重要なのは、たとえ口から菌が入っても「私は病気にはならない」という信仰です。私たちは病気の準備よりも、病気にならないために免疫力をアップする必要があります。どうしたら良いのでしょうか?大事なのは、普段からの睡眠と休養です。十分な睡眠は免疫力をアップします。また、正しい食事を取り、ストレスをためない生活です。いつも喜び、たえず祈り、すべてのことを感謝することです。そして、「神の守りがあるので、私は病気にならない」という信仰を持つべきです。その約束が聖書にあります。詩篇91:1-7「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」アーメン。恐ろしい疫病が歩きまわっています。でも、主が私を守ってくださいます。多くの人たちは、「千人がそうなったら、自分もなる。万人がなったら、自分もそうなるかもしれない」と恐れています。しかし、千人が私のかたわらに、万人が私の右手に倒れても、私は大丈夫なんです。なぜなら、全能者なる神がわが避け所、わがとりで、わが大盾だからです。
 私たちは「病気にならないように」と願うのではなく、むしろ神の健康をいただくべきであります。ある人たちは「病気にならないように」「病気にならないように」と注意しているのに病気になります。医者の息子がいました。彼は何かある度ごとに薬を飲んでいました。でも、風邪をひきやすく、また神経症のため起き上がれないことがよくありました。手もまんべんなく洗います。過敏なくらい清潔好きです。でも、よく病気になります。なぜでしょう?医学的な知識が豊富で、「こうしたらこういう病気になる。だから、こういう薬を飲んで予防しよう」と恐れているからです。風邪薬も普段から飲んでいると、いざ風邪にかかったときにききません。抗生物質を飲みすぎると、自分の中にもともとあった免疫力もなくなるからです。不思議に「病気にならないように」と恐れると病気になります。そうではなく、私たちは神の健康をいただくべきであります。神の健康とは何でしょうか?さきほど引用したケネス・へーゲン師はある著書でこう述べています。「これまで私たちは、すでに病気にかかっている人々の癒しに関心を払ってきましたが。神の子どもであるあなたに対する神の最善は、本当は癒し以上のものです。神のみこころは、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である」(Ⅲヨハネ2)ことです神は私たちの体力を鷲のように一新してくださいます。神のみこころは、私たちが幾度も幾度も救われることではありません。同じように、神の最善は、神が幾度も幾度も私たちを癒すことではなく、私たちが健康な状態にとどまることです。もし、私たちが神の命令に従順で、神と交わって生活するなら、神の健康を受けることは確かな権利なのです。ですから、サタンが私たちの体に病気をもたらそうとするとき、私たちは病気に負けてしまうまでじっとしているべきではありません。サタンが最初の一撃を受けたとき、私たちは立ち上がって彼をしかりつけなければなりません。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
 私たちはグッドニュースである、聖書のみことばにいつも浸っているべきです。テレビ番組のバッドニュースをまにうけてはいけません。ある場合は、医者の言うことも聞き流さなければなりません。彼らは責任を逃れるために、最悪のことを言うときが多々あるからです。最悪を信じてはいけません。私たちは神さまのみことばから最善を信じなければなりません。ある時、当教会にメル・ボンド師が来られたことがあります。一人の姉妹が亀有駅からタクシーで来ました。「ひざが痛いので、二階には上がれないので、下で祈ってもらいたい」と言いました。しかし、集会が既に始まっていました。私は上で先生のメッセージを聞いていました。ミニストリーの時間になり、気がついたら彼女が前に進み出ました。メル・ボンド師が「ただリラックスして、癒しを受けなさい」と祈りました。そのあと、先生は彼女に「この通路を走ってみなさい」と言われました。彼女は「いいえ、医者から走ってはいけないと止められています」と拒否しました。先生は「あなたは医者のことばと神さまのことばと、どちらを信じるのですか」と言いました。彼女は「お医者さんです」と答えました。そして、ゆっくり、ゆっくり歩きました。彼女は帰りもタクシーで帰りました。メル・ボンド師の癒しが完璧であるとは言いません。でも、みことばに賭けることが重要ではないかと思います。使徒3章でペテロは生まれつき足なえの人に命じました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。そのとき、「いいえ、私は歩けません。これまで歩いたことがないからです」と断わったでしょうか?ペテロが右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、完全に癒されました。私たちがみことばに答えるならば、神の力が臨み、奇跡が起こるのです。私たちに、信仰によって踏み出す分があるということです。
 イエス・キリストは十字架で私たちの病を背負われました。さらには、十字架で呪いとなってくださり、私たちの呪いも背負ってくださいました。ですから、私たちは健康になるのが当たり前なのです。神さまは私たちに永遠のいのちをくださいました。天国に行くまで病気でいなさいということではありません。神さまは、永遠のいのちが肉体にまで及ぶことを願っておられます。病の霊に負けないで、神の健康をいただきましょう。イザヤ40:29-31「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

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2012年9月30日 (日)

 ~どうしても必要な事~  <ルカの福音書 10章38節-42節>  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ルカの福音書 10章38節-42節>

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎え

     した。

10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が

     私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、  

     妹におっしゃってください。」

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだの  

     です。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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昨年の10月に牧師の任命を受けてからもうすぐ一年が経とうとしています。時々この講壇に立たせていただいていますが、実は今年から自分の中では、メッセージに関して自分なりのテーマを課しています。

それは、イエス様がどのような御方で、私たちをどのように愛してくださっているかという事をみことばから伝えると言う事です。ですから、必然的に新約聖書から語ることが多くなるのですが、今までエペソ2章から神様との和解をさせてくださったイエス様、やもめの献金の箇所からイエス様の慈しみのまなざし、イエス様が弟子たちの足を洗われる箇所から、イエス様がしもべとなって仕えてくださるお姿について語りました

今日は、イエス様が如何にどんな人でも相手の立場や存在を認めて尊重してくださっているかについてお伝えしたいと思います。

1. ベタニヤの兄弟姉妹を愛したイエス様

このマルタとマリヤのお話は、この直前に書かれている良きサマリヤ人のお話と合わせてルカの福音書にしか出てこないお話しです。ルカという人はパウロの伝道旅行に同行した人で、そこではギリシャ人で医者だと紹介されています。伝承では、画家だったとも、歴史家だったとも言われていますが、ルカは、このルカの福音書と使徒の働きの筆者として知られています。

ルカの文章全般の特徴のひとつとして挙げられるのは、ルカは男性と女性との記述を公平に扱ってセットにしている事が多いということです。例えば、イエス様が生まれた時のルカの福音書2章の記述では、神殿で生まれたばかりのイエス様を老人シメオンが褒め称えたすぐ後に、年老いた女預言者アンナを登場させています。7章では百人隊長のしもべが病気で死にかけているのをおことばひとつでイエス様が癒された記述のすぐ後に、ナインのやもめの一人息子をイエス様が生き返らせる記述があります。8章には12弟子と大勢の群衆と共にいた女性たちの名前を多数挙げて、他にも大勢の女性たちが仕えていたことが書かれています。そして、このマルタとマリヤのお話も、良きサマリヤ人が男性で、その後女性のマルタとマリヤを登場させています。

このように文章を描いているルカの意図は何なのでしょうか。少なくとも、このマルタとマリヤの話は女性同士の確執の話だから、男性の俺には関係なーい、勝手にやってくれ!・・・という訳ではないはずです。

ルカがこの箇所から全世界に向かって語ろうとしている事とは何でしょうか。聖書から答えをいただきましょう。

さて、マルタ、マリヤ、ラザロはエルサレムの南東約3Kmのベタニヤという所に住んでいました。(地図参照)

ルカの福音書には、「ある村」と書かれていますが、ヨハネの福音書の記述によると、この3兄弟姉妹が住んでいたのはベタニヤのようです。イエス様はこの地方に来られた時は、よくこのマルタたちの家に滞在されたようです。

イエス様はこのベタニヤの兄弟姉妹をとても愛しておられました。他の福音書の記述から見てもそのことは良く解ります。兄弟ラザロは、死んで4日後にイエス様によって蘇ったあのラザロです。マリヤはイエス様が十字架に架かられる前に、イエス様の埋葬の準備のために高価な香油をイエス様の頭に注いだあの女性です。

そしてマルタという名前は「女主人」という意味だそうです。その名の通り、マルタはこの家の女主人だったようです。10章38節で、「マルタという女が喜んで家にお迎えした」と書かれてある通りです。

マルタはいつものように喜んでイエス様を出迎えました。彼女は他の箇所にもイエス様たちを喜んで迎え入れて、給仕をしていたと書かれています。ですからマルタには、お客様のお世話やおもてなしをする賜物があったようです。パウロも書簡で言っていますが、この時代、旅人をもてなすのはとても大切な事でした。現代のように、どこにでも、宿屋やホテルやレストランがあるわけではありませんので、宿と、食事を提供してもてなすという事は、思いやりのある人ならば、当然誰でもすべきこととされていました。また、マルタたちはイエス様一行を喜んで何度もお迎えしましたので、彼らはイエス様の教えに賛同して従う信徒だったと言う事になります。

ところがそこで、ある出来事が起こりました。

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10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が

     私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、  

     妹におっしゃってください。」

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妹のマリヤは、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。この「主の足もとにすわる」というのは、ユダヤ教で言えば、「弟子入りをする」とか「先生について習う」という表現です。ですから、マリヤは主の足もとで主のみことばに聞き入っていた女弟子という事になります。

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10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。

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このマルタは、もしかしたら最初はマリヤと一緒に主の足もとに座って、みことばに聞き入っていたのかもしれません。そのうち、あれこれともてなしの事を考え始めて気が落ち着かなくなって、席を立ってしまったのかもしれません。あるいは逆に、マリヤは最初マルタと共にもてなしの準備をしていたけれど、マルタに何も告げずにフェイドアウトしてしまって、いつの間にか主の足もとに座っていたのかもしれません。そこら辺ははっきり解りませんが、この聖書箇所の記述から見ると、マルタはイエス様のみことばを中断させてまで、妹に対する不満をイエス様ご自身に訴えたことは確かです。しかもイエス様に対して「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」と非難し、「私の手伝いをするように妹におっしゃってください。」と指図までしました。 

マルタは、せっかくのもてなしの賜物が台無しになってしまうような発言をしてしまったのです。それは、自分の方がマリヤより正しいと思って自信があったという事と、イエス様なら自分の訴えを受け入れてくださる方だと信頼していたからではないでしょうか。このようなマルタに対してイエス様はこのようにお答えになりました。

2. 「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったイエス様

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<ルカ10:41 >

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

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とイエス様はマルタに「マルタ、マルタ」呼びかけられました。イエス様は相手に特別な感情で個人的に語られる時に、親しみを込めて名前を2度呼ばれたようです。

新約聖書で、この箇所の他に、イエス様がこのように人の名を呼んだのは、たった2か所しかありません。

その2か所はどちらも壮絶なシーンで、一か所は最後の晩餐の時にイエス様がペテロに「シモン、シモン」と呼びかけたところで、もう一か所はキリスト者を迫害するパウロに対して「サウロ、サウロ」と呼びかけたところです。

では、この2か所を見てみましょう。

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<ルカ22:31-34>

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられ

     した。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち

     直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたし

     を知らないと言います。」

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ご存知のように、ペテロはこの後、イエス様の言われた通り、「私はあの人を知りません」と3度言いました。ペテロは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と勇ましく豪語しておきながら、結局イエス様を裏切ってしまったことを悔いて激しく泣きました。イエス様はそうなる事をすべて解っておられたので、「シモン、シモン」と特別に呼びかけられたのです。ペテロというのは、イエス様がつけた名前で、岩という意味ですが、ペテロの本来の名前はシモンです。この名前はシメオンの短縮系でユダヤでは一般的な男性の名前です。イエス様は個人的に語られる時には、ペテロではなく、シモンと呼ばれました。

次にパウロの記述です。

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<使徒9:4-6>

9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。

9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエス

   である。

9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

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ここも有名なパウロの回心の箇所なので、皆さんご存じだと思いますが、パウロは生粋のユダヤ人でしたが、ローマ市民権を持ち、1世紀最大のラビと言われるガマリエル1世のもとで学んだパリサイ派のエリートでした。そして、青年パウロは先頭に立ってキリスト者を迫害した激しい性格の人でこの時もダマスコに向かってキリスト者を捕えてエルサレムまで引いていくつもりで勇ましく道を進んでいたところ、突然天からの光が彼を巡り照らしました。この時のイエス様の語りかけが「サウロ、サウロ」でした。

イエス様が、十字架に向かわれる時にペテロを励まされた時と、また、パウロがキリスト者を迫害する者から異邦人の使徒として立たされた時という、この超有名な壮絶な箇所と並んでイエス様は「マルタ、マルタ」と呼んでくださったのです。イエス様は後にペテロやパウロに語った時と同じ心を持ってマルタに語られたのです。イエス様を喜んで迎えて、美味しい食事でもてなそうとしたものの、うまく事が進まず気が落ち着かず、あろうことかイエス様に不満を訴えた女性に対してです。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書のこのマルタの箇所、ペテロの箇所はルカの福音書、パウロの箇所は使徒の働きの記述ですので、全部ルカが記したということになります。ですから、イエス様はもしかしたら他の人にも名前を2度呼ぶ「呼びかけ」をされたけれども、ルカが記さなかっただけのかも知れません。

冒頭に、「ルカがこの箇所から全世界に向かって語ろうとしている事とは何でしょうか。」と、みなさんに問いかけましたが、ルカが女性と子どもと奴隷は人の数に入れてもらえなかったイエス様の時代に、敢えて女性たちを生き生きと描いているのは、イエス様がそうされたから、イエス様が女性たちの生き生きとした活躍をご覧になって、喜ばれるような御方だったからに他ならないのではないでしょうか

ルカの福音書の冒頭にはこう書かれています。

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<ルカ1:1-3>

1:1 私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに

    試みておりますので、

1:2 初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げる

    のがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。

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ルカは「すべての事を綿密に調べて」書いたと言っています。

イエス様は、身分や性別など関係なく、常に相手の立場や存在を認めて尊重してくださったのです。ルカはそのことを伝えたかっただけなのです。私たちの目には、マルタの働きはペテロやパウロとは格段に違って見えますが、イエス様は同じように尊く思ってくださったのです。マルタには、このイエス様の心が理解できたでしょうか。

3. どうしても必要な事、良い方を選び取りましょう

私はこのマルタとマリヤの個所を読むたびに、マルタの方に同情していました。

なぜかと言うと、実は私もイエス様を深く知るまでは、マルタそのものだったからです。

私は長男の嫁ですし、義理の母は結婚直後に召されていますので、親戚が集まる時は、このマルタのようにもてなしをしていました。お正月にはおせち料理を黒豆から伊達巻から栗きんとんまで料理の本とにらめっこしてワンセット3日ぐらいほとんど寝ないで凝りに凝って作りました。みんなが集まってワイワイやってても一人でキッチンと食卓の往復をしていました。しかも、マルタと同じく心は喜んでいませんでした。みんなが帰ってから、やっと私のお正月が始まるといった感じでした。

しかしクリスチャンになって、このマルタとマリヤの記述を読んで、本当に必要な事は、久しぶりに会うみんなとの再会を喜んで、楽しくお話をすることだと気付きました。それまでわざと聞き流していましたが、息子の清志は「僕、おせち料理はあんまり好きじゃない。」と言っていたことを思い出しました。次の年のお正月、黒豆とか伊達巻とかを作らないで買ってみました。そして、チキンの唐揚げをつくって、スパゲッティバジルソースを試験的に出してみました。みんなガツガツ美味しそうに食べていました。ちょっとムカつきましたが、考えてみれば誰もおせち料理を全部手作りしろなんて言ってないし、忙しそうな私より、どっかり座って馬鹿なことを言って笑っている私の方が好きみたいです。

マルタはイエス様のために一生懸命仕えました。ただ、喜んで主に仕えるという本質から外れてしまっただけです。イエス様はマルタに、

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10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだの  

     です。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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と言われましたが、「ここに来てあなたも私の話を聞きなさい」とも、「あなたはあなたの仕事を喜んで続けなさい」とも言われませんでした。それはマルタが決めることだからです。マルタはこの後、どうしたでしょうか。

みなさんはマルタがこの後どうしたと思いますか?マルタには「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったイエス様の心が解ったでしょうか。私がマルタなら、その場に座ってイエス様の話を聞きます。お肉が焦げても、煮物がクタクタになってもパンがカピカピになっても良いのです。

まあ、マルタがどうしたか、本当のところは解りませんが・・・。

イエス様は、私たちにも常に良い方を選び取る選択を与えておられます。

毎日の生活を振り返ってみると、私たちは本当に大きな事から小さな事まで多くの選択をし続けています。特に、みなさんが今一番時間や手間暇をかけていることは何でしょうか。そしてその時間をかけてしていることは、イエス様の言われるところの良い方ですか?喜んで主に仕えるという本質から外れてはいませんか?

このマルタとマリヤのお話から、イエス様がどんな人でも相手の立場や存在を認めて尊重してくださっているということが解りましたが、イエス様は今も生きておられ、私たちひとりひとりの事も、立場や存在を認めて尊重してくださっています。そのイエス様が「どうしても必要なことは一つだけです。」と言われました。

荒野でサタンの誘惑を受けたイエス様がマタイ4:4 で「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われたように、みことばは私たちにとって最も大切な霊の糧です。マリヤのようにみことばに耳を傾けることこそ、どうしても必要なことなのです。そうすることにより、神様の御心が解り、私たちは日々の選択を誤らないで主と共に喜んで生きることが出来るのです。

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2012年4月15日 (日)

~イエス様の目~    亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ルカ 21章1節-6節>

21:1

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

21:2

また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

21:5

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。

21:6

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日が

やって来ます。」

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昨年の今頃、3/11の東日本大震災のショックがまだおさまらない中、私は東京基督教大学に入学しました。その時の私には心の葛藤がありました。それは、「被災地には学校どころではないという人がたくさんいるのに、大学に通って授業を受けていても良いのだろうか?」といったものでした。

その時期は、大学の授業を休んで被災地支援のためのボランティアなどに行っている学生がたくさんいました。私が以前通っていた神学校の仲間たちも、震災の次の日から救援物資を運んだり、復興の為のボランティアに何度も行っていました。亀有ゴスペルクワイヤーのメンバーにもアクティブに東北に出かけて支援している人がいました。そういった人たちの報告を聞くたびに、「私はここにいていいのだろうか?現地に行かなくていいのだろうか・・・。」と気持ちが焦りました。

そんな時に心から気持ちが落ち着くメッセージが与えられました。それは大学のチャペルでのほんの15分ほどの短いメッセージでしたが、焦っていた私の心にとても響く内容でした。

それが今日語らせていただく聖書箇所からの「イエス様の目」というメッセージでした。

イエス様は、貧しいやもめの捧げものと、その心を見ておられ、それと同時に石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来るという世の終わりについても見ておられました。

メッセンジャーの牧師は、震災が起きてすぐに、ボランティアの学生を連れて被災地の南三陸に向かったそうです。その時現地の惨状を見て心が固まってしまい、世の終わりを実感されたそうです。

一緒に被災地にボランティアに行った学生は、「先生!もう神学どころじゃないですよ!ギリシャ語なんかのんきに勉強してる場合じゃないですよ!」と言ったそうです。

しかし牧師はメッセージの終わりにこう語っていました。

「私は、それはイエス様の目ではないと思います。東京基督教大学とはどのような大学でしょうか。ここはイエス様のような目を持つために学ぶ学校です。ですから私たちは、いつも通りの生活をして、しっかり学んでいくことが大切です。そして同時に、被災地の痛みを忘れず覚えて祈り、仕えていくのです。」

・・・私は本当にその通りだと思いました。私たちには、神様から与えられたそれぞれの使命があり、守らなければならない家族や、全うしなければならない仕事や学業や生活があります。

やらなければならないことを放り出してまで被災地に行くことを神様は喜ばれるでしょうか。

私はこのメッセージを聞いて、確かに気持ちが落ち着きました。

しかし、はたしてイエス様のような目を持つことなど自分にできるのだろうか?と疑問に思いました。

私の限界のある能力や体力、限られた時間をもって精一杯いつも通りの生活をしつつ、被災地の痛みを覚えて祈り、終末の備えをするなどといったことが一度にできるものなのだろうか?自分自身の生活に追われて、いつしか被災地の事も終末への備えも忘れてしまうのではないだろうか?と考えました。

そこでもっと聖書を深く掘り下げて読み、聖書が語っている本質や隠された奥義を知る必要があるのではないかと思いました。

・「イエス様の目」は、どこを見ておられたのでしょうか。

・また、私たちがイエス様のような目を持つには、どうすれば良いのでしょうか。

聖書の記述を追いながらご一緒に確かめて行きましょう。

①イエス様は貧しいやもめの心を見ておられました。

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<ルカ>

21:1

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

21:2

また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

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この「ある貧しいやもめ」という言葉をギリシャ語の原文で直訳すると、「ある日雇い労働をしながら暮らしているやもめ」となるそうです。「やもめ」というのは「未亡人」のことですが、この未亡人は日雇いで生活をしていて、この日稼いだ生活費をすべて神様に捧げたということになります。

レプタ銅貨は、この時代の最小単位の貨幣だそうです。今でいえば、価値としては50円くらいかもしれません。やもめの全財産は50円玉2枚。・・・つまり100円しか持っていないのに、その100円全部を捧げたのです。ちょっと・・・やもめはもしかしたら算数が苦手だったのかな・・・と思ってしまうような大胆な信仰ですが、この貧しいやもめの心をイエス様は賞賛されました。

この貧しいやもめの話に似たような話ですが、「長者(ちょうじゃ)の万灯(まんとう)より貧者の一灯」という有名な仏教の説話があります。その話の大筋はこうです。

「インドの阿闍世(あじゃせ)王という王が、宮殿に釈迦を招きました。釈迦がその宮殿から祇園精舎へ帰る道に万灯、万の灯明(とうみょう)をともしました。その時貧乏な老女がいて老女も灯明(とうみょう)をかかげようと思い、なんとかお金を都合して一灯をともしたところ、王のあげた灯明は風で消えてしまったり、油が尽きたりしてすべて消えてしまったが、老女の灯明は朝になっても消えていなかった。」

というものです。これは、貧しい人の誠意のこもったわずかな捧げ物は、金持ちの世間体を飾った多くの捧げ物よりも勝っているという、「真心の尊さ」を教えるたとえ話です。

このように仏教でも、聖書の貧しいやもめの献金と同じような教訓が語られているように見えますね。

でも、聖書のこの箇所は道徳的なことを語っているだけではありません。「貧者の一灯」との決定的な違いは、イエス様の圧倒的な存在感と「イエス様の目」です。

この聖書の箇所で語られる礼拝メッセージは、「献金のお勧め」が多いのですが、しかし今朝は、「イエス様の目」に焦点を当てたメッセージを語ろうと思います。

イエス様の目はどこを見ておられたか。

マルコの12:41の並行記事では、

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<マルコ>

12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。

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と書かれています。

イエス様は献金箱の向かいに座って人々のようすを見ておられました。
原文のギリシャ語では、「見る」という動詞に「
qewre,w セオレオゥ」という言葉が使われていて、これは過去進行形で書かれています。これは「じっと見る」英語ではBehold・・・「じっくり見る」「注視する」という意味があります。ただの過去形だと「見た」となり、ただ一度見たという意味ですが、過去進行形だと「見続けていた」となります。

イエス様は「じっと見る」ことで、人々のまことの心を見ておられました。

「多くの金持ちが大金を投げ入れていた」の「入れていた」も過去進行形なので、あとからあとから、どんどんお金を入れ続けていた様子が伺えます。

実はこの金持ちたちは、わざとお金を換金して大きな音がジャランジャランするようにして大金を投げ入れていたそうです。どれだけ自慢げにジャランジャランいわせて献金していたか、想像がつきますね。

イエス様はその様子をじっと見ておられました。金持ちたちの我欲も、彼らを取り巻く世界の罪や汚れもすべてをじっとご覧になっていました。来る人、来る人、不純な動機で得意げに献金を捧げる様子をじっと見続けておられたイエス様は、どんなお気持ちだったでしょうか。

そこに、貧しいやもめがやってきたのです。

実は、当時の献金の規定では、2レプタより少ない献金をしてはいけなかったそうです。つまり1レプタは捧げものとしては認められていなかったそうです。ですから、このやもめの選択は、全財産の2レプタを捧げるか、捧げるのをやめてしまうかのどちらかだったのです。

イエス様の目は、このような規定を作った者へも当然向けられていたでしょう。

やもめの決断は全財産を捧げることでした。神が養ってくださるという信仰があったのでしょう。

しかし、もしかしたらやもめには、「全部捧げてしまったら今日食べるものも買えないわ。もし、半分の1レプタでいいならそうしたいわ・・・。」と、こんな迷いもあったかもしれません。

でも、やもめはすべて捧げる方を選びました。

そのようなやもめの心に対してイエス様は、このような言葉で報いてくださいました。

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<ルカ>

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

********************************

マルコの福音書にも同じ記述があります。そこにはこう書かれています。

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<マルコ>

12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました・・

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イエス様は「弟子たちを呼び寄せて」語られたと書いています。これは弟子たちに、「神に全信頼をおいて生きているこのやもめの姿こそ、イエス様に従う者の模範である」ということを教えようとされたのです。

やもめはイエス様に褒めてもらおうなどとは全く考えていませんでした。神様に精一杯の捧げものをしたいと思っただけです。イエス様は、このようなやもめの心に対して、素晴らしいことばをかけて応えてくださいました。また同時に弟子たちに信仰者のあるべき姿を教えてくださったのです。

やもめはどんなに嬉しかったことでしょう。そして、このやもめの信仰は聖書に記されて、現代の私たちにも、イエス様は信仰者のあるべき姿を教えてくださっています。

イエス様の目は私たちの心もじっと見ておられます。神様を愛する心、隣人を愛する心、どんなわずかな捧げものでも、人の目には判らないどんな小さな働きでも、イエス様はいつも見過ごさず、じっと見ておられます。そして、このやもめの真実を明かされたように、必ずその心に報いてくださるお方なのです。

②イエス様は同時に世の終わりを見ておられました。

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<ルカ>

21:5

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。

21:6

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日が

やって来ます。」

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ここで出てくる宮とは、エルサレムの神殿をさしています。

エルサレムの神殿は、イエス様の時代までに三つの神殿が建てられたようです。

はじめの神殿はソロモン王が紀元前950年に建てたと言われています。ソロモンが神殿を建てるための準備は、ソロモン王の父であるダビデ王がほとんど整えたようですが、神がダビデに神殿を建てる事を許されなかったので、ソロモン王が後を引き継いで建てました。この神殿を第一神殿と言います。建築に7年かかり、約360年の間存続したようです。その後、第一神殿はバビロンの王ネブカデネザルによって紀元前586年に破壊され、イスラエルの民は捕囚の民としてバビロンに連れ去られました。

第二神殿は、イスラエルの民が70年後に帰還して、ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤが中心となって建てた神殿を言います。このエルサレム第二神殿は、様々な困難があって建築に約20年かかり、480年の間存続しました。この神殿はソロモンの神殿にくらべて小規模であったと一般的には言われています。

第三神殿は、イエス様が生まれた時に殺そうとしたヘロデ王(大ヘロデ)が建てました。ヘロデ王は、イエス様が生まれる少し前からローマの後ろ盾でユダヤの王として在位していました。ヘロデ王は、身体強健、精力的で、政治家でもあり、実業家でもあり、勇敢な武人でもあり、統率者としての天分も持っていたようです。しかし、ヘロデ王は生粋のユダヤ人ではなく、エサウの子孫のイドマヤ人でした。ですから、ユダヤ人たちから信頼と支持を得るために豪華な大神殿を建てようとしたのです。この大神殿は、紀元前20年、イエス様が生まれる20年ぐらい前から建て始め、イエス様が30歳になる頃にやっと完成したようです。なんと50年もかかりました。イエス様の弟子たちが見た神殿は、できたてほやほやのヘロデの神殿ということになります。

ちなみにヘロデ王はイエス様が生まれて間もなく死んだらしいので彼の死後も引き継がれて延々と建てられていたということになります。その神殿は、イエス様の預言どおり、紀元70年にローマ軍によって破壊されました。50年もかけて建てた神殿は、わずか40年の存続に終わりました。

この実際に起こった歴史を顧みる時、私たちが暮らしているこの世も、何年もかかって建てては、あっという間に壊されてしまったこれらの神殿のように、実に、はかないものなのではないでしょうか。

ルカでも、マタイやマルコでも、イエス様はこの神殿の記述の後に終末の預言を語られています。

この終末の預言を語られたイエス様の本来の目的は、「終末にはこんなことが起こる」といった情報を、ただ提供するということではなく、終末の預言を通して、私たちがより忠実に神に従う生き方をするようにと教えることにありました。

今、私たちが生きている時代は、イエス様が復活して昇天されてから、再びこの地上に来られる再臨との間です。イエス様は、この時代において私たちが常に慌てることなく、気をつけて、福音を宣べ伝え、目を覚まし、最後まで耐え忍ぶようにと励ましてくださっています。

③イエス様は慈しみのまなざしで私たちを見ておられます。

「イエス様の目」は、私たちが今どのように生きているかという生きざまをじっと見ておられます。

私たちが、神様から与えられた自分自身の進むべき道をしっかりと歩み、また、終末に向けても目を覚ましているかどうかをイエス様はじっと見ておられます。

しかし、イエス様のそのまなざしは冷ややかに私たちを凝視しているまなざしではなく、慈しみ深く、憐れみ深く、私たちを愛と恵みで包み込んでくださるようなまなざしなのではないでしょうか。

私たちは、ついつい人の目を気にしてしまいます。自分がどのように見られているかという事ばかり考えてしまったり、世間体を気にして見栄を張ってしまったり、人から裁かれたりして傷つくのが恐いからと、不本意ながら周りの人に合わせてしまったりしてしまいます。

しかし、本来私たちが気にするべき目は、人の目ではなく、「イエス様の目」だけなのではないでしょうか。はかなく崩れ去った神殿のように、この世で価値があると言われる、見せかけだけのものは、いつかは崩れ去ってしまいます。

みなさんの中には、「自分はそんなに立派なことはできないし、ただ生きるのに精一杯だから、イエス様に顔向けできない。そんなに見つめられると、追い詰められてるみたいで逆につらいなぁー。」と思ってしまう人が、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。

でも大丈夫です。イエス様の12弟子たちも、それほど立派な人たちはいませんでした。

イエス様の一番弟子と言われたペテロなどは、イエス様が捕えられた時、自分も捕まってしまうかと恐れて、イエス様を3度も知らないと言って逃げました。しかし後に聖霊を受けて、力強く福音を伝え、最後は逆さ十字架に架かって殉教したと言われています。そのペテロを支えたのは、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」でした。イエス様はペテロにこう言われました。

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<ルカ>

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

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イエス様は後にイエス様を裏切るペテロのために「信仰がなくならないように」と祈ってくださいました。

また、ペテロがイエス様を3度知らないと言った直後にこのようなことがありました。

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<ルカ>

22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。

22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

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ペテロを見つめたイエス様の目は、どんなに慈しみ深く憐れみ深いものだったことでしょうか。

ペテロはこの時、イエス様を裏切った後悔の涙とともに、あの時の、「信仰がなくならないように」と言ってくださった時の、そしてたった今、裏切ったペテロを振り向いてご覧になった時の、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」を思い出して激しく泣いたのではないでしょうか。

このペテロに向けられた、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」は、私たちにも向けられています。

なぜなら、私たちもペテロと同じように、弱く、人の目を気にしてイエス様を裏切ってしまう存在だからです。

でも、イエス様は、私たちのためにいつも「祈りと慈しみのまなざし」をくださっています。

人の目ではなく、イエス様の目だけを気にしていきましょう。

ギリシャ語で「パンタクリストス」という言葉があります。「パンタ」=「すべて」、「クリストス」=「キリスト」を表し、「キリストがすべて」という意味になります。イエス様の目は、やもめの心を見ておられ、終末を見ておられ、今も私たちを見ておられます。イエス様の目はすべてを見ておられます。

こうして、イエス様の目はどこを見ておられたかを聖書の記述から追っていくうちに、私は冒頭に語った、「イエス様のような目を持つことなど自分にできるのだろうか?」という疑問の答えを見つけました。

私は、「イエス様の目」をいつも身近に感じているならば、それは可能だと思います。

「イエス様の目」を近くで、また心の内で、いつも感じていることによって、私たちは正しい目を持つことができるのではないでしょうか。イエス様のような慈しみのまなざしや、やもめやペテロにかけてくださった愛のことばを持つことができるのではないでしょうか。

またそうすることによって、今やらなければならないことや、神様から与えられたこの世の使命を忠実に果たし、同時に被災地の痛みを覚えて祈り、終末の備えをすることができるようになるのではないでしょうか。

黙示録の最後の章には、

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

と書かれていますが、この御言葉は、イエス様がすべてを支配しておられるお方だという事を、イエス様ご自身が宣言されている御言葉です。なんとダイナミックで、なんと心強い宣言でしょうか!

私たちは、ただこのお方に従って行けばよいのです!「パンタクリストス」=「キリストがすべて」です。

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