2007年12月 9日 (日)

処女降誕の理由    ルカ1:30-38

 教会の建物が、クリスマス一色という感じです。私はノータッチで、すべて兄弟姉妹たちがやっています。だから、これほどまでできるんだなーと思います。当教会は、セルチャーチであり、ほとんどの活動は、兄弟姉妹が自主的になさっています。でも、ある牧師が「信頼して任せるとの、丸投げとは違う」と言いました。私の場合は、「丸投げみたいな所があるかなー」と少し反省させられました。ベン・ウォン先生が、私たちはプログラム活動ではなく、関係作りにもっと時間をかけるべきであると言いました。私もこれからは冗談を飛ばすだけでなく、リーダーたちと個人的にコーチングの時を持つべきだと思います。コーチングの一番の基礎は、友達関係になることだと教えられました。プログラム活動を否定するわけではありませんが、共に時間を共有する時を持ちたいと思います。きょうから、クリスマスに関するメッセージを聖書からお届けしたいと思います

1.処女降誕の理由

 神の御子は人間を救うために、自ら人間イエスとなられました。これを神学的には、「受肉」と言います。それよりも、「クリスマス」と言う方が、私たちには分かりやすいでしょうか。でも、なぜ、神様が人間にならなければならないのでしょう?それは、私たち人類の身代わりになるためです。このことは、ギリシャ人にとっては、大きな躓きでした。なぜなら、彼らは「魂は善であるけれども、肉体は悪である。神様が肉体を取るなんて、そんなのありえない」と考えました。ある宣教師が、山で自給自足しながら修行しているヒンズー教の青年に伝道しました。彼もやはり「神が人になるなんて信じられない」と拒絶しました。ある時、彼が農作業をしている時、桑で蟻塚を掘り返してしまいました。蟻たちはパニックを起して、小川の方に行進しました。彼は「そっちは危ない」と、桑で止めようとしましたが、それを乗り越えて川に入って行きました。彼はそのとき「私が蟻になって、蟻のことばを話さなければダメだなー」と思いました。と、そのとき、神が人になった理由が分かったそうです。ジム・アーウィンと言えば、アポロ15号で月面に降りて、貴重な石を持ち帰った人です。その石は、月の年代を知る手がかりとなったので、創世記の岩「ジェネシス・ロック」と名付けられました。宇宙飛行士の多くは、地球に帰ってくると、人生が全く変ります。ジム・アーウィンの場合は、伝道者になりました。彼は「これまで何人もの人たちが月の上を歩いたが、歴史は変らなかった。ところが、2000年前、神が人となって、この地球を歩いた時から歴史が変った」と言ったそうです。

 でも、多くの人たちは「処女降誕」とか「聖霊によって身ごもった」と聞くと、非科学的だと言って躓きます。ある神学者たちは「それはその当時の神話の影響を受けて書かれたものだ。処女降誕は信じなくても良いから、イエスの十字架の贖いだけを信じれば救われる」とさえ、言います。しかし、私はそうは思いません。救い主の資格はアダムの子孫でありながら罪のないことでもありました。もし、一般的な受胎であるならば、アダムの原罪が転嫁されることになります。そこで、救い主は、聖霊によって処女マリヤから生まれる必要がありました。35節以降で御使いはこのように言っています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」つまり、これは、神の奇跡と言うことができます。聖書で言う奇跡とは、自然の法則を破壊したり、停止させるものではありません。それは、自然の法則を超えた、超自然であります。カトリック教会は「マリヤに罪はなかった」といいますが、私はそうは思いません。処女マリヤとて、罪がある存在でした。でも、聖霊の力が臨み、イエス様は罪のないお方としてこの世にお生まれになったのです。私たちは、「聖霊があなたの上に臨み」ということばから、創世記1章の世界の創造、あるいは使徒の働き1章の人間の新創造を連想することができます。クリスチャンは、自分が聖霊によって新しく生まれたという奇跡を体験していますので、処女降誕も別に不可能だとは思わないのであります。

また、旧約聖書には救い主が、女の末から生まれると何度も預言しています。一番、古いのは創世記3章です。3章15節には、「女の子孫がサタンの頭を踏み砕く」と書かれています。また、イザヤは、イエス様が地上に来られる、600年も前にこのように預言していました。イザヤ7:14

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。また、イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とあります。さらに、イザヤ11:1,2「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。これでもか、これでもかと言うほど、預言者たちは御子の誕生を預言しています。つまり、イエス様がこの地上に来られることは、神のご計画であり、偶然ではなかったということです。うれしいですね。神様は人類が罪を犯した直後から、救い主をちゃんと計画していたということです。しかも、「女の末」であります。一番最初に罪を犯したのは、アダムではなく、エバでありました。アダムはエバの頭だったので、責任を負わされたのです。でも、神様はエバ、女性の汚名をすすぐかのように、あえて、「女の末」を用いたのであります。ハレルヤ!ですから、ゴマをするわけではありませんが、クリスマスは女性の回復のシーズンでもあります。

 でも、サタンは子供を生むことのできる女性を妬み様々な攻撃してきました。女性差別や蔑視、女性に対する性的暴力はその最たるものであります。少し前に、ある大臣が「女性は子供を産む機械である」と発言して大変な問題になりました。また、最近は川口で、最悪の事件が起こりました。なんとか未然に防げなかったものかと、憤りを感じます。本当に、あそこまでやるかなーと思います。本当に、女性はある意味で、サタンの攻撃の対象になっています。イエス様が処女マリヤからわざわざ生まれた。女性の力を借りたというのは深い意味があるのは確かなことです。先月の終り、エディ・レオ師ご夫妻が日本に来られました。今回は、JIGI、元日本教会成長研修所主催で招かれました。全国から120人以上もの牧師たちが、エディ先生のメッセージを聞けたわけですから、私は大変嬉しく思いました。その中で、男性と女性とが別々になって、3回程ですが集会を持ちました。私は女性の方はわかりませんが、男性も女性もそれぞれ、神様から与えられた特徴と使命があるということを教えていただきました。また、男性特有の罪や弱さ、女性特有の罪や弱さが話されました。私たちの敵であるサタンは、男女の関係を壊し、神の栄光を現わせないようにしています。しかし、神様は御子イエスがこの地上に来るとき、一人の男性と一人の女性を用いました。マタイによる福音書では、クリスマスにおいて、ヨセフのことが中心に書かれています。また、ルカによる福音書では、マリヤのことが中心に書かれています。どちらも、神の御使いが間をとりもっています。処女降誕は神の奇跡ではありますが、神様は、おとめマリヤとその婚約者のヨセフも必要だったのであります。というわけで、クリスマスは女性だけではなく、男性の回復でもあります。

2.マリヤの信仰

 マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう」と質問しました。少し躊躇したかもしれませんが、御使いのことばを聞いて信じました。そして、また、信じることの中には従順が含まれていることが分かります。マリヤは言いました。ルカ1:38「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。原文では、「見よ(ご覧下さい)、私は主のはしためです」とあります。マリヤの信仰を伺い知ることができます。マリヤは両親にはもちろん、婚約者にも相談せずに従いました。当時、婚約は結婚と同じ重さがあり、その期間に他の人の子供をみごもることは姦淫罪として石打ちにされました。当時も今も、処女降誕などを信じる人は、そうはいないでしょう。それなのに、マリヤはだれとも相談せずに、短時間で決断をしています。だいたい、男性は左脳で考え、女性は右脳で考えると言われています。男性は知っていることを並べたて、それらを検討して結論を出します。一方、女性での場合は直感で、判断するところがあります。もし、マリヤがヨセフと相談したらどうなったでしょう。もし、マリヤが両親やラビたちと相談したらどうなったでしょう。また、議会や委員会にかけたらどうなったでしょう。おそらく、反対されたに違いありません。助言を聞くことや相談が悪いと言っているわけではありません。決断したり、結論を出すときには、神様との間でやるべきです。マリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いました。これは、現代的に言いますと、みことばに信頼するということです。だれかが、「ああ言ったから」とかではありません。私たちの信仰は彼女のように、神のことばの上に、信仰を置くべきであります。

 マリヤはこの後、ただちに、親類のエリザベツのもとに行きました。御使いから、不妊のエリザベツが、しかも高齢で子供を宿したことを知ったからであります。マリヤが信じた1つの理由は、神様がエリザベツにも奇跡を行ったからであります。56節をみますと、3ヵ月ほど、エリザベツと暮したと書いてあります。体がある程度安定するまで、もしくはヨセフと距離をおくためだったかもしれません。マリヤはだれとも相談せず、一人で決断しましたが、エリザベツとだけは、3ヶ月間、共にいました。エリザベツだけが、マリヤのことを理解していたからでしょう。42節以降をお読みいたします。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」エリザベツのことばは、むしろ預言の歌と言えます。エリザベツの胎内にいた子供は、バプテスマのヨハネですから、生まれる前から、イエス様と交流があったことになります。とにかく、マリヤとエリザベツは、神様の奇跡的な懐妊を共に喜び、ともに賛美しています。46節からマリヤが歌いますので、まるでミュージカルのようであります。二人は、まるで、詩篇133篇の記事のようであります。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」アーメンであります。私たちは信仰を分かち合う友が必要であります。互いに愛し合うところに、神様が住んでくださり、すばらしい祝福を与えてくださいます。

当教会でも、姉妹たちが夜遅くまで、交わっています。日曜日、月曜日、金曜日、土曜日、戸締りが大変です。私なんかは「何をそんなに話すことがあるのだろうか?」と不思議に思います。でも、当人たちはそうじゃないようです。半年くらい前、香港からベン・ウォン師が来られました。そのときは、台湾からテモテさんも一緒に来られました。牧師館の1階で泊まってもらいましたが、夜中の2時頃まで話していました。話していたというよりも、笑い合っていました。何か1こと言うと、げらげらげら、また何か1こと言うと、げらげらげら。帰りに空港まで送りましたが、そのときも車の中で「話しては笑い、笑っては話す」という状態でした。ついこの間、ベン・ウォン師が練馬に来られました。私たちは8時くらいになると、もう遅いので帰ります。ベン・ウォン師は、さらに、青年たちと交わるためにマクドナルドに行きました。11時くらいまで話していたそうです。1日ご用したあとで、さらに、外に出かけるのですから、たいしたもんです。今回も話しておられましたが、関係作りのため時間をいとわない。これがコーチングのコツのようです。私たちは業績志向から解放される必要があります。日本人は、ただ話しているだけというのは、非生産的だと考えるでしょう。しかし、神の国の雰囲気というものがあります。それは、共に分かち合い、共に励まし、共に笑う。麗しい共同体の中に主が住んでくださり、みわざをなしてくださるのです。マリヤとエリザベツは3ケ月の間、楽しく共に暮していました。胎児のために、とってもよかったのではないかと思います。

 47節以降の、マリヤの歌を見ますと、誤解や犠牲をも省みず、自分が救い主を宿す者になったことを喜んでいます。普通なら、「ああ、どうしよう。石打ちにされかもしれない?私生児を産んだとも言われるかもしれない」と心配するはずです。でも、彼女はメシヤの母になることをこの上もない特権であると思いました。神様の前に、いろんな奉仕がありますが、自分の胎をメシヤのために捧げるというのは、マリヤしかできなかったことであります。46節以降をお読みいたします。マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」この歌詞で、たくさんの讃美歌が作られていることでしょう。マリヤは、「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と歌いましたが、これも1つの預言であります。実際、マリヤほど高められた女性も世界ではいません。ローマカトリックでは、マリヤを神様と同じ高さまで、高めてしまいました。赤ん坊を抱いたマリヤ像が最も知られています。あれだど、救い主が赤ん坊のために、マリヤの方が偉大に見えてしまいます。ほめ殺しという言葉がありますが、行き過ぎはやはり問題です。今、「マリア」という映画が上演されています。ウェブサイトを見ましたが、「あなたはまだ、本当のクリスマスを知らない」とありました。また、マリヤがヨセフに対して、believe me!と言っていました。パッションと同じように、史実に基づいて、作られた映画だと思います。

私たちはマリヤの信仰を学ぶべきであります。ヨセフもそうでありますが、小さな自分たちの幸せを守るくらいの信仰ならば、決して、救い主誕生のために献身できなかったでしょう。マリヤは、婚約解消、石打の刑、世間の誤解を恐れませんでした。また、100キロ先のベツレヘムの洞窟で子供を産みました。宿屋がなかったためです。ある先生は、親戚の人が一緒にいたはずなのにどうしてなんだろう。「マリヤは私生児を宿した」と噂され、冷たくされていたのではないだろうかと言っておりました。また、赤ん坊が誕生してまもなく、ヘロデ大王が命を狙って、追っ手を差し向けました。二人は真夜中、エジプトに逃れます。逃亡者として、何年間か暮らすわけです。救い主の母になるということは、決してロマンチックなことではありません。ですから、信仰とは継続的なものであり、一時、信じれば良いというものではありません。途中に、山坂があるんですね。私たちの場合も同じです。「神様、あなたのためにやっているのに、何故ですか?」と文句を言いたくなるでしょう。でも、様々な困難を通過することによって、私たちの信仰がますます強くなり、神様との関係も深くなるのではないでしょうか。神様はこの世における問題やサタンの攻撃すらも、信仰の成長のために用いてくださるのです。主に用いられるということは、必ずしもかっこいいものでないことかもしれません。クリスマス・ページェントではいろんな役があります。ヨセフとマリヤは主人公ですから、とても良いかもしれません。しかし、2人だけです。東の博士もおれば、らくだや、羊の役も必要です。さらには、星の役も必要です。幕の後ろから、星を動かすのですから、セリフもありません。でも、星も大切であります。私たちもこの人生において、どんな役を賜わるかわかりません。私たちの信仰がどんなものであるか神様が一番ご存知です。ふだんの生活における信仰は、とても地味なものでしょう。でも、神様からチャレンジを受けたときは、大胆に従いましょう。そのときは、人から誤解されることも恐れず、マリヤのように喜んで従いましょう。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」

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2006年12月31日 (日)

荒野へようこそ    ルカ 4:1~14

本日のメッセージはジョン・ビビア著の『荒野で勝利する』という本からかなり引用しました。私はこの本を10月から読み始めましたが、11月頃はとても落ち込んでいました。礼拝出席は、ひところは80~90名だったのですが、あきらかに20名位減少しています。「あの人も来ていない。あの人も来ていない」と思うと、ボディブローを受けているみたいで、だんだん鬱的になります。そして、「来年は牧会20年目だから、安息年をいただこう。礼拝説教以外の奉仕はやめて、これまでのものを整理しょう」という気持ちにもなりました。ところが、11月半ば、この本を読んでいたそのときです。「ああ、私は荒野にいるんだ!日本の教会も荒野にいるんだ」という悟りが与えられました。それが分かったとたん、がぜん元気が出てきました。この本は、「荒野は収穫の時ではなく、刈り込みと接木の季節であり、後にやってくる収穫のための備えの時である」と書いてありました。きょうは、荒野とはどんな時なのかということを3つのポイントで学びたいと思います。

1.荒野は試練の時

 荒野は神からの罰ではありません。ルカ3章後半に書いてありますが、イエス様がバプテスマをお受けになられると聖霊が鳩のような形をして下ってこられました。そして、天から父なる神様が「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語られました。つまり、イエス様は父なる神様から、承認を受けたのです。その後、イエス様は荒野に行って、誘惑を受けました。ルカ4章1節以降「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」。イエス様は神様から喜ばれていたにも関わらず、聖霊に満たされていたにも関わらず、荒野に導かれました。イエス様は、40日間も荒野で一人ぼっちでした。だれも励ます人もなく、お腹が空いてどうしようもないとき、悪魔の攻撃を受けられたのです。でも、イエス様は神のみことばで悪魔を打ち負かしました。ここから分かることは、神様が私たちを荒野に導かれるのは、私たちを怒って罰するためではないということです。また、イエス様がそうであられたように、荒野は敗北の場所ではなく、勝利の場所だということです。でも、イスラエルの民はそうではありませんでした。彼らは荒野での生活を神からの罰であると見なしました。そのため、彼らはつぶやき、不平を言い、絶えず肉欲に駆られました。時が満ち、いよいよ約束の地に入って征服するという段になって、悪い報告に耳を貸してしまったのです。イスラエルの民は、神の約束と神の全能を信じないで、躓いてしまいました。そのため、本来、短いはずの荒野の旅が、彼らにとって一生のものとなってしまったのです。

 では、荒野とはどのような場所なのでしょうか。申命記8:2「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」。イスラエルの民は、主の大いなる奇跡によって、紅海を渡ることができました。彼らは敵の手から救い出され、喜びいっぱい主に歌い、主の前に踊りました。ところが、それから数日しかたっていないのに、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や子供たちや家畜を、渇きで死なせるためですか」と指導者に向かってつぶやきました。しかし、神様が彼らをエジプトから救い出した目的は、砂漠でさまよわせることだったのでしょうか?いいえ、神様がイスラエルの民を荒野に導いたのは、彼らの心の真の姿を明らかにするためでした。主はイスラエルの民が空腹になるようにさせられました。しかし、その次にはマナで民を養われました。なんだか、矛盾しているように聞こえるかもしれません。彼らは天使の食べ物と言われる、マナを毎日食べました。でも、それが4年間ではなく、40年間も続いたのです。また、彼らは40年ものあいだ、同じ靴をはき、同じ服を着続けました。神様は、イスラエルの民が欲しているものは与えないで、ただ必要としているものを与えられました。そのように、彼らは生きるために最低限必要なものはすべて満たされました。主はイスラエルの民を試すために、彼らのうちにこのような「飢え」を起こされたのです。何を試すためだったのでしょうか?それは民がエジプトに残してきた肉的なものを求めるか、それとも神ご自身を求めるかを試すためでした。残念ながら、イスラエルは「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」とつぶやきました。

 神様が荒野に導かれる理由は、申命記8:2にあるように「あなたの心のうちにあるものを知るためです」。悪魔が私たちを荒野に導くのではなく、神ご自身が私たちを荒野に導かれるのです。その理由は、私たちを試みるためです。それは、私たちの心の真の姿を明らかにするためです。ジョン・ビビアが本の中でこう語っています。「現代においても、神は教会を荒野へ導きいれられます。今、教会は荒野にいます。イスラエルの民に行われたように、主は私たちが主の御顔を求めているのか、それとも主の御手を求めているのか試しておられます。主の御顔とは、主のご性質と品性を象徴しており、主との交わりを意味します。一方、主の御手とは、主が与えられる物や主の力を象徴しています」。私たちは祝福をくださる神様を求めているのでしょうか?それとも、祝福そのものを求めているのでしょうか?もし、神様が自分に何を与え、何をしてくれるのかと、ただ何かを得ることばかりを求めていくなら、乾いた荒野で倒れてしまうでしょう。しかし、主ご自身を求めていくなら、祝福も力もあとから着いてくるのです。ある人たちは、自分が欲しいと願っているものが与えられている限りは、幸せであり、喜んで主に仕えます。しかし、乾いた荒野の季節になると、心の中の動機が露にされるのです。

2.荒野は清めの時 

 マラキ3:2-3に「まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁(あく)のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」とあります。神様はここで、祭司を練り清めることを、金や銀を精錬する過程になぞらえて述べておられます。純金はやわらかく、しなやかで、腐食の心配もありません。しかし、他の金属(銅、鉄、ニッケルなど)と混ざると硬くなり、曲げにくく、腐食しやすくなります。外側は黄金色に輝いていても、純金は自然界にはほとんど存在しません。なんらかの不純物が含まれており精錬しなければ、純金にはならないのです。これを私たちにたとえますと、不純物とは罪であります。教会に集っている多くの人たちは、みかけは敬虔であっても、心はかたくななのです。この世のシステムや価値観が教会に入り込んでいます。イエス様は金を精錬するように、ご自分の教会をこの世の影響からきよめるのです。金を精錬する場合は、まず金を粉々にし、溶剤と呼ばれる物質を混合します。次に火の中に入れ、高熱で溶かすと、溶剤と混じり合った不純物が表面に浮き出てきます。金は比重が大きいために底に沈むので、表面に浮上した不純物を取り除きます。精錬のために神が送られる火は、試練と艱難です。この試練の火の熱が、私たちのうちに与えられ、不純物が分離させられるのです。黙示録21章には、「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」と書かれています。いったん炎の試練によって精錬されると、私たちは透明な人間になるのです。透明な器は、自らの栄光を表すのではなく、中身の栄光を外に表します。つまり、私たちが精錬されるならば、この世は、私たちのうちにおられるキリストを見ることができるのです。荒野とは私たちの心の動機や計り事を精錬するために神が用いられる坩堝(るつぼ)なのです。

 純金はとってもかっこう良い感じがしますが、純金になるまで大変です。精錬のためには火だけではなく、溶剤が必要です。溶剤とは、同じ信仰仲間の肉的で未熟な者たちか、あるいは家族の者たちです。ヨセフに嫉妬していた兄弟たちは、「見ろ。あの夢見る者がやってくる。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか」(創37:18-)と言いました。結果的にヨセフはエジプトに奴隷として売られました。エジプトは、ヨセフにとって、まさに荒野でした。ヨセフは、兄たちへの復讐心に燃えて、どうすれば仕返しができるかを考えながら、エジプトでの日々を送ることができたでしょう。この間、15年から17年の歳月が流れ、あらゆる人間的な望みは消え去りました。ある人たちは、「このような荒野に置かれ、夢が成就しないのは、牧師(家族や友人や配偶者)のせいだ」と言うかもしれません。詩篇105:17-19「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」。「彼を試した」とは、彼を精錬したということです。神様はヨセフを精錬するために、ヨセフの兄弟たちの怒りを用いられたのです。つまり、ヨセフの見た夢が成就して、やがて来る大飢饉のときに、自らの家族のみならずエジプト全体を導く指導者となるためです。自ら進んで荒野を探さなくても、必ずや神様はあなたを荒野に置かれます。神様は牧師、兄弟姉妹、家族、あるいは配偶者を用いられます。「ああー、これでは神様が与えてくれた夢から遠ざかる一方だ!他の人がミニストリーやその他の領域で、昇進、昇格しているのに、夢に近づくどころか、反対方向へ突き進んでいるようだ!」いいえ。神様はあなたを精錬しているのです。あなたの中にある不純物を取り除こうとしておられるのです。これは私自身にも言えることです。

 もう一人の例は、ダビデです。ダビデは預言者サムエルによって王となるための油を注がれました。ダビデは巨人ゴリアテを倒した後も、イスラエルに勝利を与え続けました。ある時、女性たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサム18:7)と歌いました。そのとき、サウル王の真の性質が顔を出して、怒りと嫉妬が顕わになりました。それまでサウルにとって、ダビデは自分の王国を支える貴重な存在でした。しかし、今やサウルにとって、ダビデは自分を脅かす脅威となったのです。サウルは自分の王位を守るために、ダビデを殺そうとしました。ダビデめがけて槍を投げつけたり、捕らえるために軍を派遣したのはそのためです。なんと、16年ものあいだ、サウル王は、荒野に身を潜めているダビデを追って、ほら穴からほら穴へと捜し回りました。ダビデは、「私のどこがいけないのでしょうか」と、きっと思ったことでしょう。ダビデはサウルを愛し、心から尊敬していたはずですが、神様は、ダビデを精錬するために、サウル王の狂気を用いられたのです。私たちは「サウルもサムエルから油注がれていたではないか」と思うかもしれません。若くして王に選ばれたサウルは、最初は謙遜で、自分を小さい者とみなしていました。ところが、主の前にまだ精錬されておらず、その心がまだ砕かれていませんでした。成功と権力が与えられた時、サウルの真の姿が顔を出し始めたのです。ここから分かることは、「神の人」に作り変えるのは、油注ぎではないということです。御霊の賜物は一瞬にして与えられますが、御霊の実(神の品性)はそうではありません。実が育て上げられるまでには時間がかかります。まず、種が地面に蒔かれ、それ自体は死ななければなりません。一方、賜物は育てる必要はありません。それは与えられるものだからです。でも、実は養われて身についていくものであります。荒野とは、人が精錬され、内側に神の品性を身に着ける場所です。

サウルはさばかれて死にました。しかし、ダビデはかつて神に仕えた人の死を決して喜びませんでした。むしろ、自分を殺そうと何年ものあいだ追い掛け回した男の死をいたみ悲しんだのです。なぜ、こんなことができたのでしょうか。ダビデは苦しみの炉で試され、練り清められ、砕かれた人となったからです。肉の人サウルと清められたダビデの決定的な違いは何でしょうか?サウルは王国を追い求めました。一方、ダビデは神様を追い求めたのです。私たちは何を追い求めるべきなのでしょうか?成功でしょうか?それともミニストリー、幸せな結婚、神の祝福、癒し、繁栄でしょうか。そうではなく、私たちは神を追い求めるべきなのです。

3.荒野は準備の時 135-202

 イザヤ40:3-4 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」。荒野もしくは荒地は、主の道を整えるところです。そこでは、すべての山は低くされ、すべての谷は高くされます。聖書では、山は人間の強さを表しています。モーセは40歳の時、イスラエルの民をエジプトの束縛から解放する召しを受けていると悟りました。モーセは、王子として育てられ、エジプトの最高の知恵を知識によって訓練されました。その当時、エジプトは地上の最強の王国であり、エジプトほどの先進国は他にありませんでした。モーセは、自分には指導者としての能力が備わっており、また、イスラエルに対する誠実さも持ち合わせていることをなんとかアピールしようとしました。しかし、その結果、イスラエル人を苦しめている一人のエジプト人を殺してしまったのです。突然、神の「偉大な救済者」は、自分の命を守るためにミデヤンの荒野に逃げ込みました。モーセは、砂漠の奥深くで、懸命に他人の羊の世話をしていました。それも、2,3年ではなく、なんと40年ものあいだです。なぜ、主に召された人が、砂漠で40年の歳月を「むだに過ごした」のでしょうか?神様は、肉なる山を低くし、曲がった場所をまっすぐにされ、でこぼこした場所を平らにされるのです。モーセが、40年ものあいだへりくだり、神様の精錬の火を受けた後、主が現れました。出エジ3:10-11

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」。かつて自信に満ちていたモーセと同じ人とは思えません。モーセは恐れを感じました。彼は、長い荒野での生活を経て十二分にへりくだっており、神様が介入されなければ、また惨めにも失敗するということをよく理解していました。たとえ偉大なエジプトの知恵であっても、モーセをイスラエルの解放者として整えるには不十分でした。神様の大きな仕事を成し遂げるためにモーセを整えたのは、不毛で寂しい、砂漠の奥深い地においてでありました。40年前、モーセは自分で自分を遣わしましたが、「私はあなたを遣わそう」と今、神様が遣わされるのです。

 『荒野で勝利する』という本の中に、著者自身の証が書いてありました。ジョン・ビビアは1979年、大学の友愛会で救われました(私と同じ頃です!)。4ヵ月後、朝の礼拝で神の御霊が彼に臨み「私はあなたを説教者に召した!」として語られました。「はい」と応答するやいなや、彼の人生に炎が燃え始めました。即座にキャンパスで伝道し、毎週、新しい人が救われました。彼は大学をやめて聖書学校に行きたいと思いました。ある夜、いやいやながら学校の宿題をしていました。そのとき、思わず工学の本を壁に投げつけ、大学を退学して聖書学校に入学する決意をしました。幸いなことに、彼のために弟子訓練をしていたダンが、一緒に祈ってくれました。そのとき、神様は「私の定めた時に」と語られました。ジョン・ビビアは大学を卒業し、7000人もの大きな教会のメンバーとなり、会場係りの奉仕を始めました。また、夜に開校されていた聖書学校にも通い始めました。2年後、彼は助手として雇われました。しかしその時、1年だけという約束で働き始めました。なぜなら、「私は説教者として召されているから」とその理由も説明しました。彼の仕事は、教職者たちの車を洗い、ガソリンを満タンにし、牧師の靴を磨き、使い走りをし、教職者たちの子供を学校に迎えに行き、二人の幼稚園児にスイミングを教えるなど、あらゆる雑用をこなしていました。結局、その仕事は1年どころか、4年半も続けることになりました。主の召しに対して「はい」と応答してから、すでに8年が経っていました。彼はまさに、荒野にいたのです。実は、彼が教会で奉仕をしている間、3度ほど説教者となるチャンスを得ました。ちょうど、そのとき、ヨハネの福音書を読んでいました。ヨハネ1:6の「神から遣わされたヨハネという人が現れた」という文がページから飛び出してきました。「あなたは、ジョン・ビビアによって遣わされたいのか、それとも神によって遣わされたいのか」という主の語りかけが聞こえてきました。彼はすかさず、「主によって遣われたいのです」と答えました。ある朝、外で祈っている時、「主よ、もしあなたがご再臨された時に、私がまだ教会の車を運転し、牧師や牧師夫人のために使い走りをしていたとしても、『主よ、私はあなたのために従いました』と胸を張って言えます。その6ヶ月後、フロリダ州の大きな教会のユースパスターに就任しました。彼は説教者としての召しに応答して、その務めを果たすためには、彼の性質が変えられなければなりませんでした。彼のうちに神の品性が形作られるために、荒野へ導かれたのです。ユースパスターになるために必要な荒野の訓練はそのときに完了しましたが、その後も霊的昇進の度に、まずそれにふさわしい準備期間を経なければなりませんでした。

 モーセも荒野で40年間の訓練を受けました。その後、神が命じられたこと以外は何も行わないという新しいモーセが誕生しました。イエス様ご自身も、公生涯の前、荒野で試みを受けられました。イエス様はこのようにおっしゃいました。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」私たちも主の例にならい、自分のやり方で事を行うのではなく、御霊に導かれて、神様の方法で行いたいと思います。ジョン・ビビアはこのようにまとめています。「たとえ主のためであっても、主の導きもなく、主の御力を与えられないまま行おうとするなら、それは無益な試みです。荒野とは、私たちにこの教訓を教えるために、神が導き入れられる場所なのです。内なるものは永遠の価値を生み出さないということを真に学ぶなら、主が召されたミニストリーを始める準備ができたのです。つまり、荒野は、将来のミニストリーのために整えられる場所なのです。」

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2006年12月17日 (日)

イエスの国         ルカ1:26-33

 先週に引き続き、クリスマスのメッセージをお届けします。クリスマスは牧師泣かせでもあります。なぜなら、話す箇所が決まっているので、「ああ、またか」という人たちが多いからです。でも、不思議なことは、同じような話でも、神様が示してくださるポイントが毎年違うということです。ポイント、つまり強調点が違うと、同じようなメッセージでも新鮮に感じます。この世の中は、たくさんのデコレーションでクリスマスの飾りつけをします。ライトアップも、発光ダイオドーを使っているせいでしょうか?とっても鮮やかです。クリスマスソングも奏でられています。でも、残念ながらメッセージがありません。そこにメッセージがなければ、ただの風景であります。クリスマスは風景ではありません。神からのメッセージがそこにあるべきです。

1.おめでとう

 御使いが突然、マリヤに現われて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言いました。このシーンは、受胎告知として知られ、絵にもなっています。でも、何が「おめでとう」なのでしょうか?まず、マリヤにとっておめでたいことは何かということを見ていきたいと思います。マリヤはナザレの町の一処女でした。おそらく、十代後半かと思われます。そのマリヤがメシヤを生む母として選ばれたのです。イザヤ書には、乙女からメシヤが生まれるという預言があります。しかし、その当時の人たちは、どれほどその預言を信じていたか分かりません。でも、イスラエルの女性たちの間では、メシヤの母になれることは最も光栄なことであるという、言い伝えはあったと思われます。その証拠に、ひとりの女性が、マリヤをほめている箇所があります。ルカ11:27、ひとりの女が声を張り上げて「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」と言いました。また、マリヤ自身も、喜んで賛美しています。ルカ1:47-48「「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」。この賛美のとおり、マリヤは歴史上、全人類の中で、最も幸いな女性だと思われているのではないでしょうか。全人類で、メシヤの母になる確率というのは、何兆分の一の確立です。ジャンボ宝くじどころではありません。カトリック教会では、聖母マリヤとして、礼拝の対象にまで高められています。やっぱり、「おめでとう、恵まれた方」と言えるのかもしれません

 でも、マリヤはすべてがおめでたかったわけではありません。いくつか、おめでたくないこともあったはずです。マリヤはヨセフと婚約中でした。ユダヤでは婚約は結婚と同じくらいの重さがありました。結婚前に、他の男性との間に、子供ができたらどうなるでしょうか?もう、これは姦淫罪で、石打ちの刑で殺されます。マタイによる福音書を見ると、ヨセフは秘かに離縁しようと思っていたと書いてあります。昔も今も、処女が聖霊によってみごもるなんてことは、信じられないことであります。「私は聖霊によって子供を宿しました」などと言っても、「馬鹿も休み休みに言え、そんなことがあるはずないだろう。この大嘘つき!」と言われるのがおちです。それは、現代も同じキリスト教会であっても、処女降誕を信じないクリスチャンがいます。「処女降誕はその当時の神話から来たものである。十字架と復活さえ信じていれば救われるのだから、処女降誕は信じられなくても良い」という教会がいっぱいあるんです。マリヤにとっておめでたくないことは、人々から誤解を受けるということでした。婚約破棄、石打ちの刑、私生児を生んだみだらな女と呼ばれる。こういうリスクがあったということです。

 では、マリヤから私たちが学ぶべきことは何でしょうか?マリヤは人々からどう思われようが関係なく、神のみこころがなるように自分をささげたということです。マリヤは「どうしてそのようになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と疑いました。でも、御使いから「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われて、従いました。38節以降、マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。げー、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えました。「本当に」は、原文では、behold「ご覧下さい」であります。「ご覧ください、主のはしためを」であります。マリヤはヨセフにも相談していません。即座に、親戚のエリザベツのもとに行きました。そしてそこで3ヶ月過ごしました。ヨセフやナザレの町の人たちはどう思うでしょうか?そんなの関係なく、マリヤは主のみことばにまっすぐ従ったのであります。こういうところが日本人に弱いところであります。日本人は神様がどう思うかではなく、人々がどう思うかに焦点を合わせがちであります。もう、子供のときから「人様から笑われないように」「人様に迷惑かけないように」「人様から後ろ指さされないように」…。人、人、人であります。特に、地方の人たちは、洗礼を受けてクリスチャンになるということができません。それでも、ときどき、細川ガラシャのように、座敷牢に入れられてでも、信仰を持つ人がいます。みなさんは、どちらの方に焦点を合わせているのでしょうか?人でしょうか?それとも神様でしょうか?

 私はマリヤが「いいえ、私にはできません」と断ったら、次の女性にチャンスが回ったと思います。でも、神様はだれか女性の協力が必要だったのです。なぜなら、エバの汚名を注ぐのは、やはり、女性でなければならなかったからです。創世記3章に「女の子孫がサタンの頭を踏み砕く」と預言されています。数年前、パッションという映画が上映されました。あの映画はカトリック教会の思想が背景にあるのではないかと思いました。その特徴として、母マリヤがずーっと登場しました。また、蛇が荒野の誘惑のとき、そして十字架のときも出て来ました。最後にサタンが踏みつけられ、「あー」と頭をかかえているシーンがありました。まさしく、創世記3章を現しているようでありました。イエス様が第二のアダムだとしたら、マリヤは第二のエバなのかもしれません。はっきり言うと神学的に問題になるかもしれないので言明はしませんが…。マリヤはエバのできないことをやったのです。エバは「自分が知恵を得て神のようになりたい、自分が美しくなりたい」と自己中心的でした。しかし、マリヤは自分のことはともかく、「神のおことばどおりこの身になりますように」と自分をささげました。ここに大きな違いがあります。マリヤが贖ったとは言いませんが、女性の代表として、汚名を挽回したことは確かであります。そういう意味で、マリヤは「最も偉くて、最も幸いな女性」と言えるのではないかと思います。

 男性も含めて、私たちが学ぶべきことは、神様への従順ということであります。「おめでとう。あなたがこのことを行うように選ばれましたよ」。「いいえ。私はそんなことはイヤです。だれか、他の人にやらせてください!」。そうすれば、チャンスはだれか他の人に行ってしまうでしょう。しかし、神様が直接、肉声で声をかけるということはまずありません。他の人を通してだったり、思いの中に浮かぶことかもしれません。そこいらへんは、信仰であります。私の長所でもあり短所でもあるところは、「今」のチャンスを生かすことです。私は信徒のとき、牧師から奉仕を頼まれたら「はい、わかりました。やってみます」と答えました。ちょっと共依存的なところがあったかもしれせんが、奉仕を断ったことはありません。また、「今がチャンスだ」と思ったら、即実行してきました。子供たちの大学も「ここはどうかな」と勧めました。勧めた分、責任もありますが…。この会堂や牧師館の建築も「今だ!」と思ったとき実行しました。結婚もそうだったかもしれません。亀有教会に赴任したのも、「まず、行ってみよう」でした。もう、19年もたってしまいました。ゴスペルクワイヤーも「じゃあ、やってみたら」でした。もちろん、人の意見を聞いたり、慎重に検討することも大切です。でも、神様が「今、あなたに!」とお声をかける時ってあるのではないかと思います。もちろん、ファーストチャンスをなくしたら、セカンドチャンスは永遠に来ないということではありません。問題は、「信仰によって立つ」、「信仰によって決断する」ということです。「何も決断をしないで失敗するよりは、何かをして失敗するようが良い」とロバート・シュラー牧師が言いました。もちろん、神様の御声もありますが、悪魔の声もありますので、見極めも大事です。ですから、祈って、神様にお聞きして、「これだ!」という確信を得たら決断すれば良いのです。独身男性も、「この人だ!」と思ったらアタックしたら良いでしょう。奉仕やセルも「これだ!」と思ったら、やってみたら良いですね。もし、たとえ失敗しても、神様はちゃんと別の道も備えてくださいます。祈って始めたことであれば、神様は万事を益としてくださいます。「できない!」諦めてしまえば、すべての道が塞がれてしまいます。しかし、「主にあって可能だ!」と信じれば、色んな道が開かれてくるものです。マリヤのすばらしさは、「これだ!」と決めたら、一身に従ったことです。

2.イエスの国

 1章31-33節「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」ここで注目したいことばは、「国」であります。イエス様は「ダビデのような王様で、国をとこしえに治める方だ」と言われています。このところは、ダニエル書7章の引用であります。ダニエル7:14に「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」と書いてあります。イスラエルの人たちは、こういう預言を知っていました。そして「やがてダビデのような王様が現われて、イスラエルの国を復興させるんだ」と信じていたのです。しかし、彼らのメシヤ観は非常に地上的でした。イエス様は本当に困って、公に宣教することが困難な時がありました。あの12弟子たちもそうでしたが、ローマ帝国を倒し、この地上にイスラエルを立てるということが望みだったのです。しかし、イエス様の国はそういう地上的なものではありません。では、目に見えない、精神的な架空の国かというとそうでもありません。イエス様の国は2段階で来るということです。このことが分かりますと、聖書がよく分かります。

 第一段階回は、目に見えない国であります。国というギリシヤ語はバシレイアと言って、王的な支配という意味であります。33節の「国」はバシレイア、王国であります。いわゆる、カントリーではありません。バシレイアはキングダムであり、神の国のことを指すのです。私は「天国」という言葉よりも、「神の国」の方が好きです。「天国」は、日本で本当に誤解されています。死んだ人が行くところが「天国」だと思われています。とんでもありません。天国とは、神の国であり、神の支配という意味です。話が戻りますが、第一段階回の国は、イエス様と一緒に目に見えない「支配」としてやって来たのです。本来、王国でありましたら、王様がいて、臣民がいて、領土があるはずです。民もなく領土もないのに、王様一人しかいないというのは、怪しい王様です。でも、神様はイエス様を王とする、神の国を作ろうとご計画されました。なぜなら、アダム以来、この地上は罪にまみれ、滅びに向かっているからです。このままですと、すべての人が罪と死の中に飲み込まれてしまいます。そこで、父なる神様は時満ちて、ひとりの女から、メシヤを誕生させました。父なる神様は、やがて来る神の国の住民を、まず集めようとされたのです。順番が逆と言えば、逆かもしれませんが、まず国民を集め、その次に領土を作るという計画でした。当時のメシヤ観は悪を裁き、イスラエル王国を建てる人物でした。しかし、イエス様はそうではなかったのです。イエス様は平和の君として来られたのです。イエス様は人々に「罪を悔い改め、神様と和解するように」勧めたのであります。世の人たちは、「なんと弱いんだろう!あれでもメシヤか」と疑いました。あげくのはて、十字架に付けられて殺されました。弟子たちは「もう、おしまい」と思いましたが、そうではありません。イエス様の十字架と復活により、人々が信じるだけで、神の国に入ることができるようになったのです。イエス様は「恵みによる救い」という道を開いてくださったのです。今年は、恵みの年、2006年目ということになります。まもなく、恵みの年、2007年目です。しかし、いつまでも恵みの年が続くわけではありません。

 第二段階回は、目に見える国であります。聖書をそのまま読むと、この国はさらに2段階でやってくるようであります。最初は御国、つまり1000年王国として、この地にやってきます。私はこの地球が核戦争でおしまいになるとは思いません。この地球は世の終わりにおいて、回復されると信じています。でも、すんなりと御国が建てられるわけではありません。ヨハネ黙示録などに書いてありますように、世の終わり、反キリストとの大戦争があります。空から星が落ちてきたり、疫病がはやったり、太陽が暗くなったり、とにかく大患難のときがやってきます。そのとき、私たちはどうなっているかわかりません。教会の人たちは患難に会わないで、天に引き上げられるという説もあれば、患難の後だという説もあります。奥山実先生は、目をさまして携挙を信じている人だけが、引き上げられる。たとえクリスチャンでも、携挙の信仰がない人たちは残されるとおっしゃっています。本当かもしれません。世の終わりの終わりに、イエス様が雲に乗ってやってこられます。雲とは栄光という意味があります。栄光のうちにやって来るということです。もう、優しいイエス様ではありません。目は炎のように燃え、口からは両刃のつるぎが出て、足はしんちゅうで、髪の毛が白い。まあ、ヨハネはイエス様を見て、死人のようになったと言っています。再び来られるイエス様は、今度は世をさばくために来られるのです。御使いたちと一緒に、信じない者たちをさばくために来られるのです。そのときには、恵みもあわれみも通用しません。神の復讐と怒りがこの地上をおおい尽くすのです。そういう意味で私たちは、神を恐れなければなりません。御国は1000年、回復のときとしてこの地上に訪れます。目の見えない人は見え、足なえは歩き、おしは歌います。この地上は不公平であり不条理がまかり通っています。しかし、御国において、すべてがチャラになり報われるのです。クリスチャンも忠実さによって、治める町の数が違うと書いてあります。しかし、1000年後、こんどは新しい天と新しい地が創造されます。おそらく、この地球も太陽系もなくなり、全く新しいところで、永遠に住まうのです。やっとそこで、神の国が完成するのです。私たちはじかに神様を見ることができ、栄光の姿で永遠に暮らすのです。永遠という言葉は、神の国にぴったりであります。

 問題は、この地上に生きている間です。イエス様は神の国の門を開けてくださいました。もちろん、イエス様ご自身が門であります。でも、神の国はこの肉眼では見えないんです。神様も見えません。わかるのは、聖書の約束と、イエス様の贖いであります。もう1つしいて言うならば、教会であります。教会は完全ではありませんが、神の国がどういうものであるか示してくれます。よく、マンションを新築するとき、他の場所にモデルルームを建てます。外はプレハブか何かですが、中に入るとそのまんまという感じがします。教会もある意味では、天国に似たモデルルームです。教会の中で偉い人はいません。牧師自身の気持ちとしては、偉い人として扱われたいのですが、聖書的には兄弟姉妹と同じです。貴族と平民の身分の差もありません。社長も従業員も関係ありません。たとえ、ここに大統領が来たとしても、一人の兄弟であります。神の国は愛が支配しているように、教会も愛が支配しています。神の国には病気や死がありません。同じように、教会にも癒しがあり死に打ち勝つ神の命があります。漢字検定協会では、2006年を表す感じは「命」だということでした。しかし、聖書では肉体の命ではなく、復活の命があります。復活の命、神の命がより大事なのであります。神の国は豊かです。ですから、教会も豊かであることを嫌ってはいけません。清貧に甘んずるというのは、聖書的ではありません。与えて貧しくなるのは良いことです。でも、はじめから貧しいのでは、人を助けることも、献金もできないからです。

 イエス様は、準備ができたら迎えに来るとおっしゃいました。ヨハネ14;2,3「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」。イエス様は私たちのために、永遠の住まいを用意しておられます。お墓が永遠の住まいだったら、悲しいですね。そうではなく、あちらです。やがて来るのです。私は23歳で建設会社をやめました。もうずいぶん前のことなので、藤沢か八王子の現場か忘れました。とにかく、ボーナスをもらってやめたんですから。12月、失業していたので、寒さがよけい身にしみました。通りから、レストランとかで食事をしている風景を見ると本当に寂しくなりました。まもなく、私は町田に引っ越して、なんとかその町で住もうと思いました。隣町に同郷の友人がいて、彼女も与えられました。残念ながら、裏切り裏切られる形になりました。しかし、私は座間教会に導かれ、新しい兄弟姉妹が与えられました。26歳のクリスマス、青年会の兄弟姉妹と一緒にお祝いしました。古い教会でしたが、私にとってはホームという感じがしました。そして、一番、変わったことは、私はクリスチャンであるという身分が与えられたことです。働いている会社が問題ではなく、自分は神の子供であるという誇りがありました。そして、行くべき天の住まいがあるという希望が与えられました。その当時、トム・ジョーンズの「思い出のグリングラス」という歌がはやりました。その曲は、確か、故郷に帰る歌だったと思います。なつかしい我が家に帰る歌です。「ああー、自分の故郷は秋田じゃなくて、天国なんだなー」と思いました。

クリスマス、イエス様が来られたのは、あなたを御国に迎えるためです。どうぞ、その御国への招待を受けようではありませんか。そこには、先に天国に行った懐かしい人もいます。「再会」というのは、スナックの名前ではなく、本当は天国のためにある言葉です。天国で再会できるのです。この地上はいつまでも続きません。神様が備えておられる、御国のマンションで共に暮らそうではありませんか。

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2006年11月19日 (日)

「心の叫び 聞こえますか」 ルカ 18:35-43

本日は福澤満雄師による特別説教の為、原稿が用意できませんでした。

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