2015年11月 6日 (金)

人間をとる漁師 マルコ1:14-18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.8

 福音を伝えることを「伝道」と言いますが、とても堅い響きがあります。私は「伝道」という言葉が嫌いでした。なぜなら、「その人に福音を伝えて救いに導かなければならない」という緊張感を覚えるからです。英語では伝道をreach outと言いますが、「援助の手を差し伸べる」という柔らかい響きがあります。用語はともかく、福音を伝えることは全クリスチャンの使命であります。伝道の賜物がある人もいますが、たとえ賜物がなくても使命なのですから、やるしかありません。いろんな伝道方法がありますが時代や人々のニーズによって、効果的なものを選ぶ必要があります。また、方法やテクニックも大切ですが、失われた魂を主のもとにお連れしたいというスピリットが最も大切だと思います。 

1.人間をとる漁師

マルコ114-18「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」

第一の質問です。「イエス様は、初期の頃から弟子を召されました。それは、なぜでしょう?」それは、ご自分の働きを継続し、拡大させるためです。いくらイエス様が神さまであっても、肉体を持っているので限界がありました。また、十字架の贖いを成し遂げたあと天に帰らなければなりません。ですから、弟子たちを訓練して、任せる必要がありました。 

                        

第二の質問です。「漁師であることと、人間をとる漁師との共通点は何ですか?」弟子たちの多くはガリラヤの漁師でした。そのためイエス様はあえて「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃったのでしょう。漁師は魚の習性を知らなければなりません。何を食べるか、どこにいるのか、漁は昼間が良いのか夜が良いのか?彼らは網で漁をしていましたので、群れがいるところを探して漁をします。魚がいないところに網を降ろしても仕方がありません。また、乗る船も必要ですし、網やしかけなど正しい漁具を準備しなければなりません。魚と同じように、人間の習性やニーズを知る必要があります。また、人がいないところではなく、人がいるところで伝道すべきでしょう。正しい漁具とは時代にあった正しい福音提示と言えます。また、音楽、部屋、音響製品が必要な場合もあります。昔は16ミリの映画で人々が集まったようですが、今は集まりません。アメリカのリック・ウォレン師はいろんなところをリサーチして、新しい教会を開拓しました。自分がどういう社会層の人たちに福音を届けられるか、前もって調べたようです。

第三の質問です。「まず、どうすれば人間をとることができるのですか?」イエス様について行くということです。すると、どうすれば人間をとれるのか実際に見て学ぶことができます。現代、イエス様は地上にいませんので、まず、福音書や使徒の働きから原則を学ぶしかありません。その後、自分にあった伝道法をさがすべきでしょう。私が最初に行った神学校の教団は、とても伝道熱心でした。昭和の初期、リバイバルがあった教団で、首根っこを捕まえてでも救いに導くという熱心さがありました。また、手をたたいて聖歌を歌うし、大きな声であおるようなメッセージをするので、気の弱い人は帰っちゃうんじゃないかと思いました。その後に、カルバンの「選び」ということを学びました。それからはあまりしつこく勧めないようになりました。神さまがその人を選んでいれば、救ってくださるので、その人の自主的な決断を重んじるようになりました。つまり、神さまから情熱をいただき、人の意志を重んじながら福音を伝えるということです。

第四の質問です。「あなたは人間をとる(伝道する)ことがライフ・スタイルになっていますか?」ライフ・スタイルとは伝道が生活の一部になっているということです。パウロはテモテにこのように命じました。Ⅱテモテ42「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」時代によって、人々が福音に耳を傾ける時もあれば、まったく無関心な時もあります。日本のプロテスタント教会では、明治の開国時と、敗戦直後にリバイバルがありました。しかし、経済的に豊かになると、あまり教会に来ません。今はクリスチャンや牧師が高齢化し、数も減少しています。では、世界的に難しいかというとそうではありません。かつては伝道が非常に難しかったインド、タイ、ネパール、モンゴルにクリスチャンが増えています。アフリカの各国はキリスト教国になるかあるいはイスラムになるかしのぎを削っています。日本は熱くもなく冷たくもない国で有名です。ですから、私たちは時代がどうであれ、みことばを宣べ伝える使命と責任があると思います。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。魚をとることと、人間をとる(伝道する)ことは似ています。まず、魚をとるためには、魚のいるところへでかけなければなりません。魚の集まるような場所に行って、釣竿か、網によってとるでしょう。漁師たちは魚の習性を知り、何時頃、どのようなしかけ(網)で、とるかを知っています。伝道のためには、対象とする年齢層、地域、文化、好みなどを知る必要があります。それによって、アプローチの仕方や話すことばも違ってきます。現代の教会がなぜ不漁なのかと言うと、人々のいるところに行かないで、教会という建物で人々が来るのを待っているからでしょう。時代と共に変わる人々のニーズを無視し、殿様商売でやっているからかもしれません。今は恵みのとき、今は救いの日であることを信じて、reach out、福音を届けるために手を差し伸べていきたいと思います。

2.関係中心の伝道

マルコ1615「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」ルカ105-7「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。」

第一の質問です。「本来、伝道は行くべきなのでしょうか?それとも、未信者が来るのを待つべきなのでしょうか?」行くべきです。地の果てではありません。私たちが日常、出かけているところ(家庭、職場、地域社会)が伝道地なのです。聖書を見ると「出て行け」とか「行って」と書いてあります。とにかく、行かないと何も始まりません。キリスト教の異端にエホバの証人というのがあります。彼らは自分たちが救われるために伝道をしています。マインドコントロールがかかっているせいもあり、一件、一件、訪問して伝道しています。一方、正統だと言っているキリスト教会は、伝道するために訪問するということはまずありません。なぜなら、躓きを与えてしまうからです。でも、皮肉なことに、世の人たちは「キリスト教と言うと、家々を訪問するエホバの証人である」と思っています。でも、彼らは間違っていると言えるでしょうか?新約聖書を見るとイエス様も弟子たちも出て行って伝道しました。このことを考えると、異端である彼らの方が、聖書の言いつけを守っているとしか言えません。彼らは多くの人たちを躓かせているかもしれませんが、着実に自分たちの信者も得ています。なぜなら、出て行っているからです。異端の方が「行け」という、命令を守っているとはどういうことでしょうか?

第二の質問です。「新約聖書の時代は、伝道が教会堂で、イベントプログラム式でなされていたでしょうか?」なされていませんでした。福音書を見ると神殿や会堂だけではありません。家屋、野山、海辺、町や村の辻、結婚式場、葬儀の場も伝道の場になっていました。また、使徒の働きを見ますと、迫害にあった人たちは道々、出会う人にみことばを伝えました。ローマ兵の家、川の洗い場、裁判所、異教徒の神殿、大講堂、船の上、牢獄…どんな場所でも伝道の場になりえました。ところが、近年の教会は教会堂を中心としてなされています。また、特別伝道集会やコンサートなど、イベント中心なところがあります。そのため、人を集めることが伝道になっています。専門家がみことばを語り、一般信徒は誘ったりもてなしたりすることです。私たちは、今の教会が聖書から離れていることを自覚する必要があります。

第三の質問です。「イベントプログラムと関係作りの伝道の長所と欠点をそれぞれ上げてください。」イベントプログラムで来た人は、信じても、何か問題があると去って行きます。一方、関係作りで信じた人は、何か問題があっても関係が残っているので、やがて復帰します。松戸の岡野牧師御夫妻が「生活伝道」によって効果を上げています。かつては、イベントプログラムでしたが、教会が潰れたとき、今の伝道法を発見したそうです。幼稚園や小学校で知り合ったお母さん方を対象にします。福音の愛で愛して、興味のある人には聖書の勉強をして導くそうです。同じように導かれた人が、同じように他の人も導くそうです。彼らは「だれでもできる生活伝道」と言っていますが、やっぱり彼らの賜物ではないかと思います。なぜなら人間関係の苦手な人もいるからです。でも、最近は宣教大会に人が集まらなくなり、むしろ人間関係で地道でやる方が効果的なようです。

第四の質問です。「イエス様が福音書で教えてくださった伝道の戦略とは何でしょうか?」イエス様は山の上や街の通りで福音を伝えました。また、人々の家に入って食事をした後で福音を伝えました。イエス様は今で言う、大衆伝道、個人伝道、小グループ伝道など、いろんな方法を用いたと思います。伝道に王道はなく、人々のニーズと自分たちの賜物でやれば良いのです。

 最後に、岡野牧師が書かれた「生活伝道」から引用します。すべての救われた者が、主によって遣わされた家庭、学校、職場、地域社会などの生活の場で、または、その他のところに出て行って隣人を愛し、未信者との間に友達関係をつくり、その友達に福音を伝えて救いに導く伝道の働きを言います。大事なことは、未信者のいる所に出て行くということです。伝統的に行われてきた教会の「来て下さい」という伝道は、いわゆる伝道講演会や伝道礼拝など、さまざまな集会プログラムをとおしてなされる伝道方法です。この場合は立てられた講師が福音を語り、信徒は未信者をその集会場に連れてくるという役割を果たします。一方、関係中心の伝道は、建物の中で行われる限られた期間の、特別なプログラムに期待するのではなく、毎日の生活の場を伝道の現場と考えます。アーメン。結論的に、「生活伝道」という名前を使わなくても、毎日の生活の場が伝道の現場であると思います。まず、父なる神さまに「今日だれに、福音を伝えたら良いでしょうか?相応しい人に出会わせてください」と、聞くべきです。また、相手が聞こうとしなくても、福音の愛で愛して、ただ仕えたら良いと思います。そうすると、「どうして私に親切にしてくれるのですか?」と聞かれるでしょう。そうしたら、「イエス様が私を変えてくださったからです。あなたもどうですか?」と始めたら良いのではないでしょうか?その相手というのが、教会に来ていない夫であり、妻であり、子どもであり、友人であり、会社の同僚だということです。

3.あなたは教会

Ⅰコリント3916「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。…あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

第一の質問です。「旧約時代、神殿はエルサレムにありましたが、新約の時代、神殿はどこにありますか?」私たち自身が神殿です。Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

第二の質問です。「もし、私たちが神の神殿であるなら、一定の場所に留まることがみこころでしょうか?」こういう公の集会は、一定の場所が良いかもしれません。でも、私たちが神の神殿であるなら、どんな場所も神の神殿(教会)になりえます。

第三の質問です。「旧約聖書が『エルサレムに来なさい』であれば、新約の教会はどうすべきなのでしょう?」新約聖書は「行きなさい」と言っています。「使徒の働き」をみますと、聖霊によっていろんなところへ派遣され、そこでクリスチャンの群れが作られました。エルサレムから散らされた人がサマリヤに行きました。また、ある人たちはアンテオケに行きました。アンテオケからエペソ教会やコリント教会が生まれました。エペソ教会からコロサイ教会が生まれました。ローマの教会の後、世界中に教会が生まれました。歴史が進み、教団や教派の教会が作られると、あまり動かなくなりました。

 第四の質問です。「あなたが教会であるなら、伝道の場所はどういうところになるでしょうか?」どの場所も伝道の場所になりえます。どの場所も教会になりえるということです。20113月に東日本大震災があり、大きな津波によって2万人近くの人たちが亡くなりました。特に岩手県や宮城県の漁村や港が甚大な被害を受けました。復興と同時に、福音宣教も進められました。現在、教会に全く来そうもない人たちが救われているそうです。あるところは教会堂が建てられましたが、多くは信仰者が点在しています。どういう意味かというと、従来の教会にそういう人たちを呼ぶのは難しいそうです。特に漁師の人たちは文化的な問題があります。それよりもこれまで存在していた人間関係を生かしながら、クリスチャンの群れを作るという試みがなされています。宮城県の北部に築舘というところがあります。その教会の岩浪牧師はもとキックボクサーで、ウェルター級のチャンピオンだったそうです。彼は100キロも離れた被災地に毎日のように出掛け、開拓伝道をしておられます。先生は個人伝道の達人で、100人くらいの人たちが救われたそうです。その中には仮設住宅で今も暮らしている漁師たちもおられます。まだまだ、被災したトラウマと戦っています。でも、教会に来そうもない人たちが福音を信じて救われたのです。でも、その人たちを1箇所に集めるのは不可能です。だから、今も先生が点在しているクリスチャンのところに通っています。従来の教会ではなく、現在集まっている人たちが、教会を作るように願っているそうです。

 8年くらい前、香港からベン・ウォン師がコーチングのため講師として2年間来られました。過激な発言と共に、どでかい花火を打ち上げて行きました。あれから8年経って、「あれは何だったんだ」と思うことがあります。つまり、先生がおっしゃるようにたくさんの教会が生まれませんでした。ある教会の牧師は「10年で40ケの教会を作る」と豪語しましたが、既に取り下げているようです。私も「調子の良いことを言って」と先生を恨んでいるところもあります。しかし、日本人の教会は日本人でやるしかありません。これまでも数えきれないほどの宣教師が日本に来られました。彼らは「日本が文化圏で最も難しい」と口々に言われます。私たちも甘えないで、自分たちで伝道し、教会を建てていくしかありません。しかし、ベン・ウォン師が言われた「教会とは建物ではなく、私たち自身が教会である」ということは聖書的な真理です。先生は「人々を教会に連れてきてはいけません。教会を人々のもとに連れて行きましょう」と言われました。もちろん、人々を教会に連れてきても良いと思います。しかし、それだけだと来る人はかなり限られます。教会の敷居を高くしているわけではありませんが、このままだと95%の人は教会に来ないでしょう。私たちの家族や親族、会社の同僚も一生、教会に行かないのではないでしょうか?このまま福音を聞かないで、滅びに行くのです。陰府に行ったとき、「あの人がクリスチャンだったことは知っています。でも、私に福音を語ってくれませんでしたよ」と言うかもしれません。ですから、私たちは発想の転換が必要です。自分たちこそが教会であり、人々のもとに教会を連れて行くということです。まさしく、動く教会です。

 10年くらい前に天にお帰りになった万代恒雄師が『キリストのセールズマン』という本を書いています。セールズマンは英語的な発音です。私はあまりにも先生のおっしゃることが過激なので、その本をゴミと一緒に捨てました。私は本を捨てるということはほとんどしません。そう言えば、ジョージ・ミューラーの『祈りの秘訣』という本も捨てたことがあります。彼は5万回も祈りが聞かれたそうです。私はその本があると脅迫観念を覚えるので捨てました。最終的には「ジョージ・ミューラーには信仰の賜物があり、一般的ではない」と判断したからです。また、万代恒雄師の『キリストのセールズマン』という本が手元にあると、これまた脅迫観念を覚えます。なぜなら、「牧師はセールスマンのように出て行け」と言うからです。しかし、10年前、私が説教で先生の本から引用している文章を見ました。それを見て、「ああ、先生の言われていることはやはり正しい」と思い、インターネットで古本を再び手に入れました。その本にこのように書かれています。「牧師は、自分は祈っている、聖書を学んでいると言う。しかし、これは当然のことである、自分の仕事なのだから。それは生涯の学びである。それをなまけていては牧師失格になる。しかし、セールズマンは人々の中に入っていかなければならない。牧師は信徒を牧会するという生涯の仕事がある。だからといって、わずかの信徒のお守りをして過ごしていいはずはない。イエスの命令は、すべての国人を弟子とせよとのことだから、出て行って人々に伝えねばならぬ大使命がある。結論的に申すと、クリスチャンはキリストのセールズマン、牧師もそうだということである。牧師は天国の公務員という見方もあるが、むしろ民間のチャレンジ精神が必要だということである。」これは私に対する戒めのことばでありチャレンジです。

 確かに伝道者のように福音を伝える特別の賜物がある人がいます。でも、イエス様は伝道が賜物でなくても、すべてのクリスチャンに「出て行って福音を宣べ伝えよ」と命じておられます。使徒パウロも「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう」と言っています。日本人がキリストを信じないのは、無知と偏見のゆえです。ギデオンの聖書を一度は手にしたことがあるかもしれませんが、中身をほとんど読んだこともありません。無知と偏見のゆえに「神はいないし、救いもない。人生はこの世限りだ」と信じ込んでいるのです。それも1つの信仰であります。使徒パウロは「返さなければならない負債を負っている」と言いました。つまり、この負債は愛と同じで、この地上に生きている間、払い続けなければならないということです。私たちが生涯において、一番感謝している人はだれでしょうか?私に福音を伝えてくれた人ではないでしょうか?それによって、私が罪赦され、永遠のいのちを得ることができたからです。キリストの福音はその人の永遠を決定するほど重要な知らせです。福音を伝えるしかありません。

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2014年12月 7日 (日)

「病の癒し」マルコ5:25-34 亀有教会 鈴木靖尋牧師  2014.12.7

 アダムとエバが神さまに逆らって罪を犯してから、人類の中に死が入りました。すべての病気は死を弱くしたものと言えるでしょう。また、土地が呪われたために、いばらとあざみが生えました。それは、人間に有害なものが動植物の中に生じたことを暗示させます。目に見えないバクテリアやウイルスも人間を攻撃します。エイズやエボラ熱がいま猛威を振るっています。癌は死亡率のトップになっています。医学がいくら発達しても病気はなくなりません。それは、病が罪と呪いから来たものだからです。病と呪いと死に打ち勝つ解決はあるのでしょうか?

 

 

1.長血をわずらった女

マルコ525-27「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。」この女性のことは、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されていますので、病の癒しに関する典型的な記事だと思われます。イエス様と弟子たちは、死に瀕しているヤイロの娘のところに向かっていました。一刻も争う状況の中で、この女性が癒しのために割り込んできました。会堂管理者ヤイロにとっては、迷惑な存在だったかもしれませんが、彼女は必死でした。彼女は、病気のゆえにどのような苦しみを負っていたのでしょう。「長血をわずらっている女」とありますので、婦人病の1つかと思われます。たえず、刺すような痛みが内側にありました。しかも、それが12年間続いています。もし、彼女が18歳に発病したのであれば、30歳ということになります。そのため、結婚もできなかったでしょう。また、「この女性は多くの医者からひどい目に会されて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」とあります。当時の医者は現代と違って呪術的なものが多かったかもしれません。ひどい目に会され、高い治療代を請求され、お金も持ち物も使い果たしてしまいました。もしかしたら、家族から「ごくつぶしめ」と言われていたかもしれません。しかし、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。現代でも、病気の治療は決して安くはありません。ある病気は薬も治療法もありません。そのため、苦しんでいる患者が多くいるのではないでしょうか?

それだけではありません、彼女は宗教的に汚れていると見なされました。レビ1525「もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。」彼女がさわったものが汚れるのであれば、どうなるでしょう?人の持ち物にもさわれません。また、人にも触れることができません。そのことは、彼女がうしろからイエス様の着物にさわったことと関係しているでしょう。前ではなく、後ろからということは、自分は汚れた存在だと思っていたのではないでしょうか?しかも、イエス様の手や体ではなく、着物です。ルカ福音書には「着物のふさ」と書いてあります。着物の一番、端っこということですが、もう1つ意味があります。たとえば、大祭司の服には、ざくろのかたちをしたふさが、いくつもついていました。そのふさは神さまの権威を象徴していました。かたちは違ったかもしれませんが、イエス様の着物にもふさがついていました。この女性は自分が汚れた存在であり、イエス様をも汚してしまうのではないかと恐れたことでしょう。だから、端のふさにでも触れることができればと思ったのでしょう。同時に、着物のふさは権威を象徴していました。そう考えると、彼女はイエス様の権威にすがりたいという思いがあったのではないでしょうか?なぜなら、あとから彼女の信仰がほめられているからです。旧約聖書では「らい病」も特別な病気として扱われています。その病気は神さまから呪われている存在と見られ、人々から離れて生活する必要がありました。現在、日本では、「らい病」は差別用語として使わないようにしています。ですから、新改訳聖書第三版では「ツアラト」とヘブル語読みを使っています。すべての病気がそうだということはありませんが、ある病気は、罪の呪い、罪の結果であると考えられたものもあります。ですから、そのような病気になった人は、肉体だけではなく、精神的、社会的、霊的な苦しみが伴ったことでしょう。現代は旧約聖書のような考え方をしないと思います。しかし、ある病気は隔離が必要だったりします。また、遺伝性があるものは家族に不安を与えます。今でも、重い病気は、人生に多大なダメージをもたらしてしまいます。

ある人たちは、「教会で病気のことを話すんですか?それは医者や病院がやることではないでしょうか?」と思うかもしれません。もちろん、私は医大で専門的に勉強したわけではありません。しかし、聖書は病気の根本的な原因が何かということを告げています。また、イエス・キリストが来られたとき、働きの三分の一が病気の癒しと悪霊の追い出しでした。しかし、18世紀啓蒙主義が発展してから、教会では病の癒しは触れないようになりました。そして、病の癒しは医者や病院が専門で、私たちが宗教的なもので良いと分けてしまいました。今もそう考える教会があります。でも、聖書は病の癒しは救いの一部であると教えています。残念ながら、いくら医学が発達しても、病気が根絶されないばかりか、増えています。保険や医療費が国家予算において、また家計においてどのくらい大きな比率を占めているでしょう。それに、私たち教会は、イエス様が病とその癒しに関心があったということを忘れてはいけません。

 

2.彼女の信仰

 

マルコ527-28「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。』」彼女は、ここに来る前にどのように考えていたのでしょう?「イエスさまのお着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていました。ギリシャ語の聖書は、「言っていた」と書いてあります。つまり、彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直る」とぶつぶつ言いながら、後ろから近づいたということです。つまり、彼女の思いが、言葉となってあふれ出ていたということです。もう1つ考えられるのは、彼女は肉体的にも非常に弱っていたと思います。群衆をかきわけて、なんとかイエス様に近づこうとしました。下手をすると、だれかから突き飛ばされたら、そのまま死ぬかもしれません。おそらく、腰をかがめ、はいつくばるような恰好で、必死に近づいたと思われます。そのとき、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直るんだ」と自分を奮い立たせたのではないでしょうか?でも、どうでしょう?着物にさわれば直るというのは、呪術的かもしれません。「イエス様が直すのであり、着物自体にそういう力はないでしょう?」と言いたくなります。でも、そのように口で言い続けたことも、また着物のふさにさわろうとしたことも立派な信仰であります。

なぜなら、彼女が着物にさわったとたん、このようなことが起きたからです。マルコ529-31すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」着物にさわった手を伝わって、イエス様の癒しの力が体の内部に臨んできました。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。イエス様も、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づきました。そして、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。弟子たちは、「群衆がこんなに押し迫っているのに、だれが触ったか分かる訳ないでしょう?」と答えました。つまりこういうことです。多くの人たちがイエス様に触ったと思われます。でも、信仰をもって触ったのは彼女一人だったのです。「ああ、そんなのは呪術的で迷信的だ」と馬鹿にするかもしれません。でも、彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言う信仰があったのです。イエス様から彼女に力が流れたのは、物理的な問題ではなく、彼女の信仰が接点となったのです。彼女は信仰によってイエス様から癒しの力を引き出したと考えるべきでしょう。イエス様が「だれかが、癒しの力を私から盗んでいった」とおっしゃりたかったのです。

彼女は信仰の手を伸ばして、イエス様の着物のふさに触れました。接点は小さかったのですが、ビビビビと癒しの力が伝わってきたのです。まるで、電気が流れるように、彼女の中に癒しの力が臨んだのです。ケネス・へーゲンの本にこのようなことが書いてありました。「人間は自然界に電気があることを発見しました。やがて、電気を発電し、それを各家庭に送ることができるようになりました。しかし、その電気が自動的に家を照らしたり、調理したり、家を暖めたり冷やしたりするでしょうか?私たちは電気器具をプラグに差し込み、スイッチを入れなければなりません。私は自然界に電気があるように、霊の世界にも神の御力が存在していることを発見しました。私は10代の時、不治の血液の病気で16ケ月寝たっきりでした。私のベッドのそばには、電気のコンセントがありました。だれでもそこに電灯のプラグを差し込むことができました。そうすれば、それは部屋を照らしたはずです。それと同じ理由で、癒すための神の御力は毎晩、私の部屋に存在していたのです。なぜなら、神はどこにでも存在しておられ、彼の持っておられるどんな力も彼と共にあるからです。ところが、その現れは私にありませんでした。なぜでしょうか?私がそれにプラグを差し込まなかったからです。しかし、193488日、私はその方法を学びました。信仰によって、私は神の癒すための御力にプラグを差し込んだのです。そして、私はこのように言うことを始めたのです。「私は健康であると、今信じています」。私は体が麻痺していましたが、上半身いくらか使えるようになっていましたので、両足をベッドから離しました。足は二本の木のように床に落ちました。私の腰から下は死んでいたのです。私は「神の言葉の通りに、私は癒されています」と言ったとたん、私はプラグを差し込んだのです。私は、あの御力が私の頭のてっぺんを撃ちたたき、じわじわと全身に下っていくのを感じました。それが、私の腰と両足に達したときは、まるで一万本の針が両足を突き刺しているような感じでした。それが起こったとき、私はまっすぐに立っていました。私はあの御力にプラグを差し込んだのです。あなたは、あなた自身の信仰で神の御力にプラグを差し込むことができるのです!」

 

3.完全ないやし

マルコ532-34「イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様はどうして名乗り出てくるように言われたのでしょう?婦人病なのですから、そっと帰してあげた方が、恥を与えないですみます。彼女も肉体が癒されたのだから、お手間を取らせずに、さっさと引き揚げたかったもしれません。でも、どうしてイエス様は、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われたのでしょう。それは、イエス様は、肉体の癒し以上のものを与えたかったからです。ルカ847「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。」とあります。彼女が自分のことを告白することによって、彼女自身に何が訪れたのでしょう?イエス様は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われました。

イエス様のことばから、彼女は肉体の癒しだけではなく、他に4つのものを手に入れました。第一は、彼女はイエス様から「娘よ」と呼ばれました。英国の聖書は ‘My daughter’となっています。「私の娘よ」です。彼女は宗教的に汚れた存在ではありません。神さまが所有し、神さまから愛される存在、イエス様の娘だからです。ハレルヤ!心が癒され、自分のアイデンティティ、存在価値がわかりました。第二は、信仰自体がほめられました。イエス様は私が直したとはおっしゃっていません。「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。彼女は「いえ、いえ、イエスさまの力です。栄光が主にありますように」とは答えていません。確かに、癒しの力はイエス様のものです。彼女がすばらしかったことは、信仰によってイエスさまから癒しの力をいただいたことです。でも、彼女はこっそり盗むようにいただいたのです。本来なら、「電気泥棒!」としかられても良いのです。でも、イエス様は彼女の信仰をほめました。第三は、「安心して帰りなさい」と祝福をいただきました。ギリシャ語では「平安のうちに行きなさい」という意味です。旧約聖書で平安はシャロームですが、繁栄、健康、和解という意味も含まれていました。彼女は12年間苦しみ、おそらく結婚もできず、家族からも厄介者扱いされていたでしょう。しかし、これからは神のシャロームをいただきながら、すべてものを享受できるでしょう。第四は、「病気にかからず、すこやかでいなさい」と言われました。この病気は単なる病気ではなく、罰、たたりかか来る病気という意味があります。だから、英語の聖書はplague疫病、悪疫となっています。つまり、そうそのような恐ろしい病気にならないようにとイエス様は封印を押されたと言うことです。つまり、彼女は「二度と私こういう病気にはかからないんだ。再発しないんだ」と保障されたということです。

つまり、彼女は肉体の癒しだけではなく、心、社会生活、霊、すべての面で癒しを受けたということです。ですから、英語の聖書では「すこやかでいなさい」は、be wholeとなっています。Wholeということばは、「全体の、すべての、全部の」という意味です。ケーキの丸いのを、ホール・ケーキと言います。最近はholistic medicineという言葉があります。予防も兼ねて、その人を全人格的に診るということです。肉体、思い、感情、生活環境であります。たとえば、ある人が胃潰瘍だとします。これまでは痛んだ胃の部分だけ診てきました。しかし、胃潰瘍になった原因を調べ、これから胃潰瘍にならないような生活指導も必要です。これと同じように、イエス様は私たちに肉体の癒しだけではなく、思い、感情、生活環境が癒されるように願っておられます。特に、イエス様は「病気にかからず、すこやかでいなさい」と言われました。これは、長血をわずらった女性だけに言ったことばではありません。今日の私たちにも、「病気にかからず、すこやかでいなさい」とおっしゃっておられるのです。つまり、健康であることは神さまの願いであり、神さまのみこころだということです。ある人は「病気も神様からのプレゼントだ」と言います。しかし、親は自分の子どもが病気になることを願っていません。同じように父なる神さまも私たちが病気にかからず、すこやかであることを願っておられます。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」アーメン。

 

4.病の癒しは贖い(救い)の一部

 

イエスは彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。しかし、この「直した」は原文では、救ったという意味です。ここから、病の癒しも救いの一部だということを考えることができます。イエス様が多くの人たちの病気を癒されたとき、イザヤ書のことばを引用されました。マタイ816-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」イザヤ書53章に「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」とあります。イエス様はこの地上に来られ、多くの人たちの病気を癒されたのは、意味があったということです。ここで「成就するため」とありますが、究極的に病を背負ったのは、十字架の上であります。つまり、イエス様は私たちの罪だけではなく、呪いや病すらも負われたということです。私たちがキリストの十字架の贖いを言うとき、「あなたの罪の問題は解決しています。信じるだけで救われますよ」と言います。同じように、「あなたの病の問題は解決しています。信じるだけで癒されますよ」とどうして言えないのでしょうか?

ペテロもイザヤ書を引用し、罪と同じように病の癒しを完了したものと言っています。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」アーメン。私たちの究極的な救いは罪の赦しをいただいて、永遠の御国に住まうことです。しかし、健康ですべてのことに恵まれ、地上で神さまから与えられた人生を全うすることも大切です。イエス様が十字架の上で、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」ならば、私たちが病気にいるままで良いのでしょうか?ある人たちは、病の癒しはご利益であると否定して、霊的な救いだけを求めます。聖書をそのまま信じる教会の中に、癒しを否定する人たちが多いということは非常に残念なことです。しかし、聖書をそのまま信じるならば、十字架の贖いの中に病の癒しも含まれています。だから、私たちは病を負う必要はありません。一病息災などという偽りも信じないでください。なぜなら、神さまは全人格的な癒しを願っておられるからです。もちろん、年を取ってくるといろんなところが壊れて、不具合が生じてくるでしょう。しかし、老いと病気は違います。申命記347「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とあります。これが神さまのみこころです。「愛するイエス様、あなたが私の弱さや病も十字架の上で負ってくださったことを感謝します。どうか、私のこの病も癒してください。私に御手を延べて癒してください。私もあなたに手を伸ばして触れさせていただきます。あなたが癒し主であることを信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」。

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2014年10月12日 (日)

つまずきに打ち勝つ     マルコ4:16-17

教会では「つまずく」ということがしばしばあります。ある出来事でつまずいた、あるいは人につまずいたということで教会を去る人たちがいます。牧師につまずいたというケースもあるでしょう。しかし、当時の人たちはイエス様につまずきました。つまずく人が悪いのでしょうか?つまずかせる人が悪いのでしょうか?イエス様は「つまずきが起こるのは避けられない」(ルカ17:1)と言われました。この世においては、つまずきがありえるということです。「つまずき」はギリシャ語で「スカンダロン」と言います。私たちがよく聞く「スキャンダル」の語源でもあります。本来は「罠の餌をつける棒」という意味で、鳥を捕まえるときに用いたと思われます。70人訳では「罠」またはその「餌」と訳しています。私たちの敵であるサタンが巧妙な罠をしかけます。人がその餌に食らいつくとき、つまずいてしまうのです。その結果、人間関係が壊れたり、教会を去って、信仰さえもなくしてしまうのです。より良い信仰生活を送るために「つまずきに打ち勝つ」と題して聖書から共に学びたいと思います。


1.根を張る

 イエス様は4つの土地に蒔かれた種のたとえ話を語られました。第二番目の種はどこに落ちたのでしょうか?マルコ4:16-17「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」このことばは、イエス様のたとえの解釈の部分です。土地が問題なのでしょうか?あるいは種が問題なのでしょうか?もし、土地に問題があるなら、運命論的になり、種には責任がないことになります。しかし、イエス様は「岩地に蒔かれる人」とおっしゃっているので、岩地と種の両方がその人の特徴になっています。また、このところに、「つまずく」という言葉が出ています。この人はなぜ、つまずいてしまったのでしょう?しっかり根を張らなかったためです。植物や樹木が根を張らないと、風で倒れたり、日照りで枯れてしまうでしょう。私たちクリスチャンは地域教会に植えられた存在です。なぜなら、私たちは自分の意志で地域教会を選んだというよりは、神さまに導かれたからです。神さまは私たちをある地域教会に植えて、そこで実を結ぶように計画しておられます。洗礼を受けるまでは、歓迎されて教会生活が楽しいかもしれません。しかし、1、2年たつと救われた喜びも冷めて来るし、兄弟姉妹や牧師の欠点が見えてきます。サタンは「今がチャンスだ」とばかり、巧妙な罠をしかけます。ちょうど何か起こって、腹を立ててしまいました。怒りとさばく気持ちが抑えきれず教会に行かなくなりました。これが、教会につまずくということです。つまずいた人は、サタンに騙されているので、自分だけが正しいと思い込んでいます。「自分は不当な扱いを受けた被害者なんだ」と、自分ばかりに目が行きます。

『人につまずくとき』の著者ジョン・ビビアはその本の中でこう語っています。「今日、指導者たちの間に誤りを見つけると、あまりにも簡単に人々が教会を去っているように思います。牧師の献金を募るやり方が気に入らないとか、あるいは、お金の使われ方に反対するといったことによるかもしれません。また、牧師のメッセージが気に入らないと教会を離れてしまいます。牧師が手の届かない存在であってもいやだし、またあまり親しすぎても批判の対象になります。このようにあげていくときりがありません。そういう人たちは、希望を持ち続けながら困難に直面するのではなく、何も問題もない場所に逃げ込むのです。問題から逃げないようにしましょう。イエスだけが完全な牧者なのです。難しい問題を解決せず、どうしてそこから逃げて行くのでしょうか。もし問題に直面しないままなら、私たちの心はつまずいたままでいます。」ジョン・ビビアは「まるでカフェテリアのように教会を移動している」と述べていました。さきほど申しましたが、神さまがあなたをその場所に植えたのです。しかし、サタンがあなたをそこから引き出そうと人間関係でつまずくようにしているのです。もし、「神さまがその教会を出なさい」と言われ、イザヤ55:12「安らかに導かれて出て行く」のなら別です。それ以外は、多少問題があろうとそこにとどまるべきです。もし、植物や実のなる木が「この場所はいやだ。移し替えてくれ」と言っていたならどうなるでしょう。農夫が「わかった」と言って、抜いたり、植えたりしていると根も木もダメになって、実を結ぶことはできません。いったん神さまが置かれた場所を去ると、根が縮み始めます。次に同じような場所に遭遇したとき、いとも簡単に逃げることができるのです。その人自身が根が深く張らないようにしているからです。そしてついに、迫害や困難に耐える力がほとんどないか、もしくは全くない状態になってしまいます。

もし、前の教会をさばいたり、問題を批判的に暴露して教会を出たならどうなるでしょう?その人が新しい牧師と教会の指導者たちに、前の教会でしたのと同じように反応しはじめるのは時間の問題です。なぜなら、人に対する怒りを心に持ち続けるなら、すべてのものをそのフィルターを通して見てしまうからです。この状況にぴったりの古いことわざがあります。開拓時代に人々が西へ移動している時のことです。ある賢人が、西部の新しい町の頂に立っていました。東部から来た人たちがその町に入る時、まずその賢人に出会うのでした。人々はその賢人に、この町の人たちはどんな人かと熱心に聞きました。その賢人は質問に答える代りに、逆にこのような質問をしました。「あなたが以前住んでいた町の人たちは、どんな人でしたか?」ある人はこう答えました。「私たちの住んでいた町は、とても悪い所だった。町の人々は、無礼でいつも陰口をたたき、罪もない人たちを利用していた。泥棒と嘘つきに満ちた町だったのさ。」そこで、賢人はこう答えました。「この町も、あなたがいたその町と全く同じです。」人々は、自分たちがまたも同じ問題に引き込まれなくてよかったと言って、その賢人に感謝しながら、さらに西部へと進んで行きました。それから別のグループがやって来ました。前の人たちと同じことを聞きました。「この町は、どんな町ですか。」賢人はまたも尋ねました。「あなたがいた町は、どんな町でしたか?」この人たちはこう答えました。「やあ、そこはとてもすばらしい町でした!すばらしい友達もいたし、みんなが他人のために何かをしていました。みんなでお互いを助け合っていたので、何にも不自由しませんでした。もし誰かが、何か大きな仕事をかかえていたら、町全体で助け合ったものです。だから、私たちにとっては、その町を離れる決心をするのはとても難しいことでした。でも、子孫のためには、どうしても開拓者として西部に行って、道を切り開かなければならないという結論に至ったのです。」その年老いた賢人は、前のグループに行ったのと全く同じ言葉を、彼らにも言いました。「この町は、あなたが住んでいた町と全く同じです。」その人たちは、それを聞いて喜び、「よし、それではここに移り住もう!」と言ったのでした。これは、前の教会とそこでの人間関係からどのように去ったかが、これから入ろうとする新しい教会とそこでの人間関係を決めてしまうということです。もし、心に恨みと苦々しい思いを持ったまま、教会もしくは人間関係から去るなら、次の教会に行っても、または新しい人間関係を結んでも、同じ心の態度が出てしまうのです。

本来はつまずきを乗り越えて信仰的に成長すべきであります。しかし、つまずきから立ち直れない一番の要素は何でしょうか?その人は、「私は不当な扱いを受けて傷つけられたんだ」という被害者意識を持っています。そういうプライドが自分の本当の姿を見えなくさせているのです。サタンの策略とは、その人のプライドを使って、つまずいた状態に閉じ込めておくことです。Ⅱテモテ2:25-26「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」その人は悪魔から騙されているのです。人につまずいてしまった人たちを大きく二つに分けることができます。人から実際不当な扱いを受けた人たちと、人から不当な扱いを受けたと信じている人たちです。後者の人たちは、自分たちの判断がどこか歪曲されています。でも、一旦騙されてしまえば、たとえ自分が間違っていても、自分は正しいと思いこんでしまうものです。パウロは「悪魔に捕らえられている人でも、悔い改めることによって、目ざめてそのわなを逃れることもある」と言っています。悔い改めとは、自分のプライドを捨てて心の変化を期待するということです。神さまの前に出て、「私は決して赦さないという権利を握っていました。しかし、赦さない権利をあなたの前に手放します。どうか、私の目を開いて、自分の本当の姿を見ることができるように助けてください」と祈ります。そうすることは、私たちの根を神さまにぐっと伸ばしていることになります。神さまに告白すると、私たちの中にある苦々しさや赦せない気持ちや怒りから解放されます。そして、「私にも自分の義を押し通すところがあったな-」と悔い改めます。そうすると神さまは私たちに新しい心を与えてくださり、同時に悪魔の罠から解放してくださいます。イエス様は「つまずきが起こるのは避けられない」と言われました。でも、この人がつまずき打ち勝ち、根を深く降ろすならどうなるでしょう。神さまからますます力と恵みをいただき成長し、豊かな実を結ぶことができるでしょう。


2.岩に土台する

 私たちは岩に土台することによって、つまずきに打ち勝つことができます。マタイ7章後半には2種類の家のたとえ話が記されています。1つ目は砂の上に建てられた家です。2つ目は岩の上に建てられた家です。砂の上に建てられた家は、嵐が来る前まではちゃんと建っていました。しかし、雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けると倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。岩の上に建てられた家はそれでも倒れませんでした。なぜなら、岩の上に建てられていたからです。雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるということは、イエス様が言われた「つまずきが起こるのは避けられない」ということです。だれの人生にでも、雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるような試練があるからです。では、岩とは何でしょう?また、岩の上に建てられるとはどういう意味でしょうか?もし、このことを理解するなら、つまずきに打ち勝ち、主の御栄えを現わすことができます。マタイ福音書で「岩」ということばが出てくるのはマタイ16章です。イエス様が「私をだれと言いますか」と弟子たちに聞かれました。そのとき、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。イエス様は非常に感激し、「このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいます私の父です」と言われました。つまり、これは人間の知恵や知識ではなく、神さまからの啓示であるということです。さらにイエス様は「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。ペテロはギリシャ語では「小さな岩」あるいは「石ころ」という意味です。「この岩」はとは、イエス様ご自身であると考えられます。なぜなら、イエス様が神の宮の礎石だからです。ペテロは「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」(Ⅰペテロ2:5)と言いました。ということは、石ころが大きな岩の一部となれば、強くて安定するということです。私たちが嵐のように襲ってくるつまずきに勝利するためには2つのことが必要だということです。それは、神から啓示されたことばと、岩なるキリストに土台するということです。

 第一は神から啓示されたことばです。ペテロは父なる神さまから啓示されて、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白することができました。聖書の勉強をしたり、聖句を暗唱することはとても良いことです。パウロは「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」(Ⅰコリント8:1)と言いました。なぜなら、雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるようなつまずきの嵐には知識があっても役に立たないからです。あのたとえは、マタイ7章は山の上の説教の結論になっています。両者とも主のみことばを聞いて学んでいました。しかし、砂の上に建てた人は、ことばを聞いても行わなかった人です。ですから、大切なのは多くの聖書知識よりも、みことばを実際の生活で適用することなのです。当時の律法学者やパリサイ人は聖書のことばを人々に教えるくらい良く知っていました。でも、彼らは実行しませんでした。やがて、彼らはイエス・キリストにつまずいてしまいました。イエス様のご生涯で最も人気があったときは、5つのパンと2匹の魚で5000人もの人たちを養ったことです。その時、人々は「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエス様を王様にしようとしました。しかし、その後、イエス様は人々に不可解なことをおっしゃられました。ヨハネ6:53-54「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」弟子たちの多くの者が、これを聞いて「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておれようか」と言いました。「そして、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って、もはやイエスとともに歩かなかった」と書いてあります。イエス様は12弟子に向かって、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と言われました。このときペテロは「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは永遠の命を持っておられます」と答えました。イエス様の人気はガタ落ちで、多くの弟子たちでさえもつまずいて去って行きました。なぜ、ペテロはつまずかなかったのでしょう?イエスさまがおっしゃったことばが、神からの啓示として分かったからです。他の人はイエス様のことばは聞きましたが、霊によって理解することができませんでした。イエス様は「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」と言われました。肉とは私たちの良い行いや私たちの知識や理解力です。御霊が与えるいのちは、神からの啓示されたことばによって与えられるものです。私たちは聖書を読むとき、あるいはこのようにメッセージを聞くとき、霊によって理解し、神さまからの啓示をいただかなければなりません。頭だけで理解すると知識が増して高慢になります。そうすると、彼らのように頭で理解できない時につまずきます。私たちは、人生において決断しなければならない岐路に立たされることがあります。教会で洗礼を受けるとき、学校や職業を選ぶとき、だれかと結婚するとき、家を建てたりするとき、お仕事でもあるかもしれません。そのとき、神から啓示された聖書のことばに立つべきです。自分の頭や人の意見に立ってはいけません。あとで、「あの人がこういったから」と後悔します。そうではなく、「主が確かにこのみことばを与えて下さったんだ。アーメン」と神からの啓示のことばに立つべきです。そうすると、不景気の嵐、離婚の嵐、裏切りの嵐がやってきても、つまずくことはありません。

 第二は岩なるキリストご自身に土台するということです。ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えたとき、イエス様からほめられました。しかし、イエス様が十字架の死を話した直後、「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と答えました。それで、「下がれ、サタン、あなたは私の邪魔をするものだ」としこたま叱られました。その後、ヨハネ6章で「肉を食べ、血を飲む」という主のことばもつまずかないで、理解できました。実はペテロを含めて12弟子はイエス様のことを正しく理解していなかったのです。また、彼らの動機も不純でした。彼らは「イエスさまが王様になったら、だれが右に座り、だれが左に座れるか」議論していました。イエス様はヨハネ6章で「そのうちのひとりは悪魔です」とおっしゃいました。なぜなら、12弟子のひとりであった、イスカリオテ・ユダがイエス様を売ろうとしていたからです。では、ペテロは大丈夫だったのでしょうか?イエス様は十字架にかかられる前の夜、このように言われました。マタイ26:31-33「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」「あっぱれ」としか言えないような立派な答えです。ルカ福音書で、イエス様は「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言われました。イエス様はペテロが激しいふるいから逃れるようにとは祈りませんでした。しかし、イエス様はペテロの信仰がなくならないようにと祈りました。でも、ペテロは十字架の前に恐れをなして、つまずきました。他の弟子たちもつまずきました。復活の朝、女性たちがお墓に行きました。そのとき、御使いは彼女らに、お弟子たちとペテロに、「イエスはあなたがより先にガリラヤに行かれます」と言いなさいと命じました。あえて、「ペテロに」と特別に名指ししたのは意味があります。

 建物に雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるとどうなるのでしょうか?その建物が何に土台しているか露わにされます。ペテロは何度か嵐に持ちこたえました。しかし、最後につまずきの嵐にまみえたとき、自分が生けるキリストに頼っていないということが分かったのです。ペテロが頼っていたのは、自分の意志、自分の熱心さ、自分の信念でした。外側から見たなら、立派なキリストの弟子でした。しかし、サタンからの激しいふるいにかけられたとき、すべてが暴露されました。「ああ、私は本当にささげきっていない。自分はイエス様を利用していただけなんだ」と分かったのです。それは、イスカリオテ・ユダも同じでした。イスカリオテ・ユダもイエス様につまずいたので、銀貨30枚で売ったのです。彼は後から「私は罪のない人の血を打った」と告白しました。しかし、シモン・ペテロのように善なる主を信じて、主のところには行きませんでした。ペテロはもはや、自分は偉大であると誇れなくなりました。ペテロは自らに対する自信を失った代わりに、主イエス・キリストに全面的に頼るようになりました。ペテロがペンテコステの朝、説教すると、3000人の人が救われました。試練を乗り越えたペテロは初代教会のリーダーとして用いられました。つまずきの試練を受けると心の中にあるものが露わにされます。神さまは、つまずきに打ち勝ち、信仰的にさらにアップすることを願っておられます。Ⅰペテロ1:7「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」この世においては、つまずきが起こるのは避けられないでしょう。しかし、私たちはキリストに深く根を降ろし、キリストに深く土台して、つまずきを乗り越えます、そして、主の恵みによって成長に、御栄えを現わす者となりたいと思います。


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2013年7月28日 (日)

環境からの救い     マルコ4:36-41 

環境からの救い     マルコ4:36-41    2013.7.28

 環境問題ということが叫ばれて、何十年たつでしょうか?住まい、食べ物、教育施設など、目に見える環境を変えれば、人間は幸せになると考えました。しかし、次から次と問題が噴出し、やはり人間は環境に押しつぶされて、失望落胆している人が大勢います。私たちは環境を変える前に、心を変えなければなりません。神さまは今も生きておられますが、私たちが神さまにそっぽを向いているので、この世界を変えることができないのです。聖書にいくつかの嵐の物語が記されています。嵐とは私たちが経験する環境問題ではないでしょうか?きょうは、どのようにしたら、この世の嵐を乗り越えられるか、環境からの救いを得られるかについて学びます。


1.自然界と信仰

 福音書には、イエス様がガリラヤ湖の嵐を沈められたことが2度記されています。1つは伝道の初期のころ、向こう岸のゲラサの地に渡るときです。もう一つはイエス様が5000人の給食の奇跡を行った直後です。向かい風で弟子たちが漕ぎ悩んでいるところに、イエス様が湖の上を歩いて近づいてこられました。きょうの箇所は、前者のものです。ガリラヤ湖は海抜マイナス200メートルくらいに位置しておりました。すり鉢状の地形の下に湖があるので、陸からの突風が時々、起こることで知られていました。ペテロをはじめ、多くの弟子たちはガリラヤ湖の漁師だったので、こういうことには慣れていたと思われます。ところが、その嵐は、彼らの技能と経験値をはるかに超えていました。先ほど読んだ箇所に、いつくか不自然な会話があることに気付かれたでしょうか。マルコ4:37-40「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

まず、第一に弟子たちがイエス様に言った言葉です。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」不平不満にも聞こえますが、弟子たちはイエス様が何とかしてくれるのが当然のように思っています。もし、私がイエス様だったら、「嵐と私と何の関係があるのか?あんたら漁師だろう?私は大工仕事が専門だ」と答えたかもしれません。第二は、イエス様が弟子たちにおっしゃった「信仰がないのは、どうしたことです」ということばです。マタイによる福音書には「信仰の薄い者たち」と書かれています。また、ルカによる福音書には「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と書かれています。信仰と嵐と何の関係があるのでしょう?信仰があれば嵐を静められるのでしょうか?この後、イエス様は起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、大なぎになりました。マルコ4:41「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」弟子たちの恐れは神さまに出会ったときのものでした。震えながら、イエス様を拝んだのではないかと思います。このところで、弟子たちの世界観は完全にひっくりかえされました。「嵐を沈め、自然界を支配できるなんて、もしかしたら神ではないか」と恐れたのです。もちろん、イエス様は神さまですから、こういう奇跡ができるのは当たり前でしょう。でも、それで終わりではありません。イエス様は「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。これはどういう意味でしょう?「あなたがたも、信仰があったら同じことができるはずですよ。どうして、信仰を用いないのですか?」という意味なのです。つまり、イエス様は「弟子たちも信仰によって嵐を静めることができて当然だ」と思っておられたのです。なのに、それができませんでした。だから、イエス様は「信仰の薄い者たちだなー」と嘆かれたのです。

 この記事を読んで、みなさんはどう思われるでしょうか?ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書学者が「祈り」についてこう述べています。「祈りは状況を変えず、われわれを変える。状況は前と変わらない。だが、私たちは新しい勇気と新しい力とそれに取り組む新しい能力をもって、その状況に対応できるのである。」この考え方は、半分当たって、半分当たっていないと思います。なぜなら、ここでは、弟子たちが状況を変えることができるようにみなされているからです。また、弟子たちはイエス様に叫び求めました。私たちの祈りと同じです。すると、イエス様は本心ではなかったかもしれませんが、嵐を静めてあげました。ウィリアム・バークレーは有名な聖書学者です。彼が書いた注解書は日本ではベストセラーであり、多くの牧師たちが説教のために参考にしています。しかし、彼は奇跡をそのまま信じていません。いわゆる霊的な解釈をほどこしています。それがすばらしいんだという人もいますが、奇跡は奇跡として捉えるべきです。実際に嵐が静められたので、弟子たちはイエス様を恐れたからです。ウィリアム・バークレーの時代の教会は、理神論や合理主義の影響を強く受けていました。当時の教会は、神さまはこの世界を創られたことは信じていました。しかし、「創造の後は神さまはこの世界に対してはノータッチであり、自然の法則によって世界が動いているんだ」と考えました。つまり、「奇跡は起こるかもしれない。しかし、それは稀であって、めったに起こらないことなんだ。その代わり、人間の知恵と力によって自然の法則を発見して、色々なことを克服していくんだ」という考えです。いい意味では自然科学ですが、悪い意味では無神論に近い考え方です。

 では、なぜ、イエス様は弟子たちに嵐を静めることができるようなことを言われたのでしょうか?それは創世記1章にさかのぼります。創世記1章で、神さまがアダムを作ったあとにこのように言われました。創世記1:28「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」そのところで、「地を従えよ」と命じられていたことが分かります。つまり、人間は神さまから、自然界を支配できる権威が与えられていたということです。でも、堕落したので、その権威を失ったばかりではなく、呪いが入り込んでしまいました。創世記3:18「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」とあります。土地が言うことをきかなくなりました。干ばつや洪水、あらゆる災害が及ぶようになったのではないかと思います。イエス様が自然界を支配することができたというのは、神だからではなく、人間の標準を示されたということでもあります。だから、「イエス様は弟子たちにできて当然だろう」みたいな思いがあったのです。でも、ここで問われているのは「信仰」です。信仰がなければ、それができない。信仰があればそのようなことが問題なくできるということです。では、それはどのような信仰なのでしょうか?マルコ11:22-23イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」アーメン。「神を信じなさい」はギリシャ語の原文では「神の信仰を持ちなさい」であります。このような信仰は生まれつきの私たちにはないものです。でも、神さまがその信仰をくださるなら、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えば、そうなるのです。つまり、イエス様は、アダムの堕落によって失った力を回復させてくださいます。それは、信仰によってです。

 近代の神学者たちは、神さまと世界とは離れていると考えていました。つまり、世界は閉ざされたものであり、神さまの介入なしでひとりでに動いているということです。ということは、この世界は閉ざされているので、神さまの奇跡はめったには起こらないということになります。確かに人間が罪を犯してからそのように考えることも可能です。しかし、イエス様は「神の国は近づいた」とか、「神の国はあなたがたのただ中にあります」とおっしゃいました。神の国の本当の意味は、神の御支配という意味です。イエス様と一緒に、神の国がこの世に突入したということです。そして、私たちが信仰もって、イエスの御名によって「山よ、動け」と言ったならば、山は動くのです。なぜなら、その信仰は神さまがくださった賜物であり、奇跡を起こす管となるのです。ある先生が「奇跡が起こるときというのは、神さまにプラグを差し込むようなものです」と言われました。家では、コンセントがどこにでも見当たります。そこに、何らかの電化製品のプラグを差し込むとスイッチを入れただけで動き出します。でも、プラグを差し込こんでいなければ、電化製品がどんなにすばらしくても動きません。同じように、私たちが神からの信仰を用いるならば、神さまがこの世に奇跡をもたらしてくださるんだということです。ということは、聖書は、私たちが信仰を用いるならば、環境すらも変えられると教えているのです。ハレルヤ!2000年前、イエス様が神の国をこの地に持ってこられました。ですから、主の祈りにあるように、「この地に御国が来ますように、みこころがなりますように」と祈るべきなのです。そして、私たちこそが、この地に御国をもたらすように、働くべきなのです。ある人は祈ったら、雨が晴れたと言いました。私は「えー?」と疑いました。しかし、旧約聖書のエリヤは祈ったら、雨が3年と半年、一滴も降りませんでした。しかし、再び祈ったら、雨が降りました。エリヤも私たちと同じ人でした。ですから、私たちもできないことはないのです。アーメン。


2.環境からの救い

この世には、さまざまな問題があります。格差社会からくる貧困、原発の被害、就職難、がんなどの病気、離婚による家庭の崩壊、子供たちの非行、犯罪や詐欺事件、住宅難、老後の心配、人間関係のもつれ、大震災の恐れ…きりがないほどあります。新聞やテレビニュースは毎日のように、この世の不条理を洪水のように押し流しています。私たちはそれを聞いただけで、「ああ、私たちは無力な存在だ。神も仏もないなー」と恐れるでしょう。では、神さまがこの世に対して、たまにしか手を伸べてくれないのでしょうか?環境を変えると言っても、どのように信仰を用いたら良いのでしょうか?私は環境からの救いを得るためには3つの方法、あるいは3段階あると思います。もちろん、神さまは私たちのために、奇跡を起こしてくださいます。しかし、いくつかの段階(ステップ)を通るようにと教えておられると思います。そのことを使徒パウロが嵐を乗り越えて、ローマにどのように達したかという物語を例にして学びたいと思います。

第一は、一般恩寵を用いるということです。一般恩寵とは、神さまがこの地上に与えた、一般的な恵みです。パウロはユダヤ人の陰謀によって訴えられ、殺されるところでした。パウロはどのようにして難を逃れたでしょうか?神さまに「ユダヤ人の心を変えてください」と祈っても、叶わなかったでしょう。神さまは、頑ななユダヤ人が起源70年にローマ軍によって滅ぼされることを見定めていたからです。それで、パウロは自分が持っている、ローマ市民権を用いました。つまり、パウロはローマ市民なので、カイザルに上訴しました。するとどうなったでしょう?なんとローマの千人隊長がユダヤ人からパウロを守りました。使徒23:23-24「そしてふたりの百人隊長を呼び、『今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ』と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。」なんということでしょう。パウロのために、少なくとも470人以上のローマ兵が動いたということです。神さまは私たちに知恵を与えておられます。「この世のものは、神さまが作ったものですから、しもべとして用いなさい」ということなのです。ある人が、国会議事堂の前で原発反対のデモ行進に参加したそうです。すると、大勢の警察官が守ってくれたそうです。普通、警察官というといかつい感じがありますが、とても親切にしてくれたそうです。そうです。私たちは何か事件があったら、警察に電話をかけることができます。子供や結婚、家庭のことは、区役所とか家庭裁判所、その他、いろんなNPO団体があります。DVなどからかくまってくれる施設がたくさんあります。ちょっとお金がかかりますが、法律事務所もあります。世の中にはその手の専門家というのがいるものです。専門の病院なども、インターネットで調べることが可能です。ですから、神さまがくださった一般的な恵みを最大限に用いるということです。

 第二は、神からの啓示です。神さまは私たちに啓示を与えて、この世に働きかけたいと望んでおられます。神さまはだれにでも語るわけではありません。神さまと霊的につながっている人を用いられます。また、その人は神さまのお声をキャッチできる人でなければなりません。と言うことは、私たちが神さまのお声を正しくキャッチできるため、整えられる必要があるということです。私たちがはじめから「それはできない、無理だ」と思って、神さまに期待もしなかったらどうでしょうか?神さまは、恵み深いので、何度かお語りになるでしょう。しかし、その人が、断り続けるならば、他の人のところへ行きます。もっと、素直で、信仰のある人を探します。そして、その人に祈るように、あるいは何か行動するように語られます。使徒パウロが捕えられ、ローマに向かって船出しました。クレテ島で一休みしているときです。パウロは人々にこのように警告しました。使徒27:10-11「『皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言った。しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。」パウロは自分の経験と神さまの示しによって警告しました。しかし、そのまま船出したために、ユーラクロンという暴風雨に巻き込まれました。同船していたルカは「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」(使徒27:20)と記しています。『奇跡の入り口』という本をビル・ジョンソンという人が書いています。その本の中で、啓示の重要さについて述べています。聖書は「私の民は奇跡がないために滅びる」とは言っていません。箴言29:18「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と言っています。この御言葉の完全で正しい訳はこうです。「預言的な啓示がなければ、民はほしいままに動き、堂々巡りをして、目標のない人生を送る」。聖書で言うビジョン(啓示)は、目標という意味ではありません。目標は確かに良いものですが、ここで言うビジョンは、見えない物の啓示を与える霊の幻のことです。啓示は私たちの生活に必要不可欠なので、それなしでは私たちは滅びるのです。神の視点から人生を見る能力を高める預言的啓示が明らかにされないなら、あなたは滅びることになるのです。

 第三は神の人を通しての介入です。使徒27:23-25「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」その船には、パウロを含めて276人いました。ローマの百人隊長、航海士、船長、船員、そして囚人たちが乗っていました。パウロも囚人の一人でしたが、現在は船のリーダーとなっています。なぜでしょう?御使いが現れて、「神さまが、パウロをカイザルの前に立たせる。パウロと同船している人々を与えた」と告げました。つまり、神さまがパウロをカイザルに立たせるために、その船を守るということです。そして、パウロとその船に一緒に乗っている人たち全員も守られるということです。パウロは全員の人々を励まし、最後の食事を取るように勧めています。神さまがこの世界に介入するとき、神さまは神の人を用います。神の人が、御自分が与えた運命を果たせるように、御手を動かすということです。旧約聖書ではモーセによって紅海を2つに分けました。また、ヨシュアが完全な勝利を収めることができるまで月と太陽を1日止めました。ダニエルのために、ライオンの牙をふさがれました。新約聖書ではイエス・キリストを通して、さまざまな奇跡を起こされました。すべての奇跡は、イエスさま御自身がなされたというよりも、イエスさまを通して、神さまがなされたというのが正しいのです。たとえば、死んで4日目もたったラザロを生き返られるときこう言われました。ヨハネ11:41イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」アーメン。今日も、神さまはだれかに祈ってもらいたいのです。今日も、だれかが自分の管となって、この世界に奇跡を起こしたいと願っておられるのです。神さまはこの世界に今も介入されます。しかし、御自分と同じ心をもった、神の人を通して、なさりたいのです。

 私たちは私たちをとりまく様々な環境に対して、あまりにも受け身的ではないでしょうか?たやすく、「これも神さまのみこころです」と言いがちではないでしょうか?もちろん、神さまのみこころというものが、窮極的にはなります。しかし、その反対に自分がメシアのようになって、社会を改革していくというのも問題です。教会は政治結社や社会運動の基地ではありません。しかし、2000年前、イエスさまとその弟子たちがなさったようにこの世界を変えることはできます。.その第一は福音宣教です。福音を信じるとき、人々と神さまとの間に和解が訪れます。そうすれば、神さまはその人たちの祈りと願いを聞いてくださいます。第二は神さまの啓示を受けるということです。聖書のみことばを読んで、主と交わるときに、「これをしなさい」「これが可能です」とおっしゃってくださいます。第三は、私たちが直接やるというよりも、私たちを通して神さまが現れてくださるように求めるのです。私たち教会は、神さまの器です。私たちと一緒に今もイエスさまは歩いておられます。私たちが手を差しだすとき、イエスさまが手を差し出してくださいます。私たちが語るとき、イエスさまが語ってくださいます。その結果、私たちをとりまく、環境が変えられていくのです。残念ながら、この地は滅びます。私たちは新しい天と新しい地が来ることを待ち望んでいます。でも、イエスさまは「あなたがたは地の塩であり、世の光である」とおっしゃいました。ですから、地の塩として、できるだけ地の腐敗をとどめなければなりません。また、世の光として、神さまの真理を暗い世の中に示していく必要があります。日本はクリスチャン人口が少ないから微力だと思うかもしれません。しかし、塩は少なくても、塩気があれば、十分に間に合います。また、光がたとえ小さくても、周りがあまりにも暗いので、輝いてみえるのです。私たちは遣わされた場所で、地の塩、世の光の役目を喜んで果たしたいと思います。

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2013年3月 3日 (日)

悪霊からの解放     マルコ5:1-13 

 昔、「エクソシスト」という悪魔祓いの映画がありました。きょうのメッセージは、まさしくそのような箇所です。ある人たちは、「そんなの迷信だ」「精神的な病だ」と、信じないかもしれません。しかし、隠れたところで、悪魔は人々を惑わし、拘束し、最後には死に向かわせます。この世の神である悪魔は、組織的に働いて人間を苦しめています。大きなものは、戦争であって「戦争は悪魔のリバイバルだ」と言われています。中くらいなものは、宗教や思想によって人々を支配します。また、個人的には病気や犯罪、殺人、自殺など、悪魔が関係しているものもあります。悪魔は別名、サタンと呼ばれています。サタンとは「敵」という意味であり、神に敵対する霊的な存在です。神さまに対抗してもかなわないので、もっぱら神の被造物の冠である人間を攻撃します。サタンの策略とは、人間をできる限り、神から引き離し、栄光を現わせなくすることです。

1.ゲラサ人のケース
 ゲラサ人に入った悪霊は「汚れた霊」でした。しかし、その数はレギオン級でした。レギオンとはローマの1軍団であり、6000人で構成されていました。ここではそれが「大ぜい」という意味で用いられています。あとで、2000匹の豚が、狂って崖から駆け降り、死んでしまいました。それくらい、大きな破壊力があるということです。しかし、彼の場合はとても重症なケースで人格まで乗っ取られていました。イエスさまが彼の名前を尋ねましたが、彼自身ではなく、彼の中にいた悪霊が「私の名はレギオンです」と答えたからです。悪霊に取りつかれた場合、英語ではpossessedと言います。これは「所有された」という意味です。彼の場合は人格まで支配されていたのですから、よっぽどの重症であったのでしょう。しかし、このような人は稀で、多くの人は霊、魂、あるいは肉体の一部分を支配されます。私たちの心には意志という門番がいますので、神さまであっても、勝手に入ることができません。何かの理由で、一部分を支配されたということです。悪霊から、どこか一部を握られていると、そっちの方にひっぱられてしまいます。たとえば、耳たぶとか、小指であっても、ひっぱられるとそっちへ行ってしまうでしょう。この人は人々の中で暮らすことができず、墓場に住んでいました。彼は怪力の持ち主で、人々が鎖でつないでおいても、ダメでした。マルコ5:5「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」とあります。人々ばかりか、自分自身をも破滅させてしまうのが、悪霊の目的です。
 イエスさまはこの人と出会ってくださいました。この人は自分の意志が支配されていますので、自分からは何もできません。彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。イエスさまは悪霊によって捕えられている、あわれな兄弟を救おうとされたのです。悪霊どもはイエスさまをとても恐れていました。マルコ5:6-7「大声で叫んで言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。』それは、イエスが、『汚れた霊よ。この人から出て行け』と言われたからである」。人間には分かりませんが、悪霊の世界では、イエスさまは有名でした。イエスさまが「いと高き神の子」であることが分かっていました。悪霊はイエスさまを拝みましたが、それは怖いからであり、滅ぼされたくないからです。「まだ、世の終わりの裁きは来ていないでしょう」と言いたかったのです。ある人たちは、このケースを誤解して解釈し、「悪霊の名前を聞いてから、追い出すべきである」と言います。イエスさまは名前を聞きましたが、それは悪霊に聞いたのではありません。その人の中にいた、悪霊たちが勝手に答えたのです。イエスさまは「汚れた霊よ。この人から出て行け」と命じられただけです。私たちも同じように、悪霊と会話をすべきではありません。悪魔の手下、悪霊もそうですが、とても嘘つきです。あちらの方が、私たちよりも何千年も長生きしているので、知識や知恵ではかないません。悪霊と会話しただけで、既に、敵の陣地に自分が入っているということを忘れてはいけません。多くの人たちが、悪霊を追い出すミニストリーをしています。しかし、ある人たちは完全に欺かれています。なぜなら、悪霊と会話したために、聖書的でない考えを受けてしまっています。ですから、悪霊とは会話をしてはいけません。取り引きもしてはいけません。ただ「イエスの御名によって出て行け!」と命じれば良いのです。
 悪霊を追い出してもらった後、この人はどうなったでしょう?マルコ5:15「そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。」これは、彼が完全に癒されたということを意味しています。彼は解放され、社会生活ができるようになりました。彼はイエスさまのお供をしたいと願いました。しかし、イエスさまは「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」と言われました。ある人はイエスさまに着いて行くことが求められ、ある人は家に帰って証をするように求められます。彼は家に帰って、証をする方がみこころだったです。マルコ5:20「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」ここには、人々が信じたとは書いてありません。でも、かつて悪霊に支配されていたのに、正気になったということでとても驚いたことは確かです。彼は3つのことを伝えました。かつては、墓場で自分を傷つけて裸で暮らしていたこと。イエスさまが悪霊を追い出してくれたこと。今は、自分が正気になって暮らしていることです。私たちもケースや内容は同じでなくても、この3つのポイントで証をすることができます。

ある教会にこういう牧師がいました。「私は若いころ、精神病院を出たり入ったりしていました。しかし、イエスさまによって癒されて、こうなりました」と事あるごとに証をしていました。教会員は耳にタコができるくらい聞いたので、「先生が精神病院にいたことを何べんも聞くのは嫌ですから、もうやめてください」とお願いしました。先生はそれから、その証をしなくなりました。それから、説教に力が入りません。イザヤ51:1「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とあります。先生は教会員にお願いしました。やっぱり、あのことを話さなければ、力が出ませんと言いました。再び、「私は若いころ、精神病院を出たり入ったりしていました。しかし、イエスさまによって癒されて、こうなりました」と証しました。すると、元どおり力強く説教できるようになったということです。私が「8人兄弟の7番目に生まれた」と言うのと同じです。私たちはイエスさまと出会う前、どんなに暗い生活をしていたか、忘れてはいけません。自分がどんなに罪深かったか、悪かったかということも話しても結構です。でも、もっと重要なことはイエスさまが自分にどんなに大きなことしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを証することです。恥は我がもの、栄は主のものです。デパートの宝石売り場に行くと、ダイヤモンドはどういう布の上に展示されているでしょうか?白い布ではありません。ビロードのような黒い艶消しの上です。かつての私たちが暗い生活をしていたなら、それに比例して、イエスさまの輝きが増すのです。イエスさまを最も愛した人はだれでしょう?また、イエスさまから最も愛された人はだれでしょう?それは、マグダラのマリヤです。彼女はかつて7つの悪霊を宿していた人です。7つとは完全数です。完全に悪霊に所有され、汚れた女性であったと思われます。しかし、イエスさまは悪霊を追い出し、「汚れ」とマリヤ自身とを分離してくださいました。今も同じように、イエスさまは私たちを悪霊から解放し、神の息子、娘にしてくださいます。


2.悪霊の対抗策
 ことわざに「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」とあります。悪霊は私たちの敵です。やはり、彼らの策略を知り、それに対抗することが恵まれた生活を送る秘訣ではないでしょうか。エペソ4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」このところに出て来る「機会」は、ギリシャ語ではトポスと言い「場所」という意味です。しかし、これが悪霊との関係で用いられるときは、「足場」とか「足がかり」という意味になります。もし、これがもっとひどくなると、「要塞」になります。怒ることは、必ずしも罪ではありません。しかし、怒ったままでいると、つまり怒りを次の日まで持ち越すとそれが悪霊の足場になるということです。聖書に「苦い根」という言葉が出て来ます。人を赦さない罪、怒り、憎しみが根を張るとどうなるでしょう。そこから、悪いものが出てきて人々を汚します。苦い根は、一度、生えるとなかなか抜くことができません。なぜなら、そこに悪霊が場所を設けることがあるからです。私たちはそういう意味でも、心と体を敵が侵入しないように守るべきではないでしょうか?
 悪霊が場所を設ける罪には3つの種類があります。悪霊は霊的な存在ですから、肉体を持っていません。私たちの肉体は悪霊にとってお家であり、悪霊は住むべきお家を探しています。では、どんな罪を犯している人に悪霊が入るのでしょうか?第一は霊的な罪です。これは、偶像礼拝、占い、オカルト、霊能者の祈りを通して入るものです。たとえば、ある人が仏壇を拝んでいるとします。仏壇は物ですから、それ自体が悪霊ではありません。しかし、悪霊は人から拝まれたいと望んでいます。たまたま、通った悪霊が「ああ、仏壇を拝んでいる人がいる。しかも、いろいろお願いしている。拝んでいる人のところに入ろう」と思うのです。その人に、悪霊が入ると、本当の神さまを信じることが困難になります。「ご先祖様のところに行くのが、当たり前。日本には日本の宗教がある」と思ってしまいます。悪霊も、「キリスト教は外国の宗教だ。だまされてはいけない」と言うでしょう。ある人は、お宮参りとか七五三のために、神社にお参りに行きます。多くは感謝の気持ちで行くのですが、ある人は「この子を末永く守ってください」と奉げるような祈りをするかもしれません。もし、神社の背後に悪霊がいたら、「わかった。そうしましょう」と言うでしょう。それは一種の契約であり、クリスチャンになった後であっても、効力があります。クリスチャンになってから偶像崇拝をする人はいません。影響を与えるのは、クリスチャンになる前のものです。自分あるいは、親による偶像崇拝によって、悪霊が足場を設けることがあります。多くの人たちは、神社の氏子になっています。知らないでお願いしたかもしれません。そういう場合は、悔い改めた後、イエスの御名によって契約を断ち切る祈りをすべきです。10数年前に、解放のキャンプというものがありました。クリスチャンになりたての頃、こういう偶像崇拝を悔い改め、悪霊から解放される必要があります。そうすると、霊的な成長がぐーんと早まります。
 第二番目は魂の罪です。ここで言う魂とは感情や思いのことです。怒りとか憎しみ、深い悲しみなどからも悪霊が入ります。だから、パウロは「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と警告しているのです。夫婦が離婚にまで発展するのは、怒りや憤りをそのままにしておくからです。また、受けたトラウマや失望落胆から鬱になり、自殺をする人がいます。全部とは言いませんが、あるものはそうです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです」とあります。盗人とは悪魔のことであり、私たちのことを盗み、殺し、滅ぼすため、日夜働いています。また、私たちの「思い」は霊的な戦場と言えるでしょう。ユダはどうしてイエスさまを裏切ったのでしょうか?ヨハネ13:2「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」と書いてあります。これは最後の晩餐の前であります。しかし、ルカ福音書には「イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った」(ルカ22:3)とあります。おそらく、思いの方が先であり、そのあとでサタンが入ったと思われます。私たちの思いには、4つの声が聞こえてきます。イエス様の声、自分の声、人々の声、そして悪魔の声です。私たちは聖書を読み、イエスさまと常に交わっている必要があります。「羊はその声を聞き分ける」(ヨハネ10:3)とあるからです。しかし、ほとんど祈らないで、人のことばや、テレビ、この世の情報に耳を傾けています。そうすると、いつの間にか否定的で破壊的な思いによって、支配されるでしょう。

解決法は何でしょうか?Ⅱコリント10:5「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」とあります。パソコンにウイルスが入ると、ウイルスソフトが起動して、「ばー」と取り囲みます。私たちも神の知識に逆らうものが入ったとき、それを虜にして、キリストに服従させなければなりません。どうぞ、感情と思いを守ってください。マインド・コントロールというのがありますが、カルト宗教だけから来るものではありません。親が子供に、怒って吐いたことばがマインド・コントロールになります。たとえば「お前は一生、出世しない。貧乏で暮らせ」と呪ったとします。その人の思いを支配して、手かせ足かせとなってしまいます。私たちは人々から、非難や中傷、呪いのことばを受けるときがあります。そのことばが、トラウマになって、毒蛇にかまれたような状態になるでしょう。悪霊がそこにやってくると、束縛され、自由がなくなります。パウロは遭難からせっかく助かったのに、一匹のまむしが手に噛みつきました。島の人々は、「この人は人殺しだ。まもなく死ぬぞ」と言いました。ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けませんでした。どうぞ、人々からの非難や中傷を振り落としましょう。いつも、感情と思いを守ってください。なぜなら、いのちの泉はそこから湧くからです。

 第三は肉体の罪です。悪い習慣からも、悪霊が入りこみます。汚れた霊が入るから、汚れたことをするのではありません。ある人が汚れたことをしょっちゅうしているとします。たまたま、汚れた霊がそばを通るとき、「ああ、この家は私の好みだ。住みたいと思って」入るのです。そうるとその人は、一層、汚れたことをするようになります。男性の場合は、ポルノのDVDとかウェブは要注意です。悪いことばもそうです。私は兄には力で負けるので、悪口や皮肉を言って対抗しました。今もなかなか、抜けないところがあります。ヤコブは「舌は少しもじっとしない悪であり、死の毒に満ちている」(ヤコブ3:8)と言いました。また、薬物や麻薬によって、悪霊が入ります。そのために、いろんな幻覚や幻聴が聞こえるようになります。薬物は体だけではなく、精神を狂わせ、悪霊に対してドアを開くことになります。テレビのニュースで強盗殺人を繰り返した人が出て来ます。なぜ、彼がそこまでエスカレートしてしまったのでしょうか?それは、いつも悪いことを考え、さらには悪いことを行っていたからです。そこに、悪霊が入って、その人自身に残酷なことをさせたのです。でも、責任はその人にあります。その人が、悪いことを継続的に行って、悪霊にドアを開いたからです。私たちは主の祈りでいつも祈ります。「我らを試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ」と。「悪」とは単なる悪いことではありません。誘惑を持ち込み、悪いことさせる悪魔のことであります。この世は悪魔が支配しています。だから、私たちは常に神のご支配を求め、悪魔から救い出してもらう必要があるのです。

3.私たちの立場
 最後に私たちがどういう者であるのか、ということを知ることがとても重要です。ある人たちは、霊的戦いをとても強調します。常に悪霊を意識して、人々の背後に、物影に悪霊が働いていると思っています。もちろん、パウロが言うように、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着ける」(エペソ6:11)必要があります。でも、それよりも重要なことがあります。それは、自分が主にあって何者であるか、ということです。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。これはどういう意味でしょう?私たちの肉体はこの世、つまり地上にあります。私たちの上に霊的な存在がいます。天使や悪霊は目に見えませんが、私たちの上に働いています。特に悪霊は未信者を虜にして、いじめています。悪霊は私たちをも誘惑し、攻撃してきます。しかし、私たちには聖霊と天使の守りがあります。私たちが主の御名によって祈るとき、神のもとから天使が遣わされ、私たちを守ってくれます。これまでの教会は、このくらいまでしか話しませんでした。天国に行くまで、悪霊に負けるか勝つかの戦いに明け暮れるしかないのでしょうか?そうではありません。エペソ2章にあるように、私たちは「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。私たちは霊的には悪魔よりも高い、神の御座に座っているのです。私たちは地上から天に向かって「神さま私を助けてください」と叫ぶ必要はありません。目をつぶるならば、私たちのすぐ隣にはイエスさまがおり、その向こうには父なる神さまがおられます。なぜなら、私たちはイエスさまと共に天の所に座らされているからです。ハレルヤ!私たちには神の子としての、霊的権威が授けられているのですから、悪魔を踏みつけることができるのです。私たちのバックには、神さまの権威がついているのです。悪魔や悪霊は私たちを怖がっているのではありません。背後にいる、神さまの権威を怖がっているのです。
 私は毎朝、散歩しますが、青砥陸橋の下を通ります。たまに、白バイの運転手や婦人警官が橋の下に立っています。「ピピピー」と笛を吹くと、10トンのダンプトラックも言うことを聞きます。400馬力もあるようなダンプカーが、一人の小さな人間の言うことを聞くのは何故でしょうか?ダンプカーには確かに大きなパワーがあります。しかし、警察官には権威という力があります。ギリシャ語で権威はエクスーアです。私たちはパワーも必要ですが、エクスーア(権威)も必要です。イエスさまは天にお帰りになるとき、弟子たちに何と言われたでしょうか?マタイ28:18,19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。私たちがイエスさまを信じているなら神の子であり、いっさいの権威が与えられているのです。だから、私たちは悪魔に立ち向かうことができるのです。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」アーメン。

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2013年2月 3日 (日)

盲人の癒し     マルコ10:46-52

 かつてヨシュアは、難攻不落のエリコを神の奇蹟的な力で滅ぼしました。そのとき、ヨシュアは、このように呪いました。ヨシュア6:26「この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」何世紀もの間、ヨシュアの呪いを恐れ、エリコの町の再建に着手しようする者がいませんでした。ところが、アハブ王の時代、ある者がエリコの町を再建しようとしました。そのとき、ヨシュアの呪いが成就して、彼は長子と末の子を失いました。新約時代、イエスさまはエリコのザアカイの家に、あえて泊まりました。また、「良きサマリヤ人のたとえ」の舞台にしました。その日、イエスさまはエルサレムに行くために、エリコの町を通過されました。町の門の近くに、バルテマイという盲人の物乞いがいました。イエスさまが彼の目を癒した時、「あなたの信仰があなたを救った」と褒めました。それはどのような信仰だったのでしょうか?

1.求める信仰

バルテマイは盲人ですから、自活することができません。毎日、人が出入りする町の門に出かけ、通路の端にゴザを敷き、器を置きました。「私をあわれんでください」と、人の施しを頼りに生活していました。その日の施しが多ければ、その分だけ、飲んで食べました。もし、その日の施しがなければ水しか飲むことができませんでした。人の施し次第で、その日、暮らしをしていました。彼はきょうもゴザと器を持って町の門に出かけました。しかし、その日は、ふだんとは違って、大ぜいの足音が聞こえました。「おお、きょうはたくさん身入りが入るぞ」と喜びました。耳をすまして聴くと、近頃、噂になっているメシヤがこの町を通るということでした。仲間の情報によると、「ダビデの子イエスは、どんな病気でも治すことができる。これまでも盲人や足なえを数多く治してきた」ということです。バルテマイの胸の音は高鳴りました。いよいよ、イエスさまが近くに来られたようです。群衆のざわめきで分かります。バルテマイは目が見えませんでしたので、自分からイエスさまのところに行くことができません。そこで、彼は大声を上げました。10:47-48「ところが、ナザレのイエスだと聞くと、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください』と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。」目が見えない彼にできることは、大声をあげて、イエスさまの足を止めることでした。ところが、あんまり、彼の声が高いので、「うるさい、黙れ」と大ぜいの人がたしなめました。しかし、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てました。英語の聖書には、cry outとなっています。あらん限りの力を込めて叫んだのです。黙れと言われても黙らず、ますます泣き叫びました。

すると、どうなったでしょう?49節「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている』と言った。」イエスさまは、バルテマイの呼びかけを無視しませんでした。本当は、エルサレムに苦難が待ち受けているので緊張していました。盲人の乞食のことなどかまっている暇はありません。全世界の救いがかかっているからです。でも、イエスさまは足を止められ、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。イエスさまが足を止めたのは、彼の信仰を見たからです。「人々が『うるさい、黙れ』と制止しても、さらに大きく叫び求めるとは、なんという信仰なのだろう」思ったのです。イエスさまは「真夜中にパンを求めに来る友人」のたとえ話をしたことがあります。なぜ、友人にパンをあげたのでしょう?友人だからではありません。「あくまで頼み続けるので、そのあつかましのゆえに」必要なものを与えたのです。イエスさまは、あつかましい人がお好きなようです。日本よりもお隣の韓国や中国の方がはるかに救われる人が多いのはなぜでしょうか?日本人より、あつかましいからかもしれません。彼らは「主よ、主よ」と、日夜叫びながら家族や友人が救われるように祈っています。日本は、「みこころならば御救いください」と上品で静かです。二人の人が川で溺れているとします。救命士はどちらの方を先に助けるでしょうか?「助けてくれ!もうだめだ。おぼれ死ぬー」と泣き叫んでいる方でしょうか?それとも「もし、お手すきならば助けてください」と言っている方でしょうか?おそらく、前者の方を先に助けるでしょう。

バルテマイは、知っていたかどうかわかりませんが、最後のチャンスを逃しませんでした。イエスさまがエルサレムに行ったら、エリコには戻ってきません。十字架にかかって死ぬつもりだからです。もし、この機会をなくしたなら、二度とイエスさまとお会いできなかったでしょう。だから、バルテマイはあらん限りの声をあげて、イエスさまの足をとめたのです。この箇所を表すような聖歌もあります。聖歌540「主よ、わがそばをすぎゆかず。なが目をば、われに向けたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ。せつに呼びまつるわが声に。」イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」とあります。バルテマイは最後のチャンスを逃しませんでした。チャンスの神さまはキューピーちゃんに似ているそうです。体は裸でつるんつるんで、髪の毛は前にしかありません。「来たなー」を思ったら、前の髪の毛を捕まえなければなりません。お尻や背中だと、つるんとつかみそこねてしまいます。人生は決断の連続です。あまりあせってはいけませんが、「今がこの時だ」というチャンスを逃してはいけません。人生、救われるチャンスはいっぱいありそうですが、実はそんなにありません。私たちが求めていると、イエスさまが「良いよ」と、答えてくださる時があります。そのチャンスを逃してはいけません。イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」です。


2.行動する信仰

マルコ10:50「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」この短い聖句の中に、バルテマイの信仰が表れています。当時は現在のように、福祉制度がありませんでした。その代わり、「金持ちは、貧しい人に施すべきである。そのために神さまがその人を金持ちにしたのだ」という考えがありました。だけど、中には自分で生活できるのに、人の施しで生きるようとする怠け者がいました。そういうことがないように、政府では、特別な上着を支給しました。「この上着を身につけている者は、通りで物乞いをしても良い」という許可証みたいなものでした。彼は、いのちの次にこの上着が大切でした。なぜなら、これを身につけていないと、物乞いができないからです。ところがどうでしょう?イエスさまから呼ばれたとき、バルテマイは大事な上着を脱ぎ捨てました。暑いから捨てたのではありません。「もう、この上着には用はない。これからは人の施しには頼らない」という覚悟で脱ぎ捨てたのです。日本のことわざで、「退路を断つ」とか「後ろの橋を焼く」ということばがあります。もう、後戻りしはしないという覚悟です。バルテマイは「イエスさまは私の人生を変えてくださる。もう、物乞いはしなくても良い」ということを信じたということです。なんというすごい信仰でしょうか?

ある村で雨乞いの祈りをするために、人々が教会に集まりました。もう半年も雨が降らないために、農作物が枯れてしまいます。村人たちが教会に集まりましたが、一人の女の子だけは他の人と違っていました。その子だけが長靴をはき、傘を持ってきたからです。村人たちは、「こんなに天気が良いのに」と、その女の子をからかいました。それから村人たちは、「雨が降るように」と、一生懸命に祈りました。そのあと、みんなでお昼ご飯をいただきました。午後になり、帰ろうかと思ったら、大雨が降り出しました。でも、雨の中を帰ることができたのはたった一人だけでした。他の人たちは、「まさか、雨が降ることはないだろう」と疑っていたのです。神さまはだれの祈りを聞かれたのでしょうか?一人の女の子の祈りではないでしょうか?私たちはあることを神さまに求めたならば、それに相応しい行動をしなければなりません。バルテマイは、イエスさまに人生をかける決断をしました。バルテマイは目が見えること以上のことを願っていました。彼はイエスさまに従っていきたいと願っていたのです。52節の最後に何と書いてあるでしょう?「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」と書いてあります。目が見えるようになったら、「自分の好き勝手なことをしたい」ではありません。彼は上着を脱ぎ捨て、イエスさまに従っていく人生を選んでいたのです。

ヤコブは「行いのない信仰は死んでいるのです」と言いました。逆に言うなら、本当に信仰があるなら、行動が伴うということです。たとえば、だれかを夕食に招くとします。その人が玄関に来てから、あわてて準備を始めるでしょうか?その日の夕食のために、一日がかりで準備をするのではないでしょうか?まず、部屋を掃除するでしょう。前日には食事の材料を買いに行くでしょう。その日には、テーブルに花を飾ったり、デザートも買っておくでしょう。準備万端を整えて、来られるのを期待して待つでしょう。同じようなことが人生にも言えます。神さまはみことばを通して、いろんな約束をくださいます。それを「もし、こうなったら良いのになー」と受け身的に待つのは正しくありません。あたかも実現しているように待つのです。そうすると、正しい準備、正しい行いが伴ってきます。バルテマイは目が良くなって、自分の足で生活することができるということを信じていたのです。だから、盲人の生活を保障していた上着を捨てたのです。さらには、「自分はこれからの人生をイエスさまに従っていくんだ」ということまで考えていたかもしれません。普通だったら、「ああ、これから好き勝手なことをいっぱいしようと」思うかもしれません。でも、バルテマイはイエスさまに従う人生を望んでいました。だから、目が見えるようになって、「すぐさま、イエスの行かれる所について行った」のです。


3.告白する信仰
 マルコ10:51-52「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」イエスさまは、神さまですから、バルテマイが何を求めて来たか分かるはずです。バルテマイの方も「イエスさまの意地悪!これですよ、これ」と、指さして教えることもできたでしょう。でも、イエスさまは「私に何をしてほしいのか」とあえて聞きました。なぜでしょう?バルテマイは「私をあわれんでください」、「私をあわれんでください」と叫び求めました。でも、この言葉は、これまで人から施しを乞う時に良く使っていました。イエスさまは「私をあわれんでください」では、良く分からないだけではなく、不服だったのかもしれません。私たちクリスチャンはイエスさまに「私をあわれんでください」と求めるべきでしょうか?これは罪人が神さまに求める祈りです。でも、イエスさまは私たちのために十字架にかかり、既に、十分なあわれみを与えてくださいました。もし、私たちがイエスさまに、「私をあわれんでください」と願ったなら、イエスさまはどう答えられるでしょうか?おそらく、イエスさまは「私は既にあなたをあわれみました。何を願いたいのですか?願いたいなら、私の名によって求めなさい」とおっしゃるでしょう。イエスさまは私たちを罪人や乞食として扱ってはおられません。贖われた神の子どもとして扱っておられるのです。ですから、イエスさまは、上着を脱いでやって来たバルテマイを乞食として扱っておられません。その代わり、「わたしに何をしてほしいのか」と対等に聞かれたのです。
 バルテマイは、「先生。目が見えるようになることです」ときっぱり告白しました。これは、とても大きな祈りではないでしょうか?ここに盲人が100人集まったとして、100人全員がイエスさまに「目が見えるようになることです」と求めるでしょうか?医者も「医学的に不可能なので、諦めなさい」と言ったでしょう。ある人は「奇跡なんか信じないで、現実を踏まえて生きなさい」と言ったかもしれません。また、ある人は「もし、答えられなかったら、それ以上に失望するから祈らない方が良い」と言いました。人は何を神さまに求めるかによって、その人の信仰が計られます。もし、神さまに大きなものを求めるなら、大きな信仰があるでしょう。もし、神さまに小さなものしか求めないなら、小さな信仰しかありません。なぜなら、神さまにはできないと思っているからです。イエスさまは、バルテマイがどんな信仰を持っているのか、その口から聞きたかったのです。バルテマイは、人にはできない、不可能なことを大胆に求めました。「先生。目が見えるようになることです。」イエスさまは、彼の信仰を見て喜ばれました。だから、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのです。ウィリアム・ケアリーはプロテスタント教会では、宣教の父と呼ばれています。彼は聖書を専門に勉強した人ではありませんでした。靴を修理する信徒伝道者でした。彼が言った有名なことばがあります。「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」です。では、スムーズに宣教が進んだかというとそうではありません。インドに渡って、7年目に始めてインド人クリスチャンが生まれました。それから、迫害が続き、殉教者も出ました。経済的にも苦しみ、彼の息子が死にました。さらには、妻が12年間精神を病んだ末に亡くなりました。ウィリアム・ケアリーは73歳で亡くなりましたが、彼の精神が多くの人々に影響を与えました。「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」。小さな信仰には小さな障害が、大きな信仰には大きな障害が起こるでしょう。でも、神さまはどちらの信仰を喜ばれるでしょうか?ご自分に、不可能だと思えるような大きなことを求める人を喜ばれるでしょう。私たちはあまりにも常識的で、理性的かもしれません。人から変人だと思われないように、奇跡を求めることをしません。そういう人は、「目が見えるようになることです」とは、求めないでしょう。しかし、バルテマイは、自分の口で「先生。目が見えるようになることです」と告白しました。
 私たちは毎日、どのようなことを告白しているでしょうか?「ああ、またやっかいなことが起こった」「お金がないからできないよ」「誰も、私を雇ってくれない」「不景気だから、仕事がない」「もう、年なので無理はしたくない」「ああ、老後が心配だ」。否定的なことばが多いのではないでしょうか?「私は年だ」と口で言うと、体全体が老化するように準備するそうです。「私にはチャンスが巡って来ない」と口で言うなら、あなたの環境がどのように準備するそうです。箴言にすばらしいみことばがあります。箴言18:20-21「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」これは本当です。昔、私が高校生の頃「私ってダメな男」という欽ちゃんのことばがはやりました。一人の級友が何かある度に「私ってダメな男」を連発していました。私たちも彼を馬鹿にしました。そして、その級友は落第してしまいました。しかし、どうでしょう?一級落第した彼は、下のクラスでトップになりました。全く、別人になっていました。おそらく、あの流行語から卒業したからでしょう。どうぞ、世の人たちの否定的なことばを真似しないようにしましょう。クリスチャンは、神さまの子どもです。王子であり、王女です。ですから、ことばを信仰的なものに変えなければなりません。バルテマイは「幸せになりたい」とか漠然と求めたのではありません。「目が見えるようになることです」と具体的に求めました。ですから、私たちの祈りも、具体的でなければなりません。聞かれたか、聞かれないか、答えが分かるような祈りであるべきです。神さまはあなたの信仰に答えてくださるからです。
 イエスさまは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。彼はどこに行ったのでしょうか?「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」のです。イエスさまの救いとは、どういうものでしょうか?それは根本的な救いです。お金がいくらか与えられても、数日間だけ生活が楽になるだけです。でも、目が見えるようになったらどうでしょう?これからは人の施しに頼る必要はありません。自分で働いて生活することができるようになります。「ああ、これから好きなことができるぞ」と喜んだでしょうか?そうでもないようです。バルテマイはイエスさまが人生の主であることを認めました。なぜなら、肉体の目が開かれたと当時に、霊的な目も開かれたからです。だから、これからは自己中な生活を送るのではなく、イエスさまに従う人生に切り替えたのです。イエスさまを証ししながら、イエスさまと共に生きる人生を選んだのです。バルテマイの信仰とその人生を、私たちも倣うべきではないでしょうか?私たちはまなじっか、肉体の目が見えるので、イエスさまに従わなくても生きていけそうな気がします。この肉眼で、見えるものだけを見て、判断するところがあります。私はみことばを瞑想して祈るときは、目をつぶります。目をつぶると、見えない世界が見えてきます。目をつぶると、恐れが消えて、神さまにだけ信頼しようと思います。目をつぶると、自分の思いが消えて、神さまのみこころがさやかになります。イエスさまの救いは、一部ではなく、全人格的なものです。肉眼で見える世界も、肉眼で見えない世界も見えるようになりたいです。生活の物質的な豊かさも必要ですが、心の豊かさも得たいと思います。「愛は寛容である」というみことばがあります。もし、怒りぽくて、人をさばいて、いらいらしていたなら愛がないということになります。寛容さを持っているのは、愛があるというしるしです。そういう目に見えない、豊かさも必要です。生活全体の救いを得たいと思います。
 マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです」とあります。マルチン・ルターは、この言葉から、「私たちは神さまなしでは生きてゆけない存在である。人類はみな乞食である」と言いました。ある人たちは「いやいや、私は神さまなしでも生きてゆける」と思っているでしょう。でも、本当にそうでしょうか?バルテマイは恥も外聞も捨てて、イエスさまに叫び求めました。私たちの本当の必要は何でしょうか?不信仰のゆえに、中途半端な生き方をしているのではないでしょうか?そうではなく、最善を最高のものを神さまに求めましょう。イエスさまはきょうも、「私に何をしてほしいのか」と聞いておられます。

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2012年11月25日 (日)

十全的な救い    マルコ5:25-34

キリスト教会では、一般的に、救いというと「罪が赦されて天国に行けることだ」と言います。そして、「やがては、天国に行けるのだから、病気や貧しさ、多少の悩みも我慢しなさい」と言うでしょう。では、毎週、日曜礼拝に来るのは、天国まで持つために気付け薬をもらうためでしょうか?ギリシャ語で「救い」はソーテリアと言いますが、一般的には、死、危険等から救われるという意味です。病気が癒されること、無病息災、安寧幸福も救いです。奴隷状態や敵の手からの救いもあります。それが、やがて「救い主によって与えられる罪と滅亡からの救い、永遠の生命の祝福」という意味になりました。しかし、聖書では救いはもっと広い意味があります。これから24回に渡り、聖書が言う救いについて学んでいきたいと思います。きょうのメッセージはその全体を示す序章となっています。

1.この女性の苦しみ

 この女性は、12年間、長血をわずらっていました。婦人病であり、いつも痛みがあり、貧血気味でした。レビ記15章には「長い日数にわたって血の漏出のある場合、彼女は汚れた存在である」と書かれています。「彼女にさわる者はだれでも汚れる。さわった者は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる」とあります。つまり、彼女の病気は単なる病気ではなく、宗教的に汚れているということです。だから、彼女はイエス様ご自身ではなく、着物のふさにでも触りたいと願ったのです。さらに、26節に何と書いてあるでしょうか?「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」ここには医者と書いてありますが、当時は呪術といいましょうか、御祓いのように病気を治す者もいました。今でも沖縄にはそういう人がいるようです。それでどうなったんでしょうか?「多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった。」持っている財産をふんだくられたということです。家族にも迷惑をかけたことでしょう。が、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。何らかの治療を受けたかもしれませんが、それがかえって病気を悪化させたということです。「これは、昔のことでしょう。でも、現代の医学はそうじゃありません」と言うかもしれません。でも、そうでしょうか?大きな病院では、レントゲンのほかに、CTスキャン、MRIなどの医療機器を入れています。1台数億円するのではないでしょうか?だから、元を取るために、病院に行ったら、機械を使った検査を受けることになります。問診で良いのではと思ったものでも、いくつかの機械を回されます。昨年、ある朝、目がまわるので病院に行きました。すぐ、CTスキャン、MRIの検査を受けました。MRIは、まるで頭にバケツをかぶせられて、棒でガンガンたたかれているような音がしました。幸い何ともありませんでした。今でも、新薬を試したい大学病院がたくさんあるのではないでしょうか?

 このところに、彼女の苦しみがいくつあるでしょうか?表現を換えるなら、「彼女はどういう事柄に救いを得たいのか?」であります。第一には身体の痛みがありました。29節には「ひどい痛みが直った」と書かれています。ですから、キリキリ刺すような痛みがあったのではないでしょうか?第二は宗教的な汚れがありました。この病気は、英語の聖書にはplagueとなっています。これは疫病や伝染病のことです。ギリシャ語には「神の罰、たたり、かかる見地から見た肉体的苦痛、あるいは病気」という意味があります。つまり、人々から「あなたは神様から呪われている」と思われていたのです。第三は心理的な苦しみがあります。「多くの医者からひどい目に会わされて、持ち物をみな使い果たした」のですから、恨みや憎しみがあって当然です。「直るといったのに、直るどころかもっと悪くなった。なんとひどい藪医者だろう」と思ったでしょう。第四は経済的な苦しみがあります。「持ち物をみな使い果たした」とありますので、貯金も財産もゼロです。ひょっとしたら親からお金を借りているかもしれません。「このごくつぶしめ!」と言われているかもしれません。第五は生活全般における苦しみです。体が弱いので仕事も結婚もできません。彼女は、「娘よ」と呼ばれているので、おそらく30代前後でしょう。12年間の歳月ため、将来の希望が全くありませんでした。こういう人にこそ、救いがいるのではないでしょうか?いや、これらの問題をすべて解決することが救いではないでしょうか?日本語の聖書には28節に「きっと直る」と書いてあります。また、34節に「あなたの信仰があなたを直したのです」とあります。2つの「直る」は、ギリシャ語ではソーテリアであります。ですから、原書に忠実に訳すならば、「きっと救われる」「あなたの信仰があなたを救ったのです」と訳すべきであります。なぜなら、この女性は5つの苦しみから救われたからです。

2.この女性の救い

 それでは、この女性がどのようにして5つの苦しみから救われたのか、1つずつ学んでいきたいと思います。彼女は後ろから、こっそり、イエス様の着物にさわりました。ルカ福音書には「着物のふさ」と書かれています。「ふさ」というのは、祭司の服と同じで、権威を象徴しています。この女性は神であるイエス様の権威を信じていたのです。また、「考えていた」は原文では「口で言っていた」という意味です。「お着物にさわることでもできれば、きっと救われる。きっと救われる」と言い続けていたのです。あとで、彼女の信仰がイエス様からほめられます。なぜでしょう?ローマ10章には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と書いてあります。彼女の信仰は心からあふれて、それが告白にまでなっていたのです。「きっと救われる、きっと救われる」とブツブツ言いながら、弱ったからだを引きずって、イエス様に近寄りました。29節「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」ここに、第一の肉体的な救いがあります。なぜなら、血の源がかれて身体の痛みが去ったからです。「直った」と思って、彼女は群衆に紛れ、立ち去ろうとしました。なぜなら、肉体的な救いを得たからです。

 でも、イエス様はそのまま彼女を帰しませんでした。30-32節、イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。イエス様は全知全能の神様ですから、どの女性が触ったか知っていました。しかし、あえて名乗り出るように言われたのです。「しかし、婦人病ならば、きっと恥ずかしいでしょう。そのまま帰らせて良いのでは?」と思うでしょう。いいえ、イエス様のみこころはそうではありませんでした。33節「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。」彼女は、ひれ伏しながらも、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。いつ頃から病気になったのか。多くの医者に通ったけど直らなかった。全財産を使い果たしても、ますます悪くなる一方だった。あなたの噂を聞いて、「着物のふさにでも触れば救われる」と思ってやってきました。そして、さきほど群衆に紛れて後ろからさわったら、あなた様から力が臨んできて、血の源がかれて、ひどい痛みが直りました。これまでの経緯と病気が直ったことをイエス様に告げました。このように、イエス様に真実を余すところなく打ち明けるとどのような効果があるでしょう?カタルシス(浄化)と言いますが、心のわだかまりや傷が癒されます。これは心理的な救いと言えるでしょう。「イエス様が私のことを聞いてくださった。そして、私のことを理解してくださった。アーメン」。これは肉体的な救いと別の救いではないでしょうか?女性は、自分のことを聞いてもらえるだけで、心が癒されるそうです。ハレルヤ!男性諸君、教えないで、ただ、耳を傾けましょう。

 それからどうなったでしょう?34節そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」彼女には、まだ、3つの目の問題が残っていました。宗教的な汚れです。これは、神様から見放されている、神様の怒りをかった病気であるとみなされていました。イエス様は「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。英国の聖書は、My daughter「私の娘」と訳しています。彼女は、イエス様から「私の娘よ」と呼ばれました。さらに、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。信仰とはどういうものでしょうか?英語の詳訳聖書はこのところの信仰をこのように解説しています。「私に対するあなたの信頼と確信、神から湧き上がる信仰があなたを救のです。」長くてよくわかりませんが、信仰というのは自分の確信と神様からくる信仰の2つが結びついたものです。つまり、彼女の信仰は自分が勝手に持ったというのではなく、神様から与えられたものです。ということは、神様は彼女を愛している。彼女はのろわれた存在ではなく、神様の娘であります。これは霊的な救いではないでしょうか?そうです。彼女は霊的な救いに預かったのです。

 まだ、他にあります。イエス様は「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と彼女を祝福しました。これです。イエス様がだまって彼女を去らせなかったのは、彼女を祝福したかったからです。もし、彼女があのとき、名乗らないで立ち去っていたならば、肉体の救いしか得られませんでした。でも、心の恥や霊的な呪いがあったでしょう。もし、また、病気が再発したならどうなるだろうという心配も残るでしょう。「安心して帰りなさい」とはどう言う意味でしょう?これは「平安があるように」という意味です。平安とは、穏やかという意味だけではなく、「すべてにおいて充足するように」という意味があります。また、「病気にかからず、すこやかでいなさい。」とありますので、これから二度と病気にならないように、病気を追い出し、封印するという意味です。将来も病気にならないというイエス様の保障です。だから、もう、病気を怖れることはありません。ずっと、健康でいられるということです。「すこやかでいなさい」は健康のことだけを言っているのではありません。英語の聖書はbe wholeとなっています。wholeは「全体の、完全な、無傷の、そっくりそのまま、十全的な」という意味があります。つまり、神様の肉体だけではなく、十全的な救いを与えたいと願っておられるのです。彼女にとっての救いは何でしょう?肉体が救われ、心が救われ、霊的に救われました。でも、これから経済的な救いも必要でしょう。また、結婚あるいは家庭の救いも必要でしょう。最後には、病気や災いを怖れないで、平安の中で生きられるという救いです。彼女は天国に行く前に、天国の喜び、天国の命を味わうことができたのです。この世にいながら、神の国が彼女にやって来たということです。これこそが、イエス様が私たちに与えたい救い、十全的な救いなのです。

3.十全的な救い

 十全的ということばを、ホリスティックと言います。最近は医療の間でも使われるようになりました。これまでは、肉体の病理しかみてきませんでした。しかし、そういう病気になる心の問題、ライフ・スタイル、あるいは霊的な原因があるということが分かり始めてきました。病気になるような生活をしていたなら、根本的には直りません。ストレスや心配事、怒りや憎しみをもっていたなら、必ず病気になります。聖書は、昔からそういうことを言っています。では、ホリスティック、十全的な救いにはどのようなものがあるのでしょうか?これは、これから20数回に渡って語る内容ですので、「お楽しみに」ということです。でも、私は今後、おもに4つの分野で語りたいと思います。第一は霊的な救い、第二は肉体的な救い、第三は心の救い、第四は生活すべてにわたる救いです。順番に説明させていただきます。第一の分野は霊的な救いです。これは、神様との関係から来るものです。イエス様を信じて罪の赦しを得る。義とされる。新しく生まれ変わる。神の子とされる。神の国に入ることなどは、霊的な救いです。霊的な救いについては、教会で良く話されます。あるテーマについては、もう何度も聞いた内容かもしれません。キリスト教では、日本でも、福音の番組がいくつかあります。よく話されるのは、十字架による罪の赦しです。「罪を悔い改め、イエス様を信じましょう。そうしたら、罪赦され、永遠の命を得ることができます」と言います。しかし、「神、罪、救い」は外国の宣教師が持って来た福音です。どうでしょう?「自分の罪深さが示されて、教会に来て救いをいただいた」という人がどれくらいいるでしょうか?10人にどれくらいいるのでしょうか?おそらく、23人だと思います。聖書に出てくる、ほとんどの人たちは、自分の必要を求めてイエス様に近づいたのではないでしょうか?多くの人たちは、「病気を治してくれ。問題を解決してくれ。腹がへったので何か食わせろ。目を開けてくれ」というふうに近づいたのではないでしょうか?ですから、教会が霊的な救いだけで、アプローチしていたならば、多くの人たちが救いにあずかることができないということです。もちろん、霊的な救いがなければ、本当の救いとは言えません。でも、順番が1,2,3,4でなくても良いということです。2番目、3番目、あるいは4番目が最初に来ても良いとうことです。長い間、キリスト教会は霊的な救いだけを説いてきました。そのため、どうなったでしょうか?新興宗教が病気の癒しをします。いろんな占いや祈祷師が心の救いを与えようとします。また、心療内科や精神科では、鬱などの人があふれています。また、神社が縁結び、安産、経済の祝福、交通事故から守られるようにとお守りやお札をくれるでしょう。日本人は頭では西洋の教育を受けています。自然科学を信じて、理性で生きています。しかし、心は東洋的なので、目に見えない力を信じています。だから、病院だけではなく、そういう神的なものに頼りたがるのです。日本に来た外国の宣教師は西洋の合理主義を受けているので、目に見えない力を軽んじる傾向があります。しかし、日本は東洋であり、アニミズムの世界観を持っています。だから、西洋的なものだけでは足りないのです。

 ホリスティック、第二の救いは肉体の救いです。病の癒しと言っても良いでしょう。しかし、目が見えない人、耳の聞こえない人、いろんな障害のある人は、癒しではありません。ないものが与えられる創造の癒し、奇跡が必要です。イエス様は公生涯において、3分の1は、病の癒し、奇跡、悪霊の追い出しをされました。イエス様は、神の国の福音を伝えると同時に、こういうことを行われました。何故でしょう?それは、「みことばに伴うしるし」であります。イエス様は病を癒したり、障害を直すことによって、神の国がどのようなものであるのか、証明されたのです。神の国には病も障害もありません。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。そのとき、イエス様は神の国はどういうものなのか、デモンストレーションしたのです。スーパーマケットで、ウィンナーとかビールを「どうぞ、一口」とか言って勧めています。イエス様は神の国を少し味わわせてから、霊的な救いを得るようにデモンストレーションしたのです。ですから、肉体の癒しは神の国に入る門と言えるでしょう。

 第三の救いは心の救いです。「内面の癒しと変革」と言っても良いかもしれません。30年ぐらい前から心の癒し、インナー・ヒーリングが注目されました。当教会でも、エリヤハウスや解放キャンプなどを紹介してきました。キリスト教は「自分は罪を犯した」という加害者の部分を主に扱ってきました。しかし、自分が受けて来た被害者の部分はどうでしょう?多くの場合、「あなたは神様からたくさん赦されたのだから、あなたに罪を犯した人を赦しなさい」と言います。1万タラントと100デナリのたとえもそういうことが書いてあります。でも、それができる人はどれくらいいるでしょうか?おそらく、3割くらいしかいないのではないでしょうか?あとの、「7割りはそれとこれとは別だ」と怨念晴らしをして生きているのではないでしょうか?丸屋先生は、「キリスト教会は霊の部分は取り扱ってきたけど、心の部分はなおざりにされてきた。人は霊的な救いと心理的な救いが必要である」とおっしゃいました。霊的には救われても、考え方が相変わらず古いままということがありえます。従来行われてきた、心の癒しばかりだと堂々巡りみたいなところがあります。今後は、考え方を新しくし、ライフ・スタイルを変えていくというものが有効なようです。

 第四は生活すべてにわたる救いです。その他の救いと言っても良いかもしれません。初めに言ったように、救いというのは一般的には、死、危険等から救われるという意味でした。病気が癒されること、無病息災、安寧幸福も救いです。奴隷状態や敵の手からの救いです。それでは、生活すべてにわたる救いにはどのようなものがあるでしょうか?私たちは詩篇から多くの励ましや信仰をいただきます。なぜでしょう?詩篇の多くはダビデが作ったか、あるいはダビデの生涯を背景にして書かれたと言われています。ダビデは、サウル王やアブシャロムから命を狙われました。多くの悪者や敵に囲まれても、奇跡的に守られました。ダビデに、あらゆる環境の中であっても、喜びと平安がありました。これは現代社会に生きている私たちと同じではないでしょうか?主が私たちの盾であり、岩であり、砦なのです。テレビのニュースを見ると、歩道を歩いているのに車にはねられたとか、ストーカー、詐欺事件がなどあります。本当に安全な場所などありません。みんな戦々恐々で暮らしています。ですから、生活すべてにわたる救いが必要です。人間関係、経済、結婚、物質、環境からの救いが必要です。

Ⅲヨハネ2には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。魂に幸いとは、霊と心の幸いです。健康は肉体の癒しです。そして、すべての点で幸いを得るというのは、仕事や家庭、物質や環境の幸いと言えると思います。もちろん、順番的にはたましいの幸いが必要です。でも、私たちはこの世に生きているので、すべての点でも幸いを得、また健康であることが必要です。これが神様のみこころです。つまり、全部の救いにあずかることが神様のみこころです。私たちがこのことに対して、無知であるならば、病気で貧しいまま、天国にはいつくばって行くことになります。キリストは十字架にかかり、私たちの罪だけではなく、病ものろいも取り去ってくださいました。だから、キリストにあって十全的な救いにあずかり、主の御名をあがめる人生を送りたいと思います。

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2011年2月20日 (日)

健康な教会の8つの要素    マルコ4:26-32

前回まで信仰のDNAシリーズを49回で終えることができました。きょうは、そのおまけ50回目です。50というのは、ヨベルの年と関係があり、まことにめでたい数字です。来週からはヤコブの手紙からメッセージしたいと思いますので、どうぞご期待ください。クリスチャン・シュワルツという人が、世界32カ国の教会に関わり、420万もの回答を分析処理しました。いかにもドイツ人らしいですね。そして、「文化や神学的教理に左右されない正しい教会成長の原則とは何か」という答えを出しました。その鍵になったみことばが、マルコ4章の「人手によらず」あるいは「おのずと」であります。つまり、教会の成長は作物の成長に共通しているということです。人の手によるものが人為的方策であるならば、「おのずと」は、神様が与えた生物的可能性です。彼は「成長している教会には、成長していない教会にはない独特な資質特徴がある」と主張し、以下の8つの項目をあげています。

1.能力付与的なリーダーシップ

 能力付与は英語ではempoweringですが、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。簡単に言うと、牧師一人がスパー・スターになるのではなく、他の人を育てて、任せていくということです。長年、牧師をやっていますと「自分ほど聖書的知識のある人はいない」「自分ほど経験を積んだ人はいない」と思うようになります。そして、若い人が未熟に見えてきて、任せることができなくなります。能力付与的なリーダーシップとは、一般の聖徒たちを建て上げて、奉仕を任せていくというものです。つまり、自分の権威や能力を独り占めするのではなく、聖徒たちに分散させ、委任させていくということです。そういうリーダーは上から命じるのではなく、下から支えるサーバント・リーダーです。各自が、かしらなっるキリストに聞いて従うことを求めます。かといって、丸投げ式ではありません。私はこれまで、丸投げ式であったことを深く反省しています。やはり、学びや訓練、見習い期間を経て、序々に任せていく必要があります。そのためには、弟子訓練とかコーチングがとても有効です。今、韓国の『二つの翼』を学んでいますが、働き人を再生産するプログラムが必要であると気付かされました。これから、養育プログラムのシステムを立ち上げる必要があると思います。私はこれまで何でもやってきました。しかし、今は、全く音楽関係はタッチしていません。お掃除や会計も任せています。これからは、説教や伝道牧会も任せていけたら良いと思います。「失敗を恐れずに、いろんなセルを作り、自主的にやってください」と、言うつもりです。そうなったら、もう、私のすることがなくなります。教会は牧師のものではありません。教会はみなさん、聖徒たちのものです。牧師はいつか教会から去りますが、みなさんはずっと教会に残ります。牧師が主役ではありません。みなさんが主役なのです。もし、牧師がどうしてもしなければならないものを上げるとしたら、ビジョンと方向性を示すということです。そして、「かしらなるイエス様は何とおっしゃっているでしょう。みなさん、イエス様に聞き従いましょう」と言うことです。

2.賜物に基いたミニストリー

 従来の奉仕は、使命でやっていました。自分にそういう賜物がなくても、やる人が他にいないのでやってきました。もし、使命感だけでやっていると、疲れて、いつかは燃え尽きます。しかし、神様が与えてくださった賜物で奉仕するなら疲れないし、幸福感もあって楽しいのではないでしょうか?動物たちが、未来に良い指導者を輩出するために学校を作り、かけっこ、木登り、飛び、水泳を学ばせました。入学した全ての動物たちは、例外なくこの4つの科目を受講し、全科目に合格しなければなりませんでした。アヒルは水泳では水泳の先生よりも上手でした。しかし、かけっこと木登りは全然だめでした。かけっこで成績が悪かったため、放課後もかけっこの練習をしました。時には水泳の授業をサボって、かけっこの練習をしたりもしました。かけっこを続け、木登りをしたため、彼の水かきはすり減って切れ、水泳ができなくなりました。結局、得意だった水泳のテストもDという成績しかとれませんでした。この物語はさらに続きますが、不得意な科目を上達させようとしたために、優秀な賜物がダメになったという内容です。創造主なる神さまはみなさん一人ひとりを独特に創造されました。それぞれ、何に関心を持っているのか、どんな賜物があるのか、そして性格も違います。関心、賜物、性格、これら3つを合わせると、あなたがどんな奉仕に向いているか分かります。ですから、それぞれの賜物を発見するテストを受けて、主の与えてくださった賜物にあった奉仕をすれば良いと思います。そうすると、疲れないし、楽しいし、燃え尽きることもありません。教会はキリストのからだであり、みなさん一人ひとりはからだの各器官です。手の人もおれば、足の人、耳の人、口の人、ハートの人、頭脳の人、いろいろいて良いのです。上から命令されてやるのではなく、神さまから与えられた賜物によって奉仕をする。これが一番、長続きする方法です。どうぞ、それを発見して、神さまに用いてもらいましょう。

3.霊的な熱心さ

この意味は、カリスマ的かカリスマ的でないかではなく、「この教会のクリスチャンは燃えているか」です。アントニオ猪木が「元気ですかー、元気があれば何でもできる」と言っているようなことです。律法主義・形式主義的な教会は、たいていの場合、霊的な熱心さは平均以下です。成長する教会の人たちは、イエス様と教会を愛しています。教会の歴史を見ますと、何かムーブメントが起きたときは非常に熱心です。でも、ある人たちが「極端になるのは良くない」と神学的にまとめたり、組織を作るとどういうわけか火も消えてしまいます。いわゆる、死せる正統主義になります。海の水をバケツにくんできて、「これが海の水です」とは言えません。ジャンプするかえるを解剖して、「これがかえるです」とも言えません。霊的な熱心さとは、言い換えれば「いのち」です。いのちというものは、ことばで定義することができません。子どもに「生きていますか?」と聞くと「もちろん、生きているよ」と答えるでしょう。また、熱心さと関係があるのが祈りです。祈りというと、「教会で祈祷会を持っているか」という所にすぐ行ってしまいます。調査によると、ひとりのクリスチャンが祈りに費やす時間の量とは関係ありません。それよりも、祈りが生き生きとした経験となっているどうかです。私がインドネシアのアバラブ教会に行ってわかったのは、彼らはイエス様との交わりを喜んでいることです。さらに彼らは共に祈り合うことを喜んでいます。これまでは、祈りと言うと祈祷山にこもって、何日間も断食するような悲壮感がありました。でも、24時間、共におられるイエス様と交わることによって、聖霊が自然に情熱を与えてくれます。その上に、兄弟姉妹が共に祈るとき、「薪は1本よりも、数本集まった方が良く燃える」という相乗効果が起こります。これから当教会で祈祷会を持つことは反対しません。ぜひ、持ったら良いと思います。でも、大事なのは、義務感で祈るのではなく、イエス様との交わりを喜んでいるかどうかです。日々、イエス様と交わる。問題があっても、なくても、共に祈る。これが大事なんです。

4.機能的な組織

 人為方策的な教会は、「役員会」や「委員会」を設けて、「ああではない、こうではない」と議論します。議決機関はあっても、実行する人たちがいないのです。「役員会で決めましたので誰か、奉仕をお願いします」と言うのはあまり効果がありません。世の中の構造は、お金とか権力ゆえに、上部が決めたことに、いやでも従うしかありません。でも、教会はボランティアですから、「役員が決めたからやる」いうのは、情熱がわかないでしょう。決めた人たちがやるというのが一番です。そして、役員会はそれに予算を出したり、励ましたりして後押しするという組織構造です。でも、多くの場合、役員会は「そんなのはやったことがない」と水を差します。「前例がないから」とは、どこかで聞いたことのあるようなセリフです。クリスチャン・スワルツは「伝統主義は機能的組織と正反対なものである」と言っています。韓国では一番保守的な機関が3つあるそうです。軍隊、公務員、教会です。日本では相撲協会かもしれません。デジタルの時代なのに、今だに変わらない。数十年も前から、同じ組織を立てています。いつも会議、ミーティングをしています。機能的な組織とは何でしょう?それは、それぞれの部門の働きをそれぞれの部門が決めてやれば良いということです。もちろん、それぞれの部門にはリーダーが必要です。しかし、部門ごとにやれば、無駄な会議を少なくすることができます。最も大事なのは、組織よりも本質です。本質にあっていない組織は、思い切って捨てるべきです。特に男性は、会議になると会議モードになってしまいます。会社でやっていることを教会にも求めたりします。会社と教会は違います。私たちは左脳ではなく、右脳を働かせて、神様に聞く必要があります。私は「組織はできるだけシンプルにして機能的にする」これが一番であると思います。イエス様は福音書で「新しいぶどう酒はあたらしい皮袋に入れなければならない」と言われました。皮袋とは組織とか伝統です。私たちはそういうものを、神さまに聞いていつも柔軟なものにしなければならないということです。

5.霊的感動あふれる礼拝

 礼拝が、典礼的か、自由な形式かとも関係がないというデーターが出ています。私は自由な形式を好みますが、ある方々は典礼的な方が恵まれるようです。でも、重要なことは、礼拝が参加者にとって「霊的に鼓舞し、活気を与える経験であるかどうか」です。真に生き生きとした礼拝に出席している人は、口をそろえて「教会に行くことが楽しい」と言います。私たちは訓練されたアッシャーや有能な司会者、あるいは音楽のテクニックと考えます。それも大切ですが、もっと大切なのは、私たちが聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に対して従順であることです。セルチャーチは小グループの集まりと、大勢で集まる祭典的な礼拝を持っています。小グループの集まりは家族のような親しい交わりです。互いに愛し、互いに祈り、互いに励まし合うグループです。もちろん、そういう親しい交わりも大切です。でも、大勢の人が集まり、たくさんの楽器のもとで、大きな声で賛美して、神さまをお祝いする。そういう祭典的な礼拝も必要です。大勢で賛美したら、「うぁー、天国みたいだなー」と思うでしょう。最後の主の祈りのときは、みなさんが大きな声で賛美しているので、「天国みたいだなー」と思います。聖日礼拝は、神さまを体験することができるすばらしい機会です。どうぞ、みなさんもそのために祈って、期待してお越しください。30年くらい前、チョー先生のヨイド純福音教会の礼拝に出たことがあります。ロープが張ってあって、みんな1時間待ちです。私たちは日本人だったので、脇からはいることができましたが、2万人くらいの人たちがひしめきあっていました。礼拝は1時間で終りますが、出る人と入る人が、ごったがえしして、迷子になるのではないかと思いました。必ずしも人数ではありませんが、主の復活をお祝いするにふさわしい祭典的な礼拝が良いと思います。

6.全人的な小グループ

 全人的とは、英語でホーリスティックと言います。ホールとは全部、全体という意味です。ケーキ丸ごとを、ホール・ケーキと言います。イエス様が病人に対して「癒されるように」と命じるとき、英語の聖書ではbe wholeと書いてあります。「完全になるように」という意味になります。つまり、ホーリスティックは、霊、心、体、物質、社会性を包括した、「全人的な」という意味です。では、全人的な小グループが教会にあるとどうでしょうか?そこでは、聖書のみことばを分かち合うだけではなく、身近な事柄や疑問を分かち合います。頭の考えだけではなく、感情や心の傷さえも分かち合うのです。伝統的な教会が、家庭集会を開いても、それは礼拝を小さくしたものです。先生が語ったあと、お茶を飲んで、少し交わって帰ります。交わりがおまけになっています。私たちはセル(細胞)と呼んでいますが、この小グループは集会だけではなく、生活を分かち合っているのです。自然に成長している教会では「私たちの教会には、個人的に自分の問題を話し合えるグループがある」「私たちの教会は小グループの増殖を意識的に進めている」というアンケート結果が出ています。そして、小グループの交わりは集会のときだけではなく、日々、日常的に助け合い、励まし合う親しい関係になるべきです。私たちの周りはほとんど未信者です。信仰的な問題を打ち明けても、的外れな意見しか返ってきません。私たちは滅びから救われ、永遠の御国まで続く、いわば運命共同体です。ですから、何でも腹を割って、打ち明け、共に祈る仲間が必要です。生身の人間と生身の人間ならぶつかり、傷つけ合うでしょう、しかし、贖い主なるイエス様を間に置くならば、兄弟姉妹の交わりが可能になります。多くの場合、私たちは人間関係で傷ついてきました。人間関係の傷を治すのは、やっぱり主にある人間関係しかありません。

7.ニーズ志向的伝道

ニーズ志向とは人々の必要を尊重するということです。教会はこれまで、「神・罪・救い」を伝道という名で押し付けてきました。相手の必要よりも、「あなたは、まず、救われなければならない」と、こちら側の主張を押し付けてきました。人が亡くなるという緊急の場合は、それも必要でしょう。でも、いつでもそれが良いとは限りません。聖書を見ると、イエス様のところに霊的な必要を求めてきたのは、ニコデモくらいです。多くの人は、病を癒してほしいとか、目を開けてくれとか、お腹がすいたという理由で近づいてきました。彼らは具体的な必要を満たされた後、自らの霊的な必要に気づいたのであります。ですから、隣人が何を必要としているかということに気づき、愛して仕えていくということが重要です。その人がイエス様を信じようとしなくても、教会に来なくても、福音の愛で愛するのです。そうすると、聖霊様が臨んで、その人たちに飢え渇きを与えてくださいます。だから、それまで、多くの投資をする必要があります。伝道の書111に「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」と書いてあります。私たちは伝道というと、全く知らない人たちを教会に連れてくることだと思うかもしれません。「私は未信者の人たちとほとんど接触がない」と嘆いているかもしれません。しかし、そうではありません。今、すでに持っている人間関係から始めることが重要です。あなたの家庭や親族、会社、地域社会の人たちを数えたら10人くらいはいるでしょう。その人たちが何を求めているのか?あなたがそこを満たすように仕えていくとき、その人はあなたが持っている福音をも求めるようになるのです。

8.互いに愛する関係

 自然に成長する教会のアンケートに「愛の測定値」というものがあり、そこには12の質問があります。例えば、「教会員が教会の行事以外で、どれくらいお互いに時間を過ごしているか」。「どれくらいお互いに食事やお茶に接待し合っているか」。「教会がどれほど心を開いて祝福の挨拶をしているか」。「牧師は教会員の個人的な問題を知っているか」。その中の、「教会に笑い声があふれているかどうか」という質問は、その教会の質と成長に深くかかわっているということです。当教会のように、笑い声がある教会は、良い教会なのです。教会に怖い人がいたり、プレッシャーを与える人がいると笑い声は途絶えてしまいます。ある教会では、子どもが説教中に騒ぎ出すと講壇から「子どもを連れ出すように」と、叫ぶ牧師がいるようです。箴言144「牛がいなければかいば桶はきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる」とあります。教会に子どもたちがいなくて静かであるなら、教会の将来がありません。子どもたちの声であふれている、それは将来性のある教会です。また、教会がミニストリー、奉仕中心になると、愛がなおざりにされます。何をするかも大切ですが、円滑な人間関係を築くことはもっと大切です。「無駄なー」と思う時間が、かえって良い場合があるのです。人間には仕事重視の人と関係重視の人が2種類いるそうです。仕事重視の人は仕事をバリバリやりますが、人間関係はなおざりにしがちです。関係重視の人はおしゃべりばかりして、仕事がはかどらない傾向があります。教会は利益をあげる会社ではありません。ですから、どちらかと言うなら奉仕よりも関係を大事にすべきです。イエス様は弟子たちとよく食事をしていました。取税人や罪人たちとも食事をしました。ザアカイに、今から家に食べに行くからと言いました。死ぬ前も食事をしました。復活の朝もテベリヤ湖で食事をしました。世の終わりも、「私の声を聞いて戸を開けるなら、私は入って、共に食事をする」と約束しています。イエス様は、イーティング、ミーティング、イーティング、ミーティング。食べながら、教え、教えながら食べていました。おそらく、イエス様のまわりには笑い声がいつもあふれていたと思います。

 大切なのは、これらの8つが、バランスがとれていることです。8つの資質は桶の8枚の板みたいなものです。水は一番低い板のところまでしか、満たされないからです。ですから、8つの中で、どれが不足しているかをチェックして、そこに力を注ぐことが大切です。教会が健康になると、自然に成長するのです。ある人たちは「教会の成長と私の生活と何の関係があるんだ」と思うかもしれません。教会の本当の意味は、「神さまによって召しだされた人々」という意味です。つまり、クリスチャン一人ひとりが教会なのです。教会とは建物や組織ではなく、クリスチャン一人ひとりです。教会と自分たちとが別ものではなく、全く同じなのです。イエス様がご自身の血をもって買い取られたのが教会です。イエス様は教会を愛しておられます。そして、イエス様を愛している人は、教会をも愛すべきです。

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2010年12月 5日 (日)

能力付与     マルコ3:13-15、Ⅱテモテ2:2

能力付与ということばはあまり耳にしたことがないと思います。英語ではempowering、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。権威の委譲ではちょっと堅苦しいと思います。私はセルチャーチネットワークに属していますが、この「能力付与、エンパワリング」は教会にとって重要な原則の1つになっています。まず、聖書において典型的な例をあげるならば、能力付与がどういうものか分かるのではないかと思います。まず、モーセがヨシュアに能力付与しました。モーセは40年間、イスラエルの民を導きました。しかし、約束の地であるカナンを指導するのは、モーセではなくヨシュアでした。ヨシュアはいきなり新しいリーダーになったのではなく、長い間、モーセの従者として仕えていました。新約聖書ではパウロがテモテを見出し、能力付与しました。さらに、パウロは他の人に能力付与するようにテモテに命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?しかし、能力を付与するためには、3つの段階が必要です。第一は行くべきゴール(目標地点)です。第二は今どこにいるのか(現在地)を知らなければなりません。そして、第三はどうやってそこまで行くのかという方法であります。

1.行くべきゴール

 私たちは何をするにしても、まず、ゴールを決めなければなりません。ゴールというのは、目標地点、あるいは青写真です。まず、初めに最終的にどうなるのかという青写真が必要です。たとえば、何か建物を建てるとします。「ここいらに柱を立てて、梁を組んで、屋根をかけよう」という人はいません。まず、設計図を書いて、それにしたがって順番に建てていくのです。犬小屋くらいなら、行き当たりばったりで建てられるかもしれません。今、スカイツリーが建てられています。現在は、500メートル越えています。ゴールは、ムサシ、634メートルのようです。音楽では楽譜、料理ではレシピ、機械では設計図、呼び方は違います。でも、物ごとを始める前に、最終的な完成図を見る必要があります。結婚や子育て、老後の生活にも青写真が必要です。どうでしょうか?行き当たりばったりで、毎日、過ごしておられるでしょうか?では、聖書が望むクリスチャンの完成図、青写真というのはどういうものなのでしょうか?案外、教会では、イエス様を信じて洗礼を受けることがゴールになっています。「ああ、救われた。良かったねー。おめでとう」。「後は何をするんですか?」「日曜日に礼拝を守り、献金して、聖書を読んで、お祈りして、何か奉仕すれば良いです。そのうちお迎えが来ます」。クリスチャンの完成図、最終地点とは天国に行くことでしょうか?そうではありません。天国に行くことが救いの目的ではありません。救われたからには、この地上でなすべきこと、あるいはクリスチャンとしての成長のゴールがあるはずです。クリスチャンとしての完成図、青写真、これが必要です。これがないと、天国を待ちながら生きる退屈な信仰生活を送ってしまいます。

 では、その完成図、青写真とは何なのでしょうか?実は私は10年後に引退することになっています。この教会の主任牧師を辞めて、他のだれかに任せる。そして、私は他の枝教会を牧会しながら、たまには顔を出す。私は今、コーチングをしていますが、将来はもっと多くの先生方をコーチングしたいと思います。どこか亀有の枝教会を牧会しながら、いろんなところに出向いて行く。日本には孤独な牧師がたくさんいらっしゃいます。コントロールするのではなく、友だちになってお助けする。大津の浜崎先生、練馬の小笠原先生がそのような働きをしておられます。とりあえずこの教会の牧師をだれかにバトンタッチするという大切な事業があります。多くの教会はバトンタッチに失敗しています。私たちは聖務表の日課で、旧訳聖書の列王記というのを学びした。残念ですが、ほとんどの王様が失敗しています。ヒゼキヤは比較的、良い王様でした。しかし、その息子のマナセは最も悪い王様でした。主は、マナセが犯した罪のゆえにユダ王国を赦そうとはしませんでした。後継者はとっても重要です。でも、みなさん、きょうは能力付与というテーマで学んでいます。能力付与というのは、リーダー一人だけを育てるのではありません。すべての聖徒たちを弟子として育て、そこからリーダーが生まれ、牧師が生まれて来るのです。つまり、教会員を育てて、底上げてしていかなければなりません。そうしないと、キリストのからだなる教会として、成長することができません。全体が成長していく。そこから、牧師が生まれて来る。これが聖書的なゴールです。

 それでは「クリスチャンとしての、全体的な完成図、ゴールとは何なのか?」と質問が出てくるでしょう。実は、昨年からずっとやって来た「信仰の12のDNA」こそが、そうなのであります。これは、救いから順番にはじまり、最後に管理者、指導者になるように組み立てられています。ちょっとおさらいしてみましょう。第一のDNAは、「救い」でした。福音を信じて救いの確信を持つということです。第二のDNAは、「聖書信仰」でした。誤りなき神のみことば聖書に信仰生活を築き上げるということです。第三のDNAは、「癒しと解放」でした。神の子としてのアイディンテティをしっかり持つということです。第四のDNAは、「キリストの弟子」です。整えられて神さまから与えられた使命を果たすということです。第五のDNAは、「聖化」です。罪から解放されて御霊の実を結ぶということです。第六のDNAは、「共同体」です。一人ではなく共同体として成長するということです。第七のDNAは、「信仰」です。神から与えられた信仰を用いてダイナミックに生きるということです。第八のDNAは、「家庭」です。第九のDNAは、「賛美と感謝と告白の生活」です。第十のDNAは、「教会」正しい教会観です。第十一のDNAは「指導者の育成」です。第十二のDNAは「管理」です。教会のマネージメントです。ちなみに、きょうお話している内容は、第十一の「指導者の育成」に関係する内容です。12では多すぎるかもしれません。昨年から、「二つの翼」というのを学んでいますが、そこは6段階になっています。とにかく、12のDNAこそが、クリスチャンのゴールです。

2.現時点

 ゴール、目標地点が分かってから次にすべきことは何でしょうか?そうです。「現在、自分はどこにいるのか?」ということが分からなければなりません。たまに、「亀有教会に行きたいのですけど?」という電話があります。私は「どちらから来られますか?」と聞きます。たいていは、電車で来ますので、「南口からこのように来れば良いですよ」と教えます。しかし、困るのは、途中で、迷って自分が今どこにいるか分からない人です。「環七まで来てしまいました」と言われると、「そこに何が見えますか?」と聞かなければなりません。とにかく、自分が今、どこにいるのかを知る。それは、クリスチャンの信仰過程にも言えることです。「クリスチャン成長の勘所」というのがあれば良いと思います。洗礼を受けてから、どういう問題にぶち当たるのか?何をクリアーしたら成長するのか?何があるとうまく成長できないのか?信仰の成長というのは、なだらかなスロープを登るというよりは、何かの壁に当たり、そこを乗り越え、ぐっと成長する。ガク、ガク、ガクと段階を経て成長するのではないかと思います。逆に言うと、その壁を乗り越えないうちは、壁の手前で成長がストップするということです。何らかの壁を乗り越えられないために、成長がストップする、あるいは教会に全く来なくなる。そういうケースがあるのではないでしょうか?ですから、問題が起こってからではなく、健康な時に、予防注射をしておく必要があります。「これから先、こういう問題が起こる可能性がありますよ、心してください」とかです。

 しかし、自分がどこにいるのか?これから先、どんな問題があるのか?分かりそうで分からないですね。そのためには診断が必要です。健康診断に行きますと、まず、身長とか体重を測ります。その後、視力、聴力、レントゲン。さらには尿とか血液、血圧、いろんな検査をします。最後に問診というのがあります。お体の具合どうですか?睡眠時間は、ストレスはどうですか?信仰生活の面でもそういう診断するものがあれば良いですね。実は、昨年の関東コーチングで渡辺牧師が「弟子のプロフィール」なるものをあげました。10個の項目があり、左側にボックスがり、チェックするようになっています。各教会によって、あるいは牧師によって表現の仕方が微妙に違いますので、そのまま持ってくるわけにはいきません。でも、先ほどの信仰の12のDNAと照らし合わせながら、クリスチャンの成熟度を測るチェックリストがあっても良いと思いました。これから、いくつかあげてみたいと思いますので、ご自分でチェックしてみてください。第一は「救いの確信はあるだろうか」。自分は救われているので、天国にいつでも行けるということです。イエス様は心の中にいらっしゃるということです。これはクリスチャンとして、最低限、必要です。第二は「聖書を神のことばと信じて、いつも聖書を読んでいるか」ということです。日々、ディボーションをしているかと言っても良いでしょう。第三「心の傷が癒されているか?」ということです。キリストの十字架の血しおを仰いで、悪霊から解放されているかということです。第四は「キリストの弟子として歩んでいるか」ということです。イエス様は救い主だけではなく、私たちが従うべき主であり、王様だということです。第五は「古い自分に死んで、御霊によって歩んでいるか」ということです。「聖霊に満たされているか」と言っても良いでしょう。第六は「兄弟姉妹との関係です」互いに愛し、互いに励まし、互いに建て上げ合う関係が大事です。第七は「信仰を用いて生きているか。祈って勝利しているか」ということです。第八は「家族との関係を大事にしているか」ということです。

 8つも言うと、頭がいっぱいになりますね。でも、ここにはリーダーとか指導者のチェックというものがありませんでした。私たちはリーダーとか指導者というと、この世の価値観で判断してしまいます。この世では、能力があって人々を指導できる人がそうなのかもしれません。でも、神の国においては、目に見えない部分が、まず重要です。また、自分がみことばを読み、自分がキリストに従っているかどうかが重要であります。人を指導するとか、人を動かすというのは二の次、三の次であります。一番重要なのは、神さまとの関係、人との関係、そして心の中にある価値観とか態度であります。人を指導するとか、人を動かすというのは、神さまがくださる賜物であります。神さまの賜物ですから、持っている人もいれば、持っていない人もいます。ですから、みんながリーダー、みんなが指導者にならなくても良いのです。逆に言うと、リーダーや指導者になることがゴールではありません。新興宗教やその他の団体では、幹部になるのがゴールかもしれません。多くの人を導いて、たくさんのものを売り上げて、資格を取って、幹部になっていくのでしょう。しかし、イエス様はそうはおっしゃっていません。イエス様は人々に仕える人がリーダーであり、指導者であるとおっしゃいました。イエス様が教えられたリーダーシップは人を支配するのではなく、人に仕えることから与えられるものです。人々に仕えたら、「ああ、あなたがリーダーになってください」と人々が推薦するのです。この世では、はじめに立場や身分が来ます。「私は偉い立場についているのだから、あなたがたは従え」であります。私たち教会はそうではなく、全く逆です。「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」これが重要なポイントです。神さまはこれだと思う人に、リーダーや指導者の賜物を与えられます。なぜなら、イエス様がこの教会のかしらだからです。もし、リーダーや指導者の賜物を与えられていると自他共に認めるならば、それこそへりくだって、その使命を果たすべきであります。しかし、基本は「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」であります。

3.どのように

 ゴール、目標地点が定まったならば、そこまでどのように行くかです。たとえば私が、大阪まで行くとします。東京から大阪まで、いろんな方法があります。新幹線で行くか、あるいは飛行機もあります。高速バスもあります。4人くらいですと車が安価です。他に、バイク、自転車、フェリーもないわけではありません。クリスチャンとしてこのようになりたい。こうなるべきだという青写真が描かれたとします。そこまで行くためにはどうしたら良いでしょうか?エペソ人への手紙4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師がいます。もちろん、そういう人たちは大切です。問題は、その教え方であります。キリスト教会の場合、メッセージとかセミナーで、口頭で教えることがメインになっています。神学校へ行っても、教室で一定のカリキュラムをこなすというのが一般的です。でも、お医者さんになるとしたらどうでしょうか?教室で一定のカリキュラムをこなすだけで良いでしょうか?やっぱり、臨床というか実践が必要です。先生のもとについて何年間かインターンをして、それから一人前になります。一人前になるまで、一人か二人殺すかもしれません。分かりません。では、クリスチャンは、どうしたら、キリストの弟子となってそれぞれ与えられた使命を果たすことができるのでしょうか?ただ、一方的に教えを聞くだけでは不十分です。しかし、教会は2000年も教えを中心にして人を育てています。私もその一人かもしれません。では、イエス様はどうなされたのでしょうか?イエス様が12弟子を育てた方法が最も、すばらしいのではないかと思います。イエス様はご自分が天にお帰りになるまで、弟子たちに能力付与をちゃんとなされました。マルコ3:13-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」ここに素晴らしい、イエス様の能力付与の模範があります。イエス様は弟子たちを身近に置きました。そして、福音の宣べ伝え方、悪霊の追い出し方を実際に指導したでしょう。そのとき、技術や知識だけではなく、霊的な権威も与えられました。イエス様は3年半、弟子たちを訓練しました。

 イエス様の教え方は神学校とは全く違います。神学校の場合は3年か4年、知識を詰め込むだけ詰め込み、卒業したらポーンと現場に出されます。伝道師になり、数年後は牧師になるでしょう。その牧師は教会の人たちをどのように教え、どのように訓練するでしょうか?そうです。自分が神学校で教えられたものを小出しにするのです。神学校のテキストの焼き直しです。もちろん、良いものもあるでしょう。しかし、自分が現場で学んでいないので、教室スタイルのものしか提供できません。もし、自分がイエス様の弟子のように、現場で学んでいたら、その教え方も違うでしょう。スポーツはどのように学ぶでしょうか?サッカー、バスケットボール、野球、水泳、何でも良いです。教室で理論もある程度学ぶでしょう。でも、実際はグラウンドや体育館で体を動かしながら学ぶでしょう。料理やお花、陶芸、ピアノ、書道、なんでも良いですが、実技が絶対必要です。そのときに、教えてくれる先生、あるいはコーチが必要です。先生、あるいはコーチはお手本を示しながら、「こうしなさい、ああしなさい」と易しいものから、難しいものへと伝授していくのではないでしょうか?しかし、キリスト教会は西洋的な教室スタイルがメインです。その背後には、「人は教えたら変わる」という知性偏重があるからです。残念ですが、知的な勉強だけでは人は変わりません。また、成長もしません。私はこのことを牧師になって、23年たって、やっと分かりはじめたところです。もう、ダメなんです。私の勉強の仕方は、メッセージとセミナーと本です。大変申し訳ありませんが、私のセルリーダーの任命の仕方は丸投げ方式でした。「リーダーもみなさんが推薦して選んでください。」「セル集会は、何をやっても結構です。」そうやって、特別にリーダー養成をするわけでもなく、また、個別にフォローアップするわけでもありません。本当に丸投げ方式でした。申しあげますが、私が一番不足していたことは、この能力付与でした。人々を養育し、力を与え、やがて自立して、与えられた使命を果たすことができる。このことをほとんどやっていませんでした。

 数年前からやっと、コーチングというものを学びました。メッセージや教えも、もちろん大切です。でも、能力付与をするためには絶対、コーチングが必要です。コーチングをすると、その人が今どの地点にいるか分かります。癒されていない部分もあります。でも、癒しがゴールではありません。健康になってから、神さまが与えてくださったゴールに到達することです。まず、信仰のDNAにあるように、クリスチャンとして霊的に成長すべきでしょう。言い換えると、子どもから若者、そして父に成長していくということです。しかし、神さまがその人に与えられた賜物と使命というものはそれぞれ違います。コーチングはその人と一緒に、神さまがその人に与えた賜物と使命を確認する必要があります。ある人たちは、「はっきり私の賜物と使命はこれです」と分かっています。しかし、ある人たちは「何ですかね?」と漠然としています。神さまに聞けば、必ず、答えてくれます。そのゴールを発見したら、こんどは、その人がゴールにたどりつけるように、コーチすれば良いのです。主役はその人自身であり、コーチはあくまでも脇役です。その人がイエス様と一緒に歩んでいけば良いのです。使徒パウロはテモテの霊的な父であり、またコーチでした。パウロは私に倣いなさいと何度も言いました。ある人は「私の教えることは学んでも良いが、行ないは学ばないように」と言います。しかし、それは間違った教師であり、間違ったコーチです。パウロはテモテを見出し、テモテを訓練し、テモテに能力を付与しました。それだけではありません。パウロはテモテに他の人を訓練し、他の人に能力を付与するように命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?自分がイエス様の弟子になる。これもすばらしいゴールです。でも、それだけで終ってはいけません。自分が新しいイエス様の弟子を作り、その弟子が次の弟子を作る。そのような弟子の再生産がなされるべきです。私たちは死ぬまで、天国に行くまでやるべきことがあります。それは弟子の再生産です。

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2010年11月14日 (日)

世の終わりの教会     マルコ13:5-23

 伝統的な教会は罪の世からできるだけ離れて、福音宣教のみに力を注いできました。しかし、これまで3回のメッセージで教会がこの世においてどのような使命があるのかお話ししました。私たちはむしろ、この世に出て行って、地の塩、世の光として御国の価値観を浸透すべきです。また、私たち自身が教会であり、私たちが行くところで教会を行うということです。そして、ビジネス、政治、芸術いろんな分野に、神さまの良きものを運ぶ存在として教会があることも学びました。このように、私たち教会は、この世に御国が来るように励むべきであります。そして、この4回目はこれまでのメッセージと矛盾しているようなことも話さなければなりません。まことに残念ですが、私たちがいくら良くしようと思っても、この世は、まもなく終わりを告げます。ですから、世の終わりの時代に住む者として、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか?「世の終わりの教会」と題して、メッセージさせていただきます。

1.惑わされないように   

世の終わりにどのようなことが起こるのでしょうか?イエス様はマタイ、マルコ、ルカの福音書で世の終わりの前兆について語っておられます。まず、戦争や民族間の争いがあります。それから、方々で大地震やききんが起こります。しかし、それらは産みの苦しみの初めに過ぎません。さらにクリスチャンに対する迫害が起こります。それから「かつてなかったような苦難」がやってきます。それは黙示録に記されている7年の患難であろうと思います。そのときは、エルサレムに神殿が再建され、「荒らす憎むべきもの」が、その真中に立って、世界を支配するでしょう。紀元70年に起こったローマによる迫害に似たようなことが、患難の時代にも起こるということです。3つの福音書で共通して言われていることは「惑わされないように」であります。マルコ135「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。また、マルコ1322「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」世の終わりには、にせ宗教、にせキリスト、にせ預言者が現われ、多くの人を惑わすということです。少し前に「ノストラダムスの大予言」というのがありました。人類は1999年で滅びることになっていました。それで終ったかなーと思いきや、「2012年人類滅亡説」が出てきました。これはマヤ文明の神話からきたもので、かなりオカルト的です。確かに、終末は近づいていますが、教会も同調して、そういう説を唱えてはいけません。ものみの塔のエホバの証人は、何度も主の再臨と世の終わりを預言しましたが、ことごとくはずれてしまいました。もう、完全な異端です。世の終わりの恐れをあおって、布教活動しています。

また、にせキリストとは、自分が救世主であるという意味です。韓国の文鮮明がまさしく、そうであり、多くの日本人が惑わされています。統一教会は、聖書を使ってはいますが、全くひどい解釈です。日本人は聖書の知識がないので、「聖書にありますよ」と言われると、ころっと騙されてしまいます。海外では「自分はキリストだ」と名乗る人が1000人以上もいるということです。日本でも、それに近い人たちがいます。様々な新興宗教の教祖がそうです。「幸福の科学」の大川なんとかという人も困った人です。大和カルバリーの大川牧師も有名ですが、本の数ではあちらの方がまさっています。新興宗教はお金儲けの手段になりやすいようです。でも、今、最も脅威になっているのが「ニュー・エージ」です。これは一口に言えませんが、汎神論的な宗教です。東洋のヨガや禅とも似ていますが、チャネリング(降霊術)や超能力を行います。「啓発セミナー」というのが会社で開かれていますが、「自分が神のようになって、能力を現す」ことが目的です。音楽や漫画、映画、さまざまなところに、ニュー・エージの思想が現れています。背後にスポンサーがいるのかもしれません。私たちクリスチャンは神の子でありますが、神さまと一体になるわけではありません。神さまの人格と私たちの人格は別々です。しかし、ニュー・エージの場合はこうです。自分が無になって、宇宙の大霊と一体化されることにより、自分が神の一部になるのです。私たちは無になってはいけません。イエス様のご人格と親密な関係になるのです。

教会は聖書の真理を保つところであります。最近、セルチャーチとか、ハウスチャーチとか小さなグループが強調されがちです。悪いことではありません。でも、エペソ4章にはキリストのからだが健康に成長するために仕える五職の人たちがいることを明記しています。エペソ411「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあります。私はいろんなセミナーに出かけて、学ぶタイプの牧師です。30年前は韓国のリバイバル聖会に良く行きました。弟子訓練や教会成長、癒しの集会、カウンセリングなど、あっちこっち行きました。今も行っています。この間は若木先生が強く勧めるので『二つの翼』というのにも行きました。最近、よく言われることは、健康な教会を形成するためにはバランスが重要だということです。ある教会は預言を強調しすぎて、信仰的におかしくなっています。また、ある教会は昔のリバイバル集会を今も続けています。いくら、お金をかけても教会につながりません。私は癒しも預言も信じます。でも、教会はバランスがとれていなければなりません。これは人間のからだにも言えることです。人間のからだが健康に成長するためには、バランスのとれた食物と適度な運動です。教会の真理の土台は聖書です。終わりの時代、「聖書が何と言っているのか?」ここにいつも立ち返らなければなりません。昔、Back to the future.という映画がありましたが、大切なのはBack to the Bible.であります。ある人たちは「聖書は古い、時代遅れだ」と言いますが、そうではありません。マルチン・ルターは「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と言いました。キリスト教会の中でも聖書をまともに信じない教会があります。マルコ1331「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」終わりの時代だからこそ、私たちは永遠に変わらないみことばに信頼を置くべきなのです。ハレルヤ!

2.迫害の中で証をする 

世の終わりに必ず迫害がやってきます。しかし、それは福音を証するチャンスになるということです。マルコ139-10「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」福音宣教と証と、どこが違うのでしょうか?福音宣教とは福音を語ることに力点が置かれます。こういう会衆の前で、文書や放送などいろんな手段があります。牧師や伝道者は福音を論理的に分かり易く語ることができます。でも、多くの人たちは福音に対して耳や心を閉ざしています。そういう人たちに「宣教大会や教会に行こう」と誘ってもなかなか来ません。証というのは、私たちが自分の体験を通して、福音を語るということです。しかも、対象の人たちは少人数であなたと何らかの関係のある人たちです。昔はどこかの大きなホールや競技場で福音を語りました。路傍で福音を語っても人が救われる時代でした。しかし、今は関係の時代です。人間関係を築いて、そして福音を証することが、効果が上がっています。語り方はフォーマルではなく、とてもぶっちゃけた話し方です。説教というよりも、「俺はこうだった。私はこうだった」と自分の体験を分かち合うことが主流です。どうでしょう?自分が健康になったという自然食品とかサプリメントを私たちは隣人に「これ良いよー」と、勧めたくなるでしょう。私たちは同じノリで、イエス様を証することが可能なのです。

しかし、ここで言われていることは、強制された証です。「お前は、なんでキリストを信じるのか?話してみろ!」という感じです。今の時代は、信教の自由がまだ保障されています。しかし、終わりの時代は、信仰を持っているがゆえに捕らえられたり、死に渡されたりするということがあるということです。ローマの時代は、キリスト教に対するものすごい迫害がありました。使徒の働きを見ると、パウロは何度も捕らえられ、そのたびごとに証をしています。大勢の裁判の席の場合もあれば、少人数の場合もありました。使徒の働き16章では、牢獄の中で看守に証をしました。使徒の働き27章では荒れ狂う船の上で証をしました。パウロの場合は福音宣教と証の境目がはっきりしません。それでも、機会あるごとに自分の体験談と共に福音を語りました。私たちに「そんなことができるだろうか?」という心配があります。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マルコ13 11「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」ハレルヤ!聖霊が、私たちに何を言うべきか教えてくれるというのです。みなさん、説教とか公の証は準備しておくべきです。なぜなら、限られた時間内で話さなければならないからです。原稿用紙に書いて、横道にそれないように準備すべきです。でも、突然の証は原稿なしで、やらなければなりません。「わぁー、頭、真っ白だ」という時もあるでしょう。そのときに「主よ、何をどのように話すべきでしょうか?」と一寸、聞くのです。その後は、主にゆだねます。そうすると、口を開いたとたん、何かが出てくるということです。相手もびっくりするかもしれせんが、当の本人もびっくりします。「私は、なんとすばらしいことを語っているんだろう?」と驚きます。まさに、聖霊様の超自然的な働きです。

第二次世界大戦のときも、キリスト教会が迫害を受けました。ホーリネス系の牧師はそのままストレートに語り、牢獄の中で殉教した先生もいます。それも、1つの道ですが、聖霊様が与える知恵で弁明することもできます。銀座教会の牧師で、神学博士の渡辺善太という先生がおられました。先生は官憲に呼ばれ「キリストが神だとしたら、天皇はだれか?」と聞いたそうです。「人間だ」と答えるならば、即、牢獄行きです。渡辺先生は一寸、目をつぶってからこう答えたそうです。「うんー、畏れ多くてお答えできません」と。すごいんじゃないでしょうか?否定もしていないし、肯定もしていません。これこそ、聖霊様がくださる知恵ではないかと思います。イエス様は「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」と言われました。使徒パウロはあるときは、「自分は純粋なユダヤ人だ」と言いました。しかし、あるときは「自分はローマ市民権を持っている」と言いました。どちらも嘘ではありません。語るべき対象によって使い分けているのです。私たちは年下に語る口調と、年上に語る口調を変えるべきです。学校の先生はどうしても「上から目線で語ります」。私もそうなるときがあって、注意されます。セールスマンで成功する人というのはどちらかと言うと自信満々の人ではありません。誠実で熱心だけど、どこか弱そう。「買ってあげようかな」と、同情したくなる。こっちは「あのセールスマンを助けてあげた」と思っています。ガンガン強気な人よりも、どこか弱そうな人の方が成績が良いようです。私たちは演技してはいけませんが、自分が罪人の頃のことを思えば、反抗的な人のことを思いやることができます。反抗的な人ほど、一度、信じたら信仰が強くなります。「何でも信じるよ」と言う人はかえって危ないですね。とにかく命を大事にしながら、迫害の中で証をするのです。しかし、命が取られる時が来たなら、それも感謝です。どうせ、殺されても、彼らは肉体しか殺せないのです。魂を殺せるのは神さまだけです。神さまを恐れていたなら、人は恐れる必要はありません。どうぞ、機会を逃さずに、逆に機会を捕らえて、福音を証する者となりましょう。

3.きよい生活をする 

マルコ1333「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」マタイ25章には「10人のおとめのたとえ」が書かれています。花婿が来るのが遅いので、かしこい乙女も愚かな乙女もみんな眠ったと書いてあります。末の時代の教会は、霊的に眠ってしまう教会が多くなるということです。世の中は悪くなり、教会は霊的に眠ってしまう。これはどういう意味でしょう?教会堂やキリスト教の組織はあります。しかし、命がないのです。そして、世俗主義に陥って塩気のない教会になっています。ヨハネ黙示録には7つの教会が記されています。いろんな解釈がありますが、ラオデキアの教会は世の終わりの教会を象徴しているとも言われています。ラオデキアの教会とはどんな教会でしょうか?熱くもなく、冷たくもない教会です。「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っています。しかし、実際は貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りません。そして、イエス様を外に締め出している教会です。イエス様を信じていない教会があるのでしょうか?ヨーロッパの教会がまさしくそのような状態です。アメリカの教会も後を追っています。一番深刻な問題は、キリスト以外にも救いがあるとする多元主義的な教会です。「ヒンズー教も仏教も、イスラム教も同じ神さまを仰いでいる。現われ方、啓示の仕方が違うだけなのだ。私たちキリスト教だけが絶対と言ってはいけない。彼らにも救いがある。私たちは彼らと交わることが可能である。」カトリック教会やWCCに属しているエキュメニュカル教会がこのようなことを言います。とんでもありません。世の終わり、「背教の教会が起こる」と言われています。やがて、宗教が統一され、そういう教会が吸収されてしまうでしょう。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」だから、私たちは霊的に目覚めていなければなりません。眠ってはいけないのです。

マタイ24章には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書いてあります。また、Ⅱテモテ31-4「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり…」とあります。新聞やテレビのニュースを見ると、ドラマなのか本当のことなのか区別がつかなくなりました。犯罪がエスカレートして、殺人事件が毎日のように報道されています。「この間もバラバラ死体があったけど、これとあれとは違うのか?」ということがよくあります。「オレオレ詐欺」もありますが、最近は高齢者の年金をそのままいただいているというケースもあります。日本は長寿国と言われていますが、本当はどうなんでしょうか?不遜な者、神をけがす者、情け知らずの者…私たちはこういう人々を避けて、聖い生活をしなければなりません。もちろん、彼らに対しても証をしたり、伝道しなければなりません。でも、彼らは福音を足で踏みにじり、向き直って私たちを引き裂こうとするでしょう。世の終わり、聖い者たちはますます聖くなり、汚れた者たちはますます汚れの中に落ちていくでしょう。クリスチャンでもそうです。世の終わりは迫害と誘惑がものすごく強くなります。ですから、命がけで信じるか、それとも信仰なんか捨ててしまうか、2つに1つになるのです。イエス様を信じて、神さまと結ばれ命にあふれた正しい生活をするか?それとも、自分の腹を神として、この世の罪と快楽の中でどっぷりと浸かって暮らすか?2つに1つです。一方は永遠の御国ですが、他方は永遠の滅びです。一方は報いと栄光の喜びですが、他方は裁きと暗やみと恥です。コロサイ32,4「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」アーメン。

何故、私たちは霊的に目をさまし、きよい生活を心がけるべきなのでしょうか?それは、イエス様が来られたとき、信仰のある者は天に引き上げられるからです。マタイ2437-41「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」これは携挙と呼ばれている箇所です。世の終わり、イエス様が来られるとき、携挙が起こります。でも、それがいつなのか?神学的に物議をかもすテーマです。ある人は大患難の前だと言うし、ある人は大患難の途中、またある人は大患難の終わりであると言います。私は奥山実先生の説がすばらしいと思います。クリスチャンであっても携挙を信じている人と信じていない人がいます。つまり、イエス様が来られたとき、自分は引き上げられる携挙を信じている人が、携挙される。しかし、「そんなものはない」と信じていない人はそのまま残される。残されたクリスチャンも信仰はあります。でも、大患難を通して、ある場合は、殉教して救いを全うするということです。ですから、世の終わり、一番最初に起こるイベントは「携挙」だと言われています。世の終わり、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしています。悪いことではありません。でも、人々は世の終わり、イエス様が来られると言うことを信じて準備していません。洗礼を受けてクリスチャンになった人も、この世の中でべったりと暮らしているかもしれません。もう、教会の礼拝にもしばらく行っていないかもしれません。そういう人は霊的に眠っているので、取り残されてしまうでしょう。私たちはヨハネ黙示録の最後にあるように、「主よ、来てください!」と待ち望む教会になりたいと思います。そのためには、私たちは一緒に集まり、共に励まし合う必要があります。ヘブル1024,25「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

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