2018年8月17日 (金)

御霊による歩み ローマ8:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.19

 前回は、「律法からの解放」についてローマ7章から学びました。きょうはローマ8章から「御霊による歩み」と題して学びたいと思います。エゼキエル書36章の「新しい心を与え、新しい霊を与える」という預言が2000年前のペンテコステの日に成就しました。今日では、イエス・キリストを信じる者はだれでも、聖霊によって生まれ変わり、さらには内側に聖霊を宿しています。聖書では、内側に住んでいる聖霊を「御霊」とか「キリストの御霊」と呼んでいます。厳密には「御霊」は、神の霊なのか、それとも自分自身の霊なのか区別がつかないところがあります。

1.御霊による歩み

パウロはローマ7章の後半で「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。これは自分の中には、律法を守る力がないというどん底からの叫びです。しかし、その直後、パウロは何かを発見したのです。そして、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ感謝します」と言っています。一体、パウロに何があったのでしょうか?ローマ82「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」このところに突然「いのちの御霊の原理」ということばが出てきます。日本語の聖書ではよく分かりませんが、原理も律法も同じことばです。英語の聖書ではlaw、ギリシャ語では「ノモス」です。ちなみにロシア語の「ノルマ」はノモスから来たことばです。新約聖書の「ノモス」は、法律や律法の他に、法則とか原理と言う意味もあります。一箇所、例をあげて、説明したいと思います。ローマ723「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」日本語では「異なった律法」となっていますが、本来なら「異なった法則」と訳すべきなのです。また「心の律法」は「心の法則」です。そして、「罪の律法」は「罪の法則」です。律法と訳してしまうと、ローマ82節とつながらなくなるからです。ローマ82の「いのちの御霊の原理」は「いのちの御霊の法則」です。そして、「罪の死の原理」は「罪と死の法則」です。「法則」と訳すと分かり易くなります。新共同訳聖書は全部「法則」に統一しています。

 では、私たちの内側、つまり肉につける私たちにはどのような法則があるのでしょうか?私たちの肉は律法を押し付けられると反抗したくなります。真面目にやったとしても守りきることができません。最終的には死にいたります。これが「心の法則」「罪の法則」です。パウロは「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう」と絶望しています。ところが、パウロはどん底に落ちて、全く別な法則を発見しました。自分を引き上げ、いのちを与えてくれる法則です。それが「いのちの御霊の法則」です。たとえ、私たちに「罪と死の法則」が働いても、「いのちの御霊の法則」が私たちを引き上げて救ってくれるのです。ウォッチマン・ニーが『キリスト者の標準』の中で鳥の話をしてこのことを説明しています。マタイによる福音書には「空の鳥を見なさい」と書かれています。もし私たちが鳥に、「引力の法則に恐怖を感じていないか」と尋ねることができたなら、鳥はどう答えるでしょうか?「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからです」と答えるでしょう。鳥の内には、飛ぶ力を備えている命があるばかりではなく、その命は、これらの生物に全く自然にまた持続的に、引力の法則に勝たせる命の法則を持っているのです。しかし、引力は依然として存在しています。アーメン。とても分かり易い例話です。私たちには罪と死の法則が依然として作用しています。その証拠に、もしだれかが私について悪口を言ったとすれば、すぐさま私の内部で何か思わしくないものが起こります。これは罪の法則です。また、何かのことで神さまを喜ばせようと努力します。しかし、自分は神の標準に達していないような気がしてきます。そして「私にはできない」という弱さを発見します。罪だけではなく「死の法則」が、自分の内に作用していることが分かります。これは法則ですから、すべての人間に働くマイナスの力です。でも、その法則に打ち勝つ力が「命の法則」です。その法則は、私たちの内におられる聖霊よってもたらされるものです。

 では、どうしたら「いのちの御霊の法則」を体験し続けることができるのでしょうか?ローマ83-4「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」このところに、「神はしてくださいました」と書いてあります。何をしてくださったのでしょうか?第一は、御子イエスが肉において罪を罰せられました。言い換えると、私たちの私の肉を罰して、死に渡されたということです。私たちの問題の根に一撃を加えて下さったのです。第二は、聖霊が私たちに律法を全うさせてくださるということです。でも、条件があります。それは「御霊によって歩む」ということです。「…によって歩む」とは服従を意味します。肉によって歩むということは、肉の命ずるままに自分をゆだねることを意味します。結果的にどうなるでしょう?ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」「御霊によって歩む」とは、御霊にゆだねて、御霊に従うということです。私たちは肉で神さまを喜ばせることはできないし、神さまもそのことを望んでいません。すばらしいことに、内におられる聖霊が、神の御旨を行なえるように働いてくださるのです。聖霊はかつてキリストがなされたことを、私たちの内に実現させるために遣わされたのです。私たちは、そのため、聖霊様と普段から親しく交わることが必要です。交わりとは、御霊によってその恵みにあずかることです。パウロはこのような祝祷のことばを述べています。Ⅱコリント1313「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

 このように私は「御霊によって歩むことが大切です」とみなさんに確信を持って語れるようになるまで、かなりの年月を要しました。なぜなら、私の生まれつきの性質は「がさつであり、せっかち」です。「歩む」というよりは「走る」という方が当たっています。「聖霊に聞く」とか、「聖霊に従う」という意味は分かります。でも、途中で面倒になってやめて、あとは自分の力や考えで突っ走ってしまいます。でも、いろんな失敗や困難を通して、「御霊によって歩むことが大切なんだなー」と体験的に分かるようになりました。ギリシャ語で「知る」は2種類あります。「ギノスコー」は、知的に知るということです。聖書を勉強したり、研究するときはこの「ギノスコー」が重要です。一方、「オイダ」は、体験的に知るという意味のことばです。これは信仰をもって実際に行うとき、はじめて分かることです。「オイダ」はヘブル語では「ヤーダー」であり、男女の親密な関係を表わす用語です。言い換えると、親しい交わりを通して知るということです。御霊によって歩むとは、「御霊と交わりながら、生活する」ということです。エマオの途上に向かっていた二人に、復活したイエス様が近づいて来られました。彼らは目が閉ざされていて、その方がイエス様だと分かりませんでした。あとで気づいた二人がこのように言っています。ルカ2432 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」このように、イエス様は今も生きてられ、御霊によって私たちの内側に親しく語ってくださいます。

 もう1つは、「御霊の法則」というすばらしい恵みがあります。私は高校の「物理」と「応用力学」でつまずきました。土木科ですから、仕事につけば避けて通ることができない学科です。数式とか定理みたいなものはほとんど忘れましたが、「法則」には力があることだけは知りました。私たちはこの肉体を持っていますが、アダムの罪と堕落を幾分か受けています。霊的に新しく生まれたはずなのに、「生まれつきの考え」「生まれつきの能力」「生まれつきの性格」というものを持っています。これが肉なんだと思います。しかし、神さまは私たちを救ったあと、「今後はこれで生きなさい」と与えて下さったのが神の霊、聖霊なんだと思います。この方は神としての人格と持っておられ、私たちと親しく交わってくださいます。それだけではなく、私たちを罪と死から救ってくださる力を持っておられます。これが「御霊の法則」です。そして、私たちの肉ではなしえなかった、「律法を守ること」「律法を破らないこと」を聖霊が行ってくださるのです。聖霊、内におられる御霊は「第二の資源」と言うことができます。今では普通ですが、ハイブリッド車が走っています。あの車はあるときはガソリン、またあるときは電気で走ります。おそらく自動で切り替わるのでしょう。私たちもあるときは自分の力や考えで走るときがあります。しかし、自分の力や考えで間に合わないときは、内におられる御霊が自動的に働いてくださるのです。一番重要なことは、御霊が自由に働いてくださることを容認し、歓迎する必要があります。御霊は人格をもっておられますので、「私に関わらないでくれ」と拒絶すると退かれます。そうではなく、いのちの御霊の法則がいつでも、豊かに働かれるように、御霊に期待して歩みましょう。

2.恵みによる歩み

 ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」私たちは、肉で律法を行なおうとするとそれができないということがよく分かりました。なぜなら、律法が肉を刺激して、反抗心を生み出し、結局は死に至ります。死というのは霊的な窒息死であります。しかし、信仰生活のことを考えてみましょう。教会はイエス様を信じるだけで救われると「信仰義認」を説きます。これは正統的なプロテスタント教会だったら、反対するところはないでしょう。ところが、問題は洗礼を受けてからのことであります。ほとんどの教会では「洗礼準備会」というものを設けていると思います。そこでは信仰の確認とこれからの信仰生活がどうあるべきか教えます。ところが、結構、やるべきことがたくさんあることに気が付きます。聖書を読むこと、祈ること、聖日礼拝に出席すること、献金、奉仕、罪から離れきよい生活を送ることを学びます。教会によっては、いくつかの規約もあるようですが、「これから教会員として義務を果たします」と誓約書を交わすところもあるようです。つまり、イエス様を信じて救われるということと、教会に属して教会員になることを分けているところもあります。そういう準備会を受けた人の頭にはどのようなことが浮かぶでしょうか?おそらく、「救われるのは恵みかもしれないけれど、信仰生活は行いが必要なんだ。詐欺みたいだなー」と思うのではないでしょうか?でも、ほとんどの人は、信仰的に燃えていますので、それらが全く苦にはならないでしょう。私も洗礼受けた後、「聖日礼拝厳守、はってでも来い」と言われ、今まで休んだことがありません。40年間、どうしても行けなかったことが2度ほどありますが、あとでビデオ礼拝を持ちました。最終的に牧師になったので、休むわけにはいかなくなりました。

大川牧師は聖日礼拝を「強いられた恵み」と言いました。私は会社で働いていましたが、朝6時の早天祈祷会、水曜祈祷会、土曜日の週報印刷、日曜日の礼拝、聖歌隊、夜の礼拝に出ました。半年後、直接献身の表明をしたので、さらにCSなどの奉仕がたくさん出て来ました。週に礼拝堂の掃除は3回はしました。たまに説教する機会も与えられました。ある時、第二礼拝の説教をした後、ホルンの宮田四郎先生から「疲れているように見える」と言われ、がっかりしました。その頃、本田弘慈という大伝道者が来られ、「ねこ信者」というお話しをされたことがあります。先生は関西の出身の先生でしたから、「〇〇しにゃーならん。〇〇しにゃーならん」といつも言っている人を「ねこ信者」だというのです。「当たっているなー」と思いました。「聖書を読まなければならない」「祈らなければならない」「集会を守らなければならない」「献金しなければならない」「奉仕をしなければならない」など、みんな良いことです。しかし、これが律法になっていたならどうでしょうか?クリスチャンは「モーセの律法」をもちろん守りますが、このような新たな律法の中で生きているというのが現状ではないでしょうか?

2007年、スティーブ・マクベイという先生が聖書キリスト教会で「恵みの歩み」という講演をなされたことがあります。先生は16歳のときから説教しました。19歳である教会の主任牧師になり、21年間牧会をしました。神様が喜ばれることを一生懸命しようとしました。忠実に神様のことばを語るように努力しました。一生懸命、伝道をし、祈りの生活も一生懸命守ろうとしました。教会の人数は増えました。忠実な牧会をしようと努力しましたが、心の中では達成感がありませんでした。本当に主を愛していましたが、心の中では「自分は足りない、神様に受け入れられるにはふさわしくない」と思っていました。先生はその後、主の召命であると信じ、別の教会に赴任することになりました。向かう道路に「スティーブ牧師、行かないでください!」という横断幕がかけられていました。先生は新しい教会を成長させようとしました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問し、できるだけのことをしました。それでも、人数は減るばかりでした。「主よ、どうぞ私を強めてください。力をください。私は諦めません。がんばりますから」と祈りました。1990106日土曜日の夜、事務所の中でうつぶせになっていました。朝2時でした。あと数時間で教会の礼拝が始まります。鬱的で、まったくやる気がない状態でした。「神様、何をしているんですか?何で私をここに呼んだのですか?」と、泣きながら祈っていました。その時、主が答えてくれました。耳で聞こえる声ではなく、霊で分かるように語ってくれました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。先生は、「神さまが私に教会を建ててほしい。説教をしてほしい。カウンセリングをしてほしい。病気のためお見舞いに行ってほしい」と思っていると考えていました。しかし、神様は私自身を欲しいということが分かりました。神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられると言うことが分かったのです。スティーブは紙を取り出し、自分がゆだねるものを1つずつ書き記しました。最後に「全部、神様のご支配のもとにゆだねます」と書いて、自分の名前をサインしました。

スティーブ牧師は自分が死んだという診断書にサインをしたのです。そして、イエス様あなたが生きて下さいと願ったのです。それは、律法に対して死んで、律法を全うしてくださるキリストにあって生きるということでした。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあります。これは、言い換えると神さまは「あなたは肉でがんばらなくても良い」という慰めのことばでもあります。イエス様は私たちがイエス様を信じたときに、満足してくださいました。イエス様は、私たちに何かをさせるために、私たちを救われたのではありません。「神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる」というのは真実です。では、何もしなくても良いのでしょうか?良いのです。聖書を読まなくても、祈らなくても、聖日礼拝に出席しなくても、献金をしなくても、奉仕をしなくても、イエス様は私たちを愛しておられます。神さまは私たちの行いではなく、存在そのものを愛しておられます。そう言われると、私たちの方は天邪鬼なので、「ちょっと聖書を読もうかな、祈ろうかな」と思うのです。つまり、「しなくても良い」という自由が与えられると、したくなるのです。律法は「あなたはまだ足りない。基準に達していない」と私たちを責めます。しかし、恵みは「あなたは十分です。何もしなくても愛されていますよ」と私たちを励ましてくれます。律法はマイナスの地点から、プラスになるように一生懸命頑張ります。ところが、恵みはプラスの地点から、さらにプラスになるというイメージがあります。つまり、恐れや不安や罪責感が動機でなく、安心感が動機なのです。私はかつて業績指向の塊でした。神さまが「パウロはあれだけ伝道したのに、お前はなんだ。歯がゆいぞ!」と背中から冷や水をかけられている気がしました。かつては、仁王様のような厳しい神さまのイメージがありました。しかし、「恵みの歩み」を知ってから、神さまは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛しておられる優しいお父様だと言うことが分かりました。

Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」律法は私たちを殺します。しかし、御霊は私たちを生かしてくださいます。3:17-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」律法は私たちに恐れを与え、私たちから自由を奪います。しかし、主の御霊のあるところには自由があります。どんな自由でしょうか?私はありのままで神さまから受け入れられている。主の御霊と共に歩めば大丈夫だという安心感です。多くの人はこの「安心感」がありません。「自分は相応しくない」「まだ足りない」「まだ不十分だ」すべては律法から来る恐れです。父なる神さまはすべてのものをお持ちです。何よりもすばらしいのは、私たちが救われるために御子イエス様を十字架に渡してくださいました。しかし、それだけではありません。私たちの内に主の御霊を与え「これでやりなさい」とすべての資源もくださったのです。聖霊は神さまご自身ですから、すべてのものをお持ちです。この神さまが私たちの内におられるのですから、驚くべき事です。神さまの永遠の計画とは、御霊によって私たちと一緒に住むことだったのです。神さまはすべてのものをお持ちです。私たちが献金しなければやっていけない貧しい方ではありません。私たちが奉仕しなければ何もできない方ではありません。そうではなく、神さまは私たちを通して、働きたいと願っておられるのです。主役は神さまで私たちは管channelです。水を通すような管です。管の重要な役割は詰まらせてはいけないということです。できるだけ自分は透明になって、主が現れてくださるように願うのです。自分が小さくなればなるほど、主が大きく現れてくださいます。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」イエス様は現在、御霊によってあなたの中に住んでおられます。神の御子を信じる信仰とは、内におられるイエス様が私を通して働いて下さることを信じることです。イエス様が、あなたからmanifest現われ出てくださいますように。アーメン。

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2018年8月10日 (金)

律法からの解放 ローマ7:5-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.12

 私たちは法律をはじめとする様々な「きまり」の中で暮らしています。世の人たちは「洗礼なんか受けたら、新たにきまりができて、さらに自由がなくなる」と言うでしょう。人間は悪いことをするので、法律の数がますます多くなります。まるでいたちごっこです。実は人間にはきまりには従いたくない。むしろ逆らいたいという天邪鬼みたいな性質があります。きまりを多くすればするほど、「そんなきまりなんか守りたくない。破りたい」という引き金にもなるということです。聖書には律法と言って、法律やきまりに当たるものがあります。きょうは「律法からの解放」と題して、聖書から学び、きまりごとに対する自由を得たいと思います。

1.律法とは

 聖書によく出てくる「律法」とは何でしょうか?アダムとエバが罪を犯す前は、律法などありませんでした。主なる神さまと親しく交わっていたので、何も問題がありませんでした。ただし、善悪を知る知識の木から食べたとたん、目が開かれ、神のように善悪を判断するようになりました。言い換えると、神抜きで、自分で善悪を決めるというふうになったのです。今も私たちは人の罪を簡単にさばきますが、アダムが堕落してしまった結果であります。本来、善悪の判断は神さまがお決めになるのですが、私たちが先走って決めてしまうところがあります。信仰の父アブラハムは行いではなく、信じるだけで神から義と認められました。「律法」ということばが最初に出てくるのは、出エジプト記20章からです。イスラエルの民をエジプトから救い出された主なる神は、イスラエルと契約を結びました。その条件が十戒であります。イスラエルの民には、他にたくさんの律法が与えられました。律法は大きく分けると3つあり、道徳律法、祭儀律法、社会律法です。本来、律法は「この範囲内で暮らしたなら、安全で、健やかに暮らすことができますよ」という神さまの尊い戒めでした。ところがイスラエルの歴史を見ると分かりますが、神さまに反逆して偶像を拝み、律法の範囲を飛び越える生活をしました。もう罪のオンパレードです。神さまご自身も、「彼らは律法を与えても守ることができない」と納得されました。エレミヤ31章には、「私は彼らと新しい契約を結ぶ。律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」と書いてあります。エゼキエル36章には「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」とも約束されています。これがイエス・キリストによってなされた新しい契約です。信じる者に新しい心を与え、心に律法を書き記すということです。多くの人たちは、モーセの律法がイスラエルに交わされたものであって、異邦人の私たちとは関係のないことを知りません。イエス様はその代り、私たちに「愛する」という新しい戒めを与えました。なぜなら、愛は律法を全うするからです。

 使徒パウロは、私たちは罪からだけではなく、律法からも解放されているということを分からせるためにローマ7章とローマ8章を書きました。きょうは主にローマ7章から消極的な意味での律法からの解放、次週はローマ8章から積極的な意味での律法からの解放についてまた学びたいと思います。なおローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙は兄弟みたいなもので、両者とも律法からの解放について書かれています。そのため、ガラテヤ人への手紙からもいくつか引用いたします。ローマ7章を見ると、パウロがとても落ち込んでいるのが分かります。ある人たちは、これはパウロが救われる前の葛藤した出来事であると言いますが、そうではありません。パウロはローマ1章から5章前半までは「行いの罪の赦し」を語っています。5章後半から6章までは、「単数形の罪(原罪)」からの解放について語っています。ローマ7章のテーマは「律法からの解放」です。ローマ71節から4節までは、結婚のたとえが記されています。一人の女性が律法と結婚していました。夫がいる女性が他の男性のところへ行けば、「姦淫の女」と呼ばれます。しかし、夫である律法は永遠に不滅であり、死ぬことはありません。イエス様は「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」(マタイ518と言われたとおりです。でも、イエス様が十字架につけられて死んだとき、私たちも共に死んだのです。死んだ者に対して、律法は何もすることができません。さらに、イエス様はよみがえられ、私たちはイエス様と新たに結ばれたのです。つまり、新しい夫は律法ではなく、恵み深いイエス様です。ローマ76「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」アーメン。古い文字とは、石の板に書かれたモーセの律法です。クリスチャンは生ける御霊によって、心の板に律法が書かれているのです。これはエレミヤ書とエゼキエル書の成就といえます。かつては外側から「ああしてはいけない、こうしてはいけない」と戒められました。今度は聖霊が私たちの内に示してくださり、さらには行う力も与えてくださるのです。これが新約の恵みです。

 それなのに、ガラテヤの教会の人たちは逆戻りしてしまいました。せっかく恵みで救われたのに、割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救いを全うできないと考えました。パウロは「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉にあって完成されるというのですか」と嘆いています。せっかく律法と別れたのに、再び律法のところに行くとはどういうことでしょう。聖書はそれを姦淫と呼んでいます。彼らは「イエス様の恵みでは足りないので、律法からも学ばなければならない」と言っているのです。教会でも「救われたクリスチャンがモーセの律法が必要だろうか?」議論が分かれています。もちろん「モーセの律法」は神のことば、律法ですから全く不要だということはないでしょう。マルチン・ルターは「律法は行為の基準を示すが、それに従う力は与えない。福音がその力を与える。律法は死の使いであり、福音は命と平和の使いである」と言いました。しかし、ジョン・カルヴァンは「規範として律法が必要である」と主張しました。彼はジュネーブにおいて「神権政治」を開始しましたが、最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放を行いました。カルヴァンは「教会規則」を作りましたが、改革派が堅いのはこのためかもしれません。律法は永遠に存在しています。新約の時代に生きる私たちは「どのように律法と向き合えば良いのか」という課題が残っています。

2.律法の働き

 使徒パウロは律法を厳格に守るパリサイ人のパリサイ人でした。いわば、パウロは律法に関してはプロでした。そのパウロが、律法が自分に対してどのように働いたか赤裸々に書いています。第一は、律法は私たちに罪があることを知らせてくれるということです。律法は神が定めた義の基準であり、罪があるかどうかすぐ分かります。パウロはローマ77「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」と言っています。世の中に体重計がなければ、自分が何キロなのか分かりません。世の中に法律がなければ、どれだけ悪いことしたのか客観的には分からないでしょう。聖書には数えきれないほどの戒めがあります。教会にはご親切にも、「あなたは罪を犯していますよ」と教えてくれる人がいます。そう言われると、「いや、あなたもこのような罪を犯しているではありませんか」と言い返したくなります。いわゆるさばき合いが起りやすいのが教会です。第一のポイントで申しあげましたが、本来は神さまがさばくのに、私たちが神さまの代わりにさばいてしまうのです。なぜなら、善悪を知る知識の実を食べたからです。ところで、「ワンピース」というアニメがありますが、そこにはたくさんの能力者が登場します。彼らは「悪魔の実」を食べたからです。私たちも「善悪を知る能力者」であることを忘れてはいけません。イエス様はマタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。…兄弟の目のちりを取る前に、自分の目から梁を取り除けなさい」と言われました。

 第二は、律法は私たちが罪を犯すようにけしかけるということです。パウロはローマ78「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私の内にあらゆるむさぼりを引き起こしました」と言っています。なぜなら、私たちの内側には律法に逆らう肉(ギリシャ語でサルクス)が宿っているからです。私たちは「わさるな」と言われれば、触りたくなるし、「見るな」と言われば、見たくなります。「そういう禁止事項がなければ、しらんぷりして通り過ぎたのに」です。私たちは小さいときから数えきれないほどの「きまり事」に縛られて生きてきました。学校では学校の校則があり、会社に入ればコンプライアンス(命令や要求に応じること、果たすべき務めを果たすこと)があります。「警察官や学校の教師が酔っぱらうと手に負えない」とよく言われますが、日ごろ規則に締め付けられているからです。「酔っ払い運転をするな!」と警告している、警察官がそうなるのは分かるような気がします。道ばたを歩いていると「ポイ捨て禁止、見ているぞ」みたいな看板があります。私はむっときます。21世紀教会の男子トイレに「きれいに使ってくれてありがとう!」と書いてありました。そう言われると、一歩前に出たくなります。

 第三は、律法は最終的に私たちを殺してしまうということです。ローマ79-10「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」何と言うことでしょう?律法は元来、善なるものです。なぜなら、神さまが与えたものだからです。でも、問題は私たちが律法に耐えられないということです。モーセがシナイ山の頂で十戒をいただいていました。しかし、山の下ではモーセが戻って来ないので、アロンに金の子牛を造ってもらいました。モーセが山から降りると、人々は金の子牛を拝んで、いけにえを捧げていました。モーセは主からいただいたばかりの2枚の板を投げ捨てて砕いてしまいました。これが罪ある人間に石の板が役に立たないことを暗示している出来事です。Ⅱコリント36-7「文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって」と書いてあります。つまり、これはモーセの律法を知らせると、人々を殺してしまうということです。「いや、そんなことはない。十戒はすばらしい」と言う人がいるでしょう。最初のうちは熱心に守って、「自分は聖い。真面目だ」と誇るかもしれません。しかし、やがて律法の基準に達していない自分を発見します。表面では守っているつもりでも、内側では守っていないからです。当時の宗教家、パリサイ人や律法学者たちに、イエス様はこのように言われました。「白く塗られた墓のようなものです外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいです」(マタイ2128)。教会が律法を強調すると教会員が死ぬか、あるいは偽善者になります。

平野耕一牧師が『これだけは知ってもらいたい』と言う本の中でこうおっしゃっています。お葬式みたいな教会とか、お葬式みたいな礼拝という表現をあなたは聞いたことがありますか。霊は人を生かすのですが、文字は殺すのです。教会に足を踏み入れたとたん、その教会が死んでいるか、生きているかがわかります。そのいくつかの特徴をあげてみましょう。第一に、生きている教会というのは、信徒がワイワイ、ガヤガヤ楽しげにおしゃべりしています。それは、自分が正しいと思われようとか、信仰的あるいは霊的に見られようとして自分を規制する必要がないので、自分のありのままの姿をみんなの前でさらけ出すことができるからです。心が開かれているので、ついしゃべってしまいます。ですから、礼拝が始まる直前までワイワイ、ガヤガヤ、祝祷が終わって「アーメン」と言ったとたんに、またみんながワァーとしゃべり出してしまいます。第二に、恵まれている教会には笑いがあります。しょっちゅう笑い声があちらこちらから聞こえてきます。そして、あらゆる面での人々の感情表現が豊かになります。笑いもその1つですが、悲しみ、苦しみも素直に表されています。悲しいときは無理に平静を装うことなく、素直に悲しいと言い、具合が悪いときは具合が悪い、痛んでいるときは痛んでいると包み隠さず表すことができます。第三に、いのちのある教会では、個性的な信徒が育っています。…(途中、割愛して)反対に律法的な教会の特徴としては、あまり自由な会話がありません。すぐにさばかれてしいそうで、気楽に話せないのです。「霊性が落ちる」「教会には関係ない」「くだらない」という冷めた声が聞こえてきます。また、信徒の顔に表情がないこともあげられます。みんな同じ顔をしています。あまり悲しまないし、笑わないし、何か厳粛で重々しい雰囲気があたりにただよっています。確かにそれは、ある人にとっては霊的で信仰的な態度かもしれません。しかし、それは人間性が死んでいってしまいます。このように人間は、律法の下では死んでしまうということです。

3.律法からの解放

 パウロはローマ6章で私たちクリスチャンは「罪から解放されている」と言いました。しかし、クリスチャンは律法からも解放されていることを知りません。解決のヒントとなるみことばがこれです。ローマ614-15「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」ウォッチマン・二-は『キリスト者の標準』と言う本の中で、恵みと律法の違いについて教えています。「恵みとは、神が私のために何かをされることを意味し、律法は、私たちが神のために何かをすることを意味します。神は私に、聖くて義しい一定のことを求めておられます。これが律法です。さて律法が、私に何かをせよとの神の要求を意味するのであれば、律法からの解放とは、神はもはやそのことを私に求めず、神ご自身がそれを備えて下さることを意味するのです。律法は、私が神のために何かをすることを意味し、律法からの解放は、私がそれを行うことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれをなされることを意味します。肉につける私は、神のために何もしなくて良いのです。それが律法からの解放です。ローマ7章の問題は、肉につける人が、神のために何かをしようと努力しているところにあります。あなたがそのようにして神を喜ばせようとすれば、必ず自分を律法の下に置くことになり、そしてローマ7章の経験が、あなたのものとなり始めるのです。」

 この世で妥協して生きている人ではなく、真面目なクリスチャンが7章の経験をします。「せっかく救われたのだから、神さまのためにお役に立ちたい」と自分を捧げた時から悲劇がはじまります。だまっていれば、すばらしい人なんですが、少しでも動き出すなら、失敗を重ねてしまいます。ウォッチマン・二-はさきほどの本の中で、「そこつな召使い」のことを書いています。彼がじっとしておれば、そのそこつさは表面に出ません。彼は一日中何もせずじっとしておれば、何の役にも立ちません。ところがもし彼に「さあ、怠けないで何か仕事をしなさい」と言えば、すぐさまトラブルが起こるのです。彼は立ち上がる拍子に、まずイスをひっくり返し、数歩先へ行ったところで、踏み台につまずいて倒れるでしょう。大切なお皿を手にしたとたん、それを壊してしまいます。あなたが彼に何も要求しないなら、彼のそこつさは分かりませんが、何かするように頼んだとたんに、彼は本性を表わすのです。…何を言いたいかと申しますと、神さまが私たちに何も求めなければ、私たちは義なる人であり、聖い人です。なぜなら、聖書は「あなたは罪赦されて、聖い人である」とおっしゃっているからです。でも、神さまから何か求められるや否や、私たちの罪性が暴露されます。律法は私たちの弱点を表わします。でも、何故、神さまは律法を与えたのでしょうか?その理由は「私が頭のてっぺんからつま先まで罪に満ちていること、私が弱さの化身であり、私には何もできないことを」教えるためです。神さまは私たちが何者であるかをよく御存じです。問題は、私たちは口先ではそう言っても、心からそう信じていないのです。そのため神さまは、その事実を私たちに自覚させるために、律法を与えたのです。

 パウロは落ちるところまで落ちました。ローマ722-24「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」パウロは律法によって「私は全く弱く、かつ望みのないものである」ところまで達しました。神さまは、もともと私たちが律法を守ることができないということをご存じだったのです。律法を通して神さまに受け入れられた人は、かつて一人も有りません。律法は私たちの真の姿をさらけ出します。私たちは余りにもうぬぼれており、自分は強いと考えています。だから、神さまは私たちを試み、私たちがどんなに弱い者であるかを証明しなければならないのです。パウロは「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と、どん底から叫びました。そして、どん底に落ちてみてすばらしいことを発見しました。ローマ725「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」私たちは「ローマ7章の24節と25節の間に一体何があったのだろう?」と思います。一体、パウロは何を発見したのでしょうか?パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と叫んでいます。おそらくパウロは、キリストが私の代わりに律法を全うしてくださった。私はキリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえったので、律法に答える必要はないと分かったのです。ガラテヤ219-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。

 神の律法は無効になったのではなく、キリストによって完全に成就されたのです。そのことによって、あなたは、律法から解放されたのです。それはどのような意味を持つでしょうか?それは今後、神さまのために、何一つとしてしないということです。神をお喜ばせしようとする努力など、決してしないということです。しかし、もし私が「肉にあって」神さまを喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」置くことになり、やがては死んでしまいます。しかし、感謝すべきことに、キリストが私の内にあって、神さまに喜ばれる働きをしてくださるのです。私たちの内に働かれるのは神であるキリストです。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」。いや喜ばせる必要はないのです。神さまはキリストにあってすでに満足しておられます。これからは、肉で行う必要はありません。神であるキリストがあなたの内に生きておられ、あなたの内から働いてくださるのです。これが律法からの解放です。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ127)

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2018年8月 4日 (土)

自分の世界を全うする ローマ8:28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.5

 ローマ122後半を原文に忠実に訳すならば「思いを一新することによって、変貌させられなさい」となります。変貌はギリシャ語ではメタモルフォーであり「姿を変える」「変革する」という意味です。前回学びましたが、変革させられるためには、第一に私たちは思いを一新させていただく必要があります。コア世界観を新しいものに取り換えるということです。その次は、神のみこころに合わない思いを1つずつ変えていくという地道な作業が残されています。また、ローマ12章には変革されてからどのように生きるべきかまで記されています。

1.オーバーカム

 オーバーカムovercomeは、障害や誘惑などに打ち勝つ、克服するという意味です。「乗り越える」と訳しても良いかもしれません。前回、「核信念には三種類ある」と学びました。核信念(コア世界観)は、ゆがんだ考えをもたらす塊みたいなものです。そこから、自動的に思いが出てくるのです。前回は古い核信念(コア世界観)は、新しいものと取り換えるしかないと勧めました。これはその人が持っているテーマであって、「問題」というと重くなります。テーマあるいは自分の世界と言っても良いでしょう。それらをオーバーカム、克服していけばよいのです。三種類の核信念を1つ1つ取り上げてそれぞれの克服の道を探っていきたいと思います。

 第一は脅迫的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「行い」に注目します。完璧主義的な人で「自分は完全でなければ、神から愛されることはできない。神から愛されるためには、完全でなければならない」と考えます。頭では「恵みが大事だ」だと分かっているのですが、心では「神さまは厳しいお方だ」と思っています。このタイプの人は白か黒かで考えます。1000では神経がまいってしまいます。この人は人から任されたら、結果を出すため一生懸命頑張ります。結果が出ないと自分は無能だと思われるからです。完璧主義で業績指向の人は、「これで十分」という基準がありません。いつも後ろから追い立てたれているような感じがします。脅迫的信念の人は、親から厳しく育てられた人に多いです。長時間勉強をさせられ、成績が悪いと叱られます。ことば使いや行儀作法もうるさく注意されてきました。そこそこ成績もよく、人格的にも良いのですが「まだ足りない、まだ不十分」という未達成感が常にあります。神さまは完全ですが、人間は不完全です。神さまは私たちに完全無欠を要求していません。そのためにイエス様が十字架にかかってくださったのです。失敗しても、寝ないで反省しなくても良いのです。自分の失敗を赦しましょう。自分のだらしないところや足りないところも神さまが受け入れ、愛してくださっていることを認めましょう。やり残したことがあっても、明日またやればよいのです。少し休めば、神さまが新しい力を注いでくださいます。パウロはとても真面目で何でもできる人でした。しかし、復活の主に出会って、打ち倒されました。そして彼はこう言いました。Ⅱコリント129「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」このテーマを持った人には、行ないよりも主の恵みにとどまることが必要です。

 第二は適合的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は愛情や信頼が欲しくて「他人」に注目します。そのため、たえず人の顔色を伺い、相手に合わせようとします。きわめて日本的です。「人が私をどう思っているだろうか」「私の愛は受け止められているだろうか」「私は信頼されているだろうか」と考えます。親からありのままで愛されたことがありません。見捨てられ症候群というのがありますが、甘えたことがないのです。だから、人からの愛着や信頼を求めます。あなたは「周りから受け入れられたい」という願いがあるでしょうか?逆に、「私はのけものにされている」「私は誤解されている」「私は正統に評価されていない」という怒りや恐れがあるでしょうか?それらは核信念からくるゆがんだ思いです。箴言2925,26「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」と書いてあります。あなたは人の奴隷になってはいないでしょうか。人から嫌われなくないために、良いことをするというのは貢ぎであります。貢ぎとは「私を認めてください」と自分を差し出すことです。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ624「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」クリスチャンは神さまに第一に仕え、神さまから認めてもらえば良いのです。人からの評価はあとから着いてきます。でも、人から嫌われたり、拒絶されたらどうしますか?ヨハネ148「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」ヨハネ222「あなたは、わたしに従いなさい。」あなたの注目すべき方は、人ではなくてイエス様です。イエス様に注目すれば人の目から解放されます。

第三は支配的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「ちゃんとコントロールできているか」ということに注目します。自分や他人を支配するような信念です。おそらく親が家庭を正しく治めていなかったのではないでしょうか?そのため、不条理な中で翻弄されてきました。「自分の力では対抗できないものが自分の世界を混乱さている」と考えています。もし抵抗できなければ、萎縮して諦めるしかありません。この人のテーマはコントロールです。自分へのコントロールだと「事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」と考えます。他人へのコントロールだと「人が私の望むようにしなければ、私のことを大事にしていない」と考えます。この人は、人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。それで疲れ果ててしまいます。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」「何かうまく行かなければ自分のせいである」「悪い人は罰されるべきである」。このように自分や他人をコントロールします。ある程度、コントロールできているうちは良いですが、やがて自分のコントロールが利かなくなるときが来ます。「怒り」によるコントロールがきかなくなくと、絶望的になります。そのタイプの人は環境や人を変えるということは不可能であることを学ぶべきです。変えられるのは自分だけです。コントロールできるのは自分自身です。そこに焦点を当てると変わってきます。究極的に主なる神がコントロールし、すべてのことを正しくさばくお方であることを気づくべきです。あなたが神になってはいけません。支配権を主にゆだねましょう。自分がさばくのではなく、主のさばきにゆだねましょう。神の権威と、権威ある人を認めましょう。そうするとあなたの上に覆いができ、あなたは安息することができます。覆いとはcoveringであり、権威に服している人が与えられる守りです。

 このようにゆがんだ核信念に意識的に聖書的な正しい考えをミサイルのように打ち込むのです。核信念は難攻不落な要塞のようです。でも、みことばのミサイルによって壊すことができます。みことばの真理によって置き換えていくのです。みことばは真理であり、真理に従えば力があります。そして大事なのは、たとえそういうことがあっても「自分の世界は壊れない」という新しいコア世界観を持つということです。「私は失敗した、罪を犯してしまった。でも、神さまからの愛は失わない。主の愛は絶えることがない」という新しい世界観を持つのです。また、「私は馬鹿にされた。ないがしろにされた。でも、私の価値は変わらない。主が認めてくださっている」という新しい世界観です。「私の思うとおりに事が運ばない。あの人は責任をちゃんと取ってくれない。でも、神さまがなんとかしてくださる。すべてを主にゆだねれば大丈夫だ」という新しい世界観を持つのです。つまり、「どんなことがあっても、私の世界は壊れない」というしなやかな心をいただく必要があります。詩篇9212「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。」やしの木はどんな大きな嵐がやってきたときも風を恐れません。なぜなら、幹をたわませて風をしのぐからです。樫木や松の木が折れてしまっても、やしの木は簡単に折れません。なぜなら、神さまはやしの木に、はね返る性質、bound spiritを与えておられるからです。私たちもbound spirit、簡単に折れない、しなやかな心をいただきましょう。

 2.逆転勝利の道

 古い核信念、古いコア世界観で生きて来た人の特徴は何でしょう?それは、負のエネルギーで頑張っているということです。そして、自分が得られなかったものを何とか手に入れようと頑張っています。そのため自分だけではなく、周りの人たちを汚しながら生きています。それは埋め合わせ対象行動であり、「怨念晴し」の世界です。第一の脅迫的信念というテーマを持った人は、行ないにいつも注目します。「まだ不十分だ、まだ足りない。もっと頑張ろう」。これがその人のエネルギーです。教会ではこれを律法主義というのですが、その人が一生懸命やっているので、ダメとは言えないのです。神さまの愛を得るために、貢ぐのはやめましょう。神さまは行いの裏にある動機をご覧になっています。律法学者やパリサイ人は、行いは立派でしたが、動機が汚れていました。では、この人の新しいエネルギーとは何なのでしょう?ローマ8章からの抜粋です。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。…それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。…肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。…肉にある者は神を喜ばせることができません。」解決は御霊、聖霊によって歩むことです。あなたのエネルギーがあなたの肉ではなく、聖霊に切り替わるならば、あなた本来の人になることができます。イエス様は自分の力で何でもできましたが、あえて御父に聞き、聖霊の力によって行動しました。だから律法の罠に陥ることなく、正しい道を歩むことができたのです。この人は元来、真面目で、几帳面なのです。だから、パウロのように神学を組み立て、細かいことができるのです。パウロはどんな困難があっても、あきらめないで、世界の果てまで伝道することができました。あなたには教えや様々な奉仕の賜物があるのではないでしょうか?パウロはあなたにこのように命じています。ローマ1211「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」

 第二の適合的信念というテーマを持った人です。この人は人の気持ちがよく分かる人です。悪い意味では共依存的ですが、愛情と信頼を何よりも得たい人です。これまでは人に受け入れられるため、認められたいために頑張ってきました。でも、その動機が汚れていたのです。人からの是認ではなく、神さまからの是認を第一に求めるべきです。神さまはイエスさまにおっしゃったように「あなたは、わたしの愛する子、私はあなたを喜ぶ」(マルコ111とおっしゃっています。もう、イエス様にあってあなたは受け入れられ、認められているのです。「自分が不適合ではないのか」「自分には資格がないのではないだろうか」と悩んできたかもしれません。そうではありません。ヘブル55「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」とイエス様と同じように、あなた自身にも資格を与えてくださっています。あなたは、すでに神さまから認められているので、その土台の上に、人と関われば良いのです。あなたは賜物で言うと、分け与える人であり、人の気持ちがよく分る慈善の人ではないでしょうか。パウロはあなたにこのように命じています。ローマ1215「喜ぶ者といっしょ喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」

 第三支配的信念というテーマを持った人です。このタイプの人は「ちゃんとコントロールできているか」ということに注目します。つまりは、あなたは不条理というコントロールを受けてきました。あなたには正しくコントロールできる力、リーダーシップがあります。しかし、これまでは「自分のことを聞け」「自分のことを聞く人を愛する」という汚れた動機で動いていました。そのため、周りの人はあなたから、「コントロールされている」という汚れを受けて来ました。あなたはそうやって人を操ってきました。だから、「もう結構です」とパペットの糸を切って、離れた人もたくさんいたのです。でも、こんどは違います。なぜなら、支配のトップは主イエス・キリストであると言うことが分かったからです。あなたは、さばきの権威をイエス様に渡しました。あなたのボスはイエス様であり、あなたは彼の子分です。あなたはイエス様の権威のもとで、リーダーシップを発揮すれば良いのです。あなたには管理や指導、勧める賜物があるのではないでしょうか?パウロはあなたにこのように命じています。ローマ1219「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。さばきを主にゆだねましょう。

 私たちは問題のない家庭で育った人など一人もいません。虐待されたり、粗末にされたり、圧迫を受けながら育てられました。もちろん、愛と養育もたくさん受けて来ました。でも、私たちはアダムの子孫なので、良いことは水に流し、悪いことは石に刻むところがあります。どうしても否定的なこと、被害者的なことの方が核信念にダメージを与えるのです。でも、そこに神さまの御手が伸べられたならば、どうでしょう?すばらしい逆転勝利がもたらされます。あなたをあのような苦しみに置くことは神さまのみこころではありませんでした。しかし、父なる神さまはあなたを見出して、救ってくださいました。その後どうなったでしょう?神さまのあなたに対する人生の計画とはどのようなものなのでしょうか?ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」アーメン。聖書に出てくる偉大な人物はすべて、この逆転勝利を通過した人たちです。旧約聖書のヨセフは父から溺愛され他の兄弟たちから恨みを買いました。さらに、「父母、兄弟たちが自分を拝んだ」と見た夢を自慢しました。父の使いで出てきたヨセフを捕え、奴隷として売り飛ばしました。父には「ヨセフは獣で裂き殺された」と報告しました。ヨセフはエジプト人の奴隷となって主人の家で真面目に仕えました。ところが主人の妻から濡れ衣を着せられ、地下牢にぶち込まれました。そこでも主が共におられ、監獄の長はすべての囚人をヨセフの手に任せました。ある時、罪を犯した二人の役人が入って来ました。ヨセフは二人が見た夢を解き明かしてあげました。1人は助け出されましたが、ヨセフのことをすっかり忘れました。それから二年後、エジプトのパロ王が不思議な夢を見ましたが、どんな知者も解き明かすことができません。ヨセフが地下牢から呼び出され、パロの夢を解き明かしてあげました。パロ王はとても感激し、ヨセフに指輪を与え、自分の代わりにエジプトを治めてくれるように願いました。夢のとおり飢饉が世界を襲い、カナンに住んでいた兄弟たちが穀物を求めてやってきました。彼らは目の前の宰相がヨセフだとは知りませんでした。ヨセフは兄弟たちを試しましたが、彼らが後悔していることを知り、自分の正体を告げました。ここがすばらしい箇所です。創世記455「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」これがdivine destinyです。

 神さまがやがて来る飢饉から家族を救うためにヨセフを前もってエジプトに遣わしていたということです。ヨセフはそのことを悟ったので、兄弟たちに仕返しをしませんでした。まさに、ヨセフの物語は、逆転勝利という神さまのご計画です。何を言いたいかと申しますと、あなたもヨセフのように仕込まれていたということです。なんであんな家庭に生まれたのだろう?なんであんなひどいことをされたのだろう?なんで家には父親がいなかったんだろう。なんで家には母親がいなかったのだろう。なんで家にはお金がなかったんだろう。なんで、だれも私のことを認めてくれなかったのだろう。あなたは「なんで」「なんで」と生きて、欠けているところを必死に埋め合わせて生きてきたのかもしれません。でも、父なる神さまが「その中であなたを仕込んでいた」と考えることはできないでしょうか?あなたは逆転勝利したあと、このように言うでしょう。「ああ、あのことがあってよかったんだ」「ああ、あのことがあったので今日があるんだ」「ああ、あのことがあるのでこのように用いられているんだ」。これまでの負の財産が、プラスの財産になった瞬間です。それでも、あなたが、怨念晴らしで負のエネルギーで生きていくなら、最後は破滅です。たとい、あなたの正義を通し、あなたの行いを通し、あなたの存在を通しても、動機が汚れているなら、最後は倒れます。これまでそういう政治家がたくさんいました。最近は事務次官たちもいらっしゃいます。東大の法学部を出て、エリートコースまっしぐら、でも、最後にひっくりかえってしまいました。やっていることは正しそう見えても、動機が間違っていたのです。ヤコブ120「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあるとおりです。私たちはたとえ正しいことをしていても、動機がきよめられる必要があります。それは、言い換えるとエネルギーを変えるということです。怒りや憎しみ、「今に見ていろ!」ではなく、神さまの満たされたところから来るエネルギーです。神さまの愛と赦しと受け入れから来るものです。自分のがんばりや肉の力ではなく、聖霊からくるものです。パウロが手紙の最後に「どうか恵みがあなたがたと共にあるように」と祈っているとおりです。

 最後に私たちは自分の世界を全うする必要があります。今までは不完全で、悪いものを出す核信念、コア世界観でした。でも、主にあって新しい核信念、新しいコア世界観をいただくことができました。これからはそれを完成していかなればなりません。最初に読んだローマ12章を見ますと、たびたび出てくることばがあります。「自分に与えられた恵み」「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」「与えられた恵みに従って」共通していることは、それぞれ与えられた恵みがあるということです。言い換えると、それぞれ与えられた世界観があるということです。キリストのからだなる教会において、私たちはそれぞれの器官であります。ひとり一人違いますが、キリストのからだにつながることにより、すばらしい役割を果たすことができます。一見、寄せ集めのような感じがしますが、そうではなく、神さまのご計画で私たちは召されました。ひとり一人に賜物と召命があります。ひとり一人に神さまが果たしてもらいたい、divine destinyがあります。私たちのゴールは自分の世界を全うし、神さまが与えたdivine destinyを果たすことにあります。「自分の賜物と召命は何なのだろう?」とよく分からない人がいるかもしれません。でも、ローマ12章は「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と命じています。あなた自身を神さまにささげ、キリストのからだにつながるとき、「ああ、私の賜物と召命はこれだ」と分かるのではないでしょうか?みなさんが、主にあって、逆転勝利の道を歩み、ご自分の世界を全うすることを願います。

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2018年7月20日 (金)

思いを一新する ローマ12:2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.22

 前回も学びましたが、私たちの魂は思い、感情、意志でなりたっています。思いは英語でmindであり、考え、思考、理性という意味でもあります。私たちの考え(思考)が感情にものすごく影響を与えています。考えとは、ものの捉え方です。もし、考えがゆがんでいるなら、良くない感情が結果的に出るのです。たとえば偉そうにしている先生に会うとします。自分が何か大きな力に支配される状況になります。それで、怒りと無力感が湧いてきます。この人は、自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させるという考えがあるからです。この人は、支配に対する心の傷があるので、ゆがんで捉えてしまうのです。

1.世界観とは

 「世界観」ということばを耳にすることがあると思います。広辞苑には「世界を全体として意味づける見方、人生観よりも包括的」とありましたが、あまりよく分かりません。チャールズ・クラフト師は「現実に対する私たちの見方に影響を与えるものの1つに『世界観』がある」と言っています。私たちは養育過程において「何に焦点を当てて、物事をどう解釈すれば良いか」教えられてきました。そこには一定のパターンがあり、それによって私たちの視点は方向付けられ、制限されていきます。言い換えると、世界観とは心のレンズです。現実を正しく捉えているようですが、フィルターのように、何かが取り除かれていたりします。もし、私が黄色のサングラスをかけていたなら、青空が黄緑に見えるでしょう。もし、私のメガネがゆがんでいるなら、周りの世界もゆがんで見えるでしょう。もし、自分の心のレンズがゆがんでいるならゆがんでとらえてしまうでしょう。世界観は西洋の人と東洋の人とでは全く違います。西洋人は手で触ることができ、目に見えるものしか信じません。しかし、東洋人は目に見えない霊的な存在を信じています。だから、パワースポットみたいなところに行きたがるのです。きょうは世界観を個人のものの捉え方として限定したいと思います。その根拠となるみことばがこれです。マタイ622-23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」このみことばで言われている「目」とは、心のレンズということができます。レンズが曇って入れば、良く見えないので、ぶつかって躓くでしょう。もし、心のレンズがゆがんでいるなら、物事を正しく捉えることができません。まさしく、「目」というのは、その人が持っている「世界観」と言うことはできないでしょうか?

 私たちの「世界観」を生み出しているのが、私たちの考え(思い)なのです。私たちの考えが健全であるならば、まわりの世界や人々が価値あるものに見えるでしょう。しかし、私たちの考えが不健全であるなら、まわりの世界や人々が自分を破壊するものに見えるでしょう。私たちはまわりの世界や人々のせいにするかもしれませんが、実は自分の考えがゆがんでいるのかもしれません。私たちクリスチャンはイエス様を信じて、霊的に生まれ変わった存在です。これまでは、霊的に死んでいたか、あるいは眠っていました。ところが、イエス様を信じると、聖霊が私たちの内側に宿ります。そして、私たちは霊的に新しく生まれ、神さまのことがだんだん分かるようになります。ところが、私たちの考え(思い)が相変わらず、古いままで、この世の価値や自分の心の傷に支配されているかもしれません。私たちは霊だけではなく、考えも新しくされる必要があります。そのことを教えているみことばがこれです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」私たちはこの世と調子を合わせるのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る必要があります。そのために必要なのは、心の一新によって自分を変えることです。日本語聖書の「心」はギリシャ語ではヌース、英語ではmindと書かれています。ですから、このこところは「心」ではなく、「思い」とか「考え」と訳すべきなのです。ローマ12章は霊的に新しく生まれたクリスチャンに対する勧めです。使徒パウロは「神のみこころは何かを知るために、思いを一新して、自分を変えなさい」と勧めています。

 個人個人が持っている「世界観」を述べるために、マタイ6章とローマ12章のみことばを引用しました。世の心理学者たちは、これを「認知」と言っています。1963年アーロン・ベックという人がうつ病の認知療法を発見しました。彼が言うcognitiveは、「認識」と訳すことができますが、「経験的事実に基づいた認知」です。おそらく、その人が誕生してから生きてきた過程において、認識の仕方が出来たということなのでしょう。数か月前、一人の事務次官が「相手が不快に感じるようなセクシャル・ハラスメントに該当する発言をしたという認識はない」と弁明しました。しかし、それは当人の認識であって、セクハラを受けた当事者はそうでないかもしれません。つまり、事務次官はどこからかセクハラになるのかという認識が、一般的な基準よりもずれていたということでしょう。つまり、ものごとを捉える「認識」あるいは「考え」は人によって異なるということです。でも、マタイ6章とローマ12章は、私たちの思い(考え)というレンズを健全にすれば、神のみこころは何か分かるということです。そのためには、「思いの一新」がぜひとも必要です。しかしこれは、私たちの考えがどの程度ゆがんでいるか知るところからはじまります。もしそれが曇っているなら、汚れを落として磨いてあげる必要があります。もし、修復不可能なら、レンズを交換するしかありません。最近、白内障の手術がとても簡単になったそうです。片方の目なら一日で、濁った水晶体を人工のものに取り換えることができます。その時、ついでに強度の近眼も調整できるそうです。あなたの考え、あなたの認識はどの程度、ゆがんでいるでしょうか?でも、どうしたら、自分の考え、自分の認識がゆがんでいるのか分かるのでしょう?自分としては、正しく、公平にものごとを捉えて判断しているように思っているのですが、そうでもないようです。

2.状況―考え―感情

 世界観というのは、自分の「考え」あるいは「認識」における傾向です。自分はどのような偏った見方をしているのか知らなければなりません。李光雨師はそれを「気づきawareness」と言いました。残念ながら、自分でどの程度偏っているのか、気づくことはできません。なぜなら、生まれてこの方、同じレンズをはめて生きて来たからです。だれもが「私が見えている世界が正しい」「私は間違っていない」と主張するでしょう。でも、現実において、生きづらい経験をしていないでしょうか?何かに対するこだわりがあるかもしれません。何か思いがけないことが起ったとき、過剰反応をすることはないでしょうか?李光雨師は「過剰反応とは、ある特定のステージの中で現われてくる心や体や行動。合理性を欠いた強い反応のことである」と定義しています。ステージという言い方も面白いですね。舞台設定でしょうか?ステージの上には、自分がいて、相手役がいます。特定のシナリオがあって、相手役があなたの気に障るセリフを言ったんでしょうか?そのとたん、あなたの心の奥底から「ばーっ」と悪いものが出てきます。過剰反応をぶつけられた相手も、こちらに対して過剰反応をぶつけます。これを修羅場と言います。こちらが過剰反応したために、逆切れする人、貢ぐ人、鬱になる人、逃げる人などがいます。私がこの原稿を準備する少し前に、四男の引っ越しがありました。淵野辺の大学に電車で通うと2時間は楽にかかります。そのため、私が引っ越し先のアパートを準備しました。しかし、息子は「私の意見を1つも聞いていない」と反発しました。しかし、私は息子が忙しくして時間が取れないので、あれこれ調査し、最善のアパートを探してあげたのです。息子が「そこには行かない」と言ったとき、パキーと切れてしまい、息子を罵倒してしまいました。罵倒した内容は省略しますが、過剰反応を起こしました。私の思いは「せっかく準備したのに、なんで私に従わないのか」でした。

 あなたの一か月を振り返って、何かのことで過剰反応を起こしたことはないでしょうか?実は、過剰反応は宝物であり、自分のゆがんだ世界を知る絶好のチャンスです。私たちは何か危機的なことが起こると、自動的に過剰に反応します。相手が爆弾のスイッチを押してくれたのです。こちらはスイッチを押されたのだから、ドカンと爆発するしかありません。心理学者はこれを「自動思考」と名付けています。自動的に出てくる考え(思考)だからでしょう。李光雨師は「そのとき心の叫びが出てくる」と言います。過剰反応をしているとき、心の深いところから出てくる叫びであります。どんな叫びでしょうか?私の場合は「ちゃんとやってあげているんだから、言うこと聞けよ」でした。ある人は、「自分の責任を果たせよ。ちゃんとやれよ」です。ある人は「私は何をやってもできない。私はダメ人間だ」と心の中で叫びます。しかし、私たちは過剰反応を引き起こすメカニズムを知らなければなりません。過剰反応から生じる感情は、怒り、落ち込み、恐れや不安、無力感、抑うつなどです。感情はすぐ分かります。多くの人たちは「怒ってはいけない」「恐れてはいけない」「落ち込んではいけない」と言います。しかし、感情は中立的な存在です。いわば感情は車のメーターみたいなものです。たとえば、エンジンの温度を示すメーターがあります。もし、メーターが異状に高い場合はどうするでしょうか?メーターを手で動かしてもダメです。メーターは「冷却水が足りないので、エンジンがオーバーヒートしています」と教えているのです。ですから、解決法は、冷却水を足せば良いのです。同じように、感情というメーターを動かしても無駄だということです。なぜなら、感情は中立的な存在だからです。

 では、なぜそのような感情が出てしまったのでしょうか?その感情を生み出した、メカニズムを知ることがとても重要です。順番的に言うと最初が状況です。第二が考えです。第三が感情です。本当の順番は状況―考え―感情なのですが、「考え」を特定することは不可能です。なぜなら、自動的に出ているからです。そのため実際は、その感情を生み出したのは、あなたのゆがんだ考え(思考)なのです。でも、そのとき何を考えたのか特定するのが困難です。なぜなら、あなたは無意識に反応しているからです。でも、過剰反応したのは、あなたが何かを考えた結果なのです。そのゆがんだ考えは何なのか捉える必要があります。過剰反応ダイヤリーと言うものを1か月くらいつけると、自分のゆがんだ考えに特定のパターンがあることに気づきます。ダイヤリーの一番左側には「年月日、時刻」を書きます。第一に「状況」を書きます。つまり、どんなことが起きたのか、だれかが何かを言ったり、何かをしたのでしょう。その出来事を簡単にまとめます。第二には「感情」を書きます。怒りの爆発、落ち込み、無気力感、パニック発作などです。100のうち何%だったかも書きます。たとえば、100のうち80くらい怒った。100のうち50くらい悲しくなった。100のうち30くらい恐れた。この数値はあくまでもその人の主観です。100というのは死ぬか生きるかの高レベルです。第三は「考え」です。認知や世界観とも言いますが、そのときあなたは何を考えていたかを書き記します。たとえば「最後までできなかったので、私は何をやってもダメだ」と思った。あるいは「本当はそうでないのに、誤解されてしまった」と考えた。あるいは、「自分の力では対抗できないために、自分の世界が壊れる」と思った。1か月くらいつけると、一体、自分は何に対して過剰反応を起こすかパターンが分かってきます。つまりそれは、自分のゆがんでいる考え、世界が分かるということです。

心理学者は過剰反応を起こしたときに出てくる考えを「自動思考」と呼んでいます。面白いですが、自動的に出てくるのですからどうしようもありません。李光雨師は「心の叫び」も一緒に出てくると言います。確かに過剰反応したとき、「だれもわかってくれない」「せっかくやったのに」「みんな馬鹿にしやがって」「もっとできたはずなのに」とか出てきます。自動思考とか心の叫びは、心の深いところから出ているのです。詩篇の記者は孤独の中からこのように叫んでいます。「主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。」(詩篇1021-5

3.コア世界観

コアというのは核という意味です。世界観を生み出しているのが、「コア世界観」です。言い換えるとゆがんだ考えを生み出している、信念の塊みたいなものがあなたの中にあるということです。心の叫びはそこから出ているのです。丸屋真也先生はこれを「核信念(core belief)」と呼んでいます。心理学者は自動思考の根底に核信念があると言います。核信念からゆがんだ自動思考が湧き上がってくるのです。でも、核信念はほとんど無意識です。しかし、これを発見しないと、思いの一新にはつながりません。李光雨師は「コア世界観」、丸屋真也師は「核信念」と呼んでいます。みなさんはどちらを使っても結構です。私は両者から学びましたが、二つをちゃんと統合しています。私は統合integrateということばが大好きです。「コア世界観」「核信念」どちらでも良いのですが、地球のマグマと同じです。地球の核にはマグマがあります。マグマは大体1,000度と言われています。時々、火山が噴火することがありますが、そこからマグマが飛び出してきます。過剰反応はマグマの噴火みたいなものです。地質学者に言わせると、噴火するところは地表の弱いところだと言われています。とにかく、地球の核、マグマにあたるのが「コア世界観」あるいは「核信念」と呼ばれるものです。

丸屋真也先生は、「核信念には三種類ある」と言っています。第一は脅迫的信念(完璧主義)です。このタイプの人は白か黒かで考えます。自分の失敗を赦すことができません。受け入れるということが難しい人です。だから、どうでも良いことに何時間も時間をかけてしまいます。聖書的に言うと、これは律法主義的な思考です。行動によって自分の価値が決まるという考え方です。この人は、神の恵みをいただくためには、私は完璧でなければならないと思うのです。パウロは、最初はそうでいう人でしたが、それにまさる主の恵みを知りました。第二は適合的信念です。この人はたえず人の顔色を伺います。そして、その人に合わせようとします。きわめて日本的です。クラスの子が良い学校に入ったので、自分の子どももそうでなくてはならない。みんながナイキのシューズを履いているので、自分もナイキでないと良くナイキがする。箴言2925,26「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」と書いてあります。第三は支配的信念です。自分や他人を支配するような信念です。自分へのコントロールだと「事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」と考えます。他人へのコントロールだと「人が私の望むようにしなければ、私のことを大事にしていないんだ」と考えます。この人は、人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。それで疲れ果ててしまいます。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」「何かうまく行かなければ自分のせいである」「悪い人は罰されるべきである」。このように自分や他人をコントロールします。ある程度、コントロールできているうちは良いですが、必ず、自分のコントロールが利かなくなるときが来るでしょう。

 核信念は子供時代の体験が根底にあります。そういうものから影響を受けて、核信念が形成されていくのです。核信念はどこから来ているのか?究極的には、神から離れた人間が持つ、心理的な不完全さであります。李光雨師はそれを「存在不安」と名付けています。文字通り、存在が不安なのです。罪を犯したアダムとエバは、いちじくの葉で存在不安を隠そうとしました。私たちもいちじくの葉で、自分の存在不安を隠そうとしているのではないでしょうか?学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、職業、結婚、家系、名誉、すべて人工的ないちじくの葉です。しょせんいちじくの葉ですから、いつか破れが生じるでしょう。私たちは、アダム以来から持っている「存在不安」と、それぞれの成育史で培った核信念のパターンがあります。つまり、それはその人が持っている「コア世界観」であります。コア世界観は人によってヴァリエーションがあります。丸屋師は脅迫的信念(完璧主義)、適合的信念、支配的信念と3つに分けました。この「コア世界観」から心の叫びが生じてきます。それが、ゆがんだ考え(自動思考)であります。そのゆがんだ考えがさまざまな悪感情をもたらします。さらに、それが行動になるとパニック発作、うつ病、関係遮断、傷害事件、摂食障害、ひきこもりになります。だけど、すべての原因を作り出しているのは、コアの部分、核の部分であることを忘れてはいけません。多くの場合それは、幼少期に体験したトラウマと結びついています。何かショッキングなことがあったのでしょう。そこから悲しみや怒りや喪失感が噴き出してくるのです。

 根本的な解決と継続的訓練による解決が2つ必要です。根本的な解決とは、イエス様を幼少期に体験した現場に迎えることです。神さまの無条件の愛と受け入れと赦しをそこにいただくのです。継続的訓練とはゆがんだ思いを聖書のみことばの真理に置き換える作業です。アダムとエバは後で、神さまから皮の衣を着せていただきました。皮の衣は主イエス・キリストの贖いを象徴しています。イエス様はあなたの心の叫びを受け止めてくださいます。そして、心の叫びを完了させてくださいます。あなたは、その声を聞かなければなりません。脅迫的信念の人には、主は「私は不完全な人を愛している。私の恵みは十分である。私の御手の中で安らぎなさい」とおっしゃって下さるでしょう。適合的信念の人には主は「私の目であなたは高価で尊い、私はあなたを愛している。誇りに思っているよ」とあなたの存在を喜んでくださるでしょう。支配的信念の人には「私がすべてを支配する主である。私にすべてをゆだねなさい。私の力のもとで安心しなさい」とおっしゃるでしょう。これは大人になったときの表現ですから、小さな子どもはもっと単純かもしれません。でも、大人のあなたが小さな子どもにやさしく言い聞かせるのです。癒されていない子どもを人生の主人公にしてはいけません。救われたあなたが意志をもって、指導していくしかありません。私たちを動かしているのはコア世界観です。コア世界観を修正していくことも1つの方法です。でも、一番良い方法は、全く別のコア世界観に取り換えることです。パソコンのハードディスクは使っていると古くなります。ハードディスクを新しいものに取り換えるのが一番です。「思いの一新」とは、新しいものに取り換えるという意味です。その次に、聖書のみことばから、神さまがくださる新しい思い、新しい考え、新しい認識をいただきましょう。

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2018年7月13日 (金)

自分のレースを走る ヘブル12:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.15

 数多くの臨終に立ち会った看護師の興味深い報告があります。彼女は死に直面している何百人もの患者さんたちに「あなたが最も後悔していることは何ですか?」と聞きました。その中で最も多かったものは、「他の人たちの期待に沿うためではなく、自分に正直に生きたかった」という後悔のことばだったそうです。イエス様はI am the way「私が道である」と言われました。クリスチャンは神さまから召された存在です。人々に気に入られるためではなく、神さまを喜ばせるために、自分のレースを走るべきではないでしょうか?

1.使命よりも賜物で

 ケン・ロビンソンという人がこう言いました。「世界中を渡り歩いていると1つ驚愕することがあります。地球上どこの教育制度も科目の優劣があります。数学と語学がトップで、次が人文系です。一番評価されてないのは芸術系です。そして、芸術科目の中でまた順位があります。美術と音楽は演劇やダンスより上です。数学みたいにダンスを毎日教える教育制度はありません。私は、ダンスは非常に重要だと考えています。数学もダンスも同じくらい大事です。」ケン・ロビンソンは「学校教育は創造性を殺してしまっている」と言っています。19世紀、イギリスおいて、現在の義務教育が始まりました。産業革命により近代工業化が進み、労働者を生み出せる仕組みが必要となったからです。そのため、国家をあげて読み書きと計算ができる学校を建てました。本来人間には個性があり、独創性があるので、工場の労働に合わない人も当然出てくるはずです。日本では学校で「おちこぼれ」のレッテルが張られたりしますが、多くの場合5教科のペーパー・テストの成績が低い生徒です。私が中学のとき、「自分は何に向いているか」という適性検査がありました。しかし、自分が何に向いているのかさっぱりわかりませんでした。ブラスバンド部も陸上部も1週間持ちませんでした。中学1年と3年のとき、弁論大会に2回推薦されたことがあります。クラスで一番うるさかったので、先生が「お前出ろ」と言ったのです。子どものときは、いろんな夢を持っています。でも、親や先生から「それで食っていけると思っているのか」と言われ、その夢を捨ててしまうのではないでしょうか?

きょうはこの世の価値観を脇に置いて、創造主なる神さまの観点から自分の賜物や適正について考えてみたいと思います。箴言226口語訳「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることはない。」英語の詳訳聖書はヘブル語の聖書から「with his individual gift or bent」と訳しました。「個人的なgift or bentをキープしながら指導しなさい」と言う意味です。これは個人的なgift or bentが生まれる前から備えられているというニュアンスがあります。では、giftとは何でしょうか?辞書には「贈り物、天賦の才能、適正、タレント」とあります。私はgiftを「賜物」と訳したいと思います。また、bentとは何でしょうか?本来bentは、「曲り」という意味です。しかし、「好み、性癖、適正」という意味もあります。個人的な賜物と適正は一体だれが与えたのでしょうか?もちろん、祖父母や両親からの遺伝もあるでしょう?でも、創造主なる神さまがその子に与えたということが真実ではないでしょうか?詩篇13913「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と書いてあります。「組み立てた」は英語の聖書ではknit「編む」と書いてあります。神さまは母の胎内で、私たちの神経や細胞組織を編んでくれたのであります。そして、そこに賜物と適正をしこんでくれたと考えるべきではないでしょうか?この世の教育者は「子どもは白紙の状態で、親や教師が教えなければならない」と考えています。確かに知的にはそうかもしれませんが、その子に賜物と適正がはじめから備わっているのであります。私たちは神の作品です。エペソ210「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書かれています。この作品という本当の意味は「製品ではなく、手作りである」ということです。手作りですから、ひとり一人違うように創られているはずです。

 画家のヴィンセント・ゴッホの生涯を簡単にご紹介します。1853330日、オランダ南部の生まれ。祖父と父は牧師で、ヴィンセントは6人兄弟の長男。彼は少年時代から思い込みの激しい性格で、熱烈な片想いと失恋を繰り返し、就職しては客や上司と衝突。16歳から22歳まで美術商で働く。23歳から小学校の教師になり、その後、書店に務めながら伝道活動に身を投じる。キリスト教への情熱が加速し神学校に入るが、語学教科のギリシャ語で挫折。25歳ブリュッセルの伝道師養成学校に入ったが、見習い期間が終わっても伝道の仕事が与えられず。同年暮れ、聖職者の仕事を探してベルギー南部の炭鉱地帯へ向かう。伝道師として認められ、劣悪な環境で働く炭鉱夫に心から同情し、懸命に伝道活動を行う。顔は炭で汚れ、落盤事故で負傷者が出ると下着を引き裂き包帯にした。これらが聖職者の権威を傷つけると判断される。伝道師として人々に光を与えることが出来なかった為、27歳、絵によって光を与えようとした。奇行が目立ち精神病院に入れられる。生きている間に描いた絵は800余りほどあったが、生前は一度しか絵が売れたことがなく、その一つも友だちの妹がたった400フランク(約5700円)で買った。ゴッホが死んだとき、ポケットの中に最後の手紙が入っていた。「弟よ。これまで僕が常々考えてきたことをもう一度ここで言っておく。僕は出来る限り良い絵を描こうと心に決めて、絶対に諦めることなく精進を重ねてきたつもりだ。…ともかく、僕は自分の絵に命を賭けた。そのため、僕の理性は半ば壊れてしまった。」ヴィンセント・ゴッホは伝道師にはなれませんでしたが、画家として神の栄光を現しました。ゴッホの作品は彼が亡くなってから脚光を浴びました。損保ジャパンが1987年に『ひまわり』を58億円で買ったことは有名です。ゴッホは37歳で亡くなりましたが、「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい」と言ったそうです。彼の人生は、天国で報いられる人生を象徴しているようです。

 人生はまさしく紆余曲折であります。はじめから「私の賜物と適正はこれだ」と分かる人はそんなにいないと思います。もし、自分の賜物を知りたければ、少なくともそれが好きだということではないでしょうか?そのことをしても疲れない、そのことをいつまでもやっていたい。そのことをしているとどんどんアイディアが湧いて来る。最初は、きわめて主観的なものかもしれません。でも、それをずっとやり続けていると、他の人たちが「あなたには確かに才能がある」と認めてくれるかもしれせん。でも、一番のネックは「それで食べていけるか?」という現実問題です。私はそのことに対して異議を唱える一人であり、「食べていけるか、いけないか」という問題は夢と希望を食うアメーバーでないかと思います。独身のときは自分の夢に向かって走り続けます。でも、結婚と同時に、どうしても現実的になります。家庭をささえ、子どもを育てなければならないからです。職業が自分の賜物と適正が合えば良いのですが、趣味に押しやる人もいるでしょう。たとえ趣味であっても、それを貫き通すところにロマンがあるのかもしれません。小説を書く人にそういう人が多くいます。芥川賞とか直木賞をもらえれば良いのですが…。

 信仰者として、賜物と使命のバランスを考えることが大事です。使命とはやらなければならないことです。職業もそうですが、主婦ならば家事や子育てです。教会の奉仕でも、使命でやる人と賜物でやる人とに別れます。特に神さまに献身を表明した人は、両者のジレンマに陥るでしょう。もちろん、私たちクリスチャンは全員、神さまに献身をすべきです。献身とはどんな仕事や立場であっても神さまを第一にするということですから。その中に「どのように神さまに仕えるべきか」という課題があります。特に教会内の奉仕は無報酬が多いので問題になります。私は長年牧師をしてみて「使命感ではなく、賜物で行なうべきだ」と考えています。神さまの前ではプロもアマチュアもありません。どうでも良いものではなく、ちゃんとしたものをささげるべきです。でも、使命感だけでやると疲れて、燃え尽きてしまいます。やはり神さまが与えた賜物と適正、聖霊の賜物があるはずです。もちろん、十字架によって一度きよめられる必要はありますが、自分の賜物と適正に合ったものが長続きすると思います。当教会の奉仕組織は、賜物と適正、そして神さまからの召命と3点から成り立っていると信じます。互いに牧会する理想的なセルチャーチではありませんが、賜物にあった奉仕で支える教会になっていると思います。総会資料を見ると一目瞭然ですが、たくさんの奉仕グループがあります。数か月前、「バディ・カフェ」というのがありました。お店のようにデコレーションされていました。私は「クッキーはお店で買うもの」と思っていましたが、びっくりしました。「やっぱり賜物なんだなー」と思いました。

 私たちは仕事とか家事、なすべきことがあります。それらの中にも神さまが下さった賜物と適正を生かすべきであります。不幸にもそういう度合が少なければ、神さまはあなたに奉仕の場を与えてくださるでしょう。音楽家の夢も神さまの前では叶います。カウンセラーの夢も神さまの前では叶います。スポーツの夢も神さまの前では叶います。神さまの前では、プロもアマチュアもありません。創造主なる神さまから与えられた賜物と適正を生かして、あらゆるところで、神さまの栄光を現わせるように、自分のレースを走りましょう。使徒パウロのことばです。Ⅱテモテ47-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

2.人よりも神の運命を

私たちは自分の与えられた道、レースを走るべきです。ある人は親のレースを走っているかもしれません。また、ある人は他の人たちが良いと勧めるレースを走っているかもしれません。その人たちは決して悪い人たちではなく、親切でおっしゃっているのでしょう。でも、あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。それは、人ではなく、神さまが定めたdivine destiny神意です。ピリピ213「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神である」と書かれています。「願い」は英語の聖書ではdesireです。ビル・ジョンソンがラテン語でdeは「上から下る」、sireは「父の」という意味があると言っていました。つまり自分の願望だけではなく、父なる神さまから来る願いもあるということです。クリスチャンになると霊的に目覚め、パウロのように「目標を目ざして一心に走り」(ピリピ314たくなります。あなたはそれを「無理だ。できない」と、とっくの昔に土に埋めたのではないでしょうか?この際、掘り起こしたらどうでしょうか? 神さまはあなたに願いを与えて、divine destiny神意を完成させたいと願っておられるからです。あなたにはあなたの走るべきレースがあるはずです。と言うことは、あなた自身の中に、「これは神が与えてくれたものだ」という確信、あるいは信仰がなければなりません。divine destiny神意、神さまの計画から目を離してはいけません。ヘブル121いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と書いてあります。私たちが神さまから与えられたレースを走るときに妨げるものがあります。それは、重荷とまとわりつく罪であります。あなたはdivine destinyを妨げるいっさいのものを排除しなければ、あなたのレースを走り抜くことは決してできないでしょう。ランナーがウェアーや靴をできるだけ軽くして走っているのはそのためです。神さまから与えられたあなたのレースを邪魔するものは何でしょう?

第一に、それはあなたに助言を与える親切な人たちです。彼らは悪い人では決してありません。あなたを心配している人たちです。でも、彼らは自分の思ったことをあなたにそうしてもらいたくてプレッシャーをかけます。親かもしれないし、先生やコーチ、あるいは上司かもしれません。牧師でないことを願います。ローマ122「あなたがたはこの世と妥協してはならない」と書かれています。JB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。彼らは親切で良い人たちかもしれませんが、あなたを自分の鋳型に押し込めたいのです。もちろん、私たちは人からの意見や助言を聞く心の広さを持つべきであります。でも、彼らの期待に沿うように、彼らが願うように生きるのは限界があります。もし、それが自分の賜物や適性、divine destiny神意に合っていなかったならば一大事です。私たちは人に認められるのではなく、何よりも神さまから認められる必要があります。こんな笑話があります。田舎から町に向かって、おじいちゃんが、ロバに孫を乗せ、自分はその脇を歩いていました。通りすがりの人が言いました。「なんとわがままな子どもだ。老人を歩かせるなんて!」。それを聞いたおじいちゃんは、孫をロバから降ろして、今度は自分がロバに乗り、孫にロバを引かせました。しばらく歩いて行くと、ある人が「子どもを歩かせて、自分だけが乗るなんて、ひどい大人だ」と言いました。それを聞いたおじいちゃんは、孫を引き上げてロバに乗せました。しばらく歩いて行くと、他の人が「なんて残酷なんだ。二人を乗せてロバが重たがっているだろう」と言いました。町に着くころどうなっていたでしょう。おじいちゃんと孫がロバをかついて歩いていたそうです。言いたいことはこれです。あなたはすべての人を喜ばせることはできないということです。あなたが「それがベストである」と受け入れて実行したとします。しかし、他の人はあなたの欠点を見つけ出して、別なことを言うでしょう。彼らが自分たちの意見を述べる権利はあります。しかし、あなたには彼らの意見を無視する権利もあるのです。兵庫県の姫路市に井上眞一牧師がおられます。彼が神学生のとき5年間、この亀有で奉仕をしていました。私も大変助けられましたが、同時にいろんな聖会に連れていきました。彼は大変素直で、私が勧めた本とか資料をよく学んでくれました。ある時、赴任先の教会で分裂が起こりました。私がかつて預言していたことが当たったと言われました。彼のためを思って、私は「こういうところに連絡しておくから、こうしたら良い」と助言しました。すると彼は「いや、それはしなくて結構です。自分で解決します」と言われました。その時は、ちょっとカチンときましたが、「ああ、先生も一人前になったんだなー」と喜びました。私たちは人に認められるのではなく、神さまが望まれる自分のレースを走るべきであります。

第二は、あなたに対してとても依存的な人です。ヘブル121いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とありました。英語の詳訳聖書には、clings to entangles usと書かれています。Clingは「べったりくっつく、くっついて離れない、しがみつく」という意味です。Entangleは「もつれさせる、混乱させる、まごつかせる」という意味です。子どもは親に依存します。そのため成人するまではどうしても世話しなければなりません。でも、大きくなったら手放す必要があります。また、救わればばかりの人や病気の人は、お世話をしなければなりません。でも、信仰的に成長し、健康になったら自立させるべきです。しかし、残念ですが、私たちからエネルギーと時間を奪う依存的な人はいるものです。互いに助け合う、相互依存は問題ありません。問題なのは共依存、一方的に依存してくる人です。あなたからお金を借りても、決して返しません。「緊急なので来てくれ」といろんな頼みごとをされます。もし、断ったならば、あとで「薄情者」とか言われます。ジョエル・オスティーンは「High-maintenanceの人には気を付けなさい」と言っています。High-maintenanceとは、「手がかかる、世話のやける」という意味です。ジョエル・オスティーンは続けてこう言っています。「それらの人を幸せにし続けることは不可能です。あなたは彼らのスケジュールに合わせて訪問して、元気付け、用件を果たすために走り回り、彼らの要求を満たします。でも、あなたができなかったなら、彼らは怒って、あなたに罪責感を与えるでしょう。ハイ・メンテナンスの人々というのはあなたをコントロールする人です。彼らはあなたに興味があるのではなく、あなたが自分たちのために何ができるかに興味があるのです。もし、あなたが彼らを喜ばせるために一生懸命になるなら、罠に陥るでしょう。あなたは常にフラストレーションがたまり、いつかは疲れ果てるでしょう。彼らを幸せにするためにあなたの時間を費やすのは貴重過ぎます。彼らは彼ら自身の夢とゴールを目指すべきであり、あなたはあなた自身の夢とゴールを目指すべきなのです。彼らはあなたの友人ではなく、manipulator(操る人)です。あなたは彼らのパペット(操り人形)ではありません。パペットの糸を切って下さい。」アーメン。

第三は、あなたのあこがれの人です。人生の恩師というものがいるはずです。あるいは、その道で尊敬する人がいるでしょう。出会いはとても重要です。私たちはあこがれの人から学び、彼らのようになりたいと努力します。でも、まもなく気が付きます。「ああ、あの人とは違うんだなー」と。私も大川牧師やチョーヨンギ師、安海靖郎師、エディ・レオ師、ウェンコディーロ師から学びました。彼らのように説教したいと思いました。でも、私には「私のスタイルがあるんだなー、これで良いや」と思えるようになりました。もちろん、常にだれかから学ぶ必要はあります。でも、だれかの借り物ではうまくいかないということです。ダビデがゴリアテと戦うとき、サウルは自分のよろいとかぶとを着せました。そのとき、ダビデは「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです」(Ⅰサムエル1738-39)と言いました。彼はそれを脱ぎ、自分の杖と石投げを手にして立ち向かいました。ダビデは使い慣れているものを用いました。私はテレビの『何でも鑑定団』を良く見ます。画家とか彫刻家があるとき、すばらしい人に出会って、作風が全く変わります。しかし、やがて自分固有の作風を見出すというものです。名前は忘れましたが、日本では珍しい鉄の彫刻家がいました。鉄は他の金属と違い、とても加工しづらいものです。そのため作品は、数えるくらいしかありません。彼はロダンに会って助言をきただこうとしました。記憶をたどっているので正確ではありません。ロダンは自分の芸術スタイルを1つも教えてくれず、「あなたの心にあるものをかたちにしなさい」と言ったそうです。私たちの人生においてすばらしい人との出会いがあります。その人にあこがれ、その人に追従し、その人から影響を受けるでしょう。でも、最終的にはあなた自身のものを生み出す必要があります。それは芸術だけではなく、どの世界においても言えることだと思います。

私は統合する、integrateということばが大好きです。学校では微分積分でいやな思い出がありますが、本来は「部分や要素を統合する、一体化する」という意味です。私たちはいろんな人と出会って、彼らから学び「私はこれで行こう」と決断するのではないでしょうか?ユダヤ人哲学科マルチン・ブーバーが「人生は出会いで決まる」と言いました。しかし、私たちの人生で最も偉大で価値ある出会いとは、主イエス・キリストとの出会いではないでしょうか?私たちはこの方によって私たちの創造主である神さまを知ることができました。私たちは偶然ではなく、神さまの御手によって固有に造られたことを発見できました。キリストにあって人生には意味があること、そして走るべきレースがあることを知りました。パウロのように後ろの物を忘れ、前のものに向かって進み、神の栄冠を得るために、目標をめざして一心に走りましょう。

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2018年7月 6日 (金)

あなたはだれか 創世記1:26-28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.8

 「あなたはだれですか?」と聞かれたら、名前と職業を答えるでしょう。必要であれば、年齢とか既婚か独身か、家族構成を答えるでしょうか?日本ではあまりないですが、国籍も問われます。最近は自分が男なのか女なのかも分からない人がいます。「あなたはだれか?」「自分はだれなんだろう?」これはアイディンティテイの問題であり、多くの人たちが混乱しています。なぜなら、何ができるか、何を持っているかで、自分のアイディンティテイを決めているからです。しかし、本来のアイディンティテイは存在そのものではないかと思います。 

1.アイディンティテイの混乱

 自分はだれなのかを知りたければ、自分の製造元に尋ねる必要があります。神のことばである聖書にそのことが書かれています。創世記126-28神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」この箇所には「人間とはだれなのか」「人間のなすべきことは何なのか」はっきりと書かれています。人間は自然から偶然に発生したのではなく、創造主なる神によって造られた存在です。他の動物と違って人間は、神さまのかたちに似せてつくられました。言い換えると、人間はすでに神のようであったということです。後で蛇に化けたサタンが「あなたがたが神のようになる」と誘惑していますが、人間は既に神のようであったのです。詩篇85「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」このみことばからも分かるように、人間は自然の一部ではなく、神のように自然を治めるように造られた存在です。神さまは私たちにあらゆる生き物を支配するように命じられました。さらに、神さまは「生めよ。ふえよ。地を満たせ」と命じていますが、それは人口が増えるということだけではなく、「神のかたちを持った人を増やして、地上を支配するように」という願いがこめられています。アダムとエバは、堕落以前は、自分がだれであり、何のために生きているか理解していました。彼らは何ができるとか、何を持っているかで自分のアイディンティテイを決める必要がありませんでした。なぜなら、神のかたちに造られた存在であり、神の栄光と誉れの冠がかぶらせられていたからです。

 しかし、創世記3章で起きた堕落により、人間のアイディンティテイが混乱してしまいました。サタンに誘惑されて、食べてはいけない木から取って食べてしまいました。それはどういう意味かというと、神の主権を認めないで、神から独立して生きるということです。その代り、人間には恐れと恥がやってきました。それまでは二人が裸で暮らしても何の問題もありませんでした。堕落後の人間は神を恐れ、いちじくの葉で自分の恥を覆い隠しました。いちじくの葉というのは、現代的には、職業、学歴、何を持ち、何ができるか、どこに属しているかであります。さらには、容姿、結婚、家、子ども、財産、車、資格も人工的ないちじくの葉ということができます。牧師でも、博士号とか、名刺にたくさんの肩書を並べている人がいますが、アイディンティテイに問題があるのかもしれません。私のようにない人が言うと、やっかみに聞こえるかもしれません。それはともかく、私たちに罪が入ったために、思い、感情、意志という魂の分野に混乱が生じました。自分の弱さや欠点を隠し、人と比較し、人と争いながら生きています。単一民族である日本人は、人との和が必要なので、個人のアイディンティテイが持ちにくいと言われています。もし「あなたはだれですか?」と聞かれたら、まわりを見てから、答えるのではないでしょうか?

 実はアイディンティテイがしっかりしていないと、クリスチャンになっても頑張る人になってしまいます。ガラテヤの教会は「福音を信じるだけで救われる」ということをパウロから聞かされて信じて救われました。ところが、あとからユダヤ人がやってきて、「モーセの律法を守り、割礼を受けなければダメだ」と主張しました。「ああ、そうなのか?」とガラテヤの教会は宗教的なことを一生懸命守るようになりました。パウロは「霊ではじまったことを肉で仕上げるのか」(ガラテヤ33)と怒っています。肉でも美しい肉があります。人間は生まれつき、宗教という肉を持っています。神さまに受け入れられるため、何かをしなければならないと考えます。罪を悔い改め聖書を読むこと、祈り、献金、奉仕、断食…みな良いことです。しかし、それらが神に近づくために必要だとするなら、この世のパフォーマンス指向と同じです。パフォーマンス指向とは、神さまの愛を受けるために何かをしなければならないと考えることです。そのため、「まだ自分は足りない」「まだ自分はふさわしくない」と恐れと不安がたえずつきまといます。良い行いが神に受け入れられるためのものであるなら、それは汚れた間違った動機です。なぜなら、キリストが流された血潮によって、恵みの座に大胆に近づけることを信じていないからです。イエス様にはアイディンティテイの混乱は全くありませんでした。マルコ111「そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」これは、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたとき、天の神さまからのイエス様に対することばでした。イエス様はまだ何もしていないのに、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と是認されました。後で、サタンが「もし、あなたが神の子なら」と誘惑していますが、イエス様はすでに神の子だったのです。イエス様は「自分はだれか、何をするために来たのか」分かっていたので、サタンの誘惑を退けることができました。イエス様は、毎朝、父なる神さまと交わっていました。一日が始まるとき「父よ、きょうはカペナウムに行って宣教します。病の人を癒し、盲人の目を開けてみせます。死んだ人がいたらよみがえらせます。どうか私を見ていてください」。そんな風には祈りませんでした。イエス様は父の御目のもとで生活し、父を見ながら、父がしなさいと言うことだけをしました。別に、父なる神さまから認められたくてしたのではありません。私たちはイエス様のように、正しいアイディンティテイを持つ必要があります。

 こういう私はアイディンティテイの乏しい人でありました。8人兄弟の7番目で生まれ、おまけのような存在でした。我が家では、長女と長男がとても優秀で、他の兄弟はまったく褒めてもらえませんでした。その当時の私の趣味は賞状を集めることでした。夏休みや冬休みの課題も賞状をもらいました。運動会ではいつも3位で悔しい思いをしました。高校も行きたくなかった学校に入り、建設会社で働いても自分はだれかという誇りは全くありませんでした。英語の仕事がしたくて、23歳で会社を辞めて失業しました。町田の英文タイピングスクールで勉強し、百合ヶ丘のバッテングセンターでバイトをしました。自分が失業しているので、肩身が狭い思いがしました。24歳であこがれの貿易会社に就職できました。小さな会社でしたので、いきなり係長になることができました。Export-divisionという名刺もできました。用事のため社長のクラウンに乗ることがありましたが、自分が偉くなった感じがしました。しかし、クリスチャンになり社長のやり方についていけないので、先輩と一緒に辞めました。私は直接献身して、聖書学院に入学しました。信仰歴が浅かったせいもあり、1年の基礎科で卒業しました。それから二度目の失業をしました。しかし、不思議なことに、自分がだれであるかを知っていたので、前のような空虚感がありませんでした。自分は神の子、クリスチャンであるということが分かっていたからです。

男性の場合は職業が自分の身分、自分のアイディンティテイになりがちです。一流会社に入って入るときは良いでしょうが、失業してしまったら全部砕けるでしょう。運良く定年まで勤めたとしても、やがては退職しなければなりません。退職したとたん、鬱になる人が多いと聞いています。そのため最近は「社友」というOB会を作っています。年一回どこかに集まって、所属意識がなくならないようにしているのです。女性の場合は、自分がだれと結婚しているか、自分の子どもがどの大学を卒業したかが、自分のアイディンティテイになるようです。もし、自分の夫が失業でもしたなら、子どもが退学でもしたなら、自分がだれか分からなくなります。そういう「いちじくの葉」で、自分を覆い隠すというのをおやめになったら良いと思います。でも、多くの人たちは自分の身分を確かなものにしようと、頑張っています。モーリス・ワグナーという人が『誰かになるセンセーション』という本でこのように述べています。「たとえ外見や振る舞いや社会的地位によって、それなりの人になろうと試みようとしても、人は満足することはできない存在です。どんなに自己存在の頂点に達したとしても、すぐに敵意のある拒絶や批判、自己反省や罪意識、恐れ、心配などのプレッシャーの下敷きになり、粉々に砕かれてしまうものです。私たちは無条件に惜しみなく愛されるという副産物を得るために何もすることができないのです。」ソロモンはイスラエルの歴史において最も繁栄した時代の王でした。権力、地位、富、物質、女性、すべてを手にしました。もし意義のある人生とは、外見、賞賛、行動、成功、地位、名声の結果、得られるものだとすればソロモン王はこの世で最も幸福な男だったということになります。しかし彼は、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(伝道者の書12と言いました。自分の正しいアイディンティテイは外見や振る舞いや社会的地位によって得られないのです。

2.アイディンティテイの回復

 私たちは「自分は何ができるか」と問う前に、「自分はだれか」を知ることがとても重要です。なぜなら、自分の存在が行いを決定していくからです。言い換えると、beingdoingを決定していくということです。私たちは自分がだれなのか、神さまからのメッセージを聞く必要があります。イザヤ書434「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」神さまは「あなたを高価で尊い存在である」とおっしゃっています。なぜなら、イザヤ431には「あなたを造り出し、あなたを形造ったからだ」と理由が述べられています。このみことばは、最初のポイントで引用した創世記1章と全く同じです。日本人は親が「子どもを作る」と言いますが、それは正しくはありません。親は子どもを生むことはできますが、造ることはできません。正確には、神さまがあなたを造ったのです。このみことばから、「私は神の傑作品、masterpieceである」と自負して結構なのです。あなたは「いや、もうちょっと背が高い方が良かった」と言うかもしれません。しかし、神さまが「あなたが、背が高い方が良い」と考えていたら、背が高かったでしょう。あなたは不満かもしれませんが、ちょうど良い背の高さなのです。アーメン。イザヤ書に「主は陶器師であり、私たちは粘土である」と書かれています。神さまがあなたの背の高さ、容姿、性格までもお決めになられたので文句を言うことはできません。あなたが自分をどう思っているか分かりませんが、神さまの目では「高価で尊い」のです。なぜなら、あなたは神さまによって造られ、形造られた存在だからです。明日、鏡を見たとき、自分にこうおっしゃってください。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 この世では、外見や持ち物、行いや業績によって自分のアイディンティテイを決めてしまいます。残念ですが、イエス様を信じて、クリスチャンになったのに、その考えが抜けません。だから、もっときよめられ、もっと働いて、もっと勉強して、もっと成果を出さなくてはという恐れがあります。もちろん、それらのことは重要です。でも、そうしなれば、「神さまは私を愛してくれない」「神さまは私を受け入れてくれない」と考えるのは大間違いです。日本の教会の特徴は、律法主義であり、パフォーマンス指向です。日本のクリスチャンは、「まだダメだ」「まだダメだ」とがんばっています。それらの行ないは、恐れから来るものです。喜びとか満足ではありません。だから、いつも緊張しています。特に献身者になると、大変であります。信徒のときはだれも文句を言わなかったのに、献身者になったとたん、「それでも献身者?」「それでも牧師?」と言われるようになります。だから、そう言われないように一生懸命頑張ります。その結果、偽善者になるか、燃え尽きるか2つに1つです。ローマ86「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません。」ここに良い知らせがあります。私たちは肉で神さまを喜ばせる必要はないのです。なぜなら、私たちがイエス様を信じたときから、父なる神さまは十分、満足しておられるからです。父なる神さまがイエス様に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。その同じことばが、あなたにも私にも向けられているのです。父なる神さまは、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃっています。神さまから認められるため頑張る必要はありません。なぜなら、イエス様にあってすでに認められているからです。

 私たちは主にあってどういう存在でしょうか?Ⅰコリント11「あなたがたは聖徒である」と言われています。このことばは、パウロがコリントの教会員に言ったことばです。コリントの教会は非常に肉的で、この世の罪に満ちていました。当時「コリントする」とは、「みだらなことをする」という意味でした。パウロはそういう教会の人たちを「あなたがたは聖徒である」と言いました。聖徒とは英語でsaintです。ローマカトリック教会では、特別な功績をあげ、教会が認定した人でなければなれません。勝手にsaintと言うことは許されません。しかし、それは聖書的ではありません。イエス様を信じている人はだれでも、聖徒saintなんです。でも、どうか「セイント青木」とか名乗らないでください。当教会には青木さんがとても多いのでつい出してしまいました。ニール・アンダーソン師がVictory over the darknessという本の中でこう述べています。「ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイディンティテイなのでしょうか?そうではありません。神は私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし自分のことを罪人と考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、『聖徒』なのです。どうか次のことを覚えておいてください。どう生きるかが存在そのものを左右するのではなく、どういう存在であるのかが生き方を決定していくのです。」アーメン。

 私たちは子どものときに親から「あなたは〇〇ですよ」言われました。学校に入ると先生から「あなたは〇〇ですよ」と言われました。友達からも「お前は○○だ」と言われました。不器用、のろま、役立たず、馬鹿、のっぽ、ちび、でぶ、やせ、だらしない、集中力がない、あきっぽい、音痴、理屈っぽい、魅力がない、素質がない、泣き虫…そのほとんどが否定的なものです。客観的に当たっているものもあるかもしれません。もし、だれかが言った同じことを自分に言うなら、そこから脱却することはできません。あなたは呪いのもとで生きることになります。私たちはそういうラベルをはがして、あたらしいラベルに張り替える必要があります。ラベルは英語ではlabelで、札、レッテルとも言われます。レコード会社を示すレーベル(商標)でもあります。ジョエル・オスティーンがThink better Live betterという本の中で「否定的なラベルをはがせ」と言っています。ウォールト・ディズニは10代のとき、「彼はクリェイテブでない、イマジネーションもいまいちだ」と新聞社から言われました。ルシル・ボール(米のコメディアン、モデル、女優、存命中アメリカで最も人気があり影響力のある人物の1人)は、「演技力がないので他の仕事に就くべきだ」と言われました。ウィンストン・チャーチルは「大学入試を2度も失敗し、良い学生でない」と考えられました。この三人が成功した共通要素は、否定的なラベルをはがしたということです。今日も同じで、人々は常に私たちにラベルを貼りたがります。「なれる」とか「なれない」とか、「できる」とか「できないとか」とか言います。多くの場合、それらのラベルは神さまが私たちにおっしゃっていることとは違います。もし、彼らの言うことが真実かのように、受け止めていたなら、私たちの中に深く染み込んでしまうでしょう。ある男性が高校生のとき、スクール・カウンセラーが「君は際立った賜物がないので、技術を要しない仕事についた方が良い」と彼にラベルを貼りました。彼は来る年も来る年も「私は平均以下で頭が良くない。自分が望むような人にはなれない」と思い続けてきました。ある日、彼が勤めていた工場が閉鎖になり、彼は他の町に行って工場を探しました。その会社は新しく入った人にIQテストをする決まりがありました。社長が彼を呼び出して「どうしてあなたは低い地位にいたんだ。創業60年来、あなたほどIQの高かった人はいない」と言いました。その日、彼の心の要塞が取り壊されました。彼は7年間貼られていたラベルをはがしました。結果的に彼は、自分の会社を興し、たくさんの製品を発明し、市場において特許まで取りました。

 人々から言われてきた否定的なラベルをはがしましょう。そして、創造主なる神さまから新しいアイディンティテイをいただきましょう。そして、そのアイディンティテイを自分の口で、自分に言い聞かせるべきです。すなわちそれは、新しいラベルを自分に貼るということです。聖書はあなたにどういっているでしょうか?ジョエル・オスティーンがThe power of I am、「私は〇〇であるという力」という本を書いています。あなたが悟るか悟らないに関わらず、「私は〇〇である」と言うならば、「私は〇〇である」という力が働き、あなたの人生がそれに従ってくるのです。「私は不器用だ」と言えば、不器用がやってきます。「私は年だ」と言えば、年がやってきます。なぜなら、あなたが言ったことが、扉を開けて、人生に許可を与えることになるからです。ですから、私たちは聖書から積極的で正しい、宣言を自分自身にすべきであります。今から私たちが言うべきことをいくつかあげたいと思いますので、みなさんも後から宣言してください。「私は神の子で、特別に愛されている」「私は神さまの傑作品であり、とても価値がある」「私は幸せであり、これから先もずっと幸せである」。「私はとてもかしこい。とても役に立つ存在である」。「私はロイヤルファミリーの一員で、王子、王女である」。「私は魅力的で、良い影響を与えることができる」。「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない」。「私には復活のいのちがあるので、倒れそうで倒れない」。「私は若い。鷲のように何度も若返る」。「私は神さまの栄光を現し、神さまに用いられる」。「私には偉大な神がついているので、人を恐れない」。「私の内にはキリストが住んでいる。だから愛があり、寛容である」。「人にはできないが神にはできる。だから、私にもできる」。「主が共におられるので、私には希望がある」。「私は赦されている。これからも赦されている。永遠の御国に住まうことができる」。アーメン。

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2018年6月29日 (金)

積極的考え方の力 民数記13:25-33 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.7.1

 昔、ノーマン・ピールの『積極的考え方の力』という本がありました。ところが、キリスト教会では「それは功利主義の本だ」と否定した人たちが多くいました。ノーマン・ピールはクリスチャンなんですが、「あの人は怪しい」と言うのです。日本の教会はピューリタンの影響を受けたので、「豊かになる。富む。成功する」ということにアレルギーを示しました。残念ですが、反対する教会に限って、小さくて貧弱であるようです。もちろん、「啓発セミナー」とか「ニューエイジ」には反対です。でも、聖書に土台する「積極的考え方の力」はあると信じます。

1.「できる」と考える

 私たちの周りには、「それはできない、不可能だ」と反対する人は必ずいるものです。彼らは失敗しないかもしれませんが、成功をすることもないでしょう。私たちは否定的な人と一緒にいると、否定的になります。でも、肯定的で生産的な人といると良い影響を受けるのです。熱力学第二法則、エントロピーの法則というのをご存じでしょうか?これは簡単に言うと「熱いものは冷める」ということです。また、「エントロピーが増大する」とは、秩序から無秩序になるということです。「進化論」はまさしく、エントロピーの増大に反している学説です。だまっておいたら、部屋は散らかるし、雑草は生えるし、筋肉が衰えるのと同じです。私たちの脳みそも使わないで、否定的な考えで満たしていたなら、無能でただの人になってしまうということです。無能でただの人が悪いというわけではありませんが、クリスチャンは神さまが願う標準に達する必要があります。なぜなら、創造者なる神さまが私たちを固有なものとして造り、固有な運命divine destinyをそれぞれに与えておられるのに、「それは、できない」と座り込んではいけないということです。しかし、「主にあって、できる」と考えるなら、不思議にアイディアが浮かんできます。「一緒にやりましょう!」という協力者も与えられるでしょう。もし、あなたが何らかのリーダーであるなら、否定的な人ではなく、「主にあって、できる」という積極的な考えを持つ人にならなければなりません。そうでないと、あなたのところに人は集まってきません。世の中には、良いリーダーも、悪いリーダーもいますが、共通点は彼らが「できる」と考えることです。

 聖書に「できる」という人と「できない」と考えた二種類の人たちが出てきます。民数記13章の記事は、その例を示す典型的な箇所です。モーセは約束の地、カナンを探るために、12部族から一人ずつを任命しました。彼ら12人の偵察隊は40日間、その地をさぐりました。そして、大きなぶどうを枝ごと二人で担いできました。ざくろやいちじくも切って持って来ました。彼らはカディシュという荒野で待っていたイスラエルの人たちに告げました。くだものを見せながら、「そこにはまことに乳と蜜が流れている豊かな地です」と言いました。ところが、彼らの中の10人はこう言いました。民数記1328-31「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」カレブは「必ずできる」と主張しました。後から、ヌンの子ヨシュアも「できる。攻め上ろう」と主張しました。ところが、他の10人は、ますます否定的なことを言いました。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」ご丁寧にも、彼らが「自分たちをどのように見たか」まで、想像して言いました。「自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言っています。神の民である自分たちが「ぴょんぴょん跳ねるいなごである」とたとえました。人々はどちらの報告を信じたでしょう?2人の「できる」という人たちの報告でしょうか?それとも10人の「できない」という報告でしょうか?残念ですが、否定的な人の考えの方が感染力、伝染力があるのです。

 民数記14章にその続きが書かれています。民数記141-4全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」何と言う不信仰でしょう。モーセは彼らを制することができず、ただ全会衆の前でひれ伏すだけでした。ところが、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いてこう主張しました。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記147-9)。ヨシュアとカレブの二人は「できる。攻め上ろう」と主張しました。なぜなら、それは主の約束であり、主がともにおられるからです。二人は巨人を見たのではなく、彼らの上におられる偉大なる主を見ました。だから「彼らは私たちのえじきとなるのだ」と言っています。彼らの積極的な考えは、神の約束に裏打ちされていました。主は人々の不信仰に怒り、「この人たちは荒野で40年間さまよって死ぬ」と言われました。約束の地を悪く言いふらした10人は、疫病に打たれて死にました。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブだけが生き残りました。

 私たちはこのような旧約聖書の出来事を教訓として受け止めなければなりません。彼らはチャンスを失っただけではなく、40年間荒野をさまよって死ぬことになりました。約束の地に入れたのは、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブだけです。あとは、当時、20才未満の人たちだけです。古い世代が滅び、次の新しい世代だけが約束の地に入ることができました。このところから、神さまの約束に土台した「積極的な考えの力」がどれほど大切かを知ることができます。もちろん、私たちはやみくもに「できる」「できる」と言えば何でも思い通りになるということではありません。また、神さまの約束がはっきりと分かるときもあれば、よく分からないときもあります。でも、どちらにしても積極的な考えを持ち、主にあって「できる」と考えることです。そうすれば道が開かれます。不思議なことに、私たちは不可能な出来事にでくわすと「できる」か「できない」かのどちらかを選択しなければなりません。常識的な判断や経験で、あるいは失敗を恐れて「できない」と言うでしょう。しかし、不可能と思えるような状況でも「できる」と考えるとどうでしょう?不思議にアイディアが浮かんできます。「できない」と考えるとすべてのアイディアがストップします。しかし、「できる」と考えると、いろんな選択肢、解決策、アイディアが次々と浮かんできます。これは、信仰を持っている、持っていない関係ありません。この世の人たちでも、大きな発見や発明、大事業で成功する人は、すべて「できる」と考える人たちだからです。

 『積極的な考え方で成功する』という本を書いたロバート・シュラー牧師がおります。彼は全面ガラス張りの「クリスタル・カセイドラル」を建てた人として有名であり、献堂式のときノーマン・ピール博士を招待しました。ロバート・シュラーがこの本の中でこのように述べておられます。「私は何も試みないで成功するよりも、むしろ何か偉大なことをして失敗したほうがよい!」「目標を持たないことは、目標に到達しないことよりももっと懸念すべきことである。」「一つの扉が閉じるたびに、他の扉が開かれる。」「偉大なアイディアはすぐれた人々を引きつける。」「神のために偉大なことを試みなさい。そして神から偉大なことを期待しなさい。」最後のことばは、「近代海外宣教の父」として知られるウィリアム・ケアリーのことばです。彼は教職者ではなく靴の職人で一般信徒でした。当時、ヨーロッパ中が福音化され「海外宣教」という考えはありませんでした。イギリスがインドを植民地化していましたが、原住民は救いの対象ではないと考えられていたのです。ところが、ウィリアム・ケアリーが「インドに宣教に行かせてください」と志願しました。教会は「馬鹿なことはやめろ」と全くサポートしませんでした。ある伝記によると、「十年間、彼は、冷笑とあざけり、遅鈍で無関心という最悪の敵意の矢面に立った」と書かれています。インドには夫の火葬の薪の上で、未亡人を焼き殺すというサティという残酷な風習がありました。33年の間、残酷な習慣を根絶することが彼に求められた改革の1つでした。少なくとも、7万人のベンガル女性が、生きたまま焼き殺されてきたからです。彼は異教の風習と戦いながら宣教を進め、やっとのことで彼の成果が認められました。やがて、イギリス・バプテスト伝道会社やロンドン宣教会が設立されました。ウィリアム・ケアリーのことばをもう一度ご紹介します。「神のために偉大なことを試みなさい。そして神から偉大なことを期待しなさい。」

2.火を燃え立たせる

ヨシュアが新しい世代のイスラエルの先頭に立ってカナンに攻め上りました。あれから40年過ぎました。ヨルダン川を渡り、エリコを攻め落とし、次々と領土を拡大していきました。ヨシュア記131ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」そして、主はそれらの地名を次々とあげました。そのとき、カレブがヨシュアにこのようなことをお願いしました。ヨシュア1410-12 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」ヨシュアも何歳か分かりませんが年を取っていました。カレブは85歳であるとはっきり書かれています。85歳と言えば、隠居して、盆栽でもいじっていても良い年です。ところが、カレブにはやり残した仕事がありました。かつて、人々は巨人アナク人と城壁の町々を恐れて戦いを断念しました。カレブはあえて、困難な場所を求めました。「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」と願い出ました。何と言う、前向きの生き方、なんという積極的な考えの持ち主でしょうか?彼は60年前の信仰の火を消していなかったということです。今、再び、信仰の火を燃え立たせて、困難なことを求めました。サムエル・ウルマンという人の詩です。「霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ悲嘆の氷にとざされるとき20歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり80歳であろうと人は青春の中にいる。」

 私たちは年を重ねると考え方が保守的になり、どうしても「守り」に入ります。しかし、現状維持であるなら、衰退していくばかりです。日野原重明氏は召される105歳まで現役でした。19953月、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起きました。83歳の日野原氏が陣頭指揮を執り、聖路加国際病院を開放し、被害者640名の治療に当たりました。ウェキペディアにこう書いてありました。「晩年の日野原は100歳を超えてスケジュールは23年先まで一杯という多忙な日々を送っていた。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという。命の続く限り現場に立ち続けるという信念をあくまで貫いており、生前には少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしていると語るほどであった。」まさしく、超人であります。私は早朝、30分のウォーキング後に、ディボーションをします。その時、必ず読むのは、ジョエル・オスティーンの本です。この説教の準備のとき読んでいた本が2冊ありました。Wake up to hopeYou can, you will.です。You can, you will.7章に分けられています。すばらしいので題名だけをご紹介します。第一章「目の前のビジョンを保ち続けよ」、第二章「あなたのレースを走れ」、第三章「良いことを期待せよ」、第四章「可能性思考を持て」、第五章「すぐれたことにコミットせよ」、第六章「成長し続けなさい」、第七章「他の人に仕えよ」です。彼の本を毎朝、読んでいるので「ぐぐぐー」と力が与えられます。どの本か忘れましたが、フランク・ロイド・ライトのことを書いていました。彼はアメリカの建築家であり、日本の帝国ホテルや自由学園も設計した人物です。彼が生涯の終わりにさしかったとき、一人の記者が彼に尋ねました。「あなたがデザインされた沢山の美しい建造物で、最も気に入っているものはどれですか?」間髪入れず、フランク・ロイド・ライトがこう答えました。「次の作品だよ」。ジョエル・オスティーンは「ライトは、前に向かって継続的に体を伸ばすことの大切さを理解していました。彼は過去の成功に単純に満足しなかったのです。世界全体が、あなたの次の冒険を待っている」と書いていました。エントロピーの法則は「熱いものはさめる」「秩序から無秩序へ」であります。私たちはたまっていたら、次第に衰え、情熱も冷めて行きます。しかし、クリスチャンは死からよみがえられたキリストの命を有しているではありませんか。それは聖霊の力として今も私たちに臨んでいる、神さまからの無限の力です。

 パウロが激務のために弱っているテモテにこう勧めています。Ⅱテモテ16-7「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」「再び燃え立たせる」は英語の聖書で、kindle afreshです。Kindleというのは、「熱などを燃え立たせる」という意味です。また、他の聖書はstir up「あおる、かきまぜる」というふうにも訳されています。昔は、かまどでご飯を炊いたり、七輪でおさかなを焼いたりしました。しばらくそのままにしておくと、火が弱ってきます。そうすると、火箸で燃えている炭をかきまぜます。灰が落ちて、酸素が行き渡るので、再び燃えます。テモテは按手によって与えられた神の賜物がありました。具体的にそれが何なのか分かりませんが、聖霊による賜物であります。「油注ぎ」と言っても良いかもしれません。でも、長年の伝道牧会で、疲れて弱っていたのでしょう。気落ちして、おくびょうになっていたのかもしれません。だから、パウロは神の賜物を再び燃え立させるように注意しています。まことに残念ですが、リバイバルの火は消えてしまいます。火を消す人というのは、「それはおかしい、聖霊の働きではない」と非難する人たちです。やがて、聖霊の力よりも、人間の品性とか神学を強調するようになります。確かにリバイバルは聖霊の偉大な力と混沌(カオス)が一緒にやってきます。しかし、教会は愚かにも、小さな間違いや行き過ぎばかり注目して、聖霊の偉大な力を捨ててしまうのです。リバイバルは安定期に入っているようですが、それは衰退であります。すると神さまは別のリバイバルをどこからか起こして下さるのです。神さまは幼子のように神さまに求める信仰者を求めています。神学でガチガチの人を用いません。なぜなら、神さまは私たちの頭脳よりもはるかに大きいお方だからです。J.B.フィリップスは『あなたの神は小さすぎる』という本を書いています。あなたの神は小さすぎるのではないでしょうか?

 私はもうすぐ65歳になります。「3年で100名礼拝」というのがいまだ実現していません。「あれだけ『神にはできる』と積極的信仰でやってきたのに、さっぱり証になっていないじゃないか」と言われたなら、どこかに隠れるしかありません。今、思えば、韓国のチョー・ヨンギ師のような大教会を目指してきました。「夢と信仰を持てば必ずできる」というチョー・ヨンギ師がおっしゃることをずーっと信じて来ました。チョー師は最大70万人の教会まで上り詰めました。やはりそれは偉大なことであると思います。先生を批判する人ももちろんいますが、偉大な人の銅像は立っても、批判する人の銅像は立ちません。批判する人、否定的な人は必ずいるものです。でも、そういう人たちは「偉大な神さまの働き」を実現することはできません。まさしく、10人の偵察隊であり、イスラエルの第一世代の人たちです。私は人が何と言おうと、「神にはできる」「夢と信仰を持てば必ずできる」と、最後の一息まで言い続けたいと思います。2年くらい前になりますが、80歳を超えた、チョー・ヨンギ師がサントリー・ホールで開かれた特別集会で話されました。普段はキリスト教のために決して用いられない場所です。チョー・ヨンギ師はパーキンソン病のため歩くときは介助が必要でした。しかし、チョー師が講壇に立って、話し始めたら、昔の力がよみがえってきました。チョー師は私たちを激励するつもりでこう言われました。「もし、私が今から教会開拓をはじめたなら、1年で1万人の教会を作ることができます」。私は胸が打たれました。80歳を過ぎているのに、「なんという霊力、なんという情熱だろう」と感銘しました。昔、私はホームページに尊敬する人の中に、チョー・ヨンギ師の名前をあげていました。そうしたら、ある団体から講師として招待されていたのに、御断りが来ました。私がチョー・ヨンギ師を尊敬しているということが理由だったそうです。「なんと愚かな団体だろう」と悲しくなりました。これが日本の教会の現状です。「ちょっと神学が違う」「ちょっと立場が違う」それで、プイであります。

 今も、「積極的考え方の力」を否定する教会やクリスチャンはたくさんいます。もちろん、積極的に考えたら何でもできるとか言っているわけではありません。しかし、聖書の神さまは、イエス様は積極的考え方の持ち主であったことは間違いありません。イエス様はマルコ福音書でこのように言われました。マルコ1027「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」、マルコ1122「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」私たちは現実から神さまを見るのではなく、イエス様のことばからものごとを見るのです。そうすれば、エントロピーの法則に打ち勝ち、霊に燃え、主に仕えることができるのです。

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2018年6月22日 (金)

うつを理解する 詩篇42:1-5 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.6.17

 不景気で社会的な抑圧が強くなるとうつになる人が増えると言われています。厚生労働省によりますと、うつ病など気分障害で医療機関を受診している人は約112万人(2014年)いるそうです。でも、どこからがうつ病でどこからが、うつ的な気分なのか線引きが難しいと思います。多くの人たちはうつ的な気分をなんとか克服しながら生きています。「信仰があるから大丈夫」ということはありません。なぜなら、私たちは不完全な感情と肉体を持っているからです。私は専門家でも医者もありませんが、聖書的な立場を踏まえて「うつ」を理解したいと思います。

1.聖書的な理解

 欽定訳聖書、あるいは初期の聖書には「うつになる」とか「うつ」ということばは全く発見できません。うつdepressionは、19世紀の中ごろから広く一般に使用されるようになったようです。もちろん、うつの症状そのもの「気分の落ち込み」として、はるか昔からあったことでしょう。「うつ」と言うと、すぐ「うつ病」を連想するかもしれませんが、私たちは「気分の落ち込み」をしょっちゅう体験しているのではないでしょうか?第一のポイントでは、どんな環境や状況が人を「うつ」にしてしまうのでしょう?聖書の人物たちを取り上げながら学びたいと思います。今回は、ブレンダ・ポインセット著『うつになった聖徒たち』という本を参考にしました。

第一は負いきれない重荷、あるいは使命から来るものです。生きるために、あるいは立場上、自分をひっぱってでもやらなければならない仕事や任務があります。その代表人物がモーセです。彼は100万人の以上の民をエジプトから脱出させました。ところが、彼らは荒野で「水が飲みたい。飢えて死にそうだ。エジプトには墓がないので、私たちをここに連れて来て、この荒野で、死なせるのですか?」と不平をもらしました。モーセは神さまに何と言ったでしょう。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。… 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。…私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」(民数記11章抜粋)。モーセは神さまに不満をぶっつけました。彼の正直な祈りの中に、彼が抱えていた「うつ」の症状を読み取ることができます。モーセは、正直に自分のありのままの感情を神さまに告げました。すると神さまは重荷を分かち合うために70人の長老たちを与えてくれました。主は天からマナを降らせ、うずらを与え、水を与えてくれました。モーセのように、神さまに心を開いて、頭にあること、心にあることを打ち明けることが重要です。

第二は働き過ぎから来る、燃え尽きと「うつ」です。その代表は預言者エリヤです。エリヤはアハブ王の前に立って「偶像礼拝をやめないなら、雨も露も降らないぞ!」と警告しました。3年も雨が降らないので、イスラエルは大干ばつに襲われました。エリヤは再び、王のところへ行き、バアルの預言者たちと勝負を持ちかけました。それぞれ、祭壇を築き、「天から火が降った方がまことの神である」としました。結局、エリヤの祭壇に火が降りました。勝利したエリヤは450人のバアルの預言者たちを剣で切り殺しました。それから雨が降るように七度祈ると、大雨が降りました。エリヤは、これでアハブ王がまことの神に立ち返ると思いました。ところが、妃のイゼベルに脅され、王の前を立ち去りました。エリヤは荒野に逃れてこう言いました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取って下さい。私は先祖たちにまさっていませんから」(Ⅰ列王記195)。一人で450人のバアルの預言者を倒した同じエリヤだとは思えません。彼は完全に燃え尽きとうつになりました。大きなプロジェクトを成し遂げた人たちが燃え尽きて、うつになったということを良く聞きます。主がエリヤのためにしたことは、「うつ」になった人の癒しになります。エリヤが回復するためには、睡眠、食物、飲み物だけでは不十分でした。運動とひとりになることが必要でした。エリヤは4040夜かけて神の山ホレブに向かいました。ホレブの洞穴で、主に訴えました。大風や地震や火ではなく、かすかな細い主の御声が、エリヤの癒しになりました。

 第三は喪失からくるうつです。ヨブはすべての財産と10人の子どもたちを一瞬にして失いました。さらには肉体に腫物が生じて、かゆくてたまりませんでした。妻は「神を呪って死になさい」と言うし、友人たちはよってたかって「お前に罪があるからだ」と言います。ヨブは1年以上、喪失の悲しみと病を負いつつ、友人たちと議論を交わしました。ヨブは灰をかぶりながら自分が生まれた日を呪いました。ヨブはうつのために体調に変化が表われました。食欲が減退し、眠ることができなくなりました。ヨブ324-26「実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る。私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」突然、主があらしの中からヨブに語られました。ヨブが癒されたのは、何故そうなったのか「理由を知る」のをやめた時からでした。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福されました。いつか訪れる祝福の日々が必ずあるということです。

 『うつになった聖徒たち』の著者ブレンダ・ポインセットの証しです。「私はクリスチャンですが、今まで幾度もうつを経験しています。あるときは、あまりにも落ち込みがひどくて、これ以上歩みを進めるのをやめたくなったこともあります。つまり、生きることを、そして神に仕えることをあきらめてしまいたくなったのです。私は谷の奥底におり、そこから見上げる山に登るのは、あまりにも険しくて無理なように感じました。」彼女は、日々のディボーションを欠かさず、聖書をよく学び、たゆみなく祈り、熱心にキリストに従っていました。それを聞いた人たちは「なぜ、そんなあなたがうつになったりするの?」と言いました。強い人、信仰者がうつにならないのでしょうか?もし、うつになったら不名誉で恥ずかしいことなのでしょうか?モーセ、エリヤ、ヨブ、エレミヤ、ナオミ、ヨナ、パウロ、詩篇42篇の作者みんなうつを経験しました。彼らは絶望という人生の谷間のような日々を過ごした人たちです。でも、彼らは神によって用いられた勇気ある人物でもありました。聖書を読むと、彼らが私たちの仲間であることが分かります。

2.心理学的な理解

 第二のポンイントは心理学の立場から「うつ」を理解するということです。今回は岡田尊司(たかし)氏が書いた『うつと気分障害』が大変参考になりました。この本の書き出しがとても興味深いです。「うつ」は心の風邪といわれるほど、誰にでも起こりうるものである。気分障害のうち、いわゆる「うつ」の中でも、重症なものである大うつ病だけをとってみても、生涯において一度は大うつ病に罹患(りかん)する人の割合は、全人口の15%にも上る。…ということです。うつの症状が現れる気分障害には大きく分けて4種類あります。第一は大うつ病(単極性うつ病major depressive disorder)です。大うつ病もいくつか分かれるようですが、「大」というくらいですから、症状が重いということでしょう。昔から律儀で、几帳面で、責任感の強い性格の人がかかりやすいとされてきました。第二は小うつ病で、少々軽いものです。社会学者マックス・ウェーバーも、うつで苦しんだそうです。彼は33歳のとき、新進気鋭の学者で、大学教授であり、教育者また政治家として上昇の最中にありました。しかし、引っ越しと父親の死がきっかけでうつ病になり、39歳で大学教授を引退しました。ご存じかもしれませんが、俳優の竹脇無我という人もうつ病で苦しみました。ヘミング・ウェイが自殺したのはうつ病の薬が合わなかったせいであると言われています。第三は双極性障害(躁うつ病bipolar disorder)です。文字通り、躁とうつを極端に繰り返すタイプです。躁になったときに対人トラブル、浪費や借金なとのトラブルを起こします。躁状態が終わったとき、ものすごい罪悪感に襲われます。作家の北杜夫がその病気で、躁状態のときは朝早くから起きて、慌ただしく株式の売買を繰り返し、うつ状態のときは、夕方まで寝ていたそうです。第四は双極性Ⅱ型障害です。軽躁とうつを繰り返すタイプです。いわゆる「うつ」とは違うということが分かったのが、1970年代以降です。この障害の生涯発生率は、511%であり、きわめて身近な疾病だそうです。他には、季節性のものがあります。

 
さて、こういう病気の治療法ですが、古くはフロイトではじまった精神分析です。元来、過敏で不安を感じやすい性格の持ち主が、内面に強い葛藤を抱えることにより心身の異常を引き起こします。抑圧した葛藤が、症状となって「神経症」として現れると考えました。もう一つはフロイトと同時代、クレペリンという人が体の中に何かがあると考えました。それがやがて、脳内の伝達物質が何かの理由で多くなったり、足りなくなっていると考えるようになりました。セロトニンなどの薬物投与が「うつ」に効果があることが分かりました。しかし、双極性障害(躁うつ病)の人には、全く別の薬でなければならないことが分かりました。現在、精神科とか心療内科に行くと、ほとんどが薬物療法です。患者の症状を聞きながら、薬の調合を変えていくというものです。統合失調症の場合もそうですが、薬が強すぎると、いつもぼーっとして過ごすことになります。さらには正常な脳細胞まで破壊してしまいます。最近では、薬で少し安定させた後、「認知行動療法」というカウンセリングが「うつ」に対して、効果を発揮しているそうです。その人のネガティブな思考を変えることによって、感情が変えられていくということです。

 では、どうしてうつになるのでしょう?心理学的な見地から少し考えたいと思います。さきほどの、岡田尊司氏の本から少し引用したいと思います。女性がうつ病になる生涯有病率は、4分の1を超え、男性のおよそ2倍です。女性は思春期から更年期までの生殖年齢において、とりわけうつ病になりやすい。また、軽躁とうつを繰り返す「双極Ⅱ型障害」や、気分の起伏と強い自己否定を特徴とする「境界性パーソナリティ」も女性に多い。女性ホルモンは、気分や意欲に関係し、うつや気分障害の発症に絡んでいる。女性がうつになりやすい最も危険な時期は、女性ホルモンが、急激に変動する時期、つまり、お産をした直後の産しょく期と、閉経に向かう更年期である。このとき、多くの女性が、多少なりとも精神的に不安定になりやすい。周囲の支えが重要になる。一方、男性ホルモンの分泌が低下してくる中高年期に男性も危険にさらされる。この時期(男性更年期)は、男性にとって体力も低下する一方で、責任や重圧がさまざまな意味でのしかかってきやすく、上手に防御を行わないと、うつ病に取り憑かれやすい。『生まれ出ずる悩み』や『或る女』などの優れた作品で知られる作家の有島武郎は、何度か重い憂鬱症に苦しんだことで知られている。生真面目で、潔癖で、几帳面な有島の性格は、まさにうつを引きつけやすいメランコリー親和型性格であった。…作家として行き詰まった彼の結末は、不倫と心中であった。

 心理学的な見地から癒しを考えたいと思います。第一は、社会的なつながりが乏しく、社会的な支えを受けにくい人は、うつ病にかかりやすいということです。今は、一人で過ごすことが当たり前のライフスタイルになっています。家父長的で、共同体的な人間関係を基本とするノルウェーでは自殺が少なく、核家族化し個人の経済的な自立を優先するデンマークは自殺が多いそうです。教会は神の家族という共同体あり、適度な関係を持つことができます。「ちょっと変わっている」という人も、主にあって受け入れることができたら癒しと回復につながるでしょう。第二は、落ち込むこともあるという心構えです。人々は、常に気分が下がることを警戒し、元気に強気に行動することを重視します。たとえ、相手が親しい友人であっても、弱みや暗い面を見せることは躊躇してしまうでしょう。落ち込みそうになれば、カラオケで歌ったり、居酒屋で盛り上がったり、時には薬物の力を借りて、気分を持ち上げようとします。しかし、挫折や失敗、不完全さも人生にはあることを認めることが重要です。第三は、焦らず十分な休養を取るということです。新渡戸稲造は、35歳のときに、うつになり、黒板に文字を書くことすら満足にできなくなってしまいました。その時、札幌農学校の教授をはじめ要職をいくつも抱えていましたが、そのすべてを辞して、二年余りの療養生活を送りました。マックス・ウェーバーは33歳の時に、うつになり、それから回復まで7年にわたる闘病生活を経験しました。満足な薬物療法もなかった時代でしたが、二人は完全に回復し、病気になる以前にも増して、華々しい活躍をしました。ただし、二人とも、病気になる前と後では、ライフスタイルを大きく変えています。また、二人の回復について共通していることは、十分な療養期間を持つことができたこと、元の仕事にしがみつかなかったこと、家族の愛情深い支えに恵まれたことです。

3.うつからの解放

 私たちはたとえうつになっても、どん底から神さまに呼びかけることが必要です。詩篇42篇はそのことを教えてくれます。まず、彼は第一に自分の状況を神さまに知らせました。自分の思いを神さまに注ぎ出していると言った方が良いかもしれません。詩篇421-3「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。」聖書を調べてみると、彼は琴の演奏者で、歌手であり音楽家であるコラの一族のひとりでした。ところが、彼らはバビロンに捕え移され、現地の人たちからあざけられていました。「おまえの神はどこにいるのか」と言われました。第二に、彼は気分が落ち込んでいますが、自分の魂に語りかけています。詩篇425 「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」同じようなことばが、6節、11節、そして435節にもあります。ちなみに詩篇4243篇はセットの歌です。自分の魂に語るということがとても重要です。そして、「神を待ち望め」と励ましています。第三は、意志をふるい起こして、神さまに誓っているということです。「私はなおも神をほめたたえる」3度も告白しています。少し前に、魂は思いと感情と意志の3つでできていると申し上げました。うつというのは感情がダメになっている状態です。もしかしたら、脳もダメになっているかもしれません。そのため私たちは思いと意志を用いなければなりません。クリスチャンは霊が生きていますので、霊が魂にあふれ出てくることを期待すべきです。結果的にそれは信仰となります。

 私たちは肉体、魂、そして霊でできています。うつはこれら3つが関係していると考えられます。まず、肉体ですが、私たちの肉体は土の器でできています。だから、弱った時はゆっくり休む必要があります。マックス・ウェーバーは現職を続けようと、発症してから2年間も頑張り続け、結局うまくいかず、辞職することになりました。一方、新渡戸稲造は医者から「長引きそうだ」と言われ、ただちに、すべての職を退いて、完全な療養生活に入りました。その思いっきりの良さが、早い回復をもたらしたということです。また、脳内の伝達物質の異状という医学者の言うことを無視できません。しかし、それは結果的にそうなったのであって、原因究明には至っていません。薬の力を借りることも必要ですが、その人のライフスタイル、その人の考え方を変えなければなりません。ですから、次は魂のことになります。魂というギリシャ語からサイコロジー(心理学)が生まれました。心理学者たちは「ボジティブな感情や姿勢が、心身の健康に良い影響を及ぼし、ストレスに対する耐性を高める」と言っています。また、うつに対して、認知行動療法が大変効果があることが分かってきました。最大の原因は、その人がゆがんだ考え方、間違った認知をしているからです。李光雨師は「うつとは、抑圧された怒り(心の叫び)が引き起こす束縛されたライフスタイルです。抑圧された怒りが、自己の中で行き来して、最終的には自分自身に向かっていく力になるのです。怒りを十字架に持って行って、新しい世界観をいただきましょう。」と教えています。ローマ122「心の一新(変革)によって自分を変えなさい」とあります。最後は霊でありますが、いのちの源なるお方は神であり、主イエス・キリストです。イエス様は「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者はたとえ死んでもいきるのです」(ヨハネ1125と言われました。ですから、私たちは神のみことばを読み、いのちの源なるお方とたえず交わり、神のいのちと健康が魂と肉体に流れ出すように祈り求める必要があります。

 心理学者たちはボランティア活動をすることを勧めています。ジョエル・オスティーンの妹、リサが夫が突然、家を出てからうつになりました。彼女は自分の本(You are made for More)でこのように証しています。「私は離婚後、壊れてしまって、自分自身の必要を見ることができなくなりました。自分は全く傷ついていると感じました。ストレスの満ちた日々、私はひどい不安と意気消沈で苦しみました。私の体は私の思いと感情に影響を及ぼし始めました。私は自分が消耗し、疲労困憊していると感じました。私は食べることもできず体重が減りました。十分に休むこともできませんでした。私はすべてのことに衰弱し、楽観主義であったかつての私とは全く違っていました。私が元気であったときは、拒絶の思いや心の傷、失望落胆を払いのけました。でも、今は感情とエネルギの不足によって拷問のような苦しみを味わっています。それらの思いが私を混乱させ、自分を他の人たちから遠ざけてしまいます。私は信じられないほど悲しんでいました。」…このようなうつの状態が半年くらい続きました。ところがある日、教会の姉妹がやって来てこう言いました。「リサ、私は傷ついているの。私も離婚しかけているの。私のために祈ってくれる?」リアの最初の思いは「冗談を言っているの?私こそ、だれかから祈ってもらいのよ。私は適任じゃないと感じるわ」でした。ところが、祈っていると神さまのご計画がそこにあるように思えてきました。神さまは、自分自身の傷や痛みに焦点を当てて行き詰まるのではなく、他の人を助けることに焦点を当てて、その人たちを助けるように仕向けているようでした。リサは人生の方向転換をし始めました。それは、テキサスの高速道路を走っている18輪のトラックのようでした。その大型トラックがコーナーを曲がるために減速し、曲がるための十分なスペースを捜しているのと似ていました。もし、減速せずに曲がるなら、トラックは転倒し大惨事になります。ところが、逆も真なりで、彼女が困っている人を助け始めたときから、彼女のうつが治り始めたのです。彼女は他の人の祈りをするための新しい冒険を発見しました。彼女は自分の時間を彼らのために与え、彼らを私の翼の下にかくまい、傷と痛みの中にある彼らを、まるで自分のことのように愛しました。彼女は彼らが感じている痛みを理解し、彼らの混乱と傷がよく分かりました。長い話を短くすると、リサは自分が教師として召されていることを発見しました。そして、小グループで大会衆の前で教える人になったのです。うつになるのも、良いことがあるのです。マイナスも神さまのご計画の一つだということです。ころんでもただでは起きない。なぜなら、イエス様ご自身が死からよみがえられたからです。

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2018年6月15日 (金)

人間関係の整理整頓 ヘブル12:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.6.17

 先週は「バウンダリー」についてお話ししました。きょうは、その適用編であります。つまり、「人間関係をどうするか」ということです。新松戸教会の清澤先生が「バウンダリー」のクラスを水道橋で開いていますが、一般の人たちが学びに来ているそうです。丸屋真也師のカウンセリングは、3か月待ちだそうです。それだけ人間関係に関するニーズが多いということでしょう。「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てる」ということは、人間関係にも言えることです。そうしないと、私たちは神さまから与えられた信仰のレースを全うすることができないからです。

 

1.人間関係の優先順位

 マタイ633 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このみことばは、私たちの人間関係にも言えることだと思います。バウンダリーの概念で、一番の中心は神さまとの関係です。ウェンコディーロは「聖なる囲い」と言いました。私たちは朝起きたら、聖書を読んで、ディボーションを持つべきです。神さまとの交わりを何よりも大切にすべきです。私たちはこの方だけを崇め、この方だけに忠誠を誓います。この中心部分にどんな人も入ることはできません。旧約聖書では神さま以外のものを礼拝することを偶像礼拝と言いました。偶像は英語でアイドルと言いますが、若者たちはアイドルを慕って、この日曜日もどこかのコンサートに行っているかもしれません。現代人はメール、ツイッター、ラインを用いて、常にだれかとつながっています。電車はもちろん、自転車に乗りながら、歩きながら、お風呂に入りながら携帯をいじくっています。もし、10分過ぎても返事を返さないなら、「絶交だ」と言われるかもしれません。それが怖いために、携帯を肌身離さず身に着けている人もいます。何度も言いますが、私たちが最も慕うべきお方は主イエス・キリストであり、この方が私たちの救い主、助け主、王の王なのです。人の心は変わりますが、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、変わることがありません(ヘブル138)。私たちは人間関係においても、優先順位が必要です。イエス様も群衆、70人、12人、3人、1人とサークルを小さくしていました。あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。もし、あなたの大切な時間とエネルギーをだれかから吸い取られているならば、それは大問題です。

 日本人は人間関係が下手だと言われています。なぜでしょう?1つは文化的なものです。日本人は内と外、本音と建て前で生きて来ました。内、つまり家族や親しい人には本音で語ります。しかし、外、つまり近所、職場、学校ではよそよそしく、丁寧になります。土居健郎(たけお)という人は、『甘えの構造』を書きました。彼は「日本社会において人々の心性の基本にある『甘え』『甘えさせる』人間関係が潤滑油となって集団としてのまとまりが保たれ、発展が支えられてきた」と述べています。私は彼の本を読んだわけではありませんが、日本人は内、つまり親しい家族や親しい人には遠慮会釈なく甘えてしまうのではないでしょうか?つまり、「内と外」という考え方は、人間関係にも言えることで、「好きな人か嫌いな人か」、「敵か味方か」、白黒はっきり分けてしまいます。そうすると、人間関係がとても単純になりすぎて、どっぷり甘えるか、関係を全く遮断するか2つに1つになります。パーソナル障害を持った人は、これが強度になり、大変生きづらい人生を送ることになります。つまり、人のせいではなくて、自分のゆがんだ考えによって苦しくなっていることです。ジョエル・オスティーンは周りの人を2種類ではなく、4種類に分けるように勧めています。第一は自分を無条件で受け入れてくれる人、あるいはサポートしてくれる人です。第二は私を受け入れてくれるけれど、こっちが気を使わないと去る人です。第三は私を受け入れてくれない人であり、こっちが気を使う人です。第四は私に批判的で、苦しみを与える人です。ジョエル・オスティーンはあるカップルの面倒をよく見ました。お話しを聞き、できることは何でもしました。しかし、二人はいつも否定的でした。やがて、遠くへ引っ越しましたが、そこでジョエル・オスティーンのことを批判しているという噂を聞きました。第四の人は、こっちがいくら親切にしても、離れて行く人です。そういう人は、追いかけてはいけないということです。つまり、好きか嫌いか、味方か敵か、2つに1つではなく、それぞれ中間帯を設けるということです。

 あなたにまとわりつく人で、常に愚痴や悩みごとをぶちまける人はいませんか?緊急を装い、「車を貸してくれ」「お金を貸してくれ」「手を貸してくれ」と頼ってくる人はいませんか?たまには良いかもしれませんが、常に緊急事態では困ります。なぜなら、あなたは「レスキュー部隊」ではありません。あなたには果たすべき神さまの目的、使命があるはずです。ですから、あなたは「ノー」とはっきり言うべきです。「いや、そんなことをしたら嫌われます」と言うかもしれません。でも、その人は真の友達ではありません。先週、学んだ「蛭」かもしれません。あなたの大切な時間とエネルギーを吸い取られているのではないでしょうか?では、なぜ、あなたは「ノー」と言えないのでしょうか?実は人のお世話を良くする人には、「人から認められたい」「人から必要とされたい」という願望があるからです。もちろん、それは悪いことではありません。でも、自分の欠けた穴を埋めるために、良いことをするのは間違っています。それは、人のためではなく、自分のためにやっているのです。朝5時過ぎに、野良猫に餌をあげているおばさんを見ることがありますが、「自分が彼らから必要とされている」と満足しているのかもしれません。いいのです。嫌われても。いいのです。「冷たい」と言われても。なぜでしょう?あなたにはあなたの走るべきレースがあるからです。イエス様は「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とおっしゃいました。あなたは人々から認められなくても、神さまが認めてくれたらそれで良いのです。ジョエル・オスティーンは「神さまとあなたで大多数majority」と言っています。父なる神さまは「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ111とあなたを既に是認しておられるからです。人からの是認を求めるのは偶像崇拝です。人からの是認は神さまを第一にしていくときに実として与えられるものです。

2.心の傷から来る障害

人間関係が築きにくい人というものが必ずいるものです。たとえば、急に泣き出す人や、怒り出す人がいます。そんなつもりで言ったんじゃないのに、曲げて捉えます。その人の頼みごとをきかないとプイとされるか、罪責感が与えられる。もし、言うことを聞かなければ、後で大変なことになる。周りの人たちは、腫物に触るように気を使います。やがて、そういう人にはだれも近づきたくなくなります。まず、客観的に、どうしてそのような人が私たちの周りに存在するのか考えてみたいと思います。一口で言うなら、そういう人は心に深い傷がある人です。あることを言われたり、されたりすると、癒されていない傷を刺激するのです。だから、過剰に反応し、怒ったり、悲しんだり、落ち込んだりするのです。人間だれしもそういう傾向はあります。でも、心の傷があまりにも大きく、それが癒されていない場合は、人間関係を築くのがとても困難になります。1970年代アメリカで「境界性パーソナリティ障害」という病名が付けられました。岡田尊司(たかし)という人がその手の本をたくさん書いています。彼のある本の帯に「自傷行為、自殺企画、対人依存、うつ、過食…周囲を振り回してしまう『心』の問題にどう向き合い、克服するか」と書いてありました。境界性borderlineというのは、精神病と神経症の境界という意味です。私は、いわゆる「心の傷」の代表的なものが、これではないかと思います。もし、相手があるいは自分が、「境界性パーソナリティ障害」の傾向があると気付いたなら、とても対処しやすく、癒されるスピードも速くなるでしょう。

 では、どうしてそのような病気になってしまうのでしょう?この手の病気は遺伝ではなく、生育史にとても深い関係があります。人がゼロ歳から2歳まで、身に着けなければならないのが「基本的信頼感」です。これはあらゆる人間関係における基礎となるものです。基本的信頼感があると、人生に対して心を開いて接することができます。「自分はこのままで大丈夫、人から受けいらられるのだ」という安心感です。ですから、これを「基本的安心感」と呼んだりします。岡田氏は「基本的安心感は、幼いうちに母親らとの関わりの中で育まれますが、そのとき、十分な安心感や喜び、自己肯定を味わえずに過ごすと、生きることは喜びよりも、不安や苦痛ばかりが大きいものとして、その人の脳に刷り込まれてしまうのです」と言っています。エリヤ・ハウスではこのように習いました。「02歳までの赤ちゃんは、いくらだっこしても十分過ぎるということはない。病気に対する抵抗力がアップし、いつも健康でいられる。しかし、家庭において父親が不在で生まれ育った子ども、もしくはいつも怒っている両親、問題があり、愛情表現が欠けた家庭で育った子ども、なぐられ虐待された子どもは、基本的信頼を持つのが困難である。」岡田氏は「境界性パーソナリティ障害の人は、父親に見捨てられていたり、一緒に暮らしていても、父親の存在感が希薄な傾向がみられます。父親との絆が不安定になっていることも重要な要因だとも考えられます」と言っています。

 では、境界性パーソナリティ障害の人と接しているとどのような気持ちになるのでしょうか?

その人と関わっている時、自分の気持ちをはっきり出せない。正直に自分の気持ちを言ってしまったら、すごい喧嘩になったり、あるいは自分がものすごく傷ついたりするんじゃないか?いつも卵の殻の上を歩いているようで、何か気に食わないことがあると、すごいことになるんじゃないか?そこに触れると、今までの関係が全部壊れてしまったり、曲解されたり、攻撃されたりするんじゃないだろうか?

②その人と関わっていると、いつも何か操られているような、支配されているような、あるいは何か嘘をつかれているような気持ちになる。私がすばらしく完全な人か、あるいは最悪な人かどちらかで、その中間がない。ある時はものすごく優しくて気がきくが、別なときは、同じ人かと思うくらいねたみ深く、とても攻撃的である。そして、どっちが本当なのかと思ってしまう。

 マーク・サンフォード師の奥さんがその障害を乗り越えた人でした。彼はこのようなのことを「感情的な血友病」と呼んでいます。「血友病というのは、血が止まらない状態であり、血液を凝固させる機能が欠如している病気である。同じように、この人は、感情が表れていくときに、その流れを止めることがでない。感情を押しとどめる機能が低下しているか、あるいは欠如しているから。もちろん、感情的な自己コントロールができない。また、自分の感情をことばで表すことができない。あるいは他の人に対して、時間とか、場所の適切な判断とか見解を下すことができない。また、『慰められた』という感じ、あるいは『慰めを受ける』ということが出来ない。たいてい、青年期ぐらいになって、こういう症状が現れて、みんなに分かるようになる。だから、この人の世界と言うのは、社会との関わりにおいて、ものすごいフラストレーションがある。」そのように教えてくださいました。

 では、どうしたら心の傷を持った境界性パーソナリティ障害の人が癒されるのでしょうか?

①ひとことで言うならこの人は「愛着障害」です。見捨てられる不安から相手にしがみついてしまいます。川や海でおぼれている人を助けるというのは大変です。ガッシッとしがみつかれ、助けに行った人も一緒におぼれ死んでしまいます。「へたに近づかない」というのも1つの方法です。でも、キリスト教会においては、その人の安全基地になることができます。具体的には、本人の安全を脅かさない。本人の立場で気持ちを汲む。ルールや道筋を示してあげるということです。

②境界性パーソナリティ障害の人は相手を本当に信じていいのか不安なのです。そのため、困らせ行動や挑発行動によって相手の反応を見ようとします。だから、傷つける言葉や挑発を真に受けないということです。こっちは、「一生懸命にやってあげたのにプライドを傷つけられた。責められては立つ瀬がない」と思うかもしれません。でも、表面の行動ではなく、背後の気持ちを汲んだ冷静な対応が重要だということです。

 幼いときに得られなかった基本的信頼感を完全に取り返すことは不可能です。私たち人間にできることも限界があります。一番重要なことは父なる神さまの無条件の愛を知ることです。主が言われます。「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ434

3.人間関係を整理する

 第二のポイントでは、自分もしくは、接する人が心の傷をもっている場合でした。私たちは医者ではないので、「あの人は境界性パーソナリティ障害だ」と診断を下すことはできません。しかし、「ああ、そういう障害もあるんだ」と分かると、「なんでだろう?」と裁く気持ちがなくなります。でも、大なり小なり、私たちは愛の欠乏症であり、なんとか折り合いをつけながら生きているのではないでしょうか?問題は、愛を人からではなく、神さまからいただくということです。人からいただこうとするので、いろんな問題が起こるのです。聖書が言う愛とは、受けるという愛ではなく、こちらが愛するという愛です。イエス様は「受けるより与える方が幸いである」と言われました。でも、「自分がないのに、愛を与えるのも無理だろう?」という理論もなりたちます。「どれくらい愛されていたらなら、人を愛せるようになるのか?」という答えはありません。きょう、ここで確認したいのは、「聖なる囲い」とか「インナーサークル」です。イエス様は「あなたの隣人を愛しなさい」と言われたのであり、「世界のすべての人たちを愛しなさい」と言われたのではありません。我がままと批判されるかもしれませんが、人間関係の優先順位をつけながら、愛していくということが懸命なことではないでしょうか?何度も言っていますが、イエス様も群衆、70人、12人、3人、1人とサークルを小さくしていました。あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。もし、あなたの大切な時間とエネルギーをだれかから吸い取られているならば、それは大問題です。私たちは神さまから与えられた目的(使命)があります。私たちは神さまから与えられた自分のレースを走るべきなのです。そのために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる必要があるのです。

 ジョエル・オスティーンは「否定的なものを注意深く評価せよevaluate」と言っています。知っているパイロットが「飛行機を飛ばすためには主要な4つの法則がある」と教えてくれたそうです。その4つというのは、揚力lift、推進力thrust、重力weight、引力dragです。これら4つの法則は、人々にもあてはめることができます。第一のグループ、あなたの一日の気分を晴れやかにする揚力を与える人たちです。彼らはあなたを励まして、あなたの気持ちを良くしてくれます。第二の推進力の人たちというのは、あなたにinspire霊感を与えたり、動機付けを与えたり、夢を追い求めてチャレンジするように前に押してくれる人です。第三のグループとはあなたに重力を加える人です。あなたを下に引き下げ、あなたをよりヘビーな気持ちにさせ、否定的に失望落胆にさせるため、自分たちの問題を投げ込んで行きます。最後のグループは、あなたを引きずり回す人たちです。彼らはいつも悲しい歌を歌っています。彼らは穴にはまって動けません。彼らはあなたが励ましてくれて、自分たちの問題を解決してくれて、重荷を運んでくれることを期待しています。私たちが会うすべての人たちはこれらの4つのグループに分けることができます。あなたは、あなたの揚力者と推進力者たちと大半の時間を過ごすべきです。もし、あなたが重力者と引力者とぶらぶら時を過ごしているなら、神さまがあなたを造られた姿になることはできません。あなたは彼らを幸せにする責任はありません。しかし、人生の季節においては、彼らの悩みに耳を傾けたり、健全になるように手助けする必要もあります。しかし、来る日も来る日も、彼らがあなたに否定的なことを言ったり、したりすることを許してはいけません。なぜなら、あなたにはあなたの走るべきレースがあるからです。

 ジョエル・オスティーンは20代前半の頃、パーマ屋さんの若い女性から髪を切ってもらいました。彼女はとても素敵な人でした。優しい心の持ち主でしたが、とても否定的な人でもありました。毎回、私がヘアー・カットに行くと、ずぅと自分の問題を話しました。そのことが来る月も、来る年も続きました。彼女は残業をしても、店主が正当な賃金をくれないと文句を言いました。また彼女は妹が自分の問題の種であると不平をもらしました。彼女は部屋代を払えないとか、お父さんが自分に良くしてくれないと言いました。毎回、私は意気消沈してお店から帰ってきました。ある日、私は彼女にこのように言うべきだと悟りました。「あなたと一緒に私の人生を行くことはできません。私はあなたを愛しています。あなたのためにもお祈りをします。しかし、私は毎月毎月、あなたの重力と引力を負っていたら、自分の運命を全うすることはできません」。ジョエル・オスティーンは人生を変えました。それは難しいことでした。これは、ジョエル・オスティーンのメッセージです。「私は人の感情を傷つけたくありません。しかし、私の課題はあまりにも重要なので、私の価値ある時間を人々が私を引きずり落とさせてはいけないのです。あなたは仕事において変える必要があるかもしれません。どこでだれと遊ぶか、どこでだれと働くか。だれの電話を取るべきか変える必要があるかもしれません。毎晩、夜中の電話で、だれかの悲嘆や悲しい歌を何時間も聞くべきではありません。もう終わりにしましょう。親切で尊敬される人になることは良いことです。でも、それらをあなたの重力にする必要はありません。」アーメン。

 きょうのメッセージは人間関係の整理整頓でした。棚卸inventoryということばをご存じでしょうか?決算や毎月の損益計算などのため、手持ちの商品・原材料・製品などの種類・数量などを調査し、価格を評価することです。このことを人間関係に適用するということです。つまり、それは、あなたのコアの部分、インナーサークルにだれを入れているかということです。イエス様でさえも12人、3人と絞りました。彼らと一緒に時間を過ごし、彼らと一緒に活動しました。ある人は「12人の中にユダがいましたよ」と言うでしょう。でも、それが良いことなのです。イエス様が一晩、祈った結果だったのです。それは、自分の願いではなく、父なる神のみこころを優先させたということです。つまり自分の好みや願いを絶対的なものにするのではなく、神さまの御手を求めるゆとりを持つということです。家内はおそらく私をインナーサークルに入れたくないと思ったでしょう?負けず嫌いの私も「そうだ」と言うでしょう。でも、神さまのみこころに譲歩したら、意外に良かったということもあるのです。神さまのご支配、神さまの御手を認めるインナーサークルが良いと思います。それは閉鎖的なものではなく、冒険と寛容と愛が伴ったものです。より良い神さまからの出会いを期待するオープンなものです。

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2018年6月 8日 (金)

バウンダリー 箴言4:23 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.6.8

 Boundaryは「境界」とか「限界」という意味です。しかし、最近は心理学において、共依存に対する解決法として知られるようになりました。箴言で「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」と言われています。心にはドアがあると思います。ドアの機能は、良いものは入れて、悪いものは排除するということです。何でも構わず入れたら、心の中がダメになります。バウンダリーとは「自分の中に何を入れて、何を排除するのか」、境界線のことです。きょうは「人間関係において」「宝物において」「責任において」の3つの観点から学びたいと思います。

1.人間関係において

 ウェン・コディーロの本に『聖なる囲い』ということが書かれていました。カルフォルニアのヨセミテには80メートルも超えるセコイアという巨木が生い茂っています。ところが、ある年、その木が轟音とともに地面に倒れてしまいました。森林局は専門家を派遣して調査をしましたが、最初、その原因がわかりませんでした。暴風も、火災も、落雷もありませんでした。倒れた木を調べてみても、動物や虫によるダメージを受けた形跡もありません。しかし、調査を続けた専門家たちは、驚くべき結論に達しました。原因は、ハイカーの通行だったのです。倒れた原因は、長年にわたって木の根元を大勢の人が歩いたために根が傷ついてしまったことでした。公園では、このように古くて大きく、歴史的にも貴重な木々の周りに囲いを作り、これらの巨木の根が踏みつけられないようにする方針を固めたということです。ウェン・コディーロは「あなたは毎日どのような通行人(あなたの根を踏むもの)にさらされていますか?何時間もかかる毎日の通勤で身をすり減らしている人もいるでしょう。果てしなく続くメール、携帯端末の呼び出しに追い回されている人も多いのではないでしょうか?「心を守るために、聖書読んで静まる時を持ちましょう」と勧めています。しかし、私は彼の本から、人間関係においても、「聖なる囲い」を設ける必要があるのではないだろうかと思いました。

 ダニー・シルクは「親しさのレベル」Levels of intimacyということを言っています。クリスチャンにとって親しさの中心点は、神さまとの関係God spotです。イエス様は地上におられたとき、いつでも父なる神さまと交わっておられました。私たちも心の中心にイエス様(聖霊)がおられます。だれにも打ち明けたことのない事柄をイエス様に分かち合うことができます。私たちはこの方だけを崇め、この方だけに忠誠を誓います。この中心部分にどんな人も入ることはできません。まさしく、I and thou「我と汝」の関係です。しかし、きょう申し上げたいのは人間関係です。イエス様は多くの人々の中から12人だけを選びました。彼らを身近に置いて訓練するためです。群衆にはたとえで教えましたが、彼らには奥義を解き明かしました。その中の3人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネとは特に親しく交わりました。変貌山、ヤイロの娘のよみがえり、ゲツセマネの園にも同行させました。また、ヨハネには自分の母、マリヤを任せました。つまり、イエス様は3人の弟子というコアを持っていたということです。あなたも伴侶以外に、信頼できるコアの人たちを持つ必要があります。親友であったり、同僚であったり、メンターであったりします。あなたをサポートしてくれる叔父とか叔母であるかもしれません。さらに、イエス様には70人の弟子たちもいました。コアよりもさらに広い範囲の人たちが必要です。あなたを応援する親しい友人、同労者、霊的な兄弟姉妹が何人かおられるでしょう。ダニー・シルクは一番外側に、アルカイダを置いています。彼らは危険な人物であり、自分のサークルの中に決して入れてはいけない人たちです。だれでも危害を加える人を家の中には入れないでしょう。ヨーロッパでは町を作るときは、必ず外側に城壁を巡らしました。侵略者たちから自分たちを守るためです。

私は20年近く、セルチャーチに関わってきました。セルチャーチ・ムーブメントは、人間関係を強調します。香港のベン・ウォン師は「教会の7つの本質の筆頭は関係である」と教えました。同師は日本に来ていたときは、必要のある人たちと夜の12時までマックなどで話していました。私たちは一生懸命、伝道牧会のために関係作りに励みました。ある牧師は奉仕者たちを自分の家に泊まらせて、冷蔵庫を開けて自由に食べることを許しました。イエス様のように寝食を共にしたのです。しかし、数年で疲れて、やめたそうです。松戸の岡野牧師ご夫妻は、刑期を終えた人たちを家庭に泊めていました。今も保護士として刑務所のだれかを訪問しています。また、家庭に問題がある子どもたちを教会でお世話しています。岡野牧師や息子さんたちも、子どもたちと一緒に遊んだり、勉強を教えています。そのため子どもたちがたくさん教会に来ています。また川崎の『家の教会』では、一週間に一度、夕食を持ち寄って交わっています。近所の未信者と友達になり、やがて教会の礼拝に連れて行くのだそうです。私は牧師たちのコーチングをしましたが、練馬教会の先生方は何時間も電話で話を聞いていました。たとえそれが夜中であっても応対します。私は20171月にセルチャーチをやめました。なぜでしょう?私にはそういう賜物がないと言うことが分かりました。関係はエネルギーを使うし、ストレスがたまります。人によって外向性と内向性のバランスが異なることは知っています。でも、私は人間関係においてバウンダリーが必要であることを発見しました。親しさのレベルと言っても良いかもしれません。

 ほとんどのキリスト教会では、「すべての人を愛し、だれにでも仕えるように」と教えているようです。しかし、イエス様は「あなたの隣人を愛しなさい」と言われました。イエス様もたくさんの人を助けましたが、すべては父なる神さまの指示のもとでした。いくらその町に働きがあっても、「近くの別の村里へ行こう」と言われました。イエス様はパレスチナにとどまり、ギリシャやローマには行きませんでした。イエス様は多くの弟子たちと時間を裂き、120人がペンテコステの日に聖霊を受けました。彼らが世界を変える火種になりました。現代はネット社会で、フェイスブックで1000人も友人がいるという人がざらにいます。でも、本当に信頼のおけるコアの人を持っているのでしょうか?うわべだけの人間関係はストレスがたまり、燃え尽きてしまう可能性があります。私たちは深く交わることのできる「聖なる囲い」コアの人たちを持つ必要があると思います。あなたにとって12弟子、あるいはペテロ、ヤコブ、ヨハネはだれでしょう?

2.宝物において

 イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ76と言われました。バウンダリーは、私たちの大切な宝物を守るための大切な考え方です。あなたの大切な宝物とは何でしょうか?時間、お金、持ち物、知力、体力、精神力、霊力、神からの賜物などです。最も偉大な宝物は神さまが与えた運命、divine destiny です。私たちには神さまから与えられた偉大な目的があります。それを他のことにエネルギーを使って、神さまの目的を果たせなくしてしまったら、神さまからお叱りを受けるでしょう。あなたはどのような友人を持っているでしょうか?あなたにはどのような親戚がいるでしょうか?岡田尊司(たかし)氏の本に書いてありました。彼女は真面目な努力家で、短大を出た後、保育士として働いていました。そんな堅実な女性が、カードローンでできた数百万円の借金を抱えて、自己破産寸前の状態にありました。彼女はうつになって、精神科の岡田氏のところを訪ねて来たわけです。中心的な原因は、昔の友人とばったり出会い、彼に貢ぐようになってしまったことです。男友達は、今も就職せずに、ミュージシャンを目指していました。遊びの金もホテル代も、すべて彼女が出しました。所持金がなくなると、カードでキャッシングしました。男友達が、海外で勉強したいと言うと、「そのお金、私がどうにかするから」とまとまった金を用立てたりもしました。しかし、やがて分かったのは、男友達には、別に付き合っている女がいるということでした。そのことを知った頃から、再び重いうつが、襲ってきたということです。生々しくて、礼拝のメッセージではどうかと思いました。でも、そういう人は本当の友達ではありません。

もしだれかがあなたのところに来て「お金を貸してください」「手を貸してください」「車を貸してください」と言ったとします。クリスチャンとして、「はい」と言うべきでしょう。それが恵みだからです。もちろん、与えることによって自分の人生が危機に陥って、破産してしまったりするようなことがあれば困ります。でも、そうでない限り、私たちに与えるものがある限りは、与えるべきではないかと思います。でも、ここで重要なポイントがあります。あなたが与えた恵みを、その人がどのように用いるかによって、その人の人格を知ることができます。あなたが差し出した恵みを、その人がどうするかによって、その人がどういう人であるか知ることができます。その人が「ありがとう」と言って、独り立ちをして、より成長できるのであれば、あなたは良いことをしたことになります。しかし、あなたが恵みによってあげると「もっとくれ」とさらに要求してくるような人たちもいます。箴言3015「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ。』と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ。』と言わない。」あなたは愛のあふれた人に与えているでしょうか。それともこの箴言30章に出てくる蛭のような人に与えているのではないでしょうか。私たちは、私たちが与えることが生む実についての責任があります。イエス様は「あなたの真珠を豚に与えてはいけない」と言われました。

ジョエル・オスティーンは「あなたの幸福をコントロールせよ」と教えています。多くの人たちは、自分たちの幸福を、だれかの幸福のために犠牲にしています。友達の機嫌をそこねないように、自分から近づいて「こんにちは、元気?」と挨拶をします。上司の機嫌をそこねないように、夜遅くまで仕事をします。ある人は、友人がトラブルに遭わないように、ローンを肩代わりしています。友人が困っているなら、なんとか問題を解決してあげようと助けます。しかし、神さまはすべての人が幸福になるために、あなたを召していません。親切で、気前良く、愛すべき人になるのは良いことです。しかし、他の人が幸福になるための責任は、あなたにはありません。あなたはあなた自身の幸福に責任があります。あなたは彼らの必要と要求を満たさなければならないと思うかもしれません。もし、彼らを救わなければ、借金を返してあげなければ、あなたに対して怒るかもしれません。しかし、この場合は、あなたの代わりに彼らが不幸になるべきなのです。もし、彼らが憤慨するなら、彼らはmanipulatorsあなたを操る人たちなのです。もし、あなたが駆けつけて来なければ、彼らはあなたに罪責感を与えるでしょう。波風が立たないように、保釈金を与えて解放してあげることは簡単なことです。しかし、あなたが彼らを助けてあげればあげるほど、あなたが彼らを喜ばせ続けるなら、あなたは彼らの松葉杖crutchなのです。あなたのお蔭で、彼らは自分の問題を取り扱いません。あなたは彼らの機能不全を手伝っているのです。依存的な人に対する唯一の解決は、あなたが彼らの松葉杖になることをやめることです。彼らが「緊急事態だ」と言っても、駆けつけないことです。「あなたを愛しています。でも、私はあなたにコントロールされたくありません」とはっきり言いましょう。

 私の父は酒乱でした。私が夕方、村外れのお店に行って、父のお酒を買って来ました。母はどうして、酒乱の父に酒を飲ませたのでしょうか?今思うと、「共依存の家庭だったんだなー」と思います。母が酒乱の父を助けていたということです。李光雨先生は「サポート資源」ということを教えてくれました。本人は何らかの悪循環パターンに陥っています。依存症、自責の念、抑うつ、他者を責める怒り、無力感で悩んでいます。でも、私たちは問題を解決するのではなく、悪循環パターンを回すエネルギーとして使われている場合があります。問題解決は、本人が変わることにあるのに、他のもので埋め合わせてしまうのです。周りの人たちは悩み事を聞いて祈ってあげます。品物やお金の援助も惜しみません。李光雨先生は「教会や牧師も悪循環を回していくサポート資源になっている」とおっしゃっていました。そうです。本人が困るべきなのに、私たちが何かを与えるので、問題が先送りされてしまうということです。よく「動物にエサを与えるな」という看板があります。ある人たちは、鳩、野良猫、サル、かもめなどにエサを与えます。そうすると、彼らは自分でエサを取らなくなります。そのため人家の近くに群がるようになり、いろんな害を与えます。イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」と言われました。神さまから与えられた宝物を正しく管理しましょう。それらは神さまがあなたに与えた偉大な目的を果たすためにあるのです。

3.責任において

バウンダリーとは、所有地の境界線のことです。「どこまでが自分の所有地で、どこからか隣の家の所有地なのか?」これがバウンダリーのもともとの意味です。私たちが使うバウンダリーというのは、自分自身の境界線であり、どこまでが自分の領域なのかを示すものです。それは、自分ということの領域はこれで、ここからは他人の領域ということです。あるいは、これは自分の責任の範囲で、ここからは相手の責任の範囲ということです。簡単に言うなら、「自分がどこまでで、どこからが他人の責任なのか?」ということです。たとえば、あなたがアパートに住んでいるとします。アパートはそれぞれ壁で仕切られています。部屋の壁の内側にあるものはすべてあなたの責任です。もし、あなたの部屋にネズミが入って来たとしたら、それはあなたの責任でしょうか?それとも隣人の問題でしょうか?それは私の問題です。私が住んでいる場所は、私の問題であり、私のネズミです。私の隣人がネズミを私の家から取り除いてくださるでしょうか?いいえ。私の家に入って来たネズミを退治するのは、私の責任です。なぜならそこには境界線があるからです。でも、ネズミは私の境界線を越えて隣人のアパートに入って行きました。では今は、誰の問題でしょう。私の隣人のネズミは、隣人の問題です。クリスチャンはどうもそのことが分からないようです。クリスチャンはあたかも、世界のすべてについて責任を持っているかのように感じています。そのため、私たちはあちこちに飛んで行って、他の人たちの問題を助けてあげようとします。そうしている間に、私は家の中のネズミをどうするでしょう。依然として、私の内側、私の心には問題があります。

 私たちは自分の責任範囲ということを知るべきです。同時に、他の人の責任範囲ということもわきまえるべきです。優先順位としては、まず自分の責任範囲をちゃんと治めるべきです。そして、他の人の責任範囲に、必要以上に干渉しないことです。もちろん、必要とあらば、援助させていただくこともあるでしょう。でも、その人の責任範囲は、その人が主人公であることを忘れてはいけません。絶対してはいけないことは、その人の代わりに、自分が決断するということです。もし、そんなことをすれば、失敗した場合、「あなたがそう言ったので」と責任を取らされるでしょう。その家のネズミは、その家主が退治すべきなのです。私たちは子どものときから、自分で決断し、自分で責任を取るということを学ぶ必要があります。ある親たちは、あまりにもお世話し過ぎです。学校のかばんを開けて、忘れ物がないか1つ1つチェックしてあげます。毎日、着る物を母親が決めて、それを着せてあげます。やがて子どもが大きくなると、進学する学校、就職する会社まで決めてあげます。もし、結婚相手までも親が決めたらどうするでしょう?そうすると離婚だけが、子どもの決断になります。子どもは忘れものをして、遅刻をして、いたずらをして叱られ、痛みを通して学びます。それを親が全部、取り除くならば、なんでも人のせいにする子どもになります。自分で決断や選択をしたことがないので、自分が責任を取るということができないのです。親が子どもにしてあげられる最も重要なことは、自分自身で決断して、自分自身が責任を取るということです。

ヘンリー・クラウド氏が導くセミナーで、一人の婦人が質問のために手をあげました。「私の息子は19歳で薬物を使っています。そして逮捕されてしまいました。もう7回目です。私は大変な問題を抱えています。彼は助けを拒み続けて、ついに刑務所に入ってしまった。私は6回目まで保釈金を払って彼を刑務所から助け出してあげたのです。なぜなら、息子のことをとても愛しているからです。この7回目、もう一回保釈金を払って出してあげるべきでしょうか。」これが共依存の問題です。クラウド氏は「この問題に対して答えを持っている人はいますか」とグループの人たちに聞きました。20代の半ばくらいの男性が手をあげました。彼は言いました。「私はあなたのことを個人的に知らないですけれど、私はあなたの息子と同じ問題を持っています。私も何年も薬物の問題を持っていました。そして、私の母親は私を刑務所から何回も保釈金を払って出してくれました。だから、刑務所に入る度に母親が助けてくれるのだから、薬物を続けてもいいじゃないかと思っていました。ところがあるとき、ついに母親は、私が刑務所に入ったときに、私を助け出してくれなかったのです。そして、私は刑務所に行きました。それはとても嫌な経験でした。刑務所は楽しい所ではありません。私はそこに6ヶ月間入っていました。刑務所にいる間に2つの出来事が私の人生を変えました。刑務所では色々ものを考える時間があるので、私はそこにいる間、遂に自分の人生について考え始めることをしました。それで気がついたのは、私には助けが必要であるということでした。そこで、刑務所の中で行なわれている12のステップという回復プログラムに参加するようになりました。もう1つのことは、刑務所にいる間に、他の人が私にイエス様の必要を語ってくださり、そして私はイエス様を信じて受け入れてクリスチャンになりました。なぜなら、自分に問題があるということに気がついたからです。そこで私はその刑務所にいる間に、薬物からも解き放たれ、きれいになって、またイエス様の話を聞いて、イエス様を信じて受け入れて、今、刑務所から出て来て、新しい人生のステップを始めました。私は25才ですが、妻がいて、2人の子どもがいて、今、私は自分の人生をとても愛しています。もし、私の母親が何度も繰り返し刑務所から私を助け出していたなら、このようなすばらしいことは、決して私には起きていなかったでしょう。」そして、この男性はお母さんに向かって、こう言いました。「私はあなたのことを知りません。でも、あなたがあなたの息子さんを愛しているのであれば、そのまま刑務所にいさせてください。」このように、境界線を引くことこそが、問題の解決になるということです。

ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」とあります。私たちは、相手の重荷を負って助けてあげることも必要です。ガラテヤ6:5 「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」これは、その人しか負えない重荷があるということです。それを他の人が代わりに負ったならば、その人がダメになるということです。私たちは、互いの重荷を負い合うけれど、人にはおのおの、負うべきその人自身の重荷があるのです。

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