2006年10月 1日 (日)

教会の本質      ヨハネ10:1-16

 きょうは、教会の本質について語りたいと思います。ある教会は海外からいろんなプログラムを持ってきて、2,3年ごとに変えています。「先生、またどこかへ行って、新しいもの仕入れてきたねー。しかたがないから、ちょっとだけ付き合うか?」しかし、たくさんのプログラムを次から次と持ち込んで、しまいには、混乱してしまいます。教会はプログラムでも、方策でもありません。それは、イエス様のライフスタイルです。イエス様のライフスタイルこそ、教会の本質であります。では、教会の本質とは何でしょうか?それは、上・中・外であります。英語では、UP-IN-OUTであります。上とは神様との関係です。中とは兄弟姉妹との関係、そして外は世の人たちとの関係であります。イエス様のライフスタイルはこの上・中・外のバランスがとてもよく取れていました。もし、私たちがイエス様のライフスタイルを真似るならば、イエス様の品性が後から備わっていきます。みなさんは、イエス様のようになりたいですか?もし、そうであれば、きょうのメッセージはあなたのためのものです。

1.UP-上

 上とは父なる神様との関係であります。イエス様は父なる神様ととっても親しい関係を持っておられました。ヨハネ10:14,15「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」。聖書で「知る」という意味は、頭で知るという意味ではありません。ヘブル語で「知る」は「ヤーダー」と言います。創世記で「アダムはその妻を知った。そして男の子を生んだ」という言い方が何度か出てきます。もともと「知る」とは、夫婦の肉体関係を意味します。「ヤーダー」と言いたくなります。ですから、「知る」とは、親密な関係を持つという意味であります。父なる神様はイエス様と親密な関係を持ち、イエス様も父なる神様と親密な関係を持っておられました。14節には「わたしが父を知っているのと同様です」と書いてあります。これは、「イエス様と父なる神様が持っていた親密な関係を、私たちも同様に持てる」ということであります。

 聖書では「アバ、父よ」と呼ぶ霊を与えたと約束しています。「アバ」とは、子供がお父さんを呼ぶときに使う言葉で、「パパ」「父さん」「ダディ」という親しい呼び名です。でも、私たちは神様を「お父さん」と呼ぶのをためらいます。なぜなら、地上の父があまりよくなかったからです。「イエス様!」とか「主よ!」、あるいは「神様」と呼ぶことができるかもしれません。でも、「天のお父様」と心から親しみをこめて呼べない。だから、長い間、時間をかけて祈ることができない。求める祈り、とりなしの祈りはできるかもしれませんが、親しい交わりのときではありません。祈りが、お勤めとか、義務になってはいないでしょうか。もし、家内に「私はあなたと30分話すことにしました」と言って、一生懸命、話します。30分後、汗を拭きながら「あー、あなたと30分話すことができた。やったー」と言ったらどうでしょう。「私と話すのがそんなに苦痛なの」と顔をひっぱたかれるかもしれません。でも、神様との祈りでは、同じことをしているのです。祈りが苦痛であり、格闘であり、義務なのです。その原因は何でしょう。それは、地上のお父さんとの関係がまずかったからであります。みなさんのお父さんはどんな人だったでしょうか。仕事でほとんど家にいなかったので存在感がない。いつも頭ごなしに物を言って、こちらの話を聞いてくれなかった。とっても無口で弱々しかった。酒とギャンブルに明け暮れ、いい加減な父親だった。いつも不機嫌で怒っていた。業績志向でいつもあおってばかりいた。まあ、完全な父親はいません。「天のお父様」と呼ぶとき、「ああー、もう一人いたなー」と、悪いイメージが浮かんでくるのです。

マラキ5:5,6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」多くの人たちが、呪いの中にいます。父との関係が悪いために、上司や牧師との関係が悪い。伴侶や子供との関係も悪い。自分がだれか分からない。クリスチャンになっても、神様と親しい関係を持てない。これはみんな呪いです。その解決法は、地上のお父さんを赦し、神が与えた父として敬うことです。そうするなら、あなたは解放されます。アバラブ教会は、父の愛教会という意味ですが、このことを16年前に発見してから、急激に成長しました。ですから、イエス様を信じた直後、解放のキャンプに出て、最初に「父の愛」を回復する祈りをします。私は今まで、神様は全知全能であることを神学的に知っていました。聖書からも説明をすることができました。しかし、神様が本当に「親しいお父さん」であるということを体験的に知ったのは、ここ2,3年であります。

 神様がお父さんであることを知ったならば、もっとその関係を深めていくことが大切です。そのために、聖書を毎日読み、個人的に礼拝するときを持たなければなりません。これをディボーションとか静思の時(Quiet Time)と呼んでいます。私はこれまで人に教えるために聖書を読んでいました。早天祈祷会も15年くらいがんばって続けました。しかし、心から楽しいと思ったことはありません。でも、自分のために聖書を読み、教えをいただき、それを守り行う。正直、守り行うというところが、お留守でした。でも、最近、エディ・レオ師が神様と24時間親しく交わる方法を教えてくれました。第一は問題や誘惑を受けたとき、主を礼拝するということです。男性は1日に240回性的な誘惑を受けますので、そのとき、「ハレルヤ!主をあがめます」と祈ることができます。問題があるときは、神様に祈るチャンスが与えられたと感謝しましょう。もう1つは、毎日、主の御目のもとで生活するということです。イエス様は朝夕の祈りだけではなく、四六時中、父なる神様と交わっていました。父なる神様に聞き従っていました。神様の臨在とは、神様の御目という意味だそうです。神様の御目のもとで眠り、神様の御目のもとで活動する。父は「源」という意味がありますから、すべてのことにおいて祝福されることは間違いなしです。父なる神と親しい関係を持つ、これが私たちが行う、第一のことであります。

2.IN-内

 内とは隣人、兄弟姉妹との関係であります。私たちは隣人を天の父の愛で愛すべきであります。教会は神の共同体、コミュニティであります。「私は一人で神様を信じているので、教会に行く必要はない」と言う人がたまにいらっしゃいますが、それでは信仰生活は成り立ちません。神様はご自分のかたちに人を似せて造られたと創世記にあります。神様のかたちとは何でしょうか?神様は父・子・聖霊がまるで1つのように愛し合っておられます。そのかたちで、愛し合うように人を創造されたのです。ところが、人間に罪が入ってから、共同体も壊れてしまいました。カインの例からも分かりますように、人間関係よりも業績に重点を置くので、友達というよりはみんなライバルになってしまいます。人間の心は、争いと憎しみと敵対心でいっぱいです。しかし、幸いなことに、イエス様は私たちが持っている敵意を十字架に付けてくださいました。そして、私たちが新しく生まれたときに、兄弟姉妹を愛する愛も賜ったのであります。ヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」。神様から生まれたものは、お互いを愛するようになるのです。なぜなら、神様が愛なので、私たちも互いに愛し合うようになるのです。

 でも、現実はどうでしょうか?聖書ではそうは言っているけど、なかなか愛し合うことができません。もう、怖いんです。「また拒絶されるかなー」「また裏切られるかなー」「また傷つけ合うのかなー」という過去のトラウマがあります。教会で「お互いに愛し合いましょう」といわれると、私たちはもう1つの自分を演じなければなりません。教会に来るときは、教会の仮面をかぶるんです。「兄弟!元気ですか?」「元気ですよ。ハレルヤ!」。教会では恵まれた顔をしていますが、家に帰るとその分、ぐったりします。「お交わりしましょう」と言われても、本音で交わっていません。私たちが本音で交わることができるためには、まず、心の中が癒され、解放されなければなりません。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられましたがそれだけではありません。イザヤ書53章に、主は私たちの悲しみや恥や痛みも背負ったと書いてあります。イエス様は十字架にかけられたとき、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか!」と叫ばれました。そのとき、イエス様は拒絶を経験されたのです。これまで一瞬たりとも、御父と離れたことはありませんでした。しかし、全人類の罪を背負ったために、神様から捨てられたのです。だから、イエス様はあなたが人々から受けた拒絶を良くご存知であり、またそれを癒してくださいます。ですから、解放のキャンプでは、「父の愛の回復」の後、「十字架による心の傷の癒し」を行います。荒療治ですが、このときかなりの傷が癒されます。

 しかし、私たちが本当に互いに愛し合うことを身につけるためには、実践の場が必要です。それが教会にあるセルグループなんです。セルはお互いに責任をもっています。「何を言っても受け入れる。互いに徳を高め合う。秘密厳守」。最低このような条件が必要です。私たちが愛し合うとき、自分の愛ではダメなんです。神様からの愛をいつも、いただかないと、とても無理であります。イエス様はヨハネ15:19で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。イエス様は弟子たちをご自分が持っている神の愛で愛していたのでしょうか。「ああ、イエス様は神様だから、あんな弟子たちも愛することができたんだ」。そうではありません。イエス様は神としての愛を用いませんでした。では、イエス様はご自身の人間的な愛を用いていたのでしょうか。人間の愛で愛したら、限界があります。3べんも自分を知らないといったペテロを愛することができるでしょうか。イエス様はご自分の神の愛を用いたのでもなく、人間の愛を用いたのでもありません。では、イエス様はどのように愛されたのでしょうか。「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました」。イエス様は、父の愛を用いたのです。それは私たちの模範になるためです。これは私たちにとって、大きな励ましになります。イエス様は、「私の愛にとどまりなさい」と言われました。私たちも、父の愛によって互いに愛し合う必要があります。父の愛は、無条件です。父の愛には、限界はありません。

私は今回、アバラブ教会に行って、もう一回り大きな父の愛をいただいてきました。古い53歳の自分に一度、死んで、神様と隣人を愛することに、残りの生涯をささげる祈りをしました。愛するとは、具体的には、時間を喜んでささげることでもあります。神様との関係、隣人との関係のために、時間をささげるということです。みなさん、教会には霊的な父が必要です。あなたも父なる神様から愛をいただいて、霊的な父になることができます。霊的な父になることの一番の秘訣は、イエス様のライフスタイルを真似ることです。イエス様のキャラクターを真似るとフラストレーションがたまります。人の罪を7の70倍赦すなんていうことは不可能です。でも、イエス様が父なる神様から常に愛をいただいて、愛されたように隣人を愛する。イエス様にいつもとどまって、その力をいただくのです。あなたが成長して、霊的な父になるならば、あなたの周りに愛の共同体が作られていきます。あなたが神様の愛によって、人々を癒し、人々を生かすことができるのです。あなたは恵みによって、愛の器になることができます。アーメン。

3.OUT-外

 外とは、この世の人々に対する働きかけであります。神様は、人間をご自身のかたちに創造されてから、「生めよ。増えよ。地を満たせ」(創世記1:28)と命じられました。それは、神のかたちを増殖させよと言う意味であります。テモテ2:4には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書いてあります。イエス様がこの地上を去るとき、マタイ28章でこのようにお命じになられました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。これこそが、教会に与えられた最も大切な使命であります。一口にいって、それは宣教、ミッションであります。教会が宣教をおろそかにするならば、とたんに命を失います。宣教こそは、教会の血であります。教会に新しい人が救われて入ると、新しい血液がキリストのからだに流れるのです。

 当教会も含め、日本の教会に一番、弱いのは「宣教の情熱」であります。2005年度の日本プロテスタント教会調査を少しだけ紹介します。日本の総人口1億2,689万に対して、クリスチャンが、555,742人であります。総人口の0.4%であります。プロテスタント教会が7,800あるのですが、1年間の受洗者数は8,844人です。1教会平均1名ということになります。各県別の受洗者数で福井県の教会は年間4名です。福井県に教会がいくつあるか分かりませんが、全部の教会あわせて、1年間で4名しか救われなかった。ガビーンであります。インドネシアのアバラブ教会では1年間で3,000名もの受洗者が与えられています。この間、洗礼式を見ましたが、プールで87名洗礼を受けました。向こうは桁が2桁くらい違います。リバイバルが起こっているから、と言ったらそれまでですが、この日本は何とかならないのでしょうか。私はインドネシアで悔い改めました。もう、「日本は難しい」という否定的な言葉は使わないようにしようと決心しました。日本の教会の上には失望落胆の霊が強烈にのしかかっているからです。インドネシアには日本人一人だったので、「私は日本人の代表できたんだ。私はアバラブ教会のリバイバルを持ち帰る。私と亀有教会を通して、日本にリバイバルの突破口を空けるんだ」と決意してきました。

 では、宣教の情熱はどこからやってくるのでしょうか。これはエディも説明していますが、IN-内からはやって来ないということです。つまり、いくら兄弟姉妹が愛し合って、すばらしい共同体を作ったとしても、宣教の情熱は湧いて来ないということです。では、どこから、失われた魂への愛と情熱がやってくるのか。それはUP-上からです。私たちが父なる神様と出会うときに、父なる神様のハートが伝わってきます。ペテロ3:9「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。神様は放蕩息子の帰りを待ち望んだ父のように、いと長く忍耐して待っておられるのです。私たちは父なる神の思いを思いとしなればなりません。教会の中で仲良く交わっているのも良いですが、失われた人たちに対して、もっと福音を語らなくてはなりません。そのためには神様と、イエス様と出会うことであります。ヨハネ4章にサマリヤの女性が出てきます。彼女はキリストと出会いました。すると、水がめをそこにおいて、町へ出て行って「私のことを言い当てた方がいます。あの方がキリストかも」と告げました。彼女は何か特別なトレーニングも受けていません。もちろん、神学校に行ったわけでもありません。洗礼も受けていませんでした。なのに、神様を経験したので、証をしたのです。伝道と言うと、なんだか緊張します。でも、体験したことを証するんだったらだれでもできます。特に女性は、おしゃべりの賜物があります。福音をゴシップすれば良いのです。ハレルヤ!

 初代教会はペンテコステ、上から聖霊を受けました。彼らは神様と出会ったのです。するとどうなったでしょうか。彼らは愛が増し加わり、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じ手、分配しました。「そして、毎日、心を1つにして集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:45-47)。毎日、救われる人が加えられていきました。ある教会では、年ごとに加えられる。クリスマスに加えられる。ああ、それではさびしいですね。問題は、UP-上であります。使徒4章では迫害が起きました。彼らは「みことばを大胆に語らせてください。イエスの御名によって、しるしと不思議を行わせてください」と祈りました。すると、その場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。再び彼らは外に向かって宣教に行ったのであります。力の源はUP-上にあります。イエス様のライフスタイルはどうだったでしょうか。イエス様は父なる神様と親しく交わりました。そして、弟子たちと寝食を共にしながら彼らを訓練しました。さらに、町や村に出て福音を宣べ伝え、さまざまな病気を癒し、悪霊を追い出されました。イエス様は私のように、いつもデスクに座っていなかったのです。イエス様が出て行ったので、いろんな人と出会えたのです。ナインの村に入ろうとしたとき、棺を担いだ行列と出くわしました。イエス様はやもめの一人息子を生き返らせてあげました。イエス様はサマリヤの女、取税人ザアカイ、悪霊を宿したゲラサ人と出会われました。じっと、部屋の中でいたのでは彼らと会うことはなかったのです。これは私に対しても大きなチャレンジです。イエス様のようになりたかったなら、イエス様のライフスタイルを真似しなければなりません。おおー、私はこれを語るならば、自分の首を絞めることになります。

 でも、みなさん。答えがあります。イエス様は父なる神様と親しく交わっていました。イエス様は自分の思いで行動したのではありません。また、イエス様はご自分の力でミニストリーをしたのではありません。イエス様は父なる神様から、愛と力と導きを得て、毎日、歩まれたのです。そうです。一番の肝心なところは、父なる神様と親しく交わることです。きっとそこから、隣人への愛とこの世の人に対するミッションが与えられます。主がその力を与えてくださいます。私たちは恐れないで、ただ主に従えば良いのです。きっと、すばらしいことが起こります

| | トラックバック (0)