2018年5月18日 (金)

人間の霊 創世記2:7-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.20

 教会では、「人間は霊的な生き物であり、動物とは違う」と良く言われます。しかし、霊とは何なのか詳しく説明されることはありません。そのため人々は、ニューエイジや新興宗教の霊的な世界へと誘惑されるのです。新約聖書時代には、「グノーシス」という霊的体験を強調するキリスト教の異端がありました。そういうこともあり、教会は霊的なことは危険なので、あまり取り扱わないできました。そのために、今日は礼拝でこのテーマを扱うことにしました。 

1.霊の起源と堕落

 人間には、どうして霊があるのでしょうか?霊の起源はどこなのでしょうか?それは聖書の創世記まで遡ります。創世記126-27「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」このところには、「神のかたち」という言葉と、「神に似る」という言葉があります。神学者たちはこの2つはそれぞれ違うとも言うし、いやこれは1つのことだと言う人もいます。とにかく人間は神と似ているところlikeness、神のかたちimageがあると言うことです。さらに進んで創世記2章に別のアプローチで人間創造のことが記されています。創世記27「主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」人間の肉体は、土で造られました。パウロも私たちは「土の器」であると言っています(参考;Ⅱコリント57)。しかし、それだけではありません。主なる神さまは、ご自分の息をその鼻に吹き込まれました。ヨブ273「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」と書いてありますので、そのとき神自身の霊を入れてくださったのです。一方、動物は神のことばによって造られました。動物にも魂(心)はありますが、霊はありません。イザヤ313「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない」と書かれています。人間と動物の決定的な違いは、人間は神のかたちに似せて造られ、その中に霊が宿っているということです。だから、人間には発明する力、愛する力、そして神のように動物や自然界を支配する力があるのです。社会学者たちは進化論に立ち、創造主なる神を認めないので、迷路にはまっています。この世の教育も、進化論の影響を受けているので、人間の尊厳を見失っているのです。

 ここで終われば良いのですが、この物語の続きがあります。神である主はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記216-17と言われました。善悪の知識の木は、神の主権を象徴しています。その木から取って食べるということは、自分が神になるということです。ところが、アダムとエバはヘビに化けたサタンによって誘惑され、その木から取って食べてしまいました。創世記37-8「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」彼らは「それを取って食べたら死ぬ」と言われていました。ところが、すぐには死にませんでした。「アダムは930年生きて、そうして死にました」(創世記55)。すぐに死んだのはアダムの霊であります。霊である神さまとの交わりが途絶えてしまいました。そのため、アダムには恐れと恥がやってきたのです。創世記37「二人の目は開かれた」と書いてあります。ウォッチマン・ニー師は、「そのとき人間の霊が死ぬ代わりに、魂が異常に発達した」と言っています。そうです。それまで、アダムは神さまと親しく交わり、神さまが言われることに何でも従ってきました。アダムにとって善悪の基準は神さまのことばに従うことでした。ところが、神と交わる霊が喪失し、その代り自分の魂で何でも考えるようになったのです。アダム以来の人間は、みな霊的に死んでおり、自分の魂で生きて、「それが良いことなんだ」と思っています。創世記主6章で、主は「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられました。ノアの後、人間の寿命はだんだん短くなり、120歳が限度になりました。人間の霊が死んだので、それが肉体の寿命、自然界の支配力、正しい生き方にも影響を及ぼしてしまったのです。旧約聖書の歴史は神さま対する不従順の歴史です。肉にある者は、神さまの戒めに従い通すことができないのです。

 しかし、旧約聖書にも希望が記されています。エゼキエル3626-27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」これはイエス・キリストによってなされる霊的生まれ変わりを預言している箇所です。従来の心はかたくなで、石のような頑固な心です。でも、石の心を取り除き、柔らかい肉の心を与えると預言されています。でも、その中心は「あなたがたのうちに新しい霊を授ける」という約束です。これまで多くの神学者たちが、人間の堕落性はどの程度なのか議論してきました。宗教改革者たちは「人間は完全に堕落したので、自分では神を見出すことができない」と言いました。しかし、カトリックと自由主義神学者たちは、「自然主義」を訴え、人間には神を見出す力、理性があると言いました。つまり、いくらか神のかたちが残っているという考えです。私たちは自然界、たとえば宇宙や動植物、人間の体を見るとき、「これは偶然ではない」と思います。そこには不思議な秩序、緻密さ、一定の法則があるからです。人間は自然界を見て、「ああ、神さまがいるのではないだろうか?」と思うでしょう。しかし、それはsomething greatであって。キリストの神さまではありません。ニューエイジは、大自然の見えざる力、サムシング・グレートと言います。しかし、それは人格のない大宇宙の霊であります。私たちは私たちを愛しておられる人格的な、キリストの神と出会わなければなりません。

2.霊の新生

イエス様は山上の説教で「心の貧しい人は幸いである」(マタイ53と言われました。しかしキング・ジェームス訳はこうなっています。"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.「霊において貧しい人は祝福される」というのが正しい訳です。言い換えると、神さまと交わることができないので、貧しさを覚えている人、霊なる神さまを慕っている人であります。そういう人が祝福されるのです。残念ですが、この世の人たちは神さまなしでも平気で生きています。物質の豊かさや、良好な人間関係ばかり求めています。その証拠に、テレビのCMのほとんどが食べ物、着る物、持ち物です。そして、とても多いのがスマホのCMです。新聞には「スマホの通信代が家計を悪化されている」と書かれていました。クリスチャンも、本当は聖書を読み、神さまと交わるべきなのですが、インターネットやテレビを見たりしています。確かに水平的な情報は得られるかもしれませんが、時間や空間を超えた垂直の情報は、まことの神さまからしかやってきません。生まれつきの人間であっても、「これで良いのだろうか?」と飢え渇きを覚えるときがあります。まさしく、「霊において貧しい人は祝福される」ということです。

ヨハネ3章にはニコデモが夜、イエス様を訪ねてきたことが記されています。彼はイスラエルの教師、サンヒドリン議員、宗教的な人物、そして金持ちでありました。ユダヤ人から見たら、彼みたいな人が天国に行ける一番ふさわしい人物でした。ところがイエス様は「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ35,6と言われました。人間は母の胎内から肉体的に生まれます。しかし、それだと霊的に死んでいる状態であり、神さまのことが分かりません。イエス様は「神の国に入ることができないし、神さまを見ることもできない」と言われました。ヨハネ9章には「生まれつきの盲人の癒し」が記されています。そこでは「私たちは見える」と言い張る人は、「本当は見えていないのです」と言われています。では、どうすれば良いのでしょうか?イエス様はエゼキエル書で言われていたことを実現させるために来られました。バプテスマのヨハネは、「その方は、聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と言いました。そうです。イエス様はご自分を信じる人に、聖霊による生まれ変わりを与えるお方なのです。ここでは聖霊は「風」にたとえられています。聖霊も風のように目には見えませんが、その人の心に吹くと、その人が霊的に生まれ変わるのがわかります。創世記に行われていたことが、キリストを信じる人になされるのです。その人は霊的に生まれ変わるのです。テトス35-6「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」アーメン、これこそが聖書が言う救いであります。

 しかし、私たちは霊の存在を魂との関係ではっきりと知る必要があります。なぜなら、西洋から来たキリスト教は霊と魂の区別がないからです。一番問題なことばは、soulであります。英語の辞書によると「霊魂、魂、霊。人間の肉体に宿り、生命・思考・行動・心の根源で、肉体から離れても不滅で存在すると考えられる」と書かれています。簡単に言うと、西洋の人にはspiritsoulの区別があまりないということです。また、しばしば、「心」と言いますが、それが魂なのか、霊なのかよく分かりません。心理学はサイコロジーと言いますが、元来、プシュケー(魂)から来たものです。そのため心理学者は魂(心)の存在は認めますが、霊の存在は認めません。彼らには霊的な神が存在しません。「心理学は無神論者によってはじめられた」と言っても過言ではありません。もちろん、彼らによって心の多くの分野が解明されたことは確かです。でも、先在意識は認めても、霊の存在を認めていないのは残念です。使徒パウロは、人間は3つのものでできていると言いました。Ⅰテサロニケ523「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」と祈りました。きょうは話しませんが、たましいは3つのものでできています。それは、知性(思い)、感情、意志です。しかし、これだけだと霊との関係がよく分かりません。

 私たちが霊的に生まれ変わる時、どのようなことが起こるのでしょうか?それは、エペソ4章とコロサイ3章に記されています。エペソ422-24「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」ここには、3つのことが記されています。救いの3段階と言っても良いかもしれません。第一は、古い人を脱ぎ捨てることです。古い人とは、生まれつきの心です。エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」人間の心は改善不可能であり、十字架によって死ぬしかありません。キリストにあって私たちは古い人に死んだ存在です。第二は、心の霊において新しくされるのです。これは心の中にある霊が新しくされるということです。英語の聖書はrenewであり、再び新しくする、更新する、新品のようにするという意味があります。このところから、人間の霊は全く死んでいたということよりも、「かすかに生きているが貧しい状態である」と暗示しています。とにかく、霊が生まれ変わり、活動を再開したということです。第三は、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るということです。コロサイ3章には「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と書かれています。心理学的にいますと、人格であります。私たちはクリスチャンになって霊的に生まれ変わっても、裸、ありのままではいけないということです。霊的に生まれ変わったら、そこにキリストに似た新しい人、品性を身に着るということです。このように聖書は「救い」ということを霊的にもはっきりと説明しています。

3.霊の機能

 キリスト教会では「人間の霊」の存在を認めてきました。また、福音派ではよく「霊的だとか霊的でない」とか言われます。また新約の書簡には「御霊」ということばがよく出てきますが、原文はぴプニューマであり、人間の霊なのか神の霊なのかはっきりしません。日本語の聖書は聖霊を「御霊」と訳していますが、あきらかに解釈が入っています。実際のところ、はっきりしないのです。なぜかと言うと、生まれ変わった霊の場所に、聖霊が臨在するからです。第三のポイントでは霊の機能、働きについて学びたいと思います。ウィットネス・リー師が『神の永遠のご計画』という本の中で、このことを詳しく述べています。ある人は、「それは仮説ではないだろうか」と言うかもしれませんが、彼はウォッチマン・ニー師と並んで、神からの知恵を豊かに受けた人です。その本の中に、霊には3つの部分があると書かれています。3つとは、良心、交わり、直覚です。少し彼の本を引用しながら、述べたいと思います。「良心」は容易に理解できます。私たちにはだれでもこれをよく知っています。善悪を識別することは、良心の1つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の別の働きです。「交わり」を理解するのも容易なことです。交わりとは神と私たちが交わることです。私たちの霊の内でこのような機能によって神に触れることができます。簡単に言って、交わりとは神に触れることです。しかし、「直覚」を理解することはそんなに簡単ではありません。直覚とは、直接的な感覚、あるいは直接的な認識を持つことを意味します。私たちの霊には理由、環境、背景に関わらず、直観なるものがあります。それは理由のない感覚、すなわち「理由づける」ことのできない感覚です。それは神からの直観であり、神からじかに知らされることです。この機能がいわゆる霊の直覚です。このように良心、交わり、直覚の機能によって霊というものが分かります。

 今言われたことから以下のことが考えられるのではないでしょうか?良心の弱い人というのは、善悪の区別がつきません。頭では悪いと知っても、それが心の意志まで届きません。だから分かってはいるけど、ついつい悪事にはまってしまうのです。人間にはある程度の良心がありますが、霊的に生まれ変わっていないと非常に弱いということです。絶対的な基準がないので、時代や人々の考えに流されてしまいます。でも、霊的に生まれ変わると、誘惑に対して強くなり、悪の道にはまらなくなるということも確かです。使徒パウロは「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています」(ローマ91と言っています。良心が霊の中にあるという事実は偉大ではないでしょうか?第二の「神との交わり」は、祈りということができます。クリスチャンになる前は、どの神さまに祈って良いか分かりませんでした。また、一方的で漠然的だったかもしれません。しかし、霊的に生まれ、父なる神さまに対して、だんだん話せるようになります。まるで生まれた赤ちゃんが成長していくと、話すことばを覚えるのと同じです。霊的に成長すると神さまが共におられることが分かり、神さまとの交わりが楽しくなります。パウロは「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ618と言いました。しかし、これは、冠詞がないので、「御霊」ではなく、私たちの「霊」です。私たちは霊によって神さまと交わるのです。第三は、「直覚」ですが、これは90度のことではありません。英語でintuitionと言いますが、すばやく見抜くこと、洞察力、直観であります。女性は生まれつき直観が強いと言われています。理性や常識が、直覚のじゃまになることがあります。神さまが直接、私たちの霊に語りかける時があります。それを正しくキャッチすることができたら幸いです。パウロは「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう」(Ⅰコリント211と言いました。私たちの霊は魂が識別し得ないことを識別することができます。

 今日、三一の神さまはどこにおられるのでしょうか?父なる神さまは天におられます。イエス様は父なる神の右の座におられます。でも、それだけではありません。父なる神の霊とキリストの御霊と聖霊が、私たちの霊の中におられるのです。旧約聖書には神の幕屋、あるいは神殿について記されています。外庭にあたるものが私たちの肉体です。聖所にあたるものが私たちの魂です。そして、至聖所にあたるものが私たちの霊です。旧約時代、神さまは至聖所に臨在されました。至聖所こそが神ご自身が住まわれる場所でした。しかし、新約時代では、キリストに贖われた者の中に神さまが住んでくださるようになりました。私たちの至聖所である霊にであります。三一の神さまは私たちの奥底、霊の中に住んでおられるのです。パウロは「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。そうです。キリストが私たちの霊の中に住んでおられるのです。「内住のキリスト」と言いますが、私たちはこのお方に注意を向けなればなりません。この「内住のキリスト」という目標からそれてはなりません。ウィットネス・リーが『神の永遠のご計画』の中でこう勧めています。「良くなろうとか、良い行いをすることについてもう忘れてしまいなさい。それらの良い物事すべてを捨てて、至聖所に入りなさい。外庭で忙しく働いているクリスチャンが多いのです。彼らは自分に対する神の計画は、神に触れることのできる至聖所に入り、神に満たされ、神に占有され、あらゆる事で神と一つとなり、自分のすべてとして神を得ることを知らないのです。あなたの霊を識別して、内にいますこのお方と交わりを持ってください。このお方にあなたを譲り渡して、あなたを占有させなさい。」アーメン。キリストの内住を占有させなさい、妨げるものがあります。それは宗教的なものです。私たちは救われた後、自分は弱いと感じるので、もっと力が与えられるように聖霊が私たちの上に注がれるように祈ります。それよりも、私たちの霊によって、三一の霊に従うことにあるのです。また、私たちの魂は神さまに従うことを喜びません。ですから、最も重要なことは、私たちが自分の霊を知り、魂を否むことにあります。私たちは自分の魂を否んで、自分の霊に従って歩む必要があります。なぜなら、三一の神は、私たちの霊の中におられるからです。ジュピターの歌詞は、Every day I listen to my heart(自分の心に聞く)です。しかし、私たちは自分の霊に聞くのです。なぜなら、そこには三一の神の霊が臨在しておられるからです。

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2018年5月12日 (土)

信仰を用いる ヘブル11:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.13

 人はイエス・キリストを信じことによって義と認められ救われます。次に神さまは信仰を用いて生活することを願っておられます。ヘブル116「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」と書かれています。つまり、救われて天国に行くだけではなく、「地上で信仰を用いて豊かな生活を送るように」ということです。信仰を用いなければ、それは「宝の持ち腐れ」です。では、どうしたら信仰を用いて生きることができるのでしょうか?

 

1.信仰を受け取る

 ヘブル111「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」このところに「信仰とは何か」、はっきり定義されています。しかし、残念ながら、この日本語訳は「いまいち」です。キングジェームス訳は、Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.となっています。信仰はsubstanceだと書かれています。Substanceとは何なのでしょう?辞書には、「(物の構成要素としての、または特定の性質か化学的成分を有する)物質」と書いてあります。あるいは、実質、本質、実体となっています。ウォッチマン・ニー師は「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と訳しています。人間は生まれつき、ある程度の信仰を持っています。人は何かを夢見て、何かを信じて、努力しています。発明や発見も「きっとそうなる」と信じて、たゆまぬ努力を重ね、やがて実体化します。でも、聖書が言う「信仰」は生まれつきのものではありません。この信仰は、神さまが与えた賜物です。重要なのは、先に神さまのことばや約束があり、それを私たちが信じるということです。神さまから何の約束も受けていないのに、自分勝手に信じるというのは愚かなことです。私も韓国のチョー・ヨンギ牧師のような大教会を目指して、信じて必死に祈り求めました。「夢を抱いて、信じれば、必ずそうなる」と言われたのに、「そうならないのはどうして?」と失望落胆しました。もちろん、信じて与えられたものもあります。でも、それは「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」という確率の低いものでした。なぜか、それは神さまのことばや約束を都合よく解釈し、ただ求めたからです。ジョージ・ミュラー5万回の祈りが聞かれたそうです。まさしく彼は信仰の人でした。私も彼のようになりたいと望んで彼の本を読みました。しかし、ストレスがたまり嫌になって、結局はその本を捨てました。「ああ、彼は信仰の賜物を持った特別な人だったんだ」と結論を下しました。

信仰を語るときに最も有名な箇所は、マルコ11章のみことばでしょう。マルコ1122-24イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。日本語の聖書には「神を信じなさい」となっていますが、ギリシャ語や英語の聖書は「神の信仰を持ちなさい」となっています。つまり、この信仰は自分から得たというよりも、神さまがあなたに与えた信仰を持つということです。たとえば、神さまが「お金の入った財布をあげます」とおっしゃったとします。「ああ、そうですか、ありがとうございます」と言っただけでは、自分のものになりません。手を出して、その財布を受け取らなければなりません。その手にあたるものが信仰です。旧約聖書でイスラエルがカナンの地を征服するように命じられました。その時、モーセの後継者であるヨシュアがこのように言われました。ヨシュア12-4「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。」ヨシュアはこれからヨルダン川を渡って、約束の地に入ろうとしていました。主は「イスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所は、モーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」と言われました。だからと言って、自動的にそれらの土地がイスラエルのものになったのではありません。ヨシュアたちが攻め上って、原住民を追い払う必要がありました。この先、ヨシュアは信仰に立ってカナンに攻め上りました。でも、その前に、神さまの約束のことばがありました。ヨシュアはそれを信仰によって受け止めたのです。

 信仰を得るためには、神さまからの語りかけを聞く必要があります。ある時、神さまは「あなたはこれを求めなさい。あなたに与えるから」とおっしゃるでしょう。もちろん、神さまの御声は肉体的な耳では聞き取れません。私たちは聖書を読んでいると、「ああ、これは神さまが私に語っている約束ではないだろうか?」と思うことがよくあります。その約束をつかまえて祈るのです。そうするとそれが信仰になります。私はこのような姿勢を取るようになってから、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」から確率がぐっとアップしました。Ⅰヨハネ514-15 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」私にとって、最初、このみことばは脅威を与えるみことばでした。なぜなら、マタイ77「求めなさい。そうすれば与えられます。だれであれ、求める者は受ける」と矛盾するように思えたからです。「そんな簡単に神のみこころが分かるだろうか?求めるのが先ではないだろうか?」という反発心がありました。でも、イエス様の行動を福音書から見ると、「確かにそうだな」と思います。たとえば、死んで四日もたったラザロの墓の前で、イエス様はこのようにおっしゃいました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」(ヨハネ1141,42)。まだ、ラザロは生き返っていないのに、既に感謝しています。イエス様はいちかばちかで「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれたのではありません。父が願いを聞いてくださることを確信して叫ばれたのです。同じように、イエス様がわずかなパンで5000人以上の人たちを養ったときも、前もって感謝しています。

 私たちは信仰を得るためには、神さまから何を求めたら良いのか聞かなければなりません。神さまから約束のみことばをいただく必要があります。もちろん、私たちの方からも求める必要があります。でも、矛盾しているようですが、神さまから「いいよ。それを求めなさい」という約束もいただく必要があるということです。弟子たちが夜のガリラヤ湖で漕ぎ悩んでいました。するとイエス様が湖の上を歩いて、自分たちの舟に近づいてくるではありませんか。最初は幽霊だと思って恐れましたが、その方がイエス様だとわかりました。マタイ1428-30 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そのとき、ペテロは水の上を歩いてイエス様のところに近づきたいと思いました。そして、「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と願いました。ペテロはマタイ7章のみことばのように「求めた」のです。すると、イエス様が「来なさい」と言われました。これはイエス様の約束のことば、レーマであります。ペテロは信仰によって、舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に向かいました。神からの信仰が与えられ、奇跡が起きたのです。ところが、風を見て、怖くなり、沈みかけました。ペテロは疑ってしまい、それで沈んでおぼれたのです。でも、ここから学べることは、ペテロの「行きたい」という願いとイエス様からの「来なさい」がマッチして、信仰となったということです。ペテロには欠点もありましたが、信仰の人でした。神さまはペテロのように信仰のある人を喜ばれます。

 では、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」式の求めではなく、確率を上げるためにはどうしたら良いのでしょう?ローマ1017「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」とあります。ペテロがそうであったように、聞くことが重要です。聖書のことばを読んでいると、神さまが語ってくださるときがあるということです。神さまはあなたに「これを求めなさい」とおっしゃるのです。それを捕まえて、祈ったならば、それは山をも動かす神からの信仰になります。もちろん、聖書のことばを読んでいないときでも、神さまは語ってくださいます。ピリピ213口語訳「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」神さまはあなたに願いを起こさせて、「これを求めなさい」とおっしゃってくださいます。「願い」は英語でdesireと言います。ビル・ジョンソン師は、ラテン語のsireは「父親」で、deは「下る」という意味であると言いました。つまり、父なる神さまから下ってくる願いがあるんだということです。その約束のことば、あるいはビジョンこそが、神からの信仰になるのです。信仰は目に見えないものを掴む手であります。父なる神さまがあなたにこれをあげようとしています。手を差し出さないのはもったいないです。どうぞ、信仰の手を差し出して、神さまが与えたいと願うものをいただきましょう。

2.信仰を行動に移す

 前のポイントでは「神さまから信仰をいただく」という受動的なことを言いました。後半は、「その信仰を行動に移す」という能動的なことをお話ししたいと思います。旧約聖書にも新約聖書にも、神の人々が信仰を行動に移すことによって偉大なわざを行うことができた例が見られます。偉大な奇跡は、神のことばに基づき、すなおな信仰をもって行動した人々によってなされました。第一のポイントでヨシュアのことをお話ししましたが、信仰を行動に移すときがやってきました。ヨシュア6:2-5主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」主はヨシュアに「エリコをあなたの手に渡した」と言われました。これは神さまからの約束であり、神さまからの信仰です。でも、このことは、ヨシュアとイスラエルの民が何もしないでくつろいでいた時に、その町が自動的に彼らのものとなったという意味ではありません。主は、彼らにお与えになったその地を、どのようにやって所有すればよいか、はっきり指示されました。彼らは主のことばを信じ、それに基づいて行動しなければなりませんでした。彼らはその町の周りを一日一周、六日間、行進しなければなりませんでした。七日目は、その町の周りを七回行進しなければなりませんでした。その後、角笛を吹き鳴らす時、彼らは叫び声をあげなければなりませんでした。注意すべきことは、城壁がまだそびえ立っている時に、彼らが叫び声を上げたということです。城壁がくずれ落ちた時なら、だれでも叫び声を上げることができます。そうするには、どんな信仰もいりません。しかし、彼らは信仰を行動に移したのです。「大きな叫び声を上げた」のです。すると、城壁は落ちました。

 ケネス・ヘーゲン師が『信仰による歩み』という本の中でこのようなことを証しています。20世紀のペンテコステ運動の初期、ある女性伝道者が4人の車椅子の人たちに奉仕していました。彼女はとても静かな声で、こう言いました。「イエスの御名により、起きて歩きなさい」。その人たちのうち3人が起きて歩きました。4人目の人は、「私は歩けません」と言いました。「他の人たちも歩けなかったのに、歩いたんですよ」と、その伝道者が言いました。足の不自由なその婦人は「彼らが歩いたことは、わかっています。でも、私は歩けません。お分かりのように、私は長年、歩いたことがないのです」と答えました。その伝道者は、座っているままのその婦人を残して立ち去らなければなりませんでした。他の3人は自分の信仰を行動に移し、その結果を刈り取ったのです。私がある教会で奉仕していた時、下半身にやけどを負ったために歩くことができずにいた男性がいました。ある日の晩のいやしの集会で、彼は祈りを求めて前に出てきました。主は、私が何をすべきか、私に語っておられました。私は彼のところに来た時、「あなたは走れますか?」と彼に尋ねました。彼は、そんな質問をされてびっくりし、こう言いました。「いいえ、できません。私は歩くこともできません。まして、走ることなど、できません」。それから私はこう言いました。「主は私に、あなたに走るように告げなさいと語られました」。すると、その男性は、そのことをもう一度考えてみようともしませんでした。彼はすぐに向き直って、通路を全力疾走し始めたのです。こうして彼は教会内を三周か四周走りました。そして、再び戻って来た時、彼は正常に歩いていました。彼は完全に癒されました!彼は自分の信仰を行動に移したのです。

 新約聖書にも同じようなことがいくつも記されています。ルカ5章に、中風をわずらっている人を4人の人が床の上に載せて運んで来た記事があります。何とかして、家の中に運び込み、イエス様の前に置こうとしました。ところが、戸口まで人々があふれており、どうにも病人を運ぶ方法が見つかりませんでした。しかし、彼らはあきらめませんでした。屋根に上り、瓦に穴を開け、そこから寝たきりの人を部屋の主の御前につり下ろしました。イエス様は「彼らの信仰を見て」とおっしゃいました。では、だれの信仰によって、この奇跡がもたらされたのでしょうか?その寝床の上に横たわっている人の信仰でしょうか?彼を主のもとに連れて来た友人たちの信仰でしょうか?「彼ら」というのは複数形です。それは、彼ら全員の信仰でした。その人の友人たちが、戸口まで人々があふれているのを見て、「やることはやってみた。私たちは最善を尽くした」と言って、あきらめて家に帰るのは簡単なことでした。しかし、彼らは友人をイエス様のもとに連れ出す方法を見つけました。病人自身も、偉大な信仰を現しました。もし、彼が日本人ならこう言うかもしれません。「人の屋根に穴をあけるなんて迷惑をかける」「床に寝たままでは恥ずかしい。もう帰ろうか」。でも、彼は素直に人々の前につり降ろされたのです。イエス様は「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。「ああ、そうですか。アーメン」。その次に、イエス様は彼に「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。彼はそれまで自分では何もできませんでした。彼はこういうことも可能でした。「『起きて歩け』だって?起き上がることができないので、この人たちが運んでくれたんじゃないですか」。しかし、彼はそうはしませんでした。イエス様が彼に「起きなさい」と言われた時、彼は体を動かし始めました。そして、彼がそうした時、その結果、癒しが起こったのです。彼は主のことばを信仰によって受け、そして行動しました。その結果、奇跡を受け取ることができたのです。

 私たちは特別な信仰がなくても、生活することができます。どこの学校に入るか、どんな仕事につくか、どんな人と結婚するか、何人子どもを産むか、どこに住み、どんな家を建てるか、どんなお墓を建てるか?この世の人たちは、自分の知識や経験、この世の常識、時には専門家の意見を聞きながら決定するでしょう?でもそれは、きわめて安全かもしれませんが一般的な生き方しかできません。英語ではそれをordinary life「普通の生き方」と呼びます。でも、私たちは神から与えられた信仰を用いて生活するように召されています。そうするなら、この世にあっても、御国の奇跡を味わいながら生活することができるからです。英語ではそれをextraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」と呼びます。御国では、奇跡は普通のことです。足なえが歩き、目の見えない人が見え、口のきけない人が歌います。御国が完成してから、奇跡をもたらすような信仰は必要でありません。なぜなら、そこでは普通だからです。私たちはこの世において、神からの信仰を用いて生きるように召されています。そうすることによって、人々は「ああ、神さまは生きておられる。御国がこのところに来ている」と知ることができるからです。クリスチャンとして恥をかかない、常識的な生き方も良いかもしれません。この世でもノーベル賞、オリンピックメダルなど、偉大なことを自分の力でやる人はいるでしょう。しかし、それはごく一部の限られた人にしかできません。神さまはごく普通のクリスチャンに、偉大なことをして、「御名があがめられ、御国が来るように」したいのです。そのためには私たちはたえず聖書を読み、約束のことばをいただく必要があります。父なる神さまから下る、願いdesireを信仰の手でキャッチする必要があります。その次に信仰によって一歩進み出すのです。手を伸ばすのです。立ち上がるのです。そうすると、奇跡が、神さまのみわざが現れるのです。あなたは、ordinary life「普通の生き方」を送りたいでしょうか?それとも、extraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」を送りたいでしょうか?

 ヨシュアたちが、ヨルダン川を渡る時も信仰を行動に移すことが必要でした。モーセのときは、モーセが杖を伸べたとき、海が別れたので、海の底を渡ることができました。しかし、川は川上からどんどん水が流れてくるので、これもまた大変なことでした。川が枯れてから渡るのはだれでもできます。しかし、主はヨシュアにこう言われました。ヨシュア38 「あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」ヨシュアは主の約束のことばを信じて、祭司たちにそうするように命じました。箱をかつぐ者がヨルダンまでに来たとき、川の水がせき止められて道ができたとは書いていません。そのときは、普段よりもヨルダン川の水が岸一杯まであふれていました。現実的には無理です。でも、祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川の水がせきとめられました。イスラエルの民は、かわいた地を通り、ヨルダン川を渡りました。このところでも、神からの信仰を受けたこと、そして信仰を行動に移したことが記されています。イエス様が「手を伸ばせ」と命じたら、伸ばすのです。イエス様が「立って歩め」と命じたら、立って歩くのです。イエス様が「病を癒されよ」と言われたら、何の変化が感じられなくても、健康な生活をするのです。聖歌539「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし。何をも見ず、また聞かずとも、神のみ約束に立ち。歩めよ、信仰により、歩め歩めうたがわで。歩めよ信仰により、見ゆるところにはよらで。あなたは、自分の知識や経験、この世の常識、時には専門家の意見を聞きながら「普通の生き方」を送りたいでしょうか?それとも、神から与えられた信仰を用いてextraordinary life「尋常でない、非凡な、驚くべき生き方」を送りたいでしょうか?

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2018年5月 4日 (金)

信仰によって歩む Ⅰヨハネ4:12-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.5.6

ローマ117「義人は信仰によって生きる」と書いてあります。これはマルチン・ルターが「信仰によって義とされること」(信仰義認)を発見した聖書箇所と言われています。しかし、このみことばは、救われた人、つまり「義人は信仰によって生きるべきである」ということも教えています。きょうは救われた人、クリスチャンはどのように生きるべきなのか2つのポイントで学びたいと思います。

 

1.信仰と感情

 イエス様を信じて救われた直後は、天にも昇るような喜びであります。「罪赦され、永遠のいのちが与えられた。私は新しく生まれ変わることができた。ハレルヤ!」救われた時は、たとえ人からどう言われようと、神さまと自分の体験を話したいものです。神さまは確かに、このような信仰のハネムーン期を与えてくださいます。しかし、この感激は残念ながら、数か月しか持ちません。聖書を読んでもあまり感動しなくなります。牧師のメッセージも前は、自分のために語っているような気がしましたが、今はそうではありません。喜びも薄らいで、トンネルの中を通過しているような感じがします。では、キリストを信じていないのか、自分は救われていないのかというとそうでもありません。神さまは信じているのですが、あふれるような喜び、幸福感がなくなったということです。このようなことは、洗礼を受けた人なら、だれでも体験するのではないでしょうか?落ち込んで、教会の礼拝に来なくなる人がいますが、そうしてはいけません。感情がどうであれ、信じ続けるのです。キャンパスクルセードの『4つの法則』の最後のページに汽車の絵が描いてあります。題名は「感情に頼ってはいけません」とあります。「私たちのよりどころは、自分の感情ではなく、神の約束のことば(聖書)です。クリスチャンは神ご自身と神のことばとは信頼に価するものであるという信仰(信頼)によって生きるのです。」そして、機関車と客車の絵が描かれています。ちょっと時代的に古い感じがしますが、まあ、いいでしょう。D51を見たことがあるでしょうか?機関車、石炭の貨車、客車と3つ並んでいます。それを順番でいくと、事実、信仰、感情であります。客車なしでも機関車は走ります。しかし、客車で機関車をひっぱることはできません。これと同様に、クリスチャンは感情、または気分に頼って生活するのではなく、神ご自身と神のことばの約束は信頼に価するものであると信仰(信頼)して生きるのです。アーメン。みことばの事実を信じていくと、感情がついてくるということです。

 きょうの聖書箇所、Ⅰヨハネ412「いまだかつて、だれも神を見た者はありません」と書いてあります。私たちは目に見えない神を信じています。さらに、Ⅰヨハネ413「神は私たちに御霊を与えて下さいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」と書いてあります。御霊、聖霊は目に見えません。なのに、ヨハネは「それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」と書いています。これは私たちが持っている肉体の五感では無理です。信仰よって、あるいは霊によってでしか理解できないことです。自然科学の世界ではなく、信仰の世界、霊の世界であります。だけど、イエス様を信じたら、「ああ、確かに私たちの中に神さま(イエス様)がおられる」と言うことが分かります。この世の人たちは「神さまが私の内におられるだって?そんな馬鹿な?」と言うでしょう?でも、それは神の御霊があなたに教えてくださるからです。イエス様を神の御子として告白するとき、神さまがあなたの中におり、あなたも神さまの内にいるのです。これは内にも、外にもどっぷり浸かっているイメージがあります。もう一度そのことを確認したいと思います。Ⅰヨハネ416「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」神さまの愛を受けるため、あるいは神さまの愛を知るにはどうしたら良いのでしょう?それはイエス様を神の御子として信じることからやってくるのです。すべては信仰がはじまりです。ところが、この世の人たちは「神さまを見せてくれ、その愛を見せてくれ、そうしたら信じる」と言うでしょう?しかし、それは逆なのです。なぜなら、神さまが見えて、その愛を体験したなら、信じる必要がないからです。何度も言いますが、イエス様を信じると、神さまがおられることや、神の愛が分かってくるのです。

 私は25歳のときイエス様を信じました。その日は、1979415日でした。座間キリスト教会のイースター礼拝からアパートに戻ってきました。その時、職場の先輩も訪ねて来たんです。彼は、12時半頃から、延々と神さまとイエス様のことを話してくれました。半年前、私は「神さまを見せてくれ、そうじたら信じるよ」と言っていました。先輩はたとえ話がとても上手で、職場でも良く話してくれました。彼は「イエス様が鈴木君の部屋の前に立って、呼んでいるよ」と言うのです。住んでいた町田のアパートは6畳一間で、半畳のキッチンです。薄暗い私の心の部屋と同じでした。さらに、「外のドアには、取っ手がないので、君が開けるしかないんだ。イエス様はヤクザじゃないので、ドアを蹴破って入ったりしないよ」と言うのです。「ふうーん」と聞いていました。それはヨハネ黙示録320のことばでした。「ありのままで良いんだよ」とも言われました。その頃、ビリー・ジョエルのjust the way you areが流行っていました。「へー、ありのままで良いのか?」そして、彼が決定的なことを私に言いました。「いくら証明しても、どうしてもギャップは埋められないんだ。あとは君が飛ぶしかないんだよ。神さまを信じて、もしも、いなかったなら、何か損するものがあるだろうか?『ああ、いなかった』と僕に言っても良いよ。鈴木君、信仰は賭けみたいなものなんだ。賭けてみないか?」と迫られました。夜の9時半頃でした。私は「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩はびっくりして、「じゃあ、今から大川先生のところに行こう」と言うのです。「遅から良いよ。もう、信じたから」と答えました。朝、起きました。アパートは一階でしたが、カーテンを開けると生垣の緑が輝いて見えました。一枚、一枚の葉脈がとても精巧に見えました。私の心は6畳一間のようでした。暗い部屋の片隅にうずくまっていました。「人は何のために生きているんだ。人生に目的はあるのか?」というのが、テーマでした。でも、イエス様が私の心の中に入って来られました。部屋の天井が打ち破られ、光が入って来たような体験をしました。救いの喜びが溢れてきて、「神さまはいる、神さまはいる」と友達にも話すようになりました。聖書の言うとおり、信じてからわかったのです。今、牧師になってこのように話していますが、分かってから信じるのではなく、信じたら分かるのです。

 感情の話に戻りますが、魂は3つに分けられます。知性、感情、意志です。女性は感情がとても豊かです。それに比べ、男性は感情を殺して、理性で生きようとします。でも、ときどき爆発します。いつも押さえているからです。女性は感情が豊かな分、それだけ浮き沈みが激しいのではないでしょうか?私たちは毎日、生きていると、いろんな人に出会います。ことばや行いによって、傷ついたり、悲しくなったり、憤りを覚えたりすることが多々あります。もちろん、楽しいことや嬉しいこともあります。でも、感情を害されて、落ち込むこともあります。現代は精神科や心療内科に通っている人がたくさんおられます。あるデーターによると、10人に一人は、うつと戦いながら、なんとか生きているということです。放送大学で、100人に一人近くは、統合失調症の疑いがあると言っていました。原因はいろいろあるとして、感情を正しく受け止めていないからではないでしょうか?でも、きょうはそのテーマではありません。言いたいのは、感情の浮き沈みはあるということです。最初、事実を信仰によって受け止めると、感情があとから着いてくるとお話ししました。つまり、知性と意志を用いるということです。神のことば、聖書は何と言っているだろうか?神さまは私を愛しているとおっしゃっている。神さまの愛をあまり感じない時もあるけど、私は愛されているんだ。だから、感謝しよう。感謝します。聖書はどんなときにも、神が共にいるのだから喜べと命じておられる。だから、喜ぼう。喜びます。聖書は神さまが私の中におり、私も神さまの中にいると書いてある。ああ、すべての出来事も神さまの中にあるんだ。だから、ゆだねよう。主よ心配事をゆだねます。気持ち的にはそうしたくありません。でも、聖書がそういうのだから、そう信じて、実行します。するとどうでしょう。時間差はありますが、気持ちが平安になってくるではありませんか。なんとなく希望も湧いてきて、嬉しくなります。これこそ、義人は信仰によって生きると言うことです。

 感情は中立です。自動車にはエンジンの温度計があります。「温度を下げよう」とメーターを手で動かす人はいません。オーバー・ヒートしそうだと警告しているんです。クーラント液を補充すれば良いのです。私たちもある時、「感情がおかしいな?」と思うときがあるでしょう?怒り、悲しみ、無気力感、心配、いらいら…そのとき、何が原因かあなたの知性で突き止めましょう。ああ、あのことで私は感情的におかしくなっているんだ。その後、聖書的にどうすべきか考えるのです。そして、赦すべき人を赦したり、問題をゆだねたり、希望が叶うように祈ります。最後に、神さまの最善を信じるのです。「私は愛されている。神さまはすべての必要を与えて下さる。イエス様が私の救い主、助け主、癒し主、大丈夫。主よ。あなたの助けと導きを信じます。」そうすると、平安があなたの心を支配します。このように義人は信仰によって生きるのです。

2.信仰と恐れ

 信仰と反するものが恐れです。そして、信仰と恐れには共通するものがあります。両者ともまだ起きていないことを起きたことのように考えるからです。信仰も恐れも、まだ見えていないのに、まるでそこにあるかのように見ています。この世の多くの人たちは恐れと戦っています。中には恐れによって普通の生活ができない人たちもおられます。特定なものに対するものを恐れと言い、特定されていないものを不安と定義するようです。心理学者たちはたくさんの病名をつけています。多くの人たちが不安障害で苦しんでいます。皆さんもパニック障害、強迫神経症、ストレス障害という名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?今は脳の化学物質が足りないからそうなるのだと薬を投与するのが主流なようです。李光雨先生は「神から離れた人間にはだれしも存在不安があり、存在不安をバリヤーで覆い隠してなんとか生きている」とおっしゃっています。きょうは病気について話すのではなく、信仰と恐れの関係について聖書から学びたいと思います。日本人は本当に恐れに満ちています。癌などの病気、不慮の事故、強盗殺人、地震、火災、放射能汚染、北朝鮮のミサイル…テレビのニュースは恐れを掻き立ててくれます。日本人ほど保険にお金をかけている国も他にないでしょう。昔は健康保険とか生命保険くらいでしたが、今はがん保険、介護保険が当たり前のようになっています。私はブラジルで数年、暮らした人のお話しを聞いたことがあります。私自身もインドネシアに数回行きました。南米とか東南アジアの人たちは、明日のことを心配していません。おそらく、日本ほど保険に入っていないのではないかと思います。もちろん、私たちは危機管理が必要です。交通事故に遭わないように、盗難や火災に遭わないように気をつけなければなりません。特に、都市ではいろんなことが起こりますので、守りが必要です。でも、恐れすぎて、神さまが与えてくれた人生をエンジョイできないのも問題です。ある学者は「恐れていることの5%しか実現しない。95%は実際に起きていないことを恐れている」と言いました。

 でも、私は数えたことがありませんが、聖書には365回「恐れるな」と書いてあるそうです。だから、一日、一回は「恐れるな」ということを聞かなければなりません。それだけ、人間は恐れやすいということでしょう。では、恐れは一体どこからやって来たのでしょう?アダムとエバはエデンの園にいたとき、神さまと親しく交わっていました。二人は、神さまの臨在の中で守られていたので、恐れる必要は全くありませんでした。ところがサタンの言うことを聞いて、食べてはならない木から取って食べました。サタンは「神のようになる」とだましましたが、すでに二人は「神のようだった」のです。なぜなら、神のかたちに造られていたからです。二人は神さまに背いて罪を犯しました。いつものように神さまは、そよ風の吹くころ、園を歩き回り、二人に声をかけました。ところが、二人は主の御顔を避けて園の木の間に身を隠しました。主は「あなたはどこにいるのか」と聞きました。アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。アダムが堕落したと時から、恐れがやってきました。Ⅰヨハネ4:18後半「なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」と書いてあります。生まれつきの人間は、アダムの罪を背負っており、恐れの支配から免れることはできません。イエスさまの弟子たちも度々、恐れていました。ある時、弟子たちはイエス様を舟にお乗せして、ガリラヤ湖の向こう岸を目指していました。マルコ437-40すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」弟子たちは「舟が沈んで、自分たちはおぼれ死ぬ」と恐れました。一方、イエス様は嵐の中でも、平然として眠っておられました。何が違うのでしょう?あとで、イエス様は「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と叱られました。信仰があれば、嵐の中でも平気なのでしょうか?このところに、恐れから解放されるヒントが隠されています。イエス様はどんなときでも、父なる神さまとご一緒でした。人間イエスは父なる神さまの懐で安らいでおられたのです。もちろん、イエス様には嵐を静めることのできる神の子としての権威がありました。でも、安心と権威はアダムとエバが罪を犯す前に持っていたものです。かつてのアダムとエバは、神さまとの親しい交わり、そして自然界を支配できる力を持っていたので、恐れる必要が全くありませんでした。

 ヨハネは何と言っているでしょう?Ⅰヨハネ416-18「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」このところに、恐れから解放される道が少なくとも2つ示されています。第一は、私たちは神のうちにおり(住み)、神も私たちの中におられる(住んでおられる)ということです。イエス様はヨハネ14章で、「私が父におり、父が私におられる」とおっしゃいました。ヨハネは「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです」と言いました。ということは、私たちはイエス様と同じように、神さまと一体であるということです。イエス様は神さまと一体であったので、恐れがありませんでした。キリストと同じような者とは、私たちもそうなんだということです。第二は、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」ということです。イエス様はヨハネ福音書で「私は世の光である」と度々おっしゃいました。一方、闇は恐れを象徴しています。暗い部屋の闇を追い払うためにはどうしたら良いでしょう?電気を灯すならば、闇は出て行きます。同じように、光なるイエス様をお迎えするなら、闇である恐れは出て行くのです。ここに「全き愛」と書かれています。英語の詳訳聖書は「完成し、完全に成し遂げる愛」と訳しています。この愛は、人間的なものではなく、父なる神とイエス様との間にあった愛です。完全なる愛を持っておられる、神さまが私たちの内に住んでおられるならどういうことが起こるでしょう。恐れは締め出されます。信仰とは、私の内に完全なる愛をもっておられる神さまを認めることです。弟子たちはイエス様が舟に一緒に乗っておられるのに恐れました。だから、イエス様は「信仰がないのは、どうしたことです。」と弟子たちを叱ったのです。

 私たちは地上に住んでいるので、どうしても恐れがやってきます。「恐れるな」と聖書で365回記されているのはそのためです。主の祈りで「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。この世に、私たちを滅ぼそうと待ち構えている敵がいることを無視できません。ダチョウは非常に恐れると、砂の中に頭を埋めるそうです。恐れに対して目をつぶれば良いということでは全くありません。現実的には、日々、恐れを招くようなことが起こるということです。では、どうしたら恐れに打ち勝ち、信仰によって歩むことができるのでしょうか?まず、恐れや不安があるということは何かが原因しているということです。これはあらゆる感情についても言えますが、私は何を恐れ、何に不安を感じているのか特定する必要があります。私も月末には不安と恐れがあります。なぜなら、月の初めには役員会があるからです。「また、何か言われるんじゃないだろうか?」そのため資料を整え、「私は指揮者ヨセフである」と祈ると大丈夫です。「この先、どうすべきだろうか」という不安もあります。マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。「伝道牧会をしっかりやっていれば、神さまが養ってくださる」と平安になります。船はたえず水圧と戦っています。目には見えませんが、海水が船を押しつぶして、「入ろう、入ろう」としています。一方、船は海水を逆に押し戻して、海水を入れないようにしています。信仰も船と同じです。もし、恐れを私たちの心に入れてしまうなら、私たちの人生は沈没してしまうでしょう。主要な解決は「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」のみことばに立つということです。私の中に神さまが住み、私も神さまの中に住んでいる。すべてのことは神さまの大いなる御手の中にあります。全能の神さまにとって、とんでもないことなど、ありません。絶対的な神さまの愛が魂を支配するように願うのです。そうすれば、魂に圧力が蓄えられ、恐れに対抗することができます。個々の解決は1つ1つの問題を特定して、神さまの前に差し出すのです。神の霊である、聖霊が知恵と解決と脱出の道を与えてくださいます。たとい、この世に敵がいたとしても私たちは恐れる必要がありません。詩篇23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」ダビデは、敵に囲まれていても、主と共に食事を楽しむことができました。一番重要なことは、イエス様との親しい交わり、親密な関係を保つことです。義人は信仰によって生きるとは、目に見えないイエスさまを目に見えるお方として歓迎し、親しく交わり、イエス様と共に歩むということです。

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2018年4月20日 (金)

神の国の福音 マルコ1:14-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.4.22

 イエス様が宣べ伝えた福音は、単なる福音ではなく、神の国の福音です。単なる福音と神の国の福音は一体どこが違うのでしょうか?伝統的な教会は、「イエス様を信じることによって罪赦され、天国に行くことができる」と教えてきました。では、天国は死んでから入るものなのでしょうか?そうではありません。天国という名称が問題です。本来は神の国なのですが、ユダヤ人は「神」ということばを使うことを恐れ、「天」と置き換えたのです。重要なのは、人は死んでから天国に入るのではなく、生きているうちに神の国に入るということです。

1.神の国の福音とは

 今から15年くらい前、五藤千代姉妹のご主人が危篤状態ということで亀有病院に駆けつけました。温泉で湯あたりをしたようで、食べることもできず意識がもうろうとしていました。数日後、五藤姉妹から「今なら、意識がはっきりしていますので、すぐ来てください」と言われました。私は「五藤さん、イエス様を信じたら、罪赦され天国に行けますよ。イエス様を信じますか?」「うん」と言いました。五藤姉妹は「行きがけに答えたのよ。もう一度聞いてみて」と言われ、もう一度福音を伝えたら、「うん」と答えました。私は救いの感謝と病の癒しの祈りをして帰ってきました。1週間後、五藤さんはめきめき回復し、「ぜひ、洗礼を」と山崎長老と病院に行きました。そのとき、五藤さんが私に文句を言いました。「先生、私は天国に行っていないよ。ちゃんと生きているよ」。私は天国のことを説明し、もう一度、信仰を確認してから洗礼を授けました。五藤さんはその後、退院し、2年後に本当に天国に旅立ちました。実は、五藤姉妹の家で1年半くらいセル集会を持ったことがあり、ご主人の五藤さんも参加していました。五藤さんは、とても理屈っぽくで「天国と極楽はつながっている」と言っていました。「これは難しい人だなー」と思っていました。しかし、病院に入院して、危機的な状況になってイエス様を信じたのです。その時、「天国に行ける」というのは、誤解を招く表現だということを学びました。なぜなら、テレビで、だれかが死ぬと「天国に旅だった」とだれでも天国に行けるかのように言っているからです。そのとき、heaven天国ということばに問題があるということが分かりました。クリスチャンも、「罪赦され救われたら、天国に行ける」と教えられています。でも、天国がゴールであるなら、洗礼を授けるとき、ずっと水の中で沈めていたら、すぐ天国に行けます。そのような教えは、どうせ天国に行けるのだから、生きているうちは何をしても良いということになります。怠け者のクリスチャンを作り出してしまいます。

 イエス様は単なる福音ではなく、神の国の福音を宣べ伝えられました。マルコ114-15「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」神の国は、ギリシャ語でバシレイアですが、「王権、統治、支配」という意味です。神の国では神さまが王様であり、その方に服従することが求められます。つまり、神の国に入るためには、悔い改める(方向転換する)必要があるということです。自分が王ではなく、神さまが王様だということです。神の国に入る条件は、罪が赦され、義と認められる必要があります。そのため、イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれて、代価を払ってくださいました。イエス様が道であり、真理であり、いのちなのです。このお方を通して私たちは父なる神さまのところに行けるのです。つまりは、神の国にはいり、神の国の臣民(国民)になるということです。神さまが王様であるならば、国民である私たちの命を保証し、領土を与え、必要と守りを与えてくださるのは当然であります。もし、「死んだら天国に行く」という概念しかないなら、この地上の人生は自分の力で生きていくしかありません。この地上はおまけの人生であり、そこには生きる目的も使命も存在しません。「この世の誘惑に負けないで、貧しさと病気に堪え、なんとか天国に入る」という生き延びる人生であります。かつてはそういう信仰者がたくさんいました。一昔前は、「酒タバコ飲ま吸わぬの耶蘇教は、あぁ面倒な宗旨なり」と揶揄されました。禁欲的で世離れした人生です。クリスチャンは信じたときから、この世でありながら、神の国で生きているのです。確かに神の国の領土は目に見えません。ただ、神の支配だけが来ています。でも、イエス様を信じることによって、神の国に入ることができるのです。この世はやがて終わりますが、それから目に見えるかたちでやってきます。イエスさまは「あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。」(ヨハネ142,3と言われました。

 パウロは救いを得ることをこのように表現しています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」救われることが「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ…御国を受け継ぐ」と書かれています。コロサイ113「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」このところには、暗闇の圧政から救い出されて、今度は、御子の支配の中に移されると書かれています。「御子の支配」はギリシャ語で、「御子のバシレイア」です。つまり、私たちは、かつては暗闇とサタンの支配で苦しんでいた存在です。しかし、イエス様を信じたことにより、そこから光の御子の支配にtransfer移されたということです。私たちはイエス様を信じたあとも、日本という地上で、同じ番地で暮らしていると思っています。ところがそうではありません。私たちは御子の支配、神の国で暮らしているということなのです。私たちはこの世というものが、サタンの支配下にあることをご存じでしょうか?もちろん、地上は、もともとは私たち人間のものでした。しかし、アダムが罪を犯してから支配権を失い、サタンがそれを横取りしてしまいました。イエス様が40日間断食した後、悪魔から誘惑を受けました。第二番目の誘惑です。ルカ45-6「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。』」もし、これが嘘であれば、イエス様は「馬鹿こけ!これは神さまのものだ」と一蹴したはずです。でも、イエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさいと書いてある」と答えただけです。多くの人たちは、「神さまがいるのにどうして災害とか、病気、ひどいことが起こるのですか?」と言います。その原因は、人間が自然界の支配権を失い、サタンが横取りしているからです。罪ある人間は霊的に死んだ状態であり、悪魔と悪霊によって支配されているとエペソ2章に書かれています。

 イエス様は私たちを救うために天から降りてこられました。福音書にはそのことが物語のように書かれています。ルカ1120-22「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」イエス・キリストはこの地上に、神の国を持って来られました。その証拠に、悪霊を追い出し、病を癒されました。この物語を解釈すると、「強い人」というのはサタンのことです。「自分の家」とはこの世であり、「持ち物」とは罪の中にある人間です。「もっと強い者」とはイエス・キリストのことです。イエス様はサタンの国を襲って、打ち勝ち、虜を解放するということです。サタンが持っている最大の武具は、人間の罪を告発することです。もし、イエス様が人間の罪を贖うならば、サタンは告発することは不可能です。イエス様は十字架で死ぬことにより、サタンのかしらを打ち砕いてくださいました。現在、サタンの国は武装解除された状態であり、悪霊どもが勝手に戦っているのです。もし、私たちが悪魔と悪霊と戦わなければならないと思うなら、欺かれて敗北するでしょう。そうではなく、彼らはすでに負けているのです。私たちはキリストにあってすでに勝利を得ているのです。私たちの戦いとは、勝利が既に決まっている戦いなのです。ルカ11章のみことばからも分かるように、イエス・キリストが神の国を持って来られたということです。福音書の時代は、その入口が狭くてよく分かりませんでした。そのため、マタイ1112「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」でも、十字架と復活以降、神の国の門が大きく開かれ、だれでも自由に入ることが可能になりました。

 私たちはクリスチャンになっても、この世の中に住んでいます。この世には不条理があふれており、いつ私たちも巻き添えになるか恐れているかもしれません。テレビや新聞のニュースは、悲惨な事件にあふれているので、ついつい恐れがやってくるかもしれません。しかし、私たちはこの世にありながら、神の国に住んでいるのです。父なる神さまが王であり、私たちはその臣民(国民)です。神の民であるならば、その保証として、守りと助けが与えられることを信じます。詩篇236「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」やがて、主の家に住むのではなく、既に主の家に住んでいるのです。私たちは地上において、どこで、どの家に住むか問題ではありません。私たちはすでに神の国の中にあるので、主の家に住んでいるのです。

2.神の国の福音とその現れ

 イエス様は神の国の福音を伝えただけではありません。「もうすでに神の国があなたがたのところに来ていますよ」ということを現されました。その証拠として、イエス様は福音宣教をしながら、病を癒し、悪霊を追い出し、ある時は死人さえよみがえらせました。言い換えると、福音宣教と奇跡としるしが伴っていたということです。残念ながら、教会の中には「聖書が完成した今は、目覚ましい奇跡やしるしは必要でなくなった」と教えているところがあります。とんでもありません。20世紀にはインドネシア、アルゼンチン、中国、韓国にリバイバルが起きました。そして、現在はアフリカに大いなるリバイバルが起こっています。そこでは、病の癒しはもちろん、盲人が見え、足なえが歩き、耳の聞こえない人がどんどん癒されているのです。さらには、死んだ人さえ生き返っています。まさしく「四福音書」や「使徒の働き」の中で起きていることが継続しているということです。どうぞ、神さまを私たちの神学や経験に押し下げないようにしてください。神さまは私たちよりも、ずっと高いお方であり、今も奇跡やしるしを起こすことができます。そのためには、私たちは聖書から「神の国の福音とその現れ」について知る必要があります。マタイ11章に書いてありますが、バプテスマのヨハネが獄中から「おいでになるはずの御方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方をまつべきでしょうか」と聞いています。イエス様はこのように言われました。マタイ114,5「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」これはどういう意味でしょう?イエス様は神の国を地上に持ってこられたメシヤであるということです。イザヤ35章に完成された神の国がどのようなものか書かれています。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(イザヤ355これは千年王国の預言であり、将来の出来事です。しかし、イエス様は将来起るであろうことを、この地上に持ってこられたのです。それは「今、ここに神の国が来ていますよ。神の国とはこういうものですよ」ということを証明しているのです。

 マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」イエス様は3年半、ガリラヤからはじまり、エルサレムなど、パレスチナ全体を歩き回って、福音を宣べ伝えました。しかし、ただ福音を宣べ伝えただけではありません。必ず、病を癒し、悪霊を追い出し、さまざまな障害を回復してあげました。イエス様の福音宣教と癒しや悪霊追い出しはセットであったということです。ところが現代の教会は福音宣教だけしかやっていません。これまで、映画伝道、英会話伝道、喫茶店伝道、音楽伝道、ランチョン…いろいろやってきました。しかし、イエス様と弟子たちが行った福音宣教と同じではありません。病の癒しと悪霊追い出しが全く入っていません。なんと、スマートで上品な福音宣教になっているのでしょう。現在、アフリカやインドに行くと、福音宣教には必ず、病の癒しと悪霊追い出し、しるしと奇跡が行われます。そこでは盲人が見え、足なえが歩き、松葉杖の山ができたりします。日本ではまず、そういう集会はありません。あまりにもスマートで上品になりすぎています。戦後、新興宗教がたくさん出ました。天理教、霊派の光、立正佼成会、創価学会…みな癒しを行います。しかし、日本のキリスト教会は「そんなのご利益で低級だ」と馬鹿にしました。世の人たちは「教会はインテリの行くところだ。庶民の行くところじゃない」と思ったのです。本当にキリスト教会はミッションスクールに力を注ぎましたが、教会はさっぱり伸びませんでした。なぜでしょう?教えが知的すぎて、普段の生活への適用が全くありません。教会は観念的で頭でっかちの信者を製造してきました。理屈ばっかり述べて、かつてのパリサイ人や律法学者のようになっています。イエス様は一般民衆のところへ出かけ、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出されました。さらに、イエス様は弟子たちにもそうせよ、と命じておられます。ルカ91,2「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」このみことばからも、福音宣教と病の癒しと悪霊の追い出しはセットであったということがわかります。言い換えるなら、神の国を宣べ伝えるならば、当然、病を癒し、悪霊を追い出さなければならないということです。なぜなら、それらの出来事は、「神の国が今、ここに来ていますよ」という証明だからです。

 では、日本において、なぜ福音宣教がはかどらないのでしょうか?それは、奇跡としるしの伴わない福音を宣べ伝えているからです。神の国の福音ではなく、ただの福音であります。使徒パウロがギリシャのアテネに行って福音を宣べ伝えました。でも、その効果はさっぱりでした。なぜでしょう?彼らと神さまのことで議論したからです。コリントの教会の人たちにこう言っています。Ⅰコリント24「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」使徒パウロの宣教には、御霊と御力の現れが伴っていたということです。これは、パウロが聖霊による様々な賜物を用いたということです。Ⅰコリント12章には「知恵のことば、知識のことば、信仰、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊の見分け、異言、異言を解き明かす力」などが掲げられています。他には悪霊の追い出しもあります。これらの賜物はすべてのクリスチャンが持つことができる聖霊の賜物です。この賜物を用いて、神の国が来ていることを証明するのです。これは、しるしと奇跡の伴う福音宣教です。神さまに出会うなら、人々の頑なな心が開かれ、福音を簡単に受け入れられるようになるでしょう。まずは、神の国の前味を体験してもらう必要があります。それは、スーパーなどの試食コーナーと同じです。おばさんが、「あなたも1つどうですか?」と言いながら、ウィンナーとか焼肉のたれ、ヨーグルトなど、新商品を販売しています。私たちも神の国がどのようなものなのか、人々に「あなたも1つどうですか?」と試食させる必要があります。おいしければ、信じます。

 これまで教会は天国に行くだけのクリスチャンを作ってきました。しかし、本来はそうではありません。神の国を拡大するという使命を帯びながら、この世に出ている存在であります。どんな仕事をしながらでも、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、様々なしるしと奇跡を行なうことは可能です。それらは牧師だけが行うミニストリーではありません。普通のクリスチャンが行うべき標準的な事柄であることを再認識すべきです。そのためには、上からの油注ぎ、権威と力が必要です。それがないとこの世にやられてしまいます。イエス様の弟子たちは、その力を上からいただいたので、あのような働きができたのです。ルカ2449 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」この約束はペンテコステの日に実現しました。ペンテコステの日、120人の弟子たちは11人を除いて、聖霊の新生と聖霊のバプテスマを両方体験しました。11人はイエス様が復活した夜、聖霊を内側に受けていました。現代においてはイエス様を信じたら、だれでも聖霊を内にいただいて生まれ変わります。しかし、聖霊を上からいただいて油注ぎを受けるという次の経験が必要であります。いろんな経験があり一概には言えませんが、とにかく上から聖霊を着せられる必要があるのです。これはきよめ派が言う、内側が聖霊に満たされる意味ではありません。まるで水の中にどっぷり浸かるように、外側から聖霊に覆われるということです。そうすれば、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、様々なしるしと奇跡を行なうことが普通になります。これまでそういうことがなかったということは、標準以下のクリスチャンであったということです。どうぞ、聖霊を上からいただいて、かつての弟子たちのようになりましょう。

 日本にはキリスト教が西洋周りでやってきました。西洋の教会は、啓蒙主義、合理主義の影響を受けてしまいました。だから、「病の癒しや奇跡はない」という理性的な教えです。奇跡を行なえないような神さまは本当の神さまではありません。この世は閉ざされた世界ではありません。神さまは今もこの世に介入してくださいます。問題は、私たちクリスチャンがその橋渡しになる必要があるということです。イエスの御名を用いて祈り、あるいは命じるならば、神の国がこの地上にやってきます。ビル・ジョンソンは、『天がこの地にinvade侵略するとき』という本を書きました。イエス・キリストが2000年前、この世に来て以来、この地は侵略されています。この地は悪魔のものではありません。私たち人間が本来、支配すべきものです。私たちはこの地を私たちのもとに取り戻す必要があります。この地を悪魔から奪い返し、神の国の拡大のためにクリスチャンがいるのです。クリスチャンは礼拝を守り、ただ天国に行く存在ではありません。この礼拝は神さまを見上げ、神さまを第一にするという行為です。そして、神さまから聖霊の力をいただいて、この世に派遣されていくのです。警察官には国家権力がついているのでなめてはいけません。同じように私たちの背後には、神の国の強力なバックがついています。男性、女性、信徒、牧師、老人、若者、子ども、すべてに神の国の強力なバックがついていることをお忘れなく。

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2018年4月13日 (金)

希望を持て Ⅰコリント13:13 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.4.15

 私たちは希望を持つことがとても重要です。ところが、いくら望んでもかなわないと、諦めが支配して、希望を持てなくなります。世の中には病気や事業の失敗を苦にして自らの命を絶つ人がたくさんいます。私たちは希望が持てないような状況でも、何とか希望を持たなければなりません。その証拠に、Ⅰコリント1313「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と書いてあります。きょうは希望を持つことの重要性についてメッセージしたいと思います。 

1.希望と信仰

 ヘブル111「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」残念ながら、この日本語訳では分かるようで分かりません。キングジェームス訳は、Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.となっています。このsubstanceとは何なのでしょうか?辞書によれば、実質とか本質、実体という意味です。ウォッチマン・ニーは「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」と解釈しています。でも、きょうは信仰についてではなく、希望について学ぼうとしています。ヘブル111をよく見ると、信仰の前に、望むことが必要であることがわかります。つまり、何かを望むところから、信仰がやってくるということではないでしょうか?言い換えると、信仰が生まれるための温床は希望であるということです。希望を持てば、やがて信仰が与えられ、それが現実のものとなるということです。でも、多くの人たちは、最初に希望を持つことをしません。すでに諦めて希望を持たないので、信仰がやってきません。考えてみれば、希望を持つことはタダであり、税金もかかりません。どれだけ大きな希望を持っていてもその人の勝手です。凡人は、「そんなのドンキ・ホーテのようだ」と馬鹿にするでしょうが、それが実現したとき「あなたは天才です」と賞賛するでしょう。発明王のエジソンのことばです。「私は決して失望などしない。どんな失敗も、新たな一歩となるからだ。」

聖書には、全く希望がない状況なのに、希望を持った人たちにあふれています。アブラハムはまもなく100歳、サラは90歳。子どもが与えられると約束を受けていましたが、その兆候は全くありませんでした。創世記には二人とも疑ってしまい、いたずらに時が過ぎてしまったことが記されています。ところが、ローマ人への手紙には信仰に満ちたカップルとして記されています。ローマ418-19 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」このところで重要なのは「彼は望みえないときに望みを抱いて信じた」ということです。原文は「望みを超えて(反して)、望みを抱いて信じた」となっています。普通の望みだったら消えてなくなります。それ以上の望みを抱いて信じたということです。このところからも、信仰の前に望むことが必要であることがわかります。聖書には望みを抱いて、イエス様に近づいて行った人たちにあふれています。

 マルコ福音書には盲人で物乞いをしていたバルテマイの記事があります。彼はイエス様の噂を耳にして、「あのイエス様が私の目を開いてくれるのでは?」という希望を持ちました。ある日、そのイエス様がエリコの町を通過するところでした。バルテマイは声を張り上げて、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」とイエス様の足を止めようとしました。他の人々から「うるさい、だまれ!」と言われても、ますます、「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と叫び立てました。イエス様が「あの人を呼んで来なさい」と言われ、バルテマイが連れてこられました。イエス様が彼に何とおっしゃったでしょう?「私に何をしてほしいのか?」。とっても意地悪な質問ですが、あえて彼の口から願いを聞きたかったのです。バルテマイは「先生。目が見えるようになることです」。するとイエス様は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。すると、すぐさま彼は見えるようになりました。このところからも分かりますように、バルテマイは最初「イエス様によって目が見えるようになるかもしれない」と望んだのです。そして、通り過ぎようとされるイエス様を呼びとめました。イエス様から「何をしてほしいのか」と問われ、信仰をもって「目が見えるようになることです」と答えました。「目が見えるようになれば良いなー」と希望だけで終わっていたなら、目は見えませんでした。バルテマイは希望を持ち、その次に、信仰をもってイエス様に近づいたのです。希望から、信仰になったのです。そして、イエス様から目の癒しをゲットしたのです。ハレルヤ!このように、信仰の前に、望むことが必要なのです。

 でも、多くの人たちは望んでも叶えられなかったという経験を多く重ねます。すると、もう望まない、そして、絶望してしまいます。その方が傷つかなくて良いからです。絶望してしまうと、もう信仰も生まれません。『夜と霧』を書いた、ヴィクトール・フランクルの本があります。彼は第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に入れられました。その過酷な体験を速記の記号を使い、小さな紙に書き残していました。終戦後の1947年、この記録は『夜と霧』として刊行されます(原題は『強制収容所における一心理学者の体験』です)。これはある人の書評です。本書には、過酷な状況を生きる人々の姿が冷静な眼で記録されています。あまりにも悲惨な出来事には、思わず目を逸らしたくなるかもしれません。しかし絶望のふちに立たされてもなお、人間性や希望を失わなかった人たちがいました。それは、なぜでしょうか。一つには、美しさやユーモアなどで内面性を豊かに保ち続けたことがありました。また未来に対して諦めずに目的を持ち続け、行動したことも精神的な破綻を防ぐことになったといいます。私もその本を昔、買いました。収容所の人たちは「あの日に、解放される」などと何度も裏切られ、絶望していきます。しかし、「根拠はないけど、きっと家族に会える」と希望を捨てなかった人が生き延びたということです。希望が過酷な環境の中で、生きる力を与えたことが分かります。

 私は6年前にジョエル・オスティーンの原書を読みました。私は自慢ではありませんが、英語の本を最後まで読み終えたことがありません。3ページも読んだら良いほうです。多くの本が読まれないまま眠っています。彼の『あなたの出番です』という日本語訳を読んで、関西風の軽い訳なので原書を買って読んでみました。英語とあまりにも違うので愕然としました。一冊、読み終えたら「やればできる!」と思い、気が付いたら10冊くらい読んでいました。今は少し難しい、ビル・ジョンソンの本を読んでいます。ジョエル・オスティーンは神学校も出ていません。大学中退後、テレビのカメラマンとして17年間、お父さんの教会で働いていました。でも、牧師であるお父さんが突然召され、38歳から4000人くらいの会衆の前で話すことになりました。人々は無理だと噂していましたが、見事、乗り越え、現在では2万人の会衆になっています。ところが、ジョエル・オスティーンに対する非難は止みません。その人たちは「彼は正しい福音を語っていない。繁栄の神学だ。偏っている」と非難しました。ジョエル・オスティーンはある本で、このように弁明しています。「人々が何と言おうと私は構わない。なぜなら、私は人々に希望を与えるために神さまから召されたのだから」。彼はあるメッセージでこのように語っています。「希望の種は、私たちの生活におけるすべての良きことの始まりです。希望は人生に打ち勝つための命を与えます。希望はたとえ最悪な環境に直面しても、常に最善を信じます。キリストを信じている者にとって、希望は『願い』や『あこがれ』『積極的な展望』よりも勝るものです。希望は神のことばに見出される約束に基づいているものだからです。神の約束があなたを動かすのです。」アーメン。私は今も、毎朝、彼の本を数冊読み続けています。なぜなら、私は元来、悲観的で否定的な者だったからです。だから、毎日、彼の本から励ましてもらわないと希望が持てません。

ジョエル・オスティーンの本からです。ある会社の重役が、自分のオフィスにちょっと変わった絵画を飾っていました。それは岸辺に打ち上げられた一艘の大きな手漕ぎボートの絵でした。絵の中のボートは、波打ち際から7,8メートルほども陸側に乗り上げていて、二本のオールは深いところまで砂に埋もれた状態です。その絵は人が見て「ほう、これは美しい!」とは言えないような代物でした。それどころか、見ている方が「憂うつ」になるようなたぐいの絵でした。大海原の波に乗って踊るのがふさわしい船が、その本来の活躍場所ではない「砂地の上」に寂しく囚われているからです。しかし、よくよくその絵を見ると、絵の一番下の部分に、何やら絵のタイトルのような文章がありました。『潮の流れは、必ず戻ってくる。』その実にシンプルな一言が添えられただけで、その絵は新しい命を吹き込まれたように眺めることができます。この絵の持ち主である重役は、過去に大変な失望と挫折の中を通る体験をしました。ある時、彼は小さな画廊でこの絵画に出会って、たった数ドルで手に入れたのです。彼はこの絵をのぞき込む度に、自分に言い聞かせました。「潮の流れは、必ず戻ってくる!」その絵画は、ある意味、重役に「信仰を植え付けた」のだ、と言って良いでしょう。絵画の下にあったあの言葉は、「物事はきっと良い方向に向かっていくのだ」という希望を彼に与えたのです。

2.希望を与える神

 希望とは私たちが頭の中から無理やりひねり出すものではなく、神さまが心の中に吹き込んでくださるものです。善なる神さまはあなたに希望を与えたいと願っておられます。ローマ1513「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」このみことばから、神さまご自身が希望の神さまであることがわかります。そして、聖霊がご自身の力によって私たちに希望をあふれさせてくださるということです。聖霊はいわば、神さまから私たちに望みを与える管であります。日本語の聖書は、望みと希望と使い分けているようです。しかし、英語の聖書はすべてhopeです。ギリシャ語でhopeは、エルピスと言います。Elvis Presleyというロック歌手がアメリカにいました。ああ、エルビスでした。エルピスは、「良いことへの期待、希望」という意味です。私たちは希望というと空にかかった虹を連想するかもしれません。でも、そのルーツがどこから来たかご存じでしょうか?ノアの箱舟が1年間も大洪水をさまよい、アララテ山のふもとに漂着しました。ノアは最初、カラスを放ちました。出たり、戻ったりしていました。それから鳩を放ちました。戻ってきました。それからなお7日待って、再び鳩を放ちました。すると、オリーブの若葉をくわえて戻ってきました。これはピースというたばこの絵柄になっています。箱舟のおおいを取り去って眺めてみると、地の面がかわいていました。神さまはノアとすべての動物と契約を結びました。「もはや、大洪水が地をほろぼすことはない」と言われました。そのとき、雲の中に虹が現れました。それ以来、虹は、希望を表すようになりました。

 希望はクリスチャンであろうとなかろうと、すべての人に神さまが与えた賜物です。どんな人でも希望を持つことが可能です。でも、その希望がかなうまで、希望を持ち続ける人は少ないと思います。何故かと言うと、この世の中には希望を失わせるものが満ちているからです。むしろ、人々は絶望の中に生きています。もう何度も裏切られたので、希望なんか持つのも嫌になるのです。旧約聖書で「希望のメッセージ」を与えてくれる最も有名な箇所をご存じでしょうか?それはエレミヤ書にあります。エレミヤ2911「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」しかし、「平安を与える計画、希望と将来を与えるもの」とは何なのでしょうか?11節だけでも十分なのですが、29章全体を読むと、意外なことが書かれています。神さまの希望と将来を計画とは何でしょう?当時、南ユダはバビロンに滅ぼされようとしていました。それは南ユダが犯してきた罪の結果であります。預言者エレミヤは「神のさばきを受けるためにバビロンに囚われて行きなさい。70年たったら戻って来られるから」と人々に告げました。しかし、エルサレムに残った民たちは耳を傾けようとしませんでした。今の時代は見てくれが勝負みたいなところがあり、贈り物のパッケージさえもお金をかけます。「バビロンに囚われて行け」というのは、希望が全くなくて、良い知らせではありません。ところが、それは神の平安を与えるすばらしい計画だったのです。

 私たちの人生においても、希望なんか全く持てないという時期があります。あんなことがなければ良かったと思える過去の出来事がいくつかあるものです。私の最大の失敗は、秋田工業高校土木科に入ったことです。授業も面白くなくて、クラスの人たちとも馬が合いませんでした。6月に強さにあこがれてボクシング部に入りましたが、12月のデビュー戦でTKO負けて退部。それからひどい劣等感に陥り、ノイローゼになりました。学校の帰り、スーパーで万引きし、捕まりました。翌日、母と私が学校に呼び出されました。担任が母に言いました。「この子は将来、強盗、殺人を犯しかねない。ムショからムショの生活を送るかもしれない」と言われました。日々、麻雀に明け暮れていました。その時に吸っていたタバコがshort-hope短い希望でした。なんとか卒業でき、兄と同じ建設会社に入りました。住む場所を変える現場生活がいやなので、23歳で退社しました。小さな貿易会社に入り、職場の先輩に導かれ、25歳のとき洗礼を受けました。まもなく直接献身し、神学校に入りました。28歳でめでたく結婚。33歳の時、この教会の牧師として招かれました。就任6年後、新しい会堂を建てることになりました。私が基本設計をし、土木の現場監督の経験が役に立ちました。ボクシングで挫折しましたが、今はボクシです。かつてはトランペットを挫折したものですが、現在はヨベルのラッパを吹いています。ヨベルとは解放と回復の「喜びの訪れ」の知らせです。私自身、全く希望のない者でありましたが、人々に聖書から希望を伝える者になったことは神さまの奇蹟です。

 私が今、自信を持って言えることは、神さまはどんな人にも希望を与えてくださるということです。パウロは「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」と祈っています。クリスチャンになったら、日々、希望にあふれているかというと、なかなかそうではありません。イエス様が「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです」(ヨハネ1633でおっしゃいました。つまり、天国に行くまで、戦いがあり、希望を失うこともありえるということです。では、どのようにしたら、希望の火を燃やし続けることができるのでしょうか?第一は、望みを与える神さまと和解するということです。生まれつきの私たちには罪があり、神さまと離れている状態です。罪が神とのへだてとなっています。この世の多くの人たちは、色んな神さまに祈っています。商売繁盛、無病息災、結婚、安産、入学、厄除け…。それぞれ、神さまに専門があるようで、願いに行く場所が違います。でも、まことの神さまは唯一であり、万能なるお方です。私たちはこの神さまと和解しなければなりません。イエス様がおっしゃいました。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ146)。生まれつきの人間は神から離れ、罪があるために、父なる神さまはその祈りを聞く理由がありません。しかし、神の子イエスが私たちの罪を贖ってくれたので、神さまが私たちの父となり、私たちは神さまの子どもになりました。だから、クリスチャンは、父なる神さまに、イエス様のお名前によって何でも求めることができるのです。そうすれば、望みの神さまが、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいます。望みが信仰を生み出し、やがてそれが実体化するのです。

 第二は、神さまを一度信じるだけではなく、継続的に神さまを礼拝し、神さまのみこころに留まる必要があるということです。そのためには聖日礼拝、日々のディボーションが重要です。私は朝、聖書だけではなく、信仰と希望を与えてくれる本を何冊も読んでいます。そうしないと、この世の心配や恐れが侵入してくるからです。神さまを礼拝すると、様々な問題よりも神さまが大きくなってきます。イエス様が「主の祈り」を教えてくださいました。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」その後に、日ごとの糧、罪の赦し、悪からの救いが続きます。でも、一番大事なのは、神さまがあがめられ、御国があなたのところにやってくることです。御国とは「神の支配」と言う意味です。何よりも先に、神の支配があなたの心に来なければなりません。神さまの支配があなたの心にやってきたら、心配や恐れが締め出されるでしょう。マタイ633もすばらしいみことばです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神さまとその義を第一に求めていくなら、他のものはどうでもよくなります。たとえ病があっても、お金がなくても、問題があったとしても、大丈夫、なんとかなると思えてくるのです。一見、開き直りのように思えますが、愛なる神さまがなんとかしてくださるという信仰と希望がやってきます。

 第三は、私たちには絶対的な希望があります。この希望はイエス・キリストを信じている人でなければ与えられないThe hopeです。それは復活の希望です。イエス様は十字架で死んで、三日目によみがえられました。イエス様は贖いを完成してくださったので、信じる者は罪赦され、義と認められます。私たちの罪は贖われましたが、まだ肉体は贖われていません。この肉体が復活するときに、贖いが完了するのです。つまり、イエス様が栄光のからだによみがえられたように、私たちもよみがえるということです。復活の希望こそが、究極の希望と言えます。この世の人には、この希望がありません。「死んだらおしまい。死んだ先は、どこかで魂が生きているかもしれない」くらいの希望です。私たちはそうではありません。私たちには、死に打ち勝つ希望、復活の希望があります。使徒パウロがこのように述べています。ピリピ320-21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」世の終わり、イエス様が再びこの地上に来られます。その時、私たちの朽ちるべき卑しいからだが、イエス様のような栄光のからだに変えられるのです。その人に、どんなにマイナスが多い人生であったとしても、ぜんぶひっくり返り、よみがえって永遠の御国に住まうことができるのです。

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2006年10月 1日 (日)

教会の本質      ヨハネ10:1-16

 きょうは、教会の本質について語りたいと思います。ある教会は海外からいろんなプログラムを持ってきて、2,3年ごとに変えています。「先生、またどこかへ行って、新しいもの仕入れてきたねー。しかたがないから、ちょっとだけ付き合うか?」しかし、たくさんのプログラムを次から次と持ち込んで、しまいには、混乱してしまいます。教会はプログラムでも、方策でもありません。それは、イエス様のライフスタイルです。イエス様のライフスタイルこそ、教会の本質であります。では、教会の本質とは何でしょうか?それは、上・中・外であります。英語では、UP-IN-OUTであります。上とは神様との関係です。中とは兄弟姉妹との関係、そして外は世の人たちとの関係であります。イエス様のライフスタイルはこの上・中・外のバランスがとてもよく取れていました。もし、私たちがイエス様のライフスタイルを真似るならば、イエス様の品性が後から備わっていきます。みなさんは、イエス様のようになりたいですか?もし、そうであれば、きょうのメッセージはあなたのためのものです。

1.UP-上

 上とは父なる神様との関係であります。イエス様は父なる神様ととっても親しい関係を持っておられました。ヨハネ10:14,15「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」。聖書で「知る」という意味は、頭で知るという意味ではありません。ヘブル語で「知る」は「ヤーダー」と言います。創世記で「アダムはその妻を知った。そして男の子を生んだ」という言い方が何度か出てきます。もともと「知る」とは、夫婦の肉体関係を意味します。「ヤーダー」と言いたくなります。ですから、「知る」とは、親密な関係を持つという意味であります。父なる神様はイエス様と親密な関係を持ち、イエス様も父なる神様と親密な関係を持っておられました。14節には「わたしが父を知っているのと同様です」と書いてあります。これは、「イエス様と父なる神様が持っていた親密な関係を、私たちも同様に持てる」ということであります。

 聖書では「アバ、父よ」と呼ぶ霊を与えたと約束しています。「アバ」とは、子供がお父さんを呼ぶときに使う言葉で、「パパ」「父さん」「ダディ」という親しい呼び名です。でも、私たちは神様を「お父さん」と呼ぶのをためらいます。なぜなら、地上の父があまりよくなかったからです。「イエス様!」とか「主よ!」、あるいは「神様」と呼ぶことができるかもしれません。でも、「天のお父様」と心から親しみをこめて呼べない。だから、長い間、時間をかけて祈ることができない。求める祈り、とりなしの祈りはできるかもしれませんが、親しい交わりのときではありません。祈りが、お勤めとか、義務になってはいないでしょうか。もし、家内に「私はあなたと30分話すことにしました」と言って、一生懸命、話します。30分後、汗を拭きながら「あー、あなたと30分話すことができた。やったー」と言ったらどうでしょう。「私と話すのがそんなに苦痛なの」と顔をひっぱたかれるかもしれません。でも、神様との祈りでは、同じことをしているのです。祈りが苦痛であり、格闘であり、義務なのです。その原因は何でしょう。それは、地上のお父さんとの関係がまずかったからであります。みなさんのお父さんはどんな人だったでしょうか。仕事でほとんど家にいなかったので存在感がない。いつも頭ごなしに物を言って、こちらの話を聞いてくれなかった。とっても無口で弱々しかった。酒とギャンブルに明け暮れ、いい加減な父親だった。いつも不機嫌で怒っていた。業績志向でいつもあおってばかりいた。まあ、完全な父親はいません。「天のお父様」と呼ぶとき、「ああー、もう一人いたなー」と、悪いイメージが浮かんでくるのです。

マラキ5:5,6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」多くの人たちが、呪いの中にいます。父との関係が悪いために、上司や牧師との関係が悪い。伴侶や子供との関係も悪い。自分がだれか分からない。クリスチャンになっても、神様と親しい関係を持てない。これはみんな呪いです。その解決法は、地上のお父さんを赦し、神が与えた父として敬うことです。そうするなら、あなたは解放されます。アバラブ教会は、父の愛教会という意味ですが、このことを16年前に発見してから、急激に成長しました。ですから、イエス様を信じた直後、解放のキャンプに出て、最初に「父の愛」を回復する祈りをします。私は今まで、神様は全知全能であることを神学的に知っていました。聖書からも説明をすることができました。しかし、神様が本当に「親しいお父さん」であるということを体験的に知ったのは、ここ2,3年であります。

 神様がお父さんであることを知ったならば、もっとその関係を深めていくことが大切です。そのために、聖書を毎日読み、個人的に礼拝するときを持たなければなりません。これをディボーションとか静思の時(Quiet Time)と呼んでいます。私はこれまで人に教えるために聖書を読んでいました。早天祈祷会も15年くらいがんばって続けました。しかし、心から楽しいと思ったことはありません。でも、自分のために聖書を読み、教えをいただき、それを守り行う。正直、守り行うというところが、お留守でした。でも、最近、エディ・レオ師が神様と24時間親しく交わる方法を教えてくれました。第一は問題や誘惑を受けたとき、主を礼拝するということです。男性は1日に240回性的な誘惑を受けますので、そのとき、「ハレルヤ!主をあがめます」と祈ることができます。問題があるときは、神様に祈るチャンスが与えられたと感謝しましょう。もう1つは、毎日、主の御目のもとで生活するということです。イエス様は朝夕の祈りだけではなく、四六時中、父なる神様と交わっていました。父なる神様に聞き従っていました。神様の臨在とは、神様の御目という意味だそうです。神様の御目のもとで眠り、神様の御目のもとで活動する。父は「源」という意味がありますから、すべてのことにおいて祝福されることは間違いなしです。父なる神と親しい関係を持つ、これが私たちが行う、第一のことであります。

2.IN-内

 内とは隣人、兄弟姉妹との関係であります。私たちは隣人を天の父の愛で愛すべきであります。教会は神の共同体、コミュニティであります。「私は一人で神様を信じているので、教会に行く必要はない」と言う人がたまにいらっしゃいますが、それでは信仰生活は成り立ちません。神様はご自分のかたちに人を似せて造られたと創世記にあります。神様のかたちとは何でしょうか?神様は父・子・聖霊がまるで1つのように愛し合っておられます。そのかたちで、愛し合うように人を創造されたのです。ところが、人間に罪が入ってから、共同体も壊れてしまいました。カインの例からも分かりますように、人間関係よりも業績に重点を置くので、友達というよりはみんなライバルになってしまいます。人間の心は、争いと憎しみと敵対心でいっぱいです。しかし、幸いなことに、イエス様は私たちが持っている敵意を十字架に付けてくださいました。そして、私たちが新しく生まれたときに、兄弟姉妹を愛する愛も賜ったのであります。ヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」。神様から生まれたものは、お互いを愛するようになるのです。なぜなら、神様が愛なので、私たちも互いに愛し合うようになるのです。

 でも、現実はどうでしょうか?聖書ではそうは言っているけど、なかなか愛し合うことができません。もう、怖いんです。「また拒絶されるかなー」「また裏切られるかなー」「また傷つけ合うのかなー」という過去のトラウマがあります。教会で「お互いに愛し合いましょう」といわれると、私たちはもう1つの自分を演じなければなりません。教会に来るときは、教会の仮面をかぶるんです。「兄弟!元気ですか?」「元気ですよ。ハレルヤ!」。教会では恵まれた顔をしていますが、家に帰るとその分、ぐったりします。「お交わりしましょう」と言われても、本音で交わっていません。私たちが本音で交わることができるためには、まず、心の中が癒され、解放されなければなりません。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられましたがそれだけではありません。イザヤ書53章に、主は私たちの悲しみや恥や痛みも背負ったと書いてあります。イエス様は十字架にかけられたとき、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか!」と叫ばれました。そのとき、イエス様は拒絶を経験されたのです。これまで一瞬たりとも、御父と離れたことはありませんでした。しかし、全人類の罪を背負ったために、神様から捨てられたのです。だから、イエス様はあなたが人々から受けた拒絶を良くご存知であり、またそれを癒してくださいます。ですから、解放のキャンプでは、「父の愛の回復」の後、「十字架による心の傷の癒し」を行います。荒療治ですが、このときかなりの傷が癒されます。

 しかし、私たちが本当に互いに愛し合うことを身につけるためには、実践の場が必要です。それが教会にあるセルグループなんです。セルはお互いに責任をもっています。「何を言っても受け入れる。互いに徳を高め合う。秘密厳守」。最低このような条件が必要です。私たちが愛し合うとき、自分の愛ではダメなんです。神様からの愛をいつも、いただかないと、とても無理であります。イエス様はヨハネ15:19で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。イエス様は弟子たちをご自分が持っている神の愛で愛していたのでしょうか。「ああ、イエス様は神様だから、あんな弟子たちも愛することができたんだ」。そうではありません。イエス様は神としての愛を用いませんでした。では、イエス様はご自身の人間的な愛を用いていたのでしょうか。人間の愛で愛したら、限界があります。3べんも自分を知らないといったペテロを愛することができるでしょうか。イエス様はご自分の神の愛を用いたのでもなく、人間の愛を用いたのでもありません。では、イエス様はどのように愛されたのでしょうか。「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました」。イエス様は、父の愛を用いたのです。それは私たちの模範になるためです。これは私たちにとって、大きな励ましになります。イエス様は、「私の愛にとどまりなさい」と言われました。私たちも、父の愛によって互いに愛し合う必要があります。父の愛は、無条件です。父の愛には、限界はありません。

私は今回、アバラブ教会に行って、もう一回り大きな父の愛をいただいてきました。古い53歳の自分に一度、死んで、神様と隣人を愛することに、残りの生涯をささげる祈りをしました。愛するとは、具体的には、時間を喜んでささげることでもあります。神様との関係、隣人との関係のために、時間をささげるということです。みなさん、教会には霊的な父が必要です。あなたも父なる神様から愛をいただいて、霊的な父になることができます。霊的な父になることの一番の秘訣は、イエス様のライフスタイルを真似ることです。イエス様のキャラクターを真似るとフラストレーションがたまります。人の罪を7の70倍赦すなんていうことは不可能です。でも、イエス様が父なる神様から常に愛をいただいて、愛されたように隣人を愛する。イエス様にいつもとどまって、その力をいただくのです。あなたが成長して、霊的な父になるならば、あなたの周りに愛の共同体が作られていきます。あなたが神様の愛によって、人々を癒し、人々を生かすことができるのです。あなたは恵みによって、愛の器になることができます。アーメン。

3.OUT-外

 外とは、この世の人々に対する働きかけであります。神様は、人間をご自身のかたちに創造されてから、「生めよ。増えよ。地を満たせ」(創世記1:28)と命じられました。それは、神のかたちを増殖させよと言う意味であります。テモテ2:4には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書いてあります。イエス様がこの地上を去るとき、マタイ28章でこのようにお命じになられました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。これこそが、教会に与えられた最も大切な使命であります。一口にいって、それは宣教、ミッションであります。教会が宣教をおろそかにするならば、とたんに命を失います。宣教こそは、教会の血であります。教会に新しい人が救われて入ると、新しい血液がキリストのからだに流れるのです。

 当教会も含め、日本の教会に一番、弱いのは「宣教の情熱」であります。2005年度の日本プロテスタント教会調査を少しだけ紹介します。日本の総人口1億2,689万に対して、クリスチャンが、555,742人であります。総人口の0.4%であります。プロテスタント教会が7,800あるのですが、1年間の受洗者数は8,844人です。1教会平均1名ということになります。各県別の受洗者数で福井県の教会は年間4名です。福井県に教会がいくつあるか分かりませんが、全部の教会あわせて、1年間で4名しか救われなかった。ガビーンであります。インドネシアのアバラブ教会では1年間で3,000名もの受洗者が与えられています。この間、洗礼式を見ましたが、プールで87名洗礼を受けました。向こうは桁が2桁くらい違います。リバイバルが起こっているから、と言ったらそれまでですが、この日本は何とかならないのでしょうか。私はインドネシアで悔い改めました。もう、「日本は難しい」という否定的な言葉は使わないようにしようと決心しました。日本の教会の上には失望落胆の霊が強烈にのしかかっているからです。インドネシアには日本人一人だったので、「私は日本人の代表できたんだ。私はアバラブ教会のリバイバルを持ち帰る。私と亀有教会を通して、日本にリバイバルの突破口を空けるんだ」と決意してきました。

 では、宣教の情熱はどこからやってくるのでしょうか。これはエディも説明していますが、IN-内からはやって来ないということです。つまり、いくら兄弟姉妹が愛し合って、すばらしい共同体を作ったとしても、宣教の情熱は湧いて来ないということです。では、どこから、失われた魂への愛と情熱がやってくるのか。それはUP-上からです。私たちが父なる神様と出会うときに、父なる神様のハートが伝わってきます。ペテロ3:9「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。神様は放蕩息子の帰りを待ち望んだ父のように、いと長く忍耐して待っておられるのです。私たちは父なる神の思いを思いとしなればなりません。教会の中で仲良く交わっているのも良いですが、失われた人たちに対して、もっと福音を語らなくてはなりません。そのためには神様と、イエス様と出会うことであります。ヨハネ4章にサマリヤの女性が出てきます。彼女はキリストと出会いました。すると、水がめをそこにおいて、町へ出て行って「私のことを言い当てた方がいます。あの方がキリストかも」と告げました。彼女は何か特別なトレーニングも受けていません。もちろん、神学校に行ったわけでもありません。洗礼も受けていませんでした。なのに、神様を経験したので、証をしたのです。伝道と言うと、なんだか緊張します。でも、体験したことを証するんだったらだれでもできます。特に女性は、おしゃべりの賜物があります。福音をゴシップすれば良いのです。ハレルヤ!

 初代教会はペンテコステ、上から聖霊を受けました。彼らは神様と出会ったのです。するとどうなったでしょうか。彼らは愛が増し加わり、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じ手、分配しました。「そして、毎日、心を1つにして集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:45-47)。毎日、救われる人が加えられていきました。ある教会では、年ごとに加えられる。クリスマスに加えられる。ああ、それではさびしいですね。問題は、UP-上であります。使徒4章では迫害が起きました。彼らは「みことばを大胆に語らせてください。イエスの御名によって、しるしと不思議を行わせてください」と祈りました。すると、その場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。再び彼らは外に向かって宣教に行ったのであります。力の源はUP-上にあります。イエス様のライフスタイルはどうだったでしょうか。イエス様は父なる神様と親しく交わりました。そして、弟子たちと寝食を共にしながら彼らを訓練しました。さらに、町や村に出て福音を宣べ伝え、さまざまな病気を癒し、悪霊を追い出されました。イエス様は私のように、いつもデスクに座っていなかったのです。イエス様が出て行ったので、いろんな人と出会えたのです。ナインの村に入ろうとしたとき、棺を担いだ行列と出くわしました。イエス様はやもめの一人息子を生き返らせてあげました。イエス様はサマリヤの女、取税人ザアカイ、悪霊を宿したゲラサ人と出会われました。じっと、部屋の中でいたのでは彼らと会うことはなかったのです。これは私に対しても大きなチャレンジです。イエス様のようになりたかったなら、イエス様のライフスタイルを真似しなければなりません。おおー、私はこれを語るならば、自分の首を絞めることになります。

 でも、みなさん。答えがあります。イエス様は父なる神様と親しく交わっていました。イエス様は自分の思いで行動したのではありません。また、イエス様はご自分の力でミニストリーをしたのではありません。イエス様は父なる神様から、愛と力と導きを得て、毎日、歩まれたのです。そうです。一番の肝心なところは、父なる神様と親しく交わることです。きっとそこから、隣人への愛とこの世の人に対するミッションが与えられます。主がその力を与えてくださいます。私たちは恐れないで、ただ主に従えば良いのです。きっと、すばらしいことが起こります

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