2019年2月17日 (日)

進化論を斬る 詩篇8:3-9 亀有教会牧師 2019.2.17

 

 私は小中学のときは理科が5でした。当然、進化論についても知っていました。先生がキリンの首がなぜ長くなったのか教えてくれました。ピテカン・トロプス・エレニクスと言う名前も覚えています。ですから、24歳のとき職場の先輩が「神が人間を創った」と言ったときに反論しました。その後、神さまがこの世界を、そして、この私を造られたと分かってから、人生が変わりました。不思議なことに、生きることに目的が生じたからです。 

 

1.進化論の歴史 

 

進化論はどのようにして生まれたのでしょうか?近代科学は17世紀ヨーロッパで誕生しました。そして、近代科学誕生の思想的基盤はキリスト教でした。ちなみに、ニュートンはすばらしいクリスチャンです。この時代の科学者たちは、神の創造した自然界と秩序を見出そうとし、計り知れないほど大きな神の英知の一端を知ろうとしました。ところが19世紀になると、科学にも哲学にも大きな転回がやってきます。西洋のキリスト教的基盤が弱くなり、進化思想がそれにとってかわっていきます。ちょうどその頃、日本が明治の世になって開国し、西洋の科学的技術を輸入しはじめました。もともと進化論と呼ばれている理論は、生物の種類の多様性を説明する一仮説に過ぎません。ところがそれが発表されるやいなや、産業革命後の社会風潮と相まって、適者生存、弱肉強食と公式化され、個人間や国家間の競争を是認する社会思想として急速に広まって行きました。日本は開国後、殖産興業、富国強兵を国の柱にしていたので、進化論を科学的真理として喜んで受け入れました。学校では進化論が生物学の基盤となっていますが、本来は社会学的なものであり、科学ではありません。ダーウィンが発表した学説が世の中の風潮に合致したということが言えます。ナチスは、「適者生存」に関するダーウィン進化論に基づいた社会ダーウィン主義の見解を採用しました。そして、遺伝的に劣性と見なす身体障害者や精神障害者、常習犯罪者をガス室に送りました。ヒトラーはドイツ民族を世界で最も優秀な民族と捉え、それ以外の民族、ユダヤ人などを絶滅させようと企てました。これが悪名高き、悲惨なホロコーストです。

 

 これが、進化の大問題、新しい種の起源に対してダーウィンが与えた答えです。「自然界のいたるところで、また地球の歴史のあらゆる時点で、そこに生息している動植物は絶えざる生存競争に巻き込まれてきた。それぞれの世代ごとに、最適者だけが勝ちをおさめた。これら適者は、両親よりもどこかしら秀でていた。目が良かったり、より速く走れる長い足を持っていたり、突然の寒気にも耐えられる葉をもっていたりした。きわめて徐々にではあるが、これらの新しい特徴は次第に蓄積していき、その結果、やがて新しい種類の動物や植物が出現するようになった。これら新しい生物は、数百万年前の遠い祖先とは全く異なっていた。自然界の戦いから、飢えと死から、より高等な動物がやがて生じてくる。」彼がこの考えを発表するやいなや、当時の世界は狂気して受け入れました。ダーウィンはビーグル号に乗る前は、牧師になりたいと思っていました。ところが、ビーグル号の5年間が彼を変えてしまったのです。彼自身が突然変異したのです。

 

2.進化論のまちがい

 

 進化論の間違いを4つだけ取り上げて説明したいと思います。第一は進化論を証明する化石が発見されていないということです。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』にこのように書かれていました。ダーウィンは、何度も化石の記録に立ち戻って、自説を支持する証拠を探し求めました。彼は小さな単細胞生物から、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類と爬虫類という進化系列はつながっていると信じていました。つまり、魚類が両生類に、両生類が爬虫類に、爬虫類が鳥類に変わったということです。ダーウィンは、この過程は少しずつ進行したのだと確信していました。今日ほとんどの博物館や教科書は、自然淘汰と同様に、この漸進主義を無批判に受け入れています。となると理論的には、こうした着実な前進は化石の記録にも現れるはずです。ダーウィンの説が正しいとしたら、あるグループからより高次の複雑な体系を持つグループまで、徐々に変わる化石をすべて見ることができるはずです。世代ごとに生じる小規模な「改良」または「前進」も、種それ自体の進化と同様保存されているに違いありません。ところが、実際はそうではありません。種と種の間を埋める移行的な化石を見つけることができません。主要な動物グループの間をつなぐ化石をいくら探しても、そんなものはほとんど、あるいは全くと言っていいくらいに、存在しないのです。始祖鳥が化石として発見されたとき「これにまさる中間生物の例はない」と言われました。しかし、始祖鳥はその当時生息していた多くの奇妙な鳥の一種に過ぎないという可能が高まり、中間生物ではないと結論されました。

 

 進化論では、地層の一番下が単純な生物の化石、地層が上になって行き次第、複雑で高等な生物の化石が発見されるであろうと考えられてきました。なぜなら、進化が時間の経過によって、行なれたという前提があるからです。ところが、全世界の地層を見ても、彼らの考えた通りの順番に発見されていません。それが全く逆であったり、単純な生物も高等な生物も混ざり合っていること言うことが分かりました。シルビア・ベーカーという人は、全世界に及んだ大洪水説を唱えています。死んだ動物や魚はそのままでは化石にならないということです。なぜなら、他のものに食べられてしまうからです。化石を生ずるのに最も良く、可能性のある過程は、生物が死んだとき、または死の直後に突然堆積層の中に埋没することだということに大方の意見が一致しているそうです。化石化した魚が堆積岩の中に見出されますが、それらが腐肉を食う生物の攻撃を受けた兆候は何もなく、苦悶の状態で見出されています。また、恐竜の化石は猛威による突然の死であるかのような状態で発見されています。マンモスは温暖なところに住み、青草を食べていました。しかし、突如として大洪水に襲われ、凍結してしまったと考えられます。だから、胃の中にはキンポウゲなどの青草が見つかりました。石炭と石油は共に大量の生物の残骸であり、これも大洪水のゆえであろうということです。かつて「系統樹」なるものがあり、下等なものから高等なものに進化していく樹木の絵がありました。しかし、その化石が見つかっていないので、1950年代のものは樹木としての面影は残っているものの、「枝」はつながっていません。

 

第二は、生命が偶然に発生するということはありえないということです。進化の考えは、ダーウィンが始めたものではありません。それ以前にも、多くの科学者や哲学者が進化を信じており、古代ギリシャで最初起ったものです。ヒトは魚から進化したとか、動物は植物に由来していると主張する人もいました。紀元前400年、アリストレテスは自然発生説を提案しました。なぜなら、彼は泥の中から昆虫やハエが突然出現するのを見たからです。もし、昆虫が自然発生によって生ずるとしたら、他のすべての生物にも同じことが起こらない理由があるだろうかと言いました。長い間、自然発生説が受け入れられていましたが、19世紀にパスツールが自然発生説の誤りを証明しました。生命はどのように誕生したのでしょう。1950年二人の科学者(スタンリー・ミラーとハロルド・ユーレイ)がメタン、アンモニア、水素から成る混合気体、いわゆる原始のスープに雷を模した電気放電を当てたところ、アミノ酸などの有機体ができました。無機物から生物を創ったということで、世界中に報道されました。しかし、今では生命の発生の解釈としては、何の価値もないという結論に落ち着いています。

 

『進化論を斬る』という本で稲垣久和氏はこう言っています。ところでこのように原始地球上で、また分かっていない化学的メカニズムでアミノ酸が生じたとしても、生命の誕生にほど遠いのです。それを納得するために単純な確率の計算をしてみましょう。生物体の基本物質であるタンパク質は、アミノ酸という分子が鎖のようにつながった巨大分子です。アミノ酸は20種類ありますが、これがどういう順序でつながっているかが生物機能にとって本質的に重要です。そこで原始地球上で無秩序(ランダム)な化学反応の結果、アミノ酸の百個つらなった特定の小さなタンパク質分子ができる確率はいくらか?これは一列に百個並んだ座席を想定して、そこに人をひとりずつ座らせていきます。そうすると一番端には20通りの座り方、二番目も20通り、三番目も20通りという具合に20を百回掛けただけの並び方があることがわかります。計算すると、10130乗種類のものから一個を選び出す操作に等しいのです。今、地球の年齢の約45億年を秒に換算すると1017乗秒しかなりません。そこで一秒間に一種類の組み合わせを数えていったとしても、1017乗種類しか数え上げることができません。地球の年齢のかわりに宇宙の年齢150億年をとっても、1018乗秒以下ですから答えは同じです。このような簡単な確率の計算から明らかなように、無秩序とか偶然とかの考えの基礎にしてしまうと、特定の小さなタンパク質すら生じないのです。ましてやタンパク質やそれを同じような高分子である核酸が複雑に有機的に組み合わさった生命というものが、このような偶然によって生じるなどと主張することは科学ではなく、偶然の哲学、または進化主義とでも呼べる1つの哲学的立場の表明です。

 

イギリスの天文学者のフレッド・ホイルは、「もし細胞が偶然できるというのなら、『竜巻が鉄くず置き場の鉄くずを巻き上げて、竜巻が去ったら、偶然、ジャンボ・ジェット機ができていた』というようなものだ」と言っています。ジャンボ・ジェット機を作ったのは、竜巻ではなく、知恵のある人間です。そして、その知恵のある人間を創造されたお方がおいでになるのです。

 

 第三は、進化論は熱力学第二法則に反しているということです。ジェレミー・リフキン著『エントロピーの法則Ⅱ』という本があります。東京大学名誉教授で、『ニュートン』の編集長の竹内均氏が訳しています。第二法則を一言で言えば「覆水盆に返らず」という諺のとおり「エネルギーを使用すればするほど、そのエネルギーはより質の低いエネルギーへと変換されていき、ついには使用不可能になってしまうということです。つまり、物質は絶えず老化していくということであり、地球上では「エントロピーが増大している」ということになるのです。ダーゥインの進化論は、「最初の生命は偶然の化学変化によって生じたものであり、それが何代も積み重なって進化し、ついに最も複雑で興味深いもの―私たち人間が出現したのだ」と言います。進化という考えは、エントロピーの法則と真逆です。なぜなら、無秩序から秩序へとだんだん良くなると考えているからです。しかし、実際、この世界は秩序から無秩序へとエントロピーが増大していきます。新築の家でも50年もたつと、雨漏りがしたり、床が落ちたりします。新車でも10年も乗ると、エンジンや足回りにガタが来ます。しかし、実際に生物は、進化はしないけれど、生命を一生懸命に保っています。植物は太陽からエネルギーを取っています。動物は何かを食べて生き続けています。生物は機械と違い、自己復元能力を備えています。でも、進化ではなく、全体の形も各部分も、特長もそのままです。

 

『エントロピーの法則Ⅱ』の本に「遺伝子工学は『エントロピーの法則』にどこまで挑戦できるか」ということが書かれていました。日本政府と多くの大企業は、日本を工業化社会から脱皮させ、遺伝子工学社会に突入させようとしています。遺伝子工学によって、私たちは生物資源を合理的かつ効率よく、よりスピーディに産業利用できるようにしようとしています。ところがその場合、将来の生態系そのものへの悪影響が及ぶ可能性などは、ほとんど考慮されていません。1970年代のアメリカで、遺伝子操作でとうもろこしの改良を行い、「スーパー・コーン」の大豊作を試みました。ところが、新型の病気が流行したときに、スーパー・コーンは脆弱で、全然抵抗力のないことを農業関係者は思い知らされました。いわゆる欠陥遺伝子を全面的に排除してしまうと、短期間的には効率の高い種ができるが、長期的には種の生存能力が弱まるのです。要するに欠陥遺伝子を排除することは、種に死刑宣告を与えるに等しいのです。つまり、種の中から、環境の変化に合わせて順応するための遺伝子形質をはく奪してしまうからです。

 

 私は英知に富んだ創造主がこの世界、そして生物を創造したと堅く信じています。人間は無から有は創造できないのです。生物を造っている基本的要素である、遺伝子を壊したり、組み合わせたりすることは簡単です。でも、一度壊れてしまった遺伝子を再生することは不可能です。私も子どもの頃、だれかの腕時計をばらばらにしたことがあります。でも、それを元通りにすることはできませんでした。人間は様々なクローンを作っていますが、映画のようなバイオ・ハザードが起こるかもしれません。私たちは神よりいくらか劣るものとして造られましたが、決して、神ではありません。創造主が造られたものを正しく管理することが求められているのです。

 

 第四は、遺伝子は進化論に反対します。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』より。ダーウィンは「同種の異なる個体や別種の個体のある特徴が、ある時は遺伝し、ある時は遺伝しないのは何故なのか」分かりませんでした。彼の理論から行くと、より長い足、より優れた視力といった好ましい新特性は、その動物の子孫に次々に受け継がれなければなりません。ところが、実際は元の変質は混ぜ合わされてしまうのです。彼の死後、メンデルがエンドウのいろいろな品種を交配し、遺伝子のもとの考え方を発見しました。遺伝学は、生命そのもののしくみを記述する学問だと言われます。この学問は、人間は一つの種として、サルは別な種そして、そしてクラゲは全く異なる種そして、それぞれに存在していることの理由を説明してくれます。事実上すべての生物は、細胞からできています。各細胞の核の中には、動植物の種ごとに独特な情報の暗号である遺伝子がおさまっています。ここに遺伝の鍵があります。細胞は定期的に自身をつくりかえています。遺伝暗号は、そのたびことに同じものをつくりかえるにはどうするかを指令します。私たちは生まれながらにして持っている指紋を一生持ち続けたまま死にます。遺伝子が、生涯を通じて皮膚細胞の個々独特のパターンを保持させるからです。各細胞の性質と仕事を決定する遺伝暗号の実態は、化学物質DNA(デオキリシボ核酸)であり、二重らせんの形をしています。

 

 ダーウィンの追従者たちは、「突然変異こそが、進化になるのだ」と言いました。彼らに言わせると、偶然生じた有利な突然変異が、自然淘汰によって選択されることによって、新種が形成されると考えました。ダーウィンの時代以後も、植物や動物に交配と選択によって、品種改良を行ってきました。しかし、そうした場合でも、小麦はあくまでも小麦のままであって、グレープフルーツなどにはなりません。進化にこのような行き止まりが存在する理由は簡単に説明できます。要するに、各生物の遺伝システムには、独自の制約が組み込まれているのです。それぞれ動植物がその平均からあまりはずれないように、ストップがかかっていると思えば良いのです。最近の遺伝学の進歩によって、さらに分かってきました。人為的に作りだされたものは、繁殖能力や生存能力が劣るため、普通は死んでしまうか、すぐにもとにもどってしまうのです。

 

 昨年の528日、科学メディアPhys.org に「生物種の全面的な遺伝子調査により、生物進化の新しい側面が明らかに」という記事が掲載されていました。10万種以上の生物のDNAとアメリカ政府の遺伝子データーバンクにある500万以上のDNAの断片を徹底的に調査しました。そこから、現在地球にいる大半の生物(人間を含む)が地球上に登場したのは、10万年~20万年前の間だとわかりました。そして「中間種は存在しない」ということでした。これはつまり、この地球の生物の90%以上は「それ以前への遺伝子的なつながりがない」ということです。地球のほとんどの生命は20万年前以降に「この世に現れた」のです。現行の科学で言われている人類誕生までの歴史では、46億年前から始まり、35億年前くらいに最初の生命が誕生し、そこから徐々に進化してきたというものです。しかし、今回の大調査の結果わかることは、「徐々に」進化していないということなのです。…遺伝子は進化論を否定しているといことが科学でも証明されています。

 

3.創造論に立つ

 

 今日、子どもたちは学校でヒトは類人猿から進化したのが事実であり、歴史の授業で、ローマ帝国が存在したことが事実である、と教えるのと同じような確かさをもって、猿人が存在したと教えられています。事実、私たちの社会全体は進化論の観点に影響されています。つまり、「創造者はいない、ヒトは絶えず進化しつつあって、ヒトの悪い行為はヒトが過去に動物であった時の遺物に過ぎない」と言うのです。人が罪を犯すのは、進化の途中、進化が不十分なせいなのでしょうか?そうではありません。人間は創造主を離れ、堕落してしまったからです。生まれつきの人間は、創造主なる神を認めたくないのです。ダーウィンが「種の起源」を発表したときは、論争が嵐のように巻き起こりました。当時の著名な科学者の多くは、ダーウィンの学説に反対していました。しかし、それは産業革命後の社会にはうってつけの学説でした。「適者生存」が競争社会を正当化させました。また、科学の発展や遺伝子操作が人間に幸福をもたらすと考えました。そして、人間は「やっと神から自由になれた!」と喜んだのです。

 

 かなり前に稲垣久正氏が書かれた『進化論を斬る』という本を読んだことがあります。この方は、東京都立大卒の理学博士で、国際基督教大学の講師をなされ、専攻は理論物理学と教理生物学です。稲垣先生は科学的な面から、進化論が未だ証明されていない仮説であり、日本の富国強兵を正当化したとおっしゃっています。キリスト教会はどうでしょう?創造論を信じる人たちをキリスト教原理主義と馬鹿にしました。そして、教会は「有神論的進化論」という妥協案を考え出しました。神が進化によって人間を含む生物を創造したとする説です。この立場では、創世記の天地創造を寓意的に解釈します。そうなると、「神が天地を創造し、私たちを神のかたちに創造された」とはっきり言えなくなります。中間の化石がないこと、偶然による生命の発生がありえないこと、熱力学第二法則は進化と真逆であること、遺伝子は進化論に反対すると4つのポイントで申しあげました。学校では「進化論」を証明された事実のように教えているので、学力一辺倒の教育、おちこぼれ、弱い者いじめにつながっていると思います。教育の土台は創造者なる神を恐れることです。箴言17「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあるからです。進化論の「適者生存」は社会福祉と全く反する考え方です。なぜなら、子どもや老人、障害者は存在する価値がないからです。本当の社会福祉は神が人間を創造し、命を与えたゆえに、どんな人であっても生きる価値あるという考えが土台です。詩篇84-8「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」人間は自然の一部ではなく、自然をちゃんと治めるように神さまから造られた尊い存在です。もし偶然で人間が誕生したのなら人生に目的がありません。でも、創造主が人間を創られたのなら、人生に目的があります。

 

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2019年2月 8日 (金)

エペソ教会と日本 使徒19:1-6 亀有教会鈴木靖尋牧師 2019.2.10

 ここ2回にわたりサタンとか悪霊からの解放について学んできました。実はエペソの教会がそのことを体験した教会です。そして、そのことは日本の教会に対する模範にもなります。日本の教会は長い間、リバイバル(霊的復興)を望んでいますが、なかなかその兆しがありません。「神の時である」と言えばそれまでですが、いざリバイバルが起こる時はこのようになるということを知っておく必要があります。もちろん、近年、各国で起こっているリバイバルからも学ぶ必要があります。でも、私たちは聖書から根本的な要素を捉えておくということがとても重要です。

1.エペソ教会のはじまり

 聖霊が降ったペンテコステから20年以上たっていたと思われますが、エペソにはまだ、そのことが起こっていませんでした。アポロという有能な教師がエペソに来て、キリストの福音を宣べ伝え、そこに信仰者の群れができました。しかし、その信仰は不完全でした。アポロがコリントに行ってから、パウロが奥地を通ってエペソにやって来ました。そして、幾人かの弟子に出会って「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。そうすると、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと「ヨハネのバプテスマです」と答えました。そこで、パウロは「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言いました。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。ここには明らかに時間のズレがあります。時代遅れと申しましょうか、受けたのはヨハネのバプテスマであり、イエス様のそれではなかったということです。では、その両者は一体どこが違うのでしょうか?ヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」です。イエス様が来られる前、人々は罪を告白してヨルダン川でバプテスマを受けました。いわば罪の赦しのためのバプテスマです。しかし、ヨハネは「その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。そのことが、ペンテコステの日に成就しました。エペソの人たちは、その出来事を知らないで、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったのです。今度は、改めてイエス様の名前によるバプテスマを受けました。そうすると、彼らの中に聖霊が入り、彼らは霊的に新しく生まれ変わったのです。この経験は現代のクリスチャンが普通に体験することです。※バプテスマ=洗礼

 しかし、問題となる表現が、パウロの「信じたとき、聖霊を受けましたか?」という表現です。ペンテコステ派の人たちは、福音派の人たちに「あなたは聖霊を受けましたか?」と聞きます。すると、「もちろん受けていますよ?」と答えます。すると「いつですか?」と聞かれます。「はい、イエス様を信じた時ですよ」と答えます。すると「そんなことはないでしょう?では、その時、異言が出ましたか?」と聞かれます。「え?異言って何?」というと「じゃあ、あなたは聖霊を受けていませんよ」と言われます。何かここにちぐはくさが見られます。この「受ける」という表現が問題です。このことに関しては既に何度も話していますが、私たちは2重の意味で聖霊を受ける必要があります。第一は内側に受けるということです。このことは私たちがイエス様を信じるとき、聖霊が私たちの内側に入り、私たちは霊的に新しく生まれます。パウロはローマ8章で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ89と言っていますので、クリスチャンは例外なく聖霊を内側にいただいている、受けているということです。でもここで満足してはいけません。私たちは上からも受ける必要があるからです。残念ながら、ビリー・グラハムが書いた『聖霊』という本では、内側に受けることだけしか書かれていません。聖霊で満たされるとは内側から満たされることであると言っています。この考えは、ほとんどの福音派の教会に受け入れられています。だから、ペンテコステ派が言う「聖霊を受ける」という表現が全く理解できないのです。

 パウロはエペソの人たちに、もう1つの別のことをしています。使徒196「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」これが聖霊を上から受けるという、第二の恵みです。使徒の働き18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」とありますが、上からと書かれています。上はギリシャ語で「エピ」です。そして、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が「エピ」上から臨んだのです。ウィットネス・リーは「聖霊の二種類の満たし」ということを述べています。内側の満たしはギリシャ語で「プレロー」です。もう1つ「プレソー」というギリシャ語があり、それは「外側を満たす」という意味です。たとえば、バブテスマ槽は内側で水に満たされますが、だれかがバプテスマ用の水槽の中にバプテスマされる時、彼は内側ではなく、外側で水に満たされます。私は、外側で満たされる経験を聖霊のバプテスマと呼ぶべきではないかと思います。なぜなら、そのことこそ、イエス様が弟子たちに望んでおられたことだからです。イエス様はかつて「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ2449と言われました。そのことが、ペンテコステの日に成就したのです。ですから、エペソの人たちはパウロが手を置いて祈ってくれたので、聖霊が上から臨んで満たされたのです。その結果、異言や預言という聖霊の賜物が現れたのです。これがクリスチャンの標準であります。内側に聖霊をいただいて新生し、外側からも聖霊をいただいて力を受けるのです。聖霊のバプテスマは奉仕のための賜物と力を与えます。福音派の教会は聖霊が内に満たされ、キリスト品性、聖さが現れることを願い求めます。ガラテヤ書5章には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いてあります。しかし、私たちは同時に、奉仕のための賜物と力が必要です。Ⅰコリント12章には「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」とあり、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など9つの賜物が記されています。エペソの教会のはじまりは、キリストの御名によるバプテスマと、聖霊が上から臨む聖霊のバプテスマの2つがありました。私たちはこの2つの聖霊の経験を持つことを標準にしたいと思います。

2.エペソ教会の発展

 エペソ教会はどのように発展したのでしょうか?使徒198-12「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」パウロの伝道法はまず、ユダヤ人の会堂に入り、彼らに福音を語ることでした。その当時、ユダヤ人の会堂はいたるところにありました。かつてエルサレム神殿が破壊され、世界に散らされたことのなごりです。しかし、ユダヤ人はキリストの福音に反抗的であり、エペソにいたユダヤ人も全く同じでした。「この道をののしった」というのは、「キリストの福音をののしった」ということです。それで、パウロはしかたなく、異邦人に向けて福音を語りました。パウロたちは「毎日ツラノの講堂で論じた」とありますが、これはギリシャ人が自由に政治や哲学を論じることのできた講堂があったということです。「これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」とありますが、彼らがみんな信じたわけではないけれど、小アジアにすむ人たちみんなが、主のことばを聞いたということです。そして、パウロは福音を宣教しただけではなく、しるしと奇跡を行いました。かつてイエス様が弟子たちにお命じになられたように、病をいやし、悪霊を追い出しました。人々はパウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てました。すると、その病気は去り、悪霊は出て行ったということです。アーメン。リバイバルが起こるとこのようなことが普通に起こります。奇跡が日常茶飯事に起こったらすばらしいですね。

 でも、ある事件が起こりました。使徒1913節から16節にしるされています。エペソの魔術師たちが、人々が教会によって悪霊から解放されているという話を耳にして、確かめに行きました。彼らは、クリスチャンたちがイエスの御名によって癒しと解放を行っているのを、目の当たりにしました。そこで、エペソの町で著名な魔術師の幾人かが、イエスの名によって悪霊の追い出しをしてみました。「パウロの宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる!」。すると悪霊は、とりついた男性を通して答えました。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもお前たちは何者だ?」そして、悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、彼らを打ち負かしました。魔術師たちは裸にされ、傷を負ってその家から逃げて行きました。この出来事は、またたく間に町に広まったと書かれています。使徒1917「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」

 このところに私たちがこれまで学んできた、サタンと悪霊からの解放が記されています。チャック・ピアスが書いた『使徒的教会の台頭』にこのように書かれています。エペソは女神アルテミスの神殿があり、ローマ帝国における異教の中心地でした。それに加えて、魔術やオカルトの拠点としても知られていました。魔術というのは、手品のことではありません。魔女や魔術師、魔法や占いのことです。エペソは霊的に暗い場所でした。ローマ社会では、まじないや呪文、魔法の本は「エペソの書物」と呼ばれていました。エペソは、そのような評判を持つ町だったのです。古代社会では、確かに呪いをかけたり、悪霊をはらいたいとき、エペソの魔術師なら願いを叶えてくれるという望みを持って、人々はエペソに行きました。エペソは、教会開拓者にとっては屈辱的な場所だったに違いありません。繁栄し、巨大で誇り高く、オカルトや異端が支配的な町だったからです。しかし、その霊的に暗いエペソの町に、神は光を灯し、地域全体を照らしました。事実、エペソは、もっとも重要な使徒的センターでした。「アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主の言葉を聞いた」のです。黙示録1章から3章には、小アジアの7つの教会が列挙されていますが。それらの教会は、恐らくこの二年間にエペソから遣わされた複数の使徒チームによって開拓されたのです。アーメン。

 私は、エペソは霊的な意味で日本に似ているのではないかと思います。日本人は教育があり文化的な生活をしています。しかし、首相をはじめ大臣たちのほとんどは神道系の宗教団体に属しています。政治や企業のトップが占いや霊能者のお告げで方針を決めているそうです。日本では毎朝テレビで「きょうの占い」が放映されています。ゲームや漫画には魔術やオカルト、ニューエイジがからんでいます。日本は偶像崇拝の国であり、人はもちろん、山や動物、なんでも神さまにして、拝んでいます。神仏に手を合わせることが、信心深くて良いことになっています。このような日本に、「天地を造られた神はおひとりしかいない。救いに至る道はキリストしかない」と言うなら、「なんと狭い宗教なんだ」と排斥されるでしょう。しかし、エペソでパウロたちは何をしたのでしょう?なんと、偶像の神ではなく、生きているまことの神さまをデモンストレーションしました。パウロは主のみことばだけを伝えたのではありません。病人をいやし、悪霊を追い出しました。さまざまな奇跡やしるしが起こり、人々は、「自分たちは間違った神を拝んでいた」と告白しました。それだけではありません。魔術の本をかかえて来て、みんなの前で焼き捨てました。その金額は銀貨5万枚ですが、5万デナリで現在の5億円です。彼らは悪霊と関係を断ち切ったのです。日本にもこのような劇的な回心が必要です。なぜ、日本のクリスチャンはなまぬるいのでしょうか?それは偶像礼拝や過去の罪を断ち切らないために、悪霊がどこかに住んでいるからです。人格の一部を、心のどこかの部屋を、思いを支配されているからです。私たちは本物のクリスチャンになるために、偶像礼拝を悔い改め、悪しき霊からの解放が必要です。

3.エペソ教会の危機

 使徒1920「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」とハピーエンドで終われば良いのですが、そうではありませんでした。前にも申しましたが、エペソは女神アルテミス(ダイアナ)を祀っている神殿がありました。この神殿はアテネのパルテノン神殿の三倍の大きさがありました。この神殿を見るためだけに、ローマ帝国から人々がやってきました。この期間にエペソ教会が急成長したために、町の経済が荒廃しました。エペソの主要産業の一つは、女神アルテミス像の制作でした。パウロの二年間に及ぶ伝道の終わり頃には、多くの人が主を信じるようになり、偶像を買う人がいなくなりました。偶像職人たちは、文字通り町中で騒動を起こし、自分たちの商いを守ろうとしました。使徒1926「ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。私はエペソの背後にいる悪霊が巻き返しを図ろうと、群衆を扇動しているとしか思えません。「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と二時間ばかり叫び続けた」(使徒1934)とあるからです。しかし、幸いなことに町の書記役が出て来て、騒動が納まりました。個人の救いだけではなく、社会のしくみが変わる、トランスフォーメン(変革)がリバイバルのゴールです。

 キリスト教会史において、エペソのようなリバイバルが各国で起こりました。しかし、ジョンウェスレーのリバイバルが30年間で最も長く、世界のリバイバルの平均寿命は3年から5年、長くて10年です。なぜ、リバイバルが急速に衰え、その火が消えてしまうのでしょうか?その最大の原因は教会に対する迫害よりも、同じ教会からの非難や中傷であります。今から25年くらい前、カナダのトロントでリバイバルが起きました。その名前は「トロント・ブレッシング」と呼ばれています。リバイバルはトロント・エアポートチャーチで始まりました。ジョン・アーノットが主任牧師です。そこへ4日間の約束でイリノイ州の小さな教会からランディ・クラーク師が招かれました。そこに聖霊の火が下り、集会は40日間に及びました。癒しや奇跡がどんどん起こりました。人々は床に転げ、笑いながら、転げながら、泣き続けていました。ものすごい聖霊の油注ぎがあり、世界から100万人くらいが聖霊の力をいただきに訪れたと言われています。ところが、ミニストリーを受ける人たちの中に、笑い転げ、動物の声で叫んだり、動物のように床を這うような人たちも現れてきました。トロント教会は「それはホーリィ・ラーフィングであり、解放と癒しが起こっている証拠だ」と言いました。ところが、ヴィンヤード・チャーチの指導者たちは、「ヒステリックで霊的に危険である」と批判しました。その結果、トロント・エアポートチャーチはその群れから追い出されてしまいました。

 エディ・レオ師は「リバイバルは神さまの一方的な恵みであるが、リバイバルを継続させるのは私たちの責任である」と言いました。リバイバル、それは聖霊の圧倒的な現れです。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオス(混沌)も一緒に訪れます。神学的におかしなことも起こり、あきらかに行き過ぎだと思えることも起こります。教会にはブルドックのように、伝統や教義を守る番人がいるものです。特に、その教会が大きな教団に属していると、やり玉にあがります。どんな立派な人でも、神さまに用いられている人に対しては、ねたみ心が起こります。そして、小さな問題を、主要な出来事として批判するのです。「あれは聖霊ではなく、悪魔がやっていることだ」と言うのです。福音書にありますが、イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出したことがありました。パリサイ人は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と批判しました。イエス様は「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、御霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタイ1232と言われました。混乱を避けたい、善良な人たちによって、聖霊の火が消されてしまうのです。

 ビル・ジョンソン師は『天が地に侵入する時』という本でこのように警告しています。行きすぎた行為を恐れるために、多くの人はどっちつかずの中間さをバランスが取れた考え方のように採用しています。そのような恐れは、自己満足することを徳とします。行き過ぎた行為に対する恐れは、変化に反対する人々を高潔な心を持った者のように見せてきたのです。しかし、行き過ぎた行為がリバイバルを終わらせた訳では決してありません。ウィリアム・デ・アルディガは、「偉大なリバイバルは、極端な人々の故に終結したのではない。それは、反対者たちの糾弾によったのです。分裂は、霊的なことを計る物差しとして、知性に最高の価値を与える時にはいつでも起こることだ。分裂は、多くの人が非難するように、聖霊の賜物が用いられたことによるのではない」と言っています。…私たちの完璧さに対する脅迫観念が、リスクを冒すための余地を消し去ってはなりません。完全さということに関して付け加えて言うなら、それは宗教の霊に余地を与えることです。一歩踏み出して神に用いられることを拒む人は、それを行う人を非難する側に回ります。危険を冒す者は、神の心を興奮させると同時に、危険を冒すことのない、決して失敗しない人々からの攻撃の対象となるのです。

 教会の多くは、聖霊の偉大なリバイバルを求めています。しかし、自分たちの神学や考えに合わないと、「もう結構です」と拒否してしまいます。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオスも一緒に訪れます。「肉は食べて、骨は口から出す」ということわざがあります。現象を見てさばくのではなく、聖霊様がなさっている癒しや解放、救いを見るべきです。日本の教会はあまりにも知的で神学的です。人間の小さな頭で、どうして聖霊の偉大なリバイバルを把握できるでしょう。あえてリスクを冒すような冒険心、聖霊様にどこまでも期待する飢え渇きが必要です。日本にもエペソ教会に起ったようなことが起りますように願いたいと思います。

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2019年2月 2日 (土)

霊的解放 ルカ11:24-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.2.3

 私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。まず、このことを知ってから、悪しき霊からの解放について学ぶことができます。きょうは悪霊によって支配されている程度の重いものから順番で学びます。第一はとりつかれる。第二は場所を与える。第三は思いです。

1.とりつかれる

 「クリスチャンは、悪霊にとりつかれることがあるのか?」という疑問があると思います。答えはそうでもあり、そうでもないということです。そもそも、「とりつかれる」とはどういう意味でしょう?マルコ4章にゲラサ人の地にいた人のことが書かれています。彼は汚れた霊につかれた人であり墓場に住んでいました。彼はたびたび足かせや鎖につながれても、鎖を引きちぎり、足かせも砕いて、だれも彼を押さえるだけの力がありませんでした。彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。イエス様が「お前の名は何か?」とお尋ねになると「私の名はレギオンです」と答えました。「レギオン」はローマの軍隊では、6,000人の兵士の単位です。イエス様は本人に名前を尋ねたのですが、内側にいた悪霊が答えたのです。英語の聖書では、マルコ515「とりつかれる」possessed withとなっており、「所有されている」という意味です。彼は人格まで支配されていたのですから、よっぽど重症の人でした。また、ルカ13章には「18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女性」のことが記されています。英語の聖書は「持っている」と書かれています。彼女は病をもたらす悪霊を内側に持っていたということです。それで体を伸ばすことができなかったのです。

 ルカ福音書の11章の物語は、一見、たとえ話のようでありますが、霊的な事実を私たちに教えています。家というのは私たちの肉体のことです。このお話しの前で、イエス様は口をきけなくする悪霊を追い出しています。その後、イエス様は強い人が十分に武装して自分の家を守っているというたとえ話をしています。イエス様はより強い者であり、彼の武装を解除して、分捕りものを分けます。それはサタンに捕えられていた人を解放するという意味です。その後、家から出ていた悪霊の話をしています。この話をしている対象はイエス様に悪口を言った宗教家であろうと思います。彼らは聖くなろうと悔い改めをしていたに違いありません。でも、家の中は空っぽで掃除がしてありました。すると、一度出て行った悪霊が、他の霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつきました。それでその人は前よりももっと悪くなったということです。それがイエス様を批判した宗教家たちのことを指しているのは間違いありません。この地上は真空を嫌います。彼の家は空っぽだったので、悪霊が入り込んできたのです。最良の道は、イエス様を家の主人にお招きすることです。もし、家がイエス・キリストのものになっていたなら、イエス様が「何しに来たんだ。勝手に入るな。これは私の家だ」と悪霊の侵入を許さないでしょう。

 クリスチャンも、悪霊にとりつかれることがあるのでしょうか?多くの場合、クリスチャンになる前のことが原因になっています。イエス様を主と告白して、洗礼を受ける時、多くの霊的なものが排除されると信じます。でも、ある悪霊は、その人の中に居続けることが可能です。その一番の原因は、未信者の時に行っていた偶像礼拝です。クリスチャンになってから、偶像礼拝する人はいないでしょう。悪霊に入られたのは、クリスチャンになる前です。日本の家々には仏壇があり、先祖崇拝をします。新年は神社に行って参拝し、厄年などは御払いに行くかもしれません。当教会には、神輿を先頭で担いでいたという姉妹もいます。占いや呪文、魔術にはまった人もいるでしょう。また、七五三などでは、両親が子どもを神社に行って「守って下さい」と拝みます。もし、そこに悪霊がいたなら、悪霊と契約を結ぶことになり「よし、わかった。一生面倒見てやる」と言うでしょう。本人ではなく、両親が結んだ契約ですが、生きている間、有効になっている場合があります。そういう場合には、悔い改めて、主イエスの名前によって契約を打ち破る必要があるでしょう。また、偶像崇拝や占いをした罪を悔い改める必要があります。今から20年前に「解放のキャンプ」というのがインドネシアから入りました。私はインドネシアでその現場を直接見ました。200人のキャンパーが洗礼を受ける前に、解放のミニストリーを受けていました。メッセージの後、100人位が前に出て、もだえ苦しみながら解放を受けていました。中心的な原因は偶像礼拝と性的な罪からくる束縛でした。解放を受けてから、イエスを主と告白し、プールで洗礼を受けていました。

 最近、日本の教会ではそのような「解放のキャンプ」をしなくなりました。インドネシアなどは、霊的な解放に対してとてもオープンです。罪を告白し、赦しと解放を受ける教会の文化ができています。しかし、日本は「あの人、悪霊につかれていたの?怖い!」とか言われて、特別扱いされる恐れがあります。しかし、クリスチャンになる前の私たちは悪霊にやられていることは間違いありません。それを解放のキャンプのように集中して行うか、毎週の礼拝などで、少しずつ解放されていくかどちらかです。牛久の大喜多牧師は大学生のとき、イエス様を信じました。泊りがけの修養会に青年たちと参加しました。大喜多青年は、布団に寝ながら、牧師の悪口をさんざん言っていました。隣に寝ていた先輩ががばっと起きて、大喜多青年の頭に手を置いて、「悪霊を出て行け!」と祈ってくれました。大喜多青年から黒い煙のものが「ばーっ」と出て行ったそうです。次の朝、彼はすっきりして、何で自分が牧師のことを批判していたのか分からなかったそうです。牧師に対して、無性に逆らいたい気持ちのある人は怪しいです。イエス様を礼拝しようとすると混乱があり、集中できないというのも悪霊が原因している可能性があります。私も教会に来たての頃は10分位、集中的なくて、後半からやっとメッセージが入りました。色々原因があると思いますが、これまで偶像礼拝や占いをしたことのある人は、その名前を上げて、悔い改め、主イエスの名前によって関係を断ち切りましょう。自分で自信のない人は、信頼のおける人から断ち切りの祈りをしてもらったらとても効果があります。

2.場所を与える 

 

 エペソ426,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ここで言われている「機会」は、ギリシャ語でトポスです。トポスは「滞在や居住のための場所や部屋」という意味があります。文脈から考えると、怒ること自体は罪ではありませんが、そのまま放置すると、そこに悪魔が場所を設けて、その人を支配することになります。日が暮れるというのは、次の日まで持ち越すということです。すると、心の中に怒りが留まり、悪魔が悪さをする場所を設けるということです。怒りだけではなく、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷など…そういうものが悪霊の餌になります。たとえば、生ごみをそこに放置したらどうなるでしょう。カラスやネズミが集まって来るでしょう。あなたは、いつもやって来るカラスやネズミを追い出すべきでしょうか?それとも生ごみを片付けたら良いでしょうか?もちろん後者でしょう。生ごみにあたるのが、怒り、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷などであります。処理されていない罪や心の傷があるので、悪霊がやってくるのです。そのために、まず罪を告白し、赦しと癒しを受けるべきです。その後、場所を設けていた悪霊は簡単に出て行くでしょう。

2001年、蒲郡の石原牧師が『解放のミニストリー』という本を書きました。そこには「足場」あるいは「要塞」と書かれていました。その本から少し引用いたします。「私たちはキリストの贖いをとおして、神によって無条件の罪の赦しを受けていますが、実生活の中で、悪魔は私たちの過去に行ってきたすべての罪の行動を見てきたので、その罪を持ち出して訴えます。それはちょうど敵のために用意された要塞のようであり、建築中の足場のようです。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をするのです。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちとの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分自身のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできる限り、取り外す必要があります。その方法は、告白という武器を用い、キリストの御名の権威を用いて、悪霊とのかかわりを断ち切って行くことです。」アーメン。私も蒲郡や他の場所で開かれた、解放のキャンプに参加したことがあります。しかし、最後に石原牧師が「共依存」や「ひきこもり」の方にウェートが行きました。確かに、日本人にはそのような傾向や必要性はあると思います。しかし、教会を離れてミニストリーをするようになってから、バランスに欠けるようなところが見えてきたように思えます。

 ニール・アンダーソン師は「赦さない罪こそが最も、その人を束縛する場所になる」と言っています。私たちクリスチャンは「人がした悪を赦さなければならない」ということを頭では理解しています。「主の祈り」でも毎週、その箇所を賛美しています。しかし、賛美しながら「そのことは別だよ」と、スルーしているのではないでしょうか?私たちは人を赦す前に、「赦しとは何でないのか」、「赦しとは何なのか」を正しく知る必要があります。第一に赦しとは、罪をがまんする、罪を大目に見るということではありません。神さまは罪に対して、刑罰というかたちで取り扱います。大事なのは私たちが自分で復讐するのではなく、神さまにお任せするということです。ローマ1219「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」つまり、自分が復讐する権威を神さまの前に放棄するということです。第二に赦しとは、相手が罪を認めて謝ったなら赦してあげるということでもありません。もちろん、そのような和解が来たら一番幸せですが、その日がいつ来るかわかりません。もしかしたら、一生来ないかもしれません。今も、その人は自分が犯した罪を忘れて、涼しい顔をしているかもしれません。相手のことを関係なく、こちらが赦すということです。第三は、自分の中に赦す気持ちが起きたら、赦すというものがあります。これが最も厄介であります。なぜなら、赦すのは意志の問題であり、感情ではないからです。感情がそのように望んでいなくても、神さまのご命令ですから「赦します」ということが重要です。第四、赦しとはその人の罪を忘れることではありません。赦す行為は必要ですが、忘れることは自分の記憶の問題ですから、意思とは関係ありません。私たちは過去のことを思い出すことがあります。その度に、神さま「私は既に赦しています」と委ねるべきなのです。そうしていくうちに思い出す回数が少なくなっていくでしょう。

ニール・アンダーソン師は、赦しとは何なのかこのように教えています。罪が犯されたときには、加害者と被害者がいます。そして、この罪によって二人の間に、鎖が出来てしまいます。加害者があなたに悪いことをしました。あなたを言葉で傷つけたり、あなたの権利を奪ったり、あなたをだましました。あなたの腕には傷があり、加害者に対するうらみがあります。それが目に見えない鎖になっています。鎖の反対側はあなたを傷つけた加害者にあります。鎖の先が首輪のようにその人にはまっています。距離的に離れていても、その人とは鎖でつながっています。二人の間には霊的なそして情緒的なつながりがあります。ですから、赦しというものは意志によって、選択すべきこと(選び取るもの)です。赦しとは、被害者と加害者との問題というよりも、むしろ被害者と神さまとの問題なのです。たいてい加害者は被害者の痛みなど全く知らないで、のほほんと暮らしています。被害者の苦々しい思いや恨みは加害者にどういうダメージをもたらすでしょうか?もたらしません。あなたを苦しめ、あなた自身に毒を飲ませているのです。霊的に、情緒的に、そして肉体的なダメージを与えてしまいます。ある医者さんは「怒りをどういうふうに処理したら良いか、ちゃんと教えることさえできたら、患者の80%ほど退院させることができる」と言っていました。神さまとの関係において、赦そうと決めるのです。その人にかぶせていた非難と憎しみを取り去って、神さまの御手におゆだねします。思いの中で、相手の罪の首輪をはずしてあげます。そうすると、被害者であるあなたの腕から鎖がはずれてあなたは自由になります。その結果、あなたを縛っていた悪霊が足場をなくすので、もう去るしかありません。

3.思い

Ⅱコリント103-,5「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる」。このみことばこそが勝利の秘訣です。私はパソコンを使っていますが、パソコンの中にウィルスを駆除するソフトが入っています。インターネットやメール、だれかのUSBからウィルスが入ります。感染すると自分のパソコンがダメになるだけではなく、だれか他の人にも害を与えてしまいます。ウィルスは1つのソフトみたいで、それを開くと、独自の働きをするようにプログラムされています。私たちの思いも同じで、だれかによってマインド・コントロールされることがあります。そうすると自分の意思や考えではなく、勝手に動いてしまうのです。「思い」は英語でマインドですが、思考、知性、頭、心のことです。私たちはすでに人間の魂の構造について学びましたので、省略します。結論から言うと、私たちの思いはたえず悪霊の攻撃にさらされています。言い換えると、私たちの思いは戦いの場であるということです。戦いは会議室ではなく、頭の中で起っているのです。悪魔は汚れた思い、疑い、恐れ、違った教え、惑わし、失望落胆、邪悪な思いを雨あられのように、私たちの思いにぶちまけています。私たちはこれを自分の思いのように錯覚して、「なんて私は汚れているんだ」、「なんて私は不信仰なのだ」と自分でがっかりします。悪魔が、あなたの思いを支配したら、あなたをほとんど支配したことになります。なぜなら、人間は神に近い知的な生き物だからです。

ジョイス・マイヤーという人が『思考という戦場』という本を書いています。そこに「メアリーの物語」が書いてありました。メアリーと夫のジョンの結婚生活はうまくいっていません。二人の間には、絶えず争いがあります。二人とも怒りっぽく、互いに相手に対して苦々しい気持ちを抱き、恨み辛みの思いが相当たまっています。二人の子どもも、家庭内のごたごたから、間違いなく何らかの影響を受けています。メアリーの問題は、夫のジョンを家長の座に座らせることができないということです。つまり、彼女は何でも自分で仕切りたいのです。家計についても、子どもの教育についても、すべて自分で決めたいと思っているのです。また、自分が自由に使える「自分だけの」お金を持つために、外で働くことを考えています。つまり、彼女はだれにも頼ろうとせず、何かといちゃもんをつけるうるさ型で、人に対する要求も高く、いつもがみがみ言うタイプなのです。メアリーの思考には要塞が築かれていました。その要塞は、もう何年ものあいだずっとそこに居座っています。どうやってその要塞が築かれたのか、本人でさえわかりません。反抗的になったり、ガミガミ小言を言ったり、高圧的で高飛車な態度は良くないとわかっていても、どうすれば自分を変えることができるのか全く分からないのです。ある状況になると、どうしても自分を抑えられなくなり、衝動的に醜態をさらしてしまうからです。メアリーが自分の行動を律することができないのは、自分の思考を制することができないからです。なぜ、自分の思考を制することができないかというと、幼い頃、悪魔が彼女の思考の中に要塞を築き上げたからです。

サタンは、彼女がまだ幼いときに、周到に練り上げた計画を実行に移し、巧妙に仕組まれたうそ偽りという種を蒔き始めました。つまり、メアリーが今悩んでいる問題の原因は、彼女の子ども時代にまでさかのぼることができました。メアリーの父親は非常に支配的な性格で、自分の機嫌が悪いと言うだけで彼女をぶつことも多々ありました。もし少しでもおかしなことをいうものなら、ありったけの怒りを彼女にぶちまけたのでした。何年ものあいだ彼女は、自分と母親に対する父親の傍若無人な態度に、絶望的な思いで悩み続けてきました。父親は、娘や妻の人格を否定し、人を食ったような態度を取り続けたに対し、兄に対しては接し方が全く異なりました。まるで、男の子であるというだけで、えこひいきしているかのような有様でした。16歳になる頃までには、メアリーはサタンが何度も繰り返し囁いたうそ偽りにすっかり洗脳されてしまいました。「男なんて威張っているだけよ。みんな同じ。信用してはだめ。結局はあなたを傷つけ、あなたを利用するだけだから。あなたが男だったらうまくいったのにね。好きな事をやりたい放題できたのに。人に命令し、威張り散らし、自分の思い通りに人を操り、だれも(特に、妻や娘たちは)何も言えなくて、ただ言いなりになるだけなのにね」。その結果、メアリーは「大きくなって家を出たら、二度と人に振り回される人生は送らないわ!」と心(マインド)に堅く誓ったのでした。サタンは、メアリーがまだ幼い時から、彼女の思いに戦いを仕掛けてきたのです。そんな状態で成長し、いざ結婚して、従順でかわいらしく、性格の良い妻になれるでしょうか?メアリーと同じような問題を抱えている人たちは、これから先どうすれば問題を解決できるでしょうか?

イエス様はこのように言われました。ヨハネ831,32「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」このところでイエス様は、どのようにしてサタンの偽りに勝つか伝授しておられます。それは、神の真理を知り、それを自分のものにし、みことばによって思考を一新することによります。そして、最初引用したⅡコリント104,5節を武器にして、敵の築いた要塞を打ち壊し、神の知識に逆らうあらゆる高慢と高ぶりを打ち砕くのです。ここで言う「武器」とは、教会での説教や聖書の教えを通して、あるいはキリスト教書籍やテープ、個人的なディボーションの中で受け取ったみことばです。しかし、ただ受け取るだけではなく、御霊の啓示により自分にとっての真理になるまで、みことばにとどまらなければなりません。そうです。継続は力なりです。私たちは耳にする真理に対して、どれだけ考えたか、あるいは学んだかによって、私たちのもとに帰ってくる量が決まるのです。私たちはみことばの武器を絶えず使い続けることが重要なのです。思いにおける悪しき霊との戦いは、いわば真理の戦いです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」アーメン。

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2019年1月25日 (金)

神の敵を知る エペソ6:12-17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.27

 サタンとは元来、「敵対者」という意味です。サタンは神に敵対し、神の子どもである私たちをできるだけ神さまから離そうと、今も働いています。また、サタンは新約聖書においては「悪魔」とか「誘惑者」と呼ばれています。イエス様や弟子たちを絶えず誘惑しました。エペソ6章で、パウロは「悪魔の策略に対抗するために神の武具を身につけよ」と言っています。私たちはある意味では、霊的戦いの渦中にあるということです。何でも悪魔や悪霊のせいにしてはいけませんが、私たちの周りには見えない敵、見えない誘惑者がいるということを知る必要があります。

1.サタンの経歴

 聖書にはサタンの経歴careerについて明確に述べていません。それでも、私たちはある程度、彼のことを知ることができます。イザヤ書14章にはバビロンの滅びが預言されていますが、これがサタンの堕落を暗示しています。イザヤ1412-15「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」彼はおそらく天使長の一人で、賛美を司っていたのではないかと思われます。ところが「神の星々のはるか上に私の王座を上げ、…いと高き方のようになろう」と心の中で高ぶりました。星々というのは天使たちのことであり、彼らの上に王座を上げ、神のようになろうとしました。つまり、サタンは高慢になったために、よみに落とされたということです。でも、サタンは一人で反逆したのではありません。黙示録124「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた」とありますので、天使の三分の一がサタンと一緒に落とされたのでしょう。彼らが今日、悪霊と呼ばれています。多くの人たちは、サタンは醜い顔をしていると思っています。しかし、そうではありません。エゼキエル2812,13「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。」と書かれています。エゼキエル28:17「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」サタンはあまりにも美しく、知恵がありました。そのために高ぶって堕落したのです。箴言1618「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」と書かれていますが、私たちも気を付けなければならないことです。

 その後、サタンはどうなったのでしょうか?創世記3章には蛇に化けたサタンが登場します。ということは、人間が造られる前に、どこかにいたということです。創世記12節は神学者の間でも物議をかもす箇所であります。1節では「初めに、神が天と地を創造した」と書かれています。ところが、2節になると「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり」と書かれています。ウィットネス・リーは1節と2節の間に膨大な時間があり、このときサタンが堕落し、2節は再創造であろうと言います。ジョン・ミルトンは『失楽園』という本の中で、サタンは「宇宙の反対側へはるばると吹き飛ばされ、荒涼たる辺境(リンボ)に結局到達する」(P.114)と書いています。本来この地上は人間のために造られました。ところが、アダムとエバが堕落したために、その支配権を失いました。サタンはそれを横取りして、「この世の君」となったのです。エペソ2章を見ると、彼は「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれています。そのため、生まれつきの人間はサタンの支配下におかれ、暗闇の王国の中にいるのです。人間はもはや自由ではなく、罪過と罪の奴隷なのです。イエス様はルカ11章で「しかし、もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」と言われました。私たちはかつてサタンの持ち物でした。しかし、イエス様は私たちを解放するために来られたのです。

 ヨブ記を見ると分かりますが、旧約時代、サタンは神さまの前に行くことができたようです。ヨブ1:6,7「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』」とあります。サタンは「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」と言いました。それを神さまが許したので、ヨブはすべてのものをなくしました。それでも、ヨブは神さまをのろいませんでした。黙示録を見るとさらに分かります。黙示録1210「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」とあります。サタン、あるいは悪魔は、「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。サタンの武器は私たちの罪を神の前で訴えることです。神さまは義なるお方ですから、その罪をさばかない訳にはいきません。でも、聖書の最後の書物を見て分かりますが、サタンはもう神さまのところへは行けなくなりました。なぜなら、イエス・キリストがすべての罪を贖ってくださったからです。おそらく、サタンは、キリストが十字架で死んだとき喜んだでしょう。「キリストは死んだ。これからは俺のやりたい放題だ!」と思ったに違いありません。サタンは知りませんでしたが、十字架こそがサタンの武具を奪うことになるのです。つまり、キリストがご自身の血を流し、すべての罪を贖いました。神さまはキリストの贖いをご覧になって、ご自身の義が満たされました。もう、人類を罪によってはさばかないとお決めになられました。だから、もうサタンは兄弟たちの罪を神さまのところに持って行けなくなったのです。サタンの最後はどうなるのでしょうか?黙示録207「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、…」黙示録2010「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」最後は、サタンと悪霊どもは、永遠の火の池に投げ込まれます。サタンは最後に完全に滅ぼされるのです。でも、サタンは自分だけで滅びたいのではなく、一人でも多くの人間を巻き添えにしたいのです。これがサタンの経歴careerです。

2.悪魔の策略

 サタンは完全にいなくなったわけではありません。もしそうであれば、何も問題なく信仰生活を謳歌できるでしょう。しかし、私たちはサタンの経歴の最後のところで生活しています。エペソ21,2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」サタンは「空中の権威を持つ支配者」として今も不従順の子らの中に働いています。サタンは神を信じていない人たち、つまり、自分の罪過と罪との中に死んでいる者たちを所有しています。「イエス・キリストが十字架ですべての代価を払ったにも関わらず」です。ギリシャ時代は、奴隷が市場で売買されていました。自由人は奴隷の品定めをして、「これを買う」とバイヤーに告げます。そうすると、その奴隷が入った鉄格子の上に「売約済み」という札が貼られます。その奴隷の所有者が代わったわけです。イエス様が十字架で死なれる直前、「完了した」と叫ばれました。これはギリシャの商業用語で、テテレスタイと言います。テテレスタイとは「一度で全部を支払った」という意味であり、まさしく「売約済み」です。十字架以降に生まれた人たちは、「売約済み」という札のかかった鉄格子の中に入っています。もう、鍵はかかっていません。「ああ、そうですか」と出てこれば、その人の贖いが完了します。しかし、サタンは「そんなのウソだ。ここが一番、幸せなんだ。」と嘘をついて捕えたままにしています。

 私たちがすべき宣教は、キリストが成し遂げられたことを知らせることです。福音宣教こそが私たちが悪魔との戦いで、もっともなすべき優先順位だということです。でも、悪魔は指を加えて、見ているのではありません。Ⅱコリント44「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」「思い」というのは、mindであり、知性とか考えであります。人間の知性を支配できたら、その人全部を支配できます。悪魔は間違った情報を、私たちの思いにばらまいていると言うことです。特に「キリストの栄光にかかわる福音」です。人々は「キリスト」と聞いただけでむっとします。そして、「宗教なんか必要ない」と言うでしょう。そう言われると、こちらはひるんでしまいます。何故、人々は宗教が嫌いなんでしょう?それはこれまでさんざん偽物を掴まされてきたからです。でも、偽物が多いからと言って本物がないということではありません。たとえば、一万円の偽札があるとします。でも、人々はそんなの気にしないで一万円札を使っています。何故でしょう?偽物もあるけど、本物もあると信じているからです。ところで偽札を作る人は、千円札を作りません。なぜなら、コストが高くて元を取れないからです。では、百万円札だったらどうでしょう?それだったら、明らかに偽札とばれます。だから、紙幣で一番高価な一万円札の偽札を作るのです。同じように、キリスト教の偽物が多いのはそのためです。明治以降、日本にたくさんの新興宗教ができました。そのほとんどが、聖書の良い教えを集めたものです。たった1つないのが、罪を贖われたキリストのことです。この世の宗教には罪の贖いがありません。なぜなら、それを信じたら本当に救われてしまうからです。

 ロイド・ジョーンズという人が『キリスト者の戦い』という本を書いています。彼は有名なイギリスの説教家でその説教集の1部です。ロイド・ジョーンズは、悪魔は人間の知性を攻撃すると述べています。なぜなら、知性こそが人間の最高の賜物だからです。悪魔が人間の思いをくらませるとありますが、彼は6つ取り上げています。第一は、悪魔は疑いを巧みに入り込ませるという方法を最初に取りました。彼はエバのところに来て「神は本当に言われたのですか」と言いました。ペテロはイエス様が死んでよみがえるとおっしゃったとき、「主よ。そんなことがあなたに起るはずはありません」と言いました。主は「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。サタンはペテロの思いの中に疑いを入り込ませていたのです。第二は恐れの霊をもって私たちを圧倒し、キリストを否認しようとさせます。ペテロは、少し前は、大胆で自信にあふれていました。ところがイエス様が捕えられたとき、三度も知らないと呪って主を否みました。第三は、間違った教えを吹き込むということです。Ⅰテモテ41「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」第四は、悪しき思いを頭にばらまくということです。しかし、悪しき思いに誘惑されるからと言って、自分はクリスチャンではないと結論してはいけません。それこそ悪魔の思うつぼです。第五は、失望落胆です。それは悪魔の働きを最も顕著に示すものであり、クリスチャンにも未信者に対してもこの方法を用います。過度に自分自身に集中させ、してはならないことをしてしまった過去にこだわらせます。第六は、自尊心です。悪魔の常套手段は落胆ばかりでありません。正反対のことを行うことができます。それは自尊心を助長させるとことです。ダビデは「イスラエルの人口を数えよ」というサタンからの誘惑を受けて、民全体が裁かれることになりました。

 神さまは私たちに神の武具を与えてくださいました。エペソ6:13-17「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」「救いのかぶと」とは思いを守るヘルメットです。「キリストによって私は救われている」と、知性を守らなければなりません。「胸当て」とは私たちの心臓を守る武具です。「私はキリストによって是認されている」という信仰です。「真理の帯」とは、「私は真理に従う、真理はキリストである」という生活の土台です。「足の備え」とは、悪魔を踏みつけるキリストの権威です。「信仰の大盾」とは、「キリストの真実が私を捕えて離さない」というキリストの信仰です。悪魔に打ち勝つことのできる御名は、キリストです。主イエス・キリストの御名こそが、私たちを悪魔から守る唯一最大の武具です。

3.霊的戦い

 近年、日本でも「霊的戦い」と言うことが言われるようになりました。エペソ612「私たちの格闘は血肉に対するものでなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるものもろの悪霊に対するものである」と書かれています。サタンにはピラミッド型の霊的な階級があるようです。大都市を治めているもの、宗教や教育を治めているもの、個人にとりついているものがいるようです。ある人たちは霊的地図を書いて、戦いのあった場所や魔術が行われている場所でとりなしの祈りをしています。また、悪霊追い出しを専門に行っているグループもいます。そういう特別な使命を持っているなら別ですが、私たちは霊的過敏症になってはいけません。残念ながら、キリスト教会では2つの極端があります。1つは、「サタンと悪霊は全く存在しない。あれは古代の人たちが勝手に作った迷信である。悪魔は悪の擬人化したものである」という考えです。これは理性を中心とする自由主義神学者たちが言うことです。私たちを誘惑し、束縛する悪霊は今も存在しています。もう1つの極端は神とサタンが互角のように考えている人たちです。そのため、サタンとその悪霊にいつも怯えて暮らしています。イエス様よりも、悪霊の仕業に注目し、何でも悪霊のせいにしています。これも良くありません。ヘブル122「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と命じられています。私たちは悪霊がどう働いているかということよりも、イエス様がどのように導いておられるかということに注目すべきです。

 ビル・ジョンソンは、「私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのである」と言っています。彼が書いた『天が地に侵入するとき』から少し引用させていただきます。「イエスは全てのもの、地獄の力、墓、罪、そして悪魔を征服されました。イエスは死からよみがえり、父の右の御座に着座され、全てのものに勝って栄光をお受けになったのです。全ての名と力はイエスの足元に置かれました。このイエスは、私たちをご自分の『体』だと呼んでいます。体には足があります。比喩的に表現すると、この世のもっと高いとされる権力でさえ、体の一番低いところに位置する足の下に置かれたと言うことです。この勝利の意味は、私たちの生活には戦いがないというのではなく、私たちの戦いの勝利が保証されているということです。」アーメン。詩篇23篇は私たちに勇気と信仰を与えてくれます。詩篇234「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」経験豊かで力のある大牧者であるイエス様が私たちと共におられます。そして、むちと杖をもって、悪霊どもを蹴散らしてくださいます。23:5 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」敵がまわりにいます。でも、イエス様は「私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」。たとえ敵がまわりにいても、イエス様のもとでは食事を楽しむことができるということです。

 最後に私たちが霊的戦いにおいて知るべき2つのことをお伝えしたいと思います。ヤコブ47「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」アーメン。私たちが神に従えば従うほど、悪魔に対する権威が与えられると言うことです。神に従うことと、神から与えられる権威は正比例の関係があります。自分が神さまにぜんぜん従っていないのに、「悪魔よ、退け」と言っても無理です。悪魔が「お前こそ、退け」と言うでしょう。そうではなく、私たちいつでも、全面的に神さまに従うのです。そうすればおのずと、悪魔に対抗する力と権威が与えられます。イエス様はマタイ28章でこのように約束されました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ…」私たちはイエス様の権威を信仰によっていただくべきです。イエス様はあなたに「『守って下さい』とだけ願うのではなく、私の名前によって命じなさい」と言われます。そうです。私たちには主イエスの御名の権威が与えられています。きゃしゃな婦人警官と11トンダンプトラックでは、力ではトラックがはるかにまさっています。しかし、彼女の胸には警察官のバッチがついています。彼女が「ピー」と笛を吹いて、手をあげると、11トンダンプトラックは従うのです。私たちもイエスの御名の権威によって、「悪魔よ、退け!」「悪霊よ、私から離れ去れ!」と命じるのです。神さまに願うのではなく、命じるのです。

第二は自分の霊的立場を知るということです。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」テモテ・ワーナという人が「聖書的世界観」について教えています。世界は神がおられる天と、御使いの領域、そして人間と物質の領域の3つに分けることができます。御使いの領域は「第二の天」とか「中間世界」と言います。西洋では啓蒙主義から合理主義が生まれ、目に見えないものは存在しないと言いました。そして、天使や悪霊の存在をあざ笑い排除しました。しかし、今も悪魔と悪霊は不信者たちを支配し、神から引き離しています。私たちクリスチャンにも誘惑や恐れを与えたりします。すばらしいことに、聖霊と神の天使が私たちを助け導いてくださいます。でも、それにも勝って、私たちは自分たちの霊的な立場を知る必要があります。私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。私たちの肉体はこの地上にありますが、目をつぶると、イエス様がすぐ隣におられるのです。私たちはイエス様の御座の隣に座っているのです。アーメン。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。下に住んでいる人たちは「えー?私が悪魔に立ち向かうなんて?」と言うでしょう。しかし、その人が、「自分は天のところにイエスさま共に座っている者なんだ」と理解しているなら、王座から、王座の力をもって悪魔に対抗して行くことができます。「私は神の子どもである。悪い者は私に触れることができない。主イエスの御名によって、私は敵に立ち向かう」と言うことができるのです。確かに私たちは霊的戦いの渦中にあります。でも、イエス様が勝利を収めてくれたので、私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのです。アーメン。

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2019年1月18日 (金)

福音宣教 ローマ10:8-15 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.20

 先週は「証人になる」というテーマで学びました。福音宣教となると、福音の内容を伝えなければなりません。ということは福音の中身を知っていなければなりません。しかし、福音の中身を頭で知っていたとしても、いざ人に伝えるとなると勇気が必要です。「もしかしたら、拒絶されるんじゃないだろうか?」と恐れます。ですから、伝えるためには愛、情熱、聖霊の力が必要となります。イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音宣教はオプションではなく、どうしてもしなければならないことです。

1.福音とは何か

 私たちは人に福音を伝えるためには、自分が福音とは何か理解していなければなりません。福音とはgood news「良い知らせ」です。たとえて言うと、「良い知らせ」というパッケージに入った品物です。だれでも、「良い知らせ」だったら聞きたいと願うでしょう。あなたも、かつては良い知らせを聞いて、信じて救われたのですから、恐れる必要はありません。私たちにとって「良い知らせ」とは何でしょう?使徒パウロはこのように述べています。Ⅰコリント152「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」。すごい。パウロはこの福音には人を救う力があると言っています。では、その福音とは何でしょう?Ⅰコリント153-4「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…」このことは、パウロがだれかから聞いて、そして自分がコリントの教会に伝えたということです。「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」です。なんとシンプルなのでしょう。あなたも言えるはずです。「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられました。このお方を信じるなら、救われます。」ローマ1013「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」と書いてあります。アーメン、ハレルヤです。

 でも、「救われる」というのが分かりません。一体、何から救われるのでしょうか?神さまはすべてのものを持っておられますが、人によって求め方が千差万別です。言い換えると、救われるテーマが違うのです。もちろん、クリスチャンになってから「救われる」ということが何なのか分かります。でも、はじめて福音を耳にする日本人は、「救われるって何?」と聞くでしょう。イエス様も人のニーズに答えています。ニコデモは誰からも尊敬される宗教的な人でした。でも、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国にはいることができない」と言われました。これは「新生」という救いの側面です。また、サマリヤの女性には、「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧きます」と言われました。彼女は「私が渇くことがないように、その水を私に下さい」と願いました。これは「永遠のいのち」という救いの側面です。またルカによる福音書では、いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨、そして家出した弟息子のたとえ話をされました。イエス様は神から離れている人は失われた存在であると言っています。ここで分かるのは、救いとは神さまに見出され、神さまのものになるということです。でも、使徒パウロはユダヤ人が分かるような用語で説明しています。ローマ324「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」パウロは神さまから義と認められることが救いだと言っています。これは日本人には一番わかりません。ヨハネ福音書では「キリストを信じれば良い」と言われていましたが、その根拠がパウロの手紙に書かれています。それは、キリストが私たちの代わりに十字架について罪を贖われたということです。実は、罪という問題が分からないと、福音も分からないということになります。なぜなら、福音とは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」だからです。私たちが罪を赦され、神の前に義となるために、キリストが十字架で死ぬ必要があったということです。キリストの死は身代わりの死であり、私たちの罪を贖うためであったということです。最初から、このことを理解して信じる人は少ないのではないでしょうか?私もそうでした。洗礼を受けて半年くらいたってから、「十字架の悩みは、我が罪のためなり」と賛美して泣きました。でも、ここまでいかないと、救いの確信を持つことができません。十字架の贖いが分かるとキリスト様から、簡単に離れることができなくなります。「躓いても、倒れても、叩かれても、離れられない!」

 パウロは福音には力があると言いました。ローマ116「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ここに書かれている「力」はギリシヤ語でデュナミスであり、ダイナマイトの語源となったことばです。しかし、どうして福音が救いを得させる力なのでしょう?パウロは救いということをこのようにも述べています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」これは、生まれつきの人が盲目であり、暗闇の中で生きているということです。サタンに支配され、罪と死の奴隷であるということです。救われるために、霊的な目が開かれてキリストのことが分かってきます。パウロが言う救いとは、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返ることです。また、救いとは、罪の赦しを得、御国を受け継ぐ者になるということです。なんと、福音には人をそのようにさせる力があるのです。本人はキリストを信じるだけで良いのですが、神さまの方がいっぱいやってくれているというということです。これらのことは信じて救われてから分かることです。信じる前は「私は自由であった。そんなに悪いこともしていなかった」と思っています。ところが、信じた後、「ああ、私は暗闇の中にいた。ああ、罪に縛られていた」と分かるのです。福音は「良い知らせ」というパッケージに入っています。でも、中味はものすごく豊富で力強いものなんだということです。

2.福音を宣べ伝える

ローマ1014 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ここには、「福音を聞かないと信じることもできない。そのためにはだれかが福音を宣べ伝える必要がある」という前提があります。教会では「伝道」ということばをよく使います。聖書には「伝道」ということばはありません。「宣べ伝える」はギリシヤ語でケーリュッソーです。「告げ知らせる」「宣教する」「説教する」という意味もあります。「伝道する」は教会用語です。私は「伝道」と聞くと緊張して、嫌な気持ちになります。神学生の頃、伝道実習というのがあって、道行く人たちを集めて話しました。また、教会主事の頃は、特別な集会があるとチラシを3000枚くらい配りました。教会に集っている求道者に個人伝道するということが主でした。でも、伝道というのは、正直、嫌いです。去る6月、淀橋教会でトーチという集会がありました。トーチというのは次の世代にバトンを渡すということです。岸義紘先生がサックスを吹き、大川牧師がメッセージしました。その後、日本基督教団の若い牧師が日本基督教団風の説教をしました。それはともかく、大川牧師が「教会が成長しないのは伝道しないからだ」とおっしゃいました。グサッときました。「ああ、伝道していないなー」と思いました。久しぶりに緊張しました。私は「伝道」ということばが嫌いであって、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことだと思います。

では、なぜ「伝道」が良くないイメージなのでしょうか?伝道というのは、道を伝えるということです。別に悪くない感じがします。しかし、一昔前の伝道について聞いたことがあります。日曜日の夜は伝道集会を持っていました。集会の前に町に繰り出して、チラシを配ったり、集会の案内をします。その時、提灯を持ち、太鼓やラッパを吹きながら練り歩くのです。しかも、道路の辻に立って、救いの証をさせたれたりします。『塩狩峠』という映画では、路傍伝道している牧師に、「耶蘇教やめろ」と石が投げつけられていました。昔はそれでも人が集まったようです。しかし、伝道というのがそういうものだったら、恥ずかしくてできません。1999年に韓国の牧師と宇都宮に路傍伝道に行きました。本当に道路の辻に立って説教しました。「私は中日の落合選手と同じ高校出身で、同級生です」とか言ってはじめました。中学生の女の子が信じて、お祈りをしてあげました。人の家に入って、ご婦人の膝の癒しのためにも祈りました。5日間の旅でしたが、「もう、いいや」と思いました。あまりにもプレッシャーで、「自分には賜物がないなー」と思いました。宣教師の賜物の人はできますが、私は無理だと思いました。自分ができないのに、みなさんに「伝道しなさい」とは言えません。でも、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことであり、これは主の命令なので是が非でもしなければなりません。福音は宣べ伝えれば、宣べ伝えるほど、宣べ伝えたくなるからです。

 パウロはローマに行ってぜひ、福音を伝えたいと思っていました。なぜでしょう?ローマ114「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」パウロは「返さなければならない負債を負っている」と思いました。借金です。借金だったら返さなければなりません。でも、それは「福音を伝えなければならない」という負債を負っていると言う意味です。命令とか律法ではありません。内側から湧き上がる、負い目であります。私たちはキリストによってすべての罪を赦された者です。イエス様が十字架ですべての負債を払ってくれたからです。でも、まだ負債を負っているとはどういう意味でしょうか?パウロはⅠコリント9章でも似たようなことを言っています。Ⅰコリント916「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしも、私には務めがゆだねられているのです。」パウロは、イエス様から直接、異邦人の宣教を負わされました。かつてはキリスト者を迫害した、いわばキリストの敵であります。パウロは勘違いしてやっていたことですが、的はずれの熱心からでした。おそらく、パウロはこんな者に、福音宣教をゆだねてくださった神さまに申し訳ないと思ったのかもしれません。信仰を持ち始めた頃、羽鳥明牧師の「私は福音を恥としない」というメッセージテープを聞いたことがあります。熊本県かどこかの集会だったと思います。「イエス・キリストは一国の大統領でもなく、総理大臣でもなく、熊本県知事でもなく、こんな私に福音をゆだねてくださったのです!」とメッセージしておりました。

 私たちは福音を人に語ると、その人は「信じるか、信じないか」「受け取るか、拒絶するか」どちらか選択に迫られます。「そんなの信じないよ」と言われたら、友達関係がなくなるかもしれません。親戚だったら、「もう来るな!」と言われるかもしれません。でも、福音を信じるならば、その人は救われ永遠のいのちをいただくことができます。もし、福音を信じないなら、その人は神によってさばかれ永遠の滅びに行くことになります。そんな大事な福音を委ねられているとしたら、「かたじけない」と言うしかありません。でも、そのとき聖霊が働いてくださることを忘れてはいけません。ヨハネ168「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とあります。「あなたには罪がありますから、キリストの贖いが必要です」とはなかなか言えません。「馬鹿にするな!」と言われるでしょう。でも、聖霊がその人に働くなら、「ああ、私には罪がある。このままでは神さまの前に立つことができない。私はキリストが必要だ」と求めるでしょう。喉が渇いていない馬は、川の側に連れて行っても、水を飲まないそうです。聖霊によって飢え渇きを覚えている人がチャンスです。イエス様は「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから」(ルカ418とおっしゃいました。そうです。私たちは心の豊かな人にではなく、貧しい人に福音を伝えるべきなのです。

3.福音宣教の原動力

 「伝道しなければならない」と律法的に捉えると、口がこわばって、かえって語れなくなります。でも、私たちが伝えるのは「良い知らせ」です。この世の人たちは、「宗教はこわい。そんなうまい話なんかあるもんか?」と信じようとしません。私も救われた頃は一生懸命伝道しました。兄弟たちにも大川牧師の礼拝テープを送りました。郷里に帰って伝道しました。しかし、断られたり無視されるとだんだん辛くなります。「伝道」ということばが重くのしかかってきます。でも、福音説教と言い方を変えたら、気軽にできるのでしょうか?やっぱり勇気が必要です。私はこのすばらしい福音を宣べ伝えるためには、愛と聖霊からくる情熱が必要であると信じます。

 三浦綾子さんはが『道ありき』の「青春篇」に彼女がどのようにしてイエス様を信じたのか書いてあります。綾子さんは小学校の教師で、軍国主義の教えを子どもたちに熱心に教えました。ところが戦後、その教科書のほとんどが墨で塗られてしまい、愕然として教師を辞めました。綾子さんはその後、肺結核を患い、療養所に入りました。そこに、幼馴染の前川正さんも同じ病で入居しました。彼は北大の医学部の学生でとても美男子でした。彼は熱心なクリスチャンで、自暴自棄で暮らしていた綾子さんのことを気にかけました。「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」「そんなこと、どっちだっていいじゃないの」「どっちだってよくありません。綾ちゃんお願いだから、もっと真面目に生きてください」「正さん、またお説教なの?まじめっていったいどんなことなの?何のために真面目に生きなければならないの?戦争中、私は馬鹿みたいに大真面目に生きて来たわ。真面目に生きた結果はどうなったの?…」前川正さんはことばが出なくなり、はらはら泣いていました。綾子さんはそれを皮肉な目で眺めながら煙草に火をつけました。「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」そして、何を思ったのか、彼は傍にあった小石を拾い上げると、突然自分の足をゴツンゴツンと続けざまに打ちました。さすがに驚いた綾子さんは、それを止めようと彼の手をしっかり握りしめました。「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たか分かりませんよ。…けれども信仰のうすい僕には、あなたを救う力がないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」。このとき綾子さんは、「私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを私なりに求めたい」と思ったそうです。

 
やっぱり愛なんですね。福音に対して人の心が開くのは愛なのです。中国のような大陸の人は、その人がどんな人であろうと言っていることが真実であれば信じるそうです。しかし、日本人は、その人が信じるに値する人なのか、その人を見てから考えます。私たちの動機がさぐられます。「一人でも救って、教会を大きくしてやろう」ではダメです。私たちは神さまからくる愛、神さまからくる熱心が必要です。Ⅱコリント513,14口語訳「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」パウロは人から気が狂っていると言われるくらい熱心でした。でも、その理由は「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」と言っています。私たちは福音を伝えるべきか、あとにすべきか二の足を踏むときがよくあります。他のことは何でもしゃべることができますが、「キリスト」となると「キ、キ、キ」と出て来ません。でも、パウロのようにキリストの愛が私に強く迫っているとなると、押し出されて、語らずにはいられなくなるのです。エレミヤがこう述べています。エレミヤ209私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」もう、福音をしまっておくことができないのです。私たちもそのようになりたいと思います。


 福音宣教の原動力のもう1つは聖霊の力です。イエスさまがガリラヤの会堂で引用したイザヤ書61章です。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え」と書いてあります。イエス様がヨハネのバプテスマから洗礼を受けました。マタイ316「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」と書かれています。ということは、イエス様の宣教活動の力の源は、聖霊であったことが分かります。また、弟子たちにもこのように言われました。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」このことが、ペンテコステに成就しました。天から激しい風のように、炎のように弟子たちの上に降りました。あの臆病だった弟子たちが一変し、迫害も死も恐れずに世界の果てまで福音を宣べ伝えに行きました。鍵は聖霊です。聖霊に満たされたら、福音を宣べ伝えずにはおれなくなるということです。私が一番感謝している人は、私に福音を伝えてくれた増田さんという人です。私は「神さまがいるなら見せてみせて下さい、そうしたら信じますよ」うそぶいていました。毎日、会社で福音を語られるのですから、お世話にもなっているので、聞かないわけにはいきません。1年半くらいたってからでしょうか?やっと一緒に座間キリスト教会の礼拝に出席ました。大川牧師のマシンガンのような説教を聞いて、引きつけられ、半年後に洗礼を受けました。でも、決心するときは大変でした。日曜日の午後、9時間も語られ、根負けして「じゃあ、信じるよ」と言いました。それだけ私はクリスチャンになりにくいタイプの人でした。増田さんは牧師にならないで、私が牧師になりました。彼は55歳のとき心筋梗塞で天に召されました。私が彼の代わりに、こうやって福音を語っています。どういう訳か亀有に来て、この教会だから救われたという方も大勢いらしゃいます。でも、最初は増田さんが根気よく、私に福音を伝えてくれたからです。その延長線上に、今があるのです。だから、私も負債を負っている一人です。みなさんもそうではないでしょうか?キリストの愛が私たちに強く迫っているので、いのちをもたらす福音を語らずにはおれません。

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2019年1月11日 (金)

証人となる 使徒1:8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.13

 証とは、自分がキリストとどう出会ったか、自分にとってキリストはどういう方かを身を持って語ることです。説教のように勧めたり、信仰告白に導く必要はありません。食べ物やサプリメントと同じでその人が良いと思えば、いただくでしょう。教会では「行いが伴っていない」とか、「証になっていないから」と断る人がたくさんいます。何も自分のすばらしいことを語るのではありません。こんなダメな自分を神さまがどれだけ愛しているか、そのことを語れば良いのです。

1.証の原点

 第一のポイントは、ペンテコステの前における「証」であります。つまり、証の原点について学びたいと思います。証とは見たこと聞いたことをだれかに告げるということです。裁判の席においては「証人」とも呼ばれ、大変重要な役割を果たします。なぜなら、この人の証言によって罪にもなるし、無罪にもなるからです。もし、偽証をたてるなら、あとでその人自身が裁かれるでしょう。十戒の9番目に、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」とありますが、元来は裁判と関係があります。そうであるなら、単なる嘘では済まされなくなります。もし、証の原点は自分が見たこと聞いたことをだれかに伝えることであるとするなら、そんなに重たい気持ちにはなりません。なぜなら、それを聞いた人が何か徳を得るかもしれないからです。

旧約聖書のⅡ列王記7章には、4人のらい病患者が出てきます。大飢饉にみまわれ、町には食べるものがありませんでした。この4人は「このままではどうせ死ぬのだから」と、冒険を犯しました。その時は、アラム軍がイスラエルを取り囲んでいました。4人のらい病患者は、食べ物を奪おうとアラムの陣営に潜り込みました。なんと、そこにはだれもいませんでした。なぜなら、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので「イスラエル軍が攻めてきた」と思って、持ち物を全部おいて逃げ去った後だったのです。4人は一つの天幕に入り、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行きました。また、戻って来ては、ほかの天幕に入り、そこから持ち出し、それを隠しに行きました。彼らは互いに言いました。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(Ⅱ列王記7 9)。彼らは町に言って、「アラムの陣営にはだれもいませんよ」と告げました。イスラエルの人たちは、アラムの陣営に行って、衣類や武具、そして小麦をたくさんかすめ奪いました。それで飢饉から脱出できたのです。彼ら4人は「私たちのしていることは正しくない。だまっていたなら罰を受ける」と考えました。なぜなら、町には飢え死にそうな人たちがたくさんいたからです。このように証とは、良いことを独り占めしないでだれかにも知らせるということが含まれます。

 新約聖書のヨハネ4章にはサマリヤの女性が登場します。彼女はわけありの女性でした。なぜなら、夕方の涼しい時ではなく、だれもいない日中に水を汲みに来たからです。イエス様はそんな彼女に「水を飲ませてくれ」とお願いしました。彼女は「ユダヤ人が自分に声をかけるなんて」と驚きました。なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人が霊的な混血だったので軽蔑していたからです。イエス様は井戸水ではなく、渇かない「生ける水」について話しました。彼女は「私にその水をください」と願いました。そうするとイエス様は思いもかけないことばを彼女に発しました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言いました。彼女は「私には夫はありません。」と答えました。するとイエス様は「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」と言い当てました。彼女はびっくりして「あなたは預言者だと思います」と答えました。その後、彼女は自分の水がめを置いて、サマリヤの町に出かけました。そこには彼女を嫌っている人たちが大勢いたことでそう。しかし、彼女はイエス様のことを告げずにはおられませんでした。ヨハネ429,30「『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」…ヨハネ4:39「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」ここで重要なのは、サマリヤの女性が自分が出会ったイエス様のことを伝えたことです。その時、彼女は「私のしたこと全部を私に言った人がいる」と告げました。彼女のしたことというのは、夫を5人も替え、今6人目と同棲していることです。自分の恥をさらしてまで伝えたかったのです。その後、サマリヤの人たちは直接、イエス様のところへ行って、イエス様のことばを聞いて信じました。でも、サマリヤの女性が証しなければ、彼らは救われなかったことは確かです。サマリヤの女性は自分の喜びを独り占めしないで、町の人たちにも知らせたかったのです。そのためには、自分の恥などどうでも良かったのです。

 私は19796月に洗礼を受けました。その当時、水曜日の夜と、金曜日の午前に祈祷会がありました。前半の30分くらいは証の時があり、兄弟姉妹が日常の出来事から、救いの証まで自由に分かち合っていました。佐伯兄弟というとても熱心な人がいました。彼が少年のとき、お母さんが鉄道自殺して、自分がこおり籠をもって、遺体を運んできたという証を聞きました。ものすごく強烈でした。またある息子がお父さんを殺そうと包丁で額に切り付け、クリスチャンの娘が教会にみんなを連れて来たという、これまた強烈な証でした。ある姉妹は洗濯機が壊れて、修理屋さんを呼んだという証をしました。見てもらうと「靴下がそこにひっかかって故障したんだ」と言うことでした。姉妹は「ああ、パンツでなくて良かった」言いました。もう、どうでも良いものから、過激な証までどんどん飛び出しました。でも、共通して言えることは、自分の恥や罪を隠さないで伝え、その代り、イエス様がどんなにすばらしいかを伝えていたことです。極端になると、自分がどんなにひどかったか、そちらに重点が置かれるものもありました。この世の中では決して聞かれない恥や罪の自慢です。でも、それだけイエス様がすばらしいということを伝えたかったのです。このように証とは自分が体験したことを率直に伝えるということです。

2.証人となる

 使徒18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ここで言われている「証人」というギリシャ語は、「殉教者」という意味もあります。これは、「キリストがポンティオ・ピラトのもとで告白した血のあかし」(Ⅰテモテ613)と同じ意味です。つまり、「いのちがけの証」ということになります。毛沢東が文化大革命を起こしましたが、その時、多くの教会が迫害されました。大勢のクリスチャンが捕えられ、「キリストを否んだら助けてやる」と当局から迫られました。でも、否まなかったために、殉教した人がたくさんいます。私たちももし、そのような立場になったら「どうしよう?」と思います。実は、イエス様の弟子たちはイエス様が捕えられたときみんな逃げました。イエス様が復活したことを知ったにも関わらず、彼らは部屋の戸を閉じて隠れていました。イエス様が彼らの真ん中に入って来られ、「平安があるように」と言われました。さらに彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われたのです。おそらく、この時、11人の弟子たちに聖霊が内住の御霊としてお入りになったのだと思います。そのとき、彼らは霊的に生まれ変わりました。でも、それだけではまだ不十分でした。ルカ24章に書いてありますが「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」と言われ、天に昇られました。彼らは共に集まり、祈って待っていました。五旬節の日、突然、激しい風のような響きが起こり、彼らの上に聖霊が降りました。イエス様が天に昇られた日から10日目のことでした。まさしく、聖霊が彼らの上に臨まれて、力を受けて、キリストの証人となりました。彼らはいのちがけで、世界の果てにまで出かけていきました。かつての臆病な弟子たちと同じ弟子たちとは思えません。

 ここで重要なのは、「わたしの証人となる」ということばです。「証人となりなさい」という命令ではありません。言い換えると、私たちの上に聖霊が臨むと自然に「キリストの証人」になるということです。しかし、キリスト教会は使徒12節を別の言葉で訳しています。「聖霊が臨むと地の果てまで伝道するようになる」と「伝道」にしています。次週「伝道」についてはお話ししますが、まずクリスチャンは「キリストの証人」になるべきだということです。言い換えると、伝道よりも、まずキリストの証人になることが基本だということです。では、「キリストの証人」とは何なのでしょう?最初に申し上げましたが、「証人」の動詞形が「証人である」「証言する」です。ヨハネ17「この人はあかしのために来た」とありますが、これはバプテスマのヨハネのことです。ヨハネは何をしたかと言うと、ヨハネ134「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」とあります。つまり、バプテスマのヨハネは、「天から御霊がくだって、その上にとどまるのを見たので、この方が神の子である」と証言したのです。証言とは自分が見たキリストに関することをそのまま言うということです。私たちのことで言うなら、自分にキリストが何をしてくれたのか、自分のことばで言うということです。これがキリストの証人になるということです。私たちは伝道と証を一緒に考えてしまうので、苦しくなります。伝道とはキリストが一体だれで、何をしたのかという「使信」を宣べ伝えることです。一方、証はキリストが自分に何をして、自分がどのように変えられたのか言えば良いのです。言い換えると、伝道は自分が体験していなくても語ることはできます。一方、証はキリストが自分に何をしてくれたのか体験がないと語れないということです。

 一番、容易なのは「イエス様を信じてどう変えられたか?」ということです。「イエス様を信じる前はこうで、イエス様を信じたあとどのように変えられたか?」です。自分の体験を語れば良いのです。私の場合は「人間は死んだら、全部おしまいだ」と思っていました。ところが、イエス様を信じたとき永遠のいのちが与えられたと実感しました。ということは、人生は無駄ではないということが分かったということです。私の家内はイエス様を信じて、罪が赦されたということでした。よっぽど罪深い人生を送っていたのでしょうか?そうではなく、十字架による罪の赦しは救いの基本形であり、このことが分かると信仰の道をはずれることはありません。他には、思いわずらいから解放された、先のことをくよくよ思わなくなったというのもあります。生きる意味とか目的が与えられたという哲学的なものもあります。劣等感から解放されたとか、病気が癒されたというのもあります。かなり前に、タンザニアのガジマ牧師のメッセージを聞いたことがあります。死んで四日目に生き返った女性のことを話していました。彼女は「出生証明書と死亡証明書の2つを持っているのは私だけだ」と言っていました。そういえば、ヨハネ福音書には、死んで4日目によみがえったラザロのことが記されています。聖書にはラザロが、何を言ったかひとことも書かれていません。彼はイエス様と共に食卓に着いている人々の中に混じっていただけです。しかし、ラザロがイエス様の生き証人でした。ヨハネ129「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。」ラザロは無言の証人であります。死んでよみがえったラザロの存在そのものに力がありました。私たちも「キリストによって変えられた私を見て下さい」と言うことができます。1980年のミス・アメリカの証を聞いたことがあります。彼女は10代の時、自動車事故に遭い、衝撃で、彼女はフロントガラスを突き抜けて背中を壊し、左足をつぶしました。彼女の顔には100本以上の縫い目が必要でした。医師は両親に、決して歩くことができないと話しました。彼女の左足は弱く、しかも右足よりも6センチ短かったのです。リハビリのため何年も費やしましたが、高校3年生のとき、癒しの集会に出て、骨盤が癒され、片足が6センチ伸びました。彼女は学校に行って、校門の前に立って「私は足が伸びたのよ」とみんなの前で証をしました。ミス・アメリカに選ばれた時も、その証をしました。彼女はやがて伝道者の妻になり、その当時、癒しを信じていなかった教会に向けて、「今も奇跡は起こる」と証言しました。このように、キリストを体験したなら、キリストのことを証言せずにはおれなくなるのです。

3.証の方法

 私たちがすべき基本的な証とは、「自分がどのようにキリストを信じて、救われたか」を誰かに話すことです。公の場合もあれば、きわめて個人的なときもあります。私たちは何から救われたのか、一人ひとりテーマが違うと思います。でも、「救い」には多くのものが含まれています。公の場合は自分のベストなテーマで構いません。でも、個人的に誰かに話す場合は、その人のニーズに合わせる必要があります。ベストなものじゃないけど、相手に合ったテーマを選ばなければなりません。大伝道者でも自分の救いからメッセーをする場合、2つ、多くて3つしか語れないと言われています。私も8人兄弟の7番目で生まれたとか、小学校5年生のとき切手を焼かれたとか、ボクシングでTKOで敗れたとか話しますが、みなさんはもう耳ダコではないかと思います。それでも、私は私のイエス様を自分の生涯を通して、証したいのです。聖歌232「罪とがをゆるされ」という賛美があります。日本語は「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」ですが、原曲はもっと感動的です。This is my story, this is my song, praising my savior all the day long.「これが私の物語です。これが私の歌です。日々末永く、私の救い主をほめたたえます。」となります。そうです。自分の証は物語です。物語は起承転結が基本ですので、自分の証も、そのように組み立てることが重要です。

使徒パウロがどのように救われたか、彼の証が使徒の働きには3回記されています。使徒9章はルカが客観的に書いたものです。そして、使徒22章と26章はパウロ自身が語ったものが収められています。開かなくても結構ですが、使徒26章からパウロの証の方法を学びと思います。第一は、パウロは自分が救われる前のことを話しています。パウロはパリサイ人であり、熱心に神に仕えていました。熱心さのゆえに「道の者たち」を迫害しました。私たちもどこの生まれで、どんな生き方をしてきたのか簡単に紹介する必要があります。でも、これまでの過去の人生を語ったなら3時間あっても足りないでしょう。前もって選んだテーマに必要なものだけをピックアップする必要があります。死の恐れとか、劣等感、人間関係の問題、悪習慣、生きる意味の模索などです。そして、できれば具体的なエピソードがあれば良いです。田原米子さんは、高校生の頃、生きる目的が分からなくなり、いろんな哲学書を読みあさりました。先生に聞いても、「よけいなことを考えないで勉強しろ」と言うだけです。それで彼女は線路に飛び込み、自殺を図りました。

第二はキリストとの出会いです。パウロはダマスコに行く途中、まばゆい光が天からさしました。パウロは地にたおれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きました。パウロが「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、「私はあなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは目が見えなくなり、アナニヤという人のところへ祈ってもらうために手を引かれて行きました。その時、パウロは「あなたは異邦人のところへ福音を宣べ伝えに行くのです」という使命も一緒に受けました。私たちはパウロほど劇的な出会いはないかもしれませんが、何らかのきっかけがあるはずです。だれかから紹介されたとか、ゴスペルのコンサートに誘われたとか、あるはずです。先ほどの米子さんの場合は、気が付いたら病院に寝かされていました。気づいたら、両足がなく、左手も有りませんでした。もう一度、死のうと睡眠薬をためました。そこへ宣教師と若い青年がお見舞いに来ました。そして、小さな聖書を置いていきました。彼女は「人の弱みにつけこんで、だから宗教は嫌いなんだ」と思いました。しかし、ある晩、「神さまがいるなら教えてください」と一言、祈って寝ました。次の日、思い切って聖書を開いて読みました。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という聖句が目に飛び込んできました。彼女はそれまで「五体満足でも生きていけなかったのに、こんな体になってしまって」と落胆していました。何とそのとき、「まだ右手に3本の指がある」と気が付きました。これが米子さんのキリストとの出会いです。

第三はそれから、どうなったかです。パウロは「天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめ、エルサレム、ユダヤ全地方、さらに異邦人にまで悔い改めて神に立ち返るように宣べ伝えて来ました」と言いました。パウロの場合は裁判にかけられていましたので、弁明の形になっています。結論はこうです。使徒2622,23「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」パウロの場合は、キリストの福音まで伝えていますので、証から伝道になっています。でも、パウロは「この日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです」と言いました。つまり、パウロが福音を宣べ伝えるときは、必要とあらば、自分のあかしを交えているということです。ある人たちは、「説教は神のことばであり、自分のことを話すべきではない」と言います。では、パウロはどうなんでしょうか?パウロは説教の中に、このように自分のあかしを入れています。米子さんはすでに天に召されました。でも、私は米子さんが、三本の指で、リンゴを剥いている姿を思い出すことができます。彼女は人生の意味をキリストに見出しました。本来なら、ハンディを負って、人のお世話になりながらひっそりと暮らす人生だったでしょう。でも、義足を履いて、日本全国を歩き回り、キリストにある新しい人生を証しました。自分が救われた証を人と比較する必要はありません。ミッションバラバの鈴木啓之先生はヤクザから救われました。博打と覚せい剤の人生でした。でも、育ちの良い人は「私はそんなに悪くないのでキリストは必要ない」と言うかもしれません。だから、そういう人は、育ちが良くて普通の証で救われるのです。世界中のどこかに、あなたの救いの物語を必要としている人が必ずいます。あなたの証は神さまの栄光のために必要なのです。This is my story, this is my song,「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」です。

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2019年1月 5日 (土)

新しい皮袋 ルカ5:33-39 亀有教会牧師鈴木靖尋 2019.1.6

 古い皮袋というのは当時のユダヤ教でした。彼らは言い伝えや伝統を重視するあまり、イエス様の福音を受け入れることができませんでした。一方、新しいぶどう酒というのは発酵している状態で、これは福音が持っているいのちを象徴しています。福音が「喜びの訪れ」という意味ですから、暗い、堅い、つまらない宗教に入れることはできません。しかし、福音を入れる入れ物も必要です。残念ながら、入れ物は、最初は新しくても、だんだん古くなります。言い換えると宗教的な要素が強くなって、福音を入れておくことはできなくなります。

1.新しい皮袋

 第一に、新しい皮袋とは礼拝が祭典的であることです。使徒15章には異邦人の問題を扱ったエルサレム会議が記されています。議長のヤコブが言ったことばがとても印象的です。使徒1516「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」このみことばは、アモス書9章からの引用ですが、終わりの時代そのようなことが起ると言う預言です。ダビデはその当時、画期的な礼拝をささげました。レビ人を組ごとに分けて、24時間、神さまを礼拝するようにしました。また、ダビデが推奨した礼拝は賑やかな礼拝でした。詩篇150篇には、「角笛、十弦の琴、立琴、タンバリン、緒琴、笛、音の高いシンバルで、鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ」と書かれています。また、他の箇所には、叫べ、歌え、手を打ち鳴らせ、踊れとも書かれています。実際、ダビデが神の箱を迎えるときに、あらゆる楽器を用いて主を賛美し、自分自身も踊りました。

ところが、いつの間にか、礼拝が形式的になっていきました。特にローマ・カトリック教会になってからは、荘厳で、儀式的になりました。16世紀、宗教改革が起こりましたが、その時に儀式的なものをかなり排除しました。ルターはみんなが歌える賛美歌をたくさん作りました。ジョン・カルヴァンはパイプ・オルガンを捨てて説教を強調しました。残念ながら、聖公会はカトリックとあまり変わりません。祭典的というのは神さまを喜び、お祝いするという意味です。これに対して、礼典的というのは儀式的でプログラムががっちり固定されているということです。交読文で「叫べ」「踊れ」「手を打ち鳴らせ」と言いますが、実際にはやりません。当教会では説教の途中に、「ハレルヤ」とか「アーメン」とか言いますが、改革派やルター派の教会に行ったならつまみ出されるでしょう。他の人が当教会の礼拝に来ると、「ここは韓国の教会ですか」とか「ペンテコステ派ですか」と言われます。韓国の教会は50年前にリバイバルが起きて、どの教団教派も元気な賛美を歌うようになりました。ペンテコステ派の教会は聖書から「ダビデの幕屋の回復」ということを主張しました。彼らは教会にドラムとかギターをいち早くいれました。新しい賛美も数多く作り、ダンスも取り入れています。私はペンテコステではありませんが、礼拝において彼らから学ぶ要素がたくさんあると思います。

 第二は新しい皮袋とは新しい歌です。詩篇には「新しい歌を主に向かって歌え」と何か所も書かれています。リック・ウォレンが書いた本が1998年に『健康な教会へのかぎ』という題で翻訳出版されました。ところが「求道者向けの礼拝」「音楽を吟味する」「教会につながっていない人への説教」の三項目が割愛されていました。3年後に小冊子として日本語で出版されました。おそらく、「いのちのことば社」が日本の教会には過激だと判断したからでしょう。小冊子から少し引用します。教会史をたどってみると、偉大な神学者たちは、その当時のスタイルの音楽にのせて神の真理を宣べ伝えました。マルチン・ルターの「神はわがやぐら」の旋律は、彼の時代に流行した音楽からの流用です。もし、今日ルターがいたら、地域のカラオケバーから曲を拝借したかもしれません。チャールズ・ウェスレーは英国の居酒屋やオペラハウスで聴かれていた流行曲を数曲用いています。ジョン・カルヴァンは、世間で活躍する音楽家を二人雇って、彼の神学を歌に盛り込ませました。英国女王はこうした低俗な「メロディー」に怒ってカルヴァンの「ジュネーブ舞曲」と嘲笑したと言われます。おそらく一番信じがたいのは、ヘンデルの「メサイヤ」が当時の教職者たちによって「大衆劇」と酷評されていたことでしょう。現代音楽のコーラス部分と同じように、当時はメサイヤも繰り返しが多すぎてメッセージ性に乏しいと非難されました。

 もう少し、引用しますが、このことが割愛された理由だと思います。教会で用いる音楽スタイルを決定するほど、重要であり、かつ議論を呼ぶものは他にないでしょう。教会が今後どのような人々をキリストに導けるか、また教会が成長していけるか否かは、音楽によって決まると言って過言ではありません。教会の音楽は、その教会が伝道の対象としている人々に合わせていくべきです。音楽はまた、その地域における教会の位置づけをします。どのような教会であるかは音楽によって表されます。いったん礼拝に用いる礼拝のスタイルを決めると、あなたが理解するよりはるかに多くの点で教会の方向を決めてしまいます。どんな人々が教会に集まり教会に残るか、またどんな人々が教会を去っていくかは音楽によって決まります。…教会は、特定スタイルの音楽だけが「神聖」でないことを認める必要があります。音楽を神聖にするのは、その使信です。音楽を霊的にするのはその歌詞です。「キリスト教の音楽」というものはありません。あるのは「キリスト教の詩」です。引用は以上です。当教会では2000年から亀有ゴスペルクワイアを創設ました。若い方がたくさん救われ、その当時の礼拝形式が合わなくなりました。2003年から司会者を下げて、ワーシップリーダーが賛美を導くようにしました。元気な賛美を立て続けにするので、嫌になって帰る人もいました。今では当たり前になっていますが、若い人たちにターゲットを当てるためでした。先輩クリスチャンはその分、我慢することになり、感謝しております。聖書では「新しい歌を主に向かって歌え」と書いてあります。賛美こそは新しい皮袋だと信じます。

 第三は新しい皮袋とは教会の組織です。西暦313年コンスタンティヌス帝が、キリスト教を国教にしました。そのおかげで、それまで続いていた迫害が止みました。ところが、コンスタンティヌス帝はローマのミトラ教の神殿を手本として、神聖な儀式を司る有給の聖職者を雇いました。一方、一般の信徒たちは黙って傍観するだけの存在になりました。やがて、一般信徒は、集会中に歌うことも許されず、音楽は専門の聖歌隊が担当しました。また、だれでも勝手に集会を開くことは許されず、国から認定された聖職者が導くものでなければなりませんでした。異教の風習と偶像礼拝が教会に持ち込まれると、聖霊は離れ去って行きました。1000年の束縛と死を経た後、神さまは回復の御業をはじめました。紀元1500年頃を皮切りに、すばらしい聖霊の働きが起こり、神さまは教会を回復しはじめました。マルチン・ルターが聖書から信仰義認を発見しました。彼は聖書をドイツ語に翻訳したので、普通のクリスチャンたちが聖書を読めるようになりました。彼は、だれでも神さまに近づき、奉仕できると言う万人祭司説を称えました。18世紀はジョンウェスレーによる聖めのリバイバルが起きました。19,20世紀には聖霊の力を回復しはじめました。しかし、教会の組織はローマ・カトリック教会のものを払拭できず、聖職者と一般信徒と二つに分けています。教皇はいなくなりましたが、この世の議会政治や民主政治を取り入れています。司祭の代わりに、牧師が教会を指導し、使徒や預言者が排除されています。牧師が霊的な奉仕をして、信徒には任されていません。何か問題があったら、「牧師のところへ行って相談しなさい」と言われています。

 半年前に『使徒的教会の台頭』という本を読みました。この本の著者は、新しい皮袋とは、「キリストのからだなる教会である」と言いました。これも、昔から書かれていることでしたが、どうしてもこの世の組織や政治形態しか思い浮かびませんでした。ちょっとは改善しても、教団やその委員会がピラミッド式に治めています。では、どのような組織が新しい皮袋なのでしょうか?教会のかしらなるキリストが、教会を治めるために、「キリストの賜物」(エペソ47)を与えました。エペソ4:11 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」この人たちが、教会を運営するためにキリストがお建てになった「五役者」なのです。ところが、現在の教会が、牧師がほとんどの働きをしており、使徒や預言者がいません。新約聖書を見ますと、使徒が87回、預言者が157回、教師が121回、伝道者が3回、牧師が1回です。聖書で1回しか述べられていない牧師が、教会の中心的な職務に据えられています。ある統計によると、アメリカの教会の牧師の70%は、牧師の働きを辞めようかと定期的に考えているそうです。また、80%が鬱あるいは落ち込みで苦しんでいるそうです。この本の著者は、使徒的教会こそが牧師の働きを活性化すると言っています。牧師中心の教会は、教会員を一般信徒と見なします。一方、使徒的教会では、全てのクリスチャンが働き人と見なされます。牧師中心の教会では、牧師の役割は聖徒たちを気遣うことです。一方、使徒的教会は、奉仕のためにひとり一人の聖徒が整えられることを望みます。古い皮袋の教会では、牧師という一人の人が働きます。一方、新しい皮袋の教会では、全ての信者が働きに向けられて整えられます。私たちはもう一度、教会がキリストのからだであり、私たちすべてが、その器官であることを覚えて、それぞれの使命を果たしたいと思います。

2.新しいぶどう酒

 第一は福音の喜びです。「福音」自体の中に「喜び」がはいっているのに、おかしいと思うかもしれません。ところが、キリスト教会は聖書の福音をそのまま語っていません。そのため、皮袋がパンパンになるくらい膨らまないのです。イエス様は「新しいぶどう酒」と言われました。ということは「古いぶどう酒」もあるということです。イエスさまは、1つ前に「新しい着物と古い着物」についてもおっしゃっています。2つのたとえは同じことを言っています。古いぶどう酒と古い着物は、旧約聖書のことを指していると考えられます。その当時は、旧約聖書の中心はモーセの律法でした。一方、新しいぶどう酒と新しい着物は、新約聖書のことを指していると考えられます。その当時はまだ「新約聖書」は完成していませんでした。イエス様は「御国の福音」を持ってこられました。福音(エウワンゲリオン)のもともとの意味は「戦争に勝ったという勝利の知らせ」でした。ギリシャ時代たくさんの戦争がありました。もし、戦争に敗れたなら町は略奪され火で焼かれます。捕えられた人たちは奴隷になるしかありません。戦地から「戦争に負けた」という知らせを受けたなら金目のものを携えて一目散に逃げるしかありません。紀元前450年のマラトンの戦いでは、一人の兵士がひたすら走り、勝利を伝えると息絶えてしまいました。彼が走ったマラトンからアテナイまでの距離が、マラソンの距離になったと言われています。「勝利の知らせ」こそが、福音であります。では、イエス様は何に勝利されたのでしょうか?死と悪魔に勝利されたのです。イエス様は人類が負っている罪と死を十字架で破ってくださったのです。イエス様が死からよみがえられた後、神の国が力強く臨んできました。この地が神の国によって侵略されているのです。ですから、私たちの福音は単なる福音ではなく、「御国の福音」です。

 残念ながら、教会は「福音」をとても小さく扱うようになりました。罪が赦されて、天国に行くという魂の救いだけにフォーカスをあててしまいました。ということは、「人は洗礼を受けたら、あとは好きに暮らして、最後は天国に入れば良い」ということになりました。これは、怠け者を作り出す福音です。確かにイエス様を信じるだけで天国に行くことができます。しかし、神さまが願っているのはそれだけではありません。マタイ2818-20「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」ここにはあらゆる国(国民)を弟子とせよと言われています。これは個人の救いだけではなく、国全体が変革されるということです。もう1つは「イエス様が命じておいたことを守るように教えよ」と言われています。イエス様は福音をただ宣べ伝えただけではありません。しるしと不思議、癒しと力あるわざを行って、御国が来ていることを証明されました。パウロも言っていますが、私たちの福音は「知恵のことばではなく、御霊と御力の現れ」が伴うべきだということです。これが新しいぶどう酒です。

 第二、新しいぶどう酒とは聖霊の力です。新しいぶどう酒は「聖霊の力」を象徴していると考えられます。単なる聖霊ではなく、聖霊の力です。なぜかと言うと、聖霊は創世記1章から記されていますが、新約の私たちには違うかたちでやってきたことを知らなければなりません。その革命的な出来事はペンテコステの日に実現されました。使徒2章にそのことが記されています。使徒21-4「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」ここに「天から激しい風が吹いて来た」と書かれています。聖霊が天から激しく下って来られたということです。イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたときも似たようなことが起こりました。マタイ316「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様のときは、天が開け、神の御霊が鳩のように静かに降って来られました。一方、ペンテコステの日は、天から激しい風のごとく下り、炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまりました。弟子たちのときは、激しい風のように、火のように下ったということです。何を言いたいのか?どちらも、神さまの働きをするための原動力になったということです。イザヤ書61章に「主はわたしに油をそそぎ」と書いてありますが、これは聖霊の油そそぎであります。

 もちろん、聖霊は力だけではありません。聖霊は人の中に住むようになり、人は神の神殿となりました。聖霊はイエス様と同じような助け主であられ、私たちを慰め、あらゆる真理へと導いてくださいます。旧約聖書の「神が共にいる」と言うことが、聖霊によって実現されました。しかし、これらは聖霊の静的、staticな面であります。ところが聖霊は動的、dynamicな面があることを忘れてはいけません。初代教会の頃は、聖霊のdynamicな面が強調されていました。彼らが迫害されたときどのように祈ったでしょうか?使徒429-31「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。』彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」アーメン。弟子たちが迫害されたのは、人格的にきよめられたからではありません。ペテロが奇跡を行なって、大勢の人たちがイエス様を信じたためです。弟子たちは迫害に屈せず、「イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」と祈りました。そうすると、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだしました。聖霊こそ、福音宣教と神のわざを行うための原動力だということです。昔、サブリツキーという伝道者が日本に来られたことがあります。コテコテのペンテコステの人でした。サブリツキーはとてもハスキー低音でこう言われました。Power is Holy spirit. Holy is power. Power is Holy spirit. Holy is power.と何度も語りました。とっても単純でしたが、聖霊は力を与えるお方であると分かりました。

 第三、新しいぶどう酒とは主の臨在です。主なる神はエデンの園でアダムとエバと親密な関係を持っていました。ところが、二人が知識の木の実から食べたため、罪が入って神との関係が遮断されました。二人はエデンの園から追い出され、サタンがこの地上を支配するようになりました。主はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの中に住もうと幕屋を建てさせました。ソロモンが神殿を奉献したとき、主の臨在があまりにも強くて、祭司たちは立って奉仕することができませんでした。しかし、バビロンによってエルサレム神殿が焼かれてしまいました。最後に神の御子が肉体を持ってこの地上にお生まれになられました。イエス様の中に神さまが臨在されました。神が共におられるイエス様こそ、私たちの模範であります。そのことが実現するようになったのが、ペンテコステの日からです。天から御霊が降り、120人が聖霊に満たされました。言い換えると、120人の中に主が臨在しました。エルサレム中の人たちが物音を聞いて集まりました。人々は、120人が集まっているところに、主が臨在しておられることを知ることができました。この間、キリストを十字架につけた人たちが、ペテロの説教を聞いて「私たちはどうしたら良いでしょうか」と言いました。ペテロが「悔い改めなさい」と勧めたら、3000人の人たちが信じてバプテスマを受けました。この時からキリスト教会が誕生したのです。

 主はどこにおられるのでしょうか?コロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」。Ⅰコリント619「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮である」と書かれています。つまり、私たちの間に、主が臨在してくださるということです。神さまは偏在なるお方でどこにでもおることができます。しかし、キリスト様を信じる共同体の中に臨在してくださるということです。歴史の中で主の御霊が激しく臨んだことが何度もあります。人々は主の臨在を肉眼でも見ることができました。病が癒され、盲人が見え、聾唖者が聞こえ、足なえが歩き、死人が生き返りました。これを私たちはリバイバルと呼んでいます。そのリバイバルを喜べない人たちが必ずいるものです。「神学的におかしい、これでは無秩序になる」と否定します。なぜなら、人々が倒れたり、痙攣したり、大きな声で笑ったり、ころがったりするからです。そういう現象だけを見て、主がなさっておられる御業を否定するのです。イエス様がおられたとき一番の敵は当時の宗教家たちでした。私たち教会は、リバイバルのためには伝統や制度、神学さえも捨てる覚悟がなければなりません。天が地上に侵略するときは、異状なことが起るのは当然であります。ビル・ジョンソンが書かれた『主の臨在をもてなす』から引用致します。「神ご自身をお招きするということ以上に大きな特権はない。そして、それ以上の責任もない。神は圧倒的に善であるお方、最高に尊厳があり、可能な限り驚異的なすばらしい方である。力強くかつ紳士的、積極的でありながら繊細な方。しかも完全でありながら、不完全な私たちを抱きしめて下さる。けれども、この神をお招きし、おもてなしをするという任務について気づいている人は少ない。神の臨在の現れなしに、私たちの個人や人格が完全になることはない。神をお招きするということを学ぶのは、私たちの任務の中心である」。

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2018年12月 7日 (金)

宗教的にならない コロサイ2:16-23 亀有教会牧師 2018.12.9

 この世の人たちは、キリスト教を宗教だと思っているかもしれません。宗教をどう捉えるかによって、異なりますが、私たちは宗教的にならないように心掛ける必要があります。イエス様と当時の宗教家たちとの間で反目があり、結局は彼らによって十字架につけられました。「私たちはキリスト教ではない」と主張したとしても、宗教になってしまう可能性はどうしてもあります。なぜなら、宗教は肉であり、生まれつきの人が好むものだからです。きょうは、どのようなことを注意したなら、宗教的にならないのか4つのポイントを上げたいと思います。

1.儀式

 どの宗教にも儀式があります。「どうしてそんなことをするの?」と、野暮な質問をしてはいけません。やっている当人も分からないからです。宗教には「タブー」と言われるものが必ずあります。あえて、それが何なのか問うてはならないのです。それでは「聖書には儀式がないのか?」というとあります。出エジプト記24章から40章までが儀式的な律法について書かれています。また、レビ記にいたっては、そのほとんどが儀式的なことです。民数記は、神に仕える人たちが勝手なことをしたために神さまに打たれた記事がいくつもあります。サウル王は祭司しかやっていけない犠牲をささげて、神さまから捨てられました。ウジヤ王は神殿に入って香を焚いたために、らい病になりました。儀式というのは端的に言うと、「聖なる神さまに私たちがどのように近づくのか」というきまりみたいなものです。前提として、私たちは罪と汚れに満ちているので、聖なる神さまのところには簡単に近づくことができないということです。そのため、第一は罪や汚れをきよめる犠牲が必要です。第二は、神さまと人々の間に立つ、祭司や大祭司が必要となります。第三は、儀式を行うための場所や、用具が必要となります。何も考えないで「儀式なんか不要だ、ナンセンスだ」と言って排除してはいけません。

でも、このところに儀式が不要である根拠が記されています。コロサイ2:16,17「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」祭りや儀式は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。それらはキリストの予表、型であり、本体が来たなら、不要になるということです。ヘブル人への手紙はユダヤ教からクリスチャンになった人たちのために書かれました。そこにはユダヤ人たちが大事にしていた、安息日、礼拝の規定、食べ物や飲み物、大祭司、犠牲などについて記されています。それら、すべてのものはキリストによって成就されました。キリストは罪のために一つの永遠のいけにえをささげて下さったので、私たちは聖なるものとされました。また、キリストはまことの大祭司であり、新しい契約の仲介者になられました。私たちはこのお方を通して、大胆に恵みの御座に近づくことが可能になったのです。残念ながら、ローマ・カトリックはこのことが分かっていません。犠牲の意味がこめられたミサをあげ、司祭がキリストの代わりをしています。一般の信者は直接、神さまのところには近づくことができません。

 それでは「私たち教会はどうなのか?」ということです。「礼拝学」と言う神学があります。良く言われるのが「恵みの手段」means of graceです。神さまに近づいて礼拝するための手段です。私たちはできるだけ礼拝をシンプルにしていますが、ある教会のプログラムを見たら20項目もありました。司会者が前に立ち、人々が立ったり座ったりします。彼らは「儀式ではありません。恵みの手段です」と言うかもしれません。でも、あまりにも項目が多すぎて、中心がぼやけてきます。イエス様は礼拝についてどのように答えておられるでしょうか?ヨハネ423,24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」大事なのは、どのように礼拝するかではありません。神さまが求めておられるのは礼拝者です。私たち自身です。キリストに贖われた私たち自身をささげることが真の礼拝なのです。恵みの手段の決定的なものは、霊とまことによって礼拝することです。Ⅰ歴代誌289「全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである」とあります。神さまの前で表面を飾る必要はありません。なぜなら、すべてがお見通しだからです。幸いなことに、私たちはイエス様によってすべての罪が贖われ、聖霊によって生まれ変わった存在です。新約の私たちは、霊とまことによって礼拝することが可能になりました。ハレルヤ!

2.自己否定

 キリスト教会で良く言われるのが自己否定と謙遜です。確かに聖書には「十字架を負って従いなさい」「古い自分に死になさい」と命じられています。でも、聖書の教えは自己否定で終わりません。イエス様は十字架で死なれましたが、三日目によみがえりました。同じように私たちも十字架で死んだ後には、必ず復活が来るのです。自己否定で一番有名な聖句はガラテヤ2章にあります。ガラテヤ219,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」アーメン。私たちは十字架につけられて一度死んだ存在です。でも、その続きがあります。ガラテヤ220後半「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。復活して、キリスト中心に生きている新しい自分がいます。十字架の死と復活はワンセットです。十字架の死だけを強調すると、苦しくなり、お葬式になります。なぜなら、十字架は自分を殺し、葬らせてくれる道具だからです。でも、死んだままでは神さまのために生きることができません。でも、神さまはイエス様を死からよみがえらせました。同じように私たちに十字架を適用すると、神さまが復活を与えてくださいます。パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ122と言いました。

 もう1つ言われるのが「謙遜」です。コロサイ218「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり…」コロサイ223「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか」と書いてあります。当時の人たちも、自己卑下とか謙遜を大事にしていたようです。でも、本当の謙遜とは自己を卑下することではありません。キリスト教会で良く聞くことばがあります。「私は何もできません」「私には全く価値がありません」「私は弱い者です」「私は罪が赦されただけの者です」「私はそれを受けるだけの資格がありません」「私はまだまだ、きよめられていません」「私は取るに足らない者です」…と言う方がいらっしゃいます。それが本当の謙遜であるかどうかテストする方法があります。「私は何もできません」という人には、「そうですね。あなたは何もできませんね」と言ってみましょう。「私は弱い者です」と言う人には、「そうですね。あなたは本当に弱いですね」と言ってみましょう。おそらく、真っ赤になって怒るでしょう。それを「わざとらしい謙遜」と言います。謙遜というのは本来そのような意味ではありません。

本当の謙遜は自分を卑下するのではなく、このようにしてくださった神さまを誇ることです。 たとえば、ここにある画家が描いた絵があるとします。もし、あなたが「その絵はヘタクソだ。つまらない」と酷評したらどうでしょう?それはその絵だけではなく、それを書いた画家を卑しめたことになります。もし、私が「私は何もできません。私には全く価値がありません」と言ったらどうでしょう?私を造られた創造主なる神を卑しめることになります。ウクライナに貧しい家庭で育ちましたが、ビジネスで成功し22歳で大富豪になった女性がいます。貧しい人たちを集めて、ビジネスに成功するためのNPOを立ち上げました。200人の人たちが学んでいますが、自分たちが金持ちになるだけではなく、政治や経済の指導者になることがゴールです。彼女は最高級のベンツに乗っています。車の後ろの窓に、最後の晩餐の絵と広告が書かれています。「私のように成功したかったら、ここに電話をして」と電話番号が書かれています。実はその電話は教会の電話番号だそうです。教会になじみのない人たちが、たくさんやって来て、キリストに出会うとともに、神の国の法則を知って豊かになっているそうです。私たちは世の光であり、地の塩です。この世に良い影響を与えるように生かされている存在です。自己卑下している暇はありません。私たちが信じているイエス様がどんなにすばらしいか生活とことばで証する必要があります。

3.戒律

コロサイ2:21,22「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか」そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」このように宗教には戒律が伴います。また、それを守れない場合は破門になったり、さまざまな罰が与えられます。宗教改革によって、教会政治は民主的になりました。特にジョン・カルバンは長老性を取り入れました。しかし、彼は厳しい戒規も設けました。ジュネーブにおいては、政治と宗教が一体化していましたので、破った者に対しては実刑も課せられました。歴史を経て、だいぶ軽くはなりましたが、「戒規」ということを明言している教会がたくさんあります。ウェブで調べたところ「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される、キリスト教会の教育、訓練の極端な形である。 教会戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階がある」とありました。英語で戒規はdisciplineであり、「罰する」という意味よりも、「訓練する」とか「矯正する」という意味です。パウロはⅡコリント7章で「悔い改めて立ち直るのをたすけるため」と書いています。しかし、教会の中でなされることは、世の中の裁判とは全く違うとも言っています(参考:Ⅰコリント61-8)。一般に「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される」と言われています。「誤った教理」で最も問題になるのは聖書の福音理解です。「キリストを信じるだけでは救われない。行いの実がない人たちは世の終わりにさばかれる」と主張する人は福音の根幹を揺るがすので絶対受け入れられません。また、「罪の行い」は世の中の犯罪のことを言うのではありません。教会という共同体を壊す罪が問題なのです。小さな罪と思われるゴシップ(噂話)は絶対良くありません。また、不品行や姦淫も共同体を壊す罪であります。

 しかし、戒規を執行するときに、私たちが忘れてはならないのは、その人自身の尊厳を傷つけてはならないということです。ダニー・シルクが書いた『尊敬の文化』という本からの引用です。ベテル教会の神学校の生徒が夏休み中に肉体関係を持ってしまいました。しかも、女子生徒が妊娠していることが分かりました。二人は処罰を受けるつもりで、二人の牧師のもとにやってきました。牧師が男性に質問しました。「あなたは何をしたんですか?」男子生徒は「ぼくの口から聞きたいんですか?」…その後、牧師は「ではそれに関して、できることは何かあるかな?」と聞きました。「何もありません!」。「わかりました。では何が問題なのですか?」「僕には質問の意図が分かりません」。ついに牧師が言いました。「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう?」「わかりません」。「悔い改めたのですか?」「ええ、もちろん悔い改めました」「では何を悔い改めたのかな?」しばらく沈黙が続いた後、彼は認めました「わかりません」。「そうだよね。問題はそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」…長い話を短くすると、男性は「怒っている人と一緒にいると相手の言いなりになりやすい」ということでした。一方、女性は「人間不信であり、他の人が自分をコントロールしていると思っていること」でした。その後、二人は自分たちを愛してくれた人たちのことを考えました。クラスメイトや両親家族のことです。二人は自分たちの過ちが周囲の人々を深く傷つけることに気づきました。二人はしくしく泣き続けました。処罰の恐れの中ではこのような体験はできなかったでしょう。それは外圧によってではなく、二人の内面から湧き出てきた麗しい体験でした。何かを二人に押し付けた者は誰もいませんでした。誰から悔い改めるように説得したわけでもありません。私たちが二人を信頼し、適切な質問をした結果、二人の内側に愛を尊敬が芽生え、それが悔い改めに結びついたのです。…人が罪を犯すと「恥」がべったりついたような気がします。そうすると尊厳がなくなり、卑屈になります。罪は罪として悔い改める必要があります。でも、その人の尊厳を回復してあげる必要があります。

私は、教会は決まりごとをできるだけ、少なくすべきだと思います。ある教会では、洗礼を受けて教会員になるために、「これこれのことを守ります」という誓約書にサインさせられるところがあるようです。十分の一献金とか、聖日礼拝なのでしょうか?私はそういうのが大嫌いです。パウロは「罪が戒めによって機会をとらえ、私のうちにあるむさぼりを引き起こしました」(ローマ78と言いました。つまり、戒律を多くすれば、人の中に潜んでいる罪が芽生えてくるということです。これは肉であり、天国に行くまで完全にはなくなりません。だから、私は教会の中ではできるだけ「きまり」を少なくして、あとは御霊によって導かれるように指導しているつもりです。ところがある教会の牧師は「教会では秩序が第一」と主張します。そのため、犯した罪に対してはきちんとした処罰を与えているようです。ある牧師は全会衆の前で、ある兄弟を除名した理由を伝えたそうです。私はそういう話を聞くととても悲しくなります。箴言144「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」教会に問題があるというのは、生きている証拠です。教会に新しい人がいっぱい来たら、必ず問題が起こります。静かで秩序立てられているのは生きていない証拠かもしれません。病院でも酸素マスクをつけた人たちが寝ている静かな病室もあります。一番、騒がしいのは産院です。新しい命が生まれているからです。教会は秩序を求めるよりも、リスクを犯してでもいのちを求めるべきだと思います。

4.難行苦行

 コロサイ2:23「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」ローマのサンクタ・スカラ教会には28段の大理石の階段があるそうです。伝説によれば、これらは、エルサレムから、すなわち、主イエスを十字架につけるために引き渡したピラトの家からローマに運ばれたものでした。その階段は、サンクタ・スカラ(聖なる階段)と呼ばれ、老いも若きも、富める者も貧しい者も、非常にゆっくりと昇ります。というのは、それが、非常に痛みを伴うことだからです。彼らは、功徳を得るためには、手と膝で昇らねばならないからです。一段昇るごとに、改悛者は祈りをささげます。彼らは、その様にしてすべての階段を昇ったなら、次第に罪が赦され、いつどこでか分からないが、赦罪を得るだろうと教えられていました。1511年、若い修道僧が、苦悩に満ちた良心に鞭打たれ、罪の重荷に押しつぶされそうになってローマに旅をしました。その熱心のうちに、彼は、重荷から自由にされ、神の愛顧を得ようと、その階段を昇るためにやってきたのです。彼は、大理石の石段に集まった人々に混ざって、忠実に、彼の祈りを繰り返しながら、手と膝で昇りはじめました。彼は、苦労して半ばまで昇った時、突然、魂の奥深くに「義人は信仰によって生きる」と宣言する声を聞きました。神の恵みのすばらしいメッセージが、その「聖なる階段」においてマルチン・ルターの心に届きました。そして、赦されていない罪の重荷が消え去りました。ルターは、キリストにあって、新しく造られた者となり、ローマ教会の迷信に基づく習慣のかせが解き放たれ、その後、彼は、罪の赦しと信仰のみによる義認のメッセージを喜んで語りました。アーメン。この世の人たちは救いを得るために、あるいは何らかの悟りを得るために難行苦行をしています。私たちクリスチャンはキリストがなされたみわざを、聖霊の啓示によって理解するとき、救いが与えられます。私たちは神の愛顧を得るために、何もしなくて良いということは何とすばらしいことでしょう。

 次に問題になるのは、救われた後の私たちです。私たちの中に罪の性質、肉が宿っているといことをかなり前のメッセージで語りました。パウロは「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言いました。仏教では煩悩を断つために、難行苦行をします。でも、煩悩がなくなったかと言うとそうではありません。また、雑草のように芽生えてきます。イエス様は日々、十字架を負って従ってきなさいと言われました。だから、私たちはパウロのように自分の肉を十字架につけて、従っていくしかありません。そうすれば、十字架の死が肉に適用され、キリストにあって生きることができるのです。さあに、神さまは、その肉を取り除くために、聖霊が人や環境を通して、私たちを按配しているこということ学びました。私たちが出会ういやなこと、いやな人、いやなもの、すべては偶然ではなく、私たちをきよめるための道具なんだということです。信仰の境地というのはあるのでしょうか?あります。Ⅰテサロニケ516,18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。

 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。ここにはっきりと「神があなたがたに望んでおられることです」と言われています。つまり、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝するようになったら、神さまが備えられたテストに合格したことになるのです。そうすると、いやなこと、いやな人、いやなものの一切が、すばらしいものに見えてきます。アーメン。

 これらはきよめられるためのものですが、父なる神さまは私たちを訓練するために、あえて苦しいところを通らされます。ヘブル1267「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」でも、これは訓練のための訓練ではありません。私たちは苦難を通して、忍耐強くなり、最後までやり通す強固な信仰が与えられます。ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」そうです。何にもゆるがない「平安な義」の実が与えられます。それは、私の神さまは、キリストにあって私を愛しておられるという揺るがない信頼感を持つことができるということです。神への信仰は、神への信頼と言い換えることができます。アーメン。

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2018年12月 2日 (日)

うしろのものを忘れ ピリピ3:12-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.2

 啓発セミナーでも「肯定的に、前向きに生きる」ということが言われます。もちろん、そうだと思いますが、私は聖書的な根拠、神さまの助けがあってのことだと思います。きょうは、聖書の人物やみことばを取り上げながら、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むことの重要性に関してメッセージしたいと思います。

1.うしろのものを忘れ

 私たちは忘れてはいけないものと、忘れた方が良いものとがあります。もちろん、私たちは神さまの恵みを忘れてはいけません。私たちは罪からの救いだけではなく、たくさんの恵みを受けてきました。これらを数えて、神さまに感謝をささげなければなりません。ところが、私たちは忘れなければならない過去の出来事を、何度も思い起こしては、憂鬱になることはないでしょうか?パウロは「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」と言っています。でも、重要な真理は、うしろのものを忘れないと、前のものに向かって進むことはできないということです。たとえば、みなさんの家にクロゼット(洋服ダンス)はおありでしょうか。私のクロゼットはシャツや洋服がいっぱいで、家内から「着ないものは捨てなさい」と注意されます。「いつか着るだろう」と思っても、2,3年着ないものもあります。ズボンもそうですが、はいてみると、ウエストのところがパンパンで「無理!」というのも何本もあります。クロゼットもタンスもそうですが、古いものを捨てないと、新しいものを入れることができません。「人生の棚卸」があるとしたら、前に向かって進むためには、使用価値のない古いものは捨てなければなりません。

 かなり前に『アナと雪の女王』というディズニーのアニメ映画がありました。その映画の主題歌がLet it go.です。日本語の歌詞は「ありのままで」ですが、本当はそうでありません。この英語の本当の意味は「手放す」「あきらめる」です。ジョエル・オスティーンのある本に、Let it goのことが書かれていました。私たちは時々、過去の嫌なことを思い出すことがあります。私を捨てた人、裏切った人、ひどいことをした人を思い出すことはないでしょうか?私たちは機械でありませんので、完全に忘れ去ることができません。何の前ぶれもなく、嫌なシーンが脳裏をかすめることがあります。しかし、ある人たちは、映画のDVDでも見るように、カウチを持ってきて、そこに座ります。そして、ポップコーンを食べながら、「ああ、そうだったよなー」と辛い思い出に浸ります。すると、昔の嫌な感情が再現されて、憂鬱になります。しかし、それは良くありません。私たちにはリモコンがあります。そういうシーンが出てきたら、チャンネルを変えるべきです。英語でfillipと言いますが、そのシーンをはじき飛ばすのです。そこに留まってはいけません。私たちは自分の心を守る必要があるからです。特にトラウマの場合は、とてもやっかいです。いきなり、お化けのように出てきます。これは私たちの意志ではどうしようもありません。たった1つだけ解決策があります。インドネシアのエディ・レオ師が教えてくれました。トラウマとか誘惑が浮かんで来たら、「ハレルヤ!主を礼拝します」と礼拝の時にするのです。そうすれば、一日、何度も神さまを礼拝することができます。不思議なことに、「ハレルヤ!主を礼拝します」を言うと、トラウマや誘惑はさっと消えてなくなります。

 ある人たちは、「私たちは過去から学ばなければならない」と言います。反省とか内省を強調する人たちもいます。しかし、ほどほどにしないと、私たちは前に進むことができません。車を運転する人なら分かりますが、私たちはどこを見て運転するでしょう。全面には、大きなフロントガラスwindshieldがあります。そして小さなバックミラー rearview mirrorがあります。室内の小さいものと、両脇にもあります。ほとんどの場合はフロントガラスを通して、走る方向を見て運転します。でも、たまにチラチラとバックミラーも見ます。バイクが横をすり抜けようとする時があるからです。でも、後ろばかり見ていると、前方不注意になって事故を起こします。人生も同じように、過去のことは小さなバックミラーです。これから先のことは大きなフロントガラスです。この比率が重要です。過去が1であるなら、これから先のことは9くらいでしょうか?しかし、年を取ると「昔は良かったなー」となり、過去が7で、これから先のことが3ぐらいになります。それは良くありません。最も良いことは過去にありません。最も良いことはこの先にあるのです。神さまはもっと良いことを私たちに体験させたいのです。夢と希望を失ったら、年齢に関係なく、その人は老人です。30歳で老人の人がおり、80歳でも青年の人がいるかもしれません。日野原先生は104歳で天に召されましたが、ずーっと青年でした。なぜなら、やるべきことがいっぱいあったからです。

 使徒パウロにとってうしろのものであり、忘れるべきものは何だったのでしょう?ピリピ35-7「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」パウロはきっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人でした。あまりにも熱心だったので、教会を迫害したほどでした。「律法による義についてならば非難されるところのない者です」と自負しています。おそらくパウロほど真面目な人はいないでしょう。しかし、パウロにとって、そういうものは忘れるべきものでした。Let it go. 「手放す」「あきらめる」です。以前は、パウロにとってそういうものは自分が誇るべきものであり、良いものだったのでしょう。でも、「私はキリストのゆえに、損と思うようになりした」と言っています。8節では「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と言っています。なぜなんでしょう?もし、そういうものを自分のクロゼットにしまいこんでいると、キリストのすばらしさを自分のものにできないからです。パウロはキリストを知るために、身分も、プライドも良いものも捨て去ったのです。

 私たちが捨て去るべきもので、過去の良いものがあるかもしれません。テレビでサッカーのメッシの豪華な自宅が映されていました。家にはゴールデン・ボールなど、いろんな賞が飾られていました。でも、最近の試合を見ると全盛期が過ぎたような感じがしました。あれだけ賞をもらうと、ハングリーさが欠けるんじゃないでしょうか?だけど、「あれだけやったらいいかな?」という誰もが思うでしょう。私たちは神さまの恵み、神さまのみわざを忘れてはいけません。でも、過去の思い出に浸っていると、神さまに対する期待とかチャレンジ精神がなくなることも確かです。私は亀有に赴任して31年になりました。ここ数年前から、断捨離(だんしゃり)をしています。最初に捨てたのが、礼拝のビデオとカセットテープです。DVDCDに全部コピーしました。ディボーション・ノート、セミナーの資料、本も捨てました。去る6月の役員会で、「音楽準備室にいらない機械がたくさんあります。処分してください」と言われました。ビデオプレイヤー、DVDプレイヤー、カセットのコピー機、OHP、全部で15くらいありました。それらを分解して、細かく砕いて、もえないゴミの日に出しました。これまで、いろんなセミナーに出席して学びましたので、カセットテープや資料のファイルがたくさんありました。それらを捨て去るのには勇気と信仰が必要でした。

 私たちの人生を振り返りますと、うまくいかなかったことがあります。あのときはうまくいくと思っていたのに、今はもう役に立たないというものがあります。英語でwork outは「うまくいく」と言う意味ですが、dont work out.「うまくいかない」「結果が出ない」ということがあります。認めるのは本当に辛いのですが、捨てるしかありません。亀有に来て31年、色んなことを学んでやってみたけど「何が残ったのか」「どれがうまくいくのか」考えてみました。最後に残ったのは、説教preachでした。弟子訓練、セル、インナーヒーリングをやってきましたが、説教だけが残りました。「私は説教者preacherとして神さまから召されているんだ。それで良いや」と思いました。みなさんもどうでしょうか?人生の棚卸をしてみましょう。いらないものは捨てましょう。過去の傷、トラウマ、失敗、嫌な思い出を捨てましょう。そうすると、「これだけは捨てられない。これこそが一番大切なものだ」というものが残るのではないでしょうか?金の採掘場をテレビで見たことがありますが、1トンくらいの岩から何グラムしか取れません。佐渡の砂金なども川の砂利をさらって、あるかないかです。私たちの人生も結構、いらないものがあるかもせれません。悪いものだけではなく、一見、良いものもあります。プライドとかトロフィーとか、賞状、資格、学位などです。パウロは何と言ったでしょう?ピリピ38「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」イエス・キリストを知っていることのすばらしさが、人生のどれほどのウェートを占めているでしょうか?イエス・キリストが人生のすべてであるなら、いらないもの、どうでも良いものがたくさんあるのではないでしょうか?どうでも良いものを捨てるなら、これから先、もっとすばらしいものを入れることができます。最も良いものは過去にではなく、これから先にあるからです。

2.前のものに向かって進む

 第二のポイントの題名を「目標を目指して」にすべきかと思いました。しかし、学校の時から目標を掲げても、実現したことがあまりないので、プレッシャーをかけないようにしました。本当の目標は自分でひねり出したり、だれかから押し付けられたりするものではありません。神さまがその気にさせてくれなければ何もできないからです。イエス様はヨハネ5章でこのように言われました。ヨハネ519,20「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」イエス様は贖い主でありますが、私たちの模範でもあります。イエス様は自分からではなく、いつも父なる神さまがしておられることを見て行いました。ご自分も神さまですから、やろうと思えばできたはずです。でも、あえてご自分を制限なさっておられました。それは私たちの模範となるためです。私たちも神さまと親しい交わりを持つなら、神さまがなすべき目標を与えて下さると信じます。

 後半は「前のものに向かって進む」と題してお話しします。イスラエルの民は40年間も荒野をさまよっていました。なぜなら、カデシュ・バルネアで攻め上らなかったからです。彼らは不信仰のゆえに、約束の地に入ることができませんでした。それから40年たち、新しい世代になりました。主はこのように言われました。申命記16,7「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。」ものすごい意味ありげな表現だと思います。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。」彼らがその山に長くとどまっていたのは、不信仰に対する神さまの呪いでした。でも、神さまは「向きを変えて、出発せよ」と言われました。人生にはいくつかの段階があります。「次のステップ」「次のステージ」「新しいシーズン」、みなそういうことを表現することばです。私も65歳なので、「次のステップ」に進むべきだと思っています。前半では「私は説教者preacherだ」と言いました。でも、欲を言うなら、日本のリバイバルのために用いられたいと思います。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルこそが聖書的であると信じます。カルフォルニアのベテル教会にsupernatural school超自然の学校があります。アメリカだけではなく、世界中から2000人の人たちが集まって学んでいます。私はそこに行けないので、ビル・ジョンソンを始め、何人かの本を原書で読んで学んでいます。「もうこれしかない」と最後の人生をかけています。私の人生は競馬で言うなら、第四コーナを回ったところです。あとは直線ですから、ただまっすぐ走るだけです。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルのために神さまから用いられたいです。

 私たちは前のものに向かって進むためには、犠牲を払う覚悟が必要です。周りの人たちの意見を聞いて、「これで良いや」と妥協してはいけません。創世記12章にはアブラハムの召命の記事があります。まだ、そのときは「アブラム」でしたが。主はアブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われました。どこという場所は示されず、ただ、「出発しなさい」と言われました。それで、アブラムは主がお告げになったとおりに出かけました。でも、創世記11章終わりには、アブラムのお父さんのことが書かれています。アブラムのお父さんはテラです。創世記1131,32「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。」たった2節から全部のことを掌握するのは無理です。でも、テラはカナンの地に行くためにカルデヤ人のウルから一緒にでかけました。何があったから分かりませんが、ハランまで来て、そこに住みついてしまいました。テラはそこで死にました。その後、息子であるアブラムにお声がかかったのです。彼はいくつだったでしょう?「アブラムがハランを出たときは、75歳であった」(創世記124と書かれています。その頃は、現代よりも少し長生きしたかもしれませんが、それでも75歳ですから良い年です。アブラハムの良いところは、どこに行くのかを知らないで、出て行ったことです(ヘブル118)。新約聖書ではアブラハムの信仰が賞賛されています。

 私自身が感じているのですが、年を取ってくると情熱が失われるのではないかと思います。若い人は「何かをしたい」と夢を抱きますが、すばらしいことだと思います。前のものに向かって進むためには、夢や幻、そして情熱が必要です。年を取ってくると「現実は難しい」と思うようになります。なぜなら、これまでさんざん失敗して、苦い思いをしてきたからです。そのため「新しいことをしよう」という意欲がわきません。教会でも「こうしたい」「ああしたい」とアイディアを出す人がいますが、「うらやましいなー」と思います。私は「チャレンジ精神がなくなってしまったなー」と情熱のなさにがっかりします。これで終わってしまうと、年寄りの憂さ晴らしで終わってしまいます。ところで、情熱という英語は、enthusiasmですが、もともとは、2つのギリシャ語からなっています。エンとセオスです。エンは「〇〇の中に」です。セオスは「神」です。2つを合わせると、「神の中に」「神がかった」という意味になります。つまり、神さまがその人に情熱を与えるときは、年齢は関係ないということです。使徒2章に「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。つまり、聖霊が注がれると預言したり、幻や夢を見るということです。テモテはパウロの弟子ですが、激務のため、肉体的にも精神的に弱るときがあったようです。パウロは何と言ったでしょうか?Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」昔、七輪でお魚を焼いたことがあります。火が弱くなると、炭火をかき混ぜると酸素が入って、また火が強くなります。私たちは聖霊の油注ぎが必要です。イギリスのチャールズ・スポルジョンがこう言いました。「私たちは絶えず聖霊の油注ぎを受ける必要があります。なぜなら、漏れるからです」と。そうです。この世で生きていると、油注ぎがなくなり、情熱も失せてきます。だから、新たに聖霊の油注ぎを受ける必要があるのです。そうしたら、情熱も一緒に湧いてきます。

最後にハーランド・サンダースという人のお話しをさせていただきます。父親が5歳の時に亡くなり、彼は小学校の途中で行かなくなりました。何年もの間、職をとっかえ、ひっかえ、住まいを転々しました。そして、ガソリンスタンドのそばで、レストランを始めました。このレストランがほどなくしてはやりだし、通りの向こうにあった大き目の建物へと店舗を移しました。しかし数年後、火災によって店は全焼してしまいました。しかし、彼は焼け跡で、またゼロから再び店を始めました。彼の作るフライドチキンには11種類の秘伝のハーブとスパイスが使われており、その他にはない味が、多くの人々の心をつかみました。やがてその功績が認められ、ケンタッキー州知事はこのハーランドに「カーネル(大佐)」を名乗ることをゆるしました。カーネルが、もう仕事としては引退してもおかしくない60代にさしかかった頃のことです。ケンタッキーの彼の小さな町を高速道路が横切るようになり、交通の流れがそちらに取られて人通りが少なくなりました。そこが過疎地になり、カーネルのレストランは経営不振に陥り、結局は閉店へと追い込まれました。60代ともなれば、もう第一線を退いてもおかしくありません。やめてしまえば済むことなのです。でも、彼はその道を選びませんでした。カーネルは、「神様というお方はこの状況に対しても解決の道をお持ちのはずだ」と希望を捨てませんでした。

カーネルがレストランをたたみ、借金を全額返済し終わった時、彼の手元には105ドル(日本円にして3万円程度)しか残りませんでした。それが、その時の全財産でした。カーネルは今までの住み慣れた場所に見切りをつけ旅立ちました。決まった住所などありません。彼は唯一の持ち物であるトラックにフライドチキンを揚げるためのフライヤーを載せて、町から町へ売る旅に出たのです。そんな旅を続け、カーネルが70代にさしかかった頃です。「あの車で売りにくるカーネルとやらの揚げるチキンは、うまいらしいぞ!」といううわさがアメリカ中に広まりました。ついにカーネル・サンダースは自身の特別なチキンを『ケンタッキー・フライドチキン』と名付け、アメリカとカナダ全土にたくさんの店舗が建てられる運びとなったのです。今日では、KFCという略称で親しまれ、世界中に11万以上の店舗があると言われています。神様は、最終的には見事に彼の損失を回復してくださいました。カーネルの人生は、その全貌が見えるまでの通過点において、何とひどい人生だと見えたかもしれません。もう終わりだ。もう進めない。カーネルのような体験をすれば、そんなあきらめや絶望の思いに囚われるのは、いともたやすいことだったでしょう。でも、神様は、彼の失った機会や時間を取り戻させることのできるお方なのです。カーネルは、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む人物の模範です。私たちも神さまから目標と情熱をいただいて、前のものに向かって進みたいと思います。

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2018年11月24日 (土)

安息日を守る 出エジプト10:8-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.25

 

 前回はモーセの十戒を新約の私たちはどのように守ったら良いのかお話ししました。きょうは十戒の4番目を取り上げ、その意味を調べつつ、私たちのものにしたいと思います。律法は永遠であるとイエス様がおっしゃったので、異邦人である私たちは完全に無視をすることはできません。キリストの贖いを通して、律法を学ぶなら、そこに神さまのすばらしい約束を得ることができると信じます。

 

1.休みを取る

 

 安息日を守るとは、rest休みを取るということです。出エジプト記20章には、「六日間、働いても良いが、七日目は休め」と命じられています。その理由は、神さまの創造に由来しています。出エジ2011「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」とあります。人が造られたのは、6日目です。ですから、人が最初にしたことは、7日目の休むということでした。休みからスタートしたというのは、とても興味深いことです。ところで、安息日のヘブライ語の意味は「シャッバース」です。このことばは「やめる」あるいは「休む」に由来しています。安息日は神さまとイスラエルが結んだ契約に基づいています。彼らにとって安息日は土曜日です。ここで、重要なことは、6日働いても良いけれど、1日は休みの日にするということです。しかし、「聖なる日とせよ」と言われているので、「創造主なる神さまを覚えるために、この日を聖別せよ」という意味がこめられています。ですから、イエス様が地上におられた頃は、ユダヤ人が安息日を会堂で守っていました。そこでは律法が朗読され、人々が神さまを礼拝しました。残念ながら、安息日を守ることが絶対化され、人の生活を束縛していました。イエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」(マルコ227)と意味を正されました。つまり、何が何でも守らなければという律法主義を排して、人が生きるために重要であることを教えられたのです。ということは、私たち異邦人も、6日働いて、1日休むということが必要であるということです。

 

 ところが、日本人は休むということの必要性をあまり理解していません。昔、奉公人は年に2日しか休みがなかったそうです。「藪入り」と言って、正月とお盆だけでした。第二次世界大戦後、労働基準法の強化により、日曜日を休日とするようになりました。しかし、これがキリスト教からきたということをほとんどの人は知りません。日本は西洋の文化の良いところだけを取り入れて、その根底に流れている精神(価値観)を排除してきたようです。そのため、休みを取るということの意味が分かりません。そして、勤勉こそが善であり、休むことが悪であるみたいに思われています。そのため、働き中毒になる人が大勢います。また、長時間労働を強いられて、自殺者まで出ている状況です。「働き方改革」と言われていますが、それは残業を減らすという意味ではないそうです。労使の合意があれば、どれだけ残業をしても良いという仕組みになっているとインターネットに書いてありました。日本人はどこの国よりも、勤勉な民族です。でも、日本人の多くは天と地と私たちを創造された神さまを知りません。そのために、「自分たちが一生懸命働かなければ食っていけない」という考えがあります。夢を追い求める子どもに対して、親は「それで食っていけると思っているのか」と言うのではないでしょうか?日本人には「食べて行けるか」という強迫観念に駆られて、休む間もなく働くところがあります。また、男性の単身赴任が当たり前で、妻や子どもたちが犠牲になっています。詩篇127篇は勤勉な日本人に対してとても重要なみことばだと思います。詩篇1271-3「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」天地を創られた主がおられるので、休んでも大丈夫だということです。主は私たちが眠っている間も、必要なものを備えてくださいます。

 

 1週間に1日休むということは、私たちの心と体のために必要であるということです。なぜなら、神さまがそのように私たちを造られたからです。かつてアメリカ大陸に移住した人たちのほとんどは、大西洋側に住んでいました。当時のアメリカ政府は「カルフォルニアに金が良く出る土地があるから希望者は移住するように。だれでもそこに移住して自分の望むだけの土地に杭を打ち込めば、その打ち込んだところはその人の土地になる」と知らせました。すると多くの人々がこの良いニュースを聞いて、全財産と家族をほろ馬車に積んで移住することになりました。カルフォルニアまでは何か月もかかる大旅行でしたが、だれもが一足先に到着して、最も良い土地を自分の欲しいだけ得るために、目の色を変えて目的地に馬車を走らせました。ほとんどの人があまり休むこともなく日夜旅行しましたが、その中のキリスト教の牧師だけは違っていました。土曜日の夕方には馬を車から解放し、馬車の手入れをし、次の日曜日は休んで神さまを礼拝しました。そして、月曜日から土曜日まで旅行をしました。他の人々は日曜日も休まず目の前に置かれている良い地を得るために前進しました。こうして幾月かの後、カルフォルニア州の目的地に一番先に到着して、最も良い地を手に入れたのは、日曜ごとに礼拝して進んだ牧師の家族でした。牧師の家族はみんな健康であり、馬も丈夫で、馬車の破損もありませんでした。他の人々はどうだったでしょう?着いた人々は疲れ果て、ある人は病み、ある馬車は途中で壊れ、ある馬は過労のために倒れて、実に悲惨な状態であったそうです。

 

 私たちの人生も同じことです。聖書には「6日間働き、7日目にはすべてのわざを休んで神さまを礼拝しなさい」と書かれています。人間は「休め」と命令されなければ、休めない愚かな存在かもしれません。でも、神さまは私たちをそのように造られたのです。天の父は、天と地とその中のすべてのものを創造した後、私たちにそれらを与えてくださいました。もし、天の父がいないとするなら、その人はみなしごであり、自分しか頼れないので、休まずに働くしかありません。でも、イエス様は「あなたがたの天の父が養ってくださる」と言われました。

 

2.神を礼拝する

 

 安息日を守るとは、service神を礼拝するということです。モーセの十戒では安息日が土曜日であり、仕事をしてはいけない日でした。イエス様の時代はどのくらいの距離まで歩いて良いか、どういうことが労働になるか細かく定められていました。驚くべきことに、イエス様はあえて安息日に人々を癒されました。会堂に来ている人の中に、片手のなえた人、腰の曲がった人、悪霊につかれた人が混じっていました。イエス様は安息日に会堂で教えていましたが、その後、癒しと解放を行われました。会堂管理者は憤って、「働いて良いのは六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日にはいけないのです」と言いました。イエス様は「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やロバを小屋からほどき、水を飲ませに行くではありませんか」(ルカ1314,15)と言われました。他の場所では、「羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか?…安息日に良いことをすることは、正しいのです」(マタイ1211-12)と言われました。イエス様は人々に本当の安息を与えようと、あえて安息日に人々を癒されたと言っても過言ではありません。イエス様は人々にこう言われました。マタイ1128「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この「休ませてあげる」は、「休息を与える」「元気づける」という意味です。私たちはこのように礼拝に集まっていますが、イエス様が私たちの間を歩き回り、病の人を癒し、悪霊に縛られている者を解放するために、働いておられます。

 

 朝早く、婦人たちが墓に行くと、死んだはずのイエス様のおからだがありませんでした。イエス様は三日目によみがえられたのです。それ以来、教会は日曜日を安息日礼拝に取り換えました。聖書では命じられていませんが、弟子たちと初代教会は「週の初め」すなわち日曜日を、復活の主をお祝いするために集まるようになりました。それが、2000年以上も続いているのです。中には「土曜日こそが安息日礼拝の日である」と礼拝を守っているグループもいます。彼らは、旧約聖書の他の戒めも守っており、「どうなんだろう?」と思います。旧約聖書の律法はイスラエルに対して与えられたのであり、新約の教会のために、文脈化する必要があるのではないかと思います。私はユダヤ教のシナゴーグ(会堂)には行ったことはありませんが、私たちとどのような違いがあるのでしょう?ヤコブは「倒れたダビデの幕屋を立て直す…異邦人がみな主を求めるようになる」(使徒1516-17)と言いました。ダビデが行った礼拝はとても賑やかでした。数多くの楽器を用いて、手を叩き、歌い、踊ったりもしました。現代の教会はそのことを再発見して、礼典的な礼拝ではなく、祭典的な礼拝をするようになりました。「イエス様の復活を喜び、お祝いする」ことが中心になりました。式文や朗読文をやめて、神さまがなされたことを宣言するようなメッセージになりました。イエス様がルカ4章で「主の恵みの年を告げ知らせるために」と言われました。これは「ヨベルの年のラッパを吹く」という意味です。私たちは礼拝で、キリストにある救いと癒しと解放を告げ知らせるのです。

 

 礼拝を英語でserviceとも言います。もちろん、神さまに仕えることなのですが、なぜ礼拝をserviceと言うのでしょうか?おそらく、このことばはローマ121から来ているのではないかと思います。ローマ121「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ここで言われている「礼拝」は、「膝をかがめる」「ひれ伏す」という意味のギリシャ語ではありません。ラトリューオウで、「仕える」「奉仕する」「献身する」という意味があります。英語の聖書ではserviceと訳されています。ですから、礼拝の中で行う、賛美、奏楽、祈り、献金、受付、送迎…みんなserviceなんであります。私の説教もserviceの中の1つです。でも、聞く人はどうなんでしょうか?30分、じっと耳を傾けるというのも大変な労働であり、serviceです。でも、ラトリューオウはこういう集まりだけではなく、日常生活の中で、神さまを礼拝しながら生きるという意味が強いことばです。私たちが家庭や職場、地域社会で神と人々に仕えながら礼拝しているのです。でも、プロテスタント教会で忘れてしまいがちなのが、日曜日が主日と強調するあまり、休息しないということです。特に、日本の福音派の教会は朝早く教会に来て、日曜学校、礼拝、奉仕、小グループ、夕拝(夜の伝道集会)を守り、夜遅く帰るというのがザラでした。日曜日、全く休んでいないとしたらどうなんでしょう?それでは、安息日になっていません。

 

 私は30歳の頃、日本人6人が招かれ2か月間アメリカに行ったときがあります。旅行の終わり頃、パサディナの教会の礼拝に出席しました。お昼帰ってきました。家の主人は簡易ベッドで寝ていました。男たちは、何をしたでしょう。なんと庭にプールがありました。飛び込み台もあり、お昼から夕方までプールにジャンプしながら泳いでいました。そして、口々に言いました。「日曜日の午後、こんなにゆっくりして良いのだろうか」と。その頃、私は座間キリスト教会で教会主事として働いていました。朝7時、9時、11時と礼拝があり、日曜学校も各地にありました。午後は青年会、聖歌隊などの集まり、夜はスタッフが説教しました。その後、反省会を持ち、帰るのが10時半頃になりました。午前中の大川牧師の説教はみんながほめます。ところが、夜のスタッフの説教は自分が当番のときは針のむしろです。大川牧師の奥さんから先生に「早く帰ってきなさい」と電話があります。大川牧師は「何言っているんだ。今が一番楽しい時なんだ」と言っていました。スタッフとして働いていたころよりも、一教会の牧師の方がずっと楽です。日曜日、私の場合は特別ですが、家庭をお持ちの方は、日曜日はさっさとお家に帰るのが良いと思います。未信者のご主人や子どもたちが、「お昼、何も食べるものがない」と泣いているかもしれません。日曜日の奉仕も重要ですが、休むということもちゃんと考えなければなりません。昔の教会では子どもたちが「お父さんとお母さんは信仰熱心だけど、同じようになりたくない」と言ったようです。そうではなく、「日曜日は休むためにもある」ということを忘れないようにしたいと思います。「日曜礼拝を守れ」と言うし、一方では「日曜日に休め」と言われます。この両立が大事です。

 

3.聖霊の導きで生きる

 

 安息日を守るとは、lifestyle生活様式なのです。旧約聖書で安息の地はカナンでした。ヨシュア記113口語訳「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたのために安息の場所を備え、この地をあなたがたに賜わるであろう』と言った言葉を記憶しなさい。」新約聖書にも同じことばが出てきます。ヘブル人3章に「安息」ということばが2回使われています。エジプトから脱出した第一世代は、不信仰のゆえに安息に入ることができませんでした。ヘブル4章には「安息」と「安息日」が6回出てきます。1種類はヨシュアたちが入った「カナン」であり、もう1種類は救われた人たちが行く「天の御国」です。つまり、安息の地はカナンであり、また天の御国でもあります。きょう取り上げたいのは、ヨシュアたちが入った安息の地、カナンについてです。安息の地、カナンは、どのようなところだったでしょうか?ヨシュアたちはカナンに攻め上り、先住民を追い出す必要がありました。ヨシュアたちは領土を勝ち取るために戦わなければなりませんでした。でも、その戦いは、一般に私たちが考える戦いとは違っていました。なんと、主が既にその地を彼らに与えておられました。そして、主はヨシュアに「あなたの行く所どこにでも、あなたと共にある」と約束されました。つまり、主に従っていくならば、勝利できるということです。なぜなら、それは主の戦いであり、主が戦ってくれたからです。エリコを責めるときも、常識を超えた戦いでした。エリコの城壁の周りをだまって11回まわるだけです。それを6日間続けます。そして、7日目には7回まわり、最後にラッパを吹き鳴らし、「わー」と叫びます。それで城壁が崩れ去り、町を攻め取ることができました。ヨシュアたちは主の命令に従うことによって勝利することができました。

 

 新約の私たちが安息の地に入りたいなら、聖霊に導かれて進む必要があります。言い換えると自分の考えや肉のがんばりではなく、聖霊に信頼して歩むということです。そうすれば、安息を得ながら、信仰生活を送ることができます。それこそが、安息日を守ることであり、安息日がライフスタイルになります。516,17日に21世紀教会でリバイバル・スクールがありました。カルフォルニアからチェ・アン牧師が来られメッセージをしてくださいました。先生のお父さんは韓国からの移民であり、週末は牧師をし、月曜日から金曜日までは技術者として働きました。さらには、レストランを買い取って経営しました。お父さんは一日も休んだことがなく、家族でバケーションに行ったこともなく、安息の良い模範ではなかったそうです。その息子さんチェ先生は若い頃とても荒れた生活をし、麻薬にもはまっていました。ところが30代後半に献身して牧師の道を歩みました。でも、牧会9年目、1992年(46歳)完全に燃え尽きてしまいました。フラー神学校で8年間学び、修士号と博士号を取りました。ところが学びを終えて、うつになり、主任牧師のところに辞表を出しました。先生は、世界一物価の高いカルフォルニアで4人の子どもを育て、牧会しながら神学校で勉強していました。カルフォルニアを出て、友人が住んでいるコロラド・スプリングスのような田舎に行こうと思いました。でも、あることが起こりました。1994年のことです。ここからは、先生のメッセージをそのままお届けします。

 

聖霊様が私の人生に訪れて下さいました。私は再び新生を体験したように思いました。聖霊が川のように流れていました。私はその川の中で神さまと契約を結びました。「私は今流れている川に飛び込みます。そこに留まります。そして、その川が流れて行くところどこへでも行きます。」それはエゼキエル47章に書かれているような川です。御使いが預言者エゼキエルを、聖所のところから流れる川に導いて行きました。川が流れるところではすべてものが生きます。実際にそのような川はありません。ヨルダン川はエルサレムの周りに流れていますが、エルサレムの真ん中から流れていく川はありません。それは霊的な川を表わしています。それは力強い聖霊の働きが聖所から流れることを表しています。御使いがエゼキエルを導いていくと、その川は足首の深さ、それから膝の深さ、腰の深さになりました。そして、流れていくとそれは渡ることのできない川になりました。私たちの足首、膝、腰のあたりまでは、私たちがコントロールできる水の深さです。そこで歩くこともできます。でも、最後にはそれさえできなくなって、泳いで水の流れのままにエゼキエルを運んでいくほどの川となりました。神さまは「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ46とおっしゃいました。19941月に聖霊が注がれて、「2月に教会をはじめなさい」と言われました。19944月に教会を始めました。「私たちは聖霊様が導かれるままに何でもします」と約束しました。

 

その後、どうなったでしょう?先生の本にこのように書かれています。「自宅の祈り会に30人が集まりました。翌週は65人集まり、リビングルームとダイニングルームが満杯になりました。1か月後に建物を借りて公式な集会を持ち、300人集まりました。その後、パサディナで一番大きな施設を借りることにしました。199512日から、ジョン・アーノットを迎え、リニュアル集会を持ちました。初日、2000名余りの人々が詰めかけました。知人に加えて、一度も来たことのないような人たちが何百人も来たようでした。神の力が下りました。聖霊の電撃のような臨在が会場に満ち、しるしと不思議と癒しが伴いました。霊的な刷新が本当に起こりました。私たちの教会だけでなく、大パサディナ地域に、です。その働きは、今では世界中に広がっています。今振り返ると、私たちが目にしたものは、リバイバルだったと言うべきかもしれません。」アーメン。本当に私もあやかりたいと思います。これが、聖霊の導きで生きる人生の実であります。自分の努力や肉の力でやってもある程度のことはできるでしょう。でも、うつと燃え尽きになるならば、それは安息日を生きていることにはなりません。十分休息を得ながらも、神さまの働きが進むなら何とすばらしいでしょう。それはやはり、聖霊に満たされ、聖霊の導きで生きることであります。チェ・アン師が最も大事にしているみことばは、ゼカリヤ46「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって」です。疲れている時は大胆に休みましょう。休むことに罪悪感を持ってはいけません。でも、その休みは単なる休みではなく、神さまと親しく交わり、神さまから力をいだたいている時でもあります。そして、再び立ち上がり聖霊に導かれて生きるのです。

 

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