2018年12月 7日 (金)

宗教的にならない コロサイ2:16-23 亀有教会牧師 2018.12.9

 この世の人たちは、キリスト教を宗教だと思っているかもしれません。宗教をどう捉えるかによって、異なりますが、私たちは宗教的にならないように心掛ける必要があります。イエス様と当時の宗教家たちとの間で反目があり、結局は彼らによって十字架につけられました。「私たちはキリスト教ではない」と主張したとしても、宗教になってしまう可能性はどうしてもあります。なぜなら、宗教は肉であり、生まれつきの人が好むものだからです。きょうは、どのようなことを注意したなら、宗教的にならないのか4つのポイントを上げたいと思います。

1.儀式

 どの宗教にも儀式があります。「どうしてそんなことをするの?」と、野暮な質問をしてはいけません。やっている当人も分からないからです。宗教には「タブー」と言われるものが必ずあります。あえて、それが何なのか問うてはならないのです。それでは「聖書には儀式がないのか?」というとあります。出エジプト記24章から40章までが儀式的な律法について書かれています。また、レビ記にいたっては、そのほとんどが儀式的なことです。民数記は、神に仕える人たちが勝手なことをしたために神さまに打たれた記事がいくつもあります。サウル王は祭司しかやっていけない犠牲をささげて、神さまから捨てられました。ウジヤ王は神殿に入って香を焚いたために、らい病になりました。儀式というのは端的に言うと、「聖なる神さまに私たちがどのように近づくのか」というきまりみたいなものです。前提として、私たちは罪と汚れに満ちているので、聖なる神さまのところには簡単に近づくことができないということです。そのため、第一は罪や汚れをきよめる犠牲が必要です。第二は、神さまと人々の間に立つ、祭司や大祭司が必要となります。第三は、儀式を行うための場所や、用具が必要となります。何も考えないで「儀式なんか不要だ、ナンセンスだ」と言って排除してはいけません。

でも、このところに儀式が不要である根拠が記されています。コロサイ2:16,17「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」祭りや儀式は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。それらはキリストの予表、型であり、本体が来たなら、不要になるということです。ヘブル人への手紙はユダヤ教からクリスチャンになった人たちのために書かれました。そこにはユダヤ人たちが大事にしていた、安息日、礼拝の規定、食べ物や飲み物、大祭司、犠牲などについて記されています。それら、すべてのものはキリストによって成就されました。キリストは罪のために一つの永遠のいけにえをささげて下さったので、私たちは聖なるものとされました。また、キリストはまことの大祭司であり、新しい契約の仲介者になられました。私たちはこのお方を通して、大胆に恵みの御座に近づくことが可能になったのです。残念ながら、ローマ・カトリックはこのことが分かっていません。犠牲の意味がこめられたミサをあげ、司祭がキリストの代わりをしています。一般の信者は直接、神さまのところには近づくことができません。

 それでは「私たち教会はどうなのか?」ということです。「礼拝学」と言う神学があります。良く言われるのが「恵みの手段」means of graceです。神さまに近づいて礼拝するための手段です。私たちはできるだけ礼拝をシンプルにしていますが、ある教会のプログラムを見たら20項目もありました。司会者が前に立ち、人々が立ったり座ったりします。彼らは「儀式ではありません。恵みの手段です」と言うかもしれません。でも、あまりにも項目が多すぎて、中心がぼやけてきます。イエス様は礼拝についてどのように答えておられるでしょうか?ヨハネ423,24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」大事なのは、どのように礼拝するかではありません。神さまが求めておられるのは礼拝者です。私たち自身です。キリストに贖われた私たち自身をささげることが真の礼拝なのです。恵みの手段の決定的なものは、霊とまことによって礼拝することです。Ⅰ歴代誌289「全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである」とあります。神さまの前で表面を飾る必要はありません。なぜなら、すべてがお見通しだからです。幸いなことに、私たちはイエス様によってすべての罪が贖われ、聖霊によって生まれ変わった存在です。新約の私たちは、霊とまことによって礼拝することが可能になりました。ハレルヤ!

2.自己否定

 キリスト教会で良く言われるのが自己否定と謙遜です。確かに聖書には「十字架を負って従いなさい」「古い自分に死になさい」と命じられています。でも、聖書の教えは自己否定で終わりません。イエス様は十字架で死なれましたが、三日目によみがえりました。同じように私たちも十字架で死んだ後には、必ず復活が来るのです。自己否定で一番有名な聖句はガラテヤ2章にあります。ガラテヤ219,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」アーメン。私たちは十字架につけられて一度死んだ存在です。でも、その続きがあります。ガラテヤ220後半「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。復活して、キリスト中心に生きている新しい自分がいます。十字架の死と復活はワンセットです。十字架の死だけを強調すると、苦しくなり、お葬式になります。なぜなら、十字架は自分を殺し、葬らせてくれる道具だからです。でも、死んだままでは神さまのために生きることができません。でも、神さまはイエス様を死からよみがえらせました。同じように私たちに十字架を適用すると、神さまが復活を与えてくださいます。パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ122と言いました。

 もう1つ言われるのが「謙遜」です。コロサイ218「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり…」コロサイ223「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか」と書いてあります。当時の人たちも、自己卑下とか謙遜を大事にしていたようです。でも、本当の謙遜とは自己を卑下することではありません。キリスト教会で良く聞くことばがあります。「私は何もできません」「私には全く価値がありません」「私は弱い者です」「私は罪が赦されただけの者です」「私はそれを受けるだけの資格がありません」「私はまだまだ、きよめられていません」「私は取るに足らない者です」…と言う方がいらっしゃいます。それが本当の謙遜であるかどうかテストする方法があります。「私は何もできません」という人には、「そうですね。あなたは何もできませんね」と言ってみましょう。「私は弱い者です」と言う人には、「そうですね。あなたは本当に弱いですね」と言ってみましょう。おそらく、真っ赤になって怒るでしょう。それを「わざとらしい謙遜」と言います。謙遜というのは本来そのような意味ではありません。

本当の謙遜は自分を卑下するのではなく、このようにしてくださった神さまを誇ることです。 たとえば、ここにある画家が描いた絵があるとします。もし、あなたが「その絵はヘタクソだ。つまらない」と酷評したらどうでしょう?それはその絵だけではなく、それを書いた画家を卑しめたことになります。もし、私が「私は何もできません。私には全く価値がありません」と言ったらどうでしょう?私を造られた創造主なる神を卑しめることになります。ウクライナに貧しい家庭で育ちましたが、ビジネスで成功し22歳で大富豪になった女性がいます。貧しい人たちを集めて、ビジネスに成功するためのNPOを立ち上げました。200人の人たちが学んでいますが、自分たちが金持ちになるだけではなく、政治や経済の指導者になることがゴールです。彼女は最高級のベンツに乗っています。車の後ろの窓に、最後の晩餐の絵と広告が書かれています。「私のように成功したかったら、ここに電話をして」と電話番号が書かれています。実はその電話は教会の電話番号だそうです。教会になじみのない人たちが、たくさんやって来て、キリストに出会うとともに、神の国の法則を知って豊かになっているそうです。私たちは世の光であり、地の塩です。この世に良い影響を与えるように生かされている存在です。自己卑下している暇はありません。私たちが信じているイエス様がどんなにすばらしいか生活とことばで証する必要があります。

3.戒律

コロサイ2:21,22「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか」そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」このように宗教には戒律が伴います。また、それを守れない場合は破門になったり、さまざまな罰が与えられます。宗教改革によって、教会政治は民主的になりました。特にジョン・カルバンは長老性を取り入れました。しかし、彼は厳しい戒規も設けました。ジュネーブにおいては、政治と宗教が一体化していましたので、破った者に対しては実刑も課せられました。歴史を経て、だいぶ軽くはなりましたが、「戒規」ということを明言している教会がたくさんあります。ウェブで調べたところ「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される、キリスト教会の教育、訓練の極端な形である。 教会戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階がある」とありました。英語で戒規はdisciplineであり、「罰する」という意味よりも、「訓練する」とか「矯正する」という意味です。パウロはⅡコリント7章で「悔い改めて立ち直るのをたすけるため」と書いています。しかし、教会の中でなされることは、世の中の裁判とは全く違うとも言っています(参考:Ⅰコリント61-8)。一般に「戒規とは誤った教理、罪の行い、に対して行使される」と言われています。「誤った教理」で最も問題になるのは聖書の福音理解です。「キリストを信じるだけでは救われない。行いの実がない人たちは世の終わりにさばかれる」と主張する人は福音の根幹を揺るがすので絶対受け入れられません。また、「罪の行い」は世の中の犯罪のことを言うのではありません。教会という共同体を壊す罪が問題なのです。小さな罪と思われるゴシップ(噂話)は絶対良くありません。また、不品行や姦淫も共同体を壊す罪であります。

 しかし、戒規を執行するときに、私たちが忘れてはならないのは、その人自身の尊厳を傷つけてはならないということです。ダニー・シルクが書いた『尊敬の文化』という本からの引用です。ベテル教会の神学校の生徒が夏休み中に肉体関係を持ってしまいました。しかも、女子生徒が妊娠していることが分かりました。二人は処罰を受けるつもりで、二人の牧師のもとにやってきました。牧師が男性に質問しました。「あなたは何をしたんですか?」男子生徒は「ぼくの口から聞きたいんですか?」…その後、牧師は「ではそれに関して、できることは何かあるかな?」と聞きました。「何もありません!」。「わかりました。では何が問題なのですか?」「僕には質問の意図が分かりません」。ついに牧師が言いました。「もし今日、問題解決に時間をかけるとしたら、その問題とは何だろう?」「わかりません」。「悔い改めたのですか?」「ええ、もちろん悔い改めました」「では何を悔い改めたのかな?」しばらく沈黙が続いた後、彼は認めました「わかりません」。「そうだよね。問題はそこだよね。何が問題なのか分かっていなければ悔い改められないよね」…長い話を短くすると、男性は「怒っている人と一緒にいると相手の言いなりになりやすい」ということでした。一方、女性は「人間不信であり、他の人が自分をコントロールしていると思っていること」でした。その後、二人は自分たちを愛してくれた人たちのことを考えました。クラスメイトや両親家族のことです。二人は自分たちの過ちが周囲の人々を深く傷つけることに気づきました。二人はしくしく泣き続けました。処罰の恐れの中ではこのような体験はできなかったでしょう。それは外圧によってではなく、二人の内面から湧き出てきた麗しい体験でした。何かを二人に押し付けた者は誰もいませんでした。誰から悔い改めるように説得したわけでもありません。私たちが二人を信頼し、適切な質問をした結果、二人の内側に愛を尊敬が芽生え、それが悔い改めに結びついたのです。…人が罪を犯すと「恥」がべったりついたような気がします。そうすると尊厳がなくなり、卑屈になります。罪は罪として悔い改める必要があります。でも、その人の尊厳を回復してあげる必要があります。

私は、教会は決まりごとをできるだけ、少なくすべきだと思います。ある教会では、洗礼を受けて教会員になるために、「これこれのことを守ります」という誓約書にサインさせられるところがあるようです。十分の一献金とか、聖日礼拝なのでしょうか?私はそういうのが大嫌いです。パウロは「罪が戒めによって機会をとらえ、私のうちにあるむさぼりを引き起こしました」(ローマ78と言いました。つまり、戒律を多くすれば、人の中に潜んでいる罪が芽生えてくるということです。これは肉であり、天国に行くまで完全にはなくなりません。だから、私は教会の中ではできるだけ「きまり」を少なくして、あとは御霊によって導かれるように指導しているつもりです。ところがある教会の牧師は「教会では秩序が第一」と主張します。そのため、犯した罪に対してはきちんとした処罰を与えているようです。ある牧師は全会衆の前で、ある兄弟を除名した理由を伝えたそうです。私はそういう話を聞くととても悲しくなります。箴言144「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」教会に問題があるというのは、生きている証拠です。教会に新しい人がいっぱい来たら、必ず問題が起こります。静かで秩序立てられているのは生きていない証拠かもしれません。病院でも酸素マスクをつけた人たちが寝ている静かな病室もあります。一番、騒がしいのは産院です。新しい命が生まれているからです。教会は秩序を求めるよりも、リスクを犯してでもいのちを求めるべきだと思います。

4.難行苦行

 コロサイ2:23「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」ローマのサンクタ・スカラ教会には28段の大理石の階段があるそうです。伝説によれば、これらは、エルサレムから、すなわち、主イエスを十字架につけるために引き渡したピラトの家からローマに運ばれたものでした。その階段は、サンクタ・スカラ(聖なる階段)と呼ばれ、老いも若きも、富める者も貧しい者も、非常にゆっくりと昇ります。というのは、それが、非常に痛みを伴うことだからです。彼らは、功徳を得るためには、手と膝で昇らねばならないからです。一段昇るごとに、改悛者は祈りをささげます。彼らは、その様にしてすべての階段を昇ったなら、次第に罪が赦され、いつどこでか分からないが、赦罪を得るだろうと教えられていました。1511年、若い修道僧が、苦悩に満ちた良心に鞭打たれ、罪の重荷に押しつぶされそうになってローマに旅をしました。その熱心のうちに、彼は、重荷から自由にされ、神の愛顧を得ようと、その階段を昇るためにやってきたのです。彼は、大理石の石段に集まった人々に混ざって、忠実に、彼の祈りを繰り返しながら、手と膝で昇りはじめました。彼は、苦労して半ばまで昇った時、突然、魂の奥深くに「義人は信仰によって生きる」と宣言する声を聞きました。神の恵みのすばらしいメッセージが、その「聖なる階段」においてマルチン・ルターの心に届きました。そして、赦されていない罪の重荷が消え去りました。ルターは、キリストにあって、新しく造られた者となり、ローマ教会の迷信に基づく習慣のかせが解き放たれ、その後、彼は、罪の赦しと信仰のみによる義認のメッセージを喜んで語りました。アーメン。この世の人たちは救いを得るために、あるいは何らかの悟りを得るために難行苦行をしています。私たちクリスチャンはキリストがなされたみわざを、聖霊の啓示によって理解するとき、救いが与えられます。私たちは神の愛顧を得るために、何もしなくて良いということは何とすばらしいことでしょう。

 次に問題になるのは、救われた後の私たちです。私たちの中に罪の性質、肉が宿っているといことをかなり前のメッセージで語りました。パウロは「肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言いました。仏教では煩悩を断つために、難行苦行をします。でも、煩悩がなくなったかと言うとそうではありません。また、雑草のように芽生えてきます。イエス様は日々、十字架を負って従ってきなさいと言われました。だから、私たちはパウロのように自分の肉を十字架につけて、従っていくしかありません。そうすれば、十字架の死が肉に適用され、キリストにあって生きることができるのです。さあに、神さまは、その肉を取り除くために、聖霊が人や環境を通して、私たちを按配しているこということ学びました。私たちが出会ういやなこと、いやな人、いやなもの、すべては偶然ではなく、私たちをきよめるための道具なんだということです。信仰の境地というのはあるのでしょうか?あります。Ⅰテサロニケ516,18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。

 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。ここにはっきりと「神があなたがたに望んでおられることです」と言われています。つまり、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝するようになったら、神さまが備えられたテストに合格したことになるのです。そうすると、いやなこと、いやな人、いやなものの一切が、すばらしいものに見えてきます。アーメン。

 これらはきよめられるためのものですが、父なる神さまは私たちを訓練するために、あえて苦しいところを通らされます。ヘブル1267「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」でも、これは訓練のための訓練ではありません。私たちは苦難を通して、忍耐強くなり、最後までやり通す強固な信仰が与えられます。ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」そうです。何にもゆるがない「平安な義」の実が与えられます。それは、私の神さまは、キリストにあって私を愛しておられるという揺るがない信頼感を持つことができるということです。神への信仰は、神への信頼と言い換えることができます。アーメン。

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2018年12月 2日 (日)

うしろのものを忘れ ピリピ3:12-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.12.2

 啓発セミナーでも「肯定的に、前向きに生きる」ということが言われます。もちろん、そうだと思いますが、私は聖書的な根拠、神さまの助けがあってのことだと思います。きょうは、聖書の人物やみことばを取り上げながら、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むことの重要性に関してメッセージしたいと思います。

1.うしろのものを忘れ

 私たちは忘れてはいけないものと、忘れた方が良いものとがあります。もちろん、私たちは神さまの恵みを忘れてはいけません。私たちは罪からの救いだけではなく、たくさんの恵みを受けてきました。これらを数えて、神さまに感謝をささげなければなりません。ところが、私たちは忘れなければならない過去の出来事を、何度も思い起こしては、憂鬱になることはないでしょうか?パウロは「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」と言っています。でも、重要な真理は、うしろのものを忘れないと、前のものに向かって進むことはできないということです。たとえば、みなさんの家にクロゼット(洋服ダンス)はおありでしょうか。私のクロゼットはシャツや洋服がいっぱいで、家内から「着ないものは捨てなさい」と注意されます。「いつか着るだろう」と思っても、2,3年着ないものもあります。ズボンもそうですが、はいてみると、ウエストのところがパンパンで「無理!」というのも何本もあります。クロゼットもタンスもそうですが、古いものを捨てないと、新しいものを入れることができません。「人生の棚卸」があるとしたら、前に向かって進むためには、使用価値のない古いものは捨てなければなりません。

 かなり前に『アナと雪の女王』というディズニーのアニメ映画がありました。その映画の主題歌がLet it go.です。日本語の歌詞は「ありのままで」ですが、本当はそうでありません。この英語の本当の意味は「手放す」「あきらめる」です。ジョエル・オスティーンのある本に、Let it goのことが書かれていました。私たちは時々、過去の嫌なことを思い出すことがあります。私を捨てた人、裏切った人、ひどいことをした人を思い出すことはないでしょうか?私たちは機械でありませんので、完全に忘れ去ることができません。何の前ぶれもなく、嫌なシーンが脳裏をかすめることがあります。しかし、ある人たちは、映画のDVDでも見るように、カウチを持ってきて、そこに座ります。そして、ポップコーンを食べながら、「ああ、そうだったよなー」と辛い思い出に浸ります。すると、昔の嫌な感情が再現されて、憂鬱になります。しかし、それは良くありません。私たちにはリモコンがあります。そういうシーンが出てきたら、チャンネルを変えるべきです。英語でfillipと言いますが、そのシーンをはじき飛ばすのです。そこに留まってはいけません。私たちは自分の心を守る必要があるからです。特にトラウマの場合は、とてもやっかいです。いきなり、お化けのように出てきます。これは私たちの意志ではどうしようもありません。たった1つだけ解決策があります。インドネシアのエディ・レオ師が教えてくれました。トラウマとか誘惑が浮かんで来たら、「ハレルヤ!主を礼拝します」と礼拝の時にするのです。そうすれば、一日、何度も神さまを礼拝することができます。不思議なことに、「ハレルヤ!主を礼拝します」を言うと、トラウマや誘惑はさっと消えてなくなります。

 ある人たちは、「私たちは過去から学ばなければならない」と言います。反省とか内省を強調する人たちもいます。しかし、ほどほどにしないと、私たちは前に進むことができません。車を運転する人なら分かりますが、私たちはどこを見て運転するでしょう。全面には、大きなフロントガラスwindshieldがあります。そして小さなバックミラー rearview mirrorがあります。室内の小さいものと、両脇にもあります。ほとんどの場合はフロントガラスを通して、走る方向を見て運転します。でも、たまにチラチラとバックミラーも見ます。バイクが横をすり抜けようとする時があるからです。でも、後ろばかり見ていると、前方不注意になって事故を起こします。人生も同じように、過去のことは小さなバックミラーです。これから先のことは大きなフロントガラスです。この比率が重要です。過去が1であるなら、これから先のことは9くらいでしょうか?しかし、年を取ると「昔は良かったなー」となり、過去が7で、これから先のことが3ぐらいになります。それは良くありません。最も良いことは過去にありません。最も良いことはこの先にあるのです。神さまはもっと良いことを私たちに体験させたいのです。夢と希望を失ったら、年齢に関係なく、その人は老人です。30歳で老人の人がおり、80歳でも青年の人がいるかもしれません。日野原先生は104歳で天に召されましたが、ずーっと青年でした。なぜなら、やるべきことがいっぱいあったからです。

 使徒パウロにとってうしろのものであり、忘れるべきものは何だったのでしょう?ピリピ35-7「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」パウロはきっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人でした。あまりにも熱心だったので、教会を迫害したほどでした。「律法による義についてならば非難されるところのない者です」と自負しています。おそらくパウロほど真面目な人はいないでしょう。しかし、パウロにとって、そういうものは忘れるべきものでした。Let it go. 「手放す」「あきらめる」です。以前は、パウロにとってそういうものは自分が誇るべきものであり、良いものだったのでしょう。でも、「私はキリストのゆえに、損と思うようになりした」と言っています。8節では「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と言っています。なぜなんでしょう?もし、そういうものを自分のクロゼットにしまいこんでいると、キリストのすばらしさを自分のものにできないからです。パウロはキリストを知るために、身分も、プライドも良いものも捨て去ったのです。

 私たちが捨て去るべきもので、過去の良いものがあるかもしれません。テレビでサッカーのメッシの豪華な自宅が映されていました。家にはゴールデン・ボールなど、いろんな賞が飾られていました。でも、最近の試合を見ると全盛期が過ぎたような感じがしました。あれだけ賞をもらうと、ハングリーさが欠けるんじゃないでしょうか?だけど、「あれだけやったらいいかな?」という誰もが思うでしょう。私たちは神さまの恵み、神さまのみわざを忘れてはいけません。でも、過去の思い出に浸っていると、神さまに対する期待とかチャレンジ精神がなくなることも確かです。私は亀有に赴任して31年になりました。ここ数年前から、断捨離(だんしゃり)をしています。最初に捨てたのが、礼拝のビデオとカセットテープです。DVDCDに全部コピーしました。ディボーション・ノート、セミナーの資料、本も捨てました。去る6月の役員会で、「音楽準備室にいらない機械がたくさんあります。処分してください」と言われました。ビデオプレイヤー、DVDプレイヤー、カセットのコピー機、OHP、全部で15くらいありました。それらを分解して、細かく砕いて、もえないゴミの日に出しました。これまで、いろんなセミナーに出席して学びましたので、カセットテープや資料のファイルがたくさんありました。それらを捨て去るのには勇気と信仰が必要でした。

 私たちの人生を振り返りますと、うまくいかなかったことがあります。あのときはうまくいくと思っていたのに、今はもう役に立たないというものがあります。英語でwork outは「うまくいく」と言う意味ですが、dont work out.「うまくいかない」「結果が出ない」ということがあります。認めるのは本当に辛いのですが、捨てるしかありません。亀有に来て31年、色んなことを学んでやってみたけど「何が残ったのか」「どれがうまくいくのか」考えてみました。最後に残ったのは、説教preachでした。弟子訓練、セル、インナーヒーリングをやってきましたが、説教だけが残りました。「私は説教者preacherとして神さまから召されているんだ。それで良いや」と思いました。みなさんもどうでしょうか?人生の棚卸をしてみましょう。いらないものは捨てましょう。過去の傷、トラウマ、失敗、嫌な思い出を捨てましょう。そうすると、「これだけは捨てられない。これこそが一番大切なものだ」というものが残るのではないでしょうか?金の採掘場をテレビで見たことがありますが、1トンくらいの岩から何グラムしか取れません。佐渡の砂金なども川の砂利をさらって、あるかないかです。私たちの人生も結構、いらないものがあるかもせれません。悪いものだけではなく、一見、良いものもあります。プライドとかトロフィーとか、賞状、資格、学位などです。パウロは何と言ったでしょう?ピリピ38「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」イエス・キリストを知っていることのすばらしさが、人生のどれほどのウェートを占めているでしょうか?イエス・キリストが人生のすべてであるなら、いらないもの、どうでも良いものがたくさんあるのではないでしょうか?どうでも良いものを捨てるなら、これから先、もっとすばらしいものを入れることができます。最も良いものは過去にではなく、これから先にあるからです。

2.前のものに向かって進む

 第二のポイントの題名を「目標を目指して」にすべきかと思いました。しかし、学校の時から目標を掲げても、実現したことがあまりないので、プレッシャーをかけないようにしました。本当の目標は自分でひねり出したり、だれかから押し付けられたりするものではありません。神さまがその気にさせてくれなければ何もできないからです。イエス様はヨハネ5章でこのように言われました。ヨハネ519,20「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」イエス様は贖い主でありますが、私たちの模範でもあります。イエス様は自分からではなく、いつも父なる神さまがしておられることを見て行いました。ご自分も神さまですから、やろうと思えばできたはずです。でも、あえてご自分を制限なさっておられました。それは私たちの模範となるためです。私たちも神さまと親しい交わりを持つなら、神さまがなすべき目標を与えて下さると信じます。

 後半は「前のものに向かって進む」と題してお話しします。イスラエルの民は40年間も荒野をさまよっていました。なぜなら、カデシュ・バルネアで攻め上らなかったからです。彼らは不信仰のゆえに、約束の地に入ることができませんでした。それから40年たち、新しい世代になりました。主はこのように言われました。申命記16,7「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。」ものすごい意味ありげな表現だと思います。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。」彼らがその山に長くとどまっていたのは、不信仰に対する神さまの呪いでした。でも、神さまは「向きを変えて、出発せよ」と言われました。人生にはいくつかの段階があります。「次のステップ」「次のステージ」「新しいシーズン」、みなそういうことを表現することばです。私も65歳なので、「次のステップ」に進むべきだと思っています。前半では「私は説教者preacherだ」と言いました。でも、欲を言うなら、日本のリバイバルのために用いられたいと思います。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルこそが聖書的であると信じます。カルフォルニアのベテル教会にsupernatural school超自然の学校があります。アメリカだけではなく、世界中から2000人の人たちが集まって学んでいます。私はそこに行けないので、ビル・ジョンソンを始め、何人かの本を原書で読んで学んでいます。「もうこれしかない」と最後の人生をかけています。私の人生は競馬で言うなら、第四コーナを回ったところです。あとは直線ですから、ただまっすぐ走るだけです。私はしるしと奇跡の伴うリバイバルのために神さまから用いられたいです。

 私たちは前のものに向かって進むためには、犠牲を払う覚悟が必要です。周りの人たちの意見を聞いて、「これで良いや」と妥協してはいけません。創世記12章にはアブラハムの召命の記事があります。まだ、そのときは「アブラム」でしたが。主はアブラムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われました。どこという場所は示されず、ただ、「出発しなさい」と言われました。それで、アブラムは主がお告げになったとおりに出かけました。でも、創世記11章終わりには、アブラムのお父さんのことが書かれています。アブラムのお父さんはテラです。創世記1131,32「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。」たった2節から全部のことを掌握するのは無理です。でも、テラはカナンの地に行くためにカルデヤ人のウルから一緒にでかけました。何があったから分かりませんが、ハランまで来て、そこに住みついてしまいました。テラはそこで死にました。その後、息子であるアブラムにお声がかかったのです。彼はいくつだったでしょう?「アブラムがハランを出たときは、75歳であった」(創世記124と書かれています。その頃は、現代よりも少し長生きしたかもしれませんが、それでも75歳ですから良い年です。アブラハムの良いところは、どこに行くのかを知らないで、出て行ったことです(ヘブル118)。新約聖書ではアブラハムの信仰が賞賛されています。

 私自身が感じているのですが、年を取ってくると情熱が失われるのではないかと思います。若い人は「何かをしたい」と夢を抱きますが、すばらしいことだと思います。前のものに向かって進むためには、夢や幻、そして情熱が必要です。年を取ってくると「現実は難しい」と思うようになります。なぜなら、これまでさんざん失敗して、苦い思いをしてきたからです。そのため「新しいことをしよう」という意欲がわきません。教会でも「こうしたい」「ああしたい」とアイディアを出す人がいますが、「うらやましいなー」と思います。私は「チャレンジ精神がなくなってしまったなー」と情熱のなさにがっかりします。これで終わってしまうと、年寄りの憂さ晴らしで終わってしまいます。ところで、情熱という英語は、enthusiasmですが、もともとは、2つのギリシャ語からなっています。エンとセオスです。エンは「〇〇の中に」です。セオスは「神」です。2つを合わせると、「神の中に」「神がかった」という意味になります。つまり、神さまがその人に情熱を与えるときは、年齢は関係ないということです。使徒2章に「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。つまり、聖霊が注がれると預言したり、幻や夢を見るということです。テモテはパウロの弟子ですが、激務のため、肉体的にも精神的に弱るときがあったようです。パウロは何と言ったでしょうか?Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」昔、七輪でお魚を焼いたことがあります。火が弱くなると、炭火をかき混ぜると酸素が入って、また火が強くなります。私たちは聖霊の油注ぎが必要です。イギリスのチャールズ・スポルジョンがこう言いました。「私たちは絶えず聖霊の油注ぎを受ける必要があります。なぜなら、漏れるからです」と。そうです。この世で生きていると、油注ぎがなくなり、情熱も失せてきます。だから、新たに聖霊の油注ぎを受ける必要があるのです。そうしたら、情熱も一緒に湧いてきます。

最後にハーランド・サンダースという人のお話しをさせていただきます。父親が5歳の時に亡くなり、彼は小学校の途中で行かなくなりました。何年もの間、職をとっかえ、ひっかえ、住まいを転々しました。そして、ガソリンスタンドのそばで、レストランを始めました。このレストランがほどなくしてはやりだし、通りの向こうにあった大き目の建物へと店舗を移しました。しかし数年後、火災によって店は全焼してしまいました。しかし、彼は焼け跡で、またゼロから再び店を始めました。彼の作るフライドチキンには11種類の秘伝のハーブとスパイスが使われており、その他にはない味が、多くの人々の心をつかみました。やがてその功績が認められ、ケンタッキー州知事はこのハーランドに「カーネル(大佐)」を名乗ることをゆるしました。カーネルが、もう仕事としては引退してもおかしくない60代にさしかかった頃のことです。ケンタッキーの彼の小さな町を高速道路が横切るようになり、交通の流れがそちらに取られて人通りが少なくなりました。そこが過疎地になり、カーネルのレストランは経営不振に陥り、結局は閉店へと追い込まれました。60代ともなれば、もう第一線を退いてもおかしくありません。やめてしまえば済むことなのです。でも、彼はその道を選びませんでした。カーネルは、「神様というお方はこの状況に対しても解決の道をお持ちのはずだ」と希望を捨てませんでした。

カーネルがレストランをたたみ、借金を全額返済し終わった時、彼の手元には105ドル(日本円にして3万円程度)しか残りませんでした。それが、その時の全財産でした。カーネルは今までの住み慣れた場所に見切りをつけ旅立ちました。決まった住所などありません。彼は唯一の持ち物であるトラックにフライドチキンを揚げるためのフライヤーを載せて、町から町へ売る旅に出たのです。そんな旅を続け、カーネルが70代にさしかかった頃です。「あの車で売りにくるカーネルとやらの揚げるチキンは、うまいらしいぞ!」といううわさがアメリカ中に広まりました。ついにカーネル・サンダースは自身の特別なチキンを『ケンタッキー・フライドチキン』と名付け、アメリカとカナダ全土にたくさんの店舗が建てられる運びとなったのです。今日では、KFCという略称で親しまれ、世界中に11万以上の店舗があると言われています。神様は、最終的には見事に彼の損失を回復してくださいました。カーネルの人生は、その全貌が見えるまでの通過点において、何とひどい人生だと見えたかもしれません。もう終わりだ。もう進めない。カーネルのような体験をすれば、そんなあきらめや絶望の思いに囚われるのは、いともたやすいことだったでしょう。でも、神様は、彼の失った機会や時間を取り戻させることのできるお方なのです。カーネルは、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む人物の模範です。私たちも神さまから目標と情熱をいただいて、前のものに向かって進みたいと思います。

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2018年11月24日 (土)

安息日を守る 出エジプト10:8-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.25

 

 前回はモーセの十戒を新約の私たちはどのように守ったら良いのかお話ししました。きょうは十戒の4番目を取り上げ、その意味を調べつつ、私たちのものにしたいと思います。律法は永遠であるとイエス様がおっしゃったので、異邦人である私たちは完全に無視をすることはできません。キリストの贖いを通して、律法を学ぶなら、そこに神さまのすばらしい約束を得ることができると信じます。

 

1.休みを取る

 

 安息日を守るとは、rest休みを取るということです。出エジプト記20章には、「六日間、働いても良いが、七日目は休め」と命じられています。その理由は、神さまの創造に由来しています。出エジ2011「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」とあります。人が造られたのは、6日目です。ですから、人が最初にしたことは、7日目の休むということでした。休みからスタートしたというのは、とても興味深いことです。ところで、安息日のヘブライ語の意味は「シャッバース」です。このことばは「やめる」あるいは「休む」に由来しています。安息日は神さまとイスラエルが結んだ契約に基づいています。彼らにとって安息日は土曜日です。ここで、重要なことは、6日働いても良いけれど、1日は休みの日にするということです。しかし、「聖なる日とせよ」と言われているので、「創造主なる神さまを覚えるために、この日を聖別せよ」という意味がこめられています。ですから、イエス様が地上におられた頃は、ユダヤ人が安息日を会堂で守っていました。そこでは律法が朗読され、人々が神さまを礼拝しました。残念ながら、安息日を守ることが絶対化され、人の生活を束縛していました。イエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」(マルコ227)と意味を正されました。つまり、何が何でも守らなければという律法主義を排して、人が生きるために重要であることを教えられたのです。ということは、私たち異邦人も、6日働いて、1日休むということが必要であるということです。

 

 ところが、日本人は休むということの必要性をあまり理解していません。昔、奉公人は年に2日しか休みがなかったそうです。「藪入り」と言って、正月とお盆だけでした。第二次世界大戦後、労働基準法の強化により、日曜日を休日とするようになりました。しかし、これがキリスト教からきたということをほとんどの人は知りません。日本は西洋の文化の良いところだけを取り入れて、その根底に流れている精神(価値観)を排除してきたようです。そのため、休みを取るということの意味が分かりません。そして、勤勉こそが善であり、休むことが悪であるみたいに思われています。そのため、働き中毒になる人が大勢います。また、長時間労働を強いられて、自殺者まで出ている状況です。「働き方改革」と言われていますが、それは残業を減らすという意味ではないそうです。労使の合意があれば、どれだけ残業をしても良いという仕組みになっているとインターネットに書いてありました。日本人はどこの国よりも、勤勉な民族です。でも、日本人の多くは天と地と私たちを創造された神さまを知りません。そのために、「自分たちが一生懸命働かなければ食っていけない」という考えがあります。夢を追い求める子どもに対して、親は「それで食っていけると思っているのか」と言うのではないでしょうか?日本人には「食べて行けるか」という強迫観念に駆られて、休む間もなく働くところがあります。また、男性の単身赴任が当たり前で、妻や子どもたちが犠牲になっています。詩篇127篇は勤勉な日本人に対してとても重要なみことばだと思います。詩篇1271-3「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」天地を創られた主がおられるので、休んでも大丈夫だということです。主は私たちが眠っている間も、必要なものを備えてくださいます。

 

 1週間に1日休むということは、私たちの心と体のために必要であるということです。なぜなら、神さまがそのように私たちを造られたからです。かつてアメリカ大陸に移住した人たちのほとんどは、大西洋側に住んでいました。当時のアメリカ政府は「カルフォルニアに金が良く出る土地があるから希望者は移住するように。だれでもそこに移住して自分の望むだけの土地に杭を打ち込めば、その打ち込んだところはその人の土地になる」と知らせました。すると多くの人々がこの良いニュースを聞いて、全財産と家族をほろ馬車に積んで移住することになりました。カルフォルニアまでは何か月もかかる大旅行でしたが、だれもが一足先に到着して、最も良い土地を自分の欲しいだけ得るために、目の色を変えて目的地に馬車を走らせました。ほとんどの人があまり休むこともなく日夜旅行しましたが、その中のキリスト教の牧師だけは違っていました。土曜日の夕方には馬を車から解放し、馬車の手入れをし、次の日曜日は休んで神さまを礼拝しました。そして、月曜日から土曜日まで旅行をしました。他の人々は日曜日も休まず目の前に置かれている良い地を得るために前進しました。こうして幾月かの後、カルフォルニア州の目的地に一番先に到着して、最も良い地を手に入れたのは、日曜ごとに礼拝して進んだ牧師の家族でした。牧師の家族はみんな健康であり、馬も丈夫で、馬車の破損もありませんでした。他の人々はどうだったでしょう?着いた人々は疲れ果て、ある人は病み、ある馬車は途中で壊れ、ある馬は過労のために倒れて、実に悲惨な状態であったそうです。

 

 私たちの人生も同じことです。聖書には「6日間働き、7日目にはすべてのわざを休んで神さまを礼拝しなさい」と書かれています。人間は「休め」と命令されなければ、休めない愚かな存在かもしれません。でも、神さまは私たちをそのように造られたのです。天の父は、天と地とその中のすべてのものを創造した後、私たちにそれらを与えてくださいました。もし、天の父がいないとするなら、その人はみなしごであり、自分しか頼れないので、休まずに働くしかありません。でも、イエス様は「あなたがたの天の父が養ってくださる」と言われました。

 

2.神を礼拝する

 

 安息日を守るとは、service神を礼拝するということです。モーセの十戒では安息日が土曜日であり、仕事をしてはいけない日でした。イエス様の時代はどのくらいの距離まで歩いて良いか、どういうことが労働になるか細かく定められていました。驚くべきことに、イエス様はあえて安息日に人々を癒されました。会堂に来ている人の中に、片手のなえた人、腰の曲がった人、悪霊につかれた人が混じっていました。イエス様は安息日に会堂で教えていましたが、その後、癒しと解放を行われました。会堂管理者は憤って、「働いて良いのは六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日にはいけないのです」と言いました。イエス様は「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やロバを小屋からほどき、水を飲ませに行くではありませんか」(ルカ1314,15)と言われました。他の場所では、「羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか?…安息日に良いことをすることは、正しいのです」(マタイ1211-12)と言われました。イエス様は人々に本当の安息を与えようと、あえて安息日に人々を癒されたと言っても過言ではありません。イエス様は人々にこう言われました。マタイ1128「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この「休ませてあげる」は、「休息を与える」「元気づける」という意味です。私たちはこのように礼拝に集まっていますが、イエス様が私たちの間を歩き回り、病の人を癒し、悪霊に縛られている者を解放するために、働いておられます。

 

 朝早く、婦人たちが墓に行くと、死んだはずのイエス様のおからだがありませんでした。イエス様は三日目によみがえられたのです。それ以来、教会は日曜日を安息日礼拝に取り換えました。聖書では命じられていませんが、弟子たちと初代教会は「週の初め」すなわち日曜日を、復活の主をお祝いするために集まるようになりました。それが、2000年以上も続いているのです。中には「土曜日こそが安息日礼拝の日である」と礼拝を守っているグループもいます。彼らは、旧約聖書の他の戒めも守っており、「どうなんだろう?」と思います。旧約聖書の律法はイスラエルに対して与えられたのであり、新約の教会のために、文脈化する必要があるのではないかと思います。私はユダヤ教のシナゴーグ(会堂)には行ったことはありませんが、私たちとどのような違いがあるのでしょう?ヤコブは「倒れたダビデの幕屋を立て直す…異邦人がみな主を求めるようになる」(使徒1516-17)と言いました。ダビデが行った礼拝はとても賑やかでした。数多くの楽器を用いて、手を叩き、歌い、踊ったりもしました。現代の教会はそのことを再発見して、礼典的な礼拝ではなく、祭典的な礼拝をするようになりました。「イエス様の復活を喜び、お祝いする」ことが中心になりました。式文や朗読文をやめて、神さまがなされたことを宣言するようなメッセージになりました。イエス様がルカ4章で「主の恵みの年を告げ知らせるために」と言われました。これは「ヨベルの年のラッパを吹く」という意味です。私たちは礼拝で、キリストにある救いと癒しと解放を告げ知らせるのです。

 

 礼拝を英語でserviceとも言います。もちろん、神さまに仕えることなのですが、なぜ礼拝をserviceと言うのでしょうか?おそらく、このことばはローマ121から来ているのではないかと思います。ローマ121「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ここで言われている「礼拝」は、「膝をかがめる」「ひれ伏す」という意味のギリシャ語ではありません。ラトリューオウで、「仕える」「奉仕する」「献身する」という意味があります。英語の聖書ではserviceと訳されています。ですから、礼拝の中で行う、賛美、奏楽、祈り、献金、受付、送迎…みんなserviceなんであります。私の説教もserviceの中の1つです。でも、聞く人はどうなんでしょうか?30分、じっと耳を傾けるというのも大変な労働であり、serviceです。でも、ラトリューオウはこういう集まりだけではなく、日常生活の中で、神さまを礼拝しながら生きるという意味が強いことばです。私たちが家庭や職場、地域社会で神と人々に仕えながら礼拝しているのです。でも、プロテスタント教会で忘れてしまいがちなのが、日曜日が主日と強調するあまり、休息しないということです。特に、日本の福音派の教会は朝早く教会に来て、日曜学校、礼拝、奉仕、小グループ、夕拝(夜の伝道集会)を守り、夜遅く帰るというのがザラでした。日曜日、全く休んでいないとしたらどうなんでしょう?それでは、安息日になっていません。

 

 私は30歳の頃、日本人6人が招かれ2か月間アメリカに行ったときがあります。旅行の終わり頃、パサディナの教会の礼拝に出席しました。お昼帰ってきました。家の主人は簡易ベッドで寝ていました。男たちは、何をしたでしょう。なんと庭にプールがありました。飛び込み台もあり、お昼から夕方までプールにジャンプしながら泳いでいました。そして、口々に言いました。「日曜日の午後、こんなにゆっくりして良いのだろうか」と。その頃、私は座間キリスト教会で教会主事として働いていました。朝7時、9時、11時と礼拝があり、日曜学校も各地にありました。午後は青年会、聖歌隊などの集まり、夜はスタッフが説教しました。その後、反省会を持ち、帰るのが10時半頃になりました。午前中の大川牧師の説教はみんながほめます。ところが、夜のスタッフの説教は自分が当番のときは針のむしろです。大川牧師の奥さんから先生に「早く帰ってきなさい」と電話があります。大川牧師は「何言っているんだ。今が一番楽しい時なんだ」と言っていました。スタッフとして働いていたころよりも、一教会の牧師の方がずっと楽です。日曜日、私の場合は特別ですが、家庭をお持ちの方は、日曜日はさっさとお家に帰るのが良いと思います。未信者のご主人や子どもたちが、「お昼、何も食べるものがない」と泣いているかもしれません。日曜日の奉仕も重要ですが、休むということもちゃんと考えなければなりません。昔の教会では子どもたちが「お父さんとお母さんは信仰熱心だけど、同じようになりたくない」と言ったようです。そうではなく、「日曜日は休むためにもある」ということを忘れないようにしたいと思います。「日曜礼拝を守れ」と言うし、一方では「日曜日に休め」と言われます。この両立が大事です。

 

3.聖霊の導きで生きる

 

 安息日を守るとは、lifestyle生活様式なのです。旧約聖書で安息の地はカナンでした。ヨシュア記113口語訳「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたのために安息の場所を備え、この地をあなたがたに賜わるであろう』と言った言葉を記憶しなさい。」新約聖書にも同じことばが出てきます。ヘブル人3章に「安息」ということばが2回使われています。エジプトから脱出した第一世代は、不信仰のゆえに安息に入ることができませんでした。ヘブル4章には「安息」と「安息日」が6回出てきます。1種類はヨシュアたちが入った「カナン」であり、もう1種類は救われた人たちが行く「天の御国」です。つまり、安息の地はカナンであり、また天の御国でもあります。きょう取り上げたいのは、ヨシュアたちが入った安息の地、カナンについてです。安息の地、カナンは、どのようなところだったでしょうか?ヨシュアたちはカナンに攻め上り、先住民を追い出す必要がありました。ヨシュアたちは領土を勝ち取るために戦わなければなりませんでした。でも、その戦いは、一般に私たちが考える戦いとは違っていました。なんと、主が既にその地を彼らに与えておられました。そして、主はヨシュアに「あなたの行く所どこにでも、あなたと共にある」と約束されました。つまり、主に従っていくならば、勝利できるということです。なぜなら、それは主の戦いであり、主が戦ってくれたからです。エリコを責めるときも、常識を超えた戦いでした。エリコの城壁の周りをだまって11回まわるだけです。それを6日間続けます。そして、7日目には7回まわり、最後にラッパを吹き鳴らし、「わー」と叫びます。それで城壁が崩れ去り、町を攻め取ることができました。ヨシュアたちは主の命令に従うことによって勝利することができました。

 

 新約の私たちが安息の地に入りたいなら、聖霊に導かれて進む必要があります。言い換えると自分の考えや肉のがんばりではなく、聖霊に信頼して歩むということです。そうすれば、安息を得ながら、信仰生活を送ることができます。それこそが、安息日を守ることであり、安息日がライフスタイルになります。516,17日に21世紀教会でリバイバル・スクールがありました。カルフォルニアからチェ・アン牧師が来られメッセージをしてくださいました。先生のお父さんは韓国からの移民であり、週末は牧師をし、月曜日から金曜日までは技術者として働きました。さらには、レストランを買い取って経営しました。お父さんは一日も休んだことがなく、家族でバケーションに行ったこともなく、安息の良い模範ではなかったそうです。その息子さんチェ先生は若い頃とても荒れた生活をし、麻薬にもはまっていました。ところが30代後半に献身して牧師の道を歩みました。でも、牧会9年目、1992年(46歳)完全に燃え尽きてしまいました。フラー神学校で8年間学び、修士号と博士号を取りました。ところが学びを終えて、うつになり、主任牧師のところに辞表を出しました。先生は、世界一物価の高いカルフォルニアで4人の子どもを育て、牧会しながら神学校で勉強していました。カルフォルニアを出て、友人が住んでいるコロラド・スプリングスのような田舎に行こうと思いました。でも、あることが起こりました。1994年のことです。ここからは、先生のメッセージをそのままお届けします。

 

聖霊様が私の人生に訪れて下さいました。私は再び新生を体験したように思いました。聖霊が川のように流れていました。私はその川の中で神さまと契約を結びました。「私は今流れている川に飛び込みます。そこに留まります。そして、その川が流れて行くところどこへでも行きます。」それはエゼキエル47章に書かれているような川です。御使いが預言者エゼキエルを、聖所のところから流れる川に導いて行きました。川が流れるところではすべてものが生きます。実際にそのような川はありません。ヨルダン川はエルサレムの周りに流れていますが、エルサレムの真ん中から流れていく川はありません。それは霊的な川を表わしています。それは力強い聖霊の働きが聖所から流れることを表しています。御使いがエゼキエルを導いていくと、その川は足首の深さ、それから膝の深さ、腰の深さになりました。そして、流れていくとそれは渡ることのできない川になりました。私たちの足首、膝、腰のあたりまでは、私たちがコントロールできる水の深さです。そこで歩くこともできます。でも、最後にはそれさえできなくなって、泳いで水の流れのままにエゼキエルを運んでいくほどの川となりました。神さまは「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ46とおっしゃいました。19941月に聖霊が注がれて、「2月に教会をはじめなさい」と言われました。19944月に教会を始めました。「私たちは聖霊様が導かれるままに何でもします」と約束しました。

 

その後、どうなったでしょう?先生の本にこのように書かれています。「自宅の祈り会に30人が集まりました。翌週は65人集まり、リビングルームとダイニングルームが満杯になりました。1か月後に建物を借りて公式な集会を持ち、300人集まりました。その後、パサディナで一番大きな施設を借りることにしました。199512日から、ジョン・アーノットを迎え、リニュアル集会を持ちました。初日、2000名余りの人々が詰めかけました。知人に加えて、一度も来たことのないような人たちが何百人も来たようでした。神の力が下りました。聖霊の電撃のような臨在が会場に満ち、しるしと不思議と癒しが伴いました。霊的な刷新が本当に起こりました。私たちの教会だけでなく、大パサディナ地域に、です。その働きは、今では世界中に広がっています。今振り返ると、私たちが目にしたものは、リバイバルだったと言うべきかもしれません。」アーメン。本当に私もあやかりたいと思います。これが、聖霊の導きで生きる人生の実であります。自分の努力や肉の力でやってもある程度のことはできるでしょう。でも、うつと燃え尽きになるならば、それは安息日を生きていることにはなりません。十分休息を得ながらも、神さまの働きが進むなら何とすばらしいでしょう。それはやはり、聖霊に満たされ、聖霊の導きで生きることであります。チェ・アン師が最も大事にしているみことばは、ゼカリヤ46「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって」です。疲れている時は大胆に休みましょう。休むことに罪悪感を持ってはいけません。でも、その休みは単なる休みではなく、神さまと親しく交わり、神さまから力をいだたいている時でもあります。そして、再び立ち上がり聖霊に導かれて生きるのです。

 

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2018年11月16日 (金)

十戒と私たち Ⅰテモテ1:8-10 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.18

 クリスチャンでしたら「モーセの十戒」を知っておられると思います。しかし、キリスト教会がそのまま全部守るべきなのか考えたことがあるでしょうか。私たちが救われるための条件はイエス・キリストの贖いを信じるという1点にあります。でも、救われてから、律法は役に立たないのか、全部破棄して良いのかというとそうでもありません。私たちは、パリサイ人や律法学者のように律法主義になってはいけませんが、律法に対する正しい立場を持つべきです。

1.十戒とイスラエル

 十戒は律法の中で中心的なものなので、きょうは律法と十戒を交互に言うことがあります。どちらも同じだと考えてください。モーセの十戒を分かり易くした数え歌があります。「1つ、1つの神を拝せよ。2つ、再び像を拝むな。3つ、みだりに御名を唱えるな。4つ、喜び安息守れ。5つ、いつまでも両親を敬え。6つ、むごい殺人を犯すな。7つ、汝姦淫を犯すな。8つ、やましい盗みをするな。9つ、こんりんざい偽証をたてるな。10で隣をむさぼるな。」では、モーセの十戒は一体誰に対して与えられたものでしょうか?私は法律の専門家ではありませんが、法解釈をするためには、その法律が制定された時点にさかのぼる必要があります。十戒は出エジプト記20章に記されています。しかし、その前に神である主がイスラエルと契約を結んでいる箇所があります。出エジプト記194-6「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」この契約はイスラエルをエジプトから解放した神である主とイスラエルが結んだものです。しかも、「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という条件付であります。後から、民は口をそろえて「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と言いました。その後、契約にくっついている守るべき条項、いわゆる律法が出エジプト記20章から31章まで長々と記されています。そして、十戒こそが数ある律法の中心的な戒めです。十戒のはじめに何と言われているでしょうか?「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出エジ202となっています。ここで重要なことは、十戒とはじめとする律法はイスラエルに対するものであり、私たち異邦人に対してではないということを知らなければなりません。なぜなら、私たちはエジプトの国、奴隷の家から救い出された者でないからです。そして、私たちはキリストにあって新しい契約を結んだ民であり、十戒に代わる新しい戒めをいただいている者だからです。そのことは、次のポイントでお話ししたいと思います。

 でも、「私たちは、どの程度モーセの律法を守るべきか」という課題が残っています。パウロとバルナバが異邦人伝道を終えて帰ってきました。その後、エルサレムで会議が開かれました。ユダヤから下って来た人たちが「モーセの慣習にならって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張しました。パリサイ派から信者になった人々も立ち上がり「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言いました。そして、激しい論争がありました。どうなったでしょう?ペテロは「なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神をこころみようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(使徒1511と言いました。全会衆は沈黙していまいました。最後に議長のヤコブが立ち上がり、「ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきである」と決議しました。つまり、異邦人の私たちはモーセの律法を守らなくても、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということです。パウロが言ったように、キリストと共に死んだ私たちは律法から解放されていのです(参考:ガラテヤ219-20)。このことは、「律法からの解放」というメッセージですでに語りました。

 では、一体、律法はだれのためにあるのでしょう。Ⅰテモテ19-10「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」パウロは「律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです」(Ⅰテモテ18と言いました。言い換えると、取扱い方を間違えると益にならないばかりか、害になるということです。律法の取り扱いにおける注意事項は何でしょう?「律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人…健全な教えにそむく事のためにあるのです。」私たちは、律法は正しいものであり守るべき戒めであると知っています。しかし、この世の多くの人たちはそれらを「時代遅れだとか、そんなの関係ない。俺たちは自由だ」と否定するでしょう。でも、彼らはイエス様を信じない人たちであり、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人たちであります。でも、使徒パウロは自分のことをこう言いました。「私は、以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。…私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ113,15)。パウロもかつてはそうだったんです。でも、パウロは悔い改めて、キリストによる救いをいだだきました。

 私はテレビのニュースを見て思うのですが、偉い人たちが平気で嘘をついているようです。殺人や姦淫も行われています。私は、「ああ、モーセの十戒を守っていたなら、そんな大きな害を受けなかったのになー」と思います。モーセの律法は、越えてならない、人生の道路の両脇のガードレールのような存在です。車に乗っている人は分かると思いますが、ガードレールを越えたら、大事故になるか、命を落とすことさえあります。でも、運転手はガードレールを直視して走っていません。道路の真ん中を見て、チラチラとガードレールを見ます。同じように、私たちは信仰の導き手であるイエス様を直視しつつ、超えてはならない律法をたまに見て生きているのです。

2.十戒とイエス・キリスト

 マタイ517,18「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」イエス様は、律法を廃棄するためではなく、成就するために来られました。ところが、イエス様は十戒をあえて破っておられるようにも思えます。安息日に関する戒めはどうでしょう?イエス様はあえて安息日に人々を癒されました。律法を厳格に守るパリサイ人たちは怒って、イエス様を殺そうとしました。なぜなら、彼らはイエス様が安息日に働いたと解釈したからです。また、ヨハネ8章には、姦淫の現場で捕えられた女性の記事があります。人々は「モーセの律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています」と主張しました。でも、イエス様は彼女を罪に定めませんでした。この時点でイエス様は十字架の贖いを成し遂げていません。また、この女性が罪を告白している様子もありません。それなのに十戒を無視して、簡単に赦して良いのでしょうか?また、汚れたものに触ってはならないという律法がありました。それなのに、イエス様は死んだ人に触れてよみがえらせ、らい病人に触れてきよめられました。きわめつけは、イエス様が裁判の席で、ご自分を神と等しくしたことです。これは十戒の第一番目、冒瀆罪に当たります。当時の大祭司は自分の衣を引き裂いて、「神への冒瀆だ。彼は死刑に当たる」と言いました。イエス様は、神の律法を守るパリサイ人、律法学者、祭司長たちから十字架につけられました。彼らは「イエスは自分を神とするとんでもない罪人だ」と裁いたのです。

 でも私たちは、イエス様は律法を破ったのではなく、律法を正しく解釈し、律法を成就したことを知っています。イエス様は律法の目的、律法の精神をよくご存じでした。律法の創立者が、この地上に来られて、正しく解き明かされたと考えることができます。そのことがマタイ5章から7章まで克明にしるされています。イエス様は「十戒」を取り上げながら、「私はこう言う」と解釈し直しました。それを聞いた人々はどう思ったでしょう?マタイ728,29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」「権威ある者」とは、authorityであり、「よりどころ」「出典」という意味もあります。当時の宗教家たちは、律法を誤用し、人々に重荷を負わせていました。イエス様はそのことをとても怒って軌道修正したのです。

さらに、イエス様は数多くある律法をたった2つにまとめました。律法学者が「律法の中で、大切な戒めはどれですか?」とイエス様を試すような質問をしました。イエス様はこのように答えられました。マタイ2237-40「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」簡単にまとめると、神さまを全身全霊で愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛することの2つです。十戒で言うなら、第一戒から第四戒めまでが、神さまを愛するということです。そして、第五戒から第十戒めまでが、隣人を愛するということです。言い換えると、神さまを愛し、隣人を愛するという二つの戒めが、律法全体を網羅しているということです。なんとイエス様はスマート、頭が良いのでしょう。旧約の律法は200個以上あります。また、同時の宗教家はそれに「人々の教えや言い伝え」を加えていたので、膨大な数に達していました。それらをイエス様はたった2つにまとめたのです。「神を愛し、隣人を愛しなさい」これですべてがこと足りるのです。学校でこの2つの戒めを教えたなら、いじめがなくなるでしょう。刑務所でこの2つの戒めを教えたなら再犯率はぐっと下がることは間違いありません。実際、アメリカではこのことを実行して、ものすごく成果をあげています。ある人がクリスチャンになりましたが、社会的な罪の裁きを受けるために、刑務所に入りました。しかし、彼は大勢の服役中の人たちや刑務官たちを信仰に導いたという証を聞いたことがあります。

さらには、イエス・キリストによって古い戒めが、新しい命令になりました。Ⅰヨハネ27-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」文脈から見ると分かりますが、「古い命令」とは十戒を中心とする律法のことです。しかし、ヨハネは「新しい命令として書き送る」と言っています。古い戒めを捨て去るのではなく、renewalするということです。Renewalは書き換え、更新、復興と言う意味です。パウロはローマ104「キリストが律法を終わらせた(成就した)」と言っています。また、ガラテヤ313「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」と書いてあります。では、新しい契約と新しい律法とは何なのでしょうか?新しい契約はイエス・キリストを信じる者が義とされ救いを受けるということです。行いではなく、信仰だということです。新しい律法とは何でしょう?それは御霊による新生によって私たちの心の板に律法が刻まれているということです。教会でもモーセの律法を朗読しますが、そのとき、彼らの心には覆いが掛かかります。なぜでしょう?「ああ、ダメだな、自分は律法に達していないなー」と思うからです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれます。Ⅱコリント36「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」今日の教会は、キリストの恵みの中にあります。ところが親切にも、「モーセの律法を守らなければ神さまに受け入れられないよ」と言います。こうして文字は人を殺します。でも、私たちは律法を全うされたイエス様、そして律法を全うさせてくださるキリストの御霊を思うとき生きることができるのです。私たちは新しい契約の内に生かされていることを忘れてはいけません。

3.十戒と私たち


 第一は旧約時代、第二はイエス様の時代、第三は教会の時代と言うことができます。新約聖書で「教会」というと、ほとんどが異邦人から救われたクリスチャンをさします。パウロは「異邦人の時が満ちたら、ユダヤ人が救われる時が来る」(ローマ1125-26)と言っているからです。ですから、新約聖書の書簡のほとんどが教会のために書かれていますので、そのみことばを私たちはダイレクトに学ぶ必要があります。書簡(手紙)を見ますと、モーセの十戒は記されていません。また、イエス様が律法をたった2つにまとめましたが、それもたった1つになっています。3か所開きますが、最初にローマ13章を見たいと思います。ローマ139-10「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」第二はガラテヤ人への手紙です。ガラテヤ514「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」さらに、「御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」(ガラテヤ518と書かれています。第三はヤコブの手紙からです。ヤコブ28 「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」ヤコブは「えこひいきしないで、愛しなさい。自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい」と勧めています。注目すべき事は、ヤコブが「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が、最高の律法であると認めているということです。

これら3つに共通していることは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めだけが取り上げられているということです。そしてこの戒めは、それぞれ、「すべての律法を要約したもの」「律法全体を一語で全うするもの」「最高の律法」と呼ばれています。かつて、モーセの十戒がイエス様によって2つにまとめられましたが、最後は1つになっているということです。では、第一の戒め「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」が不要になったのでしょうか?このことに関しては、いくつかの答えがあると思います。簡単には言えません。新約聖書の書簡は、前半がキリストの贖いに関する教理的なことが記されています。そして、後半は信じた人がどう生きるべきかという倫理的なことがしるされています。ということは、前半のキリストを信じて神さまを愛するということが、前提になっているということでしょう。その上に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命じられているのだという考えです。もう1つの考えは、「あなたが本当に神さまを愛しているのなら、あなたの隣人を愛するはずですよ」という証拠みたいなものです。ヨハネは第一の手紙の中でこう述べています。Ⅰヨハネ420-21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」なんと強烈なみことばでしょう。私たちは「父なる神さまあなたを愛します」。あるいは「イエス様あなたを愛します」と言うことができます。でも、「私のこの隣人は愛することはできません」「あの兄弟を、あの姉妹を愛することができません」と口では言わないかもしれませんが、思っているのではないでしょうか?ヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言っています。イエス様の時代、パリサイ人や律法学者が宗教的な指導者でした。彼らは熱心に律法を守り、神さまをあがめ、神さまに仕えていました。でも、イエス様から「ああ、わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と呼ばれました。

 旧約時代もイエス様の時代も、「これこれの律法を守りなさいよ」と箇条書きにできるほど命じられていました。しかし、私たちの時代は、「神さまを本当に愛しているなら、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われているだけです。どっちが楽か?細かくてたくさんあるのも嫌ですけど、1つしかなくてあとは考えなさいというのも大変です。学校の時は、「廊下を走るな」とか「髪の毛が長い」とか先生から注意されました。ところが、大人になるとそういう細かい規則からは解放されます。同じように信仰を持つ前は、律法が私たちをキリストに導く養育係りでした。律法は「あなたはそれでは神さまから義と認められない、罪があるよ」と知らせてくれました。今度イエス様を信じて新しく生まれ変わりました。もちろん、私たちは旧約聖書のモーセの十戒を学ぶ必要があります。そして、新約聖書から教理と倫理についても学ぶ必要があるでしょう。でも、最後は自由な律法に仕え、御霊によって歩むしかありません。私たちが罪を犯さないのは神さまを悲しませたくないからです。私たちはイエス様から信頼されていますので、裏切りたくありません。私たちが戒めを守るのは、神さまから愛されているからです。地獄でさばかれるのがイヤだから、仕方なく守っているのは奴隷です。イエス様は私たちを友と呼ぶと言われました。ヨハネ1514「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」イエス様は現在、御霊によってこちらにいらっしゃっています。イエス様が地上におられた頃、イエス様の周りにいた人たちが緊張したでしょうか?福音書を見ると分かりますが、12弟子たちは結構自由でした。取税人たちも一緒にイエス様と食事をしました。ベタニヤの兄弟たちはいつでもイエス様をお泊めしました。姉のマルタはイエス様にタメ口をききました。彼らがイエス様の近くで緊張していたという記事はほとんど見当たりません。

 私はこのことばが本当に大好きです。Ⅱコリント317「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれています(ローマ55)。私たちはその愛で神さまを愛します。また、その愛で「私の隣人を私自身のように愛する」ことができるのです。キリスト様につながっていれば大丈夫です。

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2018年11月 2日 (金)

霊的飢え渇き エゼキエル47:3-12 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.11.4

 イエス様はルカ福音書で「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」(ルカ620,21と言われました。リバイバル(霊的復興、初代教会のような出来事)が起こるために必要なことは、飢え渇きです。私たちが主を切に求めると、そこに主のみわざが起こり、多くの人たちが救われます。きょうは、私たちはどのような飢え渇きを持つべきなのか3つのポイントでメッセージをさせていただきます。

1.神さまに対する飢え渇き

 ギリシャ語で「知る」は二種類あります。ギノスコーは知的に知るということです。もう1つはオイダであり、これは体験的に知るということです。新約聖書ではこのことが交互に使われています。ヨハネ5章でイエス様はユダヤ人にこう言われました。ヨハネ539-40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」彼らのように、聖書を勉強することは大変良いことです。しかし、聖書はだれのことを書いてあるかというと、イエス様についてであります。たとえて言うなら聖書は非常口の表示板です。人々はその方向に非常口があると分かります。でも、だれも表示板そのものが非常口だとは思いません。ユダヤ人は聖書に精通していましたが、聖書が示しているお方を受け入れませんでした。彼らは知的に高慢になっており、イエス様が自分たちの考えているメシヤとは違うと拒絶しました。私たちは神学を勉強すると、神さまのことが全部わかったような気になります。神さまは「全能である」と頭では分かっています。でも、生活が困窮している中で、神さまが本当に助けになると信じていません。その人は神さまを知的には理解していても、全能の神さまを体験していないということになります。知性と信仰が乖離してしまうような勉強はしないほうがましです。なぜなら、聖書に「知識は人を高ぶらせる」(Ⅰコリント82書いてあるからです。

 私たちはへりくだって主を知ることを求めなければなりません。ホセヤ6:3 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」「後の雨」は3月から4月頃に降り、穀物の豊かな実りをもたらすので、祝福の雨とされています。聖書で「前の雨」はペンテコステのことです。そして、「後の雨」は、世の終わりのリバイバルを象徴しています。私たちは世の終わりの時代に住んでいます。世の人たちは、聖書も読まないし、神さまを知ろうともしません。なぜなら、他に楽しいことがいっぱいあるからです。世の終わりの教会はラオデキヤのように「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もない」と言うようになります。しかし、主は「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、私は口からあなたを吐き出そう」(黙示録316-17と言われます。「もう、自分は豊かになった、乏しいものは何もない」と、飢え渇きがありません。終わりの時代だからこそ、私たちは主を知ることを切に追い求めなければなりません。このままですと、大収穫のないまま、世の終わりが来てしまいます。神さまは忍耐しておられ、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます」(Ⅱペテロ39)。私たちは飢え渇きをもって、主を知ることを求める必要があります。 

 ビル・ジョンソン師は「主を知るとは、主の臨在を慕い求めることである」と言っています。彼は『主の臨在をもてなす』という本の中でこう述べています。「詩篇1611『あなたの臨在の中には喜びが満ち』とあります。どこに喜びがあるのか、臨在の中です。もし、家の中でも神の臨在をもっと意識するなら、家の中がどこよりも大きな喜びが満ちあふれるでしょう。ダビデのきわだった生涯を考えると、ダビデの成功の秘訣は主の臨在でした。ダビデは主の臨在に心を向けなければ、人生のコンパスを失うことを知っていたのです」(原本直訳)。私たちは聖書を読んで神さまを知ることができます。さらに、礼拝と祈りによって神さまと深く交わることができます。そのためには5分でも、10分でも、静まる必要があります。そこに神の霊が臨んでくださり、あなたは刷新されるでしょう。神さまとの人格的な交わりほどすばらしいものはありません。人と会うためには相手の都合を聞かなければなりません。アポイントメントを取らないと会えないかもしれません。でも、神さまはいつでも、私たちとお会いして下さり、親しく交わってくださいます。すばらしいことに、このことが聖霊によって可能になったのです。

 私たちは祈りといえば、「あれしてください」「これしてください」と願うことだと思っているかもしれません。嘆願やとりなしの祈りをする前に、私たちは主だけを求め、主と親しい時を過ごすことを優先すべきです。主のご愛と恵みと信仰に満たされて、はじめて嘆願やとりなしの祈りが力強くできるのです。とりなしの賜物のある人は、1時間も課題をあげて祈っても大丈夫です。しかし、普通の人は、まず自分が満たされるように祈るべきです。その後、人のために祈るなら霊的に枯れることはありません。先ほど、神学の勉強が必要でないような言い方をしましたが、そういう意味ではありません。神学は信仰を体系付けるためにとても重要です。神学は両脇の極端の溝にはまらないように、真理の王道を示してくれます。でも、それで神さまが分かったようになるのは大間違いです。その中味を満たすのは信仰であり、生きた神さまとの交わりです。神さまが本当に全知全能なお方なのかは、自分の生活で神さまと共に生活しないかぎり分かりません。子育て、仕事、人間関係、いろんな問題や困難を乗り越えて行く中で、「ああ、人にはできないが神にはできる」と分かるのです。頭の信仰ではなく、全人格的な信仰になったら幸いです。不思議なことに、そのように神さまを知るともっと神さまを知りたくなります。イエス様は「私が真理である」と言われました。だったら私たちも、真理を知るために時間をかけるべきです。そうするなら、真理の御霊が交わりの中で、親しく教えてくださいます。神さまを知れば知るほど、もっと知りたくなります。世の楽しみは中毒になって、身を滅ぼしてしまいます。しかし、神さまを求めれば求めるほど、満たされ、祝福を受けます。アーメン。

2.油注ぎに対する飢え渇き

 イエス様は天にお帰りになる前、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ2449と弟子たちに命じられました。そして、ペンテコステの日、約束の聖霊が彼らの上に臨まれました。「彼らは聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました(使徒24)」。「聖霊に満たされる」は、ギリシャ語から2種類あることがわかります。第一つは「内側が聖霊で満たされる」です。これは聖霊によって支配されるという人格的な意味です。もう1つは「外側からすっぽり聖霊で満たされる」です。これは聖霊によってその人に力が与えられるということです。後者を「聖霊のバプテスマ」、あるいは「聖霊の油注ぎ」と呼んでいます。もちろん、教団教派によって考え方や表現は違います。奇跡やしるしを信じる人たちは、この立場を支持しています。実はイエス様も上から聖霊の力を受ける必要がありました。イエス様はバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けました。その直後、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエス様の上に下られました(ルカ322)。そのことは何を意味するのでしょう?それはイザヤ611「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ」という預言の成就です。つまり、この時、イエス様は上から聖霊を受けて、メシヤとしてのミニストリーを行うができるようになったということです。3年半の間、イエス様は福音を宣べ伝え、病人を癒し、さまざまな奇跡を行ないました。この地上を去る前に、イエス様はこのようなことをおっしゃいました。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」これは弟子たちだけではなく、私たちクリスチャンにも向けられている約束であることを信じられるでしょうか?その根拠は、イエス様はご自分の力ではなく、聖霊によって神のわざを行っていたからです。イエス様は私たちの模範であったということです。私たちも聖霊を上から受けるとイエス様と同じことができるという約束です。

 聖霊を上から受ける、つまり聖霊の油注ぎには、いろんな体験があります。初代教会の頃は、異言や預言を話したりしました。しかし、体験は人によって様々であり、それを定まった教義にしてはいけません。でも、私は油注ぎが1回限りではなく、何度も受けて良いものであり、また受けるものだと思っています。Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」おそらく、テモテは神の賜物が消えかかっていたのではないでしょうか。だから、それをかき回して、もう一度、燃え立たせる必要がありました。ここで、「按手」ということばが出てきます。パウロはエペソの人たちにも按手しました。使徒196「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」とあります。聖霊のバプテスマは個人で祈っているときにも与えられます。しかし、だれか神の人から手を置いて祈ってもらったときも与えられるということです。これを英語ではimpartation分与と呼んでいます。

私があこがれる聖霊体験を持たれた二人の先生をご紹介したいと思います。最初はランディ・クラーク師の証です。19841月、二人の執事とダラスの集会に出席しました。ジョン・ウィンバーとチョーヨンギ師が講師でした。最後に招きがあり、多くの人たちが泣いていました。私は跪いて、ちょっとだけ祈ってから帰ろうと思いました。なぜなら、この様子がテレビで放映されていたからです。主の霊が私に「両手をあげなさい」と言われたように思いました。私はバプテストです。バプテストはそんなことをしません。しかし、両手を上げました。その瞬間、神の霊が私を打ちました。私は混乱し、感情を失い、すべって最後には床にねそべりました。なんと、私が寝そべって体をゆらしているシーンが大きなスクリーンに映し出されました。私のプライドは打ち砕かれました。聖霊は再び私を打ち、私は1時間も床の上で横たわり、震えながら泣いていまし。私はその後、何年間も小さな教会でドーナツをあげなら牧会していました。19911月トロントの教会に講師として招かれました。46日間集会が続き、霊の力強い油注ぎの集会へと発展し、平安、癒し、体の震え、神の力によって倒れる、笑い、多くの異言などの聖書にある顕著な事柄が揃って現れました。かつて、ジョン・ウィンバーが「あなたには使徒的な召しがあります。あなたは世界中を旅して、聖霊を付与する人になります」という知識の言葉が成就しました。

もう一人は、ビル・ジョンソン師の証です。19952月、トロントの集会にスタッフたちを連れて出席しました。油注ぎがあまりにも強くて、歩くことができませんでした。私たちはそこからブレークスルーが始まったと信じています。その年の10月のある晩のことです。早朝3時に目がさめましたが、体を動かすことができません。私はベッドに横たわりながら「主よ、私の両手はそびえ立っています。私の両足もそびえ立っています。私の体もコントロールできません。」と言いました。私はそのとき「天に引き上げられるのかな」と思いました。その後、両手と両足が私の体からちぎれるほど乱暴に動きました。電流が私の体中を流れ、このまま死ぬかと思いました。「ああ、これは神さまだ。でも、神さまが何をしているのか分からない」と思いました。気持ちは良くありませんでしたが、喜びにあふれていました。正直なところ、とてもみじめな方法で満たされたと思いました。私は朝起きたとき「神さま、もっと与えて下さい」と祈りました。しかし、私はその代価を払わなければなりませんでした。お昼にお気に入りのレストランに行きました。突然、夜と同じように、手足に震えが来て、体からひきちぎられそうになりました。目の前に運ばれて来たばかりのスパゲィーがありました。「神さま、今ですか?」と思った瞬間、顔がお皿の上にのめりこみました。すべての威厳が私から取り去られたように思いました。

ビル・ジョンソン師は、15年間祈ってもだれも癒されませんでした。しかし、この時から、数えきれない人たちが癒されるようになりました。私たちは聖霊を上から受ける必要があります。そうすれば、賜物が開かれ、力が与えられ、すばらしいことが私たちを通して起るでしょう。聖霊の油注ぎは、自分が癒されるだけではなく、大いなる神の働きの突破口になるからです。聖霊の油注ぎによるブレークスルー、霊的突破口にあこがれます。

3.ミニストリーに対する飢え渇き

 ミニストリーとはイエス様が地上で行われた「働き」のことです。マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」と書いてあります。イエス様は「教え、福音宣教、病の癒し」をなされました。その他に、イエス様は嵐を静めたり、パンを増やしたり、死人さえよみがえらせました。いわゆる「しるしと奇跡」を行いました。私は神学校で、聖書の教えや伝道について学びました。しかし、それは、イエス様がなさったようにではありませんでした。福音書を見ると分かりますが、イエス様は聖霊による賜物を用いて伝道しました。サマリヤの女性に対しては、知識の賜物によって彼女に夫が5人いたことを言い当てました。一挙に彼女の心が開き、イエス様を預言者だと告白しました。パリサイ人や律法学者たちから難問をふっかけられました。イエス様の教えの多くは反対者たちとの論争から来るものでした。「カイザルものはカイザルに返しなさい」と答えたら、彼らは何も言えず去って行きました。イエス様はそのとき、知恵の賜物を用いたに違いありません。ザアカイに対してはどうだったでしょう。彼はいちじく桑の上で隠れていました。イエス様は木の根元に来て、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。イエス様は、ザアカイの居場所、名前、予定まで示しました。イエス様はこのとき、預言の賜物を用いたに違いありません。現代の教会は、音楽伝道、喫茶店伝道、英会話伝道をやってきました。現代の教会は、イエス様や弟子たちが行った伝道法とは全く違います。

イエス様は弟子たちにこのように命じました。マタイ107.8NASB直訳「行って説教し、天の王国が近づいたと言いなさい。病人を癒し、死人をよみがえらせ、らい病人たちをきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」これが聖書で言う伝道です。ところが、私が学んだ神学校ではこんなことを教えてくれませんでした。ある人は、「そういう目覚ましい奇跡は聖書の完成とともに必要でなくなった」と言いました。しかし、リバイバルが起こっている各地では、聖書の記述と同じようなことが今でも起こっています。40年前、私がクリスチャンになった頃は、インドネシヤのチモールにリバイバルが起きました。水がぶどう酒に変わる奇跡も起こったと聞きました。中国では死んだ人が何百人も生き返ったと聞きました。インドではらい病人が癒されました。アルゼンチンではなくなった歯が新しく生えたという奇跡も起こりました。イスラム教の伝道は最も難しいと思われています。イエス様が直接、彼らの現れてくださり、彼らがイエス様を信じています。現在はアフリカ中にリバイバルが起こり、聖書の記述と同じようなことが繰り返し起こっています。集会が終わった後に松葉杖の山ができるそうです。私たちが学校で習った神学はなんだったのだろうと思います。自分たちの神学と経験に神さまを押し込めていたのです。しかし、神さまは私たちの神学と経験以上のお方です。私たちは聖書を神のことばと信じるならば、その内容もそのまま信じなくてはなりません。

 ランディ・クラーク師は道端を歩きながら、「アルゼンチンで起っているようなことが、どうしてアメリカで起らないのだろうか」と思いました。自分の中には、渇きと懐疑心がありました。すると突然、声がしました。「Man、私はアルゼンチンにおけるリバイバルの油注ぎの下から来ている。私たちは多くの人々が癒されるのを見なければならない。ここでなければならない」。そのことばは彼を本当に励ましました。それまでランディは多くの癒しのミニストリーをやってきました。しかし、彼は体の中に埋め込まれている金属が消えてなくなるという奇跡を見たことがありませんでした。ある日、ビル・ジョンソンと一緒に集会を持っていました。ビル・ジョンソン師が「神さまが金属の埋め込まれている人を癒したいと願っています。その人は立ちなさい」と言いました。その時、祈りましたが、だれも癒されませんでした。非常にがっかりし、信仰的にも打ち倒されました。次の日はコロラドで集会を持ちました。きょうは金属のための祈りはしないぞと決心していました。食事をしようとしていたとき、だれかが大きな封筒を持って来ました。「ひどい痛みがあります」と表書きと名前がありました。封筒を開けると頸部のレントゲン写真が同封されていました。首のねじを数えてみました。23,24個、それ以上ある。それだけではなく、脊椎には4本の長い棒と横棒がありました。「昨晩もできなかったんだから、今晩はやらないことにしよう」と決意していました。

 賛美が終わると、私はそれをしてしまいました。「神さまが体に金属を埋め込まれている人を癒そうとしているのが見えます。金属を体に持っている人は立ちなさい」と言いました。47人の金属を持っているたちが立ち上がりました。ビル・ジョンソンが祈り、私も祈りました。23人の人たちが癒されました。その中の11人がステージに上り証をしました。次の日、その中の5人か6人をインタビューしました。彼らはモルヒネ・パッチをしていましたが、今はしていません。なぜなら、何年間も続いていた痛みが消え去ったからです。私は彼らが今までいていなかったことをするのを見ました。その日から、そのような癒しを受けた人の数を数えることにしました。1年間で180人の人たちが、金属が消えたと証をしました。私はブレークスルーを体験しました。今は2011年になりますが、400人以上の人たちが、金属が消えたと証をしています。

 ビル・ジョンソン師は15年間、祈っても一人も癒されませんでした。しかし、トロントで油注ぎを受けてから、どんどん人々が癒されるようになりました。ランディ・クラーク師も同じです。彼の場合は、知識の賜物で人々が癒されます。ある集会中ですが、「腫瘍」という文字そのものが見えました。その直後「腫瘍」と言いました。その時、会場にいた5人の人たちの腫瘍が癒されました。彼は私たちにこう勧めています。従うことです。遅れた従い方は、従っていないことになります。待っていると油注ぎがなくなり、みわざが起らなくなります。私は従うことを学びました。その時が来たら、瞬間に行動しましょう。神さまがあなたに何かを見せてくれたら、私がやったように「腫瘍」と言いましょう。その時、5人の人が瞬間に癒されました。私はことばが見えたら、瞬間に従うことを学びました。失敗を恐れず、従うなら奇跡は起こります。

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2018年10月26日 (金)

満ち足りる心 ピリピ4:11-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.28

 白人は日焼けサロンにいきます。黒人は肌が白くなるクリームを塗ります。髪の毛が縮れている人はストレートパーマをしにサロンに行きます。髪の毛のまっすぐな人は、パーマをかけにサロンにいきます。髪の毛の少ない人は、増毛するために何かをします。このように人は自分にないものを欲しがる傾向があります。そして、今、持っているものに満足できません。夢を追い求めることは悪いことではありません。でも、目標が達成できないからと言って、フラストレーションがたまって、現状を喜べないというのはまことに不幸です。

1.満ち足りることを学ぶ

 ピリピ411「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」使徒パウロは何かを学びました。一体、何を学んだのでしょう?パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。この時、パウロはローマの牢獄に捕えられていました。最初はある程度の自由が与えられていたようですが、後半は狭い独房でした。汚物が混じった下水が側を流れている、じめじめした小部屋でした。そんな状況の中で、パウロは「喜びなさい」という手紙をピリピの人たちに書き送っています。これまでパウロは3回の伝道旅行をしてきました。小アジアのエペソやガラテヤ、そして海を渡ってギリシャやコリントに福音を宣べ伝えました。最後は囚われの身になって、ローマに渡りました。パウロはカイザルから裁判を受けようと願っていますが、キリスト教に対する迫害も加わってきました。もし、パウロが自由の身であるなら、スペインまで宣教に行きたかったでしょう。ところがそれが叶わず、今は捕らわれの身です。もし、私がパウロだったら「主よ、どうしてですか?あなたは私を異邦人の宣教のために遣わしたではありませんか?こんな状態では、あなた自身の損失になりますよ」と訴えることもできたでしょう。でも、パウロは拘束されていたので、手紙を各教会に書き送ることができました。現在、獄中からの手紙が4つか5つ残っているのは、そのためであります。おそらく、パウロが自由に活動していたなら、このような手紙を書く時間がなかったでしょう。

 パウロはここで、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言いました。あのパウロですら何か学ぶ必要があったのです。それは、どんな境遇にあっても満ち足りることです。パウロがそうであるなら、私たちも満ち足りることを学ぶ必要があるのではないでしょうか?私たちは神さまに対して、いろんな夢や希望を抱きながら生活しています。早く新しい家に住みたい。早く昇進したい。早く結婚したい。早く子どもが与えられたい。早く子育てを終えたい。早く健康になりたい。早く家のローンを返したい。「一日も早く願いが叶うように」というのが、正直な願いでありましょう。でも、夢や希望がなかなか実現しないと、フラストレーションがたまります。いらいらして、毎日を楽しく生きることができなくなります。私たちは「神さまには時がある」ということを学ばなければなりません。そして、神さまに信頼し、神さまの御手にゆだねることです。もし、神さまが私たちをテストしておられると考えるならどうでしょう?それはどういう意味でしょう?今の状態でも、「満ち足りる心を持っているか?」ということです。「満ち足りる」は英語の聖書では、be contentということばです。Contentは「満足して、安心して、甘んじて」という意味です。私たちは「満足したら、成長が止まってしまうだろう。もっと高みを目指すべきでしょう」と言うかもしれません。確かにそうですが、山の頂上に達することも重要ですが、そのプロセスを楽しむことも必要です。頂上ばっかり見ていると、道端に咲いている花とか、景色を見ることができません。男性は目的を達成することに力を向けますが、その点、女性はプロセスを楽しむことができます。たとえば、男性が買い物に行くとき、「これを買いに行くんだ」と売り場を目指し、買ったらすぐ帰ってきます。でも、女性は1つの店を回り、気に入ったものがなかったら2つめの店、3つめの店に行きます。そして、戻ってきて最初の店で買ったりします。でも、買わないときもあります。女性はショッピングというプロセスを楽しんでいるのです。私たち男性は一緒に行かないで、どこかで待ち合わせしている方が幸いです。

 私たちはたとえ家が狭くても満足すべきです。もし、神さまの導きなしで、大豪邸が与えられたら、部屋数が多くて掃除が大変です。家族肩を寄せ合う狭い家も良いものです。もし、神さまの導きなしで部長になったら重い責任がかぶさってくるでしょう。それよりも、教会の奉仕の時間が持てるヒラ社員も良いです。もし、神さまの導きでなくて結婚したら、「ああ、しなければよかった」「他の人と結婚すれば良かった」と思うかもしれません。独身を楽しむこともできます。子どもが早く与えられたらと思っているかもしれません。でも、子どもが生まれたら、夜中に何度も起きなければなりません。「早くおしめが取れたら、働きに出られるのに」と思っている子育て中のお母さん。しかし、後からは、おしめをつけていた頃が一番、可愛かったと思うでしょう。伝道者の書には「すべてに時がある」と書かれています。他の訳は「すべてにシーズンがある」と訳されています。そうです。あなたは今のシーズンを楽しむべきなのです。なぜなら、今のそのことは神さまからのテストだからです。神さまは「今の状態を喜んでいるか、満ち足りているか」テストしておられます。もし、そのテストに合格するなら、次のシーズン、次のステップに進むことができるでしょう。民数記に書かれていますが、イスラエルの人たちはいつも不平不満をもらしていました。「喉が渇いた、水が飲みたい」「肉が食べたい、ニラやたまねぎが食べたい」といつもつぶやいていました。天よりのマナが降って来ても、「もう飽きた」と言いました。どうなったでしょう?彼らは安息の地に入ることができませんでした。彼らは満ち足りる心を持つことができなかったので、不合格になったのです。

 私たちは、神さまから満ち足りることを学ぶという試験を受けています。今、自分にないものを数えたら、決して満足することできません。あれがない、これがないと不満だらけになるでしょう。しかし、今あるものを数えたならどうでしょう。「ああ、これも主の恵み」「ああ、これも主の恵み」、今まで当たりまえだったものが、そうではない。とても貴重なものであったことがわかります。今ある肉体、今ある仕事、今ある家庭、今ある住まい、今ある人生を感謝しましょう。

2.秘訣を心得る


 ピリピ412「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」パウロはあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていると言っています。パウロが常に貧しくて、飢えていたかというとそうでもありません。パウロは豊かで、富んでいたこともありました。クリスチャンは豊かで、富むことが悪みたいに言われていますが、そうではありません。どちらが、誘惑が多いでしょう?箴言309「私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」豊かで、富んでいれば、「主とはだれか」と忘れてまいます。貧しいと、盗みをして神さまの名を汚すことになります。どちらも誘惑になります。あらゆる境遇に対処する秘訣とは何なのでしょうか?パウロは413節で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と述べています。キリスト教会では、13節だけを取り上げて「私はキリストにあってどんなことでもできるのです」と言います。このところから積極的な信仰について語ることができるかもしれません。しかし、12節と13節を連続して読むならば、ちょっと見方が変わってきます。パウロは12節で「貧しさと豊かさ、飽くことにも飢えること、富むこと乏しいこと、あらゆる境遇に対処する秘訣は何か」と言っています。その後、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言っています。もし、連続して読むならば、環境を乗り越える秘訣とはキリストではないかということです。しかも、キリストにあって何でもできるということではなく、貧しさや豊かさを乗り越えることができるということです。

 パウロは今、ローマの獄中に捕えられています。劣悪な環境で、食べるものもこと欠いている状態です。私たちは小腹がすいたら、ちょっと歩けば、コンビニで何でも買えます。100円でコーヒーも飲めます。パウロは飢えて、乏しい状態でした。そういう中で、何ができるのでしょうか?パウロにはキリスト様が共におられました。ピリピ44,5「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」パウロは、ピリピの人たちに「喜びなさい」と勧めています。その根拠は何なのでしょうか?「主は近い」ということです。これは主がまもなく来られるという再臨の意味と、主がすぐそばにおられるという両方の意味があります。パウロは早く地上を去って、主のもとに行きたいという願いがありました。しかし、劣悪な環境の中にこそ、主が近くにおられるということを体験したのではないかと思います。私たちは環境や状況によって、嬉しくなったり、悲しくなったりします。もし、私がパウロと同じような環境で、「喜びなさい」とはおそらく言えないでしょう。良い整えられた環境で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言うなら、とてもおめでたい信仰です。病気の時や失敗した時は、なかなか言えません。もし、そうだとしたら、キリストにある秘訣を知らないということになります。

 パウロは変えられない環境の中でも、喜ぶことができました。あらゆる環境の中にあっても、満ち足りる心を持つことは可能なのでしょうか?「あなたが植えられたところで花を咲かせよ」という格言があります。ダビデの生涯を見ますと、彼はあらゆる環境の中でも、満ち足りて生きることができたことが分かります。ダビデはサムエルから次の王様になるという油注ぎを受けていました。しかし、彼は、しばらくの間、羊飼いをしていました。お兄さんたちは、戦争に出かけて、第一戦で活躍していました。ダビデはこのように言うこともできました。「神さま、あなたは偉大な約束を私に与えてくださいました。なのに、私はここで羊の番をしています。これって正しいのでしょうか?」しかし、ダビデはこの秘訣を知っていました。彼は自分が与えられた場所で忠実に働いていたのです。ダビデは将来のことを神さまにゆだねていましたので、羊を飼うことに満足していました。しかし、ある時、お父さんから戦場の兄たちにお使いを頼まれました。そのとき、イスラエルがゴリアテの前に恐れおののいていることを見ました。兄のエリアブが言いました。「一体、お前はなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けてきたのか?」と言われました。でも、ダビデは彼のことばを聞き流し、サウル王に「私に戦わせてください」と進言しました。主がダビデと共におられたので、3メートルもあるゴリアテを倒すことができました。その後、ダビデは宮殿に迎えられました。原っぱからpalace宮殿です。

もし、私たちが今、与えられている場所において忠実でないなら、どうして神さまは次のステップを与えて下さるでしょうか?『天国の人』という本からです。60年間も遊園地で働いている一人の男性がいました。彼の両親が遊園地のオーナーだったので、その後を継いで、人生のほとんどを遊園地の仕事にささげました。しかし、彼はそこで働きたくなかったのです。彼はもっと大きな夢がありましたが、不幸なことに続けるしかありませんでした。夢が成就していない不満を持ちながら、憂鬱な思いで遊園地の仕事を続けていました。しかし、表向きは親切で思いやりのある人物として振る舞い、人々を助けていましたが、心の中は不幸せで、自分は失敗した人生を送っていると思っていました。83歳になったある日のこと、乗り物を支えるワイヤーが切れて落ちて来ました。彼は真下にいた女の子を押し倒し、代わりに命を落としました。彼は天国に行って、自分に影響を与えた5人と会いました。47歳で死んだ妻とも会いました。5人目は焼けただれた5歳の女の子でした。彼が戦争に行ったときフィリピンの村を焼き払ったことがありました。彼は心から女の子にお詫びをしました。すると、彼女は遊園地の女の子が助かったことを教えてくれました。彼はそれまで自分は間違った場所で、間違った仕事をしてきたと思っていました。神さまは天国に来た人に、天国のどのような場所に住みたいか自由に選ばせました。ある人は海辺、ある人は宮殿、ある人は山の上を選びました。しかし、彼はあの遊園地を選びました。

 あなたは自分の希望が叶わないために、不満足でフラストレーションを持って生きはいないでしょうか?私も人のことは言えませんが…。でも神さまはあなたにふさわしい場所を与えておられるのです。その場所で喜んでいるなら、神さまは次のステップへと召してくださるでしょう。

3.私の神

 ピリピ419「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」使徒パウロは、神さまを「私の神は」と言っています。ということは、それだけパウロにとって親しいお方であったということです。パウロはこれまでの人生において、神さまが必要を満たしてくださったという体験があったということです。だから、「私の神は」と自信をもって言えるのだと思います。続いて、「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」と書かれています。神さまは栄光の富をお持ちなのですが、それを引き出すためのお名前があるということです。それは「キリスト・イエス」です。パウロがここで「イエス・キリスト」と言っていないのは、神であるお方、キリストを強調したいためです。そういう順番はともかく、イエス様を通して、神さまご自身の栄光の富が満たされるということでしょう。他の宗教はともかく、私たちはパウロのように「私の神は」と言えるほど、親しい関係を持つ必要があります。だれかの神さまではなく、「私の神さま」と言えたら幸いです。私は信仰歴がそろそろ40年になります。イエス様を信じる前と、信じた後のことを比較するなら、「格段に違うなー」と確信をもって言うことができます。まず、イエス様を信じていなかった頃は、「感謝する」ということが全くありませんでした。不平不満のかたまりであり、自分がないものばかりに目を留めていました。学歴もない、頭も良くない、お金もない、財産もない、コネもない。私の家の隣の友人は長男だったので、大事にされ、物質的にもとても恵まれていました。私は母に「これ買ってくれ、あれ買ってくれ」と母を困らせました。なぜなら、自分が持っていないものを、隣の友人が持っていたからです。あれから、40年たってどうなったでしょう?友人は農家を継ぐ羽目になりました。彼は田んぼを売ってパチンコに明け暮れていると聞きました。

 しかし、私はクリスチャンになってから全く人生が好転しました。この間、道路を走っていたら、三菱のアルトが走っていました。そういえば、「赤い軽のアルトで家族みんな乗っていたなー」と思い出しました。牧師館も古かったけど、子どもたちは教会堂や広い庭で遊んでいました。昔、幼児園をやっていたので、敷地があったのです。家内が支えてくれて、神学校も行けたし、通信の大学も卒業できました。教会堂が古くて、隙間風が入り、床がいつもざらざらでしていました。会堂掃除のときは、姉妹方が来られました。長老の奥様の梅野さんは、掃除を終わった後、お昼に「力うどん」を出前で取ってくれました。新会堂は備品を含め、14000万円借金なしで建てることができました。あれから25年も経つので、「古い」とか言う人がいますが、私にとっては新会堂です。神の栄光と知恵の傑作品です。ゴスペルで大勢の人が救われ、小リバイバルを体験させていただきました。子どもたちの学費で苦労した時もありましたが、4人も生んだのですから当たり前ですね。「8人兄弟の7番目のヤスが、よく、まあ4人も育てられたなー」と思います。私も曲がりなりにも、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」と言うことができます。

私たちは「もっとお金があれば、満ち足りる心をもつことができるだろう」と言うかもしれません。しかし、満ち足りるべき最初のものは、「心」であります。お金と心は必ずしも正比例しません。残念ながらお金がたくさんあっても、心が満たされていない人が、この世にたくさんいるからです。もちろん、お金もあったら良いでしょうが、その前にもっと重要なものがあります。それは、すべての源なる神さまを持っているかどうかです。パウロは「私の神は、栄光の富を持っておられる」と言いました。そして、キリスト・イエスがその富を引き出すことができます。つまり、心の中に神さまを持つことが何よりも先決だということです。ジョエル・オスティーンのお父さんは牧師でした。ジョエルを含め、五人の子どもたちがおり、お家はそんなに豊かでありませでした。でも、ジョエルは貧しいと感じたことがなかったそうです。家族でビッグ・ヴァケーションに行くことはありませんでしたが、よく空港に連れて行ってくれたそうです。空港にはターミナルAとターミナルBがありました。空港には2つのターミナルを連絡する、無料の乗り物があったそうです。父親と子どもたちは飛行機に乗るわけではなく、ターミナルAとターミナルBを行き来しているだけです。ある人たちは、「この親子はきっと迷子になっているんだろう」と思ったかもしれません。でも、子どもたちはそれに乗るのがとっても楽しかったそうです。お父さんは、お金をかけなくても、楽しく過ごす方法を知っていたのです。

私たちは見方を変える必要があります。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって必要をすべて満たしてくださるに違いない」と期待して生きるならそうなります。「神さまはケチで、何もくれない」と思っていると、側にあるすばらしいものが見えません。私は朝、中川の川べり散歩をします。この春ですが、土手に薄汚れた桜の木がありました。もう、そめい吉野は散っているので、この灰色の木は一体何だろうと近づきました。なんとその木は山桜の木で、花が咲いていました。葉っぱと一緒だったので、灰色に見えたのです。「ああ、山桜だったんだー」と感動しました。4番目の息子が大学1年になり、淵野辺の校舎に行きました。アパートを借りるときにひと悶着ありました。私がひとりで全部決めたので、息子は不満だったようです。「せっかくやってあげたのに」と、ものすごく憤慨しました。でも、あとから思いました。「この間までおしゃぶりをしゃぶっていた子が、あんな大きな口をたたくようになったんだなー」と憤慨から感慨に変わりました。子どもたちと川の字で寝ていた寝室ですが、今は、すぐ隣に妻が寝ています。家内に「ああ、結婚したんだよなー」と言います。「何、言っているのよ、30何年もたって」と言い返されます。そうです。当たり前だと思っていたことが、実は当たり前ではなかったのです。神さまからたくさんのものを受けているのに、いつの間にか「当たり前」になり、無感動になります。古い家に住んでいる人は、屋根があることを感謝しましょう。仕事で忙しい人は、仕事があることを感謝しましょう。失業している人がいっぱいいるからです。足がきかない人は手がきくことを感謝しましょう。手がきかない人は口がきけることを感謝しましょう。口もきけず、耳もきこえず、目も見えなくなったら、永遠のいのちがあることを感謝しましょう。

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2018年10月19日 (金)

預言者と預言 Ⅰコリント14:1-5 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.21

 現在のキリスト教会でもっともうとんじられているのが、預言者と預言ではないかと思います。先週はⅠコリント13章から学びましたが、そこには「預言の賜物ならすたれます」と書かれていました。ほとんどの福音派の教会は「聖書が完成したときに、そういう賜物は必要なくなった」と言います。だったら、「知識ならばすたれます」とも書いてあるので、「知識も必要ない」と言ってください。完全なものが現れるとは、世の終わり、キリストが再臨される時のことであります。世の終わりが来るまでは、伝道のため、教会を建て上げるため、将来の危険から免れるため、預言者と預言は大事な神さまからの賜物であります。

1.預言者

 まず、最初に旧約聖書において預言者たちはどのような働きをしていたのか学びたいと思います。モーセは神さまから律法を授かりました。そして、「主はモーセに告げて仰せられた」というフレーズが度々出てきます。モーセは主なる神さまの代弁者であります。人々は聖なる神さまのところに近づくことができませんでした。なぜなら、罪があるからです。その次は、サムエルが登場しますが、やはりイスラエルの民の間に立って、主のことばを告げました。ナタンはダビデに油を注ぎ、王様に任命しました。ダビデが罪を犯したとき、その罪をあばいて悔い改めに導きました。南北朝時代には、エリヤとエリシャが活躍しました。彼らは王室から離れたところで生活していました。時々、王様に会って、国の罪を責めたり、王様に助言を与えたりしました。ユダ王国のときは、イザヤが王様に仕えつつ、国政に対して助言を与えたり、将来の預言をしました。その後、エレミヤやエゼキエルが登場しますが、王様と国の罪を責めました。彼らに主のことばを告げても、全く耳を傾けようとしませんでした。捕囚時代はダニエルが高い地位を与えられ、バビロンとペルシャの王様に仕えました。帰還後はハガイやゼカリヤが神殿再建のために預言しました。他にもヨナとか、ホセヤ、マラキなどの預言者たちがたくさんいます。

 旧約聖書に出てくる預言者の共通している特徴とは何でしょうか?第一は主のことばを取り次ぎ、王や民をさばくということです。エリヤなどは天から火を下して、バアルの預言者たちを切り殺しました。イエス様がエルサレムに行こうとしたのに、サマリヤ人たちが通そうとしませんでした。ルカ954「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」ヤコブとヨハネはエリヤのように、彼らを滅ぼしてしまおうと思ったのです。恐ろしい話です。バプテスマのヨハネも「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか…良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる。」(マタイ3710と言いました。バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者です。口から火を吐くような預言をしました。第二は将来を予言することです。サムエルは「予見者」と呼ばれました。英語ではseerであります。異国にもそういう人たちがいました。占い師もその部類だと思います。神さまは永遠なる御方なので、時間に支配されていません。イザヤに対してもそうですが、現在、近い将来、遠い将来、関係なく連続した出来事として示しました。だれでも、未来のことを知ることができたら、すばらしいのではないでしょうか?だから、偽預言者もそのような予言をするのではないかと思います。第三は神からの啓示や知恵を与えるということです。ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になることができました。なぜなら、パロの夢を解き証し、飢饉に備えさせたからです。また、ダニエルは捕囚の身でありましたが、4人の王様に仕えました。王たちは彼を重んじて、彼に政治を任せました。旧約聖書では預言者は、王様と大祭司と並んで、神さまから油を注がれ、特別な働きをしました。

 しかし、イエス様が十字架の贖いを成し遂げてから、預言者の働きは終わりを告げることになりました。そして、新たに預言者が登場することになりますが、旧約の預言者とは全く異なる働きをするようになりました。私たちは、このことを知らないと、預言者と預言を全部捨ててしまいます。旧約時代は聖霊がひとり一人に与えられていませんでした。だから、預言者たちは「主はこう仰せられる」と告げなければなりませんでした。しかし、ペンテコステ以来、聖霊がイエス様を信じるすべての人に与えられています。イエス様が「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ1426とおっしゃいました。問題解決のため、預言者をさがしに遠くへ行かないでください。もし、私のところへ来たなら、「まず聖書と聖霊に聞きなさい」と言うでしょう。もちろん、必要とあらば、預言をして差し上げます。でも、多くの場合は確認としての預言です。主は、もう既にあなたに告げておられるからです。預言を聞いたとき、「ああ、やっぱりそうだったんですね」と確認を与えてくれます。もう1つ重要なことは、イエス・キリストの贖いによって、神の怒りが取り去られたということです。Ⅰヨハネ410「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」とあります。キリストの血によって、だれでも父なる神さまのところに近づけるようになりました。キリストの血によって古い契約に終わりが告げられました。新しい契約とはどんなものでしょう?ヘブル810-11「私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。…おのおのその兄弟に教えて『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、私を知るようになるからである」。アーメン。

 では、新約時代の預言者の役割とはどのようなものなのでしょうか?第一は和解をもたらすということです。旧約時代の預言者は神のさばきを告げることでした。しかし、キリストが十字架で私たちの代わりに罪となりさばかれました。Ⅱコリント518「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」使徒パウロは「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」と言っています。旧約時代のエリヤは天から火を下し、バアルの預言者たちを剣で殺しました。ところが、世の終わり再び来られるエリヤはどうでしょう?マラキ46「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」彼はさばきのためではなく、家族の和解をもたらすために来るのです。エリヤハウスという働きがありますが、この箇所から取られました。新約に生きている私たちが旧約時代の預言者をイメージしていたらどうでしょう?2001年のニューヨークのツインタワー崩壊も神のさばきであると言うでしょう。また、大地震や津波も、エイズも神のさばきであると言うでしょう。確かに世の終わりの終わりには預言書のようなことが起こります。しかし、世の終わりイエス様が再び来られるまでは恵みの時代です。極端な信仰者たちは何でも世の終わりのさばきに解釈しますが、旧約時代の預言者をイメージしているからです。神さまは怒っておられません。「かえって、あなたがたに忍耐深くあわれるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むこと望んでおられるのです」(Ⅱペテロ39。確かに自然の法則や自然現象は存在していますが、何とか災害を免れさせようとしています。使徒11章二書いてありますが、アガボという人が、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言しました。

第二はからだなる教会を建て上げるためです。エペソ4章には、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためである」と書かれています。旧約聖書では、預言者ハガイとゼカリヤが神殿の再建を大いに助けました。新約の預言者は、キリストの体なる教会を建て上げるのです。だけど、預言がどのように聖徒たちを建て上げるのでしょうか?Ⅰコリント143「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します」とあります。ここに「徳を高める」とあります。ギリシャ語で「オイコドメオー」であり、edify建て上げると言う意味です。人の弱さや欠点を見つけるのはだれでもできます。もし、預言者が隠れた罪をみんなの前であばくなら、その人の徳が高められるでしょうか?恥をかき、傷つけられるでしょう。このような預言がしばしば語られるので、「預言は悪いものだ。預言は危険だ」と言われるのです。そうではありません。新約時代の預言者の務めはそうではありません。その人の泥の中に隠れている宝物を探し当ててあげることなのです。イエス様も「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」(マタイ1344と言われました。畑とはあなたのことです。預言者は神さまがその人に抱いておられるdivine destinyを示してあげることができます。あなたの両親や友人、先生は「あなたのことをこう言っているかもしれないけど、神さまはあなたのことをこう思っていますよ。あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」と告げることができます。その人の人生が全く変わるでしょう。

 イエス様も取税人ザアカイに対して「この人もアブラハムの子なのですから」とおっしゃいました。また、病の霊につかれ、腰の曲がった女性を癒した後こうおっしゃいました。「この女はアブラムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです」(ルカ1316)。イエス様は罪の中にいたあなたを見出して、「あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」とおっしゃってくださいます。その次には、他の人にイエス様のことばを伝えることができるのです。

2.預言の賜物

 Ⅰコリント12章に御霊の賜物が列挙されています。その目的は何でしょう?Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」御霊の賜物はキリストのからだの各器官のようなものです。私たちはキリストがかつて地上でなされたことを、御霊の賜物を用いて、同じことを行うように召されているのです。預言の賜物は、その一つであります。Ⅰコリント14章には預言の賜物と異言の賜物が比較されています。パウロは異言よりも、預言を求めなさいとはっきり言っています。Ⅰコリント141「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」パウロがこれだけはっきりと述べているのに、現代の教会はとても消極的であるばかりか、否定的です。先週も申し上げましたが、Ⅰコリント13章に「預言の賜物ならすたれます」と書いてありました。ディスペンセーションナリズムの信仰に立っている人たちは、「聖書が完成したので、預言は不要になった」と言うのです。とんでもありません。世の終わり、キリストが再臨する日まで、賜物としての預言を用いなければなりません。なぜなら、使徒パウロが「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と命じているからです。もし、パウロの言っていることが間違っているなら、私たちは信仰義認も捨てなければなりません。あっちは取って、こっちは捨てるというのはいい加減過ぎます。聖書は書かれた神の啓示であり、これ以上のものはありません。しかし、預言は聖書で言われていないことを補助したり、教会を建て上げるためにはとても重要な賜物です。Ⅰコリント14章にはその目的が具体的に示されています。Ⅰコリント143「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」アーメン。徳を高めるとは、人を建て上げるということです。第一のポイントでは泥の中に隠れている宝物を発見してあげることだと言いました。私たちは小さい時から「ダメだ。それじゃ良くない」と打ち壊されて育ちました。しかし、神さまご自身は人が見るようには見ていません。「勧め」とはギリシャ語でパラカレオーであり、「励ます」と言う意味もあります。私たちは励ましが必要です。「慰め」は「緩和する、軽減する」という意味もあります。もし、預言がこのような働きをするのだったら、だれも否定する人はいないでしょう。私たちは気づかないうちに使っているかもしれません。

 このところで、私たちが最も注意すべきことは、「預言の賜物と預言者の違い」です。私たちは旧約聖書の預言者を連想するので、罪をあばく預言をしたり、あるいは完璧な預言でなければならないと思うでしょう。第一のポイントでも言いましたが、十字架の贖い後は、新しい契約のもとで仕えるべきことを知らなければなりません。クリス・バロトン師がSchool of the Prophetsという本の中で、「預言の賜物と預言者の違い」を詳しく説明しています。第一に、預言の賜物は、聖霊による賜物です。これは賜物によって何かをするということに重点が置かれます。一方、預言者は「キリストご自身が与えた賜物」(エペソ47)です。行いよりも、その人自身の立場に重点が置かれます。第二は、預言の賜物は「すべて信者が預言を求めるように」励まされています。一方、預言者は、私たちが選ぶのではなく、神さまご自身が預言者として選びます。神からの召命と油注ぎがあるということです。第三は、預言する能力が賜物です。一方、預言者は預言者自身が賜物です。つまり、預言者は預言する能力が大きいとか小さいとか関係ありません。能力の大小ではなく、その人自身が神からの賜物なんだということです。第四は、預言の賜物を用いる人は聖徒の一人として分類されます。預言の賜物は人生のためにあります。一方、預言者は五職の一人(エペソ411,12)として任命された人です。預言者という召命そのものが人生なのです。このように考えると、預言の賜物はだれもが用いることのできる聖霊の能力です。一方、預言者はキリストご自身が教会を建て上げるために、特別に召した人であります。「その人に何ができるかというよりも、その人自身が賜物」というのは、すごい考え方だと思います。同じように、牧師も何ができるかというよりも、牧師自身がキリスト様からの賜物と考えられます。10年位前、台湾から10数名が宣教活動のため来られたことがあります。ある姉妹から「牧師は一週間何をしているんですか?伝道していますか?癒しをしていますか?教会を開拓していますか?」と聞かれ、返すことばがありませんでした。「あいつら何のために日本に来たんだ!」とその時は、非常に傷つきました。後からはっきり分かりました。「確かに私はそんなに働かないで高い給与をもらっている。しかし、そうではない。牧師の存在そのものが尊いんだ。私は人からではなく、神さまから任命されてここにいるんだ」と分かりました。エペソ4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の五職は「キリストのからだを建て上げるための、キリストの賜物」と書かれています。現代の教会は、使徒と預言者を省いているので、健全に成長できないのです。

 預言とは、いわば神さまからの啓示であります。神さまはいろんな方法で私たちに語っておられます。では、預言の賜物はどのようなかたちで私たちに与えられるのでしょうか?そのヒントがⅠコリント2章にあります。Ⅰコリント29-10「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」神さまは3つの方法で、私たちに語られます。第一に神さまは霊的な耳を通して語りかけます。神様は私たちに言葉を与えます。1つの言葉もありますし、2つ、3つの言葉もあります。神さまは言葉を通してコミュニケートされます。預言と似ていますが、「知識の言葉」や「知恵の言葉」もあります。神さまは、本当にわずかな言葉をもって示してくださいます。その言葉を忠実に口に出すならば、さらに多くの言葉が出てきます。預言がまるで、泡のように溢れ出てきます。しかし、これは、1つか2つの言葉から始まります。第二に神さまは霊的な目を通して、語りかけます。頭に浮かぶ絵(メンタルピクチャー)を通して、私たちに語りかけます。白黒の場合もあるし、テレビのようにカラフルな場合もあります。止まっているような風景の絵かもしれないし、あるいは映画のように動いている絵かもしれません。そのようにして神さまは絵によって、あなたに語りかけます。第三は、神さまは霊的な感覚を通して語りかけられます。ある人はこれを「印象」と呼びます。私たちは人の傍に寄ると、何か感じるときがあります。「怒り」「混乱」「悲しみ」「罪悪感」などです。霊的に敏感な人は、人の中にいるだけで疲れてしまいます。悪いものを知らずに受けるからです。そういう人は、普段は霊のアンテナをひっこめておきましょう。とにかく、預言にはことば、絵、印象の3つがあるということを学びました。

アメリカのチェ・アン師は「預言的なことばは伝道のために非常に力になる」と教えてくださいました。ペンテコステの日、ペテロがヨエル書から説教しました。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」ペンテコステの日から、預言者でなくても、息子や娘が預言し、青年が幻を見、老人が夢を見るようになったのです。神さまがある時はことばを与え、あるときは映像を見せて「この人と語りなさい」と言われます。預言的なことばが伝道の鍵になるということです。まさしくそれはマタイ16章に記されている「御国の鍵」です。私たちは預言的な祈りによって、縛ったり、解いたりすることができるのです。ケニアにサイモンという伝道者がいました。ジャングルを歩いていると、突然、「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と語る神さまの声を聞きました。周りにだれもいなかったので、空耳かなと思いました。神さまが「もう一度語りなさい」と言われました。目の前にサルがいました。「これはテストかな?」と思いましたが、「神さまはあなたを愛しておられます。イエス様はあなたの罪のため十字架にかかられ、三日目によみがえられました」と福音を語りました。すると、神さまは「招きをしなさい」と言われました。「え?サルを招くのですか?」彼はビリー・グラハムがやるように、「イエス様を信じたなら、前に出て人生を神さまに明け渡しなさい」と言いました。すると、ジャングルの木陰から、15人の女性たちが出て来ました。驚いたことに、彼女らは招きに応じて出てきたのです。ある時、チェ・アン師が洗車場に車を洗いに行きました。そこには待合室があり、そこに首にコルセットをした女性がいました。神さまは「彼女は首の裏に病気を持っているので祈ってあげなさい」と言われました。彼女の隣に座ると、彼女の方から声をかけてきました。先生が、「あなたの首どうしたのですか」と聞きました。「5年前、家で仕事をしていたとき、椅子から仰向けに倒れてしまいました。手術を受けましたが、骨の病気もあり首が動きません。右腕も麻痺しています」と答えました。彼女から同意を受けたあと、頭の上に手を置いて祈りました。彼女に「首を動かしてみてください」と言いました。「首を動かしても痛くない。腕も動く」と答えました。彼女はその後イエス様を信じて受け入れました。これは、預言的なことば、預言的な祈りを用いる伝道です。

キリストは、預言者を召しておられます。この世にキリストの和解をもたらし、教会を建て上げるために必要です。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めましょう。預言は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるため、そして伝道するためにとても重要な賜物だからです。

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2018年10月12日 (金)

賜物の注意点 Ⅰコリント13:1-3 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.24

 Ⅰコリント13章は「愛の讃歌」と呼ばれ、結婚式でもよく引用されます。しかし、Ⅰコリント12章と14章は御霊の賜物について書かれています。その中間の13章に「愛」について書かれています。でも、実際の聖書はこのように章ごとに分かれていません。後の人が便利なように章と節を付けました。だから、本来は12章から14章まで、区切りなどなく連続的に書かれています。保守的な教会は13章の「愛」だけを語りますが、本来は御霊の賜物について語るべきなのです。「でも、愛を忘れていけないよ」と、注意も一緒に与えます。きょうは福音派の保守的な教会が割愛しやすい箇所から語りたいと思います。

1.愛を土台にする

 コリントの教会は聖霊の賜物にあふれていました。聖霊の賜物あるいは「御霊の賜物」はキリストのからだなる教会の手足にたとえられています。神さまが「これを用いて、奉仕しなさい」と願って、クリスチャン全員に与えている霊的な賜物です。ところが、コリントの教会は「私にはこういう賜物がある」と互いに誇っていました。彼らは異言を話すことを最も高い位置に置いていたようです。預言や信仰、その他の賜物も豊かにありました。しかし、コリントの教会には世の多くの罪も入っており、聖徒らしい生活をしていませんでした。それで、パウロは「御霊の賜物も大事だけれど、愛がもっと大事だよ」ということをⅠコリント13章で語っています。131節から3節まで、霊的賜物をあげながら注意点をいくつかあげています。

 第一は異言です。Ⅰコリント131「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」異言というのは、通常私たちが使っている言語ではありません。これは、神さまと直接話すことのできる未知なることばです。初代教会では人々が聖霊を受けると異言を話していました。しかし、話す本人はその意味が分からず、異言を解き明かしてくれる人がいて、「ああ、こういう意味なのか?」と分かりました。でも、ほとんどは解き明かす必要がない、神さまへの賛美みたいなものです。「御使いの異言」というものがあるかどうか分かりません。パウロが「たとい」と言っていますので、少しオーバーな表現なのかもしれません。とにかく、コリントの人たちは異言の賜物に最も重要性を置きました。そのことに対して、パウロはⅠコリント14章で「異言よりも預言を求めなさい」と勧めています。現在でも、異言を何よりも強調する教団がありますが、こういうところから学ぶべきだろうと思います。パウロは「人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」と言っています。

 第二は預言の賜物です。Ⅰコリント132最初「また、たとい私が預言の賜物を持っており」と書いてあります。日本語の聖書は予知の「予言」ではなく、「預言」と書かれています。この「預」は「預金」の「預」と同じで、預かるという意味から来ています。簡単に言うと、預言は「神さまから預かったことば」と言うことです。全知なる神さまが与えるのですから、それが未来のことであったり、隠されたことが露わにされたりするのです。これは旧約聖書の預言者たちの預言とは異なります。これは聖霊の賜物としての預言です。ある人は、「旧約聖書の預言者は100%神さまからのものであるが、賜物としての預言は2080%の正確率であろう」と言っています。

 第三は知識です。Ⅰコリント132半ば「またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」とあります。知識の賜物とは、直観のように一瞬に与えられる神からの情報です。私たちはあれこれ推測し、いろいろ調べた後、「これはこうだ」と結論を出します。ところが、知識の賜物は、全知なる神さまから一瞬に与えられる情報です。その場にいなくても、千里眼的に見えたりもします。旧約聖書ではエリシャが遠くから、ゲハジがナアマン将軍から贈り物を受け取り、それを隠しているのを見て知っていました。イエス様もサマリヤの女性が5人と離婚し、6人目と同棲していることを言い当てました。彼女はおどろいてイエス様をメシヤであると信じました。

 第四は信仰です。Ⅰコリント132後半「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても」とあります。福音書でイエス様は「山に向かって、『動いて、海には入れ』と、自分の言ったとおりになると信じるならそのとおりになる」と言われました。「山を動かすほどの完全な信仰」が与えられたらなんとすばらしいでしょう。でも、この信仰を用いて富士山を平地にするとみんなが困りますので、やめてください。でも、日本のすべての高い山は、信仰の対象になっていますので、1個くらい見せしめのため、海に移しても良いかもしれません。私たちクリスチャンはある程度の信仰を持っていますが、信仰の賜物は、常識では考えられないことを実現できる信仰の力です。

 第五は分け与える賜物です。Ⅰコリント133前半「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え」とあります。教会員の中には、金銭や物をよく捧げる方がいらっしゃいます。実業家たちの中にこの賜物のある人が多くいますが、彼らはお金もうけも上手です。彼らが気前良くささげると神さまが祝福して、ささげた以上にお金を増やしてくださいます。でも、ささげないでケチになると、祝福もストップしてしまいます。つまり、神さまがその人を祝福してささげるように、用いておられるということです。牧師としてはそういう人が教会に大勢いたほうが助かります。でも、お金持ちというのは案外ケチで、持っていない人の方がよく捧げるという皮肉な法則があるようです。

 第六は殉教の賜物です。Ⅰコリント133後半「また私のからだを焼かれるために渡しても」とあります。「果たして、殉教が御霊の賜物なのだろうか?」という疑問も起こりうるでしょう。弟子のヤコブは殉教しましたが、ペテロは捕えられても御使いによって助け出されました。私たちにはだれが殉教し、だれが助け出されるのか分かりません。でも、ペテロも最後にはローマで、逆さ十字架で殉教したと言われています。聖書には「独身の賜物」というのもあるようですが、殉教と同じで「そういう賜物は結構です」と断りたいでしょう?私も同じです。御霊の賜物は他にもたくさんありますが、6つだけ上げてみました。

 パウロがここで言わんとしていることは、「どんなに大いなる賜物があったとしても、愛がなければ無意味である」ということです。ここで言われている「愛」は言い換えると動機であります。その賜物を動かしている心構えと言っても良いでしょう。コリントの人たちは、霊的賜物を何のために使っていたのでしょうか?ある人は自分を誇るために、またある人は何かの利益を生むために、またある人は自分のセクト(仲間)を増やすためでした。しかし、霊的賜物は魔法とか超能力ではありません。これは、聖霊がその人に与えてくださった超自然的な能力です。私たちは他に、生まれつきの才能や自分で努力して得た能力があります。神さまはこのような一般恩寵を誰にでも与えています。ある人たちはそれを磨き上げて、その道のエキスパートになります。スポーツや芸術の世界でもそうですが、そういう場合は「人から賞賛を受けてなんぼ」というところがあります。冬季オリンピックで金メダルを取った、羽生選手のパレードが仙台でありました。10万人以上の人たちが集まり、拍手と歓声を上げたそうです。彼らはそのようにして個人の栄光をたたえているのです。しかし、私たちクリスチャンの場合、霊的賜物は自分が努力して得たものではありません。向こうからみこころのままに、与えられたものです。だから、自分を誇ることはできません。しかも、イエス様は「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ107,8と言われました。

 御霊の賜物は誰にでも与えられます。きのうきょう信仰を持った人にも与えられます。使徒10章に書いてありますが、ペテロのもとにコルネリオ一家が集まりました。彼らはペテロの話を聞いていましたが、その途中、聖霊の賜物が注がれました。まだ、洗礼も受けていないのに、です。しかし、保守的な教会は、「聖書をちゃんと学び、聖い生活をし、人格的に整えられるのが先だ」と言います。しかし、聖霊の賜物とその人の信仰歴や人格性とは全く関係がありません。聖書に「御霊の実」というクリスチャンとしての品性があります。私たちは全員、キリストにとどまり「御霊の実」を結ぶ責任があります。しかし、御霊の賜物に関しては、自分に与えられた賜物だけに責任があります。また、「御霊の実」がそんなになくても、御霊の賜物が与えられることもあります。人格的に欠けのある人が、御霊の賜物を使うといろいろ問題が起こります。これが、コリント教会の実情でありました。しかし、もう一度言いますが、御霊の賜物はその人の信仰歴や人格的なきよさとは全く関係ありません。神さまが一方的に与えてくださるものです。だから、その人は、神さまの恵みとしていただいて、ちゃんと管理して、神さまの栄光のために用いなければなりません。ローマ1129「神の賜物と召命は変わることがありません」と書いてあります。神さまはあなたを信用して、御霊の賜物をあなたに与えて下さいました。私たちはそれを隠さないで、用いる必要があります。イエス様はマタイ25章でタラントのたとえを語られました。私たちは1タラントを地面にかくした悪いなまけ者のしもべになってはいけません。むしろ、5タラントあるいは2タラント預けられたしもべのように、忠実に用いるべきです。マタイ2529「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」イエス様から「よくやった。良い忠実なしもべ」と言われますように。

2.限界性を知る

 Ⅰコリント138-13「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」「信仰、希望、愛」は当教会の週報の副題みたいになっています。クリスチャンであるなら「信仰、希望、愛」をだれも否定する人はいないでしょう。しかし、物議をかもしやすいのは、霊的賜物です。8節から再び、御霊の賜物がいくつかあげられており、それらの限界性も示されています。前半のメッセージでは「賜物を用いる時は愛が必要ですよ」という注意でした。後半は、「賜物は完全ではなく、限界がありますよ」とパウロが言っています。なぜなら、コリントの教会は、賜物がまるで完全であるかのように考えていたからです。誰でも、神からの能力が与えられたら、スーパーマンになったような気がするのではないでしょうか?しかし、そうではありません。主の御名を辱めないために、賜物の限界を知って、これらを用いる必要があります。

 8節には「愛は絶えることがない」と書かれています。それに比べ、預言の賜物ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。問題は、「いつそのことが起こるか?」ということです。10節には「完全なものが現れたれら、不完全なものはすたれます」と書かれています。福音派の保守的な教会は、聖書が完成したら、このような霊的な賜物が不要になると考えています。かなり前に、いのちのことば社から「チェーン式バイブル」が発売されました。その聖書に、このような解説が載せられています。「キリストが再臨していない、現在の不完全な時代には、成長の段階がある。キリスト教会の発足時は、まだ未成熟の時代であり、教会の成長と確証のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような必要は消えた。」と書かれています。もし、私が大阪の人であったら「あほか?」と言っているでしょう。一体、この考えはどこから来たのでしょう?19世紀イギリスで、ディスペンセーション主義の神学が起こり、この考えがアメリカに広まりました。ディスペンセーション主義とは、時代をいくつかに区分する考えであり、福音派の多くが再臨信仰と一緒に受け入れました。もちろん良いところもあります。しかし、スコフィールドという人が聖書を作り、時代区分の考え方をより強化しました。つまり、聖書が完成したら、預言や奇跡が必要ない、「やんでしまった」と言うのです。決してそうではなく、イエス・キリストが再臨して、御国が完成したら、預言や奇跡が必要なくなるのです。

パウロは12節で「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言っています。その時というのは、御国が完成した時であり、そのとき私たちはイエス様と顔と顔とを合わせて見ることになります。でも、今は一部分しか知りません。今というのは、御国が完成していない、現代のことであります。だからこそ、私たちは信仰が必要であり、聖霊の賜物が必要なのです。確かに私たちには完成された66巻の聖書があります。これ以上の文書啓示は与えられていません。私たちはこの聖書に付け加えたり、減らしたりはできません。「ただし」であります。この「だたし」が重要です。主は今も生きておられ、私たちに御霊によって語っておられます。もちろん、聖書のみことばを通して語られます。しかし、幻、夢、そして預言によっても今も語っておられます。使徒2章に書いてありますが、ペンテコステの日、ペテロがヨエル書を引用してこのように語りました。使徒217,18「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』問題は「終わりの日」とはいつなのか?です。「終わりの日」は英語の聖書では、in the last daysと複数形になっています。簡単に言うと、ペンテコステの日から「終わりの日」がはじまったということです。そして、究極の終わりの日、in the last dayはイエス様が地上に戻ってこられる日です。つまり、キリストが再臨される日までの時代が、「終わりの日」なのです。だから、キリストが再臨する日まで、預言、幻、夢は存在し続けるということです。何のためでしょう?それは、神さまは聖書以外のことを語りたいからです。私たち人間が「聖書がもう完成したのですから、もうそれ以上のことを語らないで下さい。大丈夫です」というのは大変失礼であり、傲慢な態度であると言えます。

 ただし、私たちはコリントの教会のような同じ過ちや、賜物至上主義のような極端に気を付ける必要があるということです。今から、30年くらい前、「預言」のブームがありました。ある人たちが「神はこう言われます」と預言しました。それを受け取る人たちは、「神さまがそう言われるなら絶対間違いはないだろう」と思いました。ある人たちは「聖書や説教よりも、預言者が語る預言に価値がある」と言い出しました。そして、セミナーを受けた人たちが、教会に帰って「うちの牧師は預言に無知だし、霊的賜物もない」とさばくようになりました。それを聞いた牧師たちは傷つき、「預言とか霊的な賜物は教会を分裂させる危険なものだ」と、そういう人たちを教会から追放しました。大川牧師も今から40年前、「異言を話す」ということで某教団から糾弾され、結局は単立教会になりました。私は大川牧師が霊的な体験をされた直後に教会に来たので、ぜんぜん違和感はありませんでした。はじめから、聖霊が働かれ、奇跡や癒しは今も存在していると信じていました。しかし、私が最初に神学校に入ったとき、「私は異質な存在なんだ」ということが分かりました。結局、私は他の神学校で学び直すことになりました。でも、その神学校も聖霊の働きに対しては慎重でした。その当時、主の十字架クリスチャンセンターから10名以上の神学生が入ってきて、混乱を招きました。彼らは、数年後、自分たちの学校を作りました。命のことば社から「聖霊の賜物を批判する」本もいくつか出版され、教会は福音派と聖霊派に分かれてしまいました。「聖霊派」なんていう名称は本来ありません。でも、私がこういうことを言うと、「あなたはカリスマですね。大川牧師の弟子なんだからカリスマですね」と言われます。

 さて、本題に戻ります。これで終わるとうっぷん晴らし的なメッセージになってしまうからです。御霊の賜物は全く、消えてなくなったというものでもありません。今も、御霊の賜物は存在していますが、「完全ではありませんよ」という注意書きが付いているということです。知識のたまものであっても、一部分しか知りえないということです。また、預言の賜物であっても、将来のことや隠されていることが全部分かるわけではなく、部分的であるということです。異言もある程度の預言のような働きをしますが、たとえ解き明かしがあったとしても、不完全です。病の癒しの賜物があっても、癒すことのできない病気もあるということです。もちろん、イエス様がなされたことが標準でありますから、そこまで近づく必要はあります。ですから、中途半端なところで妥協してはいけません。キリストの再臨が来るまで、与えられた霊的賜物を最大限に用いなければなりません。もし、私たちが自分の使命や生来の賜物だけで、神さまに奉仕をするのだったら燃え尽きてしまうでしょう。それに、神さまの働きも限られます。イエス様は、ご自身の働きを継続するように、御霊の賜物をお与えになったからです。いわば、御霊の賜物は、キリストのからだの各器官のような存在であります。私たちに手や足、耳や目、口や頭があるように、それぞれ違った霊的賜物があるということです。一人で全部ある人はいません、おのおのが連結し、助け合って地上におられたイエス様のような働きができるのです。イエス様が「戻ってくるまでこのタラントを使いなさい」と預けたものが、霊的賜物なのです。初代教会の頃はなぜあんなに力があったのでしょうか?現代の教会は神学的にはすぐれているかもしれませんが、力がありません。使徒パウロはⅠコリント2章で「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」と言いました。そうです。私たちは御霊と御力の現れも必要なのです。神さまの力を私たちの神学や経験に押し下げてはいけません。現代、そういうことがないとしたら、私たちがチャレンジしていない、怠けているということなのです。「ないならない」で、へりくだって「聖霊様、力を与えてください。あなたの賜物を与えてみわざを行なわせてください」と祈り求めるべきなのです。パウロはテモテに「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(Ⅱテモテ16と言いました。この世にいると、神の賜物がストーブの火のように弱ってくるということでしょう。だから、時々、かき混ぜていただいて燃え立たせる必要があります。愛を土台としながら、それぞれ与えられた御霊の賜物を用いて、イエス様の働きを継続拡大していきましょう。

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2018年10月 5日 (金)

高潔な人 ダニエル1:8-17 2018.10.7 亀有教会牧師鈴木靖尋

 きょうは旧約聖書のダニエルという人物を取り上げて、「高潔」ということについて学びたいと思います。最近、「高潔」ということばが聞かれるようになりました。高血圧ではなく、高潔です。英語ではintegrityです。Integrityは、正直、高潔、誠実、完全という意味があります。箴言10章から12章を見ますと、「正しい者」とか、「潔白な者」ということばが何度も出てきます。まさしく、きょうのテーマの「高潔な人」のことです。箴言115「潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。」今日は3つのポイントで「高潔」とは何かについて学びたいと思います。

1.妥協をしないこと

 ダニエルは10代のとき、仲間と一緒にバビロンに捕らわれました。ネブカデネザル王はイスラエル人の中から、王の宮廷で仕えることのできる優秀な者たちを選ぼうとしました。三年間、彼らを養育した後、王に仕えるようにさせました。彼らとは、ユダ部族のダニエル他、三人の若者でした。ダニエル18「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」おそらく、王様から配給される食べ物やぶどう酒は偶像にささげられたものだったのでしょう。ダニエルは身を汚さないように「私たちに野菜だけを食べさせてくれ」と願いました。肉はだめで、菜食主義が良いと言うことではありません。彼らを養育する宦官は、最初はしぶりましたが、10日後に、彼らの様子を見て驚きました。王様が食べるごちそうを食べている少年たちと見比べて、ダニエルたちの顔色の方がずっと良かったからです。そこで、世話役はこの四人の少年が食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒を取りやめて、彼らに野菜を与えることにしました。神さまは4人の若者を祝福しました。ダニエル117「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」

 ダニエルたちから学ぶことは、妥協をしないということです。レビ記には食べてはならないものが列挙されています。陸地を這うものやうろこのない魚は食べてはならないと書いてあります。また、血がしたたる肉も食べてはらならないと書いてあります。一番の問題は、偶像にささげた肉とぶどう酒でした。おそらく、偶像にささげて、降りてきたものが配給されたのだと思います。ダニエルたちは、それらを食べることは、身を汚すことなのだと信じて、一切、口に入れませんでした。本来、彼らは捕虜なのですから、生き延びることが最優先でしょう。世の中では「死活問題」と言いますが、食べるためには何でもするところがあります。しかし、ダニエルたちは妥協しませんでした。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。「この世と調子を合わせてはいけません」とありますが、原文は「…と同じ形になる」「…に順応する」という意味ですJB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。つまり、この世の価値観に妥協するなということです。妥協は英語で、compromiseと言いまが、私たちの周りにはそういう誘惑がたくさんあります。この世で一番多い妥協は、ごまかしであります。多少、ずるしても良いという考えです。ジョエル・オスティーンの本にThey cut corners「彼らは手を抜く」という文章がありました。「ある人たちは、会社に来るなり、コーヒーを飲みます。ボスのいない間インタネットを見て、だらだら時を過ごします。会社の電話で私用のために遠距離にかけます。510分前には帰る支度をしています。こういう人が、『どうして神さまは私を昇給させて下さらないのですか』と言っても無理です。Integrity高潔な人は、会社に15分前から来て、積極的に仕事をこなします。そして、定刻よりも15分遅く帰ります。車を半年も洗わない人がいます。家の芝生はぼうぼうとして刈ったことがありません。そういう人は、この教会に来ないで、隣のファースト・バプテスト教会に行ってください。」放映番組ではみんなが爆笑していました。ジョエル・オスティーン自身はとてもきちょうめんな人です。すらすら話せるようにしっかり練習します。スーパーに行く時も、私のようにだらしない格好で行きません。なぜなら、礼拝がテレビで放映されているので、いつだれが見ているか分からないからです。

 聖書に「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ1610と書いてあります。これは、この世のことに忠実な人は、やがて天国で大きなことを任されるという意味です。つまり、私たちはこの世で行っていることは、神さまからのテストだということです。神さまは「この人は小さい事にも忠実だから、今度は大きなことを任せよう」とお考えになっています。私たちは「どうして私だけがこんな仕事をしなきゃならないんだ。不公平だ」と不満をもらしてしまいます。しかし、隠れた所で神さまがご覧になっていたならどうでしょう?私たちがしていることは人々から報いられるためではありません。たとい目立たなくても、神さまの前で行なっているという信仰が必要です。いつも、ごまかして、妥協している人に対して、神さまは報いてくださらないでしょう。Integrity高潔な人は、人が見ていようと見ていまいと、最善を尽くす人であります。使徒の働きにドルカスという女性が出てきます。彼女は多くの良いわざと施しをしていた弟子でした。ところが、彼女は病気になって死んで、人々がその遺体を洗って、屋上の間に置きました。ちょうど、ペテロがその近くに来ていたので、人々がペテロを屋上の間に案内しました。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せました。ペテロがドルカスに「起きなさい」と命じたら、彼女は目を開けました。神さまはドルカスがしたことを憶えておられたのです。だから、ペテロを用いてドルカスをよみがえらせてくださったのです。

 ある人たちは「みんなずるいことをしているじゃないか、私だって少しくらいしても良いだろう」と言い訳をするかもしれません。しかし、あなたはみんなと同じではありません。なぜなら、Integrity高潔な人は人々の前ではなく、聖なる神さまの御目のもとで生きているからです。

2.金銭を欲しがらないこと

 ダニエル517「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。」ダニエルは、金銭や権力をほしがりませんでした。今回、王様の夢を解き明かすのが2回目です。かつて、ネブカデネザル王の夢を解き明かしてあげたことがあります。そのとき「王はダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、またバビロンのすべての知者たちをつかさどる長官としました。」(ダニエル248)。ダニエルはもう捕虜ではありません。王の宮廷にとどまって、バビロン全州を治める長官になっていました。そうなると、いろんな誘惑もやってくるのではないでしょうか?ネブカデネザルの死後、息子のベルシャツァルが王になりました。彼は千人の貴婦人のために大宴会を催しました。彼はぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た、金、銀の器を持って来るように命じました。王と妻とそばめたちが、その器で飲み、自分たちの神々を賛美しました。すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁に、何か文字を書きました。王の顔色が変わり、それにおびえて、がたがた震えました。王は、大声で、呪文師や星占い、知者たちを連れてこさせ、「この文字を読み、解き明しをする者にはだれでもほうびをつかわす」と言いました。しかし、だれもいません。そのとき、ダニエルが王の前に連れてこられました。ダニエルはほうびをやると言った王様に何と答えたでしょう?ダニエル517「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。『あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。』」ダニエルはむやみに、金銭や権力をほしがりませんでした。ただ、純粋に王のために幻を解きあかしてあげたのです。

欲しがるは英語で、covetousです。使徒パウロはこのように言っています。Ⅰテモテ610「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」ある人が「それにつけても金の欲しさよ」という下の句は、どの俳句や川柳にもつながると教えてくれました。「古池や、かわず飛び込む、水の音。それにつけても金の欲しさよ」「鳴かずんば、鳴くまで待とうほととぎす。それにつけても金の欲しさよ」なんだか、笑点みたいになっていますが、お金は「マモン」と呼ばれ、聖書では偽りの神として擬人化されています。歴代の韓国の大統領が逮捕されていますが、その容疑は、背任、収賄(しゅうわい)、職権の乱用などです。やはり権力が与えられると、欲に勝てなくなるのではないでしょうか?何も持っていない人には誘惑はあまりやってきません。だから、一般の人たちは「権力者は悪いことをする」と非難します。でも、いざ自分が高い位についたなら、何をするか分かりません。最初の頃は清廉潔白であっても、数年たつと、いろんな人たちが群がってきます。利権という誘惑が次から次へとやってきます。数年前からテレビのニュースを賑わしていますが、「〇〇問題」は、みなそのたぐいであります。やはり、自分がそういう権力を持っているなら、「ちょっとぐらい良いだろう」とやってしまうのではないでしょうか?ですか、その人が誘惑に強いかどうかは、実際、権力と力を持ったときでないと分かりません。その点、ダニエルは王様の次に偉い人でした。バビロンには愚かな王様ばかりいましたが、ダニエルはその国の繁栄のために仕えたのです。

 パウロは「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」と警告しています。キリスト教会では「お金は悪いもの、汚れたもの」とまで言います。それだったらなぜ、人々に献金をささげるように求めるのでしょうか?汚れたお金を集めて、教会運営や宣教活動をするというのは矛盾しています。ところで献金のときに「きよめてお用い下さい」とお祈りする方がおられます。あの祈りの本当の意味は「聖別して」という意味であり、お金が汚れているという意味からではありません。「特別にこのためにお用い下さい」という意味からくるものです。でも、私は未信者の方が誤解をするといけないので私はそのように祈りません。山崎長老さんがおられた頃、よくこういうことをおっしゃっていました。「お金はいのちの次に大切なもんじゃ。もし、信仰がなければ1円たりとも献金できないじゃろう」。山崎長老さんは若い時、満州鉄道で助役の次みたいに出世した人でした。しかし、敗戦後、日本に引き揚げ、無一文から商売をはじめました。だから、お金のたいせつさ、ありがたさを良くご存じでした。なぜ、山崎長老さんが教会に来るようになったかと言うと、初代の山下牧師が保証人になってくれたからだそうです。山崎長老さんはそのご恩を忘れず、商売で儲けたお金を教会のためにささげました。いろいろあっても忠実にこの教会に通い続けました。この会堂も山崎長老さんの信仰とささげものが支えになりました。山下牧師が病気で召されるまでひたすら看病しました。召される直前、「アイスクリームを食べたい」と言うので、買って来て食べさせてあげたそうです。山崎長老さんがダニエルのように高潔な人であったかどうかは脇に置いて、イエス様を純粋に愛し、天国貯金を励んだ人には間違いありません。私は信仰一本でやってきましたが、山崎長老さんからお金の大切さについて教わりました。

 父なる神さまは、金銭と権力を正しく用いるように願っておられます。もし、その人に金銭と権力が与えられたなら、それを当たり前だと思わないで、神さまと人々のために用いるべきであります。なぜなら、神さまはあなたを通して、人々に幸いで豊かな人生を与えたいと願っておられるからです。もし、それを自分のためだけに使うなら、祝福どころか「いばらととげ」になってしまうでしょう。ダニエルは捕虜でありましたが、バビロンの太守になり、王国をささえました。でも、いつも謙遜で、いつも神を恐れていました。私たちもバビロンに似たような国の中に生きています。「お金さえあれば何でもできる」と誘惑してくるでしょう。私たちはお金を主人にしてはいけません。最後に、ベンジャミン・フランクリンの名言をご紹介します。「お金は良い召使いだが、悪い主人でもある。」もし、私たちがお金を主人にしたなら悲惨なことになります。でも、お金を召使にしたらならば良く働いてくれます。

3.一貫性があること

 一貫性は英語で、consistencyと言います。裏表がない人は信用されるでしょう。また、言うことと行うことが一致しているなら、なお結構です。王権はメディア人のダリヨスに代わりました。王はバビロン全国に120の太守を任命して国を治めることにしました。そして、彼らの上に3人の大臣を起きましたが、ダニエルはその一人でした。しかし、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわめてすぐれていました。なぜなら、彼の内にすぐれた霊が宿っていたからです。そこで、王はダニエルを任命して全国を治めさせようと思いました。このことに面白くなかったのが、他の大臣や太守たちです。何とか彼を訴える口実を見つけようと努めましたが、彼には何の怠惰も欠点も見つけることができませんでした。そこで、彼らが申し合わせ、1つの法令を王様に制定させました。なんと、「今から30日間、王様以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という禁令が制定されました。ダニエルはそのことを知って家に帰りました。だが、いつものように、エルサレムに向かって、日に三度、ひざまずいて、神の前に祈り、感謝していました。このことを知った他の大臣や太守が、王様の前に進み出て、ダニエルのことを訴えました。王様は署名した手前、否定することができませんでした。無残にもダニエルは捕えられ、獅子の穴に投げ込まれました。王様は気がきではありません。一晩中断食して、夜明け前に、獅子の穴へ急いで出かけました。ダニエルは無事生きていました。何と、神の御使いが獅子の口をふさいでくれたからです。ダニエルに罪がないことを知った王様は、彼を訴えた者たち全員を獅子の穴に投げ込ませました。彼らはあっという間に、獅子に噛み砕かれました。日曜学校で語られる有名なストーリです。

 このところにダニエルが「どうしようか?やめようか?」と躊躇している様子はありません。屋上の部屋の窓が開いていたにも関わらず、いつものように、日に三度、祈ったのであります。おそらく、敵たちはダニエルが祈るのを目撃することができたのでしょう。にもかかわらず、ダニエルは神に祈ることをやめませんでした。歴史上、このような迫害はひんぱんにありました。みんなダニエルの物語を聖書から知っていました。ローマのコロシアムで同じような目にあったクリスチャンがたくさんいたと思われます。彼らはたとえ、獅子に噛み砕かれても、信仰をすてなかったのであります。ダニエルもたとえ死ぬようなことがあっても構わないと思っていたのでしょう。私たちがダニエルから学ぶべき事は、一貫性です。信仰ひとすじです。ダニエルが暮らしていたバビロンは多神教の世界でした。同じように、日本も多神教の国です。特に日本では死んだときは仏教で葬儀をあげます。手を合わせて御焼香しないなら、罰当たりと言われるかもしれません。カトリック教会では「郷に入らば郷に従え」式ですが、プロテスタントの福音派は「偶像礼拝になるから御焼香は避けるように」と指導します。私は焼香をしませんが、その分、まことの神さまに長く祈ります。喧嘩をふっかけるようなことはしませんが、私たちが礼拝する神さまはただお一人です。ヤコブ書には「二心の者は安定がない」と書かれています。こういう日本で、私たちが「まことの神しか拝まない」ということを人々が知るならどうでしょう。ある人たちは、「変わり者だなー」と卑下するでしょう。しかし、ある人たちは「ああ、命をかけるようなものがこの世にあるんだ」と逆に恐れを抱くでしょう。

 また、一貫性があるとは、「裏表がない」「言行一致」ということも当てはまると思います。人の顔色を見て、言っていることがコロコロ変わるなら、信用されなくなります。「係り長のときはああいっていたけど、課長に出世したら全く反対のことを言っている」ということもありえます。「背に腹は代えられない」と言いますが、これは真理を曲げている人の逃げ口上です。詩篇15篇は本日の「高潔な人とはどういう人なのか」ということを言い当てている箇所です。詩篇15全部を引用させていただきます。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。」これを読みながら「正直、合格点とれるだろうか?」と思いました。なぜなら、私は生まれつきの性格や習慣、言葉使い、考え方がかなり残っているからです。でも、私たちの内には100%高潔であられるイエス様が住んでおられます。パウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ89bと言いました。逆に言うなら、クリスチャンはもれなく、キリストの御霊を内に持っているということです。だから、希望があります。私たちの内にイエス様が住んでおられるのですから、イエス様の高潔がおのずと現れてくるに違いありません。

 昔、ベンハーという映画を見たことがあります。ベンハーが鎖につながれて、荒野を行進しているシーンがありました。彼は喉が渇いて死にそうでした。ちょうど、道ばたにイエス様がおられ、ひしゃくでベンハーに水を差し出しました。それを見ていた、ローマ兵が「何をするんだ」とばかり、そのひしゃくを払いのけました。ローマ兵がイエス様を見た瞬間、彼の顔がこわばりました。「自分は何てことをしているんだ」と、自らを恥じているようでした。その隙に、ベンハーは桶から水をがぶがぶ飲むことができました。しかし、当人のベンハーはその方がイエス様だとは知りませんでした。ベンハーが二度目にイエス様を見たのは、遠くの丘の上で人々に話している時でした。でも、彼はイエス様のところへ近づいて話を聞こうとも思いませんでした。三度目はイエス様が十字架で死ぬ寸前でした。あたりが暗くなり、雨が降って、イエス様の血が流れてきました。その血が死の谷にいる母と妹のところまで流れてきたとき、二人のらい病は癒されました。その時に、あの方がイエス様だと分かったのです。そして、それまでの怒りと復讐心が消え去りました。なぜなら、ベンハーがイエス様の高潔さに触れたからです。私たちもイエス様の高潔さを運ぶ器になれたら何とすばらしいことだろうと思います。

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2018年9月21日 (金)

神との平和 ローマ5:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.23

 平和と和解は、姉妹みたいな関係です。なぜなら、平和と和解も女性名詞だからです。でも厳密に言うなら、和解が先で、平和はその結果と言えるでしょう。パウロはローマ51「神との平和を持っている」と言っています。そして、ローマ510「御子の死によって神と和解させられたのなら」と平和が与えられた根拠について述べています。しかし、聖書においては、平和と和解は互いに言い換えることのできることばではないかと思います。ですから、「神との平和」と言ったとしても、頭の中では「神との和解」と入れ替えて理解して下さったら有り難いです。

1.神との平和

 使徒パウロはⅡコリント5章で「神の和解を受け入れなさい」と命じています。しかし、これは命令ではなく、「和解を受け入れてください」という懇願です。私たちは、以前は神さまと敵対関係にありました。エペソ2章には「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ23と書かれています。これは、「私たちが生まれながら怒りっぽかった」という意味ではありません。確かにそういう人もいますが、そうではなく、神から怒りを受ける対象であったということです。このようなことばを聞くと「いや、そうじゃないでしょう。神さまは愛なんじゃないですか?」と反論するかもしれません。キリスト教会では「罪」を除外して、神さまの愛だけを説くところもあるかもしれません。それはヒューマニズムの宗教であり、万人救済主義になる恐れがあります。ある人たちは「愛なる神は地獄を作らない」と主張しています。私たちは聖書から「神の義」と「人間の罪」という二つのことを明確に知らなければなりません。この二つは、絶対に交わることのできないものです。結論から言うと、神の義が満たされない限りは、神との平和はありえないということです。

 パウロはローマ51にくるまで、ローマ1章、2章、3章と人間の生まれながらの罪について語っています。そして、「ユダヤ人は律法を持っていると誇っているが守っていない」と言っています。ローマ3章では「義人はいない、ひとりもいない。…すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する」と言っています。つまり、律法のもとではだれひとり、神さまの前では義と認められず、断罪されるということです。人は、このダークな部分を知らないと、救いの喜びも分かりません。「救い」を端的に言うなら、「もう、神さまにさばかれない。地獄に落とされない」ということです。私たちは旧約聖書の、特に民数記を読むと躓くかもしれません。なぜなら、そこには神が愛ではなく、罪をさばく厳しいお方として記されているからです。イスラエルは神さまから選ばれた民ですから、私たちには反面教師的な存在です。彼らは神さまに何度も背きました。もし、私たちがあの時代に生きていたなら、命がいくつあっても足りないでしょう。でも、私たちには福音があります。ローマ321-24「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」アーメン。これこそが福音です。ある人たちは、「ただ、信じるだけで救われて良いのか?行いも必要ではないだろうか?」と反論します。しかし、それは神の恵みを知らない人たちです。ガラテヤ310「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。…すべてのことを守らなければ、だれでものろわれる」とあります。律法は100%の正しさ、義を要求します。生身の人間が、神に受け入れられようと、律法を行なうことは絶対不可能です。学校のテストで毎回100点取れないのと同じです。私たちが救われるためには、律法の行いではなく、信仰による神の恵みしかないのです。もし、「救われるために行ないも必要だ」という人がいるならば、それはイエス・キリストの十字架の贖いを否定する人たちです。パウロは「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を表わすためです」(ローマ325と言いました。これは、イエス・キリストが私たちの代わりに罪を負われたので、神さまの私たちに対する罪がなだめられたということです。このことは、私たち人間が願ったのではありません。父なる神さまがひとり子、イエスをこの世に送り、御子イエスに全人類の罪を負わせ、御子イエスを代わりにさばいたということです。それで、神さまは、御子イエスを信じる者にご自分の義を与えると約束されました。それが信仰による義です。

 高い建物の上には必ず避雷針があります。これまで日本の神社仏閣が火災にあったのは、避雷針がなかったからです。避雷針はベンジャミン・フランクリンが発案したと言われています。教会には十字架が立っていますが、それは罪から私たちを守る避雷針を象徴しています。もし、十字架がなければ、私たちは断罪されて、地獄に落とされるしかありません。民数記の人たちは、神に逆らったので、「地面がその口を開き、生きながら陰府に落とされました」(民数記1630-33)。私たちも十字架の贖いがなければ、同じような運命をたどっていたことでしょう。私たちは「イエス様のお名前によって」と祈ります。まさしく、イエス様のお名前は、罪を取り除いて下さり、父なる神さまの間近に行くことができるのです。聖書に「和解」ということばがあります。「和解する」はギリシャ語でカタラッソーです。しかし、元の意味は「変える」です。では、何が変えられるのでしょうか?高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本でこう述べています。「神は決して変わることのないお方であるから、変えられるのは、神の前における人間の立場である。神は、キリストの十字架によって、神の前における人間の立場を変えてくださり、それとともに人間をそれ以前とは違った見方で見られる。すなわち、もはやわれわれを単に呪いのもとにある者として見られるのではなく、われわれに平和を宣言しておられるのである」。アーメン。私たちはキリストによって実現された和解のゆえに、未信者に対して、「神さまはあなたを責めたり、罰したりしようとしておられるのではなく、和解の手を差し伸べておられるのです」と言うことができるのです。信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持っています。

2.自分との平和


 「自分との平和」「自分との和解」と言う表現は奇妙に聞こえるかもしれません。ユダヤ人には罪を告発する律法がありました。しかし、私たち異邦人には、律法と言う絶対的なものがありません。もちろん、日本にも法律がありますが、小さな子どもたちにとって、親や学校の教師の言うことが律法になります。「〇〇してはいけない」「〇〇しなさい」と小さいときから教えられます。ところが、人間は元来、罪人なので、親や教師は子どもの存在を壊すような言い方をします。「人の迷惑にならないように」「人に笑われないように」と注意します。「馬鹿、そんなことが分からないのか」「能無し」「不器用」「情けない」「死ね」…悪いことばを浴びせられて育ちます。親や教師が責めた言葉が、いつの間にか自分を責めることばになります。「こんなことができないのか?私はダメだなー」「私は何をやっても満足にできない」「どうせ私はできそこないなんだ」「そんなことは私には似合わない」と自分を卑下するようになります。それらのことばは、もともと他の人が自分に対して発していたことばなのですが、いつの間にか、自分を責めることばになっています。そして、何か失敗したときに、自分の頭を叩いたりします。私も昔は自分の頭や顔をたたいていました。もう一人の自分がいて、失敗した自分を責めているのです。まるで、分裂状態です。そういう声が度々聞こえて、学校のときは作文や絵画、図面など時間内に提出したことがありません。親や先生から「集中力がない」と良く言われましたが、内部が分裂しているので、集中できるわけがありません。今、思えば、軽度の統合失調症あるいは、人格が乖離していたのかもしれません。

 私がこんなことを言うと変に聞こえるでしょうか?でも、みなさんに質問します。「あなたは自分が好きでしょうか?」「あなたは自分を信頼しているでしょうか?」「あなたは自分を誇りに思っているでしょうか」「あなたは自分を極度に責めることはないでしょうか?」…いくつか当たっているのではないでしょうか?「自分へのご褒美」ということばを聞いたことがありますが、これは、自分を責めることの反対なのではないでしょうか?「自分へのご褒美」と言うならば、「自分へのこらしめ」ということもありえるでしょう。つまり、自分と自分が分裂しているということです。イエス様が福音書で「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、うちわで争えばつぶれます」(ルカ1117と言われました。もしかしたら、自分を責めている声というのは、自分ではなくて、サタンの手下なのかもしれません。なぜなら、黙示録には「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神のみ前で訴えている者」(黙示録1210と言われているからです。英語の聖書にはaccuser 「告発者」「非難者」と書かれています。つまり、私たちの内部に非難する者が同居していたなら、どうなるでしょう?また、ある人たちは罪責感や罪悪感にさいなまれています。自分が過去に犯した失敗や罪が自分を責めるのです。「イエス・キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださった」と聞いたとき、すべてが消え去ったでしょうか?「子よ、あなたの罪は赦されました」と宣言されたとき、告発者はあなたから離れ去ったでしょうか?もしかしたら、たまに訴えられているのではないでしょうか?その度に、「自分は幸せになってはいけない。罰を受けるのが当然である」と考えているなら、完全に欺かれています。

 イザヤ611b-3「捕らわれた人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべて悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けされるため」とあります。「捕らわれた人」というのは、「強い者によって虐待されてそうなった人」です。英語の聖書はoppress「圧迫される」とかafflict「苦しめられる、悩ます」ということばです。簡単に言うと犠牲者です。一方「囚人」とは自分が犯した罪や失敗によって、監獄に閉じ込められている人です。囚われた原因が自分にもあるということです。どちらにしても、幸福な状態ではありません。どちらにしても、自分を愛し、自分を敬い、自分との平和を持っているとは思えません。でも、イエス様は私たちを解放するためにやってこられたのです。「もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」(ルカ1122)。かつてはサタンに囚われていましたが、イエス様がサタンのかしらを打ち砕き、私たちを解放してくださったのです。言い換えると、私たちの罪を赦し、私たちを牢獄から救い出し、愛する御子のご支配の中に移してくださったのです。ハレルヤ!もし、まだ、あなたの良心が、あなたを訴えるなら、それは間違った邪悪な良心です。ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」。アーメン。

 最後は自分自身と和解する必要があります。これは私の経験ですが、私はクリスチャンなってしばらくたってから、自分を愛し、自分を赦し、自分を受け入れました。何故かと言うと、聖書に「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と書かれているからです。それでどうなったかと言うと、自分を訴える者がいなくなりました。正確には言えませんが、自分と自分が和解して、1つになりました。これまでは自分が分裂状態で、集中力が全くありませんでした。でも、自分と自分が1つになったので、自分の中に争いがなくなり、調和がやってきました。英語で表現するなら2つのことばがあります。1つはfusion「融合」です。もう1つはintegrate「統合」です。自分と自分が融合し、統合したということです。それ以来、自分を責めたり、卑下する自分はいません。逆に、自分を励まし、自分を助ける自分になりました。それ以来、私はとても集中力がつき、神からの知恵を完全に受け取ることができるようになりました。自慢のように聞こえるかもしれませんが、私の賜物の1つは「知恵のことば」です。私がこうやって説教できるのは神の知恵です。私のことはともかく、みなさんも思い当たるふしがあるなら、自分と和解してください。キリストの平和がまず、あなたの心を支配しますように。イエス様の愛と赦しと受け入れを、まずあなた自身が受け取ってください。御国があなた自身に来ますように。あなたには無尽蔵の富と力を持っておられる神さまが共におられます。アーメン。

3.人との平和

 イエス様は山上の説教で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ59と言われました。平和を作る者となるためには、2つのことが前提になければなりません。第一は神との平和、第二は自分との平和です。自分の中に怒りが満ちている人がどうして平和を作ることができるでしょう。世の中にはたくさんの平和運動のグループがあります。でも、どういう訳なのか、彼ら同士が争っています。イデオロギーの違いと言えばそれまでですが、自分たちの中に聖書が言う「平和」がないのかもしれません。聖書が言う「平和」とは戦争がないことではありません。ビートルズは戦争のない平和を願うような歌をたくさん歌いました。悪くはないと思いますが、戦争を起こすのは私たちの内側に罪があるからです。貪欲や妬み、敵対心の大きくなったものが戦争です。ですから、いきなり国家間の平和ではなく、隣人との平和から始めなければなりません。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ1919と言われました。中には、「世界の人は愛することはできますが、隣りのオヤジが憎い」という人がいます。遠くの人は案外、愛せます。問題は毎日、顔を合わせている隣人なのです。何故、私たちは隣人と仲良くできないのでしょうか?もちろん、仲良くできる人もいます。でも、顔を見たくないほど、険悪な状態になる人だっています。何故、私たちは人と争ってしまうのでしょうか?

 エペソ214-16「 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」文脈はユダヤ人と異邦人間にある敵意のことが書かれています。でも、これは私たち人間が生まれながら持っている「敵意」と解釈することも可能です。なぜなら、アダムとエバに罪が入ったとたんに「敵意」がやってきたからです。神である主はエバに「あなたは夫を恋い慕うが、「彼はあなたを支配することになる」(創世記316と言われました。これは夫婦間にある軋轢です。創世記4章では、カインが弟アベルをねたみのゆえに殺してしまいました。さらに、カインの子孫、レメクは「私は77倍の復讐をする」と言いました。そして、争いは民族間、国家間と広がって行きました。人間はだれから教えられなくても人と争い、さらには殺人まで犯してしまう存在なのです。なぜなら、アダム以来、「敵意」という罪がやどっているからです。イエス・キリストは私たちが生まれながら持っている敵意を廃棄するために来られました。パウロは「このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」と言いました。アーメン、キリストの十字架によって、私たち敵意が葬りされられたのです。

 神さまがその次になさってくださったことは、聖霊による生まれ変わりであります。神から生まれた者は神の種がやどっています。だから、兄弟を愛するということが当たり前になったのです。Ⅰヨハネ314「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」ヨハネは神を愛する者は、兄弟をも愛することが当然であると言っています。ヨハネは「古い戒め」をこんどは「新しい戒め」に直しました。「古い戒め」にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(レビ記1918とありました。でも、それは正しい戒めではありましたが、実行する力がありませんでした。なぜなら、私たちの内にアダム以来の罪があるからです。でも、イエス様は十字架にかかり罪を赦し、罪の力を打ち砕いてくださったのです。そして、神のいのちである、聖霊を私たちに送ってくださいました。古い戒めがキリストの贖いによって、新しい戒めになりました。もう、実行不可能な命令ではなく、私たちの内におられる神のいのち、聖霊がそのことを実行させてくださるのです。Ⅰヨハネ323「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」アーメン。ヨハネは数えきれない律法をたった2つにまとめました。第一は、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。第二は、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。この2つの命令こそが、新約の時代に住む私たちへの命令なのです。ハレルヤ!

 世の中にはたくさんの法律やきまりがあります。学校には校則、会社にはコンプライアンス、車を運転していると道路交通法、商売している人には商法があります。法律やきまりにがんじがらめになっています。それらは全部、外側から人間に与えている戒めです。残念ながら、効力がありません。なぜなら、生まれながらの人間には罪があり、律法を守れないからです。もちろん、人と争い、やがてそれが国家間の戦争にまで発展します。しかし、神さまのやり方はこの世の方法とは全く違います。私たちを聖霊によって生まれ変えさせ、平和の人、愛の人にするということです。神のいのち、聖霊は外側からではなく、私たちの内側に働き、内側からあふれてくるのです。平和のヘブライ語はシャロームです。これは戦争がないという単なる平和ではありません。神の力と生命にあふれた動的な状態を言います。子どもの頃、コマを回したことがあるでしょう。コマが高回転で回っています。じっとして止まっているように見えます。でも、それは力に満たされた状態です。これが平和です。イエス様が私たちに「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ59と言われました。これは私たちの中に既に「神との平和」が宿っているので、この世に向かって平和を作ることができるという意味です。私たちは神との平和を持っています。私たちは自分自身との平和を持っています。そして、私たちはこの世に向かって平和を作り出すことのできる神の子どもです。アーメン。

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