2018年10月19日 (金)

預言者と預言 Ⅰコリント14:1-5 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.21

 現在のキリスト教会でもっともうとんじられているのが、預言者と預言ではないかと思います。先週はⅠコリント13章から学びましたが、そこには「預言の賜物ならすたれます」と書かれていました。ほとんどの福音派の教会は「聖書が完成したときに、そういう賜物は必要なくなった」と言います。だったら、「知識ならばすたれます」とも書いてあるので、「知識も必要ない」と言ってください。完全なものが現れるとは、世の終わり、キリストが再臨される時のことであります。世の終わりが来るまでは、伝道のため、教会を建て上げるため、将来の危険から免れるため、預言者と預言は大事な神さまからの賜物であります。

1.預言者

 まず、最初に旧約聖書において預言者たちはどのような働きをしていたのか学びたいと思います。モーセは神さまから律法を授かりました。そして、「主はモーセに告げて仰せられた」というフレーズが度々出てきます。モーセは主なる神さまの代弁者であります。人々は聖なる神さまのところに近づくことができませんでした。なぜなら、罪があるからです。その次は、サムエルが登場しますが、やはりイスラエルの民の間に立って、主のことばを告げました。ナタンはダビデに油を注ぎ、王様に任命しました。ダビデが罪を犯したとき、その罪をあばいて悔い改めに導きました。南北朝時代には、エリヤとエリシャが活躍しました。彼らは王室から離れたところで生活していました。時々、王様に会って、国の罪を責めたり、王様に助言を与えたりしました。ユダ王国のときは、イザヤが王様に仕えつつ、国政に対して助言を与えたり、将来の預言をしました。その後、エレミヤやエゼキエルが登場しますが、王様と国の罪を責めました。彼らに主のことばを告げても、全く耳を傾けようとしませんでした。捕囚時代はダニエルが高い地位を与えられ、バビロンとペルシャの王様に仕えました。帰還後はハガイやゼカリヤが神殿再建のために預言しました。他にもヨナとか、ホセヤ、マラキなどの預言者たちがたくさんいます。

 旧約聖書に出てくる預言者の共通している特徴とは何でしょうか?第一は主のことばを取り次ぎ、王や民をさばくということです。エリヤなどは天から火を下して、バアルの預言者たちを切り殺しました。イエス様がエルサレムに行こうとしたのに、サマリヤ人たちが通そうとしませんでした。ルカ954「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」ヤコブとヨハネはエリヤのように、彼らを滅ぼしてしまおうと思ったのです。恐ろしい話です。バプテスマのヨハネも「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか…良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる。」(マタイ3710と言いました。バプテスマのヨハネは旧約の最後の預言者です。口から火を吐くような預言をしました。第二は将来を予言することです。サムエルは「予見者」と呼ばれました。英語ではseerであります。異国にもそういう人たちがいました。占い師もその部類だと思います。神さまは永遠なる御方なので、時間に支配されていません。イザヤに対してもそうですが、現在、近い将来、遠い将来、関係なく連続した出来事として示しました。だれでも、未来のことを知ることができたら、すばらしいのではないでしょうか?だから、偽預言者もそのような予言をするのではないかと思います。第三は神からの啓示や知恵を与えるということです。ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になることができました。なぜなら、パロの夢を解き証し、飢饉に備えさせたからです。また、ダニエルは捕囚の身でありましたが、4人の王様に仕えました。王たちは彼を重んじて、彼に政治を任せました。旧約聖書では預言者は、王様と大祭司と並んで、神さまから油を注がれ、特別な働きをしました。

 しかし、イエス様が十字架の贖いを成し遂げてから、預言者の働きは終わりを告げることになりました。そして、新たに預言者が登場することになりますが、旧約の預言者とは全く異なる働きをするようになりました。私たちは、このことを知らないと、預言者と預言を全部捨ててしまいます。旧約時代は聖霊がひとり一人に与えられていませんでした。だから、預言者たちは「主はこう仰せられる」と告げなければなりませんでした。しかし、ペンテコステ以来、聖霊がイエス様を信じるすべての人に与えられています。イエス様が「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ1426とおっしゃいました。問題解決のため、預言者をさがしに遠くへ行かないでください。もし、私のところへ来たなら、「まず聖書と聖霊に聞きなさい」と言うでしょう。もちろん、必要とあらば、預言をして差し上げます。でも、多くの場合は確認としての預言です。主は、もう既にあなたに告げておられるからです。預言を聞いたとき、「ああ、やっぱりそうだったんですね」と確認を与えてくれます。もう1つ重要なことは、イエス・キリストの贖いによって、神の怒りが取り去られたということです。Ⅰヨハネ410「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」とあります。キリストの血によって、だれでも父なる神さまのところに近づけるようになりました。キリストの血によって古い契約に終わりが告げられました。新しい契約とはどんなものでしょう?ヘブル810-11「私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。…おのおのその兄弟に教えて『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、私を知るようになるからである」。アーメン。

 では、新約時代の預言者の役割とはどのようなものなのでしょうか?第一は和解をもたらすということです。旧約時代の預言者は神のさばきを告げることでした。しかし、キリストが十字架で私たちの代わりに罪となりさばかれました。Ⅱコリント518「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」使徒パウロは「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」と言っています。旧約時代のエリヤは天から火を下し、バアルの預言者たちを剣で殺しました。ところが、世の終わり再び来られるエリヤはどうでしょう?マラキ46「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」彼はさばきのためではなく、家族の和解をもたらすために来るのです。エリヤハウスという働きがありますが、この箇所から取られました。新約に生きている私たちが旧約時代の預言者をイメージしていたらどうでしょう?2001年のニューヨークのツインタワー崩壊も神のさばきであると言うでしょう。また、大地震や津波も、エイズも神のさばきであると言うでしょう。確かに世の終わりの終わりには預言書のようなことが起こります。しかし、世の終わりイエス様が再び来られるまでは恵みの時代です。極端な信仰者たちは何でも世の終わりのさばきに解釈しますが、旧約時代の預言者をイメージしているからです。神さまは怒っておられません。「かえって、あなたがたに忍耐深くあわれるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むこと望んでおられるのです」(Ⅱペテロ39。確かに自然の法則や自然現象は存在していますが、何とか災害を免れさせようとしています。使徒11章二書いてありますが、アガボという人が、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言しました。

第二はからだなる教会を建て上げるためです。エペソ4章には、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためである」と書かれています。旧約聖書では、預言者ハガイとゼカリヤが神殿の再建を大いに助けました。新約の預言者は、キリストの体なる教会を建て上げるのです。だけど、預言がどのように聖徒たちを建て上げるのでしょうか?Ⅰコリント143「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します」とあります。ここに「徳を高める」とあります。ギリシャ語で「オイコドメオー」であり、edify建て上げると言う意味です。人の弱さや欠点を見つけるのはだれでもできます。もし、預言者が隠れた罪をみんなの前であばくなら、その人の徳が高められるでしょうか?恥をかき、傷つけられるでしょう。このような預言がしばしば語られるので、「預言は悪いものだ。預言は危険だ」と言われるのです。そうではありません。新約時代の預言者の務めはそうではありません。その人の泥の中に隠れている宝物を探し当ててあげることなのです。イエス様も「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」(マタイ1344と言われました。畑とはあなたのことです。預言者は神さまがその人に抱いておられるdivine destinyを示してあげることができます。あなたの両親や友人、先生は「あなたのことをこう言っているかもしれないけど、神さまはあなたのことをこう思っていますよ。あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」と告げることができます。その人の人生が全く変わるでしょう。

 イエス様も取税人ザアカイに対して「この人もアブラハムの子なのですから」とおっしゃいました。また、病の霊につかれ、腰の曲がった女性を癒した後こうおっしゃいました。「この女はアブラムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです」(ルカ1316)。イエス様は罪の中にいたあなたを見出して、「あなたに与えている神さまの賜物と計画はこうですよ」とおっしゃってくださいます。その次には、他の人にイエス様のことばを伝えることができるのです。

2.預言の賜物

 Ⅰコリント12章に御霊の賜物が列挙されています。その目的は何でしょう?Ⅰコリント127「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」御霊の賜物はキリストのからだの各器官のようなものです。私たちはキリストがかつて地上でなされたことを、御霊の賜物を用いて、同じことを行うように召されているのです。預言の賜物は、その一つであります。Ⅰコリント14章には預言の賜物と異言の賜物が比較されています。パウロは異言よりも、預言を求めなさいとはっきり言っています。Ⅰコリント141「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」パウロがこれだけはっきりと述べているのに、現代の教会はとても消極的であるばかりか、否定的です。先週も申し上げましたが、Ⅰコリント13章に「預言の賜物ならすたれます」と書いてありました。ディスペンセーションナリズムの信仰に立っている人たちは、「聖書が完成したので、預言は不要になった」と言うのです。とんでもありません。世の終わり、キリストが再臨する日まで、賜物としての預言を用いなければなりません。なぜなら、使徒パウロが「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と命じているからです。もし、パウロの言っていることが間違っているなら、私たちは信仰義認も捨てなければなりません。あっちは取って、こっちは捨てるというのはいい加減過ぎます。聖書は書かれた神の啓示であり、これ以上のものはありません。しかし、預言は聖書で言われていないことを補助したり、教会を建て上げるためにはとても重要な賜物です。Ⅰコリント14章にはその目的が具体的に示されています。Ⅰコリント143「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」アーメン。徳を高めるとは、人を建て上げるということです。第一のポイントでは泥の中に隠れている宝物を発見してあげることだと言いました。私たちは小さい時から「ダメだ。それじゃ良くない」と打ち壊されて育ちました。しかし、神さまご自身は人が見るようには見ていません。「勧め」とはギリシャ語でパラカレオーであり、「励ます」と言う意味もあります。私たちは励ましが必要です。「慰め」は「緩和する、軽減する」という意味もあります。もし、預言がこのような働きをするのだったら、だれも否定する人はいないでしょう。私たちは気づかないうちに使っているかもしれません。

 このところで、私たちが最も注意すべきことは、「預言の賜物と預言者の違い」です。私たちは旧約聖書の預言者を連想するので、罪をあばく預言をしたり、あるいは完璧な預言でなければならないと思うでしょう。第一のポイントでも言いましたが、十字架の贖い後は、新しい契約のもとで仕えるべきことを知らなければなりません。クリス・バロトン師がSchool of the Prophetsという本の中で、「預言の賜物と預言者の違い」を詳しく説明しています。第一に、預言の賜物は、聖霊による賜物です。これは賜物によって何かをするということに重点が置かれます。一方、預言者は「キリストご自身が与えた賜物」(エペソ47)です。行いよりも、その人自身の立場に重点が置かれます。第二は、預言の賜物は「すべて信者が預言を求めるように」励まされています。一方、預言者は、私たちが選ぶのではなく、神さまご自身が預言者として選びます。神からの召命と油注ぎがあるということです。第三は、預言する能力が賜物です。一方、預言者は預言者自身が賜物です。つまり、預言者は預言する能力が大きいとか小さいとか関係ありません。能力の大小ではなく、その人自身が神からの賜物なんだということです。第四は、預言の賜物を用いる人は聖徒の一人として分類されます。預言の賜物は人生のためにあります。一方、預言者は五職の一人(エペソ411,12)として任命された人です。預言者という召命そのものが人生なのです。このように考えると、預言の賜物はだれもが用いることのできる聖霊の能力です。一方、預言者はキリストご自身が教会を建て上げるために、特別に召した人であります。「その人に何ができるかというよりも、その人自身が賜物」というのは、すごい考え方だと思います。同じように、牧師も何ができるかというよりも、牧師自身がキリスト様からの賜物と考えられます。10年位前、台湾から10数名が宣教活動のため来られたことがあります。ある姉妹から「牧師は一週間何をしているんですか?伝道していますか?癒しをしていますか?教会を開拓していますか?」と聞かれ、返すことばがありませんでした。「あいつら何のために日本に来たんだ!」とその時は、非常に傷つきました。後からはっきり分かりました。「確かに私はそんなに働かないで高い給与をもらっている。しかし、そうではない。牧師の存在そのものが尊いんだ。私は人からではなく、神さまから任命されてここにいるんだ」と分かりました。エペソ4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の五職は「キリストのからだを建て上げるための、キリストの賜物」と書かれています。現代の教会は、使徒と預言者を省いているので、健全に成長できないのです。

 預言とは、いわば神さまからの啓示であります。神さまはいろんな方法で私たちに語っておられます。では、預言の賜物はどのようなかたちで私たちに与えられるのでしょうか?そのヒントがⅠコリント2章にあります。Ⅰコリント29-10「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」神さまは3つの方法で、私たちに語られます。第一に神さまは霊的な耳を通して語りかけます。神様は私たちに言葉を与えます。1つの言葉もありますし、2つ、3つの言葉もあります。神さまは言葉を通してコミュニケートされます。預言と似ていますが、「知識の言葉」や「知恵の言葉」もあります。神さまは、本当にわずかな言葉をもって示してくださいます。その言葉を忠実に口に出すならば、さらに多くの言葉が出てきます。預言がまるで、泡のように溢れ出てきます。しかし、これは、1つか2つの言葉から始まります。第二に神さまは霊的な目を通して、語りかけます。頭に浮かぶ絵(メンタルピクチャー)を通して、私たちに語りかけます。白黒の場合もあるし、テレビのようにカラフルな場合もあります。止まっているような風景の絵かもしれないし、あるいは映画のように動いている絵かもしれません。そのようにして神さまは絵によって、あなたに語りかけます。第三は、神さまは霊的な感覚を通して語りかけられます。ある人はこれを「印象」と呼びます。私たちは人の傍に寄ると、何か感じるときがあります。「怒り」「混乱」「悲しみ」「罪悪感」などです。霊的に敏感な人は、人の中にいるだけで疲れてしまいます。悪いものを知らずに受けるからです。そういう人は、普段は霊のアンテナをひっこめておきましょう。とにかく、預言にはことば、絵、印象の3つがあるということを学びました。

アメリカのチェ・アン師は「預言的なことばは伝道のために非常に力になる」と教えてくださいました。ペンテコステの日、ペテロがヨエル書から説教しました。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」ペンテコステの日から、預言者でなくても、息子や娘が預言し、青年が幻を見、老人が夢を見るようになったのです。神さまがある時はことばを与え、あるときは映像を見せて「この人と語りなさい」と言われます。預言的なことばが伝道の鍵になるということです。まさしくそれはマタイ16章に記されている「御国の鍵」です。私たちは預言的な祈りによって、縛ったり、解いたりすることができるのです。ケニアにサイモンという伝道者がいました。ジャングルを歩いていると、突然、「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と語る神さまの声を聞きました。周りにだれもいなかったので、空耳かなと思いました。神さまが「もう一度語りなさい」と言われました。目の前にサルがいました。「これはテストかな?」と思いましたが、「神さまはあなたを愛しておられます。イエス様はあなたの罪のため十字架にかかられ、三日目によみがえられました」と福音を語りました。すると、神さまは「招きをしなさい」と言われました。「え?サルを招くのですか?」彼はビリー・グラハムがやるように、「イエス様を信じたなら、前に出て人生を神さまに明け渡しなさい」と言いました。すると、ジャングルの木陰から、15人の女性たちが出て来ました。驚いたことに、彼女らは招きに応じて出てきたのです。ある時、チェ・アン師が洗車場に車を洗いに行きました。そこには待合室があり、そこに首にコルセットをした女性がいました。神さまは「彼女は首の裏に病気を持っているので祈ってあげなさい」と言われました。彼女の隣に座ると、彼女の方から声をかけてきました。先生が、「あなたの首どうしたのですか」と聞きました。「5年前、家で仕事をしていたとき、椅子から仰向けに倒れてしまいました。手術を受けましたが、骨の病気もあり首が動きません。右腕も麻痺しています」と答えました。彼女から同意を受けたあと、頭の上に手を置いて祈りました。彼女に「首を動かしてみてください」と言いました。「首を動かしても痛くない。腕も動く」と答えました。彼女はその後イエス様を信じて受け入れました。これは、預言的なことば、預言的な祈りを用いる伝道です。

キリストは、預言者を召しておられます。この世にキリストの和解をもたらし、教会を建て上げるために必要です。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めましょう。預言は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるため、そして伝道するためにとても重要な賜物だからです。

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2018年10月12日 (金)

賜物の注意点 Ⅰコリント13:1-3 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.10.24

 Ⅰコリント13章は「愛の讃歌」と呼ばれ、結婚式でもよく引用されます。しかし、Ⅰコリント12章と14章は御霊の賜物について書かれています。その中間の13章に「愛」について書かれています。でも、実際の聖書はこのように章ごとに分かれていません。後の人が便利なように章と節を付けました。だから、本来は12章から14章まで、区切りなどなく連続的に書かれています。保守的な教会は13章の「愛」だけを語りますが、本来は御霊の賜物について語るべきなのです。「でも、愛を忘れていけないよ」と、注意も一緒に与えます。きょうは福音派の保守的な教会が割愛しやすい箇所から語りたいと思います。

1.愛を土台にする

 コリントの教会は聖霊の賜物にあふれていました。聖霊の賜物あるいは「御霊の賜物」はキリストのからだなる教会の手足にたとえられています。神さまが「これを用いて、奉仕しなさい」と願って、クリスチャン全員に与えている霊的な賜物です。ところが、コリントの教会は「私にはこういう賜物がある」と互いに誇っていました。彼らは異言を話すことを最も高い位置に置いていたようです。預言や信仰、その他の賜物も豊かにありました。しかし、コリントの教会には世の多くの罪も入っており、聖徒らしい生活をしていませんでした。それで、パウロは「御霊の賜物も大事だけれど、愛がもっと大事だよ」ということをⅠコリント13章で語っています。131節から3節まで、霊的賜物をあげながら注意点をいくつかあげています。

 第一は異言です。Ⅰコリント131「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」異言というのは、通常私たちが使っている言語ではありません。これは、神さまと直接話すことのできる未知なることばです。初代教会では人々が聖霊を受けると異言を話していました。しかし、話す本人はその意味が分からず、異言を解き明かしてくれる人がいて、「ああ、こういう意味なのか?」と分かりました。でも、ほとんどは解き明かす必要がない、神さまへの賛美みたいなものです。「御使いの異言」というものがあるかどうか分かりません。パウロが「たとい」と言っていますので、少しオーバーな表現なのかもしれません。とにかく、コリントの人たちは異言の賜物に最も重要性を置きました。そのことに対して、パウロはⅠコリント14章で「異言よりも預言を求めなさい」と勧めています。現在でも、異言を何よりも強調する教団がありますが、こういうところから学ぶべきだろうと思います。パウロは「人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」と言っています。

 第二は預言の賜物です。Ⅰコリント132最初「また、たとい私が預言の賜物を持っており」と書いてあります。日本語の聖書は予知の「予言」ではなく、「預言」と書かれています。この「預」は「預金」の「預」と同じで、預かるという意味から来ています。簡単に言うと、預言は「神さまから預かったことば」と言うことです。全知なる神さまが与えるのですから、それが未来のことであったり、隠されたことが露わにされたりするのです。これは旧約聖書の預言者たちの預言とは異なります。これは聖霊の賜物としての預言です。ある人は、「旧約聖書の預言者は100%神さまからのものであるが、賜物としての預言は2080%の正確率であろう」と言っています。

 第三は知識です。Ⅰコリント132半ば「またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」とあります。知識の賜物とは、直観のように一瞬に与えられる神からの情報です。私たちはあれこれ推測し、いろいろ調べた後、「これはこうだ」と結論を出します。ところが、知識の賜物は、全知なる神さまから一瞬に与えられる情報です。その場にいなくても、千里眼的に見えたりもします。旧約聖書ではエリシャが遠くから、ゲハジがナアマン将軍から贈り物を受け取り、それを隠しているのを見て知っていました。イエス様もサマリヤの女性が5人と離婚し、6人目と同棲していることを言い当てました。彼女はおどろいてイエス様をメシヤであると信じました。

 第四は信仰です。Ⅰコリント132後半「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても」とあります。福音書でイエス様は「山に向かって、『動いて、海には入れ』と、自分の言ったとおりになると信じるならそのとおりになる」と言われました。「山を動かすほどの完全な信仰」が与えられたらなんとすばらしいでしょう。でも、この信仰を用いて富士山を平地にするとみんなが困りますので、やめてください。でも、日本のすべての高い山は、信仰の対象になっていますので、1個くらい見せしめのため、海に移しても良いかもしれません。私たちクリスチャンはある程度の信仰を持っていますが、信仰の賜物は、常識では考えられないことを実現できる信仰の力です。

 第五は分け与える賜物です。Ⅰコリント133前半「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え」とあります。教会員の中には、金銭や物をよく捧げる方がいらっしゃいます。実業家たちの中にこの賜物のある人が多くいますが、彼らはお金もうけも上手です。彼らが気前良くささげると神さまが祝福して、ささげた以上にお金を増やしてくださいます。でも、ささげないでケチになると、祝福もストップしてしまいます。つまり、神さまがその人を祝福してささげるように、用いておられるということです。牧師としてはそういう人が教会に大勢いたほうが助かります。でも、お金持ちというのは案外ケチで、持っていない人の方がよく捧げるという皮肉な法則があるようです。

 第六は殉教の賜物です。Ⅰコリント133後半「また私のからだを焼かれるために渡しても」とあります。「果たして、殉教が御霊の賜物なのだろうか?」という疑問も起こりうるでしょう。弟子のヤコブは殉教しましたが、ペテロは捕えられても御使いによって助け出されました。私たちにはだれが殉教し、だれが助け出されるのか分かりません。でも、ペテロも最後にはローマで、逆さ十字架で殉教したと言われています。聖書には「独身の賜物」というのもあるようですが、殉教と同じで「そういう賜物は結構です」と断りたいでしょう?私も同じです。御霊の賜物は他にもたくさんありますが、6つだけ上げてみました。

 パウロがここで言わんとしていることは、「どんなに大いなる賜物があったとしても、愛がなければ無意味である」ということです。ここで言われている「愛」は言い換えると動機であります。その賜物を動かしている心構えと言っても良いでしょう。コリントの人たちは、霊的賜物を何のために使っていたのでしょうか?ある人は自分を誇るために、またある人は何かの利益を生むために、またある人は自分のセクト(仲間)を増やすためでした。しかし、霊的賜物は魔法とか超能力ではありません。これは、聖霊がその人に与えてくださった超自然的な能力です。私たちは他に、生まれつきの才能や自分で努力して得た能力があります。神さまはこのような一般恩寵を誰にでも与えています。ある人たちはそれを磨き上げて、その道のエキスパートになります。スポーツや芸術の世界でもそうですが、そういう場合は「人から賞賛を受けてなんぼ」というところがあります。冬季オリンピックで金メダルを取った、羽生選手のパレードが仙台でありました。10万人以上の人たちが集まり、拍手と歓声を上げたそうです。彼らはそのようにして個人の栄光をたたえているのです。しかし、私たちクリスチャンの場合、霊的賜物は自分が努力して得たものではありません。向こうからみこころのままに、与えられたものです。だから、自分を誇ることはできません。しかも、イエス様は「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ107,8と言われました。

 御霊の賜物は誰にでも与えられます。きのうきょう信仰を持った人にも与えられます。使徒10章に書いてありますが、ペテロのもとにコルネリオ一家が集まりました。彼らはペテロの話を聞いていましたが、その途中、聖霊の賜物が注がれました。まだ、洗礼も受けていないのに、です。しかし、保守的な教会は、「聖書をちゃんと学び、聖い生活をし、人格的に整えられるのが先だ」と言います。しかし、聖霊の賜物とその人の信仰歴や人格性とは全く関係がありません。聖書に「御霊の実」というクリスチャンとしての品性があります。私たちは全員、キリストにとどまり「御霊の実」を結ぶ責任があります。しかし、御霊の賜物に関しては、自分に与えられた賜物だけに責任があります。また、「御霊の実」がそんなになくても、御霊の賜物が与えられることもあります。人格的に欠けのある人が、御霊の賜物を使うといろいろ問題が起こります。これが、コリント教会の実情でありました。しかし、もう一度言いますが、御霊の賜物はその人の信仰歴や人格的なきよさとは全く関係ありません。神さまが一方的に与えてくださるものです。だから、その人は、神さまの恵みとしていただいて、ちゃんと管理して、神さまの栄光のために用いなければなりません。ローマ1129「神の賜物と召命は変わることがありません」と書いてあります。神さまはあなたを信用して、御霊の賜物をあなたに与えて下さいました。私たちはそれを隠さないで、用いる必要があります。イエス様はマタイ25章でタラントのたとえを語られました。私たちは1タラントを地面にかくした悪いなまけ者のしもべになってはいけません。むしろ、5タラントあるいは2タラント預けられたしもべのように、忠実に用いるべきです。マタイ2529「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」イエス様から「よくやった。良い忠実なしもべ」と言われますように。

2.限界性を知る

 Ⅰコリント138-13「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」「信仰、希望、愛」は当教会の週報の副題みたいになっています。クリスチャンであるなら「信仰、希望、愛」をだれも否定する人はいないでしょう。しかし、物議をかもしやすいのは、霊的賜物です。8節から再び、御霊の賜物がいくつかあげられており、それらの限界性も示されています。前半のメッセージでは「賜物を用いる時は愛が必要ですよ」という注意でした。後半は、「賜物は完全ではなく、限界がありますよ」とパウロが言っています。なぜなら、コリントの教会は、賜物がまるで完全であるかのように考えていたからです。誰でも、神からの能力が与えられたら、スーパーマンになったような気がするのではないでしょうか?しかし、そうではありません。主の御名を辱めないために、賜物の限界を知って、これらを用いる必要があります。

 8節には「愛は絶えることがない」と書かれています。それに比べ、預言の賜物ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。問題は、「いつそのことが起こるか?」ということです。10節には「完全なものが現れたれら、不完全なものはすたれます」と書かれています。福音派の保守的な教会は、聖書が完成したら、このような霊的な賜物が不要になると考えています。かなり前に、いのちのことば社から「チェーン式バイブル」が発売されました。その聖書に、このような解説が載せられています。「キリストが再臨していない、現在の不完全な時代には、成長の段階がある。キリスト教会の発足時は、まだ未成熟の時代であり、教会の成長と確証のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような必要は消えた。」と書かれています。もし、私が大阪の人であったら「あほか?」と言っているでしょう。一体、この考えはどこから来たのでしょう?19世紀イギリスで、ディスペンセーション主義の神学が起こり、この考えがアメリカに広まりました。ディスペンセーション主義とは、時代をいくつかに区分する考えであり、福音派の多くが再臨信仰と一緒に受け入れました。もちろん良いところもあります。しかし、スコフィールドという人が聖書を作り、時代区分の考え方をより強化しました。つまり、聖書が完成したら、預言や奇跡が必要ない、「やんでしまった」と言うのです。決してそうではなく、イエス・キリストが再臨して、御国が完成したら、預言や奇跡が必要なくなるのです。

パウロは12節で「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言っています。その時というのは、御国が完成した時であり、そのとき私たちはイエス様と顔と顔とを合わせて見ることになります。でも、今は一部分しか知りません。今というのは、御国が完成していない、現代のことであります。だからこそ、私たちは信仰が必要であり、聖霊の賜物が必要なのです。確かに私たちには完成された66巻の聖書があります。これ以上の文書啓示は与えられていません。私たちはこの聖書に付け加えたり、減らしたりはできません。「ただし」であります。この「だたし」が重要です。主は今も生きておられ、私たちに御霊によって語っておられます。もちろん、聖書のみことばを通して語られます。しかし、幻、夢、そして預言によっても今も語っておられます。使徒2章に書いてありますが、ペンテコステの日、ペテロがヨエル書を引用してこのように語りました。使徒217,18「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』問題は「終わりの日」とはいつなのか?です。「終わりの日」は英語の聖書では、in the last daysと複数形になっています。簡単に言うと、ペンテコステの日から「終わりの日」がはじまったということです。そして、究極の終わりの日、in the last dayはイエス様が地上に戻ってこられる日です。つまり、キリストが再臨される日までの時代が、「終わりの日」なのです。だから、キリストが再臨する日まで、預言、幻、夢は存在し続けるということです。何のためでしょう?それは、神さまは聖書以外のことを語りたいからです。私たち人間が「聖書がもう完成したのですから、もうそれ以上のことを語らないで下さい。大丈夫です」というのは大変失礼であり、傲慢な態度であると言えます。

 ただし、私たちはコリントの教会のような同じ過ちや、賜物至上主義のような極端に気を付ける必要があるということです。今から、30年くらい前、「預言」のブームがありました。ある人たちが「神はこう言われます」と預言しました。それを受け取る人たちは、「神さまがそう言われるなら絶対間違いはないだろう」と思いました。ある人たちは「聖書や説教よりも、預言者が語る預言に価値がある」と言い出しました。そして、セミナーを受けた人たちが、教会に帰って「うちの牧師は預言に無知だし、霊的賜物もない」とさばくようになりました。それを聞いた牧師たちは傷つき、「預言とか霊的な賜物は教会を分裂させる危険なものだ」と、そういう人たちを教会から追放しました。大川牧師も今から40年前、「異言を話す」ということで某教団から糾弾され、結局は単立教会になりました。私は大川牧師が霊的な体験をされた直後に教会に来たので、ぜんぜん違和感はありませんでした。はじめから、聖霊が働かれ、奇跡や癒しは今も存在していると信じていました。しかし、私が最初に神学校に入ったとき、「私は異質な存在なんだ」ということが分かりました。結局、私は他の神学校で学び直すことになりました。でも、その神学校も聖霊の働きに対しては慎重でした。その当時、主の十字架クリスチャンセンターから10名以上の神学生が入ってきて、混乱を招きました。彼らは、数年後、自分たちの学校を作りました。命のことば社から「聖霊の賜物を批判する」本もいくつか出版され、教会は福音派と聖霊派に分かれてしまいました。「聖霊派」なんていう名称は本来ありません。でも、私がこういうことを言うと、「あなたはカリスマですね。大川牧師の弟子なんだからカリスマですね」と言われます。

 さて、本題に戻ります。これで終わるとうっぷん晴らし的なメッセージになってしまうからです。御霊の賜物は全く、消えてなくなったというものでもありません。今も、御霊の賜物は存在していますが、「完全ではありませんよ」という注意書きが付いているということです。知識のたまものであっても、一部分しか知りえないということです。また、預言の賜物であっても、将来のことや隠されていることが全部分かるわけではなく、部分的であるということです。異言もある程度の預言のような働きをしますが、たとえ解き明かしがあったとしても、不完全です。病の癒しの賜物があっても、癒すことのできない病気もあるということです。もちろん、イエス様がなされたことが標準でありますから、そこまで近づく必要はあります。ですから、中途半端なところで妥協してはいけません。キリストの再臨が来るまで、与えられた霊的賜物を最大限に用いなければなりません。もし、私たちが自分の使命や生来の賜物だけで、神さまに奉仕をするのだったら燃え尽きてしまうでしょう。それに、神さまの働きも限られます。イエス様は、ご自身の働きを継続するように、御霊の賜物をお与えになったからです。いわば、御霊の賜物は、キリストのからだの各器官のような存在であります。私たちに手や足、耳や目、口や頭があるように、それぞれ違った霊的賜物があるということです。一人で全部ある人はいません、おのおのが連結し、助け合って地上におられたイエス様のような働きができるのです。イエス様が「戻ってくるまでこのタラントを使いなさい」と預けたものが、霊的賜物なのです。初代教会の頃はなぜあんなに力があったのでしょうか?現代の教会は神学的にはすぐれているかもしれませんが、力がありません。使徒パウロはⅠコリント2章で「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」と言いました。そうです。私たちは御霊と御力の現れも必要なのです。神さまの力を私たちの神学や経験に押し下げてはいけません。現代、そういうことがないとしたら、私たちがチャレンジしていない、怠けているということなのです。「ないならない」で、へりくだって「聖霊様、力を与えてください。あなたの賜物を与えてみわざを行なわせてください」と祈り求めるべきなのです。パウロはテモテに「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(Ⅱテモテ16と言いました。この世にいると、神の賜物がストーブの火のように弱ってくるということでしょう。だから、時々、かき混ぜていただいて燃え立たせる必要があります。愛を土台としながら、それぞれ与えられた御霊の賜物を用いて、イエス様の働きを継続拡大していきましょう。

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2018年10月 5日 (金)

高潔な人 ダニエル1:8-17 2018.10.7 亀有教会牧師鈴木靖尋

 きょうは旧約聖書のダニエルという人物を取り上げて、「高潔」ということについて学びたいと思います。最近、「高潔」ということばが聞かれるようになりました。高血圧ではなく、高潔です。英語ではintegrityです。Integrityは、正直、高潔、誠実、完全という意味があります。箴言10章から12章を見ますと、「正しい者」とか、「潔白な者」ということばが何度も出てきます。まさしく、きょうのテーマの「高潔な人」のことです。箴言115「潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。」今日は3つのポイントで「高潔」とは何かについて学びたいと思います。

1.妥協をしないこと

 ダニエルは10代のとき、仲間と一緒にバビロンに捕らわれました。ネブカデネザル王はイスラエル人の中から、王の宮廷で仕えることのできる優秀な者たちを選ぼうとしました。三年間、彼らを養育した後、王に仕えるようにさせました。彼らとは、ユダ部族のダニエル他、三人の若者でした。ダニエル18「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」おそらく、王様から配給される食べ物やぶどう酒は偶像にささげられたものだったのでしょう。ダニエルは身を汚さないように「私たちに野菜だけを食べさせてくれ」と願いました。肉はだめで、菜食主義が良いと言うことではありません。彼らを養育する宦官は、最初はしぶりましたが、10日後に、彼らの様子を見て驚きました。王様が食べるごちそうを食べている少年たちと見比べて、ダニエルたちの顔色の方がずっと良かったからです。そこで、世話役はこの四人の少年が食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒を取りやめて、彼らに野菜を与えることにしました。神さまは4人の若者を祝福しました。ダニエル117「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」

 ダニエルたちから学ぶことは、妥協をしないということです。レビ記には食べてはならないものが列挙されています。陸地を這うものやうろこのない魚は食べてはならないと書いてあります。また、血がしたたる肉も食べてはらならないと書いてあります。一番の問題は、偶像にささげた肉とぶどう酒でした。おそらく、偶像にささげて、降りてきたものが配給されたのだと思います。ダニエルたちは、それらを食べることは、身を汚すことなのだと信じて、一切、口に入れませんでした。本来、彼らは捕虜なのですから、生き延びることが最優先でしょう。世の中では「死活問題」と言いますが、食べるためには何でもするところがあります。しかし、ダニエルたちは妥協しませんでした。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。「この世と調子を合わせてはいけません」とありますが、原文は「…と同じ形になる」「…に順応する」という意味ですJB.フィリップスは「この世の鋳型に押し込められるな」と訳しています。つまり、この世の価値観に妥協するなということです。妥協は英語で、compromiseと言いまが、私たちの周りにはそういう誘惑がたくさんあります。この世で一番多い妥協は、ごまかしであります。多少、ずるしても良いという考えです。ジョエル・オスティーンの本にThey cut corners「彼らは手を抜く」という文章がありました。「ある人たちは、会社に来るなり、コーヒーを飲みます。ボスのいない間インタネットを見て、だらだら時を過ごします。会社の電話で私用のために遠距離にかけます。510分前には帰る支度をしています。こういう人が、『どうして神さまは私を昇給させて下さらないのですか』と言っても無理です。Integrity高潔な人は、会社に15分前から来て、積極的に仕事をこなします。そして、定刻よりも15分遅く帰ります。車を半年も洗わない人がいます。家の芝生はぼうぼうとして刈ったことがありません。そういう人は、この教会に来ないで、隣のファースト・バプテスト教会に行ってください。」放映番組ではみんなが爆笑していました。ジョエル・オスティーン自身はとてもきちょうめんな人です。すらすら話せるようにしっかり練習します。スーパーに行く時も、私のようにだらしない格好で行きません。なぜなら、礼拝がテレビで放映されているので、いつだれが見ているか分からないからです。

 聖書に「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ1610と書いてあります。これは、この世のことに忠実な人は、やがて天国で大きなことを任されるという意味です。つまり、私たちはこの世で行っていることは、神さまからのテストだということです。神さまは「この人は小さい事にも忠実だから、今度は大きなことを任せよう」とお考えになっています。私たちは「どうして私だけがこんな仕事をしなきゃならないんだ。不公平だ」と不満をもらしてしまいます。しかし、隠れた所で神さまがご覧になっていたならどうでしょう?私たちがしていることは人々から報いられるためではありません。たとい目立たなくても、神さまの前で行なっているという信仰が必要です。いつも、ごまかして、妥協している人に対して、神さまは報いてくださらないでしょう。Integrity高潔な人は、人が見ていようと見ていまいと、最善を尽くす人であります。使徒の働きにドルカスという女性が出てきます。彼女は多くの良いわざと施しをしていた弟子でした。ところが、彼女は病気になって死んで、人々がその遺体を洗って、屋上の間に置きました。ちょうど、ペテロがその近くに来ていたので、人々がペテロを屋上の間に案内しました。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せました。ペテロがドルカスに「起きなさい」と命じたら、彼女は目を開けました。神さまはドルカスがしたことを憶えておられたのです。だから、ペテロを用いてドルカスをよみがえらせてくださったのです。

 ある人たちは「みんなずるいことをしているじゃないか、私だって少しくらいしても良いだろう」と言い訳をするかもしれません。しかし、あなたはみんなと同じではありません。なぜなら、Integrity高潔な人は人々の前ではなく、聖なる神さまの御目のもとで生きているからです。

2.金銭を欲しがらないこと

 ダニエル517「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。」ダニエルは、金銭や権力をほしがりませんでした。今回、王様の夢を解き明かすのが2回目です。かつて、ネブカデネザル王の夢を解き明かしてあげたことがあります。そのとき「王はダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、またバビロンのすべての知者たちをつかさどる長官としました。」(ダニエル248)。ダニエルはもう捕虜ではありません。王の宮廷にとどまって、バビロン全州を治める長官になっていました。そうなると、いろんな誘惑もやってくるのではないでしょうか?ネブカデネザルの死後、息子のベルシャツァルが王になりました。彼は千人の貴婦人のために大宴会を催しました。彼はぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た、金、銀の器を持って来るように命じました。王と妻とそばめたちが、その器で飲み、自分たちの神々を賛美しました。すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁に、何か文字を書きました。王の顔色が変わり、それにおびえて、がたがた震えました。王は、大声で、呪文師や星占い、知者たちを連れてこさせ、「この文字を読み、解き明しをする者にはだれでもほうびをつかわす」と言いました。しかし、だれもいません。そのとき、ダニエルが王の前に連れてこられました。ダニエルはほうびをやると言った王様に何と答えたでしょう?ダニエル517「そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。『あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。』」ダニエルはむやみに、金銭や権力をほしがりませんでした。ただ、純粋に王のために幻を解きあかしてあげたのです。

欲しがるは英語で、covetousです。使徒パウロはこのように言っています。Ⅰテモテ610「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」ある人が「それにつけても金の欲しさよ」という下の句は、どの俳句や川柳にもつながると教えてくれました。「古池や、かわず飛び込む、水の音。それにつけても金の欲しさよ」「鳴かずんば、鳴くまで待とうほととぎす。それにつけても金の欲しさよ」なんだか、笑点みたいになっていますが、お金は「マモン」と呼ばれ、聖書では偽りの神として擬人化されています。歴代の韓国の大統領が逮捕されていますが、その容疑は、背任、収賄(しゅうわい)、職権の乱用などです。やはり権力が与えられると、欲に勝てなくなるのではないでしょうか?何も持っていない人には誘惑はあまりやってきません。だから、一般の人たちは「権力者は悪いことをする」と非難します。でも、いざ自分が高い位についたなら、何をするか分かりません。最初の頃は清廉潔白であっても、数年たつと、いろんな人たちが群がってきます。利権という誘惑が次から次へとやってきます。数年前からテレビのニュースを賑わしていますが、「〇〇問題」は、みなそのたぐいであります。やはり、自分がそういう権力を持っているなら、「ちょっとぐらい良いだろう」とやってしまうのではないでしょうか?ですか、その人が誘惑に強いかどうかは、実際、権力と力を持ったときでないと分かりません。その点、ダニエルは王様の次に偉い人でした。バビロンには愚かな王様ばかりいましたが、ダニエルはその国の繁栄のために仕えたのです。

 パウロは「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」と警告しています。キリスト教会では「お金は悪いもの、汚れたもの」とまで言います。それだったらなぜ、人々に献金をささげるように求めるのでしょうか?汚れたお金を集めて、教会運営や宣教活動をするというのは矛盾しています。ところで献金のときに「きよめてお用い下さい」とお祈りする方がおられます。あの祈りの本当の意味は「聖別して」という意味であり、お金が汚れているという意味からではありません。「特別にこのためにお用い下さい」という意味からくるものです。でも、私は未信者の方が誤解をするといけないので私はそのように祈りません。山崎長老さんがおられた頃、よくこういうことをおっしゃっていました。「お金はいのちの次に大切なもんじゃ。もし、信仰がなければ1円たりとも献金できないじゃろう」。山崎長老さんは若い時、満州鉄道で助役の次みたいに出世した人でした。しかし、敗戦後、日本に引き揚げ、無一文から商売をはじめました。だから、お金のたいせつさ、ありがたさを良くご存じでした。なぜ、山崎長老さんが教会に来るようになったかと言うと、初代の山下牧師が保証人になってくれたからだそうです。山崎長老さんはそのご恩を忘れず、商売で儲けたお金を教会のためにささげました。いろいろあっても忠実にこの教会に通い続けました。この会堂も山崎長老さんの信仰とささげものが支えになりました。山下牧師が病気で召されるまでひたすら看病しました。召される直前、「アイスクリームを食べたい」と言うので、買って来て食べさせてあげたそうです。山崎長老さんがダニエルのように高潔な人であったかどうかは脇に置いて、イエス様を純粋に愛し、天国貯金を励んだ人には間違いありません。私は信仰一本でやってきましたが、山崎長老さんからお金の大切さについて教わりました。

 父なる神さまは、金銭と権力を正しく用いるように願っておられます。もし、その人に金銭と権力が与えられたなら、それを当たり前だと思わないで、神さまと人々のために用いるべきであります。なぜなら、神さまはあなたを通して、人々に幸いで豊かな人生を与えたいと願っておられるからです。もし、それを自分のためだけに使うなら、祝福どころか「いばらととげ」になってしまうでしょう。ダニエルは捕虜でありましたが、バビロンの太守になり、王国をささえました。でも、いつも謙遜で、いつも神を恐れていました。私たちもバビロンに似たような国の中に生きています。「お金さえあれば何でもできる」と誘惑してくるでしょう。私たちはお金を主人にしてはいけません。最後に、ベンジャミン・フランクリンの名言をご紹介します。「お金は良い召使いだが、悪い主人でもある。」もし、私たちがお金を主人にしたなら悲惨なことになります。でも、お金を召使にしたらならば良く働いてくれます。

3.一貫性があること

 一貫性は英語で、consistencyと言います。裏表がない人は信用されるでしょう。また、言うことと行うことが一致しているなら、なお結構です。王権はメディア人のダリヨスに代わりました。王はバビロン全国に120の太守を任命して国を治めることにしました。そして、彼らの上に3人の大臣を起きましたが、ダニエルはその一人でした。しかし、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわめてすぐれていました。なぜなら、彼の内にすぐれた霊が宿っていたからです。そこで、王はダニエルを任命して全国を治めさせようと思いました。このことに面白くなかったのが、他の大臣や太守たちです。何とか彼を訴える口実を見つけようと努めましたが、彼には何の怠惰も欠点も見つけることができませんでした。そこで、彼らが申し合わせ、1つの法令を王様に制定させました。なんと、「今から30日間、王様以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という禁令が制定されました。ダニエルはそのことを知って家に帰りました。だが、いつものように、エルサレムに向かって、日に三度、ひざまずいて、神の前に祈り、感謝していました。このことを知った他の大臣や太守が、王様の前に進み出て、ダニエルのことを訴えました。王様は署名した手前、否定することができませんでした。無残にもダニエルは捕えられ、獅子の穴に投げ込まれました。王様は気がきではありません。一晩中断食して、夜明け前に、獅子の穴へ急いで出かけました。ダニエルは無事生きていました。何と、神の御使いが獅子の口をふさいでくれたからです。ダニエルに罪がないことを知った王様は、彼を訴えた者たち全員を獅子の穴に投げ込ませました。彼らはあっという間に、獅子に噛み砕かれました。日曜学校で語られる有名なストーリです。

 このところにダニエルが「どうしようか?やめようか?」と躊躇している様子はありません。屋上の部屋の窓が開いていたにも関わらず、いつものように、日に三度、祈ったのであります。おそらく、敵たちはダニエルが祈るのを目撃することができたのでしょう。にもかかわらず、ダニエルは神に祈ることをやめませんでした。歴史上、このような迫害はひんぱんにありました。みんなダニエルの物語を聖書から知っていました。ローマのコロシアムで同じような目にあったクリスチャンがたくさんいたと思われます。彼らはたとえ、獅子に噛み砕かれても、信仰をすてなかったのであります。ダニエルもたとえ死ぬようなことがあっても構わないと思っていたのでしょう。私たちがダニエルから学ぶべき事は、一貫性です。信仰ひとすじです。ダニエルが暮らしていたバビロンは多神教の世界でした。同じように、日本も多神教の国です。特に日本では死んだときは仏教で葬儀をあげます。手を合わせて御焼香しないなら、罰当たりと言われるかもしれません。カトリック教会では「郷に入らば郷に従え」式ですが、プロテスタントの福音派は「偶像礼拝になるから御焼香は避けるように」と指導します。私は焼香をしませんが、その分、まことの神さまに長く祈ります。喧嘩をふっかけるようなことはしませんが、私たちが礼拝する神さまはただお一人です。ヤコブ書には「二心の者は安定がない」と書かれています。こういう日本で、私たちが「まことの神しか拝まない」ということを人々が知るならどうでしょう。ある人たちは、「変わり者だなー」と卑下するでしょう。しかし、ある人たちは「ああ、命をかけるようなものがこの世にあるんだ」と逆に恐れを抱くでしょう。

 また、一貫性があるとは、「裏表がない」「言行一致」ということも当てはまると思います。人の顔色を見て、言っていることがコロコロ変わるなら、信用されなくなります。「係り長のときはああいっていたけど、課長に出世したら全く反対のことを言っている」ということもありえます。「背に腹は代えられない」と言いますが、これは真理を曲げている人の逃げ口上です。詩篇15篇は本日の「高潔な人とはどういう人なのか」ということを言い当てている箇所です。詩篇15全部を引用させていただきます。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。」これを読みながら「正直、合格点とれるだろうか?」と思いました。なぜなら、私は生まれつきの性格や習慣、言葉使い、考え方がかなり残っているからです。でも、私たちの内には100%高潔であられるイエス様が住んでおられます。パウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ89bと言いました。逆に言うなら、クリスチャンはもれなく、キリストの御霊を内に持っているということです。だから、希望があります。私たちの内にイエス様が住んでおられるのですから、イエス様の高潔がおのずと現れてくるに違いありません。

 昔、ベンハーという映画を見たことがあります。ベンハーが鎖につながれて、荒野を行進しているシーンがありました。彼は喉が渇いて死にそうでした。ちょうど、道ばたにイエス様がおられ、ひしゃくでベンハーに水を差し出しました。それを見ていた、ローマ兵が「何をするんだ」とばかり、そのひしゃくを払いのけました。ローマ兵がイエス様を見た瞬間、彼の顔がこわばりました。「自分は何てことをしているんだ」と、自らを恥じているようでした。その隙に、ベンハーは桶から水をがぶがぶ飲むことができました。しかし、当人のベンハーはその方がイエス様だとは知りませんでした。ベンハーが二度目にイエス様を見たのは、遠くの丘の上で人々に話している時でした。でも、彼はイエス様のところへ近づいて話を聞こうとも思いませんでした。三度目はイエス様が十字架で死ぬ寸前でした。あたりが暗くなり、雨が降って、イエス様の血が流れてきました。その血が死の谷にいる母と妹のところまで流れてきたとき、二人のらい病は癒されました。その時に、あの方がイエス様だと分かったのです。そして、それまでの怒りと復讐心が消え去りました。なぜなら、ベンハーがイエス様の高潔さに触れたからです。私たちもイエス様の高潔さを運ぶ器になれたら何とすばらしいことだろうと思います。

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2018年9月21日 (金)

神との平和 ローマ5:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.23

 平和と和解は、姉妹みたいな関係です。なぜなら、平和と和解も女性名詞だからです。でも厳密に言うなら、和解が先で、平和はその結果と言えるでしょう。パウロはローマ51「神との平和を持っている」と言っています。そして、ローマ510「御子の死によって神と和解させられたのなら」と平和が与えられた根拠について述べています。しかし、聖書においては、平和と和解は互いに言い換えることのできることばではないかと思います。ですから、「神との平和」と言ったとしても、頭の中では「神との和解」と入れ替えて理解して下さったら有り難いです。

1.神との平和

 使徒パウロはⅡコリント5章で「神の和解を受け入れなさい」と命じています。しかし、これは命令ではなく、「和解を受け入れてください」という懇願です。私たちは、以前は神さまと敵対関係にありました。エペソ2章には「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ23と書かれています。これは、「私たちが生まれながら怒りっぽかった」という意味ではありません。確かにそういう人もいますが、そうではなく、神から怒りを受ける対象であったということです。このようなことばを聞くと「いや、そうじゃないでしょう。神さまは愛なんじゃないですか?」と反論するかもしれません。キリスト教会では「罪」を除外して、神さまの愛だけを説くところもあるかもしれません。それはヒューマニズムの宗教であり、万人救済主義になる恐れがあります。ある人たちは「愛なる神は地獄を作らない」と主張しています。私たちは聖書から「神の義」と「人間の罪」という二つのことを明確に知らなければなりません。この二つは、絶対に交わることのできないものです。結論から言うと、神の義が満たされない限りは、神との平和はありえないということです。

 パウロはローマ51にくるまで、ローマ1章、2章、3章と人間の生まれながらの罪について語っています。そして、「ユダヤ人は律法を持っていると誇っているが守っていない」と言っています。ローマ3章では「義人はいない、ひとりもいない。…すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する」と言っています。つまり、律法のもとではだれひとり、神さまの前では義と認められず、断罪されるということです。人は、このダークな部分を知らないと、救いの喜びも分かりません。「救い」を端的に言うなら、「もう、神さまにさばかれない。地獄に落とされない」ということです。私たちは旧約聖書の、特に民数記を読むと躓くかもしれません。なぜなら、そこには神が愛ではなく、罪をさばく厳しいお方として記されているからです。イスラエルは神さまから選ばれた民ですから、私たちには反面教師的な存在です。彼らは神さまに何度も背きました。もし、私たちがあの時代に生きていたなら、命がいくつあっても足りないでしょう。でも、私たちには福音があります。ローマ321-24「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」アーメン。これこそが福音です。ある人たちは、「ただ、信じるだけで救われて良いのか?行いも必要ではないだろうか?」と反論します。しかし、それは神の恵みを知らない人たちです。ガラテヤ310「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。…すべてのことを守らなければ、だれでものろわれる」とあります。律法は100%の正しさ、義を要求します。生身の人間が、神に受け入れられようと、律法を行なうことは絶対不可能です。学校のテストで毎回100点取れないのと同じです。私たちが救われるためには、律法の行いではなく、信仰による神の恵みしかないのです。もし、「救われるために行ないも必要だ」という人がいるならば、それはイエス・キリストの十字架の贖いを否定する人たちです。パウロは「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を表わすためです」(ローマ325と言いました。これは、イエス・キリストが私たちの代わりに罪を負われたので、神さまの私たちに対する罪がなだめられたということです。このことは、私たち人間が願ったのではありません。父なる神さまがひとり子、イエスをこの世に送り、御子イエスに全人類の罪を負わせ、御子イエスを代わりにさばいたということです。それで、神さまは、御子イエスを信じる者にご自分の義を与えると約束されました。それが信仰による義です。

 高い建物の上には必ず避雷針があります。これまで日本の神社仏閣が火災にあったのは、避雷針がなかったからです。避雷針はベンジャミン・フランクリンが発案したと言われています。教会には十字架が立っていますが、それは罪から私たちを守る避雷針を象徴しています。もし、十字架がなければ、私たちは断罪されて、地獄に落とされるしかありません。民数記の人たちは、神に逆らったので、「地面がその口を開き、生きながら陰府に落とされました」(民数記1630-33)。私たちも十字架の贖いがなければ、同じような運命をたどっていたことでしょう。私たちは「イエス様のお名前によって」と祈ります。まさしく、イエス様のお名前は、罪を取り除いて下さり、父なる神さまの間近に行くことができるのです。聖書に「和解」ということばがあります。「和解する」はギリシャ語でカタラッソーです。しかし、元の意味は「変える」です。では、何が変えられるのでしょうか?高木慶太師は『信じるだけで救われるか』という本でこう述べています。「神は決して変わることのないお方であるから、変えられるのは、神の前における人間の立場である。神は、キリストの十字架によって、神の前における人間の立場を変えてくださり、それとともに人間をそれ以前とは違った見方で見られる。すなわち、もはやわれわれを単に呪いのもとにある者として見られるのではなく、われわれに平和を宣言しておられるのである」。アーメン。私たちはキリストによって実現された和解のゆえに、未信者に対して、「神さまはあなたを責めたり、罰したりしようとしておられるのではなく、和解の手を差し伸べておられるのです」と言うことができるのです。信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持っています。

2.自分との平和


 「自分との平和」「自分との和解」と言う表現は奇妙に聞こえるかもしれません。ユダヤ人には罪を告発する律法がありました。しかし、私たち異邦人には、律法と言う絶対的なものがありません。もちろん、日本にも法律がありますが、小さな子どもたちにとって、親や学校の教師の言うことが律法になります。「〇〇してはいけない」「〇〇しなさい」と小さいときから教えられます。ところが、人間は元来、罪人なので、親や教師は子どもの存在を壊すような言い方をします。「人の迷惑にならないように」「人に笑われないように」と注意します。「馬鹿、そんなことが分からないのか」「能無し」「不器用」「情けない」「死ね」…悪いことばを浴びせられて育ちます。親や教師が責めた言葉が、いつの間にか自分を責めることばになります。「こんなことができないのか?私はダメだなー」「私は何をやっても満足にできない」「どうせ私はできそこないなんだ」「そんなことは私には似合わない」と自分を卑下するようになります。それらのことばは、もともと他の人が自分に対して発していたことばなのですが、いつの間にか、自分を責めることばになっています。そして、何か失敗したときに、自分の頭を叩いたりします。私も昔は自分の頭や顔をたたいていました。もう一人の自分がいて、失敗した自分を責めているのです。まるで、分裂状態です。そういう声が度々聞こえて、学校のときは作文や絵画、図面など時間内に提出したことがありません。親や先生から「集中力がない」と良く言われましたが、内部が分裂しているので、集中できるわけがありません。今、思えば、軽度の統合失調症あるいは、人格が乖離していたのかもしれません。

 私がこんなことを言うと変に聞こえるでしょうか?でも、みなさんに質問します。「あなたは自分が好きでしょうか?」「あなたは自分を信頼しているでしょうか?」「あなたは自分を誇りに思っているでしょうか」「あなたは自分を極度に責めることはないでしょうか?」…いくつか当たっているのではないでしょうか?「自分へのご褒美」ということばを聞いたことがありますが、これは、自分を責めることの反対なのではないでしょうか?「自分へのご褒美」と言うならば、「自分へのこらしめ」ということもありえるでしょう。つまり、自分と自分が分裂しているということです。イエス様が福音書で「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、うちわで争えばつぶれます」(ルカ1117と言われました。もしかしたら、自分を責めている声というのは、自分ではなくて、サタンの手下なのかもしれません。なぜなら、黙示録には「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神のみ前で訴えている者」(黙示録1210と言われているからです。英語の聖書にはaccuser 「告発者」「非難者」と書かれています。つまり、私たちの内部に非難する者が同居していたなら、どうなるでしょう?また、ある人たちは罪責感や罪悪感にさいなまれています。自分が過去に犯した失敗や罪が自分を責めるのです。「イエス・キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださった」と聞いたとき、すべてが消え去ったでしょうか?「子よ、あなたの罪は赦されました」と宣言されたとき、告発者はあなたから離れ去ったでしょうか?もしかしたら、たまに訴えられているのではないでしょうか?その度に、「自分は幸せになってはいけない。罰を受けるのが当然である」と考えているなら、完全に欺かれています。

 イザヤ611b-3「捕らわれた人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべて悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けされるため」とあります。「捕らわれた人」というのは、「強い者によって虐待されてそうなった人」です。英語の聖書はoppress「圧迫される」とかafflict「苦しめられる、悩ます」ということばです。簡単に言うと犠牲者です。一方「囚人」とは自分が犯した罪や失敗によって、監獄に閉じ込められている人です。囚われた原因が自分にもあるということです。どちらにしても、幸福な状態ではありません。どちらにしても、自分を愛し、自分を敬い、自分との平和を持っているとは思えません。でも、イエス様は私たちを解放するためにやってこられたのです。「もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」(ルカ1122)。かつてはサタンに囚われていましたが、イエス様がサタンのかしらを打ち砕き、私たちを解放してくださったのです。言い換えると、私たちの罪を赦し、私たちを牢獄から救い出し、愛する御子のご支配の中に移してくださったのです。ハレルヤ!もし、まだ、あなたの良心が、あなたを訴えるなら、それは間違った邪悪な良心です。ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」。アーメン。

 最後は自分自身と和解する必要があります。これは私の経験ですが、私はクリスチャンなってしばらくたってから、自分を愛し、自分を赦し、自分を受け入れました。何故かと言うと、聖書に「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と書かれているからです。それでどうなったかと言うと、自分を訴える者がいなくなりました。正確には言えませんが、自分と自分が和解して、1つになりました。これまでは自分が分裂状態で、集中力が全くありませんでした。でも、自分と自分が1つになったので、自分の中に争いがなくなり、調和がやってきました。英語で表現するなら2つのことばがあります。1つはfusion「融合」です。もう1つはintegrate「統合」です。自分と自分が融合し、統合したということです。それ以来、自分を責めたり、卑下する自分はいません。逆に、自分を励まし、自分を助ける自分になりました。それ以来、私はとても集中力がつき、神からの知恵を完全に受け取ることができるようになりました。自慢のように聞こえるかもしれませんが、私の賜物の1つは「知恵のことば」です。私がこうやって説教できるのは神の知恵です。私のことはともかく、みなさんも思い当たるふしがあるなら、自分と和解してください。キリストの平和がまず、あなたの心を支配しますように。イエス様の愛と赦しと受け入れを、まずあなた自身が受け取ってください。御国があなた自身に来ますように。あなたには無尽蔵の富と力を持っておられる神さまが共におられます。アーメン。

3.人との平和

 イエス様は山上の説教で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ59と言われました。平和を作る者となるためには、2つのことが前提になければなりません。第一は神との平和、第二は自分との平和です。自分の中に怒りが満ちている人がどうして平和を作ることができるでしょう。世の中にはたくさんの平和運動のグループがあります。でも、どういう訳なのか、彼ら同士が争っています。イデオロギーの違いと言えばそれまでですが、自分たちの中に聖書が言う「平和」がないのかもしれません。聖書が言う「平和」とは戦争がないことではありません。ビートルズは戦争のない平和を願うような歌をたくさん歌いました。悪くはないと思いますが、戦争を起こすのは私たちの内側に罪があるからです。貪欲や妬み、敵対心の大きくなったものが戦争です。ですから、いきなり国家間の平和ではなく、隣人との平和から始めなければなりません。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ1919と言われました。中には、「世界の人は愛することはできますが、隣りのオヤジが憎い」という人がいます。遠くの人は案外、愛せます。問題は毎日、顔を合わせている隣人なのです。何故、私たちは隣人と仲良くできないのでしょうか?もちろん、仲良くできる人もいます。でも、顔を見たくないほど、険悪な状態になる人だっています。何故、私たちは人と争ってしまうのでしょうか?

 エペソ214-16「 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」文脈はユダヤ人と異邦人間にある敵意のことが書かれています。でも、これは私たち人間が生まれながら持っている「敵意」と解釈することも可能です。なぜなら、アダムとエバに罪が入ったとたんに「敵意」がやってきたからです。神である主はエバに「あなたは夫を恋い慕うが、「彼はあなたを支配することになる」(創世記316と言われました。これは夫婦間にある軋轢です。創世記4章では、カインが弟アベルをねたみのゆえに殺してしまいました。さらに、カインの子孫、レメクは「私は77倍の復讐をする」と言いました。そして、争いは民族間、国家間と広がって行きました。人間はだれから教えられなくても人と争い、さらには殺人まで犯してしまう存在なのです。なぜなら、アダム以来、「敵意」という罪がやどっているからです。イエス・キリストは私たちが生まれながら持っている敵意を廃棄するために来られました。パウロは「このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」と言いました。アーメン、キリストの十字架によって、私たち敵意が葬りされられたのです。

 神さまがその次になさってくださったことは、聖霊による生まれ変わりであります。神から生まれた者は神の種がやどっています。だから、兄弟を愛するということが当たり前になったのです。Ⅰヨハネ314「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」ヨハネは神を愛する者は、兄弟をも愛することが当然であると言っています。ヨハネは「古い戒め」をこんどは「新しい戒め」に直しました。「古い戒め」にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(レビ記1918とありました。でも、それは正しい戒めではありましたが、実行する力がありませんでした。なぜなら、私たちの内にアダム以来の罪があるからです。でも、イエス様は十字架にかかり罪を赦し、罪の力を打ち砕いてくださったのです。そして、神のいのちである、聖霊を私たちに送ってくださいました。古い戒めがキリストの贖いによって、新しい戒めになりました。もう、実行不可能な命令ではなく、私たちの内におられる神のいのち、聖霊がそのことを実行させてくださるのです。Ⅰヨハネ323「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」アーメン。ヨハネは数えきれない律法をたった2つにまとめました。第一は、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。第二は、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。この2つの命令こそが、新約の時代に住む私たちへの命令なのです。ハレルヤ!

 世の中にはたくさんの法律やきまりがあります。学校には校則、会社にはコンプライアンス、車を運転していると道路交通法、商売している人には商法があります。法律やきまりにがんじがらめになっています。それらは全部、外側から人間に与えている戒めです。残念ながら、効力がありません。なぜなら、生まれながらの人間には罪があり、律法を守れないからです。もちろん、人と争い、やがてそれが国家間の戦争にまで発展します。しかし、神さまのやり方はこの世の方法とは全く違います。私たちを聖霊によって生まれ変えさせ、平和の人、愛の人にするということです。神のいのち、聖霊は外側からではなく、私たちの内側に働き、内側からあふれてくるのです。平和のヘブライ語はシャロームです。これは戦争がないという単なる平和ではありません。神の力と生命にあふれた動的な状態を言います。子どもの頃、コマを回したことがあるでしょう。コマが高回転で回っています。じっとして止まっているように見えます。でも、それは力に満たされた状態です。これが平和です。イエス様が私たちに「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ59と言われました。これは私たちの中に既に「神との平和」が宿っているので、この世に向かって平和を作ることができるという意味です。私たちは神との平和を持っています。私たちは自分自身との平和を持っています。そして、私たちはこの世に向かって平和を作り出すことのできる神の子どもです。アーメン。

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2018年9月14日 (金)

知恵を求めよ Ⅰ列王記3:10-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.16

 知恵と知識は兄弟姉妹のような関係です。現代人は知識を求めます。クイズ番組でも知識の豊富な人が有利です。林先生もその一人でしょう。知識も必要ですが、知恵も必要です。いくら知識があっても、知恵がないなら、それを用いることができないからです。知識はいわば、建築資材のようなものです。いくら建築資材が山のように積まれていても、それが家になるわけではありません。箴言91「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据える」と書いてあります。私たちには知恵が必要です。神から知恵をいただくならば、複雑な世の中でも、平安で豊かな生活ができるでしょう。

1.ソロモンの知恵

 ダビデのあとを継いだソロモンが神である主から「あなたに何を与えようか。願え」と言われました。ソロモンは謙遜にも、「イスラエルの民をさばくために知恵をください」と求めました。彼の願いに対して、神さまは大変喜ばれました。普通の人なら、長寿とか富、あるいは敵のいのちを求めるからです。神さまは「わたしはあなたに知恵の心と判断する心を与える」と約束されました。そればかりか、ソロモンが願わなかった富と誉れも与えました。すばらしいことに、ソロモンはだれもがいただけなかったような崇高な知恵を神さまからいただきました。Ⅰ列王記をみると分かりますが、ソロモンはむずかしい問題を次々とさばきました。そして、海外と交易を行い、富と財宝がイスラエルに流れ込んできました。また、ソロモンは自然科学者であり、また文学者でもありました。それで、敵国でさえも、ソロモンの知恵を求めてやってきました。さらに、ソロモンはダビデが願っていた神殿をレバンノンの杉を用いて建造しました。また、ソロモンは13年かけて、まばゆいばかりの宮殿を建てました。神殿のときもそうでしたが、豪華で巧みな装飾がなされています。まさしく、「知恵が家を建てた」という感じがします。あるとき、シェバの女王が有力者たちを率いてエルサレムにやってきました。そして、心にあったすべてのことをソロモンに質問しました。ソロモンは、彼女のすべての質問を解き明かしてあげました。王がわからなくて、彼女に解き明かせなかったことは何1つありませんでした。女王はソロモンにこう言いした。Ⅰ列王記106-7「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。」

 残念ながら、ソロモンの人生の後半は良くありませんでした。外国の女性と結婚し、彼女らの神々に香をたき、いけにえをささげました。主はソロモンに怒りを発せられました。主が二度も彼に現れ、警告しましたが、従おうとはしませんでした。ソロモンの死後イスラエルは北と南に分裂しました。ヘブル人への手紙11章に信仰者の列伝が記してありますが、ソロモンの名前は出て来ません。でも、ソロモンは箴言、伝道者の書、雅歌を残しました。全部がソロモンの作ではないかもしれませんが、ソロモン自身の反省もその中に記されています。という意味では、私たちはソロモン自身とソロモンが書いた書物から、知恵の大切さを知り、それを神さまから求める必要があるのではないでしょうか?ビル・ジョンソンは少年のとき、神さまに1つの願いことをしたそうです。先生は「ソロモンのような知恵をください」と願いました。先生自身も高慢にならないように願いつつ、神さまが知恵を与えてくださったと証しています。どの本か忘れましたが、神からの知恵は、啓示ととても関係があると書いていました。啓示ということばは、「隠されていたものが露わにされる」という意味です。知恵も同じで、私たちの目から隠されています。でも、求めるならば、与えられます。ヤコブは「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ15と言いました。知識は一生懸命、努力して獲得するイメージがあります。一方、知恵は神さまが上から与えてくださる恵みのようなイメージがあります。ユダヤ人はとても頭が良いと言われています。彼らは世界の有数な銀行をいくつか支配して、経済を牛耳っています。その理由は小さいときから律法を学び、神さまに知恵を求めているからでしょう。私たち日本人はどの国の人たちよりも、頭が良くて勤勉だと言われています。でも、発想とか発明という点ではとても弱いです。改良して製品化するのは得意ですが、ないところから新しいものを作るという創造力がありません。やはり知恵の源であり、全宇宙を作られた神さまと関係を持っていないからだと思います。

 ソロモンは主なる神さまから知恵をいただきましたが、その知恵はどのように生かされたのでしょうか?簡単に列挙したいと思います。第一は裁判における知恵です。ふたりの女性が、「これはわが子です」と主張しました。ソロモンは「剣で生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい」と命じました。片方の女性は「決して殺さないでください。その子をあの女にあげてください」と言いました。他方は「断ち切ってください」と言いました。ソロモンは「生きている子どもを初めの女に与えなさい」と言いました。みんなソロモンの知恵に驚きました。日本は裁判が長くかかり過ぎます。第二は国の防備です。城壁と青銅のかんぬきを備えた町を作り、相応しい人たちを立て、馬と戦車を備えました。第三は、数えきれないほどの箴言と歌を作りました。第四は植物や生物を研究し、学術的にも成果をあげました。第五は建築です。すばらしい彫り物の施された神殿と宮殿を作りました。家具や調度品には金が貼り付けられていました。第六は交易です。ツロのヒラムがパートナでした。1年間にソロモンのところに入って来た金の重さは666タラント(約20トン)でした。「銀はソロモンの時代には、価値あるものとみなされていなかった」(Ⅰ列王記1021)と書かれています。結論ですが、もし、神さまからの知恵をいただいたならば、経済的な困窮はありえません。国も守られ、安心して暮らせます。科学や芸術も発展し、生活も豊かになるでしょう。日本は地下資源が乏しいと言われていますが、神さまからの知恵をいただくならば、豊かで安全な生活、間違いなしです。

2.知恵を求めよ

 箴言のほとんどがソロモンの作と言われています。箴言は「神からの知恵がどれだけすばらしいか」ということが記されています。しかも、知恵が擬人化されており、「私を探し求めなさい」と書かれています。箴言120-23「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。『わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。』」箴言51「わが子よ。私の知恵に心を留め、私の英知に耳を傾けよ。これは、分別を守り、あなたのくちびるが知識を保つためだ。他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。」おそらく、これはソロモン自身の反省を踏まえたものではないかと思います。「わが子よ」というのは箴言を読むであろう、後代の人たちのことではないでしょうか。ソロモンは神からのすばらしい知恵をいただいて頂点をきわめた人です。でも、他国の女性によって失敗しました。ですから、この箴言はソロモン自身の悔い改めと、私たち対する奨励と取ることができます。重要なことは私たちが、わきまえのない者にならないで、主の知恵に心を留めるということです。

 箴言を読んでみて分かる1つの特徴があります。それは知恵ある者と愚かな者、そして正しい者と悪者と2つに分けられているということです。私たちは日常、暮らしていて「そんなに極端に2つに分けていいのだろうか?」疑問を覚えるかもしれません。でも、箴言は痛快なくらい、2種類に分けています。おそらく、2者を並べることによって、コントラストを付けているのだと思います。それではイエス様を信じて救いを得ているクリスチャンがどうなのかということです。私たちが自動的に、「知恵ある者であり、正しい者になっているか?」ということです。もしかしたら、信仰があっても「愚かな者であり、悪者になってはいないだろうか?」ということです。一番の違いは、知恵を用いて生きているかということです。もし、信仰があっても、知恵を用いていないならば、愚かな生き方をしている可能性が出てくるということです。よく、「神さまが愛なのにどうしてこんなことが起こるのですか?」と文句を言う人がいます。あるいは、「一生懸命やったのに、どうして報いてくださらないのですか。私は何をやってもだめなんだ」と自己憐憫的な人もいます。極端なことを申しますと、神さまが愛であることと、知恵を用いて生活することとは違うと思います。私たちは、この世には法則があり、その法則に従わなければ、相応の結果を被るということを忘れてはいけません。神さまは英知を持って、この宇宙を造り、今もささえておられるお方です。もし、私たちが神さまの知恵をいただいて、その知恵を用いるならば、合法的に良い生活ができるのではないかと思います。私たちは知恵がないために、愚かな生き方をもしかしたらいているかもしれないということです。神さまが私を愛しているから、私は神さまを信じているから、すべてのものがうまくいくと考えるのは早計だと思います。

 神さまは私たちに知恵を働かせて生きるように願っておられるからです。たとえ神さまを信じていなくても、知恵を用いて、良い生活をしている人はたくさんいます。もちろん「良い生活」の定義もむずかしいですが、とにかく、恵まれた生活です。一般恩寵でも、ある程度の所まで行きます。なぜなら、神さまは私たちを知恵ある者として造られたからです。でも、ソロモンがそうであり、箴言もそうなのですが、神からの知恵は特別であり、大きな力があるということを知らなければなりません。私たちは信仰者として、神から知恵をいただいて、日常の生活で用いるべきだということです。なぜなら、せっかくクリスチャンになっても、神さまが願っている標準的な生活に達していない方もいらっしゃるからです。なぜなのか?それは、神からの知恵を用いていないからです。箴言には「家」とか「部屋」ということばが何回も出てきます。冒頭でも言いましたが、箴言91「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据える」、箴言141「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。」箴言243-4「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。」私は「家」とか「部屋」は生活とか人生を象徴しているのではないかと思います。簡単に言うと生活や人生は「その人次第である」ということです。神さまは私たちがどのように生きるのか任せておられます。家や部屋のように、ごちゃごちゃになったり、住みやすいものになったりします。私たちの周りにもごちゃごちゃな人生を送っている人もおれば、ぴしっと筋の通った麗しい人生を送っている人もいます。いろいろ理由や要因があると思いますが、「知恵」です。知恵が、家を建て、部屋を尊く、好ましい宝物で満たすことができるのです。もし、神からの知恵を用いるならば、もっと豊かで恵まれた生活を送ることができると信じます。

 なぜ、あなたの人生がごちゃごちゃで、破れた所や壊れた所があるのでしょうか?神さまは愛です。イエス様を信じる信仰があったとしても、自動的に生活が良くなるわけではありません。父なる神さまは、あなたに知恵を用いるように願っておられるのではないでしょうか?日本ではあまり分かりませんが、貧しい国に行くとそのことが良く分かります。インドなどでは汚い水を飲むので赤痢になって死ぬ人たちがたくさんいます。水を一度煮沸するか、井戸を掘れば良いのです。仏教の国が貧しいのは、この世の物質を神さまからの賜物として用いていないからです。イスラムの国が貧しいのは女性の身分を認めていないため、労働力が低いからです。南米は焼畑農業ではなく、耕作地を作って種を蒔けば良いのです。私たちは文化圏に住んでいるので、「彼らがこうすれば良いのに」ということがすぐわかります。でも、天の神さまが私たちをご覧になってどう思っておられるでしょうか?「私の名を信じているあなたがどうして地を這うような生活をしなければならないのだろうか?私の知恵を用いたならば、豊かで恵まれた生活が送れるのに。私は天国でだけではなく、地上でも豊かに恵んであげたいのに」と思っているでしょう。

3.キリストこそ知恵

 Ⅰコリント130「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」このところにすばらし約束があります。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となられた」と書かれています。パウロが言いたいことは、私たちはキリストのうちにあり、キリストも私たちの内にあるという真理です。クリスチャンはキリスト様が内に住んでいらっしゃいます。そのお方が、神の知恵そのものであるとしたらすばらしいではないでしょうか?でも、その前に、御子イエス・キリストがどういう意味で神の知恵なのか知らなければなりません。コロサイ1章には御子イエスさまが創造者であることが書かれています。コロサイ115-17「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」私たちは父なる神さまが創造主であることは知っていましたが、なんと御子イエスもそうであったということです。御子イエスはこの地上に来るまでにロゴスと呼ばれていました。ヨハネ11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」日本語のヨハネ福音書にはことばと書いてありますが、ギリシャ語は「ロゴス」であり、当時の世界では「宇宙を造った理性的な存在」と考えられていました。

 でも、その方が肉体をとってこの地上に来られました。なんと、私たちと同じ赤ん坊で生まれて、そこからスタートされました。ルカ252「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」と書いてあります。あのイエス様であっても、知恵が進む必要があったということです。進むとは「発展する」とか、「増し加わる」という意味です。そして、ルカ福音書には12歳のときの少年イエスについて書かれています。ヨセフとマリヤは少年イエスを連れて、エルサレムの祭りにのぼりました。その当時は、知人や親族でまとまって帰ってくるので、少年イエスがその中にいると思っていました。ルカ246-47「そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」なんと、12歳の少年イエスが律法の専門家たちと対等に渡り合っているではありませんか?「人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」と書いてあります。イエス様は30歳になってから、公生涯に入ります。町や村へ神の福音を宣べ伝えに行きました。ところが、イエス様の前には律法学者やパリサイ人たちがたちはだかりました。そして、イエス様を陥れるために、いろんな難問をふっかけました。でも、その都度、イエス様は持ち前の知恵によって、彼らをぎゃふんと言わせました。ある時、「税金をカイザルにおさめることは律法にかなっていることでしょうか?かなっていないことでしょうか」という質問を受けました。「納めよ」と言えば、イスラエルがローマに隷属していることを認めることになります。「納めるな」と言えば、カイザルに背く者として訴えられるでしょう。どっちに答えても不利になります。イエス様は彼らにデナリ銀貨を見せながら、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエス様を残して去って行きました。福音書にはイエス様が知恵にあふれたお方として書かれています。特に目に見えない天国のことを、たとえ話によって分かり訳く教えてくださいました。大学の教授は難しいことをより難しく教えますが、イエス様は難しいことを子どもでも分かるように教えてくださいました。なぜなら、神の知恵を持っておられたからです。

 問題はこれからです。イエス様が死んでよみがえり、天にお帰りになられました。イエス様が天に帰ったとき、神の知恵も一緒にいなくなってしまったのでしょうか?そうではありません。イエス様は聖霊によって、この地上に戻ってこられました。ですから、聖霊はキリストの御霊とも呼ばれています。キリストを信じる人の内に住んでくださる聖霊が、キリストの御霊なのです。さきほど、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となられた」(Ⅰコリント130と申し上げました。神の知恵を持っておられたイエス様が、私たちの内に住んでおられるということです。箴言において知恵が擬人化され、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげている」と書いてありました。まさしく、そのことがキリストによって成就し、今、神の知恵であるキリストが私たちの中に人格的に生きておられるのです。Ⅰコリント12章には御霊の賜物が列挙されています。Ⅰコリント128「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ」と書かれています。これは賜物としての知恵であり、ある人に与えられると書かれています。この意味は聖霊が「この人に専門的に与えよう」というふうに考えておられるということです。でも、それだけではありません。キリストのからだなる教会おいて、だれかに与えようかと、聖霊が待ち構えておられるということです。では、どういう人に与えられるのでしょうか?知恵を求める人です。神からの知恵を用いたいと願っている人です。聖霊の賜物は飢え渇いている人に与えられます。「もう、結構です。間に合っています」という人には与えられません。私たちが自分の知恵に乏しいことを知り、へりくだって聖霊様に「あなたの知恵をください」と求めるなら、即、与えられます。向こうは知恵にあふれていますので、神の子らに与えたくてしょうがないのです。私もクリスチャンになる前は、「ヤコブのように悪知恵を用いて人を出し抜いてでも偉くなりたい」と思っていました。でも、今は「確かに聖霊様は知恵を下さる。アーメン」と心から言えるようになりました。その知恵は悪知恵ではなく、人を生かし、人を建て上げる神の知恵です。あなたにも神からの知恵が与えられます。なぜなら、神の知恵であられるイエス様があなたの内に住んでおられるからです。あなたの内におられるお方が、あなたに知恵をあげたいと強く願っておられます。

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2018年9月 8日 (土)

人生の優先順位 マタイ6:31-34 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.9

 きょうは「人生の優先順位」と題して、聖書から共に学びたいと思います。優先順位は英語で、the order of priorityと言いますが、orderは事物、価値などの「順序、順位、序列」という意味です。また、priorityは「優先事項、順位がより重要であること」という意味です。ものごとの優先順位をさすことばとして、priorityはビジネス用語になっているようです。優先順位ができていない人は、常に忙しく、何かに追い立てられて生きている人です。自分が環境の主人ではなく、奴隷であります。「だって、忙しいんだもの」と常に言っている人は、必要でないけど緊急なことに支配されている人たちです。では、どうしたら自分が環境の主人になり、順位がすっきりした生き方ができるのでしょうか?

1.神の国とその義

 マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」このところに「だから」と書いてあります。「だから」というのは一体、どの部分から帰結したものなのでしょうか?このみことばの前に、25節にも、31節にも「何を食べるか」「何を飲むか」「何を着るか」という心配ごとが記されています。そして、32節「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」「だから…」と続いています。異邦人というのは、神を信じないユダヤ人以外の人を指すことばであり、少々、軽蔑的な言い方です。そういう意味では、私たち日本人も異邦人であります。異邦人の特徴とは何でしょう?「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」、いつも心配している人たちのことです。「心配する」はギリシャ語で「思いわずらう」という意味もあります。テレビのコマーシャルを見ると、そのほとんどが衣食住のテーマを扱っています。最近は人々が食べ過ぎて、ダイエット製品が良く売れています。着る物がないのではなく、流行を追いかけており、ダサくないものを着ることを求めています。土日、近くのショッピングモールに立ち寄る時があります。「こんだけ集まって、何が面白いんだろう。他に行くところがないのか?」と思うときがあります。日本人の関心事は、神の国とその義とではなく、この世の事柄であります。

 この世そのものは罪ではありません。かつて禁欲的なピューリタン信仰が日本の教会に入ってきました。装飾品を身に着けたり、お化粧したらダメと言われました。映画もダメ、ダンスもダメ、ドラムやギターもダメみたいに言われました。それは、この世のものが罪であると考えたからです。正確にはこの世のものは罪ではありません。私たちはこの世の中に生きていますので、この世から抜け出すことはできません。この世のものを正しく用いるならば便利で快適でしょう。ただし、この世のものは私たちを占有し、神の国から遠ざける力があるということを忘れてはいけません。本来、私たちの心は神の国とその義によって、占領されるべきです。そうすれば、すべてのものが与えられることが分かり、心配する必要がなくなります。でも、日本人は、創造者なる神さまとそのお方が私たちの父であることが分かりません。日本人ほど勤勉で真面目な国民は他にいないでしょう。でも、日本人ほど心配し、思いわずらっている国民も他にいないでしょう?ある医師は5人に1人は一生の間に何らかの精神疾患にかかる」と言っています。あるデーターによると、10人に1人は、うつと戦いながら、なんとか生きているということです。「これだけ物質的に豊かな国なのに、どうしてなんだろう?」と思います。日本人は創造者なる神さまとそのお方が私たちの父であることが分かりません。私はそのことが原因であると確信しています。もし、全知全能の神さまが私たちのお父さんだとしたら、必要と守りが与えられます。もし、そのような神さまがいなかったなら、自分で一生懸命働き、自分のことを自分で守るしかないでしょう。でも、いつ病気になって倒れるかわかりません。いつリストラされて、生活できなくなるか心配です。「ああ、私は負け組じゃないだろうか?」とまで思ってしまいます。私もかつて建設会社をやめて数か月、失業していた時がありました。レストランで楽しく食事をしている光景を見て、別世界の人たちのように見えました。ルカ15章に放蕩息子の物語がありますが、そのまんまでした。何のために生きるか分からないので、ただ生き延びるための人生でした。

 現代はあまりにも複雑化しています。教育も複雑、社会構造も複雑、人間関係も複雑です。でも、イエス様はシンプルに生きることを勧めています。マタイ626「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」ここで言われている鳥はすずめなのでしょうか?あるいはカラスなのでしょうか?どちらにして彼らはすごいなーと思います。田舎でも、都会でも関係がありません。ちゃんとエサを見つけて生活しています。でも、イエス様は「天の父がこれを養っていてくださるのです」とおっしゃっています。さらにイエス様は「野のゆりのことを考えなさい」とも言われました。野のゆりは、人間のように「働きもせず、紡ぎもしません」。空の鳥もそうですが、「人間のようにあくせく働いていなくてもちゃんと生きているよ」ということです。彼ら自身は自覚していないと思いますが、天の父が彼らを養っておられるということです。イエス様は「ましてあなたがたに、よくして下さらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」とおっしゃっています。このところから、父なる神さまが私たちを養っていて下さるという信仰が必要だということがわかります。空の鳥や野のゆりは、信仰がなくても生きているようですが、人間は信仰が必要だということです。では、その信仰は一体、どこからやってくるのでしょうか?

 やっと戻ってきました。マタイ6:33 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」だから、という以下のことばは、すべてが与えられることの条件です。これを第一に求めるなら、父なる神さまがちゃんと与えてくださるという保証でもあります。私たちの人生における優先順位の総括とは、このマタイ633節です。異邦人である私たちは、心配や思いわずらいから解放されるために、人生で何が最も重要なのか知らなければなりません。ここでは2つのことがらがくっついています。その2つは「神の国」と「神の義」であります。では、神の国を求めるとはどういうことなのでしょうか?「神の国」はギリシャ語で「神の王的な支配、統治」と言う意味です。神の国では神さまが王様です。もし、私たちが神の王国の住民になりたいと思うなら、この方を王様として心にお迎えし、この方に従わなければなりません。簡単にいうと、神さまに従い、神さまのお世話になるということです。残念ながら、生まれつきの私たちは神の存在を認めないし、むしろ逆らっています。イエス様は「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、change of mind向きを変えるということです。そして、キリストが十字架でなされた贖いを信じるということです。そうすれば、罪赦され、神の国に入り、神の国の住民になることができます。その結果、王なる神さまは私たち臣民を守り、必要を与えてくださいます。「神さまからすべての必要が与えられるので、心配することはない」ということになります。もう1つの課題は「神の義を求める」ということです。これは神さまが正しいとされることを、この世にあっても求めるということです。この世は神さまに反逆し、神さまなしの世界です。このような世界の中で、神さまが正しいとされることを求めることは並大抵ではありません。パウロはローマ12章で「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」と言いました。神の義というのは「神のみこころであり、神に受け入れられるものです」。

 鳥や花は、私たちのような意志や考えがありません。私たちは神のかたちに似せて造られたので自由意志があります。本来、自由意志は神さまに喜んで従うためにありました。しかし、アダムが罪を犯してから、「私は信じない」「私は従わない」という間違った方に自由意志を用いるようになったのです。神さまは私たちが自由意志をもって、神の国とその義とをまず第一に求めることを願っておられます。鳥や花はいくらがんばっても、神さまの子どもにはなれません。私たちはキリストにあって、神の子どもという身分が回復されました。神さまが父であるならば、子である私たちを心から面倒見たいと思うのは当然でしょう。私には4人のこどもがあります。私はとても貧しい家で育ったので、生き延びることがテーマでした。でも、キリストの神さまを信じてから、父の心が与えられました。「どうやって4人のこどもたちの学費を賄うことができるのか?」心配したときもありました。そのとき、このように思いました。「私の父は、天の神さまである。そうしたら、4人のこどもたちは、天の神さまにとっては孫である。孫をかわいがらないおじいちゃんはいない。」厳しい時期も何度か通りましたが、神の国とその義とをまず第一に求めたら、何とかなるという体験を通した信仰が与えられました。なまじっか私たちには考えがあるので、心配します。でも、私たちは空の鳥や野のゆりのことを考えて、彼らがどのように養われているか知るべきです。まして、天の父が私たちに良くして下さらないわけがありましょうか。

2.人生の優先順位

 後半は私たちの人生においてどのようなことに対して、優先順位を決めるべきか具体的にとりあげたいと思います。人生の優先順位、特に3つのことがらを上げて考えてみたいと思います。第一は時間です。パウロはエペソ5章で「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」と言いました。機会はギリシャ語でカイロスですから、「特別な時」という意味です。英語のほとんどの聖書はtimeと訳しています。ですから、今回は「時間の使い方」というふうに解釈したいと思います。神さまは平等にすべての人に124時間、86,400秒を与えました。時間は銀行に振り込まれるお金のようなものです。もし、1日毎に自分の口座に86,400円が振り込まれたらあなたはどう使うでしょうか?時間というお金はきょう使い切らなければなりません。残念ですが、明日のために貯めておくことができません。明日にはまた新たに86,400円が振り込まれます。もし、このように時間を考えるなら、「時間をつぶす」なんていう考えは生まれて来ないでしょう。なぜなら「お金をつぶす」のと同じだからです。あなたは、与えられた86,400円という時間を正しく、活かして用いなければなりません。ある人は、いつも何かに振り回されて忙しくしています。なぜでしょう?その人は時間の優先順位のない人です。もし、あなたが時間に対して優先順位をたてていないなら、あなたの空いている時間を人が使うでしょう。あなたは人から「…してください」と頼まれたら断れないタイプでしょうか?もし、あなたが時間に対して優先順位を持っているなら、あなたが時間の主人ということになります。もし、他の人が急に「…してください」と頼んでも、「いえ、今は手がふさがっています。この時間なら大丈夫です」と言うことができるでしょう。

 では、神の国とその義を第一に求める時間の使い方というのはどのようなものなのでしょうか?実はこのみことばの前に、「主の祈り」がありました。これはイエス様が「このように祈りなさいよ」と弟子たちに教えた祈りです。ということは、主の祈りこそが、優先順位のヒントになるということではないでしょうか?マタイ69「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」。この祈りは、私たちの必要ではなく、神さまの必要が満たされるための祈りです。神さまは「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」ということを願っているということです。これは言い換えると、「神さまが礼拝され、神さまの支配がこの地に来るように」と言う願いです。ということは、私たちの一日、一週間、一年において、神さまを礼拝すること、神さまの支配がくるような時間をささげる必要があるということです。旧約聖書では安息日の他に、たくさんの行事があり、一週間も聖なる日が続くことがありました。ダビデやイエス様は朝早く、父なる神さまと交わっていました。私たちはユダヤ人ではありませんから安息日という考えはありません。日曜日が聖日であり、安息日に代わるものであるという論法は後の教会が決めたものです。私たちは聖書的な根拠がどうであれ、神さまを礼拝する時間を聖別する必要があります。そして、時間の使い方に対して、優先順位を持つということを決めたらいかがでしょうか?毎日の日課、一週間の予定、一か月と予定を組むと、だらだらと時間を過ごすことが少なくなります。

第二はお金です。家庭での大きな問題は浪費ではないでしょうか?ギャンブル依存はダメですが、欲しいものを買い過ぎて、借金で首が回らなくなるケースもあります。テレビで、ある人が「必要なものと欲しいものの比率は73にすべきだ」と言っていました。いわゆる浪費癖がある場合は、特にお金の優先順位を身に着けるべきでしょう。こういう私も、お金の管理は得意な方ではありません。私が気を付けるべきものはアマゾンです。ポチと押すと、すぐ届きます。後から、クレジットの支払が「どーん」とやってきます。エディ・レオ牧師がsign and wonderということを言ったことがあります。sign and wonderは本来、聖書の奇跡を意味することばです。しかし、エディ先生の奥さんはとても買い物好きです。あっちの店でサインします。こっちの店でサインします。あとでクレジットの支払を見て、エディ先生が「ワンダー」と目を丸くして驚きます。近年、若者の間で、クレジットによるカード破産というのがとても多いようです。「カードで買うとポイントも貯まるし、得だ」と考えますが、現金が見えないので落とし穴になります。

私たちは金銭の優先順位を体得する必要があります。お金はマモンと言われ、使い方を間違えると怪物のようになります。私たちがお金の主人であり、お金が私たちの召使であるべきです。エディ・レオ牧師がそのためには、十分の一献金がすばらしい方法であると教えておられます。聖書で十分の一の記載の最初は、アブラハムがメルキゼデクにささげたことです。彼は戦利品の中から十分の一を捧げました。旧約聖書マラキ310「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ。こうして私をためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―私があなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかためしてみよ」と書かれています。本来、私たちは神さまをためしてはいけません。ところが、この箇所だけに、「私をためしてみよ」と書かれています。つまり、「十分の一を捧げて私が本当に祝福しないかどうか試してみよ」ということです。ということは実際にやってみた人でないと分からないということです。さらにマラキ311「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。」と書いてあります。これはどういうことかと言うと、十分の一を捧げることは、畑の周りに柵を設けることになります。その柵があるので、他の動物があなたの畑に入って、産物を食い荒らさないということです。旧約聖書には「あなたの初なりを宮に持ってきなさい」ということばもあります。ですから、捧げるための極意は、給与をもらったときにすぐに献金として分けるべきです。使った後、余ったら捧げるとなると決して成功しません。お金に対する優先順位を身に着ける一番の方法は、十分の一献金です。くれぐれも、これはやった人でなければ分かりません。信仰の先輩たちに聞くと、「本当にそうだったよ」と顔を輝かせて答えてくれるでしょう。

第三は力です。力とは私たちの体力、知力、能力、技術力と言えるでしょう。力に対する優先順位というのがあるのでしょうか?前のメッセージで伝道者の書から「すべてには季節seasonがある」とお話ししたことがあります。若い時は体力だけではなく、記憶力や想像力もすぐれています。ですから、ゲームや遊びはほどほどにして、勉強やスポーツに励むべきです。そういう意味では学校教育はいじめがなければ良いところです。若さはいつまでもあるわけではないので、将来のために投資することが大切です。また、仕事や立場によって本分というのがあります。職業によって、自分にとって最優先すべきものは何なのか、そこにエネルギーを注ぐべきです。どうでも良いことにエネルギーを裂いてはいけません。「人助け」と称して、よく人のおせっかいばかりしている人がいますが、自分の責任をまず果たすべきです。子育てのときは、子どもに本当にエネルギーを取られます。でも、これも子どもの将来のための愛の投資です。今どき、「この子が親孝行してくれるか?」などと考える親はいないでしょう。ある人が「子どもは三歳まで、十分親孝行してくれた」と言いました。年を取れば、だんだん体力と記憶力が衰えてきます。若い頃のように無理がききません。でもこの時期には、洞察力、管理能力、総合的な判断が最高潮の時です。また、次の世代にこれまで培ってきたノウハウを伝える重要な役目もあります。ちなみに老後にゆっくり旅行に行こうなんて無理です。まだ、足腰がきくころに出かけるべきです。このように人生の各ステージにおいて、優先順位が違ってきます。でも、体力、知力、能力、すべてのことに言えることですが、学ぶ時間、鍛える時間を常に取らないと、衰えていくばかりです。神のご栄光のために、一生勉強、一生研究、一生訓練することが必要です。

もし、あなたが「人生の成功の秘訣は何ですか?」と答えたら何と答えるでしょう?もし、あなたが死ぬ前に、子どもに「このことが一番、大事なことだよ」と伝えたいことは何でしょう?あるパン屋さんが、死ぬ前に息子を呼んでこう言ったそうです。「サンドイッチのハムは薄く切ろよー」。何かさみしいですね。私だったら「人生で大事なのは優先順位だよー」と言いたいです。その時、添えたいみことばはマタイ633節です。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」私は親が子どもに残せる最大の遺産は信仰だと思います。信仰の極致は、滅びないで永遠のいのちを持つと言うことです。永遠のいのちを持っていたら、地上の人生はおまけみたいなものです。でも、その子がひとり立ちして生きるためにも信仰が必要です。いつまでも、親が一緒にいて助けることはできません。でも、人生のすばらしい秘訣があります。それは人生の成功の秘訣でもあります。たとえ、子どもに遺産を残せなくても、人生の優先順位における信仰を与えることができたら大丈夫です。最後にリビング・バイブルでマタイ633-34節をお読み致します。「神様を第一とし、神様が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものはすべて、神様が与えて下さいます。明日のことを心配するのはやめなさい。神様は明日のことも心にかけて下さるのだから、一日一日を力いっぱい生き抜きなさい。」

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2018年8月31日 (金)

機会を逃さない 伝道者の書9:11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.9.2

 私たちは日常生活において「チャンスをつかんだとか、逃した」とか言います。「聖書にそういう表現があるのだろうか?」と思うかもしれませんが、あります。でも、この世の人たちが考えるような、無情で気まぐれな存在ではありません。もし、私たちがチャンスに対して、日ごろから正しい姿勢を持っているなら、つかまえることができるでしょう。箴言に「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。」(箴言1924とあります。チャンスもそれと同じで、なまけ者でない限りは、だれでもつかめるようになっているのです。

1.時と機会

 時と機会は神さまからの賜物です。伝道者911後半に「すべての人が時と機会に出会うからだ」と書いてあるからです。すばらしいことに、神さまはすべての人に時と機会を与えておられます。伝道者の書には「時と機会をつかむことが何よりも勝る」と書いてあります。第一は競争です。私たちは、競争は足の早い人が勝つに決まっていると思っています。人ではなく、馬にたとえてみましょう。私は競馬はやりませんが、レースの前に人々が「この馬が勝つんじゃないだろうか」と予想して賭けます。一番人気とか、二番人気があります。もちろん血筋が良くて、実力のある馬が勝つ確率は大です。でも、実際のレースはどうなるか分かりません。馬場の状況とか、コース取りで、予想外の馬が一着になったりします。「勝負は時の運」と言います。でも、騎手は「馬の特質を知って、ここぞという時にしかけたら勝てた」と言うでしょう。第二は戦いです。旧約聖書には、勇士たちが登場しますが、意外な人が勝ったりします。少年ダビデは3メートルもある戦士ゴリアテに勝利しました。一番弱い部族の一人と言われたギデオンがアマレクに勝利しました。主が彼らと共にいたので、勝利する道を与えました。第三はパンです。パンは生きる糧であり、生活必需品の代表です。パンを得るためには知恵も必要ですが、時と機会に出会った人の方が有利です。Ⅱ列王記7章には、お腹を空かした4人のらい病人が出てきます。彼らは「どうせ、ここに座っていても死ぬんだから」とアラムの陣営に近づきました。主がアラムに戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、兵士はいのちからがら逃げ去りました。だれもいないので、彼ら4人は労せずして、たらふく食べたり飲んだりすることができました。さらには、富は悟りある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでないと続きます。まとめると、競争、戦い、パン、富、愛顧は時と機会に出会うことの方が、能力のすぐれた人たちよりもまさるということでした。

 神さまはすべての人に、時と機会を与えておられます。問題は、私たちがそれを捕まえて、活かすことができるかということです。なまけ者のように、ただ口を開けて待っているだけではダメです。皿にもられたなら、口にもっていかなければなりません。私は8人兄弟の7番目だったので、ゆっくり食べられませんでした。すぐ上の兄は体力と運動神経が抜群で、いっぱい食べます。ぼやっとしていると、自分の分がなくなります。だから、噛まないうちに、他のおかずを口に入れます。そこへ行くと、長男や一人っ子は、のんびりしています。自分の分がちゃんとあるのであわてることがありません。私はとてもせっかちです。一番良いときにつかめば良いのですが、まだ早いのに、手を出して失敗します。最善の時を待つことができません。なぜなら、「そういうことは、もう二度と来ないんじゃないか?」と言う焦りがあるからです。後から「ああ、もうちょっと待っていれば良かった。チックショウ!」と後悔します。昔、テレビで「底抜け脱線ゲーム」というのがありました。先端に針がついている模型の列車が円形の線路をぐるぐる走っています。そして、線路の途中に風船が1個置いてあります。プレイヤーは離れたところでパズルを解くのですが、列車が通過する前に風船を持ち上げなければ、風船が割れてしまい、ゲームオーバーになります。ずーと、そこで風船の番をしているなら、パズルは解けません。列車が来ない、わずかな間に、そこを離れて作業しなければなりません。そのゲームは、集中力とタイミングの勝負でした。私はハラハラ、ドキドキしながら見ていました。私たちの人生においても、良い時と良い機会に出会ったときに、全力を注がなければなりません。

 神さまはだれにも時と機会を与えてくださいます。「だれにでも」ですから、神さまの一般恩寵と言えるでしょう。日本では豊臣秀吉、徳川家康、二宮尊徳、野口英雄、田中角栄などが、時と機会をつかんで出世した人と考えられています。海外では、コロンブス、ロックフェラー、オードリー・ヘップバーン、ビートルズでしょうか?もっと相応しい人がいるでしょうが、私の偏見が入っていました。アメリカ西部のテキサス州にエイツプールという油田があります。これは実際にあった話です。本来ここは、エイツという人の所有地でした。エイツという人は貧しい人で、国から生活保護を受けていました。毎日のように彼は羊の世話をしながら、どうしたら借金を返すことができるかと考えていました。そんなある日、石油会社の専門家がその辺りを地質調査したところ、必ずここには油田があると告げました。その会社が油田の試掘を求めた時、彼は試掘に同意しました。結果、地下1,115フィートから毎日16万バレルもの石油が湧き出ました。30年後、政府がその中の1つを調べたところ、まだ毎日125千バレルもの石油が湧き出ていたそうです。彼はもちろん億万長者になりました。国からも多くの賞をいただき、多くの良い働きをしました。実は、エイツは初めからこの土地を全て所有していました。その牧場を買ったときから、彼は全てを所有していたのです。では、なぜ彼は貧しくて、不幸で力のない生活をしなければならなかったのでしょう。それは彼がその事実を知らなかった事と、無限の油田を発掘しなかったからです。彼がチャンスをつかんだのは、油田の試掘に同意したことです。

アンドリュー・カーネギーのことばです。「チャンスに出会わない人間は一人もいない。それをチャンスにできなかっただけである。」サーファーたちから学ぶことがあります。私たちはリバイバルの波を起こすことはできません。波を起こしてくださるのは神さまだけです。私たちができることはその波をとらえ、できるだけ長く波に乗り続けていることです。波が来たら乗るのです。

2.投資の勧め

投資といっても、株を買うということではありません。投資は英語で、investmentですが、「時間や精力などを投じる」という意味もあります。私たちはどれが一番良い時なのか人間なのでわかりません。重要なのは、チャンスが来たとき、つかまえる力がなければなりません。広島の植竹牧師は「チャンスの神さまはキューピーちゃんのようである」と言われました。キューピーちゃんはご存じのとおり素っ裸の赤ん坊です。そして、前髪がちょっとだけついています。チャンスの神さまキューピーちゃんが向こうから走ってきました。とても速いスピードで、目の前を通過していきます。「今だ」と思って、つかまえようとするのですが、少しでも遅いと「つるん」とすべってしまいます。キューピーちゃんは何も着ていないからです。タイミングが重要です。向こうから来たなと分かったなら、「きゅっ」と前髪をつかまえるのです。そうすれば、チャンスをものにすることができます。タイミングとつかまえる力が要求されます。広島の植竹牧師のお嬢さんは、高校生の時からパイプ・オルガンを弾いていました。ある時、ヨーロッパから有名なオルガニストが広島の町に来たそうです。詳しいことは忘れましたが、その方との出会いによって、ヨーロッパに留学できたそうです。プロフィールによると、エリザベト音楽大学、ドイツ・ウエストフアーレン州立教会音楽大学、オーストリア・ウィーン国立音楽大学の各校を卒業されました。現在は広島キリスト教会の主任牧師、教会音楽師です。彼女はある程度の実力があったので、みそめられたのです。しかし、チャンスを与えたのは神さまです。Orchestrateということばの意味をご存じでしょうか?いわゆる音楽のオーケストラの動詞形です。Orchestrateは「ひそかに計画する、画策する」という意味です。全能なる神さまがチャンスがめぐって来るように、配剤しておられるとは何とすばらしいことでしょう。

伝道者の書を書いた人はイスラエルのソロモン王であると言われています。ソロモンは交易によって国を繁栄させました。彼はツロの王ヒラムとパートナーを組みました。ツロは小さな海洋都市でありながらも、巨大な富による繁栄を誇っていました。 ツロと組んでシドン、西のタルシシュ、南のエジプトを初めとする諸国と通商関係を結び、原料を輸入してはそれを加工して製品化してそれを輸出しました。特に、陶器、銀細工は優れていました。ヒラムは優れた杉材を神殿や王宮の建築材として提供してくれました。ソロモンの投資の精神をほうふつさせるようなみことばがあります。伝道者の書11章です。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(伝道者の書111-6)。

 この箇所は、どのようにしてチャンス(好機)を捕えたら良いのか私たち教えてくれます。「あなたのパンを水の上に投げよ、ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」というのはまさしく投資です。これは1つの説です。ナイル川が氾濫すると、上流から肥沃な土が運ばれてきます。水がまだひき切っていない内に種を蒔くのが良いそうです。でも、さながら、水の上に投げるような危ない行為です。もしかしたら、種が流されてしまうかもしれません。でも、後の日にすばらしい収穫を得るための投資であります。また「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」と書いてあります。これは、慎重し過ぎる人のことを言っています。株をやっている人はしょっちゅうグラフを見ています。おそらく、プロの人はデーターがどうのこうのではなく、最後は自分の感を信じているのではないでしょうか。最後の「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」というのは白いですね。競馬で言うと、「抑え馬券」でしょうか?もし、本命が来ない場合の抑えです。しかし、専門家に言わせると、「これは絶対やってはいけない」ということです。でも、伝道者の書の記者は、1回だけでなく、複数回、いろいろ投資しなさい。「あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」と言っています。ギャンブルのことを教えているのでないでしょう。私たちの力の向け方、力の注ぎ方であります。

 成功している人は、自分の専門だけではなく、まったく別なことも手掛けています。Ⅹジャパンのヨシキは、アメリカで音楽活動をしていますが、オリジナル・ワインも作っています。しかし、芸能人は慣れないことをやって失敗しているのも事実です。テレビのコマーシャルでよく見ますが、「サントリー」とか「味の素」など全く別なものを作っています。何かを作っている過程で、副産物を発見し、それが当たる場合もあるようです。私たちの人生、信仰生活にどのように適用できるのでしょうか?私たちのほとんどは、仕事をして糧を得ています。それは、職業といえるでしょう。では、神さまに対する奉仕はどうでしょうか?教会内ですることもあるし、世の中に出て行くこともあります。ほとんどがお金が目的ではなく、神さまと人々に対する奉仕です。でも、これは御国の投資と考えることはできないでしょうか?もし、糧を得るための仕事しかしないのなら、多くの賜物や才能が埋もれたままになるでしょう。神さまはどんな人にも時と機会、さらには成し得る賜物や才能も与えておられます。聖書にタラントのたとえがありますが、5タラントと2タラントを預けられたしもべはすぐに行って商売をして、もうけました。1タラントのしもべは地を掘って隠したので、あとから主人にしこたま怒られました。私たちは神さまから与えられたものを用いなければなりません。私たちが行ったこと、ささげたものが、御国へのすばらしい投資であると考えるべきです。天国投資ですから、いずれは私たちのものになります。

3.機会を生かして用いる

新約聖書にも伝道者の書と似たような聖句があります。エペソ5:15-16「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」日本語の「機会」はギリシャ語では、カイロスです。時間の流れを表わすことばはクロノスですが、カイロスはそうではありません。辞書には「ちょうど良い時、都合の良い時、適当な時、好機、機会」と書いてありました。おそらく、カイロスは伝道者の書がいう「時と機会」ではないかと思います。しかし、テサロニケ5章を見ると、とても面白い表現に遭遇します。日本語聖書は「機会を十分に生かして用いなさい」と書いてあります。「アーメン、もっともなことだなー」と思います。でも、原文はいささか違います。なんと「機会を贖いなさい」と書かれています。贖うとは、お金を出して買い戻すと言う意味です。イエス様が私たちを罪から贖ってくださったことばと同じです。おそらく、これを書いたパウロは、「機会というのはそれほど価値があるものであり、ただじゃないんだ」と言いたいのでしょう。確かに、一度過ぎ去った機会を取り返すというのは、不可能です。だから、「お金を出してでも、買い戻しなさい」というのも分かります。使徒パウロの生涯を考えるとき、パウロは機会を逃したこともあれば、しっかりつかんだことのもある人物でしょう。パウロが小アジアに伝道に行こうとしたとき、御霊によって禁じられました。伝道はイエス様の至上命令であり、おかしなことです。ある夜、パウロは幻を見ました。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願していました。現代、自分が属している教団にこんなことを言ったら、気がおかしいと相手にされないでしょう。ところが、使徒1610「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」ここから、ヨーロッパ伝道がはじまったのです。パウロは機会を逃さないで、ヨーロッパに渡り伝道しに行きました。

機会はお金で買い戻さなければならないくらい、貴重なものだということです。でも、良い機会を捕えることを邪魔するものがあります。パウロは「悪い時代だから」と言っています。時代は、「日々」daysです。これは、神さまから離れている人たちの生活ぶりを表現していることばです。この世の人たちは、時間と富を浪費しています。神さまから与えられているなどとは全く考えていません。ルカ15章の放蕩息子のような生き方をしています。放蕩息子は、父親の財産、若さを浪費していました。その国に大飢饉が襲い、食べるものにも困り、最後は豚の世話をしました。豚はユダヤ人にとっては汚れた動物でした。彼はいわば身を持ち崩した人物の象徴です。まさしく現代の若者たちは、放蕩息子のように過ごしているのではないでしょうか?伝道者の書11章に「若さも、青春も、むなしい」と書かれています。何か言ったら、「構わないでくれ!私の人生だから」と文句を言われるでしょう。年取ってからやっと気づくのです。私が建設会社で仕事をしていた頃です。現場の先輩たちは、仕事が終わると飲みにいくか、麻雀をするかどちらかでした。みんな一流の大学を出ている人たちで、「もう勉強なんかしなくて良い」と思っていたのでしょう。私も多少遊びましたが、コツコツと英語を勉強していました。何故、私が英語を勉強したか2つの理由があります。1つは先輩の一人が軍事マニアでした。彼が新しい英語の辞書を買ったので、一版古い研究社の辞書を半額で譲ってくれました。私はそれを用いて、ラジオ英会話のテキストを買って勉強しました。もう1つは宇都宮に出かけたとき、キャッチに会い20数万円のカセットテープ付の英語教材を買ってしまったことです。あの頃から、断れない性分だったんですね。それで、元を取るためにコツコツと勉強しました。いずれは、土木現場をやめて、英語事務か通訳の仕事をしたいと思っていました。23歳のときに退職し、厚木の小さな貿易会社に入ることができました。その会社の上司がクリスチャンで、伝道されて、やがては牧師になりました。現在英語の仕事はしていませんが、とても役立っています。私の運命を変えたのは、英語の辞書であり、小さな貿易会社への転職でした。今、思えば、神さまのOrchestrateであり、「私は時と機会を捕えることができたんだなー」と思います。

 みなさんの中にも、「あのときが私の転機であった」ということがあると思います。「うまくいった」と感謝することあれば、「ああ、しくじったなー」と後悔することもあるでしょう。確かに、ワンチャンスしかないときもあります。でも、私たちの神さまはOrchestrateの神さまですから、「遅すぎる」ということはありません。なぜなら、まだ天国に召されていないからです。まだ、生きているのですからチャンスは巡ってくると信じます。確かに、一度過ぎ去った機会を取り返すというのは難しいでしょう。でも、放蕩息子のたとえには続きがあります。彼が我に返って、父のところに戻りました。なんと、父は彼を無条件に受け入れてくれたではありませんか。父は息子に、一番良い着物を着せ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせてくれました。これら3つは、義の衣、息子としての権威、もう奴隷ではないということを象徴しています。私たちの神さまは回復の神さまです。柏に「人生やりなおし道場」という名前の教会があります。これはもとヤクザの鈴木啓之先生が牧会している教会です。ある人が、「土地と建物を伝道のために使ってください」と捧げてくれたそうです。その人は、御国のために投資してくださったんですね。私たちの神さまは、時と機会を買い戻してくださる神さまです。だから、ワンチャンスだけではなく、セカンドチャンス、サードチャンスも与えてくださいます。よく芸能人が再起不能なようなスキャンダルを起こして消えて行きます。もちろん戻って来る人もいますが、ああいう人たちは、イメージが勝負なので、元通りと言う訳にはいかないでしょう。極論ではありますが、もし、彼らが救い主イエス・キリストに出会ったなら、元を取れるのではないかと思います。スキャンダルを起こしたお蔭で、イエス様に出会って永遠を手に入れたら勝ち得て余りある人生ではないでしょうか?私たちクリスチャンもこの世において、「まずいこともあったなー」と顔を赤らめることが1つや2つはあるでしょう。でも、イエス様と出会って、永遠を手に入れたのですから、勝ち得て余りある人生です。あのようなマイナスがあって、むしろ良かったのです。

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2018年8月25日 (土)

人生の季節 伝道者の書3:1-8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.26

 日本語の聖書は「天の下では、何事でも定まった時期がある」と書いています。英語の詳訳聖書はThere is a seasonとはじまります。seasonの方が、ロマンがあって良さそうな感じがします。スイスの精神科医、ポール・トゥルニエが『人生の四季』という本を書きました。私は人生を4つではなく、5つ分けて考えてみました。テレビの放送大学で「発達心理」を、ちょっと見ましたが「つまんないなー」と思いました。メリハリがなく、暗くて聞かせようという努力が見えません。あの人たちは笑点を見て、少し勉強したら良いのではないかと思いました。

1.幼児期

 幼児期はゼロ歳からと言われていますが、本当は胎内にいるときから始まります。近年、胎教ということが言われますが、胎児はどうも聞いているらしいのです。結婚をしていない女性が「生むべきか」「生まないべきか」と悩んでいる不安感が、胎児に伝わったらどうでしょうか?人生の初めから「私には価値がない」「私は不適切である」というレッテルを貼られて生まれるようなものです。救世軍の創設者にウィリアム・ブースという有名な人がいます。彼のお母さんがおなかの子に「ビル。世界がお前を待っている」と声をかけたそうです。すごいですね。スタートの地点から違います。私は8人兄弟の7番目で生まれ、おまけみたいな存在でした。私は小さい時から眉間にしわがありました。家内は「神経質に見えるから伸ばしなさい」と注意してくれました。4番目の子どもが生まれ、産院に面会に行きました。なんと、赤ちゃんの眉間にしわがありました。その時、「よく、生まれて来たね!」と言って喜びました。それは赤ちゃんに言ったことも確かですが、自分にも言ったことばでした。詩篇139篇には「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇13916と書いてあります。なんと母子手帳はお母さんが書く前から、創造主なる神さまが書いておられました。

 幼児期に一番必要なのは「基本的信頼感」です。自分は愛されている、受け入れられているという安心感です。だから「基本的安心感」とも呼ばれています。英語にinsecureということばがあります。「自信が持てない」という意味ですが、「安全でない」「守りがない」という意味もあります。両親からちゃんと愛を受けない場合、「自分には守りがない」と言う恐れと不安がつきまとうでしょう。幼児にとって母親と父親の役割が違います。最初に子どもを抱くのが母親です。授乳、排せつ、睡眠、全部やってあげます。この時は、母親とべったりで良いのです。ハンナもサムエルを乳離れするまでしっかり育てました。その後、父親が必要となります。入浴のお手伝いをするだけではありません。父親は社会の代表です。父親が「あなたはすばらしい、価値がある」と励ますならば、「世の中は、きっとすばらしい」と外に向かって生きる力が与えられるでしょう。もし、母親しか育児をしないなら、偏った子どもになります。「親子パック」というのがありますが、母子一体で境目がなくなります。拒食症とかリストカットする原因になると言われています。また、深刻なダメージを与えるのが、ニグレクト、度を越したせっかん、性的虐待です。「良い子を演じなければ生き延びられなかった」という人もいます。「そんなことしたらお母さん悲しいわ。お母さんを悲しませないで」という、ダブルバインドもダメです。子どもを操作してはいけません。子どもをいらだたせてもいけません。スーパーで子どもをものすごく叱っている親がいます。子どもも意地を張って反抗して、30分もバトルしている親子がいます。もう、子どもの感情が爆発しています。「100円くらいのお菓子1個くらい買ってあげればいいじゃないか」と思います。それだったら、買い物に連れて来なければ良いのです。エペソ64「子どもを怒らせてはいけません」と書いてありますが、これは「扇動する」「誘発する」という意味もあります。子どもの時に、たびたび感情を爆発させられたなら、「境界性パーソナリティ障害」になる恐れがあります。一度、怒り出したら止まらないという人がいますが、感情をコントロールできないのです。子どものときに愛を受けなかった人が、大人になってからそれを取り戻すというのは不可能なくらい大変なことです。こちらがいくら与えても、満足できません。「君は愛されるため生まれた」という賛美がありますが、幼児期は愛と育みを受ける季節です。幼子をいっぱい愛してあげるべきです。それは、子どもの将来につなげるためのすばらしい投資です。

2.学業期

 School days小中高生です。学校はいわば戦場であります。いじめとの戦い、受験戦争があります。良い先生に当たると子どもは伸びますが、悪い先生に当たるとその学科さえも嫌いになります。私の小中高を、ひとことで言うなら、圧迫を受けた年月です。英語のpressure, oppressionということばがぴったりです。大体、私は協調性のない子どもであり、目立ちたちがり家で、うるさい存在でした。だから、学校の先生にとっては問題児であり、いなくれなればば良い存在でした。日本の学校では「みんなと一緒、和を乱してはいけない」というのが教育の大前提のような気がします。エジソンが小学校入学三か月で「お前は学校に来るな」と言われたそうです。ADHD学習障害を持っていたのでしょうか?お母さんは学校から「そんなにあの子をかばうのなら、あなたが教えたらよろしい」と言われました。お母さんは、変わり者と呼ばれていたエジソンの潜在能力と才能に密かに気づいていました。今でいう、ホーム・スクーリングで彼を育てました。教育のラテン語は「引き出す」という意味ですが、日本の学校は「詰め込み」であります。でも、今、思うと、記憶力が一番盛んなのは「その頃だなー」と思います。小学校の頃、世界各国の首都を覚えましたが、今でも覚えています。記憶力は30歳を超えるとぐっと落ちてきます。60歳になると「砂に書いたラブレター」で、人の名前が全く出て来ません。大学生でバイトばかりしている人がいますが、もったいないと思います。頭が柔らかいんですから、勉強したら良いと思います。学ぶに時があります。

 もう1つ学業期に言えるのは、友達です。良い友達もいれば、悪い友達もいます。世の中からみたら学校は小さな世界ですが、子どもにとってはすべてです。いじめで不登校になったり、自殺する子がいますが、そのためかもしれません。子どもが成長し、ティーン・エィジャーになると、親よりも友達に物事を相談するようになります。現代はスマートフォーンを中学生ならみんな持っています。おそらく、ラインとかでいつも通信しているのではないでしょうか?携帯を一時も離せない子どもがいますが、まさしく人間依存症です。しかし、それほど友達の存在が大きいのかもしれません。私も高校生のときは暗黒時代でしたが、それでも楽しかったことがあります。今思えば、「あんな時でも、神さまが友達を与えてくれていたんだなー」と感謝しています。あの頃、ジョージ・ハリスンのMy sweet lordが流行りました。今でもその歌を聞くと、「幸せな時もあったんだなー」と思います。でも、My sweet lordは本当の主ではありませんでした。

 また、ティーン・エィジャーは「自我像の嵐」のときでもあります。自分がだれか分かりません。親から独立したいと思いますが、経済的には独立できません。この時は、意志も感情も不安定です。昔、「ケッサラー、ケッサラー、人生は階段を手探りで歩くようなもの」という歌がありました。まさしく、暗中模索という感じです。ある生徒が、学校の先生に「何のために勉強するのですか?」と聞いたら、「怠けているから余計なこと考えるんだ。一生懸命勉強しろ」と叱られたそうです。その子は自殺したそうです。「私は何のために生きているのか」「一体私はだれなのか」。この世の人たちは明確な答えを持っていません。それなのに、一生懸命生きています。究極的な答えはあるのでしょうか?伝道者の書121「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」日本の学校では進化論を教えます。「人間はアメーバーから偶然に進化したんだ」と教えられます。偶然だったら、目的なんかありません。「何かできるものが価値がある」という、弱肉強食の社会で生きることになります。そうではありません。聖書から「人間は神のかたちに似せて造られた尊い存在なんだ」ということを知るなら何と幸いでしょう。年代表よりも、方程式よりも、英単語よりもはるかに価値があります。なぜなら、聖書の神は人生の意味と目的を与えてくれるからです。

3.若者 

 学業期とかぶりますが、中年までとさせていただきます。ひとことで言って、「若さは神の賜物(プレゼント)」です。若い人は、若いことがどんなにすばらしいことなのか全く自覚していません。私が22歳のとき、現場の主任から「若いっていいねー」としみじみ言われました。その方は今思えば、45歳くらいの人でした。その時は「え、何言ってんの?」としか思えませんでした。道を歩いていると、女子高生が短いスカートをはいて自転車に乗っています。「え、あれがスカートなの」と思うくらい短いです。足もすらっとしていて、昔と違うなーと思います。でも、おじさんはいやらしい目で見ていません。「ああ、神さまの賜物だなー」と思います。そして、「神さま、あなたはすべての人に良いものを与えておられますね。アーメン」と主を賛美します。私は65歳になって思うのですが、若さは何故、良いのでしょうか?まず、エネルギーにあふれています。体力、気力、想像力にあふれています。うむことなく夢を追いかけることができます。年寄りは「現実は甘くない。安定した生活を求めよ」と冷や水をかけます。「そういう、あなたはどうだったんだ?」と言いたくなります。失敗して、はめをはずしても「若気のいたり」としてある程度許されます。挫折しても、また立ち上がれば良いのです。「七転び八起」ということわざがあります。厚切りジェイソンのネタです。「七転び八起ってよく考えるとおかしくないですか?転んだ数と起き上がる数が同じはずだし…」。ある人が、「深く考えず、たくさん転んで、たくさん起きるんだな」と解説していました。

 若い時はエネルギーが溢れ、羽目を外しがちです。でも、それが致命傷になるときもあります。刑を受けて、20年も檻に入ったなら、青春が台無しです。出てきたときは40代です。伝道者の書119-10「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」これは、「何をやっても良いけど、やがて神さまの前に立つときが来るんだよ」と警告しているみことばです。レストランでメニューを見て、何を食べても良いです。しかし、最後にレジで精算しなければなりません。あれと同じです。罪を表わすのにtrespassということばがあります。これは「ある限度を超える、踏み外す」という意味があります。モーセの十戒は、私たちが超えてはならない限度を教えてくれる戒めです。道路を車で走っていると両脇に、センターラインとガードレールがあります。車はその間を走ったなら安全です。ガードレールは超えてはならない限界を教えてくれます。律法は、超えてはならない限度を教えてくれる大切なものです。若い人は、「とげのついた棒をけるのは、痛い」(使徒2614ということを憶えるべきです。

4.中年

 中年、middle ageです。専門家は、中年は何歳から何歳までですと定義するでしょう。私は独断と聖書的に、40歳から60歳ということにします。と言うことは、39歳までは「若者」のぶるいにはいるということです。なぜ、「40歳からか」と申しますと、40歳くらいで体に変調を起こすからです。日本では厄年があり、男性は42歳、女性は37歳と言われています。「そんなの迷信だ」と言っても間違いないのですが、私は体の変調と関係があるのではないかと思います。体力が急に落ちたり、ホルモンのバランスもくずれがちになるのではないでしょうか?これはある時に聞いたことなので、聖書と関係ないかもしれません。「もし、40歳のとき無理をしなければ、60歳まで健康に生きられます。もし、60歳のときに無理をしなければ、80歳まで健康に生きられます」ということを聞いたことがあります。これは霊感されていませんので、ご参考程度です。モーセは40歳までエジプトで王子の生活をしていました。40歳から80歳までは、ミデヤンの荒野で羊を飼っていました。80歳から120歳までは100万人以上のイスラエルの民を荒野で導きました。モーセは詩篇90篇で「私たちの齢は70年、健やかであっても80年。…自分の日を正しく数えることを教えてください、知恵の心を得させてください」と言っています。つまり、人間はいつまでも生きられる存在ではなく、「あと、いつまで生きられるのかな、と考えるように」ということではないでしょうか?新約聖書的には、「知恵の心」とは「死ぬ前に、キリストにある永遠のいのちを得よ」ということなのかもしれません。伝道者書の12章でも「また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に」と警告しています。

 しかし、この中年期はまことに忙しい時でもあります。立ち止まって、「救いがあるのだろうか」などと考える暇がありません。男性ですと、ちょうど中間管理職の立場です。上からは数字を突きつけられ、下からは「こうして、ああして」と文句を言われます。もう、サンドイッチ状態です。だから、世の男性はアルコールや快楽に逃げるのであります。なぜなら、ストレスが尋常ではないからです。日本では仕事第一です。会社から単身赴任を命じられても断ることができません。なぜなら、子どもにお金がかかるし、家のローンも残っているからです。アメリカでは家庭第一なので、そういうことはありません。阪神のバースという人が、絶頂期に、アメリカに帰りました。息子の病気の治療のためだったと言われています。現在は会社の工場が中国やタイなど海外にあります。国内だったらともかく、海外に単身赴任というのは奥さんや子どもにとって、大変です。なぜなら、経済ですべての問題が解決しないからです。仕事には確かに呪いがあります。アダムは「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記319と言われました。良い汗もありますが、このみことばは呪いを象徴しています。一生懸命に働いても、ワーク・ホリックになったり、家庭崩壊になるというのは呪いではないでしょうか?

 女性にとっても、中年期はやばい年です。学費がかかる子どもたちがいます。日本では、パートに出かけ、なおかつ家事をするというのが当たり前になっています。日本では、女性の社会進出が奨励されていますが、差別、セクハラ、パワハラを乗り越えなければなりません。また、年齢とともに、疲れも取れなくなります。立つ度に「よっこらしょ」と言うなら老化のはじまりです。やがて更年期障害がやってきます。人生の天王山です。この時をうまく超えられるか問題です。イライラしたり、うつになったり、頭痛、めまい、体がほてったりします。私は既婚者なので良く知っています。ホルモンのバランスがくずれ、「いのちの母A」のやっかいになります。こういう場合は家にじっとしているよりも、何か活動して、気を紛らわすのが良いそうです。「とにかく人生の嵐を乗り越えなければ」と必死です。残念ながら、教会はそのことをなかなか理解してきませんでした。「怒ってはいけない」とか、罪のせいにしてきました。「信仰によって」と励ましてしまいますが、肉体の法則の方がより勝るときもあります。すべてのことが霊的に処理できると思ったら大間違いです。私たちは「肉体でできている。肉体は弱い」ということを知るべきであります。Ⅱコリント12:9 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」どんな山でも、主が乗り越えさせてくださいます。アーメン。

5.収穫期

 ポール・トゥルニエが『人生の四季』でこう述べています。「私がこういうテーマを扱うようにと依頼されたのは、おそらく偶然ではないでしょう。私は今ちょうど60歳を越えたところで、もうすでに自分の力が衰退しつつあることを感じているからです。まだこの先、私が多くの患者さんたちに役立つことがあろうと、また何冊かの本が書けようと、もうこれらのことが私の人生をさほど大きく変えることはないでしょう。骰子(さい)はふられてしまいました。私がなし、学び、獲得することができたことはだんだんその価値を失いつつあります。中老の人々にとって重要なことは、彼らが現在どういう人間であるかということなのであって、彼らがまだこれから何ができるかということではない。」と言っています。60歳は定年退職の年でもあります。今は少し遅くて65歳の人もいますが、男性にとってはアイディンティテイの危機です。仕事イコール人生、役職イコール自分のスティタスでした。しかし、定年と同時にそれもなくなります。では、女性はどうなのでしょうか?「からの巣症候群」というのがありますが、子どもたちが独立して、家からいなくなります。子育てが1つの生きがいでしたが、それも失われました。今では頑固な亭主が側にいるだけです。定年と同時に熟年離婚というのがあるそうです。広島の植竹牧師がおっしゃっていました。夫が広島新聞を定年退職して家に帰ってきたとき、妻が三つ指ついて挨拶しました。「長い間御苦労さまでした。私も主婦業を今日で退職させていただきます。つきましては退職金の半分をいただきたく存じます。」「何言ってんだお前」と怒ったら、妻が今まで溜めていたうっぷんを1時間まくし立てたそうです。夫は同僚に「女はこえぞー」と話したそうです。

60歳以上は人生の収穫期です。老年期と言ってはいけません。最近は健康寿命ということが言われていますので、寝たっきりで100歳まで生きたいと思う人はいないでしょう。せめて、80歳までは健康で長生きしたいものです。私も人生の季節ということを考えています。もう、人生の第四コーナを回りました。あとは一直線でまっすぐ走るしかありません。今さら、「ここを変えろ」「ここをなおせ」と言われても無理です。「変われ」と言われても、変われないのです。聖書でfinish well良い終わり方をした人は30%ぐらいだと言われています。しかし、私はそんなことを信じません。主はflourish ending「繁茂した、栄えた終わり方」を与えて下さいます。使徒パウロが言ったとおりです。Ⅱテモテ47-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」アーメン。

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2018年8月17日 (金)

御霊による歩み ローマ8:1-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.19

 前回は、「律法からの解放」についてローマ7章から学びました。きょうはローマ8章から「御霊による歩み」と題して学びたいと思います。エゼキエル書36章の「新しい心を与え、新しい霊を与える」という預言が2000年前のペンテコステの日に成就しました。今日では、イエス・キリストを信じる者はだれでも、聖霊によって生まれ変わり、さらには内側に聖霊を宿しています。聖書では、内側に住んでいる聖霊を「御霊」とか「キリストの御霊」と呼んでいます。厳密には「御霊」は、神の霊なのか、それとも自分自身の霊なのか区別がつかないところがあります。

1.御霊による歩み

パウロはローマ7章の後半で「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。これは自分の中には、律法を守る力がないというどん底からの叫びです。しかし、その直後、パウロは何かを発見したのです。そして、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ感謝します」と言っています。一体、パウロに何があったのでしょうか?ローマ82「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」このところに突然「いのちの御霊の原理」ということばが出てきます。日本語の聖書ではよく分かりませんが、原理も律法も同じことばです。英語の聖書ではlaw、ギリシャ語では「ノモス」です。ちなみにロシア語の「ノルマ」はノモスから来たことばです。新約聖書の「ノモス」は、法律や律法の他に、法則とか原理と言う意味もあります。一箇所、例をあげて、説明したいと思います。ローマ723「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」日本語では「異なった律法」となっていますが、本来なら「異なった法則」と訳すべきなのです。また「心の律法」は「心の法則」です。そして、「罪の律法」は「罪の法則」です。律法と訳してしまうと、ローマ82節とつながらなくなるからです。ローマ82の「いのちの御霊の原理」は「いのちの御霊の法則」です。そして、「罪の死の原理」は「罪と死の法則」です。「法則」と訳すと分かり易くなります。新共同訳聖書は全部「法則」に統一しています。

 では、私たちの内側、つまり肉につける私たちにはどのような法則があるのでしょうか?私たちの肉は律法を押し付けられると反抗したくなります。真面目にやったとしても守りきることができません。最終的には死にいたります。これが「心の法則」「罪の法則」です。パウロは「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう」と絶望しています。ところが、パウロはどん底に落ちて、全く別な法則を発見しました。自分を引き上げ、いのちを与えてくれる法則です。それが「いのちの御霊の法則」です。たとえ、私たちに「罪と死の法則」が働いても、「いのちの御霊の法則」が私たちを引き上げて救ってくれるのです。ウォッチマン・ニーが『キリスト者の標準』の中で鳥の話をしてこのことを説明しています。マタイによる福音書には「空の鳥を見なさい」と書かれています。もし私たちが鳥に、「引力の法則に恐怖を感じていないか」と尋ねることができたなら、鳥はどう答えるでしょうか?「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからです」と答えるでしょう。鳥の内には、飛ぶ力を備えている命があるばかりではなく、その命は、これらの生物に全く自然にまた持続的に、引力の法則に勝たせる命の法則を持っているのです。しかし、引力は依然として存在しています。アーメン。とても分かり易い例話です。私たちには罪と死の法則が依然として作用しています。その証拠に、もしだれかが私について悪口を言ったとすれば、すぐさま私の内部で何か思わしくないものが起こります。これは罪の法則です。また、何かのことで神さまを喜ばせようと努力します。しかし、自分は神の標準に達していないような気がしてきます。そして「私にはできない」という弱さを発見します。罪だけではなく「死の法則」が、自分の内に作用していることが分かります。これは法則ですから、すべての人間に働くマイナスの力です。でも、その法則に打ち勝つ力が「命の法則」です。その法則は、私たちの内におられる聖霊よってもたらされるものです。

 では、どうしたら「いのちの御霊の法則」を体験し続けることができるのでしょうか?ローマ83-4「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」このところに、「神はしてくださいました」と書いてあります。何をしてくださったのでしょうか?第一は、御子イエスが肉において罪を罰せられました。言い換えると、私たちの私の肉を罰して、死に渡されたということです。私たちの問題の根に一撃を加えて下さったのです。第二は、聖霊が私たちに律法を全うさせてくださるということです。でも、条件があります。それは「御霊によって歩む」ということです。「…によって歩む」とは服従を意味します。肉によって歩むということは、肉の命ずるままに自分をゆだねることを意味します。結果的にどうなるでしょう?ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」「御霊によって歩む」とは、御霊にゆだねて、御霊に従うということです。私たちは肉で神さまを喜ばせることはできないし、神さまもそのことを望んでいません。すばらしいことに、内におられる聖霊が、神の御旨を行なえるように働いてくださるのです。聖霊はかつてキリストがなされたことを、私たちの内に実現させるために遣わされたのです。私たちは、そのため、聖霊様と普段から親しく交わることが必要です。交わりとは、御霊によってその恵みにあずかることです。パウロはこのような祝祷のことばを述べています。Ⅱコリント1313「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

 このように私は「御霊によって歩むことが大切です」とみなさんに確信を持って語れるようになるまで、かなりの年月を要しました。なぜなら、私の生まれつきの性質は「がさつであり、せっかち」です。「歩む」というよりは「走る」という方が当たっています。「聖霊に聞く」とか、「聖霊に従う」という意味は分かります。でも、途中で面倒になってやめて、あとは自分の力や考えで突っ走ってしまいます。でも、いろんな失敗や困難を通して、「御霊によって歩むことが大切なんだなー」と体験的に分かるようになりました。ギリシャ語で「知る」は2種類あります。「ギノスコー」は、知的に知るということです。聖書を勉強したり、研究するときはこの「ギノスコー」が重要です。一方、「オイダ」は、体験的に知るという意味のことばです。これは信仰をもって実際に行うとき、はじめて分かることです。「オイダ」はヘブル語では「ヤーダー」であり、男女の親密な関係を表わす用語です。言い換えると、親しい交わりを通して知るということです。御霊によって歩むとは、「御霊と交わりながら、生活する」ということです。エマオの途上に向かっていた二人に、復活したイエス様が近づいて来られました。彼らは目が閉ざされていて、その方がイエス様だと分かりませんでした。あとで気づいた二人がこのように言っています。ルカ2432 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」このように、イエス様は今も生きてられ、御霊によって私たちの内側に親しく語ってくださいます。

 もう1つは、「御霊の法則」というすばらしい恵みがあります。私は高校の「物理」と「応用力学」でつまずきました。土木科ですから、仕事につけば避けて通ることができない学科です。数式とか定理みたいなものはほとんど忘れましたが、「法則」には力があることだけは知りました。私たちはこの肉体を持っていますが、アダムの罪と堕落を幾分か受けています。霊的に新しく生まれたはずなのに、「生まれつきの考え」「生まれつきの能力」「生まれつきの性格」というものを持っています。これが肉なんだと思います。しかし、神さまは私たちを救ったあと、「今後はこれで生きなさい」と与えて下さったのが神の霊、聖霊なんだと思います。この方は神としての人格と持っておられ、私たちと親しく交わってくださいます。それだけではなく、私たちを罪と死から救ってくださる力を持っておられます。これが「御霊の法則」です。そして、私たちの肉ではなしえなかった、「律法を守ること」「律法を破らないこと」を聖霊が行ってくださるのです。聖霊、内におられる御霊は「第二の資源」と言うことができます。今では普通ですが、ハイブリッド車が走っています。あの車はあるときはガソリン、またあるときは電気で走ります。おそらく自動で切り替わるのでしょう。私たちもあるときは自分の力や考えで走るときがあります。しかし、自分の力や考えで間に合わないときは、内におられる御霊が自動的に働いてくださるのです。一番重要なことは、御霊が自由に働いてくださることを容認し、歓迎する必要があります。御霊は人格をもっておられますので、「私に関わらないでくれ」と拒絶すると退かれます。そうではなく、いのちの御霊の法則がいつでも、豊かに働かれるように、御霊に期待して歩みましょう。

2.恵みによる歩み

 ローマ86-8「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」私たちは、肉で律法を行なおうとするとそれができないということがよく分かりました。なぜなら、律法が肉を刺激して、反抗心を生み出し、結局は死に至ります。死というのは霊的な窒息死であります。しかし、信仰生活のことを考えてみましょう。教会はイエス様を信じるだけで救われると「信仰義認」を説きます。これは正統的なプロテスタント教会だったら、反対するところはないでしょう。ところが、問題は洗礼を受けてからのことであります。ほとんどの教会では「洗礼準備会」というものを設けていると思います。そこでは信仰の確認とこれからの信仰生活がどうあるべきか教えます。ところが、結構、やるべきことがたくさんあることに気が付きます。聖書を読むこと、祈ること、聖日礼拝に出席すること、献金、奉仕、罪から離れきよい生活を送ることを学びます。教会によっては、いくつかの規約もあるようですが、「これから教会員として義務を果たします」と誓約書を交わすところもあるようです。つまり、イエス様を信じて救われるということと、教会に属して教会員になることを分けているところもあります。そういう準備会を受けた人の頭にはどのようなことが浮かぶでしょうか?おそらく、「救われるのは恵みかもしれないけれど、信仰生活は行いが必要なんだ。詐欺みたいだなー」と思うのではないでしょうか?でも、ほとんどの人は、信仰的に燃えていますので、それらが全く苦にはならないでしょう。私も洗礼受けた後、「聖日礼拝厳守、はってでも来い」と言われ、今まで休んだことがありません。40年間、どうしても行けなかったことが2度ほどありますが、あとでビデオ礼拝を持ちました。最終的に牧師になったので、休むわけにはいかなくなりました。

大川牧師は聖日礼拝を「強いられた恵み」と言いました。私は会社で働いていましたが、朝6時の早天祈祷会、水曜祈祷会、土曜日の週報印刷、日曜日の礼拝、聖歌隊、夜の礼拝に出ました。半年後、直接献身の表明をしたので、さらにCSなどの奉仕がたくさん出て来ました。週に礼拝堂の掃除は3回はしました。たまに説教する機会も与えられました。ある時、第二礼拝の説教をした後、ホルンの宮田四郎先生から「疲れているように見える」と言われ、がっかりしました。その頃、本田弘慈という大伝道者が来られ、「ねこ信者」というお話しをされたことがあります。先生は関西の出身の先生でしたから、「〇〇しにゃーならん。〇〇しにゃーならん」といつも言っている人を「ねこ信者」だというのです。「当たっているなー」と思いました。「聖書を読まなければならない」「祈らなければならない」「集会を守らなければならない」「献金しなければならない」「奉仕をしなければならない」など、みんな良いことです。しかし、これが律法になっていたならどうでしょうか?クリスチャンは「モーセの律法」をもちろん守りますが、このような新たな律法の中で生きているというのが現状ではないでしょうか?

2007年、スティーブ・マクベイという先生が聖書キリスト教会で「恵みの歩み」という講演をなされたことがあります。先生は16歳のときから説教しました。19歳である教会の主任牧師になり、21年間牧会をしました。神様が喜ばれることを一生懸命しようとしました。忠実に神様のことばを語るように努力しました。一生懸命、伝道をし、祈りの生活も一生懸命守ろうとしました。教会の人数は増えました。忠実な牧会をしようと努力しましたが、心の中では達成感がありませんでした。本当に主を愛していましたが、心の中では「自分は足りない、神様に受け入れられるにはふさわしくない」と思っていました。先生はその後、主の召命であると信じ、別の教会に赴任することになりました。向かう道路に「スティーブ牧師、行かないでください!」という横断幕がかけられていました。先生は新しい教会を成長させようとしました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問し、できるだけのことをしました。それでも、人数は減るばかりでした。「主よ、どうぞ私を強めてください。力をください。私は諦めません。がんばりますから」と祈りました。1990106日土曜日の夜、事務所の中でうつぶせになっていました。朝2時でした。あと数時間で教会の礼拝が始まります。鬱的で、まったくやる気がない状態でした。「神様、何をしているんですか?何で私をここに呼んだのですか?」と、泣きながら祈っていました。その時、主が答えてくれました。耳で聞こえる声ではなく、霊で分かるように語ってくれました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。先生は、「神さまが私に教会を建ててほしい。説教をしてほしい。カウンセリングをしてほしい。病気のためお見舞いに行ってほしい」と思っていると考えていました。しかし、神様は私自身を欲しいということが分かりました。神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられると言うことが分かったのです。スティーブは紙を取り出し、自分がゆだねるものを1つずつ書き記しました。最後に「全部、神様のご支配のもとにゆだねます」と書いて、自分の名前をサインしました。

スティーブ牧師は自分が死んだという診断書にサインをしたのです。そして、イエス様あなたが生きて下さいと願ったのです。それは、律法に対して死んで、律法を全うしてくださるキリストにあって生きるということでした。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」と書いてあります。これは、言い換えると神さまは「あなたは肉でがんばらなくても良い」という慰めのことばでもあります。イエス様は私たちがイエス様を信じたときに、満足してくださいました。イエス様は、私たちに何かをさせるために、私たちを救われたのではありません。「神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる」というのは真実です。では、何もしなくても良いのでしょうか?良いのです。聖書を読まなくても、祈らなくても、聖日礼拝に出席しなくても、献金をしなくても、奉仕をしなくても、イエス様は私たちを愛しておられます。神さまは私たちの行いではなく、存在そのものを愛しておられます。そう言われると、私たちの方は天邪鬼なので、「ちょっと聖書を読もうかな、祈ろうかな」と思うのです。つまり、「しなくても良い」という自由が与えられると、したくなるのです。律法は「あなたはまだ足りない。基準に達していない」と私たちを責めます。しかし、恵みは「あなたは十分です。何もしなくても愛されていますよ」と私たちを励ましてくれます。律法はマイナスの地点から、プラスになるように一生懸命頑張ります。ところが、恵みはプラスの地点から、さらにプラスになるというイメージがあります。つまり、恐れや不安や罪責感が動機でなく、安心感が動機なのです。私はかつて業績指向の塊でした。神さまが「パウロはあれだけ伝道したのに、お前はなんだ。歯がゆいぞ!」と背中から冷や水をかけられている気がしました。かつては、仁王様のような厳しい神さまのイメージがありました。しかし、「恵みの歩み」を知ってから、神さまは放蕩息子のお父さんのように無条件で愛しておられる優しいお父様だと言うことが分かりました。

Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」律法は私たちを殺します。しかし、御霊は私たちを生かしてくださいます。3:17-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」律法は私たちに恐れを与え、私たちから自由を奪います。しかし、主の御霊のあるところには自由があります。どんな自由でしょうか?私はありのままで神さまから受け入れられている。主の御霊と共に歩めば大丈夫だという安心感です。多くの人はこの「安心感」がありません。「自分は相応しくない」「まだ足りない」「まだ不十分だ」すべては律法から来る恐れです。父なる神さまはすべてのものをお持ちです。何よりもすばらしいのは、私たちが救われるために御子イエス様を十字架に渡してくださいました。しかし、それだけではありません。私たちの内に主の御霊を与え「これでやりなさい」とすべての資源もくださったのです。聖霊は神さまご自身ですから、すべてのものをお持ちです。この神さまが私たちの内におられるのですから、驚くべき事です。神さまの永遠の計画とは、御霊によって私たちと一緒に住むことだったのです。神さまはすべてのものをお持ちです。私たちが献金しなければやっていけない貧しい方ではありません。私たちが奉仕しなければ何もできない方ではありません。そうではなく、神さまは私たちを通して、働きたいと願っておられるのです。主役は神さまで私たちは管channelです。水を通すような管です。管の重要な役割は詰まらせてはいけないということです。できるだけ自分は透明になって、主が現れてくださるように願うのです。自分が小さくなればなるほど、主が大きく現れてくださいます。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」イエス様は現在、御霊によってあなたの中に住んでおられます。神の御子を信じる信仰とは、内におられるイエス様が私を通して働いて下さることを信じることです。イエス様が、あなたからmanifest現われ出てくださいますように。アーメン。

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2018年8月10日 (金)

律法からの解放 ローマ7:5-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2018.8.12

 私たちは法律をはじめとする様々な「きまり」の中で暮らしています。世の人たちは「洗礼なんか受けたら、新たにきまりができて、さらに自由がなくなる」と言うでしょう。人間は悪いことをするので、法律の数がますます多くなります。まるでいたちごっこです。実は人間にはきまりには従いたくない。むしろ逆らいたいという天邪鬼みたいな性質があります。きまりを多くすればするほど、「そんなきまりなんか守りたくない。破りたい」という引き金にもなるということです。聖書には律法と言って、法律やきまりに当たるものがあります。きょうは「律法からの解放」と題して、聖書から学び、きまりごとに対する自由を得たいと思います。

1.律法とは

 聖書によく出てくる「律法」とは何でしょうか?アダムとエバが罪を犯す前は、律法などありませんでした。主なる神さまと親しく交わっていたので、何も問題がありませんでした。ただし、善悪を知る知識の木から食べたとたん、目が開かれ、神のように善悪を判断するようになりました。言い換えると、神抜きで、自分で善悪を決めるというふうになったのです。今も私たちは人の罪を簡単にさばきますが、アダムが堕落してしまった結果であります。本来、善悪の判断は神さまがお決めになるのですが、私たちが先走って決めてしまうところがあります。信仰の父アブラハムは行いではなく、信じるだけで神から義と認められました。「律法」ということばが最初に出てくるのは、出エジプト記20章からです。イスラエルの民をエジプトから救い出された主なる神は、イスラエルと契約を結びました。その条件が十戒であります。イスラエルの民には、他にたくさんの律法が与えられました。律法は大きく分けると3つあり、道徳律法、祭儀律法、社会律法です。本来、律法は「この範囲内で暮らしたなら、安全で、健やかに暮らすことができますよ」という神さまの尊い戒めでした。ところがイスラエルの歴史を見ると分かりますが、神さまに反逆して偶像を拝み、律法の範囲を飛び越える生活をしました。もう罪のオンパレードです。神さまご自身も、「彼らは律法を与えても守ることができない」と納得されました。エレミヤ31章には、「私は彼らと新しい契約を結ぶ。律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」と書いてあります。エゼキエル36章には「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」とも約束されています。これがイエス・キリストによってなされた新しい契約です。信じる者に新しい心を与え、心に律法を書き記すということです。多くの人たちは、モーセの律法がイスラエルに交わされたものであって、異邦人の私たちとは関係のないことを知りません。イエス様はその代り、私たちに「愛する」という新しい戒めを与えました。なぜなら、愛は律法を全うするからです。

 使徒パウロは、私たちは罪からだけではなく、律法からも解放されているということを分からせるためにローマ7章とローマ8章を書きました。きょうは主にローマ7章から消極的な意味での律法からの解放、次週はローマ8章から積極的な意味での律法からの解放についてまた学びたいと思います。なおローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙は兄弟みたいなもので、両者とも律法からの解放について書かれています。そのため、ガラテヤ人への手紙からもいくつか引用いたします。ローマ7章を見ると、パウロがとても落ち込んでいるのが分かります。ある人たちは、これはパウロが救われる前の葛藤した出来事であると言いますが、そうではありません。パウロはローマ1章から5章前半までは「行いの罪の赦し」を語っています。5章後半から6章までは、「単数形の罪(原罪)」からの解放について語っています。ローマ7章のテーマは「律法からの解放」です。ローマ71節から4節までは、結婚のたとえが記されています。一人の女性が律法と結婚していました。夫がいる女性が他の男性のところへ行けば、「姦淫の女」と呼ばれます。しかし、夫である律法は永遠に不滅であり、死ぬことはありません。イエス様は「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」(マタイ518と言われたとおりです。でも、イエス様が十字架につけられて死んだとき、私たちも共に死んだのです。死んだ者に対して、律法は何もすることができません。さらに、イエス様はよみがえられ、私たちはイエス様と新たに結ばれたのです。つまり、新しい夫は律法ではなく、恵み深いイエス様です。ローマ76「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」アーメン。古い文字とは、石の板に書かれたモーセの律法です。クリスチャンは生ける御霊によって、心の板に律法が書かれているのです。これはエレミヤ書とエゼキエル書の成就といえます。かつては外側から「ああしてはいけない、こうしてはいけない」と戒められました。今度は聖霊が私たちの内に示してくださり、さらには行う力も与えてくださるのです。これが新約の恵みです。

 それなのに、ガラテヤの教会の人たちは逆戻りしてしまいました。せっかく恵みで救われたのに、割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救いを全うできないと考えました。パウロは「あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉にあって完成されるというのですか」と嘆いています。せっかく律法と別れたのに、再び律法のところに行くとはどういうことでしょう。聖書はそれを姦淫と呼んでいます。彼らは「イエス様の恵みでは足りないので、律法からも学ばなければならない」と言っているのです。教会でも「救われたクリスチャンがモーセの律法が必要だろうか?」議論が分かれています。もちろん「モーセの律法」は神のことば、律法ですから全く不要だということはないでしょう。マルチン・ルターは「律法は行為の基準を示すが、それに従う力は与えない。福音がその力を与える。律法は死の使いであり、福音は命と平和の使いである」と言いました。しかし、ジョン・カルヴァンは「規範として律法が必要である」と主張しました。彼はジュネーブにおいて「神権政治」を開始しましたが、最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放を行いました。カルヴァンは「教会規則」を作りましたが、改革派が堅いのはこのためかもしれません。律法は永遠に存在しています。新約の時代に生きる私たちは「どのように律法と向き合えば良いのか」という課題が残っています。

2.律法の働き

 使徒パウロは律法を厳格に守るパリサイ人のパリサイ人でした。いわば、パウロは律法に関してはプロでした。そのパウロが、律法が自分に対してどのように働いたか赤裸々に書いています。第一は、律法は私たちに罪があることを知らせてくれるということです。律法は神が定めた義の基準であり、罪があるかどうかすぐ分かります。パウロはローマ77「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」と言っています。世の中に体重計がなければ、自分が何キロなのか分かりません。世の中に法律がなければ、どれだけ悪いことしたのか客観的には分からないでしょう。聖書には数えきれないほどの戒めがあります。教会にはご親切にも、「あなたは罪を犯していますよ」と教えてくれる人がいます。そう言われると、「いや、あなたもこのような罪を犯しているではありませんか」と言い返したくなります。いわゆるさばき合いが起りやすいのが教会です。第一のポイントで申しあげましたが、本来は神さまがさばくのに、私たちが神さまの代わりにさばいてしまうのです。なぜなら、善悪を知る知識の実を食べたからです。ところで、「ワンピース」というアニメがありますが、そこにはたくさんの能力者が登場します。彼らは「悪魔の実」を食べたからです。私たちも「善悪を知る能力者」であることを忘れてはいけません。イエス様はマタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。…兄弟の目のちりを取る前に、自分の目から梁を取り除けなさい」と言われました。

 第二は、律法は私たちが罪を犯すようにけしかけるということです。パウロはローマ78「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私の内にあらゆるむさぼりを引き起こしました」と言っています。なぜなら、私たちの内側には律法に逆らう肉(ギリシャ語でサルクス)が宿っているからです。私たちは「わさるな」と言われれば、触りたくなるし、「見るな」と言われば、見たくなります。「そういう禁止事項がなければ、しらんぷりして通り過ぎたのに」です。私たちは小さいときから数えきれないほどの「きまり事」に縛られて生きてきました。学校では学校の校則があり、会社に入ればコンプライアンス(命令や要求に応じること、果たすべき務めを果たすこと)があります。「警察官や学校の教師が酔っぱらうと手に負えない」とよく言われますが、日ごろ規則に締め付けられているからです。「酔っ払い運転をするな!」と警告している、警察官がそうなるのは分かるような気がします。道ばたを歩いていると「ポイ捨て禁止、見ているぞ」みたいな看板があります。私はむっときます。21世紀教会の男子トイレに「きれいに使ってくれてありがとう!」と書いてありました。そう言われると、一歩前に出たくなります。

 第三は、律法は最終的に私たちを殺してしまうということです。ローマ79-10「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」何と言うことでしょう?律法は元来、善なるものです。なぜなら、神さまが与えたものだからです。でも、問題は私たちが律法に耐えられないということです。モーセがシナイ山の頂で十戒をいただいていました。しかし、山の下ではモーセが戻って来ないので、アロンに金の子牛を造ってもらいました。モーセが山から降りると、人々は金の子牛を拝んで、いけにえを捧げていました。モーセは主からいただいたばかりの2枚の板を投げ捨てて砕いてしまいました。これが罪ある人間に石の板が役に立たないことを暗示している出来事です。Ⅱコリント36-7「文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって」と書いてあります。つまり、これはモーセの律法を知らせると、人々を殺してしまうということです。「いや、そんなことはない。十戒はすばらしい」と言う人がいるでしょう。最初のうちは熱心に守って、「自分は聖い。真面目だ」と誇るかもしれません。しかし、やがて律法の基準に達していない自分を発見します。表面では守っているつもりでも、内側では守っていないからです。当時の宗教家、パリサイ人や律法学者たちに、イエス様はこのように言われました。「白く塗られた墓のようなものです外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいです」(マタイ2128)。教会が律法を強調すると教会員が死ぬか、あるいは偽善者になります。

平野耕一牧師が『これだけは知ってもらいたい』と言う本の中でこうおっしゃっています。お葬式みたいな教会とか、お葬式みたいな礼拝という表現をあなたは聞いたことがありますか。霊は人を生かすのですが、文字は殺すのです。教会に足を踏み入れたとたん、その教会が死んでいるか、生きているかがわかります。そのいくつかの特徴をあげてみましょう。第一に、生きている教会というのは、信徒がワイワイ、ガヤガヤ楽しげにおしゃべりしています。それは、自分が正しいと思われようとか、信仰的あるいは霊的に見られようとして自分を規制する必要がないので、自分のありのままの姿をみんなの前でさらけ出すことができるからです。心が開かれているので、ついしゃべってしまいます。ですから、礼拝が始まる直前までワイワイ、ガヤガヤ、祝祷が終わって「アーメン」と言ったとたんに、またみんながワァーとしゃべり出してしまいます。第二に、恵まれている教会には笑いがあります。しょっちゅう笑い声があちらこちらから聞こえてきます。そして、あらゆる面での人々の感情表現が豊かになります。笑いもその1つですが、悲しみ、苦しみも素直に表されています。悲しいときは無理に平静を装うことなく、素直に悲しいと言い、具合が悪いときは具合が悪い、痛んでいるときは痛んでいると包み隠さず表すことができます。第三に、いのちのある教会では、個性的な信徒が育っています。…(途中、割愛して)反対に律法的な教会の特徴としては、あまり自由な会話がありません。すぐにさばかれてしいそうで、気楽に話せないのです。「霊性が落ちる」「教会には関係ない」「くだらない」という冷めた声が聞こえてきます。また、信徒の顔に表情がないこともあげられます。みんな同じ顔をしています。あまり悲しまないし、笑わないし、何か厳粛で重々しい雰囲気があたりにただよっています。確かにそれは、ある人にとっては霊的で信仰的な態度かもしれません。しかし、それは人間性が死んでいってしまいます。このように人間は、律法の下では死んでしまうということです。

3.律法からの解放

 パウロはローマ6章で私たちクリスチャンは「罪から解放されている」と言いました。しかし、クリスチャンは律法からも解放されていることを知りません。解決のヒントとなるみことばがこれです。ローマ614-15「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」ウォッチマン・二-は『キリスト者の標準』と言う本の中で、恵みと律法の違いについて教えています。「恵みとは、神が私のために何かをされることを意味し、律法は、私たちが神のために何かをすることを意味します。神は私に、聖くて義しい一定のことを求めておられます。これが律法です。さて律法が、私に何かをせよとの神の要求を意味するのであれば、律法からの解放とは、神はもはやそのことを私に求めず、神ご自身がそれを備えて下さることを意味するのです。律法は、私が神のために何かをすることを意味し、律法からの解放は、私がそれを行うことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれをなされることを意味します。肉につける私は、神のために何もしなくて良いのです。それが律法からの解放です。ローマ7章の問題は、肉につける人が、神のために何かをしようと努力しているところにあります。あなたがそのようにして神を喜ばせようとすれば、必ず自分を律法の下に置くことになり、そしてローマ7章の経験が、あなたのものとなり始めるのです。」

 この世で妥協して生きている人ではなく、真面目なクリスチャンが7章の経験をします。「せっかく救われたのだから、神さまのためにお役に立ちたい」と自分を捧げた時から悲劇がはじまります。だまっていれば、すばらしい人なんですが、少しでも動き出すなら、失敗を重ねてしまいます。ウォッチマン・二-はさきほどの本の中で、「そこつな召使い」のことを書いています。彼がじっとしておれば、そのそこつさは表面に出ません。彼は一日中何もせずじっとしておれば、何の役にも立ちません。ところがもし彼に「さあ、怠けないで何か仕事をしなさい」と言えば、すぐさまトラブルが起こるのです。彼は立ち上がる拍子に、まずイスをひっくり返し、数歩先へ行ったところで、踏み台につまずいて倒れるでしょう。大切なお皿を手にしたとたん、それを壊してしまいます。あなたが彼に何も要求しないなら、彼のそこつさは分かりませんが、何かするように頼んだとたんに、彼は本性を表わすのです。…何を言いたいかと申しますと、神さまが私たちに何も求めなければ、私たちは義なる人であり、聖い人です。なぜなら、聖書は「あなたは罪赦されて、聖い人である」とおっしゃっているからです。でも、神さまから何か求められるや否や、私たちの罪性が暴露されます。律法は私たちの弱点を表わします。でも、何故、神さまは律法を与えたのでしょうか?その理由は「私が頭のてっぺんからつま先まで罪に満ちていること、私が弱さの化身であり、私には何もできないことを」教えるためです。神さまは私たちが何者であるかをよく御存じです。問題は、私たちは口先ではそう言っても、心からそう信じていないのです。そのため神さまは、その事実を私たちに自覚させるために、律法を与えたのです。

 パウロは落ちるところまで落ちました。ローマ722-24「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」パウロは律法によって「私は全く弱く、かつ望みのないものである」ところまで達しました。神さまは、もともと私たちが律法を守ることができないということをご存じだったのです。律法を通して神さまに受け入れられた人は、かつて一人も有りません。律法は私たちの真の姿をさらけ出します。私たちは余りにもうぬぼれており、自分は強いと考えています。だから、神さまは私たちを試み、私たちがどんなに弱い者であるかを証明しなければならないのです。パウロは「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と、どん底から叫びました。そして、どん底に落ちてみてすばらしいことを発見しました。ローマ725「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」私たちは「ローマ7章の24節と25節の間に一体何があったのだろう?」と思います。一体、パウロは何を発見したのでしょうか?パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と叫んでいます。おそらくパウロは、キリストが私の代わりに律法を全うしてくださった。私はキリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえったので、律法に答える必要はないと分かったのです。ガラテヤ219-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。

 神の律法は無効になったのではなく、キリストによって完全に成就されたのです。そのことによって、あなたは、律法から解放されたのです。それはどのような意味を持つでしょうか?それは今後、神さまのために、何一つとしてしないということです。神をお喜ばせしようとする努力など、決してしないということです。しかし、もし私が「肉にあって」神さまを喜ばせようとすれば、すぐさま私は自分自身を「律法の下に」置くことになり、やがては死んでしまいます。しかし、感謝すべきことに、キリストが私の内にあって、神さまに喜ばれる働きをしてくださるのです。私たちの内に働かれるのは神であるキリストです。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」。いや喜ばせる必要はないのです。神さまはキリストにあってすでに満足しておられます。これからは、肉で行う必要はありません。神であるキリストがあなたの内に生きておられ、あなたの内から働いてくださるのです。これが律法からの解放です。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ127)

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