2012年8月19日 (日)

目をさましていなさい   Ⅰペテロ5:8-14 

 悪魔は今も生きて働いている霊的な存在です。悪魔に対しての両極端があります。1つは、悪魔を無視して、全く気をつけない人です。残念ながら、悪魔の存在を認めない教会もあります。それでは、戦う前から負けている状態です。悪魔は神の敵であり、私たちの敵でもあります。もう1つは、悪魔を神さまよりも力ある者として恐れることです。病気や事故、何でも悪魔のせいにする人がいます。確かに背後で働いていますが、私たちの不注意や人間の罪が原因で起こることもあります。あまり、悪魔や悪霊に過敏になるというのも問題です。何事もバランスが必要です。この世において、悪魔は働いていますが、信仰をもって立ち向かえば勝利できるのです。

1.悪魔の策略

 「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と孫子が言いました。悪魔の策略、悪魔の常套手段を知るということはとても重要です。最初の人間、アダムとエバはどうして悪魔の誘惑に負けたのでしょうか?神のようになりたいという高ぶりが原因でした。また、悪魔は神のことばに疑いをかけました。「神は本当に言われたのですか?」と言いました。そして、私たちには、元来、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りという弱点があります。悪魔はここを付いてくるということも確かです。でも、だれが悪魔に完全に勝利したのでしょうか?そうです。イエスキリスト様です。イエス様は公生涯に入る前、40日間断食して、悪魔の試みに会われました。神のことばによって、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りに勝利しました。また、イエス様は神の御子であられたにも関わらず、いつも父なる神さまに謙遜に従われました。イエス様は最後に十字架と復活により、悪魔の仕業を砕いてくださいました。悪魔の仕業、武器とは何でしょう?黙示録1210には「兄弟たちの告発者、日夜彼らを神の御前で訴えている者」と書いてあります。そうです。私たちの罪を

責め立てるのが悪魔であります。しかし、イエス様が十字架で血を流されたことにより、私たちのすべての罪が赦されました。もう、悪魔は私たちを訴えることはできないのです。それでも、悪魔は「お前の罪はもう赦されない。神もお前を見捨てているぞ」と嘘を言ってきます。これで、洗礼を受けた数多くのクリスチャンが教会から離れてしまいます。本当に残念です。

 ヨハネは「悪魔は3つのことをするので気をつけよ」と教えています。ヨハネ1010「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」盗人とは悪魔のことであります。盗み、殺し、滅ぼすことが悪魔の主な目的です。悪魔は私たちの何を盗むのでしょうか?悪魔は私たちの永遠のいのち、救いを奪うことはできません。なぜなら、私たちのいのちは神さまのふところにあるからです。イエス様はヨハネ1028「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と言われたからです。では、何を盗まれるのでしょうか?それは「豊かないのち」です。豊かないのちとは、永遠のいのちという意味だけではありません。これは地上でも、豊かに生きることができる神の祝福という意味です。私たちは貧しく、ひもじい思いをして、はいつくばって天国に行くのではありません。イエス様を信じたということは、この地上でいながら神の国、天国に入ったということです。ということは、この地上でも天国の豊かさを味わうことができるということです。しかし、悪魔はそれらを私たちから盗むのです。「あなたは良きものを盗まれていませんか?」家族や夫婦の幸せがどうして盗まれているのでしょう?互いに欠点を上げつらい、争っているからではないでしょうか?悪魔が「もっとやれ!」とけしかけています。どうして経済的に貧しいのでしょうか?神さまを第一にしないで、この世のものにお金を使っているからではないでしょうか?「殺し」とは何でしょう?羊がどうして殺されるのでしょう?神の群から離れ、孤立してしまうのはとても危険です。誘惑に負けて罪を犯してしまうとどうなるでしょう?悪魔が肉体的ないのちを奪うでしょう。病気もあるもの、悪魔が持ち込むものもあります。もちろん、すべての病気が悪魔から来るものではありません。アダムとエバが罪を犯したことが最大の原因です。でも、人を赦さない罪、中毒性の罪、偶像崇拝は悪魔に対してドアを開けてしまいます。ですから、罪を悔い改めて後ろのドアを閉めましょう。「滅ぼし」とは何でしょう?悪魔は何をもって私たちを滅ぼすのでしょうか?罪です。私たちが罪を犯すことにより、自ら滅ぼされるということです。悪魔は私たちに罪を犯すように誘惑するということです。神さまはこの世界を造ったときに、道徳的な法則も造られました。高いところから落ちると怪我をするように、罪を犯すとそれなりの罰を受けるということです。それは神さまが愛であるとかないとかは関係ありません。たとえば、ある人が怒りや憎しみを持っているとします。悪魔はそれを用いて、放火や殺人へと駆り立てます。またある人がむさぼりを持っているとします。悪魔はそれを用いて、盗みや姦淫へと駆り立てます。悪魔は「今が良ければいいじゃないか」と言いますが、身を滅ぼすような破壊的なことがその先に待ち受けています。

 この世の人たちは、神さまを信じないばかりか、悪魔の存在も信じていません。だから、悪魔は「盗み、殺し、滅ぼし」やりたい放題です。私たちクリスチャンは敵がいることを忘れてはいけません。悪魔は別名サタンとも呼ばれていますが、それは「敵」という意味があります。悪魔は神さまと戦うと負けるので、その代わり、神の子どもをやっつけるのです。もし、神の子どもが惨めな生活をして、敗北するならば、悪魔は大喜びするでしょう。私たち人間が神から離れ、滅びへ向かっていくことが悪魔の願いです。悪魔は将来、火の池で滅ぼされることが決まっています。しかし、一人で行くのではなく、神に造られた人間を道連れにしたいのです。「そうすれば、神は思いを変えて、自分をも赦してくれるかもしれない」と考えているからです。私たちは悪魔の同じところに行ってはいけません。イエス・キリストはそのために十字架にかかり血を流してくださったからです。イエス・キリストを信じる者は、サタンの支配から神の支配に移されるのです。そして、この地上でも豊かないのちを持ち、幸いに暮らすことができるのです。

2.悪魔との戦い

 Ⅰペテロ58-9「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」ペテロは「クリスチャンであるならば、だれも悪魔との戦いは避けることができない。みんな、同じような苦しみを通って来たんだ。」と言っています。悪魔との戦いで最初に言われていることは何でしょう?「身を慎み、目をさましていなさい」ということです。「身を慎み」は、原文では「酔っていない、しらふである」という意味です。また「目をさます」とは、「油断せず注意をしている」という意味です。第一のポイントで悪魔の策略についてお話ししました。悪魔はどこに隠れているのでしょうか?罪の背後に隠れているのです。しかし、悪魔はかしこいので、罪に美しいラッピングをほどこしています。だから、外から見るとそれは罪とは全くわかりません。もし、私が酔って新宿歌舞伎町を歩いていたらどうなるでしょうか?目の前から絶世の美女が近づいてきます。「わぁ、こんな美しい人が世の中にいるのだろうか?」とても良い香りがしてきます。白魚のような手が私の手に触れます。「あなたのような素敵な方を待っていました」。「えー?そうですか?」とフラフラと着いていきます。箴言7章「ついには、矢が肝を射通し、・・・よみへの道、死の部屋に下って行く」のです。悪魔は醜いかっこうをしていません。むしろ、美しくて魅力的で、かっこよいのです。初めから醜かったら、だれもやられません。悪魔は私たちが欲しているのを良く知っています。悪魔は私たちが満たされたいものを良く知っています。だから、身を慎み、目をさましているべきなのです。かえるは変温動物なので、水の温度があまり分からないそうです。バケツに水を入れ、そこにかえるを入れます。バケツをコンロの上に置いて、下からあっためます。ぬるま湯になっているのにかえるは「気持ち良い」とか言って逃げません。かえるは、そのままゆであがるそうです。悪魔もいきなりではなく、じわじわと攻撃してきます。私たちの良心が麻痺して、気付いた頃はもう手遅れです。ですから、共同体である教会から離れず、身を慎み、目をさましているべきです。指導者や親しい人の助言を無視してはいけません。

 悪魔は罪の誘惑を与えるのが第一の手段ですが、二番目は何でしょう?8節の半ばに「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と書いてあります。新約聖書的には獅子であるライオンは、鎖につながれていると思います。私はある範囲しか動けないと信じます。しかし、悪魔のテリトリーに入るならば、一発でやられてしまうでしょう。鎖につながれていても、できることがあります。それは、吼えるということです。「がおー」と吼えられたら、だれでも萎縮してしまうでしょう。それで、持っているものを落としたり、恐れて何もしなくなるでしょう。つまり、悪魔が私たちに与えるものは「恐れ」です。もし、私たちが恐れにつかまるならどうでしょうか?神さまを信頼しないで、そこに立ち止まるか、あるいは後退してしまうでしょう。神の指導者の前に立ちはだかるのは、恐れです。これまでも何回も失敗した。新しいことをやってもまた失敗するだろう。失敗への恐れです。恐れと失望落胆は双子の姉妹です。イスラエルがミデヤンにやられているとき、神さまはギデオンを選びました。しかし、ギデオンは隠れて、酒ぶねの中で小麦を打っていました。主の使いが現れ、こう言いました。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」。しかし、ギデオンは私の分団は最も弱く、私は一番若いのです」。ギデオンはいろんな言い訳をします。最後に、主の使いは「安心しなさい。恐れるな」と言いました。何故、恐れてはいけないのでしょうか?神さまは恐れる者と共にいることができないからです。何度も話したことがありますが、子どもの自転車乗りを教えたときがあります。4人も教えたのでベテランです。「パパが後ろから押さえるから、ペダルをこんでごらん」と言います。子どもがハンドルを握ってさえいれば、自転車はどこへでも行けます。こっちが荷台をしっかりささえているからです。でも、子どもが「恐い」とか言って、ハンドルを離したらどうなるでしょう。ハンドルは「くにゃ」と曲がって、それ以上、前に進めません。ハンドルを握るとは信仰に立つということです。私たちが信仰に立つなら、神様は私たちをささえて、進ませることができるのです。悪魔は私たちが信仰に立たないように、吼えて、恐れさせるのです。恐れてはいけません。主が共にいて、勝利させてくださるからです。

 パウロはエペソ6章で「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と言いました。神様はどこにでも遍在できるお方です。しかし、悪魔は神ではないので、どこにでも遍在できません。そのため、子分をたくさん持って、組織しています。主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊とは、悪魔の階級的な組織を指すと言われています。詳しくはわかりませんが、国の上を支配する力ある悪霊がいます。ダニエル書に「ペルシャの君、ギリシャの君」というふうに出てきます。おそらく州や地方を治めているのでしょう。宗教や思想、文化や芸術を支配している悪霊もいるかもしれません。固定した考えが、要塞のようになって、神さまの真理を受け入れることができません。あとは、個人や家系を攻撃して悪さをする悪霊がいます。悪霊は住むべき家をさがしています。肉体がないので、自分と似たような家をさがしています。汚れたことをしている人には汚れた霊が入り、もっと悪くなります。しかし、重要なのは「私たちの格闘は血肉に対するものではない」ということです。これは、人間との戦いではないということです。自分の夫や妻を悪魔と言ってはいけません。職場や教会のだれかを悪魔と言ってもいけません。悪さをしているのはその人の背後にいる悪魔なのです。その人は悪魔の手先として、用いられているだけなのです。私が座間キリスト教会にいたとき、会堂を増築しようという計画がありました。発注していた建設会社が倒産し、手付金が戻らなくなりました。そのことで、ある兄弟が牧師先生を訴え、あることないことを全国の教会にばらまきました。かなりの兄弟姉妹も影響を受け、教会を離れました。なんと最高裁まで争われ、10年かかったそうです。訴えた兄弟のその家族はどうなったのでしょうか?可愛そうです。サタンに用いられてしまったのです。サタンは「兄弟たちを訴える者」ですから、その片棒をかついでしまったのです。不正に目をつぶりなさいということではありません。悪魔はそういうことを用いて、教会に分裂を起こそうと狙っているということです。教会に分裂があるのは、悪魔が背後にいることを知らないで、人間同士が戦っているからです。教会は議論するよりも、祈ることの方がずっと重要です。だから、パウロはエペソ6章でこのように命じているのです。エペソ618「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

3.神さまの計画

 それでは、なぜ神さまは悪魔の活動を許しておられるのでしょうか?私たちを滅ぼそうとする悪魔をどうして放っておかれるのでしょうか?Ⅰペテロ55:10-11 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」このところに、神さまのご計画、神さまのみこころが記されています。神さまは、悪魔の活動から来る、さまざまな苦しみをどうして許しておられるのでしょうか?この箇所を見ると、神様は第一に、私たちを永遠の栄光の中に招きいれてくださいました。私たちがキリストを受け入れたことにより、神の御国に招きいれてくださったということです。では、そのまま天国の神さまのみもとに召してくだされば良いと思います。しかし、神さまは私たちを地上に残して、しばらくの苦しみをあえて通されるようです。神様、「なぜ、悪魔がいる地上に私たちを残されるのですか?」と言いたくなります。これが正しいかどうか分かりませんが、こういうたとえがあります。生きた魚を水槽に入れたまま運ぶ車があります。長時間も運ぶと、お店についた頃、魚はぐったりしてしまいます。そこで、水槽に蛸をわざと入れるそうです。蛸は魚に悪さをします。魚は適度に緊張するため弱らないということです。元気なままで天国に行くために、蛸ならぬ、悪魔いるのでしょうか?ペテロは何と言っているでしょうか?「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とあります。ここには苦しみや試練を通過すると、私たちに4つのことが結果として起こると書いてあります。

 第一は完全になるということです。「完全」とは、元来「整頓する、調整する」という意味から来ています。いろんな苦しみや試練で私たちが整頓され、調整されるのでしょうか?山から切り出された岩は形も不揃いでザラザラしています。それが苦しみや試練のノミで削られます。ガチン、ガチン、ガチン。神の宮を築く石になるためには、整えられる必要があります。ガチン、ガチン、ガチン。痛いです。でも、最後に完成された石になります。第二は「堅く立たせ」とあります。原文は建物を建てるときの基礎の堅さと関係しています。最初、信じた頃はとても不安定です。ちょっとしたことで恐れたり、疑ったりします。でも、いろんな苦しみや試練を通るとどうでしょうか?神さまに対する信仰が堅くなり、ちょっとやそっとのことでは躓きません。私たちの信仰はここまで来る必要があります。第三は「強くし」とあります。これは、「積極的な活動のために備える」という意味があります。鍛えると筋肉が強くなります。同じように奉仕のための力が増すということです。第四は「不動の者」としてくださるということです。これは「土台が置かれる」とか「堅固になる」という意味があります。とにかく、神さまが私たちに悪魔からくることの試練や苦しみを許すのには意味があるということです。ひとくちに言えば、神様に対する信仰が確立するということです。しかし、これはとても逆説的であります。悪魔からくることの試練や苦しみが来たら、信仰を捨てて、神さまから離れることもあるでしょう。しかし、神さまは信仰に堅く立ち、ご自身としっかり結びつくことを願っておられるのです。神さまがなぜ、悪魔の存在を許しておられるのかはっきりとは分かりません。なぜ、信仰を持ったとしても、なぜ試練や苦しみがあるのでしょう?わからないことだらけです。

 私たちには、この地上でいろんな試練や苦しみに会います。あるものは誰かのせいで、またあるものは自分の過失で、またあるものは悪魔的な力によって、またあるものは自然災害によってもたらされます。そういう時、「ああ、どうしてこんなことが起きたんだろう」と後悔したり、悔しがったりします。「神さま、イエス様を信じているのにどうしてこんなことが起きたんですか?」と文句を言います。大切なものを失ったり、病気や怪我もあるでしょう。失敗や不運としか思えないこともあります。どうしてそんなことが起きたのか、さっぱり分かりません。多くの場合、神さまはその理由を教えてくれません。「なぜ、どうしてですか?」と聞いても無駄です。それよりも、「何のためですか?」と聞くべきです。少なくとも1つのことだけは確実に分かります。それは、「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる」ためです。ひとことで言うなら、私たちの信仰が堅固なものとなるためです。私たちは「ああ、このことは私の過失なので、神さまの御手の外にある」と思うかもしれません。「ああ、このことは、悪魔が引き起こしたことなので、神さまの御手の外にある」と思うかもしれません。そんなことはありません。どんなことでも、神さまがそれを許されたのですから、神さまの御手の中にあります。そして、神さまが一番になさりたいことは、私たちの信仰が堅固なものとなることです。最終的には、私たちが神さまをあがめるようになるためです。「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」

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2012年8月12日 (日)

神にゆだねなさい    Ⅰペテロ5:6-7

みなさんは学校のとき、国語の成績はどうだったでしょうか?私はあまり良い方ではありませんでした。本もほとんど読みませんでした。一番上の兄が、下の弟や妹に、筑摩書房の日本文学大系全50巻を買ってくれました。しかし、その中の数巻しか読みませんでした。そのほとんどが、実家の秋田にあります。牧師になってから、本を読んでいます。ところで、聖書には節とか段落というものがあります。原文のギリシャ語にはありませんが、便宜上、そういうふうになっています。前回の礼拝では1節から5節まで学びました。なぜなら、段落がつけられており、1つの塊になっているからです。でも、ある英語の聖書は1節から4節までが1つの塊で、5節から7節までが1つの塊になっていました。きょうは、6節からですが、前の5節も関係しているということを最初に申し上げます。

1.へりくだりなさい

Ⅰペテロ56「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」ここに「へりくだる」とありますが、どういう状況でへりくだるのでしょうか? 6節のはじめに「ですから」と書いてありますので、前の節と繋がっています。では、5節を読んでみます。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」若い人たちに対し、長老たち(教会の指導者)に従いなさいと命じられています。戦争に負けてから、「権威に従う」ということがあまり言われなくなりました。家庭でも父親の権威は失墜し、学校でも先生の権威が失墜しています。そのために、家庭も学校も混乱しています。では、教会はどうでしょうか?牧師の権威を強調するとカルトみたいにとられます。当教会は、1995年からセルチャーチを導入しました。そのとき「フラット」「フラットになる」ということばがはやりました。牧師と信徒とのフラットな関係です。セルチャーチで共同体になるのは良いのですが、弊害も出ました。それは聖書的な権威がなくなり、みんなタメ口になります。みんなモデルのローラのようになります。確かに神さまの前では牧師も信徒もフラットかもしれません。しかし、牧師には身分ではなく機能としての権威が与えられています。その人自身を守るため、あるいは群全体を守るために、「ノー」と言わなければならない時もあります。だから、ペテロは「若い人たちよ。長老たちに従いなさい」と命じているのです。長老たちとはだれかと言うと、1節から4節まで書いてある、神の羊を養う指導者のことであります。指導者に従うということは、結局、その人自身が守られるということなのです。

でも、その後に何と書いてあるでしょう?「みな互いに謙遜を身に着けなさい」とあります。「若い人たちだけではなく、指導者たちもそうですよ」ということです。なぜなら、指導者たちこそ、高ぶる恐れがあるからです。聖書では、謙遜というのが衣服のようにたとえられています。みなさんは、家の中では普段着かもしれませんが、一歩、外へ出るとある程度の服を着るでしょう。いくら暑くても裸で外を歩く人はいません。同じように、教会という神の家族の中でも、衣服が必要です。それは、「謙遜」という衣服です。春ごろですが、近くにアリオ1階のヨーカドーに買い物に行きました。レジをすませた後、はおっていたジャンパーが裏表であることに気付きました。家から買い物をしている間、ずっと裏表だったんですね。今どきの流行で、裏表もアリかもしれません。しかし、いいおじさんが、そういうファッションはしないでしょう。いやー、顔から火が出るような思いをしました。みなさん、「謙遜」という衣服を着ていますか?それを来ていないと、高ぶりが丸出しになります。私たちは努力しなくても、自然に高ぶることができます。謙遜には努力が必要ですが、高ぶりには努力はいりません。うまくいくと、「俺がやった」「私がやった」とつい誇りたくなります。特に能力のある人、人の前に立つ人は、要注意であります。私はJCMN、セルチャーチ・ネットワークに属しています。私はこれでも関東のコーディネーターであります。香港のベン・ウォン師が6年位前にやって来て「できる、できる、教会開拓はできる」と言いました。練馬グレースもそれに踊らされて「10年で40の教会を生み出す」と宣言しました。あれから3年たっても1つも生み出していません。今年の春、私は怒って「本質だけじゃ分からない。日本人は方策や戦略も教えてもらわないとダメなんだ」と言いました。他の先生も「そうだ、そうだ」とか言って、今年から新しい取り組みを始めました。先月もすばらしいセミナーを持つことができました。私は「次回の10月はこういうテーマで学びましょう」と提案しました。家に帰ってから、どうなったでしょう?高ぶりがありました。家内に「私がこうした」「私がこう言った」と言いました。寝る前に、「自分は高ぶっているなー」とすぐ分かりました。確かに、神さまは私に知恵を下さったかもしれません。しかし、もっとすばらしいことは小笠原先生をはじめ、他の先生方が「そうだ、そうしよう」とへりくだって下さったからです。私が、このまま高ぶるなら、やがてそっぽを向かれるでしょう。本当に恐ろしい思いがしました。高ぶるのには努力はいりません。へりくだるのに努力が必要なのです。

6節後半の、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」とはどういう意味でしょう?「神の力強い御手」とは何なのでしょうか?そのヒントはやはり、前の5節にあります。神さまはどのような力を持っておられるのでしょうか?前の5節後半には「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えるからです」と書いてあります。神さまは高ぶる者に対して敵対します。反対に、へりくだる者には恵みを与えてくださるお方です。旧訳聖書を読むとわかりますが、神さまを捨てて高ぶった王様はすぐ退けられています。しかし、へりくだって神さまと共に歩んだ王様は長く用いられました。確かに、神さまは生きて働いておられます。ハドソン・テーラと言えば、中国の奥地伝道で有名な宣教師です。彼は一人で中国に乗り込み、とても大きな働きをしました。数年後、本国から宣教師が送り込まれ、宣教団体ができました。ハドソン・テーラは助けになると思いましたが、そうではありませんでした。他の宣教師たちは「何故、お前だけが勝手にやるんだ」と彼をねたみました。ハドソン・テーラは神さまに「私がこんなに一生懸命やっているのに、なぜ、他の人たちは邪魔をするのですか」と文句を言いました。神さまは、彼に1つの幻を見せてくれました。流れの早い川の真中に自分が立っていました。流れが強い上に、石ころまでゴロゴロ流れてきます。彼は神さまに「これでは立っていられませんよ。石も痛いですよ」と、文句を言っています。そのとき、神さまが「あなたは立っているから抵抗に合うのです。川底に潜りなさい」と言いました。ハドソン・テーラは川底に潜りました。そうすると、川の水も、石ころさえも自分の上を流れていきました。自分は全く害を受けませんでした。彼は「川底に潜るとは、へりくだることなんだ」ということが分かりました。私たちも、へりくだるなら、人のねたみや妨げも問題にはならないということです。

神さまはどんなお方でしょうか?「ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」とあります。創世記にヨセフという人物が出てきます。彼はラケルの子どもで末っ子でした。それで父ヤコブからとてもかわいがられした。あるとき、ヨセフは「夢を見たよ。父も兄弟たちも自分を拝んだよ」と自慢しました。そのため、兄たちからねたみを買い、エジプトの奴隷に売られました。ヨセフはポテファルの家で仕えました。良いところまで行きましたが、誤解されて、牢獄にぶちこまれました。あるとき、牢に入れられた高官の夢を解き明かしました。「ここを出られたら、私のことを王様に話してください。無実の罪で入れられているのです」とお願いしました。しかし、その高官はコロッと忘れてしまいました。それから2年後、パロ王が夢を見ました。王さまは、その意味がまったく分からなくて、イライラしていました。「だれも、私の夢を解き明かせる知者はいないのか?」すると、あのときの高官が「ああ、一人います」と思い出しました。一番、良いときにヨセフは牢獄から呼び出され、王様の夢を解き明かしました。そして、彼は奴隷からエジプトの総理大臣になりました。なんと、ヨセフは17歳から30歳まで、13年間奴隷だったのです。そのとき、ヨセフはすっかり謙遜になっていました。「夢を解き明かすのは私ではなく神さまです」と言いました。さらには、自分を奴隷に売った兄弟たちを赦し、エジプトに非難させました。そのように、神さまはちょうど良いときに高くしてくださいます。下積み生活で苦しんでいる人もいるかもしれません。「ぜんぜん、報いられない」とぼやいているでしょうか?でも、神さまは今も生きておられます。6節をもう一度、お読みいたしましょう。5:6 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。

2.神にゆだねなさい

Ⅰペテロ57「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」「思い煩い」は、心配事、問題や悩み事とも言い換えることができます。だれしも、心配や悩み事があるのではないでしょうか?しかし、心配や悩み事が全くない人たちがいます?それは墓石の下で眠っている人たちです。生きているからこそ、心配や悩み事があるのではないでしょうか?では、クリスチャンになったら、心配や悩み事がなくなるでしょうか?なくなりません。この手紙は、クリスチャンに充てられたものです。彼らも思い煩っていたのです。だから、ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と言ったのです。生きているから、思い煩い、心配や悩み事があるのです。ハレルヤ!でも、私たちがこの世の人たちと違うところはどこでしょう?それらをゆだねられる神さまがおられるということです。英国の聖書はこう書いています。Cast all your cares on hem, for you are his charge.直訳するならば、「あなたの心配事すべてを彼に放り投げなさい。なぜなら、あなたは彼の責任だからです。」「彼」とはもちろん神さまのことです。Castというのは、釣りのキャスティングと同じ意味です。私たちは「放り投げるなんて、そんなに乱暴で良いのでしょうか?」と心配になります。でも、神さまがあなたの担当だったら、良いのではないでしょうか?これは昔あった紡績工場の話です。工場の中では、大きな紡織機が立ち並び、女工さんたちが忙しく働いていました。相手は機械ですから、糸が絡むことがたまにあります。あるとき、糸が絡んだため、担当の女工さんが一生懸命、直そうとしました。しかし、こんがらがって、余計おかしくなりました。それで、女工さんが「技師を呼びました。」彼女は「一生懸命、直そうとしましたが、うまくいきませんでした」と告げました。技師が彼女に言いました。「あなたがすべきことは、機械を直すことではありません。私を呼ぶことでした」。世の中にはいろんな専門家がいます。心配や悩み事を受ける専門家は私たちの神さまだということです。ハレルヤ!

では、教会で仕えている牧師の役目とは何なのでしょうか?一時代前の牧師の理想像は、教会員のお世話をすることでした。小笠原先生も本当によくお世話をします。人の話を何時間も聞いても平気です。私たちもJCMNで多くの牧師先生方のコーチングをしています。一番難しい人を小笠原先生が担当します。私などは「その人は牧師の賜物がないんだから、無理だよ」とはっきり言います。しかし、先生はそうではありません。向こうが「もう結構です」というところまで、とことん付き合います。私はバウンダリー(境界線)ということを学んで、「本当に良かったなー」と思っています。日本人の多くは共依存です。共依存は、「本来、その人がやるべきことを、代わりに負う」ことから来る問題です。つまり、他の人の責任を自分が負うということです。子どもの責任、妻の責任、夫の責任、だれかの責任です。その人の代わりに、親が負ったり、夫が負ったり、妻が負ったり、子どもが負ったり、だれかが負ったりします。そうすると、負われた人はどうなるでしょう?その人の身勝手さ、弱さ、中毒がずっと治らないということです。なぜなら、親切な人が自分の問題を取り除いてくれるからです。負っている親切な人はイヤイヤながらやっているので、心の中は怒りと憎しみがいっぱいです。なぜ、イライラして、悩み事が多いのでしょう?身勝手な人の問題まで背負っているからではないでしょうか?どうすれば良いのでしょう?余計な世話をしなければ良いのです。洗濯物がたまっても、部屋がちらかっても、宿題を忘れても、借金が重なっても、中毒で死にそうでも、放っておけば良いのです。「冷たいじゃないですか?いつ助けるのですか?」と言うでしょう。私たちが助けられるのは、その人が本当に困ったときです。いくら水泳が上手な人でも、水に落ちたばかりの人を助けないそうです。もし、飛び込んだら、しがみつかれて一緒におぼれてしまうそうです。その人がおぼれて、本当に弱ったときに、飛び込むのです。私たちはそういう人たちの消耗品になってはいけません。牧師が本来すべきことは、神さまにゆだねることを教えることだと思います。最初、少しくらいは持ってあげるかもしれません。しかし、その人が自分の重荷を持つことができるように訓練することがより重要です。中には、人の世話をするのが好きな牧師がいます。多くの人が自分を頼ってくるのを生きがいにしている牧師もいるかもしれません。それこそ、共依存の牧師だと思います。聖書にははっきり、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いてあります。面倒を見てくださる神さまのところに連れて行くことが最も重要なことです。

17世紀、イギリスにおいて理神論なる考えが生まれました。そして、18世紀のフランス革命以降、ヨーロッパ中に広がりました。理神論者は、神さまが世界を創造したことは信じています。しかし、神さまがこの世界に一定の法則を与えて創造した後、手放したという考えです。つまり、神様の手を離れた世界、自然界が意思をもって動いているということです。人々は「神様はこの世界には関知していない」「神さまはいらない」「神さまは死んだ」と言い始めました。神さまはどこかに存在していたとしても、この世界にはめったに干渉しないんだということです。ダーウィンが「自然に生物が誕生し、自然に進化した」と言いました。世の人々は「私たちはやっと神さまから自由になれたんだ。神さまなしで生きてゆけるんだ。この地上にユートピアを築くんだ」と言いました。ところが、第一次、第二次世界大戦が起こり、不安と恐れ、虚無が人々の心を支配しました。神さまがいないんだったら、自分たちで心配しなければなりません。人口増加、食糧危機、温暖化、自然災害もそうです。科学が進歩し、物質的に豊かになりました。しかし、今、多くの人たちの精神が病んでいます。なぜなら、不安と恐れと虚無を取り去ることができないからです。神さまは世界を造ったけれど、後は放っておいているのでしょうか?聖書は「世界を造られた神様は、今も世界を保っている」と言っています。神さまは私たちの心配や不安に無関心なお方ではありません。聖書には「神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いてあります。問題なのは、神さまではなく、神さまに背を向けている人間の方なのです。神さまは解決を持っています。人口増加、食糧危機、温暖化、自然災害、資源不足、家庭崩壊、失業問題…すべてに対する解決を持っています。

ある人が「神さまは失業問題に関心を持っているんですか?」と牧師に質問をしました。その牧師はオーストラリアの牧師でしたが、このように答えました。「マタイ福音書の20章を開いてください。そこにはぶどう園で働く労務者を雇う記事が書かれています。主人は早朝、午前9時、お昼、午後3時に、雇用するためにでかけました。しかし、それだけではありません。午後5時にも出かけ、仕事にあぶれている人たちを見つけて、彼らを雇いました。たった1時間しか働かなかったのに、一日分の賃金を与えました。なぜ、そのようなたとえ話が書いてあるのでしょう?神さまは失業問題にも関心があるからです。」そのように答えました。あなたはご自分が持っている悩みごと、心配事を独り占めして、神さまにゆだねていないのではないでしょうか?「この問題は、私が一番良く知っています。神さま、どうか私を見守ってください」と、そのように祈ってはいないでしょうか?私は「神様、私を見守ってください」という祈りが大嫌いです。なんという傲慢な祈りでしょうか?「私がやりますので、遠くから見守ってください」。そうではないと思います。私はむしろこのように祈るべきです。「神さま、一緒にやりましょう」と言うべきです。今、神さまは聖霊によって一人ひとりのところにいらっしゃっています。実際に、私たちと行動して、私たちを助けてくださるのは聖霊様です。韓国のチョー・ヨンギ牧師は、一番、多いときで70万人の教会を牧会していました。どうやって、それが可能なのでしょうか?ヨイド純福音教会の成長の秘訣は2つあります。1つはすべての信徒が区域に属し、区域長が彼らの世話をしました。区域長が10の家族を面倒みたのです。そして、もう1つは聖霊様の働きです。チョー・ヨンギ牧師がいつも言っていたことはこれです。「愛する兄弟姉妹。ここにいらっしゃっておられる聖霊様を歓迎しましょう。聖霊様を認めましょう。聖霊様に従いましょう」。聖霊様を歓迎し、認め、従うということです。なぜなら、聖霊様が私たちの助け主だからです。

きょうは2つのことを学びました。第一は高ぶらないで、へりくだるということです。神さまの力強い御手の下にへりくだるなら、どうなるのでしょうか?神さまはちょうど良いとき、私たちを高くしてくださいます。第二は思いわずらいを、いっさい神さまにゆだねるということです。ゆだねたらどうなるのでしょうか?神さまが私たちのことを心配してくださいます。神さまは今も生きて働いておられます。だから、神さまは、私たちを高くしてくださり、私たちのことを心配してくださるのです。本当に神さまが生きておられるのかどうして分かるのでしょうか?それはこのみことばの通りに実行すると分かります。どうぞ、今、この瞬間、祈ってみましょう。祈りの中でへりくだり、祈りの中で思いわずらいをゆだねましょう。そうするなら、私たちの共におられる神さま、聖霊様が奇跡を起こしてくださいます。それでは、共にお祈りしましょう。そして、今週、そのような奇跡が起こるかどうか期待しましょう。

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2012年8月 5日 (日)

神の羊の群を牧しなさい    Ⅰペテロ5:1-5

先月「亀有教会の理念」が発行されました。その中に、教役者(牧師)の役割というものが記されていました。「かしらなるキリストに仕える」「ビジョンを示す」「権威を委譲する」「聖礼典を執り行う」など、すべきことが4つありました。きょうの箇所は、その心構えであります。やっていることは見えますが、その心構えは見えません。でも、心構えはところどころに現れてきます。「イヤイヤやっているなー」とか「ちょっと横柄に見えるなー」とか、あるかもしれません。それらはみんな、心構えから来るものです。しかし、きょうのメッセージはだれのためのメッセージでしょうか?もし、「これが、牧師が持つべき心構えです」と言ったならば、自分の首を絞めることになります。でも、私たちは聖書から、順番に学んでいますから、きょうの内容も全員に必要であろうと思います。ここに「長老たち」と出てきますが、当時はみことばを教える長老と監督指導する長老がいました。一人で両方を行うか、あるいは別の人を立てて奉仕を分担していました。ここでは、文脈上、長老イコール牧師といっても構いません。ペテロは本来、使徒でありましたが、長老の一人としてへりくだって勧めています。おそらく、ポント、ガラテヤ、カパドキア、ビテニアにそれぞれ長老が立てられていたと思います。ペテロは「指導者として、以下の3つの心構えを持つように」と勧めています。

1.強制されてではなく、自分から進んで

Ⅰペテロ32「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし」とあります。強制されて羊を牧することがあるのでしょうか?ちなみに、牧師という言葉は、羊飼いが羊を牧するというたとえから来ています。カトリックでは神父と言って、神さまの代理人のイメージがあります。しかし、プロテスタント教会では、そうではありません。イエス様が大牧者であり、羊の所有者です。そして、牧師はイエス様から託された羊をお世話します。では、「強制されてどこかの群の牧師になるということがあるのでしょうか?」あります。教会が教団に属している場合、「その教会に行きなさい」と牧師が派遣された場合です。教会よりも教団の方が強くて、牧師を遣わすという場合があります。その牧師は自らの意思ではなく、教団の命令だから逆らえないのです。あとは父親が牧師で、息子が後継ぎになる場合です。あとは、後継者がだれもいないので、会衆から「お前がやれ」と強制されるかもしれません。少し極端ですが、以上のような教会もないわけではありません。

しかし、「一体だれが牧師になれ!」と任命するのでしょうか?大牧者なるイエス様ではないでしょうか?日本はキリスト教国でないので、牧師になってもあまり尊敬されません。給料が低くて生活が苦しいのが相場です。教会員からいじめられ、追い出されるときもあります。そういう姿を見た牧師の子どもは自分が牧師になりたいと思うでしょうか?「牧師には絶対にならない」という若いクリスチャンもいるでしょう。では、どうして牧師になるのでしょうか?「イエス様がなれ」と命じたからであります。これを召命と言います。神からの召命がなければ、決してできる仕事ではありません。そこで、ペテロは何と言っているでしょうか?「神に従って、自分から進んでそれをなし」と言っています。原文は「神さまに応じて、自発的に」という意味です。第一に神さまの召命(命令)があります。それに対して、自分が「分かりました」と従うわけです。あるときマタイが収税所で仕事をしていました。イエス様が収税所にいるマタイを見て、ひとこと「わたしについて来なさい」と言われました。マタイは立ち上がって、イエス様に従いました。マタイはイエス様に「給料がどのくらいもらえるか、社会保険があるのか、家と車が備えられているのか」全く、聞いていません。マタイは直ちに従って行きました。これが「神さまに応じて、自発的に」という意味です。だから、教団とか牧師である親、あるいは教会員から強制されてなるのではありません。神さまからの召命こそが、最も大事なのであります。

韓国の昔の話です。貧しくて、小学校も出ていなかった男性が神学校に入りました。成績が卒業のレベルに達していないため、教授たちの中に立たされました。教授たちは彼に留年を伝えるつもりでした。その男性はひとこと祈らせてくださいと祈りました。「父なる神さまこの神学校を卒業して牧師になりたいです。どうかお願いします。イエス様のお名前によってお祈りします」と祈りました。その後、みんなが「アーメン」と言いました。男性は「それでは卒業させてもらえるんですね」と言いました。教授たちは「ダメだよ。君の成績では卒業できない」と言いました。しかし、男性は、「今、先生方は『アーメン』と言ったじゃありませか。だから、卒業させていただきます」と答えました。この男性のメッセージはとても単純でした。「イエス天国、信じないなら地獄」でした。彼は飲まず食わず伝道をしながら、村々にたくさんの教会を建てたそうです。馬に乗った日本の憲兵に「イエス天国、信じないなら地獄」と叫びました。憲兵は驚いて馬から落ちたそうです。ですから、人から強制されてではなく、「神に従って、自分から進んでそれをなす」ことが重要なのです。

2.卑しい利得を求める心からではなく、心をこめて

イエス様の時代、宗教家たちは卑しい利得を求めていました。中世においても、教皇や司教は卑しい利得を求めていました。自分たちに献金すれば、煉獄から天国に行けると言いました。煉獄は辛い修行の場所です。もし、地上のだれかが献金したら、その人の罪が軽くなり、天国に行けるのです。これは嘘です。また、教会が国教会になるといろんな利権が生まれるでしょう。宗教が国家権力と結びつくと堕落するものです。イギリスやドイツでもそういうことがありました。卑しい利得とは、「汚いお金、不正な利得」という意味です。お金はいつの時代も誘惑であります。特に牧師は貧しいので、「あったら良いなー」と思うでしょう。どんな俳句や川柳にもくっつく下の句があるそうです。「五月雨を集めて早し最上川」、「それにつけても金のほしさよ」。「朝顔につるべ取られてもらい水」、「それにつけても金のほしさよ」。教会では「お金」は汚いものだと思われています。だから、お金のことはあまり言いません。昔の教会では、清貧に甘んじることが美徳とされていました。牧師は霞を食べて生きていると思われたようです。そのため、裏で悪いことをしたり、偽善的な生き方をする人もいました。卑しい利得を求めるのは、よくありませんが正しい報酬は求めても良いのです。Ⅰテモテ517-18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない』、また『働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。』」こういうみことばは、講壇から話されることはほとんどありません。特に「きよめ」を強調する教会はそうです。でも、報酬について正しく語られなければ、この先、牧師になる人がいないでしょう。

しかし、ここで言われていることは、「心をこめてしなさい」ということです。これは、「喜んで」「快く」あるいは「熱心に」という意味があります。この世では、いっぱいお金をもらえるなら、「喜んで、熱心に」やるかもしれません。しかし、いくらもらえるかに関係なく「喜んで、熱心に」奉仕するということです。これはある有名な伝道者の証です。まだ、駆け出しの頃、ミッションスクールでの奉仕に新幹線で出かけたそうです。学生たちの前で、全力で話しました。帰りに封筒をあけたら「ゼロ」の数が思っていたよりも1つ少なかったそうです。そのとき、「これじゃ、新幹線代にもならない」と思ったそうです。しかし、すぐに神さまに悔い改めました。その先生は、人数が多かろうと少なかろうと、報酬が多かろうと少なかろうと「心をこめて」全力でやり続けました。だから、今でも用いられています。その先生が、当亀有教会に来てくさったことがあります。まだ、古い会堂で、子どもたちも小さかったです。特別集会が終ってから先生に謝礼を差し上げました。すると、先生は目の前で封筒を破り、「子どもたちにうまいものでも」とその中から2万円くださいました。いや、1万円だったかもしれません。とにかく、驚きました。私も職業柄、結婚式やお葬式の奉仕があります。謝礼ですから、決まった額はありません。「おいくら差し上げたら良いでしょうか?」と聞かれても答えません。多い時もありますし、少ない時もあります。神さまは生きておられますので、ちゃんと帳尻を合わせて下さいます。「卑しい利得を求める心からではなく、心をこめてする」ということが大事だと思っています。

3.支配するのではなく、むしろ群れの模範となる

「支配」とは、「圧制する」「独裁的になる」という意味です。お金もそうですが、「支配」も魅力があります。中世の時代は、教皇と王様、どちらが権力があるか争いました。あるときは王様、またあるときは教皇に権力がありました。プロテスタントになってからはどうでしょうか?イギリスではエリザベス女王が国教会の首長になりました。しかし、それでは良くないと、長老派や会衆派が出てきました。ですから、今でも牧師の権威は教会によってまちまちです。聖公会やペンテコステ教会は牧師の権威が高いです。しかし、バプテスト教会になると信徒と同じ立場で、機能だけが違います。私も人間ですから、「教会を自分の思うとおりに動かせたら良い」と思います。単立教会で、カリスマ的で能力のある牧師は結構良いところまで行きます。しかし、ワンマンになりすぎて、軌道をはずれる場合もあります。何でも思い通りにやると、カルト的な教会になってしまいます。牧師が偉くなりすぎて、だれもとめられない場合があります。たとえば、エンジンが大きくて馬力のある車に乗りたいでしょうか?加速もあり、ものすごいスピードが出ます。でも、車にはブレーキも必要です。いくらスピードが出ても、ブレーキのない車に乗る人はいません。一方、ブレーキだけでは車は走りません。「これもダメ、あれもダメ」と言っては、教会は進みません。だから、牧師は聖霊から来るビジョンと熱心さを持つことが必要です。それと同時に、「常識的にどうなのか、予算的にどうなのか」と水をさす人も必要なのです。

ペテロは何と言っているでしょうか?「支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と勧めています。「支配する」とは、人に「これをしなさい」「そこへ行きなさい」と命令することです。でも、「模範になる」とはどういう意味でしょうか?言うだけではなく、自分でやって見せるということです。そして、「あなたも私のようにできますよ」と励ますことです。これって結構、難しいです。口でしゃべるのは優しいけれど、実際に行うのは難しいです。たとえば、牧師は教会員に「伝道しなさい」「祈りなさい」「家庭を開いてセルをしなさい」「世の人々に仕えなさい」と聖書から勧めます。では、「自分ができているだろうか?」「良い模範を示しているだろうか?」と言われたら疑問です。伝道1つでもそうです。牧師は講壇から話しますが、外で伝道する機会はほとんどありません。知らない人と友だち関係になってから、伝道するというのは大変です。たまたま、教会に尋ねてきた人には伝道できます。でも、どうやったらこの世の人たちに伝道できるでしょうか?郵便局で24ヶ月アルバイトをしたことがありますが、そのときは結構、伝道しました。でも、教会に結びついていません。郷里伝道もしましたが、洗礼を受けるまでは行きません。韓国のキム・ソンゴン牧師は、年間、教会で洗礼を受ける人の1割を自分が導きたいと願っています。先生はとても忙しくて、世の人たちのところへ出かけることができません。それでどうしたでしょうか?パートを頼んだそうです。「1時間、私の礼拝に出席すると、これこれ支払う」と言いました。昨年の話ですが、30数名くらい、それで救われて洗礼を受けたそうです。「いや、それもちょっとなー」と思います。当教会におられた山崎長老さんは、いろんな手を使いました。「お昼ごはんご馳走するから集会に来なさい」とか、「その品物買うから集会に来なさい」と誘ってきました。ちょっとこの世的かもしれませんが、「伝道しよう」と思えば、アイディアが浮かびます。今の人は、口で「やれ」と言っても動きません。教会も同じで、牧師がお手本を見せるということが重要です。自分がそう言ったのですから、そうしたいと思います。「模範を示して、教える」「教えて、模範を示す」です。アーメン。

4.神さまの報い

きょうの主題は牧師にとって、自分の首を絞めるようなものです。こんなにしてまで、牧師になりたい人がいるでしょうか?世の中の仕事の方がよっぽど楽しくて、報いがあると思うでしょう。牧師に召されるとは貧乏くじをひくことなのでしょうか?でも、ペテロは何と言っているでしょうか?Ⅰペテロ54「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」アーメン。はっきり言えることは、羊の所有者は神さまです。そして、イエス様が大牧者です。大牧者とは、「牧師のかしら」という意味です。昔のことばで言えば、「ドン」「総元締め」であります。牧師は大牧者なるイエス様のもとで仕えているのです。信徒に仕えているというよりも、大牧者なるイエス様に仕えているのです。信徒から給料をもらっているのではなく、大牧者なるイエス様からもらっているのです。信徒に報いてもらうというよりも、大牧者なるイエス様から報いてもらえるのです。ちょっとこれはオーバーな表現かもしれません。でも、究極的には当っています。多くの牧師が燃え尽きたり、失望落胆するのは、この順番が分からないからです。牧師は信徒から雇われているのではなく、イエス様から雇われているのです。ハレルヤ!これが重要なのです。牧師はどの職業よりも、傷つきやすい職業です。ある信徒は「私たちの献金で牧師家族を養っているんだ!」と言います。しかし、それは間違いです。みなさんは神さまに献金しているのです。その次に、神さまがご自分の群のために働いている牧師に「いくらいくら」与えるのです。しかし、神さまがこういう制度を許しているのは、牧師が謙遜になるためでもあります。ある牧師は会社で働いて、一銭も献金からいただきません。そうすると牧師はどういうふうになるでしょうか?「私はあなたがたから世話になっていません」と、どうしても傲慢になります。だから、ペテロは何と言っているでしょうか?Ⅰペテロ55「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」「みな」とは、長老も若い人も、牧師も教会員もということです。みな、お互いに謙遜という着物を身につけるべきです。大切なことは、高ぶらないで謙遜になるということです。へりくだり、謙遜になるならば、神さまが恵みを与えてくださるからです。私たちは自然と高ぶってしまいます。高慢になるのには努力はいりません。でも、謙遜になるためには努力が必要です。私たちは外に出るとき必ず衣服を身に付けます。もし、裸で外を歩いたら捕まってしまうでしょう。でも、すべてのクリスチャンが身につけるべき衣服があります。それは謙遜という衣服です。何を着ても構いませんが、謙遜を1枚はおりましょう。

最後に、もう一度、神さまの報いということをお話したいと思います。「牧師になって何の得があるんだ」と思っている人もおられるかもしれません。Ⅰペテロ54「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」この世で尊敬され、高収入を得られる仕事とは何でしょう?医者とか弁護士でしょうか?それに比べ、牧師はマイナーな職業かもしれません。特に日本ではそうです。アメリカやヨーロッパはそうでないかもしれません。でも、人に尊敬されるかとか、お金の問題ではありません。ここには、「しぼむことのない栄光の冠を受ける」と書いてあります。今、ロンドン・オリンピックたけなわです。サッカーとかどうなんでしょうか、ちょっと気になります。当時、ギリシャでオリンピックがありました。優勝者、勝利者には月桂樹の冠がかぶせられました。すばらしい光栄です。でも、ペテロは私たちが受けるのは「しぼむことのない栄光の冠」であると書かれています。月桂樹の冠はいつかは、しぼんでしまいます。たとえ、金メダルと取ったとしても、この世限りのものであり、永遠ではありません。大牧者なるイエス様がくださる栄冠は、しぼむことのない栄光の冠です。これは永遠のものであり、御国で受ける神さまの報いです。それではこれは牧師だけが受けるのでしょうか?そうではありません。牧師と同じように、人々のお世話をし、人々を建て上げた人にも与えられると信じます。なぜなら、聖書には「互いに励まし、互いに助け、互いに建て上げなさい」と言われているからです。マルチンルターも万人祭司説を唱えました。エディ・レオ師が今年の4月石巻に来られこのように教えてくださいました。「牧師が自ら牧会の働きをすることは牧師の働きのわずか20%です。しかし、80%の大事な働きがあります。第一は群を見渡しながら、「あなたは他の人の世話をし、他の人を建て上げていますか」と監督することです。第二は、もしそれができていなければ、牧会できるように訓練することであると言いました。群を牧会するのは牧師一人ではありません。すべての信徒が、「互いに励まし、互いに助け、互いに建て上げなさい」と言われているからです。つまり、牧会的な働きを忠実に行うなら、だれでも「しぼむことのない栄光の冠」を主からいただくことができるのです。オリンピックで栄冠のメダルを取れる人はまれでしょう。だれでも取れるものではありません。しかし、大牧者なるイエス様が用意されている、「しぼむことのない栄光の冠」はそうではありません。あなたもいただくことができるのです。あなたもすばらしい栄冠の冠をいただくことができるのです。

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2012年7月22日 (日)

あなたがたは幸いです    Ⅰペテロ4:12-19

試練や不当な苦しみ、非難を受けても、喜んでいられるでしょうか?このような人は最高のレベルのクリスチャンではないかと思います。一般的に、私たちが試練や不当な苦しみにあったとき、2つの行動を取ります。第一は怒って立ち向かうという道です。もしかしたら、やられてしまうかもしれません。やったらやり返す、刺し違えてもいいから戦うというタイプです。第二は「長いものには巻かれろ」です。打ち叩かれながら嵐が過ぎ去るのをじっと待つという道です。「これを差し出すので、私を苦しめないで」と貢ぐタイプです。しかし、聖書は第三の道を提示しています。それらを受けても、乗り越えていくタイプです。空を飛ぶ鷲は強い向かい風に乗ってより高く飛ぶことができます。サーファーは高い波が来たら、その波をつかまえて乗ります。クリスチャンとして、そういう生き方を送ることができたらなんと幸いでしょう。

1.たましいの救い

 この手紙は試練や苦しみの只中にあるクリスチャンに書き送られています。ですから、この手紙のテーマは「どうしたら試練や苦しみを乗り越えられるか」です。クリスチャンになって、苦しみや悩みがなくなるでしょうか?あります。信仰を持ったために新たな苦しみもやって来るでしょう。この地上に生きている限り、試練や苦しみを避けることはできません。イエス様は「この世では患難がある」と言われました。では、どうしたら試練や苦しみを乗り越えられるのでしょう。Ⅰペテロ19「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」とあります。前後から解釈すると、試練や苦しみの中でも喜んでいられるのは、「魂の救いを得ているから」ということです。みなさんは魂の救いを得ているでしょうか?でも、「魂」とは何でしょう?ギリシャ語ではプシュケーであり、精神、感情、心とも訳せます。パウロは人間を3つに分けています。外側から言うと肉体と魂と霊です。すべてのクリスチャンは霊的に救われています。ヨハネ3章には霊的な生まれ変わりこそが救いであると書かれています。しかし、魂の救いとなるとどうでしょうか?魂とは、心とか思い、感情であります。霊は救われていても、心が救われているでしょうか?なんだか、こんなことを言うとキリスト教の異端かと思われるかもしれません。

 しかし、私はあえて申し上げます。私たちはイエス様を信じて、霊的に救われるなら天国に行くことができます。しかし、私は心も救われる必要があると思います。霊的な生まれ変わりも必要ですが、もう1つ心の生まれ変わりも必要であるということです。この考えは丸屋真也先生のカウンセリングを学んで与えられたものです。丸屋先生は「心理的な生まれ変わり」と呼んでいます。長い間、キリスト教会は霊的な救いばかりを述べてきました。しかし、心つまり、考え方が古いままで生きている人が大勢いるということです。エリヤハウスでは「心の中のすべての部分が福音化されるべきだ」と言っています。心のある部分には福音の光が届いていますが、ある部分は古いままであるということです。本当にそんなことが聖書的なのでしょうか?ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ書は1章から5章の前半までが罪の赦しについて書かれています。そして、5章の後半からは原罪からの解放について述べられています。そして121節には「そういうわけですから」と別なことが言われています。「心の一新によって自分を変えなさい」とあるので、霊ついては語られていません。ここで言われている心はヌースであり、考えとか思いです。「心の一新」とは、心の更新という意味であり、生まれ変わりと同じ意味です。そして、「変える」というギリシャ語はメタモルフォーで、青虫が蝶に変身することばです。英語ではtransformです。つまり、私たちは霊的に生まれ変わったけれど、心が相変わらず古いままでありえるということです。霊的に生まれ変わったならば、心も生まれ変わるべきではないでしょうか?私は心の癒しを20年以上求めてきました。最初は座間キリスト教会に新井宏二先生が来られ、インナーヒーリングについて教えてくださいました。田中信生先生、聖契神学校のディール師からも学びました。さらにはチャールズ・クラフト、ニール・アンダーソンの本も読みました。インドネシアや蒲郡で「解放のキャンプ」も受けました。服部雄一先生からも「ひきこもり」について学びました。エリヤハウスでは2年間学びました。丸屋真也先生から2年間、李光雨師から2年間学びました。お金と時間をどのくらい使ったか分かりません。

最終的にわかったことはこれです。心が完全に癒されるのは天国に行ってからです。もし、私の心が完全に癒されるのを待つなら、あと200年かかるでしょう。私はこれまでこの「心」が癒されるように願い求めてきました。しかし、別な方法があることに気がつきました。それは私たちが霊的に生まれ変わったのと同じです。私たちはクリスチャンになるとき、古い霊と新しい霊とを取り替えました。救いとはそういうことです。同じように、心の救いとは、古い心と新しい心を取り替えることではないでしょうか?パウロが言っている「心の一新によって自分を変えなさい」とはそういうことだと思います。古い心を治すよりも、新しい心に取り替える方が、自分を変える最短な道ではないでしょうか?私はそれをすることができました。李光雨先生がこの教会でも話されたことがありますが、AコースとBコースです。Aコースというのは、これまでの壊れたコア世界観を持っている心です。コアとは心の核であり、考えや思いの中心となっているものです。多くの場合、Aのコア世界観は弱くて壊れやすいものです。みんなこれで生きているので、恐れと不安で支配されています。それに比べてBのコア世界観は神さまがくださる新しい世界観です。神さまご自身が支えておられるので決して壊れることはありません。しかし、AからBへと、コア世界観を変えるためには理由が必要です。Aのコア世界観の心の叫びを完了させる必要があります。「こうしてくれ、ああしてくれ」という心の叫びが神さまによって完了させられます。その後に、Bのコア世界観を選び取るのです。これがBコースです。では、自分がまったく別人になるかというとそうではありません。相変わらず弱さや欠点を持ったインナー・チャイルドが自分の中にいます。でも、それを脇に置いて、自分はBコースで行きます。そうすると試練や苦しみが来ても、爆発したり過剰反応しません。ちょっとはグラっときますが、神さまがなんとか乗り越えさせてくださいます。そのうち、インナー・チャイルドも成長していきます。私のパソコンにはハードディスクが2つ付いています。箱を開いて、AからBに線を付け替えると今度は、Bが動き出します。同じパソコンですが、Bのプログラムで動くので、Aとは違います。もし、あなたの心の核(コア)をAからBに付け替えたらどうでしょう?あなたの感情や肉体、生き方までも変わってきます。もちろん、Bに付け替えたあと、新しい考え、新しい生き方を教え込まなければなりません。でも、心の核(コア)が安定しているので、どんどん積極的な考えや良いライフ・スタイルを吸収していきます。以前は、不安定で脆弱なAのコアだったので、いくら積極的な考えや良いライフ・スタイルを入れてもすぐはじき返されてきました。心の奥底で、それは不可能だと思っているからです。私は脆弱なAからBのコア世界観に取り替えました。どんどん積極的な考えと良いライフスタイルが身についています。第一に毎日が幸せです。これが、ペテロがいう魂の救いではないでしょうか?Ⅰペテロ19「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」。ペテロは信仰の結果、たましいの救いを得ていると言いました。霊的な救いと同時に、魂の救い、心の救いを得てください。

2.あなたがたは幸いです

 ペテロは何と言っているでしょう?私たちが試練や苦しみにあったらどうすべきなのでしょうか?Ⅰペテロ412-15「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」ここには3つのことに対する、聖書的な反応の仕方が書かれています。一番目は、燃え盛る火のような試練がやってきたときです。普通でしたら、思いがけないことが起こって驚き怪しむでしょう?別なことばで言うなら「神さまを信じているのに、なんでこんなことが起こるんだ。なんでだよ?」です。「思いがけないこと」とはハプニングです。ギリシャ語辞典には、自然現象や叫び、騒ぎ、不平、飢餓、戦争、争い等で生じると書いてあります。私たちは予期しないこと、自分を壊すようなとんでもないことが起こるとどうでしょうか?2つの反応をします。第一はこっちも怒って立ち向かうという道です。もしかしたら、やられてしまうかもしれません。でも、刺し違えてもいいから戦うしかないという道です。第二は長いものには巻かれるしかない。嵐が通り過ぎるのを、耐えて待つという道です。しかし、魂の救いを得て、Bコースを歩んでいる人は別な反応をします。「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜ぶ」ということです。「苦しみを喜ぶ」そんなことがありえるのでしょうか?パウロはピリピ人への手紙の中で「喜びなさい」と何度も言っています。パウロは何も悪いことをしていないのに、牢獄に閉じ込められ、自由を奪われています。犯罪人のように扱われ、脅かされています。しかし、パウロは自らも喜び、ピリピの人たちにも「喜びなさい」と命じています。イエス様も何も悪いことをしていないのに、打ち叩かれ、苦しめられ、ひどい目に合わされました。「わぁ、私もイエス様と同じだ。イエス様の苦しみにあずかれるんだ。わぁー」。「いや、できるかなー」と思います。でも、空の鷲は向かい風を喜んでいます。サーファーも大きな波が来ると喜んでいます。パウロは言いました。Ⅱコリント110「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」パウロは死ぬほどの危険に会いましたが、そこで神さまの救いを体験しました。だから、「これから将来も救い出してくださる。なおも救い出してくださる」と期待しています。私たちも試練や苦しみの中でも、神様を信頼し、その中で喜ぶべきです。富士急ハイランドにはものすごいジェットコースター「高飛車」があるようです。121度の最大落下角度がギネス世界記録に認定されたそうです。乗っている人は「キャー」と叫びながら、スリルを楽しんでいます。わざわざお金を払って、危険にさらされて、喜んでいます。バンジージャンプを楽しんでいる人もいます。私たちも試練や苦しみの中で、ハプニングを喜ぶようになりたいです。「ここにも神さまがおられ、私をささえておられる。ハレルヤ!」と。

 二番目は人々の非難です。悪口を言われたり、ののしられたりする時、どうすれば良いのでしょう。第一はこちらも負けじと相手を非難し、ののしり返すというやり方です。「死ね!」と言われたら「お前こそ死ね!バカヤロー」と言うことです。第二は言われて萎縮し、そこに座り込むことです。韓国の芸能人で自殺する人がかなりいます。ホームページやブログに「馬鹿、死ね!」と書かれて、しまいに自らの命を絶つ人がいます。第三は何でしょう?第三は魂の救いを得て、Bコースを歩んでいる人です。14節「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」幸いとは、英語の聖書にhappyと書かれています。人から悪いことを言われて、happyになれるんでしょうか?なぜ、happyなんでしょう?神の御霊が、とどまってくださるからです。とどまるとは、そこにじっとして休息するという意味のことばです。聖霊はよく鳩にたとえられます。なぜなら、イエス様が洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のように下ってきからです。そのあと、聖霊はずっとイエス様の上にとどまっておられました。私たちもときどきではなく、聖霊がずっと私の上にとどまっておられたなら何とhappyでしょうか?聖霊が私たちをなぐさめ、聖霊が私たちを癒し、聖霊が私たちを立ち上がらせてくださるでしょう。なぜなら、聖霊は「慰め主であり」非難される人の味方だからです。

三番目は16節です。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」これは、辱めを受ける、恥を受けるような苦しみです。イエスさまも辱めを受けました。役人たちは目隠しをして、イエス様を叩き、「だれが叩いたか当てろ!」と言いました。ひげを抜いたり、つばをかけました。みなさんの中で、つばをかけられた人がいるでしょうか?また、イエス様はローマ兵から、いばらの冠をかぶせられ、さんざん嘲弄されました。死ぬ一歩手前まで鞭打たれました。そして裸にされ十字架に付けられました。イエス様と比べたなら、私たちが受ける辱めや恥など、小さいものです。しかし、辱めや恥は私たちの自尊心を傷つけ、人格を破壊する力があります。では、どうしたら良いのでしょうか?第一は侮辱には侮辱を、恥には恥を与えるという道です。第二はそれらをただ受けて、地の底に沈んでしまうという道です。そうでありません。第三の道があります。魂に救いを得、Bコースを歩んでいる人はどうするでしょう?「かえって、この名のゆえに神をあがる。」「ああ、私もイエス様と同じ辱めにあった。嬉しい。主をあがめます」ということです。これはよっぽど神さまから愛されて、心が本当に健康なら耐え忍ぶことができるでしょう。雨がえるが、水をかけられたらどうなるでしょうか?目をぱちぱちして、「うれしい」と思うのではないでしょうか?私もそういうふうになりたいですね。とにかく、いろんな苦しみや試練を受けますが、それを乗り越える姿がここに記されています。本来なら立ち向かうか、あるいは巻き込まれるか、この2つしか選択肢がないようです。しかし、それらを乗り越える第三の道があるということです。乗り越えるというのを英語で、overcomeと言います。李光雨先生はこのことばを大変好んで使われます。overcomeとはその名のごとく、上を乗り越えるということです。たとえ、苦しみや試練を受けても、そこで喜び、そこで幸いを得、そこで主をあがめるということです。私たちは苦しみや試練を乗り越えたら、そうしたいところですが、乗り越える前からそうできたら何と幸いでしょう。「ああ、また来たな。とうとうやってきたな。主よ、あなたの出番です。私と共にいて、乗り越えさせてくださるのですね。」そうしていると苦しみや試練が、苦しみや試練で終りません。その中で、私たちは金のように練られ、純粋なものとされるのです。いよいよ、主の栄光を拝するものとなるのです。

3.神のさばき

ペテロの手紙もそうですが、聖書が一貫している教えがあります。それは神さまのさばきがあるということです。神さまは悪に対しては必ず裁くお方です。私たちは神さまの最終的なさばきがあるので、仕返ししません。「やったらやり返す。言われたら言い返す。侮辱されたら侮辱する。ののしられたらののしり返す。」これは怨念晴らしの世界です。しかし、私たちが復讐しなくても、神さまが復讐してくださいます。私たちは神さまの御手に怒りや復讐心をゆだねることができます。神さまに本当にゆだねたならば、喜びと幸いを得、主をあがめることができるのです。あなたの怒りと復讐心を神さまの御手にゆだねましょう。神さまはどんなお方でしょうか?Ⅰペテロ417-18「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」私たちはこのところから、神さまを恐れるということを学ぶべきです。神さまはお友だちではありません。神さまはあくまでも神さまです。ある人たちは万人救済説、「すべての人が最終的には救われる」という神学を唱えています。聖書にはそういうことは書かれていません。さばきが来るとはっきり言われています。神の福音に従わない人たちの終わり、神を敬わない者や罪人たちがどうなるか言われています。ここには神のさばきがあることが明記されています。しかし、良く見るとさばきには順番があります。さばきは、まず神の家から始まると書いてあります。神の家とは教会です。そして、義人がかろうじて救われるとも言われています。これは人ごとではありません。自分自身も神さまとの関係、さまざまな出来事において、自分を吟味する必要があります。罪が満ちているこの世において、私たちも罪を犯し、そのまま放置している場合があるかもしれません。だから15節で「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」と言われているのです。

そういうことも考えながら、総合的に言えるべきことは何でしょう。ペテロの手紙の主題は試練や苦しみに関するものです。どんな試練や苦しみがあったとしても乗り越える道があります。神さまが共にいて乗り越えさせてくださいます。そして、私たちは精錬された金のように出てくるのです。もう1つはその背後に、はっきりとした神のさばきがあるということです。私たちは神さまと和解することが必要です。罪を贖われたイエス・キリストを信じて、神さまと和解するということです。ある人たちは、神さまと和解できたかもしれませんが、人との和解がまだできていないかもしれません。まだ、恨みをもって生きています。「あいつだけは別だ」と言っているかもしれません。しかし、それでは神さまのさばきに立つことはできません。神さまが「私はあなたを赦してあげましたよ。こんどはあなたの番ではないでしょうか?」とおっしゃるでしょう。これは脅しとか交換条件ではありません。神の恵みに対する応答です。私たちが本当に喜びと幸いを得、主をあがめることができるのは、他者の罪を赦し、怒りを神さまに手渡すときです。ペテロも、4:19「ですから…真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と言っています。主の祈りにもありますように「私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」と心から祈りましょう。ハレルヤ!

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2012年7月15日 (日)

もう十分です     Ⅰペテロ4:1-6 

きょうの箇所はこの地上において、きよい生活をどのように送るかについて書かれています。イエス様が福音書で「姦淫の時代」と言われました。この世の人たちは、道徳的にも宗教的にも姦淫を行っているということです。私たちもかつては、そのような中で暮らして、何とも思っていませんでした。しかし、イエス・キリストの尊い血潮によって贖われ、神さまのものになったならば、そういう生活を続けることはできません。それで自分は変わったとしても、自分を取り囲む環境は相変わらずそのままです。では、どうしたら私たちは罪から離れ、きよい生活を送ることができるのでしょうか?

1.武装せよ

Ⅰペテロ41-2「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」この手紙を受け取った人たちは様々な試練の中で苦しんでいました。あるしもべは主人から不当な扱いを受けていました。また、ある人は信仰上の迫害を受けていました。しかし、最も大きな戦いは、肉の欲であります。彼らは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を何とか遠ざけて生きてきました。世の終わりになると、愛が冷え、悪がはびこるので、さらに大変になります。そのために、ペテロは「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」と命じておられます。でも、イエス様はどのように苦しみを受けられたのでしょうか?ヘブル人への手紙には、肉体を持たれたイエス様が私たちと同じような試みに会われたと書かれています。イエス様は私たちにとって信仰の模範であり、同時に完成者でもあります。ヘブル122「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び…」とあります。さらに、3節には「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい」と言われています。当時、イエス様に敵対した罪人たちとはだれでしょうか?ローマ兵でしょうか?取税人でしょうか?あるいは悪人でしょうか?なんと、熱心に神さまを信じている人たちでした。律法学者、パリサイ人、サドカイ人と言われている人たちが、いつもイエス様のじゃまをしました。ないことあることを言い、議論をふっかけ、罠にはめようとしました。最後に、イエス様を捕らえ、十字架につけました。ピラトは仕方なく、イエス様を十字架につけたのです。イエス様は当時の宗教的な指導者たちを「ああ、わざわいだ」と何度もおっしゃいました。

私たちもこの世にあっては患難があります。イエス様と同じではないかもしれませんが、力ある者たちによってねじ伏せられたり、不当な扱いを受けることがあるでしょう。私はテレビや映画を見て、1つのテーマを発見しました。たとえば、刑事もの、捜査官、サスペンスやアクション、共通したテーマがあります。脇役は大きな組織の地位や権力がある人たちです。主人公というのはどちらかと言うと、そういう組織からはじかれた人です。組織からはじかれた人が事件を解決するという筋書きです。一体だれが、捜査の邪魔をするのでしょう?一体だれが仕事の邪魔をするのでしょう?所長とか、地位や権力のある人たちです。彼らは「上からの命令だ。捜査を打ち切れ」とか「お前は捜査からはずれろ」みたいに言います。主人公はそういう力に翻弄されながらも、事件を解決していくのです。見ている人は、組織からはじかれている主人公と自分を同化させます。主人公は、冷や飯を食わされながらも、事件を解決し、憎むべき人たちの鼻を最後に明かすのです。そして、見た後、すっきりするのです。心の浄化、カタルシスです。主人公が、自分の代わりに地位や権力のある人たちをやっつけてくれたからです。問題は、そういうテレビや映画で現実逃避することです。「ああー、すっきりした」と、現実は現実、ドラマはドラマみたいに、切り替えることです。それは違うと思います。ヘブル124「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と書いてあります。テレビや映画の世界で、終ってはいけないということです。

ペテロは「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」と命じています。イエス様と同じ心構えになれば、さまざまな罪や誘惑、迫害、不当な扱いに勝利できるということです。イエス様の勝利の秘訣とは何だったのでしょう?このみことばのすぐ後に何と書いてあるでしょう。「もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」アーメン。イエス様は自分の欲望を満たすためではなく、神のみこころを満たすために生きておられました。簡単に言うと、自分の生涯を父なる神さまにささげておられました。欲望を満たすことに力を注がなかったので、罪や誘惑に勝利できたのです。パウロはローマ6章でこのように言っています。ローマ613「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」これまでは、私たちはこの手足を不義の器として罪にささげて生きてきました。しかし、死者の中から生かされた人はどうすべきなのでしょうか?こんどは、「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」と命じられています。これは神さまに献身しなさいということです。多くのクリスチャンは「献身とは牧師や伝道者がすべきことであり、私には関係ない」と思っています。聖書はそんなことを言ってはいません。死者の中から生かされた人、つまりクリスチャン全員が、神さまに献身するのが標準なのです。旧約聖書のいけにえのように、私たち自身とその手足を神さまにささげるということです。でも、その目的は罪のためではなく、義のため、神さまのみこころのためであります。どうでしょう?「私自身も、手足も神さまのものなんだ」と分かれば、罪を行うことができなくなります。結論を申しますと、罪や誘惑するための武装とは、自分自身とその手足を神さまにささげるということなのです。イエス様のように、父なる神様にささげるなら、罪や誘惑に勝利できるのです。なぜなら、それ以外のことをあまりしなくなるからです。クリスチャンはすべての罪が赦されていますので、何をやっても自由です。でも、自分が神さまのものであり、神さまのみこころのために生きなければならないと自覚したらどうでしょう?優先順位ができてきて、神さまのみこころに関した大事なことはやります。そして、あまり大事でないことは後回しにするでしょう。お金の使い方、時間やエネルギーの使い方、何を思うか、考えるかということです。いつまでも、過去のイヤな出来事を思い返しません。それよりも、神さまのみこころを行うことに焦点を絞ろうとします。すべてを神さまにささげましょう。そうしたら、罪と誘惑に勝利できるのです。ハレルヤ!

2.もう十分です

神さまへの献身こそがきよい生活を送ることの重要なポイントです。また、ペテロはどこかで、罪の生活に対して、「もう十分です」と、きっぱりお別れすることの大切さも教えています。Ⅰペテロ43「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」口語訳には「もうそれで十分であろう」と書いています。テレビの水戸黄門でよく言われる、セリフがあります。「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」。その後、チャンチャン・バラバラがはじまります。おもな悪役がやられた後、「助さん、格さん、もう良いでしょう」。それから、「静まれ、静まれ、控えおろう。この紋所が目に入らぬか」(ジャーン)。「こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公に有らせられるぞ!」(ゴワーン)。「なぜ、最初から紋所を出さないのかな」と思います。やっぱり、悪いやつらを懲らしめてから、出すから良いのです。悪人たちは痛めつけられ、きっちりと裁かれます。それが重要なのです。見ている人はそれですっきりするのです。聖書的に考えたらどうなるでしょうか?私たちが罪を犯しても、神さまのさばきはすぐ下りません。神さまは忍耐深いお方なので、未信者のときの罪を見過ごしておられます。しかし、神さまが定めた道徳的な法則がありますので、それを破ると報いが伴います。好色や情欲に伴う報いとはどのようなものでしょう。若者たちの間にはフリー・セックスが当たり前のように行われています。現代は、新種の性病が20種類以上出ているそうです。一度かかると一生治らないウィルス性の病気もあるそうです。酔酒、遊興、宴会騒ぎに伴う報いとはどのようなものでしょう。それらは酒酔い運転、アルコール中毒、家庭崩壊につながります。テレビでやっていましたが、ホストクラブに通った女性がいました。サラ金から借りて、変なところで働いて返すしかありませんでした。忌むべき偶像礼拝などにふけるとどのような報いがあるでしょう。占いやオカルトもそうですが、最後には恐れと悪霊によって縛られてしまいます。それらは、神のさばきというよりも、罪を犯したことの懲らしめです。神さまは悔い改めることを願っておられます。そのとき、「もう十分です」というお声を聞いて、罪を棄てることができたなら何と幸いでしょう?

私は洗礼を受けた翌年、聖書学院に入学しました。その神学校では「きよめ」がものすごく強調されていました。ある教授は教室に入るなり「肉の匂いが、プンプンする」と言いました。「だれか焼肉を食べたのかな?」と思いましたが、そういう意味ではありません。時々、聖会みたいなものが開かれ、集中的に「きよめ」について語られます。ある教授は、「きよめを知らないのに、この学校の卒業生だと言ってはいけない」と言いました。あるとき、既に天に召されましたが、松木先生がⅠペテロ4章からメッセージされました。このところにある罪を説明した後、「もうそれで十分であろう」と言われました。聖書の口語訳でしたが、まるで、神さまが私に語りかけたように思いました。「もうそれで十分であろう」。「はは、わかりました」とそこにぬかずきました。25歳まで、これらの罪を一通り犯したので、「もう十分だなー」と思いました。あのとき、決断できて本当に感謝でした。良く、考えてみますと、これらの罪はみな中毒になってしまいます。「これくらい良いだろう」「まだ、良いだろう」とやっている間に、もうやめられなくなります。自分を壊し、家庭を壊し、社会を壊してしまいます。中毒になると「もう十分です」と言えなくなります。ですから、「もう十分です」と言えるのは、神さまのあわれみであります。神さまが「もう十分です」と語りかけ、自分も「ああ、もう十分です」と答える。そして、罪を離れ、罪を棄て去る。これは新しい道を歩むために絶対に必要なことです。そういう決断をすると、不思議にきよい生活を送ることができます。

 神さまのみ声の大きさは、大小さまざまであると思います。命に関わる緊急な場合は、雷のようなお声でしょう。しかし、神さまが私たちにお願いする場合は、静かで優しい声かもしれません。人の罪を赦してあげるときは、静かな声かもしれません。継続的に犯している罪から離れるべきときは、どのような声でしょうか?神さまが語られているのに、心の耳が鈍くなっているのかもしれません。心が頑なになって、み声が聞こえない。それはとても危険な状態です。テレビで川下りを見たことがあります。滝は上流からは見えないそうです。「ああ、滝だ!」と気づいた頃は、もう手遅れです。私はエルビス・プレスリーのファンです。パットブーンは熱心なクリスチャンでしたが、エルビスはそうではありませんでした。エルビスは洗礼を受けていましたが、教会から離れ、華々しい道を歩み続けました。やがて過食が原因で、ベッドから起き上がることもできなくなりました。義理の弟がいましたが、彼は熱心なクリスチャンでした。ある朝、弟がエルビスに言いました。「お兄さん、そろそろ神さまに立ち返るべき時が来たと思うけど…」。エルビスは「私もそう思う。私のために祈ってくれ」と言いました。その後、エルビスがひとこと祈りました。その翌日、エルビスは帰らぬ人となっていました。42歳でした。しかし、エルビスはちゃんと悔い改めて、天国に行くことができました。神さまは聖書を通して、あるときは親しい人を通して、あるときは超自然的に語ってくださいます。「もう十分です」という声を聞いて、罪から離れ、罪を棄てられる人は幸いです。

3.申し開き

Ⅰペテロ44-6彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」これまでは、「あなたがた」となっていましたが、4節からは「彼ら」となっています。では、彼らとはどういう人たちでしょう。私たちは、かつて、彼らと一緒に好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけっていました。しかし、ある日を境に一緒に行動しなくなりました。「あいつはどうして変わったんだろう。どうして一緒に行かないんだろう」と最初は不思議に思われるでしょう。「おまえ、付き合い悪いぞ。神さまとか言っちゃって、宗教にかぶれてしまったんだろう」。そのように、ののしったり、悪口を言われるようになります。一人だけ良い子になる。一人だけ別行動する。周りは、そういう人を許せません。仲間にひっぱり込もうとしてもだめなら、最後には迫害するでしょう。私も洗礼を受けて1ヵ月後、親友と彼女を一ぺんになくしてしまいました。毎週、礼拝に来ては泣いていました。ヤコブ44「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」神さまを愛しながら、この世を愛することはできません。イエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」(マタイ624と言われました。イエス様を信じて、洗礼を受ける前後というのは、このような戦いがあるものです。いろんな理由をつけて、なかなか、洗礼に踏み切れない人がいます。だれもがそうだとは言いませんが、私たちは同時に二人の主人に仕えることはできないのです。

それではイエス様を信じないで罪の中を歩み続けた人たちはやがてどうなるのでしょうか?「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません」とあります。さばくお方とはだれでしょう?それは神さまであり、イエス様です。詳しく言うなら、神さまが奥におられ、イエス様が手前におられます。イエス様を救い主として信じて贖われている人は神さまの前に立つ必要はありません。なぜなら、イエス様がその人の罪のためにさばかれたからです。しかし、生前、与えられた賜物と使命に忠実に生きたかが問われます。これが「キリストのさばき」です。このさばきで永遠の地獄に行くわけではありません。御国、すなわち千年王国は忠実さによって、報いが異なっているようです。では、イエス様を信じなかった人はどうなるのでしょうか?弁護者であり、贖い主であられるイエス様がいません。直接、神さまの前に立つことになります。義なる神さまの前に、自分の正しさで立てる人が果たしているでしょうか?ここに「申し開き」ということばがありますが、法律用語で、答弁、弁明、理由の説明という意味です。「神さまはすぐにでもさばく」とありますが、全部お見通してあるということです。ヨブ266「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない」とあります。ミケランジェロという人が最後の審判という壁画を書きました。ホームページに解説が載っていました。「群像に裸体が多く、儀典長からこの点を非難され、『着衣をさせよ』という勧告が出されたこともある。ミケランジェロはこれを怨んで、地獄に自分の芸術を理解しなかった儀典長を配したというエピソードもある。さらにこの件に対して儀典長がパウルス3世に抗議したところ、「煉獄はともかく、地獄では私は何の権限も無い」と冗談交じりに受け流されたという。また、キリストの右下には自身の生皮を持つバルトロマイが描かれているが、この生皮はミケランジェロの自画像とされる。」神さまの御前では、すべてが露わにされるということです。私たちはそういう意味で、神さまを恐れなければなりません。

 「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」ということは先週、学びました。敗者復活のようなセカンドチャンスがあれば良いと望みます。でも、一番、重要なのは生きているうちに、神さまと和解するということです。イエス・キリストの十字架によって、神さまは和解の手をすでに差し伸べておられます。もし、私たちが「その和解をありがたく頂戴します」と手を差し伸べたら、救われるのです。私たちは神さまの前に立ったら「申し開き」などできるわけがありません。しかし、イエス様が神さまとの間に立ってくださり、私たちの代わりに弁明してくださるのです。なんとありがたいことでしょう。それだけではありません。私たちは裸ではなく、義の衣が着せられています。生前犯した罪はキリストの血によって完全に覆われています。私たちが「これこれ、こういうことをしました」とお詫びしても、神さまの方が「え?そうでしたか?いのちの文(ふみ)には書いてありませんね」とおっしゃるでしょう。信仰とはどういうものでしょうか?信仰とは時間の概念を飛ばして、現在と将来を同時に見るということです。今、救われているなら、将来も救われているのです。今、神さまから義と認められているなら、将来も義と認められているのです。今と将来が連続している考え方、これが信仰です。どのように申し開きをするかよりも、イエス様を信じて、神様がくださる義の衣をいただくべきです。Ⅰヨハネ21-2「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」

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2012年7月 8日 (日)

キリストの陰府下り    Ⅰペテロ3:18-22

イエス様は肉体的には、3日間死んでいました。しかし、霊においては陰府にくだって何かをなさっておられたようです。ある人たちは「死者たちに、福音を宣べ伝え、そこで信じた者は救われた」と言います。いわゆるセカンド・チャンスであります。柔道には敗者復活戦というのがありますが、人間は死んでからもう一度、救われるチャンスがあるのでしょうか?そういうことを含め、イエス様が陰府に下られた目的について学びたいと思います。

1.キリスト論の全体

キリスト教会には古くから「使徒信条」なるものがあります。当教会は祭典的な礼拝を目指しているので、信条を唱えるということをしなくなりました。おそらく、キリスト教会の半分くらいは、「使徒信条」を礼拝において唱えているかもしれません。しかし、きょうのテキストを見ますと、使徒信条のほとんどの内容が記されています。神学的には、キリスト論の全体を網羅するものであります。ですから、最初のポイントでは神学校で学ぶような「キリスト論」を概略的に学びたいと思います。

キリストがこの地上に来られた第一の目的は何でしょうか?18節「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」ここには処女降誕については触れられていませんが、キリストがこの地上に来られた目的が記されています。目的とは正しい方が悪い人々の身代わりになるためです。「正しい方」とはだれでしょう?イエス・キリストです。イエス様は律法の下で生まれ、律法を全うされました。もし、罪があるならば身代わりになることができません。人類の歴史の中で罪のないお方はイエス様、お一方だけです。すべての人はアダムの子孫として生まれたので罪があります。この世では、相対的に「良い」とか「悪い」と言われるかもしれません。しかし、絶対者なる神の前に立ったならば、どんな人でも「悪い人々」の中に入ります。私たちの正しさでは、義なる神さまの前に立つことはできません。たとえば、嘘を何回ついたら嘘つきになるでしょうか?1回です。では、罪を何回犯したら罪人となるでしょうか?1回です。この世で、罪を犯したことのない完全無欠の人はいません。自力では神さまのところに到達できないのです。そのため、神さまは独り子をこの世に遣わし、全人類の罪を御子の上に負わせました。そして、御子イエスは身代わりに神のさばきを受けられました。歴史の教科書で何と言われようと、キリストの十字架の死は、身代わりの死だったのです。

その後、イエス様はどうなったのでしょうか?18節後半「それは肉においては死に渡され、霊においては生かされて」と書いてあります。イエス様は肉体的に死んで、ヨセフの墓に葬られました。金曜日から日曜日の早朝まで、3日間、死んでいました。しかし、「霊においては生かされ」どこかに行ったようです。19-20節「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」イエス様は死者の霊たちがいる陰府に下られました。では、何しに行ったのでしょうか?ノアの時代に死んだ人たちのところへ行き、「みことばを語られた」と書いてあります。創世記6-9章にはノアの洪水のことが記されています。ノアは100年くらいかけて大きな箱舟を作りました。作っている合間に、「まもなく大雨が降って洪水になるから、この箱舟に入りなさい」と人々に警告しました。しかし、ルカ17章には「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました」と書いてあります。おそらく、ペテロの時代、教会において「ノアの家族以外の人たちはどうなったんだろう?全部滅びてしまったのか?彼らに救いはないのだろうか?」という疑問があったのでしょう。それに答えるために、ペテロは、キリストは霊において死者たちのところへ行ってみことばを語られたのだと教えたのです。では、死後にも救われるチャンスがあるのでしょうか?そのことについては、後半のポイントで語りたいと思います。とにかく、キリストは霊においていかされ、捕らわれの霊たちのところへ行って、みことばを語られたということです。

その次に何と書いてあるでしょう?21節「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」ここにはバプテスマ、つまり洗礼の意味が書いてあります。わずか八人の人々が、この箱舟の中で水を通って救われました。そのことが、今あなたがたを救うバプテスマの型(タイプ)であるということです。箱舟の外は水であり、死でありました。しかし、彼らは死の水を通って救われたのです。レビ記などでは、沐浴、つまり水で洗うということが罪や汚れを洗いきよめることでした。しかし、新約のバプテスマは一度死ぬこと、そして新しく生まれ変わるという意味があります。パウロはローマ6章でこのようにバステスマを説明しています。「私たちはキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえったのです。私たちもいのちにあって新しい歩みをするためです」と言っています。当時のキリスト教会において、バプテスマのとき、何かを誓ったのではないかと思います。その証拠に「正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです」と書いてあります。ここは解釈がとても難しいところであります。彼らはバプテスマによって、一度、古い人に死んで、新しくなりました。イエス・キリストの復活にあずかった、正しい良心によって、神さまに誓ったのです。ですから、イエス・キリストの十字架の死と復活は単なる歴史ではなく、自分たちもバプテスマによって、十字架の死と復活にあずかったのです。パウロはローマ67「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」と言いました。クリスチャンはキリストと共に十字架に死んで、キリストと共によみがえった存在なのです。ハレルヤ!

キリストは復活してからどうなされたのでしょうか?322「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」アーメン。キリストは天に上り、神の右の座に着かれました。神学的にはこれを昇天・着座と言います。「昇天」は昇る天であり、イエス様しか使われません。クリスチャンが死んだら、「召天」、召される天であります。しかし、イエス様は天に昇られたので、「昇天」です。そして、父なる神の右の座に座られました。座られたとはどういう意味でしょう?私たちは立ったままでいると疲れるので、「やれやれ」と座ります。座るとはゆっくりするということでしょうか?そうではありません。神の右の座とは権威を象徴しています。父なる神さまは、王権をキリストに与えたのです。そして、座るとは王の執務を開始するということです。つまり、キリストは神の国の王として、治めておられるということです。ヘンデル作曲のメサイヤという曲があります。キリストの降誕、受難、復活、そしてキリストが王として永遠に君臨することが歌われています。ここに、「御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて」とあります。天使には階級があります。救われた人々に仕える御使いがおります。重要なことを告知する天使もいるでしょう。そして、悪魔と戦う天使と天使長がいます。このようにキリストは数えきれない天使たちを従えておられるのです。イエス・キリストは、王の王であり、主の主として、世界を統べ治めておられるのです。

私たちはこの地上で教会において、主の勝利を宣言し、主を礼拝しなければなりません。なぜなら、私たちがイエスを主と告白し、礼拝するときに、悪の軍団が退くからです。毎週、私たちがここに集まっているのは暇だからではありません。キリストにあって古い人に死に、キリストにあって新しい人に生まれていることを確認するためです。私たちは罪と悪魔から解放され、キリストに属する者です。この地上で生かされている限り、神をあがめ、神に仕える者であります。先月の614日午後2時から、古谷惠子姉の告別式がありました。14日の朝、聖書を読んでディボーションしていました。告別式のプログラムもメッセージも前の日にできていました。しかし、「それで良いのかなー」と思いました。「いつくしみ深く」じゃないだろう。「すべての悲しみ、すべての恥を主の喜びに変えてしまおう。すべての病い、すべての痛みを主の喜びに変えてしまおう。イエスロード、イエスロード、イエス、イエスロード、イエス、イエスロード、アーメン」という賛美が浮かんできました。「でも、私が歌ってもきっとリードできない、どうしよう?」と思いました。「そうだ、私たちは生きるにしても死ぬにしてもキリストの名があがめられることなんだ。きょうの葬儀も、一つの礼拝なんだ。キリストの勝利を宣言しよう。キリストは、罪も呪いも恥も病も死さえも取り去るお方だ。これを語ろう」と思いました。賛美は「いつくしみ深き」でしたが、キリストの勝利について大胆にメッセージしました。私だけ浮いていましたが、それでも良かったと思っています。私たちはこの地上でいろんな使命が与えられています。福音を宣べ伝え、隣人を愛することが必要でしょう。しかし、現在から永遠の御国にいたるまで必要なのが、賛美と礼拝であります。キリストの十字架と復活、そしてキリストの王としての支配を賛美するのです。どうぞ、私たちの人生をキリスト論的にしましょう。生きるにも死ぬにも、キリストの御名があがめられますように。アーメン。

2.キリストの陰府下り

 前半においては、キリストが陰府に下られ、ノアの時代の人々にみことばを語ったということをお話ししました。問題なのは、私たちが死んでから、もう一度、救われるチャンスがあるかどうかです。319「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とあります。みことばとは何でしょうか、どういう内容でしょうか?46「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが…」とあります。福音とはギリシャ語でユーアンゲリオン、「戦争に勝った」という知らせであります。イエス・キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、「私は十字架ですべての罪を贖った。私を信じる者は生きる」と告げたのかもしれません。これと似た記事がエペソ4章にもあります。エペソ4:8-10 「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──」。ここにも、「捕らわれの霊」と似た、「捕虜」という表現があります。神学的にはどうなるでしょう?「キリストは陰府に下り、多くの捕虜を引き連れ、高いところに上られた。高いところとはパラダイスである」ということです。キリスト以前は、陰府が二階建てであったようです。ルカ16章に、貧乏人のラザロとある金持ちが死んで、陰府に行ったことが書いてあります。二人とも陰府に行ったのですが、ラザロの方が高いところです。一方、金持ちは陰府の低いところで炎が燃えています。上と下には大きな淵があって、渡ることができませんでした。陰府の上にいる人たちはノア、アブラハム、ダビデとか旧約聖書の義人であったと思います。イエス様は復活したとき、陰府の上部を携えあげて、パラダイスを作られたのではないかと思います。現在、パラダイスは天国の待合室のようなものとして存在しています。

 問題になるのは、イエス様が復活後、世の終わりが来るまで、陰府にくだって福音を語り、信じる者をパラダイスに引き上げるかどうかです。つまり、そのことが陰府に下り、捕虜を引きつれ、一緒に上られるということが繰り返されるかどうかです。久保有政という牧師がセカンド・チャンスはあると主張します。久保先生は同じ座間キリスト教会の出身で、離散したイスラエル人とか終末論を研究している人です。久保有政師のホームページを見るとこのようなことが書いてあります。フランシスコ・ザビエルが16世紀に日本にやって来たとき、数多くの日本人が、彼を通してカトリックの教義を聞きました。ザビエルは教皇庁へ書き送った手紙の中で、「地獄」についてのカトリックの教義を日本で説くことがいかに困難かを、次のように語っています。「日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと、私たちが教えていることです。彼らは、亡くなった子どもや、両親や、親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。それに対して私は、その道も希望も全くないと、やむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは、信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。『神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか、また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのか』と、彼らはたびたび尋ねます。彼らは親族の不運を嘆かずにはいられません。私も、いとしい人々がそのような嘆きを隠せないのを見て、涙を抑えられないことがあります」。ザビエルは結局、日本人に対しては、地獄の恐怖を説くのではなく、十字架の福音の恵みを強調することによって、宣教を推し進めました。しかし、どこへ行っても、「キリストを信じないまま死んだ私の両親や、先祖たちは今どこにいるのですか」という日本人の質問に悩まされ続けたのです。

 久保有政師の回答はこのようなものです。陰府は、地獄とは全く別の場所です。今日、クリスチャンは死後は天国へ行っており、一方、未信者は死後、陰府に行っています。未信者は地獄に行っているのではありません。地上に生きている間になす回心は、他の何にもまさって尊いものです。生きているときに信じるのが、一番良いのです。しかし一方では、地上に生きている間に福音を聞く機会が一度もなかった人々も大勢います。彼らは、今は死んで、一般的死者の世界である「陰府」にいます。あるいは、地上にいるときは福音を聞く機会が充分なかった、という人たちもいます。彼らは、ただそれだけで、もう救われないのでしょうか。そうではありません。聖書は、福音は陰府に行った人々のためにも存在している、と明確に語っているのです!ピリピ21011新共同訳「それはイエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、イエス・キリストは主であると告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ここで「地下のもの」と言われているのは、陰府にいる人々をさします。「地下」の世界は聖書ではつねに陰府を意味し、陰府は「地下の国」と呼ばれています(エゼ3218)。聖書は、福音は陰府の人々のためにも存在していると、述べているわけです。ヨハネ525-28死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます。…そして聞く者は生きるのです」とも言われています。イエス様が「生きる」というとき、それは救われるという意味です。陰府の死人であっても、キリストの福音を聞き、生かされるとき、神への心からの礼拝を捧げることができます。まさに死後のセカンド・チャンス、死後の救いです。キリスト者以外の死者は、今は陰府に行っています。地獄に行っているのではありません。陰府は一般的な死者の世界であり、一方、地獄は最終的な刑罰を宣告された人々のみが、世の終末になって行く所なのです。 陰府はいわば留置場のようなものであり、裁判前のものです。一方、地獄は刑務所のようなものであり、裁判後、刑の確定後に収容されるものです。刑務所では、もはや弁護士も来ることはありません。しかし留置場や拘置所など、裁判前の所では、弁護士も来てくれることがあります。裁判のときに無罪となることもあります。「キリストの陰府における福音宣教」という主題は、ギリシャ正教では昔から一般的なものでした。

 久保有政師の教えはさらに続きますが、最後まで読むと、「ああ、セカンド・チャンス、死後の救いはあるかもしれない」と思うかもしれません。Ⅰペテロ3章や、エペソ4章などに書いてあるセカンド・チャンスのようなことは新約聖書全体にどのくらいあるのでしょうか?私は10%ないと思います。90%以上は、生きているうちに信じなければならないと書いてあるからです。たとえばヨハネ318-19「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。」とあります。ヨハネは「今、信じないならばすでにさばかれており、将来もさばかれる」と言っています。私は交通違反で何度も捕まったことがあります。ある時、6号から入って、すぐ右折しました。なぜなら、前にバスが停車していたからです。道にお巡りさんが立っていて、「ここは右折禁止だ!」と言いました。私は「17年間ここを通っているけど、そんな標識は見たことがない!」と言いました。お巡りさんは私をそこまで連れて行ってくれました。矢印がいっぱいあるけど、右側だけ棒だったのです。「いやー、ひどい標識だなー」と思いました。では、お巡りさんは私が知らなかったということで許してくれたでしょうか?その道路標識は私が亀有に来る前から立っており、右折が禁止されていました。私は法律を破ったのです。だから、捕まったのです。5年前の2007823日です。そのお陰で、7月の書き換えでゴールドの免許になりそこねました。「キリストが復活したなんて知らなかった」「キリストを信じれば救われるなんて知らなかった」。私は「知らなかった」ということも、さばきの対象になると思います。アダム以来、すべての人は罪の中に生まれ、罪を犯し、死んだら永遠の滅びが定まっていました。しかし、例外的にイエス・キリストを信じるならば罪赦され、救われるのです。これは当たり前のことではありません。特権であり、神のあわれみであります。「嬰児や2,3歳で死んだこどもは自動的に天国に行くのでは」という神学もあります。福音を全く知らなかった人、聞かなかった人が確かにいます。ひょっとしたら、イエス様が陰府にくだり福音をもう一度、宣べ伝えてくださるかもしれません。私たちはそのことも含めて、神さまにゆだねるしかありません。私は「信じなかったもの全員がさばかれて、地獄に行く」とは思いません。父なる神さまは善なる神様です。しかし、確実に言えることは、生きているうちに信じるなら救われるということです。ヨハネ1236「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」

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2012年6月24日 (日)

弁明できる用意を       Ⅰペテロ3:13-17

当時のクリスチャンはローマ国家の支配の中にありました。身分的には国外追放者であり、寄留者でした。ある人たちはしもべとして、主人に仕えていました。横暴な主人から、善を行っていているのに、苦しみを受けることがありました。現代の私たちは民主的な国家の中にあり、個人の権利や信仰の自由が認められています。ペテロの手紙の時代の人たちよりも、はるかに良い環境の中に暮らしていると思います。しかし、クリスチャンであるがゆえに迫害されたり、イヤな思いをすることがあるでしょう。なぜなら、私たちはこの世の人たちと一緒に悪いことをしないからです。そのためにやっかまれたり、害を受けることがあるでしょう。程度の差はあれ、どの時代においても神の子らはこの世において迫害を受けます。では、どうしたらそういう苦しみから解放されて、平安に生きていけるのでしょうか?

1.キリストをあがめよ

ここには、私たちが苦しみをうけたとき、やってはいけないことと、やるべきことが書いてあります。Ⅰペテロ31315前半まで。「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」この人は、善を行うことにとても熱心でした。しかし、この世においては、正しいことは、良くないことであると思われるときもあります。社員や公務員として働いていて、「馬鹿正直は良くない。ここはごまかしなさい」ということがたまにあるのではないでしょうか?データーの改ざんを求められたり、不正に値段を書き換えざるようなことがあるかもしれません。「いや、クリスチャンとして、それはできません」と断ったなら、どうなるでしょう?「あなたは正しい。そうしましょう」という上司はまずいないでしょう。私たちは神を恐れるので、もし不正なことをし続けたら、後から大きな刈り取りが来ることを知っています。でも、この世の人たちはそうではありません。「いいから、黙ってやれ!」というでしょう。日常生活においても、こちらは善を行っているはずなのに、衝突することがあるでしょう。また、日本の国は仏教がおもなので、葬式や法事のときに、「どうして焼香しないんだ」と言われるかもしれません。とにかく、こちらは最善を尽しているはずなのに、イヤなことを言われたり、害を加えられたりすることがあります。そういうときに「クリスチャンとしてどうすべきか?」ということです。

 ペテロは何と言っているでしょう?「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。」と言っています。どこかで聞いたことがあるみことばです。マタイ5章にあります。マタイ5:10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」そうです。イエス様も同じことをおっしゃっていました。「幸いです」という意味は、祝福されるという意味です。すべてをご存知である神さまが、御手を延べてくださるということです。マタイ5章にはさらに何と書いてあるでしょう。マタイ5:11-12「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」神さまが報いてくださるとあります。「でも、天国に行ってからでは遅すぎます」と言いたくなります。この地上で、何とかならないのでしょうか?もちろん、神さまは地上でも報いてくださるお方ですが、私たちがすべきことが2つあります。第一は「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」とあります。私のところにたまに「相談があります」という電話がきます。かなり前に、「今、亀有駅にいるけど、相談があるのでお会いできませんか?」と男性から電話がありました。私は「どういうご用件でしょうか?私にも予定がありますので」と答えました。向こうは、「用件は会ってからお話します」と答えました。私は「申し訳ありません。どういうご用件でしょうか」とさらに聞きました。すると、向こうは「バカヤロー、用件があるから電話してんだよ!」と豹変しました。あきらかにヤクザ風です。おそらくお金の無心でしょう。私は「それじゃ、困ります。お会いできません」と答えました。向こうは、さらに逆上して、「てめーこのやろー、名前は何と言う。今から行くから待っていろ!」と電話の向こうから怒鳴りました。私は「ああ、わかった。警察を呼んで待っている」と答えました。私も元現場監督なので、昔の血が騒ぎました。「本当に来るかなー、来たらどうしよう。よーし、覚悟を決めなくちゃ」と心配しました。その時は、来ませんでした。

 今のは、あまり良い例ではないですね。聖書的にはどうなんでしょうか?ペテロは「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」と言っています。私たちの信仰に最も有害なものは、恐れです。鉄でできた船が水の上に浮いています。どうしてでしょう?それは鋼鉄の板が、たえず、水を外に締め出しているからです。もし、鉄板に穴があいていたらどうでしょう?水がものすごい勢いで、流れ込み、まもなく船は沈没するでしょう。恐れは信仰を失わせてしまう最大の敵です。多くの人は「恐れ」が心の中に入ることを許してしまいます。「もし、こうなったらどうしよう?」「もし、そんなことになったら、もうおしまいだ」。ある人たちは、いつも「最悪だ」「最悪だ」と言っています。そういう人は人生に最悪を呼び込んでいる人です。クリスチャンであるなら、逆に「最善だ」「最善だ」と言うべきです。そうすると、普通に最善のことが起こります。ある人が調査したところ、私たちの恐れる恐れが実際に起こる可能性は3%だそうです。つまり、97%は実際に起こりもしないことを恐れているんだということです。もちろん危機管理は必要です。でも、毎日の生活で、私たちは、信仰をないがしろしにして、恐れすぎていることは確かです。もう1つは何でしょうか?「心を動揺させない」ということです。「動揺する」のギリシャ語は、「精神的にかき乱す、さわがす」という意味です。人からさばかれたり、脅かされて、動揺しない人がいるでしょうか?世の中には、人を強迫したり、付きまとう人がいます。悪質なストーカーもいます。でも、最も気を付けるべきことは、心の問題です。「動揺する」つまり、精神的にかき乱されると、それが妄想にまで発展し、外出すらできなくなります。「人間って本当に弱いもんだなー」と思います。ある人が発した一言で、心の中が混乱し、心配で夜も眠られなくなります。「なんであんなこと言うんだろう、ひどいじゃないか!」と怒りや憎しみまで出てきます。最後には無力感に襲われ、何もできなくなります。多くの人たちは、恐れや動揺を過少評価しがちですが、私たちの生活を破壊するほどの力があります。もちろん、みことばのとおり、恐れないで、動揺しなければ良いのですが、もっと良い手はあるのでしょうか?

 あります。ペテロは「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」と命じています。ペテロは恐れやすい人でした。ペテロの本名はシモンです。シモンは川辺に植わっている葦という意味です。葦ですから、問題の風が吹くとすぐ揺れてしまいます。しかし、イエス様は「お前は、これからシモンではなく、ペテロ、岩なんだ」と言われました。岩はがっちりして動きません。すばらしい名前です。でも、ペテロの信仰生活においてあるときは岩、あるときは葦、ペテロとシモンがたえず入れ替わっていました。でも、ペテロはすばらしい方法を自ら発見して、それを私たちに提供しています。それは、心の中でキリストを主としてあがめるということです。これはどういう意味でしょう? JB.フィリップスは「キリストに向かって完全にささげることに単純に集中しなさい」と訳しています。New English Bibleは「キリストを主として崇敬することに心を向けなさい」と訳しています。私たちの心が1つの部屋だとします。その部屋の中に、恐れや動揺、怒りや憎しみが混在しているとします。どうやって、取り除いたら良いのでしょうか?「恐れや動揺、怒りよ、心から出て行け!」と命じれば良いのでしょうか?それも良いかもしれませんが、一時的で、また戻って来るかもしれません。その代わりに、「キリストは私の主でです。アーメン、ハレルヤ!キリストを礼拝します」とそこに思いを向けたらどうでしょうか?つまり、恐れや動揺の代わりに、キリスト様を礼拝することに集中するということです。そうすると心の中に神の信仰、神の平安、神の光があふれてきます。その結果、恐れや動揺が出て行くのではないでしょうか? 詩篇341「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」とあります。「あらゆる時」です。「うまく行っているときも、うまいう行っていないときも」です。エディ・レオ師は、「男性は一日に約240回、性的な誘惑を受ける」と言いました。睡眠の8時間を引くと、4分に1回の割合で誘惑を受けることになります。もし、4分毎に表れた性的な想像を消して、礼拝と置き換えるならば、男性は1日に240回、4分毎に、主を礼拝して交わることができます。そのような生活はなんと力強いことでしょう。私たちにトラウマや恐れがやってきたときどうしたら良いでしょう?イエス様を礼拝するときにすれば良いのです。私たちに怒りや悲しみがやってきたときどうしたら良いのでしょう?イエス様を礼拝するときにすれば良いのです。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」これこそが、勝利の秘訣です。

2.弁明できる用意を

 ペテロは迫害や苦しみをもっと積極的に用いることを勧めています。Ⅰペテロ315後半から「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」私たちが迫害や苦しみの中でも神様をあがめつつ、善を行っていたならどうなるでしょうか?中には「あなたはどうしてそういう生き方をしていられるんですか?」と尋ねる人が出てくるということです。最初は馬鹿にしていたのに、「どうしてそういう生き方ができるんだろう」と、興味を持つ人が出てくるということです。神さまは私たちの周りに、平安の子、心の柔らかい人たちを用意しておられます。そういう人たちは、義に飢え渇いている人たちです。「この世に、神さまが本当にいるなら信じてみたい」「人は死んだらどうなるんだろう」「死後においても希望があるのだろうか」。そのような素朴な質問をしてくる人たちがおられます。そういうときにどうするかということです。あるクリスチャンは、「そうですか?一緒に教会に行きましょう!」と言います。悪いとは言いませんが、その前に、すべきことがあります。なぜなら、この世の人たちにとって、教会はあまりにも敷居が高いからです。それに、教会に来て、だれかの力を借りなければ説明できないのでしょうか?そうではありません。あなたがその場の、伝道者であり牧師なのです。ハレルヤ!ルターは、万人祭司を唱えました。祭司とは、この世の人と神さまとの間に立って、とりなす人です。

 このところに、「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と書いてあります。「だれにでも」、ということは子供でも大人でも、男性でも女性でも、インテリでもインテリでない人でも、善人でも悪人でも、ということです。私たちは心の中でより分けてしまいます。「この人は、罪深いので神さまから選ばれていないんでは」と敬遠しがちです。でも、一番、信じにくい人は自分を正しいと思っている人です。善良で暮らし向きの良い人ほど、救われにくいのです。一番、信じやすい人は問題のある人です。しかし、私たちは問題がある人には近づきません。なぜなら、問題のある人につかまえられて、一緒に沈没するかもしれないからです。ですから、私たちは、あまり問題のない、健康な人に近づこうとします。イエス様は何と言ったでしょうか?「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ912-13私たちはどうも、反対なことをしているみたいです。とにかく、「だれにでも」です。次は「いつでも」です。「いつでも」ということは、自分の信仰が上向きとのときも、自分の信仰が下向きのときも、ということです。ある人は「私は良い証になっていないので、イエス様のことは言えない。恥ずかしい」と思っています。では、仕事がうまくいって、正しい行いをしている時だけに、証をすることができるのでしょうか?そうではありません。逆に、「こんな者でも神さまから愛されています」ということの方がよい証になるのです。この教会に山崎長老さんがおられました。山崎さんはいつもこのように言って人々を誘っていました。「わしなんか、酒も飲むし、タバコも吸うよ。それでも救われているんじゃ。はははは」と言っていました。「恥は我がもの、栄えは主のもの」ということばがあります。自分がダメであっても、キリストさまがすばらしいのです。ここに焦点を合わせていけば、ダメな自分がいつか良くなるのです。私たちはこの口を開いて、キリストを証すればするほど、生活がそれに比例して良くなるのです。逆に「私はダメだから」と、口を閉ざしていると、良くなることはありません。どうぞ、福音のために、キリストのために口を開きましょう。

 最後に言われていることは、「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」ということです。弁明とは擁護するとか、言い開きをするという裁判のときに使われることばです。使徒26章でパウロがアグリッパ王のもとで、自分の信仰を弁明しました。そして、最後にはキリストを信じるように勧めています。現代的に弁明とはどういう意味でしょう?ある英語の聖書はlogicalにと訳しています。これは「論理的な」「筋の通った」という意味です。普通の証は自分の体験ですから、あまり論理的でなくても結構です。しかし、ある場合は、「これはこういう意味です」と論理立てて答えなければならない時があります。ある人が「人間は死ねばみんな同じでしょう」と言ったとします。それに対して、どう答えるべきでしょうか?「人間の魂は不滅なので、死後の世界があります。問題は、どこで永遠を過ごすかです」。また、ある人が「罪、罪というけど、なんでキリスト教は人を罪人呼ばわりするんだ」と言ったとします。どう答えるべきでしょうか?「罪とは、人間がまことの神さまから離れ、自分勝手に生きていることです。子どもが親なんかいらない、自分一人で育ってきたと言うようなものです」。また、ある人が「宗教はみんなおんなじだよ。本物なんかありはしない」と言ったとします。どう答えるべきでしょうか?「この世には偽札がたくさんあります。でも、偽札があるからと言って、本物のお札がないわけではありません。」また、ある人が「キリスト教は狭すぎる。なんで、キリストしか救いはないと言うんだ。とても排他的だ」と言ったとします。私だったらこう答えます。「1たす13になるでしょうか?水素と酸素を化合させると牛乳になるでしょうか? 1たす12です。水素と酸素を化合させると水になります。私たちは数学や自然科学において狭いことに文句を言いません。なぜなら、真理は排他的なのです。キリスト教も同じです」。復活に対しても、十字架に対しても、来世に対しても、弁明できる用意をしておくべきです。

 こういうのを弁証論と言います。「キリスト教弁証論」という本もあります。でも、多くの場合、私もそうですが、話し過ぎるのです。その人が1つしか質問をしていないのに、私たちは10個も答えてしまいます。もう話したら、「今がチャンスだ」とばかり、話が止まりません。もうその人は頭がいっぱいになって、あとはあふれるばかりです。心の中で「もう二度と聞くまい」と思うでしょう。ある人が「口は1つで、耳が2つあります」と言いました。カウンセリングではこれはとても重要な真理です。「下手な鉄砲数打てば当る」という方法もないわけではありません。しかし、本当に獲物をしとめる人は、ライフル銃のように的を絞る人です。では、どうしたら良いでしょうか?その人が持っている問題や心の悩み、あるいは興味を持っていることに耳を傾けるということです。30分も聞いているとその人の世界が見えてきます。聖霊さまが、「ああ、この人の必要なこうものかな?」とテーマを悟らせてくださいます。自分が持っている知識を全部出せば良いというわけではありません。その人のニーズ、必要に対して、1つか2つ答えてあげれば良いのです。1つか2つです。決して10個与えてはいけません。1つか2つでしたら、しばらくするとお腹が減って、またやってきます。真理に対して飢え渇きをもっている人は特にそうです。再びやってきたら、また1つか2つ与えれば良いのです。私を信仰に導いてくれた職場の先輩がまさしくそうでした。私は「神さまがいるなら見せてくれ!」と言いました。すると、先輩は「電波は目に見えないけど、いっぱい飛んでいるよ」と言いました。私は「弱い人が神さまを勝手に作ったんだろう」と言いました。すると先輩は「私たちは弱いよ。自分の弱さを知っている人が強いんじゃないかな」みたいに言いました。全部、正確に覚えていませんが、たとえ話をよく使って聖書の真理を教えてくれました。しかし、あとから分かったことですが、聖書に実際にそういうたとえ話や物語があったんですね。

 ペテロは何と言っているでしょうか?「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」と言っています。弁明において、一番重要なのは、知識や技術ではなく正しい良心です。未信者とどうしても、議論になる場合があります。本当なら議論に勝ちたいところですが、負けても良いのです。むしろ、負けた方が良いのです。なぜなら、議論に勝ったとしても、その人を失うのがもっと不幸だからです。信仰の世界を全部、理性で説明することは不可能です。全部説明できたら、信仰はいりません。人間は、知性で信じるのではないのです。その人を自分が本当に愛しているかどうかです。愛こそが人を信じさせるのです。三浦綾子さんは自分が学校で教えてきたことが全部間違っていたことに気づき、自暴自棄になっていました。前川青年が一生懸命に語るのですが、皮肉な目でながめながら煙草に火を付けました。やにわ、前川青年は傍らにあった石を取り、自分のひざをゴツンゴツン打ち始めました。三浦綾子さんは「何しているの?やめなさい」と叫びました。前川青年は「信仰のうすいぼくにはあなたを救う力がない。だから、不甲斐ない自分を罰しているんだ」と答えました。そのとき、三浦綾子さんは「だまされたと思って、私はこの人の生きる方向について行ってみようか」と思ったそうです。ことばで論理的に説明することも大切です。でも、神の前における正しい良心こそが、正しい福音を伝えるために最も重要なのです。

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2012年6月17日 (日)

兄弟愛を示し       Ⅰペテロ3:8-12

「最後に、もうひとことだけ」と言いながら、なかなか終らない人がいます。パウロもそうですが、ペテロも「最後に申します」と言いながらも、すぐ終っていません。ある英語の聖書は、「最後に」ではなく「要するに」というふうに訳しています。「つまり、これが大事なことですよ」と言うとき、「最後に」という表現を用いているようです。ペテロが「最後に申します」と言っている内容は、「神の国の価値観で生活しなさい」という勧めであります。もし、こういうことがなされたならば、争いや犯罪、戦争すら起こらないでしょう。ペテロは「この世を変える前に、あなたがたから実行しなさい」と勧めています。「神さまのみこころは何か」と、問う人がいますが、これほどはっきりしているものもないと思います。

1.あれ

 なぜ、「あれ」と言うかと申しますと、英語の聖書が、beとなっているからです。これは行いというよりも心の状態です。この世は、何をするかという行い、つまりdoがすべてです。しかし、聖書はその前に、心の状態がどうあるべきかを教えています。心の状態は外側からは見えません。しかし、それがことばや行動として出てきます。心の状態が正しければ、正しい行動が後から着いてくるからです。つまり、be「どうあるべきか」は、do「何をすべきか」よりも重要だということです。ハレルヤ!このことを1つ学んだだけでも、何か黒い霧が「ぱっ」と晴れた気がしないでしょうか?ペテロは5つのbe「あれ」を説いています。38節を見るとどうでしょうか?「心を1つにし」「同情し合い」「兄弟愛を示し」「あわれみ深く」「謙遜でありなさい」と、5つ出てきます。もしも、5点満点で自分自身をチェックするならば、どのくらいの点数になるでしょうか?1つずつ説明しますので、どうぞ、ご自分でチェックしてみてください。

 第一は「心を一つにし」です。心を一つにするとは、和合することであるとギリシャ語の辞典に書いてありました。詩篇1331-2「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。」とあります。私たちは生身では一つになることは決してできません。罪から贖われて、神さまのもとに集まるときに一つになることができるのです。あくまでも、「キリストにあって一つです」。教会同士も一つになることができません。しかし、どんな教会であっても、異端でない限りは「イエスは主である」と告白することができます。イエス様の周りにいた弟子たちも、みんな違っていました。それぞれ衝突するような考えや性格を持っていました。しかし、彼らはイエス様のもとに集まって、和合することの大切さを学んだのです。イエス様から学んだ初代教会はどうだったでしょうか?使徒246「毎日、こころを一つにして宮で集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」。私たちが一つになるならば、特に伝道をしなくても、人々が集まって来て、救われるのです。

 第二は「同情し合う」ということです。英語の聖書はfeeling感情と訳しています。「感情を1つにする」ということができるのでしょうか?これは難しいと思います。男性は女性と比べて、感情をあまり現しません。人の前で、涙を流すことはほとんどないでしょう。しかし、クリスチャンになると、ぐっと感情が豊かになり、涙もろくなることも確かです。それでも、感情というのはそれぞれ違うと思います。では、ペテロは、どのような感情を言っているのでしょうか?ローマ1215「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」とあります。喜びの中に意志も入っていますが、感情も多分に入っています。赤ちゃんや子どもはよく笑うし、喜びます。もちろん、泣いたり、怒ったりもします。多くの場合は、そういう感情は自分のことであります。自分に良いことがあれば喜ぶし、自分がイヤな思いをすると泣きます。しかし、「同情し合い」ということは、他の人の感情を分かち合うということです。兄弟姉妹の喜びを自分の喜びとする。兄弟姉妹の悲しみを自分の悲しみとすることです。この同情心が、私たちから外の世界に広がったら、すばらしいのではないでしょうか?

 第三は「兄弟愛を示し」です。ギリシャ語の聖書はフィラデルフォイとなっています。アメリカの東部に似ている都市名があります。これは、兄弟姉妹に対する愛、つまり、キリスト者相互間の愛です。聖書には「互いに愛し合いなさい」といたるところで、命じられていますが、多くの場合は、兄弟姉妹に対する愛を指しています。ギリシャ語には「人間愛」「博愛」という言葉が他にあります。どちらも、フィレオー「友を愛する」という語源から来ています。しかし、聖書は「人間愛」「博愛」をほとんど語っていません。宗教改革と同じ時代にヒューマニズムも現れました。その時代、キリスト者でありながら、ヒューマニストがたくさんいました。なぜ、ヒューマニズムが現れたのでしょう?それは、カトリック教会があまりにも人間性を否定し、抑圧したからです。だから、その反動として、人間性を取り戻す意味で、ヒューマニズムが起こったのです。それでも、私は、聖書はヒューマニズムを語っていないと思います。なぜなら、私たちは神さまを愛する愛がないと、隣人も愛せないからです。私たちはキリストを信じて、父なる神の子どもとなります。その次に、聖霊によって神の愛が注がれ、兄弟姉妹を愛することができるようになるのです。でも、本当に神さまを愛しているかどうかは、兄弟愛があるかどうかで分かります。

 第四は「あわれみ深く」です。ギリシャ語は、内臓と関係があります。イエス様が人々をご覧になったとき、「深くあわれまれた」と福音書に書いてあります。あわれみというのは、切実な同情心であります。英語ではcompassionate共に苦しみとなっています。子どもが怪我や病気で、手術をする場合、母親はcompassionate共に苦しむのではないでしょうか。この間、中学の運動会があり、家内が見に行きました。私は、グラウンドが見えづらいので、すぐ帰ってきました。有悟が走るとき、家内の心臓がドキドキしたそうです。子どもの緊張感を母親が感じるのかもしれません。また、聖書では「あわれみ」という言葉と対比することばに「さばき」があります。預言者的な賜物を持っている人は、すぐ、人をさばきます。「ここが足りない、ここが変」とか言って、さばきます。確かに、そういう人はたくさんいるかもしれません。しかし、イエス様の心のメガネは「あわれみ」でした。どうぞ、「あわれみ」というメガネをかけましょう。そうすると、「ああ、こういうわけで、この人はこういう言動をとらざるを得ないんだなー」と深く同情することができるでしょう。不思議なことに、人はさばかれていないということが分かると、心を開き、自ら変わろうとすることも確かです。イエス様の周りにいた人たちは、さばかれないで、受け入れられていることがわかっていたので、喜んで変わろうとしたのです。

 第五は「謙遜であれ」です。謙遜は「心の卑しい、心の低い、卑屈な」という意味があります。ある程度の能力があり、自信にあふれた人は謙遜になるのは難しいでしょう。口では「いや、いや」と言いながら、高慢さを隠します。自信を持つことは良いのですが、自尊心やうぬぼれになりやすいことも確かです。イエス様は神の御子ですから、何でもできました。しかし、イエス様はいつでも謙遜に歩まれました。謙遜とは「自分には能力がない」「自分は何者でもない」と言うことなのでしょうか?謙遜とはどこから来るのでしょうか?そうです。父なる神さまがくださったから、そういう能力や力があるのです。もし、神さまがそれらを取り上げたならば、一瞬にしてなくなるでしょう。旧約聖書のヨブは、一瞬にして10人の子どもたち、財産、名誉、健康まで取られました。謙遜というのは、「すべては神さまによるものです。神さまなしでは何1つできません」という思いから来るのではないでしょうか。

 「心を1つにし」「同情し合い」「兄弟愛を示し」「あわれみ深く」「謙遜であれ」を5つの「あれ」をご提示しました。残念ながら、5つの「あれ」は、この世では、そんなに価値あるものとは見られないでしょう。この世では何ができるか、「行い」がすべてです。しかし、私たちはこの原則を忘れてはいけません。do「何をすべきか」よりも、be「どうあるべきか」が、重要だということです。これら5つの「あれ」は、この世ではなく、神の国の価値観です。では、この世には通用しないし、役にも立たないのでしょうか?そうではありません。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになられました。2000年前から、イエス様と一緒に神の国が来ているのです。やがて、この世は終わり、神の国がすべてを支配するでしょう。と言うことは、私たちの生き方、私たちの価値観の方が、永遠に続くのです。5つの「あれ」を大事にしましょう。

2.するな

 Ⅰペテロ39「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」原文は「メー」という、否定で始まります。「メー」は、禁止を表す命令で用いられることばです。母親が小さな子どもに言うのと似ています。ペテロはどんなことを「するな」と命じているのでしょうか?まず、「悪をもって悪に報いるな」とあります。リビングバイブルは「害を受けたら」と訳しています。日常生活において、悪を受けたり、害を受けることがあります。私たちはそれに対して、仕返ししたくなります。すぐその場ではしなくても、ちゃんと覚えていて、いつかその時が来たら仕返しするのではないでしょうか?子どものときもよく、口げんかしたものでした。相手は悪いことを言うと、こっちも負けじと仕返しをします。相手が叩くと、こっちも叩き返します。そして、だんだん争いが増してきます。やったらやり返す。これが発展して戦争になるのです。しかし、聖書は「悪をもって悪に報いず」と命じています。キリスト教国と言われているアメリカはどうでしょうか?ベトナム戦争は古いですが、最近はアフガニスタン紛争とイラク戦争がありました。テロリストは確かに問題ですが、アメリカは報復爆撃をしました。そういう意味では、アメリカはもはやキリスト教国ではありません。離婚率や犯罪率もとても高い国です。裁判がとても多く、訴訟大国とも呼ばれています。聖書は「悪をもって悪に報いず」と命じているのに、現実はそうではありません。これはすべてのクリスチャンに言えることですが、頭で信じてはいても、実際の生活に適用されていないということです。アメリカは西部開拓のときから、銃社会で「やったら、やり返す」という考えが染み込んでいます。それが要塞のようになっていて、「正義のために戦うしかない」となるのです。同じように、この世の考えが、聖書の考えよりも強いということが、よくあります。聖書がそう言ったとしても、「これは別の問題だ」と言うのです。私たちの中にも、「これは別の問題だ」と排除しているものはないでしょうか?ちなみに、「デザートは別腹」と言って食べる人がいますが、それは嘘です。同じ腹に入ります。

 もう1つは、「侮辱をもって侮辱に報いず」であります。侮辱とは、「ののしる、そしる、悪口を言う」という、言葉に関するものです。10節に「舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず」とあるのはそのためです。子どものときは、友だちとよく口喧嘩したものです。「お前の母さんでべそ」とか言ったものです。「侮辱には侮辱を」が体に染み付いています。ことばというのは本当に破壊力があります。ヤコブ書には「舌は火であり、死の毒に満ちている」と書いてあります。私たちは「ことばというものは、音の振動なので、たいしたことがない」と過少評価しがちです。しかし、聖書は実体であると言っています。イスラエルでは、シャローム「平安があるように」と言われたなら、その人は「平安をいただいた」と思うそうです。あるとき、ひとりの男性に「シャローム」と挨拶しました。しかし、あとからその人がアラブ人であることを気づきました。それで、その人の後を追いかけ、「さっきのシャロームを返せ」と言ったそうです。同じように、私たちが怒りや憎しみで発する、悪いことばも実体があるのです。ある人が鉢植えの花に対して、実験したそうです。片方には「お前は咲かなくてもよい」と呪ったそうです。そして、もう片方には「美しい花を咲かせておくれ」と祝福したそうです。それを毎日、行ったら、片方の花は枯れて、もう片方の花は美しい花を咲かせたそうです。私たちが何の気なしに言っている子どもへのことば、どうでしょうか?私も家内に対して、侮辱するようなことばを発することが多々あります。この場で、悔い改めます。

 では、聖書は何と言っているのでしょうか?「かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」「かえって」というのは、「その代わりに」という意味です。「悪や侮辱の代わりに、祝福を与えなさい」ということなのです。生身の人間に、そんなことが可能なのでしょうか?もしも、クリスチャンの成熟度をはかるならば、このことができるかどうかでしょう。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」きよめを強調する教団があります。私もその神学校で、少し学んだことがあります。きよめを強調することは悪くはありません。でも、どれくらいきよめられているか計るテストがここにあります。害を受けたり、侮辱された時ではないでしょうか?その人がきよめられ、自我に死んでいるなら、痛みは感じません。なぜなら、死体には感覚がないからです。ある人は、がまんするところまでは行くかもしれません。でも、祝福を与えるところまで行くでしょうか?これは、人間のわざではありません。人間のレベルを超しています。キリスト教は道徳ではありません。むしろ、奇跡です。マタイ5章でもイエス様が「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とお命じになられました。「祝福する」ということの中には、いろんな意味が含まれています。英語の詳訳聖書には「その人の繁栄と幸いと守りのために祈ること。そして、その人を本当に同情し、愛すること」とありました。これは、チャレンジです。どういうチャレンジでしょうか?遠くに入る人ではなく、近くにいる人たちです。ペテロはそれができる根拠を示しています。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

3.させよ

Ⅰペテロ3:10-12 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」ここにはっきりと、幸せな人生を送りたいならどうしたら良いが書かれています。あなたは幸せな人生を送りたいでしょうか?その秘訣がここに書かれています。多くの英語の聖書には、letということばが3回出ています。letというのは、「○○させよ」という使役動詞です。「だれに」でしょうか?それは自分自身に対してであります。自分に対して、「○○させよ」ということですから、そこには意思とか選択が求められます。では、どんな「させよ」があるのでしょうか?第一は「舌に悪を言わせず、くちびるに偽りを語らせるな」ということです。ヤコブ書は「舌とかくちびるは、制御するのが本当に難しい」と告げています。考える間もなく、勝ってにしゃべります。でも、自分の意思と選択によって「舌に悪を言わせず、くちびるに偽りを語らせるな」ということです。第二は「悪から遠ざかり、善を行わせよ」です。聖書は悪と戦えとは言っていません。むしろ、「悪から遠ざかれ」と言っています。詩篇1篇にも幸いになる道が教えられています。1節には「悪者のはかりごとに歩まず。罪人の道に立たず」と書かれています。これは、そばに近づくなということです。悪や誘惑のそばに近づくと、ブラック・ホールのように呑み込まれてしまうということです。第三は「平和を願い、平和を追い求めさせよ」ということです。だれに?これは自分自身に対してです。多くの人たちは「世界が平和でありますように」と願います。しかし、自分自身が平和でない場合があります。平和は、まず自分自身が平和で、その次に家庭や教会、職場、地域社会へと広がるのではないでしょうか?

これら3つのことは、39「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」ということを言い換えているに過ぎません。ペテロはこれを言わんがために、詩篇34篇を引用したのです。第二のポイントでこれは、人間的には不可能であると申し上げました。そして、最後のポイントでは、「3つのことを自分自身にさせるんだ」ということを聖書から勧めました。でも、舌とかくちびるを制御することが可能でしょうか?やっぱり、「悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報る」というエネルギーがあるのではないでしょうか?そうなんです。何故、私たちが口や行いで仕返しをしてしまうのか?それは、心の深いところに恨みや憎しみがあるからです。それを晴らせるような機会がやって来たとき、内側から自然に出てくるのです。それを李先生は、「怨念晴らし」と呼んでいます。もし、心の奥底が愛と赦しとあわれみに満ちているなら、「悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報る」ということがなくなるのです。次に癒された人が、3つのことを自分自身にさせることが可能になります。ですから、最初のステップは心の中につまっている怒りのマグマ、恨みのマグマを神さまに明け渡すことです。これは負のエネルギーであり、多くの人はこの力によって生きています。私もかつては、「ひどいことしやがって、このやろー」「ちくしょう、いつか復讐してやるぞ」と、そんな風に生きてきました。クリスチャンになってからも、そうしていました。だから、寝言でも、よく叫んでいました。しかし、今はエネルギーを変えました。「原子力エネルギーから自然エネルギーへ」とよく言われています。「ちくしょう!今に見返してやるぞ」みたいに頑張っている人もいます。それも、負のエネルギーです。そういう政治家がたくさんいます。そういう牧師もいます。それではうまくいきません。一番、良いところで、サタンにひっくり返されてしまいます。ですから、その怒りを神さまにゆだねるべきです。私たちの神さまはどのような神さまでしょうか?「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」神さまがさばき、神さまが報いてくださいます。神さまに怒りや憎しみをゆだね、平和を願い、自らに平和を追い求めさせましょう。

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2012年6月10日 (日)

妻たちよ、夫たちよ      Ⅰペテロ3:1-7

3章から、妻たちと夫たちに向けて、教えられています。それでは質問します。妻たちに向けて、何節、使われているでしょうか?1節から6節、6節使われています。夫たちに向けて、何節、使われているでしょうか?7節だけですから、1節です。また、Ⅰテモテ2815節には、男と女へのメッセージが記されています。男性には「男は怒ったりせず、きよい手をあげて祈りなさい」とたった1節だけです。女性には「女はつつましい身なりで、控えめに」で始まり、なんと7節使われています。ペテロは夫が1節に対して、妻は6節、使っています。パウロは男が1節に対して、女性は7節、使っています。なぜでしょう?女性は複雑な生き物だから、6節も7節もいるのです。男性は単純な生き物なので、たった1節で良いのです。隣の方が女性だったら、「あなたは複雑なので、たくさん教えが必要です」とおっしゃってください。

1.妻たちよ

 Ⅰペテロ31-2「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」「同じように」と言われていますので、前からの続きであることがわかります。213節から「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と、王や総督、あるいは主人に従うことが勧められています。「不当な苦しみを受けることがあっても、キリストのように耐え忍ぶのですよ」と教えられています。そして、こんどは「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい」と教えられています。男性にとってはものすごく、すばらしいことばですね。本当に金文字にして、家の目立つところに貼りたいところです。しかし、他の聖書はもっと、柔らかい口調で書かれています。リビングバイブルは「妻は夫に歩調を合わせなさい」となっています。JB.フィリップスは「夫に順応しなさい」と訳しています。英国の聖書は「夫の権威を受け入れなさい」と訳しています。ウーマンリブ運動が盛んだった時代、柔らかく訳したのでしょうか?それは、分かりません。でも、「妻は夫に従いなさい」は、聖書が一貫している教えであります。これは、神さまが定めた法則であり、これに従えば祝福を受けるということです。どんな祝福でしょうか?2節には、みことばに従わない夫の例が上げられています。おそらく、彼は未信者でありましょう。みことばに従わないような夫なら、馬鹿にして良いのでしょうか?そうではありません。「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」と約束されています。「神のものとされる」とは、「神に獲得される」という意味です。リビングバイブルは「その敬虔な態度に打たれて、やがては信仰を持つようになるからです」と訳しています。

 北朝鮮の話です。まだ「北鮮」と呼ばれていたときです。あるところに、みことばに従わない夫がいました。妻が教会に行くのを決して許しませんでした。些細なことで、妻を迫害し、打ち叩きました。妻は叩かれながら「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に」と賛美しました。夫は「うるさい、やめろ!」とさらに強く叩きました。すると妻はさらに大きな声で「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に」と泣きながら賛美しました。そういうことが数年間か続きました。やがて、朝鮮動乱が起こり、夫は北朝鮮の兵士として出兵しました。そのとき、アメリカ軍が加わって北と戦いました。夫が属していた北の部隊がアメリカ軍に捕らえられました。銃殺刑に処すために、一人ひとり並ばされました。アメリカ軍の隊長が「この中にクリスチャンはいるか。もし、クリスチャンならば許す」と言ったそうです。例の夫が助かりたいあまり、「はい」と手を挙げました。隊長は「クリスチャンだったら、讃美歌を歌えるだろう。一曲歌ってみろ!」と命じました。そのとき妻が泣きながら賛美していた歌を思い出しました。「主よ、みもとに近づかん・・・」。その先の歌詞が分かりません。でも、どうせハングルだから大丈夫だろうと、適当に歌詞を作って賛美しました。そうすると、隊長は「よしわかった」と言って、銃殺刑を免除してくれました。それで助かった夫は、戦争が終ってからクリスチャンになり、教会の長老になったそうです。妻によって助けられたわけです。松戸に岡野先生が牧会している教会があります。岡野先生は「キリストの弟子とは、みことばのとおりに生きることである」と教えています。たとえば、未信者の夫を持つ、クリスチャンの妻に対して、どのように勧めるでしょう。もし、夫から「日曜日の礼拝に行くな!」と言われたとします。聖書は「妻は夫に従いなさい」と書いてあるので、月曜日とか、水曜日の礼拝に行きます。これまでは、神さまを信じない夫を見下していました。「教会に行きましょう!」と誘っても決して来ることはありませんでした。しかし、彼女はみことばのとおり、夫を敬い、夫に仕えました。数ヶ月たちました。夫は何と言ったでしょうか?「妻をこんなに変えた教会が、どんな教会か一度行ってみたい」と言ったそうです。それでご主人は教会に来て、クリスチャンになったそうです。松戸の教会に行くと、そういうカップルがたくさんおられます。クリスチャンになると、真理がわかってきますので、夫がだんだん馬鹿で無能に見えてくるかもしれません。いつしか夫を見下していることが態度にも出てくるでしょう。そうすると、「教会に行きましょう」と誘っても、絶対に行きません。なぜなら、そんな妻に負けたくないからです。最後の抵抗は、教会に行かないこと、信仰を持たないことです。でも、妻が夫を敬い、その無言のふるまいを彼らが見るときに変わるのです。

 次に、みことばは何と教えているのでしょうか?Ⅰペテロ33-4「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」この世では、どんな髪型をするのか、どんなアクセサリーをつけるのか、どんな衣服を着るのか、外面的なものに目が行きます。教会から亀有駅まで行く途中、一体、いくつの美容院があるでしょうか?たまに銀座に行くときがありますが、大きな貴金属店や洋服店が立ち並んでいます。何も、お化粧したり、着飾ることが悪いとは言っていません。「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」と言われています。女性の最も麗しい飾りとは何でしょうか?ジュエル、マスカラ、ネイル、あるいはストッキングでもありません。内面からにじみ出てくる「柔和で穏やかな霊」です。これが一番の飾りであります。英語の聖書は、meek and quiet、「謙遜で静か」あるいはcalm and gentle、「穏やかで優しい」とも訳されています。逆な言い方をすると、ヒステリーであったり、怒りっぽくないということです。たまに、ひとこと言うと、10倍くらいに返してくる女性がいます。箴言219「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」と書かれています。「柔和で穏やかな霊」と言いますので、これは御霊の実、聖霊がその人に与える人格的なものです。生まれつき穏やかで控え目の人もいます。しかし、これは聖霊が与える人格的な実であります。心の中の隠れた人柄こそが大事であり、神の御前で価値ある飾りなのです。

 ペテロは56節に、その代表的な人物をあげています。「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。」このみことばを読んで、「ああ、むかしの話でしょう?今は違うわ!」と思うでしょうか?テレビで、「男性は得だ。女性に生まれて損している」アンケート調査がありました。それを道行く女性たちに聞いてみました。7-8割くらいの女性が「そう思う」と答えました。確かに男性は素顔で良いし、横暴な振る舞いが許される場合があります。しかし、男性が得しているか、女性が得しているか議論しても始まりません。もう、女性に生まれたのだったら、これは神さまのみ旨として受け入れるしかありません。ペテロは女性に生まれたなら、「サラの子どもとなりなさい」と教えています。サラはアブラハムを主と呼んで従ったと書いてあります。主とは主人と言う意味です。現代は、自分の夫を「主人」と呼ぶでしょうか?あだ名で呼んだり、よくて「旦那」でしょうか?もし、夫を「主人」と呼ぶなら、自分が奴隷みたいに感じるかもしれません。ペテロはサラのことをとっても称賛していますが、創世記を読むとサラはとっても人間的です。自分に子どもが与えられないので、そばめのところに入りなさいと勧めたのは、サラです。そばめに子どもが生まれて、そばめの態度が大きくなりました。サラはイヤになり、今度はアブラハムに「そばめと子どもを追い出してくれ」と頼みました。では、サラがアブラハムを主と呼んだ、その背景はどのようなものだったのでしょうか?創世記1812-13それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。」サラはアブラハムを確かに「主人」と呼んでいます。しかし、この背景を見ると、「サラは自分も年だし、夫も年だよ。子どもなんか産めませんよ」という不信仰があります。その中で「それに主人も年寄りで」と呼んだのです。尊敬のことばの中に、皮肉が2割くらい入っているのではないでしょうか?はっきり言うと、聖書の基準はその程度なのです。その程度で、敬虔な婦人と呼ばれるのです。でも、前半の教えは、心にとめるべきです。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。柔和で穏やかな霊という朽ちることのない心の中の隠れた人がらを飾りする」ということです。

2.夫たちよ

 Ⅰペテロ37「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」夫に対してはたった1節です。なぜでしょう?男は単純だからです。もし、隣の人が男性だったら「あなたは単純なんですね」とおっしゃってください。そうです。男は単純なんです。どういう意味で単純なのでしょうか?まず、脳のしくみが単純です。女性は左脳と右脳を結ぶ、海馬というのが男性よりも太いそうです。簡単に言うと、左脳と右脳をつなぐ情報のパイプが太いということです。だから、一度でたくさんの情報が、右から左、左から右へと移動できるということです。女性は一度で複数のことが考えられますし、一度で複数のことが可能です。テレビを見ながら、洗濯物をたたみ、子どもと会話ができます。しかし、欠点は一度にたくさんの情報が飛び交うので、パニックになりやすいということです。男性の場合は、左脳と右脳を結ぶ、海馬が細いので、一回で一つのことしかできません。数年前、朝、この礼拝堂で祈っているときです。ガシャンと自転車がこける音がしました。窓から下をのぞくと、男性が携帯を握り締めながら、倒れていました。おそらく、携帯をしながら運転していたので、何かに躓いたのでしょう。男性は一度で複数のことを行うのは無理なのです。魚を焼いて、味噌汁の鍋をかける。そして、フライパンで何かを揚げているとします。味噌汁とフライパンに集中しています。「あれ?魚焼いていたんだ!」と気づいた時は、魚が黒こげということがよくあります。しかし、男性の長所は、1つのことに集中できるということです。そして、一度にたくさんの情報が飛び交わないので、パニックにもなりにくいということです。目の前の1つのことをこなしていくということです。

 そういう脳内の構造はさておき、みことばを見たいと思います。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」ここで、第一に気づくべきことは「妻が女性である」ということです。長年。連れ添った人は、「妻が女性であるということを」と認めるべきです。その次は「自分よりも弱い器だということをわきまえて」とあります。「えー?本当に弱いの?」という疑問が起こるかもしれません。「戦後、靴下と何とかは強くなった」と言われてしばらく経ちます。韓国は儒教の国で男性社会でした。しかし、最近は立場が逆転しているようです。夫が家に入れてもらえなくて、ドアの外で泣いている映像を見たことがあります。日本はどうでしょうか?女性が社会に進出していますので、男性を頼らなくても生きて生ける時代です。そして、職場における男女平等が叫ばれていますので、女性が弱いとは思えない時代かもしれません。女性の方も「男になんか負けないぞ」と、それをエネルギーにしています。しかし、聖書は永遠の書物ですので、その真理はどの時代にも通用します。ここでは「自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し」と書かれています。弱い器というのは、長生きするかどうかという意味ではありません。女性は、男性と比べて肉体的に強健ではないということです。どんな時に、「夫は強い器かな?」と自覚するでしょう。まずは、ビンのキャップを開けるときでしょうか?それから、高い棚から、ミキサーなどを降ろすときでしょうか?アメリカでは、レディス・ファーストと言われ、車のドアを開けてあげたり、階段を下りるときは手を差し伸べるようです。とにかく力仕事は男性がやるものだと言うことでしょう。インドネシアのエディ・レオ師からこんな話を聞いたことがあります。あるお家が古くなって、雨漏りがしたそうです。奥さんが、「あなた雨漏り直して」と言いました。夫は「わかったよ」と言ってテレビを見ていました。また、いつの日か雨が降りました。奥さんが「あなた雨漏りを直してよ」と言いました。夫は「あ、わかったよ」と返事はしましたが、そのままでした。とうとう、奥さんが雨漏りを直すために、屋根に上りました。夫はその日も、下でくつろいでいました。ガターンという大きな音がしました。はしごと一緒に、奥さんが屋根から落ちたのです。ひどく腰を打って、歩けなくなりました。その日、以来、奥さんは車椅子生活になりました。ご主人はずっと奥さんのために、車椅子を押すことになりました。

 37「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」その後、何と書いてあるでしょうか?「それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです」とあります。もし、夫が妻に対して「いのちの恵みをとも受け継ぐ者として尊敬しない」ならどうなるでしょう?そうです。いろんなことによって、祈ることができなくなるということです。韓国のチョー・ヨンギ牧師の証です。チョー先生の奥様は音楽家でプライドの高い人でした。それで、チョー先生は、奥様のささいな欠点を攻撃しました。「どかん」とではなく、針で刺すように、あっちこっちと刺しました。すると、奥様はすっかり自信をなくしてしまいました。チョー先生はそれで幸せになったでしょうか?家庭生活どころか、牧会にも支障をきたしたそうです。もう、神さまの前に祈ることもできません。それで、チョー先生は悔い改めて、奥様のことを尊敬し、小さなことでもほめるようにしたそうです。食卓の椅子をそろえただけでも、「ありがとう」とほめました。すると、奥様はだんだん自信を取り戻したそうです。ダムが崩壊するのは、蟻の穴のように小さなところからだそうです。私たちは小さいことがらを無視してはいけません。私も時々、講壇から家内のことを小馬鹿にするような発言をしてしまいます。かなり前ですが、「先生は奥様の悪口を言っても大丈夫なのですか?私にはとてもできません」と言われました。そのときは、「あのくらい平気だ」と思っていました。しかし、その方は他の教会に転会してしまいました。ひょっとしたら躓いたのかもしれません。今、思うと、牧師が妻のことを批判するということは、耐えられなかったのかもしれません。日本では自分の妻のことを「愚妻」とか言ったりします。外国のように、自分の妻を人前では決してほめません。私も古い人間の中に入っていますが、そういう文化の中で育ちました。しかし、悔い改めなければなりません。いや、この際、悔い改めたいと思います。講壇で、あるいは人々の前で、妻を見下げるような悪口は言わないようにしたいと思います。どうか、私のためにもお祈りください。

エペソ5:28「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」とあります。このみことばには、とても思い出があります。座間キリスト教会にいた頃、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。教会が大好きで、いろんな集会にも出るし、掃除もよくしてくれました。あるとき、「みおさんは教会に泊りたい。大川先生の娘になりたい」と言いました。「え?どうしたのかな?」と思って聞いたら、ご主人さんからとても迫害されてるようでした。数年後、高橋みおさんがお風呂場で倒れ、そのまま天に召されてしまいました。教会でご葬儀をすることになりましたが、準備をしているとき、そのご主人が教会にやってきました。そして、私たちスタッフにしみじみとこのように語ってくれました。「わしぁ、妻に悪いことをした。聖書に、『自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである』と書いてある。こんなことが書いてあるのかとわしぁ、びっくりした。わしぁ、妻を長い間、いじめてきた。ということは、自分自身を愛さなかったんじゃ。」と、しみじみと告白されました。それから、ご主人は洗礼を受けられました。その後、長男とその奥様、お嬢様と洗礼を受けられました。「大正に生まれた方が、よく悔い改めることができたなー」と思いました。それで、そのおじいちゃんが言われた「妻を愛することは自分自身を愛することである」というみことばを忘れることができません。私の父は酒を飲んでは、母をよくなぐっていました。母は、私たち子どもたちの前で父の悪口を言っていました。私は、良い模範を見て育ちませんでした。そのせいではありませんが、「妻に負けちゃならない。勝たなければならない。やっつけてなんぼ」みたいなところがありました。せっかくクリスチャンになったのですから、このみことばのとおり生きたいと思います。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」みなさんの中には、「今は一人です」「まだ、一人です」とおしゃる方もおられるかもしれません。どうぞ、そういう方も、神さまからの心の癒しと希望をいただきましょう。

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2012年6月 3日 (日)

キリストの模範      Ⅰペテロ2:2:18-21

 聖書は奴隷制度を容認しているかというとそうではありません。しかし、いきなり社会制度を変えるのではなく、福音を伝え、人々の価値観を変えてから改善するというやり方です。当時、ローマの人口の三分の一が奴隷であったと言われています。戦争で負けると奴隷になるしかありません。でも、当時の奴隷はご主人の家の仕事、家事、家庭教師、すべてを任されていました。ある奴隷は主人のからお金を預けられて商売をしていました。本書に出てくる「しもべ」は家内奴隷であり、家の召使いでした。良い主人もおれば、悪い主人もいるでしょう。現代の私たちに適用するとどのようになるでしょうか?もし、横暴な上司に巡り会ったら、毎日が不幸になるでしょう。どのようにしたら、横暴な上司の不当な扱いに対して、勝利できるのでしょうか?

1.神の前における良心

 もし、自分が召使いだったら、どうでしょうか?「やっぱり、善良でやさしい主人であれば、良いなー」と思うでしょう。ちゃんと自分のことを評価してくれるし、きつい仕事に対しては、その労をねぎらってくれる主人が良いです。逆に、横暴な主人のもとで働くことになったらどうなるでしょう。きっと、毎日が不幸でしょう。「横暴な」という、ギリシヤ語のことばは「厳格な、頑固な、無情な」という意味があります。ある英語の聖書は「へそ曲がり、偏屈」となっています。「この前は、こう言ったのに、きょうは違うことを言う」主人。自分のやり方とちょっとでも違うと、全部やり直しさせられる。気分次第で、コロコロ変わる主人です。一生懸命がんばったのに、感謝もしてくれない。調子に乗って次から次と無理難題を押し付ける主人。このようなことを言うと、「ああ、昔、そういう上司がいたなー」と、思い出すかもしれません。「いや、今の上司がまさしくそうだ」と思っておられるでしょうか。私は建設会社に勤めたことがありますが、最初の現場は東北高速道路でした。所長はおおらかでとてもやさしい人でした。工事主任は器が大きくて、全部、私たちに任せてくれました。とっても良い現場でした。ところが、その次に配属されたのが、筑波学園都市でした。そこの所長はとってもケチで細かい、偏屈おやじでした。工事主任はリーダーシップのない人でした。その現場は待遇も非常に悪く、下請けの労働者と同じ食堂で食べ、同じ風呂に入りました。だから、労働者たちからなめられました。所長や主任次第で、「最善にもなるし、最悪にもなるんだなー」と思いました。

 19節には「不当な苦しみを受ける」とあります。みなさんの生涯の中で、不当な苦しみを受けたことはないでしょうか?あるいは虐待されたり、人格を傷つけられたことはないでしょうか?多くの人たちは、理不尽なことに対して、心の傷があります。両親から理不尽な扱いを受けた。学校の先生から不当な扱いをされた。子どもの頃、権威ある人たちから、ひどい扱いを受けるとどうなるでしょうか?自分が大人になると、まわりには権威ある人、敬うべき人たちが、当然いるでしょう。それが会社の上司、何かの先生、何かのリーダーだとします。もし、傷があると、ちょっとのことで「ああ、ひどい扱いをされた」「ああ、私のことを理解していない」「ああ、横暴で、身勝手だ」と過剰に反応してしまうでしょう。また、そういう人は、心の底に恨みや怒り、反抗心があります。相手がひどい人だと思うと、そういう感情が少なからず出てきます。「むっ」とした顔になるでしょう。すると、会社の上司、先生、リーダーは、何と思うでしょうか?「こいつは、反抗的だなー。何だ、その態度は・・・」と、意地悪したくなります。つまり、上に立つ人は、自分が持っている権威や権力を用いて、反抗的な人をやっつけたくなるのです。そこまでいかなくても、良いことをしてあげたり、便宜をはかったりはしません。そのまま、両者の関係が続くと、最後にはひどい状態になります。確かに悪いのは上司なのですが、自分が上司の悪いものを引き出している場合があります。何が原因しているのでしょう?自分が権威者に対して傷があり、そのため上司を敬えないからです。上司にしてみれば、自分を敬っていない部下には、良いことをしたいとは思いません。では、心にもないことを言って、ゴマをするのでしょうか?確かに、本心を隠して、世渡りの上手な人もいます。しかし、そういう人は、家庭にしわ寄せが行くでしょう。こんど、自分が上司になると、その恨みを部下に晴らすかもしれません。

 では、どうしたらそういう悪循環から解放されるのでしょうか?聖書は何と言っているでしょうか?18-19節「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」ここには、どんな主人に対しても、「尊敬の心を込めて服従しなさい、従いなさい」と言われています。それだけではありません。「神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」とあります。20節にも「それは、神に喜ばれることです」と「喜ばれる」が二度出てきます。心理学的に言うと、上司との関係が悪い人は、自分との父親との関係が悪い人に多いようです。なぜなら、最初の権威は父親から学ぶからです。父親を憎んでいる人は、世の中のすべての権威も憎む傾向にあります。同時に、その人は完全な父親を捜し求めています。「この人は、私が敬える本当の父だろうか?」と一生懸命捜します。しかし、この世の中に、100%完璧な人など存在しません。また、この人には「どうせあなたも、悪い指導者でしょう?」と苦い根の期待があるので、どんな上司からも、悪いものを引き出してしまうのです。でも、私たちの神さまはどういう神さまでしょうか?私たちの神さまは完全な父です。そして、パウロが言うように、すべて世の中の権威は、神さまが与えたものです。ローマ131「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」私たちは、神さまのゆえに上に立つ権威に従うのです。そうするとどうなるでしょうか?Ⅰペテロには「神に喜ばれる」と2回書いてありました。「喜ばれる」は、ギリシャ語で「カリス」と言います。カリスには、「好意、寵愛、恩恵、恵み」という意味があります。英語ではfavorです。favorには、「引き立て、愛顧、えこひいき、偏愛」という意味があります。どうでしょうか?世の中の権威者に喜んで従うならどうなるでしょうか?おそらく、権威者はその人を可愛がり、守ってあげようと思うでしょう。しかし、自分の権威に従わなければ、良くて普通、悪くて冷遇するでしょう。決して、良くしてあげるとういことはないでしょう。なぜなら、その人は自分の権威によって、その人に良くしてあげたいとは思わないからです。結局は、その人は、どこに行っても、だれが上司だとしても、そういう運命、そういう環境を拾っていくしかありません。

 では、どうしたら良いのでしょうか?何べんも言いますが、この地上に、まことの父、100%完璧な父は存在しません。私たちが必要なのは天の父です。このお方は、100%完璧な、愛の持ち主です。ペテロは何と言っているでしょうか?「神の前における良心のゆえに」と言っています。原文は、良心ではなく「意識」とか「自覚」です。私たちは地上の権威者、たとえばそれが、上司であろうと何かの先生、指導者であろうと関係がありません。権威者の背後には、父なる神さまがおられます。父なる神さまを意識することがとても重要です。そして、「目の前の権威ある人に従うということは、それは、神さまに従うことなんだ」と考えるべきです。しかし、そのように従っても、その人は自分を不当に扱い、冷遇するかもしれません。まさしく、ここにあるように「善を行っていて苦しみを受ける」かもしれません。でも、耐え忍ぶならどうなるでしょうか?「神さまに喜ばれる」と書いてあります。神さまに喜ばれるとは、「神さまの好意、神さまの愛顧、神さまの恩恵が得られる」ということです。簡単に言うと、神さまが特別に報いてくださるということです。私たちはどうしても、目の前の上司、目の前の権威ある人から、何とかしてもらわないと気がすまないかもしれません。でも、それはいずれ受けるものと期待して、神さまから、その報いを求めるのです。そうやって、不当な苦しみを忍んでいくなら、どうなるでしょう?いつの日か、横暴な主人が悔い改めるでしょう。「ああ、私はこの人に、不当なことをしているかもしれない」と。しかし、それは、わかりません。ただ1つ確かなことは、あなたは目の前の横暴な主人から解放されることは確かです。その人が、善良で優しかろうが、あるいは横暴で偏屈だろうが関係ありません。あなたはどんな主人に対しても、主に仕えるように仕えていけるからです。旧約聖書にヨセフという人物が出てきます。彼は兄弟たちのねたみを買って、エジプトの奴隷に売り飛ばされました。ヨセフはポテファルの家の奴隷になりました。創世記392-4「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプトの主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の財産をヨセフの手にゆだねた。」アーメン。主はヨセフと共にいて、ヨセフに良くしてくれました。ヨセフの主人は、そのことが見えたので、ヨセフを信頼して、全財産を任せました。私たちも、人に権威を与えた神さまを認め、神さまの御目のもとで、権威者に喜んで従うのです。そうすると、神さまが恵みを与えて、報いてくださいます。権威者の向こうにおられる神さまを意識して生きるときに、私たちは解放され、やがては、良い運命を刈り取ることができるのです。

2.キリストの模範

 Ⅰペテロ221-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」プロテスタント教会では、キリストの贖いついては強調しますが、キリストの模範ということはあまり強調しません。何故かというと、キリスト教の歴史の中で、そういう異端がいくつか生まれたからです。もちろん、私たちはキリストに倣うことによって、救われるわけではありません。しかし、救われた後は、キリストに倣うということが求められています。では、ペテロが強調したいことは、どのようなキリストに倣うということなのでしょうか?文脈から、横暴な主人のもとで、不当な扱いをうけたしもべに対して語られていることが分かります。イエス様が苦しまれた第一の理由はもちろん、私たちを贖うためです。しかし、イエス様がこの地上に肉体を取って、同じような苦しみを味わいました。それは、私たちを理解し、私たちを慰め、私たちに解決の道を示すためでもありました。私たちが不当な苦しみを受けて悩んでいるとき、私たちのように苦しまれたイエス様のことを思うとどうなるでしょうか?イエス様は人々に福音を語り、人々の病を癒し、助け、導きました。1つも悪いことをしなかったのに、ののしられ、打ち叩かれ、最後には十字架につけられました。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されなかったのに」です。普通だったら、ののしられたらののしり返す。苦しめられたら、「やめろ!」と、おどすでしょう。しかし、イエス様はそれをしませんでした。

 イエス様は弱かったから、仕返しをしなかったのでしょうか?イエス様は崇高な道徳家だったので、耐え忍ばれたのでしょうか?そうではありません。23節後半には「正しくさばかれる方にお任せになりました」と書いてあります。正しくさばかれる方とは、神さまのことであります。旧約聖書を見ますと、神さまは復讐の神さまであることが分かります。悪や不正に対しては、必ずさばくというお方です。使徒パウロはローマ12章でこのように述べています。ローマ12:19 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」。アーメン。イエス様が示された模範とは、自分で復讐しないで、父なる神さまにゆだねたということです。聖書は「自分に悪をした人を赦しなさい」とは、ストレートに命じていません。そこには、順番があります。まず、自分で復讐しないで、神さまの怒りに任せるのです。ペテロのように、正しくさばかれる方に任せるのです。その後で、その人を赦し、その人と普通に交わるということです。もし、私たちがその人に恨みや復讐心を持ったままでいたなら、普通に交わることは不可能です。でも、自分に対して行ったひどいこと、悪いことを、神さまにゆだねます。つまり、復讐するのは神さまですから、神さまの怒りに任せるのです。その後は、「おー、ハレルヤ!」とその人と普通に交わります。こうやって生きていると、腹に溜まりません。健康にも良いです。人を恨んでいたり、怒りを持っていると、健康に良くありません。関節痛、心臓病、いろんな病気になります。旧約聖書のダビデはどういう人だったでしょう?。サウルから追われて困っているとき、ナバルという人物が、ダビデをなじりました。ダビデは復讐心を神さまにゆだねました。10日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ」(Ⅰサムエル2538とあります。また、ダビデはアブシャロムから追われて、荒野で疲れ果てているとき、シムイがダビデをのろいました。「出て行け、出て行け、血まみれの男、よこしまな者」と、石を投げたり、ちりをかけました。あとで、ダビデがエルサレムにもどったとき、シムイが「どうか私の咎を罰しないでください」と謝りました。ダビデはその場で復讐せず、シムイに「あなたを殺さない」と約束しました。しかし、ソロモンの代になって、シムイはさばかれてしまいました。ダビデは詩篇17篇で「主よ。聞いてください。正しい訴えを。耳に留めてください。私の叫びを。・・・私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように」と祈っています。ですから、私たちは怒りや憎しみ、復讐心を温存せず、正しくさばかれる方に任せるべきであります。これが、キリストに倣うということです。

 では、キリストに倣うそのエネルギーはどこからいただくべきでしょうか?みなさんは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをしませんか?「私はイエス様のように寛容に生きるんだ。決して怒らないぞ!」と誓っても、3日持つでしょうか?あるいは、「上司から不当な扱いを受けても、恨んだりしないぞ。神さまにゆだねるんだ!」と誓っても、3日持つでしょうか?おそらく、半日も経ったら、自分の決心をすっかり忘れ、爆発している自分を発見するかもしれません。最後には、「キリストに倣うなんて無理!もう、やめよう」と思うでしょう。イエス様のように「寛容になり、愛の人になろう」と思っても、どうしてできないのでしょうか?それは、私が自分の力でイエス様のようになろうと努力するからです。もし、ある人がイチロー選手のような良いバッターになりたいなら、どうするでしょうか?ユニフォームを買って、顔かたちやスタイルを真似るでしょうか?イチロー選手にそっくりな人もいますが、イチロー選手のようにプレーはできません。イチロー選手のようになるというのは、姿かたちではありません。もし、イチロー選手が私の中に住んでくれたらどうでしょう?イチロー選手が私に能力を与え、力を与えてくれます。もし、私がベートーベンのようなピアニストになりたいとしたらどうでしょうか?髪の毛をもじゃもじゃにして、「ジャジャジャジャー」とピアノを叩けば良いのでしょうか?無理です。しかし、ベートーベンが私の中に住んでくれたらどうでしょう?ベートーベンが私に能力を与え、力を与えてくれます。では、イエス様のようになろうと思うならば、どうしたら良いでしょうか?イエス様が私の中に住んでくれたら良いのではないでしょうか?実は、イエス様は公生涯を始めるとき、聖霊の注ぎを受けました。そして、イエス様は私の中に父がおり、父の中に私がいるとおっしゃいました。イエス様は父なる神さまと一緒に歩み、父なる神さまの力によって生活しました。イエス様が大いなるみわざを行ない、きよい生活ができたのは、イエス様ご自身の力でしょうか?もちろん、イエス様は三位一体の神さまですから、自分の力でもできたはずです。しかし、イエス様は「私は自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ519とおっしゃいました。そうです。肉体を持ったイエス様は人間の代表になり、常に父なる神さまに依存して生きておられました。ということは、イエス様は「あなたもそのように生きれば、良いんだよ」と教えておられるのです。

 パウロはコロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。また、コロサイ34「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストと共に、栄光のうちに現れます」。もし、クリスチャンであるならば、もれなく、内側にはキリスト様が住んでおられます。私たちが自分の力でがんばろうと私たちが大きくなれば、キリストのいのちは小さくなります。しかし、私たちが小さくなるならば、キリストのいのちが大きくなります。この世の人たちは、「頑張りなさい、頑張りなさい」と言うでしょう。しかし、聖書は「頑張らないように、頑張らないように」と言っています。そうではなく、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みなのです。あなたの内から、キリストが現れるようにキリストにゆだねなさい」と言っているのです。自分の意思や力でイエス様に真似ようとすると必ず失敗します。イエス様が父なる神さまにいつも頼っていた、そのライフスタイルを真似るのです。同じように、私たちも「イエス様、イエス様」と頼っていくならば、イエス様があなたの内側から現れてくるのです。イエス様が現れたならば、結果的に、あなあなたは寛容で、愛の人になっているのです。道徳や倫理は外側から「ああしてはいけない、こうしなさい」と、人々を変えようとします。しかし、聖書は修養や改善を言ってはいません。イエス様を信じて、霊的に新しく生まれ変わることを求めています。イエス様を信じたら、聖霊によってイエス様が心の中に住んでくださいます。あなたが意識すべきことは、「イエス様、どうか私の内側から働いてください。あなたの知恵をください。あなたの力をください」と願うことなのです。そうするならば、あなたの内からイエス様が現れて、結果的に、あなたはイエス様に倣う人になっているのです。「主イエスと共に歩きましょう、どこまでも。主イエスと共に歩きましょう、いつも。うれしい時も、悲しいときも、歩きましょう、どこまでも。うれしい時も、悲しいときも、歩きましょう、いつも。」

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