2014年10月 5日 (日)

最後の預言者    マラキ1:1-8

最後の預言者        マラキ1:1-8       2014.10.5

 旧約聖書の人物から学んできましたが、本日が50回目で最後になりました。前回はネヘミヤについて学びました。ネヘミヤは52日間で城壁を完成しました。さらに12年間かけて霊的なエルサレムの城壁を再建しました。その後どうなったのでしょう?ネヘミヤ記13章に書いてありますが、ネヘミヤはしばらくたってから再び、王様からいとまを請い、エルサレムに帰ってきました。そこには祭司たちの堕落ぶりが記されています。ネヘミヤはささげ物、安息日、結婚のことでユダ人たちを詰問しています。おそらく、マラキはネヘミヤが不在のときに、活躍した預言者ではないかと思われます。ユダヤ人たちは3つのことに対して無感覚でした。


1.神の愛に対する無感覚

 ユダヤ人たちは神の愛に対して無感覚でした。沢村五郎師の『聖書人物伝』にはこのように書かれています。「ユダヤ人の罪は、終わりに近づくにしたがっていよいよその度を加え、ついに癒しがたい絶望的状態となった。凍死するものは初めは寒さや痛さを感じているが、最後には無感覚となって死の眠りに陥るというが、ユダヤ人の終局状態もまた無感覚であった」。マラキ1:12前半「わたしはあなたがたを愛している」と【主】は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。これまで、私たちはイスラエルの歴史を学んできました。イスラエルのもとの名前はヤコブです。本来はお兄さんのエサウが家督を継ぐべき存在でした。しかし、エサウは一杯の食物と引き換えに、長子の権利を売ってしまいました。さらにヤコブは目が見えなくなった父イサクから祝福までもだまし取りました。人間的にヤコブはひどい人物でした。しかし、主の見方は違っていました。「わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とする」(マラキ1:12-13)と言われました。ヤコブは神さまのfavor愛顧をいただき、イスラエルという名前を与えられ、地境を広げさせてくださいました。やがて、イスラエルから12部族が誕生しました。彼らはこれまで特別に愛されてきたのです。しかし、「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と文句を言いました。

ヤコブは押しのける者、欺く者でありました。彼に値打ちがあったのではなく、神さまの愛によって一方的に選ばれたのです。そういう点では、私たちも同じです。Ⅰヨハネ4:10 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」私たちは以前、神さまの愛に対しては全く無感覚でした。この世を愛し、楽しみを愛し、自分を愛していました。「愛」という本当の意味すらも、分かりませんでした。私は23歳のとき現場監督から貿易事務に転職しました。その時の職場の先輩はクリスチャンでした。「神さまがいるなら、見せてください」と悪態をついていました。しかし、仕事においては全く素人だったので、1から10までお世話になりました。私が失敗した時は、「たかが仕事じゃないか。仕事よりももっと大切なものがあるよ」と言われました。「ああ、この人は他の人と違うなー」と思いました。ある時、先輩のデスクを見たとき、透明なカバーの下に、英語でタイプした紙がはさんでありました。「これなんですか?」と聞くと、「聖書のことばだよ」と言いました。そこには、Love isなんとかと書いてありました。あとから、それがⅠコリント13章「愛は寛容であり、情け深い」ということばでした。私はLoveということばで聖書に対して心が開かれました。その前に、クリスチャンの先輩が、私を愛してくれていたんです。でも、十字架の愛に気付いたのは洗礼を受けてから半年後でした。その教会では、水曜日の祈祷会を一般の信徒が司会することになっていました。そして、司会の特権として一曲リクエストすることができました。ある時、私が司会をしたとき、聖歌402「丘にたてる荒削りの」を選びました。後で、オルガンを弾いてくれた姉妹に感謝するために行きました。その姉妹は「涙がうるんできてよく弾けませんでした」と言いました。私は「ここにも十字架で感動している人がいるんだ」と教会の集まりが好きになりました。私は牧師になって、30年近くなりますが、十字架の愛をいつでも新鮮に受け止める者でありたいと思っています。

 イスラエルの罪は神さまの愛と恵みに慣れっこになり、当たり前のように思っていました。彼らはエジプトから奇跡的に救われました。荒野ではマナが降り、岩から水がわき出ました。カナンにおいても勝利から勝利を収めることができました。ところが、カナンに定住したとたん、異教徒と妥協し、彼らの神を拝むようになりました。やがて、自分たちにも他の国のように王をくださいと願いました。本来は神さまが王であるのに、人間の王を求めました。それから堕落の一途をたどって、最後にはアッシリヤやバビロンに滅ぼされました。しかし、神のあわれみによって70年後、戻ってくることができました。神殿が再建され、城壁も修復されました。でも、彼らは再び、律法から離れ、異教徒の娘をめとりました。そのとき、預言者マラキが立ち上がりました。「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられると告げました。しかし、彼らは「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか?」と答えたのです。これまでの主の愛と恵みを忘れていました。いや、当たり前のように思っていたのです。私たちは偶然に救われたのではありません。教会につながり信仰を持ち続けているのは、自分の真面目さや意志ではありません。主の恵みとあわれみです。なぜなら、多くの人たちが洗礼を受けても、教会を離れてしまうからです。もちろん、みなが信仰を失ったわけではないでしょう。黙示録2章にはエペソの教会に対することばが記されています。これは、世の終わりに住む私たちへの警告でもあります。黙示録2:4-5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」アーメン。初めの愛とは、イエス様の十字架の愛です。もし、神への愛に対して無感覚になっているなら、十字架の愛に立ち返りましょう。


2.神の権威に対する無感覚

 マラキ1:6「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。」イスラエルは神を知っていました。神に選ばれた民であることを誇りに思っていました。しかし、彼らの行動と生活は、これを否定していました。神を神としてあがめず、父として仕えず、主として敬っていませんでした。彼らは「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」と文句を言いました。まったく、神様の権威に対して、無感覚でした。これに対して、マラキは主のみことばを伝えました。マラキ1:7-8「あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。──万軍の【主】は仰せられる──」神へのささげ物は傷のない羊、あるいは傷のない牛でなければなりませんでした。しかし、彼らは健全な家畜が惜しくなり、長生きしそうもない障害のあるものや病気の家畜を犠牲のために携えてくるようになりました。その頃、ペルシヤの総督がエルサレムに来ていました。「その総督に、こんな障害のあるものや病気の家畜を贈り物として差し出してみよ。総督は快く受け入れるだろうか」と主は言われました。『聖書人物伝』で沢村五郎師は、「地上の代官にさえなしえない無礼な行為を、王の王、主の主なる万軍の主に対してなすとは、何と恐ろしい不敬罪であろう。それをさえ自覚しない彼らの堕落腐敗はもはや絶望的であった」と言っています。 

 大川牧師が子供のときのことです。昭和の初期、牧師家族は清貧に甘んずる模範を示す必要がありました。当時は卵が高級品でした。ある晩、めずらしく卵を食べることができました。お母さんは次の朝、卵の殻を新聞紙にくるんで捨てたそうです。また、あるとき、教会員が「これ使ってください」と欠けた茶碗や使い古した物を持ってきました。大川牧師は中学生のとき「教会は偽善者の集まりだ。教会に火をつけてやろう」と思ったそうです。教会と神さまが同じだとは思いません。しかし、「自分たちの献金が牧師給になり、教会の活動を維持しているんだ」と考えるのは行き過ぎです。もし、献金を天国の税金のように考えるならどうなるでしょう?税金を納めるときは「高かったなー」とがっかりします。しかし、献金は神さまにささげるささげ物です。なぜなら、空気や光、地下資源、この命すらも神さまからいただているからです。ましてはクリスチャンは永遠の滅びから、永遠の御国へと運命が変えられた存在です。感謝しても感謝しきれません。でも、私たちもイスラエルのように神さまに対して無感覚になる恐れがあります。時間と精力と持ち物の一番良いものは自分のために使って、神のためには残りものをささげているかもしれません。「若い力と感激に燃えよ、若人胸を張れ」という歌があります。スポーツも良いでしょうが、どうして若い力を神さまにささげないのでしょうか。「金貨と銅貨がけんかした」という童話があります。あるとき、金貨が銅貨を侮って、「お前の顔は何と輝きのないおそまつなものだろう。お前が何枚集まっても、おれ一枚の値打ちもないからな」と言いました。銅貨も負けていません。「お前さんは色こそきれいで、値打ちがあろうが、使われるところはお茶屋の支払いか、酒屋の支払い、せいぜいデパートのご用ぐらいが関の山だろう。一度でも、神棚や、さい銭箱にささげられて、神務めをした覚えがあるか?そこへ至っては、手前こそいつも尊い神への奉仕をうけ持っている」と言ったそうです。何という皮肉でしょうか。聖歌338「いとも良きものを君にささげよ。あつきなが心、若き力を」という献身の歌があります。

 さらに、万軍の主は仰せられました。マラキ3:8-9「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」イスラエルの人たちは収穫物、つまり穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一を神さまにささげることが定められていました。さらに、誓願のささげ物や牛や羊の初子、初なりのものをささげました。神に仕えるレビ人がこれらのささげ物によって生活していました。主は「あなたがたは神のものを盗んでいる」と言いました。何という厳しいことばでしょう。本来、聖書に一ケ所だけ、神さまを試して良いという箇所があります。マラキ3:10-11「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は仰せられる──」十分の一を主の前にささげるなら2つのことが起こります。第一は主が天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。第二は主が畑のまわりに柵を設けて下さり、害虫が食べないようにしてくださいます。しかし、実際に、これはささげてみないと分からないことです。だから、主は「試してみよ」と主のことばを伝えているのです。ある人たちは、「これらは旧約聖書であり、新約の私たちには関係ないのではないか?」と言います。私も質問されるときは、「律法ではなく、信仰によってささげれば良いのですよ」と答えます。でも、新約聖書の方がもっと厳しいかもしれません。Ⅰコリント6:20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」新約の私たちは、十分の一はもちろんそうですが、十分の九に対しても責任があります。献金の元になるものはだれがくださったのでしょうか?神さまがくださったものを、私たちがささげているのです。でも、神さまはささげる人には、蒔く種のように、何倍、何十倍にも帰してくださることも事実です。


3.家庭の罪に対する無感覚

 城壁を捕囚したネヘミヤは一度ペルシヤに戻り、数年後、再び戻ってきました。するとどんなことが起きていたでしょうか?マラキ2:14-16「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行われている。まことにユダは、主の愛された【主】の聖所を汚し、a外国の神の娘をめとった。」異教徒との結婚は、やがて不信仰の罪に至ります。これに対し、ネヘミヤもエズラもきびしく指導しました。しかし、マラキは「あなたがたはもう1つのことをしている。あながたは、涙と悲鳴と嘆きで、主の祭壇を覆っている」と言いました。マラキ2:14-16「『なぜなのか』とあなたがたは言う。それは【主】が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。『わたしは、離婚を憎む』とイスラエルの神、【主】は仰せられる。」神さまは「私は離婚を憎む」とおっしゃっているのに「なぜなのか?」という無感覚さです。このところに、離婚すると霊的にどのようなことが起こるのか記されています。結婚して二人が交わると、肉体だけではなく、霊も交わります。その後、別れたならどうなるでしょう?二枚のベニヤ板をドンドで付けたとします。渇いた後、この二枚をはがすとどうなるでしょうか?ベリベリという音がして、「片方の木片がこっちに、片方の木片があっちに」と言うことが起こります。これが霊の世界でも起こるということです。だから、主は「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と二度もおっしゃっているのです。

現代の離婚率は3分の1以上だと言われています。世界で一番離婚率の高いところはロシアです。インドネシアのエディレオがウラジオストックにセミナーに出かけることがあります。賛美も女性、ギターも女性、司会者も女性だそうです。そして、先生が父の愛について語ると女性たちは床に倒れて、激しく泣くそうです。ロシアでは寒いので夫がウォッカを飲んで酔っ払い、妻を打ちたたくそうです。そのため離婚し、妻や子供たちも傷ついています。しかし、ロシアだけではありません。フランスやイタリヤ、イギリス、かつてキリスト教国だった国の結婚が壊れています。結婚をせずに子供を産んだり、同性婚すらも認められるようになったからです。私生児というのは元来、恥ずかしいことだったのに、現代では1つの選択肢になっています。結婚は社会が決めた制度ではなく、「二人が一体となるように」と神さまが定めた契約です。アメリカでは未信者の離婚率とクリスチャンの離婚率が同じだそうです。信仰が全く、歯止めになっていません。これは1つの社会現象ではありません。サタンが背後にいて、家庭を破壊しているのです。創世記3章においてサタンはアダムとサタンの間を引き裂きました。その後、カインが弟アベルを殺しました。戦争と離婚はサタンのリバイバルと言っても過言ではありません。私たちは夫婦の関係を与えられた家庭を当たり前と思わないで、大事にしていきたいと思います。

ジョエル・オスティーンのディボーションから引用します。私たちは常に奇跡に囲まれています。あなたがある人と出会って恋に落ちたこともその1つです。私たちはきょうの日が、ユニークでかけがえのないことを悟らなければなりません。すべての人たち、特に若い人たちへの良い模範だった一人組の老夫婦を紹介します。二人は何十年もの結婚生活で、正直で互いに尊敬しあっていました。ところが、80歳の半ばで夫人が主のみもとに召されました。葬儀のとき、彼女の夫がこのようなことを語りました。「15年くらい前、私は心臓発作で倒れました。妻が病院に駆けつけ、私にこう言いました。『あなた、今回のことで人生がどんなにはかないものか分かりました。これから毎晩、ベッドで眠る前に私はあなたに7回キスをしたいです。そして、お互いの生活が当たり前でないことを忘れないようにしましょう。』それから妻は15年間、寝る前、一度も忘れることなく、私に7回キスをしてくれました。妻は火曜日、主のみもとに行きました。しかし、月曜日の夜、私に7回キスをしてくれました。」なんと、すばらしい証でしょうか。

最後のマラキ書4章には主の来臨について記されています。世の終わりに、主がこの地上にやってこられるという預言です。旧約聖書の最後のページです。マラキ4:2-3「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。」義の太陽とは再臨のイエス様です。その時、死んだ肉体が復活するでしょう。まるで、牛舎から外に出る子牛のようにはね回ることでしょう。そして、悪者どもはさばかれ、灰のようになります。でも、主は、その前にチャンスを与えたいと願っておられます。マラキ4:5-6「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」預言者エリヤについては既に学びました。彼は竜巻によって天に上げられました。そのエリヤが世の終わりに再び来るという預言です。実際はバプテスマのヨハネのことであります。彼はイエス様が公生涯を始める前に、荒野で叫んで、道を整えました。不思議なことに「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」と書いてあります。世の終わりには家庭が崩壊し、父が子供から離れ、子供も父から離れる。しかし、エリヤが来て、父と子の間を回復するということです。父は家庭において、父なる神を代表しています。家庭に父がいないと、子供は神さまを信じることが困難になります。現代は父親不在の時代です。しかし、教会は父親の存在目的を回復し、一人でも多くの子供たちが、父なる神さまを信じるように手助けしたいと思います。きょうは3つのことを学びました。神の愛と神の権威と家庭の罪とに対する無感覚さです。私たちはこのような無感覚に陥ることのないように、神の霊によって燃やされ、刷新されていきたいと願います。


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2010年8月29日 (日)

キリストにある結婚  マラキ2:14-16、Ⅰコリント7:7-9

長続きできない多くの結婚生活は、結婚についての正しい理解を持っていないことです。また、神のみことばに合わないこの世の結婚観を持っているからです。人々は、幸福になるために結婚しようとします。そして、幸福でないからと言って離婚します。幸福は、結婚の目的ではありません。神様のみこころに従うとき、ボーナスとして与えられるものです。また、多くの人たちは、結婚式の準備はしますが、結婚生活に関しては準備しません。結婚式はたった1日ですが、結婚生活はその先、一生の問題です。しかし、だれも正しい結婚について教えてくれません。みんなぶっつけ本番で結婚してしまうので、失敗するのです。きょう来られていらっしゃる皆さん全員が、結婚しているわけではありません。これからの人は準備のため、「もう卒業した」と、思っている方は、次の世代に伝えるために、共に学びたいと思います。

1.結婚とは神からの召命です。

 ソクラテスの弟子が悩んで質問しました。「先生、私は結婚したら良いでしょうか?」ソクラテスが答えました。「もし、結婚したら、『ああ、結婚しなければ良かった』と後悔するだろう。また、もし、結婚しなかったなら、『ああ、結婚すればよかった』と後悔するだろう。結婚して後悔するか、結婚しないで後悔するか、どちらも同じじゃよ」と答えたそうです。使徒パウロがⅠコリント7章でこのように教えています。Ⅰコリント7:7「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」使徒パウロは一生涯独身でした。パウロは「私のように独身であれば、神様に最大限に仕えることがきるので、それが理想的である。だが、それぞれ神様から与えられた召命と賜物がある。私のように独身の賜物が与えられているなら、それで良し。もしも、結婚するように召されているなら、それでも良し。」と教えました。この世の中では、結婚して所帯を持たなければ一人前に扱われないようなところがあります。結婚していなければ、成熟していないのでしょうか?聖書ではそうは言っていません。成熟度は、結婚しているか、結婚していないかには関係ありません。独身であっても神さまの前では、成熟した男性であり、また女性なのです。

パウロが言っているように、結婚は神さまからの召命です。パウロはさらにこのように教えています。Ⅰコリント78-9「次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」そうです。情が燃えてきて自制することができない。「ああー、結婚したい!」と思っている人は、おそらく、独身で召されているのではなく、結婚するように召されていると信じます。しかし、自分が生まれ育った家庭環境によって、結婚に対する悪いイメージを持っている場合がかなり多いと思います。「結婚はしたいのですが、うちの両親を見ていると不安になる。あんな家庭は築きたくない」「お父さんのようにはなりたくない」「お母さんのようにはなりたくない」。そういう傷があると、実際に結婚してから、問題が起こる可能性が大です。アメリカでは多いのですが、プレマリッジ・カウンセリング、結婚前カウンセリングというものを受けられたら良いと思います。相手の家庭環境や成育史というものが、かなり影響を与えています。結婚するときに、それぞれの背中にバッグを背負っているわけです。しかし、多くの場合は、恋愛感情が高まっていて、そんなものは些細なものに見えます。でも、実際結婚してから、背中のバックを開けると、次から次へといろんな物が出てくるのです。ですから、結婚前に、背中のバックをできるだけオープンにして、解決しておく必要があります。全部は無理でしょうが、決定的なものをお互いが合意しているなら、結婚後、問題が起きても乗り越えられるのではないかと思います。私たちが結婚する前、柿谷先生という結婚カウンセラーが、すぐ近くにおられました。日本では結婚カウンセリングの草分け的存在の方です。立ち話しでしたが、私の家庭と家内の家庭をちょっとお話しました。先生は「ああ、それだったら、カウンセリングをする必要がありますね」とおっしゃいました。しかし、カウンセリングを受ける機会をなくして、私たちはここまでやってきました。「花も嵐も踏み越えてー」であります。ですから、結婚前に、霊的な面、心情的な面など、いくつかの準備をする必要があるということです。

2.結婚とは、神との契約です

アメリカで、ある数のご夫婦にアンケートをしました。「あなたがたは今の結婚に対して満足していますか」という問いに対して、「95%の人たちが満足していない」と答えたそうです。アンケートの対象は、なんと、クリスチャンであったということです。アメリカは、そういう意味で、もはやキリスト教国ではありません。50%近くも離婚しているからです。神様のみこころは何でしょうか?マラキ書2章には、「神様は離婚を憎む」と書いてあります。つまり、離婚は神様のみこころではないということです。さらに、マラキ書は「あなたがたの霊に注意せよ」と言っています。これはどういうことかと言いますと、結婚とは霊と霊の結び付きだということです。結婚して、肉体関係を持ちますと、お互いの霊と霊を交換することになります。それは神様が一致のために与えた恵みなのであります。もし、そのカップルが離婚するとどうなるでしょうか。接着剤でつけた2枚の板を剥がすとどうなるでしょうか?板がきれいにはがれて、もとの2枚の板になると思いますか。そうではありません。一方の板に片方の木切れがくっつき、もう一方の板に片方の木切れがくっついています。離婚したカップルもそうなのです。同じことが、結婚する前に肉体関係を持った人にも起こります。A子さんの霊の一部が、B男さんの霊にくっついています。そして、B男さんの霊の一部が、A子さんの霊にくっついています。複数の異性と肉体関係を持ちますと、たくさんの人の霊が、自分にくっついてしまって混乱状態に陥ります。ですから、そういう罪を犯した人は悔い改めましょう。そして、御霊の剣によって、自分にくっついた霊の一部を切り離して、相手に返します。そして、相手に行ってしまった霊の一部を取り返します。そういう作業をしない限り、あなたはずーっと、別れた人に囚われてしまいます。

本題に戻ります。結婚とは、神が定めたものであり、人間が考え出したものではありません。契約には2種類あります。1つは人間との契約です。英語では、contractと言いますが、この契約は一時的であり、条件付きで、部分的です。人間の契約は、ある一定期間、ある条件を満たした時だけ有効なのであります。一方、神との契約は、covenantと言いますが、これは全生涯に渡るものです。だから、夫婦はいかなるときにも死が二人を分かつ時まで、忠誠を誓い合うのです。さらに、神との契約は、無条件であり、全体的であります。図を見て、分かると思いますが、左側が人との契約です。これは売買契約とか保険などの契約です。人との契約は、一時的です。一方、神様との契約は全生涯にわたるものです。また、人との契約は条件付きです。多くのカップルは「性格が合わない」とか「暴力をふるう」「家にお金を入れない」「性的満足を与えない」と言ってすぐ離婚します。でも、神様との契約は無条件であります。また、人との契約は部分的、パーシャル・マリッジです。「パーシャルデント」、部分入れ歯の洗浄剤で聞いたことがあります。でも、神様との契約は全体的(トータル・マリッジ)です。全体的とは何かということは、第二のポイントで学びたいと思います。

3.結婚とは全体的なものです

マタイ19:5,6「『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。聖書は「神様の前に夫婦が一体となる」という約束を与えておられます。でも、ただ結婚したからと言って、自動的に一体になることはできません。では、どのように夫婦は一体になれるのでしょうか。また、それはどのような分野でなされるのでしょうか?

①1つの霊

 夫婦は霊的に1つになることが何よりも大切です。そのためには、お互いが祈り合うことです。祈り合うと、お互いの霊と霊が交わり、霊的一致が与えられます。韓国に熱心なクリスチャンのカップルがいました。それぞれ早天祈祷会に出席し、一日に、2時間も祈ります。でも、お互い一致なく、いつも争っていました。彼らは、一人で祈りますが、一緒に心を合わせて祈ったことがなかったのです。このことに気付いて、二人でお祈りするようにしました。すると、内側からすばらしい一致が与えられたということです。

②1つの心

 心と心が1つになるために、何をしたら良いでしょうか?それは会話です。正直に何でも話し合うことによって、魂と魂が交わることができるのです。結婚前のカップルは良く話し合います。でも、一旦、結婚したらどうでしょうか。お互いの会話がなくなります。レストランに行って、周りを見渡してみると、結婚しているカップルかそうでないカップルすぐわかります。お互いに目を見つめ合って、べらべら、ぺらぺらしゃべっているカップルは、結婚前です。そして、むっつりしてマガジンや新聞を見ているカップルは、既婚者です。ある調査によりますと、男性は一日、2万語を話すそうですが、女性は一日5万語を話さないと満足しないそうです。夫は会社で、営業とか何かで、その2万語を全部使い果たしてしまいます。お家にいる奥さんは、ほとんど使っていません。夫が帰って来たら、5万語をなんとか消化したいのです。「きょう、会社で何があったの」「どんなことがあったの」と聞いても、夫は「飯」「風呂」「寝る」しか答えません。会話に関しては、男性が弱いんです。だから、夫は、心から妻の声に耳を傾ける必要があります。また、夫は「それは、こうだろう!」と、教えてはいけません。ただ、ひたすら耳を傾け、理解しましょう。そうすると、妻は愛されていると感じるわけです。このことに関しては、私も勉強中です。

③1つの体

 これは、肉体の交わり、セックスです。男性の性的な欲求は、すべての中でNo.1です。しかし、女性の場合は、No.3かNo.5くらいなんです。ここで大きな違いが生じてきます。夫は、「喜んで協力しろ!」と妻に言いたくなるのですが、そうはいきません。日本では、こういう話題はタブーになっています。お悩みの方は、もうすぐ、銀婚式を迎える、私と家内に個人的に聞いてください。

④1つのビジョン

 たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということが大切です。クリスチャン同士でも、考え方や性格が違うことがよくあります。「お前がこっちに来い」、「あなたこそ、こっちに来てよ」とお互いに主張します。でも、相手に合わせることは屈辱的であります。夫婦が共通して持つべき最も大切なビジョンとは何でしょうか。それはお互いがキリストに似た者になるということです。夫と妻が「キリストに似た者になりたい」と願って、神様に近づくのです。こちらに夫、こちらに妻がいます。二人が神様に近づけば、近づくほど、二人の距離が縮まって行きます。

⑤1つの会計

 これは、お金を夫婦で別々にしないということです。財布はそれぞれ、持って良いのです。でも、会計は1つです。ある夫婦は、それぞれ貸し借りをしています。お互いにいくら持っているかは秘密です。イエス様は「宝のあるところにあなたの心もあるからです」とおっしゃいました。お金が別々であるなら、もう既に、心が別々になっているのです。夫婦、どちらが大蔵省になるかは自由ですが、1つの会計にしましょう。

⑥1つの親

 日本では舅、姑の問題が大きいです。「お前の親父はヘンだなー」「いいえ、あなたのお母さんこそヘンよー」などと、お互いの両親を悪く言うことはないでしょうか。そうではありません。結婚したら、義理の父も義理の母もありません。「あなたの父であり、あなたの母」なんです。つまり、自分のお母さんが二人、自分のお父さんが二人になったわけです。

 一致を体験するために6つの知恵を分かち合いました。結婚は部分的ではなく、全体的であることを理解しましょう。これが祝福のカギです。

4.結婚とは責任の拡大です

エペソ5:23-25「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」。エペソ5:33「それはそうとして(無条件に)、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」。

夫にとって一番大切なこととは何でしょうか。それは、かしらとしてリーダーシップを取り、妻を愛することです。聖書は、「夫は妻のかしらである」と言っています。「かしら」だからと言って、何も偉いわけではありません。それは、機能、「働き」の問題です。夫は「かしら」として造られているので、リーダーシップを取るようになっているのです。リーダーシップとは、家庭において、最終的な決断をすることです。では、妻にとって一番大切なことは何でしょうか。それは、かしらである夫を敬って従うことです。「従う」と言っても、「何でもかんでも奴隷のように従え」ということではありません。「主にあって」ですから、神様が禁止していることに対して、従う必要はありません。でも、家庭において夫がリーダーシップを取り、妻がそれに従うというのが、神が与えた秩序です。しかし、戦後、靴下と女性が強くなり、夫に従わない妻が増えてきました。ある妻は子どもの前でも、夫を馬鹿にます。そして、自分で何でも決めて、夫に「このように決めたので、良いわね」と言います。しかし、それは愚かなことです。男性は、かしらとして造られているのです。もし、妻が全部決めたら、夫は「お前が決めたんだから好きにしろ!」と言って、責任を放棄するでしょう。どういうわけか、妻がリーダーシップを取ってしまうと、夫はなめくじのようにヘナヘナと弱くなってしまうのです。賢い妻はどうでしょうか。色んなことを調べ、資料を提供します。95%くらいまでは自分でやるかもしれませんが、あとの5%、おいしいところを夫に残します。「あなたがかしらなんですから、あなたがお決めください」。夫が決断したなら、最後まで、夫が責任を取るのです。賢い妻は「あなたは頼もしいわー」と褒めて、尊敬します。そうするとどうなるでしょう。夫は木に登るかもしれません。でも、夫はない力を振り絞ってでもがんばります。自分を尊敬してくれる妻には、命まであげるでしょう。それがオトコなんです。悲しいサガです。家で馬鹿にされた夫はどこへ行くでしょう。「社長さん」と呼んでくれる、キャバクラに行きます。

夫はかしらだと申し上げましたが、「かしら」には、源と言う意味があります。源が清ければ、下流には清い水が流れます。逆に、源である夫が汚れるなら、妻や子供に悪影響が及ぶでしょう。それは、傘にたとえることができます。夫が妻のかしらであるということは、このように傘が上を向いている状態です。すると、妻や子供たちが雨にぬれなくても良いわけです。しかし、夫が夫の役目を果たさない場合はどうでしょうか。働かなったり、浮気をしたり、暴力を振るったりする場合です。傘に穴が開いた状態になります。雨が下にいる妻や子供たちに落ちてきます。それでは、逆に妻がかしらになったらどうなるのでしょうか。それは、傘をさかさまにした状態になります。さかさまになった傘は、雨を防ぐことは出来ません。子供は一体どこに隠れるのでしょうか。でも、傘を立てて歩くなら、前に進むことができます。それは、夫がかしらとして、リーダーシップを取るということです。では、なぜ、聖書は夫に「妻を愛しなさい」とだけ言って、妻に「愛しなさい」と言っていないのでしょうか。妻は夫を愛さなくても良いのでしょうか。いいえ、妻も夫を愛さなければなりません。ここで、夫が妻を愛するように命じられているのは、夫がかしらであるからです。悪いかしらは横暴になって、妻を苦しめる恐れがあるからです。だから、「かしらにとって忘れてならないのは、妻を愛することだよ」と言っているのです。

数年前から「父親の学校」とか「母親の学校」というものが開かれています。世界的な規模で「メンズセミナー」とか「ウイメンズセミナー」というのもあるようです。そこでは、男性は家庭の祭司であり、預言者であり、王であると教えられます。教会の祈祷会に来るのは大体、女性がほとんどです。しかし、Ⅱテモテ2:8に「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」と書いてあります。男性が祈るとまた違うんです。家のかしらとして、手をあげて祈るときどのようなことが起こるでしょうか?自分に家長としての権威が与えられます。そして、祈った人たちと親密さが与えられます。妻のために祈ると妻と親密になり、子どもたちのために祈ると子どもたちと親密になります。男性は、「怒らないで、祈る!」これがとても重要な鍵です。さらに言うならば、夫は自分の体のように妻を愛して労わることです。妻は夫に従いそして敬うということです。私たちが自分たちの役割を果たすとき、神さまは幸いと祝福を家庭にもたらしてくださるのです。

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