2011年1月 2日 (日)

「心を守れ」  箴言4:23-27

昨日の元旦礼拝では、「心を新たに」というテーマでお話しました。怒りや恐れに縛られていたら、私たちの考えや思いを変えるべきです。そのためには、一番、中心のコア世界観をAからBに変えるということをお話ししました。お聞きになられなかった方は、入り口にプリントがありますので後でお読みください。きょうは、その続きであります。私たちの考えの中心部分、コア世界観を変えなければ、すべての努力が元の木阿弥になります。多くの場合、私たちはコア世界観を変えるのではなく、周辺的なことを変えようとします。たとえば、前向き、肯定的に考えよう。積極的な考えを持とう。イヤなことは忘れて、良い面を見よう。聖書を読んで、みことばに従おう。どれも悪いことではありません。でも、効き目がないのです。なぜなら、本来、手術しなければならない病気を、塗り薬で済ましているからです。きょうのお話は、コア世界観Bに取り替えた人にはものすごく訳に立ちます。古い世界観の人は、それなりに役に立つでしょう。私たちは心を守るために、どのようなことをすべきなのでしょうか?

1.良いものを入れる

 私たちの中心部が癒されると、良いものをどんどん吸収することができます。良いものとは、自分の魂のためになることです。正しい考え、価値のあるもの、神さまによろこばれるもの、生産的なものです。パウロはこのように命じています。ピリピ48「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」「心を留めなさい」とは、深く考える、熟考するという意味です。真実、誉れ、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと…。ところが、この世が提供してくるものは、全く逆のものが多いのです。昨年、一人の歌舞伎俳優が傷害を受けました。そのことで、マスコミがいろんなことを取り上げました。私たちも「何が原因なんだろう?本当のことはどうなんだ、」とか考え、一緒に腹を立てたりします。お相撲さんのこと、中国漁船のこと、内閣の支持率低下、いろいろありました。そういうニュースのほとんどはスキャンダル的な要素が含まれています。この世の中の人たちはそういうニュースが好きなのです。でも、私たちは心を守るために、悪いものを排除し、良いものだけを入れなければなりません。

 昨年もコンピューターの話をしましたが、もう1つお話しします。コンピューターはデーターが入っていなければただの箱です。コンピューターは「ゴミを入れるとゴミが出る」ということです。私たちの頭や心もコンピューターそっくりです。男性がポルノに関した、DVDやインターネットのサイトを継続して見るとします。「おー、あー」。ポルノの画像が、どんどん心の中に入ってきます。すると情欲がどんどん養われていき、実際そういうことがしたくなります。電車の中で手を出したり、盗撮する人はそういう人です。たとえば女性がサスペンスや推理小説をいつも、いつも読んでいるとします。そうすると心の中に非現実的なことがたくさん入ってきます。「人々が信じられない、何が悪いことが起こるのではないだろうか」。そういう妄想につきまとわれるかもしれません。一番、恐ろしいのは子どもたちや若者のゲームです。バーチャル、仮想現実の中でいろんなことが起こります。人が撃たれたり、切られて、また復活し、また死にます。憎んでいる人をゲームの中で殺すかもしれません。そして、現実よりも、3Dで作ったアニメの世界で生きるようになるかもしれません。結局、現実に置かれている自分の生活や命を粗末に扱うようになるでしょう。私たちは、何でも無防備に心の中に入れてはいけません。私たちの意識(理性)は心のドアの門番です。意識は良いものは入れて、悪いものは締め出すように作られています。しかし、意識が最も弱まるときがあります。それはいつでしょう?寝る前のぼーっとしている時間です。この時が一番無防備です。みなさんは、寝る前のぼーっとしている時間、何をしているでしょうか?多くの場合、寝そべってテレビを見ているんじゃないでしょうか?寝る前に、多くの人はテレビをつけています。すると、テレビの内容が、そのまんま、あなたの潜在意識に入り、それが蓄積されていきます。私は亀有に来て23年になりますが、私が赴任する前からダイヤル一日一生をやっていました。23年間、毎日、私はずっと聖書からショートメッセージをしています。「だれがこんなことを始めたんだ」とムカついたこともありました。でも、寝る前に録音するので、どうしても聖書を読まなければなりません。今、思えば「強いられた恵みだったんだなー」と感謝しています。

 どうぞ、みなさん良いものを心の中に入れてください。そのために第一にすべきことは聖書を黙想することです。詩篇112「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」「口ずさむ」とは、黙想する、思い巡らすという意味です。みことば黙想すると、聖書の価値観、約束、希望があなたの心の中に蓄積されていきます。そうすると霊が強められ、信仰、希望、愛が出てきます。それから、信仰書を読むということも重要です。現代は活字離れが多いそうですが、1ヶ月数冊は本を読みましょう。昨年は、アメリカの牧師・ジョエル・オースチンの本を読んで、大変、力づけられました。今、ポール・J・マイヤーの『成功への25の鍵』という本を読んでいます。コーチングしていたある先生から、「ぜひ、読んでください」とプレゼントされました。本を読んで、積極的な考え、肯定的な考え、信仰的な考えを心に満たしたら良いです。私は良いセミナーがあったら、できるだけ出かけることにしています。そして、録音したものを文章化してファイルにしています。聞くだけだとほとんど残りませんが、それを文章化し、さらに人々に分かち合うと50%ぐらい残ります。そして、だれでもできることは、たえず、神様と交わることです。祈り、賛美、礼拝、告白、感謝をすると、私たちの心が満たされてきます。コロサイ312「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。

2.悪いものを吐き出す

私たちは毎日、生活していますといろんなことが起こります。自分はコア世界観Bコースに切り替えたつもりでも、「えーなんで?」みたいなことに遭遇します。もし、怒り、恨み、憎しみ、さばく思いが心の中に放置されたらどうなるでしょうか?心の中に、苦い根が張ってしまいます。ヘブル1215「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」とあります。苦い根が生えてきて、自分だけではなく、多くの人を汚してしまいます。恨みごとを言っている人のそばに座ったことがあるでしょうか?何やら不満や批判、怒りを口に出しています。実は、その人は、周りの人を汚しているのです。その人に「そんな否定的なことを言うなよ」と言っても効き目がありません。すでに、心の中に苦い根が生えているので、口が苦々しいことを語るのです。その人がいくら恨み言を吐いたとしても、解決されません。苦い根の根っこを抜かなければなりません。また、ルカ176「この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」というみことばがあります。桑の木の根っことは何でしょう?このみことばの前後には、「人の罪を何度まで赦したら良いでしょうか?」「七度まででしょうか?」と問われています。イエス様がそれに対して、桑の木のたとえについて話しています。桑の木の根っこは地面に張っていて、簡単には抜けないそうです。つまり、人を赦さないでいると、桑の木の根っこのように心の中に深く根を降ろします。「もう、赦さないぞ!」と、一旦、根を張ってしまうと、そう簡単には赦せなくなるのです。また、エペソ426,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあります。これも同じで、怒りを放置しておいたら、悪魔が働く足場を与えることになるという意味です。

苦い根、桑の木の根、悪魔に機会を与える。これらに対して、どのように対処したら良いのでしょうか?解決策は、1つしかありません。すぐに神さまに告白して、悔い改めるということです。次の日まで持ち越さないということです。1週間くらい放置したなら、悪い思いが居座ってしまうというでしょう。憎しみ、怒り、赦さない心、これは実際に血液を汚すそうです。人間は本来、人々を赦し、平和に暮らすように神様から造られています。しかし、それに反したことを思うと、血液が汚れ、病になります。すべての病気がそうだと申しませんが、どこかに不具合を生じることは確かです。私たちは癌になったら、「これはエライことだ!」とすぐ病院に行って、取り除いてもらうでしょう。でも、憎しみ、怒り、赦さない心はそのままにして、何度も思い起こして、その菌を培養してしまいます。憎しみ、怒り、赦さない心は心の癌細胞です。私たちは断固として、イエス様に告白して、捨て去るべきであります。

みなさんは、「境界線、バウンダリー」ということばを聞かれたことがあると思います。簡単に言いますと、他の人の問題と私の問題、あるいは他の人の責任と私の責任を分けるということです。日本人は共依存的なので、他の人の問題と自分の問題がごっちゃになってしまいます。その結果、いらいらして腹を立てたり、心配したり、がっかりします。本来、それは自分のものではないのですが、他の人の問題を自分の問題として引き受けた場合です。もちろん、聖書では互いに重荷を負い合いなさいというみことばがあります。また、同時に、「人にはおのおの、負うべき重荷があるのです」(ガラテヤ6:5)とも書いてあります。では、境界線があいまいになりやすい、他の人とはだれのことでしょうか?子どものこと、夫あるいは妻のこと、あるいは親しい関係にある人です。その人が不当な扱いを受けていると、自分がかつて経験した不当な扱いがリンクします。すると、「そんなの許せない」と怒りが湧いてくるのです。本来、自分の感情ではなかったのに、その人の問題によって触発されて、自分の傷がうずくのです。一番多いケースは、母と子どもです。「母子一体」「親子パック」などと呼びますが、二人がくっつき過ぎています。子どもが学校にいじめにあっている。もう、母親は心配でうつ的になります。自分の子どもが手術を受けるときなどは、自分が切られたような感じをするでしょう。それだけ絆が深いということです。私も常磐セルで月一回、牧師たちの証を分かち合います。中には教団の先生や役員からひどい扱いを受けたという証があります。すると、自分の中に「なんてひどいやつだ!」と、怒りがこみあげてきます。本来、それは、その先生の問題なのに、自分の経験とリンクしてしまうのです。自分の未解決な問題が、そこで顔を出すのです。もし、私たちが心を守ることを心がけるならば、「切り離し」が必要です。「この問題は、私の問題ではありません。これは、その人が背負う問題です。主よ、あなたは私だけではなく、その人にも一緒におられます。主よ、あなたがその人を助けてください」と委ねるのです。あるいは「主よ、この感情は私のものではありません。あの人の問題から来たものです。この悪い感情を切り離して、捨てます。どうか、私をあなたの平安で満たしてください」と祈れば良いのです。心の平和を保つためには、「境界線、バウンダリー」を生活の中に適用することがとても重要です。

3.良い習慣をつける

 人は意識で行動している部分は5-10%だそうです。あとの90-95%は無意識でやっていることが多いのです。私たちはコア世界観を変え、良いことばや行ないをしようと努力します。でも、知らず知らずのうちに、古いライフ・スタイルに戻ってしまいます。なぜでしょう?90-95%の無意識の世界に古いものがたくさん残っているからです。ですから、私たちは無意識の世界に、どんどん良いものを蓄積し、良い習慣を身につけていく必要があります。古いことわざがあります。「考えの種を蒔けば、行動を刈り取り、行動の種を蒔けば、習慣を刈り取り、習慣の種を蒔けば、品性を刈り取り、品性の種を蒔けば、運命を刈り取る」。簡単に言いますと、考え、行動、習慣、品性、運命です。考え、行動して、それが習慣化する必要があります。習慣というのは、無意識でなされる行為です。最初は強い意志と努力が必要ですが、慣れてくるとそれが自由になります。私はゴルフをしたことがありません。ある人が我流でクラブを振っていたとします。コーチから、「そうじゃないよ」と肩と腰の加減を修正されたとします。コーチは「そうじゃないよ」と肩と腰をクラブの柄の方で叩きます。「いたいなー」と思いながら、修正したスウィングをします。自分でも、素振りをします。「あ、ちがった。こうだ」とか言って、意識して練習します。1ヶ月くらいたつとどうでしょう?コーチから修正されたスウィングの方が自然になります。もう、意識しなくても、自然に体がそのように動くのです。つまり、意識から無意識の領域に入ったということです。私はいつも時間ギリギリの人でした。どこかに出発するとき、だれかと会うとき、時間ちょうどか、1分遅刻というのがザラでした。あるときから、やっている仕事をやめて、出発30分前、面会30分前に準備すると決めました。顔を洗って着替えて、もし、時間があったら仕事をすれば良いのです。30分前の準備を実行していますが、かなり、無意識の領域に入って来ています。

 どうでしょう?みなさん、「私はこういう良い習慣を身につけたい」というものがあるでしょうか?どうぞ、考えてみてください。最初は不自由で、ぎこちないかもしれません。意識しないと、また元に戻るかもしれません。でも、また意識して、行動し、習慣化させるのです。そうすると、良い品性と良い運命を刈り取ることができます。さきほど、紹介したポール・J・マイヤーの『成功への25の鍵』という本の中から、少し紹介させていただきます。ポール・J・マイヤーは、「あなたの考え(思考)を変えるためには、ことばを変えなさい」と述べています。たとえば、「私にはできない」「心配だ」「あまりにも危険すぎる」などと自分が考えているとします。そのときは、「もう一度見るんだ。この機会をチャンスとして与えるぞ。私にはどれができる」と自分に語りかけるのです。なすべき重要なことは、自動的に出てくる否定的な思考パターンをことばによって打ち破ることです。私たちが自然に発していることばや考え、なんと否定的なものが多いでしょう。「めんどうくさい。やりたくない。赦せない。お金がない。人がいない。不景気だから。伝道が難しい…」。そうなるとうつ的になり、情熱も低下します。では、反対に「やればできる。必要は与えられる!」自分に言い聞かせれば良いのでしょうか?これは、正直、長続きしません。なぜなら、律法的だからです。W.W.J.D「イエス様だったらどうする?」というブレスレットをしている人がいます。もし、効き目があれば大いにやって結構だと思います。「イエス様だったらどうする?」と言う度に、自分を切り離して見つめる必要があります。これも、結構、律法的ですので、疲れるでしょう。「めんどうくさい。やりたくない。赦せない」。これに対して、「イエス様一緒にやりましょう。イエス様、一緒に赦させてください。イエス様、一緒に愛させてください」。イエス様は私たちと一体になっています。わざわざイエス様を私たち自身から切り離さないで、イエス様と一緒に生きるのです。そうすればイエス様が現れてくださいます。このことは、来週、9日のメッセージで詳しくお話ししたいと思います。

 どんな時でもイエス様と一緒に生活する。これこそ、最も良い習慣であります。一年の計は元旦にありと、多くの人たちは「こうしよう。ああしよう」と計画を立てます。でも、多くの場合、3日坊主です。私たちは律法を自分に課して生きると窒息死してしまいます。私たちは、律法は正しいことを知っていますが、律法を守り行う力がないのです。人が正しいと思っていることをできたならば、警察はいりません。正しいこと思っていることができない。これは未信者もクリスチャンも同じです。では、何が違うのでしょうか?イエス様が共にいるか、イエス様が共にいないかの違いです。私たちはイエス様を離れて、独立して生きようとするなら、必ず失敗します。最初は良いかもしれませんが、完了することは並大抵ではありません。そうではなく、私たちは初めから、イエス様と共に行なうのです。「イエス様、どうしましょうか?イエス様、こうしましょう。イエス様、一緒に行きましょう」。そうすると、義務感やプレッシャーがぱーっと消えて、自然な力でやっている自分に気付くでしょう。「自分を鞭打って従わせる」という方法もあるかもしれません。私はそれよりも、イエス様を仰いで、イエス様と一緒に生活する方を選びます。もちろん、「イエス様」を聖霊様あるいは、父なる神様と置き換えても、全く、構いません。「聖霊様、一緒に行きましょう!」でも、良いです。

 私は夢がだんだん肯定的になりました。かつての夢は、バスに乗り遅れたり、ロッカーに体育用具がない、道に迷っている夢がほとんどでした。そして、寝言をしょっちゅう言って、よく叫んでいました。私は牧師たちと4人部屋で一緒に寝るのが恐いのです。夜中に叫ぶからです。でも、最近は、家内に聞くと、笑っているらしいんです。今、よく見る夢は、昔の夢ではなく、最近の夢を見ます。大川先生、家内、長男かだれか分かりませんが子どもが出てきます。嫌な夢よりも、楽しい夢が多くなったような気がします。みなさんはどうでしょうか?フロイトという人は、夢と深層心理は深い関係があると言いました。信仰が深層心理まで入ったら、すばらしいですよね。夢の中でも、「イエス様、イエス様」と言っていたら良いですよね。昔の話ですが、申賢均牧師が断食祈祷院でみんなと一緒に過ごしました。断食して祈ると、エネルギーがないので、あとは寝るしかありません。朝は5時から早天ですが、申賢均牧師はその前にちょっと眠りました。朝になって信徒の方が「先生、夜、寝言を言っていましたよ」と言いました。申先生は「あ、もしかしたら女性の名前でも呼んだかな?」と一瞬心配しました。「どんな寝言だったの?」と恐る恐る聞きました。先生はね、「おお、主よー。おお、主よー」と言っていました。申先生は「うん、それだったらまことに結構」と答えたそうです。私たちの無意識の世界まで、信仰に満たされる。そして、思考、ことば、行動が変えられていくことを願います。アーメン。

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2010年9月 5日 (日)

男と女の違い  箴言27:17、Ⅰコリント13:4-7

 何故、この世には男性と女性がいるのでしょうか?創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書いてあります。「神のかたちとは何か」ということが、神学的に色々と議論されてきました。バルトという神学者は「男と女の愛し合う関係こそが、神のかたちなのだ」と言いました。神さまは父、子、聖霊と3つのペルソナ(位格)を持っていらっしゃるのに、1つのように愛し合っておられます。これが三位一体であります。そのような愛のかたちに、神さまは男と女を造られたのであります。男と女が結び合うのが結婚であります。結婚して家庭を作るのでありますが、1つになるのがとても困難です。なぜなら、お互いに違うからです。同じものが1つになるよりも、違ったものが1つになることの方が、がっちり組み合います。頭では分かるのですが、実際に二人がひとつ屋根に住むようになるとバトルが繰り広げられます。解決の道とは何でしょう?それはお互いの違いを認め、歩み寄ることのできるところは歩み寄るということです。

1.男と女の違い

まず、男性と女性の違いを知ることが重要です。代表的な違いを5つ上げたいと思います。第一は、男性は全体的で女性は部分的であるということです。たとえば家を建てるときはどうでしょうか?モデル・ハウスになどに行くと良くわかります。男性は構造とか間取りに興味があります。壁や土台の耐震性、防火性なども考えるでしょう。一方、女性は台所やキッチン、カーテンや壁の色、インテリアに興味があります。女性の場合は、あの人が何を着ていたか衣服の色まで覚えています。男性は細かいことはさっぱり覚えていないのです。

第二は、男性は計算的で、女性は直感的です。男性は左脳で論理的に考える傾向があります。悪く言うと理屈っぽい。あまり、感情に左右されません。一方、女性は、右脳で直感的に捉える傾向があります。ピピッピと一瞬にしてわかるのです。キリスト教は頭では分かりません。だから、クリスチャンには女性が多いのもそのためかもしれません。でも、一旦、男性が信じると、神学的な学びにのめりこんでしまいます。

第三は、男性は目的を達成することに興味があり、女性は過程(プロセス)に興味があります。たとえば買い物にしても、男性は望んでいる品物を買うためにそのコーナーに向かいます。品物を買ってしまえばおしまいです。一方、女性はあれを見たりこれを見たりする、ウィンドウ・ショッピングが楽しいのです。「買うのかな?」と思ったら買わない。別に買わないで帰ってきても満足するようです。男性が買い物に付き合えないのが、そういうところにあります。車の運転でもそうです。男性は「ここに行くぞ!」と決めたら、ひたすら目的地に向かって車を走らせます。サービス・エリアで休むと、「ずいぶん後ろの車に抜かれたなー」と思います。一方、女性は周りの景色とか、途中寄る「道の駅」とか、名所に興味があります。

第四に、男性は性によって愛情を表現しますが、女性は会話によって愛を感じるようであります。なぜ、結婚してうまくいくかいかないのでしょうか?男性が愛を感じるNo1.は性、セックスによる喜びです。残念ですが、女性は、性は大体3番目か4番目の優先順位です。女性はそれよりも親しい愛情のこもった会話が第一なのです。だから、聞いてもらいたい。しかし、男は結論を出したり、教えたりしがちです。No!ただ聞けば良いそうです。「くやしいです!」

第五、男性は革命的であり、女性は保守的(安定的)です。男性は現状維持では満足できません。冒険をしたい、新しいことにチャレンジをしたいのです。今、NHKの大河ドラマで坂本竜馬をやっています。坂本竜馬は本当に落ち着きがないですね。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、じっとしていません。一方、女性は保守的で今の生活を維持したい方です。昔、「もしも、私が家を建てたなら」という歌がはやりました。女性は、男性よりも幸福や安定を好みます。もしも、人類が男性だけだったら、この世はオーバーヒートするでしょう。女性が、水をかけて冷やすから良いのです。車のエンジンのまわりには、水が流れています。あれはエンジンを冷やしているのです。もし、そうでなかったなら、エンジンが焼け付いてしまうでしょう。男は世界を動かすと言われます。しかし、世界を動かす男性を動かしているのは女性であると言われます。

これまでのものは一般論でありましたが、結婚して、夫婦の関係になりますともっと複雑になります。人によっていろんな性格や好みがあるからです。人というのは大体、自分が持っていないものに憧れ、全く反対の人を求める傾向があります。たとえば、外交的な男性は、おしとやかな女性を求めます。パラフルで支配的な女性は、おとなしくて従順そうな男性を求めるでしょう。中国では陰と陽という考えがあるようですが、本能的にバランスを取るところがあります。私たちの場合は、私がしゃべる方で、家内はあまりしゃべらない静かな方でした。しかし、結婚すると家内もずいぶんとしゃべるようになりました。私はおちつかない方ですが、家内は結構、落ち着いています。2年くらい前に「カップルズ・コース」というのをやったことがあります。その中に「違いを確認する」という項目がありました。「もし、私たちが全てにおいて同じ意見だったら、結婚はとても退屈でしょう。初め、互いの違いはお互い引き合い、夢中にさせたものです。しかしそれから、ハネムーン段階が終わり、だんだん熱が冷めてくると、魅惑的だったこれらの違いは衝突を引き起こす刺激物になってしまうことがあります。この段階では、違いを取り除く試みが共同生活をする上で必要となります。脱いだ靴下を洗濯機に入れるか、はしの持ち方など、自分と同じことを要求します。要求する、巧妙にごまかす、イライラする、不満を口に出す。これらの全ては必然的に親密な関係を失わせてしまいます。悲しいことにたくさんのカップルがそのとき、自分たちはうまく行かないと結論を出してしまいます。しかし、実際はそうではありません。違いはお互いを補完するものであって、共同の利益を得るために作用します。私たちは違いや多様性について排除を試みるのではなく、貴重なものとして評価することが必要です。」と、そのように書いてありました。アーメンです。

さらに、そのテキストには、私たちには異なる5種類のタイプ・性格がありますと書いてありました。さきほどの男女の違い5つと、生活の違い5つを合わせると立体的になるかもしれません。第一は外交的な人または内向的な人です。外交的な人は人と交わることによってエネルギーを得ることができます。このような人は他人と一緒にいることに、より多くの時間を費やすことを望み、パーティーでは生き生きしています。一方、内向的な人は対照的に静かな状況から、エネルギーを得ることができます。考えやアイディアの内部の世界に自然な焦点を当てます。温かく、親切で、気配りですが、あまり多くの社交的な状況が続くと落ち込んでしまいます。回復するためには自分自身の時間が必要となります。

第二は論理的または直感的か?これは男女の違いでお話しました。第三は仕事志向か関係志向か?仕事志向の人は目標や期限を明確にします。そして、効率や、正義、真実といったもので動きます。一方、関係志向の人たちは、目標よりも人間関係を優先させます。他人の感情や気持ちを深く思いやり、大切にします。

第四は組み立て型か、または柔軟型の人です。組み立て型の人生を好む人は、自分の行動計画を先に作成してから進みます。柔軟型の人は流れに乗るタイプです。自由と自然さを愛する人です。変幻自在、悪く言えば行き当たりばったり。

第五はリーダーまたはサポーターです。リーダーは新しいアイディアを考え出し、苦もなく決定を下し、変化を恐れません。サポーターは自分以外の人が主導権を握ることを好みます。前回、夫は家庭のリーダーとしての機能を持っていると申し上げました。しかし、妻の方がリーダーの賜物がある場合があります。「それはダメだ」と言ってはいけません。賜物であり、性格なのですから、夫がそれをうまくささえるべきです。キリスト教会で有名なカップルは、三浦綾子さんと夫の光世さんです。また、米子さんと夫の田原先生かもしれません。

神さまは違う者同士をあえて巡り合わせて、ご自身のかたちに似るようにと導かれているのかもしれません。箴言2717「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」とあります。一番自分を研いでくれるのは、妻であり、夫であるかもしれません。だけど、刃と刃が「バチバチ」と、ぶつかるとき、火花も散るでしょう。マルチン・ルターは、自己中心的な考え方をより薄め、イエス・キリストのようになる方法は2つあると言いました。「第一の方法は修道院に入ることである。そして、第二は結婚へと船出することである」と言いました。Ⅰコリント12章には「愛は寛容である」と書かれています。寛容さを表現する英語はたくさんあります。しかし、ある人がそこの箇所を「愛は理解することである」と言い換えました。理解するは英語で、understandであります。分解すると、下に立つであります。上から見下ろすと分かりませんが、相手の下に立つと「なるほどなー、さもありなん」ということが良くあります。その人の生まれとか生い立ちを、ちょっと理解すると「ああ、そうならざるを得ないのかな?」と同情心がわいてきます。多くの場合、理解するのではなく、相手を「こっちに来なさい」と、自分の方にひっぱろうとします。すると、相手も負けじとばかり、「あなたこそ、こっちに来なさいよ」と主張します。まるでパワーゲームであります。では、「相手の言いなりになるのか?」、そうではありません。相手を変えようとするのではなく、できるだけ相手を理解しようと努力するのです。そうすると、小さなことはあまりどうでもよくなります。むしろ、相手のこだわりが可愛らしく思えてくるのです。そうすると、相手は「ああ、つまらないことに意地を張っていたなー」と自ら変わってくれるのです。ですから、「愛は理解する」というのが、すばらしい解決法ではないかと思います。

2.親密になるために

ポール・トルニエというスイスの精神医学者は「意見の不一致があることは全く普通で、実際それはとても良いことである。結婚がうまくいっている人は、その問題に共同に取り組み、克服している人です」と言いました。後半は、「お互いに違う二人が、どのような問題をクリアーしたら、より親密になるのか」2つのことをお話ししたいと思います。二人が親密になるための、第一の課題は「コミュニケーション」です。まず、一日に発することばは男性と女性とで随分と違います。女性の方は男性の倍以上、話さないと満足できないという統計が出ています。男性は会社で全部、話すべきことばを話してしまいます。だから、家に帰ったら、もうめんどうくさくて話したくないのです。それでも、結婚前は、二人ともよく会話をしていました。しかし、結婚して数年経つと、あまり話さなくなります。妻がしゃべるのを、夫は新聞を読みながら、あるいはテレビを見ながら聞いています。「あなた聞いているの!」「聞いてるよー」と、しかたなく答えます。英語で「聞く」ということばが2つあります。1つはhearです。これは、風の音や猫の鳴き声が「聞こえる」という意味です。もう1つはlistenです。これは、意識して聞く、耳を傾けるという意味の聞き方です。音楽の演奏とかラジオはこちらの方です。でも、夫は、妻がしゃべるのをhear「あ、聞こえるなー」ぐらいで聞き流してしまう。これが問題なのですね。女性の場合は、感情面のコミュニケーション、感情を伝えたいのです。でも、男性はそれを情報として左脳で受け取り、分析して、「これはどうだろう」と、教えてしまうのです。違うんです。女性は自分の感情を分かち合いたい、受け止めてもらいたいんです。私も結婚して、29年たちますけど、今でも「ああじゃない、こうじゃない」と教えたりします。男性諸君、女性の話を聞きましょう。頭で聞くのではなく、心でlisten、聞きましょう。

また、コミュニケーションの障害になるのが、途中で口を挟むということです。相手がまだ、話しているのに、途中から割り込んで話すということを気づかないでやっています。2年くらい前に、カップルズ・コースというのをやったことがあります。「口を挟まないように聞く」というレッスンがありました。夫婦どちらかですが、ハンカチを持っている人が話すようにします。ハンカチを持っていない人は、ひたすら耳を傾けることに集中します。今度は、ハンカチを交代し、ハンカチを持っている人が話します。私はそれまで気がつきませんでしたが、結構、私たちは相手がまだ話しているのに、口を挟んで自分のことを話してしまいます。常磐牧師セルを私たちは月一回持っています。10教会くらいの牧師が集まるのですが、何組かはご夫婦で来られます。順番に近況報告をするのですが、ご夫婦になると、どちらかがやっぱり口を挟みます。他の牧師が話すときはさすがに遠慮しますが、夫婦になると遠慮がないのですね。ハンカチの話をしたら、「なるほど」と言われました。ハンカチ落としというゲームがありますが、それではありません。どうでしょう?レッスンのために、ハンカチを持った人が話し、持っていない人は相手に耳を傾ける。でも、ハンカチを奪い合って、引きちぎらないように。4、5分間くらい、交替交替でやったら良いですね。相手に自分の気持ちを伝えることができた。また、相手も自分の気持ちを受け止めてくれた。これは本当に幸せです。こういうコミュニケーションは、親密さを作り上げるために、非常に重要だと思います。

第二の課題は「不一致の管理」です。「衝突を解決する」と言っても良いでしょう。前半のポイントで、男性と女性との違い、また個人個人の性格や好みからくる違いということを申し上げました。神の愛によって、お互いを理解し、受け入れ合うということももちろん重要です。でも、具体的なスキルというか知恵もあったら良いと思います。丸屋真也先生が結婚カウンセリングの学びで「不一致の管理」ということを教えてくださいました。少し引用させていただきます。夫婦はすべてが一致することはありえません。でも、親密になるためには、共有する部分を作る必要があります。共有部分はある意味では絆ということができます。これを増やしていくのです。でも、すべてが1つでなくて良いのです。夫婦の間で共有できない問題もあります。たとえば、趣味において、夫はサッカーが好きです。妻は、スポーツは一切ダメで美術や芸術が好きです。夫は、美術は興味ありません。これまで美術館に一緒に行きましたが、いやな顔をしていました。妻は一年に一回サッカーに行ったら気絶しました。ここに、関係的妥協が必要です。関係的妥協とは何でしょう?サッカーは夫の趣味なので、サッカーは自分の友人と行くことを許します。また、妻の場合は、美術に関しては同じ趣味の人と行くことを許します。次に「交代で」というのもあります。今回はピカソ、次回は優勝決定戦に行くのです。でも、どうしても無理な場合は、他の人との関わりの中で満たしていくのです。お互いを認めてあげることによって、不一致が適切に解消します。これを関係的妥協と言うようであります。私と家内が結婚して一番ぶつかり合ったのが、医療の問題です。子どもたちが小さい頃、よく風邪をひいてぜん息気味になりました。私はどちらかと言うと神の癒しを信じる方です。「イエスの御名によって祈ります。アーメン」と。しかし、家内は安心できません。「やっぱり、医者に行こう」と言うのですね。「私は祈ったじゃないか。風邪なんか薬を飲まないで、あったかいものを食べて、寝るのが一番なんだ」と主張します。家内は看護師なので、医学的な知識が豊富なので、「手遅れになったらこういうことになる」と色々浮かんでくるのです。しかし、私は楽天的です。それで最初はよく喧嘩をしました。しかし、あるときから「ああ、両方やれば良いじゃないか」と思うようになりました。先ず、病気のために祈ります。さらに、お医者さんに行く必要があるならば行くということです。

カップルズ・コースに書いてありましたが、お互いが衝突するとき、2つのタイプに分けられるということです。ある人はサイのようになります。攻撃されると、自分も攻撃的になるということです。また、ある人はハリネズミのようになります。その人は威嚇されると内にこもってしまうのです。みなさんのカップルは、それぞれ、どちらのタイプでしょうか?サイvsハリネズミでしょうか?それともサイvsサイでしょうか?あるいは、両者ともハリネズミでしょうか?そうなっちゃうと、もう関係が持てなくなります。我慢はよくありません。あとから、「どっかん」と爆発してしまうからです。それよりも、冒険を犯してでも、自分の気持ちを伝える努力をすべきであります。以心伝心なんというのは「幻」です。衝突を解決するために、ある程度、まとまった時間を取る必要があります。夜10時以降は遅すぎます。夕食を食べて、落ち着いた時間が良いでしょう。それから、お互いを攻撃するのではなく、問題点を話し合います。そのときに「あなたはいつもこうなんだから」とレッテルを貼らないということです。「あなたはいつもそうだ」「あなたはいつも○○してくれない」そういう言い方は避けましょう。もう1つは「私メッセージ出語る」ということです。「○○と言われると、私は軽蔑された気持ちになるの」とか「私はそういうふうに思う」というように、です。逆に「あなたが」「おまえが」というと、さばいているように聞こえるからです。そういうふうに、話していくと、必ず解決の糸口が見えてきます。そして、一番の解決はお互いに祈り合うということです。祈るとイエス様が間を取り持ってくださり、また、結び合わせてくださるからです。神さまはあえて、違う者どうしを引き合わせてくださったのです。その後、不一致、あるいは違うところを認め合って、さらに解決していくことによって、本当の親密さが生まれてくるのです。はじめから親密なカップルというものはおそらく存在しないのではないかと思います。親密さは、お互いの努力と神さまの恵みによって生み出されてくるものであると信じます。

伝道者の書4:12「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」このみことばは、ひとり、ふたりとなっていて、最後には「三つ撚りの糸」となっています。おそらく、二人の間に、イエス様が間におられるカップルではないかと思います。生身の人間は「ヤマアラシの論理」のようです。近づくとお互いの刺によって傷つけ合ってしまいます。かといって、離れると寒い。二人の間に、イエス様をお招きしたなら、イエス様が、両者の刺を受け止めてくださる。だから、私たちは教会内における兄弟姉妹との交わりでも、夫婦においてでも、私たちはイエス様を通して、互いに愛し合うことが可能なのです。

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2010年8月22日 (日)

人間の成長と家庭   詩篇139:13-16、箴言22:6

 本日から4回に渡って、「良き家庭の形成」というテーマで話させていただきます。日本には聖書という土台がないので、子どもを物みたいに考えています。本来教育は人格とマッチしなければなりませんが、学校では知的な面しか教えてくれません。家庭も会社と同じように分業制みたいに分けるところがあります。年を取って働けなくなれば存在価値までなくなります。このような人生は、創造主なる神さまがいない、進化論的な価値観から生まれてきます。もし、私たちが聖書的な価値観で育てられたならなんと幸いでしょう。きょうは、人間の成長過程において、何が最も重要なのかメッセージさせていただきます。

1.胎児期

胎児期で知るべき重要なテーマは、お腹の中にいる赤ちゃんは一人の人間であるということです。人間の誕生はいつから始まるのでしょうか?法的にはいつから一人の人間として認められるのでしょうか?多くの人たちはお母さんのお腹から、「おぎゃー」と生まれた時から、その子の人生が始まると言います。しかし、聖書は受精した瞬間から、その人の人生が始まると書いてあります。詩篇139:13-16「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」ここでは創造主なる神さまが、骨格や人格形成にいたるまで参与していると書かれています。子どもは親の欲望や都合で生まれるのではありません。神さまが両親に新しい命を与えることをお許しになったと考えるべきです。神さまが「ご自分の代わりに育てるように」と、その子を両親に託したのであります。もし、そのような考えがなければ、一人の人格を持った人間として、尊厳をもって、育てることが不可能です。

学者は、「赤ちゃんは、お腹にいるときから、かなりのことをキャッチしている」と言います。特にお母さんの怒り、悲しみ、不安などが、お腹の赤ちゃんに伝わるそうです。お母さんが緊張すると、赤ちゃんの心臓の鼓動が高まり、血圧も上がるそうです。たとえば、お母さんが「早すぎたわ、中絶すれば良かった」と思ったとします。すると、赤ちゃんの霊に大きなダメージを与え「私はこの世にいてはいけない存在だ」と考えます。生まれて大きくなっても、心の深いところに、自殺願望やお母さんに対する怒りがあるそうです。ある男性が、「私はだれとも友達になれない。自分の家族ともうまくいかない」と悩みを打ち明けました。カウンセラーは彼と話していて、心の深いところに拒絶感があるのを知りました。彼は言いました。「覚えている限り、私は小さい時から、いつも人に嫌われていて、避けられていて、からかわれていました。私が何も言わないのに、何もしていない先から、人から拒絶されていることを感じました」。カウンセラーは「一緒に祈って、この拒絶の根っこがどこにあるか、神様に示していただきましょう」と言いました。祈ってから二日後、彼は夢を見ました。あたかも本当に起こっているかのような夢で、部屋の壁の色、カーテンの色まで見えました。ある男性がお母さんをののしって、最後にお腹を蹴飛ばして出て行った夢でした。お母さんに電話でそのことを話すと「一体だれがそんなことを教えたの」と驚いて、信じようとしませんでした。それは実際にあったことで、彼が9ヶ月目のとき、父親が家を飛び出したそうです。胎児の彼は父親を怒ってさばいたのです。彼が父親と母親を赦す祈りをしたら、人と会話がだんだんできるようになったそうです。

ルカ1章に、イエス様をみごもったマリヤがすぐにエリサベツのもとを訪ねて行ったことが書かれています。マリヤがエリサベツを訪ねたとき、エリサベツのお腹の中にいたバプテスマのヨハネが喜んで踊りました。それは、バプテスマのヨハネの霊がすぐさま、マリヤのお腹の中にいるのがイエス様であるということが分かったからです。近年「胎教」ということが良く言われます。妊娠5か月頃から音を聞き分ける能力が発達し、8ヶ月頃にはほぼ完成するそうです。そのため、良い音楽を聞かせたり、両親が仲良く暮らすことが大事なのです。つまり、子育ては誕生したときからではなく、妊娠中から始まっているということです。

2.幼児期

幼児期のテーマは、愛情あふれる養育です。0歳から2歳までは、基本的信頼感を学ぶ大事なときです。これがあると、周りの人々や、人生に対して心を開いて接することができます。さらには、神様にも心を開いて接することができます。基本的信頼感は日本語的には「絆」と言っても良いでしょう。両親との絆が浅いならば、人間関係も難しくなります。なぜなら、人を信頼することを学んでいないからです。0~2歳までの赤ちゃんは、いくらだっこしても十分過ぎるということはありません。随分、昔ですが、人の手で触れることが欠けている赤ちゃんがどうなるか実験しました。そういう赤ちゃんは生きる力がなくて、死んでしまいました。いくらお乳、栄養を提供しても、触れられない赤ちゃんは、栄養を吸収して生きる力につなげることができないのです。家庭において父親が不在で生まれ育った子供、あるいはいつも怒っている両親、問題があり愛情表現が欠けた家庭で育った子供、なぐられ虐待された子供は、基本的信頼を持つのが困難です。赤ちゃんにはスキンシップだけではなく、励ましの言葉が必要です。赤ちゃんはそれらを頭ではなく、霊で捉えることができるからです。

2歳から4歳までは大変な時です。独立心が芽生え、何でも「いや!」と言いたがります。また、親に反抗し、何でも自分でやろうとします。目を離したら何をするかわかりません。可愛らしかった赤ちゃんが、怪物のように見えてくるでしょう。このときに、親がしてはいけないことが3つあります。1つは無視(ニグレクト)です。ニグレクトは子どもにとって、親から見捨てられたという気持ちがします。2つ目はことばと肉体的な虐待です。親はある場合は、感情にまかせて、どなったり殴ったりします。そうすると子どもの中に親に対する怒りが生まれます。エペソ64に「子どもをおこらせてはいけません」書いてあるのはそのためです。3つ目は子どもの言いなりになることです。英語でspoil「甘やかす」という意味は、「だめにする」という意味があります。つまり、ちゃんとした境界線を決めるということです。叱るときは叱る。その後、赦して、ぎゅっと抱きしめるのです。害を与えるのは、「あなたは良い子でしょう。悪い子は私の子どもじゃない」という条件付きの愛です。子どもは「ありのままでは受け入れてもらえない」ので、本音を隠して、良い子を演じてしまいます。親の顔色を見て生きるで、大人になったら、ひきこもりになる可能性が大です。

これは私の考えですが、0歳とか1歳児を保育園に全部任せるのは良くないと思います。人格形成において、一番大事なときに他人に任せるというのはどうでしょう。保育師は親ではありません。子どもにとって、親を独占したいのに、十人いたら十分の一になります。みんなでおもちゃを分け与える前に、自分のものは自分のものと主張して良いときが必要です。自分のものがあってはじめて、他の人にも与えることができるのです。幼い時に家庭という所属感、自分のものであるという所有意識が必要です。その後で、人と分かち合ったりすることができるのです。心理学によりますと、6歳まで人格の骨組みが決まると言われます。それ以降は内装、カーテン、付属品です。しかし、日本では経済的な必要が第一で、共稼ぎをして育児に手かけることができません。大人になってから、得られなかったものを得るのは、そのときの何百倍もかかります。ですから、親は幼児期の子どもに対して、愛という投資をたくさんしましょう。

3.成長期

6歳から12歳までは成長期であります。テーマは主体性であります。箴言22:6「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」。「その行く道にふさわしく」とは、「神さまがその子どもに与えた気質や能力にふさわしく」という意味です。「教育」educationとは、ラテン語の「引き出す」に由来しています。つまり、真の教育とは、人間の可能性を外からの働きかけによって引き出すことを意味します。しかし、日本の教育は知識を詰め込み、規格品のような人間を作ってしまいます。最近、チャーチ・スクールがいろんなところで開かれていますが、聖書の価値観を土台とした全人格的な教育を目指しています。子どもが、家から学校へ行き始めると、全く環境が違います。これまでは「かわいい」「頭が良い」色々ほめられてきたかもしれません。しかし、学校へ行くと、いろんな悪口を言われます。勉強や体育ができなくても、色々言われます。学校の先生からも、他の人と比べられ落ち込むでしょう。ですから、それまで基本的信頼感が心に十分に築かれていないと、偽りを信じるようになります。「自分は、本当はダメなんだ。能力や才能がないんだ。人から嫌われ、受け入れられないんだ」と思うようになります。

そういう時こそ、親とのコミュニケーションが大事です。小学校の頃はまだまだ、親とよく話します。三男が「友達から馬鹿と言われた」と帰ってきました。私は「有悟は頭が良いんだよ。パパと友だちが言うのとどっちが正しい?」と聞きました。学校は子どもにとっては戦場です。いじめられたり、嫌なことがたくさんあります。ですから、私も家内も、学校に行くときは毎日、手を置いて祈りました。また、寝る前も祈ってあげたり、一緒に祈ったりしました。祈りというのは、本当にすばらしいと思います。祈りの中で励ましたり、本当のアイディンテティを教えてあげることができます。このとき、お母さんと、お父さんの役割が多少違います。お母さんは母性本能から、子どもを守ろうとします。子どもは家庭で泣いても良いのです。多少、甘えても良いのです。でも、お母さんだけが子育てに関わると、どうしても子どもを依存的にさせてしまいます。子育てのために父親も必要です。なぜなら、子どもに社会性を教えることができるからです。子どもに「パパも何度も失敗したよ。失敗しても大丈夫さ、また立ち上がれば良いんだ。」と、チャレンジを与えます。特に男の子は冒険が好きで、一緒に遊んだりすることが必要です。ある子どもが「パパ、一緒に遊ぼう!」と言いました。お父さんは「ん、あとでね」と言いました。また、子どもが「パパ、一緒に遊ぼうよ!」と言いました。その時もお父さんは「ん、今、忙しいんだ、あとでね」と言いました。やがて、お父さんは定年退職し、大きくなった息子に言いました。「たまには家に遊びに来いよ!」。息子は「ん、今、忙しんだ。あとでね」。子どもと一緒に遊べる時間というのは、本当に一時期です。

この時期に父親の役目を果たさなかったり、あるいは離婚すると、子どもに大きなダメージを与えます。日本の場合は父親がいても、忙しくて家庭にいません。よくあるケースですが、お母さんが子どもに自分の悩みを相談します。本来なら夫に分かち合うべき深い内容まで話します。そうすると、「お母さんこうしたら良いよ」と子どもはカウンセラーになります。お母さんの悩みことを一杯聞いて、最後にはパンクします。アダルトチルドレン(大人子ども)というのはこのために起こります。子どもは子どもらしく生きるべきです。すぐ大人になってはいけません。子どもは、親のもとで、のびのびと、安心して暮らす時が必要なのです。

4.思春期から大人

12歳から19歳くらいまでです。親から自立して自分の足で人生を歩み始めるときです。このときのテーマは個別化です。「自分は自分で良いんだ」というアイディンテティが確立するときです。ヨシュア19「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」この時期は、体つきは、もう大人ですが、精神はものすごく不安定です。親に逆らって自由になりたいけど、親の世話になっている状態です。口では反抗していますが、心の中では親から理解してもらいたいのです。思春期はまさしく人格が統合するときです。英語では、integrate、人格が統合、融合するということです。これがうまくいかないと、統合失調症ということになります。この病気は遺伝とか環境が複雑に絡み合って生まれるので、一口には言えません。でも、だれしもが程度の差はあれ、思春期に「一体、自分はだれなのか?人間は何のために生きているのか?」と悩むのではないでしょうか?ある女子中学生が学校の先生に「何のために勉強するのですか?」と聞いたそうです。すると先生は、「そんなくだらないことを考える暇があったら、単語の1つでも勉強しろ」と言ったそうです。その女子中学生はそのあと、自殺したそうです。学校の先生も「人生の目的は何か、何のために勉強するのか」分からないのです。だから、伝道者の書12章で「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」と言っているのです。

思春期における人格形成によくないものは、親のダブルバインドです。子どもに「どこの学校に進んでも良いよ。お前の好きなところへ行って良いよ」と言います。しかし、実際に「こうしたい」と言うと、「なんだよ、そんなところ」と喜んでくれません。本年と建前というのでしょうか?ブルバインドは、それをもっと強力にしたものです。また、この頃は、異性の問題も出てきます。ポルノにはまる恐れもあります。日本では親子で性の問題を言うのは難しいかもしれません。ですから、教会のジュニアとか学生会でこういう問題を扱うと良いと思います。何でも相談できるお兄さん、お姉さん的な人が必要です。また、思春期に良くないのがコントロールです。「親子パック」というタイプがあるそうです。親が自分が叶えられなかった夢を子どもに託します。たとえば、お母さんは音大のピアノ科卒。しかし、自分は一流までいかなかった。今度は、子どもにはちゃんとピアノをならわせて一流にしたい。母親は「まだ、だめ。ぜんぜんだめ」と叱ります。子どもはお母さんにどうしたら認められるのか?気に入られるために、一生懸命に頑張る。しかし、到達できない。そういう子どもに限って、リストカットや拒食症が多いそうです。親は子どもの人格を認め、手放す、自由にさせることが大事です。

 大人とは何でしょう?どういう人を大人と言うのでしょうか?私は「自分で決断し、その結果に対して責任を持てる人である」と思います。では、親が子どもの自立を妨げてしまう最も、してはならないことは何でしょう?それは、親が子どもの代わりに決断をすることです。もし、親が選択して決断したならば、どうでしょうか?子どもが失敗したならば、親が責任を取らなければなりません。親はアドバイスしても良いのです。「これと、これがあるよ」と、いくつか選択肢を提供することはできます。しかし、選択し決断するのは本人がすべきことです。本人が決断したならば、本人が責任を取るしかありません。ある場合は、失敗するかもしれません。でも、そこから、また学ぶことができます。しかし、親が子どもの代わりに決断したら、子どもは不安になり、自分で決断できなくなります。すると、死ぬまで親が面倒みなければなりません。大学も、仕事も結婚相手までもそうなります。それでは、本当の自立にはなりません。子育ての一番の目的は、自立することであります。でも、その自立は神さまと共に歩める人になることです。私たちの父なる神さまは万事を益としてくださる神さまです。失敗さえも、益にしてくださるお方です。

聖書の時代は、13歳になったら、その若者は大人とみなされた。この成人式は「バルー・ミツバ」と呼ばれ、「神聖なる律法の子」という意味です。これからは、両親の救いから抜け出して、自分が神の前で責任をもって生きるということです。エリア・ハウスでは「ティーン(10代)への親のアドバイス」というのがありましたので、最後に分かち合いたいと思います。

・ティーンは幼い子供のようにコントロールすべきではない。

・「手放す」ことを始める。コントロールしたい気持ちを抑える。

・たとえ失敗したとしても、信じてやる。

・無条件に愛情を降り注ぐ。

・いつも、いつも、物事の意味を教えてやってはいけない。自分で学ぶ体験や、決断の機会を奪ってしまわないために。

・自分(親)の失敗について語る(自己弁護したり、動機を説明したりせずに)。

・もし父親、あるいは母親として、やり過ぎをやめることができず、子供の反抗がさらにひどくなっていく場合には、親戚か友人の家にしばらく預けること。距離を置くことで緊張が和らぎ、親のやり過ぎとティーンの反抗という悪循環を止めることができる。このように親から離れると、実際には多くの場合、ティーン自ら正しい決断をする。これまでそうできなかったのは、親が「正しいのは自分」という態度でいたからである。

 きょうは、偉そうなことを言いましたが、私自身が「子育てが成功したのか?」と問われたならば、「60点くらいかなー」と答えるでしょう。なぜでしょう?私も父や母、兄弟、先生からいっぱい傷を受けてきました。私自身が世の中の基準に合わなかったからかもしれません。しかし、私は律法ではなく、神さまの恵みを知りました。恵みは、数学で言うなら、方程式を覚えた時くらいの感動です。この世の方式ではダメだったけど、神さまの方式では解くことができたのです。家系の呪い、成育史における傷、様々な罪やトラウマ…神さまは癒してくださいます。そして、より良い家庭を、子どもから孫へと、自分の後から残すことが可能になります。出エジプト20: 6「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」神さまは呪いよりも、恵みを私たちに与えたいのです。

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