2015年11月20日 (金)

教会増殖 使徒11:19-21 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.22

 5年くらい前のデーターですが、日本でのプロテスタント教会は約8,000個あります。平均礼拝出席数は40名です。欧米では教会堂は荘厳で町の目立つところに立っています。一方、日本では神社仏閣が広い地所を構えています。教会はどちらかと言うと、通りから入った目立たないところに立っています。なぜなら、日本ではキリスト教が後から入って来たからです。今でも教会のない市町村があって、なんとかそこにも教会を建てようという試みがなされています。データーを見ますと、都市部にはたくさんの教会がありますが、地方に行けば行くほどその数は減って来ます。地方にはいろんな因習があり、キリスト教が入り込むのに困難を覚えています。私は秋田で、家内は岩手の出身です。私たちがクリスチャンになれたのは、もちろん神さまの導きですが、先祖のお墓とか因習から解放された面もあると言えます。きょうは『霊的な父』の最後にあたりますが、「教会の増殖」というテーマで学びたいと思います。

1.教会増殖の原点

使徒814「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。…他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」使徒1119-21「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」

第一の質問です。「エルサレムの教会はどうして衰退していったのでしょう?」いつまでもエルサレムにとどまっていたからです。イエス様は弟子たちに「全世界に出て行くように。地の果てまで行くように」と命じておられました。ところが、弟子たちは都にとどまっていたのです。                  

第二の質問です。「迫害で散らされた人たちは、何をしたのでしょう?」背景をちょっと説明させていただきます。最初、キリスト教はユダヤ教の一派と思われていました。ところが、ステパノがユダヤ人の議会で「あなたがたがこれまでの預言者のように、正しい方(イエス)を殺したのです」と非難しました。そのため、大迫害が教会に起こり、使徒たち以外のものはみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました。その中のある人たちは、ギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えました。つまり、ユダヤ人以外の人たちに福音を伝えたということです。

第三の質問です。「だれが新しい土地に新しい教会を開拓したのでしょう?」迫害によって散らされた人たちです。つまり、使徒でない一般の人たちです。アンテオケというところに、大きな群れができて、彼らがはじめて「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。

第四の質問です。「だれが教会を増殖させたのでしょうか?また、それは主のみこころだったのでしょうか?」主イエス様が人々の宣教活動を祝福されました。主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返ったのです。つまりそれは、主のみこころでした。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。初代教会のクリスチャンをエルサレムから開拓伝道へと駆り立てたのは、迫害が原因でした。最初の開拓伝道者はイエス・キリストによって訓練を受けた使徒たちではなかったということです。使徒たちはエルサレムで会議に忙しくしていたのです。もし、組織された教会が働きを全うしないのであれば、神は組織されていない教会を用いられるのです。アンテオケに到着した初期の弟子たちは、ユダヤ人のみに福音を宣べ伝えました。しかし、後にやって来た人々は人種の垣根を越えて異邦人に福音を宣べ伝えました。イエス・キリストの戦略が具体化したのはエルサレムからではなくアンテオケからです。なんと、大宣教命令が現実化したのは、エルサレムではなくアンテオケからでした。そのため「アンテオケ」という名前のつく宣教会があります。また、「アンテオケのような教会になるんだ」とスローガンを掲げている教会もあります。その意味は、1つの教会にとどまらず、新しく教会を生み出していくということです。そのことはイエス様が与えた世界宣教という命令を果たしていく1つの方法です。おそらくこのことに反対する人はおられないでしょう。ただし、日本には約8000の教会がいたるところに散在しています。日本基督教団においては約1000の教会が町々、村々にあります。そして、一個一個が小さいのです。また、問題は教会同士、あるいは教団教派の壁が厚く、あまり協力していないということです。海外から宣教師が、それぞれのやり方で伝道したので、そのなごりが残っています。今後の課題は、教会同士が喧嘩しないで、教会のないところに新たに教会を設置していくということだと思います。

2.教会増殖の妨げ

第一の質問です。「会堂を持つことの長所と短所をあげてください。」会堂があるといろんなイベントを開くことができます。しかし、教会という建物の中で何でも行ってしまうので、家庭が開放されなくなります。世の中の人は教会というところに行くまでが大変です。それよりも、身近なところにクリスチャンの集まりがあれば行きやすいのではないでしょうか?

第二の質問です。「フルタイムの牧師を雇うだけのお金がないときはどうしたら良いでしょう?」日本には教会員の数が少なくて、フルタイムの牧師を雇えない教会が半分近くもあります。その牧師たちはいろんなアルバイトをしながら牧会しています。私の知っているある牧師も平日は働いて、土日だけ教会の働きをしています。そうすると、世の中にほとんどのエネルギーが取られて、やっとメッセージをしているという状態です。そうすると、メッセージに油注ぎがなくて、礼拝に来る人も少なくなるという悪循環に陥ります。では、教会にフルタイムの牧師を雇うだけのお金がないときはどうしたら良いでしょうか?大教会のような祭典的な礼拝ではなく、参加型の礼拝にします。ある時は、賜物のある信徒がメッセージしたり、信徒の分かち合いも加えます。また、各家庭や店舗、公の建物を用いるのも良いでしょう。今は昔よりも、区や市の建物の一室も安く借りられるようになりました。会堂の維持費が無くなるので、牧師の給与に向けられるという利点があります。ただし、それは過渡期であって、礼拝を守れる固定した建物があればなお良いでしょう。日本人の心の中には、牧師が在住する教会というイメージがあり、決まった場所で落ち着いて礼拝を捧げたいという願いがあります。でも、いきなり自給できる教会になれるわけではありませんので、建物に依存しないやり方があるということを知っておくべきです。

第三の質問です。「リーダーを育てるためには神学校教育が必要だとすれば、どのような犠牲が伴うでしょう?」一人の専門家を育てるために多くの時間と資金がかかります。また、一般の信徒は「専門的な知識がなければ、牧師になっていけない」という思いを持って何事も消極的になるでしょう。ドイツのある学者が、健康で成長している教会の特徴をいくつかあげました。「神学校を卒業した牧師の多い教会は、質的にも低く、減少している。質の高い教会を見ると、神学校を卒業した牧師の数が少ない。リーダーたちがよりプロであればあるほど、教会は効果の度合いを失っていく。牧師があまりにも優秀でプロなので、教会員たちは自分にはできないと思っている。」もちろん、牧師が神学を勉強したことに越したことはありません。ただし、牧会が専門職になって、プロとアマみたいに分けてしまうと信徒の活躍の場がなくなってしまうということです。そうすると結果的にお客さんみたいな信徒が多くなり、教会が質的に成長しないということです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。過去20年か30年にわたって再生産している教会は集会場所に借家やテナントを利用してきました。家々で始められる教会は文化の壁を乗り越えて進めることができます。倉庫でも、お店でも、人がいるところならどこで教会をはじめて良いのです。また、フルタイムの牧師のための費用は大きな障害となります。教会増殖ネットワークは現在アルバイトをしながら牧会するという形であちこちに拡がっています。これは普段仕事を持ちつつ教会から少しの経済的支援を受けるというやり方です。ラルフ・モア師が『星のように砂のように』という本の中でこのように述べています。「もし、神学校が必修の規則であるとすると四つの犠牲が伴います。一番目はお金、二番目は時間、三番目は牧会から離れること、四番目は学位と牧会は違うという発見です。」さらに、ラルフ・モア師が日本に来られたときこのようにおっしゃっていました。「まず教会の中で牧師になる人をインターンのように育てる。もし、そのままでも教会開拓ができるのであれば派遣する。また、もっと専門的に勉強したければ神学校に通わせる」ということです。ただし、ラルフ・モア師は(地方)教会で育てた人が、教団の学校に行って、教団の人になり、教団から他の教会に遣わされるというやり方は反対しています。(地方)教会がすべての中心で、(地方)教会が牧師を育て、(地方)教会が教会を作り出していくべきだとおっしゃっています。私も先生の意見に賛成です。

3.大きい教会とシンプルチャーチ

第一の質問です。「礼拝堂を持っている大きな教会の長所は何ですか?」音楽もメッセージもすばらしくて、祭典的な礼拝を持つことができます。また、聖書を深く教えられる専門家がいるので、いろいろな面で指導することができるでしょう。よくメガチャーチと言われますが、どのくらいのサイズなのでしょうか?昔、カルフォルニアのクリスタル・カセドラルの礼拝に出席したことがありますが、建物が大きすぎてカメラに納めきれませんでした。フロリダにある3000名くらいの礼拝に出ましたが、ブースの中で生ドラムをたたいている人がいました。ドラムの音がそんなに大きいとは感じませんでした。韓国のヨイドの教会やオンヌリ教会の礼拝は、前の方にオーケストラ席がありました。日本の場合はメガチャーチと言えませんが、500名収容の教会はいくつかあります。そういうところの礼拝は音楽もメッセージもすばらしいです。

第二の質問です。「大きな教会の短所は何でしょうか?」一般の信徒は受け身的になり、奉仕に参加しなくなります。音楽もプロの人たちがやっているので、「ムーリー」という感じを持ってしまいます。また、お互いの交わりが薄いので、信仰的に弱い人は教会から去って行きます。私の母教会もデパートみたいな教会で、一人一人の顔も名前もわかりません。毎年100人くらいの人が洗礼を受けるようですが、2,3年後には半分くらいの人が来なくなります。問題があってもケーアできず、信仰の強い人がとどまるようです。

第三の質問です。「シンプルチャーチ(家の教会、会堂をもたない教会)の長所は何ですか?」 普通の教会に来たくない人のところへ行って、福音を語ることができます。また、人数もそんなにいないので、専門的に聖書を学んだ人でなくても用いられます。また、関係が深くなるので、互いに助け合い、互いに建て上げ合うことができます。

第四の質問です。「シンプルチャーチの短所は何ですか?」神学的に弱いので、異端が入り込むと簡単に壊れてしまいます。また、一人のキャラクターに良い点でも悪い点でも影響されます。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。大きい教会は、設備や様々なプログラムがあります。また、良く準備された教えがあります。すばらしい音楽のもとで祭典的な礼拝があります。数多くの交わりや愛餐会もあるでしょう。しかし、一人一人の交わりが薄かったり、弟子訓練が行き届かない場合があります。シンプル教会は良い交わり、分かち合いによる学びがあります。しかし、教える人が毎週交代したり、ディスカッションによる学びなので、深さやバランスに欠ける傾向があります。大きい教会は象のように、1つの教会を生み出すのも困難です。一方、シンプルな教会はうさぎのように、小さな教会をいくつも生み出すことができます。どちらが良いとは言えませんが、両方を備えている使徒241-47が理想的なモデルではないでしょうか?使徒2章は、エルサレムの初代教会のことが記されています。彼らは週のはじめは神殿で礼拝し、週日は各家で集まっていたようです。つまり、大きい教会の行き届かないところを、家の集会で補っていたようです。補っていたというよりも、そこが共同体としての基盤だったのかもしれません。

4.教会増殖のビジョン

 使徒198-10「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」コロサイ16「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」

第一の質問です。「パウロはユダヤ人の会堂から、どこに移動して伝道しましたか?」ツラノの講堂です。そこは異邦人が集まる一般的な場所でした。

第二の質問です。「エペソで、二年間続けた伝道の成果はどうだったでしょうか?」アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞きました。アジヤといっても、小アジヤであって現在のトルコであります。

第三の質問です。「コロサイの教会はどのようにしてできたかご存知でしょうか?」エペソで信じた人たちが、コロサイで群れを作りました。それがやがて教会になりました。ヨハネ黙示録1章には「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ」とアジヤの7つの教会が記されています。ラオデキヤもそうですが、使徒パウロが直接、教会を建てたわけではありません。なんと、エペソから6つの教会が生み出されたようです。

第四の質問。「このところから教会増殖のヒントが与えられるでしょうか?」マンモス教会も悪いわけではありません。しかし、遠くから来るのは大変です。ですから、マンモス教会から派遣された人たちが、衛星教会を作り、それが独立していくのはすばらしいことです。日本では、枝教会というような言い方をしています。昔は教団や教派が一生懸命、町や村に教会を作りました。しかし、現在は高齢化ため教会を閉鎖するか、合併しなければならなくなっています。ですから、上から教会増殖を押し付けるのではなく、地元から湧き上がってくる方が理想的です。なぜなら、土地ごとによって文化や人間関係が違います。それらを壊さないで保持しながら、信仰共同体を作るべきです。この度の東北の大震災によって漁村の人たちが福音を聞いて救われました。今後は、彼らが好むような、彼らにあった教会を作ったら良いと思います。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。パウロは反対や迫害を受けながらもエペソで二年以上伝道しました(参考.Ⅰコリント1531)。その結果、ヨハネ黙示録に記されている7つの教会を含むアジヤの諸教会が設立される基礎が作られました。コロサイの教会はコロサイ出身のエパフラスの手によってなされたと想像できます。1つの教会がセンターとなって、いくつかのセルあるいは家の教会が作られます。それが遠方であるならば、複数のセル(家の教会)が合体することによって子教会が生まれるでしょう。そこに牧師を派遣する道もありますが、賜物のある信徒リーダーがその集会を導いても良いです。大きな傘はメガチャーチ、小さな傘は50人の教会と言えるでしょう。メガチャーチよりも、小さな傘を10ヶ作ることの方が容易ではないでしょうか?小さな教会をいっぱい作るという考えは、ベン・ウォン師が提唱したことであります。しかし、日本の教会ははじめから小さい教会なので、「メガチャーチではなく小さな教会を」ということがよく分かりません。小さい教会をさらに小さくすると、指導者や奉仕者がいなくなり、どうしても活気がなくなります。また、家の教会と言っても、一般の人は教会堂を想像していますので、他人の家に入るのは勇気が必要です。ですから、ある程度大きなセンター的な教会があって、家の教会や小グループが補助的にあると良いと思います。私の友人である大喜多牧師は、「いちご伝道」ということを提唱して、現在6つ目の教会を開拓しています。いちごは自ら成長し、花を咲かせますが、同時に小さな株を四方に出します。親株から小さな株に栄養が行っています。しかし、小さな株からも根が出て、ある程度大きくなると独立します。そして、小さな株が大きくなりながら、孫の小さな株を四方に出します。そのようにして、どんどん増えていきます。大喜多牧師の考えは、教会を増殖することによって、主の宣教の命令を果たしていくというものです。先生のグループは、着実に教会が増えているので、全く脱帽です。

きょうで『キリストの体の青写真』からの説教が終わりです。大きく分けて、「Good News」「養育を受ける」「本当の弟子」「霊的な親」の4段階がありました。その中に付録的な学びがいくつかありました。最後に「岩に土台した結婚」というものありますが、それは各自で学んでもらえれば良いと思います。このシリーズは私の牧師としての奉仕を集大成したものです。いろんなやり方があって良いと思いますが、一人のクリスチャンが救われて、ゴールを目指して成長していくというプロセスを描くことはとても重要だと思います。聖書的な知識はゴールというものがありません。一生学び続けなければなりません。しかし、クリスチャンとして幼子から霊的な親になるというプロセスはだれもが目指すべきゴールであると思います。最後は「教会」というテーマでしたが、私たちの信仰は「教会」を離れては成熟もありませんし、奉仕活動もありません。なぜなら、教会はキリストのからだであり、キリストの御霊が豊かに働く共同体だからです。クリスチャンには教会に属さないで信仰生活を守るという人もいるかもしれません。その人は教会に躓いたからかもしれません。残念ながら完全無欠な人がいないように、完全無欠な教会もありません。教会は、罪赦され、義とされた人たちが集まっているすばらしいところです。しかし、私たちには肉があるために、争ったり仲たがいすることもあるでしょう。それでも、神さまから愛と恵みをいただき、キリストにある成熟を目指していることは疑いようもない事実です。神さまは教会を愛しておられます。なぜなら、キリストの血によって贖いとられた神の教会だからです。ですから、イエス様を愛することは、教会を愛することなのです。なぜなら、かしらなるイエス様とそのからだである教会は切り離すことができないからです。どうぞ、イエス様を愛し、教会も愛しましょう。

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2013年5月19日 (日)

ペンテコステの炎        使徒2:1-8 

 古来、イスラエルには3つの大きな祭りがありました。第一は過ぎ超しの祭りです。小羊の血によって、エジプトから脱出できたことを記念する祭りです。第二は仮庵の祭りです。かつて、イスラエルの民は荒野で40年間過ごしました。藁や草で作った庵に1週間、住んで、先祖たちの苦労を思い起こす祭りです。第三は五旬節の祭りです。大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫が始まります。その祭りは最初の収穫を祝うものでした。五旬節の祭りは、過ぎ超しの祭りから、50日目にあたるので、ここからペンテコステという名称が生まれました。過ぎ超しの祭りの日、イエス・キリストが十字架にかかりました。3日目にキリストは復活しました。その日から、50日目に弟子たちがいたエルサレムに聖霊が下りました。最初の収穫として、3000人が救われました。きょうは、ギリシャ語の前置詞、エピ、エン、パラの3つのポイントでメッセージします。


1.エピ(上から)

 ペンテコステの日、聖霊が「上から」弟子たちに臨まれました。使徒1:8でイエス様がこのように預言しておられました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と書いてあります。「上に」というのはギリシャ語でエピ、英語ではuponであります。これは、天(神のみもと)から、聖霊が弟子たちの上に下ったということです。使徒2:3「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」と書いてあります。弟子たちひとり一人の頭の上に、聖霊の炎がとどまっているのが、肉眼で見えたということです。上から受けた聖霊は何を意味するのでしょうか?それは、聖霊が溢れ出るということを意味します。このことを、ヨハネがこのように書いています。ヨハネ7:38-39「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」まさしく、ペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受け、聖霊に満たされたのであります。弟子たちはこの機を境に、キリストを大胆に証する者に変えられました。かつては、イエス様が捕らえられたとき、弟子たちは恐れて部屋の中に隠れていました。しかし、ペンテコステの日、上から聖霊を受けると、迫害を恐れずに、世界中に宣教に出かけました。今日も、聖霊はイエス様を証する力と勇気を与えてくれます。

 みなさんは、このような聖霊が自分の中から溢れ出るという体験をなさったことがおありでしょうか?ある人たちは、そのためには隠している罪をすべて悔い改めなければならないと言います。また、ある人たちは弟子たちが、二階座敷で祈ったように、聖霊を待ち望まなければならないと言います。また、ある人たちは油注がれた神の器によって、按手を受けなければならないと言います。どれも、間違ってはいません。ただ、言えることは私たちが思っている以上に、神様は私たちを聖霊で満たし、聖霊で溢れさせたいと願っているということです。ルカ11:13「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」マタイによる福音書は「良いもの」としか書かれていません。しかし、ルカによる福音書は「良いものとは、聖霊である。天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と言っています。重要なのは、信仰であり、求めるなら必ず与えられるのです。たとえば、聖霊が上から臨んでから、ペテロはどのように変化したのでしょうか?ペテロは使徒2章でキリストの十字架と復活の意味を人々の前で大胆に語りました。ペテロは明らかに、預言の賜物を用いています。また、使徒3章ではペテロは生まれつき足萎えの男性を立たせました。これは、奇跡あるいは信仰の賜物です。使徒5章では、ペテロは知識の賜物でアナニヤとサッピラの罪をあばきました。それから病人を癒し、汚れた霊を追い出しました。使徒9章では、ドルカスという死んだ婦人を生き返らせました。これらは、すべて聖霊が与えてくださる力であり、賜物です。イエス様はヨハネ14章で弟子たちにこのように言われました。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」アーメン。これはどういう意味でしょう?かつてのイエス様はご自身の神としての力ではなく、聖霊によっていろいろな奇跡を行いました。イエス様は復活後、父のみもとに戻られました。そのあと、弟子たちにイエス様のうちにおられた聖霊を送られたのです。だから、イエス様は「私のわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」と約束されたのです。

 現代の教会は西洋の合理主義の影響を受けて、聖霊の賜物を軽んじる傾向があります。だから、教会が聖霊の力を発揮することができないのです。私たちも初代教会のように、ペンテコステの聖霊の炎を上からいただく必要があります。そうしたら、キリストを証する力、そして神様の働きを行う力が与えられるのです。私はセルチャーチ・ネットワークに属していますが、今年で7期、つまり7年目になります。先月の4月、清瀬教会でコーチングセミナーが開かれました。その時、私は「聖霊の油注ぎ」について語りました。なぜ、そういう主題で語ったかというと訳があります。セルのネットワークでは、この6年間、「教会の本質」について学んできました。ベン・ウォン師が「みなさんが教会の本質をつかむなら、教会は前に進む」と断言しました。しかし、6年間やったけれど、ぱっとしません。「それはなぜだろう?」と今年の1月、みんなで考えました。香港、台湾、インドネシア、シンガポール、ブラジルではセルチャーチがどんどん成長し、増え広がっています。「どこが、日本と違うのだろう?そうだ。あちらは、聖霊の力があるのがあたりまえで、わざわざ本質に加える必要がないんだ。しかし、日本はいくら本質を学んでも、それらを動かす聖霊の力がない」ということに気がつきました。いくら新しいプログラムを導入しても、まもなく、消えてしまいます。セルチャーチもその1つになる可能性があります。そうではない、初代教会がなぜ共同体がすばらしかったか?それはペンテコステの火を受けたからであるということが分かりました。私たちも、ペンテコステの火、聖霊の油注ぎを上から受けたなら変わるはずです。力を受けて、身近なところから、世の果てまで、キリストの証人になることができるのです。今日、教会に最も必要なのは、ペンテコステの火、聖霊の油注ぎであると信じます。


2. エン(内に)

 エンとは内にという意味であり、英語ではinになっています。弟子たちは上から聖霊を受けました。その後、聖霊は彼らの内に留まり続けました。何が変わったのでしょうか?弟子たちの性質が変わりました。聖霊の火によって、内側の肉的なものが焼き尽くされたのです。聖霊の火が、きよめの火と言われるのはこのためです。ペテロは大胆な人でしたが、信仰が安定していませんでした。人の顔を恐れ、イエス様を三度も知らないとまで言ってしまいました。ヨハネとヤコブは内側に怒りの問題を抱えていました。トマスはとても疑い深い人で、イエス様の復活を信じられませんでした。ピリポは信仰よりも、理性で生きているような人でした。弟子たち全員が、イエス様が捕らえられる直前まで、「自分たちの中でだれが一番偉いか」競い合っていました。どの弟子たちの中にも党派心と嫉妬心が宿っていました。よりにもよって、イエス様が、どうしてこのような人たちを選んだのか不思議でたまりません。でも、イエス様は彼らが聖霊を受けたならば、変わることを知っていたのです。初代教会の姿が、使徒の働き2章後半に記されています。使徒2:41-47「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」使徒たちは、イエス様から教えられたことを教えました。しかし、単なる知的な聖書の教えではありません。「互いに愛するとはこういうことなんですよ」と模範を示したのです。かつての弟子たちは、3年半もイエス様から直に薫陶を受けましたが、内側が変わっていませんでした。しかし、聖霊を受けてから愛の人に変えられたのです。それが、3000人の人たちに影響を与えたのです。

 私たちも聖霊を内にいただくと、人格的な変化が訪れます。まず、死んでいた私たちの霊が生まれ変わります。それまでは、霊的に無感覚で、神様のことも知らないで、自己中心で生きてきました。ところが、イエス様を信じると、霊が内側から活動し始めます。神様に祈り、聖書を読み、兄弟姉妹と交わるということが可能になります。聖霊に留まると、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実がみのってきます。なぜ、このような変化が起こるのでしょう?Ⅰコリント6:19 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」これは、神さまが聖霊によって私たちのうちに住まわれるという約束です。これは、旧約聖書の時代になかったことです。神様は最初、エデンの園におられました。しかし、アダムが罪を犯してからエデンの園はもうありません。その次はモーセが作った天幕におられました。至聖所と言われるところに、臨在されました。その後、ソロモンが神殿を作りました。神様は神殿の至聖所に臨在されました。しかし、バビロンによって神殿が壊されました。その後、どうなったのでしょうか?そうです。神の御子であられる、イエス様の内に留まっておられました。しかし、イエス様は十字架で死なれ、三日後によみがえり、天にお帰りになられました。でも、イエス様は「もう一人の助け主を送るよ」と約束されました。もう一人の助け主とは聖霊様です。ペンテコステの日から、神の霊である聖霊が、私たちの中に住んでくださるのです。私たちのからだは自分のものであって、自分のものではありません。自分のからだを汚すということは、内におられる聖霊を汚すことになるからです。私たちのからだが、聖霊の宮なのですから、私たちの体を聖く、保つのが普通ではないでしょうか?

 聖霊は個人の内に住むだけではなく、私たちの中にも住んでくださいます。西洋は個人主義で、「自分の中に聖霊がいればそれで良い」とやってきました。しかし、聖霊は「私たちの中」、共同体の中に住まわれるということです。パウロは私たちの内に聖霊がおられることは奥義であると言いました。コロサイ1:27「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」「あなたがたの中におられるキリスト」とは、聖霊のことであります。しかし、ここで言われているのは、個人の中に聖霊がいらっしゃるということではありません。「あなたがたの中」とは、「AさんとBさんの間に」という意味です。聖霊様は個人の中におられることもさることながら、共同体の中にもおられるということです。イエス様がルカ福音書で「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われたとおりです。ここから、わかることは、信仰生活は一人ではできないということです。聖霊が私という個人の中にいらっしゃることはすばらしいことです。同時に、また聖霊が私たちという共同体の中にいらっしゃるということはさらにすばらしいことです。しかし、一人でいるときがゆっくりできるという人もいます。人々の中に入ると、気の合わない人がいるので軋轢が生じるでしょう。でも、一人で孤立してしまうと淋しいです。神様は一人で生きるように人間を造りませんでした。でも、また人々の中に入ると、楽しい時もあるけれど、傷つくこともあります。どうしたら良いのでしょうか?解決は聖霊です。聖霊なる神が罪と肉の欲求に打ち勝つ力を与えてくれます。私たちはありのままでは、互いに愛し合うことは不可能です。まず自分が聖霊なる神を内側にいただきます。次に、聖霊なる神を、互いの間に歓迎する必要があります。聖霊は、共同体の軋轢を通して、私たちに愛のないことを教え、また愛を求めることを教えてくださいます。つまりは、共同体なくして、人格的な成長もありえないということです。

3.パラ(共に)

 パラとは「共に」とか「側に」という意味です。英語ではwithです。イエス様は、復活後、天に帰られてもう地上ではおられないはずです。しかし、弟子たちに何とおっしゃったでしょうか?マタイによる福音書28章では、「私は世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」と言われました。イエス様が弟子たちとどのように共にいることができるのでしょうか?ヨハネ14:16「 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」このところに、パラ「ともに」という言葉があります。イエス様が弟子たちとともにいる方法は、「助け主」である聖霊によってであります。「もう一人の助け主」はギリシャ語で、アロス・パラクレートスです。アロスは、姿かたちは全く同じで、別のという意味です。パラクレートスはパラカレオー、「側に呼びよせる」という動詞からきています。イエス様は助け主でした。しかし、イエス様と同等の助け主である、聖霊を側に送るということなのです。聖霊が「キリストの御霊」と呼ばれているのはそのためです。地上に遣わされた聖霊は、イエス様とほとんど変わらないお方であったということです。これが三位一体の秘儀であります。かつて、肉体をもっておられたイエス様はガリラヤにいるときには、エルサレムにいることはできませんでした。しかし、御霊によって来られたイエス様は、ガリラヤにもエルサレムにも同時にいることができるということです。なぜなら、御霊なる神は偏在することが可能だからです。ですから、Aさんと共にいることができるし、Bさんとも共にいることができるのです。

 では、聖霊が共におられることは私たちにとってどのような恵みがあるのでしょうか?かつての弟子たちはイエス様と共に歩んでいました。何か問題があると、イエス様に助けを求めました。また、何か分からないことがあると、イエス様にお聞きしました。彼らは常に、イエス様が行くところへどこにでも従って行きました。今は、目には見えませんが、イエス様は聖霊によってこちらにおいでになられて、私たちに教え、私たちを守り、私たちを導いてくださいます。初代教会もこういうことがありました。使徒13章には、アンテオケ教会から二人の使徒が宣教に遣わされた記事が記されています。だれが、二人の使徒を派遣したのでしょうか?教会でしょうか?それとも教団でしょうか?使徒13:2「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。」なんと、聖霊ご自身が教会に「二人の使徒が宣教に行くように」命じました。まさしく、二人は聖霊によって遣わされたのであります。今日の教団や教会が、聖霊のお声に耳を傾けているでしょうか?少しは祈りますが、会議によって「ここしよう、ああしよう」と決めるところがあるかもしれません。聖霊様は今も生きておられ、私たちがへりくだって耳を傾けるなら、はっきりと語ってくださいます。厳密に言うならば、肉声ではなく、心の内側に語ってくださいます。最初はよく、わかりませんが、次第に「ああ、これは聖霊様の声だな」と分かります。あの少年サムエルも、主から名前を呼ばれたとき、一度目と二度目は分かりませんでした。しかし、三度目にお声があったとき、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げました(Ⅰサムエル3:10)。

 聖霊様は様々な呼び方で言われています。聖霊はギリシャ語では、パラクレートスです。これは、「援助者として呼ばれたる者」という意味です。この言葉は本来、法律用語で、「弁護人」「調停者」という意味があります。英語ではcomforter「慰め主」とも呼ばれています。こういうお方が、共におられるということは何と心強いことでしょう。しかし、私はこの説教を準備しているとき、自問自答しました。「私は聖霊の声を聞いて、御声に従っているだろうか?」「私は聖霊の導きを得て、その導きに従っているだろうか?」いろんな心理学的なアプローチについて学んでいるし、それをこの礼拝で分かち合っています。心の問題も大切ですが、もっと重要なことは、聖霊なる神に聞いて従うことではないかと気づかされました。私には「あれをやってもダメだった。これから新たに始めてもダメかな?」という失望観があります。もちろん、積極的な考えで、それらを吹き飛ばし、新しいことにチャレンジすることを心がけています。でも、自分の心が健全になることもさることながら、聖霊様のことをもっと意識することも重要ではないかと思います。聖霊が初代教会で豊かに働いたように、今日も、「こうしなさい。私が共にいるから」と導いてくださると信じます。あやふやな心で、「またダメかな?」と恐れているのは、聖霊様の声をよく聞いていないからだと思います。もし、聖霊様がはっきりと語られたならば、恐れや不安が去り、ただ、従うことしか残されていません。やはり、聖霊からくるビジョン、聖霊からくる確信がいのちです。「自分のこころが、聖霊様に聞き従う」これが、もっとも健全なこころではないかと思います。きょうはペンテコステ礼拝にちなんでエピ、パラ、エンと3つのポイントで学びました。聖霊が上から臨み、聖霊が内に留まり、そして聖霊が共に歩んで下さいます。ある人が、「聖霊を受けるためには罪を悔い改めなければならない。なぜなら、泥が入ったコップの中にきよい水は入れないから」と言いました。普通はコップをきれいにしてからきよい水を入れます。でも、初代教会のように聖霊が圧倒的に上から臨むならどうなるでしょう?私たちは経験上、知っています。勢いよく流れる水道の蛇口の下に泥が入ったコップを置くならどうなるでしょう。勢いよく流れる水が泥を攪拌し、溢れ出る水と一緒に外に出すでしょう。しばらくすると、泥がなくなり、澄んだ水になるのではないでしょうか?それと同じです。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」という約束を信じて、聖霊を溢れるばかりにいただきましょう。聖霊はあなたの上から臨み、あなたの内に留まり、あなたと共に世の終わりまで導いてくださいます。


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2011年1月16日 (日)

執事と長老      使徒6:1-6

 初代教会には執事と長老がいました。現代においても同じ名称で、組織している教会もあれば、そうでない教会もあります。長老派の教会はわりとがっちりしていますが、バプテスト教会などは民主主義的です。カリスマ的な教会は、牧師のリーダーシップが強くて、ワンマンになる傾向があります。これは教団の歴史がありますので、一概に、これが良いとは言えません。当教会はこれからどうするのでしょうか?10年くらい前に、『健康な教会へのかぎ』という本がベストセラーになりました。その本の英語の題名は、The purpose driven church.です。教会を何が動かすのかということです。伝統が動かす教会、役員が動かす教会、牧師が動かす教会、プログラムや行事が動かす教会があります。しかし、この本は「教会の目的こそが教会を動かすべきである」という主題で書いています。ある教会は、組織が手かせ足かせになっている場合があります。それで教会の存在目的を果たすことができないのです。

1.最初の執事

 まず、使徒の働き6章から最初の執事について学びたいと思います。執事がどうして任命されたのでしょうか?それは、やもめたちの毎日の配給で問題が生じたからです。あるグループはいっぱいもらって、あるグループはなおざりにされていたようです。不平等が生じたので、7人の執事が任命されました。その条件が、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たちでした。」おそらく、彼らが教会の実務的なことをしたのだと思います。ここで、ペテロの発言に注目したいと思います。使徒62,4そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。…そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この箇所から、教会ではこのようなことがよく言われます。「牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきである。」お聞きになられたことはないでしょうか?つまり、牧師がいつも霊的なことができるように、信徒が雑用を一手に引き受けるべきであり、「牧師に掃除させたり、送り迎えをさせるなんてとんでもない」ということです。私は掃除もしますし、送り迎えもしますけど、牧師としての権威がないのでしょうか?牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきなのでしょうか?そのとき、7人の執事が選ばれました。彼らはおそらく、毎日の配給が平等になるように奉仕したと思います。でも、そういう雑用だけではありません。使徒7章を見てみると、執事の一人ステパノは議会で、使徒顔負けの大説教をしています。イスラエルの歴史をパノラマ的に語った後、ユダヤ人の罪を糾弾しました。そのため、ステパノは教会の、最初の殉教者になりました。もう一人の執事ピリポはどうでしょうか?使徒の働き8章を見てみると、彼はサマリヤに出かけ福音を宣べ伝えました。病を癒し、悪霊を追い出しました。「それでその町に大きな喜びが起こった」(使徒88と書いてあります。使徒たちがエルサレムに留まっている間、サマリヤの町に下って行って、リバイバルをもたらしました。

 ということは、「ペテロが行ったことは本当に神のことばなのか、つまり霊感された神のことばなのか」ということが問題になります。もし、ペテロが言ったことばが神からのことばなのであれば、ステパノもピリポも余計なことをしたことになります。何と言いましょうか?まことに僭越なこと、身分を越えた振る舞いということになるでしょう。しかし、そうではありません。使徒の働き9章を見ますと後のパウロであるサウロが救われます。そして、名もない信徒たちによって、アンテオケ教会ができます。アンテオケ教会から世界宣教がなされていくのです。イエス様の12使徒はほとんど記されていません。ペテロは「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」と言いました。悪いことではありません。使徒だから、そうするべきです。しかし、「信徒や執事が祈りやみことばの奉仕に携わるべきではない」ということではありません。ステパノやピリポは大胆にしていました。つまり、今日的に言いますと、祈りやみことばは牧師の占有物ではないということです。そして、祈りやみことばのレベルが上で、毎日の配給は雑用ということではありません。大体、雑用という表現自体が間違っています。主の働きに雑用というものはありません。また、ある牧師たちは「牧師はプロ意識を持たなければならない」と言います。では、牧師はプロであり、信徒はアマなのでしょうか?「信徒の奉仕はアマなんだから仕方がない」みたいになります。私は主の奉仕をするのに、プロもアマもないと思います。みんながキリストのからだに属して、それぞれの働きをしているのです。それを玄人とか素人というのは失礼です。

 執事を英語でディーコンといいますが、ギリシャ語のデァコネオゥ、「奉仕する」から来ています。ですから、奉仕は身分ではなく、賜物と関係しています。キリストのからだなる教会においては、教える賜物もありますが、管理する賜物も備えられています。身分の違いではなく、それは機能の違いです。ローマ12章には奉仕の賜物や指導の賜物が記されています。また、Ⅰコリント12章には助ける賜物、治める賜物が記されています。Ⅰペテロ310「それぞれが賜物を受けているのですから、神さまのさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」とあります。ですから、そういう賜物を持った人に、執事とか長老の役職が与えられるのであります。人間のからだを見ると、脳以外にからだを管理している器官がいくつかあります。たとえば、肝臓は3つの働きをしています。食べた物をエネルギーに変える働き、体に取り入れた物の解毒作用、いらないものを排泄する胆汁の生成。肝臓は体内の化学工場と呼ばれるそうです。脊椎はどうでしょうか?脊椎も3つの働きをしています。脊髄などの大切な神経を保護する、上半身を支え下半身を動かす、肋骨との組み合わせで内臓を保護する。脊椎がないとナマコみたいになります。私たちは頭脳とか心臓だけを注目しますが、肝臓や脊椎もものすごく大事です。使徒の働きにおける、ステパノやピリポは12弟子を越えていたところがあります。ステパノやピリポこそが、本当の執事ではないでしょうか?日常的なこともしましたが、霊的な働きもしたということです。

2.最初の長老

 新約聖書に「教会における長老」というのはどういう存在なのか、そんなに詳しくは書いていません。ほとんどの場合、使徒たちの代わりに、預言や伝道、牧会や教えをしていたものと思われます。使徒パウロが教会ごとに長老たちを選んで、主の働きをゆだねています。今でいう、牧師の役割をしていた長老もいました。いわゆる教会の指導者であります。宗教改革者ジョン・カルバンは、教会を組織した優れた神学者です。彼の考えをもとに長老主義、長老派というものが生まれました。今で言うなら、代議員制であります。現代では小会、中会、大会と区分されています。大会は全国レベルの会議であります。いわゆる、教団総会みたいなものです。残念ながら、長老教会の特徴は何でも会議で決めるところがあります。ある場合は、牧師対長老という不毛の戦いが繰り広げられるときもあります。ですから、毎月一度、開かれる役員会、あるいは年に一度開かれる教会総会が牧師にとっては頭痛の種です。あるときは牧師が槍玉にあげられるときがあります。私も個人的ではありますが、長老制度が果たして聖書的だろうかと疑問に思っています。イエス様を十字架につけたのは、律法学者や長老たちでした。それはともかく、初代教会のころは、組織的にかなりゆるやかではなかったかと思います。彼らは祈りつつ、聖霊の導きを絶えず仰いだからです。いざ、会議モードに入りますと、左脳ばかり使う議論になってしまいます。政治とか会社は、それで良いかもしれませんが、キリストのからだなる教会ではそうであってはなりません。大体、役員に選ばれる人というのは、信仰よりも、この世で地位のある人たちです。彼らは会社を経営するように、教会を運営したくなります。「教会は組織的になっておらん!」と言う訳です。

 当教会は役員とか責任役員というふうに呼んでいます。宗教法人法には何名か責任役員がいなければなりません。私は責任役員がいることは悪いことだと思っていません。代表役員である牧師の責任を一緒に担うという役目があるからです。牧師が逸脱した行為をしたり、牧師が何らかの理由で職務を果たせない場合は、責任役員が必要でしょう。しかし、多くの場合は、役員会というのはボード、評議会のようなものです。牧師とビジョンを共有し、伝道牧会におこる問題を一緒に協議する必要もあります。私は当教会に赴任して、23年になります。私を座間キリスト教会から招聘してくれた人たちが当時の役員会です。山崎長老さんと、戸叶長老さんもその中におられました。長老制度の長老ではなく、当初の頃から教会を支えてこられたので「長老さん」と愛称で呼んでいました。その頃、教団に無認所の牧師が6人いました。なのに、「他の血を入れたいので、大川牧師の弟子を」ということで単立の教会からスカウトしたのです。すばらしい信仰ではないでしょうか?赴任して5年目くらいでしょうか?役員さんの世代交代がありました。そのとき役員会で、いろんな提案やアイディアを出す人がいました。「教会はこういうことをしたら良い。ああいうことをしたら良い」と言うのです。最初の頃は、「そうですね」とできるだけ答えてがんばりました。しかし、教会が小さいこともあって、多くのことはできないということが分かりました。あるセミナーで「差別化」ということを教えられました。つまり、デパートのような総花式ではなく、「これだけを売る」という専門店を目指しました。私は「福音を分かり易く語る」ということをモットーにしました。それでも、あれやこれやと言われました。そのとき、牧師として役員さん方に提示したことがあります。「役員会で、提案やアイディアを出すだけというのはお断わりします。アイディアを出した人が率先してやるならばいくら出しても結構です」と。それ以来、理想論は減って、実行可能なことが話し合われるようになりました。

 教団教派によってはいろんな組織があります。日本基督教団のように、長老会で教会を運営している教会もあります。牧師も長老の一人です。また、聖公会やメソジスト系は監督制で、教団や牧師に力があります。バプテスト教会や組合教会は、民主主義的で牧師も信徒の一人です。単立の教会は、牧師がカリスマ的でリーダーシップが強いかもしれません。このように、牧師の権限が大中小と分かれており、そこには長所も短所もあります。しかし、私は教会運営においても、セルチャーチの概念を取り入れています。セルチャーチとは何かと言うと、牧師も役員も信徒もみんなかしらなるキリストにつながっているということです。牧師だけではなく、それぞれがキリストに聞くことができるということです。その次に問われるのは霊的な賜物です。指導の賜物や管理の賜物、あるいは使徒的な賜物があります。牧師でリーダーシップの強い人もいれば、強くない人だっています。牧師が教師的なタイプである場合は、牧会や教会運営は他の人がやっても良いのです。ですから、賜物に応じて、生きた組織を作っていけば良いのです。教会はこの世の組織とは違います。この世の組織はトップダウン的です。何かを決める偉い人と実際に行う下の人たちがいます。教会はキリストのからだです。生物的、有機的な存在です。働きも賜物も違う者どうしが、かしらなるキリストにつながっています。みんなが、かしらなるキリストに聞いて、それを行う。そういうからだをイメージした教会を目指したいと思います。

3.牧師と役員会

 最後にまとめをしたいと思います。こういうことを礼拝説教で語っても果たして恵まれるだろうかという疑問があります。いわば教会の裏話みたいなものです。信仰のDNAシリーズの最後の段階ですのでお聞きください。牧師と役員とはどのような関係であるべきなのでしょうか?ある教会では、役員会を労働組合のように思っています。経営者側と労働者側と分けるように、教会側と信徒側みたいに考えます。「役員会というのは信徒の意見を吸い上げて、それを牧師にぶつけるんだ」と考えています。でも、役員会は団体交渉のためにあるのではありません。役員会は牧師のビジョンをになうリーダー的な人たちで構成されています。聖書全体を見てわかりますが、神さまは特定の人にビジョンを与えます。牧師にビジョンがない場合は、他のリーダーに与えます。ブラックゴスペルは11年前に、3人の兄姉が言い出しました。「私は日本人には無理なんじゃないかな?でも、セルによってみなさんが自主的にやるんだったら良いよ」と言いました。私にはブラックゴスペルのビジョンが来ませんでした。でも、牧師も役員会もそのビジョンが実現するように助けるようにしました。しかし、教会によっては牧師や役員会が信徒のビジョンを受け入れないばかりか、潰すところもあります。エリヤハウスという内面の癒しをするグループがあります。やっぱり、牧師の承認にかかっています。牧師がノーと言えば、教会にエリヤハウスを導入できません。でも、牧師だけが「セルチャーチを目指す。二つの翼をやる」と言ってもなかなか実現しません。では、教会をだれが動かすのでしょうか?牧師でしょうか?役員でしょうか?伝統でしょうか?それともプログラムでしょうか?私は神さまから与えたビジョンが教会を動かすと信じます。かしらなるキリストから与えられたビジョンによってみんなが動く、これが大事だと思います。箴言に幻(ビジョン)のない民は滅びると書いてあります。神からのビジョンがあるのか、ないのか、これが生命線だと思います。それを牧師と役員とみなさんが一緒に担う有機的な組織が教会です。

 多くの場合、牧師が「こうしよう、ああしよう」と言います。会堂建築、教会の開拓、あるいはこういう伝道プログラムをしようと言います。牧師はあっちのセミナー、こっちのセミナーにでかけ、「ああ、これだ!これしかない!」と言います。しかし、役員や信徒は「ああ、また先生はじまった。何回失敗すれば良いんだ。前も、これしかないとか言って、ダメだったじゃないか」と結構、冷めています。牧師だって馬鹿じゃありません。心の奥底に「前も失敗したので、今度はどうかな?」という迷いがあります。それを押し切って、「ああ、これだ!これしかない!」と言うのです。では、役員の人たちはどうすれば良いのでしょうか?みなさん、車にはブレーキがあります。スピードの出る車には、ちゃんとしたブレーキがなければ危ないです。スピードが出たけど、ブレーキがきかない。危なくて仕方がありません。ある意味では、役員の人たちは車のブレーキです。牧師は「ビジョンだ、信仰だ!お金は神さまが与える」と言います。しかし、役員は常識で物ごとを考えます。「とは言うけど、予算がない。どこからそのお金が出てくるのだろうか?」。牧師は「祈れば、神さまが与えてくださる!」と言うでしょう。両方正しいのです。牧師は役員の反対があれば、もっと神さまの導きを求めるので、より実行可能なビジョンになるのです。牧師がカリスマ的で超ワンマンな教会もあります。カルトとは言いませんが、役員さんはみなイエスマンです。牧師に反対できません。牧師がわき道にそれたり、罪を犯すときもあります。それを抑制できない、止めることもできない。問題が大きくなって、教会が分裂したり、信徒が散らされる場合もあります。一度、壊れた教会を修復するのは大変です。誰が、その後を継ぐのでしょうか?牧師のビジョンと役員の常識、牧師のリーダーシップと役員の抑制力、そういうバランスが必要だということです。でも、どうか役員がビジョンの火ばかり消すことにエネルギーを使わないようにしてください。一緒に、神さまのビジョンを担う者となりましょう。

 また、教会によっては牧師を雇い人のように考えている教会もあります。どこの教会とは言いませんが、幼稚園のお庭に教会の建物があります。幼稚園はとても立派で、園長さんはみんなから慕われています。でも、幼稚園のお庭に教会が間借りしている状態です。子どもたちが、教会の牧師を「おじさん」と呼んでいるそうです。それは良くないですね。幼稚園の経営も大切ですが、霊的な指導者として牧師を立てるべきであります。それは極端ですが、教会が牧師を招いた場合、牧師はサラリーをいただく立場になります。つまり、教会はその牧師をいくら、いくらで雇っているかたちになります。そうすると、役員会は牧師にいろんな要求をするし、牧師は言うことを聞かなければならないと思うでしょう。「俺たちが給料を払っているんだから、新しい人よりも、今いる人たちを世話しなさい」と言います。しかし、これは間違いです。牧師は確かにその教会から招聘されました。でも、神さまがその教会にその牧師を送ったのです。ですから、牧師のボスは役員会ではなく、イエス・キリストです。イエス様が大牧者で、その牧師は中牧者です。イエス様が、その牧師を教会の霊的指導者として派遣したのです。そういう信仰を教会の役員さんや信徒が持たなければなりません。ある教会の牧師から「雇われ牧師からオーナー牧師になれ」と教えられたことあります。オーナー牧師とは、牧師が教会を仕切るというニュアンスがあります。確かに、長い間、忠実に勤めることにより、教会員からの信頼を勝ち得る必要はあると思います。しかし、自分の思うとおりに教会を動かすというのは、行きすぎです。韓国の教会は牧師の地位がものすごく高いです。しかし、日本の教会はものすごく低いです。牧師給も低いので成り手がいません。一人の魂を救いに導いたら、いくら位の値打ちがあるのでしょうか?永遠の滅びから、永遠の御国ですよ?1億円でも足りないのではないでしょうか?Ⅰテモテ517,18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。…「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。今のは、フルタイムで仕えている牧師へのことばです。では、執事や長老、役員さんはどうなんでしょうか?好きでもないのに、役員に選ばれて、責任ばかり押し付けられるのでしょうか?いわゆる、貧乏くじをひかされるようなものなのでしょうか?そうではありません。Ⅰテモテ313「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」「良い地歩」とは、財産,権利などを取得する、手に入れるという意味です。ハレルヤ、神さまの報いが、この地上でも豊かにあるということです。韓国は現在とても豊かな国になりました。どうしてでしょうか?最初に教会が祝福されたからです。教会の長老さんや執事が行なっているビジネスが祝福されたからです。日本の教会も、教会が豊かに祝され、リーダーや役員さんが祝されますようにお祈りしましょう。

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2010年8月 1日 (日)

最初のトレーニング 使徒2:40-47 (第一礼拝:鈴木牧師)

※第二礼拝は石井豊師を迎えての特別礼拝になります。

 イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(マタイ
937,38と言われました。ですから、私たちは収穫のために、働き手を養成すべきであります。初代教会は私たちの教会の模範であります。私たちは初代教会のように成長したいのですが、そこにはいくつかの秘訣があります。使徒240-47の間にandが16回、thenが2回用いられています。日本語の聖書は「そして」「そこで」というふうに訳されています。初代教会には現代の教会にないものがありました。何でしょう?それはすべてが同時進行であったということです。エディ・レオ先生は4つのimmediate「即座」があると教えておられます。4つのimmediate「即座」こそが、初代教会が持っていた力強いトレーニングのシステムであります。

1.即座のフォローアップです。immediate follow up

彼らは、洗礼を受けた後どうしたでしょうか?使徒2:42 「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。同じ日かどうか分かりませんが、彼らは非常に早く、フォローアップしたということです。エディ・レオ師のアバラブ教会では、新来者が来たら、だれかが48時間以内にコンタクトを取るそうです。一番良いのが訪問ですが、少なくとも必ず電話はするそうです。私はインドネシアに行ったとき、このことでびっくりしました。午前の礼拝で初めて来られた方を、その夜、訪問するのです。確か、あの時は夜の8時頃でした。日本ではありえないかもしれませんが、向こうでは歓迎してくれてお話を聞いてくれます。話し出したら、隣りの住民もやって来て、6,7人になりました。最初、セルリーダーの人はその家のご婦人と1メートル50センチくらいの距離で話していました。だんだん福音の確信にせまると、50センチくらいになりました。いただいたコップを手にして、「キリストを受け入れるとはこういうことです」と水を飲んで見せました。日本と文化の違いはありますが、インドネシアでは、訪ねられることがとても嬉しいのです。そして、セルリーダーが「何か、お祈りすることはありますか?」と聞きます。すると「私のおばさんが病気なのです。祈ってもらえませんか?」と言います。それで、みんなが、おばさんのために祈ります。すると彼らはとっても喜んでくれます。そして、奇跡が起こります。日本では最初は、家の中ではなく、玄関か縁側くらいかもしれません。それでも良いのです。生命保険の業務の人は、玄関か縁側で座り込んで、「これ良いですよ、あれ良いですよ」と勧誘しています。

 日本では教会に行くということ自体、勇気のいることです。一人ではとても入れません。私の場合は、1979年2月に、職場の先輩が一緒に誘ってくれました。立ったり、座ったりします。聖書と言われても、どこを開いて良いのか分かりません。聖歌も初めてです。牧師らしき人が一人でガンガン話すので、それも驚きました。献金ってどれくらいしたら良いんだろう? 1000円を入れたときには、大金でも失ったような気がしました。礼拝が終って、食事を誘われましたが、とても恥ずかしくて寄られませんでした。次の日、会社で先輩に「あれはどういう意味なのか?これはどうなのか?」と質問します。水曜日の祈祷会にも行きましたが、みんなニコニコしていました。証のときになり、「与えられました」「導かれました」「示されました」など、全部、受動態です。「ありゃ、この人たちは自分の考えがないんじゃないの?ちょっと変じゃないの?」と反感を持ちました。するとまた、次の日、会社で先輩と、「ああじゃない、こうじゃない」と話し合います。1979年3月、あることで躓いて1ヶ月休みました。その間、先輩は礼拝のテープを貸してくれました。また行き出して4月のイースターにイエス様を信じました。先輩がその日の午後12時半から9時半まで伝道して、根負けして、「それじゃ、信じるよ」と言ったのです。5月の連休、大川牧師が洗礼準備会をしてくれました。でも、なんだかうまくやられたような気がして、洗礼を断念しようと思いました。でも、翌週、放蕩息子のメッセージで悔い改めました。そして、6月10日に洗礼を受けました。しかし、その午後、月定と会堂の二つの献金袋を見て躓きました。次の日、先輩から献金の意味を聞いて考え直しました。受洗後、1ヶ月後に彼女と親友を失い、ものすごい試練がやってきました。夜になると「今から包丁をもって二人を殺しに行こうか」と思いました。先輩は「復讐は神さまのやることです。神さまに任せなさい」と諭してくれました。3ヶ月くらい礼拝でずっと泣いていました。12月「イエス様の弟子になりたいです」とお祈りしました。12月末、クリスチャンとして倫理的にやっていけないので、先輩と一緒に会社をやめました。翌年3月は神学校の基礎科に入りました。躓きの連続だったのに、どうして献身まで行けたのでしょうか?それは職場の先輩が私をフォローアップしてくれたからです。フォローアップといのは、「倒れないように支える」「倒れたら引き上げる」という意味でしょう。イエス様を信じたての頃は霊的にとても不安定なので、どうしてもフォローアップが必要なのです。

2.即座の弟子訓練、immediate discipleship

彼らは使徒たちの教えを新しい人たちに教えました。使徒たちの教えとは何でしょう?使徒たちの教えとは、イエス様の教えです。なぜなら、使徒たちとはイエス様が教えたことを書きとめた、いわばイエス様の証言者たちです。それでは、イエス様の教えとは何でしょうか?イエス様の教えの中心は神の御国の教えでした。その教えの中心は、マタイ5章から7章の「山上の説教」です。イエス様は、最後に「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ724と言われました。ですから、新しいクリスチャンがこの上に人生の土台を建てないなら、困難が来たときに倒れてしまうでしょう。ですから、できるだけ早く、彼らを訓練しなければなりません。アバラブ教会では、山上の説教をベースにした、テキストを作っています。洗礼を受ける前は5回の短いクラスがあります。これは途中から入っても構いません。回転寿司のようになっているので受け損なったクラスを学べるようになっています。それから彼らは23日で解放のキャンプに出かけます。そこで、癒しを解放を受け、最後の日に水のバプテスマも受けます。私が行ったときには80人くらいの人がプールで洗礼を受けました。それで帰ってくるとその次の日曜日は証し会です。洗礼を受けた人が家族や友人を連れてきて、そこでキャンプの証をします。ものすごくパワフルです。そこで、またイエス様を信じる人も起されます。そのあと、5回のクラスがあります。ここでの特徴は、最初からキリストの弟子になるということです。日本の教会の場合は、信じたあと、キリストの弟子になるかどうか決めます。キリストの弟子になることが、まるでオプション(選択)になっています。しかし、そうじゃありません。信じたら、即、キリストの弟子になるのです。だから、成長が早いのです。

私も最初の頃、愛知県の蒲郡で行われた解放のキャンプに信じたばかりの人たちを送りました。良いところもありましたし、悪いところもありました。そこでは、アバラブとは違って、「共依存からの解放」ということが、強調されました。「あなたはありのままで良い。自分の感情を正直に出して、イヤのものはイヤと言って良いんだ」みたいに教わります。すると、怪物のように変身してキャンプから帰ってくる人もいます。ある程度、社会にもまれて苦労した人は、バランスがとれて良いくらいなんですが、若い人はわがままになって帰ってきます。そこいら辺が、失敗の原因でした。ですから、外国のものを日本に入れるとき、そのままではなく、文脈化しなければなりません。また、一回のキャンプで全く解放されるということは、まず、ありえません。応急処置みたいなものです。必要最低限、神の国で暮らすためのトレーングみたいなものです。アバラブ教会では、キャンプが終ったあと、5回のクラスがあり、神さまの前に従順になるとはどういうことなのか十分に学びます。私も弟子訓練に関しては、試行錯誤してやってきました。日本では、一度、失敗すると全部ダメみたいなところがありますが、そうではありません。私たちは、成功からは何も学ぶことができません。私たちは失敗から学ぶことができるのです。「鉄は熱いうちに打て」ということわざがあります。イエス様を信じたての熱いとき、「神の国ではどのように生きるのか!」ということを教えてもらう必要があります。弟子訓練ということばがイヤならば、マタイ5章から7章までを何回も読んで、自分の生活に適用することであります。初代教会の人たちは、救われて即座に、使徒たちの教えを守ったのです。これが重要です。

3.即座のセル、immediate joining the sell

 即座のセルとはどういう意味でしょう?教会の交わりに入るということです。本当はセルグループと言いたいところですが、中には「加わりたくない」という人もいますので困難を覚えている次第です。当亀有教会は従来の教会からセルチャーチに移行しましたので、それ以前の人たちは、従来の教会の体質を持っています。従来の教会の交わりとはどういうものでしょうか?それはあたりさわりのない交わりで、入るのも自由、出るのも自由という、あまり拘束されないものです。従来の教会には青年会、壮年会、婦人会、学生会というふうに分かれています。私も前の教会でははじめ、青年会に属しました。青年会自体は4,50人いるのですが、参加する人たちは、20人くらいでした。話す内容というのは、本当に表面的な話題でした。私は神学校の基礎科を出たばかりなので、霊的に燃えていました。しかし、当時の青年会や学生会は遊ぶことしか考えていませんでした。「なんて生ぬるくて、世的なんだろう」と思いました。私はすぐ、「鈴木教室」という勉強会を開きました。そこから献身者も何人か出ました。それから、私は30年も同じことをしています。でも、セルというのは勉強会ではありません。互いに信仰を分かち合う、グループであります。日本の場合は、本心を打ち明けるほど親しい交わりを持つのが教会でも困難です。「これは、なんとかしなければ」と試行錯誤しながらやってきました。今も、「これだ、これしかない」と言えない弱さがあります。セルなんか作らないで、従来のような交わりで良いのかもしれないという誘惑もあります。

でも、初代教会には3000人の人たちを受け入れる家の教会がありました。生きた小さな交わりがあったのです。だから、新しく信じた人たちは使徒たちの教えを守りつつ、交わりの中で成長することができたのです。新しく信じた人たちは、赤ん坊のような人たちです。赤ん坊に一番必要なものは何でしょうか?お母さんとお父さん、家族です。赤ん坊を会社に送ったなら死んでしまうでしょう。赤ん坊を軍隊に送って、トレーニングさせたら死んでしまいます。その人が肉体的に40歳であっても、信じたばかりであるなら霊的な赤ん坊です。ですから、彼らが神の家族の中に入れられる必要があります。赤ん坊は、ただちに家族を必要としています。これは、教会にとって非常に大事なことであります。これまでの学びで、教会が神の家族であり、霊的な父や母がいるということをお話ししてきました。もし、これを実行しないならば、霊的な赤ん坊は死んでしまいます。日本ではせっかく洗礼を受けても、教会に残るのが半分以下だと言われています。信じたばかりの人というのは、圧倒的に未信者の友人や知り合いが多いんです。彼らに信仰上の悩みを打ち明けたらどうでしょう?「そんなの信じるのやめなさい。馬鹿馬鹿しい」と言われるのがおちでしょう。でも、反対に教会の交わりで信仰に満たされたなら、未信者の友人を連れてくるのです。どんな名前でも良いですから、3人から5人くらいのグループを作ってください。そして、一週間あったことを分かち合って祈る。互いに励まし合うグループを持ちましょう。とにかく、霊的な父や母である人は、新しく信じた人をケアーする。そういう働きに積極的に参加してくださいますよう心よりお願いいたします。

4.即座の伝道、immediate evangelism 

使徒2:47「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」どうして神さまは毎日のように、人々を教会に送ったのでしょうか?おそらく、彼らは毎日、自分の友達を連れて来たからだと思います。皆さん、だれが新しい人を連れてくるのでしょうか?新しく信じた人たちです。あるデーターによりますと、クリスチャンになって最初の2年間は、最も効果的な伝道ができる期間だということです。なぜなら、未信者の友人がたくさんいるからです。新しく信じたばかりの人は、救われた喜びがあります。自分の中に起きた変化をストレートに証できます。しかし、教会は「あなたはきよめられていない」とか「人々に弁明するために聖書を勉強しなければならない」と言います。そして、2年ぐらいたってから、「さあ、伝道してください」と言われます。伝道の賜物のある人は、クリスチャンの2割ぐらいであろうと言われています。多くのクリスチャンは新しい人に伝道することが困難です。さらに、教会生活を10年、20年、続けていますとほとんどの友人はクリスチャンです。未信者に証をしたくても、向こうもこっちも新鮮味がありません。伝えても、あんまりインパクトがないのです。しかし、新しく信じたばかりの人は、伝道はできなくても証ができます。だから、教会は新しく信じた人たちに、福音を語って友だちを連れてくるように励ます必要があります。クリスチャンとして、多少の欠けがあっても良いのです。彼らには「自分は救われた」という喜びと熱心さがあります。それを証するように指導するのです。

聖書にサマリヤの女性が出てきます。彼女は人々から嫌われていました。なぜなら、5人の男性と結婚してもうまくいかず、今、6人目の男性と同棲しているような女性だからです。しかし、彼女は、自分のことを言い当てたばかりか、命の水を与えるメシアに出会ったのです。彼女は水がめをそこに置いて、サマリヤの町へ行きました。人々に「来て見てください。私のしたこと全部を言い当てた人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか?」と伝えました。するとどうなったでしょう。その町のサマリヤ人のうち多くの者が、その女性の証言によってイエス様を信じたと書いてあります。彼女は非常に単純に、イエス様が自分にしたことを伝えたに過ぎません。それで良いのです。牧師になると、こういうところで説教はできます。しかし、未信者の友人がほとんどいないので、証をすることがほとんどできません。もちろん、未信者の友人を作るように努力しなければなりません。でも、一番すばらしいのは、信じたばかりの人が、今、関係を持っている家族や友人に自分のことを証することです。イヤなことを言われたり、いろんな迫害も起こるかもしれません。そのとき、励まして、また送り出すのです。そうすると、必ず、何人か導かれます。ある人が言いました。樹木で伸びる所はどこか?一番、先端の部分です。若葉が出てくるところです。幹の部分はベテランの信仰者とか、役員さんたちです。弱々しい、先端の部分が延びるんです。新しく信じたばかりの人が伝道の要になるのです。私たちがその人たちを支えていくのです。

 救いの証は、3つのポイントで伝えると効果的です。救われる前はどうであったか?「こういうわけでひどかった」とか暗い部分を伝えます。でも、あんまり露骨に言ってはいけません。人を殴ったら「血がどばっと出た」とか、罪の生活を生々しく語っても逆効果です。「あなたみたいにヒドイ人だからイエス様が必要でしょう。私はそれほど悪くないので結構です」と言われます。ま、とにかく救われる前の状態です。第二はイエス様を信じるきっかけ、経緯であります。「どんなとき、だれを通して、イエス様と出会ったか」であります。ゴスペルに行ったとか、友人に誘われたとか、本を読んだとか何かあるはずです。ギデオンの聖書で教会に行く人もいれば、ラジオの放送で聖書と出会う人もいます。でも、一番、多いのは友人や家族から誘われることかもしれせん。そのときは、きっと「うざいなー」「しつこいなー」と思ったかもしれません。でも、どこかで「信じる」と決断したはずです。第三は信じたらどうなったかです。使用前、使用後のように、どこか必ず変化があるはずです。暗かったら明るくなった、迷っていたら真理を発見したとか、その人によって違います。でも、信じた喜びが必ずあるはずです。それを自分のことばで表現するのです。多少、ぎこちなくても構いません。上手すぎるとかえって疑われます。一番、大切なのは自分が信じてどうなったかです。説教する必要はありません。自分の証として、伝えれば良いのです。

 本日のまとめをします。信じたばかりの人に必要なものは4つあります。

1.即座のフォローアップです。immediate follow up

2.即座の弟子訓練、immediate discipleship

3.即座のセル、immediate joining the sell

4.即座の伝道、immediate evangelism

 「三つ子の魂、100までも」ということわざがあります。霊的に新しく生まれて、クリスチャンになったときもこれと同じです。このとき、「クリスチャンとはこういうものなんだ!」と教え込まれると、これから先、ずっとそのように生きるということです。ハレルヤ!

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2010年6月27日 (日)

セル集会の持ち方    使徒2:43-47、コロサイ3:16

 きょうは「セル」という言葉を使います。別にセルと言わなくても良いんです。セルとは方策のように思われていますが、そうではありません。セルとはキリストのからだの細胞という意味から来ています。日本の教会ではセルという言葉をあえて使わない教会もあります。ですから、小グループと呼んでもさしつかえありません。でも、私が当教会で15年間、セル、セルと言ってきたので、「セル集会」と呼ばせていただきます。でも、セルといわなくも、全く、構いません。重要なのは新約聖書が言っている教会を目指せば良いのです。新約聖書の教会には、キリストを中心とした麗しい共同体、コミュニティがありました。この共同体とセル集会とが深いつながりがあります。

1.セル集会とは

 ペンテコステの日、3000人の人たちがいっぺんで救われました。彼らはどのような集まりを持ったのでしょうか?使徒の働き2章後半に、初代教会の様子が記されています。まず、彼らは神殿に集まって礼拝をしていました。今で言う、聖日礼拝であります。もう1つ彼らは家々で集会を持っていたとあります。おそらく、10名前後の人たちが平日、集まっていたと思われます。その小さな集まりを「セル集会」と呼んでいます。もちろん、スモールグループとか、ファミリーと呼んでもぜんぜん構いません。では、従来の「家庭集会」とどこが違うのでしょうか?多くの場合、家庭集会は牧師や伝道師が、ある信徒の家庭におじゃまします。そこに近くのクリスチャンが集まります。だいたい、そこでは牧師がメッセージして、お祈りし、お茶を飲んで終わりというプログラムです。そこでの会話の方向は、牧師からメンバーへと一方向です。しかし、セル集会の場合は、牧師がそこに行きません。そこに集まるクリスチャンの主導で行なわれます。だれか一人が教えるというよりも、みんなでみことばを分かち合うということがなされます。会話の方向は、あっちから、こっちから、こっちから、あっちからと入り乱れています。リーダー的な人はいますが、集会をコントロールするというよりも、交通整理的な役割が求められます。だれかが一人で話題を独り占めしているときは、「ちょっと控えて、他の人の話も聞きましょう」と言います。リーダーの主な役割は、集会を仕切るのではなく、人々の心が開かれ、気軽に話せるような雰囲気を作るということです。特に、黙りこんでいる人の口を開かせる。そのためにはリーダー自身の恥や失敗を喜んで、分かち合う必要があります。

 セル集会には最低限度のきまりが必要です。第一はフラットな関係です。フラットとは平らという意味であり、上下関係がないということです。だれか強い人が、「私の言うことを聞きなさい」とコントロールしてはいけません。セル集会には父親的な人はいても、ボスはいないということです。私はJCMN関東セルチャーチのコーディネーター(世話役)をしています。年に3回か4回、牧師やリーダーのためにセミナーを開きます。そこに出席した牧師たちがまずびっくりします。あまりにもフラットで解放的な雰囲気でふらっとするみたいです。普通、キリスト教の集会では、大教会の牧師は上座に座ります。小さい教会の牧師は、どうしても卑屈になります。しかし、セルチャーチでは、偉い人がいないんです。それと同じように、セル集会でもそのようなフラットな関係が必要です。第二は秘密を守るということです。そこで話された内容を他のところで話さないということです。もし、そうしないならば、表面的な話しかできません。そこが安全であるならば、どんな深い内容でも、分かち合うことができます。秘密を守るとは、ここは安全な場所であるというしるしです。第三は人の噂話はしないということです。特に、そこに参加していない人の話題は避けるということです。この世ではゴシップというのはおいしいご馳走のようにみなされています。ご近所でも、会社でも、PTAでも、そういうゴシップに花を咲かせます。私がある教団の牧師に「セルはどうですか?」と聞きました。すると、「セルはだめだよ。牧師の悪口を言う場になるから」とつっぱねられました。それは、牧師が信徒を信頼していないからかもしれません。でも、そういう危険性はあるということです。第四は、セル集会は教えるということよりも、「私がこのように教えられました」と分かち合い形式で言うということです。「あなたはこうした方が良いですよ」「あなたはここが間違っています」と言うと、雰囲気が悪くなります。それよりも、「私がこうしたら、こうなりましたよ」と私メッセージで伝えれば良いのです。

2.セル集会の目的 

 昔の教会は、「礼拝が終ったなら、さっさと帰るように」と言われました。それは、語られたメッセージをじっくり噛締めるためです。人と話すと心が乱れて、恵みが消えてしまうので、そのまま帰るのかもしれません。でも、どうでしょうか?教会は神さまとの縦の関係だけではなく、兄弟姉妹の横の関係も必要です。なぜなら、教会とは「聖徒の交わり」と言われているからです。聖徒とは、罪が贖われて、神さまとの縦の関係のある人たちのことです。そして、「聖徒の交わり」となると、個人と神さまとの関係だけではなく、罪が贖われた者同士との関係も必要だということです。なぜなら、神さまからの戒めがそのようになっているからです。イエス様は、マタイ22章でこのようにおっしゃられています。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」そうです。私たちは神さまを愛するだけではなく、隣人を自分のように愛するように命令されているからです。そして、教会の兄弟姉妹が持つ集会というのは、この隣人愛の練習の場になるということです。この世における人との関係とはどういうものでしょう?親子や親族などの血縁関係、会社においては利害関係、男女においては恋愛関係です。この世においては友だち関係というのがなかなか作りにくいですね。本来、友だち関係というのは夫婦の間にも、教師と生徒、牧師と信徒、あらゆる関係の基盤になるべきなのです。しかし、特に日本人はそれができません。必ず、年齢とか役職、身分が土台した上下関係になります。アメリカには敬語というのがほとんどありません。YOUとかファーストネームで呼び合っています。しかし、日本は上下関係が強いので、敬語や丁寧語がものすごく多いんです。しかし、教会というところは身分も年齢も、男女関係もありません。みな、兄弟姉妹の関係であります。頭では分かりますが、それを体験していく場がセル集会なのであります。柏に「人生やりなおし道場」という教会があります。ミッション・バラバの鈴木啓之師が牧会しています。教会も神の愛、兄弟姉妹同士の愛を学ぶ、道場なのであります。

 そして、セルのもう1つの目的はお互いに建て上げるということです。建て上げるとは、ギリシャ語で、オイコドメオーと言います。新約聖書にこのことばが非常に多く用いられています。このことばは実際、家や建物を建てるという意味です。しかし、聖書では「神の家を建てる」というふうに用いられます。そうすると、その意味が若干、変わってきます。「信仰を強化する、人を向上させる、品性を高める、相手の徳を高める」というふうになります。英語ではedify、edification(啓発)と言ったりします。では、「建て上げる」の反対は何でしょうか?「こきおろす、批判する、ダメ出しをする」というふうになります。日本人はこれをやったり、やられたりしていますので、もうビクビクしています。「また、何か言われるかなー」と構えてしまいます。大体、日本は、励ましたり、ほめたりする文化ではありません。どしても短所や欠点、間違いの方に目がいきがちです。あっちを切られ、こっちを切られ、盆栽のようにちぢこまってしまいます。ですから、セル集会では励ましたり、ほめるということがとても重要です。4月は東京ホープチャペルで関東コーチングセミナーがありました。先生方がいろんな発表をします。「いやー、これよかったね」「あれはよかったねー」とほめるんです。もちろん、悪いところや足りないところもあるんです。でも、言い方ひとつ、見方ひとつで、肯定的になることが可能です。その集会に、「葛飾中央教会」という名札をつけた牧師が参加しておられました。私はその先生のところに行って、「ようこそ、私は亀有です。先生はどちらからですか?」とお聞きしました。先生は「柴又一丁目にあります葛飾中央教会です」と答えました。私は「わあ、すごい。葛飾中央教会というのが良いですねー」と言いました。すると先生は、「うちは家族7人でやっている教会です。こういう名前をつけて、いろんな教会から批判されました。ほめてくれたのは先生がはじめてです」と言われました。私は「葛飾中央じゃ、そんなに大きくないですよ。東京中央教会でも良いんじゃないでしょうか」と言いました。すると、先生はそれがとっても励まされたということなんですね。私は「日本の教会の牧師は、励ましが必要なんだなー」と思いました。

 一口に「建て上げ」と言いますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?新約聖書には「互いに」という表現がたくさんあります。「互いに」ということが実行できるのは、二人以上、十名未満の人数ではないでしょうか?50人では「互いに」は不可能です。ですから、小グループが必要になってきます。では、新約聖書にどのような「互いに」というのがあるのでしょうか?みなさんもお考えください。「互いに愛し合いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」「互いに励まし合いなさい」「互いに教え合いなさい」「互いに戒め合いなさい」「互いに重荷を負い合いなさい」「互いに注意し合いなさい」「互いに預言し合いなさい」「互いに親切にし合いなさい」「互いに語りなさい」「互いに従いなさい」「互いに徳を高め合いなさい」「互いに平和を保ちなさい」…本当にたくさんあります。これらを一口に言って、「建て上げ合う」ということだと思います。もし、これが教会の兄弟姉妹の間でなされるなら、信仰が強化され、力がついてきます。そして、こんどは家族や会社、学校、地域社会で実行していけば良いのです。日本にはそういう文化がほとんどありません。あなたから新しい文化を作っていけば良いのです。ハレルヤ!

3.セルの一生 

 セルとは細胞であると最初に申し上げました。実は私たちのからだの細胞も「生まれては死に、生まれては死に」を繰り返しています。ある人から、玄米を勧められました。その人は「6ヶ月ぐらいで、体全体が玄米でできた細胞になりますよ」とおっしゃっていました。どのくらい生物学的な根拠があるか分かりません。でも、細胞が生き延びるためには、たえず増殖し、そして、古い細胞は死んでいくという運命にあります。しかし、細胞核にあるDNAはちゃんと伝達されるということです。同じようにセルグループにも一生があります。はじめ生まれたてのセルグループは新鮮で喜びがあります。「こんにちは、こんにちは」と、いろんな人と親しく交わることができます。兄弟姉妹がみんな良い人に見えます。自分が本当に受け入れられ、歓迎されているように感じます。それは結婚で言うと、ハネムーン期です。でも、結婚された方はご存知ですが、ハネムーン期間は長くは続きません。1年くらいたつと、相手の欠点やアラが見えてきます。「こういうところがだらしない。あんな言い方はないだろう。なんで支配するんだ。なんであんなに軟弱なんだ。ちょっと変わっているんじゃないかなー。あれでもクリスチャンなのかな?」これが第二期の葛藤期です。セル集会では自分の内面を出して良いところです。そうすると自分の良い面も出ますが、悪い面も当然、出てきます。その人のバックグラウンドと申しましょうか、生い立ち、これまで受けた傷、自分の考えや好み、主義主張、こだわり…そういうものがバーッと出てきます。そこで、衝突が生じてきます。しかし、それは良いことなんです。それがないと本当の親密さには発展しません。第三期は調整期です。どういうことかというと、不一致を調整するということです。「こういう言い方をするとあの人がカチンと来るらしい。だから、表現を変えよう」「ああ、あの人にはこういう弱さがあるんだから、別の角度で見て行こう」「私の流儀や考え方のこの部分をなおさないとダメだな。こういう場合はだまって同情した方が良いんだなー」。こういうふうに調整していきます。これを聖書的に言うならば、悔い改めと建て上げであります。壊して建てるということです。私たちの内面を見て、良くないところは取り壊し、良いものに取り替える必要があります。そして、第四期は円熟期です。もう、しっかりと信頼関係ができています。親密さにあふれている関係です。夫婦もここまで来ると良いですね。兄弟姉妹もそういう関係を目指すべきです。第五期は死です。そのグループはやがて死を迎えます。「えー死ってひどいじゃないですか?」と言うかもしれません。そうです。3年も4年も、同じメンバーだとそのグループは死んでしまいます。

では、細胞、セルが死なないためには、どうしたら良いのでしょう?増殖です。細胞は細胞分裂し、増殖しながら生き延びています。セルグループも新しい人を加え、細胞分裂して、増殖しなければならないのです。1つの同じセルグループを、ずーっとやっていたのでは、そのグループは死んでしまいます。亀有教会もある時は12個くらいのセルがありました。しかし、今では4個くらいかもしれません。なぜでしょう?ずーっと同じメンバーだったからです。私たち日本人は、メンバーを換えるということにはとても消極的です。「せっかく慣れたのに、別なグループを作るのは嫌だわ、別れたくない。ずっといたい」。気持ちは分かります。でも、長年、グループにいた人は、新たに自分がリーダーとなってグループを作る必要があります。なんのためでしょうか?それは新しい人が救われ、育成され、やがては大人のクリスチャンになるためであります。つまり、セルグループの最終的なゴールは伝道によって新しい人が加えられ、やがては増殖することにあるということです。ですから、細胞分裂して増えるため、別れることは良いことなのです。「別れることは良いことです」と言いましょう。つまり、セルは内向きだと死んでしまいます。ですから、たえず外に向かう必要があるということです。

4.セルの重要なポイント

最後にセル集会において重要なポイントを3つ上げて終りたいと思います。セル集会が生き生きとした交わりになるため、つまり、お互いがお互いを高め合うためにどういうことが大切なのでしょうか?第一はお互いに心を開くことです。男性は気持ちを分かち合うということが女性と比べてとても下手です。どうしても自分の考えとか知識を分かち合います。しかし、もっと分かち合うべきことは、自分の感情であります。心の傷や痛み、悲しみを分かち合うべきです。そのためには、心を開くということです。お互いが心を開けば、開くほど、そのグループの新密度が高まります。多少の衝突があるかもしれません。でも、人間関係の傷は人間関係で癒されるしかないのです。もし、あなたが関係を絶つならば、その部分だけ手付かずのままで、残ってしまいます。私たちの成熟度、あるいは聖化という面を考えると、どうしても人間関係を抜きにしては考えられません。私たちは人間関係によって、人格が成長するようになっているのです。そのためには心を開くということがとても重要です。第二は帰属意識です。私たちはどこかに属しているという意識がとても必要です。人間は元来一人では生きて行けません。でも、これまでさんざん傷ついてきたので、一人にさせてくれという人がいるかもしれません。でも、自分を受け入れてくれるグループに属するということはとても重要です。では、どういうグループが必要なのでしょうか?それは自分がグループにとって、必要とされているという意識です。そうです。そのグループは、あなたの賜物、あなたの性格、あなたの考えが必要なのです。あなたはグループから必要とされているのです。しかし、同時に、あなたもそのグループが必要なのです。手の指が一本で存在できないことと同じです。指は手の平につながり、手の平は腕につながり、腕がからだにつながっています。キリストのからだなる教会もそれと同じです。キリストのからだなる教会はあなたを必要とし、あなたもキリストのからだなる教会を必要としているのです。第三は聖霊を歓迎するということです。イエス様はマタイ18章で「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とおっしゃいました。今、イエス様は聖霊によって、私たちのところにお越しになっています。イエス様は個人の中にもおられますが、私たちの間にもおられます。私たちは心を合わせて祈るなら、どんなでもかなえてくださると約束しておられます。つまり、セル集会の原動力は生けるキリスト、聖霊であります。聖霊様が私たちに愛を与え、知恵を与え、賜物を与えてくださるのです。一人ひとりは取るに足りない者であったとしても、そこに聖霊が臨在してくださるならばどうでしょうか?聖霊様ご自身が、すばらしいわざをなしてくださるということです。

かなり前、インドネシアのセル集会の証を聞きました。一人の男性は脳腫瘍にかかりました。何度も手術を受けましたが、全部の腫瘍を取り除くことができませんでした。お医者さんは「数ヶ月後に、また来てくださいよ」と言いました。しかし、彼はお金がなくて行くことができませんでした。それで、セル集会に参加したとき、みんなから祈ってもらいました。するとどうでしょう?彼の目の前に見上げるほどの大男が立ちました。大木のような足ですから、10メートルもの身長です。彼は「ああ、この方はイエス様だな」と分かり、「主よ、大き過ぎて分かりませんので、もう少し小さくなってください」と心の中でお願しました。すると、するするとその人は小さくなりました。顔を見上げましたが輝いて見ることができませんでした。彼は「お願です。イエス様、私の頭を癒してください」とお願しました。すると、その方は自分の頭の上に按手してくれました。他の人は分かりません、彼が見た幻であります。それから半年くらいたって、頭のことは忘れていました。他の用事で病院に出かけました。お医者さんが「君どうしたの?」と聞きました。「いや、別に?」と答えました。詳しいことは忘れましたが、とにかくCTスキャンで見てもらいました。しかし、頭の中の腫瘍が全く消えていたということです。だれかが特別に祈ったのではなく、セルのみんなが祈ったときに、イエス様が来られて、その人を癒してくださったのです。イエスの御名によって集まるところに、主がおられ、みわざをなしてくださるのです。どうぞ、個人で信仰を守るだけではなく、互いに建て上げ合うために、小グループに身を置いてください。

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