2011年11月20日 (日)

神からの霊     Ⅰヨハネ4:1-6

きょうは霊的なことをお話したいと思います。キリスト教会でも霊的なものを全く排除し、教え中心のところもあります。また、ある教会は奇跡や預言など、神秘的なことばかり追い求めます。片方は知的過ぎて、まるで哲学になっています。もう片方は知性を捨て、神秘的な霊の世界に入り込んでいます。神さまは私たちに知性をくださいました。知性も必要です。しかし、世界には私たちの知性では理解しえないこともたくさんあります。ですから、右に偏り過ぎてもいけないし、左に偏り過ぎてもいけません。信仰においてもバランスが必要です。

1.霊だからと言って

Ⅰヨハネ4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」戦後は物質を追い求めました。その後、「心の時代」ということが言われました。そして、今は「スピリチュアル」という言葉がさかんに聞かれるようになりました。髪の毛を黄色に染めた人と和服を着た太目の人が「スピリチュアル、スピリチュアル」と言っています。昔は霊能者と言いましたが、今はスピリチュアル・カウンセラーと呼び方が上品になりました。多くの人が解決をいだだこうと、そういうところに通っています。日本人は西洋の教育を受けました。ですから、頭では「目に見えないものは信じない」という合理主義です。しかし、心はアニミズム的で霊の存在を信じています。だから、スーパー・コンピューターを設置するときは、神主を呼んで御祓いをしてもらうそうです。おそらく、あのスカイツリーを建築するときも、工事の安全を祈願したことでしょう。頭では「そんなのジンクスだ、迷信だ」と思っています。しかし、心では「得体の知れない力がこの世には存在するんだ」と恐れています。だから、何か悪いことが立て続けに起こると、御祓いをしてもらうのです。また、就職や結婚などの人生の岐路に立たされたとき、神がかったものに助けを求めるのです。

大学でちゃんと勉強した人がいます。その人は、科学的に証明できないものは信じない人です。しかし、占いが当ったり、不思議な体験をすると、コロッとひっくり返ります。科学しか信じないという人に限って、危ないのです。なぜなら、霊的なことに対して免疫がないからです。そういうことが起こると、世界観がひっくり返ってしまい、今度は何でも信じるという極端な方に傾きます。だれとは言いませんが、そういう人が政界や経済界、芸能界にもたくさんいます。何か重要な決断をするとき、霊能者のところにお伺いを立てに行くようです。しかし、その背後には悪魔、悪霊がいるのです。ここに「にせ預言者」と出ていますが、平たく言えば、神さまの代わりに告げる人のことです。彼らは「お告げ」とか「おことば」と言うかもしれません。そこには真理も多く含まれているので、「ああ、もっともだなー」思うかもしれません。でも、その背後で語っている霊が重要なのです。現代訳聖書はⅠヨハネ4:1をこう訳しています。「愛する皆さん。人が何かを語る場合、その人の語ったことの背後に、その人の実体とも言うべき霊がある。その霊にはいろいろあって、神からのものもあれば、そうでないのもある。だから、それを区別しなさい。今日、多くの偽預言者が現れて来ているからである」。現代訳の尾山令仁先生は、「その人の語ったことの背後に、その人の実体とも言うべき霊がある」と言っています。霊は実体であり、本当にあるのです。その霊がにせ預言者を通して、もっともらしいことを語っているのです。全部、嘘ではありません。全部、嘘だったらばれるでしょう。だから、そこにいくつかの真理が含まれています。本物に限りなく似てはいますが、本物ではありません。

にせ預言者の背後にいる実体ともいうべき霊とは、悪霊であり悪魔です。聖霊と比較して、諸霊と言ったりもします。では、なぜ諸霊はそんなことをするのでしょうか?人間は本来、神さまから造られた神の子どもであります。しかし、ほとんどの人たちは造り主から、離れて生きています。そこに悪霊が付け込み、人々を惑わし、造り主から遠ざけ、救われないようにするのです。そして、本来は神の子である人々をいたぶり、奴隷にし、滅ぼそうとしているのです。大体、そういう「お告げ」や「おことば」をいただいた人は、どうなるでしょう?ジンクスや恐れにますます支配されます。どういう方角が良いのか、どういう色が良いとか、どういう食べ物を食べるとか、いちいち指示されます。ある人は階段をいつも右足から昇るとか、お風呂に入るときも右足から入ると決めています。常にそういう占いや霊能者から、あるいは悪霊から直接、聞いている人たちがいます。しかし、みなさん本当の神さまは細かいことまで指示しません。私たちに自由意思を与えておられますので、「自分で考えなさい」と言われます。

韓国の『二つの翼』でこういうお話を聞きました。ある人が牧師先生のところに相談に来たそうです。お祈りすると、白い服を着たイエス様が現れ、「きょうは○○しなさい。明日は○○しなさい」と言います。これは本当でしょうか?お祈りするとイエス様がいつも現れる?では、霊を試してみなさい。イエス様が来られたら、「ナザレ・イエスの御名によって出て行け!」と一発殴られても良いからやってみなさい。光の御使いとして装っている可能性があるので、一回だけ試してみなさい。その人がお祈りをすると、また、現われました。その時、「イエスの御名によって出て行け!」と言いました。頭から角みたいなものが、にゅっと生え、出て行ったそうです。聖霊の働きはこと細かく干渉しません。悪霊が「ああしなさい、こうしなさい」と言うのです。神は私たちに自由意志を与えておられます。私たちの人格を尊重します。「ああしろ、こうしろ」、結果的に自分が拘束されます。神さまは私たちが成長すると私たちにゆだねるのです。霊だからといって、みな信じてはいけません。神さまは私たちに、一般恩寵として知性と意思を与えておられることを忘れてはいけません。

2.ためしなさい

Ⅰヨハネ4:1後半-3「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」ヨハネは「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と言っています。では、どのようにしたら、神からの霊か、反キリストの霊なのか分かるのでしょう?ヨハネは「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」と言っていますが、これはどういう意味でしょうか?当時、グノーシスという神秘主義的な異端がはびこっていました。彼らは「肉体は悪なので、神さまは肉体を取らない。キリストも肉体はなかった」と主張しました。彼らもキリストを信じてはいましたが、それは肉体を持たない天使のような存在でした。でも、本当の救い主は肉体をもってこの世に来られました。なぜでしょう?それは人類の身代わりなって罪を引き受けるためです。言い替えると、私たちの罪の贖いを成し遂げるために十字架にかかられたということです。贖いなしで、キリストを信じると言う場合、その信仰は怪しいものとなります。世の中には数多くの宗教があり、彼らの説く救いがあります。しかし、人類の罪を贖われたキリストによる救いは1つだけです。他の宗教には残念ですが、「罪の贖い」がありません。だから、人となって来たイエス・キリストを告白するかどうかが、決め手になるのです。

もう1つはだれを告白するかです。「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。」とあります。使徒パウロはⅠコリント12章でこう言っています。Ⅰコリント12:3神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。厳密に言えば、Ⅰヨハネは「告白する」で、Ⅰコリント12章は「言う」です。しかし、両者は同じことを表現しようとしていることは確かです。告白する、あるいは言うということは、重みがあります。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」と言われました。悪霊はイエス・キリストが大嫌いです。ヤコブ書には「悪霊どもは身震いしている」と書いてあります。ですから、もしその人の中に悪霊がいるならば、あるいは悪霊によって語っている人ならどうでしょう?その人に、「イエスは主です」と告白してみてくださいと頼んだら良いです。おそらく、「イ、イ、イ…」と詰まってしまうでしょう。なぜでしょう?「イエスは主である」という告白は、聖霊様がなさせる事柄だからです。逆に、その人の中に聖霊がおられるなら「イエスはのろわれよ」とは言えないのです。もし、その人が、「イエスはのろわれよ!」と言えるなら、その人の救いは怪しいでしょう。きっと、救われていないのかもしれません。

私は『二つの翼』という韓国の弟子訓練プログラムを先月、卒業しました。1段階が4日間あり、それが6段階までありましたので、計1年半かかりました。講師はプサンのキム・ソンゴン牧師です。プサンは仏教のお寺がとても多く、プサンだけで韓国全体のお寺を養っているそうです。また、占いや拝み屋がとても多く、霊的に最も悪い場所だそうです。そういうところで、4000人以上の教会になったのですから、たいしたものです。福音を伝えますが、単なる福音ではなく「福音の絶対的な能力」です。つまり、イエスの御名によって病を癒し、悪霊を追い出すことによって神の国が来ていることを証明するのです。その教会では、牧師は3時間、セルリーダーは2時間、一般聖徒は1時間祈ることが決まりになっています。なぜなら、悪霊の力がとても強いので、それだけ祈らないとやっていけないからです。日本も八百万の神がいるというので、セミナー期間、プサンでは200人のとりなし手が祈っていました。セミナーは、朝9時から夜の9時半くらいまでとても長いんです。最初、賛美と祈りを1時間くらいやります。各セッションの前にも賛美と祈りがあります。大声で賛美し、大声で祈ります。それを4日間やるとどうなるでしょう?その次の日曜日、力があるんですね。同じメッセージを語っているのですが、内側に力があります。なぜでしょう?やっぱり、イエス様を賛美し、大声で祈ったからです。悔い改めもするし、信仰の告白もしたからです。そのため、内側の汚いものが吐き出され、聖霊に満たされて帰ってくるわけです。だから、力があるんですね。当教会はセルチャーチを目指してから祈祷会を全部やめました。私は一人でも声を出して祈っていますが、教会員はそうでないかもしれません。やっぱり、定期的に大声で賛美し、大声で祈るときを持たないといけないと思います。とにかく、「イエスは主である」と口で告白したなら、聖霊に満たされ、信仰も増すということです。

3.霊を見分ける

Ⅰヨハネ4:5-6「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」もう1つそれが神さまから来ているか、悪霊から来ているのか見分ける方法があります。この世には2種類の人間しかいません。第一はこの世の者です。この世の者とは、この世に属する者と言う意味です。第二は神から出た者です。「出た」というギリシャ語は「エン」ですが、起源、源、出どころ、出生、所属を表す前置詞です。私たちは、かつてはこの世に属していました。悪魔の支配のもとにあり、罪と死の奴隷でした。みんなかつてはそうだったのです。しかし、イエス様のことばを聞いて、神様のもとに来て救われたのです。J.Bフィリップスという人は「この世の子ら」と「神の子ら」とに分けています。世の中には、「この世の子ら」と「神の子ら」の二種類いるわけです。それでは、両者の特徴とは何でしょうか?「この世の子ら」の特徴は、「この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾ける」ということです。この世のことばとは、私たちの理性にぴったりで、納得のいくものでしょう。世の中には、絶対的なものはなく、すべてが相対的である。善と悪は時代によって人間が決めるもの。同性愛者にも人権があり、できちゃった婚もあり。できるだけ権利を主張し、義務は最小にとどめる。教育の場では、聖書や神さまの話はタブーであり、進化論しか教えない。目に見えるものがすべてであり、人生は生きているうちが花である。死んだら天国に行くか、ひょっとしたら何かに生まれ変わるだろう。こういうのが、この世のことばです。そして、その背後には、にせ預言者、反キリストがいます。反キリストが政治や教育、経済、芸術、娯楽に手を伸ばしていたらどうでしょう?「世の終わり」に詳しい先生によると、反キリストは黙示録にあるような準備をしているそうです。黙示録13章に「刻印を受けない者は、買うことも売ることもできない」と書いてあります。科学者は、将来、すべての個人情報が入った、マイクロチップを額か手に埋め込むことを考えているようです。黙示録に「背教の教会」が記されていますが、やがて、すべての宗教が統一されるでしょう。「私はキリストしか信じない」という人は迫害され、買うことも売ることもできなくなります。

一方、神から出たもの、「神の子ら」の特徴は何でしょう?「神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾ける」とあります。「私たちの言うことに耳を傾ける」とはどういう意味でしょうか?「私たち」とは使徒ヨハネや使徒パウロ、あるいは神の預言者たちです。今で言うなら、旧訳聖書と新約聖書です。エペソ2:20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」当亀有教会が日本基督教団から出て、単立になった理由の1つがこれです。亀有教会のニュースレターができました。これは、お付き合いのある教会の先生方に「新しい歩みを始めましたよ」と送る案内です。その中に、「亀有教会が目指す価値観」というのが書いてあります。4つありまして、第一は「かしらなるキリストに聞き従う教会」です。教会はキリストのからだであり、教会のかしらはイエス・キリストです。単立教会は牧師がかしらになる傾向があるからです。牧師も教会員もみんなかしらなるキリストに聞くのです。第二は「神のことばである聖書を土台とする教会」です。すべてのキリスト教会は聖書を信じているでしょう。でも、「創世記から黙示録まで、神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばである」と信じている教会は半分くらいしかないでしょう。私たちは全部、丸ごと、聖霊によって霊感された神のことばであると信じます。第三は「互いに愛し合い、互いに仕え合う教会」です。本当はセルチャーチにしたかったのですが、セルと限定すると、うまくいかないところがあります。しかし、聖書に「互いに愛し合い、互いに仕え合う」と書いてあるのでみんなが同意できると思います。第四は「伝道し、弟子を作り、教会を生み出す教会」です。これまで教会は教団に全部任せていました。宣教師の派遣、牧師の育成、教会の開拓を地域教会がやってきませんでした。そのため、それらが全部、弱ってしまいました。先ほどのプサンの教会もそうですが、オンヌリ教会、ラルフモアーのホープチャペル…まず、教会が取り組んでいます。

神の子は聖書のみことばに耳を傾けるということです。私がこうやって公の礼拝で、聖書からメッセージを取り次いでいることはとても重要なことです。私のことばが神のことばなのではありません。私は誤りなき神のことばである聖書から語っているのです。パウロがテモテにこのように命じています。Ⅱテモテ2:15「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」アーメン。真理のみことばをまっすぐに説き明かす、このことが重要です。みなさんは牧師が「聖書から正しく語っているなー」と思う限りは、どうぞ耳を傾けてください。「怪しいなー」と思ったら、どうぞ耳をふさぐか、私を追い出してください。イエス様はヨハネ10章で、「羊は彼の声を知っているので、彼について行く」と言われました。クリスチャンは神の子であり、聖霊を内に宿しています。だから、神のことば、すなわちイエス様のことばであるなら、「アーメン」と同調して聞き従うのです。自分の声ではなく、内なる御霊の声に耳を傾けてください。ローマ・カトリックでは、黙想を強調し、自分の声に耳を傾けなさいと指導します。しかし、私たちは霊的存在なので、悪魔の声も人の声も自分の声も入ってきます。昔、夜、ラジオを聞くと、外国の放送も入りました。遠くのモスクワや北朝鮮の放送も入りました。霊の世界もそれと同じです。霊だからと言って、みな信じてはいけません。イエス様を主と告白するチャンネルに合わせるのです。いつもイエス様と交わっているなら、御霊の声がどれか分かります。

悪霊の話をずいぶんしたので、最後にこのみことばをもってまとめなければなりません。Ⅰヨハネ4:4「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」私たちクリスチャンは、神さまから生まれ、神さまに属するものです。イエス・キリストが悪魔に勝利したので、その中にいる私たちも悪魔に勝利したのです。そして、私たちのうちにおられるイエス様は、この世のうちにいる悪魔よりも力があるのです。私たちには御子イエス・キリストの血が注がれています。悪魔は私たちを訴えることはできません。また、私たちの内には聖霊によってイエス・キリストが宿っています。私たちはキリストの御名の権威を用いることができます。イエス様はご自分が持っておられる、すべての力と権威を私たちに授けてくださいました。ですから、ピストルに実弾である神のみことばを詰め込みましょう。御霊の剣をいつでも抜けるように準備しましょう。救いのかぶと、信仰の大盾を取りましょう。正義の胸当てを付け、真理の帯を締め、福音の靴を履きましょう。今、野球の日本シリーズが行われているようです。私たちは選手としてどこに属したら良いのでしょう。チーム・ジーザス、イエス様に属するべきです。たとえ補欠であっても、イエス様のチームに属していれば勝利を味わえるのです。イエス様はこの世と悪魔に勝利されました。だから、私たちも主にあって勝利できるのです。

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2011年11月13日 (日)

神の命令     Ⅰヨハネ3:21-24 

「命令」ということばは、日本人は苦手です。命令と聞いただけで、戦争を思い出すでしょうか?あるいは、命令と言われると反発したくなるでしょうか?聖書には神さまの命令がたくさん記されています。しかし、その命令は私たちを不幸にするものではなく、幸福にするためのものです。親は子どもに命じるときがあります。多くの場合は、子どもを守るためのものです。「道路に急に飛び出すなよ」とか「宿題を今日中に済ませなさい」と言います。それは子どものことを思って命じているのです。神さまは、私たちを愛しておられます。そして、神さまも私たちが安全で、幸いを得るように、命令を与えてくださいました。それは不可能な命令ではなく、キリストにあって負い易い命令です。

1.神の命令

神さまが私たちに命じていることは何でしょうか?「命令」はギリシャ語でエントレーですが、他の箇所では「戒め」「律法」とも訳されています。ある英語の訳では、commandmentになっており、十戒と同じことばです。神さまの人間に対する命令ですから、絶対に守らなければなりません。少し前に、当教会の聖書日課で、伝道者の書を読み終えました。「ダイヤル一日一生」でも解説していますので、たまにお聞きください。この書は「空しい、空しい。人生とは空しいものだ」と、仏教の教えとよく似ています。そして、12章の最後に、結論というべきものが記されています。伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と書いてあります。少し古い口語訳聖書は「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と訳しています。本分?昔は「学生の本分とは○○である」と言われましたが、現代ではそんな言い方はしないでしょう。人間の本分、とても重いことばです。旧訳聖書は「人間の本分は神を恐れ、その命令を守ることである」と教えています。では、福音書では何と言われているでしょうか?マタイ22章で、イエス様は律法学者から「律法の中で、大切な戒めは何ですか」と聞かれました。イエス様はたくさんある旧訳聖書の戒めをたった2つにまとめました。マタイ22:37-39「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。最も大切な神の戒めは、第一に神さまを全身全霊で愛することです。第二は、隣人を自分自身のように愛することです。とてもわかりやすいですね。

では、ヨハネは何と言っているでしょうか?旧訳聖書、福音書、そしてヨハネの手紙から語ろうとしています。啓示としてはパウロやヨハネの手紙が一番すぐれています。なぜでしょう?旧訳聖書と福音書は、イエス様が十字架にかかる前のこと、つまり古い契約のことを語っているからです。もちろん、新しい契約についても語っていますが、それは預言としてであります。厳密に言いますと、新しい契約は、イエス様が十字架で贖いを成し遂げられてから効力を発揮したのです。ヨハネは十字架の贖いを通過した後の、神の命令を書いています。だから、「神を恐れよ」とか「神を信じなさい」あるは「神を愛しなさい」とは書いていません。それらは古い契約時代の古い命令です。では、新しい契約における新しい命令とは何なのでしょうか?Ⅰヨハネ3:23「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」おおー、なんと鮮明で、なんと分かり易いのでしょう。神様が私たちに与えておられる命令とは何でしょう?2つあります。第一は、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。第二は私たちが互いに愛し合うことです。神様は第一に、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることを願っておられます。いや、命じておられます。命令、戒め、掟であります。なぜ、でしょう?御子イエスを信じたなら、人間の神さまに対する要求がすべて満たされるからです。なぜなら、御子イエスが私たちの代わりに、律法を全うし、また律法の責めも負ってくれたからです。神さまは私たちが御子イエスを信じたら、「もう十分ですよ」とおっしゃるのです。ところで、「キリストの御名」とありますが、御名とは何でしょう?御名とは、単なる名前ではなく、ご人格という意味です。「キリスト全体、丸ごと」という意味です。だから、イエス様はヨハネ福音書で「いのちのパンである私を食べよ」と命じているのです。食べるということは、丸ごとイエス様を私たちのうちに取り込むということです。つまり、イエス様を信じるとはイエス様を自分の中に受け入れ、イエス様と一心同体になるということです。そして、信じるという中には、信頼、忠誠、服従、依存が含まれます。キリストの御名を信じるとは頭だけではなく、私たちの全存在をかけるということです。

神様が私たちに与える第二の命令とは何でしょう?「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」ここにも、「キリスト」が入っています。神様は「私が命じたとおりに」とはおっしゃっていません。「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合いなさい」と命じておられます。古い契約は何と命じられていたのでしょう?「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ですしかし、この戒めは古いのでしょうか?ヨハネはⅠヨハネ2章でこのように教えています。Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。」これは、古い命令なのですが、ヨハネは「新しい命令として書き送ります」と言っています。何故、ヨハネはあえて新しい命令として言い換える必要があったのでしょう。古い命令から、新しい命令になる過程において、何があったのでしょう?そうです。先週、学びました。キリスト様が私たちのために命を捨ててくださいました。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。古い命令と新しい命令との間に、イエス・キリストの十字架があるのです。イエス様は弟子たちに「私が愛したように、互いに愛し合いなさいよ」と前から命じていました。しかし、それができませんでした。いつから本当にできるようになったか?イエス様が十字架に死なれ、本当の愛を示してからであります。それから、弟子たちには古い戒めではなく、新しい戒めになったのです。ですから、新しい命令、新しい戒めとは、「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合いなさい」ということなのです。

私たちの周りには赦せない人が何人かいるでしょう。「あの人は好きじゃない。イヤだ。とても愛せない」。そういう人がいるんじゃないでしょうか?「はい、それは鈴木先生です」と言われるかもしれませんね。ありえるかもしれません。でも、そういう人はメッセージも聞きたくないので、礼拝にも来ないでしょう。でも、新約の戒めを心から理解している人は、好き嫌い関係なく、礼拝に参加してメッセージを神さまからいただく人です。日本人は義理人情に篤い国民です。よく、間に人を立てて、和解したり、契約を成立させたりします。仲介者、仲人、交渉人という人もいます。中に立つ人というのは、両者を知っている人で、両者は何らかの恩義を受けています。つまり、直接的にはいろいろ問題や不満があるけれど、間に立ってくれる人の顔を立てるということです。「その人がそういうなら良いでしょう」となります。私たちの最大の仲介者とはだれでしょう?イエス・キリスト様であります。もし、イエス様があなたに「あの人のことを赦してあげなさい」とお命じになられたならどうしますか?「ムーリー。イエス様、無理ですよ」と一蹴できるでしょうか?イエス様は「言いたかないけど、私はあなたのあの罪も、あの罪も、あの罪も赦してあげたのですよ。あの人の罪くらい赦してあげられないのですか」と言います。「いや、だめです。あの人だけは例外です」。イエス様は「私の十字架に免じて、赦してやってはもらえないだろうか」と懇願します。私たちの上に重石が載って、辛くなり、最後に何と言うでしょう。「主よ。わかりました。赦します」となるのではないでしょうか?愛することは、赦すことでもあります。多く赦された者は、多く愛するのです。私たちはイエス様によって多大の罪が赦されました。だから、私たちも自分の隣人、兄弟姉妹を赦すのです。赦したら、こんどは神の愛が注がれ、愛せるようになります。神の命令とは何でしょう?「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」

2.神の命令を守る者

もし、私たちが、神さまの命令を守ったならどのような保障、約束、祝福があるのでしょうか?神さまが私たちに命令を与えた理由は、私たちが幸いに生きることができるためです。人間だったら、みな、「幸福になりたい、幸せになりたい」と思うでしょう。多くの人は、幸福を人生の目標にしています。たとえば、「幸せになるために結婚する」と言います。あるいは「あなたをきっと幸せにします」と約束するかもしれません。ある人は「幸せになるためキリスト教を信じます」、あるいは「キリスト教の目的は人間が幸せになることです」と言うかもしれません。私は幸福を人生の目標にしたら失敗すると思います。カール・ブッセが「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいふ」と言いました。また、「青い鳥」という童話もあります。幸福は追いかければ、追いかけるほど遠くに行って、なかなかつかまえることができません。虹も、そうでが、虹を追いかけても、虹をつかむことは決してできません。では、あらためて、キリスト教の幸福観を申し上げたいと思います。幸福を人生の目的にしてはいけません。幸福は人生のボーナスです。神さまの命令を守るとき、ボーナスとして幸福が訪れるのです。幸福は神さまに従うことによって受ける、おまけであります。昔、グリコのおまけがありました。キャラメルよりも、おまけが目当てだったかもしれません。でも、大事なのはおまけではありません。神の命令に従うことが大事なのです。では、私たちがキリストの御名を信じ、互いに愛し合うという神さまの命令を守るならば、どのような保障、約束、祝福、つまり幸福があるのでしょうか?

第一は心が安らかであるということです。別の表現では心に責めがないということです。このことは、Ⅰヨハネ3:19-21に書いてあります。19節には「神の御前に心を安らかにされる」とあります。20、21節には「たとい自分の心が責めても大丈夫」と書いてあります。私たちの心には良心というものがあります。良心とは、いわば心に書かれた律法です。イスラエルの人たちは、石に書かれた律法がありました。しかし、私たち異邦人には良心という板に書かれた律法があります。私たちが罪を犯すと良心が責めます。良心は罪を犯さないようにさせる神さまからの一般的な恵みです。しかし、石に書かれた律法が万能でないように、心の板に書かれた良心も万能ではありません。なぜ、良心は不完全なのでしょう?こういうことです。神さまが「キリストにあって赦すよ」と宣言したにも関わらず、良心が自分を赦さないということがあります。いわゆる罪責感がそうです。恥意識、未達成感、トラウマもその中に入るかもしれません。良心は体重計みたいなものです。体重計は大事に扱っていると正しい重さを知らせてくれます。でも、体重計に衝撃を与えたらどうでしょうか?ドーン、ドーンと上でジャンプしたり、放り投げたらどうでしょうか?どこかがおかしくなり、正しい数値を示さなくなるでしょう。心で言うなら、平安がなく、罪責感や恥があるということです。でも、ヨハネは何と言っているでしょうか?20節「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」アーメン。私たちの心よりも大きな神さまに信頼すべきです。私たちの良心を神さまに向けたらどうなるでしょう?ヘブル9:14「キリストの血が私たちの良心をきよめる」と書いてあります。ヘブル9:22「心に血の注ぎを受け、邪悪な良心をきよめられる」とあります。キリストの血によって良心がすすがれ、きよめられるのです。その結果、大胆に、神さまの御前に出ることができるのです。キリストにあって、もう責めも咎めもありません。心が安らかなのです。これこそ、幸福な人生の1つではないでしょうか。

第二は何でも神からいただけるということです。Ⅰヨハネ3:22「大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」「何でも」とはどのようなものでしょうか?何でもです。福音書でイエス様は「求めるなら与えられる」と何度も何度も約束しておられます。しかし、私たちは求めるものは何でも神さまからいただいているでしょうか?正直に答えるとどうでしょうか?神さまに求めて与えられたものと、求めても与えられなかったものがあるはずです。では、求めて与えられたものと、求めても与えられなかったもの、どちらが比率的に高いでしょうか?信仰の人ジョージ・ミューラーみたいな人はともかく、求めても与えられなかったものの方が多いのではないでしょうか?そうなると、このみことばは何なのでしょうか?眉唾でしょうか?ヤコブは、求めても与えられないのは何故か理由を述べています。ヤコブ1:6-7「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」そうです。求めても与えられないのは、心に疑いがあるからです。二心のある人とは、信じる心と信じない心がある人です。しかし、全く疑わないで100%信じられる人っているのでしょうか?おそらくいないと思います。でも、私たちは疑い、つまり不信仰をできるだけ避けて、信じる方を選び取る必要があります。私たちの心から疑いをできるだけ取り除き、求めたら与えられるという信仰の領域をできるだけ広げるのです。そうすると、求めたら与えられる確立がぐっとアップするでしょう。どうしたら良いのでしょうか?私たちの言葉を変えることです。私たちはイエス様のお名前によって、一心不乱になって求めます。病が癒されるように、必要なものが与えられるように、問題が解決されるように祈ります。「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」その後が、問題なのです。「しかし、現実は難しいよなー」「いやー、相変わらず痛むよなー」とポロっとつぶやかないでしょうか?それは、「今、祈った祈りをキャンセルします」と言っているようなものなのです。なぜなら、自分の口で否定しているからです。旧約聖書に「主を待ち望め」と何度も言われています。祈り求めたら、主を待ち望むのです。そうすれば、時がかなったら与えられます。信仰とは、目で見えていなくても、手でも触っていなくても、「既に得ている」と確信することです。

第三は神さまが私たちのうちにおられるということです。Ⅰヨハネ3:24「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」「神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられる」とはどういう意味でしょうか?実は同じことをイエス様も福音書でおっしゃっていました。ヨハネ14章10節「私が父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか」。これはイエス様がピリポに言ったことばです。これは、イエス様と父なる神さまが一体だということです。イエス様は、神が共におられるインマヌエルの神さまでした。しかし、私たちが神の命令を守るなら、つまり御子イエスを信じ、互いに愛し合うなら、神さまがともにおられるということです。しかし、これはどのようにして私たちに実現したのでしょうか?それは「神が私たちに与えてくださった御霊によって」であります。私たちがイエス様を信じると、神の霊であられる聖霊が私たちの内に宿ります。そうすると、神がその人と共にいることになります。チョーヨンギ先生が「神さまはどこにいますか?」というお話をされたことがあります。創世記を見ると、神様はエデンの園におられました。でも、アダムとエバはエデンの園から追い出されました。もう、エデンの園がどこにあるかも分かりません。出エジプト記を見ると、神様はシナイ山におられたと書いてあります。モーセだけが、神さまに近づくことができました。地が震え、雷鳴がとどろくシナイ山には恐ろしくて登れません。さらに、神さまは幕屋におられたようです。神が臨在する至聖所には年に一回、大祭司しか入れません。その後どうなったでしょう?ソロモンが神殿を建てました。立派な神殿です。そこに神さまはおられました。でも、バビロンによって神殿が壊されました。その後、ナザレのイエス様の内に宿られました。イエス様は十字架に付き死なれました。霊を神さまの御手にゆだねられました。ああ、もう神さまはどこにもおられないのでしょうか?イエス様が天にお帰りになって、10日後、ペンテコステの日に聖霊が降りました。聖霊はキリストの御霊であり、神の霊でもあります。なんと、イエス様を信じる者には、もれなく聖霊が宿るようになったのです。あなたは今、どの時代に住んでおられるでしょうか?神の箱に宿った、旧訳聖書の時代でしょうか?イエスさまと共におられた福音書の時代でしょうか?私たちは、ペンテコステ以降に住んでいます。もう、約束はかなえられたのです。神の命令を守る者に、つまり御子イエス様を信じ、互いに愛し合うなら、神が共におられるのです。ハレルヤ!

旧訳聖書では神が共におられるということが救いでした。神が共におられる、これ以上の幸いはないのです。あなたは神が共におられるということを感謝したことがあるでしょうか?モーセはかつて神のしもべと言われました。アブハラムは神の友と呼ばれました。エリシャは神の人と呼ばれました。なぜなら、彼らと神さまが共におられたからです。新約聖書の私たちはどうでしょうか?「神のしもべ」「神の友」「神の人」みんなすばらしいです。しかし、もっとすばらしい立場があります。それは、「神の子」です。私たちクリスチャンは、神の息子、神の娘なのです。イエスさまが長子で、私たちはみな、その兄弟姉妹なのです。どうぞ、神さまが共におられ、神の子という身分が与えられていることを喜びましょう。私たちは、私たちにすばらしいことをしてくださった、神さまをもっと喜ぶべきです。神さまを喜んだらどうなるのでしょう?そうです。私たちは幸せになれるのです。喜ぶことは、感情ではなく、意志ですから選ぶことができます。私たちが神さまを喜べば、幸福がやって来るのです。幸福は山のかなたにあるのではなく、私たちのすぐ近くにあります。私たちと共におられる神さまを喜び、感謝します。

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2011年11月 6日 (日)

兄弟を愛する     Ⅰヨハネ3:13-20

ヨハネは、兄弟を愛するように何度も勧めています。これはキリストを信じて救いを受けたものが互いに愛し合うということです。ここに「兄弟」と書いていますが、「兄弟姉妹」救われた者たち、クリスチャンのことを言っているのです。一番最初はイエス様が弟子たちに互いに愛し合うように命じました。次は弟子であるヨハネが、「互いに愛し合うように」と、私たちに勧めています。しかし、元来からある日本の愛は「かわいがる」とか「いとしく思う」という意味です。聖書が言う愛とは、やはりズレがあります。きょうは、聖書が言う愛とはどのようなものなのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.命から来るもの

愛は命から来るものです。先週は救いということのいくつかの局面をお話ししました。第一はキリストの十字架の血潮によって罪が贖われた、つまり罪が赦されたということです。第二はキリストによって悪魔の支配から、御子のご支配のもとに移されたということです。第三はキリストを信じたとき、神の種、新しい命が与えられたということでした。内側の性質が変わったということです。ヨハネは今日の箇所で、それらのことをまとめて、死から命に移ったんだと言っています。Ⅰヨハネ3:14「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」ヨハネは、死のうちにとどまっている人と命に移った人を愛という観点から対比しています。死のうちにとどまっている人はどうなのでしょうか?兄弟を愛さないということです。もっと言うならば、15節「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」とあります。愛さないだけではなく、兄弟を憎むということです。憎む者は人殺しと同じだということです。この世においては、人を憎むことを殺人だとは言いません。人を憎んだだけで、殺人と同じならば、これまで何十人、何百人殺していたか分かりません。かつての私たちは、人を憎むことは普通であって、人殺しをしているなどとは全く思いませんでした。私の口癖は「ちくしょう」でした。「ちくしょう」「ちくしょう」と言いながら頑張っていました。と言うことは、私のエネルギーは恨みであり、憎しみだったということです。つまり、心の中で、人を殺しながら生きていたということです。なんということでしょう。まさしく、カインの末裔であります。

しかし、そういう者がキリストを信じて救いを受けました。それは言い換えると、死からいのちに移ったということです。いのちに移ったらどうなったのでしょうか?憎しみがだんだん消え、その代わり、愛が芽生えてきたということです。イエス様を信じてもすぐ、愛の人になる訳ではありません。長い間、狼に育てられた子どもが、パッと人間らしく生きられないのと同じです。だれか、自分の食べ物を取るんじゃないかと「ウォー」と威嚇します。だれかが近づくと傷つけられるんじゃないだろうかと「キー」と爪を出すかもしれません。しかし、既に自分は神のいのちに移されています。さらに、神の愛がいのちと共に入ってきます。そうするとどうでしょう?だんだん、愛が生まれ、兄弟や姉妹を愛することができるようになるのです。これは不思議です。これまでは、自分に何か良いことをしてくれるから、自分の味方だったら愛するという条件付きでした。でも、神さまの愛が注がれると、こっちから進んで愛せるようになるのです。兄弟、姉妹を愛するというのは、救われた結果であり、証拠と言っても良いでしょう。みなさんも、そういう経験はないでしょうか?最初は、「クリスチャンって気持ち悪い」と思ったことはないでしょうか?みんなニコニコして、「ハレルヤ!」「感謝します!」とか言って、「ちょっとおかしいんじゃないだろうか?」あるいは、「偽善者かもしれない」と思ったのではないでしょうか?しかし、洗礼を受けて、その交わりに入っていると、いつしか同じようなことをしている自分がいます。「あれー?何だかなー」。それは、イエス様を信じて救われたからです。何べんも言いますが、キリスト教は道徳とか修養ではありません。神のいのちであり、奇跡であります。私たちは奇跡を生きているのです。ハレルヤ!ガラテヤ書5章に「御霊の実は愛である」と書かれています。私たちがイエス様を信じると内側に聖霊が与えられます。この聖霊が、愛という実を結ばせてくださるのです。私たちが愛するのは、いのちに移された結果、つまり救われたからなのです。ハレルヤ!

2.自己犠牲

愛とは自己犠牲です。愛がだんだん成熟してくると、自分のことはどうでも良くなり、むしろ、兄弟姉妹の方が大事になってくるということです。Ⅰヨハネ3:16「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」すごいですね。私が最初にこのみことばを読んだときは、ハンマーで頭を叩かれた気がしました。「そんなの、ありえなーい!」と思いました。人のために死ぬなんて、よっぽどでないと、できないですね。数年前に『タイタニック』という映画がありました。あの豪華客船は絶対に沈まないという自信があったので、救命ボートの数が少なかったのです。最初は子どもや女性を乗せました。やがて、金持ちはわれ先にと乗り込み、定員数に達していないのにボートを降ろしました。定員数を乗せたら、恐らく倍は乗れたでしょう。救命胴衣さえもみんなに行き渡りません。そこには、自分さえ助かれば良いというエゴが映し出されていました。しかし、楽団の人たちは最後まで、船上で演奏をしていました。人間の生まれつきの本能は自分の命をまず守りたいということです。この間、ある方の知り合いが北海道で大事故に見舞われたことを聞きました。地元の先輩が助手席に乗り、本土から来た後輩に運転をさせました。北海道での運転を慣れさせるためです。まだ、10月半ばというのに雪がちらついていたそうです。突然、キツネが道路に飛び出して来ました。後輩は急ハンドルを切って、道路標識に激突したそうです。道路標識に守られ、崖から下には落ちなかったそうです。しかし、道路標識に助手席を当てたので、先輩は大怪我をしました。大たい骨が折れて、骨盤に食い込んだということです。運転手の後輩はほとんど怪我はなかったそうです。なぜでしょう?とっさに、自分をさけたのです。しかし、助手席のことは考えなかったのです。自分の命だけは守りたいというのは、人間の本能であります。

ところが、このⅠヨハネ3:16は「人のために命を捨てろ」と真逆のことを言っているようです。しかし、この聖句を見ると、その前に何か書いてあります。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから・・・」となります。つまりは、「キリストが自分のためにいのちを捨ててくださった」ということを心底、体験するならば、ということです。不思議なことに、Ⅰヨハネ3:16とヨハネ3:16はリンクしているところがあります。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」どこか、共通しています。神さまがひとり子を与えたという意味は、十字架に御子を与えたということです。まさしく、キリストは私たちの救いのために、ご自分のいのちを捨ててくださったのです。もし、キリスト様が「そんなのいやだ。十字架になんかかかりたくない」と天にお帰りになったらどうでしょう?贖いは成立しないことになり、私たちは今も罪と死の中にいたことでしょう。でも、イエス様はご自分の命を捨ててくださったのです。それゆえに、私たちに救いが与えられました。それは神の愛であり、キリストの愛がそうさせたということです。イエス様は私たちを愛しておられたので、ご自分の命を捨てられたのです。ですから、新約聖書で「愛」ということを語るとき、必ず、イエス様の犠牲的な愛を考えなければなりません。明治の文豪、二葉亭四迷はロシア文学の研究家でもあり、ツルゲーネフの作品を訳しました。あるとき、I love youにあたるロシア語を日本語に訳そうとしました。彼は、二日二晩、悩んだ末、「私は死んでもいいわ」と訳したそうです。彼は、愛とは死ぬこと、命を捨てることだと分かったのです。

また、Ⅰヨハネ3:16を英語の聖書で読むとこれまた感動します。「命を捨てる」ということを、lay downと書いています。直訳すると「身を横たえる」ですが「命を捨てる」という意味もあります。ギリシャ語では「置く、横たえる」が第一の意味です。「命を捨てる」という意味は見つかりません。しかし、どうでしょう?イエス様は十字架に身を横たえました。すると、ローマ兵が手と足に釘を打ち付けました。その後、彼らは十字架につけられたキリストをロープで引っ張りながら、十字架として立てたのです。ということは、身を横たえるとは、十字架の死とやはり関連があります。サイモンとガーファンクルが「明日に架ける橋」というすばらしい歌を歌いました。サイモンが作詞をしたと思いますが、なんとその歌詞がこのⅠヨハネ3:16と同じです。Like a bridge over troubled water I will lay me down.「私が橋となって、激流の中に身を投げ出すよ」と訳せます。まさしく、聖書の兄弟愛を歌った歌ではないでしょうか?私たちの最大の友とはイエス・キリスト様であります。私たちの神さまとの間には、罪という永遠の淵があります。罪人である私たちはどんなに頑張っても、義なる神さまのところへは行けません。このままでは、私たちは死んで、さばかれ、永遠の滅びに行くしかありません。ところがイエス・キリストが十字架で死なれ、罪の代価を払って、3日目によみがえられました。そのことによって、私たちと神さまの間に、十字架の橋をもうけてくださったのです。私たちは橋となられたイエス様を渡りさえすれば、神さまのところへ行くことができるのです。そこはまさしく天国であり、永遠のいのちがあります。私たちはイエス様を信じて、自己犠牲の愛を悟りました。そうすると、今度は、兄弟、姉妹のために命を捨てることができるようになるのです。この愛は、私たちの本能的な愛ではなく、神さまが与えてくださる超自然的な愛なのです。

3行いと真実

 愛とは行いと真実の伴ったものであるということです。Ⅰヨハネ3:17-19「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」とかく、愛というのは、ことばや口さきだけで終わりがちです。私も講壇から「愛とはこういうものである」と10時間くらい語ることが可能です。実際、私も結婚式の司式を200組以上してきましたので、愛についてすらすらと語ることができます。しかし、愛について語ることと、実際に愛することは隔たりがあります。J.Bフィリップという人は、「愛は単なるセオリーや言葉ではありません。真実にそして実際に愛そうではありませんか」と訳しています。theoryというのは、理論、理屈という意味です。うぁー、教会というところは、一番、愛を語っているところかもしれません。しかし、実際に兄弟姉妹を愛しているかというと、どうでしょうか?ヤコブの手紙にも似たことが書いてありました。ヤコブ2:15-16「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」まさしく、ことばや口先だけです。教会ではありませんが、私は23歳の頃、百合丘のバッテングセンターでアルバイトをしていた時がありました。建設業を辞めて、就職口を捜していたときです。失業保険もなくなり、厳しい時でした。あるとき、事務の女の人が「きょうは頑張ったわねー、お昼はカツどんでも良いわねー」と言いました。私はてっきり「カツどんが出るのかなー」と、午前の仕事を終えて、休憩室に戻りました。ぜんぜん、そういう気配もありません。私は事務の人に「あれ?お昼、カツどんを出してくれると言ったんじゃないですか?」と聞きました。すると、「カツどんでも食べたら」という提案だったらしいのですね。私は「紛らわしいことを言うなよ!」と怒った記憶があります。アルバイトの先輩に聞いたら、「そんなことがあるわけないだろう」と言われました。彼女はクリスチャンではありませんが、私たちは似たことをしているのではないでしょうか?

愛の伝道者、岸義紘先生は、「愛は名詞ではなく、動詞です」とメッセージされたことがあります。そういえば、聖書に出てくる愛は、名詞よりも動詞形が多いかもしれません。特に、Ⅰヨハネ3章、4章、5章に「愛する」という動詞がたくさん登場します。私はヤコブの手紙もそうでしたが、ヨハネの手紙から連続して語るのは初めてです。ヤコブの手紙は厳しすぎてイヤでした。またヨハネの手紙は、愛さなければならないのでイヤでした。牧師がこういうことを言うと躓くかもしれませんね。正直、私はあまり愛されないで育ちました。狼少年のように一人で生きて、生きて、生き抜こうとがんばってきました。ところが、25歳でクリスチャンになり、神さまの愛を知りました。でも、愛し方をほとんど知りません。人との愛となると面倒なことが多々起こります。衝突したり、傷つけあったり、誤解したり、うまくいかないことが多いのですね。だから、教会は「イエス様、あなたを愛します」でやっていれば良いです。教会に来て、神さまを礼拝して、ちょっと挨拶して帰れば、ぶつかり合うことはありません。多くの牧師は、礼拝説教を終えたら、ほとんど、人とは会いません。集会では話しますが、個人的に話すというのは少ないです。面談やカウンセリングはありますが、自分のことはおそらく話さないでしょう。愛を語ることはあっても、実際に兄弟姉妹を愛するということが少ないのです。しかし、私は1996年に、セルチャーチ、共同体の教会を奨励しました。「教会は建物ではなく、互いに愛し合い、互いに祈り、互いに助けるところが教会なんだ」と言いました。そして、みんなが、積極的に交わり、具体的に愛し合うことを勧めました。

すると当然、牧師自身のあり方というのも問われます。従来の牧師では互いに愛し合う、共同体を作るのは難しいところがあります。講壇から降りて、互いに交わることをしなければなりません。でも、そこにはリスクも伴います。地金が出るというか、欠点や心の傷も見せることになります。いわゆる「ため口」も聞くことになり、新たな傷も受けるでしょう。でも、それが本当の教会なのです。セルチャーチという名前を使う、使わないはともかく、新約聖書の教会は、互いに愛し合い、互いに祈り、互いに助ける教会であります。ですから、傷を受けるリスクを負うことを当然覚悟しなければなりません。また、相手を傷つけてしまうこと、失敗すること、それも覚悟しなければなりません。お互いに親しくなると、つい、思っていることを話すでしょう。他人であれば、見過ごすところを、兄弟姉妹であれば、親切心も加わって、「こうしたら」と言いたくなります。「余計なお世話です」という時もあるかもしれませんが、多くの場合は、兄弟愛から来るものです。結婚生活もそうですが、ハネムーンの後に葛藤期がやってきます。最初は猫をかぶって「私たち気が合うわねー」とやってきました。しかし、親しくなると地金が出て、葛藤期を迎えます。1年後か、2年後です。そのとき、諦めて離婚する人もいます。そうではなく、いろんな衝突を調節してから、本当の親密さがやってくるのです。これは兄弟姉妹の間でも同じです。

浅草の東京ホープチャペルの西田先生も4年前からセルチャーチを始めました。いきなり、20個くらいセルができてとっても楽しかったそうです。しかし、1,2年たったら、ものすごく教会が荒れたそうです。空中分解するセルがどんどん出てきました。そのとき、エリヤハウスをみんなが受けることにしたそうです。エリヤハウスというのは心の傷の癒しをするミニストリーです。教会は「神の家族」と呼ばれています。多くの兄弟姉妹は自分が生まれ育った家庭の傷を持っています。その傷を今度は、神の家族で取り替えそうとします。自分が得られなかったものを、教会で得ようとします。ある人が「私に無条件の愛をくれ」と言います。こっちも「私にも無条件の愛をくれ」と言います。でも、無条件の愛を持っている人はほとんどいません。神さまは無条件の愛をもって愛してくれますが、人間の場合はそうではありません。「教会は、無条件の愛を説いているんじゃないか!」と牧師に言っても、その牧師がそうでありません。日本にはセルチャーチに対して2つの考えがあります。1つは問題が起こるのでセルチャーチをしない。「集会が終ったら、さっさと帰るように。『ハレルヤ!感謝します』と信仰によって勝利するように」言います。もう1つは、当教会のように問題が起こることを覚悟してセルチャーチになることです。私も何度もセルチャーチはやめようと思いました。役員の方からも「うちの教会はセルチャーチなのですか」「うちの教会はセルチャーチではありませんよ」と言われました。私はセルチャーチという名前にはこだわりません。でも、教会は神の家族であり、キリストのからだです。ですから、信仰は神さまと自分の関係だけでは成り立ちません。どうしても兄弟姉妹と交わり、兄弟姉妹と一緒に働いて神さまの使命を果たさなければなりません。兄弟姉妹との交わりは選択科目ではなく、必須科目であります。兄弟姉妹を愛さなければ、本当の信仰はないんだと言わざるを得ません。

あるセルセミナーで、私が司会をしました。ベン・ウォン師が愛についてのメッセージをした後、私が最後に「私には愛がないので、神さま、どうか愛せるように助けてください」と祈りました。ベン・ウォン先生が私の祈りに意義を唱え、次のセッションはそのことが1時間、話し合われました。神さまは「人を愛せない」という人を愛する人に変えられるかということです。ベン・ウォンが教えてくれた結論はこうです。神さまは私たちの意志を変えて、愛することができるように変えてくださるのか?それは不可能です。私たちが自分の意志で愛しますと言えば、神さまの愛が私たちから出てきて、愛せるのです。なぜなら、神さまの愛が私たちの内側に既にあるからです。神さまは私たちの中にご自分の愛があるので、互いに愛し合いなさいと命じているのです。

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2011年10月23日 (日)

神の子ども    Ⅰヨハネ3:1-7 

この世では、人に悪いことをさせないためにどうするでしょうか?「してはいけない」という規則をたくさん作ります。その次には、それを破った場合は、罰を加えるというものです。それで、人は悪いことをしなくなるのでしょうか?ますます、犯罪が巧妙になるばかりか、かえってひどくなるのが実情です。私たちはクリスチャンになるとき、行いではなく、恵みによって救われました。しかし、教会はクリスチャンになってから、「こういうことをすべきであり、こういうことをしてはいけませんよ」と新しい規則を作ってきました。つまり、「救われたのは恵みだけれど、救われてから行いや努力も必要ですよ」と言っているようなものです。しかし、それは立派な詐欺ではないかと思います。では、聖書は何と教えているのでしょうか?

1.神のこども

ヨハネは、何よりも先に、私たちが神どもであることを自覚するようにと教えています。私たちが神さまの子どもとなるために、神さまはどんなことをしてくださったのでしょうか?Ⅰヨハネ3:1「私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」しかし、原文とか英語の聖書は、「見よ!」で始まります。何を見るのでしょう?英語の聖書はSee how great a love「見よ、何と偉大な愛でしょう」となっています。また、詳訳聖書はincredible of love、となっています。incredibleとは、「信じられない、驚くべき、途方もない」という意味です。よく、アメリカ人の若い人が、Oh! incredibleと言います。日本語の聖書は父の愛が後から書かれているので、感動があまり伝わってきません。本当は、「見よ。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょう。私たちが神の子どもと呼ばれるために。事実、私たちがそうです。」となるべきです。このところで強調されるべきことは、御父の偉大な愛があったということです。では、偉大な愛とは何のことでしょう?ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」偉大な愛とは、父なる神さまが、ひとり子を与えてくださったということです。神のひとり子イエスは、私たちの罪のため十字架につき、贖いを成し遂げられました。私たちは御子を信じることによって、罪赦され、神の子どもとされるのです。ハレルヤ!御父の偉大な愛のゆえに、救われ、神の子という身分が与えられたのです。

 ヨハネは私たちに「罪を犯さないように」とは命じていません。その代わり、「あなたがたは御父の偉大な愛を受け、神の子どもとされましたよ!」と言っているのです。なぜでしょう?この世の人たちは、御父の愛も知らないし、その愛を受けてもいません。だから、自分が何者であるかも分かりません。そのため彼らは罪を犯し、罪の中で生きるのです。でも、私たちは神さまの大きな愛を受け、神の子という身分まで賜りました。すると、当然、自分は何者なんだという意識、アイディンテティが自分の中に生じるのです。箴言23:7の直訳は「彼は心の中で考えている人そのものである」です。言い換えると、人は「自分はこういう者だ」と考えているように、行動するということです。これをセルフ・イメージとも言いますが、自分が自分をどう思っているかとても重要です。なぜなら、人は自分が思っている自分にふさわしく生きるからです。学校で先生が「お前は不良だ!」と生徒に言ったとします。言われた生徒は「ああ、私は不良なんだ。それだったら、不良らしく振舞うべきだなー」と思うわけです。世の中のしつけや教育があまり効果を上げていないのは、自分が何ものかを教えないで、「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」と教えているからです。もし、自分が何者であるかを知るならば、それにふさわしい行動をするでしょう。ルイ17世は子どもであったため、フランス革命後、死刑を免れました。しかし、革命家は憎きルイ16世の子どもが天国に行けないように、極悪人と一緒に牢に入れました。極悪人は子どもであるルイ17世に、「神を呪う言葉を吐け」とか、さんざん悪いことを教えました。しかし、ルイ17世は何と言ったでしょうか?「ぼくは王子なので、そんなことはしない!」と断ったそうです。残念ながら、ルイ17世は栄養失調から来る病気で10歳で亡くなりました。「自分はだれなのか?」ということを本当に知ったならば、私たちはそれにふさわしい生き方をするではないでしょうか。

 さらにヨハネは、「神の子どもとされた私たちの後の状態はどうなのか?」言及しています。Ⅰヨハネ3:2-3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」ヨハネは、「私たちは既に神の子どもではあるが、後のことは全部分かっていない。しかし、これだけははっきりしていますよ」と言っています。はっきり分かっていることは、「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見る」ということです。同じことをパウロもⅠコリントで言っています。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」アーメン。私たちはイエス様のことを完全には分かっていません。逆に判っていないから信仰が必要なのです。私たちは天に行ったら、イエス様をはっきり見ることができるでしょう。でも、それだけではありません。私たちはキリストに似た者となるということです。キリストに似た者とはどういう意味です。それは顔かたちではありせん。キリスト様が持っていらっしゃる品性に似た者となるという意味でしょう。その品性とは、愛、柔和さ、きよさ、高貴さであります。

 ヨハネはそういう望みをいだいている者はみな、「キリストが清くあられるように、自分を清くします」と言っています。でも、「この地上で適当に暮らして、終わりの日に、キリストに似た者になれば良いんじゃないの」と言いたくなります。どうせ、地上でいくらがんばっても、100%似た者になることは不可能です。では、キリスト様のようにきよくなるのは、死んだ後のことなのでしょうか?ここが問題です。私たちは「清い」というと、世の中から遠ざかり、禁欲的な生活を送らなければならないと思ってしまいます。イエス様の時代、清い人が3種類いました。1つは「自分は清い」と言っているパリサイ人、律法学者でした。彼らは律法を守り行い、清い生活をしていました。しかし、心の中は「ねたみや争い」でいっぱいでした。外側は確かに清かったでしょうが、内側は汚れたものでいっぱいでした。2つ目はエッセネ派と言われる人たちです。バプテスマのヨハネもその一人ではないかと思われていますが、彼らは荒野で生活していました。俗世間から離れ、質素な生活をして、神様を礼拝していました。中世の修道士もそのような生活をしていました。汚れた世とは交わらないという生き方です。3つ目はイエス様のような生活です。イエス様は清いお方でしたが、町や村にでかけました。取税人や罪人と一緒に食事までしました。でも、イエス様は御父と親しく交わり、み旨を行い、清い生活をしていました。神学的に、「イエス様が本当に笑ったかどうか」研究の対象になったことがあります。新約聖書に「カンラカンラと笑った」とは書いていません。しかし、私は、イエス様は笑ったと思います。たとえばペテロが大漁の奇跡を見て、驚いたとき、「私は罪人です。私から離れてください」と言ったときです。当時の船は狭いのですから、離れたら海に入るしかありません。そのとき、イエス様は笑ったんじゃないかと思います。とにかく、イエスさまは清いお方ではありましたが、世の中でちゃんと生活していました。30歳までは大工をし、父ヨセフが亡くなった後は、家族を支えていたと思われます。そのように考えますと、私たちが一般的に「清い」という考えと、聖書が言う「清い」は、ずれがあるようです。

 ガラテヤ書5章に御霊の結ぶ実について書かれています。御霊の実こそが、イエス様に似たきよさではないかと思います。ガラテヤ5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」これらの品性をあわせたものがイエス様に似たきよさであると信じます。そして、これは御霊の恵みによって、この地上でも与えられるものです。私たちはやがて、イエス様と顔と顔を合わせるまで、少しずつではありますが、御霊によってイエス様に似た者となることができるのです。私たちはすでに神のこどもです。神のこどもとしての身分は確かにありますが、神様は、実質も神の子となることを願っています。

2.罪を犯さない

Ⅰヨハネ3:6「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」これを読むと驚かれるのではないでしょうか?「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません」とあるからです。リビングバイブルは「罪を犯し続けない」と訳しています。英語の詳訳聖書は「習慣的に罪を犯さない」と訳しています。では、本当はどうなのでしょうか?ヨハネは「キリストのうちにとどまる」と「罪を犯しません」の両方を動詞の現在形を使っています。これは継続的行為、習慣、態度を表すそうです。と言うことは、その人が「キリストのうちにとどまっています」。継続して、習慣的にとどまっているわけです。そして、同じ人が罪を犯すことがあるかもしれません。でも、それは継続的ではありません。つまり、罪を継続して、習慣的には犯さないということです。キリストにとどまっている人が、どうして罪にもとどまることが可能でしょうか?一時的には罪を犯すことがあっても、罪のないキリストに戻るということです。9節に何と書いてあるでしょう。「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」こっちの方がもっと強烈です。私たちは神から生まれた、神の子どもです。神のいのちがあるので、罪を犯し続けることができないのです。つまり、かつての古い私たちは罪を犯すのが当たり前であり、罪を犯しても何の痛みも感じませんでした。かえって「気持ち良い」と感じたかもしれません。しかし、キリストを信じて新しく生まれ変わると、神さまのいのちが与えられます。そうすると、罪を犯すことが当たり前ではなく、不自然になります。神のいのちが私たちを支配しているので、「罪を好んで犯したい」とは思わなくなるのです。ですから、キリスト教の場合は、道徳とは全く違います。道徳は外側から「ああしてはいけない。こうしなさい」と、人を変えようとします。それは、一時的にできたとしても、人が見ていなければやっちゃうでしょう。しかし、神さまはそうではなく、新しい命を与え、おのずと罪を犯さないように性質を変えてくださるのです。罪の法則に対する、御霊の命の法則です。

また、ヨハネは、イエス様が罪に対して画期的なことをされたことも延べています。Ⅰヨハネ3:4-5「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」私たちの性質が変わることも大切ですが、実はこのことがもっと重要なのです。「キリストは現われたのは罪を取り除くためであった」とありますが、ここから私たちはヨハネ1章のバプテスマのヨハネのことばを思い出します。ヨハネ1:29「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と同じ意味です。多くの場合、「私たちはイエス様が十字架で私たちのすべての罪を負われた。そのことによって、私たちの罪が取り除かれたんだ」と言います。私もイエス様は「私たちの過去の罪、現在の罪、将来犯すであろう罪をも負われたのです」とメッセージします。このことは救いのメッセージとしては間違いありません。そのとおりです。でも、それだけでは罪を取り除くことはできません。確かに、私たちが犯す行為の罪は取り除くことができるでしょう。でも、私たち自身の中には、罪を犯す性質があります。私たちは律法に逆らいたい、律法なんか守りたくないという生まれつきの性質が宿っています。イエス・キリストは十字架で血を流し、代価を払って私たちを贖い出してくださいました。では、その代価はだれに支払われたのでしょう?神さまは私たちをどこから買い取ってくださったのでしょう。ある人は、サタンの支配下から買い取られたとか、罪過から買い取られたとか、あるいはこの世から買い取ってくださったと言います。しかし、それらは正しくありません。合法的な手続きで買うということは、元の所有権が合法的であったことを認めるということになります。神さまはサタン、罪悪、この世が合法的だと認めたことはありません。彼らは非合法的に私たちをぶんど取り、そして支配していたのです。神さまは十字架上の救いによって私たちをこれらから救い出してくださいました。ですから、この面から言えば、救われたのであって買い取られたのではありません。

 では、いったい神さまはどこから私たちを買い取られたのでしょう。ウィットネスリーの『命の経験』という本から引用させていただきます。ガラテヤ4章5節には「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」とあります。私たちは神の子としての身分を受けるために、何が必要であったか書かれています。私たちは一体、どこから買い取られて、神の子どもとなることができたのでしょう?そうです。神さまは私たちを律法の下から贖いだされた、つまり、律法の下から買い取られたのです。私たちは罪を犯して堕落したとき、サタン、罪悪、この世の下に落ち込んでそれらの奴隷になりました。しかし、それだけではありません。神の公義にそむき、神の律法を犯して、罪人となってしまったのです。罪人となってしまったので、私たちは神の律法の下に落ち込んだのです。そして、この律法に拘留されたのです。ですから、もし神が私たちを神の義なる律法の下から解放したいのなら、神の律法の要求を完全に満たすような、完全な代価が払われなければなりません。この代価が、神の御子によって流された尊い血なのです。この尊い血が神の律法の要求を満たしたので、私たちは神の律法の下から贖い出されたのです。…あまり感動はありませんでしょうか?みなさん、律法の下にある人間は、いつも「あなたは律法を満たしていない」とか「罪を犯していますよ」とさばかれます。律法はこれで良いということがありません。あなたが生きている限り、律法はあなたを追いかけ、「あなたには罪があります」と私たちを告発するでしょう。でも、イエス様が代価を払い、律法の下から、つまり律法の奴隷から贖い出し、神の子としてくださったのです。私たちが救いを得た、その日以来、もはや律法の支配下にいないのです。ハレルヤ!

 あなたは律法の支配下から、花婿なるキリストのもとに移されました。律法はあなたに罪があると告発します。しかし、もう、あなたは律法とは別れたのです。だれと結婚したのですか?そうです。イエス・キリストと結婚したのです。イエス様は本当に優しくて、あなたが罪を犯さないように守り、導き、励ましてくださいます。私は生まれてこの方、ずっと、叱られ、怒られてきました。家の中だけではありません。小学校で、中学校で、高校で、先生からいつも、いつも叱られてきました。友人からも、会社の人たちからも、批判や非難を浴びました。また、サタンからも「お前には罪がある。お前はこういうことをした。お前はダメなやつだ」と訴えられてきました。クリスチャンになってから、罪が赦されたはずなのに、神様から「まだ足りない。なまけている。罪を犯している」と叱られている気がしました。教会員からも、役員会からも「牧師らしくない。そこが違う」と批判されている気がします。テレビを見ると、「日本の首相にはなりたくないなー」と思います。もちろん、なれませんけど。首相は選ばれたときは、高められます。でも、まもなく非難やバッシングを受け、辞職に追い込まれます。牧師も政治家も面の皮が厚くなければできません。だけど、聖書は何と言っているでしょう?「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」とあります。律法から贖いだされたとは、もはや律法の下にはいないということです。それは、具体的にはどういう意味でしょうか?もう、だれからも咎められない、訴えられないということです。咎めが去ったということです。パウロはローマ8章で何と言っているでしょう?ローマ8:33-34「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」アーメン。律法から贖い出されたということは、だれからも罪に定められない、咎められないということです。もし、「罪あり」と訴えられることがあったら、イエス様が神の右の座でとりなしてくださいます。

まとめると、本当の神の子どもとはどういう人でしょうか?第一は、自分は神の子どもなので神の子どもらしく生きます。そして、人格的にもキリストに似るようになるということです。第二は、神の子どもは罪を犯し続けないということです。なぜなら、神のいのちが与えられているからです。また、神のこどもは律法から贖われたので、罪を責められることがないということです。これまでは、私のように「また何か言われるんじゃないかな」とびくびくしていたかもしれません。そういう生き方は、律法の下にある人です。神さまが私たちの味方であるなら、だれからも訴えられることがありません。しかし、現実には私たちの過失や怠惰のゆえに、人々からさばかれることがあるでしょう。でも、「私は律法の下にはいないのだから、だれからもさばかれない」という信仰を持っていたらどうでしょう。今までは、ちょっと注意や忠告を受けたとき、「ああ、さばかれた」と過剰反応していたかもしれません。でも、心の深いところに「キリストのゆえに、咎めは去った。裁かれない」という確信があればどうでしょう。「ああ、ごめんなさい。今後は、気をつけます」となるのです。さらには「正してくれてありがとう」と感謝することができるのです。これが神の子の生き方です。神の子はたとえ、罪を訴えられても壊れないのです。反対の立場から言うなら、どうなるでしょう。神の子は律法の肩を持って、人を訴えてはいけません。むしろ、イエス様のように人々をとりなし、犯した罪を軽くする人です。神の子は贖い主イエス様のようになるべきです。人の罪を責めるのではなく、むしろ、人の罪を贖おうとするのです。

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2011年10月16日 (日)

注ぎの油    Ⅰヨハネ2:24-29

ヨハネは反キリスト、あるいは偽り者に惑わされないようにと注意しています。なぜなら、世の終わりになると自分がキリストだと名乗ったり、偽預言者が多く現われるからです。では、どのようにして教会は正しい教えに基いた信仰を保ち続けることできるのでしょうか。ヨハネは「とどまっている」とか「とどまっていなさい」と何度も述べています。私たちは何にとどまるべきなのか、3つのポイントでメッセージさせていただきます。

1.初めから聞いたこと

ヨハネは、初めから聞いたことにとどまるように命じています。Ⅰヨハネ2:24-25「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。」初めから聞いたことにとどまっているなら、御子および御父のうちにとどまっていることであり、永遠のいのちが与えられるということです。では、「初めから聞いたこと」とは何でしょうか?「初めから聞いたこと」とは、イエス様が語られたことばです。ヨハネもその一人ですが、使徒たちはイエス様が語られたことばを記憶し、それを書き留めました。でも、最初から私たちが持っているような聖書というのはなかったと思われます。彼らはいくつかの塊として記憶し、それを伝えて行ったのでしょう。やがて、人はこれを信じれば救われるという福音の標準みたいなものを作ったのではないでしょうか。それをギリシャ語ではケリュグマと言いますが、日本語では「使信」とも訳しています。つまり、公に宣べ伝えられたメッセージの内容であります。もし、伝えるべき使信を標準化すれば、次から次へと伝えられてもずれることはありません。

Ⅰコリント15章にそういうものの証拠があります。Ⅰコリント15:1-4「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」ここには、幾度も「宣べ伝えたもの」と書かれています。おそらく、パウロ自身も「宣べ伝えたもの」を受け、それをコリントの人たちに宣べ伝えたのでしょう。その内容というのは「キリストが罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと」です。パウロは、「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」と言っています。パウロが言っていることと、ヨハネが言っていることは、ほとんど同じです。教会も礼拝中にケリュグマ、使信をみんなで告白したり、あるいは説教で宣言しています。当教会ではあまりやりませんが、「使徒信条」というのがあります。そこには、まさしく、キリストの受肉、十字架の死、復活、王としての支配、再臨まで含まれています。たまには、告白すべきだと思いますし、礼拝で告白すべきだという声もあります。私は最初の頃「使徒信条」を告白しましたが、10年前くらいから、あまり礼拝で告白しなくなりました。

使徒信条は使徒たちが亡くなった後にできたものです。初期の頃はキリストに関する誤った教えがたくさん世に出てきました。そのため、キリストのなされたことを確認するためにも使徒信条を告白しました。でも、啓蒙主義以降、聖書に攻撃の矛先が向けられました。19世紀には自由主義神学が起こり、「聖書は本当に神のことばなのか」疑われるようになりました。そして、聖書は他の書物と同じように批評学の名のもとでバラバラにされました。結局、「これはモーセが書いたのではない。これはパウロが書いたのではない。聖書に書かれているイエスと歴史的なイエスとは違う」とまで言い出しました。それでも、教会はケリュグマ、使信をかろうじて守ってきました。しかしながら、現代の教会は、聖書のその他の部分は自由主義神学に妥協してしまったのです。多くの教会は「聖書は全部正しいとは言えないが、使徒信条だけは正しい」として告白しているのです。私が牧師として一番、主張したいのは、ヨハネが言う「初めから聞いたこと」とは、「使徒信条のイエス・キリストの受肉と死と復活のことだけではない」ということです。私はイエス様が弟子たちに教えた1つ1つのことばも守るべきだと思います。また、イエス様がなされた奇跡やしるしもすべて事実であり、意味があると思います。それだけではありません。旧訳聖書と新約聖書は、神のことばであり、それらを丸ごと信じ、丸ごと守り行うべきだと思います。もちろん、イエス様の新しい契約のもとでという条件付きです。私たちはイエス様が弟子たちに教えた教え全部に、とどまるべきです。

2.そそぎの油

Ⅰヨハネ2:26-27「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」第二は、そそぎの油があなたがたのうちにとどまっている。だから、他の人たちから教えを受ける必要はないということです。J.Bフィリップスは「人間的な教師から教えられる必要はない。御霊がすべてのことをあなたがたに教える」と訳しています。「そそぎの油」とは何でしょう?今、もう言ってしまいましたが…。御霊、聖霊ですね。ヨハネ14章に同じような表現があります。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」アーメン。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」イエス様は、真理の御霊、聖霊のことを話す前に、「しかし」と言ってから話しています。「しかし」というのは、前のことを否定して、「実はこうだよ」という接続詞です。弟子たちは「イエス様がいなくなったら、だれが教えてくれるのだろう」と心配しました。そして、イエス様自身も、話すことがたくさんあるけれど、弟子たちにはそれに耐える力がないということを知っていました。「しかし、真理の御霊が来ると、私が話したことを思い起こさせ、教え、真理に導いてくれる。だから、大丈夫だ」ということです。

弟子たちは実際、そのことを体験しました。ペンテコステの日、天から聖霊が下りました。弟子たちはそそぎの油を受けたのです。すると、一斉に預言や異言を語りました。それだけではありません。旧訳の預言とイエス様がおっしゃったことが、マッチしたのです。そして、イエス様が十字架で死んで、よみがえらなければならなかった理由を知りました。だから、ペテロは聖霊に満たされ、火を吐くようなメッセージを語りました。それで、3000人が福音を信じて救われたのです。数日後、生まれつき足なえの男が癒されて、またペテロがメッセージしました。今度は5000人がイエス様を信じました。それで、当時の指導者は驚いて、ペテロたちを捕らえ、裁判にかけました。再び、ペテロは聖霊に満たされて、キリスト以外に救いはないことをメッセージしました。それで彼らはどう思ったでしょう?使徒4:13「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」アーメン。彼らは、自分たちこそ聖書の専門家だと思っていました。しかし、聖書を学んでいない、無学な普通の人たちが、あのような教えをしてびっくりしたのです。真理の御霊、聖霊が彼らに教えたので、だれも太刀打ちできなかったのです。

今の時代も同じことが言えます。近年、教会に復旧したのが、ディボーションあるいはQ.Tと言われるものです。これは聖書のみことばを深く思う、黙想するということです。日本では榎本保郎先生がアシュラム運動でことのことを教えました。榎本先生は聖書の全部が神のことばと信じない神学校を出ていましたが、「みことばに聴く」ということを徹底した先生です。それから、キャンパスクルセードやナビゲーターが、Q.T「静思の時」を広めました。それまでの、ディボーションは「荒野の泉」とか「日ごとの糧」のように、だれかが書いた本を読んで、祈るというのが主流でした。そうではなく、聖書だけを静かに読んで、そこから教えや適用をいただくようにしたのです。そこで、問題になるのが、一般の信徒が、聖書を読んでも間違って解釈するのではないかという心配です。「やっぱり、牧師とか正しい教師から教えてもらわないとだめだろう。」まるで、中世のカトリック教会のようなことを言っていたのです。しかし、聖書に何と書いてあるでしょう。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」、「彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える」とあります。多くのクリスチャンは、こういう約束があるにも関わらず、「聖書は分かりにくいからやっぱり解説書が必要だ」と直接、聖書を読むことを避けてきました。そうではありません。1章でも、たった10節でも良いです。静かな心で、じっくり何度も読んでいると、「ああ、こんなことが書いてあるなー」「ああ、こういうことなのか」「ああ、すばらしい」という発見が必ずあります。聖書は難しい書物ではありません。聖書は読んで分かる書物です。なぜでしょう?聖書は聖霊なる神が書いたのです。聖霊がいわば聖書の著者です。だったら、著者である聖霊に聞けば、一番良いのではないでしょうか?

私はこの方法で、いつもメッセージを準備します。駆け出しの頃は、注解書や参考書を読んで、こことあそこをくっつけて、1つの説教にしようとしました。すると頭がものすごく痛くなります。そればかりではありません。恐れで一杯になり、まだ、足りないような気がします。借り物なので、話し方に力がなく、「…と書いてあります」「そう言われています。ご参考までに…」全然、力がありません。でも、注解書や参考書を読まないで、まず、聖書をじっくり瞑想して、神さまからメッセージをいただきます。その後に、注解書で確認したり、例話を入れます。でも、メッセージは神さまからいただいたという確信がありますので、全然、違います。どうぞ、聖霊は牧師にだけ働くのではありません。みなさんにも聖霊のそそぎの油がとどまっています。だから、毎日、ご飯を食べるように、霊の食物、みことばをいただいてください。真理の御霊が家庭教師のようにあなたに教えてくれます。そして、一日中、聖霊は共におられ、あなたに知恵と導きを与えてくださいます。

3.キリスト

第三はキリストのうちにとどまるということです。Ⅰヨハネ2:27の後半から「また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」アーメン。構成から見てみますと、キリストのうちに正しくとどまるためには、2つのことが必要です。第一は、はじめから聞いたことにとどまるということです。これは現在の私たちで言うなら、聖書のみことばにとどまるということです。もしも、聖書のみことばが正しくないならば、神さまもイエス様もゆがんでしまうからです。第二は、そそぎの油が私たちのうちとどまるとうことです。聖霊がみことばの意味を解き明かし、神さまのみ旨とイエスの教えを理解させてくださるのです。第三は、最終的にキリストにとどまるということです。聖書、聖霊、そしてキリストです。なぜ、このような順番なのでしょうか?ヨハネが生きていた頃は、イエス様お一人で十分でした。イエス様ご自身がことばであり、教える助け主でした。弟子たちは目の前におられるイエス様にとどまることはとても容易でした。そのお方に、ただ、着いて行けば良かったのです。でも、イエス様は天にお帰りになり、その後、使徒たちも天に帰りました。残されたのは、イエス様がなされたことと、その教えを記した聖書です。そして、イエス様の代わりに来られた聖霊様です。だから、私たちの時代は、どうしても、聖書と聖霊を通して、イエス様に出会うしかないのです。たまには、聖書と聖霊をバイパスして、イエス様に出会う人もいます。インドネシアではイスラムがとても盛んで、キリスト教徒たちを迫害します。あるとき、イスラムの人が建物の前にやってきました。連日の雨のため、水溜りができていました。目の前の建物は普通の建物です。しかし、その水溜りに建物だけが写っていたのではありません。イエス・キリストが大きく写っていたのです。「うぁー」と、イスラムの人たち全員が、そこに打ち倒されました。そして、起き上がったときにはみなクリスチャンになっていたそうです。リバイバルが起こっているところではそういうことがあります。でも、そうでないときは、ちゃんと聖書、聖霊、イエス・キリストと順番を踏むべきなのです。

では、キリストのうちにとどまるとはどういう意味でしょうか?実は、前の聖書と聖霊のとどまるはちょっと表現が違っていました。そのことに気付いていたでしょうか?第一は「初めから聞いたことがとどまっているなら」と書いてありました。主役が初めから聞いたことで、こちらは受身です。第二は「そそぎの油があなたがたのうちにとどまっています」と書いてありました。これも、主役がそそぎの油で、私たちは受ける方です。とどまるかとどまらないかは、聖霊次第みたいなところがあります。でも、第三は「キリストのうちにとどまっていなさい」となっています。あきらかに主役は私たちであり、「意思を持って、そうしなさい」ということです。英語の聖書には、キリストにとどまるということをいろんな表現をしています。J.Bフィリップスは「キリストのうちに継続的に生活しなさい」と訳しています。英国の聖書は「キリストのうちに住みなさい」と訳しています。リビングバイブルは「いつまでも、主と親しい友好関係を保ちなさい」と訳しています。「キリストにとどまる」とはヨハネの中心的な教えです。ヨハネ15章にぶどうの木のたとえが書いてあります。ヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」ここからも分かるように、キリストにとどまるかどうかは私たちの責任です。神さまは私たちの意思を尊重しておられます。もし、私たちがキリストにとどまるなら、キリストも私たちの中にとどまるのです。そして、どうなるのでしょうか?キリスト様が実を結ばせてくださるのです。私たちはキリストを離れては実を結ぶことができません。枝である私たちが、幹であるキリストにとどまるときに、キリスト様から命が流れてきて、結果的に実を結ぶのです。とどまるのは私たちがすべきことであり、実を結ぶのはキリスト様の責任です。

どうでしょう?この世は逆を行っているのではないでしょうか?特にスポーツの世界では結果を出さなければなりません。サッカーでもいくら惜しいシュートをしても、入らなければ意味がありません。スポーツの世界は結果がすべてです。ビジネスもそういうところがあるのではないでしょうか?途中の努力とか関係ありません。ある場合は、動機すらも関係ありません。動機が多少不純でも結果が良ければ良いのです。人々は結果を出すために、一生懸命頑張っています。ごく一部の人が結果を出して、頂点を極めます。しかし、多くの人は挫折したり燃え尽きたりします。なぜでしょう?結果ばかりに、フォーカスを当てているからです。私たちはイエス様を信じてクリスチャンになったかもしれません。でも、ある人は思いが変わっていません。「やっぱり頼れるのは自分だけだよな」「まず、お金を稼がなくては」。牧師なら「何とか人数を増やして、教会を大きくしたい」ということでしょうか。私もそういうふうに、30年がんばってきました。でも、それは結果であり、実なのです。香港のベン・ウォン師は「実よりも根が大切なのです。根とは本質です」と口をすっぱく言ってきました。根のまわりに、土があります。その土の中に嘘と真実があり、嘘がいっぱいの場合は、木も育ちません。だから、嘘を真実に置き換える作業が必要だということです。結果よりも、本質が重要だということです。私たちも、本質である、キリストご自身にとどまることが大切なのです。

ある人たちは聖書の教え、教義にとどまっています。カルバンやルターはたくさんの信条を作りました。ある教会ではそういう信条や教理問答を学んで、それを守ろうとしています。それでは人間は変わりません。キリストのうちにとどまるとは、人格関係であり、単なる教えではありません。何故、私たちが教えを守るのでしょうか?それはイエス様を愛しているからです。そして、イエス様の愛を受け、イエス様に従うときに、結果的にそれらの教えを全うしているのです。教えが第一に来るときは、それは律法主義になり、人を死なせます。「文字は殺し、御霊は生かすからです」。私たちはたえずイエス様と交わり、イエス様に聞くのです。すると、イエス様の方からやる気が与えられます。なんと、意思や努力や力さえもイエス様がくださるのです。ある人は、「やる気は別だ」と言いますが、信仰は意思信仰ではありません。私たちの生まれつきの意思は弱いのです。聖書に「主の御名を呼ぶものはみな救われる」とあります。朝、起きれないとき、どうするでしょう。「ああ、あと5分寝たい。ああ、起きたくない。でも起きなければ」。もがけばもがくほど、ふとんにのりが付いたようにへばりついて離れません。でも、その時、試してください。「イエス様、イエス様、感謝します」と言ってみてください。1,2分後、自動的に起きることができます。「ああ、あの人を赦せない」「ああ、あのことが心配でたまらない」「ああ、イヤな出来事を思い出した」、そんなとき「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」と言ってみてください。瞬間的に思い煩いが去り、平安に満たされます。イエス様にとどまることはそんなに高尚なことでも、難しいことでもありません。日々、イエス様と交わり、イエス様と共に歩むことなのです。そうすると、あとから結果である実が結ばれていきます。

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2011年9月25日 (日)

三つの誘惑    Ⅰヨハネ2:15-17 

先週は毛利佐保伝道師が、教えの賜物をフルに発揮して、良きメッセージを取り次いでくださり感謝します。私もCDで聞いて大変、教えられました。きょうは、3つの誘惑と題して、ヨハネ第一の手紙からメッセージさせていただきます。この世の背後には悪魔がいて、何とか私たちを「神さまから離そう、離そう」とやっきなっています。悪魔は私たちの自由意思はコントロールできません。だから、人々が手に入れたい欲望を目の前に置いて、それを自らの手で選択させ、罪の中に招き入れるのです。この3つの誘惑は不思議なことに、聖書の始めと真中、そして、終わりの3箇所に書いてあります。創世記3章はアダムとエバが誘惑に負けた記事です。そしてマタイ4章はイエス様が悪魔から誘惑を受けて勝利した箇所です。きょうは、それらの記事も参考にしながら共に学びたいと思います。

1.肉の欲

第一は肉の欲、肉体に対する欲望です。創世記3章に何と書いてあるでしょう。創世記3:6「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く」と書いてあります。エバはその木の実を見て、「ああ、美味しそうだなー、一口、食べてみたいなー」と思ったのです。私たちもデパ地下を歩いていると、「わぁー、美味しそうだなー」と思うものがいくつもあります。マタイ4章で悪魔はイエス様をどのように誘惑したのでしょうか?イエス様は40日40夜、断食をして空腹を覚えておられました。そういう人には何が必要でしょうか?マタイ4:3「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」と誘惑しました。お腹が減ると、丸い石が、丸いパンに見えてくるでしょう。イエス様は石をパンに変えるくらい、何でもありませんでした。しかし、それをしないで、「人はパンだけで生きるものではない、神のことばである」と退けました。すごいですね。アダムとエバは誘惑に負けましたが、イエス様はその誘惑に勝利しました。

では、私たちはどうでしょうか?「肉の欲」とは、食欲だけではありません。性欲もあれば、いろんなものを消費することの喜びも含まれます。女性は一般的に食欲に弱いですが、男性は性欲に弱いかもしれません。テレビのCMを見て多いのは何でしょう?ビールのコマーシャルが非常に多いですね。他にコーラー、ハンバーグ、ケンタッキー、チョコレート、カレー、カップラーメンがあります。また、グルメ番組や産地直送のTVショッピングがあります。バスでも観光や温泉だけではなく、産地のものを食べられるバイキングがセットになっています。カニやステーキ食べ放題。梨、桃、いちご、みかんの食べ放題。それで、5,980円なんて言われると「行こうかなー」と思います。行ったらどうでしょう?「元を取らなくちゃ」と腹いっぱい食べるでしょう。私は先週、大津バプテストのセルの会議が終った後、明石の井上先生が牧会している教会に行きました。土曜日の朝と夜、近くのレストランに行きました。そこはバイキング形式で、食べ放題でした。私は貧しい家庭で育ったので、どうしても、お皿にいっぱい盛ってしまいます。家にいるときは、粗食なんですが、外に出るとどいう言う訳か食べたい。井上先生から「そんなに取るの?」と笑われました。やっぱり、心の奥底に「元を取らなければ」という思いがあるんですね。

戦後は、とても貧しかったので、食欲に弱いという人はいるかもしれません。町を歩くと、「うぁー、ウェート、オーバーしているんじゃないの」という人が結構いらっしゃいます。今は、食べられなくて困っている人はあまりいません。逆に、「ダイエットして、痩せたい」と言う人が大勢います。現代は消費文明です。どれくらい多く消費するかが喜びになっています。文明国になればなるほど、ゴミや生ゴミが増えてきます。人々は大きな胃袋を抱えて、「もっとくれ、もっとくれ」と叫んでいます。私も近くのアリオのヨーカドーに行くときがあります。前の人の籠を見ると、「え?そんなに食べられるの?」と、驚くことがあります。どうして、必要以上に、食べたり、飲んだりしなければならなのでしょう?それは心の奥底が満たされていないからかもしれません。イエス様は「この水を飲んでも、また渇く」と言われました。また、イエス様は「私の食物は、父の御心を行うことです」とも言われました。私たちは、この世のものだけではなく、神さまがくださる食べ物や飲み物も必要です。もし、心が満たされていないならば、食べても飲んでも満足しないばかりか、それらの中毒になってしまいます。大体、この世のものはみな、中毒性があります。お酒、マックのハンバーグ、ポテトチップス、コーラー、コーヒーも中毒性があります。私たちはそれらのものを「急にやめろ!」と言われても無理です。その代わり、心を満たす、神のことば、神の飲み物を内側に入れます。そうすると、この世が与える、肉の欲を欲しがることが抑えられるのです。

2.目の欲

第二は目の欲です。創世記3章で、エバはどうだったでしょう。創世記3:6「目に慕わしく」と書いてあります。マタイ4章ではどうでしょうか?悪魔はイエス様に対して「神殿の頂から、飛び降りてごらんなさい。神の御使いがあなたを支えるから」と言いました。何故でしょう?その当時、メシアは神殿の頂から、突然、現れ、大いなる奇跡を行うことが期待されていました。子供のヒーローものがみなそうです。ヒーローはどういう訳か、崖の上とか、ビルの上など、高いところに現れます。そこで、自分の名前を名乗り、「ひゅー」と飛び降りてきます。イエス様も奇跡を行なって、人々を驚かせて、「私がメシアだ」と言えば、言えたはずです。でも、イエス様は「主を試してはならない」と、それを拒まれました。人の注目を集めたい、パフォーマンス指向、皆さんにもあるのではないでしょうか?AKB48も、カラや少女時代もパフォーマンスが売り物です。私も、なぜ、そんなに詳しいのでしょう?

目の欲はだれにでもあります。これは容姿ということです。女性ですと、「もっと美しくなりたい」ということです。男性ですと郷ひろみのように「いつまでも、かっこ良くありたい」ということです。テレビCMでは、やはりお化粧のコマーシャルが多いですね。アイシャドー、マスカラ、ファンデーション、化粧水…色んなので化けた後、それをさっと洗い流すものもあります。だったら、はじめからしなければと思いますが、そういう訳にもいきません。たまに、電車でお化粧している若い人を見ます。ずっと、目をいじっている人がいます。最初は、目を大きく開け、アイスクリームを取り出すような機械で何かやります。それから、黒い棒で伸ばし、最後にアルミのような板で整える。目だけで、20分かかります。髪の毛や顔を入れたら、たぶん1時間はかかるのではないでしょうか?それよりも、「中味を磨け」と言いたくなります。しかし、男性にも人によく見せたいという欲望があります。使徒の働き12章にヘロデという王様が出てきます。彼はヤコブを剣で殺したあと、ペテロをも捕らえにかかりました。使徒12:21-23「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」とあります。使徒パウロは普通にしていたのですが、ヘロデは自分を何か偉大な者であるかのように見せたかったのです。

目の欲とは容姿だけではありません。ある聖書の訳では「心が切望しているもの」とあります。肉の欲が肉体に関することであるなら、目の欲は心や思いに関することであります。「目は心の窓である」とイエス様がおっしゃいました。その人が何を欲しているか、何で満たされたいのか?それは、「心が欲しているものである」と言い換えても良いのです。どうして、人々は目立ち立ちことをしたいのでしょうか?それは、たぶん人々からうとんじられたり、無視されて育ったからかもしれません。あるいは価値がないと思われていたかもしれません。そうすると、「私はここにいますよ」「私はこれだけ価値がありますよ」とアピールしたくなります。「人から認められたい。」「人から重要な人物と思われたい。」そういう思いはだれにでもあるのではないでしょうか?だから、人々は一生懸命、働いたり、良いことをします。それで、正当な評価を得れば満足しますが、ある場合は、認められない場合があります。そういうときは、失望落胆し、この世を恨むかもしれません。もし、人の評価で自分の価値を量るならば、どうなるでしょう?エレベーターのように、上がり下がりするような人生になるでしょう。テレビに出てくる人たちは、人の拍手喝采の量で自分の価値を評価しています。彼らはエンターティナーですが、私たちはそうであってはなりません。イエス様はメシアとして、まだ何もしていないのに父なる神さまから何といわれたでしょうか?マタイ3:17「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」。イエス様はまだ、何もしていないのに、父なる神さまから是認され、評価されていたのです。行いではなく、存在そのものが認められていたのです。だから、サタンから誘惑されても平気だったのです。私たちも、「神さまがどう私を見ておられるか、どう思っていらっしゃるか?」ここに焦点をあわせるなら、目の欲に誘惑されることはありません。

3.暮らし向きの自慢

第三は暮らし向きの自慢です。口語訳は「持ち物の誇り」と訳しています。これを持ったら、「幸せになるだろうなー」という物です。アダムとエバはどうだったでしょうか?創世記3:6「賢くするという木はいかにも好ましかった」。これは、神の代わりに善悪を知ることができるということです。人間はより多くの知恵や知識を持ちたいという欲望があります。では、イエス様の場合はどうだったでしょうか?マタイ4章、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて何と言ったでしょう。マタイ4:9「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言いました。ルカ福音書には「それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言っています。イエス様はここで、「馬鹿こけ、これは神さまのものだ」とは言いませんでした。悪魔は本来、人間のものであったものを、人間が罪を犯した後、横取りしていたものと思われます。つまり、この世の物の背後には、悪魔がいるということです。

私たちは自分が何を持っているかによって、自分を量る傾向があります。昔、自分が小さな貿易会社に勤めていたころ、社長の車を運転したことがあります。クラウンを運転していて、自分が何か特別な存在のように思えました。たまにアウディに乗っている人を見ると、私などは振り返ってしまいます。乗っている人は「ああ、振り向かれたかなー」と思うかもしれません。女性ですと、ハンドバックとか、指輪、洋服、靴、そういうもので自分の価値を高めることはないでしょうか?高級品を身につけていると、「自分はすごいんだ」と思うのではないでしょうか?また、住んでいる家はどうでしょうか?一戸建てでお庭がついている、○○ハウス。いや、注文住宅。家の中は高級な家具調度品。大塚家具というのは結構、高いですね。「いや、うちはニトリで良い」という人もいるかもしれません。やっぱり、暮らし向きの自慢というのは、人間の中にあります。携帯でも新型を持っているだけで気分が良いのではないでしょうか?世の中は、「これを持ったら、リッチな気分を味わえますよ」「これを買ったら、快適な生活を送れますよ」と誘惑してきます。ある人たちは、大きな借金までして、そういう生活をしようとします。生活のレベルを上げ過ぎたため、破産状態になっている人もいます。

私たちはこの地上で生きるためにいろんなものが必要です。家や車、家財道具、電化製品、衣類、装飾品、無いよりもあった方が良いに決まっています。でも、なぜ、これが誘惑になるのでしょうか?それは神さま以外のものに頼ってしまうことになるということです。物があれば大丈夫、お金があれば大丈夫。そうすれば、神さまに頼る必要がありません。そして、自分が持っているものをどうしても誇りたくなります。持てば持つほど、プライドも高くなり、神さまは低い存在になります。ベン・ウォン師のおじょうさんがネパールへ短期宣教に行ったことがあるそうです。今から、10年以上前です。当時のネパールは非常に貧しく、不衛生な国でした。おじょうさんが、テントに泊まったら、なんとサソリが入ってきたそうです。もちろん、おトイレも粗末で、穴がぽこんと掘られ、ちょっとした囲いがあるだけです。お嬢さんは、またネパールに行きたいと言ったそうです。若い人は欧米を旅行するよりも、カンボジアやバングラディッシュに行ったほうがよっぽど勉強になるかもしれません。おそらく、人生観が変わります。でも、現代文明を全部否定して、貧しくなるというのは不可能です。私たちはそういう生活に慣れてしまいました。贅沢はよくないかもしれませんが、ある程度のものはやはり必要です。でも、物があれば快適で幸せかというと、それだけではないということも知る必要があります。イエス様は金持ちの人に「人の命は持ち物によらない」と言われたことは真実だと思います。

結論:

ヘンリ・ナーウェンという人の本が日本の牧師たちの間でとても読まれています。銀座の教文館にもたくさん並べられていました。彼はオランダのカトリック司祭で、大学教授でした。50代になってから霊的な不安を体験し、知的障害者の施設で働くようになりました。彼は自分の知識や体験が通用しない世界に放り込まれました。その生活を通し、自らの過去が、いかに能力を誇示し、人々の関心を集め、権力を手にしようとする欲求に影響されていたかを知ったということです。ヘンリ・ナーウェンも「イエス様が受けたような誘惑をそこで受けた」と、ある本に書いてありました。第一は「自分の能力を示すこと」、第二は「人の関心を買うこと」、第三は「権力を求めること」です。彼は20年間もイェールやハーバード大で教え、また司祭でした。彼はたくさんのものを持っていたので、人々を教えることができ、導くことができると思っていました。しかし、知的障害者の施設で働いてみて、そういうものが全く役に立たないことを知ったのです。そして、能力を示すことから祈りへ、人気を求めることから仕えることへ、導くことから導かれることへと変えられたのです。イエス様も神の子でしたから、奇跡を行い、パフォーマンスし、天国の奥義を示すことができました。しかし、地上の人たちは、地上のことしか分かりませんでした。「今、食べられれば良い。」「この病気が治れば良い。」「生活が豊かになるように祝福してください」というものでした。現代の教会もある意味では、人々に一時的なものを提供して終っているところがあるかもしれません。人が集まっている大きな教会は良い教会。設備やスタッフが充実しているのは良い教会。そのように祝福された教会が人々に祝福を与えることができる。「だから、神さま、もっと私たちを祝福してください。もっと私たちに力を与えてください。もっとあなたの奥義を示してください」。何か、似ていることをしているように思います。

イエス様は「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と言われました。私たちはこの世がいつか滅びることは知っています。しかし、世にあるものは、いつまでも続くと勘違いしているのではないでしょうか?「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」今さら、驚きます。「え、神さまがくださったものじゃないのですか?」では、一体、だれがくれたのでしょうか?それはこの世の神である悪魔です。悪魔はこれら地上のものをつかませ、これがすべてであるかのように思わせます。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢こそが、いつまでも続くものであるかのように思わせます。これらの欲に捕まった人たちはどうなるのでしょうか?この世のものを愛すれば愛するほど、神さまを愛さなくなります。私たちの心が1つの部屋だとすれば、どうでしょう?そこにいろんな欲望や関心ごとがつまっています。あるとき、KGCの交わり会がありました。そこで、自分が今、願っているものを証ししました。ある人が「オーブンが欲しい」と言いました。私は「プリンターが欲しい」と言いました。「良い仕事が見つかるように」と言う人もいました。そこでは、だれも言いませんでしたが、結婚相手が欲しい人もいたでしょう。そうすると、心の中に神さまのおられるところはどこになるのでしょうか?神さまが家具調度品の裏側に追い込まれるかもしれません。なんと、私たちの関心ごとはこの世のものなのでしょう?悪魔はその点で、本当に成功しています。日本中、いや、韓国もアメリカの人たちも、「これを持てば幸せになれる」「これをしたら人々から注目される」と誘惑され、それに負けています。どうぞ、この世とこの世のものは過ぎ去ることを認めましょう。

では、一体、何が永遠に続くのでしょうか?Ⅰコリント13章に書いてあります。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」アーメン。この世のものがすべて悪いと言っているのではありません。私たちは所有者ではなく、過ぎ行くものの管理人であることを自覚すべきです。そして、これらのものを、信仰と希望と愛のために用いるのです。そうすると、それらのものを自分の欲を満たすのではなく、神さまと隣人のために用いることができます。そうするとその人は、世のものの奴隷ではなく、むしろ管理者です。ハレルヤ!イエス様はマタイ6章でこのように言われました。マタイ6:32-33「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神の国とその義を第一に求め、優先順位を立てながら、この世の誘惑に勝利していきたいと思います。

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2011年9月 4日 (日)

子、若者、父    Ⅰヨハネ2:12-14

教会は「神の家族」とも言われています。この世の家族には、父や母、兄や弟、姉や妹がいます。同じように、神の家族、教会には霊的な父、若者、子供と3種類存在しています。お断わりしますが、父の中には、母も含まれていることを申し上げます。私たちは癒され、成長して、地上の家族で得られなかったものを神の家族で得ることができます。「子、若者、父」というメッセージは当教会では、何度かお話したテーマです。しかし、改めて、これらの3段階で何を学び、何を克服しなければならないのか、霊的な成長段階を考えたいと思います。

1.子どもたち

霊的な子どもには何が必要なのでしょう?Ⅰヨハネ2:12「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」霊的に生まれた子ども、つまりイエス様を信じたばかりの人が必要なのは、「罪が赦されている」ということです。「救いの確信」と言っても良いかもしれません。人がイエス様を信じるとき、「罪の赦し」から入る人もおれば、「永遠の命」とか「人生の意味」など、他のテーマで救われる人がいます。「ああ、自分は罪人である。罪の赦しが欲しい」と願って救われた人は、おそらく半分以下でしょう。でも、洗礼を受けて、クリスチャンなってから「ああ、私には罪がある。イエス様の十字架は私のためだったんだ」と理解する人の方が多いのではないでしょうか。そこで気付く人は良いのですが、クリスチャンになってから罪を犯して、「もう赦されないんじゃないだろうか?神様もあきれているんじゃないだろうか?」という人もおられるかもしれません。だんだん、罪責感が大きくなり、やがては教会からも離れてしまう。そういう人がおられるかもしれません。救われたばかりの人が必要なのは、「赦しの確信」、「救いの確信」であります。イエス様が十字架についたのは私たちの罪の赦しのためであります。イエス様はそのとき、私たちの過去の罪、現在の罪、そして将来、私たちが犯すであろう罪をも背負って、代価を払ってくださったのです。だから、たとえ罪を犯しても、神の子であることと永遠のいのちはなくしません。救いは神様からの一方的なプレゼントですから、行いによってなくすことはないのです。

では、罪を犯すと何をなくすのでしょうか?それは神さまとの親しい交わりです。神さまの私たちに対する愛は100%、いつでも変わりません。変わるのは罪を犯した私たちの側の方です。アダムとエバが神さまの御顔を避けたように、私たちもそうなります。何か後ろめたい気持ちになります。でも、神さまはキリストにあって、永遠の愛をもって私たちを赦しておられます。人間の愛は「これっきりの愛」ですが、神さまの愛はエンドレス・ラブ、限りない愛です。Ⅰヨハネ1:9はクリスチャンなった人ためのみことばです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。神さまの前に、「私はこれこれ、しかじかの罪を犯しました」と告白すれば良いのです。もちろん、だれか隣人に被害を及ぼしたときには、謝ったり、償う必要があるでしょう。でも、最も根本的なことは、神さまとの関係です。私たちが罪を告白するならば、イエス様の血潮によってきよめられます。まるで、ホワイトボードに書いた文字が消されるように、ぱっと消されます。罪を犯したら告白する、罪を犯したら告白する。これを繰り返していくと、だんだん、同じ罪を犯さなくなります。赤ん坊が立ち上がるとき、何度もころびます。赤ん坊がころんだとき、「またころんだのか!今度はころばないように注意しなさい」と叱る親はいません。私たちは独り立ちするまで、何度も失敗し、罪を犯すこともあります。でも、キリストにあって神さまは永遠に赦してくださる。たとい、罪を犯しても、神の子としての身分、永遠のいのちはなくすことがない。この確信に立つことが大切です。

もう1つの子どもの必要があります。Ⅰヨハネ2:14「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」みなさんの地上のお父さんはどういう人だったでしょうか?ある日曜学校の先生が、「天の神様は、みなさんのお父さんのような方なのですよ」と言ったそうです。すると、ある子どもは「そんな神さまだったら、いらない」と次の週から来なくなったそうです。私たちが「イエスさま」「聖霊さま」と呼んでも、同じような名前の人はまずいません。しかし、「天のお父様」というと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い浮かべます。不思議なことに、私たちは地上の父を通して、天の父をイメージするところがあります。みなさんの地上の父はどういう人だったでしょうか?権威主義的で独裁的なお父さんだったでしょうか?ある家庭ではお母さんと子どもたちがわきあいあいにしていました。しかし、お父さんが帰る車の音を聞くと、子どもたちは、「さーっ」と自分の部屋に入ります。また何かうるさいことを言われるのが嫌だからです。あるお父さんは、無口で何も答えない。「お父さん、きょうのテストで80点取ったよ」。新聞を見ながら「うん」。「お父さん、きょうの運動会で1位だったよ」。テレビを見ながら「うん」。子どもである自分を励ましてくれたことがない。日本やアジアではこういうお父さんが多いようです。また、あるお父さんはギャンブルやお酒を飲んで、家庭を守らない。いい加減なお父さんがいるかもしれません。また、家庭によっては、長期の出張、離婚、死亡のために、「いないお父さん」がおられるかもしれません。

もし、地上のお父さんがそういうお父さんだったらどうなるでしょうか?「天のお父様も、独裁的でこわい方だ。」いつ罪をさばかれるかびくびくして生きることになります。天のお父さんも無口で何も答えてくれない。そうすると、3分くらいお祈りをしたら、もう祈ることがなくなります。天のお父さんも、いい加減で頼りにならない。そうすると、神さまを頼らないで、自分の力で生きるようになるでしょう。ある牧師は、自分が5歳のとき、父親が亡くなったそうです。やがて、救われてクリスチャンになりました。「天のお父様」とお祈りしても、「天が空っぽのような気がした」とおっしゃっていました。この地上に完全なお父さんはおそらくいないでしょう。私たちは何らかの形で傷や欠けがあり、ゆがんだ父親像を持っています。でも、イエス様は「私を見たものは父を見たのである」とおっしゃいました。また、神の家には霊的な父・母がおります。ですから、イエス様を知ることによって天の父を知ることができます。また、教会での親しい交わりと保護によって、その人はちゃんとした天の父を知ることができます。赤ちゃんが両親の交わりを必要としているように、霊的に生まれた子どもも、交わりが必要です。励ましや慰めを与え、みことばによる建て上げによって、癒され、成長していくことができるのです。

2.若者たち

霊的な若者には何が必要でしょうか?若者にも2つの必要があります。Ⅰヨハネ13後半「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」ここには、「悪い者に打ち勝った」とありますが、悪い者とはだれのことでしょうか?悪い者とは悪魔と悪霊のことであります。ヨハネ8章には、悪魔は「偽りの父である」と言っています。ヨハネ黙示録12章では「兄弟を、日夜、神の御前で訴えている者」と書かれています。また、エペソ6章には「悪魔の策略に対して立ち向かいなさい。…私たちの格闘は血肉に対するものではなく、悪しき霊との戦いである」と書かれています。私たちは、イエス様を信じてクリスチャンになりますが、その後が、また問題であります。私たちはクリスチャンになる前の、いろんなゴミを持ったまま生きています。あるものは捨てましたが、あるものはまだ大事そうに持っています。悪習慣、心の傷、汚れ、怒りや反抗心を持っているかもしれません。悪魔と悪霊は、私たちが持っているゴミを餌にして、私たちに悪さをしかけてきます。生ゴミがあると、カラスやねずみがやってきて、悪さをします。どうでしょうか?カラスをおっぱらったら良いのでしょうか?ねずみをおっぱらったら良いのでしょうか?一度、おっぱらっても、彼らは、また戻ってくるでしょう。どうすれば良いのでしょうか?そうです。生ゴミを排除すれば良いですね。それと同じで、悪霊を追い出す前に、処理されていない隠された罪、悪習慣などを神さまの前に差し出せば良いのです。神さまは光ですから、明るみに出されたものを、処理して、それから解放してくださいます。 

これは、私が経験的に知っていることですが、こういう癒しと解放は、早めにやった方が良いと思います。洗礼を受けて10年もたつと「こんなもんだろうなー」と妥協してしまいます。第一回目は救われて、まもない頃、行うべきです。そのとき、大きな罪とか、偶像礼拝などの霊的な罪を取り扱います。私はインドネシアの解放のキャンプを見たことがあります。そこには、200人くらいキャンパーが集まっていました。信じたけれども、まだ洗礼を受けていない人が80人くらいいました。一番、悪霊現象が起きたのは、性的な罪を扱ったときです。結婚前の性交渉、性的な傷や汚れ、レイプ等の赦しと解放を宣言しました。そうすると何十人もの姉妹たちが、声をあげて泣き、悪霊現象も起きました。悪魔は、そういう罪や傷を握って、その人を成長させないようにしています。ですから、信仰をぐらつかせている大きな罪は、早めに処理すべきであります。そして、解放された後は、心の傷や思いの分野をボチボチ取り扱っていくべきです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」これは、クリスチャンなってからの大きなテーマです。霊的に救われていても、思いが古いままの人がたくさんいます。「どうせ私はダメだ」とすぐ諦める人はいないでしょうか?「私は人から愛されない」「私はああゆう人は苦手だ」「私は最後まで成し遂げることができない」など、束縛されているかもしれません。この世ではいろんなカウンセリングや心理学的なものがあるでしょう。私たちもそういう手法を取り入れることも可能です。でも、重要なことは私たちの古い価値観を神の国の価値観に取り替えることであります。では、どうしたらそれが可能なのでしょうか?

Ⅰヨハネ2:14後半「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」若者が悪い者に打ち勝つためには、神のことばが必要です。また、私たちがこの世に生きてきたために、間違った考えをたくさん植えつけられました。否定的な考え、ゆがんだ見方、あるいは親や先祖から受け継いだ罪の連鎖があるでしょう。自分ではわかっているけれど、そちらの方に傾いてしまう。それは、何らかの咎が作用しているからです。自分の間違った考えは何なのかを認識し、それを悔い改め、神の価値観に置き換える必要があります。そのために、神のことばをよく学び、自分の中に取り込み、みことばに従う必要があります。それが、神のことばのうちにとどまるということです。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」アーメン。神のことばが鋭いメスのようになって、心のいろいろな考えやはかりごとを切り分けることができるのです。私はものごとを最後までやり通すことができない人でした。集中力に欠けて、時間内に、作文、絵、テストを終えることがでませんでした。私は子どもの頃、親や兄弟から「ヤスは不器用だから」「ヤスは落ち着きがないから」と良く言われて育ちました。それが私のマインドに入ったため、大切なときに、混乱して成し遂げることができないのです。しかし、クリスチャンになって解放を受けてから、カオスからコスモスへに移りました。自分の中に調和が与えられ、物ごとに集中し、最後まで成し遂げることができるようになりました。毎週の説教においても、「必ず、神さまが与えてくださる」という信仰があります。みなさんの中にも、ある部分が悪魔に握られて、自由になれないという部分はないでしょうか?必ずしも悪魔でなくても、ある法則の中に縛られている。そのため、敵の思う壺になって、神さまの栄光を現すことができない。そういう部分があるかもしれません。この課題を乗り越えないと、信仰はあっても世的なクリスチャンになってしまいます。私たちは、この世の流れに流されるのではなく、流れに逆らって進む必要があります。ルカ福音書に、イエス様は強い者に打ち勝ったとあります。そして、その分捕りものをあなたに分け与えたいと願っておられます。主にあって、私たちは悪い者に打ち勝つことができるのです。

3.父たち

 Ⅰヨハネ2:13「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」Ⅰヨハネ2:14後半「父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」 なぜ、ここに「神さま」と書かないで、「初めからおられる方」と書いたのでしょうか?「初めからおられる方」つまり、神さまは、世の初めから、永遠の計画をもっておられます。エペソ3:11「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」永遠と言う意味は、「すべての時間を越える。時間に制限されない」という意味です。世界が創造される前に、永遠の計画があったということです。それが、私たちの時代に成就されなければならないし、永遠に成就されるべきものだということです。霊的な父は、神さまの永遠の計画を知り、その計画に加わろうとする人です。では、神さまはどのようにして、ご自分の永遠の計画を成就しようとしておられるのでしょうか?それは教会です。神さまはキリストのからだである教会を通して、ご自身の永遠の計画を成し遂げたいと願っておられるのです。エペソ1:22-23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」神さまはどんなお方でしょう?神さまはいっさいのものをいっさいのものによって満たすことのできるお方です。目に見えるものから、目にみえないものすべてです。神さまは、この世のあらゆる分野に対して、ご自身が持っている良いもので満たしたいと願っておられます。政治、芸術、教育、ビジネスの分野において。しかし、それには入れ物(器)が必要です。その入れ物にあたるものが教会です。私たちは神の福音をこの世に持ち運び、人々を神の国にお入れする働きが必要です。これは救いのリバイバルです。しかし、もう1つ、教会はあらゆる分野に神さまが持っている良いものを満たすことが必要です。それは、この世の人たちが神の栄光を仰ぐようになるためです。霊的な父は神さまの永遠の計画を知って、それを自ら実行する人です。自分の個人の救いだけではなく、「御名があがめられ、御国が来るように」働く人であります。もちろん、この世界は過ぎ去ってなくなります。でも、この世において忠実に働いた人たちを、神さまは再びお召しになって、「キリストによる千年王国を、一緒に治めよう」と願っておられます。霊的な父とは、個人の救いに留まるだけではなく、この世が、日本が救われるような働きを担う人です。

 聖書には、父の必要が1つしか書いていませんが、私はあえて2つ申し上げたいと思います。なぜなら、子どもたちが2つ、若者たちが2つだったからです。ここに「父たち」とありますが、この世では、どういう人が父と呼ばれるのでしょうか?男性が年を取ったら自然に父なるでしょうか?どういう人が父なのでしょうか?そうです。子どもがいる人が父なのです。男性の場合は、子どもを生むというよりも、儲けるという方が正確かもしれません。聖書には霊的な父親について書かれています。Ⅰコリント4:14-15「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」パウロはコリント教会のクリスチャンを「愛する私の子ども。あなたがたを生んだ」と言っています。これはどういう意味でしょう?それは私たちが福音を伝えることによって、その人が「私はイエス様を信じます」と告白して、新しく生まれた場合です。導いた人が霊的な父であり、導かれた人は霊的な子どもです。だから、長年クリスチャンをやっていても、福音によって一人も導いたことがないなら、父ではありません。しかし、中学生であっても、他の人を導いたなら、霊的な父になることができるのです。

 この世の中はとても複雑になっています。同じように、教会の伝道も複雑になっています。個人で福音を宣べ伝えるというよりも、特別伝道集会とかコンサートを開いて、救いを与えようとします。そうすると自分がやったことは、チラシを配ったこと。あるいは、賛美の奉仕をしたことです。専門家が説教し、入信に導きます。種まきは自分たちがやり、刈り取りは専門家ということになります。そうすると、一番、おいしいところを牧師や伝道者が取ることになります。でも、牧師や伝道者が親身になって育てられれば良いのですが、生みっぱなしということもあります。私などは洗礼を授けて、「あとは礼拝に続けてきなさい」みたいなところがありました。ちゃんと育てないために、ポロポロ落ちたことは否めません。一番、良いのは導いた人が霊的な父になり、その後も、面倒を見ることです。私を導いてくれた職場の先輩は、礼拝や祈祷会に一緒に行って、となりに座ってくれました。信仰に関する悩みや問題を、いつも解決してくれました。2年くらいたって、やっと独り立ちできました。その後は、自分で、いろんな先生や本を通して学ぶことができました。しかし、はじめからそれができたわけではありません。霊的な父がいたので、受洗後に起きた、危険な出来事も乗り越えることができたのです。どうぞ、恵みによって霊的な父、霊的な母になりましょう。不思議なことに、子どもを育てると、こちらが成長します。私もコーチングをやるようになってから、成長させていただいたと感謝しております。それまでは、「自分のことが良ければ、それで良いや」みたいなところがあったからです。父の心を持つと、子どもが自分を追い越しても悔しくありません。前は、みんなライバルだったので、「10年早い!」とか言っていたのですが、父の心を持つと、子どもの成功は私の成功になります。親にとって、子どもが自分を乗り越えることは、喜びであります。父なる神様は、私たちが子ども、若者と段階を踏んで、やがては霊的な父となることを願っておられます。

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2011年8月14日 (日)

神は光である     Ⅰヨハネ1:5-10 

「神は光である」とはどういう意味でしょうか?それは、神さまには全く罪がなく、公明正大であるという意味です。光と反対のものは、「やみ」です。やみは、隠れて罪を犯している姿をあらわしています。私たちクリスチャンは、やみの世界から救われて、光であられる神さまのもとに移されました。そして、光であられる神さまとの交わりの中を歩む存在となりました。しかし、私たちはこの世の中で生きています。聖書で「この世」とは、神さまに反逆し、罪を犯している人たちのことを言います。私たちは光であられる神さまと交わりながら、同時に、やみが支配しているこの世において生活しています。するとどんなことが起こるでしょうか?やみの影響を受け、罪を犯すこともありえるということです。ヨハネの手紙は、「それに対して、どうすべきなのか?」ということを教えています。きょうは、Ⅰヨハネ1:9を中心的に取り上げながら、全体を学びたいと思います。

1.罪の悔い改めは救いの条件か?

Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」保守的な教会では、Ⅰヨハネ1:9を救いのみことばにしている場合があります。先週、CSのキャンプがありました。若い頃、私はキャンプのカウンセラーや講師として、よく奉仕をしたものです。今はあまり呼ばれません。年齢のギャップがありすぎるからかもしれません。「8人兄弟の7番目」と言っても、そんなに兄弟の多い家庭はないでしょう。キャンプでは、カウンセラーというのがとても大変です。あてがわれた5-6人の子どもたちを面倒見なければなりません。メッセージが終ったあと、講師が「今晩、イエス様を信じる人は手を上げてください」と招きをします。すると、子どもたちは「はい」とか言って、手をあげます。そのあと、カウンセラーは手をあげた人のため、救いの確信を与えなければなりません。そのとき、子どもの話を聞きながら、「君の救いのみことばはこれですよ」と聖書から、ふさわしいみことばを与えます。そのときに話された聖書のことばもあれば、「この子どもはこれかな?」と神さまから示されたことばであったりします。おそらく、一番、そのとき、用いられるのがⅠヨハネ1:9ではないかと思います。信じた子どもに、「何か神さまの前でおわびしたい罪はある?」と聞きます。すると「消しゴムを盗んだ」とか「お母さんの財布からお金をちょろまかした」「友だちと喧嘩した」とか告白します。そして、カウンセラーは子どもに対して、罪の告白とイエス様を信じる告白の両方を導きます。

私は特別な理由もなく、そういうことをしていました。あるとき、『信じるだけで救われるか』という本を読んだとき、「ああ、福音とはそうなのか」と全く目が開かれた経験をしました。つまり、救いの条件はイエス様を信じることだけであって、自分が犯した個々の罪の悔い改めは必要ないということが分かったからです。保守的な教会、私の信仰も保守的ですが、悪気があってやってきたのではありません。なんとなく、「罪の悔い改めと信じるという告白」が合体してしまったのでしょう。実はヨハネ第一の手紙は、未信者に宛てられた手紙ではありません。第一ヨハネ1:6「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら」とあるので、すでに信仰を持っている人です。また、ヨハネはたびたび「私のこどもたち」と書いていますが、これはイエス様を信じて神のこともとされた人たちです。つまり、ヨハネは、イエス様を信じて、新生した人に手紙を書いたのです。と、いうことは、Ⅰヨハネ1:9は、イエス様を信じてはいるけれど、やみの中を歩んでいる、つまり罪を犯している人たちが対象なのです。もし、イエス様を信じるために、それまで犯した罪を告白しなければならないとしたら、忘れてしまった罪はどうなるでしょう?また、信じる前というのは、霊的に麻痺しているので、何が罪なのか分かりません。親切な気持ちはわかりますが、個々の罪の告白を救いの条件に加えるのは間違っています。では、悔い改めとはどういう意味なのでしょうか?救いのための悔い改めとは、「自分は神さまを神さまと認めず、背いていました。今からは方向転換して、神さまを信じます」と言うことです。つまり、自分が犯した個々の罪ではなく、自分が罪人であることを認め、神さまへと方向転換することです。これが救われるための悔い改めです。こういう悔い改めは、一生に一回すれば良いのです。でも、クリスチャンになってから犯した罪は、一生涯、告白しなければなりません。

黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」この箇所は、なまぬるいラオデキア教会のために書かれた箇所です。彼らは「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もない」と誇っていました。しかし、神さまから見たら、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」でした。先週は、ガジマ聖会に行ってきました。先生はアフリカのタンザニアから1年ぶりにこられました。前は3万人の教会でしたが、今は7万人になっています。前は160人の死人がよみがえりましたが、今回聞いた話では、合計400人がよみがえったそうです。アンナという女性は、死んで4日目によみがえりました。彼女は霊安室の冷蔵庫に入れられていました。もう一体亡くなった人が運ばれてきました。そのとき、ドンドンという音が聞こえます。なんと死んだはずのアンナが袋を蹴破り、起き上がっていました。彼女の死亡診断書を書いた医者は気絶して倒れました。アンナは「お腹が減っているので何か食べ物をください」と隣りのICUに行きました。ベッドで寝ていた2人の人が、アンナを見てびっくりしました。チューブとか器械を取り外し、2人とも元気になりました。アンナはイエス様から、「このメッセージを携えて、ガジマに伝えなさい」と言われました。「死人が神の子の声を聞くときが来ます。今がその時です。さあ、もどりなさい。」それで、生き返ったわけです。ガジマ先生は使徒16章から、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美したら、突然大地震が起きたという箇所から話されました。そして、「イエスの御名によって、日本の土台を揺り動かさなければならない」とチャレンジされました。そのとき、私は「ああ、不信仰になっていたなー」と気付かされました。「礼拝人数が少ない。お金がない。あの人が来ないのはこの理由だ…」わー、やみの力でやられていました。そして、声を出して悔い改めました。私たちはこの世にいると、不信仰になりがちです。気がついたら、すぐ告白しましょう。熱心に悔い改めましょう。そうすれば、私たちは信仰に満たされ、この世に対して勝利できるのです。目に見えるものに支配されてはいけません。なぜなら、目に見えないものが、目に見えるものを支配するからです。

2.罪の告白は公にすべきなのか?

新共同訳を見ますとこのように訳されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」その聖書では、「公に言い表すなら」と訳されています。公とはどういう意味でしょうか?一般的には、みんなの前でということでしょう。これと似たみことばに、ローマ10:10があります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」この場合も、みんなの前で信仰を告白しなければ救われないと主張する人がいます。ですから、洗礼を受けたい場合、その人は長老たちの前で、自分がどうやって信じたのかを表明します。その後、いくつかの質問を受け、長老たちが納得すれば洗礼を許可されます。「これもどうかな?」と思います。なぜなら、みんなの前で信仰を告白しないと救われないと誤解を受けるからです。もし、公に信仰を告白しなければ救われないとしたら、独房にいる人、あるいは無人島に流された人は、救われないことになります。信仰の告白もそうですが、罪の告白も、私たちは神さまの前に告白する必要があります。神さまの前で告白した後、必要がある場合は、公に告白をするのです。罪の告白もいくつかの段階があります。一人で神さまの前に告白する場合もありますし、互いに罪を告白するとき、あるいは公に罪を告白しなければならないときもあります。

では、どういう場合、罪を他の人の前で告白しなければならないのでしょう?それは、習慣的に犯す罪です。中毒性の罪で、自分で祈ってもなかなか解放されない場合です。たとえば、怒りが習慣的になっている。盗みが習慣的になっている。性的な罪が習慣的になっている。これは悪魔がその人の一部をつかまえている状態です。自分ではやめたいと思っていますが、要塞になっています。たとえば、私が後ろ手にロープでつながれているとします。ロープを解きたくても、自分では不可能です。そういう場合、他の兄弟姉妹から祈ってもらって、習慣的な罪を断ち切ってもらいます。そうすると、罪から解放されます。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」と書いてあります。ですから、自分の罪を告白し、他の人から祈ってもらうことは、解放される力になります。でも、告白するとは「もうしませんから、赦して下さい」という意味ではありません。私たちは、子どものときから、そういう風に言うことを強制されてきたので、罪を告白するときに抵抗を感じるかもしれません。しかし、「告白する」のギリシャ語は「ホモ・ロゲオー」、「同じことを言う」という意味であります。つまり、「私はこれこれしかじかのことをしました」と、ありのままを述べることなのです。ダビデもナタンの前で「私は主に対して罪を犯しました」と告白しました。すると、ナタンは直ちに「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」と言いました。ですから、私たちは言い訳をせず、自分が犯した罪を神さまの前に、ありのままに言い表せば良いのです。そうすれば、神さまは私たちの罪を赦してくださいます。

多くの罪は神さまの前で告白すれば十分なのです。本当は神さまの前で告白するだけで十分なのに、他の人に告げたために、ややこしくなる場合があります。1つは心で勝手に思った罪です。たとえば、「私は鈴木先生が隠れてこういうことをしているのではないか、と疑っていました。でも、誤解でした。どうもすみませんでした。」そういう告白はしなくて結構です。ゴミ収集の日でないのに、ゴミを出すようなものです。告白された方だって「え?私のことをそんな風に思っていたの?」と傷つきます。あとは、すでに解決されている過去の罪です。たとえば、「私はあなたと結婚する前に、たくさんの女性と付き合っていました」と言ったとします。すると、聞かされた方は「だれと、だれなの?名前、教えて?どんな事までしたの?」と詮索されます。その後、大変なことになってしまいます。ですから、すでに解決されている過去の罪は告白する必要はありません。昔、「あなたの過去などー知りたくないのー」という歌がありました。それで良いのです。でも、告白しなければならない罪とは、暗やみで犯している罪です。すでに神さまと光の中に歩んでいるにも関わらず、やみの中を歩んでいるという場合です。もう一度、言います、告白には3段階あります。第一は神さまとの間で犯した罪は、神さまの前で告白すれば十分です。第二は相手がいる場合です。明らかに相手を傷つけた場合は、神さまに告白すると共に、その人の前に行って「ごめんなさい」を言いながら告白する必要があります。また、先ほども申し上げましたが、自分では解決できない、要塞のような罪です。悪魔に一部を握られていて、自分ではどうしようもない習慣的な罪です。これは、信頼のおける人の前で、告白して祈ってもらう必要があります。第三は牧師や役員、指導的な立場にある人が罪を犯した場合です。教会というからだ全体に対して罪を犯した場合は、公にする必要があります。それはできるだけ誤解やスキャンダルを少なくして、教会が新しい歩みをするためです。でも、最も基本になることは、神さまの前で正しくあるかどうかです。私たちは、神さまを恐れ、光であられる神さまと親しい交わりを保つ必要があります。この交わりは、継続的なものです。

3.クリスチャンの罪の告白

ヨハネが1:5-10で、一番、言いたいことは何なのでしょう?それは交わりの回復であります。神さまは光です。神さまは完全に正しくて公明正大なお方です。私たちはイエス様を信じたことにより、神さまの光の中に入れられました。そして、神さまと親しい交わりを持つ者とされました。ハレルヤ!私たちは神さまの子どもとして、父である神さまと親しい関係になったのです。でも、さきほど、申し上げましたように、私たちはこの世に住んでいます。この世は神さまを信じないばかりか、神さまに敵対して歩んでいます。私たちはこの世に生きている限り、罪の誘惑を受け、実際に罪を犯してしまうことがあるのです。こっちは悪いことをしていないつもりでも、向こうから言いがかりをつけられたり、イヤなことをされる場合もあります。すると、私たちの生身の人間ですから、「何クソ!」と怒ったり、反発したりするでしょう。車を運転してよくあることですが、割り込みされたり、ある場合は信号を無視して突っ込んでくる場合もあります。こちらに気持ちの余裕があれば良いのですが、余裕がないときには、腹を立てることもあるでしょう。このように人々の中で、いろんな出来事の中で罪を犯すことがあるのです。そういうとき、私たちは光の中ではなく、やみの中を歩んでいる状態なのです。それでも、「いや、私には罪はありません」と言うなら、自分を欺き、神さまをも偽り者としてしまいます。ですから、私たちはそういう場合、ただちに罪を神さまの前で言い表す必要があります。

このことは、とても大事なことです。私たちが罪を犯すと無くすものは何でしょう?私たちが罪を犯して無くすのは、神さまとの親しい交わりです。私たちが罪を犯しても、救い、つまり神の子としての身分はなくさないということです。たとえば、親子の関係でも、子どもが罪を犯した場合、「もう、親でも子でもない、勘当だ」と言う親がいるでしょうか?私たちもイエス様を信じたとき、神様は私たちのすべての罪を赦してくださり、神の子という身分をくださいました。神さまは私たちが光の中を歩めるように、聖霊の助けと導きをくださいます。でも、私たちには肉という罪を犯す傾向が残っていますので、さきほどのような環境や条件がそろいますと、やっぱり罪を犯してしまうのです。それでも、「私には罪がない」と言い張るなら、だんだん私たちは罪の中に捉えられ、悪魔によって縛られてしまいます。その前に、私たちは神さまの前に犯した罪をそのまま告白すべきなのです。私たちが神さまの前に罪を正直に告白すると、イエスさまの血潮によって、その罪が赦されます。そして、神さまとの関係がただちに回復します。そのとき、私たちは暗やみではなく、すでに光の中に移されているのです。でも、ここにとても興味深いことが書いてあります。Ⅰヨハネ1:9後半「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」「神は真実で」とは、どういう意味でしょう?「真実」は英語でfaithfulであり、これは忠実という意味でもあります。神さまは私たちのように、ある時は赦すけど、ある時は赦さないというお方ではありません。私たちは気分によって、赦すときと赦さないときがあるでしょう。しかし、神さまは私たちと違って、常に真実であり、常に私たちを赦してくださるのです。それは、神さまのご人格のゆえででもありますが、キリスト様の血潮が永遠のあがないになっているからです。神さまは御子イエスの血潮を見ると、赦さないではおれないのです。

ここには「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる」と書いてあります。神さまは、罪を赦してくださるだけではありません。罪を犯して受けた悪を取り除いてくださるという意味です。「赦して、きよめる」「赦して、きよめる」「赦して、きよめる」ということが繰り返されます。たとえば、ホワイトボードにペンで何かを書いたとします。何を書いたとしてても、黒板消しでパーと消えます。また、書いても消えます。また、書いても消えます。これは神さまの赦しの力です。しかし、だれかが油性のマジックで書いたとします。これはダメージを受ける罪です。普通の黒板消しでは消えません。どうするか?揮発性のもの、ベンジンやアルコールだと消えます。昔、聖書の時代は染料を用いて、染物をしていました。紫糸の場合は、紫貝から取った染料を用いたようです。その中に、一度染めるとなかなか消えないものもありました。それは緋糸だそうです。赤い糸です。アメリカ文学に『緋文字』という作品があります。当時、姦淫の罪を犯した女性がいたら、その額にアダルトリーのAの刺青をされます。赤い刺青で、一生消えません。その文学の内容はキリスト教会的には良くないと思います。でも、聖書はそうは言っていません。イザヤ書1:18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」アーメン。最も消えにくい緋のような赤い罪も、主は赦してきよめてくださる。罪が緋のように赤くても雪のように白くなり、紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。エレミヤ書31:3「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」とあります。ここに、「誠実を尽くし続けた」とあります。さきほどのⅠヨハネ1:9「神は真実」と同じ意味です。では、神さまの愛は永遠であるとはどういう意味でしょう?それはキリストの血潮のゆえに、私たちの罪を永遠に赦し続けてくださるという意味です。ある神学校の先生は、神さまの愛はエンドレス・ラブ、「これっきりの愛じゃない」とメッセージされ、記憶に残っています。当時、「これっきり、これっきり、もう、これっきりーですかー?」という歌が流行っていました。人間の愛は、「これっきりの愛です。いい加減にしろ、もう赦せない」です。でも、神さまの愛は「これっきりの愛ではありません」。神さまの愛は、永遠であり、どこまでも限りなく赦してくださいます。ペテロがイエス様に「兄弟が悔い改めた場合、何度まで赦すべきでしょうか?7度まででしょうか」と聞きました。そのとき、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と答えました。それは、無限にという意味です。このことばの背後には、神さまの永遠の愛、永遠の赦しがこめられています。私たちは赦しの中にあるからこそ、罪を喜んで悔い改め、光であられる神さまと交わることができるのです。

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