2015年3月14日 (土)

新しい身分 イザヤ43:1-4 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.3.15

 

 身分という表現は現代ではあまり使われないかもしれません。前回、「自分はだれか」というアィデンティティについてお話ししました。その続きであります。ちょっと極端ですが、「徳川の将軍と大名、どっちらが偉いでしょうか?」大名がどんなに能力があり、力があったとしても、将軍にはかないません。将軍がたとえ「バカ殿」であったとしても偉いのです。なぜでしょう?身分の中に権威や権力が保証されているからです。私たちは神さまが私たちをどのように見て、どのように扱っておられるかということを知ることはとても重要です。なぜなら、神さまからいただいている身分を知るならば、その身分にふさわしく生きるからです。

 

1.高価で尊い

 

イザヤ431,4「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」この箇所はイスラエルに語られたことばです。しかし、イエス・キリストを通して、私たちにも語られていることばです。いくつかの質問をさせていただきます。まず、元来、だれが私たちを造ったのでしょうか?ここには「主」と書いてあります。主というのは、天と地を造られた神さまです。日本では、どの神さまなのか分からないので「創造主」と呼ぶこともあります。創世記1章と2章には、創造主なる神さまが、天と地、そして私たちをも造られたと書いてあります。私たちは神さまから造られたのですが、アダム以来、神さまから離れ、失われた存在でした。では、失われていた私たちを、だれが、どのように見出したのでしょうか?ここには「私があなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ」と書いてあります。「贖う」の元来の意味は、「失われたものを買い戻す」という意味です。新約聖書にはイエス・キリストが十字架で代価を払って、罪の中から私たちを買い戻したと書いてあります。クリスチャンというのは、神さまの呼びかけを聞いて、キリストによってなされた贖いを受け入れた人たちのことです。

 

あなたはどのような存在でしょう?神さまは私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃっています。「高価」は英語ではpreciousで「宝石や金属が高価な」という意味です。また、「尊い」は英語ではhonorで「名誉、誉れ」という意味です。私はテレビの『何でも鑑定団』が大好きです。もし、ここに千利休が使った数億円の茶碗があるとします。私はそれでお茶を飲み、流しにポイと置くでしょうか?箱の中に大事に保管し、たまに、それを出してニッコリ眺めるのではないでしょうか?神さまもあなたを高価で尊いと認め、そのように扱ってくださるということです。でも、多くの場合、私たちは神さまの目ではなく、両親やきょうだい、先生、友人、周りの人たちの目で、自分を評価してきたのではないでしょうか?さっきの茶碗でいうと、かたちがいびつだとか、色が黒いとか、古いとか、使い物にならないとか言われるでしょう。私たちもそういう嘘をたくさん聞いてきました。そして「ああ、自分には価値がないんだ。安物なんだ、偽物なんだ」と自分を見るようになります。そして、世の中の片隅で、忘れられ、捨てられたような生き方をするかもしれません。しかし、本当は千利休が使った数億円の茶碗なのです。神さまはあなたの本当の価値を見出して、私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃってくださいます。では、神さまの評価を額面どおり受け入れることよって、あなたの人生はどう変わるでしょうか?そうです。自分には価値があると分かり、セルフイメージが変わります。セルフイメージとは、自分に対するイメージ、自己価値であります。箴言237KJV)「なぜなら、彼は、心の中で考える通りの人間であるからだ」。これは、人はみな自分に対して抱いているイメージで生きているという意味です。すべきことが人間の存在価値を決定するのではなく、どのような存在であるのかが、なすべき事柄を決定するのです。日本は進化論に立ち、何ができるかで人の価値を決めます。しかし、人間は神のかたち(イメージ)に造られた特別な存在です。もし、自分がキリストの贖いによって買い取られるほどの価値があるのだと知るなら、それに合った生き方をするでしょう。あなたはこれまでは、親や友人、先生など、人の目で自分を評価していたかもしれません。そうではなく、神さまの御目で自分が何者かを知るべきです。自分の存在を正しく認識することによって、それにふさわしい生き方ができるのです。

 

2.神の子

 

ヨハネ112「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」イエス様を信じた私たちはどうなるのでしょうか?「神のこどもとされる特権が与えられた」と書いてあります。私は特権と言う言葉が大好きです。これは「みんなに、だれでも平等に」という意味ではありません。イエス様を受け入れた人、信じた人だけに与えられるものです。世界に何十億にいるかわかりませんが、たった二種類に分けることができます。この世には、神の子どもたちと、そうでない人たちがいるということです。ルカ16章には、「光の子ら」と「この世の子ら」とに分けられています。聖書では、神さまは偉大な王であると記されています。神さまが王であるなら、私たちはどういう立場になるのでしょう?そうです。王子であり、王女です。男性ならPrinceです。プリンスメロンではありません。女性ならPrincesです。なんとすばらしいことでしょう?私たちはディズニーのおとぎ話の世界に生きるのではありません。これが神の国の現実なのです。毎日、数万の人たちがディズニーワールドに行っているでしょう?そこにも、王子や王女がいます。でも、彼らはファンタジーであり、夢の世界です。しかし、聖書はキリストにあって、あなたは王子であり、王女なんだと言っています。どうか「自分はダメなんだ」とうなだれることのないように、そうすると頭から冠が落ちてしまいます。王子であり、王女であるなら、胸を張って堂々と生きるべきです。

 

 Ⅰヨハネ32-3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」私たちの後の状態は、どのようになるのでしょう?「私たちはキリストに似た者となる」と書いてあります。これはどういう意味でしょう?私たちは立場的には、神の子どもです。また、王子であり、王女です。でも、キリストが再び現われるまで、中味が完全ではないということを示唆しています。そうなんです。私たちは新しい身分が与えられてはいますが、肉の性質が残っています。罪の世界に住んでいた古い人の記憶や好みや弱さが残っているのです。だから、時たま、王子らしくない、王女らしくない振る舞いや言葉使いをしてしまうのです。でも、大丈夫です。やがてキリストが来られたなら、キリストに似た者となるのです。品性においても、命においてもです。では、この地上では、罪にまみれ弱さの中で生きるのでしょうか?ヨハネの手紙から、キリストが清くあられるように、私たちが自分を清くするのは何故でしょうか?そうなんです。キリストにあって自分が清い存在なので、それにふさわしい生き方をするようになるからです。これはどういう意味でしょう?私は田舎で育ちましたので、子どもの時、汚いドブに落ちたことがありました。ズボンが黒光りし、ひどい匂いを発しています。私は井戸の傍らに行き、汚れたズボンや服を全部脱ぎ捨てます。それから、石鹸で体を洗うでしょう?その後、きれいな服を着ます。次からはドブに嵌らないように気を付けます。わざとドブをまたぐようなことはしません。なぜでしょう?自分はドブのように汚い存在じゃないと分かっているからです。私たちは罪ある世界に生きてはいますが、罪そのものではありません。神の子であり、光の子なのです。だから、それにふさわしい生き方をするのです。

 

3.聖徒

 

Ⅰコリント11-2「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」コリント教会の人たちはどのような人たちだったでしょう?Ⅰコリント5章を読むと、教会の中にこの世と同じような不品行がありました。また、霊的な賜物のゆえに高ぶっていました。ねたみや争いもありました。使徒パウロを悩ませた地上最悪の教会でした。でも、この手紙の冒頭で、彼らは何と呼ばれているでしょうか?「聖徒」「聖なるもの」と呼ばれています。聖徒とは英語で、saintです。ローマ・カトリックでは簡単にsaintになることはできません。それなりの功績が必要であり、教会によって認められた人たちだけです。ローマ・カトリックがコリント教会を見たなら、そのような人を発見することはできなかったでしょう。でも、聖書的には、キリストを信じた人ならだれでも、「聖徒」「聖なるもの」なのです。でも、どうして、そのように呼ばれるのでしょうか?それは、キリストを信じたゆえに、神さまのものになったからです。「聖」というもとの意味は、「神さまに選び別たれる」「聖別される」という意味です。旧約聖書で神殿に用いられる器は聖別されました。質も形も台所用品と全く同じです。「しかし、これは神さまの御用のためにだけ用いられる器です」と聖別されました。弟子たちも、この世からイエス様によって聖め別たれた存在でした。この世にあって、この世のものではありません。神さまのものだからです。私たちもイエス様を信じたときから、そのようになったのです。私たちは「聖徒」「聖なるもの」なのです。私たちの生活や状態によらず、神さまがそのように呼んで下さるのです。

 

三浦綾子先生の本を読みますと、「クリスチャンとは赦された罪人に過ぎない」と書いてあります。一面ではそれも当っているかもしれません。でも、赦された罪人であるだけなら、また罪を犯しても良いということになります。好んで罪を犯す人はいないかもしれませんが、罪を犯しても仕方がないというふうになります。なぜなら、その人は「私は赦された罪人に過ぎない」と思っているからです。でも、聖書はそのようには述べていません。テキストには質問があります。「あなたは罪を犯すことがあるかもしれないが、本当は何なのですか?もし、そのことが分かったなら、あなたはどのように生きることができるでしょうか?」とあります。本当は、私たちは「聖徒」「聖なるもの」なのです。そうすると、自分に対するイメージが変わり、聖徒にふさわしく生きるようになるでしょう。たとえば、皆さんがお風呂に入ったとします。お風呂に入ったあと、同じ下着を着るでしょうか?着ないですね。なぜなら、自分はきれいになったと思っているからです。だから、洗った清潔なものを着るのです。ニール・アンダーソン著の『いやし・解放・勝利』にこのように書いてありました。ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイデンティティなのでしょうか?そうではありません。神さまは私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし、自分のことを罪人だと考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。私たちは自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、「聖徒」なのです。

 

4.義とみなされている

 

ローマ324-26「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」私たちが義と認められるのは、だれがどのようなことをなされたからですか?キリスト・イエスによる罪の贖いのゆえにです。義と言う意味は、道徳的に正しいという意味ではありません。この世に道徳的に正しい人がたくさんいるかもしれません。しかし、神の義は人間の義とは全くレベルが違います。行ないにおいて、思いにおいて、性質において100%正しく、神の標準に達しているという意味です。それを測るために、律法という尺度があります。十戒をはじめとして、宗教的な律法、社会的な律法が何百とあります。いくらイエス様が神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛すると2つにまとめたとしてもです。人に腹を立てたり、ばか者と呼んでも罪になります。異性を情欲いだいて見ても罪です。偽りの誓いやむさぼりも罪ですから、もう数えきれないほどの罪を犯していることになるでしょう。でも、神さまは行ないとは別の義を与えるとおっしゃいました。それは、キリストを信じる人に与えられる神の義であります。学校では裏口入学は禁じられており、試験を受けることが必要です。しかし、律法の試験を受けなくても、神の国に入る方法があるのです。イエス様を救い主と信じるなら、すべての罪が免除され、義とされるのです。なぜなら、イエス様が私たちのすべての罪を贖ってくださったからです。さらに質問を続けます。「神さまは罪に対してお怒りになりますが、キリストにあってどう変わられたのでしょう?」はい、キリストの血によって怒りがなだめられたので、もう怒っておられません。「その血による、また信仰による、なだめの供え物になられた」とはどういう意味でしょうか?「なだめ」とは、異教的な響きがありますが、そうではありません。高木慶太師は『信じるだけで救われるか』と言う本でこう述べています。「なだめ」とは、キリストが人類の罪の代価を支払うために、ご自分の命を捨ててくださったことにより、神の義の要求と律法の要求が満足させられ、罪に対する神の怒りがなだめられたことを意味する。アーメン。

 

もう一度お聞きします。神さまはどのような人にご自分の義を与え、義と認めてくださるのでしょうか?イエスを信じる者を義とお認めになる」とあります。これは法的な意味であり、実質的にそうだという意味でありません。たとえば、エジプトを脱出する前の夜、こういうことが命じられました。羊を殺して、その血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がその血をご覧になれば、さばきが通り過ぎるということでした。家の中にいる者は、善人、悪人関係がありません。血が塗られている、家の中にいさえすれば、神の怒りが通り過ぎるのです。同じように、その人がキリストが流された血を受けているなら、神の怒りが通り過ぎ、さらには義と認められるのです。人々や裁判官が何といおうと、宇宙で最も権威がある神さまが「あなたは義だ。あなたは正しい」と言われるのです。悪魔があなたを訴えるなら、「私はキリストの血によって義とされている。文句があるなら神さまのところへ行きなさい」と言えば良いのです。最後にもう1つ質問します。「罪の赦しと義と認められることの違いは何でしょう?」これは、クリスチャンでも誤解している内容です。罪の赦しと義と認めれていることとは厳密には違います。罪の赦しとは罪を犯さない元の状態に戻ることです。罪を犯した状態がマイナスであります。マイナスがとても大きな人もおれば、さほどでない人もいるでしょう。でも、罪を犯した罪人であることには違いがありません。その人が赦されると、プラスマイナスゼロの地点まで行きます。「罪赦されて良かった!」これだけでも、すばらしいことです。では、義と認められるとはどういう意味でしょうか?それは、神さまに受け入れられる状態まで高められることです。プラスマイナスゼロの地点よりも、ずっと高いところです。アダムの罪が赦されたならプラスマイナスゼロです。しかし、イエス様によって与えられる神の義は、もっともっと高いところです。義というのは、いわばプラスプラスの位置と言えます。

 

 私たちクリスチャンはプラスプラスの位置からスタートするべきです。多くの人たちは、マイナスからスタートしてなんとか頑張って、プラスマイナスゼロへ行けたら良いと思っています。しかし、クリスチャンの身分はどうでしょうか?4つありました。高価で尊い存在です。神の子です。聖徒です。義とみなされている存在です。努力する前に、神さまからそのように見られているとは何という幸いでしょう。人となられたイエス様もそうでした。イエス様が30歳になられたとき、ヨルダン川でバプテスマを受けました。神の御霊が鳩のようにイエス様の上にくだられました。それは、メシヤの就任式ともいえるものであり、その時から公生涯がスタートします。その時、天からこのような声がありました。「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(マタイ317)。イエス様はまだ何もしていないのに、父なる神さまから是認されていました。イエス様は神さまから認められるために頑張ったという記事はどこにもありません。イエス様は朝早く起きて、父なる神様と交わったことでしょう。その時、「お父様、今日は、カペナウムに行って病人を癒しますよ。人々に福音を伝え、死んだ人がいたらよみがえらせてあげますよ。ぜひ、私の働きを見ていて下さい。」そんな風には祈らなかったと思います。なぜなら、父なる神さまはイエス様に満足しておられたからです。イエス様は父なる神様から認められるために頑張る必要はありませんでした。なぜなら、ご自分は神の子であり、父なる神さまから愛されているという基盤があったからです。私たちの家事や仕事はどうでしょうか?私たちの奉仕はどうでしょうか?神さまから、あるいは人々から認められるためにやっているとしたら寂しい感じがします。私たちはマイナスの地点から始めなくて良いのです。私たちがキリスト様を信じただけで、父なる神さまは喜び、満足してくださいました。私たちはプラスプラス、つまり恵みの地点からスタートすべきです。この世では、人から認められない時、評価されない時があるかもしれません。しかし、聖書は何と言っているでしょうか?「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」「あなたは王子であり、王女だ」「あなたは聖徒であり、義と認められている」ハレルヤ!天と地を造られたお方、最も権威あるお方が、あなたを認めておられるのです。どうぞ、自分を誇りに思ってください。プラスプラス、つまり恵みの地点にいることをお忘れなく。

 

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2015年2月 6日 (金)

心の癒し イザヤ53:2-5 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.2.8

 

 今から20年くらい前、「心の傷の癒し」ということが言われ始めました。チャールズ・クラフトというフラー神学校の教授が有名です。それからサンフォードのインナーヒーリングも日本に入って来て、それがエリヤハウスになっています。心の癒しは、キリスト教的なカウンセリングの世界を開きました。しかし、問題も出現したことも確かです。心の傷ばかりに目が行って、前向きな生き方ができなくなるということです。残念ながら、この地上において完全に癒されることはありません。たとい弱さが残っても、イエス様の恵みに満たされつつ歩むのが信仰だと思います。でも、救われたばかりの人には、ある程度の心の癒しも必要なことは確かです。

 

1.父なる神の愛を知る

 

 なぜ、父なる神の愛を知らなければならないのでしょう?Ⅰヨハネ2:14 「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」とあります。信仰を持ったばかりの人は、父なる神さまを知る必要があるということです。私たちはお祈りするとき、「天のお父様」とお祈りします。父という名前を聞くと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出します。日曜学校の先生が、子どもたちに「天の神さまは、あなたがたのお父さんのような方なのですよ」と教えました。そうしたら、次の週からある子どもが来なくなったそうです。その子は「そんな神さまだったら、いらない」と言ったそうです。地上の父が、愛があって優しいならば、父なる神さまを信じるのはそう難しくはないでしょう。ところが地上の父自身に、心の傷や葛藤があって、父らしく振舞えないのです。そのため、子どもたちが天の神さまに、悪いイメージを持ってしまうのです。

 

 サタンは、家庭を破壊して、人々が神さまのところに来ないようにしています。マラキ45-6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」エリヤハウスはこのところから取られた癒しのミニストリーです。エリヤハウスについては、後で語らせていただきます。このところで言わんとしていることは、世の終わりは父と子との関係が悪くなり、両者に和解をもたらすエリヤの働きが必要だということです。だれが父と子の関係を悪くしているかと言うとサタンであり悪魔です。サタンは創世記3章で夫婦の関係を破壊し、さらに兄弟同士の関係も破壊するように仕向けました。罪の背後にはそれをけしかけているサタンがいます。世の終わりが近づくと、父親の権威がなくなり、良い模範も示すことができなくなります。多くの若者たちは本当の父を探し求めています。「私を本当に指導してくれる親みたいな人はいないか?」と探しています。残念ながら学校の先生にそういう人はほとんどいません。いるかもしれませんが、私は巡り逢いませんでした。カルト宗教に誘い込まれ、洗脳され、反社会的な生き方をする人もたくさん起こりました。世の終わりは、ルカ15章のように、放蕩している若者が大勢いる時代ではないでしょうか。

 

 テキストに「壊された父のイメージの例」としていくつかあげられています。第一は、厳格で独裁的な父です。第二は業績をあおり、ほめてくれない父です。第三はコミュニケーションを持たない無口な父です。第四は優柔不断でいい加減な父です。もし、地上の父親が厳格で独裁的であったなら、神さまも閻魔大王のように怖い目で睨んで、雷を落とすようなイメージを持つでしょう。インドネシアのある牧師はとても厳格で厳しい牧師でした。彼が家に帰ると、子どもたちは車の音を聞くだけで自分たちの部屋に入りました。その人がエディ・レオ師の集会に出たとき、自分の小さいときを思い出しました。彼はとてもやんちゃで、あるとき父親の豚を売って、その金で友達と遊びました。父親は烈火のごとく怒り、息子を木に縛り付け、木の棒で叩きました。息子は「お父さんやめて」と大声で泣きました。お父さんは「泣くな!」と言ってさらに叩き続けました。泣き止まないので、彼の片方の耳をナイフで切って「これを食え」と言いました。そんな父親を決して赦すことができませんでした。不思議なことに自分が大きくなったら、父親と同じようになっていたのです。彼は神さまの愛に触れて、自分の父を赦しました。不思議なことに3日後、父親がジャングルから息子が出ている集会にやってきました。そこで、二人が和解したということです。その時から彼は全く変わったそうです。

 

 もし、業績をあおり、ちっともほめてくれない父親だったらどうでしょう?神さまが天から「もっとできるはずじゃないか。なまけているんだろう」と言っているよう思えます。私も少し前まではそうでした。「使徒パウロはあんなに伝道したのに、お前は何だ。歯がゆいぞ!」と背中から水をかけられているような感じがしました。私は恵みを知るまでは、業績志向の塊でした。また、コミュニケーションを持たない無口な父だったらどうでしょうか?「お父さん、きょうテストで100点取ったよ」「うん」と言っただけで新聞を読んでいます。「お父さん、きょう運動会で1位だったよ」「うん」。もし、そのようなお父さんでしたら、お祈りするのが大変でしょう。2,3分祈っただけで、もう祈りが途絶えてしまいます。神さまは何も答えてくれない無口な方だと思っているからです。また、自分の父が優柔不断で、いい加減な父だったらどうでしょうか?お酒を飲み、ギャンブルにお金をつぎ込み、家庭をちゃんと治めることができない。子どもたちからもお金をせびるような父でした。その子どもがクリスチャンになったらどうでしょう?「ああ、神さまに頼っても仕方がないな。自分でやるしかない」と独立的な生き方をするでしょう。独立することは悪くはありません。その人は父を軽蔑したために、世の中の権威ある人さえも尊敬しなくなるでしょう。

 

 私の父は国鉄で働いていた時はとても子煩悩だったようです。集団解雇になってから、おかしくなり、毎晩酒を飲んでは暴れるようになりました。板金工をしていましたが、雨が降ると仕事がないのでよく魚釣りをしました。収入が少ないので、兄や姉のかせぐお金がたよりでした。父はお酒が入ると顔つきが変わり、母をよく殴りました。私たち子どももよく怒られ、火箸を振り回して追いかけられました。子どもたち同志もよく喧嘩し、父はそれを治めることができませんでした。父はプライドが高く、他の人たちのことを批判していました。私には「人を利用しても良いから偉くなれ」と言いました。私は家内から文句が多くて批判的だと言われるのは父の影響を受けているからかもしれません。家庭を経済的にも道徳的にも正しく治められない父でした。そういう家庭で育った私はいつも不安と恐れがあり、身を落ち着ける場所がありませんでした。学校は大嫌いでしたが、家よりはましだったので、不登校にはなりませんでした。25歳でクリスチャンになりましたが、「父なる神さまの愛」については、ぼんやりしていました。2000年インドネシアから来られたエディ・レオ師の集会に行きました。愛知県の蒲郡、そしてジャカルタにも行きました。亀有から8人くらい連れて、札幌にも行ったことがあります。ある時、エディ・レオ師が集会の最後にビデオを見せてくれました。このような内容です。

 

 ハワイにスポーツ・トレーナーのお父さんがいました。彼には息子がいましたが、生まれたときから、歩くこともしゃべることもできず横になっているだけでした。この子が大人になったある日、手話で「お父さん、ボクには夢があるんです。ボクはトライアスロンのレースに参加したいんです」と伝えました。お父さんは涙を流しました。そして、彼は祈りました。「神様、どうぞ、道を開いてください。私の息子がレースに参加できるように道を開いてください」。そして彼は何年もかけて準備をしました。ある日、ハワイでトライアスロンのレースがありました。そのトライアスロンは水泳3㎞、自転車130㎞、長距離走30㎞と3つの種目を合わせたとても過酷な競技です。委員会の人たちは「どうやってハンディを負っている人が、このレースに参加できるんだ」と反対しました。お父さんは説明しました。「私の息子は泳ぐことができません。でも、私は長い間かけて、彼のために小さなボートを用意しました。私がそのボートを引っ張りながら泳ぎます。私の息子は自転車に乗れません。この自転車の前に椅子を取り付けて、彼をそこに乗せます。私の息子は走れません。でも、私は彼を車椅子に乗せて、私が彼を押します」。委員会の人たちはそれを聞いて涙を流して許可を与えました。レースが始まり、水泳と、自転車と、マラソンをしました。日没前にみんなゴールをしました。人々は、このお父さんと息子さんがゴールするまでずっと待ち続けました。8時間たってお父さんが車椅子を押して来ました。最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。エディ・レオ師は、「これが父の愛です。これが父の心です。父の愛を体験していただきたい。」と言いました。私たちはこの息子さんのようにハンディを負った人のようです。自分のレースを走りぬくことができません。しかし、私たちの天の父が、私たちを最後まで運んでくださるのです。お祈りいたします。「天のお父様、あなたの愛を感謝します。あなたの無条件の愛を感謝します。私たちはあなたの愛を受けるに価しません。でもあなたは本当に私たちを愛してくださっています。お父さん、あなたの愛を感謝します。あなたの愛を感謝します。私たちに触れてください。私たちの人生を変えてください。」

 

2.イエスは私の癒し主

 

テキストにはこのように記されています。「主イエスは、あなたの心の傷を癒したいと願っておられます。これまでの生涯の中で起こった病や傷は癒されなければなりません。では、どのようにして、主からの癒しを得ることができるでしょうか。」キリスト教会では、人々に「罪を悔い改めなさい」と言います。しかし、被害者の面がほとんど扱われません。イザヤ書53章のみことばを読むと、とても驚かされます。なぜなら、加害者の罪だけではなく、被害者としての傷や恥、悲しみを扱っているからです。イザヤ532-5「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」これは、イエス様の十字架を預言したみことばです。イエス様は私たちの恥、悲しみ、病、痛みを担ったと記されています。もちろん、私たちの罪を負ったゆえに罰せられました。それだけではなく、恥、悲しみ、痛みという被害者の面も負ってくださいました。

 

 神さまは、私たちの加害者の面だけではなく、被害者の面も扱ってくださいます。これに対して、長い間、キリスト教会は盲目だったような気がします。それは、西洋回りの「神、罪、救い」の伝道法のためだったと思います。彼らは「あなたには罪があります。悔い改めなさい」と迫って来ます。もちろん、私たちには罪があり、悔い改めなければなりません。でも、半分は被害者であり、傷を受けて痛んでいます。また、日本は罪の文化ではなく、恥の文化です。神のあわれみによって恥が取り去られると、罪が分かってくるのです。では、なぜクリスチャンになっても愛の人になれないのでしょう?それは、被害者の部分が贖われていないからです。心の深いところで、「この恨みを晴らしたい。失ったものを取り返したい」と思っています。私はテレビの大岡越前とか、必殺仕置き人、東山の金さん、水戸黄門が大好きでした。なぜでしょう?悪人がちゃんとさばかれるからです。家内は単純すぎると笑います。でも、私は家内が好きなサスペンスとかホームドラマを見ることができません。必ずそこには人をいじめて、不当な扱いをする人が出て来るからです。私は心がドキドキして見ることができません。しかし、勧善懲悪ものだったら、最後の5分で片が付くので安心して見られます。

 

 私たちにはどのような心の傷があるのでしょうか?ふだんは社会的な体裁や理性によって覆い隠されています。男性の場合は「感情的になってはいけない」と教えこまれているので、感情を殺しながら生きています。本当は傷が膿んでいる状態です。それを表面から包帯で覆って、傷がないようなふりをしているのです。あるデーターによると、日本人の10人から15人に一人は鬱病を経験すると言われています。もちろん鬱にはいろんな原因があります。でも、その大きな原因は、怒りや悲しみを抑圧しているために起こると考えられています。つまり、感情に蓋をして生きているため、精神的な疾患にかかりやすいということでしょう。テキストには「心の癒しの自己診断」という表があります。自分でチェックできるようになっています。前半は「否定的な考え」です。このような項目があります。「自殺願望、すぐ諦める」「罪悪感、罪責感、自分をすぐ裁く」「劣等感、恥意識、孤独感」「拒絶されることへの恐れ」「苦々しい思い、恨みを抱く」「平安がない、疑いやすい」などがあります。また、後半には「過去におけるトラウマ」です。このような項目があります。「お母さんから堕胎されかけた」「拒絶された」「強姦、いたずら」「恐ろしい経験、災害」「孤立」「過去における失敗」などがあります。すぐ分かる人もいれば、あんまりわからないという人がいます。心の傷とずーっと付き合ってきたので、麻痺しているかもしれません。でも、分かる方法があります。それは「どんなとき過剰な反応を起こすか?」ということです。よく、「あの人の地雷を踏んだ」ということがあります。つまり、言ってはいけないこと、やってはいけないことをしたために、怒りが爆発したということです。あるいは、ひどく落ち込んで、部屋から出てこない場合があります。なぜかと言うと、癒されていない傷のところに触れたからです。私たちも怪我している部分を突かれると飛び跳ねるでしょう。でも、その時、初めて、「ああ、この部分が癒されていないんだなー」と自分の傷に向き合うことができるのです。ですから、自分や人の過剰反応は宝の山であると考えるべきです。

 

 心の傷の癒しには、いろいろな方法があるので「これしかない」と言ってはいけません。時間をかけたカウンセリング的なものもあれば、解放のキャンプのように荒療治的なものもあります。例えて言うと、漢方のようにじわじわ直す方法から、外科手術のように短時間で行うものまであります。しかし、大切なのは、その人との信頼関係がなければなりません。人の心に、いきなり踏み込んで「あなたの心の傷はこれです。これを直さなければなりません」と言う事があります。「そんなことあんたから言われなくても、百も承知だよ」と反発されるでしょう。心理学では「共感」が何よりも大事だということを学びます。でも、中途半端に心理学を学んだ人に話すと、「あきらかに共感しているなー」と分かります。しかし、私たちが理解できなくても、イエス様がその人のところまで降りて分かってくださいます。また、その人の声に耳を傾けながら、聖霊様が何とおっしゃっているのか聞くことも重要です。昔のカウンセリングは「はい、そうですか、そうですか」と95%ぐらい聞く作業でした。なぜなら、その人自身が答えを持っているという前提があったからです。最近の認知行動療法などは、その人と共同作業をしていくというやり方です。

 

私はかつて、蒲郡の解放のキャンプにも何度か参加しました。良いところもありますが、知恵がもっと必要ではないかという点もありました。最初に、心の蓋をあけて、心の叫びをぶちまけるというところがあります。自分の父や母、あるいは先生、友人、牧師に対する怒りをぶちまける。「こうして欲しかったんだ」と叫びます。確かにダビデは詩篇を見ると、心の悩みや怒りをぶちまけています。しかし、それは神さまの前です。解放のキャンプでは、スポンサーという世話人に告白します。もちろん、自分に負えないものはスポンサーに告白して祈ってもらったら良いでしょう。でも、せっかく半分くらい直っていたのに、古傷を開けて、「私は辛かったんだ!」と言わせるのも問題です。そして、キャンプを終えてから、父や母、友人、牧師に「あのことを赦します」と言います。こちらはそうは思っていなかったのに、「え?そうだったの?」と驚くことがあります。ごみを出す日でないのに、ごみを出されたようなものです。先輩のクリスチャンがそういう時にすべき大事なことは何でしょう?その人が神さまの前に出られるように、手助けするということです。心の傷を癒すのは人ではなく、イエス様であり、聖霊様だということです。

 

最後に心の傷の癒しにおいて、最も大事なことが記されています。それは加害者を赦すということです。私たちは過去において親もしくはだれから被害を受けました。自分には傷が残り、加害者に対するうらみがあります。加害者の首には私たちがかけた首輪がつけられています。自分の手首と加害者の間には「うらみ」という鎖がつながっています。こちらには被害を受けた痛みがあります。加害者には「悪いことをしたな」という罪責感があるでしょう。でも、どちらの痛みが大きいのでしょうか?案外、加害者というものは被害を加えた人の痛みなど覚えていないものです。自分だけが、「あの時、あんなことをした。私は決して赦さない」と恨んでいるかもしれません。その恨みと憎しみが自分に毒を飲ませているとしたらどうでしょう?「相手を簡単に赦したら、私が受けた痛みはどうなる?損するじゃないか?フェアーじゃない」と思うかもしれません。しかし、加害者を赦すのはその人のためではなく、実は自分のためなのです。イエス様の助けを借りてその人を赦しましょう。そして、その人の首から、首輪を取り除きましょう。これは感情ではありません。イエス様が「私のゆえに赦してあげない」と言っているから従うだけなのです。では、自分が失ったものはどうなるのでしょうか?加害者ではなく、イエス様がその分を弁償してくださいます。弁償とは失った分と同じではなく、少なくとも2倍です。ハレルヤ!

 

イエス様は私たちが人生で受けるすべての苦しみや痛みを負ってくださいました。十字架につけられる前にローマ兵や宗教的指導者からさんざん嘲弄されました。ひげを抜かれたり、つばきをかけられたり、平手で叩かれました。ローマ兵から鞭で打たれた後、十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘まで行きました。聖画では腰布が付けられていますが、本当は素っ裸で十字架につけられました。道行く人たちは「十字架から降りてみろ、そうしたら信じる」と馬鹿にしました。イエス様は人々からだけではなく、父なる神さまからも捨てられました。「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」と叫ばれました。私たちがもっとも傷つくのは親からの拒絶かもしれません。まさしく、イエス様は拒絶を経験し、地獄に叩き落されました。だから、イエス様は私たちのことを理解できるのです。イエス様は十字架で、私たちの恥も、悲しみも、病も負ってくださいました。だから、私たちの心の傷を癒してくださいます。あなたのすべての悲しみ、すべての悩み、すべての痛みをイエス様にゆだねましょう。

 

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2014年6月29日 (日)

千年王国の預言     イザヤ35:1-10

 イザヤはおもに4つの時代のことを預言しています。第一はイザヤが住んでいたその当時の時代です。第二はバビロン捕囚と帰還についてです。第三はメシヤ到来、つまりイエス・キリストに関する預言です。第四は千年王国、あるいは御国についてです。他の預言書も同じようなことを書いていますが、イザヤ書の場合は、その量が多く、その内容も詳しいということです。神様は永遠なるお方ですから、時代を超えて預言者に語ります。ですから、私たちは、「どの時代のことなんだろう?」と考えながら読む必要があります。


1.千年王国における回復

 イザヤ書35章には千年王国、つまり御国の様子が書かれています。天国と御国とは厳密には違います。天国は英語でheavenと言いますが、死んだ人たちが行くところです。しかし、御国には神の支配という意味があります。また、御国は復活後の千年王国、つまり新天新地が来るまでの1000年間の期間を指します。そのとき、すべてのものが回復します。イザヤ35:1-2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。」御国においては、かつて荒地や砂漠であったところに花が咲き誇ります。荒野と砂漠に川が流れるので、喜び歌っています。現代は、地球温暖化によって雨が降らず、世界のいたるところで砂漠化が進んでいます。パレスチナでは、雨季のときだけ小雨がパラパラ降ります。すると、死んでいたような荒地から、一斉に花が咲くそうです。砂漠は土地が痩せているのではなく、水がないだけなのです。御国において、自然界はどうなるでしょう?イザヤ35:6-7「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。」とあります。荒地や砂漠に川が流れたなら、肥沃な大地になります。現在、動物は弱肉強食ですが、御国では違います。イザヤ65:25「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」とあります。進化論を信じている現在の生物学はまったく崩れるでしょう。アダムとエバが堕落する前の動物たちと同じようになるのです。

 ところが、御国が完成する直前に、地上に神の審判が下されます。世の終わりには、迫害がまし加わり、信仰者も弱り、よろめき、心騒ぐこともあるでしょう。イザヤ35:3-4弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」主が地上に戻って来られるとき、さばきと報いが同時に起こります。1つ手前のイザヤ34章には、「主が地上の軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶する。天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。多くの血が流され、主の復讐の日である」と書かれています。世の終わりに、主イエス・キリストが地上に戻って来られます。ある人たちにとっては恐ろしい日であり、またある人たちにとっては報いの日、救いの日であります。世の終わりに住んでいる人は、どちらかを体験することになります。もしかしたら、私たちが生きている間に起こるかもしれません。まさに、それは産みの苦しみの始まりです。なぜなら、世の終わった後、御国が訪れるからです。

 千年王国、つまり御国においては、自然だけではなく、私たちの肉体が回復します。この世では「障がい者」という方々がおられますが、千年王国においては、一人の障がい者もいません。イザヤ35:5-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」まず、目が見えない人の目が開かれます。生まれつき1度も見えたことのない人は、どんなに驚くでしょうか?また、耳の聞こえない人の耳があけられます。もう手話が必要でなくなります。素敵な音楽も聞くことができます。そして、足のなえた人はあんまりうれしいので、鹿のように飛び跳ねるでしょう。事故などで下半身不随の人がいたら完全に治ります。口のきけない人の舌は喜び歌うでしょう。イエス様は地上で、目の見えない人の目を開け、耳の聞こえない人の耳をあけ、足のなえた人を歩かせました。なぜ、そのようなことをしたのでしょう?それは、御国がどんなところかを少しばかり体験させたかったからです。御国には病気も障がいも死もないからです。イエス様は復活後、天にお帰りになられました。もう、病の癒しや奇跡もなくなったのでしょうか?あるクリスチャンたちは「聖書が完成した時代は目覚ましい奇跡は不要になった」と言います。日本は経済的にも富み、医学が発達しているので奇跡が起こりません。しかし、中国、南米、アフリカ、インド、インドネシア等では頻繁に起こります。なぜでしょう?お金もなく、医学も発達していないからです。その分、彼らは単純な信仰をもっています。「人にはできないことも、神にはできる」と信じています。今、イエス様は教会というからだをもってこちらにおいでになっておられます。私たち教会こそが、2000前のイエス様が行ったように3つのわざを行わなければなりません。3つのわざとは、福音宣教、教え、癒しと奇跡であります。

今から30年くらい前、栗栖ひろみ著の『命のパンのゆえに』という本を読んだことがあります。中世においては、ラテン語訳のヴルガータ聖書だけが権威がありました。他の国の言語で訳すだけでも処刑されました。ところが、16世紀ルターが宗教改革を起こし、ドイツ語で聖書を訳しました。ちょうど、グーテンベルグが活版印刷を発明し、聖書が印刷されました。イギリスにウィリアム・ティンダルという聖書学者が英語の聖書を発行しようとしました。そのため、神聖ローマ帝国の官憲に狙われ、ヨーロッパ大陸に亡命しました。どの印刷屋も危険なので英語の聖書を印刷してくれませんでした。ところが、ある小さな印刷屋さんが「よし、やってみよう」と引き受けてくれました。その家には、若いお嬢さんがいましたが盲人でした。印刷の合間、ティンダルが彼女に読んできかせたことばがイザヤ書35章でした。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」彼女が聖書から約束のことばを聞きたとき、喜びが顔中にあふれました。私はそのとき、とっても胸が熱くなり、この聖書の箇所を記憶しています。その印刷屋で新約聖書200部刷り上がりました。しかし、官憲がやってきて、印刷屋のご主人が捕えられ殺されました。ティンダルは何冊かの聖書を持って逃げましたが、ほとんどが没収されました。やがて、ティンダルは1536年イギリスで火刑に処せられました。彼の死後70年、キングジェームスによって、欽定訳聖書が作られました。新約聖書の8割が、ティンダル訳がそのまま使われたそうです。印刷会社のご主人もティンダルも報われたのではないでしょうか。しかし、印刷屋の盲目の若いお嬢さんはどうなったでしょう?彼女が御国で復活したとき、肉体の目が開くでしょう。ティンダルと手を取り合って、ダンスをする光景を想像できます。

 残念ですが、この地上においてすべての人が癒されるわけではありません。2か月前、マレーシアの伝道者が来られて、新宿のホテルで癒しの集会をしました。一番前に、聾唖の方が5人くらい座っていました。残念ですが、癒されませんでした。今も、奇跡や癒しは確かにあります。しかし、限界があります。なぜなら、死が克服されていないからです。だから、病気があるし、障がいも存在します。私も毎朝、散歩に行きますが、ヘッドギアーをつけた子どもがお母さんに連れられて登校する姿を見ます。昼間、生協に行くと、車椅子の方だけではなく、知的に障がいを持っている人もおられます。多くの人たちは、「不条理があるのが世の常なんだ」と諦めるでしょう。しかし、完全に回復し、悲しみが報われるところがあります。それが、千年王国であり、御国です。神様は新天新地が来るまでに、1000年間の御国を設けました。何故でしょう?それは地上の不条理が報われるときを与えたかったからです。また、神様はイスラエルを回復するために、御国を設けられました。イスラエルは不従順のゆえに神様から捨てられました。しかし、旧約聖書はイスラエルが必ず回復すると預言しています。さらには、この自然が回復しなければなりません。動植物が贖われることも神様のみこころです。イザヤ55:12「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」聖書の預言は、作り話とかおとぎ話ではありません。私たちの世界はあまりにも、フィクションや仮想現実に満ちています。なぜなら現実があまりにも厳しいので、ゲームなどありもしない世界に身を投じています。しかし、本当の希望があります。本当の報いがあります。それは、千年王国であり、御国です。やがてこの世は終わります。迫害や厳しいさばきもありますが、やがてイエス・キリストが戻ってこられます。そして、この世の歴史にピリオドを打たれ、御国が完成します。復活した私たちはそこで、永遠に住まうことができるのです。究極的な希望とは、千年王国であり、御国です。


2.千年王国への招き

イザヤ35:8-10「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」このところに、ヘブル語の聖書には「贖われた」ということばが2回出てきます。最初に出てくるのは、9節の「ガアール」贖うという言葉です。これは失った土地を買い戻すという意味のことばです。ルツ記に、何度もこのことばが出てきました。ボアズが土地代を払い、ルツと結婚したので、エリメレクの土地が買い戻されました。次に出てくる10節は「ピデーム」であり、英語の聖書ではransomと訳されています。身代金で捕虜を解放する、身請けするという意味のことばです。元来「贖う」ということばは、罪とは関係ありませんでした。土地を買い戻したり、身請けするという意味で使われていました。しかし、だんだんと罪の中に囚われている人を解放するという意味に変わってきました。このような意味の贖いが、頻繁に出てくるのがイザヤ書です。たとえば、イザヤ44:22「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」このところには、はっきりと罪から贖ったと書かれています。そして、イザヤ書53章には、罪から贖うための贖いしろ、つまり苦難のしもべについて書かれています。イザヤ53:5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」とあります。イザヤ書が第五福音書と言われるのはそのためです。

千年王国、つまり御国に入れる人はだれでしょうか?それは、主に贖われた人だけです。罪を持ったままでは、御国に入ることはできません。イエス様はマタイ7章で「狭い門から入りなさい。…いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と言われました。しかしここでは、「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる」と書いてあります。英語の聖書ではハイウェイですから、片道何車線もある広い道路を想像すべきです。なぜ、ここでは狭い道ではく、大路なのでしょうか?それは、終わりのとき、御国に入る者たちが非常に大勢いるからです。私は『復活』という絵を見たことがあります。手前にはよみがえられたイエス様が墓のそばに座っています。その向こうには、各時代の人たちが旗をもって立っています。古代、中世、近代、現代と着ている服でわかります。おびただしい数の人たちが雲のように群がっています。子どもいれば、少年、中年、老人もいます。その人たちが、御国に入るのですから、大路、ハイウェイでなければなりません。しかし、そこには条件があります。群衆に紛れて入ることはできません。「汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」と書いてあります。こんなに大勢の人たちをどのように分けることができるのでしょうか?1つは、キリストの贖いを受けて、いのちの書に名前が記されている人たちです。もう1つは聖霊の証印が押されている人です。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」ハレルヤ!「聖霊が御国を受け継ぐことの保証であり、神の民の贖いのためである」とはっきり書かれています。しかし、世の終わり、迫害が激しくなり「獣の刻印」を押されたものだけが売り買いできるという時代がやってきます。多くの人たちは、右手か額に、刻印を受けさせられるでしょう。だから、そのときは信仰は命がけであり、殉教を覚悟しなければなりません。キリストが来られるとき、獣の刻印を受けた人々は、にせ預言者と一緒に火の池に投げ込まれます。ヨハネ黙示録20:4「…獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」と書いてあります。この人たちは、世の終わりに救われて、千年王国に入った人たちです。

現代は終わりの時代に既に入っています。しかし、「獣の刻印」が押されるような迫害は受けていません。世の終わりを極端に強調する牧師たちがいます。「ちょっと危ないなー」という気がしますが、ある程度は、彼らからも学ぶ必要があります。たとえば、政府は国民全員に番号を割り振る法案を決定しています。アメリカでは、昨年、皮膚の下にICチップを埋め込む法案が可決されました。そうすれば、預金残高、職業、犯罪歴など国民一人ひとりを監視することができます。水面下では、ちゃくちゃくと準備ができているのかもしれません。信教の自由はいつまでも続かないということは確かです。しかし、平和な時代は信仰もなまぬるくなり、自分は救われているのか、救われていないのかも分かりません。私たちはまもなくやってくる、さばきと報いに対して、備える必要があります。聖書の預言はほとんど成就しました。成就していないのは、この世の終わりの一連の出来事だけです。これから起こることを知るために、ヨハネの黙示録などから学ぶ必要があります。ヨハネの黙示録は、世の終わりの7年間にスポットが当てられています。7年間とは、千年王国に至るまでの艱難時代です。今は時計が止まっている状態です。ダニエル書には、70週ということばがあります。ところが、69週目にメシヤが絶たれました。そこに、教会時代が割り込んでしまい時計が止まったような状態になりました。いわゆる、異邦人の時です。残りの1週、つまり7年間は延期されている状態です。でも、異邦人の時が終わったなら、時計が動き出します。まず、エルサレムに神殿が建てられます。世界的な政府が樹立され、いろんな統制が敷かれます。大きな迫害のもとで、イスラエルの民が救われるでしょう。ある人たちは、教会は天に引き上げられると言います。しかし、ある人たちは一緒に艱難を受けると言います。とにかく、殉教者する人はかなりの数にのぼるでしょう。イエス様は、「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」と何度も言われました。ですから、終末の時代に住む私たちにとって一番重要なことは、主がいつ来られても良いような生活をしていることです。

Ⅰテサロニケ5章に、私たちがどのように備えるべきなのか詳しく書かれています。Ⅰテサロニケ5:2-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」眠るとは、霊的に眠っているということです。「世の終わりなんか来ない。そんなのうそっぱちだ」と罪の中に生きているなら、取り残されてしまうでしょう。私たちは暗闇の者ではなく、光の子ども、昼のこどもです。Ⅰテサロニケ5:8-9「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」ハレルヤ!昼の者が身に着けるものがあります。信仰と愛の胸当て、救いの望みのかぶとです。いわゆる「信仰、希望、愛」です。私たちは神の怒りを受けるものではありません。キリストにあって、救いを得るように定められています。今、キリストを信じているなら、この先、どんなことがあっても罪に定められることはありません。必ず、千年王国、御国に入ることができます。イザヤも「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる』」と言っています。キリストにある者には復讐の神ではありません。神の報いが来て、私たちが救われるのです。ですから、世の終わりは私たちとっては、破滅ではなく、御国が完成するときなのです。この世は終わらなければなりません。でも、その後に、自然界が回復される千年王国がやってきます。千年王国こそは、私たちへの報いです。すべての不条理が解決され、すべての損失が弁償されるときです。この地上では貧しい人や金持ちがおります。幸せな人もおれば、一生不幸せな人もいます。健康な人もおれば、病気がちで体の不自由な人もいます。しかし、千年王国ではそんなことはありません。特に、地上で貧乏くじをひかされたような人が、何倍も報われるのです。神様はちゃんと見ておられます。有名で地上ですでに報われている人は、御国ではあまり与えられません。地上で良いことをしたのに、ちっとも報われなかった人が、御国では報われるのです。人からの報いは期待してはいけません。しかし、千年王国における、神様からの報いは期待して良いのです。信仰と愛と望みを失わないで、御国の成る日を待ち望みたいと思います。


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2014年6月15日 (日)

大預言者イザヤ    イザヤ1:1-6  

 旧約聖書で最も有名な預言者はイザヤです。エリヤは文章を残しませんでしたが、イザヤはエレミヤやダニエルと同じくらい長い文章を残しました。彼はウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4代の王のもとで活躍しました。彼の後半に書かれたイザヤ書40章以降は全く内容が異なります。そのため学者たちは、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと分けたりします。しかし、イエス様や使徒パウロは第二イザヤとか、第三イザヤなどと引用していないので、私はイザヤ書を書いた人は、一人だと思います。しかし、イザヤ書は66章にわたる大預言書なので30分で語ることは不可能です。でも、今回はイザヤという人物にポイントをあてて、学びたいと思います。


1.聖なる預言者

 イザヤは貴族の家に育ち、社会的にも勢力を持つことのできる地位にあり、歴代の王と対面することができました。イザヤ書1章から12章までがおもに南ユダ王国のための預言が記されています。イザヤは火のようなメッセージを語りました。イザヤ1:2-4「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。』ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」イザヤは、歯に衣着せぬ物言いで、イスラエルの罪を糾弾しました。その相手が王様であろうと、政府高官であろうと構いません。イザヤがよく使う表現が「イスラエルの聖者です」。この意味は、聖なる方がイスラエルの中に住んでおられるのだから、「聖なる生活をせよ」ということです。主が彼らを選んで大事に育ててきました。それなのに牛よりも劣る有様で、「罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら」と言われています。どのくらい、汚れているかというと、足の裏から頭までです。イザヤ1:6「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」イスラエルの罪深さが「らい病患者」にたとえられています。イザヤは1章から5章まで、イスラエルの罪を無茶苦茶糾弾しています。ところが、イザヤ書6章になったらどうでしょうか?イザヤは預言者として活動した初期の頃、神体験をしたと考えられます。

 イザヤは神殿の中で主なる神を見てしまいました。主の前で天使セラフィムたちが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と礼拝していました。イザヤ6:5「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。』」イザヤはこれまで、イスラエルの民が汚れているとさんざん言ってきました。しかし、自分が主を見たとき、自分こそ汚れていると悟ったのです。旧約時代は、聖なる神様を見ると、死ぬと考えられていました。だから、イザヤは「ああ。私はもうだめだ」と言ったのです。「ヌミノーゼ」と言いますが、聖なるもの、絶対的なものに立ったときの畏れであります。人は、こういう体験がないと、神様をなめてかかります。イザヤが聖なる預言者と呼ばれるのは、自分が本当に罪深いことを知り、神さまから聖められる経験をしたからです。イザヤ6:6-7「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」幻なのか現実なのかわかりませんが、イザヤの口に燃えさかる炭火が当てられました。そのことにより、イザヤの不義が取り去られ、罪が贖われました。それまで、イスラエルの人たちは汚れていると裁いていたその唇が、聖められたということです。私も講壇から、主のみことばを語ります。賛美リーダーの方がたまに、「鈴木牧師の唇をどうか聖めてください」と祈ってくださいます。心の中では「余計なお世話だ」と思っていますが、ありがとうございます。イザヤは相対的には聖かったかもしれませんが、神様の目から見たら、罪のかたまりでした。そして、自分も罪汚れた民の一人だと分かったのです。そのとき、イザヤは罪を贖われ、そして聖められる体験をしました。その後、「私をお遣わしください」と願いました。主は「行って、民に言いなさい」とイザヤを派遣しました。何が変わったのでしょう?罪贖われた者、聖なる預言者として再び遣わされたということです。

 パウロはコリント教会の人たちに「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と挨拶しています。しかし、彼らの実際の生活は罪に満ちていました。でも、彼らはキリストによって罪の贖いを受けていました。だから、神様の目から見たなら、聖徒であり、聖なるものなのです。Ⅱコリント5章には「キリストの使節(大使)なのです」と書かれています。私たちもイザヤのような経験が必要です。私たちは、世の中の人をさばくことがあるでしょう。でも、私たち自身にも罪があり、そして汚れた民の間に住んでいます。だから、このままでは、人々に「神様はこう言われます。こうしたら良いですよ。」とは言えません。なぜなら、程度の差はあれ、自分も同じような罪を犯しているからです。イザヤが得た3つの体験を私たちも必要です。第一は神を恐れるということです。ヌミノーゼ体験と言いましょうか、「自分は滅びる存在である」と気づくことです。「自分は人とくらべて意外と正しい」と思っている人は、イザヤのような深いメッセージを語ることはできません。第二は罪の贖いを体験するということです。まさしく、キリストの十字架が自分のためであったということです。何をし、何を語るにしてもキリストの贖いが土台でなければなりません。第三は聖められるという体験です。イザヤは幻の中で、燃えさかる炭火を口に当てられました。イザヤは不義が取り去れたたと言っています。新約聖書的には、罪の性質が聖められたということです。もちろん天国に行くまでは罪があります。でも、罪を生産する工場が壊される必要があります。これらの体験を通して、イザヤは罪と汚れが満ちているイスラエルの民の中に再び出て行ったのです。私たちも罪に満ちているこの世に遣わされている存在です。ですから、私たちもイザヤのような体験が必要なのです。


2.世界的な預言者

 イザヤが活躍し始めた頃、北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。アッシリヤは、今度は、南ユダ王国も滅ぼそうとやってきました。王様たちはエジプトに頼った方が良いのではないかと迷いました。そういう中で、「イザヤは主なる神様に頼れ」と預言しています。詳しくはヒゼキヤ王のときにお話ししたいと思います。イザヤは南ユダ王国だけではなく、諸外国に関しても預言をしました。そのことは、イザヤ13章から23章まで記されています。第一はバビロンに関するメッセージです。イザヤの頃は、バビロンはまだ興ったばかりで、アッシリヤの影に隠れていました。しかし、このバビロンがやがてアッシリヤを滅ぼします。さらには、南ユダ王国を滅ぼし、財宝を奪い、人々を国外に連れ出しました。これを、捕囚と言いますが、ダニエル書に現地のことがよく書かれています。主は南ユダが罪を悔い改めないので、さばきの器としてバビロンを用いたのです。イザヤは捕囚のこともさることながら、時が満ちたら戻ってくることができるとまで預言しています。実際、70年という数字をあげたのはエレミヤですが、すごいことではないでしょうか。しかし、それ以上にすごいのは、バビロンがやがて滅びることを預言しています。イザヤ13:17「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」メディヤとはペルシヤのことです。そのとき、主がペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせました。それで、ユダの民はエルサレムに帰ることができました。

 第二はアッシリヤです。時間的にはバビロンより先に起こりました。第三はペリシテ、第四はモアブ、第五はダマスコ、第六はクシュ、今のエチオピアです。第七はエジプトです。なぜ、イザヤは諸国に対して預言したのでしょうか?それは、主なる神が世界を支配し、歴史を動かしているからです。聖書の歴史観はこの世の歴史観とは違い、救済史、救いの歴史です。単なる歴史ではなく、背後に神さまの支配があることを示しています。イザヤ40:15「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。」40:22-23「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」神様は世界の創造者であり、支配者です。ところが、時代が進むと、神様はこの世界にはタッチしておられない。物質がすべてであるという唯物史観が出てきました。そうすると歴史は人間の欲望と自然における偶然の積み重ねになります。だから、学校では神なき歴史を学んでいます。「地球は46億年前に誕生し、それから生物が誕生し、約700万年前に人類が誕生しました。そして、5,000年前に文字ができ国家という形のものができ、人類の文明が始まりました。」と教えます。そこから先は、いろんな国が興っては倒れ、倒れては興るという繰り返しが続きます。歴史には目的もなければ、意味もありません。なんとなく始まり、なんとなく終わります。そうではありません。世界は創造主なる神様によって造られ、今も、保たれているのです。

 イザヤ41:1-4「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、【主】こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」イザヤは、「神様がひとりの者を起こして、国々を渡し、王たちを踏みにじらせる」と言っています。ひとりの者とは、まさしく王なるキリストです。この方が再び来られたとき、歴史にピリオドが打たれるのです。「島々よ」とありますので、この中には日本も入っていると信じます。ヨナがアッシリヤの首都ニネベに宣教に行きました。そのとき、主は、右も左もわきまえない12万人以上の人間と数多くの家畜を惜しまれました。日本には約1億3000万人住んでいます。定義にもよりますが、首都圏には3600万人住んでいます。私たちクリスチャンは自分の生活が守られるように祈ることも大切ですが、首都圏と日本の救いのために祈る必要があります。私たちが信じている神様は歴史を支配しておられる世界大、宇宙大の神様であることを知る必要があります。私はジョエル・オスティーンの説教をユーチューブで時々見ます。彼の後ろには大きな地球儀があり、それがゆっくりと回っています。お父さんが牧会しているときは、後ろに世界各国の国旗が立てられていました。お父さんはインドをはじめとするアジア諸国に宣教に行かれていたようです。息子のジョエル・オスティーンはテレビを通して世界に福音を発信しています。

 当亀有教会も世界まで行かなくても、首都圏と日本の救いのために重荷を持つ必要があると思います。大きく考え、大きく祈っていくと、目の前の問題が小さく見えてきます。私たちが日々、遭遇している問題が、首都圏と日本の救いと比べたらどの程度のものでしょうか?神様はどういうお方でしょう。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。」と書いています。私たちも地上からではなく、神様のおられる天上から地上を見下ろしたいと思います。そうすれば、「ああ、小さなことで悩んでいるなー」と思うでしょう。そして、全世界を導いておられる神様は、私の人生も導いておられると信じることができます。イザヤ40:28-29「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」アーメン。私たちの人生は偶然の積み重ねではなく、永遠の神、地の果てまで創造された方が、共におられて、助けてくださるのです。


3.慰めの預言者

 イザヤ40:1-2「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。』」イザヤ書はこの40章から全く、内容が違ってきます。これまではさばき中心でしたが、後半は慰めと希望、そして神様の招きが記されています。使徒パウロもたくさんこのイザヤ書から引用しています。イザヤ書が第五福音書と言われるのはそのためです。では、イザヤ書40章から最後の66章まで具体的にどのようなことが記されているのでしょう?それは、バビロン捕囚からの帰還と神の招きです。イザヤが活躍しはじめた頃、南ユダは、まだ繁栄を誇っていました。しかし、ウジヤ王が死んでから、雲行きがおかしくなりました。ヨタムとアハズは北イスラエルに影響されて、様々な偶像を拝みました。そのあと、ヒゼキヤが王になり国を建てなおしました。そして、ヒゼキヤが王になってまもなく、北イスラエルのサマリヤが陥落しました。北からアッシリヤが攻めて来たからです。そして、北イスラエルの民は外国に連れて行かれました。今度は、南ユダにも侵略の危機が訪れました。彼らはエジプトにたよるべきかどうか迷っていました。しかし、イザヤはそんなものに頼らないで、万軍の主に頼れと言いました。イザヤはもっと先のことを預言しました。それは、南ユダが罪を悔い改めないなら、バビロンがあなたを捕え移すと預言しました。しかし、そのとき、バビロンはできたての新しい国でした。ヒゼキヤは自分が生きているうちにそれが、起こらなければ良いと考えていました。一般に、こういうなまぬるい時代に、預言しても無駄だと考えるでしょう。しかし、イザヤの偉いところは、人がたとえ信じなくても主のことばを語ったということです。なぜなら、主からこのように言われていたからです。イザヤ6:9-10「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」これは、信じようとしない者は心が頑なにされるという呪いです。

 イザヤは若い時には主のさばきをストレートに語りました。しかし、年を取り、円熟してからはメッセージの仕方が変わりました(まるで今の私のようです)。『聖書人物伝』を書いた沢村五郎師はこう述べています。「イザヤ書の前半には秋霜(しゅうそう)のような峻厳さがあり、後半には春風のような暖かさがある。そのため、第二イザヤ説を唱える者は、これを別人の作と見る。そして、イザヤ書を殺してしまう。しかし、そこに広大なイザヤの人格の内容があらわされているのである。イザヤは常に進歩した。彼のたましいは年とともにいよいよ円熟した。後半生は別人ではないかと思われるほどの変化があるところに彼の偉大さがうかがわれる。何年たっても一向に変わらず、否、時には若い時の方が元気があって役に立ったといわれるような伝道者はわざわいである。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるまで、常に進歩するものでありたい。」では、イザヤはどのような主の恵みを伝えているのでしょうか?イザヤ46:3-4「3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」バビロンはベルという神さまを信じていました。バビロンがペルシヤとの戦いで敗れた時、バビロン軍は大きくて重い偶像を動物に載せて逃げなければなりませんでした。捕えられて偶像が戦利品として待ち去られてしまうことのないためです。それに比べてイスラエルの神、主は、神の民を背負い、運んで救う神だということです。私たちがしらがになっても、主が背負ってくださるとはなんとありがたいことでしょうか。イザヤ49:15-16「『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。』」一般に、母親は自分が生んだ子どもを忘れないものでしょう。しかし、世の中には子どもを捨てる母親もいます。現代は、物理的に捨てなくても、ネグレクトという育児放棄があります。基本的信頼感を学ぶ、一番重要なときに母の愛が受けられない子どもは、大きなダメージを負うことになるでしょう。しかし、神の愛は母の愛とは比較にならないほど、永遠で、普遍で、無限です。私たちは主の絶対的な愛を受けるとき、母親から受けられなかった悲しみを放棄し、新しい人生を歩む希望が与えられます。

 最後にイザヤは主の熱い招きを語っています。イザヤ65:17-23「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。」これは、御国の預言です。私たちは毎週、「御国が来ますように」と賛美します。これが完成された御国です。主はここに住まうことができるように、私たちを招いておられるのです。御国には死がありません。喜びと楽しみと豊かさがあります。世の中にはいろんな楽しみがあるでしょう。しかし、私たちの楽しみは完成した御国に主と共に住まうことです。これが私たちのゴールです。人生のゴールがはっきりしている人の生き方は違います。途中どんなことがあっても、最後が良いことを知っているからです。私たちの人生は主を信じているなら、必ずハピーエンドで終わるのです。


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2013年5月26日 (日)

セルフ・イメージの回復     イザヤ43:1-4 

 セフル・イメージとは何でしょう。直訳すると、自分に対するイメージ、自己像です。言い換えると、「自分で自分をどう評価しているか。価値ある存在と思っているか」ということです。箴言23:7「彼は、心のうちでは勘定ずくだから」という聖句があります。キング・ジェームス訳ですと“For as he thinks in his heart”「彼は心の中で考えているような人である」となります。つまり、自分自身について考えていることがらを合計したものが、自分そのものであるということです。その証拠に、人というものは自分自身の評価にふさわしく行動します。もし、自分を「価値がない存在だ」と思っていると、大きなことにチャレンジせず、目立たないようにして生きるでしょう。逆に「自分には価値があるんだ」と思っているなら、自分の能力を最大限に発揮できるようにチャレンジしていくでしょう。


1.傷ついたセルフ・イメージ

 セルフ・イメージが傷ついている人のライフ・スタイルは、以下のような特徴があります。これは李光雨師のセミナーから学んだものです。第一は自分存在の否定感を持っています。口に出すかは別として、「私はだめだ」という責める思いが常にあります。新しい人間関係とか、新しい仕事とか、そういうことを始めるときに、ものすごくエネルギーがいります。なぜなら、「私はだめだ」というマイナス3か4からスタートするからです。何かをし始めるのがしんどいので、原稿や宿題の提出を引き延ばしてしまいます。その人が「肯定的(積極的)な思考を持つと人生が変わるよ」というセミナーに出ても、付け焼刃であまり長持ちしません。そのときだけです。第二は他人の評価にとても固執します。セルフ・イメージの低い人ほど、他人の評価で生きていこうとします。人の評判を過度に気にして、常に良い評判を得ようと努力します。これが高じてくると「視線恐怖」「対人恐怖」「ひきこもり」へと発展していきます。

第三、他者の評価を気にする人は、間違いなく、攻撃的、批判的になります。何故かと言うと、他者の評価というのは、基本的には否定的なものだからです。「攻撃は最大の防御である」と言いますが、セルフ・イメージに傷があれば、拒絶的、批判的、攻撃的になります。相手が自分を評価してくれているなら関係がとてもスムーズにいきます。でも、一度、相手が批判的なことを言うと、関係をバシッと切ってしまいます。この時は、愛による注意とか忠告はうまくいきません。第四、他者からの評価に固執するライフ・スタイルの行き先は理想の自分像という偶像を作ります。理想の自分像を作って、人から受け入れられるようにします。「向上心がある。もっと上を目指している。栄光から栄光へと御姿を求めている」と言うかもしれません。それで、人々からも称賛されるでしょう。でも、理想の自分像が神さま以上になっているという意味で偶像です。第五は、理想の自分像を作ってかんばっているので、「到達できない」という未達成感、挫折感が常にあります。これは天国への終わりのない階段を上り続けている状態です。やがて、頑張ることに疲れ、抑うつ状態になり、何もできなくなります。「赤い靴」というアンデルセンの物語があります。少女は、赤い靴を履きながらずーっと踊りつづけます。最終的には、靴を脱ぐために足を切らなければなりません。それは、自己崩壊です。第六は、パーソナリティ(人格)障害に陥ります。これは、傷ついたセルフ・イメージを回復しようとして形成された「束縛されたライフ・スタイル」と考えることができます。この人には、自分の情動をコントロールできないという、不安定さが常にあります。六つだけ取り上げましたが、あてはまるものがあったでしょうか?

 では、どういう理由でセルフ・イメージが傷つくのでしょうか?最大の原因は、生育史の中で、自分が受容されたという経験がほとんどないということです。心理学者は「6歳までに、その人の性格の骨格が決まる」言います。コンクリートでいえば、まだ軟らかい時に傷つき、それが固まったならばどうなるでしょう。なかなかその形は変えられないでしょう。同じように、土台ができる6歳の時まで、自己に大きなダメージが与えられると、修復するのが困難になります。そうすると、心の病になる確率も高くなってしまいます。しかも、このセルフ・イメージの形成で最も重要な時というのは、0歳から2歳までです。この時、幼子が得なければならない課題は「絶対的(基本的)信頼感」です。心理学者のエリック・エリクソンは、「子供は生後2年間の環境次第で、この世を信頼できるものと考えるか、できないものと考えるか決定される」と言いました。なぜなら、赤子は自分では自分のことを何一つできず、結局自分の置かれた環境にすべてをゆだねるしかないからです。ですから、置かれた環境から自分の必要を満たされれば、「自分の世界は信頼できるところだ」と学ぶし、満たされなければ、「信頼的でないところだ」と学ぶのです。置かれた環境の主なものは、父親であり母親です。もし、子どもの側から見て、親から拒絶されたように感じるならどうなるでしょう?セルフ・イメージが傷つき、大人になってからも、精神的に非常に不安定になります。その人には、劣等感、自信喪失、不確かさ、不安定感がいつもつきまといます。現代は「20人に1人、30人に1人は、境界性パーソナリティ障害である」と聞きます。どういう人かと言うと、情動が不安定で、怒りや悲しみをコントロールできないということです。拒食症、リストカット、自殺願望に悩まされ、救急車で運ばれる人たちです。親自身が鬱で、子育てができない場合があります。また、共稼ぎのために保育園に預けっぱなし。幼児はかまってもらえないので泣くと、親から無視されるか虐待されます。そうすると、赤ちゃんは、怒りと悲しみで、泣きやまなくなります。親の方は、怒りが増し、「可愛くないねー、憎たらしいねー」となって悪循環になります。幼児はさらに、泣きわめき、情動のコントロールがきかない子供となります。

 私たちは、親や学校の友達、先生から否定的なことばをたくさん浴びせられて育ちました。他の兄弟と比べられて、ちっともほめてもらえない場合があります。私は8人兄弟の7番目で育ちました。小学校のときは、通知表に5が2つぐらいありました。図工と理科が常に5でした。これを両親に見せると、ぜんぜん喜んでくれません。神棚の下の引出しから、長女と長男の黄ばんだ通知表を出してきて、「これを見ろ」と言われます。秀とか優がいっぱい並んでいました。「姉や兄はクラスの1番だった」とか言って、ちっとも褒めてくれませんでした。親は姉や兄のことばかり自慢して、下の4人は「できそこない」みたいに思われていました。また、学校では、できたところよりも、できないところを強調します。「○○、バツ!○○バツ!」とバツを大きく言います。私たちは否定的な評価によってダメージを受けます。たとえば、周りの人たちが「かわいいね」を子供に10回言ったとします。そして、「馬鹿だね」と一回、子供に言ったとします。10-1=9、「かわいいね」と言ったことになるかと言うと、そうはならないのです。否定的なことばの方が強く子供の心の中に入っていきます。「馬鹿だね」という一回が、10回言った「かわいいね」を帳消しにしてしまうのです。たとえば、10人のうち9人から「あなたの洋服、とても似合っているわ」と言われたとします。しかし、最後の1人が「あなたの洋服、ぜんぜん似合っていないわ」と言ったら、どうなるでしょう?洋服をすぐ脱いで、タンスの奥底にしまって、二度と着ないんじゃないでしょうか?なぜなら、「9人のは御世辞で、1人は本音だ」と思ってしまうのです。それほど、否定的なことばには力があります。また、私たちにはアダム以来の罪があるので、何でも否定的に捉えやすいのです。

 多くの場合、私のように親からの拒絶や放任や低い評価によって、セフル・イメージが傷つきます。でも、意外と知られていないのが、「優等生の子供も危ない」ということです。親からレールを敷かれて、有名な大学を出ても、劣等感を持っている人がたくさんいます。ある本によると、極めて折り目正しく、学歴や教養も高く、善良な親によって不認証環境を生んでしまうということです。不認証環境とは、非共感的で、独断的で、本人の自信や尊厳を奪ってしまう環境です。親が子供を支配して、子供の気持ちを全くくみ取ってあげない場合があります。いわゆる、過干渉で、親が子供の代わりに何でも決めたりします。その子は、親の言いつけを聞く、「良い子」でなければなりません。もし、親の価値観から外れたら、全く評価されず、「失敗者」の烙印を押されてしまいます。そういう良い子で育てられた人は、入試の失敗、失業など、人生の壁にぶつかったときは大打撃をこうむることになります。つまり、ありのままの自分の存在そのものではなく、親の価値観で固められて人生だったからです。一般的に、「愛の反対は憎しみである」と言われます。しかし、エリヤハウスでは「愛の反対はコントロールである」と習いました。結論になりますが、セルフ・イメージが壊れている人はどんなメッセージが心の中にあるでしょう。「自分はありのままでは愛されない存在なんだ。だから愛されるために一生懸命に頑張るしかない。」「自分は人よりも劣っているので、人よりも頑張らなければならない。やがては、人よりも優れた人になるんだ」というものです。日本の精神風土には、こういう価値感があるのではないでしょうか?常に人の目を気にして、人の評価を得ようと努力しています。しかし、人というのは元来、いい加減なもので、自分のことしか考えていません。そういういい加減な評価をしている人に合わせると、こっちはいつも不安定になります。そうではなく、私たちは私たちの存在そのものを愛してくれて、存在そのものに価値があると言われる、絶対的な神と出会う必要があります。


2.セルフ・イメージの回復

 健全なセルフ・イメージを持っている人の自己表現というものはどのようなものでしょうか?第一に自信があるということです。これはいわゆる「自信家になる」ということではありません。本当の自信があるときには、人はありのままの自分を素直に表現できます。また、物事を積極的に考え、実行に移し、能力や技術を効果的に用いることができます。さらに、人生の中には必ずある困難な状況に陥ったときにも、不安や否定的な思いを取り除き、ついにはその状況を乗り越えることができます。第二は幸福であるということです。これは気分や感情のことではありません。ここで言う幸福とは、自分で決断する幸福のことです。聖書に「いつも喜んでいなさい」と書いてあります。これは命令です。ですから、こちらは「私は喜びます」と決断しなければなりません。こちらが、決断して喜ぶという態度をとると、幸福が身についてきます。第三は自己を生かすことができるということです。聖書には「あなたは神に愛されている。あなたは義であり神の子である」と書かれています。このように、健全な目で自分を見ることができるようになると、次にどうなるでしょうか?「私はみんなと同じでなくてならない」という考えから解放されます。「私はユニークな存在なので、自分らしく生きたい」と願うようになります。第四は他者を生かすことができるということです。健全なセルフ・イメージを持っている人は、劣等感からも優越感からも解放されていますので、他の人のことを省みることができます。セルフ・イメージの低い人というのは、自分よりも弱い人しか付き合うことができません。「彼らを支配して、自分に価値があるんだ」と認めているのです。それは他の人のことを省みているのではなく、自己中心や虚栄心でやっているのです。セルフ・イメージが健全だと、自分と同じように、他の人も大切にし、キリストを通して他の人を見るということを学ぶようになります。

 それでは、セルフ・イメージはどのように回復されるのでしょうか?その前に、私たちがどうしても知らなければならないこと、前提条件のようなものがあります。イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このみことばは、セルフ・イメージについて語るときに必ずと言って良いほど引用される有名なみことばです。私たちは神の愛を説明するときに、神の愛とは「高価で尊いと認めて、そのように扱うことである」と言います。まさしく、神さまが人間を愛するというのは、「高価で尊いと認め、そのように取り扱ってくれる」ことです。でも、ここで質問があります。私たちクリスチャンが神様から「あなたは高価で尊い」と言われたのは、イエス様を信じたからでしょうか?私たちは元来、価値のない存在であって、十字架によって救われたことによって価値が出来たのでしょうか?言い換えると、私たちが罪の中で死んでいた時は、まったく価値のない存在だったのでしょうか?使徒パウロは自分のことを「私は罪びとのかしらである」と言いました。パウロがかしらだったら、私たちは「罪びとの帝王」かもしれません。私たちはキリストと出会う前、罪びとであり、無きに等しい存在でした。確かに私たちはそのことを認めます。しかし、私たちは元来、神のかたちに似せて作られた尊い存在でした。そして、罪を犯して、罪の中に死んでいた存在です。では、私たちは救いようのない無価値な存在であったかというとそうではありません。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」私たちは正しい人でも、情け深い人でもありませんでした。罪人でした。でも、そんな私たちのためにイエス様が十字架で死なれたのは、私たちが救われるだけの価値があったからです。イエス様はご自分の命を払って、私たちを罪の中から買い戻してくださいました。イエス様は私たちのために、代価を払ったということです。普通、デパートの最上階には宝石売り場があります。ダイヤモンドなど貴金属が並べられています。近くに寄って、一十百千万、十万、百万…と、桁を数えてみます。とても手が出せませんが、中には札束を出して、買う人がいます。なぜでしょう?その宝石は、大枚を払うだけの価値があるからです。ということは、イエス様がご自身の命を投げ出したのは、私たちがイエス様の命と同じくらい価値があるからでしょう。つまり、私たちは救われる前から価値があったのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」というみことばは、神様から離れ、罪を犯し続けていたイスラエルの民へのみことばです。これを新約的に解釈するなら、まさしく、罪の中に失われていた私たちへのことばではないでしょうか?だから、私たちは人の目からではなく、神さまの御目で、自分を見る必要があるのです。

それでは、傷ついたセルフ・イメージはどのようにして癒されるのでしょうか?それは、神さまの絶対的な愛、無条件の愛を得るということです。残念ながら、親であっても、子供に絶対的な信頼感を与えることはできません。ある人は、「私は親から大変、愛されて育ったので、絶対的信頼感を得ています」とおっしゃるかもしれません。確かに、そういう幸福な家庭環境だった人がいるでしょう。それはとても良いことです。しかし、それは錯覚であり、人間には絶対的信頼感を与えることはできません。いくら親の愛を受けても、最後には、神様の愛を得なければ、私たちの存在不安はなくなりません。いきなり、存在不安ということばを出しました。これは、李光雨師がよく使う表現です。アダム以来、神様から離れた人類は、だれであっても、存在不安を抱えながら生きています。アダムとエバがいちじくの葉っぱで、それを覆い隠そうとしました。いちじくの葉っぱにあたるものが、親の愛であり、経済的な豊かさであり、高学歴や立派な職業でしょう。結婚であったり、子供であったり、美貌や持ち物であったりします。でも、それは偽りのバリヤーであって、いずれは役に立たなくなります。突然、何かの出来事で、覆いがなくなって、中から存在不安がばっと出てくるときがきます。人々が急に、鬱になったり、パニック発作、あるいは境界性パーソナリティ障害になるのではありません。幼い時に、既にバリヤーの喪失体験をしていたのです。親から見捨てられたと感じた時、拒絶されたときが絶対あったはずです。そのときは、良い子になって、必至にしがみついたかもしれません。「あなたは生まれてこなければ良かった」とあからさまに言われた人もいるようです。しかし、口ではそう言われなくても、「子育ては、めんどうだった」と大多数の親は思っています。楽なわけがありません。少しでも、親にそういう気持ちがあれば、子供は敏感に悟ります。「ああ、私には生きる価値がないんだなー」と心の奥底で思ったはずです。結論を言いますと、多かれ少なかれ、私たちのセルフ・イメージが傷ついて育ったのです。でも、それをごまかして、「一生懸命、勉強すれば良い」とか、「役に立つ人になれば良い」と頑張ってきたのです。心の奥底では「ありのままでは愛されない。まだ標準に達していない」というマイナスのイメージがあったはずです。ある人はそれをバネにして「なにくそ!」と頑張りますが、それは一種の怨念晴らしです。動機が汚れているので、決して良い実を結ぶことはできません。箴言21:2「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」とあります。

あなたはどういう場所で、神様とお付き合いをしているでしょうか。思った通り、事が順調に運んでいるときでしょうか?それとも、何もかもうまくいかず、八方塞がりで、うなだれている時でしょうか?つまり、どん底で、神様と出会っているかということです。ルカ15章の放蕩息子の話はだれも知っています。1つ質問があります。親のもとを離れ、放蕩ざんまいして、落ちぶれていた弟息子は、その父の息子だったでしょうか?罪の中で、失われてはいましたが、息子でした。では、そのお父さんは息子が働いて身分を回復してから、家に迎えたでしょうか?そうではありません。息子が帰って来ただけで良かったのです。お父さんは汚いままの息子を抱き締め口付けし、一番良い着物を着せてあげました。ここに示されているのは、神様の無条件の愛、絶対的な愛です。私たちもこの愛と出会う必要があります。実際、産みの親から捨てられた人もいるでしょう?むちゃくちゃ虐待された人もいるでしょう?でも、聖書の神様はどんなお方でしょう?イザヤ49:15-16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」アーメン。イエス様は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われました。それは、「あなたに、決してさよならを言わない」ということです。こういう神様、こういうイエス様と出会う必要があります。それも、幼いときの自分です。拒絶されて泣いていた幼子です。一人ぼっちで淋しくて震えていた幼子です。親から捨てられて、どうしようもない孤独を感じていた幼子です。自分の価値を認められず、悔しい思いをした幼子です。父なる神様、イエス様は絶対的な愛で、あなたを受け入れ、こうおっしゃってくださいます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。世界のだれにもまさって、あなたを一番愛している」と。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とお命じになられました。と言うことは、私たちは隣人を愛する前に、自分を正しく愛する必要があるということです。神様の無条件の愛を豊かにいただきましょう。


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2013年1月 1日 (火)

救いの完結   イザヤ66:18-24 

昨年度は、ペテロ第一と第二の手紙から、終りの時代について学びました。終わりの時代とは、主が再び来られて、御国を完成してくださるということです。このことは、旧約聖書のいたるところにも預言されています。きょうは、イザヤ書の一番最後から、「救いの完成」というテーマでご一緒に学びたいと思います。昨年末は、マヤ歴から「2012年でこの世は終わるかもしれない」という噂が飛び交いました。中国では宗教団体が騒動を巻き起こし、政府も鎮圧のために動いたということです。「世の終わり」ということを話すと、「ああ、またか」と人々は笑い飛ばすかもしれません。まるで、「オオカミ少年」のようであります。私たちは聖書から、世の終わりは単なる人類の滅亡ではなく、御国の完成、つまり救いの完結であると捉えるべきであります。イザヤ書によると、救いの完成に至るために、3つの出来事があることがわかります。


1.人々を集める

 イザヤ66:18-19「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」終わりの日、つまり御国が完成する時、主は「すべての国々と種族とを集めに来る」と言うことです。原文では、「すべての国民と舌」と書いてあります。舌は、いろいろな言語を話す種族であります。ウィクリフ聖書翻訳協会では、2,075の聖書翻訳を目指しています。タルシシュは地中海北部の国々であろうと思います。プロとルデは北アフリカの国々です。トバルとヤワンは小アジアの国々です。さらに、「遠い島々」とあります。遠い島々にかかる形容詞は、何となっているでしょう?「これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない」となっています。ですから、地中海沿岸の国々よりもはるかに遠い島々です。インドネシヤとかフィリピン、そして日本です。日本は古くからジパングと呼ばれてきました。マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、「ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。人々は偶像崇拝者で外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある。」とあります。日本は、西洋から見たら、あこがれの国であったわけです。なぜ、人肉か分かりませんが、台湾の原住民であったらその可能性はあります。しかし、主のうわさを聞いたこともない遠い島々からも救われる人たちが集められるとは、すばらしいことです。でも、周りの国々と比べると、かなり少ないような感じがします。

 イエスさまはヨハネ14章で何と約束されたでしょうか?ヨハネ14:3「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」準備ができ次第、戻って来られるということです。しかし、「だれでも」というわけではありません。19節に「わたしは彼らの中にしるしを置く」と書いてあります。「しるし」とは何でしょう?イエスさまを信じて、救われている人に何かの「しるし」があるのでしょうか?エペソ1章にそのようなことが書いてあります。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」アーメン。聖霊自体が証印なのか、それとも聖霊が「この人はキリストのものである」と何らかのしるしをつけるということでしょうか?このしるしは普通の人には見えません。かなり前に、稲毛浜海浜プールにCSの子どもたちを連れて行ったことがあります。普通はプールで泳ぐのですが、近くの砂浜にも行きたい人がいます。すると出入口のゲートに係り員が立って、手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬、ひやっとしますが、何も見えません。もう一度、砂浜から帰って、プールに入る時、そのゲートを通過しなければなりません。係り員が大きな虫メガネみたいなものを手にかざします。すると、見えなかったはずの、「しるし」が浮き上がってきます。おそらく、蛍光塗料の一種なのかもしれません。通常では見えませんが、ある機材を通すと見えるのです。この世においては、クリスチャンなのかどうかは外見では分かりません。世の終わり、御使いがやってきて、聖霊によって証印を押されている人たちを見つけ出します。そのとき、麦と毒麦、羊と山羊を分けるように、分けられるのです。

 私たちは世の終わりの終わりに生きています。競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。きょうは初日の出を見に多くの人たちが、海や山に行っているでしょう。夜明けになると、東の空が、赤みがかってきます。そして、明けの明星が輝いています。そのようなみことばが聖書にあります。Ⅱペテロ2:19「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」私たちは一年、一年、御国の完成の時に近づいています。御使いたちが、人々を集めるために、いつ来るのかわかりません。しかし、確かに言えることは、また一年、その日に近づいたということです。さらに、ゴールに近づいたということです。だから、いつ来ても良いように、準備をしていたいと思います。罪の中に埋没していると、御使いが取り残してしまうかもしれません。聖霊によって押された証印を、消すことのないように保っていきたいと思います。


2.礼拝に来る

 イザヤ66:23「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る、と主は仰せられる。」このみことばは、御国が完成した時の様子です。つまり、礼拝は新しい天と新しい地においても行われる、永遠のものであるということです。私たちはこの地上で、礼拝をしています。きょうは元旦礼拝です。この間、12月30日も礼拝をしました。たった2日前です。その前は、24日のイブ礼拝、23日のクリスマス礼拝をささげました。何が面白くて、クリスチャンは礼拝をささげるのでしょうか?元旦早々、教会に来るとは、なんてまじめなんでしょう?世の多くの人たちは、元旦には初詣に出かけます。ある人たちは夜明け前から、遠くの神社に出かけるかもしれません。でも、彼らは私たちのように、毎週は行かないでしょう。困った時や何か特別な行事がある時ぐらいでしょう。その点、クリスチャンはまじめです。もしろん、たまにしか来ない人もいますが…。でも、どうして礼拝をささげなければならないのでしょうか?「ささげなければならない」となると、義務的になりますが、そうではありません。礼拝をささげるというのは、特権であり、喜びなのです。なぜなら、私たちは神さまから造られ、そして神さまから贖われた存在だからです。神さまから、大きな借りがあるんです。「借り」というのも変ですが、多くのものを神さまから与えられています。この命も、家も財産も、家族も、さまざまな能力も、です。中には、「そのわりにはひどかった」という人もいないわけではありません。生まれた時から病気がちだったり、両親が離婚したり、いたのに虐待されたり、いろいろあったかもしれません。また、学校や職場では、どちらかと言うと「負け組」に入っていたかもしれません。でも、みなさん私たちが神さまから救われたということは、すべてのことが益になるのです。今まで、無目的で生きてきたのに、1つ1つに意味が与えられます。あのことがあったから、イエスさまに出会えたのかもしれません。幸せな家庭で生まれ、なんでもうまくいっていたなら、福音には目もくれなかったでしょう。人生がひどければひどいほど、救われた喜びが大きいのではないでしょうか?

 礼拝とは神さまから何かをもらう行為ではなく、ささげるものです。なぜなら、もう既に多くのものを受けているからです。目に見えないものから、目に見えるものまで、多くのものを得ています。だから、私たちは神さまに礼拝をささげるのです。聖書が書かれた時代の文脈からですが、人々がいろんなものを主の宮に携えてくることがわかります。イザヤ66:20「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」当時は、今のように車や貨車がなかったので、馬や騾馬、らくだの上に乗せて運びました。ソロモンの時代は、金や銀、宝石、さまざまな特産物でした。しかし、この箇所を良く見ると、そういうことを書いているのではありません。なんと、「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである」と書かれています。つまり、「ささげ物」はたとえであり、本当のものは別だということです。では、本当の贈り物とは何なのでしょうか?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて」書いてあります。乗せるのは物ではなく、救われた人たちであるということです。すべての国々から人々が集められます。その人たちを今度は、聖なる山、エルサレムに運んでくるということです。つまり、主への贈り物とは、金や銀ではなく、救われた人々だということです。神さまはすべてのものを持っておられる豊かなる神さまです。でも、欲しいものがあります。それは魂です。死んだ動物ではなく、生きている人々です。

 パウロはローマ12章でこのように教えています。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」このみことばからも分かるように、私たちこそが、もっとも価値ある贈り物なのです。私たちが救われたからだを、このように神さまのところに運んでくる、これが礼拝なのです。でも、神さまは何とおっしゃっているでしょう?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として」とあります。神さまはどこかの国だけではなく、すべての国々から来るように願っておられます。そして、「あなたがたの同胞をみな」とあります。ということは、ここに集まっている人たちだけではなく、私たちの同胞がみな、主の前に来ることを願っておられるということです。私にはまだ救われていない肉の兄弟がたくさんいます。私も今年で60年になりますが、兄や姉もけっこうな年になっています。私も何度かアプローチしてきましたが、興味を持ってくれません。牧師として恥ずかしい思いがします。でも、この新しい年、もう一度、奮起して肉の兄弟にもアプローチしていきたいと思います。どうぞ、私たちが住んでいる地域の人たちも、そのターゲットに当てたいと思います。コリントの町はとても汚れた町でした。でも、神さまは何とおっしゃったでしょう?使徒18:10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。…この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われました。ですから、日本のこの町にも、神さまの救いを受けるべき民がたくさんいるということです。


3.さばきがある

 ここに、救いと滅びとの明暗があることが分かります。イザヤ66:24「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」イザヤ書の一番最後が、さばきで終わっています。一方は、御国において、永遠のいのちをいただいています。しかし、もう一方は地獄において、永遠のさばきを受けるのです。私が赴任して、まもない頃です。役員会の中で、地獄があるかないか、議論されました。議論というよりも、自分の信仰を分かち合うときがありました。2人の方が、「地獄はないと思う」とはっきりおっしゃいました。「どうしてですか?」と聞くと、「愛なる神さまが地獄を作るわけがない。最後にはみんな救われるんだ」と言われました。私は「どう答えようか」と少々熱くなりかけていました。そこに、役員ではありませんが、オブザーバーとして山崎長老さんが同席していました。山崎さんは「聖書に書いてあるから地獄はある」とはっきりおっしゃいました。私は「さすがだなー」と感心しました。このイザヤ書66章と同じことばをイエスさまが福音書で語っておられます。マルコ9章から少し長いですが引用させていただきます。マルコ9:43-48「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」イエスさまはこのところで、「片手や片足を切り捨ててでも、地獄を避けて、御国に入りなさい」と教えています。ゲヘナとは地獄のことです。ゲヘナの火は消えることがありません。不思議なことに、そこには肉体を食べるうじもいるということです。しかばねのままで、永遠に生きるということです。イエスさまは、地獄があることをはっきりおっしゃっています。だから、あるのです。

 昨年末から、「救い」に関して学んでいます。救いにはいろんな意味があることを学びます。でも、みなさん、窮極的な救いとはどういうものでしょうか?罪が赦される、肉体が癒される、心が解放される。それらもすばらしいことだと思います。でも、窮極的な救いとは、永遠の滅び、地獄からの救いではないでしょうか?本来は滅びて当然だったのに、救われて永遠の御国に入る。何とすばらしいことでしょう。そう考えると、地上で不公平を味わったとか、病気で早く死んだというのは関係ないですね。たとえ、この世で、若くして死んでも、向こうには永遠があります。ジョエル・オースチンの本に書いてありました。5歳の娘が不治の病にかかりました。ご両親はどうしようもできず、本当に心が痛みました。いよいよ、娘さんはこん睡状態に入りました。ご両親は、「ああ、もうダメだな」と愕然としました。すると、娘さんは目をぱっちり開けて、こう言いました。「『イエスさまがね、こっちへ来て良いよ』と言ってくれたよ」。その直後、息を引き取りました。その一言で、ご両親は、本当に励まされたそうです。永遠の滅びから永遠の命こそが究極の救いであります。私たちには死後、さばかれないで、住むべき永遠の御国があるのです。たとえ全世界を得たとしても、永遠をなくしたなら、何の儲けがあるのでしょう。

 元旦そうそう天国と地獄の話もないかもしれません。もっと、希望を与える爽やかなメッセージを期待して来られた方もおられるでしょう。私はあまりDVDは見ませんが、年末年始は、DVDをたんまり借りてきて、おうちで映画を見る方もおられるのではないでしょうか?大体、DVDの映画というのは、映画館かテレビで一度見たものです。007にしても、ミッション・インポッシブルにしても結末を知っています。この人は死なない、ハッピーエンドで終わるのが分かっています。それでも、また見ます。一番最初に見た時よりも、はらはらドキドキ感はないです。でも、楽しむことはできます。今日、学んだ箇所は、「救いの完結」という一番最後の部分です。「ああ、自分の人生は、最終的にはこっちなんだなー」と分かるとどうでしょうか?「この先、病気や事故、いのちの危険にさらされることがあっても、まぁ、いいか?」となるでしょう。だって、最後は永遠の御国、ハッピーエンドなんですから。正しい歴史観は、結末の部分から時間をまきもどすことです。何年か何百年かわかりません。DVDを戻すように、2013年まで戻すんです。おそらく今は、競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。私たちはそういう時代に生かされているのです。ということを知りながら、この新しい年も生きるのです。みなさんは何歳になるのか分かりませんが、この地上の命はそんなに長くありません。でも、短いからと言って、粗末にしてはいけません。永遠と比べたなら本当に一瞬です。まばたきの瞬間くらいです。本当に短いんです。だったらみなさん、不平不満を言っている暇はありません。自分の境遇や環境を呪う暇もありません。リストラされたとか、人間関係がうまくいかないとか、借金で首がまわらないとか、確かに大変です。この世では勝ち組と負け組があるようです。ひょっとしたら、自分はこの世では負け組に入っているかもしれません。でも、イエスさまを信じて、永遠の御国をいただいていたら、どんな人でも勝ち組の中に入ります。地獄ではなく、永遠の御国をいただいている人は、勝ち組に入っているのです。この世でどんなに成功して、どんなに幸福であっても、最後は滅びであったら、負け組です。クリスチャンはこの世でどんな生活であったとしても、主にあって勝ち組に入っているのです。人生をそこから始めましょう。マイナスから始めるのではなく、プラスから始めるのです。私たちは、何をしても、どんな小さなことでも、プラスになるのです。ある人が数学の話をしました。ここに、マイナスの人生を歩んでいる人がいたとします。すごいマイナスです。でも、この数字をかっこでくくり、その前にマイナスをつけるとどうなるでしょうか?マイナス、かっこ、マイナス○○です。なんと、マイナスがひっくり返ってプラスになります。私たちクリスチャンはこの地上でマイナスの時があても、神さまが常にプラスになるように働いてくださるのです。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」


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2012年12月23日 (日)

メシヤの苦しみ   イザヤ53:1-6

この世において、クリスマスとはどういうものでしょうか?光り輝くイルミネーション、素敵なプレゼント、豪華なパーティ、そしてサンタクロースでしょうか?しかし、それらはすべて商業目的で作られたクリスマスのイメージです。ロマンチックなムードにひたりためにカップルが年に一度、教会を訪れるでしょう。そういうことから、クリスマスを華やかに祝わない宣教師たちもいます。その代わり、家族で主のご降誕を静かに祝うのです。きょうは、福音書からではなく預言書から、クリスマスについてメッセージしたいと思います。イザヤ書53章は、メシヤがこの地上に何のために来られたのか、その使命と目的が記されています。私たちが救いを得るために、多大な犠牲と苦しみがあったことを忘れてはいけません。


1.メシヤの外見
 この世においては外見がすべてであります。テレビのCMやニュースキャスターは、男女共ども外見の良い人たちでしょう。女性は、お化粧や髪形に気を配ります。その次には、ボデイのシェイプアップです。「カーブス」という女性専用のフィットネスがあります。ちなみに、カーブスは曲線美という意味から来ています。いつか、そういう姿になりたいと汗をかくのです。その次には、何を着るか、何を身につけるかであります。流行を取り入れながらも、自分の個性をかもしだそうとするでしょう。そういうファッション雑誌がたくさんあります。男性はどうでしょうか?少しでも若く、見せたいですね。それから、何を持っているかであります。学歴や職業というスティタス、そして乗っている車です。アウディに乗ったら格好良いでしょうか。お家は一戸建ての注文住宅、野菜が作れる庭があったらもっと良いですね。休みの日は、クルージングで無人島に行くとか。今のは、みんな空想です。
 それに比べ、地上に来られたメシヤの外見はどうでしょうか?イザヤ書53:1-2「 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」「若枝」は、弱くてすぐにでも折れそうです。「砂漠の地から出る根」は、どうでしょうか?根自体が醜いし、その地が砂漠だったらヒョロヒョロしているでしょう。メシヤは外見から言うと全く話になりません。テレビのCMやニュースキャスターには出られません。イエス・キリストを象徴するものとして、旧約聖書には幕屋があります。神さまとお会いするための天幕、テントであります。幕屋の外側は何でできているのでしょうか?じゅごんの皮であります。じゅごんは、いるかやあざらしに似ている、海に住む哺乳類です。灰色で黒味がかっていてきれいではありません。その下は、赤くなめした雄羊の皮です。しかし、一番内側は、青色や紫糸、緋糸の撚り糸で作られたケルビムが刺繍されています。外側は見栄えのしないじゅごんの皮ですが、内側はとても豪華です。幕屋は、イエス・キリストの外見と人格を象徴しています。
 イエス様はどこで生まれたのでしょうか?ベツレヘムの馬小屋であります。しかも、寝かされたのは、飼い葉桶です。一般に、王様の子どもが生まれるところは、宮殿でしょう。東の博士たちが、宮殿を訪ねましたのも無理はありません。大事なお子さんですから、お医者さんや召使たちが看護するでしょう。それに比べ、馬小屋は不衛生で、何の設備もありません。一体だれが、出産を手伝ったのでしょうか?産湯はあったのでしょうか?しかも、メシヤが育ったところは、ナザレの田舎です。ナザレは昔、アッシリアに滅ぼされ、捕囚にあったところです。ナタナエルは当時の言い伝えを引用し、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と吐き捨てました。イエス様の仕事は肉体労働でした。メシヤだったら、エルサレムで律法を学び、宗教的な儀式を会得するのが本筋でしょう。しかし、イエス様は元大工であり、従えていた弟子たちはガリラヤの漁師たちでした。エルサレムにいた律法学者や祭司たちは、「何の権威があって教えるのか?」と反抗しました。サムエルがイスラエルの次の王様を任命するためにエッサイの家を訪れました。サムエルの前に7人の息子たちが集められました。サムエルは、長男のエリアブを見て、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし、主はサムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。私は彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべだけを見るが、主は心を見る」と、仰せられました。最後に、野原で羊の番をしていたダビデが呼ばれました。主は「さあ、この者に油を注げ。これがそれだ」と仰せられました。人を外見で判断してはいけないということです。来るべきメシヤも、人が見とれるような姿もなく、輝きもなく、人が慕うような見栄えもありませんでした。これは、1つの罠です。救いは、畑に隠された宝を見出すようなものです。

2.メシヤの扱われ方
 メシヤは人々からどのように扱われたのでしょうか?羨望の的になって、あがめられたのでしょうか?イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」これを読むと、何かの間違いではないかと思ってしまいます。だって、イエス様は神さまの独り子です。預言者たちのような、神さまの使いではありません。キリストは、神さまのあり方を捨てて、仕える姿をとり、人間と同じようになられました。低くなって来られたメシヤを、人々は見下げ、拒絶しました。イザヤ書に何と書いてあるでしょうか?「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。日本では学校や会社でいじめがあります。いじめは日本独特のものかと言うと、そうではないようです。2000前、イエス様がこの地上に来られたとき、いじめがありました。「さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけるほどさげすまれ…」とあります。「自分はいじめられた、虐待された」と言う人がいますが、イエス様はそれ以上でした。だって、人間を造られた神様が、人間からひどい目に合わされたのです。しかも、イエス様は人類をなんとか救おうと天から降りて来てくださったのです。イエス様は、メシヤ、救世主です。本来なら、尊ばれて当然のお方ではないでしょうか?福音書を見ますと、イエス様も多くの人から慕われ、尊ばれている時もありました。一番の頂点は、5000人の給食の奇跡を行ったときです。ヨハネ6:14-15「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」その後、イエス様は「私は天から下ってきたパンです。このパンを食べる者は永遠に生きます」と言われました。するとどうなったでしょう?「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と、弟子たちの多くの者が離れ去っていきました。さらに、当時の宗教家たちは「なんとかイエス様を捕らえて殺そう」と機会を狙いました。
 人々は経済的な問題を解決してくれるメシヤを期待していました。また、ローマを倒して、イスラエル王国を復興してくださる政治的なメシヤを期待していました。さらに、神の超自然的な力をもって支配してくださるカリスマ的なメシヤを期待していました。まるで、どこかの国の選挙みたいです。「経済が良くなれば、生活も良くなる」と言われますが、本当でしょうか?「生活が第一」というもの欺瞞があるように思います。大体、「民主主義」という構造自体が問題ではないでしょうか?本来、世界を治めるお方は、創造主なる神さまでなければなりません。私たち人間は、神さまと和解し、神さまが願う政治や暮らしを求めるべきであります。その当時も、今も、世界を救ってくださるメシヤ観はあまり変わっていないように思います。イエス様が、本当の解決について話したら、多くの人たちが去って行きました。そして、最後には、「除け、除け。十字架につけろ!」と叫んだのであります。イエス様は、人々から捨てられ、宗教的な指導者たちから拒絶され、ローマの兵士たちによって殺されました。でも、すぐ、十字架で殺されたのではありません。平手でたたかれ、頭をこずかれ、つばきをかけられ、ひげを抜かれ、さんざん嘲弄ろうされ、鞭打たれた後、こずきまわされた後に十字架につけられたのです。
 ある教会で「イエス・キリストのご生涯」の劇をやったそうです。青年会で最も目立っていた人がイエス様の役に抜擢されました。もう一人の青年がイエス様を十字架につけるローマ兵として選ばれました。しかし、その青年はイエス様役の兄弟を「生意気な奴だ」と普段から憎んでいました。いよいよ、十字架のシーンになりました。ローマ兵がイエス様を平手でたたきました。彼は「うっ」とこらえました。台本にあるので仕方がありません。でも、ちょっと強いような気がしました。そして、彼は十字架に付けられました。その後、ローマ兵がイエス様を罵倒し、顔につばきをかけました。ところが、イエス様役の青年は、「つばきをかけるとは何だ」と真っ赤になって怒りました。そして、ローマ兵役の青年に「ぺっ」とつばきを吐き返しました。ローマ兵も負けじ、とばかり、「ぺっ」とつばきをかけました。イエス様役の青年は、「くそっ」と、再びつばきをかけました。会衆は「イエス様がつばきをかけるなんて聖書にあったかな?」と唖然として見ていました。イエス様役の青年は、十字架に付けられているので手も足も出ません。彼は何と言ったでしょうか?「父よ。私は彼を絶対、赦すことはできません」と叫んだそうです。みなさん、これが現実です。「やられたら、悔しいのでやり返す」これが人間です。ましてや、神の子が、ご自分の民を救うために下って来られたのに、さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられるとは、なんという仕打ちでしょうか?悔しくはないのでしょうか?聖書のイエス様は、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。ご自分を殺すローマ兵やユダヤ人だけではなく、私たち全人類のためにとしなしてくださったのです。

3.メシヤのなさったこと
 しかし、メシヤであるイエス・キリストには目的がありました。たとえ、さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられても、なすべきことがあったのです。それは何でしょうか?イザヤ53:4 -5「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」このところに、イエス様が、地上に来られたメシヤとして、私たちのためにしてくださったことが記されています。第一は、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったということです。ヘブル語の聖書には、「弱さと不幸」を負ったと書いています。何故、弱さと不幸が私たちにやって来たのでしょうか?仏教の人たちは、「先祖から来た因果だ」と言います。でも、もっともっと遡ると、その先祖とはだれなのでしょうか?そうです。アダムです。アダムが神さまに背いたために、弱さや病気がやってきたのです。本来、神さまは人間に豊かな命と幸いと喜びを与えたかったのですが、それがなくなってしまったのです。イエス様はそれらを私たちに取り返すために、来られたのです。人となられたイエス様は「深い悲しみと不幸と痛み」を体験されました。だから、今も、私たちを救ってくださいます。第二は、私たちの罪を負ってくださいました。私たちの罪を負われたので、罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。また、そむきの罪のために刺し通されたとも書いてあります。そむき罪とは何でしょう?それは、逸脱する、限度を越えること。あるいは、法を破るということです。私たちは神さまが定めた範囲内で生きていれば良いのに、それを越えてしまうことが良くあります。たとえば、車で50キロのところを、70キロで走ってしまうことがあります。また、道徳の問題でも、一線を越えるということがあります。「ハンプティ・ダンプティ」というたまごの物語があります。彼は塀の向こう側が見たくなって、塀によじ登りました。そして、塀から落ちて割れてしまいました。もうだれも彼を治すことができません。「覆水盆に返らず」です。しかし、福音的な物語では、高貴なお方が通りかかって、癒してあげました。イエス様は私たちの罪と背きの罪を赦すために、罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。イエス様は人からだけではなく、神さまからも捨てられたのです。
 さらにイエス様は私たちの咎のために砕かれました。「咎」とは何でしょう?咎とは、「何かを曲げる、何かをゆがめる」という意味があります。たとえば、私の先祖が怒って、親からもらえるはずの財産を放棄したとします。すると、その咎が私にも及んで、本来、受けられるべき財産を放棄してしまうということです。せっかく、もらえるはずの恩恵を、意地を張って「そんなの、いらないよ」と言ってしまう。あるいは自分が主張できる権利を放棄してしまう。そういうことはないでしょうか?フィジーという南国の島があります。いつしか、その島には魚も来なくなり、果実も実らなくなりました。水も苦くなり人々は病気がちになりました。「なぜだろう?何か呪いがあるのでは」と思いました。昔の歴史を調べると、フィジーにはいくつかの部族がいましたが、部族同士で争い、多くの人が死にました。流された血によって土地が呪われてしまったのです。部族の子孫がみんな集まり、悔い改め、キリストにあって一致しました。するとどうでしょう?たくさんの魚が集まり、果実も4倍もの大きさになりました。また、水も良くなり、人々は健康になりました。キリスト教ではそれを変革、トランスフォーメーションと言います。先祖たちの咎、曲げてしまった罪を悔い改めたときに、本来の祝福がやって来たということです。私たちにも家系を伝わる罪があります。離婚、破産、性的罪、癌、摂食障害、中毒や依存症…多くのものは、家系からくる咎が原因していると言われています。私たちはそういうものがあることに気付いたら、自らが代表として先祖のために悔い改めるべきです。そうすることによって、後ろのドアが閉められ、呪いがやってこなくなります。ガラテヤ書3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
 結果的に、メシヤは私たちに何をもたらしてくださったのでしょうか?「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」アーメン。ここに書かれている動詞はすべて過去形であります。メシヤが受けた懲らしめによって、私たちに平和がもたらされました。また、メシヤが受けた懲らしめによって、私たちに平和がもたらされました。私たちの罪の問題、病、咎、呪いがすべて解決されているということです。いつですか?2000年前、イエス・キリストがこの地に来られ、十字架ですべてのものを負ってくださったということです。キリストによって、罪の代価が支払われ、病が癒され、呪いから解放されました。では、私たちに何が足りないのでしょう?信仰によってそれらを受け取るということです。ある人たちは、知らなかったという無知のために、受け取ることができません。また、ある人たちは、頭では知っていたけど、実際に受け取らなかったかもしれません。また、ある人たちは、「私には受ける資格がありません」「私にはいりません」と拒否しているかもしれません。信仰とは見えない手です。神さまが「あなたに罪の赦しをあげますよ。病の癒しをあげますよ。あるいは呪いからの解放をあげますよ。」と言われたとします。そのとき、信仰の手を出して掴む必要があります。聖書を読んでいるとき、あるいは神さまと交わっているとき、あるいは道をあるいているとき、神さまがあなたに語られます。「あなたの病は癒されました」「呪いが砕かれ、平安がもたらされました」。「アーメン、そうですか。信じます。受け取ります。」それで良いのです。たまには思い込みだったりすることもあります。私もそういうことが、何べんもあります。でも、諦めないでください。あるときは、本当に神さまの約束のときがあるのです。私は13年苦しんでいた皮膚病が癒されました。1999年から2012年までの13年間です。何をやってもダメでした。もちろん、医者や薬の助けも借りました。でも、過剰な免疫がなくなり、体質が変わったのです。私に残されているのは、亀有教会が100名を越えて、350名礼拝になることです。「まだ、100名も越えたことがないのに、350名ですか?」同じ神さまの奇跡だったら、1万名でも良いのですが、かなり謙遜しています。みなさん、潮が満ちてきたらそうなります。

あるオフィスの部屋に一枚の絵が掲げられていました。ボートが砂浜の上にあり、オールが砂に突き刺さっている絵です。普通、ボートというものは、海に浮いているものです。ところが、そのボートは砂に埋もれたままです。見ている方が憂鬱になります。しかし、よくよくその絵を見ると、絵の一番下の部分に、何やら絵画のタイトルのような文章がありました。何と書かれていたのかと言うと「潮の流れは、必ず戻ってくる」でした。絵の持ち主の重役は、過去に大変な失望と挫折の中を通りました。そのとき、彼は小さな画廊でこの絵画に出会い、たった数ドルで手に入れました。彼はこの絵をのぞき込むたびに、自分に言い聞かせたのです。「潮の流れは、必ず戻ってくる!」と。メシヤであるイエス・キリストは2000年前、十字架と復活によってすべてを成し遂げてくださいました。あなたの人生に必ず潮が満ちてくる人生がやってきます。流れは良い方向に変わります。

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2012年12月16日 (日)

メシヤのミニストリー   イザヤ61:1-3 

クリスマス、つまりイエス様が、最初に来られた時の目的は何だったのでしょうか?イエス様は5つのミニストリー(働き)をするために地上に来られました。そのことが、メシヤの預言としてイザヤ61章に記されています。しかし、同じみことばがルカ4章にもあります。イエス様ご自身が、宣教を開始されたとき、このイザヤ書を引用して、「きょう実現した」と宣言されました。まず、イエス様は5つの働きを行なうことができるように、聖霊によって油注ぎを受ける必要がありました。メシヤ自体が、油注がれた者という意味です。メシヤはギリシャ語では、キリストです。イエス・キリストは、神さまの奉仕をするために、聖霊の油注ぎを受けたのです。それでは、イエス様のミニストリーを1つずつ学びたいと思います。

1.福音宣教

イザヤ書611「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え」とあります。イエス様のミニストリーの第一は福音を宣べ伝えることであります。でもここに「貧しい人に」と書いてあります。どうして、貧しい人なのでしょうか?マタイ53「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」とあります。他には、「悲しむ者、義に飢え渇いている者、迫害を受けている者たちが幸いである」と言われています。なぜでしょう?そういう人だけが、福音を受け入れるからです。反対に「富む者、笑っている者、みなの人がほめるときは哀れである」と言われています。既に他もので満たされていて、福音を受け入れる余地がないからです。イエス様は貧しい者に福音を伝えたのであります。その点、教会はどうでしょうか?「教育のある人、地位の高い人、金銭的に豊かな人が教会に来たら良い」と思うでしょう。「本当の罪人、精神的に病んでいる人、何かの中毒の人は来られたら困るなー」と思っているのではないでしょうか?イエス様は「私は正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。これはとっても深いおことばです。クリスチャンを長年やっていますと、いつしか、「自分に価値があったから、救われたんだ」と思ってしまいます。もちろん、神さまから造られたのですから、価値があったでしょう。でも、罪の中に失われていて、自分ではどうすることもできませんでした。「いや、私はそんな罪は犯したことがありませんよ」いう人があるかもしれません。でも、心の中で人を妬んだり、憎んだり、見下げたりしなかったでしょうか?泥棒や殺人も罪ですが、醜い心も罪ではないかと思います。当時、最も正しいと思われていた律法学者やパリサイ人、祭司長たちが福音を受け入れませんでした。「自分は正しいので、救い主はいらない」とメシヤを拒絶しました。

 イエス様は弟子たちに「福音を宣べ伝えなさい」と命じました。教会は何のために存在しているのでしょうか?それは、イエス様の命令を行なうためです。当教会にはいろんなセル、小グループがあります。ゴスペル、フラワーアレンジメント、ゴスペルフラ、お菓子部というのもあります。賜物を用いて、何をやっても構いません。でも、「最終的なゴールは伝道ですから」とお願いしています。もし、教会が伝道を忘れてしまうと、次第に内向きになり、数も減り、やがては消滅してしまうでしょう。イギリスとかドイツの教会は余り伝道をしません。多くは国教会であり、人々は生まれた時から教会に属しています。宗教税があり、牧師や司教は公務員です。しかし、日本の場合はそうではありません。「信仰のある人が教会に行く」という、自由教会になっています。逆に、仏教や神道が国の宗教のようになって、キリスト教は外国の宗教と思われています。ですから、日本は当たり前でない、キリストの福音を伝えなければなりません。セールスで言うなら、「家は仏教ですから、結構です」と断られるところから始まります。腕の良いセールスマンは、「まず断られるところからセールスが始まる」と言います。その点、なんと私たちは打たれ弱いでしょうか?一度、断られると、深く傷ついて、もう伝えることをやめてしまいます。どうぞ、自分のときのことを思い出してください。一回で信じたでしょうか?何回も断って、悪態をついたりしてから、信じたのではないでしょうか?そして、「今のままじゃダメだなー」と貧しくなった時に信じたと思います。福音宣教は、イエス様がこの地上で、第一になさったことです。また、イエス様の私たちに対する最大の命令、ミニストリーでもあります。どうぞ、天に召される日まで、福音を宣べ伝えていきましょう。

2.心の癒し

 イザヤ611の半ばに、「心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」とあります。ルカ福音書4章は、「しいたげられている人々を自由にし」とあり、同じことを言っているのではないかと思います。心理学の父はユダヤ人のフロイトと言われています。しかし、彼はクリスチャンではありませんでした。彼はスーパー・エゴという、欲望に動かされる自我というものを強調しました。少し前までは、精神分析が主流でしたが、最近は認知行動療法になりました。また、アメリカでは脳の化学物質が問題で起こるという見地から、様々な薬が処方されるようになりました。昔は「それはノイローゼ(神経症)だよ」と言われましたが、そういう言葉はもうないそうです。その代わり、「○○性パーソナリティ障害」という病名が10種類くらい出てきました。境界性というのは「正常と精神病の間くらい」という意味だそうです。現代は、学校や職場に行けない人がたくさん出ています。勉強や仕事は嫌いではありません。むしろ、良くできる方です。しかし、人との関わりが苦手なのです。戦前、戦後は、生きるために必死でした。心が傷ついたとか、虐待されたなどと言っている暇がありませんでした。親も学校の先生も子どもをよく叩きました。では、精神的に病気の人や傷害の人がいなかったかというとそうではありません。ほったらかしにされるか、あるいは家で隔離されるかどちらかでした。私が小学生の頃ですが、朝礼でみんなが座っているのに、一人の男の子が、ポールを昇ったり降りたりしていました。今でいうADHDだったと思います。私は今なら、学習障害といわれるくらい、落ち着きがなかったようです。先生から一番、叱られました。でも、その原因は人から認められたかったからです。8人兄弟の7番目で、いつもミソにされていました。だから、「自分はここにいるぞ」と過剰にアピールしたのだと思います。

 これまでのキリスト教会は「心の癒し」をほとんどしてきませんでした。「罪があるからそうなるんだ。罪を悔い改めたら癒される」とやってきました。私もホーリネスの神学校に行きましたが、「自我に死んで、キリストに生きれば、新しくなる」と教えられました。キリスト教会は加害者の部分を扱いますが、被害者の部分はあまり扱いません。そのため、救われた後も、怒りが爆発して、人を傷つけしまうのです。なぜなら、被害者の部分が贖われていなかったからです。「この恨み晴らさずにおくべきか!」ということです。だから、似たような人、似たような状況に置かれたときに、「どっかん」と爆破するのです。では、聖書に「心の癒し」が言われていないのでしょうか?箴言423 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。箴言1430「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」聖書は、心と体が密接につながっていることを教えています。心が癒されるなら、体も、生活も変わってくるということです。では、イエス様はカウンセリングをしたことがあるのでしょうか?カウンセリングとは書いていませんが、イエス様は個人的に話されたことはよくあります。ヨハネ3章にありますが、ココデモが夜こっそりとイエス様を訪ねて来ました。イエス様は「あなたは新しく生まれる必要がある」と言われました。ヨハネ4章で、イエス様は水を汲みに来たサマリヤの女性と出会いました。5人と結婚し、現在は6人目と同棲している、したたかな女性でした。イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われました。彼女は「私のしたことを何もかも、言い当てた人がいます」(口語訳)とサマリヤに伝道に行きました。ヨハネ5章には、38年間も病に臥せっている人が記されています。泉が動くのをじっとまっているだけでした。イエス様は彼に「良くなりたいのか」と言われました。彼はブツブツ言い訳をしましたが、床を取り上げて歩きました。イエス様は個人的に出会って、問題を解決して下さいました。いわゆる心理学者と違いますが、人々の心を癒してあげました。

 心理学の手法や化学療法の手助けを得ても構いません。しかし、イエス・キリストご自身がその人の心を癒し、新しい心を与えてくださるのです。私たちはイエス様と当人が出会えるようにお手伝いすることができます。「私がその人の心を癒す」となると、負いきれない重荷を負って、こっちらが潰れるかもしれません。本人が「治りたい」「変わりたい」という気持ちがあるなら、手助けすることは可能です。選択・決断は、あくまでも本人だということを忘れてはいけません。今日もニーズがたくさんあります。私は、セルフイメージの傷、親子関係の傷、苦い根の期待、怒り、恐れ…心の傷の問屋みたいでした。ですから、心の傷の癒しには大変、重荷があります。私たち今も生きているイエス様と一緒に、いのちのみことばを用いながら、心の癒しのミニストリーをすべきであろうと思います。

3.悪霊からの解放

 さらに「捕らわれ人には解放を」とあります。何故、悪霊に縛られる人がいるのでしょうか?イエス様は、地上に来られたとき、人々から悪霊を追い出しました。日本では悪霊(あくりょう)と言いますが、正しくは悪霊(あくれい)です。東洋の国々は精霊崇拝をし、霊的な存在を信じています。日本人も山や大木を拝んだり、死んだ人や動物さえも拝んでいます。あっちの方角や良いとか、こっちの方角が悪いとか言っています。パワースポットみたいな所に好んで行きます。頭では科学を信じていますが、心はアニミズムです。それに比べ、西洋周りで来たキリスト教は霊的な存在を信じません。「キリストが十字架で勝利したので、悪魔は敗北してしまった。だから、もう意識しなくて良い」とか言っています。でも、使徒の働きを見ますと、パウロは悪霊と戦っています。また、エペソ6章では、こう命じています。「最後に言います。…悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」私たちの周りには、目に見えない霊的な敵がいるということです。ここで重要なことは、バランスです。何でも悪霊のせいにしてはいけません。悪霊とは関係なく病気になったり、事故に合うこともあります。多くの場合は、自分の不注意や不摂生が原因しています。しかし、故意に占い師や拝み屋に通うならば、悪霊に対して、ドアを開くことになります。それは、悪魔と契約を結ぶことになるので、注意しなければなりません。

 では、イエス様は悪霊にどのように立ち向かわれたでしょうか?あるとき、イエス様が口をきけなくする霊を追い出しておられました。悪霊が出て行くと、人々は「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と批判しました。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたなら荒れすたれる」と言われました。イエス様はこのところで、はっきりとサタンには国があると言っています。サタンもしくは悪魔は、その国の支配者です。しかし、神さまのように偏在できないので、ピラミッド型の組織によって、この世を支配しています。さらに、イエス様はこう言われました。ルカ112122「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」「強い人」とは、だれでしょう?サタンです。では、もっと強い者とはだれでしょう?イエス・キリストご自身です。イエス・キリストがサタンに打ち勝ち、彼の武具を奪い、分捕り品を分けるのです。分捕り品とは、サタンに捕らわれていた私たち人間です。イエス様が十字架で罪の代価を支払ったので、サタンは私たちを訴えることができません。武装が解除されてはいますが、悪霊が勝手に動いている状態です。ルカ1124-26「汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」ここで言われている家とは、私たち人間の体のことです。悪霊は肉体がないので住むべき家を探しています。たとえば、私たちが不動産に行って家を借りる場合、どのような家を借りるでしょう?おそらく自分の好みやライフ・スタイルに合った家を探すでしょう。汚れた霊も住むべき家を捜して、あちこち歩き回っています。「あ、この家が良い。私の好みにピッタリだ」と家を発見して、そこに入ります。どういう意味でしょう?汚れた霊は、汚れたことをしている人に入るのです。その人が悪霊に入られたので汚れたことをするのではありません。汚れたことをしていたので、汚れた霊が入って、ますますその人は汚れたことを行うのです。私たちは罪や誘惑から離れて、きよい生活をする必要があります。そして自分の家にイエス・キリストを主人としてお迎えし、住んでいただく必要があります。

4.病の癒しと奇跡

 イザヤ書には「囚人には釈放を告げ」とありますが、ルカ福音書は「盲人には目の開かれることを告げるために」と書いてあります。牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネが、イエス様のところに弟子を遣わしました。そして、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも他の人を待つべきでしょうか」と聞かせました。ちょうど、イエス様は多くの人々の病気を癒し、悪霊を追い出していました。そして、ヨハネの弟子にこう答えました。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ722-23これはどういう意味でしょう?バプテスマのヨハネは「メシヤというものはローマを倒し、イスラエル王国を建てる方だ。しかし、世の中の不正は改革されず、悪者どもがのさばっているではないか。どうして、神のさばきが来ないのか!」と半分、躓いていたのです。しかし、最初に地上に来られたときのメシヤは違います。さばきのためではなく、人々が神の国に入るために、平和の君としてやって来られたのです。「神の国には病気もなく、死もない。身体の不自由な人も完全に回復される」ということを証明しに来られたのです。だから、病の癒しと奇跡は、イエス様にとっては、ご自分がメシヤであることの証拠でした。本物のメシヤだったら、病気を癒し、奇跡を行うのが当然のことだったのです。問題は、「今日の教会でも病の癒しや奇跡を行うべきか」ということでしょう。そのことが、第五番目と関係があります。第五番目のミニストリーこそが、そのことを証明しているからです。

5.恵みの年の宣言

イザヤ61:2主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」「主の恵みの年」とはどういう意味でしょうか?「恵みの年」とは、旧約聖書で言う「ヨベルの年」であります。ヨベルの年とは何でしょう?イスラエルの律法では、7年ごとに土地を休ませる安息年が定められています。その安息年が7度巡った翌年の50年目の年がヨベルの年です。ヨベルとは「雄牛の角」という意味で、この年の710日に角笛を鳴り響かせるところからこの名がつけられたと思われます。ヨベルの年にはすばらしいことが起こります。売却されていた土地が無償で売主のもとに返されました。また、貧困のため身売りした者、つまり奴隷が解放されました。ヨベルの年とは、「回復と解放」ということです。イエス様はルカ4章でイザヤ61章を引用しながら「きょう、実現しました」と言われました。これは「罪に捕らわれていた罪人が、イエス・キリストによって回復と解放がやって来た」ということです。では、私たちが主の恵みの年、ヨベルの年を告げ知らせるとはどういう意味でしょう。これまで、4つのことが言われていました。福音宣教、心の癒し、悪霊からの解放、病の癒しと奇跡、これで十分なのではないでしょうか?5つ目の「恵みの年を告げ知らせる」とは何なのでしょうか?私が敬愛しています、インドネシアのエディレオ先生は、「神の国について語ることである」と言われました。アーメンです。

使徒パウロが最後まで行ったことは何でしょう?使徒2830-31「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」では、福音宣教だけでは不十分なのでしょうか?不十分です。イエス様は神の国の福音を宣べ伝えました。神の国は私たちが行くべきところ、いわばゴールであります。私たちは罪赦され永遠の命が与えられ、肉体が癒されて、心が癒されたとしても、行くべき場所が必要です。ヨベルの年、恵みの年においては、完全に回復され、完全に解放されるということです。それはやはり、御国においてであります。御国に行ったならば救いが完成するのです。イエス様は主の祈りで「御国が来るように」祈れと命じられました。やがてこの世が終わり、御国が来ます。神の国、御国こそが、私たちのゴールです。しかし、これは将来だけではなく、「この地に、今の私の生活にも御国が来ますように」という意味です。ハレルヤ!私たちはどこにいて、どこに向かっているのでしょうか?御国、天のエルサレムです。イエス様が2000年まえ、何のために、この地上にやって来られたのでしょうか?私たちが罪赦され、神の子となり、永遠の御国を受け継ぐためであります。確かに、今は恵みの時、救いの日です。どうか、救い主イエス・キリストを受け入れ、御国を受け継ぐ者となりますように。

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2012年4月 8日 (日)

復活の必然性     イザヤ53:10-12 

先週は受難週のメッセージで、イザヤ書53章の前半を引用しました。きょうはイザヤ書53章の後半からイースター、復活祭のメッセージを取り次ぎたいと思います。普通は福音書から、復活の朝の出来事をお話ししますが、旧訳聖書から語るのは初めてです。さきほどの、イザヤ531012を読んでみて、気づかれたでしょうか?苦難の僕が死んだままなら、ありえないことがいくつか書かれていました。たとえば、10節に「彼は末長く、子孫を見ることができる」とありました。また、12節には「彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」と書いてありました。もし、死んだままなら、そういうことは不可能です。しかし、苦難の僕がよみがえったならば、それらのことが可能であります。イエス様もルカ21章で「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」と言われました。栄光とは復活であり、報いであります。

1.十字架の意義

 意義には、意味よりももっと深いものがあります。ふさわしい価値、値打ちみたいなものが含まれています。イエス様は何のために十字架にかかられたのでしょうか? 10節「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら…」。そして、11節後半「彼らの咎を彼がになう」。さらに、12節後半「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのとりなしをする」とあります。ここには、イエス様が十字架で死なれた、理由が記されています。第一に「罪過のためのいけにえ」とは、レビ記にあります。人が罪を犯した場合、きよい動物を祭司の前に持ってきます。祭司は動物をほふり、血を祭壇に注ぎます。いのちである血によってでしか、罪は贖われないからです。第二は「咎をになう」あるいは「罪を負う」と書いています。これもレビ記にありますが、罪を犯した人は、きよい動物の頭の上に手を置きます。手を置くという行為は、私の罪をこの動物の上に置きますという意味と、これは私の身代わりですという2重の意味があります。差し出された動物を祭司はほふった後、血を注ぎます。まさしく、イエス様は私たちの罪を負い、神さまから打たれ、命を失ったのです。正確に言うなら、イエス様ご自身が、命をささげたのであります。レビ記1章から9章まで、いろいろな犠牲が記されています。共通して言えることは、人に罪があるならば、神さまに近づくことはできません。きよい動物が殺され、血を流すことによって、人の罪が取り除かれます。そのことによって、初めて神さまに近づき、神さまを礼拝することが可能になるのです。キリストの十字架は、私たちの罪過のいけにえでした。キリストは十字架で、私たちの咎・罪を負ってくださり、神さまとの交わりを可能にしてくださったのです。

 しかし、日本人には罪の概念がありません。そのために、十字架の意味もわかりません。たとえば、「人さまに迷惑をかけてはいけない」とよく言われます。逆に言うならば、人に迷惑をかけなければ、何をしても良いことになります。そうなると、人が見ているところでは正しくふるまいますが、人が見ていないとタガがゆるむことがあります。今、幼児虐待とかドメステック・バイオレンスというのが急増しています。性的な罪、薬物中毒、詐欺事件も増えています。「我が子だから何をしても良い」「自分の体だから何をしても良い」「バレなければ良い」と思っています。裁判でも、明らかに罪を犯していているのに「私はやっていません」と無罪を主張します。確かに冤罪もあると思いますが、「そこまで、よくシラを切れるなー」と思うこともあります。日本人は、罪というものは人間との問題だと思っているからではないでしょうか?しかし、そうではありません。罪を犯すということは、神さまの御前で罪を犯していることなのです。それは、私たちを造り、私たち愛しておられる神様に背いていることになるのです。犯した罪に対しては何らかの刑罰、何らかの償いが求められますが、人だけの問題ではありません。神さまに対しても責任があるということです。だから、旧訳聖書では、罪を犯した人はきよい動物を身代わりにささげたのです。大体、「人」という漢字が問題です。金八先生が「人という字は人と人が支え合ってできている」と教えました。新渡戸稲造が最初に、「人、二人説」を提唱した人物だそうです。しかし、漢字学者によると、「人という漢字は人が一人で立っているところを横から見た姿を描いているという」ことです。それはともかく、ギリシャ語で人間はアンソーロポスと言います。これは、「上をあおぎ見て歩く」「神さまを礼拝する」という意味があるそうです。つまり、「人さまに迷惑をかけてはいけない」では、不十分で、「神さまをあおいで生活する」ということが重要なのです。また、罪を犯すということは、人との問題ではなく、何よりも、神さまとの問題だということです。

もし、私たちが神さまを恐れて生活するならば、どうなるでしょう?「結構、きゅうくつだろうなー」と思うかもしれません。クリスチャンでも、「日曜日の10時半から12時までの時間にしてもらいたい。月曜日から土曜日までは、自由にさせていただきたい」と思うのではないでしょうか?私もパソコンを毎日のように動かしています。テキストを作るとき、画像をインターネットから取り入れたりします。そのとき、ピャーっと、エッチな画像が入ってきたりします。「ラッキー」と思って、いろいろクリックするとはまってしまいます。100%大丈夫か、というとそうではありませんが、できるだけ「肉」には栄養を与えないようにしています。これは、エディ・レオ先生から教えられたことです。多くの場合、そういうものを見続けると、肉が太ります。そして、聖書を読まないで祈りもしないと、霊が非常に弱くなります。もし、目の前に誘惑が来たなら、どうなるでしょう?やせ細った霊が「やめなさい!」と忠告します。しかし、横綱のように太った肉が「これくらいなら大丈夫!」と体当たりしてきます。そうなったら、誘惑に負けてしまいます。ですから、普段から、肉にはエサを与えないで、霊を丈夫にするように工夫しなければなりません。そのためには、「私は神の御前で生きているんだ」という意識が必要です。このように神を恐れるということも重要ですが、新約における恵みも知らなければなりません。

イエス・キリストが私たちの罪を負って身代わりに死なれました。そのことによってどうなったのでしょうか?11節には「彼は多くの人を義とし」とあります。さらに、12節「彼は強者たちを分捕り物として分かちとる」とあります。後半には「そむいた人たちのためにとりなしをする」とも書いてあります。これらのことを通して分かることは何でしょう?キリストの十字架は罪の赦しだけではないということです。神さまは御子イエスの犠牲によって満足し、私たちをもう裁きの対象とは見ません。それ以上に、私たちを義とみなしてくださるのです。義とは「法的に、もう裁かれない」ということです。「強者たちを分捕り物とする」とは、私たちを捕えていたサタンや悪霊を打ち砕くということです。私たちは以前、彼らの持ち物であって、手かせ、足かせがはめられていました。しかし、イエス様が私たちを買い戻し、私たちを支配していた悪者どもを打ち破ったということです。これって、すごいことではないでしょうか?私たちはこれまで、やられっぱなしでした。しかし、イエス・キリストが彼らを打ち砕き、黙らせて下さったのです。ハレルヤ!私たちの記憶の中にたくさんのトラウマがあります。しかし、それらは幻影であり、過去の遺物であります。私たちは主の勝利を私たちの潜在意識にも告げ知らせなければなりません。では、私たちがまた罪を犯したり、罪のわだちにはまったらどうするのでしょうか?「そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。これは「これからそうする」という意味があります。なぜなら、第二番目で語りますが、この方がよみがえるからであります。イエス様はずっと、神さまの右の座で、私たちをとりなしてくださるのです。Ⅰヨハネ21-2「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」アーメン。私たちはもちろん、罪を犯さないように努力しなければなりません。しかし、それ以上に、「自分はどういうものとされているか」「私たちの敵はどうなっているのか」「私たちの救い主は今も何をなさっておられるのか」、これらのことを知ることがもっと重要です。私たちの全ての罪、咎をイエス様は十字架で負ってくださいました。今や、私たちはどういうものとされたのでしょう?神の前で義と認められ、私たちを訴える敵どもは敗北し、イエス・キリストが私たちのために今もとりなしていてくださるということです。ハレルヤ!これが信仰です。信仰とは、罪を犯した過去の自分ではなく、神さまが自分に対して何をしてくださっておられるかに目を注ぐことです。車のことを考えてみましょう。あなたはハンドルを握っており、目の前にはフロント・ガラスがあります。あなたの過去の問題は小さなルームミラーです。ルームミラーは後ろを見るために必要なものです。しかし、あなたは車を運転するとき、フロント・ガラスの向こうを見なければなりません。小さなルームミラー、そして大きなフロント・ガラスがあります。それは、過去の問題と今、主にあってどういう者とされているかということの比率です。小さなルームミラーはちらちら見て、多くの時間は、どうぞ前を向いて運転してください。

2.復活の意義

 旧訳聖書に復活のことが本当に書いてあるのでしょうか?もう一度、イザヤ書5310節をお読みいたします。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」問題は、後半です。「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」死んだままの状態では、末長く、子孫を見ることは不可能です。子孫を見るためには復活しなければなりません。リビングバイブルはこのところをはっきりと訳しています。「彼を傷つけ、悲しみで押しつぶすのは、実は神様の計画だったのです。罪が赦されるためのささげ物として、そのたましいをささげるとき、彼は多くの子孫を見ることができます。しかも彼は復活するので、神様の計画は彼の手によって陽の目を見ます。」後半は、だれが書いたのでしょう?実は英語の詳訳聖書にも確固入りですが、同じようなことが書いてありました。「時が来たら、彼は死からよみがえらされるので、霊的な子孫を見ることができるだろう」と訳しています。これは、意訳というか、補助的に付け加えられたものです。どちらにしても、やはり、苦難のしもべが復活しなければ、子孫を見ることができないということは確かです。日本人は、「草葉の陰から見ている」みたいなことを言います。しかし、それは現実的ではありません。私たちの神さまは実に、御子イエスを死者の中からよみがえらせ、報いを与えてくださったのです。

 イエス様ご自身が福音書でこのようなことを、度々おっしゃっていました。マタイ1038-39「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」イエス様は神さまのみこころを成就するために、十字架でご自分のいのちを捨てました。まさしく、ご自分が教えていたことを実行されたのです。しかし、どうなったでしょうか?自分のいのちを失ったけれど、あとで、それを得たのです。イエス様は神さまのみこころにゆだねて、死にました。しかし、そのままでは終りませんでした、父なる神さまは御子イエスをよみがえらせ、復活のいのちを与えてくださいました。イエス様ご自身が、それを試して、模範を示しされたのです。私たちは自分のいのちに執着して、なかなかいのちを捨てることができません。最後まで自分が可愛いくて、最後まで自分を守ろうとします。福島で原発事故が起きましたが、だれも責任を取ろうとしません。「あれは地震だから、津波だから、想定外だったから」と言います。でも、あとから考えると、「もっと備えておけば良かった。人災の面も多分にあったんじゃないか」と言われています。でも、だれも責任を取ろうとしません。できるだけ早く、もとの姿にもどろうとします。十字架を負って、自分のいのちを捨てるということは易しいことではありません。クリスチャンであっても、肉がありますので、しばしば迷うときがあります。でも、イエス様は自ら、死んでみて、よみがえりました。なんとすばらしい保証でしょうか。私たちに大きなチャレンジを与えてくれます。

 また、イエス様の復活が必然的であったことが、12節からもわかります。5312「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」これは、どういう意味でしょうか?当時の戦争では、敵に勝利した場合、敵が持っているものを分捕り物として得ることができました。剣や身につけている武具だけではありません。彼らの町の家畜や宝石、全ての持ち物を奪い取りました。負けた敵は殺されるか、奴隷になりました。イザヤ書はこういうことを考慮に入れて書いているものと思われます。それでは、イエス・キリストとどのような関係があるのでしょうか?エペソ人への手紙48-9「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」イエス・キリストが陰府に下られ、復活したときに「多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」ということです。おそらく、陰府の中にいた、多くの捕虜を奪回し、持ち物を奪い取ったということでしょう。では、敵とは一体だれなのでしょうか?敵とはサタンと悪霊たちであります。彼らは神から離れ、罪を犯した人間を自分の持ち物にしています。本来、神の子のものである多くの持ち物まで、横取りしている状態です。しかし、イエス・キリストが十字架の復活によって、強い者であるサタンを打ち負かし、武装を解除したのです。そして、イエス・キリストはご自分が得た分捕り物を、私たちに信仰をもって勝ち取りなさいと命じているのです。分捕り物とは何でしょう?神の国に属するすべてのものであります。たとえば、永遠の命、祝福、健康、神の子としての権威であります。

私たちは本来、神の子どもとして、父なる神さまがご用意されていた御国を受け継ぐべき存在でした。しかし、罪の中あって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の霊に従って、歩んでいました。「私は自由だ、何の問題もない!」と言っても、霊的には死んでいる状態でした。ところが、イエス・キリストが私たちを罪と悪魔の支配から奪回するために、来られたのです。使徒26章で異邦人に遣わされた使徒パウロがこのように語っています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」アーメン。救いとは「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」ことであります。そして、「罪の赦しを得させ、御国を受け継がせる」ことです。つまり、私たちはキリストの十字架と復活を信じることによって、住む世界とこれからの人生が全く変わったということです。なぜなら、イエス・キリストが私たちと私たちの持ち物を奪回してくださったからです。日本基督教団の高砂教会があります。以前、聖霊刷新で、その教会の手束牧師とお交わりをさせていただいたことがあります。手束牧師は会堂建築の1つ1つに、意味を与えておられます。外壁は紫ですが、それは王なるキリストを表現している。シャンデリヤは、その教会に聖霊が降ったときのことを象徴しています。それでは、シルバーの十字架は何でしょう?高砂教会の礼拝堂の十字架は木ではなく、ステンレスの十字架です。それは、イエス・キリストがサタンの国を打ち破った勝利の十字架であるということです。「復活の十字架は、木ではなく、シルバーでなくてはならない」というのが、先生のお考えです。私はそこまでは懲りませんが、大切なところは付いていると思います。もし、クリスチャンが罪赦された罪人であるだけなら、弱いです。クリスチャンは、キリストにあって、神の国に属している王子であり、王女です。そして、キリストの御名によって、かつて私たちのものであった持ち物を、サタンから奪い取ることができるんだということです。

『王家の者として生きる』の巻末に、「王子・奴隷テスト」がありました。これは、本当に自分が、王子・王女として生きているか、あるいは奴隷のままで生きているかのテストです。

1.皮肉的な冗談を言って、人々を傷つけることがある。

2.セールや安売りで物を買うのが好きだ。

3.自分は不十分、力不足だと言う思いに葛藤することがある。

4.知らず知らずのうちに周りの人と競っている。

5.鏡で自分自身をよく見る。

6.他人と自分を比べる。

7.「負け犬」が勝つと嬉しい。

8.神は負け犬の見方だと思う。

9.金持ちや成功している人々と一緒にいるのが苦手である。

10.成功したり自分の上に権力を持っている人に対して反抗する傾向がある。

11.自分の友人に有名人がいること、また自分が励んだ功績について、他人に話したい。

12.一生懸命頑張っても功績が上がらないと落ち込む。

13.自分に与えられた賜物とは関係なく、自分の価値を正当化しようとしてボランティア活動をしたり、ある働きに携わったりしている。

14.関係のある団体やグループ、仕事場でも一番重要な人と必死に友人になろうとする。

15.ゴールに達成できないと自分は失格者だという思いから、目標を立てるのが好きではない。

 「しばしば」「大抵の場合そうだ」という人は、奴隷根性が抜けきれていない人です。私などは、口では王子だと言ってはいますが、「まだ、まだ」です。15問中、10個くらいは当っていました。ということは私の信仰は頭だけであり、心の深いところに入っていないということです。つまり、神の王子として、復活を生きていないということです。2000年前、イエス・キリストが死からよみがえりました。そのとき、私たちをも死と罪とサタンの奴隷から解放されたことを深く思いたいと思います。そして、神の王子、王女として復活の人生を歩んでいきましょう。

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2011年12月11日 (日)

ひとりのみどりご     イザヤ9:1-7 

本日からクリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。きょうの箇所はイザヤ書における、有名な降誕の預言であります。ある説によりますと、旧訳聖書にイエス・キリストに関する預言が350位あるそうです。世界に聖人とか教祖といわれる人が大勢いますが、イエス様のように生まれる1000年以上も前から、預言されている方もいません。釈迦とか孔子、マホメットも、生まれる前から預言されていたわけではありません。しかし、イエス様の場合は、どこで生まれ、だれから生まれ、どのような生き方をするか、どのように死ぬか、復活後どうなるか?一生涯のことがこと細かく預言されています。そして、新約聖書においてそのことが成就され、これからも成就されつつあります。預言と成就ということから考えても、救い主はイエス・キリストしかおられない、唯一のお方だということが分かります。

1.メシヤの御姿

 イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。イザヤは来るべきメシヤがどのようなお方か、4つの特長をあげています。聖書で4というのは、東西南北、世界を表しています。また4つというと、4つの福音書を思い浮かべることができます。4つの福音書はイエス・キリストを4つの方向から語っています。ですから、この箇所から、4つの方向でメシヤを語るのは聖書的ではないでしょうか。「不思議な助言者」はマタイ、「力ある神」はマルコ、「永遠の父」はヨハネ、「平和の君」はルカによる福音書に当てはまるように思えます。おそらく、日本に、こんな風に話している牧師はいないでしょう。これこそが、神の知恵、神さまの油注がれたメッセージです。神さまは、毎週、毎週、毎回、毎回、ワンダフルなメッセージをくださっています。

 まず、「不思議な助言者」ですが、英語ではWonderful Counselorです。イエス様は知恵と知識にあふれていました。イエス様の教えを最も詳細に記しているのが、マタイによる福音書です。当時、聖書の専門家と言えば、律法学者でした。ある人たちは「ラビ」と呼ばれ、大変尊敬されていました。しかし、マタイ5章から7章までの山上の説教を見るとどうでしょうか?イエス様がよく用いた表現があります。「『○○してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、私はあなたがたに言います。」と言われました。イエス様が引用したのは、当時の教えでした。当時の指導者は律法とその解説をセットにして、権威あるものとして教えていました。しかし、その解説の多くは、神さまの戒めが曲げられ、人間的なものになっていました。それに対して、イエス様は「私はこう言う」「私はこう言う」と律法の真の意味を教えました。イエス様の教えを聞いた人々はどのように思ったでしょうか?マタイ7:29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」。そうです。律法学者たちは「○○と書いてある」「○○と言われている」と間接的に語りました。しかし、イエス様は肉体をとられたロゴスとして、「私はあなたがたに言います」と直接的に語ったのです。その先、何度もパリサイ人と律法学者はイエス様をことばの罠にかけようとしました。その度ごとに、イエス様は深い知恵をもって、答えられました。彼らは一言も反論できず、しっぽを巻いて退散せざるを得ませんでした。まさしく、イエス様こそ、イザヤ書が預言した、不思議な助言者でした。今、世の中ではカウンセリングがとても流行っています。昔はフロイトが主流でしたが、今はオカルト的なものまで多種多彩です。世の人たちは問題解決を求めてそういうところに行きます。クリスチャンも、キリスト教カウンセリングに行っており、あるところは、3ヶ月待ちのところもあるそうです。そういうところに行くのは結構です。でも、イエス・キリストこそ、Wonderful Counselorです。聖書のことばをよく読んで、祈るならば、聖霊様が解決を与えてくださると信じます。

 第二はメシヤの特徴は「力ある神」です。イエス様が力ある神として表されているのは、マルコによる福音書です。教えよりも、イエス様がなされた奇跡に多くの文面をさいています。マルコによる福音書の特徴は「すると」「すぐに」「それから」という接続詞でつながっていることです。イエス様がどんどん移動して、奇跡を行っています。人々の病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえよみがえらせました。イエス様は「神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教しました。そのことと、イエス様の奇跡と何の関係があるのでしょうか?神の国が近づいたとは、この世に神のご支配がやって来たということです。この世においては、病や悪霊、死が支配しています。しかし、イエス様と一緒に神の国がやってきたのです。するとどういうことが起こるのでしょうか?天気図では温暖前線と寒冷前線というものがあります。温暖前線と寒冷前線がぶつかる所には、積乱雲が発生します。激しい雷雨になったり、ときには竜巻が発生します。同じようにサタンが支配しているこの世に、神の国が侵入すると、どういうことが起こるでしょうか?隠れていた悪霊が声をあげて出て行くでしょう。病人がたちどころに癒され、死人さえもよみがえります。なぜでしょう?神の国には死も病もないからです。イエス様がたくさんの奇跡をなされたのは、神の国が一体、どういうものであるかを証明するためです。いわば、神の国のパフォーマンスです。伝統的な教会は癒しや奇跡を行なうのを邪道だと批判してきました。それは聖書的ではありません。なぜなら、イエス様も使徒たちも力あるわざを行なったからです。マルコ福音書で、イエス様がこのように私たちに命じておられます。マルコ16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」アーメン。イエスさまは「力ある神」であり、私たちにも主の御名によって、それをせよと命じておられます。

第三のメシヤの特徴は「永遠の父」です。イエス様がご自分を「父」とおっしゃっている箇所はどこでしょうか?そうです。それはヨハネによる福音書です。弟子のピリポは父を見せてほしいとイエス様に求めました。ヨハネ14:9-10イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。現代風に言いますと、「いやになっちゃうなー、ピリポ。私を見た者は父を見たのと同じなんだよ」ということです。残念ですが、クリスチャンであっても、神さまが父であることをよく知らない人がいます。神学校でも「神は全能であり、聖であり、善であり、愛である」と教えます。しかし、神さまが父であるということをあまり教えません。祈るときも、「神さま」と呼ぶことはできても、「天のお父様」と呼べない人がいます。なぜでしょう?それは地上の父との間に問題があり、歪んだめがねをかけているからです。どうしたら天の父が分かるのでしょうか?第一は地上の父を赦し、愛し、敬うことによって、歪んだめがねが取り外されます。第二は聖書からイエス様を知り、イエス様と親しく交わることです。第三は霊的な父を持つことです。聖書の時代、学校がありませんでした。ある年齢に達した子どもをラビに預けました。ラビは、父の代わりに人生のすべてを教えました。現代で言うなら、メンターです。霊的な父を持ちましょう。そうしたら、父なる神さまのことがもっと良く分かります。私も10年前、インドネシアのエディ・レオ師にあってから、心が癒され、父の心を持つことができました。教会にはお兄さんはたくさんいますが、父が少ないのです。あなたも霊的な父になりましょう。

 第四のメシヤの特徴は「平和の君」です。ルカ福音書2章には天の軍勢が御子の誕生をこのように賛美しています。ルカ2:14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」平和こそが、ルカ福音書のテーマです。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか?ルカ福音書に出てくる人たちの多くは当時、世の中から排斥されている人でした。女性、子ども、取税人、やもめ、病気の人が出てきます。たとえ話においては、サマリヤ人、いなくなった一匹の羊、ほうとう息子、貧乏人のラザロです。イエス様はそういう弱い人たちのところに行って、彼らの手を取り、恵みを与え、彼らの尊厳を回復してあげました。私たちは平和というと、国際連合とか首脳会談、様々な平和運動を連想するかもしれません。しかし、イエス様のやり方はそうではありませんでした。名もない人々のところに出かけ、福音を宣べ伝え、病を癒し、御国に招きました。御国には身分の上下、貧富の差もありません。マリヤはこのように賛美しています。ルカ1:51-53「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」地上と天国は、まるで正反対です。高い者が引きおろされ、低い者が高く引き上げられるのです。これこそが、平和の君である、イエス・キリストの価値観です。イエス・キリストは、まさしく「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」なのです。

2.メシヤの出どころ

 前後しますが、イザヤ書9章のはじめをお読みいたします。イザヤ9:1-2「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」この箇所はエリザベツの夫、ザカリヤが引用している預言でもあります。ここに「ゼブルンの地とナフタリの地」とありますが、北イスラエルの2部族の名前であります。北イスラエルは南北分裂後、紀元前722年、アッシリヤによって滅ぼされました。その時、アッシリヤはおもだった人たちを国外に連れ去り、その代わりに他国の人たちをそこに住まわせました。その結果、雑婚と混合宗教が起こり、主なる神に対する信仰さえもなくなってしまいました。まさしく、苦しみとはずかしめを受け、異邦人の地になってしまいました。ところで、メシヤである、イエス・キリストはどこからお出になったのでしょうか?マルコ1:9「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった」とあります。続いて、マルコ1:14「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えていわれた。『時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』」。そうです。イエス様がご自身をメシヤとして啓示し、福音宣教を始められたのは、ガリラヤでした。都であるエルサレムではありません。はずかしめを受けた異邦人のガリラヤだったのです。そして、そこに住んでいた人たちはどうなったのでしょう?「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」アーメン。福音の光によって、人々は、やみから光に移されました。「死の陰の地」というのは、らい病患者がいるようなところであります。現在はそういう言葉は使ってはいけないことになっていますが、死を待つしかない人々のところに、いのちの光が照ったということです。

 神さまのなさることって、不思議ではないでしょうか?普通だったら、主の都、エルサレムから始めるべきではないでしょうか?なのに、神さまは北方のナザレのガリラヤを選ばれました。当時の人々は「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言っていたところです。吹き溜まりのような場所から、メシヤがお出になられたのです。そして、イエス様が選んだ弟子たちのほとんどが、ガリラヤの漁師たちでした。一人だけ都会出のエリートがいましたが、それはイスカリオテのユダです。他の人たちはみな、漁師とか取税人、熱心党員でした。だから、一部の聖書学者たちは、「漁師であったヨハネがギリシャ語で聖書を書けるだろうか?」と疑っています。イエス様はあえてイスラエル大学の出身の人ではなく、あまり学問のない、普通の人たちを選ばれました。ある人がルターに「どうして神様は普通の人を選ばれたのでしょうか?」と、質問しました。ルターは「神さまは普通の人がお好きだからです」と答えたそうです。大変失礼ですが、この礼拝堂におられる方も、普通の人ではないでしょうか?大学教授とか国会議員の方はおられるでしょうか?パウロはⅠコリントでこのように言っています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:27,28)

 主のご降誕、クリスマスはどういう人たちのためにあるのでしょうか?私はイザヤ書の9章に書かれているような人たちのためではないかと思います。それは、苦しみ、はずかしめを受け、やみの中、死の陰の地に住んでいる人たちです。エペソ2章にあるように、「罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」私たちは本来、神さまの子どもとして造られたのに、罪の中で死に、サタンの支配下にありました。自分が闇の中にいることさえもわかりませんでした。イエス様を信じて救われた後、「ああ、私は闇の中にいたんだ!」と分かるんです。私はクリスマスのメッセージを伝えるときに、どうしても自分のおいたちを語らなければなりません。私は8人兄弟の7番目として生まれました。高校生の頃だったでしょうか?クリスマスの日、学校の帰り、秋田駅の近くでチョコレートを買いました。これを妹にでもあげたら喜ぶだろうなと思ったからです。もう、上の6人の兄や姉は就職とか結婚で家にはいませんでした。駅から家までの近道は田んぼです。雪が固まっているので、歩けます。その当時、駅を越えて村にはいる左手に十字架の立っているお墓がありました。ずっと後から、カトリック教会のお墓であることが分かりましたが、とっても気持ちが悪くて、ぜったいそっちは見ませんでした。たんぼの雪だけが真っ白で、空も風景も真っ暗でした。子どもの頃から、母に「きょうはクリスマスだけど」と何かくれるのをせがみました。すると母は「うちにはクリスマスはないよ。クルシミマスだよ」と言いました。父はあまり働かないばかりか、お酒を飲むとよく荒れました。毎年、暗いクリスマスでした。そういうクリスマスとは縁もゆかりもない者がこうやって講壇から「クリスマスとは?」と偉そうに話しているのは奇跡ではないでしょうか?

 私が25歳で、救われて献身した教会は座間キリスト教会でした。その教会は日本ホーリネス教団の中にありましたが、成長しない教会が座間教会と三鷹教会だったそうです。だから、教団の人たちは「座間三鷹」と馬鹿にして言ったそうです。しかし、大川牧師が就任してから、みるみるうちに教会が大きくなりました。私が救われた年は1年で52名の受洗者が与えられ、教団で最も大きく成長していました。その時、大川牧師は「昔は座間三鷹だったけど、今は座間を見ろ、だ」と冗談半分に言っていました。「座間から何の良いものが出るだろう」と言われていたのに、大きな教会が生まれたのです。何と、私はその教会からこちらの教会に24年前、赴任してきました。当時、前任者の牧師は教会を開拓するためお辞めになるところでした。山崎長老さんが、座間キリスト教会の礼拝テープを聞いて、とっても恵まれていました。「礼拝メッセージで涙を流したのは初めてだ」と言っていました。山崎長老が「大川牧師の弟子はいないか?」ということで、私に白羽の矢が当りました。私も家内も「日本基督教団は信仰がないので行きたくない」と断るつもりでした。教団の委員は「東支区に6人も無任所の牧師がいるのに、どこの馬の骨かわからない若造を迎えるのか」と反対したそうです。しかし、山崎長老と役員さんは「他の血を入れたいので、ぜひ」と、多くの反対を押し切って、私を招聘しました。1987年、私たちはこの亀有教会に嫁いで来たのです。その年のクリスマス、全部、私が準備しました。飾り付けも催しも、です。イブ礼拝では私がオー・ホーリーナイトを歌い、3歳くらいの娘とダンスまでしました。しかし、今ではゴスペルクワイヤーが立ち上がり、飾りつけも教会員がみなしてくれています。先週の日曜日の夜、1階と2階、そして礼拝堂を見て、本当に感動しました。

 葛飾区亀有の地はどういうところでしょうか?「やみの中を歩み、死の陰の地に住んでいた」と言うと怒られるでしょうか?神さまは私を亀有に遣わしてくださいました。もちろん、私よりもすばらしい牧師がたくさんいるでしょう。でも、「私だから良かった」ということもあるかもしれません。「私だから躓いて来ない」という人もおるかおしれません。その比率はどうか分かりません。でも、神さまは取るに足らないこの私を用いてくださり、この場所に群を起こしてくださいました。これは神さまのご計画、摂理のみわざではないでしょうか?思えば、この教会においては、奏楽が一番のネックでした。ピアノ、エレキドラム、キーボード、マイクも揃えましたが、やる人がいませんでした。当初から、銀行員の中野さんがギターで賛美をリードしてくれました。そして、2000年にゴスペルが立ち上がり、毛利兄姉が与えられ、ぐっとバージョンアップしました。今では、第一礼拝、第二礼拝、CSも独立して賛美をして礼拝を持っています。ステージで複数の人たちが、毎週、賛美をリードしてくれています。これこそ、主のみわざではないでしょうか。異邦人の葛飾区亀有は「光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」のです。アーメン。今年、日本基督教団から独立しました。中心的な理由は聖書に土台した教会を作るためです。イエス・キリスト様が、聖書を土台にしているこの教会をこれからも祝してくださると信じます。

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