2016年7月 1日 (金)

十字架の力 Ⅰコリント1:18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.7.3

 きょうは亀有教会創立67周年の記念礼拝です。Ⅰコリント1章に「十字架のことばは力である」と書かれています。十字架にはどのような力があるのでしょうか?きょうは3つのポイントで学びたいと思います。第一は「贖いの十字架」です。十字架で流されたイエス様の血潮はすべての罪咎、罪責感を取り去る力があります。第二は「きよめの十字架」です。十字架は私たちの古い人である罪の源、そしてアダムから来た一切のものを遮断する力があります。第三は「日々の十字架」です。イエス様は「日々、自分の十字架を負って私について来なさい」と言われました。クリスチャンは救いを受けてはいますが、肉という罪を犯す性質が残っています。だから、日々、肉を十字架に付ける必要があります。十字架はこの肉を死なせてくれる力があります。

1.贖いの十字架

 ローマ323-25a「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」「罪」という概念は、日本にはありません。日本人は「人に迷惑をかけなければ良い」という社会的な罪概念だけです。しかし、聖書で罪とは、神に対する背き、違反、汚れであります。ダビデはイスラエルの立派な王でありましたが、姦淫と殺人の罪を犯しました。罪を隠していた時は、「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」(詩篇323と言っています。神さまは全世界と人間を造られた創造主です。罪を犯すというのは、人にではなく、まず神に対して犯していることを理解しなければなりません。そのため、ダビデは「私はあなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」(詩篇514と告白しています。ですから、罪の赦しを受けるときは、人ではなく、まず神さまから赦しを受ける必要があります。もちろん、被害を与えたときは、人や社会への償いは必要です。でも、それは2番目です。パウロは、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と言いました。「すべての人」の中にあなたも入るでしょうか?「いいえ、私はダビデのような大きな罪は犯していませんよ」と言うかもしれません。「罪はない」「罪を知らない」という人のために、神さまは律法をお与えになりました。律法は神からの戒めであり、命令です。イエス様は山上の説教で、「実際に罪を犯していなくても、思っただけで罪になるんだ」と律法の真の意味を教えました。人を憎んだり、情欲を抱いて異性を見たり、欲しいとむさぼるのも罪であります。そうなると義人はひとりもいなくなります。

 私たちは、神さまから罪が裁かれ、永遠の滅びに行く運命でありました。ところが、神さまは御子を遣わして、御子に私たちの罪を負わせ、御子を罰したのです。それを十字架の贖いと言います。「贖う」は、初めは失われた土地を親戚が買い戻すという意味でした。次第に、罪ある者を赦すために、だれかが罪の代価を払うという意味になったのです。旧約時代は、動物が代わりに血を流すことによって、罪が贖われました。なぜなら、罪は命である血でしか贖うことができなかったからです。イザヤ書53章には、メシヤが神から打たれ、苦しめられることによって罪咎が赦されると預言されています。そのメシヤというのが、イエス・キリストです。パウロは、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになった」と言いました。義なる神は1つの罪をも見過ごしにはなされず、必ず裁かなければなりません。しかし、神さまは愛なるお方なので、何とか人間の罪を取り除いて、和解したいと願いました。そのため、御子イエスに全人類の罪を負わせ、裁いたのです。「なだめの供え物」とありますが、キリストの血によって、神の罪に対する怒りがなだめられたのです。同時にキリストの十字架によって神の義が満たされたのです。そして、神さまはキリストを信じる者を義とされると約束されました。ハレルヤ!神さまは救いのために、キリストによってすべてのことをなされました。私たちがなすべきことは、キリストによってなされた贖いを受け取るだけで良いのです。

 もし、人がこのキリストにおける贖いを受け入れたらどうなるのでしょう。すべての罪が赦され、神さまから義と認められます。これは法律用語であり、私たちの実質ではなく、神との関係において義とされるということです。そうすると、私たちを訴える咎めがなくなります。罪を犯すと3つのものが私たちを訴えます。第一は神さま、第二は良心、第三は悪魔です。キリスト・イエスによる贖いを受けたので、神さまは私たちを受け入れてくださいました。ヘブル1019 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」とあります。第二の良心、つまり罪の呵責はどうでしょう?ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。キリストの血によって心から咎めが去ります。第三の私たちを訴える悪魔はどうでしょうか?ヘブル214-15「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とあります。キリストが十字架で死なれたとき、同時に、私たちを訴える悪魔のかしらが砕かれたのです。もう、悪魔は私たちの罪を訴えることはできません。なぜなら、キリストがすべての罪を支払ったからです。もし悪魔が私たちを訴えるなら、「キリストのところへ行ってくれ」と言えば良いのです。多くの人が罪責感、罪悪感のゆえに心の病気になっています。その人がカウンセラーのところへ行くと、「あなたは悪くない。親が悪いんだ、あるいは社会が悪いんだ」と言います。でも、決して良くなりません。癒しと解放のために3つのことが必要です。1つ目は、それは自分が犯した罪であることを認めるということです。2つ目は、イエス・キリストが私の罪ために十字架で死なれたことを信じることです。3つ目は、良心にキリストの血の注ぎを受けることです。すると、すべての罪責感、罪悪感が取り去られます。私たちは自分の良心よりも、悪魔の訴えよりも、神の約束を信じるべきであります。キリストの十字架の贖いによって、すべての罪は赦されました。アーメン。

2.きよめの十字架

 「きよめ」という用語自体が誤解を招きますので、少し説明させていただきます。16世紀、マルチン・ルターは「信仰義認」ということを聖書から発見しました。18世紀、イギリスのジョン・ウェスレーが「聖化、きよくされる」ということを聖書から発見しました。Ⅰヨハネ36a「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。」とあります。これも同じ意味で、継続的に罪を犯さなくなる、きよくなるということです。救いも信仰でありますが、いわゆる「きよめ」も恵みであり信仰です。ある教団は劇的なきよめの体験を追求しますが、そうなると罠にはまります。なぜなら信仰が先で、体験は後から来るものだからです。私はウォッチマンニーの『キリスト者の標準』に書かれている内容を支持しています。その本には、「罪のゆるし」と「罪を犯すその人自身」とに分けられています。罪のゆるしとは、sins行為罪が赦されるということです。罪を犯すその人自身というのは、アダムから受け継いだ、sin罪の性質から解放されるということです。私たちは天国に行くまで、sin罪の性質はあります。これは罪を作り出す工場みたいなものです。「臭いところは元から断たなけりゃダメ」と言われるように、1つ1つの罪ではなく、罪の工場を破壊する必要があります。これが、きよめの十字架という意味です。

 ローマ人への手紙を見ますと、ローマ512から単数形の罪、sinについて記されています。「アダムの違反によって、すべての人が罪に定められた」と書かれています。イエス・キリストは最後のアダムとして、この世に来られました。イエス様は、罪のかわりに恵みを、死のかわりに永遠のいのちを与えて下さいます。では、どのように私たちはアダムの罪から解放され、いのちにあずかることができるのでしょうか?パウロは「イエスにつくバプテスマを受けた私たちはその死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか?」と言っています。つまり、私たちがイエス様を信じて、バプテスマを受けたとき、キリストと一緒に死んだということです。また、キリストがよみがえられたとき、私たちもキリストと一緒によみがえったということです。ローマ65-7「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」「古い人」というのは、アダムに属するすべてです。この地上に生まれた人は、すべてアダムに属する人であり、古い人です。このままですと、イエス様を信じて罪赦されても、また罪を犯して、しまいには滅んでしまいます。旧約聖書のイスラエルがそうであり、彼らはいくら罪赦されても、また同じことを繰り返しました。新約における恵みとは、古い人が一度死んで、新しい人になるということです。自分で古い人を殺すことはできません。キリストにバプテスマされる、一体化されると良いのです。パウロは、それはキリストに接ぎ木されることだと言っています。私たちは、アダムという木につながっていました。ところが、アダムの木から切り取られ、一瞬死んで、今度はキリストの木に接ぎ木されたのです。どこが変わったのでしょうか?命の源が変わりました。古い人とは、アダムの罪、アダムの命、アダムの資源という意味です。しかし、古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅びたのです。そのことによって、アダム以来の罪から解放されます。そして、今度はキリストとともによみがえるのです。つまり、あなたはキリストという木に接ぎ木されました。これからは、キリストきよさ、キリストの命、キリストの資源にあずかるようになるのです。

 罪からの解放、つまり罪のきよめも信仰であります。私たちはイエス様の十字架を信じて救われました。十字架の贖いは神さまとキリストがなさったことです。それを私たちは信じて救われたのです。そして、私たちの古い人は、キリストとともに十字架につけられました。そのことを信じて罪からきよめられたのです。2つとも同じ恵みであります。同時に受ける人もいれば、ガラテヤの人たちのように、あとから分かる人がいます。ガラテヤの人は信仰によって救われた後、何かをしなければならないと思いました。自分の力で、律法を守り、きよい生活をしようと努力しました。しかし、ますます泥沼にはまり込み、最後には救いすらも分からなくなりました。「自分の力で、律法を守り、きよい生活をしよう」ということを「救いを肉で仕上げる」と言います。それは不可能です。なぜなら、古い人である肉でやっているからです。一度、古い人に死んで、新しくなるなら希望があります。ガラテヤ220「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」アーメン。これも、ローマ66と同じことを言っています。ガラテヤ書もローマ書も、古い人を自分で十字架につけるとは言っていません。私たちは信じてバプテスマを受けたとき、古い人がキリストとともに十字架に付けられたのです。私たちはイエス様を信じたとき罪赦されました。同じように、自分がキリストとともに十字架に付けられたことを信じるのです。死ぬのではなくて、死んだことを認めるのです。すると、そうなります。

 私は東京聖書学院で学んでいた時、自分の罪と汚れに嫌気がさしていました。母教会は恵みと赦しであふれていましたので、ほとんど気づきませんでした。しかし、聖書学院ではみことばから、罪が責められました。どこの聖書箇所からも「きよめられなさい」というメッセージでした。「ああ、こんな自分に死にたい。きよめてください」と祈りましたが、無理でした。基礎科卒業後、『キリスト者の標準』を読んで、わかりました。ローマ611「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」「思う」とは、ギリシャ語でロギゾマイ「数えなさい」という意味です。これは、自分がすでに死んでいることを額面通り受け止めなさいということです。私たちの古い人の死は、意志や努力によって実現されるのではなく、主イエスの十字架のみわざを受け入れるときに実現するのです。罪の赦しを受けると同じ方法で、罪からの解放を受けることができるのです。

3.日々の十字架

 イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ923と言われました。ということは、十字架は一回の出来事ではなく、自分から負うべき十字架もあるんだということです。ところで、ウォッチマンニーの『キリスト者の標準』の本には、古い人の死をこのようにたとえています。政府が徹底した禁酒運動をするためにはどうするでしょうか?国中の酒類販売所へ行き、酒やビールやブランディなどのびんを1つ残らず壊してしまえば、それで問題は解決するでしょうか?びんだけ処理しても醸造工場をそのままにしておけば、酒類の生産は継続し、恒久的な解決は望めません。飲酒問題を恒久的に解決しようと思えば、国中の醸造工場、蒸留装置などが取り除かれなければなりません。同じように、イエス様の十字架の贖いは、罪の生産物を処理しました。しかし、罪を生み出す工場をたたかなければなりません。それはアダムから来た古い人を死なせることです。イエス様と共に十字架につけられ、工場である古い人が一掃されました。ハピーエンドにしたいところです。ところが、人々は酒瓶を縁の下や車のトランクに隠していたのです。いつかは底をつくでしょうが、しばらくはちびりちびり飲むことができます。パウロはローマ7章において、肉の問題を述べています。パウロはこの肉を「私のうちに住む罪」と言っています。パウロは罪赦され、古い人に死んだはずです。なのに「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ724と絶望しています。

 ところが、ローマ8章からは肉に対する解決が記されています。肉とは何でしょう?肉とは古い人の残り粕です。縁の下や車のトランクに隠された酒瓶です。でも、肉はどこにあるのでしょうか?ウィットネスリーという人が『命の経験』という本に、そのことを詳しく述べています。私たちは外側から、肉体と魂と霊の3つでできています。魂はギリシャ語でプシュケー(いのち)ですが、「自分の思い」とも言うことができます。魂の内側には霊があり、そこに聖霊が宿っています。ウィットネスリーは、私たちの霊と聖霊が混ざり合って区別がつかない状態であると言っています。たしかに、「御霊によって歩みなさい」とありますが、神の霊なのか、私たちの霊なのかわりません。そして魂の外側には肉体があります。ウィットネスリーは「この肉体に、サタンの毒である肉が宿っている」と言います。ですから、私たちの魂が、内側の御霊に従うのか、あるいは外側の肉に従うのか迷っているということです。ローマ86「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあります。回復訳という聖書はこの箇所を「肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安である」と訳しています。私たちは絶えず肉には「いいえ」を言い渡し、霊には「はい」と従うべきです。そうすれば、いのちと平安がやってきます。でも、私たちは肉とは何かを知らなければなりません。肉は大きく分けて3つから成り立っています。第一は、腐敗した肉です。これは不品行、汚れ、好色、敵意、争い、そねみ、憤り、ねたみなどです。みなさんの中に憤りはないでしょうか?それは肉です。第二は、「わたし」という自我です。ガラテヤ書で、「私はキリストと共に十字架につけられた」と言いました。なのに、どうしてまだ生きているのでしょうか?確かにそのとき私たちは一度、砕かれました。ウォッチマンニーはビスケットのたとえで説明しています。彼がテーブルの皿にあった、ビスケットを3つに割りました。それから注意深くもとのように合わせて、こう言いました。「これは、見た目には異常はないようです。しかし、このビスケットは決してもとのままではありません。ひとたびあなたの背骨が折られると、以後あなたは神からのちょっとしたタッチにも砕かれるようになるのです」。でも、私たちは油断すると、神さまの思いではなく、「わたし」という自我で生きようとします。みなさんの心はビスケットのように処理されているでしょうか?第三は生まれつきの能力です。生まれつき知恵や知性のある人がいます。生まれつき雄弁な人もいるでしょう。生まれつき音楽の才能のある人もいます。では、こういう人がそのまま神さまに用いられるか、というとそうではありません。なぜなら、生まれつきの能力は、すべてアダムに源を置いているからです。ですから、どんな良いものでも一度は十字架の死に渡す必要があります。その後、アダムではなく、御霊に源を置いてそれらを用いるのです。あるものは取り去られ、また自分に全くないものが新たに与えられる場合があります。神の前にどんなにすばらしい奉仕をしたとしても、それが肉であるならば神には届きません。ローマ88「肉にある者は神を喜ばせることができません」とあるからです。

 イエス様は「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ923と言われました。これはどういう意味でしょう?これは肉を毎日、十字架につけて死なせるということです。繰り返しになりますが、第一は、腐敗した肉です。毎日、不品行、汚れ、好色、敵意、争い、そねみ、憤り、ねたみを十字架につけます。そうすると、いのちである愛、喜び、平安などの実があらわれてきます。第二は「わたし」という自我です。毎日、わたしを十字架につけるのです。これは自分のいのちを否定するということです。そうすると、いのちである御霊が進むべき道を示してくださいます。第三は「生まれつきの能力」です。毎日、自分の知恵、知識、才能、がんばり、真面目さを十字架につけます。そうすると神からの知恵や賜物、忍耐力が現れてきます。十字架には肉の働きを殺す力があります。パウロは「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」と言いました。でも、これは一回限りのことではなく、天国に行くまで、日々、そうすべきなのです。ある人たちは「自分は十字架によってきよめられた」と言います。またある人たちは「聖霊に満たされ、すばらしい賜物をいただいた」と言います。でも、肉が生きていることを忘れています。そのため、神の働きを途中で終えることになります。ですから、私たちは、日々自分の十字架を負う必要があるのです。そうすれば、復活の力である神の御霊が現れてくださるのです。また、十字架はしつこくやってくるトラウマや否定的な思いを消し去ることができます。どうぞ、自分でどうすることもできない恨み、失望、恐れ、不安も十字架につけてください。不思議に解放されます。十字架にはそういう力があります。また、十字架の直後には、必ず復活が伴うこともお忘れなく。十字架の力を再発見し、勝利の道を歩み続けたいと思います。

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2013年8月 4日 (日)

世の終わりの救い      Ⅰコリント15:50-58  

 これまで、救いに関してメッセージをしてきましたが今日が最後です。27回目の今日は、究極的な救いについてお話します。これがないと救いは完成しないし、他の救いがあったとしても空しいでしょう。なぜなら、パウロは「復活がなければ、信仰は空しい」と言っているからです。究極的な救いとは、世の終わり、キリストが来られたとき、私たちのこの肉体が新しいからだになるということです。そのとき、死んでいた者は、朽ちないものによみがえります。また、生きている者は、一瞬に変えられるのです。つまり、キリスト教は霊魂の救いだけを言っているのではありません。ギリシャの哲学者は霊魂の不滅を信じていました。他にもそういう宗教がたくさんあるでしょう。しかし、聖書は肉体が救われるときに、救いが完成することを教えています。


1.二つのからだ

 Ⅰコリント15:44「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」パウロは二種類のからだがあることを教えています。第一は血肉のからだです。「血肉のからだ」はギリシャ語では、「生来の、この世の、肉的な」という意味があります。英語の聖書にはnatural body「自然のからだ」というふうに訳されています。つまり、血肉のからだとは、血が通っている肉体のことです。「そのままじゃないか」と思うかもしれません。ほとんどの人は、このからだがすべてであり、このからだのことしか分かりません。このからだが生きているうちは生きていて、このからだが死んだらおしまいだと思っています。生物学では、「ヒトの肉体は無数の細胞からできており、細胞の死は、すなわち死である」と言うでしょう。病院でもまだ脈があるうちは、何とかするでしょう。しかし、脈がなくなったら「ご臨終です」と言われ、あとは霊柩車に乗せられ、数日後は灰になります。お医者さんに、「死後はどこに行くのでしょう?」と聞いたとします。おそらく、お医者さんは「私たちは生きている人に仕えています。死んだ人を扱うのは宗教です」と答えるでしょう。それでは、きょうのテーマは宗教的なことであって、現実とは全く関係のない、「あったら良いなー」という空想の世界なのでしょうか?そうではありません。パウロは「血肉のからだもあるけれど、御霊のからだもある」と言っています。

 第二の「御霊のからだ」とは何でしょう?原文は「霊のからだ」となっており、「御」という、丁寧さを現わすことばがありません。英語ではspiritual bodyとなっています。パウロは御霊のからだとは何かということを説明するために、種まきにたとえています。Ⅰコリント15:36-37「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。」たとえば、麦を地面の中に蒔いたとします。麦は土の中で死ぬことになります。でも、その死は一時的であり、やがて新しいからだによみがえります。麦が「血肉のからだ」であるならば、土から出てきたものは「御霊のからだ」ということになります。キリストはその初穂でした。キリストは肉体的に死んで墓の中に埋葬されました。ところが3日後、よみがえりました。歴史上、死者がよみがえったのは、キリストが最初です。キリストが初穂として、死者の中からよみがえったのです。私たちもキリストに属する麦であります。終わりの日、キリストのようによみがえるということです。Ⅰコリント15:42-44「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」血肉のからだの特徴はどのようなものでしょうか?朽ちるもの、卑しいもの、弱いものです。そのように、私たちの一般的なからだは、年を取れば老化します。だんだん、しわしわになり醜くなります。病気にもなるし、怪我や事故で、どこかが欠損することもあります。それに比べて、御霊のからだはどのようなものでしょうか?「朽ちないものによみがえらされ、栄光あるものによみがえらされ、強いものによみがえらされる」と書いてあります。血肉のからだと全く違います。御霊のからだは老化しません。栄光の輝きがあります。そして、強いです。強いとは、パワーがあるということです。

 イエス様がよみがえられたとき、弟子たちはだれか分かりませんでした。マグダラのマリヤもそうでした。エマオの途上に向かっている2人の弟子たちもそうでした。不信仰によって、目がふさがれていたからかもしれません。しかし、イエス様の顔や姿が変わっていたからではないかと思います。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸と閉じていました。他の訳では、「部屋に鍵がかけられていた」とあります。それなのに、イエス様は入ってくることができました。弟子たちは復活のイエス様を見たと証言していますが、時間的に矛盾があります。みんなが、ばらばらに答えているのは何故でしょうか?その答えが、同じⅠコリント15章に書いてあります。Ⅰコリント15:6 「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」とあります。同時に現れたのだったら、時間的に矛盾が起きるのが当たり前です。ある人はガリラヤで見ました。また、ある人はエルサレムで見ました。また、ある人はエマオの途上で見ました。そういうことがありえます。御霊のからだは、物質や空間に支配されないのです。

Ⅰコリント15:45以降には、さらに血肉のからだと御霊のからだの違いが記されています。血肉とからだとはどういうものでしょう?最初の人アダムのものです。血肉のものであり、地上に属し、土でできています。一方、御霊のからだとはどういうものでしょう?最後のアダムのものです。御霊のものであり、天から出て、天から出た者であり、天のかたちを持っています。私たちは地上のものには詳しいですが、天上のことにはさっぱりです。しかし、最後のアダムとはイエス・キリストのことなので、復活されたイエス様のことを想像するしかありません。イエス様は弟子たちにご自分を見せたとき、このように言われました。ルカ24:39「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」驚くべきことに、御霊のからだには、別の種類の肉や骨があるようです。イエス様はその後、焼いた魚をみんなの前で食べて見せました。私たちが持っているからだは、いわば入れ物です。私たちは現在、血と肉でできたからだの中にいます。私たちの本体は何かと言うと、霊と魂であります。霊と魂がこの肉体に入っているのです。死んだときに、私たちが肉体から出ます。では、御霊のからだとは何でしょう?それは、別の物質でできています。天上のからだ、あるいは復活のからだと言っても良いでしょう。やがては、そちらの方に私たちが入るということです。血と肉でできているからだは、いわばこの地上で何十年間か生きるための入れ物です。だんだん老化するし、怪我や事故で欠損することもあります。もちろん、いずれは死んでしまいます。私たちが永遠に生きるためには、永遠のからだが必要です。それが御霊のからだです。Ⅰコリント15:50「 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」とあります。これは当たり前のことです。神の国は永遠に続く場所です。血肉のからだでは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないのです。そのために、朽ちないからだである御霊のからだが必要なのです。御霊のからだは年を取らないだけではなく、栄光の輝きがあり、強いからだです。強いというのは、おそらく怪我や事故にも耐えられるということでしょう。では、全く弱らないかというとそうでもないようです。黙示録22章を見ると、都には川が流れており、その両脇にはいのちの木があります。私たちはその実を自由に食べることができます。さらに、その葉には諸国の民をいやすと書いてあります。おそらく、御霊のからだを健康に維持するために、いのちの木からの実とその葉が必要だということでしょう。

どうでしょう?ここまで解説すると、「復活のからだが与えられるというのは真実なんだなー」ということがお分かりになられたでしょうか?この肉体はこの地上で生きるためのものです。もって80年、最高でも120年くらいでしょう?しかし、この肉体では天国で住まうことはできません。朽ちない栄光のからだが必要です。神さまは天上のからだ、御霊のからだを私たちのために備えてくださいます。イエス様が初穂として、よみがえられたのはそのためです。


2.世の終わりの救い

御霊のからだは、いつ与えられるのでしょう?「今でしょう」と答えたいところですが、そうではありません。今かもしれないし、5年後かもしれないし、50年後かもしれません。でも、そんなに遠い出来事ではないと信じます。Ⅰコリント15:51-53「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」アーメン。パウロは「奥義を告げる」と言っていますが、どんな奥義なのでしょう?「私たちはみな、眠ることになるのではなく」とはどういう意味でしょう?眠るとは、肉体的に死ぬという意味です。キリスト教会でもいろんな考え方があります。人が死んだとき、「眠る」と言います。しかし、霊と魂は眠っていません。ちゃんと目覚めています。ルカ福音書に「貧乏人ラザロと金持ち」と物語があります。二人とも死にました。でも、貧乏人ラザロはアブラハムのふところでちゃんと目覚めていました。また、金持ちはハデスにいましたが、記憶もちゃんとありました。熱さの中でのどが渇いていました。私たちがもし死んだなら肉体は眠ります。しかし、霊と魂は一瞬にパラダイスに引き上げられ、主のもとに行くことになります。眠るのは肉体だけです。でも、眠るというのですから、目覚めるときが来るということを暗示しています。キリスト教会では、墓地に出かけて「永眠者記念礼拝」を持ちますが、それは正しくありません。クリスチャンは永遠に眠りません。やがて目覚める存在だからです。では、いつ死んだ肉体が目覚めるのでしょうか?また、パウロが言っている奥義とは何なのでしょう?

「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。人々の中に、まだ眠っていない、死んでいない人がいるということです。終わりのラッパが鳴るときとは、いつでしょう?Ⅰテサロニケ4:16「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」と書いてあります。そうです。世の終わり、イエス様が再び来られるとき、復活が起こるということです。そのとき死者が朽ちないものによみがえるのです。でも、パウロが言っている奥義というのは死んだ人がよみがえるという意味ではありません。そこには別のグループもいます。つまり、イエス様が来られたとき、まだ生きている人たちがいます。そういう人はどうなるのでしょう?一瞬にして、栄光のからだに変えられるのです。つまり、死を通過しないで、栄光のからだに変えられ、天に引き上げられるということです。「そんな馬鹿な?」と思うでしょうか?しかし、聖書には死を通過しないで天に引き上げられた人たちがいます。一人はエノクであり、もう一人はエリヤです。へブル11:5 「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」アーメン。パウロを始め、当時のクリスチャンは、自分が生きているときに、イエス様が戻って来られると本気で信じていました。でも、自分たちが思っている以上に、イエス様の訪れが遅かったのです。それで、「どうしよう?」と思って、イエス様の物語、福音書を書いたのです。多くの人たちは、福音書が最初でこのようなパウロの手紙が後だと考えています。そうではありません。福音書を最初に書いたのは、ペテロの弟子マルコです。イエス様が昇天されてから30年くらいたってからです。イエス様が来ないので、次の世代に残すために福音書を書いたのです。でも、イエス様が昇天してから1980年近くたっています。あと20年で2000年目です。Ⅰペテロに、「主の前では、千年は一日のようです」と書いてあるので、もうすぐかもしれません。あと20年だったら、何とかなりそうな感じがします。一番、光栄なのは、死を通過しないで、天国に入れることです。キリスト教会の人たちは、みんなこれにあこがれて生きてきたのです。

今回、救いに関してメッセージしてきましたが、きょうが27回目です。序論でも申し上げましたが、究極的な救いは私たちの肉体が贖われることです。聖書は魂の救いだけを述べていません。私たちの肉体が贖われるときに、はじめて救いが完成するのです。ある人たちは救いとは天国に行けることだと信じています。天国は雲の上にあり、ふわふわした魂の姿で生きると信じています。しかし、そうではありません。天国は現実の世界です。現実というよりも、物質があるということです。厳密に言えば、住むべき場所があり、栄光のからだが与えられ、神さまをこの目で見ることができます。完成された御国は、この地球ではありません。いつかこの地上がなくなります。太陽も月もなくなるでしょう。私たちは、神さまが造られた「新しい天と新しい地」に移り住むのです。詳しくは、黙示録21章と22章にしるされています。そこにないものがあります。何がないのでしょう?黙示録21:4「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」とあります。そうです。私たちにとって、最大の敵は死であります。イエス様が世の終わり、再び来られるのは、死を滅ぼすためです。仏教は死というものがだれにも訪れるものであり、避けようのないものとして受け入れられています。しかし、聖書は、「死は人類の最大の敵である」とみなされています。世の終わり、イエス様が来られた時、死が滅ぼされます。Ⅰコリント15:54-55しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」アーメン。

 私たちは健全な来世観を持つ必要があります。私たちの人生は死で終わらないということです。死んでも生きる、いや、復活で完了するということです。たとえ、死んでもよみがえるということです。また、ある人たちは、死なないで栄光のからだに変えられる場合もあるということです。もし、死で終わらない人生観を持つならば、その人はどのような生き方ができるでしょう?Ⅰコリント15:58 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」そうです。労苦が無駄ではありません。なぜなら、主が報いてくださるからです。死んだら何もなくなるという人生観では力が出てきません。死んでもよみがえりがあるという人生観はどうでしょう?悔いのない人生を過ごすことができます。なぜなら、主が私たちの労苦を報いてくださるからです。


3.滅びからの救い

 これまでのメッセージはキリストを信じている人たちのメッセージでした。しかし、「世の終わり、キリストを信じない人たちはどうなるのか?」ということです。それは、ヨハネの黙示録を読むしかありません。ヨハネの黙示録は世の終わりのさばきの預言です。キリストを信じない人たちは、大患難を通らされます。反キリストの力がいよいよ増し加わり、信仰を持つのがとても困難になるでしょう。額か腕に数字を入れられ、番号が登録されていない人は売ることも、買うこともできません。すでに全世界は国民皆番号制に向かっています。あるとき、世界総督が立ち上がり、獣を拝まないもの、数字を拒む者は捕えられるでしょう。ものすごい迫害が起こり、信仰を持つのが命がけになります。多くの人たちは、妥協して獣を拝むようになります。そのうち、天から火が下り、海の水や川の水が飲めなくなります。いろんな病気が発生し、人々は死を求めますが、死の方が逃げ去るのです。反キリストはメギドの丘に集結し、キリストの軍隊と戦いを交えるでしょう。しかし、キリストが勝利して、獣を拝んだ人たちと偽預言者は火の中に投げ込まれます。悪魔は1000年間縛られた後、火の中に投げ込まれます。その後、第二の復活が起こります。海の中にいる死者、ハデスにいた死者がよみがえります。すべての人が、神さまの前に立つのです。それは「白い御座のさばき」と呼ばれ、書物にしるされているところに従って、さばかれます。クリスチャンはさばきの座に立つ必要はありません。なぜなら、キリストが彼らのためにさばかれ、代価を払ってくださっているからです。問題は、キリストがいないひとです。彼らは自分の正しさで神さまの前に立って弁明しなければなりません。果たして、義なる神さまの前に立ち尽くせる人がいるでしょうか?人々はおのおの行いによってさばかれ、火の池に投げ込まれます。これが第二の死です。クリスチャンは1回しか死ぬ必要がありません。第二の死とは永遠の滅びであり、地獄で永遠に過ごさなければなりません。

 みなさん。究極的な救いとは何でしょう?それは、滅びから救われるということではないでしょうか?ヨハネは福音書でこのように言っています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。キリストを信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができます。しかし、この続きがあることをご存じでしょうか?ヨハネ3:18「 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」アーメン。キリストの御名を信じない人は、「すでにさばかれている」と書いてあります。さばきの中、滅びの中にいるのです。だったら、どうすべきでしょうか?生きているうちに、できるだけ早く、イエス様を信じて、救いの中に入る必要があります。一番の緊急問題は、経済でも、健康でも、教育でもありません。イエス様を信じて、救いの中に入ることです。その後、ゆっくりと経済、健康、教育のことを考えるべきです。永遠と比べて、地上の生涯は、わずか一瞬の出来事です。どうか、短い人生において、永遠のいのちを獲得し、復活のからだをいただくことができますように祝福いたします。



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2013年3月24日 (日)

十字架のことば     Ⅰコリント1:18-25

 今日から受難週が始まりますので十字架に関するメッセージをさせていただきます。18節に「十字架のことば」とありますが、これはどういう意味でしょう?英国の聖書は、「十字架の教義」と訳されています。JBフィリップスは「十字架の説教」と訳しています。他には「十字架のメッセージ」とも訳されているのもあります。パウロはかつて、コリントの人たちに「十字架のことば」を語りました。これは福音であり、この福音によってコリントの人たちが救われ、教会ができました。きょうもこの礼拝において、「十字架のことば」を語ります。結果的にどうなるでしょうか?ある人は福音を信じて救われ、また、ある人は救いの確信を持つことができるでしょう。


1.十字架のことば

 使徒パウロは、福音は「神の力」であると言っています。力はギリシャ語では、ディユナミスと言って、ダイナマイトの語源になっています。ご存じのように、ダイナマイトにはものすごい破壊力があります。では、「神のダイナマイト」とはどんな力なのでしょうか?パウロは「救いを受ける私たちには神の力です」と言っています。福音を心の中に受け入れると、「どかん」と爆発します。そして、不信仰や罪の塊が砕かれ、「あぁー、イエス様を信じます」と救われます。しかし、みんながみんなそうではありません。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かである」と書いてあります。「愚か」とはナンセンス、馬鹿馬鹿しいという意味です。つまり、ある人たちにとっては、十字架のことばが力にならないということです。十字架のことばが万能ではないとは、一体、どういうことなのでしょうか?よく、見るとこの世に2種類の人がいるようです。前者は救いを受ける取る人たちです。彼らには十字架のことばが神の力になっています。しかし、後者は滅びに至る人たちがいます。彼らには十字架のことばが力にならないのです。一体、どちらに責任があるのでしょうか?十字架のことばでしょうか?それとも、「愚かだなー」と思って排除している人の方でしょうか?

 パウロの時代、大きく分けて二種類の人たちがいました。1つはユダヤ人です。彼らは「自分たちは神から選ばれた者であり、既に救いを得ている」と自負していました。もう1つはギリシャ人です。23節には「異邦人」という名称で出ています。異邦人とは「神さまの選びから漏れている人たち」という意味です。これは、ユダヤ人が他の人たちを馬鹿にして言った表現です。ここでは、異邦人の代表としてギリシャ人のことが取り上げられています。当時のギリシャ人の特徴は何だったでしょうか?コリントはギリシャの影響を受けていました。ここに出て来る「知恵ある者」「知者」「学者」「この世の議論家」「この世の知恵」など、すべての表現は、ギリシャ人にあてはめられたものです。私たちも、歴史でギリシャ人がどのようなものかを知っています。ギリシャ人は哲学で有名です。ソクラテス、プラトン、アリストテレスという名前はだれでも知っているでしょう。パウロの頃は少し後だったので、エピクロス派とかストア派の哲学者たちが主流だったようです。とにかく、ギリシャ人が最も誇りにしていたのは知恵(ソフィア)でした。哲学、フィロソフィーは「知恵を愛する」から来ています。彼らが最も頼りにしているのは人間の理性です。彼らは「理性こそが、真理を見出し、神にも達することができるんだ」と信じていました。神と言っても人格的なものではなく、超越的な存在です。彼らは「自分たちが知者であり、最高の知恵を持っている」と誇っていました。しかし、パウロは、それは「この世の議論家」であり「この世の知者」であると定義しています。なぜなら、「この世が自分の知恵によって神を知ることができない」からです。生まれつきの人間には、十字架のことばが愚かに見えるでしょう。彼らの知恵や理性では、十字架のことばを救いにいたるものそして理解できないのです。

 一方、神の知恵とはどういうものなのでしょうか?世の中から見たら、神の知恵は愚かに思えるでしょう。なぜなら、人間の理性に反するからです。ギリシャ人にとって第一に理解できなかったのは、神が肉体をとって人間になるということでした。彼らは、「霊魂は善であり、肉体は悪である。善なる霊魂が肉体という牢獄の中に閉じ込められている」と考えました。霊魂の不滅は信じましたが、肉体の復活には興味がありませんでした。なぜなら、肉体は悪であり、不要なものとみなされていたからです。もう1つは、神が人間の身代わりに死ぬということでした。不滅の神が死ぬということ自体、解せません。彼らは、神は超越者であって、人間とは全く、関わりの持たないものだと考えていました。しかも、人間には自分で救われるための知恵があり、罪の贖いなど不要だと考えていたのです。ですから、「十字架のことば」は、全く愚かでナンセンスだと思ったのです。実は日本人もギリシャ人と似たところがある異邦人です。日本は、簡単に言うと、仏教とアニミズムが混じった国です。神観がとても曖昧で、「人は死んだらどこかに行く」位にしか思っていません。鎖国が解かれてから、日本に西洋文化が入ってきました。いわゆる文明開化です。西洋文化にはキリスト教が根底にありました。しかし、日本人はとても器用な民族で、底のものは捨てて、上澄みの良いところだけを受け取りました。学校教育も西洋の哲学、西洋の学問が主流です。産業革命も手伝って、産業に役立つ型どおりの知識を詰め込みます。そうすると、ギリシャ人そっくりになります。十字架のことばは、世の中を生きて行くのに役に立たないし、かえって邪魔になるので、日本人には愚かに思えるのです。

 ある有名な人がこう言いました。「『私はクリスチャンではありません』と言う人がいますが、日本人としては至極当然なことです。そこには説明はいりません。しかし、日本において、『私はクリスチャンです』と言う人は、『どうしてですか?』と特別な説明が求められるでしょう」と。本当です。日本は全くの異邦人であって、クリスチャンになりにくい人種なのです。だから、人口の1%にも満たないのです。でも、どうしてある人たちはクリスチャンになるのでしょうか?「あなたはどうしてクリスチャンになったのでしょうか?」みなさんの中に「だれか、論理立てて説明してくれたので、私はキリストを信じました?」という人はいるでしょうか?あるいは、「この人が言っているなら、間違いないのでは?」と人を見て信じたでしょうか?多くの場合、日本人は、「この人は本当に信頼できるだろうか?」としばらく眺めています。そして、「この人は良い人だ。私はこの人が好きだ。この人が信用できる」と思うようになります。その次に、「この人が言っているならば、真理じゃないだろうか。それじゃ、信じよう」となります。どうしても、日本人は人が間に入らなければなりません。でも、中国人や韓国、大陸の人たちは、人間は関係ありません。言っている人がどうであろうとも、真理であるならば信じるそうです。「それが、真理であるならば、信じる」。だから、クリスチャン人口が高いのかもしれません。しかし、どちらにしても、信じるために、克服しなければならないものがあります。それは人間の知恵であり、理性です。マインド・コントロールは半強制的に、そういうものを休ませて、信じさせます。脅したり、長時間眠らせないで、同じことばを繰り返します。理性が働かない状態して、あることを信じ込ませます。しかし、それは神さまの方法に反しています。神さまの方法とは何なのでしょうか?Ⅰコリント1:21「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」アーメン。つまり、人間の知恵や理性では、神さまを見出すことはできません。人間は神の被造物であり、被造物が「神はなんぞや」とは言えないのです。まるで「道端の蟻が人間とはこういうものだ」と言っているようなものです。この世の知恵では神を見出すことも、救いを得ることもできません。その代わり、十字架のことばを語るのです。「人間には罪があって、このままでは神さまのところに行けません。このままでは、滅びてしまう存在です。しかし、イエス・キリストがこの世に降りてきて、私たちの罪の身代わりに死なれました。キリストは三日目によみがえり、神さまのところへ道を設けてくださいました。私たちはこのキリストを通して、神さまのところへ行けるのです。」これが十字架のことばです。しかし、「なんで、キリストの2000年前の出来事が、私と関係があるの?私が十字架にかかってくれと頼んだ訳でもないのに、勝手に死んだのに。」これが人間の知性の限界です。しかし、ある時、「ああ、そうなんだ。キリストの十字架は私のためだったんだ。キリストは私の罪のために死なれたんだ」と分かる時があります。キリスト教が啓示の宗教と言われるのはこのためです。哲学は人間の理性で、真理を見出し、神さまのところに到達しようとします。しかし、キリストは何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。キリストは「私が道、私が真理、私がいのち」と言われました。つまり、キリストの啓示が上から臨むときに、哲学は終了します。私たちに残されているのは、十字架のことばを「受け入れるか、受け入れないか」「信じるか信じないか」の二つに一つになるのです。もし、あなたが信じて受け入れるならば、神のダイナマイトとして働いて、あなたに救いをもたらすでしょう。その結果、あなたは救いを受ける人たちの中に入るのです。


2.宣教のことば

 Ⅰコリント1:21-23「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」ここに「宣教のことば」と出て来ますが、さきほどの「十字架のことば」と違うのでしょうか?文脈から見ると、同じであろうと思います。しかし、パウロはあえて「宣教のことば」あるいは「キリストを宣べ伝える」と言い直しています。「宣教する」はギリシャ語では「ケーリュッソー」と言います。英語ではproclaimとかpreach と訳されています。つまり、「十字架のことば」を告知したり、説教するということです。今、私は講壇の上で、「十字架のことば」を説教しているところです。しかし、「宣教する」に対して「教える」があります。これはギリシャ語で「ディダスコー」と言います。宣教はキリストを信じていない人に、十字架のことばを語って、その人が信じるようにと働きかけるものです。そして、教えとは、どちらかと言うとその人が信じていることに確信を持たせるために働きかけるものです。信じた後、どのように生きるべきかについて教えます。イエスさまは両方行いました。マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」とあります。使徒パウロも、十字架のことばについて宣教し、また、教えました。どっちが難しいでしょうか?どっちも難しいですね。強いて言うなら、全く信じない人に対して、信じさせると言う方がより難しいでしょう。なぜなら、霊的に生まれ変わっていないので、霊的なことがさっぱり分かりません。その点、クリスチャンは霊の目が開かれているので、みことばを理解することができます。

 さて、パウロは信じていない人に対して、十字架のことばを宣教したのでしょうか、それとも教えたのでしょうか?宣教したのです。でも、どんな誘惑に駆られるでしょう?すぐれた知恵や知識、あるいは弁論術を用いたくなるでしょう?できる限り、彼らの理性に訴え、神さまとキリストを信じるように努力するでしょう。パウロはやろうと思えばできる人でした。なぜなら、ガマリエルの門下生で、エリート中のエリートでした。律法について熟知し、ヘブル語もギリシャ語も話すことができました。でも、パウロはどうしたのでしょうか?Ⅰコリント2:1-2「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」何ということでしょう。すぐれたことばや、すぐれた知恵を用いて宣べ伝えませんでした。そうではなく、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のことしか語らなかったのです。つまり、十字架の出来事を単純に宣べ伝えたということです。多くの場合、牧師になるために神学校に行って勉強をします。神学を勉強することは良いことです。でも、信じていない人に、宣教をする場合はあまり役に立ちません。知性に訴えるために、難しい用語を使いますので、かえって遠ざけてしまうでしょう。人を救いに導くための、神さまのみこころは何でしょう?Ⅰコリント1:21「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」アーメン。愚かになることを覚悟して、十字架のことばを単純に語るしかないのです。

 太平洋伝道協会の羽鳥明牧師の弟さんに、羽鳥純二牧師がいらっしゃいました(昨年、天に召されました)。彼は若い頃、東京帝国大学の理学部に入りましたが、在学中に終戦を迎えました。卒業後、共産党に入り、地下にもぐって活動しました。羽鳥明牧師がアメリカの留学から帰ってきて、弟を教会に誘いました。「礼拝に来ないか」と言うと「行く」と言うのです。ちょうどその日は、復活祭でした。説教をしている牧師はずうずう弁で、「福音」のことを「ふぐいん」と言って、まるで土から掘られたような方でした。羽鳥明牧師は心の中で「弟は東大の化学を出たんだから、もっと難しい話しをしてほしい。死んだ人がよみがえったなんて果たして信じるだろうか」と疑ったそうです。説教の後、牧師先生が「きょう、イエスさまを信じる人は手をあげなさい」と招きをしました。羽鳥明先生は「えー?無理だろう?」と縮こまっていました。すると、弟の純二さんが「すーっ」と手を挙げたそうです。後で、「純二や、どうして信じられたんだ」と聞きました。純二さんが答えました。「僕はイデオロギーが人間を変えると信じて、共産党に入り、地下活動をしました。しかし、理想の国家を作ると言っていた人たちの、腐敗した姿を見て失望しました。ちょうどそのときに、お兄さんから誘われたのです。」と涙ながら答えたそうです。純二さんは、宣教の愚かさを通して救われたんです。

既に天に帰られましたが、羽鳥明牧師の友人で、本田弘慈という伝道者がおられました。本田先生のメッセージはとても単純でしたが、大ぜいの人が救われました。先生の伝道説教には、そんなにレパートリーはないんです。私は「さっちゃん」の話しが忘れられません。何度聞いても、涙を流しました。さっちゃんは小学校5年生です。さっちゃんのお母さんの顔には大きなやけどがありました。あるとき、さっちゃんの家で誕生パーティーを開くことになりました。みんな友達が集まりました。友達は「さっちゃんのお母さんを紹介してよ。あの人がお母さんなの?」と聞きました。「いいえ、あの人はお手伝いさんなの。お母さんは外国に出掛けているの」と嘘をつきました。ある時、授業参観がありました。さっちゃんは「お母さんはお化けみたいだから、学校に来なくて良いから」と断わりました。ある日、時間があったので、お母さんが顔のやけどについてさっちゃんに話しました。「さっちゃんが3歳位の頃だったわ。私が夕食の買い物をするためちょっと留守したの。帰ってくると、近所が火事だというので良く見たら、自分の家だったの。家がすごく燃えて、周りの人が止めたけど、家の中に飛び込んだの。そして、さっちゃんを抱きかかえて出るとき、大やけどをしちゃったの。消防員は『子どもがいろりの傍で、マッチ箱で遊んでいたからだろう』と言っていたわ。でも、良かったわ。さっちゃんが助かったんだから」と告げました。さっちゃんは「お母さん、お化けみたいだなんて言って、ごめんなさい。私を助けるためだったのね」と謝りました。それから、さっちゃんは、クラスのみんなに「さっちゃんのお母さんは、日本一のお母さんよ!」と自慢するようになったそうです。本田先生はこう続けます。「愛する兄弟姉妹。イエスさまは、私たちが自分の罪によって罰を受けなければならないところを、身代わりになって死んでくださいました。十字架で『父よ、彼らをお赦しください』と祈られました。だれのために祈られたのでしょう。そうです。あなたのためです。あなたの罪のためにイエスさまは十字架で死なれたのです。」そのように話してから、「きょう、イエスさまを信じる人は手をあげてくさい」と招きをします。すると、大ぜいの人が手をあげます。

人間の知性や理性を駆使して語っても、ある程度のところまでは行きます。しかし、「私の罪のために十字架にかかられたイエスさまを信じる」ところまでは行きません。こっち側とあっち側には、とても大きなギャップがあります。人間の知性や理性では、そのギャップを埋めることができません。最後は、その人がジャンプするしかありません。宣べ伝える方はできるだけ、そのギャップが狭くなるように手助けはできます。でも、理性では無理なんです。どうしてもそこに、聖霊が臨んでくれなければなりません。なぜなら聖霊が罪を認めさせ、十字架の救いを啓示してくださるからです。また、十字架のことばを宣べ伝える方にも責任があります。神さまはあえて生身の人間、それも元罪人を用いられます。天使はキリストの贖いを語ることができません。なぜなら、救われた経験がないからです。十字架のことばを語れる人は、本当に十字架体験がある人です。「私の罪のためにイエスさまが十字架で死なれた。十字架の贖いによって私は救われた」。そういう、確信がなければ、十字架のことばを語ることができません。たくさん聖書を勉強し、人に教えることができても、十字架のことばを語るのは別問題です。そこに命がかかっているかどうかは、聞いている人が分かります。いくら知的なことを語っても、十字架の体験がなければ嘘っぽく聞こえます。逆にしゃべるのが下手でも、トツトツとしても、贖いを体験している人は十字架のことばを語ることができます。聖歌402に「丘に立てる荒削りの」という歌があります。最初は「荒削りの」って何のことかと思いました。丘とはゴルゴタの丘です。「荒削りの」というのは、ちゃんと加工していない丸太のことです。一般的に十字架というと、輝いているシルバーのアクセサリーを思い浮かべます。そうではなく、イエスさまは荒削りの十字架にかかれたのです。聖歌は「十字架の悩みはわが罪のためなり」と歌います。悩みとは「神から捨てられた苦しみと痛み」のことです。しかも、それは私の罪のためだったのです。だれか他の人のためではありません。私の罪のためだったのです。ここの接点がある人こそが、十字架のことばに生かされている人なのです。十字架のことばに生かされている人は、十字架のことばを宣べ伝えずにはおられません。なぜなら、自分がそれで救われたからです。Ⅰコリント1:18「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」


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2011年1月30日 (日)

真理(教え)の管理       Ⅰコリント13:9-13

 私たちは一般的に、真理の反対は偽りであると言います。あるいは善の反対は悪であると言うでしょう。真理と偽り、善と悪がまるで両極にあるように考えます。しかし、そうではありません。真理とか善は真中にあるのです。そして、それらの両端に偽りとか悪があるのです。たとえば、悪霊について考えてみましょう。ある人は「悪霊などいない」と言います。また、ある人は「何でも悪霊のせいにします」。「車をぶつけたのは悪霊のせいだ」とか「風邪をひいたのも悪霊のせいだ」と言います。もちろん、そういう時もあるでしょう。でも、本人の不注意だったかもしれません。聖書は悪霊の存在をちゃんと明記しています。真理というものは、ちょうど真中くらいにあるのです。キリスト教会においても、神さまの真理に対して極端があります。自転車で狭い道を走るときのことを想像しましょう。みなさんは、農道を走ったことがあるでしょうか?左の溝にもはまってはいけません。また、右の溝にもはまっていけません。道の真中を走るべきです。真理や善というものは、真中にあるのです。クリスチャンの生活とはバランスをとりながらやっていく、スリルある過程であるということができます。

1.哲学と神秘主義 

初代教会の頃の極端は哲学でした。コロサイ28「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。」当時の哲学といえば、ストア学派の禁欲主義でした。パウロはコロサイ2章の後半で言っています。「すがるな。味わうな。さわるなというさだめに縛られているのですか?肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言っています。また、それとは反対のエピクロスの影響を受けた快楽主義がありました。彼らは「肉体はどうせ悪なのだから、悪をしても魂には何の影響もない」と考えました。ギリシャ哲学は終ったように思えましたが、中世のトマス・アクイナスは、アリストテレスの形而上学で神学を構築しました。また、17世紀、啓蒙主義においてもう一度、復活し、キリスト教神学を土台から揺るがすほどの脅威になりました。神の啓示よりも、人間の理性が万物の尺度になったのです。キリスト教会の多くが、批評学を取り入れて、みことばの権威を失わせました。もちろん、哲学的に物ごとを考えたり、論理的に証明するという作業は大事です。しかし、神さまの啓示を否定する神学は「砂の上に建てられた家」であります。人間は被造物であり、無限であられる神さまご自身と神さまのみわざを推し量ることなど不可能です。詩篇の記者は、このように言っています。詩篇84,5「人間とは何ものでしょう?…あなたは人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶせられました」。人間は確かに尊い存在です。なぜなら、神さまがご自身のかたちに似せて造られたからです。でも、所詮、人間ですから、「しばらくの間、現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」(ヤコブ414)。

哲学と両極をなすものが神秘主義です。初代教会の頃はグノーシスが強敵でした。グノーシスとは「隠れた知恵」という意味です。彼はいろんな儀式を通して神秘的な体験を求めました。肉体を取られたキリストを否定したために、救いの概念まで異なりました。彼らにとっては、霊的な存在と合一することが救いなのです。近代においては、宗教的な体験を強調したシュライエル・マッハーがその部類に入るかもしれません。現代においては、一部のペンテコステ教会、神の幕屋、イエスの御霊、小羊の群れ、韓国のベレヤが問題視されています。彼らを異端であると言う人もいますが、私は神秘主義という極端の溝にはまっていると思います。奇跡とか聖霊体験を否定はしません。聖書にもそういうものがたくさん記されています。しかし、イエス様のところに「しるしを見せてください。そうしたら信じます」と言う人たちがたくさん来ました。イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(マタイ12:39)と答えられました。神のみことばを信じることが何よりも第一です。そのときは、何の体験もないかもしれません。それでも良いのです。しかし、神さまは、神のみことばに対してしるしを伴わせてくださいます。奇跡とか聖霊体験は伴うものですから、二番目だということです。いわばグリコのおまけです。昔はおまけがほしくてキャラメルを買いました。どうぞ、神のみことばよりも、奇跡とか聖霊体験を第一に求めないでください。極端の溝には悪魔、悪霊が待ち構えているからです。バランスが必要です。これまでのキリスト教は知的一辺倒でした。知性にだけ訴えてきました。みことばは適用して、身につきます。また信仰は体験してみて、より成長していきます。聖霊や霊的賜物は体験してみなければ分かりません。だから、知識と体験のバランスが必要なのです。

2.物質とアニミズム 

 物質は自然とも言い換えることができます。ヨーロッパは合理主義の影響を受けました。目で見えるもの、計ることのできるものがリアル(現実)だと考えました。産業革命以来、ものすごく自然科学が発達しました。その反動として、「聖書の奇跡や霊的な存在は迷信である」と排除しました。なんと、キリスト教会までも霊的な世界を排除してしまいました。「悪魔とは悪を具現化した神話であって、実際は存在しないんだ。天使もかつてはいたけど今はいないんだ」と言います。彼らは三位一体は唱えますが、聖霊を人格的なお方として認めていません。だから、聖霊のことはほとんど口に出しません。もちろん、聖霊の賜物や、癒しや奇跡も信じません。そういう教会もあるのです。聖書を誤りなきことばであると信じている福音派の教会にもあります。なぜでしょう?それは西欧の衣を着た、キリスト教だからです。西欧の教会は、合理主義を取り入れて、聖書から霊的なものをすべて排除しました。そういう神学教育を受けた宣教師たちがやって来て、日本の各地に伝道して教会を建てました。日本人ほど、真面目で、忠義な人たちはいません。100年間も、同じ教義、同じ考えを踏襲しているのです。日本には数百のミッション・スクールがあります。しかし、そのほとんどがキリスト教という宗教教育になっています。そのためキリストと出会うこともなく、新生することもありません。宗教と実際の生活とは別なのです。ある学校の先生がクリスチャンになりました。教会では創造主なる神を信じています。しかし、彼は学校では進化論を教えています。教会では「神さまが人間を造った」と言い、学校では「人間は猿から進化した」と言います。「どうしていい加減なことを言うのですか?」と聞くと、「いやー、食べるためには仕方がない」と答えます。聖書が書かれたのはヨーロッパではなく、アジアです。だから、悪魔、悪霊、天使、聖霊の働き、癒し、奇跡、預言、夢、まぼろしが当然あるのです。

 物質(自然)と対極をなすのがアニミズムです。精霊崇拝とも言いますが、霊の世界と物質の世界の境目がありません。山や海、動物、大木、死んだ人間も神さまになります。彼らにとって、霊的なものがリアルであり、物質は影なのです。東洋のシャーマニズム、仏教、ヒンズー教がそのような考えです。物質を否定するので、科学や産業は発展しません。世界でどのような国が富んでいるでしょうか?物質の存在をちゃんと認めるキリスト教の世界が富んでいます。なぜでしょう?科学的に物質をとらえ、加工して、生産しているからです。日本人はどうでしょう?頭は西洋の教育を受けています。ところが心はシャーマニズムです。頭では「神なんかいない、迷信だ」と言います。しかし、大学に入るために天満宮に行ったりお守りを持っています。さっきまで生きていた人間が死んだら礼拝の対象になります。西洋の人たちは、全く考えられないそうです。アニミズムの影響を受けたキリスト教はどうなるでしょうか?そういう人たちは、何でも悪霊のせいにします。昔、キリスト教聖霊刷新に属していた頃があります。神奈川県のある兄弟から時々電話がかかってきました。「私は悪霊からこんな妨げを受けました。娘もこういう攻撃を受けました。先生も気をつけてください。」彼のことばの中には、イエス様がほとんどありません。いつでも、「悪霊がどこにいるか、悪霊が何をしているか」に関心があります。もちろん、悪霊はいます。しかし、私たちは悪霊よりも強いイエス・キリストに焦点を合わせるべきです。

 バランスが大切です。悪魔や悪霊もいます。そして、神さまも聖霊もおられます。私たちは霊的存在ですから、両者の影響を受けます。知らないで悪魔によって欺かれている時もあります。だから、私たちは聖書のみことばを読み、神さまと交わる必要があります。そして、祈って聖霊に満たされるならば、悪魔の策略を見破り、勝利できるのです。聖霊の賜物の中に、霊を見分ける力というのがあります。これは精神的、肉体的な病なのか、それとも悪霊から来たものなのか見分ける必要があります。ある人たちはすべての病気が悪霊によるものだと言います。しかし、そうではありません。新約聖書でははっきりと分けています。寒いところにいれば風邪になります。暴飲暴食をすれば腹痛を起すでしょう。不注意で車をぶつけるときもあります。すべてを悪霊のせいにしないでください。それは、私たちの責任です。神さまはそのために、知恵と導きを与えてくださいます。だから物質と霊的なもののバランスが必要なのです。

3.神学と心理学

 イエス様の時代の神学者というのは、律法学者やパリサイ人でした。彼らは律法を厳格に守り、「律法を守れない人は罪人である」とさばきました。ケンブリッジやオクスフォード大学の創設の頃、神学は哲学と並んで、とても重要な科目でした。現代においても、神学は教義を学ぶためにとても重要視されています。神学はどちらかと言うと、神さまとの関係、霊的な面を取り扱います。教会は神学の助けを借りてきました。しかし、心の問題というものが、おろそかになっていたように思います。人間には感情がありますし、人間関係も忘れてはいけません。これまでの神学ではあまり触れられてきませんでした。

神学と対極にあるのが心理学です。心理学は人間の心を取り扱う学問です。フロイトは心理学の基礎を築いた人です。彼は「理性の下には無意識の世界がある。意思よりも無意識にある本能的な欲求が人を動かしている」と言いました。ユングは内向と外向、思考と感情ということを研究しました。アドラーは人間を取り巻く環境が人間を作ると言いました。そこには、コンプレックスの問題があります。これまでは悪霊のせいにしてきましたが、精神的な障害や病気があるということも分かってきました。近年は、良い人間関係を成立するために、カウンセリングの助けが有効であると分かってきました。しかし、キリスト教会は心理学を否定しました。なぜなら、心理学者のほとんどが無神論者だからです。彼らは神さまの存在はもちろん、人間が霊的な存在であることも認めません。彼らは人間をヒトと言って、生物学的に見ています。最も、聖書と違うのは、罪の問題です。その人が悪いことをしたのは、環境や社会のせいだとします。罪を犯したという罪責感が人を病気にしているのであり、「そういうものはないほうが良いんだ」とまで言います。ですから、彼らは患者が教会に行くことを好みません。なぜなら、もっと罪責感がひどくなるからです。そして、恐れや不安の原因を取り除くために、いろんな薬を投与します。

ある姉妹が不慮の事故で子どもを死なせてしまいました。それから、謎の病気になりました。お父さんは彼女をいろんな病院、心療内科のところへ送りましたが全く癒されませんでした。カウンセラーのところへも送りました。カウンセラーは「あなたは悪くないよ。気にしないで、早く忘れなさい」と言いました。しかし、一人の牧師のところへ行ったらたった30分で癒されました。牧師はこのように言いました。「あなたは不注意でした。だからあなたにも罪があります。しかし、イエス・キリストはあなたの罪のために十字架におかかりになりました。イエス様があなたの罪を負ってくださったので、あなたは赦されたのです。」今まで、だれも「あなたのせいではない、あなたの罪ではない」と言いました。しかし、彼女の中には深い罪責感があったのです。それが、彼女を病気にさせたのです。でも、罪を悔い改めて赦され、病も癒されたのです。現代、キリスト教カウンセリングが徐々にではありますが、市民権を持つようになりました。教会は「ああ、カウンセリングなんて!無神論者がやることだ」と目を細めてきました。人は罪を悔い改めることにより新生します。救われたので、確かに霊的には新しくなりますが、心の問題が解決されていない場合があります。その人の深いところにある考えがゆがんでいる。そのために、怒りや恐れ、不安などの悪い感情が出てくるのです。ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」の「こころ」は、思いのことであります。霊は新しく生まれても、思いや考えが古いままのことがあるのです。霊だけではなく、思いや考えも福音化される必要があります。そのために、キリスト教カウンセリングやインナーヒーリング、さまざまな解放のミニストリーが必要なのです。つまり、神学と心理学とのバランスが必要なのです。

4.貧しさと功利主義

 イエス様の時代、エッセネ派という人たちがいました。彼らは荒野や洞窟で生活していました。中世においては、汚れた世を離れ隠遁生活をした人たちがいました。修道士フランチェスコは清貧ということを強調しました。プロテスタント教会ではピューリタンがその影響を受けています。現代ではホーリネスとかきよめ派の教会がそういう傾向があります。聖書には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Ⅰテモテ610であると書かれています。確かに、お金は偶像になります。でも、貧しいことが清いということにはなりません。「お金がない。お金がほしい。お金をください」と言っている人も、結局、お金が偶像になっています。なぜなら、その人の関心がいつもお金だからです。教会は聖徒たちがささげる献金によってなりたっています。その中から牧師給、伝道費、設備費がまかなわれます。お金がなければ宣教師も送ることができません。なのに、教会が「貧しいことは良いことです」と言うなら、あきらかに矛盾しています。

 貧しさと対極にあるものが功利主義です。アメリカ教会において、功利主義が説かれました。確かに、聖書を読むとアブラハムなどの族長はみな裕福でした。ダビデもソロモンも富んでいました。パウロも「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ419と言っています。私たちはこの地上においても、天国の豊かさを味わうことができます。しかし、功利主義は明らかに行き過ぎています。富が全てであり、成功をお金の大きさではかります。教会も大きい教会が良い教会で、小さい教会は良くない教会です。功利主義がもたらす弊害は何でしょう?祝福が目的になります。「神さまを信じたら豊かになりますよ。神さまを信じたら病気が治りますよ」と言います。しかし、主のために貧しくなる場合もあります。あるときは、病気になってしまうときもあるでしょう。そういう人たちは神さまから呪われているのでしょうか?韓国の教会も以前は貧しかったのですが、70代にリバイバルが起き、国も豊かになりました。韓国のGNPが11位ですが、どうでしょう?豊かになりましたが、離婚率、堕胎率はアメリカに継いでいます。富も必要ですが、富は人を狂わせてしまうことも事実です。箴言308,9貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。ですから、貧しさと富とのバランスが必要なのです。

5.まとめ

 これまで、哲学と神秘主義、物質とアニミズム、神学と心理学、貧しさと功利主義と4つの分野をみてみました。他にも両極端があると思います。真理というのは真中にあると言えます。しかも、真理にはある程度の幅があり、右へ行っても左へ行っても極端という溝にはまります。上へ行っても下に行っても極端になります。極端にはまりこみますと、それは間違った教え、異端のということになります。現代も様々なキリスト教の異端があります。私たちは彼らの教えを受けてはいけません。あの愛の使徒であるヨハネがとても厳しいことを言っています。Ⅱヨハネ1:10「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」私たちは真理という枠の中に、とどまる必要があります。あるときは、左に寄ったり、あるときは右に寄ったりします。また、あるときは上の方に、あるときは下の方に寄ったりするかもしれません。行き過ぎていた場合は修正する必要があります。そういう意味で、クリスチャン生活は、両極端の中から自分のバランスを保ち続けるスリルある過程であると言うことができます。

もうひとつは、独善的にならないということです。自分のところの教義を強調するあまり、「私の教団は正しくて、他は間違っている」という場合があります。そして、お互いがキリストのからだなる教会に属していることを忘れてしまっています。分裂と分派こそが現代のキリスト教会に存在している大きな問題です。Ⅰコリント13:9「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」人は、所詮、盲人が象を手さぐりするように、「神さまがどんなお方か?」と言っているようなものです。ある教団は「神さまの選び」を強調し、ある教団は「人間の自由意志」を強調します。ある教団は「聖霊による聖さ」を強調し、ある教団は「聖霊の力」を強調するでしょう。また、ある教団は「霊的階層」を強調し、ある教団は「民主主義」を強調するかもしれません。しかし、両方、当たっているのです。教団が、片方だけを強調するなら、信仰が偏ってしまいます。私たちは、賜物は違いますが、キリストにあって1つなのです。いろんな器官があって良いのです。でも、おなじキリストにつながり、おなじ御霊をいただいています。私たちの知るところは一部なので、他者からも謙遜に学ぶ必要があるのです。お互いに補い合うことによって、より完全な奉仕、より完全な信仰生活になるのです。

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2010年12月26日 (日)

五職の意義    エペソ4:11-15、Ⅰコリント14:23-31

 聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」と書いてあります。この5つの聖霊の賜物を「五職」とか「職務の賜物」と呼んでいます。五職は教会を整えるために神さまが特別にお与えになったものです。しかし、現代の教会において、真っ向から対立する考えがあります。ある人たちは、「聖書が完成したときから、使徒や預言者はもういない」と言います。しかし、ある人たちは、「終わりの時こそ、これらの五職を回復しなければならない。使徒や預言者は存在している」と主張します。ある人たちは、「私は使徒○○である」とか「私は預言者の○○である」と自分に称号を付けて呼んでいます。ちょっと行き過ぎている感じがします。しかし、教会に牧師と教師しか存在していないと主張するならば、バランスを欠いてしまうでしょう。

1.五職の意義

 では、五職あるいは、職務の賜物が教会に与えられた目的は何なのでしょうか?エペソ4:12、13「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」教会に五職が与えられた目的が2つあります。第一は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」だということです。奉仕の働きをするのはだれなのでしょうか?聖徒たちです。聖徒というのは、教会のクリスチャンです。クリスチャンが、第一線で奉仕の働きをするのです。しかし、奉仕の働きができるためには、整えられる必要があります。「整える」は、英語でequipping と言います。これは装備させるとか、能力を養うという意味があります。第二の目的は、「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。これは、信仰、知識、人格的な面が強調されると思います。技術もさることながら、精神面の強さや協調性も必要です。教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。キリストのからだとはどういう意味でしょうか?私たち一人ひとりが器官だということです。心臓や手足がからだから独立して存在できないように、私たち一人ひとりはからだにつながらなければ、まともな働きができません。

 五職の人たちは、いわば教会の指導者です。聖徒たちがキリストのからだをちゃんと建て上げることができるように指導するように、キリスト様が立てたのです。しかしながら、現代、使徒とか預言者、あるいは伝道者と呼ばれる人たちは、キリストのからだなる教会を無視して、自分のミニストリーをしています。「私は使徒○○です」「私は預言者の○○です」「私は伝道者○○です」。そういう人たちは、どこかでセミナーを開いたり、大会を開いて人々を集めます。彼らはだれを指導するのでしょうか?牧師を指導すれば良いのですが、教会の枠を超えて、一般信徒にミニストリーをします。一般信徒たちは、あっちのセミナー、こっちの大会に行って、新しいことを学びます。霊的賜物もいただくかもしれません。そういう人たちが教会に帰って来ると、「うちの牧師は遅れている。霊的賜物について無知で力がない」と裁きます。そうすると、牧師はむかっと来て、その信徒を追い出すか、あるいは使徒、預言者、伝道者のミニストリーを批判します。そういう問題がかなり前から起きています。五職の人たちが教会に仕えるのではなく、教会を越えて自分のミニストリーをすると変になるのです。エリヤハウスもある意味では、預言者的な働きです。でも、ちゃんと教会の牧師の理解を得ながら、ミニストリーをしています。それが大事です。

 また、もう1つは新約聖書で言われている教会のサイズです。初代教会のサイズはどれくらいだったのでしょうか?さきほどⅠコリント14章をお読みしました。彼らはそこで、預言を話したり、異言を話したり、あるいは、賛美したり、教えたりしています。100人くらいでしょうか?私はもっと小さな集会ではないかと思います。みなが学んだり、みなが預言したり、その預言を吟味するくらいの大きさです。初代教会はたくさんの家の教会がありました。私たちのような教会堂というのはおそらくなかったでしょう。ですから、Ⅰコリント14章の集会は20人、多くて50人くらいではないかと思います。このところで言われているのは、コリントの町全体のクリスチャンの集まりではないと思います。五職の人たちは、町にある教会を行き巡って奉仕をしていたのではないかと思います。何のためでしょうか?聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。そして、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。五職の人たちが各々教会に関わるときに、キリストのからだとして、バランスの取れた働きとバランスの取れた成長ができるのです。

2.五職の働き

 後半は、それぞれの五職の賜物がキリストのからだなる教会でどのような働きをするのかをお話しいと思います。順番は、預言者、伝道者、牧師、教師、使徒にさせていただきます。第一番目は預言者です。旧訳聖書にはたくさんの預言者が登場します。新約聖書にはアガボという預言者がいました。預言者はどのような働きをするのでしょう?教会に神の御心や将来の方向を示してくれます。ある時は、厳しく罪を糾弾するかもしれません。預言を受けた人は、「パァー」と信仰と希望が出てきます。また、預言者は人々に霊的な賜物を注ぐ器としても用いられます。彼が按手すると、御霊に満たされたり、御霊の賜物を直接授けることができます。リバイバルになるとこういう器が用いられます。でも、欠点もあります。罪を示したり、悪霊を追い出したりしますので、信徒がびくびくして近寄ることができません。では、預言者はキリストのからだなる教会に何をさせるのでしょう?それは、互いに預言することを勧めます。使徒パウロは、Ⅰコリント14章でみなが預言することを強調しています。しかし、ここで言われている預言と預言者の預言とは違います。Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」一般にだれでもが話せる預言は3つの働きがあります。第一は徳を高める。人々の人格や信仰を建て上げるということです。第二は勧めです。これは励ましとも言えますが、人々がさらに神さまに近づくことができます。第三は慰めです。神さまは預言を通して、私たちの心を癒してくださいます。この預言は未来を予知したりするものではありません。励まし程度の預言ですから、安心してください。そして、神さまは3つの方法で語ってくださいます。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」第一は耳ではなく、霊の耳に語ってくださいます。耳で聞こえる肉声ではありません。霊に1つか2つのことばが与えられます。完全な文章ではありません。1つか2つの単語です。浮かんだことばを口に出すと、次のことばが出てきます。預言のギリシャ語は「湧き上がる」と意味があります。勇気を出して、そのことばを口に出すと、次のことばが出てきます。さらにことばが出てくると、物語になります。第二は目ですが、肉眼ではなく霊的な目です。霊に絵やビジョンがはっと見えます。第三は心です。これは印象、あるいは直感です。私たちは「ああ、これは自分の感情だ」と思って退けるかもしれません。しかし、聖霊が与える印象があります。預言者は何をするのでしょうか?キリストのからだの中で、互いに預言をして、徳を高めるように指導するのです。

第二は、伝道者です。この人はどんなところへ行っても福音を語ることができます。「滅び行く魂の救い」こそが、彼のキーワードです。大勢の前でも、また個人でも、いつどんな時でも、福音を語って人々を救いに導こうとします。彼のメッセージはとても単純です。でも、彼が語ると人々が霊的に感動し、「信じます」と、前に出てきます。多くのリバイバリストは、伝道者です。DL.ムーディ、チャールズ・フィニー、ビリー・グラハムがそうです。天に召されましたが本田弘慈先生がそうです。伝道者が教会に来ると、「あなたは伝道していますか?あなたも伝道しなさい」とチャレンジします。教会が内向きになっているとき、伝道者を呼ぶと失われた魂に関心を持つようになります。伝道者の人が牧師になるとどうでしょうか?外にばかり出て行って、牧会が留守になります。いつもメッセージが単純なので教会員が養われません。栄養失調がちになります。でも、教会が外向きになって魂を捕らえることのため、とても重要な賜物です。これまで、私たちは伝道というと、伝道者を呼んで特別集会を開いたり、大きなクルセードに人々を誘いました。昔はともかく、現代ではそういう方式はあまり効果的ではありません。多額の予算をかけても、人々が来ません。では、「四つの法則」使って誰か人を捕まえて、個人伝道できるかというとこれも無理です。どうすれば良いのでしょう?今は人間関係を通して、福音を伝えることが効果的だと分かってきました。教会はキリストのからだです。一人ではなく、からだを通して伝道すれば良いのです。からだの中にはいろんな器官(賜物)があります。福音を語れなくても、もてなしたり、仕えたりして関係を持つことができます。他に、口の達者な人が語れば良いのです。でも、その前に人間関係が築かれている必要があります。一人ではなく、からだの伝道、関係中心の伝道が今、注目されています。伝道者の賜物人は、教会の人たちを失われた魂に関心を持たせます。私たちは、いろんな賜物を提供して、失われた人に福音を伝えるべきです。

第三は牧師です。牧師は人々の霊的な状態に気を配ります。そして、みことばを与え、彼らを養います。ちょうど、羊飼いのようです。牧師は同じ場所で、同じ会衆でも、ずっとやっていくことができます。人々を養い、養い、さらに養います。欠点は何でしょうか?信徒が栄養過多、太りすぎて活動が鈍くなるということです。だから、使徒や伝道者が来て、お尻をひっぱたくことが必要です。以前は、人々のお世話をすることが牧師だと思われてきました。神学校でも、みことばによって、人々を慰め、人々に仕えることが牧会だと教えています。しかし、最近は、「真の牧師とは、人々を整え、彼らが奉仕できるようにすることなんだ」と弟子訓練を強調するようになりました。つまり、お世話型の牧師から、訓練型の牧師になるということです。もし、牧師が問題の火を消す消防士だったらどうでしょうか?四六時中、電話から離れられず、しょっちゅう出かけて、火を消すというのはどうでしょうか。もちろん、ある時は、そういうことも必要でしょう。でも、教会員が訓練され成長し、自分たちで問題を処理できたら何と幸いでしょうか?ですから、問題が起こる前に、教えと訓練を与えておく必要があります。

牧師一人では限界があります。神さまは、キリストのからだなる教会において、互いにケアーをするように願っておられます。聖書には「互いに励まし、互いに勧め、互いに慰め合い、互いに助け合い、互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに赦し合いなさい」とたくさんの「互い」が記されています。昔の教会は、牧師にみんながぶらさがっている。まるで、長良川の鵜飼いのようです。一人、いったいどれくらいの鵜を操作できるのでしょうか?ある人は「牧師が50人、牧師夫人が50人と100名まで行ける」と言いました。そして、自分に教会員を依存させることによって、満足する。牧師はお世話することに喜びを感じ、教会員はお世話されることに喜びを感じる。これは、キリストのからだなる教会ではありません。からだの中で、互いにケアーする。互いに重荷を負い合う。エディ・レオ先生は、「ボディ・ライフ(からだの生活)」であると言いました。初代教会は毎日、だれかと合って、毎日、祈り合っていました。教会の兄弟姉妹が、肉親以上に親しかったのです。ボディ・ライフ(からだの生活)これが、理想的な教会です。

第四は、教師です。教師は聖書を学問的に良く学び、それを体系的教えることができます。教師は書斎にこもって本を読むのが大好きです。ギリシャ語やヘブル語、いろんな人の学説、いろんな資料から、みことばを解き明かします。「そんな問題は、重箱の隅をつっつくようなものでしょう」と言われても、全く意に介せず、とことん研究します。こういう人は、神学校の教授に向いています。欠点は何でしょうか?それは、教え過ぎるということです。そのかわり実践や適用がほとんどありません。そのため、その教会の信徒は頭でっかちになります。教師の賜物の先生は、元雪ノ下教会の加藤常昭先生、ホーリネスの小林和夫先生、教団教派の中にたくさんいらっしゃいます。教師の賜物は、勧めの賜物とか牧師や伝道者と連携するならば、豊かに用いられます。一人だけだと、象牙の塔にこもって、ひたすら研究に没頭することになります。教師の賜物は、自分が発見した真理を実践し、適用するように教会に働きかけていけば良いのです。

それでは、キリストのからだなる教会において、教師はどのようなことをさせる必要があるのでしょうか?教師の賜物は、自分も確かに教えるでしょう。しかし、それだけだと教会員は真理を自分のものにすることができません。ある人は、「口で教えられたことを聞くだけだと3%しか残らない」と言いました。しかし、自分で教えるならばどうでしょう?50~100%残るのではないでしょうか?コロサイ3:16「知恵を尽して、互いに教え合いなさい」と書かれています。では、どのように教え合うのでしょうか?セルチャーチで最も多いのが、講師が語った後、小グループで分かち合う時を持ちます。そこで、最も教えられたこと、あるいは理解できなかったところなどを分かち合うのです。そうすると、教えが頭から心の中に入ってきます。また、小グループでテキストを用いて、これはどういう意味なのか、どう適用したら良いのか、互いに教え合うのです。そういう場合、一人の人が一方的に教えるというよりも、みんなの意見や考えを引き出すようにしなければなりません。教える賜物のある人は、自分一人で語る傾向があるので要注意です。私は聖契神学校に入ったとき、ピーターソン校長先生というすばらしい教師に出会いました。これまでの先生は自分が得た知識を学生たちに提供するというものでした。しかし、ピーターソン先生は逆に質問して考えさせます。また、自分で調べて来るように課題を出します。そのとき、「イエス様の教え方は、むしろ、こうだったんじゃないか?」と思いました。西洋の教え方は頭脳だけに偏っています。しかし、東洋の教え方、イエス様もそうですが、考えさせて体験的に教える。自分で考えて、答えを出していくようにする。「私などはまだ、まだだなー」と本当に思います。とにかく、教師の賜物の人は、キリストのからだなる教会で互いに教え合うように勧めます。

最後は使徒です。本来、イエス様のもとにいた12弟子が使徒です。でも、バルナバとか直接イエス様と会っていない人たちも、聖書では使徒と呼ばれています。使徒の賜物は何でしょうか?使徒はまだ伝道されていない新しい地に出かけ、福音を宣べ伝え、教会を設立します。そして、キリスト教の教理を分かり易く教え、教会の基礎を作ります。使徒は、5本の指の親指のような存在です。親指は人指し指、中指、薬指、小指、どれにも接することができます。他の指でそれをするなら、できても2つか3つくらいです。うまく動きませんし、顔までゆがみます。でも、親指は自在です。これはどういう意味かと言うと、使徒は預言者、伝道者、牧師、教師、何でもできるということです。使徒パウロがそうでした。パウロは牧師であり教師であり、伝道者でした。でも、使徒には1つだけ欠点があります。同じところにずっと留まっていることができません。教会ができたら、新しいところに出かけて、また新しい教会を設立したくなります。使徒的な人は、1つの教会だけではなく、日本の教会、世界の教会を視野に入れています。「すべての国民を弟子とする」。これが彼のキーワードです。

 では、キリストのからだなる教会において、使徒の賜物はどういう働きをするのでしょうか?そうです。使徒的な人が来ると、人々の視野が広くなります。私たちはいつも、自分の教会、自分の群のことしか考えません。使徒的な人は、「今、日本の教会はどうなのか?世界の教会はどうなのか?」ということを教えてくれます。そして、教会が持つべきビジョンとか、いろんな戦略を与えてくれます。教会はどうしても、保守的になり、停滞してしまいます。しかし、使徒的な人が教会に来ると、カンフル剤が打たれたように、「おおー!」と奮い立ちます。日本では奥山実先生、草加の天野先生、それから天に召されましたけど石原先生がそうではないかと思います。使徒的な牧師は、牧師を指導する牧師でもあります。だから、そういう人は、教会を行きめぐり、教会を活性化する使命があります。

 このように神様は教会に五職の賜物を与えられました。それは教会を健全に建て上げるためです。牧師は教会の指導的な立場におりますが、牧師の中にも5種類の人がいます。使徒的な牧師、預言者的な牧師、伝道者的な牧師、いわゆる牧師、教師的な牧師です。さきほど申しましたが、自分の賜物だけを強調したならば、かならず偏りが出てしまいます。もし、自分と違った賜物の先生と会いますと、刺激を受け、視野が広くなります。当教会にも様々な立場の先生をお呼びしますが、そういうチャレンジを受けるためであります。ですから、神様はキリストのからだなる教会が、バランスを取りながら成長できるように、5つの職務の賜物を与えておられるということです。最後に、五職の賜物を矢印で説明するならばどうなるでしょう。ここに1つの教会があるとします。預言者は人々を神さまに向けさせようとします。「神さまに祈り、神さまから知恵と賜物を得なさい」と言うでしょう。ですから、預言者はからだを上に向かわせる人です。伝道者はどうでしょうか?伝道者はキリストを知らないこの世の人たちのところへ、からだを向けさせます。ですから、外向きであります。牧師は教会員を育てつつ、互いにケアーし合うようにさせます。ですから、それは内向きであります。教師は人々を教えて、成長させるように仕向けます。ですから、からだを前向きにさせます。では、使徒はどうでしょうか?使徒的がいないと、大きな絵、ビジョンが見えません。神さまの目的も分かりません。でも、使徒は建築科のように全体を見せてくれます。英語ではwholeです。ケーキを丸ごと、ホール・ケーキと言います。五職の賜物は、私たちを上向き、外向き、内向き、前向き、そして、全体に目を向けるように導いてくれます。このように、五職の賜物がキリストのからだなる教会に関わるとき、バランスよく成長できるのです。

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2010年10月31日 (日)

動く教会     マタイ18:20、Ⅰコリント3:16

「日曜日は教会へ」というキャッチ・フレーズを時々、見たり、聞いたりします。しかし、ここにはいくつかの問題が隠されています。第一は教会とは建物ではないということです。教会とはクリスチャンの集まりです。第二は「日曜日さえ教会に来れば良い。月曜日から土曜日まではどうでも良い」というふうに解釈できます。これはインドネシアのエディ・レオ師がよく話すことです。日曜日は教会で「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」と賛美する。しかし、家に帰ってから妻をビシュ、ビシュと叩く。そして、次の日曜日、教会へ行って、「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」と賛美する。しかし、家に帰って、妻をビシュ、ビシュ。バキ(蹴る)。そして、次の日曜日、教会へ行って、「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」。そこに天使がやって来て、「ぺっ」とつばきをかける。きょうは、教会という私たちの概念をひっくり返すようなメッセージをさせていただきます。

1.教会とは何か?

 私たちは「日曜日は教会に行く」と言います。するとどうなるでしょうか?日曜日の朝は神様を礼拝します。しかし、日曜日の午後、教会から帰るとこの世のものを追い求めます。午前中は神さまを追い求めるかもしれません。しかし、日曜日の午後から月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、この世のものを追い求めます。もし、「日曜日は教会に行く」ということを言うと、サンディ・クリスチャンを生み出してしまいます。しかし、日曜日、教会に行かない場合はどうでしょうか?「え?クリスチャンなのに教会に行かないの?なんてひどいクリスチャン、信仰があるの?」と言われてしまいます。クリスチャンとは日曜日、教会に行く人たちなのでしょうか?そもそもどこが問題なのでしょうか?「私たちは教会に行きます」。これが間違っているのです。この考えが、日曜日だけのクリスチャンを生み出しているのです。私たちは教会に行くことはできません。「え?何を言っているんですか?私たちはこうやって教会に来ているじゃないですか?」と思っているでしょう。でも、みなさんは、教会に行くことはできません。教会とは何でしょうか?教会とは、本来、人々のことを指していることばだからです。教会はギリシャ語でエクレーシアと言いますが、「神様によって召し出された人々」という意味です。ですから、教会は建物でもなければ、場所でも、施設や団体でもありません。教会とは何でしょう?あなたが教会なのです。隣の人に言ってください。「あなたが教会です。」。あなたが教会であったならば、教会に行くということは不可能です。人々が集まるところ、それが教会です。今、亀有教会という建物の中に、教会という人たちが集まっているのです。もし、私たちは水元公園に集まって礼拝をしているなら、そこが教会になります。アリオに集まれば、そこが教会になります。アリオのあの丸いテーブルに座っても大丈夫です。そこが教会になります。

 現代は、「教会」ということばが、聖書的な意味を表していないので、別な呼び方をしている教会がたくさん出ています。大和カルバリーチャペルは「チャペル」と言っています。新松戸クリスチャンセンターは「クリスチャンセンター」と呼んでいます。大阪には「Jハウス」と呼んでいる教会もあります。呼び名はどうでも良いのですが、教会とは建物ではなく、人々であるという考えが重要です。旧訳聖書では神殿に神様がおられました。しかし、イエス様は「私は死んで3日目に神殿を建てる」とおっしゃいました。それはどういう意味でしょう?Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか」と書かれています。つまり、私たちが神の宮、神殿なのです。アメリカに行くと、テンプル・オブ・ガッドという名前の教会があるそうです。「神の神殿」という名の教会であります。あるところでは、礼拝堂を聖堂、サンクチャリーと呼んだりしています。新約ではそういうことはありえません。なぜなら、私たち自身が神の神殿であり、サンクチャリーだからです。旧約の時代は、神様の前に近づくとき、いろいろな手順がありました。動物を携えて行って、身代わりにささげました。動物の血を流すことによって、罪がきよめられたのです。でも、自分が近づくのではなく、祭司や大祭司が間で奉仕をしていました。至聖所におられる神様に近づけるのは年に一回、大祭司がきよい動物の血を携えて近づくことができました。聖所と至聖所に厚い幕があって、ふだんは入ることが絶対、許されなかったのです。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれたとき、至聖所の幕が上から裂けました。それは何を意味するかと言うと、私たちはイエス・キリストの血によって、神様の御前に近づくことができるということです。マルチン・ルターは「私たちは万人祭司であって、だれでも神様の前に近づくことができるんだ」と言いました。私たちが教会なのです。私たちが神殿なのです。そして、私たちが祭司なのです。

 教会は場所ではない。教会は建物ではない。教会は私たち自身であるというなら、どのような信仰生活を送るべきなのでしょうか?それは私たち自身が動く教会だということです。少し前に、「ハウルの動く城」と言う映画がありました。中に火が燃えていて、それが原動力になっていました。私たちの内側に聖霊の火が燃えているなら、動くんじゃないでしょうか?それはともかく、私たち自身が教会であると明確に考えるならどういうことが起こるでしょうか?教会は葛飾区亀有2-27-3という固定したところにはないということです。ここは建物、ここは私たちが集まる場所です。でも、本当の教会はどこにあるんでしょうか?本当の教会は、家庭や職場、学校、地域社会に点在しているということです。しかも、じっとしていないで動いているということです。あるときは満員電車に乗っているかもしれません。また、あるときはオフィスビルにいるかもしれません。また、あるときはショッピングモールにいるかもしれません。するとどういうことになるでしょうか?教会は日曜日ではないということです。教会は24時間であるということです。あなたは教会から離れられないし、教会をやめることもできません。つまり、教会は単なる名詞ではなく、教会は動詞になります。「教会をする」「教会をしている」ということになります。かたつむりをご覧になったことがあるでしょうか?みんなお家を持っています。みんな、お家を背負っています。私たちクリスチャンも教会というお家を背負って生きているのです。教会を捨てることはできません。もし、教会を捨てたらナメクジになって、「人々から気持ち悪い」と言われます。私たちクリスチャンは神殿を背負っている、かたつむりのような存在です。「教会とはかたつむりのようなものである。」これはものすごく画期的な神学、教会論であろうと思います。

2.教会をする

 ベン・ウォン師がコーチングのために2年間、香港から通ってくださいました。先生は何度も「教会は建物ではなく、私たち自身が教会である」と教えてくださいました。第一ポイントの内容の半分はベン・ウォン師が言ったことです。「私たち自身が教会であり、教会をやめることができない。私たちが行くところどこでも、そこが教会になりうる。教会は、家庭や職場、学校、地域社会に点在している。」これは、コペルニクス的な新しい考えではないでしょうか?でも、1つだけベン・ウォン師に文句があります。文句というと強い表現になりますので、訂正すべき点があります。それは教会とは個人ではなく、共同体だということです。では、最低、何人いればそこが教会になるのでしょうか?マタイ18章には「二人もしくは三人」と書いてあります。ですから、私はクリスチャンが二人もしくは三人、集まれば、そこは教会になりうると考えます。でも、これに対して、異論を唱える牧師や神学者はたくさんいます。でも、文句の言えない教会のプロトタイプ、教会の原型は何でしょうか?それはイエス様と12人の弟子たちです。イエス様の周りに、この世から呼び出された12人の弟子たちがいました。イエス様はルカ12:32で「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」とおっしゃいました。小さな群とは、イエス様と12弟子の集団です。ですから、教会の最小単位は二人もしくは三人、多くて12人だということです。今、外国ではG12とかG10というふうに、教会の中を小分けしている教会がいつくかあります。1つのセルが、12人もしくは、10人で構成されているということです。そのような核があれば、1万人、2万人の会衆が集まっても組織として耐えられるということです。

 私たちは職場に一人しかクリスチャンがいない場合があります。でも、なんとかあと二人くらいクリスチャンを発掘したら良いですね。他のクリスチャンを探すか、新しくクリスチャンにするかです。そうしますと、お昼、一緒に食事をしたり、祈り合うことも可能になります。もう、そこが教会になります。私が招かれている区役所セルもそうです。固定メンバーは3人です。そこに求道者1名、クリスチャンが2名加わったりします。彼らは月2回、お昼、食事をしながら聖書を学んでいます。そして、3000名の区役所職員のために祈ります。そこも立派な教会ではないでしょうか?インドネシアでは、学生が喫茶店で集まって集会をします。たまに、そこで悪霊追い出しがなされる時もあるそうです。日本で悪霊追い出しは無理かもしれませんが、集会ならできます。福沢満雄先生は中学を卒業して、ニコンで働いていました。ニコンで働きながら夜学の高校へ通っていました。まもなく、上司の田中さんから、誘われて、聖書研究会に入りました。やがて、福沢青年はクリスチャンになりました。ある時、お昼の集会で、田中さんが「この会社からどうか伝道者が出ますように」と一生懸命にお祈りしました。でも、その当時、聖書研究会に常時、出席していたのは、田中さんと福沢青年の二人だけでした。「うぁー」と驚きました。なぜなら、長男である自分が牧師になったら、家が経済的に立ち行かなくなります。福沢青年は、家族の反対を押し切って、直接献身の道を歩むようになります。でも、先生の信仰の土台は会社の小さな聖書研究会だったのです。やろうと思えば、どこでも、教会はできます。たとえば、教会が特別伝道集会を開いたとします。95%がクリスチャンで、5%が未信者です。100人中、5人のために、特別講師を呼んで、多額の予算で行います。それだったら、未信者がいるところで集会を持ったら良いのではないでしょうか?名古屋の山下先生は、路上でライブをしています。そこで音楽をして礼拝をしていると、他の未信者の若者が集まってきます。教会で伝道集会を開いても、未信者を集めるのが難しい。でも、未信者がいるところで集会を持つなら、なんとすばらしいでしょう。KGC亀有ゴルペルクワイヤーも時々、アリオで賛美します。すごい未信者の数です。普通はチラシを取らないのですが、あのようなところだと、みんなもらいます。教会という建物から外へ出て、教会を行う。そうしたら大勢の未信者と会えます。すばらしい発想の転換ではないでしょうか?

私たちは「教会堂という建物があるところが教会である」という固定観念があります。そうすると、どうしても人を集めることしか考えなくなります。いろんなプログラムをして、何とか人々を集めようとします。そういう教会もあります。あっても良いと思います。でも、動く教会、こちらから出向いて行く教会がもっと聖書的ではないでしょうか?旧訳聖書では、人々が礼拝するためにエルサレム神殿に行きました。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう」と人々が歌いました。「世界の諸民族は、イスラエルにやって来て、神の栄光を仰ぐべきである」と考えられていました。なぜなら、エルサレムの神殿に神様がおられるからです。でも、新約聖書はどうでしょうか?弟子たちが「何とすばらしい建物でしょう!」とエルサレムの神殿を指差して言いました。イエス様は「この神殿を壊してみなさい。私は3日で建てる」とおっしゃいました。紀元70年、ローマによってエルサレムの神殿は破壊されて、今はありません。でも、その前に、イエス様は素晴らしい神殿を建てておられたのです。それはご自分の体である、教会であります。イエス様の体が、神殿であり、また教会なのです。イエス様はマタイ28章で「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました。マルコ16章でも「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。つまり、旧訳聖書は「集まれ!」と言われていますが、新約聖書は「行きなさい」と命じられているのです。でも、どういう訳か、教会堂に集まって、礼拝をささげるので「来なさい」と言われています。西暦313年、コンスタンティヌス帝の後に旧訳聖書に戻されてしまったのです。しかし、本当の教会は世界に出て行く教会です。教会に人々を連れてくるのではなく、人々の所に教会を持っていくのが本当の教会です。

3.動く教会

 新約聖書の教会は人々が来るのを待っている教会ではありません。むしろ、人々のところへ行くのが教会であるとしたら、頭がパニックになるでしょうか?多くの場合は、教会を開拓する、新しい教会を建てるとき何をするでしょうか?「どこに集まるべきか?」と建物を探します。教団がお金をかけて始める場合は、教会という建物をまず建てます。そこに人々を集めようとします。どこの教会か名前を忘れましたが、ある村に立派な教会堂を建てました。しかし、牧師夫妻の他に、信徒が一人もいないのです。果たしてそれが教会でしょうか?「そのような教会開拓をしていいのだろうか?」と思います。でも、クリスチャンを長くやっていますと、教会堂という建物から離して物ごとを考えることができません。「では、日曜日の礼拝はどうなるんだ?」と文句がでるでしょう?私たちは日曜日、ここで集まって礼拝をささげる。これが教会のすべてであるかのように思っています。「日曜日、教会で礼拝を守る」これは悪いことではありません。とっても良いことです。でも、日曜日に礼拝を守ることが、クリスチャンのすべてではありません。問題なのは、教会堂という建物ですべてのことを行うことです。当教会も17年前にこのすばらしい会堂が建てられました。礼拝堂、多目的室、そして、冷暖房、音響設備、ピアノやオルガンもあります。設備が整っているということは、とてもすばらしいことです。でも、建物の中ですべてをしてしまう。そして、この建物に人々を集める。そのことに集中してしまうということです。どうでしょう?私たちの職場にあるいはご家庭に、「一生、教会に来ない」という人がいないでしょうか?その人たちをここに連れてくるのは99%不可能です。そういう人は永遠に救われないことになります。みなさんのように来れる人は本当に幸いです。でも、いろんな事情で来れない、来たくない人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?

 私の家内は毎年、岩手の実家に帰ります。この間も、8月に1週間ほど帰りました。日曜日が間にあると、弟さんの車で近くの教会へ行きます。でも、30分はゆうにかかります。下手したら、1時間かかるかもしれません。その場合、お母さんと弟さんが一緒に行けば良い方です。お父さんは絶対に行きません。お父さんはもう、80歳を超えています。いろんなところが悪くなり、病院にも通っています。特に、田舎に住んでいる人は、「教会に行け」と言っても、行かれません。家内と子どもたちが、毎年、通っているので、いつかは信じると思っています。でも、私たちも、勘違いしているところがあるのではないでしょうか?まず、教会に連れてこなければならない。「あの人は、教会に来ないから絶対だめ!」みたいなところはないでしょうか?しかし、あなたがた教会だったら、話は違います。また、あなたの家で教会をはじめたらもっと良いのではないでしょうか?もちろん、私たちのように立派な教会堂があり、このような礼拝をささげられるのはすばらしいことだと思います。礼拝に出ると神様を体験することができます。この時間は、私たちの信仰の基盤であり、信仰のよりどころと言っても良いでしょう。でも、何度も言いますが、これだけだと、新約聖書の教会ではありません。人々のところへ行く教会、動く教会こそが、新約聖書の教会です。

 では、具体的にどうしたら良いのでしょうか?何からはじめたら良いのでしょうか?まず、自分の家庭です。自分の住所が新小岩だったら、新小岩の住民が救われるように。「ここに教会ができるように、つまりここにクリスチャンの群ができるように」と祈るべきです。新小岩には亀有教会まで来れない人がいっぱいいるでしょう。あなたの家が教会になれば良いのです。あなたが○○株式会社に勤務しているとします。その会社の上司や同僚が、「教会に行きなさい」と行っても無理かもしれません。それよりも、あなたが教会の核になり、もう一人の人を導いて、会社に教会を作ったらどうでしょうか?やがて、お昼休みに、集会を持つことが可能になるでしょう。もしかしたら、近くの別の会社にもう一人のクリスチャンがいるかもしれません。その人と、ビジネス街で、教会を作ることも可能です。日本にVIPクラブというのがありますが、会社の人たちが、ビジネス街に集まっています。教会はベースキャンプです。ここには牧師もいるし、いろんな設備もあります。でも、小さなキャンプを方々に作ることも可能です。今、日本において注目されているのが、ハウスチャーチ、あるいはチャーチ・プランティングです。家で教会をはじめる。あるいはいろんなところに教会を作るという働きです。でも、私が見るところ、あまり成果をあげていないように思えます。こう言ったら怒られるかもしれません。なぜでしょう?ベースキャンプである教会がないからです。小さな教会はあります。でも、経済的なサポート、あるいは牧師の霊的なサポートがありません。だから、小さいままです。常磐牧師セルの仲間である大喜多先生が牧会している教会はとても成功しています。どんな方法でしょうか?それは「ストロベリー教会開拓方式」と言うようです。みなさんは、いちごがどのように増えるかご存知でしょうか?親の株から、何本か枝が出ます。枝の先に根があって、地面に着地します。しばらく、親とつながって栄養をいただきます。でも、ある時になると、株別れしたところに根がはえ、葉っぱも生えるので独立が可能になります。そうです。中央に教会があり、そこから小さな教会がいろんなところに派遣されるのです。そして、日曜日に戻って来て、また派遣される。それを繰り返しているうち、やがては、その株別れした教会で礼拝をはじめる。

 私たちは教会を動かない建物として考えるのではなく、動く教会として考えるべきです。会社でも、学校でも、保育園でも可能です。もちろん家庭でも可能です。公園でも、喫茶店でも、マックでも可能です。なぜなら、二人三人集まるなら、そこが教会だからです。どうぞ、人々が来るのを待つ教会ではなく、人々のところへこちらから行く教会になりたいと思います。

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2010年9月 5日 (日)

男と女の違い  箴言27:17、Ⅰコリント13:4-7

 何故、この世には男性と女性がいるのでしょうか?創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書いてあります。「神のかたちとは何か」ということが、神学的に色々と議論されてきました。バルトという神学者は「男と女の愛し合う関係こそが、神のかたちなのだ」と言いました。神さまは父、子、聖霊と3つのペルソナ(位格)を持っていらっしゃるのに、1つのように愛し合っておられます。これが三位一体であります。そのような愛のかたちに、神さまは男と女を造られたのであります。男と女が結び合うのが結婚であります。結婚して家庭を作るのでありますが、1つになるのがとても困難です。なぜなら、お互いに違うからです。同じものが1つになるよりも、違ったものが1つになることの方が、がっちり組み合います。頭では分かるのですが、実際に二人がひとつ屋根に住むようになるとバトルが繰り広げられます。解決の道とは何でしょう?それはお互いの違いを認め、歩み寄ることのできるところは歩み寄るということです。

1.男と女の違い

まず、男性と女性の違いを知ることが重要です。代表的な違いを5つ上げたいと思います。第一は、男性は全体的で女性は部分的であるということです。たとえば家を建てるときはどうでしょうか?モデル・ハウスになどに行くと良くわかります。男性は構造とか間取りに興味があります。壁や土台の耐震性、防火性なども考えるでしょう。一方、女性は台所やキッチン、カーテンや壁の色、インテリアに興味があります。女性の場合は、あの人が何を着ていたか衣服の色まで覚えています。男性は細かいことはさっぱり覚えていないのです。

第二は、男性は計算的で、女性は直感的です。男性は左脳で論理的に考える傾向があります。悪く言うと理屈っぽい。あまり、感情に左右されません。一方、女性は、右脳で直感的に捉える傾向があります。ピピッピと一瞬にしてわかるのです。キリスト教は頭では分かりません。だから、クリスチャンには女性が多いのもそのためかもしれません。でも、一旦、男性が信じると、神学的な学びにのめりこんでしまいます。

第三は、男性は目的を達成することに興味があり、女性は過程(プロセス)に興味があります。たとえば買い物にしても、男性は望んでいる品物を買うためにそのコーナーに向かいます。品物を買ってしまえばおしまいです。一方、女性はあれを見たりこれを見たりする、ウィンドウ・ショッピングが楽しいのです。「買うのかな?」と思ったら買わない。別に買わないで帰ってきても満足するようです。男性が買い物に付き合えないのが、そういうところにあります。車の運転でもそうです。男性は「ここに行くぞ!」と決めたら、ひたすら目的地に向かって車を走らせます。サービス・エリアで休むと、「ずいぶん後ろの車に抜かれたなー」と思います。一方、女性は周りの景色とか、途中寄る「道の駅」とか、名所に興味があります。

第四に、男性は性によって愛情を表現しますが、女性は会話によって愛を感じるようであります。なぜ、結婚してうまくいくかいかないのでしょうか?男性が愛を感じるNo1.は性、セックスによる喜びです。残念ですが、女性は、性は大体3番目か4番目の優先順位です。女性はそれよりも親しい愛情のこもった会話が第一なのです。だから、聞いてもらいたい。しかし、男は結論を出したり、教えたりしがちです。No!ただ聞けば良いそうです。「くやしいです!」

第五、男性は革命的であり、女性は保守的(安定的)です。男性は現状維持では満足できません。冒険をしたい、新しいことにチャレンジをしたいのです。今、NHKの大河ドラマで坂本竜馬をやっています。坂本竜馬は本当に落ち着きがないですね。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、じっとしていません。一方、女性は保守的で今の生活を維持したい方です。昔、「もしも、私が家を建てたなら」という歌がはやりました。女性は、男性よりも幸福や安定を好みます。もしも、人類が男性だけだったら、この世はオーバーヒートするでしょう。女性が、水をかけて冷やすから良いのです。車のエンジンのまわりには、水が流れています。あれはエンジンを冷やしているのです。もし、そうでなかったなら、エンジンが焼け付いてしまうでしょう。男は世界を動かすと言われます。しかし、世界を動かす男性を動かしているのは女性であると言われます。

これまでのものは一般論でありましたが、結婚して、夫婦の関係になりますともっと複雑になります。人によっていろんな性格や好みがあるからです。人というのは大体、自分が持っていないものに憧れ、全く反対の人を求める傾向があります。たとえば、外交的な男性は、おしとやかな女性を求めます。パラフルで支配的な女性は、おとなしくて従順そうな男性を求めるでしょう。中国では陰と陽という考えがあるようですが、本能的にバランスを取るところがあります。私たちの場合は、私がしゃべる方で、家内はあまりしゃべらない静かな方でした。しかし、結婚すると家内もずいぶんとしゃべるようになりました。私はおちつかない方ですが、家内は結構、落ち着いています。2年くらい前に「カップルズ・コース」というのをやったことがあります。その中に「違いを確認する」という項目がありました。「もし、私たちが全てにおいて同じ意見だったら、結婚はとても退屈でしょう。初め、互いの違いはお互い引き合い、夢中にさせたものです。しかしそれから、ハネムーン段階が終わり、だんだん熱が冷めてくると、魅惑的だったこれらの違いは衝突を引き起こす刺激物になってしまうことがあります。この段階では、違いを取り除く試みが共同生活をする上で必要となります。脱いだ靴下を洗濯機に入れるか、はしの持ち方など、自分と同じことを要求します。要求する、巧妙にごまかす、イライラする、不満を口に出す。これらの全ては必然的に親密な関係を失わせてしまいます。悲しいことにたくさんのカップルがそのとき、自分たちはうまく行かないと結論を出してしまいます。しかし、実際はそうではありません。違いはお互いを補完するものであって、共同の利益を得るために作用します。私たちは違いや多様性について排除を試みるのではなく、貴重なものとして評価することが必要です。」と、そのように書いてありました。アーメンです。

さらに、そのテキストには、私たちには異なる5種類のタイプ・性格がありますと書いてありました。さきほどの男女の違い5つと、生活の違い5つを合わせると立体的になるかもしれません。第一は外交的な人または内向的な人です。外交的な人は人と交わることによってエネルギーを得ることができます。このような人は他人と一緒にいることに、より多くの時間を費やすことを望み、パーティーでは生き生きしています。一方、内向的な人は対照的に静かな状況から、エネルギーを得ることができます。考えやアイディアの内部の世界に自然な焦点を当てます。温かく、親切で、気配りですが、あまり多くの社交的な状況が続くと落ち込んでしまいます。回復するためには自分自身の時間が必要となります。

第二は論理的または直感的か?これは男女の違いでお話しました。第三は仕事志向か関係志向か?仕事志向の人は目標や期限を明確にします。そして、効率や、正義、真実といったもので動きます。一方、関係志向の人たちは、目標よりも人間関係を優先させます。他人の感情や気持ちを深く思いやり、大切にします。

第四は組み立て型か、または柔軟型の人です。組み立て型の人生を好む人は、自分の行動計画を先に作成してから進みます。柔軟型の人は流れに乗るタイプです。自由と自然さを愛する人です。変幻自在、悪く言えば行き当たりばったり。

第五はリーダーまたはサポーターです。リーダーは新しいアイディアを考え出し、苦もなく決定を下し、変化を恐れません。サポーターは自分以外の人が主導権を握ることを好みます。前回、夫は家庭のリーダーとしての機能を持っていると申し上げました。しかし、妻の方がリーダーの賜物がある場合があります。「それはダメだ」と言ってはいけません。賜物であり、性格なのですから、夫がそれをうまくささえるべきです。キリスト教会で有名なカップルは、三浦綾子さんと夫の光世さんです。また、米子さんと夫の田原先生かもしれません。

神さまは違う者同士をあえて巡り合わせて、ご自身のかたちに似るようにと導かれているのかもしれません。箴言2717「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」とあります。一番自分を研いでくれるのは、妻であり、夫であるかもしれません。だけど、刃と刃が「バチバチ」と、ぶつかるとき、火花も散るでしょう。マルチン・ルターは、自己中心的な考え方をより薄め、イエス・キリストのようになる方法は2つあると言いました。「第一の方法は修道院に入ることである。そして、第二は結婚へと船出することである」と言いました。Ⅰコリント12章には「愛は寛容である」と書かれています。寛容さを表現する英語はたくさんあります。しかし、ある人がそこの箇所を「愛は理解することである」と言い換えました。理解するは英語で、understandであります。分解すると、下に立つであります。上から見下ろすと分かりませんが、相手の下に立つと「なるほどなー、さもありなん」ということが良くあります。その人の生まれとか生い立ちを、ちょっと理解すると「ああ、そうならざるを得ないのかな?」と同情心がわいてきます。多くの場合、理解するのではなく、相手を「こっちに来なさい」と、自分の方にひっぱろうとします。すると、相手も負けじとばかり、「あなたこそ、こっちに来なさいよ」と主張します。まるでパワーゲームであります。では、「相手の言いなりになるのか?」、そうではありません。相手を変えようとするのではなく、できるだけ相手を理解しようと努力するのです。そうすると、小さなことはあまりどうでもよくなります。むしろ、相手のこだわりが可愛らしく思えてくるのです。そうすると、相手は「ああ、つまらないことに意地を張っていたなー」と自ら変わってくれるのです。ですから、「愛は理解する」というのが、すばらしい解決法ではないかと思います。

2.親密になるために

ポール・トルニエというスイスの精神医学者は「意見の不一致があることは全く普通で、実際それはとても良いことである。結婚がうまくいっている人は、その問題に共同に取り組み、克服している人です」と言いました。後半は、「お互いに違う二人が、どのような問題をクリアーしたら、より親密になるのか」2つのことをお話ししたいと思います。二人が親密になるための、第一の課題は「コミュニケーション」です。まず、一日に発することばは男性と女性とで随分と違います。女性の方は男性の倍以上、話さないと満足できないという統計が出ています。男性は会社で全部、話すべきことばを話してしまいます。だから、家に帰ったら、もうめんどうくさくて話したくないのです。それでも、結婚前は、二人ともよく会話をしていました。しかし、結婚して数年経つと、あまり話さなくなります。妻がしゃべるのを、夫は新聞を読みながら、あるいはテレビを見ながら聞いています。「あなた聞いているの!」「聞いてるよー」と、しかたなく答えます。英語で「聞く」ということばが2つあります。1つはhearです。これは、風の音や猫の鳴き声が「聞こえる」という意味です。もう1つはlistenです。これは、意識して聞く、耳を傾けるという意味の聞き方です。音楽の演奏とかラジオはこちらの方です。でも、夫は、妻がしゃべるのをhear「あ、聞こえるなー」ぐらいで聞き流してしまう。これが問題なのですね。女性の場合は、感情面のコミュニケーション、感情を伝えたいのです。でも、男性はそれを情報として左脳で受け取り、分析して、「これはどうだろう」と、教えてしまうのです。違うんです。女性は自分の感情を分かち合いたい、受け止めてもらいたいんです。私も結婚して、29年たちますけど、今でも「ああじゃない、こうじゃない」と教えたりします。男性諸君、女性の話を聞きましょう。頭で聞くのではなく、心でlisten、聞きましょう。

また、コミュニケーションの障害になるのが、途中で口を挟むということです。相手がまだ、話しているのに、途中から割り込んで話すということを気づかないでやっています。2年くらい前に、カップルズ・コースというのをやったことがあります。「口を挟まないように聞く」というレッスンがありました。夫婦どちらかですが、ハンカチを持っている人が話すようにします。ハンカチを持っていない人は、ひたすら耳を傾けることに集中します。今度は、ハンカチを交代し、ハンカチを持っている人が話します。私はそれまで気がつきませんでしたが、結構、私たちは相手がまだ話しているのに、口を挟んで自分のことを話してしまいます。常磐牧師セルを私たちは月一回持っています。10教会くらいの牧師が集まるのですが、何組かはご夫婦で来られます。順番に近況報告をするのですが、ご夫婦になると、どちらかがやっぱり口を挟みます。他の牧師が話すときはさすがに遠慮しますが、夫婦になると遠慮がないのですね。ハンカチの話をしたら、「なるほど」と言われました。ハンカチ落としというゲームがありますが、それではありません。どうでしょう?レッスンのために、ハンカチを持った人が話し、持っていない人は相手に耳を傾ける。でも、ハンカチを奪い合って、引きちぎらないように。4、5分間くらい、交替交替でやったら良いですね。相手に自分の気持ちを伝えることができた。また、相手も自分の気持ちを受け止めてくれた。これは本当に幸せです。こういうコミュニケーションは、親密さを作り上げるために、非常に重要だと思います。

第二の課題は「不一致の管理」です。「衝突を解決する」と言っても良いでしょう。前半のポイントで、男性と女性との違い、また個人個人の性格や好みからくる違いということを申し上げました。神の愛によって、お互いを理解し、受け入れ合うということももちろん重要です。でも、具体的なスキルというか知恵もあったら良いと思います。丸屋真也先生が結婚カウンセリングの学びで「不一致の管理」ということを教えてくださいました。少し引用させていただきます。夫婦はすべてが一致することはありえません。でも、親密になるためには、共有する部分を作る必要があります。共有部分はある意味では絆ということができます。これを増やしていくのです。でも、すべてが1つでなくて良いのです。夫婦の間で共有できない問題もあります。たとえば、趣味において、夫はサッカーが好きです。妻は、スポーツは一切ダメで美術や芸術が好きです。夫は、美術は興味ありません。これまで美術館に一緒に行きましたが、いやな顔をしていました。妻は一年に一回サッカーに行ったら気絶しました。ここに、関係的妥協が必要です。関係的妥協とは何でしょう?サッカーは夫の趣味なので、サッカーは自分の友人と行くことを許します。また、妻の場合は、美術に関しては同じ趣味の人と行くことを許します。次に「交代で」というのもあります。今回はピカソ、次回は優勝決定戦に行くのです。でも、どうしても無理な場合は、他の人との関わりの中で満たしていくのです。お互いを認めてあげることによって、不一致が適切に解消します。これを関係的妥協と言うようであります。私と家内が結婚して一番ぶつかり合ったのが、医療の問題です。子どもたちが小さい頃、よく風邪をひいてぜん息気味になりました。私はどちらかと言うと神の癒しを信じる方です。「イエスの御名によって祈ります。アーメン」と。しかし、家内は安心できません。「やっぱり、医者に行こう」と言うのですね。「私は祈ったじゃないか。風邪なんか薬を飲まないで、あったかいものを食べて、寝るのが一番なんだ」と主張します。家内は看護師なので、医学的な知識が豊富なので、「手遅れになったらこういうことになる」と色々浮かんでくるのです。しかし、私は楽天的です。それで最初はよく喧嘩をしました。しかし、あるときから「ああ、両方やれば良いじゃないか」と思うようになりました。先ず、病気のために祈ります。さらに、お医者さんに行く必要があるならば行くということです。

カップルズ・コースに書いてありましたが、お互いが衝突するとき、2つのタイプに分けられるということです。ある人はサイのようになります。攻撃されると、自分も攻撃的になるということです。また、ある人はハリネズミのようになります。その人は威嚇されると内にこもってしまうのです。みなさんのカップルは、それぞれ、どちらのタイプでしょうか?サイvsハリネズミでしょうか?それともサイvsサイでしょうか?あるいは、両者ともハリネズミでしょうか?そうなっちゃうと、もう関係が持てなくなります。我慢はよくありません。あとから、「どっかん」と爆発してしまうからです。それよりも、冒険を犯してでも、自分の気持ちを伝える努力をすべきであります。以心伝心なんというのは「幻」です。衝突を解決するために、ある程度、まとまった時間を取る必要があります。夜10時以降は遅すぎます。夕食を食べて、落ち着いた時間が良いでしょう。それから、お互いを攻撃するのではなく、問題点を話し合います。そのときに「あなたはいつもこうなんだから」とレッテルを貼らないということです。「あなたはいつもそうだ」「あなたはいつも○○してくれない」そういう言い方は避けましょう。もう1つは「私メッセージ出語る」ということです。「○○と言われると、私は軽蔑された気持ちになるの」とか「私はそういうふうに思う」というように、です。逆に「あなたが」「おまえが」というと、さばいているように聞こえるからです。そういうふうに、話していくと、必ず解決の糸口が見えてきます。そして、一番の解決はお互いに祈り合うということです。祈るとイエス様が間を取り持ってくださり、また、結び合わせてくださるからです。神さまはあえて、違う者どうしを引き合わせてくださったのです。その後、不一致、あるいは違うところを認め合って、さらに解決していくことによって、本当の親密さが生まれてくるのです。はじめから親密なカップルというものはおそらく存在しないのではないかと思います。親密さは、お互いの努力と神さまの恵みによって生み出されてくるものであると信じます。

伝道者の書4:12「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」このみことばは、ひとり、ふたりとなっていて、最後には「三つ撚りの糸」となっています。おそらく、二人の間に、イエス様が間におられるカップルではないかと思います。生身の人間は「ヤマアラシの論理」のようです。近づくとお互いの刺によって傷つけ合ってしまいます。かといって、離れると寒い。二人の間に、イエス様をお招きしたなら、イエス様が、両者の刺を受け止めてくださる。だから、私たちは教会内における兄弟姉妹との交わりでも、夫婦においてでも、私たちはイエス様を通して、互いに愛し合うことが可能なのです。

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2010年8月29日 (日)

キリストにある結婚  マラキ2:14-16、Ⅰコリント7:7-9

長続きできない多くの結婚生活は、結婚についての正しい理解を持っていないことです。また、神のみことばに合わないこの世の結婚観を持っているからです。人々は、幸福になるために結婚しようとします。そして、幸福でないからと言って離婚します。幸福は、結婚の目的ではありません。神様のみこころに従うとき、ボーナスとして与えられるものです。また、多くの人たちは、結婚式の準備はしますが、結婚生活に関しては準備しません。結婚式はたった1日ですが、結婚生活はその先、一生の問題です。しかし、だれも正しい結婚について教えてくれません。みんなぶっつけ本番で結婚してしまうので、失敗するのです。きょう来られていらっしゃる皆さん全員が、結婚しているわけではありません。これからの人は準備のため、「もう卒業した」と、思っている方は、次の世代に伝えるために、共に学びたいと思います。

1.結婚とは神からの召命です。

 ソクラテスの弟子が悩んで質問しました。「先生、私は結婚したら良いでしょうか?」ソクラテスが答えました。「もし、結婚したら、『ああ、結婚しなければ良かった』と後悔するだろう。また、もし、結婚しなかったなら、『ああ、結婚すればよかった』と後悔するだろう。結婚して後悔するか、結婚しないで後悔するか、どちらも同じじゃよ」と答えたそうです。使徒パウロがⅠコリント7章でこのように教えています。Ⅰコリント7:7「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」使徒パウロは一生涯独身でした。パウロは「私のように独身であれば、神様に最大限に仕えることがきるので、それが理想的である。だが、それぞれ神様から与えられた召命と賜物がある。私のように独身の賜物が与えられているなら、それで良し。もしも、結婚するように召されているなら、それでも良し。」と教えました。この世の中では、結婚して所帯を持たなければ一人前に扱われないようなところがあります。結婚していなければ、成熟していないのでしょうか?聖書ではそうは言っていません。成熟度は、結婚しているか、結婚していないかには関係ありません。独身であっても神さまの前では、成熟した男性であり、また女性なのです。

パウロが言っているように、結婚は神さまからの召命です。パウロはさらにこのように教えています。Ⅰコリント78-9「次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」そうです。情が燃えてきて自制することができない。「ああー、結婚したい!」と思っている人は、おそらく、独身で召されているのではなく、結婚するように召されていると信じます。しかし、自分が生まれ育った家庭環境によって、結婚に対する悪いイメージを持っている場合がかなり多いと思います。「結婚はしたいのですが、うちの両親を見ていると不安になる。あんな家庭は築きたくない」「お父さんのようにはなりたくない」「お母さんのようにはなりたくない」。そういう傷があると、実際に結婚してから、問題が起こる可能性が大です。アメリカでは多いのですが、プレマリッジ・カウンセリング、結婚前カウンセリングというものを受けられたら良いと思います。相手の家庭環境や成育史というものが、かなり影響を与えています。結婚するときに、それぞれの背中にバッグを背負っているわけです。しかし、多くの場合は、恋愛感情が高まっていて、そんなものは些細なものに見えます。でも、実際結婚してから、背中のバックを開けると、次から次へといろんな物が出てくるのです。ですから、結婚前に、背中のバックをできるだけオープンにして、解決しておく必要があります。全部は無理でしょうが、決定的なものをお互いが合意しているなら、結婚後、問題が起きても乗り越えられるのではないかと思います。私たちが結婚する前、柿谷先生という結婚カウンセラーが、すぐ近くにおられました。日本では結婚カウンセリングの草分け的存在の方です。立ち話しでしたが、私の家庭と家内の家庭をちょっとお話しました。先生は「ああ、それだったら、カウンセリングをする必要がありますね」とおっしゃいました。しかし、カウンセリングを受ける機会をなくして、私たちはここまでやってきました。「花も嵐も踏み越えてー」であります。ですから、結婚前に、霊的な面、心情的な面など、いくつかの準備をする必要があるということです。

2.結婚とは、神との契約です

アメリカで、ある数のご夫婦にアンケートをしました。「あなたがたは今の結婚に対して満足していますか」という問いに対して、「95%の人たちが満足していない」と答えたそうです。アンケートの対象は、なんと、クリスチャンであったということです。アメリカは、そういう意味で、もはやキリスト教国ではありません。50%近くも離婚しているからです。神様のみこころは何でしょうか?マラキ書2章には、「神様は離婚を憎む」と書いてあります。つまり、離婚は神様のみこころではないということです。さらに、マラキ書は「あなたがたの霊に注意せよ」と言っています。これはどういうことかと言いますと、結婚とは霊と霊の結び付きだということです。結婚して、肉体関係を持ちますと、お互いの霊と霊を交換することになります。それは神様が一致のために与えた恵みなのであります。もし、そのカップルが離婚するとどうなるでしょうか。接着剤でつけた2枚の板を剥がすとどうなるでしょうか?板がきれいにはがれて、もとの2枚の板になると思いますか。そうではありません。一方の板に片方の木切れがくっつき、もう一方の板に片方の木切れがくっついています。離婚したカップルもそうなのです。同じことが、結婚する前に肉体関係を持った人にも起こります。A子さんの霊の一部が、B男さんの霊にくっついています。そして、B男さんの霊の一部が、A子さんの霊にくっついています。複数の異性と肉体関係を持ちますと、たくさんの人の霊が、自分にくっついてしまって混乱状態に陥ります。ですから、そういう罪を犯した人は悔い改めましょう。そして、御霊の剣によって、自分にくっついた霊の一部を切り離して、相手に返します。そして、相手に行ってしまった霊の一部を取り返します。そういう作業をしない限り、あなたはずーっと、別れた人に囚われてしまいます。

本題に戻ります。結婚とは、神が定めたものであり、人間が考え出したものではありません。契約には2種類あります。1つは人間との契約です。英語では、contractと言いますが、この契約は一時的であり、条件付きで、部分的です。人間の契約は、ある一定期間、ある条件を満たした時だけ有効なのであります。一方、神との契約は、covenantと言いますが、これは全生涯に渡るものです。だから、夫婦はいかなるときにも死が二人を分かつ時まで、忠誠を誓い合うのです。さらに、神との契約は、無条件であり、全体的であります。図を見て、分かると思いますが、左側が人との契約です。これは売買契約とか保険などの契約です。人との契約は、一時的です。一方、神様との契約は全生涯にわたるものです。また、人との契約は条件付きです。多くのカップルは「性格が合わない」とか「暴力をふるう」「家にお金を入れない」「性的満足を与えない」と言ってすぐ離婚します。でも、神様との契約は無条件であります。また、人との契約は部分的、パーシャル・マリッジです。「パーシャルデント」、部分入れ歯の洗浄剤で聞いたことがあります。でも、神様との契約は全体的(トータル・マリッジ)です。全体的とは何かということは、第二のポイントで学びたいと思います。

3.結婚とは全体的なものです

マタイ19:5,6「『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。聖書は「神様の前に夫婦が一体となる」という約束を与えておられます。でも、ただ結婚したからと言って、自動的に一体になることはできません。では、どのように夫婦は一体になれるのでしょうか。また、それはどのような分野でなされるのでしょうか?

①1つの霊

 夫婦は霊的に1つになることが何よりも大切です。そのためには、お互いが祈り合うことです。祈り合うと、お互いの霊と霊が交わり、霊的一致が与えられます。韓国に熱心なクリスチャンのカップルがいました。それぞれ早天祈祷会に出席し、一日に、2時間も祈ります。でも、お互い一致なく、いつも争っていました。彼らは、一人で祈りますが、一緒に心を合わせて祈ったことがなかったのです。このことに気付いて、二人でお祈りするようにしました。すると、内側からすばらしい一致が与えられたということです。

②1つの心

 心と心が1つになるために、何をしたら良いでしょうか?それは会話です。正直に何でも話し合うことによって、魂と魂が交わることができるのです。結婚前のカップルは良く話し合います。でも、一旦、結婚したらどうでしょうか。お互いの会話がなくなります。レストランに行って、周りを見渡してみると、結婚しているカップルかそうでないカップルすぐわかります。お互いに目を見つめ合って、べらべら、ぺらぺらしゃべっているカップルは、結婚前です。そして、むっつりしてマガジンや新聞を見ているカップルは、既婚者です。ある調査によりますと、男性は一日、2万語を話すそうですが、女性は一日5万語を話さないと満足しないそうです。夫は会社で、営業とか何かで、その2万語を全部使い果たしてしまいます。お家にいる奥さんは、ほとんど使っていません。夫が帰って来たら、5万語をなんとか消化したいのです。「きょう、会社で何があったの」「どんなことがあったの」と聞いても、夫は「飯」「風呂」「寝る」しか答えません。会話に関しては、男性が弱いんです。だから、夫は、心から妻の声に耳を傾ける必要があります。また、夫は「それは、こうだろう!」と、教えてはいけません。ただ、ひたすら耳を傾け、理解しましょう。そうすると、妻は愛されていると感じるわけです。このことに関しては、私も勉強中です。

③1つの体

 これは、肉体の交わり、セックスです。男性の性的な欲求は、すべての中でNo.1です。しかし、女性の場合は、No.3かNo.5くらいなんです。ここで大きな違いが生じてきます。夫は、「喜んで協力しろ!」と妻に言いたくなるのですが、そうはいきません。日本では、こういう話題はタブーになっています。お悩みの方は、もうすぐ、銀婚式を迎える、私と家内に個人的に聞いてください。

④1つのビジョン

 たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということが大切です。クリスチャン同士でも、考え方や性格が違うことがよくあります。「お前がこっちに来い」、「あなたこそ、こっちに来てよ」とお互いに主張します。でも、相手に合わせることは屈辱的であります。夫婦が共通して持つべき最も大切なビジョンとは何でしょうか。それはお互いがキリストに似た者になるということです。夫と妻が「キリストに似た者になりたい」と願って、神様に近づくのです。こちらに夫、こちらに妻がいます。二人が神様に近づけば、近づくほど、二人の距離が縮まって行きます。

⑤1つの会計

 これは、お金を夫婦で別々にしないということです。財布はそれぞれ、持って良いのです。でも、会計は1つです。ある夫婦は、それぞれ貸し借りをしています。お互いにいくら持っているかは秘密です。イエス様は「宝のあるところにあなたの心もあるからです」とおっしゃいました。お金が別々であるなら、もう既に、心が別々になっているのです。夫婦、どちらが大蔵省になるかは自由ですが、1つの会計にしましょう。

⑥1つの親

 日本では舅、姑の問題が大きいです。「お前の親父はヘンだなー」「いいえ、あなたのお母さんこそヘンよー」などと、お互いの両親を悪く言うことはないでしょうか。そうではありません。結婚したら、義理の父も義理の母もありません。「あなたの父であり、あなたの母」なんです。つまり、自分のお母さんが二人、自分のお父さんが二人になったわけです。

 一致を体験するために6つの知恵を分かち合いました。結婚は部分的ではなく、全体的であることを理解しましょう。これが祝福のカギです。

4.結婚とは責任の拡大です

エペソ5:23-25「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」。エペソ5:33「それはそうとして(無条件に)、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」。

夫にとって一番大切なこととは何でしょうか。それは、かしらとしてリーダーシップを取り、妻を愛することです。聖書は、「夫は妻のかしらである」と言っています。「かしら」だからと言って、何も偉いわけではありません。それは、機能、「働き」の問題です。夫は「かしら」として造られているので、リーダーシップを取るようになっているのです。リーダーシップとは、家庭において、最終的な決断をすることです。では、妻にとって一番大切なことは何でしょうか。それは、かしらである夫を敬って従うことです。「従う」と言っても、「何でもかんでも奴隷のように従え」ということではありません。「主にあって」ですから、神様が禁止していることに対して、従う必要はありません。でも、家庭において夫がリーダーシップを取り、妻がそれに従うというのが、神が与えた秩序です。しかし、戦後、靴下と女性が強くなり、夫に従わない妻が増えてきました。ある妻は子どもの前でも、夫を馬鹿にます。そして、自分で何でも決めて、夫に「このように決めたので、良いわね」と言います。しかし、それは愚かなことです。男性は、かしらとして造られているのです。もし、妻が全部決めたら、夫は「お前が決めたんだから好きにしろ!」と言って、責任を放棄するでしょう。どういうわけか、妻がリーダーシップを取ってしまうと、夫はなめくじのようにヘナヘナと弱くなってしまうのです。賢い妻はどうでしょうか。色んなことを調べ、資料を提供します。95%くらいまでは自分でやるかもしれませんが、あとの5%、おいしいところを夫に残します。「あなたがかしらなんですから、あなたがお決めください」。夫が決断したなら、最後まで、夫が責任を取るのです。賢い妻は「あなたは頼もしいわー」と褒めて、尊敬します。そうするとどうなるでしょう。夫は木に登るかもしれません。でも、夫はない力を振り絞ってでもがんばります。自分を尊敬してくれる妻には、命まであげるでしょう。それがオトコなんです。悲しいサガです。家で馬鹿にされた夫はどこへ行くでしょう。「社長さん」と呼んでくれる、キャバクラに行きます。

夫はかしらだと申し上げましたが、「かしら」には、源と言う意味があります。源が清ければ、下流には清い水が流れます。逆に、源である夫が汚れるなら、妻や子供に悪影響が及ぶでしょう。それは、傘にたとえることができます。夫が妻のかしらであるということは、このように傘が上を向いている状態です。すると、妻や子供たちが雨にぬれなくても良いわけです。しかし、夫が夫の役目を果たさない場合はどうでしょうか。働かなったり、浮気をしたり、暴力を振るったりする場合です。傘に穴が開いた状態になります。雨が下にいる妻や子供たちに落ちてきます。それでは、逆に妻がかしらになったらどうなるのでしょうか。それは、傘をさかさまにした状態になります。さかさまになった傘は、雨を防ぐことは出来ません。子供は一体どこに隠れるのでしょうか。でも、傘を立てて歩くなら、前に進むことができます。それは、夫がかしらとして、リーダーシップを取るということです。では、なぜ、聖書は夫に「妻を愛しなさい」とだけ言って、妻に「愛しなさい」と言っていないのでしょうか。妻は夫を愛さなくても良いのでしょうか。いいえ、妻も夫を愛さなければなりません。ここで、夫が妻を愛するように命じられているのは、夫がかしらであるからです。悪いかしらは横暴になって、妻を苦しめる恐れがあるからです。だから、「かしらにとって忘れてならないのは、妻を愛することだよ」と言っているのです。

数年前から「父親の学校」とか「母親の学校」というものが開かれています。世界的な規模で「メンズセミナー」とか「ウイメンズセミナー」というのもあるようです。そこでは、男性は家庭の祭司であり、預言者であり、王であると教えられます。教会の祈祷会に来るのは大体、女性がほとんどです。しかし、Ⅱテモテ2:8に「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」と書いてあります。男性が祈るとまた違うんです。家のかしらとして、手をあげて祈るときどのようなことが起こるでしょうか?自分に家長としての権威が与えられます。そして、祈った人たちと親密さが与えられます。妻のために祈ると妻と親密になり、子どもたちのために祈ると子どもたちと親密になります。男性は、「怒らないで、祈る!」これがとても重要な鍵です。さらに言うならば、夫は自分の体のように妻を愛して労わることです。妻は夫に従いそして敬うということです。私たちが自分たちの役割を果たすとき、神さまは幸いと祝福を家庭にもたらしてくださるのです。

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2010年4月 4日 (日)

肉体が贖われる    Ⅰコリント15:40-52

 私たちが「救い」というときに、そこにはいろんな意味があります。罪が赦されて義と認められる。天の御国を受け継ぐ神の子とされる。新しく生まれ変わり、永遠の命が与えられる。もちろん、そう意味で「私はキリストを信じて救われた」と言います。しかし、私たちの救いが本当に完成するのは、この肉体が復活したときであります。なぜなら、キリスト教の救いは魂だけではありません。この肉体が復活する、つまり肉体が贖われたときに救いが完成するのです。この地上にいる間は、残念ですが、救いの途上にあります。私たちは救われていても、罪を犯すこともあるし、病気になることもあります。いろんな悩みもあるし、失敗することもあります。なでしょう?救いがまだ完成していないからです。でも、すばらしい保証があります。それは、イエス・キリストが十字架で贖いを成し遂げられた3日目に、よみがえられたからです。イエス・キリストは私たちの最大の敵である死に勝利されました。そして、イエス・キリストを信じる私たちも終わりの日に、よみがえると約束されています。ハレルヤ!きょうは、キリストにある復活が私たちの人生において、どのような意味があるのか共に学びたいと思います。

1.復活のからだ

 使徒パウロは復活のからだというものがどういうものなのか、私たちの周りのものと比較しながら述べています。復活のからだは、いわば天上のからだです。一方、私たちの肉体は、地上のからだです。どちらに栄光があるのかというと、もちろん天上のからだです。種まきのたとえでも説明するとこのようになります。私たちはこの地上に種として蒔かれました。種というのは、卑しくて、弱くて、まるで私たちの血肉のからだのようであります。朝顔やコスモスの種をご覧になったことがあるでしょうか?小さくて、あまり見栄えがしません。でも、種が地面に蒔かれるとどうでしょうか?種は一旦、地面の中で死にます。しかし、全く新しい姿になって地面から出てきます。そして、美しい花を咲かせます。これが復活です。復活のからだは、栄光があり、強くて、御霊に属するからだです。また、アダムに属するからだは、土で作られたはかないからだでした。聖書には「人間は塵で作られたのだから、塵(土)に帰る」と言っています。しかし、最後のアダムであるキリストは、天から出たものであり、神さまのように永遠です。なぜ、私たちはこの肉体ではダメなのでしょうか?それは、この肉体では神の御国を相続できないからです。だって、そうでしょう。この肉体はもって100年です。人間の寿命は最高で120年と言われています。でも、そのときは目もかすみ、歯もなくなり、頭もボケて、日常生活ができない状態でしょう。つまり、この肉体に対して、いくら美容整形しても、サプリメントを飲んだとしても、朽ちてしまうのです。なぜなら、この肉体はこの地上の生活のためにあるからです。

 では、天上のからだとはどういうからだなのでしょうか?パウロは「朽ちない栄光のからだである」と言っています。朽ちないというのは、年老いたり、病気にもならないということです。もちろん、死ぬこともありません。パウロは53,54節に「朽ちないものを着る、不死を着る」と言っています。着るということはどういう意味でしょうか?私たちのこの肉体が朽ちる着物であるということです。そして、やがて天上のからだという朽ちない着物を着るのです。ということはどうでしょう?着物を着る前の私たち自身、私たちの本体とは何でしょうか?Ⅱコリント5章には、「それを着たなら、私たちは裸の状態になることはない」と書いてあります。私たち自身、つまり裸の状態とは、内なる人であります。「外なる人衰えても、内なる人は日々新たにされています」という、内なる人です。内なる人というのは、厳密に言うならば、私たちの霊と魂です。私たちの構造は、一番外側が肉体です。そして、その中に霊と魂を持っています。霊と魂はくっついており、引き離すことが困難です。人間は、生物学的には「ヒト」と言って、他の生物と一緒にされます。確かに、私たちの肉体は他の動物とほとんど変わりません。しかし、理科や科学では説明できない、霊と魂が私たちの中にあるのです。「それは心ですか?」と聞かれると、「はい、心です」とも言えません。心と魂は同じですが、私たちの内側には霊も存在しています。動物には魂、つまり心があります。動物だって悲しんだり、喜んだり、何かを考えたり、意思も持っています。しかし、彼らには霊がないのです。創世記に神はご自身のかたちに似せて人を造られたと書いてあります。神のかたちとは、霊であります。私たちは霊的な生き物なので、神さまと交わり、神さまのイメージを持っているのです。

 ということで、お分かりいただけたでしょうか?私たちの霊と魂はからだを必要としています。なぜなら、霊と魂では考えることはできても、物質に対しては何もできません。からだがあるときはじめて、何かできるわけです。また、霊と魂では裸の状態です。この地上のからだはいつしか朽ちて土に帰るべき存在です。ですから、私たちは天上に住むためには是が非でも、朽ちない復活のからだを持つ必要があるのです。このようなことを分かったなら、もう、お化粧をやめてしまうでしょうか?でも、無駄な抵抗だとわかっていても、やめないでください。若返る方法を見つけて、いろいろなさっても結構だと思います。でも、この世の人たちと私たちとでは、根本的に違います。この世の人たちは、いつかは死ぬことを知りながら、無駄な抵抗をし続けています。しかし、私たちはどうでしょう?いつかは死ぬこの地上のからだだけれども、大事に使います。でも、やがては天上のからだに移り住むので、未練はないということです。パウロは私たちの地上のからだは天幕、テントみたいな存在だと言っています。テントは雨風にさらされると10年もたないでしょう。しかし、天上のからだは建物、ビルディングであると言っています。ヨーローッパの建造物をご覧になったことがあるでしょうか?古い教会堂などは500年以上も経っているのに平気です。それは、比較の問題ですが、天上のからだは恒久的、永遠だということです。私たちはこの地上べったりに住んでいる存在ではなく、天上のからだに引越しする存在だということです。この地上は仮の住まいであり、向こうが永住地だということです。

2.復活の根拠

 第一のポイントで終りますと、何か御伽噺か作り話のように思われてしまいます。ある人は、キリスト教は、非科学的だと言います。しかし、私は非常に科学的であると思います。なぜなら、イエス・キリストは一度死なれて、栄光のからだへと復活したからです。そして、そのことを見たという証人が一人や二人ではありません。Ⅰコリント15:5以降を見ますと、12弟子のほかに、500人以上の兄弟たちに同時に現れたとあります。そして、パウロも復活の主と出会ったと証言しています。私たちはマタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20-21章から、弟子たちの証言を見ることができます。しかし、不思議なことに彼らの証言には一貫性がありません。でたらめとは言いませんが、時間的に矛盾があり、だれがどう出会ったのかつじつまが合わないところがあります。聖書をまともに信じない人たちは、「だから復活はなかった、作り話だ」と言います。しかし、そうではありません。弟子たちはあえて、つじつまを合わせなかったのです。むしろ、自分たちが見たことをそのまま書いたのです。「えー?どうしてですか?それじゃ、説得力に欠けるでしょう」と言いたくなります。でも、それだから信憑性が高いのです。ヒントは、Ⅰコリント15章にあるように、イエス様は彼らに同時に現われたからです。同時に現われると、時間の整合性、アリバイがおかしくなります。イエス様の以前の肉体では、ガリラヤにいるとエルサレムにいることができませんでした。また、エルサレムにいるならば、エマオにもいることはできなかったでしょう。しかし、復活の栄光のからだは、そういうことができたのです。なんと、時間と空間を超えることができたのです。その証拠に、弟子たちが部屋の戸を閉じていても、そこをすり抜けて、彼らの前に現われることができました。また、イエス様はエマオの途上で二人の弟子たちとかなりの時間、歩いていたでしょう。しかし、エルサレムでは「シモンに、み姿を現された」と書いてあります。では、イエス様のお体が何体もあったのか、どうか私たちの小さい頭では理解できません。とにかく分かることは、多くの人たちがよみがえられたイエス様に、いろんなところで出会ったということです。

 しかし、イエス様が復活したから、この世の人たち全部が復活するかというとそうではありません。厳密に言うならば、全部復活します。ある者は永遠の御国に入るため、ある者は永遠の滅びに入るため復活すると書いてあるからです。でも、同じ復活するならば、永遠の御国に入りたいですよね。そこに入るための根拠、保証とは何なのでしょうか?それは、Ⅰコリント15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とあります。飛んで、15:23「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」初穂とは、どういう意味でしょうか?初穂とは、畑にできた最初の作物であり、それを神さまにささげるように定められていました。その後に、本格的な収穫がはじまるわけです。つまり、イエス様が死んだ人の中から最初に復活した、初穂であります。第一号です。その後に、数え切れない人たちが復活しますが、条件は「キリストに属している者」です。つまり、イエス様を信じて、御霊をいただいている人です。御霊とは、聖霊の証印であり、御国を受け継ぐことの保証であります。神さまは、そのことによって、どの人が救いを受けているかいっぺんで分かるのです。夏になると子どもたちを連れて、稲毛浜海浜プールによく出かけたものです。そのプールは海岸にも隣接しています。もし、海岸に行きたければ、腕か手の甲に係り員がスタンプを押してくれます。そのスタンプは色が全くついていません。それで、海岸でちょっと遊んで、プールに戻ります。すると、さきほどの係り員が入り口で、レンズみたいなものをかざします。驚くべきことに、押してもらったスタンプが、黄色く光って見えるのです。あれと同じです。私たちはこの地上で生活していて、どの人がクリスチャンで、どの人がクリスチャンでないか全くわかりません。でも、神さまはどの人が、ご自分のもので、どの人が自分のものでないのか分かるのです。なぜなら、キリストに属している者は、聖霊の証印が押されているからです。ですから、終わりの日、まず、神さまは聖霊の証印が押されている人たちを最初によみがえらせます。もし、再臨のときに生きていたならば、死なないで、一挙に栄光のからだに変えられ、天に引き上げられます。繰り返し申し上げますが、最も重要なことは、イエス・キリストを信じて、神のものとなっているか、そうでないかであります。

 しかし、私たちクリスチャンが復活するか、しないかは科学では証明できません。科学というのは、繰り返し、実験してみて、「あーそうだ」と証明できることであります。イエス・キリストの復活は一度きりです。そして、私たちの身に起こるであろう復活は将来のことです。このことは、科学ではなく、信仰の世界です。私は聖書から信仰のことについてお話しているのです。どうでしょうか?科学で証明されていないから、決して信じないでしょうか?でも、イエス・キリストが初穂として復活したのは、証明されている事実です。本当です。だから、キリスト教会は日曜日の午前中に、主日礼拝をささげます。当時、ユダヤ教の安息日は土曜日でした。これはイスラエルにとって永遠のさだめでした。日曜日は週のはじめであり、仕事をする日でした。しかし、初代教会は土曜日の安息日ではなく、あえて日曜日に礼拝をささげたのです。なぜでしょうか?主の復活を記念して、これを後代の人たちに知らせるためです。別に月曜日や木曜日、礼拝しても構わないのです。でも、あえて日曜日にしたのは、イエス・キリストが復活したからです。ハレルヤ!ですから、私たちが日曜日の朝、このように集まって、神さまに礼拝をささげるということはすばらしい証なのです。こんど人々から「どうして、あなたがたは日曜日の朝、教会に行くのですか?」と聞かれたらこう答えてください。「2000年前、イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられたからです。私たちはこのことを感謝するために教会に礼拝をささげるために行くのです」と。仏教という死の世界を信じている人たちには、大いなる証ではないかと思います。

3.復活の人生

私たちがこの肉体が終わりの日に復活するということを信じているならば、この地上の生き方が変わるのではないでしょうか?その前に、パウロの頃の人たちは肉体の復活についてどう考えていたのでしょうか?パウロが伝えた世界はギリシャ哲学を基盤とした世界です。ギリシャ的な考えでは、魂は善であるが、肉体は悪と見なされていました。つまり、魂は肉体という牢獄に閉じ込められているということです。そして、「霊魂だけが不滅、永遠なんだ」と信じられていました。彼らに対して、パウロが肉体の復活ということを伝えると、彼らの多くはあざ笑いました。「どうして、悪である肉体を取り戻す必要があるのか?そんなの無意味だ」と考えたからです。しかし、肉体が悪であり、霊魂が善であると考える彼らの生き方はどうなるでしょうか?両極端に分かれます。1つは快楽主義、もう1つは禁欲主義です。快楽主義とは、「この肉体をどのように用いても霊魂とは関係ない。だから、肉体を快楽のために好き勝手に用いても良い」というふうになります。使徒パウロがⅠコリント15:32「もし、死者の復活がないなら、あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか、ということになるのです」とあります。どうでしょうか?日本人でも、そういう人がいるのではないでしょうか?「生きているうちが花だ」だから、面白おかしく生きればそれで良いんだというふうになります。しかし、ある人たちは、死というものを直視しないで、ただひたすら生きる、人生を全うするという考えです。そういう人たちは、未解決な死をいうものをいつもぶらさげて生きているのではないでしょうか?

もう1つは禁欲主義です。これは、肉体の中にある欲望を絶つことによって、霊魂がきよめられるという考えです。使徒パウロはこれに対して何と言っているでしょうか?コロサイ2:21-23「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」こういう禁欲主義は、キリスト教の中にもありますし、仏教や他の宗教にもあります。肉体を打ち叩いて修行したり、断食したり、結婚もしない、肉も食べない。しかし、そういうものは、肉体の欲望に対しては全く効き目がないということです。ある人が、祈っているクリスチャンと禅をしている人の脳波を調べたそうです。私たちは神さまと交わっているとき、祈りでも瞑想でもそうですが、脳派は安定しているそうです。しかし、禅をしている人は脳波が突然、乱れるときがあるそうです。なぜでしょう?それは、自分の意思で自分を無にしようと努力しているからです。私たちの場合は、自分の欲望や悪い思いを抑圧するのではなく、神さまの前にそのまま差し出していきます。そうしますと、内におられる聖霊がそれらを支配して、魂を安定させてくださるのです。自分の意思ではなく、聖霊様がうまくやってくださるのです。また、私たちの肉体は悪ではありません。なぜなら、神さまが物質や肉体をもお造りになり、「すべて良し」とされたからです。ただし、人間が罪を犯してから、それらを正しく用いることができなくなりました。たとえば、結婚における性的な交わりは、夫婦が喜び楽しむように神さまが与えてくださったものです。しかし、神さまが定めた枠を飛び越えるならば、不品行や姦淫になるのです。また、さまざま物質は、神さまがくださった一般恩寵の一部であります。物質がすべて悪であるとして、「できるだけ節約し、貧しく生きるんだ」としたら回りの人はどう思うでしょう?「熱心だけど、あのようにはなりたくない」と思うでしょう。私たちはこの物質の限界を知りつつ、生活を楽しむことができます。

しかし、復活を信じている私たちと、この世の人たちと決定的な違いがあります。それはこの世での生き方が全く違ってくるということです。この世の人たちは、「死ねば終わりだ」と考えているので、快楽主義か禁欲主義になります。たとえそのようにならなくても、空虚な思いを拭い去ることはできません。「死ねば終わりだ」と考えている人が、ニヒリズム(虚無主義)にならない方がおかしいのではないでしょうか?では、復活を信じてる人たちの、この世のでの生き方はどうでしょうか?私たちはこの世の人生は、来世、天の御国の準備であると信じています。この世で報いられなかったことは、やがて天の御国では回復されると信じています。ある人は生まれつき目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、いろんなハンディキャップを負って生きています。またある人は、ものすごい不条理、不当な扱いを受けで、とても不幸な生き方をしているかもしれません。もしもこの地上の人生がすべてであったなら、どうしてもガテンがいきません。不公平きわまりないと思うでしょう。生まれつき金持ちの家で生まれる人もあれば、貧しくて教育も受けられない人たちだっています。セレブの人もおれば、ひどい境遇の中で差別を受けていきる人だっているでしょう?もし、この地上の人生がすべてであったら、馬鹿馬鹿しくて真面目に生きることなんかできないでしょう。しかし、イエス・キリストによる復活が事実としてあるならばどうでしょうか?天における報いを信じて、ひたすら与えられた人生を全うすることができるのではないでしょうか?1タラントしか与えられていない人は、5タラント行なう必要はありません。神から与えられた1タラントを忠実に用いれば良いのです。神さまが与えてくれた人生、いろいろあるでしょう。でも、キリストによる十字架の贖いと復活は、そこに生きる価値と意義をもたらしてくれます。

使徒パウロが復活を信じる私たちに熱いメッセージを送っています。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」アーメン。キリストによる復活があるので、私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。なぜなら、私たちの労苦が主にあってむだでないことを知っているからです。キリストによる復活の人生は、労苦が無駄にならない人生です。なぜなら、天において神さまがすべてのものを報いてくださるからです。

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2010年3月14日 (日)

あなたはだれか?    イザヤ43:1-4、Ⅰコリント1:1-3

 信仰のDNAシリーズの3つめは、「癒しと解放」です。このテーマを4回に分けてお話ししたいと思います。本日は、その基礎にあたるものです。みなさんは「あなたはだれですか?」と聞かれたら何と答えるでしょうか?「私はだれだれです」と名前を答えるかもしれません。あるいは「私は何をしています」と、職業を答えるでしょうか?他に、性別、年齢、家族構成、出身地、学歴、特技、趣味、持っている資格等を答えるかもしれません。しかし、それはあなた自身を表しているでしょうか?名前を呼ばれても、自分の名前を嫌いな人もいるかもしれません。職業を聞かれても、無職だったらどうでしょうか?年齢や学歴、資格を答えるとなると、うっとうしくなるかもしれません。では、私たちの人生を支え、しかも永遠に続く、自己証明とは何なのでしょうか?

1.あなたはだれか?

 アイディンテティということばは、既に日本語になっているのではないでしょうか?IDカードといえば、身分証明書であります。でも、アイディンテティを1つの日本語にするのはとても困難です。本来、Identityは「同一であること、自己同一性」という意味です。でも、これだとよくわかりません。今回は「自己存在、自己認識、自分の身分」と文脈の中で、置き換えながらお話したいと思います。創世記1章と2章を見るとまず私たちは神様によって造られた存在であることが分かります。天と地を創造された神様がはじめからおられて、その神様がご自分のかたちに似せて私たちを造られたのです。おそらく学校では、「人間はサルから進化したんだ」と教えるでしょう。そして「能力がある人が、価値があるんだ」と頭の中に入れられるでしょう。その結果、「私は何ができるのか?」「私は何を持っているのか?」。そういうことで、自分の価値を推し量ってしまうのです。学校教育はすでにスタート地点から間違っています。そうではありません。人間は神のかたちに造られたのであり、存在そのものに価値があるのです。つまり、「何かできるか」という前に、「自分は何者なのか」ということを知ることがもっと重要なのです。なぜなら、「自分は何者なのか」が「何をするか」を生み出すからです。人は自分が考えているように生きます。これをセルフイメージとも言います。そうです。みなさんはだれでも、自分が考えている自分にあったように、生きているんです。多くの場合は、無意識的で行なわれていますが、みな自分に対して抱いているイメージどおり、生きています。英語の聖書、箴言23:7を直訳するとこうなります。「彼は、自分が心の中で考えているような人です」。他の英語の聖書は「彼は、自分が考えていることを全部合計した人です」。まさしく、私たちは自分が考えている自分にふさわしく生きています。

でも、残念ですが、アダムとエバが神に逆らって堕落してから、自分がだれなのか分からなくなりました。神様から創造された時点においては、神様と共に歩み、神様から生きる目的と価値をいただいていました。しかし、神様から離れて、自分で独立してからどうなったでしょう?神様がアダムに問いかけました。「あなたはどこにいるのか?」そのとき、アダムは「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。つまり、恐れと恥と罪悪感が入ってきたのです。アダムの子孫であるカインはどうしたでしょうか?町を建て、そこに自分の息子の名前をつけました。彼は自分の名を残したかったのです。その後、カインの子孫はどうなったでしょう?ヤバルは牧畜の先祖、ユバルは芸術の先祖、トバル・カインは工業の先祖になりました。カインの子孫は身を立て、名を上げる業績志向の人になったのです。卒業式で歌われる『仰げば尊し』の「身を立て名をあげ」と似ています。どうでしょうか?今でも、「あなたはだれですか?」と聞かれたら、「何ができるか」ということにポイントを当てるのではないでしょうか?多くの人たちは、自分の存在を高めるために、良い学校に行き、少しでも高い学歴を取ろうとします。そして、色んな資格を取ります。女性ですと容姿を磨き、料理やお稽古事をするかもしれません。男性ならば尊ばれる職業につき、名を上げることが重要です。しかし、それで自分の中にある、恐れや恥、罪責感がなくなったのでしょうか?人は一旦そういうものを得ると、「いつ失ってしまうのか」と恐れます。リストラされたら職業も失います。病気になって死んだらどうなるのでしょう?心の奥底に「自分は一体何者なのだろうか?」という細い声があるのではないでしょうか?

2.神の子というアイディンテティ

クリスチャンとはどういう自己存在、どういう身分でしょう?ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。これは、私たちの血筋や、努力に関係なく、キリストを信じることによって神の子どもとされるということです。もう少し分かり易く言いますと、「あなたがどこの国の人で、どの家に生まれ、どんな育ち方をしようとも関係ない。あなたがイエス様を信じたなら、神さまの息子、娘になるということです」。これは、私たちの努力や行ないではないということです。しかし、どうでしょうか?私たちはこれまで、「人から受け入れられるためには、何かをしなければならない、何かができなければならない」と教えられてきました。クリスチャンになっても、「自分は神様から愛されるために、罪を犯さないで、もっと正しいことを行なわなければならない」と考えている人がいます。そうではありません。父なる神様はキリストがなされた贖いによって、すでに満足しておられます。私たちはもう何もしなくても、神様から愛され、受け入れられ、価値あるものとみなされているのです。私たちはもうすでに、神様の子どもなのです。みなさん、私たちがこれから、罪を犯したとしても神の子という身分は失いません。何を失うのでしょうか?神様との親しい交わりです。では、どうしたら回復できるのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」アーメン。罪を言い表したなら、神との関係が回復します。どうぞ安心してください。これから先、どんなことがあっても、神の子としての身分、永遠の命は失うことがないのです。また、神様が王様であるなら、その子どもたちはどういう身分でしょうか?男性ならば、王子(プリンス)です。女性であるならば王女(プリンセス)です。私たちはキリストと共同相続人として、神様が持っておられる財産を相続できるのです。

『パワーフォーリビング』という本にすばらしい証が載っています。ある町に、一人の少年がいました。お母さんが彼を未婚で産んだので、学校で嫌なあだなを付けられ、からかわれました。彼はとても傷つきました。そのため、彼は休み時間や昼食の時間は独りでどこかへ行っていました。街へ行くと人々が「本当の父親はだれなんだ」と彼をじろじろ見るので、さらに傷つきました。彼が12歳の頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。彼は礼拝にはいつも遅れて入り、早めに出ました。しかし、ある日曜日、早めに抜け出そうと思ったのに、入口でつかまってしまいました。牧師が彼をまっすぐ見つめて言いました。「坊や、君はだれだね?誰の子どもかね?」昔からあの重たい気持ちが再びのしかかって来ました。まるで大きな真っ黒いような重々しさでした。「牧師までもが私を見下しているんだ」と思いました。しかし、牧師は少年を見下ろしながら、少年の顔をじっくり見ていました。そして、まるで少年に見覚えがあったかのように、大きな笑みを見せました。「ちょっと待てよ。君が誰だか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は、神様の子どもだ!」。そう言うと、先生は少年のお尻をポンと叩いて、こう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って、自分のものだと主張しなさい」。その少年が大きくなってどうなったでしょうか?テネシー州の人たちが私生児を州知事として選出したのです。知事の名前はベン・フーバーです。同じように、私たちは神さまの子どもです。ですから、神様から素晴らしい遺産を受け継いでいます。天国に行ってからではなく、今、この地上で「その遺産は私のものです」と主張して、用いることができるのです。ハレルヤ!

クリスチャンとはキリストに属する者という意味です。私たちが「イエスは主です。私はキリストに属しています」と言うならどうでしょう?千々万々の御使いたちが「アーメン」と唱えるでしょう。その代わり、悪魔や悪霊があなたを恐れるでしょう。厳密に言うと、あなたを恐れるのではなく、あなたの背後にあるお方を恐れるのです。私たちはものすごいバックがついているのです。チョー・ヨンギ先生は12月31日を支払日にした、約束手形を振り出したことがあります。締切日の午後3時になっても、お金の工面ができていません。奥さんが「アメリカに逃げたら」と提案しました。時計の針はすでに5時を指しています。チョー先生は銀行に出かけましたが、大晦日のため駐車場は車でごったがえししていました。普通なら支店長と予約もなしで会えるわけがありません。すると聖霊が「堂々と、大会社の社長のようふるまいなさい」と激励しました。支店長室の秘書は「どちらさまでしょうか?ご予約はお済みなにでしょうか?失礼ですが、どちらさまで?」と聞きました。先生は「わたしは、最高権威筋から者です」と、威厳をこめて返答しました。先生は神様から遣わされた者であるという意味で言ったのですが、秘書は、韓国では大統領府から派遣された者と勘違いしたのです。チョー先生は支店長に会うと「あなたのために、お役にたちたいのです。私に1500万円の小切手を振り出してください。そうしたら、教会員に働きかけ、新規に1万人分の預金をさせていただきます」と言いました。支店長はけげんな顔をしながら、副支店長を呼び入れました。副支店長は「と、とんでもございません。支店長、これは、あなたの首がかかっていますよ。この人は、担保もなければ、書類の手続きもしていないのですよ」と言いました。支店長は何度も首をかしげながら「いやー、何とも変な気分です。こういう興奮は今までの私の生涯にはありませんでした。本当に不思議です。信用しましょう。あなたは本当に大胆な人です。今回だけは私の首をかけます」。そう言って、1500万円の小切手を渡すように副支店長に指示しました。みなさん、これが神の子という身分の力です。私たちのバックには父なる神様という最高権威者がついておられるのです。ローマ8:32「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

3.聖徒というアイディンテティ

もう1つ大事なアイディンテティがあります。それは、聖徒であります。聖徒、英語でセイントであります。ローマ・カトリックでは聖徒となるためには、様々な制約があって、よっぽどの功績がなければいただくことができません。しかし、それは聖書的ではありません。キリストを信じた人は、すべて聖徒、セイントであります。コリント人への手紙にこのように書いてあります。Ⅰコリント1:1-2「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」コリントの教会はどんな教会だったでしょうか?教会には分裂や争いがありました。近親相姦もあったようです。彼らはパウロの使徒性を認めない高慢な人たちでした。だけど、パウロはコリントの人たちを何と呼んでいるでしょうか?「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」であります。ここでも、はっきり分かりますが、行ないや品性とは全く関係がないということです。「え?ひどい罪を犯しているのに、聖徒なんですか?」と文句を言うかもしれません。はい、それでも立派な聖徒なのです。つまり、私たちの行ないには関係ないのです。では、なぜ、使徒パウロがこういったことを冒頭で述べているのでしょうか?パウロはいきなり、コリントの教会の罪を責めていません。まずは、「キリストにあってあなたがたはどのようにされているか?どのような者なのか?」これを知らせたかったのです。では、このことと私たちの信仰生活とどのような関係があるのでしょうか?ニール・アンダーソンの本にはこのように書いてあります。ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイディンテティなのでしょうか?そうではありません。神さまは私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし、自分が罪人のことを罪人だと考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。私たちは自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、「聖徒」なのです。私たちは次のことを覚えておくべきです。どう生きるかが存在そのものを左右するのではなく、どういう存在であるかが生き方を決定していくのです。アーメン。

ニール・アンダーソンが口をすっぱく言っていることは、「すべきことが人間の存在価値を決定するのではなく、どのような存在であるのかが、なすべき事柄を決定するのです」ということです。もし自分がダメな人間だと考えていたなら、おそらくダメな人間として生き続けることでしょう。しかし、自分がキリストにあって永遠に生きる神の子と認めるなら、キリストが生きたように勝利と解放の中で、生き始めることができるのです。この理由は、だれも自己認識と矛盾するような行動をし続けることができないとういことです。みなさんの自己認識、つまり、セルフイメージはどうでしょうか?アメリカよりも、日本の方がずっとずっと否定的でしょう。ある調査によると、お母さんが子供に話しかけることばの80-90%が否定的なことばだそうです。学校へ行くと、生徒は積極的なことばが1に対して、否定的なことばを7つ受けていると言われています。また、1つの否定的なことばの影響力を帳消しにするには、4つの積極的なことばが必要であるということを指摘しています。新しいスーツやドレスを着るたびに経験することを考えると、おそらく正確に分かるでしょう。多くの友人が、「まあ、なんて素敵な洋服でしょう」と言ってくれても、誰かにひとこと「あまりあなたに似合わないわねえ」と言われたらどうでしょう。タンスの奥にしまって、二度と着ないかもしれません。ですから、私たちの頭の中にある否定的なことばを、聖書の積極的なことばに置き換えていかなければなりません。聖書は私たちを何と言っているのでしょうか?「あなたは神の子です」「あなたは聖徒です」「あなたの罪は赦されました」「あなたは義とされています」。みなさん、罪赦されているのと、義とされていることとは違います。罪の赦しはプラスマイナスゼロですが、義とはプラスであり、神の義があなたに与えられているということです。「アーメン」とは、聖書で神様が言われていることは、「本当に、そのとおりです」と言うことです。私は義とされている。「アーメン」と心から信じるなら、それにふさわしい行ないをしようとするでしょう。私は信仰歴30年になりますが、最近、「アーメン」の意味がわかってきました。神様の恵みを知る時に、心から「神様、アーメン、本当ですね」と言うことができます。どうぞ、神様が私たちにおっしゃっていることばを「アーメン」「アーメン」とたくさん入れましょう。パソコンをなさる方はご存知だと思いますが、「アーメン」とはenterです。私たちが「アーメン」と言うときはenterキーを押して、心の中に入れている時なのです。

イザヤ書43章は、私たちの自己存在、アイディンテティがどんなにすばらしいか教えてくれる重要な箇所です。43章のはじめには、「主は私たちを創造された方、形造った方である」と書かれています。私たちは神さまの作品であって、それぞれユニークな存在だということです。私たちは他の人と比べる必要はないのです。あなたと同じ人は、世界に二人といない、固有な存在なのです。「アーメン」enter。それから、主は「恐れるな、私はあなたを贖った」とおっしゃっています。そうです。イエス・キリストは十字架で尊い血を流し、あなたを買い戻してくださったのです。あなたにはキリストの命と交換するくらい価値があるのです。「アーメン」enter。そして、「私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ」とおっしゃっています。私たちはどこに属しているのでしょうか?世界に60億人いようとも、キリストにあってあなたは選ばれているのです。神様はあなたは私のものだとあなたの名前を読んでおられます。「アーメン」enter。さらに、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」。自分たちの親、友人、先生…多くの人たちは、「あなたはこうだ」と言ったかもしれません。そして、そのことばで「ああ、自分はこうなんだ」と自分をイメージしたでしょう。でも、多くの部分が偽りでした。あなたは偽りを信じてきたのです。偽りはdelete削除しましょう。あなたは、神様の目から見たらどういう存在なのでしょうか?「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」「アーメン」enter。神様の愛は無条件の愛です。何ができるから、何をするからではありません。あなたのありのままを愛し、受け入れているのです。罪も欠点も醜いところもみんな含めてです。良い人になってからではありません、神様はありのままのあなたを愛し、受け入れておられるのです。「アーメン」enter。

みなさん、このことを理解することがクリスチャンの成長の土台です。神様の無条件の愛による安心感がなければ、成長はありえません。私たちは神様の愛を得るために、何もしなくても良いのです。父なる神様はキリストにあって既に満足しておられるからです。私たちはキリストにあって、神の子であり、聖徒です。ここからスタートするのです。自分がキリストにあって、どういう存在かを知ること、これがクリスチャンの成長の土台となるのです。

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