2015年10月30日 (金)

兵士としての生活 Ⅱテモテ2:3-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.1

クリスチャンを兵士にたとえるのは間違っているとおっしゃるかもしれません。もちろん、私は、戦争は反対です。ただし、旧約聖書には戦争のシーンがたくさんあります。また、新約聖書が書かれた時代はローマが支配しており、兵士たちがたくさんいました。でも、考えてみますと信仰生活は悪魔との戦いであり、私たちは主の兵士であります。エペソ6章には身に付けるべき武具についても書かれています。もし、司令官がイエス様であり、私たちは兵士であるということを理解するなら、この世でのどうでも良いことから解放されるのではないでしょうか?そして、霊的な勝利を得るために、シンプルで身軽な生活ができると信じます。

1.兵士としての自覚

Ⅱテモテ23-6「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」

 第一の質問です。「兵役についている人(兵士)はどのようなことに煩わされてはいけないのでしょうか?」はい、日常生活のいろいろな事柄です。具体的に言うなら、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、どこに住むかなどさほど重要ではないということです。異邦人は地上のことばかりに気をとられています。やがて来る御国のことには全く関心もなければ備えもありません。彼らは、すでにサタンの虜になっているので、戦う必要もありません。たとえ、美味しいものを食べて飲んで、流行の服をまとい、御殿に住んだとしても、最後が永遠の滅びだったらどうするでしょうか?

第二の質問です。「兵士はだれを喜ばせるために、この世のものをささげてまで生きているのですか?」はい、徴募した者です。私たちは、司令官であるイエス・キリストを喜ばせるためにこの世のものをささげて生きているのです。もし、このことが分かるなら、まとわりつく欲望や罪から解放されます。韓国やアメリカでは徴兵制度があります。私は徴兵制度には反対ですが、彼らはそこでとても重要な訓練を受けるようです。そこでは、自分の思いを捨てて上官の命令に従うこと、任務を遂行することを学びます。もし、教会が「司令官であるイエス様に従うんだ」と言ったら、「あの教会はカルトだ」と言われるかもしれません。神さまや指導者の権威を否定するクリスチャンは「カルトだ。カルトだ」とブログに書いたりします。

第三の質問です。「競技をする人から学ぶことは何ですか?兵士は何をしてはいけないのですか?」規定に従って競技をするということです。パウロの時代はすでにオリンピック競技があったと思われます。彼らは規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることができません。同じように、兵士として召された人たちは、規律を破ったり、命令に違反してはいけません。恵みしか説かないに教会は、規律とか命令というスパイスも必要です。

第四の質問です。「農夫から学ぶことは何ですか?兵士は何を期待して良いのですか?」労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。同じように、兵士も真っ先に勝利の分け前にあずかることができます。今の人たちは、自分が実際にやらないで映画やゲームで疑似体験しています。そうではなく私たちは汗をかき、ある時は怪我や失敗を重ね、実際に勝利するという経験が必要です。2000年前、イエス様と一緒に神の国がこの世に突入してきました。サタンが追い出され、死人がよみがえり、病人が癒されました。それまでサタンの国は平和でした。しかし、サタンも悪霊も目をさまし、本気になって教会をつぶそうとしています。サタンのターゲットはだれでしょう?自分の国を出ていった人たち、つまりクリスチャンです。私たちは「戦いたくない」と断っても、向こうはそのことを許しません。これはゲームの世界ではなく、神の国とサタンの国の戦いなのです。クリスチャンは好むと好まないに関わらず、両国の戦争の中に巻き込まれているのです。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。イエス様は愛する弟子たちを離れる際に命じられました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ2819)「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)。これは主の至上命令です。主の命令ならば、私たちにとって選択の余地はありません。イエス様は福音を伝えるという偉大な命令をくださると同時に、偉大な約束をくださいました。それは世の終わりまで、私たちといつも共にいてくださるということです。主は愛する弟子たちを離れましたが、聖霊を通して私たちと共におられます。私たちが使命を果たそうとすれば、共におられるキリストが力を与えてくださるのです。

2.内面の管理

第一の質問です。「あなたは心を守るために、きちんとした境界線を持っていますか?」箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」境界線とは英語でboundaryと言いまして、元来は、牧畜場の柵とか垣根という意味です。これが、最近、他の人と自分との境界ということで言われるようになりました。カルフォルニアのある公園に80メートル超えるセコイアという木がありました。樹齢400年の巨木が突然倒れました。暴風も火災も洪水も落雷もありませんでした。専門家が調査したところ、動物や虫によるダメージを受けた形跡もありません。しかし調査を続けた専門家たちは、驚くべき結論に達しました。原因はハイカーの通行だったのです。つまり、長年にわたって木の根元を大勢の人が歩いたために根が傷ついてしまったということでした。公園では、古くて大きくて、歴史的にも貴重な木々の回りに囲いを作ったそうです。それをウェイン・コディーロは「聖なる囲い」と呼んでいます。私たちも壊れやすい根を持っています。私たちはこの世に身をさらして生きています。働き過ぎや、責任過多、人との緊張関係があるでしょう。長い年月を通して少しずついのちを縮め、人格をむしばみ、どうあるべきかという核となる部分が壊れてしまうかもしれません。これを守るのが、境界線であります。消極的には活動を制限して休むことであり、積極的にはディボーションなど、いのちの源を確保していくということです。

第二の質問です。「あなたの思いが一新されているでしょうか?」ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」聖書には「心の一新」と書いてありますが、正確には思いや考えの一新ということです。このテーマは他の機会で学びますが、簡単に言いますと、ものごとの捉え方、世界観の問題です。私たちの思いの深いところには、思いの核となるものがあります。これをコア世界観とか、コア信念と呼んでいます。この核が脆弱だったり、ダメージを受けていると、外界の出来事に耐えられません。ひどく落ち込んだり、怒りが爆発したり、パニックになってしまいます。もし、未解決のテーマがあるならば、ある出来事には耐えられません。周りの人や状況を変えようとしますが、それは的外れです。問題は外にあるのではなく、自分の思い(世界観)が歪んでいるのです。歪んだ心のレンズを取り替える、これが「心の一新」ということであります。

第三の質問です。「あなたは、悪い感情(怒り、うつ、無力感)をちゃんと管理できていますか?」丸屋真也先生が「結婚生活の構造」ということを教えてくださいました。三角形のトップにくるのが親密さです。その下に不一致管理、コミュニケーション管理があります。そして、一番下のベースは何かというと「精神的、情緒的健全さ」だそうです。簡単に言うと、情緒が安定しているかということです。これが、一番の基礎となることでした。男性だと何かあったらカッとなってお膳をひっくり返すこと。女性だと何かあったらプィとなって3日も口を利かないことです。あなたは、悪い感情(怒り、うつ、無力感)をちゃんと管理できているでしょうか?私も人のことを言えませんが、「ああ、管理するものなんだ」と改めて気が付きました。でも、これは第二の自分の思いが変えられた人ができる事柄であります。コア世界観が変えられたら、だんだんできてきます。

第四の質問です。「人々や悪魔が悪い考えを、あなたの中に吹き入れた場合、どう対処したら良いのでしょう?」Ⅱコリント105「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ…」このところに、「とりこにしてキリストに服従させる」と書いてあります。『思考という名の戦場』という本がありますが、その著者はこのように述べています。「悪魔は巧妙な手口で、私たちの思考に攻撃を挑みます。たとえば、ちょっとガミガミ言いたくなるような状況をあえて作ったりします。他にも、疑惑や疑いを持ったり、恐れや物思いにふけったり、こむずかしい理屈をこねたりするような場面をセッティングするのです。悪魔は周到な巧みな罠により、私たちの思考の中に要塞を築こうと、日夜活動を続けています。」ですから、悪魔が私たちの思いの中に、悪い考えを吹き入れたとき、それを隔離して排除する必要があるのです。それは、まるでパソコンにウィルスが入って来たとき駆除する方法と同じです。

 テキストのまとめの部分をお読みしたします。境界線とは、自分の責任(問題)と他者の責任(問題)を分けることです。私たちは他の人の代わりに決断することはできません。また、神さまが行うことと、自分が行なうべきこととの境界線があるはずです。これを知っていると、思い煩うことなく、心に平安を保つことができます。また、リーダーにとって情緒の安定は欠かすことができません。多くの場合、「怒ってはならない」と自分を抑制します。しかし、未解決な怒りを持っていると、ある日、突然に爆発して大きな被害をもたらすでしょう。感情の前に、出来事をゆがんでとらえる考え(思考)があります。それはどこから来るかと言うと、コア世界観から来ます。世界観とは、ものごとを捉えるめがねのようなものです。コア世界観は多くの場合、幼児期に受けた虐待やトラウマが原因しています。そこが癒されて、新しいコア世界観、つまり新しい思いを持つ必要があります。

3.神さまのものを管理する

ルカ1610「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」Ⅰコリント41-2「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。」私たちには管理すべきものがたくさんありますが、どのようなものでしょうか?テキストには7つあげられています。

第一は、人生のすべての道の管理(箴言33-9)です。

第二は、救いの福音の管理(Ⅰコリント41-2)です。

第三は、時間の管理(エペソ515-17)です。

第四は、体の管理(ローマ121、Ⅰコリント618-20、Ⅰテサロニケ523)です。

第五は、賜物の管理(Ⅰペテロ410-11、マタイ2514-30)です。

第六は、金銭の管理(マタイ619-24、ローマ137-8、Ⅰテモテ69-10)です。

第七は、生活の管理(Ⅱテサロニケ310-12

私たちは神さまからたくさんのものをゆだねられています。ただ今、取り上げただけでも、7つありました。第一の「人生のすべての道の管理」は分かりづらいかもしれません。「すべての道」とは、「人生における選択や決断」と言い換えても良いでしょう。神さまは私たちに自由意思を与えておられます。あなたはだれかからコントロールされていると思っているかもしれませんが、最終的な選択や決断はあなたの責任です。ある人は過去の暗い出来事に縛られて、新しい生き方ができないと思っているかもしれません。でも、神さまは平等に新しい毎日を与え、新しいチャンスを与え、新しい可能性を与えておられます。それを選び取るのはあなた自身です。でも、聖書はこのように告げています。箴言35-6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」「どんな場合も神さまを歓迎して、導きを得よ」ということです。たとえ、選択や決断を間違えるようなことがあっても、神様は車のナビのように目的地に導いてくださいます。

テキストのまとめをお読みいたします。自己管理というのは、とても重要なテーマです。生まれつき几帳面な人もいれば、生まれつきずぼらな人もいます。神さまは、この地上のことで、いかに忠実であるかをご覧になっておられます。ルカ1612「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」マタイ2521「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」また、管理するとは、ただ保管するという意味ではなく、それを用いて商売する(増やす)ということでもあります。

4.神からの使命を果たす

使徒2617-18「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」Ⅱテモテ47-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

第一の質問です。「パウロが召された使命は何でしたか?」ユダヤ人と異邦人宣教です。パウロにとっては、特に、異邦人世界に福音を宣べ伝え、教会を設立することでした。パウロは救われた瞬間、自分の使命は何かということがイエス様から知らされました。おそらく、私たちも救われてまもなく、自分の使命は何か悟らされたのではないでしょうか?私は信仰を分かりやすく伝える働きをしたいという願いが起こりました。神学校にいたとき、ある同級生は漫画で福音を伝えたいと言っていました。回心と同時に何らかのスイッチが入るのかもしれません。

第二の質問です。「人々が救われるためには、どのようなことが必要なのですか?」彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせるということです。私たちは霊的に盲目で神さまのことが全くわかりません。聖書も読んでもちんぷんかんぷんでした。だから、聖霊によって霊的な目が開かれる必要があります。その次に、信じた人を聖霊が暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせてくださるのです。ありがたいことです。

第三の質問です。「イエス様を信じて得られる3つのものとは何でしょう?」第一は、サタンの支配から神に立ち返らせていただくこと。第二は罪の赦しを得ること。第三は聖徒たちと共に御国を受け継がせていただくことです。不思議なことに、信じて洗礼を受けてから、ああ、私は暗やみの中で、サタンの支配を受けていたんだとわかります。

第四の質問です。「パウロは自分の道を走り終えましたが、あなたの走るべき道とは何ですか?」神さまはお一人お一人に固有な計画を持っておられます。私たちはこの世において仕事や家庭、学業における計画や目的があるかもしれません。それらと同時に、あるいは並行して永遠につながる神さまのための計画や目標があると信じます。仕事をしながら、家庭を守りながら、あるいは学業に励みながら、同時に果たすべき目標があるのではないでしょうか?そういう目標は退職してからも、子育てを終えたとしても全く影響されません。もちろん山登りとか、魚釣りとか、骨董収集とか趣味の世界を続けていても全くかまいません。しかし、目標が一人でも多くの人に福音を伝えるということになるならば、そういう趣味や活動で出会う人がターゲットになるでしょう。むしろ、それは良い機会になります。霊的な目標、神の国に関する目標ということをぜひ、お考えください。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。兵士にとっては、司令官から与えられた使命を果たすことが第一の目的です。使徒パウロは、サタンの支配のもとにある異邦人たちを神のもとに立ち返らせました。まるで、それは捕虜を奪回するような働きです。だから、パウロは晩年に、「私は勇敢に戦い…」と言ったのだと思います。また、パウロは自分が到着すべきゴールを知っていました。私たちも何のために召され、何を果たすべきなのか知る必要があります。何をするにしても、私たちは最初から始めるでしょうか?何をするにしても、実は終わりから始めています。終わりがあって、それから最初に帰ります。まず初めに、最終的にどうなるかという青写真が必要です。「終わりから始める」という意味は分かるでしょうか?「終わり」というのは、完成したもの、青写真であります。建物や道路も、計画なしにやるわけではありません。工事をするためには設計図や完成図があります。そこに向かって、工事を進めていきます。私たちの人生も同じで、最終的な青写真は何なのかを神さまから示していただく必要があると思います。使徒パウロのようにヨーロッパに福音を伝えるということでなくても結構です。中国に聖書を運ぶ活動をしておられる方もいます。この間、来られた、石塚兄姉の目標は、家庭を解放して集会も持つことでした。2つの大学が近くにあり、若者たちが食事と交わりにつられて来るようです。


 ある兄弟は退職後、お年寄りの送迎のボランティアをしているそうです。ただ送迎をしているのではなく、神さまの愛で接しています。兄弟の車に乗られるお年寄りが励ましや希望をいただいているのではないでしょうか?賛美やゴスペルも良いですし、教会の花壇を担当することも良いでしょう。誕生日の絵手紙を書く方もおられます。神さまは必ず、その人に思いと願いを与えておられると信じます。どうぞ、大それたことだと思わないで、できることからコツコツとなさることが大切だと思います。ことわざに「老兵は去るべし」というのがあります。私たち天国人には、そういうことばはありません。召されるまで現職の兵士です。もし体が動かなくなったら、祈りの奉仕があります。祈りは霊的なミサイルです。悪魔が最も恐れるのは祈りだからです。私たちは天国に行くまで、休むことはできません。主にあって一生現役であり、最前線にいるのです。

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2015年10月23日 (金)

能力付与 Ⅱテモテ2:2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27

 連合艦隊司令長官の山本五十六の名言を紹介いたします。「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」彼こそが能力付与を率先して行った模範的な人物であります。「能力付与」は英語で、empoweringと言いますが、ぴったりな訳とは言えないかもしれません。最近はこのようなビジネス用語が増えて困ったものです。分かりやすい言葉で言うなら「その人が自分でできるように育てる」ということだと思います。

1.能力付与とは?

 エペソ411,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり…」Ⅱテモテ22「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」

第一の質問です。「教会に牧師(リーダー)が与えられているのは何のためですか?」はい、それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。「整える」の元の意味は、「装備する、適任ならしめる」ということです。

第二の質問。「だれが、奉仕の働きをする主役なのでしょう?」はい、聖徒たちです。聖徒とはすべてのクリスチャンです。たとえて言うなら、ピッチでプレーするサッカーの選手たちです。多くの場合、プレーをするのが牧師や少数の献身者です。そして聖徒たちは応援席で「がんばれよ!献金しているんだから」とポップコーンを食べています。しかし、それは逆であり、みなさんが第一線でゲームをするプレイヤーであり主役なのです。「あんたが主役!」

第三の質問。「そのために、牧師(リーダー)は何をするべきなのでしょう?」聖徒たちを「整える」あるいは「建て上げる」ということです。

第四の質問。「使徒パウロは、テモテに何をしなさいと命じていますか?」「私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」と命じています。この第二テモテ22は、ナビゲーターという学生伝道の団体では、重要なテーマになっています。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。能力付与はエンパワリング(empowering)とも呼ばれています。その人を育てて、だんだん働きを任せていくということです。コーチングと言い換えても良いかもしれません。教会の基本概念は、万人祭司です。だれもが、主に仕えているなら、効果的な働きをなす教会になります。牧師やリーダーたちがプロであればあるほど、教会員たちは「自分にはできない」と思って、働きに参加しなくなります。牧師やリーダーがメンバーのために何でもしてあげることが忠実で理想的なリーダーではありません。良いリーダーとは、自分ですべてのことをせず、育てながら、1つ1つメンバーに任せていく人です。

私は聖書から、あるいは自分が学んできたことから、「指導者は聖徒を整えて、彼らに奉仕の働きをさせることです」と言えます。しかし、「あなたはどうなのか?それをしてきたのか?」と問われるなら、穴があったら入りたいくらいです。私が育った教会は一部の献身者にはこのような訓練があったかもしれません。しかし、いわゆる一般信徒には「礼拝や祈祷会を守って、自分があった奉仕をすれば良いですよ」という感じでした。私はそれに反発して、この教会で弟子訓練とか、セル、コーチングを導入して「聖徒を整えるんだ」とやってきました。しかし、実際はどうかというと、100点満点の45点くらいかもしれません。でも、聖書では聖徒訓練が大切であると言っています。ですから、このテーマを避けて通ることはできません。私は失敗、挫折、無気力…いろんなところを通りましたが、今、「能力付与とはこういうことではないか」とはっきり言えることがあります。人には自分が召された得意分野というものがあり、それをだれかに伝授していくという傾向があるということです。たとえば教会には、五職と呼ばれる指導者がいます。使徒は使徒的な人を育てたいし、預言者は預言者を、伝道者は伝道者を、牧師は牧師を、教師は教師を育てたいと思うということです。つまり、自分と同じような賜物がある人に、自分がもっている知識や技術を教えたいということです。たとえばピアノの奏楽の人は、同じようなピアノの奏楽者を育てたいでしょう。お花の人はお花を、フラの人はフラを、ケーキを作る人はケーキを作りたい人を、歌を歌う人は歌を歌いたい人を教えたいのです。つまり、キリストの教会にはいろんな賜物があるので、一人の指導者では間に合わないということです。もちろん、牧師や教師は聖書の知識や霊的事柄を指導することはできます。しかし、これは奉仕の基本的な事柄であって、細かい所までは及ばないということです。そう考えると、教会の働きというのは多種多様な賜物が集まっているということです。そして、そういう多種多様な働きによって教会が建て上げられていくということです。もし、牧師ができる能力付与があるとしたら、聖書のみことばに土台した信仰生活ができるように励ましたり、教えるということだと思います。その次は、「自分の賜物にあった奉仕があったら、どうぞやってください」と励ますことです。そのように牧師の働きを限定していくなら、100点満点の70点はいくのではないかと思います。アーメン。

2.主イエスに見られる能力付与

ルカ101-5「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。」ルカ1017-20「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』」

第一の質問。「イエス様が12人、あるいは70人を町や村へ遣わした目的は何でしょう?」「ご自分の働きを拡大させるため。また、さらに多くの収穫を得るためです。」最初、イエス様はご自分のお望みになる者たちを呼び寄せました。そして、彼らを身近に置いて、教えたり訓練しました。そして、ある程度たってから、彼らを町や村へ遣わしました。今でいうなら、短期宣教による実地訓練だと思います。彼らはあるところは上手く行ったでしょうが、あるところは上手くいかなかったと思います。フィードバックと改良を重ねると、さらに多くの収穫を得ることができるでしょう。

第二の質問。「彼らは、イエス様にどのようなことを報告したでしょうか?」「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」彼らの短期宣教はうまくいったようです。「イエス様の御名がこんなにも力があるのか」と驚いたことでしょう。

 第三の質問。「どうして、彼らが悪霊を追い出しても害を受けないで帰ってくることができたのでしょう?」「そうです。イエス様が蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けていたからです。」スター・ウォーズという映画では、「フォースが共にあるように」と言っています。フォースは「自然界が持つ力」という意味ですから、少し、ニューエィジ的であります。正しくは、神としての権威を持っておられるイエス様が、私たちにその権威を授けてくださるということです。イエス様は「行け!」と命令だけを与える方ではありません。必要な権威や力を一緒に与えてくださいます。40-50年くらい前、インドネシヤやタイに日本から宣教師が行きました。彼らは日本の神学校で「現代は、悪霊はいない。病の癒しや奇跡も起こらない」と教えられたそうです。ところが、現地では祈祷師や魔術師と戦いがあります。キリスト教の僧侶は悪霊を追い出すこともできないのか?」と言われます。だから、半分くらいの人たちは「こんなところじゃ命がいくつあっても足りない」と帰って来たそうです。タイの森本宣教師がおそるおそる「イエスの御名によって、出て行け!」と命じました。すると、その人がばったり倒れ、その後、解放されたそうです。それから自信がついたということです。

第四の質問。「有頂天な弟子たちに対して、イエス様は何とおっしゃいましたか?」「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。このところだけ読むと、的外れのような感じがします。なぜ、イエス様は弟子たちに「よくやったなー」とほめないで、「ただ、天に名が書き記されていることを喜べ」とおっしゃったのでしょうか?ビギナーズラックという「初心者が持っている幸運」ということばがあります。釣りとか賭け事にあるようです。弟子たちがもし、「悪霊なんかこわくない、何でもできる」と思ったらどうでしょうか?だれしもあることですが、自分の存在よりも、何かできることに重点を置いたらどうでしょうか?パフォーマンス指向になり、何か大きなこと、何か不思議なことが起こらないと満足しなくなるでしょう。そのためいつの間にか、鬱になったり、燃え尽きることがあります。旧約聖書のエリヤがそうでした。何かできるということよりも、「主にあって自分がどういう存在なのか」というところが自分の立ち位置でなければなりません。「天に名が書き記されている」という意味は、「イエス様を信じただけで救われたんだ。自分の行ないではない、恵みんだ」ということです。ミニストリーや奉仕はすばらしいですが、それらはこの地上だけのことです。しかし、天に名が書き記されているという救いは永遠に続くものだからです。これを知っていれば、「行ないの罠」にひっかかることはありません。

 テキストのまとめの部分をお読みしたします。イエス様は最初、「私について来なさい」と弟子たちを召しました。その後、12弟子を選びました。「それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(マルコ314,15。イエス様はご自分の行く所へ、弟子たちを伴い、「教え、福音宣教、癒し」の働きを見せました。その後、二人一組にして短期間の宣教旅行に遣わしました(マルコ67-12)。五千人の給食では、弟子たちが群衆に食べ物を与えることを期待していました。それができないので、イエス様ご自身が5つのパンと2匹の魚を祝福し、それを弟子たちに与え、弟子たちが群衆に配りました。イエス様は他に70人の弟子たちも訓練しました。やがて昇天した後、彼らにご自分の働きを任せ、継続拡大させるためです(マタイ2816-20)。イエス様ははじめから、ご自分の働きを任せるために弟子たちを召して、訓練していたということは驚くべきことであります。

3.バルナバに見る能力付与

 使徒1122-26「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

第一の質問。「バルナバは救われたばかりの人たちを見て、どのように対応したでしょうか?」「神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように」と励ました。普通の人はやきもちとか嫉妬をいだくものですが、バルナバは素直に主の恵みを見て喜べる人でありました。エルサレム教会がバルナバを遣わしたのは、当たっていました。

 第二の質問。「バルナバはどのようなリーダーでしょうか?「りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった」と記されています。でも、バルナバは当初は信徒リーダーでありましたが、あとで使徒と呼ばれています。彼は、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように励ましました。そうすると大勢の人が主に導かれました。

第三の質問。「バルナバは、教会に対して必要を覚え、何をしたでしょうか?」彼らを励まし、教えました。ところが、人数が多くなり自分一人では指導できなくなりました。また、信仰に関して体系的に教える教師も必要だと考えたでしょう。そこで、サウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来ました。サウロは10年も生まれ故郷のタルソでくすぶっていました。そのままサウロを埋もらせてしまったら、教会の大損失になります。バルナバはサウロを連れて来て、まさしく能力付与をしたのであります。その後、サウロはパウロになり、新約聖書の13の手紙を書く大使徒になりました。

第四の質問。「バルナバとサウロが1年間、指導したのち、教会はどのようになりましたか?」「アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。」それまでは、「道の者」と呼ばれていましたが、アンテオケではじめて「クリスチャン」と呼ばれるようになったのです。それは、「キリスト党」という結社みたいな意味ですが、あんまり熱心なので、世の人たちがそのように呼んだのでしょう。しかし、教会は「それでも、結構とばかり」、その呼び方を受け入れたのでしょう。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。エルサレム教会がサウロを受け入れるのをためらっていたとき、バルナバがサウロを弁護して、彼らの恐れを取り除きました(使徒927)。バルナバはサウロ、またの名をパウロを世に出した育ての親とも言えます。なぜなら、タルソに戻っていたパウロをリクルートし、第一線に復帰させたからです。その後、パウロはアンテオケ教会から派遣され、小アジヤからギリシヤやローマまで宣教した大使徒になりました。バルナバはある時から、パウロが主導権を取るようになっても、嫉妬しませんでした。「バルナバする」とは、「コーチングする」と言い換えても良いことばです。

4.能力を付与する人

 リーダーは何らかの権威や権力を持っています。もし、それを正しく用いるならば、下の人たちは自分の能力を伸び伸びと発揮することができるでしょう。逆に、リーダーがその権威や権力を自分のためだけに使うなら、下の人は利用されていると感じるでしょう。一番困るのは、リーダーなのに権威や権力を使わないために、下の人が路頭に迷っている状態です。私は土木現場を5つぐらい回ったので、どのような上司がすばらしい上司なのか観察することができました。最初の現場はとても良いところでした。所長はとても楽天的でした。主任は頭の切れる人で、計画を立て、適材適所に人を派遣しました。失敗した時「大丈夫だ、心配するな」と言ってくれました。とてもやりがいのある現場でした。二番目の現場はとても悪いところでした。所長がとてもケチで、社員と下請けを一緒に扱いました。私のことをみんなの前で責めました。その下の主任は所長の言いなりで、自分の権威や権力を用いませんでした。そのため、現場に秩序とか働く喜びがありませんでした。もう一人の主任は、失敗を恐れる神経質人でした。私は「これで良いのだろうか?」と恐る恐る仕事をしていました。

 ベン・ウォン師はこの世には4種類のリーダーがいると教えてくださいました。第一は、権威や権力を放棄する人です。本来はリーダーなのに、リーダーであることを拒む人です。私の父は、父としての役目を果たしませんでした。経済的に家庭をささえないばかりか、酒を飲んで妻や私たちをたたきました。家庭に秩序というものがなくて、子どもたち同志も争いが絶えませんでした。父親は家庭を正しく治めるために、権威や権力があると確信します。第二は、権威や権力をふりかざす暴君のようなリーダーです。「言うことをきかなかったら首にするぞ!」と下の人たちを脅します。まさしく、パワハラであります。第三は、人を操作したり、利用するリーダーです。「一生懸命働けば、給与を上げてやるよ」と言います。何ができるかということで、その人の価値が決まります。第四は、尊敬を勝ち取るリーダーです。つまり、下の者が「あなただったら権威と権力を持って良いですよ。私たちのためにぞんぶんに使ってください」と言ってくれます。

これはイエス様やパウロが使った権威です。パウロはローマに行く前に、エペソの長老たちを集めて最後のことばを与えました。使徒2019-21「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」パウロは涙を流し、謙遜に仕え、益になることは全部教えました。パウロはいったいどこからそれを学んだのでしょうか?使徒2035「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」私たちにも、程度の差はあれ、能力を付与すべき人たちがいるのではないでしょうか?それは子どもであるかもしれないし、会社の部下、教会の奉仕、あるいは何らかの後継者かもしれません。ケチで利己的な人は、自分が得た技術や知識を人にあげません。なぜなら、追い越されてしまうからです。この世に名人や達人と言われる人がいますが、奥義だけは残しておくそうです。弟子に追い越されないためです。私たちは自分で得たものは1つもありません。みんな神さまからいただいたものです。もし、自分が得た技術や知識によって人々が生きるなら何と幸いでしょうか。イエス様は「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました。もし、私たちが権威や権力がいくらかでもあるなら、それを人々を生かすために正しく用いたいと思います。

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2011年2月13日 (日)

福音の管理      マタイ16:16-19、Ⅱテモテ4:1,2

これまで信仰の12のDNAについてお話してきましたが、きょうが最後です。教会がこの世において教会として存在している理由は何でしょう?私たち教会は、結局、何を管理しなければならないのでしょうか?それは、福音の管理であります。福音を宣べ伝えることによって、魂が救われる。このことは、神さまが最も教会に願っていることです。弟子訓練とか、セルチャーチとか言っても、魂が救われないと何も始まりません。伝道して、新しい魂が救われて、はじめて養育とか弟子訓練があるのです。教会は、いろんなことをすべきですし、いろんな活動をしても構いません。しかし、忘れてはならないのは、伝道、魂の救いつながっているかどうかです。教会がこのことを忘れてしまうと、老化して、やがては死に絶えてしまいます。日本の教会は伝道を忘れ、社会活動や神学ばかりやってきました。今、その付けがまわっていると言っても過言ではありません。

1.最大の使命

福音を宣べ伝えることは教会の最大の使命です。なぜでしょう?それは、イエス様が天にお帰りになるときに残した命令だからです。遺言と言っても良いかもしれません。マルコ1615,16それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」これはどういう意味でしょうか?福音を信じる者は救われ、信じない者は裁かれて永遠の滅びに行くということです。私たちは福音を提示されたとき、信じるか、信じないか、2つに1つしか選択肢がありません。確かに、「考えておきます」とか「もう、少し待ってください」という返事もないわけではありません。しかし、問題は、今後の残りの生涯において、福音を提示される機会があるかどうかです。一生において1回しか福音を聞いたことのない人もいれば、100回くらい聞いた人がいるかもしれません。どっちが神さまの前のさばきが重いでしょうか?100回聞いても信じない人の方が重いのです。ある人たちは、死ぬ直前に信じれば良いと思っているかもしれません。しかし、信じるというのは自分の意志だけではありません。聖霊様の助けがあるとき、人は初めて信じることができるのです。多くの場合、死が直前に迫っている場合、死の方が恐くて、信じるなどという余裕はないそうです。だから、イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ1236と言われたのです。

教会の歴史を見ますと、リバイバルという大勢、救われるすばらしい時がありました。18世紀にはイギリスのリバイバル、19-20世紀には南北アメリカ大陸にリバイバルがありました。そして、20-21世紀は中国、韓国、インドネシア、アフリカにリバイバルが起こっています。現在、リバイバルまでとはいきませんが、タイ、インド、モンゴル、ネパールもクリスチャン人口が増えています。日本はどうでしょうか?でも、日本にだけ、どうしてリバイバルが起こらないのでしょうか?今、日本の多くの教会は失望落胆の中にいます。リバイバルではなくて、サバイバル、生き残りをかけています。日本の教会は高齢化がとても進んでいます。日本基督教団は洗礼を受ける人よりも、召天する人の方がはるかに多いのです。福音派の人たちの口癖は「リバイバルが来なければどうしようもない」でした。私もその一人でした。昨年、エディレオ師と奥様が私にこのような預言をくださいました。「あなたは何度も、『神さま、どこにリバイバルがあるのですか?』と聞いています。『なぜ、そんなに時間がかかるのですか?主よ、きょうも祈ります。私に理解を与えてください』。しかし、今、主はこのように言われます。私は、私のしもべであるあなたの心を知っています。私はあなたの祈りを知っています。私はあなたの日本に対する心を知っています。あなたの祈りは私が答えます。でも、1つ知ってもらいたい。私には私の時があることを。主は、あなた自身を備えよとおっしゃっています。あなたが自分自身を備えたなら、私のリバイバルをあなたの人生の中で見るだろう。私はあなたをひとりぼっちにはしない。あなたをミニストリーに召したのは私だから。あなたは何回もミニストリーのために祈った。『神さま、どうしてたくさんの実を見ることができないのですか?』しかし、私のしもべよ、あなたの心が分かる。あなたが私に頼るなら。あなたの人生にこのことを成就する。」アーメン。

もちろん、私たちはリバイバルを求めるべきであります。しかし、パウロはテモテになんと言ったでしょうか?Ⅱテモテ41,2「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「時が良くても悪くても」というのは、ある英語の訳では、「シーズン、オア、アンシーズン」となっています。私たちは季節であろうと、季節でなかろうと、こつこつと福音を宣べ伝えるべきなのです。使徒パウロはローマ1章で「返さなければならない負債を負っている」と言いました。私たちはだれかから借金したら、返さなければなりません。パウロは福音を宣べ伝えることは、借金を返すことと同じであると言いたいのです。福音は宣べ伝えても、宣べ伝えなくても良いものではありません。クリスチャンであったなら、だれもが返さなければならない負債、借金だからです。自分の救いのことを考えるならどうでしょう?あの人が福音を伝えてくれたから、私は救われたのです。もし、私たちが救われていなかったならどんな生活をしていたでしょう?本当に、空恐ろしくなります。私のために福音を伝えてくださり、私のために祈ってくださった人がいたのです。だから、私たちは救われたのです。私たちも今度は、だれか別の人に福音を宣べ伝えなければなりません。そうです。借金を返すつもりで、宣べ伝えなければならないのです。

2.正しい福音

教会は正しい福音を管理していなければなりません。教会の歴史を振り返りますと、10~16世紀までは、中世の暗黒時代でした。国家と教会がくっつき過ぎて、堕落してしまったのです。神の国の拡大よりも、自分たちの国と権勢が目的でした。1517年に宗教改革が起こりました。「信じるだけで救われる」という福音の真髄が再確認されました。閉ざされていた福音が聖書と共に、復興したのです。でも、17世紀から啓蒙主義が起こり、福音が聖書と共に次第に捻じ曲げられるようになりました。本来、福音と聖書とは分離することは不可能なのです。なぜなら、正しい福音は聖書の中にあるからです。でも、啓蒙主義の影響を受けたキリスト教会は、「聖書にも誤りがある」ということを言い始めました。それを唱えるのが、リベラルという人たちです。しかし、うまく妥協した人たちがいました。「たとえ、聖書には誤りがあっても、キリストと出会ったならば、人は救われるんだ」と言いました。悪く言うと、ウソも方便です。私たちは聖書が真実でなければ、キリストも福音も真実でないと答えるしかありません。終わりの時代、福音に対する混ぜ物が横行しています。ひどいものになると、「他の宗教にも神さまが啓示されているのだから、キリスト以外にも救いがある」と言います。使徒パウロは何と言ったでしょうか?ガラテヤ18「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」「私たち」とはだれでしょう?私たちとは、パウロをはじめ使徒たちが宣べ伝えた福音です。使徒ペテロは何と言ったでしょう?使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」「この方」とは、イエス・キリストです。使徒ヨハネは何と言ったでしょう?ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そして、ヨハネ3:18 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」アーメン。

つまり、教会というのは使徒の教えに立っていなければなりません。これを使徒的教会と言います。使徒が言ったことに反することを教えているならば、それは本当の教会ではありません。偽物です。エペソ220「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」時代が進み、人々の科学や学問が発達しようとも、私たちは使徒たちの教えをどかすことはできません。どうぞ、ドイツやアメリカのどんな神学者が新説を唱えても信じないでください。使徒たちの教えに留まってこそ、本当の救いが保たれるからです。イエス様はペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」と言われました。天の御国のかぎとは何でしょう?いろんな解釈があります。でも、私は福音ではないかと思います。なぜなら、人は福音を信じて、天の御国に入ることができるからです。福音を信じないなら、決して天の御国に入ることはできません。つまり、教会は福音という鍵をイエス様から預かっているのです。この福音という鍵を神さまは政府に預けたのではありません。大学の研究機関に預けたのでもありません。財界でも、マスコミでもありません。そうです。イエス様は教会に預けたのです。○○教団の創立100年の歴史ある教会にも預けました。しかし、看板も出していないような家の教会にも福音の鍵を預けておられるのです。使徒の働き11章には、名もない人たちが、アンテオケで福音を宣べ伝えました。福音の鍵を用いたのです。すると、アンテオケに群ができ、やがて異邦人教会のセンターになりました。みなさん、鍵というのはそんなに力がなくてもドアを開けることができます。鍵なしで力づくでやろうとすると大変です。鍵を回すのには、そんなに勉強する必要はありません。ある人が福音を熱心に宣べ伝えたので、1年で10人も20人も導かれました。その人が、神学校で3年間勉強しました。いろんな勉強を積んだんだから、もっとすばらしく伝道できるかと思いました。しかし、全く逆です。知識が増した分、恐れが増し、熱心さもなく、全く伝道ができなくなったのです。神学校を出たために、そういう人が結構いるようです。勉強も大事ですが、福音宣教は魂への愛と祈りと確信です。「今、福音を宣べ伝えなければ、この人は滅びてしまう。」だから、宣べ伝えるのです。一番の愛は何でしょうか?いろんな助けや親切も愛です。でも、そのままでは、死んで滅びてしまいます。イエス様の福音を伝えて、その人が救われたらどうでしょう。それが一番の愛ではないでしょうか?どうぞ、聖書の中に書かれている、正しい福音を単純に宣べ伝えてください。聖霊様が、あなたのことばを用いて、その人に回心を与えてくださいます。

3.商売せよ

福音を管理するとは、どういう意味でしょう。ただ、正しい福音を守るというだけではありません。福音をさらに拡大していくということです。ルカ19章にはミナのたとえが書かれています。ミナのたとえは、タラントのたとえと似てはいますが、違うところがあります。タラントのたとえは、それぞれ人によって神さまからゆだねられた量がそれぞれ違います。しかし、ミナのたとえは、みんな1ミナです。みんな1ミナ。ミナとは何でしょう?私は福音ではないかと思います。どんな人でも、平等に1個の福音を神さまからゆだねられています。たとえ話を見ますと、ある人は1ミナで10ミナもうけました。また、ある人は1ミナで5ミナもうけました。ところが、もう一人の人は、風呂敷に包んでしまっておきました。彼は、そのままご主人に渡しました。彼は「悪いしもべだ」と叱られ、持っていた1ミナまでも取り上げられてしまいました。このたとえの中心テーマは何でしょう?主人が帰るまで、商売するということです。商売とは、それを元手にして増やすということです。あずかった1ミナを、そのままご主人に返すのは怠惰なしもべであり、悪いしもです。もし、ミナが福音であるならば、商売するとはどういう意味でしょう?神さまからゆだねられた福音を一人でも多くの人に宣べ伝えて、救われる人を増やすということではないでしょうか?しかし、商売というのは厳しいもので、決して楽なことではありません。セールスで人に売ろうとすると、大体の人が「いらないよ」「間に合っています」「結構です」と断ります。しかし、本当にセールスに長けた人は、「断られてから本当の商売が始まる」と理解しているようです。それに比べ私たちクリスチャンはどうでしょうか?非常に打たれ弱い。10人に宣べ伝え、10人から断られると「日本は難しい!」と言います。日本のクリスチャン人口は1%ですから、50人に宣べ伝えて1人信じたら、大成功になります。だけど、49人も断られたら、本当にめげてしまいます。何か、もっと、確立の上がる伝道の秘訣でもあるのでしょうか?

これまでの教会の伝道方法は大衆伝道と個人伝道が主流でした。大衆伝道というのは、クルセード方式とも言って、広い会場に人々を集めます。すばらしい音楽を聞かせ、有名な伝道者からお話してもらいます。最後に「みなさん、目をつぶってください。きょうイエス様を信じる人は手をあげてください」と招きます。ある人たちが決心します。しかし、教会につがなる人は1%いないそうです。個人伝道も結構、勇気が必要です。また、ある程度の技術も必要です。私は、今か申し上げるこの2つこそが古くて新しい伝道スタイルではないかと確信しています。第一はあかし伝道です。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」これは大変有名なみことばです。御国の福音は全世界に宣べ伝えられることが第一です。しかし、それだけではありません。「すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。福音宣教とあかしとは少し違います。あかしとは、その人の体験談を通して、神様のことを伝えることです。あかしは、インフォーマルで主観的です。「自分にこんなことがあったよ」と分かち合えば良いのです。相手がそれを受け入れるかどうかは別です。相手がそういうあかしを何度も聞くと、「イエス様、信じてみようかな?」と思うくらいまでは行きます。最後の刈り取りを自分でできなければ、教会の誰かにお願いしても構いません。でも、あなたが仲介者としてそこにいれば、とても簡単です。イエス様は種まきのたとえを話されました。硬い心であれば、愛の行ないによって耕す必要があります。石の心であれば、色んな話をして、偏見を取り除く必要があります。いばらが生えた心であれば、クリスチャン生活がどんなにすばらしいか体験させる必要があるでしょう。とにかく、畑を耕して、福音の種を蒔く必要があります。1回でうまく行くようなケースはまずありません。何度も蒔いていくうちに、芽が出て、成長し、実をならせるのです。どうぞ、可能性のある人を10人くらい選んで、祈りながら、あかし伝道をしましょう。

もう1つは、個人ではなくチームで行うということです。教会はキリストのからだです。からだの中にはいろんな器官があります。口の人もいれば、手の人もいます。足の人もいれば、耳の人もいます。耳、つまり人の話を聞くということは意外に重要です。人は自分の話しを聞いてくれたら、こんどは聞いてみようかなと思うからです。祈っている人が入院していたとします。一人よりもだれか友人と一緒に行きます。その友人が何か賜物やアイディアを持っているかもしれません。マッサージが得意とか、薬に対して知識があるとか、具体的な助けができるかもしれません。これをボディライフと言います。ボディライフとはからだの生活という意味です。一緒に生活を共にしながら、自然に福音を伝えていく方法です。ある人はもてなすことが得意です。また、ある人は語ることが得意です。また、ある人は手足を使って奉仕ができます。また、ある人は一生懸命とりなしの祈りをします。魚を捕まえるのにいろんな方法があります。個人伝道は一本釣りです。これは技術が必要です。熟達するのに、10年、20年かかるかもしれません。でも、網はどうでしょうか?地引網、はえ縄、底引き、投網…いろいろあります。網の方が、一本釣りよりも多くの魚が捕れます。みんなでやるので、個人の技量もそんなに高くなくても良いかもしれません。それでいて、多くの魚が取れるんだったら申し分ないと思います。ただし、「ぶらさがっていてば、なんとかなるかなー」という他人任せでは困ります。良いたとえかどうかわかりませんが、おみこしを担ぐ場合、どうでしょう?一生懸命担ぐ人もいれば、時にはかけ声ばかりで、担いでいない人も出てきます。一番、大切なのは、「自分は一体、どのからだの器官として働いているのかな?」という意識です。その次に大切なのは、それらを組み合わせるということです。たとえば、ゴスペルではいろんな人が奉仕しています。音楽を指導する人、伴奏する人がいます。後ろから歌ってあげる人もいます。会計さんとか新来者を歓迎する人、「上手!」と励ます人もいます。近所だったら友人になることも可能です。何かのため、祈ってあげることもできます。そうやって、チームで伝道することをボディライフ、あるいは網による魚捕りです。

網、ネットはいろんな意味があります。もし、網の目が大きすぎるならば、大きな魚しか捕れません。網の目がもっと細かいならば、小さい魚も捕れます。でも、問題なのは、網が破れている場合です。せっかく網に入ったけれど、途中から出て行ってしまう。網の破れとは何でしょう?それは、網自体に問題があるということです。内部で争っていたり、愛が欠乏している場合です。何かの罪が放置され、躓きを与えているかもしれません。牧師やリーダーは特に責任があります。Ⅰコリント13章には「愛とはどんなものか」について記されています。どんな賜物や能力があっても、愛がなければ無に等しいとまで書いています。この世は賜物や能力が最も重要視されます。仕事ができるかできないか、知識があるかないか、技術があるかないかです。しかし、キリスト教会、からだの教会は、愛の方がもっと重要になります。Ⅰコリント135-7「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」私たちは「ああー、自分にはないなー」と愕然としてしまいます。でも、「愛」をイエス様に置き換えたらどうでしょう?「イエス様は寛容であり、イエス様は親切です。」アーメン。イエス様を知り、イエス様にとどまり、イエス様に現れていただくときに、愛が出てくるのです。イエス様の愛とイエス様の福音がマッチするとき、人々が救われていくのではないでしょうか?

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2010年12月 5日 (日)

能力付与     マルコ3:13-15、Ⅱテモテ2:2

能力付与ということばはあまり耳にしたことがないと思います。英語ではempowering、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。権威の委譲ではちょっと堅苦しいと思います。私はセルチャーチネットワークに属していますが、この「能力付与、エンパワリング」は教会にとって重要な原則の1つになっています。まず、聖書において典型的な例をあげるならば、能力付与がどういうものか分かるのではないかと思います。まず、モーセがヨシュアに能力付与しました。モーセは40年間、イスラエルの民を導きました。しかし、約束の地であるカナンを指導するのは、モーセではなくヨシュアでした。ヨシュアはいきなり新しいリーダーになったのではなく、長い間、モーセの従者として仕えていました。新約聖書ではパウロがテモテを見出し、能力付与しました。さらに、パウロは他の人に能力付与するようにテモテに命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?しかし、能力を付与するためには、3つの段階が必要です。第一は行くべきゴール(目標地点)です。第二は今どこにいるのか(現在地)を知らなければなりません。そして、第三はどうやってそこまで行くのかという方法であります。

1.行くべきゴール

 私たちは何をするにしても、まず、ゴールを決めなければなりません。ゴールというのは、目標地点、あるいは青写真です。まず、初めに最終的にどうなるのかという青写真が必要です。たとえば、何か建物を建てるとします。「ここいらに柱を立てて、梁を組んで、屋根をかけよう」という人はいません。まず、設計図を書いて、それにしたがって順番に建てていくのです。犬小屋くらいなら、行き当たりばったりで建てられるかもしれません。今、スカイツリーが建てられています。現在は、500メートル越えています。ゴールは、ムサシ、634メートルのようです。音楽では楽譜、料理ではレシピ、機械では設計図、呼び方は違います。でも、物ごとを始める前に、最終的な完成図を見る必要があります。結婚や子育て、老後の生活にも青写真が必要です。どうでしょうか?行き当たりばったりで、毎日、過ごしておられるでしょうか?では、聖書が望むクリスチャンの完成図、青写真というのはどういうものなのでしょうか?案外、教会では、イエス様を信じて洗礼を受けることがゴールになっています。「ああ、救われた。良かったねー。おめでとう」。「後は何をするんですか?」「日曜日に礼拝を守り、献金して、聖書を読んで、お祈りして、何か奉仕すれば良いです。そのうちお迎えが来ます」。クリスチャンの完成図、最終地点とは天国に行くことでしょうか?そうではありません。天国に行くことが救いの目的ではありません。救われたからには、この地上でなすべきこと、あるいはクリスチャンとしての成長のゴールがあるはずです。クリスチャンとしての完成図、青写真、これが必要です。これがないと、天国を待ちながら生きる退屈な信仰生活を送ってしまいます。

 では、その完成図、青写真とは何なのでしょうか?実は私は10年後に引退することになっています。この教会の主任牧師を辞めて、他のだれかに任せる。そして、私は他の枝教会を牧会しながら、たまには顔を出す。私は今、コーチングをしていますが、将来はもっと多くの先生方をコーチングしたいと思います。どこか亀有の枝教会を牧会しながら、いろんなところに出向いて行く。日本には孤独な牧師がたくさんいらっしゃいます。コントロールするのではなく、友だちになってお助けする。大津の浜崎先生、練馬の小笠原先生がそのような働きをしておられます。とりあえずこの教会の牧師をだれかにバトンタッチするという大切な事業があります。多くの教会はバトンタッチに失敗しています。私たちは聖務表の日課で、旧訳聖書の列王記というのを学びした。残念ですが、ほとんどの王様が失敗しています。ヒゼキヤは比較的、良い王様でした。しかし、その息子のマナセは最も悪い王様でした。主は、マナセが犯した罪のゆえにユダ王国を赦そうとはしませんでした。後継者はとっても重要です。でも、みなさん、きょうは能力付与というテーマで学んでいます。能力付与というのは、リーダー一人だけを育てるのではありません。すべての聖徒たちを弟子として育て、そこからリーダーが生まれ、牧師が生まれて来るのです。つまり、教会員を育てて、底上げてしていかなければなりません。そうしないと、キリストのからだなる教会として、成長することができません。全体が成長していく。そこから、牧師が生まれて来る。これが聖書的なゴールです。

 それでは「クリスチャンとしての、全体的な完成図、ゴールとは何なのか?」と質問が出てくるでしょう。実は、昨年からずっとやって来た「信仰の12のDNA」こそが、そうなのであります。これは、救いから順番にはじまり、最後に管理者、指導者になるように組み立てられています。ちょっとおさらいしてみましょう。第一のDNAは、「救い」でした。福音を信じて救いの確信を持つということです。第二のDNAは、「聖書信仰」でした。誤りなき神のみことば聖書に信仰生活を築き上げるということです。第三のDNAは、「癒しと解放」でした。神の子としてのアイディンテティをしっかり持つということです。第四のDNAは、「キリストの弟子」です。整えられて神さまから与えられた使命を果たすということです。第五のDNAは、「聖化」です。罪から解放されて御霊の実を結ぶということです。第六のDNAは、「共同体」です。一人ではなく共同体として成長するということです。第七のDNAは、「信仰」です。神から与えられた信仰を用いてダイナミックに生きるということです。第八のDNAは、「家庭」です。第九のDNAは、「賛美と感謝と告白の生活」です。第十のDNAは、「教会」正しい教会観です。第十一のDNAは「指導者の育成」です。第十二のDNAは「管理」です。教会のマネージメントです。ちなみに、きょうお話している内容は、第十一の「指導者の育成」に関係する内容です。12では多すぎるかもしれません。昨年から、「二つの翼」というのを学んでいますが、そこは6段階になっています。とにかく、12のDNAこそが、クリスチャンのゴールです。

2.現時点

 ゴール、目標地点が分かってから次にすべきことは何でしょうか?そうです。「現在、自分はどこにいるのか?」ということが分からなければなりません。たまに、「亀有教会に行きたいのですけど?」という電話があります。私は「どちらから来られますか?」と聞きます。たいていは、電車で来ますので、「南口からこのように来れば良いですよ」と教えます。しかし、困るのは、途中で、迷って自分が今どこにいるか分からない人です。「環七まで来てしまいました」と言われると、「そこに何が見えますか?」と聞かなければなりません。とにかく、自分が今、どこにいるのかを知る。それは、クリスチャンの信仰過程にも言えることです。「クリスチャン成長の勘所」というのがあれば良いと思います。洗礼を受けてから、どういう問題にぶち当たるのか?何をクリアーしたら成長するのか?何があるとうまく成長できないのか?信仰の成長というのは、なだらかなスロープを登るというよりは、何かの壁に当たり、そこを乗り越え、ぐっと成長する。ガク、ガク、ガクと段階を経て成長するのではないかと思います。逆に言うと、その壁を乗り越えないうちは、壁の手前で成長がストップするということです。何らかの壁を乗り越えられないために、成長がストップする、あるいは教会に全く来なくなる。そういうケースがあるのではないでしょうか?ですから、問題が起こってからではなく、健康な時に、予防注射をしておく必要があります。「これから先、こういう問題が起こる可能性がありますよ、心してください」とかです。

 しかし、自分がどこにいるのか?これから先、どんな問題があるのか?分かりそうで分からないですね。そのためには診断が必要です。健康診断に行きますと、まず、身長とか体重を測ります。その後、視力、聴力、レントゲン。さらには尿とか血液、血圧、いろんな検査をします。最後に問診というのがあります。お体の具合どうですか?睡眠時間は、ストレスはどうですか?信仰生活の面でもそういう診断するものがあれば良いですね。実は、昨年の関東コーチングで渡辺牧師が「弟子のプロフィール」なるものをあげました。10個の項目があり、左側にボックスがり、チェックするようになっています。各教会によって、あるいは牧師によって表現の仕方が微妙に違いますので、そのまま持ってくるわけにはいきません。でも、先ほどの信仰の12のDNAと照らし合わせながら、クリスチャンの成熟度を測るチェックリストがあっても良いと思いました。これから、いくつかあげてみたいと思いますので、ご自分でチェックしてみてください。第一は「救いの確信はあるだろうか」。自分は救われているので、天国にいつでも行けるということです。イエス様は心の中にいらっしゃるということです。これはクリスチャンとして、最低限、必要です。第二は「聖書を神のことばと信じて、いつも聖書を読んでいるか」ということです。日々、ディボーションをしているかと言っても良いでしょう。第三「心の傷が癒されているか?」ということです。キリストの十字架の血しおを仰いで、悪霊から解放されているかということです。第四は「キリストの弟子として歩んでいるか」ということです。イエス様は救い主だけではなく、私たちが従うべき主であり、王様だということです。第五は「古い自分に死んで、御霊によって歩んでいるか」ということです。「聖霊に満たされているか」と言っても良いでしょう。第六は「兄弟姉妹との関係です」互いに愛し、互いに励まし、互いに建て上げ合う関係が大事です。第七は「信仰を用いて生きているか。祈って勝利しているか」ということです。第八は「家族との関係を大事にしているか」ということです。

 8つも言うと、頭がいっぱいになりますね。でも、ここにはリーダーとか指導者のチェックというものがありませんでした。私たちはリーダーとか指導者というと、この世の価値観で判断してしまいます。この世では、能力があって人々を指導できる人がそうなのかもしれません。でも、神の国においては、目に見えない部分が、まず重要です。また、自分がみことばを読み、自分がキリストに従っているかどうかが重要であります。人を指導するとか、人を動かすというのは二の次、三の次であります。一番重要なのは、神さまとの関係、人との関係、そして心の中にある価値観とか態度であります。人を指導するとか、人を動かすというのは、神さまがくださる賜物であります。神さまの賜物ですから、持っている人もいれば、持っていない人もいます。ですから、みんながリーダー、みんなが指導者にならなくても良いのです。逆に言うと、リーダーや指導者になることがゴールではありません。新興宗教やその他の団体では、幹部になるのがゴールかもしれません。多くの人を導いて、たくさんのものを売り上げて、資格を取って、幹部になっていくのでしょう。しかし、イエス様はそうはおっしゃっていません。イエス様は人々に仕える人がリーダーであり、指導者であるとおっしゃいました。イエス様が教えられたリーダーシップは人を支配するのではなく、人に仕えることから与えられるものです。人々に仕えたら、「ああ、あなたがリーダーになってください」と人々が推薦するのです。この世では、はじめに立場や身分が来ます。「私は偉い立場についているのだから、あなたがたは従え」であります。私たち教会はそうではなく、全く逆です。「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」これが重要なポイントです。神さまはこれだと思う人に、リーダーや指導者の賜物を与えられます。なぜなら、イエス様がこの教会のかしらだからです。もし、リーダーや指導者の賜物を与えられていると自他共に認めるならば、それこそへりくだって、その使命を果たすべきであります。しかし、基本は「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」であります。

3.どのように

 ゴール、目標地点が定まったならば、そこまでどのように行くかです。たとえば私が、大阪まで行くとします。東京から大阪まで、いろんな方法があります。新幹線で行くか、あるいは飛行機もあります。高速バスもあります。4人くらいですと車が安価です。他に、バイク、自転車、フェリーもないわけではありません。クリスチャンとしてこのようになりたい。こうなるべきだという青写真が描かれたとします。そこまで行くためにはどうしたら良いでしょうか?エペソ人への手紙4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師がいます。もちろん、そういう人たちは大切です。問題は、その教え方であります。キリスト教会の場合、メッセージとかセミナーで、口頭で教えることがメインになっています。神学校へ行っても、教室で一定のカリキュラムをこなすというのが一般的です。でも、お医者さんになるとしたらどうでしょうか?教室で一定のカリキュラムをこなすだけで良いでしょうか?やっぱり、臨床というか実践が必要です。先生のもとについて何年間かインターンをして、それから一人前になります。一人前になるまで、一人か二人殺すかもしれません。分かりません。では、クリスチャンは、どうしたら、キリストの弟子となってそれぞれ与えられた使命を果たすことができるのでしょうか?ただ、一方的に教えを聞くだけでは不十分です。しかし、教会は2000年も教えを中心にして人を育てています。私もその一人かもしれません。では、イエス様はどうなされたのでしょうか?イエス様が12弟子を育てた方法が最も、すばらしいのではないかと思います。イエス様はご自分が天にお帰りになるまで、弟子たちに能力付与をちゃんとなされました。マルコ3:13-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」ここに素晴らしい、イエス様の能力付与の模範があります。イエス様は弟子たちを身近に置きました。そして、福音の宣べ伝え方、悪霊の追い出し方を実際に指導したでしょう。そのとき、技術や知識だけではなく、霊的な権威も与えられました。イエス様は3年半、弟子たちを訓練しました。

 イエス様の教え方は神学校とは全く違います。神学校の場合は3年か4年、知識を詰め込むだけ詰め込み、卒業したらポーンと現場に出されます。伝道師になり、数年後は牧師になるでしょう。その牧師は教会の人たちをどのように教え、どのように訓練するでしょうか?そうです。自分が神学校で教えられたものを小出しにするのです。神学校のテキストの焼き直しです。もちろん、良いものもあるでしょう。しかし、自分が現場で学んでいないので、教室スタイルのものしか提供できません。もし、自分がイエス様の弟子のように、現場で学んでいたら、その教え方も違うでしょう。スポーツはどのように学ぶでしょうか?サッカー、バスケットボール、野球、水泳、何でも良いです。教室で理論もある程度学ぶでしょう。でも、実際はグラウンドや体育館で体を動かしながら学ぶでしょう。料理やお花、陶芸、ピアノ、書道、なんでも良いですが、実技が絶対必要です。そのときに、教えてくれる先生、あるいはコーチが必要です。先生、あるいはコーチはお手本を示しながら、「こうしなさい、ああしなさい」と易しいものから、難しいものへと伝授していくのではないでしょうか?しかし、キリスト教会は西洋的な教室スタイルがメインです。その背後には、「人は教えたら変わる」という知性偏重があるからです。残念ですが、知的な勉強だけでは人は変わりません。また、成長もしません。私はこのことを牧師になって、23年たって、やっと分かりはじめたところです。もう、ダメなんです。私の勉強の仕方は、メッセージとセミナーと本です。大変申し訳ありませんが、私のセルリーダーの任命の仕方は丸投げ方式でした。「リーダーもみなさんが推薦して選んでください。」「セル集会は、何をやっても結構です。」そうやって、特別にリーダー養成をするわけでもなく、また、個別にフォローアップするわけでもありません。本当に丸投げ方式でした。申しあげますが、私が一番不足していたことは、この能力付与でした。人々を養育し、力を与え、やがて自立して、与えられた使命を果たすことができる。このことをほとんどやっていませんでした。

 数年前からやっと、コーチングというものを学びました。メッセージや教えも、もちろん大切です。でも、能力付与をするためには絶対、コーチングが必要です。コーチングをすると、その人が今どの地点にいるか分かります。癒されていない部分もあります。でも、癒しがゴールではありません。健康になってから、神さまが与えてくださったゴールに到達することです。まず、信仰のDNAにあるように、クリスチャンとして霊的に成長すべきでしょう。言い換えると、子どもから若者、そして父に成長していくということです。しかし、神さまがその人に与えられた賜物と使命というものはそれぞれ違います。コーチングはその人と一緒に、神さまがその人に与えた賜物と使命を確認する必要があります。ある人たちは、「はっきり私の賜物と使命はこれです」と分かっています。しかし、ある人たちは「何ですかね?」と漠然としています。神さまに聞けば、必ず、答えてくれます。そのゴールを発見したら、こんどは、その人がゴールにたどりつけるように、コーチすれば良いのです。主役はその人自身であり、コーチはあくまでも脇役です。その人がイエス様と一緒に歩んでいけば良いのです。使徒パウロはテモテの霊的な父であり、またコーチでした。パウロは私に倣いなさいと何度も言いました。ある人は「私の教えることは学んでも良いが、行ないは学ばないように」と言います。しかし、それは間違った教師であり、間違ったコーチです。パウロはテモテを見出し、テモテを訓練し、テモテに能力を付与しました。それだけではありません。パウロはテモテに他の人を訓練し、他の人に能力を付与するように命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?自分がイエス様の弟子になる。これもすばらしいゴールです。でも、それだけで終ってはいけません。自分が新しいイエス様の弟子を作り、その弟子が次の弟子を作る。そのような弟子の再生産がなされるべきです。私たちは死ぬまで、天国に行くまでやるべきことがあります。それは弟子の再生産です。

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2010年9月12日 (日)

走るべき道のり     Ⅱテモテ4:6-8 

 パウロは、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と言いました。Ⅱテモテはパウロが書いた最後の手紙ですので、これはテモテに宛てた遺言のようなものです。パウロは自分の人生が何のためにあるのか良く知っていました。そして、今、走るべき道のりを走り終えようとしているところです。それは、まもなく天に召されるということです。そこでは、イエス様から義の栄冠を受けることができます。私たちもパウロのような「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」という人生を送りたいと思います。英語で、finish well は、直訳すると「良く終る」という意味です。キリスト教的に言えば、「堕落しないで、最後まで忠実に走り終える」ということになるでしょうか?私たちは人生において走り終えるべきものがあると思います。それが仕事であったり、奉仕、あるいは家庭としての働きではないでしょうか?

1.仕事と家庭

仕事は、私たちの人生にとってどれほど重要なものなのでしょうか?また、家庭との関係はどのようなものであるべきなのでしょうか?仕事の起源は、創世記2章に遡ります。最初の人間であるアダムはエデンの園において、土地を耕していました。動物たちの名前をつけていますので、何らかの交わりもあったと思います。しかし、罪を犯して、堕落してから、どうなったのでしょうか?創世記3章には罰として、2つのことが強いられるようになりました。女性はみごもりの苦しみを受けました。「あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と主が言われました。男性にはどうでしょうか?「土地が呪われたので、あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」と言われました。エディ・レオ師がこんなことを言ったことがあります。それでは、女性と男性ではどっちらが苦しいだろうか?女性の産みの苦しみは、半ぱじゃありません。「本当に苦しい!」そうです。これは男性には分かりません。では、男性はどうでしょうか?「一生、苦しんで食を得る」とありますので、一生、労働の苦しみが与えられるということです。女性は一生で何人の子供を産むでしょうか?平均3人位ではないでしょうか?現代はもっと少ないかもしれません。一生において、3度、死ぬほどの大きな苦しみを体験するということです。一方男性は、死ぬほど大きくはないかもしれませんが、一生ずっと労働の苦しみがあります。では「どっちが苦しいでしょうか?」ま、今は、女性も働いていますので、愚問かもしれません。

でも、ここに勤勉である日本人がよーく知るべき点があります。人間が堕落してから、仕事にも呪いが入ったということです。聖書的には「汗」というものは呪いの象徴であります。もちろん、良い汗もあります。勤労の喜びというのもあるでしょう。しかし、仕事をすればするほど、どんなことが起こるでしょうか?男性は仕事中毒になります。仕事ばっかりして、家庭を顧みなくなる場合もあります。そのため、子どもがおかしくなったり、離婚ということもありえます。男性はどういうわけか、仕事は好きなんです。仕事中毒になりやすいのです。そして、仕事、つまり職業というものが、自分のステイタスになります。職業が自分の身分や価値を決めるということです。どうでしょう?「あなたはだれですか?」と人に聞くなら、普通は、自分の職業を答えるのではないでしょうか?もし、自分が一流企業の重要なポストにいるならば、名刺も出しやすいですね。でも、それがいつまでも長続きするわけではありません。失敗して左遷されたり、クビになるかもしれません。会社が倒産する場合もあるでしょう。無職になるとどうなるでしょうか?全部、失った気持ちになるかもしれません。幸い、停年退職まで会社で勤めたとしてもどうでしょう?退職したら、やはり、その身分を失います。男性はとたんに鬱になり、生きる目的すらも失うようであります。今は、「社友」と言って、会社のOB会に属することによって、緩和するように工夫されているようです。でも、気付くべき点は、職業(仕事)は、自分の本質的な身分ではないということです。なぜなら、いつかなくなるからです。それなのに、医者や弁護士、一流企業あるいは、公務員のエリートコースを目指して頑張っています。悪いことではありません。でも、職業が自分の身分、アイディンテティではないということを知るべきです。

では、何のために仕事をするべきなのでしょうか?また、家庭との関係はどうなのでしょうか?パウロはⅡテサロニケにおいて、こう教えています。Ⅱテサロニケ310「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」。12-13節「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行いなさい」と書いてあります。つまり、労働というものはパン、食物を得るためであります。また、社会に貢献するためにあります。日本では「働かざる者、食うべからず」ということばがあります。しかし、聖書は「働きたくない者は食べるな」と言っています。この2つには微妙な違いがあります。聖書は、働きたくても働けない人のことを考えているということです。そして、「働けるのに働かない者は食べる権利はないよ」と言うのです。ですから、私たちは健康である限りは、自分で働いて、糧を得るという責任があります。でも神さまは、どんなお方でしょうか?天の父は空の鳥を養い、野の花を育てて下さいます。「ましてや、神の子である私たちを良くしてくださらないことがあろうか」とおっしゃっています。つまり、天と地を造られた神さまが、あらゆる源であって、私たちに必要なものを恵んでくださるということです。日本人は世界で最も勤勉な人種でありますが、天の父に対する信仰がありません。だから、たとえ寝ないで働いても、満たされることがないのです。また、日本は家庭よりも仕事が大事だという価値観があります。昭和の高度成長期は、このように考えられたのではないでしょうか?夫は外で働くことが仕事、妻は家で家庭を守ることが仕事、子どもは勉強と分業制にしました。それは家族ではなく、まるで会社であります。するとどうなるでしょうか?子どもに何か問題が生じたときに、夫は妻に「家のことは全部、お前に任せているんだから」と言うでしょう。つまり、子育てのことは全部、妻がやって自分には責任がないということになります。そういう父親不在のために、大きな間違いを生じさせてしまったのです。確かに時間的な割合は少ないかもしれませんが、家庭における父親の責任、父親しかできない役割もあるのです。家庭は会社と違います。決して、分業ではないことを知るべきです。昔、モレクという醜悪な偶像礼拝がありました。自分の愛する子どもを火の中に投げ入れることが、信仰の証でした。現代のモレクとは何でしょうか?家庭の父親が仕事を偶像にしているということです。そして、モレクに最愛の子どもささげているのです。「俺は仕事で忙しいんだ」と家に帰りません。しかし、お家では妻や子どもが泣いています。まさしく、モレクの偶像です。

日本の場合は、仕事至上主義で、単身赴任がよくあります。妻だけで、子どもを育てます。そして、本来なら夫に分かち合うべきことを、子どもに分かち合ってしまいます。子どもがお母さんのカウンセラーになります。また、ある場合は、数年で転勤させられることもあるでしょう。そうすると、子どもは転校しなければなりません。「でも、生活のために仕方がない」と言います。しかし、欧米にはそういう考えはありません。昔、阪神にバースというホームラン・バッターがいました。彼の子どもがアメリカで重い病気にかかりました。絶好調だったのに、バースはさったと球団を辞めて、国へ帰りました。彼にとっては、仕事よりも家族が第一だったのです。日本人としてはとても不思議に思われました。現在、バースはオクラホマ州の上院議員として活躍しています。私は建設業から、小さな貿易会社に入社しました。私がミスすると先輩は「たかが、仕事じゃないか?人生にはもっと大事なことがあるよ」と励ましてくれました。彼はクリスチャンだったのです。仕事を馬鹿にするわけではありませんが、ギリシャやローマ時代は、仕事をするのは奴隷でありました。一般の市民は政治や哲学をしていたのです。私が言わんとしていることは、職業が自分の身分やアイディンテティではないということです。私たちが持つべきアイディンテティとは何でしょうか?それは、私は神の子、クリスチャンであるということです。この身分は退職後も、持ち続けることができます。私も牧師である前に、神の子、クリスチャンであることの方が大事だと思っています。でも、みなさん神さまは私たちに天職、これをもって神の栄光を現しなさいという仕事も与えておられるということです。その仕事をもって人々に仕えることができたら幸いです。現代はお金儲けがすべてみたいなところがありますが、社会に役に立つ生産的なものであるべきです。イエス様はこの地上では、大工をなされ、仕事を聖めてくださいました。私たちも神さまから手のわざが祝福され、必要が満たされるように、大胆に求めていきたいと思います。アーメン。

2.老いと死

 年を取るというのは、一般に嬉しくないものです。子どものときは誕生日が来ることは嬉しいことでした。しかし、大人になると誕生日が来ることがあまり嬉しくありません。特に、40、50、60と、桁数が変わるときはショックであります。それと同時に、体力も気力も記憶力もガクンと落ちてきます。ですから、おのずと自分の年を受け入れなければなりません。女性では更年期というのがあります。男性もありますが、女性の方がいろんな障害が起こります。教会では霊的なことばかり強調されますので、更年期になって感情が不安定になると、「霊的じゃない」と裁かれるかもしれません。確かに、更年期になるとホルモンのバランスの変調から、感情も不安定になるようです。私たちはこういうことをあらかじめ知っておかないと、裁き合ったりする可能性もあります。今は、いろんなサプリメントとか自然食品で軽くする方法もあるようです。また、家の中でじっとしていないで、何か気持ちをまぎらわすことをすると良いということも聞いています。とにかく、夫の理解と労わりが必要だということです。また、もう1つ「空の巣症候群」というのがあります。ウェブで調べてみました。「40代から50代の女性によく見られる抑うつ症状。子育てが終わり、子どもが家を巣立っていったあたりから出てくる事が多いので、こう呼ばれる。子どもが自立し、夫は仕事で忙しく、構ってくれず、夫婦生活もないに等しくなり、涙もろくなる。夫の定年が近いと、退職、即離婚といった方に展開していく事もある。」今までは、子どもがいたので、何となくやってこれました。しかし、今度は夫と二人っきり。話す話題もありません。どうしてもうつ的になります。

少し前の「共同体」のところで、私たちは色んなコミュニティに属する必要があると申し上げました。奉仕やボランティアも良いと思います。教会は神の家族ですから、育てるべき霊の子どもがたくさんいます。そういう意味で、いくらでも、必要があるのではないかと思います。また、男性にとっても、女性にとっても、一生涯貫くものが必要です。前のポイントでお話ししましたが、男性は退職してしまうと自分のアイディンテティもなくしてしまいます。女性ですと、子育てが終ったり、若さと美貌がなくなると、自分の存在価値もなくなった感じがします。ですから、たとい老いがやってきたとしても、継続すべきものが必要です。一般的には趣味とかボランティア、お稽古ごとが良いと言われています。しかし、私たちクリスチャンはもう一歩踏み込んだ、神さまとの関係でそういうものがあれば幸いです。堅苦しい言葉でいうなら、使命とでも言いましょうか?自分の一生涯貫くテーマというものはないでしょうか?もし、それが自分の職業と結びついている場合もあるし、そうでないものもあるかもしれません。たとえば、音楽はどうでしょうか?職業としてできる人はほんの一部かもしれません。でも、音楽を通して一生涯、神さまや人々のために、できることってあるのではないでしょうか?賛美やゴスペルでも良いし、日曜学校もあります。また、自分の興味あることを研究するというのはどうでしょうか?たとえプロにならなくても、アマであってもかなりの領域に達することのできるものはたくさんあります。私は聖書の他に、心と体の癒しに関してとても興味があります。ですから、退職後はカウンセラーもしくはコーチとして働き場を求めていきたいと思います。みなさんの中にも得意分野、専門分野というものが1つや2つはあるのではないでしょうか?それを神の国の1つに取り入れて、伝道のために用いることもできます。本郷台キリスト教会では、囲碁のサークルもあります。また、山登りもあります。一人でお住まいのお年寄りのために弁当をつくるグループもあります。自然食、菜園、絵画、習字、さまざまなものがあります。当教会でも、この間、お茶会がありました。ゴスペル、フラ、サインダンスもあります。私たちは生きている限り、一生、勉強であり、一生、何かのために働くことができます。でも、手足が思うように動かなくなったらどうしたら良いのでしょう?祈りこそが、もっともすばらしい奉仕です。本来、祈りによって多くのことができたはずです。でも、自分の体が丈夫だったために、祈りに時間を割かなかったということもあります。しかし、手足が思うように動かなくなったら、最も効果的な、とりなしの祈りをすることができます。祈りこそ、神の御手を最大限に動かすものがないのに、どうして、私たちは祈りを後回りにするのでしょうか?ですから、老後に再発見すべきものは祈りだということです。人々からいろんな祈りのリクエストをいただいて、「私は祈るのに忙しい!」となったらすばらしいと思います。

老後とは何でしょうか?人生の冬でしょうか?確かに、人生の冬と言えるかもしれません。でも、見方を変えるならば、人生の収穫期かもしれません。「私は走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した」という満足感は、何よりも代えがたいものではないでしょうか?マイ・ウェイというフランク・シナトラの歌があります。また、マイ・ウェイという映画もありました。未信者のときは、あのような生涯を送りたいと憧れました。「すべては、心の決めたままに」生きたいと思いました。しかし、クリスチャンになると、マイ・ウェイではありません。ヒズ・ウェイであります。イエス様が道であり、真理であり、命だからです。イエス様に導かれ、神さまが進みなさいという道を歩むのです。この世の中から見たらどうか分かりませんが、神さまの御目からみたら、「アーメン、ハレルヤ!」であります。finish well は、「良く終る。堕落しないで、最後まで忠実に走り終える」という意味であると申し上げました。私たちにとっては、「私は走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通す」ということであります。ある人が調べました。聖書に出てくる人物で一体、どれくらいの人が、finish well走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したのか?なんと30%だそうです。70%の人は、うまくいかなかったということです。サウル王やソロモン王は、最初はとても良かったです。しかし、最後は悲惨で、神さまから捨てられました。すばらしいことに、ヨシュアとカレブは最後まで信仰を守り通しました。香港のベン・ウォンが私たちに聞きました。「世界の牧師がどのくらいfinish wellしているでしょうか?」その答えは20%だそうです。聖書よりも率が悪いのです。私が知っている、活躍している牧師たちも「不祥事で辞めた」という人が何人もいます。私は、主のあわれみによって、なんとかfinish wellをしたいと願っております。

そして一番、最後に死がやってきます。老後の場合もあるし、「人生の半ばに」という人もいないわけではありません。お役目柄、今まで、他の人のお葬式は何十人もやってきました。火葬場に入って、お骨を引き上げるのも立ち会ってきました。いずれは、「私もあの中に入るのかなー」と思います。できたら、私の場合は、「お骨を拾うことは無しにして、人々がお茶を飲んでいる間に、係り員によって骨壷に入れてもらいたいなー」と思います。ハワイでは実際、そのようにやっているそうです。「全部、見せるというのは恥ずかしいなー」と思います。今後、そういう方がおられましたら、そのようにすることも可能です。ご検討ください。でも、それよりも大切なのは、死ぬときが来た時であります。『死ぬ瞬間』という本があるようですが、読んだことはありません。世の終わりの再臨が来ない限りは、みんな死ぬことになります。ですから、死に対する備えが必要です。ご家族が未信者の場合は、「お葬式は、キリスト教式でお願いします」と一筆書いておかれた方がよろしいと思います。たとえ仏式でも本人は天国に行けます。でも、伝道になりません。教会のお葬式は、一生一代の伝道集会であります。一人でも多くの人が、道連れに天国へ、いや、救われて天国に入れたら良いですね。

私もいざ、死ぬときが来たら、怖いと思いますが、安心に思うところもあります。なぜなら、イエス様も死を経験なさったからです。イエス様は十字架で「私の霊を御手にゆだねます」と祈られました。まるで、自分が子どものようになって、御父にゆだねたのです。また、ステパノも同じ祈りをしました。ステパノもイエス様に倣ったのでしょう。天が開けて、イエス様が見えるかもしれません。でも、見えるのは本人だけで、周りの人はわからないかもしれません。御使いがお迎えにこられて、貧乏人ラザロのように天に引き上げてくださるでしょう。きっと、二人の御使いが両脇を抱えて、パラダイスに引き上げてくださる。多くの人たちは天国があまりにもすばらしくて、もう帰る気がしなくなるそうです。アフリカのガジマという牧師も一度死んで、天国に行きました。イエス様が「戻れ」と言っても、彼は「いやだ、ここが良い」とごねたそうです。でも、イエス様が命じるので、地上に戻ってきた。そして、自分のからだの中に飛び込んだそうです。そうして、生き返ったのであります。よみがえる場合は、病気や怪我も治っているそうです。ま、そういうこともあるかもしれません。神さまから信仰が与えられたときは、「よみがえれ!」と大胆に、命じてください。でも、そうならない場合は、お送りしましょう。私たちは行くべきところがちゃんとあります。ですから、キリスト教では死と言わないで、召天、「主が召してくださったのだ」と言います。私たちはこの地上から、天に移り住むのです。残された人はそれでも悲しいと思います。特に、自分の子どもが召された時はそうでしょう。この地上では、「どうしてなんだろう?」ということがたまにあります。でも、聖書に「あとになってから分かる」つまり、天国に行ってから分かるということがあります。おそらく、そちらの方が多いかもしれません。パウロは「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と言いました。アーメン。天国ではいくつかの冠があります。私たちが忠実に信仰を守りとおしたならば、素晴らしい報いが与えられます。この地上とは比べようもない素晴らしい世界です。神ご自身が涙をぬぐってくださる。死もなく、悲しみ、叫び、苦しみない。涙も、別れもないすばらしいところです。

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2010年2月14日 (日)

聖書の権威    Ⅱテモテ3:15-17、Ⅱペテロ1:21

 キリスト教の信仰とは何かと聞かれたら、私は「聖書の信仰である」と答えるでしょう。世界にはたくさんの宗教がありますが、それぞれが経典を持っています。経典というのは彼らの教えの土台であります。イスラム教においてはマホメットの教えであるコーランが経典です。仏教にもいくつかの経典があるでしょう。ユダヤ教においてはトーラーという私たちと同じような律法の教えがあります。しかし、タルムードという解説書も同等の権威があります。では、聖書は「キリスト教の経典なのか?」というと厳密にはそうではありません。なぜなら、旧訳聖書はイスラム教やユダヤ教において経典の一部となっているからです。私たち保守的なキリスト教会は、旧新約聖書を他の宗教と相対的な経典であるとは理解はしていません。聖書は、他と比べることができない、神からの唯一の啓示の書物であると信じています。つまり、聖書が啓示している神がまことの神であり、聖書が啓示しているキリストこそがまことの救いの道であると信じているのです。

1.聖書のなりたち

ヘブル11-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」このみことばは聖書のなりたちを教えているすばらしい箇所です。父祖たちとは、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨブなどです。預言者とはモーセ、サムエル、イザヤとかエレミヤです。預言者ではありませんが、ダビデ王やソロモン王も聖書を書きました。新約聖書になると、使徒であるマタイやヨハネが福音書を書いています。マルコやルカはイエス様の直接の弟子ではありませんでしたが、背後に使徒ペテロや初代教会の証人たちがいます。ヘブル書は「多くの部分に分け、また、いろんな方法で語られた」と書いてあります。聖書は66巻ありますが、完成するまでに1600年かかったと言われています。それぞれの時代の人たちが、それぞれの場所で、何の打ち合わせもなしに聖書を書いたのです。多くの部分をまとめたものを、私たちは旧新約聖書として、今ここに持っています。これは奇跡であります。1600年間、それぞれの時代の人が勝手に書いて、それをまとめても果たして一冊の本になりうるでしょうか?歴史において大作という本があるかもしれません。ホメロスも長大な叙事詩でありますが、聖書には及びません。シェークス・ピアもすばらしい文学作品を多数残しましたが、聖書にはかないません。では、1600年間、40人以上の人が何の打ち合わせもしないで書いた聖書に矛盾はないのでしょうか?確かに、矛盾と思われるような箇所もあります。だから、後代、啓蒙主義思想によって攻撃されることになるのです。でも、私はこのように信じています。私と言っても、保守的な神学の立場の一人として言うのですが、それは矛盾ではなく多様性です。聖書の書物は、それぞれ個性を主張しています。しかし、キリストを証言していることにおいては一致しています。これを「多様性における統一」と呼んでいます。

さらに、ヘルブ11には「いろいろな方法で語られました」とあります。このことばと、関係していることばが以下のことばです。Ⅱペテロ1:21「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」。 そうです。聖書はいろんな人たちが、いろんな方法で語ったものをまとめたものです。なぜ、文書にしたかと言うと、後代に残すためであります。口で伝えた伝承であるなら、消えるか、だんだん変質してしまうでしょう。しかし、文書に残すと失われることはありません。ですから、祭司たちは羊皮紙やパピルスに一点一画ミスのないように書き写していったのであります。原典というものは残されていませんが、現代私たちが持っている聖書は、おそらく99%原典に近いものであると思います。でも、Ⅱペテロ1章にあるように、聖書の筆者たちは自分の意思で勝手に書いたのでもありません。では、ロボットのように神様が操縦したように口や手を動かしたのかというとそうでもありません。「神・は・こ・う・い・わ・れ・ま・す」ではありません。「聖霊に動かされる」とは、「風によって帆船が動かされる」という意味があります。つまり、聖霊がその人の持っている語彙や知識、調べた資料さえも用いて、ご自分のことばを書かせたということです。ですから、聖書の一巻、一巻はとても個性的であります。たとえばマルコ福音書は「すぐに、すぐに」と行動的なイエス様を描いています。逆にヨハネ福音書は「あなたがわたしに、わたしがあなたに」と、とても瞑想的です。パウロの手紙は「ああだ、こうだ」と論理的です。ヤコブの手紙は「行ないがなければ死んだものだ」と実践的です。「神様は、その人が持っている知識や性格、考え方すらも用いているんだなー」と感動します。なぜ、4つの福音書があるのでしょうか?それは、4つの方向からイエス・キリストを描写したなら、より良く分かるからです。最近の映画は3D(ディメンション)で見ることができるようになりました。しかし、福音書は4つの方向、4Dだったんですね。ハレルヤ!

でも、1600年間、40人以上の人が何の打ち合わせもしないで書いた聖書が、誤りが生じないように聖霊様が働かれました。それを霊感と言います。そのみことばがⅡテモテ316です。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」アーメン。「神の霊感によるもので」というのは、英語の聖書にはインスパイヤーされたとなっています。これは「神の息が吹きかけられた」という意味です。神の息吹こそが、霊感、インスピレーションであります。一般に、インスピレーションと言うと、「ああ、何か、ピカッと来た」。発明や発見、作曲、何かのアイディアが浮かんだ時も使います。「そんなふうに使うな!」とは申しませんが、聖書が言っている、インスピレーション、霊感というものは特別な聖霊な働きという意味です。1600年間、40人以上の人が場所や時代を超えて書いたとき、彼らが誤りなく、神のみこころを書けるように聖霊が働きました。その聖霊の働きを霊感というのであります。確かに語彙や表現に幅があります。でも、神のみこころを間違いなく伝えるように、聖霊がすべての誤りから彼らを守ったのであります。神学者たちは、無謬説とか無誤説、あるいは逐語霊感説とかいろいろ言います。でも、そういう神学的なカテゴリーの中に入れてしまうと、かえっておかしくなります。私たちの理性では、「神の霊感とはこうなんだ、聖霊はこのように働いたんだ」ということを明確化するのは不可能なのです。ですから、このくらいの説明で良いのです。難しい、神学用語を持ってくるとかえって、自分の首を絞めることになります。とにかく、聖書が完成するまで、記者たちに働いた聖霊の働きを霊感と言います。ヨハネ黙示録で聖書は完成していますから、霊感という聖霊の働きも終ったのであります。私が「おお、神の霊によって、もう1巻聖書を書きます」と言ったなら、それは異端になります。しかし、「聖書は誤りなき神のことばである」と主張しているなら、正しいのです。聖書は何故、権威があるのでしょうか?それは神が人を通して書いたからです。表現を代えますと、神の霊感によって書かれたので権威があるのです。神の霊感は聖書66巻、創世記からヨハネ黙示録まで、一貫して働いています。聖書には、もちろん悪魔が言ったことばもあります。人間が語ったことばもあります。でも、それらも含めて、神の霊感によって、神様がご自分のみこころを知らせるために、聖書を書かせたのです。私たちが聖書を「神のことば」と言うとき、それは「神の霊感によって書かれた誤りのない神のことばである」という意味なのです。キリスト教会が、誤りなき聖書のことばに立っているから大丈夫なのです。なぜなら、聖書こそが私たちの信仰の土台だからです。

2.聖書の主題

聖書はいろんな見方があります。ある人は「聖書はすばらしい文学書だ」と言います。ヨブ記はおそらくどの時代よりも古い文学作品でしょう。詩篇や雅歌書も他の文学に負けないくらい巧みです。また、ある人は「聖書は歴史的にも価値がある」と言います。確かに聖書は歴史的に見ても耐えることができるでしょう。ルカという人物は「すべてのことを初めから綿密に調べて、順序を立てて書いた」と言っています。また、ある人は「聖書は科学の書物である」と言います。「創世記から生命の起源を知ることができる」と言います。また、ある人は「聖書は預言書であり、未来のことを預言している」と言います。また、ある人は「聖書は語学を学ぶためにとても良い」と言います。確かに聖書の英語は大変、整えられています。また、ある人は「聖書は難しくて、眠る前に読むととても良い。なぜなら、すぐ眠くなるから」と言います。確かに、聖書は文学的にも科学的にも歴史的にも耐えられる書物であると信じます。しかし、聖書の主題、聖書の目的はそういうものではありません。では、聖書の主題、目的とはひとことで言うとどうなのでしょうか?それは「キリストによる救い」です。「どのようにしたら人間は救われるのか?」これが聖書のテーマです。いろんな見方、用い方があることを否定はしません。でも、聖書の主題は「キリストによる救い」を書いているのです。このところを外れると、当時の律法学者やパリサイ人のようになります。彼らは聖書を一生懸命研究し、だれよりも聖書のみことばを守ろうとした真面目な人たちでした。しかし、聖書の主題が何かということを知りませんでした。イエス様は彼らにこのように語りました。ヨハネ539-40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」そして、ヨハネ2031「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメンです。私たちが聖書を読むときに、そこに啓示されている救い主イエス・キリストに出会うのです。そして罪から悔い改め、イエス・キリストを信じます。そうすると人は救われるのです。刑に服して独房にいる人も、この聖書を読んで救われることが可能です。あるいは、ラジオ放送から、聖書のみことばを聞いて救われる人もいます。ブラック・ゴスペルを歌って、ジーザスを受け入れる人もいます。でも、元は聖書、イエス・キリストを啓示している聖書であります。

しかし、聖書は人が救われるという一点だけのために私たちに与えられているのではありません。罪赦され救われてから、その救いが全うされるまでも必要なのであります。Ⅱテモテ316-17「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」私たちはこの世に生まれ、この世で育ってきたので、神のみこころからはずれた考えや行動の仕方を持っています。聖書はそういう私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練を与えるために必要なのです。そして、どうなるのでしょうか?「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」アーメン。私たちクリスチャンは神の人であります。でも、そのままだと不十分であって良い働きができません。そのため、神のことばによって教えられ、戒められ、矯正され、義の訓練を受ける必要があるのです。うぁー、これを聞くとイヤになるかもしれません。もう、「年齢的に大人なのにまた勉強か?何を直さなければいけないんだ!」と反発したくなるかもしれません。私たちは確かに霊的に救われました。でも、親やこの世の教育、会社での仕事の価値観、物質的な社会、マスコミ…聖書の真理とは必ずしも一致していません。この世でバリバリ働いている課長や部長が教会の役員になると問題が噴出します。彼らは会社の組織を教会に持ってきます。また、進化論的な能力主義、物質中心の価値観を持ってくるでしょう。会堂建築になると、そういう人たちは「信仰よりも現実を見なければならない。お金はどこから来るのだ」と主張します。ですから、この世で高度な学問を受け、社会的経験を積んだとしても、聖書の世界と相反するものがいっぱいあるということです。ですから、一度、子どものようになって、どれが聖書的で、どれが聖書的でないのか一から学び直す必要があります。建築でリフォームということばがあります。リフォームというのはカルバンの改革主義と同じ語源であります。彼らはカトリックからリフォームドしましたが、過去の1回だけではダメなのです。私たちは日々、みことばから教えられ、戒めを受け、矯正され、義の訓練を受ける必要があるのです。

聖霊は神のことばを人を介して書かせました。これを霊感と言います。でも、それだけではありません。聖霊は私たちが聖書を読むとき、これはこういう意味ですと悟らせ、そして私たちの生活にどう適用したら良いか教えてくださいます。この聖霊の働きを照明とか解明というふうに呼びます。私たちは人から「ああしろ、こうしろ」と言われるとむかっときます。でも、聖霊があなたの心の中に静かに語りかけてくださいます。聖書に聖霊は助け主であり、真理の御霊であると書かれています。ヨハネ1426「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ1613「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」アーメン。イエス様は天の御国にお帰りになられました。その代わり、イエス様はご自分の御霊、聖霊を遣わしてくださったのです。私たちはこのお方に導かれるとき、教えられ、戒めを受け、矯正され、義の訓練を受けるのです。でも、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師も必要です。この人たちは、聖書全体をバランスよく教え、みなさんを整えるように召された人たちなのであります。神様は聖霊と神の指導者を用いて、聖書を教え、戒め、矯正し、義の訓練を与えるようにしているのです。ですから私も礼拝の説教だけではなく、人々を整える働きもしなければならないのです。みなさんは、「鈴木先生こそ整えられるべきでしょう!」とおっしゃるかもしれません。「アーメンです。私もみことばの前にはへりくだって、学びます。どうぞ、みなさんもそうしてください」。

聖書のみことばは、いろんなものにたとえられています。そして、みことばがもたらす祝福がどういうものか教えています。Ⅰペテロ22「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」みことばが乳(ミルク)にたとえられています。ですから、信仰をもったクリスチャンはみことばをミルクのように飲む必要があります。また、ほかのところでは、みことばはいのちのパンであるとも書かれています。聖書はたましいの食物です。このみことばを食べないと霊的にやせ細ってしまいます。詩篇1910「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」みことばが、金よりも純金よりも高価であるということです。みなさんそう思っていらっしゃいますか?「やっぱりお金だよなー」じゃだめなんです。みことばは、お金を生み出す信仰を与えてくれます。また、信仰・希望・愛というお金以上のものも与えてくれます。この世の中では、お金があっても、愛のない家庭がいっぱいあるのではないでしょうか?詩篇119105「みことばは、私の足のともしび、私の道の光です」アーメン。私たちは明日のことが分かりません。みんな手探りで生きています。しかし、みことばは足のともしび、私の道の光です。エレミヤ2329「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか」。すごいねー、みことばは火のように私たちの心の中に情熱を与えてくれます。火はパワーを象徴しています。また、みことばは岩を砕く金槌(ハンマー)であります。私たちこの世で生きているといろんな困難や問題に出くわします。「ああーどうしよう、もうだめだ」という時がよくあります。しかし、ディボーションしていると聖書からみことばが飛び出してきます。そのみことばが金槌(ハンマー)のようになって、問題を打ち砕いてくれるのです。アーメン。エペソ617「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」みことばは、剣のように罪の縄目を断ち切ります。悪魔を打ち破る剣はみことばです。私たちの考えや力では無理です。神のみことばこそが力があるのです。Ⅰペテロ123「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」みことばは種です。私たちはこの神のみことばによって救われたのです。同じように、私たちは神のことばを人々の心に蒔くならばどうでしょうか?人々の中にも救いが生まれてくるのです。使徒パウロは、「時がよくても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい」と命じました。そうすると後の日になって、刈り取ることができるからです。詩篇1265「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」です。私たちは完成した神のことば聖書を持っています。中世の頃は自国語で聖書を読むことができませんでした。ウィリアム・テンダルは「命のパン」を一人でも多くの人に与えたいと、英語に聖書を訳しました。しかし、それは当時の法律に反する行為で、彼は死刑になりました。アメリカの大統領、エイブラハム・リンカーンはこういいました。「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている」。また啓蒙主義のゲーテはこういいました。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ」。どうぞ、聖書を読みましょう。神のみことばを慕い求めましょう。そうするなら、あなたは神のみこころのうちを歩むことができるようになり、あなたは何をしても栄えるのです。

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