2015年1月 2日 (金)

自分はだれか? 創世記1:26-28 亀有教会 鈴木靖尋 2015.1.4

 アイデンティティ(identity)は、ほとんど日本語になっていますが、日本語に訳しにくいことばです。自己認識、自己存在、自己同一性、どれもイマイチですが、「自分はだれか」ということです。「あなたはだれですか?」と聞かれると、多くの人は、職業を答えるでしょう。しかし、無職の人や定年退職した人は、どう答えたら良いのでしょう?年齢や、性別、職業に関係なく、「私は○○です」と答えられるアイデンティティとは何なのでしょうか?もし、何ものによっても、揺るがされることのないアイデンティティを持っているなら、平安で確かな道を歩めるのではないでしょうか? 

 

1.神のかたち

  そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記126-28

  神さまは人間をどのように創造されたでしょうか?創世記1章には、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と書いてあります。果たして、神さまはだれに言われたのでしょうか?天使に言ったのでしょうか?それともひとりごとでしょうか?「われわれ」とおっしゃっていますので、新約聖書的には、父なる神と子なる神と聖霊なる神さまと理解することができます。神学的には「われわれに似る」というのと「われわれのかたち」というのは、別物だという説もあります。「われわれに似る」とは、神さまの属性、神さまの性質に似せて、人を造るんだという解釈です。もう1つ「われわれのかたち」とは三位一体という関係だという説です。その根拠は、神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」というみことばです。神のかたちは、男と女の関係に現わされているということです。つまり、神さまは人間に三位一体のような愛の関係性を与えられたということです。普通、教会では「似姿」と「かたち」と2つには分けて考えません。神のかたちとは、神さまが持っておられる属性、つまり性質だというふうに理解しています。

  神さまはどんな性質をもっておられるでしょうか?神さまは聖、きよいお方です。私たちもきよさを求めます。毎日、洗濯したり、食べたお茶碗を洗ったりします。部屋もきたない所よりも、清潔な所が気持ち良いでしょう。しかし、聖書が言う「聖」とは、私たちが言う「きよさ」よりは、もっと深くて高い意味があるようです。また、神さまは義、正しいお方です。私たちは悪いことをすると後ろめたい気持ちがします。不正が行われているときは怒るでしょう。最近、学校では「道徳」が科目に入れるべきだという考えがあります。道徳は、相対的で人に迷惑をかけないことが基準かもしれません。しかし、「義」は神さまとの関係からでないと理解できません。また、神さまは永遠なるお方です。私たちは夜空の星を見る時どう思うでしょう?「ああ、人の命は何とはかないのだろう?永遠というのがあるのだろうか?」と思わないでしょうか?また、神さまは愛なるお方です。私たちは完全ではありませんが、愛する心を持っています。生物学者たちは、これらはみな本能であると言うかもしれません。もし、人間が猿から進化しただけの動物なら、万引きしたり、人を傷つけたくらいでどうして犯罪になるのでしょうか?日光の猿のことを考えると、そういうのは当たり前のことです。もし、そういう人がいたら、生物学的には「ちょっと進化が遅れているのかな?」と考えるべきでしょう。人間は動物とは違います。神のかたちに似せてつくられたので、正義を求められるのです。また、神さまは彼らを祝福し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられました。これは、「人間が神さまの代わりに、自然界や動植物を管理せよ!」ということです。人間は自然の一部ではなく、自然を正しく支配するように造られたということです。また、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とは、神のかたちを増殖せよということです。このように、人間には神さまからの祝福と権威が与えられました。

   さらに、人間は他の動物とは違うものが与えられています。それは何でしょう?創世記27その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」動物や植物は神のことばで造られました。しかし、人間だけは神さま自らが土地のちりを練って、人を形作りました。そして、ご自分のいのちの息を鼻から吹き込まれました。「息」ということばは、「霊」とも訳せることばです。ですから、人間には霊があり、神さまと交わることができる存在だということです。動物には魂(知性、感情、意志)がありますが、霊はありません。そういう意味からも、人間は他の動物とは違うんだということです。他にも、神さまと似せてつくられたところがたくさんあります。私たちは真理や自由、平和、善を求めます。もともとそれらは神さまが持っておられたものです。この世の中には、性善説と性悪説というのがあります。もし、それらのことばを使うなら、人間は神さまから造られたときは、良かったので「性善説」です。創世記131「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」とあるからです。人間は、神のかたちに似せて造られたので、神さまにとっては非常に良かった、つまり最高の傑作品だったということです。

 2.神のかたちの喪失

  創世記36-10それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

  エデンの園には見るからに好ましく食べるのに良い木が生えていました。ところが、1つだけ条件がありました。園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。主なる神さまは、アダムに言われました。「あなたは園のどんな木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記216-17と言われました。エデンの園には、たくさんの果実のなる木がありました。そして、園の中央に1本の善悪の知識の木が植わっていました。善悪の知識の木は神さまの主権を象徴しています。その木から取って食べるということは、私が神になって、善悪を判断するということです。これは恐ろしいクーデーターです。人間が造られる前に、サタンは堕落していました。サタンは神のかたちに似せて造られた人間に嫉妬を燃やしていました。なぜ、エバを誘惑したかと言うと、エバは神さまから直接聞いていなかったからです。アダムはエバに「それに触れてもいけない。あなたが食べて死ぬといけないから」と基準を1段下げて伝えていました。エバが食べ、そしてそばにいたアダムに与えました。アダムは「やめろ!」と注意できる距離にいたのに、「エバが勧めるのだから良いか」と食べました。聖書には、「ふたりの目が開かれた」とあります。これは、霊が死に、魂が巨大化したという意味です。堕落する前は、神さまと交わりながら善悪を判断しました。しかし、神さまから独立して、自分の魂で善悪を判断する者になったのです。今も人間は、神さまから独立して、「神さまなし」の生活をしています。

  では、自分の目が開かれたために、アダムが失ったものは何でしょう?それは、神さまと共にあることの平安、充足感、安心感、神のいのちです。では、目が開かれて、神さまから独立したために、二人にやって来たものは何でしょう?恐れ、恥、不安、死(霊、肉体、永遠の死)です。このあとすぐ、二人は自分たちが裸であることを知りました。昨年、大川牧師の礼拝説教CDを車で聞きました。その前に、彼らが裸であったのに、なぜ、そのときは恥ずかしくなかったのか?先生は「神の栄光が裸の上を覆っていたからだ。堕落したために、二人から栄光が去ったのだ」とおっしゃっていました。「なるほどなー」と思いました。彼らは裸の恥をいちじくの葉で覆いました。それは、「ありままでは受け入れられないというアイデンティティの喪失」と考えることができます。堕落前は、神のかたちに似せて造られたので、神さまの栄光を表わしていました。神さまが持っている聖、愛、善、義、真理、権威、創造性、永遠性、自由を見ることができました。しかし、そのかたちが木端微塵に砕かれてしまったのです。みなさんは、鏡が粉々に割れた状態を見たことがあるでしょうか?鏡は鏡なんですが、どのように映るか見たことがあるでしょうか?ちっちゃな鏡が散乱しています。どこかの風景を映しています。自分の顔の一部も映しているでしょう?でも、それは不完全であり、部分的です。真理の一部は見えますが、全体像が見えないので、本当の目的がわかりません。子供たちが「何のために学校で勉強するの?」とか、「どうして男と女がいるの?」と聞かれても答えることができません。親は、結婚、仕事、生きる意味すら教えることはできません。なぜなら、自分も分からないで生きているからです。「どうして、刃物で刺しちゃいけないの?」「どうして、危険ドラッグ吸っちゃいけないの?」と聞かれても、「警察に捕まるから」とか「人さまに迷惑かけちゃいけないから」としか答えられないでしょう。本当は、人間は神さまのかたちに似せて造られた尊い存在なのでそんなことはしないのです。

  

3.捜し求める神さま

   ルカ福音書15章には、失われた人を神さまがさがしているたとえ話が3つ記されています。その中の1つは、失われた銀貨のたとえです。ルカ158-10「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」おそらく、その銀貨は宝物で、10枚で1セットのようなものであったと思われます。この世には、セットでそろわないと価値のないものがあります。たとえば、記念切手、ゴルフクラブ、お皿、漫画全集などでしょうか?私は『何でも鑑定団』をよく見ますが、コインや記念切手、お皿や壺、湯呑、絵画、額、おもちゃ、色んなものが出て来ます。中には昔の火縄銃を何丁も集めている人がいます。彼らにとっては、みな価値ある宝物なのでしょう?この女性は、大事な銀貨の1枚をなくしてしまいました。「あと9枚あるからいいじゃないの?」とは思いませんでした。あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。当時の家は、土間であり、藁とか穀物、畑の道具とか水瓶そういうものが散乱していたと思われます。ランプを灯して、ほうきで掃いて、片づけながら1枚の銀貨を捜したのではないでしょうか?「あった、見つかった!」と、立ち上がったときは、腰が痛かったと思います。彼女はその喜びを、近所の女性たちにも伝えました。「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うなんて、よっぽど大事だったのでしょう。

 ルカ15章には3つのたとえ話があります。いなくなった羊を捜す羊飼いは、イエス様のことです。そして、放蕩息子を待つ父は、父なる神さまのことです。そして、なくした銀貨を捜す女性は聖霊を象徴しています。この女性は、どのようになくした銀貨を捜したでしょうか?あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。「なくした銀貨を絶対に見つけなければ」という、執念を感じます。神の霊であられる聖霊も、全世界を巡りながら、失われた人たちを捜しているのです。当時の銀貨は皇帝の肖像が刻まれていました。人間にはだれの肖像(イメージ)が刻まれているのでしょうか?それは、創造主なる神さまです。人間は神さまの作品であり、神さまが所有する大切な存在です。アンデルセンの「銀貨」というお話があります。ある英国紳士が海外旅行へ出かけした。その途中、彼の財布にあった1枚のシリング銀貨が、異国の地で財布からこぼれてしまいました。人々から「偽物だ、通用しない」と言われました。その銀貨は暗い所で人手に渡り、明るみで、またもや「偽物だ、通用しない」と言われました。銀貨は、「なんて僕は不幸せな銀貨なんだろう。僕のこの銀も、この値打ちも、この刻印も、どれも何の意味もないとしたら…」と憂鬱になりました。偽物を賃金としてもらった女性は、もう人をだますことのないように、銀貨に穴をあけました。辛い悲しい時代が過ぎました。ある日のこと、一人の旅行者が来ました。すぐだまされて、「通用しない!偽物だ」という声をかけました。やがて、その人は面々にほほえみを浮かべました。「おや、これはいったいどうしたことか?これは、私の国のお金じゃないか。穴をあけられ、偽物呼ばわりされているんだ。いや、これは愉快だ。しまっておいて国へ持って帰ろう」と言いました。銀貨のあらゆる苦労が終わり、喜びの人生が始まりました。罪人が悔い改める(方向転換して神さまのもとにもどる)なら、どのような喜びがあるでしょう?天の御使いたちに喜びがわき起こるとあります。見つけた神さまも喜ぶし、見つけられた人も喜ぶでしょう。

 

4.神の子ども

   ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」もし、キリストを受け入れる(信じる)なら、どのような特権が与えられるのでしょう?また、それはこの世のどのようなものと関係がないのでしょうか?この方とは、イエス・キリストのことであります。イエス様を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられると書いてあります。「特権」という意味をご存じでしょうか?英語の詳訳聖書には、authority, privilege, power, rightなどという風に訳されています。これらを、どう説明できるでしょうか?旧約聖書にヨセフという人物のことが記されています。彼は、ヤコブの11番目の子どもでした。ヤコブはイスラエルですから、ヨセフも12部族の先祖になりえます。ところが、兄弟たちから妬みを買って、エジプトに奴隷して売られました。主人のため一生懸命働いていましたが、彼の妻に訴えられ、投獄されました。ある時、パロの献酌官の夢を解き明かしてあげました。「私は無実の罪で捕えられているのです。だから私のことをパロに進言して下さい」とお願いしました。ところが、献酌官はコロっとそのことを忘れました。2年後、パロが不思議な夢を見ましたが、だれも解き明かすことができませんでした。献酌官は「ああ、そういえば、夢を解き明かせるヘブル人が牢獄にいる」と思い出しだしました。早速、ヨセフはパロのもとに連れ出され、その夢を解き明かしてあげました。ヨセフのおかげで、エジプトは大ききんから救われることになりました。パロはどうしたでしょう?ヨセフにエジプト全土を支配させました。そのため、自分の指輪をはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の服を着せ、その首に金の飾りをかけました。そして、自分の第二の車に乗せ、人々に彼の前で「ひざまずく」ように命じました。この箇所を英語の詳訳聖書で読むと、authority, privilege, power, rightなど、全部入っています。ヨセフは奴隷から、王の息子となりました。王の代わりに国を治める権威と力が与えられました。これらが、神の子となる「特権」という意味であります。 

  使徒パウロも同じことを述べています。ローマ817「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」相続人とは、神さまのものを自分が受け継ぎ、神さまとともに治めるということです。かつて、人間は地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じられていました。堕落した人間は支配権を失い、サタンがそれを横取りしました。私たちは自然界の猛威、台風、地震、津波、火山噴火を恐れています。癌をはじめとする数えきれない病気があります。インフルエンザ、エイズ、エボラ、ウィルスも人間に逆らっています。世の中に、戦争、犯罪、事故、天災、難病、不条理があります。人間だけが悪いのではなく、背後にこの世を支配しているサタンの存在を否定することはできません。だから、私たちには神さまの権威を持つ神のこどもになる必要があります。今でもイエス様は全宇宙の王です。私たちは「御国(神の支配)が来ますように」と祈ります。しかし、王なるイエス様は、ご自分と一緒に治めてもらいたいのです。

 どのようにしたら、私たちは神の子どもになることができるのでしょうか?それは、救い主イエス様を受け入れること、信じることによってであります。生まれや努力や頑張りとは関係がありません。現代訳聖書には、「決して先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意志によるものでもない」と書いています。つまり、どんな境遇で生まれた人でも、神の子とされるチャンスがあるということです。私のように8人兄弟の7番目でも可能でした。私はいつも「おみそ」にされてきました。「おみそ」とは、一人前ではない、ついでという意味です。正月やお盆はいつもさびしい思いをしてきました。兄や姉の伴侶がきて、食卓を囲んでいました。私は恥ずかしくて家のどこかに隠れていました。食卓には私のポーション(食物の一人前、分け前)がなかったからです。私は自分が誰か、自分の価値が全く分からないで育ちました。ところが、イエス様を信じて、私は神の子という身分をいだたきました。みなさんは、神の子の特権がどれくらいすばらしいかご存じでしょうか?天地万物を造られた神さまのものを全部相続できるということです。あなたのアイデンティティはどのようなものになるでしょうか?神さまが王様なら、息子は王子、娘は王女という身分になります。あなたは、王子であり、王女なのです。「天のお父様、あなたから離れていたので自分がだれなのか分かりませんでした。聖霊様、あなたが私を見出してくださり感謝します。私はイエス・キリストを救い主、人生の主として受け入れます。そして、これからはあなたに属し、御国の価値観を土台にして生きたいと願います。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。」

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2014年11月 9日 (日)

不安、恐れ、恥       創世記3:7-10

 きょうは“Good News”の最初のテーマ、「不安、恐れ、恥」を取り上げて、メッセージさせていただきます。現代は、多くの人たちが不安と恐れの中にいます。そのため、外出できない人や薬に頼っている人もいるでしょう。また、日本は罪よりも恥の文化だと言われています。神さまよりも、人の目を恐れています。「人から笑われないように」と育てられた人はいないでしょうか?私たちの心の奥深くに、不安、恐れ、恥というものはないでしょうか?


1.不安、恐れ、恥はどこから来たのか?

創世記3:7-10このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」神さまは、エデンの園に食べるのに良いすべての木を生えさせました。また、園の中央には、いのちの木と善悪の知識を生えさせました。園のどの木からも思いのまま食べても良かったのですが、1つだけ例外がありました。神さまはアダムに「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。やがて、アダムからエバが造られ、二人はエデンの園で、何不自由なく永遠に幸せに暮らしました。となれば良かったのですが、蛇に化けたサタンが善悪を知る木のところでエバを誘惑しました。蛇は、「それを食べたら、目が開け、神のように善悪を知るようになりますよ」言いました。エバは、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くしてくれそうな木の実を取って食べました。Ⅰヨハネには「世にあるものは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」であると書いています。私たちはこの世が与える3つの欲に弱いですね。エバはそばにいた、夫アダムにもその実を与えました。アダムがあわてて食べたので、実が喉につっかえました。これが、Adam’s appleと言われている、喉仏です。喉仏の話は聖書の中にはありません。

アダムとエバは食べてはいけない木から実を食べたために目が開かれました。ウォッチマン・ニーは、「目が開かれたとは、霊が死んで、代わりに魂が異常に発達した」と言いました。それまで二人は、神さまとの交わりの中で善悪を判断していました。しかし、善悪を知る木から食べるという行為は、自分は神さまから独立し、自分自身で善悪を決めるということです。これは自分が神になろうとする反逆行為、クーデターです。確かに二人の目が開かれて、善悪を知ることできるようになりました。その代わり何がやってきたのでしょう?「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」とあります。そうです。ありのままでは生きてゆけないという恥がやってきました。そして、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作りました。それから何がやってきたのでしょう?「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」とあります。悪いことをしたという罪責のゆえに、恐れがやってきました。二人は神さまから罰せられるのを恐れて、木の間に身を隠しました。私たちも悪いことをすると、恐れがやってきます。ティモシー・ボイル著『漢字に秘められた聖書物語』があります。古代中国人はエデンの園の話を知っていたのかもしれません。たとえば、禁止の「禁」は、二本の木を示すと書きます。いのちの木と善悪を知る知識の木のようです。アダムとエバがそむいてから、いのちの木も食べることを禁じられました。また、「裸」という字があります。左側の衣辺はエデンの園にいた二人を表しています。左の人がアダムで、右がアダムのあばら骨から取られたエバみたいです。右側の「果」は園に植わっていたいちじくの木かもしれません。また、園と遠いという漢字も興味深いです。土から造られた、口のある二人がエデンの園という囲いの中に住んでいました。ところが罪を犯してから囲いである園がなくなり、二人は歩かされました。しんにょうは、歩くという意味があります。このように最初の人であるアダムとエバが神さまから離れたので、私たちにも不安と恐れと恥がやってきたのだと聖書は言います。


2.不安、恐れ、恥を覆い隠すバリヤー

アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰を覆いました。二人は神さまの御声を聞いたとき、木の間に身を隠しました。神さまはアダムに「あなたはどこにいるのか?」と聞かれたとき、「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。二人はいちじくの葉で局部を隠し、なおかつ木陰に自分たちの身を隠しました。果たして、それで全知全能の神さまから隠れることができるのでしょうか?いちじくの葉は何を象徴しているでしょうか?李光雨師は「いちじくの葉とは自分の身を守る人工的なバリヤーである」と言います。それによって、自分の中にある不安や恐れ、恥を隠すということです。あなたにとって、自分の身を守るバリヤーとは何でしょうか?テキストには、「いちじくの葉のバリヤー」として、いくつか記されています。家系、名誉、学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、信念、職業、結婚…などがあります。バリヤーの中には、不安、恐れ、恥があります。李光雨師はそれらを3つまとめると「存在不安である」と言います。存在不安とは、自分の存在が不安であるということです。クリスチャンでない人に「あなたには存在不安があるでしょう」と聞くと、「はい、あります」と答えるそうです。だれもが、持っている存在不安、あなたにもあるでしょうか?私たちが生まれたときに、両親から愛され、受け入れられるならバリヤーは厚くて破れにくいかもしれません。心理学では基本的信頼感、絶対的信頼感などと言います。しかし、このバリヤーが生まれつき薄い人もいます。

 たとえば、幼い時、ある出来事で、バリヤーが破れてしまったという経験があるかもしれません。そうなると、その人に「自分はこのことに弱い」と言うテーマができあがります。大きくなって、かつての経験と同じようなことが起こると、バーッと内側にある不安や恐れ、恥意識が出てきます。私たちは無意識で、いろんなバリヤーを作って、自分を守ろう、守ろうとします。良い学校に入って、一流の会社に入って、結婚しました。めでたし、めでたしで終われば良いのですが、何かのきっかけでこのバリヤーが破れます。私がこの教会に赴任したころ、統一教会に走った息子さんを救助したことがあります。その人の家に寝袋を持って行って、3日間くらい泊まりました。1か月くらいたって社会復帰できました。しかし、今度は、お母さんが大変になりました。買い物に行った先で、急にしゃがみこみ歩けなくなるということでした。電車に乗って、心療内科に行くときは、ものすごい形相で必死に吊り輪につかまっているそうです。私は何がそんなに怖いんだろう。息子さんも解決したのに良かったじゃないかと思いました。今、思えば、お母さんはパニック障害になっていたのです。ご主人さんの単身赴任、ご長男の統一教会問題で、バリヤーが破れたのかもしれません。10年近く苦しんでいたようですが、その後、治ったようです。そういう過剰反応が繰り返されると、それが恒常化して、社会生活ができなくなります。現代は、鬱、不安、パニック、摂食障害、人格障害で悩んでいる人がとても多い時代です。聖書的には、バリヤーが破れている状態であると言えるかもしれません。


3.キリストの贖い

創世記3:21「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」イザヤ53:2-4「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」神さまは、罪を犯してしまったアダムとエバに何を着せてくださったでしょうか?「皮の衣」と書いてあります。それでは、皮の衣を作るためには、どんなことが必要だったのでしょうか?神さまは動物を殺して、その皮をはいで、二人に着せました。と言うことは、初めてエデンの園で血が流されたということです。さきほど引用したティモシー・ボイル著『漢字に秘められた聖書物語』の中に、「被」という漢字の意味が記されていました。「いちじくの葉でできた服は、われわれ人間が自分の裸を被おうとすることを象徴します。アダムとエバのいちじくの葉でできた服はどのくらい長持ちしたでしょうか?少し動き回ったらすぐ破れてしまい、裸である恥がさらされたでしょう。この問題の解決への最初の手段を取ったのは神で、人間のあがないの第一歩として、象徴的に彼らの裸の恥を被うために皮の衣(衣+皮=被)を造られました。直接には書いてありませんが、皮の衣を作るのには、やはり動物を犠牲にしなければならなかったはずです。」

神さまが二人に着せてあげた皮の衣は何を意味しているでしょう?父なる神はアダムの罪の結果から私たちを救うために、御子イエスを与えてくださいました。イエス・キリストは私たちの罪を負ったゆえに、神さまから代わりに罰せられました。そのとき、イエス様は十字架で、私たちのためにどのようなものを負ってくださったのでしょうか?先ほど読んだ、イザヤ書53章はキリストの苦難の預言です。そこには、罪だけではなく、病、恥、痛み、呪いまでも負ってくださったことがわかります。イエス様は十字架の上で「わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれました。ということは、永遠から一緒だった御子イエス様が、父なる神さまから断罪され、拒絶されてしまったということです。これは、私たちが幼いときに味わった拒絶という最も恐ろしいことを、イエス様が経験なされたということです。みなさんの中には、親から物理的に拒絶されなくても、精神的に拒絶された人がおられるかもしれません。現代は、ネグレクト、幼児の虐待がものすごい大きな問題になっています。虐待された子どもが大人になると、今度は自分の子どもを虐待します。いわゆる世代間連鎖であります。イエス・キリストは私たちが受ける拒絶すらも引き受けてくださったのです。

マタイによる福音書に「王子の結婚の披露宴のたとえ話」が記されています。招いていた人たちが来なかったので、王様は「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」としもべたちに命じました。それで、宴会場は客でいっぱいになりました。王様が客を見ようと入ってみると、婚礼の服を着ていない者がひとりいました。王様は「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と怒って、彼を部屋から追い出させました。彼は道を歩いていたのに、宴会場に引っ張って来られたのだから、無茶苦茶な感じがします。しかし、当時は王様とお会いするとき失礼がないように、入口には礼服が用意されていたようです。彼はそれを拒んで、平服で参加したわけです。だから、つまみ出されたのです。その礼服にあたるものが、キリストを信じて与えられる「義の衣」であると考えられます。イエス様はすべての人の罪のために死なれました。しかし、それを感謝して受け入れる人と、「そういうものは不必要です」と受け取らない人がいます。やがて人々が神さまの前に立った時、「御子イエスが与えた義の衣をどうして着ていないのですか?」とさばかれるのです。義という漢字は、羊の下に我と書きます。我という漢字は、手で戈(ほこ)をもって殺すという意味があります。これは人間の自我を表すのに大変ふさわしく、人間の「罪」を象徴しています。我の上の羊は、自分のために十字架にかかり犠牲となった「神の小羊」です。イエス・キリストを信じることによって、義の衣を心の中で受け取るということです。


4.新しい人と新しい衣

神さまとの関係は、キリストの義を着ているので、ばっちりです。私たちはキリストの贖いを通して、いつでも神さまのところに行くことができます。ダビデのように、ありのままの気持ちを主のもとに持っていくことができます。神さまは私たちのことを全部お見通しなので、裸のままで結構です。イエス様は、私たちの悩みも憂いも、ある場合は怒りでさえも受け止めてくれます。しかし、人との関係は裸のままではいけません。夫と妻の関係は、アダムとエバの関係にかなり近づくことができるかもしれません。しかし、罪が入ってからは二人の間に軋轢が生じてしまいました。クリスチャンのカップルでさえも、ありのままでは傷つけ合うときがあります。では、兄弟姉妹、お互いの人間関係ではどうなのでしょうか?「裸の付き合い」という表現がありますが、ありのままでお付き合いできるでしょうか?コロサイ3:9-14を抜粋してお読みいたします。「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。…それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」クリスチャンとは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着た人です。使徒パウロは、ローマ人への手紙で「私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられて死んだ」と言っています。そして、今度はキリストに継ぎ合わされて新しい存在になりました。では、アダムとエバが罪を犯した前の状態に戻れるのでしょうか?残念ながら、クリスチャンになったからと言って、裸で生きることはできません。昔、解放のキャンプというのがありました。そこに参加した若者たちが「ありのままでいいんだ」と解放されて帰ってきました。なんと、怪物(モンスター)のようになりました。遠慮会釈なく「好き」「嫌い」をはっきり言うようになったからです。確かにアダムとの古い関係は切れましたが、肉の性質がまだ残っています。私たちは人格的に裸ではなく、新しい人を着る必要があります。神さまは、古い人を捨て、新しい人を着ることを願っておられます。新しい人とはだれのかたちに似せているのでしょうか?私たちを造られた、神さまの性質にあずかることです。

それでは、具体的に造り主である神さまの性質とはどんなものなのでしょうか?パウロは裸の人格の上に着る着物のようにたとえています。コロサイ3章を見ますと、5つの衣と愛の帯が記されています。まるで十二単(ひとえ)のようです。一番内側から言うと、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。逆に言うと、一番外側からその人を見ると、寛容であるということです。その内側が柔和、謙遜、慈愛、深い同情心と続きます。深い同情心は着物の下、肌襦袢であります。どこまでもその人をさぐっていくと、深い同情心があります。では、五枚の衣をまとめているものは何でしょうか?「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」アーメン。愛の帯です。愛の帯が五枚の衣をまとめているのです。私たちはこれらの品性を私たちの人格の上に着るのです。そうすると、兄弟姉妹やお互いの人間関係がうまくいくということです。みなさんも家では普段着で過ごすでしょう。夫や妻、家族の関係はありのままに近い普段着で結構です。しかし、買い物に行くどうでしょうか?あるいは、会社や何かの集まりに出かけるときはどうでしょうか?ある程度のものを着て行くでしょう。私たちもありのままの人格の上に、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を着る必要があります。しかし、この衣は、一般の衣類と違って洗濯する必要はなく、私たちの人格にだんだんなじんできます。しまいには、私たちの品性の一部になっていきます。そんなに意識しなくても、柔和や寛容が出てきます。ハレルヤ!

 でも、本日のテーマの「不安、恐れ、恥」はどうなんでしょうか?やっぱり、キリストご自身の義の衣で良いのです。私たちはいちじくの葉っぱのバリヤーを捨てて、キリストの義の衣と交換する必要があります。頭では分かっていても、いちじくの葉っぱはずっと馴染んできたので捨てがたいですね。ある人は学歴がダメだったので、持ち物やお金にしようとする人がいます。また、ある人は、夫がだめなので、子供にしようとするかもしれません。いちじくの葉っぱのバリヤーを捨てるためには、神さまの愛と出会う必要があります。自分のバリヤーが壊れた最初のところに、神さまをお迎えして、癒していただく必要があります。完全な基本的信頼感、絶対的信頼感は親から受けられません。受けたとしても幻想です。神さまの愛と出会うしかありません。神さまの愛と出会ったなら、こんどはキリストの義の衣をしっかりと着るのです。もう、不安も恐れも、恥もありません。さらには、神さまがご自身はあなたの守りとなってくださいます。詩篇18:2-3「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」また、神さまが味方ならば、どんなものも、どんな人も恐れる必要はありません。詩篇118:6「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。悲しみや憂いに代表される古い衣を脱ぎ捨て、キリストがくださる救いの衣、楽しみ、喜び、正義を着ます。イザヤ61:10「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」

お祈りしましましょう。神さま、私はあなたを知らないで、不安、恐れ、恥の中で生きてきました。しかし、イエス・キリストが、私が担っていたすべての苦しみや痛み、悲しみを十字架で負ってくださり、ありがとうございます。また、キリストの救いの衣を着せてくださるというお約束を感謝します。私はこれまでの古い衣を脱ぎ捨て、主がくださる新しい衣、救いの衣を着たいと願います。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。




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2013年10月 6日 (日)

逆転勝利の人生        創世記45:1-8 

 ヨセフの物語は創世記37章から50章まで記されています。映画にもできそうな大スペクタクルをたった30分で語るには、畏れ多いことであります。もし、ヨセフの物語を1ことで言うならば、それは「神の摂理」であります。神さまを信じない人たちは、すべては、偶然の積み重ねだと言うでしょう。しかし、そうではありません。使徒パウロはこのように言っています。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」神さまがすべてのことを働かせて益としてくださるのです。ヨセフはエジプトの奴隷から宰相(総理大臣)、どん底から天にまで引き上げられた人物です。


1.奴隷ヨセフ

ヨセフはヤコブの11番目の子どもであり、ラケルとの間で生まれた最愛の息子でした。このところでは、ヤコブはイスラエルと呼ばれています。創世記37:3-4「イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」そでつきの長服を着るということは、働かなくても良いということです。また、ヨセフは兄弟たちの悪いうわさを父に告げていました。「父からえこひいきされているだけではなく、告げ口までするなんて!」他の兄弟たちはそういうヨセフをとても憎んでいました。しかし、それだけではありません。ある日、自分が見た夢を兄弟たちに自慢しました。創世記37:6「ヨセフは彼らに言った。『どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。』兄たちは彼に言った。『おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。』こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。」ヨセフは再び、夢をみましたが、それも兄たちに話しました。太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝んでいるという夢でした。これには父イスラエルも「お前の見た夢は、いったい何なのか?私や母上、兄さんたちも、地に伏しておがむとでも言うのか」と、ヨセフを叱りました。この夢はやがて実現するのですが、それから長い年月を経てのことでした。

あるとき、兄たちが羊の群れを飼うために遠くにでかけていました。父はヨセフに、兄たちのことが心配なので、様子を見に行かせました。創世記37:18「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。『見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』」兄弟たちは、ヨセフを「夢見る者」と完全に馬鹿にしていました。ヨセフを殺して穴に投げ込もうとだれかが言いました。ところが、長男のルベンは「彼に手をくだしてはならない」と止めました。ちょうどそこに、エジプトに向かうイシュマエルの商人が通りかかりました。その商人にヨセフを銀20枚で売りました。兄弟たちは、ヨセフの長服を家畜の血を付け、父に「悪い獣に殺された」とウソをつきました。ヨセフは17歳のとき、エジプトの奴隷に売られてしまいました。それからどうなったでしょう?ヨセフはパロの侍従長ポティファルの家で働くことになりました。ここにすばらしいみことばがあります。創世記39:3-4「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。」「愛される」ということばは、英語の聖書ではfavorとなっています。favorは日本語にすると、「愛顧」「寵愛」という意味です。ヨセフは主人からだけではなく、神さまからも、favorを受けていました。主はヨセフのゆえに、ポティファルの家と全財産を祝福しました。ポティファルは自分が食べるもの以外、全財産をヨセフにゆだねていました。

ヨセフは体格もよく美男子だったので、ポティファルの妻が誘惑しました。ヨセフは「どうして私が、ご主人にも、神さまにも罪を犯すことができましょうか」と払いのけました。ところが、彼女は「私と寝ておくれ」と毎日、ヨセフに言い寄りました。あるとき、ヨセフの他だれもいないときがありました。彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」とせまってきました。しかし、ヨセフはその上着を彼女の手に残して、外に逃げました。「ところが」であります。彼女はポティファルが帰ってきたとき、その上着を手に取り、「へブル人の奴隷が私にいたずらをしようとしたのです」と嘘をつきました。主人は怒りに燃え、王の囚人が監禁されている監獄にヨセフを投げ込みました。当時の監獄は地下牢で、暗くてとても不衛生でした。そこでも、すばらしいことが起こります。創世記39:21-22「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。」このところに、「恵みを施し」とありますが、英語の聖書ではfavorとなっています。ヨセフは監獄の長からだけではなく、神さまからも、favorを受けていました。ヨセフは監獄の中にあって、囚人たちを管理する者となりました。監獄の長はヨセフを信頼して、彼に全部任せました。

この2つの記事で共通していることは何でしょう?ヨセフの環境は最悪でした。兄弟たちから妬まれ奴隷に売られました。主人の家では順調に言っていたのに、濡れ衣を着せられ、今度は監獄に投げ込まれました。普通だったら、「私は悪くないのに」と、神と人を呪うはずです。しかし、ヨセフはひとことも愚痴を言っていません。もう1つは「神さまがヨセフと共におられた」ということです。神さまが共におられるなら環境や立場は関係ありません。ヨセフはどこにおいても祝福されました。かつての主人は「何故なんだろう?ヨセフに任せるとうまく行く。売上も伸びた。ヨセフに任せよう」と思いました。また監獄の長は「囚人たちがおとなしい。ヨセフに任せよう」と思いました。ヨセフはどこででも、favor好意を得ました。私たちは「環境が悪ければどうしようもない。環境が人間を作る」と言います。ある人は自分が育った家、学んだ学校、職場、地域社会を呪うでしょう。もちろん、環境もあるでしょう。しかし、ヨセフの物語を見るとき、環境よりも主が共におられるかどうかであります。本来なら、人々、社会、運命を呪うはずです。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施してくださいました。その結果、主人から厚遇され、家や監獄全体が祝福されました。ヨセフがいたおかげで、まわりの人たちも祝福を得ました。ハレルヤ!私たちがクリスチャンとして、祝福を運ぶ管として、用いられたら何と幸いでしょう?そのためには、置かれている環境に愚痴を言わず、神さまの隣在を仰ぐことであろうと思います。

あるとき、ヨセフが監獄から出られるチャンスが訪れました。王様に仕える献酌官長と調理官長の二人が嫌疑をかけられて監獄に入ってきました。ある晩、二人とも夢を見ました。翌朝、二人の顔色が悪いのでヨセフは「どうかしたのですか?」と尋ねました。二人は「私たちは夢を見たが、解き明かす人がいない」と言いました。ヨセフは「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください」と言いました。束の夢と星の夢を見てから、10年もたっていましたので、すっかり砕かれていました。だから、「解き明かすことは、私ではなく、神さまがなさることだ」と言いました。ヨセフは献酌官長の夢を解き明かし、こう言いました。「三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたが幸せになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」献酌官長はヨセフにとって、頼みの綱でした。ところがどうでしょう?創世記40:23 「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」なんと、それから2年間、放置されました。詩篇にヨセフのことが書かれています。詩篇105:18-19「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った。彼のことばがそのとおりになる時まで、【主】のことばは彼をためした。」本当に、ヨセフはためされたのです。彼のことばのとおりなるまでです。それは「あの夢が実現するまで」であります。私たちのいろんな夢を見ます。あるものは、神さまから与えられた夢があるでしょう。「絶対、この事は叶う」と信じたかもしれません。しかし、度重なる試練によって、その夢を捨てた人もいるでしょう。ヨセフも試されました。何年間でしょう?13年間です。ヨセフが30歳になったとき、チャンスが訪れました。今でいうブレイクです。いつ、ブレイクが来るか分かっていれば、試練を耐え忍ぶことができるでしょう。しかし、実際は、いつ、そういうときが来るか分かりません。奴隷のヨセフは、私たちの暗い人生を象徴しています。私たちの人生にも暗い部分があるはずです。しかし、ヨセフには神さまが共におられました。私たちもキリスト様を信じているなら、神さまが共におられます。


2.宰相ヨセフ

 物語は創世記41章から良い方向に展開します。創世記41:1「それから二年の後、パロは夢を見た」とあります。「それから」とは、ヨセフが献酌官長の夢を解き明かしてあげた二年後です。エジプトの王ファラオ、つまりパロが2つの夢を立て続けに見ました。ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいました。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立ちました。そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしました。そのとき、パロは目がさめました。それから、彼はまた眠って、再び夢を見ました。肥えた良い七つの穂が、一本の茎に出て来ました。すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来ました。そして、しなびた穂が、あの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまいました。そのとき、パロは目がさめました。朝になって、パロは心が騒ぐので、人をやってエジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せました。パロは彼らに夢のことを話しましたが、それをパロに解き明かすことのできる者はいませんでした。そのときです。あのときの献酌官長が進み出て、「そういえば、地下牢にヘブル人の若者がいました。彼が私の夢を解き明かして下さいました」と告げました。さっそく、ヨセフは地下牢から連れ出され、着物を着替えてから、パロの前に出ました。ヨセフはその夢を解き明かしました。創世記41:29-33「今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。…それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。」

 パロは家臣たちに「神の霊の宿っているこのような人を、他に見つけることができようか」と感心して言いました。そして、ヨセフに「あなたのように、さとくて知恵のある者は他にはいない。あなたは私の家を治めてくれ」と願いました。パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、自分の第二の車に彼を乗せました。ヨセフはエジプトの宰相、今で言う総理大臣になりました。ヨセフは13年間奴隷でしたが、30歳になって宰相になりました。しかし、物語はこれで終わりではありません。ヨセフは神から与えられた知恵で、エジプトを治めました。大豊作で得た穀物を蓄えさえ、ききんに備えさせました。7年後、ききんが全世界に及んだので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来ました。ききんはヤコブが住んでいたカナンにも及びました。それで、ヤコブはエジプトに入って、穀物を買ってくるように命じました。一番下のベニヤミンを除いて、10人の兄弟がエジプトに下って行きました。兄弟たちは、目の前の人物がヨセフとは知らず、顔を地につけて伏し拝みました。このとろころで、夢が1つ成就しました。ヨセフは知らんぷりして、荒々しくふるまいました。ヨセフは「お前らはスパイだろう。この地のすきをうかがいに来たのだろう」と言いました。兄弟たちが監禁されている間、「我々は弟のことで罰を受けているのだ」と言いました。ルベンは「私があの子に罪を犯すなと言ったじゃないか」と言いました。ヨセフは彼らの会話を聞いていました。それから、ヨセフはシメオンを人質に取り、他の兄弟を返しました。ヨセフは「今度来るときは、一番下の弟を連れて来なければ、私の顔を見てはならない」と言いました。それを聞いたヤコブは「ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。もし、災いが降りかかれば、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになる」と反対しました。そうこうしているうちに、食物が尽きてしまいました。ヤコブはベニヤミンを離したくありません。ルベンとユダは自分たちが彼の保障になりますから、行かせてくださいと懇願しました。それで、贈り物を携え、ベニヤミンを連れてエジプトにくだりました。兄弟たちは、地に伏してヨセフを拝みました。それから、ヨセフは兄弟たちを招いて食事をしました。兄弟たちは、年長者から年下の座にすわらせられたので、互いに驚き合いました。翌日、穀物を得て帰るのですが、ベニヤミンの袋の中に銀の皿が入っていました。ヨセフがしくんだことですが、「ベニヤミンを残して、お前たちは父のもとへ帰れ」と言いました。すると、兄弟たちは「彼がもどらなければ、父親は死ぬでしょう。自分たちが奴隷となりますから、彼を返してください」と懇願しました。

 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、人払いをしてこう言いました。創世記45:3「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。「目の前のエジプトの支配者があのヨセフなんて!」兄弟たちは、驚きのあまり答えることができませんでした。これまで自分たちは何度もヨセフを伏し拝みました。「まさか、あの夢のとおりになるのは!」青天の霹靂、驚天動地、言い表すことが不可能なくらいの驚きです。ここでヨセフが発したことばに注目したいと思います。45:5「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」そして、45:8「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」ヨセフは兄弟たちを試しました。兄弟たちが完全に悔い改めていることを知りました。もう、ヨセフは彼らを恨んではいません。「神さまがあなたがたを救うために、私をエジプトに遣わしたんだ」と言いました。つまり、神さまが全世界をコントロールし、すべてのことを働かせて益としてくださったということです。

 ヨセフは奴隷から宰相、どん底からてんぺんを取った人です。しかし、ヨセフの物語は、豊臣秀吉のような出世物語ではありません。ヨセフの物語は、偶然の積み重ねではなく、神さまの御手が働いていたことを見ることができます。多くの人たちは自分の過去の人生を振り返り、後悔しています。なぜ、あの家に生まれ育ったんだろう。なぜ、あの人が私の父、あの人が私の母だったんだろう。なぜ、私の家は貧しかったんだろう。だから、あの学校にも行けなかった。ああ、あの部活で挫折した。私の夢も挫折してしまった。あの会社が、あいつが私を裏切ったんだ。なんであんな事故にまきこまれ、なんであんな病気になったんだろう。結婚した相手が間違っていた。私が一生懸命努力したことは何だったんだろう!ぜんぜん、日の目を見ないじゃないか。まさしく、奴隷生活、生き延びるための人生だったかもしれません。多くの人はそれでも、ラッキーブレイクを望んでいます。ほんの一握り、日の目を見る人がいるでしょう。でも、自分は別です。いつでも、貧乏くじを引いています。もし、イエス様を信じているのに、このような人生であったら、どこか間違っていると思います。ある人が、「どんなマイナスでも、かっこでくくりそこにマイナスをつけると、全部プラスになる」と言いました。マイナス、かっこ、マイナス○○。かっこを取ると、確かにプラス○○になります。

 ヨセフは17歳のとき兄弟たちから妬みを買い、エジプトに奴隷に売られました。でも、主が共におられたので、どの場所でも祝福を受けました。ヨセフはそこで、人や物の管理を学びました。人格的にも砕かれ、神さまを信頼することを学びました。そして、30歳になったとき、パロから呼び出され、パロの夢を解き明かしました。その後、エジプト全土の穀物を管理することを任されました。と言うことは、13年の奴隷と監獄生活は無駄ではなかったということです。そして、自分を売った、兄弟と全家族をエジプトに避難させることができました。一番大事な真理は、これです。ヨセフの人生を神さまがコントロールしていたということです。言い換えれば、すべては主の御手にあるということです。私たちの責任は何でしょうか?これまで自分を苦しめた人や環境を呪わないで、神さまの御手にゆだねるということです。私たちの神さまは逆転勝利を与える神さまです。私たちはこれまで傷つき、多くのものを失いました。取り返しのつかない罪や失敗も犯しました。しかし、私たちの神さまはそれらを全部ひっくり返して益にしてくださる方です。もちろん、同じものは手に入らないかもしれません。しかし、それ以上のものを神さまは用意してくださいます。これはだれにでもそうなるわけではありません。パウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために」と言いました。私たちの条件は救い主キリストを信じて、神さまを愛することです。そして、神さまの計画をもって私たちを召してくださっていることを信じることです。神さまに心を開きましょう。神さまに人生をゆだねましょう。神さまの計画を受け入れましょう。そうするなら、神がすべてのことを働かせて益としてくださいます。あなたもヨセフのように逆転勝利の生活を送ることができます。


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2013年9月29日 (日)

奪い取る信仰       創世記32:22-30 

 アブラハムから奇跡的にイサクが生まれました。その後の世継ぎは、だれになるのでしょうか?イサクの妻リベカの胎内でふたごが争っていました。リベカは神さまから「二つの国があなたの胎内にあり、兄が弟に仕える」という預言をいただきました。出産の時が満ち、最初に出てきた子はエサウでした。エサウは「赤い」という意味です。その後、弟が出てきましたが、その手はエサウのかかとをつかんでいました。それでその子はヤコブと名付けられました。ヤコブとは「かかと」という意味です。しかし、「だます」という意味もあります。きょうは、ヤコブがどのように長子の権利を得たのか聖書から学びたいと思います。


1.奪い取る信仰

ヤコブはタッチの差で次男になりました。しかし、「なんとか長子の権利を自分のものにできないものだろうか?」と機会を狙っていました。あるとき、兄エサウが猟から帰って来ました。ちょうど、その時、ヤコブは煮物を作っていました。エサウは「どうか、その赤いのを食べさせてくれ。私は飢え、疲れているのだから」と言いました。するとイサクは「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言いました。エサウは「私は死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と、長子の権利を売りました。そして、エサウはパンとレンズ豆の煮物を食べました。創世記25:34「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである」と書いています。旧約時代、長子は他の兄弟の2倍のものを相続することができました。しかし、エサウは長子の権利などには、興味がありませんでした。ヤコブは、兄が飢えて死にそうなのを利用して、長子の権利を奪い取るなんて、なんと狡猾なのでしょう。新約聖書へブル12章に、エサウのことが書かれています。「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい」。俗悪とは、原文では「世俗的な、宗教的でない、不敬虔な」という意味です。つまり、目に見えるものがすべてであって、霊的なものには興味がないということです。私たちのまわりに「神さま、神さまって言っているけど、神さまが飯食わせてくれるのか?」と言う人はいないでしょうか?主なる神さまは、二人の兄弟のどちらを愛されたのでしょうか?マラキ1章には「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあります。なんと、神さまは長子の権利をだまし取ったヤコブを愛されたのです。

しかし、物語はそれで終わってはいません。ヤコブはお父さんから長子の祝福をだまし取りました。イサクは年を取り、視力が衰えてきました。イサクはエサウを呼んでこう言いました。「野に行って、私のために獲物をしとめて来てくれないか?そして私の好きな料理を作って、私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に祝福したいのだ」と言いました。それを母リベカが陰で聞きていました。リベカはヤコブの方を愛していました。それで、ヤコブにこう言いました。「私が子やぎで料理を作るので、父上に持っていきなさい。そうすれば、あなたを祝福してくれるでしょう」。ヤコブは「でも、兄さんのエサウは毛深いので、すぐにバレますよ」と言いました。リベカはヤコブに、エサウの晴れ着を着せ、子ヤギの毛皮を手と首にかぶせてあげました。ヤコブはお母さんが作った料理を持っていきました。目が見えないイサクは「わが子よ、お前はだれだね」と尋ねました。ヤコブは「私は長男のエサウです。さあ、起きて座って、私の獲物を召しあがってください。ご自分で私を祝福してくださるために」と答えました。イサクは「近くに寄ってくれ。声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。本当にお前は、わが子エサウだね」。「え、さうです」とか言って、だまし通しました。食事をした後、父イサクは「国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏しおがむように」と祝福しました。その後、エサウが猟から帰ってきて、おいしい料理をこしらえて父のところに持ってきました。父イサクは「お前はだれだ」と聞くと、「私はあなたの子、長男のエサウです」と答えました。イサクは激しく身震いし「では、一体、あれはだれだったのか?私は彼を祝福してしまった」と言いました。エサウは「お父さん、私を祝福してください。祝福は1つしかないのですか?」と大声で泣き叫びました。イサクは「お前の弟が来て、だましたのだ。そして、お前の祝福を横取りしてしまったのだ」と言いました。母リベカはヤコブを呼び寄せて「兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。すぐ立って、私の兄ラバンのところへ逃げなさい」と言いました。

そして、創世記28章には、ヤコブが荒野で石をまくらにして寝たという有名な記事があります。創世記28:12-15「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」ヤコブは家から逃げて来ました。なぜなら、エサウと父イサクをだまして、長子の権利と祝福を奪い取ったからです。ヤコブは「こんなひどい男と神さまが共におられるはずがない」と思っていました。ところがどうでしょう?アブラハムの神、イサクの神が、今、横たわっている地を与えると約束されました。そして、「どこへ行っても、あなたを守り、あなたを祝福される。あなたに約束したこと成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」とおっしゃるのです。神さまはヤコブが弟であるにも関わらず、国民となる祝福を継承させると約束して下さいました。ヤコブは眠りからさめて、「この場所は、なんとおそれ多いことだろう。こここそ、神の家に他ならない。ここは天の門だ」と言いました。そのところに、石の柱を立て、その上に油を注ぎ、その場所をベテル(神の家)と呼びました。これがヤコブのベテルの経験です。

霊的に、ベテルの経験とは何でしょう?それは私たちの救いを指します。「自分は神の前には救われる価値のない人間である」と思っていました。ところが、神さまは自分を愛し、共にいてくださるという経験です。しかし、私たちの側には、必要なものがあります。それはヤコブのような信仰であります。イエス様は、どのような人が神の国に入るのか、教えておられます。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」イエス様が、ガリラヤに現れて御国の福音を宣べ伝えました。最初に御国に入った人たちは、宗教的な人たちではありませんでした。「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」とはどういう意味でしょうか?これはデパートのバーゲンセールと似ています。たとえば、銀座三越のデパートで半年に一度のバーゲンセールが開催されたとします。多くの人たちが開店前から並んで待っています。開店と同時に、売り場に殺到する人たちと似ています。では、「激しく攻める者たち」とはだれのことなのでしょうか?イエス様は祭司長や律法学者にこのように言われました。マタイ21:31-32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」そうです。取税人や遊女たちが、神の国を激しく攻め、救いを奪い取ったのです。

神さまはどのような人たちがお好きなのでしょう?罪を犯さず人格的に整えられた人たちでしょうか?あるいは罪は犯しても信仰のある人たちでしょうか?神さまは人格的なものよりも、信仰のある人をお好きなようです。へブル11:6 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあります。日本には幼稚園から大学まで570くらいのミッションスクールがあるそうです。ほとんどの学校は聖書を土台とした人格教育を目的としていると思います。確かに人格および教育的にはすばらしいと思います。しかし、キリストを信じて御国に入ることを教えているか、というとそうでもないようです。「信仰はないけど、人格的にすばらしい」となるとどうなるでしょうか?逆に、御国から遠ざかってしまうのではないでしょうか?なぜなら、自分は人格的にすばらしいので、キリストなしでも御国に入れると思ってしまうからです。当時の取税人や遊女たちは、人から言われなくても、「自分には罪がある、このままでは御国に入れない」と思っていました。だから、福音を聞いたときに、罪を悔い改めて、救いを求めたのです。罪を犯すことを勧めるわけではありませんが、なまじっか正しいと、救いを得られなくなるということです。その点、ヤコブは兄をだまして長子の権利を奪い、父をだまして長子の祝福を奪いました。まことに、調子が良いというか狡猾で悪い人です。しかし、神さまはヤコブの奪い取る信仰を喜ばれたのです。「あなたと共におり、あなたを捨てない」とおっしゃいました。問題は、私たちがどのくらい正しいかどうかではありません。そうではなく、「自分には罪がありこのままでは御国に入れません。悔い改めて福音を信じます。どうしても、御国に入りたいのです。私を救ってください」と求める者が、神さまから愛され、生まれ変わることができるのです。


2.砕かれ再生される信仰

 ヤコブはお母さんの兄、ラバンのもとに身を寄せました。ラバンにはレアとラケルの二人の娘がいました。ヤコブは美しい妹のラケルと結婚したいと思いました。ヤコブはラケルのために7年間仕えました。そして、ラバンに「私の妻をください。期間も満了したのですから」と言いました。祝宴をして、朝、目覚めたらどうでしょう?隣にいたのはラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブは「あなたに仕えたのではラケルのためではなかったのですか?なぜ、私をだましたのですか?」と言いました。ラバンは「われわれのところでは、長女より先に下の娘ととつがせるようなことはしないのです」と言いました。ヤコブはラバンの言うことをきいて、あと7年間仕えました。創世記29章と30章には、ヤコブの愛をめぐって二人の妻の壮絶な戦いが記されています。世の男性は「妻が複数いたなら幸せだろう」と思うかもしれませんが、とんでもありません。ヤコブの子どもは12人生まれ、それがやがてイスラエル部族になります。しかし、聖書を見ると、二人の妻の愛憎物語から、12人の子どもたちが生まれたことが分かります。最初、レアから生まれたのが、ルベンです。その次に、シメオン、その次にレビ、その次にユダが生まれました。レアは自分がヤコブから嫌われているので、「今こそ夫は私を愛するだろう」と4人の子どもを立て続けに産みました。ラケルは不妊の女であり、姉を嫉妬し、ヤコブに言いました。「私に子どもをください。でなければ、私は死んでしまいます」。ヤコブは「私が神に代わることができようか」と言いました。それで、ラケルはビルハという女奴隷をヤコブの妻として与えました。ビルハから、ダンが生まれ、その次にナフタリが産まれました。これで、合計6人です。レアは自分が子を産まなくなったので、ジルパという女奴隷をヤコブの妻として与えました。ジルパからガドが産まれ、その次にアシェルが産まれました。今度はレアからイッサカルが産まれ、ゼブルンが産まれました。そのとき、レアは「今度こそ、夫は私を喜ぶだろう」と言いました。これで、合計10人です。神さまはラケルを覚えておられ、その胎を開かれました。11番目のヨセフが産まれました。ラケルは「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言いました。大体、子供の名前には、お母さんが言ったことばが付けられています。どうでしょう。ヤコブのイスラエル部族は、女同志の醜い争いから生まれたのであります。ヤコブは女性たちの間で、身も細るような気持ちだったでしょう。このように、ヤコブは結婚生活において、砕かれました。

 しかし、それだけではありません。ヤコブは結婚するために、ラバンのもとで14年間仕えました。その後も、ラバンのもとでただ働きをすることになりました。ヤコブがいくら働いても、財産はすべてラバンのものです。ヤコブはラバンに「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください」と言いました。ラバンは「望む報酬を申し出てくれ、私はそれを払おう」と言いました。ヤコブは「何も下さるには及びません。ただ、羊の中からぶち毛とまだら毛のものが生まれたなら、私の報酬としてください」と提案しました。ヤコブは不思議な方法を用いて、ぶち毛のもの、まだら毛のものが産まれるようにしました。やがて弱いものはラバンのものになり、強いものはヤコブのものとなりました。そのため、ヤコブの群がだんだん大きくなりました。するとヤコブに対するラバンの態度が変わりました。ラバンは、ヤコブを欺き、報酬を何度も変えました。最後は、「ヤコブは私の財産を奪い取った」とまで言ったのです。ヤコブは帰るとき、ラバンにこのように言いました。創世記31:40-41「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。」そうです。ヤコブは20年間、溶鉱炉の中を通らされました。どのように金を精錬するかご存じでしょうか?金の鉱石を高熱で熱すると、かな粕が浮いてきます。職人はかな粕をすくって捨てます。そして、何度も何度もそのことを繰り返します。最後には顔が映るくらいになります。純度99.99%の金です。ヤコブは人をだますことには関脇でした。しかし、おじのラバンは人をだますことには横綱級でした。ヤコブはおじのラバンのもとで20年間苦しめられて、すっかり砕かれたのです。神さまはあえて、ヤコブを整えるために、ラバンのもとに送ったのです。私たちは、罪あるままで恵みによって救われます。しかし、救われた後は、神さまはご自身の似姿になるように、試練の中を通らされます。それは、私たちの古い自己中心的な自我が砕かれるためです。

 ヤコブは生まれ故郷に向かいました。エサウにメッセージを伝えると、400人の者を引き連れて来るということでした。驚いたヤコブは策略を立てました。先頭に、兄への贈り物の家畜を進ませる。第二の列にも兄への家畜、第三の列にも兄への贈り物の家畜を進ませる。そして、最後に二人の妻と二人の女奴隷と11人の子どもたちを行かせる。エサウが群を打ったとき、逃げられるためであります。ヤボクの渡しから、すべての家畜と家族を渡らせました。創世記32章にはヤコブと天使の格闘シーンが記されています。ヤコブはエサウを恐れていました。そのためにヤコブは神さまに必死に祈り求めました。そのうち、天使が現れ、ヤコブは彼と格闘したのではあります。ヤコブの奪い取る信仰の持ち主でした。兄と父を騙して長子の権利と祝福を得ました。家を離れてから、おじのラバンのもとで20年間仕えました。複数の妻たちの争奪戦と狡猾なラバンによってすっかり砕かれました。いよいよ故郷に帰ることになりましたが、問題は兄のエサウです。エサウによって自分は殺されるかもしれません。ですから、自分を祝福してくださるよう天使に求めたのです。負けそうになった天使は「私を去らせよ。世が明けるから」と言いました。しかし、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と必死に食い下がりました。ドラクロアという画家が、「天使とヤコブの戦い」という絵を描いています。筋骨隆々のヤコブが天使を押し倒そうとしています。そして、天使はヤコブの左のももを「ぐい」と引いている絵です。天使はヤコブに勝てないので、ヤコブのもものつがいを打ちました。そして、「あなたの名は何と言うのか?」と聞きました。「ヤコブです」「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ」と言いました。イスラは「戦う」という意味であり、「エル」は神さまです。もものつがいは、自分の知恵や力に頼ることを象徴しています。ところが、天使がヤコブのもものつがいを打った時、自我が完全に砕かれたのです。その後、真剣に「私を祝福してくださらなければ、私はあなたを離れません」と必死に祈りました。ヤコブは、そのところを「ペヌエル」、神の御顔と名付けました。ペヌエルは第二の経験です。自我が砕かれ神さま中心になるということです。言い換えると、自分が主ではなく、イエス様が主になるということです。その後、ヤコブは兄エサウと和解することができました。

奪い取る信仰は悪くはありません。しかし、どこまでも「自分が、自分が」というところがあります。私も救われた頃は、韓国のチョーヨンギ師の信仰にあこがれました。祈って求めれば大きな教会になると思いました。ところがなかなかそうはなりませんでした。神さまはいろんなところを通して私を砕かれました。求めることは良いことです。では、何が間違っていたのでしょう?神さまのみこころよりも自分の願いが上だということです。ヤコブもまさしくそういう人物でした。しかし、神さまはヤコブの自我を取扱いました。結婚を通して、自分よりも狡猾なラバンを通してです。ヤコブの自我はとても強く、天使と戦っても勝つほどでした。もものつがいが打たれたというのは、自我が完全に砕かれたということです。ヤコブは自分の知恵や力に頼ることを断念しました。それでどうなったのでしょう?神さまはヤコブを再生しました。もう、人を押しのけるヤコブではなく、イスラエルになりました。イスラエルには「神の皇太子」という意味があります。つまり、神さまと共に世界を治める者になったということです。これまでは、「奪い取らなければ自分のものにはならないんだ!」という信仰でした。人を押しのけ、奪い取ると言うのは乞食の信仰です。しかしペヌエルの経験、神さまと顔と顔を合わせてから、変わりました。「すべては神さまの御手にあり、私のためにすでに備えておられる」という信仰になりました。なぜなら、ヤコブが生まれる前、「二つの国があなたの胎内にあり、兄が弟に仕える」という預言が母リベカにありました。神さまはすでに、ヤコブに長子の権利を与えることを予定しておられたのです。ヤコブは奪い取ったように思いましたが、本当は、神さまがヤコブに与えたのです。私たちの神さまはどんな神さまでしょうか?マタイ6: 8「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」神さまは必要なものは必ず与えてくださる。私たちは神さまがすでに備えておられるものを求めるのです。私たちは神さまから奪い取るのではありません。神の息子、神の娘として、信仰によって受けるのです。どうぞ、奪い取るヤコブの信仰から、イスラエルの信仰になりましょう。私たちは必要が与えられないと気をもむときがあります。しかし、神さまはすでに備えておられます。すべては主の御手にあるのです。最も重要なことは、主を信頼するということです。


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2013年9月15日 (日)

柔和な人イサク         創世記26:12-25

 アブラハムが100歳のとき、約束の子どもイサクが与えられました。アブラハムが信仰者の第一号だとすると、イサクは第二号です。イサクは、いわばクリスチャン・ホームの子どもです。クリスチャン・ホームの子どもは、信仰の火が親よりも激しく燃えていないかもしれません。しかし、親よりも信仰が安定しています。なぜなら、親から霊的な遺産を受けているからです。イサクは父アブラハムの良きものを受け継いでいました。そんなに努力しなくても、祝福を受け継ぐことができました。きょうは、「柔和な人イサク」と題して、学びたいと思います。


1.柔和な人イサク

創世記26章の始めを見ると、その地をききんが襲っていましたことが分かります。ところが、イサクはききんの中でも、種を蒔きました。すると、その年に100倍の収穫を見ました。なぜなら、主が彼を祝福してくださったからです。イサクは、さらに栄えて、羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになりました。すると、ペリシテ人は彼をねたんでひどいことをしました。父アブラハムの時代に堀ったすべての井戸を土で満たして、ふさいでしまいました。イサクはどうしたでしょうか?18節「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った」と書いてあります。また、イサクのしもべたちが谷間で、湧き水の出る井戸を見つけました。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と主張しました。それで、しもべたちは、もう1つの井戸を掘りました。それについても、「われわれのものだ」と主張してきました。イサクは所有権をめぐって争ったでしょうか?そうはしませんでした。22節「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。『今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。』」。私たちはこのところから教訓として、何を学ぶべきでしょうか?イサクは「これは私が掘った井戸だ、私が見つけた井戸だから、他のところへ行きなさい」と主張することができました。しかし、イサクは他の人たちと争っていません。なぜでしょう?そこには2つの理由があります。

第一は、イサクは神さまを信頼していました。どのような神さまを信頼していたのでしょう?それは、どんなときでも、自分を祝福してくださる神さまです。ききんの中にあっても、種を蒔いたら、100倍の収穫にあずかることができました。主が祝福してくださるので、多くの家畜や多くのしもべたちを持つことができました。井戸に関しても同じことです。その時代、井戸は命の次に大事な存在でした。せっかく掘った井戸を埋めるとは、ひどいことをするものです。これまでの苦労が水の泡です。また、湧き出る井戸も貴重な存在です。なぜなら、新鮮でおいしい水だからです。イサクたちが先に見つけたのに、「いや、いや、これは我々のものだ」と横取りされました。普通だったら、命をかけてでも守るはずです。でも、どうしてイサクは争わなかったのでしょう?それは、神さまが新しい井戸を与えてくださると信じていたからです。このように、神さまの祝福を体験している人は、人と争いません。たとえ、奪い取られるようなことがあっても、神さまが新たに与えてくださることを信じているからです。私たちも神さまを信頼しているなら、他の人と争う必要はありません。この世では、遺産をめぐって兄弟の争いが絶えません。特許や発明もだれかに奪い取られたりすることもあるでしょう。せっかく見つけた顧客や市場を、横取りされることもあるでしょう。そのような時、相手と争ったり、腐らないようにしましょう。神さまが共におられ、新しいアイディアと新しい市場を与えてくださるからです。なぜなら、私たちの神さまがすべてを所有し、神の子らに特別に与えてくださるからです。

第二は、イサクはすでに砕かれていたからです。創世記22章には、アブラハムがイサクをモリヤの山で全焼のいけにえとしてささげる記事が記されています。死んだら、これまでの約束が反故になるし、人間をいけにえにすることも倫理に反します。アブラハムは神さまを信頼して、モリヤの山に向かいました。たきぎを背負わされていたのは息子のイサクです。そのとき、イサクは30歳の青年、アブラハムは130歳の老人でした。アブラハムはイサクを縛って、たきぎの上に乗せました。普通だったら、「おやじ、何をするんだ。気でも狂ったのか?やめろ!」と130歳の老人をはねのけることもできたでしょう。しかし、30歳のイサクはだまって、縛られ、いけにえになりました。父アブラハムが刀を振り下ろそうとしたとき天からストップがかかりました。主の使いが「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」と言いました。アブラハムは、角をやぶにひっかけていた一頭の雄羊をイサクの代わりに、いけにえとしてささげました。この物語は、神さまを第一にしたアブラハムの信仰について語られるところです。しかし、イサクの立場から考えるとどうなるでしょう?イサクも神さまを信頼しました。イサクはこのとき、一度死んだのです。

新約聖書的に言うなら、古い自我が死んで、新しい存在になったのです。これを私たちは「自我が砕かれた」と言います。イサクが、なぜ自分の権利を奪おうとする者たちと争わなかったのでしょう?それは、自我が砕かれて、神さまに完全に信頼していたからです。クリスチャンでも、肉的な人と御霊の人と2種類います。どんなとき分かるでしょう?それは思わぬことが起きたときです。不当な扱いを受けたり、侮辱を受けたり、試練にあったときです。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」イサクは自我が砕かれていたので、権利をめぐって人と争わなくても良かったのです。私たちは日常生活において、いろんな争いに巻き込まれます。自分の権利を主張するあまり、問題がさらにこじれることがあります。そのためには、恵みによってイサクのように自我が砕かれ、柔和な人になる必要があります。主がさばいてくださり、主が権利を回復してくださることを信じましょう。

山上の説教でイエス様はこのように教えられました。マタイ5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」柔和とは、まさしくイサクのような人物をさします。争いを好まず、平和の道を求める人です。私たちは、「この世で柔和でいたなら、人に利用され、全部、取られてしまう」と思うかもしれません。それよりも、「トラやライオンのように人を押しのけてでも、良いものを得なければならない」と言うでしょう。たしかに、トラとかライオンは勇ましいし、憧れるところもあるでしょう。でも、街中にトラやライオンが歩いていたならどうするでしょうか?怖くて外に出ることができません。だから、人間は彼らを捕えて檻の中に入れます。では、羊や牛はどうでしょうか?羊や牛は人に危害を加えません。だから、彼らの方がトラとかライオンよりもずっと数が多いのではないでしょうか?まさしく、柔和な者が、地を受け継いでいます。この世には、力で訴えるマフィア、暴力団、テロ組織がいます。私たちは彼らを恐れます。では、彼らが地を受け継ぐでしょうか?一時的にはそういうこともあるかもしれませんが、長い目で見たならば、そうではありません。最後には柔和な者たちが地を受け継ぐようになっているのです。なぜでしょう?神さまが私たちの上にいるからです。この世の支配の上には、神さまの御支配があります。神さまがバベルの塔を混乱させたように、自らの力を誇る高慢な人たちを倒します。高慢こそが、神さまが最も忌み嫌うものです。反対に、神さまは柔和な人たちが好きなのです。神さまは、柔和な人たちに愛の御手を伸べられます。

どうぞ、イサクのように柔和な者になりたいと思います。神さまを信頼していたなら、人と争う必要はありません。この世は訴訟に満ちています。自分の権利を主張することが悪いと言っているのではありません。あるときは権利を主張しなければならないときがあります。でも、いつでも自分の権利が通るわけではありません。どうそ、そのとき神さまがさばいてくださり、神さまが報いてくださることを信じましょう。Aが取り上げられたら、神さまは代わりにBを与えてくださいます。もし、Bが取り上げられたら、こんどはCを与えてくださるでしょう。そのとき、私たちは発見するでしょう。「ああ、神さまが私と共におられ、私を祝福してくださっている。何も恐れることはない」と。どうぞ、私たちは神さまの子どもとして、すべてを供給してくださる父なる神さまを信頼しましょう。


2.祝福を受け継いだイサク

創世記26:24 【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」イサクが祝福されたのは、父アブラハムのゆえでした。では、イサクは父の祝福を受け継ぐために、どのようなことが必要だったのでしょうか?祝福を受け継ぐために、最低限すべきことがあったはずです。その第一は、結婚です。なぜなら、イサクから子孫が増し加えられ、国民が生まれるからです。そのためには、イサクは結婚して、子どもを儲ける必要があります。「イサクの嫁取り物語」として知られているのが、創世記24章です。父アブラハムは、自分の全財産を管理している、年長のしもべに「イサクの妻を見つけて来るように」お願いしました。彼に「私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」と誓わせました。これは、新約聖書的に言うなら、「同じ信仰を持つ人を伴侶にしなさい」ということです。なぜなら、未信者と結婚すると、信仰が継承されにくいからです。これは使徒パウロの教えです。Ⅱコリント6:14-15「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」保守的な教会では、相手が信仰者でなければ結婚式を挙げないところがあります。ほとんどの教会では、「理想的にはそうであるべきだけど、好きになったら仕方がない。結婚後、信仰を持てば良いでしょう」という立場です。残念ながら、未信者と結婚すると、教会に来なくなってしまうケースが良くあります。信仰をなくしたわけではないと思いますが、活動的なクリスチャンになれないということです。

年長のしもべは、アブラハムの生まれ故郷に向かいました。彼は、旅先でこのような祈りをささげました。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(創世記24:14)するとどうでしょう?アブラハムの親戚にあたる一人の美しい女性が近づいてきました。しもべが「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください」と言いました。するとその女性は、しもべだけではなく、らくだにも水を飲ませてあげました。井戸につるべを落として、それを引き上げ、水瓶に入れます。そして、水瓶をらくだがいるところまで運んでいきます。ある人は、「全部のらくだに水を飲ませるためには、100回位汲まなければならない」と言いました。ものすごい体力が必要です。これは単なる親切心ではできません。やはり、神さまが先んじて、この女性と出会わせてくださったのです。彼女の名前はリベカでした。しもべが、リベカのお父さんの家に行って事情を話しました。父と兄は、「きっと、それは主から出たことです」と快く承諾してくれました。父と兄は「もう10日ほど、私たちと一緒に滞在してください」と提案しました。しかし、しもべは「主が私の旅を成功させてくださったので、遅れてはいけない」と断りました。二人は娘の意見を聞くことにしました。リベカは「はい。まいります」と答えました。まだ、一度も顔を見たことのない人と結婚することにしました。なぜでしょう?リベカには信仰があったからです。

では、イサクの方はどうでしょうか?創世記24:63 「イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。『野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。』」このところを読むと、イサクは「ぼーっ」として、何もしていないように見えます。イサクは、何もしないで待っていたのでしょうか?日本語の聖書には「野に散歩に出かけた」と書いてあります。しかし、原文は「イサクは瞑想するために、夕方、野に出かけた」となっています。つまり、イサクもふさわしい人が与えられるように祈っていたということです。当時の人たちは、歩きながら祈る習慣がありました。ある夕方、向こうかららくだに乗ったリベカ、こちらでイサクが立っていました。二人の目と目が合いました。映画になるようなシーンです。京都には有名な祇園祭りがあります。鉾というのかもしれませんが、手前に大きな絵がかけられています。テレビで見ましたが、リベカがしもべに水を汲んで与えている絵がかけられていました。「その絵は何ですか」とリポーターが聞いたら「これはイサクの嫁選びです」と宮司が答えていました。まさしく、京都はシルクロードの最終地点です。京都にはイスラエルに関したものがたくさんあります。歴史的には聖徳太子のころ、19万人の人たちが大陸から渡ってきました。その中に、イスラエル部族の一部がいたようです。そのときに、イスラエルの文化が入ったのかもしれません。

でも、父アブラハムと母サラと同じような問題が起こりました。それは、リベカが不妊の女であったということです。父と母は、同じ問題で長い間、葛藤しました。イサクはどうだったでしょうか?創世記25:21「イサクは自分の妻のために【主】に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。【主】は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」祈ったら、すぐにかなえられました。父アブラハムのように長年待つ必要はありませんでした。これも、二代目の特権です。祝福を受け継いでいますから、そんなに苦労する必要はありません。なぜでしょう?心の中に、葛藤や疑いがほとんどないからです。私は一代目のクリスチャンです。多くの罪汚れとたくさんの傷の中から救われました。ですから、洗礼を受けても罪汚れが落ちません。傷があまりにも深かったので癒されるのが30年もかかりました。洗濯をするとわかりますが、シミになった汚れは簡単には取れません。一代目のクリスチャンは、この世と決別したので、どうしても反骨精神があります。葛藤や疑いをはねのけながらの信仰生活です。本当にきよめられるまでには40年くらいかかるかもしれません。しかし、二代目のクリスチャンはそういう葛藤や疑いがありません。素直に祈れるので、神さまは聞いてくださいます。だから、イサクの祈りも直ちに答えられました。私たちは信仰の遺産を馬鹿にしてはいけません。これが、三代、四代、五代、六代になったら、本当におだやかな信仰者になります。私もそういう人たちに会ったことがありますが、内側から自然に信仰が湧いているような感じがします。私のように無理して、頑張っている様子は全くありません。

やがて、イサクからエサウとヤコブが生まれました。そして、ヤコブから12部族が生まれました。ききんがやってきて、ヤコブの家族70人がエジプトに逃れました。エジプトに430年間いましたが、その数が100万人に増えました。やがてエジプトを脱出して、カナンの地を占領しました。紀元前1000年ダビデによってイスラエル王国が建国されました。本当に、アブラハムの子孫から国が誕生したということです。イサクがしたことは何でしょうか?それは、アブラハムからヤコブへと信仰を継承したことです。イサクはあまり目立ちません。しかし、イサクがいなければ、ヤコブ、さらには12部族、イスラエル王国へとは行かなかったのです。私もそうですが、自分の代でなんとか花を咲かせたいと思います。それも重要ですが、わが子へと信仰を継承していくことも重要です。私たちには4人の子どもがいますが、少し耳がいたいところです。4人とも洗礼は受けましたが、すべてが活動的なクリスチャンになることを祈っています。「教会の柱は、クリスチャン・ホームである」とよく聞きます。まず、ご夫婦がクリスチャンであるならば、互いに祈りあうことができます。子供たちが日曜学校に通い、信仰を継承していきます。そして、ある者たちは直接的な献身者になります。もちろん、社会に出てもすべての人が献身者です。しかし、牧師や伝道者になる直接的な献身者も必要です。先月、大和カルバリーの日曜学校の講師として招かれました。そこで奉仕していた人たちが、私の子どもと同級生です。つまり、親たちは同じ青年会同志でした。そして、一緒に日曜学校に出席した子どもたちが、20代になっています。もと青年会の久保田兄弟は日曜学校の校長先生になっていました。そして、その子供は伝道師になり、キャンプをリードしていました。「本当にうらやましいなー」と思いました。そのことを長男に話したら「俺もがんばっているよ」と言われました。

もしろん、神さまの計画は一人ひとり違います。みんなが牧師や伝道者になるわけではありません。しかし、もっと重要なことは信仰を継承させることです。イサクは恵みによって、それができました。リベカと結婚し、エサウとヤコブを儲けることができました。中には、独身であったり、子供を産めないカップルもあるかもしれません。しかし、霊的な子供、霊的な子孫を残すことは可能です。あるアメリカの名もない婦人が6人の青年を弟子訓練しました。すべての力を6人の青年に向けました。外から見たならば、あまり成功しているとは思えません。しかし、その6人がキリスト教会を変える人たちになりました。ナビゲーターの創設者ドーソン・ドルトマン、キャンパス・クルセード創設者のビル・ブライトがいました。そして、世界的伝道者のビリー・グラハムがいました。どうぞ、一代目のクリスチャンは、イサクを産みましょう。イサクの人はヤコブを産みましょう。どうか、信仰が自分の代でストップしないように。ネズミ算というのがあります。最初は小さいですが、やがて莫大な数になります。1が2になって、2が4になり、4が8になり、8が16になり、16が32になり、32が64になり、64が128になり、128が256になります。聖書はそのような倍加の法則を約束しています。私たちもイサクのように、信仰を継承するものになりたいと思います。



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2013年9月 8日 (日)

信仰の父アブラハム   創世記17:1-6   へブル11:11-12

 新約聖書では、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。しかし、創世記を読むと、「本当にそうなのかな?」と思えるようなところがいくつもあります。おそらく私たちも天国に行ったら、「罪がありません。義人です。」と呼ばれるでしょう。でも、心の中では「本当にそうなのかな?」と思うかもしれません。私たちはキリストにあって、悪い事柄が縮小され、良い事柄が拡大されていると信じます。きょうは、アブラハムが信仰の父と呼ばれるための、神さまの代表的な恵みを3つ取り上げたいと思います。言い換えるなら、神様はアブラハムの信仰を全うさせるために、3つのことを行ったということです。


1.契約の更新

神さまはアブラハムと契約を交わしていますが、1回ではありません。創世記12章、15章、そして17章、合計3回あります。なぜ3回も契約を交わす必要があるのでしょうか?それは、人間は不誠実で、忍耐して待つことができないからです。信仰の父と呼ばれたアブラハムもまさしくそうでした。最初の契約は創世記12章にあります。創世記12:1-2「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」アブラハムは主の召しに答え、生まれ故郷を出て、カナンの地にやって来ました。神さまは、「アブラハムから大いなる国民が生まれる」と約束しました。そのためには、まず、子どもがうまれなければなりません。しかし、妻のサライは「うまずめ」で、子どもを宿すことができませんでした。そのため、どうしたでしょう?アブラハムは神さまに、提案しました。創世記15:2-3「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げました。主は、「そうではない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と仰せられました。そして、主は「あなたの子孫は、星の数のようになる」とアブラハムと2度目の契約を結ばれました。

それでも、まだ子どもが生まれません。今度は、サライが提案を出しました。創世記16:2「サライはアブラムに言った。『ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。』アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」その当時、「子どもが生まれない場合は、そばめによって子どもを儲けて良い」という習慣がありました。それで、アブラハムは女奴隷のハガルに入って、イシュマエルを儲けました。あきらかに、妥協であり、人間的な解決です。生まれた後、家族の関係がおかしくなり、ハガルとイシュマエルを追い出すことになりました。それでも、神さまはアブラハムから生まれたイシュマエルの子孫を祝福しました。なんと、そのイシュマエルからアラブ民族が生まれ、イスラム教徒になりました。今もイスラム教徒はキリスト教徒を迫害しています。この件で、アブラハムは大きな間違いを犯してしまいました。

イシュマエルが誕生したのは、アブラハムが86歳でした。それから13年間の沈黙がありました。3回目の契約が17章にしるされています。創世記17:1「アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラハムの年齢は99歳です。サライともども高齢に達し、子どもを産めるような年ではありませんでした。神さまはそこまで、アブラハムを追い込みました。もう、人間の力、人間の努力では不可能です。そのときに、再び、神さまのことばが臨んだのです。99歳の老人に「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とは酷なような気がします。しかし、その意味は「神さまに完全に信頼せよ」という意味です。私たちはアブラハムのことを批判することはできません。神からの約束がなかなか成就しないとどうなるでしょうか?「あれは、気のせいだった。ひとりよがりだった」と疑いが入るでしょう。そして、「こうすれば、なんとかなる」と自分の知恵や考えでやるでしょう。しかし、それがかえって仇になり、神さまの約束が成就される妨げになります。一生懸命やったつもりですが、不信仰から出たことなので、祝福を受けることができません。しかし、神さまはご自身が立てた契約を忘れませんでした。恵みに満ちた神様は再び、声をかけてくださいます。「私はあのことを私は忘れていない。あなたの夢はどうなったんだ」と迫ってきます。イエス・キリストが死からよみがえらされたように、神様はあなたの夢をもう一度よみがえらせてくださいます。

みなさんの中にも、神さまから「あなたはこれをしなさい」というビジョンが与えられていたのではないでしょうか?それが、神さまからの契約だったのかもしれません。しかし、いろんな妨げが起こり、あなたはそれを諦めてしまいました。もう、土の中に埋めてしまいました。でも、神さまはあなたが祈った祈りを忘れてはいません。「あなたの願いを忘れてはいないよ。あの夢はどうなったのか?」と聞かれます。自分の願いと全く同じでないかもしれません。神さまは、ご自分のみこころに合致するように改訂版を提供します。神さまは、自己中心的なものを取り除き、ご自身のご栄光が現されるようにきよめてくださいます。私は高校生のとき、ボクシングに敗れ、挫折を経験しました。しかし、今は、ボクサーではなく、牧師になりました。トランペットにあこがれましたが、途中で挫折しました。しかし、今は、ヨベルの角笛、福音のラッパを吹く説教者になりました。夢を見たのが未信者の時であったとしても、神さまはあなたのことをちゃんと覚えておられます。神さまは、あのとき、あなたが願ったことを覚えておられます。全く、同じかたちではないかもしれせんが、主は答えようとされています。なぜなら、その夢はあなた自身のものではなく、神さまから出た計画だったからです。どうぞ、神さまの前に夢を差し出して、きよめていただき、そして再生してもらいましょう。


2.実物教育

 イエス様は新約聖書で「空の鳥を見なさい。野の花のことを考えて見なさい」といわれました。いわば、実物教育と言えます。実際あるものを見せることによって、信仰が与えられるからです。神様はアブラハムにもそのようにされました。創世記15:15「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」東京では、夜空を見ても、数えられるくらいの星しか見えません。しかし、田舎に行くと、夜空いっぱいに星がまばたいています。だいたい、正常な目では、6000個くらいの星が見えるそうです。アブラハムが神さまから外に連れ出されて、夜空を仰ぎました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われて、1、2、3、4と数え始めました。300くらい数えたら、もう数えられなくなりました。なぜなら、「私の子孫がこの星の数になるのか!」と思って、涙がにじんできたからです。。それから、夜の星が見えるたびごと、アブラハムはあの日、言われた約束を思い出すことができました。また、神さまは「海辺の砂のように数多く増し加えよう(創世記22:17)とも約束されました。日中は、星が見えません。でも、昼間は海辺の砂は見ることができます。アブラハムは自分から出た、子孫が数えきれない数になることを想像することができたでしょう。アブラハムは、夜は星を見るとき、昼は海辺の砂浜を見るとき、信仰を回復することができました。これは、いわばビジョンであります。神さまがビジョンを与えることによって、アブラハムの信仰を増し加えたということであります。

 私たちは何を見るかということは、とても重要です。信仰はみことばを聞くことからも入りますが、見るということもとても重要です。エレミヤは神さまからこのように何度も言われました。エレミヤ1:11-15「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると【主】は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」再び、私に次のような【主】のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」すると【主】は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。エレミヤは若くして神さまから預言者として召されました。預言者は神さまのことばを預かって、それを民に告げるという使命がありました。そのとき、ことばだけではなく、このような幻を見させられることが良くありました。幻は肉眼ではなく、霊の目で見るものです。特に預言者はこういう霊的な目がないと、神からの務めを果たすことができません。

牧師もまさしくそうでありまして、説教も重要ですが、神からの幻、ビジョンを解き放つことも重要です。幻やビジョンは、会議などで議論して出てくるものではありません。どちらかと言うと、会議は幻やビジョンに水をかけるようなところがあります。クリスチャンでも、目で見てからでないと信じない人が大勢います。そういう人に限って「現実は」とか「実際に」という言い方をよくします。しかし、目に見えてからでは、信仰はいりません。この肉眼ではなく、霊の目によって、見る必要があるのです。つまり、肉眼で見える前に、私たちは霊の目で見えている必要があるということです。この世の中における、偉大な発明や発見も、一人の幻から始りました。多くの凡人たちは「そんなの不可能だ!できっこない」と叫びます。しかし、幻をもった一握りの人たちによって、偉大な発明や発見がなされるのです。キリストの教会においても、同じことが言えます。箴言で「幻のない民は滅びる」と言われているのは、そのためです。私たちは現実を超えた世界を見る、霊的な目が必要です。神様は終わりの日に、リバイバルを与えると約束しています。神さまは日本を忘れていらっしゃるようですが、そうではありません。必ず、この日本にもリバイバルが来ると信じています。その時が来たら、週報で掲げている「350人の礼拝」はとても謙遜な人数です。ある人たちは「ああ、やっぱりならなかったか!」と言うかもしれません。でも、私は希望の奴隷となって、希望をもって死にたいです。

サマリヤの町がアラムに包囲されました。そのため、サマリヤにはひどいききんがあり、ろばの頭や鳩の糞までも高く売られていました。さらには、女たちは子どもを煮て食べる始末でした。Ⅱ列王記7:1-2エリシャは言った。「【主】のことばを聞きなさい。【主】はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが一シェケルで売られるようになる。』」しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」ちょうどその頃、4人のらい病人が「私たちはどうせ死ぬのだから、アラムの陣営に入ろう」と決意しました。主はアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられました。彼らは「大軍が押し寄せて来た!」と、すべてを置き去りにして、命からがら逃げ去りました。らい病に犯された人たちは、天幕に入って、食べたり飲んだりしました。銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しました。彼らは「この良い知らせを自分たちのものだけにしていたら罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」と言いました。王の家来が来て見ると、アラムの陣営には人っ子一人いませんでした。それで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪いました。それで、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。王様は、例の侍従、王の腕によりかかっていた侍従が門の管理に当たらせました。ところが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死にました。彼は、預言のとおり、確かに自分の目でそれを見たが、それを食べることができませんでした。どうか、この侍従のようになりませんように。私たちはリバイバルをこの目で見て、それを体験する者となりたいと思います。


3.名前を変える

創世記17:5「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」神さまは、「名前を変えろ」とおっしゃいました。アブラハムという名前の意味は「多くの国民の父」という意味です。また、妻サライにも「名前を変えろ」とおっしゃいました。創世記17:15「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」サラという名前の意味は「王女」ですが、「多くの国民の母」という意味でもあります。最初、神さまから、そのように言われたとき、「そんな馬鹿な」と、二人とも笑いました。創世記17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」神さまを礼拝しながら、「そんな馬鹿な」と笑ったのです。サラの方はどうでしょうか?創世記18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」主は「こんなに年をとっているのに、と言って笑うのか?」とサラを咎めました。サラはあわてて「私は笑いませんでした」と打ち消しました。しかし、主は「いや、確かにあなたは笑った」と言われました。

二人の信仰が完全ではありませんでした。しかし、改名させたれた名前を互いに呼んでいるうちに完全な信仰になったのです。一日の仕事が終わり、夕暮れ時になりました。アブラハムは「サラー(多くの国民の母)、もう帰ろうか!」と言いました。サラも「ええ、アブラハム(多くの国民の父)、帰りましょう!」と言いました。しもべたちがそれを聞いてどう思ったでしょう?「サラ」とは、「多くの国民の母」という意味じゃないか?また、「アブラハム」は「多くの国民の父」という意味だろう?二人のとも、年とって頭がおかしくなったんじゃないか?「こどもが生まれないので、おかしくなったんだ。ああ、かわいそうに」。それも、1日だけではありません。それから、毎日、毎晩、サラ(多くの国民の母)、アブラハム(多くの国民の父)と呼び合っていました。そう告白しているうちに、二人は若返ったように見えました。いや、実際、若返ったのです。使徒パウロはこのように教えています。ローマ4:17-18「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。」アブラハムとサラは、年老いて、死んだような体でした。二人はまさしく、「無いものを有るもののように呼んだのです。まだ、子どもが生まれてもしないのに、「多くの国民の母」「多くの国民の父」と呼んだのです。そうすると、信仰が増し加わり、肉体も若返り、子どもを宿すことができるようになったということです。

「無いものを有るもののようにお呼びになる方」は新共同訳では「存在していないものを呼び出して存在させる神」と訳しています。このようなことから、私たちが創造的なことばを発するということがとても重要だということがわかります。最初に神さまが「アブラハム(多くの国民の父)になる」「サラ(多くの国民の母)になる」と言いました。その次に、二人がアブラハム(多くの国民の父)とサラ(多くの国民の母)と互いに呼び合うようになったのです。これは信仰がなければできません。私たちが神からの奇跡を体験するためには、ことばを変える必要があります。なぜなら、神さまは無いものを有るもののようにお呼びになる方だからです。あるいは、存在していないものを呼び出して存在させる神だからです。私たちも神さまにならって、無いものを有るように言うべきです。たとえば、結婚したいならば「いつか、結婚させてください」では良くありません。「結婚できることを感謝します」と言わなければなりません。「いつか、子供を与えてください」では良くありません。「子供が与えられることを感謝します。私たちはパパとママになります。」と言うべきです。「いつか病気を癒してください」ではありません。「病気が癒され、健康になることを感謝します。」と言うべきです。目に見えてから、言うのは信仰ではありません。まだ、目に見えていない事柄を見えるもののように言うことが信仰なのです。私たちは料理を作るとき、心の中には完成図が見えている必要があります。絵をかく場合も、心の中には完成図が見えている必要があります。家を建てる場合にも、完成図が見えている必要があります。車や電車でどこかへ行くにしても、心の中には行った場所が見えている必要があります。それをさらに口で宣言していくとき、信仰が固められます。その後、行動や気持ちがついていくのです。どうぞ、私たちの口から破壊的なことば話さないようにしましょう。「不景気だからうまくいかない。希望がない。最悪だ」と言うなら、そのようになります。神さまは「存在していないものを、呼び出して存在させる神さま」です。どうぞ、目にみえるものに逆らって、創造的なことばを発しましょう。彼らは、「アブラハム(多くの国民の父)」、「サラ(多くの国民の母)」と呼び合いました。まだ、一人も子供が生まれていないのに、多くの国民になるとは、すごい信仰です。でも、神さまが無から有を与え、そのようにしてくださいました。しかし、アブラハムがそれができるようになったのは、99歳になったときでした。まさしく、死んだような体になり、無いもののようになった時です。人間的に全く不可能だと思えるような時こそ、神さまの出番なのです。みなさんの中にも、人間的には不可能だと思えることがいくるかあるでしょう。どうぞ、その場所に神さまが来られますように。神さまは「存在していないものを呼び出して存在させる神」です。そして、あなたは信仰によって、それが存在したかのように宣言するのです。あなたは何を見ているでしょうか?神さまはあなたにどのようなことをお見せしているでしょうか?どうか、霊的な目によってそれをキャッチして、信仰のことばを発していきましょう。そうするなら、次から次へと神さまのみわざを経験することができるでしょう。


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2013年9月 1日 (日)

天路歴程    創世記12:8-18 

 イギリスのジョン・バニヤンが『天路歴程』という本を書きました。基督者という人があるとき、夢を見ました。自分の町がまもなく亡びるという恐ろしい夢でした。彼は救いを得るために、故郷も家族も捨てて、天の都を目指しました。ある時は失望落胆の沼に落ち、またある時はアポリュオンという悪魔と戦う、波乱に満ちた旅の物語です。続編は、彼の妻と子供たちが、天の都を目指すというストーリーになっています。クリスチャンも天の都を目指す旅人であります。きょうは、故郷を捨てて、約束の地を目指したアブラハムの信仰を共に学びたいと思います。


1.故郷を出発したアブラハム

主なる神さまはアブラムに「あなたを大いなる国民とする」と約束しました。やがて、彼の名前は「アブラハム」と改名させられます。新約聖書では「アブラハム」と呼んでいますので、便宜上アブラハムと呼ばせていただきます。アブラハムは神さまから「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出なさい」と命じられました。では、アブラハムの生まれ故郷とはどこなのでしょうか?1章手前の創世記11章を見たいと思います。アブラハムは父テラが70歳のときに生まれました。アブラハムの生まれ故郷はカルデヤ人のウルでした。ウルはシュメールでも有名ですが、古代メソポタミアの都市です。そこで、アブラハムはサライと結婚しました。父のテラは、息子夫妻と孫のロトを伴って、カナンの地に出発しました。もしかしたら、テラは神さまから、「カルデヤ人のウルから出て、カナンの地に行くように」と命じられたのかもしれません。しかし、どうでしょう?ハランに来て、そこに住みついてしまいました。アブラハムが召命を受けたのは、父テラが死んだ直後だったと思われます。創世記12:1-4「【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。当時は、今よりも二倍くらい生きしたようですが、75歳というと、ある程度の年に達しています。その年になって、何もかも捨てて出発するというのは冒険であったと思われます。

 へブル人への手紙11章には、このように書かれています。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(へブル11:8)。みなさんの中に、行先が分からないのに、電車に乗る人がいるでしょうか?あるいは、行先が分からないのに、車を発車させる人がいるでしょうか?たまに、山手線でぐるぐる回っている人がいますが、普通はそういう人はいないと思います。アブラハムは父がカナンの地に行こうとしていたことだけは知っていました。だから、西へ向かって進んで行ったと思われます。実際に、創世記12:5「アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。」とあります。神さまは、アブラハムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられました。しかし、まだその当時は、カナン人が住んでいたので、そこに定住することは不可能でした。そこで、アブラハムはベテルの東にある山の方に移動し、天幕を張りました。それから、なおも進んで、ネゲブの方へと旅をつづけました。しかし、その地方にはききんがあったので、今度はエジプトに下りました。こうところを見ますと、カナンが最終的な目的地ではなかったようです。このように行先は明かされていません。しかし、アブラハムが国民の父となるために、絶対すべきことがありました。それは何でしょう?生まれ故郷、つまり、父の家を出て、神さまが示す地へ行くということです。なぜ、生まれ故郷を出なければならなかったのでしょうか?生まれ故郷には何があったのでしょうか?カルデヤのウルにはいろんな宗教がありました。古代メソポタミアでは、ナンナルという月の神さまを拝んでいました。父テラはハランに移りましたが、ハランもやはり、偶像礼拝の地でした。いわば、父テラは妥協したのでありましょう。だから、神さまはアブラハムに「あなたの父の家を出よ」とまで言ったのでしょう。

 日本は、仏教や神道、先祖崇拝の国です。日本で、イエス・キリストを信じるとなると、戦いが伴うでしょう。羽鳥明先生が16歳のとき、夜の集会でイエス様を信じました。宣教師から、お父さんにクリスチャンになったことを告げなさいと言われました。勇気を振り絞って、お父さんにそのことを告げました。すると、「ご先祖に謝れ」と怒鳴られ、畳の上に、大外狩りで投げつけられたそうです。現代はそこまでいかないかもしれませんが、長男の場合は仏壇を守るために、信仰を持つのが難しいかもしれません。イエス様がヤコブとヨハネを召したとき、舟も父も残してイエス様に従いました(マタイ4:22)。弟子となるためには、決別みたいなものがありました。私が家内と婚約したのち、家内の実家に挨拶に行きました。お家に入ると、天皇陛下の写真が飾られており、神棚も仏壇もありました。どうわけか、マリヤ様の白い像が居間の棚に立ててありました。家内の弟が家を継ぐので、問題はなかったかもしれませんが、義父の心は穏やかでなかったと思います。義母も看護学校を出してやったのに、教会に献身するなんて夢にも思っていなかったでしょう。家内はまさしく、生まれ故郷と父の家を出たのです。しかし、そのわりには、お盆の他に数回は実家に帰っています。ま、親孝行のためであると理解しています。私たちクリスチャンにとっては、偶像礼拝を捨てて、まことの神に立ち返るということがどうしても必要です。なぜなら、ほとんどの日本人は、お寺の檀家であり、神社の氏子になっているからです。自分で気が付いていなくても、霊的には、この世の神に捕えられているということです。ですから、イエス様を信じるためには、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出る」ということが必要なのです。


2.天幕生活をしたアブラハム

 その当時、カナンにはカナン人とペリジ人が住んでいました。その地に、アブラハムとロトの2つの集団が入り込むことになりました。両者の家畜が増えてきたとき、牧者との間に、争いが起こりました。なぜなら、家畜のための牧草地が狭かったからです。そのとき、アブラハムはどのように、問題を解決したでしょうか?創世記13:8-11「そこで、アブラムはロトに言った。『どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。」神さまはアブラハムを召しましたが、ロトはそうではありませんでした。ロトはおじのアブラハムに着いて来ただけです。そして、アブラハムのゆえに祝福を受けていたのです。アブラハムは年長者であったので、自分が最初に行くべき土地を選ぶことができました。しかし、アブラハムは年少者のロトに選択権を譲りました。そこで、ロトは目を上げて、ヨルダンの低地を選びました。なぜなら、草が生い茂っているので、家畜を飼うには最適だと思ったからです。ところが、後からわかりますが、そこはソドムの人たちが住んでいました。創世記13:13「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった」と記されています。ソドムという言葉は、「男色」とか「同性愛」と関係があるようです。ロトは肉眼で見渡して、「ヨルダンの低地が良い」と選び取りました。

 一方、アブラハムはどうでしょうか?アブラハムは信仰の目をあげて見ました。すると、神さまが示してくれる地を見渡すことができました。ロトは肉眼で見ましたが、アブラハムはもっと高い、霊的な目で見ることができたのです。するとどうでしょう?やがて、神さまが子孫に与えてくれるであろう、全部の地を見ることができました。神さまは「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」と約束してくださいました。ロトはこの世での相続地を得るために求めました。一方、アブラハムは神さまご自身を求めたのです。つまり、神さまご自身がアブラハムにとっての相続財産だったのです。詩篇16:5「【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」とあります。ダビデは「主ご自身が、ゆずりの地所であり、私の受ける分を、堅く保っていてくださる」と歌いました。狭い日本に住んでいますと、「一生かけても、猫の額みたいな土地しか持てないだろう」と考えます。しかし、霊的な目を上げて見るならどうでしょう?「神さまが全地の所有者だから、住むべきところはちゃんと確保してくださる」という信仰がわいてきます。よく考えると、私たちは土地を永久に所有することはできません。なぜなら、いつかはこの地上を去らなければならないからです。「つかの間だけ、住まわせてもらう」というのが真実であります。だから、この地上にあまり執着することは無用です。使徒の働き7章に、ステパノがアブラハムに関して語ったことが記されています。使徒7:5「ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。」ある英語の聖書には「1フィート四方の土地も与えられなかった」と書かれています。1フィート四方というのは、30センチ四方のタイルの大きさです。一坪よりもはるかに小さいです。神さまはアブラハムに相続地を与えると約束しました。しかし、それはアブラハムではなく、アブラハムの子孫だったのです。

では、アブラハムはどのような生活をしていたのでしょうか?アブラハムは神さまご自身を相続財産として受け取っていました。そして、この地上では天幕生活をしました。つまり、神さまが「行きなさい」という地に移り、そこに天幕を張って、しばらくの間、住んだということです。でも、神さまが「他の箇所へ行きなさい」とおっしゃれば、天幕をたたんで、他の地に移り住みました。きょう最初に開いた創世記12章を読みますとこのようなことが分かります。アブラハムはシェケム地に来ました。そこに祭壇を築きました。さらにアブラハムはベテルの東に移動して天幕を張りました。そこに祭壇を築きました。ロトとの紛争を解決してから、アブラハムは天幕を移してヘブロンに住みました。そして、主のために祭壇を築きました。アブラハムの一生は、天幕生活でした。しかし、ただ、あちらこちら移動して生活していたのではありません。必ずと言って良いほど、そこに主のために祭壇を築きました。祭壇を築くとはどういう意味でしょう?それは、神さまを礼拝し、神さまと共に生活するということです。すると、神さまはその場所に隣在してくださり、祝福の場所と変えてくださるのです。だから、アブラハムはどこに移り住んでも、神さまと共に生活することができたのです。まさしく、アブラハムにとって、神さまご自身が「ゆずりの地所であり、私の受ける分」だったのです。朝のNHKで「じぇじぇ」というのをやっています。この間、ちょっと見たら、主役のお母さんがこのようなことを言っていました。「大切なのは、住む場所ではなく、一緒に住んでいる人たちである」と。確かに、良い人間関係があれば、そこは良い場所になります。環境の最も重要な要素は、人間と言えるでしょう。でも、聖書は、人間もさることながら、主が共に住んでいてくださるかどうかであると言っています。そこに、祭壇を築いて神さまを礼拝する。そうすれば、その場所は祝福の地に変えられるということです。「祭壇を築く」それは、家庭での礼拝、職場での礼拝、このような地域での礼拝と言うことができます。昔、アメリカでは学校で礼拝を持っていました。しかし、今はそのようなことができません。クラスルームなど、公のところで祈ることは禁じられています。だから、学校での銃乱射事件のようなことがよくあるのではないでしょうか。私たちが祭壇を築くならば、どこに行っても、その場所に神さまが隣在してくださり、祝福の場になるのです。


3.天の故郷にあこがれたアブラハム 

アブラハムはこの地上で、天幕生活をしていました。この世的に言うならば、借家住まいです。いや、テント生活ですから、もっと大変かもしれません。しかし、へブル人への手紙の記者はこのように述べています。へブル11:9-10「 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」少し飛んで、へブル11:14-16「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」アブラハムの天幕生活は、「信仰による」ものでした。アブラハムは地上では旅人であり寄留者でした。約束のものを手に入れることはありませんでした。つまり、この地上では、相続地を得ることができなかったのです。では、どこを相続地としたのでしょう?それは天の都です。天の都こそが、本当の到達地であり、相続地だったのです。アブラハムは生まれ故郷から出てきました。普通だったら、自分の生まれ故郷をあこがれるはずです。また、生まれ故郷に帰ることもできたでしょう。でも、アブラハムはさらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれました。それは、自分が本当に行くべきところは、生まれ故郷ではなく、天の故郷、天の都であることを信じていたからです。アブラハムは「あっちが本当の故郷だ。あっちが将来、住むべきところなんだ」と確信していました。だから、地上で天幕生活をし、「自分は旅人であり寄留者である」ということに甘んずることができたのです。

寄留者は英語の聖書では、exileです。Exileって言われると「かっこいいなー」と思うかもしれません。でも、「旅人」とか、「寄留者」と呼ばれたらどうでしょうか?任侠伝とか演歌の世界であったら良いかもしれません。しかし、住所不定で住まいがないとなるとどうなるでしょう?上野の近くを車で通ると、台車にいろんなものを積んだ人が歩いているのを見かけます。隅田川の岸辺を見てみると、ブルーシートの家があります。「私はあのようにはなりたくない」と思っても、本当は、あまり変わらないということです。なぜなら、私たちは旅人であり寄留者だからです。昔、はしだのりひことシューベルツというグループが『風』という歌を歌いました。「ひとはただ一人、旅に出て、人はだれも故郷をふりかえる。ちょっぴりさみしくて振り返っても、そこにはただ風がふいているだけ。…ふりかえらず、ただ一人、一歩ずつ。振り返らず泣かないで歩くんだ。」実は、はしだのりひこさんは、高校生の頃、榎本保郎先生のところに出入りしていたそうです。クリスチャンになったかどうかはわかりません。「人生が旅である」ということを歌っているので、聖書的な考えが、どこかに入っていたかもしれません。本当に人生は旅であります。しかし、私たちは行くあてのない、放浪者ではありません。ちゃんと行くべきところがあるからです。それは天の都であり、天の故郷です。私も10年前までは、『故郷』の歌を耳にすると、涙が出たものです。「うさぎ追いしかの山」と聞くと、「うさぎはおいしくないぞ」と冗談を言っていました。兄が事故で亡くなってから帰っていませんでした。しかし、伝道のために、17年ぶりに帰ってみました。その後も数回、続けて帰りましたが、「ああ、ここは私の故郷ではないんだなー」と納得しました。第一は山川があまりにも昔と変わり都会になりました。第二は、知っている人がほとんどいない浦島太郎です。第三は、私の家は兄嫁が住んでおり、もう私の家ではありません。とても寂しい思いがしました。最終的に、「秋田は私の故郷ではない。天の都、エルサレムだ」ということが分かりました。そのときから、『故郷』の歌を聞いても、涙が出なくなりました。先月、高校の同窓会に出席しました。高校は、私の暗黒時代でしたので、思い出すのもイヤでした。でも、誘われたので、思い切って出席しました。みんな還暦になり、卒業して42年ぶりの再会です。出席してみて、「ああ、私は心が癒されたんだなー」と自覚しました。土木科を卒業して、牧師になり、どんでん返しの人生でした。私が、一番の幸せ者ではないかと思いました。なぜなら、短い人生で、キリスト様と出会い、永遠のいのちを手に入れたからです。

「人生は出会いで決まる」とユダヤ人哲学者、マルチン・ブーバーが言いました。私たちが出会うというよりも、向こうの方から出会ってくださるというのが本当ではないでしょうか。そして、私たちの責任というのは、神さまのお声に応答するということです。アブラハムも父がなくなって、これからどうしようと思ったかもしれません。しかし、そのときお声がありました。アブラハムの従い方は十分でなかったかもしれません。なぜなら、「おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した」(創世記12:5)からです。でも、神さまからいろんな取扱いを受けて、身軽になりました。最後には、自分は天の都を目指す旅人だということが分かったのです。私たちも生きている限り、この地上にいろんな未練があります。この世の宗教、家とか土地、地位や名声、人とのつながりがあるでしょう。一つずつ主にゆだね、身軽になっていくのです。天の都を目指す私たちへの神さまのみこころはどういうものでしょうか?へブル11:16 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」「旅人」とか「寄留者」と呼ばれたら恥ずかしいかもしれません。しかし、天の都を目指している人を神さまは恥としません。むしろ、誇りと思われるでしょう。


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2013年8月25日 (日)

箱舟を造ったノア   創世記6:8-18  へブル11:7 

 アダムから生まれた子孫が地に増え広がりました。しかし、地上には悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことに傾いていました。それで、主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。主は「私が創造した人を、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで、地の表から消し去ろう」と決意されました。しかし、ノアだけが、主のこころにかなっていました。神さまはノアを選んで、地を洪水で滅ぼす前に箱舟を造らせました。きょうは、ノアの信仰について共に学びたいと思います。


1.箱舟を造ったノア

 主はノアに「このように、箱舟を造りなさい」と、詳細な設計図を示されました。長さと幅と高さの比率が、30:5:3です。造船界では、タンカーなどの大型船を造船する際に最も高い安定性と強度を持つことから「黄金比」などと呼ばれています。知恵ある神さまは最も安定する舟を造らせたのです。ハレルヤ!1キュッビットは約44.5センチですから、箱舟の大きさは、現在の長さでいうと、長さが133メートルです。サッカー場よりも20メートルくらい長いです。幅は22.2メートルです。そして、高さが13.3メートルですから、4,5階建てのビルデングであります。ノアはその舟をどこで造ったのでしょう?普通、舟は港で造るものです。しかし、山の上でした。山の上だったら、木がふんだんにあり、運ばなくても良いからです。あとで洪水が来たとき、その舟は自然に浮きました。人間だけではなく、動物も載せるので、3階建ての超大きな舟です。鍛冶屋はいたと思われますが、すべてが手作業です。だから、箱舟を造るのに、丸100年かかりました。3人の息子たちが手伝ったと思われますが、気の遠くなるような作業です。水が外から入らないように、内と外とに木のヤニで塗りました。「塗る」はヘブル語では、カーファルですが、「罪を赦す」とか「贖う」という言葉と同じです。まさしく、箱舟の内側には命がありましたが、箱舟の外は死でした。

 へブル人への手紙の記者は、ノアは信仰によって舟を造ったと言っています。へブル11:7「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」まだ見ていない事柄とは何でしょう?やがて大雨が降り、大洪水が押し寄せて、地上のすべてのものが死に絶えるということです。神さまはノアとその家族を救うために、契約を結ばれました。そのために、箱舟を造り終えたら、ノアとノアの家族は造った舟に入ること。すべての生き物の二匹ずつを箱舟に入れること。家族と動物の食物にするために、食糧を取って集めるという条件でした。ノアはどうしたでしょうか?創世記6:22「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」これと同じことばが、創世記7:5にも出てきます。ノアがなぜ、「正しい人」と言われたのでしょうか?それは、道徳的な面だけではありません。神さまの命令に従う人が正しい人なのです。ノアは信仰によって、神さまが造りなさいという箱舟を造り、やがて来る大洪水に備えました。「与作は木を切るヘイヘイホー、ヘイヘイホー」という歌があります。しかし、ノアの方が先輩です。「ノアは木を切るヘイヘイホー、ヘイヘイホー」。山で木を切る音が、100年間も続きました。

 では、ノアは他の人々に、「洪水が来るから備えるように」と言わなかったのでしょうか?Ⅱペテロ2:5「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し…」とあります。「義を宣べ伝えた」というのは、神のさばきである洪水が来るということを伝えたということです。でも、人々は「洪水なんて来るわけがないだろう!」と聞こうとしなかったのです。イエス様がこのようにおっしゃられています。マタイ24:37-39「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすることは悪いことではありません。しかし、彼らは洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、同じことを繰り返していました。地上のことに心を奪われていたので、その日が来ることに気付かなったのです。ノアとその家族は仕事の合間に、町に出かけて、「自分たちは箱舟を造っているけど、まもなく洪水が来るから入らないか」と言ったのではないかと思います。しかし、町の人たちは「ノアは頭がおかしくなった」とまともに耳を傾けませんでした。ノアの警告を100年間も無視したのです。教会はノアの箱舟にたとえられています。今でも、世の人たちは「毎週、日曜日、教会に出かけるなんて、よっぽど暇なんですね。」と嘲笑するかもしれません。どうぞ、私たちはノアのように、神からの警告に備えながら、他の人たちに福音を宣べ伝えたいと思います。ノアは成功した伝道者だったでしょうか?ノアとその家族、合計8人しか救われませんでした。数的には少ないかもしれませんが、ノアを含め、8人の家族が救われたということはすばらしいことではないでしょうか。私たちも「少なくとも自分の家族が救いに入れられたら」と願います。


2.箱舟に入ったノア

 100年たって、いよいよ箱舟が完成しました。ノアは神さまに命じられたとおり、動物たちを1つがいずつ集めてきました。きよい動物だけがなぜ、7つがいなのかというと、あとで犠牲として神さまにささげるためです。羊とかヤギ、牛などがきよい動物とみなされていました。一体どれくらいの数なのかわかりません。ノアの物語の絵をみますと、ライオン、トラ、キリン、カバ、象、サル、らくだ、鶏、馬、ガゼール…。しかし、いくら舟が大きくても、すべての動物を1つがいずつ集めるのは不可能だろうと思うかもしれません。それに、野生の動物が、おとなしく箱舟に乗るでしょうか?私も、科学的に説明できないところがあります。しかし、神の霊が動物たちを集めたのではないかと思います。創世記7:7-10「ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。」ノアとその家族が箱舟に入りました。そして、動物たちが、雄と雌二匹ずつが箱舟に入って来ました。おして、いよいよ雨が降ってきました。創世記7:11-12「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」雨の降り方が現在のと、全く違います。なぜなら、「天の水門が開かれた」とあるからです。

 このところに不思議な表現があります。創世記7:16「…それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」大雨が降ってきて、人々は「ああ、本当に洪水がやって来た」と驚いたでしょう。そして、ある人たちは、箱舟にたどりついて、そのドアを叩いたかもしれません。「ドアを開けてくれ!」と言ったかもしれません。もし、ノアが「ああ、そうか」と言ってうしろの戸を開けたらどうなるでしょう。洪水が入り込み、箱舟もろとも沈んでしまうかもしれません。「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」このところには、峻厳なる神のご意志があります。戸が閉ざされたなら、出ることも入ることもできません。ケネス・ヘーゲン牧師の証です。私が17歳で、まだ寝たっきりだったころ、いとこのリジーおばさんが、彼女の娘と一緒に私たちのところを訪れていました。リジーおばさんがいるところでは、神のことを決して口にすることができませんでした。もしそうでもするなら、彼女は怒鳴り散らして、こう言い始めるのです。「神なんかいないわ!天国も地獄もないわ。説教者なんかみんな殺されるべきよ、どの教会も焼かれるべきよ。ああいう説教者たちは人々をだましているだけなんだから。彼らは人々のお金を取ろうとしているだけだよ」。私が病をいやされて約10年後にリジーおばさんと会ったときは、彼女はもう老けていました。あるとき、リジーおばさんの暮らしていた町で集会を開いていました。リジーおばさんの娘のロレンナが、彼女のお見舞いに来てほしいと言いました。ロレンナは私の両手を取って泣き出しました。「ああ、ケネス。母は昏睡状態で、お医者さんから二度と回復しないと言われているわ。でも、彼女の意識が戻ったら、あなたから彼女に話してくださるかしら?」。寝室に入ると、リジーおばさんは昏睡状態で横たわっていました。彼女の両目は大きく開いていましたが、目は大理石にようで、一度もまばたきしませんでした。ロレンナは「ママ!ママ!」と大声を上げて彼女を少揺さぶりました。ロレンナは「おばさんの息子のケネスを覚えてる?長い間、寝たっきりだったけど、後で説教者になっている人よ」。ロレンナが「説教者」と言ったとき、リジーおばさんがベッドの上で身を起こしました。「ケネス!ケネス!お前は説教者だね。『地獄はない』と私に言っておくれ。私は『神はいない』って言ったわ。私は『天国はない』って言ったわ。」リジーおばさんは半狂乱になって、さらに叫びました。「私に言っておくれ、『地獄はない』って。私はとても怖いわ。とても暗いし、私は怖いわ。ああ!ああ!」そして、リジーおばさんは後ろの枕の上に倒れました。私はイエス・キリストのことを話し始めました。しかし、リジーおばさんは持っていた体力を全部使い果たし、枕の上に倒れた時、無意識状態に陥り、二度とそこから戻ってきませんでした。箱舟に入るということは、キリストがくださる救いを受けるということです。私たちの人生においてその決断がいつでもできるわけではありません。人生のドアが閉じられるときがあるからです。


3.箱舟を出たノア 

創世記8:1-4「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。」かなり前、ある調査団隊が、アララテ山に登って、ノアの箱舟の残骸を写真に撮ったようです。また、宇宙船から取った写真をテレビで見たことがあります。しかし、現在はトルコ政府がアララテ山に登ることを禁じています。アララテ山のふもとに住む人たちは、ノアの洪水物語を何千年も語り継いでいます。神さまは、科学的な証明ではなく、信仰によって信じるように導かれているようです。それでは、科学は不要かというとそうではありません。ノアは水がどのように減っていったか、時間の経過とともに克明に記しています。雨が降り始めたのがノアの生涯の600年目の第二の月の17日でした。そして、第七の月の17日に、アララテ山の上に止まった。5か月で150日目です。第十の月の1日に、山々の頂が現れました。40日たって、箱舟の窓を開いて、烏を放ちました。地がかわききるまで、出たり、戻ったりしていました。それから鳩を放ちましたが、足を休める場所が見当たらなかったので、箱舟に戻ってきました。

創世記8:10-11「それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。」ピースというたばこがあります。昭和27年、日本の専売公社がアメリカのデザイナーに当時150万円の高額なデザイン料を支払いました。このデザイン変更で爆発的に売り上げが伸びたそうです。ノアが箱舟の窓から放った鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってきたことで、大洪水が収まり、安らぎの大地が近いことを知った、という、鳩が平和の象徴となった逸話にちなんでいます。ノアは7日後、また鳩を放ちましたが、もう戻ってきませんでした。では、すぐに箱舟を出たかというとそうではありません。創世記8章13節以降にも、水がどうなり陸地がどうなったか書かれています。そして、第二の次の27日、地はかわききりました。なんと、箱舟に乗ってちょうど1年後です。1年間も、狭い舟に乗っていたら、気が狂うでしょう。陸地が見えたら、すぐにでも降りたいところです。でも、ノアは1日、1日、日付を付けていました。雨がどのくらい降ったか。大洪水が何日あったか。水がどのくらいまし、どのくらいで引いたか。からすを放ち、はとを放ちました。それでも、出ませんでした。ノアは、なんと科学的で、なんと緻密な人のでしょう?気が狂わなかったのは、第二の月、第三の月、第四の月、第五の月、第六の月、第七の月、第八の月と日を数えていたからです。

いつ出たのでしょう?創世記8:15-16そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」そうです。主のおことばがあって初めて、ノアは舟を出たのです。ノアは、科学的なデーターを握っていました。しかし、主のおことばがあるまで待ったのです。もし、陸地が見えたとき、降りたならば、伝染病にかかったかもしれません。自然が完全に回復するまで待たされたのです。箱舟を降りたのは、ノアとその家族、合計8人でした。船という漢字があります。右側の作りに、八口と書かれているのには意味があります。口は人のことを言います。ですから、八口は八人という意味になります。まさしく、船はノアの箱舟の物語から来ています。ノアが舟から出て、一番最初にしたことは何でしょうか?それは礼拝です。創世記8:20「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」きよい動物の数がなぜ、他より多かったか?それは、全焼のいけにえとしてささげるためでした。普通だったら、「ああ、助かった」と食べて飲んで、祝杯をあげるでしょう?しかし、まず、ノアは主のために祭壇を築き、礼拝をささげました。ノアは家を建てる前に、神さまに礼拝をささげました。穴という漢字があります。箱舟から出た八人は住む家もなく、しばらくの間、洞穴に住んだかもしれません。空(から)という漢字があります。8人が青空の下で働(工)いたので、穴が空っぽになったということを連想させます。

神さまは新たに契約を交わしました。だれと交わしたのでしょう?神さまはノアとだけ契約を結ばれたのではありません。創世記9:9-11「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」神さまは、「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束しました。しかし、それは人間とだけではありません。すべての生き物、鳥、家畜、野の獣たちを含んでいました。神さまは人間以外の生物のことも考えておられます。ここからわかることは救いというのは、人間だけのことではなく、世界全体のこと指しています。聖書で最も有名な聖句と言えば、ヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」です。神さまは、だれを愛されたのでしょうか?世、世界であります。人間だけではなく、動植物すべてを愛しておられます。だから、救いというとき、自然界も含まれているということです。そして、神さまは契約のしるしとして空に虹をかけました。創世記9:13-15「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。」洪水の前に、空に虹がなかったのでしょうか?保守な聖書学者は、「ノア以前の地球は厚い水蒸気で覆われていたのはないか」と言います。ノアの洪水以降の人たちの寿命が120歳であると書かれています。その理由は、水蒸気の天蓋が取り除かれて、有害な宇宙線(放射能)が地上に降り注がれるようになったからなのかもしれません。厚い水蒸気の層がなくなり、青空が見えるようになりました。だから、雲の中に虹が現れるようになったと考えられます。虹は鳩と並んで、平和の象徴になっているのはこの話からです。神さまは虹を見たら、ご自身の契約を思い出すとおっしゃいました。つまり、二度と大洪水ですべての肉なるものを滅ぼさないということです。歴史上、洪水は何度もありましたが、ノアのような地球規模の洪水は起こったことがありませんでした。

でも、神さまは世の終わり日には、洪水ではなく、火によって滅ぼすと警告しています。Ⅱペテロ3:6-9 「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」ノアのときは、大洪水でこの世界がさばかれて、滅ぼされました。しかし、世の終わりは大洪水ではありません。「火によって、不敬虔な者どもをさばく」と言われています。まさしく、私たちは世の終わりに住んでいます。かつて、ノアの洪水が起こったように、火によるさばきも必ず起こると信じるべきではないでしょうか?それでも、世の人たちはノアの時代の人たちのように、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしています。まず、私たち自身が目をさまして備えなければなりません。また、一人でも多くの人たちがノアの箱舟である、キリストの教会に身をよせるように働きかけたいと思います。正確には教会に来さえすれば良いということではありません。罪を悔い改め、つまり方向転換し、イエス・キリストを救い主として信じなければなりません。イエス・キリストことが、主であり救い主だからです。



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2013年8月18日 (日)

神と共に歩む   創世記5:21-23 へブル11:5-6

 エノクは、死なないで、天に引き上げられた人物です。預言者エリヤもつむじ風に乗って、天に引き上げられました。あとは、世の終わり、イエス様が来られたとき、私たちが生きているなら、死なないで天に引き上げられるでしょう。死というものが、アダムとエバが罪を犯してから、全人類を支配してしまいました。しかし、エノクやエリヤのように例外もあるということです。私たちはエノクのように死なないで天に引き上げられるかは、分かりません。エノクは天に引き上げられるほど、神さまから喜ばれていました。どのような信仰生活が神さまに喜ばれるのでしょうか?そのことを聖書からともに学びたいと思います。


1.神と共に歩む信仰

 創世記4章にはカインの子孫が記されています。カインの子孫は「だれそれが何をした」ということが記されています。ところが、創世記5章を見るとどうでしょう?ここにはアダムから生まれたセツの子孫が記されています。「だれそれが何をしたか」ということは全く書かれていません。その代わりに、「だれそれが○年生きて、だれそれを生み、何年生きて、死んだ」と多くの人たちが並べられています。「生きて、生んで、死んだ」「生きて、生んで、死んだ」と書いてあります。カインの子孫とセツの子孫の決定的な違いは何なのでしょうか?カインは自分の業績を上げることに力を向けたグループの人たちです。一方、セツはどうでしょうか?創世記4:26「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」セツの子孫は、「何ができるかということよりも」神さまとの関係を重んじたグループの人たちです。創世記5章に「生きて、生んで、死んだ」と記されていますが、彼らは、神さまと関係を持っていた人たちです。そうしますと、神さまは、私たちが何ができたかということよりも、ご自身との関係を記憶に止めておかれるようです。当時の人たちは、現在よりもはるかに長生きしています。ある人たちは、「古代オリエントにならって、年齢を水増ししたのだ」と言います。私はそうは考えません。アダムは本来、永遠に生きる存在として創造されました。ところが罪を犯したために、人類に死が入り込みました。ですから、アダムがたとえ、930年生きたとしても、永遠と比べたなら、まだ短命なのです。

 セツの子孫に、エノクがおります。カインの子どももエノクでありましたが、別人だと思います。エノクの一生はどうであったでしょうか?創世記5:21-24「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」エノクの一生は、他の人たちと比べて半部以下の長さです。もし、私たちのまわりに、早死にした人がいるなら、「その人は祝福を受けていない」と思うのではないでしょうか?エノクはどうだったのでしょう?「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」「いなくなった?」って、果たしてどこに行ったのでしょう?へブル人への手紙で、このことを説明しています。へブル11:5「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」エノクは死を経験しないで、神さまのもとに召されました。理由は、エノクは神さまから喜ばれていたので、死なないで、天に引き上げられたということです。これってすごいことじゃないでしょうか?人生は単純に長さではないように思えます。神さまがエノクを愛して、とても喜んでいました。「ああ、私はエノクの死を見たくない。生きたまま、天に引き上げよう」ということになったのです。人類の歴史上、エリヤをのぞいて、エノクのような人物はいません。アブラハムもモーセもダビデも死にました。しかし、エノクだけはそうではありませんでした。では、どういう生き方がそれほど神さまを喜ばせるのでしょうか?創世記5章にはひとこと「エノクは神とともに歩んだ」と書いてあります。エノクのように神とともに歩む人生が、神さまに喜ばれるということであります。

 でも、神とともに歩むというのは、どういう意味でしょう?エノクという名前は「従う者」という意味です。アダムとエバは堕落する前は、神さまとともに歩んでいたと思います。神さまと親しく交わりながら、神さまに従って歩んでいたと思います。ところが、善悪を知る木の実から食べてからは、一変してしまいました。神さまに聞かないで、自分たちで何もかも判断するようになりました。本来なら、神さまに従うことが善であり、従わないことが悪でした。でも、神さまから独立した人類は、自分たちで善悪を決めるようになったのです。罪ある人間はどうでしょうか?神さまがともにいたなら、かえって緊張するのではないでしょうか?自分の好きなことができない。自由がない。いつさばかれるか分からない。だから、多くの人は「さわらぬ神にたたりなし」と、神さまを祀り上げてしまいます。どうでしょう?神さまがともにおられることが喜びでしょうか?あるいは窮屈で仕方がないでしょうか?エノクは違いました。エノクは、いつでも、神さまを意識して生活していたと思われます。私もイエス様を信じた頃は、そうでした。いつでも「神さま、神さま」と意識していました。なんでも「神さま」でしたので、友人たちから、キリスト教にかぶれているとさえ思われていました。それから、半年後、神学校に入ってからどうなったでしょう?神学校では神学を学びました。その学校では「みことば、みことば」と言っていました。知的な面が強調され、頭の信仰になりました。心の信仰から頭の信仰になったのです。「神さまはどういう存在か」などと、理屈っぽくなりました。アダムとエバは知識の木の実を食べるときは、とても素朴だったと思います。ところが、知識の木の実は魅力があります。エバはその木を見たとき「賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)と言っています。 

 神を知る知識が増し加われば神さまと共に歩むことができるのでしょうか?パウロは、Ⅰコリント8:1で「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と言っています。知識を持つことは悪いことではありません。しかし、1つの弊害があります。知識は人を高ぶらせてしまいます。でも、愛は人の徳を高めます。私たちと神さまとの関係でいうならどうでしょうか?聖書は神さまについて書かれた書物です。いろんな本を読んで、神さまについて勉強することはすばらしいことだと思います。でも、神さまは人格を持っています。聖書という神さまの説明書を読むことも重要ですが、人格を持っていらっしゃる神さまと交わる方がもっと重要ではないでしょうか?聖書は神さまについて書いている書物です。聖書を学ぶならば、神さまについて知識を得られます。しかし、それだけで神さまが分かったとは言えません。ギリシャ語で「知る」とういうことばには2つあります。1つはギノスコーであり、知的に知るということです。「イエス・キリストは神の子であり、救い主である」ということを聖書から知ることができます。その知識は完全であり、上がったりも下がったりもしません。もう1つはオイダであり、体験的に知るということです。ヘブル語では「ヤーダー」と言って、「知る」とは、夫と妻の親しい関係を言います。つまり、イエス様が自分にとって、救い主であるということを体験することがもっと重要です。この知識は一ぺんでわかることではありません。いろんなことを体験していくうちに、「ああ、イエス様は本当に私の救い主なんだ」と分かるのです。イエス様は弟子たちをご自分のもとに集めました。マルコ3:14-15「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」イエス様は学校のようなクラスルームで弟子たちを訓練しませんでした。弟子たちと寝食を共にしながら、生活を通して教えたのです。知識もさることながら、その生き様を刷り込んでいたのです。「刷り込み」こそ、もっともすぐれた教え方であります。

 私も神学校を卒業したてのころは、神さまがどういうお方なのか定義することができました。「神さまは全知全能で、偏在なるお方、完全なる愛をもっておられる」と言うことができました。しかし、自分が経済的に最も苦しいときに、「神さまは全知全能です」と言えるかどうかです。やはり、それは、苦しいときに神さまから養ってもらった体験があるなら本当にそうなります。私はグーグルで日本の地図、世界の地図を見るのが好きです。今は、「アース」という機能が加わり、まるで飛行機から見たような感じで見えます。エベレスト山もマッターホルンにも行けます。また、チベットの梅里雪山という前人未到の山にも行けます。富士山にも簡単に行けます。しかし、実際に山に登るのは、考えられないくらい大変です。パソコンの上では、雪崩にあうこともありません。もちろん、遭難することもありません。そんなことでは、山に行ったことにならないのです。神さまとの関係も同じです。「神さまは全知全能である」と一言で言えます。しかし、それは頭の知識です。しかし、神さまと実生活で交わりながら、神さまが全知全能であるということがもっと重要です。パウロは経済的な苦しみを乗り越えてこのように告白しています。ピリピ4: 19 「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」私たちも神さまを「私の神は」と紹介できる者となりたいと思います。


2.神さまに喜ばれる信仰

へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神さまは霊ですから、肉眼では見えません。エノクもそうであったと思われます。ところがエノクは、神さまは目には見えなくても、近くにおられることを信じていました。それだけではありません。エノクは神さまに自分の方から近づいて、神さまと親しく交わったのではないかと思います。神さまが閻魔大王のように怖いと思ったなら、だれも近づきません。しかし、エノクは神さまが自分を愛してくださる、恵み深い神さまであることを信じていました。エノクがそういう態度で神さまに近づいたので、神さまも「そうか、エノク」と近づいたのです。ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」とあります。信仰とは、「信じて仰ぐ」と書きます。でも、もっと積極的な意味があります。信じて、こちらから神さまに近づくということです。

きょうもみなさんが、このように神さまに近づいています。私たちが賛美し、礼拝をささげているのは神さまに近づいている証拠です。では、このようなメッセージは何のためにあるのでしょうか?カトリック教会では、このようなメッセージは重要ではありません。それよりも、聖体と言われるパンを食べることです。自分の罪をざんげして、神さまに近づくことが重要とされます。それではなぜ、プロテスタントでは礼拝のとき、長々と教えを垂れるのでしょうか?そして、いつ礼拝しているのでしょうか?話を聞くのが礼拝なのでしょうか?では、なぜ、このようなメッセージをするのか?それは、私も含めてみなさんに、信仰を与えるためです。神さまは目に見えませんので、信仰が必要です。また、私たちは罪を犯していたり、あるいは標準に達していないと、「自分は神さまのところに行けない」と思います。あるときは神さまが近く感じられますが、あるときは神さまが遠くに感じられます。またあるときは、「神さまなんかいないのでは?」と疑いに満ちているときもあるでしょう?どうでしょうか?私たちの信仰いかんによって、神さまが大きくなったり、小さくなったり、あるいは消えてなくなるのでしょうか?そうではありません。私たちはイエス・キリストの贖いによって、完全に神さまに受け入れられているのです。儀式や犠牲も必要でありません。なぜなら、イエス様が血を流して、贖いを完成してくださったからです。イエス様は私たちが必要である律法をすべてまっとうされました。仲介者であるイエス様を通して、ありのままで神さまのところに行けるのです。私が聖書からこのようなことをメッセージするとどうでしょうか?みなさんは「ああ、そうだったのか?」とイエス様のところに行って、重荷をおろして、平安を得ることができます。だから、このメッセージは礼拝の中心ではありません。みなさんが神さまに近づけるように手助けをしているのです。礼拝の中心は、メッセージが終わってからの応答のときであります。自分をささげることが最も重要なのです。もちろん、献げものも重要です。なぜなら、献げものは自分の信仰の現れだからです。

 もう1つ神さまに喜ばれる信仰とは何でしょう?それは、神さまを求めるということです。そして、神さまを求める者には報いてくださいます。この箇所を読むと「神さまに品物を求める」と書いていません。多くの場合、私たちは経済的なもの、健康、問題の解決、いろんな必要を求めるでしょう?でも、ここには「神さまを求める」としか書かれていません。ということは、何かの品物や願い事ではなく、神さまご自身を求めるということです。あるとき、お父さんが長い出張から帰ってきました。いつも、お父さんは息子のために、おもちゃを買ってきてくれます。「お帰り」と子どもが玄関に来て迎えました。お父さんが「いやー、忙しくて。お土産をかう時間がなかった。ごめんよ」と言ったとします。もし、子どもが「なーんだ。せっかく楽しみにしていたのに、お土産がないのか?」とプーンとすねて部屋に入ったならどうでしょう?あるいは、子どもが「お土産なんかよりも、お父さんが無事に家に帰ってくることがすばらしんだ」と抱きついたらどうでしょう?お父さんは嬉しくて、「こんど高価なものを買ってくるぞ」と思うでしょう。私たちは多くの場合、神さまの手を求めて、神さまご自身を求めていない場合があるかもしれません。何が必要を覚えたときだけ祈る。「あれください。これください。」「ああしてください。こうしてください。」もし、そうだとしたなら神さまはさびしいのではないでしょうか?神さまに頼むものがなくても、神さまがともにおられることを感謝したならどうでしょうか?神さまはきっと、喜ぶのではないでしょうか?この世の人たちが拝んでいる偶像の神さまはそういう神さまです。困った時しか、近づきません。しかし、私たちの神さまは人格を持っておられ、関係を重んじてくださいます。用事がなくても、神さまと親しく交わる。神さまご自身を賛美して、感謝する。そのような神さまとの交わりこそが、エノクのように神さまを喜ばせるのではないでしょうか?

 さらには、このところに「報いてくださる」と書いてあります。もう一度、お読みます。「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」確かに、「神を求める者には報いてくださり、それを信じなければならない」と書いてあります。ある人たちは「報い」というと何か意地汚いように思う人がいるかもしれません。「報い」ということばは、日本語ではあまり良い感じがしないのでしょうか?原文を見ますと、神さまは「報いる者」となっています。これは「賃金を払う者、報酬を与える者」という意味があります。イエス様は「タラントのたとえ」や「ミナのたとえ」を用いて、神さまが報いを与える者であると教えておられます。忠実であった者にはそれに応じた報いを与えておられます。逆に不忠実であった者には、持っているものを取り上げ、外の暗闇に追い出すように命じました。ここには、「神さまは、報いてくださる方であることを信じなければならない」と教えています。つまり、報いをどうでも良いと考えるのではなく、報いを期待すべきだということです。では、私たちがこのように、神さまご自身を求め礼拝をささげるとします。神さまはどんな報いを与えてくださるのでしょうか?私は神さまは、手ぶらでは返さないと思います。シェバの女王がソロモンに会いに来たときはどうでしょうか?シェバの女王はバルサム油と非常に多くの金および宝石を携えてきました。そして、帰るときはどうだったでしょう?Ⅰ列王記10:13「ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。」これは、神さまと私たちのことを暗示してはいないでしょうか?シェバの女王が求めたのは、ソロモンの栄華であり、ソロモンの知恵でした。しかし、帰るときはどうだったでしょう?持ってきたものに相応しいものを与えました。それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えました。シェバの女王は遠くから、危険を冒してソロモンに会いに来ました。一緒に、たくさんの貢物を携えてきました。そのようにやって来たシェバの女王をソロモンは手ぶらで帰しませんでした。求めた物は何でも望みのままに与えました。このところに、何かヒントがあるように思います。

 私たちの神さまも同じではないでしょうか?このように神さまを賛美し、感謝をささげます。みことばを聞いて、信仰をもって神さまに近づきます。自分を神さまにささげ、ささげ物もささげます。そして、牧師が祝祷をします。私はこのとき、神さまがご自分がもっておられるものをみなさんに与えてくださっていると信じます。ある人には健康を、ある人には経済的な祝福を、またある人には神さまからの慰めと平安と喜びを、またある人には隠された知恵を、またある人にはビジョンや信仰を与えるでしょう。私たちは神さまから油を塗られ、武具を与えられて、この世に遣わされていくのです。肉体的にも、精神的にも、霊的にもリニューアルされるでしょう。「新しい週も神さまと共に歩むんだ」という決意が与えられるでしょう。それだけではありません。私たちは私たちの遣わされた生活の現場で、神さまと共におられることを体験を通して学ぶのです。「ああ、このときも助けてくれた」「ああ、これも与えられた」「ああ、本当に慰めを受けた」「ああ、問題が解決された」。そういう報いが毎日、毎日、与えられると信じます。エノクのように天に引き上げられてはいません。しかし、天の方がこちらに降りてきて、まるで天国のような祝福の中を歩むことができるのではないでしょうか?私たちがエノクのように天に引き上げられるのもすばらしいことです。でも、残された家族はさびしがるでしょう。それよりも、天の方がこちらに降りてきて、みんなで祝福の中を歩む方がもっとすばらしいです。私たちが残されているのは、神さまの恵みを知らない人に、恵みを知らせるためであります。あなたのまわりの人たちに、神さまを知らせるために、まだ地上に残されているのです。へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」





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2013年8月11日 (日)

良きものをささげる    創世記4:1-7 へブル11:4

 へブル人への手紙11章には信仰者の列伝が記されています。その筆頭に出てくるのがアベルです。「アベルは信仰者のモデルなのでしょうか?」と疑問に思うかもしれません。しかし、へブル書の記者は「アベルは義人であった」と賞賛しています。世の中には、アベルのように事件に巻き込まれて命を落とす人がいるでしょう。病気や不慮の事故で、若くして亡くなる方もいます。大志を抱いていたのに、思い半ばで召される人もいます。この世を見ると、「人生は無情である。神も仏もないのでは」と思えるかもしれません。仏教では、「浮かばれない」と言う表現があります。アベルの人生は、仏教的には、浮かばれない人生だったかもしれません。しかし、聖書を読むとき、神さまは、不幸に対して報いてくださる神であり、小さな者を覚えてくださる神であることがわかります。


1.アベルの信仰

 アダムとエバから二人の子どもが生まれました。長男はカインであり、弟はアベルです。カインという名前は不明ですが、エバが「私は得た」と言ったことと、関係があるかもしれません。一方、アベルは「息」とか「蒸気」という意味があります。はかない彼の人生と、関係があります。このように聖書には「名は体を表す」というものが多くあります。二人は神さまに、捧げものをたずさえてきました。このところからも、礼拝という行為において、捧げものが不可欠であったことが分かります。カインは土を耕す農夫だったので、地の作物、たとえば穀物や果物を持ってきたと思われます。一方、アベルはどうでしょう?「彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」と書いてあります。アベルが持ってきた羊には、2つの修飾語がついています。第一は、初子です。最初に生まれた羊という意味です。第二は、最上のものです。羊の最上の部分を持ってきたということです。それからどうなったでしょう?「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」と書いてあります。なぜ、神さまはアベルのささげものを受け入れ、カインのささげものを退けられたのでしょうか?カインはその後、「ひどく怒り、顔を地に伏せた」とありますが、無理もないような気がします。「神さまは公平なお方でしょう?一方を受け入れ、他方を拒絶するとは何事ですか?」と文句言いたくなります。どこに問題があったのでしょうか?

 このことを説明しているのが、新約聖書のへブル人への手紙です。へブル11:4「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。」新約聖書では、二人のささげものに違いがあったと解説しています。「アベルはすぐれたいけにえを神にささげ、それが義人であることの証明を得た」と書いてあります。さらには、「神さまは、アベルのささげ物は良いささげ物だとあかししてくださった」とも書いてあります。つまり、ささげものによって、ささげものを持ってきた人がどんな人物か分かるということです。カインは「地の作物から主へのささげ物を持って来た」とありますが、何も間違っているところがないように思います。しかし、英語で表現するならば、one of themであります。「それらの中の1つ」ということでしょう。一方、アベルのささげ物はどうでしょうか?「羊の初子」とありますので、最初に生まれた羊です。聖書では「初子は神さまのものである」と書いてあります。さらに、「最上のもの」とあります。原文は「脂肪、選り抜きの部分」というという意味になっています。おそらく、羊をほふって、一番良い部分をささげたということでしょう。英語で表現するならば、the best thingであります。つまり、神さまに一番良いものを選んで携えて来たということです。創世記4章には「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた」とあります。また「カインとそのささげ物には目を留められなかった」と書いてあります。ささげた人とささげ物とがくっついています。つまり、ささげ物は、ささげた人と関連している、いや、一体であるということです。カインの神さまに対する見方は、「one of themそれらの中の1つで良い」ということでしょう。そして、アベルの神さまに対する見方は「the best thing一番良い部分をささげるべきである」ということです。あきらかに、神さまに対する信仰の度合いが違います。

 では、どうなのでしょうか?神さまが喜ばれるのは、ささげ物のいかんによるのでしょうか?ささげ物が多ければ神さまに喜ばれるのでしょうか?あるいは、最も尊いものを捧げれば、最も神様を喜ばせることができるのでしょうか?異教の人たちは、そのように信じて、自分の子どもをささげました。モアブ人の間では、ケモシュ(モレク)という戦いの神さまが礼拝されていました。ある人たちは、ケモシュのために、自分の子どもを全焼のいけにえとしてささげました。彼らは、「自分にとって最も大切な子どもをささげますから、この祈りを聞いてください」と願い出ました。しかし、神さまが喜ばれるのは、ささげ物の大小ではありません。その人の動機であり、信仰であります。おそらく、アベルは神さまをとっても慕っていたので、「羊の初子の中から、それも最上のものを持ってくるのが神さまに相応しいのだ」と考えていたのでしょう。自分のささげ物を誇示して、見返りを求めるようなところは微塵も見られません。神さまを崇める純粋な信仰でたずさえてきたのです。

もう1つのヒントは、へブル11:4後半の「そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました」というみことばです。義人とは罪がないだけではなく、神さまから完全に正しいと見られているということです。でも、アベルは神さまに近づくときに、自分には罪があることを知っていました。そして、自分の両親のことをちゃんと覚えていました。両親であるアダムとエバは、いちじくの葉の代わりに、神さまから着せられたものを知っていました。「皮の衣」ということは、神さまが動物をほふって、血を流し、皮をはいだということです。アベルはどの程度理解していたか分かりませんが、「神さまのところに近づくためには、このままではいけない。羊をほふって、血を流し、最上の部分を持ってこなければならない」と考えたのです。そのことによって、アベルの罪がきよめられ、神さまはアベルを義人とみなしたのであります。アベルは信仰によって、どのささげものが一番、神さまにふさわしいのか知っていたのです。つまり、アベルには贖いの信仰があったということです。願わくば、私たちのささげものが、私たちの信仰の表れでありますように。もし、私たちが神さまの前に出るとき、「つまらないものですが」とか、「わずかなものですが」と言ってはならないと思います。日本人は人に何かをプレゼントするとき、「つまらないものですが」と謙遜します。本当につまらないものだったら、人に差し上げるべきではありません。気持ちはわかります。でも、私たちが神さまの前に出る時は、「せいいっぱい」とか「心からの」と言うべきです。


2.アベルへの報い

アベルはこの後、カインによって殺されてしまいました。本当に、無残な死に方であり、はかない人生であります。「神さま、どうしてアベルを守ってあげられなかったのですか?」と言いたくなります。この世にはそのような不条理がまかりとおっているのは何故でしょう?アダムとエバが罪を犯して、神さまから離れてしまいました。別な表現では、神のご支配から、罪と悪魔の支配に転落したということです。そのため、義なる神さまは、罪の中にいる人々を支配しようとはしません。ローマ1:28「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」この世に悪がはびこっているのは、そのためであります。では、神さまは悪を放任しておられるのでしょうか?そうではありません。ローマ2:6「神は、一人ひとりに、その人の行いによって報いをお与えになります」とも書いてあります。弟を殺害したカインは、さばかれ、その土地から追い出されることになりました。一方、アベルはどうでしょうか?神さまはアベルの叫びを聞かれました。アベルが流した血によって土地がのろわれました。それだけではありません。神さまはアベルの魂を救い、義と認め、義人の最初のリストに加えられたのであります。アベルの人生は、まさしく「息」あるいは「蒸気」のようなものでした。アベルの命は、またたく間に消えてなくなりました。しかし、神さまはアベルの魂を救ってくださり、義人の筆頭に加えてくださったのです。

 聖書の神さまは報いを与えてくださる神さまです。この世においては、事故や災害で死んだり、若くして病気で死んだり、あるいはアベルのように命を奪われる人もいます。しかし、その理由は、アダムとエバの堕落後、この世は罪と悪魔が支配しているからです。「神さまがいるなら、なぜこんなことが起きたんですか?神さまなんか本当はいなんだ!」と言っている人が大勢おられると思います。私たちは主の祈りの中で「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように(マタイ6:10)」と祈ります。この祈りは、「地においては神のみこころが行われていない」ということが前提になっています。だから、「みころがこの地でも行われますように」祈るように求められているのです。では、「神さまは、全くこの地上の出来事には関知しないか、罪と悪魔のなすがままにしておられるのか?」というとそうでもありません。なぜなら、神さまはアベルがささげたささげものを覚えておられ、報いてくださったことが、ここにしるされているからです。使徒の働き10章にこのような記事があります。カイザリヤというところに、コルネリオというローマの百人隊長がいました。使徒10:2「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」と書いてあります。彼はローマ人でありながら、まことの神さまを恐れかしこみ、多くの施しをなし、神に祈っていました。神さまは、異邦人であるコルネリオを覚えておられたのでしょうか?聖霊が、使徒ペテロに「カイザリヤにいるコルネリオという人に会いに行きなさい」と命じました。一方、カイザリヤのコルネリオには御使いが現れ「コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。ヨッパに人をやってペテロを招き入れなさい」と言いました。ペテロは異邦人の家に入ることを躊躇しましたが、主の幻とともに御声があったので、従いました。ペテロがカイザリヤに来て、コルネリオの親戚一同にイエス様のことを話している途中、聖霊が下りました。コルネリオのように、まことの神さまに向かって祈っている人を、神さまは覚えていてくださるということです。

 何十年も前のことです。一人の韓国の青年が肺結核のためベッドに臥せっていました。彼の片方の肺は全く機能していませんでした。彼は自宅のベッドに臥せって、ひどい苦しみの中で、死を待っていました。そのとき彼は、さまざまな神さまの名前を呼びました。「どうか私を助けてください」とひとりの神さまに向かって叫びました。しかし、何の応答もありませんでした。それで、こんどは別の神さまに「どうか私を助けてください」と叫びました。しかし、何の応答もありません。さらに別の神さまに同じことを祈りました。しかし、何の応答もありません。さらに別の神さまに祈りましたが、何の応答もありません。最後に、彼は自暴自棄に陥り、「もし、まだ、他のどこかに、神さまがいるのなら、私は病気を治してくださいとは求めません。ただ、私がどのように死んだら良いか教えてください」と叫びました。彼は死ぬことを恐れていました。数時間後です。若い女子大生が近所を歩いているときに、だれかから呼ばれているように感じました。なぜなら、「表現できないような愛」が青年の家から流れてきたからです。彼女は、自分で何をして良いか分からないまま、知らない家のドアをノックしました。すると、一人の婦人がドアをあけました。女子大学生は、「とても奇妙で、自分でもわからないのですが、あなたについて、何かお祈りをしたら良いでしょうか?」と言いました。その婦人は、青年のお母さんでした。彼女は泣きながら、「はい、私の息子が死にそうなんです」と答えました。女子大学生はお家に上がり、青年のために祈りました。その日に、青年はイエス様を受け入れました。しかし、青年は死にませんでした。神さまは奇跡的に彼を癒しました。その青年こそ、世界最大の教会の牧師、チョーヨンギ牧師です。神さまは一人の青年を見捨てませんでした。彼はどの神さまか分からずに、「他にもまだ神さまがいたら」と祈っただけです。神さまはちゃんと覚えてくださり、女子大学生を遣わし、病を癒し、神さまの偉大な働き場に引き上げてくださいました。神さまは、ご自身のものを見捨てるお方ではありません。神さまは私たちが呼び求める声を知っておられます。そして、必要な助けを与えてくださいます。たとえ、アベルのように肉体的な命を失うことがあっても、魂を救ってくださいます。私たちの神さまは悪に対してはさばき、善に対しては報いてくださるお方です。


3.アベルの血

へブル12:24「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」これはどういう意味でしょう?アベルの血はイエス・キリストの予表、あるいは予型であるということです。つまり、アベルの血は、キリストを表わしているということです。ちょっと考えてみたいと思います。アダムの長男はカインでした。「カインがこれからの子孫を何とかしてくれるだろう」という期待は完全にはずれました。カインは弟アベルに対する妬みと怒りを抑えることができませんでした。アベルを野原に呼び出して、襲いかかって殺しました。さらには、地面に埋めました。主はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。カインは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか?」と答えました。カインは神さまが、全部、ご覧になっていることを知りませんでした。そのとき、「申し訳ありません。私はかっとなって、弟を殺してしまいました。どうかお赦しください」と告白したならば赦されていたでしょう。しかし、救いの道を蹴って、「私は知りません。弟の番人でしょうか?」と言いました。そのことは、カインの何が証明されたのでしょうか?Ⅰヨハネ3:12「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」「悪い者から出た者」とは、どういう意味でしょう?「悪い者」とは聖書では、悪魔のことを指しています。カインの父はアダムであり、悪魔であったのです。カインの末裔は、まさしく、悪魔の子どもであり、罪を犯し続ける者たちです。つまり、アダムの長男は子孫を救う者ではなく、むしろ罪を助長する者になったのです。その証拠に、レメクはこう言いました。創世記4:24「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」。まさしく、罪が拡大しています。

 では、カインのかわりに人類を贖う方はだれなのでしょうか?すぐ答えを出す前に、このところに「アベルの血」が、出ているのは、何故なのでしょうか?創世記4:10そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」私はこれまで、アベルは「神さま、兄カインが私を殺しました。どうか兄をさばいて下さい」と叫んでいると思っていました。しかし、そうではないようです。なぜなら、アベルはヘブル11章では、義人と認められています。義人はそういう祈りをするとは思えません。また、へブル12章には「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています」と書いていますこのところからわかることは、アベルとイエス様が似ているということです。アベルが仲介者であるならば、イエス様は新しい契約の仲介者です。アベルの血が語るならば、イエス様の血はアベルよりもすぐれたことを語ります。このところでは、アベルは仲介者イエス様の予表、あるいは予型であるとみなされています。アベルは血を流しながら、「神さま、カインを赦してください」と叫んだのではないかと思います。おそらく、へブル人への記者は、そのようにアベルが流した血を評価していたのではないかと思います。アダムが生んだ長男カインは殺人を犯し、人類を救うことができませんでした。義人アベルは殺されましたが、「カインを赦してください」と叫びました。では、人類を罪から救うお方はだれでしょうか?イエス様は神のこどもであり、長子です。イエス様は十字架で、「父を彼らをお赦しください」と祈りました。そして、ご自分の血を注いで、私たちの罪を取り去り、新しい契約の仲保者となってくださいました。このお方を信じる人は、悪魔の子ども、カインの子孫ではありません。罪赦され、神さまの子どもとなることができるのです。古い契約は律法を守り、さまざまな儀式を行うことでした。しかし、新しい契約はキリストを信じることで、救われます。

 では、「クリスチャンになったらアベルのようなはかない人生を送ることはないか」というとそうではありません。神さまのみこころは、Ⅱヨハネ2にあるように、「魂に幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である」ことです。でも、神さまはアベルのことを忘れてはいません。アベルは義人でありました。そして、アベルの流した血とその叫びは無駄ではありませんでした。アベルはイエス・キリストを示した立派な証人でした。私たちの知人や肉親の中に、長寿を全うしないで召された人がいるかもしれません。聖書にはアベルのほかに、エノクのことが記されています。新約聖書ではイエス様の弟子でありながら、剣で殺されたヤコブが出てきます。石で打ち殺されたステパノもいます。人間的に見たならば、「神さまどうして守ってくれなかったのですか?」と文句を言いたくなります。考えてみれば、イエス様も33歳で亡くなりました。地上で健康で長生きすることは、神さまの標準的なみこころであると信じます。しかし、人生は地上の長さではありません。どう生きたかであります。アベルは短い人生でありましたが、神さまに最上のものを捧げました。神さまはアベルとそのささげ物とに目を留めてくださいました。私たちの人生は永遠と比べたら30年も80年もほとんど変わりありません。でも、そういう小さな私たちに神さまが目を留めてくださり、覚えてくださり、報いてくださるお方だということが分かりました。十字架の片方の犯罪人が「イエス様、私を思い出してくださいJesus remember me」と願いました。イエス様は「まことに、あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」とおっしゃいました。イエス様はあなたのことを覚えていらっしゃいます。そして、豊かに報いてくださいます。


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