2010年2月 7日 (日)

三拍子の祝福   創世記3:6-7、Ⅲヨハネ2 

 明治時代、日本の福音は内村鑑三に代表されるインテリ層に届きました。教会は精神面を強調し、経済的な問題や病気の癒しに対してはあまり関知を払いませんでした。そのせいもあってか、現世の御利益を説く新興宗教がたくさん興りました。彼らは信徒の力をフルに活用し、一般民衆に向かって、彼らの救いを具体的にかつ分かりやすく説きました。1975年くらいから、韓国のチョー・ヨンギ牧師は、三拍子の祝福をもって、一般民衆に向かって福音を語りました。病の癒しが起り、生活面でも祝され、教会を通して国が栄えて行ったのです。チョー師は20数年間も続けて日本に足を運びました。しかし、日本の教会のある指導者たちは、チョー師が韓国人であったせいもあり、「あれは御利益宗教だから危ない」と、信徒が集会に出かけることを禁じました。日本の多くの教会はドイツ神学の影響を受け、信仰を観念的ものにしてしまいました。だから、日本は新興宗教が栄え、本物と言われるキリスト教会が低迷したのではないかと思います。

1.魂が恵まれる

口語訳聖書は、Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている」となっています。たましい、すべての点、健康、この順番が大切なのです。私たちはまず、魂が恵まれていなければなりません。もともと、罪の始まりは何でしょうか?それは、アダムが食べてはらなないという木から食べたことです。善悪を知る知識の木は神の主権を象徴していました。その木から取って食べるということは、私が神になって善悪を判断するということです。それは神の主権を侵すことであり、反逆の罪です。その直後、「ふたりの目が開かれた」とあります。これは、霊が死んで、その代わり魂が異常に発達したということです。アダムが罪を犯す前は、神様と親しく交わり、神様の御声に従って歩んでいました。ところが、木の実を食べてからは神様ではなく、自分の思いで生きるようになったのです。これこそが罪のはじまりであります。神様から離れてからどうなったでしょうか?「自分たちが裸であることを知った」とありますように、恥意識がやってきました。その後、二人は主の御声を避けて園の木の間に身を隠しました。不安と恐れやってきたのです。さらに、彼らは自分の罪を認めず、責任を転嫁しました。夫婦間に軋轢が生じ、妻は夫を恋い慕うけれども、夫は妻を支配するようになりました。アダムとエバの子どもカインは怒りにまかせて弟アベルを殺しました。カインの子孫には敵意と殺意が拡大していったことがわかります。このように、人間が神様を離れ、自分中心に歩むようになってから、心の中に恥と不安と恐れが入りました。さらには夫婦間の軋轢、人間同士の怒り、敵意がやってきました。この世は「人が教育を受け、経済的に満たされたなら幸福になる」と言うでしょう。今の政府もそのようなマニフェストを上げています。しかし、私たちがすべきことは、まず、神様と和解し、魂の問題を解決しなければなりません。魂が壊れていては、教育も経済も全く役に立ちません。

イエス・キリストは、まず、魂の問題を解決するためにこの地上に、人として来られました。イエス・キリストは第二のアダムとして、父なる神様に完全に従順されました。イエス様ご自身も神様でありましたから、父なる神に聞かなくても、自分の力で何でもできたはずです。しかし、ヨハネ5章で「私は自分からは何事も行なうことができません」と言われました。イエス様は父なる神様の前に完全な人として生活しました。それは私たちの贖い主となるためであり、また私たちの模範となるためです。イエス・キリストは神の小羊として、その尊い血を流し、私たちの罪を贖ってくださったのです。贖いのために重要なのは、キリストの血であります。レビ記には「血を流すことなしには罪の贖いはありえない。なぜなら、肉の命はその血そのものであるからだ」と書いています。現代の教会はキリストの血をあまり強調しなくなりました。血なまぐさいのは気持ち悪いので、スマートな救いを伝えてきました。でも、私たちの魂の救いのためには、キリストの血が必要です。ヘブル9:14「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」アーメン。私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れるとき、私たちの霊が目覚めます。でも、霊の外側に魂があります。神様は私たちの魂を取り扱わなければなりません。キリストの血は、私たちの心の罪責感を洗い流し、その良心をきよめてくださいます。私たちは主イエス・キリストを受け入れると、恥、不安や恐れ、軋轢、怒り、敵意が去っていきます。その代わり、喜び、平安、愛がやってきます。

しかし、救いはそれで終るのではありません。神様は自己中心的な魂を砕かなければなりません。私たちの魂は救われてからも、相変わらず神の御霊に逆らい、自分勝手に生きようという性質が宿っています。その性質を聖書では肉と呼びます。神様は私たちをとっても愛しておられるので、いろんな試練を通して、私たちの魂を砕き、神中心の信仰にしようと訓練してくださいます。チョー先生は「神様はぶどう酒を造る過程のように、器を移し換えながら、魂の中の粕を取り除かれる」とおっしゃっています。この器とは、私たちが生きていく間に出会う、色々な逆境のことです。第一に「誤解の器」という色のついた器に入れられます。弁解をやめ、黙って神様に祈って待つしかありません。第二は「鍛錬の器」という真っ黒で首が長く、底が丸い土器に入れられます。真っ暗な世界でも、約束のみことばをしっかり握ることによって解放されます。第三は「献身の器」は浅く広い器で、ふた型のような器です。多くの人たちが見て、自分を批判するでしょう。聖霊に満たされることにより、終始一貫して喜ばれる生活をすることができるのです。第四番目に移される器は、らせん状の「摂理に導かれる器」です。自分の一生と、心と、身体と、生活のすべてを主に委ねるべきです。主のみ旨のままに聖霊に導かれて生きていくときに、驚くべき奇跡のみわざが起るでしょう。良き父なる神様は、イエス様の血の代価を支払って買い取られた私たちに、奇跡的な生活をさせ、神様のみ旨によって、ご計画され備えられた、神様の子としての恵まれた生活を、私たちにプレゼントなさりたいために、私たちの魂を砕かれるのです。アブラハムは25年、ヤコブは20年、モーセは40年かかりました。神様はご自分の栄光のために用いるために、愛する者の訓練(魂を砕き死なせること)をなさいます。霊的な人になった時、はじめて神様はその人をお用いになるのです。アーメン。

2.すべてに恵まれる

神様がこの世界を創造されたとき、「すべてが良かった」と言われました。何もかもできた後に、人間が創造されたのです。人間は神により頼みながら生活していましたので、すべてが満たされていました。ところが、神に逆らって堕落してからどうなったのでしょうか?創世記1:17-19「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」そうです。土地が呪われ、いばらとあざみが生えるようになりました。この汗は、骨折りの結果生ずる呪いのシンボルです。その証拠に、男性が仕事に没頭することによって家庭が崩壊し、自らもワークホリックになります。本来、人間は神の代理者として、この地を治める者として造られました。しかし、神に反逆したために、サタンがその支配権を横取りしたのです。それ以来、人間は、物質の世界でも祝福を受けることができなくなりました。確かに物質的に裕福であった億万長者は何人もいます。しかし、その多くの人たちは、その富のゆえに悲惨な生活を送ってしまいます。チョー先生は本の中でこのように語っています。「人間はあらゆる物質を所有しても満足がなく、快楽を追求し、自由を得ても満足がなく、権力によって世の中を意のままにしても、満足のない放蕩息子のような人生を生きています。個人の問題だけではなく、世界には、ききん、核戦争の恐れ、大量生産と大量消費による副産物である公害問題があります。もっと恐ろしいのは、精神的ききん、精神的枯渇、精神的葛藤などの、現代における人類の内面的問題です。そこで、私たちを『すべてが誤った状態』から解き放ち、恵まれた状態に引き戻すためには、どうしても仲立ちになって下さる方が必要になってくるのです。」アーメン。

仲立ちとは、私たちのために地上に来てくださった、イエス・キリストであります。イエス様は天のみくらを捨てて、馬小屋にお生まれになりました。父ヨセフの大工の仕事を受け継ぎ、ナザレで過ごされました。兄弟も多く、その生活は決して楽でなかったと思います。なぜなら、たとえ話に、継ぎはぎのたとえとか、無くしたコインを一生懸命さがす婦人のたとえがあるからです。30歳から公生涯に入りましたが、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」という生活をしました。「宮の税金を納めろ!」と言われたときは、釣った魚の口から払いました。死なれたときは、他人の墓を借りました。なぜ、イエス様は貧しい生活をなさられたのでしょうか?使徒パウロはこう言っています。Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」イエス様は、十字架につけられるとき、呪いの象徴であるいばらの冠をかぶせられました。イエス様は、私たちの呪いをお受けになり、その結果、私たちは律法の呪いからあがなわれたのです。律法の呪いとは何でしょう?申命記28章には、主の御声に聞き従うなら、すべての祝福が臨むと記されています。しかし、主のすべての命令とおきてを守り行なわなかったらどうでしょう?「あなたは町にあっても呪われ、野にあっても呪われる。あなたのかごも、こね鉢も呪われる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も…」と、呪いのリストが延々と続きます。しかし、イエス・キリストは律法を全うし、律法の呪いをその身に受けられたのです。その結果どうなったのでしょうか?ガラテヤ3:13,14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。

アブラハムの祝福とはどんなものだったのでしょうか?アブラハムは信仰の父と呼ばれています。その子どもはイサク、その子どもはヤコブです。これらの族長たちは、みんな豊かでした。なぜなら、神様が彼らを祝福したからです。他に旧約聖書に出てくる人たち、ヨブは東の人々の中で一番の富豪だったと記されています。ダビデ王もソロモン王も富んでいました。ダビデは詩篇23篇で「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と言いました。神様は良き神様であり、私たちを豊かに祝福したいのです。しかし、アダムが犯した罪と呪いのゆえに、私たちのところに届きませんでした。イエス・キリストは律法の呪いを身に受けてくださったので、アブラハムの祝福が異邦人である私たちにも及ぶようになったのです。それでもある人たちは、「クリスチャンとは清貧に甘んじるべきだ。貧しいことはきよいことである」とも言いました。しかし、貧しいのにどうして教会堂を建てることができるのでしょう?牧師給も支払えないし、宣教師を送ることもできません。やはり、神様から手のわざが祝され、献金をもって主をあがめることが、主のみこころではないでしょうか?同時に、お金と富には落とし穴があることも確かです。イエス様は「あなたがたは神にも仕え、富にも使えることはできません」と言われました。Ⅰテモテ6:10「金銭を愛することが、あらゆる悪の根である」とも記されています。私たちは富やお金の主人にはなっても、奴隷になってはいけません。そのためには10分の1献金を喜んでささげる必要があります。10分の1献金の意味は何でしょう。それは、「金銭は私の神ではありません。あなたがすべての必要を満たしてくださる神様です」という信仰の表明であります。ジョン・ウェスレーは、「できるだけ多く稼ぎ、できるだけ多く蓄え、できるだけ多く捧げなさい」と言いました。アーメン。

3.健やかであるように

教会でもある人たちは、手を置いて病の癒をすることを拒絶します。どこかの新興宗教と同じことをしていると批判します。でも、どちらが本物でしょうか?マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」とあります。イエス・キリストは公生涯において、3つのことをおもになさいました。第一は教えです。第二は福音宣教。第三は病の癒しです。イエス様の働きの三分の一が、病の癒しでした。それだけではなく、弟子たちにもそうしなさいと命じられました。彼らには「病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病人(ツァラト)をきよめ、悪霊を追い出しなさい」と命じました。イエス様が天にお帰りになる寸前も、彼らにこのように命じておられます。マルコ16:17、18「私の名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り…病人に手を置けば病人はいやされます。」もし、教会が、クリスチャンが病いの癒しをしないとしたら、それはイエス様のご命令に反することになります。そもそもどうして、イエス様が病を癒したり、悪霊を追い出されたのでしょうか?第一の理由は、神の国がやって来たというしるしでした。人々は病が癒されたときどのように思ったでしょう?「ああ、神の国、天国には死も病もないんだ」ということを体験的に知ることができました。人々や病の癒しを受けることにより、私もイエス様を信じて天国に入りたいという信仰に導かれたのです。つまり、病の癒しが天国に入る門となったのです。第二の理由はメシアであるイエス様の心です。イエス様はご自分がメシアであることを証するためにそうされたと考えられていますが、それだけではありません。メシアであるイエス様は彼らを深くあわれまれました。罪の結果、病気で死んでいく人たちを可愛そうに思ったのです。それは、親が自分の子どもが健康であることを願うことと同じです。ですから、教会も病の癒しが起こって人々が集まり、教会が大きくなるようにということを第一に願ってはいけません。それは結果です。動機はいつも愛でなければなりません。10人癒されても、戻って来るのが一人の場合もあるのです。

イザヤ書53章を見ると、「病の癒しは贖いの一部ではないだろうか」と考えることができます。イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」このみことばは、キリストの十字架の預言であります。イエス・キリストは、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」さらに、「彼のうち傷によって、私たちは癒された」と書いてあります。まさしく、イエス様は私たちの罪や咎だけではなく、病をも負ってくださったのです。使徒ペテロもこの箇所を自分の手紙に引用しています。多くの人たちは、このみことばを瞑想すると、癒しの信仰が与えられます。「イエス・キリストは私の罪だけではなく、病をも負ってくださった。だから、私はこの病を負う必要はない。私の病の癒しは2000年前、キリストの十字架で解決されたんだ。ハレルヤ!アーメン、信じます。あなたのくださる病の癒しをいただきます。アーメン」。このようにして、多くの人たちが癒されるのです。どうぞ、みなさんも信じましょう。「キリストは私の罪だけではなく、病をも負ってくださった。私は病の中にいる必要はない。神様、あなたの健康をいただきます。神様の健康をいただきます」。チョー先生は、一人ひとりの上に手をおいて祈るということはあまりありません。先生が、人々にみことばを語ると、彼らは「今、神様は私に語ってくださった。癒しのことばをありがとうございます」と信じるのです。彼ら自身の信仰によって癒される方がはるかに多いのです。ある人たちは、病は神様からの試練であると言います。しかし、それはめったにありません。親が自分の子どもが病気になれば良いと思うでしょうか?ましてや、良き神様である私たちの天の父は、私たちが健康になることを願っています。だから、ヨハネの手紙にも「健康であるように祈ります」と書いてあるのです。健康は神のみこころです。みこころですから、あなたは大胆に求めて良いのです。

チョー・ヨンギ師が開拓伝道を始めた頃、一件、一件、近所の家を訪問しました。あるお家のドアをノックすると一人のご婦人が青白い顔をして出てきました。チョー先生は「イエス様を信じると天国に行けますよ。でも、イエス様を信じないと地獄に行きます」と言いました。そのご婦人は吐き出すように「うちは今、地獄だよ」と言いました。「え、どうしてですか?」と聞くと、「私は心臓病で、今にも死にそうです。夫はアルコールとギャンブル中毒で働いたお金を全部使ってしまいます。子どもたちはお金がないので万引きをしています」と答えました。チョー先生「ああ、言葉だけではだめだなー、天国を見せてあげなければならない」と思いました。そして、三拍子の祝福を聖書から発見しました。再び、前回のご婦人のところを訪問しました。「イエス様を信じると、この地上でも天国のような暮らしができますよ。ぜひ、うちの教会に来てください」と言いました。彼女はチョー先生と一緒に教会に来ましたらびっくりしました。おんぼろのテントで、雨漏りがしていました。ご婦人は、「えー?何が天国の暮らしよ。まず、自分の教会を何とかしてよ」とカンラカンラと笑ったそうです。それでも、彼女はイエス様を信じて救われました。そして、三拍子の祝福を信じました。その後、この家族はどうなったでしょう。彼女の心臓病が癒されました。ご主人は別人になって教会の長老になりました。子どもたちは勉強してアメリカに留学に行ったということです。事実、三拍子の祝福を信じて、この地上で天国を体験したのです。三拍子の祝福とは、全人格的な救い、ホーリスティクな救いです。神様は、私たちが霊的に救われるだけではなく、私たちの魂、経済、そして健康も恵まれるように願っておられるのです。

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