2017年4月 7日 (金)

神はそのひとり子を ヨハネ3:16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.4.9

 ヨハネ316節はキリストの福音を凝縮している箇所として有名です。D.L.ムーディは「聖書のすべての書物が失われても、ヨハネ316の御言葉さえあれば、人は救われる」と言いました。きょうは受難週にあたり、この箇所からキリストの十字架による救いについてメッセージさせていただきます。すでにクリスチャンになられている方は、福音を再確認するとともに、福音伝道の助けにしてくだされば幸いです。また、まだイエス様を受け入れていない方は、ぜひ、キリストにある神さまの愛と恵みをいただいてください。

1.神の義と神の愛

 『輝く日を仰ぐとき』という聖歌があります。1節と2節は「太陽と月を眺めるとき、雷が鳴り渡るとき、森で鳥のさえずりを聞くときまことの神を思う」と歌っています。これは神さまの偉大さ、一般恩寵を賛美しています。しかし、3節は「御神は世人を愛し、ひとりの御子を下し、世人の救いのために十字架にかからせたり」と歌っています。自然界を見ただけでは神さまが愛であることは分かりません。しかし、「父なる神がひとりの御子を十字架にかからせた、そこに神の愛がある」と賛美しています。なぜ、父なる神がひとりの御子を十字架にかからせる必要があったのでしょう?私たちは神さまが愛である前に、神さまが義であることを知ならければなりません。義のない愛は、本当の愛ではありません。神さまが「どんな罪でも赦すよ」と言った時から、神さまは神さまでなくなります。神さまは義なるお方ですから、1つの罪をも見過ごすことはできません。罪に対しては刑罰が伴います。刑罰を受け、罪を償ってはじめて、神さまは赦すことができるのです。たとえば、子どもが野球をやって、ボールが飛び込んで家の窓ガラスを割ったとします。持ち主は、その子に弁償させるでしょう。その子が無理であれば、親に弁償させるでしょう。でも、持ち主は「子どもがやったことだからと許す」とします。子どもを許しました、でも窓ガラスは割れたままです。持ち主はガラス屋さんを呼んで、直してもらいます。修理代が1万円かかりました。これが罪の赦しなのです。つまり、罪に対しては代償が伴うということです。この世では、損害賠償をしたり、何年間か刑に服する必要があります。神さまは私たちの創造者であり、主です。私たちが犯すすべての罪は、対・人という面だけではなく、対・神さまという面もあるということを忘れてはいけません。たとえば、ある人が不道徳なことをしたとします。日本人は「人に迷惑をかけていなければ良い」と言ったりしますが、神さまに対してそれは罪を犯していることになるのです。

 ところで、ヨハネ316節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。神がひとり子を与えたというところに、2つのポイントがあります。第一は、ひとり子を人間として誕生させたということです。第二はひとり子を十字架に渡したということです。神さまには永遠の昔からひとり子がおられました。ひとり子は父と一体であり、分身にみたいな存在です。アダムが罪を犯した時に、ひとり子を遣わすという計画が既にありました。創世記3章にありますが、アダムとエバに「皮の衣を作って着せた」と書かれています。エデンの園ではじめて動物が殺され血を流しました。その皮を二人に着せたと言うのは、十字架の贖いを象徴しています。また、「女の子孫が、サタンの頭を踏み砕く」というのはイエス・キリストに対する預言です。神さまはアブラハムの子孫であるイスラエルから世界を救おうと計画しました。たくさんの預言者を遣わして、その使命を遂げるように勧めましたが失敗しました。最後に、ご自分のひとり子を世に遣わしました。しかし、イスラエルの民は彼を十字架に渡しました。でも、それは神さまの偉大な計画であり、単なる死ではありませんでした。イザヤ書53章に「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。…しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。イザヤは、神の御子が死ぬのは、「私たちの罪のためであった。私たちのすべての咎を負ったゆえである」と預言しました。そのことが650年後に成就したのです。なぜ、イエス・キリストが十字架にかかる必要があったのでしょう?それは神さまが罪ある人類を赦すためです。言い換えると、御子イエスが十字架で人類の罪を負って死ぬことにより、罪に対するご自身の義が満たされたということです。このことによって、罪ある人類を赦して、愛することができるということです。ある人が「十字架の縦棒は罪をさばく神のまっすぐな義を象徴している。そして十字架の横棒はすべての人を受け入れる神の愛を象徴している」と言いました。まさしく、十字架は神の義と神の愛が交差するところであります。

 聖書には、イエス様が十字架で発した7つのことばが記されています。一番最初は「父よ。彼らを赦してください。彼らは、何をしているのか分からないのです」(ルカ2334という祈りでした。イエス様はご自分を殺そうとしているローマ兵と十字架に渡したユダヤ人のために祈られました。しかし、それだけではありません。イエス様は大祭司としてあらゆる時代の人たちのために、「父よ。彼らを赦してください」ととりなしてくださったのです。ヘブル人への手紙にありますが、「キリストは、大祭司として、罪のために1つの永遠のいけにえをささげたのです」。「私が血を流して命を捨てますから、父よ。全人類を赦してください」という祈りです。イエス様は十字架で罪の代価を払ったのであります。そのあと、12時から、全地が暗くなり、3時まで続きました。午後3時ころ、イエス様は大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」という意味です(マタイ2746)。イエス様はこの地上に来られた目的をよく御存じでした。なのに、この期に及んで、と申しましょうか?神さまに対する疑いとも取れる不可解な叫びをなされました。不思議なのは、イエス様はこれまで一回も「神さま」と呼んだことはなく、いつも「父」でした。ある人は「これは罪人としての呼びかけである。しかも、地獄でその人が発することばである」と言いました。では、イエス様はなぜ、このように叫ばれたのでしょうか?Ⅱコリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロのことばから分かるように、そのときイエス様は罪人として神さまからさばかれたのです。罪を負ったがゆえに、もう、父と呼べなくなったのです。そのとき、父なる神から引き離され、罪の恐ろしさを体験したのです。まさしく、そのときイエス様は地獄に突き落とされたのです。私たちはアダムの子孫として生まれたので、神から引き離される罪の恐ろしさを知りません。しかし、イエス様は永遠の昔から御父と一体であり、離れたことがありません。それが、罪が入ったために、御父から引き離されてしまったのです。パウロは「それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」と言いました。そうです。私たちが神の義となるために、イエス様は私たちから罪を取り除いてくださったのです。昨年も受難週のときに申しあげましたが、これは私たちがお願いしたのではなく、神さまと御子イエス様がなさられたことです。罪の贖いに対しては、私たちは全く参与することではなく、神さまがご自身の義を満たすために、御子を遣わしたということです。このところに、神の義と神の愛があるのです。

2.信じる者

 ヨハネ316後半「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」前半は、神さまの贖いが一方的になされたことをお話ししました。贖いは私たちがお願いしたのではなく、神さまが人類を愛されたからです。しかし、このままでは私たち人類は救われません。神から私たちへの和解は成し遂げられました。次は、私たちがその贖いを受け入れ、神からの和解を受け取るかどうかであります。ヨハネはそのことを「信じる」というひとことで述べています。ヨハネによる福音書には「罪を悔い改める」という表現はどこにもありません。ある教会は「これまで犯した罪を11つ告白して、それからキリストを救い主として信じるのですよ」と教えています。しかし、それは不可能です。なぜなら、自分で忘れた罪もたくさんあるからです。また、自分では正しかったと思っていても、罪であったかもしれません。もし、罪を全部告白しなければ救われないとしたなら、どれだけ罪を告白しなければならないのでしょうか?使徒パウロは「恵みのゆえに、信仰によって救われたからです」(エペソ28と言っています。もし、犯した罪を悔い改めるとか、何かの償いをするとか、悪習慣をやめるという条件をつけるならば、それは恵みではありません。行いによる救いを説いていることになります。残念ながら、罪の悔い改めと信仰を2つにしている教会がいまだに多く存在しています。使徒2章でペテロが「悔い改めなさい。そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」ということばはどうなるのか?と言われるかもしれません。しかし、ペテロはイエス様を十字架につけた張本人・ユダヤ人に語ったのであります。私たち異邦人の場合は、「悔い改めなさい」というのは、自分が罪人であることを認めて、神さまに立ち返りなさい、方向転換しなさいという意味になります。元来、「悔い改める」のギリシャ語「メタノイヤー」は罪とは関係のないことばで、「方向を変える」「考えを変える」という意味でした。ですから、ヨハネがいう「信じる」の中には、「悔い改め」が含まれているということです。しかし、それは個々の罪を告白するという意味ではなく、「自分は罪人であり、神さまが必要である」と考え方を変えるという意味になります。

 使徒パウロはローマ3章で、そのことをもっと詳しく述べています。ローマ32224「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。…ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」パウロは「永遠のいのち」と言わないで、神の義と言っています。第一のポイントで申しあげましたが、神さまは義であります。神の義は御子イエス様が罪を負って十字架で死なれたことによってあらわされました。しかし、その神さまが、キリストを信じる者に神の義を与えるというのです。これはどういう意味でしょう?「神の義」というのは日本人にはピンとこないことばであります。これは法律用語で、「罪がない、全く赦された」という意味です。しかし、同時にその人に神の義が転化されることにより、神さまの基準に達するということです。つまり、神からの栄誉を受けることができ、神さまが持っているすべてのものをいただくことができるということです。簡単に言うと、信仰によって神の義をいただくと、永遠のいのち、神の御国の世継ぎ、神の子どもとしての特権、すべてのものを受けられるということです。ですから、私たちが「救い」と言う場合、キリストを信じることによって、神さまから義と認められるということが一番重要なことなのです。

でも、ヨハネによる福音書にはどのように書かれているでしょうか?「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」となっています。このところには、「滅び」と「永遠のいのち」の2つが書かれています。実はヨハネ3章には、2つのことが多く対比されています。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」「世をさばく」というのは、「滅びる」と同じ意味です。また、「救われる」は「永遠のいのちを持つ」ということです。18節「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」このところでは、「信じない者はすでにさばかれている」とまで言っています。「滅び」、あるいは「さばき」とは何でしょうか?ヨハネは人が死んだら、やがて復活して神さまの前に立つと書いています。ヨハネ529「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」「さばき」というのは、ヨハネ黙示録20章にありますが、白い御座におけるさばきです。「死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いによってさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙示録2012,14)。イエス様は福音書で「ゲヘナ(焼却炉)」(マタイ529と言っています。これは地獄であります。地獄はあるのです。でも、さばかれず地獄にもいかない方法が1つだけあります。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることない。御子を信じる者はさばかれない。」のです。ハレルヤ!私たちは死後、白い御座のさばきを受ける必要はありません。なぜなら、御子イエス様が私たちの代わりにさばかれたからです。キリストの贖いを信じている人は、義とされているので神のさばきを受ける必要はありません。パスされているのです。しかし、キリストを信じていない人は、神の義がないので、自分の義で神さまの前に立つしかありません。果たして、自分の義によって、義なる神さまにさばかれない人がひとりでもいるでしょうか?聖書は「信じる者はひとりとしてさばかれないで永遠のいのちを持つ」とはっきり言っています。「ひとりとして」ですから、「もれるひとはいない」「例外はない」「全部」ということです。ハレルヤ!

神さまは嘘をつきません。「信じるなら」と聖書ではっきり約束していますので、額面通り受け止めるしかありません。でも「信じる」とはどういう意味なのでしょうか?単純な言い方は、「もらう」あるいは「受け入れる」ということです。神さまは救いに関することはキリストにあって全部、完成してくださいました。神さまがおっしゃっていることは「このキリストをどうしますか」ということなのです。「キリストにある贖いをいただきます。」「あるいはキリストさまを受け入れます。」と求めることです。その瞬間、その人は救われて永遠のいのちを持つことができるのです。こういうことは、子どもが良くできます。大人になればなるほど、「ただより怖いものはない」と疑いが出てきて、信じようとしません。ある人は「信じた後、教会員になり、献金とかいろんな義務を負わせられる。好きなことや悪いこともできなくなり、不自由な生活を負わせられるのでは」と心配します。そして、「信じるのは死ぬ前にしよう」と言う人さえおるかもしれません。それは「永遠のいのち」の意味を知らないからです。永遠のいのちというのは、死んでからいただく「いのち」ではありません。ヨハネが言う「いのち」はギリシャ語で「ゾーエー」と言って、「復活のいのち」「神のいのち」という意味があります。これに比べ、私たちが持っているいのちは、「肉のいのち」あるいは、「魂のいのち」です。永遠のいのちは、神のいのちであり、信じた瞬間に与えられるものです。つまり、イエス様を信じた瞬間から与えられ、肉体の死がやってきても全く影響されません。死と関係なく、ずっと生きられるいのちです。でもこの「いのち」は、この地上にいるときから味わうことができます。ヨハネ1010「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」そうです。イエス様がくださるいのちは、単なるいのちではなく、豊かないのちです。英語の聖書ではabundant lifeとなっています。Abundantというのは、「豊富な、あり余るほどの、恵まれた、満ち溢れた」という意味です。つまり、永遠のいのちは、この地上であっても効力を発するということです。つまり、天国に行ってからではなく、この地上でも天国の前味を味わいながら、生活できるということです。先ほど、献金、義務、悪いことができず、不自由な生活を負わせられるという心配がありました。しかし、永遠のいのちという神のいのちによって、そんなことは全く問題にならなくなるということです。生活も仕事も祝福され、きよめられて悪いことができなくなります。なぜなら、聖霊による自由と喜びと力が与えられるからです。

3.決断の時

 私たちはどこかで信じるという決断をしなければなりません。しかし、キリストを信じる信じ方は千差万別です。ヨハネ3章に出てくる人物はニコデモです。彼はパリサイ人でとてもまじめな宗教家でした。彼はイスラエルの教師と呼ばれていますが、サンヒドリンの議員でした。お金もあり、地位もありました。しかし、彼は飢え渇いていました。そして昼間ではなく、夜、人目をさけてイエス様のところを訪れました。イエス様から直球で、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。しかし、聖書で真理を求めてイエス様のところに来た人というのはあまりいません。ある人は病を癒していただきたくて、またある人は親しい人から誘われて、またある人は悩み事をかかえてやってきました。きょうここに来られている方も、自分で来たという人もおれば、義理で来たという人もいるでしょう。しかし、問題は救いを得たいという飢え渇きがあるかどうかです。15年くらい前になりますが、9時からジュニア礼拝を持っていました。私がギターを弾いて、メッセージをしていました。ある朝の礼拝で、中学の息子の友達が何人か来ていました。そのとき「永遠のいのち」についてメッセージをしました。最後に「君は永遠のいのちが欲しくないかい」と一人ひとり聞いてまわりました。一人の男の子は、首を横にふって「欲しくない」と言いました。私はとてもショックでした。「永遠のいのちがいらない人がいるのか?」とがっかりしました。そのとき、「きっと、その子は永遠のいのちという意味が分からないんだ」と思いました。

伝道者の書に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道311口語訳)と書いてあります。都会は明るくて見えませんが、数えきれない星が夜空に輝いています。その星を見ると、「ああ、永遠ってあるのかな?」と思いをはせることがあるでしょう。創造主なる神さまは、宇宙や自然界を通して、何かを私たちに語っておられます。しかし、きょうは聖書からはっきりと神さまが私たちに語っておられることばを紹介いたしました。これは神さまからの愛の招待状であります。神さまは、漠然とした何かではなく、キリストにある永遠のいのちを与えたいと願っておられます。この福音を信じる者は救われて、永遠のいのちを持つことができます。問題は飢え渇きをもって、「私にもください」と求めることです。そして、子どのものように神さまを信頼して受け取ることです。キリストを信じ、受け入れるなら、神の命、永遠のいのちが与えられます。最後に、まだ、信じていない人に語りたいと思います。ぜひ、このみことばの約束を信じて、自分のものにしてください。もう一度、ヨハネ316をお読みします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ひとり子イエスは神さまからの最大のプレゼントです。そして、永遠のいのちはキリストを信じる人に対する最大のプレゼントです。どうかキリストの十字架の死を無駄にしないで下さい。今は恵みのとき、今は救いの日です。きょう信じて、永遠のいのちをいただいてください。愛なる神さまはあなたを招いておられます。

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2016年3月18日 (金)

キリストの十字架 ローマ3:19-26 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.3.20

 きょうから受難週に入ります。普通でしたら、福音書からイエス様がどのような苦しみを受けて十字架で死なれたのかというストーリーを語ります。しかし、きょうはもっと神学的な立場からキリストの十字架について学びたいと思います。言い換えれば、人間の側から見た十字架ではなく、神さまの側から見た十字架であります。尚、本日のメッセージは、ウォッチマンニーが書かれた『神の福音』を参考にしています。来週はイースターですが、これもまた、ウォッチマンニーの書物を参考にしてお届けしたいと思います。彼は福音とは何かということをだれよりも深く教えておられるからです。

1.神の義

 神は愛です。聖書の最大の啓示は、神が愛であるということです。すべてのクリスチャンが知るべき最大のことは神が愛であるということです。ヨハネ316前半「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。このみことばから、神さまが愛であることと、そのひとり子をお与えになったことが深い関係にあることがわかります。なぜ、ご自分のひとり子を与えることが、神ご自身の愛なのでしょうか?この問題を解くためには、神さまのもう1つのご性質を知らなければなりません。それは、神は義であるということです。パウロは「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」と言いました。そうです。義なる神さまは、1つの罪をも見過ごすことができず、必ず罰しなければなりません。もし、神さまが「あなたは罪を犯したのですか?よろしい、もう失敗してはいけませんよ」と罪を見過ごしたら、神の義が成り立ちません。愛なる神さまが、人を救いたいと願うときに出くわす最大の困難は人間の罪です。この世の中には、義の伴わない愛がたくさんあります。自分の子どもを愛するがために、不正に得た金銭を与えることもあるでしょう。本来なら許されないところを、賄賂をもらって、便宜を図ってあげることもあるでしょう。人を捕まえる警察でも、同僚の罪には目をつぶるかもしれません。昨年、可愛い教え子に、司法試験の内容を教えた大学教授もいました。彼らは多くの愛を持っていますが、彼らのしていることは義ではありません。神さまは私たちを救いたいがゆえに、ご自分を不義にまで陥れることはできません。神さまは、ご自身の義によって私たちを救わなければなりません。神さまはどのようして、不義に陥らないで、罪人を義とすることができるのでしょうか?

 ローマ3:21-22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」パウロは律法を行って義とされる別の道があると言っています。もちろん、律法を行って義とされる人はひとりもいません。それは不可能です。でも、このところには「イエス・キリストを信じる信仰による神の義を、すべての信じる人に与える」と書いてあります。神さまは義ですが、なんとご自分の義を与えるというのです。だれに、でしょう?イエス・キリストを信じる人に、であります。ヨハネ316後半「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。ヨハネは救われることを、滅びないで永遠のいのちを持つことだと定義しています。一方、パウロは神の義をいただくことが救いだと言っています。前者は生命的な見方で、後者は法律的な見方です。神さまはイエス・キリストを信じる者に、ご自身の義を与えると約束されました。神さまは義なるお方なので、嘘はつきません。確実に、イエス・キリストを信じる者に無代価の赦しを与えるというのです。元来、無代価の赦しと言うものは存在しません。罪に対しては必ず刑罰が伴い、ときには死をもって償わなければなりません。しかし、イエス様が私たちに代わって血を流して、罪の代価を払ってくださったのです。これを罪の贖いと言います。

ウォッチマンニーは、分かり易いたとえ話を『神の福音』という本に書いています。ある兄弟は名ばかりのクリスチャンで、よく人から借金をしていました。私は彼が他人のお金にいい加減であることを知っていました。私は貸さないであげようと思いましたが、彼のためにそれは良くありません。それで、私は彼に支払期日を定めさせました。期日がやって来た時、私はことさら手紙を書いて、その期日が来たことを思い出させました。彼はその手紙を受け取ると、私に会いに来ました。私は彼の話をさえぎり、「あなたの妻が話があるようだから、家に帰って妻に会うように」と告げました。彼は家に帰りました。実は、彼が私に会いに来る前に、私は彼の負債と同じ額を彼の家に持って行き、それを彼の妻に渡したのです。私は彼女に、夫が家に帰って来た時、私が彼の負債と同額のお金を彼に送ったので、それで借金の負債を返済すべきであることを、彼に告げるように言いました。夫が家に着くと、妻は私が話したことを彼に言いました。彼はその包みを開いて、自分の負債と同額のお金があるのを見ました。彼は次に何をすべきか理解しました。彼は私の家に戻って来て、そのお金を私に返しました。この行動の中に、愛を見ることができ、義を見ることができます。もしこの人が払うことを強いられたのでしたら、そこには愛はありません。しかし、もし私が彼に払わなくても良いと言うなら、私は不義になるでしょう。なぜなら、私はこれが借金であることをはっきりと言っているからです。私自身が不義であるだけでなく、彼に悪い影響も与えます。次からは、彼はもっと無責任になるでしょう。こうして私は成すべきことをしました。

 イエス・キリストが地上に来られたのは、神の義を満たすためでした。愛だけであって義がないのでしたら、イエス様は地上に来る必要はありませんでした。そして十字架は不必要だったでしょう。義の問題のゆえに、イエス様は来なければなりませんでした。神さまは義であるので、罪を裁かないわけにはいきません。また、神さまは愛なので、罪ある人を救いたいと願います。この相反する問題を神さまはどうしたのでしょうか?神さまご自身が人の罪を負って、刑罰を受けるということです。神ご自身が私たちに代わって、裁きを受けてくださいました。それが十字架であります。十字架は神の義が現される場所です。神さまがどれほど罪を憎んでおられるかを私たちに示しています。神さまは罪を裁くことを決心され、御子を十字架に付けるという大きな代価を払われました。神さまはご自身の義を放棄されず、御子を死に渡しました。ここに神の愛があります。神さまが罪の刑罰を取り去るために、私たちの代わりに罪を担ってくださったのですから、義と愛の両方があります。私たちは無代価で赦されたと言うかもしれません。しかし、無代価の赦しというものはありません。神さまにとっては、罪の贖いがあってはじめて赦しがあるのです。キリストが私たちの代わりに十字架で裁かれたので、私たちに救いがやってきたのです。そして義なる神さまは、キリストを信じる人に、ご自身の義をお与えになられます。これが救いです。

2.キリストの贖い

 最初に私たちが知らなければならないことは、イエス様が神さまであることです。神さまでなければ、罪を担うことができないからです。しかし、イエス様が第三者として身代わりに死なれたということでは決してありません。神さまが第一当事者、人は第二当事者、イエス様が第三者と考えてはいけません。ある人たちはこういう福音を宣べ伝えているかもしれません。債権者が神さまで、負債者は私たち人間です。負債者は、借金を払うお金がありません。債権者は非常に厳しく、支払を迫ります。しかし、債権者の息子が出てきて、債権者に代わって借金を支払い、負債者が解放されるという物語です。もしこれが正しければ、神さまは意地悪い方で、イエス様が恵み深い方となります。この例話からは、神さまが世を愛されたということを見ることができません。ヨハネ316前半「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります。永遠の昔から、神さまにはひとり子がおられました。この父なる神さまは神さまはであり、ひとり子はもちろん神さまです。ひとり子を私たちは御子イエスと呼んだり、イエス・キリストと呼んでいます。父なる神さまが、ご自分のひとり子を与えたということは、イコール、自分の分身、自分のいのちを与えたということです。父なる神が御子を与えたのは、私たちを愛して救いたかったからです。ですから、イエス様は、父なる神さまと同じ当事者なのです。ウォッチマンニーはこう述べています。「キリストの贖いのみわざとは何でしょう?キリストの贖いのみわざは、神ご自身がやって来て、ご自身に対する罪を担われたことです。言い換えれば、ナザレのイエスが神でなければ、彼は私たちの罪を担う資格はないでしょう。ナザレのイエスは神でした。彼こそ、私たちが罪を犯した対象である神です。私たちの神は自ら地に下って、私たちの罪を担われたのです。これが主イエスの十字架でのみわざです。」アーメン。

 ひとり子なる神が罪を担って、代価を払うということは分かりました。でも、罪の報酬は死です。もし、ひとり子なる神がこの世に来られ、罪の結果を担うのであれば、彼は死ななければなりません。しかし、神は死ぬことができません。なぜ神が人にならなければならなかったのでしょうか?それは、神が人の体を取って、罪を担って死ぬためです。ヘブル105-6「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。』」神さまがキリストのために体を備えられたのは、キリストがご自身を全焼の捧げものと罪の捧げものとしてささげることができるためでした。今やキリストはご自身の体をささげて、人の罪を対処されます。ですから、御子イエスは人となって、この世に来て、十字架に釘づけられたのです。人となられたイエスは、神の律法を全うされました。イエス様は肉体を持っていたので、私たちと同じような誘惑を受けたでしょう。しかし、罪を犯さなかったと聖書に書いてあります。イエス様は律法を守られ、罪を犯さず、義なるお方でした。だからこそ、イエス様は私たちの罪の身代わりになって死ぬことができたのです。なぜなら、罪がある人は、他の人の罪を負うことができないからです。でも、罪のないお方が、人の罪を負うということはたやすいことではありません。Ⅱコリント5:21 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」パウロは、イエス様は罪を知らないお方であり、罪を負ったというよりも、罪そのものとなったと言っています。これは大変なことであります。もし、罪を負ったなら、父なる神から断罪され、捨てられてしまいます。イエス様は十字架に行く前に、ゲツセマネの園で、血のしたたりのような汗を流されて祈りました。苦しみもだえて「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈りました。杯を飲むというのは、自分が人類の罪を負い、刑罰を受けて死ぬということです。肉体を持ったイエス様は「そんなのは、いやだ」と正直に訴えました。最後に「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られました。この「しかし」があったからこそ、私たちへの贖いが成し遂げられたのです。

 イエス様を十字架につけたのはだれでしょう?福音書を読む人はだれでも、ユダヤ人が彼を異邦人に渡したのであり、異邦人が彼を十字架につけたということを知っています。聖書にはローマ総督ピラトが十字架に渡したと書いてあります。ペテロは使徒2章でこのように言いました。使徒223「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」ペテロはユダヤ人たちに「あなたがたが十字架につけて殺した」と言いました。確かに人はイエス様を十字架に釘づけました。しかし、イエス様はこのように言われました。ヨハネ1018「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」確かに人がイエス様を十字架につけて殺しました。しかし、イエス様は神さまによって十字架に付けられ、私たちに代わって罪を贖われたのです。言い換えると、イエス様を十字架につけたのは人ではなく、神でした。十字架は神のみわざでした。イザヤ53:5-6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」アーメン。人々は「十字架から降りて来い。そうしたら信じるから」と言いました。イエス様は降りるつもりだったら、降りられました。でもそうすれば、贖いが成り立たなくなります。十字架にイエス様をとどめていたのは釘ではなく、イエス様ご自身だったということです。イエス様は「ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開きませんでした」。だまって、私たちの罪を負って、神さまによって裁かれたのです。十字架こそが、イエス様が死を通して贖いを成就される道でした。十字架は神のみわざです。神さまがイエス様を遣わして、罪の贖いをなさってくださったからです。

3.贖いと身代わり

 昔、塩狩峠という映画がありました。永野青年が路傍伝道をしていた伝道師の家に行きました。その家の壁に十字架の絵がかかっていました。永野青年は、その家でイエス様が神の子であることを信じると告白しました。すると、伝道師は、「キリストを十字架につけたのはあなた自身だということを、分かっていますか」と聞きました。永野青年は「とんでもない、僕はキリストを十字架につけた覚えなんかありません」と答えました。すると、伝道師は「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ。あなたがイエス様を十字架につけたんですよ」と言いました。永野青年は「まさか、私はイエス様を十字架につけてはいませんよ」と反論しました。すると、伝道師は「それだったら、あなたとイエス様とは何の関係もありません」と言いました。永野青年は「僕は明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何年も前のことではありませんか。どうして明治生まれの僕が、キリストを十字架にかけたなどと思えるのでしょうか」と答えました。私は小説でもそのところを読みましたが、「論理の飛躍があるなー」と思いました。一般に、福音を提示するとき、「あなたの罪が、イエス様を十字架につけたのですよ」と言います。でも、「どうして2000年前のキリストの十字架の死が、現代の私と関係があるのか」ということです。そこには、頭で理解できない深い淵があって簡単には「十字架は私の罪のためです」とは言えません。もちろん、今の今だったら、そう言えます。でも、多くの人たちは、そのところで迷っているのではないでしょうか?

 ウォッチマンニーは、「贖いと身代わり」は違うと言っています。彼は「主イエスのみわざは贖いのみわざです。しかし、この贖いのみわざの結果が、身代わりです。贖いは原因であり、身代わりは結果です。贖いの範囲は非常に大きいです。しかし、身代わりの範囲は同じ大きさではありません」と言っています。Ⅱコリント5章には、「ひとりの人がすべての人のために死なれた。また、キリストがすべての人のために死なれた」と書いてあります。興味深いことに、すべての人の罪のために死なれたとは言っていません。ただ、すべての人のために死なれたと言っています。つまりこういうことです。イエス様が十字架上で贖いを成就されたとき、この贖いのみわざは根本的に人とは無関係でした。贖いは人とは関係ありません。贖いとは神さまがこの世に来て、罪の問題を解決されることです。いったん罪の問題が解決されると、贖いのみわざがなされます。Ⅰヨハネ22「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」とあります。贖いは世全体、すべての人のためでありました。そのような贖いには、救われていない者でさえみな含まれます。しかし、聖書にはこのようにも書かれています。Ⅰヨハネ22前半「この方こそ、私たちの罪のため」とあります。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」このところにも、私たちの罪を負われたと書いてあります。すべての人とか、彼らの罪を負ったとは書いてありません。一人称の「私」もしくは、「私たち」の罪であります。マタイ2628「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」このところには、「多くの人」のためであって、「すべての人のため」ではありません。どういう意味かと言うと、イエス様はすべての人々のために十字架で死なれました。すべての人のために罪を贖われたということです。しかし、それですべての人が救われるわけではありません。キリストの贖いを自分のものとして信じなければなりません。信じた人がはじめて「キリストは私の罪のために死なれました。キリストの死は身代わりです」と言えるのです。Ⅰコリント15章には使信が記されています。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた」と自分たちの信仰を告白しています。つまり、キリストの贖いを信じたものが、はじめて「私たちの罪のために死なれた」と言えるのです。 

 さきほどの塩狩峠のお話しに戻りたいと思います。伝道師は永野青年自身がキリストを十字架につけたと信じなければ本当の信仰でないと言いました。永野青年は「僕はキリストを十字架につけた覚えなんかありません」と言いました。キリストは十字架につき贖いをなされました。しかし、それは人間が関わる余地のないことであり、神さまがご自分の義を満たすために一方的になさったことです。キリストはすべての人を贖うために死なれました。しかし、そのキリストを救い主として信じるときその人は贖われます。いわば、その人は贖われて、奴隷市場から出た人なのです。キリストを信じたら、「ああ、キリストは私の罪のために死なれたんだ。私の身代わりだったんだ」と言えるのです。聖歌402「丘に立てる荒削りの」という歌があります。「丘に立てる荒削りの十字架にかかりて、救い主は人のためにすてませり命を」とあります。まさしく、イエス様は人のために十字架にかかって命をすてられました。後半、「十字架にイエスきみ、われを贖いたもう。十字架の悩みはわが罪のためなり」。後半はイエス様の贖いをいただき、救われた人が「十字架の悩みはわが罪のためなり」と告白しているのです。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」よみがえりのことは次週学びますが、主イエス様は私たちの罪のために死に渡されたのです。アーメン。

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2009年4月 5日 (日)

完了した       ヨハネ19:28-35

 今週は受難週、イエス・キリストが十字架にかかったことを特に覚える週であります。そして、来週は復活祭、イースターです。きょうは、イエス様が十字架で語られたことばの中から、1つだけをとりあげて、そのことを深く学びたいと思います。それは、ヨハネ19:30「完了した」ということばであります。このことばには、いろんな意味が含まれていて、一口には言い表すことができません。私はそれを分析して、4つの意味に分けてみました。4の数字は、東西南北の方向を表わしていますので、悪くはないと思います。4つの方向から、「完了した」という十字架上のことばを学びたいと思います。

1.終了した finished

  リビングバイブルは、「何もかも終わった」と訳しています。また、口語訳は「すべてが終わった」となっています。ここだけを見ますと、「ああ、キリスト教はこれでおしまいだ!」と思ってしまいます。実際、イエス様の弟子たちは、がっかりして、散り散りバラバラになりました。反対に、イエス様に敵対する人たちは、「ああ、死んじゃったか!」と、喜んだことでしょう。しかし、「終了した」は、フィニッシュした、ゴールまで走り通したという意味です。イエス様が人間としてこの地上でお生まれになったのがスタートだとしたらゴールはどこでしょうか?マラソンにおいても必ずゴールがあります。イエス様のゴールは十字架の死と復活でした。福音書でも、たびたび「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と弟子たちに何度か予告しておられました。イエス様は、ご自分が十字架で殺されるために、この世に来られたということを知っておられました。ところが、悪魔は別の道、つまり近道を提示しました。「石をパンに変えなさい」とか「私を拝めばなんでもあげるよ」と誘惑しました。私などは近道が大好きですが、イエス様はそうではありません。イエス様は安易な道を退け、あえて十字架への道を歩まれたのです。

 イエス様はあることを終らせるために来られました。ご自分が十字架にかかることにより、一体何が終るのでしょうか?また、イエス様が十字架にかかることにより、何が変わるのでしょうか?それまで、長い間、人間を苦しめていたものは何でしょうか? それは、罪です。イエス様は罪の支配を終らせるために、十字架にかかられたのです。罪と言っても日本人はよく分からないかもしれません。旧訳聖書では罪を、失敗、咎、背き、過ちなどと訳しています。失敗とは、罪とも訳されますが、神が人に定められた道を踏みはずすということです。皆さんの中で、道を踏みはずしたことのある方はおられないでしょうか?山澤兄は郡山で大型二種の免許を取りに教習所に行っています。「二度も縁石を乗り越えてしまいました」とメールが来ました。前輪は通ったけど、後輪がはみ出てしまったのでしょう。人生においてもそういうことがあります。咎は、悪の行為です。簡単に言うと悪いことをするということです。私たちは悪いことだと知りながら、これまでカンニングしたり、盗んだり、うそをついたり、ごまかしたことがあるのではないでしょうか?背きとは、神に聞き従わないこと。不従順であります。私たちは生まれながらに、神様に対して頑固な存在ではないでしょうか?そして、過ちとは、被造物としての人が持つ弱さから来る誤った行為を意味します。わざとやったわけではないけど、誘惑に負けて、つい、うっかりということがあります。こういうふうに罪を分析してみますと、「みんなあるなー」と思いませんでしょうか?いかに罪が人間を支配し、蝕んでいることでしょうか?ある人たちは、麻痺して、なんとも思わない。しかし、罪の報酬は死であり、さばきであり、永遠の滅びであります。罪のゆえに、全人類が神様から離れ永遠の滅びに向かっているのです。しかし、イエス・キリストは罪の支配を終らせるために、この世に来て十字架に付けられたのです。

 ダニエル9:24「それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである」とあります。ダニエルが、やがて来られるメシヤのことを預言しています。メシヤ、つまりキリストは、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらせる」ということです。ハレルヤ!イエス・キリストは罪を終らせるために来られたのです。また、同時に、咎を贖い、永遠の義をもたらせるためです。十字架でイエス様が「すべてが終わった」とおっしゃったのは、私の死によって、罪の支配が終る。もう、人々は、失敗、咎、背き、過ちで苦しむことはない!ということです。これからは、神様がくださる贖い、神様がくださる義の中で、生きることができるのです。クリスチャンは罪から解放され、今は、神様の贖いと義という家の中で生活しているのです。みなさんは罪から離れ、神様の贖いと神様の義の中で住んでいますか?「十字架のかげに」Jesus, keep me near the crossという賛美があります。十字架のそばこそが、罪の世界から守られる、すばらしいところであります。  

2.完了した  accomplished

 私たちが使っている新改訳は「完了した」となっています。新共同訳は「成し遂げた」と訳されています。ほとんどの英語の聖書は日本語と同じ意味のaccomplishedになっています。現代訳聖書は「救いの業は完了した」となっています。ギリシャ語の時制は、完了形(パーフェクト・テンス)であります。It has been completed.「成し遂げられた。無期限にそうである」ということです。ヘブル人への手紙は、そのことを何度も強調しています。ヘブル9:12「ご自分の血によって、ただ一度、まことに聖書に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。ヘブル10:12「キリストは、罪のため1つの永遠のいけにえをささげ」となっていますハレルヤ!このことは何を意味するのでしょうか?旧約聖書時代は、人間が罪を犯すたびごとに、動物が殺され血を流しました。しかし、大祭司なるイエス様ご自身が血を流したので、罪のあがないは、もう必要ないということです。言い方を換えますと、私たちが救いを得るために、何もすることがないということです。この世の宗教は、功徳を積めとか、罪を償え、身を清めなさい、お布施をしろ、供養をしなさいと言うかもしれません。しかし、イエス・キリストは、神に受け入れられるためにする、様々な行ないを終らせたのです。それは、神からの人間に対する救いの手立てが完了したということであり、あとは人間が信仰によって受け取ることだけが残されているということです。私たちは完成された救いを、信仰によって受け取れば良いだけなのです。ハレルヤ!エペソ2:8,9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」アーメン。

 私は毎週のように、このところで説教をしています。しかし、説教の大事なポイントは、神様が成し遂げられたことを宣言(proclamation)することであります。私がどんな者かは関係ありません。神様がなされた偉大なことを私が宣言する、そのことが重要なのであります。もし、私が間違った福音をここで伝えたならば、皆さんに対してものすごい被害を与えることになります。使徒パウロはそういう人は「呪われよ!」とガラテヤ書で言いました。もう一度、言わせていただきます。福音とはだれが語るかではなく、語っている内容が重要なのです。キリストが十字架で完了したみわざ、そのことを宣言すれば良いのです。私たちはあまりにも福音を複雑にしています。「ああ、話したら良いだろうか?」「こう話したら良いだろうか?」と悩みます。そうではありません。使徒パウロは、Ⅰコリントで「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」と言いました。それは、私たちの知恵ではとうてい理解できないからです。「キリストが2000年前、十字架にかかられたのが、なぜ私のためなんだ」と言うでしょう。かつて、あなたもそう考えたでしょう?でも、2000年前になされたことが、今も有効であるということを聖霊によって悟ることができたんでしょう。どうぞ、下手な理屈を並べるのではなく、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに徹しましょう。「あなたの罪ためにイエス・キリストは十字架につけられました。あなたは、このお方を信じるだけで罪赦され、救われるのです。」これで良いのです。なぜなら、私たちが信じるだけで救われるための条件は、イエス様がすべて完了されたからです。アーメン。

3.完済した  redeemed

 新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、この箇所はtetelestai(テテレスタイ)という動詞になっています。この言葉には、「すべてを支払った、贖った」という意味があります。つまり、主イエス・キリストが十字架の上で、全人類の罪の負債を支払ったということです。高木慶太先生が『信じるだけで救われる』という本の中でこのように述べています。「人間は生まれたときから罪の中で堕落し、サタンの奴隷市場で売り渡されている存在である。奴隷を自由放免できるのは自由人だけであるが、イエス・キリストことは、その資格を持った唯一のお方であった。それは、キリストのみが奴隷市場の外に生まれた唯一の人間だったからである。キリストは十字架で息を引き取られるとき、『テテレスタイ』と叫ばれたが、これは商業用語で『完済した』という意味である。それは奴隷の代価を払ったということである。しかし、キリストが、すべての人の罪の代価を払われたといっても、それだけですべての人が奴隷市場から自由されたわけでは決してない。キリストを救い主として信じ受け入れて初めて、人は救われるのであり、信じない人は、代価が支払われたにもかかわらず、まだサタンの奴隷市場の中につながれたままなのである。『テテレスタイ』、キリストは、十字架の上で、すべての人のために、ただ一度だけ、しかも永遠に有効な支払いをされたのである。」アーメン。どうでしょうか?あなたはイエス様が代価を支払ったにも関わらず、牢の中にいるんじゃないでしょうか?仮面をかぶり、サタンに欺かれ、死を恐れて生きているんじゃないでしょうか?「テテレスタイ、完済した」という主の御声を聞きましょう。

 これは、実際にあった男性の体験談です。数年前のアメリカでの事、いつも通勤している道を車で走っていました。頭の中では次の仕事の段取りを考えていましたが、四つ角に来た時、うっかり一旦停止の標識を見落とし、走り過ぎていました。けれども、なんとそこにはパトカーがいました。警官は私に違反チケットを渡して、それを持って裁判所に行くように言われました。裁判所と聞いて私はとてもドキドキしました。恐い裁判官の前に立たされるのではないかと。私の英語力ではよく説明できないと思って不安になりアメリカ人の妻に頼み込み、一緒に来てもらいました。裁判所で違反チケットを見せると、窓口の人はパソコンに私のことを入力し、「あなたの罰金はこの額です」と70ドルの請求書を示しました。私は慌てて財布を見ましたが25ドルしかありません。あと45ドル、全然足りませんでしたので、妻に「45ドルある?」と聞くと、なんとか持っていました。窓口の女性は注意深く3回数え、そして赤いスタンプを罰金70ドルの請求書にパーンッと押しました。“Paid in full”と書かれていました。つまり「罰金を完全に支払った」という意味です。その時、私は聖書の真理が改めてよく分かりました、「これかっ!」と。私たちはいずれ、死んだ後、神様の前に立つことでしょう。もしかしたら、たくさんの罪がいのちの書にしるされているかもしれません。自分が忘れていたこと、赤面するようなこともいっぱい書いてあるかもしれません。でも、大丈夫です。「テテレスタイ、完済した」という赤いスタンプが押されています。気がつくとそこはさばきの座ではなく、恵みの御座であった。私はきっとそうであると信じます。

4.成就した fulfilled

 このことを言っている箇所が、使徒の働き13章にあります。「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました」(使徒13:27)。つまり、イエス様が十字架に渡され、死なれたのは旧約の預言が成就したということです。一番有名な箇所は、イザヤ書53章であります。イザヤ書には、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって私たちはいやされた。…主は私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。イエス様はほふり場に引かれていく子羊のように口を開きませんでした。なぜなら、ご自分がそのために地上に来られたことを知っておられたからです。新聖書注解という本がありますが、このところをすばらしく解説しています。「この最後のことばは、もちろん息を引き取る最後の瞬間が来たという断末魔の叫びではなく、聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを成し遂げた勝利の雄叫びである。これはまさに、マルコが『イエスは大声をあげて息を引き取られた』(マルコ15:37)と記している、その叫びのことばであったと思われる。」アーメンです。まさしく、聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを成し遂げた勝利の雄叫びなのであります。イエス様が息を引き取られた後、ローマ兵がイエス様のわき腹を槍で突き刺しました。すると、ただちに血と水が出たとあります。これは医学的には、イエス様は、心臓が破裂したことによって死んだということです。イエス様の上に全人類の罪が負わされ、神から捨てられました。その後、テテレスタイと大声で叫ばれました。その直後、イエス様の心臓が破裂したのです。つまり、勝利の雄叫びをした直後であります。

 ある人たちは、イエス様が勝利をしたのは復活であると言います。確かに復活は死に対する勝利であります。でも、イエス様は十字架上で既に勝利していたのです。パッションという映画を見たとき、そのことを確認できるシーンがありました。悪魔はイエス様が死ぬことを望んでいました。ユダがその手先となりました。イエス様が息を引き取った瞬間、天から一粒の涙が地上にむけて落ちました。その涙が、大地震を起こしたのです。すると、悪魔は「わぁー」とばかり、頭をかかえてのたうちまわりました。敗北したのです。つまり、悪魔は復活のとき敗北したのではなく、イエス様の十字架の死によって敗北したのです。ここがとても重要であります。私たちはイエス様の十字架の死をとても、否定的に捉えてしまいます。確かに、イエス様は私たちの罪を贖うために十字架で死なれました。でも、イエス様は仕方なく死なれたのではありません。最後は「すべてが成就した」と歓喜しながら死なれたのであります。6年くらい前でしょうか?新松戸の津村先生も同じようなことをおっしゃっていました。「イエス様の十字架の叫びは歓喜の叫びであった。歓喜の叫びに心臓が持ちこたえることができずに破裂したんだ」とおっしゃっていました。夜の祈祷会で、津村先生はよく「喜び!喜び!」と叫んでいました。

 最後のまとめに入りたいと思います。イエス・キリストが十字架において、罪の支配を終らせ、救いの業を完了し、すべての罪を贖い、勝利を遂げました。そうするならば、私たちはどのようなことになるのでしょうか?このようになります。「もう、あなたは罪の中に生きる必要はありません」。「もう、あなたは罪を償う必要はありません」「もう、あなたは呪いのもとに生きる必要はありません」。「もう、あなたはだれからも訴えられる必要はありません」。「もう、あなたは死を恐れる必要がありません」。では、積極的にどのように生きることができるのでしょうか?赦しと祝福と自由と救いの中に生きることができるのです。先週は、セルサミットのために、富士箱根ランドというところに行きました。私が総合司会ということで、用いられたのは良かったですが、何から何までもやらされました。パワーポイントの操作、マイクの出し入れ、ビデオ係り、アナウンス、タイムキーパー。でも、良かったのはチケットをいただいて、ホテルの展望風呂に入ったことです。次の日も午後3時半くらいから入りました。だれもいない、貸し切り状態。三島とか沼津市がパノラマのように見えます。そのとき思いました。「私は神様から愛されているなー。そのわりには信仰生活を楽しんでいないなー」と思いました。本来、信仰生活というのは、喜びや楽しみ、満足があるのではないでしょうか?私たちの中に未達成感がないでしょうか?まだ十分じゃない。過去の失敗や過ちが度々思い出されるでしょうか?借金とかローンがある。これから、まだまだ返済しなければならない。持病を抱えている。家族の老いの問題があるでしょうか?人から嫌なことをされたことに対する怒り、憎しみ、恐れがあるでしょうか?私たちは完全な生活を100%とするならば、人生を暗くする問題というのは10から30%ぐらいではないでしょうか?70%以上はうまくいっているのに、20-30%の問題が生活全体を暗くするというのはガテンがいきません。この地上では完全はありえません。イエス様は私たちのために、十字架にかかり、終了し、完了させ、完済し、勝利されました。でも、私たちは相変わらず、この地上で未達成感、敗北感、罪責感、借金の返済、トラウマ、苦々しさ…に捕らえられている。そうだったらば、十字架を私たちの真中に立てる必要があります。そうするならば、イエス様が共にいて、終了させ、完了させ、完済させ、勝利させてくださるのではないでしょうか。

 出エジプト記15章において、人々が三日間、荒野を歩いて喉の渇きを覚えました。水があったにはあったのですが苦くて飲むことができませんでした。民はモーセに「私たちは何を飲んだら良いのですか」とつぶやきました。主はモーセに一本の木を示されました。モーセはその木を水に投げ入れました。「すると、水は甘くなった」と書いてあります。皆さんの人生は苦みがあるでしょうか?木とは十字架を象徴しています。どうぞ、そこに、十字架を投げ入れましょう。そうすれば、皆さんの苦い人生が甘くなります。問題は相変わらず存在しているかもしれません。でも、その中で、楽しみ、喜ぶことができるのです。なぜなら、イエス様が共におられて、私たちと一緒に終了させ、完了させ、完済させ、勝利させてくださるからです。

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