2013年7月14日 (日)

経済と物質の救い      ピリピ4:10-13 

私たちはどのくらいの収入があれば、経済的に豊かなのでしょうか?あるいは、どのくらいだと貧しいのでしょうか?「収入と支出」のバランスというのが、ありますが、個人の生活でもあるのではないかと思います。セレブのように、お金が有り余るような生活もあるでしょう?また、テレビの番組に出てくるような「ボンビー生活」もあるでしょう。でも、借金に追い回されているような生活は良くないと思います。私たちはどのくらい経済的に豊かであれば、良いのでしょう?客観的な数値を出すことはできませんが、聖書的にバランスのとれた考え方があるのではないかと思います。


1.経済と物質の救い

 エリザベツ朝のとき、ピューリタンが生まれました。イギリス国教会はカトリックの伝統を受け継ぎ、かなり形骸化していました。それで、教会を清めようという人たちが立ち上がりました。さらに、「すべての娯楽やぜいたくな暮らしを排除し、クリスチャンは清貧に甘んずるべきだ」という考えも生まれました。当時、栄えていたシェークスピアの演劇も封鎖する勢いでした。そのようなピューリタンの価値観が、日本の「きよめ派」と言われる教会に入ってきました。戦前・戦後は、「教会、特に牧師は清貧の模範になるべきだ」と言われたようです。それによって、牧師子弟が傷つき、「牧師になるのは乞食になるのと同然だ」と思って、だれも牧師になろうとしなかったようです。もちろん、牧師になることは神さまからの召命ですから、牧師になる人たちもいました。でも、そういう人たちは、「貧困の霊」によって縛られ、経済と物質を心から喜ぶことができません。逆に、「経済と物質をたくさん得て、見返してやろう」とする人たちもいないわけでもありません。福音書に出てくる、マタイという人物は、ユダヤ名はレビでした。レビは、神さまに仕える祭司の名前です。おそらく、マタイは今で言うクリスチャン・ホームの子どもだったかもしれません。しかし、マタイは両親の偽善的で貧しい生活に背を向けて、「お金がなければ生きていけないんだ」と取税人になったのではないかと思います。取税人はローマの代わりに税を徴収する下請けで、ピンハネもしていました。そのため、人々から「売国奴」と軽蔑されていました。マタイは人から何と言われようと、金儲けに奔走したのであります。でも、イエス様から「私に従ってきなさい」と、召命を受け、すべてを捨ててイエス様の弟子になりました。守銭奴の人生変更であります。聖書では、経済と物質をどのように教えているのでしょうか?

 聖書、特に旧約聖書では繁栄とか豊かさは、神さまの祝福のしるしであると、思われています。イスラエルの族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして、ヨブはとても富んでいました。申命記28章には、「神さまの命令に従うなら祝福され、従わないなら呪いを受ける」と書いてあります。そこに記されている祝福は霊的なものだけではなく、生活全体に及んでいます。生まれる子どもたち、地の産物、家畜の産むもの、かご、こねばち、穀物倉が祝福され、「かしらとなって、尾にはならない」と書いてあります。詩篇1:3には「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」と書いてあります。箴言15:6「正しい者の家には多くの富がある。悪者の収穫は煩いをもたらす。」とあります。聖書に、祝福イコール、繁栄ということが書いてあります。ですから、イエス様の時代のユダヤ人は「金持ちは神さまから祝福されている人である」と見られていました。あるとき、金持ちの青年役員が「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょう?」とイエス様に質問しました。そのとき、弟子たちは「この人には地位があり、富もあり、小さいときから律法も守っているので、真っ先に神の国に入るべき人だろう」と考えました。ところが、彼は豊かな富が災いして、神の国に入ることができませんでした。イエス様は何とおっしゃったでしょう。ルカ18:24-26「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」つまり、人々は「彼のような金持ちが救われないなら、一体だれが救われることができるのでしょう」と思ったのです。イエス様は「お金では神の国に入れない。むしろ神の国に入る妨げになる」と教えたのです。

 近年、教会に「繁栄の神学」というものが訪れました。今から、40年くらい前に、韓国のパウロ・チョーヨンギ牧師が、三拍子の祝福を唱えました。そのことが、Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。「すべての点でも幸いを得る」とは、「経済的、物質的にも」という意味です。チョー・ヨンギ牧師は、ガラテヤ書3章から、「キリストが十字架で呪われた者となってくださったので、私たちもアブラハムの祝福を得られる」と主張しました。他にアメリカの牧師たちやペンテコステ系の牧師が、「神さまの祝福は富むことである」と言いました。そういう考えが、日本に入ってきたために、日本の教会は2つに分かれました。一方は、「ああ、それはご利益宗教だ、功利主義だ」と批判するグループです。他方は「それこそが、聖書的な考えだ」と同調しました。ちょうどその頃、韓国の経済が教会を通して祝福されました。会社を経営していた長老たちは、牧師に新車や大きな住まい、高い給料を与えました。それを聞いた、日本の一部の牧師たちは、「日本の教会もそうでなければならない」と役員会に要求しました。実際に豊かな生活を得られた牧師もいますが、教会の予算が厳しいので、かえって打ちのめされた牧師もいました。つまり、「自分は貧しいので、標準に達していない」と恥ずかしく思ったのです。

 私たちは経済と祝福に対して、バランス感覚を持たなければなりません。イエス様は山上の説教でこのように教えられました。マタイ6:32-33「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神さまは、私たちにとって、衣食住が必要であることを良くご存じです。でも、第一に求めるべきものあります。第一のものを第一のものとして求めたなら、神さまが必要を満たしてくださるということです。


2.経済と物質の危険性

 ルカ16章には「不正な管理人のたとえ」が記されています。そのところに、「不正な富」という表現が出てきます。不正な富は、英語の聖書ではmammonとなっています。この言葉はギリシャ語からきていますが、富が、人が崇拝するものとして擬人化されています。富やお金は中立的な存在です。しかし、扱い用によっては、神さまになってしまうということです。イエス様は何と教えられたでしょう?ルカ16:13「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ある人にとっては、富が主人になっています。そして、富に仕えています。でも、本来は神さまが主人であるべきです。イエス様がおっしゃるように、二人の主人に仕えることは不可能です。なぜなら、一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方を重んじ他方を軽んじるからです。ある人はお金を得るために、手段を選ばない人もいます。汚職、盗み、横領、詐欺は、みんなお金が絡んでいます。また、ある人は一生懸命、倹約をして、お金を蓄えています。蓄えるのは良いのですが、貯めることが目的になり、1億円も貯め込んだまま死ぬ人がいます。富やお金には力があります。いわゆるmammonとなって、神さまの座を奪ってしまうということです。富やお金から解放されるための3つの原則があります。

 第一は、忠実に管理するということです。イギリスに「お金は悪い主人であるが、良いしもべである」という古いことわざがあります。この意味は、「もし、あなたがお金を良く管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべです。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人になるでしょう」という意味です。現代はクレジットカードがとても便利です。現金を用いないので、買うのがとても簡単です。しかし、あとから、ショックを受けることがあります。福音書にはsigh and wonder「しるしと不思議」ということが、記されています。インドネシヤのエディ先生の奥様は買い物が大好きです。何でもカードでサインして買います。あとで、請求書を見たエディ先生はワンダー、驚くそうです。「これがsigh and wonderです」と、ジョークを言っていました。現代は、借金を返せないために、自己破産する人たちがたくさん出ています。これはまさしく、お金が悪い主人になり、自分が奴隷になっている姿です。私たちはお金を「小さなしもべ」にしなければなりません。そのためには、収入と支出のバランスを取る必要があります。私は貧しい家庭で育ったので、あればあるだけ使うところがあります。だから、家の大蔵省には向いていません。本当のお金持ちというのは、いわゆるケチな人たちで、無駄遣いをしない人たちです。無駄遣いをしないので、お金持ちになるのかもしれません。私たちは神さまから与えたれた資源をちゃんと管理する必要があります。時間、健康、持ち物、そして金銭もその1つであります。ルカ16:10 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

第二は、忠実に受けるということです。Ⅱテサロニケ3:10-12「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」日本に「働かざる者、食うべからず」という格言があります。しかし、中には病気や高齢で、働きたくても、働けない人がいます。ですから、この格言には限界があります。使徒パウロは、「働きたくない者は食べるな」と命じました。この人は、働く力があるのに、働かないということです。仕事をせずに、おせっかいばかりして、締りのない生活をしていました。そういう人に対して、パウロは「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と命じているのです。つまり、「ちゃんと労働して金銭を得よ」ということです。そのために神さまは私たちに、信仰と賜物と創造性の3つを与えてくださいました。神さまに祈り求めるなら、神からの能力とふさわしい働き場が与えられるということです。正当に働いて、金銭を得るということは神さまのみこころです。現代は、お金を右から左に動かすだけで、お金を得ている人たちがいます。株とか土地ころがし、マネーロンダリングなどがあります。本来は、社会的に何らかの貢献をして、その実を得るべきではないでしょうか?神さまが手のわざを必ず祝福してくださることを信じて、天から与えられた仕事をすべきであろうと思います。

 第三は、忠実に捧げるということです。聖書に「収入の十分の一を神さまに捧げる」ということが書いてあります。このことが言われている最も有名な箇所は、マラキ書です。マラキ書3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」昔は穀物などの産物を捧げました。しかし、だんだん貨幣経済になったので、それがお金になりました。教会がお金のことを言うと、なんだか汚いみたいに思う人もいるかもしれません。この教会の山崎長老さんは「命の次に大切なのがお金である」と言いました。お金は汚くありません。お金は尊い労働の代価です。命の次かどうか分かりませんが、信仰がなければ1円も捧げることはできません。「神さまがすべての資源を与え、私に労働力を与えてくださいました。そのことの感謝です」と捧げるのです。「十分の一は神さまのものだけど、十分の九は私のものなので、好き勝手に使って良い」という意味ではありません。「十分の十が神さまのものだけど、そこから、十分の九をいただいて、生活させていただく」という意味なのです。また、十分の一以外の献金があります。集会献金、会堂献金、宣教献金、感謝献金…これらは神の御国のための信仰的投資です。十分の一を捧げるなら、神さまが畑に垣根を巡らせてくださり、害虫や盗人から守ってくださいます。その畑に、十分の一以外の献金の種を蒔くのです。その種が30倍、60倍、100倍になって帰ってきます。献金は「これだけ捧げますから、見返りを与えてくださいよ」と、神さまと取引することではありません。見返りを求めず、ただ信仰と感謝を持って捧げるときに、神さまが報いてくださるのです。

3.経済と物質からの解放

 ピリピ4:13 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」アーメン。この1節でも私たちは励ましと信仰をいただくことができます。ある人たちは、この聖句をカードにして、困ったときに、告白する人がいます。確かに良いことです。しかし、聖書は1節からだけではなく、文脈から理解することも重要です。このみことばの前後に何が書かれているのでしょうか?使徒パウロはどんなことを学んだのでしょうか?ピリピ4:11-12「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」パウロはある時には、貧しい生活を余儀なくされたこともありました。食べ物もなくて飢えることもありました。おそらく、ない時はないなりの生活をしたのでしょう。しかし、パウロは「私は使徒だから、ちゃんとした待遇を得なければおかしいだろう」と教会に要求したことはありません。しかし、あるときは、豊かな時もあったことでしょう。使徒ということで厚遇を受けたこともあるでしょう。でも、パウロはいただいた献金で私服を肥やすということはしませんでした。ちゃんと宣教資金のために蓄えながら、用いたと思います。聞いた話ですが、スポーツカーやハーレーを乗り回している牧師がいるそうです。自分の給与で買うのは構いませんが、教会の予算からだと問題が出てくるかもしれません。

どうでしょう?お金がないというのも誘惑になります。盗みや不正を働いて、お金を得たくなります。いつも考えていることは「もし、お金があれば○○ができるのに」「もし、お金があれば○○が買えるのに」というのは誘惑に片足をつっこんでいる状態です。パウロはピリピ4章で「貧しさの中にいる道も知っている」と言っています。しかし、原文は「私は低くされることを知っている」、あるいは「謙遜になることを知っている」という意味です。つまり、食べるものがない、あるいは住まう所もないということは謙遜を学んでいるんだということです。食べものがないときは、「ああ、そういえば、エリヤもカラスとやもめに養われたことがあるなー」と思い出すことができます。ちゃんとした住まいがないときは、「ああ、そういえば、イエス様も『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子はまくらする所もない』とおっしゃったなー」(マタイ8:20)と思い出すことができます。そうすると貧しさの中にあることも益になります。しかし、これが反対にイスラエルの民のように「エジプトでは肉や魚、にら、たまねぎを食べていたのに」とつぶやいてはいけません。あるいは、「私はなんとみじめな生活をしているんだろう」と自己憐憫に陥ってもいけません。そうではなく、「これは謙遜を学ぶための勉強なんだ。ありがとうございます。」と感謝するのです。反対に、豊かなときはどうなのでしょうか?パウロは「豊かさの中にいる道を知っている」と言っています。他の訳は「有り余る中でいることを知っている」と訳されています。豊かさの中にいると、どうなるでしょうか?腹いっぱい食べて、太り過ぎたり、物を無駄にしてしまうでしょう。現代は外食産業の時代ですが、食べ残したもので、何億人もの貧しい人たちを養えると聞いたことがあります。物でも、まだ、使えるのに、新しい物に取り換えたりします。「アメニティ」とは、「快適な暮らし」という意味ですが、度を越すと、贅沢になります。学生たちがネパールやカンボジアに1週間くらい、短期宣教に出かけると、人生観が変わるそうです。ベン・ウォン師のお嬢さんが、学校を休んで、ネパールに短期宣教に出かけました。トイレも穴ボコしかありません。寝るところにサソリが這っていたそうです。それで懲りたかというとそうではなく、数年後もまた行ったそうです。なんと、自分は便利な生活に慣れていたのかということが分かったそうです。

パウロが言っている「満ち足りる秘訣」は、「経済と物質の解放」と関係があると思います。満ち足りる秘訣というのは、第一は、ないときに不平不満を言わないということです。私たちはどうしても、ないものに目をとめて、あるものを感謝しない傾向があります。弟子たちが、5つのパンと2匹の魚があることに目をとめたときに、奇跡を体験することができました。たとえば、もやしとキュウリとハムがあれば、立派なサラダができます。今、あるものを感謝するとき、神さまの御手が動きます。第二は、仕方がないからと諦めることでもありません。逆に、神さまに信頼するということです。私たちは環境によって、喜びや平安をなくてしまいます。お金がない時は、特にそうです。そういう時こそ、満ち足りることを選び取るのです。心をかき乱すような状況にあっても、神さまに信頼することを選び取るのです。そうすると、喜びと平安がやってきます。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言う告白は、まさしく、信仰です。現実がまだ、そうなっていないのに、このように告白して、祈るのです。しかし、目を開けた瞬間、「現実は厳しいからなー」と言う人がいます。それは、今、祈ったことをキャンセルすることになります。そうではなく、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」という信仰に留まるのです。そうすれば、現実が後からついてきます。私たちは現実から物事を判断すべきではなりません。信仰から判断するのです。パウロは、「見るところによってではなく、信仰によって歩む」(Ⅱコリント5:7)と言いました。経済と物質は、ものすごい力を持っています。私たちは、しばしば打ち負かされるときがあるでしょう。でも、経済と物質は、もともと神さまが造ったものです。もともとは、神さまが目に見えない、ことばによって産み出したものです。どうぞ、現実から信仰を見ないようにしましょう。逆に、信仰によって現実を見ていきましょう。神さまの方が、現実よりも勝っています。経済と物質の所有者である神さまが、必要を与えてくださるのです。どんな境遇の中でも、父なる神さまを信頼して歩みましょう。

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2013年5月 5日 (日)

中毒からの解放      ピリピ2:12-16 

 日本語では依存症が軽症で、中毒は重症と分けて使っているかもしれません。中毒と言われると、ものすごいインパクトがあります。依存症と言われると、「ああ、ちょっと病的な感じかな」と捉えるかもしれません。しかし、英語のaddictは、麻薬などの常用者、中毒者という意味があります。また、addictionは依存症と言うときに使われます。ということは、外国では依存症も中毒もほとんど同じ意味で使われているということです。今回はエリヤハウスから、かなり引用していますが、「中毒」という言い方で統一したいと思います。でも、「中毒」というと、「私には関係ないなー」と思う方がいらっしゃるでしょうから、後半のメッセージは「悪習慣からの解放」にさせていただきました。


1.中毒からの解放

 私たちの人生に楽しみをもたらしてくれるものがたくさんあります。コーヒーやチョコレートが大好きな人もいます。お酒やたばこをたしなんでいる方もいるでしょう。パチンコやギャンブルが好きだという人もいます。プレミアム・アウトレットでのショッピングが好きな人がいるでしょう。仕事に没頭して妻や子供のことを忘れてしまう男性もいるでしょうか。ゲームやパソコン、スマホーに熱中している若者がいます。DVDやインターネットを夜遅くまで見ている人もいます。どれもこれも、人の自由であり、罪ではないでしょう。しかし、パウロは何と言っているでしょうか?Ⅰコリント10:23「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」私たちは何をしても良いのです。が、すべてが益になるわけでありません。でも、人生に楽しみをもたらすものというのは、中毒性があるということを忘れてはいけません。アメリカでは寝る前にアイスクリームのバケツサイズを食べないといけない人がいるようです。たばこは今一箱410円くらいするのでしょうか?1か月吸うと1万円以上になり、肺がんになる確率もぐっと増します。カードで買うのはとても楽ですが、支払いが大変になります。ゲームもちょっとだけなら良いのですが、朝までやったらどうなるでしょう?多くの人は「いや、いつでもやめられますよ」と言います。ところが、そう簡単ではありません。一度、依存症に陥ると専門機関の助けが必要になります。私たちは中毒や依存症と言うと、「麻薬やお酒だろう」と言うかもしれませんが、それだけではありません。もし、そういうもので、頭がいっぱいになり、自分の生活が支配されているなら、立派な中毒や依存症であることを認めなければなりません。

 では、人はなぜ中毒になるのでしょうか?ある人は、ほどほどで済ますことができるかもしれません。しかし、ある人はそれにはまって抜け出せない人がいます。エリヤハウスではこのように教えています。中毒も、束縛をもたらすとりで(要塞)の1つです。中毒という要塞に囚われてしまった人は、もうそれ以外の生き方を考えられません。正常な生き方、つまり中毒がない生き方というのを考えられない状態にある人です。また、中毒は痛みを和らげる手段になります。神様は癒しを与えてくださいますが、中毒は痛みを麻痺させるだけです。もし、心の深い部分に痛みがあるならば、それに向き合って、神様のところへ持っていくべきです。しかし、中毒にはまると、その苦しみの部分だけをごまかしてしまいます。酒やたばこの以外にも、気分転換のために習慣的に用いるものがたくさんあります。ある一人の女性は、買い物をするということに中毒になっていました。彼女は浪費することに中毒であり、必要じゃないものを買ってしまいます。どうして買ってしまうか分からない状態です。それは、面白いとかおかしいという範囲を越えていました。なぜなら、家族に様々な問題をもたらしたからです。その根っこにあるものは、大抵の場合、貧しさです。「足りないんじゃないか」「お腹をすかせて死んでしまうんじゃないか」という貧困の体験が、それへの恐れとして、浪費やショッピングに走るのです。また、テレビやDVD中毒もあります。現実に向き合いたくないので、しばらくの間、そういう夢の世界に逃げるのです。テレビやDVDで一体、何を見ているのでしょうか。暴力的なものを好んで見ているなら、心の中に深い怒りがあって、それを映像の中で処理しているのです。よく運動する人がいますが、長距離を走っているとある程度行くと、しんどい所を乗り越えて、ハイになります。自分の力を使い果たしたときに、ある物質が脳の中に出て、ハイの状態になるのです。すると運動が目的ではなくて、ハイになるために、そこまで無理やり運動をするということになります。

 中毒や依存症は、「別に何も問題はありませんよ」という「否認」があります。ある女性は、あまりにも太りすぎていて、自分の足で自分の体重を支えることができないくらいでした。彼女は心に深い怒りを抱えていました。しかし、カウンセラーが「食べ物」ということについて質問し出すと、彼女は「別に、私は食生活のパターンに問題はありません」と答えました。食べ物に対して自分が中毒になっているということに盲目だったのです。そしてそれが自分の人生にどういう影響をもたらしているか分かっていませんでした。その根本には、深い痛みと罪が隠されていました。否認はどのようにして、できて行くのでしょうか。それは、中毒がどのようにして出来ていくのかというのと同じことです。

中毒はどのようにしてできていくのでしょう?エリヤハウスでは原因を5つあげています。第一は両親によって養育としつけがあまりなされなかった場合です。両親が不在、あるいいは、体はそこにいても、心がそこにない状態でした。子供の基本的な必要は、愛とふれあいと、認めてもらうことです。しかし、だれも子供に声をかけてくれませんでした。さらに、子供の心に痛みを注ぎ込む場合です。痛みがたまってくると、子供の人生に影響を及ぼすようになります。

第二は家庭が敵意に満ちた場所である場合、守りを感じない場所である場合にも、中毒や否認が形成されます。虐待や性的虐待がある場合もその一つです。やがて、その子は愛を求めるために、不健全なものにはまっていくでしょう。

第三は人とうまく付き合う方法が欠如しているときに中毒ができていきます。あなたのお父さん、お母さんはストレス下にあるとき、どのような行動をとったでしょうか。お父さん、お母さんは自分の感情をどのように表現したでしょうか。何らかの他の罪深い形でストレスを処理していたら、子供も似たような行動を取ります。私は結婚したての頃、何度か喧嘩したことがあります。家内は無口になり、私は自分の部屋に籠って本を読みました。今は牧師室がありますが、心休まる場所でもあります。牧師室に寝泊まりして、礼拝に出てくる牧師がいると聞いたこともあります。そういう家庭で育った人は、気をつけないといけませんね。

第四は心理的、社会的、霊的に満たされないときに中毒ができていきます。私たちはみな愛されたい、受け入れられたいという願いがあります。私たちは人々とのきずなの中で、一体感の中で生きていく存在として造られているので、人とのつながり(親密感)を求めます。現代はスマホーや携帯を離すことができない人がたくさんいます。メールやチャットでだれかとつながっていないと不安なのです。これは人間依存といえるでしょう。

 第五は家系を通して受け継がれる罪があります。恥意識が処理されない場合、人々はそれを他の人に伝えて、周りの人に流していきます。その家系や家庭、あるいは文化が、「あなたは完全でなければ、受け入れられない」というメッセージを伝える場合があります。また、何かがある度に、暴力や怒りという行動に出るということが家系代々続いてきた場合があります。自分の家系において、人々がどのように困難に直面してきたかを見ると、私たちも自然に同様の弱さを受け継いでいます。アルコール中毒の場合も、その1つですが、家系代々続く場合が多いようです

こういうことを話すと何の希望もないように感じてきます。もし、中毒や依存症を一言でいうならこうなると思います。心の深い必要や傷を神様からではなく、この世のものから求めるということです。十戒では偶像礼拝を禁じていますが、神様以外のものを頼り、それを第一にするのは立派な偶像礼拝です。「いや、私はそういうものにとらわれていません」と否定するかもしれません。チェックする方法があります。朝、一番、最初に何を考えるかです。最初に、考えるものがあなたの神様です。ちょっと言いすぎでしょうか?それなら、あなたが最も時間とエネルギーとお金をかけているものが、あなたの神様です。ある人は仕事かもしれません。仕事中毒というのがあります。だれか人にしばられている人は、共依存の可能性があります。中毒からどのように癒され、解放されるのでしょうか?エリヤハウスでは、5つの段階で解決します。第一は認めることです。否認している限りは、癒しは起こりません。自分の問題を認めなければなりません。第二は根をさぐるということです。たとえば性的依存症の場合、男性が母親に対する敬わない思いが原因していることが多いようです。つまり、母親が操作的、支配的で、父親が弱い場合です。女性は性的虐待や父親との絆がないと依存症に走ります。その女性はボーイフレンドを失う恐れに満ちています。第三は告白と悔い改めと赦しです。心の空虚さを埋めるために、別のものに向かっていました。そして、それによって捕らえられていたのです。解放のためには神様の助けも必要ですが、自分の意思も必要です。「それを断わり、捨てます」と告白します。「○○したいです」ではなく、「○○します」と信仰によって告白します。そうすれば、神様は「あなたの信仰のようになるように」と私たちを変えてくださいます。第五は悪い構造を取り扱います。中毒の構造を取り払い、新しい構造を与えます。アルコール中毒者のためにAAというものがあります。AAとは、「無名のアルコール依存者たち」という意味だそうですが、私たちが言うセルグループです。中毒や依存症の場合は、説明責任を持ち合える小グループが特に必要です。「先週大丈夫だった?」と聞いてくれる友が必要です。また、誘惑に陥りそうな時に、助けてくれる友が必要です。中毒や依存症はいわば闇の世界です。しかし、光なる神様のところへ持っていくならば解放されます。エペソ5:11-13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」神様の前に、正直になることが解放の一歩です。


2.悪習慣からの解放

中毒とか依存症と言うと、「精神科やプロのカウンセラーでなければ扱うことができないでしょう」とおっしゃるかもしれません。確かに、そのような分野もあるでしょう。しかし、悪習慣がひどくなったものが中毒とか依存症ではないでしょうか?逆に、そのような病名をつけてしまうので、「私は依存症なので治るのは難しい」という信仰が生まれるのです。そうではなく、悪習慣のABCがあれば、Cかもしれないと捉えるべきであろうと思います。つまり、だれでも悪習慣からCの段階に行くことがあるということです。また、たとえCの段階であっても、悪習慣から解放される術を学び、解放のステップを歩めば良いということです。もちろん、神様は奇跡を起こしてくださいます。でも、私たちがなすべき分もあるということを知らなければなりません。アメリカのあるインディアン部族に伝わる昔話です。おじいさんが孫たちにあることを教えました。「お前たちの心の中で、二匹の狼が戦っておるじゃろう。一匹は悪い狼で、怒りっぽく、妬み深く、人を赦さず、高慢で、怠け者の狼じゃ。もう一匹は良い狼で、愛があり、親切で、謙遜で、自制できる狼じゃ。心の中で二匹の狼が常に戦っておるんじゃ。子供たちは「おじいちゃん、どっちの狼が勝つの?」と聞きました。おじいちゃんはニッコリほほ笑みながら「お前が餌をやる方じゃよ」と答えました。私たちはどうして人を赦せないのでしょう?すぐ怒ったり、セルフイメージが低いのはなぜでしょう?それは、悪い狼に餌をやっているからです。答えは簡単です。悪い狼に餌を与えず、餓死させれば良いのです。悪い狼とは私たちの悪習慣です。良い狼は良い習慣と言えるでしょう。

学者によりますと、私たちの毎日の生活の90%は習慣に基づいているそうです。朝起きてから、夜寝るまで大体パターン化しています。では、お金の使い方はどうでしょう?何を見て、何に関心を払うでしょうか?ある人はしょっちゅうおやつを食べています。また、ある人はコーヒーを何倍も飲んでいます。また、ある人は毎晩、お酒を飲んで酔っ払っています。また、ある人は愚痴や不平が絶えません。また、ある人はしょっちゅう怒りを人や物にぶつけています。また、ある人はくよくよ心配し、気持ちが落ち込んでいます。また、ある人は寝る前に甘いものを食べないと眠れません。またある人はゲームやパソコンをやめられず寝るのが12時過ぎになります。また、ある人は時間にルーズで、いつも遅刻してしまいます。また、ある人はクレジットで買い物をしすぎて、支払いのために頭を抱えています。どうでしょう?何か思い当たる節はあるでしょうか?「私は中毒とか依存症ではありませんよ」と言うかもしれません。でも、やめたくてもやめられない悪習慣はないでしょうか?使徒パウロはローマ7章で「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています」(ローマ7:19)と嘆いています。あのパウロをしてそうなのなら、一般の私たちはどうでしょうか?ジョエル・オースチンは「もっと向上したいと本気で望むなら、自分の習慣の棚卸をしてみたらどうでしょうか?」と薦めています。私もちょっと思い当たるふしがありました。私は思っていることをすぐ口に出す癖があります。そのことを家内によく注意されてきましたが、悪習慣だとは思っていませんでした。また、ジョエル・オースチンの英語版の本に、「worryという悪習慣がある」と書いてありました。worryというのは、「心配する、くよくよする」という意味です。私の家は機能不全で争いに満ちていました。安心して過ごせないところで育ちました。家でも学校でも責められて育ちました。ですから、「だれかから、何か責められるんじゃないか」と心配する習慣がついています。「ああ、これは悪習慣だなー」と分かりました。どうぞ、みなさんも無意識でやっていること、あるいは「これは悪習慣じゃない」と否認していることはありませんか?どうぞ、この際、悪習慣の棚卸をしてみましょう。

専門家によりますと、一度身に付いた習慣を崩すためには6週間かかるそうです。日数で言うと、42日間です。酒もたばこも42日間やらないと解放されます。私はパソコンの中にあるスパイダー・ソリティアに何度かはまりました。そのゲームをやると20分から30分を無駄に過ごしてしまいます。「これは中毒になるぞ」と思って、すべてのパソコンからそのゲームのソフトを外しました。しかし、あとからインターネットでもやれることを知りました。3日間やりましたが、やめました。でも、しばらくの間、やりたくてうずうずしていました。今は、もう大丈夫です。悪習慣あるいは中毒的なものをやめるとき、最初、ものすごい労力と苦しみが伴います。でも、どうでしょうか?どんな悪習慣も中毒もそうですが、良いのはその時だけです。しかし、あとからものすごい苦しみのしかかってきます。やがては精神も体もぼろぼろになり、生活がなりたたなるでしょう。やめるときの苦しみが良いでしょうか、それとも中毒にはまった苦しみが良いのでしょうか?宇宙に飛び出すロケットのことを少し考えてみたいと思います。ロケットが地球の重力に逆らって、宇宙に飛び出すとき、ほとんどの燃料を使い果たすそうです。しかし、ロケットが宇宙空間に達すると、あとはわずかな燃料で飛ぶことができます。悪習慣や中毒も、地球の重力と同じです。その重力によって私たちはひっぱられて生きています。最初、悪習慣や中毒を絶つときのエネルギーと苦痛は想像を絶するほど大きなものです。禁断症状が起こり、頭痛やめまい、体中が変になるでしょう。でも、4週間耐え忍び、6週間たつと自分でも信じられないくらい自由になります。

ある女性は、何十年もたばこを吸い続けてきたヘビースモーカーでした。あるとき、彼女は「今が、やめる時だ」と決心しました。数週間は吸わないで過ごすことができました。しかし、あるときご主人と言い争いました。彼女は腹を立てて、家を飛び出しました。そして、お店でたばこを買いました。そして、「夫に一箱吸っているところを見せてやろう」と思いました。最初の一本に火を付けようとしたときです。内側で何か声がしました。「あなたがこれまでしたことが全部無駄になります。もし、たばこを吸うなら、全部一からやり直すことになります。なぜなら、あなたは感情をコントロールできなのですから」。その瞬間、それをやめるための苦労が脳裏を横切りました。ここまで来るために努力してきたことが、次から次へと浮かんできたのです。彼女は手に持っていたたばこを置いて、再び吸わないという決意をしました。私たちはいろんな言い訳をして、いろんな理屈をつけて、変わることを拒んできました。「だって、ストレス解消のためには仕方がないんです」「クレジット・カードを使わずに過ごすなんて無理ですよ」「心に浮かんだ思いをぶちまけないで終わらせるなんてできません」「うちの親や兄弟も皆そうなんです。これは家系ですよ」「この習慣だけは変えられません」と、そう言っている限りは、解放されることはありません。神様は全能のお方ですが、あなたの決断を代わりになさろうとは思われません。決断するのはあなた自身です。そして、「神様、私がそのようになれるように助けてください」と真剣に願うなら、神様がその力を与えてくださいます。実は、悪習慣を取り除くだけでは十分ではありません。悪習慣の代わりに良い習慣を育みましょう。時間を守ること、倹約的なお金の使い方、健康管理、積極的で生産的なことば、神様との交わり、どんなときでも喜ぶこと、愛と親切にあふれた関係。最初は大変で、ものすごい労力がいるでしょう。でも、習慣になると宇宙のロケットのようになります。ピリピ2:12-13「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」私たちは天国に行ったら完全にきよめられます。でも、神様はこの地上で、私たちが神の似姿に変えられて成長することを願っておられます。それが、「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」ということです。悪い狼に餌をやっていると、滅びを刈り取ることになります。私たちが悪いもので縛られて暮らしているなら神のこどもとしてふさわしくありません。良い狼に餌をやりましょう。神様はもっと上の段階の、豊かな人生を私たちに備えておられます。


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2012年7月29日 (日)

   ~しもべとなられたイエス様~ <ピリピ人への手紙 2章3節-8節>   亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ピリピ人への手紙 2章3節-8節>

2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

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先ほどみなさんとお読みした聖書個所は、ピリピの教会の人々に宛ててパウロが書いた手紙のことばです。

ピリピの2章6節―8節はイエス・キリストの謙卑、そしてこの後に続く2章9節-11節はイエス・キリストの高揚について力強く記されている有名なみことばです。その手前のピリピの2章3節-5節は、パウロがピリピ教会の人々にイエス・キリストに倣ってへりくだることを教えています。

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2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

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この個所を読むたびに、私はそのような者でありたいと切に願うのですが、実際はなかなか難しいものです。

特に「へりくだってしもべとなって仕える」ということは、私たちの心の奥底にあるプライド(自尊心)や、反対にコンプレックス(劣等感)が邪魔をしてしまって、思うようにできずに葛藤を覚えます。

しかし、イエス様は福音書のいたるところで、そのような葛藤を覚える弱い私たちに、「仕えるしもべ」としての模範を示してくださいました。先ほど読んだピリピの2章6節、7節に

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2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

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と書かれてある通りです。

イエス様は神であられるのに、しもべのように低くなられ、私たちに模範を示してくださいました。

一番印象的な聖書箇所は、やはりヨハネ13章の十字架に架かられる前日に、最後の晩餐をなさった後、12弟子たちの足をお洗いになったという「洗足」の箇所ではないでしょうか。

このイエス様が弟子たちの足を洗われたという箇所を見ながら、イエス様を模範とし、ピリピ書のみことばを実行していくにはどうすればよいかということを共に考えていきましょう。

①イエス様は「仕えるリーダー」となってくださいました。

弟子たちは真のしもべの意味がわかっていませんでした。ルカの福音書22章にも、最後の晩餐での出来事が記されていますが、22章24節にはこの最後の晩餐の時になっても弟子たちは「誰が一番偉いか」という事について論じあっていたことが記されています。

ヨハネの福音書には、最後の晩餐の日は「過ぎ越しの祭りの前」と書かれていますが、他の福音書には過ぎ越し祭りの日の当日だとも書かれています。

この「過ぎ越しの祭り」とは何のお祭りかご存知でしょうか?

この祭りは現在も行われているユダヤ教の3大祭りのひとつです。出エジプト記に書かれていますが、この祭りはモーセが神に命じられてイスラエルの民をエジプトから脱出させたことを記念したものです。この祭りでは神殿に傷のない雄の子羊や子牛や山羊を捧げます。

イエス様の十字架がこの過ぎ越しの祭りと同じ時期であったことは、イエス様が十字架の贖いにより、まさにこの捧げものの子羊(小羊)となられたという事です。それは、ヘブル人への手紙9章12節に「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と書かれている通りです。

弟子たちは、いつもイエス様のおそば近くにいましたが、イエス様がこれから十字架に向かわれるということが分かっていませんでした。イエス様の近くでいつもイエス様の説教を聞いていたベタニヤのマリヤは、イエス様が死に向かわれていることを察していました。彼女は高価な香油をイエス様の頭に注いで葬りの準備をしましたが、弟子たちはその時、「何のために香油をこんなにむだにしたのか」とマリヤに怒りました。

イエス様がこれから何をなさろうとされているのか弟子たちは全く気にも留めず、彼らはいつも「誰が一番偉いか、誰がリーダーなのか」を競い合っていました。そんな弟子たちにイエス様は仕えるリーダーとなることを教えられました。

この仕えるリーダーとは、どのようなリーダーなのでしょうか。

最近は、「仕えるリーダーシップ」「サーバントリーダーシップ」という考え方が、様々な企業で取り入れられています。このサーバントリーダーシップは、従来のピラミッド型の支配型リーダーシップとは逆の考え方になります。「上から命令する」「先頭にたって引っ張る」というパワーリーダー的なリーダーシップから、「部下を支えるためにリーダーは存在する」「部下の必要に応じて手助けして部下の能力を伸ばす」といったリーダーシップに代わってきているという事です。

このサーバントリーダーシップを語る時、クリスチャンではなくても、聖書に書かれているイエス様がなさった方法が模範とされることがあるようです。10年くらい前に、この亀有教会でも山積みになっていたこの本、「サーバント・リーダシップ」という本をお読みになった方はいらっしゃるでしょうか?

「サーバント・リーダシップ」は、アメリカのロバート・グリーンリーフという人が1960年代に提唱した考え方です。彼はもう亡くなっていますが、敬虔なクリスチャンだったそうです。この本もそのグリーンリーフの流れのものです。この本は物語になっています。あらすじを簡単に言いますと・・・

主人公のジョンは大手製造会社で働くやり手のゼネラルマネージャーで、世の中から見れば彼は成功者でした。しかし、家庭生活においては崩壊寸前で、妻との間は冷え切り、子どもも非行に走っていました。会社の人事マネージャーからは、リーダーシップのスタイルを見直すように言われて彼は激怒。何もかもうまくいかなくなってきた彼は、妻の勧めでカトリックの修道院で行われた7日間の勉強会に参加しました。その修道院には、元有名な実業家だった修道士がいて、彼からサーバントリーダーシップについて学び、主人公は謙遜とへりくだりの心を知って、別人のようになって修道院を出るという話です。この本はもう絶版になっていますが、当時はキリスト教書店だけではなく、一般の書店でも売られていたものでした。

この本を読んで私は本当に気が楽になったのを覚えています。

なぜかと言うと、私はその頃、「どんな人でも心から愛して仕えるなんて私にはできない!」と自分の事を情けなく思っていました。でもこの本には、「“アガペーの愛”つまり“神の愛”とは、感情で愛すという愛ではなく、行為、行動の愛である」と書かれていました。

どういうことかと言うと、“アガペーの愛”とは、例えば卑怯な人や、残虐な事件を起こした人に対して、また単にどうしても生理的に好きになれない人がいたとしても、忍耐して愛しなさいという愛ではないと言うのです。たとえ感情ではその人を愛せなかったとしても、その人に必要なものを与えたり手助けをしたりするという“アクション”を起こすことが“アガペーの愛”だというのです。そうなると、“アガペーの愛”とは、慈善とか奉仕の意味合いが強いイメージになってきますね。

ですから私は、「そうか。英語でいうLove、感情で愛するということが出来なくても、その人の話を聞いたり、その人の必要を満たしてあげたり、助けてあげるというアクションを起こせばいいんだな。」と納得して、何年も過ごして来ましたが・・・今は何となく違和感があります。

果たしてそのような考えで良かったのでしょうか?

以前の私はこう言った本を読んでは鵜呑みにしていましたが、私も年をとってきたからかもしれませんが・・・

まず疑ってかかるようになってきました。特に、マスメディアで流れてくる情報やこのような自己啓発の本、また大学で学んでいる神学も、本当にそうかなぁーと思ってしまいます。

疑ってどう解決するのかと言うと、聖書から答えをいただきます。聖書は本当はどう語っているのか、イエス様はどうなさったかということを思い起こすのです。私は、今はこう思います。やっぱり、慈善や奉仕をするにしても、感情で愛するという気持ちが伴わないと、無機質な感じがして違和感があります。

みなさんはどう思われますか?イエス様はどうなさったでしょうか?

イエス様は、弟子たちに仕えるリーダーについて教えられるとき、時にはたとえ話でわかりやすく、時にはユーモアを交え、また時には弟子たちをお叱りになって教えられましたが、そこには必ず愛がありました。そして必ず自らが模範となって仕えるリーダーの姿を見せてくださいました。弟子たちはイエス様の愛を受けてイエス様をお手本として、ただ信頼してついて行けば良かったのです。仕えるリーダーには愛が必要です。

②イエス様は「仕えるしもべ」となってくださいました。

イエス様は「仕えるリーダー」でもありましたが、さらにご自分を低くされ、「仕えるしもべ」となられました。

天の父なる神のしもべとなって従われ、また人々にも「仕えるしもべ」となられたのです。「しもべ」とは、言い換えれば「奴隷」「召使い」のことです。神であられる御方が奴隷のように低くなられて弟子たちに仕えてくださったのです。

イエス様は私たちに、仕えるリーダーを目指すとともに、仕えるしもべとなることを教えてくださいました。

考えてみれば、私たちにとってサーバントリーダーシップをとることは、難しいですができない事ではないと思います。言ってしまえば、サーバントリーダーシップをとることは、キリスト者でなくてもできます。でも、仕えるしもべとなるには、私たちの心の奥底のもっともっと深い部分での信仰と、そしてさらなる愛が試されます。

みなさんは、仕えるしもべですか?

もし、「そうではない」と思われるなら、仕えるしもべになろうとする心を邪魔するものは何でしょうか。

なぜしもべとなって、心から人を愛して仕えることができないのでしょうか。

パウロが言うように、へりくだることが出来ず、自己中心や虚栄の心で人と接しているということでしょうか。

みなさんにもそれぞれ思い当たることがあるのではないでしょうか

私はいつも、「しもべのようになって人に仕える事は本当に難しい。」と思っています。もし、「世界しもべになれないコンテスト」というものがあったなら、間違いなく7位ぐらいにはなっていると思います。

その原因のひとつは、私の中に二面性があるからだと思います。人間だれでも二面性はあると思いますが、私の場合は、育った環境によって屈折した二面性を身につけてしまいました。

鈴木先生は、よく8人兄弟の7番目に生まれた生い立ち、育った環境のお話をなさいますが、それを聞くたびに、育った環境がいかにその人の人間性に影響をもたらすかという事がよくわかります。

また、それがいかにイエス様によって回復されるかという事もよくわかります。

みなさんも人生いろいろあって、イエス様に回復していただいたお証があると思いますが、私は自分の生い立ちについてメッセージでお話したことがないので、今回は少しお分かちしたいと思います。

今日は第5週なので、分かち合いの時が後でありますので、みなさんもイエス様に回復していただいた事について、ぜひ分かち合ってみてください。

私は、4人兄弟の2番目で育ちました。兄、私、妹2人ですが、一番下の妹は腹違いです。

私は、小学2年生の時、実の母を癌で亡くしました。兄9歳、私7歳、妹4歳でした。

本当に悲しくて寂しかったのですが、残された父と兄と妹と一緒に私たちは笑って暮らしました。泣いて暮らすより、笑って暮らした方がいいからです。だから、参観日に誰も来てくれなくて寂しくても、私は笑っていました。親類や近所の人たちは私たち兄妹を見て「可哀そうな子どもたちだ」と言いましたが、私たちは祖母や父に愛されていたので、笑っていることができました。

小学6年の時に継母がやってきました。私はそれまで“大人はみんな親切でやさしい”と思っていたのですが、継母によって打ち砕かれました。氷のように冷たく刺すような言葉の暴力や陰湿ないじめに遭い、まるで意地悪な姑と暮らしているようで、針のむしろのような日々でした。私を溺愛してくれていた父の愛は継母に移ってしまいましたが、それでも私は学校では友達とバカなことを言っては笑っていました

学校で笑っていると家のことを忘れることが出来たからです。

中学の頃には完全に精神的に自立するようになりました。親には生涯頼らないぞと決意しました。経済的にもなるべく頼りたくなかったので、意地を張ってお金がかからないように、高校は陸上競技のスポーツ特待生で入りました。その陸上競技が私にとっていい影響がなかったように思います。陸上競技というのは、どこまでも個人、自己の追求の世界です。いつしか私は自分のことしか考えなくなりました。全国大会に行くのがあたりまえのハイレベルのスポーツ校でしたので、練習量は半端ではなく、毎日夜まで吐きながら練習していました。人間は極限まで追い込まれると、感情を殺して何も考えないことで耐えるように作られているようです。家族には絶対に弱音を吐きませんでした。友達にも明るい顔しか見せませんでした。でも、自分の部屋に入ると毎晩泣いていたというのを覚えています。

こんな風にいうと、すごく頑張っているいい子みたいですが、悪い事もそれなりに・・・いや、結構やりました!!

こうして、私は青春時代に心と言動が違うという二面性と、徹底した個人主義を育んでしまいました。

・・・回復はイエス様が与えてくださいました。

24年前に、神様の導きで、クリスチャンホームでほ~んわか育った夫と結婚し、ずいぶん癒されました。私は筋肉の力が無くなっていくという難病にかかったりもしましたが、息子も与えられ、イエス様の変わらない愛を知って、孤独から解放されました。

悲しい時は泣いていいんだ、嬉しい時には喜んでいいんだ、という事がわかりました。

また自分が罪人であり、神様の憐みによって生かされているという事を知った時、生まれて初めて自分の事だけではなく、人のことも考えられるようになりました。

ある本に書かれていましたが、「人は、キリストにあるアイデンティティー(自己同一性)を確立しなければ、人に仕えることはできない」という事を実感しました。言い換えれば、イエス様が心のうちにおられるならば、人に仕えることもできるようになるという事です。なんて素晴らしい恵みでしょうか!

③私たちへの真実で完全なるイエス様の愛

しかし私の二面性すっかりなくなったというわけではありません。献身をして、神と人を愛すること、「しもべ」となって人に仕えることを実践しようとしてきましたが、心と言動が一致しないことが多くあります。

私のしていることは、パフォーマンスに過ぎないと感じることが多く、私は愛を実践しているつもりになっているだけのパリサイ人ではないかと苦しい思いをしています。

そんな時、イエス様を思い起こします。

イエス様の愛は真実で完全です。イエス様は、常に心と言動が一致しておられます。イエス様は、心から喜んで「しもべ」となり、弟子たちの足をお洗いになりました。それはイエス様が弟子たちを無条件に愛しておられたからです。イエス様は、弟子たちの足をお洗いになりながら、弟子たちを慈しみ、彼らの将来を憂いながら、祝福をお与えになったのです。

弟子たちの足をお洗いになる箇所、ヨハネ13章1節には、

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13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

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と書かれています。

ペテロの足をお洗いになる時、イエス様はどのようなお気持ちだったでしょうか。

イエス様は、このあと、ペテロがイエス様を3度も「知らない」と言ってしまう事も、後に聖霊を受けて力強く働いて殉教することも御存じでした。

雷の子と呼ばれ、後にイエス様の母マリヤのお世話をするヨハネの足や、その兄弟ヤコブの足をお洗いになる時、イエス様はどのようなお気持ちだったでしょうか。ヤコブは12弟子最初の殉教者です。彼は使徒の働きに出てくるステパノのように華々しく殉教したのではなく、使徒12章の初めにたった1行、「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」と書かれているだけです。

収税人のマタイの足、疑り深いトマスの足、ひとりひとりに愛を注がれながら、足を洗われ・・・

そしてイエス様は、この直後にイエス様を裏切ってしまうイスカリオテのユダの足をもお洗いになりました。

イエス様は、まさにパウロの言うように、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられ、十字架の死にまで従われました。それは、弟子たちやイエス様を慕う者たちだけではなく、すべての人々、私たちひとりひとりを愛してくださっておられるからです。

私たちは、イエス様のような「しもべ」になれるでしょうか。

心から喜んで足を洗える「しもべ」となれるでしょうか。

イエス様は私たちにそうなってほしいと願われて、模範を示されました。

私は、もしかしたら一生かけてもそのような「しもべ」にはなれないかもしれませんが、それでもイエス様の真実の愛に少しずつでも近づきたいと願っています。

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<ピリピ2:3-5>

2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

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みなさんも、このみことばを握りしめて、イエス様を見上げてともに歩んで参りましょう。

神に仕えるしもべとして、そして人々に仕えるしもべとして、私たちは今日何ができるでしょうか。

愛する主のために、愛する隣人のために、イエス様のようなしもべの心を持って仕えて参りましょう。

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2011年7月 3日 (日)

キリストにはかえられません    ピリピ3:4-9 

ただ今、ビョン・ホギル氏が「キリストにはかえられません」を賛美してくださいました。「キリストにはかえられません、世の宝もまた富も。キリストにはかえられません、有名な人になることも。キリストにはかえられません、いかに美しいものも。世の楽しみよ去れ、世の誉れよ行け、キリストにはかえられません。世の何ものも」。「うぁー。ちょっと過激じゃないでしょうか?」クリスチャンであっても、「いやー、そこまでは?」と思っている人が、70%くらいはいるのではないでしょうか?その証拠にお金が欲しいし、映画にも行く、綺麗な格好をしたい。できたら、ブレークして有名になりたい。なんだか自分にもあてはまりますが、いかがでしょうか?きょうは、ピリピ3章の使徒パウロのことばから、メッセージを取り次ぎたいと思います。

1.パウロの誇り

 ピリピの教会には、人間的なものによって誇っている人たちがいました。「だったら、私はそれ以上だよ」とパウロは誇って見せました。人間的なものを誇るとはどういう意味でしょう?もし、あなたが新たに仕事を見つけるため、会社を訪問したとします。会社は少しでも、能力があって立派な人を雇いたいと思うでしょう。そのとき、あなたは履歴書にどういうことを書き、どのようなことをアピールするでしょう?学歴や職歴を書き、特技や資格をできるだけたくさん並べるでしょう。トーフル何点だとか、そろばん何級だとか、漢検何級だとか、ありったけのものを書くでしょう。ま、そういうことは悪いことではないと思います。でも、自分の人生を考えるとき、そういう人間的なものが自分を支えているとしたら、空しいことであります。なぜなら、自分よりも優れている人が周りには必ずいるものです。優越感と劣等感の狭間で生きることになるでしょう。

 使徒パウロには人間的に誇るものがたくさんありました。代表的なものを3つだけ取り上げると第一は、きっすいのヘブル人。血統書付きということです。サラブレッドも犬も、血統書付きが良いでしょう。生まれや育ちというのは大事です。今はあまりいわれませんが、一昔前は、士族、皇室、貴族とかありました。カースト制までいかなくても、血筋というのがあります。使徒パウロは、きっすいのヘブル人であり、ローマ市民権まで持っていました。第二は、律法による義がありました。パウロは、律法を厳格に守るパリサイ人で、ガマリエルの門下生でした。律法による義についてならば非難されるところのない者でした。別な言い方をすると、品行方正で、頭が良く、全く非の打ち所がない人物でした。第三は、教会を迫害するほど熱心でした。すごい熱心で、パワーがありました。神さまのために命をかけていました。日本的でいうと、頑張り屋さんです。

 みなさんはパウロほどではないかもしれませんが、誇り、プライドというものがあるのではないでしょうか?特に男性はプライドだけで生きていると言っても過言ではありません。聖書にナーマンというアラムの将軍がいました。彼は勇士でありましたが、らい病に冒されていました。あるとき、イスラエルに預言者がいるという噂を聞いてでかけました。預言者エリシャは会いもせず、「ヨルダン川で7度身を浸せ」と言うだけでした。ナーマン大将は怒って返ろうとしましたが、奴隷に説得され、ヨルダン川に下って行きました。彼は馬から降り、身を守っていたすべての武具をはずして、裸になりました。7度身を浸すと、彼の肌は幼子のからだのように元通りになりました。ナアマン大将のように、神さまの前にプライドを捨てるとき、救いを得ることができるのです。 

2.パウロの回心

 パウロは教会を迫害するために、エルサレムにとどまらず、ダマスコまで手を伸ばそうとしました。その途中、天からまばゆい光が差し、パウロは地に打ち倒されました。復活の主が、パウロに現れ「私は、あなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは教会を迫害しているつもりが、実は主イエス様を迫害していることに気付いたのです。パウロはそれから3日間、目が見えず、人から手を引いてもらって生活しなければなりませんでした。そして、アナニヤから祈ってもらうと「目からうろこ」のようなものが落ち、再び見えるようになりました。「目からうろこ」というのは、聖書から来たことばだったんです。このたとえは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物ごとの実体が理解できるようになるという意味です。

 しかし、これは、パウロの回心と言うことができます。回心とは英語で、conversionと言います。converseというのは、「逆の、あべこべの、反対の」という意味です。動詞になると、転換する、転向する、ひっくり返るという意味になります。パウロは復活のイエス様と出会って、まさしく、天と地がひっくり返る、あるいは右と左がひっくり返るという経験をしました。車を運転すると分かりますが、行く時と帰りでは、両側の景色が違います。右に見えていたものが左に見え、左に見えていたものが右に見えます。回心conversionが人生において起こるとどうなるでしょうか?今まで大事だと思っていたことがどうでも良いものになり、今までどうでも良いと思っていたことが大事なものになるということです。パウロ自身、どう言っているでしょう?「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」すごいですね。損得がひっくり返っています。

 具体的にみてみますと、第一は、きっすいのヘブル人、生まれや育ちはどうなったのでしょうか?キリストを得、また、キリストの中にある者と認められることでした。どういう意味でしょう?イスラエルとかヘブル人ではなく、キリストによる生まれ変わりです。私たちクリスチャンはイエス様を信じると、神の子どもとされる特権にあずかります。どんな人であろうと、身分的には神の子となります。これってすごいことじゃないでしょうか?自然界にはこれと似た変化があります。葉っぱを食べている青虫が蝶になること、泥の中のヤゴがトンボになることです。全然、格が違うということです。第二は律法による義から、キリストを信じる信仰による義です。つまり、自分の行ないによって義とされるのではなく、キリストを信じることによって神さまから義が与えられることです。パウロはローマ7章で、自分の行ないの限界を告白しています。良いと思うことが出来ない。むしろ悪いと分かっていながら、それを行ってしまう。律法はこれで良いというところがありません。むしろ、「あなたはここが足りない、ここに罪がある」と指摘します。しかし、キリストを信じることによってプレゼントされる義は、行ないには関係ありません。行ないがなくても、大丈夫です。なんという平安でしょう。第三は自分の熱心さパワーが自慢でした。パウロの力の源は自分の力、自分の知恵、自分の頑張りでした。しかし、キリストと出会ってから、そんなものはいらない。キリストの力、キリストの知恵、キリストのエネルギーに気付きました。みなさんはエネルギーをどこに置いていますか?「ちくしょう、いつか見返してやるぞ!」でしょうか?ある程度までは行きますが、一番良いところで、破滅が訪れるでしょう。この世でも、エネルギー問題が騒がれていますが、自分自身のものではなく、キリストがくださるエネルギー、神のエネルギーはクリーンです。クリーンで永続するエネルギーがあります。

3.パウロのゴール

 パウロは回心したとき、「異邦人のところに遣わすので」と命じられ、たくさんの教会を設立しました。そして、神様から、その使命を果たすことができるように、様々な賜物が与えられました。教え、宣教、癒し、勧め、預言、異言…ありとあらゆる聖霊の賜物が与えられました。また、パウロは旧訳聖書に精通していましたので、イエスがキリストであることを13の手紙にして書きました。使徒パウロがいなければ、今日の教会はないと言っても過言ではありません。しかし、パウロがもっとも変えられたのは、そのエネルギーです。パウロは肉の力、つまり自分の学識、知恵、様々な才能に頼りませんでした。自分のパリサイ的な真面目さにも頼りませんでした。むしろ、神さまの前に弱さを誇り、すべてをキリストにあって行いました。パウロのエネルギー源は、キリストにあって生きることでした。ガラテヤ2:19-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」このことを分かり易く言うとこうなります。自分が大きくなればなるほど、キリストが小さくなります。反対に、自分が小さくなればなるほど、キリストが大きくなります。自分も大きくなりたいし、キリストにも大きくなってもらいたいという訳には行きません。自我をキリスト様に明け渡し、キリストにあって生きるとき、ものすごい力が出てきます。ですから、この世のやり方と、聖書が勧めるキリストにある生き方とは、全く違います。 

 私たちは賜物や使命が一人ひとり違います。しかし、パウロであろうとだれであろうと、共通したゴールがあります。それはキリストの似姿に変えられるということです。人格的に成熟すると言い換えても良いかもしれません。だれでも、クリスチャンになった頃は、みな荒削りです。神さまの栄光を現す良い働きもしますが、同時に神さまの御名を汚すようなことも行います。せっかく良いものを建てたのに、自らの罪や弱さで壊すことさえあります。でも、神さまはそういうこともご存知であり、忍耐深く、私たちと共に歩んでくださいます。だから、パウロのように私たちは栄冠を得るために、ゴールを目指す必要があります。ピリピ3:13-14「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。うしろのものを忘れるとはどういう意味でしょうか?自分の過去の失敗、いやなことです。それだけではありません。自分の成功、うまくいったこともです。過去の栄光にすがって生きるのは、クリスチャンらしくありません。私たちは変化することを恐れず、何でもチャレンジしていくことが大切です。確かに主にあって満足することも大切ですが、さらに神さまに期待していくことがもっと大切です。

当亀有教会も創立62周年です。年を取るとどうしても保守的になり、変化を嫌います。信仰は命です。たえず、古い皮袋を捨てて、新しい皮袋に入れる必要があります。去る6月30日、都庁に行ってきました。日本基督教団との被包括団体関係を廃止して、独立した教会になる申請書を提出しました。これから当亀有教会は聖書を土台にした信仰を持ち、かしらなるキリストに導かれて、たくさんの教会を生み出していく教会になることを希望いたします。うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っていきましょう。

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2009年6月14日 (日)

私の神は         ピリピ4:14-23

 先週から関東地方が梅雨入りしたようです。梅雨というのは本当に「ゆうつ」であります。洗濯物は乾かないし、散歩にも行けません。先週、傘をさして散歩に行ったとき、修徳高校の生垣のコンクリートの壁を何の気なしに見ました。なんと、小さなかたつむりがいっぱい、いました。たぶん、彼らはコンクリートの中にあるカルシウムを食べているんじゃないかと思います。そのカルシウムが彼らの殻に必要だということを聞いたことがあります。コンクリートが雨に濡れると、カルシウムが染み出してくるのでしょうか?ところで、本日で「ピリピ人への手紙」は、終わりです。来週からは、「エペソ人への手紙」から学びたいと思います。パウロの書簡というのは、教えの塊みたいで、ミルクというよりは肉、堅い食物であります。コンクリートじゃありませんが、私たちは固い食物が必要なんであります。それでは、4章後半から2つのポイントで学びたいと思います。

1.霊的果実

 ピリピ4:14-18まで、日本語の聖書では「物」という漢字が、6回ほど出てきます。実際には、物というのは献金であり、他に衣類や穀物も含まれていたかもしれません。ピリピの教会はパウロの伝道を初期の頃からずっと、支えていました。Ⅱコリント8章には、「マケドニヤの諸教会は、極度の貧しさにもかかわらず…自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげた」と称賛しています。そのことは、パウロが新しい地に出かけて伝道しているとき、どんなに助けになったことでしょう。そして、今現在、パウロはローマの牢獄に繋がれています。その知らせを聞いて、ピリピの教会はエパフロデトを遣わしました。彼はパウロに贈り物をとどけた後、死ぬほどの病気にかかりました。パウロはピリピの教会の人たちのささげものが、「霊的祝福なのです」と言っています。霊的祝福というのは、原文では果実となっています。果実とは実であります。ピリピの教会の人たちに、神様の愛と信仰が与えられ、それが今度は具体的な実となって現れたのであります。実というのは、プロデュース、おのずと生み出されてくるものであります。献金とかささげものは、神様の愛と信仰から生み出されるものなのです。逆に言いますと、神様の愛と信仰がまだ育っていない場合は、献金とかささげものは、苦痛なのであります。ですから、そういう人は、神様から十分、受けることを学んでください。神様の豊かさを体験すると、今度は、与えること、ささげることができるようになるからです。

 では、パウロはどんな必要があったのでしょうか?パウロは使徒でした。使徒というのは、新しい地にでかけ、そこで福音を宣べ伝え、教会を設立します。教会と言っても建物ではなく、信仰者の群であります。しばらく、そこで滞在しながら、核となる人たちを育てます。その後、彼らに牧会を任せて、また新しい地に行くわけです。しかし、パウロには同労者たちがいました。シラス、テモテ、ルカ、テトスなど、彼らをも養わなければなりせん。移動するためには、船賃を含め、旅費も必要であります。ピリピのようにパウロたちを支えてくれる教会もありますが、コリントのようにパウロの使徒性を疑って、あまり支えない教会もあったでしょう。パウロはお金のために伝道してはいませんでしたが、宣教地に出かけ、教会を設立するために、お金が必要だったことは確かです。そういう意味で、神様の働きを拡大しようと思ったならば、どうしても資金が必要になります。それだったら、「神様、あなたご自身が出せば良いでしょう!」と言いたくなります。でも、どういう訳か、神様は贖われた人たちがささげる献金によって、神様の働きを進めるようにというのがみこころのようであります。イエス様もそうでしたし、ペテロやパウロ、他の弟子たちもそのようにしました。では、どうして、人々は神様の働きのためにささげるようになったのでしょうか?それは、霊のものを得たからです。霊のものというのは、福音によって罪の赦し、永遠の命、そして永遠の御国をいただいたということです。また、肉体や心が癒され、また、希望と信仰が与えられ、元気に働くことができるようになるでしょう。また、愛と平和がこころにやってきて、家庭や人間関係が祝福されるでしょう。人は霊のものを受けると、そこから生まれた肉のもの、物質を与えるようになるのです。コンピューターで言うなら、霊のものはソフトウェアーで、肉のものというのはハードウェアーであります。でも、神様は、ご自分の働きのために、信仰をもってささげた人を放ってはおかないのです。ちゃんと、それ以上の祝福を与えて報いてくださいます。これが、神様の方法なのであります。

 先週は、十分の一献金の大切さについてお話しました。神様に十分の一献金をささげるならば、神様が責任をもってみなさんの生活を祝福してくださいます。また、ささげた本人は金銭の奴隷となることなく、金銭を正しく管理することができるんだということです。しかし、献金にはもう1種類の献金があります。ピリピの人たちは、使徒パウロの働きが支えられるように献金しました。それは、十分の一献金とは別のものであります。みなさんがこういう集会でささげる献金、あるいは感謝献金、宣教団体、会堂建築、最近は車のための献金もありました。これはみな、神の国に対する投資であります。みなさんは、「御国の働きが拡大されるように」と信仰をもって投資しているのです。たとえて言うならば、このようになります。神様に十分の一献金をささげることによって、みなさんの畑の周りに、囲いが設けられました。これで悪い者が、入ってあなたの畑を荒らすことはありません。しかし、その畑に種を蒔くならばどうでしょうか?つまり、御国の働きのために投資するのです。すると、その実は何倍も帰ってきます。農家の人が1粒の種を蒔いて、1粒の実がなることを期待するでしょうか?そうじゃありません。麦やお米、とうもろこしを想像してみてください。おそらく、100倍から200倍の実をならせるのではないでしょうか?福音書に良い地にまかれた種のたとえが書いてあります。マタイ13:8「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだ」と書いてあります。これはどういう意味でしょうか?これは、普通で100倍の実を結ぶ。「まあまあ」でも60倍。最低でも30倍の実は結ぶということです。

どうぞ、みなさん、「ああ、余分な献金をさせられる。損した」と考えないでください。こう語っている私自身はどうかと言いますと、ペンテコステ系の集会に参加したときは、試されます。1日、3回の集会があるとすると、集会ごと、つまり3回献金のときがあります。どんなに講壇から強く、アピールされても「いやー、まいったなー」と思うときがあります。その点、メル・ボンド師は、毎回、信仰をもってささげることがどんなにすばらしいことか話してくだいます。また、先生は、献金のたびに、祝福の祈りもしてくださいます。そうすると、こちらに信仰がやってきて、信仰をもってささげたくなります。みなさん、これは信仰なのです。パウロは「信仰から出たものでないならばすべてのことは罪です」と教えています。こういう話があります。小さな娘が、食後のデザートでいちごを食べていました。お父さんが仕事から家に帰ってきて、そのいちごが欲しくなりました。「ああ、おいしそうだな。パパも食べたいな。少しちょうだい」と言ったとします。もし、娘が「いや、これ私のだもん。ダメ」と言ったらどうでしょう。パパは、「娘よ、あなたの洋服も、食べ物も、私が働いて得たものだよ」とは言わないでしょうが、がっかりはするでしょう。でも、どうでしょうか?娘が「パパ、お仕事、疲れたでしょう。どうぞ」と6粒のうち、3粒をくれたとします。パパは「うぁー、半分もくれるの。たいした犠牲を払ったなー」と感激するでしょう。それで終わりでしょうか?そうではありません。何日か後、パパは、仕事の帰り、果物屋さんに寄るでしょう。そこで、いちご1パックを買って、まるごと全部、娘にプレゼントするのではないでしょうか?神様は私たちの心をご覧になっておられるのです。それはパウロが言っていることと同じであります。パウロが言っていることは、まさしく、天のお父様のことばであります。ピリピ4:17「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)なのです。」

2.私の神は

ピリピ4:19-20「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」パウロは贈り物の問題を、頌栄をもって結んでいるということは、意義深いことであります。頌栄とは、パウロは神様をほめたたえることであります。ピリピの人たちのささげものが、神様をほめたたえるに至ったということです。そして、パウロは神様が、ピリピの人たち対して豊かに報いて得くださることを確信しています。19節に「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とあります。ちょっとこれは、驚きではないでしょうか?パウロは「私の神は…あなたがたの必要をすべて満たしてくださる」と言っています。「私の神」とは、すごいんじゃないでしょうか?パウロはそれほど神様と親しい関係にあり、まるで、神様を独占しているかのようであります。みなさんも、人々に「私の神は」「私のイエス様は」と紹介できたら、すばらしいですね。何故、パウロはこんなふうに「私の神は」と言えたのでしょうか?それはパウロが、自分が信じている神様は、いつも必要を与えてくださり、乏しいことがなかったということを腹いっぱい体験していたからです。パウロは「私の神様は良き神様であり、豊かに供給してくださるお方だ」ということを体験的に知っていたのです。私たちも、頭だけの信仰ではなく、心の深みまで、神様の豊かさを体験したいと思います。では、どうしたらそういうことを体験できるのでしょうか?

神様は「父なる神様です」。私たちは神様を「天のお父様」と呼びます。そのとき、「ああー、もう一人いたなー」と思い出します。それは、私を育ててくれた、地上のお父さんです。でも、どういうわけか、地上のお父さんと天のお父さんが、重なって見えます。つまりこういうことです。地上のお父さんが、酒ばっかり飲んで、ろくにも働かず、お家が貧しかった。お父さんは全く頼りにならないので、自分が母や弟や妹たちのために働いたという人はどうでしょうか?そういう人が、天のお父様の正しいイメージをいだくことができるでしょうか?おそらく、「天のお父様も、貧しくて、あまり面倒みてくれないんじゃないだろうか?」と思わないでしょうか?心の奥底に、「本当に頼れるのは自分だけだ、神様じゃないよ」と、思うのではないでしょうか?地上のお父さんがケチであるなら、天のお父様もケチに見える。地上のお父さんが弱々しかったなら、天のお父様も弱々しく見える?本当に神様は豊かに与えてくださるのだろうか?なかなか、信じられないのではないでしょうか?放蕩息子のお兄さんがそうでした。彼は「私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません」と言いました。でも、彼の父は「子よ。私のものは全部おまえのものだ」と言いました。では、放蕩息子のお兄さんとはだれでしょうか?当時の宗教指導者、パリサイ人や律法学者でした。彼らはとても真面目に律法を守りました。でも、父なる神様と楽しく交わったり、父なる神様の豊かさを喜ぶということがありませんでした。クリスチャンで、真面目に信仰生活を送っている人たちの中にもいるんじゃないでしょうか?「もし、自分が信じている神様を信じたなら、不幸な人がもう一人ふえる。だったら、紹介しない方が良いかなー」なんて。自分が心から信じて、慕っている神様だったなら、「黙れ」と言われても、言いたくなるんじゃないでしょうか?

パウロは「私の神は」と言えたことはすばらしいと思います。みなさんは、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださいます」と信じていらっしゃるでしょうか?私自身のことです。私は何度かお話したことがありますが、私の長男はアメリカに行ったきりです。アメリカ留学がこんなにもお金がかかるのか知りませんでした。長男を送り出すとき「私にはお金がないけど、私の父にはお金があるから大丈夫、心配ない」と言いました。そのときは、何とかなると本気で思っていたんです。でも、「この間、送ったのに、またかよー?」ということが度々、というか何年も続きました。私は教会堂建築のときはあまり苦労しませんでした。1億4千万円くらいかかりましたが、本当に、信仰によって建てられたと思いました。でも、息子に関しては信仰が試されました。会堂建設のように、大声で言うわけにもいきません。もうどこから、お金がくるのでしょう?どの銀行が貸してくれるのでしょう?一体、だれが貸してくれるのでしょう?何度も、パニック状態になりました。郵便局でも2年と4ヶ月働きました。「それはあなたの息子のことであって、神様の働きではないでしょう」と言われれば、それまでです。私も自分で送り出した手前、面倒みなくてはなりません。「だれも助けてくれない。自分が可愛そうだ」と、自己憐憫に陥る暇はありません。何度か、泣きましたけど、ただ、ひたすら、神様に頼るのみです。では、私自身、「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださるということを信じているのだろうか?」と、自問自答しました。まだ結論は出ていませんが、こういうことだけは学んでいます。神様は「はい、どうぞ!」と現金を「ドーン」とくださるお方ではないようです。私自身も祈りつつ、どこからかお金を工面しようとします。あっちがダメで、こっちもダメ。じゃあ、こうしよう。不思議に1つの道が開かれます。また半年もたつと、「お金がない」という連絡が来ます。また、「こうしょう、ああしよう」と捜し求める。すると、不思議に1つの道が開かれます。この繰り返しで、今までやって来られました。少なくとも、言えることは、父なる神様は、こういう金銭的に八方塞の中で、訓練してくれたのではないかと思います。もう、長男のために十分送ったと思いますので、信仰的には、一段落しました。神様はケチな方ではありませんが、同時に、気前よく、ポンと与えてくださる方もないようです。神様は、必要であるならば、満たしてくださる。そのとき、私の信仰と私の品性を同時に、訓練して成長させてくださるということです。まだ、私もこの分野の学びは途中なので、途中のことしかみなさんには言えません。

でも、ここに重要なポイントが隠されています。「私の神様は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって…満たしてくださる」と書いてあります。神様と栄光の富の間に、イン・クライスト、つまりキリスト・イエス様がおられるということです。言い換えるならば、キリスト・イエス様抜きでは、神様の栄光の富を受け取ることができないということです。では、「キリスト・イエスにある」とはどういうことでしょうか?これは、使徒パウロも経験していたことであり、私たちにも必要なことです。私たちがキリスト・イエスにあって神様の栄光の富を受けるためにはどのようなことが必要なのでしょうか?第一に、イエス・キリストを信じて、神様と親しい関係を持つということです。つまり、神様が天のお父様であり、私が神のこどもであるということです。神様と親子関係を結ぶならば、大胆に「下さい!」と、お願いできるということです。第二に、「キリスト・イエスにある」とは、イエス様が御国の金庫を開ける鍵だということです。ヨハネ16章でイエス様はこのように約束されました。ヨハネ16:23-24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」私は、このみことばをまだ、十分できて体験していません。一体何が足りないのでしょうか?それは求める祈りをしていないからです。祈りには神様と交わる祈りと、神様に求める祈りがあります。求める祈りは、何かレベルが低いように思われがちです。でも、祈りがあまりきかれていないとしたら、求める祈りが足りないということではないでしょうか?10数年に山崎長老さんが、「祈りの友」というグループを作りました。みんな同じ手帳を持って、そこに共通の祈りの課題を加えました。そして、みんながその祈りの課題を祈ります。不思議なことに、90%ぐらい叶えられました。やっぱり、自分で祈りのノートを作って、具体的に神様に祈るべきだと思います。「神様、まだ、これが叶えられていませんよ」と、食らいつくような祈りをしたいです。私たちには、求める祈りが不足していると思います。いかがでしょうか?第三は、「キリスト・イエスにある」とはビジョンと関係があるということです。私たちは「お金があったらこういうことができるのになー」と、まずお金を求めてしまいます。そして、「お金がないから、できないんだ」と諦めてしまいます。でも、そうではありません。お金よりも先立つものがあります。それはビジョンです。キリスト・イエスにあって、どんなビジョンを持っているのか?本当に神様からのビジョンであれば、お金がキリスト・イエスを通して、与えられるということです。私は「本当にビジョンがないなー」と思います。「必要なお金も、必要な人材も、すべて与えられるとしたら、何をしたいでしょうか?」ビジョンが先で、資金はその次である。これは神の国の原則であると信じます。

前にもお話しましたが、本郷台キリスト教会は、先月、8500坪の土地を購入しました。9億円するのですが、すでにその1億円を払ったそうです。その土地を前から、サッカー場として使っていましがが、会社が土地を手放したいということになりました。もし、他のところが買ったのであれば、もうサッカーはできません。300人ものメンバーがいますが、その父兄たちが、「教会が買ってくれたら、子供たちがサッカーできるのに」とお願いしたそうです。そこで、伝道のために教会が買ったのです。でも、本郷台キリスト教会はその10年も前から、1万坪が与えられるように祈っていたそうです。既に1500坪のダイヤモンドチャペルが与えられていましたので、あと8500坪が与えられるように祈っていました。すると前の教会の下にトンネルが通ることになり、代替地購入のため、2億円で売れたそうです。そのお金は、8500坪の土地に、新たな建物を建てる資金になりました。亀有教会では信じられない額かもしれませんが、大切なのは神様からビジョンをいただくということです。現状から夢を見るのではなく、神様の世界から夢を見る。ビジョンは下からではなく、上からやってくるものです。可能か、可能でないかではなく、お金があるかないかでもありません。神様からのビジョンが与えられるように祈りましょう。ビジョンが与えられたなら、必要な資金も、必要な人材も与えられるのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。アーメン。」

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2009年6月 7日 (日)

満ち足りる秘訣    ピリピ4:10-13

 ノーマン・ヴィンセント・ピールが書いた『積極的考え方の力』という有名な本があります。あるビジネスマンが、仕事中、時々、ポケットから白い紙を出しては口ずさんでいました。そのことによって、彼はいろんな問題を解決できました。その白い紙に書いてあったものが、このピリピ4章13節です。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と、彼は事ある度に、口ずさんでいたのです。私は、積極思考は、すばらしいことだと思います。反対しません。でも、このみことばは「できると考えるなら、何でもできる。私は主にあって不可能はない」ということを教えているみことばではないようです。聖書は文脈から学ぶことが大切です。このみことばの前後を見ると、別なことに対して言っているのではないかと思います。もう一度、11節から13節までを一気に読んでみます。ピリピ4:11-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」どうでしょうか?パウロは貧しい中、豊かさの中、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていました。あらゆる境遇に対処することと、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」というみことばが関係あると思います。きょうは2つのポイントでお話しいたしますが、口語訳の「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」というみことばを用いたいと思います。

1.貧に処する道

 言い換えるならば、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣です。戦争を通過した方は、飢えや乏しさということを十分に体験されたのではないでしょうか。配給米とか、ヤミ米というのを聞いたことがあります。大川牧師は「芋とかぼちゃは一生分食べたので、もう食べたくない」と言っておられました。私も8人兄弟の7番目だったので、結構、貧しかったです。何にもないので、小麦粉を解いてフライパンで揚げたり、水で溶かした片栗粉にお湯を入れて食べました。だから、もんじゃ焼きとかお好み焼きは、貧しい頃を思い出すので、食べたくないのであります。インスタントラーメンもそうであります。もう一生分食べたので、もう食べたくありません。世界では、8億人以上が飢えているそうです。また、飢えと貧困によって、毎日2万5000人が亡くなっているとのことです。それと比べたら、私の子供時代も、まだマシだったのかもしれません。でも、みなさん、家庭が貧しいとどんなことが起こるでしょうか?私は「また、シャケか-」と、食事の度ごとに不平不満をもらしました。どっちが多い、こっちが多いと食べ物でよく兄弟喧嘩をしました。学校に行くといろんなものが必要になります。買うお金が家にはなかったので、母は隣り近所にお金を借りに行っていました。こっちは、他の友達と同じでなければ恥ずかしいので、買ってもらうのが当たり前だと思っていました。しかし、私が高校生のとき、母が一階から二階にいる私にこう言いました。「他の兄弟はみんな我慢したのに、何故、お前はがまんできないんだ!ヤシ、お前が一番、親不孝者だ。ああ、情けない」。私は、「情けない」ということばが大嫌いなのであります。「何で、この家はこんなに貧しいんだ!」と何度、叫んだでしょうか?要は、父が酒を飲んで、あまり働かなかったからであります。結構、みなさんの中にも、「貧乏って嫌だよなー」と腹の底から思っていらっしゃる方がおられるのではないでしょうか。貧しさは本当に、心を卑屈にします。また、貧しいために人の物を取ったり、セコイことをやってお金をせしめる、そういうことをするようになるんじゃないでしょうか?お金で苦しんだ人は、大人になると逆に、金の亡者になる恐れがあります。ケチになって、貯金をして、全く使わないという人もいるかもしれません。また、私のように貧しかった人は、お金の管理が得意ではないかもしれません。あればあっただけ使ってしまう。どちらにしても、貧困という劣等感で支配されています。

 使徒パウロはどのようにして、貧しさの中にいる道、つまり、飢えや乏しさという境遇に対処する秘訣を学んだのでしょうか?Ⅱコリント11章には、パウロ自身のことが記されています。Ⅱコリント11:27「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」パウロは、神からの召命で、異邦人伝道を志し小アジアからギリシャ、そしてローマまでも出かけました。パウロを使徒として歓迎してくれるところもあれば、まったくそうでないところもありました。最初の頃、パウロは天幕作りをして、自費で伝道していました。コリントの教会に対してこのように述べています。「あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか?…主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」(Ⅰコリント9:11以下)。パウロは、報酬のために福音を宣べ伝えたのではなく、福音を宣べ伝えなければ災い会うのでしたのです。でも、主がパウロに福音宣教を命じたがゆえに、主が責任をもって必要を満たしてあげたことは確かであります。おそらく巡回伝道者が最初に学ぶべきことは、「経済的な必要は神様が与えてくださる」という信仰でありましょう。牧師の場合は支えてくれる教会がありますが、伝道者とか宣教師は、明日のことに対する保証がありません。だから、祈って、必死に主に頼りながら、福音宣教をしなければなりません。でも、主が本当にその人を召しておられるなら、その必要は必ず与えられるということです。ですから、多くの場合、牧師とか伝道者になるときの関門は、経済的な問題が信仰によってクリヤーできるかどうかです。でも、その人が神様から本当に召されているならば、神様が経済的な必要を満たしてくださいます。

 では、私たち、みんなはどうでしょうか?クリスチャンであろうと伝道者であろうと本当は変わりありません。神様は、それぞれが働いて、日々の糧を得るように願っておられます。では、どうしたら、たとえ貧しさの中にいても、主にあって必要が与えられるのでしょうか?クリスチャンは3つのことができます。第一番目は祈るということです。神様は祈りのこたえてくださいます。第二番目は勤勉に働くことです。これは私たちの責任です。第三番目は創造的であることです。神様は私たちに神様の知恵と原則を与えてくださいます。「主の祈り」でも、「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るように命じられています。仕事がなければ、「仕事をください」と神様にお祈りすれば良いのです。インドネシヤは日本よりも失業率が高いそうですが、すばらしい証がたくさんあります。ある人は寿司を全く握ったことがないのに、レストランで働くことになりました。いつものコックが急病で休んだために、彼は臨時採用になりました。彼は、「ハレルヤ!聖霊様どうやって握ったら良いでしょうか?教えてください」と聞きながら、寿司を握ってみました。すると、その寿司が売切れてしまいました。次の日、彼は店長に「昨日の倍、作らせてください」とお願いしました。すると店長は、「もし売れ残ったならお前が全部、買い取るんだよ」と言いました。すると、なんと、倍の数のお寿司が売れました。どういう訳か、彼のお寿司を人々が買いに来ました。何日かたって、前のコックが健康を回復して戻ってきました。そのため、彼はクビになりました。「ハレルヤ!主よ、クビになりました。また、どうか導いてください」と祈りました。するとどうでしょう?お店に、「いつもの寿司はないのか?」とお客さんが何人も尋ねてきました。仕方なく、店長はその人に連絡し、正社員になってもらって、またお寿司を握ってもらったそうです。このように祈りはきかれます。私は詩篇23篇がとても大好きです。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」ここには、主が私の羊飼いであるならば、乏しいことはないと書いてあります。主が私たちよりも先立って歩み、牧草や水のありかまで導いてくださるからです。また、英語の聖書は、I shall not want.「私は欲しいということがない」と訳すことができます。つまり、満ち足りているということです。現実的に、私たちは欲しいものがいっぱいあります。人間の欲望にはキリがないからです。でも、主は私たちに満ち足りる喜びを与えてくださいます。欲しいものは全部与えられないかもしれませんが、主は、必要なものは与えてくださるということです。イエス様を信じていない頃ですが、美味しいものを食べたときは確かに美味しかったでしょう。美味しいものは信仰にあまり関係ありません。でもどうでしょうか?信仰があると、わずかなものでも、「アーメン感謝します」とおいしくいただくことができます。私は貧しい家庭で育ったことを今では感謝しています。食わず嫌いは別にして、だいたい、何でもいただくことができます。なけりゃないなりに、ご飯が食べられます。「あれはあれで良かったなー」と思います。魂が満足しているならば、食べ物や持ち物などから解放されます。あればあったに越したことはないけど、なければないでも構わない。そういうシンプルライフこそが、貧に処する道ではないかと思います。

2.富におる道

 言い換えるならば、豊かさの中にいる道、富むことの境遇に対処する秘訣です。豊かさは悪いことではありません。でも、豊かになれば豊かになったで、誘惑もあります。箴言の30章には、このような祈りがあります。箴言30:8-9「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」豊かになると、食べ飽きて、主を否み、「主とはだれだ」と言ってしまう可能性があるということです。世の中には、「成金」という人たちがいます。今から30-40年くらい前でしょうか?成田空港やその道路のために土地を売って大金持ちになった人たちがいました。また、鹿島臨海工業地帯とか筑波学園都市の場合もそうでした。日本中が開発ブームでしたから、その場所にひっかかったら土地成金になります。でもどうでしょうか?息子はスポーツカーを何台も買って仕事もしない。ギャンブルや財テクに手を出し、あっという間にお金を使い果たしたという人たちもいたでしょう。芸能界の人も売れないときは、ラーメンとかパンの耳で暮らします。でも、一旦、ブレークしたら、もうお金がうなるように入ります。まず、高級マンションを買います。それから毎日、高級クラブを飲み歩き、税金対策のため会社を経営したりします。ある人は外国のホテルを買いあさります。でも、どうでしょうか?本業ではなく、会社や株のために、莫大な借金を負ってしまいます。でも、彼らは一旦、身についたハイクラスの生活を落とすことができません。そのため、さらに借金が積み重なり、再起不能になるようです。私たちはそういう人たちの話を聞いていますので、「あんまり大きな額のお金は不要だなー」と思っています。でも、「ある程度のお金は持ちたい、ある程度は豊かになりたい」とどなたでも思っているのではないでしょうか?

 では、みなさん、お金の奴隷にならないで、豊かになるという秘訣はあるのでしょうか?あります。これが富におる道であります。皆さん、世界で最もお金持ちだった人はだれかご存知でしょうか?人類史上最高の富豪はロックフェラーであり、ビル・ゲイツの3倍もの富を築き上げました。ニューヨークのロックフェラーセンターのように、ロックフェラーは今でも、偉大な巨人として、世界中の称賛を集めています。これは、『ロックフェラーが知っていたもうけ方』という本からの引用です。ロックフェラーは一生母親との約束を守りながら、神様が与えてくださった賜物を開発し続けました。彼は、母親の教えに従って、困難のときも喜びのときも、いつも祈ることを忘れない人でした。彼の母は、息子に幼いときから次の3つの約束を守るように教えました。①十分の一献金をささげること。②教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。③教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。特に、マラキ3:10のみことばをよく思い起こすようにさせました。「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」アーメン。ロックフェラーは億万長者になった後も、誠実に節約する精神を貫き通しました。彼は一生、日記を付けるように会計帳簿を徹底的に記録しましたし、収入を正確に計算し、完全な十分の一の献金を神様に捧げました。世界一の富豪になった後も、十分の一献金を計算するための担当部署に、40名の職員を雇うほどでした。彼は小学校に入る前から98歳で天に召されるまで、一度も忘れることなく十分の一献金を神様に捧げました。幼い頃から受けた母の教えは、彼にとって座右の銘となり、最も大きな遺産になったのです。ロックフェラーは、十分の一献金が天の御国に宝を蓄えることであり、困難な人々を助けることであると考えていたので、いつも喜びながら十分の一献金を捧げました。そして、神様はそれを30倍、60倍、100倍にして、自分に返してくださるという信仰を持っていました。…さて、富におる道とは何でしょう?今、引用した本の中で、何度も繰り返し出てきた「十分の一献金」であります。人間的に考えるなら、「生活が楽になってからで良いよ」と言いたくなります。でも、そのように教えるならば、みなさんから神様の祝福を奪ってしまうことになります。主が「私を試して見よ」とおっしゃるのですから、信仰をもって捧げたらいかがでしょうか?主のみことばが真実であるかどうかは、捧げた人だけが分かります。

富におる道で、もっとも大切な真理とは何でしょうか?それは、「私たちは所有者ではなくて、管理者だ」ということです。お金や富、財産、あらゆる持ち物でも言うことができますが、私たちは所有者ではなくて、管理者だということです。では、だれが一体、所有者なのでしょうか?そうです。神様が所有者なのです。神様は私たちが必要とあらば、私たちに必要な分だけ預けてくださいます。もちろん、私たちは何らかの労働をして、受けることをしなければなりません。でも、それは「俺が自分の手で稼いだ」ということではなく、神様からの賜物だということです。さきほど、十分の一献金のお話をしましたが、十分の一献金とはこのような意味です。「神様、これらはみな、あなたからいただいたものです。私は今もこれからも、あなたにより頼みます。そのしるしとして、十分の一献金をあなたにお返しします。」また、十分の一は、「私は金銭の奴隷ではありません。私はあなたのしもべです」という意味です。そうしますと、金銭はあなたの良いしもべとなって、あなたに仕えてくれます。でも、十分の一をしない場合は、金銭があなたの主人となり、あなたが金銭の奴隷となってしまうでしょう。金銭はあなたにとって、とても厳しい主人となるでしょう。あなたは金銭に鞭打たれ、酷使され、追い回されるでしょう。どうぞ、金銭の奴隷にならないように、むしろ、金銭をあなたのしもべにしましょう。そうするならば、あなたは金銭をとても良いものに用いることができるでしょう。皆さん、お金はとても大切です。お金がなければ、教会堂も建てられませんし、牧師や宣教師を支えることができません。献金のときに、「このお金をきよめてください」とお祈りする方がおられます。これはお金が汚いとか汚れているという意味ではないでしょう。「きよめて」とは、「聖別する」と言う意味です。聖別とは、神様の御用のためにこのお金を用いてくださいという意味です。ついでに申し上げますが、「神様のご用のためにお用いください」のあと、「捧げられた方々の産業を豊かに祝福してください」とお祈りしたらもっと良いと思います。

セル・セミナーの関係で、香港からベン・ウォン師を何度もお呼びいたしました。ベン先生はいつもこのように言うのです。「出されたものならば何でもいただきます。ステーキだったらステーキを、ラーメンだったらラーメンでも喜んでいただきます。また、ベッドだったらベッドで寝ます。床に寝なさいと言われれば、喜んで床に寝ます。どうか気を使わないでください。」ベン先生は宣教師ですからいろんなところへ行っています。豊かなキリスト教国といえば、カナダ、オストラリア、南アフリカでしょうか。南アフリカの教会にはプール付きのゲストルームもあります。でも、貧しい国、たとえばインド、タイ、ネパールも行くことが度々あります。ネパールでは、寝床にさそりが出るそうです。ベン先生は、まさしく、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。でも、ベン先生は生活を楽しむこともちゃんとご存知です。亀有にお泊りになったとき、夜の10時過ぎだったでしょうか?「駅前のイトー・ヨーカドーに行きたい」と言うのです。亀有に来たときは、いつも行っているようです。一度、ご一緒したら「ああ、そうか」と思いました。ヨーカドーの地下に行くと、生ものが半値になっています。ベン先生はそこで、甘エビとか、刺身を買って来るんですね。ベン先生は市場みたいなところが大好きだとおっしゃっていました。みなさんも、どうでしょうか?お金が沢山ないと楽しむことができないと思ったらそれは間違いです。満ち足りる秘訣を持っているならば、わずかな金額でも喜び楽しむことができます。

皆さん、幼い頃を思い出してください。あなたがいただいたプレゼントでどんなものが心に残っていますか?おもちゃのピストルとか、ぬいぐるみ、帽子、赤い靴だったでしょうか?おそらく、そんなに高額ではなかったはずです。「あの時は満たされなかった。だからもっと、欲しい」という、心の中にイエス様を歓迎しましょう。イエス様は天のみくらを捨て、貧しい馬小屋にお生まれになりした。ナザレの貧しい家庭で育ち、貧しい中で伝道活動をされました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。亡くなられた時は他人のお墓を借りなければなりませんでした。なぜでしょう。Ⅱコリント 8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」もちろん、富むことの中には経済的、物質的なという意味も含まれるでしょう。でも、その前に私たちが癒されて、満ち足りる心を持つということが前提ではないでしょうか。私たちが満ち足りる秘訣を得ているならば、どんな境遇の中にあっても、富む者となることができるからです。

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2009年5月31日 (日)

心に留めること      ピリピ4:8-9

 本日はペンテコステ、聖霊降臨日でした。本来ならば、聖霊に関することをお話すべきなのでしょうが、ピリピ書から予定を組んでいましたので、どこかでしたいと思います。どこかで、と言うととてもいい加減な感じがしますが、エペソ人への手紙がこの次から始まりますので、聖霊に関することが出てきたとき補充していきたいと思います。先週は「喜びなさい。思い煩うな」ということを学びました。何人かの方々にヒットしたらしく嬉しく思いました。「今回も期待に応えられるだろうか?」と思うとプレッシャーがかかりました。きょうは、たった2節からですので、「どうかな?」と思って準備させていただきました。でも、大丈夫です。聖書から順番に語っていくと、偏るということがないからです。偏食は体に良くないと言われますが、聖書も同じだと思います。どんな箇所からも、主に期待して共に学びたいと思います。

1.心に留めること

 ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」ここには、私たちが心に留めるべきことが8つ記されています。8つと言えば、イエス様の山上の説教を思い出します。マタイ5章には、「8福の教え、8つの幸い」が記されています。使徒パウロは、「最後に、兄弟たちよ、これら8つのことに心を留めなさい。そうすれば、平和の神が共にいてくださいますよ」と教えています。私がクリスチャンになりたてのころの話です。座間教会に、ネル・ケネディという女性のジャーナリストがおられました。時々、英語集会があり、青年たちがたくさん集っていました。あるとき、彼女がこのピリピ4:8からお勧めしてくださいました。「クリスチャンのジャーナリストとして、自分が何に心を留めているか?また、クリスチャンの若者たちが何に心を留めるべきなのか?」ということを話してくれて、本当に感謝でした。クリスチャンになって教会生活が長くなると、「この世の中は、罪と汚れに満ちており、良いものなんかちっともないんだ」と思ってしまいます。極端になると、「政治も学校教育も、医療も、音楽も、みんなダメだ。教会はそんなことに関わらないで、魂の救いに専念すべきだ」となります。だから、PTAの役員もしないし、この世の音楽も聴かないし、映画も見ない。選挙も行かない。その代わり、教会の集会に出る、聖書を読む、讃美をする、奉仕する。「そういうことだけがすばらしいんだ」となります。でも、それはピリピ4章8節の教えと逆行している生活です。

 では、なぜ、教会に関するものは聖くて、この世のものは俗的で汚れているという考えが生まれてしまったのでしょうか?それは18世紀にまで遡ります。理神論なる考えが、イギリスで始まり、フランスやドイツの啓蒙思想家に受け継がれました。簡単に言いますと、神様は地球や宇宙を造ったけれど、今はもうタッチしておられない。この地球も宇宙も自然の法則によって勝手に動いているんだ。さらに、「神は死んだんだ」とさえ言う哲学者も出てきました。教会はそのことを否定しましたが、少なからず影響は受けました。やがて、「神様に関することは聖いけれど、この世に関するものは聖くないんだ」と考えるようになりました。つまり、聖なる世界と俗なる世界とに2つに分けてしまったのです。聖なる世界とはどんな世界でしょうか?聖書、信仰、祈り、伝道、賛美、神学、道徳に関することであります。その多くは、教会内で行ないます。では、俗なる世界とはどんな世界でしょうか?ビジネス、教育、政治、経済、医療、芸術、マスメディア、この世の法律などであります。もし、この考えが正しいとするならばどうでしょうか?私たちはきょう日曜日、教会にいて聖なることをしています。聖書を読み、賛美を捧げ、お祈りし、みことばを学んでいます。今は、聖なる時ですから、冗談も言わないし、不品行なことも考えません。「そのわりには、牧師が俗的なんですけど!」と文句が出るかもしれません。でもどうでしょうか?この礼拝が終るととたんに人間的になり、笑顔が出てくる。そして、教会の建物を出たら、この世のことを考える。職場では職場の価値観、学校では学校の価値観、家庭では家庭の価値観で生きる。また、日曜日が来ます。すると、聖書を取り出して、宗教的な顔になって教会に行く。私はそういうキリスト教という宗教を教えていないつもりであります。なぜでしょう?聖書の本当の考えは、この世のどまん中にも神様がおられるからです。エペソ人への手紙1章には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」と書いてあります。神様は「政治の世界においても神様の持っているもので満たしたい。芸術の世界においても神様のもっているもので満たしたい。教育や医療、ビジネスの世界も神様のもっているもので満たしたい」と願っておられるのです。私たちは、この世の中に、神様が持っているすばらしいものを持ち運ぶという使命があります。

 そういう考えからしますと、ピリピ4:8は、まさしくそのことを教えています。なぜ、この世の中に、真実なこと、誉れあること正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳と言われること、称賛に値することがあるのでしょうか?そうです。神様が造られたからです。創世記1章には「良かった」「良かった」「非常に良かった」と書いてあります。でも、残念なことに人間が罪を犯してから、自然界は喪に服してしまいました。それでも、使徒パウロはローマ1:20でこのように言いました。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」完全ではないかもしれませんが、神様が造られたがゆえに、すばらしさがどこかしこに残っているということです。私は毎朝、中川のほとりを散歩します。雑草でも美しい花を咲かせます。1,2週間前、河川敷の雑草を刈り取る作業がありました。おじさんたちが、機械で一網打尽に刈り取るわけです。ある家の前にある花が植えてあります。その花は夏にはとても背が高くなり、大輪の花を咲かせる花なんです。ところが何本かは、河川敷まではみ出していました。あとから見ましたが、おじさんが機械で刈らないで、手作業でしたんでしょうね。3本か4本ちゃんと残っていました。「おじさん、やさしいなー!」と思いました。花をめでる心が、おじさんの心の中にもあったということです。そういえば、星野富広さんも草木にまつわる詩と絵をたくさん描いていらっしゃいます。うる覚えですみませんが、山登りの人が立ちしょんをしようと思ったけど、山ゆりが咲いていたので、場所を代えたというのがありました。あんまりきれいじゃないので、星野富広さんの美しい詩をいくつかご紹介します。①「病院の庭にさつきが咲いた。母が銀行強盗でもするようにおどおどしてひと枝折ってきてくれた。絵に描いて、となりのベッドの人に見せると、「きれいなゆりだなあ」と言った。②神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう。風に揺れるぺんぺん草の 実を見ていたら、そんな日が本当にくるような気がした。」星野富広さんは、私たちが日常、見過ごしてしまうような些細なものに目を留めて、そこから素晴らしい神様の恵みを語ってくれます。そういう繊細な見方というのは、星野さんが学校の体育教師をそのまましておられたら、きっとできなかったんじゃないかと思います。

4章8節の、心に留めるべきことを、リビングバイブルは、このように訳しています。「真実なこと、良いこと、正しいことに注目しなさい。きよいこと、愛すべきことについて思いめぐらし、他人の長所に目を留めなさい。神様を喜び、賛美することばかりを考えなさい」。順番からすると、「すべての評判の良いこと」を、「他人の長所に目を留めなさい」というふうに解釈しています。私たちは自然界やこの世だけではなく、人々の中にも良いところを見出すべきであります。しかし、どうでしょうか?日本人は他人の良いところよりも、悪いところに目が行きがちではないでしょうか?先週の木曜日、お昼を食べているとき、日立にお住まいの石塚兄より電話がありました。ギデオンで勝田の教会におじゃましてラリーのメッセージをされたとのことです。そこに、吉永先生がいらっしゃって鈴木牧師と親しい関係だと聞いて驚かれたそうです。で、私の方は石塚兄が聞いてもいないのに、吉永先生は座間でうまくいかなくて、インドネシアに飛ばされて、その後は四国に戻って来て、勝田の教会に招聘されたこと。そして会堂建築で苦労されてストレスでものすごく太ってしまったこと。なんだか、悪いことばかり話してしまいました。その点、石塚兄はこの教会に10年以上おられた方ですが、人の良いところを見るすばらしい兄弟でした。今回も電話で、勝田の教会が教会あげてセルを目指している。目的主導の教会を作ろうとしている。そのような内容でした。私はピリピ4章を読んで、「これからメッセージを組み立てようかなー」としている矢先でした。なんと、リビングバイブルには「他人の長所に目を留めなさい」と書いてありました。いやー、私って何なんだろう?「口では人の良いところを見ましょう」と言いながら、自分自身は人の悪い点に目を留めているんじゃないだろうか?愕然としました。このように講壇に立っているときはまだ良いのですが、下に降りて、気を緩めると悪いことばが出てくる。おそらく、それは私が生まれてこの方、多くの批判や裁きを受けてきたので、自分に対しての見方、他の人に対する見方が否定的になっているということでしょう。

ベン・ウォン先生がコーチング・セミナーでよくおっしゃっていました。「日本も中国もそうだが、アジアの文化は親が子どものことを誉めないことである」と。また、何か失敗したら、もう立ち上がれないみたいなダメージを受ける。だから、失敗をどうしても隠してしまう。本当にそうだと思います。だれにでも長所と欠点があります。「あなたの欠点はどこですか?」と聞かれたら、4つ5つすぐに上げることができるでしょう。でも、「あなたの特技とか長所は何ですか?」と聞かれたら、「んんー」と、考えてしまいます。「長所は何だろう?私はどんなことにすぐれているのかなー」と悩みます。どうしてでしょうか?だいたい、何か悪いことをしたら注意されます。宿題してこなかったとか、遅刻したとか、喧嘩したとか…。宿題をやってきて当たり前、時間通りに来て当たり前。あまりほめられません。テストでも、たとえ70点取っても、「何故、80点とれなかったんだ」となります。もう、私たちの目が否定的になっています。悪いところが大きく見えて、良いところが見えない。日本の文化は、本当にそうだと思います。しかし、文化のせいばかりしてはいけません。私たちは聖書のみことばから神様が私たちをどうご覧になっておられるのか?そのことを心の奥底から、自分の価値観になるように理解しなければなりません。聖書で神様は「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃっています。だった、私は高価で尊い、私は愛されるべき存在だということです。聖書で神様は「あなたは義である。聖徒である」とおっしゃっています。だったら、私は正しい人間で、聖い存在だということになります。神様が「そうだ」とおっしゃるのに、「私はそうじゃない」と言ったならば神様に逆らうことになります。

もう1つは、私たち自身に語っていることば、セルフ・トークを変える必要があります。私たちは意識しないで、日中、いろんなことを心の中でつぶやいています。「こんだけ、やったのに、あのそっけない態度はなんだ。もう、一生懸命やらないぞ!」「だいたい、あの偉そうな態度が気にくわないんだよなー。俺は道具じゃないんだ」。「いいよ、もうこれくらいで、どうせ給料安いんだから」。何を隠そう、これは数ヶ月前まで、郵便局で働いていたときの、私の心のつぶやきです。いや、もう、口には出さなくても、心で語っていることばが、いかに否定的でしょうか?おそらく、みなさんは聖められているので、こんなふうには語っていないと思いますが、どうでしょうか?まず、変えるべきことは、心の思いであり、このセルフ・トークであります。本当に、私たちは神様の愛と価値観を魂の中にいっぱいいただき、思いとセルフ・トークを積極的、肯定的にすべきであります。そうしますと、結果的に、人の良いところが見えてきたり、この世の中に良いところを見出せるようになるのではないでしょうか?一番の問題は、私たちのゆがんだ考え、ゆがんだめがねであります。ここを変えたならば、ピリピ4:8に記されている、8つの良きものを心に留めることができるのではないでしょうか。だから、ローマ12:2でこのように言われているのであります。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」アーメンであります。心の一新によって自分を変えるとは、まさしくそのことを言っているのであります。

2.行なうこと

ピリピ4:9「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」聖書ってうまくできているなーと思います。先週もそうでしたが、心理学者たちが言うようなことを2000年前、すでに教えておられるんであります。ピリピ4:8は私たちが思いを変えて、どのようなことに目を留めるべきか、ということが書いてありました。私たちの思いに良いものが留まるのが第一段階であるならば、第二段階は何でしょうか?それは私たちの生活が変わることです。これをライフ・スタイル・チェンジと言います。私たちは思いを変えたあと、実際に行動するときに、それがだんだんと身についてくるのであります。もし、思いが変えられただけで、実行しないならば、また古い生活と古い思いに逆戻りしてしまいます。だから、パウロは、「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい」と命じているのであります。一般的に私たちは中立を好みます。たとえば、お酒を飲んでいる人に、「もうお酒を飲まないように」と言います。でも、どうでしょうか?ただ、お酒を飲まない状態というのは苦痛なのではないでしょうか?「お酒をやめれば良いじゃないか」と思うかもしれません。しかし、それではまだ半分であり、また逆戻りする可能性は大です。そうではなく、お酒の代わりにその人を喜ばせる神様からのものが必要なのです。今まではお酒で中毒だったけど、今度は神様に中毒になる。神のみことばに中毒になる。代わりに、そういうものが必要だということです。私は「子供に長い時間、ゲームをしちゃだめだよ。目が悪くなるから」と注意します。「ほどほどに」、と言っても何時間でもやります。だから、ゲームよりももっと生産的で楽しいことをやらせれば良いんです。うちの子供は「パパ、一緒に散歩行こう!」と言います。私はひとりが良いんですが、ゲームよりは良いかもしれません。「マサチューセッツ工科大学へ本当に行きたかったら、英語を一緒に勉強しよう」とやっても良いですね。

エペソ人への手紙4章には、そのことが詳しく書かれています。エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」この人に、「もう盗んではいけません」と言いました。その人は「わかりました。もうやめます」と言いました。でもそのままでは、本当の悔い改めにはなりません。悔い改めとは「メタノイヤ」と言いますが、向きを変えるということです。「もう盗んではいけませんよ」と言われ、「分かりました。もうやめます」。それは盗みを休んでいるということです。「メタノイヤ」とは、向きを変え、別なことをするということです。働いて、困っている人に施すということです。以前は、「盗み」「盗み」「盗み」。「メタノイヤー!」と言われたら、「働いて施す」「働いて施す」「働いて施す」。これが本当の悔い改め、ライフ・スタイル・チェンジであります。ここまで行かないと人は本当に変わらないのであります。エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」これも同じようにやりたいと思います。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」。「はい、わかりました。もう、悪いことばを出しません」。それでは、本当の悔い改めにはなっていません。ただ、休んでいる状態です。これをメタノイヤをするとどうなるのでしょうか」。「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」「悪いことばを口から出す」。「メタノイヤー!」。「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」「人の徳を養うことばを話す」であります。このように実行していくと、ライフ・スタイル・チェンジが起こるのであります。一旦、体に身についたら、もう抜けることはありません。しかし、エディ・レオ先生は49日間続けないと、身につかないと言いました。49日、なんか聞いたことがある数字です。

私たちはライフスタイルが変わるためには、ここまでしなければなりません。でも、人間は自分に甘いんであります。だから、それを見届け、励ましてくれる人が必要なのであります。つまり、説明責任を互いに持てる人、アカウンタビリティの持てる人が必要なのであります。「どう、最近、守っている?」と聞いてくれる友人が必要です。あるいはこういうことが身につくためには、コーチが必要なのであります。どうでしょうか?友人にお願いすれば、互いにコーチングもできるんじゃないでしょうか? みなさんは、自分の状態を率直に伝えることができる信仰の友人を持っていらっしゃるでしょうか?私は家内がそうなんですが、自分をコーチしてくれる牧師も必要だと思っています。こう頼めば良いのです。ディボーションを毎日したいんだけど、1週間後にチェックしてくれますか?「先週、ディボーション、何回できましたか?」「はい、ほとんど欠かさずできました」。仕事でビジネスホテルに泊まる人は、「私がホテルで変なビデオを見ないように祈ってください」と友人に頼みます。その後、友人が「先週、ホテルで大丈夫でしたか?」と聞きます。「はい、見ませんでした」。すると「ハレルヤ!良かったね」と励ます。ですから、自分の目標とか自分の変えたいことを、親しい人に話すんです。そのとき、「祈ってください。チェックしてください」とお願いします。そして、後からそれを報告する。ちょっと堅苦しい感じがしますが、これを説明責任、アカウンタビリティの関係と言います。清瀬に菅谷先生という方がいらっしゃいます。ここにも来られたことがあります。たまに、先生から「最近どう?」と電話がきます。私も「べらべら」と話すんですね。あっという間に、20分くらいたちます。岡山の中嶋先生からもたまに電話がきます。うれしいですね。先生の方からなかなか切らないので、30分以上話してしまいます。どうでしょうか?「説明責任」みたいに堅苦しいことばを使わなくても、「最近どう?」くらいで良いんじゃないでしょうか?「最近どう?」これを、亀有教会の挨拶にしても良いくらいですね。ハレルヤ、きょうは8つの良いものを心に留め、それを実際に行なうということを学びました。愛兄姉と平和の神が共におられますようにお祈りいたします。

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2009年5月24日 (日)

喜びなさい     ピリピ4:1-7

 聖書にはいくつかの命令があります。神様が命令するときには、必ず、そうできる保証というものがあります。神様はただ、命令するだけではなく、私たちがその命令に従えるような資源も同時に、与えてくださるということです。きょうは、ピリピ人への手紙から2つの命令を、神さからいただきたいと思います。1つ目は「喜びなさい」であり、2つ目は「思い煩うな」であります。もし、これらが私たちの感情に訴えるものであれば、それは不可能です。なぜなら、私たちの感情は自然発生的なものであり、自分の力ではどうにもなりません。しかし、この2つが、感情ではなく、私たちの意志に対して命じているのであれば、可能であります。神様が「喜びなさい」と命じるので、「はい、わかりました。喜びます」と従うなら、あとから「喜び」という感情がついてくるのであります。また、神様が「思いわずらうな」と命じるので、「はい、わかりました。思い煩いません」と従うなら、あとから「平安」が来るのであります。きょうは、それらのことを聖書から詳しく学びたいと思います。

1.喜びなさい

 ピリピ4:4には「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と書いてあります。では、みなさんはどんなときに喜ぶことができるでしょうか?逆に言うと、どんなときに喜べないでしょうか?一方が喜びであるなら、他方は悲しみとか失望でしょうか?ちょっと考えてみましょう。「あなたはどんなときに喜ぶでしょうか」。一人ひとり、考えて、その答えを私にテレパシーで送ってください。願い事がかなったとき。人からほめられて評価されたとき。何かうまくいったとき。プレゼントをいたただいたとき。楽しいことがやってきたとき。なるほど、たくさんありますね。今、プロ野球の交流試合が始まっています。しかし、新型インフルエンザも流行っています。見に行っている人は、みなマスクを着用しています。どうなんでしょうか?「わー」と喜びたいのですが、マスクが邪魔になるんじゃないかと思います。マスクしてでも、球場に行きたいのでしょうか?ちょっと滑稽な感じがします。では、みなさん、喜びと笑いの違いは何でしょう?表情とか、口の開き具合、かなり似ていますけど、違いますね。現代人は、喜ぶことが少ない分、それを笑いで補っているんじゃないでしょうか?我が家ではクイズヘキサゴンを見て、ずいぶん笑っています。大体、家内が笑っているときは、テレビを見ているときです。以前は、家族がテレビを見ることに否定的でした。でも、笑うことは健康に良いので、今は一緒に見たりしています。でも、みなさん、喜びと笑いは、質的に違いがあると思います。

では、イエス様が喜ばれたときがあったでしょうか?イエス様が大声で笑ったという箇所はおそらくないと思いますが、喜びにあふれたという箇所はあると思います。ルカ10章。ルカ10:17-21をお読みいたします。さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、稲妻のように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。70人の弟子たちはとっても喜んで伝道旅行から帰ってきました。「いやー、何人もの人たちから悪霊が追い出されたよ」「祈ったら、病気が治ったよ」「たくさんの人が福音を信じたよ」。弟子たちは自分たちの伝道旅行の成果が上がったので喜びました。もし、伝道旅行がうまくいかなかったら、どうでしょうか?「悪霊にやられて、一人も救われなかった」。当然、喜べないですよね。でも、イエス様はそういう何かをしたかではなく、何を喜べとおっしゃっているのでしょうか?「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われました。さらに、どうでしょう?イエス様は「聖霊によって喜びにあふれて言われた」という続きがあります。内容を見ますと、父なる神様が幼子たちになしておられることを喜んでおられます。まだ、ここでははっきりとは、わかりませんが、喜びとは私たちが何かをしたかに基盤を置くのではなく、神様がなしておられることを喜ぶということではないでしょうか?私たちの喜びは、環境や状況に左右されますが、神様から来る喜びはどうも違うようです。

では、テキストに戻りますが、ピリピ4章の1節から3節の内容は、どんなことを書いているのでしょうか?ピリピ1章にもありましたが、教会の中に不一致や争いがあったようです。4章をみますと、ユウオウデヤとスントケという人たちは対立しているようです。でも、パウロはピリピの人たちを「私の喜び、冠」と呼んでいます。本来なら、ピリピ教会は、喜べない状況だと思います。でも、パウロは「いつも、主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と命じています。冒頭でも話しましたが、もし、私たちの感情に「喜びなさい」と命じているのであれば、それは無理です。感情は私たちの思い通りにはなりません。喜べる状況だったら喜ぶけど、喜べない状況にあるときは喜ぶことができません。感情というのはそういうものです。でも、パウロが命じているのは感情にではなく、意志、私たちの意志に対して命じているのです。確かにピリピの教会には不一致や争いがあり、喜べない状況です。でも、どうでしょうか?ピリピの教会の人たちは、ものすごい迫害の中から救われました。意見や考えの違いはあるかもしれないけど、みんなの国籍は天にあり、救い主が再び来られることを待ち望んでいます。そういうことを思って「喜びなさい」と言われたら、喜べるんじゃないでしょうか。それは、私たちの現実の生活でも同じです。仕事がうまくいった、望んでいるものが与えられた、病気が治った…そういう状況だったらだれでも喜ぶことができます。でも、逆に、仕事がうまくいかない、望んでいるものが与えられない、病気も治らない。問題が解決されるまで待つなら、永久に喜ぶことができません。パウロが「喜びなさい」というのは、うまくいったとか、うまくいっていないという環境や状況に対して、言っているわけではありません。

 では、どのようにしたら、環境や状況に関係なく、喜ぶことができるのでしょうか?これは、簡単な答えはないです。このように言っている私でも、悲しみや失望落胆に落とされたら、どうなるか分かりません。でも、聖書の原則だけは語ることができます。では、どんな理由で、いかなる状況の中でも喜ぶことが可能なのでしょうか。それは、キリストによって救われているということです。これはさきほどのルカ10章の弟子たちのことにも言えます。弟子たちは伝道旅行の成果がすばらしかったので喜んでいました。でも、イエス様はそんなことではなく、天に自分たちの名前が記されていることを喜びなさいと言われました。つまり、自分たちに何ができたかではなく、どういう存在になっているかということを喜ぶということです。今は、救われて神様の子供になった、この地上だけではなく、永遠の御国が与えられています。私たちはこの地上でたくさんのものを失います。喪失の悲しみ、喪失のトラウマというのがあります。健康を失うことも、若さを失うことも喪失です。人の信用とか仕事、ステータス、大切な持ち物、愛する家族、ペット…本当に失うということは悲しいです。決して喜ぶことはできません。でも、どうでしょうか?私たちがこれから行く、天国にはおそらく失ったもの以上のものがあるのではないかと思います。全く同じではないかもしれないけど、それ以上のものがあると思います。ですから、やがて行く天国のことを思うなら、どんな中でも、喜ぶことができるのではないでしょうか?

ピリピ4:5「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」このみことばは、「喜びなさい」とあとに続くみことばです。つまりは、私たちがどうして喜べるのか、その理由を述べているのではないかと思います。このところに「主は近いのです」と言われています。これには2つの意味があると言われています。1つは、主がいつも共にいるから、喜ぶことができるということです。主が共にいたらどんなことが起こるのでしょうか?ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」そうです。すべてのことが益にされるからです。だから、私たちはどんな失意の中でもイエス様が共にいるので、喜ぶことができるんだということです。アーメンです。もう1つ、「主は近いのです」とは、「主がまもなく来られて、御国が完成するからです」という意味もあります。そうです、「私たちが待ち望んでいる、御国が来るので、地上の悲しみに終わりが来ますよ。失ったものを取り戻すことができますよ」ということなのです。キリストが再び来られるとき、死も涙も、別れも、嘆きも、争いも、罪も、弱さも、不条理もなくなるということです。つまり、そのことを先取りするならば、どんな状況の中でも喜ぶことができるということです。もし、私たちが信仰によって、意志を働かせて、神様の命令どおり喜ぶならどうなるでしょうか?本当は喜べる状況では、全くないのです。「でも、神様のご命令なので、喜びます」。するとどうでしょうか?心の中から、聖霊によって、喜びが湧き上がってくるのです。そうです。少し後からですが、感情的にも喜ぶことができるのです。つまり、私たちが主にあって、喜ぶならば、喜びが湧き上がってきて、やがて喜ぶことができるようになるということです。神様の命令は、単なる命令ではなく、必ず、保証があります。私たちが神様のご命令どおり、主にあって喜ぶなら、喜びが出てくるのです。ハレルヤ!

2.思い煩うな

 ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」このみことばによって、数えきれない人たちが助けられているのではないでしょうか?この地上では思い煩うなと言われても、思い煩うことが海の波のように次から次へと押し寄せてきます。さて、このみことばは、3つの部分から成り立っています。まず、最初、この人はどうだったんでしょうか?どういう状態だったんでしょうか?そうです。何かのことで思い煩っていたのです。何かのことで思い煩っていたから、「何も思い煩うな」と言われているのです。つまり、思い煩いはあるものだという前提になっています。みなさんの中で、2009年5月になりましたが、「この5ヶ月間、1つも思い煩ったことはありません」と言う方は手をあげてください。では、先週1週間、たったの7日間ですよ、「私は思い煩ったことがありませんよ」と言う方は手をあげてください。私は思い煩いました。先週の月曜日は午後から常磐牧師セルがあるため、午前中はお菓子とか果物を買いに行きました。また、翌日からコーチング関東があるのでお布団も借りに行きました。午後1時、牧師夫人も含めて14人の牧師たちが集まりました。わいわい、がやがや。しかし、午後5時頃から、関東コーチングのコーチの先生方が集まってきました。こっちに顔を出しながら、あっちにも顔を出すと言う感じです。その夜は、コーチング関東の打ち合わせです。翌日の火曜と水曜日は50人前後の方々が集まりました。やるべきことがいっぺんに押し寄せてきたので、かなり、思い煩いました。これは、私の問題ですが、みなさんもそれぞれの生活の場で、いろんな問題が起こり、どう解決したら良いかと、思い煩ったことがきっとおありでしょう。つまり、この地上で生きている限りは、必ず、思い煩いというものはあるということです。

 次に、このみことばには思い煩いからの解決策が書かれています。思い煩わないで、どうしたら良いのでしょうか?「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」そうです、祈りの中で、「それらすべてのものを神様のところに持って行きなさい、ゆだねなさい」ということなのです。でも、順番があります。「まず、神様に自分はどんな問題で思い煩っているのか、1つ1つ報告しなさい」ということなのです。「え?神様は私の状況をご存知ないのですか?神様は全地全能なはずですから、いちいち報告なんて不要でしょう」と思うかもしれません。違うんです。神様はもちろん、お一人でもできますが、あなたとご一緒に解決したいと願っておられるのです。ですから、私たちが自分の今の状況を1つ1つ申し上げるときに、私たちの心の中に、神様が働いてくださるのです。1つ1つ報告しているうちに、「どれが大切で、どれが大切でないか」あるいは「どういう順番でやったら良いか」、あるいは「どれが自分のすべきことで、どれは神様がすべきことなのか」など、生理整頓ができてきます。ま、このことを祈りによって、あるときは紙に書きながら報告します。とにかくごちゃごちゃした、問題を神様に差し出します。すると、どうでしょう。「そんなに複雑じゃないなー」と分かってきます。そして、自分が思い煩っていたものが見えてきます。それは、「失敗したらどうなるだろう?」「うまくいかなかったらどうなるだろう?」という心配や恐れです。先のことは、私たち人間にはどうすることもできません。ですから、「ここは私がやりますから、どうか助けてくださいと祈ります。もう、1つ「これは私の力の及ばないところです。ですから、これはあなたにゆだねます」と祈れば良いのです。ゴスペルの賛美に、「キャスト、オール、ユアー、ケアーズ」という賛美があります。「すべての心配事をイエス様に投げ出しなさい」という意味です。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。皆さんが、夜、心配ごとがたくさん募ってきて、眠れないときがあるかもしれません。そのときは、「羊が一匹、羊が二匹」と数えるのではなく、1つ1つ、心配事を主にゆだねるのです。でも、それだけではありません。「感謝をもってささげる祈りと願い」とありますので、これまで主がなしてくださった、良いことも思い出すべきです。すると、その祈りがとっても効果的になります。

 そして結果的にどうなるのでしょうか?「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」「そうすれば」つまり、神様のところに報告して、ゆだねるべきことをゆだねたらです。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」その人の心と思いがどうなるのでしょうか?人のすべての考えにまさる神の平安がやってくるということです。しかし、この意味がわかりそうでわかりません。コンテンポラリー・イングリッシュ・バージョンというアメリカの現代訳版ですが、このように訳しています。「そのようにキリスト・イエスに属するならば、神様はだれもが理解できないような平和であなたを祝福します。そして、この平和はあなたの感じ方と考え方を支配するでしょう。」この訳からも分かるように、神様は環境とか状況を変える前に、あなたの心とか思い、あるいは感じ方と考え方を変えるということです。ちょっと整理しますと、私たちの心(ハート)とか感じ方というのは、感情面を表しています。心配や恐れ、いだらだち、憎しみ、怒り…これらはマイナスの感情です。しかし、神様の平安がこれらを支配して、取り除いてくださるということです。また、私たち思い(マインド)とか考え方というのは、感情とは別の面です。思いとか考え方を変えなければ、どうにもなりません。でも、神様の平和が私たちの思いとか考え方を支配し、神様のみこころに合致するようにしてくださるならばどうでしょう。私たちの思いが神様の思いと同じになるなら、もうしめたものです。私たちはこの世と罪の中で、思いや考えが混乱させられています。でも、神様が私たちの心に平和の支配をくださいます。そうすると、私たちの思いや考えがピッシッと正されるのです。

 私たちは喜べないとき、あるいは思い煩ったとき、状況や環境を変えてくださいと神様に願います。でも、それは神様の方法ではないようです。神様は、まず私たちの心と思いが変えられることを願っておられます。おそらく、私たちの心と思いが問題にだけ集中し、がんじがらめになっているわけです。でも、それら1つ1つを神様に報告していくと、神様の平和が私たちの心と思いを支配してきます。その後に、神様は私たちと一緒に、問題を解決してくださるということです。ですから、何よりも先に私たちが神様の方に向く必要があるということです。旧訳聖書にこのような話があります(ヨシュア記5章)。あるとき、ヨシュアがこれからカナンの地に攻め上ろうとしました。そのとき、天使が抜き身の剣を持って、目の前に立ちはだかりました。ヨシュアは、天使に聞きました。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると、天使は、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」と答えました。ヨシュアは足のはきものを脱いで、主を伏し拝みました。つまりこういうことなのです。神様はヨシュアと共にいるけれど、ヨシュアが神様と共にいるかどうかを天使長は確かめに来たのです。天使は私たちの言うことは聞きません。もし、私たちが神様と共にいるならば、天使は一緒に戦ってくれるということです。ここに1つの法則があります。私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されていることが何よりも大事なのです。私たちは状況とか環境が変わることを願いますが、それは次の段階だということです。もし、私たちが神様と共にいるならば、神様は私たちと一緒に、状況とか環境を変えてくださるのです。神様は私たちと共におられます。どうか、私たちの方も神様と共にいることを喜びましょう。あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただきましょう。そして、私たちの心と思いが神様に結びつき、神様の平和で支配されますように求めましょう。

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2009年5月17日 (日)

国籍は天にあり      ピリピ3:17-21

 教会によっては、人々を集めるために、いろんなプログラムを催すところがあります。それも良いことだと思います。でも、聖書のみことばをまっすぐに語るならば、人々が集まり、人々が救われると信じます。なぜなら、福音にはそのような力があるからです。良い話とかためになる話ならば、世の中にたくさんの講演がありますし、著名な方が語ってくれるでしょう。でも、この聖書からのメッセージは、人々に命を与えることができる唯一のものです。少し、気になるのは献金でしょうか?別にささげなくても良いのですが、そこも本当は恵みなのです。神様はささげた人の産業を祝福し、健康を与え、幾倍もの祝福をもって報いてくださる方です。どうぞ、「献金を取られる」と思わないでください。信仰をもって種をまいたならば、30倍、60倍、100倍もの刈り取りがあることを期待してださい。

1.彼らの行き先

 3章の19節を、日本語の聖書でみますと、「彼ら」ということばが4回出てきます。彼らというのは、キリストの十字架を敵として歩んでいる人たちです。直接的には、パウロが宣べ伝えている福音に反対し、迫害しているユダヤ教徒です。でも、キリストの十字架を信じない人たちは、今も、世の中には、たくさんいます。そういう人たちも、「彼ら」の中に含まれます。では、彼らはどのような行き先、どのような生き方をしているのでしょうか?19節をみますと、第一に「彼らの最後は滅びです」と書いてあります。リビングバイブルは「彼らの行き着く先は永遠の滅びです」と訳しています。ある英語の聖書は「hell地獄に向かっている」となっています。だから、パウロは18節で「涙をもって言う」と書いてあるのです。第二番目は「彼らの神は彼らの欲望であり」と書いてあります。「欲望」は原文では「腹」となっていますが、物を消費することと関係があるのかもしれません。自分の欲望を満たすことが、第一になっているということです。第三番目は「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」とあります栄光というのは普通、輝かしくて誉のあることです。でも、彼らは恥ずべきことを誇っているということです。第四は「彼らの思いは地上のことだけです」とあります。彼らにとっては、地上の生活がすべてであり、死んだ後のことなどどうでも良く、「生きているうちが花だ」と思っている人たちです。

 私は講壇から今でさえ、立派なことを語っていますが、かつては私も「彼ら」の一人でした。今でも、「あのときカワサキのバイクを買えばよかったなー。あのグリーンのモトクロッサーを乗りたかったなー」。「なんで、あのときカローラのレビンを無理してでも買わなかったんだろう」。そういう欲望が片隅に残っています。私は25歳のときクリスチャンになりましたが、私の生きる目的は、「生きているうちに自分の夢をたくさん実現し、楽しいことをたくさんやってみること」でした。JUNの服を着て、かっこよい車に彼女を乗せる。英語を勉強してアメリカに行きたい。飯のために仕事もするが、食べて飲んで、面白おかしく生きる。しかし、人と争って生きていたので、憎しみと、怒りが心に満ちていました。「神なんかいるか?何がキリストだ。宗教なんか弱い人間が勝手に作ったものだ。時代おくれな聖書とか読んで、本当はかわいそうな人たちなんだ」と思っていました。そして、自分がやってきた悪いことや破廉恥なことを人々に自慢していました。「したたかで、トッポイ人生こそ!私の生きる道」。そんなふうに生きてきたんですね。それがどうでしょう?キリストに出会って、180°変わってしまいました。救われて、半年後に神学校に行きましたが、小林先生という有名な先生が教室に入るなり、「この中には肉の匂いがぷんぷんする」と言いました。「ああ、俺のことだろうな?」と思いました。きよめられていないまま、神学校に行ったので、目立っていたのでしょう。28歳のとき、とっても真面目で私と正反対な京子さんと結婚しました。そのとき、大川牧師が私になんと言ったでしょう。「あんな清い人を泣かせるなよ」と言いました。先生は、私のひどかった人生を見て、まだ不安があったんですね。でも、みなさん、毎週、語られる大川牧師の恵みのメッセージで、少しずつ、少しずつ変えられていったのであります。北風は旅人のコートを強い風で脱がそうとします。すると旅人はよけい、ぎゅっとコートを抱きしめるのです。律法主義はそのように、罪ある人をますます硬くなにします。しかし、太陽の熱はどうでしょうか?ぽかぽか暖められると、自分からコートを脱ぎます。同じように、人は愛と恵みを受けると、自分から進んで罪を捨てなくなるのです。これが福音の力です。私は福音の力を体験して、牧師になったのです。過去がひどければ、ひどいほど、福音のすばらしさ、福音の力強さを語ることができるのです。ハレルヤ!

 どうでしょうか?みなさんの関心事はどこにあるでしょうか?消えてなくなるこの地上のことでしょうか?それとも永遠に続く御国のことでしょうか?さきほど、腹の話をしましたが、「現代は大量消費が良し」とされています。人々は大きな胃袋をもって、もっとほしい、ほっとほしいと言います。また、政府やCMは、「もっと消費しなさい。いっぱい消費して不景気を吹き飛ばすんだ」とけしかけます。現代においては節約とか貯金は奨励されません。貯めているお金を使って、流通させなさい。たくさん消費するならば、たくさん生産できる。消費イコール、景気アップ、こういう図式になっています。私は経済の専門家ではありませんので、なんとも言えませんが、隣の韓国はどうでしょうか?今から30,40年前は、ものすごく貧しかったです。そのとき、キリスト教会がリバイバルし、教会を通して、国や人々が豊かになりました。でも、今はどうでしょうか?離婚率、堕胎率はアメリカの次ぎぐらいになっています。アメリカもキリスト教国と言われていますが、模範となっていないところがたくさんあります。確かに経済力アップ、物の豊かさは魅力です。私たちは、豊かさを一旦、経験したならば、もう、ひもじい生活はできません。パソコンが1台あったら、もう1台欲しくなります。地デジになったので、大画面のテレビも買いたいです。海外旅行も安くなったので、いろんな国へ行きたい。私たちの欲望はこれで良いというところがありません。昔、「うわばみ」という、架空の動物を本で見たことがありますが、現代の私たちの胃袋は「うわばみ」になっています。これで十分だ、ということがない。「もっとほしい、もっとほしい、もっとほしい」と叫んでいます。

 みなさん、これが地上に住んでいる私たちの欲望です。でも、どうでしょうか?私たちは肉体のため、あるいは心を喜ばすため、一生懸命がんばっています。食べ過ぎたからこんどはダイエットします。いろんなカルチャー・スクールへ行ったり、映画をみたり、セックスや買い物を楽しんだりして、心を喜ばそうとします。でも、どうでしょうか?私たちは神のかたちに似せてつくられた存在です。神様は霊ですが、私たちも霊的な存在です。体や心がたとえ満足しても、霊はカラッカラで、やせ衰えています。いくら食べても物足りない。いくら飲んでも、酔いがさめたあとはものすごく空しい。いくら持っても物足りない。いくら楽しいことをしても、これで良いのか?死んだら終わりじゃないか。この世に、永遠とか真理というのがあるのだろうか?私は何のために生きているんだろう?生きる目的というのがあるのだろうか?だんだんと、考えてきます。でも、人にはこんなことは言えません。「何、馬鹿なこと考えているんだ。ちょっと、おかしいんじゃないの」と言われます。伝道者の書の記者は「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。…振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。伝道者の書11:9「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」神様は私たちに永遠を思う思いを与えてくださいました。人間は死んだら終わりではなく、その先、何かあるはずだ。人間が死を恐れるのは、その先、どうなるか分からないからです。神様は私たちに、強烈なラブコールを与えています。それは私が御子イエスを与えたので、あなたがには滅んでもらいたくない。どうか信じて、永遠のいのちを得てほしい。そのために、父なる神様は御子イエスを十字架につけて、罪の代価を支払ってくださったのです。神様がくださった、この世のものを楽しむことは悪いことではありません。この自然は、神様が私たちに与えてくださったものです。でも、人類はそのことを忘れ、我が物顔に、自然を破壊してでも、大量消費に走っています。私たちは、本当は、所有者ではなく、管理者なのです。もし、私たちが神様との関係を正し、みことばに従っていくならば、この時代はもっと変わると信じます。

私たちは、この世のことだけに目をとめないで、神様との関係を、永遠を求めるべきです。私たちは神様によって造られた存在です。でも、私たちは神様を離れ滅びに向かっています。私たちは、向きを変えて神様に立ち返り、みこころを求め、御国を求めるべきです。

2.私たちの行き先

 ピリピ3:20-21「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」「けれども」となっていますので、キリストの十字架に敵対している彼らとは対照的に、私たちはどうなのかということをパウロは書いています。国籍ということばは、他の聖書には、「本国」とか「ふるさと」とも訳されています。みなさん、日本人である私たちがイギリスに行きたいとするならば、どうなるでしょうか?まず、パスポートが必要でしょう。短期間の旅行なら良いかもしれませんが、そこに住むとなるとビザとか国籍が必要となります。先日、パスポート偽造で入国していた外国の方が強制送還されました。お嬢さんは、中学を卒業するまで滞在できるようですが、ご両親はそうではありませんでした。残念ながら、日本国籍がない場合は、長い間、日本にいることはできないのです。天国もそうです。多くの日本人は、死んだら、天国へ行くと考えています。残念ですが、死んだ人がみな天国に行けるわけではありません。もし、悪人も善人も、みな天国に行けるとしたら、天国はこの世と何の変わらないところとなるでしょう。そうじゃありません。イエス様を信じて、新しく生まれ変わった者だけが、天国に行くことができるのです。神様のところには「いのちの書」があって、イエス様を信じて、契約を結んだら、そこに名前が記されます。キリスト教は、いわば、契約の宗教です。「主よ、主よ。私は生前、教会の礼拝に行きましたよ。私の家内は熱心なクリスチャンでしたよ。私も誘われて、毎週じゃないけど、教会に行ったことがありますよ。私のこと覚えているでしょう」。主は「さあ、あなたのことは全く存じ上げません」とおっしゃるでしょう。神様と契約を結んでいなかったからです。たとえ、教会に何べん行こうとも、たくさん良いことをしたとしても、契約を結んでいなかっなら天国には入ることはできないのです。

 では、天国とはどこにあるのでしょうか?「天」と書いてありますので、雲の上、天空にあるんじゃないかと思っている人もいます。昔、ソ連の時代、ガガーリンが人類史上初めて、人工衛星に乗り、宇宙に飛び出しました。彼は「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言ったそうです。あちらの国は、唯物論、見えるものしか信じません。これもソ連での話しですが、小学校のあるクラスの中で、たった一人、クリスチャンがいました。学校の先生は、みんなに「この中で、まさか、神様を信じている者はいないだろうな」と言いました。すると、一人の少年が「ぼくは信じています」と答えたそうです。先生は怒りに満ちて言いました。「宇宙へ行った、ガガーリンが何と言ったか知っているか。まわりを見渡したが、神は見当たらなかった、と言ったんだ。だから、神はいないんだ」。すると少年は答えました。「聖書には、心のきよい者は、神を見ると書いてあります。きっと、ガガーリンは、心がきよくなかったのではないかと思います」。先生は、何も答えられなかったそうです。聖書には宇宙とか空という意味の「天」もありますが、神様がおられるところも「天」と言います。パウロは「第三の天」とも言いましたが、私たちの住むこの世界ではなく、次元の違うところではないかと思います。天国は、神の国とも言いますが、正式には「神の支配」という意味です。神の支配の及ぶところ、そこが天国であり神の国です。ですから、目には見えませんが、今、このところにも神の国が及んでいるのです。イエス様は「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。つまり、「神の国は目には見えないけど、あなたが手のとどくところに来ていますよ。さあ、方向転換して、神の国に入りなさい」ということなのです。でも、どうでしょうか?意外と、日本人は入ろうとしません。飛行機に乗って、海外に旅行する人は、年間、何百万人もいますが、天の御国に入ろうとはしません。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」これはどういう意味でしょうか?当時、天の御国に一番近いと思われていた宗教家たちは入りませんでした。なんと、罪人や収税人、遊女、異邦人が「われ先に」と押し入ったのです。デパートのバーゲン・セールでは、オバタリアンが、人々を押しのけて、良い品物をゲットしようとします。コンサート会場などでも、「われ先に」と良い席を取るでしょう。でも、どういう訳か、日本の場合、天の御国はあまり人気がありません。神様は非常に残念がっています。日本人は上品すぎて、あるいは満ち足りていて、「激しく攻める者」が少ないのでしょうか?おそらく、天の御国の価値が分からないんでしょう。無知なんです!猫に小判なんです。それだったら、何とか私たちが天の御国の福音を伝えなくてはなりません。なりふりかまわず、一人でも多くの人が、天の御国に入るように、福音を伝えるべきです。

 また、この箇所には、イエス様が世の終わり向こうからやって来るとも書いてあります。天国は私たちの方から行くだけではなく、向こうから近づいて来るものなのです。イエス様が再び来られるとき、どのようなことが起こるのでしょうか?そうです。生きている人は、そのまま栄光の体に変わり、死んだ人は復活します。そして、今度は、完成した天の御国に住まうのです。そうです。今は、天の御国は私たちの目には見えません。なぜなら、まだ完成していないからです。神様は、今、御国の民を集めている最中です。でも、その数が満ちると、目に見えるかたちで神の国がやってきます。みなさん、王国には3つのものが必要です。第一は王様、第二は臣民、第三は領土です。これら3つのものがやがて、そろうのです。天国は精神的なものとか、単なるおとぎばなしではありあません。現実に、必ず、やってくるものなのです。「我らの国籍は天にあり」、これは、キリスト教の墓地で、もっとも多く彫られているみことばではないかと思います。キリスト教の墓地には、希望があります。彼らは死んで亡くなったのではなく、眠っている状態です。永眠ではなく、休眠であります。世の終わり、イエス様が来られたなら、栄光の体によみがえり、天に引き上げられるのです。ハレルヤ!パウロは「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と言っています。卑しいからだとは、やがて朽ちてしまう肉体という意味です。みなさん、この肉体では天国で永遠に暮すことはできません。この肉体はこの地上だけのものです。永遠の天国に住まうためには、朽ちない栄光のからだが必要です。イエス様は、全能の力で、私たちを変えてくださいます。それはいつでしょう?イエス・キリストが世の終わり、再び来られるときです。そのときこそ、「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15:54)という、みことばが実現するのです。ハレルヤ!

 皆さん、私たちには希望があります。みなさん、希望の最たるものは、復活です。私たちの国籍は天にあり、そこで永遠に住まうことができるということです。天国は精神的なものでも、作り話でもありません。この目では見えませんが、今まもなく、完成しつつあります。その前に、神様は御国に入る人たちを応募しているのです。内村鑑三といえば、明治時代で最も有名なクリスチャンです。内村鑑三師にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。東大の総長だった矢内原忠雄氏がキリストを信じて、内村鑑三師の弟子となったばかりの時、内村師の愛する娘「ルツ子さん」が18才で死去しました。ルツ子さんと矢内原忠雄氏は同じ年でした。内村鑑三師は、愛娘ルツ子さんの告別式の時、「今日は実はルツ子の結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです。これこそ聖書に書いてある、婚宴です」と挨拶されました。その言葉は、キリストを信じたばかりの矢内原忠雄氏にとっては、内村鑑三師は、愛娘に死去されて、変な妄想を云われたと思ったほどでした。しかし「ルツ子さん」の棺を雑司ヶ谷(ぞうしがや)の墓地に掘られた穴に埋められるその時、内村鑑三師は、一握りの土をつかみ、高く差し上げて、「ルツ子、万歳!」と叫びました。その声を聞いた時、矢内原忠雄氏は雷に打たれたように全身がすくんで動けなくなり、「これが本当のキリスト教だ」と感じ、その生涯を、天国を目指して歩みつづけたということです。内村鑑三師のそのころの詩があります。「私たちは四人家族だった。しかし今も四人だ。戸籍から一人の名は消えたが、天の記録に一人の名は増えた。四角の食卓の一方は空しく、三度の食事に空席ができたが、しかしなお私たちは四人だ。残された三人はもっと親しくなった。天にいった娘が愛のきずなとなっている。そしてやがて天国で再び一緒に相会うのだ。「けれども、私たちの国籍は天にあります」。お祈りいたしましょう。

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2009年5月10日 (日)

目標を目指して      ピリピ3:12-16

 森光子さんは、昨日、89歳の誕生日でした。そして、昨日演じた「放浪記」は、東京・帝劇で前人未到の上演2000回目だったそうです。彼女は毎日欠かさず150回のスクワット、軽めの屈伸運動に近いものをしておられます。お年を感じさせぬ容貌とバイタリティから「妖怪」とも一部で揶揄されているそうです。彼女は、紫綬褒章(しじゅほうしょう)、文化勲章を授与されたこともあります。なぜ、こういう話をするかと言うと、「神の栄冠を得るために、目標を目指して走る」というのが、きょうのテーマだからです。作家のフランチェスコ・アルベローニは「本当の老化は、夢も見ず、自分の可能性にも見切りをつけたところから始まる」と言いました。またCSルイスは「新しい目標を持ったり、新しい夢を見るのに、歳をとりすぎたということはない」と言いました。それでは、きょうも、聖書のみことばからご一緒に学びましょう。

①キリスト教における「救い」

 キリスト教における救いとは何でしょう?私たちは「キリストを信じて救われました」と言います。では、どういう意味で「救われた」のでしょうか?私たちはキリストによって罪が赦されたので、地獄に行ってさばきを受けることはありません。積極的な意味では、キリストによって義と認められ、神の子供になったということです。これは、キリストを信じることによって、神様との関係が変わったためです。でもどうでしょうか?私たちの実質は、相変わらず罪を犯す存在であり、弱さや罪の性質も宿っています。それでも、私たちは主の御霊によって、栄光から栄光へと主の似姿へと変えられていきます。中身が変えられて、成長していかなければなりません。そういう意味では、まだ救われつつある存在です。これを神学的には「聖化」と言います。完全に救われるのは、キリストが再臨して、神の国が完成し、私たちのからだが栄光の体に変えられるときであります。死んだ肉体が復活する、つまり肉体が贖われるときこそが、救いが完成するときなのです。そのときは、罪の性質も弱さも病もありません。それを神学的には「栄化」と言います。ですから、クリスチャンはみな、聖化から栄化へのプロセスを歩んでいる存在なのです。

②パウロの目標

 それでは、パウロが既に持っているものと、これから得たいと望んでいるものは何でしょうか?使徒パウロは、キリストを知り、キリストを得ました。9節には、「キリストの中にある者と認められ、キリストを信じる信仰による義を得た」と書いてあります。「キリストを信じる信仰によって義と認められた。」これはパウロによる救いの定義として最も有名なことばです。ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙に、そのことが詳しく書いてあります。12節「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」パウロはダマスコの途上で、復活の主と出会い、まったく変えられました。また、第三の天に引き上げられ、特別な啓示をいただきました。それなのに、「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです」とはどういうことでしょうか?確かに、パウロはキリストを知り、キリストを得ました。そして、神様から義と認められました。でも、パウロはキリストを完全に知っているわけでもないし、またパウロ自身が完全にされているわけでもありません。人間ですから、この地上で神様のことが全部分かるということはありえないでしょう。でも、終わりの日、神様のことがはっきりと分かる日がくるのです。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」アーメンです。私たちは神様のことをほんの一部分しか知りません。だから、今は、信仰が必要なのです。でも、やがてはっきりと分かる日がきます。また、パウロは既に義とされていますが、さらには、義の栄冠を得たいと望んでいます。Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」私たちもパウロと同じように義と認められました。しかし、恵みによって、正しい生活を送り、義の栄冠をいただきたいと思います。

 もう1つパウロが目指していたことは何でしょうか?それは神様から召された使徒としての働きを十分に成し遂げることです。パウロは、異邦人への使徒として神様から召され、福音が届いていない地域に出かけて、教会を設立しました。小アジアへ行って宣教し、小アジア全体に福音が広がりました。その次はギリシャに足を運びました。コリントの人たち対して「神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです」と言いました。また、パウロはローマの人たちにこのように書き送っています。「もうこの地方には私の働くべき場所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していました。」(ローマ15:23)。パウロは、ローマで福音を宣べ伝えてから、イスパニヤ、現在のスペインに行きたいと望んでいました。パウロはⅠコリント15章で「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と自負したほどです。でも、今は、どうでしょうか。パウロはローマで囚われの身となっています。神様のために働きたくても、働けない状況です。私だったら神様に文句を言いたいところです。でも、パウロは何と言っているでしょうか。13節「ただ、この一事に励んでいます」14節「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」パウロには自分の計画や思いがありました。でも、それ以上に、神様ご自身が、私ができないことをしてくださるに違いない。たとえ、こういう状況でも、「ただ、この一事に励む」と言うのです。それは、神の栄冠を得るためであります。

 

③私たちが持つべき目標

 では、私たちが目指すべき目標とは何でしょうか?15節「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」16節「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」と書いてあります。私たちは、使徒パウロと程度差はあるかもしれませんが、基本的には同じような目標をもって生きるべきであります。私たちはイエス様を信じたことにより、神様から義と認められています。こんどは、中身がきよめられ、キリストに似るように成長していかなければなりません。つまり、聖化され、やがては栄化されることを目指すわけです。また、それぞれ神様からいただいた使命を全うすべきであります。神様はパウロだけではなく、私たちにも栄冠を与えたいと願っておられるからです。Ⅰコリント9章には、「あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。…私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」と書いてあります。冠の種類は1つではないようです。Ⅱテモテ4章には「義の栄冠」があります。黙示録2章には死に至るまで忠実なら「いのちの冠」が与えられると書いてあります。Ⅰペテロ5章には神の羊の群を牧する人は「しぼむことのない栄光の冠」を受けると書いてあります。はっきりとは分かりませんが、神様からの使命を全うした人には、何らかの賞が与えられるようです。

私は小学校のときや中学のときは、何かの賞をもらったことがありますが、大人になってからはほとんどありません。「賞を与えるとか与えないというのは、不平等じゃないか」という意見もあるかもしれません。でも、ゴルフでも、野球でもスポーツ競技には、必ずと言ってよいほど、何らかの賞があります。カーレースにもありますし、競馬にもあります。文学や芸術の世界にもあります。世界的に有名なノーベル賞もあります。ウェブに「賞の事典ファイル」というのがあり、日本でどのくらいあるのか調べてみました。科学賞、芸能賞、美術賞、文学賞、文化賞の5部門。これは新聞社、総理府、財団、○○協会、都道府県が出している賞ですが、5部門合わせていくつあるでしょうか。日本だけで、ざっと3,205ヶありました。中には「一休とんち大賞」というのもありました。様々なスポーツの競技を除いてこれくらいあるのです。地上では、賞をいただけるか分かりませんが、それよりも天国で何らかの栄冠を受けたいと思います。

パウロは、神様から賞を受けるための大切な秘訣をここに書いています。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む…」ということです。うしろのものを忘れとは、過去の失敗や悲しい出来事を忘れるということです。結構、私たちは過去で生きています。心理学では過去が現在に多大な影響を与えていると言います。あるところは悔い改め、またあるところは癒しが必要でしょう。でも、最終的には神様のもとにそれらを置いて、忘れるということです。しかし、それだけではありません。成功したこと、「あのときは頑張ったなー」という誉も忘れるということです。私も「新会堂は信仰によって建てたなー」と自負していました。でも、16年たったので、もう新会堂とは言えません。あと、4つくらいは建てたいですね。私たちは過去に生きてはいけません。「ひたむきに前のものに向かって進む…」とは、ランナーが一生懸命に走っている姿を想像します。これは前向き、肯定的な生き方です。日本人はあまりにも、後ろ向きで否定的です。また、パウロは「ただ、この一事に励んでいます」と言いました。パウロにゆだねられたものは、使徒として異邦人の世界に教会を建てることでした。パウロは使徒職という一事に励みました。もちろん、牧師や教師、伝道者の働きもしました。でも、そういう働きは他の人に任せて、新しいところへ、新しいところへと進んでいきました。私たちが「ただ、この一事に励む」べきことは何でしょう?一事ですから、そんなに多くはないはずです。いや、1つです。家事や仕事もあるかもしれません。でも、神様の前に、私はこの一事に励みますというものが必要です。他のものは、その一事を支えるものかもしれません。いくつあっても良いですが、神様の優先順位はあるはずです。先週、林兄弟の仕事の関係者が、教会の外壁とか屋根を見てくれました。西脇さんと言う人ですが、名刺を見てびっくりしました。表には「ミッションン西脇」と書いてあります。裏を見たら、「マイミッション」とあり、いくつか箇条書きがありました。一般工事、特殊工事、教会工事、そしてミッション。このミッションの項目の文字が一番大きくて、「伝道、カウンセリング、宗教に関しての相談」と書いてありました。そして、一番傑作だったのが大きな字で「お部屋のリフォームから心のリフォームまで」と書いてありました。彼は建設工事をしていますが、本当は調布教会の伝道師でもあるそうです。

私たちの人生には限りがありますので、どれも、これもというわけにはいきません。この一事とは何でしょう?それは、神様があなたに与えた賜物を用いて、召命に忠実に生きるということです。それぞれ、タラントの種類やタラントの量は違います。任せられたものが1タラントであろうと2タラントであろうと、大事なのは忠実に果たすということです。やがて、神様の前に立つときがきます。「あれー、私の成すべきことってなんだったっけー」ということのないようにしましょう。今から8年くらい前のことですが、イスラム過激派がある神学校を襲いました。二人は大きな刀で切られ、一人は完全に死にました。もう一人も首を切られて死にました。隋液が出て、首がぷらんぷらんの状態で、かけつけた医者は「これはだめだ。でも、棺にこのまま入れるのは可愛そうだから、首だけ縫っておこう」と荒っぽく縫いました。ほったらかしにされていた彼は2時間後に生き返りました。その後、奇跡的に傷が治り、自分が天国に行ったことを人々に証しました。彼の証によると、天国にはいくつかの部屋があったそうです。救われても不忠実だった人の部屋、一生懸命忠実に仕えた人の部屋など、いくつかあったそうです。部屋の中で、人々はそれぞれ、何かを問われているようだったということです。みなさん、どうでしょうか?神様はすでに、あなたの心に「あなたはこれをもって神様の栄光を現しなさい」という賜物と召しを与えておられるのではないでしょうか?私たちは多くのことができません。神様が与えた賜物と召しに焦点を絞る必要があります。

 

④目標を設定するときの注意点

 目標設定の場合重要なことは、できるだけ具体的であるということです。ビジョンとしてあげるだけではなく、具体的にどのようにするのか、どの程度にするのか書き上げる必要があります。そして、短いことばで「私の神様から与えられた目標はこれ、これです」と言えたらすばらしいです。みんなに言う必要がありませんが、神様とコーチには言ったら良いですね。コーチは自分の夢を押し付けるのではなく、その人に与えられた夢を助ける人です。また、目標をあげるもう1つの注意点は、目標は測定可能であるべきです。何年後にこのくらいとか、何年後にこうなると明記しておけば、そのときが来たとき、達成できたか達成できなかったが分かるからです。たとえば、「私は全世界に出て行って福音を宣べ伝えます」というのは大き過ぎます。どこに行くのか、何年間で、どのくらいの人に福音を宣べ伝えるのか。そして、何人の人が救いに導かれるのか。そういうふうに測定可能であるべきです。私は総会資料に「10年間で350名の礼拝になるように」と書きました。350名は、5つの枝教会、合わせてです。同時に、5人の牧師、50人の信徒リーダーが与えられるということです。私が赴任してから、22年になりました。「未だ100名の礼拝も達成していないのに、何を言うんだ。これまで何度も、しゃべってきたのに空砲じゃないか」と私自身もそのように思います。でも、目標をあげないで、このまま行くと、あっという間に10年が来て、引退の年を迎えるでしょう。実はきょうの午後、練馬教会の「主任牧師セレブレーション」に招かれています。横田義弥副牧師が、小笠原先生に代わって主任牧師に就任します。小笠原先生は72歳です。それでも、後10年後に40の教会を生み出すというビジョンを掲げています。40というのは教会外のセルを含めてということですが、それでも大きな風呂敷かもしれません。小笠原先生は「目標達成はもちろん重要だが、そこへ行くまでのプロセスがもっと重要です」とおっしゃっておりました。

 でも、みなさん数字をあげることの弱点があります。それは、相手が絡んでくるものは不確実な要素が多いということです。教会が何名になるようにというのは、相手がいることなので、どうなるか分かりません。ビジネスマンが売上をこのくらいにしますと言っても、相手がいますので、どうなるか分かりません。主婦が「夫や子供から良い主婦と言われるように努力します」という目標を立てたとしても、相手がいるのでどうなるか分かりません。でも、だれも阻止することのできない目標の立て方があります。それは、自分に関した目標であります。たとえば、350人集まる教会に相応しい牧師になるというのは、だれも妨げることができません。人格的にこのような人になり、このようなスキルを身につけ、このようにチャレンジをする。そういう、自分に対する目標を立てることができます。また、ある人は、この仕事や奉仕をするのに、このような技術を身につけ、このような努力をし、このような人格になります。こういう目標はだれも阻止することができません。ですから、自分に関する目標を立てるならば、そのようにふるまい、そのように努力するようになるでしょう。まず、私たちは自分に対する思いを変え、思いを新しくする必要があります。周りの人や環境を変える前に、自分を変えていく。自分のライフスタイルをより良いものへと変えていく。そうするならば、結果的に、あなたに影響されて、周りの人や環境が変わっていくのではないでしょうか?夢と希望を持っている人、肯定的で前向きの人、そういう人のところに人が集まるものです。どうぞ、神様から与えられた、「賜物と使命はこれだ!」とつかんで、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進みましょう。神様はあなたのために、すばらしい賞をご用意しておられます。

 きょうは「母の日」でした。母の日にちなんで、何か語らなければなりません。先日、家内に聞いたらこんなことを言っていました。子供が小さいときは、どこかへ行くという計画が立てられない。急に熱を出していけなくなる事がよくある。そのとき、怒ったり、がっかりしないように、計画を立てないで流れに任せるようになったということです。そういう意味で、お母さんは自分の目標、自分の計画どおり突き進むというよりも、夫や子供をどうしても優先させ、彼らの目標や計画がかなうように、自己を犠牲にするところがあるのかもしれません。かなり前のことですが、長野さんという婦人牧師が詩集を出しました。そこに「お母さんは、削り節。自分を削って与える削り節」と書いてありました。ちょっと悲しい感じもしますが、聖書には「受けるより、与える方が幸いです」と書いてあります。神様から与えられた、母としての使命というのがあります。それを果たすときに、やはり神様からの報いが与えられることを信じます。

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