2011年7月31日 (日)

義人の祈り       ヤコブ5:16-20

ヤコブの手紙はきょうでおしまいです。とても辛口のメッセージでした。でも、最後に最も辛口のテーマが残っていました。なぜなら、当亀有教会に足りない3つのことが述べられているからです。いや、これは日本の教会に共通しているテーマかもしれません。最近、礼拝人数がかなり減っています。向かって右側の人たちは忠実な方々が多いように見受けられます。しかし、真中と左側の席がとても空いています。なぜでしょう?あんまり暑いので出て来られない。あるいは、いろんな葛藤があって信仰から離れている。教会が独立したばかりなので、牧師としてキツイところもあります。でも、ヤコブは3つのことを述べて、叱咤激励しています。

1.罪の告白

 ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」この16節は前の14,15節とつながっていると思います。病気の人が長老たちを招いて祈ってもらいました。そうすると、病気から回復し、さらには罪まで赦されると書いてありました。分脈から見ると、罪が原因で病になる可能性もあるということです。英語の詳訳聖書を見ますと、癒しというのは、思いや感情の調子が良くなることと書いてあります。現代的に言うなら、メンタルな病気の癒しです。最近は、メンタル・クリニック、心療内科ということばを良く耳にします。クリニックだけではなく、いろんなカウンセリングがあります。日本も欧米並みに、そういうところへ行って、治療を受けている人が増えているようです。教会でも、心理学を基盤にした内面の癒し、カウンセリングがさかんになりました。私も数えてみると5つくらいは、そういうところに通って、スキルを学び、コーチングに活かしています。でも、初代教会の頃は、メンタル・クリニックとか、カウンセリングがあったのでしょうか?

 ヤコブは「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」。そうすれば、癒されると保障しています。インドネシアのエディ・レオ師がこのようにおっしゃっていました。「現代のプロテスタント教会で、聖書の教えを最も、実行していないものは何でしょう。それは互いに罪を告白することです。これが現代のプロテスタンと教会において最もなされていないことです」と言われました。そういえば、カトリック教会、特に修道僧は、互いに罪を告白することを毎日の日課にしています。どんな小さなことでも、心で思ったことでも、彼らは互いに罪を告白します。初代教会はこれがよくなされていました。だから、初代教会にはメンタル・クリニックもカウンセリングも必要なかったのです。彼らは互いに罪を告白したので、精神的な病気にならなかったのです。なんということでしょう。現代は、罪を告白することよりも、「世の中が悪いですね。あなたの生い立ちがそうさせたんですね。それは弱さですね。大変でしたねー。あなたが悪いのではありません。お気の毒ですね。処方されたお薬を飲んで、あまり深刻に考えないようにしてください」。そして、カウンセリング、カウンセリング、さらにカウンセリング。何もカウンセリングが悪いと言っているのではありません。私もそういうものを5つも学び、多額のお金をかけたくらいですから。

 でも、そういう病気の原因は罪から来ています。重要なのは罪を告白することです。この世のカウンセリングはそうでありませんが、最近のキリスト教のカウンセリングは罪の告白をはっきり言います。エリヤハウスでは、「祈りのミニストリー」と言いますが、5つのポイントがあります。第一は認識する。第二は罪を悔い改める。第三は赦し。第四は古い構造を十字架につける。第五は新しい命をいただく。親をさばいたとか、怒ったとか、誓ったとか、そういう苦い根を認めて、悔い改める必要があります。このところに「互いに罪を告白しなさい」とありますが、これは教会内の交わり、セルにおいて欠かせないテーマです。勉強会でなどでは、大体、自分の考えとか経験を分かち合います。しかし、本当に分かち合うべきことは、内側にある自分の問題、葛藤、心の傷を分かち合うべきなのです。特に男性は、頭(マインド)のことばかり話して、心(ハート)のことは言いません。メンズミニストリーやLTGでも良く言われますが、罪を互いに告白することが、癒しとなり、力の源となります。英語ではアカウンタビリティーですが、まだ日本語になっていません。無理やり「説明責任」と訳しています。本当の共同体は、この「説明責任」がなければなりません。罪があるならば、互いに告白する。そして、祈ってもらう。これは神の教会が率先して、行うべきテーマです。どうぞ、亀有教会の各セルにおいて、また夫婦において、2、3人の交わりにおいて、互いに罪を言い表しましょう。そうすれば、私たちは霊的にも内面的にも健康になります。

そして、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とつながっていきます。「私たちは義人と聞くとクリスチャンはみんな義人だから祈りはきかれる」と思ってしまいます。そうではありません。互いに罪を告白し、義人となったので、その祈りがきかれるのです。何故、初代教会はそんなに力があったのでしょうか?彼らは集まるたびに、互いに罪を告白したからです。そして、その後、心を合わせて祈ったので、力あるわざが起きたのです。私たちの交わりも、うわべだけの交わりではなく、互いに罪を告白し合いましょう。そうすると、義人の祈りには大きな力があり、驚くほどの効果を生み出すのです。

2.熱心な祈り

 ヤコブ5:17「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」ここに、「エリヤは私たちの同じような人でしたが」とあります。これも英語の詳訳聖書を見ると興味深いことが書いてありました。エリヤは私たちが持っている性質、つまり、私たち持っているような、感情、気質、体質の弱さを持っていたということです。エリヤといえば、旧訳聖書で最も力のある預言者の一人です。エリヤは、アハブ王が悔い改めないので、「どちらが本当の神さまか試そうじゃないか」と挑戦状をたたきつけました。エリヤは、たった一人で、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦うことになりました。バアルの祭壇と主の祭壇を二つならべ、天から火をくだした方が本当の神ということになりました。バアルの預言者たちが朝から昼間まで叫んでも、踊ってもダメです。最後に、自分の体を剣や槍で傷つけて求めました。しかし、何の応答もありませんでした。次はエリヤの番です。エリヤは自分が供えた祭壇に、水までかけました。そして、エリヤが祈ると、天から火が下り、いけにえと、たきぎと、石の祭壇、みぞの水もなめ尽くしました。その後、バアルの預言者たちを捕らえて、ひとり残らず殺しました。しかし、その後、どうなったでしょう?アハブ王の后、イゼベルが真っ赤に怒って、エリヤに「私が明日まで、お前を預言者たちと同じにしてやるから」と脅かしました。エリヤは恐ろしくなって、遠くへ逃げました。荒野で、「私のいのちを取ってください」と主に願いました。ある人たちは、エリヤがバーン・アウト、燃え尽き症候群になったのでは、と言います。もう、彼は何にもやる気がなくなったのです。このように、エリヤにも私たちと同じ、恐れや燃え尽きがあったということがわかります。

 でも、ヤコブはエリヤを何と言っているでしょうか?「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」そうです。主はイスラエルをさばくために、ききんを与えました。そのとき、主はエリヤの祈りで雨を止め、また3年半後、エリヤの祈りで天から雨を降らせました。エリヤはどれくらい熱心に祈ったのでしょうか?Ⅰ列王記18章を見ると、「地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた」とあります。エリヤが祈って、しもべが海から雲が上って来るか見に行きました。「見えたか?」「まだ見えません」「見えたか?」「見えません」それを何度も繰り返しました。そして、7度目に、しもべが言いました。「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海の上から上っています。」その後、大雨がやってきます。祈っては、見に行かせ、祈っては、見に行かせ、少なくとも、7度は繰り返したことがわかります。それだけ、熱心に祈りました。7は完全数ですから、徹底的に祈ったということです。私たちも1回で祈りをやめる場合があります。3回くらいまでは祈るかもしれません。でも、7回、徹底的に祈るということがあるでしょうか?

 私たちはエリヤの熱心さ、熱心な祈りを学ぶ必要があります。エリヤは私たちと同じ弱さを持っていました。しかし、熱心に祈ったら、すごいみわざが起こりました。「私たちが熱心に祈っているだろうか?」「私が熱心に祈っているだろうか?」ちょっとは祈っていますが、熱心に祈るというところまでは行っていません。熱心に祈るために、祈祷会を持てば良いのでしょうか?早天祈祷会、徹夜祈祷会、断食祈祷…。教会は、祈りをプログラムにしてきました。私はそれらを全部やりました。でも、セルチャーチを導入してから、全部やめて、セルで祈るように指導しました。私もディボーションで個人的には祈っています。でも、どうでしょうか?そういう祈り会をやめると、祈りも少なくなったように思います。でも、祈りはプログラムではありません。プログラムにすると、形式的になり、「祈らなければ」という律法になります。そうではなく、どんな形であろうと、一緒に集まれば祈る。そういう教会になったらと思います。この教会はセル教会?いや、セルを目指していますが、どんな集まりであろうと2つのことは絶対忘れてはならないと思います。1つは失われた魂への伝道です。もう1つは集まったら必ず祈るということです。おそらく、どんな集まりでもこれまで祈って始め、祈って終るのではないかと思います。それを今後は、もっと具体的な課題を上げ、もっと熱心に祈る必要があると思います。そのためには、まず個人の祭壇、個人の祈りを熱くすべきであります。神さまは見えるところではなく、隠れたところの祈りを聞かれると聖書に書いてあるからです。どうぞ、亀有教会を神さまが日本のために用いてくださるようにお祈りください。この10年、私がバトンタッチします。その後継者が与えられますように。しかし、それが目的ではありません。亀有教会に枝教会ができ、5人牧師、50人の信徒リーダーが与えられますようお祈りください。現在、目の前の礼拝人数が減り、予算もギリギリです。今が、新しい道に進む、転換期だと思います。今こそ、熱心さ、熱心な祈りが必要です。人にはできないが、神にはできる。イエス様は「私が私の教会を建てる」とおっしゃいました。ですから、神の教会に、衰退はなく、ただ成長しかないのです。

3.救出作戦

 ヤコブ5:19-20「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」ここは、信仰を離れた兄弟に対して、どうすべきなのか教えている箇所です。「真理から迷い出た者」とあり、その後には「迷いの道」と書いてあります。その人は、一度はイエス様を信じました。しかし、罪や過ちを犯し、曲がった道を歩んでいます。それで、自分では、もう戻れない状態になって魂の救いすらも失っているという状況です。キリスト教会においては、「一度、救われた者は滅びることがない」という、カルバンの予定説が主流であります。もし、それが正しければ、洗礼を受けて救われたのだから、放っておいても大丈夫ということになります。私もかつて、その立場にありましたが、聖書を読むと必ずしもそうではありません。ヘブル人への手紙を見ると、あちこちそういうみことばが見つかります。また、Ⅰヨハネには、このようなみことばがあります。Ⅰヨハネ5:16,17「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」クリスチャンには、2種類の罪があって、死に至る罪と死に至らない罪があるということです。死に至らない罪を犯している人をみたら、神さまに求める必要があります。

おそらくヤコブが言っているのは、死に至らない罪のことであり、神さまに求めたら、再びいのちが回復するものです。ヤコブは「戻りたくても、戻れない兄弟がいたなら彼を連れ戻しなさい」と命じているのです。「連れ戻す」という、ギリシャ語は、「転向させる、立ち直らせる、引き戻す」という意味のことばです。おそらく、おかしくなった信仰を再び与える、回心させるということでしょう。先月の役員会で「最近、教会に来なくなった兄姉を洗い出してみよう」ということが話し合われました。一人ひとりを見ると、それなりの理由があると思いますが、中には「どうして来ないのだろう?」と理由が分からない人もいます。長期欠席になり、やがては名簿から消されるということになります。申し訳ありませんが、正直、私は淡白なところがあります。「来なさい」「来なさい」としつこく言わないタイプです。言わないというよりも、言えないという方が正しいかもしれません。何故かと言うと、来ない理由を聞いて、批判され傷つく可能性があるからです。その人は、一度は得ていた魂の命を、今、失っている状態です。マタイ18章にそのような記事があります。マタイ18:12-14「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」イエス様は「九十九匹を山に残してでも、迷った一匹を捜しに出かけるのが本当だ。なぜなら、この小さい者の一人が滅びることは、天の父のみこころではない」と教えています。ですから、何としてでも、教会の群から離れた兄姉を連れ戻す必要があります。

では、どういう理由から、礼拝を休み、教会から離れてしまったのでしょうか?そして、どういう対処が必要なのでしょうか?Ⅰヨハネ2章によると、子ども、若者、父と3種類の人が教会にいることがわかります。それぞれ必要があり、その必要が満たされないと教会を去っていきます。霊的な子どもが信仰から離れるのは、罪が永遠に赦されていることを知らないからです。「洗礼を受けたけれど、また再び罪を犯してしまった。もう神さまは赦して下さらないのではないだろうか?」そうやって罪責感にとらわれて、教会からも神さまからも離れるのです。そういう人たちのためには、「救いの確信」を与える必要があります。罪を犯して失うのは、神様との交わりであって、神さまの子どもである身分は失わないということです。また、霊的な子どもは温かい交わりと養いが必要です。教会の人たちが率先して自分のセルに招き入れ、できるだけ孤立しないように助ける必要があります。落ちないように支えるという意味のフォーローアップが大事です。また、霊的な若者はどうでしょうか?悪い者に打ち勝つ必要があるのに、悪習慣や古い罪に捕らわれている人です。一度は清い生活をしていたのですが、この世の友だちが誘ってくるし、自分の中にも未解決の問題があります。こういう人こそ、兄弟姉妹が行って、連れ戻さなければならない人たちです。ランボーという映画がありましたが、敵地にひとりで乗り込んで行く。たった一人で捕虜を奪還するという乱暴な映画でした。私たちは一人ではなく、チームでそれをやるべきです。最後は父たちとあります。この父たちは信仰歴が10年、20年も経っているのですが、父になりきっていない。若者と父の間に留まっている人です。こういう人は羊というよりも、角が生えたヤギです。牧師や教会にいろんな不満を持っています。気にいらないことが起こると教会を去ってしまいます。信仰はあるかもしれませんが、教会には行かないというタイプです。イエス様ではなく、教会に躓いているのです。いろんな行き違いや誤解が重なって、そうなってしまいました。もし、父まで成長していれば、牧師や教会の足りないところをカバーするのですが、そこまで達していません。そういう場合、両者を取り持つ仲介的な人が必要です。一度へその曲がった人を連れ戻すにはものすごいエネルギーと時間がかかります。

このように、「ああだ、こうだ」と理論的に分析することは可能です。でも、一番必要なのは愛があるかどうかです。愛は理屈ではありません。愛はイエス様から押し出されて出てくる行動です。パウロは、口語訳ですが、Ⅱコリント5:14「キリストの愛が私たちに強く迫っているからである」と言いました。自分が何とかやらなければ、というよりも「キリストの愛が強く迫っているから、そうせずにはおれない」ということです。私が教会に通い始めた頃、あることで躓いて、教会に行かなかった頃があります。すると職場の先輩は、「昨日の説教はこうだったよ」とお話ししてくれます。また、礼拝のテープや榎本保郎先生のテープを貸してくれました。ある日曜日、車で、教会の前まで行くのですが、通り過ぎてしまいました。1ヶ月後、先輩に誘われて、また教会に通い、洗礼を受けることができました。礼拝後、「昼食をしていきませんか?」と誘われましたが、二階に上ると、女性ばかりでした。恥ずかしくて帰りました。何ヶ月後、神学生が強く勧めてくれたので何とか昼食を食べました。「早天祈祷会がありますよ」「英語礼拝がありますよ」「修養会がありますよ」、どんどん誘われ、最後には教会に入り浸りになりました。長老さんから「うちのアパート安いよ」と言われ、そこに住みました。人々から「三畑マンション」と呼ばれていましたが、床が傾いていたせいもあってか、月1万円でした。長老さんは「ここに入った人はみんな献身するんだよ。この建物は東京聖書学院の方に傾いているんだ」と言いました。そのことばのごとく、半年後に神学校に入りました。良く考えると、いろんな人たちの交わりによって支えられ、成長してきたんだなーと思います。この礼拝だけでは、人は教会につながりません。なんとか、キリストの愛によって押し出され、愛の交わりを熱く、そして密にしていきたいと思います。

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2011年7月24日 (日)

信仰による祈り     ヤコブ5:12-15

 ヤコブは竹を割ったような性格があり、それが手紙にも出ています。12節から15節まで、4つの命令が記されています。12節は「何よりもまず、誓わないようにしなさい」とあります。13節では「苦しんでいる人は祈りなさい」、そして「喜んでいる人は賛美しなさい」。14節は「病気の人は祈ってもらいなさい」と書いてあります。一読して、「当たり前のことだよなー。ここからどうメッセージしたら良いんだ!」と文句を言いたくなります。しかし、いろんな訳の聖書を平たい気持ちで、何べんも読むと、神さまがメッセージをくださいます。これは説教者が体験できる奇跡でもあります。神さまからメッセージが与えられたら、もう、しめたものです。エレミヤのように語らずにはおれなくなります。

1.簡素な生活

 12節をお読みいたします。私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。このことは、マタイ5章で、イエス様が教えられた内容と同じです。私はメッセージのために、いろんな聖書を読みますが、今回はニュー・イングリッシュ・バイブルが良くはまりました。その聖書には、「あなたが『はい』か『いいえ』と言うとき、『はい』か『いいえ』と簡素にしなさい」と書いてあります。「簡素な」は、英語ではplainであります。プレーン・ヨーグルトとか、プレーン・ケーキなどと言ったりします。「あっさりした、味のついていない」という意味です。でも、plainには、「明白な、簡単な、装飾のない、簡素な、率直な、気取らない」という意味があります。私はそれらの中から、「簡素な」を選びました。でも、「はい」か「いいえ」と簡単に言わないで、あれこれ誓ったならどうなるでしょうか?日本では「誓います」とは、あまり言わないかもしれません。その代わり、「きっと、必ず、絶対に、この次は」という言い方をよくすると思います。これも「誓い」の中に入ると思います。

 なぜ、人々は、誓ったり、「きっと、必ず、絶対に、この次は」と言うのでしょうか?それは、信用されていないからです。もし、その人が普段から、言ったことを実行する人、約束を守る人だったらどうでしょうか?別に誓ったり、強調したりする必要はないでしょう。おそらく、過去において、そうしなかった、約束を果たさなかった。だから、言い訳がましく、「今度こそは」「絶対に」とか、言うのではないでしょうか?それが、2回目、3回目になると渾身の力をこめて「今度こそは!」「絶対に!」と言います。私の子どもたちは、「絶対、○○しない」「絶対、○○する」とよく使ったものです。おそらく、友だちもみんなそういう言い方をするのを真似ているのでしょう。そういう時、私は「『絶対に』ということを使ってはいけないよ。人間は絶対にということはありえないから」と注意したものです。「絶対に」ということを使うと、そうできなかった場合、もう言い逃れができなくなります。ヤコブは「さばきに会わないためです」と教えています。私たちは年を取ればとるほど、知識が増せばますほど、信仰が深くなればなるほど複雑になりがちです。国会中継を見ていても、「はい」なのか「いいえ」なのか「はっきりしろ!」と言いたくなります。最初は「はい」と言ったのに、後から「いいえ」と言ってみたり、最初は「いいえ」なのに、最後は「はい」になったりします。なんだか、教会の総会を思い出してしまいます。私はplain、簡素な生き方が好きです。plainの中には、「気取らない、ごまかしのない、腹蔵のない」という意味もあります。クリスチャンが気取ったり、クリスチャンがごまかしたり、クリスチャンが腹蔵のあるというのは似合いません。なぜでしょう?それは神さまを恐れているからです。神さまは私たちの心の内をよくご存知です。神さまにとって、私たちの本音も、動機も、かけひきをしているかどうかも明白です。だから、私たちは裏表のない、真実で簡素な生活を主にあって送るべきです。

 13節前半「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」これも、「当たり前すぎて、メッセージにならない」と思います。でも、さきほどのplain簡素な生活そのものであります。苦しんでいる人は、どんなことで苦しんでいるのでしょうか?仕事がうまくいかない。人から誤解されて悪く言われている。体のあちこちが痛い。解決策が見つからないで苦しんでいる。この地上にいるといろんな苦しみがあります。でも、多くの場合、人が苦しみに会うとどうするでしょうか?人に相談します。今は携帯やメール、チャット、「つぶやき」があります。ある人はお酒を飲んだり、カラオケに行ってうさを晴らす。ゲームやビデオ、他の楽しいことで気分を紛らわせる。でも、ヤコブは「祈りなさい」と命じています。これって、すごいんじゃないでしょうか。私たちは苦しみにあったとき、その苦しみと格闘します。そして、その苦しみや悩みを人のところに持っていきます。あるいは、苦しみをしばし避けるためにお酒や楽しみに走るかもしれません。多くの場合、それらは中毒性があります。「クリスチャンはお酒を飲んではいけない」という教会もあります。私は、この教会で強くは言いません。でも、その理由は分かります。苦しみにあったとき、お酒に逃げてはいけないということです。どうするのですか?神さまのところへ行って、祈るのです。

 これもニュー・イングリッシュ・バイブルに書いてありました。Is anyone among you in trouble? He should turn to prayer.と書いています。turnとは、「向きを変える」という意味です。直訳すると、「祈りの方を向かなければならない」となります。私たちは苦しみに遭遇すると、それに巻き込まれるか、逃げるか、どちらかをしがちです。でも、「祈りに向かう」これが一番の解決策です。大川牧師が礼拝メッセージでよくおっしゃっています。「祈りに導かれることは、すべて良し」。人生において、様々な苦しみや問題に出くわします。「ああ、なんでこんなことが起きたんだろう」「ああ、いやになっちゃうなー」。でも、そうじゃない。「祈りに導かれることは、すべて良し」と、向きを変えて、神さまに祈る。これこそが、すばらしい簡素な生き方であります。

 13節後半「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」これも、「当たり前すぎる」と思います。しかし、そうではありません。ある人が喜んでいる。人は、どんなことで喜ぶのでしょうか?やっていたことがうまくいった。欲しかったものが与えられた。夢がかなった。苦しみから脱することができた。「やったー!」「うまくいった!」そういうときがあります。先週は「なでしこジャパン」がアメリカに勝って、世界一になりました。「あのゴールどうやって蹴ったんだろう?PK戦もすごかったなー。とにかくすごいよなー」と思いました。一番喜んでいたのは戦った選手たちでしょう。そればかりではなく、日本中が喜びにわきました。ドイツや韓国、中国も喜んでくれていました。世界一、金メダル、これはスポーツにとっては、最大の喜びだと思います。でも、選手たちが「神さまを賛美しただろうか?」ということです。日本はクリスチャン人口が少ないので、おそらくはしなかっただろうと思います。「やったー!」「うまくいった!」ということを賛美しないで、喜んでいただけだとどうなるでしょうか?彼らは今度、オリンピックで金を狙うようです。そして、次からは追われる立場になりました。今回は、「失うものは何もない」とリラックスした気持ちでプレーができたと思います。アメリカはガチガチでした。なぜなら、「絶対、勝たなければならない」と思ったからです。

 なぜ、喜んでいる人が、神さまを賛美すべきなのでしょうか?私たちは「うまくいった」「願いがかなった」と喜びます。でも、それはだれのおかげでしょうか?「おかげ」は仏教的な表現かもしれませんが、お許しください。神さまのおかげですよね。神さまがそれを与え、神さまがかなえてくださったのです。もし、喜びを喜びとしていたなら、傲慢になり、誇りになります。「私がやった、俺がやった」となります。あの選手たちは、金メダルとトロフィーをもらいました。それはすばらしいことです。でも、それを自分たちの誇りにしているならば、次からは、プレッシャーになるということです。私たちは栄光を神さまにお返しすべきです。「主よ、あなたのゆえです。あなたを賛美します。ハレルヤ!」。そうすると、不要な誇りとかプレッシャーが肩から落ちて、新しい気持ちで、またチャレンジできます。私たちは、簡素な生活がとても重要です。「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい」であります。私たちは苦しみも喜びも、主に捧げつつ、簡素で身軽な歩みをしたいと思います。

2.信仰による祈り

 14-15節をお読みいたします。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。こんどは、病気の人に対する勧めです。病気の人は、何をすべきなのでしょうか?普通でしたら、病気の人は教会の長老たちのところに出向いて、「どうかお祈りください」と願うべきでしょう。しかし、ヤコブは彼らに「来て下さい」と招けと命じています。なぜでしょう?1つは病気が重くて、自分からは行くことができないというケースです。もう1つは、「遠慮しないで、招いて祈ってもらって良いよ」ということです。これは当教会のことではありません。ある先生から聞いたことです。ある教会の信徒が、病院に入院しました。しかし、牧師先生はそのことを知らずに、ずっと後で、兄弟姉妹から間接的に聞きました。「どうして?」と聞くと、「先生には言わないで」と口止めをされていたそうです。考えてみると、うちの教会でも、そういうことがあったかもしれません。「心配かけなくないので」「大げさにしたくないので」という理由だったかもしれません。でも、ほとんどの場合は、連絡してくださいますので、入院された直後に、病院に行って祈ったという記憶が多いです。どうでしょう?「入院したので、祈ってください」と言いづらいのでしょうか?

 ヤコブ書は何と言っているでしょうか?「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は堂々と、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」「堂々と」は、私が加えたものですが、そういうニュアンスはあります。なぜ、会の長老たちを招いて、祈ってもらえ」ということなのでしょうか?それは、肉体の病気になると、祈る気力すらなくなるからです。私たちは肉体が弱ると、信仰も弱る傾向があります。そうすると、ますます、体も悪くなります。だから、病気の人は、教会の長老たちに出向いてもらって、祈ってもらったら良いのです。今だったら、電話して「どうか来て、祈ってください」と願えば良いのです。教会の長老たちというのは、今で言うと牧師や役員、霊的指導者という意味です。オリーブ油は、マルコ福音書6章でも、弟子たちがそれを用いて病を癒したとあります。オリーブ油、そのものに癒す力があるというよりも、それが癒しの管になるのではないかと思います。「油を塗る」というのは、聖霊の助けを求める行為であります。「長老たち」とありますので、複数です。マタイ18章に「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」とあります。イエス様がそこに臨在して、その祈りを聞いてくださるということです。だから、「主はその人を立たせてくださいます」と書いてあるのです。ニュー・イングリッシュ・バイブルは、「ベッドから、彼を立たせてくださると」訳しています。マルコ2章で、イエス様は中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい」と言われました。「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、出て行った」とあります。ヤコブ書5章からも、完全に癒されて、立ち上がるその様を思い浮かべることができます。

3.罪の赦し

 ここには、病の癒しだけではなく、罪の赦しのことも書いてあります。15節後半「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は癒されます」とあります。14節から15節をそのまま読むと、木に竹を接いだような感じになります。でも、これは、その人の病が罪から来る場合のことを言っているのです。ですから、リビング・バイブルや現代訳聖書はこのように訳しています。「もし病気の原因が罪によるものなら、主はその罪をも赦してくださいます」。これを見て、驚く人がいるのではないでしょうか?「え?罪が原因で病気になるの?」と疑いの目で見るかもしれません。すべての病気は罪から来たものです。でも、それはアダムの罪、最初の人間が犯した罪から来たものです。そのため、私たちに病気や死が訪れるようになったのです。でも、神さまの一般恩寵(恵み)で、人間は健康で寿命を全うできるようになっています。最後は体のどこかが壊れて、お医者さんは何らかの病名をつけるかもしれません。でも、クリスチャンの場合は、「この地上の使命が終ったので、神さまが天に召してくださった」と考えるべきです。しかし、どのくらいの割合か分かりませんが、アダムではなく、その人自身が犯した罪が原因で病気になるケースがあります。全部ではありません。だから、病気の人をつかまえて、「何か未解決の罪があるのではないでしょうか。罪を悔い改めるべきですよ」と言ってはいけません。そうすると、その人は肉体と心と二重の苦しみを負うことになるでしょう。だから、そう簡単には言ってはいけません。ただ、その可能性があるということです。

 チョー・ヨンギ先生の本に書いてありました。あるとき、学校の校長をしているご婦人が面会を求めて来られました。このご婦人は関節炎を患っており、どの病院に行っても治らなかったそうです。チョー先生は、彼女の上に手を置いて、祈り、命じ、叫びました。教会には癒された人が大勢いると言うのに、彼女だけは癒しの恵みに預かることができませんでした。あるとき、聖霊様が「私は彼女に力を現すことができない。彼女が前の夫を憎んでいるからだ」と教えてくださいました。そこで、先生は彼女に「姉妹よ、ご主人と別れなさい」と言いました。彼女はびっくりしながら、「それはどういう意味でしょうか?私は主人と10年前に離婚しています」と答えました。先生が答えました。「確かに、法律的には離婚されました。でも、精神的にはどうでしょうか?あなたは来る日も来る日も、夫を呪い、夫を憎んできました。あなたは今でもご主人と暮らしています。ご主人に対する炎のような憎しみがあなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです。この憎しみがじゃまをして、関節炎を治らせないようにしているのです。」彼女が反発しました。「そうです。でもあの人は、本当にひどい仕打ちをしたのです。結婚したのは良いけれど、仕事は何一つしようとしない怠け者。私がせっかく得たお金を湯水のように使い、最後はあっさり私を捨てて、別の女と駆け落ちしたのです。そんな人間をどうして赦せるでしょう」と言いました。チョー先生は「それだったら、あなたの関節炎は治りません。でも、神さまはあなたの心の中から流れ出て、あなたを癒そうとしておられるのです。だから、夫を愛して、夫を祝福しなさい」と答えました。彼女はその場で、しばらく悶え苦しみました。何度か先生とやり取りした後、「私は夫を赦します。夫を愛します。夫を祝福します」と告白して祈りました。それから、先生は彼女に手を置いてお祈りしました。すると、おおよそ3ヶ月後、彼女の関節炎は完全に癒されたということです。ですから、罪が病の原因になったり、罪が病の癒しを妨げている場合があるということです。チョー先生は『第四次元』の中で、憎しみ、復讐心、恐れ、劣等感、そういったものが病の原因になったり、あるいは病の癒しを妨げていると教えていました。

 きょうのメッセージの主題はplain、簡素な生活ということです。現代社会はあまりにも複雑で、情報が飛び交っています。今は携帯だけではなく、フェイスブックをやっている人もいます。「そんな情報どうするんだ?処理しきれないだろう」と思います。また、いろんな恐れや心配で、夜も眠れないという人が大勢います。そして、多くの人が精神的な病と戦っています。日本人は、人の目や世間体に敏感なところがあります。でも、人の口には戸を立てることはできません。また、どう思われても、「神さまがあなたをどう思っているか」であります。私たちは神さまの御目のもとで、正直で、潔白に生きれば良いのです。plainには、「明白な、簡単な、装飾のない、簡素な、率直な、気取らない」という意味があります。中世に描いた聖画は非常にゴテゴテしています。弟子たちの服装も華美で、イエス様のお顔もどちらかと言うと無表情です。今のキリスト教のカレンダーを見るとどうでしょう?装飾のない、簡素なお姿のイエス様が多いように思います。また、数年前から「マンガ聖書」できて、イエス様もマンガになりました。マンガほど、簡素なものはありません。これが世界中に広がっています。新生宣教団のホームページを引用致します。「マンガを通して、読者はイエス・キリストのストーリーに引きつけられ、神がひとり子を送ってくださったという犠牲の愛に心の目が開かれます。イエス・キリストの死と復活が現実となって迫り、多くの人に信仰を与えているのです。識字率の低い地域のこどもにはテキストとして用いられ、 文字とそれを表現する絵の描写を通して学んでいます。特に、経済的困難に直面している国や、様々の迫害下にある子供たちへのマンガ製作は、皆様からのご献金によって進められています。マンガ聖書は英語のほか日本語、ポルトガル語、フランス語など、21ヶ国語に翻訳されており、その数は増え続けています。」この間、新生宣教団で奉仕している尾山謙仁先生から東北の被災地に行った証しを聞きました。なんと、「マンガ聖書」が大変良く読まれているそうです。ある子どもは、擦り切れるほど読み、ストーリーを全部覚えているそうです。きょうは、plain簡素に生きることをお勧めしました。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美しなさい。病気の人は長老たちを招いて祈ってもらいなさい。イエス様が共におられるなら、「簡素で、率直で、気取らない」信仰生活が可能です。派手さはないかもしれませんが、一番、安定性があり、長持ちするのではないかと思います。

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2011年7月17日 (日)

耐え忍びなさい     ヤコブ5:7-11

ヤコブは「耐え忍びなさい」と当時の人たちに命じています。分脈から見ると、賃金を払ってもらえない労働者かもしれません。また、金持ちや権力者たちによって、虐げられている人たちかもしれません。日本だったらそういう場合、「がんばりなさい」と言うでしょう。他には「我慢しなさい」とか「辛抱しなさい」と言うのでしょうか?ヤコブが言う「耐え忍びなさい」と「がんばりなさい」とでは、どこが違うのでしょうか?ヤコブはいくつかの例をあげて、耐え忍ぶことの大切さを教えています。

1.耐え忍ぶ農夫

 ヤコブ5:7,8「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」世の中に色んな職業がありますが、農夫ほど忍耐を要するものはありません。私は秋田の出身ですから、よく見て知っています。雪が解けたら、田んぼを耕運機で掘り起こします。そのあと、春の雨が降るので、田んぼをかきまぜることが容易になります。昔は、学校を休んで、みんなで田植えをしました。その後、除草機をかけて草取りをします。真夏はイモチ病にならないように、薬をかけます。数年前、家内の実家、岩手に行きましたが、リモコンのヘリコプターで薬を撒いていました。秋は収穫です。昔は杭を打って、刈り取った稲を干したものです。今はコンバインで刈り取り、すぐ袋詰めするようです。でも、台風が来る前に収穫しないといけません。稲だけではなく、他の農作物もそうですが、農家の方は本当に大変です。大地の貴重な実りを得るために、耐え忍んで待っています。私たちは忍耐を農夫から学ぶ必要があります。

 でも、現代人は「耐え忍んで待つ」ということがとても苦手ではないでしょうか?自動販売機で缶コーヒーを買うとき、10秒たっても出ない場合は、機械を蹴るんじゃないでしょうか?エレベーターに乗っていても、ボタンを押して、閉めるかもしれません。私はレジで並んでいて、前の人が、お金を出すのが遅いとき、「ちゃんと用意しておけよ!」と思います。パソコンは年数がたつとだんだん遅くなります。「ああ、早く開けよ!」とイライラします。私たちはどんなとき、忍耐を学ぶのでしょうか?なんでも、インスタントリーで、すぐ結果がでなければ、諦めてしまう。昔は「石の上にも3年」と言ったものですが、就職しても、どのくらい忍耐することができるでしょうか?何でも、インスタントリーで、スピード化の時代ですが、時間をかけなければ良くないものもあります。たとえば、熱いところで育った木は、成長が早いけど、柔らかくて柱には向きません。一方、寒いところで育つ木は成長が遅く、冬に年輪が刻まれ、硬い木材になるのです。さまざまな試練の中に、遅延という項目があることを忘れてはいけません。私たちの人生において「予定通りに事が進まない」ということがよくあります。そういう時に、その人の人格が整えられるのです。ヨセフは夢がかなうために13年かかりました。ヤコブはラバンの家で20年間仕えていました。モーセはミデヤンの荒野で40年間待ちました。イエス様ですら、公の生涯を始められたのは30歳になってからでした。神さまは、私たちを整えるために、「耐え忍んで待つ」レッスンを与えるお方です。個人の霊的な成長においても、教会の成長においても、避けられないレッスンであります。

ところで、ここに、「主が来られる」と二回書いてあります。その中に、サンドイッチのように農夫のことが書かれています。つまり、主が来られるまで待つことと、農夫が収穫を待つということとが、関係があるということです。「秋の雨」と書いてありますが、原文は「前の雨」です。パレスチナで10月に始まる雨であって、土が軟らかくなってから人々は種を蒔きます。そして、「後の雨」というのが、収穫前の3月4月に降って、その後で穀物を収穫します。収穫を祝うペンテコステが、5月のはじめくらいになっているのはそのためです。かなり前に奥山実先生が、「雨は二度降る」と題して、このことを詳しく話されたことがあります。キリスト教会では「雨」というのは、霊的復興(リバイバル)のことをさします。最初の雨はいつ降ったのでしょうか?それは2000前のペンテコステの時です。ペテロの説教で一日に3000人が救われ、教会が誕生しました。そして、あっと言う間に福音がローマにまで達しました。これが「前の雨」であります。そして、終わりの日、イエス様が再び来られるときにもう一度、雨が降ります。これが「後の雨」です。では、「前の雨」と「後の雨」の間に、雨がまったく降らないかというとそうではありません。パラパラとだけ降ります。教会の歴史を見ますと、16世紀の宗教改革、18世紀のジョンウェスレーのリバイバル、そして、20世紀は福音派、ペンテコステ派のリバイバルが起きました。でも、世の終わり、イエス様が来られる前に「後の雨」が降ります。つまり、世の終わり、大収穫が来ると聖書は約束しています。

イエス様が再び来られることを「再臨」と言います。初臨とは、イエス様が救い主として、この地上に来られたクリスマスであります。多くの人たちは、世の終わりに、もう一度、来られるということを信じていません。新約聖書には「世の終わり」あるいは「再臨」について、10分の1くらい書かれています。世界で最も福音宣教が難しい国は、イスラム圏と日本であります。タイやインドの方が日本よりもクリスチャンの%が高いでしょう。ネパールやモンゴルは20-30年前、ほとんどクリスチャンがいなかったようですが、今はどんどん救われています。日本だけが難しい。日本は宣教師の墓場みたいに言わるほどです。キリシタンから始まり、多くの福音の種が蒔かれてきました。でも、クリスチャン人口は1%にも満ちません。プロテスタント教会で毎週礼拝を守っている人は25万人くらいしかいないそうです。当亀有教会も毎週平均、60名台に落ちました。頭、痛いです。でも、今、東北の方から良い知らせが届いています。特に三陸海岸は教会もなく、伝道が難しい地方でした。しかし、東京や仙台の教会が継続的に支援活動をしています。先日、練馬の横田先生からこのようなことを聞きました。練馬教会の姉妹の実家が、陸前高田にあります。そこを拠点として、支援と伝道活動を始めました。4月から毎月、出かけましたが、まず、姪御さんが救われました。陸前高田の避難所に、いろんな教会が助け合って物資を送りました。不思議なことに、地元で有力な昭和建設の社長が姉妹と同級生でした。あるとき、避難所のスタッフのために、昭和建設の社長と焼肉パーティをしました。横田先生も加わり、良い関係が生まれました。次の日は、以前からつながりのある、南三陸町の避難所に出かけました。そのとき、1組の夫婦がイエス様を受け入れたそうです。そのご夫妻は、3月頃、宣教師が初めて声をかけました。それから、色んな人が助け、最後に横田先生が刈り取ったのです。尾山謙仁先生は新生宣教団で奉仕していますが、何百万も作った小冊子やちらしが全部なくなったそうです。以前は、見向きもしなかったのに、今回、大震災にあってから、だれもがみんな受け取るようになったそうです。

確かに大震災や津波、原発事故はない方が良いです。でも、人々の心に飢え渇きが与えられていることも確かです。もう、日本にはリバイバルが来ないのではないかと思われていました。しかし、終わりの時代、大震災という大きなマイナスの出来事が、霊的復興を与えているのかもしれません。江戸時代から、たくさんの種が蒔かれてきました。そして、世の終わり、不思議なかたちで刈り取りがなされようとしています。自分の教会が蒔いていないのに、それを刈り取ることができる。また、自分の教会が蒔いたけど、他の人が刈り取っても構わない。神の国が広げられていけばそれで良いのです。イエス様はヨハネ4章でこのようなことをおっしゃいました。「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」。終わりの時代、私たちは「自分の教会さえ良ければ良い」という教会エゴから脱するべきです。当教会は7月13日をもって、単立になりましたが、日本全体を視野に入れた、伝道牧会を進めてまいりたいと思います。世の終わり、イエス様が再び来られます。黙示録にあるような大きな患難もやってきますが、同時に大きな収穫もやってくるからです。農夫のように、耐え忍んで、大きな収穫をものにしたいと思います。

2.耐え忍んだヨブ

 ヤコブ5:11「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」忍耐といえばヨブ、ヨブといえば忍耐です。ヨブという人物は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。しかし、一瞬にして、10人の子どもが亡くなり、すべての財産が奪われました。さらには悪性の腫物で全身が覆われ、土器のかけらで掻かなければなりませんでした。その時、妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と言いました。それでも、ヨブはひとことも、罪を犯すようなことを口にしませんでした。ところが、3人の友人が来てから、ヨブに平安がなくなりました。友人たちは、「ヨブよ、お前が罪を犯したからそうなったんだ。罪を悔い改めよ」とヨブを責めました。ヨブは「そのような罪は犯していない。ああ、私は生まれてこなければよかった」と自分が生まれた日をのろいました。傷口に塩を塗るようなことが延々と続きます。最後に、年若いエリフという人が来て、ヨブは神さまを見上げるようになりました。なんと、最後の章、ヨブ記42章で「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」と告白しました。「長い40章は、なんだったんだ」と思います。ヨブ記2章読んで、そのあと、飛ばして42章を読みたくなります。確かに、ヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。でも、神さまはヨブに耐え忍ぶことを学ばせたかったのです。「ああ、いやです。神さま」と私も言いたいです。1987年から24年たっても100名礼拝なりません。8月、小学生キャンプで子どもたちを大和カルバリーまで送っていきます。そのとき大川牧師と必ず会います。毎年、会うんですね。そのとき、毎回「100名礼拝なったか?どうして100名礼拝ならないの?」と聞かれます。私の皮膚病(乾癬)も1999年発病して、12年たっても治っていません。まるでヨブです。癒しを心から信じ、癒しを行っている者として、「なぜですか、神さま?」と文句を言いたくなります。

 でも、ヤコブは何と言っているでしょうか?11後半「また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」ヨブの結末とは何でしょう?ヨブ42:12-17 主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。」羊、らくだ、牛、雌ろばなどの財産はすべて前よりも倍の数になりました。息子娘は同じ数の10人です。それからヨブの寿命ですが、おそらく200歳くらいまで生きたかもしれません。ヨブの人生はまさしく逆転勝利の人生です。しかし、多くの人たちは、ヨブの逆転勝利、倍の祝福のところまで行きません。なぜでしょう?途中で「もう、やーめた!」と諦めてしまうからです。私がよく利用する、富士箱根ランドというホテルがあります。10数年くらい前に、温泉を掘りました。1000メートル掘るのに1億円かかったそうです。しかし、温泉が出ませんでした。「うぁーどうしよう。やめようか」。でも、やめたら1億円が「ぱぁ」になります。それで、あと10メートル掘りました。そうしたら、やっと出たそうです。全部で1億1千万円かかりました。源泉は湯河原につながっており、無色透明な良質の温泉です。アメリカでは油田の話がいっぱいあります。どこの話か忘れましたが、ある人が「ここに、大きな油田がある」と試掘しました。何年間も、堀り続けましたが、見つかりませんでした。その人は「もう、やーめた」と諦めました。次に来た人が、同じ場所を掘ってみました。すると、ちょっと掘っただけで、大油田にぶち当たったということです。彼はほとんど労することなく、大金持ちになりました。前の人は、なんぼ悔しかったでしょうか?もちろん、そういう油田や鉱脈に当らないで、一文無しになる人もいるでしょう。

 でも、聖書は何と言っているでしょうか?ヤコブ5:10「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。」また、11節では「主がヨブになさったことの結末を見なさい」と教えています。結末、これはなかなか見ることができません。私もときどき、映画を見に行きますが、結末ってとっても大事です。映画ではそこに、たくさんのお金と爆弾をかけるのではないでしょうか?ハリーポッターも10年かけて、やっと終わりのようですが、結末はどうなるのでしょうか?私が見る多くの映画は、正義が勝つ、すべてが報いられるというものです。そういう映画以外のものは見ません。昔、プラトーンというベトナム戦争の映画があったようですが、報いのない映画は見ません。どうでしょう?私たちの信仰生活には結末、報いある結末というものがないのでしょうか?ヤコブは「預言者たちを模範にしなさい」とか「ヨブの結末を見よ」と勧めているのですから、期待して良いということです。ところで、アメリカでは牧師がどんどん辞めているそうです。フラー神学校の調査によりますと、2008年には、毎月1700人以上の牧師が牧会を辞めたそうです。1年では20,400人です。さらに、こういうデーターがあります。「牧師の70%がうつに陥らないように絶えず戦っている。牧師夫人(配偶者)の80%が、教会のメンバーたちから疎外され、充分に感謝されていないと感じている。牧師の50%が、あまりにも落胆しているので、できることなら牧師を辞めたいと思っているが、他に生計を立てることができないのでとどまっている。」最近、日本の若い牧師たちも、うつになり、辞めている人が多く出ています。なぜでしょう?牧師になっても報われないと思うからです。私もコーチングの働きに携わっていますが、10人中、3-4人はギリギリ牧師をやっているか、あるいは「無理なんじゃないか」という人たちです。牧師の仕事量は確かにサラリーマンよりは少ないのでずっと楽かもしれません。しかし、人から批判されると打たれ弱いということは確かです。「教会が伸びない、人が来なくなる、予算がない」みんな牧師のせいみたいなところがあります。だんだん、うつ的になり、信仰や霊力が弱くなります。

 世の終わりのクリスチャン、そして世の終わりの牧師たちにやっぱりヤコブ書は必読書です。神さまはどういうお方でしょう?「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」神さまは「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」です。しかし、なぜ、ここに神さまと書かないで「主は」となっているのでしょう?多くの場合、「主」は、契約の神さまをさし、主人とか王様という意味になります。そうすると、クリスチャンや牧師はどういう立場になるでしょうか?しもべ、あるいは召使いということになります。主人であり、王であるお方が「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」であるなら、その下で仕えている人たちはどうなるのでしょうか?「結末がどうなるか分からない。きっと報いられないんじゃないだろうか。だから、もうやめてしまおうか?」と言えるでしょうか?最後の「結末」、とか「報い」とかは、しもべが考えることなのでしょうか?もっと言うと、だれの責任なのでしょうか?主人の責任でしょうか?それとも、しもべの責任でしょうか?ローマ14:4「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」ここには、「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第である」と書かれています。もし、しもべが「結末があてにならないので、私はやめます」と言ったらどうなるでしょう?それは、主なる神様に対する最大の侮辱であり、不信仰になります。最終的に面倒を見るのは主人である神様だからです。

 17年飼っていた黒猫の「クル」が先月、亡くなりました。ミーヤから生まれたので、家の中で子どもたちと一緒に育ちました。クルも「自分は人間の一人だ」と思っていたのかもしれません。それだけ、素直な猫でした。しかし、おしっこをいろんなところにします。昔、教会の中で、おしっこをして迷惑をかけました。気はやさしいのですが、おしっこをする。これが一番の難点でした。ミーヤのときもそうですが、クルのためにいろんな猫缶を与えました。アジの塩焼きも与えました。また、ドアの開け閉めを朝に夕に行いました。最後にからだが弱り、階段も上がれなくなりました。家内が2晩くらい、添い寝して、夜中の3時頃、吐いてから息を引き取りました。猫は何にも役にたちません。仕事もしないし、食べては寝て、寝ては食べます。こっちは餌や水、トイレ、ドアの開け閉め、病気になれば病院といろいろ考えます。でも、猫から学んだすばらしいことが1つあります。それは何も心配しないで、寝ている姿です。猫は明日のことを思い煩ったりはしません。主人のもとにいれば、ごはんも食えるし、すべてが守られます。おそらく、そんなことも考えていないでしょう。ドアも自動、ご飯も自動だと思っているのでしょう。でも、猫はその日、その日を満喫して生きています。明日は死ぬかもしれない。もう命がないというのに、死ぬまで生きていました。ペットと人間は違うと文句を言うかもしれません。でも、私は猫から信頼することの大切さを教えられました。私たちには、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主なる神さまがおられます。何をしなくても、何ができなくても、神さまは私たちを愛して、面倒見て、責任を取って、そして報いてくださいます。だから、結末がどうなるかなどと、心配しなくても良いのです。主が再び来られる日まで、農夫のように収穫を期待して、耐え忍びましょう。つぶやかないで、主の豊かな慈愛とあわれみの中で、憩いつつ、与えられた一日一日を生きることにしましょう。主が生かしてくださる限り、主に仕えていきましょう。

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2011年7月10日 (日)

泣き叫びなさい     ヤコブ5:1-6

本日のテーマは、みなさん全員にあてはまらない可能性がありますので、少しだけ、先週開かれた「JCMN関東コーチングセミナー」の証しをさせていただきます。浅草の東京ホープチャペルで「ネットワーク」という主題で学びました。JCMNというのは、ジャパン・セルチャーチ・ミッション・ネットワークの略ですから、それ自体がネットワークになっています。ネットワークと言うとどのようなことをイメージするでしょうか?まず、テレビ局が全国、ネットワークでつながっています。それから、私たちがよく使うパソコンのインターネットもネットワークです。今はフェイスブックというのがあり、瞬時に映像も送れたりして、若者たちの間ではやっています。ネットワークは21世紀の新しい組織です。では、キリスト教会はどうでしょうか?伝統的な教会は、自分の教団内だけで、関係を持っています。しかし、多くの場合、ピラミッド型です。何か要請された場合、こちらから報告をするみたいになっています。しかも、形式的で表面的です。当亀有教会は、教団から独立する手続きをしていましたが、13日の水曜日に都庁から申請が降りることになりました。私自身は、前からいくつかネットワークに属して、いろんな情報を得てきました。しかし、教団の中に属している先生方は、どうしても情報が偏るので、「自分のところが最高だ」みたいに思っています。今や、教団教派を超えた、ネットワークの時代が教会にもやってきました。

ネットワークの特徴は、ボスがいないということです。みんな網の目のようにつながり、1つ1つが中心です。そして、自分もその中にいなければ、ちゃんと情報が流れて行きません。また、ネットワークは従来の組織よりも、早くて、変幻自在です。教会においても、東日本大地震のとき、ネットワークが注目をあびました。一番、早く現地に行ったのが宣教師の団体です。ワールド・ビジョンやクラッシュジャパンに私たちも献金しました。その後、教団や教会が被災地に乗り込みました。自分の教会につながらなくても、物心共にささげました。必要なものが刻々変わるので、ネットワークがとても役立ちます。現地に行くと、何教会も何教団もなく、ただ、愛と福音の種を蒔きます。その中から、イエス様を信じる人が起こされているそうです。聖書に「蒔く者と刈る者は違っても、共に喜ぶ」という箇所があります。当教会でも南三陸町の歌津というところに行かれた兄姉がおられました。なんとか、魂の救いに繋がるように祈り求めていきたいと思います。今、本当に霊的に飢え渇きがあるようです。

では、「ネットワークというのが聖書にあるのか」と言うと、あります。Ⅰコリント12章に教会はキリストのからだであると書いてあります。からだの構造はまさしくネットワークです。消化器系統、呼吸器系統、骨格、神経、血管、リンパ腺、みなつながりあって、それぞれの働きをしています。教会で言うならば、かしらがキリストで、私たち聖徒がからだの器官です。器官を英語でメンバーと言います。私は「信徒」「信徒さん」ということばが好きでありません。教会員、あるいはチャーチ・メンバーです。Ⅰコリント12章には「目が手に向かって、あなたを必要としないと言うことができない」と書いてあります。また、「1つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむ」と書いてあります。なぜなら、一人ひとりがからだの器官として、つながっているからです。当亀有教会も、聖書が言うキリストのからだなる教会を目指していきたいと思います。ネットワークは網目と似ていますが、大事なのは結び目と結び目どうしをつなぐ線です。結び目とは個人でありセルということができます。そのため個人個人が成熟する必要があります。また、結び目どうしをつなぐ線はコミュニケーションとか協力関係です。そして、ネットワークを妨げるものは、「自分だけが正しい。自分だけが優れている。だから、他の人に頼る必要がない」と言う考えです。孤立とか高慢、分裂分派は、からだなる教会にはふさわしくありません。たとえば、「私は心臓だから一番偉い。私はからだの外で、自分ひとりで頑張る」と言ったらどうなるでしょう?心臓がからだの外で動いていたら、空気しか送れません。やはり心臓はからだの中にあるとき、血液を送るポンプとして使命を果たすことができるのです。とにかく、当亀有教会は、みながかしらなるキリスト様に聞き従う、共同体でありたいと願います。

さて、ここからヤコブ書5章のメッセージに入りたいと思います。きょうの箇所を読んで、「ああ、私には関係ない。なぜなら、私は金持ちじゃないから」と思われたのではないでしょうか?でも、ほとんどの人は、「ああ、もっとお金があったらなー。できれば、お金持ちになりたい」と思っておられるのではないでしょうか?だれにでも、金銭欲や物質欲があります。「それにつけても、金の欲しさよ」というのは、必ず下の句としてくっつくようです。「古池やかわず飛び込む、水の音。それにつけても、金の欲しさよ」。「いや、私はそういうものはありません」という方がおられましたら、どうぞ教会におささげください。喜んでお受けいたします。

1.金持ちの限界

 金持ちに対する警告は、ヤコブ書の1つのテーマであります。この箇所でヤコブは金持ちに対して、富や財産には限界があること教えています。2節、「富は腐っており」と書いてあります。昔の富とは、麦、牛、羊、肉桂、香料、オリーブ油でした。その中には10年もたないものもあります。3節、「着物は虫に食われており」とあります。これはなんとなく分かります。昔は亜麻布、紫布、絹、緋糸とかいろいろありました。化繊だったらそういうことはありませんが、高級品ほど保存に弱いかもしれません。それから「金銀にさびが来て、そのさびがあなたがたを責める証言となる」とあります。金銀はさびることがないと思います。でも、その中に不純物があるとやはりさびます。聖書には「金すらも朽ちる」と書いてあります。その意味は、永遠ではないということです。ヤコブ書は終わりの日について言及しています。だから、3節に「あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました」と書いてあります。

 終わりの日とは、世の終わりの審判であります。ノアの時代の審判は大水でありました。でも、世の終わりの審判は、天から火が降ってきます。そうなると、富や着物が燃え、金銀ですらも熔けてなくなるでしょう。このたびの、東日本大地震で、多くの金庫が流されたそうです。テレビで、それが回収され、アイロンでお札をのばしているシーンを見ました。幸いなことに、いろんな証券が一緒に入っていたので、持ち主が分かったようです。でも、気仙沼のように流出した石油に火ついて大火災になりました。そうなると、鉄骨も飴のようになります。被災した人たちには大変気の毒ですが、ヨハネの黙示録をみますと、それが世界的規模になることが預言されています。黙示録8:7「雹と火が現れ、地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼けた」と書いてあります。また、福島の原発もなかなか納まりません。黙示録8:11「その星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一が苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ」と書いてあります。苦よもぎとは、チェルノブイリを示唆するものとして有名です。規模の差はあれ、世の終わり、そのようなことが現実に起こるのです。私たちは被災地が復興することを祈りながら、同時に、世の終わりに備える必要があります。

 私たちは富や財産、金銭を天国に持っていくことはできません。1坪の土地も、1円すらも天国に持ってゆけないのです。イエス様は福音書で、何とおっしゃっているでしょうか?マタイ6:19-20「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」アーメン。ある人たちは、子どもに財産を残すかもしれません。しかし、「児孫のために美田を買わず」とあるように、子どもに財産を残したために、かえってダメになる場合もあります。私が筑波学園都市で働いていた頃、40年近くなる昔話です。あの当時、筑波とか、鹿島などで土地を売った人がいっぱいいました。いわゆる成金というのでしょうが、子どもたちが外車を乗りまわし、仕事もしない。もう、すさんだ生活をした人がたくさんいたようです。そのようなお金は、ギャンブルとか遊びに使ってぱっとなくなってしまいます。そればかりか、1億円以上の財産を子どもたちが相続する場合、90%くらいは争議になるそうです。「こっちが少ない、そっちが多い」と争い、儲かるのは弁護士だけです。そういうことになる前にどうぞ、教会にささげてください。イエス様は「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とおっしゃいました。お金を縁の下に隠していると、いつも地面を見るでしょう。下手にあると、心配で夜も眠れません。でも、天国にささげていたら、「ああ、いつか私のものになるんだ」と天に目を注ぐでしょう。天に宝を積む生涯こそが、お金と財産に支配されない、幸いな生き方です。

2.金持ちの罪

 金持ちたちは、自然に金持ちになったのではなく、あくどいこともしているようです。4節には「労働者への未払いの賃金」とあります。労働者の叫び声が、万軍の主の耳に届いているということです。5節は「地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけっている」とあります。6節には「正しい人を罪に定めて、殺した」とあります。その当時は、大地主がいたと思われます。代官たちとつるんで、小作人たちを苦しめていたのでしょうか?そういうことは、東洋も西洋も同じように思います。でも、一番、問題になるのはキリスト教会、つまりクリスチャンがそういうことに関わったかどうかであります。17世紀から20世紀まで、キリスト教国と言われる国が、未開発の国を植民地化した歴史があります。カトリックのスペインはどうだったでしょう?マヤ文明、アステカ文明、インカ文明といったアメリカの文明を破壊して金や銀を奪い、莫大な富をスペインにもたらしました。ポルトガルの場合は、南アメリカもそうですが、アフリカにも植民地を築きました。フランスはアフリカとカナダ、アジアの一部を植民地化しました。プロテスタントではイギリスがインド、アフリカ、オーストラリア、カナダ、そして中国にも進出しました。まさしく、大英帝国であります。オランダは西インド諸島を植民地化しました。最後に日本が彼らの真似をしたのです。

問題なのは、一応、キリスト教国と名乗る国が、海外に渡り、その国を支配したということです。その土地とその土地の産物を奪い、その国民を小作人もしくは奴隷のように使ったということです。もし、ヤコブ書5章がその当時、読まれていたならそんなことはしなかったはずです。私たちがおいしいとたべているチョコレートの原産はアフリカです。ココナッツを現地の人々が取って、それをヨーロッパが加工して高く売っています。私たちが食べているエビだって、どこか遠くの海のものです。フィリッピンのバナナは、大地主がすべての土地を所有しています。本来は国民の土地なのに、国民の土地じゃないのです。不条理、不合理を強いられています。支配した国がキリスト教国ですが、イコール、クリスチャンということかは分かりません。でも、聖書の教えや価値観が、政治まで及んでいなかったということは確かです。「聖書は聖書、生活は生活」、そういう考えが、搾取、侵略や戦争まで合法化していったのかもしれません。

ある教会はこういう不平等や差別をなくするために、社会運動をしています。当教会は福音的な立場なので、直接的な運動はしません。その代わり、聖書的な教えを人々に浸透させようとしています。聖書に「神さまご自身が不正をしている金持ちたちをさばく」と書いてあります。賃金をもらえない人たちが叫んでいます。その叫び声が万軍の耳に届いています。万軍の主という表現が旧訳聖書によく出てきますが、それは「敵を滅ぼす、戦いの神さま」です。だから、5節に「殺される日にあたって、自分の心を太らせました」と書いてあります。これは、肥え太った豚が堵殺場で殺されるという意味です。金持ちが、贅沢に暮らし、快楽にふけっているのは、太った豚になるのと同じだということです。このようにヤコブ書には金持ちに対して辛らつなことばが多数あります。よっぽど恨みがあったのか、神さまがそういう人たちが嫌いなのか、どちらかです。みなさんの中にそういう人がいるかどうか分かりませんが、人は金持ちになると傲慢になります。お金でなんでも叶えられると本気で思うようです。逆らう人には「だったら良いよ、他の人にやらせるから」みたいな首切りも平気にするでしょう。お金は大きな誘惑です。お金は人を狂わせます。ないときは、わかりませんが、一旦、持つと本性が現れます。私たちは富に対する罪を避けたいと思います。

3.お金にまどわされないために

 最後にお金に支配されないために、どうしたら良いでしょうか?何度か引用したことがありますが、こういうイギリスの古い格言があります。「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである。」もし、あなたがお金をよく管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべとなります。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人となるでしょう。私たちはお金を正しく管理することが必要です。そのためには、優先順位ということを学ぶ必要があります。私は貧しい家に育ったので、あればあるだけ使い、貯金ができないタイプです。だからお金の管理は苦手です。でも、クリスチャンになってこれだけは、守っています。それは、収入の10分の1を神さまにささげるということです。ささげるというよりも、神さまに、お返しすると言った方が良いかもしれません。私は洗礼を受けたその日に躓きました。それは、献金袋です。洗礼のお祝いでいただいた袋の中に、本と献金袋が2つも入っていました。会堂献金と月定献金でした。私はそのとき「ああ、教会もこの世の中と同じなんだ!」とがっかりしました。でも、私を導いてくれた職場の先輩が、ちゃんと献金の意味を教えてくれました。「近くに、そういう人がいてくれて感謝だなー」と思いました。給与をいただいたら、使う前に10分の1を分けておくと良いです。また、週の始まりである日曜日を神さまに捧げます。一日の始まりである朝を神さまにささげます。そのように、優先順位を神さまにもっていくと、他のことが多少いい加減でも、なんとかなります。

 ロックフェラーといえばアメリカの大富豪です。彼はビル・ゲイツよりも上回る大富豪だそうです。ロックフェラーの自叙伝の中に、「母親との3つの約束」という項目がありました。彼は自分が成功した秘訣として、幼い頃に母と交わした3つの約束を生涯守り通したことを挙げました。その3つの約束とは…、

1.十分の一献金をささげること。

2.教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。

3.教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。

 彼の自叙伝を読んだ新聞記者が、「世界大富豪になれた秘訣は何ですか?」とロックフェラーに聞きました。彼は「それは子どもの頃、母が与えてくれた3つの信仰の遺産です。これこそが私が大富豪になった秘訣だと思います」と答えました。すると記者は、「3つの信仰の遺産とは、具体的に何のことでしょうか?」と質問しました。ロックフェラーが答えました。「第一の信仰の遺産は、十分の一を必ず捧げることです。それは子どものときから守らされました。私がお小遣い20セントをもらうと、そのつど、母から十分の一献金をささげなければならないと教えられました。もし、私がそのとき、母からそのような教育を受けていなかったら、後で百万ドルを稼いだときに10万ドルもの十分の一献金をささげることができなかったでしょう」。記者は「第二の遺産は何ですか?」聞きました。彼が答えました。「大富豪として成功することが出来た第二の信仰の遺産は、教会に行くと一番前の席に座って礼拝をささげることです。母は幼い私を連れて、40分ほど早く教会に着きました。そして一番前の席に座って礼拝をささげました。母はそうすることによって牧師のメッセージに集中できるし、より多くの恵みを受けることができると言いました」。記者は「第三の遺産は何ですか?」聞きました。彼が答えました。「大富豪として成功することのできた第三の信仰の遺産は、教会に素直に従い、牧師の心を悲しませることをしてはならないということでした。ですから、私は、少し気に入らないことがあっても、いつも牧師のことばに従いました。」すごいですね、特に第三番目が良いと思います。

 母親の遺言は実は10個あって、今、紹介した3つのほかに7つあります。その他の7つを項目だけ紹介させていただきます。

4.実の親以上に、神さまに仕えなさい。

5.誰であっても敵は作らない。

6.朝はいつも、その日の目標を立て、神様の御前で祈りをささげなさい。

7.寝る前には、必ず一日を悔い改める祈りをささげなさい。

8.他人を助ける力があるときには、精一杯助けなさい。

9.日曜日の礼拝は必ず、所属している教会でささげなさい。

10.朝、目覚めた時に、まず神さまのみことばを読みなさい。

 ロックフェラーのとおりにやれば大富豪になれるとは約束できません。でも、はっきりいえることは、彼のとおりにやれば大富豪になっても富に支配されることはないということです。神さまと教会を第一にしている。これは地味ですが、時代を超えて、大切なことであろうと思います。ある人は「神さまを愛しているし、神様に従います。でも、教会は愛していないし、教会には従いません」と言うかもしれません。でも、教会はキリストのからだであり、キリストご自身が住まわれるところです。神さまを愛するなら、キリストがご自身の尊い血しおで買い取った教会をも愛すべきです。神様を愛し、教会という神の共同体に属するときに、健康な信仰が保たれるからです。これはお金にまどわされないための秘訣でもあります。

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2011年6月19日 (日)

兄弟をさばかない      ヤコブ4:11-12 

ヤコブ書からのメッセージを順番にお伝えしています。おそらく、10年前だったら、話せなかったでしょう。いや、2年前でも無理だったかもしれません。今だからこそ、やっと話せる内容であります。一見、ヤコブ書は律法的で厳しい感じがしますが、心の深い部分が、探られます。ヘブル書にこのようなみことばがあります。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」ヤコブ書はまさしく、心のいろいろな考えやはかりごとを判別させてくれる書物であります。

1.悪口を言わない

コブ4:11前半「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。」ここに「兄弟たち」と書かれているので、「女性には関係ないんだなー」と油断してはいけません。主にある兄弟姉妹すべてに向けて書かれた命令です。11節には、「悪口を言う」が3回、「さばく」が4回出てきます。「悪口を言う」、あるいは「さばく」は、英語の聖書を見るといろんな表現があり助けになります。いわゆる、人の悪口を言う、中傷する、そしること。他には非難する、酷評する、あらを捜す、批判するという意味もあります。この世では、人の悪口を言ったり、批判したり、陰口を言うのは当たり前ではないでしょうか?子どものときは、よく口喧嘩をしたものです。「死ね」とか、呪いのことばも吐いたかもしれません。大人になると表立っては言わなくなりますが、陰でこそこそ悪口や批判めいたことを言うものです。国会討論会を見ますと、政治家は、相手を罵倒したり、非難するのが当たり前のようです。菅総理がどのような方か分かりませんが、「日本の総理大臣にはなりたくないなー」と思います。あっちからもこっちからも、酷評され、神経がまいってしまうでしょう。そういう非難に満ちた、世の中から救われ、教会という神の家族に入りました。最初はお互いに気を使っていますので、人の悪口など言いません。でも、親しくなると、だんだん本音を言うようになります。あるとき、教会だからと安心して心を開いていたのに、ぐさっとひどい事を言われたりします。そして、「もう教会なんか行くものか!」と躓く兄弟姉妹も起こる場合もあります。

当亀有教会は、セルチャーチを目指しています。セルとは「互いに愛し、互いに祈り、互いに励まし合うということを小グループで実行する」主旨のものです。でも、セルにおいて、どうしても克服しなければならない問題があります。先ほども申し上げましたが、最初の時はお互いに気を使っていますので、さしさわりのないことしか言いません。セルのハネムーン期です。でも、だんだん親しくなると、親切心のつもりで、「それはだめだよ」「ここをなおさなくては」と忠告します。しまいには、忠告なのか、批判なのか分からなくなります。これをセルの葛藤期と言います。結婚と同じで、お互いにぶつかり合うときが必ずやってきます。お互いの欠点や癖、性格が鼻につくようになります。最初は我慢していますが、何かの拍子にバッと出して、衝突したりするでしょう。セルも結婚も、そこで別れないで、踏みとどまる必要があります。第三の段階は、調整期です。不一致を管理するとも言います。お互いに、「ああ、こういうことを言うとこの人の地雷を踏むことになるんだなー。今度からは、こういうふうに対処すれば良いんだなー」と学習します。お互いを変えようと批判すると、よけい関係が悪くなります。そうではなく、お互いの弱点や欠点を受け入れ合うのです。すると、第四の段階、「親密さ」がやってきます。本当の親密さは、隠しあったり、遠慮しあってできるものではありません。心を開いて、幾多の衝突を乗り越えたあとに、初めてやってくるのです。結婚だけではなく、教会の中の兄弟姉妹の関係も同じです。「花も嵐も踏み越えてー」行くと、桃源郷が待っているのです。

でも、1つだけ重要なことがあります。エペソ人への手紙4章に「悪いことばをいっさい口から出してはいけません」と書いてあります。悪いことばとは何でしょう?アルゼンチンのエド・シルボソ師はこのように定義しています。「悪いことばとは、建て上げるかわりに引き降ろすことば、すなわち恵みのない真理である。誰かが批判的なことを言って、それが(完全に、あるいは部分的に)真理であるということを知るとき、私たちは怒り、眠れなくなる。真理かもしれないことを恵み抜きで言われたので、裁かれ責められているように感じてしまう。恵みのない真理は破壊的である。」エペソ4:15「愛をもって真理を語り」と書いてあります。Ⅰコリント13:3「愛がなければ、何の役にも立ちません」とあります。愛がないと、どんなに真理でも、さばきのことばになって、その人を傷つけてしまうのです。よく、私たちは「あなたのためだから、はっきり言うのよ」と言います。しかし、愛ではなくて、自分の怨念を晴らしている場合もあります。かつて、同じことを自分が言われたので、相手を換えてどうしても言いたくなるのです。ヤコブは3章において、「ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体も立派に制御できる完全な人です」と言いました。主にあって成熟した人は、悪いことばではなく、人の徳を建てることばを語ります。そのためには、日ごろ、舌をコントロールし、主の愛と恵みで満たされる必要があります。同じ言い方でも、人の徳を建てる言い方を主にあって学びたいと思います。

2.さばかない

 ヤコブ4:11後半「自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」悪口は、人をさばくことの1つのかたちです。おそらく、さばきを口に出すことが、悪口ということでしょう。第二番目のポイントは、悪口のもとになる、基準、ものの考え方について考えたいと思います。私たちは何をもって、「これは良い」とか「これは悪い」と批判するのでしょうか?それは、各々が持っている基準、尺度によってではないでしょうか?ある人の尺度は大変厳しく、ある人の尺度は非常にゆるやかであるかもしれません。ここに律法ということばが出てきます。律法とは神さまが人間に定めた、おきて、戒め、尺度であります。旧訳聖書には十戒を中心とした、律法が数多く記されています。律法の中には「人の悪口を言ってはいけません」と書いてあります。詩篇101:5「陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします」。また、聖書全体を見ると、「人をさばくのは神さまがすべきことであって、人ではない」と書いてあります。もちろん、裁判などでは、王様や裁判官が神さまの代わりにさばきます。ここで言われているのは刑法ではなく、おもに人間関係における戒めであります。イエス様はマタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたのさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたの量るとおりに、あなたがたも量られるからです」といわれました。さきほども申し上げましたが、人は各々が持っている尺度で、「これは良い」とか「これは悪い」と批判するでしょう。しかし、人に当てた尺度が、こんどは自分にも当てることになります。たとえば私が子どもに「絶対、学校に遅刻をしてはいけない」ときつく叱ったとします。するとどうなるでしょう?「絶対に遅刻してはいけない」というさばきを自分にも当てて、それに縛られることになります。人に「絶対に遅刻するな」と言った手前、自分が遅刻したら、申し訳が立たなくなるでしょう。ある家族の夕食シーンです。子どもがよそ見をして、お味噌汁のお椀をひっくりかえしてしまいました。お父さんが「こら!よそ見をするからだ!」ときつく叱りました。次の日の夕食、お父さんがよそ見をして、お味噌汁のお椀をひっくりかえしてしまいました。子どもからお父さんに鋭いまなざしが向けられました。お父さんは「だれにでも失敗はある」とことばを濁しました。「さばいたら、さばかれる」。これは、自然界の法則と同じくらい、普遍的な法則であります。

 きょうは「父の日」です。「母の日」と比べて、あまり重んじられません。なぜでしょう?子どもにとって、お父さんは、お母さんと比べ感謝すべき存在でないからでしょうか。しかし、お父さんを尊敬し、お父さんに感謝するということは、とても大事なことです。多くの場合、私たちが子どものときに、お父さんを口で、あるいは心の中でさばいたのではないでしょうか?「お父さんは独断的で、子どもの気持ちをちっとも分かってくれない」「お父さんは本当にだらしない。私はお父さんのような人とは結婚しない」「お父さんは不公平だ。他の兄弟を可愛がって私をないがしろにした。私はお父さんが大嫌いだ!」…もし、子どものときにこのようにさばいたならば、必ず刈り取りをすることになります。ガラテヤ書6章に「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」とはっきり書いてあります。ご存知と思いますが、種はすぐ育って実は結びません。根が生え、芽を出し、枝を伸ばし、葉っぱを張ります。やがて、花が咲き、実が稔って刈り取る時がきます。独身のときは分かりません。でも、結婚して、子どもを設けたときに刈り取りをするかもしれません。「お父さんのようになるまい」と思っていたのに、同じことを子どもにしていた。あるいは、「お父さんのような人と結婚しない」と誓ったのに、同じような人と結婚してしまった。伴侶に対して、お父さんから得られなかったものを要求するかもしれません。これは、「さばくとさばかれる」「種を蒔くと刈り取りもする」という2つの法則が合わさったものです。なぜ、お父さんは大切な存在なのでしょうか?聖書的に、お父さんは神さまの代理であり、権威の象徴です。しかし、多くの場合、この世のお父さんは理想的ではありません。そのため、子どもがさばくのも当然でしょう。でも、父親をさばいたために、神さまに対して歪んだ見方を持つことになります。なぜなら、神さまは父なる神様だからです。また、父親を敬わなかったために、先生や権威ある人たちを敬うことが難しくなります。結局はその人が損をすることになります。

 神の律法は何と言っているでしょうか?「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」ここには、条件が書いてありません。あなたの父と母という存在だけで、「敬え」と言うのです。もし、私たちが「神さまが与えた父と母に感謝します。敬います」と心から祈ったらどうなるでしょうか?さばきによる呪いが取り除かれ、祝福が及ぶでしょう。私は牧師でありますが、人格的にも能力的にも不十分です。でも、ある人たちは私が牧師だということだけで、敬う人がいます。私も人間ですから、そういう人に対してはできるだけ良くしてあげたいと思います。しかし、ある人は、色々と批判します。そういう人には、「ああ、そうですか。どうぞご勝手に」と、面倒を見ないところがありました。昔は、その理由が良くわかりませんでした。「お互いに波長が合わないのかな」と思いました。でも、ある時、それはその人が「自分の父を敬っていないからだなー」と言うことがわかりました。ある人は、自分がお父さんから受けられなかったものを牧師に求めようとします。その構造を知らないときは、その人の言うことを聞いて、貢いだこともありました。しかし、今は、批判を受けても、過剰に反応しないようになりました。どうぞ、父の日に際してお勧めいたします。父と母を敬わなかった、さばいていた。そのために、刈り取りをしてはいないでしょうか?子どものとき、さばいたことを悔い改め、父と母を赦しましょう。そして、主の命令として、父と母を敬いましょう。そうするなら、呪いが解かれ、豊かな祝福が訪れるでしょう。

3.神さまの福音

 ヤコブ4:12「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」神さまが律法を定めたのであり、神さまがさばきを行うただ一人のお方であるということです。そして、その神さまは救うことも滅ぼすこともできるのです。神さまの代わりに、「隣人をさばくあなたは、いったい何者でしょう」。しかし、いつから、人は神さまの代わりに隣人をさばくようになったのでしょうか?それは、創世記3章で、「善悪を知る知識の木」から、実を取って食べた時からであります。人は「いのちの木」からではなく、「善悪を知る木」の実の方を選んだのです。それでどうなったのでしょうか?文字通り、人は「これは良いこと、これは悪いこと」「これは善であり、これは悪である」と善悪を判断することができるようになりました。しかし、本来、善悪の判断はだれがすべきことなのでしょうか?それは人間ではなく、神さまがすべきことなのです。本来、私たちは神さまと交わり、神さまから善悪を教えていただくべきなのです。ところが、神さまを差し置いて、私たちが神の座にすわって、善悪を知る者となりました。確かに、人は善悪を知ることができます。「あれは良いことだ、あれは悪いことだ」と判断できます。しかし、それを守り行う力がないのです。「悪いと分かっているけれど、やめられない」。しかも、他の人をさばきながら、自ら同じことをしています。これは「いのちの木」から食べていないためです。善悪を知っても、それを守り行う力がないのです。ローマ2:1「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

 もし、私たちが神さまを差し置いてさばくなら、それは神さまへのクーデターです。「神さま!あんたがさばかないんでしたら、私が代わりにさばきます。そこをどいてください。私がそこに座りますから。」わあー、何と私たちは恐ろしいことを今までしてきたのでしょう。しかも、人をさばいておいて、自分も同じ罪を犯していたなら、もう、言い逃れはできません。しかし、ここに福音があります。聖日礼拝は律法で終ってはいけません。必ず、福音を語り、福音で終ることになっていますので、ご安心ください。せっかく教会にいらしたのに、重荷を背負って、帰らせたら申し訳ありません。中には、そういう教会もあるようです。ある教会の牧師は、「信徒が涙を流して悔い改める。それが良い説教だ」おっしゃいました。すると、だんだん礼拝に来る人が減ったそうです。すると、その牧師は「真の教会ほど、人数が少ないのだ。イエス様もいのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれですと言われた。数が多いのは福音を水増ししているからだ。信徒をみことばで打ち叩かなければならないんだ」と言ったそうです。私はそうは思いません。私たちには律法ではなく、福音が必要です。このヤコブ書にも福音があります。ヤコブ書は、「あなたが隣人をさばかないで、神さまにゆだねなさい」と命じています。「それでは、この地に、悪がはびこり、善は踏みにじられるでしょう」とあなたは反論するでしょうか?ヤコブが言っているのは、この世のことを言っているのではありません。この世のことは、この世の人がさばくでしょう。ヤコブは神の家族、教会のことを言っているのです。主にある、兄弟たち、姉妹たちのことを言っているのです。私たちがさばいてはいけないのは、第一に、主の贖いを受けている隣人であります。その後に、信仰に応じて、家族や友人と、周りの人へと広げて行けば良いのです。しかし、基本は神の家族であります。神の家族がすべてのスタートであります。

 私たちは主にあってどういう存在なのでしょうか?ローマ8章を読むならば、そのことが良くわかります。私の偏見でしたら申し訳ありません。しかし、あえて申します。旧訳聖書よりも新約聖書が啓示や恵みにおいてすばらしいです。新約聖書でローマ書は最もすばらしい書物だと思います。ローマ書の8章はローマ書で一番すばらしい箇所です。ということは、聖書のエベレスト山、聖書の最高峰は、ローマ書8章ということになります。ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」アーメン。そして、ローマ8:33以降「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」アーメン。ここで言われている中心的なことは何でしょうか?私たちはキリストにあって、もう罪に定められることはないということです。表現を変えるならば、もうだれからもさばかれないということです。どうしてでしょう?イエス・キリストが私たちの罪のために死んで、私たちが義とされるためによみがえられたからです。もし、私たちをある人が「罪あり」とさばくならば、それは神を敵に回していることになるのです。たとえ、「罪あり」とさばかれることがあっても、イエス・キリストが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださいます。ハレルヤ!

「私は主にあって、さばかれることはない。赦され、受け入れられている。アーメン」と魂の奥底から、信じるならどうなるでしょうか?魂の奥底に深い平安がやってきます。浅い平安と深い平安があるかどうかわかりませんが、とにかく、深い平安です。そうするとどうなるでしょう?たとえ、人から悪口を言われたり、中傷されたり、そしられたり、非難され、批判されても動じないということです。正直、少しはぐっと来るかもしれません。震度1か2、強くても3くらいでしょう。でも、家が倒れる震度6とかには決してなりません。だいたい、震度1か2くらいで、しのぐことができます。そうしたらどうなるのでしょう?悪口に悪口を、中傷に中傷を、そしりにそしりを、非難に非難を、批判に批判を返さなくても良くなります。昔は、「やられたらやり返す。倍にして返すぞ!」。これが普通だったかもしれません。しかし、心の深いところに、「自分はさばかれていない。神さまが味方なんだ。キリストの愛から引き離すものは何もない。アーメン」という平安があります。そうすると、過剰反応しないで、乗り越えられるのです。もっと成長するならば、悪に対して、善をもって勝利できるようになります。ここまで行ったら、本物の聖徒、セイントです。人から何と言われようと、神さまは私をさばいてはおられない。イエス・キリストによってすべての罪が赦されている。ここに、信仰の錨を降ろしましょう。そうすれば、どんな人生の嵐をも乗り越えることができます。

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2011年6月12日 (日)

キリスト者の原動力      ヤコブ4:6-10 

きょうはペンテコステ礼拝です。イエス様は召天する前に、「いと高きところから、力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」と弟子たちに命じました。120人の弟子たちは、二階座敷に集まり、心を1つにして祈っていました。イエス様が召天してから10日後、天から風のように、火のように聖霊が下り、弟子たちは聖霊に満たされました。それからと言うもの、臆病だった弟子たちが別人のようになり、命がけで福音を全世界に伝えに行ったのです。彼らの力の源、原動力は何だったのでしょう?それは聖霊です。きょうはヤコブ書4章からのメッセージですが、そのことと関係付けてなんとか、お話したいと思います。少し、無理な感じがしますが、お許しください。

1.へりくだりなさい

 先ほど、お読みしたところには、少なくとも3つの命令があります。第一は「へりくだりなさい」です。ヤコブ4:6「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」そして、ヤコブ4:10「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」「高ぶる」とはどういう意味でしょうか?「こう言われている」というので、旧訳聖書から引用されたものであることが分かります。箴言3:34「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける」と書いてあります。「高ぶる」とは「神なんかいない、神になんか頼らない。自分の力でやる」と神さまをあざけることです。この世においては、自分の力を頼るのは、悪いことではありません。日本は創造主なる神さまを信じない代わりに、「頑張れ、頑張れ」とやっています。父なる神さまは、天地を造り、万物を保持し、すべてのものを養っておられます。しかし、「私は神さまには頼りません。自分の力でやります」。これが高慢であり、高ぶりです。不幸にして、自分のお父さんが家庭を顧みなかった。家族を捨てたような場合、子どもたちはどうなるでしょう。どうしても、だれにも頼らないで、たくましく生きようとします。独立心、悪いことではありません。でも、反面、自分を養ってくださる父なる神を受け入れることができません。

 みなさん、水と神さまの恵みは高いところから低い所へと流れます。私たちが人生において、へりくださせられる時があります。それは自分の力だけではうまく行かないときです。私は川崎の日本鋼管扇島の工事に携わったことがあります。埋立地なので、50メートルくらいの鋼管を支持層まで打ち込みます。私の測量ミスで、向かい側が1メートルほどずれてしました。本来、四角いはずの基礎が、台形になってしまったのです。「うぁー、どうしよう」と頭を抱えて、砂地をころげまわりました。もう、自分では何ともできません。それで、上司のところへ相談、上司は日本鋼管の方に相談に行きました。ま、鉄筋を多くすることによって事なきを得ました。私の失敗をかぶって、何とか処理をしてくれた上司のおかげです。女性は神さまに向かって祈るときが、少なくとも3回はあるそうです。第一は結婚するとき、第二はお産のとき、第三は死ぬ前だそうです。男性はどうなんでしょうか?「うぁー、どうしよう」という事がないのでしょうか?私のような失敗や、事故、病気、会社の倒産、離婚、天災…「うぁー、どうしよう」となるのではないでしょうか?実は、そのときがへりくだらせられる時なのです。ヤコブ4:9「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」そして、10節「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」と続くのです。人生において、頑張りがきかなくなる時があります。そういう時こそ、神さまが一番、近いのです。

 イザヤ57:15「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」。イザヤ書を見ると、へりくだった心とは、砕かれた心だということが分ります。人生において、砕かれる時があるのは、実は良いことなのです。この間、南三陸町の奉仕の証しを聞きました。わかめの養殖をしている人たちが、普段は、「あっちが多いとか、こっちが少ない」と争っていました。ところが、津波が来て、養殖棚が全部、流されてしまいました。漁村の人が、「私たちには以前、確執がありました。主はどう思っておられるのでしょうか」と質問したそうです。質問された奉仕者は、びっくりして、それでも何とか答えたのでしょうか?「主」とは、この世の神さまではなく、特定された神さまのことです。ライフラインが全部復旧すると、生活用水を配る奉仕も不要になります。でも、人生の根本的な問題、神さまとのライフラインを回復することが残っています。神さまから離れていると、恵みも永遠の救いも流れてきません。砕かれた心とは、新約聖書的には、どういう意味になるでしょうか?「イエス様、あなたなしには生きていくことができません。あなたを人生の主として生きて行きます」と告白することです。すると、どうなるでしょうか?イエスの御霊なる、聖霊が、あなたの心に臨みます。ペンテコステ以来、だれでもイエス様を受け入れるなら、聖霊が心に臨みます。神さまは天にもいらっしゃいますが、あなたの心にも聖霊によっていらっしゃることになります。神様の本籍は天国ですが、現住所は、あなた自身なのです。ハレルヤ!聖霊は助け主、慰め主、救い主、きよめ主、王の王です。どうぞ、へりくだって、主なるイエス様を、聖霊様を心の王座にお迎えいたしましょう。

2.神に従いなさい

 ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」悪魔に打ち勝つ方法があるのでしょうか?たった1つだけあります。それは、神さまに従うことです。神さまに従うことと、悪魔に立ち向かう力は正比例の関係にあります。つまり、神さまに従えば従うほど、悪魔に打ち勝つ力と権威をいただくことになるのです。使徒の働き19章に面白い記事があります。パウロがコリントで伝道していたときです。ユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみました。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワの7人の息子たちでした。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言いました。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した、とあります。彼らはイエス様をちっとも信じないで、ただ、イエスの御名を用いて、悪霊を追い出そうとしました。だから、悪霊によって逆にやられたのです。「イエスの御名」自体には権威があります。でも、それを用いる人に権威と力がないのです。実はギリシャ語では権威と力は違います。権威はエクスーシアと言って、権利、資格、権能、支配権という意味があります。婦人の警察官が、交通整理をしているときがあります。彼女が、ピーピーと笛を吹けば、ダンプカーも止まります。ダンプカーは彼女をひき殺す力があります。しかし、彼女の背後には国家権力、エクスーシアがあります。だから、ピーピーと笛を吹かれれば、止まるしかありません。もう1つの力はギリシャ語でドュナミスと言います。これは、能力、奇跡的力、資源となる力という意味があります。お巡りさんは、権威だけではなく、力も必要です。だから、彼らは柔道や剣道で日夜からだを鍛えているのです。強盗に一人で立ち向かうとき、権威が通用しないときがあるからです。そういう場合は、力でねじ伏せるしかありません。

 2000年前のイエス様の弟子たちには、権威も力もありませんでした。イエス様が十字架につけられたとき、ヨハネ以外はみんな逃げ去りました。一番弟子のペテロはイエス様を三度も知らないと言いました。なんと、イエス様が復活された後も、彼らは部屋に隠れていたのです。では、どうして、彼らが迫害も恐れないで、全世界に出て行く人たちに変えられたのでしょうか?使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ここで、言われている「力」は、権威ではなく、ドュナミスという力です。なぜ、権威じゃないのでしょうか?私はこう考えます。権威とはイエス様を信じると与えられるものだと思います。イエス様を信じる者はもれなく、イエスの御名を用いることができるのです。だから、マルコ16章で「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」と書いてあるのです。しかし、何度も言いますが、クリスチャンは権威だけではなく、ドュナミスという力も必要です。2000年前、ペンテコステの日、弟子たちはドュナミスという力を上からいただきました。あの日、弟子たちは何をいただいたのでしょう?聖霊の能力をいただいたのです。聖霊の奇跡的力、資源と言っても良いです。

 みなさん、イエス様を信じている人は、イエスの御名を持っています。つまり、天国からの神の権威を持っているということです。でも、それを使う能力がないとしたらどうでしょうか?もし、私が名刀村正を持っているとします。しかし、名刀を振り回す能力がないとしたらどうでしょう?自分の手や足を切ったりするかもしれません。また、敵とも戦うことができないでしょう。どうぞ、クリスチャンであるなら、聖霊の力もいただくべきです。多くの人たち、クリスチャンでも、「そういうものは不要であり、過去のものだ」と言います。では、なぜ、クリスチャンが悪魔にやられるのでしょうか?現代は、せっかく牧師になったのに、鬱病や燃え尽きで倒れる牧師が多いと聞きます。彼らは聖書のことばと福音は信じています。しかし、多くの場合、聖霊の力を信じていません。自分の真面目さや頑張りでやるので、倒れてしまうのです。悪魔はいろんな方法でクリスチャンを誘惑します。人の厳しいことば、教団の圧力、精神的な病をもった人たち、性的誘惑、多忙…いつの間にか力を失います。士師記16章にありますが、サムソンがデリラに騙されて、髪の毛をそり落とされました。そのとき、力はサムソンを去っていました。デリラが「ペリシテが襲って来たよ」と言いました。サムソンは、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と思いました。しかし、彼は主が自分から去られたことを知りませんでした。私たちクリスチャンも、力が去っているのに分からないときがあります。

 では、どうしたら上からの力をいただき、それを保持することができるのでしょうか?第一は、ペンテコステの弟子たちのように、「上から力を着せてください」と願うことです。クリスチャンであるなら、すでに内側に聖霊様を持っています。これは間違いありません。上から、英語ではuponです。教団によって聖霊のバプテスマとか満たし、いろんな表現があります。でも、イメージ的には、上から聖霊が注がれ、満たされた状態です。たとえば、コップにジュースを入れているとき、よそ見をして、ジュースがあふれるときがあるでしょう。「あーっ、こぼれちゃった」。一回、こういう経験をすると、次から、どう満たされるか分ります。一瞬、「主よー」と願っただけで、満たされます。これは、「神さまは私をいつでも、聖霊で満たしてくださるんだ」という信仰の世界であります。自分が無限なる神さまの湖につながっています。時として、その水路がふさがれる時があります。丸太やゴミでふさがれてチョロチョロしか流れてこない場合もあるでしょう。何が原因でしょう?第二の必要は告白と悔い改めです。だれかを恨んでいる、憎んでいることがあります。その時は「赦します」と祈ります。また、ある場合は思い煩いや心配があるかもしれません。その時は「全能の御手にゆだねます」と祈ります。そうすると、ふさがれていた丸太やゴミがどかされて、勢い良く、神さまの力と恵みが流れてきます。私たちは日々、神さまとの関係がどうなのかチェックしなければなりません。水道工事のように、維持管理、メンテナンスが重要です。この世においてはいろんな戦いがあります。でも、ヤコブは勝利の秘訣を教えています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

3.神に近づきなさい

 ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」これは、どういう意味でしょう。これは、私たちの神さまに対する信仰の姿勢です。多くの場合、信仰というと受身的です。神さまのお導き、神さまのご計画、神さまのご摂理、などと言います。特に、カルバンの改革派の信仰を持っている人たちは、自分で何かをするというよりも、「神さまがおっしゃったら、そうする」という姿勢が強いと思います。私は悪くはなく、むしろ正しいと思います。でも、聖書の神さまは「求めなさい。そうすれば与える」神さまです。神さまは、私たちの意思、私たちの願いを尊重されます。ナビゲーターという宣教団体があります。学生たちの弟子訓練で有名です。そこに、人生において車のハンドルをだれが握るかというたとえがあります。ナビゲーターの本では、「人生のハンドルをイエス様にゆだねなさい。そうすれば安心です」と教えているようです。私はこれには反対です。人生のハンドルを握るのは私たちで、「こっちだ、あっちだ」と教えてくれる方がイエス様だと思います。大体、ナビゲーターという意味は、道などの案内をしてくれる人や物を指す言葉です。私はやったことがありませんが、自動車のラリーというのがあります。ドライバーが運転し、助手席には地図と計算機をもった人がいます。彼はドライバーに、こんどはこっちだ、あっちだと走行経路を教えます。その人が、ナビゲーダーです。おそらく、ナビゲーターのテキストは、新しいクリスチャンを導き育てる人物を言うのでしょう。でも、イエス様に人生のハンドルを委ねるというのは、間違っていると思います。もちろん、自分が運転できなくて、運転を交代するときもあるかもしれません。しかし、多くの場合は、選択し、実行するのは自分自身であります。だから、私たちはその結果に対して、責任を持つ必要があります。イエス様は、「あなたは本当はどうしたいんだ」と聞いておられるのではないかと思います。

 福音書に盲人のバルテマイの記事があります。彼は盲人でしたので、物乞いをして生きて行くしかありませんでした。ある日、イエス様がエリコの町を通られました。バルテマイは渾身の力をこめて「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と叫びました。周りの人たちは「うるさい、だまれ!」と彼をたしなめました。すると、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てました。すると、イエス様は立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。すると、彼は上着を投げ捨てて、立ち上がり、イエス様のところに来ました。イエス様は彼に「私に何をして欲しいのか」と聞かれました。「何をして欲しいのか?」って、わかるでしょう。「これですよ、これ」とは言いませんでした。バルテマイは、はっきりと「先生。目が見えるようになることです」と答えました。イエス様は彼に「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、彼は目が見えるようになりました。イエス様は神さまですから、バルテマイがどういう状態で、何を望んでいるのか分っていました。でも、あえて、「何をして欲しいのか?」と聞かれたのです。それで、彼は「目が見えるようになることです」と願いました。これって、すごいことではないでしょうか?クリスチャンはあまりにも受身です。牧師もあまりにも受身的な人がいます。

 聖霊に満たされると、聖霊と同じ思いになります。満たされるとは、支配されるという意味です。その人は、神さまの御手の中にありますので、手当たり次第、何をしてもOKです。士師記のサムソンの記事を見ますと、「まことにそのとおりだなー」と思います。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していました。サムソンは色んななんくせを付けて、ペリシテ人を困らせます。しかし、「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた」(士師14:4)と書いてあります。サムソンはペリシテ人と結婚したり、遊女のところへ入って、いろんな問題を起します。その戦い方も、非常に幼稚です。あるときは、ジャッカル同士のしっぽをつないで、そこにたいまつを付けて、畑に放しました。また、あるときはロバのあごの骨で1000人を打ち殺しました。最後は、目をくりぬかれましたが、神殿を崩して、3000人以上のペリシテ人を倒しました。サムソンが神の霊で満たされると、ものすごい怪力を発揮しました。そして、神さまは幼稚な方法であっても用いたのです。同じ士師記のギデオンの戦い方も、「そんなんで勝てるのかなー」という方法でも勝利しました。使徒の働きには、聖霊に満たされた弟子たちの記事があります。ピリポも、ペテロも、パウロも聖霊に満たされ、町々をひっくり返しました。手当たり次第、癒しや解放をし、手あたり次第、みことばを宣べ伝えたのではないかと思います。詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」「何をしても栄える」とあります。

私は年ととったせいか、失敗を恐れ、慎重になりすぎるときがあります。聖霊に満たされた1つの特徴は何でしょうか?それは大胆さです。使徒の働きの、聖徒たちには大胆さがありました。それは向こう見ずな人間の大胆さではなく、聖霊による大胆さでした。私たちは今、終わりの時代に生かされています。神様は、一人でも多くの人が救われるように願っておられるでしょう。教会はどうしても、方法論にこだわります。石橋を叩いて、叩きすぎて割ってしまうところがあります。そうではありません。聖霊に満たされ、聖霊が原動力となるならば、神さまはどんな方法でも用いてくださいます。ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」私たちはイエス・キリストによって神の子どもとされました。それだけではなく、一人ひとりが神の聖徒、神の兵士でもあります。「どうぞ、神の国がこの日本でも広がるように、自分たちを用いてください」と神さまに近づこうではありませんか。私たちが一歩近づいたならば、神さまは私たちのところに、二歩も三歩も近づいてくださるお方です。

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2011年6月 5日 (日)

どういう動機か      ヤコブ4:1-5 

ヤコブ書からのメッセージは体操競技で言うなら、Cを越えて、DかF難度かもしれません。それほど語りづらい内容だからです。何か挑戦的で、粗探し的な要素に満ちています。でも、ヤコブ書が長い教会の歴史の中で、ちゃんと読まれて実行されていたなら、教会は堕落しなかったかもしれません。教会は教理的な教えで、人は変わると信じてやってきました。しかし、心の動機とか欲望が手付かずのままでやってきたところがあります。人間は知性で動いているようですが、知性では動いていません。多くの場合、自分の潜在的な欲望を満たせるかどうかで動いています。きょうも、ヤコブ書から内面をえぐられるような辛口のメッセージをお届けしたいと思います。どうぞ、シートベルトを締めて、お備えください。

1.欲望が原因

 「欲望」は、英語の聖書で2種類のことばが用いられています。1節の「欲望」は、lustsです。lustsと複数形になっていますが、色情、肉欲をさします。男性はこれが非常に強いのではないでしょうか?2節と3節の「願う」はdesireです。強く望む、欲しいと願う、要望するということです。旅行がしたい、バックを買いたい、○○してもらいたい。こちらは女性の方が強いのではないかと思います。人々はこういう欲望や欲求を内側に抱えながら、社会生活をしています。政治家や企業マンはクール・ビズ(スーパ・クール・ビズ)の下に、欲望を隠し持っています。医者や看護師は白衣の下に、警察や公務員は制服の下に欲望を隠し持っています。だから、この世において、戦いや争いが絶えないのです。彼らは自分の理性や道徳性でなんとかしようとしますが、ある機会がやってくると「ばぁー」っと噴出してしまいます。現在の永田町はまさしく、そうではないかと思います。テレビや新聞広告は、人間が持っている欲望を刺激しています。「安くておいしいですよ」「美しくなれます」「快適な生活を送れます」「贅沢な気分を味わえます」みたいに、消費者を誘惑してきます。まさしく、この世は大消費社会です。消費する喜びに訴えます。1つ買っても、また次のものが欲しくなる。青い靴を買っても、今度は赤い靴が欲しくなる。昔、井上陽水が「限りない物、それが欲望」と歌っていました。

 では、「教会にそういうものがないのか?」というとあります。もっと、綺麗な包装紙でラッピングされたものです。欲望には低級なものから高級なものまであります。高級は欲望とは、支配欲、名誉欲、自己目的を達成したいというものです。イエス様の弟子たちは最後まで「この中でだれが一番、偉いだろうか?」と争っていました。教会というところは、ある意味で、この世で達成できなかったものを、肩代わりしてくれるところがあります。宣教、牧会、奉仕など、とても良いことです。神さまと人々に仕えるのですから、悪いものでは決してありません。でも、心の中の動機が汚れている場合があります。怨念、自分が得られなかったものを教会で得ようとする。だから教会がカルト化したり、分裂や分派を繰り返してしまうのです。教会の長い歴史を見ますと、そういうことがたくさんありました。プロテスタント教会は堕落したローマ・カトリックから脱却しようと改革を起こしました。ジョン・カルバンはジュネーブに代議員制の理想的な教会を作ろうと努力しました。また、バプテスト派は新生をしたものが、教会を作るべきだと国教会を否定しました。だから、バプテストは幼児洗礼を認めず、ちゃんと洗礼を受けて生まれ変わった人を教会員としました。そして、全員が参加する会衆制の教会を作りました。メソジストは「監督を立て、教会員は自我に死んで、監督の意向に従う」ということを強調しました。教会はいろんな政治形態を導入して、運営してきました。しかし、人間が内側に持っている欲望に、いつでも勝利したわけではありません。牧師と役員、役員同士の争いや戦いで教会がしぼんだことは多々あります。10年くらい前に、台湾で最も歴史のある長老教会を訪れたことがあります。ちょうど教会総会がありましたが、1日で終らず、2日目も議論していました。その教会はお金に絡む色んな活動をしていました。そこを担当している長老さんたちが、利権をめぐって争っていたのです。私もいくつかのコーチングをさせていただいていますが、「教会が壊れている」ところがあります。建物ではなくて、牧師と教会員の信頼関係が壊れているのです。

 ヤコブ書の記事は遠い昔のどこかの教会ではなく、どこにでもありうる普遍的な問題だということです。教団や教会がリバイバルされ良いところまで上り詰めます。しかし、その先、どかんと崩れ去ります。確かに悪魔が働いていると言えるかもしれませんが、信仰者の中にあった欲望が解決されていなかったのです。私たちはイエス様を信じると霊的に生まれ変わります。心の内側に神さまの命、神さまの愛が入ってきます。ハレルヤ!アーメンです。ある場合は、聖霊に満たされ、賜物を受け、神さまに大きく用いられるかもしれません。でも、クリスチャンになる前から持っていた、考え方、欲望、傷というものが手付かずの状態があるということです。たとえば、団塊の世代の親から育てられた子どもはどうでしょうか?親は「やっぱり教育だ。良い学校に入って、良い会社に入るんですよ」と子どもを教えます。その子どもが大きくなってクリスチャンになりました。でも、心のどこかには「やっぱり学歴だよ。やっぱり一流企業でなければ」という考えがあります。そういう人が会社で躓いたならば、信仰は役に立ちません。「もう、自分は失敗者だ」と考えるでしょう。クリスチャンは、神の国の価値観で、満たされるべきなのですが、あるところだけがこの世の価値観のままなのです。エリヤ・ハウスでは「要塞」ということばを用いています。今のような個人的な要塞もあれば、その国で生まれた独特の要塞もあります。要塞とは、「これが真実だと思い込んでいる聖書的でない考え方」です。アフリカではクリスチャンになっても、部族同士の争いがあります。アメリカではクリスチャンになっても、功利主義から脱却できません。韓国ではクリスチャンなっても儒教の価値観を色濃く持っています。日本ではクリスチャンなっても、女性蔑視や業績志向が残っています。こういう聖書的でない考えや欲望をつき合わせたら、どうなるでしょう。教会もこの世と全く変わらないところとなるでしょう。

2.どういう動機か

 ヤコブ43「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」3節の「願う」は、lustsとかdesireなどの欲望ではなく、askです。askは願うとか求めるという一般的なものです。「求めなさい。そうすれば、与えられます」の、「求め」であります。私たちは神さまに求めて良いのです。信仰によって神様に求めたら、必ず与えられます。でも、ヤコブは求めても与えられない場合があると教えています。それは、「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」とあります。神さまは、私たちの動機をご覧になっています。求めているものが良くても、やっていることは正しくても、動機が汚れている場合があります。この世では「動機」ということは、ほとんど問題になりません。ちょっとぐらい動機が不純でも、結果さえ良ければどうにでもなります。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とよく言われます。しかし、神の国では、それは通用しません。先週もお話ししましたが、「何をするか」ではなく、「何のためにそれをするか」であります。教会で言うならば、奉仕をしているエネルギーであります。この世でもエネルギー問題が騒がれています。原子力は確かに強力なエネルギーを持っています。しかし、一歩、間違えるならば手がつけられないほどの破壊力があります。では、私たちの奉仕の間違ったエネルギーとなるものは何なのでしょうか?

 傷からやっている場合があります。自分も同じ傷を持っているので、なんとかその人を助けてあげたいと思うのです。子どものとき拒絶を経験した人は、拒絶されている人に同情心も持ちます。その人から受け入れられている時は良いですが、ある場合は、拒絶されるかもしれません。すると「これだけやってあげたのに!もうやってあげない」と憎しみでいっぱいになるでしょう。ご老人の世話をしている看護師が、ご老人を虐待したり死に至らせたりするというニュースを聞きます。看護師が一生懸命やっているのに「ありがとう」も言ってくれなかったという原因であったりします。ある人は、復讐心や怒りでやる場合があります。自分が子どものとき支配されたので、大人になったら支配したい。エリヤ・ハウスでは「愛の反対は憎しみではない。愛の反対はコントロールである」と教えていました。自分の子どもをコントロールする親がいます。また、教会においても牧師やリーダーが、自分の思いどおりに教会員を動かしたいという誘惑もあります。特に、ペンテコステ・カリスマの牧師は、「牧師に従わないことは、神さまに従わないことである」と言います。指導者は、ある部分は神さまからゆだねられていることは確かです。しかし、それを乱用すると、非常に人間的になります。自分の言うことを聞いてくれる人だけを回りに集めようとします。また、ある人は、自己目的達成のためにやっている場合があります。自己目的達成というのは、この世では悪くないかもしれません。スポーツや芸術、ビジネス、みんな自己の目的を達成するために頑張っています。では、なぜ、教会において自己目的達成が良くないのでしょうか?それは栄光が神さまではなく、自分のものになるからです。神さまを利用して、実は自分があがめられたいのです。

 私たちはこの世において達成できなかった、途中で挫折してしまったものがたくさんあります。しかし、「こんどは教会で、なんとかそれを達成したい」。もちろん、神さまは私たちの生来の賜物や努力して得た賜物を用いてくださいます。でも、自分が得られなかったものを、神さまの名前で得ようするならば、それは聖められる必要があります。どういうふうに聖められる必要があるのでしょうか?たとえば、私がピアニストだとします。ピアニストを志したけど、プロにはなれなかった。そこまでの才能がなかった。しかし、クリスチャンになって「この賛美だったら、できる。奉仕しよう」と思います。それは悪くはありません。神様に用いられることは、良いことです。何が悪いのでしょうか?1つはエネルギーの問題です。クリスチャンになる前は自分の技量や努力でやっていたでしょう。それを肉と言います。まず、一度、賜物も技量も努力も、神さまにおささげします。その後、「神様、十字架を通して、必要なものだけを私にお返しください。今度からは、聖霊様あなたを力の源とします。私を通して、あなたが働いてください。アーメン。」このように祈る必要があります。2つ目はこれまでの「埋め合わせ」ではなく、「逆転勝利」です。神さまへの奉仕は、この世でできなかったものを埋め合わせる行為ではありません。もし、そうだとしたら、偽善的であるばかりか、非常に悲しいものとなるでしょう。そうではありません。神さはあなたのこれまでの失敗、マイナス、傷、悲しみ、痛みを全部ひっくり返して、万事を益としてくださいます。そして、それらを神さまのご栄光のために、再創造して用いてくださるのです。ハレルヤ!だから、あなたがうまくいっても、うまくいかないことがあっても、神さま次第だということです。別な表現をするなら、うまくいっても誇らないし、うまくいかなくても落ち込まないということです。なぜなら、自分は神さまの道具だからです。道具は文句を言いません。使うお方に責任があるからです。

 私は高校1年生でボクシングを辞めました。最初の試合でTKOで破れて挫折し、暗い高校生時代を過ごしました。しかし、神さまは私を召して、ボクシングではなく、牧師にしてくれました。また、私はトランペットを我流ですが、28歳まで吹いていました。結婚指輪の質にしたので、もうどこへ行ったか分かりません。でも、良いのです。神さまは私を召して、福音を告げ知らせる、ヨベルの角笛として用いてくださいました。ヨベルの角笛は、ある訳は、トランペットと訳しています。福音を告げるトランペット吹きです。もう1は、私はセルフイメージが低いために、人から認められるために一生懸命努力してきました。エリヤ・ハウスで言うと、私はパフォーマンス指向の典型的な人物でした。でも、神さまは私を癒してくださいました。神さまは私がメッセージでパフォーマンスすることを喜んでいらっしゃいます。聖められたパフォーマンスというのがあるのです。また、小学生のとき、あることで切手収集を諦めました。しかし、私はいろんなセミナーの教えをパソコンで打って集めています。それをファイルにして必要な先生方に分かち合っています。神さまはこのように、一度捨てたもの、ダメになったものを修復して、ご自身のために用いてくださるのです。なんと、その活動エネルギーさえも神さまが与えてくださるのです。

3.世ではなく神を愛する

 ヤコブ44-5「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」人はなぜ、欲望に負けてしまうのでしょう。それは世を愛しているからです。このところでは、世と神さまが対極的なものであることがわかります。私たちが世を愛するならば、神様を敵としてしまうということです。なぜなら、世は神さまを信じていないばかりか、神さまに逆らって歩んでいるからです。ヨハネ第一の手紙にも同じようなことが記されています。Ⅰヨハネ215-17「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」この箇所でも、もし、世を愛しているなら、その人には、「父なる神を愛する愛はない」と言っています。世を愛するとはどういうことなのでしょうか?それは、「世にある、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」を愛することです。これらはヤコブ書で言う、lustsという欲望、desireという願い、あるいは快楽であります。なぜ、クリスチャンは、これらのものを愛してはいけないのでしょうか?

 世というのは神さまを信じないで、神さまに逆らう人たちのことです。しかし、その背後には悪魔がおり、神さまを信じない人たちを所有しているのです。悪魔はこの世の人たちを、神さまを求める代わりに、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などで生きるように仕向けます。そして、悪魔はこの世がまるで永遠に続くかのように、騙しています。この世は永遠に続くのでしょうか?ヨハネは「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と言っています。悪魔は目に見える現実の世界がいつまでも続くかのように騙しています。私たちも学校で、目に見えるものがリアルだと教えられ、歴史でもアメーバーから今の人類に到達したことを教えられました。しかし、聖書はこの世は過ぎ去る、永遠のものは神のことばと神の国であると教えています。神の国は目には見えません。しかし、神の国はイエス様と一緒にこの世にやって来たのです。本当は神の国のほうがリアルであり、この世の見えるものが一時的なものなのです。かなり前に、マトリックスというキアヌ・リーブス主演の映画がありました。映画ではコンピューターが作り出した仮想世界をマトリックスと呼んでいます。彼らは現実の世界と仮想の世界を行ったり、来たりしています。なんと、現実の世界は変わらなくて、仮想の世界が変わって行きます。やがて、仮想の世界が現実を飲み込んでいきます。悪魔、サタンはこの世界が現実であり、いつまでも続くものであるかのように思わせています。サタンは「天国と地獄は仮想の世界なんだ。この世がすべてだ」と、肉の欲、目の欲、持ち物の欲に訴えます。

 どうでしょう?私たちクリスチャンも以前は、サタンに教育されて育ちました。「目に見える五感が現実で、天国は仮想である。天国というのは、人間が『あったら良いなー』と望んだ世界なんだ。本当は神も人間が『いたら良いなー』と望んだものなんだ。宗教というのはそうやってできたんだ。弱い人には宗教は必要かもしれないけど、強い人には宗教は必要ないんだ」。そのように考えて生きて来たのではないでしょうか?それが急に、30歳になって神さまを信じた。きょうは、洗礼式がありますが、50か60歳になって神さまを信じた人もいるかもしれません。そのため、この世の見方やこの世の価値観が随分と入っていることになります。そういう場合は、聖書のある部分は信じるけど、ある部分は信じられないということが起こります。もし、どこかに目に見える、この世がすべてであるとしたなら、どのような信仰生活になるでしょう。日曜日、教会に行っていたとしても、やっぱり、この世のものを慕い求めて生きるのではないでしょうか?神様はそういう人をどう思っているのでしょう?「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」とあります。クリスチャンであるなら、もれなく、神の御霊が宿っています。父なる神さまはご自分の御霊をクリスチャンに与えました。そのクリスチャンが父なる神さまではなく、世のものを慕い求めて生きるならどうなるでしょう?神さまが悲しむだけではなく、神さまの妬みをかうことになります。もし、神さまの妬みをかったら、人はどうなるでしょう?子どものころ、遊び過ぎて、日が落ちても、家に帰らない場合があります。ある場合は、父や母が近所だけではなく、山や川を探すこともあるでしょう。もし、父や母が子どもを見つけたらどうするでしょう。「この!」と一発、殴ってから、手を引っ張って家に連れて帰るでしょう。もし、クリスチャンがこの世にどっぷり浸かって、神さまを忘れたらどうするでしょう。神さまは妬むほど私たちを愛していますので、肉体の命を取ってでも、御国に連れ戻すのではないでしょうか?すべての早死にがそうだとは言いません。でも、ある時は、そういうこともありえます。

 私たちクリスチャンは価値観を変えなければなりません。まず、この世と神の国、どっちが永遠に続くかを知らなければなりません。もし、この世が永遠に続くのだったら、肉の欲、目の欲、持ち物の欲で生きてもかまいません。しかし、聖書が言うように、世と世の欲が滅び去り、私たちの魂と御国が永遠であると悟るならどうでしょう?やっぱり、私たちが持っている能力や持ち物を永遠の御国のために投資すべきではないでしょうか?世の中には3種類の人がいます。第一は、飲んで、食べて、生き延びるために生活をしている人です。その人は動物と同じです。第二は、自分の願いや夢を実現するために生きている知的な人です。その人はこの世に属するホモ・サピエンスです。第三は、永遠である神の国のために投資する人です。その人は歴史を変える人、ヒストリー・メイカーとして「いのちの書」に名前が記されるでしょう。

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2011年5月29日 (日)

上からの知恵        ヤコブ3:13-18

ヤコブはこのところで、「知恵」ということばを何度も使っています。知恵には大きく分けて、地に属する知恵と上からの知恵があります。地に属するとは、人間的なもので、ある場合は悪霊から来るものであるということです。一方、上からの知恵とは、神さまから来るもので純真で平和です。私たちはいろいろな行ないや生き方をしています。しかし、その源は何なのでしょう?ある人は地に属する知恵を用いて行動しています。また、ある人は上からの知恵を用いて行動しています。この世では目に見える行ないや結果だけを評価します。しかし、神さまにとっては、その行ないが地に属するものから来ているのか、あるいは上から来たものなのかが評価されます。別なことばで言うなら、その動機が不純であるか、純真であるかどうかです。つまり、その人が行っているエネルギーの源を問うているのであります。

1.地に属する知恵

ヤコブ3:14-16「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」地に属する知恵とは何でしょうか?それは「苦いねたみと敵対心である」と書いてあります。ねたみに関する最も古い記事は、カインとアベルの物語です。カインは弟のアベルのささげものが神様に受け入れられたことをねたみました。そのため、カインは怒って、アベルを殺しました。福音書を見るとどうでしょうか?パリサイ人と律法学者たちがイエス様をねたみました。本来、彼らは人々を教え、神さまに仕える者でありました。しかし、イエス様の方がすばらしい教えを説き、大きなわざを行ないました。そのため、多くの人たちがイエス様の方に行ってしまいました。彼らはイエス様を救い主として受け入れるよりも、イエス様を取り除こうとしました。なぜでしょう?このままでは、自分たちの地位や生活が脅かされるからです。つまり、彼らは表向きには神さまに仕えていました。しかし、本当は神さまを利用し、人々を食い物にしていた偽善者だったのです。まさしく、パリサイ人と律法学者たちは苦いねたみのゆえに、イエス様を十字架につけて殺したのです。そう考えますと、ねたみというのは破壊的で大きな罪であるということが分かります。

みなさんの中にねたみはないでしょうか?子どものとき、兄弟をねたんだ。あるいはお母さんやお父さんをねたんだということはないでしょうか。女の子にとっては継母、男の子にとっては、継父が問題になります。「おばさんに、お父さんが取られた」あるいは「おじさんに、お母さんが取られた」ということで、ねたみが心に生まれるのは自然ではないでしょうか?学校に行くとどうでしょう?お金持ちの子どもがいます。お家にピアノにある。何でも買ってもらえる。成績が良くて、姿形も良い、先生から特別にかわいがられている。当然、そういう人をねたむのではないでしょうか? 大人になってからもよくあります。男性ですと、乗っている車でしょうか?停止線で並んだ場合、向こうの車が排気量が多く、高級な場合は、「くそー」と思わないでしょうか?女性ですと、一流企業のご主人と結婚している人を見ると、むっとしないでしょうか?キリスト教界でもあります。片や大教会の主任牧師、礼拝が300名も集まっています。片や礼拝が20名にも満たない教会の牧師で、アルバイトして、なんとかやっている。違う教団だったら、「そういうこともあるだろうな」と思います。しかし、同じ教団だったら、「くそー」と思わないでしょうか?信仰の世界にもねたみがあります。ピリピ1章で使徒パウロがこのように言っています。ピリピ115「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。」わー、ねたみや争いをもって、伝道しているとはどういうことでしょうか?たぶん、俺たちの群を大きくしようと思っているのではないでしょうか?言い換えるなら、「あっちよりも、自分の教会、自分の教団を大きくしよう」ということです。カトリックよりも、プロテスタント教会の方がよくありがちです。なぜなら、プロテスタント教会には数えきれないほどの、教団・教派があって、分裂分派を繰り返しています。ねたみは、恐いです。「今に見ていろ、追い越してやるから」「今に見ていろ、ぎゃふんと言わせてやるから」。世の中ではこういう動機でやっても許されるかもしれません。しかし、神の国で、それは通用しません。

もう1つは、敵対心です。敵意と言って良いかもしれません。私は毎朝、散歩をしますが、犬を散歩に連れている人たちをよく見かけます。向こうから犬を連れて来る人がいます。こちらから犬を連れてくる人がいます。犬は「わぉーん」と威嚇して、飛びかかろうとします。中にはペロ、ペロなめ合う犬もいます。しかし、半数以上は、遠くから吼えています。なぜでしょう?彼らには敵対心が本能としてあるからでしょう。人間でもそうです。男性と男性、女性と女性、しかも、同年齢、同業種の場合がそうなりがちです。私も以前はある会社の現場監督でした。大きな現場はジョイントというか、共同体でやる場合があります。もし、隣の工区が、鹿島や大林組であるならば、初めから戦いません。でも、資本金が同じかちょっと向こうが小さい会社であるなら、「負けないぞー」みたいなものがありました。ある場合は、ママさん同士も火花を散らすときがあります。向こうから赤ちゃんを乗せた乳母車、こっちから赤ちゃんを乗せた乳母車がすれ違います。一瞬の間で、目の大きさ、可愛らしさをチェックし、「ああ、こっちが勝った」とかしないでしょうか?昔、幼稚園の運動会で父兄が出るプログラムがありました。バットを額につけながら、地面を5回ぐるぐる回って、それからゴール目指して走るというレースでした。横を見るとお父さんたちはみんな緊張しています。子どもに良いところを見せたいのでしょう。私の番が来ました。私は5回ぐるぐる回りましたが、隣の人は2回、回っただけで飛び出しました。「そんなズルをしてまでも1位になりたいのか!」とむかつきました。敵対心、これは動物であろうと、人間であろうとあります。なぜなら、それは本能だからです。でも、聖書的に、それは地に属し、肉に属し、悪霊に属するものであると言っています。

ヤコブの手紙は未信者ではなく、クリスチャンにあてられた手紙です。クリスチャンであっても、動機が苦いねたみや敵対心で動いている人がいるということです。彼らは生まれ変わっていないのでしょうか?確かにイエス様を信じて、霊的には生まれ変わっています。でも、価値観が変わっていないのです。相変わらず、昔の価値観で生きているのです。あるいは、幼い時に抱いたねたみや敵対心を温存したまま大人になったのです。つまり、ねたみや敵対心が要塞となり、何でもそのように受け取り、そのように対処してしまうのです。そして、ある場合は悪霊がその足場を用いて、その人を縛って離しません。エリヤハウスで聞いたことがありますが、子どもとき、お父さんがあることで自分を信じませんでした。彼女が大きくなり結婚しました。夫が少しでも帰りが遅いと、「ああ、他の女性と浮気しているんじゃないだろうか?」と疑いました。又、他の女性と仲良く話しいているのを見ると嫉妬心でいっぱいになりました。彼女が子どものとき、「もう、男性を信じない」と誓ったからです。牧師の子どもたちもそういう傷を持ちます。牧師は家庭をそっちのけで、信徒のために時間をささげます。子どもたちは信徒にお父さんを奪われたと思うでしょう。家が貧しくておもちゃも買ってもらったことがない。心の中は、教会に対する恨みと嫉妬心で一杯でしょう。そういう子弟が牧師や牧師夫人になったらどうなるでしょうか?教会の信徒に対して、復讐してやろうと思うでしょう。怨念晴らしのために、牧師になったらどうなるのでしょうか?

5月の半ば、李光雨師の学び会がありましたが、先生はこのようなことをおっしゃっていました。「『何をするのか?』ではなく、『何のためにするのか?』が大切である。神さまは私たちの心の値打ちを計られる。それは、動機が何であるかということであり、いくら賜物があっても、怨念に満ちていたら、それは凶器になる。献身する目的は何か?恨みを晴らすためではないのか?価値観の変化が必要である。エネルギーの変化が起きているかどうかである。」聖書を見ますと、パウロはどうでしょうか?彼はクリスチャンを捕らえ、牢屋にぶち込むほど熱心なユダヤ教徒でした。彼は「自分こそ、まことのユダヤ人だ」と自負し、その怨念をエネルギーにして賜物を発揮させていました。ところが、イエス様と出会って、全く変わりました。そして前とは違うエネルギーで生きるようになったのです。ピリピ3章でこのように証ししています。ピリピ37-8「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」アーメン。パウロは律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、キリストの復活の力で生きるようになったのです。最初から純粋な動機で神さまに仕える人は多くはないでしょう。どこかに、苦いねたみと敵対心があるかもしれません。しかし、パウロのように生けるキリストと出会うなら、逆転勝利し、エネルギーが変換するのです。神さまを自分のために用いるのではなく、神さまのために自分を用いていただきましょう。

2.上からの知恵

 ヤコブ317-18「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」上からの知恵とは、何でしょう。それは神さまから与えられる知恵であり、神さまが力の源であるということです。地に属する知恵は、苦いねたみと敵対心でした。しかし、上からの知恵は、それらとは全く逆の神さまご自身が持っているものです。私たちはこういうものをすべての働きのエネルギーにすべきであります。上からの知恵の第一は純真であります。純真とは英語でpure、混じり気がないということです。動機が不純でなく、純粋だということです。しかし、みなさん最初から純粋に奉仕し、純粋に献身する人がいるでしょうか?私が「直接献身したいなー」と思ったのは、洗礼を受けて、半年後のことです。そのとき、貿易会社に入っていましたが、私を導いてくれた先輩と二人で会社をやめることになりました。外国との契約を平気でやぶる社長とは、クリスチャンとしてやっていけなかったからです。先輩は「アメリカに友人がいるので、バプテスト系の神学校に入る」と言いました。私はそういうコネが全くありません。「日本の神学校で良いや。大川牧師に頼めばなんとかなるのではないだろうか?」そんな感じだったのです。大川牧師は私を志願兵として送り出してくださいました。そのとき、開かれたみことばがヤコブ3:17の「温順」です。先生は「温順とはteachable personと言って、それは教えられやすい心という意味である。だから、一生、だれからも学ぶ心を持つように」と教えてくださいました。自慢ではありませんが、それからずっと、学ぶ心を失っていません。いろんなセミナーに出かけては学んでいます。でも、動機が純粋だったわけではありません。まるで、金が精錬されるように、火のような試練によって試され、純化されて行ったのであります。「純真」と言われても、はじめから純真な人はおそらくだれもいないでしょう。しかし、愛なる神さまはその人を受け入れ、いろんな人や環境、出来事を通して、取り扱ってくださるのです。それが教会員からであったり、夫や妻や子ども、事故や失敗、病気や別れかもしれません。そのとき、私たちは地上から天を仰ぎ、両手を広げて降参します。そのとき、上からの知恵と力が注がれるのです。

 上から知恵の2つ目は何でしょう?それは平和です。18節には二回も「平和」が出てきます。敵対心の反対は平和です。私たちは平和というと、「国と国との平和、戦争がないこと」と考えるかもしれません。それもそうですが、その前に、私たちの心が平和であることが重要です。では、平和は、どこからどうやって来るのでしょう?それは神との平和です。ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」本来、私たちは罪を犯し、神さまと敵対して歩んでいました。ところが、イエス様がすべての罪を取り除くために、贖いの供えものとなってくださいました。私たちが「ごめんなさい」を言う前に、イエス様が私たちの罪をかぶって死なれ、和解を実現させてくださったのです。イエス様は片方の手で父なる神さまを、もう片方の手で私たちを握って、和解を成り立たせてくださいました。何と言う恵みでしょう。ある人たちは、「罪を悔い改めなければ救われない」と言います。では、どれだけの罪を悔い改めなければいけないのでしょうか?今まで自分が犯した全部の罪を覚えている人が一人でもいるでしょうか?では、私たちが救われるのはどういう悔い改めが必要なのでしょうか?それはこういうことです。「私は今まで神さまを信じないで、自分勝手な道を歩んでいました。これから私は、イエス様の贖いを信じて、神様、あなたに立ち返ります。」これが救いを得るための悔い改めです。私が犯した個々の罪ではなく、私そのものが罪であったということを認めることが大事なのです。そうすると、私たちの中に咎めがなくなり、「ああ、愛され、赦され、神の子どもになったんだ」という信仰が、平和と共にやってきます。そうです。イエス様の十字架による和解によって、私たちは平和を得たのです。アーメン。

 上からの知恵の3つ目以降は何と何でしょうか?寛容、温順、あわれみ、良い実、えこひいきがなく、見せかけのないものです。1つずつやっていると時間がありません。ですから、寛容でひとくくりにしたいと思います。温順は寛容に人の意見を聞く態度のことです。また、あわれみは、人をさばかないで寛容な心をもって同情することです。寛容というと、「いい加減」というニュアンスを与えます。皆さん、神さまほど義なるお方はおられません。シナイ山で十戒を与えられた神様は、何人(なんぴと)も近づけない俊厳なる神さまです。しかし、同時に神さまほど寛容なお方はおられません。ローマ24「その豊かな慈愛と忍耐と寛容」と書いています。ローマ922「その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった」とあります。もし、神さまが寛容でなかったなら、私たちは数え切れないほど滅ぼされ、ここにはいませんでした。太陽の6000度の熱で、一瞬に解け去るように、消えてなくなっていたでしょう。ああ、それなのに、それなのに。私たちはそんなことをケロっと忘れ、他人をさばいてしまうのです。パウロは「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません」と言っています。その人は、「さばくとさばかれる」という法則の中に落ちてしまいます。ですから、私たちはすべての罪を赦してもらった人として、寛容さが必要です。それは「いい加減」ということではありません。「寛容」のギリシャ語は「公平な、寛大な、柔和な、優しい」という意味のことばです。逆に言うと律法的に考えないということです。英語ではgentleと訳されています。ladies andgentlemanのgentleです。

 私たちは生まれてこのかた、「公平で、寛大で、柔和で、優しい」人と出会ったことがあるのでしょうか?逆に、えこひいきして、怒りっぽく、偏狭で、厳しい人とばっかり出会ってきたのではないでしょうか?この間、聞いたことです。ある先生の子どもが分度器か何か忘れたようです。他の二人は「忘れ物をしてごめんなさい」と謝ったけど、その子だけは謝りませんでした。それで、先生はみんなの前で「ごめんなさいも言えないのか」となじったそうです。その子はそれから学校に行けなくなりました。朝になると、おなかがいたくなり行けないのです。お医者さんのところに行くと確かに胃炎になっているというのです。学校の先生が家庭を訪問し、「はっきりと物ごとを言える」教育を目指したいと言っていたそうです。聞くところによると、前の先生はとっても優しくその子と接してくれました。しかし、4月からの先生は厳しくて、とっつきにくかったようです。その子は謝りたかったけど、緊張してことばが出なかったのでしょう。「もし、寛容な先生ならどうするでしょう?「そうか、いろんな事情があったんだよね、きっと。この次からは忘れないようにね」ぐらいで良いのではないでしょうか?緊張すると、よけい頭が働かなくなります。私たちの神さまは「ごめんなさい。確かに罪を犯しました。次からは決してしませんと」悔い改めなければ、赦してくださらないのでしょうか?義なる神さまと罪ある私たちの間には和解を成し遂げられたイエス様がおられます。神さまはイエス様を通して、私たちをご覧になるのです。だから、私たちが「ごめんなさい」の「ご」ぐらいで赦して下さるのです。もっと言うなら、私たちが悔い改める先から、赦す準備をしておられるのです。神様は寛容で、温順で、あわれみに富んだお方です。もし、私たちがこのような父なる神さまとの出会いを経験したならどうなるでしょうか?私たちの心の中に、寛容と温順とあわれみが生まれるのではないでしょうか?律法の定規を人々に当ててさばくのは簡単なことです。律法の定規にあてはまる人などどこにもいません。しかし、やがては、自分もその定規で測られることになります。私たちは検察官にではなく、弁護士になるべきです。では、「罪がいい加減になるのでは?」と心配します。そうではありません。聖霊様がその人に罪を悟らせ、本当の悔い改めに進ませてくださるのです。顔に吹き出物が出た場合どうするでしょう。すぐ、絞るとどうなるでしょう。ちょっとは出るかもしれませんが、中にひっこみ、後から怒り出すでしょう。それよりも、ちょんちょんと薬を塗って、放っておけば良いのです。時が来ると、熟して、中の悪いものが出てきます。私たちは、「それは罪だ!」とさばくので、ひっこんで、後から怒り出すのです。

 私たちは地上の知恵ではなく、上からの知恵を求めるべきです。地上の知恵である苦いねたみと敵対心を捨てましょう。その代わり、神さまがくださる純真、平和、寛容、温順、あわれみを求めましょう。そうするなら、良い実が満ち、義の実が結ばれていくのです。

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2011年5月15日 (日)

賛美の泉         ヤコブ3:9-12

舌と口は、器官、つまりからだの一部です。悪いことを話す、舌と口自体が悪いのでしょうか?もし、そうだったら「盗みをする手が悪い」「変な所へ行く足が悪い」と言うのと同じです。そうではありません。舌と口を司るところがあります。それはやはり、心とか思いであります。心とか思いが悪いから、悪いことばが出るのです。舌と口はことばを発する器官であります。ですから、舌と口を直す前に、心とか思いを直す必要があるのです。ヤコブは自然界に存在するものを、いくつかあげて、そのことを教えています。私はこの箇所を瞑想しながら、舌と口を直すための、すばらしい知恵が隠されていることを発見しました。舌と口を良くするためにはどうしたら良いのか?3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.肉ではなく霊によって

ヤコブ39「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」ここから、私たちは第一の解決策を見ることができます。ヤコブは人を呪うことは、それは神さまを呪うことだと同じだと教えています。なぜでしょう?聖書は「人を造られたのは、創造主なる神さまである」と教えています。一方、この世ではどう教えるでしょうか?「アメーバーがだんだん進化し、やがてサルになり、サルから人間になったんだ」と教えます。進化論を通した人間の価値は、できるかできないかということにあります。そうすると、「能力のない人間は人から見下げられても当たり前である」という理論がなりたちます。しかし、ヤコブの手紙はクリスチャンにあてられた手紙ですので、創造主なる神さまも、贖い主なるイエス様も信じているということです。もし、そうであれば、神にかたどって造られた人間を呪うことはないと言うのです。確かに、人を呪うということは、その人を造られた神様を呪うことになると言われても道理的になりたちます。聖書からすると、「人間の価値は能力のあるないではなく、存在そのものである、存在そのものに価値がある」ということです。しかし、クリスチャンは、そういうことは分かっているはずです。でも、「主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろう」とはどういうことでしょうか?そうです。思いがちゃんとしていないということです。では、どうしたら思いと口が一緒になるのでしょうか?

Ⅱコリント516,17「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」ここにすばらしいヒントが隠されています。日本語では、人間的な標準と書いてありますが、原文は「肉」であります。肉によって人を知るとはどういう意味でしょう。それは、外見や能力で人の価値をはかるということです。まさしく、人間的な標準です。外見や能力で人の価値をはかると、どうしても「変だなー」とか「愚かだなー」と思ってしまいます。もう、私たちは生まれてこの方、そういう価値観の中で生きてきて、そして人からも言われてきたのです。ですから、外見や能力で人の価値をはかるめがねができてしまっているのです。それが、あるとき急に、「いや人間は神さまによって造られたんだ。存在そのものに価値があるんだ」と教えられます。でも、私たちの中にそういう価値観、めがねがあるので、急にはなおせないのです。「変なものは変」「愚かなものは愚かじゃないか」と言いたくなるのです。

でも、パウロは一歩進んで、もう1つの見方をしなさいと教えています。それはキリストを通して見るということです。「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」と教えています。イエス・キリストはその人にどういうことをなさられたのでしょうか?その人のために血を流し、罪の中から贖い取ってくださいました。クリスチャンであるないは関係ありません。すべての人のために、イエス様は死なれ、代価を払ってくださったのです。だから、すべての人にはイエス様が贖っただけの価値があるのです。そのことは私にもそうですし、その人だって同じことなのです。「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」。ですから、新約の私たちは2つのめがねレンズで人を見ることが必要です。片方は創造主なる神さまというレンズで、もう1つは贖い主なるイエス様のレンズで見るということです。どうぞ、今後は、肉によってではなく、霊によって隣人を見ることにしましょう。

2.泉の癒し

ヤコブ310-11「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」泉が同じ穴から、甘い水を出したり、苦い水を湧きあがらせるようなことはありません。同じように、賛美とのろいが同じ口から出て来るようなことがあってはなりません。ヤコブはこのようなことを教えていますが、実際の私たちはどうでしょうか?今、礼拝のときは、神さまを賛美しています。おそらく、この場所でいるときくらいは人をのろったりはしないでしょう。でも、家に帰ってからはどうでしょうか?学校や職場にいるときはどうでしょうか?私たちの周りにはいろんな人がおります。そして、いろんなことに私たちは遭遇します。そのとき、ポロっと私たちの口から悪いことばが出てくるのではないでしょうか?私が一番、問題なときは、車を運転しているときです。「あ、危ない。ひどいーなー」「馬鹿じゃないか」みたいなことばを連発します。昨年、船堀のコンサートの帰り、そういうことがありました。私は右折しようとしていますが、向こうから横断歩道をゆっくり歩いている男性がいます。よく見たら、携帯をいじりながらとぼとぼと歩いています。私は思わず、「何やってんだよー、早く渡れよ!」と言いました。助手席に座っていた毛利おとうさんが、「先生、車乗ると人が変わりますね。どっちが本当の先生なのですか?」と言いました。私は「こっちが本当です」と答えました。

なぜ、1つの泉である、心から時には甘い水、また時には苦い水が出てくるのでしょうか?それは泉である、心に問題があるからです。旧訳聖書に苦い泉が甘くなったという物語がいくつかあります。1つはイスラエルの民が葦の海を渡り終えて、荒野に来たときです。出エジプト1523-25「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、『私たちは何を飲んだらよいのですか』と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」注解書によると、この泉は水質が悪く、塩分と硫黄を含んでいて苦い、嘔吐をもよおさせると書いてありました。ひどい水です。しかし、モーセは主に助けを求めました。すると、主は一本の木を示され、モーセがその木を水に投げ入れました。するとどうでしょう。その水が甘くなりました。中世の注解者たちは、ここには十字架の1つの型を見出しました。十字架はいのちの苦しみ、苦味を甘く楽しいものに変えてくれるからだということです。アーメン。だいたい、悪いことばをよく発する人は、そういう生い立ちの中で育ったからです。悪いことばをバンバン浴びせられ、こちらも悪いことばで対抗したことがあるからです。ですから、心の中に塩分と硫黄のようなものが沈殿しているのです。ふだんはそうでなくても、何か不当な扱いを受けると、悪いものがばーっと湧き上がってくるのです。しかし、イエス様の十字架を入れるならば、癒しと慰めを受け、甘くなるのです。フロリダやペルーに常緑樹で水を甘くする大きな木が実際にあるそうです。その木には水を良くする効力があると言われています。十字架も同じです。でも、木から染み出て中和するまでに少し時間がかかるでしょう。心に十字架を入れても、瞬時に変わるわけではありません。少しずつ、徐々に変わって甘くなるのです。アーメン。

もう一箇所はⅡ列王記にあります。Ⅱ列王記2:19この(エリコ)町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです」。すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」これは1つの奇跡ですが、新約聖書的で塩とは何でしょう?パウロはコロサイ46で「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」塩は当時も今も、料理に欠かせないものです。塩を適量、加えることによって、料理の味が良くなるからです。コロサイ書とエペソ書は兄弟みたいな書物で、ほとんど同じことを書いています。2つの書は互いに補いあっています。エペソ429「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」つまり、塩味のきいたことばとは、人の徳を養うのに役立つことばであるということです。同じ言い方でも、人の徳にならないものもあれば、人の徳を養うのに役立つ言い方もあるのです。「この部分がダメだな。これじゃ台無しだ」という言い方もあります。しかし、「この部分を改善すれば、全体がもっと良くなりますよ」と言えば、どうでしょう。多くの場合、1つで全部を否定するような言い方をします。そうではなく、「他のところは良いのですが、ここを変えると、もっと良くなります」ではどうでしょうか?日本人はそれでなくても、セルフイメージが低いので、1つ否定されたら人格まで否定されたような気になります。ですから、よっぽど注意しないと、塩味がきき過ぎて、その人を壊す場合があります。ですから、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたもの」「必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話す」ということです。

3.接木のすすめ

 ヤコブ3:12「私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。」本当です。いちじくは、いちじくであり、オリーブの実をならせることはできない。ぶどうの木はぶどうの木であり、いちじくの実をならせることはできないということです。もし、私がいちじくで生まれたなら、もうオリーブの実をならせることできないのでしょうか?できません。もし、私がぶどうの木で生まれたなら、いちじくの実をならせることはできないのでしょうか?できません。しかし、ここは生物学的なことを教えているのではなりません。なぜなら、このたとえは「塩水が甘い水を出すこともできない」というところに帰結しているからです。塩水と甘い水はまったく別ものであり、塩水は塩水を出し、甘い水は甘い水を出すんだということです。では、どうすれば良いのでしょうか?このところは何を教えているのでしょうか?聖書にはいくつか接木のたとえを用いて、教えています。たとえば、渋柿の木があるとします。私が渋柿だとします。どうしたら私は甘い柿をならすことができるでしょうか?甘柿の枝を移植すれば、接木すれば良いですね。りんごの木の品種改良も、接木でやるようです。聖書の接木のたとえはローマ11章にあります。栽培種がユダヤ人で、野生種が異邦人です。栽培種であるユダヤ人が切られてしまいました。その代わり、異邦人である野生種のオリーブの木から切り取られ、栽培されたオリーブの木に接がれるというたとえです。

 さきほど引用した、Ⅱコリント517「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」はとても有名なことばです。そして、「キリストにあるなら」は、「キリストに接木されるなら」とも訳せることばです。Amplified Bible、詳訳聖書はそのようにも訳しています。実際、「キリストにある」という、ギリシャ語の「エン」はキリストと一体化するという意味があります。そうです。私たちは何らかの野生の木でありました。私は鈴木でしたが、佐々木もいるかもしれません。そうではなく、野生の木で、あまりぱっとした実は結ばなかったのです。しかし、キリストに接木されることにより、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったのです。キリストを信じても私たちの人格とか性格が別の人になるわけではありません。私という固有のものを残したまま、そこにキリストの品性が現われたらどうでしょうか?愛、喜び、平安とか親切、善意、柔和です。おそらく、発することばにも愛、親切、善意、柔和が現われてくるでしょう。それは元来の私たちのものではなく、救い主イエス様からくるものなのです。イエス様とつながっていることにより生み出される実なのであります。苦い実ではなく、甘い実です。もちろん、全部が全部、甘い実になったわけではありません。まだ、苦い実もいくつかあります。でも、天国に行くまで、苦い実が少なくなり、甘い実の方が多くなるのです。私はことばも同じであると信じます。なぜなら、ことばというのは、心の中からプロデュース、生み出されるものだからです。道徳や倫理では、ことば使いを良くするように指導します。しかし、それは外からくっつけるもので、生み出されるものではありません。私たちの場合は、内側から自然に流れ出てくるものです。

私は以前、感謝のカの字もありませんでした。不平不満、呪い、怒りのことばがあふれでていました。生まれが生まれ、育ちが育ち、それに現場監督でした。そういう人が、救われて、みなさんの前で「神さまは愛です。互いに愛し合いましょう」と言えるでしょうか?無理ですよね。無理なんです。そういう訳で神さまは私を山の手ではなく、こういう葛飾区亀有という町に置いてくださいました。最初ここに来たとき、タクシーの運転手に「ここは下町ですか」と尋ねました。運転手さんは「ここはそうじゃない。本当の下町は浅草とか神田のことを言うんだ」と教えてくれました。下町じゃなければ何なんでしょうか?とにかく、こういうところに派遣されて、緩和期間があったんだなーと思います。徐々にならされるという感じです。どうでしょう、少しずつ上品になったでしょうか?もう、しょうがない?とにかく、イエス様につながっているなら、希望があります。普通、乱暴な口調の人と話すと恐れをなすでしょう。しかし、私の場合は、かえって懐かしいというか、親しみを感じます。そのような人たちを導くために、良かったのではないかと思います。しかし、牧師が一番粗野で下品という教会もあまりないと思います。本当に、私は恵まれた教会で牧会しています。

ことばと人格、ことばと心とは別物ではないということです。ことばはその人の考えや思い、感情を表現する道具です。その人が発することばから、その人の人格や世界が現れてくると言っても過言ではありません。私はその人と30分も話していると、「ああ、この人はこういう世界観を持っているんだ」ということが分かります。心の叫びが聞こえてきます。私たちはキリストによって贖われた存在です。そういう人たちをさばくのではなく、「ああ、そのように生きてきたからこそ、そういう心の叫びが生まれるんだなー」とむしろ理解しなければなりません。悪いとか良いとさばくのではありません。その人の人格であり人生なんです。そのとき、つられて、自分の怒りをぶつけるのではなく、キリストのめがねが必要です。1つは創造主なる神さま、もう1つは贖い主なるイエス様のめがねレンズです。すると、「ああ、そうか、そうだったんだ」と一人の人格として見ることが可能になります。私たちはいつでもカウンセラーになることはありません。一人の兄弟姉妹として、友人として会話を交換するときもあります。カウンセラー的なものの聞き方や話し方はちょっと変です。そうではなく、キリストにある兄弟姉妹として接します。もし、そのとき聖霊様が示してくださるなら、塩で味付けられたことばを加えると良いでしょう。それはたんなるダベリングではなく、建て上げ合うときとなるからです。ちなみに、ダベルはヘブル語のダーバル「語る」から来ていることをご存知でしょうか?交わりにおいて、互いに話し合うということは重要な要素です。これがないと意思疎通がなかなかできません。でも、多くの場合、ことばによって傷ついてきたし、ことばによって傷をつけてきました。だから、どうしても消極的になるかもしれません。だけど、教会は「愛し合う訓練の場」であります。みんな工事中で、完全な人はいません。当然、コミュニケーションにおいてぶつかったり、うまく通じないことがありえます。大体多くの人は、先入観を持っていますので、「この人はこうだろうなー」で交わっています。だから、初めから誤解が含まれている場合があります。ですから、教会では本当に贖い主イエス様を間において、交わる必要があります。そうすると、「ああ、本当はそうだんだ。この人は良い人だったんだ」ということが分かります。

 先週は新大久保の教会で「二つの翼」を学びました。講師は釜山のキム・ソンゴン牧師です。セルチャーチと弟子訓練をマッチしたすばらしい教えです。教えは本当にすばらしく、先生の教会のシステムも完璧だと思います。ただ、日本人にとって、受け入れがたいところがチラホラあるということです。私が言うのもなんですが、人格的に粗野なところがあるし、つまらない冗談をよく飛ばします。先生はユーモアと言いますが、私たちは「もう、いいから、本題に入ってくれよ」と思っています。また、文化の違いもあるかもしれませんが、「このとおりにやりなさい。変えてはいけません」と言うのです。何か強制されている感じがします。キム先生はこのようによく、おっしゃっていました。「人格を変えるよりも価値観を変えなさい。弟子訓練において、人格を聖くすることをゴールにするなら天国を待つしかない。そうではなく、価値観を変えなさい。そうすれば、人格もいずれ変わってくる」と。アーメンですね。キム先生はそれを他の人に実行し、自らもそうなんだなーと思いました。「二つの翼」は、既に4回学び、あと1回で終わりです。先週、ようやく分かりました。キム先生はサラン教会の玉先生より、人格的に劣るかもしれません。しかし、先生は純粋な動機を持っておられるということがようやく分かりました。私たちは第一印象とか、その人の口調で「ああ、この人はこういう人だ」と、決め付け、ある場合は敬遠したりします。しかし、長く接しているとその人の中にある良いものと出会うことができるかもしれません。みなさんの中にも泉があります。聖霊様に与えられた泉が賛美と、塩味のきいたことばを湧き上がらせてくださるのです。

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2011年5月 8日 (日)

舌を制御する      ヤコブ3:1-8

きょうの箇所は私自身、非常に話し辛い箇所です。なぜなら、舌つまりことばに関することだからです。私はことば使いが非常に雑であり、多くの人を傷つけてきました。同時に私は説教者ですから、ことばを用いて奉仕をしています。外科手術でメスはとても重要な器具です。ブラックジャックのような熟練したお医者さんに握られるとすばらしい働きをします。しかし、いい加減なお医者さんに握られるとどこを切られるか危なくて仕方がありません。ことばも、鋭いメスのような存在です。人を活かすこともできるし、人を殺す道具にもなります。ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」なぜ、教師が格別きびしいさばきを受けるのでしょう?それは、彼らの仕事がことばを用いているからです。教師が悪いことばや偽りを語るなら、多くの人たちを汚し、惑わすでしょう。そういう意味で、きょうの箇所は、私にとっても厳しい箇所です。

1.舌の持つ力

ヤコブはいくつかのたとえを用いながら、舌のもつ力、その破壊力を教えています。3節には馬とくつわの関係で示しています。馬は大きくてものすごい力があります。人が馬を御するときは、どうするでしょうか?くつわを口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことはありませんが、右の方に引っ張ると馬は右に行くでしょう。左の方に引っ張ると左の方に行くでしょう。両方引っ張ると止まるかもしれません。2番目の例は、船とかじの関係です。ここにあげられているのは、風で動く大きな帆船です。風がびゅっと吹いてきたら、風になびいて帆船は進むでしょう。しかし、船には舵があります。船全体とくらべたら、とても小さいです。船が風になびいても、小さな舵を回したら、別の方向に進ませることができます。3番目の例は大きな森と小さな火です。小さなマッチやタバコの火で、森全体を燃やすことができます。もし、森が私たちの人生であるなら、火は私たちの舌です。体の中で、とても小さい器官ですが、この舌によってからだ全体を汚し、地獄に突き落とすような破壊力があります。日本では、大臣が1つの失言によって、辞任に追い込まれることがよくあります。夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったため、離婚に発展することもあるでしょう。私のように聖書を語る人は、生と死の鍵を握っています。十戒を示して人を断罪することもできますし、福音を語って人を活かすこともできます。

みなさんなぜ、舌、つまりことばをあなどることができないのでしょう。ある人たちは、「ことばは単なる音の流れ、音波だ」と言うかもしれません。日本語では言の葉と書きます。言の葉っぱですから、ぱらぱらと散るイメージがあります。葉っぱは幹と違って、たいしたことがない感じがします。しかし、ことばとは「言魂(ことだま)」と言って、ことばには魂が宿っているのだという説もあるようです。では、聖書的にことばはどうなんでしょうか?創世記を見ますと、神様はことばによって世界を造られました。「光よ、あれ」と言ったら光があったのです。また、預言者が呪いを発するとそのようになります。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになります。ユダヤ人はことばは単なる音波ではなく、そこには実体があると考えたようです。だから、彼らが「シャローム」と挨拶するなら、「平安がその人にくるんだ」と理解していました。私たちが契約するときも、たとえ書面に書かなくても、口で約束した場合は履行しなければなりません。たとえば、ここにレモンがあるとします。今、ナイフでレモンを半分に切りました。どうぞ、口を開けてください。私がその半分をあなたの口にギュッと絞ります。そうすると、皆さんの口の中にすっぱい感じがするのではないでしょうか?良くないたとえ話ですが、たとえば、だれかから「お前を今晩12時に殺してやる」と言われたとします。言われた本人は、怖くて眠れないのではないでしょうか?それは恐喝という立派な罪になります。本当にことばで人を殺したり、病気にすることもできるのです。権威あるお医者さんから、「あなたの命はあと半年ですよ」と言われたら、ガーンと奈落の底に落とされた気になるでしょう。だから、ことばは正しく用いないと、自分や人々の人生を破壊してしまうということです。

2.舌が癒される

ヤコブは「舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちている」と言っています。福島の原子炉が今、大変なことになっています。制御することが難しく、今も放射能を撒き散らしています。私はクリスチャンになってから、本当に悩みました。なぜ、私のことばは粗野で、人を傷つけるようなことばを発するのだろうと思いました。箴言を読むと、ことばの弊害についてたくさん書かれています。箴言10章「無駄口をたたく愚かな者は踏みつけられる。そしりを口に出す者は愚かな者である。」箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る」と書いてあります。私が26歳のとき、神学校で伝道実習のときがありました。何人かのグループで、川越に行き、商店街で高校生たちにちらしを配布します。その後、喫茶店の二階で集会を開くのです。ある時、私が証しをすることになっていました。証しの前に、先輩の渡辺姉妹が祈ってくれました。「神さま、どうぞ鈴木兄弟の唇を清めてください。どうか、鈴木兄弟の口をどうか、どうか清めてください」と祈りました。私は心の中で「やかましい。これから証しをするのに、へこむだろう」と思いました。私はそれほど唇の汚れた者だったらしいのです。

どうでしょう?みなさんの中に、口が勝っ手に悪いことを言う。ことばで失敗したり、人を傷つけるタイプであるという人はおられるでしょうか?私は本当にそうです。家内が良く知っています。え?家内だけではない?よく、日本人は「口は悪いけど、腹の中は良い」と言います。しかし、それは聖書的ではありません。イエス様は福音書で口について何度か教えておられます。マタイ1234,35「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです」。マタイ15:18「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」と教えられました。つまり、「口と心は連結しており、口は心で思っていることを語っているんだ」ということです。ですから、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良いもので満たされる必要があるということです。どうでしょう?人はイエス様を信じると霊的に新しく生まれ変わります。心に神さまの愛が満たされ、だんだん良いことばを話すようになるのではないでしょうか?それは道徳とか倫理の世界ではありません。神さまの愛が、聖霊様が私たちを変えてくださるからです。クリスチャンの心は以前は悪い倉でしたが、今では主にあって良い倉に変えられたのです。あなたはすでに良い倉を持っているのです。

しかし、申し訳ありませんが、悪いニュースが1つあります。それは私たちの悪い習慣が体の中に残っているということです。樹木にたとえるとこうです。根っこが悪いことばのもとであり、実が「悪いことば」だとします。根っこが癒されても、幹、つまり、習慣とか性格が癒されなければなりません。幹とは私たちの思い、マインドであります。私たちは子どものとき、否定的なことば、悪いことばをいっぱい浴びせられてきました。特に、怒って言われたことばは、マインドコントロールになって私たちの中に留まります。「お前は何をやってもダメだ」とか「お前はうちの子じゃない、出て行け」とか「くさい、気持ち悪い、死ね」とか、悪いことばによって私たちは汚されてきました。私たちは条件反射的にそういうことばを言われると、「お前こそ死ね」と言い返してしまうのです。私は上の兄には腕力で全くかないませんでした。その代わり、口で相手を攻撃しました。『王家の者として生きる』という本の中で作者はこう証ししています。幼い時に見捨てられ虐待されて来た子どもの多くは、自分は恥ずべき者だ、誰にも必要とされていない、取るに足りない者だという自己像を抱いてしまうのです。このような嘘の結果、私たちは敵地である世の中から自分を守るために出来上がった行動パターンを身につけてしまいます。最も基本となるアイディンテティを攻撃されて育った私たちは、とにかく何をおいても痛みをひた隠し、生き残るためだけに存在するようになってしまうのです。私の身につけた生き残り作戦の1つは、辛口のユーモアでした。私のジョークは人々を陥れ、彼らを馬鹿にする内容でした。もちろん彼らが気を悪くしているというのに気付いていませんでしたが、無意識のうちに他人の自尊心を傷つけることで、自分の気を休めていたのです。他人の失敗談をジョークで笑い飛ばしながら、ただ人を笑わせているつもりの私は、その笑いで人々の心を傷つけていたのです。

私はこの本を読んで、ああ、これは自分のことだと思いました。しかし、イエス様は私を、私たちを癒してくださいます。どうすれば癒されるのでしょうか?これはエリヤハウスの方法です。第一は、「ああ、私はそういう者だ」と認めることです。第二は告白です。「そうか、そういう訳で私は悪いことばを使うようになったのだ。これは自分を防御するための武器だったんだ。しかし、これから私は自分をこのように防御する必要はない。なぜなら、私は神の子であり、王子なんだ。私に対する悪い評価は私にはあてはまらない。たとえ、非難されたり、馬鹿にされることがあっても、私の世界は壊れないんだ。アーメン」。第三は「主よ、今まで、この口で人々を傷つけ、この舌で人々を呪ってきました。どうか赦してください」と祈ります。第四は「悪いことばの構造、性格を十字架につけます。十字架につけて死なせます。アーメン。」第五は「主よ、私に新しい命をください。今度は私に良いことば、人を活かすことばを与えてください」と祈ります。

3.舌を制御する

私たちは舌を制御する必要があります。前の段階は癒しでした。私たちの心が生まれ変わり、思いが変えられる。そして、 悪いことばを語る性質を十字架に付け、新しい命をいただく祈りをしました。これで終わりかというとそうではありません。最後はライフ・スタイルチェンジが必要です。どういう意味かというと、新しい性質を身につけていくということです。どうでしょう?自転車でも水泳でもそうですが、教室だけでは学ぶことができません。実践が必要です。何度も何度も、やって体に身につける必要があります。自転車でも水泳でも一旦、からだが覚えたら、意識しなくてもできます。でも、それまでになるためには繰り返し、繰り返し実践すること必要です。それはことばの世界も同じなのです。そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。つまり、私たちは、今後、この舌に悪いことばを語らせないように注意する必要があります。ヤコブは何と言ったでしょうか?ヤコブ32「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」「完全な人」とは、ギリシャ語でテレイオーですが、「大人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、クリスチャンとして成熟した人は、ことばをしっかり、制御できる人なんだということです。

Ⅰペテロ310,11「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」使徒ペテロもヤコブと同じようなことを教えています。もし、人がいのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思うなら、どうすれば良いのでしょうか?「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないように」すれば良いのです。私たち日ごろ、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、さばかれたり、自尊心を傷つけられたりします。そのとき、私たちは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言いたくなります。これまでそうしてきました。「目には目を、歯には歯を、口には口を」であります。そのときに、聖霊の助けによって、舌を押さえて悪を言わないようにするのです。みなさんは私と違って育ちが良いと思います。そんな乱暴なことは言わないと思います。たとえば夫婦喧嘩をしたとします。どっちが、ことばがたくさん出るでしょうか?妻の方であります。妻はマシンガンのようにババババババと撃ちまくります。夫はどうするでしょうか?アアアアアアと撃たれながら、(手榴弾の)ピンを抜くのです。そして、どかんとなります。つまり、口でかなわないので、手が出るのです。夫は母親からことばの被害にあってきたので、過剰に反応するところがあります。どうぞ、気をつけてください。何度か失敗するかもしれませんが、習慣化するためには、訓練が必要です。

ケネス・ヘーゲンという人は、『愛、勝利に至る道』でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は「自分の舌に悪をやめさせること」です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また、神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。あるとき、一人の牧師が問題を起し、彼はその教会を去らねばならなくなりました。私はだれかに、「あの人は何をしたんですか?」と尋ねると、その人はその奉仕者が行ったことを私に話してくれました。ところで、私は考えることをせずにこう言いました。「良識のある人なら、そんなことはしないでしょうね」。ふだんならすぐ眠れますが、その夜は眠れませんでした。二日目、三日目の晩も眠れませんでした。ついに私は主に言いました。「主よ、私の何がいけないのでしょうか?私の信仰があなたとつながっていないのですか?」主が私に語りかけました。「あなたは○○兄弟について○○と言いませんでしたか?」とその牧師の名前を言われました。「はい、私はただ、『良識のある人なら、そんなことはしないでしょうね』と言っただけです。」主は私に1つの質問をされました。「彼がどんなプレッシャーを受けていたか、あなたは知っているのですか?」「いいえ」と私は言いました。主は私に言われました。「もし、あなたがそれと同じ立場にいたなら、あなたは彼ほど立派にはできなかったかもしれません」。私は涙を流しながら言いました。「ああ、神さま、私をお赦しください。私は悔い改めます」。私は悔い改めるやいなや、瞬間的に癒されたのです。私はベッドに入って、ぐっすり眠りました。幾日かぶりでした。私が主のしもべたちを批判しないように自分の口を閉ざしておくことを教えてくれたのは、このような数々の状況でした。他の人を批判するのは、いとも簡単です。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派には行うことができなかったのかもしれません。「裁くのをやめなさい。あなたがたも裁かれないためです」。

4.舌を活用する

ヤコブは舌の破壊力を語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。くつわを口にかけることにより馬全体を引き回すことができます。船の舵を取ることによって、船全体を思い通りの所へ持っていくことができます。もし、舌を正しく制御するなら、人生をも変えることができるのではないでしょうか?私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。ある人たちは何か起こると、「ああ、最悪だ」と言います。本当に最悪なのでしょうか?また、ある人たちは「病気がなかなか治らない。このままだと死んでしまう」。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかないんだ。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし、私たちがこのような否定的で破壊的なことばを発したならどうでしょう?最悪が起こり、体がますます悪くなり、失敗を重ねる人生になるのです。なぜなら、発したことばに力があるからです。失敗している人のことばをよく聞いてみると、否定的で破壊的なことばを常に発しています。私たちは逆に、肯定的で生産的なことばを発して、人生を良い方向に導いていく必要があります。マルコ11:23 「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」イエス様は、「○○と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる」と言われました。だから、私たちは問題や出来事に向かって、「動いて、海に入れ」とか「山よ、平地になれ」とか言わなければなりません。言えば、そのとおりになるのです。

ある女性が牧師先生にこう言いました。「私は長年、このぜんそくを患っていますが、私はそれからいやされません。お祈りしてもらったことは何度もあります。しかし、他の人たちと違って、私はいやされません。幾晩も、私はこのぜんそくで息苦しくなって、あと一息も呼吸できなかったことがあります。このような発作があった次の日は、私はベッドから出ることさえできません。また、あるときは、その日の初めは良くても、昼ごろまでにはぜんそくが始まって、何もできなくなります。私はなぜいやしを受けられないのでしょうか?」先生は彼女に言いました。「あなたが重いぜんそくをわずらっているのは確かですが、私がお話ししたいのは、そのぜんそく以上ではないかもしれませんが、それと同じくらい深刻なことです。あなたの否定的な態度です。あなたは私が今まで見たことがないくらい、『私はできない』という悪い症状をお持ちです。あなたの生活の中で何らかの改善や、何らかの癒しを期待する前に、その『私はできません』を『私はできますに』換えなければなりません。あなたがそうしないうちは、神は願っておられるやり方ではあなたを助けるためには働くことができないのです」。彼女は先生の言うことを受け入れ、涙を流しながら尋ねました。「ですが、私はどうすれば良いのですか?」先生は聖書のピリピ4:13を開いて、彼女に読んでもらいました。そして、こういい始めるように指導しました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。私はいやしを受け取ることができます。私はキリストを通して完全に健康になれます。キリストは私の力であり、私のいやし主です。キリストの打ち傷によって、私は癒されています」。それは瞬間的な回復ではありませんでした。彼女は長い間「私はできません」を言い続けてきたので、神のことばを言わせるのには、訓練期間が必要でした。けれども、何ヶ月後、彼女は、恐ろしいぜんそくから完全にいやされたという証しを熱心に話してくれました。私たちは自分の口で言うとおりになるのです。どうぞ、神さまと一致すること、神さまがみことばの中で言われることと同じことを言いましょう。

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