2015年11月13日 (金)

コーチングの基本 コロサイ1:28-29 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.11.15

 10年以上前から企業の中でコーチングが行われるようになりました。コーチングというのは、上から指示するのではなく、その人が自ら考えて決断できるように助けるということです。コーチングの由来は、coachという四輪の大型馬車から来ました。当時は、お家から駅まで行って、列車に乗って目的地近くの駅まで行きました。駅から目的地までは徒歩か馬車で行きました。しかし、コーチという馬車はお家から、目的地まで乗り換えることなく行くことができました。つまり、コーチングはその人が目的地まで行けるように、一緒に行ってあげるということです。聖書を見ますと、ある意味でイエス様も弟子たちにコーチングをしていました。同じように、霊的な親が後輩の人たちをコーチングできたら何と幸いでしょう。

1.コーチングの目的

ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

第一の質問です。「行ないの面で、神さまは私たちに何を期待しておられるでしょうか?」「この世と調子を合わせてはいけない(妥協してはいけない)」と言っています。ある人はこの世の価値観と神の国の価値観を2つ持ちながら、二元的な生き方をしています。神さまは、この世と神の国とダブル・スタンダード(二重規範)を持って生きることを願っておられません。

第二の質問です。「では、コーチングとは、何をどのように助けることなのでしょうか?」まず、その人が正しい神のみこころを発見できるように助けることです。その人は「私はこうしたい」と思っていても、神さまは「こうしてもらいたい」と願っておられるかもしれません。ですから、神のこころに対して、修正すべきところがあるかもしれません。その次は、その人の現時点から、神のみこころに向かって進めるように助けることです。多くの人は「自分に対する神さまのみこころ」のところで迷っているかもしれません。つまり、自分は何をもって神さまの栄光を現わすように召されているのか分からないということです。人生の目的地が分からないのに、やみくもに歩いているとしたらどうでしょうか?

第三の質問です。「成長の面で、神さまは私たちに何を期待しておられるでしょうか?」「心の一新によって自分を変える。つまり、自分の思い(mind)を新しくする」ということです。そうすれば、自分にとっての神さまのみこころは何かもっと分かるはずです。クリスチャンの中には霊的に生まれ変わっていても、思い(mind)が変わっていない人がいます。このことは、1つ前の『新しいライフ・ステージ』というところですでに学びました。賜物と召命というのは、過去の傷や不幸な境遇と関係があります。「神さまはあなたを仕込んでおられたんだ」ということを学びました。

第四の質問です。「では、コーチングはどのような心を持つ必要があるのでしょうか?」使徒パウロがこのように述べています。コロサイ128-29「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」前にもお話ししましたが、教会にはルカ15章のような兄のような人がいっぱいいます。兄は、「そこが足りない、そこがダメだ」と批判します。しかし、父は無条件の愛をもって弟息子を迎えました。つまり、霊的な父のような心を持つ必要があります。しかし、パウロは優しい愛だけでは不十分だと言っているかのようです。奮闘する」は、「闘技において戦う」「闘技する」という言葉から来ています。つまり、体育会系のコーチをイメージする言葉です。最近はセクハラとかパワハラで訴えられますが、柔道とかレスリングのコーチはとても厳しいです。もし、教会で「やる気がないなら、やめちまえ!」とか言ったら、だれもいなくなるでしょう?パワハラはだめですが、もっと、厳しさがあっても良いかもしれません。

 この世のコーチングは2つの信念(前提)のもとで行われています。第一は、「人間はどんなことでもできる」ということです。第二は、「その人自身の中に、目的地を発見する力がある」ということです。しかし、聖書的に見るならば、私たちは堕落した存在であり、内側には勝手な欲望があります。無限の能力もないし、正しい目的地を発見する力もありません。聖書的なコーチングにとって、最初にすべきことは、その人が新しくされて、心を変えられなければなりません。まず、その人を動かすエネルギーが変えられる必要があります。その次は、その人が望んでいることと、神さまが願っていることは、何であるかはっきり区別しなければなりません。コーチングでは神さまが願っている目的地へと修正していく必要があります。神さまは、どんな目的地に行こうとも、私たち一人ひとりが続けて成長して、成人となることを願っておられます。子どもにとって両親が大切なように、一人の人をキリストにある成人として立たせるために、父親の心を持っている人がコーチをする必要があります。

2.コーチングの心構え

 ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。ピリピ23「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

第一の質問です。「イエス様は弟子たちにどのように約束されましたか?」「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」と言われました。ほとんどの聖書学者はこのことばを文字通りには受け止めません。いろんな霊的解釈をほどこしていますが、不信仰の域を出ていません。現実はどうであれ、私たちはこのみことばを額面通り受け止める必要があります。イエス様が「あなたは私よりも大きなことをするよ」とおっしゃるのなら、「アーメン」と答えるべきであります。

第二の質問です。「あなたは自分が育てた人が、自分よりも優れたことを成し遂げても喜ぶことができますか?」この世における、師匠と弟子の間には越えられない淵があります。もし、弟子の方がまさるなら、師匠から「100年早い」と言われて、追い出されるでしょう。でも、子どもが親を超えるならば、親にとってはこの上もない喜びです。霊的親はつまらない妬みではなく、寛大な心を持つべきであります。使徒パウロは霊の子であるテモテの成長を見て喜んでいました。自分が持っている良いものは何でもあげたいと思っていました。

第三の質問です。「あなたは、他の人を見て、自分よりも劣っているのではないかと思っていませんか?」劣等感を持っている人というのは、同時に優越感も持っているものだと聞いたことがあります。私たちの肉には、虚栄心や党派心が宿っています。常磐牧師会というものが月一回行われます。彼らとは25年くらい続いている交わりです。当時は頭の毛がふさふさだったのに、今は寂しい先生もおられます。「当時、ズラをかぶっていて今が本物なんだ」と皮肉をいう人もいます。土地を買ったとか、教会堂を建てたと聞くと心から喜びます。牧会上の問題が起きたときは、心から同情します。しかし、私にとって我慢ができないときもあります。それは、自分の学説を長々と説かれた時です。10分くらいは聞くことができますが、20分以上になると「いい加減にせーよ」と腹が立ってきます。特に、まだうまくいっていないのに、うまくいくかのようにどこかの教会のやり方を紹介するときです。私は「成功してから言ってくれ」と水をさします。「私は失敗した」という、卑屈な気持ちがあるからかもしれません。神学校の頃、夏季研修というのがあって、全校生徒の前で、それぞれ発表する機会がありました。「うまく行かなかった、砕かれた」という証だと、教授陣が同情してくれます。ところが、「良い成果をあげました」と報告すると、「高慢だな、もうやめろ」と教授が言いました。聖めを説く神学校でもそういうことがありました。

第四の質問です。「なぜ、自分よりも優れた者であると思うことができるのでしょうか?その根拠は何ですか?」第一は、自分自身もキリストのからだの一部の器官であり、すべてのことはではないからです。Ⅰコリント1221「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。」と書いてあります。第二は、その人もキリストに贖われた存在であり、聖霊がその人の内で独自に働いておられるからです。その人をけなすということは、その人に働いておられる聖霊をけなすということになりかねません。ローマ144「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。私がだれかをコーチングするとするならば、その人が将来、私よりもさらに優れた人になり、建て上げられて神の国に用いられる人になるという思いをもって、コーチングをしていかなければなりません。自分が育てた弟子が、自分よりも優れて、もっと人気が出たらどうするでしょう?胃が痛くなるでしょうか?また、コーチは人を自分よりも優れた者と思わなければなりません。なぜなら、どんな人でも卓越したものを持っています。ある人は、勉強はあまりできないかもしれませんが手先が器用です。神様が与えた賜物というものがあります。だから、それを見つけて、その人が自分よりも優れていると思うべきです。アーメン。私は「時間の無駄だ」と、子どもたちにゲームのやり過ぎを厳しく注意したことがあります。でも、口うるさく言うと逆に効果がないので、だんだん放任主義になりました。ある時、下の息子が私の二台目のパソコンでゲームをしていました。仕事をしながら、ちらっと見ましたが、驚きました。今のゲームは昔のインベーダーゲームと違って、とても複雑です。マインクラフトというのは、地下に穴を掘って採掘し、その材料で何かを作る、とても創作的なものでした。ゲームが社会的に役立つかどうかは分かりません。でも、そういうことだけで判断してはいけないと思いました。神さまは一人ひとりにユニークな能力を与えておられるからです。現代は、専門家でない畑違いの人から、良いアイディアが出て来ると言われています。良いコーチとは神さまがその人に与えたユニークな能力を引き出すことではないかと思います。

3.聖書的価値観(世界観)を持つ

 詩篇12-3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」ヨハネ1224-25「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

第一の質問です。「豊かな実を結ぶために、木にとって大事な部分は何ですか?」水路のそばに植わった木は、根からたえず水が供給されるので枯れません。つまり、根が大切だということです。根とは価値観や動機、その人のエネルギーであります。根は地表からは見えないので、どうしても実の方に目が行ってしまいます。実とは結果であり、何ができるかということです。しかし、根が健全でなければ、豊かな実を結ぶことはできません。結果よりも、根にあたる価値観や動機、エネルギーに注目すべきであります。

第二の質問です。「みことばを口ずさむ(瞑想する)ことによって、あなたの何がどのように変わるのですか?」考えが変わり、信仰が与えられ、主のみころにあった生き方をするようになります。順番をもう一度言うとどうなるでしょう?みことばを瞑想すると、私たちの考えが変わります。考えはすべての源です。考えはマインド、信念、世界観とも言い換えることができます。宗教は怖いと言われますが、それはマインドをコントロールされるからです。でも、まことの神さまからみことばによって、マインドを正しくコントロールされたら良いのではないでしょうか?神さまとみことばなしで、自分のマインドを正しく保てるでしょうか?第二は考えが変わると信仰が与えられます。信仰と信念は似ていますが、同じではありません。信仰は神さまが保証してくださるものですが、信念は自分自身だけのものです。信じて求めるなら、神さまは報いてくださいます。第三は信仰から主のみこころにあった生き方が生まれます。これはだれもが見ることのできる実であります。6月頃、一番上の兄から「長男の結婚式をあげてくれないか」と頼まれました。私にとっては甥にあたりますが、私の兄弟の前で司式をすることになります。彼らはまことの神さまを信じていません。「うちのヤスはキリスト教にかぶれておかしくなった」と思っていたでしょう。彼らは神さまを見ることはできません。でも、私が神さまを信じてどういう生活をしているかは見ることができます。「子どもの頃のヤスは意地っ張りで、泣き虫で、わがまま放題だった。ところがキリストを信じてから、人々の前で教えを垂れるようになった。しっかりした奥さんを持ち、4人の子どもを育てたじゃないか?ああ、やっぱり神さまがいるのではないだろうか?」私の考えが変わり、信仰が与えられ、生き方が変わったからです。

第三の質問です。「あなたの隠された部分に、死ぬべきものはありませんか?」伝統的な教会は講壇から牧師が「死ね」「死ね」と言うそうです。私も神学校で良く言われました。みなさんの中には、「死ね」「死ね」と言われ、うんざりだという人もおられるかもしれません。私は「死ね」のかわりに、「十字架につけて死なせる」というふうに言います。自らの意志で自分を死なせることはとても困難です。私たちが自らの意志ですべきことは、不純なものを十字架に付けることであります。そうすると、十字架自体が死なせてくださるのです。使徒パウロはガラテヤ書でこのように言っています。ガラテヤ5:24 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ614「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」パウロにとって、世界とは肉的な喜びをもたらすものでした。ですから、十字架というのは救われるためだけではなく、救われた後も必要だということです。十字架は私たちの中に残っている肉や罪を死なせる力があります。私たちは生きている限り、名声、功名心、お金、富、快楽など、十字架につけなければなりません。天国に行くまで、十字架は必要なのです。

第四の質問です。「クリスチャンのコーチングは個人の自己実現ではなく、何をサポートするのでしょう?」この世のコーチングはどうでしょうか?コーチと言うのは、その人の自己実現のために雇われている存在です。その人の願いを叶えるのが良いコーチです。しかも、この世のコーチングは、神さまではなくその人の中に答えがあると思っています。だから、この世のコーチングは「それは間違っている」とは決して言いません。なぜなら、お客様の自己実現が目標だからです。一方、神からのコーチングは、その人に与えられた神の計画が成就するようにサポートします。神の計画は英語で言うと、The divine destinyになります。エレミヤ書29章に書いてあるように、神さまは私たちに計画をもっておられます。それは、災いではなく、平安と将来と希望を与えるためのものです。

4.コーチングの技術

 コーチングの技術で大切なものが3つあります。第一は傾聴、よく聞くことです。第二は質問、良い質問を投げかけて認識や理解を与えることです。第三はフィードバック、評価をしてあげるということです。ピリポ・カイザリヤというところで、イエス様が弟子たちに質問されました。いきなり「私がだれか」と聞かれませんでした。イエス様は「人々は私をだれだと言っていますか」と聞きました。彼らは「バプテスマのヨハネだと言う者もあり、エリヤだという人もあります。他の人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だ」とも言っていますと答えました。その後、イエス様は「あなたがたは私をだれと言いますか」と聞かれました。するとペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。イエス様の良い質問に対してペテロが答えました。イエス様は「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われました。これはフィードバックと言えます。

その後、イエス様は「エルサレムに行って、多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえります」と言われました。ペテロは「主よ。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とイエス様をいさめました。すると、イエス様は「下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました。ペテロは天にまで引き上げられた直後、サタン呼ばわりされました。これがイエス様のコーチングでしょうか?ペテロはこのことがトラウマになったのではないでしょうか?しかし、ペテロは懲りない人でした。いよいよイエス様が捕えられるとき、ペテロはこう言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と答えました。イエス様は「あなたは三度、私を知らないと言います」と預言しました。それでも、ペテロは「死んでも、あなたを知らないなどとは決して申しません」と否定しました。その時、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。イエス様はペテロが3度知らないとご自分を否んだとしても信仰がなくならないようにとりなしておられました。そればかりか、「立ち直ったら兄弟たちを力づけるように」という使命を与えておられました。これが、イエス様の計画です。私たちも失敗や挫折することがあるでしょう?自分の使命や計画も見失うことがあるかもしれません。しかし、イエス様が世の終わりまで共にいて、私たちを励まし、力を与えて、導いてくださいます。イエス様こそ私たちの最大のコーチです。

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2015年1月30日 (金)

霊的成長 コロサイ2:6-12 亀有教会 鈴木靖尋牧師 2015.2.1

 イエス様を信じるなら恵みによって救われます。言いかえるなら、永遠の命を持ち、神の子になることができます。しかし、霊的に生まれたならば、成長の過程を歩まなければなりません。赤ちゃんの誕生はこの上もない喜びです。しかし、喜んでばかりいられません。赤ちゃんが健康に成長するためには、食べ物や様ざまなケアーが必要です。クリスチャンも同じで、神さまにしっかりつながり、教会という共同体の中で養育される必要があります。きょうは、『チェンジングライフ』のテキストを参考にしながら3つのポイントで学びたいと思います。これらの3つは順番ではなく、同時進行と考えるべきです。

1.キリストに根ざす

 コロサイ26-7「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」私たちは「イエス様は私の救い主です」と信じ、受け入れました。おそらく、救い主であると同時に「人生の主として受け入れます」と祈ったと思います。でも、「主」とはどういう意味なのでしょうか?簡単に言うと、「主」は神さまとか、主人、支配者という意味です。英語ではLordとかmasterと呼びます。イエス様を信じる前は、自分の人生の支配者は自分自身だったのではないでしょうか?しかし、イエス様を信じたら、その支配権をイエス様に渡さなければなりません。なぜなら、イエス様はあなたのためにいのちを捨てるほど愛しておられるからです。また、イエス様は全能の神であり、悪魔よりも力あるお方です。もし、あなたが人生のかしらになるなら、昔のように悪魔の策略にはまり、みじめな生活を送ることになります。客船やタンカーなどの大型船が港に着岸するとき、タグボートの助けを借りなければなりません。大型船の船長はあなたです。それほど自我は大きな存在です。小さなタグボートの船長はイエス様です。タグボートの船長はtake over(引き継ぎますか)?と聞きます。大型船は「いやです。私がやります」と断るならどうでしょう?自分ではうまく接岸できないでしょう。イエス様は紳士ですから、私たちに「あなたの人生の支配権を私にゆだねますか?」と聞きます。「はい、主よ」と言えば、イエス様は「わかりました。あなたの人生を守り、導きましょう」と答えて下さいます。

 

 パウロは「主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」と命じています。まるで、イエス様に手を引いてもらっていくというイメージがあります。テキストには「あなたが罪から解放されるための唯一の方法は、あなた自身をキリストのしもべとし、キリストを人生の真の支配者になっていただくことです」と書いてあります。私は自分の信仰生活を振り返りますと、イエス様が人生の主となってもらう祈りをしたのは、洗礼を受けて半年後でした。それまでの友人とも関係が途絶え、会社も不正をしながら給料をもらいたくないと思うようになりました。このような賛美を聞いていた時です。「私は道で、まことでいのちと主は私に語りかけたー。主の道を歩く、愛と奇跡をこの身に受けながらー」。私はその場にひざまずき、「私はイエス様の弟子になりたいです。小さくても良いですから、あなたの弟子にしてください」とお祈りしました。その後、自我を取り返して失敗したこともありましたが、そのたびに主イエス様に従う決意をしました。ですから、イエス様は救い主だけではなく、「私の人生の主です」と改めて、告白する必要があります。そうしますと、悩みや問題に支配されることがなくなってきます。

パウロは霊的成長を植物や建物のようにたとえています。まず、「キリストの中に根ざし」とはどういう意味でしょう?植物でたとえるなら、キリストの中から水分や養分をいただくということです。具体的にはどうしたら良いのでしょうか?コロサイ316「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」とあります。つまり、聖書のことばを読んで、それを自分の中に取り入れるということです。聖書のみことばには、乳のように柔らかいものもあれば、肉のように堅いものもあります。クリスチャンになりたての頃は、堅い「義の教え」は無理です。愛とか恵みにあふれたものは消化できます。Ⅰヨハネ2章には、霊的な子どもたちに「罪が赦されていることと、御父について知りなさい」と書かれています。信じる前は罪に対して全く無感覚でした。ところが霊的に誕生すると、自分がいかに罪深いか分かってきます。その時に、父なる神の無条件の愛と赦しを体験的に知ることが必要なのです。

 

もう1つ、パウロは「また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし」と教えています。これは建物の基礎や柱や壁にたとえられています。もし、30歳でクリスチャンになったならば、物の考え方ができています。自分の好みやこの世の価値観でがっちり固められているでしょう。そこに、聖書的な考えや価値観が入って来たならどうなるでしょう?ある場合は従来のものを壊して、そこに新しいものを建てなければなりません。私の家内はテレビの「ビフォー・アフター」が大好きです。私は「全部壊して、新しいものを建てた方が安上がりだろう」と言います。でも、私たちの考えを全部壊して、新しくするのは不可能です。やっぱりリフォームになるのかもしれません。でも、大変な工事であることは間違いありません。「こんな不便な生活をよくしていましたね」と驚きのケースがよくあります。でも、すぐれた匠のわざによって、新築のような住まいになります。私たちもみことばよって考えや価値観を変える必要があります。また、神さまから、癒しと解放とリニューアルをいただく必要があります。ある場合は、人の手を借りなければなりません。自分の過去の傷をさらけ出すのは嫌かもしれません。床板をはがしたら、とんでもないものが出て来たということがあるでしょう。魂の匠であるイエス様に直してもらいましょう。日の当たらない、不便な生活を脱して、新築のような家にしていただきましょう。

 

2.交わりの中で成長する

コロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」あなたがたとは、英語の詳訳聖書にはwithin and among youとなっています。イエス様は個人の中だけではなく、あなたがたの間にもいらっしゃるということです。つまり、信仰生活は神さまとの関係だけではなく、横の関係も必要だということです。特に生まれたてのクリスチャンは、交わりの中で成長する必要があります。赤ちゃんが一人で大きくなれないのと同じです。チェンジングライフの最初に「著者の言葉」があります。インドネシアのエディ・レオ師が書いたことばです。「あなたはイエス・キリストを個人的な救い主として、人生の主として受け入れたときに、霊的に新しく生まれました。生まれたばかりの赤ん坊が、両親から集中的な養育が必要なように、あなたもクリスチャンとしてしっかりとした土台を持つための養育を受けなければなりません」と書いてあります。さらに、「スポンサーから助けをいただきなさい」と書いてあります。スポンサーは広告のスポンサーという感じがします。しかし、キリスト教会においては「代父」「代母」という意味があるようです。最近は、コーチとかメンターという呼び名が一般的です。当教会でも、試みてきましたが全体的には行き渡っていません。でも、だれかが世話しないと、洗礼を受けた後、来なくなることが良くあります。特にクリスチャンになりたての頃は、小さな問題でも躓いてしまいます。赤ちゃんも歩き始めの頃、よく転びます。やがて簡単にはころばなくなります。それと同じで、信仰的に先輩のクリスチャンが傍らにいて、支えてあげる必要があります。

 

 私がクリスチャンになれたのは、増田さんという職場の先輩のおかげでした。彼がいろんなたとえ話を用いて福音を伝えてくれました。半年後、「英語をただで勉強できる」と言われて、アメリカ人が集まる東林間バプテスト教会のバイブルクラスに出席しました。年が明けて19792月、座間キリスト教会に誘われて、初めて礼拝というものに出席しました。年取った人のあと、若い人が出て来て早口でしゃべりました。人生論を語っているみたいで、引き込まれました。あることで、すぐ行かなくなりましたが、先輩が礼拝のテープを聞かせてくれました。2か月後再び行きました。祈祷会に出て証というものを聞きました。「恵まれました」「与えられました」「導かれました」と言うので、「ああ、自分の考えのない人たちなんだなー」と思いました。いつも、先輩にくっついて教会に行きました。610日、洗礼を受けた日に躓きました。お祝いの袋に、本と一緒に月定献金袋と会堂建築献金袋が入っていました。「ああ、教会もどこかの団体と同じで会費を取るんだなー」と思いました。翌日、会社で先輩が献金の意味を教えてくれました。しかし、受洗後に大きな試練がやってきました。その時も、先輩が助けてくれました。他の兄弟姉妹と交わり、なんとか独り立ちできるようになったのはしばらくたってからでした。副牧師がナビゲーターのテキストを使って信仰に関して教えてくれました。すぐ、CSの奉仕をやらされました。他に早天祈祷会、水曜祈祷会、聖歌隊、英語礼拝あらゆるものに出ました。気が付いたら、私も「恵まれました」「与えられました」「導かれました」と言っていました。

 

 がちょうやカモは、「刷り込み」という習性があります。刷り込みとは「動物の生活歴史のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象の一種」だということです。クリスチャンも最初、自分を導いてくれた人や牧師、あるいは教会の影響を受けるのではないでしょうか?大体、自分が救われた時と同じことを他の人にもする傾向があります。私はカウンセリング的な個人伝道で救われたので、そういうことが好きです。岡野先生が牧会している松戸教会では「生活伝道」がさかんです。困っている人の世話をして、親しくなったら聖書を一緒に勉強します。その人が教会に来なくなっても、友達関係はずっと続いています。そうやって導かれた人は、次の人に「生活伝道」をします。昔は大きな会場で特別伝道集会というものをやりました。講師は「今晩、イエス様を信じる人は前に出てください」と招きます。洗礼を受ける人もいますが、教会生活が続きません。なぜでしょう?教会に友達がいないので、クリスチャンになる前の友達のところに帰っていきます。人から色々言われて、「あの時はキリスト教にかぶれていたんだ」と自分でも思うようになるでしょう。やはり、神さまとの関係だけではなく、教会の兄弟姉妹との関係もなければ霊的な成長は望めません。「交わり」とか「関係」は、仕事人間から見ると、生産的に見えません。しかし、赤ちゃんが家族の中で成長するように、霊的な赤ちゃんには、神の家族が必要なのです。確かに、人間関係において傷つくことがありますが、癒しや「建て上げ」もあります。教会では「互いに愛し合う」ということが最も大きな戒めの1つです。愛は相手が必要であり、単独では愛することができません。ですから、霊的に生まれたばかりの人は、神さまとの交わりだけではなく、人との交わりが必要なのです。ですから、本人も積極的に交わりを求め、信仰の先輩たちも交わりに加えるように努力したいものです。

 

3.バプテスマを受ける

 

テキストにはこのように書かれています。「水による洗礼(バプテスマ)とは、一つの選択(受けても受けなくても良いもの)ではなく、神を信じる一人ひとりが行うべき神からの命令です。」バプテスマ(洗礼)は教会の歴史の中で、物議をかもしたテーマの1つです。16世紀宗教改革がありましたが、幼児洗礼をしている教会が数多くありました。そういう人たちが大人になって、信仰のない教会員もいました。「それは問題だ」ということで、幼児洗礼を無効にし、浸礼によって再び洗礼を授けるグループが現われました。彼らはカトリック教会からもプロテスタント教会からも迫害を受けました。悲しい歴史はありましたが、現代では「信じた人がバプテスマを受けるべきだ」というところに落ち着きました。また、幼児洗礼を受けた人は、「堅信礼」という信仰告白をするようにしています。形式的には、水をかける滴礼のところもあれば、水の中にどっぷりつかる浸礼もあります。おそらく、どっぷりつかる方が聖書的なのかもしれませんが、設備の点で、頭に水をつけて「頭まで浸かった」と滴礼を施している教会もあります。

 

 では、バプテスマの本当の意味は何なのでしょうか?コロサイ212「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」同じことが、ローマ6章にも記されています。旧約聖書には「洗う」という意味もありましたが、洗礼は水で罪を洗い流すという意味ではありません。新約聖書的にバプテスマとはどういう意味でしょう?バプテスマはギリシャ語で、「どっぷり浸る」という意味です。同時に「キリストの死へ神秘的に結合される」という意味があります。パウロは「バプテスマによってキリストとともに葬られ」と言っています。これは私たちの古い人がキリストとともに死んで葬られたということです。言い換えると、アダムから伝わってきた罪と死の力が断ち切られたということです。その後、イエス様は神さまによってよみがえらされました。その時、私たちもキリストとともによみがえらされたのです。なぜなら、信仰によってキリストの中に入っていたからです。キリストともによみがえらされたので、以前の私たちとは違います。今度は、キリストのいのちと恵みが支配するようになったのです。つまり、バプテスマとはキリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえるということを体験するためにあるのです。これを単なる宗教的儀式ととらえてはいけません。信仰によって、「洗礼を受ける前の古い自分は過ぎ去り、洗礼後は新しい自分になったんだ」ということを受け取るということです。私たちには昔の記憶がありますので、理屈通りにいかないかもしれません。しかし、そこに神の手によって、これまでの流れが断ち切られたことを信じるのです。ともによみがえることによって、エネルギーの転換もなされました。以前の罪と死ではなく、キリストのいのちと恵みが自分を支配しているということです。

 

 また、バプテスマを受けるということは伝道の終わり、救いの完了と言うこともできます。もちろん、私たちは完全に救われていません。肉という罪の性質がきよめられなければなりません。また、この肉体が死んだならば、やがて復活して栄光のからだに変えられる必要があります。そこで初めて救いが完了したと言えるのです。でも、罪の赦し、新しく生まれ変わった、神の子どもになったという意味では、救いの完了ということができます。なぜバプテスマという救いの完了が必要なのでしょうか?それは、公に宣言することによって、この世と悪魔が「ああ、この人は神さまに属しているんだな」と知ることができます。世の中には「隠れキリシタン」がおります。イエス様を信じてはいるのですが、公に自分はクリスチャンだと宣言していない人です。もちろん、バプテスマも受けていませんし、教会にもつながっていません。そういう人は救われていないのでしょうか?私はイエス様を信じているなら救われていると思います。しかし、この世から、また環境からも救われていません。マルコ1616「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」とあります。これはどういう意味かと言うと、信じるならばバプテスマを受けるのが当然だということです。信じるとバプテスマがワンセットだということです。中には「神さまの命令に逆らって、信じるけどバプテスマは受けない」という人がいるでしょう。その人はどうなるかというと永遠のいのちはあっても、この世から、また環境から救われていないと考えられます。どういう意味でしょう?つまり、あなたは公に宣言していないので、この世と悪魔があなたに付け込んでくるということです。例えて言うなら、婚姻届を区役所に出してはいるけど、結婚式をあげてみんなに公表していないということです。もし、結婚指輪もしていないならば、誘惑の機会がぐっと増えるでしょう。私たちは信仰の旗印をこの世に向かって明確に上げなければなりません。「私はクリスチャンです」と言うなら、会社でも一目置かれ、変なところに誘われることもなくなるでしょう。その時、さびしいと思ってはいけません。この世に対して、線引きをすることが必要です。

 

 あなたがバプテスマを受けてクリスチャンになったということを聞いて、去っていく友人も出るでしょう。しかし、気にしないでください。神さまはあなたに、新しい友人を与えてくれます。それまでの友人は本当の友人ではなかったのかもしれません。さびしいので一緒にいただけの関係だったかもしれません。これからは本当の価値観を分かち合える神の国に属する本当の友人を求めましょう。私も洗礼を受けて親友と恋人をいっぺんに無くしました。毎週、礼拝で泣いていました。あいつらを殺してやりたいと思っていました。しかし、先輩は「復讐は主にゆだねなさい」と勧めてくれました。その後、私は献身し、現在の家内と結婚し、子どもたちも与えられました。結婚式や葬儀のとき「いつくしみ深き」を必ずと言って良いほど賛美します。その中に「世の友われらを棄て去るときも」という歌詞があります。その時、辛かったあの時を思い出します。でも、本当に信頼できる友はイエス様なんだということです。私たちにはクリスチャンになる前の記憶はあります。傷もあるし、トラウマもあるかもしれません。でも、バプテスマによって古い流れは断ち切られたのです。今はキリストと共によみがえり新しい流れの中で生きています。新しい流れとは、神さまの豊かないのちと恵みです。昔の記憶はあります。夢も見るかもしれません。私たちの潜在意識はとても鈍感です。霊的には新しく生まれ変わっているのに、心が全部生まれ変わっていません。だから、昔の夢を見たり、過去の出来事がたまにちらつくのです。しかし、惑わされないでください。あちらの方が幻影であり、聖書の言うことがリアルなのです。キリストに根差し、バプテスマを受け、教会の交わりに連なりましょう。そして、霊的な幼子から、霊的な大人へと成長の過程を歩みましょう。

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2013年1月20日 (日)

神の国に入る       コロサイ1:13 

 「救い」ということを語るとき、なぜ、「神の国に入る」ということが大切なのでしょうか?それは「以前はどこにいて、今は、どこに住んでいるのか」ということを理解するためです。ある人たちは、救いとは「死んだら天国に行けることだ」と考えています。ということは、今、救われていることは、何のメリットも力もないということになります。もし、救いを生命保険ぐらいにしか考えていないならば、クリスチャンになっても、自堕落な生活をしてしまうでしょう。そうではありません。以前の私たちはサタンの王国で罪と死の奴隷でした。しかし、キリストによって贖われ、今は神の王国に移り住んでいるのです。ということは、死んでから天国に入るのではなく、今、生きているうちに神の国に入る必要があるということです。そして、この地上でも、神の国の豊かないのちを享受できるということです。

1.神の国に入るとは
 使徒パウロは、私たちは以前、サタンの王国で奴隷となっていたことをはっきりと教えています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」これは、復活のイエスさまがパウロに語ったことばです。救われる以前の私たちはどのような存在だったのでしょうか?盲目で暗やみの中に住んでいました。なおかつ、サタンの支配のもとにありました。それでは、「救い」とはどういうことなのでしょうか?暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返ることです。それだけではありません。聖なるものとされ、御国を受け継ぐものとなるということです。御国とは神の国です。端的に言うと、救いとは、サタンの王国から、神の王国に移されることです。コロサイ人への手紙にも同じようなことが記されています。コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン。「救い出し」は英語の聖書では、deliveredとなっています。「配達する」とか、「引き渡す」という意味です。しかし、このことばの古い意味は「人を救い出す、救出する」であります。また、「移す」のギリシャ語の時制は、1回的な出来事が、今も影響を与えているということです。救われたということは、「サタンの支配から、神さまのもとへと救出されたことである」と理解することはとても重要です。なぜなら、今、自分がどこにいるかを知ることができるからです。あなたは、今、どこにいるのでしょうか?神さまのもと、キリストのご支配のもとにいるのです。
 「救出」ということを一番良く表しているのが、出エジプトの出来事です。旧約聖書で最も偉大な出来事とは、イスラエルの民がエジプトから脱出したことです。しかも、この出来事とイエスさまがなされた十字架の贖いが重なっているということです。かつて、イスラエルの民はどのような生活をしていたのでしょうか?パロ王のもとで奴隷でした。日干しレンガを造ったり、町を建てるための労働が課せられていました。三食、食べることはできたかもしれませんが、身分の保障とか自由意思がありませんでした。なぜなら、奴隷だからです。奴隷は物とか家畜と同じで、用がすんだら捨てられます。神さまから選ばれたイスラエルがそんな生活をしていて良いのでしょうか?そこで、主なる神はモーセを指導者として立てました。いくつかの災いによって懲らしめましたが、パロ王はせっかくの労働力を簡単には手放しません。しかし、10番目の災いが及んだ時、パロは「分かった、出て行ってくれ」と言いました。それは何でしょう?家の入口の鴨居と門柱に、羊の血を塗った家は、神の怒りが過ぎ越します。しかし、塗っていな家の初子は殺されます。ある晩、主が行き廻り、王さまから奴隷の初子(長子)まで、打たれて死にました。それで、パロは降参したのです。でも、後から心変わりして、軍隊を派遣しました。前は海、後ろからは軍隊が追いかけてきます。しかし、モーセが杖を上げた時、目の前の紅海が2つに分かれました。100万人以上の民が、海の底を渡りました。後から追いかけてきたエジプトの戦車と騎兵たちは、海にのみこまれてしまいました。モーセとイスラエルの民が主に向かって、歌いました。「主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神」と。「救い」の中にどのようなことが含まれているでしょうか?パロ王のもとから、脱出できたということです。そして、敵が打ち砕かれ、自分たちが勝利したということです。イスラエルの民は海を渡りました。もう、二度とエシプトには戻ってはいけないということです。エジプトとはこの世を象徴しており、パロ王はサタンです。私たちは、以前は、サタンの奴隷であったということです。
 イエス・キリストがこの地上に来られたのは何のためだったでしょうか?イエスさまが変貌の山で、天に帰った二人を呼び戻して何やら協議していました。律法の代表モーセと預言者の代表エリヤとのサミット会議です。ルカ福音書には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について一緒に話していた」と記されています。「ご最期」とは、ギリシャ語の聖書にはエキサダスと書いてあります。これは、ユダヤ人の70人訳聖書では、出エジプト記の題名になっています。つまり、イエスさまは、人類の「出エジプト」について話しておられたということです。イエスさまは弟子たちと最後の食事、「過ぎ越しの食事」をなさいました。そこで、イエスさまは何とおっしゃったでしょうか?マタイ26:27-28「みな、この杯から飲みなさい。これは私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」まさしく、イエス・キリスト御自身がほふられる羊であり、流された血が人類を罪から解放するということです。予告どおりイエスさまは過ぎ越しの祭りのとき、十字架につけられて死なれました。ということは、旧約の出エジプトは、イエス・キリストの予表(型)であるということです。モーセはエジプトのパロ王からイスラエルの民を脱出させました。その時、決め手になったのは羊の血です。そして、イエス・キリストはサタンから人類を解放するために、十字架で血を流されました。ということは、サタンのかしらが打ち砕かれたということです。そして、キリストを信じる者が、罪と死から解放されるということです。紅海とはバプテスマの型であるとパウロが言っています。クリスチャンはこの世であるエジプトから脱出し、神の王国のもとに移された存在だということです。

2.神の国に入る条件
 教会は福音を宣べ伝えてきました。福音とはイエス・キリストの十字架によってなされた「良き訪れ」です。そして、「イエス・キリストを救い主をして信じるだけで救われる」と説いてきました。しかし、よく考えてみると、イエスさまが宣べ伝えたのは単なる福音ではありません。マタイ4:23「御国の福音を宣べ伝え」と書いてあります。ルカ16:16「神の国の福音が宣べ伝えられ」と書いています。イエスさまは「御国の福音」あるいは「神の国の福音」を宣べ伝えられました。もちろん、他の箇所には「福音」とだけ書いてありますが、イエスさまの教えの中心は「神の国」でした。では、神の国とはどういう意味なのでしょうか?英語ではKingdom of Godです。神の王国です。ギリシャ語では「神の王的な支配」という意味であります。では、神の王国の王さまは一体、だれでしょうか?イエス・キリストが王であり、主です。復活昇天後、父なる神さまは御子イエスに王権をゆだねました。私たちが王国に入るとしたらどういうことが必要でしょうか?その国の法律を守り、国王を王として敬い、従うことが求められるのではないでしょうか?まず、王国に入るためには、市民権が必要です。数日滞在するとか、旅行くらいなら不要かもしれません。でも、そこに永住するためには、市民権が必要になるでしょう。もし、勝手に住んだら、強制送還させられるでしょう。

では、イエス・キリストを救い主として信じただけで、神の王国に入ることができるのでしょうか?私はこの方法でしばらくやってきました。そして、イエス・キリストを主あるいは王として信じることは、自由選択にしてきました。ある人にとってキリストは主でないので、従わないこともありえます。自分勝手に生きてうまくいっている時は「結構です」と言い、困った時に、救い主にお願いする。しかし、聖書はそういうことは言っていません。イエス・キリストは救い主だけではなく、主であり王です。キリストを信じたら、キリストに従うべきなのです。信じることと、従うことはコインの裏表であり、分離できないということです。でも、キリストを救い主として信じているだけなら、「いやだから、従わないよ」ということを許してしまうことになります。それは、神の王国に入りながらも、自分が王さまとして生きるということです。私はこれまで、わがままなクリスチャンを生み出してきました。ここにジャムパンがあるとします。わがままな子どもは、ジャムは食べるけど、パンは捨てるかもしれません。それではいけないのです。ジャムとパンを両方食べなければなりません。同じように、信じるとことと従うこと、両方必要だということです。キリストを信じたら従うのです。なぜなら、キリストは人生の主であり王だからです。

ルカ福音書にザアカイの物語があります。ザアカイはいつ救われたのでしょうか?イエスさまが木の上にいるザアカイにこう言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」家に泊まることにしているとは、なんと、身勝手でしょう?そのときザアカイは手帳を出して、「きょうは予定があるので、あさってなら空いています」と言えたでしょう。または、「突然、客を連れていくと家内が嫌な顔をするので、相談してから」と言っても良かったはずです。でも、ザアカイはどうしたでしょうか?ルカ19:6「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」そうです。この時、ザアカイは救われたのです。つまり、イエスさまの呼びかけに従ったときに、救われたのです。神の国に入る条件は神への従順であります。なぜなら、神の国は、神さまが王として治めているからです。しかし、イエスさまの呼びかけに応じなかった人たちもいます。青年役人が、「何をしたら永遠の命をいただけますか?」とイエスさまのところにやってきました。この青年は行いで永遠の命が得られるものと勘違いしていました。だから、イエスさまは行いによって救われる道を示されました。彼は「小さい時からみな守っている」と言うので、イエスさまは「持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。しかし、彼は非常に悲しんで去って行きました。もし、私が弟子のひとりだったら、後を追いかけてこう言ったでしょう。「ちょっとお待ちください。全部でなくて、少しずつで良いですよ。信仰がきたらささげれば良いのですよ」と。しかし、イエスさまは彼の後を追いかけませんでした。なぜでしょう?彼は神さまよりも、お金を信頼していたからです。今、従わないなら、これからも永久に従わないことを知っていたのです。ルカ9章で、イエスさまはある人に、「私について来なさい」と言われました。すると、その人は「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」イエスさまは「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と言われました。

神の国に入る条件は従うということです。もちろん、キリストを信じることです。でも信じるということの中に従うということも含まれているということです。なぜなら、神の国は神さまが王として支配している国だからです。もし、私たちはキリストの主権を受け入れて、神の国に住まうならばどうでしょうか?どのような恩恵を受けるのでしょうか?これから、ずっと先まで、神さまがあなたの必要を満たし、あなたを外敵から守ってくださるということです。もし、神の王国にいながら、自分の王国で暮らすことは不可能です。なぜなら、王国には王さまが一人で十分だからです。「自分が王さまだ。だれの言うこともきかない」と言ったら、反逆罪で捕えられるでしょう。最初は、「救い主、私の友」としてだけ、信じて受け容れることもあるでしょう。同時に、イエスさまは王であり主であると受け容れる人は少ないかもしれません。でも、早かれ、遅かれ、王さまを交代しなければなりません。「自分が王ではなく、イエスさまが王なんだ」ということを認めなければなりません。でも、それが神の国において、平安で暮らせる秘訣なのです。あなたが救われているのに、いろんなことを恐れ、思い煩っているなら、自分が王さまであることの証拠です。王なるイエスさまにすべてをゆだねるなら、あなたに平安がやってきます。命も、財産も、将来も、イエスさまに何もかもゆだね、イエスさまがしなさいということをするのです。そうすれば、イエスさまはあなたの人生に責任を持ち、守りと必要を与えてくださるでしょう。

3.神の国に入った人の使命

もし、「救いとは死んだら天国に行けることだ」と定義するならどういうことになるでしょう?信じた人は、生命保険に入ったつもりで、死ぬまで好き勝手な生き方をするでしょう。死ぬ時に、「よろしくお願いします」と言うのです。そうではありません。「救いとは、神の国に入ることであり、王であるイエスに従うことである」と定義すべきです。そうなると、今、この地上に生きているときも、神の国の延長として大切になります。イエスさまは天に帰る前に弟子たちにこのようにおっしゃいました。ヨハネ17:15-18「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」簡単に言いますと、弟子たちはこの世に属しているのではなく、神の国に属している存在です。でも、この世から取去るのではなく、神さまのもとからこの世に派遣するということです。私たちも同じです。私たちはこの世に生きていますが、神さまのもとから派遣されている存在です。では、何のために派遣されているのでしょうか?主の祈りの中で、私たちは「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈ります。その祈りの中に「御国が来ますように」とあります。御国とは神の国ですが、どこに来るべきなのでしょうか?これは世の終わりに、御国が完成するようにという願いだけではありません。「今、この地上に御国が来て、神のみこころが行われますように」という意味です。私たちがこの地上に派遣されている目的は、神の国がこの地に広がるように働くということです。何をもって、そこで働くのでしょうか?

そのヒントになることばが、エペソ1章の後半にあります。エペソ1:2-23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」このみことばの意味はこうです。神さまは、この地上のあらゆるものを、御自分が持っているもので満たしたいと願っているということです。かしらはキリストです。そして、キリストのからだとは私たち教会です。私たち教会が器となって、神さまが持っておられるものをこの世に運んで行くのです。水を運ぶために器が必要なように、神さまは器が必要なのです。これまで教会は霊的なことだけにエネルギーを注いできました。もちろん、この世に霊的な救いをもたらすために福音を運ぶことが重要です。しかし、それだけではありません。神さまはあらゆる分野を神さまの良きもので満たしたいと願っておられるのです。神さまは芸術の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。神さまは政治の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。また、神さまは教育や医療の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。中世までは、すべては神さまの栄光のためにありました。しかし、17,18世紀になり啓蒙主義になって人間中心になりました。そのため、何のために生きるのか生きる目的を失いました。中世が良いというわけではありませんが、私たちは聖書から本来の目的を発見すべきであります。キリストが私たちをこの世から救い出してくださったのは、私たちが天国に行くためだけではありません。神さまは、この地上に神の国が来ることを願っておられます。

エクレーシアは教会というふうに訳されています。エクレーシアは「呼ばれたる者」という意味があります。でも、当時のギリシャ語の意味は少し違います。エクレーシアとは、「王さまが国を治めるために大臣を呼ぶ」という意味があるそうです。それは、大臣を任命する組閣と同じです。昨年末、自民党の大臣の組閣がありました。韓国でも大統領が選ばれたので、そのあと組閣がなされたと思います。当時の王さまは、自分と一緒にエクレーシアをつくるために、大臣を任命しました。ある大臣には国防を、ある大臣には貿易を、ある大臣には教育や医療を、ある大臣には都市計画を任せました。神さまはどんなお方でしょうか?神さまは、この地上のあらゆるものを、御自分が持っているもので満たしたいと願っておられます。王なるイエスさまはある人には、ビジネスの分野を任せておられます。また、ある人には教育の分野を任せておられます。また、ある人には医療や福祉を任せておられます。またある人には政治の分野を任せておられます。またある人には音楽や芸術の分野を任せておられます。「いやー、私はそんな大それたことはできません」と断わるかもしれません。でも、自分がそこに派遣されている御国の大臣だと思うならば、どうでしょうか?これまでは、安い給料をもらうために嫌々働いていたかもしれません。でも、あなたは保育園に遣わされている御国の大臣、会社に遣わされている御国の大臣、家庭に遣わされている御国の大臣なのです。王なるキリストはあなたをその分野を治めてもらいたいと願っておられるのです。神の国の祝福を運び、神の国の拡大のために、あなたを用いたいと願っておられるのです。そうすると、この地上での生き方が全く変わったものになるのではないでしょうか?天国に行くことだけが救いではありません。神さまはあなたに、御国の権威と御国の鍵を与えてくださいました。どうぞ、それらを豊かに用いて、この地に、御国が来るように働こうではありませんか。


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2012年12月 2日 (日)

罪の赦し         コロサイ1:14 

先週から、「救い」についてのメッセージを取り次いでいます。12月はクリスマスがあるために中断しますが、来年からまた再開したいと思います。キリスト教で「救い」というと、最初に取り上げるべきテーマは「罪の赦し」ではないかと思います。なぜなら、私たちの罪が赦されるために、イエス・キリストが十字架にかかられたからです。ですから、「罪の赦し」は「罪の贖い」と言い換えても良いでしょう。だから、コロサイ114ではこのように言われています。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」

1.赦しの代価

 一般的に使われる「許し」は許可するとか、賛成するという意味のことばです。たとえば、このように使います。「だれの許しを得て、この部屋に入ったのですか?」「いや、ドアが開いていたので、ちょっと入ったんです。どうか許してください」。これは、軽い意味の許しです。しかし、キリスト教会でよく言われるのは「赦し」のほうです。赦免と言うときの「赦」です。赦免は罪や過ちを許すことであります。そして、この「赦し」は許可という意味の「許し」よりも、もっと重たいものです。なぜなら、罪が赦されるためには、同等の代価や代償を支払う必要があるからです。たとえば、子どもが石を投げて、私の家の窓ガラスを割ったとします。その子どもがやって来て「ごめんなさい、ついうっかりして」と謝ったとします。私は「そうか、子どもがやったことだからな」と許したとします。けれども、窓ガラスをそのままにしておくなら、雨や風が入ってくるでしょう。そこで、私はガラス屋さんを呼んで修理してもらって、1万円くらい払うかもしれません。つまり、こういうことです。私が子どものしたことを許すといった場合、1万円を自分が弁償しなければなりません。「ああ、子どもの親に弁償させれば良かったなー」と後悔するかもしれません。罪というものもそれと同じで、だれかが代価を支払う必要があるということです。この世においても、「贖罪」ということをたまに聞くときがあります。今から25年くらい前、大韓空港機が爆破され、115人の死者を出しました。そのとき、金賢姫(キム・ヒョンヒ)が工作員の一人として捕らえられました。彼女は後で特別赦免を受け、自由の身になりました。そのとき、彼女が言った「贖罪」ということばが新聞に大きく載っていました。今でも彼女は「金賢姫元死刑囚」と呼ばれています。本来だったら、死刑になるはずの人が、特赦(特別赦免)を受けたのです。

 私たちもある意味では、特赦を受けた者です。なぜなら、アダム以来、罪を犯した人は神の前にさばかれて、地獄に行くことが決まっていたからです。しかし、キリストが十字架で罪の代価を支払ってくださったので、特赦を受けたのです。でも、キリストの十字架がなぜ、私と関係があるのか、知らない人がほとんどではないでしょうか?そのためには、私たちは旧約聖書を読まなければなりません。レビ記には罪を犯した人が、どのように赦されるか克明に記されています。旧約聖書で罪という場合、おもに3つあります。1つは罪過、つまり自分が犯した様々な罪です。2つ目は汚れです。これは道徳的な罪ではなく、儀式的なものです。3つ目は咎です。咎は罪と似ていますが、「外れている」「曲がっている」という意味があります。先祖から受け継いでいるものを咎と言ったりします。私たちはこういう罪があるために聖なる神さまに近づくことができません。レビ記にはこういう罪を赦していただくために、羊や山羊や牛を祭司のもとに連れてきます。その人は動物の上に手を置いて、自分の罪を告白します。次に祭司は動物をほふり、その血を祭壇の周りに注ぎかけます。さらには内臓や脂肪を焼いて煙にする場合もあります。しかし、もっとも重要なのは、動物が命である血を流すということです。本来なら、自分が死んでお詫びをしなければならないところを、動物が死ぬわけです。その様子を見た人は「ああ、罪はただでは赦されないんだ。もうやめよう」と思うでしょう。旧約聖書ではこれが数限りなく行われてきました。しかし、御子イエス様が「罪を取り除く神の小羊」としてこの地上に来られました。ヘブル91226「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。…しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」イエス様はご自分の血を流すことによって、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ですから、もう動物のいけにえは不要になったのです。私たちはキリストの血によって罪赦され、神様に近づくことが許されるようになりました。これが新約、新しい契約です。

 しかし、1つ考えるべきことがあります。罪の代価をだれに払ったかであります。「贖う」はギリシャ語ではアゴラゾーと言います。当時、ローマやギリシャ時代は奴隷が市場で売られていました。アゴラゾーの正確なニュアンスは「奴隷市場の中で、奴隷の代価を払う」ということです。イエス様は、まだ奴隷市場の中で解放されていない人たちのためにも代価を払っているということです。一番妥当なのは、「ああ、そうですか。ありがとうございます」とそこから出てくることではないでしょうか?また、「贖い」は英語で、ransomということばも良く使われます。これは捕らわれ人を解放するための身代金という意味です。この世では、人質の解放のために身代金を払わされることがあります。では、「イエス様は十字架で罪の代価を支払いましたが、一体だれのためか」ということです。ある人は、身代金はサタンに支払われたと言いました。しかし、サタンは私たち以上に罪を犯しているので、その権限はないはずです。では、その代価は、神さまに支払われたのでしょうか?そうなると十字架は神さまの自作自演ということになります。確かに神さまなのですが、神さまの何なのでしょうか?この問題を解き明かすのが「なだめ」という言葉です。Ⅰヨハネ22「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」「なだめ」と聞くと、何だか異教的に聞こえます。神さまの御怒りをなだめるために、犠牲をささげるという感じがします。「なだめの供え物」というギリシャ語の意味は、贖罪所という意味で、契約箱の黄金の蓋のことです。そこに、年1回大祭司がいけにえの血を注ぎます。蓋の両側には、羽を広げた黄金ケルビムがおり、二人で見ている格好になっています。これはどういう意味でしょう?神さまは義なるお方ですから、一片の罪も赦すことができません。「良いよ、何でも赦すよ」と言ったら神さまではなくなります。義なる神さまは、罪であるなら必ずさばかなければなりません。しかし、同時に神さまは、愛なる神さまですから、罪を赦して救ってあげたいのです。この矛盾をどのように解決できるでしょうか?そのために、御子イエスが身代わりに死んで、ご自分の血を流したのです。神さまはその血を見て、満足され、その結果、罪に対する怒りがなだめられたのです。では、代価はだれに支払われたのでしょう?それは、神ご自身の義であり、神の律法に対してであります。神さまは御子イエスの死によって、罪に対する怒りがなだめられ、キリストにあってすべての人を赦すことをお決めになられました。もう、神さまは私たちの個々の罪には、怒ってはおられません。神さまが一番、関心があるのは、罪を贖われたキリストをどうするかです。罪を贖われたキリストを信じない罪こそが、もっとも大きな罪なのです。やがて人々が神さまの前に立つときがきます。神さまが一番先に問われるのは、「あなたはどうしてキリストを信じなかったのですか」ということです。キリストが十字架にかかってから、罪の概念が全く変わりました。キリストを信じない、不信仰の罪が最も大きな罪なのです。

 イエス様は十字架でいくつかの言葉を発せられ、これらが福音書に載っています。それぞれの記者たちが、これがもっとも大切だと思ったものではないかと思います。ヨハネはこのことばを書き記しました。ヨハネ192830「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。…イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」このところに、「完了した」と二度書かれています。一体何が完了したのでしょうか?「完了した」はギリシャ語でテテレスタイという言葉です。これは商業用語で「支払った」という意味です。動詞の時制から正確に言うなら「ある時に支払いが完了し、その結果が今も影響を与えている」ということです。まさしく、さきほどヘブル9章を引用したように、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げたということです。イエス様はどれくらいの代価を払ってくださったのでしょうか?全人類のためです。これから先に生まれ出てくる人の分もです。私たち個人で言うなら、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう罪のために代価を支払ってくださったのです。いわば前払いです。「あなたはクリスチャンになってからも、こう言う罪を犯すだろう。でも、その分も私は支払っておくよ」ということなのです。キリスト教を国教にしたのは、コンスタンティヌス帝です。しかし、彼は死の直前までは洗礼受けなかったそうです。その当時は、洗礼以前の罪は知らないで犯したのだから赦される。しかし、洗礼後に犯した罪は自分で償う必要があるいう教えがありました。それで、洗礼を受けなかったのでしょう。でも、そうではありません。イエス・キリストは私の罪、そしてあなたの罪のために十字架で死なれ、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう罪のために代価を支払ってくださったのです。ハレルヤ!一番の問題は、このお方をどうするかです。

2.赦しの中に生きる

 後半は、イエス・キリストの贖いを信じた人がどのように生きるべきか、ということです。私たちは毎週、日曜日、このように礼拝を捧げています。これは私たちの罪のために十字架につき、私たちが義とされるために三日目によみがえられたキリスト様をたたえるためです。私たちは神様に感謝と賛美をささげるためにここに集まっているのです。ある人たちは仕方なくて、日曜日、教会に来る人がいるかもしれません。「なぜなら、聖日礼拝厳守と言われ、礼拝を守らないと天国に行けないので、顔つなぎに来ています。」そういう人はおられるでしょうか?子どもの頃、夏休みにラジオ体操がありました。休むと先生から怒られるので、ハンコを押してもらうために行ったという記憶があります。でも、礼拝に来たらハンコを押してあげた方が出席率がアップするかもしれませんね。ローマ・カトリックは私たちの礼拝と少し異なります。礼拝ではなくミサと言います。ミサ自体は元来、「祭り」という意味ですから、問題ありません。でも、ミサの中には「キリストの犠牲が今も繰り返されている」という解釈です。つまり、今も、キリストは罪を赦すために、血を流しておられるということです。だから、ローマ・カトリックの教会には十字架に磔殺されたイエス様が飾られています。イエス様の御姿を見て、人々は罪を懺悔するのです。そして、「聖体」と言われるパンを食べて帰ります。それで、罪がきよめられて、また新しい一週間をはじめます。しかし、次の週、また罪を懺悔するために、教会堂に集まります。そして、磔殺されたイエス様から罪の赦しをいただきます。プロテスタントは犠牲の伴ったミサをあげることに反対しました。なぜなら、「キリストは一度で、すべての罪を贖った」という聖書のことばを信じているからです。罪を贖われたイエス様は、三日目に復活し、今は神さまの右の座に座られています。イエス様は今、何をなさっておられるのでしょうか?ローマ834「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」Ⅰヨハネ21後半「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」ハレルヤ!イエス様は今、父なる神さまの右におられ、「どうか私の贖いのゆえに彼、彼女の罪を赦してください」と弁護しておられるのです。ハレルヤ!

 神さまはどれくらい私たちの罪を赦しておられるのでしょうか?詩篇103:8,12「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。…東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」昔の人たちは、地球が大きな平面であると考えていました。その下には、地の基を支えている台座があります。上にはドームのような天蓋があります。星があり、また天の窓があります。彼らは地上が平面なので、東と西は永遠に交わることがないと考えていました。だから、神さまは私たちの罪を東から西へと遠くへ投げてくださったのです。だからもう、神さまは私たちの罪を二度と思い出すことをしないということです。ああ、それなのに、それなのに私たちの良心が、私たちを訴えるので罪責感にさいなまれることになります。でも、良心だからと言っていつでも正しいわけではありません。ヘブル人への手紙には「良心」ということばが何度も出てきます。ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ここに「邪悪な良心」とありますが、どんな良心でしょうか?それは、「罪のために曲げられ、罪のゆえに絶えず告訴する良心」のことです。神さまがみことばをもって、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださっています。しかし、あなたの良心が、「いや、いや私の罪は大きすぎて、簡単には赦すことができない」と訴えることです。ものすごく傲慢ですね。神さまがおっしゃることと、自分の良心が言うこと、どちらを信じるべきなのでしょうか?仏教の教えでは、おそらく、「あなたは、その罪責を一生、負い続けなければならない」と言うでしょう。ある人たちは、自分が犯した罪のゆえに、幸せになってはいけない」と信じています。水子地蔵というのがありますが、お母さんたちは、自分が生きている限り、供養するのではないでしょうか?

 関西の有賀先生がこのようなお話をされました。あるところに一人の姉妹がいました。初孫が生まれて、自分がおばあちゃんになりました。赤ちゃんの白くて小さな足を見て、心の中に何か違和感を覚えました。それからと言うもの、毎晩、赤ちゃんの白くて小さな足が夢の中に出るようになりました。それも、4つです。なぜ、4つの足が毎晩出てくるのだろう?そのとき、はっと思い出しました。おばあちゃんは若い頃、2人の子どもを堕胎したことがありました。もう、何十年も昔のことなので、すっかり忘れていました。しかし、昔の罪を思い出したため、4つの足が毎晩出て、苦しむようになったのです。とうとう、困ってしまって有賀先生のところを訪ねました。「姉妹、イエス様の前に罪を告白しなさい。」と言われました。そして、姉妹はそのことを悔い改めました。続いて、先生は「イエス・キリストの血潮によって、あなたの罪は赦されています。姉妹を苦しめている悪魔よ、立ち去れ。キリストの血潮によって良心がきよめられるように。アーメン」と祈りました。昔のメッセージなので、正確には覚えていませんが、先生はそのようにお祈りしたそうです。翌日、おばあちゃんから電話がありました。「先生、出なくなりました。一週間ぶりにぐっすり眠れるようになりました」。邪悪な良心は悪魔にやられて、あなたを訴えるかもしれません。大体、罪を訴えるというのは、悪魔の仕業です。キリスト様がすべての罪を赦されたのだったら、だれがあなたを訴えることができるでしょうか?ですから、私たちは自分の良心にもはっきりと教えなければなりません。「私の良心よ、絶対者なる神さまが赦されたのだから、私を赦しなさい。アーメン。」そうすると、きれいさっぱり、きよめられます。大切なのはキリストの血潮です。キリストの血によって私たちの罪がきよめられたのです。また、同時に、キリストの血が私たちの邪悪な良心をきよめてくださるのです。ですから、私たちは良心の咎めが去って、心おきなく恵みの座に近づくことができるのです。

 あるご婦人が「私の罪は大きすぎて、神様も赦してくださらないでしょう」と言いました。牧師先生は彼女に「今から、目をつぶって想像してみてください。深い湖へ、ボートに乗ってでかけましょう」と言いました。「今からボートに乗りますが、その前に、大きな石と小さな石を1個ずつ持ってください。持ちましたか?…今、ボートを漕いで、湖の真中辺に来ました。さあ、最初に小さな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ちゃぽんと音がして、小さな波紋が立ちました」。「小さな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。「次に、大きな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ざぶんと音がして、大きな水しぶきが立ちました」。「大きな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。牧師先生が言いました。「小さな罪は小さな被害を、大きな罪は大きな被害を与えました。しかし、神さまはどちらの罪も赦してくださいます。神様の前では、大きな罪も小さな罪も関係ありません。」

 私たちは日々、キリストの赦しの中を歩む必要があります。では、どうしたら罪の赦しの中を歩むことができるのでしょうか?イエス様はご自分が十字架にかかり、罪の代価を支払ってくださいました。でも、私たちは罪に満ちた地上で生活していますと、罪を犯してしまいます。わざとではありませんが、弱さや過失ということがあります。Ⅰヨハネ19はクリスチャンに対するみことばです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。それでも、また罪を犯して、だれかがあなたを訴えたらどうするでしょうか?Ⅰヨハネ21「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」そうです。悪魔が私たちを訴えたとしても大丈夫です。なぜなら、私たちには御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。すでにイエス様はなだめの供え物となって、前もって代価を払っておられるからです。天国の銀行には、赦しのための多大な預金があるので、一生涯大丈夫です。もしも、昔の罪やトラウマが浮かんだときは、神さまを礼拝する時とすれば良いのです。私たちはイエス様の血によって、大胆に神さまのところに近づくことができます。「イエス様、あなたの血潮で心を聖めてください。主よ、あの罪も、この罪も赦してくださりありがとうございます。主よ、あなたを礼拝します。ハレルヤ!」どんなときでもイエス様を礼拝し、みことばとイエス様に留まり、罪の赦しの中を歩み続けましょう。

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2010年10月10日 (日)

感謝の生活  エペソ5:20、コロサイ3:17、Ⅰテサ5:18

 クリスチャンの基本的生活の第3回目は感謝と賛美についてです。あとでもお話ししますが、マーリン・キャロザーズという先生は、感謝と賛美が主の前にいかにすばらしいものであるか何冊も本を書いています。先生だけではなく、それを実行した人たちが、困難な状況から救い出されたという証が数え切れないほど書いてあります。私たちはこのような公の集会だけではなく、日々の生活で、困難の真中で、感謝と賛美をする必要があります。公の集会はそのことを練習していると思えば良いでしょう。もっと重要なのは、この場を去って、家庭や職場に行ったときであります。この場所で感謝や賛美をささげることは簡単かもしれません。みんながやっていますから。でも、あなたが遣わされた場所で、現場で、感謝と賛美をするならば何と幸いでしょうか?きょうはそのことをチャレンジさせていただきます。

1.感謝は神の命令

 みなさんは、感謝することは神さまの命令であることをご存知でしたでしょうか?詩篇のいたるところには「主に感謝せよ」と記されています。また、新約聖書ではパウロの書簡に記されていますので、代表的なものを引用いたします。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」当然といえば当然ですが、パウロが書いたものであるなら、共通しているはずです。しかし、なぜ、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と命じているのでしょうか?私たちはこのみことばを見るとき、「そんなの不可能ですよ」と一蹴するのではないでしょうか?常識的には、良いことがあれば感謝し、悪いことがあれば怒ったり、悲しんだりするでしょう。しかし、「すべてのことについて」とは、良いことはもちろんですが、悪いことや困難に遭遇したときもです。「わぁ、そんなのできっこないよ!」と思ってしまいます。

 この聖句を良く見ると、ただ「感謝しなさい」とは命じられていません。「主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」あるいは「キリスト・イエスにあって神に感謝する」と書かれています。つまり、感謝とは神さまへの祈りであり、届け物であります。目の前に悪いことが起きたとき、「今、こういうことが起こりました。でも、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します」ということなのでしょうか?実はそうなのです。でも、実際のところ私たちはどうするでしょうか?たとえば、車をぶつけた時はどうするでしょうか?「わぁ、なんてこった。何でこんなことになったんだろう」と困惑します。その次に、「だれが悪い」とか、人のせいにします。人や物のせいにできなければ、最後に仕方なく自分のせいにします。「あぁ、どうやって直すんだ。損害はどのくらいだ。どこから出すんだ!」と後始末のことを考えます。困惑、怒り、心配、絶望はやって来ても、感謝はやってきません。どうでしょう?みなさんも、病気とか怪我をしたとき、すぐ感謝できますか?「果たして、治るだろうか?治療費はいくらだろう?ああ、痛い、ああ、苦しい」とかで、感謝がやってくるのはいつでしょう?治ってからでしょうか?問題や困難が起こったときに、感謝をするってとても不可能のように思えます。

 では、そういう時、感謝の代わりに自然と出てくるものは何でしょう?特に、失敗したとき、不運な事故、不当な扱いを受けたときはどうでしょう?感謝ではなく、つぶやき、不平不満、怒りが出てくるのではないでしょうか?生身の人間だったら当然です。この間、T兄が自転車に乗っていたとき、前のタクシーが突然ドアを開けました。T兄は飛ばされ、地面にたたきつけられました。タクシーの運転手に「テメー、コノヤロー、○○してやるぞー」と言ったそうです。道路に寝ながらです。これは条件反射的なものですので、罪と言ってはかわいそうです。でも、あとから、「そうじゃないよなー」と悔い改めたそうです。でも、すぐに感謝するというのは、よっぽどでないとできそうもありません。聖書には感謝だけではなく、「喜びなさい」とか「愛しなさい」という命令もあります。もし、それらが感情であったならば、すぐには不可能です。しかし、感謝や喜び、愛は感情ではなく、自分の意思で選択するものです。それだったら、どうにもならないような状況でも、「主イエスの御名によって感謝します」と言えるはずです。最初は3分くらいかかるかもしれません。でも、訓練によっては10秒、いや3秒くらいで「感謝します」と言えるかもしれません。香港のベン・ウォン師は、「私は今では、2秒で言えるようになりました」と証ししておられました。座間キリスト教会で、大川牧師が「ハレルヤ!主よ、感謝します!」というのをはやらせました。「はやらせた」というのは変ですが、そういうことをみんなでやりました。新会堂ができてまだ間もない時、ある事件が起こりました。一人の青年があることをするために、屋根裏を渡りました。そこには二枚の細い足場板が渡されているだけで、あとは金具で天井板が吊られている構造でした。中が暗かったのでしょう。2,3メール先で彼は足場板を踏み外し、天井を踏み抜いてしまったのです。大川牧師が天井を見て「あぁー」と嘆きつつうなだれました。ちょうど、先生の後ろに私がいました。私は反射的に「ハレルヤ!主よ、感謝します!」と言いました。大物である大川牧師は「そうだったなー」と悔い改め、そのことをみんなの前で告白しました。新会堂天井事件であります。教会主事である私が後から、穴を修繕しました。

 当時、安藤先生という小学校の先生を引退し、日曜学校の教師をしている姉妹がいました。もうかなりの高齢でした。ある日、教会に来るとき、側溝に足をすべらせてころんだそうです。そのとき思わず言ったことばが「ハレルヤ!主よ、感謝します!」だったそうです。そこまで、いくと、もう聖域に達しているという感じです。でも、「ハレルヤ!主よ、感謝します!」によって、教会全体が恵まれていました。でも、何故、問題や困難に遭遇したときも感謝しなければならないのでしょうか?マーリン・キャロザーズ師が、『讃美の力』という本の中でこのように教えておられます。「困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起こったことを私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れて、賛成することを意味します。それは、今起こっているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味を成さないでしょう。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)。」つまり、こういうことなのです。どのような状況の中でも、これが神さまのご計画の一部であり、神さまが益になるように働いてくださることを私たちが感謝するのです。そうすると、神さまは「では、そうしましょう」と働いてくださるのです。逆に、私たちが嘆いたり、不平不満をもらすなら、神さまが益になるように働こうとしておられるのを、留めてしまうことになるのです。マーリン・キャロザーズ師はさらに教えておられます。「あなたの人生のために、神はすばらしいご計画を持っておられるのです。もし、あなたが神に信頼し、あなたの身に起こったあらゆる事を神に感謝するなら、今ここで、神があなたを助けようとしておられることが分かるでしょう」。多くの人は、マリーン先生に「この事を神に感謝するんですって?」と反発します。しかし、その人たちが絶望的な状況の中で、神を讃美し感謝するとどうでしょう。あとから、すばらしい奇跡が起こるのです。その手の証が、3冊も4冊もあります。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝し」ましょう。神さまの命令であり、神さまのみこころなのですから、そうさせていただきましょう。

2.つぶやきと不平不満

 感謝の反対は何でしょうか?それはつぶやきであり、不平不満です。これは神さまが最も、お嫌いなものであります。旧訳聖書を見てわかりますが、イスラエルの民はエジプトを奇跡的に脱出したのですが、どうだったでしょうか?出エジプト記、民数記、あるいは申命記に彼らの罪が克明に記されています。それは、つぶやきと不平不満です。なんと、エジプトを脱出して、まだ3日しかたっていないのに、「私たちは何を飲んだらよいのですか?」とつぶやきました。さらに、イスラエルの民は、荒野を旅しました。「ああ、肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。何もなくて、このマナを見るだけだ」と泣いて言いました。それで、神さまはあきるほど、うずらを降らせました。さらに民は「どうしてモーセだけが神さまと話すのか?私たちとも話されないのか?」と非難しました。Ⅰコリントに、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか書かれています。Ⅰコリント1010「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」この出来事は、民数記16章の出来事を背景にして書かれたものであります。コラとダタンというレビ人が、モーセとアロンに逆らって焼き滅ぼされました。その後、民たちが「あなたがたは民を殺した」とつぶやきました。そうすると、神罰が民にくだり17,000人が死にました。つぶやきがなぜ、そんなに悪いのでしょうか?

 つぶやきの反対は、神さまを賛美し、感謝を捧げることです。私たちが神様を賛美するとき、神様は賛美の中に住まわれます。つまり、神様を賛美したなら、私たちは神様の摂理の下に身を置くことになるのです。神様に感謝するならば、神様にこう言っていることになります。「神様、あなたは良き神様です。あなたは世界をご支配することをご存知です。あなたの下には、何も悪いことはありません。ローマ8:28を信じます。すべてのものを働かせて益としてくださいます。神様、感謝します。神様、感謝します。あなたは良き神様です。」それが神様をほめたたえることです。神様をほめたたえることの反対は何でしょう。それは、つぶやくことです。不平不満を言うと何が起こるでしょうか?神様のご摂理(ご支配)の下から逃げてしまうことになります。神様は良い神様であることを受け入れないばかりか、その神様を批判することになります。神様に文句を言います。「神様、あなたは良き神様ですか?もし、本当に良い神様だったら、何で、この町の小さな教会で奉仕させるのですか?神様、あなたは本当に良い神様ですか?もし、良い神様だったら、何故、日本にリバイバルが起きないんですか?神様、あなたが本当に良い神様だったら、どうしてゴリラと結婚させたのですか?(これはエディ・レオ師が言ったこと)」。このように、いつも不平不満を言う。これは、「神様、あなたは本当に神様ですか?」と言っているのと同じことなのです。多くの人たちはつぶやきのために尊い奉仕が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために家族が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために可能性が全部死んでしまいます。だから、つぶやきや不平不満を悔い改めなければなりません。

 インドネシアのエディ・レオ師がこのようなメッセージをしてくださったことがあります。賛美と感謝は神さまを引き上げることであり、つぶやきと不平不満は神さまを天から引き降ろす事であると言われました。そして、1つの例を上げて教えてくださいました。ある人が魚を干して干物を作っていました。日本人のクリスチャンです。あるとき多くの魚が捕れました。全部売りさばくことができません。そして、売れ残ったものを全部、干物にしました。干物にするためには太陽光線が必要です。天気が良くなるまで待っていました。「ああ、太陽が出てきた。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と賛美しながら干物を干しました。1時間もすると雲がやってきました。「あー、雲ってきた」とその魚を引き上げ家の中に入れました。すると、神様に対して怒りがこみ上げてきました。上を見上げて「神様、何故ですか?何故、1時間しか太陽を照らしてくれないのですか?」。そう言っているうちに、また日が再び照ってきました。「ああ。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と、魚を再び干しました。たった30分後に、また雲が出てきました。今度は、雲だけではありません。雨が降ってきました。そして、全部の魚がびちょびちょになりました。そして、もうかんかんに怒って、雨の中に突っ立って、上を向いて「神様、あなたは天気もコントロールできないのですか?あなたが天気をコントロールできないなら、私がそこへ行って天気をコントロールします。そして、あなたがこっちに降りて来て、干物を干してください」。隣の方に「これが、文句ですよ」と、言いましょう。不平不満を言うとはどういうことでしょう?神様を引き降ろすことです。それが最も大きな罪、クーデターです。王様を引きずり降ろすことができるでしょうか?そういうことを企てたら殺されるでしょう。それは神の国のクーデターです。神様を引きずり下ろそうとする謀反です。不平不満を言っているなら、悔い改めましょう。

3.感謝と賛美の力

 私はクリスチャンになる前、感謝するということがほとんどありませんでした。生まれ育った環境のせいもあり、いつも不平不満を言っていました。私は何につけても文句を言いました。一番上の姉は私と18歳も違うので、何かと面倒見てくれました。あるとき、グレーのセーターを買ってくれました。私は色が気に入らないと言いました。あるとき、百科事典を買ってくれました。「小学館」と書いてあるので、「これは小学生用だろう」と文句を言いました。結婚してから、家内が私に言いました。「あなたはいつも文句を言っている」と。「文句じゃないよ」と反発しましたが、やっぱり文句でした。クリスチャンになってからも、なかなか感謝するこということができませんでした。何故でしょう?不平不満を言うということが、習慣になっていたからです。もう、口を開けば、自動的に舌が不平不満を言うのです。ヤコブの手紙36「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます」。私は本当に悩みました。何故、私は文句を言うようになったのでしょうか?それは、私の父や母が私を非難したからです。兄たちも私を非難しました。だから、私の中に苦い根が生えたのです。これを直そう、直そうとしても草をかってもまた生えてきます。私は毎朝、中川を散歩していますが、草が良く生えます。ときどき、区の人たちが機械で刈り取ります。しばらくはきれいです。でも、また生えるんですね。そうです。表面的な方法では不可能です。私は私をさばいた父や母、兄たちを赦しました。そして、父なる神さまから、「お前は価値があるよ。お前を受け入れるよ」と頭をなでてもらいました。それから、すこしずつ感謝が出るようになりました。

 みなさん、不平不満やつぶやきは習慣になっている場合があります。なおそうと思ってもなおらない。ついつい、「ポロ」っと、出てきてしまう。どうしたら良いでしょうか?まず、私のようにそうなった原因を探る必要があります。何がきっかけや原因があったのです。環境かもしれないし、両親や兄弟かもしれません。でも、人のせいばかりにしてはいけません。赦すべき人を赦し、悔い改めるべきことを悔い改めます。そして、自分の性格の一部になってしまった不平不満やつぶやきを十字架につけるのです。「私の不平不満とつぶやきの性質を十字架につけて死なせます。アーメン。」その次に、新しい命を神さまからいただきます。不平不満とつぶやきの反対は何でしょうか?そうです。感謝と賛美です。「おお、主よ、感謝と賛美という新しい性質をください」と願い求めるのです。アーメン。でも、それだけだとまた元に戻ります。どうしたら良いでしょうか?自分の意思で、どんなことがあっても感謝と賛美を選び取るのです。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。エディ・レオ師は、何でも40日間、継続するならば、自分のものになると言いました。みなさん、習慣には力があります。自転車も初めて乗ったときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。水泳もどうでしょうか?初めて泳いだときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。だから、不平不満やつぶやきという習慣を直すためには、感謝と賛美を継続しなければなりません。40日間かどうかわかりませんが、とにかく、何につけても、感謝と賛美をすることを選んで実行します。すると、こんどは条件反射的に、「感謝します」と言えるようになります。前の安藤先生が側溝にはまって転んだ時、「ハレルヤ、主よ感謝します!」と言ったのと同じであります。

 みなさん感謝と賛美には力があります。どんな力でしょう?それは運命を変える力です。クリスチャンは運命ということばをあまり使いません。神さまの摂理とか、神さまのご計画という風に言います。でも、この場合は、運命とか環境と言っても良いと思います。なぜなら、父なる神さまがすべてのことが益になるように私のために働いておられるからです。もし、私たちが不平不満やつぶやきを言うならば、神さまの御手はそこで止まってしまいます。しかし、そうではなく、「主よ、感謝します。このような状況の中でもあなたが共におられ、全能の御力をもって働いておられることを感謝します。主よ、あなたの御手にゆだねます。主よ、あなたの御名があがめられますように。御国がきますように。アーメン」。そうしますと、無駄な力が抜けてきます。心配も去ります。なぜなら、主に信頼しているからです。究極な祈りとは何でしょう?それは、父なる神さまに感謝と賛美をささげることであります。感謝と賛美こそが、全能なる御父の御手を動かすからです。今のありのままの状況を主に告げ知らせながら、感謝することであります。「父なる神さま、あなたが今も私のためにすべてのことを益とするために働いていることを、イエス様のお名前によって感謝します。アーメン」。どうぞ、実行してみましょう。思いがけないことが起こったときもやってみましょう。そして、主のみわざを、奇跡を、現実の真中で、見させていただこうではありませんか。

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2010年6月27日 (日)

セル集会の持ち方    使徒2:43-47、コロサイ3:16

 きょうは「セル」という言葉を使います。別にセルと言わなくても良いんです。セルとは方策のように思われていますが、そうではありません。セルとはキリストのからだの細胞という意味から来ています。日本の教会ではセルという言葉をあえて使わない教会もあります。ですから、小グループと呼んでもさしつかえありません。でも、私が当教会で15年間、セル、セルと言ってきたので、「セル集会」と呼ばせていただきます。でも、セルといわなくも、全く、構いません。重要なのは新約聖書が言っている教会を目指せば良いのです。新約聖書の教会には、キリストを中心とした麗しい共同体、コミュニティがありました。この共同体とセル集会とが深いつながりがあります。

1.セル集会とは

 ペンテコステの日、3000人の人たちがいっぺんで救われました。彼らはどのような集まりを持ったのでしょうか?使徒の働き2章後半に、初代教会の様子が記されています。まず、彼らは神殿に集まって礼拝をしていました。今で言う、聖日礼拝であります。もう1つ彼らは家々で集会を持っていたとあります。おそらく、10名前後の人たちが平日、集まっていたと思われます。その小さな集まりを「セル集会」と呼んでいます。もちろん、スモールグループとか、ファミリーと呼んでもぜんぜん構いません。では、従来の「家庭集会」とどこが違うのでしょうか?多くの場合、家庭集会は牧師や伝道師が、ある信徒の家庭におじゃまします。そこに近くのクリスチャンが集まります。だいたい、そこでは牧師がメッセージして、お祈りし、お茶を飲んで終わりというプログラムです。そこでの会話の方向は、牧師からメンバーへと一方向です。しかし、セル集会の場合は、牧師がそこに行きません。そこに集まるクリスチャンの主導で行なわれます。だれか一人が教えるというよりも、みんなでみことばを分かち合うということがなされます。会話の方向は、あっちから、こっちから、こっちから、あっちからと入り乱れています。リーダー的な人はいますが、集会をコントロールするというよりも、交通整理的な役割が求められます。だれかが一人で話題を独り占めしているときは、「ちょっと控えて、他の人の話も聞きましょう」と言います。リーダーの主な役割は、集会を仕切るのではなく、人々の心が開かれ、気軽に話せるような雰囲気を作るということです。特に、黙りこんでいる人の口を開かせる。そのためにはリーダー自身の恥や失敗を喜んで、分かち合う必要があります。

 セル集会には最低限度のきまりが必要です。第一はフラットな関係です。フラットとは平らという意味であり、上下関係がないということです。だれか強い人が、「私の言うことを聞きなさい」とコントロールしてはいけません。セル集会には父親的な人はいても、ボスはいないということです。私はJCMN関東セルチャーチのコーディネーター(世話役)をしています。年に3回か4回、牧師やリーダーのためにセミナーを開きます。そこに出席した牧師たちがまずびっくりします。あまりにもフラットで解放的な雰囲気でふらっとするみたいです。普通、キリスト教の集会では、大教会の牧師は上座に座ります。小さい教会の牧師は、どうしても卑屈になります。しかし、セルチャーチでは、偉い人がいないんです。それと同じように、セル集会でもそのようなフラットな関係が必要です。第二は秘密を守るということです。そこで話された内容を他のところで話さないということです。もし、そうしないならば、表面的な話しかできません。そこが安全であるならば、どんな深い内容でも、分かち合うことができます。秘密を守るとは、ここは安全な場所であるというしるしです。第三は人の噂話はしないということです。特に、そこに参加していない人の話題は避けるということです。この世ではゴシップというのはおいしいご馳走のようにみなされています。ご近所でも、会社でも、PTAでも、そういうゴシップに花を咲かせます。私がある教団の牧師に「セルはどうですか?」と聞きました。すると、「セルはだめだよ。牧師の悪口を言う場になるから」とつっぱねられました。それは、牧師が信徒を信頼していないからかもしれません。でも、そういう危険性はあるということです。第四は、セル集会は教えるということよりも、「私がこのように教えられました」と分かち合い形式で言うということです。「あなたはこうした方が良いですよ」「あなたはここが間違っています」と言うと、雰囲気が悪くなります。それよりも、「私がこうしたら、こうなりましたよ」と私メッセージで伝えれば良いのです。

2.セル集会の目的 

 昔の教会は、「礼拝が終ったなら、さっさと帰るように」と言われました。それは、語られたメッセージをじっくり噛締めるためです。人と話すと心が乱れて、恵みが消えてしまうので、そのまま帰るのかもしれません。でも、どうでしょうか?教会は神さまとの縦の関係だけではなく、兄弟姉妹の横の関係も必要です。なぜなら、教会とは「聖徒の交わり」と言われているからです。聖徒とは、罪が贖われて、神さまとの縦の関係のある人たちのことです。そして、「聖徒の交わり」となると、個人と神さまとの関係だけではなく、罪が贖われた者同士との関係も必要だということです。なぜなら、神さまからの戒めがそのようになっているからです。イエス様は、マタイ22章でこのようにおっしゃられています。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」そうです。私たちは神さまを愛するだけではなく、隣人を自分のように愛するように命令されているからです。そして、教会の兄弟姉妹が持つ集会というのは、この隣人愛の練習の場になるということです。この世における人との関係とはどういうものでしょう?親子や親族などの血縁関係、会社においては利害関係、男女においては恋愛関係です。この世においては友だち関係というのがなかなか作りにくいですね。本来、友だち関係というのは夫婦の間にも、教師と生徒、牧師と信徒、あらゆる関係の基盤になるべきなのです。しかし、特に日本人はそれができません。必ず、年齢とか役職、身分が土台した上下関係になります。アメリカには敬語というのがほとんどありません。YOUとかファーストネームで呼び合っています。しかし、日本は上下関係が強いので、敬語や丁寧語がものすごく多いんです。しかし、教会というところは身分も年齢も、男女関係もありません。みな、兄弟姉妹の関係であります。頭では分かりますが、それを体験していく場がセル集会なのであります。柏に「人生やりなおし道場」という教会があります。ミッション・バラバの鈴木啓之師が牧会しています。教会も神の愛、兄弟姉妹同士の愛を学ぶ、道場なのであります。

 そして、セルのもう1つの目的はお互いに建て上げるということです。建て上げるとは、ギリシャ語で、オイコドメオーと言います。新約聖書にこのことばが非常に多く用いられています。このことばは実際、家や建物を建てるという意味です。しかし、聖書では「神の家を建てる」というふうに用いられます。そうすると、その意味が若干、変わってきます。「信仰を強化する、人を向上させる、品性を高める、相手の徳を高める」というふうになります。英語ではedify、edification(啓発)と言ったりします。では、「建て上げる」の反対は何でしょうか?「こきおろす、批判する、ダメ出しをする」というふうになります。日本人はこれをやったり、やられたりしていますので、もうビクビクしています。「また、何か言われるかなー」と構えてしまいます。大体、日本は、励ましたり、ほめたりする文化ではありません。どしても短所や欠点、間違いの方に目がいきがちです。あっちを切られ、こっちを切られ、盆栽のようにちぢこまってしまいます。ですから、セル集会では励ましたり、ほめるということがとても重要です。4月は東京ホープチャペルで関東コーチングセミナーがありました。先生方がいろんな発表をします。「いやー、これよかったね」「あれはよかったねー」とほめるんです。もちろん、悪いところや足りないところもあるんです。でも、言い方ひとつ、見方ひとつで、肯定的になることが可能です。その集会に、「葛飾中央教会」という名札をつけた牧師が参加しておられました。私はその先生のところに行って、「ようこそ、私は亀有です。先生はどちらからですか?」とお聞きしました。先生は「柴又一丁目にあります葛飾中央教会です」と答えました。私は「わあ、すごい。葛飾中央教会というのが良いですねー」と言いました。すると先生は、「うちは家族7人でやっている教会です。こういう名前をつけて、いろんな教会から批判されました。ほめてくれたのは先生がはじめてです」と言われました。私は「葛飾中央じゃ、そんなに大きくないですよ。東京中央教会でも良いんじゃないでしょうか」と言いました。すると、先生はそれがとっても励まされたということなんですね。私は「日本の教会の牧師は、励ましが必要なんだなー」と思いました。

 一口に「建て上げ」と言いますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?新約聖書には「互いに」という表現がたくさんあります。「互いに」ということが実行できるのは、二人以上、十名未満の人数ではないでしょうか?50人では「互いに」は不可能です。ですから、小グループが必要になってきます。では、新約聖書にどのような「互いに」というのがあるのでしょうか?みなさんもお考えください。「互いに愛し合いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」「互いに励まし合いなさい」「互いに教え合いなさい」「互いに戒め合いなさい」「互いに重荷を負い合いなさい」「互いに注意し合いなさい」「互いに預言し合いなさい」「互いに親切にし合いなさい」「互いに語りなさい」「互いに従いなさい」「互いに徳を高め合いなさい」「互いに平和を保ちなさい」…本当にたくさんあります。これらを一口に言って、「建て上げ合う」ということだと思います。もし、これが教会の兄弟姉妹の間でなされるなら、信仰が強化され、力がついてきます。そして、こんどは家族や会社、学校、地域社会で実行していけば良いのです。日本にはそういう文化がほとんどありません。あなたから新しい文化を作っていけば良いのです。ハレルヤ!

3.セルの一生 

 セルとは細胞であると最初に申し上げました。実は私たちのからだの細胞も「生まれては死に、生まれては死に」を繰り返しています。ある人から、玄米を勧められました。その人は「6ヶ月ぐらいで、体全体が玄米でできた細胞になりますよ」とおっしゃっていました。どのくらい生物学的な根拠があるか分かりません。でも、細胞が生き延びるためには、たえず増殖し、そして、古い細胞は死んでいくという運命にあります。しかし、細胞核にあるDNAはちゃんと伝達されるということです。同じようにセルグループにも一生があります。はじめ生まれたてのセルグループは新鮮で喜びがあります。「こんにちは、こんにちは」と、いろんな人と親しく交わることができます。兄弟姉妹がみんな良い人に見えます。自分が本当に受け入れられ、歓迎されているように感じます。それは結婚で言うと、ハネムーン期です。でも、結婚された方はご存知ですが、ハネムーン期間は長くは続きません。1年くらいたつと、相手の欠点やアラが見えてきます。「こういうところがだらしない。あんな言い方はないだろう。なんで支配するんだ。なんであんなに軟弱なんだ。ちょっと変わっているんじゃないかなー。あれでもクリスチャンなのかな?」これが第二期の葛藤期です。セル集会では自分の内面を出して良いところです。そうすると自分の良い面も出ますが、悪い面も当然、出てきます。その人のバックグラウンドと申しましょうか、生い立ち、これまで受けた傷、自分の考えや好み、主義主張、こだわり…そういうものがバーッと出てきます。そこで、衝突が生じてきます。しかし、それは良いことなんです。それがないと本当の親密さには発展しません。第三期は調整期です。どういうことかというと、不一致を調整するということです。「こういう言い方をするとあの人がカチンと来るらしい。だから、表現を変えよう」「ああ、あの人にはこういう弱さがあるんだから、別の角度で見て行こう」「私の流儀や考え方のこの部分をなおさないとダメだな。こういう場合はだまって同情した方が良いんだなー」。こういうふうに調整していきます。これを聖書的に言うならば、悔い改めと建て上げであります。壊して建てるということです。私たちの内面を見て、良くないところは取り壊し、良いものに取り替える必要があります。そして、第四期は円熟期です。もう、しっかりと信頼関係ができています。親密さにあふれている関係です。夫婦もここまで来ると良いですね。兄弟姉妹もそういう関係を目指すべきです。第五期は死です。そのグループはやがて死を迎えます。「えー死ってひどいじゃないですか?」と言うかもしれません。そうです。3年も4年も、同じメンバーだとそのグループは死んでしまいます。

では、細胞、セルが死なないためには、どうしたら良いのでしょう?増殖です。細胞は細胞分裂し、増殖しながら生き延びています。セルグループも新しい人を加え、細胞分裂して、増殖しなければならないのです。1つの同じセルグループを、ずーっとやっていたのでは、そのグループは死んでしまいます。亀有教会もある時は12個くらいのセルがありました。しかし、今では4個くらいかもしれません。なぜでしょう?ずーっと同じメンバーだったからです。私たち日本人は、メンバーを換えるということにはとても消極的です。「せっかく慣れたのに、別なグループを作るのは嫌だわ、別れたくない。ずっといたい」。気持ちは分かります。でも、長年、グループにいた人は、新たに自分がリーダーとなってグループを作る必要があります。なんのためでしょうか?それは新しい人が救われ、育成され、やがては大人のクリスチャンになるためであります。つまり、セルグループの最終的なゴールは伝道によって新しい人が加えられ、やがては増殖することにあるということです。ですから、細胞分裂して増えるため、別れることは良いことなのです。「別れることは良いことです」と言いましょう。つまり、セルは内向きだと死んでしまいます。ですから、たえず外に向かう必要があるということです。

4.セルの重要なポイント

最後にセル集会において重要なポイントを3つ上げて終りたいと思います。セル集会が生き生きとした交わりになるため、つまり、お互いがお互いを高め合うためにどういうことが大切なのでしょうか?第一はお互いに心を開くことです。男性は気持ちを分かち合うということが女性と比べてとても下手です。どうしても自分の考えとか知識を分かち合います。しかし、もっと分かち合うべきことは、自分の感情であります。心の傷や痛み、悲しみを分かち合うべきです。そのためには、心を開くということです。お互いが心を開けば、開くほど、そのグループの新密度が高まります。多少の衝突があるかもしれません。でも、人間関係の傷は人間関係で癒されるしかないのです。もし、あなたが関係を絶つならば、その部分だけ手付かずのままで、残ってしまいます。私たちの成熟度、あるいは聖化という面を考えると、どうしても人間関係を抜きにしては考えられません。私たちは人間関係によって、人格が成長するようになっているのです。そのためには心を開くということがとても重要です。第二は帰属意識です。私たちはどこかに属しているという意識がとても必要です。人間は元来一人では生きて行けません。でも、これまでさんざん傷ついてきたので、一人にさせてくれという人がいるかもしれません。でも、自分を受け入れてくれるグループに属するということはとても重要です。では、どういうグループが必要なのでしょうか?それは自分がグループにとって、必要とされているという意識です。そうです。そのグループは、あなたの賜物、あなたの性格、あなたの考えが必要なのです。あなたはグループから必要とされているのです。しかし、同時に、あなたもそのグループが必要なのです。手の指が一本で存在できないことと同じです。指は手の平につながり、手の平は腕につながり、腕がからだにつながっています。キリストのからだなる教会もそれと同じです。キリストのからだなる教会はあなたを必要とし、あなたもキリストのからだなる教会を必要としているのです。第三は聖霊を歓迎するということです。イエス様はマタイ18章で「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とおっしゃいました。今、イエス様は聖霊によって、私たちのところにお越しになっています。イエス様は個人の中にもおられますが、私たちの間にもおられます。私たちは心を合わせて祈るなら、どんなでもかなえてくださると約束しておられます。つまり、セル集会の原動力は生けるキリスト、聖霊であります。聖霊様が私たちに愛を与え、知恵を与え、賜物を与えてくださるのです。一人ひとりは取るに足りない者であったとしても、そこに聖霊が臨在してくださるならばどうでしょうか?聖霊様ご自身が、すばらしいわざをなしてくださるということです。

かなり前、インドネシアのセル集会の証を聞きました。一人の男性は脳腫瘍にかかりました。何度も手術を受けましたが、全部の腫瘍を取り除くことができませんでした。お医者さんは「数ヶ月後に、また来てくださいよ」と言いました。しかし、彼はお金がなくて行くことができませんでした。それで、セル集会に参加したとき、みんなから祈ってもらいました。するとどうでしょう?彼の目の前に見上げるほどの大男が立ちました。大木のような足ですから、10メートルもの身長です。彼は「ああ、この方はイエス様だな」と分かり、「主よ、大き過ぎて分かりませんので、もう少し小さくなってください」と心の中でお願しました。すると、するするとその人は小さくなりました。顔を見上げましたが輝いて見ることができませんでした。彼は「お願です。イエス様、私の頭を癒してください」とお願しました。すると、その方は自分の頭の上に按手してくれました。他の人は分かりません、彼が見た幻であります。それから半年くらいたって、頭のことは忘れていました。他の用事で病院に出かけました。お医者さんが「君どうしたの?」と聞きました。「いや、別に?」と答えました。詳しいことは忘れましたが、とにかくCTスキャンで見てもらいました。しかし、頭の中の腫瘍が全く消えていたということです。だれかが特別に祈ったのではなく、セルのみんなが祈ったときに、イエス様が来られて、その人を癒してくださったのです。イエスの御名によって集まるところに、主がおられ、みわざをなしてくださるのです。どうぞ、個人で信仰を守るだけではなく、互いに建て上げ合うために、小グループに身を置いてください。

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2009年2月 1日 (日)

パウロの同労者      コロサイ4:10-18

パウロは聖書の中で最も用いられた人物の一人です。新約聖書の13の手紙を書きました。また、パウロには使徒職だけではなく、霊的賜物もほとんど備えており、宣教、牧会、癒し、奇跡、預言、異言、教え、知恵、知識など、まさしく霊的巨人であります。パウロは異邦人の教会を開拓し、土台を据えた使徒でありますが、一人でやったわけではありません。パウロを支えるたくさんの同労者がいました。最後にパウロは、ローマの牢獄で捕らえられていたので、動きたくても動けない状態でした。「神様!どうして使徒パウロを解放して、もっと用いないのですか!」と訴えたくなりますが、神様の考えはそうではありません。パウロは自由に動けませんでしたが、その代わり、各教会にたくさんの手紙を書きました。パウロの同労者たちがその手紙を携えて各教会を訪問し、また、その様子をパウロに伝えたのであります。それは、私たちに「一人ではなく、チームで牧会をする」ように教えているかのようであります。

1.パウロの同労者

 「同労者」のもとになったギリシャ語の動詞はスネルゲオーですが、「一緒に働く、共働する、仕事を手伝う、助ける」という意味があります。使徒パウロと一緒に働いて、その仕事を助けた人たちにはどんな人がいたのでしょうか?まず、パウロと常に行動を共にした同労者がいました。つまり、一緒に伝道旅行をし、そこに教会が建てられたら、同労者数人が残りました。そして、ある期間が過ぎると、またパウロと合流し、その後、また他の教会に遣わされるという次第です。彼らは、使徒パウロの働きを拡大し、継続した人たちです。パウロの一番弟子は何と言ってもテモテです。コロサイ1:1「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから」と、一緒に挨拶を送っています。テモテは父がギリシャ人で母がユダヤ人でした。第二次伝道旅行中、小アジアのルステラで出会いました(使徒16章)。テモテのためには、2つの手紙が残されています。パウロ自身には子どもはいませんでしたが、「信仰による真実のわが子テモテ」と言っています。私は長男が与えられたとき、テモテと名づけたかったのですが、副牧師から「それはかわいそうだ」と止められました。当時、テレビで「テモティー」というシャンプーなかんかのCMが流行っていたからです。外国人にはそういう名前の人がいますが、やっぱり、おかしいでしょうか?今思えば、家内が名前をつけて良かったのかもしれません。

 コロサイ1:7には「テキコ」という同労者の名前が出ています。彼には、たくさんの修飾語がついています。「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコ」。いいですねー。テキコの代わりに自分の名前を入れたらどうでしょうか?女の人は、「主にあって愛する姉妹、忠実な奉仕者、同労のしもべであるトシコ、サチコ、ヨシコ」。9節には「オネシモ」という人が出ています。「あなたがたの仲間の一人で、忠実な愛する兄弟オネシモ」。どうも、テキコとオネシモがローマからコロサイにパウロの様子を知らせに行くようです。でも、このオネシモと言う人はどんな人でしょう。ピレモン書を見ますと、彼はコロサイの有力なクリスチャン、ピレモンのもとから逃亡した奴隷であることがわかります。オネシモはローマの獄中でパウロと出会い、回心しました。パウロはピレモンに対して「奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟して受け入れるように」と願っています。オネシモは、以前は役に立たない人でしたが、今はオネシモ「役に立つ者」となったということです。それから、パウロと一緒に囚人になっている人もいました。10節には「アリスタルコ」がいます。この人物はテサロニケの人ですが、パウロとエルサレムへ一緒に行ったとき捕らえられ、船に乗ってローマに行きました。嵐で難破した船の中にパウロと一緒におり、今も、ローマの獄中で一緒です。「いやー、パウロと一緒に牢の中にいるなんて!うらやましいですね。」一緒に牢に入るくらいの同労者って何なんでしょう!また、10節半ばには、バルナバのいとこマルコの名前が載っています。マルコは第一次伝道旅行の途中、エルサレムに帰った人です。第二次伝道旅行のとき、パウロは「仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かない方が良い」と考えました。つまり、マルコは同労者としては失格だから、「ノー、お断り」と言ったのです。でも、今は、パウロと一緒にいます。何があったのでしょう?マルコが成長したのでしょうか?それともパウロが成長したのでしょうか?Ⅱテモテ4:11でパウロは「彼は私の務めのために役に立つからです」と言っています。

 さらに、11節以降には、ユトスというイエスがおりました。ユトスはパウロを「激励する者」となってくれました。今でいうチア・リーダーのような存在ですね。指導者とは孤独なものです。パウロはユダヤ人からものすごい迫害を受け、反対者も多かったでしょう。そこに、ユトスのように「激励する人」はなんとありがたい存在でしょうか。インドネシアのエディ・レオのところに行ったとき、とても感激したのはそのことです。エディ・レオ師を物心ともに支えている人たちがいました。まるで家族のように親しい存在で、「うらやましいなー」と思いました。12節にはエパフラスという人がいます。13節からもわかるように、彼はコロサイの人ですが、コロサイ、ヒエラポリス、ラオデキヤの教会を建てたと思われます。コロサイの教会に危機が訪れたのか、ローマにいるパウロを訪ね、指示を仰ぎました。今しばらくの間、パウロと共に獄中にあったようです。でも、彼はコロサイの人たちが「完全な人となり、神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるように、祈りに励んでいます」。14節には「愛する医者ルカ、それにデマスが」パウロと共にいました。ルカは最初の頃からパウロと伝道旅行を共にした人物で、「使徒の働き」と「ルカによる福音書」を書いた人物です。パウロ自身、「肉体に1つのとげがある」と言っていますが、医者であるルカが共にいたということはなんと幸いでしょうか?しかも、ルカは最後の最後まで、パウロと同行していました。Ⅱテモテ4:10,11「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。」とあります。デマスは最初、パウロと一緒にいましたが、「今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました」。「がびーん」であります。デマスになっては、いけません。ルカのように最後まで、忠実に従う人が良いですね。15節以降には、家の教会もあったようです。ヌンパと言う人がそこの指導者でした。17節にはアルキポがいます。おそらく、コロサイのクリスチャンであろうと思われます。アルキポにはどこか問題があったのでしょうか?パウロはアルキポに「主にあって受けた務めを、注意して果たすように」と述べています。どこか彼は不忠実だったのでしょうか?それとも、迷いがあったのでしょうか?主からゆだねられた務めを、果たすということはとても重要です。

 これで全部終わりました。パウロの同労者とはどんな人たちでしょうか?一見、パウロの手足みたいな感じがしますが、そうではありません。なぜなら、彼らもかしらなるキリストにつながっていたからです。でも、パウロは使徒として神様から召され、使徒の務めを全うするために同労者が必要でした。では、使徒とは端的にどういう人なのでしょうか?エペソ人への手紙4章には教会の五職の賜物について記されています。エペソ4:11「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」とあります。使徒は五本の指の親指のような存在です。使徒(親指)、預言者(人差し指)、伝道者(中指)、牧師(薬指)、教師(小指)です。面白いことに、5本の指の中で、親指だけが、他の4本の指と、自由に接触することができます。中指で他の指と接触するためにはとても苦労します。でも、親指は万能です。そうです。使徒は教会を開拓し、神学的な土台を据える賜物があります。だから、そのときどうしても、預言者、伝道者、牧師、教師の賜物も必要になります。使徒は複雑なことがらを端的にまとめ、それを伝授していきます。しかし、使徒には唯一の欠点があります。何でしょう?その場所で、同じ働きをずっとやることができません。飽きてくるのです。パウロは長くても3年、テサロニケには3週間しかいませんでした。牧師であれば、20年も30年も、留まることができますが、使徒にはできません。それでどうするのでしょうか?教会に長老や牧師を任命し、バイバイと言って、他の地域を開拓しに行きます。でも、そのまま放っておくのではありません。自らもまた訪問することがありますが、同労者たちをそれらの教会に度々、送って指導したのです。これが使徒パウロの戦略であります。また、使徒には霊的賜物を発掘し、油注ぎを与える賜物もあります。だから、ローマの教会に「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」と願っています。テモテも時々、油が切れたのかパウロが「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と書き送っています。以上が、コロサイ書にあります、パウロとパウロの同労者たちのことです。パウロというか、イエス様にどこまでも従っていく、同労者になりたいですね。アーメン。

2.チームでする牧会

 後半は、どうして牧会はチームでしなければならないのか短く、お話したいと思います。最近、『チームでする教会づくり』と読み終えました。以前、古いものも読んだことがありますが、改訂版を読んで、「ああ、本当だなー」と具体的に気づかされたことがたくさんありました。ベン・ウォンのコーチングは、根っこの部分、価値観とか、動機という面が強調されていました。でも、ウェイン・コディロは『チームでする教会づくり』の本の中で、「あなたならどうしますか」という適用面も教えてくれたのでとっても助かりました。

①チームで牧会する第一の理由は、教会はキリストのからだだからです

 かしらはキリストで、一人ひとりはからだの器官です。「教会がキリストのからだである」ということは、様々な器官が組み合わされて奉仕をするように召されているということです。また、様々な器官とは、神様から与えられた様々な賜物という意味です。賜物の中には生まれつき与えたれたものとか、努力して得た賜物があるでしょう。外交的とか内向的という性格もあります。また、関係作りの得意な人もおれば、もくもくと働く仕事中心の人もいます。指導する人もおれば、手足のように活動する人もいます。また、Ⅰコリント12章には霊的な賜物があり、癒しとか預言、知識や知恵のことばがあります。あるとき、ピラーっと、聖霊様から示されることがあるでしょう。とにかく1つの価値基準で人を測ってはいけません。パウロは「からだの中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」(Ⅰコリント12:22)と述べています。小指を立てたまま、握ってください。何か力が入りません。しかし、小指と一緒に他の指も曲げると、ぎゅっと握力が増します。教会では音楽や賛美が目立つかもしれません。でも、隣に座って、人の話に耳を傾ける人も必要です。その人が深くうなずいてくれただけで、大きな励ましを受けるでしょう。ある人は、駐車場係りの誘導で、クリスチャンになったという人がいます。日曜日の車の送迎に感動して、クリスチャンになる人もいるかもしれません。アーメン。

 各からだの器官においてもっとも大切なことは何でしょう?その人がものすごい賜物や能力があったとしても、生かされない場合があります。それは何でしょう?キリストのからだなる教会から離れたときです。孤立した場合です。そうすると、せっかく神様から与えられた賜物が死んでしまいます。神様はキリストのからだなる教会を通して、あなたを用いたいのです。一匹狼的なクリスチャンでは、ダメなんです。手や足、そして指もからだにつながっていないと、その役目を果たすことができません。また、手足がからだから離れたなら、血液がストップし、死んでしまいます。ですから、私たちはキリストにつながるだけではなく、お互いにもつながりあって、はじめて、神様から与えられた使命を全うすることができるのです。私たちのからだ全体、私たちの賜物全体が集まると、そこに何が見えるでしょう。復活のイエス・キリストが見えてきます。イエス・キリストは今、教会と言うからだを通して、生きておられ、この世で働きたいと願っておられます。

②チームで牧会する第二の理由はクリスチャンすべてが万人祭司だからです

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です(Ⅰペテロ2:9)」。すべてのクリスチャンは祭司です。つまり、すべての人がミニスターだということです。ミニスターとは一般的に聖職者とか大臣という意味ですが、本当はそうではありません。もともとは、ギリシャ語の「デァコネオー」から来たことばで、「給仕をする、仕える、世話をする」という意味があります。だから、ルターが言うように、すべてのキリスト者が神様と人々に仕える祭司だということです。しかし、プロテスタント教会は、ローマカトリックのなごりを、今だに持っています。石原良人師はご自分のブログでこのように述べています。「万人が祭司になるためには、教役者たちが、プライド、支配欲から解放されなければなりません。自分の欲ではなく、神の御国が広がることを欲するまで、御心を追い求める必要があります。支配欲を手放し、信徒たちが自立できるように促さない限り、万人祭司はあり得ないからです。世界を見る時に、チャーチプランテイング・ムーブメントが様々な国で起こっています。神ご自身が再臨に向けて、御国を一挙に拡大しておられるようです。実はこのムーブメントは、明らかに万人祭司を見事に実現させており、信徒が自分でセルグループ・レベルの教会を起こし、それが再生産しているのです」。ちょっと今、石原先生はひりこもりに集中していますが、良いこともおっしゃっています。

今は、「1つのセルが教会なんだ」というところまで来ています。私たちは教会員がどこかに引っ越したら、その近くの良さそうな教会を紹介します。しかし、そうではなくその引っ越した先で、セルを起こし、そこに教会を開拓するという運動が始まっています。コーチングの仲間に渡辺牧師がいます。茨城の筑西市、2005年に下館市と真壁郡など合併してできた市です。つくばの北西にあります。彼は田舎に10年くらい前に教会を開拓し、教会員は50名くらいでしょう。さらに、つくばエキスプレスでできた新たな駅の近くに、教会を開拓しようとしています。一人の姉妹を遣わし、そこから始めようとしています。ところが最近、JCMNで働いていた清水兄ご夫妻もその近くで開拓を始めました。教会はつくば市の町に集中していますが、郊外にはほとんどありません。おおー、それなのにゼロから、いやセルによって教会を始めようとしています。セルとは1つの細胞です。細胞がぽろっと、一粒の種のようにその地に根を降ろし、増殖していく。おそらく、洗礼も聖餐式すべてセルで行うのでしょう。でも、孤立しているとやっぱり弱いので、ネットワークとコーチングで支えていくということです。既存の教会の外にセルを作る、これが、今、最先端のわざです。でも、足元である当亀有教会を見たらどうでしょう?セルで教会を開拓するなどというのは夢みたいな話です。ですから、まず、本当にいのちあるセルを作ること先決です。私も郵便局を3月いっぱいで辞めて、セルを作るためのコーチングに専心していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

③チームで牧会する第三の理由は、私たちは神の家族(共同体)だからです

ミニストリー(働き)も大事ですが、それ以上に関係が大事です。ともすれば、私たちは教会を会社組織に似せてしまいます。会社は利潤をあげるために組織化し、人々はお金を得るために働いています。命令系統は、社長、部長、課長、係長、平とピラミッド型です。会社ではミィーティング(会合)をしばしば持ちますが、大体は事務的な内容で、心の中のことは一切話しません。本音を話すところはもっぱら、居酒屋であります。そこでは、仕事の愚痴や上司の悪口でしょう。もし、教会を会社のように考えるなら、教会を大きくするために、人々を動かすでしょう。役員会も雇用者と労働者のような論争の場になるかもしれません。しかし、教会は神の家族です。もちろん、最低限度の規則とか戒規は必要でしょうが、それは特別な時だけです。ふだんは、互いに愛し合い、互いに赦しあい、互いに助け合う場であるべきです。つまり、教会は教勢(人数や予算)をあげることも大切ですが、それよりももっと大切なのは、関係であります。教会にきてほっとする、そういうところでなければなりません。それは、律法が支配しているのではなく、恵みが支配しているところです。私たちはそういう暖かい神の家族の雰囲気をかもし出して行きたいと思います。

でも、みなさん「教会は神の家族だ」とは言いますが、私たちは本当の家族を経験しているでしょうか?私の家などは、父は酒乱で、母を打ち叩き、母も子どもたちの前で父をむちゃくちゃ非難していました。兄弟同士が集まると喧嘩し、まるで無政府状態でした。そういうところで育った牧師が、「教会は神の家族です」と言っても、心の傷が癒されないとすぐには無理であります。また、韓国の家庭は儒教のもとで、非常に父親の権威が強く、口答えなど全く許されませんでした。日本の教会も韓国の教会から学びましたが、儒教の影響を受けた牧師像も一緒に学んだのではないでしょうか?かつて、「牧師に権威がなくては、教会は成長しない」とよく言われましたが、本当にそうでしょうか?ふだんちっともコミュニケーションを取らないで、権威だけ振りかざす、それは本当の牧師ではありません。本当の権威は、人々から尊敬されるときに、自然と生まれるものです。「私は牧師だから権威があるんだ」と押し付けたら、イエス様の生き方とは反対になります。教会が大人数になったら、家族のような交わりは不可能になります。「大きな教会は冷たい」と言われます。でも、少人数のグループ(セル)がその中にたくさん存在していたなら、どうでしょう。セルの中には、父や母のような存在の人、若者、霊的な子供もいるでしょう。その中でもっとも大切な役割を果たすのは、天の父の心を持った人です。ファザリングとか、メンタリングとも言いますが、父の心を持った兄弟姉妹の存在が鍵です。ルカ15章の放蕩息子の兄のような存在ではなく、父親のような存在です。どうぞ、憐れみに満ちた、父の心を持ちましょう。そうすれば、教会はひとりでに神の家族となっていきます。きょうは前半ではパウロと共に働いた同労者について学びました。また、後半はチームで教会を作るということを学びました。みなさん一人ひとりがイエス様の同労者であり、キリストのからだを形成するためのかけがいのない存在です。アーメン。

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2009年1月25日 (日)

祈ってください   コロサイ4:1-9

 元旦礼拝で、私たちは霊的に、天のところにすわっているということを学びました。ですから、目をつぶり、すぐ隣にイエス様、さらに向こう側には父なる神様がおられる。そのことを想像しながら祈ることができるのです。しかし、目を開けると私たちの肉体は地上にありますので、いろんな悩みごとがどっと押し寄せます。でも、また目をつぶると天のイエス様の隣にいます。すると地上の問題が小さく見えてきます。いっそのこと目をつぶって生活したくなりますが、そういうわけにはいきません。きょうは、前半は祈りについて、後半はあかし伝道について学びたいと思います。

1.祈りの三要素

 祈りには3つの要素があります。第一は交わりの祈りです。2節に「目をさまして」とあり、その下には、「たゆみなく祈りなさい」とあります。「目をさまして、たゆみなく祈れ」とは、神様と交わる祈りであります。また、「目をさまして」とは、霊的に目をさますということです。霊的に眠っていますと、罪と誘惑に負けてしまうからです。ゲツセマネの園で、イエス様は「目をさまして祈っていなさい」と弟子たちに命じました。ところが、彼らは寝入ってしまいました。お祈りがお寝入りになったのです。イエス様はこのようにおっしゃいました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、私と一緒に目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:40-41)。ここだけを見ると、「1時間、ずっと続けて、祈れ!」みたいに思います。でも、みなさん、1時間、声を出して、祈り続けることができるでしょうか?昔、愛知県民の森で、毎年1月に教職者ゼミナールがありました。防寒服に身を包み、雪道を掻き分けで森に入り、5時半から7時くらいまで祈ったことがあります。とにかく寒いので、体を揺さぶりながら、大声を上げて祈ります。たまには良いけど、「あの時は、辛かったなー」という思いばかり残ります。みなさん、祈りは神様との交わりです。それなのに、「神様、あなたとの交わりは本当にしんどいです」と言ったら、失礼です。時には、雄叫びの祈りも必要ですが、祈りの基本は、神様との交わりです。ですから、そんなに、1時間もガンガン一方的に祈る必要はありません。こっちが話したり、神様の御声に耳を傾けたりという交互のやり取りが大事なのです。

 では、神様と交わってどのような効果があるのでしょうか?神様と交わると、神様のご性質をいただくことができます。モーセは主の前に出て祈りましたが、なんと、モーセの顔のはだが光を放っていました。神様と交わると神様の栄光が私たちに着せられるということでしょう。それはまた、神様が持っておられる聖さ、知恵、力をいただくことができるということです。エレミヤ33:3「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」とあります。また、詩篇139:23-24には、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とあります。神様と交わると、神様が私たちの心の深いところをチェックしてくださいます。私たちは行ないが正しくても、動機が汚れているときがあります。そういう場合、神様は、心の傷や罪を示してくださいます。今、預言喫茶というのが流行っています。多くのクリスチャンが、預言を求めて出かけます。気持ちはわかります。でも、自分自身が祈って、神様に聞くのが基本であります。自分はちっとも祈らないで、人が預言してくれるのを期待するのは、占いに近いことです。私は預言を信じますが、多くの場合は、チェックのためであります。「自分が神様から語られていたことが、やっぱり本当だった」と分かるからです。現代人は携帯電話で多くの人たちとひっきりなしに会話をしたり、メールのやり取りをします。人との交わりも良いですが、それはあくまでも水平的なものしか得られません。しかし、神様との交わりは垂直的です。神様は、人の理解を超えた知恵や解決、導きを与えてくださるからです。どうぞ、目をさまして、たゆみなく祈りましょう。

 祈りの第二の要素は、求める祈りです。マタイ7章に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」とあります。また、ルカ18章には、やもめと不正な裁判官のたとえ話があります。裁判官は、神を恐れず、人を人とも思わない人でした。だが、そのやもめは、ひっきりなしにやって来て、うるさいので仕方なく、彼女のために裁判をしてあげました。イエス様は、そのたとえを用いて「失望しないで、いつでも祈りなさい」と教えました。神様は私たちの祈りを、一回で聞いてくれることもありますが、何回も何十回も祈ってから、聞いてくれることがあります。何故でしょうか?残念ながら、私にもわかりません。少しだけ分かることは、祈りと信仰が関係あるように思います。私たちは信仰がなくても、求めることができます。ただ、欲しいからとか、「そうなれば良いなー」ぐらいの淡い望みです。そういうふうに求めたものは、1,2回で消えてなくなります。その時は、「ま、いいか、神様に頼らなくても、自分の力でなんとかなるさ」と思うでしょう。でも、自分でも手におえないことがあります。しかも、それが絶対に叶えてもらいたいのです。そうすると、私たちは恥も外聞も捨てて祈るのです。祈るのです。祈るのです。そうするとどうでしょうか?私たちの中に、信仰が湧いてきます。また、聖霊の炎によってその祈りが聖められ、「これは神様に届いている」と確信します。神様は私たちの信仰が成長するように願っておられるのです。

 さらに、コロサイ4:2には「感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」と書いてあります。祈りに必要なものは、感謝であります。感謝とは信仰があることの表れです。そうなる前から、神様にありがとうございますと言っているからです。イエス様がラザロをよみがえらせたとき、どのように祈られたでしょうか?ヨハネ11:41「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝します。私は、あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました」と言われました。その後、「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。大川牧師がよくメッセージでおっしゃいます。「祈りが聞かれた後は、だれでも感謝ができます。大切なのは、祈りが聞かれる前から、先取りをして、感謝をすることです」と。でも、みなさん、祈りがなかなか聞かれないと、感謝なんかできません。「主よ、どうしてなんですか。私がこんなに辛いのに、いつまでほうっておいているのですか?主よ、何とかしてくださいよ!」と自己憐憫に陥ってしまいます。しかし、悩みの底から、叫ぶと「ああ、感謝だったなー、感謝が大切なんだ!」と悟ります。しかし、また、感謝が消えて、絶望感に満たされます。「いや、そうじゃない。感謝が大切だ!主よ。信じます。主よ、感謝します。」正直、私などはこういう繰り返しが多いです。ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。このみことばは、交わりの祈りと求める祈りが、合体したものをささげよと教えています。詩篇のあちこちにも、最初は嘆きで始まり、最後は賛美と確信に終わっている箇所がたくさんあります。私たちも嘆きと絶望感を神様に訴え、その後、信仰をいただき感謝をもって祈るのです。求めの祈りは、戦いの祈りです。不信仰に負けてはいけません。ただ、ただ主にすがり、感謝をもって祈るのです。そうすると、祈りがまだ叶えられていなくても、主の真実にゆだねる信仰が湧いてきます。

祈りの第三の要素は、とりなしの祈りです。パウロは、「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。・・・私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください」とお願いしています。とりなしの祈りとは、当人の代わりにこちらが祈ってあげるということです。当人自身も祈っているのですが、それではまだ足りないということです。あのイエス様ですら、ゲツセマネの園で、「悲しみのあまり死にそうなので、私のために祈ってくれ」と弟子たちに要請しました。使徒パウロも、ローマで福音が語れるように祈ってくれとコロサイの教会にお願いしています。出エジプト17章に、このような記事があります。アマレクがイスラエルの後方から襲いかかりました。おそらく後方には、行進についていけない弱い人たちがいたのでしょう。ヨシュアが先頭に立ち、彼らと戦いました。そして、丘の頂で、モーセが神の杖をもって祈りました。ところがどうでしょう?モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になりました。そのためモーセが石の上に腰賭け、手をあげました。そして、アロンとフルが、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえました。それでモーセの手は日が沈むまで、しっかりそのままでした。それゆえ、ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破ることができたのです。実際、アマレクと戦ったのはヨシュアと兵士たちです。しかし、丘の頂では、モーセとアロン、フルが祈っていたのです。これがとりなしの祈りです。

とりなしの祈りは、霊的戦いのときは欠かすことができません。親が子どものためにとりなす必要があります。また、牧師は信徒のために、信徒は牧師のためにとりなす必要があります。Ⅰテモテ2:1「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」とあります。先週はオバマ大統領の就任式がありました。ジョセフ・ラウリー牧師が祝福の祈りをしました。インターネットに翻訳が載っていましたので紹介いたします。「主よ、既に休まれた全ての聖人の思い出により、さらに、新しい時代の始まりの歓びにより、その日のために私たちが働くのを助けてください。黒い人が後に入れと言われない日、茶色い人がそこに留まる日、黄色い人が栄える日、赤い人が成功できる日、そして、白い人が正しいことを受け入れる日。正しいことを行い寛容を愛するすべての人はアーメンを唱えます。」全世界の人々を色で分けてたのは興味深いことです。おそらく、数え切れないほどのアメリカの人たちが、オバマ大統領のために祈っているでしょう。でも、麻生首相のために祈っている日本人はどれだけいるでしょうか?「あんな漢字も読めないのか!」と批判しているかもしれません。大川牧師は早天祈祷会で、天皇陛下とそのご家族のためにも祈っていました。私は、高い地位にある人たちのために祈っていないことを告白して悔い改めます。活動的な人はあまり祈らない傾向があります。そうすると、霊的な守りが欠如して、穴があいてしまいます。ですから、教会の一致のために、またその働きのために祈りが必要です。祈りは年をとって、体があまり動かなくなってからもできます。とりなしの祈りをあなどってはいけません。教会で奉仕をする人も必要ですが、背後でとりなしの祈りをする人も同じくらい重要です。どうぞ、困難の中で闘っている兄姉のために祈りましょう。また、人々が救われますように、教会の必要が満たされますように、どうぞお祈りください。

2.あかし伝道の三要素

 「あかし伝道」って何ですかと、疑問に思う方もおられるかもしれません。でも、これはとても聖書的です。マタイ24章は世の終わりのときのしるしが書かれています。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と書かれています。福音が宣べ伝えられるだけではなく、あかしされることも必要だということです。つまり、あかし伝道とは、私たちの生活とことばを通して、福音を伝えるということです。コロサイ4:5-6は、あかし伝道の三要素について教えています。第一は、懸命なふるまいです。5節「外部の人に対して賢明にふるまい」となっています。リビングバイブルでは、「彼らとは、いつも賢く慎重に接しなさい」と訳されています。「外部の人」とはだれでしょう?パウロはローマにおいて、牢に入れられていました。何故でしょう?福音を語ったために、捕らえられていたのです。今の私たちの時代では、捕らえられることはなくても、多少の迫害はあるでしょう。私たちは毎日、多くの未信者と接しています。彼らのほとんどは、一度も聖書も読んだことがなく、福音を聞いたこともない人たちです。そういう中で、私たちは福音に生かされている者として、行動すべきです。旧訳聖書でヨセフという人物がいます。ヨセフは奴隷としてエジプトに売られましたが、主がヨセフと共におられたので、ヨセフを栄えさせてくださいました。そのためヨセフはポテファルの家でも、監獄の中でも、み栄を現わすことができました。気張る必要はありませんが、主が私たちと共におられることが、自然と現われてくる、そのような生き方をしたいと思います。ある人が「私たちはこの世の人たちのための小さなキリスト、小さな聖書である」と言いました。人々があなたを通して、神様のみ栄えを見ることができますように。

 第二は、機会を十分に生かすということです。リビングバイブルはこのように訳しています。「与えられた機会を最大限に生かして、あなたがたも、この良い知らせを人々に伝えなさい」。機会というものは、ぼーっとしていると、逃げ去ってしまいます。「どうか、あの人に福音を語るチャンスを与えてください」と祈っていると、機会がやってきます。チャンスというのは、人が困っているときです。何か必要を覚えている、病気だとか、問題に直面している。そういうときに、福音の愛で愛するのです。岡野先生は「福音の愛で愛するとは、その人が信じようと信じまいと愛することです」と定義しています。「あなたが信じてくれたら愛します」とか、「教会に来たら愛します」ではありません。しかも、教会の集会に来てくれる人はあまりありません。私たち自身が教会であり、その人のところに、出かけているわけです。私たちは動く教会です。そのように考えると、チャンスというのはいっぱい広がってきます。そのためには自分の福音の提示法を1つか2つ持っている必要があります。伝道用の本やパンフレットがあります。また、手作りのものも良いでしょう。私は福音を分かり易く書いた紙芝居のようなものを持っています。今度からは、A4サイズのパウチにして、それを見せて伝道しょうかと思っています。戦争にでかけるには武器が必要です。同じように、自分が使い慣れた、福音の提示の仕方を持つべきです。おいおい、そういうものを紹介しながら、コーチしていきたいと思います。でも、福音を伝えるチャンスはそこいら中、いっぱいあるということを覚えておきたいと思います。

第三は、親切で、塩味のきいたことばです。リビングバイブルは、「あなたがたの会話が、良識的であり、善意にあふれるように心がけなさい。そうすれば、相手の一人ひとりに適切な答えができます」と訳しています。私は23歳のとき小さな貿易会社で仕事をしていました。銀行に提出する書類はお金の問題がからんでいるので1字間違ってもダメです。私はタイプを打っていると、突然、「あー」と叫びます。打ち間違えたんですね。すると、クリスチャンの先輩は、「鈴木君、たかが仕事じゃないか。仕事よりも大切なものがあるよ」と言うんですね。あとから、それが信仰だということがわかりました。普通だったら、「ちゃんと打てよ。大事な書類だぞ」と叱られるでしょう。でも、そうじゃないんですね。いろんな出来事を、福音に対して飢え乾きを覚えるような、会話に持っていけたらなんと幸いでしょうか。私たちが話す「ことば」はとても重要です。多くの人たちのことばは、否定的で、ぶっきらぼうです。もし、私たちも同じように否定的でぶっきらぼうに返したら、ますますひどくなります。そういう場合、親切で、塩味のきいたことばとは、どういうことばなのでしょう?エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」とあります。悪いことばとは、人を刺すようなさばきのことばです。そのことばによって人々が傷つきます。反対に、人の徳を養うのに役立つことばを話す。そして、聞く人に恵みを与えるということです。人を壊すのではなく、人の徳を建てるようなことば。いやー、これは私にとっても課題です。生まれてこの方、こき下ろすことば、否定的なことばをたくさん浴びせられてきました。クリスチャンになって30年もたちますが、人の徳を建てるようなことばを使うのはなかなか難しい。昨年の秋、常磐セルで李光雨先生が住んでおられる軽井沢に行きました。中軽井沢のおそばやさんで、一緒に食事をしていました。ある婦人牧師が、李先生に「私はカウンセリングに興味があって、ずっと勉強してきました。でも、私はカウンセリングするのが苦手なんです」と言いました。李先生はにこにこ聞いていましたが、私がひとこと言ってしまいました。「先生は、しゃべりすぎるからカウンセリングは向かないよ」と。実際、そうなんですね。でも、その婦人牧師は、カウンセリングを勉強しているんだから、どこかで、そうなりたいと思っているんですね。何か、別の言い方はなかったかなーと反省しています。「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」。アーメンです。

あかし伝道とは、生活伝道です。それは人間関係を基盤にした伝道です。昔、教会は特別伝道集会やコンサートに人を誘って来るのが伝道だと考えられてきました。もちろん、そういう機会を用いることも大切ですが、ふだんから、その人と良い人間関係を構築している。そして、その人が暮らしているステージで福音を証する。その方が、ずっと効果的であります。今年も1月が過ぎようとしています。この1年間、教会員全員が、少なくとも3人の人に福音を証したいですね。みんなが、そうすると、教会は5%成長するというデーターが出ています。その前に、救いを得ていただきたい10名の人たちの名前をノートに書いて、祈りましょう。そうすると、神様が福音をあかしするチャンスを与えてくださいます。この年、自分を通して、新しい魂が救われるように、神様に期待しましょう。

祈り:愛する主よ、あなたは私たちが語りかけるのを待っておられます。また、私たちの祈りが届いてないように思えるときがありますが、あなたはいつも聞いておられます。そして、時にかなった助けを与えてくださるすばらしいお方です。また、私たちのことばが親切で、塩味のきいたことばでありますように。どうか、あなたの福音を一人でも多くの人たちにあかしできるように私たちを用いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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2009年1月18日 (日)

共同体の核―家族   コロサイ3:18-25

 パウロの書簡を読みますと、後半には家族のことがよく記されています。もちろん、監督とか執事という役職についても書かれていますが、「自分の家庭をよく治める人でなければならない」という条件があります。なぜでしょう?教会は共同体であり、その一番の基礎は家族、家庭であるからです。しかし、多くの場合、教会は家族よりも、組織体を目指し、会社や政治のやり方を取り入れてきました。どうでしょう?家庭と会社では、存在目的が全く違います。家庭では、交わり、愛の関係が何よりも重要視されます。話し合いも、インフォーマルで食事をしながら、雑談をしながら、コミュニケーションを取るでしょう。一方、会社の目的は売上げとか業績であります。関係よりも、仕事量をどのように増すかであります。仕事のための関係であり、多くの場合は上下関係です。話し合いもフォーマルで「会議形式」で行ない、記録も取るでしょう。もし、教会が家族ではなく、会社のやり方を真似るならどうでしょうか?伝道とか奉仕活動が第一目的であり、関係は二の次、三の次になるでしょう。教会の役員会ですらも、お互いが神の家族であることを忘れ、自動的に会社モードに切り替わるのではないでしょうか?

1.共同体の核―家族 

 香港のベン・ウォン師は、「聖書は創世記から始まる」と言いました。「え?どうして?」と質問したくなりますが、私たちは、「聖書はマタイによる福音書」から始まると思っています。そして、そこには教会という組織が出てきます。クリスチャンが大好きな教会であります。この世では、キリスト様は好きだけど、キリスト教会は嫌いだという人が大ぜいいます。教会とは組織や宗教団体であると思われているからです。でも、旧訳聖書の時代は、教会という組織がなくても、礼拝をささげていました。最初の共同体は神様ご自身にあります。創世記1:26「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」創世記1:27「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。神様自身が父、子、聖霊が愛し合って1つになっていました。そのかたちに似せて、人を造ったのであります。そして、創世記2章において、神様はアダムとエバを創造し、エデンの園に住まわせました。そこには麗しい家庭があり、そこで神様を礼拝していました。でも、どうでしょう?サタンの誘惑に負けて、二人は罪を犯してしまいました。神様との関係が壊れ、お互いの関係も壊れてしまいました。「女は夫を恋い慕うが、夫は、女を支配する」と書いてあるように、お互いの間に軋轢が生じました。まことに残念ですが、人間の間に罪が入ってから、共同体が破壊されてしまいました。

創世記4章には、二人の子どものことが記されています。カインは弟アベルのささげものが神に受け入れられたので、ねたみを起こしました。そして、カインは弟アベルを殺して、土の中に埋めました。神様はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。カインは「知りません。私は弟の番人なのでしょうか?」と答えました。つまり、「私には弟のことなど関係ありません」ということです。カインが犯した罪のゆえに土地が呪われ、カインは地上をさまよい歩く者となりました。主はだれもカインを殺すことのないように、1つのしるしを与えました。でも、カインは主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。そして、カインは城壁のある町を建て、その町に自分の息子の名前をつけました。城壁は相手も入ってくることができませんが、こちら側も外に出ることができません。それは、人間関係の壁を象徴しています。また、町を建て、自分の子どもの名前をつけるとは、自分の名を残すということです。カインの子孫はどうだったでしょうか?ヤバルは家畜を飼う、牧畜の先祖となりました。ユバルは立琴と笛を巧みにそうする、芸術の子孫になりました。トバル・カインは青銅と鉄の鍛冶屋、工業の子孫になりました。カインの子孫は、身を立て名を上げる、業績志向の子孫たちです。レメクはふたりの妻をめとり、「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」と言いました。争いが家庭だけではなく、地域社会に拡大していきました。アダムとエバがさらに子どもを生み、その子をセツと名づけたとあります。創世記5章にはセツの子孫のことが記されています。「○○年生きて、○○を生んだ。○○を生んで後、○○年生き、○○で死んだ。」「生んで、生きて、死んだ。生んで、生きて、死んだ。生んで、生きて、死んだ」の繰り返しであります。何をしたかは全く書いてありません。でも、「彼らは主の御名によって祈ることを始めた」人たちであります。彼らは何をしたかよりも、何年間生きて、神様と関係を持ったことが記されています。カインの子孫は何をしたかは書いてありますが、何年生きたとは書いてありません。つまり、神様はご自分の前に何をしたかよりも、どのような関係を持ったかを重要視されるということではないでしょうか?

家庭は関係を重んじるところです。でも、会社は関係よりも業績であります。私たちの中には、関係よりも業績を重んじる傾向があります。カインのように「城壁のある町を建て、名を上げ、名を残したい」そういう心があるのではないでしょうか?戦後の教会のことを考えてみたいと思います。戦後は、日本は経済大国になるために家庭を犠牲にしてきました。朝から晩まで働き、マイホームを持つことが夢でした。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、クーラー、車など、豊かさを求めてきました。でも、家はあってもホーム、家庭がなかったのではないでしょうか?ある人が言いましたが、家庭も会社の分業制を取り入れたということです。お父さんは会社に行って働くことが仕事。お母さんは家を守り子どもを育てることが仕事。子どもは勉強し、良い学校に入ることは仕事。ですから、子どもに何か問題が起こった場合、お父さんは「家のことはお前にまかせているんだ。俺は会社で忙しい」と家庭における責任を果たしませんでした。父親不在の家庭が続き、子どもがおかしくなりました。青年犯罪の多くは、家庭が壊れていたことが原因だそうです。残念ながら、教会も会社と同じように、業績を求めました。一生懸命伝道をして、教勢アップして、大きな教会堂を建てる。牧師は教会を大きくするために、家庭もささげました。妻や子どもたちを教会成長という偶像にささげたのです。ある有名な牧師の家庭ですが、お父さんは伝道牧会に忙しく、子どもの運動会や学芸会に一度も顔を出したことがないそうです。あるとき、子どもが病気をしたけど、その時も家にいないで伝道にでかけたということです。お父さんはご飯を食べるとすぐ書斎にこもり本を書いていました。子どもたちが大きくなって、正月に一緒に集まったそうです。牧師であるお父さんは何と言ったでしょうか?「さあ、長男から順番に証をしなさい」と言ったそうです。長男は「お父さん、教会の集会じゃないんだから、順番なんかどうでも良いじゃないか」と言ったそうです。ある牧師は、家にいるときも白いワイシャツ姿だったそうです。いつ何時、教会員が訪ねてくるかわからないからです。しかも、牧師館が教会とくっついていました。長女がすっかりぐれて、教会の前に立ち、「おまえらは偽善者だ」と言って礼拝を妨害したそうです。しかし、後から娘たちが「父の日」に、プレゼントしたそうです。袋をあけると甚平でした。お父さんは「こんなの着れるか!」と最初、思いましたが、お風呂上りに着てみました。娘たちが涙ながらに言ったそうです。「家には牧師がいたけど、お父さんがいなかった。やっとお父さんが戻ってきた」と。

みなさん、これが昭和に活躍した、大教会の牧師たちの姿であります。大教会になれたら、少しは報われるかもしれませんが、日本の教会の平均は30名前後であります。常磐牧師セルという集まりあります。常磐線沿線だけではなく、千葉とか会津の先生もいらっしゃいますが、ほとんどは2世であります。2世という意味は、牧師の子どもという意味だけではなく、昭和に活躍した大教会の牧師の弟子という意味です。みんなすばらしい恩師を持っています。私も大和カルバリーの大川牧師がいます。私たちは一様に口をそろえて言います。「教会を大きくすることだけが牧会じゃない」と。ある牧師は、「日本のリバイバルは家庭から」と言います。また、岡野牧師は教会を一度潰した牧師ですが、「クリスチャンが幸せになればなるほど教会は成長する」と言いました。何を隠そう、この私は業績思考で生きてきた人間です。ついこの間まで、韓国のチョー先生のように大教会を目指してきました。心のどこかに、「あっちよりもこっちが大きいぞ」みたいなライバル心がありました。本当、この教会に22年前赴任しましたが、教会を大きくすることばかりしか考えませんでした。「大きい教会は良い教会である」と思っていたからです。ですから、子どもたちにも律法主義的で、関係をあまり大事にしませんでした。子どもたちに「礼拝に出ろ」と言ったのは、礼拝人数に響くからです。まだ、牧師の子どもが礼拝に出ないと面子にも関わります。でも、だんだんと教会は会社じゃないということが分かってきました。教会は神の家族、愛の共同体じゃないかと分かってきたのです。インドネシヤのエディ・レオ師から「父の心」が与えられ、徐々にですが、律法主義から恵みに生きるように変えられてきました。創世記の時代、教会はありませんでしたが、みな家庭で礼拝をささげていました。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブもそうです。教会は家庭、家族をイメージして作り上げるものです。大切なのは業績や奉仕ではなく関係だということです。会社のような死んだ組織ではなく、生きた愛の関係だということです。

2.家族のありさま 

コロサイ3:18「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」。英国の聖書には、「妻たちよ、夫に従いなさい。それがクリスチャンの義務だ」と訳されています。女性解放者たちからは、「差別だ!」と抗議されるでしょう。19節「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」ここを読むと、女性たちから「アーメン」と聞こえてきます。でも、「妻は夫に従い、夫は妻を愛せよ」と書いてあるのはどうしてなんでしょうか?男性と女性は平等でありますが、機能が違います。コリント人への手紙11:3には「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」と書かれています。キリスト様も父なる神様も同等の神様です。でも、キリストのかしらは神様とはどういう意味でしょうか?ここでは、身分の違いではなく、機能の違いを言っています。「かしら」とは、もともと「源」という意味があるそうです。永遠の昔、父なる神様から御子が生まれました。また、最初は男から女が創造されました。そういう意味で、「夫は妻のかしらであり、妻は夫に従え」ということなのです。そして、かしらの機能とは何でしょうか?それは「リーダーシップをもって、責任を取りなさいよ」ということなのです。多くの場合、夫は家庭においてリーダーシップも、責任も取りません。その代わり、妻がリーダーシップを取っています。妻がリーダーシップを取らない場合は子どもが取ります。子どもが取らない場合は、犬がリーダーシップを取ります。男性は、かしら、つまり家庭の源です。源が良ければ、妻や子どもに恵みが行き届くということです。

でも、なぜ、「妻は夫を愛しなさい」ではなく、「夫は妻を愛しなさい」なのでしょうか?これもやっぱり、かしら、リーダーシップと関係があります。「かしらとして、夫の方から愛しなさいよ」ということなのです。夫は「妻の方から愛してもらいたいよ」と思うかもしれませんが、そこには順番があるようです。夫が妻を愛するならば、後から、妻が夫を愛するようになるということでしょうか?しかし、またもう1つ疑問があります。「夫は妻を愛しなさい」という命令形になっていることです。何故、命令なのでしょうか?もし、これが感情的な愛について言われているなら不可能です。感情は勝手に上がり下がりしますので、命令には決して従うことができません。でも、聖書が言う愛は、意志とか決断に関係しています。この間、本郷台でセルの集会がありました。あるセッションは、「隣人を愛する」というテーマで、私が司会でした。最後に私が祈りの中で、「神様、私たちには、愛することができない人がいますが、どうか愛せるように助けてください」と祈りました。次のセッションで、ベン・ウォンが先ほどの鈴木先生の祈りについてどう思うかということになりました。「私たちが愛することができないと決断しているのに、神様が私たちの決断を無視して、愛せるようにしてくださるのだろうか?日本人の中には、そういう神学があるのだろうか?」また、ややこしくなりました。結論的にはこういうことでした。「愛しなさい」は神の命令であり、もし、愛せないと言うならば、不服従になるということです。「愛します」と私たちが決断するとき、神様が愛せるように助けてくださる。私たちが「愛せません」と言っているうちは、神様はどうすることもできないということです。神様が「愛しなさい」と命令を与えるのは、もし従うならば、愛する力も与えるという保障が背後にあるからだということです。「妻を愛します!」と決断するならば、愛せるようになるということです。ハレルヤ!男性は待っていてはダメなのです。かしらとして、愛においてもリーダーシップを取るように造られているのです。アーメン。

最後に親と子どもの関係について学びたいと思います。コロサイ3:20、「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」子どもに対して、「すべてのことについて、両親に従いなさい」と言われているのは、両親が神様を敬い、神様に従っているという前提があってのことです。自分が神様に全然、従っていないのに、「子どもに従え」というのは無理な相談です。でも、頭ごなしに「親の言うこと聞け!」やることが多いのではないでしょうか?それはたぶん、親が子どもを生んだので、偉いんだという考えがあるからかもしれません。普通の親は、「子どもは神様から与えられたもので、全く別の人格が宿っている。両親は神様から任せられた子どもを正しく育てるのが義務である」などと全く、考えません。自分が生んだんだから、自分の所有物であるとか、自分が果たせないことをやる分身のように考えています。そうなると、人格と人格の正しい境目、バウンダリーがありません。「自分の子どもなんだから」とぐりぐりと、ねじ伏せても言うことを聞かせようとします。そうするとどうなるでしょうか?子どもたちの心の中に怒りが生まれてきます。20節に「子どもたちを怒らせてはいけません」と書いてありますが、口語訳には「子どもたちをいらだたててはいけない」と書いてあります。

 岡野先生が『どうしたらいいかが分かる子育ての本』の中でこう述べています。子どもは、どのようなときに、怒るのでしょうか?人格を否定、あるいは見下げるような態度、言動を取られたときです。たとえば、大人が一方的に接してくるときがそうです。子ども本人に関わることを、何の話もせず、親が一方的に決めることがあります。あれをしろ、これをしろと、ふだん親が子どもに対して使っていることばが、一方的になりがちです。子どもが学校から帰ってくるなり、勉強しなさいと言われたら、腹も立ちますし、親を嫌いにもなることもあるでしょう。塾も、子どもが自分で行きたいと言うならいいのですが、親が無理に一方的に行かせ続けるなら、いつか爆発するのも無理はありません。子どもは、勉強マシーンではありません。人格を持った一人の人間です。一人の人間として扱ってもらえないゆえに、子どもは、大人に反発するのです。・・・私たちは、子どもを親の思い通りにしようとするのではなく、一人の人間として接することが大事です。どんな小さな子どもでも、子どもは、神様によって、人格を持った尊い存在として造られたものであることを、忘れないようにしたいものです。

 どうでしょうか?私たちの父や母は、親として良い模範を示してくれたでしょうか?良い模範がないと、自分たちも、なかなか良い親にはなれません。 また、自分が子どもたちに対して、良い模範となったかどうかも、はなはだ疑問です。私などは一代目のクリスチャンですから、ひどいものがいっぱい詰まっています。両親から受けた傷とか怒りを、そのまま子どもにぶつけてきました。もちろん、聖書の教えに従って、軌道修正しましがが、後手後手という感じでした。やっぱり、二代目、三代目のクリスチャンホームにならないとダメなのでしょうか?きょうの箇所を学ぶと、反省すべきところがたくさんあります。でも、まとめをさせていただきますと、家庭が共同体の基盤だということです。教育も、人間関係も、価値観も、そして、信仰すらも家庭が基盤なのかもしれません。私たちは、教育は学校に任せ、信仰は教会に任せてきました。確かに知的な面は、学校や教会が優れているかもしれません。でも、子どもたちへの模範は両親です。両親の価値観、両親の人間関係、両親の信仰が子どもたちに対して一番影響を与えるのかもしれません。「かもしれません」と力のない表現なのは、「果たして自分はどうなのだろうか?」という疑問があるからです。子どもは親の言うことはなかなか聞きません。でも、親の行動は良く見て、真似をします。主の憐れみによって、私たちは言うことを行なうことを一致して行きたいと思います。また、主の恵みによって、教会にいるときの顔と家庭にいるときの顔も一致して行きたいと思います。神様はどこにでもおられます。私たちが心から神様を恐れ、敬うならば、そのことが子どもたちにも伝えられていくと信じます。互いに愛し合い、主の居心地が良い教会、主の居心地が良い家庭を形成していきたいと思います。主がそこにおられるならば、喜びや感謝、すばらしいことが必ず訪れます。アーメン。

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2009年1月11日 (日)

キリストのことば   コロサイ3:15-17

 先週は、香港のベン・ウォン師とほぼ1週間一緒でした。行き詰まりを感じたらどうしたら良いだろうか?多くの人たちは、「別の方法とか、別のプログラムを取り入れたら良いじゃないか」と言います。しかし、ベンは「問題は実にあるのではなく、根っこにあります。根を探りなさい。本質に立ち返りなさい」と言います。彼の話はこの2年間、何べんも聞きました。でも、2年間やって、「やっぱり根なのか」と初めて分かりました。根、つまり本質をちゃんと見極めていく。そして、そこを正しくしていく。きょう、明日、すぐ変化は起こるものではありません。時間はかかります。でも、1、2年たつと着実に変化が起こります。私は伝道と牧会に行き詰まりを感じていました。何が足りなかったのか、本当、この2年間、ベンのコーチングを受けて、やっと分かりました。私はこれまでメッセージとか教えにエネルギーを注いできました。みなさんの信仰生活にしても、セル集会にしても、「こうすれば良いんですよ」と講壇の上から語ってきました。しかし、足りなかったのはコーチングです。講壇から降りて、一緒にやって行く。模範を示しながら、やって行く。この部分が欠落していたことを発見しました。コロサイ人への手紙を見ると、キリスト、キリストと何べんも出てきます。でも、キリストこそが信仰の本質だということです。

1.キリストの平和

コロサイ3:15「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」キリストの平和とはどのような平和でしょうか?山上の説教を見ますと、キリストの平和とは何か、はっきりと記されています。マタイ5章の後半でイエス様はこのように言われました。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。…自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」イエス様は悪い者に手向かわず、右の頬だけではなく、左の頬さえ向けました。奪い取る者には与え、二ミリオン行き、迫害する者のために祈りました。しかし、私たちは普通、どのようにふるまうでしょうか?やられたら、こっちも負けじとやり返します。取られたら取り返します。悪に対しては悪をもって報います。そのようにするならば、争いは止むことはなく、戦争にまで発展するでしょう。

これまでの人類の歴史はどうでしょうか?争いに争い、略奪に略奪、戦争に戦争でありました。たった今の時間でも、世界中あちこちで戦争や紛争が起きています。第二次世界大戦が終わったら平和がやってきたと思いきやそうではありませんでした。同じ国の中において民族同士の争いが沸きあがりました。まさしく、聖書の預言の通りです。皆さん、アメリカという国は、新天新地、キリスト教国を作ろうとイギリスから移民して作った国であります。ところがどうでしょうか?アメリカは銃社会です。彼らは自分を守る権利を主張し、銃を手元から離しません。そのため、尊い多くの人々の命が取り去れています。また、アメリカは訴訟の国でもあります。イエス様は「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」と教えられたのに、互いに訴え合っています。一番もうかるのは弁護士です。また、アメリカは右の頬を打つような者には、何倍にも報復する国であります。湾岸戦争、アフガニスタン、イラクにおいて、どのくらいの爆弾を落としたのでしょうか?本当は爆弾の在庫整理をしたかったのではないでしょうか?彼らは正義をふりかざして、イエス様の教えを守っていません。そのために、世界中の人たちがこのように言うでしょう。「あの国がキリスト教国ならば、私たちはキリストを決して信じない」と。つまり、他の国々に対して、良い証になっていないということです。もちろん、アメリカ全部が悪いとさばいているのではありません。善良なクリスチャンもたくさんいらっしゃるでしょう。でも、国全体の考え方が1つの要塞となって、聖書の原則を見失っていることは確かであります。

使徒パウロは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と言われました。あなたがたとはだれでしょうか?これは救いを受けた人たち、クリスチャンに対して言われたことです。まず私たちクリスチャンの間から実行しなさいということです。パウロは「そのためにこそ召されて一体となったのだ」と言っています。リビングバイブルでは「そうすることがキリスト様の体の一部とされたあなたがたの責任であり、特権でもあるのです」と訳しています。つまり、心に平和を持つことは、キリストの体なる教会の責任であり、また特権でもあるということです。「わー、そうなのか」と思います。兄弟姉妹で、牧師と役員で、教団教派で争っていたら全く話にならないということです。しかし、残念ではありますが、プロテスタント教会は争いが好きなんです。名前自体が「プロテスト」抗議する、異議申し立てるという意味があるからです。ま、この名前はカトリック教会が「自分たちに抗議した」ということでつけたものです。しかし、その名前のごとく、争い好きな性質が宿っていることも確かです。日本基督教団の東京教区は19年間、総会が開けなかったということで有名です。発端は大阪の万博にキリスト教館を作るかどうかということでした。私は今から22年前にこの教団に転入しましたが、その翌年あたり、怒号と取っ組み合いの中で、19年ぶりに総会が開かれました。私はどさくさにまぎれて、他教団から牧師として転入できたというのも恵みでありました。しかし、こういう争いや分裂は日本基督教団ばかりではありません。他の教団の中にもあります。

私たちは「平和ということを何よりも優先すべきなんだ」ということを、肝に銘ずる必要があります。イエス様はヨハネ17章で「彼らがみな一つとなる・・・ことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」と言われました。また、ヨハネ13章でも「 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と言われました。つまりは、私たちが仲良くしていることが一番の伝道であるということです。私たちはそういうことよりも、真理とか正義を強調しがちです。でも、私たちが知っているものは、真理の一部でしかありません。正義を一番主張できる神様が譲歩しているのなら、私たちも譲歩すべきでありましょう。イエス様はイザヤ書で「平和の君」と呼ばれるとあります。私たちは平和の君であるイエス様にお仕えする者たちです。また、私たちの内には、神の種がやどっています。だから、平和を作り出すことができるのです。私たちがまず、平和に満たされるならばどうでしょうか?その次に、私たちが遣わされた家庭において平和が作られるでしょう。これまでは信仰があるゆえに、争いを生み出すことが多々ありました。そうではなく、山上の説教のように生きるなら、多くの争いや衝突を避けることができるはずです。夫が妻を受け入れ、妻が夫を受け入れる。そして、子どもを受け入れる。そうするなら家庭が平和で満たされます。その次には職場や学校です。多くの人たちは心の中に敵対心を持って生きています。「こういえば、ああいう。こうされたらこうする」と過剰な反応をするでしょう。そこへ私たちがキリストの平和をもって、臨むならどうでしょうか?人々は肩透かしをくらったようで、「どうして権利を主張しないの?どうして私みたいなものを愛するの?」と困惑するでしょう。そういうことが重なってくると、あなたの周りの人たちにキリストの平和が訪れるでしょう。

皆さん、キリストの平和は健康のためにもとても良いものです。多くの人たちの心や体が病んでいる最も大きな原因は何でしょうか?それは、怒り、憎しみ、赦せない心です。それらは、あなたの心や肉体を蝕み、様々な病気を引き起こします。そういうものがあったら告白し、悔い改めましょう。その代わり、キリストの平和が心を支配するようにお願いしましょう。キリストの平和にまさる薬はありません。アーメン。

2.キリストのことば

コロサイ3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」このみことばは、ディボーションのときに必ず引用されるみことばです。どのように、キリストのことばを、私たちのうちに豊かに住まわせることができるのでしょうか?それは、ディボーションを通してであります。ディボーションとは何か?それは、静かなところで、ゆっくりとみことばを読むことから始まります。神様は聖書をたくさん読みなさいとは命じておられません。「みことばを瞑想(黙想)しなさい」と命じています。瞑想するとは、みことばを反芻することと同じ意味です。旧約できよい動物と言われた、牛、羊、ヤギはみな反芻します。彼らには4つくらい胃があって、一度食べた草を何度か口に戻して、にれはみます。彼らがしょっちゅう口をもぐもぐしているのはそのためです。都会育ちの人はあまり見たことないかもしれませんが、実際、彼らはいつもそうしています。なぜなら、草は肉よりも消化が悪いので、たくさん噛む必要があるからです。みことばも同じです。よく噛まないと、全部外に出てしまいます。エディ・レオ師はこんなたとえを話していました。ピーナッツを噛まないで飲み込んだならどうなるでしょうか?胃袋の中で、ピーナッツがおどっています。寝ているとき、右に傾けば右に行き、左に傾けば左に行く。あくる朝どうなるでしょうか?ババババババ、と音を立てて出て来るとおっしゃっていました。ちょっときたないですね。

では、ディボーションはどのように行なうのでしょうか?まず、大切な3つのことがあります。まず第一は観察です。心を開いて、ゆっくり読みます。福音書なら1つの物語、書簡だったら4,5節で十分です。私は、今は、1か2章読むことにしています。すると、現在、抱えている問題の解決となるところが不思議に見つかります。どのくらいの長さでも良いですが、何べんも読んでいくと、繰り返し出て来ることばに出会います。あるいは、「ああ、このことが重要なことなのかな?」気づかされます。そういうところを、ノートに書き出します。これを観察と言います。ゆっくり読むと、すばらしいことがたくさん、見つかります。第二は教えです。その中からいくつか教えをいただくということです。教えの中には、励まし、約束、模範、実行すべき命令、避けるべき罪があるでしょう。英国の聖書には、「キリストのことば」というところを「キリストのメッセージ」と訳していました。つまり、教えとはキリスト様からメッセージをいただくということです。メッセージの数は、1つか2つ、多くても3つくらいで十分です。なぜなら、あまり多いと実行できないからです。第三は適用です。適用とは教えられたメッセージを実行するということです。これが一番、難しいです。適用はできるだけ具体的で、実行可能なものでなければなりません。「感謝しなさい」と言われら、感謝しますと言うだけでは適用になりません。5分間、感謝すべきことを祈りの中で表します。あるいは、「感謝のしるしに、きょうはすすんでこういうことをします」というのも良いでしょう。男性だったらふだんしない、洗濯とかお掃除も良いです。職場の人に対して、少なくとも1つだけ親切にするというのも良いでしょう。みことばを適用していくと、だんだんみことばが自分のものになります。ですから、適用はとても重要です。

しかし、コロサイの手紙ではなぜ「キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ」となっているのでしょうか?「みことばを」とはなっていません。「キリストのことば」となっています。私はホーリネス教団の神学校に最初行きました。そこでは、「みことば信仰」ということが非常に強調されました。「聖書は誤りなき神のことばである。だから、私たちはこのみことばを守り行なうべきである」と教えられました。私もそれは正しいと思います。でも、どういうわけかその教団は律法主義的なところがありました。「・・・しなければならない」「・・・を守らなければならない」「・・・してはならない」。つまり、みことばを守り行なう原動力が自分の力、自分の努力みたいなところがあります。みことばは鋭い両刃の剣です。ですから、このみことばによって他者をさばくことができます。また、最後にはそのさばきが自分にも返ってきます。何故、パウロは「みことば」と言わないで「キリストのことば」と言ったのでしょうか?それは、「キリストの恵み、キリストの贖いを通して、聖書を読みなさいよ」ということなのです。もし、キリスト抜きで聖書を読んだならば、これほど実行不可能なものはありません。また、これほど厳しいものはありません。旧訳聖書を読んだならば命がいくつあっても足りません。しかしキリストの恵み、キリストの贖いを通して聖書を読むならどうでしょう。「主よ。あなたの贖いによって赦されていることを感謝します。あなたの恵みによってこのみことばを守り行ないますので、どうか助けてください」と祈ることができます。ですから、みことばを実行する力の源は自分ではなく、自分の中におられるキリスト、聖霊様であります。私たちの中におられるキリスト、栄光の望みです。

また、コロサイ1:16後半には「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか?どうしたら、賛美と感謝に溢れることができるのでしょうか?それは、ディボーションの4つ目にあります。さきほど、ディボーションは観察、教え、適用と3つの要素を学びました。しかし、4つ目があります。それはディボーションで受けた恵みを分かち合うということです。このところに「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」とあるのは、小グループでの分かち合いをさしています。セルで一番良い分かち合いはディボーションしたことを分かち合うという方法です。では、どういうふうにして分かち合うのでしょうか?それは、教えられたことを自分のこととして分かち合うということです。もし、人に教えたり、人を戒めたりしたならどうでしょうか?「あんたから教えられたくない、お説教はごめんだ」と反発を食らうでしょう。ですから、他者を教えたり、戒めたりしないで、自分のこととして分かち合うのです。自分を戒めたものだったら、だれも文句を言わないでしょう。むしろ、恵まれ、「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌う」ようになるでしょう。初代教会ではみことばを分かち合う小さな集まりがいくつもあったのではないかと想像できます。「互いに」というのは、50名とか60名では無理です。やはり、3人から5、6人でしょう。10人になったら、発言しない人が出てくるかもしれません。ですから、キリストのことばを小グループで互いに分かち合いましょう。そうすれば、賛美と感謝があふれてきます。

3.キリストの信仰

パウロは17節「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」と言いました。これはキリストのことばによって、信仰に満たされた状態です。ディボーションによって、神様のみこころがはっきり分かりました。みこころを知って、行なうのですから、それは信仰の歩みと言うことができます。パウロはローマ14:23で「信仰から出ていないことは、みな罪です」とまで言っています。私などは、神様のみこころを求めないまま、とにかくやってみるところがあります。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える」というジョークがあるそうですが、みなさんはどのタイプでしょうか?私は何でもチャレンジするところがありますが、十分祈って、神のみこころをつかまないでやることもあります。そうしますと、失敗したときのダメージが大きいですね。もし、「神のみこころはこれだ」と信仰をもってやったならば、たとえ失敗しても、その失敗さえも益になるでしょう。ですから、信仰がくるまで、みことばを読んで待ち望む必要があります。特に、就職とか結婚はそうだと思います。私は2年前、郵便局のアルバイトを始めました。あのことは本当に信仰から出たことなんだろうか?それとも結果オーライでやってきたことなのか?わからないところがあります。なぜなら、「労働のわりには、給料安いよ」とか、「ああ、疲れるなー、ちくしょう」みたいにつぶやくことが多々ありました。そんなにつぶやくならそれは、信仰から出ていないということになります。口では伝道のためとは言いながら、お金のためにしかたなくやっている。そういうところがあったのではないかと悔い改めています。いや、悔い改めます。郵便局の同僚で、元カトリック信者がいます。彼は今、教会に行っていません。「どうして牧師さんがアルバイトしなければいけないの?信仰がないんじゃないの?」と言われました。私は「あなたの言うとおり、信仰がないんです」と答えました。ぜんぜん怒る気持ちがなくて、その通りですと、脱帽しました。

 正月早々、自分の信仰がないことをさらけ出すのは申し訳ありません。牧師も人に信仰を説くことは得意ですが、いざ自分のこととなると分からないところもあります。でも、パウロが「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。信仰から出ていないことは、みな罪です」と言うことは本当だなーと思います。今年も、私たちはいろんなことをしなければなりません。その中にはしかたなく、強いられてやらなければならないこともあるでしょう。信仰がなくてしたことは、あとから必ず不平不満が出てきます。でも、それらのことをすべて神様の前に差し出し、キリストのみことばによって、キリストの信仰をいただくなら、最後に感謝が生まれるのではないでしょうか?さっきのジョークではありませんが、「歩きながら信じる。信じた後で走り出す。走ってしまった後で信じる」どのタイプでも良いです。とにかく、すべてのことを、信仰をもって行いたいと思います。そのためには、いつも主と交わって、キリストの平和とキリストのことばをいただく必要があります。アーメン。

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