2017年6月30日 (金)

上からの霊 ルカ24:49-53、使徒1:8 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.7.2

 去る64日はペンテコステ礼拝の日でしたが、マタイによる福音書からの連続講義でした。正直に言うと忘れていたということです。クリスマスとイースター、そしてペンテコステは教会の三大祭りなので、やっぱり失礼かと思いました。本日は当亀有教会の創立記念礼拝(68年目)であります。ペンテコステの日、聖霊が下って、教会が創立されたのですから、あながち間違っていないと思います。きょうは「上からの聖霊」と題して、ペンテコステに関するメッセージをさせていただきます。

 

1.内住の御霊

 クリスチャンであるならば、もれなく命としての聖霊を内側にいただいています。イエス様を信じて、心に迎え入れている人は、聖霊を受けているということなのです。その根拠となるみことばがこれです。ローマ89「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」パウロは逆説的に言っていますが、キリストを信じている人は、もれなくキリストの御霊を持っているということです。でも、なぜ「キリストの御霊」と言うのでしょうか?聖霊とキリストの御霊とは一体どこが違うのでしょうか?ヨハネ14章から16章まで、イエス様は「御霊」について弟子たちに話されました。イエス様はまもなく天にお帰りになろうとしていました。しかし、イエス様は「あなたがたを捨てて孤児にしない」と言われました。そして、ヨハネ16章でこのように言われました。ヨハネ167「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」そうです。イエス様の代わりに、父のもとから遣わすのが、助け主、聖霊であります。助け主、聖霊は、キリストと全く同じお方です。違うのは「父、子、聖霊」という位格(ペルソナ)が違うだけです。なぜ、益になるのでしょう?イエス様がこの地上におられたときは肉体を持っておられました。イエス様がガリラヤにいると、エルサレムにいることはできません。しかし、キリストの御霊によって来られると、どこでも同時にいることができます。マタイ28章の終わりに「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と書いていますが、それは聖霊によって可能なのであります。神さまが共にいるということが、聖霊が私たちの中に住むことによって実現されたのです。一番近いところは、そばではなく、私たちの内側であります。

 では、聖霊はどのようにして、私たちの内側に住むことが可能になったのでしょうか?また、いつからそのことは実現されたのでしょうか?旧約聖書の時代は、聖霊は「神の霊」としておられました。父なる神がこの世界を造られたとき、また人間を創られたときも、神の霊が参与していました。私はアダムが罪を犯す前までは、神の霊は内側におられたと信じます。人が罪を犯してから異変が起こりました。創世記63「そこで、主は、『私の霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。』」とあります。そのため旧約聖書の時代は、聖霊は内に住むということはありませんでした。特別な人たちの上に一時的に聖霊が留まっていただけです。内側ではなく外側です。最も顕著な例はサムソンです。士師記146「このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。」と書いてあります。サムソンの怪力の源は、聖霊でした。「主の霊が激しくサムソンの上に下った」という表現が何度も出てきます。また、ダビデの上にも聖霊がおられたと思います。ダビデはこのように祈っています。詩篇5111-12「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」ダビデは有能な司令官であり、琴の名手であり、多くの詩篇を書きました。しかし、それらの能力は聖霊によって与えられたものでした。ソロモンは特別な知恵が与えられていましたか、それは聖霊のゆえでした。箴言123「私の叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたに私の霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」旧約聖書の時代は、聖霊は外にはおられても、人の中には住んでおられませんでした。その証拠に、イスラエルの人たちは、いくら神さまから正されても、罪を重ね続けました。彼らには律法を守る力が全くありませんでした。しかし、希望の預言が記されています。エゼキエル3626-27「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。私はあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。私の霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、私の定めを守り行わせる。」

 

 このことが、ヨハネ3章に言われている聖霊による新生です。私たちはイエス様を信じると、死んでいた霊が新しく生まれます。霊的に生きた者となり、霊なる神さまと交わりを持つことが可能になります。では、聖霊は私たちのどこにお住まいになるのでしょうか?それは、新しく生まれた私たちの霊に聖霊が宿るのです。旧約聖書ではモーセの幕屋のことが記されています。神さまはどこに臨在されるかと言うと、聖所の奥の間、至聖所です。たとえて言うなら、外庭は私たちの肉体です。聖所は私たちの魂(心)です。そして、至聖所は私たちの霊です。そこに、神の霊、聖霊が臨在されるのです。私たちの一番中心、奥の奥に、聖霊様がお住みになります。ところが、私たちの生まれつきの魂が、聖霊様に聞き従うことを嫌がります。ガラテヤ書に「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうのです」と書いてあります。クリスチャンになると、平安で幸せになるかというとそうではありません。しばらく葛藤が続いた後、肉を十字架につけ、御霊によって生きることが一番良いことであると学びます。エペソ5章には「御霊に満たされなさい」と書かれていますが、それは聖霊に支配されて、聖霊によって歩みなさいということなのです。クリスチャン生活の勝利の秘訣は何でしょう?内に住んでおられる聖霊様を認め、歓迎し、従いましょう。新約時代、最もすばらしい恵みは、聖霊が私たちの内に住んでおられることです。

2.上からの霊

 さらに、私たちは上からの霊をいただく経験が必要です。イエス様のことを考えてみましょう。イエス様はおとめマリヤに宿ったとき命としての聖霊を内側にいただき、聖霊に満たされていました。イエス様が30歳になられたとき、バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。マタイ316「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」とあります。これは、イエス様がこれから神さまのために働こうとした時、聖霊を上からいただいたということです。イザヤ611「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ…」とあります。イエス様は力としての聖霊を上から受けたので、福音宣教と病の癒しと悪霊の解放ができるようになったのです。イエス様はご自分の神としての力ではなく、聖霊によって様々なミニストリーをしたのです。これは、私たちもイエス様のように聖霊を上からいただいたなら、同じことができるという保証です。だから、イエス様は弟子たちに聖霊を上から受けるまで、エルサレムにとどまるように命じたのです。ルカ2449「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」まるで聖霊を着物でも着るかのように言われています。ルカは福音書の続編「使徒の働き」も書きました。使徒18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」とあります。英語の聖書にはcome upon you「上から」となっています。信じたとき聖霊が内側に住むのは、in「中に」です。そして、聖霊が上に臨まれるのは、upon「上から」です。私たちはinだけではなく、uponの経験も必要なのです。なぜなら、そのことによって奉仕の力、証の力、悪霊を追い出す権威が与えられるからです。

 イエス様が昇天されて10日後、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちの上に降りました。注目すべきことは、120人には二種類の人たちがいたということです。第一のグループは既に聖霊を内側にいただいていたけれど、ペンテコステの日に聖霊が上から臨んだという人たちです。第二のグループはペンテコステの日に聖霊が内側に住み、上からも臨むことを同時に経験した人たちです。第一のグループとは、ユダを除いた、11人の弟子たちです。ヨハネ20章に記されていますが、彼らはイエス様が復活した日曜日の夕方、部屋に集まっていました。戸が閉じてあったのに、イエス様が入ってこられました。ヨハネ2022そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」イエス様が息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われとき、11人の弟子たちは内側に命としての聖霊をいただいたのです。いわゆる、それは内住の御霊です。でも、そういう弟子たちにイエス様は、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」とお命じになられました。なぜなら、そのままでは力がないからです。彼らが世界の果てにまでキリストの証人になれたのは、ペンテコステの日、上から聖霊をいただいたからです。使徒の働き2章に、ペンテコステの描写があります。使徒22-4「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」激しい風と炎は聖霊による力を象徴しています。また「舌」は福音を語り、キリストの証人になることを象徴しています。彼らはこのとき、聖霊に満たされました。

 私は福音派で育ったので、「聖霊のバプテスマ」ということばを使うのをためらっていました。ビリーグラハムは『聖霊』という本で「聖霊のバプテスマ」のことを書いています。ペンテコステ以来、すべての人はイエス様を信じるとき、聖霊を受けるということです。そして、聖霊に満たされることが「聖霊のバプテスマ」であると言います。私も長い間、そのように信じていました。でも、ウィットネスリーは、「イエス様を信じてから内側に聖霊で満たされるのと、聖霊のバプテスマによって外側から満たされるのは違う」と言っています。前者はギリシャ語で「プレロー」であり、内側で満たすという意味です。エペソ5章の「御霊に満たされなさい」というのは、この「プレロー」です。それは「霊の中で満たされなさい」という意味です。後者の「プレソー」はギリシャ語で、外側で満たすという意味です。たとえば人が水でバプテスマされるとき、水槽の中にドブンと入ります。するとその人の外側が水で満たされます。同じように聖霊によってバプテスマされるとは、外側で聖霊に満たされるということです。使徒の働き19章にありますが、パウロがアナニヤから手を置いて祈ってもらいました。その時、再び目が見えるようになり、聖霊に満たされました。その「満たされる」は「プレソー」であり、外側の満たしのために、聖霊が注がれたということです。バプテスマのヨハネは「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになる」と言ったのはそのことです。でも、ペンテコステ以来、命として内側に聖霊をいただくのと、力として外側から聖霊をいただくのが同時に起る場合もあるということです。なぜなら、11人を除いた120人の人たちは2つのことを同時に体験したからです。使徒の働き10章に書いてありますが、コルネリオたちも2つのことを同時に体験した人たちです。しかし、各時代を通して、多くの人たちは救われた時に内側に命としての聖霊の経験をしただけで、しばらくたってから外側の力としての経験をしています。そればかりか力としての外側の経験を全くしていない人もいます。でも、重要なことがあります。だれでも内側の命としての経験なしに力としての外側の聖霊を経験することはできません。第一のステップは、イエス様を信じて内側に聖霊を受けることです。霊的に新しく生まれ変わると言うことです。第二のステップは、神さまに用いられるべく、力としての聖霊を上からいただくということです。ルカ1113「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」これは、聖霊の2つの経験をしたルカが言っていることばです。マタイには特に書いていませんが、ルカはあえて「聖霊を下さらないことがありましょう」と書いています。ルカが言うように、私たちが求めるべきものの中で最も良きものは聖霊です。

3.按手の力

 按手は元来、手を置くという意味です。しかし、この場合の按手は英語でimpartationと言います。Impartationは分与、授与、伝達、伝授という意味です。第二のポイントで「上から力としての聖霊をいただく」ということをお話ししました。ペンテコステの日は、天から120人の人たちの上に聖霊が臨みました。これは一方的に、神さまから与えられたということです。使徒の働き4章にも、「弟子たちが祈ると一同は聖霊に満たされた」と書いてありますが、これも一方的に、神さまから与えられた上からの聖霊です。でも、聖書を見ると、だれかが手を置いて祈ると、聖霊に満たされた、つまり、上から力としての聖霊をいただいたという記事がたくさんあります。さきほど、「アナニヤがパウロの上に手を置いて祈ったとき、聖霊に満たされた」と言いました。使徒の働き8章はピリポによるサマリヤのリバイバルが記されています。ピリポは信徒でありましたが、福音を宣べ伝え、癒しを行いました。その後、エルサレムからペテロとヨハネが遣わされてきました。使徒816-19「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。神学的に、サマリヤの人たちが主イエスの御名によってバプテスマを受けたとき、命としての聖霊を内側にいただいたと言えます。でも、ここでは「聖霊がまだだれにも下っておられなかった」と書いてあります。これは力としての聖霊が下っていなかったという意味です。どうしたでしょう?「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」とあります、これはいわゆる聖霊のバプテスマ受けたということです。その結果、異言や預言など顕著なしるしが現れたのでしょう。だから、シモンはお金を持ってきて、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と願ったのです。でも聖霊はお金では買えません。

 同じようなことが使徒19章にも書いてあります。エペソの人たちは、バプテスマのヨハネの悔い改めのバプテスマしか知りませんでした。だから、だれにも聖霊が与えられていなかったのです。エペソの人たちは、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。その時、内側に命としての聖霊が宿ったと信じます。パウロはそのままにしておきませんでした。使徒196「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」パウロが手を置いたとき、聖霊が上から臨み、聖霊の賜物が現れたのです。つまり、力を得たということです。これは水のバプテスマではなく、聖霊のバプテスマと言うことができます。パウロがローマに生きたかった1つの理由は何でしょう?ローマ111「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」これが、Impartation、聖霊の力の分与という意味です。パウロはテモテのことをとても心配しています。Ⅰテモテ414「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」テモテは長老たちから按手を受けました。その時、預言によって聖霊の賜物をいただいたようです。Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」どうも、テモテは聖霊の賜物を疎かにしていたようです。それが、消えかかっていたということです。Ⅰテサロニケ519-20「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません」とあります。だから、パウロはもう一度、按手して、燃え立たせたいと言っているのです。

 トロントのリバイバリストで有名なランディ・クラークという使徒的な方がおられます。彼は高校生のときひどい交通事故にあい、顎の骨が砕け、あばら骨も折れ、内臓も損傷しました。ところが、バプテスト教会で開かれたリバイバル集会で奇跡的に癒されました。砕けていた顎の骨が一瞬にくっつき、歩けるようになりました。彼はやがてバプテスト教会の牧師になりますが、ある時、ヴィンヤードの牧師たちから祈ってもらいました。そのときImpartationを受け、強い電気に打たれたようになりました。1994120日、トロント空港の近くの教会で講演を頼まれました。4日間の予定だったのですが、何百万人もの人々に影響を与えるリバイバルが始まりました。ランディ師は癒しだけではなく、Impartationを与える先生です。彼が按手すると、人々は電気に打たれたようになり、その後、癒しや奇跡のわざを行う人に変えられます。彼から按手を受けた人が、南米やアフリカの国々、イスラム教の国々に遣わされます。するとそこですばらしい癒しや奇跡のわざが起こります。彼はある本で「失われたImpartationの教義を回復する」と書いています。初代教会にあった按手による聖霊のバプテスマがどうしてなくなったのか?現代の教会が「使徒たちが天に帰り、聖書が完成した今は、めざましい癒しや奇跡は終わった」という休止の神学を信じていることを嘆いておられます。しかし、そういう教会や牧師が聖霊の力に触れると変えられるのです。去る5月ファイヤー・カンファレンスがあり、3日間、聖霊の力をもっと受けたいと叫びまくりました。そこで教えられたことは、飢え渇きだということです。私たちは聖霊をかき混ぜていただく必要があります。上からの聖霊は一度きりではありません。何度も何度も満たされる必要があります。あなたは聖霊に飢え渇いているでしょうか?預言者エリシャはエリヤを追いかけました。なぜなら、エリヤがまもなく天に引き上げられることを知ったからです。エリヤは「私はあなたのために何をしようか?私が取りさられる前に、求めなさい」と言いました。エリシャは「あなたの霊の、二つの分け前をください」と願いました。エリヤが竜巻に乗って天に上って行ったとき、エリヤの外套が落ちてきました。すかさず、エリシャはその外套を着ました。その時、エリヤの霊がエリシャの上に留まりました。エリシャはまさしく、エリヤの二倍の奇蹟を行うことができました。エリヤの外套とは、まさしく上からの聖霊です。私たちはエリシャのような飢え渇きが必要です。クリスチャンであるなら聖霊は内におられますが、さらには聖霊を上からいただきましょう。神からの力、神からの油注ぎをいただきましょう。

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2016年5月 7日 (土)

エペソのペンテコステ 使徒19:1-7 亀有教会牧師鈴木靖尋 2016.5.8

 イエス様は復活してから40日間、弟子たちの前に現れました。そして、父のもとにお帰りになられました。その10日後、地上に聖霊が注がれました。使徒の働き2章に記されていますが、120人の弟子たちの上に聖霊が臨んで、異言や預言を発したのであります。その日がちょうど、ペンテコステの祝いの日でした。五旬節とも言いますが、大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫がはじまるという日でした。その日、ペテロが説教すると3000人の人たちが救われました。彼らは教会の初穂であり、ペンテコステの日から教会がスタートしたと言っても過言ではありません。しかし、エペソにはペンテコステの出来事を知らない人たちがいたのです。

1.ヨハネのバプテスマ

使徒の働き18章の終わりをみて分かりますが、アポロという人物がエペソに福音を伝えに来ました。アポロはとても雄弁で、聖書に通じていました。使徒1825「この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。」彼は聖書の知識に富んでおり、人々に教えることもできました。しかし、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。何だか現代の神学者や神学校の教授を想像してしまいますが、致命的な欠陥があるような感じがします。アポロはその後、コリントなどの町があるアカヤに旅立ちました。その後、パウロがエペソに渡ってきました。パウロが幾人かの弟子たちに出会って「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。すると彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと、「ヨハネのバプテスマです」と答えました。私たちはマタイ3章からバプテスマのヨハネが、ヨルダン川で人々に洗礼を授けたシーンを学びました。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。人々は自分の罪を告白して、彼からバプテスマを受けました。それがヨハネのバプテスマであります。でも何が足りないのでしょうか?ヨハネのバプテスマで、罪の赦しは受けられるかもしれませんが、聖霊を受けることができなかったのです。バプテスマのヨハネは「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。…その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。つまり、イエス様が聖霊のバプテスマをお授けになるお方なんだということです。

ここで問題になる表現があります。パウロが言った「信じたとき、聖霊を受けましたか」という表現です。キリスト教会にはペンテコステ派の人たちがいます。彼らも「信じたとき、聖霊を受けましたか」と聞きます。福音派の人たちは「ええ、受けましたよ」と答えます。すると、ペンテコステ派の人たちは「それでは異言を話すことができますか?」と聞きます。すると、福音派の人たちは「いいえ」と答えます。すると彼らは「では、あなたは聖霊を受けていませんね」と言います。福音派の人たちは「いいえ、信じたとき聖霊を受けていますよ」と答えるでしょう。すると彼らは「そんな馬鹿なことはない」と怒り出します。私は両方の立場が分かるつもりであります。第一の問題は「聖霊を受ける」という表現であります。第二の問題は「ペンテコステのようなことが繰り返し起こるのか」ということです。まず、パウロの「信じたとき、聖霊を受けましたか」という問から考えたいと思います。エペソの人たちは、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。パウロは「ヨハネは、自分のあとから来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言いました。つまり、罪の赦しのバプテスマは受けても、主イエスの名によるバプテスマは受けていないということです。ということは、聖霊がその人の中に入っていないということです。もし、人がイエス様を信じて、主イエスの御名によってバプテスマを受けるなら聖霊が内に入り、その人は新生します。その意味から言うと、「信じたとき、聖霊を受ける」のです。でも、それはいわゆる聖霊のバプテスマではなく、「内住の御霊」ということができます。パウロはⅠコリント12章で「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません」と言いました。また、ローマ8章で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」とも言いました。つまり、クリスチャンであるならば、もれなく聖霊を内にいただいています。内側に聖霊を持っていないクリスチャンなど存在しないということです。

また、問題はエペソに伝えられた福音は不完全だったということです。ヨハネのバプテスマは罪の赦しを得るためのバプテスマでした。ところが、主の御名によるバプテスマは信仰の証としてのバプテスマでした。パウロがエペソに来たときは、ペンテコステの日から20年以上たっていたと思われます。聖霊は地上におられたのです。ただし、ヨハネのバプテスマでは、その人の中に聖霊が入らないということです。その人が信仰告白して、主の御名によるバプテスマを受けるなら、その人に聖霊がお入りになるのです。21世紀の今は、ヨハネのバプテスマを受ける人はいません。みんな主の御名によるバプテスマを受けて、聖霊を内にいただきます。ところがある人たちは、「父、子、聖霊の御名によって」ではなく、「主の御名によるバプテスマが有効なんだ」と言います。それは屁理屈であり、どっちでも良いのです。マタイによる福音書もちゃんと霊感されていますし、「使徒の働き」もまたそうであります。なぜ、三位一体ではなく、「主の御名によるバプテスマ」になっているのか私にはわかりません。でも、重要なことは、エペソは例外だったということです。私たちはイエス様を信じてバプテスマを受けるとき、ちゃんと聖霊を内にいただいています。Ⅰコリント1213「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」アーメン。私たちクリスチャンは聖霊によって新しく生まれ、キリストのからだなる教会に組み入れられているのです。私たちは信じたときに、聖霊を内側に受けたのです。このお方は、私たちを慰め、励まし、世の終わりまでともにいてくださるのです。アーメン。



2.
聖霊のバプテスマ

前のポイントでヨハネのバプテスマと主の御名のバプテスマがあると学びました。ここで問題になるのは「聖霊のバプテスマ」という用語であります。さきほど、「聖霊を受けましたか」というパウロの質問がありました。実は、ペンテコステ派は、「聖霊のバプテスマ」イコール、「聖霊を受ける」と解釈しています。それはどういうことかというと、ペンテコステの日、弟子たちが受けた聖霊のバプテスマと同じ体験をするということです。確かに、パウロから手を置いて祈ったら、同じようなことが起りました。使徒196-7「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。」このことから、ペンテコステ派の人たちは、「イエス様を信じるだけでは不十分で、聖霊のバプテスマという意味での聖霊を受けなければ一人前のクリスチャンではない」とまで言います。彼らは洗礼日の他に、受霊日まで明確にします。「異言が出ないならば、半人前のクリスチャンなんだ」と言われたらどうするでしょうか?私は前にも申し上げましたが、聖霊を受けるという意味には二種類あると思います。第一は内側に受ける、ギリシャ語で言うとエンであります。イエス様はヨハネ14章で、「私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」と言われました。使徒パウロは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ127と言いました。何度も言いますが、イエス様を救い主として信じるとき、キリストの御霊、聖霊が私たちの内側に宿ります。これを内住の御霊と呼んでいます。そして、聖霊に満たされるというのは、キリストの御霊によって満たされるということです。そのことによって、ガラテヤ5章にあるような、さまざまな御霊の実、人格的な実があふれてきます。

では、聖霊を受けるという第二の意味とは何でしょうか?それは上から受ける、ギリシャ語でいうとエピ(エフィ)であります。復活の夜、イエス様から息を吹きかけられ「聖霊を受けよ」と言われたとき、11人の弟子たちは聖霊を内側に受けたのではないでしょうか。でも、それだけでは力がありませんでした。弟子たちは迫害を恐れて、よみがえられたイエス様を証することができませんでした。天にお帰りになる前、イエス様はこのように弟子たちに言い残しました。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ここには、「着物のように、力を着せられる」というニュアンスがあります。同じようなことばが使徒1章にもあります。同じルカが書いたのですから、そうかもしれません。使徒18「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」このところには、「上から臨まれる」エピ、英語ではuponと書いてあります。ルカ24章と使徒1章に共通して言えることは、「力」であります。弟子たちは、力を受けるために聖霊を上からいただく必要がありました。弟子たちは聖霊の力によって、世の終わりまでキリストを証し、奇蹟やしるしを行ったのであります。

では、上から聖霊を受けるとはどういうことなのでしょうか?旧約聖書の時代は、新約と違って、「内側に聖霊を宿す」つまり、霊的に生まれ変わるということがありませんでした。「内住の御霊」は、キリストが昇天し、父のみもとから助け主、聖霊をお遣わしになってから実現したのです。では、旧約聖書の時代はどのように聖霊が働いていたのでしょうか?一番分かり易いのはサムソンの例であります。サムソンは士師(さばき司)の一人でした。彼は人格的にかなり問題がありましたが、神さまによって用いられました。士師146「このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。」このところに、使徒18と同じ表現があります。And the Spirit of the Lord came mightily upon him,「彼の上に霊が下った」のであります。そうすると、彼は超人的な怪力が与えられ、子やきでも引き裂くかのようにライオンを引き裂きました。サムソンは、この後、何度も危険にさらされますが、そのたびに「主の霊が激しく彼の上に下って」怪力が与えられ敵を打倒しました。ところが、彼の長い髪の毛が切られたらどうでしょう?もう、その力は出てきませんでした。なぜなら、主が彼から去っていたからです。でも、最後に、もう一度、チャンスが与えられ、自分の命と引き換えに大勢のペリシテ人を倒すことができました。サムソンだけではありませんが、旧約聖書の時代も聖霊が働かれました。でも、それは一時的であったということです。また、上から臨む聖霊は、人格というよりも、力とか奉仕に関係があるということです。つまり、上から聖霊が臨まないと、神さまの奉仕ができないということです。イエス様ですら、公生涯の前に「私の上に主の御霊がおられる」と聖霊によって福音を伝え、ミニストリーをしたのであります。

おもに福音派の人たちは、「聖霊を受ける」イコール、「信じるとき内側に聖霊を受ける」という意味で考えます。また、おもにペンテコステ派の人たちは、「聖霊を受ける」イコール、「聖霊のバプテスマ、聖霊を上からいただく」と捉えるのではないかと思います。私は30年近く、ビリー・グラハムの『聖霊』という本の立場を取っていました。ビリー・グラハムはその本の中で、「御霊によるバプテスマが新生の時に起こる。聖霊のバプテスマとは御霊の満たしに属する」と書いてあります。だから、クリスチャンは改めて聖霊のバプテスマを求める必要はないのだ、と言います。これは、「聖霊のバプテスマ」という用語の解釈から来ていますので、ちょっと複雑になります。おお方の福音派はビリー・グラハムの立場を取っていると思います。私もそうでした。ところが、チャック・スミス牧師が『聖霊について教えてください』という本を2002年に出版しました。彼は「聖霊のバプテスマと新生とは同じではない」と言っています。さらに、彼はギリシャ語の前置詞、「エン」と「エピ」を使って説明しています。「あなたが主イエスを受け入れた瞬間に、聖霊があなたの中に入って来られ、あなたの内に住まわれはじめた。エン(内に)の状態になったのだ。使徒18の弟子たちの経験は、エピ(上から)聖霊が臨まれたのだ。このエピの状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態だ。聖霊があなたの内におられるエンとは違う。上に臨まれるエピは、グラスから水があふれ出ている状態である。彼らはエピの体験である聖霊のバプテスマを体験しなければならない」と言いました。私は2年くらい、チャック・スミス師の本をほうっておきました。しかし、ウィットネスリーの『命の経験』を読んだとき、よく分かりました。彼の本にこう書いてありました「ペンテコステの時から、聖霊の内側と外側の経験が、完全に成就されました。この時以来、聖霊の働きを望む人たちは、聖霊の内住と外側の注ぎの両方を同時に経験することができます。」アーメン。と言う訳で、私は、クリスチャンは聖霊を内側にいただくだけではなく、上からもいただく必要があると考えます。なぜなら、神さまのために仕えるために、上から力として聖霊を受ける必要があるからです。

3.標準的なクリスチャン

ウィットネスリーは「ペンテコステ以来、聖霊の働きを望む人たちは、聖霊の内住と外側の注ぎの両方を同時に経験することができる」と言いました。ということは、上から力として聖霊を受けるということはありえないことではないということです。むしろ、それはクリスチャンとして標準的なものだということです。初代教会は今の私たちと違って、両方を普通に体験できたのではないかと思います。たとえば、ガラテヤ教会の人たちはどうだったでしょうか?ガラテヤ34「あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか」。文脈から、ガラテヤ教会の人たちは、律法ではなく、信仰によって御霊を受けました。おそらく、その時、大きな経験、つまり奇蹟的な体験をしたと思われます。そのような体験をした人たちが、「肉(人間の力)に頼るのはおかしいだろう」とパウロが言っているのです。また、ヘブル6章にも同じようなことが記されています。ヘブル64-6「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば…」とあります。おそらく、ヘブルの人たちも、天からの賜物とやがて来る世の力を体験したのでしょう?だから、「そういう体験をした人たちが堕落することなどありえるだろうか?」と言っているのであります。

もちろん聖霊による体験は人それぞれであり、それを神学的な教理にすることはできません。多くのペンテコステ派のように「異言を語らなければ、聖霊のバプテスマを受けたことにはならない」と言ってはいけないと思います。また、多くの福音派のように「たとえ力があっても、愛がなければ無益だ」と聖霊の賜物を軽んじるような言い方もよくありません。第一に、聖霊の賜物と人格とは違います。サムソンの例からもわかります。また、世界では奇蹟やしるしを行う伝道者がたくさんおられます。では、彼らが人格的に問題がないか、というとそうではありません。神さまは人格に関係なく、ご自分の主権によって霊的な力や賜物をお与えになられます。ただし、私たちは与えられた賜物に対しては、忠実でなければなりません。一番問題なのは、極端に走ることです。何ごともバランスが必要です。ここで、私が申し上げたいことは、体験を第一に求めてはいけないということです。体験よりも重要なのは、信仰であります。私たちは神さまのご栄光のために、自分をささげる必要があります。「主よ。私をあなたにささげます。どうかあなたの御用のためにお用いください。そのために、あなたは聖霊による力をくださると約束されました。どうか、弟子たちにそうであったように、上から聖霊を臨ませてください。アーメン」と祈るのです。そうすれば、神さまが必ず、そのようにしてくださいます。

また、このことは個人で祈り求めることもできますが、霊的な指導者から祈ってもらうとより効果的です。使徒19章にもあるように、パウロが手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれたからです。手を置くということを、キリスト教会では「按手」と呼んでいます。パウロもテモテにこのように注意しています。Ⅱテモテ16「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」テモテもパウロから按手してもらって、聖霊の力と賜物を受けたと信じます。でも、霊的な力が弱っていたのではないかと思います。だから、パウロは神の賜物を、再び燃え立たせるように注意したのでしょう。私はたくさんの聖会に出席しました。最後に、「恵みの座」というものがあり、講師が手を置いて祈ってくださいます。ですから、いつ上から聖霊を受けたのか分かりません。ただ言えることは、聖霊は確かに私の上に臨まれ、主の注ぎはあるということです。ただし、按手は誰でも良いというわけではなく、教会が認めている先生でないと怖いです。なぜなら、悪いものも一緒に受ける可能性があるからです。エペソの人たちのように霊的な指導者から祈ってもらうとより楽であります。「楽」というのは英語でeasy簡単という意味です。でも、easy come easy goという諺もあります。簡単に得たものは、簡単に手放してしまいます。現代のクリスチャンに最も必要なものは「霊的な飢え渇き」であろうと思います。クリスチャンであるなら内側に聖霊はいらっしゃいます。でも、「どうか私を聖霊で満たしてください」「どうか力としての聖霊が私の上に臨みますように」と切なる飢え渇きをもって求めるべきではないでしょうか?ルカは「求めなさい。そうすれば与えられます」と言いながら、「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」聖霊こそが、私たちが求めるべき最上のものです。

もし、「内住の御霊」と「上からの聖霊」とどっちが大切かと言われたなら、「内住の御霊」でしょう。なぜなら、キリストが聖霊によって自分の中に住んでいてくださるからです。この内住の御霊が私たちを内側から慰め、助けてくださいます。でも、私たちは神さまに仕えるために力も必要です。弟子たちがそうであったように、私たちは上からの聖霊をいただきましょう。パウロは「霊に燃えて主に仕えよ」と言いました。私たちは奉仕のための、聖霊のパワー、聖霊の原動力が必要です。そのためには飢え渇きをもって、主に求めようではありませんか。

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2015年4月17日 (金)

助け主、聖霊 ヨハネ14:16-17 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.4.19

日本の教会は、聖霊のことをほとんど言わない教会もあれば、聖霊を過度に強調するグループもあります。なぜ、ある教会は聖霊のことを言うのを避けるのでしょう?それは聖霊の賜物による混乱を恐れるからです。私は保守的な教団の神学校に2年通いましたが、母教会はカリスマ派でしたので両方の立場を知っているつもりです。聖霊の賜物も重要ですが、神であられる聖霊が与えられていることをもっと喜ぶべきです。聖霊の賜物については、次の『本当の弟子』というところで学びたいと思います。

1.聖霊とはだれですか?

ヨハネ1416「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」もう一箇所、お読みいたします。ヨハネ167「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」「養育を受ける」のテキストに従いながら質問したいと思います。 

第一、「元来、『助け主』とはだれのことなのでしょうか?」旧約聖書では「神の霊」として記されていますが、新約聖書では「聖霊」という名前で出ています。あるいは「御霊」と呼んでいる箇所もあります。聖霊を「助け主」という名前でイエス様が紹介しているのは、ヨハネによる福音書だけです。

第二、「このところで聖霊は何と呼ばれているでしょうか?」イエス様は「もうひとりの助け主」と言われました。弟子たちにとって「助け主」はイエス様でした。「もうひとりの」というギリシャ語は、「姿かたちが同じでありながら、別の人格の」という意味です。たとえば、ここに2枚のCDがあります(昔はビデオテープ)。見た感じ2枚とも同じでありますが、別々の存在であります。3枚持ってくると、三位一体を説明することができます。正面から見ると1枚ですが、真横から見ると3枚に見えます。また「助け主」はギリシャ語ではパラクレートスと言いますが、「援助者として呼ばれたる者」という意味です。聖霊はあなたを助けるために父が遣わされた、もう一人の(別の)助け主なのです。聖霊は単なる力ではなく、私たちと同じような人格を持っておられます。つまり、知性、感情、意思があり、悲しんだり、喜んだりするということです。

第三、「聖霊とイエス様とではどこが同じで、どこが違うのでしょうか?」能力が同じで、位格(人格)が違います。厳密にいうならば、地上におられた時のイエス様は肉体を持っておられました。そのため、いろんな限界がありました。しかし、聖霊がイエス様のうちに宿っておられたので、病の癒しや奇跡を行なうことができたのです。

第四、「だれが、どこから聖霊を遣わすのでしょうか?」イエス様が天にお帰りになって、父なる神のもとから遣わされました。そのことが使徒の働きに記されています。使徒233ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」簡単に言うとイエス様と聖霊がバトンタッチしたということです。私たちのところに来られた聖霊は、旧約聖書の聖霊とは幾分違います。どこが違うかというと、一時、イエス様の内側におられたことがあるという点です。ですから、聖霊のことを「キリストの御霊」と呼ぶこともあります。イエス様の内側におられたことのある聖霊が、私たちの内側に住むということはすばらしいことではないでしょうか?2000年前、弟子たちにとってイエス様が助け主であったように、聖霊が私たちにとって助け主だということです。ハレルヤ!私たちが「イエス様」と助けを求めているとき、実はキリストの御霊である聖霊が助けておられるのです。

2.聖霊降臨(ペンテコステ)


ルカ2449「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」使徒21-4五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

第一の質問です。「弟子たちには何が必要だったのでしょうか?」いと高き所から力を着せられることでした。「いと高き所」とは、神さまがいらっしゃる天からという意味です。旧約聖書にエリシャという預言者が出て来ます。彼は力を得たいがためにエリヤの後をどこまでも追いかけました。エリヤがたつ巻に乗って天に上って行ったとき、彼の外套が天から落ちて来ました。エリシャは自分の着物を裂き、その外套を拾い上げました。その後、エリシャはエリヤ以上の奇跡を行なうことができました。同じように2階座敷にいた弟子たちは、力としての聖霊を上から(upon)受けることができました。私は聖霊のバプテスマという用語は誤解を招くのであまり使いません。2階座敷にいた弟子たちは、上から(upon)と内に(in)が同時に起こったのではないかと思います。

第二、「約束の聖霊はいつ地上に注がれたのでしょうか?」ペンテコステの日です。イエス様が復活してから50日目です。「五旬節の祭り」とも呼ばれ、大麦の収穫が終わり、これから小麦の収穫が始まります。その日、霊的な初穂である教会の群れが誕生しました。旧約時代にも聖霊はおられました。サムソンやダビデも聖霊を受けていました。しかし、彼らは聖霊を上から(upon)受けていましたが、内(in)には受けていませんでした。だから聖霊は一時しかおられなかったのです。ペンテコステ以降は、聖霊がキリストを信じる人にもれなく、永遠に住んで下さることになりました。これはすばらしい恵みではないでしょうか?ルカ福音書には、私たちが求めるべき最も良いものは聖霊であると記されています。


第三、「聖霊はどのようなものにたとえられているでしょうか?」「激しい風」あるいは「炎」として例えられています。ヨハネ3章には「聖霊が風のように思いのまま吹く」と書かれています。つまり、聖霊は私たちの目で見ることができないし、私たちがコントロールできません。イエス様のときは、聖霊は鳩のように下って来られました。ところが、使徒の働きでは、激しい風と燃える炎のようにやって来ました。チャールズ・スウィンドルという人は、「弟子たちが聖霊の火を受けたとき、内側にあった醜い罪が焼き尽くされ、灰のようになった」と言いました。みなさん、灰には何の魅力もありません。しかし、灰は聖霊の風によって、自由に動かされます。私たちの自我や肉が聖霊の炎によって焼き尽くされるとき、はじめて神さまが用いることができるのではないでしょうか。

第四、「弟子たちはどのように変化したでしょうか?」「聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」と書いてあります。ペンテコステ派の人たちは、これは「異言だ」と言います。福音派の人たちは「外国のことばだ」と言います。この箇所を見ると、騒ぎで集まって来た人たちが、自国のことばで福音を聞くことができました。ということは、「地の果てにまでキリスト証人になる」という世界宣教のためのしるしだったと考えることができます。確かに聖霊は力として注がれました。しかし、その力とはキリストを証するための力でした。その後、もう一度、弟子たちは聖霊に満たされました。使徒4章を見ると、彼らは迫害をも恐れず、大胆に福音を語るように変えられたことがわかります。つまり、聖霊を受けるのは異言によって神さまと親しく交わるだけではなく、福音を大胆に語る者と変えられるということです。聖霊は自己満足のためではなく、宣教の霊であり、神さまの働きをするための霊だということです。


3.聖霊の内住


ローマ89「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。ローマ814-16「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」

第一の質問「だれの内に御霊(聖霊)が住んでおられるのでしょうか?」キリストを信じている人です。パウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言っています。つまり、キリストを信じている人はもれなく聖霊を内側にいただいているということです。以下のような問答がクリスチャンの間で良くあります。ペンテコステ派の人たちは「あなたは聖霊を受けていますか?」と質問します。福音派の人は「はい、受けていますよ?」と答えます。すると、「いつですか?」と聞きます。「はい、信じたときです」と答えます。すると、「まさか、そんなことはないでしょう?では、あなたは異言を語ることができますか?」と聞きます。「いえ、異言は出ません」と答えます。すると、「いや、あなたは聖霊を受けてはいません」と言われるでしょう?二人の会話はとてもちぐはぐです。ペンテコステ派の人たちが「聖霊を受けましたか」と聞くのは、「聖霊のバプテスマを受けましたか?聖霊を上から受けましたか?」と聞いているのです。それに対して、福音派の人は「はい、信じたとき聖霊を内側にいただきましたよ」という意味なのです。ですから、「聖霊を受ける」とか「聖霊のバプテスマ」は通じない場合が多いということです。両者に問題があります。聖霊はキリストを信じたときに内に(in)いただきます。さらに、聖霊を上から(upon)受ける必要があります。コルネリオのように信じた時に受ける人もおれば、エペソの人たちのように後から受ける人もいます。私も長い間、混乱がありました。しかし、ウィットネス・リーの『命の経験』という本を読んでやっと納得しました。私は「聖霊のバプテスマ」はペンテコステに成就した出来事であり、繰り返す必要がないと信じています。ただし、個人が聖霊を内だけではなく、上から受ける必要があるということは信じています。


第二は、「『アバ、父よ』と神さまを呼べるのは、だれの働きのゆえですか?」神の御霊の働きのゆえです。私たちがイエス様を信じたら、聖霊が「あなたは神の子どもになりました。だから、神さまをアバ、父よと呼んで良いのよ」と教えてくれます。エペソ1章には「約束の聖霊をもって証印を押された」と書いてあります。昔、王様が大事な手紙を書くとき、閉じた合わせ目に蝋を垂らし、そこに指輪で証印を押しました。その手紙が受取人の手元に届くまでだれも開封することができません。もし、途中で封を開けたらその人は死刑に処せられます。私たちも神さまのもとへ行くまで、封印されているので、どんな被造物も私たちから救いを奪い取ることができません。私たちクリスチャンは神さまのもの、神さまの子どもなのです。ハレルヤ!

第三、「あなたが救われている(神の子となっている)ことをあかしするのはだれでしょう?」 御霊ご自身と私たちの霊です。日本語の場合、内におられる聖霊を「御霊」というふうに書いています。しかし、ギリシャ語の聖書では私たちの霊なのか、神の霊なのか区別をつけることができません。多くの場合、文脈から「こっちは御霊で、こっちは霊かな」と分けているのです。たとえばガラテヤ5章に「御霊によって歩みなさい」あるいは「御霊に導かれて、歩もうではありませんか」とあります。実際のところ、神の霊なのか、私たちの新生した霊なのか分からないのです。ウィットネス・リーは「両者が混じり合っている」と言っています。


第四、「あなたの内に聖霊はおられますか?また、その理由は何ですか?」神さまを「アバ、父」と呼べること、神さまを「天のお父様」と呼べることです。神さまを「お父様」と呼べることを当たり前だと思ってはいけません。私たちがイエス様を信じたとき、聖霊によって新生し、私たちの霊の部分に臨在してくださいます。そして、私たちの霊に「あなたは神さまの子どもになったのだから、神さまをお父さんと呼んで良いんだよ。恥ずかしがらずに、大胆に呼びなさい」と勧めてくださるからできるのです。ハレルヤ!

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。ペンテコステ以来、主イエスを信じてクリスチャンになったなら、もれなくその人の内側に聖霊がおられます。聖霊は私たちの霊に臨在し、私たちの魂に語りかけます。最初は自分の声なのか、御霊の声なのか分かりませんが、経験とともに分かるようになります。御霊はみことばを悟らせ、神さまがどう思われているのかまで示してくださいます。私たちの態度としては、聖霊がご人格を持った神であることを認め、このお方にすべてをゆだね、全面的に従うことを祈る必要があります。そうすれば、聖霊はいつでも、あなたに語りかけ、強い御腕をもって、あなたを導いてくださるでしょう。


4.聖霊の主な働き


ヨハネ1613-15「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」

第一の問いです。「聖霊は何と呼ばれていますか?」「真理の御霊」と呼ばれています。

第二、「聖霊は私たちにどんなことをしてくださいますか?」「すべての真理に導きいれる」と書いてあります。つまり、聖書のことばを理解させてくださるということです。でも、それだけではありません。イエス様から受けたものを知らせてくれます。また、やがて起ころうとしていることを示してくださいます。聖霊を私たちの頭で限定してはいけません。私たちにかくされていることも、将来のことも教えてくださるということです。


第三、「聖霊が最も現したいことは何でしょう?」「キリストの栄光を現わすこと」です。ある方々は聖霊を強調するあまり、自分たちは「聖霊派です」と言います。ある人は「聖霊様おはようございます」と言います。悪くはないと思います。でも、聖霊はとても謙遜で、自分ではなくキリストの栄光を現わしたいと願っておられます。私たちが「イエス様!」と呼んだならば、同時にそれはキリストの御霊である聖霊にも語りかけているということです。


第四の問いです。「聖霊があなたの傍らで、聖書のみことばを教えてくださることを信じますか?」ある人たちは、勝手に聖書を読むと間違えるので、牧師の教えのもとで、あるいは注解書を見ながら読むべきだと言います。もちろん、異端には注意すべきです。しかし、多くの場合聖書は読めばわかるようになっています。かえって理性中心の合理的な解釈を持ち込むと混乱します。聖書は聖霊が原著者ですから、聖霊に聞くのが一番です。聖霊は真理の御霊として、あなたの傍らにいて家庭教師のように親しく教えてくださいます。


私は1979年の6月に座間キリスト教会で洗礼を受けました。その年の2月に大川牧師が聖霊体験をされ、教会が喜びと活気に満ちていました。翌年、ホーリネス教団の神学校に入学しました。そこで、「座間キリスト教会はおかしい。異言を話したり、癒しをしている」と聞きました。その教会から通っていましたので、針のむしろみたいな経験をしました。卒業後、夕拝や早天礼拝で説教の奉仕をするようになりました。大川牧師が説教に対する評価が厳しいので、準備がとても大変でした。いろんな注解書を読みあさり、苦心してなんとか仕上げるという状態でした。数年間、そういうことを続けましたが、注解書を読めば読むほど、頭が痛くなりました。知識を得れば得るほど、恐れも増し加わりました。他の人の借り物で、全く力がありませんでした。ある時、準備したものを全部捨てて、床に平伏しました。目をつぶって、「このところから何を語ったら良いのか」神さまにお聞きました。それから私の説教スタイルが変わりました。それでも、聖書を人々に語るため、あるいは教えるために読んでいました。1990年、亀有教会に赴任して3年目、ディボーションに触れました。ディボーションというのは、聖書をありのまま観察し、そこから教えをいだだくシンプルなものでした。そこで、教えられたのが「真理の御霊」でした。真理の御霊が教えてくださることを信じて、恐れないで聖書をそのまま読むことにしました。そうすると本当に、聖書が面白くなり、文字が浮き出てくるような感じがしました。それから、説教の準備の仕方が全く変わりました。聖書を何度も読んで観察し、気づいたことを書き留めます。ギリシャ語や英語の聖書も読みますが、注解書や他の本は見ません。その後、目をつぶりみことばを瞑想します。そうすると、何を言うべきなのか、ポイントが見えてきます。目を開けて、忘れないうちにそれらを紙に書き留めます。その後、注解書や他の本、人々の例話を付け加えます。聖霊様が私にメッセージをくださったという確信があります。それから、私の説教スタイルが変わりました。


テキストのまとめの部分をお読みして終えたいと思います。聖霊は三位一体の神さまです。単なる力ではなく、ペルソナ(人格)がおありです。キリストの御霊として聖霊が自分自身の中に宿っておられることを認めましょう。クリスチャンになるとわかりますが、聖霊は様々な霊的な賜物を与えてくださいます。ですから、多くの場合、聖霊というと働きの方に目が行きがちです。でも、聖霊はキリストを証しし、キリストの栄光を現すお方として来られたことを忘れてはいけません。聖霊の働きを強調する教団や団体は、聖霊とキリストを分けて考えますが、そうではありません。御子イエスさまがいつでも御父を示したように、聖霊はいつでもキリストをお示しになられるのです。聖霊はみことばを悟らせてくださる真理の御霊として、あなたと共におられます。聖霊はみことばを通して語られますが、他のことについても語りかけてくださいます。聖霊の御声を聞いて、聖霊によって歩みましょう。

 

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2006年6月 4日 (日)

聖霊を受けよ       使徒1:1-8

本日は、ペンテコステ礼拝です。教会の三大行事は、クリスマス、イースター、そしてペンテコステであります。ペンテコステは、2000年前、聖霊が教会に注がれた記念日であります。ペンテコステの語源は、ギリシヤ語の50から来ています。旧約聖書では、過ぎ越しの祭から、50日たった日、小麦に初めて鎌を入れ、その束を神殿にささげました。いよいよ、これから小麦の収穫が始まるということを記念した「五旬節」という祭がもともとありました。新約時代、「五旬節」の祭が、ペンテコステに入れ替わりました。ペンテコステの日、何が起きたかと申しますと、天から聖霊が地上に注がれ120名が聖霊に満たされました。さらに、その日、3000人が救われバプテスマを受け、教会が誕生しました。3000人こそが、小麦ならず、失われた人たちの収穫だったわけです。きょうは、「聖霊のバプテスマ」とは何かということを特に学びたいと思います。なぜなら、近年、「聖霊のバプテスマ」こそ、物議をかもしているテーマは他にないからです。「聖霊のバプテスマ」をどうとらえるか、福音派とカリスマ・ペンテコステ派は大きく異なります。私は両者の立場をよーく存じているつもりです。これから先、どう変わるか分かりませんが、聖書から見た、私なりの見方で、「聖霊のバプテスマ」について語らせていただきたいと思います。

1.内なる御霊

 イエス様は復活後、弟子たちに「聖霊を受けよ」とお命じになられました。ヨハネ20:22「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。このところから連想することは、創世記2章であります。神様が人間を創造されたとき、やはり、息を吹き込まれました。創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」。人間は他の動物とは違い、霊的な生きものです。ところが、アダムが神様に逆らって、罪を犯して以来、おかしくなりました。人間は霊ではなく、自分の魂で善悪を決定するようになりました。もはや、神の霊は人間にとどまらなくなり、人間の霊も開店休業の状態に陥りました。人間には霊はあるのですが、もはやその役目を果たさず、眠っている状態です。宗教改革者たちは、「人間は、自分の力では神を見出せないまでに完全に堕落した」と言いました。ですから、生まれながらの人間は、神を知らないし、また神を認めようとしません。コリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることが出来ません」とあります。たまに、「私は神も、御霊も知っています」と言う新興宗教の人たちとお会いする時があります。しかし、それは、この世の霊、悪霊を受けている人たちであり、聖霊ではありません。私たちはイエス・キリストを信じて、罪赦され、神様と和解しない限りは、聖霊を受けることはできません。なぜなら、私たちが受ける聖霊は、キリストの御霊だからです。イエス様は、「父は、もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」(ヨハネ14:16)と約束されました。ですから、助け主はイエス様であり、もうひとりの助け主は、イエス様と良く似た、聖霊様であることは間違いありません。

 では、どうしたら私たちは内側に聖霊を受けるのでしょうか。それは、いたって簡単です。イエス・キリストを救い主として受け入れるときに、キリストの御霊である、聖霊が入ってこられるのです。そうするとどういうことが起こるでしょうか。新生が起こります。ヨハネ3章にありますように、御霊によって生まれるという出来事が起こるのです。そういうことで、イエス様を信じている人は、もれなく、聖霊が宿っています。イエス様を信じているけれど、聖霊は受けていないと言うクリスチャンは一人もいません。ローマ8:9「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と書いてあります。つまり、「イエス様を信じている人は、もれなく、キリストの御霊、聖霊を内側にいただいている」ということです。これを、神学的には、内住の御霊と言います。私たちはこのように賛美します。「主は今、生きておられる、我が内におられる。すべては主の御手にあり、明日も生きよう主がおられる」。私たちの体に神様が住んでおられるなら、私たちの体は聖霊の宮ということになります。神様は以前、エデンの園におられました。モーセのときは、神の幕屋に臨在されました。そして、ソロモンの時から、神殿に臨在されました。でも、今は、神殿がありません。どこに神様はおられるんですか?天におられます。もちろん、天にもおられます。でも、2000年前、ペンテコステの日、すばらしいことがおこりました。イエス・キリストを信じる人の内側に、神の霊、キリストの御霊として、宿るようになったのです。これは、旧約時代にない、画期的なことです。

 では、イエス様を信じて、聖霊を内にいただくと、どういうことが起こるでしょうか。聖霊は真理の御霊ですから、神様のこと、イエス様のこと、聖書のことばがよーく分かるようになります。私たちの内にある霊が聖霊によって、目覚めさせられ、スイッチが入った状態になります。テレビでもラジオでも、スイッチが入っていなければ、ただの箱であります。電波はそこまで来ているかもしれない。でも、スイッチが入っていないので、音も出ないし、映像も映し出すことができません。でも、イエス様を信じると、スイッチ・オンになり、霊的なことが急に分かるようになります。あんなにつまらなかった、聖書が面白くなります。また、善悪に対する感覚も鋭くなり、これまで罪でなかったことが、「ああ、罪なんだ!」と分かるようになります。クリスチャンになると罪に対して敏感になるのは、そのためです。でも、皆さん、聖霊は慰め主です。イエス様がそうであられたように、あなたを慰め、弁護し、そして励ましてくださいます。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)と言われました。そのことは、イエス様が、聖霊によって内側に住んでいらっしゃるので、実現するのであります。私たちは聖霊なしで、クリスチャン生活をしようと思ったら、3日もできないでしょう。この世で数限りない、法律や義務があるのに、クリスチャンになって、またさらに戒めや命令が与えられるなんて、まっぴらごめんです。悪を行なう人を赦すとか、嫌いな人を愛するなんて、とんでもはっぷんであります。しかし、みなさん、聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に従うならば、どんなことでも可能になります。聖霊こそ、私たちの内側を聖め、神様の愛と慈しみを注ぐ、管なのであります。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」

 管から連想することは、ライフラインであります。私たちが生活をするために、必要なライフラインとは、電気、ガス、水道であります。震災後、一日も早く、復旧しなければならないのは、これらの3つであります。クリスチャンのライフラインは、何か、それは聖霊であります。もちろん、兄弟姉妹との交わり、聖書の教えも必要であります。でも、自分がこれから死のうとする時は、人も、聖書の教えも役に立ちません。イエス様が聖霊によって、世の終わりまで共にいてくださいます。このことが唯一の望みであります。マタイ28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。私は、クリスチャンになってから、また、牧師として何十名もの兄姉のご葬儀に立ち会いました。一番辛いのは、最後の火葬場に行くときです。もちろん、クリスチャンの場合は、魂は天に引き揚げられ、からっぽの肉体があるだけです。ただの入れ物とは分かっていても、形がなくなるというのはショックであります。火葬場では、クリスチャン、ノンクリスチャンに関わらず、釜の中に入れられます。扉が開いて、箱が押し込められ、蓋がロックされ、点火されます。まことに、嫌なものです。司式をしている自分が、いつかは、入るんだろうなーと思います。私はそのことを、スーパーのレジで並んでいる時、ふっと思ったりします。レジで並んでいると、自分の番がまわってきます。それと同じように、「私も火葬場の釜に入るときも来るんだろうなー」と思うのです。だれも、一緒に、釜の中には入ってくれません。しかし、イエス様は約束されました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。アーメン。聖霊様が世の終わりまで、人生の終わりまで、共にいてくださるのです。なんという慰めでしょうか!私たちはこの世において、ひとりではありません。イエス様が聖霊によって、世の終わりまで共にいてくださるのです。ですから、死ぬときばかりではなく、この世で、生きている限り、聖霊様にお頼り申し上げましょう。聖霊様は、いくら頼っても、「いい加減にしろ!」とか、「暑苦しいから、あっちへ行け」などとは申しません。なぜなら、聖霊様は私たちの助け主、慰め主、癒し主だからです。聖霊様が内におられることを感謝しましょう。

2.上よりの御霊

 使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」。「上」は、原語のギリシヤ語では、エピであります。先ほど、聖霊を内側にいただくことは、ギリシヤ語ではエンであります。エピは英語では、upon。そして、エンは英語で、inであります。チャック・スミスと言うカルバリーチャペルの牧師がある本でこのように語っています。・・・あなたが主イエスを受け入れた瞬間に、聖霊があなたの中に入って来られ、あなたの内に住まわれ始めた。あなたは「エン」の状態になったのだ。一方、使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」で、使われている前置詞は「エピ」である。聖霊はあなたがたの「上に」あるいは「上にあふれて」臨まれる。私は、聖霊があなたがたの中から「あふれ出る」と言う考えの方が良いと思う。この「エピ」の状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態だ。今から、水をピッチャーからグラスに入れ始めよう。水はピッチャーから、グラスに内「エン」に注がれた。水がグラスにいっぱいになってもまだ水を注ぎ続けると、グラスから水が溢れ始める。このとき「エン」から、「エピ」の状態になる。つまり、聖霊は私たちの「内に」住まわれ始める。次に、主は私たちの「上に」聖霊を注ぎ続けられ、私たちの中からは聖霊が「あふれ出る」ようになる。聖霊がその「内に」住んでいるクリスチャンは数多くいる。ところが、彼らのいのちから「聖霊があふれ出て」いない。彼らはエピの体験である聖霊のバプテスマを体験しなければならない。・・・チャック・スミス師は、エピ「上に」の体験を聖霊のバプテスマだとおっしゃいました。こう言う考えの人は、カリスマ・ペンテコステの人たちです。彼らは、「聖霊のバプテスマとは、イコール、聖霊を受けることであり、二度目の体験である」と言います。

私は「エン」と「エピ」と言うわけ方は素晴らしい真理だと思います。しかし、私は聖霊のバプテスマをただそれだけであるとは定義しません。もし、そうであるとするならば、聖霊を受けているクリスチャンと、聖霊を受けていないクリスチャンがいるということになります。それよりも、私はウォッチマンニー先生の『キリスト者の標準』で言われている定義を取ります。ウォッチマンニーは、「聖霊のバプテスマとは、ペンテコステの日に注がれた聖霊である」と定義します。本にこう書いてあります。「聖霊は、天において行なわれたこと、すなわちナザレのイエスが神の右に上げられたことを証明するため、地に注がれたのです。主がご自身の教会のために何をなされたかと言う啓示が、聖霊のバプテスマを獲得するための私たちの努力を終わらせるのです。聖霊の賦与も、義認と同様の方法であなたのものになります。イエスは既に栄光を受けられたので、私は既に御霊を受けたのです」。簡単に言いますと、ペンテコステの日、この地上に注がれた約束の御霊を、聖霊のバプテスマと言うということです。そして、イエス・キリストを信じる者は、だれでも聖霊を受けている。つまり、ご自分の内に御霊を宿しているということです。では、チャック・スミス師がおっしゃる、エピ「上に」の体験は何と呼ぶのでしょうか。私は満たしの経験と呼ぶべきではないかと思います。もし、許されるならばこのような言い方にしたいと思います。歴史的な聖霊のバプテスマはペンテコステの日、この地上に注がれました。これは歴史的に一回限りのことであります。それ以来、イエス様を信じた人には自動的に聖霊が与えられます。でも、クリスチャンはそれだけにとどまらず、聖霊が上から注がれる経験、つまり満たされる経験をしなければならないということです。もし、そのことをペンテコステの経験、あるいは聖霊の満たしの経験と呼んでも良いと思います。私は、聖霊の満たしと言う意味で、聖霊のバプテスマと言うならば、反対はしません。私はペンテコステの日、120名の弟子たちは特別な経験をしたと思います。それはつまり、「エン」と「エピ」、「内に」と「上から」を両方、経験したのだと思います。

 聖霊のバプテスマをどう定義するかは問題ではありません。でも、「エン」、聖霊を内側に持っているだけでは不十分であります。むしろ、「エピ」、聖霊を上から溢れ出るまで注いでいただく経験が必要だということです。つまり、聖霊に関しては、信仰だけではだめです。経験も必要なのです。多くのクリスチャンは、聖霊のことすらも、聞いたことがありません。現代は、聖霊を言わない教会も多くあります。するとどうなるでしょうか?聖霊の力、賜物としての聖霊に対して無知だということです。チャックスミスが、「この『エピ』の状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態である」と言いました。なぜ、クリスチャンに力がないのか、賜物を発揮できないのか。それは、ペンテコステの経験、あるいは聖霊の満たしの経験をしていないからです。初代教会がなぜ、力があったのか。なぜ、無学のただ人たちが用いられたのか。それは、彼らが聖霊に満たされ、聖霊の賜物を発揮したからであります。聖霊を強調しない教会は、知的な学びとか神学を強調します。近年の福音派の神学校がアカデミックになったのはそのためです。また、聖霊を強調しない教会は、ヒューマニズムによる社会奉仕に目が行きます。日本基督教団も残念ながら、そういうところがあります。私たちは聖霊の賜物という点は、カリスマ・ペンテコステから学ばなければなりません。日本だけがそういう点で遅れています。外国では聖霊の力と賜物はどの教団・教派でも当たり前のことです。日本の教会に力がないのは、聖霊の力と賜物を否定しているからです。「あつものに懲りて、なますを吹く」という諺があります。「聖霊の力と賜物で、教会が分裂して、嫌な思いをしたので、もうこりごりだ」と言うのです。聖霊における新生と聖化は認めるけれど、聖霊の賜物は認めないという教会がたくさんあります。それでは、神様がせっかく与えておられる奉仕の力をどぶに捨てているようなものです。キリスト教は良い人を作る精神修養の宗教ではありません。今も生きておられるキリストをこの世に向かって現すのが本当の教会です。イエス・キリストはからだである私たちを通して、現われたいのです。そのために私たちは、聖霊に満たされ、聖霊の力と賜物に目覚める必要があるのです。私たちは弱くてただの人であります。でも、聖霊に満たされたなら、あの弟子たちのように、世の中を覆す者となるのです。

使徒の働きを読んでいきますと、「聖霊に満たされ、賜物が現れる」ということがよく起こります。ペンテコステは歴史的に一回限りでしたが、福音がその地に言い広められ、イエス様を信じるとペンテコステのようなことが起こるのです。これは、歴史を振り返っても、繰り返されていることです。ペンテコステが繰り返される、これを私たちはリバイバルと呼んでいます。一番、最初は2000年前、エルサレムで起きました。二階座敷で祈っていた120人に初めて聖霊が下りました。そして、その日、ペテロが説教したら、3000人が救われました。癒しも奇跡もどんどん起こり、異言や預言も与えられました。こういうすばらしいことが、ペンテコステのときに起きたのです。しかし、歴史を振り返ると、ペンテコステのような出来事がイギリス、アメリカ、中国、南米、韓国、インドネシアに起こりました。今は、アフリカにすばらしいリバイバルが起こっています。日本にもリバイバルを待ち望む団体や集会がありますが、これだけは聖霊様の主権です。日本にリバイバルが起こらないのは、祈りが足りないとか、一致が足りないとかよく言われます。もちろん、そういうこともあるでしょう。でも、一番の原因は、私たちの熱心さではなく、あちら様、聖霊様の主権であります。「風はその思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)にあるとおりです。大川牧師は、文語訳から「風は己が好む所を吹く」というところから、すばらしいことを発見しました。「聖霊様はご人格(ペルソナ)がおありだから、ご自分が吹きたいところと吹きたくないところがある。私たちができることは、聖霊様が好まれる教会を作ることである。それは裁き合わないで、互いに愛し合うことである」と言われました。まさしくそうであります。リバイバルは人間の熱心とか努力ではありません。一方的な神様のみわざです。ある人たちは、「日本にもリバイバルが起きたら大勢の人が救われるのに」「リバイバルが起きたら癒しや奇跡がもっと起こるのに」「リバイバルが起きたらこの世の中が変わるのに」と言います。私もつい先ほどまで、そのように思って、失望落胆の中にいました。しかし、そうではありません。リバイバルはともかく、ペンテコステ以来、聖霊様はすでに地上に注がれているのです。イエス様はヨハネ4章でこのように言われました。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています(ヨハネ4:35)。また、マタイ9:37,38「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」。イエス様は「収穫のために祈れ」とはおっしゃいませんでした。収穫が多いか、少ないかは神様の問題です。私たちがなすべきことは、どの時代であっても、聖霊様がおられることを信じて主のわざに励むということです。神の霊であられる聖霊様が私の内におられ、そして、上から満たしてくださるのです。ある人が何十年も前に、ナイアガラの滝に行きました。最近、再び、その人がナイアガラの滝に行ったそうです。別な人が、その人に尋ねたそうです。「ナイアガラの滝は、今どうなっている?」。彼は何と答えたでしょうか。「昔と同じように、今も轟々と流れているよ」。ペンテコステに注がれた聖霊は、今は消えたのでしょうか。そうではありません。ペンテコステに注がれた聖霊は、今も轟々と流れているのです。

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