2015年9月 4日 (金)

過剰反応と世界観 エペソ5:13-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.6

 今週から4回にわたり、李光雨師が教えてくださった『新しいライフ・ステージ』から学びたいと思います。「許可を取っているのか?」と言われるかもしれませんが、先生の名前を出して、借り物であるということを言えば大丈夫だと思います。李先生は当教会に何度もお越しくださいました。また、ゴスペルで救われた方々が軽井沢で集中的に学んだこともあります。私も青山のスクールに2年間通いました。さらには、先生から約1年間、カウンセリングを受けて癒しを受けた者でもあります。丸屋真也先生も同じようなアプローチで「認知行動療法」をなさっておられます。私には勧めの賜物がありますので、これらを分かりやすいメッセージとしてお届けしたいと思います。

 

1.過剰反応ダイヤリー

みなさんは「過剰反応」ということばを聞いたことがあるでしょうか?過剰反応とは、ある特定のステージの中で現われてくる心や体や行動、合理性を欠いた強い反応です。良く「地雷を踏んだとか、踏まれた」と言いますが、怒ってしまう一定の状況があるようです。「あんな言い方をされて落ち込んだ」ということもあるでしょう。たとえば、コーピーの取り方を上司から注意されたとき、自分の存在そのものを否定されたように感じるかもしれません。人によって違いますが、怒り、憤慨、落ち込み、不安、恐れなどの過剰反応によって自分の生活が窮屈になります。年を取るたびに、過剰反応の悪循環が加速して、社会生活を送れない人もいます。まず、自分がどのようなもので束縛されているのか知る必要があります。

自分の悪循環のパターンを知るために「過剰反応ダイヤリー」という表があります。左側に過剰反応をした日時を書きます。さらに、3つの項目について書きます。第一は状況です。過剰反応が起きた時の状況です。パニック発作、抑うつ、怒りの爆発、落ち込み、貢ぎなどが起きた、あるいは起きそうだった時の状況です。何が起こったとか、何を言われたとか、客観的に書きます。第二は感情と身体反応です。怒り、恐れ、悲しみ、抑うつ、無力感などです。100が死ぬ程だとすると、それに比べ、どの程度だったか主観的で構いません。たとえば怒りが80%、不安が50%という風に書きます。身体反応としては、心臓がバクバクした、夜眠れなかったというものです。第三はその時の考えや行動です。難しいのはそのとき、何を考えていたかを捉えることです。感情はすぐ分かりますが、考えを見つけ出すのは大変です。たとえば、不当な扱いを受けた、存在を否定された、拒絶された、プライドを傷つけられたなどです。ダイヤリーを1か月くらいつけていると、何らかの共通点、一定のパターンがあることに気が付くでしょう。

過剰反応として最も捉えやすいのが怒りです。怒りを持っている人の過剰反応の1つはキレるであります。これは怒りの爆発です。火山の下にはマグマがあって、それが火口から噴出します。火山学者は「噴出する火口はこういう場所です。地中はマグマが噴出するようなルートを形成しています」と言います。つまり、噴火している地点がA、B、Cと三箇所あっても、下のマグマはつながっています。たとえばAが会社で、Bが家庭、Cが教会だとします。怒りの爆発も同じで、いろんなところでキレる人がいますが、基本的には1つのメッセージに反応します。場所のバリエーションがあるだけで、過剰反応としての怒りの噴出は大体1つのメッセージだということです。最初にすべきことは、気づきです。自分はどういう状況のときに、過剰反応するかです。そして、そのとき何を考えていたかということを捕まえなければなりません。おそらくそこには、共通したパターンがあると思います。

2.過剰反応の正しい順番

 私たちは感情に注意が行きます。そして、その感情を何とかしようとするかもしれません。「今度から怒らないように」と反省するでしょう。あるいは、「そんなに落ち込まないようにしよう」と気分を変えようとするかもしれません。しかし、その場限りで、ほとんど解決になりません。感情は中立です。現代は、薬によって感情の起伏を安定させようとします。例外的に脳の分泌物が問題の場合もあります。しかし、感情はメーターのように、中立だということを知らなければなりません。たとえば、車の温度計が上がっていた時、メーターの針を下げる人はいません。これは水が足りなくてエンジンがオーバー・ヒートしているのです。メーターは「エンジンが熱いよ」と教えているのです。では、怒りはどうでしょう?なぜ、あなたは怒っているのでしょうか?それは何かをされた時、言われた時、あなたはあることを考えたのです。「理由も聞かないで、一方的に裁かれた」と考えたので怒ったのです。あるいは「あの人は私のことを認めていない」と考えたので落ち込んだのです。つまり順番としては、状況→考え→感情→身体反応や行動です。

 心理学者は、考えのことを、認知と呼んでいます。認知行動療法というものがありますが、これは認知、つまり考え方を変えるということです。アメリカのアーロン・ベックという人が「認知療法」ということを提唱しました。それまでは、交流分析とか精神分析が主流でした。しかし、この認知行動療法は、先生と受ける人の共同作業でなされるものです。いろんなことを聞きながら、本人が「ああ、そういうところがある」と気づかされます。先生はその人の認知の歪みを修正するようにアプローチしていきます。この治療方法は、うつ病やパニック障害にかなりの効果があるようです。しかし、一般の心理療法は神さまや霊の存在を認めていません。考えの中心、コア信念みたいなところまで取り扱うことができるでしょう。しかし、いつどこで認知が壊れたのか、だれがそれを癒してくれるのかということはあまり触れません。もちろん、それで癒される人がいます。しかし、私たちは考え、思いを聖書的に変える必要があります。その根拠となるみことばが、ローマ122です。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」このみことばは、霊的に新たに生まれたクリスチャンに語られているメッセージです。多くのクリスチャンは霊的に生まれても、思い、つまり考えが新たになっていません。ここで言われている「心」は、英語ではmindであって、思いとか考えという意味です。多くのクリスチャンは、霊は新たになっているのに、mindが古いままで生きています。だから、生活が変わりません。いろんなもので縛られ、過剰反応で生きているのです。

もう一度、過剰反応の順番についてお話ししたいと思います。過剰な感情や身体反応はなぜ起きたのでしょう?それは、あなたが何かを考えたからです。しかし、その考えが問題であり、ある一定の状況に関して、歪んでいる、あるいは間違って捉えているということなのです。李光雨先生は「悪循環パターン」と呼んでいます。あなたは同じテーマで、過剰反応を繰り返していることを気づくはずです。その悪循環パターンを動かしているのが、「考え」なのであります。李先生は、フラー神学校でチャールズ・クラフト師から学びました。クラフト師は「考え」の代わりに「世界観」という言葉を用いました。世界観とは「この世界がどのように成り立っているかについて、私たちが(意識的であれ、無意識であれ)抱いている考え方」のことです。たいていは無意識のうちですが、思考のパターン、いろいろな経験をどう解釈するかという基準を身につけています。私たちの世界観は一種のフィルターのようなものです。それは、この世界に色をつけ、明らかにし、分類し、ねじ曲げ、あるものを見えなくするのです。クラフト師は、私たちの世界観は、現実を制御する「コントロール・ボックス」であると言っています。この世界観を認知や考え方と置き換えることも可能です。李光雨師は認知のことを「世界観」と言い、世界観の中心部分を「コア世界観」と呼んでいます。つまり、過剰反応の出所は、コア世界観であるということです。端的に言えば、コア世界観を変えれば、過剰反応から解放されるということです。

3.過剰反応の種類

李光雨師はこれを気づきのためのフレームワークと言います。フレームワークというのは、枠組みとか、カテゴリーという意味です。実は、その人が過剰反応の世界を作り上げたのです。それが、束縛されたライフ・スタイルになっているのです。でも、それがどこで壊れたのか、知らなければなりません。私たちは人間関係を修復させるために、現地点に目が行きがちです。しかし、それは対症療法みたいなもので、根本的な解決になりません。その人が、抱えている歪んだ世界観が原因しているからです。日常生活上の恐怖や挫折体験をBとするならば、もっと過去の「バリヤー崩壊体験A」までさかのぼる必要があります。生育史の中で、最初に世界が壊されたような体験があるものです。それは幼い時のトラウマだったり、挫折体験だったりすることがよくあります。日常生活で、同じような状況で、同じようなことが起こると、過剰に反応してしまうのです。癒しと解放のために、その人がどのようなテーマを持っているのか知る必要があります。それを大まかに3つに分類することができます。実は4つあるのですが、悪霊的な圧迫なので、最初から取り上げません。大まかに3つに分類に分類します。

第一は不安に束縛されたライフ・スタイルです。現代は昔より複雑でストレスが多いので、いろんな不安障害があります。そのため、パニック障害とかで外出できない人もいます。人間はアダムとエバ以来、不安と恐れを抱えて生きています。それを「存在不安」と言っていますが、生まれた時からバリヤーで覆って生きています。「グッドニュース」で学びましたが、それを「いちじく葉のバリヤー」と呼びました。家系、名誉、学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、信念、職業、結婚などがあります。生まれつきこのバリヤーの強い人もいますが、生まれつきバリヤーの弱い人もいます。このバリヤーがある時、破れてしまって、中から存在不安が顔を出します。それだけでは神経症状にはなりません。しかし、日常の中で、さらなる挫折体験があります。これが重なることによって、今まで隠れていた存在のたまらない不安が表に現れてくるのです。つまり、この人は「不安」というテーマを持っているということです。

第二は怒りに束縛されたライフ・スタイルです。過剰反応として一番捉えやすいのが怒りです。日常生活上のBのところで何か理不尽なことをされたと考えられます。だから、この人は怒っているのです。でも、よく見ると、過去のAのポイントが見えてきます。怒りを持っている人の過剰反応パターンは怒りの爆発と考えられます。火山にはマグマがあって、それが火口から噴出します。私たちは、教会で爆発している場合、教会の中で問題を解決しようとします。しかし、その人は家庭や職場でも爆発しているかもしれません。つまり、入口だけを解決してもダメで、根っこである過去のAのポイントを見なければなりません。その人は生育史の中で、親やだれかから理不尽な扱いを受けて、世界が壊されたのです。だから、日常の中で、同じような状況に置かれたとき、内側に秘めていた怒りが噴き出してくるのです。噴火の後しばらくは、平穏かもしれません。しかし、また怒りのマグマがたまって次の機会を待っているのです。李光雨師は、怒りに束縛されたライフ・スタイルを「怨念晴らしのライフ・スタイル」と呼んでいます。李先生は、怨念晴らしのスペシャリストです。

もう1つ、怒りに束縛されたライフ・スタイルに鬱があります。「怨念晴らし」と鬱は双子の兄弟と言えます。精神医学ではいろんなことを言うかもしれません。脳内の機能障害とかは別として、鬱の束縛された世界から解放される道があると信じます。なぜ、鬱になるのか?李光雨師は、鬱とは、抑圧された「怒り(心の叫び)」が引き起こす「束縛されたライフ・スタイル」であると言っています。基本的には、抑圧された怒りの持って行き方の問題と考えています。第二の怒りのテーマを持った人は、「バカヤロー」と外に吐き出します。そうすると、周りの人が傷つくでしょう。でも、この人はその怒りを外にではなく、内側に向けるのです。抑圧された怒りが自分の中で行き来して、最終的には自分を破壊してしまいます。現代は鬱病の人がたくさんおられます。鬱病は人口の7%、800万人いると言われています。厚生労働省によると、「15人に1人が生涯に1度は鬱病にかかる可能性がある」ということです。不況になると、いやなことがあっても会社に文句が言えません。だから我慢します。抑圧された怒りは、最後には自分に向かいます。

第三は傷ついたセルフイメージに束縛されたライフ・スタイルです。テキストにはこのように書かれています。セフルイメージが傷ついているとは、自分自身が愛せない、自分の価値を認められないということです。自分の価値をとても低く考えていると言っても良いでしょう。だから、聖書の「愛する」ということばを使うならば、「自分自身を愛することができない」のです。「自分自身を愛してはいけない」というイメージがキリスト教会にはびこっているのではないでしょうか。神さまよりも自分を愛することは罪ですが、健全な意味で自分を愛するとは正しいことだと思います。そこから話を進めないと、セルフイメージの問題は解決できません。だから、愛するということを「価値があることと認める」と言い換えて良いと思います。多くの人は、最初は価値がなくて、イエス様によって贖われたのでやっと価値が回復したと言います。そうではなく、イエス・キリストは、私たちに価値があるから、救おうと思って十字架にかかったのです。神さまによって私たちの行ないや持ち物ではなく、存在そのものが受け入れられているのです。神さまは私たちをdoingによって愛するのではなく being よって愛しているのです。このところから話が始まらないと、セフルイメージの話ができません。アーメンです。

何故、その人は傷ついたセルフイメージに束縛されているのでしょうか?成育史の中で、誰か(特に近親者)にひどく拒絶・虐待された体験によって受けた心のダメージ(トラウマ)です。あるいは、生育史の中で、「そのままではだめ!」という存在否定のメッセージを受け続けてきた体験によってです。特に深刻なのは、「裏メッセージ」です。ほぼ間違いなく、世代から世代へと受け継がれます。たとえば「何度、言ったらわかるの?」と言うと、「お前は物分りが悪いね」という裏メッセージになります。「家の子は、みんな優秀だ」と言うと、「優秀でなければ家の子じゃない」という裏メッセージになります。結構、私たちは子どものときから、そのままじゃダメなんだというメッセージを受けてきています。そういう人が大人になると、ちょっとした指摘なのに、無能呼ばわりされたような感じがします。本来、能力と存在価値は別ものなのに、その人は1つになっています。私たちは様々な挫折を体験しますが、セルフイメージが傷ついている人は、立ち直るのがとても困難です。また、なんとかセルフイメージを回復しようとやっきになるところがあります。さまざまな資格を取ったり、業績を上げるパフォーマンス指向もそうです。

おおかまに、3つのカテゴリーをあげましたが、人によってバリエーションが違います。そう単純ではありません。でも、3つの中のどのカテゴリーに入っているか特定することが重要です。次回、学びますが、コア世界観のテーマを1つのことばで言いあらわすことが次のステップにあります。私の場合は、「不当な扱いを受けることによって世界が壊れる」ということです。だれかが、私に不当な扱いをしてくれたら、憤慨して過剰に反応するでしょう。私は3つの中で「怒り」がテーマです。私は不当な扱いを受けて育ちました。「本当はこうなのに」と弁明したかったのですが、その機会も与えられませんでした。親や兄弟、先生や年上の人はむかってもかなわないので、泣き寝入りしていました。テレビで、「必殺仕置き人」など、必殺シリーズがあります。変な時間、再放送されています。ある人がさんざんな目に遭います。しかし、最後に彼らが悪人たちを成敗してくれます。その時、私は心が洗われたような感じがします。「心が洗われた」というのも変ですが、「私の代わりに恨みを晴らしてくれた!」と思うからです。旧約聖書でダビデはサウロから命を狙われました。彼は王様の油注ぎを受けていたのに、13年間も逃亡生活を余儀なくされました。私の言葉で言うと「咎をしてないのに、なんでひどい目にあうんだ」ということです。詩篇を見るとダビデは自分の思いを赤裸々に主に向かって告白しています。詩篇544「神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。」「敵を滅ぼしてください」と、ダビデの祈りはとてもストレートです。でも、もっとすばらしいのが1節です。詩篇54:1「神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。」弁護は、英語の聖書では、vindicateであります。Vindicateには「擁護する。主張・人柄などの正しさを証明する。正当化する。…の嫌疑を晴らす。…に対する権利を主張する。財産の権限を訴訟で取り戻す」という意味があります。このVindicateが私の心にぴったりとはまりました。神さまは心の叫びを聞いて下さいます。そして、ぴったりとした答えを与えて、心の叫びを完了してくださいます。心の叫びが完了すると、次のステップに進むことができます。私は2009年に李先生からカウンセリングを受けて、癒されただけではなく、新しいコア世界観を持つことができました。25歳のとき、キリストを信じて新生したことは最もすばらしい体験でした。しかし、56歳のとき、心が新しく造り変えられた経験をしました。丸屋師の言葉を借りると、「霊は生まれ変わっても、心理的に生まれ変わっていない人がいる」のです。こんなことを言うと異端に思われるかもしれません。キリスト教会は霊的な救いを言いますが、心の問題はあまり取り扱いません。「こうしなさい、ああしなさい」と律法で抑圧するところがあります。しかし、心は内側から叫んでいるのです。心の叫びを聞かなければなりません。

丸屋師はセルフトークとか、自動思考というふうに言います。私たちは無意識のうちに、何かを言い、何かを考えているということです。きょうは「過剰反応」ということを取り上げました。私たちは、ある一定の出来事にさらされたとき、過剰に反応するときがあります。過剰反応をしているとき、湧き上がってくる考えやイメージを捕まえることができます。それは、心の深いところから出て来る「心の叫び」と一致しています。出来事は違っていても、必ずそこには共通したものがあるはずです。どうぞ、現在の過剰反応をさかのぼって、自分の世界観を特定しましょう。エペソ513-14けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

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2015年4月24日 (金)

教会とは エペソ2:19-22 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.4.26

 「教会」あるいはchurchは、聖書的な呼び名ではありません。これは紀元後4世紀、コンタンティヌス帝がキリスト教をローマ国教としたことに由来しています。彼らにとって「教会」は、建物や制度、聖職者の組織をさしていました。しかし、新約聖書ではエクレーシアと言って、「キリスト者の集まり」という意味です。ウォッチマンニーはいみじくも「召会(召された会)」と呼んでいます。しかし、教会という呼び名が2000年間も定着していますので、これでいくしかありません。私たちは呼び名はともかく、「教会というのは聖書的にこういうものなんだ」という正しい理解が必要です。使徒パウロは、教会を家族、神殿、からだと3つに例えて説明しています。

1.神の家族

エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」家族という概念の中にどのようなものが含まれているでしょうか?一般的に家族というのは血縁で構成されており、そこには父と母、兄弟姉妹がいます。おじいちゃんやおばあちゃんもいるでしょう。また、家族というのはその家で生まれたという一点が重要であり、能力の有無とか、障害のあるないは関係ありません。無条件で愛され、養育され、保護されることが求められます。残念ながら、この地上には完全な家族はありません。生育史において色んな傷を受けます。そのため、「神の家族へようこそ!」と言われても、「大丈夫かな?怖いなー」と疑ってしまいます。私も洗礼を受けた直後から、「鈴木兄弟」と呼ばれ、熱烈な歓迎を受けました。しかし、何年間か教会生活を送って行くにつれ、自分と合わない人がいることを発見しました。表だって喧嘩はしませんが、その人を避けたり、口をきかないということがありました。私たちは生まれ育った家庭環境やこれまで会った人たちのデーターが刷り込まれています。そこには、家族も含めて人々から受けたいやな記憶があります。そのため、教会でそういう人と似た人に会った場合、どうしても先入観で見てしまいます。「この人はこういう人なんだ」と短期間で決めつけてしまうことはないでしょうか?でも、神さまは私たちの心の傷を癒すため、あるいは私たちを聖めるために、気の合わない人たちを神の家族に置いているということも事実です。

 そこで、私たちは「神の家族とはこういうものである」ということを聖書から学ぶ必要があります。昔、このようなコマーシャルがありました。「戸締り用心、火の用心」と歌ったあと、「人類はみな兄弟!」と言いました。もし、人類がみな兄弟だったなら、戸締り用心、火の用心は必要ありません。ちなみに、火災の50%以上は放火だそうです。肉体的に生まれたままの状態では罪がありますし、民族、身分、性格の壁などを乗り越えることができません。パウロは「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」と言っています。「こいういうわけで」の前を見ますと、いくつかの根拠が記されています。まず、私たちは罪の中に死んでいたのにキリストの恵みによって生かされたということです。また、私たちは良い行ないをするように、キリストにあって造られた存在です。その次に問題なのは、異邦人とイスラエルに代表される民族間の壁であります。また、お互いが持っている敵意というものがあります。民族間の壁とお互いが持っている敵意がキリストの十字架によって葬り去られました。エペソ218「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」ここに重要なポイントが記されています。私たちが人間同士お互いに近づく前になすべきことがあります。それは、キリストによって、御霊において、父のみもとに近づくということです。「キリストによって」とは、十字架の贖いです。また、「御霊において」とは御霊による新生です。それらのことによって、私たち父なる神様のところに近づくことができるのです。私たちは父なる神さまを持っていることにより、神の家族であり、1つになることができるのです。これはどういうことでしょうか?私たちは地上の父と母から肉体的に誕生しました。同時に私たちは罪の中で失われていた存在でした。しかし、愛なる神さまは御子イエスを与えて、私たちを買い戻してくださったのです。私たちはイエス様を信じたとき、霊的に生まれ変わり、御霊によって「アバ父よ」と呼ぶことができるようになりました。しかし、横を見ると自分と同じようにイエス様を信じて、霊的に生まれ変わった人たちがいます。その人たちが兄弟姉妹であり、神の家族なのです。私たちは永遠の滅びから救われ、永遠の御国で共に暮らす運命共同体ということができます。そのことが分かると、人種、国籍、性格、考え方、好みの違いというものが二次的なものになります。私たちは、かつては罪人でしたが、今は同じ神さまを父と仰ぐ、神の子どもであり神の家族なのです。

 神の家族として、最も重要な戒めとは何なのでしょうか?イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ1512と言われました。ヨハネもこのように言いました。Ⅰヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」ですから、神の家族である教会でもっとも大切な戒めは「互いに愛し合う」ということです。この愛は、アガペーの愛であり、人間の愛ではありません。人間の愛は好き嫌いのレベルです。しかし、アガペーの愛は無条件の愛であり、神さましか持っていない愛です。ですから、私たちはたえず神さまからアガペーの愛をいただいて、互いに愛し合うのです。私たちは罪の中にいたことがあるので、どうしても「この人のここがヘン」「この人のここが赦せない」とさばいてしまいます。それはアガペーの愛と反対のものです。私たちは天国に行くまで不完全であり、工事中です。工事現場にかかっている看板のように、「工事中、ご迷惑をおかけします」と、お互いに頭を下げている存在です。つまり、教会は自ら愛を学ぶところであって、人から愛を要求するところではありません。どうぞ、イエス様が私たちを愛されたように、互いに愛し合いましょう。

2.聖霊の宮

エペソ2:20-22「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」神の家族で最も大切なことは「互いに愛し合う」ということでした。教会はそれだけで良さそうなのですが、神の家族では表現できないものがあります。それはともに建てられ、神の御住まいになるということです。Ⅰペテロ15「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」とあるように、私たち一人ひとりは生ける石です。普通の石は人格がありませんが、生ける石は人格もあり感覚もあります。そういう石が組み合わされて、神の御住まい、神殿になるということです。旧約聖書では神殿は山から石を切り出して、加工して積み上げました。一方、新約の私たちは生ける石ですが、とがった石もあれば、ざらざらした石もあります。やたら大きな石もあれば、長細い石もあるでしょう。そのままでは、神殿の石として使用することができません。そのために、削って形を整える必要があります。その後、生ける石が互いに組み合わされて神殿となって、そこに聖霊なる神さまが住んでくださるのです。エペソ人への手紙を読むと分かりますが、神さまの永遠の計画は、私たちの中に住むということでした。旧約聖書では石でできた神殿でしたが、新約聖書において神さまは、生ける石が組み合わされて、その中にご自分が住むことを願っておられます。

 この建物は、どのような構造になっているでしょうか?パウロは、「礎石はキリスト・イエスご自身である」と言っています。Ⅰペテロ27「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。礎石の上には建物の土台が必要です。パウロは、「使徒と預言者という土台の上に建てられており」と言っています。使徒と預言者は、聖書のみことばと言い換えることができます。当教会は誤りない神のみことば聖書に土台する教会です。ところで、生ける石を取り扱う専門家がいます。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。生ける石を取り扱う専門家を五職と呼んでいます。まず、石を現地から調達する人は伝道者です。伝道者は自らも伝道し、聖徒たちにも伝道するように勧めます。次には石を形作る人が必要です。それは、教師の役目です。教師はみことばをノミにして出っ張ったところを削ります。カキーン、生ける石は「痛い!」と叫びます。教師は自らも教えますが、互いに教え合うように指導します。その次は、石を積み重ねる仕事があります。これは牧師の役目です。牧師は自らも牧会しますが、聖徒たちにも互いに牧会するように勧めます。さて、建物を建てるときは、監督がいるものです。監督とは建築者と品質管理者です。建築者は建物全体のことを良く知っています。建物が設計図通り建てられているか見るのは使徒の役目です。使徒は教会の永遠の目的を知って、自らも教会を建て、聖徒たちにも教会を建てさせます。最後は、品質管理の監督です。これは預言者の役目です。預言者は教会が罪から離れ、神のみこころに従っているかどうかチェックします。自らも預言しますが、聖徒たちにも預言することを勧めます。

十数年前から、セルチャーチ・ムーブメントが起こりました。その少し後、ハウスチャーチ・ムーブメントが起こりました。彼らが良く引用する聖句はマタイ1820です。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」彼らと言うと他人事になりますが、私も片足を突っ込んでいます。このみことばから、「二人三人が教会の最小単位であり、二人三人でも教会なんだ」という考えが生まれます。そのため、ハウスチャーチの人たちは、少人数でも教会なのだからと、洗礼や聖餐を行ないます。それを見て、伝統的な教会は「聖礼典は牧師がすべきでしょう!」と反対します。しかし、聖書には「牧師が聖礼典をすべきだ」とは書いていないのでどちらも間違いではありません。ただし、「二人三人の集まりが果たして教会と言えるだろうか?」ということです。別な言い方をすると、生ける石がたった十個集まって、神殿ができるかということです。部屋なら可能ですが、建物は無理です。建物はいろんなパーツが必要であり、一部屋しかない建物はさびしいです。玄関、リビング、台所、寝室、子ども部屋、物置…それらが集まって一個の建物になります。ですから、「セルが教会だ」とか、「ハウスチャーチが教会だ」と言う人もいますが、聖書的にはそれらを部屋と呼ぶべきではないかと思います。部屋と部屋が組み合わさって、完全な建物になるのです。しかし、彼らが教会を烏合の衆ではなく、命のつながりを強調したことはすばらしいことです。

 聖書を見て分かりますが、神さまは聖霊によって、私たち個人の中におられます。同時に、私たちの間、つまり共同体の中にもおられます。Ⅰコリント316「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」「あなたがた」と、複数形になっています。また、「宿っておられる」とは、英語の詳訳聖書は、permanent dwelling in you「永続的に住んでくださる」と訳しています。私たちの中に住むことが神さまの永遠の目的でした。でも、それは天国に行ってからではなく、この地上の教会で実現しているということは何とすばらしいことでしょう。私たちは教会を単なる集まりと考えてはいけません。私たちの間に神さまが住んでいてくださるからです。やがてこの集まりは、黙示録に記されている天のエルサレムに合流し、組み合わされるでしょう。世の中にはいろんな組織や団体があります。教会は、学校、企業、政治、サークル、市民運動、NPO、宗教団体などとは違います。どこが違うのでしょう?三位一体の神さまが私たちの中に住んでいてくださるということです。神さまが、クリスチャンの集まりをご自分の住まいとしてくださるとは何と言う特権でしょう。ハレルヤ!私たちは神の神殿なのです。

3.キリストのからだ

エペソ120-23「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会が神の家族であるとき、私たちは互いに愛し合うことを第一にするでしょう。また、教会が聖霊の宮であるとき、私たちが互いに建て上げ、整えられることを第一にするでしょう。でも、これらの2つだでは、教会が自分自身のためだけにしか存在していません。3つ目の概念は、教会はキリストのからだであるということです。もし、教会がキリストのからだであることを知るならば、教会が何のためにこの世に存在するか分かるでしょう。ただ今読んだ、エペソ人への手紙1章から少し考えてみたいと思います。テキストには「復活したキリストはどのような存在ですか?」という質問があります。みことばから、キリストは父なる神の座に着いておられ、すべての支配、権威、権力、主権の上にあります。また、キリストはいっさいのものの上に立つかしらであります。次の質問は「教会(私たち)のかしらはだれですか?」とあります。教会のかしらは、主イエス・キリストであります。教会の歴史の中で、教会のかしら、首長はだれかという論争がありました。教会のかしらは教皇でも、女王でもありません。また、聖職者や長老、教団でもありません。教会のかしらはイエス・キリストであります。教会はすぐこの世と同じような組織に逆戻りする傾向があります。なぜなら、肉は目に見えるかしらを求めてしまうからです。

 もし、キリストがかしらであるならば、私たち教会は何なのでしょうか?これはものすごく重要な質問です。キリストが教会のかしらであることは間違いありません。では、キリストのからだとは何なのでしょうか?そうです。私たち教会がキリストのからだなのです。イエス様は復活、昇天し、罪の贖いを果たしたはずです。でも、イエス様にはやり残した使命があります。それを教会というご自身のからだでなさりたいのです。Ⅰコリント12章には、私たち一人一人はからだの各器官であると書かれています。手、足、目、口、耳、頭などがあります。弱い器官もあれば、強い器官もあるでしょう。目立つ器官もあれば、あまり目立たない器官もあるでしょう。パウロはそういうからだの器官は、御霊が与えてくださった霊的賜物であると言っています。それは自分の意志ではなく、御霊の主権で一人一人に与えられています。その目的は全体の益になるためです。また、それはかつて2000年前、イエス様が地上でおられたときのみわざを教会が継続して行うためでもあります。私たちはイエス様が再び地上に戻って来られるまで、この世に向かって、イエス様のからだとしてなすべき使命があるのです。テキストにこのようにまとめられています。キリストは復活・昇天した後、すべてを治めるかしらになられました。では、キリストのからだはどこにあるのでしょうか?それは、イエス様を信じて生まれ変わった人たちこそが、キリストのからだなのです。かつてイエス様がこの地上でミニストリーをされた同じことを、からだである教会が継続して行うように求められていますいっさいのものをいっさいのものによって満たす」とは、この世のすべての分野にということです。神さまはご自分の良きものを、教会という器を通して、ビジネス、政治、芸術、医療、教育などすべての分野に満たしたいのです。だから、教会はこの世から孤立せず、むしろこの世に派遣されていく、御国の大臣、ミニスターなのです。アーメン。

キリストのからだの器官として大事なこととは何でしょう?エペソ415-16「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」もし、私たちの各器官が自分勝手に動いたらどうなるでしょうか?右手と左手が別々に動き、右足と左足が別々に動いたならどうなるでしょうか?もし、そういうロボットを作るならば、ポンコツ・ロボットです。意外にも、教会はポンコツなところがあります。なかなか協力しあって、活動するということが困難です。私たちはだれに聞くべきなのでしょうか?私たちのからだの各器官はだれの命令で動いているのでしょうか?そうです。脳であり、かしらです。教会のかしらはイエス・キリストであり、イエス・キリストがすべての司令官であることを知るべきです。だから、各器官はキリストに聞くべきです。「キリストに聞け!」これを教会は忘れてはいけません。役員会でも教会総会でも、「キリストに聞け!」であります。各器官にとって最も重要なことは、キリストに聞いて、組み合わされ、結び合わされることです。サタンはこのことが一番嫌いです。だから、教会に分裂を与え、一致しないように邪魔しています。そして、各器官が孤立して行うので、小さな働きしかできません。テキストには「私たちが建てられていくために、最も必要なものは何ですか?」とあります。それは、他の器官に対する互いの愛です。私たちの器官を見ても分かりますが、それぞれ形が違います。働きも違います。得意なところもありますが、不得意なところもあります。同じように、私たちが隣人を見たとき、形や働きや性格や好み、考え方も違います。でも、共通しているのは同じ御霊をいただき、同じ御霊によって生かされているということです。同じ神からのいのちをいただいているということです。ハレルヤ!「私はいやだ、勝手にやる」と、1つの器官がからだから離れるならどうなるでしょう?血液も神経も届かなくなり死んでしまいます。同じように、孤立して、信仰生活を続けることは不可能です。もちろん救いがあるのですから天国は生けるでしょう。でも、キリストの働きを、生き生きとこの地上で行うことは不可能です。私たちは、互いにコミュニケーションを取り合い、働きの違うものどうしが協力し合い、キリストにあって1つであるという認識が必要です。お互いに、違いがあること尊重しましょう。お互いに、組み合わされるべき存在であることを認めましょう。

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2014年12月31日 (水)

私たちのゴール(元旦礼拝) エペソ3:5-13 亀有教会 鈴木靖尋 2015.1.1

 新年あけましておめでとうございます。恵みの年が始まって2015年目に入りました。きょうは、元旦礼拝にあたり、永遠にわたる救いの歴史を短時間で学びたいと思います。救いの始まりは聖書の最初、創世記に書いてあります、救いの完成は聖書の最後ヨハネの黙示録に書いてあります。私たちが長い小説を短時間で知りたければ、最初の数ページを読み、中をとばして最後の数ページを読めば良いでしょう。きょうは、最初と最後、そして真中にあたる部分だけを取り上げたいと思います。

 1.救済史の最初

  救いの歴史、救済史の最初はどこでしょうか?まずは、創世記1章から取り上げます。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」「ご自身のかたち」つまり、「神のかたち」とは何でしょうか?神学的にはとても複雑でひとくちでは言えません。でも、端的に「神のかたち」を言うならば、それは三位一体という神の共同体です。永遠の昔から、父、子、聖霊という三位の神さまが親しく交わっていました。CS.ルイスは、「三位一体とは、父、子、聖霊なる神さまが、仲良くワルツを踊っているようなものである」と言いました。

 また、CS.ルイスは、「『神は愛である』というとき、神に2つ人格がなければ不可能である」と言いました。自分ひとりで愛することは不可能です。愛する対象が存在していなければなりません。だから、神さまには2つ以上の人格がなければなりません。イスラムの神はアッラーの神であり、唯一の神です。一人で存在しているので、愛は存在していません。だから、彼らの経典から「神は愛である」と言うことができないのです。神さまがご自身のかたちで人を創造したとはどういうことでしょう?それは、父、子、聖霊のような交わりを持つ共同体として人間を造ったということです。「男と女とに彼らを創造された」とありますが、まさしく互いに愛し合うように造られたのです。男と女という愛の関係が、三位一体の神に似ているということです。

 旧約聖書の雅歌書は、神とその民の愛の関係が記されています。新約聖書になるとイエス様が花婿で、教会が花嫁というふうに描かれています。でも、神さまはなぜ、人間をご自身のかたちに造られたのでしょうか?創世記2章を見ますと、神さまと人とは親しく交わっていたことがわかります。

 創世記3章には堕落の記事がありますが、神さまは「あなたはどこにいるのか?」と呼びかけました。しかし、それはさばくためではなく、ちゃんと出て来て事情を話してもらいたからです。でも、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。アダムの方から、神さまとの交わりを絶ってしまったのです。堕落以後、神さまとの関係が壊れました。そして、人との関係も壊れてしまいました。

2.救済史の最後

  救済史の最後に当たる部分が、ヨハネ黙示録21章です。黙示録211-3「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて…」

 創世記1章の創造とは違う、「新しい天と新しい地」という創造がここに記されています。 このところは、また「聖なる都、新しいエルサレム」と呼ばれています。かつての都、エルサレムではありません。都の城壁は高価な宝石でできており、道路は透き通るような純金でできています。一番、特記すべきことは、そこには地上のような幕屋も神殿もありません。3節には、「神の幕屋が人とともにある」とあります。幕屋ではなく、神さまが民の中に住むということです。また、22節にはこのように書いてあります。「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」神殿は建物ではなく、神さまご自身です。さらには、都を照らすのは太陽や月ではなく、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりです。私たちの小さな頭では想像もつきません。でも、ここに私たちの究極的なゴールが記されています。それは、神の都、エルサレムで神さまと共に住むということです。

 このことを旧約の人たちもあこがれていました。ヘブル11章に「アブラハムは都を待ち望んでいた」とあり、「事実、神は彼らのために都を用意しておられました」と書いてあります。また、ダビデは詩篇23篇で「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と歌っています。同じダビデが書いたと言われる詩篇274「私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」主の家とは、主の宮であります。ダビデも主と共に住まうことを待ち望んでいたのです。聖なる都、天のエルサレムで、主と共に住むことが私たちの窮極的なゴールなのであります。地上の生活は、天のエルサレムを目指す旅路です。まさしく、ジョン・バニヤンの『天路歴程』であります。

  3.救済史の真中

  ここでやっとエペソ3章のみことばを引用することができます。エペソ311「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」このところに、「神の永遠のご計画」と書いてあります。「永遠の計画」は英語の聖書では「永遠の目的」と書いてあります。

 神さまの永遠の計画あるいは、永遠の目的とは何でしょうか?それは、エペソ36に書いてあります。エペソ36「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」このところに、同じことを意味することばが並んでいます。福音、キリスト・イエス、異邦人も相続者となる、ともに1つのからだに連なる、ともに約束にあずかるということです。神さまは私たち異邦人も神の民に加えらる、つまり教会の設立を考えておられたということです。

 救済史の真中の出来事は、私たち異邦人が救われて、神の民に加えられるようになるということです。どのようにしてそれが可能になったのでしょうか?第一はキリスト・イエスの贖いが成し遂げられたということです。言い換えれば、十字架と復活による救いです。第二は信じた人々に聖霊が内住するようになったということです。内住とは、私たちの中に聖霊が住んでくださるということです。このことは神さまが永遠の昔から、最も望んでいたことでした。三位一体の神さまが人と共に住むということが半分成就されたということです。完全に成就するのは、黙示録21章に記されている天のエルサレムです。

  もう一度、「救いの歴史」を見たいと思います。救いの歴史の真中にある事が起こりました。神さまは永遠の昔、ご自身とおなじかたちを持った人間を造ろうと計画されました。創世記にあるように、アダムとエバを創造しました。しかし、人間は堕落し、エデンの園から追い出されました。神さまはアブラハムの子孫であるイスラエルを選び、共に住もうと約束されました。しかし、それもうまくいきませんでした。やがて、神の御子イエスが天から下って十字架で贖いを成就されました。50日後、キリストの御霊、聖霊がくだりました。これによって、イエス様を信じる者に聖霊が宿るようになりました。つまり、三位一体の神さまが聖霊によって宿ることが可能になったのです。

  ウィットネスリーという人が『神の永遠のご計画』という本の中でこのように言っています。「神の計画(エコノミー)は、神ご自身を人の中に分け与えるという神ご自身のご計画にほかならない。神の計画(エコノミー)は、三一の神を1つの霊の中で、私たちの霊の中に分与することです。」彼はこうも言っています。「現代では、人は医学の分野で多くの薬を完成しました。薬によっては、非常に多くの要素が一服の中に調合されているものもあります。ただ一回の投与で、ある要素は病原菌を殺すことができ、もう1つの要素は神経を和らげることができ、他の要素は体に栄養を与え元気付けることができます。神の霊はすべてを含む薬です。私たちは聖霊が世界中で最良の薬であるということを認識したことがあるでしょうか?ただ一服の薬が、私たちのすべての必要を満たすのに十分なのです。」

  それはともかく、救済史の真中、中心的なでき事は、私たちの中に聖霊が住むようになったことです。これは神さまの永遠の計画の中で画期的な出来事でした。まず、個人が神の宮となりました。Ⅰコリント619あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり」と書いています。神さまは聖霊を私たちに与えることにより、一緒に住んでいてくださるのです。これは救済史において、最も画期的なことでした。私たちが神さまからいただける最もすばらしいものは聖霊です。イエス様は、ルカ1113「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました。私たちは、何がなくても、神さまを内側にいただいていることを感謝すべきであります。

  同時に、クリスチャンの共同体、教会が神の宮です。イエス様は死んで3日後に、神の神殿を建てると言われました。Ⅰコリント316あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」これは個人ではなく、複数形です。つまり、私たちの中に神さまがおられるということです。

  神のかたちとは三位一体であると申し上げました。なんと、教会の中に三位一体の神様がお住みくださるということです。教会とは建物ではなく、私たち共同体のことであります。これってすごいことじゃないでしょうか?

  西洋は個人主義であり、どちらかと言うと個人の救いを強調します。しかし、聖書は個人もそうですが、共同体の救いということも教えています。その両方を表わしているのがこのみことばです。コロサイ127神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」パウロは「あなたがたの中にキリストがおられることは奥義である」と言っています。英語の詳訳聖書は、Which is Christ within and among you.となっています。直訳するならば、「あなたの中、そしてあなたがたの間にいるキリストが栄光の望みだ」ということです。イエス様は個人の中にも住んでおられるし、また私たちという教会の中にも住んでおられるということです。 

 4.私たちのゴール(目標)

 私たちの最終的なゴールは、「聖なる都、天のエルサレムで主と共に住む」ということです。これは窮極的なゴールであり、アブラハムやダビデがあこがれていました。では、私たちがこの地上におけるゴールとは何なのでしょうか?

  きょうのメッセージのキーワードは「住む」ということばでした。神さまの永遠の目的は私たちと一緒の住むということであります。やがて、天のエルサレムで主が共に住むことができます。

  私たちの地上でのゴールの第一番目は、個人的に親しく住むということです。イエス様はヨハネ15章でこのように言われました。ヨハネ155「人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」「とどまる」は英語の聖書ではabideが用いられており、「住む」の古い言い方です。つまり、「私があなたの内に住むので、あなたも私の内に住みなさいよ」ということなのであります。これはどういう意味でしょう?イエス様が私たちの内に存在していると言うなら、物みたいな感じがします。「住む」というのは人格的な交わりがあるということです。私たちは内におられるキリストと親しく交わり、すべてのことをキリストに依存して生きるということです。私たちは人に依存してはいけませんが、キリストに依存して良いのです。

  ゴールの第二番目は、共同体として親しく住むということです。ヨハネ159「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ1517「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」これは、共同体である教会にイエス様を歓迎し、互いに愛し合うということです。「互いに愛し合う」は教会のマグナカルタ、大憲章であります。私たちは神さまからすべての罪を赦され、無条件に愛され、ありのままで受け入れられているのです。しかし、ぱっと横を向くと、そのことを忘れてしまいます。「この人のここが悪い、ここが変、ここが足りない」とか言ってさばいてしまいます。私たちは罪の中に生まれたので、裁きの霊がだれにでもあります。裁きのプロはだれでしょうか?悪魔です。黙示録1210「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と書いてあります。私たちは愛のめがね、寛容のめがね、赦しのめがねをかけて兄弟姉妹を見るべきであります。もし、私たちが互いに愛し合うなら、三位一体の神さまが、住み心地が良くなり、たくさんの神さまのみわざが起こるでしょう。

  ゴールの第三番目は、神のかたちを増殖させることです。イエス様はヨハネ1516「行って実を結びなさい」と言われました。しかし、神さまはその前に、アダムとエバに命じておられました。これは人類への命令です。創世記128神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ」。このみことばの直前に「神のかたちとして彼を創造された」というみことばがあります。ということは、「神のかたちを増殖せよ」ということです。これは命令であり、イエス様が「行って実を結びなさい」と共通しています。イエス様は天にお帰りになる直前、弟子たちに福音宣教を命じられました。しかし、それは私たち教会に対する命令でもあります。なぜでしょう?三位一体の神さまが御自身のかたちに似せて造った人たちが滅びてほしくないからです。神さまはそのために御子イエス様を十字架にかけ、贖いを全うされました。そればかりか、信じる者に聖霊を与え、天のエルサレムで一緒に住もうと招いておられます。私たちも父なる神さまの子どもであるなら、同じ目標と心を持つべきであります。

  私たちは世の終わりの時代に住んでいます。救いの歴史の黙示録の一歩手前であります。もうすぐイエス様が天から迎えに来られます。イエス様は私たちに何と約束されたでしょうか?ヨハネ142-3「 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」私たちと一緒に住んでくだる住まいを備えておられるイエス様に感謝します。

 

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2014年10月26日 (日)

聖徒の交わり       エペソ2:11-22

聖徒の交わり       エペソ2:11-22     2014.10.26

 使徒信条というのがありまして、毎週、唱えている教会もあります。その中に「聖徒の交わり」というのがあります。聖徒とはイエス様を信じて救われた人たちです。「交わり」というのは、ギリシャ語でコイノーニアと言います。もともとは、「共有している」「分け前に与かる」という動詞から来ています。私たちは何かを共有し、何かの分け前に与っているので、互いに交わることができるのです。この世では、利害関係、恋愛関係、家族関係、会社での上下関係などの関係が良く知られています。では、聖徒と呼ばれるクリスチャンの関係はどういうものなのでしょうか?


1.交わりの基盤

 家族関係の基盤は、血縁によって成り立っています。父と母から生まれた「きょうだい」がいます。祖父や祖母がいるでしょう。おじさんやおばさん、いとこ、はとこもいます。現在ではDNA鑑定が良く知られていますが、どこか似たようなパターンがそこにはあるでしょう。「血は水よりも濃い」ということばがありますが、血の繋がった身内の絆の濃さを表しています。実は、クリスチャンも神の家族と呼ばれています。エペソ2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」私たちの父は、天の父であり、天地を造られた神さまです。日曜学校の子どもは「天の母はいるのですか」と質問します。ローマ・カトリックでは「聖母マリヤ」と呼んで、信仰的な母性を補っています。しかし、天の神さまの中に、母性が含まれているので問題はありません。私たちはイエス・キリストによって贖われた存在です。以前は、神さまから離れて、孤児のようにさまよっていました。自分の本当の身分を知らないで、失われた存在でした。しかし、キリストが十字架の血潮によって、罪の中から買い戻してくださいました。私たちはイエス様を信じたゆえに、神の子どもとなり、神さまを天のお父様と呼べるようになったのです。本来は、イエス様だけが神さまの子どもです。しかし、私たちは養子として迎えられ、御国の相続者になったのです。ですから、私たちの交わりの土台は、キリストの贖いです。十字架の血潮で贖われたゆえに、神の家族の一員となれたのです。ハレルヤ!

しかし、昨日まで「赤の他人」であった者同士が、兄弟姉妹になることができるのでしょうか?私が初めて教会に来たとき、大変おどろきました。週報に○○兄、○○姉と書いてありました。また牧師先生も、○○兄弟、○○姉妹と呼んでいました。「ああ、この教会は親族でなりたっているんだなー」と思いました。しかし、洗礼を受けた後、「鈴木兄弟」とよばれて、奇妙に感じました。男性から呼ばれると、「あなたと私とそんなに親しい関係なのか?気安く呼ぶなよ!」と思いました。しかし、女性から「鈴木兄弟」と呼ばれると、悪い気はしませんでした。私は教会に来る前は、土木現場で働いていたので、女性とあまり口をきいたことがありませんでした。大体、女性と話す機会などなかったので、「教会っていい所だなー」と思いました。しかし、長く教会生活をしていて「神の家族における兄弟姉妹の関係は意外にもろいものだなー」と思いました。洗礼を受けて、兄弟姉妹の仲だったのに、何らかの理由で教会に来なくなりました。他の教会に転会したのなら分かりますが、音信不通になるケースがよくあります。何らかの問題で躓いたとか、迫害にあって来られないとか、いろんな理由があるかもしれません。一般の家庭では、家族の一員がいなくなったら大変なことになります。連絡が取れない場合は、警察に捜索願を出すかもしれません。しかし、神の家族では、「最近、来なくなったねー。何かあったのかしら?」でおしまいです。「こんな薄っぺらい兄弟姉妹っているのかな?」とこちらが躓いてしまいます。本来なら、滅びから永遠の御国に入れられた運命共同体のはずです。聖徒の交わりは、この地上だけではなく、永遠の御国に至るまでの交わりのはずです。なぜ、私たちの交わりは神の家族と言いながら、壊れやすく、薄っぺらいものなのでしょうか?

 1つは、真の交わりをしていないということです。本当の家族なら、欠点や弱さをさらけ出すので、衝突したり喧嘩もするでしょう。しかし、教会では「聖徒」という仮面をかぶって、素を出さないようにしています。また、あんまり近づくと衝突する恐れがあるので距離を取り、さしさわりのないような、付き合い方をしています。これまで、人間関係ではさんざんイヤな思いをしてきたので、深入りしたくない気持ちもわかります。そのため、礼拝で説教を聞いたら、他の人と話さないで帰る人もいます。伝統的な教会は、「礼拝を守ったら、無駄話しをしないで、さっさと帰るように」と言われるようです。なぜなら、兄弟姉妹が一緒にお茶を飲むと、噂話をしたり、だれかの悪口を言うので良くないからです。教会で飲んだり食べたりすると、「教会はサロンではない」と言います。確かに、ローマ14:17「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と書いてあります。そこには、説教者と会衆の関係はあるかもしれませんが、お互いの関係は二次的なものになります。それでは、私たちは「神の家族であり、互いに兄弟姉妹である」という真理は絵に書いた餅なのでしょうか?ヨハネは第一の手紙で兄弟姉妹の交わりについてこのように教えています。Ⅰヨハネ1:3「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」このみことばには、2つの意味があります。第一は、私たちの交わりは、御父および御子イエス・キリストとの交わりが基盤になっているということです。お互いを見る前に、父なる神さまと、イエス様の関係があります。私たちは父なる神さまから造られ、イエス・キリストによって罪から贖われた存在です。私たちは同じ神さまを礼拝し、神さまの命をいただいています。第二は、私たちの交わりは、私たちの交わりが、御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に加えられているということです。これはえらいことです。御父と御子イエス・キリスト様がどんなに親しく交わっているのでしょうか。その交わりの中に、私たちも加えられているということです。私たちの霊と神さまの霊が交流しているので、私たち同志の霊も魂も交流することが可能になります。なぜなら、神の霊である聖霊が、神さまと私たちの交わり、私たち同志の交わりを取り持っていてくださるからです。


2.交わりの発展

 私たちが霊的に生まれ変わり、神の家族に加えられたからと言って、自動的に兄弟姉妹の交わりができるわけではありません。私たちは肉体的に生まれたとき、どうだったでしょうか?お母さんから1から十まで世話をしていただいたと思います。そのうちだんだん、ことばを話して、お母さんやお父さんと話すことができました。肉にある兄弟姉妹がいたかもしれません。泣いたり、喧嘩しながら、「ああ、人間関係はこういうふうに築き上げるんだ」と理屈なしで覚えたと思います。霊にある兄弟姉妹も、洗礼を受けたから、「互いに愛し合いましょう」と言われても無理です。多くの場合は、生育史においていろんな心の傷を受けています。母親から基本的信頼感を受けたでしょうか?父親が社会的な関係のすばらしさを教えてくれたでしょうか?家庭できょうだいが助け合い、愛し合ったでしょうか?理想の家庭が100点だったなら、何点ぐらいだったでしょうか?50点いかないのではないでしょうか?何をもって点数つけるかというのも、主観的であり、何とも言えません。結構、恵まれた家庭に育ちながら、私は愛されなかったと受け取る場合もあるからです。大体、教会は神の家族と言われるので、家庭の延長上にあると言っても間違いありません。ある人は父母から得られなかった愛を教会のだれかから得ようとします。また、自分の兄弟の恨みを教会のだれかに晴らす場合もないとは言えません。世の中の関係をそのまま、教会の中に持ち込む場合だってあります。若い人が多い教会は、異性問題が起こることが良くあります。いわゆる怨念晴らしを教会という場所で行うと、教会は荒野のようになります。クリスチャンは律法があるので、相手をさばくことが簡単にできます。世の中の人はこれくらいじゃさばなかいので、教会の外の方が気楽になります。ですから、私たちは神さまのもとで、互いに愛し合うということを体得しなければなりません。時には傷つけ合い、時には失敗しながら、主にある兄弟姉妹の関係が築き上げられていくのです。

 ヨハネは第一の手紙でこのように言っています。Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」では、古い命令(戒め)とは何でしょうか?イエス様は律法の中で一番重要なものはこれとこれですと教えられたことがあります。第一は、心を尽くして力を尽くして主なる神さまを愛することです。第二は、隣人を自分のように愛することです。これは旧約聖書の数ある律法をたった2つにまとめたものです。でも、ヨハネはここで、「私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります」と言っています。では、どのようにして、古い命令が新しい命令になったのでしょうか?エペソ2:16「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」アーメン。私たちは、以前は遠く離れていた存在でした。しかし、キリストの血によって近い者とされました。そして、お互いが持っている敵意が壊され、新しい一人のからだの中に加えられたのです。私たちは肉のままでは、なかなか兄弟姉妹と親しく交わることができません。しかし、キリストを間に置いて、交わるときにお互いが持っている敵意が取り除かれ、兄弟姉妹として交わることができるのです。いわば、キリスト様は私たちのクッション、緩衝役のようなお方であります。お互いがキリスト様を通して、見るのです。そうすると、欠点やイヤなところも、愛すべき存在として見えてきます。

 教会はいわば愛を学ぶところであります。柏に『人生やり直し道場』という教会があります。教会も「愛を学ぶ道場」であります。天国に行くまでは、みんな工事中です。完全な人はいません。工事中の標識を見たことがあるでしょうか?ヘルメットをかぶったおじさんが、「ただ今工事中です。何かとご迷惑をおかけします」とペコリしているではないでしょうか?私たちは工事中のマークを胸に貼っておくべきです。「私の近くに穴ぼこがありますよ。躓かないでくださいね。」天に召された三浦綾子先生が天国と地獄の夢と見たそうです。地獄に行くと、テーブルには山海の珍味、ごちそうが山のように盛りつけられていました。全く、地獄とは思えません。テーブルについている人たちは体を椅子にゆわえられていました。また、左手には長いフォーク、右手には長いナイフが結わえられていました。柄が長いので、料理を取っても自分の口に運ぶことができません。みんなイライラして、最後には長いフォークやナイフでチャンバラを始めました。あたりいっぱいに料理がちらかっていました。こんどは二階の天国に行きました。テーブルには山海の珍味、ごちそうが山のように盛りつけられていました。同じように、テーブルについている人たちは体を椅子にゆわえられていました。また、左手には長いフォーク、右手には長いナイフが結わえられていました。ここまでは地獄と同じです。しかし、彼らは「何が食べたいの」と聞きながら、長いフォークを向かいの人の口に運んでいました。向かいの人も「何が食べたいの」と聞いて、それを取ってあげていました。備えられているものが同じなのに、これだけ違うのかなと思いました。福音書にはゴールデン・ルールがあります。マタイ7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 ヨハネは教会には3種類の人がいると言っています。まず、小さい者たちと子どもたちです。彼らは罪が赦されていることと、父なる神さまを知らなければなりません。ある人たちは、罪責感から解放されないままで、教会から去っていきます。次が若者たちです。彼らは悪い者に打ち勝つ必要があります。悪い者とは私たちの肉に戦いを挑む悪魔です。もし、悪い者に打ち勝たないならどうなるでしょう。羊なのに頭に角が生えてきて、教会に問題をもたらす人になります。そして、父たちがいます。これらの人は成熟したクリスチャンです。彼らは父なる神さまの計画を知っています。その計画とは、私たちはやがて神さまの御住まいになるということです。そして、父たちは小さい者たちと子どもを養育し、若い者たちの模範になります。このようにして、教会は互いに責任を負い合いながら、キリストの満ち満ちた身丈にまで達していくのです。


3.交わりの目的

 交わりというのは、ただ仲良くしていれば良いというものではありません。そこには目的があります。エペソ2:21-22「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」使徒パウロは、教会を3つのものにたとえています。第一は神の家族、第二はキリストのからだ、第三は神の宮です。私たちはキリストという礎石にたてられた建物と言うことができます。昔は、1つ1つ石を積み重ねて神殿を作りました。私たち一人一人は生ける石(Ⅰペテロ2:5)であります。生ける石ですから、口があり、目があり、心があります。でも、山から取り出された石はどうでしょうか?角が出っ張っていたり、ざらざらしていたり、大きすぎたりして神殿の石として用いることはできません。同じように、救われた時の私たちは個性が強くて、人と協力することができません。心の傷があって、すぐにすねたりするでしょう。御霊ではなく、肉でやっているかもしれません。みんなと組むよりは、自分一人でやっている方が気楽かもしれません。では、どうしたら神殿の石として、用いられるのでしょうか?やっぱり、形を整えなければなりません。ある時はノミで削られたりするでしょう。「いたーい。やめてくれ!」と叫ぶかもしれません。あなたを整える専門家がいます。エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。「聖徒たちを整える」とありますが、まさしく、神殿の石になるように整えられるということです。

 エペソ人への手紙の2章、3章、4章によく出てくることばがあります。それは、「建てられる」あるいは「建て上げる」ということばです。ギリシャ語では、オイコドメオーですが、「建物を建てる」の他にも意味があります。「人を向上させる」「信仰を強める」「その品性を高める」などです。日本語の聖書には「徳を高める」と訳されています。「徳を高める」と言われても、何なのか分かりにくいところがあります。英語ではedify, build upであり、「向上させる」とか、「建て上げる」という意味があります。端的に言いますと、私たちの交わりの目的は、建て上げるためにあるということです。私たちが神の神殿となるために、互いに建て上げ合うということです。もし、私たちが神の神殿として建て上げられたらどうなるでしょうか?神さまがその真中にお住みになります。エペソ2:21-22「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」ハレルヤ!これこそが、神さまが願っていることなのです。神さまは天にお住まいになっておられますが、同時に、私たちのところにも住まいたいのです。やがて、この地上の教会は花嫁として、天に引き上げられます。その後はどうなるのでしょうか?黙示録21章には完成された神殿があります。正確には神殿という建物はなくて、聖所だけです。黙示録21:16「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」黙示録21:22「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」アーメン、そこには私たちが目指すゴールがあります。神さまは私たちと永遠にお住になる、天の新しいエルサレムを用意しておられます。そこに、私たちの教会だけではなく、世界中の教会も組み入れられることでしょう。

 では、地上の教会とは何なのでしょうか?それは、天の新しいエルサレムの準備段階です。地上にあっても、神さまが願われるような神殿を建てるならば、三位一体の神様がそこに住んでくださいます。神さまが住んでくださるなら、神さまの祝福が自然にあふれることでしょう。すべてを持っておられる神さまがおられるのですから、すべてのことに満ち足りることができます。では、私たちの交わりで最も重要なことは何なのでしょうか?それは互いに建て上げあうということです。建て上げあうことの中にどのような事柄が含まれているでしょうか?励ますこと、愛すること、教えること、勧めること、祈ること、助けること、戒めることも入るでしょう。そうやって私たちは形が整えられ、他の生ける石とも組み合わされます。生ける石、一個だけでは、神さまは住むことはできません。また、生ける石が、組み合わされないで山積みになっている教会もあるかもしれません。わーすごい数だ、でも、組み合わされていなければ、建物にはなりません。神さまはその場に臨在するかもしれません。しかし、そこに住むことはできません。なぜなら、神殿になっていないからです。ある人たちは2-3人で集まって、「セルです。家の教会です」と主張するかもしれません。セルやハウスチャーチは「1つの部屋、1つのパーツも大事だよ」ということを再発見させてくれました。でも、それは1つの部屋であって、建物とは言えません。建物には玄関の他にいろんなパーツが必要です。つまり、1つの部屋しかない家はありません。複数の部屋が結合して、家になります。神の神殿もそれと同じで、そう単純ではありません。アメリカとかアフリカに行くとものすごいクリスチャンの数です。中国も1億人以上はいるでしょう。10年くらい前にインドネシアのアバラブ教会主催の集会に行ったことがあります。1万5000人くらい集まっていたと思います。1つのセクションが300人くらいだったかもしれません。私は遠くからそれを見て、ああ、亀有教会も1つのセクションくらいは欲しいなと思いました。大きさはともかく、当亀有教会も大きな神の神殿の一部になっていることを忘れてはいけません。

 エペソ2:19以降もう一度お読みいたします。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。…この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

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2014年1月 5日 (日)

パウロの祈り        エペソ3:14-19 

 聖書の中には、色々な人たちの祈りが記されています。きょうは、新年の最初の聖日礼拝ですが、使徒パウロの祈りから学びたいと思います。この祈りは、エペソの教会だけではなく、時代を超えて、私たちに対する祈りでもあります。ある人は、「2000年前にエペソ教会に送られた手紙が、何故、現代の私たちに関係あるのか?」と文句をつけるかもしれません。宗教改革者ルーターは「聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と言いました。聖霊が2014年に生きている私たちにも、永遠の聖書のみことばを開いて教えてくださると信じます。


1.内なる人を強くしてください

 パウロの祈りは14節から21節まで記されています。パウロの祈りを1つでまとめるなら「内なる人を強くしてください」という祈りではないかと思います。他のことばは、そのことを説明しているのではないでしょうか?パウロは「クリスチャンよ。第一に、内なる人が強められることを求めなさい」と勧めています。では、内なる人とは何でしょう?使徒パウロは、Ⅱコリント4章で「内なる人と外なる人」とに分けています(Ⅱコリント4:16)。外なる人とは、肉体であります。この肉体には食べ物や着るものが必要です。イエス様は「何を着るか、何を飲むかは異邦人が切に求めているものです。神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)と言われました。この世では、「外なる人が強くなるように」という勧めで満ちています。テレビショッピングでは、健康のためにいろんなサプリメントを宣伝しています。また、衣類や宝石、生活を便利にする商品が出されます。では、この世では、「内なる人が強められるように」と言われているのでしょうか?宮里藍というプロゴルファーがいますが、彼女はメンタル・コーチをつけています。プロゴルファーは「このツアーで優勝したら、賞金ランクがどのくらいになるか」気になるようです。メンタル・コーチは「先のことではなく、今の一打に集中すること。一打、一打の積み重ねが大事」と言うそうです。箱根駅伝で、実力が拮抗している時は「最後には気持ちの勝負です」と良く言われます。ある人は「気合いだ、気合いだ、気合いだ」と叫んでいます。最近は、カウンセリングとかコーチングの需要が高まっています。だんだん、心の大切さがわかってきたからではないでしょうか?

 では、パウロが言う「内なる人」とはどういうものなのでしょうか?また、「強められる」とはどういうことなのでしょうか?そのこと説明しているのが、3章17節以降であります。3:17「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが」。このところに書かれている「心」は、ギリシャ語では「カルディア」です。この語は、一般に「心」と訳され、英語ではheartとなっています。しかし、「カルディア」は、どちらかと言うと、人間の感情、心情的側面を表わす語です。パウロはローマ9:2「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と言いました。そのところの心も、「カルディア」です。エペソ人への手紙はクリスチャンに書かれた手紙です。ですから、心の奥底(霊)にイエス様を迎えた人たちが対象です。でも、あえて、パウロが「キリストが信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように」と祈っています。パウロが「カルディア」ということばを使うことによって、「感情面にもキリストを迎えるように」と願っているのではないでしょうか。あるクリスチャンは、「信仰は霊で捉えるものだから、感情的にならないように」と言います。また、「信仰は、感情ではなく意志である」と、よく聞かれます。感情は喜怒哀楽であります。イエス様が喜怒哀楽を現したことがなかったか、というとそうではありません。ゲッセマネの時は泣き叫びました。ペテロが信仰告白したときは、ものすごく喜びました。宮きよめのときは、思いっきり怒りました。ラザロが死んだときは涙を流しました。ですから、私たちの感情面にもイエス・キリスト様を歓迎すべきではないでしょうか?つまり、それは、イエス様と一緒に喜んだり、イエス様と一緒に悲しんだりして良いということです。多くの男性は感情に蓋をして生きていますので、感情面にもキリストを迎えることが重要な課題であると思います。歌にあるように、「泣きなさーい、笑いなさーい」です。

 でも、その直後、パウロは「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが」と続けています。このことばは前にくっつくのか、そのあとなのか問題ですが、あえて前にくっついていると解釈させていただきます。すると、「カルディア」という感情が、愛に根ざし、愛に基礎をおいている必要があるということです。この愛はもちろん、「アガペー」という神の愛です。私たちの感情は、時々コントロール不能になるときがあります。喜びすぎるのは良いのですが、怒りや憂いが大きくなりすぎると問題です。そのため、他の人や自分自身を傷つけてしまうからです。現代はこの「感情」をコントロールできない人がたくさんいます。悲しみが止まらない、怒りが止まらない人がいます。私たちの血液の中には血小板があり、空気中に触れると固まるようになっています。だから、血が止まるのです。感情にも、血小板にあたるものが必要です。それは「自分たちの心を神の愛に根ざし、神の愛に基礎を置くということです」。心が不安定な無重力状態になるのは困ります。心が神の愛の中に根ざしていることが重要です。野菜の「かぶ」と心の形がよく似ています。「赤かぶ」というのもあります。どうぞ、かぶが地面にすわっているように、私たちの心が神さまの愛の土壌に根ざしていますように。神さまから心の栄養をいただき、神さまによって支えていただきましょう。ハレルヤ!

 次の聖句です。エペソ3:18-19「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」とあります。「理解する力」とは内なる人のどの部分でしょうか?それは知性であります。ギリシャ語ではヌース、英語ではmindです。ヌースは理性的活動をする側面であります。私たちが生きていくためには、いろんなことを知らなければなりません。そのため、親は子どもに大切なことを教えます。また、学校ではいろんな知識や技術を教えるでしょう?でも、パウロが私たちの内なる人が強くするために最も大切なものを教えています。ある人は「広さ」が大切だと言うかもしれません。一般常識や社会的な活動であると言うでしょう。また、人は「長さ」だと言うかもしれません。これは歴史や伝統を重んじるということでしょうか?また、ある人は「高さ」だと言うかもしれせん。これは、聖い、崇高な生き方でしょうか?ある人は「深さ」だと言うかもしれせん。これは、何かを極めたり、学問的な追求のことでしょうか?1つ1つ意味があるのかもしれません。でも、私は「キリストが私たちの心の中で、広さ、長さ、高さ、深さにおいて、いっぱいになる」ということではないかと思います。心の中、どこを切ってもキリストがつまっているという状態です。では、なぜ、キリストを知ることがそれほど重要なのでしょうか?パウロはコロサイ2:2-3「理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」アーメン。キリストの中に、神の奥義、知恵と知識との宝がすべて隠されているとしたならどうでしょう?パウロが生きていた時代は、ギリシャ哲学が盛んでした。クリスチャンになっても、「やっぱり、哲学を学ばなければ」という人がたくさんいました。哲学を土台にして、聖書を解き明かした人たちもいました。近代ではどうでしょうか?自由主義神学者が台頭し、聖書をバラバラに解体しました。ある人たちは、「聖書に描かれているキリストと歴史的なキリストとは違う」とまで言いました。しかし、カールバルトという神学者は「キリストを通して神のことばを理解することにおいて聖書は正しい」と言いました。私は彼とは、同じ立場ではありませんが、自由主義の行き過ぎた振り子を戻した人です。

 しかし、パウロは私たちの知性でキリストを知ることには限界があることを言っています。エペソ3:19「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」パウロは、私たちが「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように」と願っています。そうです。私たちの知性で神さまのことが分かったなら、それは神さまではありません。被造物である私たちが、「神さまがこうである」と知的に理解することは不可能です。でも、パウロは「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と願っています。私たちが、感情において、知性において、主を知ることを求めるとき、私たちの内なる人が強められます。「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」ということです。つまり、キリストに満たされたなら、神ご自身の満ちたもので、満たされるということです。私たちの心が神さまのもので満ちていたなら、どんなことが起こるでしょうか?神さまの愛、神さまの平和、神さまの希望、神さまの力、神さまの知恵が心から湧き上ってくるということではないでしょうか?私たちはこの世が持っている、お金や物や権力に求めがちです。そうではなく、私たちの心の内に、すべての源であられるキリストがおられるのです。内なるキリストを再発見しましょう。


2.内なる人を強くするために

 後半は、内なる人が強くするために、どうしたら良いのでしょうか?肉体の場合は、筋トレなどをします。タンパク質やビタミンなど、必要な栄養素も摂取すべきでしょう。使徒パウロはⅠテモテ4章でこう言っています。Ⅰテモテ4:7-8「むしろ、敬虔のために、自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」肉体の鍛錬はいくらか有益でしょうけれど、もう1つ別の鍛錬があるようです。それは敬虔になることです。敬虔とは、英語でgodlinessです。この言葉は、godly(神さまを敬う)+ness(性質、状態)からできています。つまり、敬虔は、内なる人を強くするために自分を鍛錬することによってもたらされるということです。内なる人が強くなっている人を、外側から見たなら「ああ、敬虔な人だ」ということです。イエス様の時代にいた宗教家たちは、外側だけを敬虔そうに見せていました。「どうやって祈るか、どうやって施しをするか、どうやって断食をするか」、器の外側だけをきよくすることに注意を向けていました。イエス様は彼らに何と言われたでしょうか。「お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放銃でいっぱいです。お前たちは白く塗った墓のようなものです。外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」と言われました。重要なのは、外側ではなく、内側、心の問題だということです。それでは、どのようにしたら内なる人が強められ、敬虔な人になることができるのでしょうか?

 エペソ3:16 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」このところに、私たちの内なる人が強くさせられるために、2つの要素が記されていることが分かります。第一は父なる神が、ご自身の栄光の豊かさの中から与えてくださるということです。私たちの資源は、あくまでも父なる神さまであります。日本語では「豊かさ」と訳されていますが、原文は「富」とか「財宝」ということばです。ですから、英国の聖書はtreasuresとなっています。神さまの栄光は、まるで、富や財宝のようなものであり、それらを私たちに与えてくださるということです。昨年末は、ヨブ記を読んで、大変恵まれました。ヨブ記28章にはこのようなことが記されています。「銀のためには鉱脈がある。金のためには精錬所がある。鉄はちりから取られ、銅は溶かされた岩から取り出される。人は暗闇の果てまで、縦坑を掘り込み、サファイヤや金を見出す。人は岩に坑道を切り開き、その目はすべての宝を見る。しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか?悟りのある所はどこか。」私はそのところを読んでいて、自分が鉱夫になった気持ちになりました。うちの息子はパソコンでマイン・クラフトというゲームをやっています。地下を掘って行くと、石炭とか銅、金やダイヤモンドを取り出すことができるというゲームです。私は、富はこの世の中に存在していると思いました。大金は宝くじを当てない限り、無理だと思っていました。しかし、「神さまの知恵は、銀や金、サファイヤにまさる宝なんだ」と思ったら、ワクワクしてきました。

神さまの中に、私たちの必要の一切を見出すことができます。希望も、健康も、経済的な必要も、昇進も、内なる人が強くなるための必要もであります。神さまはご自身の無尽蔵の富の中から、いくらでも、私たちに与えようと願っておられるのです。問題は神さまにあるのではなく、私たちの側にあるのです。エリヤ・ハウスで学んだことがあります。神さまは大きな湖のように、豊かな恵みをたたえています。湖から、私たちに流れる1本の川があります。しかし、ビーバーが丸太や葉っぱでダムを造りました。そのため下流には、水が流れて来ません。すずめの涙ほどの恵みです。そのダムが、神さまの豊かな恵みが流れ込むのを妨げているのです。ダムとは何でしょう?私たちの心の傷、赦せない思い、過去のトラウマ、苦い根、両親を敬わない心、偽りの誓い、中毒などです。ある人たちは、過去に起こった不幸な出来事から立ち直ることができず、そこに座り込んでいます。そして、傷つけた人を呪い、そのことを許した神様に恨みを抱いています。神さまのところには、大きな恵みがたたえられているというのに、自分の心はカラカラに渇いています。では、どうすれば、神さまから豊かな恵みが流れてくるのでしょうか?神さまの恵みをとどめている、丸太や葉っぱ、ゴミなどを取り除くことです。赦すべき人を主の御名によって赦しましょう。過去のトラウマを主にゆだねましょう。ダムを壊す最も大切なことは、主要な丸太は何かということを調べることです。中心的な丸太を1、2本どけるならば、他のものを簡単に取り除くことができます。どうぞ、自分が抱えている中心的な障害物を見つけ出して、神さまの前に差し出しましょう。あるときは、人の手を借りることも必要です。妨げているダムを取り壊したならば、信じられないくらいの神さまの恵みがあふれ流れて来ます。

第二は「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」とあります。聖霊は神さまと私たちを結ぶ管であります。力の源は神さまにあります。神さまの力は聖霊を通して、私たちのところにやってきます。そして、私たちの内におられる聖霊が私たちの内なる人を強くしてくださるのです。つまり、聖霊は2つの役割があるということです。たとえば、電気を作っているところは発電所です。何万ボルトの電気が送電線によって送られてきます。送電線は聖霊です。しかし、私たちの家庭に何万ボルトもの電気は必要ありません。もし、そのまんま流れてきたら電気製品が黒焦げになります。下げられた電気が電柱から、家庭に備えられている分電盤に送り込まれます。100ボルトに下げられた電流がコンセントまで来ています。聖霊は神さまから大きな力を運んでくれる送電線のようなものです。聖霊は紅海を2つに分けたり、月や太陽を止めることができます。しかし、聖霊は私たち一人ひとりにもおられます。分電盤から流れる電気こそが個人用の聖霊の力です。この聖霊が私たちの内なる人を強くしてくださるのです。新約聖書では、私たちの内におられる聖霊を「御霊」と呼んでいます。ギリシャ語ではどちらもプニューマなので、神の霊なのか、私たちの霊なのか区別がつきません。聖霊は私たちの霊の部分に留まっています。しかし、パウロが願うのは、その聖霊が私たちの感情や知性、意志にまであふれて来るようにということです。聖霊が私たちの心をコントロールし、聖霊が私たちの心を新たにしてくださるならどうでしょうか?あっと驚くような、素晴らしいことが起こるのではないでしょうか?

ある人が「なぜ私たちの心をココロと言うのか?それはコロコロ転がるからです」と言いました。私たちの心は安定することができません。世の中の誘惑に簡単に引き寄せられます。何か問題が起こると恐れたり、不安になります。失敗や敗北で落ち込んでしまいます。怒りや嫉妬で狂うこともあります。願わくば、いつも平安で、明るく、喜んでいたいものです。しかし、私たちの意志や頑張りだけではうまくいきません。何度も自分に聞かせても、また悪いものが湧き上ってきます。本当に心は自由になりません。だからこそ、私たちの霊に宿っておられる聖霊が、心のあらゆる分野に来ていただく必要があるのです。聖霊は私たちを慰めてくださる助け主です。ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」アーメン。また、聖霊は私たちを罪の原理から解放して、いのちを与えてくれます。ローマ8:2、6「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。…肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」アーメン。重力は私たちを落とそう、落とそうと働きます。しかし、御霊が私たちの心を下から支えてくださるのです。また、聖霊は私たちに喜びを与えてくださいます。ローマ14:17「神の国は…義と平和と聖霊による喜びだからです」とあります。私は街を歩いていて驚くことが良くあります。この世の人たちの方がクリスチャンより、よっぽど喜んでいます。「なぜ、あんなに楽しそうなんだろう。それに比べ私は何だ?罪赦され、永遠のいのちがあるのに、うなだれているなんて…」と思うときがあります。喜びに質があるという問題ではなく、クリスチャンこそ聖霊によって、どんな時でも喜ぶべきであろうと思います。だれかから聞きましたが、平野牧師が「日本のクリスチャンは真面目すぎる」とおっしゃっているそうです。真面目であることは良いことだと思います。しかし、真面目すぎるというのは、いつもしかめっつらして、他人をさばいているようなクリスチャンかもしれません。

私は自分でも驚くことがよくあります。それは「はははっ」と、腹から笑っている自分がいるからです。私は悲観的で、皮肉的で、人を小馬鹿にする笑いは良くします。しかし、解放を受けてから、面白いことは、腹から笑えるようになりました。失敗しても神さまがなんとかしてくださるという信仰が与えられています。私たちは成功からはほとんど学びません。失敗したときに、多くのことを学びます。もし、失敗が益になるのだったら、笑っても良いのではないでしょうか?私たちの究極の希望は十字架と復活です。イエス様が死んで、三日目によみがえられました。と言うことは、私たちも死ぬような目にあったとしても、神さまが復活させてくださるということです。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」アーメン。


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2013年6月23日 (日)

結婚の回復        エペソ5:22-33

 イギリスの古いことわざからです。「あなたが1日幸せに過ごしたかったら、床屋に行きなさい。あなたが1週間幸せに過ごしたかったら、車を買いなさい。あなたが1か月幸せに過ごしたかったなら、結婚しなさい。あなたが1年幸せに過ごしたかったなら家を建てなさい。あなたが一生幸せでいたかったら、正直者になりなさい。」このことわざによると、結婚の賞味期限は1か月なのでしょうか?きょうは「結婚の回復」と題して、聖書からともに学びたいと思います。


1.結婚の土台

 二人がめでたく結婚することを「ゴール」と言いますが、そうではありません。それから、長く続く地道な結婚生活の「スタート」です。多くの人たちは、ぶっつけ本番で結婚生活をしますので、「こんなはずじゃなかった!」と後悔したりします。私たちは「結婚というものは何なのか?どういう風に結婚生活を送るべきなのか」ということを学ばなければなりません。残念ながら、この世においてはそういうことを教えるところがありません。結婚は単なる社会制度ではなく、神さまが制定されたものです。そのために私たちは、神さまのみことばである「聖書」から学ばなければなりません。聖書は人生の取り扱い説明書、「取説」です。電化製品を買うと、必ず取り扱い説明書がついてきます。洗濯機、冷蔵庫、テレビ、エアコン、パソコンにも必ずついています。でも、ほとんど読まないで、「とにかく動かしてみよう」という人が多いのではないでしょうか?長いマニュアルを読みたくないですね。壊れたとき、「取説」をひっぱり出して、読むのではないでしょうか?結婚が壊れたとき、まだ壊れていなくても、私たちは人生の取り扱い説明書である「聖書」を読むべきです。その中に、「結婚」という項目もあります。きょうの「エペソ人への手紙5章」もその中の1つです。

 使徒パウロは結婚を「キリストと教会」にたとえて教えています。では、キリストとはだれのことをたとえているのでしょうか?そうです。キリストは「夫」を象徴しています。では、教会はだれのことをたとえているのでしょうか?そうです。教会は「妻」を象徴しています。つまり、キリストと教会の関係は、夫と妻の関係であるということです。最初に「妻たちよ」と命じられています。エペソ5:22-23「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」男性にとって、なんとすばらしいみことばでしょう!キリスト教書店に行くと、聖句を彫った額が売られています。「なぜ、『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい』のみことばの額が売られていないのかなー」と、残念に思います。このところに書かれているのは、身分の違いではなく、機能の違いです。「かしら」というのは、上にあった方が便利です。なぜなら、「かしら」には、目や耳、口、鼻がくっついているからです。もし、「かしら」がお尻についていたり、膝についていたら不便です。かしらは体の一番上についているべきです。

でも、「かしら」とはどういう意味でしょうか?Ⅰコリントはこのことを補充しています。Ⅰコリント11:3「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」このところには、「キリストのかしらは神である」と書かれています。キリスト様と父なる神さま、どちらが偉いのでしょうか?どちらも三位一体の神さまですから、上下関係はありません。でも、「キリストのかしらは神です」とはどういう意味でしょうか?新約聖書を見ると分かりますが、キリストは神さまでしたが、父なる神さまにいつも従順しておられました。なぜなら、父なる神さまが救いを計画されたからです。そして、キリストは、父なる神さまが立てた救いの計画を実現するためにこの地上にやってこられました。だから、たえず父なる神さまに聞きしながら、事を進めていきました。これを夫と妻との関係で言うならば、夫がかしらであるというのは、「リーダーシップを取れ」ということです。別な言い方をすると、「すべての責任を負いなさい」ということです。そして、妻はかしらである夫を敬いながら、従って行きなさいということです。これを雨傘でたとえるならば、このようになります。神さまは、夫が家庭のかしらとしての役割を果たすように定められました。そうすれば、下にいる妻や子どもが守られます。ところが、夫が家庭をちゃんと治めていない場合はどうなるでしょう?ギャンブルや酒で働かない。外で仕事ばかりして、家の中のことは関知しない。そうすると傘に穴が開いて、雨が漏ってきます。機能不全の家庭です。「それじゃだめだ」と言って、妻が夫を出し抜いて、かしらになるとどうなるでしょう?傘がひっくり返った状態です。これでは、傘の役目を果たさなくなります。これは、神さまの秩序に反しているので、うまくいきません。

 今は終わりの時代ですが、家庭が破壊されている時代でもあります。世界の離婚率を調べてみました。ある資料によりますと、ロシアの離婚率は69%です。先ごろ、プーチンも離婚しました。アメリカが47%、英国が45%、韓国が40%、日本は37%です。離婚率は、キリスト教国であるとか、ないとか関係がありません。信仰が歯止めになっていないということは全く残念です。なぜでしょう?結婚の原則に土台していないからです。離婚の原因は夫、男性が「良いかしらになっていない」からです。エディ・レオ師は時々、ロシアに奉仕に出かけます。ウラジオストックの教会に行ったとき、ギターも賛美も司会もみんな女性たちだったそうです。エディ・レオ師が「父の心」をメッセージしたとき、女性たちが声を上げて泣き崩れました。ロシアの男性たちは寒いので、ウォッカをたくさん飲むそうです。酒に酔った夫が、妻に暴力を振るいます。それで、妻は耐えられず離婚をするのです。だから、教会には女性しかいません。アメリカも日本もそうですが、離婚すると子供たちが犠牲になります。継父によって虐待されます。先日、フィリピンのミンダナオ島の孤児を支援している藤先生の講演にでかけました。フィリピンでは10代前半で結婚し、多くの子供を産みます。でも、経済的に厳しくて十分に育てられません。フィリピンはカトリックの国なので離婚が認められていません。それで、女性は家庭を捨てて、他の男性のところに行きます。そのような家庭で育った女の子は、お母さんと同じように若くして結婚し、子供を産んだ後、蒸発します。そういうことが世代間連鎖になっています。藤先生たちは、捨てられた孤児たちを支援しています。人間の尊厳あるいは、価値というものがとても低いように思われました。何度も言いますが、夫は妻のかしら、家庭のかしらです。経済的にも、精神的にも、霊的にもリーダーシップを取り、責任を負う必要があるということです。

 それでは、妻が夫に従うというのはどのような従い方なのでしょうか?奴隷のように、何でもかんでも夫に従うことなのでしょうか?エペソ5:22,24「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。…教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」「教会がキリストに従うように」とはどういう意味でしょう?教会の歴史を見るとわかりますが、教会がはなはだ堕落し、キリストに全く従わないときもありました。中世のカトリックだけでなく、プロテスタント教会もそうです。ということは、妻が夫に従う従い方には、ある程度の「ゆるさ」があるということです。簡単に言うと、「まあまあ」でも許されるということです。では、夫はどうなんでしょうか?エペソ5:25「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」キリスト様の教会に対する愛は、どういう愛だったでしょうか?キリストの愛は、一方的な愛、無条件の愛です。これはどういう意味でしょう?「夫は、妻が自分を愛してくれるのを待っていてはならない」ということです。「妻が愛してくれていなくても、愛する」ということです。つまり、夫がかしらであることの証明は、夫が愛においてイニシアチブを取るということです。この愛があってこそ、妻のかしらになれるということです。韓国で開かれた結婚セミナーでの一コマです。ある夫婦が、布団に入って寝ようとしていました。ところが、天井に電気がついていました。妻が「電気ついてるわね」と言いました。夫は「ああ、そうだな」と言いました。妻は「あなた消してよ」と言いました。夫は「お前が気付いたんだから、お前が消せよ」と言いました。妻は「あなたは男でしょう。あなたが消してよ」と言いました。夫は「こういうことは女がやるべきだ。お前が消せよ」と言いました。「いいえ、あなたが消すべきよ」「いや、お前が消せよ」。なんと、1つの電気をだれが消すかで、2時間やりあっていたそうです。

エペソ5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」「それはそうとして妻を愛せよ」とは、「無条件に愛せよ」ということです。なぜなら、教会がキリストに不従順であっても、キリスト様が無条件に教会を愛してくださっているからです。でも、最後に、ひとこと言わせてください。「妻もまた自分の夫を敬いなさい」とあるように、どうか妻たちよ、夫を敬ってやってください。夫は妻から敬われるとき、「ああ、妻を愛したい」という思いが湧いてくるからです。夫を見下したり、うとんじると、妻への愛もなくなります。どうか、夫を敬ってやってください。お願いします。


2.結婚の回復

エペソ5:31「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」とあります。「結ばれ」という原文「固くくっつく」という意味のことばです。英国の聖書は、cleave「主義などを固守する」あるいは「人に忠実である」という意味があります。カウンセリングの丸屋真也師はこう述べています。「『結ばれ』はコミットメントである。困難があってもそこから離れない。そのため、何かあったときに『解ける』という選択肢も持たない。ただ問題のあるのは、そういう確信を持っている中で、逆にこのコミットメントを悪用してしまうことである。相手にいろんなことを望み、自分の問題を改善しないために、いろんな悲劇が生まれる。そして、なお罪を犯し続ける。コミットメントとは機械的なものではなく、自発的なものである。繰り返すと切れてしまう。一旦、切れると修復できない。」「コミットメント」は日本語にするのが難しいことばです。強いて訳すなら、「専心」「献身」「打ち込み」という意味です。結婚に対するコミットメントを4つのレベルに分けることができます。一番高いレベル1ですが、「コミットメントがあり、愛もあるが問題もある」というレベルです。一番下のレベル4は「コミットメントも積極的な愛もなく、解決しようともしない」というレベルです。ハネムーンのときはお互いにコミットメントが高いでしょう。どんなことがあっても、お互いの気持ちが変わりません。なぜなら、「相手を良く見よう」「相手に良く見せよう」という原則が働いているからです。しかし、その後、何かが起こります。夫の借金が発覚したり、依存症が見えてきます。今までは「良く見せよう」としていたので、本当の姿が現れていなかったのです。妻は、夫に「改めて欲しい」と喧嘩をしますが、夫の問題行動が変わりません。妻のコミットメントは1であっても、夫のコミットメントはレベル2から3と下がっていきます。「夫は、クリスチャンは離婚はない」という確信があります。しかし、夫が全く変わらないので、妻の気持ちがどこかで落ちてきます。妻のコミットメントも2から3と下がっていきます。やがて、どうしようもない状態に定着します。妻は「この人はダメなんだ」と思います。そして、「クリスチャンは、離婚はしないけど」と言っても、別居します。

日本ではカウンセリングを受けるという習慣がほとんどありません。相談に行くところは、区役所か家庭裁判所であって、「どうやったら離婚できるか」ということを聞きにいきます。しかし、両者の間に介入することができたら、結婚が回復する可能性があります。丸屋先生は結婚と家族カウンセリングをよくなさっていますが、このようなことを聞きます。介入が始まると、今まで我慢していた分、妻が過激になります。「あなたとはやってゆけない!」と、これまでのことがバーッと出てきます。夫はそれで初めて、自分の状況を知ります。つまり、加害者が被害者から過激なことを聞くと、「底打ち」状態になります。つまり、それまでは「何をしても赦される」と高をくくって来ました。被害にあっている伴侶は、牧師に相談することさえ拒否します。なぜなら、「離婚してはならない」という神の明確なことばがあるからです。丸屋先生は「みことばに『離婚してはならない』と書いてあるのは、クリスチャンは離婚しないという前提ではない。罪が入るならば離婚もありうる」と言われました。そうなると、夫の方も真剣にならざるを得ません。しかし、コミットメントが下がった二人を引き上げるのは簡単ではありません。もし、夫が加害者であるならば、「ああ、底がついた。これはただことではない。本気で改めよう」と決意しなければなりません。そのため行動が変わってきます。でも、そのとき、夫は「俺はこんなに変わったのに、妻は変わっていない」と文句を言ってはいけません。妻の方はこれまで苦しみが長かったので、夫の「誠意への疑い」があります。「本当にそうなのかな?」と思って、コミットメントがなかなか上がりません。妻を責めるとますます上がらなくなります。なぜなら、人間には防衛本能があるからです。「妻に変わってほしいから、自分が変わる」というのは、本当の変化ではありません。夫は良い行いを継続していきます。しかし、妻は変わる様子がありません。妻の夫に対する「可能性への疑い」があります。それでも、夫は継続していきます。「どのくらい?」分かりません。もう、妻がどう判断するか関係なく、自分がすべきことをやっていきます。どのくらい続くのだろうか?妻の夫に対する「継続への疑い」があります。それを乗り越えるとやっと、妻の気持ちが上がり始めます。妻は3つの疑いの段階を乗り越えるとき、気持ちが回復します。そこで、初めて信頼関係ができます。

私たちは「結婚の回復」を考えるときに、「いつ家庭が壊れたのか?」ということを知らなければなりません。創世記3章にまで遡ります。ヘビに化けたサタンが、エバを誘惑しました。そして、エバは食べてはならない木の実を食べました。そばに、アダムがいたのに、止めませんでした。逆に、アダムはエバが差し出した、実を食べてしまいました。その後、神さまが、アダムに「あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか?」と聞きました。アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と答えました。神さまが、エバに聞くと「ヘビが私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と答えました。このところから第一にわかることは、サタンの策略は、家庭を破壊するということです。サタンは妻と夫を分離することによって、家庭を攻撃するのです。第二はアダムがかしらとしての役割を果たしていないということです。エバが最初に食べましたが、神さまがアダムに尋ねたのは理由がありました。エバは直接、神さまから命令を聞いていません。アダムがエバにちゃんと教えていませんでした。そればかりか、エバが誘惑されるのをそばで見ていたのです。正しい夫であるならば、ヘビの頭を叩いて、去らせるべきでした。第三はだれも責任をとっていないということです。アダムはエバのせいにしました。エバはヘビのせいにしました。今日も、家庭が壊れているのに、だれも責任を取らないということです。だれも敗れ口に立とうとせず、「妻が悪い」「夫が悪い」と相手のせいにしています。神さまはご自分のかたちに似せて、男と女を創られました。二人が結婚して家庭を築き、ご自分おかたちを増殖させることは神さまのみこころでした。ところが、サタンが神さまの計画の邪魔したのです。サタンは、夫婦の間を壊すならば、家庭が壊れ、やがて社会全体が壊れることを知っていたのです。この時代、離婚率が上昇しているのは、サタンが大活躍しているからです。

しかし、イエス・キリストは結婚を回復し、家庭を回復するために、この世にやってこられました。イエス様はルカ11:17「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、うちわで争えばつぶれます」と言われました。内輪もめしたらサタンの国ですら、立ち行くことができません。家にしても、夫婦がうちわで争えばつぶれます。私たちはそれを知ってか、知らぬか、やっています。そして、夫婦が別れ、子どもたちも散らされます。しかし、それはサタンの思うつぼであります。イエス様はヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。つまり、盗人であるサタンによって、家庭が攻撃されているということです。サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。本来なら二人でサタンに立ち向かわなければならないのに、内輪もめしています。「妻が悪い」「夫が悪い」と相手のせいにしています。しかし、イエス様は何のために来られたのでしょう?「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」イエス様は豊かな人生を与えるために来られました。豊かな人生の中に、結婚の回復、家庭の回復も当然入っています。なぜなら、家庭こそが神さまが教会よりも、先に創られたからです。神さまの愛のかたちを現わしているのは、家庭の方が先だったのです。どのようにすれば回復されるのでしょうか?それは、贖い主であるイエス様を間に迎えるということです。イエス様は一度壊れた関係を結びなおしてくださいます。イエス様は一度死んだ関係を復活させてくださいます。なぜなら、ご自身が死んだ後、よみがえられたからです。しかし、私たちにやるべきことがあります。犯した罪を告白し主の赦しをいただきましょう。そして、訴えや、恨み事、過去の過ちを墓の中に埋めましょう。二人がイエス様の贖いの中に飛び込むとき、結婚が回復します。ある人たちは、「幸せになるために結婚します」と思っています。そうではありません。二人が神さまの命令を守って行くと、その後から幸せがくっついてくるのです。またある人たちは、「私を幸せにしてください。そうしたら、私もあなたを幸せにします」と伴侶に要求します。それも聖書的ではありません。愛は一方的で、無条件であるべきです。つまり、相手を幸せにするために仕えていくのです。見返りがすぐに、来るかどうか、わかりません。それでも、ひたすら相手を幸せにしようと仕えていきます。すると、やがて、相手が感謝のしるしに、「私もあなたを幸せにするように仕えます」となるのです。結論的には、結婚は幸せになるのが目的ではないということです。むしろ、結婚は神さまの御姿になるように建て上げられためにあるのです。箴言27:17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」お互いが研ぎ合いながら、神さまの御姿になるのです。結婚は両者が建て上げられるために、すばらしい機会となるということです。


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2011年9月18日 (日)

 「父と母を敬うとは?」  出エジプト 20:12、エペソ6:1-4  [ 伝道師 毛利佐保 ]

聖書の中には、家族、家庭、社会生活、教会のあり方について語られている箇所がたくさんあります。

本日の聖書個所は「イスラエルの民をエジプトから導いたモーセが、シナイ山で神からいただいた「十のことば」、十の戒め「十戒」の中のひとつです。

十戒は皆さんご存知の通り、1.ほかの神々があってはならない、2.偶像を造ったり拝んだりしてはならない。3.みだりに主の御名を唱えてはならない、4.安息日を守りなさい、5.父と母を敬いなさい、6.殺してはならない、7.姦淫してはならない、8.盗んではならない、9.隣人に対し偽りの証言をしてはならない、隣人のものを欲しがってはならないという十の戒めがあります。今日のメッセージでは、この第5番目の戒め、

<出エジプト記 20:12>

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

というみことばを新約聖書のエペソ書でパウロが引用して訓戒している箇所がありますので、そのみことばと照らし合わせながら「父と母を敬う」とはどういう事なのかを考えていきたいと思います。

*********************

聖書を読みましょう。

<エペソ6:1-4>

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

※「父と母を敬うとは?」

第一番目のポイントは、

1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。

・・・ということです。

時代はどんどん変化していきます。

聖書の中でも、旧約時代~新約時代と親の権威は移り変わっていきました。

では、どのように親の権威が移り変わっていったかということを、旧約時代~現代まで見ていきましょう。

Ⅰ.旧約聖書の時代

旧約聖書においての両親の位置づけは、「両親は子どもに対して神の権威を代表する者」 でした。

従って家庭における宗教の教育は、両親に課せられた重大な責任でした。両親は子どもを生んで、ただ育てるだけで親としての責務を果たしているわけではなく、神の戒めを正しく教え、信仰によって養育する必要がありました。そうすることによって、地上における神の代行者としての親の責任を果たすことになりました。

そういうわけで、両親に服従することは神に服従することと同様に考えられていました。

この十戒が与えられた部族時代は、父親の権威は驚くべきものでした。家長であったばかりか、統治の長、軍事的指導者、裁判官でもありました。剣を使っても、法律を使っても、呪いを使っても、子どもを生かしたり、殺したりすることができましたし、子どもに対する権力は絶対的でした。

当時はイスラエルの民たちが自分の所属する部族の一員であると認識することが重要であって、自分自身が何者であるかとか、個人というものは二の次でした。ですから、部族社会では、人はその人自身である以前に父の息子という立場でした。

またこの時代は、子どもの数というのは富と力のしるしでした。

ヨブ記には、家の繁栄のしるしとして、大家族であったことが、羊や牛の群れと同様に書かれています。

そういうわけで、たとえ利己的な父親でも、自分の家族を守るためにそれなりに面倒をみることは当然でした。だから文句のない忠誠と服従とで親を尊敬するように子どもを教育することが可能でした。

Ⅱ.新約聖書の時代

しかし、パウロの時代には大きく変わってきたようです。

そのころの地中海流域は人口が増加し過ぎたようで、必死で子どもを産まないようにする方法が盛んだったそうです。家族生活は崩壊し始めていました。

ですから、パウロはエペソの6章でこの第五戒を引用したときにこのような言葉を付け加えました。

<エペソ6:4>

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

「子どもをおこらせてはいけません。」・・・とパウロは付け加えたのです。

子どもは親に対しておこっても良い時代になったんですね~~。

旧約時代では、無条件に完全に支配できたはずの自分の子どもでしたが、ここでは、親の方にも戒めの言葉があります。親という立場を乱用することがないようにして、しっかり子どもを育てなさいと書かれています。

旧約の時代とはかなり違っていますね。旧約時代は親に対して子どもが意見するなどということは考えられなかったはずですが、パウロの時代には子どもが親に対して、自分の考えを言えるようになってきたということでしょうか。

Ⅲ.近世~近代(モダニズムの時代)

                   

では次に、啓蒙思想などが出てきた中世は割愛して、もう少し新しい時代18世紀~20世紀あたりの近世~近代では親の権威はどのようになっていったかを見て行きましょう。

19世紀の文学者グリム兄弟の作品のひとつに「としよりのおじいさんと孫」という話があります。

このお話はこの時代の様子をうまく表していると思いますのでご紹介します。

************** 「 としよりのおじいさんと孫」 *****************

昔、小柄な老人がいた。

目はしょぼしょぼ、手は震え、ものを食べるときはカタカタ食器を鳴らして不愉快な音をたて、うまくスプーンで食べ物を口に入れることができないので、食べ物をテーブルクロスによくこぼした。

他に住む所もなかったので、所帯をもった息子と一緒に住んでいた。

嫁は現代的な女で、家庭の中で年寄りの舅に耐えるべきではないと思った。

「もう我慢ができないわ!私の幸せがダメになるわ。」と嫁が言った。

そこで嫁と息子は老人の腕を優しく、だがしっかりと掴んで、台所の隅に連れて行った。

小さな椅子に座らせ、僅かな食べ物を粗末なボールに入れて渡した。

それから老人は、食卓の方を悲しそうにしょぼしょぼと見ながら、いつも隅で食事をした。

ある日、老人はいつにもまして手が震え、食器を落として割ってしまった。

「豚のように食べるのなら、飼い葉桶で食べなさい。」と嫁は言った。

そこで小さな木の飼葉桶を作り、老人はそれで食べるようになった。

この夫婦には4歳になる息子がいて、二人はこの子をとてもかわいがっていた。

ある日、夫はその子が木切れで熱心に何かを作っているのを見て、「坊や、何を作っているんだい?」

と、尋ねてみた。

「お父さん、ボク、飼葉桶を作ってるの~」

・・・とほめられることを期待して、親の顔をニコニコと見ながら子どもは答えた。

「ボクが大きくなったら、お父さんとお母さんに食べ物をあげるときに使うんだ~ 」

夫婦はしばらく何も言わずに顔を見合わせていた。

・・・それからちょっぴり泣いた。

それから、隅に行くと、小さな老人の腕をとり、食卓に連れ戻した。気持ちの良い椅子に掛けさせ、お皿に食べ物をとってあげ、それからは、音を立てたりこぼしたり物を割ったりしても、文句を言う人はなかった。

*******************

グリム童話は、残酷な結末が結構多いのですが、この話はわりと爽やかな結末ですね。この小話が語っているのは、「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」という戒めのようですね。

この時代は、「モダニズム(近代主義)の時代」と言われています。

モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動を指しますが、思想や体系としては、権威主義的なものから啓蒙主義を経て人間理性中心へと変わって行った時代です。人間中心、進歩主義、産業中心、画一化といわれるこの時代は、良くも悪くも人々は団結し、みんなが信じる共通の真理がありました。また、一つの目標に向かってみんなで進むことができた時代でした。科学なども発達しました。

ですから、親の権威に関してもこのグリム童話のように、

「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」

と言われると「ああ、やっぱり親は大事にしなきゃね。」「そうだね。」とみんなが思うことができました。

親の権威に関しても、かろうじて「あった」と言えます。

Ⅳ.現代(ポストモダンの時代)

では現代、21世紀はどうでしょうか。現代は近代の後の時代、「ポストモダンの時代」と言われています。

ポストモダンは、みんなで共通の真理を持つことがなく、中心になるものもありません。個々が自由に動き、自分の価値観を大切にする時代です。おのおの大切にするものが違いますから、先ほどの小話のように、両親を大事にしている姿を自分の子どもにばっちり見せて育てたとしても、将来思ったように自分を大事にしてくれるかどうかは怪しいですよね・・・。

「親の権威は地に落ちた」と言った感もありますが、正しく言えば画一化されていた近代の“親の権威”という言葉に対する認識が、現代は変わってしまったということかもしれません。

ですから、「親の敬い方もそれぞれでいいじゃないか。田中さん家や鈴木さん家がこうでも、うちはこれでいいじゃないか。」と考えるのです。

しかしここで大切なのは“聖書は何と語っているか”ということです。

聖書は

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

「両親に従う」ということは「正しいこと」だとパウロは言っています。

「正しいことだからです。」とはっきり言われると、何にも言えなくなりますね。

しかもここでは、「両親の面倒をみなさい。愛しなさい。」とか言っているのではなく、「従いなさい」なのです。

ポストモダンの時代は曖昧な時代でもあります。

「みんな違ってみんないい」という言葉や、「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉をよく聞きますが、“互いの価値を認め合う” という点ではとても聖書的で素敵だと思いますが、注意する必要もあります。

例えば、「いろんな考えがあるからパパは君の考えを尊重するよ。パパはパパ。君は君。もし君がパパに従いたいと思ったら従えばいいよ。」と言ってあげたいけれど、そうなると聖書のみことばの本来の意味からずれてしまいます。聖書は旧約の時代から一貫して「あなたの父と母を敬いなさい」と語っています。

ですから、「いやぁーん、もう!イエス様の言う事もパウロの言う事もこの時代にマッチしてないし、ちょっと変えてみてもいいんじゃない?“あなたの父と母を敬いたかったら敬いなさい”とかに・・・。」

などと言いたくなっても、聖書のみことばは永遠で、「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めは、変更不能の戒めなのです。

ですから、父と母を敬うとはどういうことなのかを、世の風潮に惑わされないで聖書のみことばを読み返し、神様に祈って聞いて実行する必要があるのではないでしょうか。

※「父と母を敬うとは?」 第一番目のポイント

1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。

・・・ということでした。

しかし今までの話は、理屈や頭では理解できても、実際に両親を敬い従うことを実行に移せるのかというと、いろいろと難しい問題があります。

例えば、両親の仲が良い円満な家庭に育てば、子どもたちも自然と、両親を敬い、従えるものですが、とてもじゃないけれど、両親のどこをどう見たら敬うことができるのだろうか?という家庭に育った人には、このような主の命令は苦痛でしかありませんね。

また、天涯孤独に育った人、敬いたくても両親はもうすでに亡くなってしまった人もいます。

「この聖句は自分には全く当てはまらない」と感じておられる方は、どう受け取れば良いのでしょうか。

※「父と母を敬うとは?」

第二番目のポイントは、

2.みことばの本質を知り幸せになりましょう

実はこの聖書の「父と母」とは自分の両親のことを指しているだけではないのです。

ウエストミンスター大教理問答という、改革派の教理問答がありますが、そこにはこう書かれています。

**********************

<ウエストミンスター大教理問答 問124>

問124 第五戒の父や母とは、だれのことであるか。
答 第五戒の父や母とは、本来の両親ばかりでなく(1)、すべて年齢(2)や賜物(3)での上の人、特に家庭(4)・教会(5)・または国家社会(6)のいずれであれ、神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指すのである。


(1) 箴言23:22,25、エペソ6:1、2  (2) Ⅰテモテ5:1,2  (3) 創世4:20,21,22、45:8
(4) 列王下5:13  (5) 列王下2:12、13:14、ガラテヤ4:19  (6) イザヤ49:23

***********************

第五戒の父と母とは、「神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指す」

と、広い意味ではこのように考えられています。

ということは、とんでもない上司にも、大嫌いなあの人にも、従わなければならないのか?!

・・・ということになりますね。

ではなぜ、神様はそこまで、権威に従い敬いなさいと言われるのでしょうか。

聖書の次のみことばを見て行きましょう。

<エペソ6:2-3>

6:2

「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

6:3

「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

・・・権威に従い敬いなさいと主が言われるのは、私たちがしあわせになるためなのです。

出エジプトに書かれているモーセの十戒では、「あなたの齢が長くなるためである。」とだけ記されていますが、申命記5:16に書かれている十戒には、「それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」と、「しあわせ」という言葉が加えられています。

この「しあわせ」とは、どのような状態になることを言っているのでしょうか?

世の人々がうらやむような生活の事をいっているのでしょうか?財産や地位や名誉を得ることでしょうか?

それも祝福ですが、「本当の幸せ」とは、「神様とともに歩む」ということではないでしょうか。

イエス様を信じて、クリスチャンになっても、私たちの人生には辛いことがたくさんふりかかってきます。でも、

そんな時でも不思議と心に平安があったり、立ち上がる力が湧いたりするのは、私たちの創造主、完全で、真実で、永遠なるお方、主がともにおられるからです。イエス様が私たちのくびきを負ってくださるからです。

権威上私たちの上にある人は、神様が権威を与えた人なのです。また、神様は私たちにとって最高の権威者です。神様は私たちの父と母でもあるということです。「あなたの両親に従いなさい、父と母を敬いなさい。」というみことばは、神の戒めに従いなさいということです。神様からの戒めを守ることによって、私たちは神とともに歩む幸せと、神からの大いなる祝福を得るのです。また、その幸せは、愛の連鎖となって、私たちの周りの人をも幸せにしていきます。

そしてその幸せは教会にも広がっていきます。

先ほど現代はポストモダンの時代だという話をしました。現代は個人主義の時代ではありますが、「誰かと何かを共有したい。どこかで繋がっていたい。」と思うのもポストモダンの特徴です。ですから、FacebookやMixiなどのソーシャルネットワークなどが盛んになるのです。私たちは何か共有するものを見つける時、無意識に良いものを選びとろうとします。教会は、主に在って人と人とがリアルに繋がることが出来る場所です。

教会を知らない人たちが、この亀有教会に繋がっていたいと思うような場所にして行けるといいですね。

そのためにも、主の戒めに従うことが大切です。神様は私たちに素晴らしい命令をくださっています。

聖書に書かれている神のご命令は、時には厳しく耳が痛いこともありますし、理解しにくい箇所もあります。でも、すべての命令が、私たち人間が幸せになり、豊かになるようになるためのものばかりなのです。

2番目のポイントは、

2.みことばの本質を知り幸せになりましょう

でした。

最後に三つ目のポイントです。

3.親の務めを果たしましょう

もうひとつ、大切な事をパウロは語っています。

<エペソ6:4 >

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

聖書は、子どもに対して父と母を敬いなさいという戒めを与えるとともに、父や母なる立場である人々、権威上、上の立場となる人々にも、訓戒を与えています。

「子どもをおこらせず、主の教育と訓戒によって育てなさい」

「子どもを育てる」ということは、愛と忍耐がなければできないことです。子どもは何度でも失敗をします。

その失敗を大きな愛で赦し、慈しみ、導かなければなりません。また子どもはまったく私たちの思い通りにはなりません。私も一人ばかり子どもがおりますが、何かあるたびに親として責任を感じてしまうような時も多々あります。また、会社で言えば、手塩にかけて育てた部下が恩を仇で返すような形であっさりと辞めてしまったり、裏切られたりということもあります。

親の立場に立つ人たちはいろんな葛藤を覚えながらも、イエス様を模範として子どもたちを導いていかなければなりません。

イエス様は弟子たちをどのように育てましたか?

イエス様は、当時地位の低かった女性や子どもたち、疎んじられていた病人たちや、奴隷たちにどのように接して育ててくださいましたか?

このポストモダンの時代に、権威が失墜しつつある状況の中で私たちは子どもを、部下を、自分より弱い人や守らなければならない人たちをどう育てていけばいいのでしょうか?

エペソの6章でパウロはこのあと、奴隷と主人に対して訓戒し、このみ言葉が記されています。

<エペソ6:18>

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

主のみことばに聞き従い、父と母を敬っていきましょう。そして、幸せになりましょう!!

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2010年12月26日 (日)

五職の意義    エペソ4:11-15、Ⅰコリント14:23-31

 聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」と書いてあります。この5つの聖霊の賜物を「五職」とか「職務の賜物」と呼んでいます。五職は教会を整えるために神さまが特別にお与えになったものです。しかし、現代の教会において、真っ向から対立する考えがあります。ある人たちは、「聖書が完成したときから、使徒や預言者はもういない」と言います。しかし、ある人たちは、「終わりの時こそ、これらの五職を回復しなければならない。使徒や預言者は存在している」と主張します。ある人たちは、「私は使徒○○である」とか「私は預言者の○○である」と自分に称号を付けて呼んでいます。ちょっと行き過ぎている感じがします。しかし、教会に牧師と教師しか存在していないと主張するならば、バランスを欠いてしまうでしょう。

1.五職の意義

 では、五職あるいは、職務の賜物が教会に与えられた目的は何なのでしょうか?エペソ4:12、13「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」教会に五職が与えられた目的が2つあります。第一は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」だということです。奉仕の働きをするのはだれなのでしょうか?聖徒たちです。聖徒というのは、教会のクリスチャンです。クリスチャンが、第一線で奉仕の働きをするのです。しかし、奉仕の働きができるためには、整えられる必要があります。「整える」は、英語でequipping と言います。これは装備させるとか、能力を養うという意味があります。第二の目的は、「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。これは、信仰、知識、人格的な面が強調されると思います。技術もさることながら、精神面の強さや協調性も必要です。教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。キリストのからだとはどういう意味でしょうか?私たち一人ひとりが器官だということです。心臓や手足がからだから独立して存在できないように、私たち一人ひとりはからだにつながらなければ、まともな働きができません。

 五職の人たちは、いわば教会の指導者です。聖徒たちがキリストのからだをちゃんと建て上げることができるように指導するように、キリスト様が立てたのです。しかしながら、現代、使徒とか預言者、あるいは伝道者と呼ばれる人たちは、キリストのからだなる教会を無視して、自分のミニストリーをしています。「私は使徒○○です」「私は預言者の○○です」「私は伝道者○○です」。そういう人たちは、どこかでセミナーを開いたり、大会を開いて人々を集めます。彼らはだれを指導するのでしょうか?牧師を指導すれば良いのですが、教会の枠を超えて、一般信徒にミニストリーをします。一般信徒たちは、あっちのセミナー、こっちの大会に行って、新しいことを学びます。霊的賜物もいただくかもしれません。そういう人たちが教会に帰って来ると、「うちの牧師は遅れている。霊的賜物について無知で力がない」と裁きます。そうすると、牧師はむかっと来て、その信徒を追い出すか、あるいは使徒、預言者、伝道者のミニストリーを批判します。そういう問題がかなり前から起きています。五職の人たちが教会に仕えるのではなく、教会を越えて自分のミニストリーをすると変になるのです。エリヤハウスもある意味では、預言者的な働きです。でも、ちゃんと教会の牧師の理解を得ながら、ミニストリーをしています。それが大事です。

 また、もう1つは新約聖書で言われている教会のサイズです。初代教会のサイズはどれくらいだったのでしょうか?さきほどⅠコリント14章をお読みしました。彼らはそこで、預言を話したり、異言を話したり、あるいは、賛美したり、教えたりしています。100人くらいでしょうか?私はもっと小さな集会ではないかと思います。みなが学んだり、みなが預言したり、その預言を吟味するくらいの大きさです。初代教会はたくさんの家の教会がありました。私たちのような教会堂というのはおそらくなかったでしょう。ですから、Ⅰコリント14章の集会は20人、多くて50人くらいではないかと思います。このところで言われているのは、コリントの町全体のクリスチャンの集まりではないと思います。五職の人たちは、町にある教会を行き巡って奉仕をしていたのではないかと思います。何のためでしょうか?聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。そして、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。五職の人たちが各々教会に関わるときに、キリストのからだとして、バランスの取れた働きとバランスの取れた成長ができるのです。

2.五職の働き

 後半は、それぞれの五職の賜物がキリストのからだなる教会でどのような働きをするのかをお話しいと思います。順番は、預言者、伝道者、牧師、教師、使徒にさせていただきます。第一番目は預言者です。旧訳聖書にはたくさんの預言者が登場します。新約聖書にはアガボという預言者がいました。預言者はどのような働きをするのでしょう?教会に神の御心や将来の方向を示してくれます。ある時は、厳しく罪を糾弾するかもしれません。預言を受けた人は、「パァー」と信仰と希望が出てきます。また、預言者は人々に霊的な賜物を注ぐ器としても用いられます。彼が按手すると、御霊に満たされたり、御霊の賜物を直接授けることができます。リバイバルになるとこういう器が用いられます。でも、欠点もあります。罪を示したり、悪霊を追い出したりしますので、信徒がびくびくして近寄ることができません。では、預言者はキリストのからだなる教会に何をさせるのでしょう?それは、互いに預言することを勧めます。使徒パウロは、Ⅰコリント14章でみなが預言することを強調しています。しかし、ここで言われている預言と預言者の預言とは違います。Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」一般にだれでもが話せる預言は3つの働きがあります。第一は徳を高める。人々の人格や信仰を建て上げるということです。第二は勧めです。これは励ましとも言えますが、人々がさらに神さまに近づくことができます。第三は慰めです。神さまは預言を通して、私たちの心を癒してくださいます。この預言は未来を予知したりするものではありません。励まし程度の預言ですから、安心してください。そして、神さまは3つの方法で語ってくださいます。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」第一は耳ではなく、霊の耳に語ってくださいます。耳で聞こえる肉声ではありません。霊に1つか2つのことばが与えられます。完全な文章ではありません。1つか2つの単語です。浮かんだことばを口に出すと、次のことばが出てきます。預言のギリシャ語は「湧き上がる」と意味があります。勇気を出して、そのことばを口に出すと、次のことばが出てきます。さらにことばが出てくると、物語になります。第二は目ですが、肉眼ではなく霊的な目です。霊に絵やビジョンがはっと見えます。第三は心です。これは印象、あるいは直感です。私たちは「ああ、これは自分の感情だ」と思って退けるかもしれません。しかし、聖霊が与える印象があります。預言者は何をするのでしょうか?キリストのからだの中で、互いに預言をして、徳を高めるように指導するのです。

第二は、伝道者です。この人はどんなところへ行っても福音を語ることができます。「滅び行く魂の救い」こそが、彼のキーワードです。大勢の前でも、また個人でも、いつどんな時でも、福音を語って人々を救いに導こうとします。彼のメッセージはとても単純です。でも、彼が語ると人々が霊的に感動し、「信じます」と、前に出てきます。多くのリバイバリストは、伝道者です。DL.ムーディ、チャールズ・フィニー、ビリー・グラハムがそうです。天に召されましたが本田弘慈先生がそうです。伝道者が教会に来ると、「あなたは伝道していますか?あなたも伝道しなさい」とチャレンジします。教会が内向きになっているとき、伝道者を呼ぶと失われた魂に関心を持つようになります。伝道者の人が牧師になるとどうでしょうか?外にばかり出て行って、牧会が留守になります。いつもメッセージが単純なので教会員が養われません。栄養失調がちになります。でも、教会が外向きになって魂を捕らえることのため、とても重要な賜物です。これまで、私たちは伝道というと、伝道者を呼んで特別集会を開いたり、大きなクルセードに人々を誘いました。昔はともかく、現代ではそういう方式はあまり効果的ではありません。多額の予算をかけても、人々が来ません。では、「四つの法則」使って誰か人を捕まえて、個人伝道できるかというとこれも無理です。どうすれば良いのでしょう?今は人間関係を通して、福音を伝えることが効果的だと分かってきました。教会はキリストのからだです。一人ではなく、からだを通して伝道すれば良いのです。からだの中にはいろんな器官(賜物)があります。福音を語れなくても、もてなしたり、仕えたりして関係を持つことができます。他に、口の達者な人が語れば良いのです。でも、その前に人間関係が築かれている必要があります。一人ではなく、からだの伝道、関係中心の伝道が今、注目されています。伝道者の賜物人は、教会の人たちを失われた魂に関心を持たせます。私たちは、いろんな賜物を提供して、失われた人に福音を伝えるべきです。

第三は牧師です。牧師は人々の霊的な状態に気を配ります。そして、みことばを与え、彼らを養います。ちょうど、羊飼いのようです。牧師は同じ場所で、同じ会衆でも、ずっとやっていくことができます。人々を養い、養い、さらに養います。欠点は何でしょうか?信徒が栄養過多、太りすぎて活動が鈍くなるということです。だから、使徒や伝道者が来て、お尻をひっぱたくことが必要です。以前は、人々のお世話をすることが牧師だと思われてきました。神学校でも、みことばによって、人々を慰め、人々に仕えることが牧会だと教えています。しかし、最近は、「真の牧師とは、人々を整え、彼らが奉仕できるようにすることなんだ」と弟子訓練を強調するようになりました。つまり、お世話型の牧師から、訓練型の牧師になるということです。もし、牧師が問題の火を消す消防士だったらどうでしょうか?四六時中、電話から離れられず、しょっちゅう出かけて、火を消すというのはどうでしょうか。もちろん、ある時は、そういうことも必要でしょう。でも、教会員が訓練され成長し、自分たちで問題を処理できたら何と幸いでしょうか?ですから、問題が起こる前に、教えと訓練を与えておく必要があります。

牧師一人では限界があります。神さまは、キリストのからだなる教会において、互いにケアーをするように願っておられます。聖書には「互いに励まし、互いに勧め、互いに慰め合い、互いに助け合い、互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに赦し合いなさい」とたくさんの「互い」が記されています。昔の教会は、牧師にみんながぶらさがっている。まるで、長良川の鵜飼いのようです。一人、いったいどれくらいの鵜を操作できるのでしょうか?ある人は「牧師が50人、牧師夫人が50人と100名まで行ける」と言いました。そして、自分に教会員を依存させることによって、満足する。牧師はお世話することに喜びを感じ、教会員はお世話されることに喜びを感じる。これは、キリストのからだなる教会ではありません。からだの中で、互いにケアーする。互いに重荷を負い合う。エディ・レオ先生は、「ボディ・ライフ(からだの生活)」であると言いました。初代教会は毎日、だれかと合って、毎日、祈り合っていました。教会の兄弟姉妹が、肉親以上に親しかったのです。ボディ・ライフ(からだの生活)これが、理想的な教会です。

第四は、教師です。教師は聖書を学問的に良く学び、それを体系的教えることができます。教師は書斎にこもって本を読むのが大好きです。ギリシャ語やヘブル語、いろんな人の学説、いろんな資料から、みことばを解き明かします。「そんな問題は、重箱の隅をつっつくようなものでしょう」と言われても、全く意に介せず、とことん研究します。こういう人は、神学校の教授に向いています。欠点は何でしょうか?それは、教え過ぎるということです。そのかわり実践や適用がほとんどありません。そのため、その教会の信徒は頭でっかちになります。教師の賜物の先生は、元雪ノ下教会の加藤常昭先生、ホーリネスの小林和夫先生、教団教派の中にたくさんいらっしゃいます。教師の賜物は、勧めの賜物とか牧師や伝道者と連携するならば、豊かに用いられます。一人だけだと、象牙の塔にこもって、ひたすら研究に没頭することになります。教師の賜物は、自分が発見した真理を実践し、適用するように教会に働きかけていけば良いのです。

それでは、キリストのからだなる教会において、教師はどのようなことをさせる必要があるのでしょうか?教師の賜物は、自分も確かに教えるでしょう。しかし、それだけだと教会員は真理を自分のものにすることができません。ある人は、「口で教えられたことを聞くだけだと3%しか残らない」と言いました。しかし、自分で教えるならばどうでしょう?50~100%残るのではないでしょうか?コロサイ3:16「知恵を尽して、互いに教え合いなさい」と書かれています。では、どのように教え合うのでしょうか?セルチャーチで最も多いのが、講師が語った後、小グループで分かち合う時を持ちます。そこで、最も教えられたこと、あるいは理解できなかったところなどを分かち合うのです。そうすると、教えが頭から心の中に入ってきます。また、小グループでテキストを用いて、これはどういう意味なのか、どう適用したら良いのか、互いに教え合うのです。そういう場合、一人の人が一方的に教えるというよりも、みんなの意見や考えを引き出すようにしなければなりません。教える賜物のある人は、自分一人で語る傾向があるので要注意です。私は聖契神学校に入ったとき、ピーターソン校長先生というすばらしい教師に出会いました。これまでの先生は自分が得た知識を学生たちに提供するというものでした。しかし、ピーターソン先生は逆に質問して考えさせます。また、自分で調べて来るように課題を出します。そのとき、「イエス様の教え方は、むしろ、こうだったんじゃないか?」と思いました。西洋の教え方は頭脳だけに偏っています。しかし、東洋の教え方、イエス様もそうですが、考えさせて体験的に教える。自分で考えて、答えを出していくようにする。「私などはまだ、まだだなー」と本当に思います。とにかく、教師の賜物の人は、キリストのからだなる教会で互いに教え合うように勧めます。

最後は使徒です。本来、イエス様のもとにいた12弟子が使徒です。でも、バルナバとか直接イエス様と会っていない人たちも、聖書では使徒と呼ばれています。使徒の賜物は何でしょうか?使徒はまだ伝道されていない新しい地に出かけ、福音を宣べ伝え、教会を設立します。そして、キリスト教の教理を分かり易く教え、教会の基礎を作ります。使徒は、5本の指の親指のような存在です。親指は人指し指、中指、薬指、小指、どれにも接することができます。他の指でそれをするなら、できても2つか3つくらいです。うまく動きませんし、顔までゆがみます。でも、親指は自在です。これはどういう意味かと言うと、使徒は預言者、伝道者、牧師、教師、何でもできるということです。使徒パウロがそうでした。パウロは牧師であり教師であり、伝道者でした。でも、使徒には1つだけ欠点があります。同じところにずっと留まっていることができません。教会ができたら、新しいところに出かけて、また新しい教会を設立したくなります。使徒的な人は、1つの教会だけではなく、日本の教会、世界の教会を視野に入れています。「すべての国民を弟子とする」。これが彼のキーワードです。

 では、キリストのからだなる教会において、使徒の賜物はどういう働きをするのでしょうか?そうです。使徒的な人が来ると、人々の視野が広くなります。私たちはいつも、自分の教会、自分の群のことしか考えません。使徒的な人は、「今、日本の教会はどうなのか?世界の教会はどうなのか?」ということを教えてくれます。そして、教会が持つべきビジョンとか、いろんな戦略を与えてくれます。教会はどうしても、保守的になり、停滞してしまいます。しかし、使徒的な人が教会に来ると、カンフル剤が打たれたように、「おおー!」と奮い立ちます。日本では奥山実先生、草加の天野先生、それから天に召されましたけど石原先生がそうではないかと思います。使徒的な牧師は、牧師を指導する牧師でもあります。だから、そういう人は、教会を行きめぐり、教会を活性化する使命があります。

 このように神様は教会に五職の賜物を与えられました。それは教会を健全に建て上げるためです。牧師は教会の指導的な立場におりますが、牧師の中にも5種類の人がいます。使徒的な牧師、預言者的な牧師、伝道者的な牧師、いわゆる牧師、教師的な牧師です。さきほど申しましたが、自分の賜物だけを強調したならば、かならず偏りが出てしまいます。もし、自分と違った賜物の先生と会いますと、刺激を受け、視野が広くなります。当教会にも様々な立場の先生をお呼びしますが、そういうチャレンジを受けるためであります。ですから、神様はキリストのからだなる教会が、バランスを取りながら成長できるように、5つの職務の賜物を与えておられるということです。最後に、五職の賜物を矢印で説明するならばどうなるでしょう。ここに1つの教会があるとします。預言者は人々を神さまに向けさせようとします。「神さまに祈り、神さまから知恵と賜物を得なさい」と言うでしょう。ですから、預言者はからだを上に向かわせる人です。伝道者はどうでしょうか?伝道者はキリストを知らないこの世の人たちのところへ、からだを向けさせます。ですから、外向きであります。牧師は教会員を育てつつ、互いにケアーし合うようにさせます。ですから、それは内向きであります。教師は人々を教えて、成長させるように仕向けます。ですから、からだを前向きにさせます。では、使徒はどうでしょうか?使徒的がいないと、大きな絵、ビジョンが見えません。神さまの目的も分かりません。でも、使徒は建築科のように全体を見せてくれます。英語ではwholeです。ケーキを丸ごと、ホール・ケーキと言います。五職の賜物は、私たちを上向き、外向き、内向き、前向き、そして、全体に目を向けるように導いてくれます。このように、五職の賜物がキリストのからだなる教会に関わるとき、バランスよく成長できるのです。

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2010年11月 7日 (日)

御国をもたらす教会    エペソ1:20-23

 福音派の教会はもっぱら魂の救いでした。「十字架の贖いを信じて、一人でも天国に入ることができるように」と励んでいます。では、この世との関係はどうなるのでしょうか?「この世はまもなく終る。イエス様が再び、来られたら御国が完成する。それまでは、信仰を守り、ただひたすら耐えるしかない。この世はますます悪くなるだろう。私たちはこの世の悪に染まってはいけない。できるだけ、世とは関わらないようにしなさい」。その結果どうなるでしょう?ビジネスや政治、あるいは芸術に対しては消極的になります。神学校に入って牧師になるか、あるいは仕事をしながら日曜学校の教師をしたり、もっぱら教会内の奉仕に励むようになります。こういう考えが福音派の教会にあるのではないでしょうか?もちろん、この世の終わりは来るでしょう。しかし、私たち教会はこの世に対して、何をすべきなのか共に学びたいと思います。

1.神さまの願い

エペソ人への手紙には、教会に対する神様の偉大な計画が記されています。エペソ122,23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」このところで分かることは、キリストがすべてのもののかしらであるということです。イエス様は十字架で死なれてから復活し、天に昇り、父なる神さまの右に座っておられます。座っているとはどういう意味でしょう?イエス様は王として、かしらとして君臨しておられるということです。それでは、キリストのからだとはどこでしょう?教会こそが、キリストのからだであり、神様のすばらしいものが満ち満ちておられるところです。では、神様は何をしたいと望んでいらっしゃるのでしょうか?教会を通して、ご自身が持っているすばらしいものを、この世のすべてのものに満たしたいと願っておられるのです。この容器が教会としたら、神様が持っておられるものが水です。容器がないと水を留めておくことができません。教会は神様のすばらしいものが満ちているところです。そして、神様は教会という器を用いて、この世界をご自身のすばらしいもので満たしたいと願っておられるのです。では、神さまが私たちに与えたいと願っておられるもっともすばらしいものとは何でしょう?2つあります。

第一は、キリストの和解によってもたらされた神様の永遠の命です。神様はご自身の命である、永遠の命を私たちに与えたいと願っておられます。神の命を教会という器を通して、この世にもたらすのです。表現を変えるならば、これが宣教です。魂の救いのための宣教は、教会が担っている最大の使命です。マタイ2819「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」この命令こそが、イエス様が私たち教会に与えた最大の使命です。しかし、この命令を良く見ると、「あらゆる国の人々」となっています。英語ではAll nationsであります。この意味はどうでしょう?それは個人の救いはもちろんですが、国レベルの救いを神さまは願っておられるということです。個人を弟子とすることはもちろんですが、国を、国民をキリストの弟子とする。「わぁー、なんと大きい考えなのでしょう?大風呂敷を広げないでください!」と言われるかもしれません。でも、日本の教会に、この考えはとても重要です。日本の教会は、「自分の教会さえ良ければ、自分の教団さえ良ければ」という狭い考えがあります。だから、「羊が取られたとか、羊を取るな」とか教会間のいざこざが絶えません。終わりの時代、教団教派の壁を乗り越えて、国を、国民をキリストの弟子とすることに目を向けなければなりません。だって、教会のかしらはイエス・キリストさまであり、同じ主につながっているからです。だから、私の教会はあなたの教会のもの。あなたの教会の成功は私の教会の成功になるのです。

神さまが私たちに与えたいと願っておられるもっともすばらしいものの二番目は何でしょう?神様はこの世のあらゆる分野に、ご自身のすばらしいもので満たしたいと願っておられるのです。この世のどのような分野でしょうか?政治の分野を、ご自身のすばらしいもので満たしたいと願っておられます。神様は政治に無関心なのでしょうか?神様は国々を作り、国の境を設けました。詩篇2228「主は、国々を統べ治めておられる」と書いてあります。日本の政治には希望がありません。資源もなく、借金大国で、犯罪もうなぎのぼりです。もし、まことの支配者である神様に願い求めたら、資源と知恵と正義が与えられるのではないでしょうか?また、神様はビジネスの世界もご自身のもので満たしたいと願っておられるのではないでしょうか?聖書にはビジネスで成功した人たちのことが記されています。また、どのように商売したら良いか、その知恵や方策についても記されています。また、神様は芸術の世界もご自身のもので満たしたいと願っておられます。神様は偉大な芸術家ではないでしょうか?この世界がモノクロでなく、カラーなのは神様が芸術家だからです。この宇宙、大自然、動植物は神さまが造られたので、そのように美しいのです。神様は教育の世界もご自身のもので満たしたいと願っておられます。真理や法則は神様が造られたものです。人間がそれをあとから、1つ1つ発見しているに過ぎません。神様なしの教育は高慢な魂と荒廃した社会をもたらします。知識のはじまりは、神様を恐れることだからです。また、神様は医療の世界もご自身のもとで満たしたいと願っておられます。病のもとは、罪です。人間が罪を犯し、神から離れたために、死と病がやって来たのです。現代は精神的な疾患者がものすごく増えていますが、キリストによる罪の赦しと調和が心にないからです。他に、神様は福祉の世界、スポーツの世界、テクノロジーの世界もご自身のもとで満たしたいと願っています。神様の願いは、キリストからだなる教会を通して、ご自身が持っておられるすばらしいもので満たしたいと願っておられるのです。

2.神さまの方策

今からちょうど2年前です。江古田の聖書キリスト教会でメンズセミナーがありました。3日間の集会が終って、講師のエディ・レオ師と一緒に焼肉を食べに行きました。尾山清仁先生ご家族、通訳の高澤さん、斯波先生らで打ち上げをしました。エディ先生は3日間話したのに、まだ話し足りない様子でした。焼肉がなくなってきた頃です。エディ師が、焼肉のテーブルを囲んで、このことを熱く語ってくれました。これは教会で語られたのではなく、焼肉屋で語られた内容です。御国は英語でkingdomと言いますが、2つのことばで成り立っています。king王様とdomain領域(領土)です。王様でもdomain領域(領土)を持っていなければ、真の王様ではありません。では、教会とは何でしょうか?教会はギリシャ語でエクレーシア、「召し出された人たち」という意味です。しかし、当時、エクレーシアと言えば別の意味がありました。イエス様の時代、王様がその地域を治めようとするとき、最初に何をしたでしょうか?王様は一般の人たちの中から、お医者さん、軍隊の隊長、哲学者を呼び出しました。このような人たちが、王さまと一緒に決断をし、王様と一緒に国を治めたのです。エクレーシアとは何でしょう?とても単純です。王様のための大臣がエクレーシアです。王様は、ある大臣には軍事の領域に仕えるように、ある大臣には経済の領域に仕えるように、ある大臣には教育の領域に仕えるように任命しました。王様が、そのように召した人たちを、ギリシャ語ではエクレーシアと言うのです。エクレーシアはやがて、教会ということばに置き換えられました。神の国の王である神様は、ご自分の国を治めるために、クリスチャンを召しておられるのです。しかし、今日の教会は、ただ礼拝するために集まります。6日間、働いてとても疲れたので、リフレッシュするために教会にやって来ます。そして、牧師のメッセージ聞いて、家に帰ります。しかし、自分が何者であるかが分かっていません。エクレーシアとして、機能していないのです。エクレーシアとは大臣(ミニスター)のことです。本当は、すべてのクリスチャンが、王なる祭司なのです。本来なら、すべてのクリスチャンが、自分自身の領域を見出さなければならないのです。

そのエクレーシアが一緒になったときに、どういう話し合いがなされるでしょうか?オバマ大統領が大臣(アメリカでは長官)たちを集めたとき何を話し合うでしょう?「サラリーを上げてください」というような話し合いはしません。でも、教会では祝福をもらうために、そのようなことをしています。「私を祝福してください」「あなたは祝福されましたか?」。それはエクレーシアではありません。オバマ大統領はエクレーシアと何を話し合うのでしょうか?第一に、その国の将来を話し合うのです。その国の問題を話し合うのです。第二に、それぞれに与えられたところの領域について話し合うでしょう。なぜなら、それぞれが大臣として任された領域があるからです。もし、教会をエクレーシアと考えるなら、集まったときの話題が変わります。日曜日に会うときは、祝福を受けるために集まりません。そこで、王様が何とおっしゃるのか聞くのです。私たちの町について語ります。そして、そのニーズを満たそうとします。どのようにして自分の領域をさがしたら良いのか教えます。自分自身の領域を見つけると、自分の領域に喜んで出て行きます。教会の組織がプログラムを運営するのではありません。人々の中にいる神様ご自身が導いてくださるのです。霊に燃え、狂った人たちがミニストリーをするとき、自分たちでお金を出してでも、その働きをしようとします。そして、様々な領域が、重なり合って、一緒になって届こうとします。これはとてもパワフルです。

最も力強い働きは、キエフにいるサンデー・アデラジャによってなされています。彼はナイジェリア人です。たった14年間で、3万人の教会になりました。彼は神の国主導の教会をやっています。とても力強くて、国中が変えられました。あるとき、大統領が「共産党の政権が、終った後、どうしてこの国が成長したのでしょう」と質問されました。大統領が答えました。「あなたは間違った人に尋ねています。私は何もしませんでした。どのようにして、このような急速な成長が遂げられたのか?あそこにいる黒人の牧師に聞いてください。あの教会が私たちの国を変えているのです。」その教会は建物がありません。毎週、スタジアムで礼拝を持っています。3万人の人たちが集まりますが、みな働き人です。実際、教会員はそこに集まりません。教会はそこいら中にあります。牢屋、市場、政府の中に、家々に、500万人がその教会につながっています。サンデーの教会では、さまざまなミニストリーがあります。ある一人の若者がいますが、彼はまだ26歳です。教会で父なる神の愛によって触れられて、彼は決断をしました。「どのようにしたら父親になれるか」ということを教えるためにセルグループを始めました。そして、その働きがどんどん広がって行ったので、そのような組織を開設しました。「父親インスティチュート」というのを作りました。働きが大きくなったので、あるとき、政府が彼を呼び出し「あなたが教えている内容を教えてくれませんか?」と言いました。彼は、国の大臣たちに言いました。「国の政治で、技術者を訓練し、医者を訓練し、弁護士を訓練してきました。しかし、どうして父になることを教えられないのですか?それを教えることができないから離婚があるのではないでしょうか?」彼らは驚いて「どうやったら解決できるのですか?」と聞きました。彼は「私が助けてあげます」と答えました。政府が彼の「インスティチュート」を使って、17万3000人の人たちを訓練しました。彼は26歳ですが、そのような働きがたくさん起きています。300の麻薬から立ち直る施設ができあがっています。だれがお金を払っているのでしょうか?サンデーの教会から払っているのではありません。ビジョンをもらった人たちが払っているのです。そして、すべてのミニストリーが地域教会につながっています。どのミニストリーも教会と離れてはいません。とてもパワフルです。これが、自分の領域を発見した人の生き方です。神さまはあなたを天国に行くためだけに召したのではありません。この地上に、御国が来るようにあなたを用いたいのです。ですから、あなたしかできないあなたの領域があるはずです。どうかそれを見つけてください。

3.御国をもたらす教会

御国の福音を聞いてから、あるビジネスマンがエディ先生のところに来ました。ヤコブという背の低い人です。「エディ先生、私は、説教はできません。でも、今、私のミニストリーが分かりました。私のミニストリーは教会の中にはありません。私のミニストリーはビジネスの中にあります。私はどのようにしたら良いビジネスマンになるか訓練できます」と言いました。インドネシアではハウス・メイドがいます。彼女たちはとても貧しくて、月給が30から50ドルくらいです。ヤコブは家で働いているメイドたちを訓練しました。400人の人たちを訓練しましたが、全員、成功したビジネスマンになりました。ある女性が忠実に学びました。ヤコブは「もし、あなたがこのまま忠実であり続けるなら、どうやって管理したら良いか教えてあげます」と言いました。彼女は忠実にそれをやったので、今度は営業を教えました。そして、マーケティングを教えました。さらに工場をどのように始めたら良いか教えました。現在、このお手伝いさんは、工場を3つ持っていて、300人の従業員がいます。彼女の会社の売上がどのくらいか?月930万円くらいの売上です。彼女はそのことでイエス様を信じました。彼女が自分の町に戻ったときに、イスラム教徒の人たちをみんな会社の従業員にしました。そして、彼らに同じことを教えました。訓練するとその人たちは耳を傾けるようになりました。彼女の町はあまり良い町でありませんでした。道があまりよくなかったので、自分のお金を出して、町の道路をみんな舗装しました。そして、古い橋もかけ直しました。彼女は市長よりも有名になりました。

 エディ・レオ先生が、ある教会で2年間に渡って、神の国とは何かを教会員に教えました。イエス様が私を治めてくださり、イエス様と共に治めることを教えました。その教会に、小学校も卒業していない、シンプルなサイモンという男性がいました。ある日、神様が「サイモン、あなたの領域は気が狂った人たちである」と告げました。サイモンが住んでいた地域は、気が狂った人たちがたくさん住んでいました。あるとき彼がその町を歩いていると、3人の気が狂った人たちがいました。その時、神様が「そのおかしい3人を自分の家に連れて行って、あなたと一緒に住むように」とささやきました。それで、彼は3人を自分の家に連れて来ました。髪の毛を切ってあげて、爪を切って、食べさせて、体を洗ってあげて、愛して、彼らのために断食して祈りました。なんと、2週間で、3人の人たちが全員、癒されました。「私は心理学者ではない。ただ、断食して祈っただけなのに!」彼自身驚きました。その後、牧師が彼のしたことを知って「サイモン、あなたのミニストリーは何とすばらしいんだ。このことを教会で証しなさい」と言いました。サイモンは日曜日、このことを分かち合いました。どんなことをしているか、ビデオでも見せた。そのプレゼンティションを見て、教会のみんなが涙しました。神様は教会全員に触れてくださいました。その日曜礼拝の後、あるお金持ちがサイモンのところへやって来て、「サイモン、気が狂った人たち全員を集めてきなさい。私がお金を出すから。その人がもし癒されたら、その人に仕事を与える」と言いました。彼は7000万円くらいのお金を出して、彼の工場で働くための宿舎を建てました。それから、医者と看護婦がやって来ました。「サイモン、そういう人たちを連れてきたら、私たちは医療や薬を無料で提供しましょう」。若い人たちがやって来て「私たちはあなたと一緒にこの仕事をしたい。この町の気の狂った人たちを集めて連れてきましょう」と言った。その町のすべての気の狂った人たち癒すというキャンペーンを行いました。何百という人たちを連れて来た。彼らのために断食して祈りました。1ヶ月以内に、95%の人たちが完全に癒されました。何も精神医学を使っていません。何の薬も使っていません。ただ、祈りと断食だけです。神様はすべての人たちを癒してくださいました。癒された後、彼らはもともとイスラム教徒でした。彼らに名前を聞きましたが、精神的な病のために自分の名前を忘れていました。元イスラム教徒たちが、「サイモンさん、名前をつけてくれる?」と言いました。サイモンは「簡単だよ。名前がほしいんだね。私が新しい名前をつけてあげるよ。マタイ、マルコ、ルカ、ジョン、全部、聖書の名前だよ。良いね。」そして、彼らに洗礼を授けました。そして、彼らはクリスチャンになりました。ハレルヤ!その町には一人も、気が狂った人はいません。そして、教会の人たちは、自分たちの働きの場をどんどん見つけていきました。「貧しい人たちが私の領域です」という人もいます。ある人は、「若い人たちが私の領域です」と言います。そこから、たくさんのミニストリーが生まれました。この教会は2年間で、200人から5000人になりました。たった2年間です。なぜなら、神の国主導の教会になったからです。

 私たちは主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈ります。「御国が来ますように」と、願うことに、だれも反対する人はいないでしょう。だって、イエス様が祈りなさいと言ったんですから。でも、御国がどこに来るべきなのでしょうか?「この世が終わって、早く御国が来るように!」という意味でしょうか?それだと、この世からできるだけ離れて、この世と関わらない教会になります。そうではありません。「御国が来ますように」とは、第一に個人に神の救いが来るようにということです。イエス様を信じて、神さまと和解することによって御国が来ます。御国に住む人はイエス様を王様としてあがめ、イエス様に従順する人です。イエス様は神の国民である、あなたに必要を与え、守り、導いてくださいます。しかし、「御国が来ますように」という祈りは、この国に神のご支配が来るようにという意味でもあります。「この国のあらゆる分野に、神のご支配が来ることによって、神さまの良いもので満たされるように」という祈りです。私たちは王なる祭司として、この世に遣わされています。私たちがエクレーシアとして自分の領域を発見し、そのところに神さまの良いものを運ぶためです。その結果どうなるのでしょう?今まで、教会に縁のなかった人たちが、私たちを通して神さまと和解することができるのです。ビジネス、政治、医療、教育、芸術、スポーツ界…教会と縁のなかった人たちが、神さまの良いもので満たされ、神さまと和解することができるのです。私たちは「御国が来ますように」と祈りつつ、御国をあらゆる分野にもたらす者として用いられたいと思います。

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2010年10月10日 (日)

感謝の生活  エペソ5:20、コロサイ3:17、Ⅰテサ5:18

 クリスチャンの基本的生活の第3回目は感謝と賛美についてです。あとでもお話ししますが、マーリン・キャロザーズという先生は、感謝と賛美が主の前にいかにすばらしいものであるか何冊も本を書いています。先生だけではなく、それを実行した人たちが、困難な状況から救い出されたという証が数え切れないほど書いてあります。私たちはこのような公の集会だけではなく、日々の生活で、困難の真中で、感謝と賛美をする必要があります。公の集会はそのことを練習していると思えば良いでしょう。もっと重要なのは、この場を去って、家庭や職場に行ったときであります。この場所で感謝や賛美をささげることは簡単かもしれません。みんながやっていますから。でも、あなたが遣わされた場所で、現場で、感謝と賛美をするならば何と幸いでしょうか?きょうはそのことをチャレンジさせていただきます。

1.感謝は神の命令

 みなさんは、感謝することは神さまの命令であることをご存知でしたでしょうか?詩篇のいたるところには「主に感謝せよ」と記されています。また、新約聖書ではパウロの書簡に記されていますので、代表的なものを引用いたします。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」当然といえば当然ですが、パウロが書いたものであるなら、共通しているはずです。しかし、なぜ、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と命じているのでしょうか?私たちはこのみことばを見るとき、「そんなの不可能ですよ」と一蹴するのではないでしょうか?常識的には、良いことがあれば感謝し、悪いことがあれば怒ったり、悲しんだりするでしょう。しかし、「すべてのことについて」とは、良いことはもちろんですが、悪いことや困難に遭遇したときもです。「わぁ、そんなのできっこないよ!」と思ってしまいます。

 この聖句を良く見ると、ただ「感謝しなさい」とは命じられていません。「主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」あるいは「キリスト・イエスにあって神に感謝する」と書かれています。つまり、感謝とは神さまへの祈りであり、届け物であります。目の前に悪いことが起きたとき、「今、こういうことが起こりました。でも、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します」ということなのでしょうか?実はそうなのです。でも、実際のところ私たちはどうするでしょうか?たとえば、車をぶつけた時はどうするでしょうか?「わぁ、なんてこった。何でこんなことになったんだろう」と困惑します。その次に、「だれが悪い」とか、人のせいにします。人や物のせいにできなければ、最後に仕方なく自分のせいにします。「あぁ、どうやって直すんだ。損害はどのくらいだ。どこから出すんだ!」と後始末のことを考えます。困惑、怒り、心配、絶望はやって来ても、感謝はやってきません。どうでしょう?みなさんも、病気とか怪我をしたとき、すぐ感謝できますか?「果たして、治るだろうか?治療費はいくらだろう?ああ、痛い、ああ、苦しい」とかで、感謝がやってくるのはいつでしょう?治ってからでしょうか?問題や困難が起こったときに、感謝をするってとても不可能のように思えます。

 では、そういう時、感謝の代わりに自然と出てくるものは何でしょう?特に、失敗したとき、不運な事故、不当な扱いを受けたときはどうでしょう?感謝ではなく、つぶやき、不平不満、怒りが出てくるのではないでしょうか?生身の人間だったら当然です。この間、T兄が自転車に乗っていたとき、前のタクシーが突然ドアを開けました。T兄は飛ばされ、地面にたたきつけられました。タクシーの運転手に「テメー、コノヤロー、○○してやるぞー」と言ったそうです。道路に寝ながらです。これは条件反射的なものですので、罪と言ってはかわいそうです。でも、あとから、「そうじゃないよなー」と悔い改めたそうです。でも、すぐに感謝するというのは、よっぽどでないとできそうもありません。聖書には感謝だけではなく、「喜びなさい」とか「愛しなさい」という命令もあります。もし、それらが感情であったならば、すぐには不可能です。しかし、感謝や喜び、愛は感情ではなく、自分の意思で選択するものです。それだったら、どうにもならないような状況でも、「主イエスの御名によって感謝します」と言えるはずです。最初は3分くらいかかるかもしれません。でも、訓練によっては10秒、いや3秒くらいで「感謝します」と言えるかもしれません。香港のベン・ウォン師は、「私は今では、2秒で言えるようになりました」と証ししておられました。座間キリスト教会で、大川牧師が「ハレルヤ!主よ、感謝します!」というのをはやらせました。「はやらせた」というのは変ですが、そういうことをみんなでやりました。新会堂ができてまだ間もない時、ある事件が起こりました。一人の青年があることをするために、屋根裏を渡りました。そこには二枚の細い足場板が渡されているだけで、あとは金具で天井板が吊られている構造でした。中が暗かったのでしょう。2,3メール先で彼は足場板を踏み外し、天井を踏み抜いてしまったのです。大川牧師が天井を見て「あぁー」と嘆きつつうなだれました。ちょうど、先生の後ろに私がいました。私は反射的に「ハレルヤ!主よ、感謝します!」と言いました。大物である大川牧師は「そうだったなー」と悔い改め、そのことをみんなの前で告白しました。新会堂天井事件であります。教会主事である私が後から、穴を修繕しました。

 当時、安藤先生という小学校の先生を引退し、日曜学校の教師をしている姉妹がいました。もうかなりの高齢でした。ある日、教会に来るとき、側溝に足をすべらせてころんだそうです。そのとき思わず言ったことばが「ハレルヤ!主よ、感謝します!」だったそうです。そこまで、いくと、もう聖域に達しているという感じです。でも、「ハレルヤ!主よ、感謝します!」によって、教会全体が恵まれていました。でも、何故、問題や困難に遭遇したときも感謝しなければならないのでしょうか?マーリン・キャロザーズ師が、『讃美の力』という本の中でこのように教えておられます。「困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起こったことを私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れて、賛成することを意味します。それは、今起こっているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味を成さないでしょう。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)。」つまり、こういうことなのです。どのような状況の中でも、これが神さまのご計画の一部であり、神さまが益になるように働いてくださることを私たちが感謝するのです。そうすると、神さまは「では、そうしましょう」と働いてくださるのです。逆に、私たちが嘆いたり、不平不満をもらすなら、神さまが益になるように働こうとしておられるのを、留めてしまうことになるのです。マーリン・キャロザーズ師はさらに教えておられます。「あなたの人生のために、神はすばらしいご計画を持っておられるのです。もし、あなたが神に信頼し、あなたの身に起こったあらゆる事を神に感謝するなら、今ここで、神があなたを助けようとしておられることが分かるでしょう」。多くの人は、マリーン先生に「この事を神に感謝するんですって?」と反発します。しかし、その人たちが絶望的な状況の中で、神を讃美し感謝するとどうでしょう。あとから、すばらしい奇跡が起こるのです。その手の証が、3冊も4冊もあります。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝し」ましょう。神さまの命令であり、神さまのみこころなのですから、そうさせていただきましょう。

2.つぶやきと不平不満

 感謝の反対は何でしょうか?それはつぶやきであり、不平不満です。これは神さまが最も、お嫌いなものであります。旧訳聖書を見てわかりますが、イスラエルの民はエジプトを奇跡的に脱出したのですが、どうだったでしょうか?出エジプト記、民数記、あるいは申命記に彼らの罪が克明に記されています。それは、つぶやきと不平不満です。なんと、エジプトを脱出して、まだ3日しかたっていないのに、「私たちは何を飲んだらよいのですか?」とつぶやきました。さらに、イスラエルの民は、荒野を旅しました。「ああ、肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。何もなくて、このマナを見るだけだ」と泣いて言いました。それで、神さまはあきるほど、うずらを降らせました。さらに民は「どうしてモーセだけが神さまと話すのか?私たちとも話されないのか?」と非難しました。Ⅰコリントに、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか書かれています。Ⅰコリント1010「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」この出来事は、民数記16章の出来事を背景にして書かれたものであります。コラとダタンというレビ人が、モーセとアロンに逆らって焼き滅ぼされました。その後、民たちが「あなたがたは民を殺した」とつぶやきました。そうすると、神罰が民にくだり17,000人が死にました。つぶやきがなぜ、そんなに悪いのでしょうか?

 つぶやきの反対は、神さまを賛美し、感謝を捧げることです。私たちが神様を賛美するとき、神様は賛美の中に住まわれます。つまり、神様を賛美したなら、私たちは神様の摂理の下に身を置くことになるのです。神様に感謝するならば、神様にこう言っていることになります。「神様、あなたは良き神様です。あなたは世界をご支配することをご存知です。あなたの下には、何も悪いことはありません。ローマ8:28を信じます。すべてのものを働かせて益としてくださいます。神様、感謝します。神様、感謝します。あなたは良き神様です。」それが神様をほめたたえることです。神様をほめたたえることの反対は何でしょう。それは、つぶやくことです。不平不満を言うと何が起こるでしょうか?神様のご摂理(ご支配)の下から逃げてしまうことになります。神様は良い神様であることを受け入れないばかりか、その神様を批判することになります。神様に文句を言います。「神様、あなたは良き神様ですか?もし、本当に良い神様だったら、何で、この町の小さな教会で奉仕させるのですか?神様、あなたは本当に良い神様ですか?もし、良い神様だったら、何故、日本にリバイバルが起きないんですか?神様、あなたが本当に良い神様だったら、どうしてゴリラと結婚させたのですか?(これはエディ・レオ師が言ったこと)」。このように、いつも不平不満を言う。これは、「神様、あなたは本当に神様ですか?」と言っているのと同じことなのです。多くの人たちはつぶやきのために尊い奉仕が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために家族が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために可能性が全部死んでしまいます。だから、つぶやきや不平不満を悔い改めなければなりません。

 インドネシアのエディ・レオ師がこのようなメッセージをしてくださったことがあります。賛美と感謝は神さまを引き上げることであり、つぶやきと不平不満は神さまを天から引き降ろす事であると言われました。そして、1つの例を上げて教えてくださいました。ある人が魚を干して干物を作っていました。日本人のクリスチャンです。あるとき多くの魚が捕れました。全部売りさばくことができません。そして、売れ残ったものを全部、干物にしました。干物にするためには太陽光線が必要です。天気が良くなるまで待っていました。「ああ、太陽が出てきた。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と賛美しながら干物を干しました。1時間もすると雲がやってきました。「あー、雲ってきた」とその魚を引き上げ家の中に入れました。すると、神様に対して怒りがこみ上げてきました。上を見上げて「神様、何故ですか?何故、1時間しか太陽を照らしてくれないのですか?」。そう言っているうちに、また日が再び照ってきました。「ああ。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と、魚を再び干しました。たった30分後に、また雲が出てきました。今度は、雲だけではありません。雨が降ってきました。そして、全部の魚がびちょびちょになりました。そして、もうかんかんに怒って、雨の中に突っ立って、上を向いて「神様、あなたは天気もコントロールできないのですか?あなたが天気をコントロールできないなら、私がそこへ行って天気をコントロールします。そして、あなたがこっちに降りて来て、干物を干してください」。隣の方に「これが、文句ですよ」と、言いましょう。不平不満を言うとはどういうことでしょう?神様を引き降ろすことです。それが最も大きな罪、クーデターです。王様を引きずり降ろすことができるでしょうか?そういうことを企てたら殺されるでしょう。それは神の国のクーデターです。神様を引きずり下ろそうとする謀反です。不平不満を言っているなら、悔い改めましょう。

3.感謝と賛美の力

 私はクリスチャンになる前、感謝するということがほとんどありませんでした。生まれ育った環境のせいもあり、いつも不平不満を言っていました。私は何につけても文句を言いました。一番上の姉は私と18歳も違うので、何かと面倒見てくれました。あるとき、グレーのセーターを買ってくれました。私は色が気に入らないと言いました。あるとき、百科事典を買ってくれました。「小学館」と書いてあるので、「これは小学生用だろう」と文句を言いました。結婚してから、家内が私に言いました。「あなたはいつも文句を言っている」と。「文句じゃないよ」と反発しましたが、やっぱり文句でした。クリスチャンになってからも、なかなか感謝するこということができませんでした。何故でしょう?不平不満を言うということが、習慣になっていたからです。もう、口を開けば、自動的に舌が不平不満を言うのです。ヤコブの手紙36「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます」。私は本当に悩みました。何故、私は文句を言うようになったのでしょうか?それは、私の父や母が私を非難したからです。兄たちも私を非難しました。だから、私の中に苦い根が生えたのです。これを直そう、直そうとしても草をかってもまた生えてきます。私は毎朝、中川を散歩していますが、草が良く生えます。ときどき、区の人たちが機械で刈り取ります。しばらくはきれいです。でも、また生えるんですね。そうです。表面的な方法では不可能です。私は私をさばいた父や母、兄たちを赦しました。そして、父なる神さまから、「お前は価値があるよ。お前を受け入れるよ」と頭をなでてもらいました。それから、すこしずつ感謝が出るようになりました。

 みなさん、不平不満やつぶやきは習慣になっている場合があります。なおそうと思ってもなおらない。ついつい、「ポロ」っと、出てきてしまう。どうしたら良いでしょうか?まず、私のようにそうなった原因を探る必要があります。何がきっかけや原因があったのです。環境かもしれないし、両親や兄弟かもしれません。でも、人のせいばかりにしてはいけません。赦すべき人を赦し、悔い改めるべきことを悔い改めます。そして、自分の性格の一部になってしまった不平不満やつぶやきを十字架につけるのです。「私の不平不満とつぶやきの性質を十字架につけて死なせます。アーメン。」その次に、新しい命を神さまからいただきます。不平不満とつぶやきの反対は何でしょうか?そうです。感謝と賛美です。「おお、主よ、感謝と賛美という新しい性質をください」と願い求めるのです。アーメン。でも、それだけだとまた元に戻ります。どうしたら良いでしょうか?自分の意思で、どんなことがあっても感謝と賛美を選び取るのです。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。エディ・レオ師は、何でも40日間、継続するならば、自分のものになると言いました。みなさん、習慣には力があります。自転車も初めて乗ったときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。水泳もどうでしょうか?初めて泳いだときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。だから、不平不満やつぶやきという習慣を直すためには、感謝と賛美を継続しなければなりません。40日間かどうかわかりませんが、とにかく、何につけても、感謝と賛美をすることを選んで実行します。すると、こんどは条件反射的に、「感謝します」と言えるようになります。前の安藤先生が側溝にはまって転んだ時、「ハレルヤ、主よ感謝します!」と言ったのと同じであります。

 みなさん感謝と賛美には力があります。どんな力でしょう?それは運命を変える力です。クリスチャンは運命ということばをあまり使いません。神さまの摂理とか、神さまのご計画という風に言います。でも、この場合は、運命とか環境と言っても良いと思います。なぜなら、父なる神さまがすべてのことが益になるように私のために働いておられるからです。もし、私たちが不平不満やつぶやきを言うならば、神さまの御手はそこで止まってしまいます。しかし、そうではなく、「主よ、感謝します。このような状況の中でもあなたが共におられ、全能の御力をもって働いておられることを感謝します。主よ、あなたの御手にゆだねます。主よ、あなたの御名があがめられますように。御国がきますように。アーメン」。そうしますと、無駄な力が抜けてきます。心配も去ります。なぜなら、主に信頼しているからです。究極な祈りとは何でしょう?それは、父なる神さまに感謝と賛美をささげることであります。感謝と賛美こそが、全能なる御父の御手を動かすからです。今のありのままの状況を主に告げ知らせながら、感謝することであります。「父なる神さま、あなたが今も私のためにすべてのことを益とするために働いていることを、イエス様のお名前によって感謝します。アーメン」。どうぞ、実行してみましょう。思いがけないことが起こったときもやってみましょう。そして、主のみわざを、奇跡を、現実の真中で、見させていただこうではありませんか。

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