2008年7月27日 (日)

亀有教会のビジョン    エペソ2:19-22

 エペソ人への手紙2章には、教会は聖なる宮、つまり建物にたとえられています。建物というのは、土台があり、柱があり、屋根があります。日本教会成長研修所、今はJCGIネットワークと言うようですが、教会のビジョンをかくときに、建物の絵を使うようであります。私はそこで学んだことはないのですが、練りに練って、凝りに凝って、こういうビジョン(週報の表紙)を掲げることができました。私にセルチャーチを紹介してくださった練馬教会(小笠原先生)のビジョンを少し前に見たことがあります。なんと、この建物が二階建てになっていました。ということは、もっと複雑になっているということです。しかし、これくらいが、シンプルで分かりやすいんではないかと私的には大変満足しているのですが・・・。今日は台湾チームが、先ほど帰りましたので、私が第二のメッセージいたします。ちょうど週報も新しくなったばかりなので、この表紙を説明できたらなーと思って準備しました。

1.標準

標準とは、建物の土台の部分です。ここには、「救い、癒しと解放、従順」と3つのことが、書かれています。つまり、クリスチャンになったならば、「救い、癒しと解放、従順」を持たなければならないということです。多くの場合は、イエス様を救い主として信じるだけで救われるので、洗礼を受ければクリスチャンになれます。クリスチャンになるのは非常に簡単です。でも、その後「なかなか成長しないのはなぜだろう?」という疑問が前からありました。もちろん、何も手をかけないで一人で聖書を読んで、どんどん成長する人もいます。しかし、心に傷があるために、それが信仰の妨げになる場合があります。最初は救われて嬉しいのですが、心の奥底に苦い根があって、それがまた生えてくる。そして、怒りや憎しみからどうしても解放されない人がいます。多くの場合、育った家庭環境から来るものです。私も牧師を20年以上、やっていて不思議に思ったことがあります。ある人は無意識のうちに、牧師に対して敵対心(反抗心)を持つようであります。私も「なんで俺につっかかるのか?腹立つなー」と怒ったことがあります。でも、後から分かったのですが、その人は父親との関係が悪かったので、目の前に、父親的存在がいるものですから、どうしても、それを投影してしまう。父親に対する感情や態度を牧師に向けてしまうということです。ですから、救われた人たちに対して、心の癒しが必要であります。私たちの霊的な部分は新しく生まれ変わりました。でも、魂、心の部分は、依然として古いまんまの部分があるということです。

また、解放というのは悪習慣とか悪霊による束縛からの解放であります。日本では、クリスチャンになる前に多くの人たちは偶像崇拝をしてきました。先祖の代から、お寺や神社との関係が深いという人もいます。占い、霊媒、オカルトなどから悪霊の支配をある程度受けている場合があります。深い心の傷、トラウマ、性的罪、薬物依存なども、悪霊の影響を受けます。とにかく、そういうものを悔い改めて、縁を断つ必要があります。その後、イエスの御名によって祈るならば、悪霊が「ぱーと」去ります。心の中にいつも、混乱や葛藤、恐れがある場合、悪霊が原因しているときがあります。でも、これも必ず解放されます。イエス様が地上に来られたとき、福音を伝えました。それと同時に、イエス様は病を癒し、悪霊を追い出しました。同じように、救いだけではなく、心の癒しと悪霊からの解放を行なう必要があるということです。でも、癒しと解放のところにとどまると、これもまた問題です。私も解放のキャンプとか、カウンセリング、エリヤハウス、さまざまなものを研究してきました。それらは確かに魅力的で、教えられるところもたくさんあります。でも、残念ですが、この地上では完全に心が癒され、解放されるということはありません。ですから、「自分はまだ完全に癒されていない」と自分のことばかり見ると、成長できなくなります。癒しや解放も必要ですが、次のステップがあります。それは、従順であります。

従順とは、キリストの弟子になるということです。この地上ではわからないことがたくさんあります。気分の悪いこと、思うようにならないこと、腹が立つこともいっぱいあるんですね。そのときに、イエス様が救い主だけではなく、私の主、王様であるという主従の逆転がなければなりません。クリスチャンになったら、自分が王様ではなく、イエス様が王様でなければなりません。イエス様を心に受け入れたらクリスチャンになります。でも、相変わらず、自分が王座について、イエス様を足元に置いている。そうすると、心の中にたくさんの問題や悩み事がいっぱい膨らんできます。「ああじゃない、こうじゃない!」と、いろいろなことがごちゃごちゃしています。それは、自我が中心、つまり自分が王様になっているからです。どうぞ、王座をイエス様に明け渡してください。そして、すべての問題を主にゆだねるのです。自我が死んで、イエス様が生きる。自分がイエス様にあって生きる。そうすると、「生きるのも死ぬのも、主の栄光が現われるように、アーメン」となります。ですから、救われてすぐ、できれば1年以内、「イエスは主である。私はイエス様の弟子なんだ」という信仰を持つべきです。「救われることは、キリストの弟子になることなんだ」と初めから理解しておくと、その後の成長が早いですね。癒しと解放の部分にとどまり、「イエスは主、私はキリストの弟子」ということを忘れると、厄介です。救い、癒しと解放、そして従順がセットになっている。これが標準的クリスチャンであります。

2.4つの活動と特徴

 ここには4つの柱があります。聖書信仰、聖霊信仰、聖徒訓練、聖家族、どれも頭文字に「聖」がついています。聖とは聖いという意味ですが、もう1つは「神様のために特別に選び別かたれた存在」という意味もあります。まず、一番最初に来るのが「聖書信仰」です。日本の教会は聖書に対する見方から2つに分けることができます。1つは聖書の権威をあんまり信じないグループです。「聖書は人間が書いたもので、ところどころに神のことばが含まれている」という考えです。これをリベラルとか新正統主義と言います。当教会が属している日本キリスト教団がそうです。もう1つのグループは、「聖書は聖霊によって霊感された特別な書物で、1つも誤りがない」という考えです。これを聖書信仰と言います。福音派は大体、こういう立場です。私は日本キリスト教団にありながら、後者の立場です。私はやっていることはリベラルというか過激なところがあります。でも、信仰は非常に保守的であります。どうぞご安心ください。私が説教で冗談を飛ばしたり、いろんな話をしますが、それは聖書というしっかりした土台があるからです。「聖書に聞く、神のことばが、そういっていたなら、アーメン」。こういう態度が大切です。もし、聖書に嘘や間違いがあったならば、一体どこに権威を置くのでしょうか?聖書の権威を信じないグループは、神学者に権威を置きます。やたら、ドイツやアメリカの神学者を持ち出してきます。権威は神学者の学説にあるのではありません。変わざる神のことば、聖書にあるのです。聖書こそが私たちの信仰の土台です。聖書を神のことばと信じるとディボーションができるのであります。聖書から直接教えられ、みことばどおり実践する。「だれが教えるのですか?」「勝手に解釈して間違いを犯すんじゃないですか?」いいえ、ヨハネ14-16章には「真理の御霊、聖霊が教えて下さる」と書いてあります。

 第二番目の柱は「聖霊信仰」です。聖霊を信じない教会などありません。正統な教会であるなら「父、子、聖霊の三位一体の神様」を信じています。でも、残念ですが聖書を誤りなき神のことばと信じていながらも、聖書の記述をそのまま適用していない教会も多いのです。「え?どういう意味ですか?」と聞くかもしれません。今から20年くらい前に、いのちのことば社から「チェーン式バイブル」が出ました。欄外に簡単な解説が載っており、自分で聖書を勉強できるようになっています。Ⅰコリント13章のところに、「新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた。御霊のすべての賜物が廃れても、信仰と希望と愛は残る」と書いてあります。つまり、「異言や預言はもう終わったんだ」という解釈です。しかし、それは再臨、キリストが再び来られるときのことであり、聖書うんぬんとは関係ありません。むしろ、聖書には御霊の賜物は福音宣教と同じように必要だと書いてあります。ですから、1つの神学を持ってくると、もう他が見えなくなってしまうんです。西洋の服を着たキリスト教は特に、霊的なものを排除してしまう傾向があります。私はパウロが言うように、福音宣教には、「御霊と御力の現われ」が必要であると信じます。もし、癒しや預言をしたら、カリスマだと言うのなら、イエス様や使徒パウロはもっとカリスマではないでしょうか。イエス様もそうですが、弟子たちや初代教会の人たちが用いられたのは、聖霊の賜物があったからであります。聖書は、キリストの体の1つ1つの器官である、御霊の賜物を用いなさいと教えています。いろんな奉仕がありますが、私たちクリスチャンにしかできない奉仕は、御霊の賜物を用いる奉仕、ミニストリーであります。

 第三番目の柱は「聖徒訓練」であります。「先生、どうして『弟子訓練』と言わないのですか?」と質問されるかもしれません。私はあるところで、10年間「弟子訓練」を学びました。学び自体はとてもすばらしいのですが、間違った前提に立っていることが分かりました。彼らは、クリスチャンを「群集と弟子」に分けるのです。「群衆的なクリスチャンにしてはいけない、キリストの弟子にするんだ」と言います。しかし、福音書では一部の人たち弟子で、他はみんな群集でした。しかし、聖霊が注がれ、人々が新生してからはすべての人がクリスチャンであり、キリストの弟子なのです。初代教会でクリスチャンを「群集と弟子」に分けている箇所なんかありません。使徒パウロは、クリスチャンはすべて「聖徒」、セイントだと言いました。ですから、人はイエス様を信じたら、即、キリストの弟子であり、聖徒なのです。クリスチャンがだんだん、訓練を受けてキリストの弟子になるのではありません。信仰のスタート地点で、キリストの弟子として歩まなければならないのです。ただ、1つだけ条件があります。同じキリストの弟子であっても、整えられる必要があるということです。エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり・・・」。整えるとは、網の破れ繕うという意味から来たことばです。しかし、もう1つの意味は、戦うことのできる聖徒、セイントにするという意味があります。神のことばと神の武具に身を固め、悪魔のわざを打ち破るキリストの兵士です。そのためには、訓練を受ける必要があります。その訓練を、メンタリングとかコーチングというように呼んでいます。神学校は教室の中で教えるだけですが、本当はイエス様のように現場で実践して体得する、そういう学びが必要であります。

 第四番目の柱は、「聖家族」であります。聖家族と聞くと、サクラダファミリア教会を思い出すかもしれません。中世は教会という建物が教会でした。しかし、それはどんなにすばらしくても、建物にすぎません。イエス様が言われた教会とは、一人ひとりのクリスチャンの集まりであります。私たちが神の教会なのです。また、私たちこそが神の家族なのであります。これを英語で言うと、コミュニティと言うことができます。コミュニティは直訳すると、共同体です。共同体というと、なにかしっくりきません。コミュニティは、セルのことを言います。セルはコミュニティであり、神の家族なのであります。でも、みなさん、「教会は神の家族」といいながら、教会成長の名のもとに、長い間、会社みたいなことをしてきたのであります。牧師が社長で、役員が重役、社員が教会員。人々を救いに導き、予算を増やし、立派な会堂を建てる。教会を成長させるために、一生懸命奉仕をします。ですから、牧師たちが挨拶するときは「あなたの教会は何名集まっていますか?」であります。大ぜい集まっている教会の牧師はなんとなく威張っています。10名くらいしか集まっていない教会の牧師は小さくなっています。また、教会でも、たくさん献金をささげ、用いられている兄弟姉妹は発言力があります。でも、あまりやっていない人は小さくなっています。戦後、日本社会は高度成長を目指してきました。同じように、教会もそうしてきたのです。しかし、教会は会社じゃありません。売上や出来高を上げることを目的にしますと、関係が粗末にされます。神の教会は能力があるなしではなく、関係を大事にしなければなりません。なぜなら、私たちは神の家族だからです。この世の中は、コミュニティが壊れています。人間関係をもてない人がたくさんいらっしゃいます。だから、いろんな犯罪が起こるのではないでしょうか?教会こそが、「互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに助け合う」真の共同体のモデルとして用いられるべきであります。それは、父なる神様のもとで、聖霊によって新しく生まれ兄弟姉妹しかできないことであります。

3.目指すもの

 私たちが目指したいものが2つあります。1つは増殖、もう1つはキリストに似るということです。これらは別々のものではなく、本当は1つなのであります。創世記1章を見ますと、「神様は人を御自身のかたちに創造された」と書いてあります。その、すぐあとには、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とも書いてあります。つまり、それは「神のかたちを増殖させよ」という命令であります。このことを新約聖書で言うならば、クリスチャンはキリストに似た存在であります。そして、ますます「栄光から栄光へと。主と同じかたちに変えられて行く」(Ⅱコリント3:18)のであります。また、福音書の最後には、宣教大命令が形を変えて書かれています。マタイの28章は、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」であります。これは「大弟子作り命令」です。そして、マルコ16章は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」。これは有名な「大宣教命令」です。また、ルカ24章は使徒1章とくっついています。「聖霊の力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果まで、わたしの証人となる」。これは「大キリストの証人命令」かもしれません。ヨハネ21章は「私の羊を飼いなさい」、「大牧会命令」です。いいのです、何と呼んでも。とにかく、外に向かって宣教して、増殖していくということです。なぜ、宣教ではなく、増殖ということばを使うかと申しますと、それは「共同体を増殖させること、セルを増殖させること」であると結びつけたいからです。これまでは福音を宣べ伝えて、教会を成長させることに目が向けられてきました。しかし、教会が成長することを喜ぶのは、牧師と一部の教会の役員さんだけであります。教会が大きくなると、「交わりも粗雑になり、良い事ないよ」と教会員は思うわけです。しかし、「この共同体が広がっていくことは、神の国が拡大することなんだ」とわかれば、「ああ、私にも関係あるなー。私の家族に、私の知人や友人に、この地域に広がってほしい」という動機が生まれます。アーメン。

このたび、台湾から宣教チームをお招きしました。一番苦労したのが、オイコス伝道です。教会の家族や知人のところへ彼らを招き、そこで交わり、福音を証しするという方法です。「私の家に来てください」というリクエストがほとんどありませんでした。そのため、コーディネーターの家々に招くことになりました。アポなしで台湾の先生が来たので、突然、訪問。家に入れて、自身ご両親に会ってもらう。そのうち、「家のために祝福して良いですか?」「良いですよ」。すると、オーム返しにイエス様を信じますと言わせる。本人も、信じますと言うのです。この方式をやってみたのが、伊沢姉妹、福田姉妹、高柳姉妹です。「アポなし突発的家庭伝道?」が功を奏するのを分かると、他の人もやってみようとなりました。自分の家族を伝道するのは一番難しいと思っています。そこに、「台湾からクリスチャンが来たので」と家に連れて行く。それから、近藤姉妹、鹿野姉妹、柏姉妹・・・サムエル牧師夫妻と張さんをひっぱりまくりました。こっちから、先方に出向いて伝道する。相手の本拠地に出向いて伝道する。「出前伝道?」これを、サムエル牧師は台湾でやっているそうです。とても、勉強になりました。どうなるのだろう?拒否される?門前払いになるのでは?ドキドキして、必死に祈って行くと。不思議に道が開かれることを体験しました。

 私は私でチャレンジを受けました。台湾チームで英語のできる方がおり、張さんが来るまで、彼女が間に立ってくれました。彼女はコミュニケーションがうまくいかずフラストレーションもたまっていたのでしょう。JCMNの津倉さんが来たとき、この人はスーパーバイザーだなーと思ったのか、いろいろしゃべりまくりました。「教会はこうしなければ、牧師はこうしなければ」とメモ張を見ながら、7ポイントくらい上げました。私は「何でそういうことを言うのだろう?」と自分の耳を疑いました。あとから、怒りと悲しみと憎しみと恥が湧き上がってきました。「後半なんとか台湾チームが良い働きができるように」と思っていましたが、全く、興ざめ状態。「お前ら、勝手にやれよ。早く帰れ!」みたいになりました。ちょうど、五藤姉妹の葬儀があったので、気持ちを他に向けることができました。「でも、こんなに心に傷を与えてくれたのも人生にめずらしい!」「絶対赦せない!」久々にそういう気持ちになりました。でも、半分当たっているので悔しいのですね。彼女は救われて2年あまりで、燃えている教会から来たんですね。だから、自分の教会と比較し、「こうあるべきでしょう!」と上から目線になったのでしょう。言われたのは悔しいけど、もし、それを肯定的に受け止めるならば、そのとおりだなーと思います。こういう立派なビジョンをあげましたが、当教会は訓練も伝道も弱いかもしれません。台湾宣教チームを受け入れたのが、神様のみこころだったのか疑いましたが、やっぱり良いチャレンジを受けました。特に宣教ということをもっと、勇気を出して取り組みたいと思います。一歩足を伸ばすならば、備えられた魂がたくさんいるのではないかと思います。

 イエス様は「収穫は多いが働き人が少ない」と言われました。私は「日本の場合は、収穫も少ないし、働き人も少ないんだ」と文句を言ってきました。でも、イエス様のことばを信じたいと思います。リバイバルは待っているだけではダメです。こっちから手を伸ばし、足を伸ばしたときに、イエス様が大きな収穫を与えてくださると信じます。どうぞ、教会のビジョンは自分のビジョンであると思って、霊に燃え、主に仕えていきたいと思います。

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