2015年6月19日 (金)

パフォーマンス指向 ガラテヤ3:1-3 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.21

 この世で、パフォーマンスPerformance)は、楽曲を演奏する、演劇やコントを上演する、ダンスを披露するという意味で使われています。しかし、本来、パフォーマンスには、良い行ない、功績、偉業という意味があります。私たちは良い行ないや功績ではなく、恵みによって救われたはずです。しかし、クリスチャン生活をしていく中で、不要に思われていたものが、もう一度、息を吹き返すということはないでしょうか?「神さまを喜ばせたい」「神さまのお役に立ちたい」という思いは立派ですが、「良い行ないや功績がなくてはならない」という思いが起こったらどうでしょう。初めは純粋だったかもしれませんが、「神さまや人々から認めてもらうために、もっとやらなければならない」と休まずに頑張ってしまいます。 

1.パフォーマンス指向とは何か

 新生したクリスチャンが常に持つ傾向は、人間的努力による頑張りに逆戻りしてしまうことです。頭と霊では、救いが無償の賜物であるとわかっていても、何かをすることによって愛を得ようとする習慣が、まだ心に残っているからです。神の愛に根ざしていない動機から仕える中で、自分でも気づかない内に、頑張りや緊張、恐れに蝕まれていってしまうのです。「パフォーマンス指向」という言葉は、私たちの働きや、その結果成し遂げたことを指すのではなく、私たちを動かしている誤った動機を指しています。アメリカからきた先生が「なんで日本の教会は忙しいのか?」と驚いたそうです。日本のクリスチャンは「主のためにしなければ」と、必要以上に「もっとしなくっちゃ」と、あせって頑張るところがあると見抜きました。日本では、勤勉に対する美徳が成功を収めています。しかし、そのために人間関係が犠牲になっています。教会の中でも純粋な主の愛がありません。「もっとしなくっちゃ」、「良いクリスチャンにならなくっちゃ」という偽りのメッセージが伝わっています。どうでしょうか?思い当たる節はないでしょうか?

 私はこのことに長い間はまっていたので、渦中にいたときは何なのか分かりませんでした。しかし、今は90%くらい癒されたので、パフォーマンスで動いている人をみるとよく分かります。クリスチャンは存在そのものがすばらしいとか、恵みによって救われているということを頭では分かっています。はじめはそのことで感動したかもしれません。しかし、救われてから昔の価値観、つまり、肉が働きます。「もっと神さまのためにできるはずだ」と自分の力で頑張ります。しかし、心の深いところでは、「まだ足りない、まだ不十分だ。これでは神さまから受け入れてもらえない」という恐れがあります。私は8人兄弟の7番目で生まれましたが、優秀な兄や姉のため、全くほめてもらえませんでした。どうしても自分の存在価値を認めさせる必要がありました。そのため図工や運動会などで、たくさんの賞状を集めました。大人になって、資格を取らなければと努力しましたがけっこう挫折しました。クリスチャンになって、「あなたは高価で尊い」と言われ、私の存在そのものがすばらしいと分かりました。しかし、献身してから、牧師や周りの人たちの対応が変わりました。「言動がきよくない」とか「献身したのだから」と言われ、「あれ、このままじゃダメなの?」と不安を感じました。聖書勉強の他に様々な奉仕が舞い込んできて、猛烈に働くクリスチャンになりました。教会の倉庫で、全国に大川牧師の礼拝テープを配送していた時がありました。関根音楽主事から「一生懸命やっているね」と言われた時、「しもべは気が狂いそうです」と答えました。あるとき大和キリスト教会で3回説教を語る機会がありました。2回目の説教の後、ホルンの宮田四郎先生から、「とても大変そうに見える」と言われました。この状態は、亀有の会堂建築後もしばらく続きました。これはおかしいと分かったのは、2000年くらいに「恵みの歩み」というセミナーと、エリヤハウスの「パフォーマンス指向」に出会ってからです。ウォッチマン・ニーの本の中に、「肉にある者は、神を喜ばせることができない。肉によって神さまを喜ばせる必要はない」と書いてありましたが、とても安心したことを覚えています。

 エリヤハウスのジョン・サンフォード師はご自身の本の中でこのように述べています。新生したクリスチャンの中でも、人間的な努力に再び陥ってしまうという傾向が常に見られます。霊の部分と頭では、救いが無償の賜物であることを理解しても、心にはまだ、何かをすることによって愛を得ようとする習慣が残っているのです。多くの場合、「救われた」私たちは、いつの間にか、神の愛以外の動機で奉仕をするようになり、葛藤と苛立ちと不安に満ちた人間的な努力に陥ってしまいます。しかも、自分ではそのことに気づいていません(惑わされています)。たとえ薄々感づいてはいても、なぜ、どのような動機によってそうなってしまうのかまでは分かっていません。「パフォーマンス指向」という言葉は、私たちの働きや、その結果、成し遂げたことを指すのではなく、私たちを動かしている誤った動機を指しています。アーメン。では、「誤った動機」とは何でしょう?「良いことをしなければ愛されない、受け入れられないのでは?」という不安や恐れ、緊張があるということです。外からはとても真面目で全く問題がなさそうに見えます。しかし、神さまへの愛からではなく、神さまや他の人たちから認めてもらいたいために頑張っているのです。こういう人の心の奥底には、「このままでは受け入れられていない」という不安と恐れが隠されています。「パフォーマンス指向」とは、私たちが行う奉仕の内容ではなく、私たちを駆り立てている間違った動機を指す用語なのです。

2.パフォーマンス指向はどこから来るか

ジョン・サンフォード師は、幼い子どもは、程度の差はあれ、皆何らかの偽りを受け入れ、それを自分の性質に取り込むと言っています。中でも最も広く浸透し、私たちの行動を腐敗させている嘘は、「正しく振舞わなければ愛されない」「パパやママの言う通りにしないと、受け入れてもらえない」というものです。たとえば、トイレ・トレーニングで、「よくできたわね。ママはあなたのことが大好きよ」と言ったとします。もちろん、母親は、子どもが何度、下着を汚したとしても同じように愛してくれるでしょう。しかし、まだ幼い頭脳はその行動と愛を結び付け、逆の結論に達するのです。「トイレのことでも、他のことでもちゃんとやれなかったら、ママは私のことを愛してくれない」と考えます。「まあ、新しい服が良く似合っているわねえ。ママはあなたが大好きよ」と言ったとします。子どもは外見を良くすると愛される、そしてだらしない恰好をしたり、見た目が悪いと愛されないというメッセージを受け取るかもしれません。「一晩寝て、一度も泣かなかったね。いい子だ。お父さんはお前のことを誇りに思っているよ。大好きだ。」しかし、子どもの心は、良き振る舞いと愛されることを融合させてしまいます。「私のかわいい息子はどこへ行ってしまったのかしら。さっきまでここにいたのに。こんなことをする子が私の子であるはずないわ」。このような文句は私たちに「自分の本当の姿は受け入れられない、お人形さんのような愛らしい姿、他の人がこうあるべきだと考える姿だけが自分のあるべき姿であると直接教えます。そして自分がそうなれないと、不安に襲われます。他の人から見離されたり、自分を失ったりするのを恐れるあまり、自分自身を作ることで身を守るのです。皮肉なことに、期待されている姿を演じるのに成功すればするほど、実際に自分の本来の姿から離れていってしまいます。子どもは、いたずらをして当然。天使のような瞳と汚れた肌のいたずらっ子、それが私たちの姿なのです。

ある姉妹は小さい時、抱っこされた覚えがありませんでした。褒め言葉を聞いたこともありません。どこかで絶えず、「良い子でなければ受け入れられない」という印象がありました。人と一緒になることを恐れ、批判的になり、どうしても受け入れられません。無理やり頑張ってみますが、安心感がありませんでした。また、あるお兄さんは、妹と比較されました。妹の方がトイレが早くできるようになりました。食事もお兄さんより早くなりました。二人の間に競争がありました。親もつい比較して、「妹はできたでしょう。見てごらん」と言いました。お兄ちゃんは嫉妬の気持ちが起こり、あせって妹より早くできるように食事をすましました。そして、周りの人たちと競争するようになりました。無意識に他の人よりちょっとでもすぐれている態度を取ることにより、自分の価値観を確認したくなりました。このような人たちは、周りとの関係がおかしくなりやすいのです。クリスチャンになるとき霊は新しく生まれ変わりますが、心(思い)はそうではありません。福音によって新しくなっているところもあれば、そうでないところもあります。特にパフォーマンスがやっかいなのは、本人が「私は神さまのために良いことをしている」という自負心があることです。ガラテヤの教会員は信仰によって救われたということを体験しました。ところが、後から来た人たちが、「信仰だけではなく、律法を守らなければ救われない」と言いました。彼らは、「ああ、そうだったのか?」と恐れがやってきました。そして、正しい行ないによって神さまに近づこうとしました。彼らは律法を守り、とても宗教的になりました。しかし、そうすればするほど、神の子ではなく、奴隷に逆戻りしてしまったのです。

ジョン・サンフォード師の『内なる人の変革』で、このように述べています。教会においては、パフォーマンス指向は、クリスチャン精神とはかけ離れた宗教的な霊を作り出します。宗教とは人間の神への探求、人が聖書を学んだり、教会に通ったり、良い行ないをしたり、献身することによって神を見出し、神を喜ばせようとすることです。クリスチャンの信仰はその逆です。神が人を見つけ、その絶えざる愛を人に降り注ぐことなのです。宗教においては人が神にしがみつこうとしますが、真の信仰は神が人を捕えることです。宗教においては人間的な努力、恐れ、自分は駄目だ、自分には無理だという誤った罪意識があります。信仰においては、自分中心の世界は御父の手に明け渡され、自分でするよりも上手に神が私たちを作り変えてくださるということから来る安息と平安があるのです。信仰にあっては、どんな苦闘も平安のうちに守られています。神が私たちを愛し、選んでくださったのです。一時的に神との交わりから離れてしまうことはあっても、神の愛から外れることはなく、そんな時にも、神が私たちを追いかけ、捕えてくださるのです。ですから安心です。失敗する自由が与えられているため、それほど失敗しなくても良くなるのです。宗教的な人々は、パフォーマンス指向を神に向けます。そして、厳しい「要求」を私たちに課す父親というイメージで神を見るのです。聖霊を受けるや否やパフォーマンス指向の人は意識下で、「さあ、神さまの期待に応えるために頑張らなくては」と思い、完全を目指すのですが、それは実はイエスへの愛から出ている動機ではなく、拒絶されることへの肉的な恐れから来るものなのです。パフォーマンス指向と宗教心が結びついているということです。

3.パフォーマンス指向の実

 これまでは目に見えない根の部分についてお話ししました。実とは外側から見えるものです。パフォーマンス指向の実にはどのようなものがあるでしょうか?第一は、「どうせ自分は」という「負け犬」的姿勢を身につけることもあります。たとえば、人に好かれようと一所懸命になるあまり、自分自身を見失います。愛を得るために自分を身売りしている、あるいは人を騙しているように感じます。

第二は絶対に「成功」しなければ、と思い込むということです。ガラテヤ110「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」テキストにはこのような特徴が記されています。人からの賞賛が必要。人からの褒め言葉が信じられない。常に自己防衛的。あらゆることについて「自分がやらなければ」と思う。常に超多忙。他人を責めがち(やっていない人をさばくということです)。疲れている。隠されていることもあるが怒りがある。人のために何かミニストリーをすることはあっても、自分が人からのミニストリーを受けることができない。何かしてもらったら、お返しせずにいられない。周りの人々や状況をコントロールしようとする。真に親密な関係を持つことができない。孤独。人から赦されることを要求するあまり、その人自らの意志で赦してくれるようになるのを待てない。リーダー的立場に立つと、人々の自発性や喜びを抹殺してしまう。あてはまることはあったでしょうか?超多忙、疲れている、人をコントロールするようなところがある。でも、なぜ、そんなに頑張らなければならないのでしょう?その人は存在ではなく、行ないに価値観を置いているからではないでしょうか?もう1つは、神さまよりも人の評価を重んじているということです。私も牧師として「あれもしなければ、これもしなければ」とやってきました。「あなたは私たちの献金で生活しているのだから、もっとやってくれないと困る」という声なき声も聞こえてきます。「伝道して、受洗者を上げて、教会をもっと大きくしなければ」という負い目がいつもありました。しかし、ある時から、神のしもべ、牧師という存在そのものがすばらしいんだと悟りました。「弟子訓練もセルも失敗したなー」とがっかりしたときがありました。でも、私はみことばを語るpreacher説教者であることは失敗していないと悟りました。数年前、死人を何人もよみがえられたタンザニアのガジマ師の聖会に出席しました。彼のメッセージはとてもシンプルでしたが力がありました。私はそのとき、学歴や資格よりも、神さまからの油注ぎにはかなわないということを知りました。私の説教には神さまからの油注ぎがあると自覚しました。アーメン。何かできるからではなく、神さまは私を召して下さった、そのことが大事だと悟りました。

テキストには、パフォーマンス指向がもたらすものとして以下のことがあげられています。

パフォーマンス指向がもたらすもの…恐れ、頑張り、慢性的疲労感、不安感。

パフォーマンス指向の極端な結果…鬱、虐待(抑圧的)。

パフォーマンス指向の人は、批判を受けるのが難しい。

パフォーマンス指向の人は常に忙しい。

 どうでしょう?ご自分自身がパフォーマンス指向の人でしょうか?あるいは身近な人がパフォーマンス指向の人でしょうか?パフォーマンス指向の人は、自分の最も身近な人に対して、その人がどれだけのことを自分にしてくれたかによって、愛情を示す度合いを変えます。良くしてくれない相手には、愛を与えません。「ふさわしくない」からです。自分もそのように扱われてきたので、周りの人に対してもそのような接し方をしています。クリスチャンの愛は、パフォーマンス指向的な行動の反対でなければなりません。相手が良い行ないをしても良い行ないをしなくても、変わらぬ愛を与えることです。これは、自分の中に、ありのままを愛してくれているキリストの愛がない人には不可能です。条件付きの愛で生きて来た人は、人を支配する道具として、愛を利用し続けるのです。結果として、多くの人が傷を受けることになります。

4.パフォーマンス指向のいやし

ジョン・サンフォード師はこう教えています。「キリストのために生きるのをやめなさい」と言うのではありません。古い動機が死に、新しい動機が誕生しなければならないのです。私たちは十字架につけられるまでは、その奉仕の裏には必ず罰を恐れる気持ちからであったり、神さまの愛を得るためであったり、そうしなければならないという義務感があったり、間違った良心の呵責からであったり、他人の目を気にしてであったり、受け入れられないのではないかという恐れがあったりと、すべて間違った動機からなのです。それらはすべて死ななければなりません。私たち一人ひとりを駆り立てる純粋な動機は、私たちを通して流れるイエスの愛でなければいけません。何かを期待してするのではなく、また相手から同様にされることを求めてでもなく、自分が受け入れられ愛されていることを確認するためでもなく、恐れを遠ざけるためでもありません。これらの必要は、イエスという賜物によってのみ、真に満たされるものなのです。しかし私たちの不信仰な心がこの事実を真に悟るまでは、私たちは頑張り続けることでしょう。ついにパフォーマンスに死んだ後にも、主のために前と同じ奉仕を同じ形ですることになるかもしれませんが、私たちを通して流れるものは肉的なものからイエスの愛にかわるため、周りの人もすぐに気づくでしょう。アーメン。ジョン・サンフォード師のことばの中に、「動機」ということばが何度も出て来ました。間違った古い動機を捨てて、新しい純粋な動機に取り替えるということです。この作業のためにはどうしても、パフォーマンス指向は醜い罪であることを認めなければなりません。パフォーマンス指向はその人の生活、生き方になっています。樹木は、根、幹、実という3つから成り立っています。パフォーマンス指向は幹の部分、つまりその人の構造になっています。ですから、これは十字架に持っていくしかありません。古い構造は死ななければなりません。頑張って死のうとすると駄目であり、頑張ってはできません。「主よ。あなたの十字架で死なせてください」と願いましょう。

パフォーマンス指向の人は、これまで十分な愛を受けてこなかったのです。受けたとしても、条件付きの愛です。自分の受け止め方も歪んでいたかもしれません。でも、結果的には、愛をもらいたい、認めてもらいたいと必死に頑張って来ました。行ないは立派だったかもしれませんが、「こんなにやっているのに、分かってもらえない」と人をさばいていました。ですから、パフォーマンス指向の人は無条件の愛を神さまからたくさんいただくべきです。クリスチャンになったからと言って、奉仕をしなければならないという強迫観念を持つ必要はありません。神さまはキリストにあって、何をしなくても、私たち存在そのものを愛して、受け入れておられるからです。また、過去において、自分に十分な愛を与えてくれなかった最も身近で重要な人々を赦す必要があります。このことによって、パフォーマンス指向が身についた原因の根っこが癒されます。最も身近で重要な人々は分かってくれなかったかもしれませんが、イエス様は分かってくれています。イエス様は受け損なったものを全部、贖ってくださいます。極端に言うなら、人から認められることを手放すべきです。人とは元来いい加減で、自己中心的な存在です。それよりも、神さまの御目のもとで生きれば良いのです。たとえ失敗しても私の存在価値は失われません。疲れたときは休んで良いのです。神さまのもとで安息しましょう。神さまから「それはしなくて良いと言われれば」たとえ良いことでもしなくて良いのです。私たちは肉にではなく、内におられるイエス様によって生きれば良いのです。

 

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2013年1月13日 (日)

神の子とされる        ガラテヤ4:1-7 

 きょうは、「救い」ということを身分という面から考えたいと思います。イエス様を信じると、身分が変わり、神の子とされるということです。身分とは別の言い方では、アイディンテティということです。もし、「自分がだれか」ということを行いの上に置いていたならどうでしょうか?上手く行っているときは問題ありませんが、何かの理由で上手く行かないときは大きく崩れてしまうでしょう。そうではなく、「自分がだれか」ということを「神の子である」という存在に置いたならどうでしょう?たとえ上手くいかないことがあっても、神の子であるという身分は揺らぐことはありません。もし、本当に神の子であるということを心から自覚したならば、自然と行いが生まれてくるのではないでしょうか?「行い」で自分を決めるのではなく、「ある」という存在で決めたらどうでしょう?


1.奴隷とは

 キリストを信じる前の私たちは、奴隷と何ら変わりありませんでした。ガラテヤ4章には、奴隷と相続人のたとえが記されています。子どものときは、全財産を相続できるのに、後見人や管理人が代わりに持っていたということです。何も持っていないので、奴隷と何ら変わらないように見えます。しかし、その子が親から認められる年齢に達したとき、財産を相続することができます。これと同じように、私たちがキリストを信じる前は、奴隷と同じでした。この世の幼稚な教えの下に支配されていました。親や学校から、さまざまな知識や道徳、人生哲学を教えられて育ちました。多くの場合、聖書の価値感と異なる、この世の教えであります。この世では、いろんな知識や技術、資格を得ることによって人間の価値がきまるという考えがあります。奴隷は「何ができるか」で、値打ちが決まります。肉体的に頑丈で、いろんな技術を持っていると役に立ちます。知識があれば、子どもの家庭教師や仕事の管理ができるでしょう。また、この世では、親や学校の先生、上司、権威ある人に従うことを教え込まれます。奴隷は、罰せられるのが恐いので主人に従うのです。「いつ捨てられるか」と、ビクビクして主人の顔色を伺っています。また、この世では、明日のことが心配で、保険に入ったり、お金や物をできるだけ蓄えるでしょう。奴隷も同じで、お金や物をできるだけ蓄えておかないと心配です。人生の目的などいう高尚なものは捨てて、ただ生き延びるために生きています。いくつかあてはまることはないでしょうか?

 イエス様はマタイによる福音書6章で何と教えておられるでしょうか?「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」かつての私たちには、天の父がいませんでした。自分を養ってくれる天の父がいないなら、どうするでしょうか?学歴や資格を身につけ、必死に稼ぐしかありません。私はクリスチャンになっていたにもかかわらず、奴隷として生活していました。なぜでしょう?生まれ、育った環境が奴隷状態だったからです。父は国鉄を辞めてからあまり働かなくなりました。酒を飲んでは、暴れるので裸足で逃げたこともあります。母は、わずかな田んぼや畑を耕していましたが現金収入がありません。そのため、長女や長男がお家にお金を入れてくれました。母は彼らを「姉さん」「兄さん」と呼んで頼っていました。父はそれが気に食わなかったようです。小さな私に何ができるでしょう?井戸水を汲んだり、槙を割ったり、縄綯いの手伝いをしました。リヤカーを押して田んぼに行き、帰りは母を乗せてきました。春は笹の竹の子を取りに行ってそれを売りました。栗拾いとか、銀杏拾いなどをすると、燃えてきます。父や兄たちは「人は食うために生きるのか、生きるために食うのか」と議論していました。私は「人は何のために生きるのだろう」と悩んでいました。しかし、実際は、生き延びるために生きていました。

 奴隷が指導者になることはできません。箴言30:21-22「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となることだ」とあります。どうして、奴隷が王になったら、ダメなのでしょうか?ある本にこのように書いてありました。「奴隷は、生まれた時から、取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分には大した価値がないこと、また自分の意見は尊重されないことを成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大なものとなったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることが出来ないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ」。私が辛口のユーモアを言ってきたのは、生き延びるためでした。私のジョークは人々を陥れ、馬鹿にする内容でした。なぜなら、自分は末っ子のゆえにミソにされ、アイディンテティを攻撃されて育ったからです。自分のユーモアで人々ばかりか、自分自身を傷つけていたのです。モーセはどうして、イスラエルの人たちを奴隷から解放することができたのでしょうか?モーセはパロの宮殿で育てられることにより、奴隷の考えではなく、王子としての生き方を学ぶ必要がありました。奴隷の考えを持っているリーダーは、実際に奴隷として捕らわれている民を解放する力がないからです。モーセの人生の初めの40年間は、後の荒野で過ごす40年と同様に重要な年月だったのです。モーセだけが、奴隷ではなく、王子の息子として育てられました。ところがイスラエルの民は何百年も奴隷だったので、その生活しかないと思っていたのです。モーセは自分が偉大な者であるという認識があったからこそ、イスラエルの民を救い出すことができたのです。

 この世の教えは「何ができるか」で人の価値を判断します。しかし、もっと重要なことは、「自分はだれか」ということです。もし、「自分がだれか」ということを正しく認識するなら、それに伴った行いが生じてくるでしょう。つまり、doing行いよりも、being存在の方が重要なのです。もし、私たちが奴隷ではなく、神さまにあって王子、王女であることを認識するなら、どのような行い、どのような生き方が生じてくるのでしょうか?


2神の子とされる

ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」「血によって」とは、血統とか血筋という意味です。今はそうではありませんが、中世ヨーロッパでは、血統がすべてでした。貴族で生まれたら貴族、農奴で生まれたら農奴でした。日本だって、200年くらいまでそういう制度がありました。「肉の欲求や人の意欲」とは、努力や頑張りという意味です。この世では、人を押しのけてでも偉くなろうとする人がいます。力や権力があれば何でも得られるのでしょうか?遠慮がちで気が弱い人は、カスしか掴めないのでしょうか?神の子どもとされるために、そういう人間的なものは一切関係ありません。神さまがイエス様を信じた人に、神の子どもという特権を与えてくださるのです。イエス様はすべての人のために十字架にかかり代価を払ってくださいました。だから、すべての人が救いの候補者です。キリストにあって選ばれているのです。あなたが、神の子であるならば、神さまは私たちのお父さんです。神さまは王様です。すると神さまの息子はどういう立場でしょうか?そうです。王子、プリンスです。では、神さまの娘はどういう立場でしょうか?そうです。王女、プリンセスです。王子であるなら、冠をかぶっています。王女であるなら、ティアラをかぶっています。もし、私たちが失望落胆してうなだれたらどうなるでしょう?冠が「ぽろっと」落ちてしまうでしょう。私たちのお父さんは全能の神様です。神様が私たちの味方です。だったら、私たちはうなだれてはいけません。王家の王子として、王女として、堂々と胸を張って生きるべきです。

ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。…私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」と書いてあります。神さまは宇宙全体を持っておられます。神さまが持っておられるすべてのものを私たちも受け継ぐことができるのです。かなり前にNHKの教育テレビで見たことがあります。星雲が核融合していくと、だんだん質量の高いものに変化していくそうです。「ある星雲は全部、金でできている」と言っていました。私はそれを見て、とても感激しました。星雲全部が金とは、果たしてどのくらいの量でしょうか?でも、黙示録の最後の記事を見ますと、「なるほどなー」と分かります。天のエルサレム、聖なる都の大通りは何でできているでしょうか?透き通るような純金でできています。さらに、都の城壁の土台は何でできているでしょうか?碧玉、サファイヤ、メノウ、エメラルド、トパーズ、アメジスト、あらゆる宝石で飾られています。皆さん、道路とか建物の土台というのは最も安価な材料が用いられます。アスファルトとか、砂利、コンクリートです。聖なる都では、道路に純金を敷き、土台に高価な宝石を用いるとは、神様は何と金持ちなのでしょう。私たちはこの神様の子ども、御国の世継なのです。私は思います。「天国に行ってからではなく、純金の一塊で良いから、地上に落としてくれないかなー」と。

 数年前、『パワー・フォーリビング』という青い小冊子が無料で配られたことがあります。お読みになった方はおられるでしょうか?その本の中にとても感動的な話が載っていました。ある町に、一人の少年がいました。お母さんは未婚で彼を生んだので、学校ではイヤなあだ名で呼ばれました。そのため、休み時間や昼食のときは、一人でどこかへ行っていました。土曜日の午後、町に行くと、「だれが彼の父親なのだろう」とじろじろ見ました。12歳頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。少年はいつも遅れて礼拝に行き、早めに抜け出していました。あるとき、早めに抜け出そうと思ったのに、人々が扉をふさいでいました。そのとき、大きな手が肩の上に置かれました。見上げると、牧師先生が「坊や、君はだれだね。だれの子かね?」と質問しました。昔から、あの重い気持ちがのしかかって来ました。「牧師までもが私を見下しているんだ」と思いました。しかし、牧師は少年の顔をじっくり見て、ほほえんで言いました。「ちょっと待てよ。君がだれだか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は神様の子どもだ。」そう言うと、牧師は彼のお尻をぽんと叩いて、さらにこう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って自分のものだと主張しなさい。」その少年はやがてどうなったでしょう?テネシーの人たちは、私生児を州知事に選出したのです。知事の名前は、ベン・フーバーです。私たちは、すばらしい遺産を受け継いでいます。私たちは神の栄光をあらわすために、その遺産を自分のものとすることができるのです。

 本当に私たちは神の子どもとされているのでしょうか?疑う人がいるかもしれません。救われていない人は、御霊も宿っていないので、神さまをお父さんと呼ぶことができません。私たちがイエス様を受け入れると、私たちの内に聖霊が宿られます。この聖霊はかつて、イエス様の中にもおられました。イエス様はこの地上で、聖霊によって力あるわざを行うことができました。また、肉体を持たれたイエス様は聖霊によって「アバ父よ」と親しく交わっておられました。もし、私たちの内に同じ聖霊が宿られたらどうなるでしょうか?私たちも神さまを「アバ、父よ」と呼び、イエス様と同じ行いができるのです。本来、神さまをお父さんと言えるお方は、御子イエス・キリストだけです。しかし、私たちは神の養子として迎えられ、子どもと同じ身分になるのです。神さまは、ご自分を「アバ父よ。(おとうちゃん)と呼んで良い」と許可してくださるのです。地上のお父さんは不完全であり、私たちは多かれ少なかれ、傷を受けて育ちました。でも、父なる神さまは完全なお父さんであり、無条件で私たちを愛してくださいます。ちょうど、放蕩息子のお父さんのようです。私たちは「天のお父様」と何でもお願いすることができます。神さまの子どもですから、すべての必要が与えられ、守りが与えられ、平安が与えられるのです。


3.神の子とされた目的

 でも、父なる神さまが私たちを神の子どもとしてくださったのは、私たちがただ自己充足的な生き方をするだけではありません。「王子、王女として永遠に暮らしました」。それもすばらしいことです。でも、神さまが何故、私たちを王子、王女にしてくださったのでしょうか?それは、神の御国を一緒に治めてもらいたいからです。残念ながら、神の国はまだ完成していません。私たちはすでに神の国に入っています。しかし、父なる神さまは、もっと多くの人をご自分の国にお入れしたいと願っておられます。多くのクリスチャンは自分が救われたら、教会に来て、神さまを賛美して喜んでいます。しかし、それだけでは、父なる神さまは喜ばれません。父なる神さまは、御子イエスをこの世に遣わし、救いを成し遂げられました。十字架と復活によって、サタンの国は壊され、多大なダメージを受けました。それなのに、人々はサタンの国に捕らえられたままです。そこを出て、御国に入ったら良いのに何故でしょう?サタンは「救いなんかないんだ。このままで良いじゃないか」と、人々を欺いているのです。かつての私たちは、自分たちが奴隷であることすら分かりませんでした。うす暗い中で、「多少不自由であっても、今が良ければいいんだ」と生きてきました。一生懸命、れんがを作って働いていたのです。でも、それは本来の生き方ではありません。神の子どもではなく、まさしく奴隷でした。なぜなら、生き延びるために生きていたからです。

 でも、神さまは私たちに御国をくださいました。これから下さるのではありません。すでに、くださっているのです。ルカ12:32「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」。私たちは御国の住人であり、王子、王女です。でも、イエス様は「主の祈り」の中で「御国を来たらせたまえと祈りなさい」とおっしゃいました。ということは、神さまはこの地に、御国が来ることを願っておられるということです。しかし、これはだれもができることではありません。救われていても、自分が奴隷であると思っている人にはできません。モーセのように自分は王様の子どもであると腹の底から思っている人でなければなりません。私も救われてクリスチャンになり、牧師になっても、まだ、奴隷でした。「私は神の子です」と口では言っていましたが、奴隷の考えが抜け切っていませんでした。業績思考で生きていたので、みんながライバルでした。だれよりもすぐれた牧師になって、大きな教会を建てようと思いました。神の子どもなのに、「ちくしょう、ちくしょう」と、怒りと憎しみが心の中に渦巻いていました。まさしく、奴隷が王となっていたようなものです。だから、多くの人たちを傷つけても、何とも思いませんでした。「躓いた奴が悪いんだ」と豪語していました。神さまを見上げると、「歯がゆいぞ!何をしているんだ」と怒っているように思えました。しかし、神さまは私たちがイエス様を信じただけで、もう満足しています。「もう、肉によって自分を喜ばせる必要はない」とまでおっしゃっています。でも、神さまは、私たちが王子、あるいは王女であることを自覚して、この世に御国をもたらせたいと願っておられるのです。

ヨハネ15:15「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」イエス様は弟子たちと同じように、私たちをしもべとは呼ばれません。友と呼ばれます。神さまの友となるとはどういう意味でしょうか?創世記18章に、アブラハムと主との会話が記されています。創世記18:17「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。』」。そして、アブラハムにソドムとゴモラの罪がきわめて重いので滅ぼす旨を告げました。アブラハムは「いや、いや待ってください」と談判しました。最後に主は「その町に正しい人が10人いたら滅ぼさない」と約束しました。主は本当は、アブラハムにとりなしてもらいたかったのです。父なる神さまも、私たちに「こういうことをしたいのだが…」と相談されます。私たちは、断ることもできます。しかし、恐いからではなく、神さまを愛しているので、答えたいと思うでしょう。これまでは、神さまに認められたいためにがんばってきました。しかし、もう神さまの愛を獲得するためにすべきことは何もありません。ただ「自分自身」であることで既に、神さまの目には高価で尊いからです。私たちは恐いから神さまに従うのではありません。もう、すでに愛されているので、その愛に応えたいと思うのです。

うちの娘のことを言って申し訳ありませんが、私の子どものときとは全く違います。私は今でも、テーブルにおいしいものがあると食べられません。ごはんを作っても、メインのものは食べません。しかし、娘はだれも手をつけていないものを平気で食べます。私はそれができません。なぜなら、自分には相応しくないと、どこかでまだ思っているからです。あなたは高級レストランに行って食べると、何か後ろめたいと思うでしょうか?あなたは人に物をあげるのは好きだけど、人からされるのが恥ずかしいでしょうか?他人を喜ばせるために自分の意見を簡単に変えるでしょうか?自分のことを話しているとき、人が急がしているように感じるでしょうか?ある人たちは、宮殿の王子、王女なのに、宿無しのように生きているかもしれません。本来は、自分のものなのに、相応しくないと思って遠ざけているかもしれません。クリスチャンであるならば、王子であり、王女です。神による相続人です。生き延びるために生きるのではありません。今もこれからも、豊かに得ているのです。私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのです。私たちはこの世に違いをもたらすことができます。なぜなら、私たちは神さまの王子であり、王女だからです。


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2010年6月 6日 (日)

御霊の実を結ぶ      ガラテヤ5:19-23

 これまで聖化、聖くなるということについて学んできました。私たちはすでに古い人に死んでおり、キリストにあって生きています。私たちの内におられるキリストの御霊が、死と罪の法則に対抗して、私たちを支えてくださいます。私たちには肉、つまり罪の性質がありますが、それに打ち勝つことができるということです。さらに、私たちはキリストの御霊と共に歩んで行くときに、御霊の実が結ばれていくことができます。これは実ですから、時間がかかることが予想されます。「桃栗三年、柿八年」ということわざもあるくらいですから、昨日、今日で結ばれるものではありません。でも、私たちが御霊の実を結ぶときに、神さまが喜ばれるだけではなく、自分自身も、また私たちと交わる人々も、その実を味わい喜ぶことができます。神様は、天国に行ってからではなく、地上においてそのような実を結ばせてくださるのです。

1.御霊の実とは

ガラテヤ人への手紙を見ますと、肉の働きと御霊の実とにはっきり分けられています。肉の働きというのは、古い人に属する罪の性質です。私たちはキリストを信じて新しく生まれましたが、私たちの魂や肉体には、罪の性質が残っています。これを肉と呼んでいます。肉の働きには、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などがあります。このリストを見ますと男性が陥りやすいものもあれば、女性が陥りやすいものもあります。今、私たちは聖書日課で「士師記」を読んでいますが、サムソンという人は怪力の持ち主でしたが、いったって女性に弱かったようです。また、イスラエルの民は平和になると、すぐ、偶像崇拝に走り、不品行や、汚れ、好色に陥ります。さらに、部族間の敵意、争い、そねみ、憤り、分裂、分派、ねたみ、そういったものが全部あります。私たちも「ぼーっ」としていると同じことをしがちであります。では、反対に、御霊の実にはどのようなものがあるでしょうか?5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」「しかし」と書いてありますので、肉の働きと対抗するものであります。肉の場合は「働き」「わざ」となっていますが、御霊は「実」「おのずと結ぶ実」になっています。この表現の違いに、解決のヒントがあるようです。

御霊の実は、私たちが御霊によって歩むときに、結ばれる実であります。ですから、最も重要なことは、神さまと日々、交わることにあります。「祈り」というと私たちは手を組んで、「天のお父様」と祈ることだと思いがちです。もちろん、そういう祈りも大切ですが、日中、心の中で会話をすることも可能です。電車に乗りながら、道を歩きながら、ご飯を食べながらも主と会話することができます。しかし、「交わり」と言う場合は、祈りだけではなく、礼拝も含まれます。このような日曜日の公の礼拝だけが礼拝ではありません。ことあるごとに、感謝したり、「ハレルヤ!すばらしいですね」と主をあがめることもできます。賛美を口ずさむことも礼拝です。私たちがこのように主と交わるとどうなるのでしょうか?「朱に交われば赤くなる」ということわざがありますように、主と交われば主のようになります。Ⅱコリント318 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。これは新約時代の私たちに与えられている特権です。モーセが主と交わって山から降りたとき、顔の皮膚が光を放っていました。人々は「ああー、神の人だ!」と恐れて、モーセのことばに耳を傾けました。しかし、時間がたつと、モーセの顔の光が失せてしまいました。それを隠すために、モーセは顔におおいを掛けました。その後、主と交わると、再び、顔の皮膚が光を放ちました。そして、人々の前に立ち、み旨を告げました。その後、また自分の顔におおいを掛けました。つまり、モーセの顔にあった栄光は一時的であったということです。なぜなら、外からの栄光だったからです。しかし、新約の私たちは御霊が内側におられて、内側から永続的に栄光を現してくださるのです。だから、外なる人は滅びても、内なる人は日々、新しいのです。これにはドモホルンリンクルも敵いません。外側からのお化粧も大切ですが、魂の内側からにじみ出てくる主の輝きもより大切です。

では、御霊の実は、イエス・キリストとどのような関係があるのでしょうか?エペソ人の手紙を見ますと、「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るべきです」と書いてあります。また、コロサイ人への手紙にも「古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」とあります。そして、新しい人とは造り主のかたちに似せられることであり、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、慣用、愛を着るということです。また、ガラテヤ書やローマ書には、「キリストを着る」と書いてあります。つまり、御霊の実とは、キリストの品性でありキリストに似ることなんだということです。私たち人間は神のかたちに似せてつくられました。神の栄光が内に秘められていたのです。ところが、罪を犯してから神のかたちがあとかたもなく損なわれてしまいました。まるでそれは、鏡を割ったような状態です。そのかけら1つを取って、「ああ、神の栄光が見える」ということもできます。神から離れた罪人の中にも、少しだけ、神の栄光を見ることができるかもしれません。しかし、それはほんのわずかです。イエス・キリストは私たちの罪を贖うためにこの世に来られました。さらに、イエス・キリストは私たちが神のかたちを回復するために、2つの資源を与えてくださいました。1つは聖霊です。私たちがイエス様を信じると新生し、内側にキリストの御霊が与えられます。私たちの内におられる聖霊が栄光から栄光へと主の姿に変えさせてくださるのです。もう1つはキリストによる模範です。イエス様は私たちを贖うだけではなく、完全な人として、神に従われました。私たちもイエス様に倣い、イエス様を仰いでいくときに、キリストに似たものになるのです。つまり、御霊の実を結ぶということは、神のかたちを回復することであり、それはキリストに似た者になるということです。つまり、聖化の最終ゴールは、私たちクリスチャンがキリストに似た者になるということです。ハレルヤ!

2.御霊の実の目的

御霊の実の「実」とはフルーツであります。ぶどうやオレンジにたとえられます。実というのは人が食べて、それを味わうようになっています。御霊の実もだれかが食して、「いやー、おいしいなー。すばらしいなー」と喜びと感動を与えることができたら幸いです。では、だれがその実を食べるのでしょうか?ビリーグラハムは『聖霊』という本の中でこのように述べています。「愛、喜び、平安は、特に私たちの神へ向かっての関係を物語っています。寛容、親切、善意は対外的な人間関係において、私たちがどんなクリスチャンであるかに関連しています。誠実、柔和、自制は、内面の関係(自己の態度と活動)に特に見られます」と、このように3つに区分しています。ビリーグラハム師の分類を参考にするならば、3種類の方々が御霊の実を食べるということではないでしょうか?愛、喜び、平安は神さまが食べます。私たちが神さまを愛し、神さまを喜び、神さまとの平安を持って、神さまと交わるならどうでしょう?神さまご自身がとっても喜んでくださるということです。ですから、聖書には「心を尽しし、思いを尽くし、力を尽して、主を愛しなさい」と命じられているのはそのためです。次に寛容、親切、善意は人々が食べます。寛容で親切で善意にあふれている人と交わるのと、怒りっぽくて意地悪で、何でも悪く捉える人と交わるのでは、どちらが良いでしょうか?人々は、私たちの内側から生産された寛容や、親切、善意を食べると喜ぶのではないでしょうか?最後に、誠実、柔和、自制の実があります。これは自分自身が食べるものです。「え?自分が食べてどうするのですか?」と言うかもしれません。でも、私たちの中には良心とか人格があります。自分自身に対して、誠実で柔和で自制心があったらどうでしょうか?とても満足するんじゃないでしょうか。私たちは人に対して誠実で柔和で自制的ある前に、まず、自分自身に対して誠実で柔和で自制的であるべきです。

イエス様は私たちに「あなたがたは、地の塩、世界の光です。」とおっしゃいました。塩には2つの効果があります。1つはものを腐らせないようにする力があります。そのため、昔は魚を塩漬けにして保存しました。クリスチャンもこの世において、腐敗をとどめる役割があります。また、塩は料理のときに用いられます。いっぱい入れると塩辛くて食べられませんが、少しだけ入れると素材自身の味を引き立たてることができます。クリスチャンも地の塩です。でも、「私はあなたがたとは違いますよ」と言って、孤立するなら塩の役目は果たせません。塩が自らの姿をなくして溶け込むように、私たちも世の中に入り込むのです。私たちがいるだけで、周りの人たちが生き生きする。私たちが人々の良いところや賜物を引き出すことができたら何と幸いでしょう。また、世界の光とはどういう意味でしょう?光は不思議な存在で、光自体は見えません。光そのものを見ると目がくらみます。光は物に反射してはじめて、まわりを明るくすることができます。私たちが神の国の価値感で生きているなら、世の人たちはそれを見て、「すばらしい」と思うのではないでしょうか?この世界はあまりにも、ギスギスしています。怒りや恐れ、疑いでいっぱいです。そういうところで、私たちが愛とか平安、親切、誠実さをもって生きているならどうでしょう?もちろん、やっかむ人もいるでしょう。イエス様だって、当時の宗教家から嫌われていました。でも、真理を求める人からは好かれていました。私たちもこの世で誠実に生きようとしたなら、最初は、波風が立つかもしれません。しかし、そのように継続して生きているなら、少しずつ分かってもらえるのではないでしょうか?注意しなければならないことは、地の塩や世界の光として生きるためには、孤立しないということです。私たちの存在そのものに価値があることを覚えましょう。私たちがどうのこうのではなく、私たちの内におられるキリストの御霊が働いてくださるのです。「どうしたら塩の役目を果たすだろうか?」とか「どうしたら世の光として輝くことができるだろうか?」などと、律法主義的な考えは捨てましょう。イエス様は私たちに「地の塩になれ」とか「世界の光になれ」とはおっしゃっていません。「あなたはすでに地の塩であり、世界の光である」とおっしゃっています。何ができるかではなく、あなたの存在そのものがすばらしいということを自覚しましょう。そうすると、キリストの御霊は自然に、私たちに創造性を与え、隠された知恵を与えてくださるでしょう。Ⅰコリント130には「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とあります。私たちは旧訳聖書のダニエルのように、神の英知をもって、人々をリードすることができるのです。あなたはそのような神の恵みによって、周りの人たちを生かすことができるのです。ハレルヤ!

3.御霊の実がみのるため

御霊の実がみのるために、重要ないくつかの点があります。第一は、キリストにとどまるということです。ヨハネ154「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」イエス様は私たちが実を結ぶための重要な条件として、「私にとどまりなさい」と何度も言われました。これはどういう意味でしょう?私は青森でリンゴがなっている木を見たことがあります。でも、リンゴが「私は立派な実をならせるぞ!」とプルプル震えているところを見たことがありません。リンゴはただ、枝によって木につながっているだけです。つながっているならば、木の方から必要な養分が流れてくるのです。私たちが一番、集中すべきことは、キリスト様につながっているかどうかです。キリストにつながるとは具体的にどういう意味でしょうか?それは、キリスト様に聞き、キリスト様から知恵と力を得るということです。そうするなら、自然と、自分の中からキリストによる実が現れ出てくるということです。つまり、キリストと命の関係、有機的な関係になるということです。このことを個人的に言っても、だれも反対する人はいないでしょう。みんな「アーメン」と言うでしょう。しかし、教会という集団になるならどうでしょうか?私たちは教会の役員会、教会の総会、さまざまな会議となるとそういうことはどこかに置き忘れ、ひたすら左脳で議論するんじゃないでしょうか?会議となるととたんに、会社モードになる人がいます。しかし、教会はキリストのからだです。私たちはかしらなるキリストに聞き、そして従うべきであります。ですから、議論をする前に、御霊の声に耳を十分に傾ける必要があります。アンテオケの教会はどうだったでしょうか?使徒132-3「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した」とあります。だれか力のある人が言ったのではなく、聖霊ご自身が命じたのであります。私たちが聞こうとする気持ちがあるならば、聖霊は今も語ってくださるのです。

また、御霊の実がみのるためには人と関わることをパスしてはなりません。御霊の実の多くは、人間関係を通して成熟していくのです。人々から離れて、隠遁生活をしていたならば、決して、成熟しません。他の人というのは、自分が足りないところを指摘してくれます。自分の顔が見えないように、私たちは自分の本当の姿というものが見えません。人から指摘されたとき、むかっと来て、嫌な思いをするときもあるでしょう。しかし、多くの場合、その人たちが言うことは十中八九当たっています。当たっているから悔しいんです。当たっていない場合は、聞き流すことができます。もちろん、ひどいことを言われたときは「私はこのように傷つきましたから、次からはそのような言い方はやめてもらえないでしょうか?」と言うことも大切です。これはバウンダリーの問題です。でも、重要なのは他の人は、私の御霊の実が成熟してくれるように助けてくれるということです。色んな状況で、人との中で生きていると、「私には愛がないなー」「寛容さがないなー」ということが分かります。山の中で、一人で暮らしてしている分には、「私には愛があるし、寛容だよなー」と思うかもしれません。でも、人々の中に入ったときに、それが本物かどうか試されるのです。あなたの前に、とてもじゃないけど愛せない人が一人や二人、三人、現れるはずです。もし、あなたがむかーときて、怒りや憎しみがおさまらないとしたら、あなたにはやっぱり愛がないのです。つまり、御霊の実は人々の中で結ばれ、成熟していくということです。もし、あなたが嫌いな人、苦手な人を避けて、自分と気の合う人とだけ交わっていたならどうなるでしょう。それも平和で良いかもしれません。しかし、私たちはキリストのからだなる教会において、共に生きるときに避けられないことが多々あります。そのときこそ、私たちに御霊の実がみのる機会となるのです。私たちは人々を避けて、できるだけ傷つかないようする傾向があります。そして、最後には「自分はあの人たちと違うんだ」と誇るようになります。

イエス様の時代にパリサイ人や律法学者という宗教に熱心な人たちがいました。彼らは「自分たちは律法を守っているし、彼らと違ってきよいんだ」と自らを誇っていました。しかし、イエス様は彼らを偽善者と呼んで、とても嫌いました。彼らは人々に聖書を教えましたが、自分たちが汚れるといけないので、人々と親しく交わろうとはしませんでした。彼らは本心を隠して、仮面をかぶって生きていました。だから、イエス様は「白く塗った墓のようなものです。外側は美しく見えても、内側は汚れたものがいっぱいです」と言われました。イエス様はどうだったでしょう?イエス様は取税人や罪人たちと一緒に食事をしました。人々の間に出て行き、彼らと一緒に生活しました。人々はイエス様をどう思ったでしょうか?パリサイ人たちのように、近寄り難いと思ったでしょうか?パリサイ人たちは「寄らば、切るぞ!」みたいに、すぐ人々をさばきました。だから、一般の人たちは近寄ることはできませんでした。でも、イエス様の場合はどうでしょうか?イエス様の行くところどこでも、多くの人たちが集まりました。そして、彼らはイエス様に近づいて、着物に触ったりして、癒しや祝福を得ようとしました。イエス様ご自身も当時、人々から嫌われていた、ツアラト(らい病人)に自ら触れられました。触ったイエス様が病気になったでしょうか?逆にイエス様のきよさによって、その病気がきよめられたのです。ハレルヤ!ですから、同じようにあなたが御霊の実に満たされたならば、人々があなたの周りに自然に集まってくるでしょう。人々はあなたによって恵みと平安を受けるのです。

石塚兄姉は10数年間、この教会に在籍していました。今は、実家のある日立に住んでおられます。お二人が引っ越してから何度かお会いし、その後の様子を聞くことができまた。石塚兄姉は月に一回、自宅でセル集会を開いており、茨城大学や茨城キリスト教大学の学生さんたちが多く集まっているそうです。前半は一緒に食事をし、後半は聖書に何が書いてあるか、発見したことを分かち合ってもらうそうです。彼らはそれが楽しくて、夜11時になっても帰らないそうです。石塚姉は教会や教団の婦人部で活躍しておられるようです。石塚兄はもと太陽エネルギーの仕事をしていました。現在は日立市民のサークルに属しながら、自然エネルギーを教えています。「日立は日が立つと書くので、太陽エネルギーのことです」とみんなに言ったそうです。最近は、若い人も「エコ」に興味があり、加わっているそうです。また、「日立理科クラブ」にも属しており、学校の実験室の実験を手伝っています。ふだんはあまり使われなかった実験室が、リタイアした技術者のボランティアによって活気付いているそうです。石塚兄姉は、当教会におられたときから、本当に肯定的な人でした。批判的なことは一切言わず、小さなことも喜んで励ましてくださいました。ブラック・ゴスペルで多くの人が救われたとき、一番喜んでくれたのが石塚兄姉です。すずめの学校を創設したときも、退職金の一部を献金してくださいました。今は、日立の方で地の塩、世界の光として活躍しておられます。このように、御霊の実は、概念的なものではなく、実際的なものです。家庭、教会、会社、学校、地域社会で人々と触れたときに、御霊の実が生かされてくるのです。私たちは、神さまとの関係ももちろん大切です。しかし、その実が存在価値を示すのは、人々と関わったときであります。ですから、バランスが重要です。まず、イエス様の内にとどまって力をいだだき、その次には、イエス様と共にこの世に遣わされていくのです。そのようなプロセスの中で、御霊の実が成熟し、キリストに似た者となるのです。

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2010年5月30日 (日)

御霊の法則   ローマ8:1-7、ガラテヤ5:16-18

 私たちは自分の力、つまり肉によって神様の要求を満たそうと努力すればするほど、律法の法則にはまりこみます。律法は「まだ足りない、まだ不十分だ」と、あなたに叫ぶでしょう。律法はあなたの中にある不十分さや罪を暴露して、決して「これで良い」とは言いません。私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえらされました。つまり、律法という夫と別れて、こんどは新しい夫、イエス・キリストと結婚したのです。やさしいイエス様は「私に重荷をゆだねなさい。私と一緒にやりましょう」とおっしゃってくださいます。私たちがなすべきことは、自分の力で努力することではなく、私たちの内に働いてくださるキリスト御霊にゆだねることなのです。神様は私たちを通して、神様ご自身が働きたいのです。きょうは、私たちの内側に、キリストの御霊がどのように働くのか、詳しく学びたいと思います。

1.御霊の法則

 使徒パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と自分に絶望しました。なぜなら、「自分の肉のうちには善が住んでいない。善をしたい願いがあるのに、かえってしたくない悪を行なってしまう」からです。でも、どうでしょうか?ローマ8:1-2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」7章と8章の間に何があったのでしょうか?実際、聖書の原文には何章とか何節と分けられていません。これは後代の人が便宜上、文脈を見ながら付けたものです。でも、パウロは何かを発見して、その絶望のどん底から脱出したのです。自然科学には原理とか法則というものがあります。私たちは学校で、アルキメデスの原理とか、ボイルの法則など、いろいろ学びました。霊的な世界にも原理や法則があるのです。パウロはその大切な原理を発見しました。ローマ7章の後半を見るとどうでしょうか?21節には「私に悪が宿っている原理を見出す」とあります。23節「私のからだの中には異なった律法がある」「からだの中にある罪の律法」とあります。25節には「肉では罪の律法に仕えている」と書いてあります。ギリシャ語の聖書は全部、ノモスであります。ノモスは「原理、法則、律法」と訳されています。つまり、私たちの内側(肉)には、神の律法に逆らう別の律法があるんだということです。これをパウロは「罪と死の原理(律法)」と呼んでいます。

 では、肉の中にある「罪と死の原理」と相対するものとは何でしょうか?パウロは、それは「いのちの御霊の原理」であると言っています。私たちの肉は「神様の律法に逆らう」という原理を持っています。一方、御霊はどのような原理を持っているのでしょうか?ローマ8:2「罪と死の原理から解放した」とあります。解放とはどういう意味でしょうか?私たちの肉は、これから先ずっと、神の律法に逆らい、したいと思う善を行なわずに、かえってしてはならない悪を行ないます。しかし、どうでしょう。その原理に打ち勝つ力があるのです。それが、「いのちの御霊の原理」です。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』に、このように分かりやすく解説されています。引力の法則は、どのようにしたら無効にすることができるでしょうか。私のハンカチに関しては、この法則ははっきり作用しており、いつでもそれを下へと引っ張っています。しかし私がハンカチの下へ手をもっていきさえすれば、それは落ちません。なぜでしょう。引力の法則はなおも存在しているはずです。私は引力を処理したのではありません。事実上、私は引力の法則を処理することはできません。では、なぜハンカチは地に落ちないのでしょう。それは、そうなることを食い止め、支えている力が存在するからです。引力の法則は存在しますが、それにまさったもう1つの法則が、それに打ち勝って作用しているのです。つまり、それはいのちの法則です。もし私たちが鳥に、「引力の法則に恐怖を感じていませんか」と尋ねることができたなら、鳥はどう答えるでしょう。「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことがいのちの法則であるからです。」鳥の内側に飛ぶ力を備えているいのちがあります。つまり、引力の法則に勝たせるいのちの法則を持っているのです。それでも、引力は依然として存在しています。もし、地面の上に死んでいるすずめを見つけるとすれば、私たちはただちに引力の法則の永続性を思い出すでしょう。しかし鳥は、生きている間はそれに勝つのです。鳥が「飛ぶ」ということは、もはや鳥の意志の問題ではなく、いのちの問題なのです。

 ウォッチマン・ニーが言いたいことは、「私たちの中には肉の法則があるけれど、それをとどめるいのちの御霊の法則が働いている」ということです。では、私たちがなすべきことは何でしょうか?自分の力でもっと努力することでしょうか?そうではありません。御霊の法則の中に落ちることです。力を抜いて、御霊にゆだねることです。そうするなら、御霊ご自身があなたの中に働いてくださるのです。ハレルヤ!私は、せっかちな気持ち、汚れた考え、軽率なことば、批判的な思いを取り除いて、「自分を変えよう、変えよう」と努力してきました。それで、数時間は持つかもしれません。しかし、半日もすればケロっと忘れ、軽率なことを語り、せっかちな自分を発見します。「うぁー、イエス様のように聖くなろう」と、また努力します。しかし、そういう努力は肉に対してちっとも役にたちません。空しい努力です。私たちのすべきことは、私に欠けている聖さ、謙遜、柔和を作りだしてくださる御霊を仰ぐことです。自分の意思の力で自分をなんとかしようとしても無理です。そうではなく、御霊にゆだねて歩むのです。たとえば、あなたの心臓をあなたの意志で動かしているでしょうか?「自分の心臓の鼓動はどうだろう?ちゃんと休まないで動くだろうか?」と気にします。そうするとどうでしょう?あなたの心臓はとたんに不具合を生じるでしょう。心臓は私たちのどこか知らないところがコントロールしているんです。それを私たちの意思が横取りするならば、心臓はぎこちなくなるでしょう。私たちのすべきことは自分に集中することではなく、御霊に集中することです。そうすると、あなたの中にある御霊が働いてくださるのです。ハレルヤ!

 ガラテヤ人への手紙5章には「御霊によって歩みなさい」と書かれていますこれは、未信者ではなく、クリスチャンに書かれている内容です。未信者には御霊が宿っていませんので、このような葛藤はありません。クリスチャンならではの経験です。せっかくクリスチャンになったのに、こんな戦いがあるのですか?あります。使徒パウロが7章で経験した、全く同じことがこのガラテヤ5章に書いてあります。自分の内側に肉と御霊との戦いが繰り広げられています。私自身の意思はどこに向けられるべきなのでしょうか?「こら肉よ、お前は怒ってはならない。御霊から忍耐をいただくように!」と命じるべきでしょうか?自分の意思が飛行場の管制塔のように交通整理をするのでしょうか?しかし、御霊によって歩むとはそういうことではありません。「主よ、私はこういう原因で怒ったのです。あの人があのように言ったからです。この怒りの感情はそこから来ているんです。でも、主よ、あなたがさばいてください。私自身は赦します。どうか私にあなたからの平安と寛容さを与えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。」私たちは、日々、いろんなことがあります。怒ったり、悲しくなったり、混乱したり、あせったりするでしょう。そのときに、主と交わり、自分の状況を主に申し上げるのです。さらに、自分の思いと感情はこうなんですと申し上げます。すると、主は「なるほどそうだね。でも、あなたはどうすべきでしょうか?」「はい、あなたのみこころは分かっております。私はこうすべきだと思います。そうします。アーメン」。主にゆだねるのですが、丸ごとではなく、風呂敷から1つ1つ問題を取り出してゆだねていくのです。すると、自然に私たちは悔い改め、新しい道を歩むことができます。御霊によって歩むとは、御霊と一緒に交わり、導かれて歩むということです。御霊ご自身が私たちに意思を与え、思いを与え、そして命の道へと導いてくださるのです。御霊と親しく交わっていくと、やがて、それが自分の中に実として表れてきます。それが御霊の実なのです。ガラテヤ5:22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」アーメン。

2.恵みによる歩み

 クリスチャンになって一番、陥りやすいのが律法主義です。律法と律法主義は違います。律法というのは神のさだめ、戒め、命令ですから、それ自体は悪くはありません。律法は、正しくて中立的です。問題なのは、私たちが「律法を守ることによって、神様に受け入れられよう」と努力することです。私たちは一度死んで、律法という夫から、イエス様という新しい夫と結ばれたはずです。にもかかわらず、律法があまりにも完全で立派なので、ふらふらと寄ってしまうのです。これは霊的な浮気であります。イエス様の恵みよりも、きまりや命令を重んじているからです。大体、律法主義には共通したセリフがあります。どういうものでしょうか?「聖書を読まなければならない」「伝道しなければならない」「祈らなければならない」「献金しなければならない」「罪を犯してはならない」「良い証を立てなければならない」。そうです。「…しなければ、ならない」というセリフです。昔、本田弘慈先生は、「…しにゃーならん、…しにゃーならん。これを猫信者という」とおっしゃっていました。どうでしょうか?みなさんの中に、そういう習慣があるでしょうか?スティーブ・マクベイという先生が、『恵みの歩み』という本でこのように教えておられます。「多くのクリスチャンは救われるために行ないは必要ないと理解しているものの、救われた後、信仰生活の勝利のためにそれが必要だと信じているのです。本当は信仰生活の勝利というものは報酬ではなく賜物なのです。神のために一生懸命行ないをもって努力している人は信仰生活で勝利を体験できないのです。聖書を読まなかったときはやるべき事をしなかったので、罪悪感を覚えました。律法は聖書を読みたくない気持ちを起させ、読まなかったときは罪の宣告をしたのです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、聖書を読まなくてもいいということに気づいたとき聖書をエンジョイして読むようになりました。聖書をなぜ読むのでしょうか?みことばを通して神と交わりたいという願いがあるからです。恵みによる聖書研究はみことばの飢え渇きを造り出しますが、律法によるアプローチはやらなければならないという疲労感を残します。律法主義者だった頃は聖書を読むという義務感に縛られていました。しかし、今はそうしたいので聖書を読む自由があります。読まない自由を発見するまで、聖書を読む自由がありませんでした。」

 意味がご理解できたでしょうか?マクベイ先生は、長年「良い」クリスチャンになるためには、教会に出席し、聖書を読み、祈り、キリストを人々に伝えることなどをしなければならないと信じていました。これらの行ないは、クリスチャンにとって重要だと思います。でも、どこが間違っているのでしょうか?それらの行ないの真の目的は、イエス様と親しく交わることであります。私たちはイエス様と交わるために、教会に出席し、聖書を読み、祈るのです。でもそれを、義務にしたらどうでしょうか?「これをしなければ、神様に喜ばれない」としたら、律法主義に片足をつっこんでいます。何度も言いますが、神様はイエス・キリストの贖いを信じた私たちを喜んでおられます。私たちは肉によって神様を喜ばせることはできないし、喜ばせる必要もないのです。では、どうしたら良いのでしょうか?奉仕や伝道はしなくて良いのでしょうか?クリスチャンとしてやるべきことがたくさんあるでしょう?アーメン、あります。最も重要なことはこのことです。律法とは私たちが神さまのために何かをすることを意味します。一方、恵みとは、神様が私たちに何かをされることを意味します。では、律法から解放されるとはどういうことでしょうか?私たちがそれを行なうことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれなされるということを意味します。私たちは神様のために、何もしなくて良いのです。私たちが肉によって何か努力しようとするなら、律法の罠に陥ります。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは神様ご自身に目を向けるのです。神様が私たちを通して、伝道したいのです。主役は神様で私たちはあくまでもその管であります。神様が私たちを通して、良い行ないをしたいのです。主役は神様で私たちはその手足です。ハレルヤ!イエス様はそのご生涯において何とおっしゃられたでしょうか?ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」アーメン。イエス様は救い主でありますが、同時に、私たちの模範であられました。イエス様が御父にいつも、お聞きしながら歩まれました。「自分からは何事も行なわない」とは、私たちに言われれば「肉によっては何事も行なわない」ということではないでしょうか。イエス様は自分の神としての力ではなく、御父の力と導きによって、この地上を歩まれたのです。同じように、私たちはイエスの御霊に聞き従って歩むべきであります。これが、恵みによる歩みです。

 当教会に、インディアンのメルボンド先生が来られたことがあります。先生は、天に引き上げられ、イエス様とお会いした人物です。イエス様が先生に、「これこそが教会の成長を妨げている最も悪いものである。それは律法主義である」とおっしゃったそうです。うぁー、律法主義、これはぜがひでも避けなければなりません。「なりません」と言うと、律法になるかもしれません。丸屋真也先生も律法主義には口をすっぱく、注意しておられます。律法的に「こうあるべき」「こうでなければならない」と、律法的な信仰に進むと、もっとしなければならないと思うようになる。「あかしをもっとしなければならない」という律法的なアプローチをする。「あー、自らの方法で、職場のだれかに、あかしを正しくしなければならない」と思う。もっとしなければならないと思う。そして、私たちは祈り、救われるように、より良い証ができるように、具体的に誘うことができるように計画する。思い切って、声をかける。しかし、家族、友人、職場においてうまくいくかどうかは分からない。なかなか、それで結果が出るだろうか?全体として、証をするとき、うまくいかないことが多い。自分の信仰がまだまだダメなんだと罪悪感を覚える。さらに祈って、次にチャレンジをする。必ずしもうまくいくわけではない。証をして、何百回して、限られた人しかクリスチャンにならない。そんなに多くはいない。しかし、「なんとなく信仰者としてダメかもしれない」と罪悪感を覚える。律法的な姿勢で何回も繰り返す。だれかが救われる。「自分がこうしたから」と自分を誇る。周りの人もそれを律法的に受け止める。律法的になればなるほど、罪が増してくる。「自分はまだダメなのかな?」「もっと聖書を読まなければ」「いろんなものをしなければ」。ある人は、わりと考えているほどうまくいかない。あまり触れたくないので、自分でできること(奉仕)に熱心になる。罪悪感は表に出ないかもしれない。しかし、この罪悪感が深いところで居座る。意識していなくても、心の中にある。「何かしなければ、こうでなければ」。その罪悪感がふっと出てくる。それは、霊の世界ではない。私たちの精神的、心理的なものである。

 私も牧師として、一ヶ月間、どう過ごしたら良いでしょうか?毎月、聖務表というのが作られます。いろいろ、スケジュールを立てて、埋めていきます。でも、そんなに毎日、忙しいというわけではありません。ゴスペル、コーチング、勉強会、説教準備、たまにだれかと面談します。ある人は、「牧師先生って楽だよね。日曜日、説教すれば良いだけだもんね。それで一か月分の給料もらえるんだから」と言うかもしれません。私も何度か間接的にそういうことを聞いたことがあります。ですから、あるときは一生懸命、何かスケジュールを入れて、忙しそうにふるまいました。「あの人のところに訪問しよう。この人にコンタクトを取って伝えよう」と追い立てられるように生活していました。いわゆる業績思考、パフォーマンス思考でした。しかし、あるときから「牧師は忙しくしてはいけないなー」と思いました。何か相談事があっても取り付く島がないというのは困りものです。でも、人のお世話に日夜、ふりまわされるような牧師も問題だと思います。今は、私は人からではなく、神様の御目で「お前は、忠実にやっている」と評価されたらそれで良いじゃないかと思っています。牧師として一番重要なのは、忙しく動き回るのではなく、神の御声を聞いて、霊的な洞察力、創造性、方向性をいただくことであると確信しています。ですから、私もあるときから律法主義から解放され、主体的に生きることができるようになりました。みなさんはいかがでしょうか?周りの必要から動かされているでしょうか?あるいは、心の中からくる「あれもしなければ、これもしなければ」という義務感で生きているでしょうか?もし、そうであるならばそれは律法主義の中にいます。

私たちはこの世において、自分がすることと他人がすること、そして、神様がすることの境界線(バウンダリー)を持つ必要があります。境界線を犯してまで、人のことに首をつっこんだり、人をコントロールしたりしてはいけません。ある人は神様をコントロールする人もいたりします。それは、恵みの歩みと反するものです。恵みの歩みというのは、ある意味では、神様がなさる分と自分がする分の境界線をはっきり理解することであります。「ああ、これは神様のなさることだなー」と思うなら、神様にゆだねるべきであります。もし、神様があなたに「これをすべきですよ」と促すならば、「はい、聖霊様、一緒にまいりましょう。どうか私の力となってください。アーメン」と祈れば良いのです。恵みの歩みをしている人は、寝るときや寝て、休むときは休みます。詩篇127:2「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」アーメン。また、恵みの歩みをしている人は、あまり思い煩いません。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」アーメン。昔の私は歯を食いしばり、「ちくしょう、ちくしょう」と、生き延びるために生きてきました。私の中の原動力は怒りであり悲しみでした。しかし、今は神様の深い愛と恵みの中で生かされています。主は私を忠実な者と見ておられます。だから、それに喜んで応えたいと思います。みなさんの人生、それぞれ神様から与えられた人生があると思います。恵み深い主は最もあなたが最も満足するような愛し方で、あなたを満たしてくださいます。

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2008年10月 5日 (日)

ああ、十字架  ガラテヤ6:11-18

 本日で、ガラテヤ人への手紙は終わりです。次回からはコロサイ人への手紙から続けて学びたいと思います。ところで、十字架には大きく分けて、2つの意味があります。第一は、十字架は救いのためにあります。主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死んで、3日目によみがえられました。私たちは、このお方を救い主として信じるときに救われます。第二は、きよめられたクリスチャンになるためにも十字架があります。救われても、自己中心で、肉的に生きる場合があります。そのため、勝利がなく、この世の人たちとあまり変わりません。しかし、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、死んだことを認めます。そして、キリストを信じる信仰によって新たに生きるということが大事です。

1.ああ、十字架

ガラテヤ6:15「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」「創造」ということばは、他の写本では、被造物と訳されています。この言葉と同じ意味のことばは、Ⅱコリント5:17です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「新しく造られた者」は、「新しい被造物」という意味です。クリスチャンは新しい被造物です。

ガラテヤの人たちは、「救われるためには福音を信じるだけではなく、割礼を受けて、モーセの律法を守らなければならない」と考えました。しかし、パウロは「そうじゃない。私たちは、福音を信じるだけで救われるんだ。割礼を受けるとは、行いによって救われようとする間違った道である」と主張しました。では、皆さん、福音を信じるとはどういうことなのでしょうか?私たちは何を信じて救われるのでしょうか?「イエス様を信じれば、救われるのでしょう?」と答えるでしょう。それでも間違いではありませんが、福音の内容が必要であります。それは、イエス様が私たちのために何をなしてくださったかであります。イエス様は私たちの罪の身代わりのために十字架で死んでくださいました。これを「あがない」とか「贖罪」と言います。本来は私たちが自分の犯した罪のために神からさばかれて当然だったのに、イエス様が身代わりにさばかれ、死んでくださったのです。ですから、「イエス様の十字架は、私たち、いや、私のためだったんだ!」と受け入れる必要があるのです。しかし、福音はそれだけじゃありません。イエス様は3日後に、よみがえられました。それは、私たちが新しく造られ、永遠のいのちを持つためです。ですから、イエス様の十字架と復活を信じる人は、だれでも新しい被造物になれるのです。

しかし、この世の人たちは、こうおっしゃるでしょう?「え、私がどんな悪いことをしたと言うんだ。警察のやっかいになるような悪いことはしていないぞ!人を罪人呼ばわりするとは、なんてひどい奴だ!」と言うでしょう。私もかつてはそうでした。「神なんかいるもんか。キリスト教は外国の宗教だろう!そんなの関係ない」と思っていました。そして、罪と欲のままに生きていました。でも、心の中は空しく、混沌としていました。心の中に、世の喜びや楽しみを入れても、入れても、一向に満たされないのです。罪とはギリシャ語で「的はずれ」という意味です。それは、神様から離れているために、霊的に死んだ状態です。楽しみや夢を持ったとしても、それは、ただ自分の腹を満たすためのものでした。あるとき、私は聖霊に示され「ダメもと」で信じたのです。「これまでの人生がこんなもんだった。これから先もこんな具合だろう。でも、この道を行ったら、聖書は永遠の滅びだと言っている。でも、イエスの道はどうもそうじゃないらしい。ダメもとでも良いから、イエス・キリストを信じてみようか?じゃあ、信じるよ。」こんな感じだったんですね。でも、それが新しい始まりでした。聖霊はイエス様を受け入れた私を新しく生まれ変わらせてくださいました。新しい命、永遠の命を私に与えてくださったんですね。救いの喜びは、今でも忘れません。あの時から、つまり受け入れた時から、ずっとイエス様は私と共におられます。ここにおられるクリスチャンは、私と同じ経験を持っているのではないでしょうか?

ここで問題とされるのは、洗礼の問題です。ユダヤ人は救われるためには、割礼を受けなければならないと考えていました。同じように、クリスチャンになるためには洗礼を受けなければならないのでしょうか?確かに割礼と洗礼と似ているところがあります。イエス様はマタイ28章で、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と命じられました。でも、みなさん、洗礼と救われることは、イコールではありません。正確に言いますと、イエス様を信じて救われた人が洗礼を受けるのです。洗礼とは信じているということの外的証拠であります。人は洗礼を受けることによって、公にキリストの教会に属する者となるのです。別な言い方をしますと、信じていないのに洗礼を受けても神の国には入れません。洗礼は受けているけど、イエス様を信じていない人は、アメリカやヨーロッパにたくさんいます。そういう人たちは新生していません。つまり、キリストを信じていないので、新しい被造物になっていないということです。彼らは霊的に死んでおり、考え方もまったくこの世の人たちと全く同じです。当時のユダヤ人たちも、割礼を受け、モーセの律法を守ってはいたかもしれないけど、新しく造られた者にはなっていなかったのです。

ですから、このガラテヤ書を現代風に言うとこうなります。「洗礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」となります。洗礼は救われるための、儀式ではありません。救われた人が、「私はキリストのからだなる教会に属しながら、神の国の完成を待ちますよ」ということなのです。アメリカは個人主義の国です。日本にも悪い意味の個人主義が入ってきました。みなさん、キリスト教は個人主義ではありません。確かに、イエス様を信じるのは自分個人であります。個人的にイエス様を心に迎えなければなりません。でも、信仰生活はひとりでするものではありません。教会という神の家族の中で、霊的に成長するために、どうしても洗礼を受けなければなりません。皆さん、この世では、結婚式をしなくても、結婚はできます。婚姻届を役所に出せば良いでしょう。でも、結婚式は神と人々の前で、約束することであります。そして、「みなさん、どうか今後ともよろしくお願いします」ということでしょう。同じように、クリスチャンは一人で生きるのではなく、神の家族という共同体に属しながら、互いに祈り、互いに励まし、互いに愛し合って生きるのです。これは神様のご命令です。まだ、イエス様を信じていない人は、イエス様を救い主として信じましょう。そして、洗礼を受けて、神の家族である教会に属しましょう。聖歌399番に「カルバリ山の十字架」という賛美があります。「カルバーリ山の十字架につきて、イエスは尊き、血しおを流し、救いの道を開きたまえり、カルバリーの十字架、わがためなり、ああ十字架、ああ十字架、カルバリーの十字架わがためなり」アーメン。キリストの十字架を感謝します。

2.きよめの十字架

ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。このところに「世界」と書いてありますが、昔の口語訳聖書は「この世」です。私は「この世」という表現の方がぴったりすると思います。「この世」とは、神から離れている人間社会を指すことばです。使徒パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言っています。なぜでしょう?私たちは自分自身、自分がしたことを誇りたいという欲求が常にあるからです。だれしも、人から認められたい、ほめられたい、有名になりたいと思っているのではないでしょうか?牧師はそういうものから、きよめられたはずなのですが、やっぱりキリスト教会で有名になり、偉大な人だと言われたいという思いが心の奥底にあります。その証拠に、何かの大会会長になって壇の上に上ったり、名誉博士号をいただいたり、自分の記念誌を出したくなります。「先生」「先生」と人々から呼ばれて、喜ぶところがあります。でも、パウロは2つの方面から十字架以外に誇りとするものがあってはならないと教えています。

まず、パウロは「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられた」と教えています。これはどういう意味でしょうか?世界、つまりこの世がまるで人格のあるように言われています。それは、この世の人たちが、「あなたはすばらしい。私たちの代表になってください」あるいは「名誉博士号を与えたいです」「教団の議長、大会会長になってください」と言うときです。気持ちはわかります。私も人から持ち上げられたら、悪い気はしません。この間、ゴスペルのレセプションに招かれたとき、一番最初に挨拶をさせていただいた時には悪い気はしませんでした。いやー、「ご招待」に弱いところがあります。しかし、この世がどんなに誘惑してきても、十字架につけて死なせるということです。同時にパウロは「私も世界に対して十字架につけられたのです」と言いました。これは、私自身が十字架につくということです。私たちはクリスチャンになっても肉(この世の欲)があります。人々から認められたい、この世で有名になりたい、人々から高められたい、権威と権力を持ちたいという肉があります。カルト的な教会の牧師は自分がさも偉い者のように言います。役員会をプッシュして、自分のために記念誌を発行させます。銅像は作らなくても、「できれば説教集とか著作集を出したい」とだれしもが思っているのではないでしょうか?

しかし、福音書を見ますと、イエス様は有名になりたいとは思っておられないことが分かります。あるとき、イエス様は耳が聞こえず、口のきけない人を癒しました。その時、イエス様は「このことをだれにも言ってはならない」と命じられました。しかし、人々は「口止めされればされるほど、かえって言いふらした」とあります(マルコ7:32-37)。イエス様はらい病人を癒したときも、少女を生き返らせたときも、「このことをだれにも言ってはならない」と命じました。私だったらクリスチャンの新聞に電話して、「ぜひ、取材に来てください」というかもしれません。ということは、私たちはイエス様と逆のことをしようとしているということです。旧訳聖書で、バビロンの王、ネブカデレザルは高さ約30メートルの金の像を造りました。そして、人々に「この金の像を拝め」と命じました。そのあとに、神からの預言がありました。「あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます」と。ネブカデレザルの髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになりました。そして、7年後、理性が戻ってきました。その時、彼はどうしたでしょうか?「私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権、その国は世々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる」(ダニエル4:34-35)。神様は私たちにすべてのものを分かち合うお方です。しかし、栄光だけは別です。栄光は神様のものだからです。アーメン。

私たちは聖書のみことばを頭で信じていますが、自分の価値観になっていないところがたくさんあるのではないでしょうか?私は子どもの時、父から立身出世を説かれました。「人を利用してでも良いから偉くなれ!」と言われました。昔は、卒業する時に「仰げばとうとし」という歌を歌いました。「仰げばとうとし、わが師の恩…身をたて、名をあげ」という歌詞です。「身をたて、名をあげ」は、まさしく立身出世です。そういう価値観を持ったままクリスチャンになるとどうなるのでしょうか?教会が大きくなることが、自己目的になります。「リバイバル、リバイバル」と祈りながら、「俺を馬鹿にしたやつら、今に見ておれ!」と思っていたら、おかしいですね。教会が大きくなって、自分が有名になる。そして、セミナーや講演会に招かれる。本でも出版して、老後は悠々自適に暮らす。これは、私が思っていたことですが、やっぱりどこかおかしいですね。使徒パウロやイエス様は全く反対の生き方をしていました。私は「リバイバルは何か」ということをずっと考えてきました。「リバイバルとは大ぜいの人々が救われて、教会が大きくなることだ。クリスチャンが10%以上、増えれば、世に対して影響力を持つことができる」と考えていました。みなさん、これだったらどこかの学会と同じであります。ケニヤでは90%がクリスチャン、大統領もクリスチャン。でも、政府の汚職は、はなはだしいということです。アフリカのある国では、午前中は教会に集まって、神様を礼拝する。でも、午後になると敵対する部族を殺しに行くそうです。たとえリバイバルが起きても、こういう教会だったら、何にもならないですね。私たちはただ、数に頼るのではなく、旧約の預言者たちのように、神様の前に真実であることを求めたいと思います。

2004年にインドネシアからエディ・レオ師が当教会に来られました。そのとき、先生はこのように言われました。「私はたくさんのいろんな国々を訪れたが、いろんなすばらしいリバイバルが起きている。そして、リバイバルについてのいろんな話を研究してきた。そして私はことのことを発見した。ほとんどのリバイバルが30年間、40年間続いてからしぼんでいく。一番大きなリバイバルの1つは韓国で起きているリバイバルである。しかし、私は何度も韓国を訪れているが、韓国のクリスチャンたちは『エディ先生、韓国のために祈ってください。私たちの教会は今、減少しています。若者たちは教会から去って行ってしまった。もう彼らは日曜日教会に来ようとしない。彼らはディスコに行ってしまう。この世的なことをやっている』。韓国は離婚率ということでは世界でアメリカに次ぐ第二位の国になった。そしてまた、中絶に関しては、世界で一番多い国になってしまった。私たちの技術は今、最先端のところに行っている。私たちに知識が足りないからではない。それは、人々の道徳の低下のゆえである。そして、聖書はそのことを預言している。Ⅱテモテ3:5「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい」。このことこそが、リバイバルを失っていかないために支払わなければならない代価である。大抵の場合、教会はリバイバルを経験する。「ああ、もう燃えている。ああ、すごく霊的になってきた。」しかし、その後、人々は敬虔の力を失ってしまう。敬虔さから生じる力を失ってしまう。見かけは、敬虔かもしれない。しかし、その人たちの生活をよくよく調べてみると、その敬虔さの力というものがない。」

 敬虔さとは、どういう意味でしょうか?英語では、godlinessと言います。その意味は「神様のようである」ということです。神様のようになって行くということです。それは簡単です。それは、イエス様のようになって行くことです。私たちの目標(ゴール)はイエス様のようになって行くことです。しかし、今日の教会の目標はイエス様のようになるということではありません。私たちの目標は他のことに向かっています。多くの教会にとっての目標は何でしょうか?教会が大きくなることです。力のあるダイナミックな教会になることです。でも、敬虔さの力には欠けています。今日の教会の目標は何でしょうか。栄えることです。「イエス様を信じなさい。あなたはイエス様を信じるなら、お金持ちになりますよ」。「イエス様を信じなさい。あなたの問題は自動的に解消されますよ」。「あなたは人生を楽しめますよ」。「すばらしい人生が待っていますよ」。このような福音を語ります。しかし、イエス様のようになるというところにフォーカスが向けられていません。私たちの教会は、「イエス様のようになる」という目標を持っているでしょうか?みなさんのセルグループはどうでしょう?「イエス様のようになる」ということに焦点を当てているでしょうか?もし、私たちがイエス様のようになるということに焦点を合わせるならば、リバイバルが起こるでしょう。そして、そのリバイバルは消えてなくなることはありません。ですから、みなさん、イエス様のようになりましょう。アーメンです。

私たちはイエス様を信じていると言いながらも、この世の価値を十字架につけようとしません。「イエス様も信じますけれど、この世でも楽しく暮らして、できたら有名になりたいです」。聖書はこういう人たちを「二心の者たち」と言います。私たちの心の中になぜ安定がないのでしょうか?それは神様を愛し、同時にこの世も愛しているからです。神様からも認められたいが、同時に人々からも認められたいのです。しかし、それは不可能です。イエス様はこのようにおっしゃいました。マタイ6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」アーメン。私たちはどちらかに死ぬしかありません。神に対して本当に生きるためには、この世に対して死ぬかしかありません。実は、この世に対して死ぬならば、信仰生活はとても楽になります。既に、死んでいるんですから、あなどられても、馬鹿にされても、痛くもかゆくもありせん。おだてられても、ほめられても、高慢になりません。でも、実際は、馬鹿にされたら腹が立ちます。ほめられたら、嬉しくなります。みなさん、これが肉なんですね。この肉は天国に行くまで治りません。常に私たちに付きまとうのです。ですから私たちは「日々、自分の十字架を負って」イエス様に従っていくしかないのです(ルカ9:23)。この十字架とは他の人のためではなく、自分がつけられる十字架です。まさしく私たちは、「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」ということを告白していくしかないのです。十字架は私たちを罪から救う力があります。また、同時に十字架は私たちを罪から解放する力があります。どうぞ、十字架をいつも身におびて、行きましょう。私たちの生活に、十字架を適用するならば、同時に新しい創造、新しいいのちが生まれるからです。アーメン。

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2008年9月28日 (日)

蒔き刈りの法則   ガラテヤ6:6-10

 秋は収穫の季節です。もう新米が出ています。稲の場合は、春に蒔いた種が、たくさんの米粒となって収穫できます。りんごや梨も、かつては小さな種でした。それが大きな木になって、たくさんの実を結びます。蒔いたら刈り取る、これは自然界だけにあてはまるのではなく、私たちの生活にもあてはまります。では、蒔くとはどういう意味でしょうか?蒔くとは、行動を蒔く、何かを投資するということでしょう。そして、ある一定の時間が経つと、その結果が現れるわけです。たとえば、真実な行ないをしているならば、信用を刈り取ることができます。また、甘いものや脂っこいものを食べ続けるならば、メタボを刈り取ることになるでしょう。悲しみや憂いを蒔き続けるならば、病気を刈り取るかもしれません。皆さんのように神様のために時間と富をささげるならば、幸いと祝福を刈り取るでしょう。アーメン。

1.どちらを蒔くか

ガラテヤ6:7,8 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」使徒パウロは二通りの蒔き方があると教えています。第一は自分の肉のために蒔くならば、滅びを刈り取るということです。第二は御霊のために蒔くならば、永遠のいのちを刈り取るということです。では、自分の肉のために蒔くとはどういう意味でしょうか?それはガラテヤ5章に書いてあった、肉の行ないをし続けるということす。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などです。パウロは「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と言いました。つまり、これは「肉から滅びを刈り取る」ということと一致しています。私は25歳のとき、クリスチャンになりましたが、それ以来、別の道を歩んできました。お酒やタバコもやめました。だれも「私にやめなさい」と言ったわけではありません。ちなみに私を信仰に導いてくれた職場の先輩はずっとタバコを吸っていました。私がタバコを吸っていたのは、話の間が持てなくて吸っていただけです。また、どういう訳かパチンコもマージャンもやめました。やめようと思った訳ではありませんが、やる暇がなくなったからです。たまに、子どもとイトーヨーカードの6階に遊びに行くことがあります。そこに行くとパチンコの台があります。ウルトラマンが出てくるものですが、あんまり面白くないですね。でも、そういうものをやめたので、健康が支えられているのかもしれません。

肉のために蒔くと言ってもいろんなものがありますが、すぐに害になるわけではありません。何年も何十年も続けているうちに、肉体、人格、あるいは霊的な分野に顕著な形で現れるのでしょうね。リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言いました。ある記事を見ましたが、「リンカーンは果たして麻生さんを閣僚に選んでいただろうか?」と書いてありました。麻生首相は若い頃、端正といってもいいくらいの好青年だったそうです。「長い間、政治家をしていたので今のような顔になったのではないか」と書いてありました。政治は、まさしく「党派心、分裂、分派」の世界であります。敵意や争い、嘘もあるかもしれません。そういうところに身をおいていますと厳しいですね。私たちは、生きる環境を肉の行いの少ない方を選ぶべきであります。そして、積極的には御霊に蒔く生き方をしたいと思います。

御霊に蒔くとは、ガラテヤ5:22,23のことでしょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これらは御霊の実です。キリストにつながり、御霊によって生きるとき、だんだんとそういう実が結ばれていくのです。御霊の実と対比されるのが、御霊の賜物であります。御霊の賜物とは神様に仕えるためのいろんな能力です。御霊の賜物が与えられるのは時間がかかりません。そして、あまり苦労もしません。聖霊から一方的に与えられるからです。しかし、御霊の実は、いろんな環境や状況の中で、試され、練られ、あるときは砕かれ、忘れられ、無にされ、けちょんけちょんにされてできてくる。神様は、私たちをそういう所をあえて通らせるようです。そうするうちに、愛、喜び、平安、寛容…自制の実が膨らんでくるのです。最高に甘いトマトをどのように作るかご存知でしょうか。トマトを荒地に植えて、水をほとんどやらない。そして、日をじりじり照らす。すると甘いトマトがなるそうです。私もかつてトマトを植えたことがあります。枝と葉っぱだけが大きく育って、肝心のトマトはそんなになりませんでした。トマトを甘やかしたのかもしれません。

この間、ベン・ウォン師のコーチングセミナーがありました。最後の日このように言われました。「教会にしても個人にしても、自分でもどうにもならないような状況に身を置くことができるだろうか?大半の教会やクリスチャンはいつも自分にとって安全な状況を確保しようとする。私たちは安全地帯にいて、安全地帯の中でいつも動こうとしている。自分たちがちゃんとコントロールしている、把握している中で活動している。しかし、信仰をもって安全地帯を離れることが難しい。あえて、自分にはどうにもならないようなところに身を置く。『私にはできない』という困難に直面する。自分が死ななければならないような状況こそ、神様に叫び求める。そこで、私たちの信仰が成長する」とおっしゃっていました。愛や喜び、平安や寛容も、平坦で何も問題がないところでは育ちません。愛せない人たち、喜べない状況、平安が持てない環境、寛容になれない出来事…そういうところを幾度か通されて、キリストの品性という実が実るのではないでしょうか。柔和とか自制もまさしくそうであります。モーセが柔和になったのは、荒野の40年間があったからです。エジプトの王子から一介の羊飼いになり、人々から忘れ去られ、年ばかりくってしまった。そういうところを通らされたからです。ヨハネやパウロだって最初は愛の人とは思われません。結構、怒りっぽくて、頑固だったでしょう。でも、いろんな苦難を経て、キリストの愛があふれてきたのではないでしょうか。わぉー、私たちの人格、品性、これはぼんやりして生み出されるものではありません。イエス様に必死につながり、イエス様に必死に従うときに、生み出されるものではないでしょうか。アーメン。

2.蒔き刈りの法則 

「エリヤハウス」という「癒しと変革」を行なうミニストリーがあります。1つのカウンセリングでありますが、とても良いものです。ところで、神様はこの自然界を造ったときに、いくつかの法則を与えました。科学者があとからそれを発見したわけです。万有引力の法則とか作用反作用の法則…いろいろあります。自然界だけではなく、神様は道徳上の法則も与えました。このエリヤハウスの働きは、4つの神の法則に基づいています。

①あなたの父と母を敬え

 これは十戒の第五番目です。申命記5:16「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」。

②さばくとおりさばかれる

 マタイ7:1,2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。

③種を蒔けば、その刈り取りもする

 このことが本日のテキストに書いてあります。ガラテヤ6:7,8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」

④すべてのことが増加する

マタイ13:8「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍あるものは三十倍の実を結んだ」。農夫が1粒の種を蒔いて、1粒の実を期待する人はいません。何十倍かの実りになって返ってきます。本来、神様は祝福のために、増加の法則を与えました。しかし、人間が罪に陥ってから、1つの罪が何十倍にもなって自分に返ってくるという呪いにもなりました。

今の4つの法則をいくつかの例によって説明したいと思います。たとえば、自分が小さいときに、父もしくは母に対して、さばいたとします。それは、1つの種を蒔いたことになります。そして、自分が大きくなって、自分の蒔いた種が成長し、実を結びます。そして、それが自分に返ってくるのです。それはいつですか?自分が父もしくは母になってから、子どもから同じようなしうちを受けるということです。それだけではありません。自分の周りの父もしくは、母のような存在から、どういう訳か好意を受けない。なぜなら、自分の中に目上の人を敬うことのできない気質があるからです。また、自分の部下や後輩との関係も悪い。なぜなら、自分には彼らを受け入れ、面倒みるという父の心がないからです。これが、エリヤハウスの中心的な、考え方です。なんだか、因果応報的でありますが、結構、当たっています。

エリヤハウスにキャシーという先生がおられます。彼女が子どものとき、お母さんは怒ると、部屋にとじこもり鍵をかけて3日も4日も出てこなかったそうです。彼女は「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、彼女の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちが起こりました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。やがて、キャッシーさんは結婚して家庭を持ちました。どうなったでしょう?何か家族で不和が起こると、キャッシーさんは部屋に閉じこもり鍵をかけました。お母さんと同じように、家族を傷つけてしまったのです。お母さんは心が不安定な人だったのですが、キャッシーさんも不安定でした。やがて、鬱病になりました。もちろん、あとから癒されましたが、お母さんと同じことを気づかずにしていたということです。みなさんの中にそういうことはないでしょうか?お父さんとの関係はどうでしょうか?小さいときに怒りとかさばきの種をまくと、あとから自分自身に帰ってくる。種ですから、一定の時間がかかって、実になるんですね。自分が結婚して、子どもを持つようになると、「ばっ」と現れるとか…。自分じゃ、「父や母と同じようなことをしないぞ!」と誓ったとしても、同じことをしている。それが、子どもから子どもへと連鎖していきます。

でも、ここに救いがあります。神様は人間が罪の種を蒔いて、その結果によって自分自身が破滅することをご存知でした。時が満ちて、神様は、この地上にイエス・キリストを送ってくださいました。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。罪のないイエス様が私たちと1つになってくださいました。私たちの憎しみ、恨み、欲望、不信仰、内側にあるあらゆる醜いものと1つになってくださったのです。そして、イエス様は十字架にかかり、本来ならば、私たちが受けるべき罪の報いをその身に受けてくださったのです。つまり「蒔けば刈り取る」という法則に対して、イエス様の十字架が歯止めとなってくださるということです。本来、私たちが受けるべきダメージが十字架で解消されるということです。「十字架のかげに」という賛美があります。おおー、私たちは罪と呪いが自分にふりかかろうとしているとき、十字架のかげに身を隠すべきです。「どかーん!」ものすごい音がします。でも、この身は大丈夫です。

では、具体的にはどのようにしたら良いのでしょうか?エリヤハウスは5本の指ということを言います。つまり、5つの段階で解決していくということです。認識、悔い改め、赦し、十字架につけて死なす、新しい命をいただく。でも、一番、重要なのは認識、気づくということです。私たちは結構、気づかないで同じことを繰り返しています。もう、それが習慣とか性格にまでなっています。では、どうしたら気がつくのでしょうか?それは、実を見るとわかります。イエス様は「良い木はみな良い実を結ぶ」とか「実によって彼らを見分けることができる」と言われました。私たちの言動というか、生活を見てどうでしょうか?いろんな実があります。良い実もあれば、悪い実もあります。怒り、中毒、忍耐不足、ねたみ、様々な欲望…という悪い実があるでしょうか?悪い実を取ろうとしても無駄なことです。つまり、行ないや考え方を変えようとしても、根本的な解決にはなりません。その実がどこから来ているのか?根っこをさぐらなければなりません。今、起こっていることも大事ですが、その元がどこから来ているのか?根をさぐることが大事です。多くの場合、たどっていくと、それは子ども時代にあります。そこに立ち返って、主の癒しを受けるということです。

3.新しい種をまく

 何故、自分は人と関わることが面倒なのだろうか?何か言われるととても傷つく。挨拶ぐらいなら良いけど、親しく交わることができない。皆さんは、そういうところがないでしょうか?大体、そういう場合は、子どものとき親から拒絶されて、悲しい思いをした人が多いです。お父さんと楽しく遊んだという経験がない。お父さんは気難しくて、いつも怒っていた。小さなことでも頭ごなしに叱られた。自分は価値があって、すばらしい人間だと思ったことが一度もなかった。子どものときに、「拒絶に対する恐れ」という種を蒔いてしまったのです。そういう人に「自信を持って、出て行けば大丈夫よ!」と言っても無理ですね。本当に、子どもの自分が、イエス様から抱きしめられ、はぐくまれ、いのちをいただく必要があります。私は子どもを育てて癒されたところがあります。彼らには「よく生まれてきたねー」「賢いよー」「かっこよいよー」とか、よく言いました。自分が言われなかったからです。でも、自分でそのように子どもに言っていると、自分自身が、癒されたところがあります。

でも、ベン・ウォン師のコーチングを受けて、エリヤハウスだけじゃ足りないなーと思うようになりました。現在、実っている悪い実は、エリヤハウスは子どもの頃に原因があると言います。だから過去をたどって、そこを悔い改め、十字架につけて、新しい命をいただく。確かにある面はすばらしいと思います。でも、新しい良い実はどう結ばれていくのでしょうか?それはこれから新しい種をまいていくしかありません。コーチングはカウンセリングと違って、これから先のことを考えます。「あなたは10年後、どのようになりたいですか?あなたの青写真を見せてください。そのために、あなたは今、何ができるでしょうか?」そのように未来のところから、今のところに戻ってきます。ベン・ウォン師はいろんなチャレンジを与えてくれます。たとえば、「教会の活動を外でやれ!そうすれば新しい人を加えることができる。メッセージを語るだけでなく、一人ひとりと関係を作れ!そうすればキリストの弟子をつくることができる」。こんなふうに言います。でも、長年やってきたスタイルを変えるということは大変です。「遅蒔きながら」という表現がありますが、今からじゃ、手遅れじゃないかという気持ちがいつもあります。このまま進むのは楽です。でも、10年後も今といくらも変わっていないでしょう。では、10年後のために、今から新しい種をまくならどうでしょうか?

ですから、みなさん、私たちの生活を変えるためには2種類必要ですね。カウンセリングのように過去に原因をさぐり、そこを癒していただく方法です。しかし、もう1つは将来を見つめ、どのようになりたいのか?そのために、新しい行動をまいていくということです。今、板橋の先生をコーチングしています。その先生は、「池袋で路傍伝道とか癒し一緒にしよう」と言います。私は「そうだなー」と言いながら、心の中では「恥ずかしいからイヤ」という思いがあります。正直、路傍伝道では、人は救われません。でも、それをやることによって性格が外向きになるということです。だんだんと、慣れてきて、新しい人に伝道できるようになるということです。当教会は内向き過ぎます。その原因は、牧師が内向きだからですね。セルチャーチは、人に指をうけると3本の指がこちらに向きます。「そういう、お前はどうなんだ!」と言い返されます。つまり、模範を示しながら教えていくということです。しかし、こういうやり方は従来の教会と随分違います。これまで私たちは教えて、教え、さらに教え、教えっぱなし。現場でやってみるということがほとんどありませんでした。現実を認めることは辛いことです。台湾の姉妹から7ポイントを指摘されました。自分の欠点を認めると、自分が崩壊してしまいそうな気がします。「今までやって来たことは無駄だったのか?」とイヤーな気持ちになります。でも、ここに秘密が隠されています。新しい種をまくためには、新しい耕地を耕さなければなりません。そのために、木の株をひっこ抜いたり、石ころをどけなければなりません。しばらくそこは畑じゃなかったのです。あきらめていた分野だったからです。でも、10年後、20年後に実がなるように、今から種を蒔くべきではないでしょうか?良いものを得るために新しい種を蒔きましょう。そしてそこに、伝道の種を蒔きましょう。神の国の拡大のために良い種を蒔きましょう。

ガラテヤ6:9、10「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」

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2008年9月21日 (日)

互いに重荷を  ガラテヤ6:1-5

 「互いに重荷を負い合う」と言われていますが、重荷とは何でしょうか?できれば、重荷なんか負いたくありません。しかし、この世においては、負わなければならない重荷もあります。なぜなら、私たちは家庭とか、地域社会、教会という共同体で生活しているからです。私たちが互いに負うべき重荷には3種類あると思います。第一は、自分がやるべきことです。仕事とか家事、学業など、生活一般のことです。それは、「責任を負い合う」ということです。第二は罪に関することです。クリスチャンは罪を赦された者ですが、この世に生きている限り、また罪を犯す可能性があります。そのため、罪を犯さないように、互いに助け合うということです。第三は教会における牧師と信徒の関係です。これは、霊的なものと経済的なものを負い合うということではないかと思います。

1.責任を負い合う

 私たちはこの世に生を受けた瞬間から、生きていかなければなりません。人の世話にならなければならない時もありますが、自分自身でなんとかしなければならないこともあります。子どもは学校に行くと、宿題とかいろんなことがあります。主婦ですとお洗濯や食事、家族の世話があります。会社に行けば、いろいろやるべき仕事があります。ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合い、そのようにキリストの律法を全うしなさい」とあります。また、5節には「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と書いてあります。この2つの聖句を、合わせると、とても大切な真理が見えてきます。どんな真理でしょうか?一方では「互いに重荷を負い合い」と言っていますし、また他方では「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」と言っています。つまり、こういうことではないでしょうか?人には自分で負うべき重荷もあるし、互いに負い合うべき重荷もあるということではないでしょうか?表現を換えますと、人の重荷の中で、負って良いものと、負ってはいけないものもあるということです。それを負ってしまったら、自分もダメになるし、その人自身もダメになるということです。これを心理学では、バウンダリー(境界線)を犯すとか、共依存と呼んでいます。

 日本人は甘えの構造を持ち、自分の責任と他者の責任の境界線があいまいです。特に家族や身内の場合は、よけいなことまで干渉する、いわゆるお節介が多いようです。テレビ番組に「渡る世間は鬼ばかり」というのがあります。腹が立ってくるので、ほとんど見ないのですが…。あるとき、お母さんが、お孫さんに対して「おばあちゃんの面倒をみなさい」と言っていました。また、夫の妻の問題に対して、姑としゅうとめ同士が争っている。ある兄弟の家庭のことに、他の兄弟が口をだしている。境界線がないというか、入り乱れています。家庭の中心は夫婦です。たとえ、自分の子どもであろうと、相談されない限りは口を出すべきではありません。今は、核家族が多いので、そういうことはないかもしれません。でも、親子の共依存は多いかもしれません。

朝、お母さんが、大声で子どもを起こす。子どもが朝ご飯食べている間に、お母さんはランドセルに勉強道具を入れてあげる。子どもが学校から帰ると、宿題を手伝ってあげます。子どもは夕食を食べたら、後片付けもしない。さらには、子どもが入る学校、就職先、結婚相手まで決めてあげる。結婚してからも、問題がある度ごとに実家に電話がかかってくる。嫌になって離婚したと、実家に戻ってくる。これが負ってはいけない重荷を親が負った場合です。子どもに自主性がなくなり、自分で決めることができない。だから、自分がしたことに対しても責任がとれないのです。アメリカの話ですが、子どもが麻薬で6回も留置場に入れられました。お母さんは息子が麻薬で捕まるたびに、保釈金を積んで釈放していました。一人の麻薬から解放された男性が言いました。「私もかつて麻薬中毒だったけど、刑務所に入って本当に良かった。そこで、回復のためのトレーニングを受けられたし、イエス様も信じられたよ。お母さん、息子さんを本当に愛しているなら、7回目はそのままにしておいたら良いよ」と言ったそうです。

 特に何かの依存症の場合は、負って良いものと、負ってはいけないものをはっきりしないとダメだそうです。アルコール、薬物、ゲーム、性、ギャンブル…いろいろあるようですが、その人が困っているとき、身近な人が助けてあげます。本当は当人が苦しみのどん底で、「ああ、もうやめよう」と決断するしかないのです。だが、その前に、身近な人が「可愛そうだから、見てられない」と、救ってあげる。だまっていると、暴力を受けるので、お金を渡したり、何かしてあげる。そうすると、当人はずっと中毒の中に居座るわけです。このように依存者を脇で助ける人を、共依存と言うそうです。共依存の人たちには、やさしい人が多いのですが、いつも怒りと不安の中で生活しています。どうしてそういう風になってしまうのか不思議です。おそらく、子どものときに、酒乱のお父さんもしくは、ヒステリーのお母さんを助けたんじゃないかと思います。「自分がだれかの言いなりになっている、コントロールされている。」良い気分じゃないですよね。でも、可愛そうなので、つい、また手を差し伸べてしまう。そういう人はベルトをはずして、父なる神様と結びついたら良いですね。自分にできないことは、神様にゆだねる。私たちは他人を変えることはできません。変えられるのは自分だけです。

私は丸屋先生からカウンセリングについて学んでいますが、共依存は良くないが、相互依存は良いということです。夫婦も半人前と半人前が結婚するのではありません。経済的にも精神的にも、一人前と一人前が結婚して、家庭ができるわけです。自分のすべきことは自分でする。でも、疲れていたり、仕事がいっぱいで、できないときもあります。そういう時はお願いする。私は人にあまりものを頼むのが苦手です。自分で全部やってしまうところがあります。お互いに協力したら、もっと大きなことができます。教会はチームワークを学びながら、神様に仕える場ではないかと思います。互いに重荷を負い合いましょう。

2.あやまちを負い合う

 ガラテヤ1-3「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」私たちクリスチャンは、イエス様を信じたとき、新しく生まれ変わりました。それから、神の種が内側に入り、故意に罪を犯すことができなくなったのです。でも、私たちには肉の性質や弱さがありますので、誘惑に負けて罪を犯すときがあります。それをガラテヤ書は「あやまちに陥ったら、正してあげなさい。そのことが互いの重荷を負い合うことだ」と言っています。そのとき、相手の悲しみや苦しみを思いやり、回復できるように励ます。また、自分は優越感にひたるのではなく、自分の行ないをよく調べる必要が常にあるということです。つまり、自分もだれからあやまちを正してもらわなければならない時があるということです。これを「責任を負い合う関係」と言います。英語では、アカウンタビリティと言うようですが、「説明責任」と訳すと、とても堅い感じがします。「どうして汚染米を転売したんだ。さあ、納得のいくように説明をしてもらおうか」ではありません。兄弟姉妹同士で、罪を犯さないようにあるいは、犯した罪から立ち直れるように助け合うということです。

しかし、日本人は面と向かって、注意するということがとても苦手です。裏では「こうなんじゃないの」と言えますが、当人に話すことができない。マタイ18章でこう書いてあります。マタイ18:15、16「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです」私たちは、当人を飛ばして、第三者に「どうしよう」と、持ち込んでしまいます。いろんな人を回りまわって、当人の耳に入ってくる。そうすると、問題が複雑になり、傷も深くなります。私たちはそういう面で、訓練が必要です。最近はブログがあり、何でもかんでも書く人がいます。そして、事情を良く知らない人が、「それはひどい!あなたはこうすべきよ!」などと書き込む。すると、よけい問題がややこしくなります。いくら、テクノロジーが発達した今日でも、問題を感じた当人同士が話し合う。これより勝るものはありません。牧師も罪を犯す存在です。ベン・ウォン師がおっしゃっていました。香港で勇名な牧師がある罪を犯しました。そのとき、何人かの牧師たちは「やっぱりそうだったのか、薄々、感じてたんだよなー」と話していたそうです。そばで聞いていた、ベン・ウォン師は、「分かっていたらどうして、その先生のところへ行ってあげなかったのか!」と怒りを覚えたそうです。

私たちは責任を負い合う関係がとても必要です。こういう大勢の会衆では、そういう関係を持つのは不可能です。身近な兄弟姉妹、2人、多くて、5,6人のメンバーが必要なのではないでしょうか?私は10年以上も前からセルとかLTGということを申し上げています。本当に日本では無理なのか、悩んでいますね。問題が深刻になってから、牧師とかカウンセラーのところへ持って行きます。でも、その前に、お互いに分かち合って、祈り合ったら解決するんじゃないでしょうか?アメリカのある刑務所で、セルを導入したそうです。多くの場合、出所してもまた戻ってくる。彼らのために莫大な税金を費やしても良くならない。それで、セルを導入したら、戻ってくる人が数%になったそうです。教会はセルを持つことによって、いろんな悩みを解決することができます。自分の頭はかくことができますが、背中をかくことはできません。肩や首が凝っているとき、自分ではもむことができません。だれかにもんでもらうと、すっきりしますね。神様は私たちが共同体で生きるように、造られたんじゃないでしょうか。そのために、お互いが責任を負い合う。あやまちを犯したら重荷を負い合う。どうしたら良いでしょう。やはり、前もって、「お互いに責任を負い合いましょう。私に時々、チェックしてね。私もあなたのことをチェックしてあげるから」とお願いしておくのが良いですね。「この1週間ディボーションしましたか?失望落胆にはまっていませんか?性的罪やアルコールから守られていますか?」しかし、私にそういう人がいないのに、「教会員にしなさい」というのも無理な話かもしれません。私も常磐牧師セルやセルチャーチネットワークに属していますが、そこいら辺をもっと強くしなければならないと思います。10月に菅谷先生をお招きしますが、そういうこともぜひ、お伺いしたいと思います。

ヤコブ書にすばらしいみことばがあります。ヤコブ5:16,19,20「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。・・・私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」。初代教会の頃は、「お互いに罪を言い表し、互いのために祈る」ということが普通になされていました。しかし、中世から、教会に行って、箱の中にいる司祭の前で懺悔する習慣ができました。箱の中ですから、顔を見ないで、罪を言い表して帰ってこれる。しかし、それは聖書的ではありません。もし、兄弟姉妹のだれかに罪を言い表し、「私のために祈ってね」とお願いする。すると、その人は「ああ、私はあの人から祈ってもらっているんだ」と楔の役割を果たすでしょう。随分、前の話しですが、私はある姉妹から「私はとても怒りっぽいの。子どもたちに対して一度怒ったら、止まらないの。だから祈ってください」と頼まれたことがあります。実はその頃の私もそうでした。親からよく叩かれたので、子どものお尻をスパンクしたとき、1回で良いのに、3回、4回叩いてしまう。その姉妹の気持ちが分かりました。それで、お祈りしたことがあります。そういう身についてしまった習慣は、自分で祈ってもなかなか直りません。やはり、だれかから、「実はこうなんです」と告白して、祈ってもらう。すると、癒されるのですね。ヤコブも言っています。「互いのために祈りなさい。いやされるためです」と。これは、肉体の病気ではなく、心の傷のことを意味しているそうです。

3.経済(物質)負い合う

ガラテヤ6:6「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」

飛んで、7節と8節には「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」と書いてあります。みことばを教えられる人は、教会の信徒(クリスチャン)のことを指していると思います。教える人は、教師とか牧師、伝道者を指すのではないかと思います。マルチン・ルターは万人祭司説を唱えました。だれでもが、イエス・キリストによって神の御前に立つ事ができる、身分の上下はないということです。しかし、新約聖書を見ますと、フルタイムで仕えている、人たちもいたことがわかります。Ⅰテモテ5:17,18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。初代教会は、教会の運営にあたる長老と、みことばを教える長老がいたようです。後者の長老は、現代の牧師と同じであると思います。人数の少ない開拓教会は、そうでもないようですが、一般的には牧師がみことばの教えに専念する方が良い仕事ができます。私はプロという表現は反対ですが、学びと訓練を受けた者が説教を語る方が、効率が良いと思います。たまに説教するのと、毎週説教する方がとどっちが大変か?どっちも大変です。でも、毎週、語る方がある意味では楽です。神様は不思議に、1週間1ヶのメッセージを与えてくださいます。

 しかし、ある人は、「1週間1ヶのメッセージにそんな高い賃金を払う必要があるのか?」と疑問に思う方がおられるかもしれません。実際に千葉県に、毎週、いろんな牧師に説教に来てもらっている教会があります。ひょっとしたら半分くらいの予算でできるかもしれません。でも、みなさん、もしそういうことになると神学的に統一性がなくなり、バランスのある信仰を持てなくなります。また、教会員が羊ではなく、みなヤギになって、整えられるということがどういうことなのか分からなくなるでしょう。分裂分派ができ、教会が騒がしくなってしょうがない。高砂教会の手束牧師は「牧師は教会の象徴である」と言われました。現在、先生とは交流がないのですが、ちょっとだけ引用させていただきます。よく、人々は「○○先生の教会」と言います。たとえば、「練馬教会」と言うと、「ああ、小笠原先生の教会ですか?」聞いたりします。本来は、「練馬にあるイエス・キリストの教会」です。小笠原先生が教会を所有しているわけではありません。よそに行って「亀有教会から来ました」と言うと、「ああ、あの面白い、鈴木先生の教会ですか?」と言われるでしょう。私がこの教会の持ち主ではないのに、牧師の名前を付けて呼びます。このことは良い意味でも、悪い意味でも、その教会の牧師の影響力があるということです。当亀有教会は、おそらく、明るくて、おめでたい教会のイメージがあるかもしれません。それは、この私から来ているのかもしれません。神様は私をこの亀有教会に遣わしたと信じます。皆さんが、私を牧師として雇っているのではなく、神様がこの教会に派遣したということです。アーメンでしょうか。

 使徒パウロは、Ⅰコリント9:11で「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか」と言っています。御霊のものとは、霊的なもの、つまりみことばを教えたり、語ったりすることです。また、お祈りをしたり、祝福を取り次ぐこともあります。物質的なものとは、霊に対して肉という意味です。つまり、教会員の皆さんは経済的、物質的なものを与えることによって、支えていかれるということです。なんだか、牧師がこういう箇所を語るのはおこがましいというか、ずうずうしい感じがします。でも、ガラテヤ書には、こう書いてあります。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。そうです。人が信仰をもって、そのように蒔くならば、豊かな刈り取りをすることになるということです。背後に神様がおられ、みなさんの経済的、物質的な必要を満たしてくださると言うことです。これは、旧訳聖書のマラキ書3章で言われていることと、共通しています。みなさんがささげているのは、牧師にささげているのではなく、牧師を遣わした神様にささげているのです。だから、神様が祝福してくださいます。ハレルヤ!

ところで、きょうの主題は「互いに重荷を負い合う」ということでした。ガラテヤ書で学んだ重荷とは何でしょう?イエス様が十字架で、罪と死とのろいを負ってくださいました。罪と死とのろいは私たちが負ったらダメになる重荷です。ところが、イエス様が身代わりにその重荷を負ってくださり、私たちには軽いくびきを与えてくださいました。そのくびきとは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であります。ですから、私たちが互いに重荷を負い合う、その動機は、隣人愛であります。神様からいただいた愛をもって、互いに重荷を負い合うのです。この重荷は悪い重荷ではなく、良い重荷です。私たちがへりくだりを学び、イエス様に似たものとなるために、必要な重荷です。

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2008年9月14日 (日)

御霊の実  ガラテヤ5:19-24

 秋は果物の季節です。私はあるところでアルバイトをしていますが、季節観が本当によく分かります。少し前までは桃でしたが、今は梨が主流です。ぶどうもそろそろ出てきました。この間は、栗が小さな袋に入っていました。もう少したつと、林檎や柿が出てくるでしょう。一番困るのはお米であります。一袋30キロもあるんですからイヤになります。失礼しました、お米は果物ではありませんでした。きょうのテーマは「御霊の実」ですから、果物と関係があります。果物は食べるところがあって、中には種があります。果物にとっては、この種をどこかに蒔いてもらって、子孫を増やしたいのであります。クリスチャンの人格は、いわば、果物の実であります。そして、種とは福音であります。私たちは無代価に人々を愛し、親切にします。人々は私たちの果実を食べるわけです。でも、私たちの願いとしては、福音の種を受け入れて欲しいのです。きょうは、御霊の実と題して、ガラテヤ書5章からメッセージさせていただきます。

1.肉の行ない
 御霊の実の前に、肉の行ないについてお話しいたします。これは、御霊の実とは全く反対のものであって、実ではありません。肉の行ないは、人間が持つ罪の性質とも言えます。使徒パウロは、ガラテヤ書で肉の行ないをリストアップしています。ライトフットという聖書学者は、15の罪の目録を4つに分類しています。最初の3つ、不品行、汚れ、好色は「性的な罪」です。不品行はギリシャ語では、ポルネイアで、正式な結婚によらない性行為全般を指します。ちなみに、ポルネイアはポルノの語源になっていることばです。イエス様はマルコ7章では「姦淫」をその中に加えています。性的な罪は、女性が被害者である場合が多いと思いますが、肉体だけではなく、心と、そして霊にまでダメージを与えてしまいます。多くの場合、隠されていますので、罪を明るみに出して、聖霊によって清められるしかありません。数年前、インドネシアの解放のキャンプを見させていただきました。その中で、最も、悪霊現象が伴ったものが、性的罪とそれから来る傷によるものでした。20歳前後の姉妹たちが、叫びながら体をもだえていました。告白した後、癒しと解放を得ていました。ジョン・サンフォードの『内なる人の変革』の本に書いてありました。アメリカで5人に1人の女性は、自分の家族の中の誰かによって性的ないたずらを受けている。しかし、今では4人に1人であり、さらに増加している。わが国は、まさに「恥ずべき情欲」(ローマ1:26)へと引き渡されつつあると書いてありました。

 第二のリスト、偶像礼拝と魔術は、「異教的な罪」です。十戒の第一番目と二番目は、「まことの神様以外を礼拝してはならない、偶像を造ってはならない」であります。神様の御顔とあなたの顔の間に、存在するものが偶像です。神様はあなただけを見ていたいのです。エディ・レオ師は「偶像の始まりは、私たちが思い浮かべる想像の世界」であると言われました。あなたは頭の中で何をイメージしているでしょうか? 4分間に1度、「トゥーン」と、頭に男性が浮かぶものがあるそうです。マルチン・ルターが言いました。「空のすずめが頭の上を飛ぶのを妨げることはできない。だが、すずめが頭の上で巣を作ることはやめさせることができる」と言いました。この世では、いろんな誘惑が脳裏をかすめます。でも、それはあなた自身のものではありません。頭の上を通過しただけなんです。でも、それを心の中にとどめて、思い続けるのはあなたの責任です。誘惑があなたの頭に居座ると、あなたは罪の一歩を歩み始めたことになります。

 第三のリストは、敵意、争い、しっと、憤り(怒り)、党派心(利己心)、分裂(不和)、分派(仲間争い)、ねたみ。※( )は新共同訳。全部で8ありましたが、これは「兄弟愛を破る罪」であります。人間関係を破壊する利己的な罪です。こういうものは、私たちの心の中に、子どものときから蓄積されています。何かそれと似たようなことが自分にふりかかると、ダーンと反応します。敵意、争い、怒りがそうです。しっとやねたみは、爆発はしませんが、「ねとーっと」ボンドのように、くっついて離れません。人の幸福や成功を素直に喜ぶことができません。「ある教会が大きくなりました」と聞くと、どこか喜べない心があります。逆に自分の教会が大きくなって、教会成長のセミナーを開いたとしても、しっとやねたみをかうかもしれないですね。党派心、分裂、分派は政治の世界だけと思いきや、人々がいるところではどこででも発生します。派閥とか仲間割れは学校のクラスにもあるのではないでしょうか?教会がそうならないことを希望します。

 第四のリストは、酩酊(泥酔)、遊興(酒宴)です。これは、「不節制の罪」です。これは、異教の祭礼に見られるどんちゃん騒ぎのことでもあります。祭りでは乱行が一種のレクリエーションになっているということです。私は18才で建設会社に就職しました。そして、その冬、初めて「キャバレー(上野のボーナス)」というところに行きました。現場の所長さんが、みんなを招待してくれたんですね。「世の中に、こんなにすばらしいところがあるのか」と感激しました。私は宴会が本当に大好きでした。馬鹿をやって人を笑わせる。お酒も良く飲みました。もし、私がクリスチャンにならないで、ずっと遊び続け、飲み続けていたら、結構だらしない顔になっていたでしょうねー。相変わらず、きたない言葉を吐き、破廉恥なことをたくさんしていたでしょう。クワバラ、クワバラであります。

肉の行ないとは、私たちが努力しなくても、ついそうなってしまう罪の傾向性です。落ちるのは簡単ですが、昇るのは難しいです。私たちはだれから教えられなくても、人を憎んだり、いかったり、ねたんだりします。これはアダム以来、私たちが持っている罪の性質です。ですから、この世においては、不品行や争い、分裂分派は日常茶飯事です。でも、私たちは聖霊によって新しく生まれ変わった存在です。ですから私たちは、もはや肉に属する者ではなく、御霊に属する者となりました。私たちが罪を犯すのは自然なことではなく、もはや気持ち悪いこと、不自然なことになってしまったのです。これがキリストによって、救われていない人と救われている人の違いです。救われていない人は、こういう罪を犯してもなんとも思わないというか、むしろ気持ち良いのです。『恵みの歩み』を書かれた、スティブ・マクベィ先生がイギリスで、腎臓結石になったことがあるそうです。明日は招かれた教会で説教しなければならないのに、痛くて転げまわるような状態です。先生は、腎臓結石の痛みは、子どもを産むよりももっと大変だとおっしゃっていました。病院に行って、麻酔を打ってもらい、日曜日、教会で説教できました。アメリカに戻ってから、石を取り除きました。先生の体の中に何週間か石が存在していました。そのため、いろんな問題が起こりました。では、スティーブ先生は、体に石ころを持っていたので、「ミスター石ころ」となっていたでしょうか?先生の中に石は存在していましたが、それは先生自身ではありませんでした。同じように、私たちの中にも罪の力が存在しています。でも、それは私たち自身ではありません。私たちはキリストにあって義なる存在。罪人ではなく、聖徒であります。

 私たちは赦された罪人以上の存在です。なぜなら、私たちは神の目から義とされている存在だからです。「自分は神の子であり聖徒なんだ。もう古い人間じゃないんだ。全く、新しい存在なんだ!アーメン。」こう思って良いのです。なぜなら、それが事実だからです。私たちの中には肉の性質があります。この世に生きている限り、性的な罪、異教的な罪、兄弟愛を破る罪、不節制の罪がいつも隣り合わせでいます。万有引力の法則のように、だまっていれば、罪に落ちてしまいます。しかし、私たちクリスチャンには、キリストの命があります。これは御霊の法則とも言われ、罪の法則に打ち勝つことができます。落ちそうで落ちない。なぜでしょう。いのちである御霊の法則が私たちを持ち上げておられるからです。私たちは「罪を犯さないように」「罪を犯さないように」と罪に集中すると逆に罪に落ちてしまいます。そうではなく、自分が聖徒とされていることを自覚し、イエス・キリストを見上げて歩むのです。そうすると、私たち御霊の法則の中に落ちるのです。御霊は私たちを支え、引き上げ、義の道へと導いてくださいます。この世で生きている限り、罪は存在しています。だけれど、私たちは罪に支配されないのです。なぜなら、神の御霊が働いているからです。アーメン。

2.御霊の実
 イエス様を信じて従って行くと、つまり御霊によって歩んでいくと、私たちの内側にイエス様の品性が生まれます。これを御霊の実と言います。御霊の実は、私たちの性格と関連しています。御霊の実は、聖霊の力によってもたらされる、イエス様の品性であります。私たちがイエス様のようになるなんて、なんとすばらしいことでしょうか!エペソ4章には「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とか「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができる」と書いてあります。キリストに似るということが、私たちの目標であります。これは私たちが努力してそうなるというのではなく、「実」であります。もちろん、努力も必要だとは思いますが、自分で力んで生み出すものではありません。私たちの功績ではなく、神様の恵みであります。世の中では「人徳ですね」「人徳ですよ」なんて言いますが、そうではありません。神様ご自身が、聖霊を通して、私たちのうちに実現されるのです。アーメン。

御霊の実はここに、9種類あげられています。でも「御霊の実」は単数形です。ある人は「御霊の実とは愛であり、愛が喜びとか平安、寛容として、具体的に現れるんだ」と言います。確かにⅠコリント13章では、愛が最も大切だと書かれています。そして「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたまない」と書いてあります。愛こそが肉の行ないに打ち勝つ御霊の実であるということです。もう1つは、御霊という1つの実の中に9つの、房があるんだという「有機的な一体」という考え方です。もうすぐ、みかんの季節ですが、みかんの皮をむくと、たくさんの房がつまっています。横から輪切りにすると、よくわかります。愛、喜び、平和…自制と9つの房が詰まっているのを想像したら良いと思います。ビリー・グラハムは、9つの御霊の実を3つの部門に分けました。最初のグループは、愛、喜び、平安です。これは、特に私たちが神へ向かっての関係を物語っています。第二のグループは、寛容、親切、善意です。これは特に人間関係、つまり対人間に見られます。第三のグループは、誠実、柔和、自制です。これは内面の関係、つまり内面の自己の態度と活動にみられるということです。これらは、全部が相互に関連して、全部が私たちの生活の特徴となるべきです。「私には喜びはあるけど、愛がない」とか、「誠実はあるけど、自制がないのよ」などとは言っていられません。もちろん、これらの中には時間がかかるものあるかもしれません。でも、神様は、1つ1つの房がまんべんなく詰まった1つの実として育つことを願っておられます。
週報にもお書きしましたが、1つ1つの特徴を簡単に学びたいと思います。これはビリー・グラハムが書いた『聖霊』という本を参考にしたものです。あの本は、とっても、バランスのとれた本だと思います。まず、第一は、愛です。愛は感情だけではなく、意思や行動が含まれるということです。みなさん、愛が感情だけだとしたら、どうなるでしょうか?感情は絶え間なく変化します。「愛したい!」と感情が湧きあがるときもあれば、「何が愛だよ!」と愛のひとかけらもないときがあります。もし、感情に支配されていたら、ジェットコースターのような信仰生活になるでしょう。それも、スリルがあって良いかもしれませんが、周りの人は大変です。この愛は、アガペーの愛であり、無条件の愛です。ですから、まず、私たちはこの愛を神様からいただく必要があります。そして、この愛を意思と行動をもって隣人に現わしていくのです。ある人が天国でイエス様とお会いしたような夢を見ました。そのとき、祈ってないのでごめんなさい、ささげてないのでごめんなさい、妻を愛さないのでごめんなさい、とさんざん謝った。だけど、イエス様はこうおっしゃいました。Did you learn to receive My love? 「私から愛を受け取ることを学びましたか?」と言われた。愛がないなーと思う人、イエス様から愛を受けてください。

2番目は「喜び」です。この喜びは、幸福や楽しみとは異なり、環境に左右されません。聖書には「幸福を求めるべきだ」とはどこにも書いていません。幸福とか祝福は神様に従っていくときに、与えられるボーナスであります。幸福はおまけであります。楽しみは一時的です。デズニーランドのアトラクションのようです。でも、喜びは人生の最悪の状況にあっても、奥深くに存在し、留まるものです。これはビリー・グラハムの表現なので少しキザです。私はキリストにおける救いを思ったなら、どんな環境の中でも、喜びが湧きあがってきます。たとい、この世ですべてのものを失ったとしても、永遠のいのちにまさるものはないからです。

3番目は「平安(平和)」です。これは英語のピースよりも、ヘブライ語のシャロームがふさわしいと思います。つまり、単なる抗争がない状態ではなく、満ち足りた安定した心の状態です。ある先生は、高回転しているコマに例えています。コマはまるで眠っているようですが、そうではありません。高回転しているので、そう見えるのです。その中には、エネルギーが充満し、そして安定性が保たれています。聖歌に、「すべてやすし、御神ともにませばー」という歌があります。たとえ世の終わりが来ても、神が共にいれば平安だということです。

4番目は「寛容」です。これは苦しみや試練を乗り越えるときに与えられるものです。ある英語の聖書に、寛容はlongsuffering、「長く苦しむこと」と書いてあります。何故、長く苦しむことが寛容なんだろうと思ってしまいます。全世界でもっとも寛容な方とはだれでしょうか?私は神様だと思います。全人類の罪を長い間、ご覧になって我慢しています。本来なら、人類をノアの洪水のように滅ぼしても良いのですが、立ち返るように、いと長く忍耐しておられます。父なる神様は本当に寛容です。だから、父なる神様の心を持った人は、寛容になるのではないかと思います。ほうとう息子が帰ってくるのを待っていた父親の心です。

5番目は「親切」です。これは、困っている人に対する優しい態度ではないかと思います。親切は「優しさ」とも置き換えられるものです。多くの人は優しさを求めています。でも、自分がたくさんの心の傷を受けてきたため、意地悪や憎しみが出てしまいます。子育てしたことのあるかたはご存知かもしれませんが、「どうして子どもに優しくできないんだろう?」と悲しくなるときがあります。それは、自分が子どものときに、虐待を受けたからではないでしょうか?イエス様は本当に親切です。自分を裏切ったペテロを愛して、受け入れて、赦してあげました。

6番目は「善意」です。善意は英語で、goodnessと言いますが、「神様のような」という意味があります。マタイ5:45「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と書いてあります。ですから、神様のように、分け隔てなく、良いものを与えたいという心です。物ごとを善意で取る人もおれば、何でも悪意に取る人がいます。心にレンズがあるとすれば、とてもゆがんだ人です。もし、善意の心のレンズで見るならば、お互いに、敵対して争うこともなくなるのではないでしょうか。

7番目は「誠実」です。英語では faithfulnessです。これは、忠実とか忠誠とも訳せる言葉です。日本語の誠実は正直という意味合いがありますが、人ではなく、神様の前における誠実さです。「真実なる神様が確かにおられる。神様は必ず報いてくださる。」そのことを本当に信じている人は、誠実な歩みができます。クリスチャンは「たとい人から認められなくても、神様がご存知である」と信じています。ですから、自分自身に対する葛藤が少ないです。自分自身を神のことばで慰めることができます。

8番目は「柔和」です。私たちは「柔和」と聞くと、弱くて頼りなさそうな感じがしますがそうではありません。これは制御された活力、力強さ、気力、活気のことであります。聖書には「モーセは地上のだれよりもまさって柔和であった」(民数記12:3KJV、口語訳)と記されています。しかし、40歳の頃のエジプトの王子であったモーセは、自分の知恵と力に頼る人でした。モーセは馴らされていない野生の馬のような、気の短い男でした。彼が完全に神の支配化に置かれるまでは、荒野での40年が必要でした。

9番目は「自制」です。自制は英語で、self-controlと言いますので、自分の意思で抑圧するような感じがしますがそうではありません。抑圧するといつか、あるところで爆発します。これは、恵みによって、自分の感情や欲望を制することです。自制は他の聖書では、「節制」とも訳されています。ビリー・グラハムがおっしゃっています。「食物の摂取における節制は適量を守ることである。アルコールに関しての節制は習慣的飲酒に陥らぬことである。」

では、どうしたら、御霊の実を結ぶことができるのでしょうか?ヨハネ15章でイエス様は言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」キリストにとどまるときに、私たちは御霊の実を結ぶことができるのです。キリストにとどまるとはどういう意味でしょう。①イエス様と親密な関係を持つこと、②イエス様に従うということ、③イエス様により頼むことです。そうすれば、イエス様のいのちが私たちの内から溢れてくるのです。自力で御霊の実を生み出そうと頑張ると逆に無理です。力む必要はありません。りんごの枝が「んんんー、実を結ばなければ」とプルプル震えているところを見たことがありません。そうではなく、主と親しく、従順に、頼り切っていれば良いのです。

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2008年9月 7日 (日)

御霊によって歩め   ガラテヤ5:16-18,24-26

 ガラテヤ人への手紙もいよいよ佳境に入りました。5章の後半こそが、ガラテヤ人への手紙の山場と言っても過言ではありません。しかし、自分で言うのもなんですが、これまでも、良いところがたくさんありました。この手紙は、信仰を持った初期の段階で必要な教えかと思いましたが、さにあらず、私たちクリスチャンが陥りやすい律法主義からの解放がテーマでありました。そして、本日と来週、語ります5章の後半こそが、その積極的な解決策であります。前の方を忘れても、ここだけ学んだだけでも、良いわけですが、そういう訳にはいきません。「よくぞ、ここまで来たなー」と自分をほめるのではなく、神様の恵みに感謝したいと思います。

1.内なる戦い

 ガラテヤ5:17「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」この箇所と同じことを書いているのが、ローマ人への手紙8章です。ここも読むと、もっとはっきり分かります。ローマ8:5-7「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」クリスチャンになりますと、新たな戦いが内側に起こります。それは、肉対御霊です。クリスチャンになる前は、御霊の働きはなかったので、こういう戦いはありませんでした。あったとしても、自分の良心あるいは理性というものがかろうじて、肉と戦いました。「盗んじゃいけないよー」「飲んじゃいけないよー」「怒っちゃいけないよー」という声はだれでもあります。だけど、非常に弱々しくて、肉にはほとんど勝てません。「うるせぇー、良いんだよ、俺の勝手だ!」。そのうち、良心の声もほとんど聞こえなくなります。エペソ2章にあるように「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なっていた」のです。つまり、霊的に死んでいたので、肉と心の望むままを行なっていました。

 しかし、イエス様を信じてクリスチャンなりますと、どうでしょうか?その人は霊的に生まれ変わります。その人のうちに神の霊が入り、その人の霊が新たに目覚めます。これをキリスト教では「新生」と言います。あなたの最も深いところに、神の霊が宿ります。ですから、クリスチャンの体が、神の神殿(宮)と呼ばれるのはそのためです。ガラテヤ書に「御霊によって」と度々書いてありますが、これは神の霊なのか、それとも人間の霊なのか分かりません。原文のギリシャ語では「プニューマ(霊)」としか書かれていません。日本語の聖書は尊敬の気持ちをこめた「御」という言葉がついています。でも、原文をみるとただの「霊」ですから、本当は区別がつかないのです。厳密に言うならば、神の霊が宿っている私たちの霊ということでありましょう。とにかく、イエス様を信じて新生しますと、御霊ががぜん強くなり、神の思いをあなたに語るようになります。御霊の思いとは、つまり神からの思いなんです。ヘブル8:10「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」とありますが、これは旧訳聖書の預言の成就です。たとえば、あなたの思いというテレビがあるとします。テレビには絵が見えるブラウン管と音が聞こえるスピーカーがついています。そして、テレビにはアンテナがあります。人間は霊的存在なので、霊的なものが入ってきます。そして、それがあなたの思いというブラウン管に表れてきます。どんな思いが現れてくるでしょうか?まず、自分の肉の思いです。その次は御霊の思いです。そして、ときどき悪魔の思いも入ってきます。また、他の人の思いも入ってくるでしょう。あなたの思いというテレビは、少なくとも4チャンネルあります。1チャンネルは肉の思い、2チャンネルは御霊の思い、3チャンネルは悪魔の思い、4チャンネルは人の思いです。2チャンネルはこの世では、あまり良くないかもしれませんが、あなたは「御霊の思い」にチャンネルをいつも合わせるべきです。

 とにかく、クリスチャンになりますと内側に戦いが起こります。この戦いは、良いものであり、必ず起こるんです。ちょっと精神的に病んでいる人がクリスチャンになったとします。そうしますと、分裂気味になる場合もあります。その人が混乱して、精神科医あるいは心療内科に行ったとします。医者のほとんどは未信者なので、恐らくこう言うでしょう。「しばらく、教会に行くのはやめなさい。聖書を読んだり、祈ったりするのも良くないですねー」なぜでしょう?御霊の思いという、別の思いが入って新たな混乱が起こるからです。でも、恐れる必要はありません。御霊の思いに、いつもチャンネルを合わせていくなら、大丈夫です。しかし、初めの頃は、どれが肉の思いで、どれが御霊で、どれが悪魔なのか検討がつきません。まず、一番、良く分かるのが悪魔の思いです。悪魔からの思いは、破壊的であり、その場限りの欲望を満たすものです。「今、怒りを爆発しなさい」「今、これをして楽しみなさい」「今、これを手にしなさい」しかし、それらは、破壊的であり、刹那的(その場限りのもの)です。神を信じないこの世の人たちは、みんなこれでやられています。では、御霊の思いとはどういうものでしょうか?そこには、平安と喜びがあります。あなたが聖書を読み、神様と交わっていると、あなたの霊が強くなり、御霊の声も大きくなります。でも、あなたが聖書を全く読まないで、ポルノ、推理小説、テレビやビデオ、漫画ばかり見ているどうでしょう。それは肉に栄養を与えているようなものです。肉が横綱みたいに肥え太り、霊はヒョロヒョロです。そこへ誘惑がやって来たら、まったく立ち向かうことができせん。どうぞ、肉に栄養を与えないように。ふだんから霊に栄養を与えましょう。

 Ⅰヨハネ3章には、子どもたち、若い者たち、そして父たちと3種類の人が出てきます。これはクリスチャンの成長の度合いです。子どもたちとは、御父、つまり神様を知った人たちです。若い者たちとはどんな人でしょうか?Ⅰヨハネ2:14「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」とあります。やはり、神のみことばを心に取り入れ、神のみことばに従って生きると成長します。悪い者とは、心の中にやってくる悪魔の誘惑です。でも、悪魔は私たちの肉の思いを用いて、私たちを誘惑します。あなたの中に怒りや憎しみがあるなら、あるときドカンと爆破します。あなたの中に情欲や好色があれば、あるとき不品行を犯すでしょう。あなたの中にむさぼりや悪い考えがあるなら、あるとき不正を犯してしまうでしょう。悪魔にやられないためには、まず、内なる戦いに勝利していなければなりません。つまり、肉の思いを捨てて、いつも御霊の思いが支配している状態が安定したクリスチャンであります。もちろん、肉の思いが勝って、誘惑に負け、罪を犯すこともあるでしょう。でも、神の子は、倒れたままではなく、再び立ち上がるのです。なぜなら、御霊のいのち、キリストのいのちがあるからです。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」(新改訳第三版)。罪を犯さないとは、継続的に同じ罪を犯さないということです。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。神の種とは、神の霊とか神のいのちでありましょう。最初のころは、躓いたり、ひっくり返ったりします。でも、だんだんと強くなります。たとえ、怒っても罪を犯さない。汚れたことを思い続けない。あるもので満足するようになる。若者とは、信仰が安定している人です。倒れることは恥ずかしいことではありません。再び立ち上がれば良いのです。「倒れても立ち上がる」「倒れても立ち上がる」。これが良いのです。するとあなたはだんだん成長し、若者になり、そして霊的父になることができるのです。

2.御霊によって歩む

 後半は、肉に対してどう勝利していくのかをもう少し詳しく学びたいと思います。ガラテヤ5:24、25「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」ローマ8章にも同じようなことが書かれています。ローマ8:13 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」前のポイントでも学びましたが、肉に対して効力があるのは御霊です。この世は、肉に対して何の力も持っていません。いろんな規則を設け、罰則を厳しくしたとしても、犯罪はなくなりません。前にも学びましたが、律法は肉に対して肥やしをやるようなもので、さらにもっと罪を犯すようになるでしょう。律法ではなく、御霊を歓迎し、御霊に従うようにする。すると、御霊ご自身が肉を押さえ込み、神様に従うことができるようになるということです。オリンピックの柔道の試合をご覧になったでしょうか?押さえ込みという寝技があります。たて四方とか、けさがためとか…。相手は上から押えられると何もできなくなります。あれと同じで、肉は存在しているのですが、御霊に押さえ込まれて何もできない。これが良い状態です。神様を知らない人たちは、意思の力だとか認知行動療法が良いと言います。それらが悪いとは言いませんが、御霊にゆだねるのが一番です。自分の意思ではなく、御霊にやってもらうのが一番です。

 でも、皆さん「肉」とは私たちのどこにあるのでしょうか?パウロはクリスチャンを3つに分けています。内側から言うと、霊、魂、肉体です。肉というのは、肉体と同じではありません。聖書では肉体は悪だとは言っていません。肉とはアダム以来の堕落した性質です。ある人たちはそれを原罪と言います。これは天国に行くまでつきまとう、というのが一般的な考えです。でも、肉がどこにあるのか分かりません。私はおそらく、魂と肉体の境目にあるんじゃないかと思います。だからこの肉は、魂つまり心に対して働きかけますし、また肉体にも働きかけます。ガラテヤ5:19-21には、肉の行ないにはどんなものがあるか、15ぐらい上げられています。おそらくそれらの半分は魂に関することであり、また半分は肉体に関することです。私たちが死ぬときは、この肉体を脱ぎます。そして、霊と魂になります。おそらくそのとき、肉体と魂の境目にあった、いわゆる肉が剥ぎ取り去られ、天国にスパーッと入るんじゃないかと思います。今の話は「おそらく」という「注」がはいっていますので、はっきりとは分かりません。でも、わかるのは、肉、つまり肉の性質がクリスチャンになった後も残っているということです。これを「…してはいけない」と律法で押さえつけようとすると、逆に肉が暴れ出します。心理学者たちは肉は自然のものだと肯定するでしょう。しかし、聖書は御霊によってそれを殺しなさい。そして、御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲望を満足させることはないと言っています。

 では、御霊によって歩むとはどういうことなのでしょうか?歩むとは「生活する」ということです。また、歩むとは「一歩、一歩継続的に」という意味もあります。この世に生きている限り、肉があるわけですから、「いつも、御霊に聞いて、御霊に従いなさいよ」ということです。ベン・ウォン先生が今年の春、百合丘教会に来られてこのようなお話をされていました。大半のクリスチャンは外側から内側へという方向で生きている。その状況に影響される。私たちは肉的な存在である。だれかがあなたを殴る。「あー、うー。私は怒っているんだ」。「なぜ、あなたは怒っているんですか?」「あなたが叩いたからですよ」それは本当だろうか?いいえ。それは相手に叩かれたから怒っているのではない。あなたは怒りたいと思っているから怒っている。怒らないということを決めることができるだろうか?イエス様は「右の頬を打たれたら、何をしなさい」と言われただろうか?「こっちもどうぞ!」それはできるだろうか?では、いま、隣の人にやってみてください。これはできる。怒ったり、復讐しなくて良いのである。イエス様がそのとおりにされた。十字架でイエス様は「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られた。赦すこともできる。だから、外側の状況に左右されないように。周りの状況にいつも反応してしまのは、肉的な存在だから。しかし、今のあなたは肉的な存在ではない。あなたは霊的な存在である。だから、外側の状況に左右されないように。周りの状況にいつも反応してしまうのは、肉的な存在だから。しかし、今のあなたは肉的な存在ではない。あなたは霊的な存在である。肉ではなく、霊に従って歩む。だから、反応するのはやめましょう!自分の霊に耳を傾ける。あなたの霊は新しく生まれたのである。その霊に従っていく。そのようなクリスチャンはすばらしいクリスチャンである。外側に反応するのではなく、自分の霊に耳を傾けて、その霊に従って歩む。そうすると自然に、霊の実を結んでいくことができる。

 あるときベン先生が家に向かって歩いていました。その当時、先生の家は丘の上にありました。家に入るまで、かなりの傾斜の丘を登り、100以上の階段を登らなければなりませんでした。そして、その家(マンション)の3階に住んでいました。ある夏のとても暑い日、家に帰ってきました。急な丘を登り、長い階段を登り、家に帰ってきました。「ピンポーン」、奥さんが玄関のドアを開けました。彼女は何と言ったでしょうか?「ああ、ダーリン、お帰り。もう、疲れたでしょう。」そうではありません。「タオルで汗を拭いてください」そうではありません。「冷たい水でも飲みなさいよ」ではありません。では、彼女は何と言ったでしょうか?「お米がないのよ。坂の下に行って、お米、買ってきてちょうだい」。「お米1パック?」、スーパー・マーケットは坂の一番下にあります。突然、怒りがこみ上げてきました。「うーうう」発作が起きてきました。先生はこう言おうかと思いました。「これを知らないの?これは携帯電話と言うんだよ。携帯電話は、携帯するものだから携帯電話と言うんだよ。電話をしてくれたら、買って来れたのに…。私は家に向かって丘を上がる前に、スーパー・マーケットの横を通ったんだ。」そのとき、突然、「御霊に聞きなさい」という言葉を思い出しました。「ちょっと、2分くらい休憩させてくれないか。ちょっと部屋に戻っていいかな?」先生は自分の部屋に戻り、自分の霊に耳を傾けました。「…はい、そうです」。その後、奥さんに言った。「こういうふうに私を扱ってくれたけど、まだ、君の事を愛しているよ」。そして、お米を買いに行くために、坂を下りて行きました。先生は、ご自分で「自分の霊に耳を傾けるという、愚かな実例を話しました」と言われました。でも、これはとても大事なことです。このようなことは私たちの日常生活にたくさんあるからです。

 ABシンプソンという人が「御霊によって歩むとはどういうことか」をある本で教えています。5つのポイントが書いてありました。①御霊によって歩むとは、私たちの中に臨在され、宿られるお方として御霊を認識することである。御霊は山や火の柱からではなく、幕屋から、私たちの心の奥の至聖所から語られるであろう。②御霊によって歩むとは、まさかの時にも常に御霊を信頼し、これにより頼むことである。肺を開けば空気が入ることを期待し、明朝になれば日の出を見ることを期待するように、聖霊が私たちの必要に答えられることを期待しなければならない。③私たちが御霊によって歩もうとするならば、聖霊に相談しなければならない。④私たちが御霊によって歩みたいと願うなら、御霊の語られる時に従わなければならない。⑤御霊によって歩むとは、聖霊と語調を合わせて歩むことである。そして私たちの従順は、極めて敏速でなければならず、御霊より一歩遅れたり、追いつけないほどの距離をおいてついて行くようなものであってはならない。まとめて言いますと、①は認識、②は信頼、③は相談、④は従順、⑤はペースということでした。私たちは「マイペース」「マイペース」と言って、あせらないように自分に言い聞かせます。それよりも聖霊のペースがもっと良いわけです。外部からプレッシャーをかけられるようなときがあっても、「聖霊のペース」で歩むならなんと幸いでしょうか。自分の人生を振り返るときに、「ああ、なんて無駄なことをしていたんだろー。時間ばかり食って」と後悔するときがあります。なかなか、教会も自分が思い描いていたように、右肩上がりでは伸びません。逆に、尻つぼみと申しましょうか、減少気味です。これは、私だけではなく、日本の教会の多くの牧師たちが感じているんじゃないかと思います。でも、神様には神様のペースがあるのかもしれません。いつも収穫が多いと良いのですが、そうでないときもあります。きょう学んだように、外側の出来事に反応しないようにしたいです。むしろ、内側におられる御霊に耳を傾ける。神様の時間割りはちょっと、違うかもしれません。私の内におられる御霊がこのように語っておられます。ハバクク2:3「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」そして、3:17,18「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」神様のみこころは、はっきりしています。外側の状況がどのようであれ、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぶ」ということです。どんなときでも、御霊によって歩みたいと思います。使徒パウロはコロサイ1章でこのように言っています。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)あなた自身の中に、希望があるということです。それはキリストの御霊、聖霊であります。

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2008年8月31日 (日)

隣人を愛せよ   ガラテヤ5:7-15

8月も今日で終わりです。なんか雨が多かったように思います。地球温暖化のせいでしょうか、スコールのような大雨が降りました。本来、山間に住んでいる方が土砂崩れなどに気をつけるべきなんですが、都市に住んでいる方は別の問題もあります。車で立体交差の下などを通る時はお気をつけください。ところで、日本は「ふすまとか障子」の文化です。相手と全く遮断しているわけではないけれど、なんとなく様子がわかる。適当な距離をおいて付き合うという文化です。西洋の住まいは壁ですから、全く他人であるか、それとも友人になるか、どちらかであります。大川牧師がヤマアラシの論理ということを言いました。ヤマアラシの若いカップルがある冬の寒い夜、暖をとることにしました。近づくとお互いの刺のゆえに、傷つけ合う。痛いからと離れると寒い。近づくと傷ついて痛い。離れると寒い。私たち人間にも、このようなジレンマがあるのではないでしょうか。きょうは、「隣人を愛せよ」と題して2つのポイントでメッセージさせていただきます。

1.かき乱す者たち

 ガラテヤの教会にパウロのあとから、あるユダヤ人たちがやってきました。彼らは「割礼を受け、モーセの律法を守らなければ救われない」と主張しました。それで、ガラテヤの多くの人たちの信仰がおかしくなり、福音から離れて行きました。パウロは割礼を主張する人たちに「いっそのこと切り取ってしまうが良い」と言っています。「何を、ですか?」と聞かれても、先週すでに話したので省略します。また、パウロは10節で「あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、裁きを受けるのです」と強く言っています。まことに残念ですが、この世の中には、私たちの信仰に敵対する人たちがおります。うちの有悟は小学校3年生ですが、先週こんなことがあったそうです。クラスのみんなが「人間は猿から生まれたんだ」と言いました。それに対して、有悟は「違うよ。神様が人間を造ったんだ。猿から生まれたんだったら何故、猿を拝まないんだ。」と言ったそうです。その後、先生が「人間は、猿から進化したんですよ」と言ったそうです。すると有悟は「それでも、僕は神様が人間を造ったと信じる」と心の中で思ったそうです。家族でそのことを聞いて、「有悟、偉い!」と拍手しました。その後、私が言いました。もし友人が「人間は猿か進化したんだ」と言ったら、こう言ってあげなさい。「ああ、どうりで、猿に似ているんだ」と。子どものときに、「神様があなたを造ったんだよ。あなたには神様が与えた特別な賜物があるんだよ」と教えられたら何と幸いでしょうか。

ある人たちは、神様を認めないばかりか、イエス様を信じる人たちを馬鹿にしたり、迫害したりします。ある場合は、違ったことを吹きまれて、信仰が覆される場合もあります。ご両親や親しい友人から「あなたは騙されているのよ。この雑誌を見なさい。教会のスキャンダルが書いてあるわよ」などと言われるかもしれません。そういうことが何べんも続くと、「ああ、やっぱりそうか。教会に行くの、やめよう」などと思ったりします。かき乱す者たちはどんな手を使うでしょうか?9節に「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」とあります。イエス様も、同じようなたとえを用いて話されました。少量のパン種、つまりイースト菌によって、パン全体が膨らみます。しかし、パン種の入ったパンは腐敗するのが早いそうです。ですから、聖書ではパン種は嘘とか偽善というような意味があります。実はこれはサタンが用いる常套手段であります。エデンの園で、サタンはエバに対して「どんな木からも食べてはらないと、神が本当に言われたのですか?それを食べると、神のように善悪を知るようになることを神は知っているのです」と言いました。だから、真理の中に少しだけ嘘を混ぜるのです。それがあとで膨らんできて、真理全体を覆すようになります。これまで、教会は長い歴史の中で、数え切れないほど、サタンの策略にはまってしまいました。中心的なことはお互い同意しています。しかし、枝葉のことで争う。そのことがクローズアップされ、仲たがいすることが良くあります。洗礼の水の量、聖餐式のパンの解釈、聖霊の体験、教会の組織のあり方・・・どうでも良いことに、目がいって、互いに敵対し合う。こういうことが良くありました。

 かき乱す者たちは教会の外からもやってきますし、教会の内側からも起こってきます。その原因は人間の罪とサタンの力です。「信仰に戦いがある」なんて、思いたくありませんが、実際はあるのです。世の終わりには、反キリストや偽預言者がはびこると聖書に書いてあります。また、高慢な者や世を愛する物質主義者とか快楽主義者も増えるでしょう。私たちは「敵対者たちがいるんだ」と初めから理解しておくのと、そうでないとでは全然違います。彼らは私たちの信仰を揺さぶり、結果的にはキリストから離すのが目的です。そのためにはどんな手段も講じるでしょう。日本の教会のいくつかが告訴されて、裁判ざたになっています。雑誌編集者の中には喜んでそういう記事を取り上げる者がいます。また、信徒たちをけしかけてわざわざ裁判ざたにする者もいます。自分の怒りを教会にぶつけて、破壊的なことをする人たちもいます。そのために、信徒たちが散らされ、閉鎖に追い込まれている教会もいくつかあるようです。

それでは、かき乱す者たちから守られるためにはどうすれば良いのでしょうか?私は神の教会は真理を守る家だと思います。もちろん、例外的に教会も牧師もおかしいときがあります。完全ではないかもしれませんが、多くの教会は聖書の真理を保とうと努力してきました。ですから、群れから離れて一人ぼっちにならないように。互いに励まし、互いに祈り、互いに愛し合う神の家に留まってもらいたいと思います。そこには大牧者なるイエス様が臨在し、ご自身の羊たちを守り導いてくださいます。大切なのは、人ではなく、イエス様を見上げていくということです。かき乱す者たちたちは、私たちがなんとかイエス様から目を離して、人間的な事柄に目を向けるようにしむけます。ヘブル12:1、2には、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。この間、北京オリンピックが終わりました。日本は400メートル・リレーで銅メダルを取りました。予選でアメリカとイギリスがバトンで失敗したお陰です。それでも、3位は3位です。競技場では何万、何十万にもの人たちが応援しています。そればかりではありません。テレビを見ている人たちがいろんな場所で、声援を送っています。この地上では孤独と思えても、そうではありません。先に行った信仰の先輩たち、そして御使いたちが雲のように取り巻いて、私たちを応援しています。ですから、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、信仰のレースを最後まで走りぬきたいと思います。

2.隣人を愛せよ

 ガラテヤ5:14-15、律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。イエス様は、数多くある戒めを、神を愛することと、隣人を愛することの2つにまとめました。しかし、パウロはここで、隣人を愛すること1つでまとめたのは何故でしょう。おそらくこういうことだと思います。「もし、あなたが隣人を愛していたなら、あなたは神様を愛している人に違いない。なぜなら、隣人を愛することは神様を愛していることの現われだから」と答えることができるのではないでしょうか?だから、1つの戒めで十分なのです。ヨハネも第一の手紙で似たようなことを言っています。Ⅰヨハネ4:19-21「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」つまり、神様から愛を受けた人は、こんどは兄弟姉妹をも愛するようになるのです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」。このことば、きつい人もおられるでしょうか?その人は、神様の愛をまだ十分に受け取っていない人かもしれません。

 では、なぜ最も近くの兄弟姉妹、隣人を愛することに困難を覚えることがあるのでしょうか?お互いに信仰を持っているということは、未信者との関係よりも複雑な場合があります。「え?あれでもクリスチャン?イエス様を信じているのに、なんであんなことができるの?」未信者だったら赦せるのに、まなじっか神様を信じているから赦せない。そういうことがあるんですね。私たちクリスチャンは罪赦され、また義とされている存在です。神の前で、全く、正しいわけです。しかし、だからと言って、神のように人々をさばいて良いというわけではありません。私たちが兄弟姉妹とさばくとはこういうことです。「神様あなたは何も分かっていないか、それとも、寛容過ぎるんです。こう場合は、白黒はっきりつけて、悪いものは悪いと言うべきです。私があなたの代わりに裁きますので、私と席を替わってください」。わぁ、私たちが兄弟姉妹を裁くとき、なんと恐ろしいことをしているのでしょう?マーリン・キャロラーズがある本の中でこのように書いています。「私は、年間5万人の命を奪っている無謀運転は言うまでもなく、人々が、こぶし、ナイフ、銃で傷つけ合っていることを知っています。しかし、ここで話している武器は、それらと比べて最も分かりにくいものなのです。御霊は私たちが、日々、血を流すことなく互いに負わせ合っている苦痛を、私の心に強く示されました。しかも、これらの目に見えない傷は、「善」の名のもとに負わされているのです。これはとてもサタンの特徴を表わしています。一体どのように人々を傷つけているのでしょうか?恐らくそれは・・・批判によってでしょう。」批判、つまり悪いことばこそが、人との関係を破壊する最も大きな武器だということです。エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」とあります。私は講壇に立っているときは、そういうことはありませんが、一緒に食事をしているときが問題です。気が緩むと、ポロっと、ブラック・ジョークが出ることがあります。以前は、批判できるのは頭が良いからだと思っていました。しかし、今は、人の徳を高めることのできる人は、その何十倍も頭の良い人だと思います。

 使徒パウロは、5:13で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と言いました。私たちは自由とされました。何をやっても、何を言っても自由なのです。律法から解放されているのです。でも、その自由を愛をもって互いに仕えることに用いなさいと命じられています。これこそが、隣人を愛する具体的な行動であります。律法は「あなたは隣人を愛さなければならない」と命じます。しかし、恵みはこう言うでしょう。「神様はあなたを愛しています。聖霊があなたに力を与えるので、あなたは隣人を愛することができます。」すると、あなた自身の中に愛する思いがやってきます。その次に、「その愛を具体的に表わすためには、何をしたら良いだろうか?そうだ、これをしよう」という熱意が湧いてきます。ときどき、うちの子供に、CSの先生たちからお便りが来ます。「有悟君お元気ですか?夏休みはどうでしたか?」私などは「この間、会ったばかりなのに、元気に決っているだろう」と思ったりします。でも、その後、「まあ、このはがきいっぱい、字を書くって大変なことだなー。5分じゃ書けないだろうなー」と関心します。この間、大津で開かれたコーチングセミナーで学んできました。「私はカウンセリングとかコーチングはできない性分だ。しゃべるのは得意だけど、人の話を聞くのが苦手なんだよなー」と思ってきました。でも、イエス様は説教ばかりしていたわけではありません。人々を受け入れ、人々を励まし、人々を育てました。いわゆる、イエス様は愛をもってコーチングをしていたわけです。私の願いはイエス様のようになることです。イエス様がそうしたんだったら、生まれつきだとか、苦手だとか言っておられません。隣人を愛するとは、具体的には、人々の話を聞くとか、励ますとか助ける・・・そういうことに現われるんだなーと思いました。

 あなたの隣人とはだれでしょうか?「良きサマリヤ人のたとえ」があります。旅の途中、道端に倒れていた人がいました。盗賊に襲われ、身ぐるみ剥がされ、傷ついていました。レビ人や祭司は、道端の向こう側を通って、見て見ぬふりです。「いやー、こんな人に関わったら、大変なことになる」と思ったのでしょう。でも、サマリヤ人は違いました。その人の隣人になったのです。彼を宿屋まで連れて行き、介抱してあげました。つまり、ここで教えられていることは、隣人とは物理的な問題ではありません。たまたま、近くで生活しているからということではありません。こちらが近づいてその人の隣人になるという、もっとダイナミックなものです。「神様がこの人を私の隣人として出会わせてくださったんだ」という信仰です。神様は世界中の人々を愛しなさいとは言われていません「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とおっしゃっているのです。あなたが愛すべき、あなたの隣人とはだれでしょうか?あなたが仕えるべき、あなたの隣人とはだれでしょうか?私たちはその人を愛して仕えたら、損すると思ってしまいます。自分の時間とエネルギーを使ってしまうので、面倒だと思うわけです。律法的にイヤイヤで、そういうことをすると確かにそうなります。でも、神様から与えられた自由意思で、自ら決断して、実行するとどうでしょう?喜びが湧いてきます。これは不思議です。愛すると、自分の中に喜びが湧いてきます。相手がどう反応するかを待つ前に、既に、こちら側には喜びがあるのです。これこそ、神様が与えた恵みではないでしょうか?つまり、隣人を愛することができるというのは、神様の恵みだということです。

 本日は、分かち合い礼拝です。この後、10から15分くらい、小グループになって分かち合ってください。週報の中に、どういうことを分かち合うか書いてあります。ちょっと、開いて見て下さい。そして、今、ちょっと書いてみましょう。その後に、分かち合うと、時間が短縮できます。よろしいでしょうか?①これまであなたに隣人愛を示してくれた方とはどんな人ですか?一人だけ名前をあげてください。学生のとき、職場で、あるいは教会で。自分が苦しかったとき、助けられたなー。良い人だったよなーと、思い出すと気分が良くなる人ですね。②あなた自身の中に隣人を愛することのできない何か妨げがありますか?1つだけ上げてください。「あの人が嫌いだ、この人が嫌いだから愛せない」という前に、自分の中に原因があるかもしれません。さきほど言った批判的なことばもその1つです。人々から傷を受けたので、心を開くことができないということもあります。どうせ裏切られるに違いないという、人間不信があるかもしれません。③あなたの隣人に対して具体的にどのように仕えるべきだと思いますか?だれに対して、何をすべきか簡単にお答えください。神様が愛すべき隣人を、そして、何をもって仕えるべきかを既にあなたの心に教えておられると思います。小さなことからでも良いですね。さきほどの、はがき1枚送ることもすばらしいことです。お祈りしましょう。主よ、あなたがまず、私たちを愛してくださったことを感謝します。全く愛を知らない者でしたが、あなたが愛を注いでくださいました。その愛をもって、隣人を愛することができますよう助けてください。アーメン。

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