2015年4月10日 (金)

神に祈る ヘブル4:14-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.4.12

 

 世界中の人たちが何らかの神さまに祈っていると思います。たとい、無神論の人であっても、肉親の死が迫っているときなどは祈るのではないでしょうか?問題は「だれに、だれのお名前によって祈るか」であります。もし、そこに祈りを聞いてくださる確かなる神さまがいなければ、空しい叫びに終わってしまうからです。日本人は「いわしの頭も信心から」と言いますが、信じる対象よりも、信じる心が大事だと思っています。しかし、私たちのことを心配してくださる、全知全能の神さまがおられたなら、からし種ほどの信仰でも大丈夫なのであります。きょうは、「神に祈る」と題して、祈りの基本について学びたいと思います。

 

1.神さまとの交わり

 

祈りは端的に言うと、神さまとの交わりであります。神さまに語り、神さまに聞くということを交互に行うことです。残念なのは神さまが肉眼で見えないことと、神さまの声が肉声で聞こえないことであります。だから、どうしてもそこには信仰が必要です。どういう信仰かと言うと、私たちの祈りを聞いてくださるお方が確かにいらっしゃるという信仰です。さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル414-16また、「養育」というテキストにあるいくつか質問をしながら進めたいと思います。

 

第一の質問、「神の子イエス様は、あなたに対してどのようなお方でしょうか?」ヘブル4章には「もろもろの天を通られた偉大な大祭司であり、私たちの弱さに同情してくださるお方」と書いてあります。「もろもろの天」とは何でしょう。聖書では3つの天のことが記されています。第一の天とは私たちが住んでいるこの地上です。目に見える物質があり、自然科学の法則が通用するところです。第二の天は、霊的な世界で悪霊や天使が動き回っている領域です。エペソ2章には「空中」と書いてあります。第三の天は、神さまがおられるところ、つまりは神の御座です。使徒パウロは第三の天にのぼり、直接、神さまからの啓示をうけたようであります。イエス様は大祭司になるために、第三の天から、第一の天に肉体を持ってこられました。死んで陰府に下って第二の天に行かれました。そして、復活昇天して、もとおられた第三の天の御座に座られました。現在、イエス様は大祭司として私たちをとりなし、王の王として支配しておられます。

 

第二、「私たちは神さまから何を受けることができるのでしょうか?」私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けることができます。あわれみと恵みは若干異なります。ウォッチマン・ニ―はこのように教えています。「あわれみは特に旧約の言葉で、恵みは特に新約の言葉である。あわれみは、あなたの現在の状態の哀れさについて語ります。そして、恵みは将来の状態、すなわち将来あなたが救われてもたらされるであろう輝かしい前途について語ります。」よく分かったでしょうか?つまり、あわれみは消極的で、恵みは積極的だということです。私は「罪を犯して申し訳ないなー」と思っているときに、主のあわれみを求めます。イエス様は十字架の上で「あわれみそのもの」となられました。だから、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。ハレルヤ!

 

 第三、「私たちが大胆に神さまの恵みの御座に近づくことができるのは何故でしょう?」ヘブル書には「すべての点で、私たちと同じように試みに会われた大祭司がおられるから」と書いてあります。イエス様は天からこの地上に来られ、肉体をもって生まれてくださいました。赤ん坊、子ども、青年、大人として成長されました。大家族の長男で、大工であったヨセフの仕事を継ぎました。イエス様は人間として疲れ、飢え、渇きを経験しました。もちろん、イエス様は私たちたちの同じように、泣いたり、嘆いたり、喜んだり、笑ったりしたのです。悪魔の試みや人々のあざけりや裏切りも経験しました。イエス様は神さまですから前から全部ご存じでしたが、私たちのことを同情できるために自ら体験されたのです。英語で「その人の身になって考える」ことを、「その人の靴に足を入れる」と言います。イエス様は今でも私たちの靴に足を入れれてくださいます。だから、飾らず、気落ちせず、恵みの座に転がり込むことができるのです。福音書に全身らい病の患者が出て来ます。現代では、らい病は差別用語で、聖書では「ツァラト」とヘブル語をそのまま使っています。当時は、らい病は恐ろしい病気で、だれもさわることができませんでした。彼は「お心でしたら、きよめていただけるのですが?」とイエス様の前に来てひれふしました。まさしく、彼はイエス様の前に転がりこんだのです。イエス様は手をのばして彼にさわり、「私の心だ。きよくなれ」と言われました。イエス様はことばだけではなく、彼にさわったのです。彼のような行動こそが、主の御座に近づくことなのです。

 

第四、「では、祈りは簡単に言うなら、何なのでしょうか?」りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことです。敬虔なクリスチャンなら、「そんなの困ったときの神頼みだ」と軽蔑するかもしれません。しかし、人間とはそういうものです。本当に困らないと、神さまの前に出て祈らないのです。もう、八方塞がりでどうにもならないときに、初めて祈るのです。でも、そういう祈りでも神さまは聞いてくださいます。そういうことを体験した人は、次からは、困る前にお祈りしようと思うのです。

 

 テキストはこのようにまとめています。祈りとは神さまとの会話、交わりです。神さまと私たちの間の障害となる罪を、大祭司であられるイエス様がご自身の血潮によって取り除いてくださいました。ですから、私たちは神さまの子どもとして、大胆に恵みの御座に出ることができます。イエス様の血潮によって、私たちの良心がきよめられ、大胆に神さまに近づき、何でも申し上げることができるとは何と幸いでしょう。祈りは宗教的な義務ではなく、すばらしい神の子としての特権です。また、祈りは礼拝や公の席だけでするものではなく、奥まった部屋から始まります(マタイ66)。そこでは、ダビデのように、主の前に何でも申し上げることができます。祈りは私たちの信仰を引き上げ、私たちの内側も主のように変えられていきます(Ⅱコリント317-18)。アーメン、主と親しく交わると、私たちも主の御姿へと変えられていくのです。

 

2.求める祈り

 

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ119-13

 

第一の質問、「最も端的な祈りとは何でしょう?」とあります。祈りは端的に言うと、神さまに求めることです。イエス様は子どもが父親に願うように、何でも求めて良いとおっしゃっています。そして、父なる神さまは最も良いものを与えて下さると約束しておられます。しかし、霊的に私たちが成長していくとどうなるでしょうか?特に必要がなくても、神さまと常に交わるようになります。また、他の人の必要のためにとりなすようになります。とりなすとは、他の人の必要のために代わりに祈るということです。そうなったら霊的な大人になった証拠です。

 

第二、「まるで、宇宙の法則のように堅く定まった法則とは何でしょう?」多くの人たちは、罪がきよめられたクリスチャンでなければ祈りが聞かれないと思っています。ここには、「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる」と書いてあります。「だれでも」であります。ある新興宗教の人たちは、朝から晩までタイコをたたいて祈っています。商売が繁盛するように、病気が治るように祈っています。では、彼らの祈りが全く聞かれないか、というとそうではありません。新興宗教になぜ多くの人たちが集まるのでしょうか?実際に、商売が繁盛し、病気が治るからです。その点、私たちクリスチャンは貪欲さが足りません。「御心ならばお願いします。ご迷惑になるでしょうから、もし御心でなければ結構です」と祈ります。私もたまに、「お手すきなときで結構ですから?」と頼まれたりします。「ああ、謙遜な人だなー」と思いますが、どこかに「ついでの時で良いんだな」と気を抜いてしまいます。でも、「先生、すぐ必要なんです」と言われたならどうするでしょうか?昨年のクリスマス「明日、アナのジェット機が必要なんです。先生、賜物があるんですから作ってください」と言われました。期待とプレッシャーを感じて「すぐ済ませようか」と思いました。神さまにプレッシャーをかけてはいけませんが、「求める」とギリシャ語には、credit(要求する)という意味もあります。イエス様はヨハネ1414で、「あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう」と言われました。ここに一度来られたことのあるメル・ボンド師は「もし、なかったなら、作って出してあげますという意味です」と教えてくれました。私たちの神さまは無から有を生み出す神さまです。ハレルヤ!私たちが大きいことを本気で願うならどうでしょうか?イエス様は「おお、私にそれができると思って願っているんだな」と、本気になって答えてくださるでしょう。

 

第三、地上の父と天の父の共通点は何でしょう?自分の子どもには良いものを与えるということです。イエス様は、「悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与える」とおっしゃっています。それは、泥棒を働いている父親でも、自分の子どもには良い物を与えるということです。ましてや、神さまは良き神さま、良き天の父です。なおさら、良いものを私たちに与えたいと願っておられるということです。私は子どもの時ひもじい思いをしました。着るものや持ち物も他の友達と比べると見劣りがしました。自分が親になって、「子どもには良い物を与えたいなー」と思います。昨年、ビル・ジョンソンと言う人がアメリカから来られ、このように教えてくれました。自分が立派な身なりをして、高級車に乗っている。しかし、子どもや妻がみすぼらしい生活しているなら、人々はどう思うだろうか?「ああ、わがままな父親であり、夫だなー」と思われるでしょう。つまり、子どもは親を反映しているということです。「私たちは神の子どもなのですから、それにふさわしい生活をしていいんです」と教えてくれました。

 

第四、天の父が私たちに最も与えたいものとは何でしょう?聖霊であります。リビングバイブルは「だとしたら天の父が、求める者に聖霊を下さらないなんてことはありえません。もってけ泥棒!」と訳しています。「もってけ泥棒」は私が付け加えたものです。聖霊が与えられるということは三位一体の神さまが私たちの内側に住んでくださるということです。このことは神さまの永遠の計画、永遠の目的でした。全宇宙を創られた神さまが、聖霊によって私たちの中におられることにまさる恵みはありません。なぜなら、神さまを持っているとは、全宇宙を持っていると同じだからです。

 

 テキストのまとめの部分をお読みします。「神様に求めるのは、他力本願的で良くない。一生懸命努力した上で、それでもだめったら祈るべきだ」という人がいます。また、ある人は「もう何もしてもダメだ。祈ることしかできない」と言います。では祈りは最後の1%にかけるような、最後の手段なのでしょうか。E.Mバウンズは、「『私に求めよ』とは、神がその働きを進歩させ、勝利をもたらせるための一条件である。キリストの王国での成功の秘訣は祈る能力である。祈りの力を用いる人はキリストの王国の強者であり、聖者である」と言いました。「求めよ、そうすれば与えられます」は宇宙の法則です。地上の父が、子どもに良いものを与えるように、天の父は良いものを与えたいと願っておられます。ルカによる福音書は、最も良いものとは聖霊であると教えています。なぜなら、聖霊は神さまご自身だからです。

 

3.主の名によって

 

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ1623-24

 

①父とはだれの父ですか?

 

 キリストの父です。イエス様を信じると私たちの父にもなります。イエス様は神さまを「父と呼んでいい」とおっしゃいました。クリスチャンでも、神さまをお父様と呼べない人がいます。「神さま」「神さま」と呼んでいます。ある人は「ヤハウエ」とか「エホバ」と呼ぶ人たちもいます。もし、私の子どもが「鈴木靖尋さん」と読んだら、どういう気持ちがするでしょうか?「あれ、記憶喪失にもなったのかな?」と思うでしょう。「パパ」とか「おやじ」で良いのです。」パウロは「御霊によってアバ、父と呼ぶ」と言いました。「アバ」は「お父ちゃん」という意味です。

 

②だれの名によって求めるならば与えられるのですか?

 

 主イエス・キリストの名です。なぜ、イエス様の名で求めるのでしょう?イエス様は私たちの贖い主であり、仲介者です。父なる神様はイエス様の名で求められたなら、答えないではいられないのです。

 

③求めたらどうなるのですか?

 

 与えられます。

 

④その結果、どうなるのでしょう?

 

私たちの喜びが満ち満ちたものとなります。

 

 テキストの解説書にはこのように書かれています。日本中の人が祈っているでしょうが、イエス様の御名で祈っている人は少ないでしょう。イエス様の御名で祈るのは、的外れのような私たちの祈りでも、最善になるようにイエス様が神さまの前で執り成してくださるからです。この世では、悪しき力が支配しています。悪魔は空中の権威をもって、神に届かないように、私たちの祈りを迎撃しようとします。ですから、主イエス・キリストの御名を用いるときに、あたかもロケットが成層圏をやぶって宇宙に飛び出すように、神様のところに祈りが突き進んでいけるのです。10年くらい前に、新松戸教会の津村牧師が来られ、夜の集会を導いてくださいました。そのとき、アーメンの仕方を教えてくれました。「アー」でグルグルと錐もみをし、「メン」で槍のように突き抜けるということです。一緒にやってみましょう。「ア~~~」「メン!」。

 

4.感謝と賛美をもって

 

ピリピ46-7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」詩篇1004感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」

 

第一、「祈る前の状態はどのようなものだったでしょうか?」思い煩っていました。その人は、思い煩っていたので、「思い煩うな」と言われているのです。「クリスチャンになると悩みがない」と言う人がいますが、地上では悩んだり、思い煩うことがあります。特に、家庭を持つと自分ではなく、子どもたちのために思い煩ってしまいます。

 

第二、「願い事を神さまにどのように知らせるべきでしょう?」感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただくということです。旧約聖書のレビ記には、油を添えたり、香をたくように書かれています。もし、私が人に何かを頼むときどうするでしょうか?いきなりは頼みません。「この間は、大変お世話になりました」と前のことを感謝するでしょう。神さまも同じで、いつも自分に要求ばかりしている人は敬遠したくなるでしょう。そうではなく、感謝をもってささげる祈りでありたいと思います。

 

第三、「そのように祈ったら、何が与えられるのでしょう?」人のすべての考えにまさる神の平安が与えられます。そして、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。心というのは、感情です。恐れや不安やいらだちが消えて平安になります。また、思いというのはマインド、考え方つまり認知です。祈る前は、問題そのものに集中していました。しかし、祈った後は、問題の上におられる神さまに集中します。そうすると、「神さまにはできる」という信仰がやってきます。平安でおだやかな気持ちになると、「自分が今、何ができるか」分かってきます。小さな一歩を進むとき、神さまがさらに私たちを後押ししてくださいます。

 

マーリン・キャロザーズという牧師が『讃美の力』という本を書いています。ジムと言う人は長い間、アルコール中毒のお父さんのことで悩んでいました。なだめたり、脅したりいろんな手を使っても効果がありませんでした。あるとき、『讃美の力』を読みました。ジムは「お父さんのアルコール中毒のことを神さまに感謝しよう。いまの状態がお父さんの人生に対する神さまのすばらしい計画のうちにあるのだから、神さまに賛美しようじゃないか」と言いました。それから、すべてのことを一つ一つ神に感謝し、讃美を続けました。それからジムの父は自分の酒ぐせが問題だということをはっきりと認め、キリストに助けを求め、完全に癒されてしまったのです。どうぞ祈りの中に、感謝と賛美を混ぜ合わせてください。まだ、現実ではそうなっていないのに。さものようになったかのように感謝して祈ってください。そうすると、天の窓が開かれ、神さまの方から手が差し伸べられてきます。解決策は三次元の目に見える世界ではなく、目に見えない、神さまから与えられます。祈りは「神さまから解決を引き出す秘訣」と言って良いでしょう。

 

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2014年10月12日 (日)

赦しによる健康法       ヘブル12:14-17

 私たちは農薬や合成保存料を食べ物と一緒に体に入れています。肌につける化粧品なども、体の中にしみこんで毒になるものもあります。車の排気ガスや中国から飛んでくるPM2.5も体に良くないです。世の中ではデトックス(解毒)という健康法があります。たとえば岩盤浴などで、汗をかくと、内側から老廃物が出てくるそうです。また、食べ物でも毒を中和して体の外へ出してくれるものあるようです。私たちは肉体の健康に気を使っていますが、心はどうでしょうか?多くの人たちが、うつ病や神経症に悩まされています。病院に行っても、これと言う治療法がありません。しかし、聖書のみことばは癒しを与える薬があります。それは旧約(旧薬)と新約(新薬)です。きょうは、心の健康を保つために重要なことをお話ししたいと思います。


1.赦さないことによる毒

 ヘブル12:15「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」と言われています。「苦い」は英語で、bitternessです。ギリシャ語ではピクリアと言いますが「苦々しい感情、憤慨、立腹」という意味です。私たちの心を土地にたとえるなら、悪感情によって苦い根が生えてしまうということです。悪いものが根から枝を伝わって、やがて、それが実となります。その実とは、やはり苦い実です。怒り、憤り、うつ、さばき、自己憐憫の実です。周りの人が、その実によって汚されるということです。私たちのまわりにそういう人はいないでしょうか?その人と会った後、なんだか気持ちが重たくなるということがないでしょうか?私たちは日々、不当な扱いを受けたり、だれかのせいで損害を受けたり、失敗したりします。また、日々の会話の中で、傷つけられるようなことばを受けるかもしれません。私たちはそのとき、怒りや憤りを覚えるでしょう。「もう、赦さない」と心に誓うかもしれません。もし、そのままにするならどういうことになるでしょう。怒りや憤りが心の深いところ、つまり潜在意識の中に沈みこみます。それらが結合して、やがて毒素の塊になります。表面から分かりませんが、時々その毒が浮いてきます。そうすると、自分自身を悩まし、さらには他の人を汚してしまうようになります。アメリカで化学工場から出た廃棄物をドラム缶につめこんで、地下何十メートル下に埋設しました。後からそこにたくさんの住宅が建ちました。20年くらいたって、住んでいる人たちが原因不明の病気にかかりました。いろんな調査がなされましたが、後から、地下の廃棄物から有毒な化学物質が漏れているのが分かりました。一度埋めたものを取り除くために、莫大なお金がかかったそうです。

 では、この話は本当に聖書的なのでしょうか?不当な扱いを受けても、怒ってはいけないのでしょうか?エペソ4:26-27 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」使徒パウロは、怒りは必ずしも罪ではないと言っています。イエス様も宮が汚されているのを見て、怒ったことがあります。聖なるものが汚されたり、不正がなされるのと見ると、義憤というものが起こります。正義を行うためには、正しい怒りがあるでしょう。しかし、この怒りは、自分が被害を受けたり、傷つけられたことから来たものです。怒りは感情であり、自動的な反応です。しかし、この怒りを正しく扱わないで持ち越すと罪を犯すことになるということです。パウロは「日が暮れるまで憤ったままではいけません」と言いました。これは怒りや憤りを、次の日まで持ち越してしまうと心の深いところに根を張るということです。これが「苦い根」であり、「毒性の廃棄物」です。そのままにしておくと大変なことになります。パウロは「悪魔に機会を与えることになるから」と注意しています。そうです。また同じようなことが起こると、その怒りが倍増して、大爆発を引き起こしてしまうということです。たまりにたまっていた負のエネルギーが「どかーん」と大爆発するのです。そういう人は普段から我慢している人が多いです。また、外に向かって出さない人は、自分の中にしまいこんでしまいます。自分の中で爆発するので、それがうつになります。うつのすべての原因がそうではありませんが、かなりの割合で隠された怒りが原因しているとあるカウンセラーが言っておりました。あなたは怒りを外に向かって、つまり他の人に出す方でしょうか?それとも内に秘めて、自分を攻撃し、うつになるタイプでしょうか?どちらも、不健康です。「苦い根」あるいは「毒性の廃棄物」からいろんな病気を引き起こします。肉体的には心臓病、関節炎、癌などがあります。心においては、いろんな情緒的問題を引き起こします。

私は秋田の出身ですが、自殺率がとても高いところです。あるサイトには、19年連続で全国最高の状態が続いていると書いてありました。また、がんの発生率、脳卒中もトップです。専門家は高齢化とか経済問題と言うかもしれません。しかし、私が育った経験から申しますと、裏日本は天候が悪いです。いつもどんより曇っています。また、秋田の人はとても忍耐強く、我慢する人たちが多いです。怒りや悲しみをあまり外に出しません。表向きは平静をよそっています。多くの場合、お酒を飲んで、うさを晴らしています。だから、飲酒の量が多いのです。自分の怒りや悲しみを出さないで、心の奥底に秘めているために、いろんな問題が起こるのではないかと思います。秋田だけではなく、日本人は感情を外に出さない国民として知られています。昔、ディズニーのテレビ番組でやっていました。日本人は家族団らんでテレビを見ています。ほとんど笑いません。しかし、アメリカや他の国は、「わぁー」とか、ものすごいリアクションです。おそらく、中国や韓国なども感情をあらわにする国民だと思います。私がテレビを見ていると、「わぁー」「ぎゃー」とか反応するので、家内から「あっちへ行って」と言われます。私は、心はアメリカ人なのかもしれません。とにかく、私たちは怒りや憤り、憂いを貯めてしまうなら、あとでとんでもないことが起こるということを忘れてはいけません。苦い根を張って自分も人々も汚してしまいます。また、「毒性の廃棄物」が心の底から表面に染み込んで大変なことになります。私たちはこれらに蓋をするのではなく、ちゃんと向き合い、取り除く必要があります。


2.赦さないことによる束縛

 赦すということは、復讐する権利を放棄するということです。私たちは傷を受け、何等かの損害を受けました。それなのに、相手はのうのうと暮らしています。「赦してください」の一言もありません。お詫びも償いもありません。それなのに、簡単に赦して良いのでしょうか?大体、傷つけた人と傷つけられた人の痛みの度合いが全く違います。たとえば、満員電車の中でハイヒールで踏まれたとします。踏まれた方は「痛ーい!」と叫ぶでしょう。しかし、踏んだ方は「あーら、ごめんなさい」と謝るかもしれません。でも、踏んだ方はほとんど痛みはありません。つまり、被害者というのは、痛みがあり、それがいつまでも継続するということです。傷や虐待が大きい場合はトラウマになります。何度も、それが浮かび上がってきては、本人を苦しめます。ある夫婦が一人息子を悲惨な事故で失いました。お二人は悲しいだけではなく、神さまに対して怒っています。友人たちがお悔みに来ました。しかし、「あなたがたは私たちの痛みと苦しみを分かってくれないだろう」と言いました。友人たちが何度も訪問したのですが、「あなたがたには決して分からない」と慰めを拒絶しました。そのご夫婦は、加害者だけではなく、神さまさえも恨んでいます。「なんで、あんなことになってしまったんだ。息子がかわいそうだ!」とテープレコーダーを回すように思い出しては泣いていました。それで、だんだん訪問する友人も少なくなりました。そのご夫婦は悲しみの中から立ち上がることをしませんでした。彼らは「自分たちは被害者だ」という意識から立ち直ることができませんでした。こういう意味で、一度、起きてしまった悲しい出来事を忘れるということは困難です。今も、天災や事故で身内を失った人たちが、座り込んだまま、立ち直れない人がたくさんいると思います。心の奥底に沈んでしまった怒りや悲しみが根を張って、引き抜くことが不可能なようです。

 箴言17:22「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」心の問題が、いろんな病をもたらすということは事実です。一人のご婦人がチョー・ヨンギ牧師のところに癒しを求めてきました。彼女は身なりも立派で、学校の校長先生でした。しかし、重い間接痛で悩んでいました。体中がいたくて、立つのも座るのも容易でありません。どの医者に行っても、どんな薬を飲んでも癒されませんでした。チョー先生はあらん限りの声を上げて、病が癒されるように祈りました。しかし、全く癒されませんでした。そのとき、ある思いがチョー先生の中に浮かびました。「あなたは前の夫と離婚していませんね」と言いました。「いいえ、私は10年前、夫と離婚しました」。「いいえ、あなたは前の夫を呪って、恨んでいます。心の中ではあなたはご主人と暮らしています。あなたが抱いているご主人に対する炎のような憎しみが、あなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです」と言いました。彼女は感情をあらわにして言いました。「そうです。でも、あの人は本当にひどい仕打ちをしたのです。私がせっかく得たお金を湯水にように使いました。その後には、私をあっさり捨てて、別の女のところへ行ったのよ。何で、赦すことができるの!」と言いました。チョー先生は「ああ、そうですか。それではあなたの関節痛もなおりませんね。あなたの赦さない罪が病気を引き起こしているのです。前の夫を赦しなさい。愛して、祝福しなさい」と言いました。激しい葛藤の中で「そんなことはとてもできることではありません」と言いました。もう一度、勧めると、彼女は目をつぶりました。突然、しぼり出すような声をあげて「神さまどうぞ、主人を祝福してくださーい。」と祈りました。それから3か月後、彼女の関節痛が完全に癒されたそうです。私たちも、憎しみを自分の中から追放しないと、神の力が私たちの中から流れ出すことはないということです。

 イエス様は、マタイ6:15 で「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」と言われました。また、ルカ6:37「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と書いてあります。では、赦しは自分が赦されるための条件なのでしょうか?厳密にはそうではありません。神さまは無条件な愛の持ち主ですから、どんな罪をも悔い改めるならば、赦してくださいます。しかし、これらのことばは矛盾しているようです。「人を赦さないなら、神さまも自分の罪を赦してくださらない」と言っているからです。しかし、私はこれが本当の意味だと思います。私たちは心の深いところに良心をもっています。ある学者は「良心は霊の一部である」と言っています。この良心が私たちを訴えるのです。もし、私が「Aさんの罪は決して赦すことができない」と、心の金庫にしまいこんで鍵をかけているとします。では、もし、私がAさんと同じような罪を他のだれかにしたらどうなるでしょうか?私はその人には「ごめんなさい」と謝れるかもしれません。しかし、天の父に「どうか、私の罪を赦してください」と祈れるでしょうか?私は祈る前に「ああ、私はAさんの罪を赦していないよなー」と思い出します。そうすると、良心が「人の罪を赦さないでおいて、自分の罪は赦してくださいと祈るのは虫が良すぎるのでは?」と咎めます。すると、「ああ、そうだよな」と途中で祈るのをやめます。「金庫から出して赦すくらいなら、このままでいいや」と思うのです。ある人たちは、地下の廃棄物から有毒な化学物質が漏れているに気付いていません。

 アフリカのある村の人たちが川の水を飲んで病気になりました。その川は山から流れる清い水で知られていました。調査団が川の上流へと向かいました。きれいな水が、泉からこんこんと湧いていました。上から見たら、何も問題がないように思えました。「底に何かあるのでは」と何人かの潜水夫が潜りました。そうすると、川が流れる水門の底に、豚の親子の死体がひっかかっていました。おそらく、水を飲みに来た豚の親子がおぼれ死んで、川底に沈んでしまったのでしょう。死体が腐って、それが毒素となって下流に流れていたのです。原因を取り除いたら、また水が飲めるようになったそうです。イエス様を信じると私たちの中に聖霊による清いいのちの泉が与えられます。やがてそれが川となってあふれ出ると聖書に書いてあります。しかし、私たちが怒りや憤り、恨みや悲しみでとどめておいたならどうなるでしょう。清い水がとどめられるばかりか、死の毒が心と体に回ってしまうでしょう。ぜひとも、私たちは赦さないという罪を捨てて、神さまからあふれるばかりの恵みをいただく者となりたいと思います。


3.赦しとは何か

 ある人たちは赦す感情が起きたら赦そうと思っています。しかし、赦しは感情ではなく、「赦します」という決断であり、意志の問題です。また、ある人たちは赦すことと忘れることを一緒にしています。赦すことは必ずしも忘れることではありません。私たちには記憶がありますので、忘れたくても忘れられません。これは傷痕と同じで、赦すことによって解放されると、記憶があっても痛みがないのです。また、ある人たちは相手が「赦してください。悔い改めます」と言ったら赦すという人もいます。もちろん、相手が謝罪してくれたらありがたいのですが、それを待っていたらいつになるか分かりません。相手の罪に対するさばきは主にゆだねるのです。そして、自分は自分の責任を果たすということです。では、簡単に赦しとは何なのでしょうか?赦しというのは、復讐したい権利を神さまにゆだねて、放棄するということです。ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」神さまにゆだねると、怒りから解放されます。だけど、「神さま、あいつに復讐してやってください。ぎゃふんと言わせてください」と祈るのは問題かもしれません。確かにダビデは「復讐してください」と祈りました。でも、私たちはイエス様の恵みを受けて、もう一歩進むべきです。イエス様はマタイ5章で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。そして、イエス様ご自身が十字架で自らを殺す者たちに対して「父よ、彼らを赦してください」と祈られました。ですから、赦して、敵対する者のために祈るということは、奇跡であります。生身の私たちができることではありません。はっきりいって、キリスト教は道徳ではなく、奇跡の宗教です。

 また、赦しというのは、神さまに従うことであります。なぜなら、神さまが赦してあげなさいと命じておられるからです。イエス様はルカ17章で「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と言われました。これに対して、使徒たちは「私たちの信仰を増してください。」と願いました。彼らは信仰がなければ、人の罪を赦せないと考えたからでしょう。ルカ17:6しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。イエス様は「桑の木に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」とおっしゃられました。桑の木と言うのは、根が地中に張って、なかなか抜けない木だということです。まるでそれは、私たちの心の中に赦せないという「苦い根」が張っている状態と似ています。「赦すなんて無理です。できっこありません」と答えるでしょう。でも、イエス様は「苦い根に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」とからし種ほどの信仰があればそれができるとおっしゃられました。しかし、その直後にこのように話されました。ルカ17:7-10「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」赦しとは何でしょう?どうしたら人の罪を赦せるのでしょうか?使徒たちは「信仰を増してください」と願いました。これに対してイエス様は信仰ではなく、従順であることを教えました。このしもべがそうであります。主人がその人の罪を赦しなさいと命じたなら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言えばよいのです。私たちは神さまが赦してやりなさいと言われるから、赦すのです。これが神さまに従う、クリスチャンの生き方です。

 私は25歳のときイエス様を信じて、洗礼を受けました。あんまりうれしくて、彼女や友人にも神さまのすばらしさを語りました。会うたびごとに、神さまのことを語り、「教会に行こう」と無理やり誘いました。洗礼を受けた1か月後、付き合っていた彼女から「別れてほしい」と一方的に言われました。青天の霹靂とはこのことです。後から、彼女が友人のアパートに行っているということが分かりました。私は夜も眠れず、布団の上をごろごろ転がっていました。そして、台所から包丁をもって二人を殺してやろうと思いました。私たちはテレビでそういう事件をよく見ますが、本当に他人事ではありませんでした。私を導いてくれた先輩が、ローマ12章「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」というみことばで私を思いとどまらせてくれました。私は毎週の礼拝でおいおい泣いてました。あんまり泣いていたので、大川牧師が心配してくださいました。それから、私は献身し、その後、今の家内と結婚し、可愛い子供たちが与えられました。神さまには他のすばらしい計画があったのです。エディ・レオ師がこのように言っていました。「イエス様は目の中の丸太とちりの話をしたことがあります。ちりとは木を切ったときの、木くず(チップ)です。私たちはあることが原因で、怒りと憎しみを爆発させるかもしれません。それは、心の深いところからチップが出てきたのと同じです。すぐ、そのチップを捕まえて、神さまのところに持っていきなさい。必要な場合は悔い改めて、それを放棄しなさい。48時間過ぎてしまうと、心の深い所に沈み込んで、処理できなくなります」と。人を赦さないのは罪であります。なぜなら、神さまが赦しなさいと命じておられるのに、自分が赦さないからです。もし、心の深いところに許さない罪をため込んでいるなら、心も体もその毒によってやられてしまいます。自分を傷つけた加害者のためではなく、自分のために、その人の罪を赦しましょう。そして、神さまを仰いで、晴れ晴れとした信仰生活を歩みましょう。


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2013年9月 8日 (日)

信仰の父アブラハム   創世記17:1-6   へブル11:11-12

 新約聖書では、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。しかし、創世記を読むと、「本当にそうなのかな?」と思えるようなところがいくつもあります。おそらく私たちも天国に行ったら、「罪がありません。義人です。」と呼ばれるでしょう。でも、心の中では「本当にそうなのかな?」と思うかもしれません。私たちはキリストにあって、悪い事柄が縮小され、良い事柄が拡大されていると信じます。きょうは、アブラハムが信仰の父と呼ばれるための、神さまの代表的な恵みを3つ取り上げたいと思います。言い換えるなら、神様はアブラハムの信仰を全うさせるために、3つのことを行ったということです。


1.契約の更新

神さまはアブラハムと契約を交わしていますが、1回ではありません。創世記12章、15章、そして17章、合計3回あります。なぜ3回も契約を交わす必要があるのでしょうか?それは、人間は不誠実で、忍耐して待つことができないからです。信仰の父と呼ばれたアブラハムもまさしくそうでした。最初の契約は創世記12章にあります。創世記12:1-2「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」アブラハムは主の召しに答え、生まれ故郷を出て、カナンの地にやって来ました。神さまは、「アブラハムから大いなる国民が生まれる」と約束しました。そのためには、まず、子どもがうまれなければなりません。しかし、妻のサライは「うまずめ」で、子どもを宿すことができませんでした。そのため、どうしたでしょう?アブラハムは神さまに、提案しました。創世記15:2-3「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げました。主は、「そうではない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と仰せられました。そして、主は「あなたの子孫は、星の数のようになる」とアブラハムと2度目の契約を結ばれました。

それでも、まだ子どもが生まれません。今度は、サライが提案を出しました。創世記16:2「サライはアブラムに言った。『ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。』アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」その当時、「子どもが生まれない場合は、そばめによって子どもを儲けて良い」という習慣がありました。それで、アブラハムは女奴隷のハガルに入って、イシュマエルを儲けました。あきらかに、妥協であり、人間的な解決です。生まれた後、家族の関係がおかしくなり、ハガルとイシュマエルを追い出すことになりました。それでも、神さまはアブラハムから生まれたイシュマエルの子孫を祝福しました。なんと、そのイシュマエルからアラブ民族が生まれ、イスラム教徒になりました。今もイスラム教徒はキリスト教徒を迫害しています。この件で、アブラハムは大きな間違いを犯してしまいました。

イシュマエルが誕生したのは、アブラハムが86歳でした。それから13年間の沈黙がありました。3回目の契約が17章にしるされています。創世記17:1「アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラハムの年齢は99歳です。サライともども高齢に達し、子どもを産めるような年ではありませんでした。神さまはそこまで、アブラハムを追い込みました。もう、人間の力、人間の努力では不可能です。そのときに、再び、神さまのことばが臨んだのです。99歳の老人に「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とは酷なような気がします。しかし、その意味は「神さまに完全に信頼せよ」という意味です。私たちはアブラハムのことを批判することはできません。神からの約束がなかなか成就しないとどうなるでしょうか?「あれは、気のせいだった。ひとりよがりだった」と疑いが入るでしょう。そして、「こうすれば、なんとかなる」と自分の知恵や考えでやるでしょう。しかし、それがかえって仇になり、神さまの約束が成就される妨げになります。一生懸命やったつもりですが、不信仰から出たことなので、祝福を受けることができません。しかし、神さまはご自身が立てた契約を忘れませんでした。恵みに満ちた神様は再び、声をかけてくださいます。「私はあのことを私は忘れていない。あなたの夢はどうなったんだ」と迫ってきます。イエス・キリストが死からよみがえらされたように、神様はあなたの夢をもう一度よみがえらせてくださいます。

みなさんの中にも、神さまから「あなたはこれをしなさい」というビジョンが与えられていたのではないでしょうか?それが、神さまからの契約だったのかもしれません。しかし、いろんな妨げが起こり、あなたはそれを諦めてしまいました。もう、土の中に埋めてしまいました。でも、神さまはあなたが祈った祈りを忘れてはいません。「あなたの願いを忘れてはいないよ。あの夢はどうなったのか?」と聞かれます。自分の願いと全く同じでないかもしれません。神さまは、ご自分のみこころに合致するように改訂版を提供します。神さまは、自己中心的なものを取り除き、ご自身のご栄光が現されるようにきよめてくださいます。私は高校生のとき、ボクシングに敗れ、挫折を経験しました。しかし、今は、ボクサーではなく、牧師になりました。トランペットにあこがれましたが、途中で挫折しました。しかし、今は、ヨベルの角笛、福音のラッパを吹く説教者になりました。夢を見たのが未信者の時であったとしても、神さまはあなたのことをちゃんと覚えておられます。神さまは、あのとき、あなたが願ったことを覚えておられます。全く、同じかたちではないかもしれせんが、主は答えようとされています。なぜなら、その夢はあなた自身のものではなく、神さまから出た計画だったからです。どうぞ、神さまの前に夢を差し出して、きよめていただき、そして再生してもらいましょう。


2.実物教育

 イエス様は新約聖書で「空の鳥を見なさい。野の花のことを考えて見なさい」といわれました。いわば、実物教育と言えます。実際あるものを見せることによって、信仰が与えられるからです。神様はアブラハムにもそのようにされました。創世記15:15「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」東京では、夜空を見ても、数えられるくらいの星しか見えません。しかし、田舎に行くと、夜空いっぱいに星がまばたいています。だいたい、正常な目では、6000個くらいの星が見えるそうです。アブラハムが神さまから外に連れ出されて、夜空を仰ぎました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われて、1、2、3、4と数え始めました。300くらい数えたら、もう数えられなくなりました。なぜなら、「私の子孫がこの星の数になるのか!」と思って、涙がにじんできたからです。。それから、夜の星が見えるたびごと、アブラハムはあの日、言われた約束を思い出すことができました。また、神さまは「海辺の砂のように数多く増し加えよう(創世記22:17)とも約束されました。日中は、星が見えません。でも、昼間は海辺の砂は見ることができます。アブラハムは自分から出た、子孫が数えきれない数になることを想像することができたでしょう。アブラハムは、夜は星を見るとき、昼は海辺の砂浜を見るとき、信仰を回復することができました。これは、いわばビジョンであります。神さまがビジョンを与えることによって、アブラハムの信仰を増し加えたということであります。

 私たちは何を見るかということは、とても重要です。信仰はみことばを聞くことからも入りますが、見るということもとても重要です。エレミヤは神さまからこのように何度も言われました。エレミヤ1:11-15「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると【主】は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」再び、私に次のような【主】のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」すると【主】は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。エレミヤは若くして神さまから預言者として召されました。預言者は神さまのことばを預かって、それを民に告げるという使命がありました。そのとき、ことばだけではなく、このような幻を見させられることが良くありました。幻は肉眼ではなく、霊の目で見るものです。特に預言者はこういう霊的な目がないと、神からの務めを果たすことができません。

牧師もまさしくそうでありまして、説教も重要ですが、神からの幻、ビジョンを解き放つことも重要です。幻やビジョンは、会議などで議論して出てくるものではありません。どちらかと言うと、会議は幻やビジョンに水をかけるようなところがあります。クリスチャンでも、目で見てからでないと信じない人が大勢います。そういう人に限って「現実は」とか「実際に」という言い方をよくします。しかし、目に見えてからでは、信仰はいりません。この肉眼ではなく、霊の目によって、見る必要があるのです。つまり、肉眼で見える前に、私たちは霊の目で見えている必要があるということです。この世の中における、偉大な発明や発見も、一人の幻から始りました。多くの凡人たちは「そんなの不可能だ!できっこない」と叫びます。しかし、幻をもった一握りの人たちによって、偉大な発明や発見がなされるのです。キリストの教会においても、同じことが言えます。箴言で「幻のない民は滅びる」と言われているのは、そのためです。私たちは現実を超えた世界を見る、霊的な目が必要です。神様は終わりの日に、リバイバルを与えると約束しています。神さまは日本を忘れていらっしゃるようですが、そうではありません。必ず、この日本にもリバイバルが来ると信じています。その時が来たら、週報で掲げている「350人の礼拝」はとても謙遜な人数です。ある人たちは「ああ、やっぱりならなかったか!」と言うかもしれません。でも、私は希望の奴隷となって、希望をもって死にたいです。

サマリヤの町がアラムに包囲されました。そのため、サマリヤにはひどいききんがあり、ろばの頭や鳩の糞までも高く売られていました。さらには、女たちは子どもを煮て食べる始末でした。Ⅱ列王記7:1-2エリシャは言った。「【主】のことばを聞きなさい。【主】はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが一シェケルで売られるようになる。』」しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」ちょうどその頃、4人のらい病人が「私たちはどうせ死ぬのだから、アラムの陣営に入ろう」と決意しました。主はアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられました。彼らは「大軍が押し寄せて来た!」と、すべてを置き去りにして、命からがら逃げ去りました。らい病に犯された人たちは、天幕に入って、食べたり飲んだりしました。銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しました。彼らは「この良い知らせを自分たちのものだけにしていたら罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」と言いました。王の家来が来て見ると、アラムの陣営には人っ子一人いませんでした。それで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪いました。それで、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。王様は、例の侍従、王の腕によりかかっていた侍従が門の管理に当たらせました。ところが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死にました。彼は、預言のとおり、確かに自分の目でそれを見たが、それを食べることができませんでした。どうか、この侍従のようになりませんように。私たちはリバイバルをこの目で見て、それを体験する者となりたいと思います。


3.名前を変える

創世記17:5「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」神さまは、「名前を変えろ」とおっしゃいました。アブラハムという名前の意味は「多くの国民の父」という意味です。また、妻サライにも「名前を変えろ」とおっしゃいました。創世記17:15「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」サラという名前の意味は「王女」ですが、「多くの国民の母」という意味でもあります。最初、神さまから、そのように言われたとき、「そんな馬鹿な」と、二人とも笑いました。創世記17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」神さまを礼拝しながら、「そんな馬鹿な」と笑ったのです。サラの方はどうでしょうか?創世記18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」主は「こんなに年をとっているのに、と言って笑うのか?」とサラを咎めました。サラはあわてて「私は笑いませんでした」と打ち消しました。しかし、主は「いや、確かにあなたは笑った」と言われました。

二人の信仰が完全ではありませんでした。しかし、改名させたれた名前を互いに呼んでいるうちに完全な信仰になったのです。一日の仕事が終わり、夕暮れ時になりました。アブラハムは「サラー(多くの国民の母)、もう帰ろうか!」と言いました。サラも「ええ、アブラハム(多くの国民の父)、帰りましょう!」と言いました。しもべたちがそれを聞いてどう思ったでしょう?「サラ」とは、「多くの国民の母」という意味じゃないか?また、「アブラハム」は「多くの国民の父」という意味だろう?二人のとも、年とって頭がおかしくなったんじゃないか?「こどもが生まれないので、おかしくなったんだ。ああ、かわいそうに」。それも、1日だけではありません。それから、毎日、毎晩、サラ(多くの国民の母)、アブラハム(多くの国民の父)と呼び合っていました。そう告白しているうちに、二人は若返ったように見えました。いや、実際、若返ったのです。使徒パウロはこのように教えています。ローマ4:17-18「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。」アブラハムとサラは、年老いて、死んだような体でした。二人はまさしく、「無いものを有るもののように呼んだのです。まだ、子どもが生まれてもしないのに、「多くの国民の母」「多くの国民の父」と呼んだのです。そうすると、信仰が増し加わり、肉体も若返り、子どもを宿すことができるようになったということです。

「無いものを有るもののようにお呼びになる方」は新共同訳では「存在していないものを呼び出して存在させる神」と訳しています。このようなことから、私たちが創造的なことばを発するということがとても重要だということがわかります。最初に神さまが「アブラハム(多くの国民の父)になる」「サラ(多くの国民の母)になる」と言いました。その次に、二人がアブラハム(多くの国民の父)とサラ(多くの国民の母)と互いに呼び合うようになったのです。これは信仰がなければできません。私たちが神からの奇跡を体験するためには、ことばを変える必要があります。なぜなら、神さまは無いものを有るもののようにお呼びになる方だからです。あるいは、存在していないものを呼び出して存在させる神だからです。私たちも神さまにならって、無いものを有るように言うべきです。たとえば、結婚したいならば「いつか、結婚させてください」では良くありません。「結婚できることを感謝します」と言わなければなりません。「いつか、子供を与えてください」では良くありません。「子供が与えられることを感謝します。私たちはパパとママになります。」と言うべきです。「いつか病気を癒してください」ではありません。「病気が癒され、健康になることを感謝します。」と言うべきです。目に見えてから、言うのは信仰ではありません。まだ、目に見えていない事柄を見えるもののように言うことが信仰なのです。私たちは料理を作るとき、心の中には完成図が見えている必要があります。絵をかく場合も、心の中には完成図が見えている必要があります。家を建てる場合にも、完成図が見えている必要があります。車や電車でどこかへ行くにしても、心の中には行った場所が見えている必要があります。それをさらに口で宣言していくとき、信仰が固められます。その後、行動や気持ちがついていくのです。どうぞ、私たちの口から破壊的なことば話さないようにしましょう。「不景気だからうまくいかない。希望がない。最悪だ」と言うなら、そのようになります。神さまは「存在していないものを、呼び出して存在させる神さま」です。どうぞ、目にみえるものに逆らって、創造的なことばを発しましょう。彼らは、「アブラハム(多くの国民の父)」、「サラ(多くの国民の母)」と呼び合いました。まだ、一人も子供が生まれていないのに、多くの国民になるとは、すごい信仰です。でも、神さまが無から有を与え、そのようにしてくださいました。しかし、アブラハムがそれができるようになったのは、99歳になったときでした。まさしく、死んだような体になり、無いもののようになった時です。人間的に全く不可能だと思えるような時こそ、神さまの出番なのです。みなさんの中にも、人間的には不可能だと思えることがいくるかあるでしょう。どうぞ、その場所に神さまが来られますように。神さまは「存在していないものを呼び出して存在させる神」です。そして、あなたは信仰によって、それが存在したかのように宣言するのです。あなたは何を見ているでしょうか?神さまはあなたにどのようなことをお見せしているでしょうか?どうか、霊的な目によってそれをキャッチして、信仰のことばを発していきましょう。そうするなら、次から次へと神さまのみわざを経験することができるでしょう。


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2013年8月25日 (日)

箱舟を造ったノア   創世記6:8-18  へブル11:7 

 アダムから生まれた子孫が地に増え広がりました。しかし、地上には悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことに傾いていました。それで、主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。主は「私が創造した人を、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで、地の表から消し去ろう」と決意されました。しかし、ノアだけが、主のこころにかなっていました。神さまはノアを選んで、地を洪水で滅ぼす前に箱舟を造らせました。きょうは、ノアの信仰について共に学びたいと思います。


1.箱舟を造ったノア

 主はノアに「このように、箱舟を造りなさい」と、詳細な設計図を示されました。長さと幅と高さの比率が、30:5:3です。造船界では、タンカーなどの大型船を造船する際に最も高い安定性と強度を持つことから「黄金比」などと呼ばれています。知恵ある神さまは最も安定する舟を造らせたのです。ハレルヤ!1キュッビットは約44.5センチですから、箱舟の大きさは、現在の長さでいうと、長さが133メートルです。サッカー場よりも20メートルくらい長いです。幅は22.2メートルです。そして、高さが13.3メートルですから、4,5階建てのビルデングであります。ノアはその舟をどこで造ったのでしょう?普通、舟は港で造るものです。しかし、山の上でした。山の上だったら、木がふんだんにあり、運ばなくても良いからです。あとで洪水が来たとき、その舟は自然に浮きました。人間だけではなく、動物も載せるので、3階建ての超大きな舟です。鍛冶屋はいたと思われますが、すべてが手作業です。だから、箱舟を造るのに、丸100年かかりました。3人の息子たちが手伝ったと思われますが、気の遠くなるような作業です。水が外から入らないように、内と外とに木のヤニで塗りました。「塗る」はヘブル語では、カーファルですが、「罪を赦す」とか「贖う」という言葉と同じです。まさしく、箱舟の内側には命がありましたが、箱舟の外は死でした。

 へブル人への手紙の記者は、ノアは信仰によって舟を造ったと言っています。へブル11:7「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」まだ見ていない事柄とは何でしょう?やがて大雨が降り、大洪水が押し寄せて、地上のすべてのものが死に絶えるということです。神さまはノアとその家族を救うために、契約を結ばれました。そのために、箱舟を造り終えたら、ノアとノアの家族は造った舟に入ること。すべての生き物の二匹ずつを箱舟に入れること。家族と動物の食物にするために、食糧を取って集めるという条件でした。ノアはどうしたでしょうか?創世記6:22「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」これと同じことばが、創世記7:5にも出てきます。ノアがなぜ、「正しい人」と言われたのでしょうか?それは、道徳的な面だけではありません。神さまの命令に従う人が正しい人なのです。ノアは信仰によって、神さまが造りなさいという箱舟を造り、やがて来る大洪水に備えました。「与作は木を切るヘイヘイホー、ヘイヘイホー」という歌があります。しかし、ノアの方が先輩です。「ノアは木を切るヘイヘイホー、ヘイヘイホー」。山で木を切る音が、100年間も続きました。

 では、ノアは他の人々に、「洪水が来るから備えるように」と言わなかったのでしょうか?Ⅱペテロ2:5「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し…」とあります。「義を宣べ伝えた」というのは、神のさばきである洪水が来るということを伝えたということです。でも、人々は「洪水なんて来るわけがないだろう!」と聞こうとしなかったのです。イエス様がこのようにおっしゃられています。マタイ24:37-39「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすることは悪いことではありません。しかし、彼らは洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、同じことを繰り返していました。地上のことに心を奪われていたので、その日が来ることに気付かなったのです。ノアとその家族は仕事の合間に、町に出かけて、「自分たちは箱舟を造っているけど、まもなく洪水が来るから入らないか」と言ったのではないかと思います。しかし、町の人たちは「ノアは頭がおかしくなった」とまともに耳を傾けませんでした。ノアの警告を100年間も無視したのです。教会はノアの箱舟にたとえられています。今でも、世の人たちは「毎週、日曜日、教会に出かけるなんて、よっぽど暇なんですね。」と嘲笑するかもしれません。どうぞ、私たちはノアのように、神からの警告に備えながら、他の人たちに福音を宣べ伝えたいと思います。ノアは成功した伝道者だったでしょうか?ノアとその家族、合計8人しか救われませんでした。数的には少ないかもしれませんが、ノアを含め、8人の家族が救われたということはすばらしいことではないでしょうか。私たちも「少なくとも自分の家族が救いに入れられたら」と願います。


2.箱舟に入ったノア

 100年たって、いよいよ箱舟が完成しました。ノアは神さまに命じられたとおり、動物たちを1つがいずつ集めてきました。きよい動物だけがなぜ、7つがいなのかというと、あとで犠牲として神さまにささげるためです。羊とかヤギ、牛などがきよい動物とみなされていました。一体どれくらいの数なのかわかりません。ノアの物語の絵をみますと、ライオン、トラ、キリン、カバ、象、サル、らくだ、鶏、馬、ガゼール…。しかし、いくら舟が大きくても、すべての動物を1つがいずつ集めるのは不可能だろうと思うかもしれません。それに、野生の動物が、おとなしく箱舟に乗るでしょうか?私も、科学的に説明できないところがあります。しかし、神の霊が動物たちを集めたのではないかと思います。創世記7:7-10「ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。」ノアとその家族が箱舟に入りました。そして、動物たちが、雄と雌二匹ずつが箱舟に入って来ました。おして、いよいよ雨が降ってきました。創世記7:11-12「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」雨の降り方が現在のと、全く違います。なぜなら、「天の水門が開かれた」とあるからです。

 このところに不思議な表現があります。創世記7:16「…それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」大雨が降ってきて、人々は「ああ、本当に洪水がやって来た」と驚いたでしょう。そして、ある人たちは、箱舟にたどりついて、そのドアを叩いたかもしれません。「ドアを開けてくれ!」と言ったかもしれません。もし、ノアが「ああ、そうか」と言ってうしろの戸を開けたらどうなるでしょう。洪水が入り込み、箱舟もろとも沈んでしまうかもしれません。「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」このところには、峻厳なる神のご意志があります。戸が閉ざされたなら、出ることも入ることもできません。ケネス・ヘーゲン牧師の証です。私が17歳で、まだ寝たっきりだったころ、いとこのリジーおばさんが、彼女の娘と一緒に私たちのところを訪れていました。リジーおばさんがいるところでは、神のことを決して口にすることができませんでした。もしそうでもするなら、彼女は怒鳴り散らして、こう言い始めるのです。「神なんかいないわ!天国も地獄もないわ。説教者なんかみんな殺されるべきよ、どの教会も焼かれるべきよ。ああいう説教者たちは人々をだましているだけなんだから。彼らは人々のお金を取ろうとしているだけだよ」。私が病をいやされて約10年後にリジーおばさんと会ったときは、彼女はもう老けていました。あるとき、リジーおばさんの暮らしていた町で集会を開いていました。リジーおばさんの娘のロレンナが、彼女のお見舞いに来てほしいと言いました。ロレンナは私の両手を取って泣き出しました。「ああ、ケネス。母は昏睡状態で、お医者さんから二度と回復しないと言われているわ。でも、彼女の意識が戻ったら、あなたから彼女に話してくださるかしら?」。寝室に入ると、リジーおばさんは昏睡状態で横たわっていました。彼女の両目は大きく開いていましたが、目は大理石にようで、一度もまばたきしませんでした。ロレンナは「ママ!ママ!」と大声を上げて彼女を少揺さぶりました。ロレンナは「おばさんの息子のケネスを覚えてる?長い間、寝たっきりだったけど、後で説教者になっている人よ」。ロレンナが「説教者」と言ったとき、リジーおばさんがベッドの上で身を起こしました。「ケネス!ケネス!お前は説教者だね。『地獄はない』と私に言っておくれ。私は『神はいない』って言ったわ。私は『天国はない』って言ったわ。」リジーおばさんは半狂乱になって、さらに叫びました。「私に言っておくれ、『地獄はない』って。私はとても怖いわ。とても暗いし、私は怖いわ。ああ!ああ!」そして、リジーおばさんは後ろの枕の上に倒れました。私はイエス・キリストのことを話し始めました。しかし、リジーおばさんは持っていた体力を全部使い果たし、枕の上に倒れた時、無意識状態に陥り、二度とそこから戻ってきませんでした。箱舟に入るということは、キリストがくださる救いを受けるということです。私たちの人生においてその決断がいつでもできるわけではありません。人生のドアが閉じられるときがあるからです。


3.箱舟を出たノア 

創世記8:1-4「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。」かなり前、ある調査団隊が、アララテ山に登って、ノアの箱舟の残骸を写真に撮ったようです。また、宇宙船から取った写真をテレビで見たことがあります。しかし、現在はトルコ政府がアララテ山に登ることを禁じています。アララテ山のふもとに住む人たちは、ノアの洪水物語を何千年も語り継いでいます。神さまは、科学的な証明ではなく、信仰によって信じるように導かれているようです。それでは、科学は不要かというとそうではありません。ノアは水がどのように減っていったか、時間の経過とともに克明に記しています。雨が降り始めたのがノアの生涯の600年目の第二の月の17日でした。そして、第七の月の17日に、アララテ山の上に止まった。5か月で150日目です。第十の月の1日に、山々の頂が現れました。40日たって、箱舟の窓を開いて、烏を放ちました。地がかわききるまで、出たり、戻ったりしていました。それから鳩を放ちましたが、足を休める場所が見当たらなかったので、箱舟に戻ってきました。

創世記8:10-11「それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。」ピースというたばこがあります。昭和27年、日本の専売公社がアメリカのデザイナーに当時150万円の高額なデザイン料を支払いました。このデザイン変更で爆発的に売り上げが伸びたそうです。ノアが箱舟の窓から放った鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってきたことで、大洪水が収まり、安らぎの大地が近いことを知った、という、鳩が平和の象徴となった逸話にちなんでいます。ノアは7日後、また鳩を放ちましたが、もう戻ってきませんでした。では、すぐに箱舟を出たかというとそうではありません。創世記8章13節以降にも、水がどうなり陸地がどうなったか書かれています。そして、第二の次の27日、地はかわききりました。なんと、箱舟に乗ってちょうど1年後です。1年間も、狭い舟に乗っていたら、気が狂うでしょう。陸地が見えたら、すぐにでも降りたいところです。でも、ノアは1日、1日、日付を付けていました。雨がどのくらい降ったか。大洪水が何日あったか。水がどのくらいまし、どのくらいで引いたか。からすを放ち、はとを放ちました。それでも、出ませんでした。ノアは、なんと科学的で、なんと緻密な人のでしょう?気が狂わなかったのは、第二の月、第三の月、第四の月、第五の月、第六の月、第七の月、第八の月と日を数えていたからです。

いつ出たのでしょう?創世記8:15-16そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」そうです。主のおことばがあって初めて、ノアは舟を出たのです。ノアは、科学的なデーターを握っていました。しかし、主のおことばがあるまで待ったのです。もし、陸地が見えたとき、降りたならば、伝染病にかかったかもしれません。自然が完全に回復するまで待たされたのです。箱舟を降りたのは、ノアとその家族、合計8人でした。船という漢字があります。右側の作りに、八口と書かれているのには意味があります。口は人のことを言います。ですから、八口は八人という意味になります。まさしく、船はノアの箱舟の物語から来ています。ノアが舟から出て、一番最初にしたことは何でしょうか?それは礼拝です。創世記8:20「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」きよい動物の数がなぜ、他より多かったか?それは、全焼のいけにえとしてささげるためでした。普通だったら、「ああ、助かった」と食べて飲んで、祝杯をあげるでしょう?しかし、まず、ノアは主のために祭壇を築き、礼拝をささげました。ノアは家を建てる前に、神さまに礼拝をささげました。穴という漢字があります。箱舟から出た八人は住む家もなく、しばらくの間、洞穴に住んだかもしれません。空(から)という漢字があります。8人が青空の下で働(工)いたので、穴が空っぽになったということを連想させます。

神さまは新たに契約を交わしました。だれと交わしたのでしょう?神さまはノアとだけ契約を結ばれたのではありません。創世記9:9-11「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」神さまは、「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束しました。しかし、それは人間とだけではありません。すべての生き物、鳥、家畜、野の獣たちを含んでいました。神さまは人間以外の生物のことも考えておられます。ここからわかることは救いというのは、人間だけのことではなく、世界全体のこと指しています。聖書で最も有名な聖句と言えば、ヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」です。神さまは、だれを愛されたのでしょうか?世、世界であります。人間だけではなく、動植物すべてを愛しておられます。だから、救いというとき、自然界も含まれているということです。そして、神さまは契約のしるしとして空に虹をかけました。創世記9:13-15「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。」洪水の前に、空に虹がなかったのでしょうか?保守な聖書学者は、「ノア以前の地球は厚い水蒸気で覆われていたのはないか」と言います。ノアの洪水以降の人たちの寿命が120歳であると書かれています。その理由は、水蒸気の天蓋が取り除かれて、有害な宇宙線(放射能)が地上に降り注がれるようになったからなのかもしれません。厚い水蒸気の層がなくなり、青空が見えるようになりました。だから、雲の中に虹が現れるようになったと考えられます。虹は鳩と並んで、平和の象徴になっているのはこの話からです。神さまは虹を見たら、ご自身の契約を思い出すとおっしゃいました。つまり、二度と大洪水ですべての肉なるものを滅ぼさないということです。歴史上、洪水は何度もありましたが、ノアのような地球規模の洪水は起こったことがありませんでした。

でも、神さまは世の終わり日には、洪水ではなく、火によって滅ぼすと警告しています。Ⅱペテロ3:6-9 「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」ノアのときは、大洪水でこの世界がさばかれて、滅ぼされました。しかし、世の終わりは大洪水ではありません。「火によって、不敬虔な者どもをさばく」と言われています。まさしく、私たちは世の終わりに住んでいます。かつて、ノアの洪水が起こったように、火によるさばきも必ず起こると信じるべきではないでしょうか?それでも、世の人たちはノアの時代の人たちのように、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしています。まず、私たち自身が目をさまして備えなければなりません。また、一人でも多くの人たちがノアの箱舟である、キリストの教会に身をよせるように働きかけたいと思います。正確には教会に来さえすれば良いということではありません。罪を悔い改め、つまり方向転換し、イエス・キリストを救い主として信じなければなりません。イエス・キリストことが、主であり救い主だからです。



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2013年8月18日 (日)

神と共に歩む   創世記5:21-23 へブル11:5-6

 エノクは、死なないで、天に引き上げられた人物です。預言者エリヤもつむじ風に乗って、天に引き上げられました。あとは、世の終わり、イエス様が来られたとき、私たちが生きているなら、死なないで天に引き上げられるでしょう。死というものが、アダムとエバが罪を犯してから、全人類を支配してしまいました。しかし、エノクやエリヤのように例外もあるということです。私たちはエノクのように死なないで天に引き上げられるかは、分かりません。エノクは天に引き上げられるほど、神さまから喜ばれていました。どのような信仰生活が神さまに喜ばれるのでしょうか?そのことを聖書からともに学びたいと思います。


1.神と共に歩む信仰

 創世記4章にはカインの子孫が記されています。カインの子孫は「だれそれが何をした」ということが記されています。ところが、創世記5章を見るとどうでしょう?ここにはアダムから生まれたセツの子孫が記されています。「だれそれが何をしたか」ということは全く書かれていません。その代わりに、「だれそれが○年生きて、だれそれを生み、何年生きて、死んだ」と多くの人たちが並べられています。「生きて、生んで、死んだ」「生きて、生んで、死んだ」と書いてあります。カインの子孫とセツの子孫の決定的な違いは何なのでしょうか?カインは自分の業績を上げることに力を向けたグループの人たちです。一方、セツはどうでしょうか?創世記4:26「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」セツの子孫は、「何ができるかということよりも」神さまとの関係を重んじたグループの人たちです。創世記5章に「生きて、生んで、死んだ」と記されていますが、彼らは、神さまと関係を持っていた人たちです。そうしますと、神さまは、私たちが何ができたかということよりも、ご自身との関係を記憶に止めておかれるようです。当時の人たちは、現在よりもはるかに長生きしています。ある人たちは、「古代オリエントにならって、年齢を水増ししたのだ」と言います。私はそうは考えません。アダムは本来、永遠に生きる存在として創造されました。ところが罪を犯したために、人類に死が入り込みました。ですから、アダムがたとえ、930年生きたとしても、永遠と比べたなら、まだ短命なのです。

 セツの子孫に、エノクがおります。カインの子どももエノクでありましたが、別人だと思います。エノクの一生はどうであったでしょうか?創世記5:21-24「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」エノクの一生は、他の人たちと比べて半部以下の長さです。もし、私たちのまわりに、早死にした人がいるなら、「その人は祝福を受けていない」と思うのではないでしょうか?エノクはどうだったのでしょう?「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」「いなくなった?」って、果たしてどこに行ったのでしょう?へブル人への手紙で、このことを説明しています。へブル11:5「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」エノクは死を経験しないで、神さまのもとに召されました。理由は、エノクは神さまから喜ばれていたので、死なないで、天に引き上げられたということです。これってすごいことじゃないでしょうか?人生は単純に長さではないように思えます。神さまがエノクを愛して、とても喜んでいました。「ああ、私はエノクの死を見たくない。生きたまま、天に引き上げよう」ということになったのです。人類の歴史上、エリヤをのぞいて、エノクのような人物はいません。アブラハムもモーセもダビデも死にました。しかし、エノクだけはそうではありませんでした。では、どういう生き方がそれほど神さまを喜ばせるのでしょうか?創世記5章にはひとこと「エノクは神とともに歩んだ」と書いてあります。エノクのように神とともに歩む人生が、神さまに喜ばれるということであります。

 でも、神とともに歩むというのは、どういう意味でしょう?エノクという名前は「従う者」という意味です。アダムとエバは堕落する前は、神さまとともに歩んでいたと思います。神さまと親しく交わりながら、神さまに従って歩んでいたと思います。ところが、善悪を知る木の実から食べてからは、一変してしまいました。神さまに聞かないで、自分たちで何もかも判断するようになりました。本来なら、神さまに従うことが善であり、従わないことが悪でした。でも、神さまから独立した人類は、自分たちで善悪を決めるようになったのです。罪ある人間はどうでしょうか?神さまがともにいたなら、かえって緊張するのではないでしょうか?自分の好きなことができない。自由がない。いつさばかれるか分からない。だから、多くの人は「さわらぬ神にたたりなし」と、神さまを祀り上げてしまいます。どうでしょう?神さまがともにおられることが喜びでしょうか?あるいは窮屈で仕方がないでしょうか?エノクは違いました。エノクは、いつでも、神さまを意識して生活していたと思われます。私もイエス様を信じた頃は、そうでした。いつでも「神さま、神さま」と意識していました。なんでも「神さま」でしたので、友人たちから、キリスト教にかぶれているとさえ思われていました。それから、半年後、神学校に入ってからどうなったでしょう?神学校では神学を学びました。その学校では「みことば、みことば」と言っていました。知的な面が強調され、頭の信仰になりました。心の信仰から頭の信仰になったのです。「神さまはどういう存在か」などと、理屈っぽくなりました。アダムとエバは知識の木の実を食べるときは、とても素朴だったと思います。ところが、知識の木の実は魅力があります。エバはその木を見たとき「賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)と言っています。 

 神を知る知識が増し加われば神さまと共に歩むことができるのでしょうか?パウロは、Ⅰコリント8:1で「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と言っています。知識を持つことは悪いことではありません。しかし、1つの弊害があります。知識は人を高ぶらせてしまいます。でも、愛は人の徳を高めます。私たちと神さまとの関係でいうならどうでしょうか?聖書は神さまについて書かれた書物です。いろんな本を読んで、神さまについて勉強することはすばらしいことだと思います。でも、神さまは人格を持っています。聖書という神さまの説明書を読むことも重要ですが、人格を持っていらっしゃる神さまと交わる方がもっと重要ではないでしょうか?聖書は神さまについて書いている書物です。聖書を学ぶならば、神さまについて知識を得られます。しかし、それだけで神さまが分かったとは言えません。ギリシャ語で「知る」とういうことばには2つあります。1つはギノスコーであり、知的に知るということです。「イエス・キリストは神の子であり、救い主である」ということを聖書から知ることができます。その知識は完全であり、上がったりも下がったりもしません。もう1つはオイダであり、体験的に知るということです。ヘブル語では「ヤーダー」と言って、「知る」とは、夫と妻の親しい関係を言います。つまり、イエス様が自分にとって、救い主であるということを体験することがもっと重要です。この知識は一ぺんでわかることではありません。いろんなことを体験していくうちに、「ああ、イエス様は本当に私の救い主なんだ」と分かるのです。イエス様は弟子たちをご自分のもとに集めました。マルコ3:14-15「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」イエス様は学校のようなクラスルームで弟子たちを訓練しませんでした。弟子たちと寝食を共にしながら、生活を通して教えたのです。知識もさることながら、その生き様を刷り込んでいたのです。「刷り込み」こそ、もっともすぐれた教え方であります。

 私も神学校を卒業したてのころは、神さまがどういうお方なのか定義することができました。「神さまは全知全能で、偏在なるお方、完全なる愛をもっておられる」と言うことができました。しかし、自分が経済的に最も苦しいときに、「神さまは全知全能です」と言えるかどうかです。やはり、それは、苦しいときに神さまから養ってもらった体験があるなら本当にそうなります。私はグーグルで日本の地図、世界の地図を見るのが好きです。今は、「アース」という機能が加わり、まるで飛行機から見たような感じで見えます。エベレスト山もマッターホルンにも行けます。また、チベットの梅里雪山という前人未到の山にも行けます。富士山にも簡単に行けます。しかし、実際に山に登るのは、考えられないくらい大変です。パソコンの上では、雪崩にあうこともありません。もちろん、遭難することもありません。そんなことでは、山に行ったことにならないのです。神さまとの関係も同じです。「神さまは全知全能である」と一言で言えます。しかし、それは頭の知識です。しかし、神さまと実生活で交わりながら、神さまが全知全能であるということがもっと重要です。パウロは経済的な苦しみを乗り越えてこのように告白しています。ピリピ4: 19 「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」私たちも神さまを「私の神は」と紹介できる者となりたいと思います。


2.神さまに喜ばれる信仰

へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神さまは霊ですから、肉眼では見えません。エノクもそうであったと思われます。ところがエノクは、神さまは目には見えなくても、近くにおられることを信じていました。それだけではありません。エノクは神さまに自分の方から近づいて、神さまと親しく交わったのではないかと思います。神さまが閻魔大王のように怖いと思ったなら、だれも近づきません。しかし、エノクは神さまが自分を愛してくださる、恵み深い神さまであることを信じていました。エノクがそういう態度で神さまに近づいたので、神さまも「そうか、エノク」と近づいたのです。ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」とあります。信仰とは、「信じて仰ぐ」と書きます。でも、もっと積極的な意味があります。信じて、こちらから神さまに近づくということです。

きょうもみなさんが、このように神さまに近づいています。私たちが賛美し、礼拝をささげているのは神さまに近づいている証拠です。では、このようなメッセージは何のためにあるのでしょうか?カトリック教会では、このようなメッセージは重要ではありません。それよりも、聖体と言われるパンを食べることです。自分の罪をざんげして、神さまに近づくことが重要とされます。それではなぜ、プロテスタントでは礼拝のとき、長々と教えを垂れるのでしょうか?そして、いつ礼拝しているのでしょうか?話を聞くのが礼拝なのでしょうか?では、なぜ、このようなメッセージをするのか?それは、私も含めてみなさんに、信仰を与えるためです。神さまは目に見えませんので、信仰が必要です。また、私たちは罪を犯していたり、あるいは標準に達していないと、「自分は神さまのところに行けない」と思います。あるときは神さまが近く感じられますが、あるときは神さまが遠くに感じられます。またあるときは、「神さまなんかいないのでは?」と疑いに満ちているときもあるでしょう?どうでしょうか?私たちの信仰いかんによって、神さまが大きくなったり、小さくなったり、あるいは消えてなくなるのでしょうか?そうではありません。私たちはイエス・キリストの贖いによって、完全に神さまに受け入れられているのです。儀式や犠牲も必要でありません。なぜなら、イエス様が血を流して、贖いを完成してくださったからです。イエス様は私たちが必要である律法をすべてまっとうされました。仲介者であるイエス様を通して、ありのままで神さまのところに行けるのです。私が聖書からこのようなことをメッセージするとどうでしょうか?みなさんは「ああ、そうだったのか?」とイエス様のところに行って、重荷をおろして、平安を得ることができます。だから、このメッセージは礼拝の中心ではありません。みなさんが神さまに近づけるように手助けをしているのです。礼拝の中心は、メッセージが終わってからの応答のときであります。自分をささげることが最も重要なのです。もちろん、献げものも重要です。なぜなら、献げものは自分の信仰の現れだからです。

 もう1つ神さまに喜ばれる信仰とは何でしょう?それは、神さまを求めるということです。そして、神さまを求める者には報いてくださいます。この箇所を読むと「神さまに品物を求める」と書いていません。多くの場合、私たちは経済的なもの、健康、問題の解決、いろんな必要を求めるでしょう?でも、ここには「神さまを求める」としか書かれていません。ということは、何かの品物や願い事ではなく、神さまご自身を求めるということです。あるとき、お父さんが長い出張から帰ってきました。いつも、お父さんは息子のために、おもちゃを買ってきてくれます。「お帰り」と子どもが玄関に来て迎えました。お父さんが「いやー、忙しくて。お土産をかう時間がなかった。ごめんよ」と言ったとします。もし、子どもが「なーんだ。せっかく楽しみにしていたのに、お土産がないのか?」とプーンとすねて部屋に入ったならどうでしょう?あるいは、子どもが「お土産なんかよりも、お父さんが無事に家に帰ってくることがすばらしんだ」と抱きついたらどうでしょう?お父さんは嬉しくて、「こんど高価なものを買ってくるぞ」と思うでしょう。私たちは多くの場合、神さまの手を求めて、神さまご自身を求めていない場合があるかもしれません。何が必要を覚えたときだけ祈る。「あれください。これください。」「ああしてください。こうしてください。」もし、そうだとしたなら神さまはさびしいのではないでしょうか?神さまに頼むものがなくても、神さまがともにおられることを感謝したならどうでしょうか?神さまはきっと、喜ぶのではないでしょうか?この世の人たちが拝んでいる偶像の神さまはそういう神さまです。困った時しか、近づきません。しかし、私たちの神さまは人格を持っておられ、関係を重んじてくださいます。用事がなくても、神さまと親しく交わる。神さまご自身を賛美して、感謝する。そのような神さまとの交わりこそが、エノクのように神さまを喜ばせるのではないでしょうか?

 さらには、このところに「報いてくださる」と書いてあります。もう一度、お読みます。「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」確かに、「神を求める者には報いてくださり、それを信じなければならない」と書いてあります。ある人たちは「報い」というと何か意地汚いように思う人がいるかもしれません。「報い」ということばは、日本語ではあまり良い感じがしないのでしょうか?原文を見ますと、神さまは「報いる者」となっています。これは「賃金を払う者、報酬を与える者」という意味があります。イエス様は「タラントのたとえ」や「ミナのたとえ」を用いて、神さまが報いを与える者であると教えておられます。忠実であった者にはそれに応じた報いを与えておられます。逆に不忠実であった者には、持っているものを取り上げ、外の暗闇に追い出すように命じました。ここには、「神さまは、報いてくださる方であることを信じなければならない」と教えています。つまり、報いをどうでも良いと考えるのではなく、報いを期待すべきだということです。では、私たちがこのように、神さまご自身を求め礼拝をささげるとします。神さまはどんな報いを与えてくださるのでしょうか?私は神さまは、手ぶらでは返さないと思います。シェバの女王がソロモンに会いに来たときはどうでしょうか?シェバの女王はバルサム油と非常に多くの金および宝石を携えてきました。そして、帰るときはどうだったでしょう?Ⅰ列王記10:13「ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。」これは、神さまと私たちのことを暗示してはいないでしょうか?シェバの女王が求めたのは、ソロモンの栄華であり、ソロモンの知恵でした。しかし、帰るときはどうだったでしょう?持ってきたものに相応しいものを与えました。それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えました。シェバの女王は遠くから、危険を冒してソロモンに会いに来ました。一緒に、たくさんの貢物を携えてきました。そのようにやって来たシェバの女王をソロモンは手ぶらで帰しませんでした。求めた物は何でも望みのままに与えました。このところに、何かヒントがあるように思います。

 私たちの神さまも同じではないでしょうか?このように神さまを賛美し、感謝をささげます。みことばを聞いて、信仰をもって神さまに近づきます。自分を神さまにささげ、ささげ物もささげます。そして、牧師が祝祷をします。私はこのとき、神さまがご自分がもっておられるものをみなさんに与えてくださっていると信じます。ある人には健康を、ある人には経済的な祝福を、またある人には神さまからの慰めと平安と喜びを、またある人には隠された知恵を、またある人にはビジョンや信仰を与えるでしょう。私たちは神さまから油を塗られ、武具を与えられて、この世に遣わされていくのです。肉体的にも、精神的にも、霊的にもリニューアルされるでしょう。「新しい週も神さまと共に歩むんだ」という決意が与えられるでしょう。それだけではありません。私たちは私たちの遣わされた生活の現場で、神さまと共におられることを体験を通して学ぶのです。「ああ、このときも助けてくれた」「ああ、これも与えられた」「ああ、本当に慰めを受けた」「ああ、問題が解決された」。そういう報いが毎日、毎日、与えられると信じます。エノクのように天に引き上げられてはいません。しかし、天の方がこちらに降りてきて、まるで天国のような祝福の中を歩むことができるのではないでしょうか?私たちがエノクのように天に引き上げられるのもすばらしいことです。でも、残された家族はさびしがるでしょう。それよりも、天の方がこちらに降りてきて、みんなで祝福の中を歩む方がもっとすばらしいです。私たちが残されているのは、神さまの恵みを知らない人に、恵みを知らせるためであります。あなたのまわりの人たちに、神さまを知らせるために、まだ地上に残されているのです。へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」





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2013年3月10日 (日)

苦い根の癒し      ヘブル12:15

 きょうからしばらく、「心の救い」に関して学びたいと思います。きょうは「苦い根の癒し」と題して、メッセージさせていただきます。これからの内容は、おもに「エリヤハウス・祈りのミニストリー」を参考にしたものです。30年くらい前から、心の癒し、内面の癒しが行われるようになりました。その中で最も知られているのが、「エリヤハウス」です。ヘブル12:15をもう一度、お読みいたします。「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。

1.実を見て根をたどる
 神さまは自然界に樹木を与えました。樹木と、私たちの心の状態が似ているところがあります。樹木の中で、リンゴ、みかん、梨、柿など実がなるものがあります。果実は私たちが結ぶ、人格的な実と言えるでしょう。ガラテヤ人への手紙5章には、御霊の実が記されています。クリスチャンには、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と9つの実がみのると約束されています。御霊の実は神さまと人々と自分自身を喜ばせる人格的な実です。リンゴやみかんのように、愛、喜び、平安の御霊の実もおいしいです。しかし、私たちの生活の中に、良くない実がみのっているということはないでしょうか?怒りや恐れ、中毒や依存症という悪い実はないでしょうか?怒りや恐れは、だれしもが持っている感情です。中毒までにはいかないけど、何かにはまっているものが1つや2つはあるのではないでしょうか?しかし、怒りや恐れ、中毒や依存症がひどくなり、健全な生活ができないとしたらどうなるでしょう。怒りが「どかん」と爆発すると、家族や周りの人が損害をうけます。恐れがひどすぎると、当人は学校や会社にも行くことができません。お酒やゲーム、パチンコ、ギャンブル、ポルノなど、依存症や中毒は体ばかりか家庭を壊してしまいます。そういうもので、自分の生活が支配され、悲惨な生活を強いられるとしたら、神さまの栄光を現わすことができません。せっかく、罪と死の法則から解放されたのに、みじめな奴隷生活に逆戻りになってしまいます。
 悪い実を私たちはどう解決しようとするでしょう。一番、手っ取り早い方法は、悪い実をむしり取ることです。「怒ることは良くない」と、怒ることをやめて寛容になろうとします。「恐れは良くない」と、恐れることをやめて、平安な心を持とうとします。しばらくは、寛容で平和な時を過ごすことができるかもしれません。でも、どうでしょう?また、新たに悪い実がなります。取ったはずの、怒りや恐れの実が新たにみのるのです。「あれ?おかしいな?そんなはずじゃなかったのに?」と思います。それで、またその悪い実を取ります。しばらくは安心です。でも、また怒りや恐れ、中毒や依存症の実がみのって自分や周りの人々に害を及ぼします。何が良くないのでしょうか?私は子どものとき、おかずに対して良く文句を言いました。毎回、毎回、シャケの切り身でした。他に納豆と野菜いためがあれば良い方でした。「いつもこれか?」と言うと、母は「食わなくても良い。どうせ腹へっていないんだから」と言い返されました。結婚してからどうなったでしょう?家内は納豆や豆腐をよく出しました。「こんなんじゃ足りないよ」と私と長男が文句を言いました。そのため、こんどは、私が夕食を作るようになりました。うちには子どもが何人もいますが、何と言われたでしょう?「いつもこれか?」と言われました。そのとき私は「食わなくても良い。どうせ腹へっていないんだから」と言い返しました。「なんだか、同じことが繰り返されているなー」と思いました。私の父は酒を飲んでよく暴れて、母や子どもたちに暴力をふるいました。私たち子どもはそういう姿を見て、「おやじのようになるもんか」と心で誓いました。ところがどうでしょう?私の兄弟たちは、みなお酒を飲みます。私も未信者の頃、お酒を飲みました。結婚してから、怒ると家内や子供たちに、手をあげたくなる誘惑にかられました。私の兄弟もおそらく、同じような誘惑と戦っているのではないかと思います。
 本当の解決は何でしょうか?それは「実を見て根をたどる」ということです。今、見えている実を取るだけではダメです。本当の問題は根にあるからです。「実を見て、根をたどっていく」という作業が、エリヤハウスではよく言われます。しかし、これは簡単なことではありません。なぜでしょう?まず、第一は、それを、認めたくないということです。それを否認と言いますが、暗い過去のことを思い出したくないのです。そして、「そんなことはないよ」と否定します。カウンセリングが無力な人は、自分のことを隠して言わない人です。自分も相当困っているはずなのに、「そんなことはない」と言い張ります。特に男性にそういう人が多いです。子どもの頃から「男たるものは泣いてはいけない。人に弱さを見せてはいけない」と教えられてきたからです。ですから、心を簡単には開きません。「自分は大丈夫だ。問題ない」と思っている人にはこういうミニストリーは無理です。だから、どん底に落ちている人ほど、癒されるチャンスがあります。第二は、地面を掘っていくと色々出てきて、お互いにびっくりするということです。祈りのミニストリーで、その人の生い立ちや過去が知らされます。すると、「え?」と驚くようなことがよくあります。地面から腐ったものや、ガラクタが出て来ます。また、根っこも入り組んで、どれが本当の問題か分からないことがあります。相手もそうですが、こっちも泥だらけになります。ですから、根を掘り当てるという作業は、たやすい作業ではありません。愛と根気と主の助けがなければ不可能です。でも、いつまでも蓋をしていたのでは解決がありません。癒しのためには、今、結んでいる悪い実から、根をさぐらなければならないからです。

2.根の問題
 根と深く関係しているのが土壌です。根が土壌から良いものを吸い取っていると、樹木は健康に育ち、良い実がみのります。家庭に笑いがあり、愛と赦しにあふれているのは良い土壌です。そういう温かい家庭で育ったなら、人生においても良い実をたくさん結ぶことでしょう。クリスチャンでなくても、「育ちが良いなー」と思えるような人がたくさんいます。「きっと愛されて育ったんだろうなー」と、接している方も嬉しくなります。でも、世の中には、そういう家庭ばかりがあるわけではありません。励ましを受けるどころか、ことばや行いで虐待されることがよくあります。母親の感情が不安定なために、怒りや恐れをいだくこともあるでしょう。父親が自分を認めてくれないので、「くそっ」と怒ったかもしれません。では、人生の根の部分が形成されるのはいつ頃なのでしょうか?心理学者によると、ゼロ歳から6歳までが、最も重要な時期だと言われます。良い根も悪い根も、最初の6年間で形成されてしまうそうです。6年と言うと、小学校に入る前くらいです。成人になって、子どものときの記憶がほとんどありません。「そんな馬鹿な?」と思うかもしれません。しかし、人格形成の骨組みは、子どもの時だということは心理学者の間でも認められています。幼少のときにダメージを受けると、一生モンだということです。たとえば、松の木が、幼木の時に、傷つけられたらどうでしょう。枝を折ったり、ナイフで切ったとします。松の木が、大木に生長したときに、大きな傷跡として残るでしょう。教会員の中にも保育士の方が何人かいらっしゃいます。0歳児とかで預けられた子供は、愛情不足、間違いないそうです。「三つ子の魂、百までも」ということわざがあります。幼い時に得られなかったものを大人になってから取り返すのは大変なことです。お人形1個で良かったはずが、大人になったら50万円のハンド・バックを買っても満たされないでしょう。

「苦い根」と言っても色々あります。代表的な苦い根を3つだけ取り上げたいと思います。第一は、父と母を敬わなかったことから来るものです。エペソ6:2-3「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」パウロがなぜ、「第一の戒め」と言っているのでしょう。それは、自分を含み、あらゆる人間関係のもとになるからです。私たちは「敬えるような親だったら、敬ってやる」と言うかもしれません。しかし、このみことばは「親であるという存在だけで、敬え」という神の戒めであり、条件は付いていません。残念ながら、完全な親はいません。不幸にも、家を守らない身勝手な父親がいるでしょう。感情だけで叱る母親がいないわけではありません。親が良かれと思って叱ったつもりでも、子どもの方が「ひどい」と怒るかもしれません。とにかく、幼い時に、父や母を怒ってさばいたりすることがあります。そうすると、種をまくことになります。その種が根をはり、芽を出し、花を咲かせ、実をみのらせます。「さばくとさばかれる」という法則があります。そのため、あなたが大人になったとき、困ったことがたくさん起こります。親を否定すると、自分のアイディンテティがそこなわれます。教師や上司など、権威ある者に対して逆らいたい気持ちがあります。結婚すると、伴侶とどうしてもうまくいきません。子どもが生まれても、愛情をもって育てられない。そういう人間関係の問題がおこります。それらは、親を敬わないで、さばいたという苦い根から来る実です。

第二は偽りや誓いです。親から「良い子にしていれば愛される」という偽りを教えられることがよくあります。悪いことをすると「あなたは家の子どもじゃない。どこかへ行って」と言われたらどうするでしょうか?親の言うことを聞かないと、無視され、ご飯をたべさせてもらえないとどうなるでしょう。子どもは生き延びるために、本音をかくし、仮面をかぶって生きることになります。あるいは、お母さんがお父さんの悪口をしょっちゅう言っているとします。子どもはどっちも好きなのに、困ってしまいます。男の子が「口やかましい女とは結婚しない」と誓ったとします。そうすると、口やかましい女性と結婚します。たとえ最初はそうでなくても、その女性は口やかましくなります。また、女の子が「家を空けて、帰ってこない男性とは結婚しない」と誓ったとします。やがて結婚すると、「この男性も家を空けて、帰ってこなくなる」と悪い期待を持ちます。そうすると、男性はその期待にこたえるようになります。

第三は傷ついた霊と家系の罪です。性的虐待、身体的虐待、心理的虐待があった場合などは、深く傷つきます。また、本来ならば親から受け取るべき愛情や育みを十分受けなかったことからも私たちは深く傷つきます。心の中に癒されていない部分があると、多様な問題を引き起こすことになります。エリヤハウスはどちらかと言うと因果応報的な考えが強いかもしれません。でも、「親と同じようなことはしない」「あの親のようにはならない」と誓っても、そうなってしまいます。親から虐待をうけた子どもが大きくなったら、自分の子どもを虐待するようになります。罪のパターンが繰り返されることがよくあるケースです。何故でしょう?それは無意識な世界と霊的な問題が関わっているからです。ひどいことがあったとき、意識は忘れていても、潜在意識の中でしっかり覚えているものです。同じような状況になったとき、むくっとその意識が戻ってきます。そして、親と同じわだちを踏んでしまいます。先祖や親がつけた「わだち」が存在しているということは否むことができません。このままで、終わると暗くなるので、最後は癒しについて語りたいと思います。


3.癒しの5つのステップ
 いろんな心の傷や中毒があっても、癒しのステップは同じです。エリヤハウスでは5つのステップを用います。この癒しは「祈りのミニストリー」と言って、聖霊さまに聞きながら行います。専門家は一対一で行うようです。しかし、エリヤハウスは、4,5人の小グループで行います。まず、だれか一人がミニストリーを受けます。リーダーが質問をしながら進めていきます。また、サブリーダーがいて、何か気付いたときだけ介入します。さらに、何も言わないで祈っている人がいます。何も言わないと言っても、聖霊様から示されたら言ってもかまいません。リーダーは一生懸命「次は何を話そうか」考えています。しかし、サブリーダーと祈っている人は、別の角度から落ち着いて見ることができます。「あれ?何か隠している」「話が別方向に行った」「本当の問題はこれじゃないのか」ということが分かります。リーダーが行き詰ったら、「あなた御自身で、幼いころ何が起こったのか、神さまに聞いてみたらどうでしょうか?」と提案します。その人が祈っていると、神さまが突然、隠れている問題を示してくれます。このようにやると、専門家でなくても、聖霊が助けてくれるので、結構、うまくいきます。それでは、癒しの5つのステップをお話したいと思います。

 第一は認識です。根っこの問題は何かということを気付くということです。ご存じのように、樹木の根というものは1本ではありません。太いのもあれば、細いのもあります。途中で枝別れしたり、からまったりしています。しかし、最も影響を与えている根は何かということを発見するということです。キャシーが小さいとき、お母さんは怒ると、部屋にひきこもりました。ドアに鍵をかけて3、4日も出て来ないでひきこもっていました。小さい頃、「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、私の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちを持ちました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。しかし、自分が結婚してから、絶対にしないということをするようになりました。彼女は母が傷つけたようなやり方で、自分の家族を傷つけました。部屋にとじこもり、お母さんがした同じことをやっていたのです。過去の傷と恨みが残っていました。彼女がお母さんを裁いたため、彼女自身もさばかれることになったのです。彼女の原因は、小さいときに、お母さんをさばいたということです。そのため、自分も同じようになったということです。このように、今、結ばれている実を見て、子どものときに何があったか調べるべきです。

 第二は告白し、罪があったら悔い改めます。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」おそらく、そのとき怒ったり、さばいたりしたのでしょう。しかし、いきなり、罪を悔い改めるということができない場合があります。自分がどんなに辛い思いをしたのか、泣いて訴えても良いのです。そうすれば、超自然的な方法で神さまが出会ってくださいます。神さまの愛と慈しみの手が幼い自分に置かれます。そうすると、自然に罪を告白したくなります。「ああ、あのとき怒って、さばいてしまいました。」「ああ、あのとき、だれも信用しないと誓いました。」「ああ、あの時、お父さんが死んでしまえば良いと考えました。」そして、「どうか、赦してください」と祈ります。一般的なカウンセリングには罪の悔い改めはありません。「悪いのは親だ、周りの人だ、社会だ」と言います。しかし、それでは苦い根を断ち切ることはできません。たとえ親が悪くても、自分が罪深い反応をしたことは事実だからです。
 第三は、赦しです。自分を傷つけた人を赦すということです。これはなかなかできることではありません。十字架にかかられたイエスさまの声を聞きましょう。イエスさまは「私に免じて、どうか赦してやってくれ」と願われるでしょう。赦すということは、訴える証書を手放す、捨てるということです。感情ではなく、「赦します」と決断することです。多くの人は、赦さないために、多くの呪いを身にうけています。相手はとうの昔に忘れているのに、こちらだけが恨みを持って、毒を飲んでいることがあります。また、神さまを赦さない人がいます。「神さま、どうしてあんなことが起きたのですか?ひどいじゃないですか?」と。しかし、神さまは報いの神さまです。ひどいことに見舞われた人には、2倍の報いをもって弁償してくれます。イザヤ書61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」
 第四は、悪いものを十字架につけるということです。イエス様に来ていただいて、苦い根から出た習慣や行動をイエス様の十字架につけていただくように祈ります。さらに、私たちの苦い根がイエス様の十字架に付けられて、死んだものとされることを祈り、また認めます。苦い根というものは結構しぶといです。何べんもトラウマがやってきます。その度ごとに、苦い根を十字架につけ、十字架につけられたことを認めます。そうすると、だんだん弱くなって最後に傷跡しかのこりません。確かに傷跡はありますが、もう痛みがありません。
 第五は、新しい命を注ぐということです。苦い根が十字架につけられたら、その代わり、新しい命と取りかえる必要があります。みことばに基いて、イエス様のところに行って、新しい構造、新しい真理を私たちの心に注いでもらうように願います。エペソ人4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」とあります。そのあと、どうでしょうか?エペソ4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」とあります。「悪いことをやめなさい」だけではなく、「このような良いものを身につけなさい」と命じられています。
 なぜ、エリヤハウスという心の癒しが求められるようになったのでしょう。それは、教会がセルチャーチになるために、「お互いに心を開いて交わりましょう」ということになりました。今まで、遠くから距離をおいていたときは問題ありませんでした。しかし、小グループで親しく交わるとどうでしょうか?まもなく、「え?この人、こういう人だったの?」とショックを覚えます。富士山も遠くから見ていると綺麗です。でも、近くに行くと黒い岩がゴツゴツしています。私たちも、勉強会で学んでいるうちはそうでないかもしれません。しかし、本当に変わるためには、自分の感情や傷を分かち合うことが必要です。でも、それはもろ刃の剣になります。今まで眠っていた、怒りやさばきの心がむくっと目覚めてきます。本音で語り出すと、衝突して、お互いを傷つけあってしまいます。そのために、内面の癒し、エリヤハウスが必要となるのです。私たちは家庭やいろんな人間関係で傷ついてきました。しかし、その傷を直すのも人間関係なのです。私たちは本当の神の家族となるためには、傷つけ合う危険を冒してでも、交わる必要があります。イエスさまはあえて、あなたと合わない人を近くにおいて、根の問題は何かを教えておられます。まだ、同時に、心が癒されて、良い実がさらに多く結ぶように教会の交わりを与えておられます。多くの場合、「苦い根なんか私にはない」と蓋をしてきました。しかし、そのため自分では気づかずに人々を汚してきたかもしれません。どうか、主に苦い根を取り扱っていただき、人格的に甘い実を結ばせていただきましょう。

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2010年7月18日 (日)

信仰によって歩む     ヘブル11:1-6

私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを信じることによって救われました。これは、私たちが救いを得るための基本的な信仰であります。しかし、神さまは「この信仰を用いて生活しなさい」と願っておられます。神さまは信仰を用いてご自分に願い求めるなら、それをかなえようというのがみこころなのであります。ある人たちは、せっかくクリスチャンになったのに、信仰を用いないために、現実に打ち負かされて、貧しく敗北的な生き方をしています。私たちは神さまの子どもであり、御国の世継ぎなのです。ですから、この地上でも神さまの子どもらしく、堂々と胸を張って、豊かな生活を送ることが可能なのです。でも、そのためには信仰が必要です。私たちが信仰によって歩むときに、喜びと感謝に満ちた、神さまが望まれるような生活を送ることができるのです。信仰のDNAシリーズの7回目は「信仰」であります。信仰に関して、4回に渡ってお話したいと思います。

1.信仰とは

 信仰とは何でしょう?信仰の定義を教えている、みことばがヘブル11:1であります。ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1を最も端的に言うならばこうなります。信仰=保証、あるいは信仰=確信であります。私がどこかの銀行の小切手張を持っていたとします。そこに私が100万円と書いて、自分の名前を裏書きしたとします。それをあなたに「どうぞ差し上げます」と言ったとします。ある人はその小切手をいただいても、「嘘だろう!鈴木先生はそんなにお金を持っていないよ。これは単なる紙切れだよ」と銀行に行かなかったらどうでしょう?100万円は永久にその人のものになりません。もう一人の人は、少し疑いましたけど、銀行に行ってその小切手を差し出しました。カウンターの女性は「お待ちどうさまです」と言って、100万円の現金を渡してくれました。ここで言う信仰とは何なのでしょうか?100万円と書いた小切手はお金ではありません。でも、それは単なる紙切れではなく、100万円の価値がある証書です。なぜなら、銀行へ行けば100万円に換えてくれるからです。ここで言う、信仰とは「これはお金に換算できる」と信じて、その小切手を銀行に持っていくことであります。神さまの方法は、実物をあなたに上げる前に、小切手をあなたに手渡すのです。裏書の名前は、ジーザス、イエス・キリストであります。とっても、分かり易い例話ではないでしょうか?でも、問題が残っていないわけではありません。神さまも見えないし、その小切手も目に見えないということです。ですから、信仰とは神さまからの保証、あるいは神さまからの確信があなたの心の中にしっかりと与えられるということです。それは単なる確信ではなく、「かーくーしーん」であります。

 もう1つ別な方法で信仰について説明させていただきます。たとえば、下の食堂であなたがカレーライスを食べていたとします。だれかがあなたに冷たい水をサービスしようとします。あなたはお皿を出しますか、それとも両手を出すでしょうか?まちがいなくコップを出すでしょう。こんどは、だれかがあなたにお金の入った財布をあげようとします。現実にはめったにいませんがたとえばです。そのとき、コップを出すでしょうか?おそらく手を差し出すでしょう。また、ある人がパソコンの大事なファイルをあなたにあげますと言ったとします。そのとき、手を差し出すでしょうか?おそらくUSBスティックを出して、「これに入れてください」と言うでしょう。今、言った、コップ、手、そしてスティックにあたるものが信仰であります。では、信仰とは何でしょう?神さまがあなたに与えようとしているものを受け取るものであります。つまり、信仰という、見えない器、あるいは見えない手がなければ、受け取ることができないということです。

 今から17年前に、この会堂が建てられました。この建物は信仰によって建てられたということは確かです。昔の会堂はとても古くて床があちこちいたんでいました。雨漏りもするし、戸の開け閉めにも問題がありました。そのとき、山崎長老さんがハガイ書のみことばから「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ」と会堂建築を訴えました。そのとき全教会員に「ああ、そうだ」と信仰が与えられました。どんどん献金がささげられました。バブルの頃だったので、銀行に預けたお金にものすごく利息がつきました。しかし、問題が起こりました。山崎長老さんは、「教会は借金をしてはいかん。捧げられる範囲の会堂でなければならない。予算は備品も全部入れて1億円にしょう」と言いました。私は「土地が150坪もあるので、建坪80坪くらいじゃ小さすぎる。120名収容するためには、どうしても130坪でなければならない」と主張し、その大きさの図面を書きました。130坪だと1億3000万円くらいになります。そこで、私は「予約献金をしよう。予約献金を上乗せした額に匹敵した、教会の大きさにしよう」と提案しました。それで、予約献金が3000万円になり、図面どおりのサイズにしようと思いました。ある土曜日の晩、何かの用事で、山崎長老さん宅を訪れました。山崎長老さんは「予約献金なんてあてにならない」と言い出しました。私も若かったので「会堂は人間の予算ではなく、信仰によって建てるものです」と反論しました。議論になり、「私はそれだったら牧師やめます」と言いました。山崎長老さんも「わしも教会にいかん」と言いました。ちょうどそこに、ご長男の和章さんが「まあ、まあ」と間に入ってくれました。山崎長老さんから「わしも教会に行くから、あんたも教会をやめないように」と言われ、そうしました。結論を申しますと、1億4300万円集まって、オルガンをはじめすべての備品を購入することができました。つまり、信仰によってこの会堂が建ったということです。会堂建築のときは、経済的な常識、自分のふところ、神さまからの信仰、これらがごちゃ混ぜになり、ひどい場合は教会が分裂します。しかし、会堂建築は私たちの信仰がテストされるときでもあります。もちろん、会堂だけではありませんが、みなさんの人生において、本当に信仰によって立たなければ、前に進めないという時が必ずあるはずです。

2.信仰がなければ

 ヘブル11:6「 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」神さまは、信仰がある人を喜ばれます。どんな信仰でしょうか?信仰をもって神さまに近づき、求める人であります。「神さまは、求めることに対して、必ず報いてくださるんだ」と信じることです。新約聖書には、イエス様に近づいて、求めた人たちが何人も記されています。長血を患った女性は、イエス様のうしろから近づき、「きっと直る」と口ずさみながら、イエス様の衣の裾に触りました。するとどうでしょう。イエス様から力が流れ込んできて、血の源が癒され、すっかり良くなりました。イエス様は彼女に「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。また、スロ・フェニキアに行ったとき、カナンの女性が「私をあわれんでください。娘がひどく悪霊に取り付かれてします」とお願しました。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくないことです」と断りました。その女性は「主よ、そのとおりです。ただ小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。イエス様は「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように」と言いました。また、盲人の乞食が、「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください」と道端で叫びました。弟子たちは「黙れ」と彼をたしなめました。すると彼はもっと大きな声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びたてました。イエス様は彼を呼び、「私に何をしてほしいのか」と聞かれました。彼は「先生、目が見えるようになることです」と言いました。イエス様が「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われると、すぐさま、彼は見えるようになりました。福音書の物語からも分かりますように、人々はイエス様のもとに信仰をもって近づきました。すると、イエス様は、彼らの必要を満たしてあげたのです。でも、条件があります。彼らは3人とも、そうなる前から、「必ず、そうなるんだと確信していた」ということです。

 ヘブル11章には、すばらしい信仰を持っていた人たちのことが列挙されています。「信仰によって」「信仰によって」と書かれています。神さまは人間的な正しさよりも、信仰のある人を喜ばれるようです。ヤコブは兄と父を騙して、長子の権利を奪い取りました。彼はそのため家を出なければならなくなりました。荒野で一人淋しく、石を枕にして寝ていたとき、主が現れてくださいました。「私はあなたとともにあり、…決してあなたを捨てない」と言いました。ヨセフは兄たちに「私は夢を見た」と自慢した人でした。でも、やがてエジプトの総理大臣になりました。ダビデは8人兄弟の末っ子でした。サムエルが、二代目の王様に油を注ごうとエッサイの家にやってきました。サムエルもお父さんも「主が選ばれるのは、兄たちだろうな」と思いました。「主は、この者たちを選んでいない。他にいないのか?」とサムエルが言いました。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています」。主は「あれ」と言われた、数に足りないダビデを選びました。でも、ダビデは王様になってから、姦淫と殺人を犯してしまいました。でも、神さまは罪を悔い改めたダビデを赦し、王のくらいどころか、ダビデの末に王国を与える約束をしました。サウル王とダビデ王が犯した罪の大きさを考えるならば、ダビデ王の方がはるかに重いでしょう。でも、サウル王には信仰がなかったので、神さまから捨てられてしまいました。新約聖書ではどうでしょうか?ペテロはイエス様の一番弟子でした。でも、彼の性格には幾つかの問題がありました。1つは自己主張が強いこと、2つ目はおっちょこちょいで、しゃべらなくてよいときにしゃべる。3つ目は大胆なわりには、気が小さくて心が安定していませんでした。ですから、大祭司の中庭でイエス様を3度も知らないと言ってしまいました。イエス様を裏切ってしまったのです。イスカリオテ・ユダもイエス様を裏切りました。でも、罪の大きさはさほど変わりありません。ペテロは「どのつら下げて」と言われるかもしれないけど、イエス様のもとに行きました。一方、ユダは「私は罪を犯した」と後悔はしましたが、イエス様のところへは行きませんでした。ペテロには「イエス様はきっと赦してくださる」という信仰があったのです。やっぱり信仰なのです。もちろん、人格も大切です。でも人格はやがて、信じたとおりに変わっていくのです。みなさんも、「今の生活では証ならない。こんな私を見たらみんな躓く」とおもっている方もおられるかもしれません。そうじゃありません。「こんな私をも神さま愛してくださる。」こういう信仰のある人と神さまが共におられるのではないでしょうか。

 私が教会に来だした頃、おどろくべきみことばを発見しました。マタイ11:11-12「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」これは天の御国の価値観を教えている箇所であります。イエス様は、バプテスマのヨハネは人間の中で一番偉大な人であるとおっしゃいました。しかし、彼が天の御国に行ったならばどうでしょうか?天の御国で一番小さい者であっても、ヨハネよりは偉大だということです。なぜでしょう?何故、天の御国にいる人がヨハネよりもすばらしいんでしょうか?それは人格とか行ないとは関係ありません。イエス・キリストを信じているならば、神の義が与えられるからです。それでは、どういう人たちが、この天の御国に真っ先に入るのでしょうか?「激しく攻める者たちがそれを奪い取る」人たちです。激しく攻める者とは、見栄や外聞にこだわらないで、「私も天の御国に入れてくれ!」と求める人たちのことです。では、具体的にどういう人たちだったのでしょうか?イエス様が当時の宗教家たちにこう告げています。マタイ21:31,32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」ハレルヤ!どうぞ、人々をこの世の基準で、「立派だとか立派でない」と、見るのはやめましょう。 信仰をもって神さまの前に近づく人がすばらしいのです。神さまは何よりも、信仰を持っている人を喜ばれるのです。

3.信仰の大切さ

 マルコ9章に、ある父親が、悪霊のためてんかんの症状のような子どもを連れてきました。しかし、弟子たちは悪霊を追い出すことができませんでした。イエス様は「その子を私のところに連れてきなさい」と言われました。イエス様が父親に「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか?」と尋ねました。父親は言いました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」。イエス様は「できるものなら、と言うのか?信じるものにはどんなことでもできるのです」と言われました。すると父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んで言いました。ここで、問題になるのは何でしょう?父親が「もし、おできになるものなら」というふうに願ったことです。英語の聖書では「if You can do」であります。これは、大変、不信仰な求め方であります。でも、私たちもこれに似たような求め方をしているのではないでしょうか?「もし、みこころであるならば、どうかお願します」。これは一見、敬虔そうな感じがしますが、やっぱり不信仰な祈りです。この人は、それが神さまのみこころなのか、みこころでないのか分からない状態です。それだったら、まず、神さまに「本当に、これはみこころでしょうか?」と聞けば良いですね。もし、「これは神さまのみこころだ!」と確信が来たなら、そういう前置きはしないで単純に「お願いします」と求めれば良いのです。「もし、できるならば」と言うのは、謙遜ではなくて、全能なる神さまに失礼であります。では、その父親はどうしたのでしょうか?「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んで言いました。「信じます」と言いながら「不信仰な私を助けて」というのは変です。しかし、ギリシャ語や英語の聖書はちょっとちがいます。「信じます。私の不信仰をお助けください」となっています。これは、「信じます。どうか、私の信仰の足りない部分を助けてください」と言う意味です。

 どうでしょう?この地上にあって、完全な信仰を持つというのは不可能な場合が多いでしょう。いくら祈ってもどこかに疑いや恐れが残っているかもしれません。不信仰を追い払っても、追い払っても、また、戻ってくるかもしれません。でも、どうでしょうか?不足なところに、イエス様の信仰で満たしていただけば良いのでしょうか?そうすれば、疑いや恐れが追い出され、信仰で満たされるのではないでしょうか?マルコ11章にすばらしいみことばがあります。マルコ11:22-23イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。アーメン。日本語の聖書は「神を信じなさい」と書いてあります。しかし、原文は「神の信仰を持て」「神にある、信仰を持て」という意味です。つまり、私たちの信仰すらも、神さまがくださるということです。自分の信仰で間に合いそうもないなら、「おお、主よ、あなたの信仰をください。あなたの信仰で満たしてください」と願えば良いのです。そうすると、心の中から疑いが去って、「神には何でもできるのです」と信じることができるのです。何故、神さまは私たちに信仰を求められるのでしょうか?それは、天の御国とこの世との関係があります。天の御国では神さまのみこころが100%なされます。なぜなら、神のご支配が100%及ぶところだからです。しかし、この世はどうでしょうか?この世は神から離れた人間が、罪と死の中で暮らしているところです。そこには悪魔や悪霊も働いています。神さまは神さまでありますが、かといって、この世に勝手に手を出すことができません。もし、神の子である私たちが、イエス様の名によって求めるならば、神さまはご自身の手を差し伸べることができます。つまり、神さまは私たちの信仰を通して、救いのみわざをなされるのです。ですから、信仰の大小はあまり関係なくて、その信仰が本当かどうか、命があるかないかが問題なのです。だから、イエス様は「もし、からし種のような信仰があったら、この山に、ここからあそこに移れ、といえば移るのです。」と言われました。つまり、からし種のほどでも良いから、生きている本当の信仰があれば良いのです。神さまはその信仰を通して、働いてくださるのです。

 私は子どもたちが小さいころ、自転車の乗り方を教えたことがあります。最初は自転車の後ろをこっちが、がっちり押さえてあげます。子どもはハンドルを握って、ペダルを踏めば良いだけです。最初は、子どもはフラフラしながらも、進んでいきます。でも、スピードが出てくると怖くなります。それで「怖いよー」と言って、ハンドルから手を離します。するとどうでしょう?ハンドルがガクッと曲がってしまって、こっちがいくら押しても、前には進みません。子どもは怖がらないで、ハンドルをただ握っていれば良いのです。そうすると、こっちはちゃんと自転車を押さえて、進ませることができます。信仰とは何でしょう?私は自転車のハンドルを握ることだと思います。私たちが信仰というハンドルをちゃんと握ってさえいれば、神さまが動かしてくださるのです。神さまが後ろから、右だとか、左だとか言ったら、それに合わせれば良いのです。でも、私たちが恐れたり、疑ったりして、両手を離すならば、それでおしまいです。私たちが「ああ、もうできないよー」と、諦めるなら、いくら、神さまでもみわざをなすことができません。この世とはそういうものなのです。この世で、神さまが働かれるためには、私たちの信仰が必要なのです。私たちの信仰を通して、神さまは働くということにご自身を制限なされているのではないかと思います。ヘブル人への手紙11章を見ると、神さまは人々の信仰を通して、働いているのがはっきりと分かります。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」イエス様を信じている人なら、だれにも天国に行く信仰が与えられています。しかし、神さまは、その信仰をこの地上でも用いてもらいたいのです。どうぞ、何ごとでも、信仰を用いて生活しましょう。

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2008年5月25日 (日)

垂直と水平        ヘブル10:19-26

 先週は特別礼拝が入りましたが、本日は、タッチング・ヘブン ・チェンジングライフの第七週目です。このシリーズの最後のメッセ ージになります。

1.神との関係(垂直)

 ギリシャ語で人はアンソロポスと言いまして、「上を見上げる存在 」という意味があります。つまり、人間は他の動物とは違って 、宗教性を持っている、神様を仰ぐ存在だということです。いや 、私は何も信じないし、何も拝まないなどとう人はいません 。人間は、何かを礼拝しなければならないように造られているのです 。英語で礼拝はworshipと言いますが、「価値 」と関係があります。また、礼拝はギリシャ語ではプロスキュネオー であり、「ひざまずく」という意味があります。ということは 、人間は「自分にとってそれは価値があるなー」と思うものにひざま ずくということです。それが、人によってはお金であったり、仕事 、異性、子ども、趣味、名誉、快楽であったりします 。その中には良いものもあるでしょうし、他の人が見たら「え? 」というものもあるでしょう。あなたがひざまずいているものとは一 体何でしょうか?十戒の第一番目はご存知でしょうか?「あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない 。あなたは自分のために、偶像を造ってはならない」です。ヘブル語の聖書には、「あなたは私の顔の前に 、他の神々があってはならない」というふうに書かれています 。神様はあなただけを見たいのです。もし、神の御顔とあなたの間に 、何か他のものがあるならば、それが偶像だということです 。多くの人たちは、「私が何に価値を置き、何を拝もうと勝手じゃな いか」と言うでしょう。しかし、それはあなたを束縛し 、まことの神から引き離してしまう偶像になるでしょう。

私たちがまことの神様を礼拝するならばどういうことが起こるでしょ う。マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい 。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます 。」アーメン。私たちが神様を第一とするときに、すべてのものが理路整 然となって、神様の祝福がそこに臨むます。私たちが個人的に神様に 向かって礼拝をささげるときに、どんなことが起こるのでしょうか ?「あなたが価値の源です。あなたが私を支えてくださる方であり 、お金や人ではありません。また私の力や能力でもありません 。あなたは私を愛し、導いてくださる神です。主よ 、あなたに従います」。そのとき、あなたの中にある問題 、いろんな願いや思いがグルグルと動き回り、所定の位置に収まりま す。そして、あなたの心を神の平安が支配します。あなたは 、神様に問題をゆだねつつ、前向きに生きようと思うようになります 。また、主と交わる時、良心もきよめられます。日本人は良心とは良 いものだと考えていますが、そうではありません。文化や教育の影響 、あるいは汚れや罪責感でかなりゆがんでいます。ヘブル書9章と1 0章には「良心にイエス様の血の注ぎを受けよ」と書かれています。それは実際、どのように行うのでしょうか ?まず、心のしこりとなっている、犯した罪を主の前に告白します 。すると、イエス様の血がきよめて下さいます。「私はすでに赦され ている。神の御前で義とされている」という思いが心のそこから湧き 上がってくるでしょう。さらに、汚れや悪をイエス様の血によってき よめてもらいましょう。あなたの心は、まるで、洗濯機で洗われたよ うになります。神を礼拝するとは、神様と交わることです。すると 、あなたの心は、聖霊によって再生され、リニューアルされるのです 。ハレルヤ!

まず、何よりも、神様との個人的な関係を打ち立てることです。 「私は神様から愛されている。イエス様は私のものだ、救い主 、助け主だ。私は特別な存在なんだ!」これくらい思ってもぜんぜん 、問題でありません。使徒パウロは「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって 、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4 :19)と言いました。「私の神は」と言えるほど、親しい関係だったのです 。私は8人兄弟の7番目で生まれたので、一人分の価値(存在 )が乏しいものでした。セルフイメージがとても低くて 、劣等感のかたまりでした。私は小さいときから「ありがとう 」とか「感謝します」なんて言ったことがありません。また 、人をほめることもありませんでした。むしろ、人の欠点をあげつら い、けなす方が得意でした。なぜなら、自分に劣等感があったからで す。しかし、聖書の神は「わたしがあなたを形造った。わたしがあなたを贖った 。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛してい る」(イザヤ43)とおっしゃってくれました。つまり、神様は「靖尋 、あなたは特別だよ。あなたには価値がある」とおっしゃってくれた のです。英語では、You are special.であります。アメリカでは、女の子から、You are special.と言われたら、もう決まりなんだそうです。 「私は神様から特別に愛されているなー」と時々感じるときがありま す。たとえば、温泉に行ったとき、広い湯船にたった一人でつかって いるときです。結構、そういう時があるんですね。そのとき、 「ああ、神様は私を特別に愛しておられるんだなー」と感じます 。おそらく、神様はあなたにだけ分かるような方法で、 「私はお前を特別に愛しているよ」ということを示してくださるでし ょう。こういう神様との1対1の出会いがあると、人々の間に出て行 くことができます。このことを体験すると、人と比較する必要もない し、比較される必要もありません。オンリユーの人生を生きることが できます。まずは、神様との垂直な関係です。

2.共同体との関係(水平)

 神様との関係が垂直であるならば、人との関係は水平であります 。でも、水平には2種類あります。第一は教会の兄弟姉妹との関係で す。これを共同体との関係と言って良いと思います 。もう1種類の水平は、この世の人々との関係です。言い換えると 、家庭、職場、学校、地域社会の人たちとの関係です。まず 、兄弟姉妹との関係であります。私は25歳のとき初めて 、教会というところに足を運びました。クリスチャンといえば 、私を導いてくれた職場の先輩だけです。週報を見たときに 、まず驚きました。○○兄、○○姉と書いてあります。「ありゃー 、教会というところは親族で構成されている所かな? 」と思いました。礼拝後、「昼食をどうぞ」と誘われました 。二階に上がったら、女の人たちばかりでした。半年くらいは昼食に 残るということはありませんでした。それから水曜日の夜 、祈祷会に先輩と一緒に出かけました。前半の30分 、いろんな人が証をします。その話の内容にまずびっくりしました 。「そんなの神様がやったんじゃないよ。あなたが勝手に思っている だけだよ!この人たちはなんとおめでたい人たちなんだろう 」と思いました。ある晩、神学生と呼ばれる人たちが前で話しました 。「導かれました」「与えられました」「示されました 」と口々に言うのです。「あれー?この人たちは、自分の意思という ものがないのかなー。本当に変な人たちだなー」と思いました 。その中に、現在の家内が含まれていました。そのように、始めは 、私を導いてくれた会社の先輩だけが、私の友であり 、信仰の仲間でした。

 しかし、だんだんと礼拝以外の集会にも参加するようになりました 。青年会、聖歌隊、英語礼拝、祈祷会、早天祈祷会・・ ・気がついてみると教会にいりびたりでした。1年もたたないうちに 、献身し、聖書学院に行きました。神学校で小林和夫先生が 「聖徒の交わり」ということを教えてくれました。 「聖徒とは神様との関係をもっている人のことを言う 。聖徒の交わりとは、神様との関係をもっている人たち同士の交わり であり、それを教会と言う」と教えてくれました。ああ 、教会というのは、「聖徒の交わりなんだ、なるほどなー」 。授業の時は分かったつもりでいましたが、「聖徒の交わり 」って何のことだか分かりませんでした。信仰生活 、5年くらいたった頃からでしょうか?聖書に「互いに 」という言葉がたくさんあることに気がつきました。 「互いに愛し合いなさい」「互いに励まし合い」「互いに戒め 、互いに教え」「互いに重荷を負い合い」・・・たくさんあります 。その頃から、共同体とかセルを求めていたんですね 。座間キリスト教会はどんどん大きくなり、私が去る頃には礼拝が3 40名くらいでした。あれから21年たち、大和キリスト教会になっ て、毎週1200人くらい集まっているようです。悪口ではありませ んが、「会衆」はありますが、「互いに」という本当に親しい関係は あまりありませんでした。私は1995年頃から、セル教会を目指し 、「神の共同体である教会を建てたいなー」と思うようになりました 。

 なぜ、一人と神様との関係だけで不十分なのでしょうか ?神様を信じていれば、それで良いのではないでしょうか? 「めんどうくさいじゃないですか、他の人と一緒になるということは ?」創世記に神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」とおっしゃいました。神様は唯一のはずなのに、御自身の中に、父 、子、聖霊という共同体を持っておられます。「神が愛である 」とおっしゃる場合、御自身の中に、他の人格がいなければ 、愛であるとは言えません。つまり、父、子、聖霊なる神が愛し合っ ておられる。そのかたちに、人を創造されたのです。つまり 、愛の共同体こそが、人間だということです。ベン・ウォン先生が 、聖書はマタイによる福音書からではなく、創世記から始まると何ベ ンも言われます。創世記には教会というものがありませんでしたが 、人々が神様を礼拝しました。では、一体どこで人々は神を礼拝した のでしょうか?それは家庭です。アダムとエバ、ノア、アブラハム 、みんな家族で神様を礼拝しました。それが現代には教会という場所 が、礼拝をささげるところとなりました。教会は共同体よりも 、建物や組織、制度をさす言葉になりました。実は 、新約聖書も現代のような教会をさしているのではありません 。教会はもとの意味は、エクレーシアであり、「神によって召し集め られた民」という意味です。建物や制度の意味はまったくありません 。人々こそが教会だったのです。つまり、イエス様を信じている人の 群れが教会なんです。コロサイ1:27でパウロはこう言っています 。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト 、栄光の望みのことです」。英語の聖書は、among youとなっています。個人の中にキリストがいるだけではありませ ん。あなたとあなたの間にも、キリストがおられるのです 。なぜそれが奥義であり、栄光の望みなのでしょうか ?神様は三位一体の共同体です。父子聖霊と麗しい愛の共同体を持っ ていらっしゃいます。もし、あなたがたが同じ神のかたちを持ってい るならば、そこに神様が住んでくださるということです。もし 、教会がいがみ合い、争い合っているなら、サタンが「ああ 、私のかたちにぴったりだ」とやって来て、住みついてしまうでしょ う。サタンを追い出し、私たちが互いに愛し合うなら 、三位一体の神様が「ああ、私たちと同じかたちだ 」とそこに神様が再び、住んでくださるでしょう。すると 、祝福してくださいと特別に願わなくても、神様ご自身がそこにおい でになられて、祝福してくださるのです。ハレルヤ!

3.この世との関係(水平)

もう1種類の水平は、この世の人々との関係です。家庭、職場 、学校、地域社会の人たちとの関係です。神学的に「この世」は 、神から離れ、神と敵対している世界を意味します。ですから 、教会の歴史の中で、「教会に関することは聖いが 、この世のものは汚れている」という考えが生まれました。つまり 、聖書、礼拝、祈り、伝道、世界宣教など神様に関するものは聖であ る。しかし、ビジネス、政治、教育、医療、芸術など 、この世に関するものは俗的だと分けて考えるようになったのです 。ですから、私たちが奉仕というとき、もっぱら教会という建物の中 でやることが奉仕(ミニストリー)だと言われてきました 。会社に行っているときはお金をかせいでいる時で 、奉仕と関係ないのでしょうか?また、家庭で食事を作ったり 、洗濯をするのは、奉仕をしていないことになるのでしょうか ?ヨハネ3:16は聖書でもっとも有名なみことばの1つです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに 、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びること なく、永遠のいのちを持つためである。」私たちは長い間、「世を愛された」と言うとき、「世とは私であり 、あなたのことですよ」と教えられてきました。確かに 、世というところにあなたの名前を入れて読んでも 、間違いはありません。でも、聖書をそのまま読むと 、神様はイエス様を与えるほどに、「この世界」を愛されたのです 。「この世界」はクリスチャンだけではありません 。神様に背いている人たちもそうです。また、人間だけではなく 、動物、木々や植物、あらゆる被造物も含まれています。つまり 、神様は人間だけを救うだけではなく、この自然界をも救い 、回復したいと願っておられるのです。こう考えると、 「神様が造られたものに、聖いも聖くないもない」ということになり ます。そうです、神様は教会に関することだけではなく、ビジネス 、政治、家庭、教育、医療、科学、芸術にも関心を持っておられると いうことです。そうすると、イエス様が言われた、あなたがたは地の 塩、世の光という意味が良くわかってくるのではないでしょうか?

昨日は「ゲアリー・スキナーのセミナー」があり、本郷台キリスト教 会まで行ってきました。ゲアリー・スキナー師のお父さんはカナダ人 ですが、アフリカの宣教師でした。ゲアリー・スキナーはアフリカで 生まれたので、肌の色は白くてもアフリカ人です。1983年神様か ら召命が与えられ、ウガンダに行きました。当時のウガンダは内戦の 真っ最中で、ゲアリー一家は、弾丸が飛び交う中を暮らしました 。強盗に襲われたのが3度あり、ある時は銃を頭に突きつけられまし た。強盗が3回、引き金を引きましたが、3回とも玉が出ませんでし た。「お前らはクリスチャンだな?」と言って、強盗は去ったそうで す。ホテルの一室から集会をはじめましたが、不思議な導きで 、劇場が手に入りました。14年で5500人の会衆になり 、教会の成長が横ばいの状態になりました。ディボーションしていた とき、神様が「あなたは一体何者だと思っている。あなたは何人の人 を牧会できると思っているんだ。イエス様でさえ12人の弟子しか育 てられなかった。そうだ、10人以上牧会できる人はいない! 」と言われました。そのとき、教会はセルグループを大事にすべきだ と気づかされました。このままだと教会は、私の技能 、私の情熱までしか成長しない。しかし、教会のすべての人の技能 、すべての人の情熱をたばねて用いていけば、どこまでも成長できる と分かりました。いろいろ研究した後、「これからセルチャーチにな る」と告げました。1年後に1500人が教会を離れました 。しかし、現在は1400のセルがあり、2万人の教会になっている そうです。

最後に、いくつか教えられたことを箇条書きで、お分かちしたいと思 います。

①まず、ビジョンから始める。

 神様は大いなるビジョンを与えるために、一人の人を選ばれる 。その次に、チームの人に分かち合う。先生は、10人のリーダーた ちを牧会し、そのリーダーたちがさらに10人を牧会 。さらにその下には10人。励まし、信頼して委ねていく 。その関係は、イエス様と弟子たちの親しい友の関係。牧会は 、特定の人とか肩書きのある人ではなく、だれでも牧会の賜物を与え ておられる。

②町や国を変える人を育てる。

 神様はゲアリー・スキナーに語りました。「単に教会を建て上げるた めではなく、町や国を変える人を育てなさい。日曜日 、教会の建物の中ですることよりも、毎日、地域社会でなされること が一番大事である」。実際、その教会では地域のリーダーシップの学 校をはじめました。政治家、ビジネスマン、教育の指導者を聖書から 訓練しているそうです。教会員の中にも政治家や弁護士が何人もいる そうです。

③地域の問題を自分の(教会の)問題とする。

町を行きめぐり、町の問題をさぐる。次にその問題をクリエィティブ な仕方で解決していく。カンパラには、貧困、ストリートチルドレン 、エイズ、やもめの問題がありました。そのとき、ヤコブ1 :27のみことばが与えられました。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や 、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく 守ることです」。エイズ孤児を施設ではなく、家庭のような共同体で世話をしよう と考えました。その一環として、ワトトのクワイヤーが誕生しました 。孤児ややもめに仕えることは、イエス様に仕えることと同じである 。真の解決は、お金や政府にあるのではなく、神の教会にある 。アフリカではウガンダだけが、エイズ患者の数が減っているそうで す。

④神さまは教会を通して国々を祝福しようと願っておられる。

 神様はアブラハムの子孫、イスラエルを通して国々を祝福しようと考 えられた。しかし、イスラエルは神に従おうとはしなかった 。新約になり、神様は教会を通して国々を祝福しようとお考えになっ ておられる。「御国が来るように」とは、世の終わりのことだけでは ない。今、私たちがイエス様と共に支配することである 。霊的な分野と世俗的な分野とに分けてはいけない 。生活のすべてが神様のもの、生活のすべての領域が霊的なものであ る。富やお金も神様からのプレゼントである。神の御国のために正し く管理するように与えられたもの。

 私は教会がこの世に対してなすべきことは、福音を伝え 、魂の救いを与えることだけだと思っていました。しかし 、霊的な窓からだけではなく、ホーリスティック(全人格的 )な窓から見る必要があります。身体的な窓、社会的な窓 、心理的な窓もあります。まず、何よりも先にすべきことは 、隣人を愛することです。その人が「信じない」と言っても 、見返りを求めない愛で愛して、関係作りをしていくことが大切です 。愛して仕えていく中で、神様が福音を分かち合うチャンスを与えて くださるのです。

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2006年9月24日 (日)

ヘブルの祝福       ヘブル13:18-25 

インドネシアで、8日間のうち、3種類の集会がありました。最初は解放のキャンプです。100名以上がキャンパーで、他は助ける人です。奥には外の教会から来た牧師が観察しています。エディ・レオ師がエネルギッシュに語っていました。集会後にこのように前に出て祈ります。悪霊もたくさん出てきます。一番多かったのは、性的罪によるものでした。日本から来たのは私一人で、ロシアから4人来ていました。最後に洗礼式を行いました。87名が洗礼をうけました。第二の集会は牧師やリーダーのための学びで、800名くらい集まっていました。各島々から20の教会が集まり、アバラブ教会のエッセンスを学びました。牧師が来られるように、飛行機代を半分補助し、その額が100万円だそうです。最後は、1万人入る大会場で、インドネシアを祝福する大会を開きました。3日間連続で、夜は癒しの大集会でした。もてなしも大変すばらしく、VIP待遇でした。お祈りありがとうございました。私自身、多くの変えるべき点を神様から示されましたので、残りの人生を神様と人々のためにささげたいと思います。そして、私と当教会が日本にリバイバルをもたらす突破口となりたいと思います。アーメン。

メッセージにはいります。いよいよヘブル人への手紙の最後になりました。最後ですから、まとめのつもりで、最も大切なことを繰り返して述べたいと思います。

1.永遠の契約

 13:20「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が」。ヘブル人への手紙の中心は、「神との永遠の契約」であります。はじめの契約は、神様とイスラエルの民がシナイ山で契約を結びました。契約には1つだけ条件がありました。それは十戒を中心とする律法を守り行うことでした。民たちは「私たちは守り行います」と約束しました。ところが、彼らはエジプトの神を慕って、偶像礼拝を行いました。安息日も破りました。不平不満、つぶやき、むさぼり、不信仰の罪も犯しました。彼らが罪を犯すたびごとに、動物のいけにえがささげられました。また、年に1回は、イスラエルの民をあがなうために、大祭司が血を携えて至聖所に入りました。残念ながら、イスラエルの民は契約の内を歩むことができませんでした。律法をことごとく破り、神に対する不服従の歴史でした。つまり、はじめの契約には欠点があったのです。それは、神様と人間が直接、契約を交わしたからです。人間は10個の契約を与えられたら、10個、全部破ってしまう愚かな存在です。そこで神様は新しい契約を結ぶことを考えました。神様は、キリストを契約の仲介者に立てて、キリストと契約を結びました。私たちはどこにいたのでしょう。そうです。キリストは教会のかしらであり、私たちはその体です。イエス様が私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。そのとき私たちはキリストのうちにいたのです。キリストが私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。私たちだったら失敗しますが、イエス・キリストは失敗しません。ハレルヤ!

そして、イエス様は契約の違反を支払うために、ご自分の血を流して下さいました。これまでは動物の血が罪の代価として支払われましたが、それには限界がありました。ヘブル9章から10章まで、「ただ一度だけ」「1つの永遠のいけにえ」と繰り返し述べられています。そうです。イエス様は1回で、ご自分の血で全人類の罪をあがない、神と永遠の契約を結ばれたのです。その結果、私たちの心がきよめられ、神様に近づくことができるようになりました。すべての汚れ、罪責感、罪悪感がきよめられ、「アバ、父よ」と近づくことができるのです。また、はじめの契約は石の板に律法を書き記されていました。でも、新しい契約は私たちの心に書き付けられています。つまり、聖霊によって新しく生まれ変わり、聖霊が神の思いと願いを示してくださるということです。教育や道徳は人を変えません。人を本当に変えるのは、キリストの血によるあがないと、聖霊による生まれ変わりです。キリスト教は道徳でも宗教でもなく、人生の変革です。ハレルヤ!こんなすばらしいこと、親も学校の先生も教えてくれませんでした。まさか、こんな古い書物に、こんなことが書いてあるとは!いいえ、新約聖書は古くならない、いつまでも新しい契約です。この契約は私のものであり、あなたのものです。以前はイスラエルの民だけに向けられていましたが、今は、異邦人である私たちのために、契約の招きが向けられているのです。よく、町に出かけると、「クレジット・カード作りませんか」と言われます。あれも1つの契約です。カード作っても、お金がないと、あまり役に立ちません。しかし、私たちはキリストによって、神様と契約を結ぶとたくさんのメリットがあります。罪赦され、天国に行くことができます。私たちもアブラハムのように、天の故郷を目指して歩むのです。ハレルヤ!

でも、みなさん、私たちが救われたのは天国に行くためだけではありません。もし、あなたが契約の内を歩むならば、この地上でも豊かな人生を送ることができるのです。では、契約の内を歩むとはどういうことでしょうか。ヘブル人への手紙はそれを1ことで、「信仰によって」ということばでまとめています。ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。信仰って何でしょうか。クリスチャンはすでに、キリストを信じたので、天国に行くための救いの信仰はあります。しかし、もう1つの信仰は機能的な信仰であり、実際に用いていく信仰です。たとえクリスチャンであっても、信仰を用いないならば、天国は行けたとしても、この地上で貧しく、敗北的な生き方をしてしまうでしょう。私たちは信仰を用いなければなりません。でも、それはどういう意味なのでしょうか。何でも信じて、求めたら良いのでしょうか。私もこれまで、信じて求めたら与えられると積極的・肯定的な信仰を強調してきました。でも、的中率は1割から2割でした。できたら、3割4割当たり前、せめて5割くらいになりたいですね。では、どうしたら求めたものが与えられるようになるのでしょうか。私たちは強い信仰が与えられる前に、契約の内を歩むことを求めなければなりません。契約の内を歩むならば、求めるものが与えられ、天国のような生き方ができるのです。では、契約の内をあゆむとはどういうことでしょうか。みことばを読み、それを瞑想し、それを守り行うということです。みことば、聖書には神のみこころ、神の約束が記されています。それを捕まえて、求めるなら、当然、確立は高くなります。

詩篇1:2,3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。みことばを瞑想し、みことばのとおりに生きるなら、「その人は、何をしても栄えるのです」。ヨシュア1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。ここにも同じことが記されています。みことばを昼も夜も、瞑想し、それを守り行うなら、「あなたのすることなすことが、繁栄し、また栄える」のです。アフリカのナイジェリアの牧師は、20名の小さな教会を牧会していました。教会員には仕事もなく、とても貧しい教会でした。牧師は献金をしてもらうと、アメリカに渡り、ホテルのロビーに座っていました。神様が語りかけました。「お前は、なぜここにいるのですか」。「はい、献金をささげてもらうためです」。「お前は、乞食か。すぐアフリカに帰りなさい」。彼はそのとき、さきほどの詩篇1篇が心に浮かんだそうです。牧師はそれから、聖書を読み、みことばを瞑想し、契約の内を歩むことを始めました。なんと、それから見る見るうちに祝福され、600エーカーのカナンランドを作りました。そこには、6万人を収容できる世界最大の礼拝堂、3000人を収容できるユースの会堂、1000名の食堂、銀行、大学、寮もあります。240台ものバスがあり、ガソリンスタンドまであります。あるとき、貧しい男性が教会にやってきました。牧師は「あなたにあげるお金はありませんよ。神様に何をしたら良いか聖書を読んで聞きなさい。当分の間、食べる分だけは教会で働きなさい」と言いました。しばらくたって、男性は「灯油を販売します」と言いました。「ああ、そうですか。みことばにとどまるなら、何をしても栄えますよ。それをしなさい」。彼は灯油を販売していくに、だんだん栄え、会社の社長になりました。10年後、その牧師に小型ジェット機をプレゼントしたそうです。エディ牧師は、そのジェット機に乗り、驚きのあまり、あごが外れたそうです。私たちも同じです。みことばを瞑想し、契約の内を歩むなら、何をしても栄えるのです。私たちはこの世に住みながらも、天国を歩むことができるのです。

2.供給者なる神

 13:20「イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」神様は偉大な供給者です。父なる神様は、私たちがみこころを行えるように、すべての良きものを備えてくださるのです。神様は救いの計画者でありますが、同時に、すべての必要も満たしてくださるお方です。建物を建てるときには、まず設計図が必要です。その次に、建物をたてる人が必要です。しかし、それだけでは建物は建ちません。何が必要でしょう。建築をするための資材が必要です。神様は設計図と資材を持っていますが、たりないものがあります。それは人が必要なのです。もちろん、神様は全能ですから、人間に頼らなくてもすべてが可能です。しかし、この救いの事業に関しては、人間をお用いになられます。神様はイスラエルの民をエジプトから解放するために、モーセをお用いになられました。40歳のモーセは勝気で自身まんまんだったので使えませんでした。神様はわざわざ、120歳の老人、「私は一体何者でしょう」と言ったモーセを用いたのであります。神様の前に無力になった人は幸いであります。使徒ペテロも、イエス様を「3度も知りません」と、否んだ弟子であります。神様は自信まんまんのペテロを打ち砕く必要がありました。パウロもキリスト者を迫害するほど熱心な信仰者でした。しかし、復活の主と出会ったために、地に倒れ、3日間盲目になりました。パウロはある意味で弱くなりました。主は、弱くなったパウロを用いたのであります。ですから、神様に用いられるためには、まず主の前に、弱くなる必要があります。でも、本当に弱いままではいけません。神様はご自分が用いようとする者を、今度はご自身の知恵と力と必要を与えてくださるお方であります。

 父なる神様のみこころとは何でしょうか。それは、イエス・キリストによってもたらされた救いをすべての人が持つことができることであります。言葉を換えるなら、御国がこの地上にもたらされることです。神の国の建設のために、主はあなたも、私も用いたいのです。建設の計画書はあります。建設の資材もあります。しかし、不足しているのは、人材なのであります。神の国の建設のために、今の仕事をやめろということではありません。あなたは、今の仕事や家事、学業をしながら、働くことができるのです。私たちは奉仕というと、とっても狭い意味に捉えてしまいます。「教会の奉仕」というと、掃除をしたり、椅子を並べたりすることだと考える人がいます。もちろん、それも大事です。ぜひ、お願いします。でも、神の国の建設は、あなたが今いる場所でできるのです。それは、奉仕というよりも、ミニストリーと言った方がよいかもしれません。ミニストリーとは神のわざを行うことです。イエス様はこの地上に来られてどんなミニストリーをなされたでしょうか。ルカ4章にこう書いてあります。ルカ4:18,19「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」。アーメン。ここには明らかに5つのミニストリーがあげられています。第一は福音宣教、福音を伝えることです。第二は悪霊からの解放、第三は肉体の病の癒し、第四はインナーヒーリング、心の癒し、そして第五は主の恵みを宣言することです。これは、人々を祝福する権威と言っても良いかもしれません。私たちクリスチャンは王なる祭司ですから、私たちの周りの人々を祝福する権能が与えられているのです。ハレルヤ!

 教会を大きくしようと考えると、何か閉塞感を覚えます。そうではありません。ジム・ヨストという、パプアニューギニアの宣教師は「教会とは4つの壁に囲まれたところではない」と言いました。彼に言わせると、教会は道端にも、公園にも、そしてバーの中にだってできるといいました。みなさん、きょうはここにたまたま私たちは集まっています。しかし、ここは亀有教会という建物にみなさんが集まっているだけなんです。教会とはあなたがた一人ひとりなんであります。教会とは固定した場所にあるのではありません。これは建物です。本当の教会は、キリストのからだであり、みなさん一人ひとりが教会なんです。さしずめ、みなさんかたつむりを連想したら良いでしょう。かたつむりは、おうちを背負っています。私たちも教会を背負って、いるのです。あなたは教会を背負ったままで、職場や学校、家庭に遣わされているのです。だから、職場にも、学校にも、家庭にも、公園にも、マクドナルドにも、教会はできるのです。なぜなら、あなたが教会だからです。もう、「日曜日は教会へ」というような言い方はやめましょう。ここは教会という建物です。日曜日だけが教会ではありません。月曜日から土曜日までも、教会です。なぜなら、あなたが教会だからです。あなたがいくところどこにも教会ができるのです。ハレルヤ!こういうふうに考えると、神さまのみこころである、神の国の建設がキューピッチに進みます。私たちたちは「神の奉仕とは、牧師先生や一部の献身者がするものだ」と勘違いしてきました。そうではありません。みんなが、奉仕者であり、ミニストリーをするミニスターなのです。もうすぐ安部内閣が誕生しますが、私たちこそ神からのミニスター、大臣です。

 神様は私たちがミニストリーをすることができるように、資源を与えてくださいます。ただで働けということではありません。マタイ25章には、それぞれにタラントが与えられると書いてあります。ある人には5タラント、ある人には2タラント、またある人には1タラントです。タラントは元来、金の重さを表す単位でした。1タラントをお金に換算すると6000日分の給料です。今でしたら、6000万円くらいです。1タラント?タランですか、ちょっとした商売だったらできそうですね。しかし、このタラントは、霊的賜物でもあります。Ⅰコリント12章には9つの力の賜物が列挙されています。知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。私がインドネシアに行ったら、セル集会で、みんなこの賜物を出し合っています。みんなで癒しの祈りをすると、聖霊様が働いて、癒しのわざが起こります。足の不自由な人が歩き、癌が癒され、死んだ赤ちゃんが生き返ります。私が行ったときには、心臓停止して紫色になっていた赤ちゃんが生き返った、その赤ちゃんの家族がステージに立ちました。神様は、このような霊的賜物を与えて、用いてくださいます。私たちはただ、恵みの管として、チャンネルとして、自分を提供すれば良いのです。もう1つルカ19章には、ミナのたとえがあります。ミナは約100日分の給料ですから、今なら100万円です。タラントと比べると60分の1です。さらにタラントと違い、すべての人に同じ1ミナが与えられています。みんなに、1ミナずつ与えられている。ミナとは何でしょう。私は賜物というよりも、クリスチャンという存在そのものではないかと思います。何ができるか、できないかではなく、クリスチャンとはこういうものである。クリスチャンが持っている性質が世の人々に影響を与えるということです。クリスチャンは世の光です。人々に神の真理や知恵を示すことができます。また、クリスチャンは地の塩です。塩はまわりに溶け込み、食材の味を引き立たせることができます。あなたは周りの人々を生かす存在だということです。また、塩は腐敗をとどめる役目をします。罪の世界において、正直で善を行う存在はなんと貴重でしょうか。また、クリスチャンは1マイル行けと言われれば、2マイル喜んで行きます。敵を愛し、敵のために祈ります。受けるのではなく与えることを喜びます。こういう人は世の中にはいません。私たちクリスチャンは、すでに神の子ですから、もう、存在そのものが違うのです。どうか、罪を赦されたただの人だと思わないでください。私たちはキリストを信じたときに、新しく生まれ変わり、まったく別の存在になったのです。タラントもそれぞれにありますが、最低でも1ミナはあります。みんな持っています。また、私たちはこの世で生きるために、たくさんのものが必要です。お金や物、健康、協力者、力、能力、知恵や知識、愛、勇気、さまざまな資源が必要です。でも、父なる神様は私たちの供給者です。父なる神様は私たちが、良いわざを行い、神の国を拡大するために必要なものを喜んで与えてくださいます。13:20,21を新共同訳で紹介して、メッセージを終えたいと思います。こちらの方が良い訳でした。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心にかなうことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、みこころを行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

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2006年9月 3日 (日)

宿営の外に出て      ヘブル13:10-17

 9月に入って朝夕に秋の気配を感じます。私は今週末から、常夏の国、インドネシヤに行ってまいります。1週間で4つのセミナーが開かれます。教会の勢いを祝福する、私生活の勢いを祝福する、街と経済の勢いを祝福する、そして新しい世代の勢いを祝福するという盛りだくさんのプログラムになっています。日本の教会は勢いも推進力もありませんので、うってつけかなーと思います。向こうでのセミナーと滞在費は安いのですが、飛行機代が高い。原油の高騰がこちらにも響いています。きっと元を取ってきますので、旅の安全のためにどうかお祈りください。ヘブル人への手紙はいよいよ最終ですが、ここには3つの勧めが記されています。簡単に言いますと、「旧約時代の儀式は終わったけれど、新しい時代の私たちにはこういうことがありますよ」ということなのです。ヘブル人への手紙はだれが書いたか分かりませんが、旧約聖書と新約の私たちをつなぐ、とても大切な役割を果しています。

1.宿営の外に出て

10節に「私たちには1つの祭壇がある」と書かれていますが、そこにささげられるものは、動物ではなく、尊いイエス・キリストであります。ここで、強調されていることは、イエス・キリストの体が門の外、つまりエルサレムの市外で苦しみを受けたということです。だから、私たちの祭壇はエルサレムの神殿内にはもはやないということです。エルサレムに無ければどこにあるのでしょうか。それは、天のまことの聖所にあるということです。ヘブルの記者は、地上の聖所が天の聖所の模型であり、私たちが近づくのは、天の聖所であることを明らかにしています。ですから、13、14節でこういわれています。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」一般的に、ヘブル書が書かれたのは、紀元70年のエルサレム崩壊前ではないかと言われています。紀元70年には、ローマによって、エルサレムが陥落し、ユダヤ人たちは世界中に散らされます。しかし、キリスト教徒たちは地上のエルサレムには未練はありませんでした。彼らは散らされて、迫害されながらも福音を宣べ伝え、天のエルサレムを目指して行ったのであります。ですから、私たちも、地上のエルサレムにはこだわらないで、永遠の都を目指そうということであります。

ところで、ヘブル13:12「宿営の外に出て」は、近代宣教の父、ウィリアム・ケアリーが引用した言葉であります。宗教改革時代には、プロテスタント教会は大した伝道活動を行っていませんでした。もう、自分のことでいっぱい、いっぱいだったからです。一方、ローマカトリックは、イエズス会や他の会は、アジアや南北のアメリカ大陸に宣教に出かけました。しかし、1792年、靴を修理しながら伝道していたウィリアム・ケアリーが『異教徒を回心させるために資産を用いるキリスト者の義務について』という本を出版しました。ケアリーはその中で「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」というキリストの大命令は今もすべてのキリスト者に適用されていると論じました。そして、同じ年に、ノッキンガムの年会で「神のために大いなることを期待せよ!そして、神のために大いなることを企てよ」と説教しました。彼がインドへ行くと言い出したとき、「果たして、未開人が救いに選ばれているのだろうか?」と、疑問視する者さえいました。そのときに、彼は「キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出る」と言ったのです。彼にとって、宿営の外とは、イギリスから出ることだったわけです。翌1793年、ケアリーはインドへ出発しました。しかし、インド宣教はたやすいものではありませんでした。なんと、7年間も宣教を続けていたにも関わらず、誰として救われていませんでした。さらには、子どもが死に、妻はその後、狂い死にしてしまいます。また、彼が聖書の印刷の為に建てた印刷所が全焼。しかし、彼は、それを神様が更に大きな計画を与えてくださっているんだと考え、その悲劇をも感謝しました。まもなく、ロンドン宣教協会やスコットランド伝道会が立ち上がり、本格的に宣教師を送り出すようになりました。

私たちにとって、宿営地とは気持ちの良い教会であります。教会の中にいれば、迫害を受けたり、馬鹿にされることはありません。霊的なことをストレートに話すことができて、交わりも楽しいです。しかし、一歩、外に出ると、日本は異教徒の世界です。クリスチャンは人口の1%未満ですから、肩身の狭い思いをします。教会堂では「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言えても、家庭や職場では、とてもいえません。イギリスの教会が自分のことでいっぱい、いっぱいであったように、私たちも自分の生活でいっぱい、いっぱいです。もし、クリスチャンが伝道を忘れ、自己充足的に生きるならば、霊的ないのちを失います。宣教とか伝道は、ゆとりがあったらするというものではなくて、信仰生活と同時進行のものであります。私たちには2つの使命があります。1つはキリストに似た者となるということです。そしてもう1つは、イエス様が与えた宣教命令を果すということです。この命令は、マタイ28章とマルコ16章に記されています。「出て行って、福音を宣べ伝え、人々をキリストの弟子にする」ということです。出て行くところは、必ずしも海外ということではありません。職場、学校、家庭、地域社会が、あなたが行く宣教地です。パウロはⅡコリントで、「私たちはキリストの使節である」と言いました。

最近、「内面の癒しと解放」ということが強調されてきました。私もこれに関してはとても興味があり、皆さんにも紹介して来ました。私たちが癒され解放されるということはとても重要なことであります。しかし、もし自分たちの内側だけを見ていたら、宣教命令を果すことはできません。皆さん、「内面の癒しと解放」をクリスチャンのゴールにしてはいけません。これは天国まで続けなければならないものですが、同時に、私たちは未信者の魂が救われるように、外に向って働きかける必要もあります。世の中の多くの人たちは、精神的に病んでいるか、ギリギリ何とか社会生活をしています。そのときに、「内面の癒しと解放」と言う切り口が大変伝道のために役に立つということも確かです。ですから、「内面の癒しと解放」を自分のためにも使うし、同時に、周りにいる未信者の方のためにも用いていくべきです。矛盾しているようですが、内面ばかり見ていると、癒しと解放がなされません。しかし、外に目を向けると、自分の癒しと解放も進んで行くということも確かです。イエス様は「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言われました。つまり、教会が自己充足的に生きるならば命を失い、キリストのために命を失うなら生きるということです。シンガポールのコンヒーがこの間の九州阿蘇聖会で「教会は人々を救いに導くために存在する」と強調しました。彼の牧会する教会は1989年から20人でスタートし、現在22,000人の教会へと成長しています。私たちの教会もセルも人々を救いに導くために存在していることを忘れてはならないと思います。もし、内側だけにエネルギーを向け過ぎますと、かえって病気になります。私たちは恥を受けることを非常に恐れます。でも、キリストのゆえに受ける恥は弟子として勲章ものであります。伝道すればするほど、恥を受けます。でも、恥と正比例して、人々がキリストに導かれるでしょう。1つも恥を受けないで、キリストを宣べ伝えるなどと言うのは、この世ではありえません。どうぞ、辱めを恐れないで、救霊のために宿営の外に出て行きましょう。きっと、イエス様が力強く働いてくださることに驚くことでしょう。

2.賛美のいけにえ

旧約時代、動物や地の産物を神様の前にささげました。しかし、イエス・キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げられたので、いけにえは不要になりました。ところがどうでしょうか。15、16節「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」。罪のいけにえはキリストによって完成されたので、もうささげる必要はありません。でも、これからは賛美のいけにえつまり、御名をたたえる唇の果実を絶えず神様にささげなければならないということです。私たちはこの聖日礼拝において、約30分間、賛美を致します。これは、礼拝の準備とか説教の前菜ではありません。私たちの賛美と感謝は、神様に対する「いけにえ」だったんです。「いけねー、そうだったのか?」と気づいた方もおられるかもしれません。アフリカか東南アジアだったか忘れましたが、土着の人たちは以前、偶像の神様に動物とか果物をささげました。彼らは福音を聞いて、クリスチャンになりました。その後、彼らは神様の前に何をささげたのでしょうか。彼らは1週間一生懸命練習した賛美と踊りを主の前にささげました。みんな、とても真剣な顔つきで、主の前で、力一杯、賛美し踊りました。聖書に「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くしてあなたの主を愛せよ」とあります。私たちもいい加減に、賛美をささげてはいけません。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして」賛美をささげる必要があります。

 日本では夏祭や秋祭があります。この地域でもそろそろ御神輿を担ぐのではないでしょうか。彼らは偶像の神様に力いっぱい踊り、力いっぱい山車を引っ張り、力いっぱい何かを奉納します。大阪ではだんじり、長野では御柱などと言うのもあります。秋田では梵天というのも競って奉納します。彼らは半端じゃありません。本当に力の限り踊り、命をかけて奉納します。その点、クリスチャンは上品過ぎるとは思いませんか。静かなオルガンの音に合わせ、譜面どおりに歌おうとします。譜面どおり歌うことは悪いことではありません。でも、賛美が神様にささげるささげものだと言うことを理解をしているかどうかです。礼拝は祭典であり、セレモニーではありません。だから、力一杯、喜びにあふれ、賛美をささげるべきであります。ビデオでみたことがありますが、アフリカの教会では、踊りが賛美に付随しています。賛美と踊りを分離することは不可能なようです。あのダビデ王も、神の箱の前に、賛美して踊りました。あんまり踊り狂ったので、半ケツ状態ではなかったかと思います。ダビデはそれだけ、神様を愛したのであります。

 私たちが力一杯、神様を賛美したらどうなるでしょうか。ネヘミヤ8:10「あなた方の力を主が喜ばれるからである」。別訳では「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」とあります。主を賛美することと、力とが関係しています。これは、私たちが主を喜び、賛美すると、悪魔が敗走するということです。悪魔は賛美を非常に嫌がります。悪魔が好むものは、悲しみと怒りとつぶやきです。でも、私たちの唇を、感謝と賛美のために使うならどうでしょうか。悪魔が逃げ去り、代わりに主の祝福が臨みます。私たちは特別な理由が無いのに、鬱的になったり、失望落胆することがあります。はっきりいってそれは悪霊です。悪霊が耳元で否定的なことを囁き、あなたはそれを聞いて、気が沈みます。だまされてはいけません。私たちは主を賛美することによって、敵の罠と束縛から解放されます。「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」とは、まさしくそういう意味なのです。できれば、これを週一回、公の礼拝でするのではなく、個人のディボーション、セル集会でもすべきであります。私も最近、集会の前に賛美をするのを怠っていました。だから、主の油注ぎがないんですね。つまらない集会になってしまいます。賛美は公の集会だけではなく、小さな集まりでも必要です。賛美は礼拝であり、賛美は神様へのささげものです。このことを実行していくならば、悪しき者の罠と束縛から解放され、主の大路を歩いていくことができるでしょう。アーメン。

3.指導者たちに従え

 17節「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」少し前の、7節にもこう書いてありました。「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」旧約時代は祭司や預言者、あるいは王様が指導者でした。では、新約時代はどのようになったのでしょうか。マルチン・ルターが、クリスチャンは万人祭司であると唱えましたが、指導者はいないのでしょうか。私は指導者とは、上とか下、偉いとか偉くないということではなく、機能的なものであると信じます。目が顔の上にあるのは、偉いからではなく、高い所にあると良く見えるからです。足が体の下にあるのは、劣っているからではなく、体を支えるためであります。私たちはこの世の社会の考え方を捨てなければなりません。指導者は、神様が教会のために与えた賜物だということです。ローマ12:8「勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでしなさい」と書いてあります。また、エペソ4:11,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」。

 新約時代はイエス・キリストが教会のかしらであり、イエス・キリストが偉いのであります。でも、イエス様は体なる教会が、健康に成長し、また機能するように、霊的な指導者を立てました。でも、ある人たちは、「教会ではすべての人が平等だから、だれからも指図は受けない」と言います。しかし、それは間違いです。たとえば、私は人間的には指導者ではありません。生まれてこの方、自分がそういう能力があると考えたこともありません。でも、神様は、不思議なことに聖書を用いて牧会するように召してくださいました。もちろん、人格的にかけたところがあるかもしれません。でも、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。気持ち良いですね。でも、ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と書いてあります。イエス様の時代、律法学者とかパリサイ人たちは、ひどい指導者たちでした。人に無理な重荷を負わせ、自分は指一本触れようとしませんでした。イエス様は「忌まわしいものだ」とさばかれました。ですから、指導者は自分の教えと自分自身にいつも気をつけていなければなりません。でも、みなさん、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。もう、何べんも言ったかもしれませんが。なぜなら、「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」大牧者はイエス様ですが、牧師は中牧者です。群の見張りをしています。群を離れた羊は危険ですね。でも、「私は大丈夫、ほっといてくれ」と羊は言うのです。群、つまり教会から離れると、霊性がものすごく下がります。しまいには、世の中の人と全く変わらなくなります。一番怖いのは、イエス様が世の終わり、この地上に来られたとき、分からないことです。なぜなら、霊的に眠っているからです。「だから、目をさましていなさい」とイエス様もパウロも警告しています。どうぞ、「信仰があぶないなー」「信仰が弱っているなー」という時こそ、教会を離れず、指導者の声に耳を傾けましょう。

 きょうは、ヘブル書から3つのポイントでメッセージいたしました。日本の教会が、クリスチャンが何故、元気がないのでしょう。リバイバルが来たら、教会は何をやっても栄えるでしょう。でも、「今の日本は、何をやってもうまくいかない」と働き人は、みな失望落胆気味です。でも、今日、語られた3つのポイントは、低迷したキリスト教会から脱却する道です。復習しますと、第一は、宿営の外に出るということでした。これは、辱めを受けることを恐れないで、出て行くという伝道であります。短く言うと、油注がれた伝道です。上から油が注がれているなら、ちょっとやそっと、イヤな思いをしても関係ありません。力強く、初代教会のように福音を証することができます。第二は、さんびのいけにえです。当教会はこれに目覚めて、かなり力を入れています。が、もっと会衆が力を尽くして主を愛する「さんびのいけにえ」が必要です。賛美は私たちの力であります。ですから、これを油注がれた賛美と言いたい。どうぞ、みんなで油注がれた賛美を主にささげましょう。そして、第三は、指導に従うです。これは指導者と従う人、両方の問題です。日本は共依存の構造で、指導者に盲目的に従う所があります。それではいけません。従う人は、自分で考えながら従う、かしらなるキリストに聞きながら従うことが大切です。もちろん、指導する者もかしらなるキリストに聞き従う必要があります。ですから、これは油注がれた指導と言えるでしょう。旧約時代は、祭司と預言者、そして王様に油が注がれました。しかし、新約においては聖徒たちに聖霊による油が注がれると約束されています。しかし、この油注ぎは、この世に押し流されているクリスチャンは受けられません。主イエス・キリストに全面的に従い、主の栄光を現そうとする人に与えられます。私たちは油注ぎが必要です。油注ぎこそ、低迷したキリスト教会を勢いづける力です。油注がれた伝道、油注がれたさんび、油注がれた指導を求めていきましょう。

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