2006年9月24日 (日)

ヘブルの祝福       ヘブル13:18-25 

インドネシアで、8日間のうち、3種類の集会がありました。最初は解放のキャンプです。100名以上がキャンパーで、他は助ける人です。奥には外の教会から来た牧師が観察しています。エディ・レオ師がエネルギッシュに語っていました。集会後にこのように前に出て祈ります。悪霊もたくさん出てきます。一番多かったのは、性的罪によるものでした。日本から来たのは私一人で、ロシアから4人来ていました。最後に洗礼式を行いました。87名が洗礼をうけました。第二の集会は牧師やリーダーのための学びで、800名くらい集まっていました。各島々から20の教会が集まり、アバラブ教会のエッセンスを学びました。牧師が来られるように、飛行機代を半分補助し、その額が100万円だそうです。最後は、1万人入る大会場で、インドネシアを祝福する大会を開きました。3日間連続で、夜は癒しの大集会でした。もてなしも大変すばらしく、VIP待遇でした。お祈りありがとうございました。私自身、多くの変えるべき点を神様から示されましたので、残りの人生を神様と人々のためにささげたいと思います。そして、私と当教会が日本にリバイバルをもたらす突破口となりたいと思います。アーメン。

メッセージにはいります。いよいよヘブル人への手紙の最後になりました。最後ですから、まとめのつもりで、最も大切なことを繰り返して述べたいと思います。

1.永遠の契約

 13:20「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が」。ヘブル人への手紙の中心は、「神との永遠の契約」であります。はじめの契約は、神様とイスラエルの民がシナイ山で契約を結びました。契約には1つだけ条件がありました。それは十戒を中心とする律法を守り行うことでした。民たちは「私たちは守り行います」と約束しました。ところが、彼らはエジプトの神を慕って、偶像礼拝を行いました。安息日も破りました。不平不満、つぶやき、むさぼり、不信仰の罪も犯しました。彼らが罪を犯すたびごとに、動物のいけにえがささげられました。また、年に1回は、イスラエルの民をあがなうために、大祭司が血を携えて至聖所に入りました。残念ながら、イスラエルの民は契約の内を歩むことができませんでした。律法をことごとく破り、神に対する不服従の歴史でした。つまり、はじめの契約には欠点があったのです。それは、神様と人間が直接、契約を交わしたからです。人間は10個の契約を与えられたら、10個、全部破ってしまう愚かな存在です。そこで神様は新しい契約を結ぶことを考えました。神様は、キリストを契約の仲介者に立てて、キリストと契約を結びました。私たちはどこにいたのでしょう。そうです。キリストは教会のかしらであり、私たちはその体です。イエス様が私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。そのとき私たちはキリストのうちにいたのです。キリストが私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。私たちだったら失敗しますが、イエス・キリストは失敗しません。ハレルヤ!

そして、イエス様は契約の違反を支払うために、ご自分の血を流して下さいました。これまでは動物の血が罪の代価として支払われましたが、それには限界がありました。ヘブル9章から10章まで、「ただ一度だけ」「1つの永遠のいけにえ」と繰り返し述べられています。そうです。イエス様は1回で、ご自分の血で全人類の罪をあがない、神と永遠の契約を結ばれたのです。その結果、私たちの心がきよめられ、神様に近づくことができるようになりました。すべての汚れ、罪責感、罪悪感がきよめられ、「アバ、父よ」と近づくことができるのです。また、はじめの契約は石の板に律法を書き記されていました。でも、新しい契約は私たちの心に書き付けられています。つまり、聖霊によって新しく生まれ変わり、聖霊が神の思いと願いを示してくださるということです。教育や道徳は人を変えません。人を本当に変えるのは、キリストの血によるあがないと、聖霊による生まれ変わりです。キリスト教は道徳でも宗教でもなく、人生の変革です。ハレルヤ!こんなすばらしいこと、親も学校の先生も教えてくれませんでした。まさか、こんな古い書物に、こんなことが書いてあるとは!いいえ、新約聖書は古くならない、いつまでも新しい契約です。この契約は私のものであり、あなたのものです。以前はイスラエルの民だけに向けられていましたが、今は、異邦人である私たちのために、契約の招きが向けられているのです。よく、町に出かけると、「クレジット・カード作りませんか」と言われます。あれも1つの契約です。カード作っても、お金がないと、あまり役に立ちません。しかし、私たちはキリストによって、神様と契約を結ぶとたくさんのメリットがあります。罪赦され、天国に行くことができます。私たちもアブラハムのように、天の故郷を目指して歩むのです。ハレルヤ!

でも、みなさん、私たちが救われたのは天国に行くためだけではありません。もし、あなたが契約の内を歩むならば、この地上でも豊かな人生を送ることができるのです。では、契約の内を歩むとはどういうことでしょうか。ヘブル人への手紙はそれを1ことで、「信仰によって」ということばでまとめています。ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。信仰って何でしょうか。クリスチャンはすでに、キリストを信じたので、天国に行くための救いの信仰はあります。しかし、もう1つの信仰は機能的な信仰であり、実際に用いていく信仰です。たとえクリスチャンであっても、信仰を用いないならば、天国は行けたとしても、この地上で貧しく、敗北的な生き方をしてしまうでしょう。私たちは信仰を用いなければなりません。でも、それはどういう意味なのでしょうか。何でも信じて、求めたら良いのでしょうか。私もこれまで、信じて求めたら与えられると積極的・肯定的な信仰を強調してきました。でも、的中率は1割から2割でした。できたら、3割4割当たり前、せめて5割くらいになりたいですね。では、どうしたら求めたものが与えられるようになるのでしょうか。私たちは強い信仰が与えられる前に、契約の内を歩むことを求めなければなりません。契約の内を歩むならば、求めるものが与えられ、天国のような生き方ができるのです。では、契約の内をあゆむとはどういうことでしょうか。みことばを読み、それを瞑想し、それを守り行うということです。みことば、聖書には神のみこころ、神の約束が記されています。それを捕まえて、求めるなら、当然、確立は高くなります。

詩篇1:2,3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。みことばを瞑想し、みことばのとおりに生きるなら、「その人は、何をしても栄えるのです」。ヨシュア1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。ここにも同じことが記されています。みことばを昼も夜も、瞑想し、それを守り行うなら、「あなたのすることなすことが、繁栄し、また栄える」のです。アフリカのナイジェリアの牧師は、20名の小さな教会を牧会していました。教会員には仕事もなく、とても貧しい教会でした。牧師は献金をしてもらうと、アメリカに渡り、ホテルのロビーに座っていました。神様が語りかけました。「お前は、なぜここにいるのですか」。「はい、献金をささげてもらうためです」。「お前は、乞食か。すぐアフリカに帰りなさい」。彼はそのとき、さきほどの詩篇1篇が心に浮かんだそうです。牧師はそれから、聖書を読み、みことばを瞑想し、契約の内を歩むことを始めました。なんと、それから見る見るうちに祝福され、600エーカーのカナンランドを作りました。そこには、6万人を収容できる世界最大の礼拝堂、3000人を収容できるユースの会堂、1000名の食堂、銀行、大学、寮もあります。240台ものバスがあり、ガソリンスタンドまであります。あるとき、貧しい男性が教会にやってきました。牧師は「あなたにあげるお金はありませんよ。神様に何をしたら良いか聖書を読んで聞きなさい。当分の間、食べる分だけは教会で働きなさい」と言いました。しばらくたって、男性は「灯油を販売します」と言いました。「ああ、そうですか。みことばにとどまるなら、何をしても栄えますよ。それをしなさい」。彼は灯油を販売していくに、だんだん栄え、会社の社長になりました。10年後、その牧師に小型ジェット機をプレゼントしたそうです。エディ牧師は、そのジェット機に乗り、驚きのあまり、あごが外れたそうです。私たちも同じです。みことばを瞑想し、契約の内を歩むなら、何をしても栄えるのです。私たちはこの世に住みながらも、天国を歩むことができるのです。

2.供給者なる神

 13:20「イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」神様は偉大な供給者です。父なる神様は、私たちがみこころを行えるように、すべての良きものを備えてくださるのです。神様は救いの計画者でありますが、同時に、すべての必要も満たしてくださるお方です。建物を建てるときには、まず設計図が必要です。その次に、建物をたてる人が必要です。しかし、それだけでは建物は建ちません。何が必要でしょう。建築をするための資材が必要です。神様は設計図と資材を持っていますが、たりないものがあります。それは人が必要なのです。もちろん、神様は全能ですから、人間に頼らなくてもすべてが可能です。しかし、この救いの事業に関しては、人間をお用いになられます。神様はイスラエルの民をエジプトから解放するために、モーセをお用いになられました。40歳のモーセは勝気で自身まんまんだったので使えませんでした。神様はわざわざ、120歳の老人、「私は一体何者でしょう」と言ったモーセを用いたのであります。神様の前に無力になった人は幸いであります。使徒ペテロも、イエス様を「3度も知りません」と、否んだ弟子であります。神様は自信まんまんのペテロを打ち砕く必要がありました。パウロもキリスト者を迫害するほど熱心な信仰者でした。しかし、復活の主と出会ったために、地に倒れ、3日間盲目になりました。パウロはある意味で弱くなりました。主は、弱くなったパウロを用いたのであります。ですから、神様に用いられるためには、まず主の前に、弱くなる必要があります。でも、本当に弱いままではいけません。神様はご自分が用いようとする者を、今度はご自身の知恵と力と必要を与えてくださるお方であります。

 父なる神様のみこころとは何でしょうか。それは、イエス・キリストによってもたらされた救いをすべての人が持つことができることであります。言葉を換えるなら、御国がこの地上にもたらされることです。神の国の建設のために、主はあなたも、私も用いたいのです。建設の計画書はあります。建設の資材もあります。しかし、不足しているのは、人材なのであります。神の国の建設のために、今の仕事をやめろということではありません。あなたは、今の仕事や家事、学業をしながら、働くことができるのです。私たちは奉仕というと、とっても狭い意味に捉えてしまいます。「教会の奉仕」というと、掃除をしたり、椅子を並べたりすることだと考える人がいます。もちろん、それも大事です。ぜひ、お願いします。でも、神の国の建設は、あなたが今いる場所でできるのです。それは、奉仕というよりも、ミニストリーと言った方がよいかもしれません。ミニストリーとは神のわざを行うことです。イエス様はこの地上に来られてどんなミニストリーをなされたでしょうか。ルカ4章にこう書いてあります。ルカ4:18,19「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」。アーメン。ここには明らかに5つのミニストリーがあげられています。第一は福音宣教、福音を伝えることです。第二は悪霊からの解放、第三は肉体の病の癒し、第四はインナーヒーリング、心の癒し、そして第五は主の恵みを宣言することです。これは、人々を祝福する権威と言っても良いかもしれません。私たちクリスチャンは王なる祭司ですから、私たちの周りの人々を祝福する権能が与えられているのです。ハレルヤ!

 教会を大きくしようと考えると、何か閉塞感を覚えます。そうではありません。ジム・ヨストという、パプアニューギニアの宣教師は「教会とは4つの壁に囲まれたところではない」と言いました。彼に言わせると、教会は道端にも、公園にも、そしてバーの中にだってできるといいました。みなさん、きょうはここにたまたま私たちは集まっています。しかし、ここは亀有教会という建物にみなさんが集まっているだけなんです。教会とはあなたがた一人ひとりなんであります。教会とは固定した場所にあるのではありません。これは建物です。本当の教会は、キリストのからだであり、みなさん一人ひとりが教会なんです。さしずめ、みなさんかたつむりを連想したら良いでしょう。かたつむりは、おうちを背負っています。私たちも教会を背負って、いるのです。あなたは教会を背負ったままで、職場や学校、家庭に遣わされているのです。だから、職場にも、学校にも、家庭にも、公園にも、マクドナルドにも、教会はできるのです。なぜなら、あなたが教会だからです。もう、「日曜日は教会へ」というような言い方はやめましょう。ここは教会という建物です。日曜日だけが教会ではありません。月曜日から土曜日までも、教会です。なぜなら、あなたが教会だからです。あなたがいくところどこにも教会ができるのです。ハレルヤ!こういうふうに考えると、神さまのみこころである、神の国の建設がキューピッチに進みます。私たちたちは「神の奉仕とは、牧師先生や一部の献身者がするものだ」と勘違いしてきました。そうではありません。みんなが、奉仕者であり、ミニストリーをするミニスターなのです。もうすぐ安部内閣が誕生しますが、私たちこそ神からのミニスター、大臣です。

 神様は私たちがミニストリーをすることができるように、資源を与えてくださいます。ただで働けということではありません。マタイ25章には、それぞれにタラントが与えられると書いてあります。ある人には5タラント、ある人には2タラント、またある人には1タラントです。タラントは元来、金の重さを表す単位でした。1タラントをお金に換算すると6000日分の給料です。今でしたら、6000万円くらいです。1タラント?タランですか、ちょっとした商売だったらできそうですね。しかし、このタラントは、霊的賜物でもあります。Ⅰコリント12章には9つの力の賜物が列挙されています。知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。私がインドネシアに行ったら、セル集会で、みんなこの賜物を出し合っています。みんなで癒しの祈りをすると、聖霊様が働いて、癒しのわざが起こります。足の不自由な人が歩き、癌が癒され、死んだ赤ちゃんが生き返ります。私が行ったときには、心臓停止して紫色になっていた赤ちゃんが生き返った、その赤ちゃんの家族がステージに立ちました。神様は、このような霊的賜物を与えて、用いてくださいます。私たちはただ、恵みの管として、チャンネルとして、自分を提供すれば良いのです。もう1つルカ19章には、ミナのたとえがあります。ミナは約100日分の給料ですから、今なら100万円です。タラントと比べると60分の1です。さらにタラントと違い、すべての人に同じ1ミナが与えられています。みんなに、1ミナずつ与えられている。ミナとは何でしょう。私は賜物というよりも、クリスチャンという存在そのものではないかと思います。何ができるか、できないかではなく、クリスチャンとはこういうものである。クリスチャンが持っている性質が世の人々に影響を与えるということです。クリスチャンは世の光です。人々に神の真理や知恵を示すことができます。また、クリスチャンは地の塩です。塩はまわりに溶け込み、食材の味を引き立たせることができます。あなたは周りの人々を生かす存在だということです。また、塩は腐敗をとどめる役目をします。罪の世界において、正直で善を行う存在はなんと貴重でしょうか。また、クリスチャンは1マイル行けと言われれば、2マイル喜んで行きます。敵を愛し、敵のために祈ります。受けるのではなく与えることを喜びます。こういう人は世の中にはいません。私たちクリスチャンは、すでに神の子ですから、もう、存在そのものが違うのです。どうか、罪を赦されたただの人だと思わないでください。私たちはキリストを信じたときに、新しく生まれ変わり、まったく別の存在になったのです。タラントもそれぞれにありますが、最低でも1ミナはあります。みんな持っています。また、私たちはこの世で生きるために、たくさんのものが必要です。お金や物、健康、協力者、力、能力、知恵や知識、愛、勇気、さまざまな資源が必要です。でも、父なる神様は私たちの供給者です。父なる神様は私たちが、良いわざを行い、神の国を拡大するために必要なものを喜んで与えてくださいます。13:20,21を新共同訳で紹介して、メッセージを終えたいと思います。こちらの方が良い訳でした。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心にかなうことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、みこころを行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

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2006年9月 3日 (日)

宿営の外に出て      ヘブル13:10-17

 9月に入って朝夕に秋の気配を感じます。私は今週末から、常夏の国、インドネシヤに行ってまいります。1週間で4つのセミナーが開かれます。教会の勢いを祝福する、私生活の勢いを祝福する、街と経済の勢いを祝福する、そして新しい世代の勢いを祝福するという盛りだくさんのプログラムになっています。日本の教会は勢いも推進力もありませんので、うってつけかなーと思います。向こうでのセミナーと滞在費は安いのですが、飛行機代が高い。原油の高騰がこちらにも響いています。きっと元を取ってきますので、旅の安全のためにどうかお祈りください。ヘブル人への手紙はいよいよ最終ですが、ここには3つの勧めが記されています。簡単に言いますと、「旧約時代の儀式は終わったけれど、新しい時代の私たちにはこういうことがありますよ」ということなのです。ヘブル人への手紙はだれが書いたか分かりませんが、旧約聖書と新約の私たちをつなぐ、とても大切な役割を果しています。

1.宿営の外に出て

10節に「私たちには1つの祭壇がある」と書かれていますが、そこにささげられるものは、動物ではなく、尊いイエス・キリストであります。ここで、強調されていることは、イエス・キリストの体が門の外、つまりエルサレムの市外で苦しみを受けたということです。だから、私たちの祭壇はエルサレムの神殿内にはもはやないということです。エルサレムに無ければどこにあるのでしょうか。それは、天のまことの聖所にあるということです。ヘブルの記者は、地上の聖所が天の聖所の模型であり、私たちが近づくのは、天の聖所であることを明らかにしています。ですから、13、14節でこういわれています。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」一般的に、ヘブル書が書かれたのは、紀元70年のエルサレム崩壊前ではないかと言われています。紀元70年には、ローマによって、エルサレムが陥落し、ユダヤ人たちは世界中に散らされます。しかし、キリスト教徒たちは地上のエルサレムには未練はありませんでした。彼らは散らされて、迫害されながらも福音を宣べ伝え、天のエルサレムを目指して行ったのであります。ですから、私たちも、地上のエルサレムにはこだわらないで、永遠の都を目指そうということであります。

ところで、ヘブル13:12「宿営の外に出て」は、近代宣教の父、ウィリアム・ケアリーが引用した言葉であります。宗教改革時代には、プロテスタント教会は大した伝道活動を行っていませんでした。もう、自分のことでいっぱい、いっぱいだったからです。一方、ローマカトリックは、イエズス会や他の会は、アジアや南北のアメリカ大陸に宣教に出かけました。しかし、1792年、靴を修理しながら伝道していたウィリアム・ケアリーが『異教徒を回心させるために資産を用いるキリスト者の義務について』という本を出版しました。ケアリーはその中で「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」というキリストの大命令は今もすべてのキリスト者に適用されていると論じました。そして、同じ年に、ノッキンガムの年会で「神のために大いなることを期待せよ!そして、神のために大いなることを企てよ」と説教しました。彼がインドへ行くと言い出したとき、「果たして、未開人が救いに選ばれているのだろうか?」と、疑問視する者さえいました。そのときに、彼は「キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出る」と言ったのです。彼にとって、宿営の外とは、イギリスから出ることだったわけです。翌1793年、ケアリーはインドへ出発しました。しかし、インド宣教はたやすいものではありませんでした。なんと、7年間も宣教を続けていたにも関わらず、誰として救われていませんでした。さらには、子どもが死に、妻はその後、狂い死にしてしまいます。また、彼が聖書の印刷の為に建てた印刷所が全焼。しかし、彼は、それを神様が更に大きな計画を与えてくださっているんだと考え、その悲劇をも感謝しました。まもなく、ロンドン宣教協会やスコットランド伝道会が立ち上がり、本格的に宣教師を送り出すようになりました。

私たちにとって、宿営地とは気持ちの良い教会であります。教会の中にいれば、迫害を受けたり、馬鹿にされることはありません。霊的なことをストレートに話すことができて、交わりも楽しいです。しかし、一歩、外に出ると、日本は異教徒の世界です。クリスチャンは人口の1%未満ですから、肩身の狭い思いをします。教会堂では「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言えても、家庭や職場では、とてもいえません。イギリスの教会が自分のことでいっぱい、いっぱいであったように、私たちも自分の生活でいっぱい、いっぱいです。もし、クリスチャンが伝道を忘れ、自己充足的に生きるならば、霊的ないのちを失います。宣教とか伝道は、ゆとりがあったらするというものではなくて、信仰生活と同時進行のものであります。私たちには2つの使命があります。1つはキリストに似た者となるということです。そしてもう1つは、イエス様が与えた宣教命令を果すということです。この命令は、マタイ28章とマルコ16章に記されています。「出て行って、福音を宣べ伝え、人々をキリストの弟子にする」ということです。出て行くところは、必ずしも海外ということではありません。職場、学校、家庭、地域社会が、あなたが行く宣教地です。パウロはⅡコリントで、「私たちはキリストの使節である」と言いました。

最近、「内面の癒しと解放」ということが強調されてきました。私もこれに関してはとても興味があり、皆さんにも紹介して来ました。私たちが癒され解放されるということはとても重要なことであります。しかし、もし自分たちの内側だけを見ていたら、宣教命令を果すことはできません。皆さん、「内面の癒しと解放」をクリスチャンのゴールにしてはいけません。これは天国まで続けなければならないものですが、同時に、私たちは未信者の魂が救われるように、外に向って働きかける必要もあります。世の中の多くの人たちは、精神的に病んでいるか、ギリギリ何とか社会生活をしています。そのときに、「内面の癒しと解放」と言う切り口が大変伝道のために役に立つということも確かです。ですから、「内面の癒しと解放」を自分のためにも使うし、同時に、周りにいる未信者の方のためにも用いていくべきです。矛盾しているようですが、内面ばかり見ていると、癒しと解放がなされません。しかし、外に目を向けると、自分の癒しと解放も進んで行くということも確かです。イエス様は「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言われました。つまり、教会が自己充足的に生きるならば命を失い、キリストのために命を失うなら生きるということです。シンガポールのコンヒーがこの間の九州阿蘇聖会で「教会は人々を救いに導くために存在する」と強調しました。彼の牧会する教会は1989年から20人でスタートし、現在22,000人の教会へと成長しています。私たちの教会もセルも人々を救いに導くために存在していることを忘れてはならないと思います。もし、内側だけにエネルギーを向け過ぎますと、かえって病気になります。私たちは恥を受けることを非常に恐れます。でも、キリストのゆえに受ける恥は弟子として勲章ものであります。伝道すればするほど、恥を受けます。でも、恥と正比例して、人々がキリストに導かれるでしょう。1つも恥を受けないで、キリストを宣べ伝えるなどと言うのは、この世ではありえません。どうぞ、辱めを恐れないで、救霊のために宿営の外に出て行きましょう。きっと、イエス様が力強く働いてくださることに驚くことでしょう。

2.賛美のいけにえ

旧約時代、動物や地の産物を神様の前にささげました。しかし、イエス・キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げられたので、いけにえは不要になりました。ところがどうでしょうか。15、16節「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」。罪のいけにえはキリストによって完成されたので、もうささげる必要はありません。でも、これからは賛美のいけにえつまり、御名をたたえる唇の果実を絶えず神様にささげなければならないということです。私たちはこの聖日礼拝において、約30分間、賛美を致します。これは、礼拝の準備とか説教の前菜ではありません。私たちの賛美と感謝は、神様に対する「いけにえ」だったんです。「いけねー、そうだったのか?」と気づいた方もおられるかもしれません。アフリカか東南アジアだったか忘れましたが、土着の人たちは以前、偶像の神様に動物とか果物をささげました。彼らは福音を聞いて、クリスチャンになりました。その後、彼らは神様の前に何をささげたのでしょうか。彼らは1週間一生懸命練習した賛美と踊りを主の前にささげました。みんな、とても真剣な顔つきで、主の前で、力一杯、賛美し踊りました。聖書に「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くしてあなたの主を愛せよ」とあります。私たちもいい加減に、賛美をささげてはいけません。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして」賛美をささげる必要があります。

 日本では夏祭や秋祭があります。この地域でもそろそろ御神輿を担ぐのではないでしょうか。彼らは偶像の神様に力いっぱい踊り、力いっぱい山車を引っ張り、力いっぱい何かを奉納します。大阪ではだんじり、長野では御柱などと言うのもあります。秋田では梵天というのも競って奉納します。彼らは半端じゃありません。本当に力の限り踊り、命をかけて奉納します。その点、クリスチャンは上品過ぎるとは思いませんか。静かなオルガンの音に合わせ、譜面どおりに歌おうとします。譜面どおり歌うことは悪いことではありません。でも、賛美が神様にささげるささげものだと言うことを理解をしているかどうかです。礼拝は祭典であり、セレモニーではありません。だから、力一杯、喜びにあふれ、賛美をささげるべきであります。ビデオでみたことがありますが、アフリカの教会では、踊りが賛美に付随しています。賛美と踊りを分離することは不可能なようです。あのダビデ王も、神の箱の前に、賛美して踊りました。あんまり踊り狂ったので、半ケツ状態ではなかったかと思います。ダビデはそれだけ、神様を愛したのであります。

 私たちが力一杯、神様を賛美したらどうなるでしょうか。ネヘミヤ8:10「あなた方の力を主が喜ばれるからである」。別訳では「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」とあります。主を賛美することと、力とが関係しています。これは、私たちが主を喜び、賛美すると、悪魔が敗走するということです。悪魔は賛美を非常に嫌がります。悪魔が好むものは、悲しみと怒りとつぶやきです。でも、私たちの唇を、感謝と賛美のために使うならどうでしょうか。悪魔が逃げ去り、代わりに主の祝福が臨みます。私たちは特別な理由が無いのに、鬱的になったり、失望落胆することがあります。はっきりいってそれは悪霊です。悪霊が耳元で否定的なことを囁き、あなたはそれを聞いて、気が沈みます。だまされてはいけません。私たちは主を賛美することによって、敵の罠と束縛から解放されます。「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」とは、まさしくそういう意味なのです。できれば、これを週一回、公の礼拝でするのではなく、個人のディボーション、セル集会でもすべきであります。私も最近、集会の前に賛美をするのを怠っていました。だから、主の油注ぎがないんですね。つまらない集会になってしまいます。賛美は公の集会だけではなく、小さな集まりでも必要です。賛美は礼拝であり、賛美は神様へのささげものです。このことを実行していくならば、悪しき者の罠と束縛から解放され、主の大路を歩いていくことができるでしょう。アーメン。

3.指導者たちに従え

 17節「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」少し前の、7節にもこう書いてありました。「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」旧約時代は祭司や預言者、あるいは王様が指導者でした。では、新約時代はどのようになったのでしょうか。マルチン・ルターが、クリスチャンは万人祭司であると唱えましたが、指導者はいないのでしょうか。私は指導者とは、上とか下、偉いとか偉くないということではなく、機能的なものであると信じます。目が顔の上にあるのは、偉いからではなく、高い所にあると良く見えるからです。足が体の下にあるのは、劣っているからではなく、体を支えるためであります。私たちはこの世の社会の考え方を捨てなければなりません。指導者は、神様が教会のために与えた賜物だということです。ローマ12:8「勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでしなさい」と書いてあります。また、エペソ4:11,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」。

 新約時代はイエス・キリストが教会のかしらであり、イエス・キリストが偉いのであります。でも、イエス様は体なる教会が、健康に成長し、また機能するように、霊的な指導者を立てました。でも、ある人たちは、「教会ではすべての人が平等だから、だれからも指図は受けない」と言います。しかし、それは間違いです。たとえば、私は人間的には指導者ではありません。生まれてこの方、自分がそういう能力があると考えたこともありません。でも、神様は、不思議なことに聖書を用いて牧会するように召してくださいました。もちろん、人格的にかけたところがあるかもしれません。でも、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。気持ち良いですね。でも、ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と書いてあります。イエス様の時代、律法学者とかパリサイ人たちは、ひどい指導者たちでした。人に無理な重荷を負わせ、自分は指一本触れようとしませんでした。イエス様は「忌まわしいものだ」とさばかれました。ですから、指導者は自分の教えと自分自身にいつも気をつけていなければなりません。でも、みなさん、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。もう、何べんも言ったかもしれませんが。なぜなら、「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」大牧者はイエス様ですが、牧師は中牧者です。群の見張りをしています。群を離れた羊は危険ですね。でも、「私は大丈夫、ほっといてくれ」と羊は言うのです。群、つまり教会から離れると、霊性がものすごく下がります。しまいには、世の中の人と全く変わらなくなります。一番怖いのは、イエス様が世の終わり、この地上に来られたとき、分からないことです。なぜなら、霊的に眠っているからです。「だから、目をさましていなさい」とイエス様もパウロも警告しています。どうぞ、「信仰があぶないなー」「信仰が弱っているなー」という時こそ、教会を離れず、指導者の声に耳を傾けましょう。

 きょうは、ヘブル書から3つのポイントでメッセージいたしました。日本の教会が、クリスチャンが何故、元気がないのでしょう。リバイバルが来たら、教会は何をやっても栄えるでしょう。でも、「今の日本は、何をやってもうまくいかない」と働き人は、みな失望落胆気味です。でも、今日、語られた3つのポイントは、低迷したキリスト教会から脱却する道です。復習しますと、第一は、宿営の外に出るということでした。これは、辱めを受けることを恐れないで、出て行くという伝道であります。短く言うと、油注がれた伝道です。上から油が注がれているなら、ちょっとやそっと、イヤな思いをしても関係ありません。力強く、初代教会のように福音を証することができます。第二は、さんびのいけにえです。当教会はこれに目覚めて、かなり力を入れています。が、もっと会衆が力を尽くして主を愛する「さんびのいけにえ」が必要です。賛美は私たちの力であります。ですから、これを油注がれた賛美と言いたい。どうぞ、みんなで油注がれた賛美を主にささげましょう。そして、第三は、指導に従うです。これは指導者と従う人、両方の問題です。日本は共依存の構造で、指導者に盲目的に従う所があります。それではいけません。従う人は、自分で考えながら従う、かしらなるキリストに聞きながら従うことが大切です。もちろん、指導する者もかしらなるキリストに聞き従う必要があります。ですから、これは油注がれた指導と言えるでしょう。旧約時代は、祭司と預言者、そして王様に油が注がれました。しかし、新約においては聖徒たちに聖霊による油が注がれると約束されています。しかし、この油注ぎは、この世に押し流されているクリスチャンは受けられません。主イエス・キリストに全面的に従い、主の栄光を現そうとする人に与えられます。私たちは油注ぎが必要です。油注ぎこそ、低迷したキリスト教会を勢いづける力です。油注がれた伝道、油注がれたさんび、油注がれた指導を求めていきましょう。

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2006年8月27日 (日)

兄弟愛をもって      ヘブル13:1-9

 ヘブル13章で一番有名な聖句は8節です。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。この聖句は、イエス・キリストが2000千年前、この地上で癒しをなされたように、今も、癒しを行なってくださるという意味です。これもすばらしいですね。でも、聖書は肉体の癒し以外にも多くのことを教えています。私は聖書を1章から順番に語っていますが、これを講解説教と言います。一方、テーマ別に聖書のあちこちから語ることを主題説教と言います。両方とも良い点もあれば弱点もあります。もし、私が主題説教を行なうとしたら、8節の「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」を取り上げて、病の癒しを語るでしょう。でも、講解説教の場合は、不得意な分野や語りたくない箇所からも語らなければなりません。でも、これはバランスのとれたクリスチャン生活を築くためにはとても重要です。食事でも「あれが嫌いだ、これが嫌いだ」と偏食すると、体がおかしくなります。ですから、神のみことばも偏食しないでいただくことが重要です。講解説教はそういう意味で、とても役に立ちます。ですから、私は長年、講解説教をしていて、後悔したことがないんであります

1.兄弟愛をもって

 ヘブル人への手紙の最終章は、パウロの手紙の後半とよく似ています。教理面ではなく、実際の生活について語っています。一番、最初に言いたいことは、何か。それは、「兄弟愛」です。兄弟愛は、ギリシヤ語では「フィラデルフィア」でアメリカの都市の名前にもなっています。兄弟愛は、神様に対する愛によって生まれた、二次的産物であります。二次的と言っても、どうでも良いという意味ではなく、神様を愛する人だったら当然持っていなければならないものです。使徒ヨハネも、Ⅰヨハネ4:20,21でこう述べています。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」。つまり、神様を愛している人は、当然、兄弟をも愛すべきなんだということです。それでは、兄弟とは誰のことでしょう?これは、あなたの隣人、そして主にある兄弟姉妹のことであります。では、何故、命令形で書かれているのでしょうか?これは、ぼーっとしていると、この愛は出てこないからです。「私は愛のないものです。どうか、聖霊によって、私に愛を注いでください」と求めなければ愛せないからです。

ところで、私たちの以前の生活、神を信じていない世界はどうでしょうか。それは一言で言うなら、「カインの末裔」であります。カインは弟アベルを妬みのゆえに殺しました。その後、カインは神様のもとを離れ、城壁のある町を建てました。城壁は人間同志の敵意を表しています。そして、その子孫は牧畜、芸術、工業の先祖になりました。カインの子孫は「○○をした」と言う業績指向です。レメクは「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」と言いました。争いが兄弟だけではなく、民族、国同士へと広がっていきます。その発端が、城壁であります。アダムとエバはエデンの園に住んでいました。園には城壁がありません。神様が真ん中におられるので、城壁は必要でなかったのです。ところが、カインは神様を信頼しないで、自分の力を信頼しました。その結果、自分を守るために、城壁を築いたのです。城壁は外敵から自分を守ってくれますが、同時に自分が外に出るのを妨げます。私たちも心に城壁を持っています。信頼の置ける人か、そうでない人か城門を開けたり閉じたりしています。特に日本人の場合は、建前と本音を区別して、城壁のまわりに蔦を生やして「城壁じゃなくて草だよー」とカモフラージュしています。教会に来ても、兄弟姉妹になかなか本音を話せない。それは、以前、本音を言ってイヤーな思いをしたからです。もう1つ、兄弟姉妹間を邪魔するものは、カインの業績指向です。人を肩書きや能力で区別します。教会の外は、まさしく業績指向の世界であり、みんながライバルです。ところが、教会に来て、「主の前には、みんな平等です」と言われてもピンと来ない。男性だと社会的地位、女性だと容姿が気になります。たとえクリスチャンになったとしても、霊性、信仰、賜物、奉仕なども妬みの種になります。教会では面と向かって争う事はしませんが、裏でと言いましょうか、水面下でレメクのようなことをするのです。

 「恵みによって救われたクリスチャンが何故そんなことを!」と言いたくなります。その第一の原因は、私たちはこの世で生まれ、この世の価値観の中で育って来たからです。だから、自然と自分を守る城壁が出来上がり、危ない人は排除するのです。では、そういう防衛システムは解除すべきかと言うと現実は不可能です。では、どうしたら良いでしょう。アガペーの神の愛を受けて、新生したクリスチャンは、愛を学ぶ必要があります。なぜ、神様が地上に教会を置いているのか、それは互いに愛し合うことを学ぶためであります。もし、神様との愛だけで充分であるならば、教会は不要です。イエス様を信じたら、即、死んで、天国に直行すれば問題ありません。でも、この地上に肉体の寿命が来るまで置いているのは、2つの理由があります。1つはキリストに似た者となるためです。言葉を換えると愛の人になるということです。もう1つはキリストが与えた使命を全うするためです。使命とは福音を宣べ伝えることです。残念ながら、一人でクリスチャンをやっているなら、決して愛の人になることはできません。いろんな人と関わっていく中で、愛の人として成長していくわけです。では、兄弟愛を持つためにはどうしたら良いでしょうか?私たちは自分が持っている城壁をできるだけ低くすべきであります。生垣か柵くらいにしないといけません。そのためには、城壁なる神様を信頼しましょう。詩篇で「主は私たちの城壁、要塞、守り」であると度々、記されています。ですから、私たちは主を信頼すればするほど、城壁が低くなり、どんな兄弟姉妹とも交わることができるようになるということです。もう1つは、業績指向をなくし、関係作りにもっとエネルギーを費やすということです。

私はこれが非常に苦手です。父から「人を利用してでも良いから偉くなれ」と教育されました。しかも、8人兄弟の7番目で、父や母から、比較されて育ちました。まあ、劣等感の塊みたいな存在だったわけです。人はみなライバル、「くそ!負けてたまるか!」。将棋、メンコ、運動会、学校の成績でも、競い合って育ちました。でも、世の中には、上には上がいるもので、育ちとか才能の前では屈服するしかありません。最後に残るものは、意地と根性であります。そういう、敵意プンプンの人が、クリスチャンになって驚くことは「神の愛」であります。私が最初の頃とても驚いた聖句があります。それはローマ5:7、8です。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。イエス様は、正しい人とか、価値ある人のために死んだのではありません。何のメリットもない罪人のために死んでくださいました。私は罪の中にどっぷり浸かり、「神なんか信じているヤツは自分が無くてかわいそうな人だ」と馬鹿にしていました。しかし、イエス様の無私の愛、省みを求めない愛に驚かされました。こんな愛、親からもだれからも受けたことがありませんでした。「しかし私がまだ罪人であったとき、キリストが私のために死んでくださった」。こちらが信じるか、信じないかも分からないのに、死んでくださった。いや、たとえ死んでも価値の分からない者のために、死んでくださったのです。世の中に、「脱帽」という言葉がありますが、まさしく、イエス様の前に脱帽であり、城壁をぶっ壊されたという感じでした。もう、自分とか意地とか関係なくなりました。しかし、これは初めの段階であり、教会生活を通して、愛を実際に学ぶしかありませんでした。私の最初の宿敵は、副牧師でした。私よりも年下でしたが、既に神学校を卒業して奉仕をしていました。彼は非常に細かくて、女みたいに思えました。私はどちらかと言うと、大雑把で、どんぶり勘定です。「まあ、神様は水と油みたいな存在を良く置かれたなー」と思いました。和解のきっかけは、長男の誕生です。家内は看護婦として働いていたので、副牧師の奥さんに生まれたばかりの長男を午後5時まで預かってもらいました。ちょうど、副牧師の奥さんも同じ年の女の子を育てていたので、経済的にその方が良いという大川牧師の勧めでした。私としては人質を取られたという感じになり、信仰的に先輩の副牧師に従うしかありませんでした。しかし、そのお陰で、私は従順を学びました。最初の私は主任牧師の大川先生の言うことしか聞けませんでしたが、副牧師の言うことも聞けるようになりました。今、思えば、そういう環境で、私の自我も砕かれていったのかなーと思います。

 みなさんも、クリスチャンになったからと言って、すぐ愛の人になれるわけではありません。神様はあなたの隣に苦手な人物を何人か置いておかれます。あなたがその課題を卒業しない限り、ずーっと、付きまといます。あなたが「もう、いや!」とその場所を離れても、神様は別の場所にちゃんと新手を用意しておられます。唯一の方法は、苦手な人と和解し、愛を学ぶことであります。不思議なことに、キリストの十字架は敵意の壁を取り除き、聖霊様が神の愛を注いでくださいます。そこで、一番必要なのは、「へりくだり」であります。「へりくだり」は、たった5文字ですが、これほど難しいものはありません。でも、「へりくだり」が分かりますと人間関係がうまくいきます。神様はあなたが愛の人になるようにと、あえて、そのような環境におかれたのです。あなたにとっての宿敵は、兄弟姉妹の場合もあれば、ご主人、奥様、姑、息子や娘、同僚、そして牧師かもしれません。わー。もし、相手が牧師だったら可愛そうですね。「ああ、この教会は嫌だ!」と別の教会に行けばどうでしょうか。もう一回り上の強敵を神様は用意してくださるでしょう。あなたはこのレッスンを修了しない限りは、一生、気の合わない人によって苦しめられるでしょう。では、どうすれば良いのでしょう。それはへりくだって、父なる神様とキリスト様に学び、愛の人になることです。最後に、マタイ5:44-48を引用いたします。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

2.むさぼりに対する注意

 ヘブル人への記者は私たちが「2つのむさぼりに注意せよ」と教えています。第一は性的むさぼり、第二は金銭のむさぼりです。牧師職を失墜させるのは、「性的罪と金銭問題だ」と何べんも聞いたことがあります。しかし、それは牧師だけの問題ではありません。主にある兄弟姉妹も同じ穴のムジナなのです。なぜなら、この2つは、私たちの霊力を削ぎ、神様から離れさせるために悪魔が一番用いる手段だからです。悪魔は未信者をこの2つの罪のとりこに成功しました。だが、その人がクリスチャンになったからと言って誘惑の手を弱めるようなことはしません。なぜなら、この2つの罪は、未信者であってもクリスチャンであっても、有効な悪魔の策略だからです。これによって数え切れない聖職者と聖徒たちが墓場に追いやられました。「むさぼりの罪」とは何か、それは限度を越えるということです。性的な罪であるなら、夫婦以外の異性と関係を持つということです。金銭面では、「今、持っているもので満足せず、必要以上に求めることです」。どちらも、神様が定めておられる限度を越える罪です。旧約聖書では、この罪を「ペシャ」と言いました。英語では、transgression、日本語では違反と訳されています。つまりこれは、「決められた制限、限界線を越えて、逸脱する行為」であります。

まず性的な罪はヘブル13:4です。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです」。聖書は性的な関係は夫婦だけのものであると教えています。つまり、夫婦以外の肉体関係は、不品行であり、また姦淫であります。先週の火曜日は夜遅く、河口湖に1泊旅に行きました。有悟の夏休みが終わりなので、水曜日休みを取って出かけた訳です。私は朝、散歩にでかけることを日課にしています。なんと、斜め向かいのホテルから若いカップルがいそいそと出てきました。それから、ホテルに戻ってチェックアウトする際、大学生とおぼしきカップルが隣の部屋から出てきました。他にもそういうカップルがいました。私は、「明らかに、彼らは結婚していないなー」と思いました。この世では、こういうことが当たり前になっているのでしょうか。たとえ、彼らが「将来、結婚の約束をしているんです」と言ったとしても、それは神が定めた限度を越えています。それは不品行の罪であります。必ず将来、その罪を刈り取るときがきます。エディ・レオ師が「結婚生活がうまくいくか、いかないかは、結婚前の生活にある」と言いました。これは、名言だなーと思います。結婚前に築くことは、肉体関係ではなく、友情の関係であるからです。友情関係が良く出来ていれば、それから後の結婚関係が良くなるんです。肉体関係は友情で築き上げられた夫婦をサポートする神からの接着剤であります。また、伴侶以外の肉体関係は、神様と相手の信頼を裏切る多大な罪です。しかし、これがまた世の中に蔓延しています。私のところに、迷惑メールが数限りないほど来ますが、そのほとんどが「不倫のすすめ」であります。日本は、そういう意味では、ソドムとゴモラであります。私たち男性は、ソドムとゴモラの中で生活しているわけです。だから、いやおうなしに、1日、24時間、性的誘惑の攻撃を受けているということになります。この手の罪は、最初は甘くて美味しいんです。しかし、その時だけです。箴言にこう書いてあります。箴言2:16節以降「あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から。彼女は若いころの連れ合いを捨て、その神との契約を忘れている。彼女の家は死に下り、その道筋はやみにつながる。彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至らない。」箴言5:3以降「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている」。箴言のある部分は、ソロモン王が書いたと言われています。ソロモンは、知恵と富と地位のあるイスラエルの王でありましたが、女性に失敗しました。あのダビデもそうでした。わー、こうなると、男性はみんなこの罪に弱いということになります。クワバラ、クワバラです。誘惑に打ち勝つための秘訣は何でしょうか。それは、誘惑には近づかないということです。もし、万が一、誘惑にはまりかけたら、ヨセフのように、上着を残してでも、その場から逃げるということです。誘惑と勝負してはいけまません。あなたは、誘惑と話し合ってはいけません。なぜなら、私たちは誘惑に非常に弱いからです。

 第二のむさぼりの罪は金銭の問題です。ヘブル13:5「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」。金銭を愛することが、いかに危ないかは、聖書のいたるところに記されています。福音書でイエス様は「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」と言われました。また、パウロはテモテ6:10「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」と言いました。と、言いながらも何故、私たちはお金に頼ろうとするのでしょうか?それは、お金は現実的であり、神様は目に見えないからです。では、金銭のむさぼりとは何でしょう。それは、神様が「今、持っているもので満足せよ」と言っているにも関わらず、「もっと欲しい」と願うことです。そのことは、「私は神様よりも、金銭を信頼します」ということなのです。ヘブル13:5で「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」と、何故、イエス様の言葉がくっついているのでしょうか。「満足せよ」という根拠には、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言う約束があるからです。私たちはお金があれば、もっと幸せになれると勘違いしがちです。でも、そのお金を稼ぐために、家族との団欒を犠牲にしたり、真理を曲げてしまったらどうなるでしょうか。時々、乳飲み子を保育園に預けて、パートに出かけるお母さんをみかけます。私は「ああー、6才くらいまで、せめて3才までは、親の元で甘えさせたら良いのになー」と思います。日本では、家庭を犠牲して働くことが美徳とされてきましたが、今、大きな代償を支払わされています。その1つは、「ひきこもり」であります。「ひきこもり」は幼いとき、親との絆がないために現れる精神的な病気であります。父親は「俺はお金を得るため、外で必死に働いたんだ。子どものことはお前に任せたのに…」と言います。しかし、それは大きな間違いです。子育ては母親だけの問題ではなく、父親が社会性とか価値観を与えるために、とても重要な役割を負っています。母親だけに子育てを任せると、「良い学校へ行けば、良い人になる」という教育ママを作ることになります。日本は経済的豊かさを偶像にしてきました。そのため、今、大きな、刈り取りを迫られています。極端なことを言うと、裸電球でも幸せになれます。私は、インドネシアとかシンガポールに行ったことがありますが、経済的には多少貧しくても、人間関係が豊かでとても幸せそうでした。おそらく、フィリピンやカンボジアでも同じじゃないかと思います。重要なことは、神様が与えておられるものに満足し、感謝をするということです。そうです。むさぼりの罪に対する、一番の対策は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」という神様に感謝する生活であります。

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2006年8月20日 (日)

慎みと恐れ       ヘブル12:18-29

夏休みはいかがお過ごしになられたでしょうか?フランスの方では1ヶ月たっぷり休むと聞いたことがあります。仕事も全部休んで、南フランスの方へ下って行き、バカンスを楽しむわけです。休みはとても重要です。なぜかというと、普段、見えないものが見えたり、普段、考えないようなことが考えられるからです。私たちは日々の家事や仕事によって、感覚が麻痺してしまい、ロボットのようになってしまいます。ですから、せめて日曜日は、この世の務めから解放され、みことばに耳を傾けるということは、とても重要です。私たちはどこから来て、どこへ行くのかを確認させてくれるからです。ヘブル人への手紙もいよいよ、終盤を迎えました。最初はとっつきにくい書物だと思いましたが、意外や意外、私たちの信仰を確立させるために、とても有益でした

1.私たちの憧れ

 ヘブル12:18-21には、モーセが律法をいただいたシナイ山のことが書かれています。ここには、7つの特徴が記されています。「手でさわれる山」「燃える火」「黒雲」「暗やみ」「あらし」「ラッパの響き」「ことばのとどろき」…モーセはその光景があまりにも恐ろしかったので、「私は恐れて、震える」と言いました。主が天から降りて来られるので、山に登ったり、境界線に触れるものは、人でも獣でも殺されると警告を受けました。なぜですか?それは神様が聖であり、人間には罪があるからです。旧約の神様は、罪ある私たちが簡単には近づけない、恐るべきお方であります。しかし、ヘブル人へ手紙の記者は、私たちは、そういうところに近づいているのではないと言っています。22節以降には私たちがどんな所に近づいているのか9つの特徴が記されています。「シオンの山」「生ける神の都」「天にあるエルサレム」「無数の御使いたちの大祝会」「天に登録されている長子たちの教会」「万民の審判者である神」「全うされた義人たちの霊」そして、「アベルの血よりもすぐれた仲介者イエスの血」に近づいています。1つ1つ、解説していくと時間がないので、代表的なものだけを3つだけ取り上げたいと思います。

 まず、シナイ山に対して、シオンの山があります。シナイ山はアラビヤにある、モーセが十戒をいたただいた山です。私たちは律法を守ることによって、神様に近づくことは不可能です。一方、シオンの山とは、ダビデがエブス人から奪い、ソロモンが神殿を建てた場所です。詩篇では、シオンは「安息の場所」「神の御住まい」「巡礼の地」として記されています。民たちは「シオンへ上って、神様を賛美し、喜び、歌いたい」と願っています。かなり前に、こういう賛美が教会で歌われました。「さあみんなで主の山に登ろう、ヤコブの神の家。さあみんなで主の山に登ろう、ヤコブの神の家。主は道を教え、我らはそれを行く、シオンから御教えが出て、みことばがエルサレムから出る」。シオンとは、エルサレムのことであります。しかし、ヘブル書は、天のシオン、天にあるエルサレムを指しています。ヘブル11章で私たちは「巡礼者である」ことを学びましたが、まさしく、天のシオン、天のエルサレムを目指す巡礼者なのであります。四国にも48箇所の巡礼があります。また、フランスやスペインにも巡礼の地があります。カトリックの人たちは、賛美をしながら、巡礼の旅をします。私もCDで聞きましたが、共同体の歌(テゼ)と呼ばれるとても美しい賛美があります。フランス語、ラテン語、英語とごちゃまぜになっていますが、何ともいえない、魂を掻き立てるような音調になっています。何千人もの巡礼者たちが、ローソクをともしながら賛美している様は圧巻です。当教会のロービーに掲げられている絵は、サンチャゴ・デ・コンポステラ(聖ヤコブ大聖堂)であります。巡礼者たちはフランス各地を出発し、ピレネー山脈を越え、最終地点のサンチャゴ・デ・コンポステラにやって来るのです。それもすばらしいですが、私たちは古い教会ではなく、天の都を目指す巡礼者なのであります。ハレルヤ!

 次に解せないのは、「天に登録されている長子たちの教会」です。イエス様は70人の弟子たちにたいして、「ただあなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と言われました。神様のもとにはいのちの書があり、イエス・キリストを信じた人たちの名前が記されています。嬉しいですね。みなさん、今、住んでいるところは現住所ですが、あちらが本籍なんですよ。区役所では私たちが死ぬと、戸籍が抹消され、「この世にはもういない」ということになります。火葬されちゃって、墓の中に埋葬されちゃうのですか。そうではありません。本籍地である、御国に帰るんです。あちらが私たちの安息の地であり、ゴールなんです。でもここに「長子たちの教会」と書いてあります。どういう意味でしょうか?長子とは、真の子どもである神の御子イエスしかおりません。でも、イエス様を信じる者も、その特権に預かることができるということです。何と、この教会に属している人は、約束の相続者であり、「長子」だということです。何と、調子の良い話でしょう。私はいつも「8人兄弟の7番目」だと言います。しかし、天国へ行ったら、「長子、長男」なんですね。私は説教の中で「8人兄弟の7番目だ」と枕詞のように言います。でも、これは、地上だけのことです。もう、天国では使えないセリフです。ところで、長子とは、旧約では初子という意味です。初子は、その一族の代表、一族の祝福のかしらです。初子が良ければ、一族がみな良いということになります。ここにおられる皆さんも、「長子」であり、「初子」です。あなたの家族にとって、あなたは祝福の基、祝福の管、祝福の源になりうる存在です。日本では仏壇を守るとか、守らないとか言いますが、そういう後ろ向きな話ではありません。これから先のことと大いに関係があります。十戒には、偶像礼拝をする者は4代まで呪われるけれど、主を愛し、主の命令を守る者には、恵みが千代まで及ぶと約束されています。ハレルヤ!あなたは今、おられる家族の祝福の基です。あなたは今、住んでおられる地域の平和の子です。

 3つ目に取上げたいのは「アベルの血よりもすぐれた仲介者イエスの血」であります。「イエスの血」は、ヘブル書の主題であります。私たちが神様に近づくとき、必要なのはイエスの血です。シナイ山は律法を象徴しており、私たちが神様に近づくとき、「お前には罪がある」と責め立てます。そのため、だれ一人、聖なる神様のところには近づくことができないのです。罪人にとって、神は「恐れて、震える」存在です。でも、新しい契約の仲介者イエスが来られました。彼はご自身の血を携えて、至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ですから、神様はイエス様の血の注ぎを受けている人であるなら、もう裁かれないのです。さらに、イエス様の血は、私たちの良心をもきよめてくださり、大胆に神様のもとへ近づく信仰が与えられます。「私はいろんな罪を犯したけれど、イエス様の血によってきよめられたんだ。アーメン」と近づくことができます。ですから、神様のところに近づくために必要なのは、私たちの良い行ないとか、宗教的な儀式ではありません。キリストの血であります。私たちが罪を犯したときに、私たちの良心と悪魔が私たちを責め立てます。「お前はクリスチャンなのに、あんな恥ずかしい罪を犯した。あんなひどい罪を犯した。あんな卑劣な罪を犯した。もう、神様の前には出られないぞ!」と告発されます。そのため洗礼を受けたクリスチャンでさえ、その声にやられて、教会に来れなくなります。彼らが天国に行けないとは申しませんが、うなだれて、巡礼の道をトボトボと歩いている状態です。キリストは罪の代価を支払ってくださいました。そればかりか、私たちを責め立てる債務証書を十字架に釘付けされたのです。ですから、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」巡礼の道を歩むのです。私たちはキリストの血を忘れてはいけません。

ゴスペルを歌っていますと、キリストの血を賛美している曲が非常に多いですね。今、練習している曲が、Precious is the blood「尊い血潮」という歌です。直訳するとこんな歌詞です。「おお、あがないの血!私のために流されたイエスの血。救いの血、きよめの血、カルバリーから。おお、神の小羊は十字架に付けられた!私の罪のために彼は血を流し、死なれた。ああ、何と尊い血潮だろう」。私たちが神の御前で誇れるのは、私たちの信仰とか私たちの行ないではありません。私たちが誇れるのは、私たちの罪のためにながされた、キリストの血です。キリストの血こそが、大胆に、聖なる神様に近づくことのできる根拠なのです。大祭司が血を携えて、至聖所に入られたように、私たちもキリストの血によって神様の近くに行くことができるのです。キリストの尊い血潮を賛美いたしましょう。キリストの血によって、私たちの良心がきよめられ、キリストの血によって悪魔は黙るしかないのです。アーメン。シオンの山、天のエルサレムに向って、胸を張って、巡礼の旅を続けましょう。

2.私たちへの勧め

 こういう恵みに預かっているのだから、「注意しなさい」と25節以降に述べられています。25節「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか」。ヘブル人への手紙に何箇所か共通して書かれていることがあります。それは、「救いを得ているからと言って、慢心するなよ」ということです。改革派の人たちは、絶対的な選びを信じていますので、「一度、信じた者は滅びない」という神学に立っています。私も、どちらかと言うとそういう立場ですが、ヘブル人への手紙を読む限りは、信仰は機械的なものじゃないなーという感じがします。どちらかと言いますと、信仰は機械というよりは、生き物です。弱ったり、強くなったり、上がったり、下がったりします。私たちの体も、元気なときもあれば、弱ったりするときもあります。私たちの心、精神状態もそうですね。やる気満々のときもあれば、憂鬱で何も手につかないときもあります。では、信仰を恵まれた状態にキープする秘訣は何なのでしょうか。25節「語っておられる方を拒まないように注意しなさい」。だれが語っておられるのでしょうか。25節の半ばには「天から語っておられる方」と書いてあります。まず、わかるのはシナイ山から語られる声ではありません。モーセはとどろきのことばを聞いて「私は恐れて、震える」と言いました。そういう、さばきの声ではなく、優しい、慈しみの声であります。私は牧師になっても、教会が大きくならないので、神様は「何をやっているんだ。歯がゆいぞ!」と仁王立ちしているように思えました。しかし、『恵みの歩み』という本を読んで、いや、そうではないということが分かりました。父なる神様は私の姿を見て「そんなにがんばらなくて良いから、もっと気楽に。お前が何かしたからとか関係なく、私はお前を愛して、受け入れているよ」と言っているように思えたのです。

先週、大和の大川牧師から9月に行なわれる教会成長セミナーにお誘いを受けました。セミナーの前、チョー先生を囲んで、20人くらいの牧師が一緒に昼食をしようということなんです。先生から即座に「礼拝、何名集まっている」と聞かれました。「80名くらいかな」。「どうして100名いかないんだろう」。「どうしてでしょうかね。本当に不思議ですねー」。「早天やっているの」。「いいえ、個人個人でディボーションしています」。「それじゃー、いい加減になるなー」。そういうやりとりをした後、大川先生はあの路線で行くんだろうなーと思いました。私はある時から、教会成長を最終のゴールにしなくなりました。いわゆる、業績指向から解放されました。確かに、人数が集まっていないのは、問題かもしれません。でも、日本は、牧師と共依存の教会が多いし、そういう教会が大きくなるようです。みんな、牧師の一声に従います。日本人は、自分で考えるより、上からの指示に従うように生まれ育っています。だから、教会もそのような文化を取り入れて、牧会しています。文化を変えるよりも、文化を利用したほうが教会は大きくなるかもしれません。でも、真の教会はキリストのからだです。信徒一人ひとりが、からだの器官です。からだの器官はどこから指令を受けるかと言ったら、頭です。頭は牧師ではなく、キリストご自身です。ですから、信徒一人ひとりはキリストに聞いて行動すれば良いのです。牧師の顔や役員さんの顔を恐れることは全く必要ありません。天の声、聖霊様の声に従う、これが成長したクリスチャンの生き方です。いつまでも、クリスチャンを子どもにしておくのは問題です。これは、一教会を批判したのではなく、日本の教会の現状を言ったまでです。日本の教会のほとんどは小さいので、牧師たちは「神様は私を怠け者と思っているんじゃないだろうか」と縮こまっているのではないかと思います。本当はそうではなく、「小さいところでも忠実にやっているなー」とほほえんでいるのではいでしょうか。人間はさばきとか律法に対しては卑屈になりますが、恵みと励ましに対しては奮起します。

 もう1つ、28節に命じられていることがあります。「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」。この天も地も揺り動かされて消えてなります。だが、私たちは揺り動かされない御国を受けています。私たちは、この世の移り変わるようなものに土台しないしてはいけません。先週、小泉首相が靖国神社を参拝しました。私は高校野球を見ていましたが、突然、そちらの中継に切り換りムカッときました。先日の「リバイバル新聞」にとてもうがった解説が載っていました。「靖国問題の霊的核心は死者との交流にあるが、国の代表による参拝は、霊的悪影響も大きい。一方、政治面で言えば、中国や韓国の圧力によって国の態度を変えるのは間違っている。だが、米国の圧力には易々と屈してきたのも同じ首相である。日本は戦中は天皇を崇拝して戦いの動力と為し、戦後は経済を崇拝してきた。その結果、国家神道を基盤とした「神国」はキリスト教国アメリカに叩きのめされ、今や経済も米国の巨大な資本に飲み込まれようとしている。そんな国の民は、まるで最後の砦でもあるかのように、キリスト教だけは入らない。私見だが、キリスト教を受容すれば日本人が日本人でなくなり、米国に魂まで売り渡してしまう、といった感覚があるように思う。日本宣教の課題の1つは、大多数の日本人が「キリスト教は西洋の宗教だ」と思い込んでいる点にある。これはある意味、日本の教会が西洋的な教会形成をしてきた結果だとも言える。神学も音楽も教会堂も、西洋の模倣が強い。しかしすでに、キリスト教は西洋の宗教ではなく、南米やアジアにその重心を移している」。日本沈没という映画が上映されているようですが、この日本は経済的にも沈没してしまうということでしょうか。私たちは日本の宗教とか日本の文化というよりも、世の終わりが来ても、揺り動かされないものに土台を置かなければなりません。それは、聖書のみことばであり、礎石なるイエス・キリストご自身であります。

 ヘブル人への手紙は、「私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」と勧めています。私たちが信仰にとどまり、天のエルサレムに向うために、忘れてならないものがあります。それは自分がどんなところから救われたかを思い出して、感謝することであります。ある人たちは、せっかく救いを得たのに、何故、躓くのでしょうか?彼らは「信仰は捨てていない」と言うかもしれません。しかし、胸を張って、巡礼の旅を続けているとは思えません。私は自分がどんな所から救い出されたのか?かつては滅びの中にあったのに、御国に入れていただいた。罪に汚れ、希望もなく、ひどい状況から、救われたんです。そのことと比べたら、「教会がどうだとか、牧師がどうたったとか、兄弟姉妹がどうだ」なんて関係ないですね。私は子沢山の、貧しい家に生まれ、罪と汚れと傷を、腹いっぱいを受けていた人生でした。過去がひどかったからこそ、イエス様の救いが何よりも有難かった。今では、生まれと育ちがひどかったことを感謝しています。なぜなら、その分、イエス・キリストによる救いがかけがえのないものになったからです。私は牧師になったことは、さほど喜びではありません。罪赦され、神の子どもとされたことが一番の喜びであり、感謝なことです。牧師は神様から与えられた、召しに過ぎません。もう、10年数年後には牧師でなくなるかもしれません。でも、クリスチャンであることは、なくなりません。何故、感謝ができないのでしょうか。何故、信仰的に後退してしまうのでしょうか。それは、自分がどんなところから救われたかを忘れているからです。自分がまるで、救われるのに価値があったかのように誤解しているからです。傲慢な人は、自分にまるで救われる価値があったかのように思っています。それは大間違いです。私たちはこの世の中に捨てられていた、死んでいた存在なんです。長生きすれば70、80歳まで生きるもしれないけど、その後は、永遠の滅びに行く存在だったのです。私たちは道端に転がっている石ころだったのです。都会には石ころがないので、車の排気ガスですね。そう、排気ガスだったのです。それなのに、イエス様と出会ったお陰で、救いを受けて、御国に入れていただいた。これは夢物語です。世の中に、こんなうまい話はないんです。ですから、私たちは救いの原点、自分がどんなところから救い出されたのか忘れてはいけません。イザヤ51:1に「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とあります。これは、あなたがどんなところから救い出されたのか、忘れるなよという聖句です。もし、私たちが一方的なあわれみによって救われたということを感謝しているならどうなるでしょう。28節後半、「こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」。奉仕はおまけです。ほんの小さな感謝の現れです。奉仕しているのではなく、奉仕させていただいているのです。神様に用いられていることを誇ってはいけません。私たちが誇るのは、私たちを泥沼から救い出してくださった主イエス・キリストを誇るべきなのです。もし、このことを忘れなければ、救いから漏れることなく、御国に凱旋できるでしょう。

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2006年8月13日 (日)

苦い根      ヘブル12:14-17

 私たちは互いに影響しあって生きています。「自分は中立で誰からも影響を受けないぞ!」と思っていても、ある人のところに近づいたとたん、自分の悪いものが引き出されてしまうことはないでしょうか。急に自分が卑屈になったり、意地悪な思いが起こったり、敵対心が起こったりします。そのうち、「ああ、この人は私の苦手なタイプだなー」と遠ざかるようになります。しかし、これが夫婦の場合は、簡単には行きません。しょっちゅう顔を合わせていますので、関係が改善されない限りは、どんどん泥沼にはまっていきます。私たちは職場や教会でも、いろんな人と会います。「なぜ、この人は私の悪いところを引き出すんだろう」。「この人といると、なんでムカつくんだろう」。「この人といると、なんで心が落ち着かなくなるんだろう」。そういうことはないでしょうか。きょうは、「苦い根」と題して、内面の癒しと変革が与えられるように共に学びたいと思います。

1.苦い根と苦い根の期待

 ヘブル12:15「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。「苦い根」は英語の聖書では、bitter、 bitternessとなっています。チョコレートでも、bitterとsweetの2種類があります。「ああー、sweetな人生を望んでいるのに、なんでbitterになってしまうんだろう!」と悩んではいないでしょうか。幼いときに、父や母に対して、さばいてしまったために、種がまかれます。地中深く潜っていましたが、だんだん成長し、根を張り、枝を張ります。いつしか、洗礼を受けて、クリスチャンになるときに一大変革が起こります。霊的に新しく生まれ変わり、心の問題もある程度、解決します。まるで野焼き状態になり、いばらや雑草も焼かれ、きれいさっぱりとなりました。しかし、どうでしょう。地中に埋まっている種や根っこはまだ生きています。しばらく立つと、いばらや雑草が生えてくるんです。クリスチャンになったとき、かなりのことが解決されます。「おめでとう!」と言いたいのですが、幼い時に蒔いた種が、ムクムクと大きくなります。この苦い根が芽を出すと、自分ばかりか、周囲の人を汚してしまうのです。周囲の人とは、夫、妻、子供、友人、同僚、そして教会の兄弟