2010年10月10日 (日)

感謝の生活  エペソ5:20、コロサイ3:17、Ⅰテサ5:18

 クリスチャンの基本的生活の第3回目は感謝と賛美についてです。あとでもお話ししますが、マーリン・キャロザーズという先生は、感謝と賛美が主の前にいかにすばらしいものであるか何冊も本を書いています。先生だけではなく、それを実行した人たちが、困難な状況から救い出されたという証が数え切れないほど書いてあります。私たちはこのような公の集会だけではなく、日々の生活で、困難の真中で、感謝と賛美をする必要があります。公の集会はそのことを練習していると思えば良いでしょう。もっと重要なのは、この場を去って、家庭や職場に行ったときであります。この場所で感謝や賛美をささげることは簡単かもしれません。みんながやっていますから。でも、あなたが遣わされた場所で、現場で、感謝と賛美をするならば何と幸いでしょうか?きょうはそのことをチャレンジさせていただきます。

1.感謝は神の命令

 みなさんは、感謝することは神さまの命令であることをご存知でしたでしょうか?詩篇のいたるところには「主に感謝せよ」と記されています。また、新約聖書ではパウロの書簡に記されていますので、代表的なものを引用いたします。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」当然といえば当然ですが、パウロが書いたものであるなら、共通しているはずです。しかし、なぜ、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と命じているのでしょうか?私たちはこのみことばを見るとき、「そんなの不可能ですよ」と一蹴するのではないでしょうか?常識的には、良いことがあれば感謝し、悪いことがあれば怒ったり、悲しんだりするでしょう。しかし、「すべてのことについて」とは、良いことはもちろんですが、悪いことや困難に遭遇したときもです。「わぁ、そんなのできっこないよ!」と思ってしまいます。

 この聖句を良く見ると、ただ「感謝しなさい」とは命じられていません。「主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」あるいは「キリスト・イエスにあって神に感謝する」と書かれています。つまり、感謝とは神さまへの祈りであり、届け物であります。目の前に悪いことが起きたとき、「今、こういうことが起こりました。でも、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します」ということなのでしょうか?実はそうなのです。でも、実際のところ私たちはどうするでしょうか?たとえば、車をぶつけた時はどうするでしょうか?「わぁ、なんてこった。何でこんなことになったんだろう」と困惑します。その次に、「だれが悪い」とか、人のせいにします。人や物のせいにできなければ、最後に仕方なく自分のせいにします。「あぁ、どうやって直すんだ。損害はどのくらいだ。どこから出すんだ!」と後始末のことを考えます。困惑、怒り、心配、絶望はやって来ても、感謝はやってきません。どうでしょう?みなさんも、病気とか怪我をしたとき、すぐ感謝できますか?「果たして、治るだろうか?治療費はいくらだろう?ああ、痛い、ああ、苦しい」とかで、感謝がやってくるのはいつでしょう?治ってからでしょうか?問題や困難が起こったときに、感謝をするってとても不可能のように思えます。

 では、そういう時、感謝の代わりに自然と出てくるものは何でしょう?特に、失敗したとき、不運な事故、不当な扱いを受けたときはどうでしょう?感謝ではなく、つぶやき、不平不満、怒りが出てくるのではないでしょうか?生身の人間だったら当然です。この間、T兄が自転車に乗っていたとき、前のタクシーが突然ドアを開けました。T兄は飛ばされ、地面にたたきつけられました。タクシーの運転手に「テメー、コノヤロー、○○してやるぞー」と言ったそうです。道路に寝ながらです。これは条件反射的なものですので、罪と言ってはかわいそうです。でも、あとから、「そうじゃないよなー」と悔い改めたそうです。でも、すぐに感謝するというのは、よっぽどでないとできそうもありません。聖書には感謝だけではなく、「喜びなさい」とか「愛しなさい」という命令もあります。もし、それらが感情であったならば、すぐには不可能です。しかし、感謝や喜び、愛は感情ではなく、自分の意思で選択するものです。それだったら、どうにもならないような状況でも、「主イエスの御名によって感謝します」と言えるはずです。最初は3分くらいかかるかもしれません。でも、訓練によっては10秒、いや3秒くらいで「感謝します」と言えるかもしれません。香港のベン・ウォン師は、「私は今では、2秒で言えるようになりました」と証ししておられました。座間キリスト教会で、大川牧師が「ハレルヤ!主よ、感謝します!」というのをはやらせました。「はやらせた」というのは変ですが、そういうことをみんなでやりました。新会堂ができてまだ間もない時、ある事件が起こりました。一人の青年があることをするために、屋根裏を渡りました。そこには二枚の細い足場板が渡されているだけで、あとは金具で天井板が吊られている構造でした。中が暗かったのでしょう。2,3メール先で彼は足場板を踏み外し、天井を踏み抜いてしまったのです。大川牧師が天井を見て「あぁー」と嘆きつつうなだれました。ちょうど、先生の後ろに私がいました。私は反射的に「ハレルヤ!主よ、感謝します!」と言いました。大物である大川牧師は「そうだったなー」と悔い改め、そのことをみんなの前で告白しました。新会堂天井事件であります。教会主事である私が後から、穴を修繕しました。

 当時、安藤先生という小学校の先生を引退し、日曜学校の教師をしている姉妹がいました。もうかなりの高齢でした。ある日、教会に来るとき、側溝に足をすべらせてころんだそうです。そのとき思わず言ったことばが「ハレルヤ!主よ、感謝します!」だったそうです。そこまで、いくと、もう聖域に達しているという感じです。でも、「ハレルヤ!主よ、感謝します!」によって、教会全体が恵まれていました。でも、何故、問題や困難に遭遇したときも感謝しなければならないのでしょうか?マーリン・キャロザーズ師が、『讃美の力』という本の中でこのように教えておられます。「困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起こったことを私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れて、賛成することを意味します。それは、今起こっているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味を成さないでしょう。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)。」つまり、こういうことなのです。どのような状況の中でも、これが神さまのご計画の一部であり、神さまが益になるように働いてくださることを私たちが感謝するのです。そうすると、神さまは「では、そうしましょう」と働いてくださるのです。逆に、私たちが嘆いたり、不平不満をもらすなら、神さまが益になるように働こうとしておられるのを、留めてしまうことになるのです。マーリン・キャロザーズ師はさらに教えておられます。「あなたの人生のために、神はすばらしいご計画を持っておられるのです。もし、あなたが神に信頼し、あなたの身に起こったあらゆる事を神に感謝するなら、今ここで、神があなたを助けようとしておられることが分かるでしょう」。多くの人は、マリーン先生に「この事を神に感謝するんですって?」と反発します。しかし、その人たちが絶望的な状況の中で、神を讃美し感謝するとどうでしょう。あとから、すばらしい奇跡が起こるのです。その手の証が、3冊も4冊もあります。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝し」ましょう。神さまの命令であり、神さまのみこころなのですから、そうさせていただきましょう。

2.つぶやきと不平不満

 感謝の反対は何でしょうか?それはつぶやきであり、不平不満です。これは神さまが最も、お嫌いなものであります。旧訳聖書を見てわかりますが、イスラエルの民はエジプトを奇跡的に脱出したのですが、どうだったでしょうか?出エジプト記、民数記、あるいは申命記に彼らの罪が克明に記されています。それは、つぶやきと不平不満です。なんと、エジプトを脱出して、まだ3日しかたっていないのに、「私たちは何を飲んだらよいのですか?」とつぶやきました。さらに、イスラエルの民は、荒野を旅しました。「ああ、肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。何もなくて、このマナを見るだけだ」と泣いて言いました。それで、神さまはあきるほど、うずらを降らせました。さらに民は「どうしてモーセだけが神さまと話すのか?私たちとも話されないのか?」と非難しました。Ⅰコリントに、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか書かれています。Ⅰコリント1010「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」この出来事は、民数記16章の出来事を背景にして書かれたものであります。コラとダタンというレビ人が、モーセとアロンに逆らって焼き滅ぼされました。その後、民たちが「あなたがたは民を殺した」とつぶやきました。そうすると、神罰が民にくだり17,000人が死にました。つぶやきがなぜ、そんなに悪いのでしょうか?

 つぶやきの反対は、神さまを賛美し、感謝を捧げることです。私たちが神様を賛美するとき、神様は賛美の中に住まわれます。つまり、神様を賛美したなら、私たちは神様の摂理の下に身を置くことになるのです。神様に感謝するならば、神様にこう言っていることになります。「神様、あなたは良き神様です。あなたは世界をご支配することをご存知です。あなたの下には、何も悪いことはありません。ローマ8:28を信じます。すべてのものを働かせて益としてくださいます。神様、感謝します。神様、感謝します。あなたは良き神様です。」それが神様をほめたたえることです。神様をほめたたえることの反対は何でしょう。それは、つぶやくことです。不平不満を言うと何が起こるでしょうか?神様のご摂理(ご支配)の下から逃げてしまうことになります。神様は良い神様であることを受け入れないばかりか、その神様を批判することになります。神様に文句を言います。「神様、あなたは良き神様ですか?もし、本当に良い神様だったら、何で、この町の小さな教会で奉仕させるのですか?神様、あなたは本当に良い神様ですか?もし、良い神様だったら、何故、日本にリバイバルが起きないんですか?神様、あなたが本当に良い神様だったら、どうしてゴリラと結婚させたのですか?(これはエディ・レオ師が言ったこと)」。このように、いつも不平不満を言う。これは、「神様、あなたは本当に神様ですか?」と言っているのと同じことなのです。多くの人たちはつぶやきのために尊い奉仕が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために家族が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために可能性が全部死んでしまいます。だから、つぶやきや不平不満を悔い改めなければなりません。

 インドネシアのエディ・レオ師がこのようなメッセージをしてくださったことがあります。賛美と感謝は神さまを引き上げることであり、つぶやきと不平不満は神さまを天から引き降ろす事であると言われました。そして、1つの例を上げて教えてくださいました。ある人が魚を干して干物を作っていました。日本人のクリスチャンです。あるとき多くの魚が捕れました。全部売りさばくことができません。そして、売れ残ったものを全部、干物にしました。干物にするためには太陽光線が必要です。天気が良くなるまで待っていました。「ああ、太陽が出てきた。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と賛美しながら干物を干しました。1時間もすると雲がやってきました。「あー、雲ってきた」とその魚を引き上げ家の中に入れました。すると、神様に対して怒りがこみ上げてきました。上を見上げて「神様、何故ですか?何故、1時間しか太陽を照らしてくれないのですか?」。そう言っているうちに、また日が再び照ってきました。「ああ。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と、魚を再び干しました。たった30分後に、また雲が出てきました。今度は、雲だけではありません。雨が降ってきました。そして、全部の魚がびちょびちょになりました。そして、もうかんかんに怒って、雨の中に突っ立って、上を向いて「神様、あなたは天気もコントロールできないのですか?あなたが天気をコントロールできないなら、私がそこへ行って天気をコントロールします。そして、あなたがこっちに降りて来て、干物を干してください」。隣の方に「これが、文句ですよ」と、言いましょう。不平不満を言うとはどういうことでしょう?神様を引き降ろすことです。それが最も大きな罪、クーデターです。王様を引きずり降ろすことができるでしょうか?そういうことを企てたら殺されるでしょう。それは神の国のクーデターです。神様を引きずり下ろそうとする謀反です。不平不満を言っているなら、悔い改めましょう。

3.感謝と賛美の力

 私はクリスチャンになる前、感謝するということがほとんどありませんでした。生まれ育った環境のせいもあり、いつも不平不満を言っていました。私は何につけても文句を言いました。一番上の姉は私と18歳も違うので、何かと面倒見てくれました。あるとき、グレーのセーターを買ってくれました。私は色が気に入らないと言いました。あるとき、百科事典を買ってくれました。「小学館」と書いてあるので、「これは小学生用だろう」と文句を言いました。結婚してから、家内が私に言いました。「あなたはいつも文句を言っている」と。「文句じゃないよ」と反発しましたが、やっぱり文句でした。クリスチャンになってからも、なかなか感謝するこということができませんでした。何故でしょう?不平不満を言うということが、習慣になっていたからです。もう、口を開けば、自動的に舌が不平不満を言うのです。ヤコブの手紙36「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます」。私は本当に悩みました。何故、私は文句を言うようになったのでしょうか?それは、私の父や母が私を非難したからです。兄たちも私を非難しました。だから、私の中に苦い根が生えたのです。これを直そう、直そうとしても草をかってもまた生えてきます。私は毎朝、中川を散歩していますが、草が良く生えます。ときどき、区の人たちが機械で刈り取ります。しばらくはきれいです。でも、また生えるんですね。そうです。表面的な方法では不可能です。私は私をさばいた父や母、兄たちを赦しました。そして、父なる神さまから、「お前は価値があるよ。お前を受け入れるよ」と頭をなでてもらいました。それから、すこしずつ感謝が出るようになりました。

 みなさん、不平不満やつぶやきは習慣になっている場合があります。なおそうと思ってもなおらない。ついつい、「ポロ」っと、出てきてしまう。どうしたら良いでしょうか?まず、私のようにそうなった原因を探る必要があります。何がきっかけや原因があったのです。環境かもしれないし、両親や兄弟かもしれません。でも、人のせいばかりにしてはいけません。赦すべき人を赦し、悔い改めるべきことを悔い改めます。そして、自分の性格の一部になってしまった不平不満やつぶやきを十字架につけるのです。「私の不平不満とつぶやきの性質を十字架につけて死なせます。アーメン。」その次に、新しい命を神さまからいただきます。不平不満とつぶやきの反対は何でしょうか?そうです。感謝と賛美です。「おお、主よ、感謝と賛美という新しい性質をください」と願い求めるのです。アーメン。でも、それだけだとまた元に戻ります。どうしたら良いでしょうか?自分の意思で、どんなことがあっても感謝と賛美を選び取るのです。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。エディ・レオ師は、何でも40日間、継続するならば、自分のものになると言いました。みなさん、習慣には力があります。自転車も初めて乗ったときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。水泳もどうでしょうか?初めて泳いだときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。だから、不平不満やつぶやきという習慣を直すためには、感謝と賛美を継続しなければなりません。40日間かどうかわかりませんが、とにかく、何につけても、感謝と賛美をすることを選んで実行します。すると、こんどは条件反射的に、「感謝します」と言えるようになります。前の安藤先生が側溝にはまって転んだ時、「ハレルヤ、主よ感謝します!」と言ったのと同じであります。

 みなさん感謝と賛美には力があります。どんな力でしょう?それは運命を変える力です。クリスチャンは運命ということばをあまり使いません。神さまの摂理とか、神さまのご計画という風に言います。でも、この場合は、運命とか環境と言っても良いと思います。なぜなら、父なる神さまがすべてのことが益になるように私のために働いておられるからです。もし、私たちが不平不満やつぶやきを言うならば、神さまの御手はそこで止まってしまいます。しかし、そうではなく、「主よ、感謝します。このような状況の中でもあなたが共におられ、全能の御力をもって働いておられることを感謝します。主よ、あなたの御手にゆだねます。主よ、あなたの御名があがめられますように。御国がきますように。アーメン」。そうしますと、無駄な力が抜けてきます。心配も去ります。なぜなら、主に信頼しているからです。究極な祈りとは何でしょう?それは、父なる神さまに感謝と賛美をささげることであります。感謝と賛美こそが、全能なる御父の御手を動かすからです。今のありのままの状況を主に告げ知らせながら、感謝することであります。「父なる神さま、あなたが今も私のためにすべてのことを益とするために働いていることを、イエス様のお名前によって感謝します。アーメン」。どうぞ、実行してみましょう。思いがけないことが起こったときもやってみましょう。そして、主のみわざを、奇跡を、現実の真中で、見させていただこうではありませんか。

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2008年4月20日 (日)

神様との会話    Ⅰテサロニケ5:15-22

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」の第三週目を学びたいと思います。「神様との会話」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。祈りとは神様との会話であります。私たちはイエス様を信じた瞬間から、神様との和解が成立しました。神様は天のお父様となり、私たちは子供となったのです。私たちは神様の子供として、何でも、気兼ねなく、お話できるという特権が与えられました。人との電話はbusy、話し中というのがありますが、神様との電話は「話し中」ということがありません。24時間、いつでもopenなのであります。今どきの人たちのほとんどは、携帯電話を持っています。残念ながら、父なる神様に電話する人は稀です。人間と会話はいくらやっても平面的な解決しか与えられません。でも、父なる神様との会話によって、垂直的な、つまり天からの解決が与えられるのです。

1.祈りの継続性

Ⅰテサロニケ5:17に「絶えず祈りなさい」とあります。「絶えず祈れ」とは、どういう意味でしょうか?英語の聖書には、「祈りをやめないで、絶え間なく祈れ」とか「継続的に祈れ」というふうに書いています。絶えず祈るためには、教会の早天祈祷会や水曜祈祷会、徹夜祈祷会もあります。朝のディボ-ションも大切です。私はそれらのことは全部やってきました。でも、日中、仕事場とか家庭では、ほとんど祈りませんでした。なぜなら、「神様は教会堂など、聖い場所にはいらっしゃるけれど、世俗的なところにはいらっしゃらない」と思っていたからです。ある姉妹が、「私は自転車をこぎながら祈っています」と言っていたのを聞いて、びっくりしました。また、ある男性は「私は車を運転しながら祈ります」と言いました。「えー?目をつぶったんじゃ、危ないんじゃないの」と思いました。私たちは「祈りとは、両手を組んで、目をつぶって、祈るものだ」と日曜学校かどこかでおそわっています。もちろん、そういう祈りもあるでしょう。でも、「絶えず祈れ」ということを実行するためには、場所を選んだり、正式な祈りの姿勢を取ることは不可能です。でも心の中で祈るなら、家事をしながら、仕事をしながら、買い物しながら、歩きながら、電車に乗りながら、あるいは人と会話をしながらも祈ることが出来ます。先週、男性は1日に240回、4分毎に誘惑を受けると申し上げました。しかし、それは主を礼拝し、主と交わることのできるすばらしいチャンスでもあります。

イエス様は父なる神様と共に歩みました。父に語りかけ、父を見ることができました。1日に24時間、そうすることができました。みなさんは、「いやいや、イエス様は神様だからね。でも、私のような者がどうしてそのようなことが出来るでしょう」と言うかもしれません。Ⅰヨハネ2:6に「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と書いてあります。イエス様は父なる神様と1つでありました。ヨハネ14:10でイエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」とおっしゃいました。イエス様は父なる神様ととても親密な関係を持っていました。イエス様は父なる神様といつも交わり、父なる神様がおっしゃることを語りました。また、イエス様は、父なる神様がなさるわざを行いました。イエス様はすばらしい愛のお方でした。でも、イエス様はイエス様ご自身の愛を用いたのではありません。イエス様は父なる神様から、無条件の愛をいただいて人々を愛することができたのです。また、イエス様がなさった数々の奇跡もそうであります。イエス様は神様ですから、ご自分の力でやろうと思ったらできたのですが、いつも父なる神様の力でなさいました。イエス・キリストは私たちのために模範となられたのです。それだったら、イエス様がいつも父なる神様と交わっていたように、私たちも父なる神様と親しく交わるべきであります。そうするならば、私たちもイエス様と同じようなことができるんじゃないでしょうか?でも、私たちはイエス様の品性を真似ることはできません。イエス様のように愛の人になろうと努力します。ある人がやってきて「あなたが愛の人になるように、手伝ってあげましょう」と、あなたの片方のほほを「バシッ」と叩きました。あなたは1回はなんとが我慢できるかもしれません。でも、それが2度、3度になると、「いい加減にしろ」と怒って、相手のほほを3倍にして殴り返すんじゃないでしょうか?私たちはイエス様の品性をまねることはできません。でも、イエス様のライフスタイルは真似ることができます。イエス様はいつも父なる神様と親しく交わっていました。いつも、父から聞いて、行動していました。

今から400年前、この原則を適用したクリスチャンがいます。彼の名前はブラザー・ローレンスと言います。彼は、神学者や牧師、偉大な説教者でもありません。彼は王様の邸宅の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は父なる神様と24時間の関係を持つということを実践しました。神様の臨在を実践することを「コランデォー」と言います。ブラザー・ローレンスは料理するときも、神様と会話をしました。「お父さん、感謝します」と、毎日、会話をしました。彼の人生に何が起きたでしょうか。彼は福音を宣べ伝える必要がありませんでした。彼が食事を持ってきて仕えるとき、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。そして、彼は「神の臨在を実践する」という本を書きました。リバイバリストで有名な、チャールズ・フィニーも、彼の本から影響を受けました。チャールズ・フィニーが、どれほど力があるかご存知でしょうか。彼はある工場の操業風景を見るために、工場の中に入っていきました。紡績部門を通っていくと、大勢の若い女工がいるのが見えました。彼女たちは、チャールズ・フィニーを見つめ、何やらそわそわしていました。フィニーが彼女たちに近づくと、ますます落ち着き失ったように見えました。そのうちの一人はとても取り乱してしまったので、糸が切れてしまいました。彼女はそれを直そうとしましたが、手がブルブル震えて直すことができません。フィニーがじっと彼女たちのことを見つめていると、一人またひとりと仕事の手を止め、ひざまずきました。数分のうちに機械はすべて止まり、涙と嘆きの声が工場内に満ちました。後で分かったことですが、その大きな工場で働いていたほとんどの人がキリストに希望を見出したということです。このように、チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜでしょう。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。だから、そんな場所でも主の御顔を仰ぎ、神様との会話を実践しましょう。力強いことが起こると思います。

2.祈りの鍵

 祈るためには、平和な心を持たなければなりません。私は中川の橋を毎日のように渡ります。数日前は雨風が強かったので、川の水はとても波立っていました。でも、天気が良くて風のない日は、鏡のように真平らです。そういう日は、水面に小魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。湖とか海へ行くと、天候によって、水面の変化がもっと激しいです。私たちの心も、この世で暮らしていますと、しぶきが立つくらい荒れるときがあります。そういう時は、祈るなんていうことはとてもできません。先週の金曜日は大雨が降っていました。家内が北千住に用事に出かけました。後から「北千住からだけど、亀有駅に迎えに来て」という電話が来ました。私は車で駅まで迎えに行きました。しかし、いくら待っても来ないんです。あそこのロータリーは車を駐車できないので、少しは停車して、車を動かし、4周くらい回りました。ようやく、家内が顔を見せ、車に乗りました。私は「電車に乗るときに電話したのか、何でこんなに時間がかかるんだ」とカンカンに怒りました。「ああ、今度は亀有駅から着いてから迎えに行こう」と思いました。最近、怒ったことはなかったんですが、久しぶりに怒りました。不当な扱いを受けたので、カチンと来たんですね。私は不当な扱いに弱いんですね。このように、怒りによって、心が波立つときもあります。また、心配事や思い煩いで心が波立つときがあるでしょう。そういうときこそ、祈らなければならないのですが、祈れないのが人間です。

 テキストのP.18にありますが、「私たちが平和な心をもって祈ることができるために、2つの鍵があります」と書いてあります。第一は、私たちのすべての心配を主に手渡すことです。どのようにしてでしょうか?ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ここには、「感謝とともに祈りと願いをささげよ」と書いてあります。感謝ってできないですよね。特にうまくいっていない時には…。テキストには「私たちが感謝をささげるとき、私たちは神様の臨在を感じることができる。感謝は私たちの心を変える」と書いてありました。うまくいっていない状況や環境を見て、不平不満を言うのは簡単です。私などは、問題が起こったときは、自然に不平不満を言うのがに慣れっこになっています。「何でだよー」と叫ばずにはおられません。でも、聖書は「すべてのことを感謝しなさい」「感謝をもって祈りと願いをささげよ」と命じています。なぜでしょう?何の根拠があってでしょうか?それは、神様がそういう状況の中にもおられるからです。そして、全能なる神様が「すべてのことを働かせて、益にしよう」と待ち構えておられるのです。それなのに、私たちが不平不満を言ったり、つぶやくならば、神様は手を引くしかなくなります。そうすると悪いことは悪いまま、問題は相変わらず問題として残るでしょう。でも、私たちが信仰を働かせて、「今、こういう状況でも神様は働いておられます。だから、感謝します。ハレルヤ!」と、告白するならどうでしょうか?心が平安になり、祈りがさらに出てきます。「神様、こういう状況で私は悩んでいます。これがこうして、ああなったのです。でも、神様はどんなことでもおできになります。あなたにゆだねます。」こういうふうにして、神様との会話が進みます。どういう訳か、後から思うと、試練の中にいるときが、真近に神様を体験できるのです。こちらが真剣に神様に求めると、やはり、神様も真剣に答えてくださるということです。感謝には力があることを覚えましょう。どんな力でしょうか?主の臨在をもたらす力です。

第二番目の平和な心を持つ鍵は、積極的なことを考え続けることです。ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」とあります。使徒パウロは、合計8つの良いことに心を留めよと勧めています。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいことです。その次には、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いことです。これで6つです。そして、他に心を留めることとは、徳といわれること、称賛に値することです。合計8個になりました。「心に留める」とは、「頭の中でそういうことを考えよ」ということです。これらの8つは、聖書にありますが、聖書だけではありません。この世の中にも、あります。神様はこの世界を創造されたときに、「良かった、良かった、非常に良かった」と言われました。しかし、アダムとエバが堕落してから、この世界も罪によって汚染されました。しかし、完全ではありませんが、この世界の中に、8つの良きものが宝石のように散りばめられているということです。問題は、私たちの目です。グレーのサングラスで見るなら、何でもグレーに見えてしまいます。つまり、物事を批判的に否定的に見るならば、何を見ても良くありません。もし、私たちが宝石を捜すように、この世界を見るならば、神様の「創造のかけら」を発見することができるのではないでしょうか?未信者の中にも、映画や一般の書物にも、8つの良きものがあります。どうぞ、そういう良きものに心を留めましょう。人が刺されたとか、だれかが不正を働いたというニュースはさらっと聞き流し、もっと良きものに心を留めましょう。そうすれば、心の平安が保たれ、いつでも主と会話をすることができます。

3.祈りの目的

祈りの目的は、私たちの生活を主にご支配していだたくために、神の王国を招くことであります。マタイ6:10「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」とあります。「御国」とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では、バシレイアーと言いますが、「王国」とか「支配」という意味です。もし、私たちの生活に、神の王国、神の支配がやってきたならどうなるでしょうか?エデンの園のように潤い、すべてのものが輝き、命にあふれるでしょう。では、どのようにして神の王国が私たちの人生、私たちがいるところにもたらされるのでしょうか?その答えは、イエス様を招くのであります。イエス様は神の王国の王です。イエス様が来られるならば、神の王国も一緒に来るのであります。私たちはイエス・キリストにあって、どのようなことを経験できるのでしょうか?ピリピ2:1に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と書いてあります。私はこれまで、この御言葉をほとんど気にとめたことがありません。でも、このことがキリストにあって経験する御国、神の王国であるとしたらどうでしょうか?ここには5つの事柄が示されています。励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみです。わあー、私の人生、キリストに出会う前は、こういうものが全くありませんでした。いや、今もこの世にはありません。私も郵便局で少しだけアルバイトをしていますが、「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」ほとんどありません。本当に殺風景です。大体、この世はそういうものです。そういう中で仕事をしていらっしゃる方は本当にご苦労さまです。

でも、みなさん、もし私たちがそういうところに神の国をもたらすことができたら何と幸いでしょうか?考えてみますと、2000年前、イエス・キリストと神の王国が一緒に来ました。イエス様が行くところ、どこにでも人々は、神の王国を体験することができたのです。福音書を見ますと、まさしく人々は「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けました。イエス様は人々を支配というかコントロールしていません。もちろん、時々、命令はしていますが、コントロールではありません。イエス様の「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けた人々はどうなったでしょうか?弟子として、イエス様に従ったのであります。そして、自分もイエス様のように神の王国をもたらす人になりたいと志願したのではないでしょうか?でも、みなさん、それを「教会制度、教会組織」という箱に入れてしまいました。すると、本来あるべき、何がなくなったのでしょうか?それは、ピリピ2:2の内容です。ピリピ2:2「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」まことに、残念ですが、人々が神の王国を「教会制度、教会組織」に置き換えてからどうなったでしょう。一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせる、志を1つにするということが不可能になったのです。教団や教派でライバル心を持ちました。「うちはこういうことを強調し、こういうことに優れている」と分派心を持ちました。相手を自分よりも低いものと見るようになったのです。神の王国は、いわゆる教会に来るのではありません。人々の心の中に来るものなのです。なぜなら人々が教会そのものだからです。

 ですから、私たちは神の王国の民として、教会をとらえるべきです。どうぞ、制度とか組織にしないでください。私たちの内にキリストの支配を歓迎するときに、結果的に、パウロが持っていたような喜びに満たされ、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つになるのです。ですから、神の国は私たちの心に来なければなりません。イエス・キリストを私たちの心に王様として招き入れるのです。そうするならば、私たちの心に神の王国がやってきます。では、心とは何でしょうか?テキストには、「私たちの意思と思いと感情である」と書いています。そうです。私たちの意思と思いと感情をイエス様に明け渡しましょう。そうすれば、イエス様は私たちを豊かな神の王国へと導いてくださるのです。私たちは可能な限り頻繁に「神様、私の意志と、私の思いと、私の感情を導いてください」と言って、これを習慣化させる必要があります。私は25歳でイエス様を信じはしましたが、それまでの古い習慣がまだ、身について残っています。自分の意思、自分の思い、自分の感情を優先させるときがあります。これはやっぱり、意識的に、神様に願う必要があります。箴言3:3-6は、このことを具体的に示しているすばらしいみことばです。箴言3:3-6「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」アーメン。ヨハネ:14に、イエス様は「恵みとまことに満ちておられた」とありますから、まさしく、イエス様を捨ててはなりません。イエス様を首に結び、心の板に書き記すほど、親しく交わるのです。そして、心を尽くして主イエス様に拠り頼むのです。自分の悟りにたらないで、行く所どこにおいても、主イエス様を認めるのです。そうするなら、神の王国、つまり「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ」をもっと体験することができるのです。

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