2015年9月25日 (金)

逆転勝利の人生 ローマ8:28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27

 これまで、私たちは自分の過剰反応に気づき、心の叫びを完了し、新しいコア世界観を持つということを学びました。これらのことを「心の癒し」とか「オーバー・カム」と言います。私たちは心が癒されたらそれで良いんじゃかいかと思います。しかし、李光雨師はエネルギーの源を変えなければならないと言われます。多くの場合、心が癒される前は「何くそ、今に見返してやるぞ!」みたいな負のエネルギーでやってきました。この世では、心の動機がどうであろうと、結果が良ければ良いかもしれません。箴言212「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる」とあります。神さまは、私たちの行ないよりも、何をエネルギーにしているかをご覧になっておられます。  

 

1.逆転勝利

テキストには、このように書かれています。「癒し(オーバー・カム)だけでは不十分です。古い怨念晴らしやネガティブなエネルギーの代わりに、新しいエネルギーを持たなければ、新しいライフ・ステージはなかなか生まれて来ません。これまでは、怒りとか悲しみのエネルギーに満ちていました。それを乗り越えたときに、新しいエネルギーをどのようにして見つけたら良いのでしょうか?自分自身に与えられている神さまからの賜物と神さまが自分の人生に与えてくださった召命の2つを明確化して受け止めることが、新しいエネルギーになります。この段階がとても重要です。ただし、これをあまり早くやってしまうと、とてもゆがんだ形になります。古い世界観を持ったままの段階になってしまうでしょう。」李光雨師は、「癒し(オーバー・カム)の最後の仕上げは、逆転勝利がある」と言っています。つまり、賜物の開発とか、使命にその人が導かれる前に、逆転勝利というハードルを越えているかどうかが重要だということです。逆転勝利のハードルとは、「人生に起こったことすべてが良きことに用いられるのだ」と心から納得することです。逆転勝利のテーマをその人が認識し、それと取り組んで先に進んでいるかどうかを見極めないと危険だということです。キリスト教会では「神の召し」を強調しますが、怨念晴らしで牧師になったりします。もし、怨念晴らしでやっていたなら、一番良いところで、サタンにひっくり返されてしまうでしょう。キリスト教会でそういう働き人たちが結構いらっしゃいます。始まりはとても良さそうに見えますが、最後が良くありません。なぜなら、その人は負のエネルギーでやっていたからです。ですから、その人が癒されていても逆転勝利をしているかどうかとても重要です。

では、逆転勝利とは具体的にどういうことなのでしょうか?逆転勝利とは、「人生のすべてが神さまの働きによって益となる」ということです。ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」自分の人生は神さまのために仕えることが、初めから、全部、神さまのご計画でした。そして、自分の今までの悲しみ、痛み、喪失、恨みとかが全部、ひっくり返って財産になるのです。李光雨師は、最初にその人の悩みや問題を伺いますが、その人の逆転勝利が何かをも同時に考えるそうです。たとえば、「あなたの人生の中の一番、なかったら良いものは何ですか?一番の負の財産は何か?」と聞きます。すると、その人が「親からの虐待です」と答えたとします。その人の悪循環パターンは、「自分の力では何もできない。無力感、未達成感、やっても難しい」でした。一生懸命、がんばっても、心の中に存在不安を抱いています。でも、李先生は「最大の負債がやがて、最大の財産に変わっていく。そこには神さまの仕込みがあり、必ず、プラスになるんだ。プラスになる方法を見つけてやれば良いんだ」と考えるそうです。虐待とは、「一番、可愛がってもらえるべき人から可愛がってもらえなかった。自分を面倒見るべき人から面倒見てもらえなかった」ということです。そういう人は、「良いところまで行くけど、失敗します。どうせだめだろう」と諦めてしまいます。ある人たちは、子どものとき肉体的あるいは精神的な虐待で打ちのめされた経験を持っています。言い換えると、暴虐の前に膝を屈してしまったのです。そのため、理不尽な出来事に遭遇すると圧倒され身動きできなくなります。でも、その人が神さまの絶対的な愛を受けて癒されるとどうなるでしょう?「私はたとい理不尽なことがあっても、私の魂は壊れない。人にはできないが神にはできる」という新しいコア世界観を持ちます。そこで人生のギアが反転し、神さまのエネルギーで生きるようになります。その人がある時、葛藤を覚えている人に出会います。「ああ、この人は私と同じようなテーマを持っている」と匂いでわかります。その時、これまでの負の財産がプラスになって、違いをもたらす人として神さまが用いて下さるでしょう。「あのことがあったから、今の私があるんだ」と感謝できるようになるのです。片親で育てられた人は、同じような境遇で育った人の気持ちがわかります。お兄さんやお姉さんが壁になっていた人は、同じような境遇で育った人の気持ちがわかります。このように負の財産がプラスになるのです。そして、それが賜物と召命につながって行きます。

逆転勝利をした人で最も有名な人物は旧約聖書のヨセフです。彼は末っ子で父から溺愛されました。ある時、「みんなが私を拝んだ夢を見た」と言って、みんなに自慢しました。そのため、兄弟たちから妬みを買い、エジプトの奴隷に売られました。彼は奴隷でありながらも、主人から全財産を任されるようになりました。あるとき主人の妻から誘惑を受け、上着を残して逃げました。ところが、濡れ衣を着せられ、今度は監獄に投げ込まれ鎖につながれました。そこでも、監獄の長から恵みを受けて、囚人の管理を任せられました。ある時、王様に謀反を起こしたかどで二人の官長が監獄に入ってきました。ヨセフは彼らの夢を解き明かしてあげました。解放された方の官長に「私のことをパロ王に話してください」とお願いしました。ところが、彼はヨセフのことをすっかり忘れました。それから2年たったある夜、パロは不思議な夢を見ました。エジプト中の知者や呪法師もパロの夢を解き明かすことができませんでした。その時、官長は夢を解き明かしてくれたヘブルの若者のことを思い出しました。奴隷に売られてから13年たっていました。ヨセフは兄弟たちを憎んだでしょう。ポテファルの妻を憎んだしょう。放っておいた官長を憎んだでしょう。なぜなら17歳から30歳までの青春時代を奪い取られたからです。さて、ヨセフは牢獄から出され、着物を着替えてからパロの前に出ました。そして、パロの預言的な夢を解き明かし、大ききんに備えるように進言しました。パロはヨセフの知恵にとても感動し、国のすべての財産をまかせ、王様の次の位を与えました。なんと、ヨセフは奴隷から宰相になりました。大飢饉が父親や兄弟の地域にも及びました。それで、兄弟たちは銀を携えて、穀物を買いに来ました。兄弟たちは目の前の宰相がヨセフとは知らず平伏しました。その時、夢が成就しました。ヨセフは厳しく彼らをあしらいましたが、心から罪を悔いていることを知りました。ヨセフが自分の身を明らかにしたとき、兄弟たちは驚きのあまり、答えることができませんでした。仕返しをされるかもしれないと恐れました。ところが、ヨセフはこのように答えました。創世記455「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」ヨセフは、「よくも、お前らは!」と兄たちを殺すこともできました。しかし、ヨセフは「神さまが家族を救うために、エジプトに遣わしてくれたのだ」と悟っていたのです。つまり、神がすべてのことを働かせて益としてくださったということです。旧約聖書のヨブもそうです。ヨブは10人の子どもと全財産を一瞬にして失いました。さらには全身重い皮膚病にかかり、土器のかけらで自分の体をかきました。それだけではありません。同情してくれるべき妻から「神を呪って死になさい」とまで言われました。さらに、3人の友がやってきて「お前に罪があるから、こうなったのだ」と代わる代わるヨブをさばきました。どのくらいの期間苦しんだか分かりませんが、暗いどん底でヨブは主と出会いました。ヨブは「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか」と自分をさげすみました。ヨブの最後はどうなったでしょう?「子どもが10人と、ヨブには二倍の財産が与えられ、さらに140年生きて、4代目の子どもまで見ました。ヨブの生涯は完全に贖われ、逆転勝利を得たのでした。

 みなさんの人生においてどうでしょうか?一番いやだったこと、一番損と思われることが益になったでしょうか?それとも、「きっと見返してやるぞ!復讐してやるぞ!」と負のエネルギーでがんばっているでしょうか?一生懸命やっている姿をだれも責めることはできません。しかし、その人を駆り立てているエネルギーは何かということです。日本では豊臣秀吉、野口英雄、田中角栄を尊敬する人たちがいるかもしれません。でも、彼らは負のエネルギーで名を上げた人たちです。でも、心の中は悲惨だったのではないかと思います。箴言212「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」神さまは、あなたの行ないがどうであれ、何をエネルギーにしているか、あなたの動機をご覧になっておられます。もし、逆転勝利をしていないなら、一番良いところでひっくり返されてしまうでしょう。どうぞ、癒しを受けた後、新しいエネルギーを神さまからいただきましょう。今までの怨念のエネルギーとは違う、新しいエネルギーへの転換が必要ではないでしょうか?「最大の負の出来事が、最大の益になった」という逆転勝利をいただきましょう。そうすれば、賜物と召命という次の段階もうまく行くでしょう。

2.賜物と召命

 李光雨師は「その人が一番苦しんだ場所が、その人の一番用いられる場所になる。神さまの仕込みがそこにあったんだ」と言います。面白いですね。私たちには「あんな家に生まれなければよかった」「あんなことが起こらなければ良かった」と思っている負の財産があります。ところが、神さまがそれらを全部ガラガラ・ポンして益にしてくださるのです。たとえば、ヨセフのことを考えると、ヨセフの13年間の時間が無駄だったのでしょうか?そうではありません。彼はポテファルの家で財産を管理することを学びました。監獄では囚人たちを世話したので、人を管理することを学びました。30歳のときエジプトの宰相になりました。彼は豊作の時の穀物を蓄えさせ管理させました。ききんが来たとき人々にそれらを売りました。最後に人々は穀物を買うお金がなくなりました。その時、ヨセフは家畜や農地と引き換えに穀物を与えました。こうして、すべての土地が王様のものになったのです。ヨセフには神からの知恵がありましたが、同時に奴隷時代に体得した管理の能力も役に立ったのです。つまり、13年の負の体験が益になったのです。神さまは13年間、主人の家と監獄で、ヨセフを仕込んだと言っても良いでしょう。

 使徒パウロの生涯はどうでしょうか?彼は律法を厳格に守るパリサイ派の出身でした。ガマリエルの門下生として学ぶ、エリート中のエリートでした。ところが、「イエスは主である」という人たちが増えてきたので、「とんでもない奴らだ」と彼らを捕まえては牢獄にぶちこみました。ところが、ダマスコに行く途中、復活の主が現れ、倒されました。まばゆい光を見たので、3日間も目が見えませんでした。そのとき、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか」という主の声を聞きました。彼はキリスト信者を迫害こそすれ、主を迫害しているとは全く思っていませんでした。その後、主から「異邦人に、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、私の選びの器です」と言われました。パウロはキリスト者を迫害する者から一変して、キリスト教会の土台を作る使徒に召されたのです。彼は自分が持っているものを「ちりあくたと思っている」とさげすんでいます。パウロは自分が持っている人間的なものを一度全部捨てました。ところが、主はそれらを拾い上げて福音宣教と教会形成のために用いたのです。パウロは自分が学んだ律法と神さまからいただいた啓示を融合させ、本当の福音を語ることができたのです。もし、パウロがいなかったなら、今日のキリスト教会はなかったと言っても過言ではありません。教会を迫害する厄介者が今度は教会を建てる者に用いられたのです。これが逆転勝利であり、主の賜物と召命であります。

 前回、私が小学校5年生の頃、記念切手を兄が取り上げて喧嘩になり、それを父が取り上げて、ストーブにくべたということをお話ししました。私はそれ以来、すべてのコレクションをやめました。しかし、梅の花や国定公園の画像を見ると、「ああ、あのような切手を持っていたなー」と思い出すことがありました。25歳でクリスチャンになりましたが、大川牧師やチョーヨンギ師のメッセージをノートに書き留めるようになりました。それだけではありません。弟子訓練会の学び、エディレオ師の説教、エリヤハウスの教えなど全部テープ起こしをして資料を作りました。それがどんどんたまり、ものすごい資料集になりました。いつの間にか私は、コレクションをしていたのです。ところが、67年前にベンウォン師が来られ、「牧師室を焼いて、外に出て行って、人間関係を作りなさい」と言いました。確かに私はパソコンの前に座って資料作りに励む時間が多かったように思います。セル関係だとかコーチングと言われ励んでみました。ところが、私は人といるよりも自分一人でいる方が好きだということが分かりました。私はそれまで自分は外交的だと思っていましたが、「人間が好きじゃない」ということに気付いたのです。牧師がそんなことを言ったら大変になりますが、電話が怖いのは事実でした。後からそれは親や兄弟から虐待を受けたのが原因だということが分かりました。でも、李光雨師からカウンセリングを受けて、はっきりと分かりました。「神さまは私のコレクションを用いて下さる」と。私はコツコツと作業をするタイプです。そして、たくさんの資料をまとめて、そこから教えたり語ったりします。「これが私の賜物なんだ」と分かったのです。その後、ジョエル・オスティーンの本や説教を聞き、大変、感動しました。神さまは一人一人に、固有のDivine destiny(神の計画)を持っておられ、生まれた時に既に備えておられたということが分かりました。生まれた後から努力して得るのではなく、生まれる前に神さまは装備してくださっていたのです。車には色んな車種があります。さらに、車を買う時、ある部分をオーダーメイドできます。納品されたとき、ちゃんと出来上がっており、エンジンがないとか、窓ガラスがない車はありません。私たちもこの世に生まれ出たとき、ちゃんと装備されていたのです。そのことが分かって、私の世界観がずいぶん健康に育ちました。それまでは、私のコア世界観は脆弱で、積極的な考えや見方を持ち続けることができませんでした。聖会やキャンプに行っても、1週間で元に戻ってしまいます。でも、新しいコア世界観にジョエル・オスティーンの教えがぴったり当てはまったのです。

 あるクリスチャンは「礼拝の説教を聞いてもその時だけ恵まれるけど、家に帰ったら忘れてしまう」という人がいるかもしれません。聖書を読んでお祈りしても、「私の人生はうまくいかない」とどこかで思っているかもしれせん。それは、あなたのコア世界観が古くて脆弱だからです。だから、信仰的で肯定的で積極的なことが、嘘みたいに思えるのです。どうぞ、コア世界観を新しいものに取り替えてください。聖書的、ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。その後の話が、今日のテーマです。神さまから与えられた賜物と召命に生きるということです。「いやー、私は賜物と召命がわかりません」という人がたまにいらっしゃいます。昔、「ディスカバー・ジャパン」というキャッチフレーズがありました。何度も申し上げますが、神さまからの賜物と召命は、自分が触れられたくない負の財産と関係があるということです。あなたはヨセフのように、あるいはヨブのように、ひどい環境の中で、仕込まれたのです。権威ある人から、「歌をやめろ」とか「ピアノをやめろ」と言われたかもしれません。あるいは「○○に向かない」とか「お前には才能がない」と言われたかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?あなたは、一流になることを諦めたかもしれませんが、自分なりに努力してきました。神さまは日の当たらないところも、ちゃんとご覧になっています。そしてそれらを、まとめて益にしてくださいます。ただし、その前に、怒りとか悲しみ、恐れという否定的な動機を捨てなければなりません。「馬鹿にした奴らを、いつか見返してやるぞ!」では、神さまのみこころはなりません。エネギーを転換したとき、負の財産が、すべて宝物になるでしょう。パウロのように、「私が走って来たこと、労したことは無駄ではなかった」と誇ることができるのです。

最後にジョエル・オスティーンのIts Your Timeという本から引用して終えたいと思います。ジェイコブという農夫がシーザーという名の騾馬を飼っていました。その騾馬がどういうわけか15メートル以上の深さがある、廃墟の井戸の中に落っこちてしまったのです。ジェイコブは普段から、この騾馬のことをたいそう可愛がっていましたので、何とか助けようと必死でした。でも、色々と試してみましたが、シーザーを救う手段はもうないという結論に達しました。ジェイコブが上から観察する限りでは、シーザーは声をあげるどころか、ピクリとも動く気配がありません。現実主義者だったジェイコブは仕方がないと割り切り、その井戸を土砂で埋めて、墓にしてやろうと考えました。ジェイコブは友人数人を呼んできて、シャベルで土砂をすくって井戸に放り込む作業を開始しました。最初の土のひと盛りを井戸に投げ込みました。落下した土が、気を失っていた騾馬のシーザーの目を覚まさせました。そして別の土が背中に当たるのを感じたシーザーは、今何が起っているのかを理解しました。生き埋めにされるわけにはいきません。シーザーは何とかしようと考えました。土が放り込まれてきたら、彼は背中にかかった土を、体を振って払いのけ、ひずめで土を蹴って常に土の上にいるようにしました。じっとしていれば確かに土に埋まりますが、土が来るたびに払いのけて土の上に乗っかっていけば、確かに上へ上へと行けます。しばらくの間、シーザーは土を蹴っちゃ登り、蹴っちゃ登りを繰り返していました。一時間ほども作業をした頃でしょうか。ジェイコブと友人たちは、シーザーの長い耳が井戸からニュッと突き出してきたのを見た時、驚きのあまり固まってしまいました。その時、ジェイコブを含めその場にいた者は「シーザーは死んでいなかったのだ」ということを理解したのです。そこで皆は、シーザーが井戸を乗り越えてこられる高さまで土を入れて、やっとこさシーザーを自由の身にさせてやることができました。ジェイコブも友人たちも、もともとシーザーを埋葬するために井戸へやってきたのです。でも彼らは逆に、シーザーの命を救うことになったのです。あなたも、あの騾馬のシーザーがやったように、もしあなたの背中に土が放り投げられたら、ふるい落として上へ登っていただきたいのです。あなたが人生において不当に扱われたり、失望に襲われるような体験をした時、その土砂にあなたを埋葬させてはなりません。すぐさまふるい落とし登ってください。人生においては、あなたを失望させ追い詰めるかのごとき経験をすることがあるかもしれません。それは、あなたを『埋葬』してしまうために土を投げられているのと同じです。でもそれは、あなたが再び生まれ変わって、新たな良き展開を迎えるための、神が送られたチャンスなのです。あなたにも逆転勝利の人生を計画しておられる主の恵みがありますように。

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2015年9月18日 (金)

新しいコア世界観 ローマ12:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.20

 自分に悪循環のパターンがあることに気づかれたでしょうか?一番問題なのは、悪い感情ではなく、それを起こしている考え(認知)であります。しかし、その考えは、心の奥底、コア世界観から出ているということでした。あなたはどのようなコア世界観を持っているでしょうか?コア世界観を知るためには、心の叫びをワンフレーズで言い表す必要があります。心の叫びがわかると、コア世界観もおのずとわかってきます。では、どうすれば、過剰反応の悪循環パターンから解放されるのでしょうか?それは、古いコア世界観を捨てて、新しいコア世界観を持つということです。その結果、悪循環から解放され、新しいライフ・スタイルを持つことができるのです。 

1.心の叫びの完了

新しいコア世界観を持つためには、心の叫びを完了させなければなりません。そうすれば、その人は、古いコア世界観を捨てて、新しいコア世界観を持つことができるのです。では、どのようにしたら、心の叫びを完了することができるのでしょうか?その1つの方法を李先生は「インナーヒーリング」によって行ないます。最初に自分の世界が壊されるようなエピソード(出来事)があったはずです。おそらく、それは幼い時であり、相手が父母、兄弟、あるいは身近な人であったと思われます。その人のひどい言葉や身勝手な行ないによって、あなたの世界が壊されたのです。そのことが癒されないために、今日、大人になっても同じようなステージの中で、過剰反応が繰り返し起こるのです。

李先生ご夫妻は心の叫びを完了するためにインナーヒーリング(心の癒し)を用いています。基本的にはその人のエピソードを聞きながら、「自分の一番痛い経験をしたところで、神さまがその場所で、どういう視線を持っていてくださっていたか?どういうメッセージを持っていてくださったか?」ということを祈りのミニストリーを通して再体験してもらいます。過去の出来事の中にあった神さまの真実を、祈りを通して今、理解するということです。祈りの中で、インナーチャイルド(内なる子ども)すなわち、「過剰反応を引き起こす、自分の中にある子どもっぽい心」を取扱います。自分の中に辛い体験をしたときの子ども「内なる子ども」が留まっているはずです。そのインナーチャイルドに祈りのミニストリーを通して、イエス・キリストの交わりを再体験してもらいます。そして、そこでイエス様からの答え、励まし、あるいは「真実はこういうことなんだ」と言うことを追体験してもらいます。そのところに「心の叫び」が一番出て来やすいのです。たとえば、「幼い○○ちゃんは、何と言っていますか?」と聞きます。「抱きしめてよ」、つまり、「自分に安心感を与えてよ」という心の叫びであるかもしれません。ちっちゃい○○ちゃんを想像します。ちっちゃい○○ちゃんが怒っています。あるいは泣いている姿、あるいは悲しみに沈んでいる姿があります。具体的なエピソードの中での自分のイメージです。「そこにイエス様がいてくださった」という真実があります。かつての自分の痛みの場にもイエス様の臨在があったのです。

 次にこのように祈ります。「そこにイエス様がいてくださったことを祈りの中で確認してみましょうか?」すると、「はい、イエス様が言われた感じがします」と答えるかもしれません。「では、イエス様は何と言ってくださっていますか?あなたの心の叫びにどんな答えを与えてくださいますか?」というように祈りを助け導きます。そこで、インナーチャイルドと神さまが出会います。そこで、その人が心の叫びをイエス様に伝えます。つまり、イエス様がどう答えてくださるか、祈りを通して体験をしてもらいます。テキストに「最後のワンピース」という表現があります。神さまとの関係の中で、「ジグソーパズルの最後のワンピースを埋める」ことが癒しのミニストリーです。その時に心の叫びを神さまの前で最終的に完了させてもらいます。怨念晴らしを繰り返すのは、「ジグソーパズルの最後のワンピースを埋めようとしてみたが、これも駄目だった。最後に、はまらなかった」ということなのです。そして、そういうことをずっと繰り返しています。そのワンピースを神さまがピタっとはめてくださいます。そういう助けをするのが癒しのミニストリーです。その人が、神さまから絶対受容を受け取るのです。そういうリアリティをもった神さまとの関係があれば、そのワンピースが埋められます。そのことが怨念晴らしをやめさせる唯一の方法です。それがないと人は怨念晴らしをやめません。以前は、幻想に振り回されていました。唯一、神さまとの間にリアリティがあります。そこに気がついてくれたら、その人は怨念晴らしをやめることができるのです。

本人が「神さまが心の叫びを受け止めてくださった、完了した」と言える瞬間があります。そうすると、その人の歯車が変わります。信仰の先輩たちの証を見るとどこかで完了しています。そこからミニストリーが変わっています。つまり、心の叫びの完了です。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」十字架の最後にイエス様は、「完了した」とおっしゃられました。十字架はそういう意味で罪の贖いの完了でもあるし、私たちの心の叫びの完了でもあります。イエスさまは十字架を私たちに与えてくださいます。結局、心の叫びを生み出すのは、だれかの罪の犠牲者になっているということです。だれかの罪の犠牲者になっていることが被害者としての自分がスタートしました。それをどう乗り越えていくかと言うことです。最終的にはイエス・キリスト、神さまとの深い交わりでそれを乗り越えて行くしかありません。心の叫びを完了するために、最後のワンピースを埋められることが、乗り越えるためのエネルギーになるのです。

 私は今から6年くらい前に、李先生からミニストリーを受けました。ちょうどその時、私の世界が壊れ、そこから怒りや恐れが吹き出ていました。神さまに必死に祈り求めても、苦しくてたまりませんでした。原因は、環境のせいではなく、自分自身の考え(世界観)だったのです。私の世界が壊れた、子どものときのあるエピソードを思い出しました。私は小学生のとき記念切手を集めていました。小学校5年生の頃、東京オリンピックの記念切手シートが発売されました。学校に遅刻して並びました。1枚のシートを私と友人と郵便職員がじゃんけんをして、私が得ることができました。ある時、3歳上の兄が、「俺にくれ」と切手シートを取りました。私は「だめだよ」と、その切手シートをひっぱりました。兄が怒って、その切手シートを手でぐちゃぐちゃにしました。私は大声で泣きました。そこに座っていた父が、「こんなものがあるからだ!」と言って、槇ストーブの中に切手をくべてしまったのです。その時、私の世界が壊れてしまったのでないかと思いました。本来なら、そこにいた父が治めるべきでした。しかし、父は酒を飲んでは、母を殴り、私たちにも暴力をふるいました。兄弟同士も互いに争っていました。今でいうと、私の家は機能不全だったのです。だれも守ってくれない中で、不当な扱いを受けて、私の世界が壊れたのです。私の心の叫びは「私は悪くないのに、なんでだよ、ちくしょう!」でした。怒りの悲しみと絶望の声でした。それから、小中高学でも先生から私が一番叱られました。「私は悪くないのに、なんでだよ、ちくしょう!」と叫びました。私のコア世界観は「私は脆弱なので、不当な世界に太刀打ちできない」でした。祈りの中で、「イエス様は私の心の叫びを聞いてくださった。イエス様は私のことを弁明してくれる方だ」と分かりました。また、ある時、「天国に私が失ったすべてものがある」と信じることができました。私の最後のワンピースが埋められて、心の叫びが完了しました。私は怒りを手放し、絶望を神さまにゆだね、次のステップに進む決断をしました。

2.新しいコア世界観

 コア世界観があらゆる生活様式を生み出します。あるクリスチャンは霊的に救われたにも関わらず、過剰反応の悪循環パターンに縛られています。なぜなら、古いコア世界観で生きているからです。このミニストリーは、古いコア世界観を改善するのではなく、新しいコア世界観に取り替えるということです。果たして、新しいコア世界観というのは聖書的なのでしょうか?私たちはイエス様を信じたときに、霊的に生まれ変わりました。しかし、mind思いまで新たにされているでしょうか?ローマ122後半「すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。これは救われたクリスチャンに対する命令です。英語の聖書は、be transformed by the renewal of your mindとなっています。「一新された思いによって、変革されなさい」という意味です。「一新された思い」とは何でしょう?エペソ人への手紙4章には「心の霊において新しくされ、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に付けなさい」と書かれています。霊の外側に魂があります。魂は、感情、思い、意志の3つの分野があります。多くのクリスチャンは、霊が新しくなっているのに、思いや考えが古いままで生きています。だから、信仰生活がぎこちないのです。私たちの思いや考えの中核にあたるものが、コア世界観です。コア世界観を新たに変えるなら、考えが変わり、感情が変わり、生活が変わるということです。李光雨先生がどこで学ばれたかは分かりませんが、古いコア世界観を改善するのではなく、別の新しいコア世界観に取り替えるということです。聖書的に言うなら、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に付けるということです。

ある人は、だれかに言われたときには、「即座にそれに対抗して、その人たちを越える論理を持たないと自分の世界はいつも脆弱で弱くて潰される」というコア世界観を持っています。「相手の言っていることにどれだけ反論できるのか?」「この人は強いのか、弱いのか?」そういう判断基準を自分の中にたくさん作り上げます。この判断基準とか行動原理をいくら変えようと思っても、コア世界観が変わらない限り、その人は変わりません。また、ある人は「自分の世界は脆弱で壊れ易い」というコア世界観を持っているとします。そうすると「目の前にいる人は自分の世界を壊す人なのか?壊さない人なのか?」という判断基準を当然持つでしょう。あいつが、自分に対して、電話やメールなどで、文句を言ってきたとします。そういう状況・環境になりました。その時、行動パターンとして、「あ、この人は自分の世界を壊す人だ」と判断したとすれば、「守らなければ」という行動パターンを起すでしょう。「この人はまだ、自分の世界を壊すインパクトの弱い人である」と思えば、「やらせておこう。いつか反撃しよう」と思います。この人はちょっとでも人の世界をすぐ壊す人であると思えば、行動パターンとしては、フル稼働で防衛反応をしなければなりません。そうするとライフ・スタイルは、関係性が難しくなります。周りも引き込んで、関係性が難しくなります。あるいは、自分の親衛隊に入らないヤツラを攻撃したくなります。そのようにしてライフ・スタイルが束縛された悪循環のパターンになります。それを途中で、「判断基準を変えよう。行動パターンを変えよう」と思っても、コアが変わっていない限り、三日坊主で終ってしまうでしょう。「脆弱だ」というところを変えないといけません。この「脆弱だ」という、従来のコア世界観をコアAだとします。

世界観の革新、つまり思いの革新というのは、コアAをコアBに変える選択をするということです。では、コアBとは何なのでしょうか?コアBとは、「自分の世界は強い。脆弱ではない。根本的に自分の世界は壊れない」というものです。このところが心理療法の弱いところであり、たぶん認知行動療法にはないと思います。彼らは「核信念(コア・ビリーフ)を変えろ」と言いますが、「何を根拠にどう変えろ」というものがありません。しかし、神さまが私たちの世界を最終的に支えておられると信じるとします。もし、見た目で弱そうでも、ぜんぜん壊れないというふうに変えられれば、判断基準が変わってきます。アイツが文句を言ってきました。そうすると、「何か言われた」という同じ状況(状況は同じ)の中で、違う行動パターンが出てきます。その行動パターンが積みあがって、生活様式が違うものになってくるはずです。その人が心の叫びを完了することによって、「従来のコアAではなく、コアBを選ぶんだ」という決断が与えられます。その人が信仰を用いて、コアBを選ぶなら悪循環パターンのギアが反転します。本人もびっくり驚くでしょう。図を見ると分かりますが、コアAの世界観で生きていくとどうでしょうか?このコア世界観は「私は脆弱で壊れやすい」です。その人の考え、つまり評価や判断基準はどうなるでしょうか?「自分の世界を壊す人か壊さない人か」であります。その人から電話やメールで文句を言われたとき、「何とか防御しなければならない」と緊張します。そうすると、うつ的になり、眠れなくなります。もう、悪循環パターンにはまっています。コアAを選んでいるなら、途中でコアBに変えることはできません。途中で越えられない壁があるからです。もし、この人が最初の地点でコアBを選択していたならどうでしょう?コアBの世界観は「自分の世界は強い、脆弱ではない」であります。その人の考え、つまり評価や判断基準はどうなるでしょうか?「何を言われても自分の世界は壊れないから大丈夫だ」であります。その人から電話やメールで文句を言われたとき、「いいんじゃない、最善を尽くしていれば」と聞き流します。そうすると、平安になり、夜もぐっすり眠れます。祝福された新しい生活様式になっています。

これをパソコンで説明するとよく分かります。数年前、ウインドウズXPが使えなくなるので、ウインドウズ7か8にするようにという知らせを受けました。XPでパソコンを使っている人は大事件だったと思います。私はXPから7にすることにしましたが、両者には互換性がなく、新らたにインストールするしかありませんでした。私は7のために新しいハードディスクを買いました。1つはいろいろなデーターが入っている従来のXPです。もう1つは、64ビットで作業が早い7のハードディスクです。従来のXPを立ち上げると、7は使えません。7を立ち上げるとXPは使えません。説明書では64ビットの7だと、XPを中に入れられるということですが、面倒でやめました。とにかく、これをたとえ話にすると、コアAは古いハードディスクです。そして、コアBは新しいハードディスクです。コアAは古いハードディスクを立ち上げると、自分の世界を壊す人か、壊さない人かびくびくしながら生活をしなければなりません。そして、悪循環のパターンから逃れられません。でも、脆弱なコアAではなく、堅牢なコアBに取り替えるならどうでしょう?「何を言われても私の世界は壊れないから、大丈夫だ」と考え、そのように生活するでしょう。

3.新しい生活様式で生きる

李先生のテキストは「新しいライフ・スタイルを身に付ける」と書いてあります。日本語の生活様式でも、ライフ・スタイルでも、どちらでも結構ですが、これが身につくためにはトレーニングが必要です。これをオーバカム・トレーニングと言います。オーバカムという英語は、「克服する」「乗り越える」という意味で、とてもうがった表現です。私たちはコアBで生きるという決断をしても、環境や状況は変わりません。相変わらずあなたの前には、敵対する人や批判する人がいるでしょう。また、不当な使いを受けたり、不条理な状況に置かれるかもしれません。特に、不安や恐れを持っている人は、感情や身体が昔のことを覚えているのです。こっちは、「コアBで新しい世界観で生きているんだ」と確信していても、過呼吸やパニックが襲うかもしれないからです。たとえ、そう時になっても、「私は死ぬことはない、たとえ死んでも神さまが復活させてくださる。アーメン」となります。その結果、困難な状況さえも喜ぶことができます。そして、過呼吸の場合は、「主は私の羊飼い、私には乏しいことがありません」とゆっくり唱えると良のです。つまり、感情や身体に兆候があったとしても、信じないのです。Ⅱコリント418「私たちは見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。つまり、感情や身体からくる情報よりも、神さまの約束を信じるのです。新しいコア世界観を持っても、ぎこちないはずです。ですから、そこに聖書の考えを入れていく必要があります。さきほどの、新しいハードディスクのたとえと同じで、改めてデーター入れなければなりません。私は古い脆弱なコア世界観を持ったままで、積極的・肯定的信仰を入れて来ました。しかし、心の奥深で「私は弱いので、それはできない」と思っているのですから、しばらくたつと全部なくなってしまいます。たとえセミナーとか聖会に行ったとしても、1週間しかもちませんでした。でも、今は、新しいコア世界観の中にジョエル・オスティーンの積極的・肯定的信仰をたくさん入れています。だんだんそれが機能して、考えや感情、そしてライフ・スタイルまで変わっていきました。

ジョエル・オスティーンの本に「曲げられても戻るしなやかな人であれ」と書いてありました。20089月ハリケーン・アイクがヒューストンを通過した後、かなりの数の樫木の巨木がなぎ倒されました。風速毎秒44メートルの強風の前では、ひとたまりもなかったようです。大きな木も小さな木も、松も樫木も楡(にれ)の木も、皆倒れるのを免れることはできません。ところが、ある種の木はハリケーンの猛威の中でも生き残ることができます。それはどんな木かというと、見かけはあまり強くなさそうなヤシの木です。なぜでしょう?神様はヤシの木を、かなりの程度まで曲がるしなやかさを持ち、強風にあおられても折れないものとして創造されたようです。ヤシの木の柔軟さは特別です。ヤシの木のてっぺんが地面につくくらいに曲げても折れません。また、たとえ強風で木全体が曲がっても、その状態のままで5時間以上は必ず持ちこたえるのだそうです。ですから、ヤシの木は嵐を恐れません。学者によると、嵐のたびごとに根が地面に伸びるそうです。その次に嵐がやってきても、ヤシの木は嵐を恐れません。「また来な、今回も大丈夫だ」とばかり体をたわませます。ヤシの木はとても聖書的な木です。詩篇9212「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。」私たちもヤシの木のようなしなやかさを身に付けたいと思います。これからも困難なことがやってくるでしょう。不当な使いを受けたり、ひどいことを言われるかもしれません。でも、新しいコア世界観を持っている人はこのように考えます。「どんな不幸や逆境が襲ってきても、私の世界は壊れない。神さまが私と共にいて、通り抜けさせてくださるんだ。神さまが私たちの世界を最終的に支えておられる。私はヤシの木のようにしなやかに生きるんだ。アーメン」。ハレルヤ、私たちは心に傷が癒されるだけでなく、新しい世界観を持つべきです。そうすれば、違う考え、違う感情、違う行動パターンが出てきます。その行動パターンが積みあがって、新しいライフ・スタイルが生み出されて来ます。

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2015年8月 7日 (金)

御霊の賜物 ローマ12:4-8 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.8.9

 私たちには生まれつきの才能や能力があります。また、ピアノとか習字など、努力して身に付けた能力もあるでしょう。しかし、御霊の賜物はそれらと違って、私たちが新生したとき与えられる神さまの能力です。それをギリシャ語ではカリスマと言います。カリスマはこの世では別な意味で用いられていますが、本来は聖書的なものです。キリスト教会でも御霊の賜物に対して誤解があって、何か危険なもののように思われています。そうではなく、キリストのからだなる教会において、その人が神さまの働きができるように、聖霊が一人ひとりに与えて下さる能力です。

 

1.個人に与えられる「資質の賜物」とは?

 

ローマ124-8「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」パウロが言う「からだ」とは、教会のことです。現在、教会のかしらであるイエス様は、からだである教会を通して働きたいと願っておられます。第一の質問です。「からだの多くの器官は、何のことをたとえているのでしょう?」それは、各自に与えられている御霊の賜物のことをたとえています。

 

第二の質問です。では、「ローマ12章にはどのような御霊の賜物が記されているでしょう?」 預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善があります。合計、7つ記されています。これらを資質の賜物と呼んでいます。これらの中で、自分が喜んで用いたいものがあります。だれでも7つの中のどれか1つ突出しているものがあるはずです。

 

第三の質問です。「あなたが肉体的に生まれたときに与えられた性格とはどのようなものですか?」創世記にエサウとヤコブの双子のことが記されています。エサウは巧みな猟師で野の人でしたが、ヤコブは穏やかな人で天幕に住んでいました。二人は生まれたときから性格が違っていました。私たちはイエス様を信じたとき、霊的に新たに生まれました。そのとき、聖霊は私たち一人ひとりに霊的な賜物を与えられたと信じます。

 

第四の質問。「あなたが霊的に生まれたときに与えられた資質の賜物はこの中のどれだと思いますか?」急に言われても何のことなのか分からないと思います。ここでは簡単な説明しかできません。預言は、旧約聖書の預言者のような性格の持ち主です。この人はものごとを善か悪、正しいか正しくないか分けたがる傾向があります。主のからだの目と言えるでしょう。聖書ではバプテスマのヨハネやペテロがそうです。この人は罪と罪人を区別せずに、すぐにさばいてしまう傾向があります。ですから、愛をもって真理を語る必要があります。奉仕は、目に見える兄弟の必要に非常によく気がつき、率先してそれを行ないたいと思う人です。主のからだの手です。この人は、お掃除とか食事当番、教会の事務などもよくこなします。でも、マルタのように奉仕にとらわれるあまりに、真の意味を見失うことがあります。教えは、真理を探究し、伝えることを好む人です。主のからだの頭脳です。聖書を深く研究し、それを理論立てて教えることができます。しかし、この人は、学問だけにならないように、聖霊の満たしのために祈る必要があります

勧めは、他の人が勝利の生活を送ることができるように、勧めることを好む人です。クリスチャンの霊的成長を助けたいという強い願いがあります。主のからだの口です。注意する点は、熱心さのあまり、会話に割って入ろうとするので、他の人の不満の原因になります。自分のアドバイスを実行してくれない人には興味が湧きません。分け与える人は、他の人の益になるようなお金持ち物を惜しみなく与える人です。主のからだの腕です。什一献金を強く確信しており、その他の献金も惜しみません。ただし、人から報いを望むと失望します。栄光のためにささげるなら、神様がさらに満たして下さいます。指導は、組織だて、導き、指導することを好む人です。主のからだの肩(聖書では権威を表わす)ですこの賜物は「監督する人」とも言い、人々を組織し、長期的な目標に向かって仕事をする人です。注意する点は、忠実に仕える人をえこひいきしてしまいます。そして、自分が指導者のときは良くやりますが、自分より上の指導者に認められない場合はやる気をなくしてしまいます。慈善は必要な人に愛、あわれみ、思いやりを示す人です。心のメガネが愛であり、傷ついている人や弱い人や小さな人に関心があります。主のからだの心臓です。人の苦労や痛みがわかり、また人の痛みをいやすことができます。注意する点は、荷を負い過ぎたり、同情に流されやすい傾向があります。

 

今、御霊の賜物である資質の賜物を7つあげました。資質の賜物の特徴は、私たちの生まれつきの性格と良く似ています。その理由は、その賜物は努力しなくても、自然に出て来るからです。また、その賜物を用いるとあまり疲れないばかりか、いつまでも用いたいと思います。カリスマというギリシャ語は、カリスという喜びから来ています。だから、この賜物は私たちに聖霊によって働く意欲と喜びと恵みを与えるものです。もちろん、私たちの日常の生活において、自分の賜物でないものをしなければならない事もあります。奉仕の賜物がなくても、料理や洗濯もしなくてはなりません。慈善の賜物がなくても、病気の人の気持ちを理解しなければならないでしょう。聖霊はキリストのからだなる教会に7種類の資質の賜物を与えました。それは、互いに協力し合うためです。聖書には賜物の違う者同士が協力しあっているのを見ることができます。使徒の働きの最初を見ると、ペテロとヨハネはコンビであることがわかります。ペテロは預言の賜物でしたから、人の罪をさばく人でした。しかし、ヨハネは慈愛の賜物であり、人々の罪を理解し、それを覆う人でした。資質の賜物は、霊的な性格みたいなものです。賜物の特徴は、それを用いていると楽しい、疲れない、いつまでもそれをやっていたいということです。もちろん私たちは日常の生活や使命もありますので、賜物でなくてもやらなければならないことがあります。自分の賜物を発見し、神さまのご栄光のために喜んで仕えたいと思います。

 

2.御霊によって与えられる「力の賜物」とは?

 

 Ⅰコリント127-10「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」資質の賜物が性格的なものであるならば、力(現れ)の賜物はミニストリーをするための賜物です。建物で言うならば、資質の賜物が一階で、力の賜物は二階です。第一の質問です。「力(現れ)の賜物はひとりに集中するのでしょうか?」ひとりに集中しません。聖霊が時と場合によって、用いる人を主権的に選ぶようであります。ですから、その人が「私を用いてください」という信仰と備えができていないとダメです。「私はそんなものは信じないし、用いられたいとも思いません」という人には、決して与えられません。西洋まわりのキリスト教は、合理主義の影響を受けているので、霊の賜物には懐疑的で否定的です。聖霊様は今も「どの人に私の賜物を使ってもらおうか?」と神の人をさがしておられます。

 

第二の質問です。「力(現れ)の賜物はだれが与えるのですか?また、与えられている目的は何ですか?」聖霊様ご自身です。その目的はみなの益となるためです。Ⅰコリント1211「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」ビリー・グラハムは『聖霊』という本の中でこのように教えています。「神が与えてくださったと思われるその賜物を、謙虚に感謝して受けなさい。そうして最大限にその賜物を用いなさい。あるがままの自分の姿を認めて、持っている賜物を用いるべきである。賜物によっては、それなりの困難や危険の伴った重要な地位に召されるかもしれない。しかしまた、目立たぬ領域で奉仕するかもしれない。神は教会の一般の信者を素通りして、霊的エリートたちを召して教会の働きをさせようとはなさらない。むしろ、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられている。」

 

第三の質問です。「力(現れ)の賜物にはどのようなものがありますか?」Ⅰコリント12章にはざっと9つの賜物が挙げられています。知恵のことばとは、聖霊によって与えられる超自然的な知恵です。旧約聖書のダニエルやソロモンがその人でした。イエス様は「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか?」と問われたとき、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と答えました。これは神からの知恵です。では、知識のことばとは何でしょう?聖霊様が特定のことに関して、ずばり教えてくれるものです。エリシャは遠くから、ゲハジがナアマン将軍から銀と晴れ着をもらって家の中にしまい込んだのを知っていました。イエス様はサマリヤの女が夫を5人換えて、現在6人目と同棲していることを言い当てました。信仰とは何でしょうか?クリスチャンであるならだれでも信仰が与えられています。しかし、信仰の賜物は普通の人が信じられないようなことを信じることができます。神さまはその人の信仰を用いて、偉大なことをなされます。パウロは「山を動かすことのできる完全な信仰」と言いました。エリヤはこの信仰によって3年半雨をとどめ、その後、祈ったら雨を降らすことができました。いやしの賜物は、病気を癒す賜物です。主イエスはご自身の生涯の三分の一を病人や悪霊にとりつかれている人々をあわれみ、癒されることにお使いになられました。ある人たちは「医療が発達した今日には、癒しの賜物は不要だ」と言います。でも、皮肉なことに病院は病人であふれ、医療費は国家予算の約10分の1近くまでなっています。多くの教会はいやしのためにとりなしの祈りはしますが、具体的に手を置いて癒しをしないのはとても残念です。

 

奇跡を行なう力は旧約聖書では、モーセによる紅海徒渉、ヨシュアによるヨルダン川徒渉が有名です。イエス様は嵐のガリラヤ湖をひとことばで静めました。5つのパンと2ひきの魚で5000人の人たちを養われました。世界各地リバイバルが起きるところには、奇跡も伴います。盲人の目が開かれ、足のきかない人が癒され、歯が新しくはえるということもあります。預言は何でしょう?将来のことや隠されていることを言い当てます。新約聖書ではアガボやピリポの娘たちが預言をしています。ある人たちは「預言は聖書が完成した今は存在しない」と言いますが、それは大きな間違いです。もちろん、預言は旧約聖書の預言者ほど完璧ではありませんが、神のみこころを示してくれる大切な賜物です。パウロは「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」(Ⅰコリント141)と言いました。霊を見分ける力とは何でしょう?特定の言葉や行為、また環境の背後に働いている霊を見分ける力です。つまり、その動機や言葉、行いが何によって成されているか、またその出来事や環境の背後に、どんな霊が働いているかを見分ける力です。世の終わりには悪魔の力によって奇跡を行なったり、預言する者が現れます。偽預言者から教会を守るためにも、この賜物は重要です。異言とは、聖霊の促しにより、まったく習ったことのない発音で、自発的に話す言葉や賛美です。このとき話すのは本人自身ですが、自分の意識はまったく関与せず、御霊によって促されて発せられます。本人も何を言っているかわかりません。これは、神さまと直接交わることのできる賜物です。解き明かしのできる異言は、預言のように神さまのみこころを会衆に知らせてくれます。最後は異言を解き明かす力です。これは公に異言が語られた場合、「この意味は○○です」と解釈してくれます。これは通訳ではないので、異言の長さとは関係ありません。異言を解き明かすことによって、キリストの教会の徳を高めることができます。

 

第四の質問です。実際に体験した力(現れ)の賜物があるならば、お互いに分かち合ってみましょう。こういう分かち合いは小グループでないとできません。実際、これらの賜物も公で行うよりは小グループから始めるべきです。こういう礼拝のような公の集会で「主はこう言われます」などと預言されると困ります。また、預言者が教会に突然やって来て、「皆さんは、こうすべきですよ」と預言されてもすぐ従うべきではありません。なぜなら、牧師が教会のリーダーであり、秩序を保つように任されているからです。また、預言は複数の吟味が必要であり、何でもかんでも聞いてはいけません。自称預言者の預言を聞いて、分裂した教会やカルトになった教会があるからです。御霊の賜物は刃物のようなものであり、使い方によってはとても危険です。「刃物は一切使ってはならない」と言われたなら、台所の包丁も使えなくなります。正しく使えば良いのですが、そこには修練がどうしても必要です。また、目立った御霊の賜物を持つと、高慢になり悪魔の罠にはまってしまいます。ですから、そういう人こそへりくだって、牧師の権威に従うことが重要です。牧師自身も、自分にない賜物を持っている人をねたんだりしてはいけません。教会はキリストのからだなのですから、いろんな器官であるいろんな賜物が現われて当然だと思わなければなりません。もし、牧師や役員たちが「そんなのいらない」と言って、御霊を消すならば、御霊は他の教会に移って力あるわざをなされることでしょう。日本にはそのような教会がたくさんあります。そこには聖書のみことばがあり、秩序と聖さがあるかもしれません。

しかし、聖霊の力や現れがないとよどんだ教会になります。Ⅰテサロニケ15「福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によったからです」コリント24「私のことばと宣教は、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした」と書いてあります。ですから私たちは宣教のためには、聖書のことばだけではなく、御霊による賜物が必要なのです。私たちは偏見や無知から解放され、御霊の賜物を正しく用いる練達した働き人になりたいと思います。

 

3.教会に与えられる「職務の賜物」とは?

 

 Ⅰコリント1228-30「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。」

 

第一の質問です。「だれが教会の中に、専門的に御霊の賜物を行使する職務の賜物を与えるのでしょう?」神さまが教会の中から任命します。そして、教会がそれを承認するという形です。でも、最初からそれがわかるわけではありません。それがひんぱんに現れ、教会の徳を高めているなら、「ああ、この人は神さまからこのために召されているんだなー」と客観的に分かります。イエス様は「木は実によって知られる」と言われました。                       

 

第二の質問です。「教会に与えられた五職は何ですか?エペソ411を参考にしながらお答えください。」使徒、預言者、伝道者、牧師、教師があります。きょうは時間がありませんので、1つ1つ説明しません。テキストに記されていますのでご覧ください。

 

第三の質問です。「五職の他にどのような職務の賜物があるでしょうか?」奇蹟を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者があります。彼らはまるで専門家みたいな人たちです。おそらく、聖霊様が「この賜物に忠実である」と認めた人たちなのでしょう。

 

第四の質問です。「神の家を建てるにあたって、五職はそれぞれどのような役割を果たすでしょうか?」生ける石であるクリスチャンを建て上げるためにあります。これは、『本当の弟子』というテキストで学びました。

 

4.与えられた御霊の賜物の管理

 

Ⅱテモテ16,14「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。・・・そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」

 

第一の質問です。「テモテはどのようにして、パウロから御霊の賜物をいただいたのでしょう?」 按手、頭に手を置いて祈ってもらいました。エペソでは、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました(参考:使徒196)。神の人から手を置いて祈ってもらうと聖霊の賜物が開花することが良くあります。

 

第二の質問です。「テモテがいただいていた賜物は、どうなっていたのでしょう?」弱っていました。消えかかっていました。賜物は用いないと弱ることがあるのです。

 

第三の質問です。「神さまから与えられた賜物に対して、どのようであることが最も大切ですか?」ゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守り、神さまのために忠実に用いるということです。

 

第四の質問です。「あなたが神さまから正しく管理しなさいと命じられている御霊の賜物は何ですか?」もし、自分で分からなければ、親しい人や自分のメンターに聞いたら分かります。

 

マタイ25章にはタラントのたとえが記されています。タラントは重さの単位ですが、賜物というふうにも訳されます。私たちは他の人と比べる必要はありません。自分に与えられた賜物とその量にしたがって忠実に用いれば良いのです。1タラントの人は地の中に隠したので、不忠実な者として大変、叱られました。そればかりか、持っている人にそのタラントが与えられました。主人は何と言ったでしょうか?マタイ2529「だれでも、持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」これは、御国の完成時の時だけではなく、現在も働く原則です。私たちは神さまから与えられている賜物を見つけ出しましょう。見つけ出したら、それを忠実に用いましょう。時には冒険も必要です。恥をかくこともあるでしょう。でも、神さまは「忠実な者」と認めてくださり、あなたにたくさんの物を任せてくださるでしょう。「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人と喜びをともに喜んでくれ」と言われたいと思います。

 

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2015年7月31日 (金)

肉ではなく御霊によって ローマ8:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.8.2

 イエス様を信じると霊的に新しく生まれ変わります。「ハレルヤ!私は救われました」という喜びもつかの間です。自分の中にこれまで経験しなかった争いが起こるでしょう。なぜなら、新しく生まれ変わった霊を受け入れない、古い性質があなたの心の中にあるからです。それが、あなたの霊に対して戦いを挑むのです。新参者を受け入れない自我、古い性質があります。聖書ではこれを「肉」と呼んでいます。肉とは生まれつきの性質、能力、考え方です。この世においては、肉は歓迎され、あるときは美化されるでしょう。しかし、神の御前では忌み嫌われ、やっかいな存在であります。なぜなら、肉は神を頼らないし、神に逆らうものだからです。クリスチャンになったならば、肉ではなく御霊によって歩むことを始めなければなりません。

 

1.御霊の法則

ローマ81-4「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理(ノモス)が、罪と死の原理(ノモス)から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」第一の質問です。「私たちの肉に宿っている罪と死の原理から解放してくれる別の原理とは何ですか?」それは、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理です。パウロは急に「原理」ということばを使っているように思えます。しかし、このことばはローマ7章にあった「律法」と同じことばです。神の律法とは、神の原理、あるいは御霊の原理です。反対に、悪の律法とは、心の原理、あるいは肉の原理です。英語ではすべて、lawと訳されています。lawは、法律、律法、規則ですが、その他に法則、原理という意味もあります。日本語の聖書は、文脈からあるときは「律法」、あるときは「原理」、あるときは、「法則」と訳しています。どうして「律法」に統一しなかったのか、むっとしますが仕方がありません。パウロは7章で悪と肉の律法で悩みまくっていましたが、8章で御霊の律法を発見して歓喜しています。

第二の質問です。「肉が原因で、律法にできなかったことを、神さまはどのように成し遂げてくださったのですか?」神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されました。ここは、とても解釈の難しい箇所です。イエス様は肉体をもってこの地上にこられました。イエス様ご自身は、神さまですから、自分の力や自分の考えでできたはずです。しかし、どんな時でも父なる神さまの力と父なる神さまの考えで生きました。イエス様だけが、肉体を持っていた人間であったのに罪を犯さず、律法に従い通しました。そして、律法を全うした罪のないお方が、私たちのために死にました。つまり、イエス様の従順と身代わりの死が、私たちに律法から解放される土台をつくったのであります。

第三の質問、「『肉に従って歩む(生きる)』とはどういう意味でしょう?」肉が訴える欲求を満たすために生きることです。一見、肉は醜くて悪そうですが、そうではありません。ある肉はとても美しくて魅力があります。生まれつきの親切心や愛、すばらしい能力、知恵、考えが肉であるとだれが信じるでしょうか?言い換えるなら、肉とは神さまに頼らない、神さまに源を置かないアダムから来た一切のものです。もし、肉に従って、肉に頼って歩むならどのようになるのでしょうか?ガラテヤ5章に「肉の働き」という名前で記されています。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういったものが生じてくるのです。はじめ外見的に美しく見えるかもしれません。しかし、その結果はどうでしょう?腐敗したアダムの匂いがするのです。

第四の質問です。「『御霊に従って歩む(生きる)』」とはどういう意味でしょう?」それは、どんなときでも、聖霊を歓迎し、聖霊を認め、聖霊に従うことです。ウォッチマンニ―の本から引用します。もし、私たちが自分の意思の力や努力でクリスチャン生活をしようとするなら、最後には罪と死の法則が勝利を得るでしょう。しかし、私たちが自分の意思を追放して、主により頼むなら、別の法則、すなわちいのちの御霊の法則の中に落ちるのです。引力の法則が自然の法則であるように、いのちの法則も自然の法則であるのです。鳥が落ちないのは、引力の法則に勝たせるいのちの法則を持っているからです。空を飛ぶ鳥がこのように言っています。「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則についても知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからでーす。」肉はアダムとつながっており、御霊はキリストとつながっています。肉にあって生きるとは、アダムにある自分自身の力によって何かをすることです。それは私がアダムから受け継いだ生命の古い源から力を得て、罪を犯すために備えられたものを、経験面において楽しむことです。一方、キリストにある自己について楽しむためには、私が御霊にあって歩むということが何であるかを学ばなければなりません。パウロはこのことを発見したので、歓喜しているのです。

2.肉と御霊の戦い

 ローマ85-8「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」ガラテヤ517-18「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

第一の質問です。「『肉の思い』にはどのような性質がありますか?」肉の思いは神に対して反抗します。神の律法に服従しません。いや服従できないのです。最終的には死をもたらします。改めて確認させていただきます。肉と肉体は同じではありません。私たちの肉体そのものは悪ではありません。パウロが「肉」と呼ぶとき、それはアダム以来の生まれつきの性質を指します。クリスチャンは霊的には生まれ変わりましたが、罪の性質が肉体と魂に宿っています。これを捨てなければならないのですが、どうしても慣れ親しんだ方法で生きてしまいます。                    

第二の質問。「なぜ、肉にある者は神を喜ばせることができないのでしょう?」神さまに服従せずに反抗し、神さまではなく自分の肉を喜ばせようとするからです。あるところにとても真面目なクリスチャンがいました。ある時、神さまのためにアップルパイを一生懸命作って、これを献上しました。神さまは何と言ったでしょう。「悪いねー。私はアップルパイが嫌いなんだよ。」これはたとえ話ですから怒らないでください。私たちが「神さまのためです」と一生懸命、肉で行ったとします。人間的にも外見的にもすばらしい出来栄えかもしれません。でも、神さまは、必ずしも喜ばないということです。

第三の質問です。「あなた自身の中に、肉の願いと御霊が戦っているという経験はありますか?」これはみなさんが、考えることです。「クリスチャンになったら悩みがなくなるか」というとそうではありません。どうしても克服しなければならない新たな対戦が待ち受けています。洗礼を受けてクリスチャンになっても、1,2年で去って行く人が大勢います。なぜでしょう?御霊ではなくて、肉を勝たせてしまうからです。肉の願いはこう言うでしょう。「神さまは何もしてくれない。教会も何もしてくれない。最後に頼れるのはやっぱり自分自身だ。私自身がなくなったらどうするんだ。私は私だ、私が人生の王様なんだ。私の力と私の考えで生きるしかないんだ。神さまだとか信仰だとか夢を見ていたんだ。現実を見ろ!人々は神さまなしでも立派に生きているじゃないか。やっぱり、エジプトに帰ろう。エジプトでの生活が良かったんだ。」これが肉の願いです。このため、イスラエルの民のほとんどが、約束の地に入らないで、荒野で死んでしまいました。

第四の質問。「どうすれば、肉の願い(思い)に勝利し、結果的に律法から解放されるのですか?」 御霊によって導かれることです。自分の意志やがんばりに頼らないで、御霊ご自身に働いていただくことです。日本の文化は、聖書が言う「御霊によって歩む」のと、真っ向から反対するものです。親も先生も子どもたちに「がんばれ、がんばれ」と励まします。もちろん、良い意味の「がんばれ」もあるでしょう?でも、根底には「自分の力と努力でがんばるように」という意味がこめられています。そこには、創造主なる神さま、救い主なるイエス様、助け手なる聖霊様がまったく参与していません。あるクリスチャンは、神さまがあてにならないので、自分の力、自分の考えでがんばっているかもしれません。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。クリスチャンになるまではこのような戦いはなかったでしょう。私たちの心が御霊によって生まれ変わったために、新しい御霊の思いが入ってきました。だから、アダムの影響を受けている肉の思いとキリストにある御霊の思いとが、合い争うのです。ローマ88「肉にある者が神を喜ばせることができません」と書いてあります。言い換えるなら、肉につける私たちは神さまのために何もしなくても良いのです。私たちは律法、つまり行ないによって神さまを喜ばせるという義務から解放されています。「肉でやるくらいなら、何もしなくても良い」と神さまがおっしゃっているとは何という幸いでしょう。では、伝道も奉仕はしなくても良いのでしょうか?隣人を愛したり、聖書読んだり、祈ったりしなくても良いのでしょうか?主役は神さまであり、私たちは脇役です。私たちを通して、神さまご自身がそれらをなさりたいのです。御霊によって歩むとは、言い換えるなら「恵みによって歩む」ということです。肉の思いに打ち勝つには、「罪を犯さないように」と自分に目を向けることではなく、キリストを見上げることです。イエス様にゆだねていくとき、罪から解放され、結果的にみこころを行うことができるのです。

3.肉の行いと御霊の実

 ガラテヤ519-23「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」第一の質問です。「たくさんあげられている肉の行いの中で、まだ捕らえられているものはありますか?」男性であるなら、不品行や敵意、酩酊、遊興に対して弱いかもしれません。男性の肉は一言でいうなら、虚栄心であります。プライドと言って良いかもしれません。これを傷つけられると、全力ではむかうか、ケチョンとなって座り込みます。また、女性であるなら、魔術、偶像礼拝、そねみ、ねたみに対して弱いかもしれません。女性の肉は一言でいうなら、魔法であります。想像の世界がものすごく広がっています。自分が抱いている想像をこわされたら、全力ではむかうか、ケチョンとなって座り込みます。

第二の質問です。「肉の行いを日常的に行っている人は、どういう人たちなのでしょうか?」霊的に生まれ変わっていない人たちは、聖霊が内にいないので、肉の欲するままに生きようとします。高い教育があり、道徳的に立派な人であっても、肉の行いから免れることはできません。パウロはⅠコリント3章で「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません」と書いてあります。でも、クリスチャンの中にも、御霊を受けたはずなのに、肉の行ないをしている人がいるということです。ヤコブは「そういうのは、二心のある人で、その人の歩む道のすべてに安定を欠いた人です」と言っています。

第三の質問です。御霊の実の中で、結ばれているものと、まだ結ばれていないものは何ですか?御霊の実は本来は1つなのですが、その中に9つの房があると考えるべきです。たとえば、みかんは外から見たら1つですが、中を割るとたくさんの房がはいっています。「私には喜びがあるけれど、愛はない」と言えるかもしれません。しかし、神さまは私たちに全部の性質を与えたいのです。そのために、あえて神さまは、愛を学べる環境や人々を与えてくださるのです。

 第四の質問です。「では、どうすれば御霊の実が結ばれていくのでしょう?道徳的にがんばることですか?」キリストにつながって、キリストからたえず命と力をいただくと良いのです。イエス様は「私はまことのぶどうの木、私にとどまりなさい」と言われました。

テキストのまとめをお読みいたします。ウエイン・コールドウェル著『聖霊の実と賜物』)を引用します。実は単数形の集合名詞であり、それは信者の人格のうちに産み出され、キリストのような歩みのうちに明らかにされたキリストの生活の多くの側面と相互に関連したいろいろな素質を暗示しています。この実は個人的努力とか人格的修養から生じる人間的なわざではありません。人間は働きますが、神は実を与えられます。御霊の実は信者のうちに生じたキリストにある神の性質です。働くは英語でworkです。結ぶは英語でproduceです。Produceは生じる、産する、作りだすという意味があります。Workというわざも重要です。しかし、人格的な実はProduce、生み出されるものです。聖霊が私たちの内におられて、御霊の実をProduceしたいと願っておられます。どんな時でもキリストにとどまりましょう。そうすれば御霊の実がProduceされるのです。

4.御霊に満たされる

 エペソ517-20「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」第一の質問です。「酒に酔うことと比較するなら、御霊に満たされるとはどういう意味でしょう?」満たされるというのは、支配されるということです。酒に酔うと、声が大きくなり、大胆になります。御霊に満たされると大胆になって福音を語りたくなります。酒に酔うと歌ってしまいます。御霊に満たされると賛美したくなります。酒に酔うとふらふらどこかに行ってしまいます。御霊に満たされると御霊の導きのまま進みます。両者はとても似ています。問題は酒に満たされるか、御霊に満たされるかであります。 

                      

第二の質問です。「御霊に満たされた結果はどのようなものでしょうか?」詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美します。そして、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します。賛美にはいろんな種類があるようですが、ここでは省略します。聖霊に満たされたら賛美をするということです。しかし、ある教会は御霊に満たされるために賛美をする教会もあります。どちらが正しいのでしょうか?賛美は御霊に満たされるための手段なのでしょうか?ま、両方ですね。御霊に満たされたら賛美をするし、御霊に満たされるために賛美をしても良いのです。なぜなら、賛美の中にはみことばや私たちの信仰告白も含まれているからです。賛美のあふれた教会は、御霊に満たされた教会と言っても良いかもしれません。ハレルヤ!でも、「賛美を捧げなければ、ならない」と宗教的にならないことを願います。心に神さまを慕う愛があるかが問題です。心にもないことを賛美して、それっぽく見せるのは宗教です。やはり御霊に満たされて、賛美をささげるべきであります。

第三の質問です。「パウロが『主にあって御霊に満たされなさい』と命じるのは、なぜでしょう?」 御霊に満たされるならば、神さまからのすべての命令に従うことができるからです。御霊に満たされたら神さまと隣人を愛することができます。御霊に満たされたら肉ではなく、神さまの力で奉仕することができます。クリスチャン生活のすべての源は御霊に満たされることです。神さまはノンクリスチャンには「イエス様を信じなさい」と命じるでしょう。なぜなら、救いがなければ滅びに行くからです。そして、クリスチャンには「御霊に満たされなさい」と命じるでしょう。なぜなら、聖霊の満たしがなければ、神さまに従うことも、罪に勝利することもできないからです。もし、それが神様の命令であるならば、不可能なことではなく、その背後には、「わたしが満たしてあげます」という保障があるはずです。

第四の質問です。「あなたは御霊に満たされた経験はありますか?また、それはどんな時ですか?」ペンテコステ派は「聖霊のバプテスマと言って、そのとき異言や預言を伴うんだ」と言います。確かに聖霊を上からいただいて力を受けるという体験が必要です。しかし、「御霊に満たされる」という場合、少しニュアンスが違います。クリスチャンになるとだれでも内側に聖霊をいただきます。聖霊はいらっしゃるのですが、聖霊を神さまとして認めていないクリスチャンが大勢います。これはペンテコステ派の人にも言えることです。聖霊を力とか賜物として理解していますが、ご人格をもって私たちを支配する神さまとして認めていないこともあります。ですから、御霊に満たされるということは2つの意味があります。第一には、アダムから来ている肉を捨て去る、あるいは十字架につけて死に渡すということです。もう、自分を頼らないということです。第二は、聖霊様を認めて、自分のすべてを神さまに明け渡すということです。すべての力の源をキリストの御霊である、聖霊様からいただくということです。私たちがそのように願うならどうでしょう?結果的に聖霊に満たされているのです。感情があるなしではなく、信仰によって求めることが大事なのです。強いて言うなら、御霊に満たされているならば、喜びと平安があります。喜びと平安は御霊に満たされているかどうかのバロメーターと言っても良いかもしれません。ルカ福音書の最初には少なくとも4名の人が聖霊に満たされて賛美しています。イエス様の母マリヤは聖霊に満たされて賛美しました。エリザベツも聖霊に満たされ賛美しました。バプテスマのヨハネはおなかの中で、聖霊に満たされてよろこびおどりました。ザカリヤは聖霊に満たされて預言しました。つまり御霊に満たされることは異常なことではなく普通の出来事なのです。私たちが口を開けると肺に空気が入るように、信仰の口をあけたら御霊が満ちるのです。

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2015年7月24日 (金)

律法からの解放 ローマ7:7-12 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.7.26

 律法というのは神さまの戒めです。「…してはならない」という禁令と「…しなさい」という命令があります。旧約聖書では十戒を中心とするさまざまな律法が記されています。イスラエルの人たちは律法を守り行うことによって神の義を得ようとして失敗しました。使徒パウロはもと、律法を厳格に守るパリサイ派に属していました。自分の真面目さと力で律法を一生懸命守ってきた人物であります。パウロはキリストを信じて救われましたが、あることに気が付きました。律法は確かに良いものだけど、自分の中には守る力がないばかりか、律法に逆らってしまう法則があるということです。私たちクリスチャンも恵みよって救われたはずであります。ところが教会生活を正しく行うため、姿を変えた律法がじわじわと近寄って来るのであります。

1.律法の役目

 ローマ712「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」ローマ77-10「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」

 律法はギリシャ語ではノモスと言いますが、戒め、法律、規範、人間への義務という意味です。また、ノモスは法則とか原理という意味もあります。パウロは律法ということばをこれら2つの意味で用いています。最初の質問です。「律法は罪ですか?それとも、どういうものでしょうか?」聖書には、「律法は聖なるものであり、罪そのものではない」と書いてあります。第二の質問です。「律法は私たちにどんなことを知らせてくれますか?」はい、罪があることを知らせてくれます。つまり、「あなたには罪があります。不完全ですよ」と告発してきます。ダメ出しをする人がそばにいたら、いやですねー。でも、ガラテヤ書3章には「律法は私たちをキリストに導くための養育係となりました」と記されています。問題は「信仰を持ってからも律法のお世話になるべきだろうか?」ということです。パウロは「信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係りの下にはいません」(ガラテヤ325と言っています。教会には律法に対して2つの考え方があります。1つは「救われた後は、律法主義に陥る危険性があるので律法はもはや不要である。」もう1つは、「神のみこころを知るために、またクリスチャンを整えるために律法は必要である」という考えです。イエス様は福音書でこのように言われました。「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ518,19)。イエス様も使徒パウロも律法の存在を否定していません。私たちは、律法自体は聖なるもの、良いもので、永遠のものであることを知らなければなりません。私たちは律法を取り除くことはできません。律法を死なせることもできません。そうではなく、律法に対する私たちを取り扱うべきなのです。

第三の質問です。「律法は良いものですが、私たちにどのようなことを引き起こしてしまうのでしょうか?」内側にあった罪が目覚めて、罪を引き起こすということです。「むさぼるな」と言われれば、むさぼりたくなります。「さわるな」と言えられれば、さわりたくなります。「見るな」と言えば、見たくなります。世の中にどうして犯罪がなくならないのでしょうか?いくら罰則を重くしても罪はなくなりません。なぜでしょう?「…するな」という戒めが、眠っている罪を目覚めさせるからです。律法自体悪くはありませんが、私たちの中に律法に逆らいたい天邪鬼的なものがあるということです。第四の質問。「律法は私たちをいのちに導くのですか?それとも何ですか?」とあります。パウロは「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」と告白しています。

テキストのまとめの部分を紹介します。ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中でこのように言っています。「律法を守ろうとすればするほど、私たちの弱さがあばかれ、そして私たちはローマ7章の状態に深入りします。そしてついに私たちは、自分が望みのないほど弱い者であることをはっきりと示されるのです。私たちは議論のないほどに、自分が弱いものであることを示されなければなりません。そのためにこそ、神は私たちに律法を与えられたのです。」言い換えるなら、律法は死んでいたはずの罪を呼び覚まし、最終的にやってはいけないことを私たちにやらせる仕掛け人でもあります。ところが、教会は律法が良いものなので、いろんなきまりを作って、人々を管理しながら育てようとしました。Ⅱコリント36「文字は殺し、御霊は生かすからです」とあります。文字とは石の板に書いた律法のことです。パウロが言っているように、律法は人を殺す力があります。クリスチャンが御霊ではなく、律法で生きようとするならどうなるでしょう。霊的に窒息し、隠れたところで罪を犯すようになるのです。教会は偽善者を作ってはいけません。そのためには、律法の役目を正しく知る必要があります。

2.

ローマ718-21「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理(ノモス)を見いだすのです。」ローマ724「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

第一の質問です。「ローマ6章に『古い人は死んだ』とありますが、私たちの肉には何が宿っているのでしょう?」古い人、つまりアダムにつく罪はキリストとともに死にました。しかし、私たちの中には、悪、つまり罪を犯す性質が宿っています。ウォッチマン・ニーは「酒を造る工場が壊されましたが、酒瓶が縁の下や車のトランクに隠されている」と言いました。これを聖書では「肉」と言いますが、肉体のことではありません。罪を犯す性質が肉体や魂に残っているということです。第二の質問です。あなたの中に「善をしたいのにできない。したくない悪を行う」法則を見出しますか?善をしたい。たとえば、昔、「わかっちゃいるけどやめられない」という歌がありました。やってはいけないと分かっているのにやってしまう。第三の質問、「ということは律法に対して、私たちの肉はどう働くのですか?」守りたくない、むしろ逆らってしまうということです。

クリスチャンにとって、聖書を読むこと、祈ること、献金すること、礼拝に出席すること、奉仕をすることは良いことです。でも、「それらをしなければならない」と強制されるならどうでしょうか?最初は「ああ、それは大切なんだ」と、やるかもしれません。しかし、だんだんおっくうになり、重荷になり、嫌になります。なぜでしょう?それらは信仰生活のために欠かせないものであり、良いことだということは分かります。でも、それらが律法になってしまうなら、私たちの肉が反応し、「いやだよー、やりたくないよー」と逆らってしまうのです。それでも、牧師が説教で言うし、それは教会員の務めなんだからと言われます。「わかりました」と仕方なく礼拝を守り、仕方なく10分の1献金を捧げます。捧げるというよりも、税金を徴収されるような感じがします。その人は、クリスチャンになる前に、「行ないではなく、恵みによって救われますよ」と言われたはずです。でも、洗礼を受けて教会員になると、いろんな義務があることに気が付きました。「え?救われた後は、行ないが必要なのですか?それでは詐欺ではないですか?」と言いたくなります。ある人たちはそれでも我慢し、肉を押し殺して従います。しかし、ある人たちはだんだん喜びがなくなり、ついには教会を去って行ってしまいます。彼らは信仰をなくしてしまったのでしょうか?そうではありません。教会もその人も肉を正しく対処することを怠っているからです。たとえ良いことでも、律法でやってしまうと、肉が目覚めて、反抗するということです。

第四の質問です。「パウロは神の律法に対して、何と言っていますか?」「悪が宿っているという原理を見いだす」と言っています。ギリシャ語では律法もノモスであり、原理もノモスです。つまり、「神の律法という原理に反応する、罪の原理が私たちの内にあるよ」ということです。原理とか法則と言うと苦手な物理を思い出させます。自然科学者はたくさんの原理や法則を発見しました。すばらしいことに、使徒パウロは神の律法に反応する罪の原理を発見した人であります。パウロはローマ724「私は本当にみじめな人間です。『だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか?』」と絶望のどん底から叫びました。しかし、突然、パウロはこのように叫びました。ローマ725「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」この箇所を読んだ人は、「パウロに何が起こったんだろう?もしかしたら気がふれてしまったのでは?」と思います。24節と25節の間には、越えられない矛盾の淵があるようです。でも、パウロはどん底に落ちてみて、別の法則を発見したのであります。なんと、どん底に自分を支える神さまの御手があったのです。

テキストのまとめの部分をお読みしたします。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられ死にました。たとえて言うなら、酒を生産する工場が破壊されました。しかし、肉体の中に工場で生産した酒瓶が何本か残っています。これを肉と言います。肉が律法に対して、反応し、死んでいたはずの罪が目をさますのです。しもべ(自分)の罪が明るみに出されるのは、主人があなたに何かをするように求めるときです。あなたは良い行いをしようと、肉でがんばってもできないのです。律法は、私たちがそれを守るために与えられたのではありません。ガラテヤ324「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」

3.律法という夫

ローマ71-3それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。──夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。パウロは結婚のたとえを用いて、律法からの解放ということを教えています。第一のポイントで律法は永遠であって死なないと言いました。パウロは律法ではなく、自分の方が死ねば良いと言っています。第一の質問です。「アダム以来、人間はだれと結婚することになりましたか?」律法という夫です。正確に言うならば、創造のずっとあと、律法は出エジプトの時に与えられました。では、アダムから出エジプトまで、律法がなかったかというとそうではありません。異邦人の私たちもそうですが、こころの中に律法があります。堕落する前は神さまと共に歩んでいたので、律法は不要だったのです。ところが、善悪を知る木から取って食べたために、神さまではなく自分で善悪を決めるようになったのです。私たちの魂の中には善悪を判断する律法があります。必ずしもそれは、聖書が言う「良心」ではありません。 

第二の質問です。「夫である律法は妻であるあなたに、どのようなことを要求するでしょう?」平野耕一先生の『これだけは知ってもらいたい』という本があります。アメリカに一人の女性がおりました。彼女はとても人のいい、やさしい女性でしたが、ちょっとおっちょこちょいで、彼女のやることには少々抜けたところがありました。反対に、彼女のご主人は完全主義者で、とても几帳面な人でした。そんなご主人が仕事から帰って来ると、指でテーブルを拭いては、「おい、テーブルをちゃんと吹いたか?ここにほこりがついているぞ」とやり始めるのです。次に部屋を見渡して「あっ、あそこに小さなゴミが落ちている。お前の掃除の仕方と言ったら雑なんだから」と言います。食事を出すと「おい、このスープ、ちょっと塩がききすぎて辛いぞ」といちいちチェックがはいります。このように彼女がすることなすことすべてにおいて、細かく欠点を指摘されるので、もともと彼女は大ざっぱな性格だったにもかかわらず、かなり神経質にならざれるをえませんでした。また過ちを指摘されるかもしれないと、彼女にとって夫はだんだん恐ろしい存在になっていきました。」このように律法という主人は、微細なことまで要求し、守らないならば厳しく責めるのです。

第三の質問です。「夫(律法)がどうしたら、自分は解放されるのでしょう?」死んだらならば解放されます。さきほどの本には、「夫はすごく健康で、風邪ひとつひかない。結婚して以来、病気になったことすらないのです」と書いてありました。

 第四の質問です。「(律法)が生きているうちに、他の男に行けば、どうなるのでしょうか?」姦淫の女と呼ばれます。テキストのまとめの部分です。律法は粗探しばかりする夫のようなものです。「もっとやらなければならない」「まだ、十分ではない」と夫は要求してきます。本当は夫と離婚したいけれど、夫が生きている間は夫に責任があります。夫が死ねばそれが可能ですが、律法は天地が滅びない限り、すたれることはありません。神さまの方法は、律法が死ぬことではなく、あなた自身が死ぬことです。しかし、実際に死んでしまったらどうしようもありません。どのようにしたら、永遠になくならない律法から解放されるのでしょうか?

4.新しい夫(キリスト)

ローマ74-6「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

第一の質問です。「神さまはどのようにして、あなたを律法から別れさせてくださったのですか?」キリストと共に死にました。キリストを信じたとき、十字架で死なせていただいたということです。バプテスマはそのことを象徴しています。キリストにあって、古い人に死んで、新しい人に生まれたということです。

第二の質問です。「あなたは今、だれと結ばれているのでしょうか?」復活したキリストと結ばれています。エペソ26「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」第三の質問です。新しい夫(キリスト)はどのようなお方ですか?マタイ1129わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。心優しく、へりくだっておられる恵み深いお方です。第四の質問です。「新しい夫がいながら、古い夫(律法)とお付き合いすることを何と言いますか?」 不倫、姦淫と言います。

 さきほどの本をもう一度引用させていただきます。「多くのクリスチャンは、意識の上で未だ二重結婚の状態にあります。律法との離婚が成立したことをまだ知らないからです。せっかく新しい夫であるキリストとの生活を楽しめるはずのあなたは、古い夫である律法と共同生活をしているのです。甘い二人だけの夕食のテーブルに、邪魔な律法がずうずうしく座り込んでいます。そうなると、楽しいはずの食事も台無しになってしまいます。その結果、あなたは新しい結婚生活にも幻滅してしまうかもしれません。『なんだ、新しい結婚生活も、前と大して変わらないのね』とあなたは誤解してしまうでしょう。…これは新しく結ばれた関係に問題があるからではなく、あなたの意識に問題があるからです。この問題は、パラダイムシフトがシフトしたことを十分に認識していないから起こるのです。」パラダイムシフトは、昔の天動説と地動説から来たものです。つまり、律法とは離婚し、恵みというキリストと結婚しているということです。あなたは一度死んだので、律法を守る義務はないのです。では、だれが、律法を守らせてくれるのですか?それはあなたの夫であるキリストがあなたを助け、あなたを導いてくださるのです。

 テキストのまとめの部分です。神さまの方法は、あなたがキリストと共に葬られ、ともによみがえることです。あなたは律法に死んで、キリストと結ばれました。新しい夫(キリスト)は心優しく、忍耐深くて、あなたを励ましてくれます。キリストは、「ただ私の愛のうちに留まりなさい」と言います。しかし、あなたは、何かもっとしたいと思うので、キリストから目をそらして、律法に目を向けます。すると、律法は「あなたは○○をしなければならない」と教えてくれます。あなたは「もっと教えてください」と願います。しかし、それは霊的姦淫であり、二重結婚です。このようにクリスチャンでありながらも、律法主義に陥っている人がたくさんいます。そうです。キリスト教会の指導者たちもこのことを理解していません。聖書を読むこと、祈ること、献金すること、礼拝に出席すること、奉仕をすることは良いことです。でも、それらも姿を変えた律法です。律法は「これで良い、十分だよ」とはなかなか言ってくれません。でも、恵みに満ちた新しい夫、キリストがおっしゃいます。何にもしなくても私はあなたを愛して受け入れていますよ。私を信じているのですから、神さまに喜ばれるために努力する必要はありません。イエス様のことばです。「私と一緒に生活しましょう。私があなたの命になって、あなたの内側から助けてあげますよ。律法ではなく、私を見てください。あなたを通して、私が行ないます。」

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2015年4月 3日 (金)

キリストの復活 ローマ4:24-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.4.5

 

 私は「イエス様の十字架は私の罪のためである」と信じて救われると思っていました。しかし、キリストの復活が私の救いとどのような関係があるかは分かりませんでした。極端に言うならば、「キリストの十字架の贖いを信じて救われるのに、さらにまたキリストの復活を信じる必要があるのか?」ということです。もちろん、私はキリストの復活は信じています。だけど、「救われるためにキリストの十字架だけで良いはずなのに、どうしてキリストの復活まで信じなければならないのか?」ということが良く分かりませんでした。きょうは、私たちが信じるべきことはキリストの十字架ではなく、キリストの復活であるということを申し上げたいと思います。初めにお断りしますが、この度、ウォッチマン・ニーが書かれた『神の福音』第一巻からかなり引用しています。そのため、普段よりも理屈っぽくなっていることを許していただきたいと思います。

 

1.死に渡されたイエス

 

 ローマ425前半「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」と書いてあります。クリスチャンなら、このみことばに対して異議を唱える人はいないでしょう。注意して読むと「私たちの罪のために」と一人称複数で書いてあります。「あなたがたのために」とか「全人類のために」とか「彼らのために」とは書いてありません。きょうこのところに、クリスチャンでない人もおられるでしょう。その方が「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」た、と言えるでしょうか?おそらく、イエス様を信じていない人は、「きっと、だれかの罪のためでしょう?私のためではありませんよ」と答えるでしょう。注意深く聖書を読みますと「イエス様はすべての人のために死なれました」と書いてありますが、「すべての人の罪のために死なれた」とは書かれていません。もし、イエス様がすべての人の罪のために死なれたのだったら、信じる必要はありません。全世界の人が即座に救われることになるからです。

 

もう一か所、みことばを引用したいと思います。Ⅰヨハネ22「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」前半には「私たちの罪のため」とはっきり書いてあります。後半は「世全体のためのなだめの供え物」と書いてあります。これはどういう意味でしょう?キリストはすべての人のために死なれました。つまり、キリストの贖いは世の中のすべての人を包括しています。このような贖いには、救われていない者でさえみな含まれています。そもそも贖いというのは、人とは関係がありません。贖いのみわざは、神さまと罪の間のことです。神さまは愛なるお方なので、罪ある人類を救いたいと思われました。だからと言って、そのまま救うとご自身の義と反することになります。なぜなら、罪に対しては刑罰が必要だからです。そのため父なる神さまは、人類の罪を御子イエスに負わせ、御子を裁きました。御子イエスが十字架で罪を負って裁かれたので、神さまの義が満たされたのです。神さまは、主イエスを信じる人に、神の義と救いを与えることにしました。つまり「キリストの十字架は私の罪の身代わりだった」と言える人に限定されます。贖いは神さまの御前のものです。一方、「身代わり」は私たち信じて救われている人たちに言えることです。人が主イエス様を受け入れる時、その人の罪の問題は解決されます。これが身代わりです。言い換えると、贖いは成就されましたが、救いは成就されていないのです。

 

 教会ではクリスチャンでない人を「未信者」と言いますが、「未だ信じていない人」と書きます。表だっては言いませんが、頭の中では分けています。「求道者」と呼ぶ場合もあります。「道を求める者」と書きます。表だっては言いませんが、頭の中では分けています。でも、大歓迎です。私たちクリスチャンもかつてはみな、「未信者」、「求道者」だったからです。もう一度、本題に戻りますが、贖いは神の御前のものです。身代わりは私たちのためです。贖いは神の要求を満たし、身代わりは私たちに益をもたらしてくれます。イエス様が成されたのは贖いです。私たちが受けたのは身代わりです。つまり、身代わりに関するすべての教えはすべて、クリスチャンに対するものであって、未信者のためではありません。私たちは未信者に対しては、「イエス様はあなたがたのために死んで、贖いを成就されました」と言います。そして、クリスチャンに対しては、「主イエス様が私たちの身代わりとして罪を担われました」と言います。

 

さきほど「贖いは成就されましたが、救いは成就されていない」と申し上げました。贖いは2000年前に起こりました。贖いはキリストによって成就されました。でも、救いは現在のことであり、私たちにおいて実現されます。キリストの贖いは、神さまの義が満たされるためでした。贖いのみわざは、神ご自身を満足させました。しかし、私たちが来て、神さまのなさったことを見て、それを信じ受け入れる時、私たちはこの身代わりを受け入れます。たとえば、新聞広告に電化製品など、「先着5名様に○○の値段で売ります」と書いてあります。私はあのようなチラシは好きではありません。せっかく行っても、買えない場合もあるからです。そうではなく、ダイレクトメールで「これを提示すると半額で買えます」と書いてあるなら行くかもしれません。しかし、これら2つの例は救いを完全に例えていません。なぜなら、救いは無料だからです。罪の問題はキリストの十字架によって、すべて贖われました。良い行ないも、償いも全く必要ではありません。唯一必要なのは信じることだけです。キリストを信じることによって、罪の赦しを得ることができるのです。その人は、「ああ、キリストの死は私の身代わりだった」と言えます。なぜなら、本来、自分が神の前で裁かれるはずだったのに、キリストが私の罪の罰を受けて死なれたからです。私たちはこのことを知ると、負い目なく、神さまのところに近づくことができます。なぜなら、神さまはキリストを信じる人の罪を赦し、義とされることが分かっているからです。神さまは義なる方なので、キリストを信じる人を救わないわけにはいかないのです。

 

2.よみがえられたイエス

 

ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と書いてあります。私はこれまでこのように解釈していました。「キリストが十字架で死なれたのは私たちの罪の赦しのためであった。そして、キリストが復活したのは、私たちが義と認められるためであった」と理解していました。つまり、キリストが私のために死なれたのは罪の赦しを与えるためで、キリストが復活したのは私たちが義と認められるためであると信じていました。つまり、十字架の死だけだと半分で、復活まで信じて完全な信仰だと思っていました。そういえば、ローマ・カトリックでは礼拝堂に入りますと、十字架につけられたキリストの像が表面に飾られています。おそらく、「キリストはあなたの罪のため死なれたんですよ」とアピールするためなのでしょう。しかし、礼拝に来るたびごとに「キリストが死んだ」「キリストが死んだ」と言われるなら、礼拝はお葬式になります。ローマ・カトリックのミサには、罪の贖いが現在も続いているという考えがあるようです。そうなると、「私が犯した罪のために申し訳ないことをした。もう罪は犯しませんのでどうか赦してください」と罪を懺悔するかもしれません。神父の前で罪を告解すると、「あなたはこういう償いが必要ですよ」と言われることがあるそうです。一方、プロテスタントの教会の場合は、十字架にキリスト様がついていません。これは、キリストが復活して今も生きておられるということを表わすためのようです。ですから、プロテスタント教会の礼拝は、お葬式ではなく、よみがえられたキリストをお祝いするという意味があると言うことです。もし、これが正しいとするならば、私たちはキリストが私のために死なれたということと、キリストが私のためによみがえられたという両方を信じなければならないということになります。キリストが私の罪のために死なれたということを信じるだけで救われないとしたら、これまでのメッセージは間違っていたということになります。

 

混ぜ返すようですが、聖書には「キリストの十字架を信じなさい」という言葉は一か所もありません。ただ、主を信じるということについて語っているだけです。反対に「神がイエスを死人の中から復活されたことを信じなさい」とは書いてあります。いくつかみことばを引用したいと思います。ローマ109「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」Ⅰコリント1517「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロは、「私たちの信仰の根拠は、神がイエスを死人の中から復活させたことである」と言っています。本当に、聖書は「主イエスの十字架を信じなさい」と言わないで、「神がイエスを死人の中から復活させたことを信じなさい」と言っているのでしょうか?聖書を見ると、イエス様が十字架につけられたという事実を述べているだけです。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」と事実として書いてあり、「信じなさい」とは書かれていません。ウォッチマン・ニーの本には「聖書は、主イエスの十字架や死が私たちの信仰の対象であるとは言いません。むしろ、復活が私たちの信仰の対象であると言います」と書いてありました。こんなことを言うと、「鈴木牧師は、キリストの十字架を否定する異端である」とネットが炎上する可能性があります。

 

パウロは、復活がなければ、私たちの信仰はむなしいと言いました。だから、復活は信じるべきものです。では、キリストによる十字架の贖いはどうなのでしょうか?ウォッチマン・ニーは本の中でこう述べています。「贖いは神と主イエスの間のことであり、それは人に対する神の要求ではありません。贖いは、主が人の心を満足させるために行われたものではありません。それは、神の聖、義、栄光の要求を、主イエスが満足させたことです。主の死と、主が成就された贖いのみわざは、神と主イエスとの間で行われたことです。それは、私たちの信仰の対象として述べられているのではありません。私たちの信仰の根拠は、神がイエスを死人の中から復活させたことです。…私たちは、イエスが十字架の上で死なれ、贖いのみわざを成就された、と言うことができます。しかし、神がそのようなみわざに満足しておられることをどのようにして知るのでしょうか?私たちは、主の贖いのみわざが私たちにとって最も利にかなっていることを知っています。しかし、それが神にとっても同じであることを、どのようにして知るのでしょうか?もし、十字架しかないなら、もし主の死だけしかないなら、もし主の墓が空っぽでないなら、主の死のみわざが私たちのために成就したことが何であるか、私たちは分からないでしょう。ですから、主の贖いのみわざに関しては、十字架の面だけではなく、復活の面もあるのです。」

 

3.復活の意味

 

 イエス様は十字架の上で「完了した」と言われました。これはギリシャ語の商業用語で、「一回ですべてを完済した」という意味です。つまり、イエス様がご自身の命によって、代価を払ったということです。私たちはこのイエス様を信じることによって、義とされ、救いを得られたはずです。つまり、復活を待つ前に、贖いのわざは完了したということです。なのに、どうして復活を信じなければならないのでしょうか?さきほどの、ローマ425を英語の抄訳聖書はこのように訳しています。And raised to secure our justification 、「私たちの義認の保証のためによみがえらされた」という意味です。J.B.フィリップ訳もraised again to secure our justificationと同じように書かれています。つまり、復活は私たちが義と認められたことの証拠であるということです。ウォッチマン・ニーはこのようなたとえ話をよってこのことを説明しています。私がかなりのお金を借りていて、それがあまりにも多額で、借金を返済する方法がないとします。私は一人の兄弟のところへ行って、「あなたは、私がお金を借りているあの人のことを良く知っていますね。あなたがた二人は良い友人です。どうか私のためにお願いしてください。たとえ全部質屋に持っていっても、私は借金を返せません。私は今日、生活していくことさえ難しいのです。ぜひともお願いします」と頼んだとします。兄弟は蘇州にいる貸し主のところに行ってくれました。そして、事情を話したら、「私はそれを忘れましょう」と、借金の証文を返してくれました。ところが、貸し主は「友よ。せっかく来たんだからと、二、三日、ここに泊まって行きませんか」と言いました。一方、私は上海でやきもちしています。彼は何か問題があったために、戻ってこれなったのかもしれません。彼が戻って来ない限り、平安はありません。彼が上海に戻って証文を見せてくれて、はじめてその問題が解決されことを知るのです。

 

 今のは、あまり良いたとえではありませんが、イエス様の復活も同じです。イエス様が十字架で死なれるやいなや、罪の事実は解決されました。イエス様は私のために代価を払ってくださったのです。ところが、もしイエス様が死人の中から復活されなかったなら、イエス様が戻ってこなかったなら、私たちの心は不安なままです。イエス様が私たちの罪を負ったために、神の怒りを受けて罰せられました。イエス様は私たちのために死んで、贖いを完了してくださったのです。でも、どうしてそのみわざが成し遂げられているのを知ることができるでしょう。父なる神は、主イエス様が私たちの罪を完全に解決されたことを証明するために、彼をよみがえらされたのです。パウロは「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」と言いました。これを読むと、「復活は人が義とされる目的のためである」と解釈しがちです。つまり、主が復活され、それから私たちが義とされると考えてしまいます。ところが、本当はその逆なのです。私たちが義とされたので、主が復活させられたのです。これは、主イエスの復活が、私たちの義認の証拠であることを意味します。主が神の義の要求を満たされたので、神さまは彼を復活させられたのです。さきほどの借金の話と兼ね合わせて考えたいと思います。イエス様が十字架で「すべてを完済した」と言われました。そして、「私はイエス様の十字架を信じます、十字架を信頼します」と言ったとします。しかし、私は証文を見ていません。もしかしたら、天国に行ったとき、神さまから「イエスの十字架では不十分でしたよ」と言われたら、どうするでしょうか?では、どうして主の十字架で十分であると分かるのでしょうか?それは、復活です。私たちは十字架ではなく、主の復活を見るべきなのです。もし主の十字架のみわざが正しくなかったとしたら、神さまはイエス様を復活させられなかったでしょう。イエス様が復活されたのは、私たちが義とされたからです。私たちがイエス様の血潮を信頼して義とされているので、主イエスは復活させられたのです。ハレルヤ!復活は主がなだめの供え物を成し遂げたことの証拠です。神さまが満足されたので、主イエス様は復活されたのです。

 

 私はクリスチャンになって36年にもなりますが、復活の意味がよく分かりませんでした。「とにかくキリストの十字架と復活の両方を信じるべきだ」と考えていました。つまり、「イエス様の十字架が私のためであると信じれば救われる」と信じ、復活は二の次に考えていました。つまり、「イエス様が死者の中から初穂として復活したので、いずれ私たちも復活できる」と信じていました。キリストの十字架を信じれば、自分にも、きっと復活が与えられると信じて来ました。ということは、キリストの十字架を信じれば、結果的に、キリストの復活に預かれると信じていたのです。興味深いことに、使徒たちは十字架を宣べ伝えたのではなく、キリストの復活を宣べ伝えました。使徒たちはキリストの十字架の死ではなく、キリストの復活を宣べ伝えたので迫害されたのです。福音は英語でgood news「良い知らせ」です。ギリシャ語でエウワンゲリオンと言います。このことばは、もともとは戦地から届けられた、「先勝報告」のことを指したそうです。あるときギリシャとペルシャが戦争しました。当時は、戦争に勝てば領土と戦利品を獲ることができました。逆に、負けたなら奴隷にされるので、一刻も早く町から逃げなければなりません。町の市民は、戦地からの知らせを一日千秋の思いで待っていました。やがて、戦地から一人の男性が息を切らして走ってきました。「喜べ、勝った」と告げて絶命しました。これがマラソンの紀元だと言われています。戦争に勝ったという「良い知らせ」が、エウワンゲリオンです。イエス様が復活したという知らせほど、人類にとって最良の知らせはありません。イエス・キリストが十字架で人類のすべての罪を贖いました。この方を信じる者は救われ義とされます。神さまからキリストをよみがえらせたのは、私たちが義とされることの証拠です。復活がないと、本当に罪赦され、義とされるのか分かりません。事実、キリストがよみがえられたので、私たちの信仰は確かなものとなり、もはや自分の罪の中にはいないのです。ハレルヤ!アーメン。

 

 きょうはウォッチマン・ニーの受け売りが多くて、かえって混乱を与えてしまったかもしれません。きょうのメッセージをまとめて終わりたいと思います。イエス様が死に渡されたのは、私たちの罪のためであります。私たちは「イエス様が代価を払った」と言います。でも、だれにその代価を払ったのでしょうか?サタンではありません。サタンも罪を犯したので、代価を受け取る資格はありません。父なる神さまが人の罪をさばかないで救うためには、ご自身の義が満たされなければなりません。もし、罪に対して刑罰を与えずに赦すならば、ご自身の義がすたれます。でも神さまは私たちを愛して、救いたいのです。そのため、ご自分の分身ともいえる御子イエスに罪を負わせて罰したのです。つまりは、神ご自身の義に対する代価であります。イエス様は神さまだったので、人にならなければ、死ぬことができませんでした。また、人になったからこそ私たちの身代わりになることができたのです。イエス様はゲッセマネの園で悩まれました。罪を負うことによって、父から裁かれ引き離されるからです。でも、イエス様は自ら進んで十字架にかけられ死なれました。イエス様の死によって罪の贖いが全うされ、恵みによって人類を救う道が開かれました。今度、父なる神様は、贖いの死を全うした御子イエスをよみがえらせたのです。罪があるから死があるのです。しかし、御子イエスが罪を全部支払ったので、死と墓が彼にふさわしいものでなくなりました。私たちから見ると、キリストがよみがえらされたので、私たちも義と認められることが分かったのです。つまり、キリストの復活は、私たちが義と認められることの保証です。私たちはイエス様の復活を信じるときに、これから先、何があっても裁かれることはないと平安で過ごすことができるのです。パウロはこのように言っています。ローマ834「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

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2015年3月 6日 (金)

罪の結果からの救い ローマ5:12-21 亀有教会 鈴木靖尋 2015.3.8

 

 罪というのは、おそらくキリスト教の独特な概念かもしれません。そもそも聖書が言う「罪」とは、犯罪とか道徳的な罪ではありません。神さまご自身に背くとか、神さまの律法に違反しているという意味です。つまり、源である神さまとの関係が壊れてしまったので、様々な罪が発生したと考えるべきです。現代の私たちは様ざまな罪の結果で苦しんでいます。もし、私たちが根本的な解決を求めるならば、罪の初めに遡る必要があります。つまり、罪のはじまりを解決したならば、後の私たちも罪の結果から救われるのではないかということです。

 

1.罪のはじまり

 

ローマ512「そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」ローマ519「すなわち、ちょうどひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです。」1つ質問させていただきます。一体、だれのどのような行為によって人類に罪が入ったのでしょうか?「ひとりの人」と書いてあります。パウロは、「ひとりの人」というのは、アダムと言っています。アダムはどんな罪を犯したのでしょう?神さまから「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言われていました。それは神さまの命令に対する不従順であります。つまり、ひとりの人、アダムの不従順によって罪が世界に入ったということです。二つ目の質問をさせていただきます。罪と一緒に何が人類に入ったのでしょうか?「死が入った」と書いてあります。創世記2章を見ますと、神さまはアダムに「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。では、アダムがその木の実を食べたとき即座に死んだでしょうか?即座に死んだのは霊であります。霊が死んだ代わりに魂が異常に発達しました。しかし、その後どうなるのでしょうか?神さまは「あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから」と言われました。これは肉体的に死ぬということです。アダムは930歳で死にました。「え、そんな馬鹿な?」と言われるでしょう。しかし、神さまはアダムが永遠に生きるように造られました。でも、罪を犯したので死んだのです。930年は永遠と比べたら短いのではないでしょうか?それだけではありません。最後は霊魂が裁かれる永遠の死がやってきます。神さまは人間の霊魂を永遠に生きるように造られたので、永遠の火によって滅ぼすしかないのです。こういうわけで、アダムが犯した罪のゆえに、霊的死、肉体の死、そして永遠の死が人類に入ってしまいました。

 

あなたは「それは不公平だ」と思われるでしょうか?それとも、「アダムが一番悪いんだ!」とアダムを責めるでしょうか?テキストに「あなたはアダムによって連帯責任を負わされていることを認めますか?」と書いてあります。「連帯責任」ということばは、良い響きがしません。学校ではクラス全員が連帯責任を負わされるということがあります。高校野球でも部員が悪いことをすると、甲子園に行くことができません。私は会社に入る前、2週間くらい、自衛隊の訓練学校で研修を受けました。富士山の南側にあるのですが、新入社員を自衛隊式にたたきなおすようなところです。朝600に起床し、布団を決められたとおりたたみ、グラウンドに集合して、国旗掲揚をします。遅刻すると、その班全員が腕立て伏せ50回やらされました。それだけではなく、何かあると「連帯責任」を取らされました。「人に迷惑をかけてはいけない」「人の足をひっぱってはいけない」という価値観を入れられた感じがいます。私は小学校のときから、そういうのが大嫌いでした。遠足のバス時間に遅れたり、体育のクラスに遅れたり、提出物を忘れることがよくありました。みんなに合わせるということがとても苦手で、何よりも苦痛でした。聖書でも、アダムが犯した罪によって、私たちに死が入り、連帯責任を負わせられるというのはとても我慢できません。でも、逆も考えられるのではないでしょうか?人類の希望はどこからやってくるのでしょうか?パウロはちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」と言いました。ひとりの従順とは、キリストの従順であります。キリストの従順によって、多くの人が義人とされるのです。これもある意味ですばらしいことではないでしょうか?ただ問題は「多くの人」と書いてあるところです。パウロは「すべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」とも書いています。これは、すべての人が救われるチャンスが与えられるけれど、受け取らなければならないという限定付きではないでしょうか?アダムは神との契約を違反して堕落しました。この解決は、キリストによってもたらされた新しい契約を結ぶ必要があるということです。死はアダムの罪によってすべての人にやってきましたが、キリストが命をもたらす特効薬であるということです。

 

2.罪の結果

 

創世記316-19女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」この箇所はキリスト教会で度々引用されます。この世は、なぜ理不尽に満ちているのかを知る手がかりになります。また、質問をさせていただきます。アダムとエバが罪を犯した結果、自然界にどのような呪いが入ったのでしょうか?「土地が呪われてしまった」と書いてあります。それまでは、土地がひとりでに実を結ばせました。ところが、アダム以来、人は一生、苦しんで食を得なければならなくなりました。さらに悪いことに、土地はいばらとあざみを生えさせるようになりました。これまで人間のために良くしていた自然界の生態系が狂ってしまいました。人間に害を及ぼすような害虫や病原菌、ウィルスも発生したのではないかと思います。それまでは、アダムは自然界を支配する力が与えられていました。しかし、罪を犯してからその力がなくなりました。なんと、サタンがその力を横取りしたのです。サタンが「この世の神」と言われているのはそのためです。ルカ4章で、悪魔はイエス様に「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言いました。もし、それが嘘であったなら、イエス様は「馬鹿こけ!これは神さまのものだ」と一蹴できたはずです。しかしイエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」とみことばを引用して誘惑を退けました。さまざまな天災、戦争や悪、不条理がはびこっているのは、サタンが背後にいるからです。神さまのせいではありません。アダムが罪を犯したために、被造物が虚無に服してしまったのです(ローマ820)。

 

では、男性にどのような呪いが入ったでしょうか?「顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」と書いてあります。英語のlaborは、労働という意味ですが、「骨折り、努力、憂き世の務め」という意味もあります。また、laborは分娩、お産、陣痛という意味もあります。日本人は「頑張る」という言葉が好きです。家でも学校でも「頑張れ!頑張れ!」と言います。でも、「頑張り」はあまり聖書的ではないと思います。創造主である神さまを除外して、自分の力だけで生きるイメージがあります。「顔に汗を流して」という表現は、必ずしも良い表現ではありません。そこには労働に対する呪いがあるように思います。それまでは、土地自身が食べる果実を生産してくれました。ところが、土地が呪われてからは、人間が必死になって働かなければ、食べていけなくなったのです。つまり、頑張らなければ生きてゆけなくなったのです。では、「なまけたら良いのか」と言っているのではありません。日本では勤勉や勤労が美徳とされていますが、必ずしも良きものを生み出すわけではないということです。そのため家庭が崩壊したり、健康を損ねたり、我欲やむさぼりによって罪を犯すことがあるからです。では、女性にはどのような呪いが入ったでしょうか?苦しんで子を産まなければならない」とあります。産みの苦しみです。さらにもう1つ、「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」とあります。これは、両者の間に軋轢が起こるようになったということです。最後に、人間はどうなるのでしょう?土に帰る。ちりだから、ちりに帰らなければならないということです。ヘブル927人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」これが、生まれつき人間の定めです。だれも、この呪いと死から免れられることはできません。

 

3.罪の解決

 

神さまはアダムとエバが堕落した直後に救いの道を備えておられました。それは原始福音と言われるもので、新約聖書の福音の型(予表)であります。それは2か所記されています。第一は、創世記315「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」第二は、創世記321「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」第二の方は、グッドニュースの時にお話ししましたので、省略させていただきます。では、「おまえの頭を踏み砕く」という預言はどのように成就しましたでしょうか?これは主がサタンに語っていることばです。まず、「お前と女との間に」「お前の子孫と女の子孫」と言われているのが面白いですね。最初、誘惑にまけて罪を犯したのは女であるエバであります。しかし、アダムはかしらとしての責任を果たしませんでした。神さまは汚名挽回をさせるかのように女性を通して救いを成し遂げたいと思っていらっしゃいます。女の子孫とはだれでしょうか?イエス様は、おとめマリヤから生まれました。それでは、サタンの頭を踏み砕くという預言はいつ成就したのでしょうか?それは、イエス・キリストが十字架にかかって、贖いを成し遂げたときです。イエス様は十字架で「完了した」(ヨハネ1930と叫ばれました。多くの人たちは「イエス様が勝利したのは復活した時でしょう?」と言います。そうではありません。イエス様は十字架の上で既に勝利していたのです。イザヤ書53章は十字架を預言している書物ですが、最後に何と書いてあるでしょう?イザヤ5311-12「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。… それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」とあります。サタンは人々がイエス様を十字架に付けて、彼が死ぬように仕向けました。それは、まさしく「彼のかかとにかみつく」という預言の成就であります。確かにイエス様はかかとをかみつかれました。でも、十字架の死と復活によってサタンのかしらを踏み砕いたのです。かかとよりも、かしらの方が致命傷であります。

 

 サタン、あるいは悪魔には最大の武器があります。それは人々の罪を訴えるということです。神さまは義なるお方ですから、人の罪をさばかなければなりません。サタンは親切にも「あの人がこういう罪を犯しているのですよ?」とわざわざ神さまのところに訴えます。なぜなら、人類と一緒に自分ももらえるだろうという魂胆があるからです。でも、キリストの十字架はサタンの口を封じ、義人であるイエス様を殺したかどで完全にさばかれました。彼は最終的にはこのようになります。黙示録1210-11「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。…私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」イエス・キリストはサタンの武器を奪いました。どうやってでしょうか?それは、自らが十字架にかかり全人類の罪をあがなわれたからです。これでもう、父なる神の人類に対する怒りがなだめられたのです。言い換えるなら、父なる神が持っておられる義が満足したということです。そのため、サタンがあの人、この人の罪を神さまに告発することができなくなったということです。それに、サタン自身も天から落とされているのですから、神さまのところへ上っていくことはできません。さらに、サタンが持っていたものを私たちがキリストの御名によって奪い取る時代がやってきたのです。健康も、豊かさも、家族関係も、権威も、力も、愛、平和、そして永遠のいのちです。

 

4.罪からの解放

 

私たちがアダムの子孫である限り、アダムの罪とのろいから免れることはできません。アダムから来ている悪いものを一度断ち切る必要があります。英語の聖書ではsinssinに使い分けられています。sinsというのは罪の結果であり、私たちが犯す様ざまな罪です。sinと言うのは、アダムから受け継いでいる原罪というものです。神さまはそのためにどのようなことをしてくださったのでしょうか?ローマ64-7私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」ここに「古い人」ということばが出て来ました。古い人とはアダムに属するすべてものです。アダムから来た罪の性質、アダムから来た死の力、アダムから来た呪いです。「臭いものは元から絶たなければダメ」という格言みたいのものがあります。アダムから来ている悪い流れを断ち切って、良い流れへと移される必要があります。では、どうすれば私たちの古い人であるアダムから解放されるのでしょうか?「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」あるいは「古い人がキリストとともに十字架につけられた」と書いてあります。これは、私たちがキリストを信じてバプテスマを受けたとき、一緒に死んだということです。バプテスマのもとの意味は浸すとか沈めるという意味です。もちろん、洗礼のことを指します。でも、パウロは「バプテスマとはキリストの死にあずかること、一体となることなんだ」と言っています。

 

私たちは「どうして、2000年前のことが私に成就するのですか?私はまだ生まれていませんでしたよ?」とおっしゃるでしょう。私たちクリスチャンはキリストにつくバプテスマを受けた者です。バプテスマを受けたとは、キリストの中に入ったということです。たとえば、この聖書がキリストだとします。そして、この名刺があなたです。バスプテスマつまりキリストの中に入りました。もう、あなたはキリストの中に一体となっています。さて、このキリストは2000年前十字架につけられて死にました。はい、あなたはどこにいるでしょうか?あなたも、キリストと共に十字架につけられて死んだのです。その後、キリストは葬られました。あなたもキリストとともに葬られたのです。三日の後、キリストは父なる神によって死者の中からよみがえらされました。あなたも一緒によみがえらされたのです。なぜなら、あなたはキリストの中にいたからです。その時、私たちにどのようなことが起きたのでしょうか?私たちがキリストと共に死んで、キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえりました。そのことによって、私たちの古い人が死んだのです。アダムから継続してきた死と呪いと罪の性質が一度遮断されたということです。そして、今あなたはキリストと共によみがえって、新しいいのちを持って生きているということです。牛乳の殺菌法を知っているでしょうか?牛乳を120度以上の高熱の中を2秒間通らせるのです。すると細菌は全部死にますが、栄養成分は全く変わらないそうです。牛乳には人格がありませんが、「うっ」と2秒間死ぬのです。自覚症状はありませんが殺菌されて、前の牛乳とは違います。ハレルヤ!あなたは自分で古い人を死なせる必要はありません。キリストにあって一時、死んだのです。あなたが必要なのは、その事実を「アーメン」と認めることなのです。認める、つまり信じるなら、古い人が死んで、新しいいのちがあなたのものになるのです。

 

そのことをあらわした有名なみことばがあります。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「うちにある」とは、ギリシャ語の「エン」であり、パウロがよく用いている表現です。つまりそれは、キリストにバプテスマされ、キリストと一体になるということです。また、「うちにある」ということばを、英語の詳訳聖書では「engraft接ぎ木のように合体させる」というふうに訳しています。私たちはアダムの木から一旦切り離されました。古い人に死んだということです。その次に、台木であるキリストに接ぎ木されたのです。キリストが台木で、私たちはアダムの木から取られた挿し穂であります。今までは古い人として、アダムから命をいただいていました。キリストに接ぎ木されてからは、キリストから命をいただくようになったのです。アダムにある古い人は過ぎ去ったのです。そして、私たちは新しい人になりました。霊は一瞬にして新しく生まれました。しかし、魂と肉体はアダムから絶たれましたが、まだ、その中に残留物である肉があります。残念ながら罪の性質が宿っています。しかし、これはキリストにつながりながら聖められていきます。このことは、次の『本当の弟子』というところで学びたいと思います。しかし、だれでもキリストにあるなら、古いものである古い人は過ぎ去ったのです。ハレルヤ!神さまはあなたを新しい被造物にしてくださるのです。私たちの頭の中、からだの中には、古い人の記憶やトラウマがあるかもしれません。しかし、キリストと共に葬りさられたのです。もう、古い人がもたらす縛りから解放されたのです。こんどは、キリストに結ばれ、新しい被造物になりました。人生はやり直しがきくのです。「いや、私はやり直しなくても大丈夫」という人がいるかもしれません。しかし、瓦は磨いても瓦です。決して玉にはなりません。まず、質がダイヤモンドの原石に変えられる必要があります。ダイヤモンドの原石になったら、磨いたら玉になるでしょう。それが、古い人に死んで、新しい被造物になるということです。

 

 

 

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2013年12月29日 (日)

 ~神の国の民としての義務~  亀有教会副育牧師 毛利佐保


<ローマ人への手紙13章1節~7節>


13:1

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

13:2

したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

13:3

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

13:4

それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。

13:5

ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。

13:6

同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

13:7

あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。


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私たちの住む世界は罪に満ちています。そしてイエス様の福音が思うように届かず、キリスト者の中には残念ながら聖書のみことばを二千年前の過去の遺物のようにしてしまっている人もいます。それはこの世と聖書の世界が、かけ離れ過ぎていると思ってしまっているからです。


先ほど読んだローマ人への手紙13章1-7節には、この世の権威に従うことについての戒めが書かれています。現代、この世で生きるキリスト者にとって、この戒めほど理解し難く守りにくいものはないのではないでしょうか。なぜなら、この世には不条理や不当な扱いが蔓延っているからです。


そこで、今も聖書のみことばが確かに働いていると確信するためにも、キリスト者はこの世の権威にどう従うべきなのか、また神の国の民としての義務を果たすためには、何をすれば良いのかについて、聖書と歴史から考えてみたいと思います。


◆キリスト者はこの世の権威にどう従うべきか


①パウロの本心


みなさんもパウロのことはよくご存じだと思いますが、パウロはアンテオケ教会から派遣されて、3度に渡る伝道旅行をし、異邦人にもキリストの福音を広く宣べ伝え、最後にローマに渡り、そこでも大胆にイエス様の福音を語った人です。紀元64年~67年にかけてローマで殉教したとされています。


ローマ人への手紙は、パウロが第三回伝道旅行に出かけた時に、コリントのガイオの家で紀元57年ごろに書かれたという説が有力です。


パウロはこの手紙の中で、キリスト教の福音を体系的、組織的に語っており、この手紙は最初から各教会に回す手紙、回状としての公的性格を持っていたと考えられます。


ですからこの手紙の執筆目的は、パウロがローマのキリスト者の霊的必要に応えるためだったと考えられます。そのローマにいるキリスト者たちに対して、パウロは・・・


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13:1

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

13:2

したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

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と教えました。


「上に立つ権威」の「権威」とは、ギリシャ語原文では evxousi,aエクスシーア)と書かれており、元々「許容」の意味を持つことばです。つまり、「訳あって主なる神が当面存在を許しておられるものである。」 という意味で、文脈から見ると、ここでは国家権力を指していると考えられます。


しかし考えてみれば、パウロほど国家権力を恐れず福音を伝えた使徒はいませんでした。

詳しい経緯は解りませんが、パウロは生まれつきローマ市民権を持っていたようです。それにも関わらず、同胞であるユダヤ人から迫害を受け、何度もムチ打ちや石打ちに遭って殺されそうになりました。

しかし彼は全く恐れませんでした。


ローマに行ってからも、幽閉されつつも大胆に福音を伝え続けたことが、使徒の働きの最後に書かれています。このようなパワフルなパウロですから、ローマの信徒たちに手紙でカツを入れて、「国家権力に逆らってでも、殉教覚悟で福音を伝えるように」と指示しそうなのですが・・・

しかしここでは反対に国家権力に従うように、従わない者は神の定めにそむいていると教えています。


いったいこれはどういうことでしょうか。

どうやらそこにはパウロの深い考えがあったようです。


皇帝アウグスト(在位:紀元前27年―紀元14年)は独裁政治(皇帝崇拝)を上手く行い、パックス・ロマーナ(ローマの平和)を強調し、地中海周辺に平和をもたらしました。経済は成長し、貴族たちは大喜びしましたが、これはローマ皇帝の福音であって、神の福音とは全く異なるものでした。


クラウデオ帝(在位:紀元41年-54年)の時代には、紀元49年頃にすべてのユダヤ人はローマから追い出され、キリスト者は方々に散らされていました。使徒の働きに出てくるアクラとプリスキラの夫婦もこの時ローマからコリントに逃げてきて、パウロと出会いました。(使徒18:2)


皇帝クラウデオが死んで後、ローマのキリスト者たちも少しずつローマに戻ってきていたようで、アクラとプリスキラもローマに戻りました。パウロがローマ人への手紙を執筆した時は、皇帝はネロ(在位:54年-68年)になっており、後にキリスト教徒は暴君ネロにより、紀元64年のローマの大火の犯人にされて迫害されますが、パウロがローマ書を執筆した時は、かろうじてパックス・ロマーナ(ローマの平和)は続いていました。


パウロは神の知恵を用いて、そのパックス・ロマーナによって、キリスト者がある程度国家権力から庇護されていることを利用して、福音を伝えようとしたのです。


つまりパウロの本心は、国家権力に従うのは、あくまで福音伝道のための知恵でした。

当然、国家権力が妥当なあり方から落ちた時には、いつでも抵抗する気概がパウロにはありました。


過激でパワフルなパウロも、神様からの知恵を用いました。

現代の私たちも、国家権力に対してパウロの様な知恵を持つことが必要です。

そして何より、私たちキリスト者に与えられている最大のミッションは福音伝道です。


パウロの本心を私たちも心の内に持ち、上に立つ権威に従っていきましょう!


◆キリスト者はこの世の権威にどう従うべきか


②イエス様が語られた終末への警告を忘れない


ところが、この13章の1,2節のパウロの戒めの解釈を誤り、悲劇を生んだ歴史があります。

例えば16世紀~17世紀のイギリスやフランスの絶対王朝などは、「王は神から授かった主権であるから、絶対に服従せよ」という王権神授説を生み出しました。


結果、独裁政治となり民衆を苦しめました。


また逆に、ユダヤ教徒たちは、上に立つ者の権威を「神の権威」のみとし、国家権力に従わず悲劇を生んだ歴史もあります。


パウロがこのローマ書を書いてからわずか12年後に、「エルサレムの悲劇」が起こりました。

紀元66年、ローマ帝国と、ローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で戦争が起こり、ローマ軍はエルサレムに進軍し、紀元70年、エルサレム神殿は全焼しました。住民の大半は餓死するか虐殺されました。


これは「ユダヤ戦争」と呼ばれる、よく知られている戦争です。


このときキリスト教徒の多くも、この戦争に巻き込まれる危険を伴っていましたが、キリスト教徒たちは、

<マルコ13:14>でイエス様が語られた「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」という終末の警告に従い、ペレヤ(ギリシャ地方)などに移住して難を逃れました。


一方ユダヤ教徒たちは、上に立つ者の権威を「神の権威」のみとし、国家権力に従わず、967人のユダヤ熱心党の兵士たちがマサダに籠城し、3年間戦い、最期は集団自決をしました。生き残ったのは、たまたま水汲みに出ていた女性2人と子ども5人だけだったそうです。


マサダとは「要塞」という意味を持つ名前で、紀元前120年に要塞が建設され、その後ヘロデ大王が改修し

て難攻不落だと言われた標高400メートルの岩山です。

このようにユダの荒野の中に巨大な切り株のようにそびえ立っています。


現在このマサダは、2001年にユネスコの世界遺産となり、イスラエルではエルサレムに次ぐ人気の観光地となっています。私もイスラエルに行った時に登りましたが、よくこんな岩山の上で3年も籠城できたもんだと感心しました。

そのマサダの要塞を指揮したヤイルの子エレアザルの最後の演説はこうでした。


「わが忠実な戦士諸君、われわれはかつて、ローマ人には仕えまい、神以外の何者にも仕えまいと決心した。今こそ、そのわれわれの決意を行動で証する時がきた。」


このような勇ましいマサダの籠城の話を伝え聞いて、いのちをかけてローマ人と戦うぞと立ち上がりかねない若者がキリスト教徒の中にもいたかもしれません。しかし、イエス様の終末預言も、パウロの勧めも、それとはまったく逆でした。イエス様は「山へ逃げなさい」と言われ、パウロは「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と言ったのです。パウロは来るべき迫害のときに、ローマの信徒たちが、このような神の知恵を用いず、極端な過激な信仰を持つことを先だって憂えていたのではないでしょうか。


当時のローマ国家は「すべての道はローマに通ず」と言われたほど、陸路も水路も整えられており、少数の反抗者が多少騒いだとしても、国家には実際何の影響もありませんでした。


ユダヤ教徒はこの後故郷を追われ、戦争を繰り返し、厳しい民族的弾圧を受け、1948年のイスラエル国の再建まで、約2千年近くの長きに渡って国を失う結果となりました。


イエス様は言われました。<マタイ10:16> いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。


私たちは、この歴史を教訓にして、もっと深い部分で神様に信頼を置く必要があります。イエス様が言われたように、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなお」でなければなりません。たとえ一時、屈辱的に服従させられたとしても、神様に信頼して忍耐をすることが必要な場合もあるのではないでしょうか。


◆キリスト者はこの世の権威にどう従うべきか


③神の国の民としての義務を果たす


私たちは、地上の民主国家の主権者として、また神の国の民として、与えられた義務を果たさなければなりません。まず、地上の主権者としての義務とは何でしょうか。


今の日本の政治を考えてみましょう。

東日本大震災が起こってから、原発問題など、無関心ではいられない出来事がたくさん起こっています。

最近では特定秘密保護法案のことで議論が交わされていました。


キリスト教界では、特定秘密保護法案に反対する教団として、日本基督教協議会、日本基督改革派教会、カトリック中央協議会、日本ホーリネス教団、基督兄弟団などが声明を出していましたが、可決されてからは、日本聖公会も廃止を求めて声明を出しました。


私の通う大学では反対運動が盛んで、各所で議論が交わされ、祈り会がもたれていました。


法案があっけなく可決された時には、反対派の人は、「人間は歴史からは何も学ばない事が解りました!」と、戦前の治安維持法で宗教団体が弾圧されたことを例に出して落胆していました。

しかし一方で、賛成派の人たちは「反対派は極端な解釈をし過ぎだ」と言っていました。

他にも、そもそも宗教団体が政治に関与することを快く思わない人もいました。


さて私はというと、賛成、あるいは反対、どちらの立場をとるべきか・・・。

どちらの言っていることも一理ある。でも、そもそもクリスチャンが政治に口出しするべきなのか?

・・・などと考えているうちに可決されてしまって、ちょっと情けない気持ちになりました。

この法案が私たちの活動に支障をきたすようになっていくのかどうかは解りませんが、イエス様が教えてくださったように、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおに心の目と耳を開いて、行く末を見て行こうと思っています。それが私にできる神の国の民の義務だと思うからです。


パウロは13:3,4でこう言いました。


********************************************

13:3

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

13:4

それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。

*********************************************


私たちは地上の民主国家の主権者として、また神の国の民としての二足のわらじを履いています。

いえ、履いていなければならないのです。


限界があるこの世の権威、権力に対してのキリスト者の服従は、決して奴隷的なものではありません。

パウロは「善を行いなさい」と教えました。キリスト者は、「善をもって悪に打ち勝つ」といった積極的で柔軟な愛の精神をもって服従するのです。


そしてその背後に、神の定めと摂理が働いていることを知り、それゆえに私たちはこの世の権威に服従することができるのです。またパウロは


**********************************************

13:7

あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

**********************************************

と言いました。


これは、国家と社会と自己に対して、また、誰に対しても義務を果たす責任を持ちなさいと教えているのです。


最後に、神の国の民としての義務を果たすとは、どういうことなのかについて考えてみましょう。


この世の歩みの中で、神に本当に仕えてゆくということは、世と距離を置いて何もせず、山の中に隠遁するようなことではありません。


私たちは人に仕えることを通して神に仕えています。しかしどんなに素晴らしい社会的貢献をしていたとしても、神様に対して義務を果たしているという自覚がないなら、その営みは、神様の意思とはかけ離れたものになりかねません。


私たちは、つい世の仕事に一生懸命になってしまい、神の国の民としての義務とは何かについて考えることを忘れてしまいます。しかし、地の塩、世の光として生きるには、常に神の国の民の義務について考え続ける必要があります。


キリスト者は世の人から見ると、ただ軟弱なだけの主義主張のない排他的な人たちに見られがちです。

だからこそ、何にでも迎合するのではなく、パウロのような気概をもつ必要があるのです。

先ほども申しましたが、現代の私たちに与えられている最大のミッションは福音伝道です。

しかしそれは、ガンガン表に出て行って伝道するということだけを言っているのではありません。


肝心なのは、私たちの生きざまです。

私たちの生きざまを通して、世の人は神の栄光を見るのです。


まず、

①自分は何者でもなく、何の力もなく、すべては神様の御愛と憐れみ、イエス様の恵みによって回復が

 与えられているということを自覚する。


②神様に対して嘘をつかず、情けない自分をすべてさらけだし、苦い涙を流しつつ、ひれ伏し、全信頼を

 置く。


③聖霊なる神様によって日々の力が与えられているということを知り、更なる原動力となっていただけるよう 

 に祈り求める。


④イエス様が私たちにしてくださった事のひとつひとつを想い起して感謝し、賛美し、褒め称える。


もうそれだけで、その人は無意識に神の栄光を現していることになるのです。


この年末年始、イエス様の警告を思い返し、この世の権威にどう従うべきか、また神の国の民としての義務を果たすためには何をすれば良いかについて、主から知恵をいただき、じっくり考えてみましょう。



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2013年6月 9日 (日)

心の変革       ローマ12:1-2 

 パウロは、人間は3つのものでできていると言いました。内側から言うと、霊、魂、肉体です。きょうは魂の分野について言います。魂はギリシャ語でプシュケーと言いますが、そこからサイコロジー、心理学が生まれました。この世の心理学者は神様とか霊の存在を認めません。ただ、心の中だけに集中しています。彼らは潜在意識があることを発見しました。心をちょうど氷山のようにたとえています。水中にもぐっている90%が潜在意識です。そして、10%の顕在意識が表面にあるというのです。私たちは自分の意識で生きているつもりですが、ほとんど潜在意識で動かされて、決断しているということです。きょうは、潜在意識ということばは用いませんが、深いところに意識の塊があるということをあとで申し上げたいと思います。


1.心の一新

 ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ人への手紙は、1章から8章までは教理的なことが書かれています。罪からの救いと罪からの解放について書かれています。そして、後半の12章から16章までは、倫理的なことが書かれています。12章のはじめの部分に、「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。つまり、これがないと、「倫理的な生活は無理ですよ」ということです。では、「心の一新によって自分を変えなさい」とはどういう意味でしょうか?「心」はギリシャ語でヌースになっています。これは、英語ではmindと訳されており、思いとか考えという意味です。「変える」とは英語ではtransformで、映画のトランスフォーマー(乗り物が生き物に変形する)と同じ言葉です。また、ギリシャ語ではメタモルフォウ「姿を変える」であり、青虫がチョウに変わるような変化を意味しています。もっと別の角度で話しますと、1章から8章までは霊的な救いについて書かれています。そして、12章からは心理的な救いについて書かれています。心理学者の丸屋真也先生は「キリスト教会は長い間、霊的な生まれ変わりのことは語ってきたけれど、心理的な生まれ変わりには触れてこなかった」と言います。つまり、教会は霊的なことは一生懸命教えてきたけど、心の問題は取り扱って来なかったということです。そのため、神様を信じない心理学者が幅をきかせ、そちらの方に多くの人たちが行ってしまったということです。

 では、そのことが聖書的にはどういうことなのか、エペソ人への手紙4章から見ていきたいと思います。エペソ4:22-23「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ」とあります。ここからわかることは、私たちが救われるために、第一に、心の霊において新しくされる必要があるということです。霊は心の内側にありますが、まず、私たちの霊が新しく生まれ変わる必要があります。第二に、どうすべきなのでしょうか?「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」ということです。霊は生まれ変わったけれど、古い人を着ているということです。古い人とは何でしょう?エペソ4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」とあります。そのような古い性質を脱ぐということです。第三に、どうしたら良いのでしょうか?エペソ4:24「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」新しく生まれ変わった霊の上に新しい人を着なさいということです。新しい人とはどんな人なのでしょう?それは神にかたどり造り出された心です。エペソ人への手紙の姉妹である、コロサイ人への手紙にはこのように書いてあります。コロサイ3:12,14「あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…これらすべての上に、愛を着けなさい。」とあります。新しく生まれ変わった霊の外側に、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの新しい人を着るということです。最初に戻って、心の変革とは何でしょう?あるいは、「心の一新によって自分を変えなさい」とはどういう意味でしょう?簡単に言うと、心の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るということです。ポイントは、改善するとか治すのではなく、取り換えるということです。ここに、ぼろぼろの雑巾があるとします。その雑巾を洗って、アイロンをかけてすばらしい生地になるでしょうか?ダメです。エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」生まれながらの心には何の希望もありません。私たちが新しい人生を歩むためには3つのことが必要です。第一は私たちの霊が生まれ変わるということです。第二は私たちの古い心を脱ぎ捨てるということです。第三は、造り主に似た新しい人を着るということです。


2.心の核(コア)

 古い心を脱ぎ捨て、新しい人を着るということを、心理学的な手法を借りてやったらどうなるでしょう。ローマ12章の「心」は、マインドであり、思いとか考えという意味です。私たちの思いとか考えは、中立でありそうですが、そうではありません。人それぞれ、もののとらえ方が違います。新聞でも各社によって記事の書き方が違うように、私たちもそれぞれものの見方が違います。その国の文化とか、その人の生まれ育った環境、教えられた価値感が影響を与えています。また、その人が幼い時に受けた傷によってものすごいダメージを受けています。なぜなら、人は6歳になるまで、人格の土台の骨組がほとんど完成するからです。その人のものの見方を心理学者は、認知とか世界観と呼んでいます。認知とか世界観というのは、心のメガネのようなものです。ある人のメガネは明るくて澄んでいます。だから、ものごとを肯定的に見ることができます。人から嫌なことを言われても、「そういうこともあるよね」と受け流すことができます。しかし、ある人のメガネは曇っていて、しかも歪んでいます。人から嫌なことを言われると、「あんたこそ何よ!」と恨みと憎しみが出てきます。周りの人たちがみな敵に見えて、信用できません。どうでしょうか?私はこういうつもりで言ったのに、曲げて解釈されてしまったということはないでしょうか?物事をいつでも、悲観的に、批判的に捉える人が周りにいないでしょうか?原因は、かけている心のメガネが問題なのです。つまりは、認知もしくは世界観がゆがんでいるということです。曇っていたり、ゆがんでいるメガネはどうしたら良いでしょうか?レンズをなおした方が良いでしょうか?それとも、新しい良いレンズと取り換えた方が良いでしょうか?古いレンズを捨てて、新しい良いレンズと取り換えた方が得策ではないでしょうか。

 そのためには、認知もしくは世界観の核となっているものは何かということを知る必要があります。丸屋先生は「コア信念」core beliefと呼んでいます。信念のコア、核と言う意味です。李光雨先生は「コア世界観」と呼んでいます。私たちの心には潜在意識があって小さい頃の記憶が全部詰め込まれています。6歳くらいまでに刻み込まれた信念が、その後の人生に影響を与えてしまいます。四街道の大塚先生は、ミニストリーを受けているとき、自分が幼稚園にいた時のことを思い出しました。その日、灰色の空から雪が降っていました。空をじっと見上げていて、「人生とは空しいものだ」と思ったそうです。幼稚園生です!船堀の若木先生は小さいとき艀(はしけ)に住んでいたそうです。艀(はしけ)は水の上に浮いているのでどうしても不安定です。そういう子どもは、不安定な世界観を持つのではないでしょうか?でも、大人になると子供のときに何を考えたかは全く覚えていません。ほとんどのことが、潜在意識の中に沈んでいます。私たちの心の奥底にある、「コア信念」から、いろんな考えが自動的に生まれてきます。また、心の奥底にある、「コア世界観」が、歪んだ考え方を生み出しているのです。いくら自分の意識で、「このようにしてはならない、こうしよう」と思っていても、できないのです。私たちは心のコア、核の部分が意識に影響を与えているからです。つまり、心の変革とは心のコア、核の部分を新しいものに取り換える作業なんだということです。心のコア、核が古いままでは、いくら新しい考えや聖書のみことばを詰め込んだとしても、はじき返されてしまうでしょう。心の深い部分で「私は標準に達していない」と確信しているならどうでしょう。何か、大きな課題が与えられると「ああ、自分にはできないなー」と否定するでしょう。心の深い部分で「この世界は何が起こるか分からない。恐ろしい世界だ」と思っていたらどうでしょう?何か、思いがけないことが起こると、不安と恐れに支配されるでしょう?では、どうしたら古い心のコアを捨てて、新しいコアに入れ替えることができるのでしょう?


3.自分のコア世界観

 まずそのためには自分の「コア信念」あるいは「コア世界観」を知るべきです。丸屋先生は適合、脅迫、支配と3つの種類があるといいます。李光雨師は傷ついたセルフイメージ、怒り、恐れの3つの種類があるといいます。たしかに、いくつかの代表的なカテゴリーに入れることは重要です。でも、人それぞれ、生まれ育った環境が違いますので、それぞれの「コア世界観」を持っています。もし、「コア世界観」というふうにとらえるならどうするでしょう?それは、「自分の世界観はこうである」と、短い文章でまとめ上げることが重要です。たとえば、私は父親が家庭を正しく治めていませんでした。酒を飲んでは母を殴り、子供たちを殴っていました。母も経済的に大変で、そのため長兄や長女を頼っていました。さらに、兄弟たちは互いに争って、下の私はいじめられ、味噌っかすにされていました。すると幼い私は世界をどのように見るでしょうか?つまり、どのような「コア世界観」を形成するでしょうか?おそらく「この世界はとても危険であって、小さな私にはとても太刀打ちできない」という世界観を持つでしょう。幼いときに、父親が亡くなったり、あるいは家を出て行った場合はどうなるでしょう?おそらく、その子は母親で育てられることになります。おそらく「私がしっかりして母を守るんだ。この世界が壊れないように私が頑張るしかない」と思うでしょう。ある子供はお母さんから無視されたり、不可能なことを強制された場合どうなるでしょう?おそらく「私は自分の心をだれにも委ねない。要塞を築いて自分を守るしかない」と思うでしょう。でも、これらは第三者がその人から生育史を聞いて、想像するものです。でも、本人が「私の世界はこうです」というのは、ものすごく困難です。なぜなら、「コア世界観」は潜在意識に潜り込んで、簡単には姿を現わさないからです。

その人の「コア世界観」を知るためにはどうしたら良いのでしょうか?それは、日常の生活において、過剰反応が起きたときに分かります。過剰反応とは常軌を逸した感情の爆発や行動です。いわゆる、だれか地雷を踏んだ場合です。地雷を踏まれると「どかーん」と爆発します。怒りの場合もあれば、ひどい落ち込み、恐れという過剰反応もあります。さらに体が反応すると、パニックが起きたり、眠れなくなったりします。つまり、過剰反応が起きた時、潜在意識にうずもれていた「コア世界観」が顔を出すということです。同時にその人は何かを叫びます。李光雨師は「心の叫び」と呼んでいます。「心の叫び」を聞くと「コア世界観」が分かります。私たちは極限の状態に置かれたとき、何事かを叫んでいます。たとえば、身勝手な親が責任を果たさなかったために、自分の世界が壊れた場合はどうでしょう?「ちゃんとやれ!」という怒りです。私も牧師として、そういう風に言われることがよくあります。私がちゃんとしていないからということもあるでしょう?でも、本当の原因は、その人の親が責任を果たさなかったので怒っているのです。1か月、自分の心の日記を書いたら良くわかります。そこには、3つのことを書きます。第一はその時の状況です。いつ、だれが、何をしたか?何が起こったのか、客観的に書きます。第二は感情です。怒った、でもどのくらい怒ったのでしょう?80%ぐらい怒った。鬱ぽくなった。でも、どのくらいでしょう?自殺が100%だとしたら、70%くらいかもしれません。他に恐れや無気力も感情に入ります。第三は考え(思考)です。そのとき何を考えたかです。これが一番難しいポイントです。自動的に考えていますので、捉えにくいのです。でも、これはコア世界観と結びついています。たとえば「私は馬鹿にされた、価値のないものだと思われた」とします。その人はセルフイメージに傷があります。あるいは「この人が私を訴えて、罪に定めようとしている」とします。その人は理不尽な扱いを受けたために、何らかの恐れがあります。このように、自分の世界観を知るということはとても重要です。

4.新しいコア世界観

 きょうは「心の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着る」ということを学んでいます。これにはいろいろな方法がありますので、「これしかない」とは申しません。これからは、「古いコア世界観を新しいコア世界観に取り換える」ということでメッセージを進めさせていただきます。では、どのようにしたら、古いものを捨てて、新しいコア世界観に取り換えることができるのでしょうか?残念ながら、古いものには執着があって簡単には捨てられません。イエス様も「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みません。『古い物は良い』というのです」(ルカ5:39)とおっしゃいました。ある人たちは助けを求めてカウンセラーや牧師のもとを訪れます。ところが、彼らは「私は変わりたくありません。ただ、私のこの部分を助けてください」と言います。「あの人を赦して、怒りを手放しなさい」と言われても、「それだけはできません」と言います。「自己憐憫を捨てて、前に進みましょう」と言われても、「いやです、ここに留まりたい」と言います。彼らは怒りや自己憐憫をエネルギーにして生きているのです。「もし、それを手放したら、自分は生きてゆけない」とまで思っているのです。だから、変わるのを拒否します。ただ、困っている所だけを助けてほしいのです。残念ながら、そういう人にはこのような手法は役に立ちません。でも、本当に変わりたいと願うならば、お助けできます。でも、選択と決断はご本人です。

では、どうしたら良いのでしょうか?それは、幼い時、自分の世界が壊されたところに、イエス様をお迎えするということです。私も父から火箸で突かれましたが、その家に、間違いなくイエス様がおられました。機能不全の家庭でしたが、死ななかったのはイエス様が守ってくれたからです。たとえお母さんがあなたを捨てたとしても、神様はこのように言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ書49:15-16)。あなたがあの状況で死なないで、生き延びることができたのは、神様の助けがあったからです。イエス様はあなたの心の叫びをご存じです。なぜなら、イエス様は人となって、死の苦しみを味わってくれたからです。イエス様は「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」とあなたの代わりに叫ばれました。あなたが拒絶されたとしても、イエス様だけはあなたを捨てません。これまで握っていた訴状を十字架のもとに置きましょう。父もしくは母、あるいはきょうだいを、叔父や叔母を赦しましょう。イエス様があなたの心の叫びを全うしてくださいます。「もう十分ですね」とおっしゃってくださいます。「はい」と自分を苦しめた人を赦すのです。これは感情ではなくて、意志であり決断です。

 今までの古いコア世界観はどのようなものだったでしょうか?「理不尽さによって、潰される弱いコア世界観」だったでしょうか?あるいは「だれも守ってくれない、不安定で弱いコア世界観」だったでしょうか?あるいは「存在価値が乏しくて、恥に満ちた世界観」だったでしょうか?あるいは「すべてが滅びてなくなる、虚無的なコア世界観」だったでしょうか?その古いコア世界観から間違った考え、世界観が浮かんできたのです。ゆがんだ世界観で見るので、まわりの人が信用できず、敵対者に思うのです。ゆがんだ世界観で見るので、守りがなくて、不安になるのです。ですから、古い世界観を捨てて、新しい世界観に取り換えましょう。これは神様がくださる新しいコア世界観です。古いものがAであるなら、新しいものはBです。では、新しいコア世界観Bとはどのようなものなのでしょうか?「たとえ理不尽さによる、圧迫を受けても壊れないコア世界観」です。根雪の下の笹竹のように、一時的に押しつぶされても跳ね返すのです。あるいは、鷲のように逆境を乗り越えるコア世界観です。ときどき、サーファーを見ますが、彼らはあえて大きな波を待っています。波が来たら、それを捕まえて乗るのです。また、「神様が永遠の御腕で守ってくれるので、壊れないコア世界観」を持つのです。それはまるで、スーパーボールという高弾性ゴムボールのようです。また、「神様があなたは高価で尊いと言ってくれるので、エクセレントなコア世界観」を持つのです。excellentとは、「優れた、一流の、優秀な」という意味です。また、「いのちと喜びにあふれた、希望のコア世界観」を持つのです。

 一度、コア世界観Bに取り換えたならば、途中で、コア世界観Aにはなりません。逆に、世界観Aの人が、途中で、コア世界観Bになることもできません。どうでしょう、今までの古いコア世界観を捨てて、神様が下さる新しいコア世界観に取り換えましょう。そのあと、どうしたら良いでしょうか?いろんな考えを聖書のみことばに取り換えるのです。積極的で明るい考え方に取り換えるのです。これまでは、古いコア世界観で生きていたので、間違った考えが出てきました。そして、いろんな悪感情で苦しめられてきました。でも、これから一つひとつ、聖書のみことばに取り換えるのです。聖書の価値観をくっつけていくのです。「あの人は私の存在を否定しているのではない、ただコピーの取り方が悪いと言っているだけなのだ」となります。「あの人は私に食ってかかっているが、それは私に問題があるのではなく、あの人自身が怒りを持っているからだ」となります。「今、私の心は沈んでいるけど、神様の御手の中で休めば、また新しい力がでてくる」となります。いつものような感情を信じないで、正しい考えに置き換えるのです。すると、あとで正しい感情が追い付いてきます。私は生まれも育ちも悪くて、世界観が粉々に壊れていました。しかし、そのことのゆえにこういう心の問題に興味を持ちました。私も天国に行くまでは完全ではありません。でも、たとえ不完全であっても、神様が私を愛して、私に価値を与えてくださいます。この世は生きるに値しないと思っている方もおられるかもしれません。しかし、イエス様が御国の喜びをあなたの人生にも与えてくださいます。昔のテレビは白黒でした。まもなくカラーテレビが出ましたが、色がにじんでいました。しかし、今の液晶テレビはなんときれいでしょうか?あなたの人生もそのような色つきの人生になることを期待します。


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2012年12月 9日 (日)

義とされる      ローマ3:10-26 

「救い」のことを言う場合、「義とされる」ということが最も重要な要素です。義とされるとは、法的に、神さまから義と認められるということです。私たちの実際の生活や中味には罪があるでしょう。しかし、神さまは、キリストを信じている人に、罪に定めないということです。簡単に言うと、義の衣を頭からすっぽりかぶっているので、罪が見えないということです。たとえば、野口さんは宇宙ステーションで長期滞在したことがあります。彼が船外で作業するときは、宇宙服で身を固めます。そうでないと、死んでしまいます。同じように、義とされるということは、宇宙服を着ているようなものであって、義なる神さまのさばきに耐えられるのです。クリスチャンになるとは、義とされるということですが、それはどういう意味なのでしょうか?

1.義人はいない

 ローマ310-12それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」続いて、ローマ323「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」。これらのみことばは、人類にとって悪いニュースです。私たちは良いニュース(福音)を聞くために、まず悪いニュースを聞かなければなりません。すべての人はアダムの子孫であり、アダムの罪を遺伝子のように受け継いでいます。そのため、私たちは生きているうち様々な罪を犯します。死後は、神の前に立ち、犯した罪のさばきを受ける運命にあります。かなり前の話ですが、教会が伝道のために婦人のためのランチョンを開きました。そのとき、日本語の未熟な宣教師がスピーチしました。さきほど読んだローマ3章からみことばを引用しました。「美人はいない。ひとりもいない。」と言ってしまったのです。人間をニンジンとまで言いました。主催者は青ざめてしまいました。どのようにフォローしたのかわかりません。でも、まんざら当っていないわけではありません。「美人はいない」とは、お顔のことではなく、心のことを言ったのかもしれません?エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあるとおりです。多くの人たちは姿や顔かたちに神経を使い、心の問題は後回しにしています。姿や顔かたちは一時的ですが、心はもっと重要であり永遠です。その証拠に、結婚したならば、顔かたちはあまり気にならなくなります。もっと大事なのは心であることが分かります。

 「教会は罪人呼ばわりするけど、私はそんな大きな罪を犯していません」と反論する方がおられるでしょう。自分に罪があるかないかは、人と比べても分かりません。ニュースに出てくる人たちと比べたなら、「自分はましな方だな」と思うでしょう。聖書には、その人に罪があるかどうかわかるように、律法が記されています。律法の中心は十戒ですが、第一と第二で、ほとんどの人はひっかかってしまいます。第一戒は、「唯一まことの神を神として敬っているか」ということです。第二戒は、「自分のために偶像を作ってはならない」ということです。しかし、ローマ311「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」とあります。ほとんどの人は、神を神としてあがめず、感謝もしません。その代わり、滅ぶべき人間や動物のかたちに神を似せて造りました。日本で偶像礼拝をしていない人が果たしているでしょうか?十戒の後半は「親を敬っているか、殺人するな、姦淫するな、盗むな、偽るな、むさぼるな」です。イエス様は「人を憎んだら、それは殺人をしたのと同じだ」と言われました。また、「情欲を抱いて異性を見るなら姦淫を犯しているのと同じだ」と言われました。私などは果たして何十回、何百回、殺人を犯し、姦淫を犯してきたか分かりません。それが、律法です。パウロが言うように、律法のもとではすべて罪人であります。律法を守り行って、神の義を得られる人など一人もいません。私たちは救いを得るためには、どうしても暗い部分を認めなければなりません。キリスト教の救いとは、罪からの救いであります。「罪からの救い」を言っている宗教は、キリスト教の他にありません。ある宗教は「先祖からの因果だ」と言うでしょう。心理学者たちは「罪ではなく弱さです。親や社会が悪いのです」と言うかもしれません。私たちが一番怖れなければならないのは癌ではなく罪です。罪が人々の人生を破壊し、永遠の死に至らせるからです。あなたには罪があるでしょうか?あなたは神の御前で正しい人でしょうか?イエス様は「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」とおっしゃいました。これに納得しないと、次の段階に進むことができません。あなたには罪があるでしょうか?

2.神の義

 ローマ321-26まで、2種類の義が記されています。1つは神ご自身が義であるということです。神さまは100%正しいお方であり、1点の曇りもありません。神の義と人間の義を比べたなら、月とすっぽんであります。たとえば、一生に1回も罪を犯したことのない人がいたとします。その人は正しい、義であると言えるでしょう。たとえそうであっても、それは人間の義であり、神の義には到達できません。一休さんが「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」と言ったそうです。このことばを用いて、宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いています。でも、それは全くの誤りです。神さまに到達するためには、1つの罪があってはなりません。神さまから、義と認められない限りは不可能なのです。イエス様の時代、神の律法を守る正しい人たちがいました。パリサイ人や律法学者であります。イエス様は何とおっしゃられたでしょうか?マタイ520「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」当時、律法学者やパリサイ人の義にまさる義など他にありませんでした。なぜなら、彼らほど律法を正しく守っている人は他にいなかったからです。でも、イエス様は不可能なことを私たちに教えておられるのでしょうか?そうではありません。実は、もう1つの義があります。ローマ321,22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」律法を守り行って得る義とは違います。イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義です。一方は行いによって得る報酬のようなものです。報酬であったら、給料のように、当然、いただけるものです。もう一方は信仰によっていただく恵みです。しかし、恵みであったらだれも誇ることができません。この世では、汗と努力で得るものが最も価値あると思われています。オリンピックの金メダルやノーベル賞は、並大抵の努力では得ることができません。それらは人間的に、最も価値あるものでしょう。一方、神の義はキリストを信じることによって与えられる恵みです。しかし、神の義はオリンピックの金メダルやノーベル賞以上のものです。なぜなら、どんなにがんばって、努力しても得られないからです。だから、聖書は、人が義とされるには、神さまの恵みしかないというのです。

 では、どうして神の義が恵みによって与えられるようになったのでしょうか?ローマ324,25「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」このところに聖書で最も大切なことばが出てきます。なぜ、キリスト教会では、十字架をシンボルにしているのでしょうか?その意味がここにあります。キリスト・イエスによる贖いとあります。「贖い」とは、罪の代価を払うという意味です。その代価とは、キリスト・イエスの血です。イエス・キリストは十字架で、ご自分の命である血を流して、私たちの罪を贖ってくださったのです。父なる神さまはイエス様の血を見て、人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。さきほど申しましたが、神さまは義であって、一片の罪をも赦すことができません。必ずさばかなければなりません。しかし、イエス・キリストが私たちの罪を負って、代わりにさばかれたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。まさしく、その時、イエス様は私たち人類の罪を負ったゆえに、断罪され、神さまから捨てられたのです。しかし、そのことによって、神さまの罪に対する怒りがなだめられたのです。そして、神さまは1つの決断をなされました。「御子イエスが全人類の罪の代価を支払ってくれた。これからは、御子イエスを信じる者に、神の義を与えることにしよう。」父なる神さまは、人間が律法を守り行うことはできないということをご存知でした。もともと、律法は救いのために与えられたものではなく、行いでは無理であるということを示すためだったのです。だから、神さまは行いとは別の、恵みによる救いを設けてくださいました。それがイエス・キリストを信じる信仰であります。

 ですから、私たちが神の義をいただいて救われるためには、イエス・キリストを信じなければなりません。では、何を信じるのでしょうか?イエス・キリストが私の罪のために死んで、代価を払ってくださったことです。他のだれかのためではなく、私のためであると信じなければなりません。信じるということの中には、知的同意と、身をゆだねるという2つの意味があります。世の中にはいろんな薬があります。ここにイエス・キリストという薬があるとします。ラベルにその効能が書いてあります。「これを飲むと罪赦され、永遠の命が与えられる。」「ああ、効能がわかりました。同意します」。でも、飲まなければ効きません。もしかしたら、死ぬかもしれないし、気が狂って人格がなくなるかもしれません。「でも、どうしよう?妻がどう思うだろうか?夫がどう思うだろうか?結婚は、お墓の問題は、この世の楽しみはどうなるだろう?やっぱりやめよう」それでは、全く効果はありません。身をゆだねるとは、飲むことと同じであります。イエス・キリストを救い主として、人生の主として受け入れることです。イエス様は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。私は終わりの日にその人をよみがえらせます」と約束されました。みなさんはキリストを飲みましたか?そうするならば、神さまはその人に神の義という救いを恵みとして与えてくださいます。

3.義とされる

最後に義とされるというのはどういう意味なのかお話したいと思います。義とされるとは、キリストを信じた人に、神の義が与えられるということです。パウロはそのことを、義と認められると言っています。ローマ328「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」パウロは義と認められることが、どんなに幸いなことなのかローマ4章と5章に書いています。私たちは聖書から「ああ、キリストを信じるだけで、義と認められるんだ。ああ、そうなのか?」くらいしか思っていないかもしれません。しかし、このことがパウロの後、ずっと長い間、封印されてきたのです。なんと、マルチン・ルターが「信仰のみ」ということを再発見しました。私たちは1517年を宗教改革記念日と呼んでいます。ルターはキリスト教国で生まれ、22歳のとき修道僧になりました。彼は人は一生懸命、修行し、良い行いをしなければ救われないと思っていました。あるときは、血を流しながら膝で階段を上りました。しかし、24歳のとき、「義人は信仰によって生きる」ローマ117のみことばが開かれました。そのとき、やっと回心したのです。しかし、当時のローマ・カトリックでは、まだそのことが開かれていませんでした。ルターは宗教改革のとき、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」の3つを掲げました。そのことが、プロテスタント教会の土台となっています。イギリスのスポルジョンも、ジョンウェスレーも、キリスト教国で生まれました。子どものときから、聖書に触れ、教会にも通っていました。しかし、「信仰によって義とされる」ということが分かったのは、青年になってからです。ジョンウェスレーなどは、牧師をして数年後に、悟りました。ですから、「キリストを信じるだけで、義と認められる」というのは、聖書の奥義であり、最もすばらしい宝物であります。イエス様がマタイ13章で「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」とおっしゃったとおりです。

 神様から、義とされているということはどんなに幸いなことでしょう?ローマ32428「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。…人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」私たちは行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。ある先生は、「私たちはキリストによってすべての罪が赦されました。1つも罪を犯したことのないように正しくされました」と言うかもしれません。みなさん、罪が赦されることと義とされることとは同じでしょうか?神学的に罪の赦しと義とされることは同じではありません。かつての私たちは神様から造られました。その人が罪を犯すとき、造られた位置よりも、低い位置に落ちてしまいます。いわば、マイナスの状態です。では、罪の赦しとはどういう状態でしょうか?もとの位置まで、回復されることです。これは、プラス・マイナス、ゼロの状態です。しかし、聖書が言う「義とされる」は、そうではありません。イエス様を信じて義とされるというのは、もっと高い位置に置かれているのです。神様の御目にかなう、義とされた存在であり、プラス・プラスの状態です。こういうことは現実にないかもしれませんが、1つのたとえです。私がスピード・オーバーして、白バイに捕まりました。「ああ、罰金取られるな」と思いました。すると、お巡りさんが、「あなたは鈴木牧師でしょう。私の家内が教会でお世話になっています。この間、祈ってもらったら病気が治りました。感謝します。」そして、こう言いました。「罰金はしょうがないけど、先生に2万円差し上げます」とポケットから出してくれました。罰金は12,000円でしたが、8,000円プラスになりました。現実にはないたとえでしたが、義とされるとは、こういうふうにプラス・プラスになるということです。

義という漢字はとても良くできています。羊の下に我という字を書きます。羊とは神の小羊であるイエス・キリストのことです。イエス様を信じている人は、頭の上に羊が乗っかっている状態です。頭の上に羊がないならば、我の罪が丸出しになります。でも、頭の上に羊が乗っているなら、神様から見たなら「ああ、あなた義ですね。正しい人ですね」という状態になります。私たちは義という衣を上から着ている状態です。内側はまだ罪がたくさんあり、きよくありません。でも、イエス様から義の衣をいただいているので、義に見えるのです。ある人たちは、「クリスチャンとは罪が赦された罪人であって、世の中の人と全く変わりありません」と言うでしょう。謙遜かもしれませんが、聖書的には正しくありません。もし、「私は罪赦された罪人です」と自分を認識したらどうなるでしょうか?また、罪を犯してしまうでしょう。なぜなら、「自分は罪赦されただけの罪人だから」と思っているからです。フィリピンはカトリックの国ですが、売春婦もマフィアも日曜日、教会に来て罪を懺悔します。「神様、ごめんなさい。また罪を犯してしまいました。どうかお赦しください」と祈ります。罪がきよめられて、すっきりしました。しかし、月曜日から土曜日まで、また同じ罪を犯します。そして、次の日曜日、「神様、ごめんなさい。また罪を犯してしまいました。どうかお赦しください」と祈ります。その繰り返しです。彼らは自分たちが義とされていることを知らないのです。韓国の話です。日本でもほとんど同じかもしれませんが、韓国にも銭湯があるそうです。人々は、お風呂へ入って出てきます。籠の中から衣服を取り出しますが、そのとき、バサバサして、上着の埃を落とすそうです。自分は綺麗になったという自覚があるからです。私たちも風呂に入ったあと、前に来ていた下着をそのまま着るでしょうか?洗濯した綺麗なものを着るでしょう?なぜですか?自分は綺麗になったという自覚があるからです。私たちもキリストにあって義とされた存在です。そういう自覚があるならば、進んで盗みもしないし、嘘もつかないでしょう。もし、罪を犯したなら「ああ、私にはふさわしくないなー」と思うでしょう。そして、義とされている者に、ふわさしい生活をするでしょう。

 義とされているとは、どういう意味でしょうか?ローマ81「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」つまり、私たちはもはやさばかれることがないということです。なぜなら、キリストが私たちの代わりに十字架でさばかれたからです。私たちが死んで御国に行ったとき、神様のさばきの座に立つことはありません。神様のさばきの座の前に立つ人は未信者です。そのとき、神様はその人が犯した1つ1つの罪を責めることはしません。聞くことはただ1つです。「あなたの罪の身代わりになった、御子イエスをどうして信じなかったのですか?」と、その不信仰を責められるのです。なぜなら、罪の問題はキリストによって解決されているからです。でも、クリスチャンは、キリストのさばきの座に立ちます。これは、その人が忠実に生きたかどうか問われるさばきです。これで、さばかれて地獄に行くということはありません。「忠実な人は御国において、10の町、あるいは5つの町を任せられる」という報いのためのさばきです。パウロはローマ8章で何と叫んでいるでしょうか?ローマ833-34「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ハレルヤ!残念ながら、神様が赦しても、自分の良心が赦していない。罪責感で苦しんでいる人がたまにいます。しかし、その良心は間違っています。神様があなたを赦して、義とみなしてくださったのです。だから、自分の心と悪魔に言ってください。「私の良心よ、キリストの血を受けよ。神が私を義として認めてくださった。私を訴える悪魔よ、立ち去れ。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえらされたからである。アーメン。」キリストにあって罪赦されただけではなく、義とみなされていることを感謝します。

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