2008年5月11日 (日)

神の約束への確信    マルコ4:26-29

 きょうは「母の日」であります。また、教会暦では 「ペテンテコステ(聖霊降臨日)」であります。子供の代表として 、母の日ですから、「お母さんありがとうございます 」と申し上げます。お母さんなくして、この世に生まれることはでき ませんでした。また、私たちを育ててくださり感謝します。また 、ペンテコステですから、「聖霊様、私たちのところにお越しくださ り、ありがとうございます」。聖霊様なくして、新たに生まれること はできませんでした。聖霊様が私たちを慰め、導いてくださることを 感謝します。不思議なことに、肉体的な誕生とはお母さんが関係して います。そして、霊的な誕生には聖霊様が関係しています。 「誕生つながり」です。しかしながら、そういうのとは全く関係なく 、タッチングヘブン・チェンジングライフの第6回目を学びたいと思 います。

1.みことばによる癒し

 癒しは、お医者さんやお薬を通しても与えられます 。これを一般恩寵と言います。多くの場合は、お医者さんやお薬は 、元来、人間が持っている自然治癒を助けるためにあります 。もう1つの癒しは、神様による病の癒しであり、これを特別恩寵と 言います。これには大体、3種類あります。第一はとりなしの祈りで す。私たちは「○○さんの病気を癒してください」と心を合わせて祈 ります。第二は賜物による癒しです。聖霊はある人に賜物を与えて病 気を治します。来週は岡山県から中嶋先生が当教会に来られます 。最近はさらにパワーアップして色んな奇跡が起こっているようです 。どうぞ、ご期待ください。求める人には与えられます。第三は 、みことばによる癒しです。神様が下さるみことばを信仰によってと らえるときに、奇跡が起こります。韓国にチョーヨンギ牧師がおられ ますが、先生の場合はご自身も手を置いて祈りますが 、信徒が何十万人もいますので、間に合いません。先生は 、人々に神様からみことばをいただくようにメッセージして信仰を鼓 舞します。すると、人々が自分で聖書を読んで祈り 、それぞれ信仰によって癒されるのです。これが省エネで、一番 、良いかもしれません。

 マルコ福音書4章には、「種まきのたとえ」が書いてあります 。神のことばは種であり、土地とは私たちの心です 。醜くて乾いた種の内側には、偉大な可能性が隠されています 。根や、湯気、枝、葉、花が出てきます。「湯気? 」と思うかもしれませんが、豆などは室の中で発芽するとき熱が出て くるそうです。最後には、他の植物や樹木を生み出すために 、実ができます。神のことばも種であります。神様は 、御わざを行うために、私たちの心に、神のことばを蒔くことから始 められます。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。テキストにはこのように書いてあります。「あなたはあらゆる種類 の病気から癒されたいですか?肉体、魂、霊的な病すらも癒されるこ とができるのです。あなたの心の中に神の種を植えなさい。 」とあります。では、どのような土地が良いのでしょうか ?4つの福音書には、実を結ぶための良い土地の条件がそれぞれ書い てあります。第一は、みことばを受け入れる心です。第二は 、みことばを理解する心です。第三は、みことばを喜んで行う心です 。第四は、すすんで証をする心です。道端や岩地のように頑なな心で はダメです。よく耕された柔らかい土地のような心が必要です。

 そして、神のみことばを与えてくださるのは神様です。神様は 、私たちが聖書を読んでいるとき、あるいは祈っているとき 、みことばを下さいます。しかも、突然です。「あっそうかー。 」そのみことばは、現在のあなたに必要な生けるみことばです 。これは神からの啓示であり、あなたが考え出したものではありませ ん。神様があなたにみことばを送ってくださったのです。あなたは 、そのみことばを、心の中に植えつけなければなりません。つまり 、みことばを受け入れ、理解し、喜んで行い、告白するのです 。でも、多くの場合、「非現実的だなー」と思って 、ほったらかしにします。すると、サタンがやってきて 、そのみことばを持ち去って行きます。たとえ話では 、鳥が食べてしまうと書いてあります。気がつくと 、先ほどの信仰も消えてしまっています。結構、私たちは 、神様がみことばを送っているにも関わらず、無にしていることが多 いのではないでしょうか。箴言4:20-22にすばらしい教訓が記 されています。「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ 。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て 。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする 。」このところには、「耳を傾け、目から離さず、心のうちに保て 」と書いてあります。そうするとどうなるか?「それはいのちとなりその全身を健やかにする」のです。みことばは、全身を健やかにする。ここにも癒しのことが書 かれています。

 私は男性の更年期障害なのか、1999年頃から皮膚病になりました 。乾癬といって、アトピーと同じくらい治るのが難しい病気なようで す。しかし、2003年ぐらいに、ほとんど治りました。しかし 、昨年からまた、ぶり返してきました。前ほどではないのですが 、背中や足にけっこうできています。皮膚がむけて、赤くなり 、このままでは好きな温泉も行けません。しかし、あるとき 、いくつかのことが思い浮かびました。「皮膚とは何か?それは 、外部と内部を隔てている壁ではないか。その壁が破れているという ことは、霊的防御が破れていることだ。きっと、祈りが足りないから ではないだろうか?」アーメンだなーと思いました。その次 、イエス様の変貌山のことが思い浮かびました。イエス様が「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く輝いた」 (ルカ9:29)とあります。「おそらく、顔の肌まで白く輝いたのではないだろうか 。私も主の栄光が、一番外側の皮膚まで来るように満たされよう 」と思いました。それから、このテキストで学んだように、 「問題が起こったときこそ、主を礼拝できるチャンスにしょう。 」1箇所、1箇所にお薬を塗るとき、「主よ、感謝します。主よ 、ほめたたえます」と礼拝しています。「それからどうしよう 。皮膚にはビタミンAだ、野菜ジュースを飲もう。玄米食をまた始め よう。それから、ストレスをためないでリラックスしよう。 」そんな風に、ちょうどやっていたところです。

 でも、きょうの箇所には、「主から癒しのことばをいただけ! 」と書いてあります。マタイ8章には、イエス様がなされた多くの癒 しの御わざが記されています。ローマの百人隊長のしもべが病気でし た。イエス様が「行って、直してあげよう」とおっしゃったのに 、百人隊長はどう答えたでしょうか?「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は 、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください 。そうすれば、私のしもべは直りますから」(マタイ8:8)。彼はイエス様のことばには力があるということを知っていました 。だから、「ただおことばを下さい。そうすれば私のしもべは直りま す」と言ったのです。イエス様は「イスラエルのうちに 、こんな信仰は見たこともない」と感動され、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。そのとき、百人隊長のしもべは癒されたのです 。百人隊長は、イエス様がわざわざ手をおかなくても 、おことばだけで癒されると信じていたのです。すばらしいですね 、ハレルヤ!その後、イエス様はどうしたでしょうか?マタイ8:16「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい 、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを 追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。」とあります。イエス様は、みことばで、悪霊を追い出し 、病気の人をお直しになりました。ハレルヤ。マタイ8:17に何と書いてあるでしょうか。「これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであっ た。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った 。』」アーメン。イエス様が癒しをなされたのには、理由がありました 。それは、イザヤ書53章の成就であります。イエス様は 、まさしく、十字架において、私たちの罪だけではなく 、病も負ってくださったのです。私たちはこういうみことばを読むと き、トゥーンときます。「病の問題はすでに解決されているんだ。 」ある人は、「神のみこころならば、私は癒されるでしょう 」と言います。それは、種を植えるのではなく、種を殺すことになり ます。「聖書が、『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』と、おっしゃっている。アーメン。信じます。私のものとします」 。後は、自動的に、種から芽が出て育つように、癒しは起こるのです 。どうぞ、神様がみことばを自分に送ってくださることを期待しまし ょう。その次には、いただいたみことばをしっかりと握りましょう。

2.みことばの告白

 後半は告白の重要さについて学びたいと思います。テキストにはこの ように書いてあります。多くの人たちは告白の意味を理解していない ために、癒しを受け取ることに失敗しています。告白はギリシャ語で 「ホモ・ロゲオー」と言いますが、「同じことを言う 」という意味です。私たちの人生に神様の力が現れるために 、神様が癒しについて言われた同じことを、私たちは言い続ける必要 があります。もし神様が「キリストの打ち傷によって 、あなたは癒されたのです」と言われたならば、同じことを告白しな ければなりません。では、みことばを告白することがどうして 、重要なのでしょうか?ヘブル3:1「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖 なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり 、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」このみことばの意味は、私たちが聖書に基づいた告白をすると 、キリストが直ちに、私たちの大祭司、あるいは使徒になってくださ るということです。大祭司とは神様と私たちとの仲介者と言う意味で す。イエス様は「父よ。あの人が、あなたの約束のみことばを告白し ていますよ。これは叶えてやるしかありませんよ」と執り成してくだ さるのです。では、「使徒になる」とはどういう意味でしょう ?使徒は「神様から遣わされた者」と言う意味です 。イエス様が使徒と呼ばれているのは、おそらくこの箇所だけでしょ う。私はクリスチャン29年やって、ようやく分かったことがありま す。子供が、『救世主メシヤ』という漫画を見たせいか、 「メシヤってなあに?」と聞きました。「メシヤって救世主だよ 」といえば、それまでですが、なぜ、私たちにメシヤが必要なのか 、改めて考えさせられました。聖なる神様と罪びとである私たちとで は、あまりにも高低差があります。神様は私たちのところに義を曲げ てまで降りて来られません。かといって、私たちも自分の正しさで上 ることもできません。そこで、神様は自分の分身とも言える 、御子イエスを私たちのもとに遣わして下さったのです。本来なら 、私たちは神様に「○○してくれ」などと要求できない者でした 。しかし、イエス様がメシヤとなって、私たちのところに降りてくだ さったのです。私たちはイエス様というキリストを通して 、神様に近づける存在となりました。なぜなら、イエス様が十字架で 私たちのすべての罪を贖ってくださったからです。逆に言うと 、罪をあがなうイエス・キリストなしでは、まことの神様には近づけ ないということです。

 でも、すばらしいことにイエス様は使徒であり大祭司となってくださ いました。その結果、どうなったのでしょう。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け 、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために 、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」アーメン。だから、私たちは恵みによって癒しを受けることができる のです。ですから、私たちは聖書のみことばをもっと告白すべきです 。「あなたは十字架で、私の病を解決してくださいました。主よ 、あなたの打ち傷によって、私は癒されました」と告白するとき 、主は喜んでくださいます。私たちには、偉大な大祭司がいるのです 。だから、ヘブル4:14では「私たちの信仰を堅く保とうではありませんか」と私たちチャレンジしています。大祭司なるイエス様は父なる神様の ところに、私たちの信仰による求めを届けてくださいます 。私たちにとって大事なのは、その信仰の告白を堅く保つことです 。決して離さないで、捨てないことです。あなたは、一、二度 、求めはしたけれど、「どうせ無理だよ」と自分で却下したものはあ りませんか?この点、日本人はとっても、遠慮深いですね。「神様 、お手すきでしたらお願いします。ご無理であれば、結構なんです 」と遠慮します。この点、韓国のクリスチャンは、すごいです。 「アボジハナニム、叶えてくださらなければ、私は死んでしまいます 。チューよ、あなたしかいないのです。チューよ、信じます 。感謝します。ありがとうございます」。まだ、もらっていないのに 、もらったつもりでいます。日本人クリスチャンは 、それくらいのずうずうしさがなければなりません 。テキストにありますが、あなたが信仰を堅く守っていないもの 、諦めて棚から降ろしたものは何でしょうか?私は教会にリバイバル が起こることです。これを、諦めて、引き降ろしていました 。みなさんにとって、信仰を堅く保つべきものは何でしょうか ?体の癒しでしょうか?夫婦の関係でしょうか?あるいは偉大な使命 でしょうか?金銭面が満たされることでしょうか?結婚でしょうか ?うちの下の子供は、レゴブロックのテレビを見て 「マサチューセッツ工科大学に行きたい」と言いました 。今から準備をしたら、間に合うかもしれません。柏美樹ちゃんは 、来週から、アラバマに留学します。口で告白して 、願い求めればそうなるのです。詩篇81:10にすばらしいみことばがあります。「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地 から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが 、それを満たそう。」主は、「あなたの口を大きくあけよ、私はそれを満たそう 」と言われます。それは、私たちが主に、はっきりと告白して 、求めるべきだということです。

 また、テキストには「敬虔になるとは、神様の約束を真剣に見つめる ことである。敬虔さを通して、私たちは神様からたくさんの約束を見 出し、それを手に入れることができる」と書いてありました 。前回も申し上げましたが、「敬虔とは、罪を犯さず聖い生活を送る ことだ」と考えられてきたようですが、そうではありませんでした 。これには、目が開かれました。信仰生活を長年やっていますと、 「神様に求めることは幼稚なクリスチャン」みたいに 、思ってしまいます。「大きなことを言わないで、身の丈を知る 。失敗しないクリスチャンが良い」みたいに、思っていました 。しかし、「本当の敬虔さとは、信仰と関係があり 、約様の約束を見出し、それを手に入れることだ」とわかりました 。私もやっぱり、リバイバル(霊的復興)を信じたいと思います 。いや、日本にリバイバル、当教会にリバイバルが起こることを信じ ます。2000年からのゴスペルで小さなリバイバルが当教会に起こ りました。これは、とっても評価できることです。日本キリスト教団 では、うちは、けっこう若い人が多い方です。でも、もっと 、もっと、求めて行きたいと思います。7月に台湾から宣教のために 、10名来られます。「ああ、なんで引き受けちゃったんだろうなー 。めんどうだなー」というところも実はありました。でも、日本の 、当教会のリバイバルのために、わざわざ遠くから助っ人に来られる のです。大変、ありがたいことではないでしょうか!

私たちは、信仰に反することをこの口がしゃべってしまい、結局 、信仰をキャンセルしてしまうことがあります。ヤコブ書3章にあり ますが、この舌にはとても力があります。たとえて言うなら 、それは馬の「くつわ」であり、船の楫です。しかし、「舌は体の小さな器官ではあるが、体全体を引き回すことができる」と書いてあります。この舌で体全体を汚し、人生の車輪を焼くことも できます。しかし、またこの舌を正しく制御するならば 、私たちの体全体が良くなり、また信仰のみわざが前進していくので す。舌は奇跡を生み出す力にもなれば、破壊的な力にもなります 。ですから、「年をとったから」とか言うのをやめましょう。 「お金がないから」と言うのをやめましょう。「協力者がいないから できない」と言うのは、やめましょう。すみません、これは 、みんな私自身に対しての戒めです。そういう否定的なことばは 、信仰の火を消してしまいます。私たちをますます、老化させ 、神様が備えた可能性をキャンセルすることになります。おおー 。私たちの身近な訓練は、この口、この舌を守ることであります 。どうぞ、私たちの感情とか、感覚を信じないようにしましょう 。神のみことば、神の約束という事実を信じていくときに 、あとから感情や感覚が後から追いかけてくるのです。

 一般の本屋さんに言っても、「ことばの力」とか「暗示力」 「積極思考の力」みたいな本が売られています。確かに 、それらの本でもある程度のことは起こるでしょう。でも 、私たちの場合は、神様の約束である、神のことばに土台する告白で す。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。本当に、神様がみことばを送ったのだったら、必ずそれはなるので す。神様がくださる、みことばの種をいただきましょう 。そのためには、地味ですけど、聖書を読む必要があります 。占いみたいに、あちこちぱっと開けるのではなく 、しおりを挟んで毎日、順番に読んでいきます。すると、突然 、神様が「あなたの約束はこれです」と語ってくださいます 。どうぞ、それを右から左に受け流さないで、心の中にしっかりとど めましょう。信じて告白しましょう。そうするなら 、種から芽が出て、成長し、おのずと実が結ばれるのです 。信仰は肉の力で、がんばるものではありません。一度、信じたら 、神様にゆだねならが忍耐深く待つのです。そうすれば、時が来て 、癒しが起こるのです。私はお風呂であることを発見しました 。私はお湯がいっぱいなお風呂に入るのが大好きです。ですから 、シャワーのお湯を湯船にいれます。5人もいますので 、表面には髪の毛とかアカが浮かんでいるときがあります 。お湯がたまっていますが、何も起こりません。でも 、あるところに来ると、湯船の縁からお湯があふれ出します 。そうすると、表面に浮かんでいる髪の毛とかアカが、突然 、流れ出します。そして、お湯がきれいになります。私は 「これだなー」と思いました。時が満ちたとき、癒しが起こるのです 。お湯がたまっているときは、何も起こっていないように感じます 。でも、縁に達してあふれるときがきます。すると 、事が起こるのです。癒しも、リバイバルも、奇跡も同じ理屈であり ます。ですから、御わざが起こるまで、あきらめないでください 。期待して、祈り続けましょう。

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2008年5月 4日 (日)

信仰の訓練    Ⅰテモテ4:6-11

 ゴールデンウィークの半ばですが、どこも混んでいるようです 。空いているのは教会だけ、ということはないでしょう。上海では 、礼拝堂に入りきれないくらい人が集まっており、ある教会では洗礼 は8ヶ月待ちだそうです。洗礼を受けるためには勉強会に出席し 、試験を合格しなければならないからです。その点 、当教会は楽ですね。1週間前でも大丈夫です。でも 、準備会はちゃんとしたいと思っています。洗礼は受けたけれど 、準備会が、まだ終えられていない方々が何名かおられるようです 。ま、なんとかしたいと思っております。きょうは「信仰の訓練 」と題してメッセージしますが、私たちの信仰はそのままにしておく と、弱って使い物にならなくなります。この筋肉と同じであります 。信仰を鍛えると、偉大なことが信じられるようになり 、すばらしい御わざがたくさん起こります。なぜなら 、神様は私たちの信仰を通して働かれるからです。

1.敬虔のための訓練

 Ⅱテモテ4:8「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが 、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は 、すべてに有益です」。世の人たちはもっぱら、肉体の健康、肉体の鍛錬のことばかり考え ています。健康器具とか健康サプリは数え切れないほどたくさんあり ます。もちろん、肉体の訓練も大切ですが、それ以上に大切なものが あります。パウロは、「むしろ、敬虔のために自分を訓練しなさい 。なぜなら、今のいのちと未来のいのちに関係するからだ 」と言っています。つまり、外なる人である肉体はこの世限りのもの ですが、内なる人である霊と魂は永遠のものだからです。Ⅱコリント4:16「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにさ れています」。私も50代半ばになりました。先日、家内の免許証を見る機会があり ましたが、思わず「お互い年をとったねー」と言ってしまいました 。私も、若い頃はいくら暑くても平気でしたが、先週は 、まだ夏にもなっていないのに、暑くてたまりませんでした 。俳優のハリソン・フォードは65才ですが、インディ ・ジョーンズⅣに、また出演しています。たいした若さであります 。私もあと10年は大丈夫ですね。でも、6人目が生まれたらどうし ようかと心配です。でも、大切なのは肉体よりも、内なる人でありま す。パウロは、エペソ3:16「どうか父が・・・あなたがたの内なる人を強くして くださいますように」と祈っています。敬虔のための訓練は、内なる人の訓練とイコールだ ということです。

 では、敬虔になるとはどういうことでしょうか。ある人は、 「敬虔とは、神を恐れて、罪を犯さず、きよい生活をすることだ 」と言うでしょう。しかし、テキストには「神の約束を握り 、信仰をもって生きることだ」と書かれています。昔から敬虔なクリ スチャンとは、「酒を飲まず、タバコもすわない。女性遊びや 、ギャンブルなんかとんでもない」と言われてきました。しかし、ヘブル11:6に「信仰がなければ、神によろこばれることはできま せん」と書いてあります。神の戒めを守り、罪を犯さないことはすばらしい ことです。でも、神様が喜ばれる人とは、信仰をもって神様に求める 人だということです。旧訳聖書にヤコブという人物が出てきます 。彼は兄をだまして長男の権利を奪い取ったひどい人物でした 。創世記32章で、ヤコブは御使いと戦い、「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と言いました。それだけ、執拗に神様に求めました 。ヤコブは人間的には問題がありましたが、主はヤコブを愛されまし た。新約聖書ではペテロを典型的な例としてあげることができます 。ペテロは自分はイエス様の一番弟子だと思っていましたが 、イエス様を3度も知らないと言いました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロの説教で3000人が救われました 。ペテロは欠点がありましたが、信仰の人でした。イエス様は信仰の あるペテロをとても愛しました。ヘブル11章をみますと 、信仰の列伝と言いましょうか、敬虔な人たちの名前が列挙されてい ます。しかし、ほとんどの人は失敗したことがあります 。ノアはぶどう酒を飲んで裸で寝ているところを息子たちに見られま した。アブラハムは自分の妻を妹だと2度も偽りました。他には 、女性に弱かったサムソンも入っているし、姦淫と殺人を犯したダビ デも入っています。彼らを見たら、とても敬虔な人とは思えないとこ ろがあります。でも、聖書は「信仰によって」「信仰によって 」と度々書いてあります。神様は信仰をもって御自身に求めてくる人 が好きなのであります。昔、羽鳥明という先生の説教を聞いたことが あります。ある人に二人の息子がいました。長男は頭が良くて有名な 大学に入りました。次男は高校中退で、遊んでばかりいました 。長男は大変優秀でまじめでしたけれど、「お父さん 」とひとことも言ったことがない。しかし、次男の方は「親父 、お金くれ」とか「親父、疲れたろう、肩もんでやるよ 」と親しく交わる。果たして、父親は、どちらの方を愛しやすいだろ うかというお話でした。

ホーム・ページに敬虔とは、どういうことかをあるクリスチャンが書 いていました。私が肩身が狭いと思うのも、自分が一般的なイメージ としての敬虔にほど遠いキリスト者だからです。要するにクリスチャ ンであるからといって、何も特別な人物ではなく、特別な生き方をし ているわけではないのです。ごく普通の人間が、日曜日ごとに集まっ て、一週間のための生きる力を求めて礼拝し、礼拝が終われば 、それぞれの生活に戻っていきます。ただ一つ言えるとすれば、 「こんなわたしのためにイエス・キリストがこの世においでになり 、十字架の上で死んでくださった。」ということを信じようとしてい るのが、キリスト者なのだと思います。・・・言いたいことはわかり ます。クリスチャンは確かに恵みによって救われましたが 、世の人と同じではありません。恵みによってキリストに贖われたら 、今度は恵みによってキリストに似た者と変えられていかなければな りません。エディ・レオ師が4年前に来られたとき、 「敬虔とはイエス様のようになることである」と以下のようにメッセ ージして下さいました。今日の教会の目標は何でしょうか 。大きくなること、あるいは栄えることです。「イエス様を信じなさ い。あなたはイエス様を信じるなら、お金持ちになりますよ」。 「イエス様を信じなさい。あなたの問題は自動的に解消されますよ 」。「あなたは人生を楽しめますよ」。「すばらしい人生が待ってい ますよ」。このような福音を語ります。しかし、イエス様のようにな るというところにフォーカスが向けられていません 。イエス様のようになるという目標を持っているでしょうか 。みなさんのセルグループはどうでしょうか。あなたのセルグループ は「イエス様のようになる」ということに焦点を当てているでしょう か。もし、私たちがイエス様になるということに焦点を合わせるなら ば、リバイバルが起こるでしょう。そして、そのリバイバルは消えて なくなることはありません。だから、イエス様のようになりましょう 。アーメンです。

では、イエス様のようになるとはどういう意味でしょうか 。イエス様のようになるとは、水の上を歩くことでしょうか ?イエス様のようになるとは、髪の毛を長くすることでしょうか ?ある人は、「イエス様のようになるとは、イエス様を真似すること だ」と言います。しかし、ノンクリスチャンでも、イエス様を真似す ることはできます。インドのガンジーでさえも、イエス様を真似しま した。彼は聖書を読み、イエス様を真似はしましたが 、それではキリスト教ではありません。もし、私がイエス様を真似す るだけならば、まだ私が自分の人生を生きているということになりま す。もし、私のこのエゴが生きているならば、自分で自分の人生を生 きている人のしるしは何でしょうか。自己というものは 、たえず他からの利益を得ようとします。自己はたえず 、何かを獲得しようとします。時に、私たちは、霊的なことをするか もしれないが、実際のところ、「私は何かを獲得したい 、利益を得たいという」ことはないでしょうか。私たちは祈るのは 、何故でしょうか?祝福されたいからです。聖書を読むのは 、成功者になりたいからです。他の人たちに良いことをします 。それは何故でしょうか?その人たちから良いことをしてもらいたい からです。私たちは人々に仕えます。何故でしょう ?その人たちは私のビジネスパートナーとなってくれるためです 。祈ること、聖書を読むこと、他の人を愛することは悪いことではあ りません。しかし、私たちの動機は何かということです。もし 、それが自己から生じているならば、他からいつも何かを利益を得よ うとします。だから、それを自己中心と言うことになります。

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました 。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてお られるのです。いま私が、この世に生きているのは 、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰 によっているのです。」本当の敬虔とは、肉の働きを殺すということです。イエス様のようで ない品性を十字架につけて殺すということです。それによってイエス 様の命、イエス様の品性が私たちを通して現われてくるのです 。これが敬虔、これが霊的な生活です。イエス様のようでない品性を すべて殺すと、イエス様の品性だけが現されるようになります 。私がどんどん、どんどん減っていく。そして、私の内におられるイ エス様がどんどん、どんどん溢れていく。これが、完全になることの プロセスです。完全になるというのは、私たちのこの肉が大きくなる ことではなく、イエス様が私のうちに現れてくることです 。第一の結論ですが、敬虔のための訓練とは、キリストに似た者とな るということです。そのためには、肉に死んで、キリストご自身に満 たされていくということです。

2.みことばで祈る

 みことばで祈るとはどういうことでしょうか。テキストを見ますと 、16C、フランスのマダム・ガイオンという女性が初めて実践しま した。彼女はカトリックの人でしたが、みことばで祈ることをライフ スタイルにしました。すると、文字通り、神の栄光に満たされました 。しかし、当時の教会から、異端扱いされ、彼女が書いた『イエス ・キリストの深さを体験する』という本も焼かれました。彼女は 、迫害と投獄の間も、神の栄光と喜びに満たされて 、ついにこの世を去りました。彼女の本はどうなったのでしょうか ?彼女の本が町の人たちに配られ、ついには、町中の人々がリバイバ ルを体験しました。その本は、後になって、クエーカー教徒やジョン ・ウェスレー、ウォッチマンニーなどに影響を与えました。では 、みことばで祈るとはどういうことでしょうか?まず 、テキストには詩篇23が例にあげられています。これをもし 、みことばで祈るとしたらこのようになるのではないでしょうか。 「主よ、あなたは私の羊飼いです。だから、私には 、乏しいことがありません。これまでもそうでしたが 、これからもきっと必要を満たしてくださると信じます。あなたは 、私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主よ 、あなたのもとで、もっとリラックスさせてください 。あなたは私のたましいを生き返らせてくださいます。これまで 、私を何度も生かしてくださりありがとうございます 。御名のために、私を義の道に導かれます。私が守られてきたは 、私の力ではなく、あなたの御名のゆえです。感謝します。たとい 、私が死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません 。あなたが私とともにおられるからです。あなたのむちとあなたの杖 は、私の慰めです。主よ、あなたの訓練を喜びますから 、あなたの弟子にしてください。あなたは、私の敵の前で 、私のために食事を整え、私の頭に油をそそいでくださいます 。私の杯は、あふれています。おお、私の貧乏人根性を癒してくださ い。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが 、私を追って来るでしょう。ハレルヤ!私は、いつまでも、主よ 、あなたの家に住まいましょう。御国に、私のためにすばらしいマン ションが用意されていることを感謝します。」

 1節1節ずつ、イメージしながらやればもっと良いでしょう 。テキストには詩篇42,43篇、そして121篇がのっています 。みことばを自分のことばに変えて、祈りのように 、祈っていくとどうでしょう。するとまるで、父なる神様が 、私に語っているような感じがします。私たちは神様の臨在を感じな ら、みことばを宣言することができます。神様が私にいろんな約束や 励ましをもって語ってくださいます。そして、私自身が神様に信仰を もって応答していくのです。すると、みことばを通して 、神様のご人格、神様のご性質と出会うことができます。そのとき 、私たちは「タッチング・ヘブン・チェンジング」、つまり、 「天国に触れて、私たちの心が変えられる」のです。ハレルヤ !私はみことばを瞑想することは、強調してきましたが、 「みことばで祈る」というのは、はじめてです。そのためには 、もっとイメージを働かせ、自分の環境に神様を歓迎する必要があり ます。また、そのことは詩篇42,43篇のように 、自分の魂に語りかけることにもなります。うまくいかないと 、私たちも詩篇の記者のように、鬱的になります。「わが魂よ。なぜ、お前は絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れて いるのか。神を待ち望めよ。私はなおも神をほめたたえるぞ!」みたいになります。以前、自分自身との会話というものは 、どうしても過去の否定的な事柄に集中しがちだということを申し上 げました。しかし、みことばで祈ると、すぐ神様の臨在の中に入るこ とができます。すると、神様の真実が見えるようになります 。それを続けていると、「ああ、この現実も神様の御手の中にあるに 違いない。主がきっと、なんとかしてくださる。ハレルヤ! 」と希望がわいてきます。どうも、自分自身の中には 、希望を見つけるような要素がないようです。やはり 、みことばを見ていくと、触発されて、あとから希望が出てきます 。一種の化学変化であります。みことばと祈りを混ぜると 、希望が発生します。最近は、硫化水素で自殺を計る何十人もいます 。何と何を混ぜるかわかりませんが、「混ぜるな、危険」です 。でも、みことばと祈りを混ぜると、希望が発生します 。私たちはみことばと祈りを混ぜることにしましょう。

 先週は新年度の教会総会がありました。しかし、私自身の中に 「燃えるようなビジョンがないなー」と感じました 。当初は3年後に礼拝100名とがんばってきました。でも 、セルチャーチの学びをはじめてから、「教会は人数の多さではない 」と分かりました。今、ベン・ウォン師のもとでコーチングを学んで います。私もある若い先生をコーチしています。彼は教会成長の学び を終えたばかりで、教会のビジョンを私に見せてくれました 。グラフが書いてあり、あと3年後には78名の礼拝 、5年後には100名を超えています。今、まだ12名しか集まって いないのに、「えー?」と思いました。彼はチョー ・ヨンギ先生に傾倒しており、「夢をもって告白すればそうなる 」と言います。私は心の中で「懐かしいなー、私もかつてそうだった んだよな。でも、そうならなかったんだよな」と思いました 。情熱的な若い先生をうらやましいと思います。私は数を追いかける のをやめてから、何を具体的に求めたら良いかわからなくなりました 。自分の野望ではなく、神様のビジョンにフォーカスしていくという ことはそう易しいことではありません。ベン・ウォン先生から、 「大切なのは実ではなく、根っこだ」となんべんも聞かされています 。実というのは人数とか大きさであります。でも、それよりも大切な のは根っこ、つまり価値感だということです。これまでの牧師は会社 を経営するように、教会を牧会してきました。大きな会堂を建て 、大勢の人が集う教会を目指してきました。それが成功であり 、自己目的の達成でした。でも、会社の経営と神の教会が同じわけが ありません。業績を求めた結果、教会分裂、家庭の崩壊 、ストレスから来るバーンアウトや不祥事が起こり 、たくさんの人が傷を受けました。やっていることは良い事かもしれ ないけれど、動機がどうなのか?それは神の価値感と一致しているの だろうか?と問われるようになりました。私自身も内側において 、古い価値感が崩壊し、新しい価値感に入れ替わっているところです 。パソコンで言うと、まだ、インストールが終わっていない。95 %くらいできているけど、あと5%くらいです。あともう少しです。

 ですから、数の目標やビジョンを掲げる前に、絶対的なものがあるは ずです。それは、まず、各自がキリストに似た者となるということで す。新約聖書において、キリストの似姿に変えられるというのは 、最も大切な目標の1つです。自我に死んでキリストに生きるという 、敬虔のための訓練です。さらにそのことができるようになるため 、「みことばの祈り」があるということを学びました。もし 、私たちがもっと父なる神様とみことばを通して交わるならば 、信仰と希望が神様から与えられるのではないかと思います 。先ほどあげた、チョー・ヨンギ師の場合は、まず自分の夢やビジョ ンを掲げ、その後、「神様、これを告白しますので 、かなえてください」というところがありした。順番が逆のような気 がします。夢やビジョンは自分の中から出てくるものではなくて 、神様から与えられるものではないかと思います。それをしないで 、自分の夢やビジョンを神様に押し付けるというのは違うんじゃない かと思います。この世の成功と神の国の成功は、違います 。私たちはどうしても、祝福の量を金銭や持ち物、あるいは大きさや 人数で計ってしまうところがあります。イエス様は 「受けるより与える方が幸いである」とおっしゃいました 。ですから、より多く与える教会、より多く与えるクリスチャンがす ばらしいのであります。ベン・ウォン師もよくおっしゃっています 。自分の教会だけを見るのではなく、日本や世界の教会を見なさい 。建物の中に集まっている人だけを見るのではなく 、建物の外にいる人を見なさい。今のことだけを見るのではなく 、10年先、30年先のことを見なさい。自分たちの能力や資源を見 るのではなく、人々の必要を満たそうとする神様を見なさい 。私たちは視点を変える必要があります。みなさんも、何に対して 、フォーカスしていくべきかお考えください。イエス様が教会に与え た最大の使命は何でしょうか。それはマルコ16章であり 、マタイ28章です。全世界に出て行き、福音を宣べ伝えること 。行って、すべての国民をキリストの弟子にすることです。どうぞ 、この使命を果たすために、自分は何をすべきか、このこともお考え ください。私たちはあまりにも、「私を祝福してください 。私を祝福してください」と祈り過ぎてきました。こんどからは、 「この町の人たちを、日本の人たちを祝福してください 」と祈っていきたいと思います。

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2008年4月27日 (日)

聖霊の導き    ヨハネ14:16-20

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ 」の第4週目です。このテキストには「異言で祈りましょう 」と度々書いてあります。アバラブ教会は聖霊の賜物を強調するグル ープですから、そういう傾向があります。私は、異言はあった方が良 いと思いますが、「異言は必須である」とか、「絶対必要である 」と言ったことはありません。それよりも、聖霊という神様を賜物や 力ではなく、まず、人格的なお方として知る方が大切だと思います 。きょうは、「聖霊の導き」と題して、3つのポイントでお話したい と思います。

1.聖霊とはだれか?

 イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは 、あなたがたのところに戻って来るのです」(ヨハネ14:18)とおっしゃいました。これは復活のことを語っているのではありませ ん。イエス様が聖霊というお姿で、再びやってこられるということで す。肉体を取って来られたイエス様には、物理的な限界がありました 。イエス様はエルサレムに行けば、ガリラヤにいることができません でした。また、ガリラヤに行けば、エルサレムにいることができませ んでした。やがて、イエス様は十字架の死を遂げ、3日目に復活しま した。40日間お姿を現したのち、天にお帰りになられました 。ヨハネ14章は、十字架にかかる前ですから、弟子たちに約束を与 えているわけです。どんな約束でしょうか?イエス様は、 「今度は聖霊によってあなたがたのところにやって来るよ 」とおっしゃったのです。弟子たちにとって「助け主」とは 、イエス・キリストです。そして、このところでは父が 「もうひとりの助け主」を与えるとおっしゃっています。 「もうひとりの助け主」はギリシヤ語では、「アロス ・パラクレートス」です。「アロス」とは、全く同じかたちで 、別のものという意味です。「イエス様と人格的にも能力的にも全く そっくりだけど、別の人格を持った助け主」という意味です。

聖書には三位一体という言葉はありません。でも、ヨハネ14:9 -11は、イエス様と父なる神さまが一体であると書いてあります 。また、ヨハネ14:16-20は、やがて来る聖霊はイエス様と同 じであると言われています。つまり、イエス様と父なる神様とは同じ であり、聖霊とイエス様は同じだということです。数学でもA=B 、C=Aであるならば、B=Cという式が成り立ちます 。つまり聖霊は神さまだということです。ここに3本のビデオ ・テープがあります(神は唯一、しかし人格は3つ 。全く同じ形のビデオ・テープで説明)。旧約聖書では 、おもに父なる神様と聖霊が出てきます。しかし、新約聖書になると イエス様がお出になり、教会時代には聖霊がおもに出てこられます 。聖霊は、イエスの御霊であり、同時に神の霊なのです。ですから 、聖霊を受けるならばヨハネ14:20の「その日には、わたしが父におり 、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが 、あなたがたにわかります」ということが実現するのです。つまり、イエス様の内に父なる神様が ともにおられたように、クリスチャンの中にイエス様がともにおられ るということです。イエス様は弟子たちに「私は世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 (マタイ28:20)と約束されました。そのことは私たちにとっても同じであります 。イエス様は「聖霊様」というお姿で、世の終わりまで、いつも 、私たちとともにおられるのです。ハレルヤ!聖霊によって来られた イエス様には、物理的な限界がありません。聖霊は 、私の中にもおられますけれど、みなさん一人ひとりにともにいるこ とができるのです。

Ⅰコリント3章と6章に、「クリスチャンは聖霊の宮 」であると書かれています。かつて神さまはエデンの園におられまし た。それから、神さまはモーセが作った幕屋に降りてこられました 。その後、ソロモンが建てた、神殿に臨在されました。しかし 、その神殿はバビロンによって破壊されてしまいました。そして 、2000年前イエス・キリスト様のうちに神さまが共におられまし た。しかし、イエス様は十字架であがないのわざを終えられてから天 にお帰りになられました。それからどうなったのでしょう ?神さまは地上にいなくなったのでしょうか?そうではありません 。ペンテコステの日、イエス様が昇天してから10日後 、聖霊が降りました。ペンテコステ以来、イエス様を信じる人々の心 の中に、聖霊なる神様が内住するようになったのです。みなさん 、イエス様を信じているなら、もれなく神さまが共に 、あなたの内におられるということです。すばらしいではありません か。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない」とおっしゃいました。世の中で一番かわいそうなのは 、親のない子供です。現代は、たとえ親がいても、親のいないような 子供がたくさんいます。でも、大丈夫です。父なる神様が 、イエス様があなたと共におられるのです。日本語で「助け主 」と訳されていますが、「パラクレートス」は、他には「慰め主」 「助言者(カウンセラー)」「弁護者」とも訳すことができるのです 。あなたを慰め、助言を与え、弁護してくださる聖霊様がいらっしゃ るということです。何とすばらしい恵みでしょうか。韓国のチョー ・ヨンギ牧師はいつもおっしゃっていました。「父なる神さま 、そしてイエス様は、聖霊様によって、ここにいらっしゃっています 。あなたが神さまの住所なのです。聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し 、聖霊様に従いましょう」。アーメン。

2.聖霊の役割

 聖霊の役割はたくさんありますので、とてもひと言では言えません 。しかし、テキストではいくつか重要なことを取り上げています 。ヨハネ14章では、聖霊はどのようなことを私たちのためにしてく ださると書いてあるでしょうか?ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしにな る聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また 、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださ います」。このみことばは、直接的には弟子たちに語られたものです 。弟子たちはイエス様から3年半、教えを受けました。しかし 、弟子たちは、イエス様が十字架にかかることや復活することに関し てはちんぷんかんぷんでした。また、神の国はこの地上にやってくる と考え、だれがイエス様の右に座るんだと争っていました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロが聖霊を受けて、大説教をしました 。十字架と復活の意味、そしてやがて来る神の国のことをはっきりと 語りました。長老や学者たちは、「ペテロとヨハネが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)と書いてあります。「普通の」とは、「専門に律法を学んだことがな い」という意味です。いくら聖書を学問的に学んでも 、聖霊様にはかなわないということです。なぜでしょう ?聖書は神の霊、聖霊が書いたのです。わからなければ 、原著者である聖霊に聞くのが一番ではないでしょうか?「聖霊様 、ここはどういう意味でしょうか?」「ああ、私はこういうつもりで 書いたのですよ?」わぁー、すげー。皮肉なことに 、人は学問をすればするほど、聖霊様から離れます。聖霊は「すべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださる」のです。アーメン。だから、聖霊様に聞きましょう。

 また、ヨハネ16章にも、聖霊の働きが書いてありますが 、このテキストを見るまでは誤解していました。ヨハネ16:8 -11の内容が、未信者のもののためであるとは知りませんでした。ヨハネ16:8-11「その方が来ると、罪について、義について 、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてという のは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは 、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる からです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたか らです。」未信者のために聖霊は3つのことをなされます。第一は 、福音を拒絶し、イエス様を信じないことは罪であることを示します 。第二は、イエス・キリストご自身が義であり、真理であることを示 します。第三は、この世の君、サタンがさばかれたということです 。これまで、サタンが人々を告発し、さばいてきました 。神さまではなく、サタンがあなたの耳もとでさばいてきたのです 。でも、サタンは正しいキリストを処罰したことによって逆にさばか れました。聖霊はクリスチャンを懲らしめることはありますが 、罪を告発したりはしません。罪を告発するのはサタンです。でも 、キリストの十字架によって、サタンはさばかれ追放されました 。聖霊は、キリストによってすべての罪が赦されているゆえに 、私たちを訴えないのです。むしろ、私たちを弁護し 、私たちを正しい道へと導いてくださるのです。神さまはもう 、あなたを訴えません。キリストのあがないによってあなたを赦し 、聖霊様によって弁護してくださるのです。

 では、クリスチャンに対する聖霊の働きとは何でしょうか ?ヨハネ16:13-15にあります。ヨハネ16:13-15「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来 ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語 るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしているこ とをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします 。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです 。父が持っておられるものはみな、わたしのものです 。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて 、あなたがたに知らせると言ったのです。」クリスチャンに対しては、第一に、聖霊はすべての真理に導き入れま す。第二に、聖霊は父もしくはイエス様が言われたことを話します 。第三に、聖霊はやがて起ころうとしていることを示してくださいま す。多くのクリスチャンは、聖霊様に聞かないで、預言者とかカウン セラーのところを訪問しています。有名なクリスチャンのある先生に カウンセリングを受けるのは、2ヶ月か3ヶ月待ちだそうです 。また、「預言カフェ」というのがあって、多くの人たちが預言を受 けるため並んでいるそうです。未信者だったら「それも良いでしょう 」と言えるかもしれません。そうじゃないんです。なんと 、クリスチャンがカウンセリングや預言を求めて、あちこちらこちら 訪れているのです。解決は遠くにあるのではありません 。あなたの内におられる聖霊にあるのです。聖霊はすべての真理に導 き入れ、神さまがおっしゃることを話し、やがて起ころうとすること を示してくださるのです。昔、ディスカバー・ジャパンというのがあ りました。私は、ディスカバー・ホーリースピリットと申し上げたい です。

 テキストにはすばらしいたとえ話が書いてありますので 、引用したいと思います。どのように私たちは聖霊の導きを知るので しょうか?ある日、神様は1つの絵を与えてくれました 。私があなたに私の家の住所を知らせたとします。その住所は正しい けれども、あなたは私の家を発見することが難しいのです。もし 、あなたが注意深くないならば、あなたは間違った情報によって 、誤った道に導かれるでしょう。それでは、あなたが私の家に到着で きる最も良い方法とは何でしょうか?それは簡単です 。もしあなたが、私を車に乗せてくださるなら、あなたは迷うことは ないでしょう。それゆえ、あなたは神様の声を聞いて、 「これは効果的である」と考えた方法で始めないでください 。そうではなく、あなたの「人生の地図」を、あなたの人生の車にお られるイエス様のところに持ってきなさい。もし、私たちがキリスト に焦点をあて、キリストと親しい交わりを持つなら 、私たちは私たちの定められたところに到着できるでしょう 。あなたはだれと人生を共に歩みますか?あなたの車の助手席にキリ ストの霊であられる、聖霊様をお乗せしましょう。あなたの 「人生の地図」を、あなたの人生の車におられる聖霊様にお見せしま しょう。必ずあなたを正しい道へと導いてくださいます 。牧師のところに来たら、聖霊の知恵をいただいて 、ある程度のアドバイスはできるでしょう(たまに相談に来ると嬉し い)。でも、牧師の役割はそうではありません。牧師の真の役割とは 、「今もあなたと共におられる、聖霊様に聞きなさい 」と勧めることであります。

3.聖霊による啓示

 聖霊は私たちをどのように導かれるのでしょうか?テキストには 「霊によって伝達する」と書いてあります。神さまは霊ですから 、私たちが新生したならば、私たちの霊は神さまと伝達しあうことが できるのです。新生とは、霊的に生まれ変わるということです 。生まれつきの人間は、霊的に死んでいますから、神さまのことがわ かりませんし、神さまと語り合うこともできません。しかし 、イエス様を信じると、私たちの心の奥底にある霊が 、目覚めるのです。すると、「神さまはいらっしゃる 。私は天国も行けるし、私は神のこどもである」という確信が与えら れます。さらに、聖書のことばが「本当だ、すごい 」と分かるようになります。賛美やメッセージもより恵まれます 。なぜなら、あなたの霊が生き返ったからです。そして 、あなたの霊に聖霊が、何かを伝達してくださるのです 。聖霊は神さまとのコミュニケーションの霊です。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのない もの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの 。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは 、みなそうである。」これは、肉眼では見たことのないもの、肉声では聞いたことのないも の、心の中に浮かんだことのないものを聖霊が新たに与えるというこ とです。エディ・レオは3つの感覚があるとテキストで述べておりま す。

①霊的な耳を通して。これは「耳が聞いたことのないもの」です 。一般的に、神様は肉体の耳ではなく、霊的な耳によって伝達してく ださいます。神様は普通、1つか2つのことば、多くても3つのこと ばを私たちの霊に与えるということです。あるときエディ ・レオ師の奥さんが、美容室に行きました。鏡を眺めながら 、自分の髪の毛を整えている女の子を見ていました。奥さんは 「主よ、私を通して彼女を祝福してください」と心の中で祈りました 。突然、神様から「拒絶」という、たった1つの言葉を与えられまし た。彼女を見ると、とてもニコニコして幸せそうでした。 「すみません、ちょっと話をしても良いですか。あなたは人生におい ていくつかの拒絶を味わったことがありませんか」。奥さんが 「拒絶」という言った瞬間に、「12歳」という言葉が出てきました 。「あなたは12歳のとき、あなたのお父さんは亡くなりました 。それから、あなたは非常に孤独を感じていましたね 。多くの男性たちから拒絶されました。あなたは人間関係においてい ろいろな失敗があります。あなたは何度も結婚したいと思いながらう まくいかなかったですね。彼女は泣きながら、「はい 」と言いました。そして、その日、彼女はイエス様を受け入れました 。このように、神様は霊的な耳に1つか、2つの言葉を与えて 、伝達してくださいます。

②霊的な目を通して。「目が見たことのないもの」 。神様は私たちの霊に、絵(ピクチャー)もしくは象徴的な言語を与 えます。私は木曜の集会で、葛葉姉に預言のミニストリーをしたこと があります。キラキラ光っている水面が見えました 。後から聞きましたが、葛葉姉はこのように答えました。 「私は川辺に座って祈ったりすることが多いんです。そこが 、気持ちがとってもやすらぐんです。水面がキラキラ光っている川を 見ることが多いんです」。ある女性の牧師のために 、祈ったことがあります。花壇にすずらんが咲いている絵でした 。その方は、まもなくロシア語を学ぶために北海道に行きますと答え ました。このように、パッと浮かぶことを口に出すと 、次のものが見えたりします。

③霊的な感覚(印象)。「人の心に思い浮かんだことのないもの 」です。神様は印象もしくは、霊的な感覚(フィーリング )を与えます。その人の近くに寄ると、けっこう分かります 。もちろん、表情を見て、元気そうだなーとか、悩んでいるなーとい うのは分かります。でも、もっと奥底にあるものを神さまは示してく れます。野澤兄弟(ザチン)は、けっこう鋭くて、隣に座っただけで 「ああ、怒っているのがわかる」なんて言います。私もよくスーパー で買い物をしますが、すれ違うときに、「ああ、この人にはこういう 傷があるなー」と分かるときがあります。レジを打っている人を見る と、「この人はセルフイメージがとても健康だ」とか分かります 。しかし、みなさんいつも霊的アンテナを伸ばしていると疲れます 。ある人は、霊的にとても敏感で、人ごみの中から 、色んな嫌なものを拾う人がいますので気をつけましょう 。必要でないときは、どうぞアンテナをひっこましてください 。最も大切な動機は、「その人を祝福したい、励ましを与えたい 」ということです。私たちがキリストの心をもって 、他者を祝福したいという動機を持っているなら、聖霊は私たちに隠 されているすばらしいことを示してくださいます。

先週は、香港からコーチングのために、ベン・ウォン先生が来られま した。帰り際にこんな話をしてくれました。人を助けるとき 、私たちアジア人はその人の弱さ、悪いところを直そうと考える 。しかし、その人の長所を伸ばすということがより大事である 。その人の弱さや悪いところでなく、良いところに目を向ける 。ポール・ポット(劣等感の塊のような男性がすばらしいオペラを歌 って優勝)のように、その人のうちにダイヤがある。人を育てる 、発展させるというのは1つの芸術である。コーチとしてどのように して人々を発展させていくか、その芸術をマスターしていく 。英語の本で『人々の内にある最善なものを引き出す 』という本がある。中国人はそういう考え方ができない 。子供をしつけるときも「なぜ、おまえはこれをしないんだ 」と子供の悪いところだけを見る。その本には、「その人の中にある 最善なものを引き出すにはどうしたら良いか」が書いてある 。私はこの本を読んで、人を育てるということについて革命的な変化 がもたらされた。多くの人の場合、問題や欠点はその人に一生ついて 回る。私たちは変わってほしいと願うが、おそらく全部は変わらない だろう。私たちは否定的なところを見て、良いところを伸ばそうとし ない。しかし、良い方を高めてあげれば、悪い方もそんなにひどくは ならない。私たちは人を助けようとする余り、悪いところを叱る 。すると、その人の良いところを消してしまう。アジア人は欠点をな おすことに長けている。そうしないように努めても 、ついついそうなる。だから、バランスをとるためには 、できるだけ良い方を見るようにすれば、ちょうど良い 。人を育てるとき、できるたけ良いところを認め、それを引き伸ばし てあげることが大切である。そんなふうに教えてくださいました。

聖霊様はイエス様のような助け主です。イエス様の傍にいた弟子たち は本当にのびのびしていました。聖霊は私たちと共にいて 、私たちを励まし、弁護し、助言を与えてくださいます 。聖霊様が私たちのベスト・カウンセラーであり、ベスト ・コーチであることを覚えましょう。

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2008年4月20日 (日)

神様との会話    Ⅰテサロニケ5:15-22

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」の第三週目を学びたいと思います。「神様との会話」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。祈りとは神様との会話であります。私たちはイエス様を信じた瞬間から、神様との和解が成立しました。神様は天のお父様となり、私たちは子供となったのです。私たちは神様の子供として、何でも、気兼ねなく、お話できるという特権が与えられました。人との電話はbusy、話し中というのがありますが、神様との電話は「話し中」ということがありません。24時間、いつでもopenなのであります。今どきの人たちのほとんどは、携帯電話を持っています。残念ながら、父なる神様に電話する人は稀です。人間と会話はいくらやっても平面的な解決しか与えられません。でも、父なる神様との会話によって、垂直的な、つまり天からの解決が与えられるのです。

1.祈りの継続性

Ⅰテサロニケ5:17に「絶えず祈りなさい」とあります。「絶えず祈れ」とは、どういう意味でしょうか?英語の聖書には、「祈りをやめないで、絶え間なく祈れ」とか「継続的に祈れ」というふうに書いています。絶えず祈るためには、教会の早天祈祷会や水曜祈祷会、徹夜祈祷会もあります。朝のディボ-ションも大切です。私はそれらのことは全部やってきました。でも、日中、仕事場とか家庭では、ほとんど祈りませんでした。なぜなら、「神様は教会堂など、聖い場所にはいらっしゃるけれど、世俗的なところにはいらっしゃらない」と思っていたからです。ある姉妹が、「私は自転車をこぎながら祈っています」と言っていたのを聞いて、びっくりしました。また、ある男性は「私は車を運転しながら祈ります」と言いました。「えー?目をつぶったんじゃ、危ないんじゃないの」と思いました。私たちは「祈りとは、両手を組んで、目をつぶって、祈るものだ」と日曜学校かどこかでおそわっています。もちろん、そういう祈りもあるでしょう。でも、「絶えず祈れ」ということを実行するためには、場所を選んだり、正式な祈りの姿勢を取ることは不可能です。でも心の中で祈るなら、家事をしながら、仕事をしながら、買い物しながら、歩きながら、電車に乗りながら、あるいは人と会話をしながらも祈ることが出来ます。先週、男性は1日に240回、4分毎に誘惑を受けると申し上げました。しかし、それは主を礼拝し、主と交わることのできるすばらしいチャンスでもあります。

イエス様は父なる神様と共に歩みました。父に語りかけ、父を見ることができました。1日に24時間、そうすることができました。みなさんは、「いやいや、イエス様は神様だからね。でも、私のような者がどうしてそのようなことが出来るでしょう」と言うかもしれません。Ⅰヨハネ2:6に「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と書いてあります。イエス様は父なる神様と1つでありました。ヨハネ14:10でイエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」とおっしゃいました。イエス様は父なる神様ととても親密な関係を持っていました。イエス様は父なる神様といつも交わり、父なる神様がおっしゃることを語りました。また、イエス様は、父なる神様がなさるわざを行いました。イエス様はすばらしい愛のお方でした。でも、イエス様はイエス様ご自身の愛を用いたのではありません。イエス様は父なる神様から、無条件の愛をいただいて人々を愛することができたのです。また、イエス様がなさった数々の奇跡もそうであります。イエス様は神様ですから、ご自分の力でやろうと思ったらできたのですが、いつも父なる神様の力でなさいました。イエス・キリストは私たちのために模範となられたのです。それだったら、イエス様がいつも父なる神様と交わっていたように、私たちも父なる神様と親しく交わるべきであります。そうするならば、私たちもイエス様と同じようなことができるんじゃないでしょうか?でも、私たちはイエス様の品性を真似ることはできません。イエス様のように愛の人になろうと努力します。ある人がやってきて「あなたが愛の人になるように、手伝ってあげましょう」と、あなたの片方のほほを「バシッ」と叩きました。あなたは1回はなんとが我慢できるかもしれません。でも、それが2度、3度になると、「いい加減にしろ」と怒って、相手のほほを3倍にして殴り返すんじゃないでしょうか?私たちはイエス様の品性をまねることはできません。でも、イエス様のライフスタイルは真似ることができます。イエス様はいつも父なる神様と親しく交わっていました。いつも、父から聞いて、行動していました。

今から400年前、この原則を適用したクリスチャンがいます。彼の名前はブラザー・ローレンスと言います。彼は、神学者や牧師、偉大な説教者でもありません。彼は王様の邸宅の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は父なる神様と24時間の関係を持つということを実践しました。神様の臨在を実践することを「コランデォー」と言います。ブラザー・ローレンスは料理するときも、神様と会話をしました。「お父さん、感謝します」と、毎日、会話をしました。彼の人生に何が起きたでしょうか。彼は福音を宣べ伝える必要がありませんでした。彼が食事を持ってきて仕えるとき、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。そして、彼は「神の臨在を実践する」という本を書きました。リバイバリストで有名な、チャールズ・フィニーも、彼の本から影響を受けました。チャールズ・フィニーが、どれほど力があるかご存知でしょうか。彼はある工場の操業風景を見るために、工場の中に入っていきました。紡績部門を通っていくと、大勢の若い女工がいるのが見えました。彼女たちは、チャールズ・フィニーを見つめ、何やらそわそわしていました。フィニーが彼女たちに近づくと、ますます落ち着き失ったように見えました。そのうちの一人はとても取り乱してしまったので、糸が切れてしまいました。彼女はそれを直そうとしましたが、手がブルブル震えて直すことができません。フィニーがじっと彼女たちのことを見つめていると、一人またひとりと仕事の手を止め、ひざまずきました。数分のうちに機械はすべて止まり、涙と嘆きの声が工場内に満ちました。後で分かったことですが、その大きな工場で働いていたほとんどの人がキリストに希望を見出したということです。このように、チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜでしょう。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。だから、そんな場所でも主の御顔を仰ぎ、神様との会話を実践しましょう。力強いことが起こると思います。

2.祈りの鍵

 祈るためには、平和な心を持たなければなりません。私は中川の橋を毎日のように渡ります。数日前は雨風が強かったので、川の水はとても波立っていました。でも、天気が良くて風のない日は、鏡のように真平らです。そういう日は、水面に小魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。湖とか海へ行くと、天候によって、水面の変化がもっと激しいです。私たちの心も、この世で暮らしていますと、しぶきが立つくらい荒れるときがあります。そういう時は、祈るなんていうことはとてもできません。先週の金曜日は大雨が降っていました。家内が北千住に用事に出かけました。後から「北千住からだけど、亀有駅に迎えに来て」という電話が来ました。私は車で駅まで迎えに行きました。しかし、いくら待っても来ないんです。あそこのロータリーは車を駐車できないので、少しは停車して、車を動かし、4周くらい回りました。ようやく、家内が顔を見せ、車に乗りました。私は「電車に乗るときに電話したのか、何でこんなに時間がかかるんだ」とカンカンに怒りました。「ああ、今度は亀有駅から着いてから迎えに行こう」と思いました。最近、怒ったことはなかったんですが、久しぶりに怒りました。不当な扱いを受けたので、カチンと来たんですね。私は不当な扱いに弱いんですね。このように、怒りによって、心が波立つときもあります。また、心配事や思い煩いで心が波立つときがあるでしょう。そういうときこそ、祈らなければならないのですが、祈れないのが人間です。

 テキストのP.18にありますが、「私たちが平和な心をもって祈ることができるために、2つの鍵があります」と書いてあります。第一は、私たちのすべての心配を主に手渡すことです。どのようにしてでしょうか?ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ここには、「感謝とともに祈りと願いをささげよ」と書いてあります。感謝ってできないですよね。特にうまくいっていない時には…。テキストには「私たちが感謝をささげるとき、私たちは神様の臨在を感じることができる。感謝は私たちの心を変える」と書いてありました。うまくいっていない状況や環境を見て、不平不満を言うのは簡単です。私などは、問題が起こったときは、自然に不平不満を言うのがに慣れっこになっています。「何でだよー」と叫ばずにはおられません。でも、聖書は「すべてのことを感謝しなさい」「感謝をもって祈りと願いをささげよ」と命じています。なぜでしょう?何の根拠があってでしょうか?それは、神様がそういう状況の中にもおられるからです。そして、全能なる神様が「すべてのことを働かせて、益にしよう」と待ち構えておられるのです。それなのに、私たちが不平不満を言ったり、つぶやくならば、神様は手を引くしかなくなります。そうすると悪いことは悪いまま、問題は相変わらず問題として残るでしょう。でも、私たちが信仰を働かせて、「今、こういう状況でも神様は働いておられます。だから、感謝します。ハレルヤ!」と、告白するならどうでしょうか?心が平安になり、祈りがさらに出てきます。「神様、こういう状況で私は悩んでいます。これがこうして、ああなったのです。でも、神様はどんなことでもおできになります。あなたにゆだねます。」こういうふうにして、神様との会話が進みます。どういう訳か、後から思うと、試練の中にいるときが、真近に神様を体験できるのです。こちらが真剣に神様に求めると、やはり、神様も真剣に答えてくださるということです。感謝には力があることを覚えましょう。どんな力でしょうか?主の臨在をもたらす力です。

第二番目の平和な心を持つ鍵は、積極的なことを考え続けることです。ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」とあります。使徒パウロは、合計8つの良いことに心を留めよと勧めています。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいことです。その次には、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いことです。これで6つです。そして、他に心を留めることとは、徳といわれること、称賛に値することです。合計8個になりました。「心に留める」とは、「頭の中でそういうことを考えよ」ということです。これらの8つは、聖書にありますが、聖書だけではありません。この世の中にも、あります。神様はこの世界を創造されたときに、「良かった、良かった、非常に良かった」と言われました。しかし、アダムとエバが堕落してから、この世界も罪によって汚染されました。しかし、完全ではありませんが、この世界の中に、8つの良きものが宝石のように散りばめられているということです。問題は、私たちの目です。グレーのサングラスで見るなら、何でもグレーに見えてしまいます。つまり、物事を批判的に否定的に見るならば、何を見ても良くありません。もし、私たちが宝石を捜すように、この世界を見るならば、神様の「創造のかけら」を発見することができるのではないでしょうか?未信者の中にも、映画や一般の書物にも、8つの良きものがあります。どうぞ、そういう良きものに心を留めましょう。人が刺されたとか、だれかが不正を働いたというニュースはさらっと聞き流し、もっと良きものに心を留めましょう。そうすれば、心の平安が保たれ、いつでも主と会話をすることができます。

3.祈りの目的

祈りの目的は、私たちの生活を主にご支配していだたくために、神の王国を招くことであります。マタイ6:10「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」とあります。「御国」とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では、バシレイアーと言いますが、「王国」とか「支配」という意味です。もし、私たちの生活に、神の王国、神の支配がやってきたならどうなるでしょうか?エデンの園のように潤い、すべてのものが輝き、命にあふれるでしょう。では、どのようにして神の王国が私たちの人生、私たちがいるところにもたらされるのでしょうか?その答えは、イエス様を招くのであります。イエス様は神の王国の王です。イエス様が来られるならば、神の王国も一緒に来るのであります。私たちはイエス・キリストにあって、どのようなことを経験できるのでしょうか?ピリピ2:1に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と書いてあります。私はこれまで、この御言葉をほとんど気にとめたことがありません。でも、このことがキリストにあって経験する御国、神の王国であるとしたらどうでしょうか?ここには5つの事柄が示されています。励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみです。わあー、私の人生、キリストに出会う前は、こういうものが全くありませんでした。いや、今もこの世にはありません。私も郵便局で少しだけアルバイトをしていますが、「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」ほとんどありません。本当に殺風景です。大体、この世はそういうものです。そういう中で仕事をしていらっしゃる方は本当にご苦労さまです。

でも、みなさん、もし私たちがそういうところに神の国をもたらすことができたら何と幸いでしょうか?考えてみますと、2000年前、イエス・キリストと神の王国が一緒に来ました。イエス様が行くところ、どこにでも人々は、神の王国を体験することができたのです。福音書を見ますと、まさしく人々は「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けました。イエス様は人々を支配というかコントロールしていません。もちろん、時々、命令はしていますが、コントロールではありません。イエス様の「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けた人々はどうなったでしょうか?弟子として、イエス様に従ったのであります。そして、自分もイエス様のように神の王国をもたらす人になりたいと志願したのではないでしょうか?でも、みなさん、それを「教会制度、教会組織」という箱に入れてしまいました。すると、本来あるべき、何がなくなったのでしょうか?それは、ピリピ2:2の内容です。ピリピ2:2「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」まことに、残念ですが、人々が神の王国を「教会制度、教会組織」に置き換えてからどうなったでしょう。一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせる、志を1つにするということが不可能になったのです。教団や教派でライバル心を持ちました。「うちはこういうことを強調し、こういうことに優れている」と分派心を持ちました。相手を自分よりも低いものと見るようになったのです。神の王国は、いわゆる教会に来るのではありません。人々の心の中に来るものなのです。なぜなら人々が教会そのものだからです。

 ですから、私たちは神の王国の民として、教会をとらえるべきです。どうぞ、制度とか組織にしないでください。私たちの内にキリストの支配を歓迎するときに、結果的に、パウロが持っていたような喜びに満たされ、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つになるのです。ですから、神の国は私たちの心に来なければなりません。イエス・キリストを私たちの心に王様として招き入れるのです。そうするならば、私たちの心に神の王国がやってきます。では、心とは何でしょうか?テキストには、「私たちの意思と思いと感情である」と書いています。そうです。私たちの意思と思いと感情をイエス様に明け渡しましょう。そうすれば、イエス様は私たちを豊かな神の王国へと導いてくださるのです。私たちは可能な限り頻繁に「神様、私の意志と、私の思いと、私の感情を導いてください」と言って、これを習慣化させる必要があります。私は25歳でイエス様を信じはしましたが、それまでの古い習慣がまだ、身について残っています。自分の意思、自分の思い、自分の感情を優先させるときがあります。これはやっぱり、意識的に、神様に願う必要があります。箴言3:3-6は、このことを具体的に示しているすばらしいみことばです。箴言3:3-6「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」アーメン。ヨハネ:14に、イエス様は「恵みとまことに満ちておられた」とありますから、まさしく、イエス様を捨ててはなりません。イエス様を首に結び、心の板に書き記すほど、親しく交わるのです。そして、心を尽くして主イエス様に拠り頼むのです。自分の悟りにたらないで、行く所どこにおいても、主イエス様を認めるのです。そうするなら、神の王国、つまり「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ」をもっと体験することができるのです。

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2008年4月13日 (日)

礼拝と想像の刷新   ローマ1:22-28

1.想像の力

想像には大きな力があります。1つ実験をしたいと思います。みなさん、目をつぶってください。ここに新鮮なレモンが1つあります。私は、レモンをまな板にのせました。そして、包丁でまっぷたつに切りました。「ぷーん」となんだか香ってきました。さあ、口を開けてください。私が、半分に切ったレモンをあなたの口まで持っていきます。そして、レモンをぎゅっと絞りました。うぁあー、すっぱい果汁があなたの口に一杯広がりました。どうぞ目を開けてください。単に想像しただけですが、体がすっぱいと反応したでしょう。なぜ、反応したのでしょうか?それは、あなたの想像が、あなたの体の一部だからです。イエス様はマタイ6:22、23でこのようにおっしゃいました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」この目とは何でしょう。エディ・レオ師は「目は想像力のことである」と言いました。もしあなたの目、つまり想像力が健全なら、あなたの全身が明るいでしょう。しかし、あなたの目、つまり想像力が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。あなたは神を礼拝したいでしょうか。それならば、想像力を守らなければなりません。なぜなら、あなたは想像力を働かせて偶像を作り出すことができるからです。あなたの想像力が、あなたの人生を決定していくのです。この想像力は、非常に力強いものです。あなたの想像力が間違っているなら、あなたの体全体が暗くなってしまいます。しかし、あなたの想像力が正しければ、良いものであるなら、あなたの生活は光り輝くものとなるでしょう。

ローマ1章後半には、人間のさまざまな罪が記述されています。情欲と不品行、あらゆる不義と悪とむさぼり、ねたみと殺意と争い…。それらの罪の発端となったものは何でしょう?それらは自分たちが礼拝している想像から始まったのです。ローマ1:22-23「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたち(イメージ)に似た物と代えてしまいました」。本来、人間は想像力を働かせるなら、神を見ることができます。しかし、神を礼拝したくないのです。そして、神のイメージを人間か、あるいは動物のイメージに代えてしまいます。彼ら自身が考えたイメージを礼拝する、これが偶像礼拝です。もし、彼らのイメージが汚れているなら、彼らの体も汚れたもととなります。なぜなら、私たちが想像することが、体のあかりだからです。偶像礼拝の成れの果てが、ローマ1:24です。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」神様が「それなら、どうぞお好きなように」と、汚れに引き渡されるのです。神様が懲らしめをあたえるうちは、まだ希望があります。でも、神様から「好きなようにしなさい」と言われるほど、悲惨なことはありません。27節に行くと、同性愛のことが書かれています。神様は人間が同性愛を行なうことを許されます。この性的な罪はどこから来ているのでしょうか。私たちの想像、イメージから来ています。これら罪に打ち勝ちたいならば、まず、間違ったイメージに打ち勝つ必要があります。

では、使徒パウロはこの教えをどこから得たのでしょうか?おそらく、パウロは、エゼキエル書を参照にしながら書いたと思われます。預言者エゼキエルは、神様からエルサレムの神殿を見せられました。彼は霊によって、壁の穴を通り抜け、中に入ってみました。エゼキエル8:10「私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた」。外側から見ると、神殿はすばらしいものでした。しかし、中に入ってみると、彼はびっくりしました。神殿の中の壁に、様々な偶像が満ちていました。イスラエルの長老たちが、忌みきらうべきことをしていました。彼らは、香をたいて偶像を礼拝していたのです。新約聖書で、使徒パウロは、「私たちの体は神の宮、神殿である」と言いました。テキストにはこのように書かれています。「私たちはみな、神の宮の中に、『想像』と呼ばれる1つの部屋があります。想像の世界は、力強い個人的な世界です。多くの男性は、個人的な想像の部屋を女性の裸やポルノや性的な幻想に満たして、それらを礼拝し続けています。それゆえに、多くの男性は性的な束縛から自由になることができません。多くの男性は自分たちの欲望にしたがって、女性に対するイメージを作っています。女性を映画スターのような顔にして、肌の色や体の線なども作り上げます。そのため、多くの男性は、性的な幻想の束縛やマスターベーションから解放されないまま、長い年月、そのような想像の奴隷となっています。」

わぁー。日曜日の朝、講壇からすごいことが語られています。外側から男性を見ると、「そんなことはないですよ」という顔をしています。しかし、穴を開けて、想像というプライベートな部屋を覗いたらでどうでしょうか?わぁー、壁一面に女性という偶像に満ちています。では、解決法はあるのでしょうか?人間は礼拝する存在です。もし、私たちが心の中に何も入れ替えないで、つまり、主を礼拝することなしに、汚れた想像と戦うならば勝利することは不可能です。汚れた想像が浮かんできたら、ただちに、主を礼拝することにそれを置き換えるのです。

2.想像の転換

 2年前の6月に、インドネシアからエディ・レオが当教会に来られました。そして、このようなメッセージをされました。すべての人間は、自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは私たちの想像です。だれも、他の人は見ることが出来ません。あなたも、私のプライベートな部屋を見ることができません。私もあなたのプライベートな部屋を見ることができません。だれもが、プライベートな部屋な部屋を持っています。そこで神様を礼拝しています。しかし、それと同時に、たくさんの偶像もそこに入っています。そのプライベートな部屋の中に、多くの石像があります。彼らの想像のスクリーンに様々なものが映されています。そして、その絵を楽しんでいます。「おおー」「ああー」「ああー」。様々な絵があります。どんな絵でしょうか。「おー、女性だ」。裸の女性。「ああー」。インターネットで調べていく。「ああー」。そして、自分のイメージの中に入れる。すごく良いコンピューターを持っている。何ギガバイトもある。ペンティアムⅥ。カラフル。サラウンドサウンド。「おおー」「ああー」「おおー」。そして、それを保存する。すべての画像を保存する。それが大好き。だれもがそのようなプライベートな部屋を持っている。そして、それを楽しんでいる。そして、こう言います。「神様はそれを見ていない。神様はここはおられない。どこか外にいる。神様はそれを見ていない。」それが、プライベートな部屋です。そのプライベートな部屋で、私たち男性は、色んなイメージを作ります。私たちは自分の好きな女性たちをそこに作ります。「ああ、私は黒人の女性が好きだ。でも、髪の毛はちょっとアジア系の女性が良い。」「ああ、私はこのモデルが好きだ」。そして、毎日これを拝む。「おお、あなたは何と美しい方だろう。あなたと会えることを嬉しい」。そのように、私たちは様々な想像を作っています。そして、それを拝んでしまう。これが姦淫です。これによって、性的な罪が起こされるのです。不品行は偶像礼拝の1つです。この問題を解決するにはどうしたら良いでしょうか。

これもエディ先生がおっしゃっていたことです。先生はある時、説教をしていました。聞いている人たちにこう尋ねました。「女性たちは、どのくらいの頻度で、性について考えるでしょうか」。ある女性が立ち上がりました。彼女は、「1ヶ月に1回ぐらいです」と答えました。男たちはみんな笑いました。男性にとっては、1ヶ月に1回ではないからです。それは1週間に1回でもない。1日に1回でもない。1時間に1回でもない。男たちが、セックスのことを考えるのはどのくらいの頻度でしょうか。エディ先生は様々な心理学者と話しましたが、これは調査に基づいた結果です。もし、男性が仕事をしないでくつろいでいる時、セックスについてどれだけ考えるでしょうか。1日に240回です。男性は一日に約240回性的な誘惑を受けます。睡眠の8時間を引くと、4分に1回の割合で誘惑を受けることになります。これは必ずしも罪ということではなく、誘惑です。男性はたくさん、こういう誘惑を受けます。女性方は軽蔑するかもしれませんが、男性はこういう存在なんです。朝、目が覚めて、カレンダーを見る。「ああ、奇麗な女性がいる」。トゥウーンー、まず、第一のイメージ。そして、ジョギングをする。ああ、奇麗な娘が通りかかった。トゥウーンー、第二のイメージが生み出される。また、全く女性と関係のないものを見る時も感じる。木を見る。「ああ、何とこの木はセクシーなんだろう」。これが男なのです。何でも見たものから、セックスについて考える。どのようにしてこれを克服できるだろうか。エディ先生は本当にイライラしました。「イエスの御名によって出て行け!」ニューェー(引き出す)。だが、4分たつとピューと入って来る。「イエスの御名によって出て行け!」ニューェー(引き出す)。4