2015年5月22日 (金)

御霊の導き Ⅰコリント2:9-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.5.25

 本日はペンテコステ礼拝ですが、『タッチングヘブン』のテキストからメッセージさせていただきます。聖霊というとき、ある人たちは聖霊の賜物とか力あるわざに興味がいきがちです。もちろん、そういうことも重要ですが、聖霊は私たちの霊に語りながら、私たちが神さまのみ旨の内を歩めるように導いてくださるお方です。新約聖書では単に御霊としか出てこないときがあります。ギリシャ語は大文字で区別していませんので、神の御霊なのか、私たちの霊なのか区別できないところがあります。それだけ聖霊は私たちと共に住み、共に歩んで下さるお方なのです。きょうは「御霊の導き」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.御霊による悟り

 聖霊は私たちに悟りを与えてくださいます。では、聖霊は何を私たちに教え、何を私たちに悟らせてくださるのでしょうか?それは神のことばである聖書です。聖書それ自体は、神の霊感よるもので誤りなき神のことばであります。しかし、私たちが聖書を読むとき、すぐ分からないことがあります。「これはどういう意味なのだろう?」という解釈の問題、「私にとってどういう意味なのだろう?」という適用の問題があります。ある人たちには、「聖書は難しいし、自分で読むと間違って解釈してしまう」という先入観があります。そして、注解書やだれか神学者の力を借りて読もうとします。昔、ローマ・カトリックではヴルガータというラテン語訳の聖書のみに権威が置かれました。中世の頃、一般の人たちはラテン語が分かりませんでした。しかし、教会は自国のことばに翻訳することを禁じました。それで、教会のミサに来て、ラテン語の聖書を解き明かしてもらいました。一般の人たちは聖書を持っていなかったのです。聖職者や神学者の教える聖書を学んだのであります。ですから、ヨーロッパ中に神話やジンクス、あるいは魔術が横行したのであります。彼らは霊的に全く盲目でありました。1517年、ルターの宗教改革後、聖書が印刷され、だれもが自国のことばで読めるようになったのです。ところが何百年たっても、目の前の聖書を読まないで、参考書や解説書を読むとは何事でしょう?プロテスタント教会も同じような過ちを犯しているということです。本当はどうなのでしょうか?聖書の原著者である聖霊に聞けば、聖霊が教えてくださる。なぜなら、聖霊は真理の御霊だからです。

 ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ1613「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」これらは、イエス様が弟子たちに言われたことばです。当時の弟子たちでさえ、イエス様がおっしゃることを全部理解できませんでした。そのため、イエス様はご自分の後、父のもとから遣わされる聖霊にゆだねたのであります。聖霊が来たら、ご自分が話したことを思い起こさせ、また悟らせてくださるということをご存じだったのです。私たちは使徒の働き2章のペテロの大説教を知っています。彼はペンテコステの日、集まって来たエルサレムの人たちに大胆に語りました。キリストの死と復活の意味を旧約聖書から解き明かしました。ペテロが「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と言ったら、3000人がイエス様を信じました。ペテロは、美しの門で足なえがいやされた後、もう一度、説教しました。すると、大勢の人たちが信じ、男性だけでも5000人ほどになりました。当時の宗教的指導者たちはあわてました。ペテロやヨハネを捕えて、「何の権威によって、だれの名によってやっているのか」と尋問しました。使徒413「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」この「無学な、普通の人」と言う意味は、「専門的な教育を受けていない素人」という意味です。律法の専門家たちは、「この知恵をどこから得たんだろう?」と驚いたに違いありません。なぜ、できたんでしょう?それは、ペテロが御霊によって語っていたからです。

 『タッチングヘブン』のテキストにこのように書かれています。「神さまの御声を聞きたいと願う人は、聖書に書かれている神のことばを勤勉に読んで行う人なのです。私たちが神のことばを瞑想し、行なうことをし続けるならば、聖霊は私たちの心にとどめているみことばを悟らせ、教えてくださるのです。聖霊はしばしば、私たちが問題や誘惑に直面しているとき、教え、悟らせてくださいます。」あるホームページに、ミサワ・ホーム中国(株)の正野社長の証がありました。中国といっても、岡山県であります。1982年、創業社長が急性膵炎で倒れ、わずか三日後に急逝しました。それで、専務取締役だった正野さんが急きょ社長に就任しました。会社は石油危機と事業拡大で赤字経営に陥っていましたが、業績は下降の一途をたどるばかりでした。トップとしてビジョンと具体的な戦略を示さなければなりません。赤字経営を立て直す場合、業績の悪い社員を解雇する合理化策は経営の常道です。彼はイエス様の十字架の贖いで恵みに入れられている社員を解雇することができませんでした。しかし、そうなると共倒れは必至です。損得を優先すべきか、神の愛を優先すべきか。二者択一に迫られ、ジレンマの中で進退きわまった彼に、次のみことばがくっきりと示されました。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」コリント13:13。彼は倒産を覚悟の上で、解雇しないという信仰者の道を選びました。その結果、会社はどうなったでしょうか。予想もしていなかった奇跡が起こったのです。社員たちは、この社長ならついていこうと思ったのでしょう。愛はメンバーの一致をもたらし、そこから新しいいのちが生まれます。業績はぐんぐん伸び始め、わずか2年で2億円もの赤字を解消し、高収益会社に一変してしまいました。

 このように聖霊は私たちにみことばを示して、脱出の道を示してくださいます。そのためには、聖書を普段から読んで、心の中にみことばを蓄えている必要があります。そして、私たちが祈るときに、聖霊はみことばを与えて導いてくださるのです。

2.御霊によるコミュニケート

『タッチングヘブン』の25日目に、「神さまは私たちの霊的な感覚によってコミュニケートされる」と書いてあります。コミュニケートとは、情報・知識・感情などを伝達するという意味です。神さまは霊ですから、私たちが新生すると、私たちの霊が神さまの霊と伝達し合うことができるようになります。霊は霊によってでしか伝達できません。たとえば水と油であるなら、混ざることができません。しかし、水と水であるならたやすく混ざり合うことができます。私たちは私たちの霊を通してでしか、神さまと伝達し合うことができないのです。その根拠となるみことばが、Ⅰコリント29-12です。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」アーメン。生まれながらの人は、神の御霊に属することを受け入れません。それらが愚かに見えるし、またそれを理解することもできません。しかし、御霊を受けている人、クリスチャンは神さまの思いが分かります。なぜなら、神さまが聖霊によって、私たちの霊に語りかけてくださるからです。

 テキストには神さまからの語りかけには3種類あると記されています。第一は、神さまは霊的な耳を通して語られます。このところに「耳が聞いたことのないもの」とあります。神様は私たちに言葉を与えられます。1つの言葉もあるし、2つ、3つの言葉もあります。勇気を出して1つ目の言葉を言うと、2つ目のことばが出て来ます。それをさらに語るならば、もっと言葉が出てきます。これを聖書では、預言と呼びます。そもそも預言とは、泡のように溢れ出てくるという意味があります。しかし、これは1つか2つの言葉から始まります。たとえば、だれかに手を置いて祈るとします。突然、あなたの霊の世界に、ある言葉が浮かんできます。「拒絶」「傷」「自信がない」。何かそういう言葉です。神様はあなたに、この人の人生のあることを語りかけていることがわかるでしょう。しかし、それはあまりにも単純なことなので、それはあなた自身から出ていることではないかと思います。しかし、それはあなたではありません。神様があなたを通して語っておられるのです。ですから、それを口に出す必要があります。そうすると力強いことが起きてきます。

 第二は、神さまは霊的な目を通して語られます。このところに、「目が見たことのないもの」とあります。神さまは私たちの霊に絵あるいはビジョンを見せてくれます。止まっているような風景の絵かもしれないし、あるいは映画のように動いている絵かもしれません。エディ先生がチームでモンゴルに伝道旅行に行きました。そのときの運転手が、とても悲しそうで、全く自信がないように見えました。食事をしているとき、チームの何人が「運転手にあることが与えられた」と言いました。運転手を自分たちの席に呼んで、彼のために祈りました。その時に映画のような絵が示されました。彼が8歳のとき、だれかが彼に唾をかけました。そして彼に「お前は、豚のようだ」と言って侮辱しました。その言葉によって彼は非常に傷つきました。その後、彼は大きな都市に引っ越しましたが、彼の人生は大きく変わってしまいました。彼は拒絶されたという思いをもって生きてきました。このことを彼に伝えました。彼は泣きながら「どうしてそんなことがわかったのですか?」と言いました。神様はその人を癒されました。次の日、彼は全く変えられていたのです。

 第三は、神さまは霊的な感覚を通して語られます。「人の心に思い浮かんだことのないもの」とあります。これは霊的な印象あるいは直観と言っても良いでしょう。たとえば、部屋に入ると、あなたはそこで失望落胆を感じることがあるかもしれません。また、だれかのために祈っていると、この人と一緒に泣きたいと思うような重い悲しみを感じるかもしれません。神さまはあなたに伝えたいのです。しかし、私たちはたいてい、それを「ただの自分の感情だ」と思ってしまいます。ですから、私たちは常に練習していなければなりません。これもモンゴルの証ですが、一人の盲人の牧師が出席していました。1週間くらい前に急に目が見えなくなり、奥さんが無理やり彼を連れてきたのです。チームのメンバーの人たちは「彼はある罪を犯している。もし、彼が罪を告白するなら神さまが癒される」という共通の印象を持ちました。その牧師を個室に連れて行き、話を聞きました。その牧師は問題から逃避するために、毎日、深酒をあおっていたそうです。彼がその罪を告白した直後、目が見えるようになったそうです。聖霊様はそのようにして、印象を通して語りかけることがあります。

 私もエディ先生のご指導にならいこれらのことを何度も実践しました。その人の祝福のために祈ると、ことばとか絵が与えられます。しかし、初心者がやるとあまりにもダイレクトなので、逆に傷をつけることがあります。蒲郡教会で、みんなが輪になって実践する時がありました。北海道の一人の兄弟が私を呼んで預言してくれました。彼は私に「あなたは業績志向の人です」とズバッと言いました。その頃の私は、業績志向から「恵みの歩み」に換えていた時でした。その時、私は非常に傷つきました。人をさばくような預言はだれにでもできます。私たちは他の人の欠点が良く見えます。しかし、預言の一番大きな目的は「建て上げ」であり、「励まし」です。もし、この人が「業績志向だな」と分かったなら私だったらこう言うでしょう。「神さまはあなたがどんなにがんばっているか良くご存じです。でも、がんばっていないときもあなたを愛しているよ。行ないではなく、存在そのものを認めているよ」と。とにかく3つの神からのコミュニケートは他者に適用するときは訓練が必要です。ですから、本当に親しい人から始めましょう。また、聖霊様に対して、いつでも開かれた心を持ちましょう。

3.御霊による祈り

 エペソ人への手紙6章後半には、「悪魔の策略に立ち向かうために、神のすべての武具を身に付けなさい」と記されています。その後、いくつかの神の武具が記されていますが、最後にそれらの武具を動かす武器が記されています。最終兵器、ultimate weaponとは何なのでしょうか?エペソ618「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」あるおばあちゃんが「もう、私は年をとって、奉仕も満足にできません。ただ、お祈りするしかできません」と言ったそうです。それは「ピストルも機関銃も持っていない。ただ、ミサイルしか持っていない」と言っているようなものです。御霊による祈りは、それほど敵なる悪魔に破壊的な力を与えるということです。そうなんです。私たちは自分の知恵や知識によって対抗しようとするかもしれません。しかし、悪魔は何万年も生きて、人類をだましてきました。悪魔の方がはるかに、知恵や知識があるのです。だから、教会が何か議論しているとき、悪魔は寝ています。しかし、教会が心を合わせて祈り出すなら、「おっ!これは大変だ」と本気になるでしょう。しかし、御霊による祈りというのはどういう祈りなのでしょうか?ある人たちは「それは異言による祈りだ」と言うかもしれません。もちろん、異言による祈りも重要ですが、それよりももっと根本的な祈り方があります。

 『天路歴程』を書いたジョン・バニヤンは、1660年、勝手に説教したということで逮捕されました。彼は三度も投獄され、計12年半に亘りました。彼は獄中の中で数冊のパンフレットを書きました。その中に『私は霊をもって祈ろう』というのがあります。バニヤンは国教会の祈祷書に反対し、聖霊の導きに従って自由に祈ることが大切であると主張しました。「今日の、自ら知者だと思い上がっている人たちは、祈りの形式も内容も、自分の思いどおりに書き上げる能力を持っていると思い込んでいます。そして、毎日の祈りを、あらかじめ決めてしまっています。その日が来るもう何年も前から。クリスマスの祈りがあります。イースターの祈りがあります。公の礼拝の時には、それぞれの祈りにどの言葉をいくつ使うかまで、教会の聖職者たちは決めています。『祈祷書』を書いた人たちは、使徒がしようとしなかったことをあえてしたわけです。ある祈りを前もって決めておいて、それを何度も何度も繰り返して使う、ということです。しかし、使徒たちはそれをしませんでした。パウロがみずから認めるように、『私たちは、どのように祈ったら良いか分からない』からです。もし、聖霊がとりなしてくださらないならば。」私も同感です。私は結婚式も葬儀においても、式文の祈りはほとんど用いません。いつでも、聖霊の助けと導きによって祈るようにしています。さきほど、聖霊によるコミュニケーションに、言葉、絵、印象の3つがあると申し上げました。まさしく、それらが与えられるように祈ります。美辞麗句を伴ったどんな立派な祈りであっても、御霊による祈りにはかないません。なぜなら、御霊こそが私たちに祈りを与え、御霊こそが神さまにその祈りを届けてくださるからです。

 『タッチングヘブン』のテキストには、たびたび、「霊によって祈り、霊において神さまと交わりましょう」と書いてあります。そして、霊によって祈るとは、異言で祈ることであるとも書いてあります。ですから、私はこのテキストを公にすることを少し恐れました。これまでは、希望者だけにプレゼントしてきました。アッセンブリー教団などでは、公の礼拝でも異言の祈りとか霊の歌を歌うようです。私は福音派の出身ですので、未信者の方が躓かないように公にはしないようにしています。Ⅰコリント14章にも「初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか」と書いてあるからです。おそらく、20名以下の少人数の集会であるならば異言で祈るのは問題がないかもしれません。しかし、異言を禁じるべきかと言うとそうではありません。使徒パウロは「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいます。…私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」と言っています。ですから、「異言は変だ」とか、「そんなのいらない」と言ってはなりません。使徒パウロは「私たちは、どのように祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ826と言いました。私は「言いようもない深いうめき」も異言の1つではないかと思います。私たちの知性では追いつかない、言葉でどう表現したら良いか分からない時があります。そういう時に、御霊が神のみこころに従って、とりなしてくださるのです。私は夜、寝ているとき、異言で祈っている時があります。私の祈りが少ないので、聖霊様がお祈りしておられるのでしょう。目覚めてから、異言で祈ろうとしますが、あまり出てきません。おそらく知性が邪魔をするのではないかと思います。

 私はみなさんに「祈りましょう」とあまり強調しない牧師の一人かもしれません。私は祈りの課題を見ながら、1つ1つ祈るととても疲れます。何だかお勤めみたいに思ってしまうからです。確かに、祈りの課題や祈りのノートは必要だと思います。でも、何よりも御霊によって導かれて祈るなら、疲れることはありません。もちろん祈り出すときは、「大変だなー」と思います。しかし、車がローギアから加速していくように、祈り出すとだんだん調子が出てきます。でも、やっと走り始めたころ終わってしまうので、ダメだなーと思います。御霊の祈りがエペソ6章後半に記されているということは、偶然ではないと思います。エペソ6章後半は霊的戦いについて書かれています。もちろん、祈りは神さまとの交わりが主であって、霊的戦いではないと思います。しかし、私たち聖徒が祈るのを邪魔する力もあるということは確かです。なぜなら、私たちが祈るときに神の御手がこの地上にさしのべられ、御国が前進していくからです。その時、父なる神様は悪霊どもを蹴散らすために、天使たちを送ってくださると信じます。どうぞ、聖霊が私たちの内におられ、私たちと共におられることを忘れないようにしましょう。私たちが聖書を読むとき、示しを受けたいとき、祈るとき、聖霊が助け導いてくださることを感謝します。

 

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2015年5月15日 (金)

神と対話する ヨハネ14:10-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.5.17

 私たちは言葉に出さなくても、内側で会話をしています。一番多いのが、自分との会話、セルフ・トークです。たまに、つぶやきのように口から出るときがあります。また、知らないで悪霊と会話をしている人もいます。新興宗教が唱える呪文は、自分を無にさせるとともに、闇の力に扉を開くことになります。私たちがすべきことは、まことの神さまと交わることです。朝のディボーションだけではなく、日中も神さまと会話をすることが可能です。電車に乗っているときも、仕事をしているときも、買い物をしているときも神さまと会話することができます。 

 1.神との会話

 イエス様は御父と常に会話をしておられました。ヨハネ1410-11「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様がおっしゃることば、あるいは行なうわざはどこから来たのでしょうか?イエス様はご自分の中に御父がいらっしゃると言われました。「わたしが父におり、父がわたしにおられる」とは、イエス様と御父が一体であるということです。そして、地上におられたイエス様はいつも御父に聞き、御父から知恵と力をいただきました。イエス様は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ519と言われました。イエス様も神さまですから、自分で考え、自分の力で何でもできたはずです。しかし、あえてそうせずに、御父に聞きつつ、御父から知恵と力をいただきました。なぜでしょう?それは、私たちの模範となるためです。イエス様は肉体を持っておられましたが、それは私たちと同じ状態になるためです。そして、私たちもイエス様のように御父に聞き従うなら、知恵と力が与えられるということです。あなたは日中、だれと交わり、だれと話をしているでしょうか?ある人は電話で友達と長い会話をしています。ある人はテレビの登場人物たちと会話をしています。また、ある人は自分がいかに惨めで不幸か、自分自身と会話をしています。

  テキストにはこのようにコメントされています。「もし、私たちが私たちの先生のようになりたかったなら、できるだけ多くの時間をかけて、先生から学ぶ必要があります。医者や技師、弁護士などの専門職になるためには、教師と顔と顔を合わせて勉強するために、たくさんの時間を費やすことが必要です。やがては、その人は教師のようになれるのです。そのことは私たちにも同じです。キリストと同じような霊的資質を持つために、私たちはイエス様と「顔と顔」を合わせて会う必要があります。ディボーションは大切ですが、その後の主との時間、私たちは主と継続的な会話を持つ必要があるのです。私たちは仕事をやめる必要もなく、続けて忙しく働き、勉強やビジネスや他のことができます。」アーメン。

  主と絶え間なく会話をした歴史上の人物がいます。彼の名前はブラザー・ローレンスです。彼は1611年生まれで、パリに住んでいました。ローレンスは神学者でも、牧師、あるいは偉大な説教家でもありません。彼は修道院の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は主と絶え間なく会話することを実践し、それを「神の臨在を実践する。コランディオー」と言いました。コランディオーはラテン語で、「神の御顔の前で」という意味だと思います。ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を良くまとめて一人の牧師の文章を引用致します。「彼は、祈りの中ばかりでなく、日常的な仕事の中でも、事あるごとに神様に思いを向け、神様に語りかけ、神様の御声に耳を澄ますという、神様を思う訓練をしました。最初はうまくいかなかったようですが、何度も繰り返すうちにそのことが習慣となり、彼の喜びと力の源泉になっていったようです。修道会に入ったばかりのときに彼に与えられたのはコックとしての仕事でした。慣れない仕事の中でも、その仕事を神様からのものとして受け止め、ただ神様を愛することとしてその仕事を行いました。どんな小さなわざも、神様を愛することとして行う…そういう生き方を実際に生きた人があったということが衝撃的です。神様はご自身に近づくものに多くの恵みを与えて下さいますが、彼はそれらの恵みに目を留めるよりも、神ご自身に目を向け続けました。賜物や異常な経験を求めるのでなく、神ご自身を求めました。病や痛みなど、その他、地上での多くの苦しみも彼の心の喜びを奪いませんでした。それらのものも、神様からのものとして喜んで受け入れました。単に忍耐し、がまんしたというのでなく、喜んだ…このこともまた衝撃的でした。」

  私たちも朝のディボーションの時だけではなく、日中、どんな時でも神さまと話すことができます。いつでもそこに神さまがいらっしゃるという臨在を意識したなら、悪いことはできません。その代り、神さまが私たちを内側から励まし、力を与えてくださるのではないでしょうか?私は朝夕、散歩をしています。前は自分の昔の嫌なシーンがトラウマのようによみがえりました。しかし、今ではイエス様をそこに歓迎し、「ああいうことがあったから救われたんですよね」と感謝に換えています。スーパーに買い物に行くときも「きょう何にしたら良いでしょうかね」とイエス様に聞きます。まもなく、30%引きのものを見つけることがあります。メニューが浮かばないときもありますが、尋ねると「これにしよう」と頭に浮かびます。私は物忘れが多くなり、人の名前を間違えることが多々あります。でも、イエス様のことだけは忘れたくないです。神さまの臨在を意識して生活することは、最初は窮屈に感じるかもしれません。でも、助け主であるイエス様が共におられる、これ以上すばらしいことはないのではないでしょうか?伴侶もこれほど親しくはできません。「うるさい」とか「暑苦しい」と言われるのがおちでしょう。ある人が言いました。「神さまとの電話は話し中ということがありません。いつでも会話できるホット・ラインである」と。アーメン。

 2.親密になる3つのレベル

 エディ・レオ師はテキストの中で、「神と親密になる3つレベル」について教えています。第一のレベルは反応的親密さです。私たちは毎日の生活の中で、どんなとき神様と関係を築くことができるでしょうか。神様と出会う最も良い時とはいつでしょうか。それは、私たちが問題を持っているときです。言い換えると、誘惑に遭っているとき、困難に直面したとき、人生のチャレンジに直面したときです。たくさんの問題が起こっている時こそが、神を体験する最善の時です。私たちの証は、困難の状況において、神様を体験したときの証が多いと思います。もしも、病気、夫の失業、子どもの問題と3つ重なったらどうするでしょうか?そういう時こそ、奥の部屋に逃げ込むのです。イエス様はマタイ66で「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われました。「私の家は狭くて、奥まった部屋はありません」と言われるかもしれません。椅子かベッドに平伏して、目をつぶると奥まった部屋になります。普通の祈りは、自分の問題を神さまに詳細に述べます。悪いことではありません。でも、神さまは私たちの問題を全部ご存じなので、いちいち知らせる必要はありません。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは神さまの偉大さ、神さまの約束、神さまの恵みについて告げるべきなのです。たとえばこうです。「主よ、そういえば、『聖書に死の陰の谷を歩くことがあっても』と書いてありますね。あの意味は、死の陰の谷にテントをはって留まることではないですね。I walk through 通過するということですね。だったら死の陰の谷をあなたと通過できることを信じます。アーメン。」このように、神さまがみことばを通して、教えてくれることがあります。問題ではなく、神さまがどんなお方か注目するのです。

  大和カルバリーの大川牧師は、「祈りに導かれることはすべて良し」とおっしゃっています。つまり、日常起こる問題や悩みが、神さまに向かって祈ることをさせます。私たちは平穏無事なときはあまり祈りません。しかし、問題や悩みが起こると必死に祈ります。過去を振り返ると、「一番神さまが近いと感じたのは、そういう時だったなー」と分かります。聖歌490「われはおさなご」という賛美があります。「われはおさなご、われ主にすーがらん、小さくあれど、信仰をいだきて」3節目はこうです。「晴れたる朝も、われ主にすーがらん、嵐の夜はすーがり、祈りせん。たえず主イェスの手によりすがらん、静けき昼も、風吹く夜も」。私たちは、嵐の夜こそ主が近くにおられることが分かるのです。

  第二のレベルは、積極的な親密さです。問題があるときだけ、神様と関係を築くことはしないようにしたいと思います。次の段階は、積極的に関係を築くということです。エディ・レオ師がこのような実験をしてみました。まず、自分のポケットの中にメモ用紙を入れておきます。神様を思い出したときに、神様と語りかけたとき、神様の臨在を感じたとき、1つ印をつけます。また、何かをやっているとき神様を思い出した。そのとき、次の印をつけます。また、色んなことをやって、神様を思い出した。そのとき、印をつけます。神様を思い出した時に、印をつけるようにしました。1回につき1つだけ印をつけるのです。先生は1日それをやってみました。1日の終わり、夜眠る前に、神様をどれだけ思い出したか数えてみました。先生はとても、すごくショックを受けました。牧師であるのに、神様を思い出したのは1日に20回だけでした。しかし、自分の問題に気付いたのは100回でした。エディ牧師は悩みました。「若い人たちは、彼氏や彼女のことを1300回思い出すことができる。しかし、私が神様のことを思い出したのは20回だけだった。このようなことで、どのようにキリストに似た者となることができるだろうか。どのようにして神様と親しい交わりを持てるだろうか。」先生は、「次の日、もっと増やすぞ!」と、そのようにして習慣化していったそうです。私は先生のメッセージを聞いたとき、「私には無理だなー」と思いました。ところが、この間、テレビを見たとき驚きました。サウジアラビアにも日本製の100円ショップがあり、金持ちたちがよく訪れるそうです。実際は日本円にして200円位なのですが、大変繁盛しているそうです。何が一番売れるかベスト3というのがありました。ベスト2がカウンターでした。手でカチカチと押すカウンターです。なぜ、そんなものが売れるのでしょう。イスラム教徒は1日に5回礼拝します。その他に、ある祈りのことばを20回唱えるそうです。指を折って数えると、途中、何かあったとき、祈った数が分からなくなるそうです。しかし、このカウンターを使うと、間違えないで20回、ちゃんと祈ることができます。私はそれを見ていて、「自分はなんと生ぬるいんだろうなー」と反省しました。義務的になってはいませんが、意識的に神さまを思い、神さまを礼拝するということはとても重要です。

  使徒パウロはピリピ48すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」と言いました。私は今年からこのような決意をしています。朝起きてすぐテレビを見ない。短いディボーションの本を読むか、すぐ散歩に出かける。散歩しながら、主と交わる。その後、じっくりディボーションをする。朝食をとりながら、テレビのニュースを見る。テレビは寝る前に見ないで、信仰書を何冊か読む。テレビのニュースは悪いニュースがほとんどです。しかも、いろんな局で同じことを放映しています。ニュース・ステーションの古舘○○アナウンサーがおります。彼は世の中の不条理を常に扱っています。私は彼がいつか病気になるのではないかと余計な心配をしています。牧師の特権は、聖書や本を読んで主と交わる時間がとても多いということです。しかし、世の中で働いている人は誘惑が多くて大変です。満員電車から始まり、いろんな人と会うし、いろんなものを見る機会が多いと思います。ですからよっぽど工夫しないと霊性を保つことができないでしょう。イヤホーンでだれかのメッセージを聞いたり、ゴスペルを聞くのも良い方法です。鞄に聖書や信仰書を入れておいて、ちょっとした時間に開いて読むということも良いです。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」アーメン。

 第三のレベルは、自動的親密さです。エディ・レオ師「はいつも、神様にささげて生きていると、ガラテヤ2:19,20のみことばがあなたの人生に成就する」と言いました。ガラテヤ2:19,20しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」いつも、祈りをささげるので自分の我と肉が死にます。「神様、あなたなしに私は何もすることができません。私には問題があります。神様、あなたなしでは生きてゆけません。神様、助けてください」。これは自分の我と肉を十字架につけるという意味です。自分の我と肉が死ぬとイエス様が生きます。何が起こるでしょうか。あなたはイエス様のようになれるのです。私たちは、この第三のレベルに行きたいです。しかし、いきなりこの第三の「自動的な親密さ」に行くことはできません。だから、第一のレベルから始めなければなりません。つまり、問題があったときに、すぐ神さまと交わるということです。また、誘惑を受けたり、トラウマや嫌なことを思い出すときがあります。そういうときに「ハレルヤ!主よ、あなたを礼拝します」と置き換えれば良いのです。そうしたら、常に神さまと交わることができます。

 3.関係のゴール

 継続的に神さまと交わって行くとどうなるでしょう?成熟さを増していき、ついには神さまとツーカーの関係になります。そんなことがあるのでしょうか?2つの例をあげて説明したいと思います。第一は「しもべから友へ」ということです。ヨハネ1514-15「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」神さまと親密な関係を建て上げていくと、イエス様は私たちをしもべではなく、友と呼んでくださいます。しもべは主人のすることを知りませんし、いや、知ろうともしないでしょう。しもべは、必要最小限のことしかしません。余計なことを知ると、やることも多くなるからです。友はどうでしょうか?イエス様が私たちを信頼しているので、ご自分の思いも打ち明けてくださるということです。アブラハムは神の友と呼ばれました。あるとき、主が御使いたちと一緒に、アブラハムを訪れました。ソドムとゴモラを滅ぼすために来たのですが、アブラハムにそのことを伝えました。アブラハムはそのことを聞いて、その町に50人の正しい人がいたら、滅ぼさないでくださいとお願いしました。いや45人いたら、40人、30人、20人、10人いたらと交渉しました。主はアブラハムにとりなしてもらいたかったのです。創世記1817「主はこう考えられた。わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか?」と書いてあります。私たちも、神さまから、「実はこうしようと考えているのだが、お前はどう思う?」みたいなことを言われたいですね。イエス様は「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。そこには、神さまへの従順さが求められます。イエス様にすべてをささげ、喜んでイエス様に従っていくなら友となることができます。しかし、そんな日が来るのでしょうか?私たちがイエス様を求めていくなら、イエス様の方から、「あなたは私の友だよ」と、手を差し伸べてくださると信じます。

 もう1つは、子どもから息子もしくは娘への成熟です。テキストにはこのように書かれています。ローマ815-16には、人が新生したら、ただちに神の子どもとなると説明されています。ギリシャ語の聖書では、子どもはテクノンであり、children であります。しかし、私たちが子どもになるだけではまだ十分ではありません。聖霊によって継続的に導かれる必要があります。聖霊がその人を継続的に導いていくなら、その人は神の子どもになります。ローマ814「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とあります。このところの子どもは、ギリシャ語でフィオスです。フィオスは成熟した息子であり娘です。ですから、私たちは聖霊によって導かれることを学ばなければなりません。聖霊によって導かれるとは、すなわちイエス様によって導かれると同じであります。しかし、厳密に違うのは、私たちの霊の部分に宿っている聖霊は、御霊と呼ばれています。霊は私たちのもっと深いところにある、いわば至聖所みたいなところです。私たちには心の傷があるために情緒が不安定なところもあるかもしれません。あるいはマインドに問題があり、一貫性に欠けるかもしれません。でも、大丈夫です。私たちが意志して、キリストの御霊にお願いするなら、私たちを内側から支配してくださり、ちゃんと導いてくださいます。御霊によって歩むとはそういうことです。御霊によって導かれるならば、御霊の品性が私たちのうちに実として現れてくるでしょう。それが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらはイエス様の品性でもあります。イエス様が私たちの中から現れてくるとしたら、何とすばらしいでしょうか。

  キリスト教は外側から「ああしなさい」「こうしなさい」と戒めを与えて導くものではありません。それは道徳であり、律法主義です。私たちの場合は、キリストの御霊が私たちのいのちそのものになってくださいます。私たちがこの方によりたのむならば、キリストご自身が現われてくださいます。言い換えるなら、聖霊が私たちの言動を導いてくださるのです。ですから、私たちのすべきことは「イエス様どうしたら良いでしょうか?」「こうしましょうか?」「こうしたいですね?」といつも会話をしながら、生活することなのです。イエス様は私たちの友です。そして、私たちは父なる神様の息子であり、娘です。私たちは奴隷ではありません。私たちの願いや希望をちゃんと聞いてくださいます。いろいろ、話し合いながら決めていくのです。そうしたくないときがもちろんあります。そういうときは、自分が降りて神さまのみこころを優先させるようにします。そのように勝利の体験を重ねていくと、ますます、神さまに従うことが最善であると分かって来ます。三位一体の神さまと親しく交わり、正しい道に導かれて、実りある人生を送りたいと思います。

 

 

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2015年5月 8日 (金)

想像力を用いる ローマ1:20-28 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.5.10

 

 想像力は神さまが私たちに下さった素晴らしい能力です。しかし、私たちが何を想像するかによって、人生が良くもなり、悪くもなります。イエス様は「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(マタイ622-23と言われました。この目とは何でしょう。目は想像(イメージ)と置き換えることも可能です。もしあなたの想像が健全なら、あなたの全身が明るいでしょう。しかし、あなたの想像が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。私たちは想像力を正しく用いなければなりません。 

 

1.偶像と想像

 

神さまは、私たちが他の神々を持つことを望んでおられません。まことの神さま以外のものを拝むことを偶像礼拝と言います。偶像礼拝がなぜそんなに悪いのでしょう。出エジプト203-5「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」3節をヘブル語聖書から訳すとこのようになります。You shall not be to you gods other ones before face of me.「私の顔の目の前に、他の神々があってはならない」と書いてあります。神さまは「あなたは私の目の前に、他の神々があってはならない」と言われました。なぜ、「私の後ろに他の神々があってはならない」と書いてないのでしょう。なぜ、「私の横に」とか書いていないのでしょう。なぜ、「私の前に」と書いてあるのでしょう。なぜなら、神の目の前には、あなたがいるからです。あなたと神との間に、何も存在してほしくないのです。あなたにとって、神さまは、唯一の神であって欲しいと願うからです。もし、他の神があなたの生活の中にあるならどうでしょう?あなたは神さまと親しくなることができません。たとえば、この縫いぐるみを偶像だと思ってください。私の前に神さまがおられます。もし、神と私の間に偶像があるなら、何が起こるでしょうか。私は神さまを見ることができません。このところには親密さはありません。これは非常に危険です。ですから、私たちは他の神を追い払う必要があるのです。

 

ところで、ローマ人への手紙1章には、「諸悪の根源は何か」ということが書いてあります。ローマ120「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」パウロは「だれでも、想像力を働かせるなら、神さまを見ることができる。クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、誰ひとり、神さまを否定することはできない」と言っています。人間は想像力を働かせるなら、神さまを見ることができるはずです。しかし、問題が起こりました。人間は、神さまを礼拝したくないので、神のイメージを変えてしまいました。ローマ121-23「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人間は、神さまを礼拝したくないので、神さまのイメージを人間や動物のイメージに変えてしまいました。これが、偶像礼拝です。テキストには「人間の想像による偶像礼拝から、どのような結果が生じましたか?」という問があります。偶像礼拝の結果がローマ124以降に記されています。24節「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだを辱めるようになりました」と書いてあります。26-27節「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」とあります。これは同性愛のことですが、ある人たちは「当然の報いとはエイズである」と言っています。28節「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」三回、「引き渡された」と書かれています。これは「見捨てる、見放す」という神のさばきを意味しています。29節以降には、不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みなど、ざっと21個の罪が記されています。諸悪の根源は、まことの神さまをあがめず、神さま以外のものを想像し、礼拝したことです。

 

イエス様は「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と言われました。つまり、「あなたの想像力が悪ければ、あなたの全身が暗くなる」ということです。ですから、私たちの想像(イメージ)を守る必要があります。人間がそうしなかったために、神様は欲望のままに支配されることをお許しになりました。これらの罪に打ち勝つために、私たちは間違った想像に打ち勝つ必要があります。テキストの解説の部分にはこのように記されています。「不品行と姦淫は、自分たちが礼拝している想像から始まります。彼らは神ご自身である神のみことばを想像しないで、官能的な女性や情欲的な情景を想像したり、考えています。彼らが抱く悪い欲望やむさぼりは、この世の喜びに関する想像と悪い行ないの始まりです。彼らの想像が積み重ねられたとき、人は罪へと陥ります。私たちはどのように偶像礼拝に打ち勝つことができるでしょうか?悔い改めて、神を礼拝するだけです。私たちの心(思い)が攻撃を受けたときは、いつでもただちに、主を礼拝することに転換しましょう。」アーメン。第一のポイントでは、私たちは何を見るか、何を想像するかとても大切だということがわかりました。昔、ジョン・レノンが「イマジン」という歌を歌いました。彼は「想像してごらん。天国なんて無いんだと。地面の下に地獄なんて無いんだと」と歌いました。何と非聖書的な歌でしょう。天国もあります。地獄もあります。私たちは架空のものではなく、真実である神のみことばを想像すべきであります。

 

2.礼拝と想像

 

 パウロは、「人間が想像力を働かせるなら、神を見ることができる」と言いました。しかし、パウロはこの考えをどこから得たのでしょうか?その根拠と考えられるみことばがエゼキエル8章にあります。主はエゼキエルの霊をエルサレムへ携えて行きました。そして、エルサレムの神殿の前にまで来ました。エゼキエル8:8-10 「この方は私に仰せられた。『人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。』私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。『入って行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。』私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。」エゼキエルが神殿の1つの穴から入ると、壁一面に、はうものや忌むべき獣など、あらゆる偶像が彫られていました。エゼキエルは非常に驚きました。外側から見限り、神殿はすばらしいものでした。しかし、中に入ると神殿の壁一面に、いろんな像の絵に満ちていました。パウロはコリント人への手紙で、「あなたがたの体は神の神殿である(Ⅰコリント316619)」と言っています。私たち個人が神の神殿であり、また教会も神の神殿です。私たちの神殿、つまり私たちの生活の中に数々の偶像があったらどうなるでしょう。言い換えると、私たちの生活の中にたくさん絵があり、それを想像しているとしたなら、どんなことが起こるでしょうか?多くの人たちはパソコンやスマホでたくさんの画像を見ています。電車でちらっと見えることがありますが、若い女性は洋服やスィーツを見ています。若い男性は果たして何を見ているのでしょうか?テレビや映画、雑誌からも絵や画像を見ることができます。でも、ただ肉眼で見ているのではありません。私たちの頭で何かを想像しながら見ています。

 

人々は神殿の中で何をしていたのでしょうか。エゼキエル811-12また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」この方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか』。彼らは、主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた」と言っている。なんと、神殿の内部では、70人の長老たちが香炉を持って忌むべき像を拝んでいました。それだけではありません。彼らは「主は私たちを見ておられない」と言っていました。すべての人間は自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは何でしょう。私たちのプライベートな部屋とは、私たちの想像の世界です。他の人は私のプライベートな部屋を見ることが出来るでしょうか?あなたのプライベートな部屋をだれも見ることができません。だれもが、プライベートな部屋を持っています。そこで神様を礼拝しています。しかし、それと同時に、たくさんの偶像もそこに入っています。

 

私のことばで言うと問題が出る恐れがあるので、インドネシアのエディ・レオ師のメッセージを引用したいと思います。「だれもがそのようなプライベートな部屋を持っている。そのプライベートな部屋で、私たち男性は、色んなイメージを作る。私たちは自分の好きな女性たちをそこに作る。『私は黒人の女性が好きだ。でも、髪の毛はちょっとアジア系の女性が良い。』『私はこのモデルが好きだ。だれも知らない』。そして、毎日これを拝む。『あなたは何と美しい方だろう。あなたと会えることを嬉しい。なんと美しいのだろう』。『おお、なんと美しい』。私たちは様々な想像を作っている。そして、それを拝んでしまう。これが姦淫である。これによって、性的な罪が起こされる。女性の罪は何だろうか。女性は男性と違って、セックッスのことはあまり考えない。しかし、もっとロマンティックな出来事を描く。男性が現れすごく丁寧にしてくれる。すごく優しく語りかけてくれる。女性はまた、物を見るのが好きである。どんなことを想像するか。奇麗なドレス、ハンドバック・・・『ああ、ルイビトン』『エルメス』『クリスティアン・ディオール』。様々なイメージを礼拝していく。女性がこういう物質的なものを礼拝して行くと、どのように現れてくるだろうか。買い物である。買い物が悪いとは言っていない。しかし、ある女性たちは物質主義の考えに支配されている。」男性も女性も、プライベートな部屋である、自分の想像をコントロールする必要があるということです。

 

誘惑は罪ではありません。しかし、それを楽しむときに罪となります。イエス様は悪魔から誘惑を受けましたが、みことばによって勝利しました。私たちはどうすれば良いのでしょうか?ルターは「誘惑とは、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものである。頭の上を鳥が通り過ぎることを妨げることはできない。しかし、鳥があなたの頭の上に巣を作ることは避けることができる」と言いました。エディ・レオ師は「男性は一日に240回、4分に一回性的な誘惑がやってくる」と言いました。先生は、何度も性的な誘惑が来たとき、頭から追い出そうとしました。「イエスの御名によって出て行け!」とニュェーと引き出す。しかし、4分たつとピューと入って来る。「イエスの御名によって出て行け!」とニュェーと引き出す。しかし、4分たつとピューと入って来る。先生はイライラしました。悪魔は「あなたは良い牧師ではない。牧師はそういうことを考えたりはしない」と告発しました。そのとき、エディ先生は悟りました。ただ、出て行けと言っただけでは、頭は空っぽになる。聖書に「家が空っぽのままだったら、悪霊がまたやってくる」と書かれている。それで、すばらしいことを発見しました。「人間は、礼拝する存在として創られた。だから、誘惑を追い出した直後、イエス様を礼拝しよう」と決意しました。4分間後にまた誘惑がやって来きました。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。また、4分間後やって来ました。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。どういうことが起こるでしょう。1日に240回神を礼拝できます。なんと、男性であることを喜ぶことができます。女性よりも、もっと神様を礼拝する機会があるからです。誘惑が来るたびごとにイエス様を礼拝しましょう。

 

3.想像の刷新

 

イメージ・トレーニングがスポーツにおいて欠かせないということを聞いたことがあります。1988年ソウルオリンピックでフローレンス・ジョイナー選手が金メダルを取りました。彼女はクリスチャンですが、レース前には、神にお祈りをしてイメージしたということです。彼女は自分がそのレースに勝つ姿をイメージしました。彼女自身が言っています。「それも一緒に走る他のランナーたちが、私のはるか後方を走っているような、大差で勝つところを想像するのよ。すごく気持ちよく走っている自分の姿をね…」。彼女がゴールする寸前、ニコーと微笑んでいる姿を今も忘れません。でも、このイメージ・トレーニングは怪しげなカウンセリングにも用いられています。ある人たちは催眠術をしたり、前世を呼び出すような祈りをします。「潜在的な能力を開発する」と言いながら、闇の力を借りています。人間が持っている想像力はとても力があるので、悪魔も手ぐすね引いて待っています。しかし、想像力は神さまがくださった能力ですから、正しく用いるならばすばらしい効果をもたらすでしょう。

 

 モーセはカナンの地をさぐるために12人の偵察隊を派遣しました。40日たって、彼らは大きなざくろやぶどうを携えて戻ってきました。カナンの地には多数の先住民が住んでおり、頑丈な町の城壁も見ました。カレブは「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができる」(民数記1331と言いました。しかし、10人の偵察隊は「あの民は私たちよりも強い。彼らは背が高くて、自分がいなごに見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と悪く言いました。イスラエルの会衆は、「ああ、荒野でこのまま死ぬか、それともエジプトに帰った方が良い」とつぶやきました。しかし、ヨシュアとカレブは「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。主が私たちを導いてくださる」と主張しました。結局、カナンの地に入れたのはヨシュアとカレブだけで、他の民たちは荒野で死にました。10人の偵察隊が失敗したのは、目に見えるものを見続けたからです。彼らはその地にいた巨人と敵たちを見ました。一方、ヨシュアとカレブは、共におられる主に目を注ぎました。二人は霊的な領域を見て、「彼らは私たちのえじきになる。彼らの守りは彼らから取り去られている」と言いました。あるクリスチャンは問題を前にして、「神さまにはできる」と祈ります。しかし、目を開けたとたん「現実はきびしいからな」と言います。せっかく、信仰を得たのに、即座にキャンセルしてしまうとは何事でしょう?

 

 もう1つテキストには、Ⅱ列王記6章の出来事が記されています。アラムの王様は、預言者エリシャのところに大軍を送りました。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲しました。預言者の召し使いが朝早く起きて外に出ました。なんと馬と戦車の軍隊がその町を包囲していました。彼はエリシャに「ああ、ご主人さま。どうしたら良いでしょう?」と言いました。エリシャは「恐れるな」と言って、召し使いの目が開かれるように祈りました。彼が見ると、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。どういうことでしょう?召し使いは肉眼で見える世界を見て恐れました。しかし、エリシャは、彼が目に見えない霊的領域が見えるように祈りました。すると、彼は自分たちと共にいる天使たちが、敵よりももっと多いことが分かったのです。私たちは環境を見て恐れます。しかし、私たちは目に見えない霊的領域が見えるように求めなければなりません。使徒パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないもにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリト418と言いました。ですから、私たちはこの肉眼ではなく、霊の目、信仰の目で想像する必要があるのです。

 

たとえ、医者が診断書を見せて、「あなたの余命は数か月ですよ」と言っても信じてはいけません。私たちは神さまの診断書を見なければなりません。かつて、ジョエル・オスティーンのお母さんドディは転移性の肝臓がんであると診断されました。夫のジョンが呼ばれて医者から「化学療法をしても数週間しか生きられません。牧師さん、数か月じゃないですよ、数週間ですよ」と言われました。ジョンは「私は家内を連れて帰ります。私たちは奇跡を信じています。」と答えました。二人の長男ポールはお医者さんでしたが、それを聞いて激しく泣きました。肝臓がんの人は死ぬことになり、生きながらえる望みがあまりないことを医学で知っていたからです。家に帰ったドディはどうしたでしょう?悲しみに打ちひしがれて、ベッドに寝たでしょうか?体重は40キロでしたが、いつもの時間に寝て、いつもの時間に起きて、顔を洗って病人のような行動はしませんでした。まず、ジョンと心を合わせて祈りました。マタイ18章の合意の祈りをしました。それからどうしたでしょう?ベッドのそばにウェディング・ドレスを着ている写真を置きました。そして、「ああ、主よ、私の結婚式のような気分になれたら良いと思います」と祈りました。休暇で農場に行ったときの写真も取り出しました。「ああ、神さま、私はもう一度、馬に乗ることができたら良いと思います」と祈って、その写真を冷蔵庫の扉に貼りました。体がとても具合が悪くなりましたが、無理やり自分を動かして、入院している人のために祈りに行きました。さらに彼女は癒しについて書いてある聖書のみことばを選び出しノートに書いて音読しました。その数は40にのぼりました。そのうち、彼女は神のことばを自分のことばとして話すようになりました。そのころから信じがたいことが起こりはじめました。ある日突然というわけではなく徐々に、でしたが、彼女の体調がよくなっていったのです。神さまが自らのことばを実行にうつされたのです。神さまは彼女を癒し、元気を取り戻させてくました。癌を告知されてから30年以上たった今も、彼女のがんは完治しています。

 

私たちには想像力が与えられています。しかし、何を想像するかによって運命が分かれます。聖霊は私たちの心と霊を新たにしてくださっています。どうぞ、自分の前から偶像を取り除き、まことの神さまだけを求めましょう。また、神のことばである聖書から約束をいただき、それがなったように想像しましょう。私たちにとって信仰と想像は矛盾しません。現実にそれを見る前に、まず霊の領域を見るのです。そうすれば、時が来たら、現実にも見えてくるでしょう。

 

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2015年5月 1日 (金)

みことばを思い巡らす 詩篇25:10-14 2015.5.3

 4回にわたって『タッチングヘブン・チェンジングライフ』のテキストから学びたいと思います。簡単に言うと「神との親密な関係を持つ」ということです。私たちはどのようにしたら、神さまと親密な関係を持つことができるのでしょうか?そのことを4回にわたって学びたいと思います。本日は、ディボーションについてお話ししたいと思います。ディボーションとは聖書を思い巡らすことによって神さまと親しく交わり、神さまを個人的に礼拝するということです。

 

 

1.思い巡らす

 

聖書には「思い巡らす」ということばが何度も出て来ます。英語ではmeditate ですが、一般的には「瞑想する、黙想する」と訳されています。近年、東洋の宗教である禅やヨガが注目され、多くの人たちが瞑想にはまっています。特にニュー・エージと言われる、オカルト的で汎神論的な宗教がこの瞑想を取り入れています。彼らは瞑想によって、宇宙の大霊と言われる神と交わります。そしてやがてはその神と一体となり、一部となります。神と自分が一体となるので、「自分も神である」と言います。大変、危険な宗教で、漫画やゲーム、映画や音楽のプロデュースもしています。人々は知らず知らずのうちに、ニュー・エージの背後にいる悪霊に捕らえられてしまいます。私たちの神さまは、そういう人格のない神さまではありません。私たちを愛しておられるキリストの父なる神さまです。贖い主であるキリストなしで、神さまに到達できる道はありません。ところで、ディボーションとは、聖書のみことばを思い巡らしながら、神さまと交わり、神さまを礼拝する行為です。一方、カトリック教会の「黙想」は、自分の内なる声に耳を傾ける要素が大きいと思います。彼らは「人間の中には神のイメージが刻まれているので、神を見出すことができる」という考えがあるからでしょう。確かに、自然や人間の心には、神さまを部分的に写し出すでしょう。しかし、聖書は神さまの特別な啓示であり、神さまは、聖書のみことばを通して語りかけると信じます。聖書を用いない「黙想」は、真の神さまから離れて、さまよう危険性があると思います。迷走をしないで、瞑想しましょう!

 

思い巡らすとは、どういう意味でしょう?日本語の聖書は、他のところで、「口ずさむ」「思いを潜める」と訳しています。これは、牛や羊が草を反芻することと似ています。彼らは胃袋が4つくらいあって、口に何度も戻して、消化しにくい草をかみ砕いています。私たちも聖書のみことばに何が書いてあるのか、よく反芻する必要があります。何度も読んでいくうち、「ああ、こういうことが書いてあったのか?」と感動することが良くあります。人から教えられたことはすぐ忘れますが、自分で発見したことは忘れません。ディボーションには宝を発見したときの喜びに似たものがあります。また、神のことばは、霊的なご飯ですから、よく噛んで味わい、自分の中に取り入れる必要があります。こういう説教は、聖書を美味しく調理したディッシュみたいなものです。私はシェフとして、皆さんに味付けしたみことばを提供しています。鉄人シェフになれたら良いと思いますが、一週間一度では足らないでしょう。ぜひ、毎日のように自分で聖書を読んで、霊的ご飯をいただいてください。

 

 

『タッチングヘブン・チェンジングライフ』には、いくつかの質問が記されています。質問はディボーションを助けるために、大変役に立ちます。水曜日の集会では、私が「マタイによる福音書」からテキストを作っています。これも、質問形式になって自分で発見できるようになっています。こういう質問や解説書付の本がキリスト教書店にも売られています。月刊もので一冊500円から600円位だと思います。最初はそういうガイドブックを用いると良いでしょう。しかし、だんだん自分でできるようになります。何でもコツがあるように、ディボーションにもコツがあります。全体的には聖書のみことばを思い巡らすのですが、どのような項目で思い巡らすべきか、ちょっとだけ説明をさせていただきます。

聖書を順番に読んでいきますが、その日の聖書箇所は多くて1章、短いときは数節で構いません。できれば大学ノートに記入すれば良いのですが、めんどうくさい人もいるかもしれません。そういう人は聖書に書き込みをしたら良いでしょう。第一は「内容観察」です。何が書いてあるのかゆっくり読みます。詩篇の記者は「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」(詩篇11918と求めています。何度か繰り返して読んでいると、いくつか発見するものがあります。たとえば、「同じことばが出て来た」「ここは言い換えている」「ここが重要なことだ」と分かって来ます。このとき、あまり注解書とか他の参考書を見ないでください。とにかく、真理の御霊なる聖霊に聞くことに集中します。そうすると、聖霊があなたに示してくださいます。第二は「教え」を受け取ります。教えの中には色々な要素が含まれています。約束や励ましがあるでしょう。避けるべき罪や行なうべき命令があるかもしれません。従うべき模範もあります。私は説教者としてメッセージをそのところから受け取るようにしています。第三は「適用」を考えます。適用とは、「今いただいた教えを自分の人生にどう実行するか」であります。「愛しなさい」と教えられたなら、だれをどのように愛すべきか具体的に考えます。最後に教えられたことを感謝し、それが実行できるように祈ります。時間的に15分から30分持てたら良いでしょう。習慣になるまでは大変です。しかし、テキストのように40日間やれば身につきます。問題は「いつやるか?」であります。

 

 ヨシュア記にはみことばを思い巡らす人の受ける祝福について記されています。ヨシュア18「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」アーメン。

 2.ワークショップ

 

 

それでは、テキストの1ページから一緒にディボーションをやってみましょう。持っていない人も大丈夫です。礼拝中なので、一緒にやりたいと思います。詩篇2510-14がその箇所になっています。礼拝の直前に、その箇所を読みました。聖書を持っている方は、詩篇2510-14をお開きください。テキストのM2に質問が3つあります。第一は「主の小道とはどのようなものですか?どのような人が、主の道を歩むことができるのでしょう?」テキストには書かれていませんが、これは10節にあります。詩篇25:10 「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」とあります。このところには、主の小道は「みな恵みとまことである」と書かれています。どのような人かというと「その契約とそのさとしを守る者」です。今のものは、見て分かる内容観察の質問です。第二は「ダビデはどのようにして、自分が主を恐れる者であることを表わしていますか?」とあります。これは、11節にあるとカッコで教えています。詩篇25:11「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」まさしく、御名のために「私の咎を赦してください」と罪の赦しを求めている人です。つまり、主を恐れる人とは、もし自分の罪があるならば悔い改める人だということです。この質問は、意味(解釈)質問です。これはちょっと考えなければ、分かりません。第三「主を恐れる人はどのような祝福を主から受け取ることができるでしょうか?」12節から14節まであります。詩篇2512-14「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」主を恐れる人には、たくさんの祝福があります。主はその人に選ぶべき道を教えられます。その人のたましいは、幸せの中に住みます。その子孫は地を受け継ぐことができます。主は主を恐れる者と親しくされます。主はその人にご自分の契約を教えられます。ざっと5つありました。

 

私は5つある中の「幸せの中に住む」というところに目がとまりました。聖書に本当に「幸せ」と書いてあるのか?疑問に思いました。一般のディボーションではここまでやる必要はありません。このところに書いてある、「幸せ」はヘブル語ではトーブです。トーブは「良いこと、美、卓越、喜びあふれること、良い物、最も良いものにあずかること」という意味です。ですから、英国の聖書は「永続する繁栄を喜ぶ」と訳しています。また、英語の詳訳聖書は「安らかに住む」と書いてあります。他の英語の聖書は「繁栄する、裕福になる」と訳しています。しかし、日本語の聖書は「幸い」とか「幸せ」「恵み」です。つまり、日本人の捉え方がとても精神的であり、欧米の方が物質的だということです。これまで、日本のキリスト教会は精神的な「幸せ」を第一にして求めました。欧米が言う「繁栄の神学」というものをとても嫌いました。ところが、お隣の韓国はとても貧しい中から、繁栄を求めてとても豊かになりました。教会の長老さんはどこかの社長さんばかりで、教会の会計がとても潤いました。しかし、現在の韓国は物質的な繁栄がもたらす罪も増してしまったようです。かつての時よりも汚職や離婚が増えました。精神的な「幸せ」と、物質的な「幸せ」どっちが良いのでしょうか?聖書は「一方の幸せだけを言っているのではない」ということは確かです。両方がバランスよく存在しているべきだということです。使徒パウロはこのように言っています。ピリピ411-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」多くの人たちは13節だけを強調します。でも、パウロが言いたいのは、「私を強くしてくださるキリストによって、私は貧しさの中でも、豊かさの中でも幸せに生きることができる」というということです。


本題のディボーションに戻りたいと思いますが、M3は適用のための質問です。第一は「主の御前で、またお互いに、どのような罪を告白する必要があるでしょうか?今から、罪深い行いときよくない思いを拒絶する決断をし、またその計画を立てましょう」とあります。なぜ、「罪」の問題がここに出てきたのでしょう?それは、罪がなければ、さきほどの5つの祝福が得られるからです。罪があるとその祝福にあずかることができません。詩篇2511-12「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。主を恐れる人は、だれか。」とあります。主を恐れる人とは、もし自分に罪があるならば悔い改める人だということです。「私にどんな罪があるのだろう?」としばし考える時を持ちます。「私はキリストにあってすべての罪が赦されています。私は神の子どもであり、永遠のいのちが与えられています。でも、罪は神さまとの交わりを遮断してしまいます。そのため、神さまが与えたいと願っておられる祝福もやってきません。さて、それは何だろうか」と神さまに聞きます。私自身のものを分かち合いたいと思います。テキストにこのように書きました。「人の徳を下げるような意地の悪いことばを発する。ことばを職業とする者として良くないことである。親切で塩味のきいたことば」と書きました。アーメンと言わないでください。私は唐辛子とか、黒胡椒の入ったことばを発する癖があります。

 

もう1つ勧めのことばがあります。「神様に従うために、あなた自身をささげる祈りをしましょう。また、罪深い思いに襲われたときには、神様を礼拝しましょう。」私は悪いことばが浮かんで、出そうになったとき「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言うと書きました。同じような戒めが、4日目のテキストにも書いてありました。ダメ押しみたいでした。このように神さまは私たちに語ってくださいます。人から言われるとムカッときますが、神さまからみことばを通して言われると、アーメンとなります。不思議なことに、ちゃんとできていない場合は、何度も同じように語ってくださいます。みことばが示されたらすぐに従う者となりたいと思います。繰り返しになりますが、主を恐れる人には、たくさんの祝福があります。主はその人に選ぶべき道を教えられます。その人のたましいは、幸せの中に住みます。その子孫は地を受け継ぐことができます。主は主を恐れる者と親しくされます。主はその人にご自分の契約を教えられます。アーメン。

 

 

3.神との親密な関係

 神さまとの親密な関係を妨げるものは罪です。テキストにこのように書かれています。「罪の解決はたった1つ、それは悔い改めることです。悔い改めには2つの段階があります。第一は罪を認め告白することであり、第二は罪を捨てることです。」とあります。しかし、ディボーションする度ごとに罪を示され、罪を悔い改めなければならないとしたら嫌にならないでしょうか?みなさんはダメ出ししてくれる人と毎日会いたいでしょうか?それよりも、自分を励まし、力になってくれる人がいたなら毎日会いたいでしょう。私が長い間、ディボーションを続けられている理由は、神さまが後者の方だからです。私たちが、ディボーションを楽しんで継続するためには以下の3つのことを理解する必要があります。

 

 第一は罪の正しい意味を知る必要があります。「罪とは自分が何か悪いことをした」というふうに捉えているかもしれません。確かにそういう意味もありますが、それだけではありません。ヘブル語において、罪は3種類あります。1つ目は「ハーター」です。これは、「道を踏み外す」という意味です。英語ではtrespass「あやまち」とも訳されています。1週間過ごして、失敗したことのない人はいないでしょうか?2つ目は「アーオーン」「曲げる」です。英語ではpervert「曲解する」とも訳されています。私たちは神さまのみこころを曲解していることは多いのではないでしょうか?神さまは災いではなく、希望を与えたいと願っておられます。そして、3つ目は「ペシャ」です。これは「背き」です。英語ではtransgression「越える」とも訳されています。越えてはならない線を越えること、それは「そむきの罪」となります。これらのことを人生の小道pathを歩くことに例えたいと思います。道に穴ボコがあるのに気が付かず、ころんでしまいました。どうすれば良いでしょう?起き上がって泥を払えば良いでしょう。また、あるときは「こっちの道が平らで歩きやすい」と楽な道を選びました。しかし、それは滅びの道でした。どうしたら良いでしょう?引き返して正しい道に戻るべきでしょう。また、ある時、スマホを見ながら道を歩いていたら、路肩から落ちてしまいました。どうしたら良いでしょう?斜面を登って、道の中央に戻れば良いでしょう。聖書のみことばは、これら三つのことを教えてくれます。詩篇の記者は「わたしは、あなたの道を思うとき、足をかえして、あなたのあかしに向かいます。」(詩篇119:59口語訳)と言っています。足をかえしてとは、悔い改めるということです。

 第二は神さまのイメージを正しくする必要があります。ある人たちは、自分の親が厳しく躾けたので、神さまもそういう方ではないかと恐れています。この世には、虐待に近いことをしている親たちがたくさんいます。あなたも悪いことをして、手やお尻を「ぺしっ」と叩かれたことがあるでしょう。神さまも私たちが罪を犯すと、「こらっ!」と怒って、一撃されるお方なのでしょうか?私の父はひどかったので、神さまに対するイメージがゆがんでいました。旧約聖書に「神を恐れよ」と書いてありますが、「何か罰を受けたら怖い」と思っていました。しかし、ローマ8章には「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」と書いてあります。私は英語でstand by youということばが大好きです。これは、「あなたを援助する、支持するよ」という意味です。神さまはあなたを一方的にさばく方ではなく、あなたの偉大な味方なのです。それから、イエス様はどんなお方でしょう?ローマ834「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。イエス様が弁護士のように、間に入ってとりなしてくださるということです。旧約聖書の詩篇3524「あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ」というダビデの祈りがあります。英語の詳訳聖書にはJudge and vindicate meとなっています。Vindicateは「…に対する非難が不当であることを証明する(嫌疑を晴らす、弁明する、擁護する)」という意味です。私はこの訳が大好きです。「あまりにも、不当な扱いを受けて来た、弁明の余地も与えられなかった」という傷があるからです。つまり、私たちの神さまは義なる神さまであり、キリストにあって私たちを擁護してくださるということです。イエス・キリストの十字架によってすべての罪が赦されているのです。だから、私たちを何とか良い方向に導いてあげたいという良き神さまであり、愛なる神様なのです。これからも私たちの罪を赦すことをお決めになっておられるのです。だから、私たちは喜んで罪を悔い改め、もとの正しい道を歩みたくなるのです。

 

 第三はこちらから神さまを慕い求める必要があります。詩篇13923-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139篇を読むと分かりますが、神さまは私たちのことを全部ご存じです。口で何かをしゃべる前から知っておられます。私たちが天に上っても、陰府に床を設けてもそこにおられます。主は、私たちの内蔵を造り、母の胎の中で組み立てられました。私たちが目覚めるとき、いつも共におられます。神さまに何か、隠し立てすることは不可能です。ですから、私たちは神さまを慕い求め、傷ついた道があるかないか見てもらい、とこしえの道に導いていただきましょう。私たちはお医者さんのお世話になるとき、全部を見せなければなりません。恥ずかしい場合もあるでしょう。でも、見せなければ治療を受けられません。神さまは紳士なので、私たちの同意なしに「見せろ、治してやる」とは言いません。私たちが父なる神さまを信頼して、自分をゆだねるときに、神さまは私たちを取り扱ってくださいます。どんなふうに取り扱ってくださるのでしょうか?私たちの罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。また、私たちに夢と希望と信仰を与えてくださいます。なぜなら、私たちを通してご自身の永遠の目的を果たしたいからです。

 

 

 

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2008年5月25日 (日)

垂直と水平        ヘブル10:19-26

 先週は特別礼拝が入りましたが、本日は、タッチング・ヘブン ・チェンジングライフの第七週目です。このシリーズの最後のメッセ ージになります。

1.神との関係(垂直)

 ギリシャ語で人はアンソロポスと言いまして、「上を見上げる存在 」という意味があります。つまり、人間は他の動物とは違って 、宗教性を持っている、神様を仰ぐ存在だということです。いや 、私は何も信じないし、何も拝まないなどとう人はいません 。人間は、何かを礼拝しなければならないように造られているのです 。英語で礼拝はworshipと言いますが、「価値 」と関係があります。また、礼拝はギリシャ語ではプロスキュネオー であり、「ひざまずく」という意味があります。ということは 、人間は「自分にとってそれは価値があるなー」と思うものにひざま ずくということです。それが、人によってはお金であったり、仕事 、異性、子ども、趣味、名誉、快楽であったりします 。その中には良いものもあるでしょうし、他の人が見たら「え? 」というものもあるでしょう。あなたがひざまずいているものとは一 体何でしょうか?十戒の第一番目はご存知でしょうか?「あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない 。あなたは自分のために、偶像を造ってはならない」です。ヘブル語の聖書には、「あなたは私の顔の前に 、他の神々があってはならない」というふうに書かれています 。神様はあなただけを見たいのです。もし、神の御顔とあなたの間に 、何か他のものがあるならば、それが偶像だということです 。多くの人たちは、「私が何に価値を置き、何を拝もうと勝手じゃな いか」と言うでしょう。しかし、それはあなたを束縛し 、まことの神から引き離してしまう偶像になるでしょう。

私たちがまことの神様を礼拝するならばどういうことが起こるでしょ う。マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい 。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます 。」アーメン。私たちが神様を第一とするときに、すべてのものが理路整 然となって、神様の祝福がそこに臨むます。私たちが個人的に神様に 向かって礼拝をささげるときに、どんなことが起こるのでしょうか ?「あなたが価値の源です。あなたが私を支えてくださる方であり 、お金や人ではありません。また私の力や能力でもありません 。あなたは私を愛し、導いてくださる神です。主よ 、あなたに従います」。そのとき、あなたの中にある問題 、いろんな願いや思いがグルグルと動き回り、所定の位置に収まりま す。そして、あなたの心を神の平安が支配します。あなたは 、神様に問題をゆだねつつ、前向きに生きようと思うようになります 。また、主と交わる時、良心もきよめられます。日本人は良心とは良 いものだと考えていますが、そうではありません。文化や教育の影響 、あるいは汚れや罪責感でかなりゆがんでいます。ヘブル書9章と1 0章には「良心にイエス様の血の注ぎを受けよ」と書かれています。それは実際、どのように行うのでしょうか ?まず、心のしこりとなっている、犯した罪を主の前に告白します 。すると、イエス様の血がきよめて下さいます。「私はすでに赦され ている。神の御前で義とされている」という思いが心のそこから湧き 上がってくるでしょう。さらに、汚れや悪をイエス様の血によってき よめてもらいましょう。あなたの心は、まるで、洗濯機で洗われたよ うになります。神を礼拝するとは、神様と交わることです。すると 、あなたの心は、聖霊によって再生され、リニューアルされるのです 。ハレルヤ!

まず、何よりも、神様との個人的な関係を打ち立てることです。 「私は神様から愛されている。イエス様は私のものだ、救い主 、助け主だ。私は特別な存在なんだ!」これくらい思ってもぜんぜん 、問題でありません。使徒パウロは「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって 、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4 :19)と言いました。「私の神は」と言えるほど、親しい関係だったのです 。私は8人兄弟の7番目で生まれたので、一人分の価値(存在 )が乏しいものでした。セルフイメージがとても低くて 、劣等感のかたまりでした。私は小さいときから「ありがとう 」とか「感謝します」なんて言ったことがありません。また 、人をほめることもありませんでした。むしろ、人の欠点をあげつら い、けなす方が得意でした。なぜなら、自分に劣等感があったからで す。しかし、聖書の神は「わたしがあなたを形造った。わたしがあなたを贖った 。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛してい る」(イザヤ43)とおっしゃってくれました。つまり、神様は「靖尋 、あなたは特別だよ。あなたには価値がある」とおっしゃってくれた のです。英語では、You are special.であります。アメリカでは、女の子から、You are special.と言われたら、もう決まりなんだそうです。 「私は神様から特別に愛されているなー」と時々感じるときがありま す。たとえば、温泉に行ったとき、広い湯船にたった一人でつかって いるときです。結構、そういう時があるんですね。そのとき、 「ああ、神様は私を特別に愛しておられるんだなー」と感じます 。おそらく、神様はあなたにだけ分かるような方法で、 「私はお前を特別に愛しているよ」ということを示してくださるでし ょう。こういう神様との1対1の出会いがあると、人々の間に出て行 くことができます。このことを体験すると、人と比較する必要もない し、比較される必要もありません。オンリユーの人生を生きることが できます。まずは、神様との垂直な関係です。

2.共同体との関係(水平)

 神様との関係が垂直であるならば、人との関係は水平であります 。でも、水平には2種類あります。第一は教会の兄弟姉妹との関係で す。これを共同体との関係と言って良いと思います 。もう1種類の水平は、この世の人々との関係です。言い換えると 、家庭、職場、学校、地域社会の人たちとの関係です。まず 、兄弟姉妹との関係であります。私は25歳のとき初めて 、教会というところに足を運びました。クリスチャンといえば 、私を導いてくれた職場の先輩だけです。週報を見たときに 、まず驚きました。○○兄、○○姉と書いてあります。「ありゃー 、教会というところは親族で構成されている所かな? 」と思いました。礼拝後、「昼食をどうぞ」と誘われました 。二階に上がったら、女の人たちばかりでした。半年くらいは昼食に 残るということはありませんでした。それから水曜日の夜 、祈祷会に先輩と一緒に出かけました。前半の30分 、いろんな人が証をします。その話の内容にまずびっくりしました 。「そんなの神様がやったんじゃないよ。あなたが勝手に思っている だけだよ!この人たちはなんとおめでたい人たちなんだろう 」と思いました。ある晩、神学生と呼ばれる人たちが前で話しました 。「導かれました」「与えられました」「示されました 」と口々に言うのです。「あれー?この人たちは、自分の意思という ものがないのかなー。本当に変な人たちだなー」と思いました 。その中に、現在の家内が含まれていました。そのように、始めは 、私を導いてくれた会社の先輩だけが、私の友であり 、信仰の仲間でした。

 しかし、だんだんと礼拝以外の集会にも参加するようになりました 。青年会、聖歌隊、英語礼拝、祈祷会、早天祈祷会・・ ・気がついてみると教会にいりびたりでした。1年もたたないうちに 、献身し、聖書学院に行きました。神学校で小林和夫先生が 「聖徒の交わり」ということを教えてくれました。 「聖徒とは神様との関係をもっている人のことを言う 。聖徒の交わりとは、神様との関係をもっている人たち同士の交わり であり、それを教会と言う」と教えてくれました。ああ 、教会というのは、「聖徒の交わりなんだ、なるほどなー」 。授業の時は分かったつもりでいましたが、「聖徒の交わり 」って何のことだか分かりませんでした。信仰生活 、5年くらいたった頃からでしょうか?聖書に「互いに 」という言葉がたくさんあることに気がつきました。 「互いに愛し合いなさい」「互いに励まし合い」「互いに戒め 、互いに教え」「互いに重荷を負い合い」・・・たくさんあります 。その頃から、共同体とかセルを求めていたんですね 。座間キリスト教会はどんどん大きくなり、私が去る頃には礼拝が3 40名くらいでした。あれから21年たち、大和キリスト教会になっ て、毎週1200人くらい集まっているようです。悪口ではありませ んが、「会衆」はありますが、「互いに」という本当に親しい関係は あまりありませんでした。私は1995年頃から、セル教会を目指し 、「神の共同体である教会を建てたいなー」と思うようになりました 。

 なぜ、一人と神様との関係だけで不十分なのでしょうか ?神様を信じていれば、それで良いのではないでしょうか? 「めんどうくさいじゃないですか、他の人と一緒になるということは ?」創世記に神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」とおっしゃいました。神様は唯一のはずなのに、御自身の中に、父 、子、聖霊という共同体を持っておられます。「神が愛である 」とおっしゃる場合、御自身の中に、他の人格がいなければ 、愛であるとは言えません。つまり、父、子、聖霊なる神が愛し合っ ておられる。そのかたちに、人を創造されたのです。つまり 、愛の共同体こそが、人間だということです。ベン・ウォン先生が 、聖書はマタイによる福音書からではなく、創世記から始まると何ベ ンも言われます。創世記には教会というものがありませんでしたが 、人々が神様を礼拝しました。では、一体どこで人々は神を礼拝した のでしょうか?それは家庭です。アダムとエバ、ノア、アブラハム 、みんな家族で神様を礼拝しました。それが現代には教会という場所 が、礼拝をささげるところとなりました。教会は共同体よりも 、建物や組織、制度をさす言葉になりました。実は 、新約聖書も現代のような教会をさしているのではありません 。教会はもとの意味は、エクレーシアであり、「神によって召し集め られた民」という意味です。建物や制度の意味はまったくありません 。人々こそが教会だったのです。つまり、イエス様を信じている人の 群れが教会なんです。コロサイ1:27でパウロはこう言っています 。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト 、栄光の望みのことです」。英語の聖書は、among youとなっています。個人の中にキリストがいるだけではありませ ん。あなたとあなたの間にも、キリストがおられるのです 。なぜそれが奥義であり、栄光の望みなのでしょうか ?神様は三位一体の共同体です。父子聖霊と麗しい愛の共同体を持っ ていらっしゃいます。もし、あなたがたが同じ神のかたちを持ってい るならば、そこに神様が住んでくださるということです。もし 、教会がいがみ合い、争い合っているなら、サタンが「ああ 、私のかたちにぴったりだ」とやって来て、住みついてしまうでしょ う。サタンを追い出し、私たちが互いに愛し合うなら 、三位一体の神様が「ああ、私たちと同じかたちだ 」とそこに神様が再び、住んでくださるでしょう。すると 、祝福してくださいと特別に願わなくても、神様ご自身がそこにおい でになられて、祝福してくださるのです。ハレルヤ!

3.この世との関係(水平)

もう1種類の水平は、この世の人々との関係です。家庭、職場 、学校、地域社会の人たちとの関係です。神学的に「この世」は 、神から離れ、神と敵対している世界を意味します。ですから 、教会の歴史の中で、「教会に関することは聖いが 、この世のものは汚れている」という考えが生まれました。つまり 、聖書、礼拝、祈り、伝道、世界宣教など神様に関するものは聖であ る。しかし、ビジネス、政治、教育、医療、芸術など 、この世に関するものは俗的だと分けて考えるようになったのです 。ですから、私たちが奉仕というとき、もっぱら教会という建物の中 でやることが奉仕(ミニストリー)だと言われてきました 。会社に行っているときはお金をかせいでいる時で 、奉仕と関係ないのでしょうか?また、家庭で食事を作ったり 、洗濯をするのは、奉仕をしていないことになるのでしょうか ?ヨハネ3:16は聖書でもっとも有名なみことばの1つです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに 、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びること なく、永遠のいのちを持つためである。」私たちは長い間、「世を愛された」と言うとき、「世とは私であり 、あなたのことですよ」と教えられてきました。確かに 、世というところにあなたの名前を入れて読んでも 、間違いはありません。でも、聖書をそのまま読むと 、神様はイエス様を与えるほどに、「この世界」を愛されたのです 。「この世界」はクリスチャンだけではありません 。神様に背いている人たちもそうです。また、人間だけではなく 、動物、木々や植物、あらゆる被造物も含まれています。つまり 、神様は人間だけを救うだけではなく、この自然界をも救い 、回復したいと願っておられるのです。こう考えると、 「神様が造られたものに、聖いも聖くないもない」ということになり ます。そうです、神様は教会に関することだけではなく、ビジネス 、政治、家庭、教育、医療、科学、芸術にも関心を持っておられると いうことです。そうすると、イエス様が言われた、あなたがたは地の 塩、世の光という意味が良くわかってくるのではないでしょうか?

昨日は「ゲアリー・スキナーのセミナー」があり、本郷台キリスト教 会まで行ってきました。ゲアリー・スキナー師のお父さんはカナダ人 ですが、アフリカの宣教師でした。ゲアリー・スキナーはアフリカで 生まれたので、肌の色は白くてもアフリカ人です。1983年神様か ら召命が与えられ、ウガンダに行きました。当時のウガンダは内戦の 真っ最中で、ゲアリー一家は、弾丸が飛び交う中を暮らしました 。強盗に襲われたのが3度あり、ある時は銃を頭に突きつけられまし た。強盗が3回、引き金を引きましたが、3回とも玉が出ませんでし た。「お前らはクリスチャンだな?」と言って、強盗は去ったそうで す。ホテルの一室から集会をはじめましたが、不思議な導きで 、劇場が手に入りました。14年で5500人の会衆になり 、教会の成長が横ばいの状態になりました。ディボーションしていた とき、神様が「あなたは一体何者だと思っている。あなたは何人の人 を牧会できると思っているんだ。イエス様でさえ12人の弟子しか育 てられなかった。そうだ、10人以上牧会できる人はいない! 」と言われました。そのとき、教会はセルグループを大事にすべきだ と気づかされました。このままだと教会は、私の技能 、私の情熱までしか成長しない。しかし、教会のすべての人の技能 、すべての人の情熱をたばねて用いていけば、どこまでも成長できる と分かりました。いろいろ研究した後、「これからセルチャーチにな る」と告げました。1年後に1500人が教会を離れました 。しかし、現在は1400のセルがあり、2万人の教会になっている そうです。

最後に、いくつか教えられたことを箇条書きで、お分かちしたいと思 います。

①まず、ビジョンから始める。

 神様は大いなるビジョンを与えるために、一人の人を選ばれる 。その次に、チームの人に分かち合う。先生は、10人のリーダーた ちを牧会し、そのリーダーたちがさらに10人を牧会 。さらにその下には10人。励まし、信頼して委ねていく 。その関係は、イエス様と弟子たちの親しい友の関係。牧会は 、特定の人とか肩書きのある人ではなく、だれでも牧会の賜物を与え ておられる。

②町や国を変える人を育てる。

 神様はゲアリー・スキナーに語りました。「単に教会を建て上げるた めではなく、町や国を変える人を育てなさい。日曜日 、教会の建物の中ですることよりも、毎日、地域社会でなされること が一番大事である」。実際、その教会では地域のリーダーシップの学 校をはじめました。政治家、ビジネスマン、教育の指導者を聖書から 訓練しているそうです。教会員の中にも政治家や弁護士が何人もいる そうです。

③地域の問題を自分の(教会の)問題とする。

町を行きめぐり、町の問題をさぐる。次にその問題をクリエィティブ な仕方で解決していく。カンパラには、貧困、ストリートチルドレン 、エイズ、やもめの問題がありました。そのとき、ヤコブ1 :27のみことばが与えられました。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や 、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく 守ることです」。エイズ孤児を施設ではなく、家庭のような共同体で世話をしよう と考えました。その一環として、ワトトのクワイヤーが誕生しました 。孤児ややもめに仕えることは、イエス様に仕えることと同じである 。真の解決は、お金や政府にあるのではなく、神の教会にある 。アフリカではウガンダだけが、エイズ患者の数が減っているそうで す。

④神さまは教会を通して国々を祝福しようと願っておられる。

 神様はアブラハムの子孫、イスラエルを通して国々を祝福しようと考 えられた。しかし、イスラエルは神に従おうとはしなかった 。新約になり、神様は教会を通して国々を祝福しようとお考えになっ ておられる。「御国が来るように」とは、世の終わりのことだけでは ない。今、私たちがイエス様と共に支配することである 。霊的な分野と世俗的な分野とに分けてはいけない 。生活のすべてが神様のもの、生活のすべての領域が霊的なものであ る。富やお金も神様からのプレゼントである。神の御国のために正し く管理するように与えられたもの。

 私は教会がこの世に対してなすべきことは、福音を伝え 、魂の救いを与えることだけだと思っていました。しかし 、霊的な窓からだけではなく、ホーリスティック(全人格的 )な窓から見る必要があります。身体的な窓、社会的な窓 、心理的な窓もあります。まず、何よりも先にすべきことは 、隣人を愛することです。その人が「信じない」と言っても 、見返りを求めない愛で愛して、関係作りをしていくことが大切です 。愛して仕えていく中で、神様が福音を分かち合うチャンスを与えて くださるのです。

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2008年5月11日 (日)

神の約束への確信    マルコ4:26-29

 きょうは「母の日」であります。また、教会暦では 「ペテンテコステ(聖霊降臨日)」であります。子供の代表として 、母の日ですから、「お母さんありがとうございます 」と申し上げます。お母さんなくして、この世に生まれることはでき ませんでした。また、私たちを育ててくださり感謝します。また 、ペンテコステですから、「聖霊様、私たちのところにお越しくださ り、ありがとうございます」。聖霊様なくして、新たに生まれること はできませんでした。聖霊様が私たちを慰め、導いてくださることを 感謝します。不思議なことに、肉体的な誕生とはお母さんが関係して います。そして、霊的な誕生には聖霊様が関係しています。 「誕生つながり」です。しかしながら、そういうのとは全く関係なく 、タッチングヘブン・チェンジングライフの第6回目を学びたいと思 います。

1.みことばによる癒し

 癒しは、お医者さんやお薬を通しても与えられます 。これを一般恩寵と言います。多くの場合は、お医者さんやお薬は 、元来、人間が持っている自然治癒を助けるためにあります 。もう1つの癒しは、神様による病の癒しであり、これを特別恩寵と 言います。これには大体、3種類あります。第一はとりなしの祈りで す。私たちは「○○さんの病気を癒してください」と心を合わせて祈 ります。第二は賜物による癒しです。聖霊はある人に賜物を与えて病 気を治します。来週は岡山県から中嶋先生が当教会に来られます 。最近はさらにパワーアップして色んな奇跡が起こっているようです 。どうぞ、ご期待ください。求める人には与えられます。第三は 、みことばによる癒しです。神様が下さるみことばを信仰によってと らえるときに、奇跡が起こります。韓国にチョーヨンギ牧師がおられ ますが、先生の場合はご自身も手を置いて祈りますが 、信徒が何十万人もいますので、間に合いません。先生は 、人々に神様からみことばをいただくようにメッセージして信仰を鼓 舞します。すると、人々が自分で聖書を読んで祈り 、それぞれ信仰によって癒されるのです。これが省エネで、一番 、良いかもしれません。

 マルコ福音書4章には、「種まきのたとえ」が書いてあります 。神のことばは種であり、土地とは私たちの心です 。醜くて乾いた種の内側には、偉大な可能性が隠されています 。根や、湯気、枝、葉、花が出てきます。「湯気? 」と思うかもしれませんが、豆などは室の中で発芽するとき熱が出て くるそうです。最後には、他の植物や樹木を生み出すために 、実ができます。神のことばも種であります。神様は 、御わざを行うために、私たちの心に、神のことばを蒔くことから始 められます。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。テキストにはこのように書いてあります。「あなたはあらゆる種類 の病気から癒されたいですか?肉体、魂、霊的な病すらも癒されるこ とができるのです。あなたの心の中に神の種を植えなさい。 」とあります。では、どのような土地が良いのでしょうか ?4つの福音書には、実を結ぶための良い土地の条件がそれぞれ書い てあります。第一は、みことばを受け入れる心です。第二は 、みことばを理解する心です。第三は、みことばを喜んで行う心です 。第四は、すすんで証をする心です。道端や岩地のように頑なな心で はダメです。よく耕された柔らかい土地のような心が必要です。

 そして、神のみことばを与えてくださるのは神様です。神様は 、私たちが聖書を読んでいるとき、あるいは祈っているとき 、みことばを下さいます。しかも、突然です。「あっそうかー。 」そのみことばは、現在のあなたに必要な生けるみことばです 。これは神からの啓示であり、あなたが考え出したものではありませ ん。神様があなたにみことばを送ってくださったのです。あなたは 、そのみことばを、心の中に植えつけなければなりません。つまり 、みことばを受け入れ、理解し、喜んで行い、告白するのです 。でも、多くの場合、「非現実的だなー」と思って 、ほったらかしにします。すると、サタンがやってきて 、そのみことばを持ち去って行きます。たとえ話では 、鳥が食べてしまうと書いてあります。気がつくと 、先ほどの信仰も消えてしまっています。結構、私たちは 、神様がみことばを送っているにも関わらず、無にしていることが多 いのではないでしょうか。箴言4:20-22にすばらしい教訓が記 されています。「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ 。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て 。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする 。」このところには、「耳を傾け、目から離さず、心のうちに保て 」と書いてあります。そうするとどうなるか?「それはいのちとなりその全身を健やかにする」のです。みことばは、全身を健やかにする。ここにも癒しのことが書 かれています。

 私は男性の更年期障害なのか、1999年頃から皮膚病になりました 。乾癬といって、アトピーと同じくらい治るのが難しい病気なようで す。しかし、2003年ぐらいに、ほとんど治りました。しかし 、昨年からまた、ぶり返してきました。前ほどではないのですが 、背中や足にけっこうできています。皮膚がむけて、赤くなり 、このままでは好きな温泉も行けません。しかし、あるとき 、いくつかのことが思い浮かびました。「皮膚とは何か?それは 、外部と内部を隔てている壁ではないか。その壁が破れているという ことは、霊的防御が破れていることだ。きっと、祈りが足りないから ではないだろうか?」アーメンだなーと思いました。その次 、イエス様の変貌山のことが思い浮かびました。イエス様が「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く輝いた」 (ルカ9:29)とあります。「おそらく、顔の肌まで白く輝いたのではないだろうか 。私も主の栄光が、一番外側の皮膚まで来るように満たされよう 」と思いました。それから、このテキストで学んだように、 「問題が起こったときこそ、主を礼拝できるチャンスにしょう。 」1箇所、1箇所にお薬を塗るとき、「主よ、感謝します。主よ 、ほめたたえます」と礼拝しています。「それからどうしよう 。皮膚にはビタミンAだ、野菜ジュースを飲もう。玄米食をまた始め よう。それから、ストレスをためないでリラックスしよう。 」そんな風に、ちょうどやっていたところです。

 でも、きょうの箇所には、「主から癒しのことばをいただけ! 」と書いてあります。マタイ8章には、イエス様がなされた多くの癒 しの御わざが記されています。ローマの百人隊長のしもべが病気でし た。イエス様が「行って、直してあげよう」とおっしゃったのに 、百人隊長はどう答えたでしょうか?「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は 、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください 。そうすれば、私のしもべは直りますから」(マタイ8:8)。彼はイエス様のことばには力があるということを知っていました 。だから、「ただおことばを下さい。そうすれば私のしもべは直りま す」と言ったのです。イエス様は「イスラエルのうちに 、こんな信仰は見たこともない」と感動され、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。そのとき、百人隊長のしもべは癒されたのです 。百人隊長は、イエス様がわざわざ手をおかなくても 、おことばだけで癒されると信じていたのです。すばらしいですね 、ハレルヤ!その後、イエス様はどうしたでしょうか?マタイ8:16「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい 、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを 追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。」とあります。イエス様は、みことばで、悪霊を追い出し 、病気の人をお直しになりました。ハレルヤ。マタイ8:17に何と書いてあるでしょうか。「これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであっ た。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った 。』」アーメン。イエス様が癒しをなされたのには、理由がありました 。それは、イザヤ書53章の成就であります。イエス様は 、まさしく、十字架において、私たちの罪だけではなく 、病も負ってくださったのです。私たちはこういうみことばを読むと き、トゥーンときます。「病の問題はすでに解決されているんだ。 」ある人は、「神のみこころならば、私は癒されるでしょう 」と言います。それは、種を植えるのではなく、種を殺すことになり ます。「聖書が、『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』と、おっしゃっている。アーメン。信じます。私のものとします」 。後は、自動的に、種から芽が出て育つように、癒しは起こるのです 。どうぞ、神様がみことばを自分に送ってくださることを期待しまし ょう。その次には、いただいたみことばをしっかりと握りましょう。

2.みことばの告白

 後半は告白の重要さについて学びたいと思います。テキストにはこの ように書いてあります。多くの人たちは告白の意味を理解していない ために、癒しを受け取ることに失敗しています。告白はギリシャ語で 「ホモ・ロゲオー」と言いますが、「同じことを言う 」という意味です。私たちの人生に神様の力が現れるために 、神様が癒しについて言われた同じことを、私たちは言い続ける必要 があります。もし神様が「キリストの打ち傷によって 、あなたは癒されたのです」と言われたならば、同じことを告白しな ければなりません。では、みことばを告白することがどうして 、重要なのでしょうか?ヘブル3:1「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖 なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり 、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」このみことばの意味は、私たちが聖書に基づいた告白をすると 、キリストが直ちに、私たちの大祭司、あるいは使徒になってくださ るということです。大祭司とは神様と私たちとの仲介者と言う意味で す。イエス様は「父よ。あの人が、あなたの約束のみことばを告白し ていますよ。これは叶えてやるしかありませんよ」と執り成してくだ さるのです。では、「使徒になる」とはどういう意味でしょう ?使徒は「神様から遣わされた者」と言う意味です 。イエス様が使徒と呼ばれているのは、おそらくこの箇所だけでしょ う。私はクリスチャン29年やって、ようやく分かったことがありま す。子供が、『救世主メシヤ』という漫画を見たせいか、 「メシヤってなあに?」と聞きました。「メシヤって救世主だよ 」といえば、それまでですが、なぜ、私たちにメシヤが必要なのか 、改めて考えさせられました。聖なる神様と罪びとである私たちとで は、あまりにも高低差があります。神様は私たちのところに義を曲げ てまで降りて来られません。かといって、私たちも自分の正しさで上 ることもできません。そこで、神様は自分の分身とも言える 、御子イエスを私たちのもとに遣わして下さったのです。本来なら 、私たちは神様に「○○してくれ」などと要求できない者でした 。しかし、イエス様がメシヤとなって、私たちのところに降りてくだ さったのです。私たちはイエス様というキリストを通して 、神様に近づける存在となりました。なぜなら、イエス様が十字架で 私たちのすべての罪を贖ってくださったからです。逆に言うと 、罪をあがなうイエス・キリストなしでは、まことの神様には近づけ ないということです。

 でも、すばらしいことにイエス様は使徒であり大祭司となってくださ いました。その結果、どうなったのでしょう。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け 、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために 、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」アーメン。だから、私たちは恵みによって癒しを受けることができる のです。ですから、私たちは聖書のみことばをもっと告白すべきです 。「あなたは十字架で、私の病を解決してくださいました。主よ 、あなたの打ち傷によって、私は癒されました」と告白するとき 、主は喜んでくださいます。私たちには、偉大な大祭司がいるのです 。だから、ヘブル4:14では「私たちの信仰を堅く保とうではありませんか」と私たちチャレンジしています。大祭司なるイエス様は父なる神様の ところに、私たちの信仰による求めを届けてくださいます 。私たちにとって大事なのは、その信仰の告白を堅く保つことです 。決して離さないで、捨てないことです。あなたは、一、二度 、求めはしたけれど、「どうせ無理だよ」と自分で却下したものはあ りませんか?この点、日本人はとっても、遠慮深いですね。「神様 、お手すきでしたらお願いします。ご無理であれば、結構なんです 」と遠慮します。この点、韓国のクリスチャンは、すごいです。 「アボジハナニム、叶えてくださらなければ、私は死んでしまいます 。チューよ、あなたしかいないのです。チューよ、信じます 。感謝します。ありがとうございます」。まだ、もらっていないのに 、もらったつもりでいます。日本人クリスチャンは 、それくらいのずうずうしさがなければなりません 。テキストにありますが、あなたが信仰を堅く守っていないもの 、諦めて棚から降ろしたものは何でしょうか?私は教会にリバイバル が起こることです。これを、諦めて、引き降ろしていました 。みなさんにとって、信仰を堅く保つべきものは何でしょうか ?体の癒しでしょうか?夫婦の関係でしょうか?あるいは偉大な使命 でしょうか?金銭面が満たされることでしょうか?結婚でしょうか ?うちの下の子供は、レゴブロックのテレビを見て 「マサチューセッツ工科大学に行きたい」と言いました 。今から準備をしたら、間に合うかもしれません。柏美樹ちゃんは 、来週から、アラバマに留学します。口で告白して 、願い求めればそうなるのです。詩篇81:10にすばらしいみことばがあります。「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地 から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが 、それを満たそう。」主は、「あなたの口を大きくあけよ、私はそれを満たそう 」と言われます。それは、私たちが主に、はっきりと告白して 、求めるべきだということです。

 また、テキストには「敬虔になるとは、神様の約束を真剣に見つめる ことである。敬虔さを通して、私たちは神様からたくさんの約束を見 出し、それを手に入れることができる」と書いてありました 。前回も申し上げましたが、「敬虔とは、罪を犯さず聖い生活を送る ことだ」と考えられてきたようですが、そうではありませんでした 。これには、目が開かれました。信仰生活を長年やっていますと、 「神様に求めることは幼稚なクリスチャン」みたいに 、思ってしまいます。「大きなことを言わないで、身の丈を知る 。失敗しないクリスチャンが良い」みたいに、思っていました 。しかし、「本当の敬虔さとは、信仰と関係があり 、約様の約束を見出し、それを手に入れることだ」とわかりました 。私もやっぱり、リバイバル(霊的復興)を信じたいと思います 。いや、日本にリバイバル、当教会にリバイバルが起こることを信じ ます。2000年からのゴスペルで小さなリバイバルが当教会に起こ りました。これは、とっても評価できることです。日本キリスト教団 では、うちは、けっこう若い人が多い方です。でも、もっと 、もっと、求めて行きたいと思います。7月に台湾から宣教のために 、10名来られます。「ああ、なんで引き受けちゃったんだろうなー 。めんどうだなー」というところも実はありました。でも、日本の 、当教会のリバイバルのために、わざわざ遠くから助っ人に来られる のです。大変、ありがたいことではないでしょうか!

私たちは、信仰に反することをこの口がしゃべってしまい、結局 、信仰をキャンセルしてしまうことがあります。ヤコブ書3章にあり ますが、この舌にはとても力があります。たとえて言うなら 、それは馬の「くつわ」であり、船の楫です。しかし、「舌は体の小さな器官ではあるが、体全体を引き回すことができる」と書いてあります。この舌で体全体を汚し、人生の車輪を焼くことも できます。しかし、またこの舌を正しく制御するならば 、私たちの体全体が良くなり、また信仰のみわざが前進していくので す。舌は奇跡を生み出す力にもなれば、破壊的な力にもなります 。ですから、「年をとったから」とか言うのをやめましょう。 「お金がないから」と言うのをやめましょう。「協力者がいないから できない」と言うのは、やめましょう。すみません、これは 、みんな私自身に対しての戒めです。そういう否定的なことばは 、信仰の火を消してしまいます。私たちをますます、老化させ 、神様が備えた可能性をキャンセルすることになります。おおー 。私たちの身近な訓練は、この口、この舌を守ることであります 。どうぞ、私たちの感情とか、感覚を信じないようにしましょう 。神のみことば、神の約束という事実を信じていくときに 、あとから感情や感覚が後から追いかけてくるのです。

 一般の本屋さんに言っても、「ことばの力」とか「暗示力」 「積極思考の力」みたいな本が売られています。確かに 、それらの本でもある程度のことは起こるでしょう。でも 、私たちの場合は、神様の約束である、神のことばに土台する告白で す。詩篇107:20「主はみことばを送って彼らをいやし 、その滅びの穴から彼らを助け出された」。本当に、神様がみことばを送ったのだったら、必ずそれはなるので す。神様がくださる、みことばの種をいただきましょう 。そのためには、地味ですけど、聖書を読む必要があります 。占いみたいに、あちこちぱっと開けるのではなく 、しおりを挟んで毎日、順番に読んでいきます。すると、突然 、神様が「あなたの約束はこれです」と語ってくださいます 。どうぞ、それを右から左に受け流さないで、心の中にしっかりとど めましょう。信じて告白しましょう。そうするなら 、種から芽が出て、成長し、おのずと実が結ばれるのです 。信仰は肉の力で、がんばるものではありません。一度、信じたら 、神様にゆだねならが忍耐深く待つのです。そうすれば、時が来て 、癒しが起こるのです。私はお風呂であることを発見しました 。私はお湯がいっぱいなお風呂に入るのが大好きです。ですから 、シャワーのお湯を湯船にいれます。5人もいますので 、表面には髪の毛とかアカが浮かんでいるときがあります 。お湯がたまっていますが、何も起こりません。でも 、あるところに来ると、湯船の縁からお湯があふれ出します 。そうすると、表面に浮かんでいる髪の毛とかアカが、突然 、流れ出します。そして、お湯がきれいになります。私は 「これだなー」と思いました。時が満ちたとき、癒しが起こるのです 。お湯がたまっているときは、何も起こっていないように感じます 。でも、縁に達してあふれるときがきます。すると 、事が起こるのです。癒しも、リバイバルも、奇跡も同じ理屈であり ます。ですから、御わざが起こるまで、あきらめないでください 。期待して、祈り続けましょう。

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2008年5月 4日 (日)

信仰の訓練    Ⅰテモテ4:6-11

 ゴールデンウィークの半ばですが、どこも混んでいるようです 。空いているのは教会だけ、ということはないでしょう。上海では 、礼拝堂に入りきれないくらい人が集まっており、ある教会では洗礼 は8ヶ月待ちだそうです。洗礼を受けるためには勉強会に出席し 、試験を合格しなければならないからです。その点 、当教会は楽ですね。1週間前でも大丈夫です。でも 、準備会はちゃんとしたいと思っています。洗礼は受けたけれど 、準備会が、まだ終えられていない方々が何名かおられるようです 。ま、なんとかしたいと思っております。きょうは「信仰の訓練 」と題してメッセージしますが、私たちの信仰はそのままにしておく と、弱って使い物にならなくなります。この筋肉と同じであります 。信仰を鍛えると、偉大なことが信じられるようになり 、すばらしい御わざがたくさん起こります。なぜなら 、神様は私たちの信仰を通して働かれるからです。

1.敬虔のための訓練

 Ⅱテモテ4:8「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが 、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は 、すべてに有益です」。世の人たちはもっぱら、肉体の健康、肉体の鍛錬のことばかり考え ています。健康器具とか健康サプリは数え切れないほどたくさんあり ます。もちろん、肉体の訓練も大切ですが、それ以上に大切なものが あります。パウロは、「むしろ、敬虔のために自分を訓練しなさい 。なぜなら、今のいのちと未来のいのちに関係するからだ 」と言っています。つまり、外なる人である肉体はこの世限りのもの ですが、内なる人である霊と魂は永遠のものだからです。Ⅱコリント4:16「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにさ れています」。私も50代半ばになりました。先日、家内の免許証を見る機会があり ましたが、思わず「お互い年をとったねー」と言ってしまいました 。私も、若い頃はいくら暑くても平気でしたが、先週は 、まだ夏にもなっていないのに、暑くてたまりませんでした 。俳優のハリソン・フォードは65才ですが、インディ ・ジョーンズⅣに、また出演しています。たいした若さであります 。私もあと10年は大丈夫ですね。でも、6人目が生まれたらどうし ようかと心配です。でも、大切なのは肉体よりも、内なる人でありま す。パウロは、エペソ3:16「どうか父が・・・あなたがたの内なる人を強くして くださいますように」と祈っています。敬虔のための訓練は、内なる人の訓練とイコールだ ということです。

 では、敬虔になるとはどういうことでしょうか。ある人は、 「敬虔とは、神を恐れて、罪を犯さず、きよい生活をすることだ 」と言うでしょう。しかし、テキストには「神の約束を握り 、信仰をもって生きることだ」と書かれています。昔から敬虔なクリ スチャンとは、「酒を飲まず、タバコもすわない。女性遊びや 、ギャンブルなんかとんでもない」と言われてきました。しかし、ヘブル11:6に「信仰がなければ、神によろこばれることはできま せん」と書いてあります。神の戒めを守り、罪を犯さないことはすばらしい ことです。でも、神様が喜ばれる人とは、信仰をもって神様に求める 人だということです。旧訳聖書にヤコブという人物が出てきます 。彼は兄をだまして長男の権利を奪い取ったひどい人物でした 。創世記32章で、ヤコブは御使いと戦い、「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と言いました。それだけ、執拗に神様に求めました 。ヤコブは人間的には問題がありましたが、主はヤコブを愛されまし た。新約聖書ではペテロを典型的な例としてあげることができます 。ペテロは自分はイエス様の一番弟子だと思っていましたが 、イエス様を3度も知らないと言いました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロの説教で3000人が救われました 。ペテロは欠点がありましたが、信仰の人でした。イエス様は信仰の あるペテロをとても愛しました。ヘブル11章をみますと 、信仰の列伝と言いましょうか、敬虔な人たちの名前が列挙されてい ます。しかし、ほとんどの人は失敗したことがあります 。ノアはぶどう酒を飲んで裸で寝ているところを息子たちに見られま した。アブラハムは自分の妻を妹だと2度も偽りました。他には 、女性に弱かったサムソンも入っているし、姦淫と殺人を犯したダビ デも入っています。彼らを見たら、とても敬虔な人とは思えないとこ ろがあります。でも、聖書は「信仰によって」「信仰によって 」と度々書いてあります。神様は信仰をもって御自身に求めてくる人 が好きなのであります。昔、羽鳥明という先生の説教を聞いたことが あります。ある人に二人の息子がいました。長男は頭が良くて有名な 大学に入りました。次男は高校中退で、遊んでばかりいました 。長男は大変優秀でまじめでしたけれど、「お父さん 」とひとことも言ったことがない。しかし、次男の方は「親父 、お金くれ」とか「親父、疲れたろう、肩もんでやるよ 」と親しく交わる。果たして、父親は、どちらの方を愛しやすいだろ うかというお話でした。

ホーム・ページに敬虔とは、どういうことかをあるクリスチャンが書 いていました。私が肩身が狭いと思うのも、自分が一般的なイメージ としての敬虔にほど遠いキリスト者だからです。要するにクリスチャ ンであるからといって、何も特別な人物ではなく、特別な生き方をし ているわけではないのです。ごく普通の人間が、日曜日ごとに集まっ て、一週間のための生きる力を求めて礼拝し、礼拝が終われば 、それぞれの生活に戻っていきます。ただ一つ言えるとすれば、 「こんなわたしのためにイエス・キリストがこの世においでになり 、十字架の上で死んでくださった。」ということを信じようとしてい るのが、キリスト者なのだと思います。・・・言いたいことはわかり ます。クリスチャンは確かに恵みによって救われましたが 、世の人と同じではありません。恵みによってキリストに贖われたら 、今度は恵みによってキリストに似た者と変えられていかなければな りません。エディ・レオ師が4年前に来られたとき、 「敬虔とはイエス様のようになることである」と以下のようにメッセ ージして下さいました。今日の教会の目標は何でしょうか 。大きくなること、あるいは栄えることです。「イエス様を信じなさ い。あなたはイエス様を信じるなら、お金持ちになりますよ」。 「イエス様を信じなさい。あなたの問題は自動的に解消されますよ 」。「あなたは人生を楽しめますよ」。「すばらしい人生が待ってい ますよ」。このような福音を語ります。しかし、イエス様のようにな るというところにフォーカスが向けられていません 。イエス様のようになるという目標を持っているでしょうか 。みなさんのセルグループはどうでしょうか。あなたのセルグループ は「イエス様のようになる」ということに焦点を当てているでしょう か。もし、私たちがイエス様になるということに焦点を合わせるなら ば、リバイバルが起こるでしょう。そして、そのリバイバルは消えて なくなることはありません。だから、イエス様のようになりましょう 。アーメンです。

では、イエス様のようになるとはどういう意味でしょうか 。イエス様のようになるとは、水の上を歩くことでしょうか ?イエス様のようになるとは、髪の毛を長くすることでしょうか ?ある人は、「イエス様のようになるとは、イエス様を真似すること だ」と言います。しかし、ノンクリスチャンでも、イエス様を真似す ることはできます。インドのガンジーでさえも、イエス様を真似しま した。彼は聖書を読み、イエス様を真似はしましたが 、それではキリスト教ではありません。もし、私がイエス様を真似す るだけならば、まだ私が自分の人生を生きているということになりま す。もし、私のこのエゴが生きているならば、自分で自分の人生を生 きている人のしるしは何でしょうか。自己というものは 、たえず他からの利益を得ようとします。自己はたえず 、何かを獲得しようとします。時に、私たちは、霊的なことをするか もしれないが、実際のところ、「私は何かを獲得したい 、利益を得たいという」ことはないでしょうか。私たちは祈るのは 、何故でしょうか?祝福されたいからです。聖書を読むのは 、成功者になりたいからです。他の人たちに良いことをします 。それは何故でしょうか?その人たちから良いことをしてもらいたい からです。私たちは人々に仕えます。何故でしょう ?その人たちは私のビジネスパートナーとなってくれるためです 。祈ること、聖書を読むこと、他の人を愛することは悪いことではあ りません。しかし、私たちの動機は何かということです。もし 、それが自己から生じているならば、他からいつも何かを利益を得よ うとします。だから、それを自己中心と言うことになります。

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました 。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてお られるのです。いま私が、この世に生きているのは 、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰 によっているのです。」本当の敬虔とは、肉の働きを殺すということです。イエス様のようで ない品性を十字架につけて殺すということです。それによってイエス 様の命、イエス様の品性が私たちを通して現われてくるのです 。これが敬虔、これが霊的な生活です。イエス様のようでない品性を すべて殺すと、イエス様の品性だけが現されるようになります 。私がどんどん、どんどん減っていく。そして、私の内におられるイ エス様がどんどん、どんどん溢れていく。これが、完全になることの プロセスです。完全になるというのは、私たちのこの肉が大きくなる ことではなく、イエス様が私のうちに現れてくることです 。第一の結論ですが、敬虔のための訓練とは、キリストに似た者とな るということです。そのためには、肉に死んで、キリストご自身に満 たされていくということです。

2.みことばで祈る

 みことばで祈るとはどういうことでしょうか。テキストを見ますと 、16C、フランスのマダム・ガイオンという女性が初めて実践しま した。彼女はカトリックの人でしたが、みことばで祈ることをライフ スタイルにしました。すると、文字通り、神の栄光に満たされました 。しかし、当時の教会から、異端扱いされ、彼女が書いた『イエス ・キリストの深さを体験する』という本も焼かれました。彼女は 、迫害と投獄の間も、神の栄光と喜びに満たされて 、ついにこの世を去りました。彼女の本はどうなったのでしょうか ?彼女の本が町の人たちに配られ、ついには、町中の人々がリバイバ ルを体験しました。その本は、後になって、クエーカー教徒やジョン ・ウェスレー、ウォッチマンニーなどに影響を与えました。では 、みことばで祈るとはどういうことでしょうか?まず 、テキストには詩篇23が例にあげられています。これをもし 、みことばで祈るとしたらこのようになるのではないでしょうか。 「主よ、あなたは私の羊飼いです。だから、私には 、乏しいことがありません。これまでもそうでしたが 、これからもきっと必要を満たしてくださると信じます。あなたは 、私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主よ 、あなたのもとで、もっとリラックスさせてください 。あなたは私のたましいを生き返らせてくださいます。これまで 、私を何度も生かしてくださりありがとうございます 。御名のために、私を義の道に導かれます。私が守られてきたは 、私の力ではなく、あなたの御名のゆえです。感謝します。たとい 、私が死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません 。あなたが私とともにおられるからです。あなたのむちとあなたの杖 は、私の慰めです。主よ、あなたの訓練を喜びますから 、あなたの弟子にしてください。あなたは、私の敵の前で 、私のために食事を整え、私の頭に油をそそいでくださいます 。私の杯は、あふれています。おお、私の貧乏人根性を癒してくださ い。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが 、私を追って来るでしょう。ハレルヤ!私は、いつまでも、主よ 、あなたの家に住まいましょう。御国に、私のためにすばらしいマン ションが用意されていることを感謝します。」

 1節1節ずつ、イメージしながらやればもっと良いでしょう 。テキストには詩篇42,43篇、そして121篇がのっています 。みことばを自分のことばに変えて、祈りのように 、祈っていくとどうでしょう。するとまるで、父なる神様が 、私に語っているような感じがします。私たちは神様の臨在を感じな ら、みことばを宣言することができます。神様が私にいろんな約束や 励ましをもって語ってくださいます。そして、私自身が神様に信仰を もって応答していくのです。すると、みことばを通して 、神様のご人格、神様のご性質と出会うことができます。そのとき 、私たちは「タッチング・ヘブン・チェンジング」、つまり、 「天国に触れて、私たちの心が変えられる」のです。ハレルヤ !私はみことばを瞑想することは、強調してきましたが、 「みことばで祈る」というのは、はじめてです。そのためには 、もっとイメージを働かせ、自分の環境に神様を歓迎する必要があり ます。また、そのことは詩篇42,43篇のように 、自分の魂に語りかけることにもなります。うまくいかないと 、私たちも詩篇の記者のように、鬱的になります。「わが魂よ。なぜ、お前は絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れて いるのか。神を待ち望めよ。私はなおも神をほめたたえるぞ!」みたいになります。以前、自分自身との会話というものは 、どうしても過去の否定的な事柄に集中しがちだということを申し上 げました。しかし、みことばで祈ると、すぐ神様の臨在の中に入るこ とができます。すると、神様の真実が見えるようになります 。それを続けていると、「ああ、この現実も神様の御手の中にあるに 違いない。主がきっと、なんとかしてくださる。ハレルヤ! 」と希望がわいてきます。どうも、自分自身の中には 、希望を見つけるような要素がないようです。やはり 、みことばを見ていくと、触発されて、あとから希望が出てきます 。一種の化学変化であります。みことばと祈りを混ぜると 、希望が発生します。最近は、硫化水素で自殺を計る何十人もいます 。何と何を混ぜるかわかりませんが、「混ぜるな、危険」です 。でも、みことばと祈りを混ぜると、希望が発生します 。私たちはみことばと祈りを混ぜることにしましょう。

 先週は新年度の教会総会がありました。しかし、私自身の中に 「燃えるようなビジョンがないなー」と感じました 。当初は3年後に礼拝100名とがんばってきました。でも 、セルチャーチの学びをはじめてから、「教会は人数の多さではない 」と分かりました。今、ベン・ウォン師のもとでコーチングを学んで います。私もある若い先生をコーチしています。彼は教会成長の学び を終えたばかりで、教会のビジョンを私に見せてくれました 。グラフが書いてあり、あと3年後には78名の礼拝 、5年後には100名を超えています。今、まだ12名しか集まって いないのに、「えー?」と思いました。彼はチョー ・ヨンギ先生に傾倒しており、「夢をもって告白すればそうなる 」と言います。私は心の中で「懐かしいなー、私もかつてそうだった んだよな。でも、そうならなかったんだよな」と思いました 。情熱的な若い先生をうらやましいと思います。私は数を追いかける のをやめてから、何を具体的に求めたら良いかわからなくなりました 。自分の野望ではなく、神様のビジョンにフォーカスしていくという ことはそう易しいことではありません。ベン・ウォン先生から、 「大切なのは実ではなく、根っこだ」となんべんも聞かされています 。実というのは人数とか大きさであります。でも、それよりも大切な のは根っこ、つまり価値感だということです。これまでの牧師は会社 を経営するように、教会を牧会してきました。大きな会堂を建て 、大勢の人が集う教会を目指してきました。それが成功であり 、自己目的の達成でした。でも、会社の経営と神の教会が同じわけが ありません。業績を求めた結果、教会分裂、家庭の崩壊 、ストレスから来るバーンアウトや不祥事が起こり 、たくさんの人が傷を受けました。やっていることは良い事かもしれ ないけれど、動機がどうなのか?それは神の価値感と一致しているの だろうか?と問われるようになりました。私自身も内側において 、古い価値感が崩壊し、新しい価値感に入れ替わっているところです 。パソコンで言うと、まだ、インストールが終わっていない。95 %くらいできているけど、あと5%くらいです。あともう少しです。

 ですから、数の目標やビジョンを掲げる前に、絶対的なものがあるは ずです。それは、まず、各自がキリストに似た者となるということで す。新約聖書において、キリストの似姿に変えられるというのは 、最も大切な目標の1つです。自我に死んでキリストに生きるという 、敬虔のための訓練です。さらにそのことができるようになるため 、「みことばの祈り」があるということを学びました。もし 、私たちがもっと父なる神様とみことばを通して交わるならば 、信仰と希望が神様から与えられるのではないかと思います 。先ほどあげた、チョー・ヨンギ師の場合は、まず自分の夢やビジョ ンを掲げ、その後、「神様、これを告白しますので 、かなえてください」というところがありした。順番が逆のような気 がします。夢やビジョンは自分の中から出てくるものではなくて 、神様から与えられるものではないかと思います。それをしないで 、自分の夢やビジョンを神様に押し付けるというのは違うんじゃない かと思います。この世の成功と神の国の成功は、違います 。私たちはどうしても、祝福の量を金銭や持ち物、あるいは大きさや 人数で計ってしまうところがあります。イエス様は 「受けるより与える方が幸いである」とおっしゃいました 。ですから、より多く与える教会、より多く与えるクリスチャンがす ばらしいのであります。ベン・ウォン師もよくおっしゃっています 。自分の教会だけを見るのではなく、日本や世界の教会を見なさい 。建物の中に集まっている人だけを見るのではなく 、建物の外にいる人を見なさい。今のことだけを見るのではなく 、10年先、30年先のことを見なさい。自分たちの能力や資源を見 るのではなく、人々の必要を満たそうとする神様を見なさい 。私たちは視点を変える必要があります。みなさんも、何に対して 、フォーカスしていくべきかお考えください。イエス様が教会に与え た最大の使命は何でしょうか。それはマルコ16章であり 、マタイ28章です。全世界に出て行き、福音を宣べ伝えること 。行って、すべての国民をキリストの弟子にすることです。どうぞ 、この使命を果たすために、自分は何をすべきか、このこともお考え ください。私たちはあまりにも、「私を祝福してください 。私を祝福してください」と祈り過ぎてきました。こんどからは、 「この町の人たちを、日本の人たちを祝福してください 」と祈っていきたいと思います。

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2008年4月27日 (日)

聖霊の導き    ヨハネ14:16-20

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ 」の第4週目です。このテキストには「異言で祈りましょう 」と度々書いてあります。アバラブ教会は聖霊の賜物を強調するグル ープですから、そういう傾向があります。私は、異言はあった方が良 いと思いますが、「異言は必須である」とか、「絶対必要である 」と言ったことはありません。それよりも、聖霊という神様を賜物や 力ではなく、まず、人格的なお方として知る方が大切だと思います 。きょうは、「聖霊の導き」と題して、3つのポイントでお話したい と思います。

1.聖霊とはだれか?

 イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは 、あなたがたのところに戻って来るのです」(ヨハネ14:18)とおっしゃいました。これは復活のことを語っているのではありませ ん。イエス様が聖霊というお姿で、再びやってこられるということで す。肉体を取って来られたイエス様には、物理的な限界がありました 。イエス様はエルサレムに行けば、ガリラヤにいることができません でした。また、ガリラヤに行けば、エルサレムにいることができませ んでした。やがて、イエス様は十字架の死を遂げ、3日目に復活しま した。40日間お姿を現したのち、天にお帰りになられました 。ヨハネ14章は、十字架にかかる前ですから、弟子たちに約束を与 えているわけです。どんな約束でしょうか?イエス様は、 「今度は聖霊によってあなたがたのところにやって来るよ 」とおっしゃったのです。弟子たちにとって「助け主」とは 、イエス・キリストです。そして、このところでは父が 「もうひとりの助け主」を与えるとおっしゃっています。 「もうひとりの助け主」はギリシヤ語では、「アロス ・パラクレートス」です。「アロス」とは、全く同じかたちで 、別のものという意味です。「イエス様と人格的にも能力的にも全く そっくりだけど、別の人格を持った助け主」という意味です。

聖書には三位一体という言葉はありません。でも、ヨハネ14:9 -11は、イエス様と父なる神さまが一体であると書いてあります 。また、ヨハネ14:16-20は、やがて来る聖霊はイエス様と同 じであると言われています。つまり、イエス様と父なる神様とは同じ であり、聖霊とイエス様は同じだということです。数学でもA=B 、C=Aであるならば、B=Cという式が成り立ちます 。つまり聖霊は神さまだということです。ここに3本のビデオ ・テープがあります(神は唯一、しかし人格は3つ 。全く同じ形のビデオ・テープで説明)。旧約聖書では 、おもに父なる神様と聖霊が出てきます。しかし、新約聖書になると イエス様がお出になり、教会時代には聖霊がおもに出てこられます 。聖霊は、イエスの御霊であり、同時に神の霊なのです。ですから 、聖霊を受けるならばヨハネ14:20の「その日には、わたしが父におり 、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが 、あなたがたにわかります」ということが実現するのです。つまり、イエス様の内に父なる神様が ともにおられたように、クリスチャンの中にイエス様がともにおられ るということです。イエス様は弟子たちに「私は世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 (マタイ28:20)と約束されました。そのことは私たちにとっても同じであります 。イエス様は「聖霊様」というお姿で、世の終わりまで、いつも 、私たちとともにおられるのです。ハレルヤ!聖霊によって来られた イエス様には、物理的な限界がありません。聖霊は 、私の中にもおられますけれど、みなさん一人ひとりにともにいるこ とができるのです。

Ⅰコリント3章と6章に、「クリスチャンは聖霊の宮 」であると書かれています。かつて神さまはエデンの園におられまし た。それから、神さまはモーセが作った幕屋に降りてこられました 。その後、ソロモンが建てた、神殿に臨在されました。しかし 、その神殿はバビロンによって破壊されてしまいました。そして 、2000年前イエス・キリスト様のうちに神さまが共におられまし た。しかし、イエス様は十字架であがないのわざを終えられてから天 にお帰りになられました。それからどうなったのでしょう ?神さまは地上にいなくなったのでしょうか?そうではありません 。ペンテコステの日、イエス様が昇天してから10日後 、聖霊が降りました。ペンテコステ以来、イエス様を信じる人々の心 の中に、聖霊なる神様が内住するようになったのです。みなさん 、イエス様を信じているなら、もれなく神さまが共に 、あなたの内におられるということです。すばらしいではありません か。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない」とおっしゃいました。世の中で一番かわいそうなのは 、親のない子供です。現代は、たとえ親がいても、親のいないような 子供がたくさんいます。でも、大丈夫です。父なる神様が 、イエス様があなたと共におられるのです。日本語で「助け主 」と訳されていますが、「パラクレートス」は、他には「慰め主」 「助言者(カウンセラー)」「弁護者」とも訳すことができるのです 。あなたを慰め、助言を与え、弁護してくださる聖霊様がいらっしゃ るということです。何とすばらしい恵みでしょうか。韓国のチョー ・ヨンギ牧師はいつもおっしゃっていました。「父なる神さま 、そしてイエス様は、聖霊様によって、ここにいらっしゃっています 。あなたが神さまの住所なのです。聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し 、聖霊様に従いましょう」。アーメン。

2.聖霊の役割

 聖霊の役割はたくさんありますので、とてもひと言では言えません 。しかし、テキストではいくつか重要なことを取り上げています 。ヨハネ14章では、聖霊はどのようなことを私たちのためにしてく ださると書いてあるでしょうか?ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしにな る聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また 、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださ います」。このみことばは、直接的には弟子たちに語られたものです 。弟子たちはイエス様から3年半、教えを受けました。しかし 、弟子たちは、イエス様が十字架にかかることや復活することに関し てはちんぷんかんぷんでした。また、神の国はこの地上にやってくる と考え、だれがイエス様の右に座るんだと争っていました。しかし 、ペンテコステの日、ペテロが聖霊を受けて、大説教をしました 。十字架と復活の意味、そしてやがて来る神の国のことをはっきりと 語りました。長老や学者たちは、「ペテロとヨハネが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)と書いてあります。「普通の」とは、「専門に律法を学んだことがな い」という意味です。いくら聖書を学問的に学んでも 、聖霊様にはかなわないということです。なぜでしょう ?聖書は神の霊、聖霊が書いたのです。わからなければ 、原著者である聖霊に聞くのが一番ではないでしょうか?「聖霊様 、ここはどういう意味でしょうか?」「ああ、私はこういうつもりで 書いたのですよ?」わぁー、すげー。皮肉なことに 、人は学問をすればするほど、聖霊様から離れます。聖霊は「すべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださる」のです。アーメン。だから、聖霊様に聞きましょう。

 また、ヨハネ16章にも、聖霊の働きが書いてありますが 、このテキストを見るまでは誤解していました。ヨハネ16:8 -11の内容が、未信者のもののためであるとは知りませんでした。ヨハネ16:8-11「その方が来ると、罪について、義について 、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてという のは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは 、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる からです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたか らです。」未信者のために聖霊は3つのことをなされます。第一は 、福音を拒絶し、イエス様を信じないことは罪であることを示します 。第二は、イエス・キリストご自身が義であり、真理であることを示 します。第三は、この世の君、サタンがさばかれたということです 。これまで、サタンが人々を告発し、さばいてきました 。神さまではなく、サタンがあなたの耳もとでさばいてきたのです 。でも、サタンは正しいキリストを処罰したことによって逆にさばか れました。聖霊はクリスチャンを懲らしめることはありますが 、罪を告発したりはしません。罪を告発するのはサタンです。でも 、キリストの十字架によって、サタンはさばかれ追放されました 。聖霊は、キリストによってすべての罪が赦されているゆえに 、私たちを訴えないのです。むしろ、私たちを弁護し 、私たちを正しい道へと導いてくださるのです。神さまはもう 、あなたを訴えません。キリストのあがないによってあなたを赦し 、聖霊様によって弁護してくださるのです。

 では、クリスチャンに対する聖霊の働きとは何でしょうか ?ヨハネ16:13-15にあります。ヨハネ16:13-15「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来 ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語 るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしているこ とをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします 。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです 。父が持っておられるものはみな、わたしのものです 。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて 、あなたがたに知らせると言ったのです。」クリスチャンに対しては、第一に、聖霊はすべての真理に導き入れま す。第二に、聖霊は父もしくはイエス様が言われたことを話します 。第三に、聖霊はやがて起ころうとしていることを示してくださいま す。多くのクリスチャンは、聖霊様に聞かないで、預言者とかカウン セラーのところを訪問しています。有名なクリスチャンのある先生に カウンセリングを受けるのは、2ヶ月か3ヶ月待ちだそうです 。また、「預言カフェ」というのがあって、多くの人たちが預言を受 けるため並んでいるそうです。未信者だったら「それも良いでしょう 」と言えるかもしれません。そうじゃないんです。なんと 、クリスチャンがカウンセリングや預言を求めて、あちこちらこちら 訪れているのです。解決は遠くにあるのではありません 。あなたの内におられる聖霊にあるのです。聖霊はすべての真理に導 き入れ、神さまがおっしゃることを話し、やがて起ころうとすること を示してくださるのです。昔、ディスカバー・ジャパンというのがあ りました。私は、ディスカバー・ホーリースピリットと申し上げたい です。

 テキストにはすばらしいたとえ話が書いてありますので 、引用したいと思います。どのように私たちは聖霊の導きを知るので しょうか?ある日、神様は1つの絵を与えてくれました 。私があなたに私の家の住所を知らせたとします。その住所は正しい けれども、あなたは私の家を発見することが難しいのです。もし 、あなたが注意深くないならば、あなたは間違った情報によって 、誤った道に導かれるでしょう。それでは、あなたが私の家に到着で きる最も良い方法とは何でしょうか?それは簡単です 。もしあなたが、私を車に乗せてくださるなら、あなたは迷うことは ないでしょう。それゆえ、あなたは神様の声を聞いて、 「これは効果的である」と考えた方法で始めないでください 。そうではなく、あなたの「人生の地図」を、あなたの人生の車にお られるイエス様のところに持ってきなさい。もし、私たちがキリスト に焦点をあて、キリストと親しい交わりを持つなら 、私たちは私たちの定められたところに到着できるでしょう 。あなたはだれと人生を共に歩みますか?あなたの車の助手席にキリ ストの霊であられる、聖霊様をお乗せしましょう。あなたの 「人生の地図」を、あなたの人生の車におられる聖霊様にお見せしま しょう。必ずあなたを正しい道へと導いてくださいます 。牧師のところに来たら、聖霊の知恵をいただいて 、ある程度のアドバイスはできるでしょう(たまに相談に来ると嬉し い)。でも、牧師の役割はそうではありません。牧師の真の役割とは 、「今もあなたと共におられる、聖霊様に聞きなさい 」と勧めることであります。

3.聖霊による啓示

 聖霊は私たちをどのように導かれるのでしょうか?テキストには 「霊によって伝達する」と書いてあります。神さまは霊ですから 、私たちが新生したならば、私たちの霊は神さまと伝達しあうことが できるのです。新生とは、霊的に生まれ変わるということです 。生まれつきの人間は、霊的に死んでいますから、神さまのことがわ かりませんし、神さまと語り合うこともできません。しかし 、イエス様を信じると、私たちの心の奥底にある霊が 、目覚めるのです。すると、「神さまはいらっしゃる 。私は天国も行けるし、私は神のこどもである」という確信が与えら れます。さらに、聖書のことばが「本当だ、すごい 」と分かるようになります。賛美やメッセージもより恵まれます 。なぜなら、あなたの霊が生き返ったからです。そして 、あなたの霊に聖霊が、何かを伝達してくださるのです 。聖霊は神さまとのコミュニケーションの霊です。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのない もの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの 。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは 、みなそうである。」これは、肉眼では見たことのないもの、肉声では聞いたことのないも の、心の中に浮かんだことのないものを聖霊が新たに与えるというこ とです。エディ・レオは3つの感覚があるとテキストで述べておりま す。

①霊的な耳を通して。これは「耳が聞いたことのないもの」です 。一般的に、神様は肉体の耳ではなく、霊的な耳によって伝達してく ださいます。神様は普通、1つか2つのことば、多くても3つのこと ばを私たちの霊に与えるということです。あるときエディ ・レオ師の奥さんが、美容室に行きました。鏡を眺めながら 、自分の髪の毛を整えている女の子を見ていました。奥さんは 「主よ、私を通して彼女を祝福してください」と心の中で祈りました 。突然、神様から「拒絶」という、たった1つの言葉を与えられまし た。彼女を見ると、とてもニコニコして幸せそうでした。 「すみません、ちょっと話をしても良いですか。あなたは人生におい ていくつかの拒絶を味わったことがありませんか」。奥さんが 「拒絶」という言った瞬間に、「12歳」という言葉が出てきました 。「あなたは12歳のとき、あなたのお父さんは亡くなりました 。それから、あなたは非常に孤独を感じていましたね 。多くの男性たちから拒絶されました。あなたは人間関係においてい ろいろな失敗があります。あなたは何度も結婚したいと思いながらう まくいかなかったですね。彼女は泣きながら、「はい 」と言いました。そして、その日、彼女はイエス様を受け入れました 。このように、神様は霊的な耳に1つか、2つの言葉を与えて 、伝達してくださいます。

②霊的な目を通して。「目が見たことのないもの」 。神様は私たちの霊に、絵(ピクチャー)もしくは象徴的な言語を与 えます。私は木曜の集会で、葛葉姉に預言のミニストリーをしたこと があります。キラキラ光っている水面が見えました 。後から聞きましたが、葛葉姉はこのように答えました。 「私は川辺に座って祈ったりすることが多いんです。そこが 、気持ちがとってもやすらぐんです。水面がキラキラ光っている川を 見ることが多いんです」。ある女性の牧師のために 、祈ったことがあります。花壇にすずらんが咲いている絵でした 。その方は、まもなくロシア語を学ぶために北海道に行きますと答え ました。このように、パッと浮かぶことを口に出すと 、次のものが見えたりします。

③霊的な感覚(印象)。「人の心に思い浮かんだことのないもの 」です。神様は印象もしくは、霊的な感覚(フィーリング )を与えます。その人の近くに寄ると、けっこう分かります 。もちろん、表情を見て、元気そうだなーとか、悩んでいるなーとい うのは分かります。でも、もっと奥底にあるものを神さまは示してく れます。野澤兄弟(ザチン)は、けっこう鋭くて、隣に座っただけで 「ああ、怒っているのがわかる」なんて言います。私もよくスーパー で買い物をしますが、すれ違うときに、「ああ、この人にはこういう 傷があるなー」と分かるときがあります。レジを打っている人を見る と、「この人はセルフイメージがとても健康だ」とか分かります 。しかし、みなさんいつも霊的アンテナを伸ばしていると疲れます 。ある人は、霊的にとても敏感で、人ごみの中から 、色んな嫌なものを拾う人がいますので気をつけましょう 。必要でないときは、どうぞアンテナをひっこましてください 。最も大切な動機は、「その人を祝福したい、励ましを与えたい 」ということです。私たちがキリストの心をもって 、他者を祝福したいという動機を持っているなら、聖霊は私たちに隠 されているすばらしいことを示してくださいます。

先週は、香港からコーチングのために、ベン・ウォン先生が来られま した。帰り際にこんな話をしてくれました。人を助けるとき 、私たちアジア人はその人の弱さ、悪いところを直そうと考える 。しかし、その人の長所を伸ばすということがより大事である 。その人の弱さや悪いところでなく、良いところに目を向ける 。ポール・ポット(劣等感の塊のような男性がすばらしいオペラを歌 って優勝)のように、その人のうちにダイヤがある。人を育てる 、発展させるというのは1つの芸術である。コーチとしてどのように して人々を発展させていくか、その芸術をマスターしていく 。英語の本で『人々の内にある最善なものを引き出す 』という本がある。中国人はそういう考え方ができない 。子供をしつけるときも「なぜ、おまえはこれをしないんだ 」と子供の悪いところだけを見る。その本には、「その人の中にある 最善なものを引き出すにはどうしたら良いか」が書いてある 。私はこの本を読んで、人を育てるということについて革命的な変化 がもたらされた。多くの人の場合、問題や欠点はその人に一生ついて 回る。私たちは変わってほしいと願うが、おそらく全部は変わらない だろう。私たちは否定的なところを見て、良いところを伸ばそうとし ない。しかし、良い方を高めてあげれば、悪い方もそんなにひどくは ならない。私たちは人を助けようとする余り、悪いところを叱る 。すると、その人の良いところを消してしまう。アジア人は欠点をな おすことに長けている。そうしないように努めても 、ついついそうなる。だから、バランスをとるためには 、できるだけ良い方を見るようにすれば、ちょうど良い 。人を育てるとき、できるたけ良いところを認め、それを引き伸ばし てあげることが大切である。そんなふうに教えてくださいました。

聖霊様はイエス様のような助け主です。イエス様の傍にいた弟子たち は本当にのびのびしていました。聖霊は私たちと共にいて 、私たちを励まし、弁護し、助言を与えてくださいます 。聖霊様が私たちのベスト・カウンセラーであり、ベスト ・コーチであることを覚えましょう。

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2008年4月20日 (日)

神様との会話    Ⅰテサロニケ5:15-22

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」の第三週目を学びたいと思います。「神様との会話」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。祈りとは神様との会話であります。私たちはイエス様を信じた瞬間から、神様との和解が成立しました。神様は天のお父様となり、私たちは子供となったのです。私たちは神様の子供として、何でも、気兼ねなく、お話できるという特権が与えられました。人との電話はbusy、話し中というのがありますが、神様との電話は「話し中」ということがありません。24時間、いつでもopenなのであります。今どきの人たちのほとんどは、携帯電話を持っています。残念ながら、父なる神様に電話する人は稀です。人間と会話はいくらやっても平面的な解決しか与えられません。でも、父なる神様との会話によって、垂直的な、つまり天からの解決が与えられるのです。

1.祈りの継続性

Ⅰテサロニケ5:17に「絶えず祈りなさい」とあります。「絶えず祈れ」とは、どういう意味でしょうか?英語の聖書には、「祈りをやめないで、絶え間なく祈れ」とか「継続的に祈れ」というふうに書いています。絶えず祈るためには、教会の早天祈祷会や水曜祈祷会、徹夜祈祷会もあります。朝のディボ-ションも大切です。私はそれらのことは全部やってきました。でも、日中、仕事場とか家庭では、ほとんど祈りませんでした。なぜなら、「神様は教会堂など、聖い場所にはいらっしゃるけれど、世俗的なところにはいらっしゃらない」と思っていたからです。ある姉妹が、「私は自転車をこぎながら祈っています」と言っていたのを聞いて、びっくりしました。また、ある男性は「私は車を運転しながら祈ります」と言いました。「えー?目をつぶったんじゃ、危ないんじゃないの」と思いました。私たちは「祈りとは、両手を組んで、目をつぶって、祈るものだ」と日曜学校かどこかでおそわっています。もちろん、そういう祈りもあるでしょう。でも、「絶えず祈れ」ということを実行するためには、場所を選んだり、正式な祈りの姿勢を取ることは不可能です。でも心の中で祈るなら、家事をしながら、仕事をしながら、買い物しながら、歩きながら、電車に乗りながら、あるいは人と会話をしながらも祈ることが出来ます。先週、男性は1日に240回、4分毎に誘惑を受けると申し上げました。しかし、それは主を礼拝し、主と交わることのできるすばらしいチャンスでもあります。

イエス様は父なる神様と共に歩みました。父に語りかけ、父を見ることができました。1日に24時間、そうすることができました。みなさんは、「いやいや、イエス様は神様だからね。でも、私のような者がどうしてそのようなことが出来るでしょう」と言うかもしれません。Ⅰヨハネ2:6に「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と書いてあります。イエス様は父なる神様と1つでありました。ヨハネ14:10でイエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」とおっしゃいました。イエス様は父なる神様ととても親密な関係を持っていました。イエス様は父なる神様といつも交わり、父なる神様がおっしゃることを語りました。また、イエス様は、父なる神様がなさるわざを行いました。イエス様はすばらしい愛のお方でした。でも、イエス様はイエス様ご自身の愛を用いたのではありません。イエス様は父なる神様から、無条件の愛をいただいて人々を愛することができたのです。また、イエス様がなさった数々の奇跡もそうであります。イエス様は神様ですから、ご自分の力でやろうと思ったらできたのですが、いつも父なる神様の力でなさいました。イエス・キリストは私たちのために模範となられたのです。それだったら、イエス様がいつも父なる神様と交わっていたように、私たちも父なる神様と親しく交わるべきであります。そうするならば、私たちもイエス様と同じようなことができるんじゃないでしょうか?でも、私たちはイエス様の品性を真似ることはできません。イエス様のように愛の人になろうと努力します。ある人がやってきて「あなたが愛の人になるように、手伝ってあげましょう」と、あなたの片方のほほを「バシッ」と叩きました。あなたは1回はなんとが我慢できるかもしれません。でも、それが2度、3度になると、「いい加減にしろ」と怒って、相手のほほを3倍にして殴り返すんじゃないでしょうか?私たちはイエス様の品性をまねることはできません。でも、イエス様のライフスタイルは真似ることができます。イエス様はいつも父なる神様と親しく交わっていました。いつも、父から聞いて、行動していました。

今から400年前、この原則を適用したクリスチャンがいます。彼の名前はブラザー・ローレンスと言います。彼は、神学者や牧師、偉大な説教者でもありません。彼は王様の邸宅の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は父なる神様と24時間の関係を持つということを実践しました。神様の臨在を実践することを「コランデォー」と言います。ブラザー・ローレンスは料理するときも、神様と会話をしました。「お父さん、感謝します」と、毎日、会話をしました。彼の人生に何が起きたでしょうか。彼は福音を宣べ伝える必要がありませんでした。彼が食事を持ってきて仕えるとき、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。そして、彼は「神の臨在を実践する」という本を書きました。リバイバリストで有名な、チャールズ・フィニーも、彼の本から影響を受けました。チャールズ・フィニーが、どれほど力があるかご存知でしょうか。彼はある工場の操業風景を見るために、工場の中に入っていきました。紡績部門を通っていくと、大勢の若い女工がいるのが見えました。彼女たちは、チャールズ・フィニーを見つめ、何やらそわそわしていました。フィニーが彼女たちに近づくと、ますます落ち着き失ったように見えました。そのうちの一人はとても取り乱してしまったので、糸が切れてしまいました。彼女はそれを直そうとしましたが、手がブルブル震えて直すことができません。フィニーがじっと彼女たちのことを見つめていると、一人またひとりと仕事の手を止め、ひざまずきました。数分のうちに機械はすべて止まり、涙と嘆きの声が工場内に満ちました。後で分かったことですが、その大きな工場で働いていたほとんどの人がキリストに希望を見出したということです。このように、チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜでしょう。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。だから、そんな場所でも主の御顔を仰ぎ、神様との会話を実践しましょう。力強いことが起こると思います。

2.祈りの鍵

 祈るためには、平和な心を持たなければなりません。私は中川の橋を毎日のように渡ります。数日前は雨風が強かったので、川の水はとても波立っていました。でも、天気が良くて風のない日は、鏡のように真平らです。そういう日は、水面に小魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。湖とか海へ行くと、天候によって、水面の変化がもっと激しいです。私たちの心も、この世で暮らしていますと、しぶきが立つくらい荒れるときがあります。そういう時は、祈るなんていうことはとてもできません。先週の金曜日は大雨が降っていました。家内が北千住に用事に出かけました。後から「北千住からだけど、亀有駅に迎えに来て」という電話が来ました。私は車で駅まで迎えに行きました。しかし、いくら待っても来ないんです。あそこのロータリーは車を駐車できないので、少しは停車して、車を動かし、4周くらい回りました。ようやく、家内が顔を見せ、車に乗りました。私は「電車に乗るときに電話したのか、何でこんなに時間がかかるんだ」とカンカンに怒りました。「ああ、今度は亀有駅から着いてから迎えに行こう」と思いました。最近、怒ったことはなかったんですが、久しぶりに怒りました。不当な扱いを受けたので、カチンと来たんですね。私は不当な扱いに弱いんですね。このように、怒りによって、心が波立つときもあります。また、心配事や思い煩いで心が波立つときがあるでしょう。そういうときこそ、祈らなければならないのですが、祈れないのが人間です。

 テキストのP.18にありますが、「私たちが平和な心をもって祈ることができるために、2つの鍵があります」と書いてあります。第一は、私たちのすべての心配を主に手渡すことです。どのようにしてでしょうか?ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ここには、「感謝とともに祈りと願いをささげよ」と書いてあります。感謝ってできないですよね。特にうまくいっていない時には…。テキストには「私たちが感謝をささげるとき、私たちは神様の臨在を感じることができる。感謝は私たちの心を変える」と書いてありました。うまくいっていない状況や環境を見て、不平不満を言うのは簡単です。私などは、問題が起こったときは、自然に不平不満を言うのがに慣れっこになっています。「何でだよー」と叫ばずにはおられません。でも、聖書は「すべてのことを感謝しなさい」「感謝をもって祈りと願いをささげよ」と命じています。なぜでしょう?何の根拠があってでしょうか?それは、神様がそういう状況の中にもおられるからです。そして、全能なる神様が「すべてのことを働かせて、益にしよう」と待ち構えておられるのです。それなのに、私たちが不平不満を言ったり、つぶやくならば、神様は手を引くしかなくなります。そうすると悪いことは悪いまま、問題は相変わらず問題として残るでしょう。でも、私たちが信仰を働かせて、「今、こういう状況でも神様は働いておられます。だから、感謝します。ハレルヤ!」と、告白するならどうでしょうか?心が平安になり、祈りがさらに出てきます。「神様、こういう状況で私は悩んでいます。これがこうして、ああなったのです。でも、神様はどんなことでもおできになります。あなたにゆだねます。」こういうふうにして、神様との会話が進みます。どういう訳か、後から思うと、試練の中にいるときが、真近に神様を体験できるのです。こちらが真剣に神様に求めると、やはり、神様も真剣に答えてくださるということです。感謝には力があることを覚えましょう。どんな力でしょうか?主の臨在をもたらす力です。

第二番目の平和な心を持つ鍵は、積極的なことを考え続けることです。ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」とあります。使徒パウロは、合計8つの良いことに心を留めよと勧めています。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいことです。その次には、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いことです。これで6つです。そして、他に心を留めることとは、徳といわれること、称賛に値することです。合計8個になりました。「心に留める」とは、「頭の中でそういうことを考えよ」ということです。これらの8つは、聖書にありますが、聖書だけではありません。この世の中にも、あります。神様はこの世界を創造されたときに、「良かった、良かった、非常に良かった」と言われました。しかし、アダムとエバが堕落してから、この世界も罪によって汚染されました。しかし、完全ではありませんが、この世界の中に、8つの良きものが宝石のように散りばめられているということです。問題は、私たちの目です。グレーのサングラスで見るなら、何でもグレーに見えてしまいます。つまり、物事を批判的に否定的に見るならば、何を見ても良くありません。もし、私たちが宝石を捜すように、この世界を見るならば、神様の「創造のかけら」を発見することができるのではないでしょうか?未信者の中にも、映画や一般の書物にも、8つの良きものがあります。どうぞ、そういう良きものに心を留めましょう。人が刺されたとか、だれかが不正を働いたというニュースはさらっと聞き流し、もっと良きものに心を留めましょう。そうすれば、心の平安が保たれ、いつでも主と会話をすることができます。

3.祈りの目的

祈りの目的は、私たちの生活を主にご支配していだたくために、神の王国を招くことであります。マタイ6:10「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」とあります。「御国」とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では、バシレイアーと言いますが、「王国」とか「支配」という意味です。もし、私たちの生活に、神の王国、神の支配がやってきたならどうなるでしょうか?エデンの園のように潤い、すべてのものが輝き、命にあふれるでしょう。では、どのようにして神の王国が私たちの人生、私たちがいるところにもたらされるのでしょうか?その答えは、イエス様を招くのであります。イエス様は神の王国の王です。イエス様が来られるならば、神の王国も一緒に来るのであります。私たちはイエス・キリストにあって、どのようなことを経験できるのでしょうか?ピリピ2:1に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と書いてあります。私はこれまで、この御言葉をほとんど気にとめたことがありません。でも、このことがキリストにあって経験する御国、神の王国であるとしたらどうでしょうか?ここには5つの事柄が示されています。励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみです。わあー、私の人生、キリストに出会う前は、こういうものが全くありませんでした。いや、今もこの世にはありません。私も郵便局で少しだけアルバイトをしていますが、「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」ほとんどありません。本当に殺風景です。大体、この世はそういうものです。そういう中で仕事をしていらっしゃる方は本当にご苦労さまです。

でも、みなさん、もし私たちがそういうところに神の国をもたらすことができたら何と幸いでしょうか?考えてみますと、2000年前、イエス・キリストと神の王国が一緒に来ました。イエス様が行くところ、どこにでも人々は、神の王国を体験することができたのです。福音書を見ますと、まさしく人々は「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けました。イエス様は人々を支配というかコントロールしていません。もちろん、時々、命令はしていますが、コントロールではありません。イエス様の「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けた人々はどうなったでしょうか?弟子として、イエス様に従ったのであります。そして、自分もイエス様のように神の王国をもたらす人になりたいと志願したのではないでしょうか?でも、みなさん、それを「教会制度、教会組織」という箱に入れてしまいました。すると、本来あるべき、何がなくなったのでしょうか?それは、ピリピ2:2の内容です。ピリピ2:2「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」まことに、残念ですが、人々が神の王国を「教会制度、教会組織」に置き換えてからどうなったでしょう。一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせる、志を1つにするということが不可能になったのです。教団や教派でライバル心を持ちました。「うちはこういうことを強調し、こういうことに優れている」と分派心を持ちました。相手を自分よりも低いものと見るようになったのです。神の王国は、いわゆる教会に来るのではありません。人々の心の中に来るものなのです。なぜなら人々が教会そのものだからです。

 ですから、私たちは神の王国の民として、教会をとらえるべきです。どうぞ、制度とか組織にしないでください。私たちの内にキリストの支配を歓迎するときに、結果的に、パウロが持っていたような喜びに満たされ、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つになるのです。ですから、神の国は私たちの心に来なければなりません。イエス・キリストを私たちの心に王様として招き入れるのです。そうするならば、私たちの心に神の王国がやってきます。では、心とは何でしょうか?テキストには、「私たちの意思と思いと感情である」と書いています。そうです。私たちの意思と思いと感情をイエス様に明け渡しましょう。そうすれば、イエス様は私たちを豊かな神の王国へと導いてくださるのです。私たちは可能な限り頻繁に「神様、私の意志と、私の思いと、私の感情を導いてください」と言って、これを習慣化させる必要があります。私は25歳でイエス様を信じはしましたが、それまでの古い習慣がまだ、身について残っています。自分の意思、自分の思い、自分の感情を優先させるときがあります。これはやっぱり、意識的に、神様に願う必要があります。箴言3:3-6は、このことを具体的に示しているすばらしいみことばです。箴言3:3-6「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」アーメン。ヨハネ:14に、イエス様は「恵みとまことに満ちておられた」とありますから、まさしく、イエス様を捨ててはなりません。イエス様を首に結び、心の板に書き記すほど、親しく交わるのです。そして、心を尽くして主イエス様に拠り頼むのです。自分の悟りにたらないで、行く所どこにおいても、主イエス様を認めるのです。そうするなら、神の王国、つまり「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ」をもっと体験することができるのです。

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2008年4月13日 (日)

礼拝と想像の刷新   ローマ1:22-28

1.想像の力

想像には大きな力があります。1つ実験をしたいと思います。みなさん、目をつぶってください。ここに新鮮なレモンが1つあります。私は、レモンをまな板にのせました。そして、包丁でまっぷたつに切りました。「ぷーん」となんだか香ってきました。さあ、口を開けてください。私が、半分に切ったレモンをあなたの口まで持っていきます。そして、レモンをぎゅっと絞りました。うぁあー、すっぱい果汁があなたの口に一杯広がりました。どうぞ目を開けてください。単に想像しただけですが、体がすっぱいと反応したでしょう。なぜ、反応したのでしょうか?それは、あなたの想像が、あなたの体の一部だからです。イエス様はマタイ6:22、23でこのようにおっしゃいました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」この目とは何でしょう。エディ・レオ師は「目は想像力のことである」と言いました。もしあなたの目、つまり想像力が健全なら、あなたの全身が明るいでしょう。しかし、あなたの目、つまり想像力が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。あなたは神を礼拝したいでしょうか。それならば、想像力を守らなければなりません。なぜなら、あなたは想像力を働かせて偶像を作り出すことができるからです。あなたの想像力が、あなたの人生を決定していくのです。この想像力は、非常に力強いものです。あなたの想像力が間違っているなら、あなたの体全体が暗くなってしまいます。しかし、あなたの想像力が正しければ、良いものであるなら、あなたの生活は光り輝くものとなるでしょう。

ローマ1章後半には、人間のさまざまな罪が記述されています。情欲と不品行、あらゆる不義と悪とむさぼり、ねたみと殺意と争い…。それらの罪の発端となったものは何でしょう?それらは自分たちが礼拝している想像から始まったのです。ローマ1:22-23「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたち(イメージ)に似た物と代えてしまいました」。本来、人間は想像力を働かせるなら、神を見ることができます。しかし、神を礼拝したくないのです。そして、神のイメージを人間か、あるいは動物のイメージに代えてしまいます。彼ら自身が考えたイメージを礼拝する、これが偶像礼拝です。もし、彼らのイメージが汚れているなら、彼らの体も汚れたもととなります。なぜなら、私たちが想像することが、体のあかりだからです。偶像礼拝の成れの果てが、ローマ1:24です。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」神様が「それなら、どうぞお好きなように」と、汚れに引き渡されるのです。神様が懲らしめをあたえるうちは、まだ希望があります。でも、神様から「好きなようにしなさい」と言われるほど、悲惨なことはありません。27節に行くと、同性愛のことが書かれています。神様は人間が同性愛を行なうことを許されます。この性的な罪はどこから来ているのでしょうか。私たちの想像、イメージから来ています。これら罪に打ち勝ちたいならば、まず、間違ったイメージに打ち勝つ必要があります。

では、使徒パウロはこの教えをどこから得たのでしょうか?おそらく、パウロは、エゼキエル書を参照にしながら書いたと思われます。預言者エゼキエルは、神様からエルサレムの神殿を見せられました。彼は霊によって、壁の穴を通り抜け、中に入ってみました。エゼキエル8:10「私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた」。外側から見ると、神殿はすばらしいものでした。しかし、中に入ってみると、彼はびっくりしました。神殿の中の壁に、様々な偶像が満ちていました。イスラエルの長老たちが、忌みきらうべきことをしていました。彼らは、香をたいて偶像を礼拝していたのです。新約聖書で、使徒パウロは、「私たちの体は神の宮、神殿である」と言いました。テキストにはこのように書かれています。「私たちはみな、神の宮の中に、『想像』と呼ばれる1つの部屋があります。想像の世界は、力強い個人的な世界です。多くの男性は、個人的な想像の部屋を女性の裸やポルノや性的な幻想に満たして、それらを礼拝し続けています。それゆえに、多くの男性は性的な束縛から自由になることができません。多くの男性は自分たちの欲望にしたがって、女性に対するイメージを作っています。女性を映画スターのような顔にして、肌の色や体の線なども作り上げます。そのため、多くの男性は、性的な幻想の束縛やマスターベーションから解放されないまま、長い年月、そのような想像の奴隷となっています。」

わぁー。日曜日の朝、講壇からすごいことが語られています。外側から男性を見ると、「そんなことはないですよ」という顔をしています。しかし、穴を開けて、想像というプライベートな部屋を覗いたらでどうでしょうか?わぁー、壁一面に女性という偶像に満ちています。では、解決法はあるのでしょうか?人間は礼拝する存在です。もし、私たちが心の中に何も入れ替えないで、つまり、主を礼拝することなしに、汚れた想像と戦うならば勝利することは不可能です。汚れた想像が浮かんできたら、ただちに、主を礼拝することにそれを置き換えるのです。

2.想像の転換

 2年前の6月に、インドネシアからエディ・レオが当教会に来られました。そして、このようなメッセージをされました。すべての人間は、自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは私たちの想像です。だれも、他の人は見ることが出来ません。あなたも、私のプライベートな部屋を見ることができません。私もあなたのプライベートな部屋を見ることができません。だれもが、プライベートな部屋な部屋を持っています。そこで神様を礼拝しています。しかし、それと同時に、たくさんの偶像もそこに入っています。そのプライベートな部屋の中に、多くの石像があります。彼らの想像のスクリーンに様々なものが映されています。そして、その絵を楽しんでいます。「おおー」「ああー」「ああー」。様々な絵があります。どんな絵でしょうか。「おー、女性だ」。裸の女性。「ああー」。インターネットで調べていく。「ああー」。そして、自分のイメージの中に入れる。すごく良いコンピューターを持っている。何ギガバイトもある。ペンティアムⅥ。カラフル。サラウンドサウンド。「おおー」「ああー」「おおー」。そして、それを保存する。すべての画像を保存する。それが大好き。だれもがそのようなプライベートな部屋を持っている。そして、それを楽しんでいる。そして、こう言います。「神様はそれを見ていない。神様はここはおられない。どこか外にいる。神様はそれを見ていない。」それが、プライベートな部屋です。そのプライベートな部屋で、私たち男性は、色んなイメージを作ります。私たちは自分の好きな女性たちをそこに作ります。「ああ、私は黒人の女性が好きだ。でも、髪の毛はちょっとアジア系の女性が良い。」「ああ、私はこのモデルが好きだ」。そして、毎日これを拝む。「おお、あなたは何と美しい方だろう。あなたと会えることを嬉しい」。そのように、私たちは様々な想像を作っています。そして、それを拝んでしまう。これが姦淫です。これによって、性的な罪が起こされるのです。不品行は偶像礼拝の1つです。この問題を解決するにはどうしたら良いでしょうか。

これもエディ先生がおっしゃっていたことです。先生はある時、説教をしていました。聞いている人たちにこう尋ねました。「女性たちは、どのくらいの頻度で、性について考えるでしょうか」。ある女性が立ち上がりました。彼女は、「1ヶ月に1回ぐらいです」と答えました。男たちはみんな笑いました。男性にとっては、1ヶ月に1回ではないからです。それは1週間に1回でもない。1日に1回でもない。1時間に1回でもない。男たちが、セックスのことを考えるのはどのくらいの頻度でしょうか。エディ先生は様々な心理学者と話しましたが、これは調査に基づいた結果です。もし、男性が仕事をしないでくつろいでいる時、セックスについてどれだけ考えるでしょうか。1日に240回です。男性は一日に約240回性的な誘惑を受けます。睡眠の8時間を引くと、4分に1回の割合で誘惑を受けることになります。これは必ずしも罪ということではなく、誘惑です。男性はたくさん、こういう誘惑を受けます。女性方は軽蔑するかもしれませんが、男性はこういう存在なんです。朝、目が覚めて、カレンダーを見る。「ああ、奇麗な女性がいる」。トゥウーンー、まず、第一のイメージ。そして、ジョギングをする。ああ、奇麗な娘が通りかかった。トゥウーンー、第二のイメージが生み出される。また、全く女性と関係のないものを見る時も感じる。木を見る。「ああ、何とこの木はセクシーなんだろう」。これが男なのです。何でも見たものから、セックスについて考える。どのようにしてこれを克服できるだろうか。エディ先生は本当にイライラしました。「イエスの御名によって出て行け!」ニューェー(引き出す)。だが、4分たつとピューと入って来る。「イエスの御名によって出て行け!」ニューェー(引き出す)。4分たつとピューと入って来る。だから、イライラしてしまう。そして、敵は私を罪悪感で満ち溢れさせる。「あなたは良い牧師ではない。牧師はそういうことを考えたりはしない。」そのようにして、私を告発する。

しかし、解決はあります。イエス様はマタイによる福音書でこのように言われました。マタイ12:43-45 「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」つまり、こういうことです。「イエスの御名によって出て行け」とやって、汚れた思いが出て行ってもその家が空っぽでした。その家がだれも支配していなかったのです。人間は神様を礼拝する存在として作られました。もし、私たちが本当の神を礼拝しないならば、何か他のものを礼拝してしまいます。だから、24時間、神を礼拝していないならば、そこに真空状態が生まれてしまいます。つまり、家が空っぽの状態と同じです。私たちは神の家です。それを空っぽにしないように。「イエスの御名によって、出て行け!」ニューェー(引き出す)。しかし、空洞が残ってしまう。それではまた入られてしまいます。引き出したと同時に、神様を礼拝するのです。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。しかし、4分後に、また誘惑がやってくる。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。また4分たつと誘惑がやってくる。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。どういうことが起こるでしょうか?するとあなたは、1日に240回、4分毎に、神様を礼拝できる。男性は、女性よりももっと神様を礼拝することができるのです。女性は想像において男性ほど誘惑を受けないので、主をそんなに数多く礼拝することができないのです。ハレルヤ!

3.想像の刷新

最初に「もしあなたの目、つまり想像力が健全なら、あなたの全身が明るい。あなたの想像力が、あなたの人生を決定していく」と申し上げました。まず、申し上げたいことは、私たちは旧約時代の人たちとは違うということです。イスラエルの民は神様と契約を結び、そのとき律法を与えられました。しかし、神様に従うことができませんでした。なぜでしょう。心と思いが新しくなっていない状態では、外からの圧力によって従うことはできません。では、新約時代の恵みとは何でしょう。ヘブル8:10に「私は私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書き付ける」と書いてあります。私たちはイエス様を信じると、聖霊によって新しく生まれます。すると、聖霊が内側から神の律法、神のみこころを語ってくださるのです。私たちの霊の部分に、聖霊が臨在して、そこから私たちの魂に何やら発信してくださる。結構、その声は静か過ぎて、最初は分かりません。でも、クリスチャン生活を続けていくうちに、「ああ、これは神様が私に語っておられるんだなー。これは神様の声だなー」ということが分かります。ヘブル8:10に「思いの中に入れる」とありますが、この「思い」こそが、テレビのブラウン管であり、またスピーカーなんです。「思い」というところに、神様の御声とか、神様のビジョンが、「ピッ、ピッ、ピッー」と浮かんでくる。しかし、「思い」というところに、神様の御声だけではなく、自分の声、悪魔の声、そして人の声までもが、聞こえてくるのです。なぜなら、悪魔も人間も、そして神様も霊だからです。だから、私たちは周波数を聖霊のチャンネルに、合わせ、雑音や雑念を排除していく必要があります。あなたの霊的チューナーは大丈夫ですか?あなたはだれの声に周波数を合わせていますか?人の声ですか?悪魔の声ですか?それとも自分の声ですか? どうぞ、神様の御声にチャンネルを合わせましょう。

14日目のテキストには「あなたは心の内部でだれと語り合いますか」と書いてあります。「ある人たちは、いつも自分自身と会話をしています。これを自分との対話(セルフトーク)と言います。自分との対話はしばしば、過去に源を発しています。それは、過去の罪や失敗、苦々しさ、そして怒りに満ちたものです。もし、私たちが自分との対話を続けるなら、信仰がなくなるでしょう。ある人たちは、最後に自分を誤った道に導くサタンと会話しています。旧約聖書のアサフは、誇り高ぶる者をねたみ、悪者が栄えるのを見ました。アサフは「彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっている。悪者はいつまでも安らかで、富を増しているではないか」と自分自身に言いました。そのためアサフは失望し、もう少しで神様から離れるところでした。しかし、感謝なことに、アサフは神の臨在に入って真実がわかりました。神様ご自身が悪者を滅びに突き落とされるということを悟りました。アサフはこのように悔い改めています。「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。」(詩篇73:22-24)。神様は真実な方ですから、必ず答えをお与えになります。だから、答えを人ではなく、神様に求めてください。イエス様はヨハネ10:3「羊はその声を聞き分けます」とおっしゃいました。アーメン。

想像の刷新のために何をすべきでしょうか?まず、第一にできることは神のみことばを思い巡らすことです。テレビや新聞を見ますと、この世の不正、不条理、悪い出来事にあふれています。やがて、アサフのように「この世には正義がなされていない。神はいないんじゃないか」と疑うようになるでしょう。あなたは何を自分の思いに入れるべきでしょうか?私たちが何よりも優先すべきことは、神のみことばに聞くということです。私たちが聖書を瞑想しながら読むとき、私たちの思いに、つまり想像に神の御声が植えられるのです。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」。アーメン。あなたの心に何を入れますか?コンピューターもそうですが、悪いデーターを入れたら、悪いものが出てきます。汚れたものを入れたら、汚れたものが出てきます。神様のみことばを入れましょう。そうすれば、聖霊様が信仰と希望と愛を内側からあふれさせてくださいます。第二に、想像の刷新のためにできることは、あらゆる問題を通して主を見ることです。民数記13章に書いてありますが、12人の偵察隊がカナンの地から帰ってきて報告しました。「そこは、まことに乳と蜜が流れている。だが、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、そこで巨人のようなアナクの子孫を見た」と言いました。12人は同じものを見てきました。しかし、10人はさらにこう付け加えました。「地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」10人は、問題ばかりを見て、不信仰に陥りました。そして、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」と結論を下しました。10人の偵察隊が失敗したのはなぜでしょう。城壁や巨人、目に見えるものを見続けたからです。しかし、あとの2人、ヨシュアとカレブは違いました。この二人は目を上げて、霊的な領域を見たのです。民数記14:9 「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」アーメン。

使徒パウロは、患難を神の栄光をもたらす機会となるためにどうしたでしょうか?Ⅱコリント4:18「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」私たちはしばしば、ため息をつきながら、「現実はきびしいからな」とつぶやきます。そうではありません。現実よりもまさるものは、目に見えないものです。なぜなら、この世界は神のことばという目に見えないものによって造られたからです。どうぞ、問題や患難に出会ったら、目を上げて、霊的領域を見させていただきましょう。ある朝、エリシャのしもべは、町を囲んでいる敵を見て恐れました。エリシャは「どうぞ、彼の目が開かれるように」と祈りました。目が開かれたしもべは、自分たちと共にいる天使たちが、敵よりもはるかに多いことが分かったのです。神のみことばを心の中にたくわえましょう。そして、どんな問題が起きても、目を上げて、霊的な領域を見る機会にいたしましょう。

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