2015年9月11日 (金)

コア世界観と心の叫び 詩篇18:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.13

 

 前回は過剰反応から、湧き上がってくる考えやイメージを捕えるということを学びました。きょうは、私たちの考えの核となるものを定義して、心の叫びを完了するということを学びたいと思います。今回も、李光雨師の『新しいライフ・ステージ』を借用したいと思います。李先生は時々、当教会の礼拝のブログをご覧になっておられるようです。ひょっとしたら先生からクレームを付けられるかもしれません。私は先生によって癒しと解放を受けましたので、その御恩は一生忘れません。先生からミニストリーを受けたい方は、青山でやっていますので直接お申込みください。PRを兼ねたメッセージになっていますので、きっと許して下さると思います。



1.コア世界観と心の叫び



 考えの中核を占めている部分を「コア世界観」と呼ぶことにします。丸屋真也先生は、核信念、core beliefと呼んでいます。日常でも、「信念」という言葉を使うときがあるでしょう。人の心の中には、確固たる信念、揺るぎなき不動の信念みたいなものがあるのではないでしょうか?心理学者が「核信念」と言うとき、潜在意識の中に隠れているものを指すのではないかと思います。心理学者は「その人を突き動かしているものというのは、無意識の中にある」と言います。李先生はこのことを「コア世界観」と呼んでいますので、こちらの方を採用したいと思います。図を見るとわかりますが、私たちが過剰反応しているとき、湧き上がってくる考えがあります。それを認知もしくは世界観と呼んでいます。過剰反応ダイヤリーをつけていると、共通したテーマが見えてくるはずです。たとえば、「人から評価されないと自分の世界が壊れる」というのは、傷ついたセルフイメージがあるということです。ある人は「自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させている」と言うかもしれません。その人は、支配されることへの恐れや怒りがあるかもしれません。しかし、それらの湧き上がってくる考えをさらに、深めていくとコア世界観にたどり着きます。つまり、コア世界観から、考えや認識やイメージが出ているんだということです。さっきの、「人から評価されないと自分の世界が壊れる」というのは、他者評価というものがとても重要なポジションを占めているからです。おそらく、その人のコア世界観は「自分の世界は弱い、脆弱だから他者から評価を受けて世界を強くしなければならない」というものでしょう。李光雨先生は、コア世界観を定義することの天才であります。私も何年もそばにいて、その秘訣を盗もうとしました。しかし、それは職人技というか賜物であり、私には無理だということが分かりました。でも、認知行動療法はその人との共同作業で行われます。その人に「もしかしたら、こういうことでしょうか」と聞いて行くと、その人が最もしっくりくるコア世界観を定義してくれます。だから、私でも大丈夫だと言うことが分かりました。



 コア世界観を見つけ出すために、とても重要な手段は「心の叫び」であります。心の叫びが分かれば、コア世界観が分かります。丸屋真也先生は、これを「セルフトーク」と呼んでいます。丸屋師は「自動思考の中にセルフトーク」があるとおっしゃっています。セルフトークというのは自分自身に語っていることばです。「ああ、どうして私はグズなんだろう。もっと、早めにすべきだった」「あの人は、いつも批判的だ」「いつも、私は損をしている」「誰も、私のことをわかっちゃくれない」「最後に頼れるのは自分だ」。つぶやきみたいですけど、ボソボソと出て来る時はないでしょうか?私は、その人の話を30分くらい聞いていると、「この人の心の叫びはこういうことかな?」分かって来ます。だれでもそうですが、形を変えて、繰り返し出て来るのが心の叫びです。そこには、恐れや怒りの感情も伴います。しかし、難しいのは問題を認めない人、否認をしている人です。おそらく、その人はカウンセリングも受けたくないし、変わりたくもない人です。カウンセリングが万能でないのは、そういうところにあります。「癒されたい、変わりたい」という人であるなら、認知行動療法はすばらしい手法だと思います。マタイ5章に「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」と書いてあるのは、そのためです。



 テキストにはこのように書かれています。「心の叫び」というのは、見つけ出すのはそんなに難しいことではありません。なぜかと言うと、同じことを繰り返し言っているからです。言語として同じと言うよりも、メッセージが同じなのです。「自分の世界を壊すな!」「そんな勝手なことをするな!」「お前のせいで、自分の世界がむちゃくちゃになったんだ」などです。だれかが、理不尽に自分の世界を壊した。理不尽に自分勝手に壊していくということです。私自身は「認めてよ!」「それで良いと言ってよ!」と叫んでいる。このチャートで言いたいのは、社会生活、日常生活のいろんな部署との(人間)関係の中で、その人たちに対して過剰反応をするときには、「共通のメッセージを受け取っている」ということです。Aさん、Bさん、Cさん、相手が違っても、彼らからこちらが過剰反応を引き出されるメッセージは同じなのです。また、Kさんのパターンとしては「自分勝手に振舞う人」です。自分勝手に振舞う昔の牧師Aさん、今の牧師Bさんがいます。そういう人たちから「身勝手な自己中心的な振る舞い」メッセージやストロークを受けたときに、「そんな身勝手なことをするな!」という心の叫びがわいてきます。だから、だれかの心の叫びを見極めるのはそんなに難しいことではありません。共通してその人が発しているメッセージを見つけるということが大事です。



 コア世界観から心の叫びが出て来るということです。コア世界観は見えません。しかし、心の叫びはわかります。ですから、「心の叫びがこうなんだ」と分かれば、コア世界観もおのずとわかってくるということです。エリヤハウスでは「根っこをたどる」というテーマで学びました。ですから、私たちのやっていることは発掘調査に似ています。あれも出てきた、これも出て来た。それを分類し、「何が本体なのだろうか?何がこの人にこのような心の叫びをさせているのだろう?」ということを探検していくということです。そして、ゴールは「神さまはこの人にどのような計画を持っているのか?このような負の遺産を神さまはどのような宝物にしようと考えておられるのか?」ということです。過去の出来事を探りますが、それと同時に、神さまはどうして、このような辛い目に会せることを許したのだろうか?神さまは癒しと同時に、どのような逆転勝利を考えておられるのだろうか?このことが、ミニストリーのゴールなのです。この世の心療内科やカウンセリングは社会復帰がゴールです。だけど私たちは「せっかく世界が壊れるような経験をしたのだから、今度は神さまが持っておられるご計画を知って、それに向かって生きるべきではないか?」というところまで行きたいのです。怪我の功名?転んでもただでは起きない、ということでしょうか?



2.心の叫びを明確化する



人の心の叫びを明確にすることはそんなに難しくありません。李光雨師は、私たちが置かれた特定の状況をステージとか舞台と呼んでいます。怨念晴らしをする敵役がいて、怨念晴らしを受ける私がいます。敵役を助ける脇役もいるかもしれません。私はあるステージに引っ張り込まれました。そこには私の世界を壊してくれる敵役がいます。敵役はステージで繰り返し、心の叫びを私にぶっつけてきます。さて、舞台が終わりに近づき、スポットライトが当たります。舞台では最後の決め台詞というのがあります。クライマックスの時に出て来る決め台詞です。敵役が私に決め台詞を言った後、幕がバーッと降りて舞台は終わります。私たちの人生において、決め台詞を吐いた後、私たちのもとを去った人はいないでしょうか?あるいは、自分が吐いて立ち去ったという、逆のケースもあるかもしれません。さて、心の叫びとはステージ、つまり舞台のクライマックスで吐く決め台詞です。李光雨師はこのように教えておられます。セルフイメージの人は、セルフイメージの人の叫びのパターンがあります。不安な人は、不安な人の叫びがあります。人に対して悪口を言う人は、基本的には駄目メッセージがあります。人に駄目を出しています。結局は自分自身が駄目メッセージをどこかで受けている可能性があるのです。不安とか怒りは、自分に駄目を出すような理不尽な力を目の前にすると不安になります。あるいはそういう人に対して怒りを現します。そうすると、成育史の中で、大体、親との関係の中で、セフルイメージをゆがめられるエピソードがあるはずです。そこまで分かった上で話を聞くと、相手の世界が分かり易くなります。心の叫びは大体ワンフレーズ「○○○○○」。心の叫びは世界観とパラレル(並行しています)です。全くイコールではありませんが、コア世界観が心の叫びを生み出し、心の叫びがコア世界観を表現しているのです。



 「心の叫びの明確化チャート」というのがあります。その表を見ますと、実際の当事者という人が、A、B、C、Dと4人もいます。これはどういう意味でしょう?彼らは私たちが日常、触れている人たちです。おそらく家族のだれか、会社のだれか、教会のだれか、地域社会のだれかということになります。それぞれ過剰反応が引き出されるメッセージがあります。しかし、それぞれ相手は違っていても、共通した「心の叫び」があります。なぜなら、あなた自身のコア世界観から出ているからです。テキストには「ある姉妹のケース」が記されています。1つのケースとして理解してください。職場で、周りの人たちは仕事を全然やってくれません。自分だけが損な役割をしています。彼女が中学生ぐらいのとき、お母さんが鬱になって、家のことを全部自分がしなければなりませんでした。下に弟が二人いましたが、何もやりません。自分だけがやります。職場では何もやらない上司がいて、「あなたがやって下さいよ」という人たちが周りに一杯いました。同じことを繰り返していました。心の叫びは何でしょう?「私だけにやらせないでよ!」「私にだけ押し付けないでよ!」「私のやっていることを認めてよ!」「私がどれだけ自分を犠牲にしているか分かってよ!」です。そのベースになっているコア世界観は、たぶん、「自分が犠牲を払わないと世界が壊れる」ということです。自分を差し出さないと(貢がないと)世界が壊れるのです。その人に「責任感があって良い子だ」と言うと本人を追い詰めてしまいます。そういう励ましは解決にはなりません。基本的にコア世界観を変えていく作業のゴールは、「あなたが貢がなくても世界は壊れない」ということです。行動原理としては、「自分がしっかりやらないといけない。自分はもう、一生懸命頑張らなければならない」です。どんな状況の中でも頑張らなければいけないという行動原理があります。行くつく先は、抑うつか、脅迫観念です。脅迫観念は世界(秩序)を壊さないために(守るために)、秩序立てます。それを崩されると世界が壊れるのです。たとえば牧師夫人になったりすると、とってもカチ、カチ、カチとやるタイプです。心の叫びの見方は、共通なメッセージを受けたときに、同じ叫びを叫んでいます。それはコア世界観と表裏一体の関係になっています。コア世界観から心の叫びが生まれてくるのです。心の叫びを分かるとコア世界観が見えてきます。



 このところで何度か、「貢(みつぎ、みつぐ)」ということばが出て来ました。これも、李光雨師のうがった表現かもしれません。貢というのは1つの埋め合わせ・解決・対処行動や考えです。本来、悪循環のパターンに対してコア世界観を変える必要があります。ところがこの人は、自分の世界が壊れないように、自分を差し出すのです。謝ったり、仕えたり、贈り物をして、「これ以上、私をいじめないでね!」と言っているのです。埋め合わせ・解決・対処行動はクリスチャンもしています。奉仕や祈り、悔い改め、神さまご自身もその対象になります。一生懸命奉仕をしている、しかし、それが埋め合わせ・解決・対処行動だったら悲しいですね。私たちは本来、恵みによって救われているはずです。自分の世界が壊れないために、一生懸命やるのは辛いです。とにかく、自分と向き合い、「心の叫び」は、どうなんだと正直になることです。私は不当な扱いを受けて育ってきたので、「ちくしょう、何でだよ!」と叫んでいました。しかし、それは「私の言い分を聞いてほしい。私のことを弁護してもらいたい」でありました。ここ数か月で、22年間分のビデオ、DVDをやっと整理しました。チェックの途中、今から10年前のある週の礼拝説教を聞きました。武道館の宣教大会の分科会で「弟子訓練」の話をしてくれという依頼がありました。「よーし、ついに私が…」と思いました。ところが、土曜日の夕方、私の留守中に家内が事務局から電話を取りました。「他の人にやってもらうことになったので、今回は結構です」ということでした。その時、明日のメッセージができていませんでした。悔しさも手伝って悶々となり夜中の2時になってもできません。結論が書けないのです。おそらく、椅子の前にひざまずいて祈ったのだと思います。「何で、俺じゃだめなんだ。決まっていたのにひどいじゃないか!」。ぐっとくやしさを噛み殺しで、しばらくうずくまっていました。突然、「私もそう思うよ」という声が聞こえました。私は「え?」と驚きました。続いて「お前に、話してもらいたかったよ」と言われました。イエス様の声です!私はそこで大泣きしました。その証を「恥ずかしながら」と、礼拝説教の結論で話していました。私はそのことをすっかり忘れていました。家内に聞いたら、「ああ、そんなことあったわねー」と言いました。まさしく、私は不当な扱いを受けて、「何でだよ!ひどいじゃないか」と叫んだのです。でも、イエス様は私の叫びというか、訴えを聞いてくださっていたんですね。



3.コア世界観を定義する



心の叫びが分かったなら、コア世界観を定義することはとても簡単です。たとえば、人が言うことをなかなか聞いてくれないとします。その時、声を荒げて威嚇するかもしれません。それができないと、関係を遮断してひきこもるかもしれません。その人の世界観は「人はコントロールできない」というものです。そして、心の叫びは「私の言うことを聞いてくれ」であります。この人は世界をコントロールするために自分を犠牲にして頑張っています。ある牧師は、教会では秩序が大切だと言います。いろんな規則があって、規則を守らない場合は戒規まで決められています。おそらくこの牧師は、「私の心は脆弱で、秩序どおりなっていないと世界が壊れる」であります。こういう人はドンキホーテというお店に入れません。品物が本当に無秩序に並べられているからです。保育士や学校の先生も無理かもしれません。大体、子どもたちは言うことを聞きません。「言うことをいかない子どもがいても、私の世界が壊れない」だったら、良いですね。つまり、人をコントロールしたがる人は、逆にちゃんとコントロールできていないと世界が壊れるというコア世界観を持っているからでしょう。



また、ある人は、子どものときいじめられた経験がありました。大人になっても、目の前に攻撃的な人がいると、対処できなくなります。そして、パニック、不安、恐怖が起きて来ます。会社に行けない、電車に乗れないというふうになります。もし、この人がクリスチャンならば、「神さまが自分を守ってくださる」「神さまがいるから乗り越えられる」と考えたり、祈ったりするかもしれません。しかし、それは埋め合わせ対処行動であり、根本的な解決になっていません。その人の考え、コア世界観を変えなければなりません。そうでないとこの人は、人から祈ってもらったり、励ましてもらわなければ生きていけません。牧師も友人も、励まし手となって資源を供給する人になります。では、心の叫びは「私をそんなにいじめないで」であります。では、この人のコア世界観は何でしょう?「私の心は脆弱で、無力で、自己中心的な振る舞いに対抗できない」であります。



私が李先生のケースを聞いていて、一番、多かったコア世界観はこれです。「自己中心的な、身勝手な振る舞いによって私の世界が壊れる」であります。しかも、この人は「自分の心は弱い、脆弱だ」と思っています。生育史の中で、父親もしくは母親か、親しい人から理不尽な扱いをうけました。そのときの理不尽な言葉や行為によって自分のバリヤーが壊れてしまったのです。そのとき怒りや無力感、悲しみを覚えたかもしれません。その人がやがて大きくなって大人になりました。周りの人たちがみんな親切で思いやりがあるかというとそうでもありません。やっぱり、自己中心的で身勝手な人がいるものです。どういうわけか、会社や教会に一人や二人いるものです。その人がここはいやだと思って、別の会社、別の教会に移ってもやっぱり、自分をいじめてくれる人がいます。そのとき、環境のせいにしないで、「もしかしたら私の世界観が問題なのかな?」「私の考え方がゆがんでいるのかな?」と気づくことができたら幸いです。そうしないとその人はいつも、心の中で怒っていたり、あるいはどうしたらこういう人から避けられるか気をもむことになるでしょう。もう、フラストレーションのかたまりになります。そうではなく、「ああ、子どものときと同じ、ステージになっているんだ」と気づくべきです。ただ、相手役が違っただけなのです。でも、共通したテーマがあるはずです。「私の心は脆弱で、身勝手な振る舞いをする人によって世界が壊れる」であります。



では、この人の癒しと解放は何なのでしょうか?別なコア世界観に取り替えれば良いのです。「私の心は強いので、たとい身勝手な振る舞いをする人がいても壊れない」であります。また、ある人はセフルイメージに問題があります。その人のコア世界観は「人から評価されないと私の世界は壊れる」でありました。その人は、自分を修練してもっとうまくやろうと努力していました。でも、落ち込みや、よく鬱、無力感に悩まされていました。健全なコア世界観とは何なのでしょうか?「私には価値があるので、人から評価されなくても私の世界は壊れない」です。この人は、「あなたは神の作品である。あなたは私の目で高価で尊いよ」と言われた神さまの愛と出会った人です。でも、多くのクリスチャンは、神さまの愛に出会ったつもりで生きています。頭では「私は愛される価値がある」と思っていても、コア世界観が変わっていないので、愛される価値の人になろうと必死に頑張っています。今のままでは、愛される価値がないんだと考えているのです。イエス・キリストはあなたが価値があるので、身代わりに十字架で死なれたのです。あるクリスチャンは愛を得るために、もっとがんばらなければならないと思っています。私たちのバリヤーは自分の業績や立場ではありません。神さまの絶対的で無条件の愛こそが、私たちのバリヤーです。主は私たちの心の叫びを聞いてくださいます。詩篇186「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」

 

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2013年6月30日 (日)

悪者からの救い       詩篇17:6-15

 この世には罪があり、その背後では悪魔が働いています。私たちはクリスチャンになったからと言って、自動的に守られるわけではありません。誘惑に負けたり、災いが降りかかってきたりもします。あんまり恐れ過ぎてもいけませんが、平和ぼけして、無防備な生活を送るのもよくありません。田舎に行くと鍵をかけていない家がたくさんあるようです。都会では、みんな悪い人に見えるので、いろんなセキュリティがあるようです。私たちは神の愛に満たされて、多くの人たちと、親しい関係を持つことも大切です。しかし、同時に、この世には、悪い人たちもいることも確かです。聖書を見ますと、いろんな戦いが記されています。正しい人が悪者によって苦しめられるという記事がたくさんあります。聖書は私たちに、そのための教訓と信仰を与えてくれるすばらしい書物です。


1.悪者に対する考え方

 ダビデは次期の王様になるための油注ぎを既に受けていました。ダビデはペリシテ人を倒して、国と王様のために尽くしました。しかし、サウル王はダビデを妬んで、槍で、幾度も刺し殺そうとしました。ダビデはサウルを恐れて、荒野に逃れました。サウルは家来と一緒に、何度も、ダビデの命を奪おうとして追いかけました。ダビデは洞窟や岩場の影に隠れながら、逃亡生活を余儀なくされました。詩篇には「ダビデ」の名前がついているものがたくさんあります。その中で、ダビデが敵に囲まれ、神さまに助けを求めて祈っているものが多数あります。この17篇もその1つです。詩篇17:8-9「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」背景はよくわかりませんが、ダビデのまわりには、悪者や敵が大勢いたことは確かです。私たちの生活においてはどうでしょうか?「悪者」という表現はしないかもしれませんが、そのような人がいるでしょう。たとえば、女性が夜道を一人歩くのは危険です。男性は家を出ると7人の敵がいると言われています。家の中にいても、「戸締り用心、火の用心」のごとく、気を付ける必要があります。私たちのまわりには、悪者とは言えないまでも、敵対する人が必ずいるものです。政治では、「政敵」というのが存在します。主義主張が異なる「論敵」と言うのもいるでしょう。ビジネスではライバル会社と敵対するときがあります。自動車でも家電でも、あるいは携帯電話でも、シェアーを奪い合っています。家に入ると、嫁と姑の「確執」というものがあるでしょう。教会でも牧師と役員との間で意見が食い違うことがあります。

 私が言いたいことは、「この世においては、悪者や敵対する人が必ずいるものだ」ということです。ある人は「私はすべての人を愛します。私には敵対する人は一人もいません」と言うかもしれません。でも、イエス様はどうだったでしょうか?イエス様には罪がありませんでした。みことばを教え、福音を宣べ伝え、人々の病を癒し、良いことをたくさんしました。では、イエス様に敵対する者、いわゆる悪者がいなかったでしょうか?大勢いました。特に、宗教に携わっている人たち、パリサイ人、律法学者、長老、祭司長が、イエス様を捕えて殺そうとしました。なぜなら、自分たちの名誉や権利を失うことを恐れたからです。やがては、イエス様を捕えて十字架につけました。使徒パウロはどうでしょうか?パウロは異邦人に伝道するために、小アジア、ギリシャ、そしてローマに渡りました。しかし、どこの場所でも、ユダヤ人の妨害にあいました。彼らはパウロを捕えて、打ち叩き、投獄しました。パウロはⅡコリントで自分がどれだけ苦しんだか、書き記しています。Ⅱコリント11:25-26「むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い」とあります。この中には、自然災害もありますが、人的なものも含まれています。神さまが、なぜ、こんな目に合わせるのでしょうか?神さまのために働いているのに、ひどい感じがします。それでも、パウロには、主の守りがあることは確かです。イエス様も使徒パウロにも、悪い者、あるいは敵対する者たちがいました。ということは、私たちにもそういう人たちが常にいるということです。

 しかし、私がここで申し上げたいことは、「白か黒」というふうに極端なとらえ方をしてはいけないということです。東山の金さんや大岡越前、あるいは水戸黄門を見ると、善人と悪人がはっきり分けられています。ある人たちは、「この人は良い人だ」「この人は悪い人だ」と分けてしまいます。また、ある人たちは、「この人は味方だ」「この人は敵だ」と分けてしまいます。しかし、そういうふうに分けると、正しい人間関係を持つことが難しくなります。何か1つあると、「今までは味方だと思ったのに、裏切られた。この人は敵だ。悪い人だ」となってしまうからです。カインは城壁のある町を作りましたが、城壁だと、「敵か味方か」というふうになります。それよりも、境界線を設ける方が良いと思います。境界線とは、ドアのようなものであり、開け閉めが可能で、内側から鍵をかけることもできます。また、境界線は、時間や距離でもあります。お互いが緊張関係にある場合は、時間や距離を取ることが良いでしょう。アメリカなどでは警戒レベルを1、2、3、4、5と分けたりします。人畜無害な人をゼロとするならば、レベル1は「考えや好みが、ちょっと合わないかな?」という程度の人です。中間を省略して、最後のレベル5は「持ち物や人権が奪われる。危害が加えられ命の危険がある人です」。これと反対に、好意レベルを1、2、3、4、5に分けることも可能です。教会で、「そういう枠組みをして良いのか?みんな兄弟姉妹だろう」と、批判する方もおられるかもしれません。教会は神の家族ではありますが、一遍に親しくなることはできません。互いに境界線を持ちながら、信頼関係を深めていくと、好意レベルが1,2.3,4,5と上がっていくのではないでしょうか?

 使徒パウロは何と言っているでしょうか?ローマ12:17「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」パウロは、悪があることを前提にしながら、「すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と命じています。そして、悪いことをされて、復讐したくなるようなこともあるということです。だから、パウロは「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐は神さまがする、神さまが報いをするから」と言っているのです。躓くかもしれませんが、教会はパラダイスではありません。また、私たちはだれとでも平和に過ごし、だれとでも愛し合うことはできないのです。しかし、そのことをあらかじめ知っておくなら、「善人が悪人か」「敵か味方か」、という極端な分け方をしなくなります。こういう「白か黒か」という考えが、人間関係を狭くしていくのです。そうではなく、ある程度の境界線を持ちながら、信頼関係を築いていくことが重要なのではないかと思います。

聖書におけるイスラエルのぶどう園はどのようなものでしょうか。ぶどう園を荒らすのは、キツネです。向こうのぶどうは、日本のものよりも棚が低いからでしょう。また、ぶどうを盗む悪い輩もいたことでしょう。イエス様のたとえ話では、ぶどう園の小作人が収穫の一部を納めないばかりか、使いに来たしもべや息子を殺したというものもあります。ですから、ぶどう園の所有者は悪い者からぶどう園を守らなければなりません。また、ぶどう園の端っこには、いちじくの木を植えました。「ここが境目だよ」という目印です。ぶどう園にはぶどうが植えてあるのですが、外側にはすっぱいぶどうを植えておきます。だれかが、ぶどう園のぶどうを盗み食いするとします。その人は「ああ、このぶどう園のぶどうはすっぱいぞ」と盗むのを諦めます。しかし、ぶどう園の中側に入り込んでいくと、甘いぶどうがなっているそうです。同じように、良い人間関係は一夜にしてできるものではなく、外側から内側へと時間と努力が必要だということです。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」と言われました。もし、ぶどう園を教会に置き換えるならばどうなるでしょう?私たち一人ひとりは、ぶどうの木であるイエス様につがなる必要があります。イエス様につながらないでは、実を結ぶことができないからです。では、一体だれが、ぶどう園をさばくのでしょうか?父なる神さまです。ヨハネ15:2「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ヨハネ15:6 「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」父なる神さまが善悪をさばくお方であるということです。父なる神さまが、枝を取り除いたり、刈り込みをなさいます。また、父なる神さまがイエス様にとどまっていない枝を集めて、火に投げ込ませるのです。私たちがなすべきことは何でしょうか?私たちは父なる神さまにさばきをゆだねつつ、ひたすらキリストにとどまるのです。そうすれば、豊かな実を結ぶことができるのです。アーメン。


2.悪者からの救い

 聖書には、いろいろな救いについて書かれています。「悪者からの救い」というテーマがあっても良いと思います。前半のポイントでも言いましたが、この世においては、悪者は必ずいるものです。テレビや新聞で、強盗や殺人、詐欺や恐喝というニュースが絶えません。北朝鮮に子どもが拉致されて長い間、苦しんでいる人たちもいます。クリスチャンは、できるだけ善を行い、だれとでも平和に過ごそうと努力しなければなりません。しかし、パウロはⅡテモテ3章で、「終わりの時代には困難な時代がやってくることを承知しておきなさい」と注意しています。「情け知らずの者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が」出てくると警告しています。ご存じのように、犯罪率や残酷な事件は年々増しています。それは、終わりの時代に入っているからです。ですから、主の祈りで、「私たちを悪からお救いください」祈るように言われているのはそのためです。主の祈りの「悪」とは、まさしく「悪しき者」という意味です。悪とは、非人格的なものではありません。背後には悪しき者である、悪魔がいるということを示唆しています。悪魔が肉的な人を用いて、悪いことを助長させるのです。つまり、ある人が悪い思いを心に抱いているとします。そこへ悪魔がやって来て、その人をけしかけ、悪いことをさせるのです。クリスチャンはこの世に住んでいるので、悪い者たちから身を守っていかなればなりません。では、どのように私たちは悪い者たちから自分たちを守ることができるのでしょうか?3つのポイントでお話ししたいと思います。

 第一は、神さまと正しい関係を常に持っているということです。旧約聖書を見るとわかりますが、イスラエルは小国であり、大国に囲まれていました。南はエジプト、北にはアッシリアやババビロンが控えていました。また、隣国からの侵略が常にありました。ダビデの時代はペリシテ人がいました。その後のユダの時代は、アラム、モアブ、エドム、北イスラエルが度々侵略してきました。しかし、聖書を見ると、彼らが神さまを恐れ、正しいことを行っているときは、国が平安に保たれています。しかし、偶像礼拝をしたり、律法に反することをしていると、敵が侵入し、国土が荒らされます。それは、国レベルでもいえますが、個人の生活にもいえることです。ですから、私たちは悪者から守られることを求める前に、まず、神さまと正しい関係が持つことが必要です。ダビデは神さまをどのように呼んでいるでしょうか?ダビデは神さまを「あなた」と呼んでいます。「私とあなた」の関係です。ダビデは神を敬い、心から愛していました。神さまもダビデを愛していました。新約聖書において、私たちはどうでしょうか?ある人たちの祈りは、形式ばって、神さまがとても遠い存在のように思えます。私たちはイエス・キリストの贖いによって、神さまを「アバ、父よ」と呼べる存在になりました。ですから、本当に気兼ねなく、大胆に神さまのふところに飛び込むことができるのです。イエス様はヨハネ10章でこのように約束しておられます。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」イエス様が羊である私たちを悪しき者から守ってくださり、豊かな命を与えると約束してくださいます。

 第二は神さまに祈り求めるということです。ダビデは何と祈っているでしょうか?詩篇17:8-9 「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」ダビデはとても強い武将でした。どんな敵と戦っても、勝利してきました。しかし、ここでは神さまに、ひたすら助けを求めています。本当に強い人というのは、自分の限界を知っている人です。ダビデは主が共にいてくれたので、これまで勝利することができたことを知っていました。いわゆる慢心になると、とても危ないです。イエス様が「『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』と祈りなさい」と、教えてくださいました。ということは、私たちは日々、神さまの守りをいただかないと生きてゆけないということです。なぜでしょう?Ⅰペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。教会では、悪魔は牧師を狙います。牧師が倒れたら、教会員も影響されて信仰を失うからです。悪魔はいろんな人を用いて、牧師が罪を犯すように誘惑することも確かです。また、いろんな訴訟問題を起こして、精神的なダメージを与えてきます。最後に、うつ病になったり、燃え尽きを起こして辞職せざるを得なくなります。牧師だけかと言うと、教会員もそうです。洗礼を受けてから半分くらいの人たちが、教会を去っていきます。その人たち全員が信仰を失ったということではないでしょう。でも、罪の誘惑や試練に負けて、勝利がないかもしれません。とにかく、悪魔は肉的な人を用いて、私たち信仰者を攻撃してくるということは確かです。本当に今は、歩道を歩いていても危ない時代です。「振り込め詐欺にかかる人は馬鹿なだー」と思うかもしれませんが、いつ被害にあうか分かりません。テレビのニュースではありませんが、何かの事件にまきこまれるかもしれません。だから、「身を慎み、目をさましていなさい」のごとく、日々、祈る必要があります。

 第三は悪者には近づかないということです。詩篇17:12-13「彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。」悪者が私たちを引き裂こうとねらっています。あるいは待ち伏せをしています。私たちが悪者の罠にかかって、やられることもありえるということです。前のポイントで警戒レベルを1、2、3、4、5と分けることをお勧めしました。「敵か味方か」という分け方はあまり役には立ちません。なぜなら、「羊の皮を着た狼」のごとく、本当の悪者ほど、始めから「悪い」という外見をしていないからです。それよりも、境界線という概念を持つことが役に立ちます。たとえば、「この人とはどのくらいの距離を置くべきだろうか?」と考えながら関わります。ある人は、「この人には大事なものは与えてはいけない」「この人とはあまり近づかない方が良い」と思えるかもしれません。イエス様は福音書で偽預言者かどうかわかる方法を教えてくださいました。マタイ7:16-17「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」実というのは、その人の生活ぶりとか、行っていることの結果です。いくら口でうまいことを言っていても、生活において悪い実を結んでいるなら、要注意です。良い実と悪い実は、私たちが持つべき境界線と関係してきます。警戒レベルの4,5、つまり、危険な人はどうしたら良いでしょうか?これは「怨念晴らし」を避ける方法と良く似ています。悪者というのは、何かの理由をつけて、自分の怒りをぶちまけてきます。小さな事故やトラブルが事件に発展することはよくあります。つまり、彼らは、私たちを彼らのステージに引き込もうとしているのです。「出てこいや!」とけしかけてきます。こちらの方も、「ここで引き下がったら男がすたる。なめられたらいけない」と相手役を引き受けます。そして、自分の怒りを相手にぶつけます。気が付いたら、修羅場になっていたということがよくあります。ですから、相手のステージに乗らないように注意しましょう。相手にしないで、その場を逃げ去るということも、恥にはならないということです。

 ダビデは悪者や多くの敵から囲まれ、恐れおののいて生きていたのでしょうか?詩篇23篇にはこのようなことが書かれています。詩篇23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」ダビデは敵が前にいても、ゆっくり食事をすることができました。頭に油を注ぐとは、身だしなみのことですが、女性でいうとお化粧をするということです。普通だったら神経がまいってしまうところですが、なんという余裕でしょうか?私たちもこの世においては災難やトラブルに巻き込まれる可能性があります。戦いがないわけではありません。でも、主が共にいるならば、どんな状況の中にあっても、ご飯を食べ、身なりを整えることができます。しかも、「私の杯はあふれています」とは、すごいです。これは、お酒ということかもしれませんが、受けるべき祝福とも取ることができます。ハレルヤ!環境や状況によるのではなく、主が共にいるなら、どんな時でも、祝福があふれるという約束です。どうか、悪者や敵よりも強い、主を見上げ、主の守りの中で、日々、過ごさせていただきたいと思います。最後に、詩篇17:15 をお読みいたします。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」ハレルヤ!このように毎日、目覚めたいと思います。




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2013年6月 2日 (日)

不安と恐れに打ち勝つ     詩篇91:1-16 

 大川牧師が書かれた『あなたにも夜がある』という本があります。その中に、夜泣きをする赤ん坊のことが書かれています。ピーター・バーガーという学者が「なぜ、赤ん坊が夜泣きをするのか?それは、これから大きくなるにつれて、体験する様々な恐怖を本能的にキャッチして泣いているんだ」と言いました。赤ん坊が夜泣きをすると「お母さんがついているから大丈夫よ」と言ってあやします。しかし、最近は、お父さんの方が、「お父さんがついているから大丈夫だよ」とあやします。しかし、この子は、これからいろんな病気や事故と戦わなければなりません。学校へ入れば、いじめがあるし、受験戦争があります。病気や怪我、交通事故など、さまざまな危険があるでしょう。お母さんがついていても、お父さんがついていても、大丈夫でないことは彼らが一番知っています。きょう取り上げる不安と恐れは、誰にでもやってくる否定的な感情です。


1.不安と恐れの障害

 少し前までは、「不安症」とか「神経症」でひとくくりにしていました。しかし、現代の精神科医は、もっと細かく分類しています。彼らは「そういう病気が起こるのは、脳内の化学物質の分泌に異常があるからだ。これらは、薬品を投与することによって緩和できる」と言います。確かに、ある病気は薬によって軽減されます。ですから、カウンセリングする人は、専門医の助けを借りることはとても重要です。特に、自殺願望のある人はそういうところとタイアップしながら、家族全員で援助する必要があるでしょう。私たちはその人の症状を聞いて、「ああ、あなたは○○病ですね」とか「○○障害ですね」とは言ってはいけません。なぜなら、診断するのはお医者さんだからです。私も少しだけ勉強していますので、つい、そういう誘惑に駆られます。これから、いろんな不安や恐れの障害を申し上げますが、私にとって専門外のことなので、大目に見てください。でも、「ああ、こういう病気や障害があるんだなー」と覚えておきますと、自分や他の人がなったとき、落ち着いて対処できます。ですから、素人であっても、ある程度の枠組みを知るということは、とても重要なことであると思います。

昔は「○○神経症」と言いましたが、今は使われなくなりました。そのかわり、「○○障害」と、病気の一種に分類されるようになりました。不安や恐れが病的になったものを「不安障害」言いますが、これが従来の神経症を包括したものです。「不安障害」の中には、6つくらいの障害が含まれています。統計によりますと、日本人の10人から11人に一人は何らかの「不安障害」を経験しているそうです。また、男性よりも女性の方が、有病率が高いということです。「不安障害」でもっとも良く知られているのが、「パニック障害」です。従来は「不安神経症」の一部として扱われてきましたが、現在は独立した病気として扱われています。李光雨師によると「繰り返されるパニック発作によって、ライフ・スタイルが強く束縛されている状態。過呼吸はパニック障害の典型的な症状の1つである。パニック障害は、今、とっても多い。特に若い女性に多い(高校生の女の子)。ある統計によると男女合わせて、生涯有病率は3%。100人いたら3人パニック障害の人がいる。10代から30代ぐらいまでの女性の中で、20%ぐらいの人はパニック傷害とそれに付随する世界を持っている。パニック発作が起こったところが怖くなって、それを避けるために、生活がどんどん縮められていく」と言っていました。ですから、パニック発作が起こると、できないことが多くなります。電車に乗れない、車を運転できない、横断歩道を渡れない、トンネルに入れない、劇場の真中に座れないということもあります。今から20年くらい前、統一教会に入った若い男性の救出にあたったことがあります。そのため、お父さんは単身赴任先から戻って来ました。お母さんとおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん全員で当たりました。私はその人の家に1週間くらい寝泊まりしました。そして、1か月くらいでやっとマインド・コントロールが解けました。しかし、そのお母さんの方にも問題がありました。買い物の途中で歩けなくなり、息苦しくなって座り込むということがありました。お医者さんにも通っていましたが、電車に乗って帰ってくるのが命がけだということでした。外見からは、そんなふうには見えませんでした。しかし、今思えば、パニック障害だったのかもしれません。丸屋師によると「パニック障害の多くは、日常生活にストレスを溜め込みやすい環境で暮らしている人がなりやすい」ということです。お母さんは、ご主人が単身赴任ということもあり、ストレスを貯めていたのかもしれません。

「不安障害」の中に「恐怖症」というのがあります。その中の、単純恐怖症は、1つのものや出来事に対する恐れです。たとえば、犬、蛇、蜘蛛、飛行機が怖い。高いところが怖い、狭いところが怖い、血液、注射が怖いなどです。エリヤハウスのキャッシーは、夜、窓を開けたままにしておくことをとても恐れていました。日が暮れてくると、家中を走り回って窓を閉め、ブラインドを閉めました。ある時、夫のロバートが遊び半分で、暗い部屋からバンと飛び出しました。彼女はものすごく怒って、ロバートは殺されるんじゃないかと思ったそうです。話を聞いたら、彼女が1歳の頃、ご両親とフィリピンに住んでいたことがありました。その家には窓ガラスがなく、雨戸みたいなもので閉めていました。50年も前だったので、フィリピンの人たちはアメリカ人に非常に好奇心を持っていました。彼らは時々、窓の隙間から部屋の中を覗いていました。私たちが留守のとき、部屋から色んなものを持ち去って行きました。その時から、窓が開いたままになっていることを怖がるようになったということが分かりました。また、「広場恐怖症」は、単独での交通機関の利用や車の運転、公共の場所への立ち入りができません。「突然、パニック発作が起こるのではないか」という恐れがあります。他に「社会恐怖症」があります。これは、いわゆる「あがり症」の強度なものです。人前に出て、強い不安を感じるあまり、震えや吐き気などの身体症状が出てきます。仲人さんなのに、結婚式のスピーチができなくなったりします。

 また、「強迫性障害」というものがあります。従来、強迫神経症と呼ばれていたものです。自分の意思に反して、無意味で非現実的な考えが、強迫観念として繰り返し浮かんできます。また、それを打ち消そうとして繰り返し反復するので、やがて強迫行動に囚われてしまいます。不潔恐怖や手洗い強迫、縁起恐怖、不完全恐怖、確認恐怖、収集癖などがあります。あるウェブに不潔恐怖に対するレベルチェックがありました。レベル10は家族共用のリモコンのボタンを押す。レベル20は自販機やエレベーターのボタンを押す。レベル80は床に落ちたボールペンをそのまま使う。レベル90は駅やコンビニのゴミ箱に触れる。レベル100は公衆トイレの便座を使う。ある人が、「手洗い強迫」のため、1時間以上洗っていたそうです。半年後、それがエスカレートして、入浴に数時間かけるようになったということです。「ゼーット」という声優の水木さんは、縁起恐怖があるようです。階段を上るとき、あるはお風呂に入るとき、右足から始めなければなりません。ある時、お風呂に入るとき、うっかり左足から入ってしまいました。お風呂から出て、気持ちを改めた後、右足から入ったということです。ある人たちは、不安と恐れに囚われてしまって、自由がなくなります。そのような束縛されたライフ・スタイルを何とかしなければなりません。


2.不安と恐れの原因

現代の精神医学は、「大脳における神経伝達の分泌などに何らかの障害が生じた結果である」と言います。彼らが用いる薬物療法は、一定の症状を緩和させることができます。もう1つは心理療法があります。薬物療法の助けを借りながらも、その人の間違ったところを正していくという方法です。かなり前に、「森田療法」というのがありました。一口で言うと「ありのままで良い」ということのようです。今は、認知行動療法や精神療法が効果的に用いられています。私は、李光雨師の「存在不安を覆うバリヤー」という捉え方が、最も良いと思っています。人間はだれしも存在不安を抱えて生きています。そして、存在不安をいろんなバリヤーで覆っています。男性だったら、会社かもしれません。女性だったら、結婚でしょうか?お母さんだったら、子どもが通っている学校かもしれません。牧師だったら、礼拝堂の大きさとか礼拝の出席人数ということがあります。多くの人たちは、自分の存在不安を美貌や健康、お金や物、地位や名誉をバリヤーにして生きています。でも、そういうバリヤーというのは決して丈夫で長持ちするものではありません。突然、会社をリストラされることもあるでしょう。突然、良い子が反抗的になるでしょう。1つのスキャンダルで地位も名誉も吹き飛びます。もし、ガンと宣告されたら、どん底に落ちるでしょう。そして、「不安障害」になる人というのは、バリヤーがもともと薄い人であったということです。両親との関係、家庭環境、社会的な環境、経済関係、いろんなところでバリヤーが薄くなっている。そのところに、何か危機な体験をします。そのとき、パニック発作が出てきて、それが恒常化していくというものです。

では、そもそも、人間の存在不安はどこから来たのでしょうか?これは、創世記3章まで遡ります。アダムとエバが食べてはいけない木から、取ったためにどのようなことが起きたでしょうか?創世記3:7-10「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」罪を犯して、神さまから離れたために、恥と不安と恐れがやってきました。ここで言う、存在不安であります。二人は、自分たちの存在不安を隠すためにどうしたでしょうか?いちじくの葉というバリヤーで覆いました。アダムとエバ以来、すべての人は自分の存在不安を覆うために、人工的なバリヤーで覆っています。バリヤーとは、お金、持ち物もの、地位、家庭、子供であります。しかし、いちじくの葉はやがて枯れてしまいます。昨日まで肩で風切っていた部長さんが、リストラされて、ペシャンコになります。期待していた、子どもが不登校になるとお母さんが鬱になります。でも、人間はバリヤーの修復作業に奔走します。新たに別の会社を探す。長男でだめだったら次男に期待する。ある人は、神様をバリヤーにします。「神様、会社クビになりましたので、もっと良い就職口を与えてください」と祈ります。でも、それらの人工的なものは、解決になりません。やがて、違ったところから、存在不安が噴出してきます。

では、不安と恐れの本当の解決はどこにあるのでしょう?創世記3章の後半を見ますと、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せてあげました。エデンの園で初めて、血が流されました。皮の衣とは、主イエス・キリストの贖いを象徴しています。神様を利用するのではなく、自分の最も困ったところで、イエス様と出会う必要があります。従来のバリヤーが壊れたということは、実は良いことなのです。なぜなら、本当のバリヤーで覆うことができるからです。だから、マタイ5章でイエス様が「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」とおっしゃったのです。本当のバリヤーとは何でしょう?それは、私たちの罪を赦し、傷を癒してくださる神様の愛です。絶対的な神様の愛で、私たちが覆われたならば、安心と守りがやってきます。英語でsecureという言葉があります。これは「安全な、危険のない、安定した、心配のない」という意味です。反対の言葉がinsecureです。これは、危険だとか、危ないという意味ではありません。「不安な、不安定な」という意味です。みなさんの心の中は、どうでしょうか? Insecure、何とも言えない不安感を抱えてはいないでしょうか?


3.不安と恐れの癒しと解放

解決は、現在、困っている状況から、根をさぐるということです。生活の中での失敗体験や恐怖体験があります。1回、2回はそれを乗り越えられたかもしれないが、それが症状として、固定します。電車に乗れないとか、人混みが怖い。パニック発作が出る。あるいは、潔癖症が度を越している。いろいろあるでしょう?その破れ口をたどって、過去に遡ります。つまり、幼少の頃、何かのショックでバリヤーが壊れたことはないかということです。あるいは何かの出来事で、ダメージを受けて薄くなったことがあるはずです。ある人は、子供のときお母さんが入院して、おばさんの家に預けられました。そのとき、「お母さんがいなくなった」という強い恐怖感があったそうです。あるいは、子供のとき家族のだれかが死んだために、死の恐れが入ってしまうこともあります。あるいは喘息になって、生きが吸えないという死の恐怖を味わう場合もあります。高いところから落ちたとか、流血の現場を見たとか、大怪我をしたことがあるかもしれません。私の家はトタン屋さんでした。屋根とか煙突などのトタン板が立てかけてありました。夜、トイレに行く時、トタンの角で左足のお皿の下をザクっと切りました。その当時は、赤チンしかなく、あとで傷口が化膿しました。ですから、私は怪我をして血を見るとあせります。化膿しないように、早く手当てをしなければならないと思います。いろいろ、探っていくと恐怖体験をしたということがあるかもしれません。近所の犬にかまれたとか。何か食べ物であたって、それ以来、ある物が食べられないという人もいます。とにかく、子どものときに受けた恐怖感は、大きなダメージを受けます。そこが足場になって、悪魔がその人を束縛します。

その次に、神さまがどんなお方か、聖書からイメージする必要があります。詩篇91:1「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」とあります。私たちの神様は全能者です。詩篇91:4「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」アーメン。主が大きな羽で私たちを覆ってくださいます。私たちは翼の下に隠れることができます。新約聖書のイエス様はどんなお方でしょう?イエス様は愛に満ちていただけではなく、悪霊を追い出すことができました。私たちはそういう神様を自分の過去にお迎えするのです。そして、バリヤーが壊れてしまったただ中に、来てもらいます。ある人は子どものとき、大きな木が倒れ、下敷きになったことがあるそうです。幻の中で、倒れた木を下から支えている神さまの御手が見えました。それで自分が死ななかったことが分かったそうです。イエス様は、子どもの私たちが分かるような方法で、secure「安全で心配がない」ことを教えてくれます。その後、自分で作ったいちじくの葉っぱではなく、神さまご自身をバリヤーにしていただくのです。詩篇91:2にあるように「主は、わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」です。神さまご自身が私を守ってくれるのですから、怖いものなどないのです。

私たちは、「○○障害」にならないように、聖書的なライフ・スタイルを身につける必要があります。そのためには、「日々、恐れと不安を捨てて、主を信頼することを選び取っていく」ということです。聖書には「恐れるな」と、365回書いてあります。神さまは、毎日、私たちに「恐れるな」とおっしゃっておられます。恐れと信仰は一緒に歩くことができません。恐れと信仰は、相反するものですが、共通点があります。両者は、まだ見えていないものを、信じるように要求するからです。恐れは「脇腹に痛みがありますか?それは癌かもしれない。お母さんも癌だったから」と言います。信仰は「その痛みは一時的なもので、すぐ直ります」と言います。恐れは「不景気だから、仕事がなくなる」と言います。信仰は「神様が良い仕事を与えてくださる」と言います。恐れは「たくさん努力してきたけど、幸せにはなれない」と言います。信仰は「最も良い日が、これから先に用意されている」と言います。あなたはどちらの考えを選択し、どちらの考えを心の中に入れるでしょうか?もし、あなたが恐れからくる否定的な考えを、心の中に、繰り返し、繰り返し入れたならどうなるでしょう?それらがあなたの現実となるでしょう?ヨブという人の上に悪いことが立て続けに起こりました。全財産と10人の子供をいっぺんになくしました。その後、ヨブは「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。(ヨブ3:25)」と言いました。もし、恐れによって、否定的な思いを抱くならばどうなるでしょう?恐れたものが現実となって、やってくるでしょう。イエス様はマタイ9:19「あなたがたの信仰のとおりになれ」とおっしゃいました。あなたは、どのような信仰を持っておられるでしょうか?

あるところに、一組の夫婦がいました。奥さんはある時から、「いつか、銃を持った人が自分の家に押し入ってくる」という、恐れに取り付かれました。ベッドに着いた後、週に一回以上は、「あなた、どろぼうが来たかもしれないから、下に行って調べてよ」とお願いしました。優しいご主人はそれを何年も、何年も続けました。ある夜、「あなた起きてよ。下で何か物音がしたわ。行って調べて来てよ」と言いました。優しいご主人は「はい、はい」と降りていきました。階段の下に、本当のどろぼうがいて、銃を顔に付きつけ「声を出すな。金目のものを出せ!」と言いました。ご主人は、言われとおりに、宝石と現金を彼に渡しました。どろぼうが立ち去ろうとした時、ご主人がこう言いました。「ちょっと待って下さい。あなたは二階に上がって私の妻と会うべきです。彼女はあなたが来ることを30年間も期待して待っていました」。私たちは恐れに目をとめるのではなく、信仰に目をとめる必要があります。なぜなら、どちらも目に見える形でいつかやってくるからです。決して口で、「この仕事はだめになる」「私たちの結婚はだめになる」「私はいつか病気になる」と言ってはなりません。そうすると、あなたが恐れたとおりになります。その代わりに「神様が経済を祝福してくださる」「神様が二人に愛を注いでくださる」「私は健康で長生きできる」と告白すべきです。そうすると、神様があなたに恵みを運んでくださいます。不思議なことに恐れは周りの人たちに伝染します。12人の偵察隊がカナンの地を探りに行って帰ってきました。その中の10人は「確かにあそこは乳と蜜の流れるところだ。しかし、巨人がいて自分ちはいなごに見えたし、彼らもそう見えたことだろう」と言いました。他の2人は「その地の人々を恐れてはならない」と言いました。しかし、恐れの方が勝って、全会衆は大声をあげて泣き叫びました。その結果、イスラエルの民は不信仰のゆえに約束の地に入ることができませんでした。私たちは恐れを選んではいけません。信仰を選び取るのです。人々の非難、テレビの悪いニュースを思いの中に入れないでください。私たちは神のことば、グッド・ニュースを思いの中に入れるのです。詩篇91:16「わたしは、彼(あなた)を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼(あなた)に見せよう。」


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2010年10月 3日 (日)

賛美の生活            詩篇100:1-4  

前回は礼拝についてお話ししましたが、2回目は賛美についてです。賛美はことばでも歌でも両方とも可能です。でも、きょうは歌う賛美の方にポイントをあてたいとおもいます。礼拝と賛美は分けることができません。なぜなら、賛美自体が主をほめたたえる行為だからです。日本人ならご飯と味噌汁、アメリカ人ならパンとミルクみたいな関係です。でも、どうでしょうか?賛美は礼拝の前座みたいに扱われる場合があります。どこの教会か分かりませんが、司会者がこのように言ったそうです。「まだ全員の方がそろっていないようですので、皆さんが集まるまで賛美でもして待ちましょう」。これは良くありません。賛美が時間待ちみたいになっているからです。そうではありません。賛美は礼拝の一部なのです。いや、賛美が礼拝と言っても過言ではありません。きょうは、賛美というものが一体どういうものなのか、ともに学びたいと思います。

1.賛美とは?

賛美とは何でしょう?詩篇1001-4「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」ここで分かることは、私たちが近づくとき、携えていくものであります。喜び歌いつつ、賛美しながら神さまの前に近づくのであります。ある人たちは、賛美は神さまに近づく手段だと言います。しかし、そうではありません。私たちが聖なる神さまに近づける手段は、主イエス・キリストの血潮しかありません。イエス・キリストが、私たちの罪を贖ってくださったので、私たちは罪赦され、神さまのもとに近づくことができるのです。旧訳聖書のレビ記を見ますと、罪の赦しのためのいけにえ、献身のためのいけにえ、和解のためのいけにえなど、たくさんのいけにえがあります。しかし、世の終わり、イエス・キリストが一回ですべての贖いをなしてくださいました。ですから、私たちは主イエス・キリストの血潮を通して、大胆に神さま御座に近づくことができるのです。私たちは一週間前、いろんなことをしました。さっきまで喧嘩をしていたかもしれません。汚れた思いを抱いていたかもしれません。でも、私たちはイエス・キリストの血潮を通して、罪きよめられ、主の前に近づくことができるのです。そして、そのときに携えていくのが、賛美であります。喜び歌いつつ、賛美しながら神さまの前に近づくのであります。ハレルヤ!

賛美の中にいくつかの種類があります。一番、多いのが神さまの救いをほめたたえる賛美です。出エジプト記15章にミリヤムが歌った賛美が記されています。出エジプト151-2「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」これは、神さまがエジプトから自分たちを救い出してくださった、すばらしい力ある主のみわざをほめたたえています。また、Ⅰサムエル記2章にはハンナの賛美があります。ハンナは不任でありましたが、神さまによって、子どもが与えられました。そして、その子を神さまにささげたときに、この賛美をしました。Ⅰサムエル21-2「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。」ハンナの賛美は、新約聖書のマリヤの賛美ととても良く似ています。ダビデやソロモンもたくさん賛美を作りましたが、一番、多いのが詩篇であります。詩篇は圧倒的に「嘆きの歌」が多いのですが、後半には「たたえの歌」があります。ある場合は、1つの詩篇において、前半が嘆きで後半がたたえで終わっているものもあります。旧約の人たちは、詩篇に抑揚をつけて神殿や会堂で歌ったのではないかと思います。預言書の中にも賛美があります。

キリスト教会ではどうでしょう?バロック音楽やコラールという拡張高いものもありました。一方、宗教改革者マルチン・ルターは当時の酒場でよく歌われていた曲に、詩篇の歌詞を載せました。『神はわがやぐら』というのが有名です。民謡の曲を借りて讃美歌にしたのもたくさんあります。18世紀、ジョン・ウェスレーによってリバイバルが起こりました。兄弟のチャールズ・ウェスレーが、みんなで歌えるような讃美歌や聖歌をたくさん作りました。その後、アメリカでリバイバルが起こると、いろんな聖歌が作られました。不思議なことに、教会にリバイバルが起こると新しい賛美が生まれるのです。最近ではどうでしょうか?ヴィンヤード教会の賛美もありました。オーストラリアのヒルソングの賛美も有名です。日本の教会はもっぱら英語を和訳したものを賛美します。しかし、それではよくないということで、日本人独自で作詞作曲した賛美も歌われています。滝元明師が指導した日本リバイバル・クルセードからたくさんの賛美が生まれました。シティ・プレイズとか、ジェイ・ワシップというのもあります。日本では、最近、ブラックゴスペルで神さまを賛美しています。ハレルヤ!

時代によって教会の賛美がどうなったのでしょうか?昔は(30-40年前は)、讃美歌や聖歌のように信仰を鼓舞したり、証の歌が多かったように思えます。しかし、現代は神さまご自身を賛美する、ワーシップとかプレイズソングが多くなりました。「ギターを弾いて、ちゃらちゃらした歌は歌いたくない」という教会もあります。彼らは讃美歌21とか新聖歌を作りました。しかし、私から言わせますと、歌詞は新しくなったのですが、曲が古いということです。今の若い人たちが聞いている曲はとてもテンポが速くリズミカルです。もし、若い人たちに伝道したいと思うならば、年配者は少し譲る必要があると思います。私が礼拝形式や賛美を選ぶとき、このみことばを思い出します。ルカ537-38「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」皮袋にあたるものが、教会の礼拝形式や賛美であります。年輩の人たちは古いぶどう酒が良いと言います。なぜなら、これまで馴染んできたやり方だからです。しかし、新しい人、若い人たちはどうでしょうか?「それでは退屈だ、賛美している気にならない」と言うのです。これはまさしく、好みの問題です。聖書に「こういう賛美をこういう曲で歌いなさい」とは書かれていません。リック・ウォレン師が、『魅力的な礼拝のかぎ』という本の中でこう言っています。「教会で用いる音楽スタイルを決定することほど、重要であり、かつ論議を呼ぶものはあまりないだろう。教会が今後どのような人々をキリストに導けるか、また教会が成長していけるか否かは、音楽によって決まるといっても過言ではない。教会の音楽は、その教会が伝道の対象としている人々に合わせていくべきである」。つまり、教会音楽に良い、悪いはないということです。しかし、教会がどの歌を選ぶかによって、会衆が決まってくるということです。リック・ウォレン師はみんなに合わせるために、いろんな種類の曲を混ぜて賛美しました。すると、みんなが気持ち悪くなったのです。それで、「自分たちの教会が、どの年代、どういう人たちに伝道したいのか?」ターゲットを絞ったそうです。明日の教会を支えるのはどういう人たちでしょうか?教会が存続していくためには、すでに救われている人たちよりも、これからの人たちの救いに的を絞る必要があると思います。

「歌は世につれ、世は歌につれ」という格言みたいなものあります。まさしく、賛美もそのような性質があるということです。もちろん人間中心ではあってはなりません。私たちは曲とともに、その歌詞を味わいながら、賛美を神さまにささげていくということです。ヘブル1315「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」と書かれています。賛美は、神さまにささげるいけにえであり、果実だということです。ですから、カラオケのように自分たちが喜ぶというよりも、神さまを喜び、神さまをたたえることが重要です。同時に、聖日礼拝においては、失われた人々に対する伝道ということも忘れてはならないと思います。

2.賛美の回復

数十年前から「ダビデの幕屋の回復」ということが言われています。「ダビデの幕屋」とはどういう意味でしょうか?ダビデの幕屋とは、ダビデ王によって創立され、始められた礼拝のことです。Ⅰ歴代誌15章と16章に、当時の記録があります。Ⅰ歴代誌1516「ここに、ダビデはレビ人のつかさたちに、彼らの同族の者たちを十弦の琴、立琴、シンバルなどの楽器を使う歌うたいとして立て、喜びの声をあげて歌わせるよう命じた」とあります。ダビデは神の箱が運びこまれるとき、力の限り踊ったのであります。ダビデは、神の箱が安置された後、和解のいけにえをささげさせました。Ⅰ歴代誌16:4-5 それから、レビ人の中のある者たちを、主の箱の前で仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは十弦の琴や、立琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。」このところから、当時の礼拝はどうだったのでしょうか?とても、にぎやかな礼拝であったということです。ある人たちは「ギターやドラムを礼拝に使って良いのだろうか?」と言う人たちがいます。しかし、ダビデが指導する礼拝では、大歓迎です。詩篇150篇にも同じようなことが記されていますが、いわゆる「鳴り物入り」です。おそらく、そこには踊り(ダンス)もあったでしょう。タンバリンをたたきながら、踊ったかもしれません。また、詩篇1342「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」とあります。さらに詩篇471「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。」とあります。つまり、礼拝において「手を上げよ」「手をたたけ」あるいは「神に叫べ」と命じられていたということです。しかし、今日の教会の礼拝では、それを交読文にして読んで済ませています。たとえば、司会者が「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」と言うと、会衆は「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ」と言います。明らかにみことばに違反しています。実際に手をたたき、手を上げ、神に叫ぶべきなのに、交読文でお茶を濁すとは何事でしょうか?私たちの礼拝は静か過ぎます。ペンテコステ系の教会やアフリカの教会が聖書的ではないかと思います。

私は以前、松岡欣也師が主催する「パワープレイズ」というのに参加していました。当教会にもケン&アヤさんも加え、お招きしたことがあります。松岡先生は礼拝メッセージの中で「みなさん、手を上げるのに勇気がいるでしょうか?いらないでしょう。どうぞ、別な方に勇気を用いてください」とチャレンジして下さいました。先生は早稲田教会という、教団本部のすぐ隣で、「パワープレイズ」を毎週、開いていました。同じ曲を20分くらい賛美するときがあります。「今が恵みのとき、今が恵みのとき、今が恵みのとき」。まるでレコードの針が飛んでいる感じです。もう、ずっと同じ賛美をします。すると「ああ、そうなんだ。今が恵みのときなんだ。そうだ、今が恵みのときなんだ」。深いところから信仰がわいてきます。どうでしょうか?みなさんは賛美しながら、口ぱくで、他のことを考えているんじゃないでしょうか?体がそこにあっても、心がそこにない。イエス様はマルコ福音書では「力を尽して主を愛しなさい」と言われました。力を尽して神さまを愛するとは、私たちの身体をさしていると思います。世の中のコンサートやライブに行きますと、みんな立ちながら、全身を震わせて参加しています。どうでしょうか?私たちは本来、永遠の滅びに行く予定だったのに、イエス様によって贖われ、永遠の御国に入ることができるんです。いや、もう入っているのです。聖書にヨベルの年というのが記されています。50年に一度、巡ってくる贖いの年です。角笛が吹かれ、彼らは喜びと賛美をささげます。なぜなら、借金が棒引きされ、土地が回復されます。奴隷であったものは自由になります。私たちはどうでしょうか?すべての罪、咎が赦され、天国が与えられています。罪とサタンの奴隷であったのに今は自由です。神の子とされ、神さまの膨大な財産を受け継ぐことができるのです。それを思うと、「うぁー!すげぇー!」と賛美できるのではないでしょうか?不思議なことに、手足や体をつかって賛美し、喜びの叫びをあげると、「わぁー、本当に神さまはすばらしい」ということが分かるのです。頭だけ、交読文で「手をうちたたけ、主の前で踊れ」ではわかりません。実際に手をたたき、踊るのです。ハレルヤ!終わりの時代は、まさしく「ダビデの幕屋の回復」のときです。初代教会の議長であったヤコブがこう言っています。使徒1516「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」つまり、ダビデの幕屋の回復とは恵みにおける教会のことであります。ユダヤ人とか異邦人の差別もなく、またエルサレムとかシオンの地域でもなく、全世界で、全人類が集まって主を礼拝するということです。数年前、長沢兄によって、そのような、すばらしい賛美が作られました。「その日、全世界が、主の御名、高く掲げる。叫べ、王の王、イエスは、ハレルヤ、栄光、とわにあれ」。

3.賛美の目的

 もう一度、リック・ウォレン師の『魅力的な礼拝のかぎ』という本からいくつか引用したいと思います。先生は「音楽を吟味する」という章でこのようにおっしゃっています。「音楽はしばしば、説教にはできない方法で人の心に触れることができる。理性の壁を通り抜け、直接、心にメッセージを届ける。音楽は有効な伝道の道具である」。私は今、50代後半ですが、若いときはアメリカではロック、日本ではフォークソングが流行りました。その中で歌われる歌詞によって、若者たちの価値観が形成されたのです。教会が音楽の力を過少評価していたとき、サタンがこれを暗黒の力をもたらすために用いてきたのであります。教会は18世紀のヨーロッパで書かれた音楽だけが神聖な音楽だと言うのは、聖書的な根拠はありません。いろんなスタイルの音楽があって良いのです。大切なのは歌にこめられている、使信(メッセージ)であります。また、忘れてはならいのはサウンドであります。時代によってサウンド感覚が変わるんです。ひところは賛美歌をオルガンやピアノで伴奏しました。今はシンセサイザー、ドラム、ギターが主流です。そして、映像も駆使され、目でも訴えるようにしています。アメリカで信仰を持った若者たちは、普通の教会に来ません。礼拝のスタイルが全く違うからです。彼らはどうしても、ヒルソングとか、ニューホープの教会に行きます。では、彼らに迎合するのか?迎合ではなく、現代の人たちのサウンドに、使信(メッセージ)をこめるべきだということです。リック・ウォレン師が音楽スタイルを決めるときのいくつかのルールを提唱しています。第一は、「用いる音楽はすべて、前もって打ち合わせしておく」と言うことです。神学的に健全か、教会につながっていない人に理解できるか、歌詞と曲の両方を考慮するということです。第二はテンポを速める。多くの賛美は祭典的というよりお葬式に近いということです。第三は歌詞も現代風に変えなさい。賛美歌に出てくる聖書的比喩、神学的用語はわかりやすく書き直す必要があるということです。第四は教会員が新しい賛美を作るように励ます。多くの教会は牧師か賛美リーダー個人の偏向で、賛美歌の選択が偏る傾向がある。いつも使い古い賛美ばかりを歌うと礼拝心をそいでしまう。リック・ウォレン師の特徴は、たえず求道者のことを考えているということです。

賛美の目的とは何でしょうか?確かに、現代のサウンドで求道者にもわかる賛美を捧げる必要があるでしょう。しかし、もっと大事なことは私たちの心であります。賛美は、いわば神さまへの愛の告白であります。ですから、まるで目の前に、三位一体の神さまがおられるように賛美をいけにえとしてささげるのです。ですから、賛美は私たちのためというよりも、神さまのためであるということです。私たちが「きょうは、良い賛美で恵まれたなー」ということは悪いことではありません。でも、それ以上に「きょうは、全身全霊で神さまを賛美できたなー」という方が大事なのです。宣教師たちは、ジャングルの奥地に入って行って伝道します。キリストを信じてクリスチャンになった人たちは、生活も変えなければなりません。かつては偶像の神さまにお供えを捧げ、歌や踊りを捧げてきました。しかし、これからは天地を作られた神さまと、十字架で罪をあがなわれた御子イエス・キリストへの礼拝になります。村人たちは1週間、一生懸命、賛美と踊りの練習をします。そして、日曜日の礼拝が来たとき、準備した賛美と踊りを神さまの前にささげるのです。彼らはうかれてなんかいません。神妙になって、一週間準備した、賛美と踊りを神さまにささげるのです。私はかなり前に、台湾の原住民の夕方の礼拝に出たときがあります。ふだんは農作業で汚れているのに、リードする人たちは、おそろいの衣装を着て、首にレイをかけています。会衆全体の賛美は本当にすばらしく、透き通っています。純粋な神さまへの愛が、伝わってくるのです。私たちの賛美に対する姿勢はどうでしょうか?「前の人たちが歌えば良いんだ、自分たちはその他、大勢だから」という気持ちはあってはいけません。私たち一人ひとりが心をこめて、神さまに賛美をささげるのです。最後の主の祈りを賛美しますが、前で聞いていると、とても感動します。本当にみなさんが神さまに向かって賛美しているその声が聞こえてくるからです。うまい、下手ではありません。魂の内側から賛美することが重要なのです。私たちが主を賛美するとき、主が私たちをさらに恵んでくださるからです。詩篇1031-5「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。」

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2010年9月26日 (日)

礼拝の生活          詩篇111:1-10

 信仰のDNAシリーズも後半になりました。これから4回に渡って、クリスチャンの基本的生活についてお話しさせていただきます。第一回目は礼拝です。最近、『いつも礼拝していなさい』という本を読んで、礼拝がいかに大切か、目が開かれました。私は自分で、「ある程度は礼拝している」と思っていました。しかし、私たちが日々の生活の中で、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえていないために、得られなかったものがたくさんあることに気がつきました。「こんな基本的なことを何故、おろそかにしていたのか!」と悔しいばかりです。もし、私たちがこの礼拝を個人の生活で、あるいは私たちの集いで行うなら、これまでとは、ぜんぜん違ってくるでしょう。きょうは、『いつも礼拝していなさい』という本から、かなり引用しながらメッセージをお届けしたいと思います。

1.礼拝の重要さ

 『いつも礼拝していなさい』の著者、ノーベル・ヘイズという人が、あるとき、車を運転していました。その時、神の御霊が臨み、彼にこう言われました。「子よ、教会には、欠けているものが、悲しいまでたくさんあります」。彼は「それは、どういうことでしょう?」と聞きました。すると御霊は「私の子どもたちは確かに私を愛していますが、貧困と病気と敗北の中で過ごしています。彼らは天の祝福の中で過ごしていません。それは、彼らが私を十分なまでに礼拝していないからです」。彼は「おっしゃる通りです。主よ。事実、あなたを礼拝することに少しも時間を費やしていない教会を、私はいくつか知っています。そういう牧師たちは『しばらくの間、神さまを礼拝しましょう。彼は神であられるから』とは決して言いません。彼らが会衆に教えているのは、教会に通うことと、少し歌を歌うことだけです。しかし、彼らは本当にあなたを礼拝しているのではありません」と言いました。すると、御霊が「あなたもそうです。あなたが私の子どもたちに、もっと私を礼拝するよう教えるなら、私は彼らのために大いなる力あるわざを行うようになります」と言われました。

ノーベル・ヘイズ師があるところで礼拝のすばらしさをお話しました。「病気がちで、貧困に打ちのめされ、弱々しく、混乱した生活をしている信者たちがいますが、そういう生活は、神が私たちのために備えてくださった種類の生活ではありません。神が私たちのために備えてくださった生活とは豊かな生活です」。メッセージの後で、一人の姉妹がこう言いました。「でも、ノーベル先生、私の子どもたちは信仰から離れています。私の夫は病気で、医者たちは、彼には何もしてあげられないと言っています。『どうして、こんなことばかり私に起こるのかしら?どうして神さまは私のために何とかしてくださらないのかしら?』といつも思っています。」先生は彼女に「お尋ねしますが、今月、あなた自身はどのくらい神を礼拝してきたでしょうか?」と聞きました。彼女は「はい。私はいつも立派な教会に通っていますし、私の牧師はすてきな方なんですよ?」と答えました。先生は「あなたの教会や牧師が、あなたに代わって礼拝をすることはできません。あなたは今月、イエス様を少しでも礼拝したでしょうか?あなたは今月、イエス様の御前で身をかがめ、あなたの救い主、あなたの癒し主、あなたのために奇跡をなしてくださる方として彼に呼びかけたでしょうか?あなたの名が天に書かれていることで、あなたは彼に感謝をささげたでしょうか?彼がいかにすばらしい方であられるかを、あなたは彼に話して、彼を、彼だけを礼拝したでしょうか?」。彼女はしばらく、言い訳をしていましたが、最後に「実を言うと、私はそういうことはしていません」と答えました。

 私はその本を読みながら、「ああ、うちの教会でも、あまり礼拝をしていないな」と気付かされました。確かに賛美をしています。お祈りもします。聖書からのメッセージも頂くでしょう。「でも、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえているだろうか?」と思いました。私たちが礼拝で祈る祈りは「○○して下さい」という求める祈りはあっても、「あなたはすばらしいです。あなたをほめたたえます」と主をほめたたえていません。「主を賛美します」という歌は確かに歌います。しかし、全身全霊で「主よ、あなたを賛美します!」と告白しているでしょうか?私たちは礼拝式を行なっているように思います。そのため、本当に神さまのすばらしさを思って、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえるということが少ないのです。私は、「何かが足りない」とずーっと思ってきましたが、これだったんですね。また、みなさん個人の生活ではどうでしょうか?あなたは平日、どこかの時間を割いて、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえているでしょうか?私は聖書を読んでディボーションをしています。その後、できるだけ声を出して祈ることにしています。しかし、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえる時間は、ほんのわずかでした。「家庭でも、家内との関係でも、どうだろうか?」と自らに問いました。確かに祈るときはありますが、家庭で神さまを礼拝し、神さまをほめたたえることは皆無でした。聖書を読み、勉強はします。お祈りもします。しかし、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえることが本当に少なかったということを告白します。

 ノーベル・ヘイズ師は、あの日、御霊が臨んだ日までは一人で部屋に閉じこもって神を礼拝する時間を過ごしたことはありませんでした。確かに、集会の前に神さまから油注ぎを受けようとして祈ることはありました。しかし、だれにも見られない自分の部屋で一人になり、充実した時間を過ごしたことはなかったのです。けれども、先生は、ある期間、一人で部屋に閉じこもり、身をかがめて神を一人で礼拝することを始めました。それからどんなことが起こったでしょうか?「私はこのことを実行し始めた日以来、経済的な問題を1つも経験していません。私は聖書学校のための土地も購入しました。愛するみなさん、私は本当のことをお話しますが、私たちは現在4つの会堂を所有しています。しかし、私はそのうちのどの建物の支払いのためにも献金を募らなかったのです。」とにかく、神さまのさまざまな恵みが望み、全き祝福が臨んだということです。ノーベル・ヘイズ師がご自分の体験から、強調していることはこのことです。「もしあなたが、あなたの周囲に人々が何人か一緒にいないと神を礼拝できないとすれば、あなたの神との関係は、半ば病的です。神を礼拝するのに、だれかがあなたと一緒にいなければならないというようでは、いけません。神に対するあなたの礼拝は、それを一人でするのを神がご覧にならないうちは、十分に神を喜ばせるものとはならないでしょう」。つまり、神さまの前に一人で出るということです。マタイ66「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」アーメン。ある人から先生のもとに手紙が来ました。「ノーベル先生、私は一年間、神さまを礼拝したところ、いろいろなことが起こりました。現在、私の生活は完全に変わり始めています。私にとって人生は、もう、辛いことではなくなっています。神さまは私にさまざまな恵みを注いでおられます。耐えられないくらいです!」。礼拝の基本はこのような公けの礼拝ではなく、個人的に神さまの前に出ることです。そして、個人的に神さまを礼拝し、神さまをほめたたえ、神さまと蜜のような時を過ごすことです。何時かとか、どのくらい礼拝するとか決めないで、一人でひざまずいて、神さまを礼拝するときを持ちましょう。何かを求めるのでなく、神さまが既に自分に与えておられるものを感謝しましょう。詩篇136篇に「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とあります。

2.礼拝の祝福

では、私たちが神さまを礼拝するという、第一のことを第一のこととして行うならどのような祝福が訪れるのでしょうか?詩篇1111-2「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。」「主のみわざは偉大でみわざを喜ぶ」とは、まさしく神さまを礼拝し、神さまをほめたたえている内容です。神さまは全世界、全宇宙を造られたお方です。そして、それを今も保持しておられます。そして、私たちのために御子イエス・キリストを送ってくださいました。かつて、私たちは罪の中にいて、滅びる運命の中にありました。しかし、イエス・キリストが2000年前、十字架で身代わりに死んで、罪の代価を払ってくださいました。私たちは、イエス様を信じるだけで救われたのです。なんという恵みでしょうか?神さまが、私たちが救われるように、いろんな人を遣わしてくださり感謝します。今までもいろんな辛い経験がありました。しかし、主は私を癒してくださり、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせてくださいました。ハレルヤ!主こそまことの神です。あなたのくださった平安と喜びと希望を感謝します。家族を感謝します。結婚を感謝します。仕事を感謝します。このように、恵みを数えていきます。「ああ、なんと私は主の恵みを当たり前のように受けてきたのだろうか?」とガクゼンとします。不思議なことに、最初の祈りは「私たち」でしたが、最後は「私」になります。「私の神さまはすばらしい」となるのです。礼拝の土台は、やはり、自分と神さまとの関係です。「世界で、私が一番、神さまから愛されている」と考えても間違いではありません。

詩篇111:3-5「そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。主は、その奇しいわざを記念とされた。主は情け深く、あわれみ深く、主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。」私たちが神さまを礼拝し、神さまをほめたたえるとどうなるのでしょうか? ノーベル・ヘイズ師は『いつも礼拝していなさい』という本の中で、神のみわざにはどんなものがあるか教えています。第一に神のみわざは、いやすことです。聖書には、たくさんの病の癒しや奇跡が記されています。いやしを受けた人は、必ず、神様を礼拝し、神さまをほめたたえています。使徒の働き3章の生まれつき足なえ人が癒されたらどうしたでしょうか?彼は「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美した」と書いてあります。第二に神のみわざは、経済的な必要が満たされることです。神さまがノーベル師にこう言われました。「私が望むのは、私の民が私を礼拝して過ごすことです。私の望むのは、私の教会が礼拝することです。しかし、それ以上に私が望むのは、一人ひとりが私を礼拝することです。特に、一人ひとりが私の前で一人でいる時にです」と。先生が神を礼拝し、ほめたたえることを第一にすると、先生にも先生のミニストリーにもお金が入って来るようになりました。教会員も同じです。さまざまな必要やお金がないことにばかり目を留めるのではなく、神を礼拝し、神をほめたたえ、天に目を向けることにもっと多くの時間を費やさなければなりません。アーメンです。詩篇1115「主を恐れる者に食べ物を与える」と約束されています。第三に神のわざは、御霊からの贈り物です。先生はこう述べています。「あなたが神を礼拝し、ほめたたえるとき、それはあたかもごちそうと盛り沢山の食物が備わった神の食卓に座るようなものです。神の食卓の上にある1つ1つのお皿には、救い、癒し、信仰、奇跡、解放、知識、知恵などが盛られています。あなたは食べたいだけ、それらの容器に手を伸ばして、食べて良いのです。あなたは食べるとき、それを一回一回、よくかんでください。口に入れるたびに喜びをもって食べてください。そうすれば、あなたは堂々とそれを受け取るようになるのです。」アーメン。

私たちは神さまと契約を結ぶべきです。詩篇1115「主は、その契約をとこしえに覚えておられる。」そもそも、契約というものは私たち人間からするものではなく、神さまから私たち人間に交わされるものです。神さまは最初、エデンにおいて、アダムと契約を結ばれました。アダムは神を礼拝しながら、何でも神さまに従いました。しかし、堕落してからは、神よりも自分が大事だと思うものを礼拝するようになりました。堕落した人間にとって、もはや、神さまが第一ではありません。自分の願い、自分の生活、自分の命が第一になり、そういうものをかなえてくれる神さまを礼拝するようになったのです。ある人たちはイエス様を信じてクリスチャンになるかもしれません。でも、どうでしょうか?神さまが第一になっているでしょうか?相変わらず、自分の願いをかなえてくれる神さまを求めているのではないでしょうか?ただ相手が偶像の神さまから、まことの神さまに変わっただけです。どうでしょう?あなたは自分の大切なものをささげるかもしれません。時間をささげ、お金をささげ、自分の生活をささげるかもしれません。実際、今、こうやって皆さんは、日曜日の午前中をささげ、献金し、聖書の教えに自分の生き方を修正し、神さまに従って行こうとしています。私たちはここで、確かに神さま礼拝を捧げているのです。でも、お聞きします。みなさんは、自分の命を神さまにささげているでしょうか?本当の礼拝とは、自分自身を神さまに捧げて、神さまをたたえることであります。『いつも礼拝していなさい』という本で、このような契約を神さまと結びなさいと書かれています。「イエス様、私はあなたをほめたたえます。主よ、私はあなたを愛しています。あなたは私の主であられ、私の神であられます。主なる神の御名がとこしえにほめたたえられますように!主なる神さま、あなたを礼拝し、あなたをほめたたえます。あなたこそ、生けるまことの神であられます。ああ、神さま、私はあなたと契約を結びます。すなわち、私は生きている限り、イエス様の御名をほめたたえ、あなたを礼拝するという契約です。主よ、感謝します。私を弱い者ではなく、強い者としてくださることを。主なる神の御名がとこしえにほめたたえられますように。ああ、イエス様、あなたを礼拝します。あなたの聖なる御名をほめたたえます。主よ。感謝します。あなたを礼拝し、あなたをほめたたえます。イエス様の御名によって」。もし、あなたが神さまと契約を結び、神さまをほめたたえ、神さまを礼拝することを始めるならどうでしょう?あなたは神さまが備えておられる豊かな命に入るようになり、それがあなたを自由にしてくれるようになります。神さまはあなたを祝福したいと願っておられるのです。

3.礼拝による奇跡

私たちは問題や困難の中でも神さまを礼拝すべきであります。ある人たちは「問題や困難が解決したら、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえますよ」と言うかもしれません。そうではありません。私たちは問題をぶらさげてでも、神さまの前に平伏して礼拝をささげるべきです。礼拝というギリシャ語は「プロスキュネオー」と言いますが、かつてペルシャやギリシャでは、王様や神さまの前に平伏して、床や地面、足または衣服の裾に接吻しました。「平伏して崇拝する」これが礼拝の意味であります。福音書を見ますと、ある人たちはイエス様の前に平伏して、自分たちの必要を申し上げました。会堂司ヤイロの一人娘が死にかかっていました。ヤイロはどうしたでしょうか?マルコ5章、彼はイエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」と願いました。ヤイロはイエス様の前に平伏しました。イエス様はヤイロの信仰を通して、一度死んだ娘をよみがえらせてくださったのです。それから、らい病人がイエス様のところに自分を清めてくださいとお願しました。最近の聖書はツアラトと訳されています。ルカ5:12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」彼は、イエス様に平伏してお願しました。つまり、イエス様を礼拝したのです。イエス様はなんとおっしゃったでしょう?ルカ513イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。アーメン。ツロ・フェニキアの女性はどうだったでしょうか?彼女は最初、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」と叫びました。しかし、イエス様はひとこともお答えになりませんでした。しかし、彼女は途中からアプローチを変えました。マタイ1525「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。つまり、イエス様を礼拝したのです。すると、イエス様は子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と言われました。彼女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。そのとき、イエス様は「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりなるように」と言われました。イエス様とこの女性とのやり取りは、どうだったでしょうか?おそらく、彼女は平伏しながら、イエス様に求めたのではないでしょうか?私たちは自分の問題をくどくどと言ってはなりません。神さまはあなたの問題をすでにご存知なのです。その代わり、神さまを礼拝し、神さまと時間を過ごすのです。神さまは私たちの礼拝を喜び、私たちが求める救いを与えてくださるのです。

『いつも礼拝していなさい』の著者ノーベル・ヘイズの娘は、3年間、麻薬の中にいました。先生がどんなに努力しても、娘にそれをやめさせることができませんでした。先生は、ただ、娘のためにあわれみを求め、泣いて祈るばかりでした。なぜなら、娘の友だち5人か6人、麻薬のやりすぎで死んでいたからです。電話が鳴るたびに、悪魔が「お前の娘のことだぞ。娘は死んだんだよ」と言いました。先生は「イヤ、娘は死んではいない。イエスの御名によってやめろ、サタン。お前に命じる。娘から手を離せ、彼女を解放しろ!」と祈りました。さらに、先生は神さまの前にひざまずいて礼拝しました。3年間そのように祈りました。ある晩、彼女が麻薬をしていたクラブの天井が父の顔に変わりました。彼女は飛び起きて、そこから走り去りました。部屋に帰ると、男性二人分くらいの天使が訪れました。その天使が現れると彼女は「ああ、あーっ!」と言いました。そして、その日から今日まで、彼女はもう麻薬をやっていません。ノーベル・ヘイズ師はこう勧めています。「神さまが事を行う仕方は、あなたの仕方とは少々違うかもしれません。けれども、私の言うことを信じてください。あなたの問題は神にとってむずかしすぎるものではないのです。ただし、あなたは第一にすべきことを第一にすることを学ぶ必要があります。あなたは神を礼拝しなければなりません。あなたの口から神の御名を語り、出してください。あなたの口から神への礼拝が出てくるようにしてください。こう言ってください。『イエス様、あなたを礼拝します。あなたを愛します。』」

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2010年8月22日 (日)

人間の成長と家庭   詩篇139:13-16、箴言22:6

 本日から4回に渡って、「良き家庭の形成」というテーマで話させていただきます。日本には聖書という土台がないので、子どもを物みたいに考えています。本来教育は人格とマッチしなければなりませんが、学校では知的な面しか教えてくれません。家庭も会社と同じように分業制みたいに分けるところがあります。年を取って働けなくなれば存在価値までなくなります。このような人生は、創造主なる神さまがいない、進化論的な価値観から生まれてきます。もし、私たちが聖書的な価値観で育てられたならなんと幸いでしょう。きょうは、人間の成長過程において、何が最も重要なのかメッセージさせていただきます。

1.胎児期

胎児期で知るべき重要なテーマは、お腹の中にいる赤ちゃんは一人の人間であるということです。人間の誕生はいつから始まるのでしょうか?法的にはいつから一人の人間として認められるのでしょうか?多くの人たちはお母さんのお腹から、「おぎゃー」と生まれた時から、その子の人生が始まると言います。しかし、聖書は受精した瞬間から、その人の人生が始まると書いてあります。詩篇139:13-16「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」ここでは創造主なる神さまが、骨格や人格形成にいたるまで参与していると書かれています。子どもは親の欲望や都合で生まれるのではありません。神さまが両親に新しい命を与えることをお許しになったと考えるべきです。神さまが「ご自分の代わりに育てるように」と、その子を両親に託したのであります。もし、そのような考えがなければ、一人の人格を持った人間として、尊厳をもって、育てることが不可能です。

学者は、「赤ちゃんは、お腹にいるときから、かなりのことをキャッチしている」と言います。特にお母さんの怒り、悲しみ、不安などが、お腹の赤ちゃんに伝わるそうです。お母さんが緊張すると、赤ちゃんの心臓の鼓動が高まり、血圧も上がるそうです。たとえば、お母さんが「早すぎたわ、中絶すれば良かった」と思ったとします。すると、赤ちゃんの霊に大きなダメージを与え「私はこの世にいてはいけない存在だ」と考えます。生まれて大きくなっても、心の深いところに、自殺願望やお母さんに対する怒りがあるそうです。ある男性が、「私はだれとも友達になれない。自分の家族ともうまくいかない」と悩みを打ち明けました。カウンセラーは彼と話していて、心の深いところに拒絶感があるのを知りました。彼は言いました。「覚えている限り、私は小さい時から、いつも人に嫌われていて、避けられていて、からかわれていました。私が何も言わないのに、何もしていない先から、人から拒絶されていることを感じました」。カウンセラーは「一緒に祈って、この拒絶の根っこがどこにあるか、神様に示していただきましょう」と言いました。祈ってから二日後、彼は夢を見ました。あたかも本当に起こっているかのような夢で、部屋の壁の色、カーテンの色まで見えました。ある男性がお母さんをののしって、最後にお腹を蹴飛ばして出て行った夢でした。お母さんに電話でそのことを話すと「一体だれがそんなことを教えたの」と驚いて、信じようとしませんでした。それは実際にあったことで、彼が9ヶ月目のとき、父親が家を飛び出したそうです。胎児の彼は父親を怒ってさばいたのです。彼が父親と母親を赦す祈りをしたら、人と会話がだんだんできるようになったそうです。

ルカ1章に、イエス様をみごもったマリヤがすぐにエリサベツのもとを訪ねて行ったことが書かれています。マリヤがエリサベツを訪ねたとき、エリサベツのお腹の中にいたバプテスマのヨハネが喜んで踊りました。それは、バプテスマのヨハネの霊がすぐさま、マリヤのお腹の中にいるのがイエス様であるということが分かったからです。近年「胎教」ということが良く言われます。妊娠5か月頃から音を聞き分ける能力が発達し、8ヶ月頃にはほぼ完成するそうです。そのため、良い音楽を聞かせたり、両親が仲良く暮らすことが大事なのです。つまり、子育ては誕生したときからではなく、妊娠中から始まっているということです。

2.幼児期

幼児期のテーマは、愛情あふれる養育です。0歳から2歳までは、基本的信頼感を学ぶ大事なときです。これがあると、周りの人々や、人生に対して心を開いて接することができます。さらには、神様にも心を開いて接することができます。基本的信頼感は日本語的には「絆」と言っても良いでしょう。両親との絆が浅いならば、人間関係も難しくなります。なぜなら、人を信頼することを学んでいないからです。0~2歳までの赤ちゃんは、いくらだっこしても十分過ぎるということはありません。随分、昔ですが、人の手で触れることが欠けている赤ちゃんがどうなるか実験しました。そういう赤ちゃんは生きる力がなくて、死んでしまいました。いくらお乳、栄養を提供しても、触れられない赤ちゃんは、栄養を吸収して生きる力につなげることができないのです。家庭において父親が不在で生まれ育った子供、あるいはいつも怒っている両親、問題があり愛情表現が欠けた家庭で育った子供、なぐられ虐待された子供は、基本的信頼を持つのが困難です。赤ちゃんにはスキンシップだけではなく、励ましの言葉が必要です。赤ちゃんはそれらを頭ではなく、霊で捉えることができるからです。

2歳から4歳までは大変な時です。独立心が芽生え、何でも「いや!」と言いたがります。また、親に反抗し、何でも自分でやろうとします。目を離したら何をするかわかりません。可愛らしかった赤ちゃんが、怪物のように見えてくるでしょう。このときに、親がしてはいけないことが3つあります。1つは無視(ニグレクト)です。ニグレクトは子どもにとって、親から見捨てられたという気持ちがします。2つ目はことばと肉体的な虐待です。親はある場合は、感情にまかせて、どなったり殴ったりします。そうすると子どもの中に親に対する怒りが生まれます。エペソ64に「子どもをおこらせてはいけません」書いてあるのはそのためです。3つ目は子どもの言いなりになることです。英語でspoil「甘やかす」という意味は、「だめにする」という意味があります。つまり、ちゃんとした境界線を決めるということです。叱るときは叱る。その後、赦して、ぎゅっと抱きしめるのです。害を与えるのは、「あなたは良い子でしょう。悪い子は私の子どもじゃない」という条件付きの愛です。子どもは「ありのままでは受け入れてもらえない」ので、本音を隠して、良い子を演じてしまいます。親の顔色を見て生きるで、大人になったら、ひきこもりになる可能性が大です。

これは私の考えですが、0歳とか1歳児を保育園に全部任せるのは良くないと思います。人格形成において、一番大事なときに他人に任せるというのはどうでしょう。保育師は親ではありません。子どもにとって、親を独占したいのに、十人いたら十分の一になります。みんなでおもちゃを分け与える前に、自分のものは自分のものと主張して良いときが必要です。自分のものがあってはじめて、他の人にも与えることができるのです。幼い時に家庭という所属感、自分のものであるという所有意識が必要です。その後で、人と分かち合ったりすることができるのです。心理学によりますと、6歳まで人格の骨組みが決まると言われます。それ以降は内装、カーテン、付属品です。しかし、日本では経済的な必要が第一で、共稼ぎをして育児に手かけることができません。大人になってから、得られなかったものを得るのは、そのときの何百倍もかかります。ですから、親は幼児期の子どもに対して、愛という投資をたくさんしましょう。

3.成長期

6歳から12歳までは成長期であります。テーマは主体性であります。箴言22:6「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」。「その行く道にふさわしく」とは、「神さまがその子どもに与えた気質や能力にふさわしく」という意味です。「教育」educationとは、ラテン語の「引き出す」に由来しています。つまり、真の教育とは、人間の可能性を外からの働きかけによって引き出すことを意味します。しかし、日本の教育は知識を詰め込み、規格品のような人間を作ってしまいます。最近、チャーチ・スクールがいろんなところで開かれていますが、聖書の価値観を土台とした全人格的な教育を目指しています。子どもが、家から学校へ行き始めると、全く環境が違います。これまでは「かわいい」「頭が良い」色々ほめられてきたかもしれません。しかし、学校へ行くと、いろんな悪口を言われます。勉強や体育ができなくても、色々言われます。学校の先生からも、他の人と比べられ落ち込むでしょう。ですから、それまで基本的信頼感が心に十分に築かれていないと、偽りを信じるようになります。「自分は、本当はダメなんだ。能力や才能がないんだ。人から嫌われ、受け入れられないんだ」と思うようになります。

そういう時こそ、親とのコミュニケーションが大事です。小学校の頃はまだまだ、親とよく話します。三男が「友達から馬鹿と言われた」と帰ってきました。私は「有悟は頭が良いんだよ。パパと友だちが言うのとどっちが正しい?」と聞きました。学校は子どもにとっては戦場です。いじめられたり、嫌なことがたくさんあります。ですから、私も家内も、学校に行くときは毎日、手を置いて祈りました。また、寝る前も祈ってあげたり、一緒に祈ったりしました。祈りというのは、本当にすばらしいと思います。祈りの中で励ましたり、本当のアイディンテティを教えてあげることができます。このとき、お母さんと、お父さんの役割が多少違います。お母さんは母性本能から、子どもを守ろうとします。子どもは家庭で泣いても良いのです。多少、甘えても良いのです。でも、お母さんだけが子育てに関わると、どうしても子どもを依存的にさせてしまいます。子育てのために父親も必要です。なぜなら、子どもに社会性を教えることができるからです。子どもに「パパも何度も失敗したよ。失敗しても大丈夫さ、また立ち上がれば良いんだ。」と、チャレンジを与えます。特に男の子は冒険が好きで、一緒に遊んだりすることが必要です。ある子どもが「パパ、一緒に遊ぼう!」と言いました。お父さんは「ん、あとでね」と言いました。また、子どもが「パパ、一緒に遊ぼうよ!」と言いました。その時もお父さんは「ん、今、忙しいんだ、あとでね」と言いました。やがて、お父さんは定年退職し、大きくなった息子に言いました。「たまには家に遊びに来いよ!」。息子は「ん、今、忙しんだ。あとでね」。子どもと一緒に遊べる時間というのは、本当に一時期です。

この時期に父親の役目を果たさなかったり、あるいは離婚すると、子どもに大きなダメージを与えます。日本の場合は父親がいても、忙しくて家庭にいません。よくあるケースですが、お母さんが子どもに自分の悩みを相談します。本来なら夫に分かち合うべき深い内容まで話します。そうすると、「お母さんこうしたら良いよ」と子どもはカウンセラーになります。お母さんの悩みことを一杯聞いて、最後にはパンクします。アダルトチルドレン(大人子ども)というのはこのために起こります。子どもは子どもらしく生きるべきです。すぐ大人になってはいけません。子どもは、親のもとで、のびのびと、安心して暮らす時が必要なのです。

4.思春期から大人

12歳から19歳くらいまでです。親から自立して自分の足で人生を歩み始めるときです。このときのテーマは個別化です。「自分は自分で良いんだ」というアイディンテティが確立するときです。ヨシュア19「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」この時期は、体つきは、もう大人ですが、精神はものすごく不安定です。親に逆らって自由になりたいけど、親の世話になっている状態です。口では反抗していますが、心の中では親から理解してもらいたいのです。思春期はまさしく人格が統合するときです。英語では、integrate、人格が統合、融合するということです。これがうまくいかないと、統合失調症ということになります。この病気は遺伝とか環境が複雑に絡み合って生まれるので、一口には言えません。でも、だれしもが程度の差はあれ、思春期に「一体、自分はだれなのか?人間は何のために生きているのか?」と悩むのではないでしょうか?ある女子中学生が学校の先生に「何のために勉強するのですか?」と聞いたそうです。すると先生は、「そんなくだらないことを考える暇があったら、単語の1つでも勉強しろ」と言ったそうです。その女子中学生はそのあと、自殺したそうです。学校の先生も「人生の目的は何か、何のために勉強するのか」分からないのです。だから、伝道者の書12章で「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」と言っているのです。

思春期における人格形成によくないものは、親のダブルバインドです。子どもに「どこの学校に進んでも良いよ。お前の好きなところへ行って良いよ」と言います。しかし、実際に「こうしたい」と言うと、「なんだよ、そんなところ」と喜んでくれません。本年と建前というのでしょうか?ブルバインドは、それをもっと強力にしたものです。また、この頃は、異性の問題も出てきます。ポルノにはまる恐れもあります。日本では親子で性の問題を言うのは難しいかもしれません。ですから、教会のジュニアとか学生会でこういう問題を扱うと良いと思います。何でも相談できるお兄さん、お姉さん的な人が必要です。また、思春期に良くないのがコントロールです。「親子パック」というタイプがあるそうです。親が自分が叶えられなかった夢を子どもに託します。たとえば、お母さんは音大のピアノ科卒。しかし、自分は一流までいかなかった。今度は、子どもにはちゃんとピアノをならわせて一流にしたい。母親は「まだ、だめ。ぜんぜんだめ」と叱ります。子どもはお母さんにどうしたら認められるのか?気に入られるために、一生懸命に頑張る。しかし、到達できない。そういう子どもに限って、リストカットや拒食症が多いそうです。親は子どもの人格を認め、手放す、自由にさせることが大事です。

 大人とは何でしょう?どういう人を大人と言うのでしょうか?私は「自分で決断し、その結果に対して責任を持てる人である」と思います。では、親が子どもの自立を妨げてしまう最も、してはならないことは何でしょう?それは、親が子どもの代わりに決断をすることです。もし、親が選択して決断したならば、どうでしょうか?子どもが失敗したならば、親が責任を取らなければなりません。親はアドバイスしても良いのです。「これと、これがあるよ」と、いくつか選択肢を提供することはできます。しかし、選択し決断するのは本人がすべきことです。本人が決断したならば、本人が責任を取るしかありません。ある場合は、失敗するかもしれません。でも、そこから、また学ぶことができます。しかし、親が子どもの代わりに決断したら、子どもは不安になり、自分で決断できなくなります。すると、死ぬまで親が面倒みなければなりません。大学も、仕事も結婚相手までもそうなります。それでは、本当の自立にはなりません。子育ての一番の目的は、自立することであります。でも、その自立は神さまと共に歩める人になることです。私たちの父なる神さまは万事を益としてくださる神さまです。失敗さえも、益にしてくださるお方です。

聖書の時代は、13歳になったら、その若者は大人とみなされた。この成人式は「バルー・ミツバ」と呼ばれ、「神聖なる律法の子」という意味です。これからは、両親の救いから抜け出して、自分が神の前で責任をもって生きるということです。エリア・ハウスでは「ティーン(10代)への親のアドバイス」というのがありましたので、最後に分かち合いたいと思います。

・ティーンは幼い子供のようにコントロールすべきではない。

・「手放す」ことを始める。コントロールしたい気持ちを抑える。

・たとえ失敗したとしても、信じてやる。

・無条件に愛情を降り注ぐ。

・いつも、いつも、物事の意味を教えてやってはいけない。自分で学ぶ体験や、決断の機会を奪ってしまわないために。

・自分(親)の失敗について語る(自己弁護したり、動機を説明したりせずに)。

・もし父親、あるいは母親として、やり過ぎをやめることができず、子供の反抗がさらにひどくなっていく場合には、親戚か友人の家にしばらく預けること。距離を置くことで緊張が和らぎ、親のやり過ぎとティーンの反抗という悪循環を止めることができる。このように親から離れると、実際には多くの場合、ティーン自ら正しい決断をする。これまでそうできなかったのは、親が「正しいのは自分」という態度でいたからである。

 きょうは、偉そうなことを言いましたが、私自身が「子育てが成功したのか?」と問われたならば、「60点くらいかなー」と答えるでしょう。なぜでしょう?私も父や母、兄弟、先生からいっぱい傷を受けてきました。私自身が世の中の基準に合わなかったからかもしれません。しかし、私は律法ではなく、神さまの恵みを知りました。恵みは、数学で言うなら、方程式を覚えた時くらいの感動です。この世の方式ではダメだったけど、神さまの方式では解くことができたのです。家系の呪い、成育史における傷、様々な罪やトラウマ…神さまは癒してくださいます。そして、より良い家庭を、子どもから孫へと、自分の後から残すことが可能になります。出エジプト20: 6「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」神さまは呪いよりも、恵みを私たちに与えたいのです。

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2008年4月 6日 (日)

神様との親密な交わり    詩25:10-14 

 きょうから7週間、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」というテキストから、特別なメッセージをお届けしたいと思います。ヘブンは神様とも訳せますので、「神様に触れることによって、変えられる人生」という意味になります。このテキストは7週間、つまり49日間で終えるようになっています。作者のエディレオ師から「依存症から解放されるためには、別の新しいことを49日間、やり続けると解放される」と聞きました。つまり、新しいライフスタイルを身に着けるためには49日間続ける必要があるということです。「49日」とは、仏教でも特別な数字であり、何か関係があるのかと思います。あるいはぜんぜん、ないかもしれません。きょうは、「神様との親密な交わり」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.神を恐れる

神様との親密な交わりを学ぼうとしているのに、まず「神を恐れよ」とは、一体どういうことでしょうか?旧約聖書を読みますと、神様は全宇宙と私たちを造られたお方であることが、まずわかります。つまり、神様は創造者であり、私たちは被造物です。神様と私たちとは、まったく違うのです。神様は聖なるお方であり、私たちよりもはるかに高いところに住んでおられます。私たち人間には罪があり、本来、神様には近づけない存在です。新興宗教の方々は、神様がまるで友達であるかのように錯覚しています。「親神様」とか、「エホバ様」などと、親しくは言えないのです。では、どのようにして神様との交わりが確立されるのでしょうか?それは、救い主イエス・キリストのあがないのゆえであります。イエス様が私たちの罪を十字架であがなって下さったので、私たちはイエス様を通して、神様に近づくことができるのです。イエス様は、ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。そうです、神様への道は、イエス・キリストだけなのです。この世には、いろんな教祖やいろんな儀式や、いろんな教えがあるかもしれませんが、どれもこれも真の神様に到達することができません。イエス様だけが唯一の道なのです。この一点において、人間が作った宗教か、それとも神様が定めて下さったものなのかが分かります。クリスチャンは、キリストに属するという意味ですから、私たちはキリスト様のゆえに、神様に近づくことができるのです。

しかし、その前に、私たちは神様を恐れなければなりません。箴言1:7「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあります。また、伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と書いてあります。本来、私たちは何を始めに学ばなければならないのでしょうか?それは「神を恐れる」ということです。私たちが、第一に必要なのは、算数とか国語の知識ではありません。「神は創造者であり、私たちは被造物である。だから、私たちは神を恐れなければならない」ということです。ユダヤ人は家庭で親がそのことを教えます。もし、日本の学校でこのことを教えるならば、細かい校則は不要であります。女子学院の最初の校長、矢島楫子先生は、すべての校則を撤廃しました。明治時代の女学校では、外出は月に1度、外出は舎監の許可を得ること。門限は7時を厳守、髪飾りはつけぬこと、着物は地味な紺か縞物、その他 履物、ショール、小遣いの額まで定められていました。男女の交際はもちろん厳禁です。矢島楫子先生はそうした校則らしい校則を、すべて取り払いました。そして、生徒たちにこう言いました。「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と。この校則撤廃はみごと功を奏し、生徒たちの自立の精神を大いに伸ばしたということです。当教会にも、特にきまりはありません。普通の教会では「信徒必携」みたいな手帳を渡していますが、うちにはありません。世の中にたくさんの法律やきまりがあるのに、教会に来まで、きまりがあったらどうなるでしょうか。「神を恐れよ」という律法1つで、この世も教会もおさまりがつくのではないでしょうか?世の人たちは、神を恐れていないので、人が見ていないところで悪いことします。だから、法律をたくさん作っても、犯罪は減らないのであります。

では、主を恐れるとどのような祝福を得るのでしょうか?詩篇12:12-14「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」とあります。主を恐れる人に主ご自身が、選ぶべき道を教えてくださいます。その結果どうなるでしょうか?第一に、幸せの中に住むことができます。第二はその子孫は地を受け継ぎます。第三は主がその人と親しくされ、ご自身の契約を知らせてくださいます。人間ならだれしも幸福になりたいものです。でも、幸福を人生の目的にしてはいけません。主を恐れて暮らすと、その結果、幸せになるのです。では、主を恐れるとは具体的にどういう意味でしょうか?テキストに書いてあります。「主を恐れるとは、たとえだれが見ていなくても、罪を犯しません。主を恐れる人は、神様はどこにもおられ、私たちの思いと態度と行いを知り、それを瞬時にさばくことを悟っています」と書いてあります。残念ながら、日本人にはこの考えがありません。日本人は神ではなく、人の目を気にして生きています。箴言29:25「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」とあります。人の顔色をうかがって生きる人は、とても不自由な人生です。私もかつては、人の目を恐れて生きていました。でも、人の目というものはいい加減なものです。いい加減な人の目に、自分を合わせて生きていくなら混乱してしまいます。子供は親からあまりにも「ああじゃない、こうじゃない」とうるさく干渉されると、子供は子供らしくなくなります。親の顔色を伺って育った子供は、思春期のとき自分を確立できなくなり、精神的な病気になるのではないでしょうか。「神様が見ているんだよ。そして、神様が報いてくださるんだよ。人ではなく、神様を恐れて生きるんだよ」。子供にこのように教えるならば、心に平和と統一性が与えられるでしょう。アーメン。

2.神と交わる

 神様は私たちと親密な関係を持つことを望んでおられます。キリストは十字架で私たちのすべての罪をあがなってくださいました。ですから、私たちは大胆に神様の御座に近づくことができるのです。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。クリスチャンになると、神様が天のお父様になり、私たちは神の子供になります。子供はお父さんに気兼ねなく、何でも話すことができます。ところが、「天のお父様」と言うと、「もう一人いたなー」と地上の父親を思い出します。地上の父親と親しい関係がなかった人は、癒しが必要です。この私も、まだ癒しの途上です。先週、子供を連れて日光江戸村に行ってきました。1つものすごく感動したことがありました。手裏剣の的当てコーナーがあって、小さな女の子が投げていました。1回500円で、5枚手裏剣を投げることができます。的にいくつ当たったかによって景品がもらえるようになっています。忍者の格好をしたお兄さんが指導してくれますが、女の子が投げても、手裏剣が的に刺さらず、ポロっと落ちます。本当は5枚でおしまいなのですが、はい、「あと2枚あるよ」となかなか減らない。7枚くらい投げてやっと1つ刺さりました。女の子が最後の1枚を投げました。すると、そのとき、お兄さんも同時に手裏剣を投げました。一度に2つ刺さり、合計3つになりました。女の子はそれで景品をもらえるようになりました。私はそばで見ていて、嗚咽するくらい感動しました。家内には涙をかくしていましたが、「神様は律法主義の神様ではなく、あわれみ深い天のお父様なんだ」ということを思い浮かべることができました。

では、何が親しい神様との、交わりを妨げるでしょうか?イザヤ59:1,2「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」とあります。「咎」はヘブル語では「ペシャ」と言い、「決められた制限、限界線を越えて、逸脱する行為」という意味です。神様は私たちに制限とか限界線を与えておられます。しかし、私たちはそれを飛び越えてしまうときがあります。たとえば、私には妻が一人おり、大変親しくさせていただいております。しかし、私が他の女性に妻と同じことをするならば、それは咎であり、決められた制限を越える罪になります。また、「罪」はヘブル語では「ハタート」と言い、「的からはずれること、または、的に達しない」という意味です。本来、私たちは隣人を愛すべきなのに、愛が足りなかったり、愛でないものを渡したりします。親切さを忘れ、怒りや意地悪で返したりすることが、たまにあるのではないでしょうか。もし、私たちの心に咎とか、罪があるならどうなるでしょうか?それは対人間のことだけではありません。そういう罪が、神様との仕切りとなり、神様の御顔が隠されてしまうのです。最初はレースカーテンかもしれませんが、やがて分厚いカーテンになり、最後にはコンクリートの壁になったらどうなるでしょうか。

私たちの心が頑なにならない前に、すぐ神様の前に出る必要があります。Ⅰヨハネ1:7-9「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。Ⅰヨハネはクリスチャンのために書かれたものです。私たちはイエス様を信じるときには、自分が犯した個々の罪は悔い改めませんでした。「今まで、神様に背を向けていましたが、向きを変えて、あなたに従います」。これが、信じるための悔い改めです。この種の悔い改めは一生に一度あれば良いでしょう。でも、クリスチャンなってからの罪の悔い改めは、天国に行くまで続きます。私たちは罪あるこの世で毎日、生きています。ですから、いろんな汚れを受けたり、自らも罪を犯します。身の魂も次第に、汚れてくるわけです。私たちは毎日、衣服を洗濯をし、お風呂に入って体を洗います。歯もみがくし、顔を洗うでしょう。また、うがいもするでしょう。罪の悔い改めはそれらと全く同じです。体をきれいにするのは、石鹸とか水でが、私たちの心をきれいにするのは何でしょう。それは、御子イエスの血です。イエス様が十字架ですべての罪をすでに支払ってくださいました。一生分の罪の代価が前払いされているのです。私たちがこの地上で、罪を悔い改めるとき、天国の口座から代金が振り込まれるのです。そして、犯した罪が赦され、すべての悪からきよめられるのです。ハレルヤ!

神様は「私たちが自分の罪を悔い改めないと決して赦さない」というお方ではありません。よく、親が子供に「しぶとい子ね、早くごめんなさいと言いなさい」と強要します。親は子供が「ごめんなさい」を言うまで気持ちがおさまらないので意地になります。しかし、天の父はそうではありません。天の父は私たちが「ごめんなさい」を言う前からすでに赦しておられるのです。「キリストにあって、私はあなたをすでに赦しているよ。私との交わりを回復するために、その罪を言い表しなさい」とおっしゃっているのです。悔い改めよりも、罪の赦しが先行しているのです。私たちはキリストにあって、すでに赦しの中にいるのです。だから、「私はこれこれ、しかじかをしてしまいました。どうかお赦しください」と告白できるのです。問題は、神様にあるのではありません。私たちの側にあるのです。「雲上快晴」という言葉を聞いたことがあります。雨の日は、太陽が見えず、薄暗いですね。でも、ジェット機で飛ぶとどうなるでしょうか。「雲上快晴」であります。神様は私たちをいつも無条件の愛で愛しておられます。神様の愛は、私たちの状態によって、変わることがありません。私たちがちょっと、顔を上げて神様に向けるなら、光が差し込んできます。私たちは「罪を悔い改めろ」といわれなくても、罪を持っているのがいやになるのです。どうぞ、神様の無条件の愛を腹一杯、心一杯、魂一杯いただきましょう。

3.神を愛する

神様は私たちの父です。私たちは神の子供として、父なる神の愛を受けるべきです。その次に、私たちは何をすべきでしょうか?それは、神様を愛し、そして隣人を愛するということです。神様を愛し、隣人を愛することは、神様の愛への応答であります。月が太陽の光を受けて、反映しているように、私たちも神様の愛を受けて、反映することができます。しかし、月を見ると光の量が毎日のように違います。半分しか光っていないときもあれば、三日月のときもあります。新月になるとほとんど光っていません。これは、私たちが神様にどのくらい向いているかということと同じことです。主の御顔を半分しか見ないで、半分しか従わないならば、半月の明るさです。主の御顔をあまり見ない、ほとんど見ない人は、三日月か新月の明るさでしょう。でも、主の御顔をまっすぐ見て、全き心で従おうとするなら、満月の明るさであります。満月の明るさで、神様の愛を反映したいですね。

では、神を愛するという具体的な行為は何でしょうか?それは、神様と交わることです。神との交わりの中には、神様を礼拝すること、聖書を読むこと、神様に祈ることが含まれます。こういう日曜日の公の礼拝も大切ですが、日々、自分の生活の中で主と交わることも大切です。また、神様から与えられた賜物によって、奉仕することも大切です。奉仕はキリストのからだなる教会の奉仕もあるでしょうし、この世に出て人々に仕えることも奉仕です。会社の仕事や、家事を神様の御前でするようにしたらなんと幸いでしょう。そして、神様の戒めに喜んで従うこと、これも神様を愛する現われであります。ヨハネ14:21「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」アーメン。私たちが神様の戒めを守るならば、イエス様が私たちに現れてくださるのです。テキストにはこのように書いてあります。「神様が命じられたみことばを、私たちが守り、行うならばどうなるでしょうか?もし、私たちが神様を愛するなら、神様は確かに、ご自分を私たちに現してくださるでしょう。その意味は、神様が私たちに現実となってくださるということです。主を愛している人は、主を経験することができるようになります。」「神様が私たちに現実となる」。なんと、すばらしいことでしょう。遠く、インドネシアだけではなく、この日本においても、私たちは神様を体験することができます。

 もう1つ、神を愛するという具体的な行為は何でしょうか?それは兄弟姉妹をも愛するということです。Ⅰヨハネ4:11,12「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。ヨハネは口をすっぱくして、「互いに愛し合いなさい」と勧めています。なぜでしょう?私たちがよく使う「教会」は、建物とか組織を連想させます。でも、元来、「教会」をさす聖書の「エクレーシア」は、「神の民、神の共同体」という意味です。イエス様のもとに、3人、4人、5人集まり、互いに愛し合うなら、そこが教会になるのです。私はセルチャーチということを10年以上も、提唱しています。互いに愛し合える人数は何人くらいでしょうか。80人では無理です。おそらく、20人も無理でしょう。10人が限度ではないでしょうか?私たちが育った家庭や、学校では、「互いに愛し合う」ということを学びませんでした。みんなライバルであり、弱さを隠して生きています。私はある人たちが提唱しているように、裸になることは不可能だと思います。ありのままになり、思ったことを何でも言うというのは、主にある兄弟姉妹の交わりではありません。エペソ人への手紙4章には「新しい人を身につけるべきである」と書いてあります。新しい人とは、キリストを着るということです。裸の部分にキリストを着る時、相手を尊敬して、徳を高めるようなことばを出すことができます。また、裸の部分にキリストを着る時、自分の弱さが気にならなくなります。また、キリストを着る時、相手から何か言われてもあまり傷つかないです。裸だと、けっこう痛いんじゃないでしょうか。背中なんか、ペシッとたたかれたら痛いですね。「裸になったら、傷ついてしまった。もう、二度と、心を開かない」という人もおられるかもしれません。やはり、人格の一番深いところに、キリストを着ましょう。そうすれば、互いに愛し合うことができます。

 きょうは、「神を恐れる」「神と交わる」「神を愛する」と3つのポイントで学びました。どうぞ、上なる神様と交わりましょう。上から力をいただきましょう。そうすれば、兄弟姉妹を愛することができます。また、この世に対して、キリスト様を証することができます。「タッチングヘブン・チェンジングライフ」。手を伸ばして、神様に触れることによって、あなたの人生が変えられます。

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