2017年11月10日 (金)

ファリミー礼拝「新しくつくられる」Ⅱコリント5:17 亀有教会牧師鈴木靖尋 2017.11.12

 新しくつくられる 

「あれ、死んでいるのかな。全く動きません。」「美しいちょうになりました」全く別の姿に生まれ変わりました。これが「新しくつくられる」ということです。

「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しくつくら れたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてがあたしくなりました。 Ⅱコリント517

「新しくなった」とは、全く姿が変わったという意味です。

1.創造(そうぞう)

 神さまはことばによって、広い宇宙を創られました。 そして私たちが住んでいる地球も造られました。

 自然も

 山々、川、海 木々や植物も

 動物も

 昆虫、魚、鳥、そして、動物(哺乳類)おっぱいで育つ動物

人間も

白、黄色、黒、茶色…

肌の色はみな違いますが、みんな赤い血が流れています。

神さまによってくつられた。 しかし、人間は神のかたちにつくられた。手作りの作品である。

 ここに黒っぽい茶碗があります。なんと、500万円くらいします。私たちは神さまの手作りなのでひとり一人違います。大量生産でつくられた製品ではありません。

 あなたをつくったのは神さまで生んだのはお母さんである。

 これはお母さんの中の赤ちゃんです。 あなたもこういう時代がありました。今は、大きな口をたたいていますが…

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立て

 られたからです。詩篇13913

「組み立てた」は英語の聖書ではknitted me together   編んだ(毛糸のように編んだ)細胞核のDNA…なんだか毛糸を編んだように見える。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わた
しはあなたを愛し

 ている。イザヤ434

 あなたは、高価なダイヤモンドのように価値があるのです。 道端に落ちていても、汚れていてもダイヤやダイヤです。

2.罪(つみ)

アダムとエバが罪を犯してから、すべての人に罪が入りました。 心が壊れたような状態です。神さまと人とも分かり合えない。 冷たくて霊的に死んだ状態です。

 互いに憎み争う…罪があるからです。

 友達どうし喧嘩をします親子で喧嘩をします。ぷんぷん。

 人間は神さまが分からない…罪があるからです。 ?

 キツネが神さま? いや、仏様? 本当の神さまが分からない。人間が作ったものを拝んでいる。

 自分が分からない…これも罪の結果 ?

 学校では、人間はサルからだんだん進化したと教える。 サルに似ている人がいますが、ご先祖がサルなんでしょうか?

 混乱…罪があるから。人間の本当の価値は何なのでしょう?

 「勉強のできる子、できない子」頭の良さで決めます。

 「行ないの良い子、悪い子」行いできめます。

 日本人はよくがんばりますが、自分の価値を上げるため?

3.まことの人・神

 イエス様は神さまですが、私たちと同じ人間として生まれました。なんと赤ちゃんからスタートしました。 完全な人間として成長しました。 イエス様はまことの神であり、まことの人でした。

 神さまをあらわした。

 イエス様はこの世に来られて、神さまをあらわしました。父なる神さまと親しく交わり、みこころを行いました。 「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。

 神の国と義を教えました。

 イエス様は神の国がどういうものなのか教えました。また、神さまが求める正しさは何なのか教えました。イエス様の教えを聞いた人たちは、私も神の国に入りたいと思いました。

十字架のあがない

 人はそのままは神の国に入ることができません。罪があるからです。イエス様は私たちの罪を取り除くために、十字架にかかって死んで下さいました。それは罪の中にある私たちを買い戻すためでした。

  よみがえられた

 イエス様は死んで3日目に、墓からよみがえられました。イエス様がすべての罪を解決したという証拠です。イエス様は死と悪魔に勝利され、栄光の姿になられました。

4.救い(信じる)

 人はどうしたら罪赦され、救われるのでしょうか?十字架で死んで、よみがえられたイエス様を救い主として信じる必要があります。 信じるとはイエス様を心の中にお迎えすることです。

神の子になる

 イエス様を信じると、神の子どもになります。神さまが天のお父様になります。 地上のお父さんと天のお父さまがいます。地上の父母はあなたをずっと守ることはできません。父なる神さまはこれから先、永遠にあなたを守り、導いてくださいます。

新しく生まれる

肉体的にはお母さんから、霊的にもう一度生まれる。

新しく造りかえられる

芋虫から蝶に変身!

人生の回復

イエス様を信じると心が癒され、失っていたものが回復されます。以前は壊れたバイオリン、ゴミ箱に捨てられていました。神さまはあなたを見つけ出し、造りかえてくれました。名手によって握られて、美しい曲を奏でるようになりました。神さまはあなたの人生のために目的を持っておられます。

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2015年6月26日 (金)

親子逆転と代理配偶者 Ⅱコリント12:14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.28

 親子逆転という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?日本では子どもが親の手伝いをすることは美徳とされています。特に片親が親の役目を果たしていない時、長男もしくは長女が家を支えるということがあります。とかくそういう子どもは頭が良くて、能力があります。だから、周りの人たちは「良くやっているわねー、偉いわねー」とほめます。でも、そういう子どもが大きくなると、周りの人たちから嫌がられます。なぜでしょう?とかく仕切りたがるからです。その人はとても優秀かもしれません。でも、その人といるとなんだか支配されているような感じがするのです。その人が結婚して家庭を持ったとします。外にいるときは解放されて自由ですが、家の中ではたくさんの責任を負っているので気が休まることがありません。自分もしくは身近な人のことで思い当たるふしがあるでしょうか?


1.親子逆転とは


サンフォード師は『内なる人の変革』という本の中で、このように定義しています。「親子逆転」とは、片親もしくは両親が未熟過ぎたり、親としての務めを果たせていなかったりするため、子どもが自分の親の親代わりになるという責任を負ってしまうときに起こる問題を表現する用語です。これは神の定めた秩序を逆にするものです。子どもが気兼ねなく子どもでいられ、安心できる家庭を提供することは親の務めです。親が子どもの面倒を見るのであって、その逆ではありません。様ざまな雑用や責任を任せていくことは子どもにとって良い訓練ですが、家族の面倒を見るという責任の重圧は、あくまでも子どもではなく両親の方に置かれるべきです。親子逆転の罪は、憎むのが難しい罪です。多くの人にとって、それが人生の「崇高な」目的となってしまっているからです。その犠牲的な奉仕は、みことばに基づいたもののように思えます。しかし、神が私たちに、人のために自分のいのちを捨てなさいと言われたのは、神ご自身のためであって、私たちの傷ついた心からくる不純な動機のためではありません。なぜそこに罪の側面があるかというなら、うまく務めを果たしていない親に対して、軽蔑の気持ちが隠されているからです。親を敬うことが必要であり大切なのですが、親によって失望させられ、がっかりした気持ちを抱いてしまっています。


 歯科医でエリヤハウスの奉仕をしておられるジョンという人の証です。私は1950年、4人兄弟の長男として生まれました。父は一生懸命働きましたが、給与が良くありませんでした。父は2つの仕事を持っていたために、家にほとんどいませんでした。それでも豊かとは言えず、月末になると、食べ物が家に無い状態がありました。私は10歳で新聞配達をし、弟にも自分のもとで働かせ、小遣いをやりました。月末に食糧がなくなると、自分の稼いだお金でステーキを家族に食べさせました。私が家族の必要を満たしているという誇りを持ちました。弟や妹は喜んでくれたし、母も自分の息子はすばらしいことをしていると思っていました。ただし、お父さんは複雑な表情をしていましたが、なぜだか分かりませんでした。私は自分のことを誇りに思っていました。夜、父が仕事に出て行くと、母はいろんなことを話してくれました。確かに、母が息子に対する特別な関係だったかもしれません。しかし、そういう自分に誇りを抱いていました。私は弟と二人の妹をいつも守っていました。弟やもう一人の妹が、幼い妹をからかっているとき、「妹をもっと大事にしなさい」と叱りました。一番下の妹が私を慕ってくれたことを誇りに思っていました。私は弟を狩りや魚釣りに連れて行きました。お父さんが自分でやってくれたらいいのにと思ったことを弟にやってあげました。弟は自分のことを愛してくれたし、私も弟を愛しました。そういう自分を誇りに思っていました。



 彼の証の中に時々出て来たフレーズは何だったでしょうか?そうです。自分を誇りに思っていたということです。それから、彼自身の中にあった隠された思いとは何でしょうか?なぜ、父親は複雑な表情をしていたのでしょうか?彼自身がおっしゃっていますが、父を愛していましたが、尊敬はしていなかったのです。なぜそこに罪の側面があるかというならば、うまく務めを果たしていない親に対する軽蔑の気持ちが隠されていたからです。彼は大人になってどういう人になったでしょうか?彼は、頼るべき強い人になるという態度を身につけました。職場でも教会でも私が一番、献身においても私が一番と思っていました。彼は牧師に仕えましたが、牧師から祝福されたいという気持ちになれませんでした。時々、牧師よりも自分の方が良くわかっていると思いました。彼は「自分が重要だ」と思うあまり、他の人のことを認めることができませんでした。彼は家庭を持ちましたが、子どもたちに最高の子育てをしなければならないと思っていたので、ちっとも平安がありませんでした。自分の家庭を持っても、なお自分の弟のことを面倒見ていました。弟はすでに立派な大人だったのに狩りに連れて行きました。彼は親子逆転の典型的な例だと思います。彼の中には自分が一番だというプライドがありました。職場でも教会でも、家庭の中ででもそうでした。


2.親子逆転の実


大人になったときに現われる、親子逆転の実とはどういうものでしょうか?

・弱い人々を助ける強い人間

・問題解決をする人、命を与える人

・どんなに疲れていても休むことができない

・周りの状況を常にコントロールし、人間関係が常に上手にいっていなければ気がすまない。

親子逆転の夫は「嫁と姑」の口論を見ていられません。本当は口論をしながら、二人で仲直りしていくものです。子どものときに、たくさんの喧嘩を見てきたので、そういうことは想像もできません。一方、親子逆転の妻の場合は、気も体も休まることがありません。ストレスがたまる生き方をしています。

・何事もうまくいっていなければ気がすまない

・人を信頼するのが難しい。自分の方がちゃんとできると信じているので他の人に任せることができません。他の人の自主性を奪います。また、夫婦の場合は、配偶者を出し抜こうとします。夫もしくは妻の役目を奪い、人間性を尊敬することができません。

・神を信頼することが難しい。 神さまのすることを、弱くて助けが必要な存在と思っています。だから、「私にはできません」と言えません。

・高慢さ。この人は「崇高な殉教者」です。人々と神様のために尽しているのに、なぜ人から恨まれるのか分かりません。

・非常に大きな恐れ。 「もし自分が今やっていることをやめてしまったら、家族の生活や自分の生活、世の中すべてがめちゃめちゃになってしまう。私のせいで」と思っています。

・乱暴や無秩序にどう対処していいかわからない

・感じることができない。問題が起こると、感情を殺して理性で解決しようとします。配偶者や子どもたちと親密な関係を築き、一体になることができません。


 今、思えば、私の一番上の兄と一番上の姉が親子逆転の傾向を持っていました。我が家は8人の兄弟がいましたが、父が国鉄をやめてから働かないで毎晩お酒を飲むようになりました。時々、怒り出しては母を殴り、私たち子どもにも暴力が及ぶことがありました。一番上の姉はお嫁に行ってからも、実家の私たち兄弟を経済的に支えてくれました。長女はいつも母の見方でした。また、一番上の兄は稼業を継がないで、関東の会社から仕送りをしてくれました。母は長女を「姉さん」、長男を「兄さん」と呼んで頼っていました。しかし、私たち下の子どもは、長女のお世話が好きでありませんでした。彼女が買ってくれたセーターや靴が気に入りませんでした。また、長男がお盆や正月に帰って来ますが、私たちを「百姓」と馬鹿にしました。勉強を教えるとき「こんなことも分からないのか?」と見下しました。また、お年玉を投げるようにくれたので、ありがたいとは思いませんでした。特に上から二番目の兄は頭があまり良くなかったので、良くできる長女と長男を心の底から憎んでいました。つまり、親が親らしく経済的にも精神的にも治めなかったので、下にいる子どもたちが不安になったのです。長女や長男が家をささえたので、バランスがくずれてしまったのです。成人してから長女の家や長男の家を何度か訪問したことがありました。その時は分かりませんでしたが、今思うと、親子逆転の実がそれぞれの家庭にもあることを知りました。長女の家では、彼女が忙しく動いて、一緒にテーブルに座っていることができません。長男は会社にいるときは明朗活発でとても能力がありますが、家ではとても支配的です。彼らは自分を犠牲にして、私たち弟や妹の世話をしてくれました。私たちが高校を出られたのも、彼らのおかげです。でも、彼らは父親をとても憎んでいました。「なんで私が、なんで俺が」と怒りを持ちながら、実家を支えたからそうなったのだと思います。


3.親子逆転のいやし(ミニストリーをする人の立場から)


まず、自分の親を赦すことです。ある人は、ちゃんとしてくれなかったお父さんを赦すのは簡単でした。しかし、そこにいたお母さんを赦すことができませんでした。だから、両親を赦すことが必要です。注意することは、その人の気持ちの部分を取り扱うことです。心の奥に怒りが隠されていることをわかってもらいます。「それでも自分で頑張ることができる子どもの絵」を見せます。子どもが親の代わりをするのはフェアーではありません、無理です。心の中が怒りでいっぱいになります。自分自身の子ども時代を失った怒りとさみしさがあります。親の面倒をみることが、子どもの責任でないということをわからないうちにやっていたからです。しかし、もっと深い部分において、だれも私の面倒を見てくれる人はいないと思っていました。周りの人は利用するだけなんだと怒っていました。子どもらしさを失った小さな子どもがいます。基本的信頼感、つまり、お父さんがみんなを守ってくれることを信頼できなかったのです。エリヤハウスでは癒しを行なう場合「5本の指」のステップで行います。


第一は認識です。何を赦すべきか、ということを認識するように助けます。いなくなった親、かまってくれなかった親に対して腹を立てたこと(憎しみを持ったこと)が分かるように助けます。心の動機が隠されています。

第二は親を赦す祈りをします。親がしたこと、あるいはしてくれなかったことについての赦しのことばをイエス様に聞いてもらい、受け入れてもらいます。

第三は悔い改めです。親をさばいたことについて悔い改めます。神様を弱々しいと思ったことも赦さなければなりません。大切なことは、大人の自分が赦すことを選ぶことです。神様がその人の子供の部分に触れて下さるように祈っていきます。

第四は十字架と復活です。親子逆転の構造とその行ないを十字架につけます。新しい構造が与えられるように祈ります。

第五サポートです。新しい行ないを勧め、励まします。可能であれば、親に電話して「愛しているよ」と伝えます。親や配偶者、同僚をコントロールしようとするのをやめます。指摘されたら、コントロールしようとしていたことを認めます。


 さきほどの、ジョンはどうなったのでしょうか?ここからは彼の証です。「神様どういうことでしょう?私は一生懸命、最高の自分になろうとしています。私の仕事を見ても成功しています。子どもは良い服を着ています。みんなをバケーションにも連れて行ってやっています。それなのにどうして私の人生に問題があるのでしょうか?」。妻が私にミニストリーをしてくれました。彼女は私に言いました。「あなたは私に対しても距離を置いています。他の人に対しても距離を置いています。そして、人々を遠のけています。あなたは私を自分の心の中に入れません。他の人も心の中に入れません」。ジョン。私には石の心があって、自分自身と他の人々の間に高い壁をめぐらしていました。他の人には許容範囲内で恵みを与えていました。私は自分の心の動機が間違っていたことを悟りました。自分がすべてのことを面倒見ていかなければならないと思っていました。私は母のことを赦しました。自分の父をさげすんでいたことに気づきました。自分は父親を尊敬していないことに気づきました。神さまに対して悔い改めました。父に対して悔い改めました。妻に対して悔い改めました。母に対して悔い改めました。そして、父を赦すことを選び取りました。父は私たちに食べさせるため一日16時間働いていました。そのため不在だったのです。父を赦しました。それから、父は私のことを赦してくれた。母も私のことを赦してくれました。妻も私のことを赦してくれました。神様も私のことを赦してくれました。親子逆転のパターンが次の世代へと受け継がれていきます。けれども私は子どもたちが大きくならないうちに、カウンセリングを受けたので、そのパターンを止めることができました。神様は家族の悪いところを止めて、癒すことができます。


4.代理配偶者


代理配偶者は親子逆転のさらに深刻な形です。親が同性、あるいは異性の子どもに対して不適切な頼り方をする時に生じる状態です。母親もしくは父親が不在のとき、たいていは、異性の子に不適切な心理的な頼り方をします。子どもが残された親に対し、肉体関係までは行かなくても、配偶者のようになります。心理的な面で夫と妻になります。息子(娘)が母親(父親)に性的な思いを抱くことが決してなくても、無意識のうちに、好ましくない感情と刺激とを打ち消さなければなりません。心の深い部分に、「これは母親(父親)だから、そんなふうに思ったり、感じたりしてはいけない」という声にならない思いが生じてきます。そして、子どもは性的な欲求が起こったとき、スイッチを切るメカニズムが生まれてしまいます。その人が大人になり結婚したときに、妻もしくは夫と自由な関係を持つことができなくなるのです。たとえば、夫が亡くなってしまった場合、妻は夫に話すべきことを長男に話すかもしれません。長男は彼女のカウンセラーのようになって、「こうしたら良いんだよ」とアドバイスをします。長男はお母さんを愛しているのですが、なんだか恋人のように思えてきます。お母さんも長男を恋人みたいに思えてきます。お母さんから抱きしめられると変な気持ちになります。実際はそうでないので、長男は「こんなことを感じてはいけないのだ」とスイッチを切ってしまいます。やがて長男が結婚したとき、自分の妻がお母さんのように思えてしまって、親しい関係を持つことができないということです。これは娘とお父さんという、逆の例にもあるということです。代理配偶者は親子逆転よりもさらに深刻なものです。親が心理的な必要を満たすために、子どもを打ち明け相手にするからです。


こういうことは、日本ではあまり話さない内容ではないかと思います。日本は恥の文化なので、かつてこういう状況があったことを話さないでしょう。でも、代理配偶者であったことの実が必ず現れます。特に、結婚生活がうまくいかなくなるということです。それでは、どのようにしたら癒されるのでしょうか?現在、ミニストリーを受けている人の多くは、両親から離れて生活しています。親子逆転や代理配偶者の実のほとんどは、親以外の身近な人々との関係において現われます。まず、両親を赦すことです。そうすると、自分をそのような行動に駆り立てている力が取り除かれ、変化が起こり始めます。また、お父さんもしくはお母さんと出来てしまった心理的な関係を御霊の剣によって断ち切る祈りも必要です。親に対する隠れた憎しみと怒りを悔い改めます。そして、新しい生き方を身につけるようにします。


きょうは、親子逆転と代理配偶者という、普段は話さない内容を分かち合いました。しかし、この教えを分かち合った後も、罪の問題なのかどうなのか分からない人がいます。なぜなら、その人は責任感が強くて、成功し、すばらしい生活、豊かな生活をしているからです。やっていることはすばらしいかもしれません。しかし、心というか、動機の面で罪があります。その人は、何故こういうことをしているのか、自分が何でもかんでもコントロールしていることを気がついていません。そして、まわりの人を傷つけ、汚していきます。なぜなら、コントロールは愛を生み出すことができません。天のお父様はすべてのことを担っており、だれよりも力があります。それなのに神様は、一方的に私たちをコントロールしません。愛のゆえに自由にして下さいます。エリヤハウスでは「コントロールすることは殺人に近い」と教えます。なぜなら、コントロールされている人は良い気がしないからです。人間性を尊重されていないと感じます。その人は、愛で接しているのではありません。コントロールによって人との関係を持っています。コントロールとは愛の反対から出ているものです。だから、親子逆転の罪を認め、悔い改める必要があります。もし、あなたがそれをしないならば、子どもから孫へと転嫁されていきます。長男が長女が一番のターゲットになります。せっかく彼らが親孝行をしているのに、罪とされるのは遺憾なことであります。でも、それは神さまの秩序に反していることなので、悪い実がみのってしまいます。そういう人は偉大なる父なる神さまのもとで安らぐ必要があります。そういうい人は、子ども時代がなかったので、安らいだことがないのです。詩篇23篇にはこうあります。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

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2013年4月29日 (月)

~見えないものにこそ目を留める~  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<Ⅱコリント人への手紙 4:13-18>

4:13

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15

すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


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コリント人への手紙は、異邦人伝道を行ったパウロがコリントの信徒へ送った手紙です。

コリントはギリシャの港町で、パウロはそこに1年半ほど滞在し、そこで出会ったアクラとプリスキラという夫婦とともに伝道をした場所です。


コリントでは、パウロはユダヤ人からかなりの迫害を受けていました。また、キリスト者の中にも、パウロがイエス様の12弟子、12使徒のひとりではなかったことから、パウロの使徒性を疑う人がいました。その上、誤った教えを説く偽教師が現れて、コリントの信徒を惑わしたりしたので、パウロは心を痛めていました。


そのような偽りに惑わされている信徒に対して、パウロは苦難に立ち向かえる信仰が持てるようにと励まし、永遠のいのち、永遠の栄光について力強く語っています。

そして、「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めるように」と教えています。


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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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さて、ここでいう”見えるもの”と”見えないもの”とは何でしょうか。


“見えるもの”は、16節に書かれている“外なる人”と関連があり、私たちの死ぬべき肉体。外見的な優秀性、生まれながらの性格や欲望などを含めて、外なる人に属する一切のものを指します。


今日のこの第二コリントの箇所は、何週か前に鈴木牧師がメッセージされた、“土の器”の箇所の後に書かれています。“土の器”というもろい肉体を持った私たちの外なる人は一時的でいつかは衰えて滅びます。


そして、“見えないもの”は、同じく16節に書かれている“内なる人”と関連があり、外見によっては分からない、神様によって日々新しくされる部分です。イエス様の十字架によって、やがて到達する永遠の栄光を含めて、内なる人の喜ぶ一切のものを指します。この内なる人はいつまでも続きます。


クリスチャンは、この外なる人と、内なる人を併せ持っているという現実があります。

ですから、たびたび内なる人が外なる人に支配されて葛藤を覚えることがあります。


では、見えないもの(内なる人)に目を留めるには、どのようにすれば良いのでしょうか。


◆見えないものに目を留めるには・・・


①聖書のみことばを人生の基準とする。


私たちが住んでいるこの世界にはいろんな基準や教えがありますが、聖書はその中でも、特別な書物として扱われています。旧約聖書、特にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、おもに律法について書かれています。この律法のことを、ヘブライ語で“トーラー”と言い、“教え”という意味があります。旧約聖書は、キリスト教だけではなく、ユダヤ教、イスラム教でも、教えの土台となっています。


キリスト教は、この旧約聖書を土台として、新約聖書を使います。

新約聖書には、旧約聖書の預言が、新約聖書においてひとつひとつ成就されて行った様子が記されています。


私たちキリスト者にとって、聖書は、神様からの啓示や、私たちが人として生きて行く上で、最も大切な戒めから、生活に必要な知恵や知識、また、愛や励ましまで、たくさん詰まっている神様からのラブレターです。


66巻の聖書の記事を「正典(あるいは聖典)」といいます。「正典」のことを古典ギリシャ語では「カノン」と言います。「カノン」とは「葦」という意味です。葦の節は、ものさしのように同じ幅で刻まれていることから、正典=カノン=葦=ものさし=基準という意味になります。


私たちが使っているこの66巻の正典は、諸説ありますが、4世紀ごろ、たくさんのユダヤ教、キリスト教について書かれた書物から、正典に選ばれたものです。正典に選ばれなかったものでも、外典として使われている書物もあります。カトリックは、ソロモンの知恵やベン・シラの知恵の書とか、マカバイ記などの外典を正典にしています。


いずれにしても、聖書が神の霊感を受けて書かれたものであって、絶対の権威があることは一致しています。


ですから、見えないものに目を留めるには、まず、①聖書のみことばを人生の基準として、ぶれない信仰を保つことが大切です。


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<詩篇 119:105 >

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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と書かれている通りです。


私が神学校に行っていたころ、ある先生から、説教者の心得としてこのようなアドバイスをいただきました。

それは、「感動的な、泣ける話を語って、聞く人にその例話が印象に残ったとしても、どんなに優れたパフォーマンスで語って“あの先生すごい!話にどんどん引き込まれた!”と褒められたとしても、説教を聞いた人に、聖書のみことばが残らなければ、その説教は失敗だ。」というアドバイスです。

逆に言えば、「例話だとか、誰が語ったとか、そんな事は全部忘れてもらってもいい。聖書のみことばが聞く人に残ればいい。」という事です。ですから、私はその言葉を肝に銘じて、メッセージが終わった後に、「あれ?今日の聖書のみことばは何だったっけ?」とならないように語ることを目標にしています。


みなさんも、ただ礼拝に来て、メッセージを聞くのではなく、今日、引用している聖書のみことばを1節でもいいので覚えて行っていただけたらと思います。


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<詩篇 119:105 >

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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とか、本日の聖書個所から、


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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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とか、覚えて帰っていただけたらなぁーと願います・・・。


また、日頃、聖書を全く開かないという方もおられるかもしれませんが、聖書通読はとても大切です。

聖書は本棚の飾りでもなく、持ち歩けば良いというお守りでもありません。読みましょう!Read the Bible!!

書いている内容が解らなければ、鈴木先生や、私や、聖書に詳しい方に聞いてください。


◆見えないものに目を留めるには・・・


②イエス様を模範として見えるものを吟味する。


私たちは目に見えるもの、外見的なもの、この世の価値観に縛られています。


例えば、普段の会話ですが・・・

これは、アメリカの心理学者、アルバート・マレービアン博士による、人が他人から受け取る情報(感情や態度など)の割合についての実験結果です。


●マレービアンの実験の結果は・・・・

*顔の表情 55%

*声の質(高低)、大きさ、テンポ、 38%

*話す言葉の内容 7%


なんと私たちは、実際話す言葉の内容からは7%しか情報を受け取らず、残りの93%は顔の表情や声の質によって他人を判断しているというのです。その中でも人が目で見て判断する表情、動作などの割合の大きさは55パーセントと高い率。


ですから、今私がここで一生懸命話していても、みなさんには、私の表情とか、声の感じなど、どうでもいいことが93%届いていて、肝心の話の内容が実際は7%しか届いてないということになります。


これでは困ります・・・。みなさんは、この話をどこまで信じますか?

しかし考えてみれば、私たちがこの目で見ているものというのは、すべて自分の基準や、自分のものさしで見て判断しているのです。


人間の視覚の基準ほどいい加減なものはありません。もうひとつ、ある心理学の実験でこういった実験があります。


<ストラットンの視野逆転実験>


視覚と知覚の実験ですが、簡単に言うと・・・


物が上下逆さまにみえる眼鏡、“逆さま眼鏡”を被験者にかけてもらって、8日間過ごしたところ、最初は上下が逆さまに見えていたのに、そのうち逆さま眼鏡をかけていても上下が正常な位置に見えるようになったという実験です。


実験が終わって逆さま眼鏡をはずすと、今度は、眼鏡をかけていないと逆さまに見えるらしく、眼鏡をはずして何日かすると、また上下が正常な方向に戻ったそうです。


これは、人間が目で見ているものは、視覚だけではなく、聴覚、触覚、位置感覚、内部感覚が関係して判断しているということの証明です。つまり、何が逆さで何が正位かは、何が基準になっているかによって決まるのです。空は上にあって、地面は下だというのは、その位置づけが正しいと私たちが感覚的に思っているから、そのように見えるのです。


つまり、目に見えるものは、すべて自分の基準で判断しているのです。ですから、同じ人物を見ていても、ある人には、ものすごく素敵に見えても、ある人には全く逆に見えたりするということが起こるのです。


そこにもし、恋心などが加われば、素敵に見えていた人は更に素敵に見え、ぜんぜんイケてないと思っていた人が突然素敵に見えたりするという現象が起こります。


こんな話を聞くと、自分が見て、判断しているものは正しいのかなぁーと心配になってきます。


でも、大丈夫です!

私たちクリスチャンにはイエス様という私たちの人生の基準であられる御方、また、最高の模範を見せてくださった御方がおられます。イエス様が、私たちをどのように愛して、接して下さったか、そのイエス様の愛にどのように私たちが応えていけば良いのかを聖書が教えてくれています。


イエス様の価値観で目に見えることや出来事を考えてみると、「失敗した!」と思うような出来事があったとき、それは本当に失敗だったのかと考えてみると、案外そうでもないということがあります。後で振り返ってみると、結果的には良かったと思えることがあります。


また逆に「うまくいった!成功した!」と思う事があった時、それは本当に成功したと言えるのかと考えてみると、案外そうでもないことがあります。


しかし、目に見えるものすべてが悪いものだというのではありません。

私たちの目に麗しく、喜ばしい出来事も、神様は私たちに与えてくださいます。今の時期であれば、お子様が入学したり、進級したりして、元気に学校に行く姿などを見ると、思わず目を細めてしまいますが、そのような時は、素直に神様に感謝して喜べば良いのです。


ただ、<Ⅱコリント 4:18>に書かれているように、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」のです。目に見えるもの、外見的なもの、この世の価値観に縛られるのではなく、自分の基準や、自分のものさしで判断するのでもなく、イエス様の価値観で見えるものを吟味して行くことが大切です。


◆見えないものに目を留めるには・・・


③イエス様から目を離さないで歩みましょう。


今日は、目に見えるものと目に見えないものの事についてお話をしてきました。

もうひとつ、みなさんにお伝えしたい大切な事があります。

それは、“イエス様から目を離さないでいる”ということです。


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<ヘブル書 12:2>

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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私たちは、このイエス様から目を離さないで、イエス様を見上げて歩んで行けばよいのです。

イエス様は、私たちが患難に遭ったとき、人生につまずいて倒れそうになった時、必ず助け、導いて下さる神様です。イエス様に信頼しましょう。


キリスト教が、他の宗教と決定的に違うことは、三位一体の唯一の神様は、私たち人間と人格的な交わりを持ってくださる神様だという事です。

父なる神様は、人間を創造されたときから、神の御姿に似せて造られ、私たちを特別に愛してくださり、人間に重要な任務をお与えになりました。聖霊なる神様は、私たちを助け、力を与え、きよめ、慰めてくださる神様です。また、特にイエス様は、神様でありながら、人間となってくださった御方です。

ヘブル書に書かれているように、イエス様は、ご自分の前に置かれた喜び、つまり私たちの救いのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架に架かってくださいました。そして、よみがえられ、天に昇り、父なる神様の右に着座されました。


・・・こんな神様は他にはおられません!!


イエス様のよみがえりの事実は、イエス様御自身が神の御子であることの証明です。また、よみがえられたことは、十字架による贖罪の完成のしるしでもあり、キリスト者の復活と栄化の保証でもあります。

このイエス様からけっして目を離さないで歩んで行きましょう!


もう一度、確認しましょう!

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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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◆見えないものに目を留めるには・・・


①聖書のみことばを人生の基準とする。

②イエス様を模範として見えるものを吟味する。

③イエス様から目を離さないで歩みましょう。


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2013年3月31日 (日)

復活を生きる       Ⅱコリント4:7-14

イースターおめでとうございます。復活祭のメッセージはどのようなものでしょうか?おもに2つの面から語られます。それは、2000前、キリストが墓を破ってよみがえったことです。キリストの復活こそが信仰の土台であるということです。もう1つは、私たちが将来、復活にあずかることができるという希望です。なぜなら、キリストが初穂としてよみがえられたのですから、私たちも死後よみがえることができるという保証です。一方は復活を過去の事実として語り、他方は復活を将来の希望として語ります。本日はそのどちらでもなく、復活を現在のこととして、お語りしたいと思います。なぜなら、復活の力を現在の私たちが体験できるからです。


1.宝の性質

 Ⅱコリント4:7「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」この宝とは何でしょうか?時間があったら、みんなで考えてもらうのも良いですね。礼拝ですので、私がいくつかあげてみますので、みなさんがお考えください。土の器とは、私たちの肉体です。イザヤ書には神さまが陶器師であり、私たちが陶器であると書かれています。陶器というのは、ご存じのとおり、欠けたり割れたりしやすい器です。「神さまはどうして、アルミとかステンレスのような金属の器にしなかったのかな?」と思います。しかし、それでは神さまの力が現れてこないからかもしれません。私たちの肉体は、土の器のように落ちれば割れる弱い存在です。でも、土の器の中に、宝があるということです。その宝には、測り知れない力があって、「ああ、それは自分のものではなくて、神さまから出たものである」と分かるということです。ということは、壊れそうでこわれない。死にそうで死なないということではないでしょうか?私たちは弱い土のような肉体を持っていますが、それだけではありません。計り知れない力が内側からあふれ出てくるということです。「なんだか、すごいなー。それは一体何だろう」と思います。でも、その前に、土の器に、宝を持っている人の特徴が4つありますので、1つ1つ取り上げてみたいと思います。宝を持っている人の特徴とはどういうものなのでしょうか?今回は、JB.フィリップス訳を参考にしながら学びたいと思います。

 第一は、Ⅱコリント4:8「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません」です。JB.フィリップス訳では、「あらゆる側面から圧迫されても、挫折しない」と書いてあります。挫折を意味するfrustrateは、「フラストレーションを起こさせない」ということでもあります。私たちは問題が起こり、思いどおり事が進まないとイライラします。でも、使徒パウロはどうして、イライラしなかったのでしょうか?それは、大いなる神さまの御手の中にあったからです。問題の向こうには神さまの御手があります。旧約聖書のヨセフは兄弟から妬みをかって、奴隷に売られました。しかし、主がヨセフと共におられたので、彼のすることをすべてを成功させました。しかし、主人の妻がヨセフを誘惑したので、ヨセフは上着を残して逃げました。ヨセフは嫌疑をかけられ、今度は監獄に入れられました。しかし、ヨセフは挫折しませんでした。監獄の中でも、主が彼と共におられたので、何をしても成功させてくれました。あるとき、パロの家来の夢を解き明かしてあげました。ヨセフは「あなたが幸せになったときには、私のことをパロに話してください」とお願いしました。しかし、家来はコロっと忘れてしまいました。それでも、ヨセフは挫折しませんでした。しかし、それから2年後、パロが夢を見ました。エジプトのすべて呪法師も知恵ある者もその夢を解き明かすことができませんでした。そのとき、家来がヨセフのことを思い出し、ヨセフは監獄から出され、その夢を解き明かしました。ヨセフはエジプトの総理大臣になり、大飢饉からエジプトを救いました。主が共におられるなら、四方八方から苦しめられても、窮することがないということです。

 第二は、「途方にくれていますが、行きづまることはありません」です。JB.フィリップス訳では、「困らされても、絶望しない」と書いてあります。困らされるは、puzzleということばです。パズルとは、困らせる人や物、難問、悩みという意味があります。これは、受け身形なので、だれかそういう人がいたり、そういう問題に出くわすということです。この世に生きている限り、敵対する人が必ずいるものです。また、めんどうなことや嫌なことが起こります。では、どうしたら行きづまることはないのでしょうか?私たちはどうしても、困らせる人物や事柄、あるいは嫌な問題に目が行きます。やがてそういうものが思いを支配して、それ以外、考えられなくなります。たとえば、歯が痛いと、歯のことしか考えられなくなります。同じように、嫌な人やめんどうなことに思いが集中してしまいます。どうしたら良いのでしょうか?鷲という鳥は、鶏やカラスとは違います。鶏は地面を見ながら、えさをついばみます。カラスは「カア、カア」と文句を言って、欠点を突っついてきます。カラスは小回りが利くので、鷲は突っつかれて、獲物を横取りされることがあるそうです。そのとき鷲はどうするでしょうか?天高く昇ります。向かい風が来れば来るほど、翼をかって高く昇ります。私たちクリスチャンは、力ある神さまの子どもですから、鶏やカラスとは違います。鷲のように、向かい風を捕えて、天高く昇るのです。どうぞ、日々起こる、問題に支配されないようにしましょう。主にあって、問題を踏みつけながら、成功と繁栄をいただきましょう。

第三は「迫害されていますが、見捨てられることはありません。」JB.フィリップス訳は、全く同じです。英語のdesertは、「家族、組織、職務から捨てられる」という意味があります。しかし、JB.フィリップスはbut we are never deserted「決して、見捨てられない」と訳しています。現代は終身雇用制というのがなくなってしまいました。「肩たたき」と言いましょうか、職場でも冷や飯を食わせられ、辞職に追い込まれることがあるようです。家庭内でも、子どもが育児放棄されることがあるでしょう。夫がどこかに行って、家に帰って来ません。それで、妻と子どもが淋しく暮らしている家庭もあります。本当にせちがらい世の中です。しかし、イエスさまは何とおっしゃったでしょうか?ヘブル13:5「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われました。特に日本では、キリスト教信仰を持っているだけで、目のかたきにされ、迫害に会う場合があります。黙っていたら、問題にならないでしょうが、福音を証すると必ず反対者が起こります。使徒パウロもユダヤ人から多くの迫害を受けました。でも、神さまはあらゆる迫害から、パウロを救い出しました。パウロは、Ⅱコリント1:10「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです」と言いました。迫害があればあるほど、神の救いを体験し、結果的に私たちの信仰が強くなるのです。台風のような嵐がヤシの木に当たったらどうするでしょうか?ヤシの木は、強風によって、ものすごくしなります。もし、ヤシの木に人格があったら、どう思うでしょうか?「この嵐は永久に続く」と思うでしょうか?それとも「この嵐は一時的である」思うでしょうか?もちろん「一時的」です。ヤシの木はしっかりと地面に根をおろして耐え忍びます。嵐が去ると、またピンと真っすぐ立ちます。嵐の中にあっても、イエスさまは私たちを見捨ててはいません。嵐を私たちの中に入れない限りは大丈夫です。

第四は「倒されますが、滅びません」です。このところは、JB.フィリップス訳がとっても有名です。「私たちはノックダウンされることもあるでしょう。しかし、決してノックアウトされません」と訳されています。ボクシングでは10カウントでノックアウトになります。でも、おきあがりこぼしのように、倒されても再び立ち上がるのです。これは自分の頑張りではありません。主が私たちを支えていてくださるからです。詩篇37:24「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」とあります。日本は「一度、倒れたらもうおしまい」という考えがあります。スキャンダルとか、何かの罪でさばかれると「あの人は倒れてしまった。もう終わりだ」とレッテルを貼ってしまいます。政治家も芸能人も牧師も、そう言われる時があります。ダビデは姦淫と殺人をいっぺんに犯しました。しかし、主が彼の罪を赦し、きよめてくださいました。ダビデは再び立ち上がり、すばらしい王として神さまから愛されました。倒れることは恥ではありません。倒れたままでいることが恥なのです。私たちクリスチャンは、世の中の人よりも厳しいところがあります。なぜなら、神のことばと律法を持っているからです。みことばの剣で人々を切り刻みます。そうではなく、私たちは神の恵み、神の善、神の愛、神のあわれみをもっと強調しなければなりません。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字は殺し、御霊は生かすからです。」私たちは古い契約ではなく、新しい契約に仕える者です。私たちは土の器ですが、内側から主が支えてくださっておられます。私たちは土の器ですが、主が共におられ、外側からも支えてくださっておられます。だから、土の器であっても、壊れそうで壊れないのです。なぜなら、この宝を、土の器の中に入れているからです。


2.復活のいのち

それでは、この宝とは何でしょうか?ある人は「それは福音である」、またある人は「キリスト御自身である」と言うでしょう。もちろん、そうだと思います。しかし、もっとはっきりとしたことが記されています。Ⅱコリント4:10-11「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」この宝とは何でしょうか?さきほど、土の器とは私たちの弱い肉体であると申しあげました。それは、間違いありません。でも、私たちは弱いままではありません。なぜでしょう?私たちの肉体に不思議な力が作用していることが分かります。使徒パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」あるいは「イエスのために絶えず死に渡されている」と言いました。簡単に言うと、イエスさまの十字架の死に似たものとなったということです。パウロはいろんな迫害や苦しみを受け、イエスさまの死に似たものとなりました。普通、死というものは嫌なものであり、そこには何の希望も光も見えません。でも、イエスさまの死とはどういうものだったのでしょうか?イエスさまは十字架で死にました。それは、私たちの罪のために罰を受け、贖いとなるためでした。では、イエスさまはそのままずっと死んでいたのでしょうか?そうではありません。父なる神さまが、「もう使命を果たした」とばかり、イエスさまをよみがえらせてくださいました。つまり、イエスさまの死は、死で終わってはいないということです。どうなったのでしょうか?そうです。三日目によみがえったのです。だから、パウロは「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」あるいは、「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」と言いました。

これはどういう意味でしょうか?イエスさまは、死んだけれども、復活しました。同じように、私たちも苦しみを受け、イエスさまの死と同じ状態にならば、どうなるでしょう?イエス様のいのちが明らかになるということです。なぜなら、父なる神さまが私たちをよみがえらせてくださるからです。ピリピ3:10-11「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」パウロは知っていました。キリストの死と同じ状態になると、復活の力が現れるということを知っていました。ここには神の逆説、パラドックスがあります。普通は死んだらおしまいです。私たちは、大けがをしたり、大病を患うと死にそうになります。普通は「ああ、もうおしまいだ」と思うでしょう。しかし、そのときにスイッチが入り、復活の命が作動するということです。この会堂の電気は、今は付いています。しかし、停電になったらどういうことが起こるでしょうか?実は天上には停電になったときにつく、電灯が4つ付いています。私たちはサイボーグではありませんが、あるところはサイボーグに似ています。この肉体が死に瀕するようなことがあると、なんと、自動的に復活の命が作動する仕掛けになっているのです。どうぞ、この世の人たちと同じように考えないでください。この世の人たちは、肉体の命がなくなったら、「もうおしまいだ」と諦めるでしょう。しかし、私たちはそうではありません。イエスさまの死を身に帯びているので、イエスさまのいのちが現れるときとなるのです。ジョエル・オスチーンのおばあちゃんが、お医者さんから「パーキンソン病の恐れがあります」と言われました。おばあちゃんは「私はそんな病気になるには年を取り過ぎています」と拒否しました。結局、パーキンソンにはなりませんでした。ジョエル・オスチーンのお母さんが、肝臓がんになりました。医者からもあと半年だと言われました。黄疸がひどくなりました。彼女は若い頃の写真を台所やトイレ、洗面台にはりました。そして、若い頃の自分をイメージしながら、癒しのみことばを唱えました。すると、癌がすっかり癒され、元通りになりました。これが、復活のいのちです。

Ⅱコリント4:14「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」と書いてあります。これは、将来のことだけを言っているのではありません。現在もそうだということです。クリスチャンであるならばキリストの復活を信じていると思います。「キリストが復活しなければ私たちの信仰はむなしい」とパウロが言いました。キリストは2000年前、復活しました。これは事実ですが、過去の出来事です。また、キリストは眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられました。これは、私たちも将来、キリストのように死後、復活するということです。死んでも、やがて復活することができるというのはすばらしい希望です。でも、それは将来の出来事です。それでは、キリストの復活は現在、何の力も果たさないのでしょうか?キリストの復活は、大事な教理として、額縁に入れて飾っておけばよいのでしょうか?そうではありません。キリストの復活は、死ぬべき肉体を持っている私たちに働いているのです。死にそうで、死なない。それは、キリストの復活のいのちを帯びているからです。キリストの復活のいのちこそが、土の器の中にある宝ではないでしょうか。この宝を持った者はどうなるのでしょうか?「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」アーメン。

ヨハネ11章に、ラザロの物語があります。イエスさまがベタニヤに到着したとき、ラザロが死んで既に4日たっていました。マルタはイエスさまに「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。マルタは「もう遅すぎます」と言ったのです。残念ながら、これは過去の信仰です。イエスさまはマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。マルタは「私は、終りの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。マルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると、信じております」と答えました。マルタはすばらしい告白をしました。しかし、残念ながら、それは未来の信仰です。なぜなら、イエスさまはラザロを終わりの日によみがえらせるのではなく、今、よみがえらせるとおっしゃったからです。イエスさまは「その石を取りのけなさい」と命じました。マルタは「主よ。もう、臭くなっておりましょう。四日になりますから」と言いました。これも、相変わらず過去の信仰です。イエスさまは彼女に「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか」と言われました。イエスさまは父に感謝した後、「ラザロよ。出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると、死んでいた人が、手足を長い布で巻かれたまま出て来ました。なんと、ラザロがよみがえったのです。イエスさまがここで示したかったことは、何でしょう?イエスさまのよみがえりは、過去でもなく、未来でもありません。いつですか?「今でしょう!」「今、私を信じる者は、死んでも生きるのです」と、現在の信仰を語られたのです。私たちはキリストの復活について語ります。もちろん、それはキリスト教信仰の土台です。でも、過去の出来事です。私たちは死後の復活について語ります。もちろん、それは私たちの究極の希望です。私たちは死後、復活するのです。でも、それは未来の出来事です。私たちが最も必要なのは、今どうなのかということです。キリストの復活が、現在の私たちにどう働いているかということです。私たちはキリストの復活という過去の信仰だけでは不十分です。また、私たちは死後の復活という将来の信仰だけでも不十分です。そうではなく、今、私たちに復活の力が働いているという現在の信仰が重要なのです。

私たちは地上で生活していると、打ちのめされるようなことがあります。たまに、「あー、へこまされた」とか「へこんだ」と言うときがあります。でも、よく考えてください。イエスさまは金曜日、十字架につけられて死にました。悪魔から見たら、完全にへこまされた状態です。土曜日になっても音沙汰なしです。悪魔は大喜びで悪霊たちと祝宴をあげました。「やった。イエスは死んでしまった。これからは俺たちの時代だ」と言いました。ところが、どうでしょう日曜日の朝、イエスさまは死を打ち破って復活しました。私たちの生活において、死に瀕するような金曜日があります。土曜日も何の音沙汰もありません。たとい、どん底に落ちても、日曜日が来ます。神さまがイエスさまを死人からよみがえらされたように、私たちをよみがえらせてくださいます。私たちは毎週、日曜日に集まり、「金曜日はいつまでも続かない。復活の日曜日が来る」ということを確認するのです。あなたの人生において、どんなに落ち込むようなことがあっても、復活の日曜日は必ずやってきます。

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2011年2月 6日 (日)

金銭の管理    ルカ16:10-13、Ⅱコリント9:6-8

信仰のDNAシリーズの最後の部分では、様々な管理について学んでいます。管理の中でも金銭は最も重要なテーマの1つです。教会がお金のことについて話すのは、意地汚いみたいに思われるかもしれません。一般的に宗教と言えばお金が付き物ですが、教会もそうなのでしょうか?お断わりしますが、キリスト教会は信者さんからお金を巻き上げるための宗教団体ではありません。でも、お金は非常にデリケートなものであることは確かです。なぜなら、お金のことで躓いて、教会に来なくなる人もいるからです。恐らくそこには、いろんな誤解があるのではないでしょうか?きょうは「金銭の管理」と題して、献金のことについて聖書から学びたいと思います。

1.献金の意味

 聖書で最も古いのは、創世記4章のカインとアベルが神さまに捧げものをしている記事です。カインはいくつかあるものの中から神様に捧げました。しかし、アベルは羊の群れから最上のものを捧げました。神様はアベルの捧げものに目を留められました。ヘブル11章では「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」と書いてあります。つまり、信仰がなければ、神さまには捧げられないということです。創世記15章にはアブラハムが十分の一を祭司であるメルキゼデクに捧げた記事があります。民数記18章にはイスラエルの民が十分の一を奉納物として主にささげることが命じられています。その十分の一は神さまに仕えるレビ人のものとなりました。旧約聖書には、農業あるいは牧畜で得たものの十分の一は神さまにお返しすべきであると記されています。そして、十分の一については、マラキ3章が最も有名です。マラキ3:8-10「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってであるあなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 このように十分の一は神の律法として、旧約聖書に記されています。では、新約聖書の私たちはこの律法を守らなくてはいけないのでしょうか?マタイ23章でイエス様がこのように言われました。マタイ2323「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」イエス様は律法学者やパリサイ人らに「十分の一よりも、正義とあわれみと誠実が大切である」と教えました。しかし、最後に「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」とおっしゃっています。つまり、イエス様は十分の一献金を認めておられるということです。しかし、旧約と新約で聖書全体が教えているメッセージがあります。それは何でしょう?すべては創造主なる神さまのものであるということです。詩篇241「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」ハガイ28「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。万軍の主の御告げ。」とあります。つまり、神さまが所有者で、私たち人間は管理者だということです。その証拠に、金銭や土地は死んだら手離さなければなりません。1坪の土地すらも、天国に持っていくことはできません。金銭や土地だけではありません。私たちの命、賜物、時間、家族、家、すべての持ち物は、神さまから預かっているのです。ですから、私たちはこれを正しく管理する必要があります。ルカ福音書1612-13「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあります。他人のものに忠実であるとは、神さまのものに忠実であるということです。もし、神さまのものに忠実であるなら、天国で私たち自身に豊かなものが与えられるということです。

では、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」とは、どういう意味でしょうか?富は中立的な存在です。しかし、私たちは神さまよりも、富に仕えることもあるということです。イギリスの古い格言に「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」というのがあります。もし、あなたがお金に支配されるなら、お金があなたを奴隷にするでしょう。主人であるお金にビシバシ打ち叩かれます。しかし、あなたがお金を良く管理すれば、お金はあなたに仕えるしもべになってくれます。あなたはお金の主人になりたいですか?それともお金のしもべになって打ち叩かれたいでしょうか?この世の中では、お金の奴隷になっている人がたくさんいます。では、どうしたらお金の主人になって、お金を正しく管理できるのでしょうか?それは、神さまを主人にするならば、お金の奴隷になることはないということです。では、具体的にどうすれば良いのでしょうか?聖書に、十分の一献金が数多く記されているのはそのためです。あなたが十分の一を捧げるとき、このようなことを神さまに告白していることになります。「神さま。この地上のすべての資源はあなたのものです。私の労働力もその賃金もあなたのものです。私は金銭を神さまとしません。あなたが私の主人です。その証拠に、十分の一をあなたに捧げます。これからも豊かにお支えください。アーメン」。十分の一を神さまにささげるということは、自分のすべての価値の源を神さまに置いているということです。マラキ書は「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と述べています。聖書で唯一「神さまを試せ」と言われている箇所です。どうぞ、本当に神さまが生きておられるのか、あなたご自身が試してください。

2.献金の仕方(心構え)

 献金を捧げるためにはいくつかの順番があります。一番、最初に来るものは何でしょうか?そうです。私たちは受けなければ与えることはできません。ジョン・ウェスレーはAll you can get,

all you can save, and all you can give.「できるだけ多く得なさい。できるだけ多く蓄えなさい。そして、できるだけ多く与えなさい」と言いました。捧げるためにはまず、受けなければなりません。そのために、私たちは神さまから知恵、労働力、導き、資源を得るべきです。残念ながら、私たちはお金や物質という目に見えるものを第一に求めがちです。しかし、神さまが私たちに一番与えてくださるのは、知恵とかアイディアなど目に見えないものです。今は天に召されましたが、当教会に山崎長老さんがいました。山崎さんは戦後、北朝鮮から引き上げてこられ、ゼロから会社を興されました。肺結核を患ったため体力的には限界がありました。しかし、山崎さんには知恵がありました。朝、静まっていると「こうしなさい」と神さまから知恵がやってくるとよく言っていました。もう一人、教会には、戸叶長老さんもおられました。戸叶長老は真面目な方で、奥様は知恵者でした。ご両人とも若い頃、肺結核を患ったので体力がありませんでした。しかし、奥様には知恵がありました。商売の知恵です。だから、戸叶さんもゼロから会社を興すことができました。山崎さんも戸叶さんもよく捧げてくださいました。よく捧げるので、神様はさらにお二人の事業を祝してくださいました。ハレルヤ!ある人は「お金をもうけることは悪いことだ」と言います。しかし、聖書には「神から与えられたもので、商売をしなさい」というたとえ話がいくつもあります。どうぞ、「自分は貧しいから何もできない」と自己憐憫に陥らないでください。神さまに創造力と知恵とアイディアを求めてください。神様は創造者ですから、私たちにクリエィティブなアイディアを与えてくださいます。

 ケンタッキー・フライドチキンといえばカーネル・サンダースです。彼はクリスチャンとして、もてなしの精神でいろんなお仕事をしました。ハイウェーの建設で、町で営業していたカフェがつぶれました。彼はそのとき65歳でしたが、ふっとアイディアが与えられました。それは、町の繁華街ではなく、郊外のフリーウェイの入口にお店を設けるということでした。彼が持っていた唯一の財産は、お母さん直伝のフライドチキンの特別な製法でした。その製法で売れたら、1羽につき5セントで売るという、フランチャイズにしました。そういう考えは、当時は全くありませんでした。カーネルおじさんが、神さまから知恵をいただいたとしか考えられません。もう1つ、ドミノピザというのがあります。これはトーマス・モナハンという黒人の孤児が始めたものです。彼も人に仕えようとしたクリスチャンです。当時、ピザの宅配というものがありませんでした。「手作りならではの味を食卓へ届ける」、「30分を超えた場合は50セント引き」というシステムが、アメリカでたくさんの支持を集めました。今や世界中で親しまれ、現在55ヶ国に8,500店以上に拡大しています。これも、すばらしいアイディアではないでしょうか?また、山崎パンのことも語らなければなりません。今、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメントを読んだら』」という本がブレークしています。山崎パンの創立者はアメリカに渡り、ピーター・ドラッカー博士から経営理論を学びました。しかし、社長と弟と息子の意見の相違が対立し、深刻化していきました。そのとき、3人で教会へ通い、洗礼を受けました。神さまの力で3人が心を一致させることができました。ところが、受洗して11日後、主力工場の武蔵野工場が全焼。その時、彼らは「火災は、あまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神の戒めである。これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります」と祈りを捧げました。今は息子さんが会社を継いでいますが、毎日、3つのことを問うそうです。ドラッカーの経営理論の中からですが、第一は私のミッションは何か、第二は私の顧客は誰か、第三は私の顧客にとっての価値は何か、という3つです。デフレや消費不況とよく言われます。その中にあって山崎製パンの業績が伸びているのは、その証のように思います。

 神さまからいただいたものを、私たちはどうしたら良いのでしょうか?その一部を蒔く種として捧げるのです。Ⅱコリント9:6,7「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」大きく分けて献金には2種類あります。1つは十分の一献金です。これは神さまから預かった一部をお返しするという意味があります。そうすると、マラキ3:11「私はあなたがたのために、いなごを叱って、作物を滅ぼさないようにする」と書いてあります。神さまは私たちの土地の周りに柵をもうけてくださり、泥棒や事故、災いから守ってくださいます。それだけではありません。私たちがその土地に種を蒔くことができます。それは神の国のために投資する献金です。集会献金、会堂献金、宣教献金、感謝献金なのです。1粒の種から1粒の実が得られるとはだれも思いません。多くて100倍、60倍、少なくても30倍の実を期待して良いのです。しかし、献金の原則、正しい心構えがあります。それは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」ということです。だれかから強制されて、いやいやする場合もあるでしょう。「しょうがないから、仕方がないので…」と捧げてはいけません。「心で決めたとおり」、つまり信仰をもって積極的にささげるということです。そういう人を神さまは祝福して豊かな報いを与えてくださるのです。多いか少ないかではありません、イエス様はささげる人の心を見てくださるのです。イエス様はレプタ2つをささげたやもめが、だれよりも多くささげたとおっしゃいました。どうぞ、神さまから多くいただき、その次は、信仰と感謝をもって種を蒔きましょう。

3.献金の用い方

 最後に兄弟姉妹から集められた献金を教会がどのように使うかという、金銭の管理についてお話したいと思います。献金は会費とかお布施ではありません。すべてを与えてくださった神さまに、感謝して捧げたものです。神さまは私たちのささげる心を見てくださいます。そして、神さまはその献金によって教会の働きをするように私たちに託してくださいます。注意すべことは、私たちの献金が直接、教会の働きのために用いられるのではありません。もし、そうだとしたら、それは会費になります。この世の中ではそういうサークルやカルチャースクールがいっぱい存在しています。そうではなく、献金はまず、神さまに私たちがささげます。その後、神さまが「教会の働きのために」と私たちに託してくださるのです。もし、会費であれば、「私たちに還元されていないじゃないか、儲けているんじゃないか」みたいな文句が出ます。実際、新興宗教はそういうところがあるかもしれません。しかし、キリスト教会は人件費、伝道費、集会費、建物の維持、保険等にあてられます。神さまに献金をしたのですから、紐つきはダメです。「神さまの御用のためにお使いください」と委ねる気持ちが大切です。だからと言って、牧師や役員が献金で投資をしたり、土地をころがしたりしてはいけません。しかし、教会によっては実際、そういうことをしたために、元金を失って、躓きを与えているところもあるようです。「新しい会堂建築のために」とみなさんにお願いしながら、全く別の用途に回したりする教会もないわけではありません。他の宗教団体ならともかく、教会では金銭のトラブルは大きなダメージを与えてしまいます。ですから、牧師と役員は金銭に対して、潔白でなければなりません。それでないと信用を失ってしまいます。

 牧師は「信仰があれば、神さまが与えてくださる。ビジョンが大切だ」と大きな予算をたてがちです。でも、役員や教会員は「でも、現実はこれしか予算がないのですよ」と言います。こういう戦いが、教会に必ずあるものです。信仰があるかないかではなく、両方とも正しいのです。大切なことは、信仰が一致するまで神さまに求めることです。セルチャーチで親しくしている、本郷台キリスト教会は、2年前8000坪のサッカー場を買うために9億円の借金をしました。今は7億円くらいのようです。彼らは20年くらい前、「神さま。ビジョンを達成したいので、1万坪の土地を与えてください」と祈りました。その後、ダイヤモンドチャペルの2000坪が与えられました。そうしたら、2年前、8000坪のサッカー場が売りに出されました。合わせて、1万坪になります。その当時、サッカー・スクールの生徒が300人くらいいたそうです。もし、持ち主の会社が外部に売却したらもうサッカーはできません。サッカー・スクールの親御さんたちから「私たちも献金しますから、なんとか教会さんであの土地を買ってもらえませんか?」とお願いされたそうです。それで、教会が立ち上がってその土地を購入しました。昨年、「サッカー場を境内地にできないでしょうか?」と県庁にお願いしに行ったそうです。もし、あの広大な土地に固定資産税がかかったら大変な額になります。本郷台キリスト教会はサッカー・スクールの他に、身障者のための働き、ご老人たちへの弁当作り、託児所、チャーチスクールいろいろやっています。宗教課の職員が何と言ったでしょう。「一般に教会さんは自分のことしか考えないけど、おたくさんは社会のためにいろんなことをしていますね。よろしいでしょう」とサッカー場を境内地に認めてくれたそうです。皆さん、借金も信仰とビジョンがあればしても良いと思います。でも、信仰とビジョンだけが先走り、教会員がついていかない場合はダメです。会堂建築もそうですが、金銭問題は分裂の原因によくなります。ですから、できるだけ信仰の一致を求める必要があります。

 私たちはこれから単立、独立になる予定です。今までは、教団と教区に年間、100万円以上の献金をささげてきました。「これからその浮いたお金をどうするか?」であります。ここ何年間か、人件費、伝道費、集会費を削ってきました。少し補充したい気持ちもあります。しかし、私は教会のビジョンのために用いていけたらと思います。私が願っている10年のビジョンは、「350名礼拝、50人の信徒リーダー、5人の牧師、5つの枝教会」です。人材というか、後継者を育てることも必要です。また、枝教会ができるように建物を借りるかもしれません。つまり、教会の成長と宣教のために用いるということです。どうぞ、神様の導きが与えられますようにお祈りください。教会によっては献金のアピールばかりするところがあります。「十分の一を」「会堂献金を」とか言います。私は極力、献金の話はしません。その箇所が来たら話します。もし、献金が足りないならば、教会はそれなりの予算でやるしかありません。では、どうしたら献金が増えるのでしょうか?それは、恵まれて人々が増えれば良いのです。人々が神さまによって祝福を得たならば、喜んで捧げます。献金は恵みの結果なのです。恵まれれば人は捧げます。捧げるとまた恵まれます。恵まれるとまた捧げます。捧げるとまた恵まれます。ハレルヤ!教会はおめでたくなくてはいけません。なぜでしょう?神さまは王様、キングです。私たち教会はキング・ビジネスをしているのです。神さまはすべてを所有しておられます。私たちの神さまは決して貧しくはありません。もし、教会が神さまに忠実に、伝道牧会をしていたならどうでしょう?必ず必要は与えられます。だから、心配することはありません。それは私たちの生活でも同じことです。

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ハレルヤ!私たちが神さまのことを第一にしていけば、必要は与えられます。献金は神さまを第一にしていることの証です。もう1つの法則があります。それは与えたら、与えられるという「山びこ」の法則です。ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」何故、貧しいのでしょう?それは与えないからです。独り占めしているからです。もし、私たちが信仰に立って与えるならどうでしょう?与えたら、与えられます。同じ量ではありません。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」アーメン。イエス様は十字架で、私たちのために、尊い命を与えてくれました。罪の代価を払ってくださったのです。私たちはその感謝を具体的に表していくべきです。

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2010年3月28日 (日)

十字架による心の癒し イザヤ53:1-5、Ⅱコリント5:20-21

 「クリスチャンとして成長したい」、「何か神様のためにお役に立ちたい」とほとんどの人たちは思っているでしょう。しかし、「自分自身の中に、そうできない妨げになっているものがある。イエス様を信じて救いを受けたことは確かだけど、どうも未解決の問題がある。そのために、急に怒ったり、急に落ち込んだりしてしまう」。そういう人はいないでしょうか?同時にそういう人たちは家庭や、世の中の人間関係でも葛藤を覚えていた人たちです。教会に来てから、「神様の愛のもとでうまくいくかなー」と期待していたのに、そうでもなかった。「ある人に躓いた。牧師に躓いた。もう、教会に行くのもイヤだ」。そこまで行ってしまった人は、きょうはここにいないでしょう。きょうここに来られている人たちは、そういう問題をクリヤーした人か、ギリギリでなんとかやっている人かもしれません。きょうは、信仰のDNAシリーズの、「癒しと解放」の第三回目です。

1.さまざまな過剰反応

 心理学者は「胎児のときから幼児期まで受けた心の傷は、その後の成長に大きな影響を及ぼす」と言っています。幼児にとっては親から養育を受けるときでありますが、しばらくすると自我が目覚めてくるので、親から独立しなければなりません。だから、「ノー」を連発します。そのとき、親が未熟であったり、親自身に傷がある場合、子どものありのままの姿を受け止めることができません。お母さんから「あなたは、良い子でしょう?」と言われると、子どもは「ああ、自分は良い子にしなければ愛されないんだ」と思ってしまうでしょう。子育てにおいては、過干渉であってもいけないし、かといって放任主義でもいけません。親はそういうつもりでしなかったのに、子どもは、拒絶や無視、虐待や支配と受け取るかもしれません。そのとき、子どもの心に、親に対する怒り、悲しみ、喪失のトラウマとなって残ります。ある傷は自然と治るかもしれません。しかし、ある傷は表面には包帯が巻かれていますが、内部はぜんぜん治っていない。ひどい痛みを感じるばかりか、傷が膿んでいるということがあります。日本人は自分の感情を表に出してはいけないというふうに育てられています。そのため、私たちは怒りや悲しみ、あるいは恐れの感情を心の奥底に沈めます。1つや2つのテニスボールだったら、沈めておくことができます。しかし、それが5とか6つになったらどうでしょうか?外から圧力がかかると、ポコーンと出てきます。つまり、感情の塊というものは抑圧したらなくなるというものではありません。抑圧すれば抑圧するほど、負のエネルギーとなって蓄積し、あるとき、「ばっ」と噴出してしまいます。まるで火山の噴火であります。火山というのは下にマグマが溜まっています。マグマの圧力が上がり、ある一定量を超えると、どこか弱いところから噴出するわけです。「どっかん!」と、石や火山灰が空中高く舞い上がり、熱い溶岩も噴出するでしょう。まわりにいる人たちはものすごい被害を受けます。そういう状態を、だれかが地雷を踏んだとか、過剰反応を引き起こしたと言います。

 私はこれまで、アバラブミニストリー、エリヤハウス、丸屋真也師、李師のディープヒーリングなど、様々なカウンセリングを学んできました。それらを見比べ、統合してみて「ああ、こういうことなんだなー」とやっと分かってまいりました。それぞれ用語は違いますが、だいたい言わんとしていることは共通しています。でも、最近は李光雨先生から学んでいますので、どうしても、先生の用語が出てきてしまうことをお許しください。李先生は「過剰反応とは、特定のステージで現れてくる心や体や行動における、合理性を欠いた強い反応である」と定義しています。人がある出来事によって、過剰反応するとき、「心の叫び」が一緒に出てきます。丸屋師はそれを「自動思考(セルフトーク)」と呼んでいます。「お前がちゃんとやらないからだ」「だれも守ってくれない」「俺のせいじゃない」「なんで、そんなことをするんだ」…実際、口で言う場合もあるし、心の中で言っている場合もあります。人が過剰反応をしたとき、これはチャンスであります。その人の「心の叫び」がわかるからです。その人の「心の叫び」がどこから出てくるのか?実は心の奥底、核の部分から出ているのです。李師はそれを「コア世界観」と呼んでいます。丸屋師は「核信念(コア・ビリーフ)」と呼んでいます。私は「世界」の方が、なんとなくロマンがあって良さそうに思えます。つまり、その人が何かのことで過剰反応したときに出る「心の叫び」によって、その人の世界を垣間見ることができるということです。あなたの世界はどんな世界でしょう?どうぞ、1週間、あるいは1ヶ月間、どんなことで過剰反応したのかチェックしてみてください。「今月は出費がかさんでどうしょう。一体生活ができるのだろうか?」「なんであの人はあんなことを言うんだ。もう、許せない」「職場で真面目にやっているのに、認めてもらえない」「また失敗した。いつも最後はこうなんだ」。いろんな状況で発すると思います。まず、その状況を特定し、具体的にどうだったのか知るのです。過剰反応をした状況を詳しく知るということです。第二番目はそのときどう思ったかです。これはもう無意識でやっていますので、ことばになっていないかもしれません。それは「心の叫び」かもしれません。「不当な扱いを受けた」「軽く見られた」「不適格だと思われた」。とにかく、思いをことばに表すことが重要です。第三番目は感情です。どう感じたか?これは思いよりも、明確かもしれません。怒りや悲しみ、恐れ、絶望感、いろいろあります。最高がレベル100だとしたら、「そのときはレベルどのくらいだったか」も書くと良いですね。70%とか、80%としか判定できるかもしれません。そういうのをいくつかやっていくと、自分の世界が分かってきます。自分の世界はひとことで何なのか?これはあなたのテーマになります。

 私たちは日常生活において、様々なことで過剰反応を起こします。いろんなところで火山が爆発するわけです。しかし、ある人はそれを「ぼかーん」と人や物にぶっつけます。しかし、ある人は人にぶっつけないで自分のところにもっていきます。前者は他の人を攻撃しますが、後者は自分を攻撃します。自分を攻撃するとどうなるでしょうか?それは鬱になります。ある意味で、鬱は怒りの1つのかたちと言っても良いかもしれません。また、怒りや鬱の他に不安や恐れというものもあります。私たちは、自分の世界が壊れそうなときに、怒りによって反応します。しかし、ある場合は、不安や恐れとして出てきます。現代は様々な心の病気を抱えている方がたくさんいらっしゃいます。学校や会社に行くことができない。電車にも乗れないという人がいます。会社には行けるけど、人間関係が辛い。人とうまくいかない。鬱的になり、精神科や心療内科に通って薬を飲んでいる人もたくさんいるのではないでしょうか?すべての薬物療法を否定はしませんが、本当の原因になっている、「コア世界観」「核信念」は何なのかということを探り、その問題を解決することがより重要です。

2.さまざまな世界観

エリヤハウスでは、「悪い実から、根っこをさぐる」と言います。どのカウンセリングでも言うのですが、多くの場合、幼少の時代の問題が解決されていないことが原因しています。そこが未解決なので、様々な問題が出てくるということです。その傷が生じた、いくつかの幼少期のエピソードがあるはずです。多くの場合、それに蓋がされて、自分でも覚えていないということがあります。子どものときにひどい虐待を受けた場合は、記憶がない。あるいは「あれば別の人だったんだ」と思い込んでいることもあるそうです。過去の自分を見るということは、ある意味では、恐ろしいことです。もう一度、あのときのトラウマを経験しなければならないからです。受けた恥、受けた苦しみ、受けた悲しみ、喪失感、拒絶感…それらと向き合うことは、大変な勇気を伴います。ですから、多くの場合、自分をサポートしてくれる兄弟姉妹、あるいはカウンセラーが必要です。でも、このようなメッセージを一度、聞いておくと「あ、大丈夫なんだ。癒されるためにはオープンすることが必要なんだ」と分かるでしょう。そうです。隠したり、それを否認しているうちは、決して直りません。イエス様と共に、過去の暗いところに行くのです。そこには小さな3歳か4歳のあなた自身が震えて泣いているかもしれません。何があったのでしょうか?忘れてしまっている場合には、イエス様に尋ねて見てください。ある人は胎児のとき大きな傷を受けました。お母さんが生みたくないと思ったからです。それなのに「できちゃった。堕胎できなくてしかたなく生んだ」のです。そのためにお母さんが大嫌いになったということです。あとから、お母さんにそのことを聞いたら、実はそうだったということでした。いくつかのエピソードを思い浮かべることができるでしょう。自分を傷つけた相手がお父さんでしょうか?あるいはお母さんでしょうか?あるいは「きょうだい」でしょうか?どういう状況で、そんなことが起きたのでしょうか?

 エリヤハウスの女性の先生ですが、自分が子どものとき、近所のお兄ちゃんから性的ないたずらを受けたそうです。それをお父さんに言ったら、お父さんがその男の子の家に訴えに行ったそうです。男の子のお母さんは「うちの子がそんなことをするはずがありません。あなたのお嬢さんが嘘をついているのです」と強く言い返しました。昔のことでもあり、そんなことはその村で、一度も起こったことがありませんでした。それで、お父さんは家に帰るなり、「お前はおこりもしないことを嘘をついたんだろう」と言いました。女の子は「私を守るべきお父さんが、私を守らなかった」ということで、男性に対してものすごく不信感を抱くようになりました。結婚してからどうなったでしょう?ご主人がちょっとでも帰りが遅いと、「あなた他の女性と浮気をしているんじゃないの?」と怒りました。ご主人が「私はお前に忠実であって、そんなことは絶対しない」と言うとおさまります。でも、ご主人に対する疑いは晴れることがありませんでした。そのあと、ミニストリーを受けると、子どものときのことが思い出されました。お父さんが私を守ってくれなかったということが分かりました。そのお父さんを赦しました。お父さんを赦したとたん、お父さんから手紙が来たそうです。「これまで一度も手紙くれたことがないのに、どうしてだろう?」と思いました。つまり、お父さんを赦したということは、お父さんを籠の中から出してあげたということなのです。お父さんも自分の罪で、霊的に捕らわれていたということなのかもしれません。

私の「コア世界観」のテーマは、不当な扱いを受けたために、翻弄されている自分であります。その元となる原因が子どものときにありました。私が小学校5年生のとき、私は記念切手を集めていました。そのとき、東京オリンピック開催記念の切手が発行されました。私は遅刻覚悟で、郵便局に並びました。発行されたシートの数が少なくて、じゃんけんしました。私が勝って得た貴重な切手でした。あるとき、兄が俺にくれと言いました。私が「ダメだよ、返してよ」と争いになりました。兄はその切手シートをぐちゃぐちゃにしました。私は「わあー、何をするんだ!」と怒って叫びました。目の前で父がストーブにあたっていました。父が手を伸ばし、「こんなものがあるからだ!」と言って、切手をストーブの中にくべてしまったのです。私はおそらく気が狂ったように泣いたと思います。私はそれ以降、切手収集をぴったりやめました。他のすべての切手を捨てました。梅の花を見るたびに、「ああ、梅の切手もあったなー」と思い出します。本来、父が兄弟の喧嘩をいさめ、正しいさばきをするのが本当でしょう。父がそこにいて、一部始終を見ていたのに何もしなかたのです。今、思えば、我が家は無政府状態でした。父が酒を飲むと暴れ出し、母や私たちをよく殴りました。父の血走った眼、なぐられた母の頭の音、母のうめき声は今でも忘れません。兄弟げんかもしょっちゅうありました。ある正月、長男と次男が血を流すような喧嘩もしました。父は止めるどころか、そこでだまって酒を飲んでいました。つまり、我が家では父が家庭を正しく治めていないために、無政府状態というか、守りがなかったのです。だから、大きくなって、似たような不条理が起こると、「ちくちょう!なんでだよー」と怒りが噴出してきます。どうぞ皆さんも、ご自分で、あるいはだれかの手を借りて、心の核の部分(世界)を発見してください。そこには必ずテーマがあるはずです。

3.十字架による心の癒し

 本日から受難週がはじまります。多くの場合、イエス様が十字架にかかったのは私の罪のためであると理解しています。私たちが罪の赦しを受けて、救われるためにはこのことを理解することはとっても重要です。しかし、自分が犯した罪だけではなく、自分がひどい目にあったという被害者的な部分にもイエス様の十字架があるのです。イザヤ53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と書いてあります。Ⅰペテロ2章には、不当な苦しみを受けた人々へのことばがありますが、イザヤ書53章が解決になっています。イエス様は何も悪いことをしていないのに、人々からののしられ、苦しめられました。また、イエス様は十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエス様は人々からも、そして父なる神様からも捨てられ、拒絶を味わわれました。そういうことを合わせますと、イエス様は十字架で、私たちの悲しみ、恥、病、痛み、不当な扱い、そして拒絶を背負ってくださったということです。つまり、人となられたイエス様は、私たちの悩みや苦しみをよくご存知であるということです。同時に、イエス様は神様ですから、私たちの子ども時代まで一緒に行ってくださり、その子どもを癒してくださいます。あるところに、とっても乱暴で怒りっぽい男性がいました。牧師が彼のために祈ってあげました。牧師は祈りながら、「何か見えますか」と男性に尋ねました。彼は「5,6歳頃のときの、家の中が見えます。お父さんがその夜も酒を飲んであばれていました。子供の私は怖くて泣いていました。ああ、お台所の窓ガラスが割れて、大きな穴があいているのが見えます。窓の穴から見える外は真っ暗です。」と言いました。だいたい、こういう家庭は、しょっちゅう窓ガラスが割れるので、何日間か、そのままにしておくのが多いのです。突然、男性は涙を流しはじめました。どうしたのですか、と聞くと。「あのときは気付かなかったのですが、窓ガラスの穴から、イエス様がお家の中を眺めています。イエス様はとっても悲しい顔をしています」。そのとき、男性は、イエス様から「私も気の毒に思ったよ」と慰めのことばをいただきました。それで、彼は大声で泣きました。それから、彼は怒りから解放されたそうです。イエス様は永遠の神様ですから、あなたの過去の出来事をご存知であり、深い慰めを与えてくださるのです。

 李先生は、癒しを受けるためには、まず「心の叫び」を完了させなければならないと言います。私たちが心の蓋を開けると、「わあっ」と色んなものが出てきます。怒りとともに、「○○をして欲しかったんだ!」とか、「奪ったものを返してくれ!」「どうして分かってくれなかったんだ。本当はこうだったんだ」「なんで、あんなことをしたのか!ひどいじゃないか」とか、叫びが出てきます。その怒りをどこにぶっつけるのでしょう?イエス様の十字架にもって行くのです。Ⅱコリント5: 19 「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」イエス様は、「あなたを傷つけた人のために、私が十字架にかかって代価を払いました。これで赦してはもらえないだろうか」とおっしゃいます。イエス様は「私に免じて、赦しておくれ!」と懇願しておられます。私たちは「それだったら、赦します。私にひどいことをした父を赦します。私にひどいことを言った母を赦します。私に○○をした誰それを赦します」と赦すべきです。赦しとは怒りを手放すことです。赦しとは訴える権利を放棄するということです。そのとき、父なる神様はあなたが失ったものをすべて回復してくださることを知るはずです。恥の代わりに誉れを、悲しみの代わりに喜びを、嘆きの代わりに踊りを。父なる神様はあなたが失ったもの、あるいはあなたが得られなかったものを豊かに与えてくださるお方です。贖いとは罪の贖いだけではなく、あなたが失ったものを神様は贖ってくださる。弁償してくださる。回復してくださるということです。私はかつて切手を失いましたが、神の御国にはちゃんと保管されていることを知っています。幼くして死んだ子どもがいるかもしれません。でも、神の御国ではちゃんと生きています。あなたが大事にしていた人形も、おもちゃも、宝物も御国の倉庫にちゃんとあります。あなたは父や母によって受け入れられなかったかもしれませんが、父なる神様はありのままのあなたを無条件で受け入れてくださいます。「あなたは私の目には高価で尊い、私はあなたを愛している。あなたは私のものだ」と言われます。どうぞ、父なる神様の回復を得ましょう。そうするなら、あなたの心の奥底が満たされるでしょう。

 それから今度は考え方を変えて、イエス様と勝利の道を歩むのです。もう、あなたの世界は壊れません。もうあなたの魂は大丈夫です。なぜなら、イエス様があなたを常に支えておられるからです。さらにすばらしいことは、神様はあなたが経験したマイナスをもプラスに変えてくださるお方です。ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」アーメン。イエス様はペテロに何とおっしゃったでしょうか?「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」アーメン。癒されたあなたは、同じような苦しみや悩みに合っている人たちを慰めることができます。それだけではありません、彼らの縄を解き、獄屋から出すことができるのです。

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2007年12月23日 (日)

イエス様は貧困であられたか   Ⅱコリント8:9

 「メリー・クリスマス!」。クリスマスおめでとうございます。今から20年前、私たち家族は座間からこちらに引っ越してきました。亀有に招かれたというか、赴任してきたわけです。その当時は、教会堂も古く、来られている方も少人数でした。クリスマスは私が飾り付けをし、出し物では、私が2歳の娘とダンスしました。また、イブ礼拝ではオー・ホーリーナイトを独唱しました。しかし、今は若い方々が増えて、教会堂の内外にデコレーションを施し、クリスマスの祝い方もパワーアップしました。唯一私がやるのは、メッセージとビンゴゲームぐらいです。また昨日は盛大なゴスペルコンサートが開かれ、もう、年中行事になっています。大変にぎやかなクリスマスを迎えられることを感謝します。きょうは、クリスマスではあまり語られないと思いますが、お金と繁栄について聖書から共に学びたいと思います。多くは、ケネス・ヘーゲン著の『クリスチャンの繁栄』を参考にしました。いわゆるパクリかもしれませんが、良いものは分かち合いたいと思います。

1.イエス様は貧困であられたか

 私たちは、お金や繁栄に対してバランスを取ることが必要です。これを道路にたとえて考えてみたいと思います。道の両側には溝があり、極端な考えの人たちはその溝にはまっています。私たちは極端にならないで、道の真ん中を進まなければなりません。では、道の片方の溝に陥っている人たちはどうでしょうか。「イエス様はとても貧しい生活をされたので、私たちも貧しくあるべきだ」「お金は悪いものだ」「繁栄とは物質的なものではなく、もっと霊的なものだ」という考えです。長い間、日本のキリスト教会は「清貧に甘んずる」という考え方が主流でした。そのため、牧師は「清貧に甘んずる」という模範を示さなければならなかったようです。大川牧師がご自分の子どもの頃を証ししておられました。当時は卵が贅沢品でした。ですから、お家で卵を食べた後は、見られないように、殻を新聞紙でくるんで捨てたそうです。また、教会員が「これ使ってださい」と使い古したものや欠けた茶碗を献品したそうです。少年であった大川先生は、「教会は偽善者の集まりだ。こんな教会、火を付けてやろうと」真剣に思ったそうです。大川先生が座間教会に赴任して15年くらいたった頃でしょうか。教会堂が入りきれなくなって、オープンしたばかりの厚木のホテルで、合同クリスマス礼拝を持つことにしました。そのとき、大川先生が「ホテルでのクリスマスですから、ちょっぴりめかしこんで来てください」とアナウンスしました。すると、古くからいた信徒数名と元牧師をなさっていた方が反対しました。「ホテルに行けない貧しい人たちもいる。だいたい、教会がクリスマスを華美に祝うのはおかしい」そのように言っていました。このような人たちは、キリスト教会は清貧に甘んじるべきだという考えなのでしょう。

 では、もう一方の極端とはどういうものでしょうか?それは、「富を獲得することが信仰の中心である」「神様の大きな関心ごとは、あなたが物質的に豊かになることである」「豊かさこそ、その人の祝福を量る真のはかりだ」という考えです。今から3,40年前、アメリカから「繁栄の神学」が入ってきました。「旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブなどの族長はみんな豊かだった。私たちもアブラハムの祝福を得るべきだ」ということです。韓国の教会もその路線を走り、「牧師先生は神様の使いだから、豊かでなければならない」と言いました。牧師たちは新車や住まいが与えられ、ものすごい待遇を受けます。繁栄の神学は、「貧しさや病気や苦しみは敵である。私たちは神様に、祝福を大胆に求めるべきだ。貧しいのは信仰が足りないからだ。健康で、経済的に祝福を受けているのは、神様から愛されている証拠である」と言います。教会堂が古くてみすぼらしかったり、牧師が軽自動車に乗っていたら、神様から祝されていないということになります。だから、できるだけ大きくて立派な会堂を建てようとします。繁栄の神学は、神様の祝福を目的にします。献金をささげるのも、神様からその幾倍もの祝福を受けるためです。貧しさや病気や苦しみは悪ですから、なんとしてでもそこから脱出しなくてはなりません。しかし、これも極端です。なぜなら、祝福は目的ではなく、神様からのボーナスだからです。また、お金や物質だけが祝福のはかりになるものではありません。私たちはどちらの極端にも陥らず、道の真ん中を進むべきであります。

それでも、日本の教会は、「牧師やクリスチャンは清貧に甘んずるべきだ」という考えが多いと思います。物質的な繁栄に反対する人々が使う議論の1つは、「イエス様は地上で生活された時は貧しかったはずだ」というものです。確かに、イエス様は馬小屋にお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされました。また、イエス様は奉仕の期間は家を持たず、「人の子は枕するところがない」と言いました。そして十字架に死なれた後は、人から借りた墓に葬られました。イエス様が貧しかったという考えは何度も繰り返し語られ、長い間、受け継がれてきました。ですから、ほとんどの人はそのことを疑問に思うこともなく、聖書的に正しいことであるかのように理解しています。確かに、イエス様がお生まれになったとき、ヨセフとマリヤは馬小屋にかくまわなければなりませんでした。彼らはイエス様を産着でくるみ、飼い葉桶の中に寝かせました。しかし、「彼らは部屋を借りるお金が足りなかったから馬小屋に泊まった」とは、聖書に書いてありません。あの時は、カイザルの勅令で住民登録するために、ベツレヘムの小さな町に人々がごったがえしたのです。そのために、宿屋には彼らの部屋がなかったのです。このことは決して貧しさを意味してはいません。また、ヘロデ王が幼な子の命を狙っていたので、ヨセフとマリヤはただちにエジプトに逃れました。博士たちが捧げた宝物が、彼らの旅費や滞在費のために、役に立ったことは十分に考えられることであります。

 次に、イエス様の公生涯を見てみたいと思います。イエス様は、ルカ9:53で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。この箇所は、「イエス様はとても貧しい生活をされたので、彼は一度もご自分の家を所有されたことがなく、地上の伝道生涯を始められてからは寝泊りする場所もなかった」という意味にしばしば解釈されています。イエス様はホームレスだったのでしょうか?聖フランチェスコのように裸足で歩き、托鉢して生活しておられたのでしょうか?しかし、福音書を見るとそうではありません。イエス様はご奉仕を開始すると同時に12人の弟子たちを召されました。3年半、イエス様とその小さな一団は、パレスチナ全土、ガリラヤ地方全体、さらにヨルダン川からユダヤの丘々、そしてエルサレムまで旅をしました。多くの人たちを同行させるにはかなりの出費がかかったはずです。食料とか衣類、旅行の出費のための資金を十分確保することが求められたはずです。そのお金はどこから来たのでしょうか?ルカ8:2,3「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」とあります。おそらく、イエス様にはご自分の生活の維持を助けてくれる、奉仕のパートナーがいたことでしょう。また、マルコ2:1,2「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった」とあります。イエス様には確かに家があったことをみことばが示しています。また、イエス様は貧しい人々に対して援助をしておられたようです。ユダが最後の晩餐の時、どこかへ行きました。ヨハネ13:29「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、『祭りのために入用の物を買え』と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた」とあります。ここから、定期的に貧しい人たちに施しをするという習慣があったことが想像できます。ユダは金庫番をしていました。しかし、彼はその中からいつもお金を盗んでいました。イエス様と弟子たちが十分な額を持っていたので、ユダが時々盗んでも気付かれなかったのです。

 また、イエス様ご自身は、自分のことを「貧しい人」とは呼ばれませんでした。ある時、イエス様に対して、一人の女性が一年分の給料に値する、高価な香油を注ぎました。そのとき、イエス様は少しも当惑せず、受け入れました。弟子たちは「ああ、もったいない。300デナリで売って、貧しい人々に与えられるのに」と言いました。それに対して、イエス様は「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです」(ヨハネ12:7,8)と言われました。富を所有することに不慣れな貧しい人なら、300デナリに相当するものが、自分の足にそそがれることに対し、くつろいだ態度ではいられなかったはずです。でも、イエス様はマリヤのご自分に用いた香料の価値を認めてあげました。イエス様は本来どのようなお方なのでしょうか。コロサイ1:16「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」。ハレルヤ!イエス様は今も昔も、世界の創造者であられます。イエス様は父なる神様とご一緒に天と地を造られました。また、黙示録にあるように、黄金と宝石のエルサレムをデザインされるお方です。詩篇24:1「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」。このような表現が、旧約聖書には何箇所もあります。

 イエス様は地上の奉仕で、物に不足したことがあったでしょうか?ルカ22:35「それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」アーメン。イエス様の地上の生活での終りの時期に、弟子たちは自分たちが何かに不足したことは一度もなかったと証言しました。私たちは「弟子たちは、十分な供給を受けていたはずだ」と考えることができます。しかも、イエス様は立派な服を着ていたことが福音書から分かります。イエス様が十字架につけられた時、彼の衣は、兵士たちが自分たちの間で分け合いました。なぜなら、その上着はくじ引きにするほどまでに立派なものだったからです。ローマの兵士たちが、ぼろぼろに破れた服や、着古した服のために、くじ引きをするでしょうか。もちろん、そんなことはしないでしょう。これまで、イエス様の赤ん坊の時から、奉仕の期間、十字架に付けられるまで見てきました。これらのみことばは、イエス様が貧しい方ではなかったという証拠であると思います。でも、イエス様は浪費的あるいは、ぜいたくな生活をされたと言っているわけではありません。しかし、イエス様は地上での生涯でご自分の様々な必要が満たされたことは事実です。それゆえに、イエス様は父なる神様がご自分にお求めになったことを行うことができたのです。

 では、最初にお読みしましたⅡコリント8:9はどうなるのでしょうか?Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。まず、考えられることは神様が人となって、この地上に降りてこられた。このこと自体がすでに貧しいことであります。ピリピ2章にありますように、イエス様は神のあり方を捨てて、ご自分を無にして、人間と同じ姿になられました。そのこと自体が貧しいのです。でも、イエス様が人間として貧しい生活をしていたかというとそうではありません。むしろイエス様がなされたことは、十字架で貧しさを担われたということです。イザヤ書53章にありますように、イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担われました。キリストは木につけられ、私たちのために、呪われたものとなってくださったのです。でも、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」とガラテヤ3章に書いてあります。つまり、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちに豊かな恵みをもたらすためだったのです。イエス様がそうされたのは、私たちが健康と義と祝福と繁栄を受けることができるためでした。ですから、父なる神様は、私たち神の子供に対して、豊かに供給してくださるのです。サンタクロースのようにクリスマスの日だけではありません。日々、生ける限り、天国に行くまでであります。ハレルヤ!

2.繁栄の目的

 前半では、イエス様が繁栄しておられたことを、たくさんの聖書箇所を引用して、述べさせていただきました。イエス様の生活様式は、浪費的でも贅沢でもありませんでした。当時はローマが強大な権力によってイスラエルの民を支配し、搾取していました。しかし、イエス様の様々な個人的必要は満たされたのです。イエス様には、父なる神様の働きをしながら、その国を自由に移動する余裕がありました。また、一緒に旅する12人の弟子たちをサポートすることもできたのです。なぜ、イエス様にはそのような比較的豊かな資力をもっておられたのでしょうか。それは、父なる神様のみこころを行うためであります。イエス様は会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病の人たちを癒してあげました。イエス様は、自分の富を神様の働きと福音宣教のために用いたのであります。では、クリスチャンの繁栄の目的は何でしょうか?大邸宅を構え、高級車に乗り、高価な衣服をまとい、ごちそうを食べ、ぜいたくな娯楽を楽しむためでしょうか。そうではありません。私たちもイエス様がなさったことを、すべきであります。クリスチャンの繁栄の目的も、父なる神様の働きとみこころを行うためであります。神様が一番関心をもっておられるのは、失われた人が救われることです。マルコ16章でイエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさいと命じられました。私たちはこの大命令をどうやって成就させるのでしょうか?それは、十分の一の献げ物によってであります。十分の一の献げ物とは、とは、収穫物あるいは、受け取った利益分の10%のことです。大宣教命令と神様の働きは、神の民の十分の一の献げ物によって成就されるのです。

 ある人たちは、「10分の1も献げたら生活できないよ」と嘆くかもれません。しかし、それは逆です。10分の1を献げていないがゆえに、貧して不足してしまうのです。マラキ3:10-12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――」このみことばから、十分の一献金することとは繁栄と結びついていることが分かります。神様は、十分の一の献げ物をする人を、神様が2つの仕方で祝福してくださいます。1つ目は作物が豊かになること。これは商売やビジネスが祝されるということでもあります。2つ目はその作物がダメになってしまわないように守ることです。主は「あなたがたのために、いなご(喰い荒らす者)を叱る」とおっしゃっています。現代的に言いますと、事故や悪者から守られるということです。

ケネス・ヘーゲン先生は、具体的に教えておられますので、少し長いですが本から引用します。あなたが十分の一献金をするなら、私はあなたに地上の物資的祝福を与えましょう。「技術者であるあなたには、私はすぐれた技能を与えましょう。私は雇用者たちがあなたに目を留めるようにしましょう。あなたが最高額の賃金を受けるようにしましょう。ストライキがあっても、あなたに悪影響を及ぼすことはありません。私はあなたと共におり、あなたに必要なものが備えられるようにします」。「ビジネスマンであるあなたを、私は繁栄させましょう。私はあなたの取引がうまくいくようにしましょう。私は購入者たちをあなたの周囲に送りましょう。私を信じないあなたの隣人が破産するようになっても、その呪いはあなたに触れることがないようにしましょう。私はあなたの支払いが期限内にできるように取り計らいましょう。私はあなたの銀行口座にたくさんのお金が入るようにしましょう。一言で言えば、私はあなたのパートナーなのですから、あなたのビジネスの様々な関心ごとについて取り計らいましょう。「知的仕事に携わっている人、すなわち自分の頭脳で生計を立てているあなたに対しては、私はあなたの思考力を明晰にしてあげましょう。私はあなたの産み出すものが人々の心を感動させるものとなるようにしましょう。私はあなたの作品が人々から求められるようにしましょう。私は、人々があなたの心と頭脳から産み出されたものを購入するようにしましょう。ただ私にあなたの十分の一を支払いなさい。そうすれば、私はあなたが面倒をみてもらえるようにしましょう。「農夫よ、私はあなたが必ず収穫の時を迎えるようにしましょう。私はあなたの穀物を祝福しましょう。私はあなたの蓄えをふやしましょう。あなたの農場では、枯れることも、かびがはえることもないにようにしましょう。覚えておきなさい。私はアブラハム、イサク、ヤコブの神なのです。私が彼らに対して行ったように、私はあなたにも行いましょう。彼らもしたように、ただ私を覚えていなさい。「私はあなたがたすべての者に健康を与えましょう。あなたの幼い子供たちが死によって奪われることはないようにしましょう。彼らが長寿を迎えるまで生きるようにしましょう。私は天の窓を開いて、あなたがたに祝福を注ぎ、それを受け入れる十分な余地がないまでにしましょう。」

献金も仕事も、仕方なく、いやいやながらするのでは祝福は与えられません。イザヤ1:19「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」(英語の直訳)と書いてあります。このところで、食べるとは物質的な繁栄と考えることができます。もし、あなたがこの国の良い物を食べていないとしたら、その理由は何でしょうか。それは、その条件を満たしていないからです。条件とは「喜んで行う」ということです。献金も仕事も、喜んで行うことが大切なのです。私は確かに十分の一献金をしました。この1年間、郵便局のアルバイトもしました。でも、私は発見しました。私は決して喜んでやっていませんでした。「ああー」とか、ため息をついてやっていましたので、条件を満たしていなかったのです。でも「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」のです。アーメン。

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