2006年10月 8日 (日)

ひきこもり          ヨハネ14:18-21

 今、蒲郡の石原先生は「ひきこもり」の癒しに、教会あげて取り組んでいます。また、心理学者の服部雄一氏がクリスチャンになって、石原先生と日本のひきこもりのために力を合わせています。去る7月18,19日に、代々木において「ひきこもりセミナー」がありました。きょうは、石原先生や服部氏が提示してくれた「ひきこもり」を参考にして、お話したいと思います。最初に申し上げますが、ひきこもりは、教会のミニストリーの1部だと思います。それは、インナーヒーリング、心の癒しであると思います。この世の人たちのニーズを満たすことによって、福音宣教を進めていくことは、聖書が教える教会の原則であります。日本人の多くが、ひきこもり、あるいはひきこもりの可能性があるということをセミナーで学んできましたので、「ぜひ、礼拝で分かち合う必要があるなー」と感じました。

1.ひきこもりとは

 ひきこもりには2種類います。第一は物理的に家に何年間も閉じこもっている人です。こういう人は日本に100万人いるそうです。それから、不登校の若者が60万人います。第二のひきこもりは、潜在的ひきこもりです。これは社会に出ているひきこもりのことで、本音を隠しながら、やっとのことで生活している人たちです。服部氏に言わせると、こういう人が日本には6割から9割いるそうです。そうしますと、日本人のほとんどが、潜在的ひきこもりだと言うことになります。潜在的ひきこもりが、なんらかの原因で発病すると、ひきこもりになるのです。ひきこもりに共通する特徴というのがあります。どんな人がひきこもりなのでしょうか?

本音をいえない

自分を殺して相手に合わせる

人に要求するとか、質問できない。

感情がない、感情が麻痺している。

自分で決められない。

人間関係で緊張する

 実はこれらの特徴は、「共依存」と同じであります。共依存とひきこもりは、兄弟姉妹みたいなものであります。いや、中身はおんなじで表現が違うだけのことかもしれません。実は、日本人はみな共依存的な体質を持っています。目上の人になかなか本音を言えないでしょう。そして、自分を殺して相手に合わせる。人に要求するとか、質問できない。自分でなんとか解決しようとする。感情を出さないで、感情を押し殺す。他の人が気になるので自分で決められない。人間関係でとても緊張します。それに比べて、アメリカ人とか韓国の人は、お互いに、物事を言い合います。「私はそうは思わない」と、とことん議論します。喧嘩をした後に仲良くなるといいます。日本人は和を重んずるなどといいますが、本当は対決するのが怖いんです。一度、喧嘩したら、傷ついて、もうおしまいです。ですから、服部氏は「ひきこもりは、日本の文化病、国民病である」と言います。つまり、外国にはなく、日本人がかかりやすい病気だということです。

2.ひきこもりの原因

 ひきこもりの一番の原因となるものは親子関係であります。大体、親が本音を隠して、世間に合わせる潜在的ひきこもりです。これまで、世の中で必死に生きてきたわけです。そういう親が子供を育てるとき、やはり自分が育てられたように育てます。子供を頭から叱り付け、子供の言うことを聞かない。日本では親に逆らうということが悪であります。お互いにコミュニケーションを取るという体質がありません。親から子へと一方向であり、口答えは許されません。小さな子供が、親から叱り付けられた場合どうなるでしょうか。「ああ、本音を言ったらダメなんだ!」と理解します。言うことを聞けない子に対して、「うちの子じゃないから、出て行け」と言います。これは子供にとって、家から出たら生きていけないとは、死活問題です。お母さんが一番やるのが、無視です。子供が言うことをきかないと無視する。無視は子供にとっては一番恐ろしいことです。だから、仕方なく言うことを聞く。そして、親の機嫌を取る良い子になろうとします。石原先生は「大体3歳くらいのときに、既に心がひきこもっている」と言います。それだけではありません。本当の心がひっこんで、人に合わせる別人格で生きていくようになる。つまり、中の人格と表の人格と乖離した状態になります。ひきこもりは、中と表との二重人格だということです。表はものすごい良い子で120%の気配りの人です。しかし、中の人格は感情を押し殺し、感情のない子供がいます。疲れて、良い子を演じることができない、もうだめだ。そうして家にひきこもった人が、本物のひきこもりであります。

 服部氏は、ひきこもりは親子関係から生まれる病気であると言います。幼いときに本音を言ったら、怒鳴られ、家から出され、無視された。そのときのトラウマが、人間不信につながるのです。表現を変えると、親との絆がないために、ひきこもりになるのです。世の中の人が「ひきこもりは、甘えているんだ」と言います。しかし、ひきこもりは全く逆で、親に甘えたことがないのです。親から無条件で愛されたことがない。親から受け入れられた経験がない。本音を言ったら、ものすごく叱られた、あるいは無視された。一番最初に出会う親からそのような扱いを受けたら、「ああ、人間とは信用できないものなんだ」と心の底で受け取るでしょう。服部氏はひきこもりは親子関係から生まれると言います。日本の親子関係はどういうものでしょうか?

親の無視。

ちゃんと聞いていない。聞いているふりをしている。親自身、子供のとき、親から話しを聞いてもらっていない。親が子供の話を聞くという文化がなかった。

親が子供の本音をきらう。

「生意気言うな」「だれのお陰で飯くっているんだ」と言う。そうすると子供は本音をいえない。本音を言えば怒られる。だから、本音をひっこめる。

親が子供の話をきかない。

一方的な関係

 したがって、こういう家庭では、一方的な関係です。親と話し合う、つまり、子供が主張して、親が聞くという関係がない。親は「こうしなければいけない」と、一方的な指示を出して、子供を動かそうとする。

親子のコミュニケーションがない。

 ひきこもりの親が足腰立たないほど、子供を虐待するかと言うとそうではない。お母さんは弁当を作り、生活の世話をしてくれます。お父さんは一生懸命働き、お金を稼いできます。子供は大学も出られたし、海外旅行も行けた。「親はお前のために一生懸命やったんだ。何が不満なんだ」と言うでしょう。何が足りなかったんでしょうか。物質的なことは世話したかもしれませんが、親子のコミュニケーションがない。目と目を合わせて、話したことがない。

石原先生は、石原先生で、ひきこもりを「思考停止、ロボット化」と分析しています。今の日本のオヤジは、「俺たちは子供時代、貧乏な生活をして、耐えて来たんだ。勉強したくても勉強できなかったんだ。お前も我慢しろ!俺たちは耐え抜いてきたんだ。テメーたちも我慢しろ!」こういう気持ちで子育をしている。そして、日本にはそれを支える家長制度がある。家長制度では女と子供は、亭主に逆らってはいけない。逆らったら天皇に逆らうことになる。こういうシステムが支えているので、思考停止による感情のない人間が、どんどん生まれ育って、それが会社に配分されたり、公務員もそうなっている。教会に行っても、牧師が「俺たちは信徒のときめちゃくちゃされたけど、我慢してやってきたんだ。テメーらも我慢しろよ」と言う。では、どのようにひきこもりができるのでしょうか。

幼児期

親になつかず、偽りの自分を作る。0歳、1歳、2歳から人間不信が始まっている。だが、親を騙す。親を騙して、ウソの人間関係を始める。

成長期

 この人が成長期(幼稚園、小学校)に入ると、人に合わせる表の自分と本音を隠した自分の二重人格の構造が発達する。そして本当の自分を隠す。嫌われることを一番恐れている。そして、自分を殺して他人に合わせる。物事を決められない。そして、集団行動を取る。

成人してから

成人してからどういう感情が表れるか。人間不信、人間関係の緊張、対人恐怖、虚無感と孤独感、自分の意思で働けない、恋愛できない、人に合わせるだけの人生。そして、最終的には3段階の人間ができる。第一段階は自殺。自殺したい人は、鬱があったりするので、まだ感情がマヒしていない。「死にたい」という人は、ひきこもりの中ではとても健康的で、治療可能である。第二段階はロボット化。ロボット化すると、感情がマヒする。顔を見たら、無表情人間。明るい表情で仮面をつけているか、それとも暗いか、とにかくのっぺらぼうと言う感じ。これは、ロボット人間になっている。大体、トヨタの社員なんか多い。それから公務員も多い。第三段階は、社会的ひきこもり。社会的に関係を切ってしまった状態。部屋に閉じこもって、もう人間と付き合うのをやめた人間。完璧に努力もやめてしまったと言う状態。これは、社会との適用を諦めた人たちである。

3.ひきこもりの癒し

ひきこもりを強制的に治す名古屋の怖いおばさんがいます。「お前はなまけ者だからそうなったんだ」と強制的に部屋から出し、集団生活をさせます。私もテレビで見たことがありますが、ひきこもりがあのように社会復帰すれば良いんだと考えています。ところが、それは何の問題の解決にもなっていない。なぜなら、ひきこもりが、また、社会にあわせる人格をがんばって演じるようになるだけなんです。そこでも言っていましたが、ひきこもりの青年が、あるときから時間がとまっているといいました。つまり、子供のときに本心をひっこめてしまった。表人格で生きてきたけど、疲れてやめちゃった。表がダメになって、中の人格が出てくる。しかし、その人格は子供なんです。その人にとっては、ずーっと時間が止まった状態だったわけです。石原先生や服部氏がおっしゃっていますが、中の人格が2歳か3歳の場合は言葉もしゃべれない。本当に感情が麻痺した状態。日本にはボケがいるそうですが、欧米にはボケがいないそうです。アルツハイマーという脳の病気があるが、ボケ老人がいない。ボケは日本人独特のもの。じゃあ、なぜボケ老人になるのか。それは、中人格をひっこませて、表人格で一生懸命生きてきた。会社をやめて退職すると、もう人に気を使う必要もなくなる。表人格が壊れて、中人格が出てくる。石原先生に言わせますと、南京袋にくるまれたドローっと状態で出てくる。だから、感情もない子供の状態。それが、ボケ老人だということです。ボケ老人を作らないためには、一生、気を使うところで働かせておけば良いということです。しかし、それでは癒しになりません。どうしたらひきこもりが癒されるのでしょうか。一般に考えられているように、ひきこもりは甘えの病気ではありません。むしろ逆で、親に甘えたことがない、本音を言ったことがないためになった病気だということです。また、癒しは、単に社会復帰すれば良いというものではなく、心が癒さればなりません。

 服部氏は野良猫のたとえを用います。ひきこもりと野良猫は大変良く似ています。ひきこもりは、人間社会の野良猫です。野良猫はどんな特徴を持っているでしょうか?

人間を警戒しています。

人間がそばにいると緊張します。

人間とは親しくなれない。

人間と一緒に暮らせない。

 その点、飼い猫は安心しています。「ゴロニャー」とか言って、ひざに乗ってきます。飼い猫は人間と一緒にいても疲れないんです。ひきこもりの気持ちを理解するのが野良猫が一番です。ですから、ひきこもりの治療は、野良猫を飼い猫にするということです。ところが、現実のひきこもりは、飼い猫のふりをしているので始末が悪い。だから、人間関係で緊張し、疲れるのです。では、どうやって具体的にひきこもりを治すのか。これは石原先生や服部氏が実際にやっていますので、私たちはその秘訣だけを学びたいと思います。彼らは個人的なカウンセリングで治療しています。そういう場合は、患者とカウンセラーというふうになります。私などは、ここいらへんで、躓いてしまいます。患者とカウンセラーと、一線を引くのは、カウンセラーを守るためです。なぜなら、こういう人たちを相手にすると、プライベートな時間が全部取られてしまいます。ですから、服部氏は始めに契約を結んでから、治療にかかります。夜中に電話をかけないとか、物を壊さない。カウンセリングルーム以外では個人的に会わない。お金もちゃんと取ります。ここまで徹底しないと安全な形でできないわけです。しかし、私たち素人は、治療の原則を知ったら、潜在的にひきこもりに対して、手助けになることができます。家に物理的にひきこもっている人ではなく、社会的になんとか頑張って生きているけど、実際は辛い。そういう人に、助けの手を伸ばすことができるかもしれません。

 それでは治療、私たちでいう癒しの中心ポイントは何なのでしょうか。本当のひきこもりも、潜在的ひきこもりも、中の人格を隠して生きています。表面では問題なさそうに生きていますが、人間関係で疲れています。問題は、表の人格ではなく、隠れている中の人格です。まず、こちらが無条件に愛して、受け入れるということです。すると、その人はだんだん、防具をはずして、本音の部分を出してくれます。表現は悪いんですが、野良猫を飼い猫にする。でも、彼らはとても敏感です。人工的な愛とか、見かけだけの愛はすぐ見破られます。ですから、私たちは父なる神様の愛をいただいて、父の愛で接していくしかないのです。彼らは自分の両親にはすっかり心を閉ざしています。しかし、本能的に、本当の自分を受け入れてくれる人、自分のことを理解してくれる人はいないものかと探しているのです。ですから、私たちがその人の親代わりになるしかありません。カウンセラーは商売として、プロとして、それをしているので、一時的に親になり治療を与えることができます。でも、私たちはプロではありませんが、父の心を持っています。駆け引きとか、その人を操作するのではなく、アガペーの愛で接するしかありません。服部氏や石原先生はそのことを実行しています。そして、隠れている中人格を探し当てます。これは、地下室の瓦礫の下で埋もれている人を発見するレスキュー部隊のような仕事です。たぶん、その人は、こちらを試すんでしょうね。本当に、この人は私を愛してくれるのか。単なる興味本位なのか、お金のためか、いいかっこしーか…、試すんでしょうね。だから、普通の愛だったら、途中で、切れて、「いい加減にしろよなー。こんなにやってあげているのに」となるかもしれません。だから、父なる神の愛が必要です。服部氏はこう言います。ひきこもりの治療のできる人は、大学とか特別な訓練を受けていなくても良い。人を真に愛することのできる人ならだれでもできると言っておりました。

 私も潜在的なひきこもりだったかもしれません。私は両親と全く、きずなを持っていませんでした。親の世話で生きてきたとは思っていませんでした。父は子供たちに、立身出世を説いたわりには、自分の人生に挫折していました。酒を飲んでは愚痴と恨み言を吐いていました。母はそんな父を憎み、子供がいるので離婚もできませんでした。母は父の代わりに、長男や長女を信頼していましたので、私は自分の母だとは思いませんでした。いつも不平不満を言っていたので、「お前は、一番わがままだ。本当に情げねなー」といわれました。しかし、私の生涯を振り返るときに、友達がいました。友達の家によく遊びに行き、ハード・ロックとか井上洋水を聴きました。ジャン友もいました。会社に入っても、私を助けてくれた先輩が何人もいます。家では「お前は不器用だ!」といわれましたが、会社では「鈴木は器用だ!」とよく褒められました。しかし、一番の癒しは主イエス・キリストと出会ったことです。ヨハネ14:18「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言われました。また、父なる神は、私を母の胎で組み立てられ、「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」と言ってくださいました。また、イザヤ49:15,16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」と言われました。

 でも、皆さん、私たちがさらに癒されるためには、手で触れる人間も必要なのです。服部氏は「ひきこもりが社会に復帰するためには、神の価値観をもった共同体が必要である」と言っています。セルは互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに祈り合う小グループです。セルには子供がおり、若者がおり、父がおります。もし、私たちが父の愛によって、そういう人たちを受け入れ、ハグしていったらどうでしょうか。癒しのわざが進むと思います。また、神様の御声だけではなく、人間の声で「あなたを愛していますよ。あなたは赦されましたよ。あなたは価値がありますよ」と聞く必要があります。私自身はまだここいら辺が足りないと思います。人間関係で病気になった場合は、やはり人間関係で治すしかありません。日本人は告白することがとても苦手です。しかし、神様も、イエス様も、「愛しているよ。愛しているよ」と数限りなく人間に告白しています。だから、日本人はそうじゃないよとは言えません。私たちは日本という文化の中で生まれ、育ってきたので、全く別人になることはできないかもしれません。しかし、日本の文化を乗り越えた、神の国のライフスタイルを送ることは可能です。私たちはありのままを神様から受け入れられ、愛されています。神様に心を開いて癒されました。今度は、隣人にも心を開いていきたいと思います。それは冒険です。また傷つけられるかもしれません。でも、あなたの隣人を愛しなさいと聖書は命じています。神様の愛と命令こそが、自らのひきこもりから脱却する道ではないでしょうか。自ら神の愛と癒しを体験し、隣人に分かち合う者となりたいと思います。

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2006年5月14日 (日)

幕屋の秘密      ヘブル9:1-10

ヘブル人への手紙は、旧約聖書と新約聖書を結びつける、とっても重要な書物です。旧約時代は祭儀を守ることによって、神様に近づき、礼拝をささげました。一般のイスラエル人は、犠牲を携えて、中庭まで入ることが許されました。しかし、幕屋に入ることが許されるのは、祭司と大祭司でした。幕屋は「会見の幕屋」とも呼ばれ、神様とお会いすることができる特別な場所であります。幕屋は2つに仕切られており、手前が聖所であり、その奥が至聖所であります。これから大祭司になったつもりで、中庭から幕屋へとご一緒に入りたいと思います。その前に、ヘブル9:9「この幕屋はその当時のための比喩です」と書かれています。聖書の下段に書いてありますが、「今の時のことをさす比喩です」とも訳すことができます。つまり、幕屋の1つ1つには、象徴的な意味があるということです。幕屋に入りながら、その意味も一緒に学びたいと思います。

1.幕屋の手前

 聖所へは簡単に入れません。その手前には、祭壇と洗盤があります。イスラエルの民は清い動物を携えてきました。まず、連れて来た人が、動物の頭の上に手を置きます。「これは私の身代わりです」という意味です。祭司は動物をほふって、その血を祭壇の周りに全部注ぎます。これは罪の赦しを象徴します。祭司はその動物を切り分け、火で焼き尽くします。これは「全焼のいけにえ」と言われ、全き献身を意味します。つまり、「神様の前に自分をささげます」ということなんです。「キリストの血によって、罪を聖めていただいた後、自分自身をささげる」。これが礼拝であります。「わぁー」、こういう気持ちで礼拝をささげておられるでしょうか。ひょっとしたら、「賛美の娘、可愛いなー、お昼一緒に食事したいなー」なんて、よけいなことを考えてはいないでしょうか。そうじゃなく、礼拝は自分自身を神様の前にささげるということなんです。それから祭司たちは、洗盤で身を清めます。白い麻布を織った着物を着て、血を携え、いよいよ幕屋へと入ります。私たちはイエス様を信じることによって、義の衣が与えられます。これを着ていれば、中身がどうであろうとも、神様から「あなたは義である」とみなされるわけです。みなさん義の衣を着ていますか?「いや、きょうはジーンズとTシャツです」。ま、それでも構いません。でも、イエス様を信じると、義の衣が与えられるんです。これを着ていると、サタンからさばかれません。だれからも後ろ指をさされることもありません。罪が覆われているからです。だれかがやって来て、「鈴木!お前が、クリスチャンになる前に犯した罪を洗いざらい、ぶちまけてやるぞ!」と言われても、平気なのであります。

 年に一回、「贖いの日」、大祭司はきよい動物の血を携えて、聖所、そして奥の至聖所へと進み行きます。これは、新約的には、イエス・キリストの血を信じる信仰であります。神様に近づくために必要なものは、賛美よりも、むしろ血であります。詩篇95:2「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌を持って、主に喜び叫ぼう」と書かれています。また、詩篇100:4「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ」とあります。どちらも、withとなっていますので、「賛美をしながら、賛美を持って」という意味であります。賛美は必要じゃないのですか?もちろん、賛美も必要です。でも、賛美は、私たちのくちびるの果実であり、むしろささげものであります。ペンテコステ系の教会は、賛美をたくさんして、主の臨在を仰ぎます。賛美が足りない場合は、もっと賛美をします。「んー、まだ、足りない」と言って、1時間くらい賛美をするかもしれません。それから、「おー、主の臨在を感じる」と言います。そうではありません。私たちが賛美をたくさんして、神様を天から引き降ろすのではありません。神様はすでにここにいらっしゃいます。では、どうやって、神様の臨在に入るのでしょうか。それは、By blood of Jesusイエス・キリストの血によってです。「イエス様が私たちの贖うために、十字架について、血を流してくださいました。私たちはイエス様の贖いの血を受けている者です。イエス様の血潮を感謝します。アーメン。」これが大事です。十字架の血を仰ぐことによって、私たちの良心が聖められ、主に近づくことを可能にしてくれます。

それでは、入口の垂れ幕を通って、聖所に入りましょう。聖所の中は暗いんですが、燭台の光がともっています。目がなれると、あざやかな色彩が目に入るでしょう。幕屋の外側はじゅごんやアザラシの皮で作った天幕です。黒に近い灰色で、あまり見栄えはしません。それはイザヤ書にあるように、イエス・キリストの外側であります。「彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」(イザヤ53:2)。この世の人たちは、十字架にはりつけにされたイエス・キリストを美しいとは思いません。新興宗教の人たちは、「なんと、あわれな教祖なんだ」と馬鹿にするでしょう。でも、イエス様の内部はどうでしょうか。幕屋の内部は、亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸でケルビムが刺繍されています。豪華絢爛とはこのことであります。ヨハネ1:14「この方は恵みとまことに満ちておられた」コロサイ2:9「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」讃美歌に、「聖なる主の美しさ」と言う賛美があります。「聖なる主の美しさと、その栄えを仰いで、まごころもて、み前に立ち、御名をたたえ、あがめよう」。日本語で「美しい」と言う表現は、むしろ女性に使われるのではないでしょうか。「美しい」はギリシヤ語でカロスですが、「善い、非の打ち所のない、立派な、すぐれた」という意味もあります。ヨハネ10:14「私は良い牧者です」とありますが、言語では、「カロス牧者」であります。イエス・キリストは「良い方、美しい方、麗しいお方」なのであります。ある人たちは、「自分は信仰が浅いから」などと言います。信仰の深さを、どこで測ることができるのでしょうか?それは簡単です。「イエス・キリストをどのようなお方として信じているか」であります。「ナザレの大工」として見ているか、それとも、「生ける神の子キリスト」と見ているかであります。あなたがイエス様をどのように見ておられるか、それがあなたの信仰の度合いです。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。アーメン。

2.幕屋の聖所

 聖所には、燭台と机と金の香壇があります。でも、ヘブル人への手紙9章には、金の香壇が至聖所にあるかのように書かれています。旧約聖書は、香を焚く香壇は手前の聖所にあるようですが、ヘブルの記者はそうじゃないように書いています。一体、香壇はどこにおいていたのだろうか、「秘密」、ミステリーであります。いいえ。このことが「幕屋の秘密」なのではありません。香を焚く香壇は、どこに置いても良いということにしておきましょう。それよりも、幕屋の内部には、燭台と机があります。燭台の枝が7つに分かれて出て、その先にともしび皿がついています。このように、左右対称になっており、アーモンドの花をイメージしています。祭司たちは夕から朝まで、火をともしました。燭台は、「イエス・キリストは世の光である」ことを象徴しています。また、クリスチャンも教会も世の光であります。黙示録には「イエス・キリストが、7つの金の燭台の間を歩く」と言われています。黙示録2:5「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう」。これは、個人においても団体においても言えることですが、罪の中にとどまるなら、燭台が取り除かれてしまいます。つまり、世の光としての役目を失い、輝きがなくなるということです。日本基督教団はどうでしょうか?亀有教会はどうでしょうか?そして、あなたはどうでしょうか?プロレスの猪木が「元気ですかー」と叫びます。私たちはお互いに「輝いていますかー」と叫びましょう。もし、輝いていないなら、どこから落ちたかを思い出しましょう。そして、悔い改めて初めの行ないに立ち返りましょう。信仰生活においては、道からそれちゃったり、倒れることもあるでしょう。でも、倒れることは罪ではありません。倒れたら、立ち上がれば良いのです。この間、ドニー・マクラキンがコンサートで賛美していました。「倒れたら、立ち上がれ!」「倒れたら、立ち上がれ!」「倒れたら、立ち上がれ!」です。

 もう1つ聖所には、机があります。その上には12個のパンが並べられています。パンは毎日、焼いて供えます。祭司たちは、その日の終わり、そのパンを敷地内で食べました。家に持ち帰ることは禁じられていました。イエス・キリストはヨハネ6章で「私はいのちのパンである」と言われました。いのちのパンであるイエス・キリストを食べる、つまり信じる人は、永遠に生きるのです。みなさんは、イエス・キリストを食べましたか?イエス様の言葉を聞いた人たちは、「なんとひどい言葉だろう」とつぶやいて去って行きました。食べるとは、自分の中にとりこみ、キリストと一体化するということです。もし、キリストが毒であるならば、死ぬかもしれません。だれでも、最初は迷ったかもしれません。今も迷っている人がおられるかもしれません。日本人は食わず嫌いの方が非常に多いですね。グルメなどは、「まいうー」なんて食べるくせに、「キリストは結構です」とおっしゃる。イエス様は「いま食べ飽きているあなたがたがは、哀れなものです。やがて、飢えるようになるからです」と言われました。イエス様以外のもので、満腹している人たちは哀れな人たちです。病院には、癌のために余命いくばくもない人たちがいます。でも、イエス・キリストは命のパンです。イエス・キリストを食べるなら、たとえ死んでも生きるのです。私はパンが大好きです。田舎では、もうすぐ、田植えです。今は機械ですが、昔はすべて手作業でした。男衆は苗代から苗を運んできます。そして、田んぼに入いると、大きな型を回して、格子状の印をつけます。その後、あねさんたちが、印の上に稲の苗を植えていきます。子どもの仕事は、彼女らの前に、苗の束を投げることです。「どのくらい投げたらちょうど良いか」考えながら投げます。たまに、「やす、1つほってけれ!」と言われます。「はいよ!」なんて、遊び感覚で面白い。お昼は、パンが出ます。ジャムパンです。ぱくっと割ると赤いジャムが出てくる。これがまた美味しい。当時は、パンがご馳走だったんです。「パン」と聞くと、貧相なイメージを持つ人がいるかもしれませんが、私にとってパンはリッチな感じがします。イエス・キリストは、天から来られた命のパンです。この世にはいろんなパンがありますが、命のパンはイエス様しかおられません。まだ、食べていない方は、ぜひいただいてください。

3.幕屋の至聖所

 さて、聖所の奥は至聖所です。聖所と至聖所の間には、隔ての幕があります。これは「仕切りの垂れ幕」とも呼ばれ、その先は、だれでも入れるわけではありません。大祭司が年に1回、「贖罪の日」にだけ入れます。大祭司の衣の裾にはいくつかざくろの形をした鈴がついています。そして、足にはロープが結わえられています。幕屋の外にいる人たちは、鈴の音を聞いて、「ああ、ちゃんと生きている」とわかります。「あれ?鈴の音が聞こえないぞ。もしかしたら、神に打たれたのかもしれない」。そういうとき、大祭司の足についていたロープを外から引っ張るのです。何が起こったとしても、至聖所には入れないからです。ですから、この日は、大祭司にとって、最も緊張する日であったと思われます。やばい罪を隠していたなら、打たれるからです。これだけ、神様に近くということは、大変だということです。さて、至聖所には何があるのでしょうか?それは、契約の箱であります。ヘブル9:4「そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋(しょくざいがい)を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません」

 契約の箱は、神の臨在のしるしです。そして、契約の箱の蓋が、もっとも重要です。なぜなら、主が「わたしがそのところであなたに会う」と言われたからです。箱の蓋は、「贖いのふた」もしくは「贖罪所」と呼ばれ、純金でできていました。一年に一度、贖罪の日、大祭司はヤギと牡牛の血を携え、贖いの蓋の上に振り掛けて、民の罪の贖いをしました。贖いの蓋の両端から、金で作ったケルビムが羽を広げて、中央を見ています。ケルビムは、罪を犯したアダムとエバが二度と、エデンに入らないように見張っている御使いです。ここでは、両脇のケルビムが羽を広げながら、贖いがなされるのを見ようとしています。「贖いの蓋」を、ギリシヤ語では「ヒラステーリオン」と言いますが、「なだめる」と言う意味があります。使徒パウロはローマ3章で、同じ言葉を用いています。ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」。また、ヨハネもⅠヨハネ2:2で「全世界のためのなだめの供え物」と言っています。ここで言われている、「なだめの供え物」とは「贖いの蓋」と同じヒラステーリオンであります。どういうことかと言いますと、イエス・キリストが「贖いの蓋」「なだめの供え物」であるということです。「なだめ」というと異教的な感じがしますが、そうではありません。みなさん、人間の罪は神様の怒りを引き起こします。義なる神様は、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意に対して、怒りを覚えておられます。旧約聖書を見ると、「神様は罪に対して必ずさばきを下すお方だ」ということがわかります。神様は髭をはやした優しいおじいちゃんではありません。神様は友達ではありません。神様は、1片の罪に対してもさばきを下さなければならない義なるお方です。だから、私たち神様をなめってかかってはいけません。

 しかし、みなさん、義なる神様は、同時に愛なるお方です。神様は人間から罪を取り除いて、なんとか愛することはできないかとお考えになられました。どうされたのでしょうか?動物では限界があります。ご自分のひとり子「御子イエス」に、全人類の罪をかぶせ、御子を代わりにさばいたのです。神の怒りが御子イエスの頭上にくだりました。そのとき、イエス様は「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか?)と泣き叫びました。御子イエスは父なる神様から断罪され、地獄に落とされたのです。イエス様の叫びは、本来、私たちが地獄から叫ぶべき言葉だったのです。しかし、すばらしいことが起こりました。御子の死によって、神様の怒りがなだめられたのです。神様は御子の死によって、満足したのです。今や、神様は十字架の贖いによって、怒りをひっこめ、どんな罪人でも、あわれみをもって赦されるのです。もはや、私たちは「神様、あわれんでください」と言わなくても良いのです。なぜなら、キリストの十字架によって、神様はあわれみ深いお方に変わられたからです。神様は本来、変わらないお方なのです。でも、キリストの贖いを通して、罪人に対する、態度を変えてくださったのです。みなさん、どんな罪人であっても、キリストのもとに来るならば、神様の怒りが下ることはありません。夏になると雷が鳴り響きます。私は栃木の那須で仕事をしていたことがありますが、本当に、雷がすぐ近くに落ちます。鎌の上とか、ゴルフのクラブに落ちたりします。なんと、入れ歯に落ちるケースもあるようです。都会の空を見ると、ビルの上には必ず避雷針が立っています。避雷針の高さの半径に当たる所には雷は落ちないようになっています。神様の怒りは罪に対して落とされます。でも、イエス様は十字架にお架かりになり、今や、罪の避雷針になってくださったのです。イエス様のところに身を寄せるなら、あなたの罪は赦され、裁きに会うことはないのです。新約の私たちは神様の御座に大胆に近づくことができるようになったのです。ハレルヤ!

 今、鈴木崇巨先生の書かれた「牧師の仕事」という本を読んでいます。その本の中に、「礼拝の構成と流れ」と言うことが書かれていました。「キリスト教の礼拝は、懺悔をもって始めるのではなく、主への賛美を持って始めます。幕屋の礼拝において、祭司が手足を洗う前に、まず第一に全焼のいけにえをささげ、その良い香りが天に昇ることによって受け入れられることをしなければなりませんでした。クリスチャンもまず主に受け入れられなくては、懺悔の祈りすらできません。主イエス・キリストの十字架の血によってあがなわれて受け入れられているので賛美の祈りが出てきます」。私は「懺悔の祈り」と言う、名目で祈ったことはあまりありません。「悔い改め」なら、もちろんあります。私たちは神様に近づく時に、自分の罪や足りなさに気が付くかもしれません。もちろん、そういう自覚も大切です。でも、私たちがもっとも注目すべきことは、キリストの贖いによって、すべての罪が赦されている。父なる神様はもはや怒ってはおられない。こちらが「あわれんでください」と言わなくても、すでにあわれみをかけていらっしゃるお方です。みなさん、恵み深い神様に近づくとき、「罪なんかもう犯したくない。あなたのように聖くありたい」と自然となります。人から、「悔い改めなさい」とか「その所を変えなさい」と言われると、よけい頑なになります。これは、「北風と太陽」の話と同じです。でも、私たちがキリストを通して、神様に近づくとき、おのずと変えられていきます。神様の方は、無条件の赦しを与えておられます。問題は、私たちが神様の前に心を開くことです。私たちはキリストの血によって、至聖所におられる神様のもとに大胆に近づくことが許されています。ダビデは、詩篇23篇で「私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから」と歌いました。「あなたと私」の関係になったんです。主イエス・キリスト様と「あなたと私」という深い関係にならせていただきましょう。

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2006年5月 7日 (日)

キリストにある家族      マラキ2:14-16

長続きできない多くの結婚生活は、結婚についての正しい理解を持っていないことです。また、神のみことばに合わないこの世の結婚観を持っているからです。人々は、幸福になるために結婚しようとします。そして、幸福でないからと言って離婚します。幸福は、結婚の目的ではありません。神様のみこころに従うとき、ボーナスとして与えられるものです。また、多くの人たちは、結婚式の準備はしますが、結婚生活に関しては準備しません。結婚式はたった1日ですが、結婚生活はその先、一生の問題であります。しかし、だれも正しい結婚について教えてくれません。みんなぶっつけ本番で結婚してしまうので、失敗するのです。きょう来られていらっしゃる皆さん全員が、結婚しているわけではありません。これからの人は準備のため、「もう卒業した」と、思っている方は、次の世代に伝えるために、共に学びたいと思います。

1.結婚とは、神との契約です

アメリカで、ある数のご夫婦にアンケートをしました。「あなたがたは結婚に対して満足していますか」という問いに対して、「95%の人たちが満足していない」と答えたそうです。アンケートの対象は、なんと、クリスチャンであったということです。アメリカは、そういう意味で、もはやキリスト教国ではありません。50%近くも離婚しているからです。神様のみこころは何でしょうか?マラキ書2章には、「神様は離婚を憎む」と書いてあります。つまり、離婚は神様のみこころではないということです。さらに、マラキ書は「あなたがたの霊に注意せよ」と言っています。これはどういうことかと言いますと、結婚とは霊と霊の結び付きだということです。結婚して、肉体関係を持ちますと、お互いの霊と霊を交換することになります。それは神様が一致のために与えた恵みなのであります。もし、そのカップルが離婚するとどうなるでしょうか。接着剤でつけた2枚の板を剥がすとどうなるでしょうか?板がきれいにはがれて、もとの2枚の板になると思いますか。そうではありません。一方の板に片方の木切れがくっつき、もう一方の板に片方の木切れがくっついています。離婚したカップルもそうなのです。同じことが、結婚する前に肉体関係を持った人にも起こります。A子さんの霊の一部が、B男さんの霊にくっついています。そして、B男さんの霊の一部が、A子さんの霊にくっついています。複数の異性と肉体関係を持ちますと、たくさんの人の霊が、自分にくっついてしまって混乱状態に陥ります。ですから、そういう罪を犯した人は悔い改めましょう。そして、御霊の剣によって、自分にくっついた霊の一部を切り離して、相手に返します。そして、相手に行ってしまった霊の一部を取り返します。そういう作業をしない限り、あなたはずーっと、別れた人を忘れることはできません。

本題に戻ります。結婚とは、神が定めたものであり、人間が考え出したものではありません。契約には2種類あります。1つは人間との契約です。英語では、contractと言いますが、この契約は一時的であり、条件付きで、部分的です。人間の契約は、ある一定期間、ある条件を満たした時だけ有効なのであります。一方、神との契約は、covenantと言いますが、これは全生涯に渡るものです。だから、夫婦はいかなるときにも死が二人を分かつ時まで、忠誠を誓い合うのです。さらに、神との契約は、無条件であり、全体的であります。図を見て、分かると思いますが、左側が人との契約です。これは売買契約とか保険などの契約です。人との契約は、一時的です。一方、神様との契約は全生涯にわたるものです。また、人との契約は条件付きです。多くのカップルは「性格が合わない」とか「暴力をふるう」「家にお金を入れない」「性的満足を与えない」と言ってすぐ離婚します。でも、神様との契約は無条件であります。また、人との契約は部分的、パーシャル・マリッジです。「パーシャルデント」、部分入れ歯の洗浄剤で聞いたことがあります。でも、神様との契約は全体的です。全体的とは何かということは、第二のポイントで学びたいと思います。

2.結婚とは全体的なものです

マタイ19:5,6「『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。聖書は「神様の前に夫婦が一体となる」という約束を与えておられます。でも、ただ結婚したからと言って、自動的に一体になることはできません。では、どのように夫婦は一体になれるのでしょうか。また、それはどのような分野でなされるのでしょうか?

①1つの霊

 夫婦は霊的に1つになることが何よりも大切です。そのためには、お互いが祈り合うことです。祈り合うと、お互いの霊と霊が交わり、霊的一致が与えられます。韓国に熱心なクリスチャンのカップルがいました。それぞれ早天祈祷会に出席し、一日に、2時間も祈ります。でも、お互い一致なく、いつも争っていました。彼らは、一人で祈りますが、一緒に心を合わせて祈ったことがなかったのです。このことに気付いて、二人でお祈りするようにしました。すると、内側からすばらしい一致が与えられたということです。

②1つの心

 心と心が1つになるために、何をしたら良いでしょうか?それは会話です。正直に何でも話し合うことによって、魂と魂が交わることができるのです。結婚前のカップルは良く話し合います。でも、一旦、結婚したらどうでしょうか。お互いの会話がなくなります。レストランに行って、周りを見渡してみると、結婚しているカップルかそうでないカップルすぐわかります。お互いに目を見つめ合って、べらべら、ぺらぺらしゃべっているカップルは、結婚前です。そして、むっつりしてマガジンや新聞を見ているカップルは、既婚者です。ある調査によりますと、男性は一日、2万語を話すそうですが、女性は一日5万語を話さないと満足しないそうです。夫は会社で、営業とか何かで、その2万語を全部使い果たしてしまいます。お家にいる奥さんは、ほとんど使っていません。夫が帰って来たら、5万語をなんとか消化したいのです。「きょう、会社で何があったの」「どんなことがあったの」と聞いても、夫は「飯」「風呂」「寝る」しか答えません。会話に関しては、男性が弱いんです。だから、夫は、心から妻の声に耳を傾ける必要があります。また、夫は「それは、こうだろう!」と、教えてはいけません。ただ、ひたすら耳を傾け、理解しましょう。そうすると、妻は愛されていると感じるわけです。このことに関しては、私も勉強中です。

③1つの体

 これは、肉体の交わり、セックスです。男性の性的な欲求は、すべての中でNo.1です。しかし、女性の場合は、No.3かNo.5くらいなんです。ここで大きな違いが生じてきます。夫は、「喜んで協力しろ!」と妻に言いたくなるのですが、そうはいきません。日本では、こういう話題はタブーになっています。お悩みの方は、もうすぐ、銀婚式を迎える、私と家内に個人的に聞いてください。

④1つのビジョン

 たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということが大切です。クリスチャン同士でも、考え方や性格が違うことがよくあります。「お前がこっちに来い」、「あなたこそ、こっちに来てよ」とお互いに主張します。でも、相手に合わせることは屈辱的であります。夫婦が共通して持つべき最も大切なビジョンとは何でしょうか。それはお互いがキリストに似た者になるということです。夫と妻が「キリストに似た者になりたい」と願って、神様に近づくのです。こちらに夫、こちらに妻がいます。二人が神様に近づけば、近づくほど、二人の距離が縮まって行きます。

⑤1つの会計

 これは、お金を夫婦で別々にしないということです。財布はそれぞれ、持って良いのです。でも、会計は1つです。ある夫婦は、それぞれ貸し借りをしています。お互いにいくら持っているかは秘密です。イエス様は「宝のあるところにあなたの心もあるからです」とおっしゃいました。お金が別々であるなら、もう既に、心が別々になっているのです。夫婦、どちらが大蔵省になるかは自由ですが、1つの会計にしましょう。

⑥1つの親

 日本では舅、姑の問題が大きいです。「お前の親父はヘンだなー」「いいえ、あなたのお母さんこそヘンよー」などと、お互いの両親を悪く言うことはないでしょうか。そうではありません。結婚したら、義理の父も義理の母もありません。「あなたの父であり、あなたの母」なんです。つまり、自分のお母さんが二人、自分のお父さんが二人になったわけです。

 一致を体験するために6つの知恵を分かち合いました。結婚は部分的ではなく、全体的であることを理解しましょう。

3.結婚とは責任の拡大です

エペソ5:23-25「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」。エペソ5:33「それはそうとして(無条件に)、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」。

夫にとって一番大切なこととは何でしょうか。それは、かしらとしてリーダーシップを取り、妻を愛することです。聖書は、「夫は妻のかしらである」と言っています。「かしら」だからと言って、何も偉いわけではありません。それは、機能、「働き」の問題です。夫は「かしら」として造られているので、リーダーシップを取るようになっているのです。リーダーシップとは、家庭において、最終的な決断をすることです。では、妻にとって一番大切なことは何でしょうか。それは、かしらである夫を敬って従うことです。「従う」と言っても、「何でもかんでも奴隷のように従え」ということではありません。「主にあって」ですから、神様が禁止していることに対して、従う必要はありません。でも、家庭において夫がリーダーシップを取り、妻がそれに従うというのが、神が与えた秩序です。しかし、戦後、靴下と女性が強くなり、夫に従わない妻が増えてきました。ある妻は子どもの前でも、夫を馬鹿にます。そして、自分で何でも決めて、夫に「このように決めたので、良いわね」と言います。しかし、それは愚かなことです。男性は、かしらとして造られているのです。もし、妻が全部決めたら、夫は「お前が決めたんだから好きにしろ!」と言って、責任を放棄するでしょう。どういうわけか、妻がリーダーシップを取ってしまうと、夫はなめくじのようにヘナヘナと弱くなってしまうのです。賢い妻はどうでしょうか。色んなことを調べ、材料を提供します。95%くらいまでは自分でやるかもしれませんが、あとの5%、おいしいところを夫に残します。「あなたがかしらなんですから、あなたがお決めください」。夫が決断したなら、最後まで、夫が責任を取るのです。賢い妻は「あなたは頼もしいわー」と褒めて、尊敬します。そうするとどうなるでしょう。夫は木に登るかもしれません。でも、夫はない力を振り絞ってでもがんばります。自分を尊敬してくれる妻には、命まであげるでしょう。それがオトコなんです。悲しいサガです。

夫はかしらだと申し上げましたが、「かしら」には、源と言う意味があります。源が清ければ、下流には清い水が流れます。逆に、源である夫が汚れるなら、妻や子供に悪影響が及ぶでしょう。それは、傘にたとえることができます。夫が妻のかしらであるということは、このように傘が上を向いている状態です。すると、妻や子供たちが雨にぬれなくても良いわけです。しかし、夫が夫の役目を果たさない場合はどうでしょうか。働かなくなったり、浮気をしたり、暴力を振るったりする場合です。傘に穴が開いた状態になります。雨が下にいる妻や子供たちに落ちてきます。それでは、逆に妻がかしらになったらどうなるのでしょうか。それは、傘をさかさまにした状態になります。さかさまになった傘は、雨を防ぐことは出来ません。子供は一体どこに隠れるのでしょうか。でも、傘を立てて歩くなら、前に進むことができます。それは、夫がかしらとして、リーダーシップを取るということです。では、なぜ、聖書は夫に「妻を愛しなさい」とだけ言って、妻に「愛しなさい」と言っていないのでしょうか。妻は夫を愛さなくても良いのでしょうか。いいえ、妻も夫を愛さなければなりません。ここで、夫が妻を愛するように命じられているのは、夫がかしらであるからです。悪いかしらは横暴になって、妻を苦しめる恐れがあるからです。だから、「かしらにとって忘れてならないのは、妻を愛することだよ」と言っているのです。

4.キリストにある家族の4つの倫理

 これは夫婦が平和にくらすための大憲章、マグナカルタのようなものです。本来なら、婚約中にこういう決め事をしたほうが良いと思います。すでに結婚している方は、これからでも遅くはありません。「今の私には関係がない」と思っている方は、これから結婚する人に教えてください。

たとえ衝突が起きても、済んでしまったことを持ち出さない

 「あなたはいつも、このことをしている」「あなたは決して、気にかけない」はさばきのことばです。一般に、男性よりも女性の方が過去に関する記憶力が良いです。頭の中のノートにしっかり記録している方もいらっしゃいます。たとえ、衝突が起きたとしても、済んでしまったことは持ち出さないようにしましょう。

たとえ怒っても、離婚話を持ち出さないということです。

 「私たちは別れた方が良い」は、無用な言葉、ナンセンスな言葉です。なぜなら、神様の前で「死が二人を別つまで」と、契約を交わしたからです。「神様の前で結婚したなら、離婚という二文字はないんだ」と、覚悟することです。私も結婚して、もうすぐ25年になりますが、「花も嵐も踏み越えてー」でありました。クリスチャンでなかったなら離婚していたかもしれません。でも、神様が与えてくれた妻なので、お取替えは不可能です。私が決めたんだったら、間違いがあります。でも、大川先生と神様が決めたんだから、諦めるしかないんです。でも、それは恵みであり、祝福であります。世の中は、浮気や不倫が横行しています。しかし、それは神様の律法を飛び越えてしまう大きな罪です。箴言5:15-18「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ」。

たとえ喧嘩しても、相手を叩いてはならないということです。

 多くの夫は口で負けるので、妻を平手で叩くが、それは心の深い傷になります。妻は機関銃デババババババと打ちまくります。夫は打たれてしまいますが、最後に手榴弾を投げつけます。今日、DVがかなりの%で起きています。とても悲しい出来事です。

たとえ言い争ったとしても、怒りを次の日まで持ち越さないということです。

 エペソ4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」。「機会」はギリシヤ語では「トポス(場所)」と言う意味があります。つまり、怒ったままでいると、そこに悪魔が足場を設けてしまいます。赦さないために、「怒り」の奴隷になっている人が大勢います。夫婦は、「怒りを次の日まで持ち越さないんだ」と言う約束をしましょう。

 世界で一番離婚率の高い国はロシアです。インドネシアのエディ・レオは、二年前、ウラジオストックに招かれて行ったことがあるそうです。ウラジオストックの教会はとても貧しいので、旅費も出せません。教会に行くと、ほとんどが女性。ギターを弾いて、賛美する人も女性。司会者も女性です。なぜかと言うと、夫が酒を飲んで、暴力を振るうので離婚するしかないんです。そこへ行って、エディが「父の愛」を語ると、みんな「ワーワー」泣いて、力強い癒しのわざが起こるそうです。家庭が壊れているため、みんなが傷ついています。そういうことが代々、続いているのです。今年も、エディは亀有に来る前に、ウラジオストックを経由してから来られます。日本でも、家庭が崩壊しています。私の家は父が酒乱で暴力をふるい、母はいつも別れたいと言っていました。私を含め8人の子どもたちがいたので、死ぬまで縛られていました。家内の家は、お父さんが出稼ぎで、父親がいなかったんです。そのため、ちょっとネクラです。私たち自身、そして身近な人たちも、家庭の崩壊の呪いを受けています。どうぞ、家系から来る呪いを、私たちの代でストップしましょう。私たちも主の癒しをいただきましょう。そして、聖書的から来る、正しい結婚観を立て上げましょう

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2006年4月30日 (日)

契約の仲介者     ヘブル8:1-7

 聖書は英語で、Holy Bibleと言いますが、他の呼び方もあります。旧約聖書はOld Testamentと呼びます。これは古い契約という意味です。そして、新約聖書はNew Testament、新しい契約という意味です。契約という意味を理解すると、私たちの救いとか信仰ということがよく分かります。残念ながら、日本には「契約」という概念が乏しいようです。なぜなら、単一民族で、毎日顔を合わせているので改めて約束を交わすというのは水臭いように思われるからです。酒場においてもツケが効いたりするのはそういうことからも来ています。でも、聖書の神様との関係は、顔見知りとか会ったことがあるくらいでは成り立ちません。聖書の神様は、契約を交わさないと、私たちを救ったり、守ったりできない方なのです。ですから、契約関係ということを知ることは信仰生活にとても重要です。

1.契約の仲介者

 神様はエデンにおいて、アダムと契約を交わしました。でも、アダムは食べてはいけない木から取って食べてしまいました。その行為は、「私も神のようになりたい」と言う反逆罪でした。それから神様は、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエルと契約を結びました。神様はイスラエルを祭司として立てて、すべての国民を祝福しようとお考えになられたのです。ところが、モーセが神様から十戒をもらうために40日間、山に登っていた間に、イスラエルの民は罪を犯したのです。エジプトにならって、金の子牛を作って、拝んでいました。モーセはそれを見て、怒って、十戒が記された石の板を、砕いてしまいました。その後、レビ人が祭司として立てられました。しかし、レビ人はイスラエルの12部族だけの祭司であり、すべての国民のための祭司ではありません。確かに、大祭司も立てられましたが、それは神様とイスラエルとの仲介者でしかなかったのです。モーセは神様から示されたように幕屋を建てました。そして、レビ族や大祭司は律法に従って、ささげ物やいけにえをもって神様の前に出ました。でも、それは地上のイスラエルという部族のためだけであったのです。

 では、ヘブル8:5,6に何と書いてあるでしょうか。「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです」。モーセが建てた幕屋は、天にあるものの写しであり影だったのです。写しとはコピーですから、オリジナルがあるはずです。影とはシャドゥですから、本体があるはずです。地上の幕屋に対して、天の幕屋があります。地上の大祭司に対して、天の大祭司がおられます。また、地上のささげ物といけにえに対して、永遠のいけにえがありました。新しい契約の仲介者であるイエス・キリストが、それらすべてを完成されたのです。もう、幕屋もいけにえも、大祭司も不要になりました。イエス・キリストが神からの大祭司として、完成されたからです。どのようになさったのでしょうか?古い契約の違反をご自分が贖い、さらに新しい契約を結ばれました。イエス・キリストは人間がなしえない律法の要求を全うされたのです。みなさん、契約書には必ず守るべき条件項目が記されています。自動車保険や生命保険の契約書にも必ず付いています。ローンでお金を借りる時も条件項目が記されています。それがまたみんな薄くて小さい文字なんです。ほとんどの人はそんなの読みません。でも、契約に違反したときに、小さな文字が生きてくるのです「ほら、ここにちゃんと書いてありますよ」なんて言われます。契約の条件にあたるものが、十戒をはじめとする数々の律法です。「イスラエルの民は分かりました。すべて守ります」と言ったんです。でも、ダメでした。そのため、天よりも高くされた大祭司、イエス・キリストが来られたのです。すべての律法を全うし、ご自身の命でイスラエルの罪を贖われたのです。

 でも、それだけだとまだ不十分です。本来、神様がイスラエルを選んだのは、イスラエルを通してすべての国民を祝福するためでした。すぐれた契約の仲介者、イエス・キリストは何をされたでしょうか。ご自分が死んで、三日目に復活し、教会という体をとおして神様の前に立たれたのです。かしらはイエス・キリストです。そして、体は教会、私たちなんです。聖書に、教会はキリストのからだであると書いてあります。体の中に、あなたもわたしも含まれているのです。これまでは人間が神様と契約を結びましたが、ことごとく失敗しました。でも、新約では、イエス・キリストが契約の仲介者として、父なる神様と契約を結ばれたのです。人間であれば、何度やっても失敗するでしょう。しかし、イエス・キリストは失敗しません。Jesus doesnt fail. Jesus never fail.イエス・キリストが父なる神様と契約を結ばれたとき、私たちはどこにいたのでしょうか。そうです、イエス・キリストの体の中にいたのです。ですから、神様はキリストを通して、私たちと契約を結ばれたことになります。新しい契約は、キリストが間におられるのです。もし、私たちが失敗したら、誰が責任を取るでしょうか。イエス・キリストです。もし、私たちが要求を満たさなかったなら、誰が満たしてくれるでしょうか。イエス・キリストです。もちろん、私たちが個人的に守る義務もあります。でも、私たちがこの契約において、一番、守るべきことは何でしょうか。それは、「キリストにおる」ということです。新約聖書では、「キリストの内に」、「キリストにあって」、「キリストにあるならば」、「キリストにとどまるなら」と口をすっぱく言っているのはそのためです。みなさん、あなたがキリストの体からはみ出してしまうので、悪魔にやられるのです。悪魔は律法を犯した者を罰する、力があるのです。悪魔は神様の前にあなたを訴えるでしょう。でも、あなたがキリストの内にあれば、キリストの血によってガードされるのです。愚かなクリスチャンは、ときどき、キリストの体から飛び出して、痛い目に会ってしまいます。「キリストの内にとどまる」「キリストのうちに隠れる」。これが重要です。

 私たちには契約の内を歩む必要が残されています。そのことによって契約の条件を満たし、豊かな祝福を得ることができるのです。契約の内を歩むとは、みことばを読んで、従うことです。イエス様を愛する人は、イエス様の戒めも守ります。それは罰せられるのが怖いからではなく、イエス様を愛しているからです。イスラエルの民は、「律法を守らないと呪われる。それを守らないと救われない」ということで、イヤイヤ従ったのです。彼らは、律法を救いの条件みたいに考えたのです。新約の私たちはそうではありません。新しい契約の仲介者なるイエス様が、律法の条件を全部満たしてくれました。また、イエス様は十字架で律法のろいから解放してくれました。ですから、律法自体が変わったのです。律法は私たちをガードする境界線になったのです。車で道路を走るとき、センターラインとかガードレールがあります。街中では、車はゆっくり走るので、センターラインとかガードレールがないところもあります。でも、一旦、高速に出たらどうでしょうか。高速道路に、車線とかガードレールがないと、怖くて走ることができません。あなたは、「車線とかガードレールなんかいらない」と言うでしょうか。律法は越えてはいけない、神の戒めです。律法というガードレールを飛び越えたら、命の保証はありません。律法の内側を歩むとき、あなたは安全なのです。そういう意味で、信仰生活において、神様の戒めとか教えは必要不可欠なのであります。私たちは神の義を知るために、聖書を読む必要があります。「義」ということばには、はかりとか物差し、基準という意味があります。残念ならが、この世は神様から離れ、人間の基準で生きています。法律も「それをしたら、他の人が害されたり、迷惑を被るので、それをしてはいけない」と、人との関係が基準です。でも、神様の律法は、神の義を教えます。「人を殺してはいけない」というのは、人間が定めた法律ではなく、神が定めた律法なのです。今、多くの若者が親や友人を殺しています。なぜでしょう?人間の道徳や法律が基準になっているからです。結婚もそうです。人間が決めた契約だったら、うまくいかなければ離婚がなりたちます。しかし、結婚は神様が定めた契約です。そうなれば、人間ではなく、神様に対して責任があるということです。

私たちはこの世で生まれ、この世の教育を受けてきました。キリスト教国でない日本は特にそうです。小学校でクリスチャンになったのならともかく、20代、30代、40代でクリスチャンになった人は、考え方や思想を聖書のものと入れ替えなければならないのです。そのために、私たちは日々、聖書に親しみ、聖書から教えられる必要があります。聖書には神様の基準、神様のみこころが示されているからです。前半のポイントのまとめです。私たちは新しい仲介者によって、救いの中に入れられました。それでは私たちの義務とは何でしょうか。第一はキリストにとどまる。キリストに従うということです。第二は、みことばを読み、それを守るということです。私たちがみことばを読んで、それを行なうとき、契約の内を歩んでいることになるのです。契約の内を歩む人生とはどういう人生でしょうか。詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。ヨシュア1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。神様の愛は無条件です。でも、神様の祝福は条件付きです。多くの人たちは誤解しています。神様の愛は条件付きで、神様の祝福は無条件だと。そうではありません。私たちが祝福を得たいならば、契約の内を歩むということです。そのために、みことばを読み、みことばを守り行なうということです。

2.新しい契約

 新しい契約において、神様はもう1つ、すばらしい恵みを与えてくださいました。ヘブル8:9-10「それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」このみことばが、実現したのは、ペンテコステ以降からであります。古い契約の場合は、石の板に律法を書き記しました。しかし、あらゆる人間はそれを守ることができません。一方、新しい契約の場合は、石の板ではなく、心の板に律法を書きつけると言うのであります。これはどういうことかと申しますと、聖霊によって人間の心を作り直し、聖霊によって神様の思いを入れるということです。第一のポイントでは、私たちがみことばを読んで、それを守り行なうということでした。ま、それはそれですばらしいのですが、聖霊の働きを忘れてはいけません。新しく生まれる前の人は、聖書を読んでもちんぷんかんぷんなのであります。一般に、夜眠れない人は、聖書を読むと本当によく眠れます。なぜなら、この世で、聖書ほど難しくて、退屈な書物はないからです。ギデオンで聖書を配っている人には申し訳ないですが、学生が聖書を読むということはとても困難です。大体、挿絵もないし、文字が小さい。大昔の事柄やカタカナの人物、おとぎ話のような奇跡物語。へびが口をきいたとか、死んだ人が生き返ったとか、「それを信じろ」という方が無理です。しかも、教えている内容が、実行不可能なものばかりです。「右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」。「7の70倍赦しなさい」。全く不可能なことばかりです。言っておきますが、聖書は道徳の書物ではありません。生まれつきの人間にとって、不可能なのは当たり前です。

 でも、みなさん。イエス・キリストを信じて生まれ変わりますと、聖書がわかるようになります。聖霊様が教えてくださるのです。同時に、今まで、開店休業中だった霊が働き出して、神様の思いがキャッチできるようになります。これまでは、悪いことをしても全然、平気だったのです。が、今は、小さな罪でも心が痛みます。クリスチャンになって、良い面ももちろんありますが、罪に敏感になって、悪いことができなくなります。神様のみこころに従っているときは平安と喜びがあります。しかし、神様のみこころに反して生きていると、平安も喜びもありません。なぜでしょう?それは、聖霊様が心の中で、働いておられるからです。聖霊様があなたの心に、神様の思いを注入しているんです。そうすると、あなたの心がどうなるでしょうか?あなたには従来、肉の思いがあります。一方、あなたの中に御霊の思いが新たに注入されました。この2つは水と油の関係です。ガラテヤ書5:17「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」。クリスチャンになったのは良いけど、新たな葛藤が起こるようになります。肉の思いと、御霊の思いが合い争うという、1つの内乱が起こります。クリスチャンになって、初期の頃は、ハネムーン期間で、救われた喜びでいっぱいです。でも、半年くらい過ぎると、非常に不安定な時を過ごすことになります。あなたはどっちに従ったら良いのか、とまどうでしょう。肉の思いに従うべきか、御霊の思いに従うべきか、一種の分裂状態になります。あなたはこれまで、この世の価値観で生きてきました。でも、聖書と御霊の言うことは、別な価値観です。使徒パウロもローマ7章で「私は自分のしていることがわからない。したいことができない」と、ものすごく悩んでいます。みなさんは、そういう時期を通ったことはないでしょうか?クリスチャンになって、逆に苦しくなってしまったということです。

 でも、みなさん、良い知らせがあります。それは、あなたが聖霊に降参するということです。イースターの日、KGCの皆さんが、「われささぐ、みなささぐ」という賛美をささげました。英語では、I surrender All. I surrender All.です。Surrenderは「降伏する」とか、「明け渡す」という意味です。あなたは人生の舵を握っています。明け渡すとは、舵をイエス様に渡して、あなたは寝て良いということではありません。人生の主導権をイエス様に渡すということなのです。イエス様が「面舵一杯」と言ったら、あなたは「面舵一杯」と言って、舵を回せば良いのです。イエス様が「取り舵一杯」と言ったら、あなたは「取り舵一杯」と言って、舵を回せば良いのです。そうしますと、あなたの人生は正しい方向に進みます。パウロは、ガラテヤ書5:16で言いました。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」。御霊によって歩むとは、日々、イエス様に従う選択をするということです。肉の思いではなく、イエス様の御声に従うことが、御霊によって歩むということなのです。ですから、クリスチャンになってから、一時、葛藤の期間がだれでもあります。しかし、イエス様に降参し、御霊によって歩むことを決断したその時から、安定するようになります。これは信仰が頭から、腹に達したとも言います。信仰が頭にあるうちは、疑いや反抗心が襲ってきます。でも、信仰が腹に達したら、「生きるにもキリスト、死ぬのもキリスト。槍でも鉄砲でも持って来い!」となります。どうぞ、同じ、クリスチャンになるなら、明け渡すまで行ってください。どうか、半生のクリスチャンになりませんように。旧約聖書には、半生のパン菓子というのがあります。片方しか焼いていないパンは半生です。それではいけません。裏も表も、焼いたパン菓子を主にささげましょう。あなたの人生の裏も表も、主のご支配を受けましょう。

 聖霊の助けは、新しい契約における保証であります。旧約時代の人々には残念ながら与えられていませんでした。しかし、私たちは契約の条件を満たすことができるように、聖霊の助けが与えられているのです。「私たちはイエス様を信じて従います」と契約にサインすると同時に、天からあなたのもとに聖霊が賜物として添付されるんです。もし、クリスチャンが聖霊の助けなしに、信仰生活を行なうとしたら、3日も続けられません。私たち自身の中には、神様に従う力とか、敬虔さなどないのです。真面目な人ほど、要注意であります。そういう人たちは、自分の力でがんばろうとします。そうではありません。私たちには神様に従って行けるように、助け主、聖霊が与えられていることを発見しましょう。昔、ある人が、アメリカに渡って、新しい生活をしようと思い、太平洋を渡る船の切符を予約しました。彼は切符を買うために、一生懸命働き、やっと切符を手にいれることが出来ました。しかし、何日も船の食堂で食事をするには、たくさんのお金がかかると思い、彼はビスケットを用意しました。さて、船旅が始まって、最初の数日間は、用意したビスケットと水を飲んでいました。さて、旅も進んで行くと、ビスケットも少なくなり、水だけで耐えなければならなくなってきました。レストランでは、大きなビフテキやえび料理などが、おいしそうに並べられています。彼はそれを見て泣きました。次第に、体は痩せ細り、病人ようになりました。ついに、彼は、レストランのコックの前にひざまずき、懇願しました。「コックさんお願いです。皿洗いでも何でもしますから、どうかそのビフテキを、食べさせてください。」すると、コックはいぶかしげに彼を見ながら、「お客さん、あなたは、ちゃんと切符を買って、この船に乗ったんでしょう。」「はい。買いました。」「お客さん、その切符には食事代もすべて入っていますよ。」この男は、残念なことに、初めから、食事代が運賃に含まれていたことを知らず、餓死しそうになりました。このように、聖霊の恵みを知らないで、クリスチャン生活を続けている人がいます。イエス様を信じて、新しい契約結んだ人には、聖霊の力と助けがあることを発見しましょう。

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2006年4月23日 (日)

レビ族にまさる祭司     ヘブル7:1-10

 旧約の時代は、大祭司は民の代表として神様の前に出ました。そして、民の罪のためにささげ物といけにえをささげました。しかし、新約の時代は、大祭司イエスによって、全く変わりました。そういうものをささげなくても、大胆に神様に近づくことができるようになったのです。旧約の時代だったら、羊とかヤギ、穀物や油を携えて来なければなりませんでした。しかし、きょう来られた方々を見ますと、みんな手ぶらであります。「いや、私は献金を持ってきました」と言うかもしれません。しかし、それくらいで罪が赦され、神様の御前に近づくことが可能なのでしょうか?脅かすつもりはありませんが、その答えとして、キリストがレビ族にまさる祭司であることを2つのポイントで学びたいと思います。

1.神からの大祭司

 7章の1つ手前の、6:20をお読みいたします。「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました」。7章にもメルキゼデクという名前が何度も出てきますが、なぜ、メルキゼデクという人物が登場しなければならないのでしょうか。実は、旧約聖書では、祭司と言えば、レビ族と決まっていました。そして、最初の大祭司はアロンでした。祭司らが民の代表として、神様の前に出て、いけにえを捧げたわけです。他の部族は、大庭に入ることは許されましたが、幕屋には決して入れませんでした。出エジプト記に書いてありますが、神様の前に出るために、さまざまな律法があります。祭司になるための条件もあり、こまごまとしたことが定められていました。もし、勝手なことをしたら、神様から打たれ、死ぬこともあります。それだけ、神様の前に出るということは大変なことなのであります。みなさんも神様の前に出ておられるのですが、果たして、緊張しておられるでしょうか?それとも、何も考えないでボーっとして出ていらしているでしょうか。旧約でしたら、異邦人は庭にも入れなかったんです。庭の外というか「蚊帳の外」であります。なのに、今日の私たちは神の御座に大胆に進み出ることができるのであります。なぜでしょうか?それは、レビ族にまさる祭司、アロンにまさる大祭司が来られたからであります。ハレルヤ!

 イエス・キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司であります。創世記14章に書いてありますが、アブラハムがケドルラオメル軍と戦って、ロトの財産を奪回しました。そのとき突然、現れたのが、メルキゼデクであります。彼はサレムの王であり、同時にいと高き神の祭司でした。メルキゼデクがアブラハムを祝福し、アブラハムはすべてのものの10分の1を彼に与えました。レビの祖父にあたるアブラハムが、メルキゼデクにささげものをしたのです。それが何を意味するのかが、ヘブル7章に書いてあります。一ことで言いますと、イエス・キリストとメルキゼデクが似ているということです。7:3「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」。イエス・キリストはメルキゼデクのように、神からの祭司だということです。メシヤである、キリストの本当の父や母は分かりません。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神から来られたお方です。イエス様はレビ族とは全く異なる、別の経路から来られた大祭司です。イスラエルでは系図がとても重要であります。レビ族にもいくつかの種族があり、色んな奉仕に携わっていました。どこの馬の骨か分からない人が、勝手に祭司になることはできないのであります。でも、イエス・キリストはレビの系図を無視して、神様から直接、来られた大祭司なのであります。イエス・キリストが神からの大祭司であるなら、私たちクリスチャンは、神からの祭司であります。

 きょうは、伝道師の就任式があります。これは、日本基督教団のものではなく、当、亀有教会が独自で行なう就任式であります。伝道師も牧師も、神様にお仕えする祭司みたいなものであります。でも、新約聖書においては、イエス・キリストを信じる者すべてが、祭司なのであります。ありていに言えば、伝道師や牧師は祭司長にあたるかもしれません。でも、大祭司は人間ではなく、イエス・キリストです。残念ながら、キリスト教会は歴史において、系図とか階級を重んじる過ちを犯してきました。典型的なのがローマ・カトリックであります。彼らはペテロが教会の首長であり、教皇はペテロの後継者であると考えます。今は、教皇ではなく法王と言うようでありますが、あれはだれもがなれるわけではありません。2000年間、代々、継承しているわけです。また、位階制度の職務につかせるための叙階と言う典礼があります。叙階は、ローマ・カトリックでは大事なサクラメントです。皆さんも、司教とか司祭などという聖職をお聞きになられたことがあるでしょう。そこには、いろんな決まりや制度があるんであります。しかし、プロテスタント教会では、ずいぶん簡単です。教団・教派によって、多少の違いがありますが、按手礼という叙階に似たものがあります。でも、どの教派にも属していない単立教会であれば、「私が牧師です」と言ってもだれも文句は言えません。極端に言えば、「神様が私を牧師に召した」「伝道師に召した」と言っても、言えないわけではないということです。パウロは、「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、キリストと父なる神様からです」と言っています。

 では、なぜ、血筋によらず、系図にもよらず、伝道師も牧師になれるのでしょうか。それは、イエス・キリストが大祭司であり、キリストを信じるすべての人が祭司だからです。ペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と書いてあります。では、伝道師や牧師とは何でしょうか?それは、神様が与えた職務の賜物であり、使命であります。何か、偉いわけではなく、「それを専門にしなさい」と命じられたから、成る、それだけであります。一般的に、教団・教派が、キリストの権威によって、牧師や伝道師を任命します。でも、それは人間から出たものもあり、神様が与えていない場合もありえます。牧師の賜物が与えられていないのに、牧師になった人がいないわけでもないでしょう。大切なのは、神から召されたという信仰がなくてはなりません。正確には、神様から召されたものを教会が承認するということです。もう1つ大切なことは、名称とかステイタスではないということです。「イエス・キリストが救い主であり、神様であり、大祭司である」と本当に受け入れられたのはいつでしょうか。イエス様はこの地上に来て、「私はメシヤだ。救い主だ。私を拝め」と自分の口から言ったことはありません。イエス様が十字架の死まで神と人々に仕えた、その結果であります。本当に、イエスがキリストと受け入れられたのは、復活・昇天後であります。同じように、地位や身分が先に来るのではありません。人々に仕えていくときに、「ああ、牧師だ、伝道師だ」と認められていくということです。しかし、この世では、地位や身分が先にきます。教団・教派も、牧師や伝道師に任命したから、「教会員たちよ、そのように認めよ」というところがあります。ベン・ウォンという香港の牧師がいます。彼は「自分が牧師になります」と言ったわけではありません。みんなが、「牧師になれ」と言ったから、なったということです。つまり、牧師という肩書きが与えられる前から、牧師の働きをしていました。すると、「あなたが牧師になるのが一番だ」とみんなから推薦されたということです。

 では、「鈴木はどうなんだ」といわれれば、どこかに隠れたくなります。私ははじめ、志願兵でした。8年間、母教会で奉仕をしました。その間に神学校も行かせてもらいました。8年間、教会に仕えてたんです。すると、当亀有教会から牧師として招聘されたのであります。来る方も信仰が必要でしたが、招く方も信仰が必要だったと思います。私は恥ずかしながら、生まれも育ちも悪いし、知性も中途半端であります。ギリシヤ語やヘブル語は辞書を引けば分かりますが、原典で読むことはできません。品性や行ないも、聖職者などととても言えません。そのことは家内が一番よく知っています。では、何が決め手なんですか。それは、みなさんにも言えることです。ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。私たちは、イエス・キリストを信じただけで、神の子になれたのです。血筋とか努力、がんばりではありません。特権であり、恵みです。イエス・キリストは神からの大祭司として来られました。系図も種族も飛ばしたのです。私たちも、イエス様を信じたことによって、系図も種族も関係なく、神の子、祭司となったのです。すべてのクリスチャンは牧師や伝道師ではありませんが、すべてのクリスチャンは祭司として召されているのです。大事なのは、それぞれが神様からの召しにしたがって、生きるということです。

2.大祭司の務め

 大祭司とはどのようなことをするのでしょうか。詳しい内容は、ヘブル8章、9章、10章に書かれています。しかし、7章後半にも少し書かれています。7:24-27「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」大祭司の役目は、神様と民の間に立って、とりなすということです。とりなすとは、旧約では、民の代表として祭司が罪のいけにえをささげ、罪の赦しを求めました。特に大祭司は、年に1度、小羊の血を携えて、至聖所に入りました。至聖所は幕屋の奥にあり、神の箱が安置されています。神の箱の蓋は、贖罪所と呼ばれ、そこに血を注ぎかけます。これは、民全体の罪が贖われるもっとも重要な儀式でした。でも、ここにも書かれていますとおり、大祭司が人間であること、またささげるいけにえが動物であることから、限界がありました。そのため、イスラエルの民は、毎日、毎年、様々な犠牲をささげる必要があったのです。でも、ヘブル書が言いたいのは、「罪のない大祭司が、ご自分のからだをいけにえとしてささげた。キリストはただ一度であがないを成し遂げたので、いけにえは不要だ」ということです。みなさん、イエス・キリストが神の小羊として、十字架で血を流したので、罪の贖いはもう不要なのです。神様はキリストの贖いで満足されたので、罪のために捧げものを持ってくる必要はなくなったのです。わおー、これが新約の恵みです。手ぶらで来て良いのです。でも、厳密に言うならば、それではダメです。イエス・キリストの血潮を信じる、信仰が必要です。つまり、「イエス・キリストによって、私の罪が贖われたことを感謝します」という信仰です。

 イエス・キリストが十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください」と祈って、ご自分の体をささげられました。イエス様が十字架にかかられたのは、ちょうど小羊がささげられる過ぎ越しの祭の時でした。イエス様は神の小羊として、ご自分の血をささげたのです。だから、イエス様のとりなしと犠牲によって、私たちの罪は赦されたのです。その結果どうなったでしょうか。父なる神様と私たちの間に、道が開かれたということです。マタイ福音書に書いてありますが、イエス様が息を引き取られたその時、神殿の幕が上から下までまっぷたつに裂けました。そのことは何を象徴しているかと言いますと、神様と私たちをへだてるものがなくなったということです。ヘブル4:16にすばらしいみことばがあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。恵みの御座とは、神様がおられるところです。なんという恵みでしょうか。ですから、大祭司イエス様がすべてのことを成し遂げたので、神様との間には、人間も、儀式も一切不要だということです。ローマ・カトリックでは、神様に近づくためにイエス様の他に必要なものがたくさんあります。ミサという儀式が必要です。神父が神様と信徒の間に立つでしょう。祈祷文とか良い行ないも必要です。でも、聖書は「イエス・キリストが唯一の道である」と告げています。牧師が神様との間に立つのではありません。一人ひとりの信仰によって、だれでも大胆に父なる神様のもとに近づき、助けを得ることができる。これが新約の恵みです。

 すると、第一ポイントの牧師や伝道師の務めとはどのようなものになるでしょうか。それは、イエス様を紹介して、神様のもとにお連れするということです。もっと言うと、「イエス様がおられるので、イエス様と一緒にやってください」と、その人とイエス様とくっつけることなんです。「私がその人を救わなければならない」。「私がその人を変えなければならない」。「私がその人を命がけで守る」。気持ちはわかりますが、そんなことできるわけがありません。人を救うのは神様であり、人を変えるのは神様であり、人を守るのも神様です。そうしますと、伝道師や牧師は、楽な仕事だなーと思うでしょう。そのとおり、結構、楽な仕事です。もちろん、悲壮な顔をして、がんばっている方々もおられるでしょう。でも、神様がなさる分と、私たちが行なう分をわきまえていたら、結構、楽であります。逆に、私たちが神様の分野に立ち入り、神様の御手を動かそうとすると、重労働になります。「イエス様、私があなたの手になります」。「イエス様、私があなたの口になります」。「イエス様、私があなたの代わりに支配します」。これだと、カルトになります。牧師はさしずめ教祖です。神様に手がないのでしょうか。神様に口がないのでしょうか。神様はご自分で考えることができないのでしょうか。そうじゃないですね。神様は万能であり、すべてのものを持っておられ、すべてものを支配しておられます。私が間に入り込んで、何かをやろうとするなら、かえって複雑になり、神様の働きを邪魔することになります。ある先生がおっしゃいました。「聖霊様のおじゃまをしないように」。聖霊様が、ご自分のご意志をもって、なさるのですから、余計なことはしなくて良いということです。こういうことが分かりますと、非常に楽な気持ちになって奉仕ができます。

 でも、私たちクリスチャンにも、牧師にも伝道師にも、神様から与えられた使命というものがあります。神様はご自分がしないで、「あなたがせよ」と命じていることです。神様はしようと思えば、何でもできるのですが、あえてしないことがあります。それは、福音を宣べ伝えることです。福音を宣べ伝えることは、すべてのクリスチャンに与えられた使命です。では、牧師にも伝道師は何をするのでしょうか。それは、自分も福音を宣べ伝えると共に、クリスチャンに福音を宣べ伝えるように教えるということであります。さらに、もう1つは、神様から与えられた賜物をフルに用いるということです。聖書には神様から与えられる、たくさんの賜物が記されています。教えること、指導すること、仕えること、憐れみを示すこと、与えること、助けること、管理することなどがあります。他に聖霊様が知恵の言葉、知識の言葉、預言の言葉を与えます。他に、生まれつき与えられた才能や努力して勝ち取った能力、お金、体力、声、手足・・・みんな神様からの賜物です。神様は私たちの体を通して働きたいのです。神様は私たちの口を通して働きたいのです。神様は私たちの賜物を通して働きたいのです。主役は私たちではありません。主役はいつも神様です。神様が私たちを通して働くので、栄光は私たちのものではなく、常に神様のものなのです。こういうふうに理解すると、「奉仕って楽だなー」と思いませんか。もし、私たちが何かできるとしたら、それは神からの恵みなのです。私たち自身から出たことではありません。なぜなら、神様が私たちに預けたものを、私たちが用いたに過ぎないからです。

 大祭司イエス・キリストが贖いに必要な一切を成し遂げてくださったのです。ですから、私たちのやることというのは、わずかなことなんです。そして、何か1つでもできたら、それは神さまの恵みです。しかし、律法主義は、「それくらいじゃダメだ。もっとがんばれ」と言います。律法主義は、神様に頼るのではなく、自分のがんばりや努力に頼ります。その人にとって神様のイメージは、仁王様のように怒っている神様です。かつての私も業績指向で、数にこだわっていました。大きな教会を目指していました。早天祈祷会、徹夜祈祷、断食祈祷、特別伝道集会、チラシ配布、訪問伝道、家庭集会・・・ありとあらゆることをしました。それでも教会は大して大きくなりませんでした。そのとき、「パウロや神様は、きっと歯がゆいを思っているんだろうなー」と思いました。しかし、『恵みの歩み』という本を読んだとき、そうじゃないと分かりました。「そんなにがんばらなくて良いから。大切なのは恵みなんだよ」と教えられました。神様はすべてを所有し、何でもできるお方です。でも、神様は一緒に働きたいのです。新約の祭司がなすべき重要なことがあります。それは、神様と人々の手をつなぎ合わせるということです。宗教は英語でリリジョンと言います。そのもとのラテン語は、「再び結ぶ」という意味があります。神様と人とを結ぶ役目をする、これが祭司の役割です。神様と人が結ばれたら、もう大丈夫です。最初は、手助けして、一緒に行動するかもしれません。でも、いつまでも助ける共依存的なことはしません。その人が神様と共に生活する。これがゴールです。また、新約では、動物のいけにえをささげることは不要です。新約の祭司がささげるのは、感謝と賛美のいけにえです。使徒パウロは、贖われた人々を神様のところにお連れする、「これもいけにえだ」と言いました。滅びの運命から、生かされた体をもって、神様と人々に仕えたいと思います。

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2006年4月16日 (日)

なぜ泣いているのですか       ヨハネ20:11-18

 イースターおめでとうございます。と、言っても、「イースターって何」という人もおられるかもしれません。ある説によりますと、北方神話の春の女神「Eostre」に由来します。本来はキリスト教とは関係のない異教徒の春の祭りでしたが、キリスト教の布教の際に、意味を変え、普及したようです。寒さ厳しい暗い冬から、草木が芽吹き動物たちが繁殖する春へと移り変わる様が、十字架で死んだ後に復活したキリストのイメージと重なり、統合されていったと見られています。呼び方はともあれ、イエス・キリストの復活祭であります。きょうは、ヨハネの20章から、3つのポイントでイースターのメッセージを取り次ぎたいと思います。

1.愛と復活

 新約聖書にはマリヤという名前が6人ほど出てきます。きょうは、マグダラのマリヤが主人公です。他の福音書を見ますとわかりますが、朝早く、墓に来たのはマグダラのマリヤだけではありません。ヤコブの母マリヤとかサロメが同行していたようです。でも、ヨハネはどういうわけか、マグダラのマリヤだけが、復活のイエスと出会ったように書いています。マルコ16章の後半には、このように書かれています。「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった」。おそらく、他の女性たちは怖くて逃げ去ったのでしょうが、マリヤだけが墓のところに残っていたと思われます。マリヤはイエス様といつも一緒でした。男たちは十字架を前にして逃げたのですが、マグダラのマリヤは十字架の側から離れませんでした。イエス様が亡くなられて、墓に納めるときも側にいました。そして、日曜日の朝は、真っ先に他の数名の女性と墓にやって来たのです。これは、マリヤがイエス様をとても愛していたという証拠です。マグダラのマリヤは、かつて、7つの悪霊を追い出してもらった女性です。7つと言うのは聖書で完全と言う意味ですから、悪霊によって完全に支配されていたのかもしれません。また、マグダラというのはガリラヤの一都市でありましたが、彼女はその町の遊女ではなかったかという説もあります。

ルカ福音書に「多く赦された人は多く愛する」というみことばがあります。彼女は、イエス様から多く赦され、また、完全に解放されたので、イエス様にぞっこん惚れちゃったんじゃないかと思います。でも、男女の愛ではなく、救い主に対するアガペーの愛であります。今、日本では韓流ブームであり、ヨン様じゃありませんが、いわゆる「おっかけがおります」。しかし、マリヤの愛は、そういう、アイドルを求めるフアンの愛ではありません。罪と悪魔の奴隷から解放してくれたイエス様と出会ったので、離れられなくなった。イエス様が人生のすべて、「イエス命」になったのです。恐らく、生まれた時から家庭や才能に恵まれて、幸せに生きてきた人がイエス様に出会ったとしても、命を賭ける人は少ないでしょう。逆に、家庭にも健康にも恵まれず、ひどい生活をしていた人が、イエス様に出会うと、「もうジーザスしかいない」というふうになるのではないでしょうか。私が座間にいたとき、ある姉妹がいました。ご主人は米軍の人でしたが、結婚後、捨てられて、二人の子供を育てていました。彼女は本当に貧しい生活をしていました。あるとき、「何もささげられないので、公告の紙を折って作った、花瓶敷きを持ってきました」と届けに来られたことがありました。彼女は救われて一番の喜びは、毎朝、二人の息子と聖書を読んで、お祈りすることだと証していました。「ああ、この人は本当にイエス様を愛している人だなー」と思いました。もちろん育ちが良くて、大きな罪も犯さず、傷もなく、恵まれた中から救われる人もいます。ナイチンゲールとか、マザーテレサ、サンダースホームの沢田ミキさんも、いい所の生まれですけど、救われてからすばらしい働きをした人もいないわけではありません。でも、マグダラのマリヤのように、ひどい状況から救われた人は、イエス様に献身する可能性が高いのではないでしょうか。

すばらしいことに、イエス様を愛する人には、イエス様が現れてくださいます。マグダラのマリヤが一番先に、復活の主と出会ったのはそのためです。逆に言うと、イエス様にとって、復活した姿を一番、最初に現したかった人が、マリヤだったということです。かなり前のことですが、茨城県の鵜の岬という国民宿舎に旅行に行ったことがあります。そこは、とても人気があるところで、申し込んでも当たらないといわれているところです。どういう訳か、はがきを出したら、当たって、家族で行きました。そこに着くと、中継車が玄関前に止めてあり、撮影隊が何やら準備をしていました。聞くところによると、あと30分後に、ここから生中継するということです。確か、放映は、夕方の6時半ごろの特番だったと思います。「いやー、テレビに出られるぞ」と言うことで、私は教会員に知らせたくなりました。「だれに電話しようかな?」家内は、「みっともないからやめなさい」と止めました。だけど、だれかに知らせたいと思って、柏さんと中野さんに「私たち、テレビに映るからビデオとっておいて」電話しました。柏姉妹が実際に見たそうですが、「豆粒くらいしか映っていなかったよー」と言われました。そういえば、私たちは一番奥のスタンダードのテーブルでした。刺身の舟盛りとか乗っている前のテーブルが、写されていたようです。でも、そのとき、「テレビに出るから、見てよ」と、だれに電話するかです。やっぱり親しい人、愛している人じゃないでしょうか?イエス様もご自身の姿を現したのは、マリヤとか弟子たちに限られていたのはそのためです。ヨハネ14:21にすばらしいみことばがあります。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」今でも、イエス様を愛する人に対して、イエス様が現れてくださるということです。うちの子供たちはイエス様を信じて洗礼を受けました。救われたんですから、一安心です。でも、欲を言うなら、イエス様を愛する人になってもらいたいなーと願って祈っています。私は、皆さんのように、毎週礼拝を守る人は、イエス様を愛している人だと思います。特に、朝早く、礼拝のはじまる時間前から来る人は特にそうかもしれません。アーメン。

2.信仰と復活

 マグダラのマリヤはイエス様を愛していましたが、信仰の方は今一歩でした。なぜなら、彼女が墓に来たのは、復活の主と出会うためではありませんでした。他の福音書を見てわかりますが、イエス様のお体に香料を塗るために、やって来たのです。つまり、生きているイエス様ではなく、イエスのからだ、Bodyを捜しに来たのです。Bodyは英語では死体という意味があります。墓の前にやってくると、なんとイエス様のからだはありませんでした。13節に御使いとのやりとりが書かれています。「彼らは彼女に言った。『なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」マリヤはなぜ泣いていたのでしょう。それは、イエス様のご遺体をだれかが盗んで行ったと思ったからです。彼女の涙は、美しい涙かもしれませんが、信仰に欠けた涙です。つまり、マリヤにはイエス様に対する強い愛がありましたが、イエス様が復活するという信仰がなかったのです。だから、聖書は「信仰がなければ神に喜ばれない」と言うのです。15節では、直接、イエス様が「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と尋ねました。しかし、マリヤは、イエス様を墓の管理人だと思ったんですね。これを見ると、「えー、なんで?」と言いたくなります。なぜ、目の前の人がイエス様だと分からなかったのでしょうか?1つは死んだ人が復活するはずがないという不信仰のゆえです。2つ目は、イエス様の姿が生前よりも、栄光の姿に変わっていたからかもしれません。そういえば、エマオの途上の二人の弟子もイエス様と出会いました。ずーっと一緒に歩いていたにも関わらず、その方がイエス様だと分からなかった。聖書は「ふたりの目がさえぎられていて、イエスだとわからなかった」(ルカ24:16)と言っています。不信仰のために、目がさえぎられていたのです。

 私はこういう記事を見ますと、「肉眼でイエス様を見た弟子たちは確かにすばらしいけど、信仰とは関係ないんだなー」と思います。つまり、信仰とは肉眼でイエス様を見るのではなく、もっと別の作業なのであります。弟子たちは3年半もイエス様と同行し、そばで見て、聴いて、触ったことがあった。だけど、主が復活するとは信じられなかった。マルコ16:8「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。マルコ16:11「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった」と書いてあります。このヨハネ20章の後半には、トマスという弟子が信じようとしなかったことが記されています。これだけ、死んだ人が復活するということが信じられない出来事だということです。でも、復活したイエス様と出会っても分からないどういうことでしょうか。それは、ヨハネ20:9にあります。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」アーメン。つまり、イエス様を信じるとは、肉眼でイエス様を見るということではなく、聖書から信じるということだからです。「聖書にイエス様がよみがえることが預言されている。だから、私は復活の主を信じます」。これが、本当の信仰であります。そういう意味では、当時の弟子たちも私たちも同じ立場であります。彼らも預言書や詩篇から、「ああ、主イエスは本当によみがえる必要があったんだ!」と悟ったんです。聖書を通して、イエス様を信じる。これが最も正統的な信仰です。奇跡とか神秘的な体験もすばらしいと思います。でも、もっと根本的で永続的な信仰とはどこから来るのでしょうか。それは、みことばを通して、主イエス・キリストと出会うということです。つまり、みことばとキリストを切り離すことはできないのです。ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」。

 今は、映像の時代です。キリスト教のセミナーでも、パワーポイントとか動画を駆使してやっています。確かに、現代文明のものは目に訴え、役に立つ所があります。でも、パワーポイントだと情報量が多すぎて、私たちの中にある、信仰という機能が働かない場合があります。おそらく、信仰とは、肉眼で見る作業ではなく、もっと深いところにある機能です。逆に目を閉じて、みことばを瞑想すると、神様に対する信仰が湧いてくる、これが真理ではないかと思います。世の中の多くのものは、私たちの五感に「これでもか、これでもか」と訴えます。テレビやDVDの映像、MDとかMP3という音楽、そして鳴り響く携帯・・・人々はいつも騒がしくしています。しかし、信仰とは静かな環境で、みことばと祈りを通して、神様と交わることからやって来るものではないかと思います。エリヤは、天から火を下し、450人のバアルの祭司たちを滅ぼした力ある預言者でした。しかし、一人でがんばったので燃え尽き、バーンアウトしてしまいました。彼は神様の声を聞こうとします。Ⅰ列王記19章にはこのように書いてあります。「風の中に主はおられなかった。地震の中にも主はおられなかった。火の中にも主はおられなかった。その後に、かすかな細い声があった」と書かれています。つまり、エリヤが静まった時、主のかすかな細い声が聞こえたのです。現代は喧騒の時代、あまりにも騒がしい時代です。情報が多すぎて、私たちの頭がパンク状態です。私たちは世の喧騒から離れ、静まるときに、信仰という機能が活発に働くのです。主と交わる静かな時を持ちましょう。復活の主があなたに現れ、あなたに語りかけてくださいます

3.伝道と復活

 伝道という言葉はあまり好きではありませんが、他に用語がないので、使います。復活の主と出会ったマグダラのマリヤはその後、どうしたでしょうか?ヨハネ20:18「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」アーメン。「伝道」と言うと、緊張してしまいますが、「私は主と出会いました」と伝えることは難しいことではありません。ヨハネ1章でもアンデレやピリポは「私たちはキリストに会った」と伝道しました。正確に言うと、これは伝道ではなく、「証し」であります。自分が体験したことを告げているだけですから・・・。そうなんです。「伝道」と言うと、「人に信じさせなければならない」というプレッシャーがかかって、唇が硬直します。いままでは、べらべらしゃべっていたのに、「伝道しなければ・・・」と思うと、「キ、キ、キ、キリ」と詰まってしまいます。ですから、伝道ではなく、「自分が体験したことをお伝えする」と考えれば良いのです。私たちは自分が発見したすばらしい事柄を、ぜひ分かち合いたいと思うでしょう。健康食品、化粧品、すぐれもののグッズ、家庭の裏技、おいしいレストラン、感動した映画・・・「これを、あの人に知らせたら、きっと喜ぶにちがいない。ぜひ、知らせたい」。これと同じように、救い主イエス様を伝えることなんです。信じさせようとか、クリスチャンにしようとすると大変です。それは、神様の分野です。私たちは自分が体験したことを分かち合えば良いだけなんです。

 でも、そこには「キリストと出会った」という、感激的なものがなければなりません。人が本当にキリストと出会ったなら、「やめろ!」と言われても、伝えたくなるのです。6月9-11日、インドネシアのエディ・レオが来られます。金・土・日ですから、金曜日、有給休暇を取って、セミナーに参加してください。そのエディ師がin & out ということを言われました。In とは内側であり、兄弟姉妹に対する愛です。Outとは未信者への伝道の力です。教会(セル)は、内側に対する愛の交わりと、外に向けての伝道が必要であります。しかし、エディ師が言うのは、兄弟姉妹が愛し合ったら、外に向けて伝道できるかというとそうではないということです。もう1つ、up、上がある。それは神様との出会いです。神様との出会いがあると、兄弟姉妹への愛が与えられ、さらには、未信者に対する愛が与えられる。つまり、上なる神様との出会いこそが、外に向けての伝道の力になるということです。なぜ、初代教会の弟子たちは地の果てにまで、伝道したのか。それは復活の主と出会い、上から聖霊の力をいただいたからであります。すべての解決の鍵はup、上にあるのではないでしょうか。横、つまり人間ではありません。上との関係こそが、力の源であると信じます。特に、伝道はそうであります。

最後に、死から生還された、須佐婦人牧師のお証をしたいと思います。長野の安曇野に教会があります。今年の1月に「教会売ります」という公告を教会の新聞に出しました。その教会は婦人が牧師でご主人は一般のサラリーマンです。その教会もセル教会で、一度お会いしたときに、「安曇野だったら、いやー、一度おじゃましたいですね」などと、話したことがあります。しかし、彼女は昨年の9月頃、くも膜下出血で倒れ、「緊急の祈り」として、メールに流れてきました。私は「いやー、この間まで元気だったのにー」と心配して祈りました。ところが、今年1月の「教会売ります」です。「いやー、もう、教会を続けることができないんだーと」淋しい思いをしました。ところが、先週の新聞に「天国を見て、使命を再発見」という大きな見出しを見ました。すると、婦人牧師の元気そうな顔も載っていました。記事を見ますと、教会建設のとき、ストレスがたまって、倒れたということです。搬送先の脳神経外科医はご主人に「手術の成功は50%。回復しても記憶喪失、半身不随、言語障害、味覚障害、視覚障害など後遺症が残ります」と告げました。ところが、ICUで目が覚めるまで、婦人牧師は主イエス様から天国に連れて行ってもらったということです。「天国は、神様の臨在の光に満ちていた。その光は金色に輝きながらも目には優しく、見上げると空にかかる虹の中には、救われた人々の魂を象徴する無数の宝石たちが光に照らされてキラキラと輝いていた。宝石たちは水のようなオリーブオイルのような聖霊の流れに乗って、私の身の周りを回り、続いていのちの木の周りを回って、再び虹の方に流れていった。もう、素晴らしくて、私は両手を挙げて、「うわぁ、凄い、凄い!天国の真ん中だぁ!」って純真無垢な子供になって喜んでいた。その時、神の声が聞こえた。「あなたには、使命と御霊の賜物が与えられている。私はあなたを地上に遣わす。行きなさい」。その瞬間、目が開いた。入院後10日以上経った集中治療室のベッドの上だった。婦人牧師の体は多くの関係者の祈りに支えられて、奇跡的に回復。そして退院までの期間、他の重症患者たちを次々と伝道し救いに導いた。婦人牧師が「突然の死に遭遇し、天国を見、生かされた」と題した小冊子にまとめ方々に配ると、大きな反響となり、各教会から「ぜひ、証に来てください」と招待された。婦人牧師が天国の素晴らしさ、そこにいる本物の神を伝え、「イエス様を信じないと天国にはいけないのよ!」と語ると、未信者たちは心を開き、次々と救いを受けていった。その婦人牧師のお体はますます回復し、今は伝道の賜物を活かして人々を救いに導きたいと願っておられます。この方は、まさしく肉体が復活し、さらに主を伝える伝道者として復活したわけです。私たち全員が牧師とか伝道者として召されているわけではありません。でも、死からよみがえられ、今も生きておられるイエス・キリストを証することができます。私たちを罪と死と暗闇から解放してくださったイエス様と出会うとき、人々に伝えずにはいられなくなるのです。私たちも、弟子たちのように古い生活である墓を離れ、復活の主を証する者となりたいと思います。

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2006年4月 9日 (日)

信仰と忍耐       ヘブル6:9-15

 さきほどお読みしましたヘブル6:9-15節を見ますと、希望あるいは望みという言葉が3回でてきます。それから、確信もしくは信仰という言葉が合わせて3回、そして忍耐が2回です。希望と信仰と忍耐は御国に入るための大切な要素ではないかと思います。

1.希望

 ヘブル書における希望とは、神の安息に入る希望であります。エジプトから脱出したイスラエルの民にとってカナンの地こそが安息の地でありました。ところが、不信仰のゆえにヨルダン川の手前で諦め、荒野を40年間もさまようことになります。では、私たちにとっての希望とは何でしょうか。エルピスという希望の意味を調べてみました。「特に、超自然的事物や来世の救いに対する望み」と書いてありました。ですから、希望を端的に言いますと、来世に対する望みであります。考えてみれば、どの宗教にも来世観があります。神道では常世の国です。仏教では極楽浄土とか、「あの世」と言います。エジプト、チベット、ポリネシアでも死後の世界というものを信じています。人間の本能の中に、来世観というものが組み込まれているのかもしれません。聖書における来世は、御国とか天国、神の国と呼ばれています。ある人が、極楽と天国は2階でつながっていると言いましたが、そんなことはありません。天国は単に死後に行くところではなく、神様が与える報いであり、完成であります。天国があるから、この世の不平等が解決されるのであります。この世では金持ちもいれば貧しい人もいます。生まれたときから目が見えなかったり、足の不自由な人がいます。10歳で死ぬ人もいれば、100歳まで生きる人もいます。この地上は不平等で不条理に満ちています。でも、御国はどうでしょうか?イザヤ35:1、4-5「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる・・・心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」

 もちろん、イエス様を信じたら多くのものがこの地上でも回復されます。でも、私たちの最終的な癒しと回復は御国であります。この世で不自由な人こそ、向こうに行ったら、はち切れんばかりの喜びがあるのです。ですから、御国に入ることこそが私たちの究極的な希望なのであります。逆に言えば、御国がない人、御国に入りそこなった人ほど、不幸な人はいないということです。私たちクリスチャンは、天国に行くのを楽しみにしています。年を取れば取るほど、待ち焦がれるようになります。来世の希望のない人は、老後の問題で押しつぶされてしまいます。みなさん、旅行に行くときはどんな気持ちでしょうか。行ってからももちろん楽しいですが、パンフレットとか、ガイドブックを見ながら準備するのも楽しいですね。「あそこへも行きたいなー」「あれも見たいなー」とか、言いながら、出発の日を待ちます。死ぬことはもちろん怖いですが、あちらに行く希望の方が大きいのであります。先日、TPWのゴスペルワークショップがありました。彼らの賛美は、天国に関したものが多いということに驚きました。「ヨルダン川を越えるとそこは天国だ。俺たちは黄金の道を歩くんだ。そこに行ったら死も苦しみもない。毎日が日曜日。毎日、賛美して暮らすんだ。あんたも行こうぜ、天国へ」。そのような歌詞が多いんです。なぜなら、当時の黒人は奴隷であり、天国に行ったら自由になれると信じていたからです。極端な話、「地上では苦しいのはしょうがないけど、御国に行ったら報われる。御国こそすべてだ」と考えていたわけです。私たちはそのことを逃避だとか、愚かだと思うでしょうか。もちろん、地上においても天国の豊かさを味わえるし、天国の先取りも大切であります。でも、自分たちの行くところ、ゴールがはっきりしている人は、どんな境遇の中でも、喜ぶことができるのです。かなり前、ハリソンフォード主演の映画、インディ・ジョーンズのシリーズがありました。長男がそれにはまって、考古学者になる夢を持ったこともありました。私も脇で随分とビデオを見ました。トロッコで下るシーン、縄梯子を上るシーン・・・とにかく、スリル満点です。でも、どんなことがあってもこの主人公は助かるんです。映画の結末も知っていますから、途中、どんなことがあっても安心して見られます。私たちの人生も途中、いろんなことがあったとしても、最終的には、御国に行けるんです。こういう来世の希望がとても重要です。ヘブル6:19「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」。船の錨(アンカー)はどんな役目をするでしょうか。錨があれば、船は流されないでしょう。私たちの錨とは何でしょうか。御国に入る望みであります。聖歌472は、神の安息を歌った賛美です。「人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により、命拾いしぬ。いと静けき、港につき我は今、安ろう。救い主イェスの手にある身はいとも安し」。

2.信仰

 「信じる」はギリシャ語でピステゥオーですが、何か事物を信じることであります。聖書では、「福音を信じる」あるいは「神、キリストを信じる」というふうに用いられます。しかし、日本語の「信仰」は、どちらかと言うと、対象はどうでも良くて、信心そのものがすばらしいという意味合いがあります。「いわしの頭も信心」と言われるように、どんなものでも信じていたら何かご利益があると考えます。だから、ある人によっては仏様、またある人にとっては観音様、ある人にとってはキリストさんでも良いということになります。「うちは仏教だから」と言う人がいますが、仏教でもいろんな宗派があり、その由来を知っている人は稀です。身内に死んだ人が出たときだけ考え、普段の生活では関係ありません。そういう人たちにとっては、対象はどうでも良いのです。信じる心が大切なのであります。しかしみなさん、何でも信じて良いでしょうか?風を引いたら風邪薬を飲みます。薬箱をあけて、何でも良いから飲もうなんていう人はいません。結婚するのでも、誰でも良いという訳にはいかないでしょう。「男だったら誰でも良い」「女だったら誰でも良い」という人はいないでしょう。やはり、自分の人生を任せられる人を選ぶでしょう。神様も同じではないでしょうか。自分の人生を任せられる。信じるに価する方を信じるべきでしょう。イエス・キリストは私たちのために命を投げ出してくれました。十字架につき、三日目によみがえり、父なる神様への道になってくれました。今週は受難週であり、来週は復活祭です。使徒パウロはⅠコリント15章で信じる内容について語っています。「この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと。」つまり、私たちは架空の出来事を信じているのではなく、事実に基づく信仰であります。この世の多くの人たちは、教祖が勝手に作ったものを信じています。信じるためには、ちゃんとした根拠がなくてはいけません。しかし、事実(インザファクト)、キリストはよみがえり、死を打ち破ってくださったのです。福音の事実を信じていく、これが信仰です。

 でも、信仰は私たちが信じるというよりも、信じさせていただくという面もあります。私たちが数ある神様から、キリストを選んだのではありません。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」とあります。つまり、キリスト様が私たちを選んで下さったので、私たちが信じられたということなのです。もしこのことが分かるならば、信仰生活が楽になります。つまり、自分が握っているという信仰であるなら、何かの拍子に手放してしまうかもしれません。でも、キリストによって自分が握られているならば、信仰生活を力まなくてもやって行けます。ペテロが誘惑にまけてイエス様を3度も知らないと言いました。しかし、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われました。ある時、ペテロが嵐の海を二三歩渡ることができました。しかし、波を見て怖くなり、沈みました。その直後、イエス様がペテロの腕をつかまえて引き揚げてくださいました。その絵があるそうですが、イエス様がペテロの手の平ではなく、腕を捕まえている。ペテロもイエス様の腕をつかんでいます。つまり、ペテロが離しても、イエス様が離さないということなんです。これが信仰です。自分の信仰だけだと不安がありますが、イエス様の信仰には間違いはありません。やがて私たちも年老いて、自分がだれかも分からなくなるかもしれません。アメリカの日系人牧師がある本に書いてありました。信仰生活、何十年も経つおばあちゃんが、今、召されようとしたとき、「南無阿弥陀仏」と唱えたそうです。福沢満雄先生は子供のときから日蓮宗を学び、お経を全部そらんじているそうです。先生は、もし、「私が訳がわからなくなって、お経を唱えたら、面会謝絶にしてくれ」と身内に頼んでいるそうです。私だってボケたら、若い頃覚えた、「1つでたほいのよさほいのほい」を歌うかもしれません。でも、信仰は霊の領域ですから、ボケとは関係ありません。たとえ、自分がだれか分からない。あるいはキリストが誰かも分からなくなるかもしれません。でも、大丈夫です。神様は私たちの名前をたなごころ、手の平に書き記しておられます。「神様は私を離さない」、これが本当の信仰です。

3.忍耐
 
 私たちは天国に行くまで、信仰を持ち続ける必要があります。忍耐とは信じ続けること、あるいは待ち望むことであります。ですから、希望と信仰と忍耐は三位一体なのであります。忍耐のギリシヤ語は、「根気よく待つ」あるいは「辛抱」という意味です。英語ではlongsuffering、「長く苦しむ」という意味であります。長く苦しむというのは、リュウマチとか痛風などの病気を連想させます。お相撲さんの稽古場に行くと、「辛抱」という額があるんじゃないかと思います。相撲の解説でも、「よく、辛抱したなー」と言います。まわりを見ても、あまり辛抱できない人と辛抱できる人がいます。スケートの荒川静香さんも、よく辛抱しました。8年前の長野では、プレッシャーに耐えかねて転倒、10何位。もうやめようと思った。実際、大学生のときは第一線から離れて、アルバイトをしていたようです。お母さんに信仰があった。信仰と言って良いのかわからないけど。彼女は、2年前の世界選手権で優勝。だれかが「もうやめて良いよ」と言ったら、やめていた。でも、だれも、「やめて良い」と言わなかった。オリンピックの前の年、採点方法とかが自分に合わなくて、またダメだった。しかし、静香は諦めなかった。採点法に詳しい、コーチに替え、またやり直しました。それで、この間のトリノです。日本人だれもメダルを取った人がいなかった。荒川静香さんの金メダル1ケです。まさしく、価千金であります。あれで、私もフィギア・スケートを習いたいという人が多く出たそうです。本当に、日本中の人に希望を与えました。

 なぜ、信仰だけではなく、忍耐が必要なのでしょうか?もし、イエス様を信じて、即天国に行くのであれば忍耐は必要ありません。イエス様を信じた後も、この地上でしばらく信仰を持ち続けなければならないからです。この世は神と敵対しています。ですから、この世で信仰を持って生きようすると、数々の試練や迫害、誘惑が襲ってきます。「私には全然、戦いはありません」と言う人は、この世と妥協しているクリスチャンかもしれません。しかし、キリストの名を掲げ、敬虔に生きようとするなら、どうしても迫害が起こります。中国は毛沢東の文化大革命以来、キリストの迫害が続いています。宣教師という宣教師は国外に追放され、すべての教会の門が閉じられました。純粋に信仰を守ろうとする人は地下に潜るしかありませんでした。潜るったって、地面の中にではなく、「秘密に」ということです。ある実の姉妹二人が当局に捕らえられました。その当時の拷問はものすごく過激でした。右と左の足それぞれにロープを結わえ、1本のロープを1頭の牛につなぎ、もう1本を別の牛につなぎます。当局は、「信仰を捨てたら許してやる。どうだ、キリストを捨てるか」と聴きます。もし、「ノー」と言えば、両方の牛を鞭打って、別方向に走らせます。これは大変なことになります。妹の方が「お姉ちゃん怖いよー」と言いました。お姉さんが輝いた顔で、「お前には見えないか。ほら、天が開けて、イエス様が待っておられるよ」。二人はキリストを否まなかったので処刑されました。信仰は1度だけ信じるだけではなく、たとえどんなことがっても、信じ続ける必要があります。なぜなら、この世は信仰と敵対するからであります。

ジョン・バニヤンという人が『天路歴程』という本を書きました。クリスチャンは都を目指していました。ところが、その途中に、「空の市」、バニティ・フェアーがあります。「空の市」には、あらゆるものが売られています。金銀・宝石だけではなく、人の命まで売られています。でも、その本は言っています。都は「空の市」を通って行かなければならないと。私たちはこの世を通っていかないと、天の都には入れないのです。残念ですが、この世の誘惑、試練、苦しみを逃れることはできません。だから、信仰の他に忍耐が必要なのです。でも、試練や苦しみには良い点もあります。ロマ5章「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」と書いてあります。そうです、試練や苦しみは私たちのキリストの似姿に整える、ノミになるのです。ある人が牧師のところに行って、「私が忍耐強くなるように祈ってください」と頼んだそうです。牧師は、「どうか、この兄弟に多くの試練を与えたまえ!」と祈ってくれたそうです。私たちの品性の中に、「忍耐」が生まれたら、多くのものがうまくいきます。結婚も忍耐が必要です。子育も教育も忍耐が必要です。仕事も奉仕も忍耐が必要です。でも、その先には練られた品性、キリストの義の実が待っています。忍耐を通して、多くの収穫を得ることができるのです。途中で諦めてしまう人は、収穫を得ることができません。忍耐の後に、多くの収穫が待っているのです。詩篇126「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」

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2006年3月26日 (日)

ヨシュアにまさる      ヘブル4:1-13

 桜が咲き、いよいよ本格的な春到来と言う感じです。しかし、どんなに美しい花や風景を見ても、心に憂いがあるときは、色あせて見えます。きょうの礼拝で、憂いを解消していただいて、神様から希望が見える、眼鏡をいただきたいと思います。本日は「ヨシュアにまさる」と題して、ヘブル人への手紙4章から3つのポイントで学びたいと思います。

1.神の安息

 4:1「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」。ヘブル人への手紙3章には「安息」ということばが3回、4章には9回も出てきます。「安息」とは、労苦や悩みから解放されて平安のうちにある状態を言います。しかしそれだけではなく、安息は「神の救い」と関係があります。エジプトを出た民は安息の地カナンを目指しましたが、不信仰のゆえに入ることができませんでした。神の安息は、40年後、ヨシュアと共にカナンに入った若い世代の人々に与えられました。では、今日、神の安息に入るための約束は残されていないのでしょうか。ヘブル書はダビデの言葉を引用して、「きょう、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と勧告しています。ダビデはヨシュアよりも何百年もあとの人ですから、「安息への招き」は、まだ残されているということです。しかし、ヨシュアが入った安息とダビデや私たちが入る安息は、質が違います。前者は地上における安息であり、後者は天の御国における安息であります。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われ、宣教を開始されました。つまり、世の終わりに来る神の御国こそが、真の安息であるということです。

 ところで、旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、70人訳という、ギリシヤ語で翻訳されたものもあります。ヨシュアは「主は救い」という意味ですが、ギリシヤ語では「イエースース」と言います。イエス様の発音も同じ、「イエースース」なのであります。つまり、旧約のヨシュアは新約のイエス様の型、タイプということになります。ヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナンに導き入れました。一方、イエス様は新しいイスラエルである神の民を天の御国に導き入れて下さる方です。ヨシュアとイエス様は似ていますが、イエス様はヨシュアにまさるお方です。なぜなら、イエス様はイスラエルという1部族だけではなく、全世界の人を導き入れてくださるからです。しかも、イエス様はカナンよりもまさる、天の御国を私たちにお与えになります。みことばにあるように、神の安息、神の御国に入るための約束は、まだ残されています。では、神の御国に入る鍵とは何でしょうか?なんでも鍵が必要です。金庫は力ずくでは開けられません。でも、鍵さえあれば子どもでも開けられます。神の御国に入る鍵とは信仰であります。4:2、3「福音を解き明かされていることは、私たちも彼らも同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです」。ここに、「福音を聞いて、信じた者が安息(御国)に入る」とはっきり告げられています。

 救いを得るためには信仰が必要です。たとえ良い知らせ、福音を聞いても、それを信じなければ自分のものになりません。私は27年前、職場の先輩から、個人伝道されました。彼はたとえ話を用いてこのように説明してくれました。ある人が鈴木君にブリタニカの百科事典をプレゼントしてくれたとします。今はインターネットで何でも調べられますが、昔、百科事典はとても価値がありました。ある人が言いました。「私は本屋さんに百科事典の代金をすでに払ってあります。だから、あなたがその本屋さんに行って、『私は鈴木と申します。百科事典を受け取りに来ました』と言えば、渡してくれます」。鈴木君はどうしますか?「そんなうまい話などあるわけがない」と受け取りに行かなければどうでしょうか。「売約済み」として、その百科事典がずーっと本屋さんに並んでいることでしょう。でも、何年も取りに行かなければ、場所をふさいで困るので、処分するか、他の人に売るかもしれません。でも、だまされたと思って、その本屋さんに行って、「私が鈴木です。ブリタニカの百科事典を受け取りに来ました」と言えばどうでしょうか。「はい、お待ちしておりました。こちらの品物です。代金は既にいただいておりますので、ここに受け取りのサインだけをお願いします」と言われるでしょう。本屋さんに受け取りに行かなければ、永遠に百科事典はあなたのものにはなりません。信じて、本屋さんに行けば、百科事典はあなたのものになります。救いも同じです。・・・このように話してくれました。イエス様はあなたが御国に入るための代価を十字架で払ってくださいました。「私はイエス様を救い主として信じます。御国を私にください」と願えば、即、あなたのものになります。

 ところで、ナントカ太蔵という人は本当にうまくやったナーと思います。たまたま、申し込んだのに、比例区で当選。「ヒラリーマンから、衆議院議員になった」と本人が申しております。給料も年1千何百万、新幹線グリーン車乗り放題、通信費毎月100万。最近は、結婚宣言までしました。多くの人たちは「羨ましい」を越えて、「まっこと腹立つ」と思っているんじゃないでしょうか。でも、私たちはどうでしょうか。イエス様を信じただけで、神の子になれたんです。いわば、ジーザス・チルドレンです。罪赦され、御国に入れるばかりか、様々な特権が与えられています。祈れば何でも叶うという「イエスの御名」までいただいています。何の功績もなしに、福音を信じただけで救われたという恵みを思い起こしましょう。

2.神のことば

 神のことばは私たちの信仰を本物にしてくれます。みことばは、内側にある、不純なものや悪いものを判別してくれます。12節「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。私たちはだれでも心を持っています。聖書では、心は魂をさします。心は、感情、意志、知性をつかさどっています。私たちは、心で、いろんなことを考えたり、決定したり、判断したりしています。神様は私たちに「意志を全くなくしてロボットのように従いなさい」とおっしゃっておりません。「何も考えないで、無になれ」というのは、キリストの教えではありません。それは、カルト宗教やニューエイジの間違った教えです。私たちは常に考え、常に悩み、常に選択し、常に何かを欲しています。これは魂が、生きている証拠です。でも、私たちは魂だけを持っているわけではありません。魂の奥に、霊があります。この霊こそが信仰の拠点であります。私たちは、この霊によって神様と交わることができるのです。でも、霊だけでは生きていけません。霊は魂を必要としています。別な言い方をしますと、霊は魂を着ており、魂は肉体を着ています。霊と魂と肉体はがっちりとくっついており、3つを切り離すことは容易ではありません。

 みなさん、私たちは霊、魂、肉体、それぞれの分野で病気になります。肉体が病気になると病院に行っていろんな検査を受けます。血液検査、尿検査、心電図、CTスキャン、MRIなどがあります。お医者さんは「ここが悪い」と、病名を知った後にはじめて治療します。何の病気か分からないのに、「とりあえず注射を1本打っておきましょう」ということはありません。それは危ないお医者さんです。それでは魂、心の病気はどうでしょうか?最近の精神科医も随分と進んできております。昔は分裂症とかノイローゼぐらいがおもな病名でした。でも、今は恐怖神経症、強迫神経症、統合失調症、他動性障害、学習障害・・・数え切れないほどの病名があります。現在のところ、様々な病名はつけられていますが、治療の方が追いついていないというのが現状でしょう。では、霊の方はどうでしょうか?これは最も遅れている分野です。なぜなら、宗教の領域とされ、アンタッチャブルな世界だからです。でも、霊は存在します。「霊が弱い人は病気になったり、怪我や事故を拾いやすい」とエリヤハウスで学びました。イエス様を信じていない人の霊は開店休業。霊はあっても、ほとんど働いていない状態です。霊、魂、肉体、それぞれの分野で病気になります。でも、それだけではありません。アダム以来の罪、自分が犯してきた罪が、霊と魂と肉体にも影響を及ぼしています。人間は霊・魂・肉体ともども堕落した存在であります。こういう人がイエス様を信じて、新しく生まれ変わったとして、果たして何の問題もなく信仰生活を歩むことができるでしょうか。「あなたはイエス様を信じてクリスチャンになったんですから、死んでも天国にいけます。だから、安心してください」と言われても、安心できません。私たちは天国に行ってからの安息だけではなく、地上においても神の安息が欲しいですね。

 私たちの信仰をチェックし、問題点を捜し、そして神の安息が得られるように回復してくれるものは何でしょうか。それは神の言葉です。まず、神の言葉は私たちの考えや思い、そして動機の分野をチェックしてくれます。やっていることが正しくても動機が汚れている場合があります。清く正しそうに見えても、内側には情欲や汚れた思いがうずまいているかもしれません。思想が整っていても、聖書的でないかもしれません。儒教や仏教から来たもの、あるいは唯物論から来た思想もあります。日本という独特な文化的要塞もあるでしょう。「男はこういうものだ」「女はこういうものだ」「仕事とはこういうものだ」「結婚とはこういうものだ」「家とはこういうものだ」・・・いろんな価値観があるでしょう。神様を信じると口では言いながらも、「天は自らを助けるものを助ける」「祈るだけではだめで、自分の努力も必要だ」「最後に頼れるものは自分だ」など思ってはいませんか。それらは、この世であなたが学んで得たことかもしれません。中高生のときにイエス様を信じたのならともかく、30代、40代、50代でイエス様を信じた人は、リフォームぐらいじゃ済まされません。本当に、土台をひっくり返す、リボリューション、革命が必要です。だから、聖書は古い自分に死になさいといろんな箇所で言っているのであります。クリスチャンは改善とかリフォームではありません。生まれ変わりであり、回心です。あのパウロも本当のクリスチャンになるまで、10数年かかっております。信じた直後アラビアに逃れ、生まれ故郷のタルソで、しばらく隠遁していました。その間、第三の天に上る経験をしたり、特別な取り扱いを受けて、本物の使徒になったのです。

 「神のことばは両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、間接と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、お医者さんのメスのようなものであります。榎本保郎先生は、「私たちがみことばを切るのではなく、みことばによって私たちが切られるのである」と言われました。聖書を読むとき、「ここは従えないから無理」「ここは信じられないから無理」と切って読む人がいます。それは聖書よりも自分が主体になっています。そうではなく、自分が聖書に屈服する。「ああ、ここが私の足りないところです」「ああ、ここが矯正されなければならないところです。アーメン」。このように、聖書を読むべきです。みことばによって点検され、そして弱点が強化されるとき、力強い歩みができてきます。最近、JALの飛行機が点検整備を怠って、飛ばしていたということがあからさまにされました。他人ごとではありません。クリスチャンでも、むやみに怒ったり、権威・権力をふりまわすことがないわけでもありません。ですから、私たちも、みことばから、日々、点検整備される必要があります。ある人が格言のようなものを与えています。「聖書はあなたを罪から遠ざける。もしくは、罪があなたを聖書から遠ざける」。神のことばに親しみ、より良い信仰を築き上げていきたいと思います。

3.神の子イエス

 13節「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」。私たちは神様の前ではすべてが裸であり、さらけ出されています。隠せおおせるものは何1つありません。この言葉を聞いて、安心する人と、「エー、困ったどうしよう」という2種類の人が出てきます。神様はすべてをご存知であり、すべての人が神の前でいつかは弁明をしなければなりません。このことを聞いて、「良かったー」という点があります。それは、この世でごまかして、悪いことをしている人が、裁かれるということです。私はクリスチャンになる前、「この世には悪いことをしている人がいるのに、だれも裁いてくれないのか」と腹立たしく思いました。多くの人たちはテレビや新聞を見て、「こんなの赦せない」「こんな不条理があって良いのか!」と怒りを覚えたり、悲しくなったりします。もちろん、この世で裁かれることもありますが、裁かれないでそのまま隠される場合もあります。でも、聖書は言います。「やがて、神の前に立とき、白日のもとにさらされ、1つ1つ弁明しなければならないときがくる」と。たとえ人間の裁きをまぬがれたとしても、神様の前ではそんなことはできません。最終的には神様がすべてをさばかれます。そうしますと、1つ1つの悪いニュースに腹を立てたり、苦い思いをしなくて良くなります。でも、それが自分の場合であったらどうでしょうか。自分が罪を犯している場合です。知らないで犯した罪もあれば、わかってやったもの、仕方なくやったものもあります。罪を犯している魂には安息がありません。

 でも、ここにすばらしいニュースがあります。14節「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。私たちのために、偉大な大祭司である神の子イエス様がおられます。この方が、神様と私たちの間に立って弁護してくださるのです。しかも、この方が「私に免じて赦してください」と父なる神様にご自分の命を差し出してくださった。なんとありがたいことでしょう。私たちの信仰がたとえ不完全であっても、大祭司である神の子イエスがおられるなら大丈夫です。私たちはキリストにあって、神様の前にすべてがあらわにされても平気な存在です。なぜなら、イエス・キリストがどんなに醜い罪も贖ってくださったからです。しかも、義の衣で、罪や汚れが覆われている状態です。たとえ、サタンが裁いても、キリストのゆえに私たちはさばかれないのです。先週は、ナルニア国物語「ライオンと魔女」を有悟と二人で見に行きました。アリオの映画館も奇麗で良かったですね。なんと、そのストーリはイエス・キリストの贖いとそっくり。アスランというライオンが裏切った一人の少年の身代わりに死ぬんです。アスランが代価を払ったので、その少年は自由の身となりました。こんど、その少年は勇敢に魔女に立ち向かいます。私も映画を見て、ポロッときましたね。イエス・キリストは贖い主であり、さらに神様と私たちの間をとしなす大祭司なのであります。

 また、イエス様がわざわざ人間になったのは何故でしょうか。それは、私たちの弱さに同情し、深いあわれみを与えてくださるためであります。イエス様は罪こそ犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、イエス様は私たちにとって、一番の理解者であります。ある人たちは、心の傷を癒すためにカウンセラーのところに通っています。カウンセラーの重要な要素は「クランケを理解することだ」そうです。もちろん、お金をかけて、そういうところに通うのも良いでしょう。でも、所詮、カウンセラーも人間ですから、限界があります。私たちクリスチャンには、ザ・カウンセラーが共におられることをお忘れなく。イザヤ書9章には「その名は、不思議な助言者」と書いてあります。英語では、ザ・ワンダフル・カウンセラーであります。イエス様は私たちを理解するために、人間となって、同じ試みに会われたのです。ですから、私たちに同情し、憐れみと助けを与えることがおできになります。しかも、神様ですから、私たちを癒し、新たに作り変えてくださることができるのです。みなさん、これが、信仰の極意です。「人に相談するな」と言っているわけではありません。信頼のおえる人に相談することは良いことです。でも、人に依存してはいけません。私たちは大祭司なるイエス様に依存すべきであります。4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。イエス様の場合は面談のための予約はいりません。1時間でも、2時間でも無料です。いつでも、どんなときでも、助けをいただくことができるのです。コンピューターを買いますと、「3年間無料サポート付き」というのがあります。私たちの信仰は、天国に行くまで、無料サポート付きなんです。

 恵みの御座とはイエス様と神様がおられる至聖所です。かつては、大祭司が年に1回、きよい動物の血を携えて至聖所に入ることができました。でも、ヘブル書の主題はこうです。神の子が大祭司になり、動物ではなく、ご自身の地を携えて聖所にお入りになった。そして、1回で永遠の贖いを成し遂げた。だから、私たちは恐れることなく、大胆に、神の恵みの御座にころがりこむことができるのです。「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。

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2006年3月19日 (日)

神の民への警告      ヘブル3:7-19

 3月は卒業のシーズンであり、4月は入学のシーズンでもあります。何事においても、始まりがあれば終わりがあります。信仰においても、スタートがあります。だれでも「信じます」という決定的なときがあるはずです。それを信仰における「点」と言っても良いかもしれません。また、信仰は1回だけ信じるというものではなく、天国に入るまで信じ続けるという要素もあります。「あのときは信じたけど、今はもう忘れちゃった」というのは問題があります。ですから、信仰というのは信じ続ける「線」という意味もあります。きょうの説教題は、「神の民への警告」でありますが、内容は「信仰における点と線」であります。

1.信仰における点

 7と8節をお読みいたします。「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、御声を聞くならば、荒野での試みの日に』、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」。ヘブル人への手紙3章には、「きょう」という言葉が3回あります。そして、4章には2回あります。「きょう」とは、何か決断をせまられるような主の御声を聞いたときであります。主が「私に従いなさい」、「○○しなさい」とお声をかけるときがあります。そういうときは、一生に何度もあるわけではありません。人生においてとても重要なとき、危機的なときであります。イスラエルの民がなぜ、荒野を40年間も旅することになったのでしょうか。民数記14:22「主は『エジプトとこの荒野で、私の栄光と私の行なったしるしを見ながら、このように10度も私を試みて、私の声に聞き従わなかった』」と言われました。10度の中には、食べ物がないときつぶやいたこと、水がないとモーセと争ったことも含まれます。彼らは「本当に主私たちたちと共におられるのだろうか」何度も主を試みました。でも、決定的な出来事は、シナイ山を越え、カデシュ・バルネアというところに来たときです。ヨルダン川を越えれば、向こうは約束の地・カナンであります。カナンは乳と蜜が流れる肥沃な地でありました。しかし、ヨシュアとカレブ以外の偵察隊は「あの民は私たちよりも強いから攻め上れない。私たちには自分たちがいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言いました。全会衆はそれを聞いて大声をあげて叫び、泣き明かしました。そして、「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ」とつぶやきました。ヨシュアとカレブは「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。今攻め上るべきだ」と主張しました。しかし、全会衆は、彼らを石で打ち殺そうとしました。そこで主がモーセを通して言われました。「ヨシュアとカレブ以外は、約束の地に入ることができない。あなたがたは、荒野で40年羊を飼う者となり、死体となってこの荒野で倒れてしまう」。これが、20歳以上の者たちが、約束の地に入れなかった直接的な原因です。

 私たちの人生において、明日ではなくて、「きょう」主の御声に従わなければならないときがあります。もし、その時を失うならば、40年後に再び来るか、もしかしたら永遠にその時は来ないかもしれません。ある時、ザアカイはイエス様が来るのを木の上から待ち伏せしていました。イエス様は上を見上げて、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。ザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えました。そのとき、イエス様は「きょう。救いがこの家に来ました」と言われました。もし、ザアカイが手帳を出して、「えーと、きょうはダメです。急にお客さん連れ行ったら家内に怒られてしまいます。えーと、こんどの木曜日か、金曜日ならスケジュールが空いていますよ」と答えたらどうなったでしょうか。イエス様はそのままエルサレムに行って、十字架にかかるおつもりでしたから、この次はありません。ザアカイが救われたのは、「きょう」と言われたときに従ったからです。使徒パウロがアテネで福音を語りました。ある者たちは「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言いました。信仰の決断を迫られたとき、ある人たちは「またいつか」「またこんど」と断るかもしれません。一方、パウロがピリピの看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言ったときです。「看守は、その夜、時を移さず、二人を引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」と使徒16章に書いてあります。イエス様を信じるチャンスというのは、一生に何度もあるものではありません。私が教会に行って、まもない頃のことです。3月か4月頃、洗礼式がありました。その中に、白髪の姉妹がひざまずいていました。「女学校時代、戦争があって教会にいけなくなり、40年ぶりに教会に戻って来ました」と証しておられました。そうしますとクリスチャンになれた人は、「いやー、あのとき決断して良かったなー」と思っていらっしゃるのではないでしょうか。今度、TPWが来られますが、アンドレの招きは、かなりしつこいですね。「まだ、イエス様は待っています。Come!そう、きょうがあなたの救いの日です」とかなんとか言って、10分以上、伸ばすんですね。私などは、こんなにしつこいのでは躓く人が出るんじゃないかとハラハラドキドキしていました。でも、TPWで少なくとも、3人は洗礼受けました。押されたり、ひっぱられたりしながらの決断ですが、後からでは無理だったかもしれません。

 40という数字は忍耐とかさばきを表しています。天に召された戸叶長老から聞いた話ですが、この教会の方で、若い時、牧師になろうかなと思った人がいたそうです。ところが、ちょうど子どもたちの学費がかかるときでした。その方は、仕事をやめないで、子どもたちが独り立ちしてから献身しようと考え直しました。ところが、あれやこれやと、40年経ち、70歳くらいになってから牧師になりました。私はその方に、お会いしたことがありますが、「それがみこころだったのですか」と、聞けませんでした。私は伝道師や牧師をおやめになった方を何人も知っていますが、一度やめてしまうと復帰することがなかなかできません。皮肉にも世の中で成功して、戻る気がしなくなるようです。牧師は主のあわれみでなったのですから、それを蹴ってしまうと、戻りたくても戻れなくなってしまう。だから、私は牧師になった以上は、石にかじりついてでもやめない、やめられないと思っています。イスラエルの民が40年も荒野をさまよった原因は、不従順であり、不信仰でした。ヘブル3:17-19「神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか」。安息とは何でしょうか。一度、信じたとしても、離れるならば天国に入れないということでしょうか?ここで、「信じた者が滅びる可能性があるのか」という、神学的な話をするつもりはありません。安息というのは、「恵まれた信仰生活」と言う方が、福音的であります。つまり、神様が「きょう、従いなさい」と言われたときに、従わなかったならば荒野をぐるぐるさまよってしまうということです。ヘブル書には「従わない人は、さらに心がかたくなになり、生ける神様から離れてしまう」と書いてあります。みなさんの信仰生活を振り返ってみて、「あの時、従うことができたので、今日の私がある」という人はいないでしょうか?私が座間教会でスタッフしているときこういうことがありました。大川先生から、第一礼拝は田中伝道師に、第二は私に、第三礼拝は吉永副牧師が証をするように依頼されました。その日のため、一週間前から準備して臨みました。ところが、第一礼拝が終わった直後、大川先生から「第二礼拝も田中伝道師に証をしてもらうので、鈴木兄弟はいい」と言われました。なぜなら、田中伝道師の証がものすごく受けが良かったからです。お父さんが開業医で教会の長老さん。自分は次男だったが高校のときからぐれて、東京に来て大学を1年で中退。その後、水商売をして、最近までキャバレーを3つ持っていた。ところが強迫神経症にかかり、やっとのことで教会に戻ってきた。最初の日、礼拝堂に入ったとたん、メラメラと炎が燃えていた。そんな劇的な証でした。私は第二礼拝のアッシャーをして、後ろの階段に腰掛けていました。田中伝道師の証が今、始まろうとしていた時です。私の中に、「それでは、私の証はたいしたことはないのだろうか。俺だってイエス様から救われたんだ」という思いが湧き上がってきました。そして、「馬鹿ヤロー、ふざけるんじゃない」と叫びたい衝動にかられました。そのとき、イエス様の御声が聞こえました。「あなたはだれのために証をするのですか?」「はい、あなたのためです」。そのとたん、嗚咽と言いましょうか、私は後ろの席で泣きじゃくってしまいました。もし、私があのとき、立ち上がって、「馬鹿ヤロー、ふざけるんじゃない」と叫んでいたら、今日の私はありません。私にとってはものすごい誘惑でありましたが、確かにイエス様の御声があったんですね。

 人生において大切な岐路があります。信仰生活においても何度かあるでしょう。そのとき、だれの声に従うかであります。イスラエルの会衆は、「できない」という10人の偵察隊の言うことを聞きました。主の声に従った人は、ヨシュアとカレブの2人だけでした。人生においても、カデシュ・バルネアがあるんじゃないでしょうか。そのとき、ヨルダン川を渡れば安息の地・カナンに入ることができます。でも、彼らは不信仰になり、手前で座り込んでしまいました。そのためチャンスは2度とこなかったのです。40年後、ヨシュアとカレブと若い世代だけが入ることができました。ヘブル人への記者は、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と教訓を与えています。ダビデは預言者ナタンから「あなたがその男です」と言われたとき、「はい、そうです」と悔い改めました。ダビデが「私はそうじゃない」と否定していたなら、あのダビデ王はいなかったのです。私たちは主を恐れることが必要です。パットブーンとエリビスプレスリーの二人は友人でした。ある日、パットブーンは「私はクリスチャンだから、教会へ行くよ」と言いました。しかし、エルビスは「ぼくは、ラスベガスに行くよ」と言って分かれました。エルビスは華やかな生涯を送りました。が、最後はドラッグのせいで体がおかしくなりました。エルビスには腹違いの弟がいました。ある朝、弟がエルビスに言いました。「お兄さん、きょうは、神様に立ち返る日じゃかい?」エルビスは「ああ、ぼくもそう思っていたんだ。ボクのために祈ってくれるかい」と願ったそうです。その日にエルビスは亡くなったそうです。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」ということです。

2.信仰における線

 信仰には「信じる」とか「決断する」いう点の要素もありますが「信じ続ける」という線の要素もあります。もちろん、点がなければ線もありませんが、点だけではだめだとヘブル書は言います。3:6後半には「確信と希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続ける」と書いてあります。また、14節には「もし最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、私たちはキリストに預かる者となるのです」とあります。4:11「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」と書いてあります。ここだけを見ますと、1度、信じただけじゃダメなのかなという疑問が起こってきます。改革派は「予定という絶対的な選びがあるので、救いは失うことはない」と答えるでしょう。しかし、アルミニアンは「信じ続けなければ、滅びる可能性がある」と言うかもしれません。改革派の信仰は、「1度、信じたんだから滅びることはない」と悠然として生きるでしょう。後者は「ああ、しんがりでも良いから、救いから漏れないようについて行こう」と悲痛な努力をするでしょう。ある統計によると、洗礼を受けてから3年以内に50%の人が教会に来なくなるということです。これは日本の教会の統計です。私も信仰生活が27年くらいになりますが、まわりを見て、最後まで残っている人は3割くらいかもしれません。もちろん、他の教会に通っている人もいますし、一人で信仰を守っている人もいるでしょう。教会イコール、神様というつもりはありませんが、「信じ続ける」ということはやはり難しいですね。

 インドネシヤのエディ・レオ師がこのようなことをおっしゃっていました。多くの人たちは「私は神を信じる」と言う。しかし、どんな神だろうか。イエス様は「これは永遠の命である」と言われた。神を知ることは、永遠の命である。だから、本当の神を知るならば、あなたは救われる。もしあなたが間違った神を知っていたとしても、あなたは救われない。「イエス様を信じなさい。彼は良き神様です」。この信仰だけでは救われない。イエス様は私たちの救い主だけであるだけではなく、私たちの主である。主とは、私たちの人生の唯一の支配者である。だから、イエス様はあなたの支配者である。あなたは従わなければならない。ある人たちは「私はイエス様を信じます。しかし、イエス様には従いません」と言う。ということは、その人たちの信仰は本当でないことを意味する。彼らの信仰は救い主イエスだけである。イエス様は救い主というだけではなく、私たちの主である。だから主は「わが子よ。悔い改めなさい」言われる。あなたはどんな信仰を持っているだろうか。本当の信仰とは何か。ただ救い主としてイエス様を信じることではない。イエス様に弟子として従って行く者である。本当の信仰のある人は、実が残り、また多くの実を結ぶ。・・・このように言われますと、スタートの地点から問題があるのかナーと思います。「イエス様を救い主として信じるだけではなく、主として信じる。最初から、弟子としてイエス様に従う」。これが重要だということです。私も家内もそうですが、洗礼を受けたとき、本をもらいました。その本の裏表紙に「死に至るまで忠実であれ」(黙示録2:10)と書いてありました。私は、そのとき「ああー、信仰とはそういうものなのか?」とピリッとした気持ちになりました。

 しかし、皆さん、信仰が継続できることは努力ということもありますが、主の恵みであります。ある教会の役員さんが「私は何をやっても、三日坊主でしたが、信仰だけは長続きしています」と証ししていました。神様は私たちの信仰が継続するように、「恵みの手段」というものを備えておられます。英語では、means of graceと言います。私たちは神様が見えないので、直接、交わることは困難です。しかし、神様と私たちの間に、「恵みの手段」があれば大丈夫です。その代表的なものに、聖書、讃美歌、教会の礼拝、聖餐式、交わりがあります。その中で、聖日礼拝を守るということはとても重要な要素です。ある先生は、「カーテンのレールのように、定期的に礼拝を守るべきです」と言われました。カーテンのレールがところどころはずれているのは格好が良くないですね。なんか、独身者のアパートのカーテンみたいですね。礼拝出席が、ばらついているのは良くない、定期的である方が良いということです。でも、礼拝を守るというのは消極的であります。礼拝は天国に行くための顔つなぎではありません。礼拝は心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして積極的にささげるものであります。賛美も礼拝の大切な1部です。これは感謝と賛美のささげものと言うことができます。ペンテコステ系の教会は叫び、手を挙げ、踊って、体全体で賛美をしています。そして、交わりは祈りとみことばの分かち合いです。この交わりは、互いを建て上げるためにとても大切です。ヘブル3:13に「『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」とあります。つまり、群の中にいると、罪から守られるということです。群から離れてしまうと、罪に惑わされ、心がさらにかたくなになってしまいます。私は毎朝、散歩して気づくことがあります。ゆりかもめ、はと、すずめ、カモ、ムクドリ?とにかく、群をなしています。一羽が飛ぶと、みんなパーッとそちらの方に行きます。付和雷同みたいなところもありますが、外敵から身を守るため群をなしているのでしょう。

 信仰は生き物です。昨日、信仰的に満たされていたと思うと、きょうはどん底に下ることもあります。霊的に下るのは簡単ですが、登るのは難しいですね。アスリートも音楽家も自分の技術をキープすることが大切であります。練習をなまけると、すぐ、落ちてしまいます。彼らもスランプになることがあるでしょう。私たちも霊的なスランプに陥るときがあるかもしれません。失望落胆の沼にはまり込み、なかなか出られない。疑いの雲から抜け出せない場合があるかもしれません。そんな時はどうしたら良いのでしょうか。それは基本に返るということです。おそらく、スポーツマンも芸術家も同じことを言うでしょう。クリスチャンの基本とは何でしょうか?それは「十字架の福音」です。イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦されたということが信仰の原点です。私たちは、以前は神から離れ、霊的に死んでいた存在です。自分の肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださり、キリストとともに生かしてくださいました。私たちは行ないとか努力ではなく、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。私たちの確信と希望による誇りはどこにあるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架です。この十字架の信仰を持ち続けるならば、安息からもれることはありません。本日は、旧約のイスラエルから教訓を学びました。「きょう、もし御声を聞くならば従う」という、やわらかい心を持ちましょう。神様を試みることなく、神様が共におられることを意識して歩みましょう。

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2006年3月12日 (日)

モーセにまさる      ヘブル3:1-6

 旧約聖書にはイエス様を現している事柄がたくさんあります。その中には、出来事もありますし、人物の場合もあります。これを予表とか予型(タイプ)なとど言います。モーセもある部分ではイエス様と似ています。「似てはいますが、イエス・キリストはモーセにまさるお方ですよ」というのが本日のテーマです。

1.解放者イエス

 モーセはエジプトからイスラエルの民を解放した人物です。イスラエルの民は400年以上も、エジプトに住んでいました。そのうち民の数が多くなり、パロ王は「いつ彼らが敵側に寝返るか」と心配になり、彼らを奴隷として扱いました。さらに、「生まれる男子は川に投げ込め」とまで、命じました。あるお母さんは男の赤ちゃんを3ヶ月間、隠しておきました。だが、隠し切れなくなって、パピルスで編んだ籠に入れてナイルに流しました。ちょうどそこに、パロの娘が水浴びをしようと降りて来ていました。彼女はその赤ちゃんを引き取り、モーセと名づけました。モーセとは「水の中から引き出した」という意味です。モーセは40歳までパロの王子として育てられました。しかし、ある日、喧嘩の仲裁に入ったとき、エジプト人を殺してしまいました。そのとき、自分がヘブル人であることが公になり、ミデヤンの荒野に逃げました。それから40年後、モーセが80歳になってから、神様の召命がありました。主は「今、私の民、イスラエルをエジプトから連れ出せ!」と命じました。モーセは「私はいったい何者なのでしょう。私は舌が重いんです」とかなんとか言って、何度も断ります。しかし、ようやく立ち上がり、杖を持って、パロのところに行きます。案の定、パロから相手にされません。それで、モーセは、たくさんの奇跡を行ないました。しかし、パロの心はかたくなで、一向にイスラエルを解放しようとしません。しかし、10番目の「過ぎ越しの奇跡」によって、長男という長男が死んだとき、手放しました。モーセは100万人以上の民の前に立ち、紅海を渡って、脱出するわけです。後から追いかけてきた、エジプト軍は海に飲み込まれ、全滅しました。これが、栄光の脱出、エクダサスであります。

 一方、イエス・キリストは罪の世から、神の民を解放するためにこの世にやってこられました。罪の世の支配者はパロならぬ、悪魔であります。御子は乙女マリヤから生まれ、名前が「イエス」と名付けられした。イエスとは「罪から救う者」という意味です。しかし、すぐ活躍したわけではありません。30歳までひっそりとナザレで暮らしました。30歳になり、ヨハネからバプテスマを受けました。そのとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とお声がありました。父なる神様がメシヤとしてイエス様を任命したわけです。イエス様はナザレの会堂で、イザヤ書61章を引用し、「私は貧しい者に福音を伝え、捕らわれている人を自由にする」と宣言しました。当時の人たちは、モーセの律法を知っていましたが、律法主義によって、がんじがらめになっていました。イエス様はモーセの律法を引用しながら、「私はこういう」と、正しい解釈をほどこしてあげました。イエス様もたくさんの奇跡を行ない、悪霊を追い出しました。しかし、決定的なことは、自分が十字架にかかり罪の贖いを成し遂げることでした。出エジプトのときは小羊が殺されましたが、最後のときは、神の小羊であるイエス様が自ら犠牲となったのです。モーセは「私の名前を命の書から消しても構いませんから、民を赦してください」と破れ口に立ちました。これもすばらしいことであります。しかし、イエス様はご自分の命を差し出し、「父よ、彼らをお赦しください」と全人類のために祈られました。そのため、イエス様は神から捨てられ「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)と叫ばれました。イエス様は死んで、葬られ、陰府に下り、三日目によみがえられました。十字架と復活が決め手になり、全人類の罪が贖われました。それ以来、人々は救い主イエスを信じるだけで、恵みによって救われるようになったのです。

 キリストが地上に来られてから、約2000年たちます。数え切れないほどの人たちが、福音を聞いて、救われ、御国に入っています。福音はエルサレムから始まり、ヨーロッパ、アメリカ、アジアを通過して、今やアフリカまで達しました。もうまもなく地球を一周して、世の終わりが近づいています。なぜなら、マタイ24:14に「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と書いてあるからです。もう1つ終わりが近いというしるしは、イスラエルが1948年5月14日に建国したことであります。ご存知のとおり、ユダヤ人は紀元70年に国を失い1900年間も流浪していました。ところが、エレミヤ書やエゼキエル書が預言しているように、ユダヤの民が世界中から集まり国を作りました。ある本に「300万人もの人たちが帰ってきたことは、モーセの出エジプトにまさる」と書いてありました。キリスト教会の一番の悩みは、日本が置き去りにされてしまったのではないかということです。今の日本の関心は「どうしたら景気が回復するか」であります。お金の量を増やしたらよいのだろうか、どうだろうかと悩んでいます。中国を初めとするアジアとの国交もなかなか進みません。少子化問題、老人大国で、福祉が追いつく見込みはありません。新聞やテレビを見ても悪いニュースばかりです。でも、イエス・キリストよる、神の国が私たち日本人にも提示されています。神様は全世界を作ったお方ですから、全世界の人たちを養えないお方ではありません。もし、父なる神様と和解するならば、中国や韓国、東南アジアと和解することも可能になります。政治家や政府高官が、聖書の価値観で生きるならば、日本は変わるのではないでしょうか。本当の改革は、聖書の価値観に基づいた改革しかありません。

私は、自分ところの教会が大きくなることばかりしか考えてきませんでした。もちろん、自分たちが任されている地域のために仕えることがとても重要です。でも、小売店のように、ただ人が来るのを待っていても、らちがあかないような気がします。ステレオタイプと言う言葉があります。「遠くを見る目と近くを見る目。日本全体を見る目と自分の地域を見る目」です。自分ところの教会ばかり考えていたのでは、あの人の問題、この人の問題とこじんまりしてしまいます。そうではなく、日本の救いのために、フォーカスしていく必要があります。先週は、常磐牧師セルがありました。1ヶ月1回、常磐線沿線の牧師たちが集まります。この間は松戸でやりました。牛久の大喜多先生は最近、保守バプテストの代表になったようです。その団体は、教会を開拓することが最大の使命です。そのやり方は、イチゴが増えていくようは方式で、「ストロベリーなんとか」という名前があるそうです。親株から枝が伸びて、そこに根を張ります。やがてそれが独立して、次の枝が伸びていきます。大喜多先生は「癒しや解放も良いけれど、教会が伝道をしないならば不健康になる」とおっしゃっていました。アーメンです。日本にとっても、救いはイエス様しかありません。ペテロは使徒4章で「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言いました。石原牧師と心理学者の服部先生はこのようなことをおっしゃっています。日本は今、終戦1ヶ月前の7月と同じだ。そのときは「日本は勝っている、勝っている」と新聞は嘘をついていた。ところが、8月15日、降伏した。その後、1ヶ月もかからないうちに、日本がらっと変わった。今の日本は滅びようとしているのに、マスコミは本当のことを言えない。しかし、やがて真実が暴露され、戦後のようなことが再び起こる。今、本当に日本のことを考える指導者が必要だ・・・。まもなく日本という国が沈没するかもしれません。経済的な理由か、精神的な理由か、大地震なのか分かりません。でも、それはキリストの福音を宣べ伝えるチャンスでもあります。私たちは崖っぷちに立たされているのかもしれません。日本がそのまま滅びるか、それとも日本がキリストによって救われるか、どちらかであります。1教会だけに目をとめるのではなく、王なる祭司として、日本の救いということにフォーカスをあてて行きたいと思います。1教会のためだけではなく、日本の救いのために何ができるか。祈り求めて行きたいと思います。

2.忠実なるイエス

 ヘブル書3章には、「モーセが神の家全体のために忠実であった」と2度も書かれています。一方、イエス・キリストは「ご自分を立てた方に忠実である」と書かれています。家と家を建てる者とはどちらが、栄誉があるのでしょうか。家を建てる者であります。ちょっと見ただけでは何のことなのかわかりません。私はこういうことを言っているのだと思います。モーセは神の家のしもべとして忠実でした。一方、イエス・キリストは神の家の支配者として忠実であったということです。もちろん、家を建てた方は父なる神様です。モーセもイエス様も忠実ではありました。しかし、モーセは神の家に対して、イエス様は神の家を建てた神様に対して忠実でありました。家はギリシャ語ではオイコスですが、これは家族とも訳せる言葉です。モーセは40年間もイスラエルの民を荒野からカナンの一歩手前まで導きました。モーセほど謙遜で忠実な人は他にいなかったかもしれません。人々は「水が飲みたい、腹が減った」といつも不平不満を並べ立てていました。ある時は、「なんでお前だけが主の前に立つんだ。我々だってそれができるはずだ」と反抗しました。そのたびに、モーセは主の前に出て、とりなし、導きをいだだきました。モーセも人間ですからたった1回だけ癇癪を起こしたことがありました。そのとき、杖で岩を二度も打ってしまいました。確かに岩から水が出ましたが、本当は命じるだけでよかったのです。たった1回の過ちで、モーセはカナンの地に入ることができませんでした。100万人以上の民と40年間も付き合って、120歳になってピスガの頂で約束の地を見て、死んだのであります。モーセほど神の家に対して忠実な人はいませんでした。忠実、これは神の人が持つべき、もっとも重要な資質であります。使徒パウロも忠実な人でした。パウロは主が私を忠実な者と認めてくださったので、それに答えたわけです。忠実は英語ではfaithful、信仰に満ちたとか真実に満ちたという意味であります。つまり、信仰に満ちた人、真実に満ちた人が忠実な人だということです。神のしもべにとって、最も大切な資質は忠実さであります。すばらしい賜物や大きな能力もあればこしたことがありません。でも、忠実さがなければ砂上の楼閣であります。賜物や能力のある人に限って、忠実さがないのは残念なことです。私もイエス様の前に立ったとき、「善かつ忠なるしもべだ」と言われたいなーと心から思います。神の人モーセから学ぶ第一のことは、忠実であります。

 では、イエス様はどうでしょうか。イエス様もモーセと同様に忠実でありました。でも、イエス様は神の家と言うよりも、神の家を建てた神様に忠実であったということです。しかも、イエス様は神の家を忠実に治めるお方です。6節「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」。なぜ、こんな分かりきったことを述べているのでしょうか。おそらく、その当時「あのイエスよりも、モーセの方が偉大だ」と思っていた人たちがいたからでしょう。ヘブル書の記者は、「モーセは神のしもべであったが、イエスは神の家を治める御子である」と言いたかったのです。ですから、当然、何に対して忠実であったかという違いが出てきます。モーセは神の民に対して忠実でありました。それは神の民に仕えることを通してであります。一方、イエス様は父なる神様に対して忠実でありました。それは神の民を治めることを通してであります。祭司や律法学者からクリスチャンになった人は、モーセには従うけれど、イエスにはどうかな?と思っている人がいたのでしょう。そうではなく、神の家を治める御子イエスに従うべきであると教えているのです。私たちの時代には、こういうことはさほど問題にならない話題であります。でも、イエス様はどのように神様に忠実であったのか、知るならば、私たちの信仰がものすごく強められます。イエス・キリストは神の家の代表者として、父なる神様に忠実でした。あらゆる律法を全うし、父なる神様に死に至るまで忠実でした。それはどういうことかと申しますと、私たちの代表として神様に忠実であったわけです。ですから、神様はイエス様に従う者たちすべてが、「ああ、あなたがたも忠実な人たちだなー」と見えるわけです。モーセは確かに忠実でありましたが、そこまでの影響力はありませんでした。しかし、御子イエス様は神の家を忠実に治める者として、神様に忠実だったのです。私たちは「イエス様の忠実」という大きな傘の下で、忠実とみなされている者たちなのです。なぜなら、イエス様が私たちの代わりに律法を全部全うし、私たちの代わりに父なる神様に従順だったからです。こんなありがたいことはありません。

 Ⅱテモテ2:11-13にすばらしいみことばがあります。次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」これは、使徒パウロが言ったことばです。「私たちは真実でなくても、彼は真実である」とは、どういう意味でしょうか。この真実という言葉は、faithfulですから、忠実とも訳せる言葉です。英語の聖書には真実も忠実も区別がありません。ですから、このところを「私たちは忠実でなくても、イエス様は常に忠実である」と当然置き換えることもできます。つまり、私たちはイエス様の真実、あるいはイエス様の忠実さによって、救われているということです。私たちはよく「心から」という表現を用います。「心から愛します」「心から信じます」「心から従います」「心から悔い改めます」。とは言っても、心がそんなに純粋で、1本気なわけがありません。妻を愛しますと言いながら、あの女性も良いなと思うのが男性です。もう罪を犯しませんと約束しても、すぐ、悪いことを考えます。人間の心ほどいい加減なものはありません。もし、「あなたの心の全体を管理して、すべての悪い考えを撤去せよ!」と言われたら、ノイローゼになってしまいます。私たちはいい加減なところがあるんです。不真実なところ、不忠実なところもあります。でも、それらを全部含めて、イエス様によって、真実な者、忠実な者としてみなされているということです。

ヘブル語に「贖い」を表わすことばは、2あります。1つはゴエールであり、これは先週学びましたが、買い戻すという意味です。もう1つは、カーハールと言う言葉があります。これは覆うという意味です。私たちの罪は贖われる必要もありますが、同時に、覆い隠してもらう必要もあるのです。イエス様を信じると、義の衣で覆われます。義の衣を着ていますと、神様からは「あー、あなたには罪がない。イエスと同じ義なる人だ」と見えるわけです。内側には多少、罪や汚れがあったとしても、義の衣で覆われていれば平気です。

もう、15年も前のことですが、ある方からラムのハーフコートを贈られました。警官が着るような、黒のコートです。その方は、「これを着るとボロ隠しになって良いよ」と言って私にくれました。本当に、コートを着ると、下に何を着ても平気ですね。ラム、小羊の皮のコート、良かったですね。彼は、私と一緒に教文屋館で2年間勉強したことがあります。彼は信徒牧師になるため、私は教団の試験を取るために勉強しました。その人が「いつぞやはお世話になりました」と言うんですね。「えー、失礼ですがどなた様でしょうか?」と聞きました。私が座間教会でスタッフしていた頃、こういうことがありました。「近くの病院で入院していましたが、召されたのでお葬式をして欲しい」と2,3人来られました。まもなく、亡くなられたご老人が運ばれて来たのですが、なんと浴衣だけのスタイルです。講壇に毛布を敷いて、しばらくの間、そのご老人を守ることになりました。葬儀屋さんがくるまで、かなり時間がありました。もう一人のスタッフと「ちょっと気持ち悪いですね」とか言いながら、守っていたのです。あとから分かったのですが、そのご老人は山梨で牧師として働いておられたのですが、引退後、ご病気になられ座間の近く(相模原病院か北里病院)で入院していたわけです。一緒に付き添ってこられた人の中に、コートをくれた人が混じっていたわけです。おそらく、教会の信徒だったのでしょう。それで私たちの教会で葬儀をしてくれたので、その方は恩義を感じて、あのスタッフにお礼を差し上げたいと思ったわけですね。長い話・・・。で、メッセージと何の関係があるのでしょう。そのご老人は牧師として神様に長年仕えた人でありました。でも、死んだ時には、山梨を離れ、どこかの教会の講壇に浴衣1枚で寝かされていたということです。私がスタッフとして少しお手伝いしましたが、その信徒はそのことに感謝して、ラムのハーフコートを下さいました。いろいろ考えてみて、私たちは覆いが必要なんだなーと思います。死ぬときは本当に素っ裸です。地位も名誉も関係ありません。でも、イエス様を信じているならば、どんなに汚れた人であろうとも、義の衣が与えられます。また、イエス様を信じているならば、どんなに不忠実でも、忠実な者とみなされます。ここに、私たちのよりどころがあるんだなーと思います。「よりどころ」なんと良い言葉でしょうか。イエス・キリストの真実、イエス・キリストの忠実さこそ、私たちのよりどころです。私たちの信仰深さ、私たちの真実さには限りがあります。でも、イエス・キリストは大丈夫です。神の家の解放者であり、忠実なお方であるイエス・キリストに従って行きましょう。

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