2006年1月29日 (日)

黄金律       マタイ7:7-14

1.求めよ

 昔の文語訳では、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」となっています。「求めよ、さらば与えられん」は、格言になるくらい世の人にも知られている聖句ではないかと思います。しかし、クリスチャンを長くやっていますと、「神様とみこころとの関係はどうなろうなー」と悩むようになります。「求めたとしても必ずしも与えられるとは限らない」という不審な思いがないでもありません。「求めたら与えられる」というのは、嘘ではないだろうけど、その確立は3割程度かなーなんて、思っている人はおられませんか?まず、神のみこころと私たちの求めはどちらが、優勢なのでしょうか?算数で不等号という記号があります。聖書を公平に見てわかるのですが、やはり神のこみこころが優勢で、私たちの求めは劣勢かなーと思います。しかし、イエス様に限っては、神のみこころとイエス様の求めはイコールであったと思います。ゲツセマネの祈りの時だけは、どちらが優勢になるかしばらく、苦闘したようですが、いつもイエス様はみこころの内を歩まれました。もし、私たちも神のみこころを慕い求め、みこころをつかまえた後、求めるならば百発百中になるかもしれません。

 しかし、マタイ7章で言われている「求めよ」は、ちょっと強調点が異なります。なぜかと言うと、8節には「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者は開かれます」とあります。また、11節には「悪い者であっても」と書いてあります。ですから、「求めたら与えられる」というのは、クリスチャン、ノンクリスチャン関係なく、宇宙の法則だということです。世の科学者は求め、捜し、たたいてきました。だから、飛行機やロケットを飛ばすことができました。原子力というものすごい力を発見しました。反面、原爆というものまで作りました。「発明は必要の母である」と言った人がいますが、まさしくそうであります。また、ある人たちは、偶像をおがみながら、一生懸命、求めます。その結果、商売が繁盛し、病気が癒されます。なぜでしょう?「求めたら与えられる」というのは、宇宙の法則だからです。むしろ、この法則を軽んじているのが信仰者であります。信仰がきよめられれば、きよめられるほど、「みこころだから仕方がない」と諦める。そういう傾向があるのではないでしょうか。放蕩息子の兄は、とても真面目な信仰者でした。でも、父に対して何と言っているでしょうか。「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません」(ルカ15:29)。食えよ、子山羊ぐらい!また、1タラントを隠していたしもべは主人になんと言ったでしょうか。「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」(マタイ25:24)と言いました。彼も信仰を持っていたのです。でも、神様はケチでひどい方だと考えていました。日本の教会のクリスチャンは、とても真面目ですが、この「求める」ということに対しては遠慮深い。韓国でなぜリバイバルが起きたかというと、向こうは熱心に求めたからです。たとえば、2人の人が川で溺れているとします。一人は、「泳げないんだ!助けてくれー!」ともがいて叫び狂っています。もう一人は、「お手すきでしたら、助けてください。みこころでしたらお願いします。プクプク」と、落ち着いた感じです。救助に来た人は、果たしてどちらから助けるでしょうか。「助けてくれー!」ともがいている方を最初に助けると思います。

 マタイが言わんとしていることはどういうことでしょうか。それは「父なる神様は良きものを与えたいと願っておられる気前の良い方だ」ということです。自分のこどもがパンをくれというのに、だれが石を与えるだろうか。魚をくれというのに、だれが蛇を与えるだろうか。11節「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」父なる神様は、子である私たちに、良い物を与えたいと願っておられる、これがマタイの言いたいことです。マタイという人は、本名がレビでした。レビとは神様に使える祭司の名前です。ですから、ご両親は神様に仕える人になるようにという思いで名をつけたのかもしれません。しかし、レビはご両親の信仰生活を見て、「神様を信じているのにどうして貧しい生活をしているんだ。世の中は金だ!」と思って、収税人になったのかもしれません。彼はとてもお金にはシビアな人でした。金銭感覚が人一倍あったんです。でも、父なる神様が良き神様で、気前の良い方だと分かったのです。「自分の両親は真面目だった、でも、気前の良い父なる神様を知らなかった!神様は求めるなら良いものを下さる私たちの父なのだ」ということを知らせたかったのではないかと思います。同時にこれは、日本の教会、クリスチャンに対するメッセージであろうと考えます。日本のクリスチャンは真面目かもしれませんが、神様には求めない。神様に求めるのは、新興宗教、やすっぽい信仰だと考えている。「武士は食わねど、高楊枝!」。だから、病気の癒しも、経済的な祝福も、教会成長のためにも祈りません。だから、日本の教会は貧しいのです。

 私たちは、恥も外聞も捨てて、プライドも捨てて、父なる神様に求めるべきだと思います。座間教会にいたとき、一人の青年会の姉妹が「私はクリスチャンと結婚したいんです。どうか祈ってください」と公に求めました。まもなく、他の教会からクリスチャンがひょっこりやって来て、その姉妹とめでたく結ばれました。ある人は「私は○○の病気を持っています。どうか、私のためにも祈ってください」と言いました。普通なら、隠すところを求めたんです。そういう人のためには、牧師ばかりか、神様もなんとかしてやりたいなーと思うでしょう。日本人はとでも上品で奥ゆかしいのが、美徳とされています。でも、信仰はそうであってはいけません。大胆に求めるなら、与えられるんです。旧約聖書のヤコブは押しのける人でした。兄から長男の権利を奪い取りました。性格的には兄の方が良かったのかもしれません。しかし、兄は長男の権利よりも、食べ物とか生活が大事だったのです。一方、弟ヤコブは霊的な価値を知って、それを兄から奪い取ったのです。ヤコブは最後に、天使と組み打ち(レスリング)しました。「祝福してくださらなければ、離しません」と天使に勝ったのです。聖書に「私はヤコブの神である」と書いてあります。それは、「私はヤコブの神であることを恥としない」という意味です。押しのけるような性格の悪いヤコブの神と呼ばれても良いということです。つまり、聖書の神様は、真面目で信仰のない人よりも、人格的に欠けはあるけど信仰のある人の方を好まれるということです。こんなに断言して良いか分かりませんが・・・。福音書にこうあります。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」この聖句は、バーゲンセールに突進する、オバタリアンを連想させます。しかし、私たち信仰者は、信仰が長くなれば、なるほど上品になって、求めることをしなくなります。みなさん、神様に求めるというのは、「神様は偉大なるお方で豊かなお方だ、恵み深いお方だ」という信仰があるからです。一方求めない人というのは、「神様は小さくて何もできない、プアーで、ケチな方」というゆがんだ信仰があるからです。※

どうぞ、ケチな神観を取り除いて、豊かで気前の良い神観をお持ちください。「父なる神様は求める者には、絶対、良いものをくださるんだ!」ということを信じましょう。「求めなさい」は原文では、「求め続けなさい」であります。ですから、一度や二度であきらめないで、五度も六度も七度も求めましょう。

 ※時間があれば…盲人のバルテマイは「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びました。人々は、「うるさい、黙れ!静かにしろ!」とたしなめました。それでも、彼は、ますます叫びました。イエス様は、そばの者に、彼を連れてくるように言いつけました。イエス様は彼に「私に何をしてほしいのか」と尋ねられました。彼は「主よ。目が見えるようになることです」と言いました。彼はイエス様に目が見えるようになるようよう求めたのです。なぜなら、イエス様は自分の目を開けることができるお方だと信じていたからです。信じていないなら求めません。イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエス様に付いていきました。

2.黄金律

 7:12は聖書でゴールデンルール、黄金律と呼ばれている有名な聖句です。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
自分にしてもらいたいことと言えばどんなことがあるでしょうか。肩が凝っているのでもんでもらいたい。お金がないので貸してもらいたい。こんだけやったんだから、ありがとうと感謝してもらいない。お腹が減ったので、うまいものを食わせてもらいたい。疲れたので、席を譲ってもらいたい。いろいろ、日常で他の人からしてもらいたいことがあります。でも、イエス様は逆に、そのようなことを他の人にせよと命ずるのであります。三浦綾子さんが、天国と地獄の夢を見たそうであります。大きなお家の一階は地獄でした。大きなテーブルの上に、山海の珍味というか、ご馳走がならべられていました。腰掛けていた人たちが、今、食べようとしていました。ところが良く見ると、彼らは一人ひとり椅子に縛られていました。片方の手には長いフォーク、また片方の手には長いスプーンが結わえられていました。フォークやスプーンが1メートルくらいあるので、自分の口にはとても入りません。そこにいた人たちは怒り出し、しまいにはフォークとスプーンで喧嘩をし始めました。せっかくのご馳走が、そこいら中に散乱していました。二階は天国の部屋でした。地獄と同じように、大きなテーブルの上に、山海の珍味というか、ご馳走がならべられていました。また、彼らも長いフォークとスプーンを両手に結わえられていました。一階の地獄と全く同じです。しかし、彼らがしていたことは全く違っていました。長いフォークで取ったご馳走を自分の口にもってくるのではなく、真向かいの人に食べさせてあげていました。「何を食べないの。とってあげるわ」と声をかけながら、お互いの口に持って行っていたのです。それを見た三浦綾子さんは、「わー、これこそ天国だ!」と感激したそうです。

 人からもらうことばかりしか考えない人は、感謝をしません。まだ足りない、まだ足りないと不平不満をもらします。しかし、人に惜しみなく与える人は、感謝が分かる人です。12節の黄金律は、12節だけを独立して解釈しても分かりません。これは、前の「父なる神様が良いものを与える」ということを理解した上のことであります。自分がしてもらいたいことをしてあげる、つまり喜んで与える心は、父なる神様の心を持った人であります。信仰的に霊的に正しく成長するなら、父なる神様のように与える人になる。「くれ、くれ、くれ!まだ足りない、もっと愛して欲しい」というのは、まだ赤ちゃんであります。赤ちゃんや子どもはもらって当たり前、感謝なんかしません。でも、信仰的に成長するならば、感謝の心を持ち、こんどは与えることを喜ぶようになります。中には受けることをしないで、与えることばかりしている人、人の世話にならないという偏屈な人もいますが、これも問題です。父なる神様は私たちのささげもの、私たちの奉仕を喜ばれます。神様からみたら粗末で、わずかかもしれませんが、神様はそれを喜んで受け取ってくださいます。そればかりか、さらに豊かに報いてくださいます。この黄金律は、父なる神様の心を持った人ができることであります。しかし、その前の大切なステップがあることも忘れてはいけません。それは、豊かなる父なる神様の恵みを体験することです。「神様は本当に良き神様、恵み深き神様なんだ。アーメン」と体験した人だけが、今度は、喜んで与える人になることができるのです。私たちは人を助けることも必要ですが、その前に、自分が健康で豊かになることが必要です。親子が空腹なとき、親は食べ物を全部子どもにあげてはいけません。親が倒れたら、子どもをだれが育てるでしょうか。親が癒されて、はじめて、子どもを助けることができるのです。私たちクリスチャンも良き神様からいっぱいいただいて、その恵みを気前よく与える者になりたいと思います。神様の豊かなる恵みの管になりたいと思います。

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